Comments
Description
Transcript
詩章』 第七四歌の研究
Kobe University Repository : Kernel Title 『詩章』第七四歌の研究(A study of canto 74) Author(s) 菱川, 英一 Citation 文化學年報,20:55-79 Issue date 2001-03 Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 Resource Version publisher DOI URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81001507 Create Date: 2017-03-29 5 5 1 『詩章』第 74歌の研究 菱 川 英 一 パ ウン ド ( Ez r a Pound,1 8 8 5-1 9 7 2) に第 1回 の ボ リ ンゲ ン賞 ( Bol l i nge n Thens an Cant os ,1 9 4 8)の なか に奇 Pr i z e,1 9 4 9)をもた らした 『ピサ詩章 』( 妙 な一節 がある。これ まで容易 な読解 を拒 んで きた詩節 であ る。これ に対 し、本 論ではパ ウ ン ドの用 いた聖書 の版 ( AS V)と、並行法の枠組み 、さ らに儒教 的観 点な どに注 目して解読 を試 み る. さらに、その一節 中の二要素 の対照が作 り出す 意味の均衡 を破壊 しかねない第三の要素 について も考察す る。 問題 となるのは第7 4 歌 に現 れ るつ ぎの一節 であ る 。 t or e de e m Zi onwi t hj us t i c e s d/I s ai ah.Notoutoni nt e r e s ts ai dDav i dr e x I t hepr i mes . 0. b.( 7 4 /4 2 9) 1.問題の所在 第7 4 歌の この箇所 は、大 き く分 ける と三つの部分か ら成 る。イザヤが言 った部 分 と、ダビデが言 った部分、そ してその後 に附け加 え られた コメ ン ト部分 とで あ る。パ ウ ン ドの詩作 品中の一節 ではあるが 、前 二 つ は明 らか に引 愉 ( al l us i on) の技法 を用いてい る。つ ま り、なにか先行す るテクス ト (この場合 は聖書 )があっ て、それに対す る言及 の形 をとってい る。言及 の仕方 にはい ろい ろあ り、その ま ま原文 を引用す るような形か ら、かな りの程度 の加工 や変形 を経 てい るため に殆 ど原形 をとどめない もの まで様 々である。この技法 その もの は現代 詩で は珍 しい もので ない。加工 の仕方 については、あ とでテ クス トの検討 の ところで触 れ る。 これに対 し、後の コメ ン ト部分 は詩人の独創 に発す る もの と一応考 え られ る。 つ 5 6 文 化 学 年 報 ま り、全体 として、この一節 は先行テクス ト2点の引用 ない し加工 と、それ に対 する詩人の発言 とか ら、成 り立っている 。 言及の仕方でな く、何 に言及 しているのか、そ して、いったいなぜ この二つ を 並べているのかに着 目す ると、この二つは、発言者が異 なるだけでな く、その発 j us t i c e " を問題に し、ダビ 言内容 も相当に違 っていることが分かる。イザヤは " i nt e r e s t " を話題 にする。さらに、イザヤにおいて " j us t i c e " が問題 にな デは " e de mpt i onとの関連 においてであ り, ダビデ において " i nt e r るのはシオ ンの r Oni nt e r e s t "の状態で成す行為が問題 となる。 トピックが全 く違 う e s t "は " 。 一方は預言者であ り、他方は王である その社会的役割 に違いがあることを考 え O に入れた うえで も、その内容の隔た りは通常の理解 を超 えると言わねばならない。 問題は、なぜ詩人が この異質な二つ を並置 しているか ということである。並置 しているか らには意味があるのである。 しか も、その後 に附加 された詩人の コメ ン ト。これ らは、読者 に、この一節 を総体 として理解す ることを要求 している 。 この ような戦略に覚 えがないだろうか。実は、詩人は短詩 を書いていた初期 の時 。「メ トロの駅 にて」 代か ら、この ような異質要素の並置 を行 っているのであ る ( Ⅰ naSt at i onoft heMe t r o,1 9 1 3)はその典型的な例 として挙 げるこ とがで き るo Lか し、いまわれわれが見ているこの一節 は、さらにその後に詩人の コメ ン トが附 き、明 らかにその コメン トを読者 も読み取 るように促 されている。この コ メン トの印刷上の物理的な位置 を見ると、これは前二者 に対す るコメン トではな く、後 ろのほうの、ダビデその人に照準が合わせ られていることが分かる。文法 的に解 くなら、これは " Dav i dr e x" に対す る同格語句 ( appos i t i v e) とい うこ とになる。つ ま り、ここでは、最初の二つの要素がなぜ並置 されているか とい う ことと、その後に附された コメン トはなにか とい うこと、これ らを解 くことが ま ず要求 されているのである。無関係 に見える二者 を結 びつけるとい う第-の課題 だけで も手 に余 るのに、その うえ王 を罵倒す るコメン トの真意 を解 くとい う第二 3 の課題 まであ り、ます ます読解 は困難 になる 。 2.議論の前提 となる諸条件 第二次世界大戦末期 に敵国ローマか らの放送 を反米活動 と疑われたパ ウン ドは 1 9 4 5年 5月 3日に捕 え られ、『ピサ詩章』 を ピサ郊 外 の収容 所 ( U.S.Ar my 5 7 『 詩章』第7 4 歌の研究 Di s c i pl i nar yTr ai ni ng( 元nt e r;DTC)で同年 5月か ら11月の間に書 いた。許 さ れた持 ち物は少 ない。聖書 を含む宗教的な書物がそのなかに入 っていたことは確 Mor r i sSpe ar e)編のポケット版英米詩アンソロジー 実である。あ とは、ス ピア ( と、儒教の古典である四書 を含むわずかの書物 とであ る。パ ウ ン ドは、『 詩章』 ( TheCant os)中で も屈指の詩篇 を、わずかの書物 とあ とは記憶 を頼 りに綴 った 。 のである 『ピサ詩章』の初版が米国で出版 され るのが 1 9 4 8年 7月3 0日であ り、 Li br ar y ofCongr e s s)が翌 これを顕著な詩的業績 と認めて、米国議会図書館 ( 年に第 1回のボ リンゲン賞 を授与することになる。米国での裁判で反逆罪 に問わ れていたパ ウン ドが受賞 したことで問題 となる。 9 4 7 年 3月1 8日に孔 子の その直前のパ ウン ドのお もな出版状況 を点検す ると、1 『 中庸』 と 『 大学』の英訳 を米 国で出版 してい る ( Con f uc i us .TheUnwobb l i n g heGr e atDi ge s t ) 。これは 『ピサ詩章』を書 いていた同時期 に ピサ の nu ot& t 9 4 5年 2月 に伊訳 を 収容所で執筆 した ものである。『 中庸』については、すで に1 。 Cl un gI un g.L' as s ec henon u ac i l l a) 『 大学』 の ほ イタリアで刊行 している ( 9 4 2 年 ( Con fuc i o.TaS' e u.DaiGaku.St udi oi nt e gr al e) と1 9 4 4年 うの伊訳は1 ( Te s t ament odiCon f uc i o)とにどちらもイタリアで刊行 してい る。 『 大学』 の 英訳は1 9 2 8 年 に出 した英訳 ( Tamo ,t heGr e atLe ani n g)の改訂版 であ る。 1 9 4 14 4 年の時期 は政治論や経済論の書物が多 く、なかで も1 9 4 4年 の政治経 済論 Je f f e r s oneMus s ol i ni )は、1 9 3 5 年 に英語で出 『ジェフアス ンとム ッソリーニ』( した書 ( Je f f e r s o nand/ orMus s ol i ni )のイタリア語版であるが、当時の イ タリ ア政権 との関係 を考 えると、注 目に値す る。この時期、パ ウン ドが孔子の イ タリ Be ni t oMus s ol i ni )の政治 を矯正 ア語訳に精 を出 していたのは、ム ッソリーニ ( Mar yChe adl e)の研究 に よ りほぼ確 実 だか する意図があったことがチ一 ドル ( らである。母 国の ローズ ヴェル ト ( Fr ankl i n De l ano Roos e v e l t ) につ い て も L' Ame T ・ i c a,Ro os e v e l t 『 アメリカ、ローズ ヴェル ト、お よび現下の戦争の原因』( el ec aus ede l l ague r r apr e s e T ue )をイタ リアで 1 9 4 4年 に出版 してい るが 、 こ れはイタリア語の著作であ り、英語版が出るのは1 9 5 1 年のことである -方 、書 O 9 4 0 年1 2 月 5日刊行の 『 選詩集』( A Se l e c t i on o f 物の形で出 した詩集 となると、1 9 4 0年 1月 Poe ms)にまで遡 らねばならないO新 しい詩 を収めた詩集 となる と、1 2 5E ]刊行の 『 詩章 第5 2 歌 一第7 1 歌』( Cant osLI I I LXXI )になる 。 そ して、われわれが問題 に している詩節 を含 む 『ピサ詩章』は第7 4 歌 か ら第8 4 5 8 文 化 学 年 報 歌 まで を収める。1 9 4 0 年版の 『 詩章』に続いて出 される 『 詩章』であるのに、間 2 歌か ら第7 3 歌のイタリア語詩篇 は飛 び越 されている。この両篇が 『 詩章 」 】 の第7 に収 め られて初 めて刊行 されるのが 1 9 8 5年 のデ ・ラ ッヘ ヴ ィル ツ ( Mar y de Rac he wi l t z)訳編のイタリア版 『 詩章』( ICant os)お よび1 9 8 6 年 の米 国版 『 詩 2 歌の英訳が刊行 されるのが 1 9 9 5 年の米国版 『 詩章』 であ 章』であ り、さらに第7 4 3 歌の英訳 はまだ見つか ってい ない 。1 9 4 4年 1 2月か ら1 9 4 5 年 1月にかけ る。 第7 て執筆 されたと推定 される両篇は、当時敗色濃厚であったイタリアに奮起 を促す 1 9 4 4年 6月 ) で 、 『詩 章 』 の聖 地 で あ る Te mpi o 面 が あ る。 リ ミニの爆 撃 ( Mal at e s t i anoを破壊 された と思い込んだパ ウン ドは、 これ に対 し復讐せ よとの T l Ri mi n主ar s a") 。さらに、教皇 シクス トウス を " us ur ai o" 思いを込めている (" の息子 と呼び、その一派 を " D' us ur agr as s i " と酷評する Ez z e l i nodaRomano ( 1 1 9 41 2 5 9)の亡霊や、ロシア戦線で戦 ったあ と、この第 7 2歌執筆 の直前 ( 1 9 4 4 年1 2月 2日)に死去 した Fi l i ppoTomas oMar i ne t t i( 1 8 7 6-1 9 4 4)の亡霊 も登場 6 す る。これ らの亡霊 は us ur aと共産主義 とに対 す る " j us twar " を戦 って死 ん でいったがゆえにファシス トの天国篇 ( Fas c i s tPar adi s o)の登場人物 となって e nbr oc kはい う ( 1 3 0) 。現実のイタリア情勢のなかで、儒教 的な徳 を いると Das 備 えた統治者 による強力 な政治 を待望す る思いはパ ウン ドに強かったが、その夢 が破 れた後の残響 は 『ピサ詩章』のそこか しこに聞かれる。 