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ライプニッツ的空間はなぜライプニッツ的なのか?
日本カント協会第 41 回学会(於:福島大学) 共同討議 2「空間論から見たライプニッツとカント(ライプニッツ没後 300 年)」 2016.11.12 ライプニッツ的空間はなぜライプニッツ的なのか? 稲岡 大志† (L'ordre est le plaisir 「秩序は理性の楽しみだが、無秩序は想像力の愉悦である。 de la raison: mais le désordre est le délice de l'imagination.) 」 ――――ポール・クローデル『繻子の靴』 0 空間に関するライプニッツの見解は、事物の入れ物としての空間の存在を無条件に認めるニュー トンの絶対空間説と対比させるかたちで、事物が互いに可能的に持ちうる位置関係のネットワー クが空間の構造を決定する関係空間説と呼ばれる。ライプニッツはこの立場を最晩年のクラーク との往復書簡で披露している。したがって、ライプニッツとクラークとの往復書簡はライプニッツ の空間説を知る上での重要資料と目されているが、近年、ライプニッツの幾何学研究に関する研 究書『幾何学とモナドロジー』(De Risi[2007]) を刊行したデ・リジは、往復書簡と同時期に書 かれた幾何学研究(位置解析、幾何学的記号法)の遺稿の重要性を指摘する。幾何学的記号法に関 する公刊された草稿や未公刊の草稿を検討したデ・リジによれば、ライプニッツは伝統的なユーク リッド幾何学を乗り越える独自の幾何学の開発を若い頃から試みているが、最晩年になって空間 を「すべての位置の集合」と定義するようになる。空間のこうした定義はそれ以前には見られな いものであるが、新たな段階に到達したライプニッツの幾何学がクラークとの往復書簡にも強く 影響し、モナド相互の位置の表象によって空間が構成されるという立場が整備された。また、提 題者はこれまで空間論の展開を実体論や幾何学研究の展開と関連させて解明する作業を進め、ラ イプニッツがこうした空間構成の理論に到達する過程は、物体の構成要素として単純実体である モナドを特定するに至る過程と連動しているという見通しを得ているが(稲岡[2014][2015a] [2015b][2016])、絶対空間を認める初期の立場から最晩年の関係空間説に至る経緯を刊行が続 くアカデミー版全集によって跡づけることが今後必要であるだろう。 本提題では、ライプニッツの空間説に 3 次元ユークリッド空間以外の空間を読み込む余地はあ るのかという、ライプニッツの時代には存在しなかった問いを考察することで、かれの空間説が持 つ、これまであまり注目を集めていない側面を浮かび上がらせてみたい。提題者の見解では、幾何 学や空間の複数性の問題は、決して空間論に限定したローカルな話題ではない。この主題は、物 理的空間と数学的空間の区別、神の意思と知性の関係、数学、論理学、形而上学、自然学といっ た諸学問における幾何学の位置付け、デカルト的永遠真理創造説とライプニッツの条件付き永遠 真理説との相違点、数学的知識の本性といった、ライプニッツ哲学に限らず近代哲学に広く登場 する重要な諸論点に関わっている。 まず、 『人間知性新論』第 4 部 11 章における「永遠真理の条件性」の箇所に触れた上で、ライプ ニッツに非ユークリッド空間を認めることができるかという問題設定の正当性を確認した後、肯 定と否定の解釈を紹介し、どちらにも不備があることを指摘する。その上で、クラーク宛第 5 書 † 神戸大学大学院人文学研究科 mailto:[email protected] 1 簡における空間概念の規定の微細なずれに着目し、人間精神が空間の観念を構成するプロセスに おいて、空間の構造を確定する役割を持つ「抽象的空間」を読み込む余地があることを示したい。 これにより、ライプニッツ空間説に 3 次元ユークリッド空間以外の空間を認める可能性があるか という本提題の問いに肯定的に答えたい。 1 永遠真理の条件 ライプニッツにとっては、数学的真理はその否定が矛盾を含む必然的真理である。幾何学的真 理もまた必然的である。したがって、ライプニッツにユークリッド空間以外の空間を認める可能 性を探る本提題にとっては、ライプニッツが幾何学的真理の必然性をどう捉えていたのかを検討 する必要があるだろう。そこで、1705 年に書かれたジョン・ロックの経験主義の哲学との全面対 決の書である『人間知性新論(Nouveaux essais sur l'entendement humain )』第 4 部第 11 章にお いて、以下のようにテオフィル(ライプニッツの代弁者)が永遠真理は条件的なものであると述 べていることに注目したい。 .... 永 遠 真 理について言えば、それらは、根底においては、すべて条件的(conditionnelles) であることに着目しなければなりません。実際、それらが言っているのは、これこれ .... のものが措定されるならば、かくかくである、ということです。たとえば、 三 つ の 辺 .................. を も つ 図 形 は ま た 三 つの 角 をも つ だろ う 、と私が言うとき、三つの辺をもつ図形があ ると仮定すれば、その同じ図形は三つの角をもつだろう、ということを言っているに 他ならないのです。(A.VI,6,446-7 強調は原文) 一見すると、この発言を文字通り受け取ることは難しいように思われる。なぜなら、永遠真理が 「条件的」であることとそれが必然的であることとは整合するようには考えられないからである。 ではこの発言はどのように解釈されるべきなのか。ライプニッツが永遠真理について述べている 資料は多いが、条件性への言及があるものは提題者の知る限りこの箇所のみである。三角形の例 が挙げられていることから、この発言内容はさしあたり幾何学の真理に関するものであると捉え ることができる1 。この発言の背後にあろうと思われる空間に対するライプニッツの思考を明らか にすることが本提題の課題の一つである。 ここでテオフィルは、永遠真理は、三角形が存在するならばそれは一定の性質を持つ、と三角 形の存在を措定した上で三角形についての真理を主張するという意味で条件的であると述べてい るように思われる。 