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日本におけるカルヴァン受容―高倉徳太郎、黒崎幸吉、長谷川保、森 有
日本におけるカルヴァン受容 ― 高倉徳太郎、黒崎幸吉、長谷川保、森 有正の場合 ― 2009 年 11 月 28 日於東北学院大学 久米 あつみ はじめに 日本におけるカルヴァン受容を、研究史のかたちで述べるなら長い時間を要するだろう。 ここでは概観や通史ではなく、私たちにむかって大きな問題を投げかけている 4 人の場合 を考察したい。20 世紀に活躍した日本のプロテスタント信仰者であること、いずれも強烈 な個性の持ち主であり、各界での指導者であることは共通しているが、その立場もカルヴ ァンとのかかわり方もずいぶんと異なっている。それらの人々の例からなにごとかを私た ちが学び取ることができればと思い、準備した。取り上げる順序は予告と多少違うかもし れないが、高倉、黒崎、長谷川、森の順序で話すことにしたい。 Ⅰ。高倉徳太郎の場合 高倉徳太郎(1885-1934)は京都府綾部に生まれ、東大法科に学び、植村正久より受洗、 深刻な「自我」の問題に悩まされ、東大を中退して東京神学社神学校入学、卒業論文には シュライエルマッヘルを選び、卒業後伝道師、牧師の道を歩んで東京神学社教授となり、 1921 年から 24 年までスコットランドを中心とするヨーロッパ留学を果たす。 スコットランド滞在によって、カルヴィニズムへの興味は大きく増し、中でもカルヴァ ンの予定論とカルヴィニズムの神観という 2 点に強く引かれるようになる。 <予定論> 引用 1 「予定の信仰は教の確かさの要請から来る必然的な魂の論理である。予定の信仰は救の 確かさの要請から来る必然な魂の論理である。予定の信仰は、恩寵の強き体験に根ざす。 そしてカルヴィニズムにおいては恩寵の経験としての予定の信仰は神の栄のためという使 命(ヴォケーション)の観念によって強い倫理化を受けている。ここに恩寵と道徳との困 難な問題が徹底的に(よし極端な形においてであろうとも)解決されておるのを見る。カ ルヴィニズムに独特なる召命の信仰が、キリスト教と文明との関係を解決するにたる一大 暗示を有することをも疑うことの出来ない。」 (『高倉徳太郎全集 1 表記は新かな、新漢字に改めた。 1 6』20 頁) <神観> 引用 「カルヴィニズムの中心思想は主権者(サヴァレーン)としての神の観念にある。神は 我らの魂の父であるばかりでなく、天地の創造者、統治者、主権者である。…絶対的な意 味で宇宙万物の所有権は神にのみ帰すべきものである。ここにカルヴィニズムの徹底した る客観主義がある。」(同書、同頁) オックスフォード滞在中、高倉が読みふけった著作の中にフォアサイスがある。彼から 受けたものを高倉はやはり 2 点にしぼり、その 1 点は福音主義の本質をはっきりつかんだ こと、その 2 は「プロテスタンティズムの教会の意義及び教会と神学との因縁の重大なる 所以をハッキリつかむことを教えられた」ことと言う。教会とは何か、の問に対して「フ ルサイスは明快なる答を与える。教会は単なるキリスト教的な倫理的活動をなす団体でも なければ、ましていわんや、文化意識に満足を与うるためのクラブでもない。教会の特色 はどこまでも恩寵の団体たる点に存する。教会はポジティヴな信仰、歴史的信仰の根底に 立つところの宗教団体であらねばならぬ」(『全集 6』34 頁) そして高倉は神学のない日本の基督教会の現状を憂い、「真の神学のなきところ、実は力 強い信仰もないのである」といっている。 1924 年 3 月帰国した高倉は、翌 14 年急逝した植村正久の後を継いで東京神学社神学校 校長となり、また戸山教会(のち信濃町教会)を建設、伝道者としての活動をすさまじい 勢いで行なった。その説教は「直截さと激しさと人格的生命とをもって、聴衆に迫る」も のであった(小塩 力『高倉徳太郎伝』174 頁)。1927 年主著『福音的基督教』上梓。ここ に言う「福音的基督教」とは第一に「言(ロゴス)」の宗教であり、第二に原罪を認める宗 教であり、第三に恩寵の宗教であり、最後に最大の特色として良心宗教、召命宗教である。 引用 「造られたものの存在の意義は創造主なる神を礼拝するためにある。人生の究極目的は 神を知り、神を楽しみ、神を崇め神に服従し奉仕するにある」(『全集 5』193 頁)。 これはカルヴァンの言葉そのものである。厳格な高倉が「神を楽しみ」と言う表現を用 いていることは注目に値する。 1928 年ごろから本格的にカルヴァンの研究をはじめる。この年岩波講座『世界思潮』第 7 冊に「カルヴィン」を書く。これはやや総括的な文章だが、32 年 2 月、 「福音と現代」誌 第一回講演会にて、「カルヴィンにおける恩寵と道徳」と題する講演を行なう。これには彼 の特色がより鮮明に出ている。 彼はまず、カルヴィンの神観を 2 点にまとめ、ルターから受け継いだ父なる神としての 面と、世界の支配者としての面が改革者の特色であると述べ、神が人間と世界に与えた恩 寵は一般恩寵と特別恩寵の二つであること、堕罪によって一般恩寵では救われえなくなっ 2 た我々を救うためにキリストが遣わされたことを述べ、ついで「称義 いて、また「称義と聖潔 Justification」につ Santification の関係」を扱う。