『ピサ詩章』の米国版のほぼ 1年後 に、英国版が1 9 4 9 年 7月2 2日に出版 される。 この時に米国版の うち、い くつかの箇所が削除 された り、伏せ字にされている 。 われわれの議論の対象である詩節の第 3行 目の 3語 (` t̀ hepr i mes . 0. b. ' ' ) も削 除 の対 象 とな って い る。 ほ か に削 除 の対 象 とな っ て い る の は チ ャー チ ル ( Wi ns t onChur c hi l l )や英国皇太子 などに関す る箇所であるが、ダビデ王 も同等 の検 閲保護 を英 国では受けていたことになる。ダビデ王 に関す るこの 3語が英 国 9 7 5 年版の 『 詩章』以降である。 版で復活す るのは1 以上、概観 した出版状況か らは、国を治める者-のパ ウン ドの政治的関心が、 現代 と古代 との両方 に及んでいることが見て取れる。現代のほうは自分が属す る 西欧世界が対象であるのに対 し、古代のほうは古典 を通 して知 る中国や中東 とい う東洋 を対象 に している。そのことは、古今東西 を包含す る叙事詩たろうとす る 『 詩章』の性格 をよ く反映 しているともいえる。また、『ピサ詩章』執筆前後 に詩 人の置かれた状況 と英国での出版検 閲か らは、現実 との相互交渉が文字通 り相互 『 詩章 』第7 4 歌 の研究 5 9 的に行 われているこ とが分 か る。詩人は硯実世界 を古典 の智慧 に よって変革 しよ うとして逆 に反逆罪 に問われ、現実 の側 は詩人の出力す る もの を体制 をゆるがす もの として恐 れ隠すのであ る。その ような現実 との接 点か ら生 まれ る複雑 な力 学 が、第7 4 歌 の一節 の難解 さに影響 を及 ぼ してい る可 能性 は否定 で きない。 3.テクス トの検討 外部世界 との複雑 な交渉 は、テクス トの産 出す る意味 に影響 を及ぼ しはす るが、 しか しまた、テ クス トはテ クス ト自体 の原理 に よって動 く側面が ある。第 7 4歌 の 一節 はテクス トと して他 の どの ようなテ クス トと交渉 を もちなが ら成立 してい る のであるか。 この一節 を成す三要素 の うち、第- の要素 はイザヤの発言 であ る。この発 言 内 容 に相 当す る聖書 の箇所 と して想定 で きるのはイザ ヤ書 の 1章 2 7 節 である。 第二 の要素 はダビデの発言である。その発言 内容 の典拠 と して想定 で きるの は詩 篇 1 5 の 5節 である。これ らの聖書 中の違 う箇所 を結 びつ けて並行 をつ くりだ した とこ ろに、詩人の独創 が存 す る。 これ らの聖書 の詩句 を本節 に用 い るにあた り、パ ウン ドが依拠 した英訳聖書 は、 手近 に現物 があ ったにせ よ、記憶 によったにせ よ、い ったい どの版 であった ろ う か。パ ウン ドが ピサの収容所 で持 つの を許 された書物 の なか に どの聖書 があ った 7 かは特定 されてい ない。 したが って、我 々はテ クス ト内部 の証拠 に よって推 測 す る しか な い 。 そ して 、 そ れ に よ る 限 り、 こ こで パ ウ ン ドの用 い た版 は Th e Ame r i c anSt andar dVe r s i on( ASV,1 9 0 1)の可能性 が高 い。それ は、本節 お よ び関連す る箇所 の聖書 の引用が こ とご と く AS Vの語句 と一致す るか らであ る。 第一の要素 は " t or e de e m Zi onwi t hj us t i c e/s d/I s ai ah. " で あ る。 この典 拠 と考 え られ る AS Vの箇所 は " Zi ons hal lber e de e me dwi t hj us t i c e ,andhe r c onv e r t swi t hr i ght e ous ne s s . "( I s ai ah1 .2 7)である。 なお 、第二次 大 戦 末期 までにパ ウ ン ドが利用可能であった他 の英訳聖書 を参考 に して、その一部字句 を 変 更 した可 能性 は、排 除 で きないが 、 低 い 。TheAu t hor i z e d Ve r s i on ( AV, 1 6 1 1 ) に よ る 同節 は " Zi on s hal lbe r e de e me d wi t hj udgme nt ,and he r v i s e dVe r s i on( RV、 旧約 聖書 c onv e r t swi t hr i ght e ous ne s s . "であ り、TheRe 部分 は1 8 8 5)の 同節 は " Zi on s hal lber e de e me d wi t hj udge me nt ,and he r 6 0 文 化 学 年 報 8 c onv e r t swi t hr i ght e ous ne s s . ' 'である。す なわ ち 、ASV との違 い は j udgme nt ない しj udge me ntの一語のみである。AVや RVが用いているこの語 は聖書 に特 j us t i c e " を意味す る ( OED2 ,1 0 a) 。パ ウ ン ドが 有の用法で、現代英語でい う " 『ピサ詩章』執筆時 に即興 で この箇所の一語 を変換 した可 能性 は低 い。 ピサか ら 9 4 6 年 、担 米 国へ連行 されての ち裁判 を経 て精神病 院に収容 されたパ ウン ドは 、1 当の精神科 医 に対 し、 " MyZi oni s tpr ogr am-Zi on s hal lber e de e me d wi t h j us t i c e " と述べ ている ( Kav ka,1 5 9 ) 。この言葉 を見 て も、パ ウ ン ドの頭 の なか には同箇所が ASV と同 じ語句 で完全な形 で入 っていることが窺 われ る。AS V を典拠 とす る理 由は第二の要素の ところで も触 れるO ここで最 も重要 なことは、パ ウン ドが古風 な " j udgme nt "でな く、 " j us t i c e "の 語 を用いていることである。その意義 を捉 えるために、ヘブライ語の原文を見ると、 " Zi on s hal lber e de e me d wi t hj us t i c e "9 の部分 はT l 「ら nt 3 9伽 ⊃T l ' y( s i yy6n be mi 畠 patt i pade h)の 3語で書かれている。この 3語 を英語 に逐語訳するならば、 Zi onwi t hj us t i c es he wi l l be r e d e e me dとなる。 " j us t i c e " と訳 され るヘ ブ ライ 菖 patであ り、旧約聖書 中に4 2 5 回使 われる。同語の意味 については多 くの 語 は mi 議論があるが、旧約学者 のカルヴァ- ( Robe r tCul v e r)は、この語 は " whati s doubt l e s st hemos ti mpor t anti de af orc or r e c tunde r s t n di a ng ofgov e r nj udgme nt " と訳す ことは " of t e nde f e c t i v ef or me nt " を表す と指摘 し、これ を " usmode r ns " である とい う。なぜ な らば、その訳語 だ と、政治 を立法 、行 政 、 司法の 3機 能 に分 けて考 える現代 人は、司法 の ことを意味す ると受 け取 って しま 1 0 うか らである。 ところが、ヘ ブ ライ語 にはその 3機 能がすべ て含 まれてお り、 " j udi c i alpr oc e s s "のみに限定 されてはいないのである ( 9 4 8 ) 。パ ウ ン ドが この j udg( e)me れt "では不十分であっ 部分 について どう考 えたにせ よ、AVやRVの " j us t i c e ' 'を使 っている以上、米 国人パ ウン ドに とってはそのほ う た。別の版が " が よほ ど適切 で幅広い意味 を備 えている と映 ったはずであ る。 ここで 、AS Vの 翻訳 は、RV の翻訳 を行 っていた英 国の学者 たち と共 同作業 を していた米国側 の 学者 た ちに よる ものであ る こ とを想 起 した い 。 さ らに、 " s oc i alj us t i c e "と " e c onomi cj us t i c e " とについてのパ ウン ドの特異 な考 え方 も、 この版 の選択 を 1 . 1 促 したであろ う。つ ま り、現実の政治 に対す る鋭 い意識が " j us t i c e "の語 を選 ば せ た ともいえるoカルヴァ-は、mi 菖 patの中核概 念 に由来す るあ らゆ る側 面 を j us t i c e "の語 しか考 え られない と断言する 包含す る英語 の語嚢 としては " ( 9 4 8 ) 。 『 詩章』第7 4 歌の研究 61 その点で 、mi 菖 patの翻訳 に関す る限 り、ASV は今や AV を " updat e " したので あるとす る ( 9 4 8) 。 したが って、ある意味では、詩人パ ウン ドの直観 は、あ るい は直観 に基づ く注意深い研究 は、イザヤ書 の この箇所 を、最新の聖書学 の水 準 で 捉 えた といえる。 第二の要素 は " Notoutoni nt e r e s ts ai dDav i dr e x"である。この典拠 と考 え られ る AS V の箇所 は " Het hatput t e t h notouthi smone yt oi nt e r e s t , /Nort a ke t hr e war dagai ns tt hei nnoc e nt ./Het hatdoe t ht he s et hi ngss hal l ne v e rbemov e d. "( Ps al ms1 5 . 5)である。AV による同節 は " Het hatput t e t h notouth i smone yt ous ur y,nort ake t hr e war dagai ns tt hei nnoc e nt .He t hatdoe t ht he s et hi n gss hal lne v e rbemov e d. " であ り、RV の 同節 は " He t hatput t e t hnotouthi smone yt ous ur y,nort ake t hr e war dagai ns tt he i nnoc e nt .Het hatdoe t ht he s et hi ngss hal lne v e rbemov e d. " と、AV とほ ぼ同 じである。AV におけるイ タリック体 は原文 にない部分 を英訳 で補 った こ と を示すが、その標識が RVではないだけで あ る。ASV と AV との違 い は、後者 の散文 に対 し前者 が詩 と して翻訳 してい る以外 に、後者 の " us ur y" が前者 で " i nt e r e s t " となっていることである。 " Us ur aCant o" (第 4 5 歌 ) を想 い起 こす まで もな く、この語 はパ ウ ン ドの詩行 では一種 の中心 的な位置 を占め、第-要素 の " j us t i c e " と鋭い対照 をなす。この語 については、す ぐあ とで考察す るO この 場合 も、AVや RV を利用 して、その一語のみ を即興的に変更 した可 能性 は、排 除で きないが、低 い。パ ウン ドは詩篇 の同 じ箇所 を 5頁あ とに再 び引用 してい る wi t hj us t i c es hal lber e de e me d/who が、やは り ASV に近 い表現 を と り、 " 7 4 /4 3 4)と書いている。この詩節 を B put t e t hnotouthi smone yoni nt e r e s t "( 節 、前の節 を A節 と呼ぶ ことにす る。A節 と B節 とを読 み比べ る と、A節 の第 二要素が詩篇1 5の 5節 に基づいていることは鮮 明になる。