『新論』第 4 部第 11 章は「他の事物の存在についての私たちの認識について」 と題され、テオフィルの発言は経験的に得られた知識の確実性に関する議論を受けてのものであ 1 この箇所に付けられた工作舎版著作集の訳註(第 5 巻 246 頁註 420)には、あらゆる真理は同一律に帰着するとの 立場にあるライプニッツが、肝心の同一律自体の正当化には限界があることに気付いており、それゆえに、同一律に基 礎付けられる永遠真理はこの意味で条件的であると見なさざるを得なかったとする解釈が提示されている。佐々木もま たこの箇所を引いてライプニッツが事実の第一真理は証明できないということの類比として数学的真理の条件性を主張 しているものと理解する(佐々木[2003 501-2 頁])。しかし、これらの解釈は、テオフィルの発言が三角形の例と共に 表明されているということを考慮に入れていない。テオフィルの発言は、感覚によって知られる真理の確実性はいかに して担保されるのかという文脈に置かれている。したがって、同一律の証明可能性の観点に限定してこの発言を捉える ことは適切ではない。パッシーニもまたこの箇所に言及し、永遠真理が条件的な形式を持つとは、可能的な存在者や出 来事、神の観念や範型が条件的な永遠真理によって記述できるという意味であるとするが、その言わんとするところは さらなる明確化を必要とするだろう(Pasini[2010 p.231.n.5])。ドゥビッシュとラブアンは、永遠真理は可能性の領 域にあるので、現実世界とは異なる永遠真理を考えること自体はできるものの、すべての世界でそれが現実化している とは言えず、だから条件的であるとされる、とする(Debuiche and Rabouin[forthcoming])。この説明では現実世界 とは異なる永遠真理を持つ可能世界の存在が排除されず、必然性との整合性が問題となるだろう。確かにライプニッツ は真理の様相を現代の可能世界意味論のように、可能世界への量化としては定義してはいない(Mates[1986 p.73])。 しかし、1685-6 年頃の『真理の本性、偶然と無関心、自由と予めの決定について』では必然的真理は「神が異なる理由 によって(alia ratione)世界を創造したとしても成立する」(A.VI,4,1517)とされている。永遠真理の条件性を、思 考可能性からの現実化可能性とみなすことには慎重になるべきであろう。 2 る。したがって、 『新論』がロック的経験主義の哲学との対決の書であるとしても、以下のように 真なる観念や永遠真理をめぐるデカルトとライプニッツとの見解の相違をこの箇所に見て取るこ とは不可能ではないだろう。この読み方にしたがうと、たとえばデカルトが『第五省察』におい て提示した、私が三角形の観念を想像するとき、私の意識の外に実際に三角形が存在しないとし ても、三角形が特定の性質を持つことは否定されないという、明晰判明に知覚された観念は真な る観念であるとするいわゆる「明証性の規則」とそれに対するライプニッツの批判を際立たせる ことができる。真なる観念の基準として認識の明晰判明性を捉えるデカルトをライプニッツはた びたび批判しているが、この対比が『新論』にも読み込めるように思われる。また、デカルトは、 永遠真理は神の意志によって創造された、すなわち、神は人間精神が永遠真理を受け入れるよう に構成したという、いわゆる「永遠真理創造説」を主張するが2 、1714 年の『モナドロジー』43、 46 節でも示されているように、ライプニッツはこの説にも反対し、神の意志ですらも論理法則に 反するようなことはできず、したがって、論理法則から導出される数学的真理を改変する余地も また神の意志には認められないと考える。しかし、永遠真理の領域は神の知性であるとするライ プニッツが、永遠真理は三角形の存在を措定した上での帰結を述べるものであると考えるのは一 連のデカルト批判と整合的でないようにも思われる。なぜなら、神の意志による永遠真理の領域 の改変可能性を認めない以上、ライプニッツにとってはそのような存在措定もまた不要であるは ずだからである。したがって、テオフィルの発言をより精確に理解するためにはこうしたデカル ト批判を念頭に置きつつも、参照枠をさらに広げる必要がある。 2 下位の準則と十分な理由の原理 既に述べたように、先行研究において、ライプニッツの空間説に非ユークリッド空間を認める ことはできるかという問題は多くの注目を集めているわけではない。こうした先行研究の消極性 は、ライプニッツが生きた 17 世紀という時代的制約の帰結でもあるだろう。ライプニッツは天下 り的に 3 次元ユークリッド空間を導入していたと捉えるにとどまる研究者は少なくない。実際、空 間や幾何学の複数性に否定的な解釈は、多くの論拠を持つように思われる。ここでは三点触れて おきたい。まず、主にニュートン的絶対空間説を批判する際にライプニッツが用いる論法である。 ライプニッツは、絶対空間説を批判する論証の一つに、図形の相似性は複数の図形を同時に表象 することでのみ認識可能であることの論拠として、一方は他方のサイズを二倍にした一対の寺院 があり、これらを別個に単独で観察する場合では両者を識別することはできないという思考実験 に依拠するものがあるが(GM.V,154)、この議論が有効であるのは、議論対象となる空間が 3 次 元ユークリッド空間であると仮定した上でのことである(Nerlich[1991])。なぜなら、非ユーク リッド空間においては、寺院を構成するパーツのサイズを二倍にすることで、パーツとパーツと の繋がり(角度)が変化し、全体としての寺院はもとの寺院とは異なる形を見せるためである。し たがって、絶対空間説に反対する論証においては、ライプニッツは、3 次元ユークリッド空間を議 論対象の空間として暗黙の内に想定していると考えられる(Khamara[2006 p.10, 29, 35, 72])。 デ・リジも、理念的な絶対空間と事物の配列によって決定される空間とでは、前者が後者に論理 的に先行するため、事物の位置関係が現実世界とは異なる可能世界であっても、空間自体の構造 までもが異なることにはならないと解釈し、幾何学の複数性をライプニッツに認めることを否定 している(De Risi[2007 pp.565-7. および n.88])。