この二者の関係はつよく高倉の 心を捉えたらしく、 「悔い改め」について語ったのちふたたびこの主題にもどり、異説 2,3 を紹介し、この二つが必ず同時に、全体として経験されるべきものであることを力説して いる。 最後に高倉は、 「神の栄光のために」というカルヴァンのモットーを引き、聖潔の確かさ、 召命の確かさはこの真理から生まれて来ると言っている。 <高倉のカルヴァン理解の問題点> この頃の高倉は『綱要』の第 3 巻をこのんで読んでおり、教会について論じた第 4 巻は 余り読まれた形跡がない。予定の信仰に高倉は深く打たれているが、この教理は土台の骨 組みであるよりはむしろ天井のかなめ石(クレ・ド・ヴート)、帰結の部分である。そこで この部分を強調するとき、ゆたかな人間学的、歴史的、社会的視野が欠けてしまう恐れが ある。高倉のカルヴァン理解は時代的制約もあるがそうした制約から逃れることはできな かった。しかし彼の遺産は偉大なものである。彼の指し示した福音の原点は、直接、間接 の弟子たちによって受け継がれて行くことになる。 参考文献 ・『高倉全集』全 10 巻、高倉全集刊行会(長崎著店内)、1936~37 年。 ・『高倉徳太郎著作集』全 5 巻、新教出版社、1964 年。 ・小塩 力『高倉徳太郎伝』新教出版社、1954 年。 ・久米あつみ「日本におけるカルヴァン ― 高倉徳太郎の場合 ― 」東京女子大学付 属比較文化研究所紀要 Vol. 35, 1974 年。 Ⅱ。黒崎幸吉の場合 高倉徳太郎が日本における教会指導者であったのに対し黒崎幸吉は無教会の指導者であ る。その黒崎がなぜ真剣にカルヴァンに学ぼうとしたのかは非常に興味のある問題である。 黒崎幸吉(1886~1970)は山形県庄内地方の儒教主義に凝り固まった士族集団で育てら れ、儒教よりさらに力強い道徳を求めてキリスト教に入信したひとりである。具体的には 一高で新渡戸稲造に、東大時代に内村鑑三に出会い、内村の人格に圧倒されてのことであ った。 大学卒業後の黒崎は住友に就職し、師の元を離れて関西に移住するが、「主イエスの十字 架によってすべての罪が許されていることを確信して、全身歓喜に充たされて」いる単純 素朴な信仰の持ち主を識り、語らって家庭集会を開き、1921 年妻の病気と師を機として伝 道の召命を受け、住友を辞する。 1922 年から 25 年までの 2 年 5 ヶ月あまりを黒崎は欧州での留学に用いる。1924 年 5 月、 3 ドイツからスイスに渡り、ショアジー教授についてカルヴァンを研究する。二ヶ月間とい う短期間であったが、彼自身「カルビンの研究に没頭した」と書き、その集中ぶりが窺わ れる。 1925 年 3 月帰国、故郷鶴岡で黒崎は文筆伝道に専念、26 年 3 月個人雑誌「永遠の生命」 を刊行。4 月より山形高校に非常勤講師として勤め、学生たちとカイパー『カルビニズム』 その他を読む。27 年より『註解新約聖書』の執筆にかかり、1950 年の完成まで 20 数年の 年月をこれにそそぐ。 28 年 6 月、 『内村鑑三先生信仰 50 年記念キリスト教論文集』に「カルヴィンの教会観」 を執筆、31 年に同論文を一粒社から出版している。30 年 6 月『ジョン・カルヴィン伝』を 一粒社から出版。 <教会論> 黒崎がカルヴァンに関する著作としてまず「教会論」を発表したのは、かれの関心のあ りかを示していると思われる。この論文は『キリスト教綱要』第 4 巻にもとづいて改革者 の教会論を分析・批判したものであるが、全体の調子は批判であり、しかもなおカルヴァ ンの欠点から学ぼうとするものである。 教会の無形の存在と有形の存在とは、見えざる教会と見ゆる教会の二種と言い換えられ るが、黒崎は見えざる教会の実在性がカルヴァンにおいては極めて貧弱であること、見ゆ る教会の存在理由が見えざる教会のそれと異なった立場から出ていて、二者の有機的関係 がきわめて薄いと批判する。 引用 「見えざる教会が教会の本体であって見ゆる教会はこの本体をこの世に実現すべき使命 を有しているにもかかわらず(下線[実際は傍点]黒崎) 、カルヴァンにとっては見ゆる教 会の存在の理由はこれとは全く異なった立場から出発しているかのごとくに見える。すな わち見ゆる教会は見えざる教会の一時的、現世的実現にあらずして、これとは異なれる目 的を有し、異なる原則の下に支配せられ、異なれる構成要素を有し、異なれる法規制度の 下にあるものとの思想を持っているように見える(『黒崎幸吉著作集 6』282 頁)。」 黒崎自身は真の教会をあらわすのに「東洋的神秘的結合」あるいは「霊的結合」と言う 言葉を用いており、また見えざる教会と見ゆる教会を全く連続的にとらえている。彼によ れば「キリストと教会とは生命の通ぜる一体であって、何ら外部的制度や規律によりて形 成せられるべき団体ではない」 (同書 284 頁)のに、カルヴァンは見えざる教会が神の聖霊 によって結合された有機体であることをみとめながら、見ゆる教会は制度として理解して いる」と言う。すると「この両者は全然異なった、二個の団体であることとなるはずであ る。