B節では、A節 で省 略 put t e t h' 'や " hi smone y"が現れ、意 味が はっ き りす るか らであ されていた " る。A節 だけを読 んだ場合 、 " Donotputoutyourmone y oni nt e r e s t " と、 否定命令文に読むことは可能になるけれ ども、B節 も考慮 に入 れた場合 は " He t e t hnotouthi s t hatput t e t hnotouthi smone yoni nt e r e s t "か 、 "W hoput mone yoni nt e r e s t ' 'の ような名詞節 と読める。後者 の場合 、それに続 く述部は、 5の 5節 にある通 り、 " s hal lne v e rbemov e d" となる 原典 によれば本来は詩篇 1 7節 を組 はずであるが ,A節 、B節いずれの場合 も、パ ウン ドは イザヤ書 の 1章 2 6 2 文 化 学 年 報 み合わせている。B節 は文法的に意味が通 るように組み合わせてあるが 、A節 は Notoutoni nt e r e s t ' 'とい う表現 によ り何が そ うではない。いずれに して も、 " 話題 になっているかは、A節 と B節 とを読 み合 わせ ればはっ きりす る。す なわ ち、利子 を附けて金 を貸 さない とい うことが話題 になっているのである 。 " Notoutoni nt e r e s t "に相当す るヘブライ語原文 を見 ると、「肋 ユT nr氷り15ロ⊃ ( kas e p61 6' nat anbe ne 昌 e k)と、先の場合 と同 じく、 3語で書 かれている。 こ i l v e rof hi m not hel e ndswi t hi nt e r e s tと の 3語 を英語 に逐語訳するならば 、s なる。ここで A節 と B節 とをヘブライ語の要素 に照 ら して比較 してみ ると、奇 妙 な法則 に気づ く。ヘブライ語の 6語が表す要素の うち、つねにどれか一つが各 金」 ( 級) 節で欠けているのである。A節の場合、欠けているのは第二要素 の 「 であ り、B節の場合、第-要素の 「シオン」が見当た らない。 したが って、 これ ら両節の同 じ典拠 に気づ く者 だけが原文 を復元で きることになる。 i nt e r e s t ' 'に相当す るヘブライ語 は ne 菖 e kであるが、 この原語 につい ここで " 9 3 9 年の " Ont heDe gr e e sof てはパ ウン ドが知 っていた とい う証拠が存す る。1 Hone s t yi nVar i ousOc c i de nt alRe l i gi ons " とい う文章 のなかで、 この語 につ Dur l ngt hepas tt hr e eye ar sIhav ef oundv e r yf e w Je wswhowoul d いて " f ol l ow met hr oug h adi s c us s i onofne s c he h,e i t he rf r om t hepol ntOfv i e w of t heMos ai cc odeoroft hes oc i alc ons e que nc eoft hi se il v . "( SP,65) と述 I 1 . 1 べている。つづ1ナてパ ウン ドは、自らもその仲 間に列せ られたい と願った、文学 Dant e,Shake s pe ar e and,I am t ol d,t he e ar l i e r 者 の 一 群 を挙 げ て 、 " El i z abe t hanswe r ei nt e r e s t e di nt hepr obl e m. " と述べ る。 この間題 が季 む " s oc i alc ons e que nc e" に意識的な文学者 として、パ ウ ン ドはその後 ま もな く孔 子のイタリア語訳 に取 り組み始める。チ一 ドルが指摘するように、ム ッソリーニ c or r e c t i v e"の役割 をそれに担 わせ るためである( 2 ) 。パ ウ ン ドは 政権 に対する " 儒教的倫理が西欧に とって最 も必要な ものだ と考 えてお り、今やそれをイタリア に注入す る時期 が到 来 した とい う使命 感 を抱 い てい たの で あ る 。『詩 章』 に " ne s c he k"が最初 に登場す るのは第 5 2 歌 ( 1 9 4 0)であ り、最後 に現 れるのは第 1 3 1 0 0 歌補遺 ( 1 9 41 頃)である。後者 においては、対応 す るギ リシア語 7 6 KO S Lと共 に用い られてお り、さらに、ことによるとこの語の語源的意味 をも知 っていたの 昌 e kは動詞 n白 . 岳 ak ( 噛むの意)に ではないか と思わせ る表現 も出て くる。名詞 ne l i t e r alphys i c als e ns e " において用 い られ る ときは 由来するが、この動詞 は " 『 詩章』第 7 4 歌 の研 究 6 3 必ず " as nakeors e r pe nt " を主 語 とす る ( Fi s he r,6 0 4)。 第 1 0 0歌 補 遺 に は " s e r pe nt "早 " s nake" また " c r awl i ng" とい った語が頻 出す るのであ る。 以上 、見て きた ように、第7 4 歌 でわれわれが問題 にす る一節 の第一 と第二 の要 素 とは、それぞれ聖書の違 う箇所 か ら引かれている。その際 に詩人の頭 にあ った 聖書 の版 はおそ ら く ASV であ る。ASV を用 いた理 由は、主 と して、そ れ らの箇 j us t i c e "と " i nt e r e s t "が用 い られているため と考 え られ る。後 者 につ い 所で " て、その原語 に当たるヘ ブライ語 をパ ウ ン ドが知 っていた こ とは、前者 につ い て もそれ をヘ ブライの文脈 で考 えるだけの素地 を持 っていた ことを窺 わせ る。 しか し、問題 はヘ ブライの文脈 に とどま らない。原典 にあ った並行 でな く、まった く 無関係 の箇所 にある聖書 のテ クス トを組 み合 わせ て新 たな並行 を作 り出 した こ と は詩人の創意工夫 に よるのであるが 、これが現代詩 と して、現代世界 との関係 で いか なる意味 を産み出す のか とい う別の問題 が生 じて くる。 4.先行研 究 の検 証 『ピサ詩章』に関 してはモ ノグラフを始 め と して、す で に膨 大 な研 究 の蓄積 が ある。ここでは、第7 4 歌 でわれわれが問題 に してい る一節 ( A節 、7 4/4 2 9) と B 節 ( 7 4 /4 3 4)について、先行研 究が存在す るか どうか、存在す る とす れ ばそ れ ほ どの ような ものか を検証 してみ る。聖書 の典拠 と、鍵 に な る 2語 (" j us t i c e" と " i nt e r e s t ")の問題 、さらには異質 な 2要素 の並置 の仕方 を ど う捉 えて い るか に 着 目す る。 テ レル ( Car r ol lF.Te r r e l l )は、『 詩章』研 究者が最初 に赴 く基 本 的 な手 引 を 著 している。その なかで 、A節 の イザヤ について Lat eHe br e w pr ophe twhof l our i s he di n8 t hc e nt ur y B.C.TheLor d t ol dhi m He' d" hade noughofbur ntof f e r i ngs[ ofr ams/]and[ t hef at oH e dbe as t s;/]… [ Idonotde l i ghti n]t hebl oodofbul l s . "I ns t e ad, Hes ai d," Zi on s hal lber e de e me d by j us t i c e,and t hos ei n he rwho r e pe nt ,byr i ght e ous ne s s ' '( I s ai ah1: l l,2 7) 1 4 と、書いてい る ( 3 6 8) 。B節 については触 れてい ない。つ ま り、A節 の第一 要素 6 4 文 化 学 年 報 の典拠 をイザヤ書の 1章2 7 節 と同定するとい うことが、すべてである。テ レルが v i s e dSt andar dVe r s i on ( RSV)である。 と 上記で引用 している聖書の版 は Re ころが 、RSVの旧約聖書部分、すなわち上記 イザヤ書 を含 む部分が刊行 された 1 5 9 5 2 年のことであるか ら、『ピサ詩章』の執筆 には間に合 わない。第7 4 歌の のは1 t heBi bl e " と記すのみで 、版 の違 いに顧慮 してい 源泉 についての項では単に " ( 3 6 第7 4 歌 の箇所 につい て は以上 の通 りで あ るが 、 " i nt e r e s t " の原語 で あ る ne s c he k( ne 菖 e k)を使用 している第1 0 0 歌補遺 ( 1 9 4 1)についての註解の なかで、 ない 1 )。 ヘブライ語 を使用 している理由について Att het i met hi swaswr i t t e n Pound wasawar et hathewasbe i ng at t ac ke df orant i Se mi t i s m,whi c hhev l gOr OuS l yde ni e d.Thus ,heus e s t heHe br e w wor dt os how t hatt heJe wsf r om t het i meofMos e shad r ul e sagal nS tus ur y. と、テ レルは興味深い考察 を している ( 7 2 4) 。つ まり、モーセ五書 にすでに利子 を取 ることを禁 じる律法があることをパ ウン ドは示唆 しているとす るのだが、こ 2 章2 4 節 とレビ記 2 5 章3 63 7 節 にその れはその通 りで、た とえば、出エ ジプ ト記2 邑 e kの語が使 われている。 しか し、ダビデの時代 になっ 規定がある。 どちらも ne て もこの トーラー ( モーセ五書 )の規定は依然守 られることな く、債務者が解放 2 章 2節 に示唆 され の希望 を抱 いて ダビデをあお ぎ見ていたことがサムエル記上2 ている。パ ウン ドが第1 0 0 歌補遺で n e s c he kを用いてい る理 由は、 トー ラーの規 定 を示唆す るためだけではな く、後代の ミシュナ - ( TheMi s hnah,タルムー ド の一部 を構成す る口伝律法)にも同語 についての細かい規定があることを示す た BabaMe t z i a)の 5章 1節 に もその規定が めか もしれない。た とえば、「中門」( ある ( 3 5 53 5 7 ) 。つ ま り、どこか ら見て も、ユ ダヤ人 自身の提 に よ り、n e 菖 e kは 禁 じられていることを示すために、原典で使われているヘブライ語をわざわざ使っ た と考 えられる。 ( 1 9 8 4)は、『詩章』第 7 4 歌 についてのそれ までの主要 な解釈 3 6 1) 。それ らの研究のなかにはわれわれが問題 に してい の試みを列挙 している ( テ レルの手引書 る一節 を論 じた ものはひ とつ もない。そこで 、1 9 8 4年以降に発表 された研究から、 『 詩章』第7 4歌の研 究 6 5 6 1 同節 に関連す る もの を検討す る。 直接 に同節 を論 じた もので はないが、ス トイケ フ ( Pe t e rSt oi c he f f )が 『 草案 と断篇 』( Dr af t sand Fr agme nt s [第 1 1 0歌 -第 1 1 7歌 ],1 9 6 9) を論 じた もの ( 1 9 8 5)のなか に、やや関連す る箇所 があ る。パ ウ ン ドの " f ai t h" を論 じるなか で、ダンテの 『 天 国篇』の第六天 に言及 した第 1 1 3 歌 をまず引用 す る。 