また、1710 年の『弁神論』の 351 節では、以 下のように、空間の次元が 3 次元であることは必然的であるとされる。 しかし物質の次元についてはこうはならない。三という数は最善の理由によって決定 されているのではなく、幾何学的必然性によって決定されている。それというのも、幾 2 1630 年 4 月 15 日のメルセンヌ宛書簡で表明される永遠真理創造説がデカルト哲学において占める重要性について は当然ながら議論がある。 3 何学者たちは、一点で互いに直交し得る直線は三本だけだということを証明できたか らである。(GP.VI,323) さらに、後に触れるように、矛盾律と同一律のみから数学は展開可能と考えていたライプニッツが いわゆる平行線公理の証明を試みていたことや(De Risi[2016a])、 『ユークリッドの基礎につい て』(GM.V,209)や『位置計算について』(C.551-2)といった資料において、二点間の最短距離 とする直線の定義が妥当であることを示そうとしていたこともまた、ライプニッツが 3 次元ユー クリッド空間を想定していたことの証拠であると考えることができる。すなわち、空間が 3 次元 曲率ゼロという性質を持つことは論理的に証明可能であるべきならば、他空間の可能性は排除さ れることになる。これらの論拠は、空間に関する真理が必然的真理であることと合わせて、ライ プニッツの空間説に空間や幾何学の複数性を読み込むという課題設定の無益さを物語っているよ うにも思われる3 。 しかし、ライプニッツ自身が暗黙のうちに 3 次元ユークリッド空間でのみ妥当する議論を構築し ていたことは、ライプニッツ哲学にユークリッド空間以外の空間を認めることができないことを含 意しない(実際、絶対空間説への批判には複数のヴァージョンがあり(Khamara[2006 pp.83-6])、 特定の空間のみに妥当する議論が阻却されたとしても絶対空間説批判自体が却下されたことには ならない)。仮に現実空間が異なる構造を持つならば、ライプニッツはその空間に応じた議論を 行っていたはずである。以上から、簡潔ではあるが問題設定の正当性(ないし非不適切性)は示 されたと思われる。以下では空間の複数性に関する数少ない解釈を検討し、肯定と否定のどちら にも解釈上の不備があることを指摘した上で、そこから発展可能な論点を取り出したい。これら の解釈とは、1978 年の国際会議で発表に基づくレッシャーとベラヴァルの論文である(Rescher [2013], Belaval[1979])。 まず、レッシャーの解釈を検討したい。幾何学の対象が空間であり、ライプニッツにとっては空 間とは「事物の可能的な位置の秩序」であること、及び、事物の位置の取り方それ自体は可能世 界に相対的であるという点から、レッシャーはライプニッツの幾何学的真理は偶然的であり、複 数の幾何学が可能であるという結論を導出する。こうした解釈は、数学的真理を必然的真理に含 めるライプニッツの公式見解と整合しない。可能世界に対する量化によって真理の様相を定義す るという現代の可能世界意味論のような特徴付けをライプニッツが明示的に与えているわけでは ないが、幾何学と空間の特徴付けは神の意志と知性と世界創造の関係、および、真理の様相の特 徴付けといったライプニッツ哲学の根幹を成す論点とも関わりを持つものであり、その意味でも レッシャーの解釈は検討に値する。 レッシャーの主張は以下のように整理することができる。すなわち、ライプニッツの「空間」は 事物の入れ物ではなく、事物による共存在の秩序であり、世界相対的なものである。したがって、 「空間」概念が適用される項目(item)は可能世界ごとに異なるため、可能世界ごとに空間は異な る。空間が異なれば空間について妥当する法則も異なる。ゆえに、空間についての法則も世界相 対的なものとなり、ライプニッツの幾何学的真理は偶然的真理であると考えられる。 「幾何学」について議論する際、それが数学の一分野としての幾何学を指すのか、あるいは現実 世界の物理空間を特徴づける幾何学を指すのか、慎重になる必要がある。レッシャー自身は、 「わ れわれのこの現実世界の空間的構造を特徴づける真の幾何学」(Rescher[1996 p.145]=[2013 p.19] )と断っていることから、後者の意味での幾何学を念頭に置いていると考えられる。後者の 意味での幾何学は実質的には物理学に近い。後に触れるように、後期のライプニッツが主張する 「事物の共存在する秩序」としての空間というテーゼが意味しているのは、事物が他の事物に対し て取りうる可能的位置関係が空間を定めるということである。言い換えれば、空間の性質は事物 相互の位置関係から導出可能であるとライプニッツは考えていた。より正確に言えば、この場合 3 たとえば、「幾何学や代数学など必然真理にかんしては「可能的世界」を語ることを無意味である。それゆえ、そ のような永遠真理は神的意志の自由な選択の対象にはならない」(酒井[1978 322 頁])。 4 の「位置関係」とは事物相互の距離関係を指しているものと考えられる。ところが、事物の配置 のみでは空間を一意に定めるのに十分な性質は得られない。たとえば、二つの点が離れて配置さ れたとしよう。この二点の間に直線が一本だけ引ければ、この点の置かれる空間はユークリッド 空間である。複数本引ければ、非ユークリッド空間となる。しかし、直線の本数自体は点の位置 関係のみからは決定することができない。 「事物の位置関係」を定めるためには、事物が置かれる 空間の性質をあらかじめ固定することが必要である。実際、後に触れるように、クラーク宛書簡 での空間構成の議論のように、事物の取りうる位置関係を反事実的想定により網羅するとしても、 空間は固定されない。こうした想定により点 A と点 B との位置関係として定まるのは、点 A が点 B の上下左右のいずれかに位置するという程度の相対的な方位関係でしかなく、空間の性質を引 き出すのに必要な距離関係は天下り的に与えるほかない。したがって、事物の位置関係が世界に 対して相対的であること自体を根拠に、可能世界ごとに異なる空間の存在を導出し、さらには複 数の幾何学の可能性をライプニッツに帰属させるレッシャーの解釈は適切なものであるとは言え ない。