しかしながら、カルヴィンはこの二者を書く全然別種のものとして区別することを好 まず、またその意思もなかった。彼は元来この二者を調和せしめんとしなかったと同時に これを区別しようともしなかったのである」(同書 285 頁)。 4 この矛盾はどこから来るか。黒崎はその原因を、カルヴァンの信仰が旧約的であったこ とに求める。 引用 「カルヴィンの信仰が大体において旧約的であるとの批評があるのみならず、彼の教会 における処置、その訓練の方法、また教会と俗的政府との関係などもすべて旧約時代のイ スラエルをもって模範となせるごとくに見えるのは、全く彼の聖書の見方からきているの であって、この点において彼はキリストの教会の奥義に関する重要なる方面を見落とした ものと言わなければならない。」(同書 292 頁) この書の結論部分で黒崎はこう述べる。 引用 「要するにカルヴィンの教会観は聖書的なるがごとくにして実は聖書的にはあらず、殊 に新約の自由なる福音的傾向は全くこれを認めることができず、ただ旧約聖書の律法主義 がキリストの教会に実現したに過ぎない。ゆえに聖書的というもむしろ聖書の文字に拘泥 したる教会観である。しかのみならずその当時の歴史を超越することができなかったその 教会観はわれら多くの長所を認めつつもなお根本においてこれに賛意を表することができ ない。もしわれら日本人にキリスト教のある方面について欧米人の見ることを得ざるとこ ろのものを発揮するの使命があるものであるならば、この方面は確かにその一たることを 失わないであろう。けだし教会のキリストに在る神秘的一致は、制度によらざる東洋人の 最もよく理解し得る点である。したがって、カルヴィンの教会観に比しはるかに深き高き 教会が日本に発育することは、決して望み得べからざる空想ではないであろう。 […]東洋には東洋独特の使命がある。われわれはこの使命を発見しこれを果さんがた め猛進しなければならぬ。欧米の主要なる勢力たるカルヴァンの教会観をこの立場より考 察したのもその一つの試みに過ぎない。」(同書 319 頁) つまり黒崎は、東洋そして日本の使命を発見するためにカルヴァン研究に取り組んだの であり、改革者の教会論はいわば彼にとって反面教師として役立ったのである。ただし無 教会という行き方の中に、東洋人のみのなしうる霊的一致の実現を見るか、秩序を作り出 すことの不得手な日本人の弱点を見出すかはまた別の問題となる。 <聖書註解> 教会論に関してあれほどルヴァンに対して批判的であった黒崎は、聖書註解については 絶賛に近い賛辞をささげている。30 年に発表した『ジョン・カルヴィン伝』12 章において である。 5 引用 「このカルヴィンの註解 2 は実に不朽の名著であって、彼のすべての事業中最も永久にそ の影響を残すところのものが何であるかを尋ぬる者があるならば、直ちにこの聖書註解で あることを答えることができるであろう。聖書の存する限り彼の註解は永遠にその価値を 失うことがないであろう、しかして聖書が永遠にその生命を失わない以上、彼の名もまた その註解とともに永遠にその影響をとどめるであろう」( 『著作集 6』192~3 頁)。 彼はカルヴァンの註解の特徴を 7 つ挙げる。 1.聖語の理解の深いこと。 2.註解の明晰なること。 3.聖書記者の立場に立って註解したこと。 4.神学的公平さをもっていたこと。 5.聖書の霊感に対する確信をもちつつ、しかも「逐語的霊感説」のごとき死せる聖書 礼拝に陥らなかったこと。 6.へブル語、ギリシャ語をよくしたため文法的精確さをもち、またギリシャの古典に 通じていたため広さ、深さを註解に加えたこと。 7.旧約における歴史、教訓を新約の聖書のタイプとしてみるタイポロジーを多く用い て解釈したこと(同書 193~7 頁)。 これらの特徴は改革者の信仰、神学を中心としたものであり、それに黒崎の言語学的関 心が加わっている。彼は自ら註解を著すとき、つとめて衒学的な字句の詮索は控え、読者 の信仰を養うことを目指して、文意を明らかにしようと力をつくしているが、これはカル ヴァンの註解を学びつつ彼が身につけていった、実際的註釈学の方法であろう。黒崎が後 世に残した最大の遺産はその註解であると思われるのである。 ただ黒崎の分析は、カルヴァンが駆使したユマニスト的方法、すなわち統辞論的、文脈 的、あるいは修辞学的方法とか、間テクスト(聖書による聖書解釈)的方法などには及ん でいない。これらの関心と学びは黒崎より後の世代のことになる。 参考文献 ・『黒崎幸吉著作集』全 7 巻、新教出版社、1972~3 年。 ・黒崎幸吉『閃光録』新教出版社、1975 年。 ・黒崎幸吉『註解新約聖書』日英堂、1934~43 年、明和書院、1950 年。 ・久米あつみ「日本におけるカルヴァン ― 黒崎幸吉の場合 ― 」東京女子大学付属 比較文化研究所紀要 Vol. 37, 1976 年。 黒崎はこの時期の研究者として稀有のことだが Corpus Reformatorum を所蔵していたの で、註解も『綱要』もこれから読んだと思われる。また 1840 年代から 50 年代にかけてエ ジンバラの Calvin Translation Society の発行した英訳も利用したことと思われる。