Andt oknow i nt e r e s tf r om us ur a ( Sac .Cai r ol i ,pr e z z ogi us t o) I nt hi ss phe r ei sGi us t i z i a.( 1 1 3 /7 8 9) この箇所 についてス トイケ フは he i l l us t r at e s unde r s t andi ng ofe c onomi cJ us t i c e on e ar t ht o be a mani f e s t at i on of Di v i ne Jus t i c e, whi c h Dant e al s o i l l us t r at e si n Par adi s oXI X. と、述べ る ( 2 8 7) 。確 か に、『 天 国篇』第 1 8 歌 において、「義 を愛 せ よ、地 上 の統 治者 たち よ」( DI LI GI TEI USTI TI AM,QUII UDI CATI STERRAM)と、(ソロ モ ンの)知恵の書 の巻頭句 を引いて説 く聖 なる霊 た ちの光 の文字が現 れ る。地 上 の正義 は天上 の正義 を映すべ きこ とを説 く箇所 だが 、この地上 の正義 を 「 地上 に おける経済上 の公正」 とパ ウ ン ドは読 んでい る と解釈す るわけで、これは当 を得 ている。さらに、この第 1 1 3 歌 の一節 は、我 々が 問題 に して い る一節 と同 じキ ー i nt e r e s t "と " Gi us t i z i a" (" j us t i c e " に相 当す る イ タ リア語 ) とを含 ワー ド、 " 0 歌 で、( 第六天 で )最 高位 の光 んでい る。 ところが 、『 天 国篇』のす ぐあ との第2 i lc ant ordel oSpi r i t oSant o" と形容 され た ダ ビデ王 が を発す る者 として、 " 4 歌 のそれ とは、まさに正 反対 で 出て くる。この ダビデの描写 と、パ ウ ン ドの第 7 ある。 したが って、問題 の節 の三要素 の うち第三要素 の解釈 に難点が あ る。 パ ウ ン ドにおける理想都市 の建設 の問題 に焦点 を当てた研 究 ( 1 9 8 8)で チ ャ ン r ayanaChandr an)は、つ ぎの箇所 を引用す る。 ドラン ( K.Na 6 6 文 化 学 年 報 4gl ant Satt he4c or ne r s t hr e eyoungme natt hedoor andt he ydi gge dadi t c hr oundaboutme l e s tt hedampgnaw t hr umybone t or e de e m Zi onwi t hj us t i c e s d/I s ai ah. ( 7 4 /4 2 9) われわれの一節 に直前部分が加 わっているが、後半部分 はない。チ ャン ドラ ン はこの箇所 は Gas s i r e' sLut e伝説へ の言及 と読 む ( 1 8 3-1 8 4) 。パ ウ ン ドが フロ ベ ニ ウス ( Le o Fr obe ni us ,1 8 7 311 9 3 8; ドイ ツの文 化 人類 学 者 ) の Af r i c an 1 7 Ge ne s i s( 1 9 3 7)か ら借 りて きた伝説であるoつ ま り、Fas a族 の族 長 Gas s i r eの 腐敗 によ り四たび破壊 され、四たび蘇 った都 市 Wagaduの伝 説 と、腐敗 した シ オ ンの町に正義が蘇 るとのイザヤの預言 とを併せ読 むわけである。この箇所の最 初の 4行 は 、DTC の収容所内の四隅にいる衛兵や、訓練 を受 けてい る捕 虜 に対 す る言及 なのであるが、後者 の男たちが親切 に もパ ウン ドの梶の周 りに溝 を掘 っ て くれる様 を永遠の理想都市の建設 になぞ らえている。この ような都市空間の建 設 はまず心のなか よ り始め るべ きもの との含意がある。Wagaduは人々の心のな か に、その渇望 のなかに存在す る砦である といわれるか らである。その ような都 市 とシオ ンとを、都市 を鍵 に して結 びつける着眼点 は示唆 に富 む。惜 しむらくは、 その直後の ダビデ関連の字句 を省いたことであるOそれがあれば、「ダビデの町」 たるシオ ンについて、よ り掘 り下げた考察が可能になったであろ う。シオ ンは、 もともとエブス人の拠点であったが、ダビデが征服 し、ダビデの町 と呼 んだ もの である ( サムエル記下 5章 7節 ) 。 ワ ッカー ( Nor manWac ke r)はチ ャン ドランとほぼ同 じ箇所 を引 き、 さらに " Notoutoni nt e r e s ts ai dDav i dr e x/t hepr i mes . 0. b. " まで引 いてい る 。 われわれが問題 にす る一節 をまるごと引用 した数少 ない研 究論文 ( 1 9 9 2) と考 え られ るo Lか し、どうい う意図で引用 しているのかは明確 でないo唯一、関連 の Thi sl as t あ りそ うな見解 は、パ ウ ン ドの樫 の周 りに溝 を掘 る箇所 につ い て " t ypi c al l yPoundi ani mageofi nc i s i oni nt ot hegr oundt oc hanne lwat e rand dr ai nl andf orhabi t at i on,be c ome swhe nc oupl e dwi t ht hef ourgi ant s /t owe r s guar di ngt heD,T.C.( l i keBl ake' sf i gur alJe r us al e m)as ymbolf ort he 6 7 『 詩章 』 第 7 4 歌 の研 究 whol es ymbol i cor de r -e mbe dde ds l gni f i c ant l y wi t hi ne c onomi cor de r s - 9 3 ) 。 andi t sv i ol e ntas s e r t i onofor de rov e rv i ol e nc e " と述べ る もので あ る ( この見解 は、引用箇所 とどの ように関連 しているのか分 明でない。か りに、 シオ ンが言及 されるのはブ レイクのエルサ レム像 との関連であると捉 えているにせ よ、 ダビデをどう捉 えているのかは不 明である。 ステ ッ ド ( C.K.St e ad)は広範 な現代 詩論 の著書 ( 1 9 8 6)で ワ ッカー と同 じ 箇所 を引 き、さらに3 0 数行 を加 え、つ ぎのページの中ほ どの " t hatt hedr amai s whol l ys ub j e c t i v e "の行 まで引いている。われわれが問題 にす る一節 の周辺 につ A di t c hi sdugar oundt hepr l S One r ' st e ntt oke e phi m dr y,buthi s いては " mi ndi sonhi sol dobs e s s i ons ,Je ws ,us ur y,whe t he rt hes t at ec an c r e at e c r e di t ,whopr of i t sf r om t hes al eofar ms . ' ' と述べ る ( 3 0 1 ) 。引用箇所 が長 す ぎるために、この見解が どこに焦点 を当ててい るかははっ きりしないが、パ ウ ン ドの樫の周 りに溝が掘 られるあた りか らパ ウン ドの頭 に去 来す るの は、 「 宿年 の妄想」( hi sol dobs e s s i ons)である としている。その妄想の具体例 として ここ で挙げている ものは、われわれが問題 にす る一節 に関わる もの とい うよ りは、そ れ より9行あ とか ら始 まる " andt hef l e e tatSal ami smadewi t h mone yl e nt byt hes t at et ot hes hi pwr i ght s[ ‥ J Neveri ns i det hec ount r yt or ai s et he s t andar dofl i v i ng/butal waysabr oadt oi nc r e as et hepr of i t sorus ur e r s, /di xi tLe ni n,/andguns al e sl e adt omor eguns al e s/t he y donotc l ut t e r t hemar ke tf orgunne r y/t he r ei snos at ur at i on" の箇所 に該 当す る もの で あろう。 しか し、ステ ッ ドが " whe t he rt hes t at ec anc r e at ec r e di t " を否定 的 な意味で書いている とすれば、それはパ ウン ドが他 の箇所 で書 いている ところか 1 8 らして、誤読である。武器商人 に関す る記述 は、ステ ッ ドの意図 とはべつ に、 わ れわれが問題 にす る一節 と関わ りを持つ可能性がある。それは後述す る。 カシロ ( Robe r tCas i l l o)はパ ウ ン ドの対 ユ ダヤ人観 を徹 底 的 に攻 撃す る書 ( 1 9 8 8)の なかで 、われ われが 問題 にす る一節 の前 半 (" t or e de e m Zi on wi h t j us t i c e/s d/I s ai ah. ") を引 き、 これ は第 一 イザ ヤ の 1章 2 7節 に対 す る註 解 1 9 ( gl os s)であるとして、同節 を RSVか ら引用 してい る。 だが 、 これ は、テ レル の場合 と同 じく、誤 りである。1 9 4 5 年 に書かれた 『ピサ詩章』が 1 9 5 2年 に刊 行 さ Vの註解であることはあ り得 ない。つづ けて、カシロは、主が獣 のい け れた RS 1 1 節 )にある とのテ レルの指摘 に触 れ にえの血 を拒 む旨の記述が、同節の直前 ( 6 8 文 化 学 年 報 る。この指摘 を援用 した うえで、カシロは、パ ウン ドが ここで主張 したいの はた ぶん " t hatbl oods ac r i f i c ebe l ongst onot r ues ys t e m ofj us t i c e " とい うこ と であろうとす る ( 2 7 5) 。「たぶん」 ( i n al ll i ke l i hood)の よ うな言葉 を用 いてい るのは、ここでの論証がパ ウン ドの詩ではな く、その出典 と考 え られる聖書 の箇 所 の前方のテクス トに依拠 しているか らである。テ レルの指摘の意図は不明だが、 カシ ロの論証 の意 図 は明瞭 で あ る。 さ きの推論 につづ けて カシロは " and he [ Pound]t he r e f or eac knowl e dge si mpl i c i t l yt hev al uei fnott heor i g i nal i t yof t hi sJe w is he t hi c lc a onc e pt i onノ 'と述べ るか らである ( 2 7 5) 。ここで も " i mpl i c i t l y"の語 を使 わ ざるを得 ないのである。 しか も、この ような言 明 をす る 目的が 何 であるか といえば、犠牲 について論 じる うえで、アブワー ド ( Al l e nUpwar d) 2 0 の見解 に反駁す るためである。パ ウン ド論の本筋 とはいえない。 もしも、テ レル 1 節 に関連す るパ ウン ドの何 らかの や カシロの ような論 じ方 をす るのであれば、1 詩句 な り発言 な りも論拠 として提 出 しなければな らないだろ うO-つの方法 と し て、問題 の詩節後半の ダビデに関す る記述 を何 らかの補助線 を用 いて1 1 節 に結 び 7 節 とを結 び つけることも考 え られるが、それについては後述す る。単 に1 1 節 と2 7 節 のパ ウン ドの意 図は1 1 節 にあ りとす るのは論証 として弱い。