すなわち、配置された事物だけからは空間の構造を一意に決めることはできないのである。 このことは、言い換えると、空間の構造を確定させる要素は事物には存しないことを意味してい る4 。 次に、レッシャーとは反対に、ライプニッツにユークリッド空間以外の空間を帰することに否定的 なベラヴァルの解釈を検討したい。ベラヴァルは、事物の位置関係と空間の性質との間の関係を 1686 年の『形而上学叙説』7 節や 16 節において言及される「下位の準則(les maximes subalternes)」 を引き合いに出して理解する(Belaval[1979 pp.173-4])。下位の準則とは自然法則を指している が(A.VI,4,1538,1556)、神の奇跡は一見すると下位の準則に反するように見える。しかし、奇跡 は下位の準則より上位にある「一般的秩序(l'ordre général)」には適合する。 「一般的秩序」が具 体的に何を意味しているのかは明確ではない。しかし、神がそれに服するという意味では、論理 法則ないしそれに類するものとして理解してよいだろう。神がある特定の法則を下位の準則とし て採用するのは習慣でしかなく、別の法則を採用する理由があれば、神は下位の準則を変更する こともできるとライプニッツは主張する。クラーク宛第 2 書簡でも述べられているように、幾何 学を含む数学は論理法則としての同一律と矛盾律のみから演繹することができるが、自然学を導 出するためには十分な理由の原理が必要である。ベラヴァルは、空間の構造と自然法則は相互に 独立であり、後者が可能世界ごとに異なる可能性があるとしても、前者に同様のことは言えない として、論理学から展開される幾何学の複数性を認めないが、論理法則と十分な理由の原理との 関係を一般的秩序と下位の準則との関係になぞらえることで、実は、物理的空間が十分な理由の 原理次第によってその構造が変わり得る余地を(ベラヴァル自身もおそらくは気付かないうちに) 見出している。確かに自然法則が現実世界とは異なる法則であるとしても、空間そのものの構造 までもが異なることにはならない。しかし、異なる世界で異なる十分な理由の原理を神が意思す るとしても、それは一般的秩序には合致するものであり、ここから、現実世界とは異なる構造を ............... 持つ空間の可能性が 一 般 的 秩 序に 反 しな い も の と し て認められるのである。ライプニッツ自身は 空間が 3 次元であることや均一であることは論理法則から導出可能であると考えていたが、先に 概観したように、事物の位置関係のみでは距離関係は定まらないため、別立てで与える必要があ る。すなわち、こうした事物とは独立に与えられるべき要素に下位の準則に類する地位を認める ことが可能であるとするならば、ベラヴァルの議論を他空間可能性を支持するものとして展開さ せることができる。 確かに『形而上学叙説』において、ライプニッツは、この現実世界でのローカルルールとして 4 1695 年の「人間の自由と悪の起源についての対話」においては、世界に悪が存在することが神ではなく被造物に帰 せられるものであるという論点が、共訳可能線分と共訳不可能線分をそれぞれ善と悪に対比させる仕方で論じられ、どち らも神の意志ではなく被造物の性質に由来し、神は共訳不可能な線分を作らないことは可能であったとする(A.II,3,17)。 その際、図形や連続量自体を創造せずに、数や離散量のみを創造することで、それが可能であるとされる。後に触れる ように、幾何学的対象の性質を被造物に由来するものとする点は、幾何学的真理に関する条件性と関連している。 5 の下位の準則は神によって変更可能であると考えていた。 『叙説』での下位の準則はあくまでも自 然法則であり、クラーク宛第 2 書簡で言及される、自然学を導くために必要な形而上学的原理と しての十分な理由の原理とは同一視できない。しかし、物理空間の構造を決定するためには論理 法則だけでは十分ではなく、自然法則であれ形而上学的原理であれ、他の何かに訴える必要があ るという点では変わりない 。ライプニッツ自身はそうした付加的な役割を担う原理の候補として 複数の原理が想定できるとは明示していない。むしろ、そうした原理に関しても、可能性として は複数の候補があり得るとしても、実際には、既に述べたように、特定の空間構成の原理が天下 り的に与えられると考えていたように思われる。 では、ベラヴァルが主張するように、ライプニッツの議論に幾何学や空間の複数性を帰する可 能性までもが否定されたと言えるのだろうか。確かに、物理空間の探究の科学としての幾何学の 複数性をライプニッツは明示しては認めない。しかし、空間は事物の可能的な位置関係によって 決まるというライプニッツの関係空間説は、より精確には、空間は事物の可能的な関係と形而上 学的原理によって決まると述べ直されなくてはならない。実際、 『形而上学叙説』21 節やクラーク 宛第 2 書簡でも、ライプニッツは自然学ないし力学を導出するためには形而上学が必要であると 表明している。すなわち、世界の空間的構造を決める要素には可変的な要素が含まれると考えら れるのである。したがって、空間の複数性を否定するためには、空間の構造を確定させる役割を 持つ原理について踏み込んで検討しなければならない。 以上、本節では、ライプニッツに非ユークリッド空間を認めることに肯定的・否定的な解釈を 検討した。両者とも解釈としては十分なものではないが、レッシャーからは事物の位置関係だけ では空間を定めることができない点を、ベラヴァルからは空間の距離関数を一意に定めるために は、形而上学的規則が必要である点を、それぞれ引き出すことができる。これにより、ライプニッ ツの空間論が空間の個別化として、メトリックを決定する可変的な要素を持つという予想を立て ることができる。では、この可変的な要素とはライプニッツの哲学においてどのような特徴を持 つものとして考えられるのか。次節以降では、クラークとの往復書簡においてこの可変的要素が 物理的空間でもなく数学的空間でもない第三の空間として認められることを示したい。 3 クラークとの往復書簡における空間構成論 ライプニッツの関係空間説が披露される 1715-6 年のクラークとの往復書簡では、人間精神はい かにして空間の観念を形成するかが問われている。