高倉も 同じ英訳を利用したであろう。 2 6 Ⅲ。長谷川保の場合 長谷川保(1903~1994)は浜松市の商家に生まれ、浜松商業卒業の 1921 年 4 月(17 歳) ブラジルに渡って成功すべく上京し、日本力行会海外学校(島貫兵太夫牧師の創設した私 塾、教育のひとつに聖書の学びとキリスト教精神を身につけることがあった)入学、講師 のひとり内村鑑三の講話を熱心に聞き、寄宿舎での礼拝にも欠かさず出席する。1921 年 9 月、礼拝中に「お前は外国に行くのではない。日本にとどまり、この国を救うために働く のだ」という声を聴き、これを自らの召命と感じてブラジル行きを止める。23 年 4 月に力 行会卒業後クリーニング店で修業、9 月関東大震災後浜松にもどり、11 月、日本基督教会 浜松伝道所(日本基督教団遠州教会の前身)にて、植村正久牧師より受洗する。26 年教会 の青年らと共に「聖隷社」設立、生涯を無一物、無報酬で働き神の奴隷になることを誓約。 一時全日本無産青年同盟に入党するが、幹部らの堕落を見て同党脱退する。28 年、生涯の 友人小塩 力( 26 年浜松に夏期伝道して以来の友誼)の勧めで東京神学社に入学し、高倉 徳太郎につき神学、特にカルヴァン神学を学ぶ。聖隷クリーニング店経営責任者が入営し たため神学社中退、代わりに同志の安川八重子、神学社に入学、30 年保と八重子は結婚、 以後「一卵性双生児」と呼ばれるほど緊密に助け合い共に歩む。貧しい結核患者を救うた め浜松市内にベテルホームを創設するが迫害を受けて転々とし、36 年全国のクリスチャン の献金により、施設を浜松市郊外三方原に移転、聖隷保養農園を創設、付属病院、看護婦 養成所、要介護老人のためのホーム十字の園、浜松市住吉町に聖隷浜松病院を開設、有料 老人ホームエデンの園、ゆうゆうの里建設、学校法人聖隷学園開設等、事業を拡大し社会 福祉法人聖隷福祉事業団となる。他方 46 年社会党より衆議院に出馬、当選し、1966 年末 までに当選 7 回、17 年間にわたり社会保障制度の確立のため尽力した。1994 年保没、1995 年八重子没。 信仰の養いとして長谷川保は聖書とともにルター、カルヴァンの書を仲間たちと読み続 けたが、中でもカルヴァン『キリスト教綱要』を終生熟読した。毎朝 4 時に保は八重子と 共に『キリスト教綱要』と聖書を読んだと言う。彼は加藤武にこう語っている。 「私はカル ビンから二つの柱を教えられました。一つは科学を尊重すること、今一つは政治を重んじ ることです」。日本最初といわれる医療上のさまざまのアイデアとその実行、冨の用い方、 清貧と無私に徹した生活態度、政治家となって社会福祉を変革しようとし、ある程度まで それを実現した実行力、その他の超人的な業績と生活態度の源泉が聖書とカルヴァンにあ るというのである。「カルビンを書物として読む人は日本にもいる。しかし、書物を読む行 為がこれほどまで歴史の中で実験され、巨大な事業にまでかたちをとることはまれではな いか」と加藤は言っている。(『ヤコブの梯子』342 頁) 長谷川の社会福祉事業家としての、政治家としての業績の源泉にカルヴァンの読書が深 く関わっていることがわかった。 7 しかし次の 2 つのエピソードほど彼の信仰のありかたをよく示しているものはない、と 思われる。 <エピソード1> 1945 年 3 月、第二次世界大戦の戦局が末期に入り、浜松市も空爆をしばしば受けるよう になって、防空壕構築強制命令が全国民に発せられ、浜松教会のある松城町でも住民たち が横穴式の防空壕を掘っていたが、これを支える木材が無く、当時の牧師松本美実は教会 堂を解体して町民のため資材を提供することを考え、長老会に諮ったうえで緊急教会総会 を開いた、このとき代表長老の長谷川保はカルヴァン『キリスト教綱要』第 4 篇 4 章 6 節 と 8 節を読んだ。教会総会は、教会堂を解体して付近住民のために防空壕の資材とするこ とを直ちに決議し、解体した用材を全部使って堅固な防空壕を組み立てた直後の 4 月 30 日、 第一回の浜松大空襲が訪れ、この壕に逃れた約 50 人の人が救われた。 このとき長谷川が朗読したのは中山訳であったろうが、渡辺信夫改訳によってその部分 を読んでみる。 4 篇 4 章 6 節冒頭。 「教会の所有はみな、地所であれ金銭であれ、貧しい人々の財産である」。 同8節 「キュリロスは飢饉がエルサレム地方を襲った時、他に手段が得られなかったので、器具 と祭服を売って困窮者の給食にあてた。同様にアミダの司教アカテイウスは、ペルシャ人 の大群衆が飢饉で殆ど滅びようとした時、聖職者たちを招集して有名な演説を行ない、 『我々の神は食べることも飲むこともされないから、皿も杯も必要ない』と言って器を鋳 つぶして、難民の食物と身売りした人の身請け金とした云々。」 後年、浜松市内紺屋町の遠州教会(遠州教会は三方原と紺屋町に二つの会堂をもってい たが、現在は紺屋町の遠州教会とは別に住吉町と三方原に会堂を持つ遠州栄光教会となっ た)の移転問題で論争になった時、長谷川は「自分の信仰が養われた場所としての会堂や 土地に郷愁をもってはならない」と言って空襲時の会堂解体を想起し、『愛のわざを忘れた 教会はキリストの教会ではない。