それ に つけて 、2 はカシロ もおそ らく気づ いていて、す ぐあ とに本筋論 を展開す る ( 2 7 5) 0 St i l l ,t heul t i mat es l gni f i c anc eoft hi spas s agef r om TheCant osmus t be c ons i de r e di nt hel i ghtofPound' Snot i on t hatt he Je w f ai lt o obs e r v et he i r own l aws ,as i nt he i r pr ac t i c e of us ur y;t hat t he " pr ophe t sc e as e d not t o ob j e c tt o t he c onduc t of … [ t he i r ] c or e l i gi onar i e s ' '( RB,1 1 7) ;andt hatt heus ur i ousandTal mudi cJe ws r e mai nbe ntont hes ac r i f i c eofGe nt i l e" c at t l e . " 問題 の一節 はパ ウン ドの 3つ の考 え を基 に考 えね ば な らない とす る。第一 は、 ( 利子 を禁 じた)律法 にユ ダヤ人みずか らが反 してい る とす る考 え。第二 は、預 ∴ 言者 は絶 えず 同朋 の行動 に異 を唱えていた とす る考 え。以上 、二つの考 えはパ ウ ン ド独 自の考 え とい うよ りは、広 く認め られている見解 といえる。律法 に禁忌 が 何度 も出るのはそれに反す る行 いがあった証左 であろう し、預言者 は神 の言葉 を 代言 し民- の警告者であ りつづけるのが使命 である。第三 は、高利 を取 り、 タル 6 9 『 詩章』第7 4 歌の研 究 ムー ドを信奉す る ( 現代 の)ユ ダヤ人はなお も異邦人 とい う家畜 を犠牲 に しっづ けているとい う考 えで、これは今 もユ ダヤ人が律法 に反す る行い を してお り、古 の預言者の警告 に耳 を貸 していない とい う見解 になる。この第三の考 えは、そ れ に基づいて本節 を考 えるべ き材料 とい うよ りは、む しろ、本節か ら導 き出 され る 解釈であろう。その証拠 に、この考 えを述べ たパ ウン ドの言葉 は論拠 として使 わ れていない。さらに、以上の観点か ら導かれるカシロの結論 のなか に、この第三 の考 えが形 を変 えて出て くるのである ( 2 7 5) 。 Se e nf r om t hi spe r s pe c t i v e,t he pas s age har dl yr e pudi at e s Pound' s ant i Se mi t i s m butr at he rc onf i r msi t .I gnor l ngt he i rownpr ophe t s ,t he Je wshav ef ai l e dt or e de e m Zi onwi t hj us t i c e.I ns t e ad,ast hi spas s age c ont i nue s ,t he y hav es oughtt or e de e m i t" On i nt e r e s t , "t o quot e " Dav i dRe x,t hepr i mes . 0. b. "( 7 4 /4 2 9) . 第三の考 えを、ここでは引用箇所 のつ ぎの部分 を論拠 として使 い、繰 り返 してい る。従 って、現代のユ ダヤ人の行 っていることはま さに r e de mpt i onの反対 にな Oni nt e r e s t " をた だ しくダビデ に帰 してい るの ると解釈 している。その際 に " はよいが、果た して ` r̀ e de e m Zi ononi nt e r e s t " とい うア イロニ ー を込 めた構 文 をここに読み取 ることは可能か。B節 ( 7 4 /4 3 4)を考 え併せ る と、その解釈 に 7 4 /4 2 9)の " Notout "の " out " の部分 が は無理がある。少 な くとも、A節 ( この構文では解 けない。A節 の第一要素 と第二要素 との結 びつ きについて何 らか の考察 を試みている希少 な研究ではあるが、第二要素の同定 に関 しては唆味であ る。その結合 に立 って、無理や り第三要素 を結 びつけている 。 この論証の 3側面の最後は、論拠 ( 第三の考 え)と結論 ( 現代ユ ダヤ人の反律 法的な高利貸 し)とが同 じである。 トーロ トジー と言 われて も仕方あるまい。他 の 2側面の、第一第二の考 えはパ ウン ド特有の ものでな く、特殊 な考えで もない。 これ らか ら上記のパ ウン ドについての結論 を導 くのは無理である。一般的な命 題 か ら特殊 な命題 ( パ ウン ド)を導 くことは通常 の論理 的な手続 きではで きない 。 か くして、ユ ダヤ人 自身の律法 に対す る態 度 を不正確 に語 ってい る ( mi s r e pr e- Re n6 Gi r ar d) の 言 葉 を借 りて 、 パ ウ ン ドを s e nt ) と して 、 ジ ラ ー ル ( " m6 c onnai s s anc e "の徒 とカシロが断ず るのは、根拠がない と言 わねばな らない 7 0 文 化 学 年 報 ( 2 7 52 7 6) 。パ ウ ン ドの理解が不正確 である とい う論拠 は何 も示 されていないか らである。それ を言 うためには第三の考 えが不正確 である とい う根拠 を示 さねば な らない。 St e phe nCi c ar i )はパ ウン ドとダンテや ウェルギ リウス との関連 を シカ- リ ( 論 じた書 ( 1 9 9 1)で 、A節 と B節 との両方 に触れる。まず 、A節 はチ ャ ン ドラ ン 7 4 /4 2 9)を引 く。その うえで、ここにはイザ ヤ書 1章 2 7 節 とまった く同 じ箇所 ( への言及 が あ る と して、 テ レル と同 じく RSV を引用 す る。言 うまで もな く、 RSV を引 くのは誤 りである。シカ- リが この箇 所 を引用す るの は、パ ウ ン ドと ヘ ブライの預言者 たち ( エ リア、イザヤ、エ レミア、 ミカ)との関わ りを明 らか にする試みの一環 でイザヤに触 れた ものである。チ ャン ドランと同 じく、理想都 市 の建設 とい う観点か らここを読み、 " Ashe[ Pound]s i t sapr i s one ri nhi s c age ,t hepoe tt hi nksoft hei de alc i t yt hatt hef ourc or ne r soft hede t e nt i on c ampme r e l ymoc kandt hi nksofhi ms e l fasapr ophe twhos t i l li ns i s t son t her e de mpt i onort hec i t ybyj us t i c e . " と述べ る ( 1 2 3) 。そのあ と、7 4 /4 4 0を 引いてエ レミアについて触れる。つづいて、シカ-リの議論の中心であるアユネアースに結 びつけるため に、7 4 /4 3 43 5か ら長い引用 をす る際に、B 節が含 まれ wi t hj us t i c es hal lber e de e me d" のみ ることとなる。 ところが 、B節の うち " に簡 単 に触 れ る だ け で 、 そ の つ ぎの行 ( who put t e t h notoutmone y on i nt e r e s t )はまった く軽視 した まま議論 をつづ けるので 、A 節 との関連 について 9章3 5節 か らの引用 行 (" i n は不 明瞭 であ る。代 わ りに、そのつ ぎの、 レビ記 1 me t e yar di nwe i ghtori nme as ur e ")を " wi t hj us t i c es hal lber e de e me d" に結 びつけて解 し、 " Pound' sj uxt apos i t i onoft hi sc ouns e l[ Le v i t i c us1 9 . 3 5] Wi t hl s ai ah' spr ophe c y aboutt he r e de mpt l On OfZi on i mpl i e st hatj us t me as ur e( whi c hi swhatPound' sc r us adef ormone t ar yr e f or m wasal ways al labout )i st hec or ne r s t onet os uc hr e de mpt i on. " と述べ る。結論部分 の妥 当性 は ともか く、 " j uxt apos i t i on' 'の語 を使 ってお きなが ら 1行 とば して 「 並置」 whoput t e t hnotoutmon e yon し結論 を導出す るその手続 きは不可解 である。" i nt e r e s t " の行 を しっか り理解 した うえで この結論 を導いた な らば、説得力 あ る 議論 となったであろ う。 ギプス ン ( Mar yEl l i sGi bs on)はパ ウ ン ドとヴ ィク トリア朝詩 人 (と くに Br owni ng)との関わ りを論 じた書 ( 1 9 9 5)で、パ ウ ン ドは 自分の立場 をヘ ブラ 『 詩章』第7 4 歌の研究 71 イの預言者たち ( エ リア、イザヤ、エ レミア、 ミカ、お よびユズ ラ)が置かれ た それ と同一視 しようとしている と論 じ、その文脈 で A節 と B節 との両方 に触 れ る。ただ、それ らの詩行 としての解釈 に力点がある とい うよ りは、自分の論 点の 171) 。 例証 として、一部 を抜 き出 して使 っている ( Thei de nt i f i c at i onwi t ht he pr ophe tal s oe nabl e st hepoe tt or i nd a pos i t i on f r om whi c ht os pe ak wi t hi n a di s as t r ous s i t uat i on.Thi s pos i t i oni spar t i c ul ar l yI mpor t antt OPound' si de nt i f i c at i onwi t hI s ai ah, whour ge st heI s r ae l i t e st or e t ur nt ot hel aw andwhos emi s s i oni s" t o r e de e m Zi onwi t hj us t i c e" ( 7 4. 4 4 3)[ 7 4/4 2 9] .I de nt i f yi ng wi t hI s ai ah, Pounduni t e st heme t onymy ofl aw wi t ht heme t onymy orpr ophe c y. Jus t i c e ,Orgoodl aw,pr e v e nt sus ur y:" notoutoni nt e r e s ts ai dDav i d r e x. "[ …]I s ai ah' sj us t i c es hal lr e de e mt heman " whoput t e t hnotout hi smone yoni nt e r e s t "( 7 4. 4 4 8)[ 7 4 /4 3 4] . この論 じ方では、結局 は、B節 に根拠 を置いて A節 を読 んでいるに過 ぎず 、A 節の第二要素 を預言の一部 と見な して しまっている。これは誤読 とはいえない ま で も、根拠 を欠 く読みである。 5.解読の試み 以上 、検討 した結果か ら、先行研 究の うちに A 節 と B節 とに触 れ た ものが あ j us t i c e" と る こ とは分 か る もの の 、 異 質 な 2要 素 の並 置 につ い て 、 また " " i nt e r e s t ' 'との問題 について、聖書 の典拠 に基づ いて きちん と考 察 した研 究 は、 調べ た範囲ではない ことが判明す る。