クラーク宛第 3 書簡 4 節では、空間とは同時存 在する事物の秩序が可能的に示すものとされ、私たちは複数の事物を同時に見ることで事物相互 の秩序に気づくとされる(GP.VII,363)。さらに、第 4 書簡 41 節において、物体とは独立に空間 が存在すると考える絶対空間説に対して、空間は特定の物体が占める特定の位置には依存しない が、秩序(ordre)によって物体が位置を持つことが可能となると答える(GP.VII,376)。クラー クから秩序なる語の意味を問われて、第 5 書簡 47 節でライプニッツは物体の共存在の秩序として の空間というアイデアの敷衍を試みる。 人々はいくつもの事物が同時に現実存在していることを考え、そこに共存の一定の秩 序、それにしたがって諸事物間の関係がかなり単純であったりさほど単純でなかった りするような秩序を見出します。これが諸事物の位置ないし距離なのです。これら共 存する事物の一つが他の多くの事物に対するこの関係を変え、この多くの事物の方は 相互に関係を変えずにいて、そこに新しい事物が来て、最初のものが他の多くの事物 に対して持っていた関係に立つということが起こるとき、この新しい事物は、最初の .. .. ものがあった 場 所へ来たと言われ、この変化は 運 動と呼ばれ、当の運動は変化の直接 的原因であるものの内にあると言われます。(GP.VII,400) 6 ある事物が他の事物に対して取る関係から、場所(place)が定められる。現実の事物だけではな く、ある事物の場所とある事物の場所を想像上で交換するという反事実的仮想によって事物の場所 が得られる。かくして、空間とは「すべての場所を含むもの」とされる(GP.VII,400)。ここで、 位置と場所は同義であるとみなしてよい。また、104 節では、空間とは事物同士が可能的に取る位 置の秩序であることが確認され、空間の抽象性ないし観念性が強調される(GP.VII,415)。 このように、ライプニッツとクラークの対立点は絶対空間説と関係空間説との対立と捉えるこ とができるが、この書簡で議論される論点は多様であり、その一つに、十分な理由の原理がある。 より正確に述べると、両者の対立は十分な理由の原理を認めるかどうかではなく、十分な理由の 原理の適用範囲をどう捉えるか、である(Yakira[2012])。クラーク宛第 2 書簡においてライプ ニッツは、数学の基礎は矛盾律と同一律であり、数学から自然学へ進むためには論理法則に加え て十分な理由の原理が必要であるとする(GP.VII,355)。これに対してクラークはライプニッツへ の第 2 書簡で、十分な理由の原理を想定すること自体は認めつつも、それが神の意志に等しいと する(GP.VII,359)。もちろんこれはライプニッツにとっては受け入れがたい主張である。実際、 人間精神による空間観念の形成プロセスに神の意志が介在することは機会原因論を批判するライ プニッツには受け入れられない。十分な理由の原理を神の意志と等値することの是非は、デカル ト的主意主義に対する批判を思わせるものである。そしてこの議論は、空間論の文脈では、物理 的空間と区別された抽象的空間の創造をめぐる議論であると理解することができる。 自然学を展開するために必要な十分な理由の原理はベラヴァルが指摘した『形而上学叙説』に おける下位の準則と関連付けることができる。どちらも自然法則を決定する原理とされているか らである。『叙説』7 節では神の習慣とされ、恣意性を持つ点が強調されているが、これ以降に書 かれたベールへのコメント(GP.VI,533)や『自然そのものについて』 (GP.IV,507)などでは、神 は被造物をつくる際に自然法則のような規則性を本性として持つように被造物を創造したとされ ている(ブラウン[2014 26-32 頁])。空間の場合は、十分な理由の原理は単純性の原理や最善の 原理として空間の構造を決める。したがって、神が被造物を創造する際に、現実世界の被造物と は異なる規則性を本性として持つように創造するならば、被造物の共存在の秩序として構成され る空間が現実世界の空間とは異なるものとなる可能性は認めてもよいのである。さらに、次節で 示すように、神による世界創造という観点から捉えられた他空間可能性に対応する論点は、空間 論の観点からは他ならぬ本節で触れたクラークとの往復書簡において読み取ることができるので ある。 4 第三の空間としての抽象的空間 クラークとの往復書簡で議論されていた「我々はいかにして空間の観念を得るのか」という問 いにおける空間は、この現実世界の物理的空間を指している。ライプニッツはこの問いに、位置 解析研究の成果を取り入れた上で、事物同士の可能的位置関係のネットワークとしての空間とい う見解を提示する。他方で、物理的空間とは区別される空間、すなわち、数学的空間はライプニッ ツの幾何学の研究対象であった。伝統的な幾何学は三角形や円といった個別の幾何学的対象を研 究対象としていたが、ライプニッツは(パスカルの影響を受けつつも)数学史上初めて空間それ 自体を研究対象にした数学者の一人である5 。このように、物理的空間と数学的空間をライプニッ ツが区別していたことは疑いない。さらに、以下では、物理的空間とも数学的空間とも区別され、 物理的空間の構造を決定する役割を持つ第三の空間をライプニッツは考えていたことを示したい。 5 たとえば、ユークリッド『原論』第 1 巻命題 1「与えられた直線を一辺とする正三角形を作図すること」は、交点 の存在に関する論理的不備を含むものとして、歴史的には長く議論され、註解されてきたが、ライプニッツは、それま での註釈者とは異なり、この命題に限定した改良案の提示にとどまることなく、空間一般の特性の考察に向かっている (De Risi[2016b])。 7 既に示唆したように、ライプニッツが自説をクラークに開陳する過程でこの「第三の空間」が 姿を現している。空間とは物体が相互に取る位置関係であるというライプニッツの関係空間説に 対して、クラークは、ライプニッツへの第 4 書簡 41 節でさらなる説明を求める。これに対し、ラ イプニッツはクラーク宛第 5 書簡 104 節で、人間精神は空間の観念を形成するために「実在的で 絶対的な存在」を必要としないと答える。 ..... 