土地や会堂に郷愁をもってはならない』と言っている(『ヤ コブの梯子』101 頁) <エピソード 2> また、国家、天皇とのかかわりにおいて、長谷川は毅然とした態度で発言した。時代は 遡るが、1936 年 6 月、いわゆる「長谷川保不敬事件」が起こる。憲兵が長谷川の思想調査 の目的をもって何度もベテルホームを訪ね、キリストの神と活ける神である天皇とどちら が偉いかと問う。長谷川が天皇は人間であり神ではないというのに対し憲兵は「あら人神 である天皇を人間とみるのは不敬である」という。そうした単純な理論のやり取りの後「い や、天皇陛下は人間です。だから皇后によって子を生むのでしょう。論より証拠、天皇陛 下だって小便もくそもするでしょう」と発言した長谷川は、不敬罪として逮捕される。い ったんは釈放されたものの、長谷川は正式裁判にかけられ、投獄されることがありうると 8 して、4000 字からなる「建白書」3 を 2 通作り、1 通を憲兵隊長宛に提出、1 通を盟友の大 野に託す。 長谷川は始めに 3 回にわたる事情聴取や家宅捜索を「御手数を煩わし恐縮に存じます」 と挨拶しながらも、そのやり方は「司法官本来の面目たるべき、国民を罪より救い守らん とするの職務を超えて、強いて罪人を作り出すかの如く感ぜらるる」と遺憾の意を表し、 「お よそ一国の行政を萎縮せしめる原因にして、官吏殊に司法官の利己的または私的感情的行 動によるものより大なるものはなく、最近やかましく言われるところの吏道の刷新なるも のも結局この点の刷新を目標とするものではないか」と批判した上で、取調べの聴取書の 作り方への疑念から、ここに自分の思想を端的に記録して提出すると執筆の動機を明らか にしている。そして 3 点にわたり自分の考えをはっきりと述べる。 第 1 点。天皇の統治権の神聖を認め、天皇と皇室を日本国統治者として尊敬するが、天 皇はあくまで人間であって礼拝の対象である神ではない。 第 2 点。皇室が万世一系であるかどうかは疑わしい。これは明治維新以後国家統一のた めの政治的意図から強調されすぎたものではないか。 第 3 点、現在の政治は理想的なものではなく、したがって統治も理想的ではない。その 例として第一に結核患者問題がある。 「この結核患者 150 万人のうち、少なくとも 100 万人 は、その日の糊口に窮するのみならず、伝染病なるがゆえに住居を逐われて転々とし、邦 土の上に安住の地を得ざる現状なり。それ居住権は天皇が憲法に於いて保障したる国民の 権利ならずや。然るに、国民の中 90 人に 1 人の割合いの莫大なる人々が、何らの悪をなさ ざるに、この権利を現実に奪われ居るはなんぞや。…それ、政治は天皇の総攬し給うとこ ろ、その批准なくしては一の法律も発布せられず。右様の政治を持って、なお、恥なしと するや。斯かる統治を以って理想の統治と言うを得るや。斯くてもなお神とし絶対者とし て臣民の崇拝を強いんとするや。」といい、さらに天皇の旅行に夥しい警護を要すること、 言論、集会、結社の自由を圧迫する点において理想的統治と言えない、と直言する。 どこをとっても、当時としては驚くべく大胆な発言で、よくもこれが長谷川再逮捕、断 罪に繋がらなかったものである。長谷川は天皇個人に対しては尊敬、敬愛の念を抱いてい たが(1939 年 12 月、長谷川の事業の危機を救ったのも御下賜金であった)、それはあくま で人間にたいする敬愛であってそれ以上のものではなかった。 この項の終わりに、長谷川八重子の文章を引いておこう。 3 この建白書の全文は蝦名賢造『聖隷福祉事業団の源流―浜松バンドの人々―』株式会社新 評論、1999、260 頁以下、また長谷川保記念誌『ヤコブの梯子』学校法人聖隷学園、1994 年、199 頁以下に収められている。 9 カルビンのキリスト教綱要(中山昌樹訳)高倉徳太郎先生の福音的基督教は繰り返 し繰り返し学びました。長谷川保のカルビンの基督教綱要の表紙はやぶれてしまった 程です。高倉徳太郎先生が獅子のような声で申された「神学のないところには信仰は ない」とこの言葉は頭のシンに染みこんでいます。私は思う「実践のないところには 生きた神学はない」と。(長谷川八重子「私の精神、思想、信仰を養った書物」『ヤコ ブの梯子 179 頁』) 参考文献 ・長谷川保『夜もひるのように輝く』講談社、1971 年 ・長谷川保『神よ、私の杯は溢れます』ミネルヴァ書房、1983 年 ・長谷川保+八重子、堀口 勇『聖書における愛の実践』光雲社、1988 年 ・長谷川保記念誌編集委員会『ヤコブの梯子』学校法人聖隷学園、1994 年 ・山内喜美子『日本ではじめてホスピスを作った 聖隷 長谷川保の生涯』株式会社文芸 春秋、1996 年。 ・蝦名賢造『聖隷福祉事業の源流―浜松バンドの人々―』株式会社新評論、1999 年 ・大内和彦『長谷川保と聖隷の研究』久美株式会社、2005 年 Ⅳ 森 森 有正の場合 有正(1911-1976)は牧師森 明の子として日本、東京に生まれ、フランスのパリ で死んだ思想家、文学者である。彼の行動も人となりも表現も、多面的で捉えがたいもの があるが、その芯に流れていたのは単純なまでに筋の通ったキリスト信仰である。