われわれがお さえるべ きは、パ ウン ドの一 par al l e l i s m)は、聖書のある-箇所 か らとられた並行法でな く、文 節の並行法 ( 脈的に全 く異質な別々の箇所か らとられた独 自の並行法 を成 していること、その j us t i c e' 'と " i nt e r e s t " との鋭 い対立 を軸 と してい る こ 並行法の結合の仕方 は " 2 2 AS V)の別 々の箇所 か らと ら とである。前者 をとらえるためにはある聖書 の版 ( れた とい う理解が必要である し、後者 をとらえるためにはパ ウ ン ドの この時期 の 関心のほほ中心 にあった儒教 的観点があるいは有効であろ う。 7 2 文 化 学 年 報 パ ウン ドが水戸学の会沢安 ( 1 7 8 21 8 6 3 )を読 んだ、あ るい は知 っていた可能 性 は きわめて低い と考 えられるが、もし読んでいた と した ら、「 誤解」 に基づ い 2 3 て、自分の同類が ここに もいる と感 じたことであろう。ここで、会沢 を 「 誤読」 して、パ ウン ドの問題の一節 に光 をあててみたい。 1 8 5 7 )で、「見利忘義 ( 利 を見て義 を忘 る) 」 と述べ る ( 3 9 1) 。 会沢 は 『 新論 』( 自分の利益 のみ を考 えていては義が失 われ る と説 くのであ る 。 ここで 、利益 ( i nt e r e s t )を利息 ( i nt e r e s t )の意 に誤読 してみたいO利 に固執す ることは義 を な くす ことである とい う命題 を、モーセ五書の文脈 に置いてみる。利息 をとる行 為 を禁 じる神 の律法 を無視 して、利息 をつけて金 を貸 し、みずか らの得ばか り考 える者 は、もはや義 を行 っていないがゆえに呪われると解するのである。この よ うに解 した会沢の言葉 は、利息の追求は義 を破壊す るとい うパ ウン ドの考え方 に 見利忘義」はわれわれが問題 にす る一節 の第-第二要素 間の 通 じるであろうo 「 対立 をよく浮 き彫 りにす る言葉 とも見ることがで きる 。 さらに、会沢は 「 国無廉恥、則天下無生気、而弱形見央 ( 国に廉恥 なければ、 すなはち天下 に生気 な くして、弱形見 [ あ らわ]る )」 と述べ る。国民がみな 自 己の利 を一番 に考えるような国は恥の感覚 を失い活力 をな くし、弱体化するとい うのである。この考えは きわめて儒教的である。 この ように、会沢 を誤読 し、パ ウン ドの考 え方 に結 びつけるとい うことには、 nt e r e s tが ( s oc i al )j us t i c e とは根本的に相 まった く根拠がないわけではない。i 容れない ものだ とい うパ ウン ドの信念 は、会沢の言葉の背後 にある儒教の基本教 義、す なわち、個人がみずか らを律す ることがで きなければ、あるいは自己の利 益 を抑 えることがで きなければ、( 社会の) 義は達せ られず、そのことは結局 、国 の衰退 を招 くとい う考 え方 に通 じるものがあるか らである 。 ここで重要 なことは、会沢の言葉 もパ ウン ドの詩行 もほぼ同 じ構造 をしてい る ことである。す なわち、どち らも、義 と利 とが並 び立たぬ とい うことが表 されて 会沢 ) 、義 を立てようとすれ いる とい うことである 利 を見れば義は立たない し( O ば利子 をつけてはいけないのである( パ ウン ド) 。この ように、義 と利 とのいずれ かに否定的な語 を加 えることによって、両者が並立 し得 ないことを表 している 。 その点では、パ ウン ドにおいて " Notoutoni nt e r e s t "の " not " の否定の意味 は重要である。 この ように して、聖書 にはない並行法 をパ ウン ドが作 り出 し、その二要素が産 『 詩章』第7 4 歌の研 究 7 3 み出す鋭い対立 は新 しい並行法 として十分 に詩的意義 をもち、なおかつ当時のパ ウン ドの儒教 的思想 に合致す る もの となってい る。 ところが、そのあ とに くる第 三要素 はその ような詩的並行法の均衡 を破壊す るような性格 を帯 びている。なぜ な ら、第二要素 を高 らかにうた うダビデその人 を痛烈 に批判す る言葉 となって い るか らである。義 と利 との鋭い対立、す なわち義 と利 とが両立 し得 ない との意義 を並行法 と して見事 に提示 してお きなが ら、その思想 を表明 していたはずの偉 大 な王 を決然 と罵倒す るO このあ ま りに も劇 的な対照 は、ただちにその理 由が理解 で きないだけに、いっそ う、この一節 の陰影 を深 くしている。 ダビデは、王 になる前、借金 に苦 しむ者 たちか ら自分たちの解放者 となる との 期待 を込めて眺め られていた ( サムエル記上 2 2 章 2節 )。 この こ とは律 法 で禁 じ 2 章2 5 節 )が多かったことを示唆す る。ダ ビデ は詩篇 られた貸主 ( 出エ ジプ ト記 2 1 5 で、神 の聖なる丘 に受 け入 れて もらうためには、利息 を附けて貸 してはな らな いことをうたっている。だ とすれば、なぜパ ウン ドはこの ように うたった ダ ビデ を痛罵す るのであろうか。この痛罵 は、ダビデが実際にはこれ に反 している とパ ウン ドが捉 えていることを示すのではないだろ うか。ダビデに対す る厳 しい非難 2 章 11 2 節 、 同1 6 章 51 4節 な ど)、 は旧約聖書 に多いけれ ども ( サムエル記下 1 ダビデの利息 に関す る非行 に言及す る箇所 はない。ただ し、王 になって以後 の ダ ビデについて、借金 に苦 しむ者 に救 いの手 を差 し伸べ た とい う記述が聖書 にない ことは、ダビデの王 としての冷淡 を示唆す る とも考 え得 る。 パ ウン ドが ダビデを " t hepr i mes . 0. b. " と痛罵す る理 由につ いて は、間接 的 にダビデの利息観あるいは金銭観 を述べ ていると思われる聖書の箇所 と、パ ウ ン ドの もう一つの ダビデ批判の詩 とを併せ て考 えてみ るのが有効か もしれない。 ダ ビデが利息 を禁 じる律法 に反 した との記述 は聖書 にはないのだが、国の富 に対 す るダビデの強い関心 はサムエル記下2 4 章 に示唆 されている。そ こでは、民 の数 を 知 ろうとす るダビデの姿勢が神 に罪 とされ、厳 しい罰 を受 ける。民の数の ような 知識 は " e v i d e nt l yr e s e r v e df ort heLor da l one ' '( Bowe s ,2 9 42 9 5)であ るか us ual l yt or a i s et axe sandanar my"( Gunn, らである。人口調査 の 目的は " 3 0 4)であった。人口調査が神 の 目か ら見て良 しとされ ない理 由は明示 されてい p e r hapsi t spot e nt i alf ormi l i t ar yaggr andi z e me nta tt he ないけれ ども、 " e xp e ns eo ft r us ti nt hepowe rofYhwh" とい うことであ り、その ような危 険 性 は、 そ もそ も民 が王 を求 め た と きにサ ムエ ルが 指摘 した ところ で あ っ た 7 4 文 化 学 年 報 ( Gunn,3 0 4) 。Gunnは " Thatwoul dt akeusr i ghtbac kt oSamue l ' ss pe e c h aboutt hegr as pi ngwaysofki ngs ,whe nt hepe opl ef i r s tas kf oraki ng( 1 Sam.8: 1 01 2) " と述べ ている ( 3 0 4) 。パ ウン ドの詩 " Al f ' sNi nt hBi t "( 1 9 3 4) における H̀ Fi ndu s ahar pi s t ! !DAVI Di st heman! ! '/Dav ewast heman l. . . "( Pe r s on ae ,2 6 4)の非難 の対象 とな って い る t os e l lt hes hotand s he l Dav i dとは、「 戦の人」 としての ダビデ ( サ ムエ ル記 上 1 7章 1 8節 以下 な ど)であ るように思われ る。ダビデが人口調査 を悔 い改めた 目に、彼の預言者であるガ ド i nt het hr e s hi ngf l oorofAr aunaht heJe bus i t e " に主 の祭壇 を築 くよう が " 4章 1 8節 )。 これに応 え にと ( い う神 の命令 を)ダビデに伝 える ( サ ムエ ル記 下 2 て,エブス人アラウナは、麦打 ち場 だけで な く、bur nts ac r i f i c eに必要 なあ ら ゆる もの ( 牛や薪 な ど)をダビデ王 に無償 で提供 しようと申 しでる。 ところが 、 ダビデはこの 申 し出を断 り、麦打 ち場 と牛 とを銀で買い取 るのである。この よう なダビデの態度 は、あ ま りに も金 にこだわ り過 ぎている とパ ウン ドは見なすか も しれない。そ うだ とすれば、それはパ ウン ドにイザヤ書 1章 ( われわれが問題 に す る一節の第一要素 )を想起 させ たであろう。そ こでは、多 くのいけにえ を良 し としない神が、 " Zi ons hal lber e de e me dwi t hj us t i c e"( ASV)とい うのであ る 。 シオ ンは決 して金 ( で買い取 られた捧 げ物 )によって購 われることはない。サ ム エル記下2 4章が伝 える、ダビデが築 いた主の祭壇 はモ リヤ山にあるが、これ はの ちにソロモ ンが神殿 を建てる場所 である ( 歴代誌 下 3章 1節 ) 。 ダ ビデの詩篇 1 5 ( われわれが問題 にす る一節 の第二要素 )は神殿 の庭 (" hol yhi l l ")に参 内で き る者の資格 をうたってお り、その ような者 とは利息 を附けて銀 を貸 さぬ者 となっ ている。これが、サムエル記下2 4 章 におけるダビデの行動 に矛盾す るとパ ウ ン ド は考 えたのか もしれない。つ ま り、金で主の祭壇 の地 を、す なわち、の ちの神殿 5をうたう資格 な どない。 さらに、イザヤ書 1章 に も の地 を買い取 る者 は、詩篇 1 反 している、 とい うことになる。以上 をまとめる と、パ ウン ドが イザヤ書 1章 と 5とを結 びつけて書いた とき、念頭 にあった背景 はサムエル記下2 4章 と歴代 詩篇 1 誌下 3章 1節 ではないか。こう考 えれば、われわれが問題 にす る一節の第三要素 が第二要素 を破壊す るような働 きを している理 由 も理解で きる。その ような背 景 2 4 を考 える手がか りはパ ウン ド自身が短詩 " Al f ' sNi nt hBi t " に残 している 。 パ ウン ドは、意識 していたにせ よしていなかったにせ よ、「アメ リカのエ レミ ア」の偉大 な伝統 につ らなって、母国の不正 を正そ うとしていたけれ ども、最後 『 青草」第7 4 歌の研究 7 5 にはエ レミアが人間の気 ま ぐれに関 して言 う言葉 に反 していた と気 づ く。ASV によるエ レミア書 1 7 章9 節は " t hehe ar ti sde c e i t f ulabov eal lt hi ngs ,andi t i se xc e e di ngl yc or r upt :whoc anknow i t ? " とある。パ ウン ドはヴェネツィア で死 ぬ 直前 ( 1 9 7 2) に 、us ur yにつ い て " I was outof f oc us ,t aki ng a s ympt om f orac aus e ,Thec au sei sAVARI CE" ( Se l e c t e dPr os e ,3) とい う 言葉 を残 している。 