私は空間が秩序ないし位置だと言っているのではなく、 位 置 の 秩 序だと言っているの .................. ..... であり、 こ の 秩 序 に し た がっ て 位 置 が 整 頓 さ れ るのです。そして、 抽 象 的 空 間 (l'espace . ................ abstrait) は、 可 能 と 考 え ら れ た こ の 位 置 の 秩 序 だと私は言っているのです。(GP.VII,415 強調は引用者) 前節で引いた同書簡 47 節では、事物同士の秩序が位置とみなされ、空間は「すべての場所を含む もの」とされていたが、ここでは事物同士が可能的に取り得る位置関係が抽象的空間としての秩 序によって整頓されたものが空間であると言われている。すなわち、位置と秩序が同等視された 47 節の議論が 104 節で修正された上に、空間概念の定義も、要素としての場所の集まりから、場 所に秩序が入ったものへとシフトしているのである。そして、47 節では見られない「抽象的空間」 が位置に秩序を与えるものとして言及されるのである。空間が「位置の秩序」であるとは、既に クラーク宛第 4 書簡 41 節で「物体が位置を取り得るようにするのはこの秩序である」とされてい るように、物体同士の位置関係を固定するものとして秩序ないし空間が考えられていることがわ かる。配置された事物のみでは空間を一意に決定することはできず、空間の構成要素同士に成り 立つ量的関係を与えるメトリックが必要である。第 5 書簡 104 節における「抽象的空間」こそが その役割を担っていると考えることができる。この空間が、最終的に人間精神が構成する観念的 空間と同一なものかどうか、ライプニッツははっきりさせていない。確かに、観念的空間は抽象 的でもあり、したがって、ここでの抽象的空間を観念的空間とみなすことはできる。しかし、47 節では「場所の集まり」とされた空間が 104 節では「位置の秩序」とされており、前者にはない 「秩序」を担う要素が付加されていることは明らかである。こうした秩序を持ち、空間を固定する 役割を持つものとして「抽象的空間」を捉えることは、少なくとも第 5 書簡の議論の推移には沿っ ている。 ライプニッツがクラーク宛書簡全体において「抽象的空間」というフレーズを用いるのはこの 第 5 書簡 104 節のみである6 。続く書簡でライプニッツがこの「抽象的空間」についてさらに踏み 込んだ記述を残しているわけではない。したがって、この一箇所だけの記述を論拠として、ライ プニッツがこうした第三の空間を(暗黙的にではなく)明示的に認めていたと断定することはで きないのではないかという反論が想定できる。また、ライプニッツは以前から空間を同時に存在 するものの秩序と捉えており(A.VI,4,1641, C.11-14, CG.276, GM.II,17 など)、抽象的空間とい う名称は用いられていないとしても、秩序を持ってこそ空間が構成されるという論点は第 5 書簡 104 節に初めて姿を現す発想ではないのではない、むしろ、47 節は本来の議論が省略されている ものと考えるべきではないか、という反論が想定できる。 これらの想定反論に対してはさしあたり以下のように答えることができる。まず、ライプニッ ツ自身が空間を同時に存在する事物の秩序と捉えていたことは確かである。しかし、他方で、位 置解析関連の資料では、空間を点の集合とする定義は最晩年まで見られる(De Risi[2007 p.588, 616] )。位置解析における空間が 3 次元ユークリッド空間であることを論理的に証明することをラ イプニッツが繰り返し試みていたことも考慮すると、このことは数学的空間と物理的空間の違い 6 第 5 書簡 47 節と 104 節の違いについて、ヴァイラティは両者で空間の規定が異なることを指摘した上で、両者の 整合性を問題視している(Vailati[1997 p.116])。他方でアーサーは、104 節の記述は 47 節の内容を簡潔にしただけ と捉えている(Arthur[2013 p.524])。デ・リジはライプニッツの空間定義は位置の秩序という定義と 1715 年の『数 学の形而上学的基礎』で登場する「すべての場所を含む場所」 (GM.VII,21)とするの定義の間で揺れていたとするも、 両者は一致すると捉える(De Risi[2007 pp.560-1])。 8 を示している。しかし、確かに、クラークとの往復書簡よりも以前の時期から、ライプニッツは 数学的に証明されるべき特定の性質を有する空間の観念を人間精神がいかにして構成するか、と いう空間観念の構成プロセスに関する記述において「共存在の秩序」という空間定義を提示する .. ............................. が、 「 秩 序」 そ れ 自 体 が 空 間 の 構 成 プ ロ セ ス に お い て い か な る 役 割 を 果 す の かという点までに考察 は及んでいないことも確かなのである。ライプニッツがある時期から空間を共存在の秩序と捉え ているからといって、そうした秩序を持つ空間がいかにして人間精神によって認識ないし構成され るのかに関する見解までも保持していることにはならないのである。実際、クラーク宛第 5 書簡 が書かれる直前の 1716 年 7 月 2 日のブルゲ宛書簡では、クラークの絶対空間説を否定して、「私 はこのこと[クラークの主張]はむしろ、空間は絶対的なものではなく、一つの秩序である、あ るいは、関係的なものであり、もし物体がそこに存在しないのならば、それは観念的なものでし かないことを示していると答えました」(GP.III,595)と書いているが、位置と秩序の関係まで述 べられているわけではない。すなわち、クラークからの反論に答えることによってライプニッツ から位置に秩序を与える抽象的空間という新たな着想が初めて引き出された可能性が高いと予想 することができるのである。 実際、クラーク宛第 5 書簡 104 節に、 「抽象的空間」と名指しされた空間が事物の位置関係の集 まりに構造を与えるという、人間精神における秩序形成のプロセスを読み込むことはライプニッ ツにとっては少なくとも不整合ではない。