すなわ ち彼があれほどしばしば繰り返し語ったアブラハムの単純にして剛毅な信仰は、彼の内か ら消えることは無かったのである。彼は父森 明の興した日本基督教団中渋谷教会で育ち、 同じく父の始めた「基督教共助会」の会員であり、フランスにあってはパリ改革派教会に 籍を移し、プロテスタントとしての信仰をもちつづけた。家庭に流れる明治・大正期の貴 族(没落期ではあったが)的、開明的雰囲気や、小学校時代をすごした暁星のカトリック 教育ももちろん彼の感性や嗜好に影響をおよぼしたであろうが、通底するものは福音主義 信仰であったといえる。共助会の交わり、とくに清水二郎、山本茂男、福田正俊、小塩 力 といった先輩格の人たちとの友情は一生を通じて変わらず、また森についての世間の評価 が動いても、この集団における森への信頼は微動だもしなかった。 デカルト、パスカルの研究から入って十七世紀フランス・モラリストをはじめフランス 文学、フランス思想ひいてはヨーロッパの文明と文化を身をもって体験し、これと格闘し 続けた森にとって、カルヴァンはどのような意味を持っていたのか。 まずは森とカルヴァンとの出会いである。 10 <初期の森とカルヴァン―説教の翻訳> 1943 年 11 月、長崎書店から森有正訳『カルヴァン説教 第一巻上』と題された書物が 刊行された。表題からもわかるように、本来はカルヴァンの旧新約聖書に関する説教の一 部を 5 冊乃至 6 冊に分けて紹介する意図で出発したようだが、諸般の事情で一冊のみの出 版に終った。内容は「聖母頌(ルカ伝第一章 45 節以下)3 篇、荒野の誘惑(マタイ伝 4 章 1 節以下)4 篇、苦難(マタイ伝 26 章 36 節以下)3 篇」である。この仕事に森が自分から 取り組んだかというと、どうもそうではないらしい。あとがきにあるように、松谷範義氏 に翻訳を薦められ、かつ原書 CORPUS REFORMATORUM : LVINI OPERA を貸与された ためであろう。このころ森は東大文学部の副手で、無線電信講習所講師、東京女子大講師 をつとめている。前年結婚しており、経済的には苦しかったと思われるから、生活費の足 しに、ということも少しはあったかもしれない。しかし文筆活動は盛んで、著書『パスカ ルの方法』がすでに弘文堂から出ており、訳書としてデカルト『真理の探究』、ブトルー『パ スカル』等が出版されている他、雑誌『共助』に「パスカルにおける<愛>について」、 「パ スカルにおけるイエス・キリストの問題」等の連載をつづけている。 カルヴァンの翻訳にあたって森は 16 世紀フランス語の複雑さにてこずったようであるが、 語句の難所は師である渡辺一夫に教えを乞うた、とあとがきにある。同じあとがきの中で 森は「本書に選んだ諸説教は、信仰、罪、救いの根本問題に対して根本的な光りを投ずる ものであることを疑わない。人はそこにルターとのあまりにも根本的な、しかし当然の一 致を見出して賛嘆を禁じえないであろう」と書いている。ここではカルヴァン独自の教義 や表現を見出すよりも、改革派神学の主張をルターとの共通性において見ているが、この ころ森の内にカルヴァンに対する関心は目覚めたようである。彼は 1926 年に出版された Peter Barth 編 JOANNIS CALVINI OPERA SELECTA の少なくとも第 1 巻を購入してい る(筆者は森の蔵書の中に見た)。しかしあまり読んだ形跡はない。 <後期の森とカルヴァン> 彼が本格的にカルヴァンを読み出したのはパリ滞在も後半の 1968 年頃かと思われる。66 年ないし 67 年、筆者は森から「カルヴァンのよい版は」とたずねられ、「それはやっぱり ペーター・バルトの OPERA SELECTA でしょう」と答えた覚えがある。すると森はさっ そくこの版を買い込み、 「毎朝のように読んでいます」と告げられた。しばらく彼の日記を 追ってみよう。 引用 1968 年 1 月 5 日の日記 「朝、例によってカルヴァンを読む。聖体拝受 4 における聖礼典について彼の説くところ は立派なものである。カルヴァンの論議の進め方には感嘆せざるをえない。今ではカルヴ ァンの文章をかなり早く読めるようになった。ラテン語の文章の進み具合に僕の精神が合 4 この単語は「聖餐」と訳した方がプロテスタント信仰にはふさわしいと思われるが二宮氏 の翻訳を尊重する。 11 致しはじめたのである」 (『森有正エッセー集成 4』477 頁) 1968 年 1 月 11 日 「いつものようにカルヴァンを読む。ソルボンヌで授業。平安時代。」(同書 486 頁) 1968 年 1 月 15 日 「いつものようにカルヴァンを読む。聖体拝受に関する部分。[…] 昨夜、共和(レピュ ブリック)精神について考えた。[…]僕は子どもっぽい心理主義は絶対にごめんこうむりた い、これはなかなか容易ならない業だが、是非とも成功しなければならない。偉大なこと はすべて、この厳しい公けの精神から始まるのである。カルヴィニスムとジャンセニスム の神髄もそこに含まれている。」(同書 488 頁) 「夜、ラブレーを少しと、16 世紀のフランス文学史を何章か読んだ、ラブレーとカルヴ ァンの対照に僕は強い関心を抱く」 (同書 496 頁) 1968 年 2 月 10 日 「夏休みが終ったら一年間にわたってJ.S.