もし、そ こまで遅 くなる前 にこの ことに気づいていれば、会 沢 と同 じような言い方 を、彼 にふ さわ しい詩的言語 において、見 出 していたか も しれない。会沢の言葉 は人間性 に巣食 う傾 向 を しっか り見つめていた。すなわち、 利益へのあ くなき欲望 は義 を破壊 し、究極 的には国 を衰 えさせ る とい う傾 向で あ る。会沢が この ことを認識 していたのは、彼 の水戸学がその基礎 を儒教 に置 い て いたか らである。パ ウン ドはこの ことに気づ くべ きであった。彼 はム ッソリーニ 政権 を矯正す るのが主たる 目的で、イタリアにおいて孔子 をイタリア語 に翻訳 し ていたか らである。 註 1 本論は、1 9 9 8 年1 0月3 1日に日本エズラ ・パウン ド協会大会 シンポジウム 「パ ウン ドとイタリア」 にお いて発表 した内容 を出発点 とするが、その後の研究 をふ まえて新たに構築 した ものである。 2 『詩章』第7 4 歌 、4 2 9頁を示す。パ ウン ド研究者が用いる慣習的記述法であ る。文末 の引用 文献 に示 される 『 詩章』の版 を見れば、引用場所が特定で きる0 " t hepr i mes. 0. b. " という言葉は、旧約聖書 において最 も偉大 な君主 とされ ( 詩篇8 9の2 7 節など) 、 新約聖書 においてはキリス トの祖 とされる ( マ タイ 1章 1節)人物 に対する形容 としてはそ ぐわない。 3 信徒 にとっては冒湧的 とも映る言葉であろう。 4 第7 2歌の 93 5行 は " Pr e s e nz a diF,T,Mar i ne t t l " の題 で 1 9 4 5年 1月 1 5日付 けの Ma r i na Re pL L bbl i c ana紙 (イ タ リア海 軍 の 新 聞 ) に 、 ま た 第 7 3歌 は " Caval cant i Corri spond enza Re pubbl i c ana' 'の題で1 9 45 年 2月 1日付 けの同紙 に発表 された。発表媒体が特殊 なため、一般読者 の 27 3 歌が初めて触れたのは1 9 8 51 8 6 年 と考えてよいだろう。なお、ICa T uO Sは 、1 9 4 9年 の英 国 目に第7 版 『ピサ詩章』 と同様 に、第7 4 歌 においてダビデ王 と同格語句 をなす箇所 (" t he pr i mes. 0. b. ' ' )を 削除 してある。この削除はパ ウン ドの最終校訂 を反映 した ものである可能性 はあるが、註 には削除の説 明はない。 その前 の 2行 は " r e di mer eSi on c on gi us t i z i a /di s s el s ai a.Non pe ri nt e r e s s e 8 4 7) 。ただ し、それ以前 に出た 、Al f r e do Ri z z ar diが イ タ リア語 に訳 di s s er eDav l de" と訳す ( した 『ピサ詩章』( Ca nt iPI S ani ,Gar z ant i ,1 9 7 7)は同箇所 を載せ、 " i lpr i mo f . d. p.[ f i gl i o di put t ana] " と訳 している。その前の 2行の訳は deRac he wi l t zと殆 ど同 じだが、最後の 2語 をパ ウン Davi dr e x" としている ( l l) 0 ドの表現そのままに " 5 第7 2 歌 と第7 3 歌 との執筆時期の推定は Bac i gal upoによる (9)。第72歌の引用 は以下、『 詩章』1 9 9 5 年版による。 6 教皇 シクス トゥス とは、 システ ィナ礼拝堂 の建 立 を命 じた 4世 ( 1 4 1 4-8 4) の こ とで あ ろ う と Bac i gal upoは推定する ( 1 3) 0 7 ブ ル ッカー ( Pe t e rBrooke r)は " anAut hor i z e dVe r s i onort heBi bl ei s s uedbyt he[ U.S. ] Ar my" を持 っていたと記す ( 3 0 9) 。だが、その根拠 は明示 していないCなお、パ ウン ドが収容所 内の 76 文 化 撃 年 報 0 歌5 1 3頁で書 くスピア編の詩集には AV か らの抜粋 が含 まれている 振込み便所の便座で見つけた と第8 ne s tSut he r l andBat e s編の TheBi bl eDe s i gne dt oBeRe adas が、その抜粋の基 となる版 は Er Li u i ngLi t e T ・ at ur eとある ( 2 5) 。同詩集 を見 る限 り、AV とは異な り、すべて詩の形式 で印刷 されて 3、2 4、9 5、1 21 が収め られているQイザヤ書 を含め預言者 は収 め られ いる 詩篇の うちでは詩篇 8、2 ていない。なお、パ ウン ド収容時 、DTCの司令官であった St e e l eは、全捕虜が持つのを許 された読み 物は TheBi bl eのみであった と記憶すると書いている ( 2 9 3) 。 8 これ以外 にも、カ トリックの版 に至 るまで、パ ウン ドが各種の聖書の翻訳 を知っていたことは疑 いが ない ( 01 s on,5 8) 。 9 ヘブライ文字の翻字方式は Koe hl e randBaumgar t ne rに従 う (1:l XV 1 Ⅹvi i ) 0 1 0 同 じような危険は、た とえば、 日本語訳の場合にも存在する。カ トリックとプロテス タン トで共通 に 用い られる現行の標準 日本語訳である新共同訳聖書 ( 1 9 87,1 9 8 8)はイザヤ書 1章2 7 節 を 「シオ ンは裁 O きをとお して購われ / 悔い改める者 は恵みの御業 によって購われるO 」 とし、「 裁 き」の語 を用いてい る。 l l 「キ リス ト教 は " e conomi cj us t i c e" を推 進 す る に は 明 らか に不 適格 な宗 教 であ る (" i t s [ Chr i s t i ani t y' S]mani f e s ti nc ompe t e nc et omai nt ai nde c e nc yore v e nanys t rongt e nde nc y t owar de conomi cj us t i c ei nanyOc c i de nt alc ount r y") 」 と、パ ウン ドは西欧の宗教論の なかで Se l e c t e dPr os e ,6 8) 0 述べている ( 1 2 このほかに、1 9 4 0年頃に書かれた Cat hol i c i s m 論 につ ぎの文がある0 " Bywhat e v erme c hanl S m, bywhat e v e rmonopol i s m,bywhat e v e rr ac ke t ,[ Iam agai ns t ]gol dhog orbankhog at 6 0% s upe r ne s c he c k' '(" Cat hol l Ci s m/'Mac hi neA' ・ tandOt he rWr i t i ngs ,1 41).なお 、ne 畠 e k は AV では一貫 して " us ur y" と訳 されているが、注意 しなければならないのは、聖書語法 において us ur y' 'は " t hepr ac t i c eorl e ndl ng mone yOrgoodsati nt e r e s t " を意味す る とい うこ は、 " t hemode r ns e ns eorexc e s s l V eOri l l e galI nt e r e s t " の意では用い られていない とい と、また、 " うことである ( Bri dge sandWe i gl e,3 5 7) L ,そこで、ASV においては、ネヘ ミア書の 2例 をのぞ き、 AV の " us ury" は "i nt e r e s t " に置 き換 えられるのだが、 この ` ` i nt er e s t " なる語 は AV では用い られていない ( Br i dge sandWe i gl e,3 5 7) 0" Us ur 乱"Cant oと呼ばれる第4 5 歌 においてパ ウン ドは これに相当するラテン語 " us ur a" を特 によく用いているが、ラテ ン語 としては " 1 nt e r e S tpai df or t heus eofmone y,us ur y"( Le wi sandShor t ,1 9 3 8) を意味す る。 新約 聖書で は事情 が違 うが ( マ タイ2 5章 2 7節 な ど)、 それは ローマ帝 国 にお ける " t hel e gi t i mac y Ofbankl ng,C r e di t ,and i nt e r e s t " を反映 しているか らである ( Br i dge sandWe i gl e,3 57) 。ところが、パ ウン ドは " Us ur a i dsonに対 して " us ur y[ -]i snott obec onf us e dwl t hl e gi t l mat e Cant oについて、D.G.Br i nt e r e s twhl Ch i s due,t e l eol ogl Cal l y,as De lMar s ays,t ot he i nc r e as ei n dome s t i c 'とコメン トしている ( 1 72 ) 。この語 を使った ときに読者が誤解する可能性 を意 ani mal sandpl ant s' 識 していたといえる。 1 3 第1 0 0 歌補遺は現行の英米の版では巻末に置かれ、 " Adde ndum f orC" という題が附けられている。 これを本来の位置である第71 歌 と第7 2歌 との間に収めた唯一の版がイタリア版の ICaT L t OSである。 同 Adde nda' 'と訂正 されている。 版では題 も " 1 4 テ レルの註解の最後の部分は原文では角括弧である 1 5 このことを指摘する手紙 をテ レルに1 9 9 8 年 に送ったが、今に至 るまでその点に関する返事はない。 1 6 パ ウン ド研究の専門誌 Pai de umaの第1 2巻 1号 ( 1 9 8 3)が同書で扱われている最新の号 であ り、 同 誌の第1 3 巻 ( 1 9 8 4)以降への言及はないので、同書で取 り扱われている研究は1 9 8 3 年 までの もの と判 断 で きる。ただ し、当時末刊行の ものであって も草稿の段階で参照 されている研究 も存在する。たとえば、 。 Wi l l i am Cookson,A Gui det oTheCant oso fEz r aPound,1 9 8 5が第1 0 4 歌の解釈 に使われて いる。 1 7 パ ウン ドは Fr obe ni usのほうを Fr az e rより好み、T.S.El i otに対 して も1 9 4 0年 2月 1目付 けで " Howe v er,f oryr.e nl i ght e nme nt ,Fr az e rwor ke dl ar gel yF r om doc ume nt .Fr ob.we ntt o t hl ngS,me mor i e ss t i l li nt hes poke nt r adi t l On,e t C,Hi ss t ude nt shadt os e eand beabl e 77 『 詩章』第7 4歌の研究 t odr aw obj e c t s. " とい う手紙 を送っている ( Le t t e ' ・ S ,3 3 6) 0 1 8 パウン ドは、1 9 4 2 年にイタリア語で書いた CaT ・ t adau i s i t aと、1 9 4 4年にイタリア語で書いた Or oe l au or oのなかでこの件 に関 し肯定的に書いている0両者 とも、John Drummondはつ ぎの ように英 訳 している。" Thes t at ec anl e nd.Thef l e e tt hatwasvi c t or i ousatSal ami swasbul l twi t h Se l e c t e dPr os e ,31 4,3 42) . mone yadvanc e dt ot hes hi pbui l de r sbyt heSt at eofAt he ns" ( 1 9 「第一イザヤ」 とは、今 日の旧約聖書学において一般的な、イザヤ書 を二つない し三つに区分す る見 9章 を指す。 