たとえば、クラーク宛書簡以外でもライプニッツが物 理的空間を可能にする「抽象的空間」に相当する要素を暗黙のうちに想定していたことは、 『人間 知性新論』第 2 部第 4 章 5 節でのテオフィルの発言からもうかがえる。 ......... 物体はそれ自身の延長を持ちうるでしょうが、だからといって、 そ の 延 長 が 常 に 同 一 .............. .................. の 空 間 へ と 決 定 さ れ てい る とか 、 そ れ と 等 し い と い う こ と に は な り ま せ ん。けれども、 物体を捉えるときは確かに何か空間以上のものを捉えるとはいえ、空間の延長と物体 の延長という二つの領域があるということにはならないのです。 […]抽象的延長すな わち空間の延長と具体的延長すなわち物体の延長、この二つの延長を考えてはならな ....... ........................ いと言える。 具 体 的 な も の は 、 抽象 的 なも の に よ っ て は じ め て そ う で あ る に す ぎ な い ..... の で す か ら。(A.VI,6,127 強調は引用者) ここでライプニッツは、事物相互の位置関係を可能的に取らせるものとして抽象的なものを想定 しているように見える。 「位置関係」に計量が含まれるかどうかは確定できないが、依然としてこ こでの「抽象的延長」が第三の空間としての役割は持たないと考えることもできるだろう。しか し、ライプニッツは、延長は延長体から抽象されたものとするが、ここでの抽象とは具体的に存 在する延長体としての事物の特徴を捨象し、空間の構成要素としての点のみを捉える、という作 用を意味している。こうして抽象された空間が人間精神によって形成された空間の観念でもある ということは、抽象作用は人間精神に帰されるべきものであることでもある。ライプニッツは抽 象的延長と具体的延長を想定することの誤りを指摘するが、それは延長自体が延長体から抽象さ れたものであるためである。テオフィルが述べるように、複数の事物の位置のみでは空間を一つ に決定することはできない。しかし、未確定の空間を独立した存在とみなすこともできない。そ れは、抽象的なものによって具体的なものになるものである。 また、抽象的空間の想定は連続体合成の問題とも脈絡を持つ。非延長体である点がいかにして 延長体を構成するのかという連続体合成の問題にライプニッツは若い頃から取り組んでいた。こ の問題にライプニッツは、観念的には点は延長体に先立つが、現実的には延長体が点に先立つ、と いうように、前後関係を二つに分けるという解答を提示している。しかし、こうした解決策は、い かにして点が延長体を構成するのか、という連続体合成の問題自体を消去してしまうという解決 策でもある。たとえば、1709 年 7 月 31 日のデ・ボス宛書簡では、観念的には空間は前もって与え られており、モナドの可能的配置によって現実化される、と述べられる。 9 たとえモナドの場所が空間の部分の様態ないし境界として確定できるとしても、だか らといってモナドそのものが連続的事物の様態であるということにはなりません。物 塊とその拡散は諸モナドから帰結しますが、空間はそうではありません。なぜなら空 間は、そしてまた時間は、秩序だからです。これは(空間の場合は)共存することの秩 序であって、そこには現実に存在するもののみならず可能的なものも含まれています。 したがってそれは不定なものであり、およそ連続的なものがそうであるように、現実 的に部分を有していることはないものの、単位の部分としての分数のように部分を随 意に捉えることができます。もし諸事物からなる自然において、有機的身体が有機的 身体へとさらに分割されるその仕方が別様であったとしたら、モナドも物塊も別のも のになることでしょう。しかし、そうであっても、それらが満たしている空間は同一 のままであるでしょう。要するに、空間は連続的であり、観念的なものであるのです。 そして物塊は不連続で、現実的な多、つまり寄せ集めによる存在(Ens)です。ただし 無数の一性からなる存在です。現実に存在するものにおいては単純なものが寄せ集め に先行しますが、観念的なものにおいては全体が部分に先立ちます。このような考察 を怠ったために、あの連続の迷宮を招来してしまったのです。(GP.II,379) 「共存することの秩序」としての空間は、現実的にはモナドの集合から帰結するものであるとして .......... も、観念的にモナドに先立つ。しかし、い か にし て 先立 つ の か、ライプニッツは明言していない7 。 1713 年 1 月 24 日のデ・ボス宛書簡の補遺では三つの事物の知覚が空間と延長を生むことが述べら れている。 延長は、デカルト主義者のような人たちが考えるような何か原始的なものではない。 ................... そうではなく、延長は、 それ ら が共 通 の 共存 在 の 秩 序 を 持 つ 限 り で、共に秩序付けら れた同時表象ないし現象の多でしかない。私が同時に A と B と C を表象すると、A と B の同時表象が A と C や B と C のそれと異なるが、しかし、それらのどこが異なるの か、あるいは、A と B と C が内的にどう異なるのかを考えることなしに、表象する。 そして、この観察において、私は空間と延長を表象すると言おう。しかし、A と B と C それ自体を私は点とみなし、それぞれ位置を持つことを除いては何も観察されない し、また、それらは同時表象されるためである。(GP.II,473 強調は引用者) ここでライプニッツは現実的に空間に先立つ事物を人間精神が表象することで延長と空間が表象 されると述べている。位置を持つこと以外の性質が捨象された事物は点として空間を構成する。こ こで延長が可能となる条件として、 「共通の共存在の秩序」が言及されるが、上で引いた『人間知 性新論』やデ・ボス宛書簡では、空間観念の構成プロセスの一つとして、構成要素に秩序を与え るというステップが少しずつ明示的になり、クラーク宛書簡第 5 書簡 104 節では、秩序を付与す るものが抽象的空間として概念化されるに至るとライプニッツの思考の道筋を描くこともできる ように思われる8 。 