バッハの「三位一体」を練習したいと思 う。それに関連して聖アウグスティーヌスの三位一体、ルター派の教理問答、カルヴァン 派の信仰告白、その他、この問題に関係のある本を読みたいと思う。そして西欧の思想の 質そのもののうちに入り込みたいと思う。」 1968 年 4 月 10 日 「朝、カルヴァンを読む。カルヴァンのラテン語にはますます強くひきつけられる。こ れは文法を基礎にして厳密に組みたてられたラテン語だからである、いわば人工的な、ひ いては透明な言語なのだ。人間が創り、構成するものの一つの理想型がここにあると言え ないだろうか、隅々に到るまで意識が浸透している。それに反して古典作家のラテン語は かなり晦渋な要素を含んでおり、彼らの動物性を感じさせる。」 (同書 528 ページ) (この後 バッハのオルガン練習の記述がある) 1969 年 5 月 15 日 「宗教、改革派神学の信仰箇条、とくにカルヴァン派神学、フランス語、バッハの作品 を通じての音楽、宗教(ママ)、言語学と音楽、このような分野において実践することのう ちに僕は生きている。」 1969 年 7 月 30 日 アリアンヌへの手紙 5 ヤンセニウスの『アウグスティーヌス』再版(復刻)に関して 「東京大学に提出する予定のわたくしの博士論文はすでに 19 年前に書き上げてあるが、 この主要文献を読んですっかり修正することになろう。…そこで、今まで絶えず磨いてき た私のラテン語が役に立つであろう。なぜならヤンセニウルのラテン語はカルヴァンの場 合よりずっと易しいはずだからである。カルヴァンはエラスムス同様正統的人文主義者だ 1969 年から森は、架空の女性アリアンヌ(有正の 有 と、森が付き合っていた女性の 名の一部を組み合わせた名と言われている)にあてた 46 通の書簡という体裁をとって、ひ とつの「作品」を書いた。 5 12 ったから、古典的な純粋さを帯びたラテン語を書き、従って統辞法も濃密なのだが、聖職 者のラテン語にはそれがないのである。カルヴァンの文章をわたくしはほとんど毎日のよ うに読んでいる。 (70 年 11 月までの日記にはカルヴァン読書の記述は見られないが、たとえば 2 月 15 日に は「生涯の最後の日に到るまで僕が学び続けるべき諸分野」として哲学、言語学、仏文法、 ラテン語文法…と並び、 「繰り返し読むべき書物」のラテン語の欄に『キリスト教綱要』が 筆頭に上げられている) 70 年 11 月 30 日 「Pecca fortiter,sed creda firmius 6 (勇気をもって罪をおかせ。しかし、それ以上の勇気 をもって信ぜよ)。マルチン・ルッターのこの言葉が僕の中に浸透しはじめた。罪と義認と の分離 7 がそこから露われてくる。これはジャン・カルヴァンの言う”oblivio voluntaria“ 8 (意識して忘れること)と同じである。そうすると罪の観念を訂正せざるをえない。もち ろん、キリスト教にとって非常に重大なこの問題をとりあつかうには極めて慎重でなけれ ばならない。三人称はもとより二人称になることさえも拒否する二つの主観、その間に成 り立つ唯一のコミュニケーションの道は信仰だけである。この問題は実に深刻である。贖 罪、義認、功徳、救霊の観念が、その機能において、完全に姿を変えるのである。これで 神人同型同性論の試みにはすべて終止符が打たれる。これは罪が軽くなることを意味はし ない。それどころか罪はその深刻さにおいて極限にまで押し進められるのである。『ローマ 人への手紙』の第 7 章にみられるパウロの悲劇的な叫びはそれ以外のことを意味しはしな い。これらの観念を概念化すること、律法化すること、感情的にとらえることをこの分野 から決定的に排除しなければならない。問題は、創造の鍵そのものにかかわるのであり、 宇宙的(傍点)な性格を帯びているのである。そして忘却!何と崇高な言葉であろうか。 それは我々の経験の条件そのものである時間とかくも内密に結ばれている。」 (『森有正エッ セー集成 5』351~2 頁) 71 年 4 月 20 日 「朝早く、例によってカルヴァンを読む。殆ど辞書を用いずに全部判る。単色で等質で はあるが、それにも関わらず強烈な彼のラテン語に僕は強い興味を抱いている……。」(同 この語句はルターの原文では pecca fortiter, sed crede fortius(版によっては ~ sed fortius fide et gaude in Christo )であると、加藤武氏が教えてくださった。さらに竹原創 一氏から、この言葉の出典をお教えいただいた。Luthers Briefwechsel. Nr.424. Luther an Melanchthon, Wartburg, 1. August 1521.(ルターがヴォルムス国会審問後、ヴァルトブル ク城に幽閉されていた時期に、ヴィッテンベルクで改革運動を続行していたメランヒトン へ宛てた手紙)とのことである。 7 原語は何であろうか。むしろ「区別」かもしれない。 8 この語はたとえば『綱要』1536 年版第 3 章の「主の祈り」講解5、 「我らに罪を犯す如く 我らの罪をも赦したまえ」のところで出てくる(Ed.Peter Barth:Joannis Calvini Opera Selecta Vol.1.P.112、)が、 「意識して忘れること」より「喜んで、進んで忘れること」 と訳したほうがよいように思われる。 「忘却」のテーマはいずれ考究さるべきものであろう。 6 13 書 450 頁) 71 年4月 19 日 「今朝ぶりでカルヴァンの『綱要』を読んだ。第一巻の 186 頁を見ると、たまたま、第 1 行目に本質的な文章があった。 Quae enim summa evangelii, nisi quod omnes servi peccati et mortis solvimur ac liberamur per redemptionem quae est in Christo Iesu ? (「福音書」の言うところは、要するに、我々はみな罪と死との囚われの者であり、イエス・ キリストの内なる贖罪によってのみ、罪をとかれ解放されるということに他ならない)。 永遠の繰り返し句のように、この言葉は僕の生涯の隅々に必ず現われる。 71 年 12 月 14 日 「夕方、いつものようにバッハ。 『バビロンのほとりにて』は極めてむつかしいが、ます ます素晴らしいものになる。イ短調の『プレリュ-ドとフーガ』も少々。ペダルも少し練 習した。毎日、規則的に練習しなければならない。バッハの音空間、ヤンセニウス及びカ ルヴァンの思想、フランス語及び日本語の言語空間、要するに僕の《経験》の空間は徐々 に透明になっていく。」 (同書 470 頁) 73 年 3 月 28 日。 「残っているのはもっとも重要な問題、つまり『バビロンの流れのほとりにて』の執筆で ある。第三巻、『砂漠に水湧きて』を目下構築中である。それと、バッハのオルガン曲の演 奏がある。 『バビロンの流れのほとりにて』は次のことの大総合を実現する。いやむしろ物として 示すものでなければならない。すなわち、僕自身の経験、カルヴァン及びカール・バルト の神学、特に『ローマ人への手紙』 、『ヘブル人への手紙』、 『ヨハネの黙示録(手紙?)』の 注解、バッハのコラール前奏曲、『フーガの技法』、デカルトの合理主義、パスカルの愛の 神学である。 」(同書 500~501 頁) 森にとってのカルヴァンは何であったか、少しく考えてみる。 <読み方> 彼はラテン語の『キリスト教綱要』を、オルガンの練習のように、日課として読んでい る。この点に関しては長谷川夫妻にも似て、聖書とともに、いや時にはそれ以上に、日ご との養いをこの読書から得ていたのであろう。 <求め、見出したもの> 第一にカルヴァンのラテン語に彼は惹かれた。 「アリアンヌへの手紙」に見られるように 彼はカルヴァンを「正統的人文主義者」として評価し、その文章としての論理性、美しさ、 透明性を高く評価している。また自分の精神とのリズムの一致を見ている。 第二にいうところの公けの精神(客観的精神) 、厳しくも端的な贖罪信仰の論理をカルヴ ァンのうちに見出す。 14 第三に、西欧の思想の質としてのカルヴァン神学。これらはバッハの音楽に、またその 演奏行為の中に彼が見出したものと共通する。すなわちカルヴァン読書は、彼の混沌とし た精神の芯とも中心ともなりえたものであったが、時間と健康と、また絶えず拡散をつづ ける彼の精神はその総合作業をゆるさなかったのである。 参考文献 ・森有正訳『カルヴァン説教 第一巻 上』長崎書店、1943 年。 ・『森有正著作集』全 15 巻、『森有正対話集』全 2 巻、筑摩書房、1978~82 年。 ・『森有正エッセー集成』とくに4,5.ちくま学芸文庫、1999 年。 ・森有正『土の器に』日本基督教団出版局、1976 年。 ・森有正『光と闇』日本基督教団出版局、1977 年。 ・森有正『アブラハムの生涯』日本基督教団出版局、1980 年。 ・関屋綾子『一本の樫の木 淀橋の家の人々』日本基督教団出版局、1981 年。 まとめに代えて 教会人高倉徳太郎、無教会指導者黒崎幸吉、福祉事業家長谷川保、仏文学者にして思想 家森有正、とかなり特異な個性の人々におけるカルヴァン受容のかたちを見てきた。切り 口や受けた影響などさまざまな 4 人だが、共通することはカルヴァンの読み方が『キリス ト教綱要』に大部分はしぼられており、それに聖書註解と説教が加わる場合もあるといっ た具合である。 21 世紀に入ってからのカルヴァン研究、また読書はもっと幅広いものになってきた。カ ルヴァンの書簡、説教、論文、論争文書の類が読まれ、またカルヴァンの存在自体をフラ ンスの 16 世紀ルネサンス期と言う時代の中に据え、ユマニスムの風土、文脈の中で、ある いはスイスのジュネーヴという場の中で読み、その人間性や方法をなるべくまるごと理解 し、さらにその影響を、神学的、信仰的分野はもちろん、政治、経済、歴史、文学、音楽 等の分野において、カルヴァンの周辺や後世のカルヴィニズムの変遷の中でとらえようと する動きも見られる。カルヴァンの聖書解釈の方法や説教を実際の説教に適用しようと試 みられている野村信教授のような例もある。願わくはカルヴァンに学び、カルヴァンをた のしむ人たちがこの日本の中でも増えていくことを。 15