2 節で述べたように、ライプニッツの空間説においては、事物同士が可能的に取り得る位置関係 のみでは空間の位相構造は一意に確定されず、他の形而上学的原理が必要となる。自然法則を司 る下位の準則をライプニッツは被造物に与える性質として捉えるが、同様の枠組みが空間観念の 7 ライプニッツが連続体合成の問題を解消することでこうした形成過程の説明を脱落させてしまっているという点に ついては、池田もまた実体的紐帯を例に取り強調している(池田[2015 25-6 頁])。 8 この点についても以下のような反論が想定できる。すなわち、ライプニッツは初期から人間精神による空間や延長 の表象についての考察を進めており、したがって、空間観念の構成プロセスの解明という主題は最晩年になって登場し たものではないという反論である。しかし、たとえば 1679 年の『幾何学的記号法』や 1683-5 年の『項の分解と属性 の列挙』では、事物の同時表象により延長や空間が認識されるという議論が登場するが(CG.228,A.VI,4,565)、どち らも位置と秩序に関する考察はない。この点に関しては今後広範な 1 次資料の調査が必要であるが、位置と秩序の関連 が主題化されるのは後期に入ってからではないかとの見通しを提題者は持っている。 10 構成に関しても認められるのであれば、さらに、本節で指摘した抽象的空間が一意に定まってお らず、可変的なものであるとするならば、ライプニッツの空間説に非ユークリッド空間を許容す る余地を見出すことは可能であろう。 5 永遠真理創造説から超越論的感性論へ 以上、本提題では、ライプニッツの空間説が複数の空間を許容する可能性を持つことを示して きた。確かに、本提題が示し得たのは、人間精神が空間観念を構成する過程において「抽象的空 間」に固有の役割があるという図式をライプニッツが明示して認めていたということではなく、そ の想定はライプニッツ哲学においては少なくとも不整合ではない、ということでしかない。した がって、抽象的空間は空間構成に際して計量構造を定める役割を持つという仮説は今後より広範 な資料の検討によって裏付けることが必要である。 最後に冒頭で触れた永遠真理の条件性に戻る。永遠真理とは、たとえば三角形の存在を措定し た上で、三角形に当てはまる真理を述べるものとする説明がそこでは与えられていた。三角形の 性質は三角形を単独で考察しても確定できず、三角形がその部分集合であるところの空間の性質 に依拠している(たとえば、球面上では三角形の内角の和は二直角にはならない)。したがって、 三角形の存在措定とは、三角形を含む空間の存在措定でなくてはならない。空間は事物が相互に 持つ可能的位置関係に秩序としての構造が入ったものであるが、こうした秩序は神が創造した被 造物の性質に由来するものと考えられる。かくして永遠真理の条件性とは、少なくとも幾何学的 真理に関しては、神が現実世界を創造する際に被造物に特定の性質を与えることを条件とした上 で、構成される空間において成り立つ性質を述べるもの、ということを意味する。こうした思考 はデカルトの永遠真理創造説を思わせるものである9 。事物の可能的位置関係に秩序を与えて空間 の構造を決定する抽象的空間が、人間精神に備わったものなのか、あるいは、人間精神からは独 立したものなのかはクラーク宛書簡では明確にはされていない。しかし、人間精神によって表象 された事物の位置関係に秩序を与える抽象的空間は、その意味ではカントの超越論的感性論での ア・プリオリな感性の直観形式を思わせる。カント自身は『純粋理性批判』において、形式は事 物に先立ち、事物の可能性を規定すると称することに耐えること(leiden)ができなかったとライ プニッツを批判する(A267 = B323)。確かに、ライプニッツ自身が、形式による質料の規定とい う図式を明示していたわけではない。しかし、この図式に抵抗を続けていたわけでもない。むし ろ、空間観念を構成する形式を形式として取り出し、 「抽象的空間」として概念化するに至る、と ライプニッツ空間説の到達点を見据えることができるようにも思われる。もちろん、本提題の考察 のみから、こうした抽象的空間が「我々によって表象された限りの対象の形式」(山本[1953 296 頁])、「われわれの空間表象の形式」(LB lxxi)、「直観の形式」(De Risi[2007 XVII])である とする主張を導いたり、「ほとんどカント」(佐々木[2002 284 頁])、「空間自体の形式の構成に ついての可能性の条件を問う点においてカントに先立つ」(Rabouin[2012 p.141. n.17])とライ プニッツを位置付けることには慎重であらねばならない。しかし、クラークとの議論に並行して 位置解析の草稿を書き続けたライプニッツが、死を間近に控えつつも、人間精神による空間構成 のプロセスを解明する課題の到達点の一つを自覚したということはあり得ないことではないだろ う。そして、こうした着想の前兆を資料を遡って認めることができるかどうかは今後検討される べき問題であるが、仮に肯定的に答えることができるのであれば、デカルトの永遠真理創造説か らカントの超越論的感性論に至る系譜に、すなわち、人間精神によって認識される空間の形式を 確定させる要素が神の意志から人間がア・プリオリに有する形式へと移行する途上の段階にライ プニッツの空間説を位置付けることは不可能ではないように思われる。 9 したがって、佐々木のように「ライプニッツは、神は数学的真理すら創造しうるというデカルトのかなり深い教説 を評価しえなかった」と断定するのは適切ではない(佐々木[2003 499 頁])。 11 ※本提題は JSPS 科研費(15K02002)の助成を受けています。 文献 ライプニッツのテキストからの引用については、アカデミー版全集は、A、系列、巻数、頁数の 順で、ゲルハルト哲学著作集は、GP、巻数、頁数の順で、ゲルハルト数学著作集は、GM、巻数、 頁数で、クーチュラ版断片集は、C、頁数で、エチェヴェリア・パルマンティエ編集幾何学的記号 法断片集は、CG、頁数で、それぞれ示している。邦訳があるものについては『ライプニッツ著作 集』全 10 巻、工作舎、1988-99 年を参照した。 Arthur. 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