この見方ではその部分の著者 を預言者 イザ 方をとった場合の第一の部分で、第 1章か ら第3 ヤ ( 紀元前 8世紀)と見な し、他の部分は別人の著作 と見る 。 2 0 イザヤ書 1章 1 1-1 4節 に見 られ る " ant i s ac r i f i c l als pi r l t "は " Ar yan or Eur ope an i nf l ue nc e s" に由来するものであるとアブワー ドは考えていると、カシロは見なす ( 2 7 3) 。念 のため、 アブ Ev e nt hes ac r i f i c eorani mal s,atonet l mee ncour age das ワー ドの原発言 をつ ぎに引用する。 " ami l dal t e r nat i v e,i sde nounc e dbyt heHe br e w pr ophe t sass oonast he yf e e lt he mi l d br e at hbl owi ngf r om t henor t h"( 1 41).この 「そよ風」のことをカシロは " Ar yan and Gr e e k l nf l ue nc e" と見なすのである ( 2 7 5) 。 ところが、このアブワー ドの発言はイザヤ書 1章1 ト1 4節 (第イサヤ)に対するものなのに、この 「 そよ風」は第二 イサヤの基礎 であるとアブワー ドは主張 してい る とカシロは書 くのである ( 2 7 5) 。パ ウン ド論の本筋か らずれているだけでな く、アブワー ドに対す る反 論の論旨も混乱 してお り、根拠 と結論 とが対応 していない。 2 1 この RB はパ ウン ドが第二次大戦中に行ったラジオ放送を収めた Doob編 の書 を指す 。 カシ ロが引 9 42 年 5月 4日の放送である (#3 3) 。なお、同日の放送 の は じめの ほ うで " Ipr opos e 用 した発言は1 t oc ons i de rt hes t at e me nt sl nt heKi ngJame sv e r s i on,t aki ngt he m att he i rf ac ev al ue. とパウン ドは言っているが、聖書 については要約的な発言があるだけで、聖書か らの引用はない。 2 2 並行法の分析 においては 、Lowt h 以来の伝 統 的 な 3分類 ( s ynonymous,ant i t he t i c al ,and s ynt he t i cpar al l el i s ms)を基礎 として考えるのが一般的である。その見方 に立 てば、 ここの並行 法 は第三の型である総合的並行法 と見なす ことがで きる。Lowt hはこの型 をつ ぎの ように定義 してい る 。 " The r ei sat hl r ds pe c i e sorpar al l e l i s m,i nwhl C ht hes e nt e nc e sans we rt oe ac hot he r,not byt hel t e r at i onoft hes amei mageors ent i me nt ,ort he oppos i t l On Ort hei rc ont r ar i e s, butme r e l ybyt hef or m ofc onst r uc t i on.Tot hi s,whi c hmaybec al l e dt heSynt he t i cor Cons t r uc t l V ePar al l el i s m,mayber e f e r r e dal ls uc hasdonotc omewi t hi nt het wof or me r s t l C h)はイザヤの言葉 を引 き、シオ ンを義 によって購 う必要性 を c l as s e s"( 21 62 1 7) .第一の要素 ( 述べ、第二要素はダビデ王の詩篇を引いて、利子 を附けて金 を貸す こと-の反対 を唱える。両者 は二 つ の違 う内容 を表すが、組み合わさると、国家のひとつの理想状態 を表 しているO一 応、この ように伝統 的な過行法の分類 に従 って考えることはで きるが、パ ウン ドはここでは別の効果 も産み出 してい る 第 O j us t l C e" と " i nt e r e s t " との対立関係 を浮 き彫 りに し、後者 を 二要素に否定形 を使 うことによって、 " 追求するならば前者は失われるであろうとの含意 を持たせているのである。このように、総合 的であ り なが ら ( 潜在的に)対立的であるような並行法の型 とい うのは新機軸であ り、少な くとも現代 詩 におい てこれを用いることはパ ウン ドの発明になると認め られて しかるべ きであ ろ う。Lowt h以来 の さまざ まな並行法の型の議論については Be r l i nのす ぐれた要約 を参照の こと ( 1 5 562)。 また、パウン ドと並 行法の関連については拙論 「 パ ウン ドの詩 とヘブライ詩」( 1 9 9 5)を参照 の こ と なお 、 "redeem" の " redeem' ' に相 当す 部分について も、もうひとつ別の対立 を読み取 ることが可能であるo とい う のひとつ との対照 を成 るヘブライ語は 2種類あ り、その うちのひとつが ここで用いられていること O の は は 他 すからであるOここで用い られてい るのはT T「ヨで あり、それ は " t od f rom bondage,by e llV e r power" を意味す るO い まひ とつ の語 は ウJ tよで あり、 それ は " t o payme nt " を意味する。この ような 2語の対照 を念頭に置 くな ら、第一 re d eem 要 by payme nt " を意味 し得 るが、それは " payment "に深 く関係 した第 る。 2 3 藤田幽谷の弟子である会沢安( 正志斎 ) は後期水戸学を代表する学者で 素 二 あ る書物のひとつである 『 新論』は 日本の歴史、なかでも 古事記 (712) と は 要 る 日 水 書 f r om c har ge,by here dempt l On not とは対立す るこ とにな 素 。 本 "t 戸 紀 学の最 も影響 力 のあ ( 7 2 0)とを儒教 の立 78 文 化 学 年 報 場 か ら再解釈す る こ とを 目指 した ものであ る。 2 4 この詩 は現行 の決定版短詩集 ( pe T ・ S Onae /TheShor t e rPoe mso fEz ' ・ a Pound.Ne w Yor kニ New Di r e c t i ons,1 9 9 0) に は収 め られ て い ない oAl fVe ni s on名 で書 か れ た 一 連 の 詩 は 、Ne u ノ hl y とい う " Soci alCr e di t ' '機 関誌 の ような性格 の雑誌 に載 った こ ともあ って、今 日で Engl i s h We e anonか ら外 されてい るのか も しれ ない。 はc 引用文献 AI Z aWa,Yas us hi( 会沢安 ) .『新論 』( Shi nr on,oT ・Ne u ノDwqu乙 S r t i on) ,1 8 57.Rpt .i n 『水 戸撃 』 ( Mi t 0gaku) .(町日本思 想 大 系 』 [ Ni ppon ShL S O Tai he L ,Or Gr e atBookso fJa pane s e 3)Eds.Us aburo I mai ,Yos hi hl ko Se ya,and Mas ahi de Bi t o.Tokyo: Thought ]5 I wanami ,1 97 3. Baci gal upo,Mas s i mo. " Ez r a Pound' s Cant os 7 2 and 7 3:An Annot at e d Tr ans l at i on. Pai de uma 2 0( 1 9 91) :91 41. Be rl i n,Ade l e." Paral l e l i s m. " TheAnc horBi bl eDi c t i onar y.Ed.Dav i d Noe lFr e e dman. Vol .5.Ne w Yor k:Doubl e day,1 9 92.1 5 562. Bowe s,Paul a I." 1and 2Samue l . " The Col l e ge u L l l e BL bl e ComT ne nt ar y.Eds.Di anne Be r gantandRobe r t∫.Kar r i s.Col l e ge v i l l e:Li t ur gl C alP,1 9 8 8.2 6 52 95. Br i dge s,Ronal d,andLut he rA.We i gl e.TheKi ngJaT ne SBi bl eWor dBook:A Cont e T nPOc hai cWor dsFoundi nt heKi ngJame sVe T ・ s i on T ・ ar yDL C t i onaT ・ yO fCur i ousandAr o ft heBi bl e .Nas hv i l l e:ThomasNe l s on,1 9 9 4. Br i ds on,D.G." AnI nt e r v i e w wi t hEz r aPound. "Ne w Di r e c t i ons17 .Ed.Jame sLaug h1 i n, Ne w Yor k:Ne w Di r e c t i ons,1 9 61.1 5 91 8 4. Br ooke r,Pe t e r.A St ude nt ' SGui det ot heSe l e c t e dPoe T nSO fEz r ・ aPoL L nd.London:Fabe r, 1 97 9. Cas i l l o,Robe r t .The Ge ne al o gy o fDe mons /Ant i Se mi t i s m,Fas c i s m,and L heMyt hso f ans t on:Nor t hwe s t e r nUP,1 9 8 8. Ez r aPound.Ev Chandr a n ,K.Narayana.` ` Maki ngCos mos:Bui l di ng/ Cr eat i oni n TheCant os . ' 'PaL de uT na 1 7( 1 9 8 8) :1 7 71 8 9. Che adl e,Mar yPat e r s on.Ez r aPou ・ nd' sCon f uc i anTT ・ anSl at i ons .Annar bor:U ofMi c hi gan P,1 9 9 7. Das e nbr oc k,Re e dWay." Cant os7 2and7 3:WhatKi ndofTe xt book?"Pai de uma1 9( 1 9 9 0) : 1 2 91 31. Fi s he r,Mi l t onC・" 1 4 3 0 11 gユ( NAs hak)Bi t e・ ' 'The ol o gi c alWor dbooho ft heOl dTe s t ame nt . Vol .2.Eds.Robe r tLal r d Har r l S,Gl e as on Le onar d Ar c he r,Jr. ,and Br uc e K. Wal t ke.Chi c ago:MoodyP,1 9 8 0.6 0 46 0 5. Gi bs on,Mar yEl l i s.Epi cRe i nt ) e nt e d:Ez r aPoL L ndandt heVi c t or i ans .I t hac a:Cor ne l lUP, 1 9 9 5. Gunn,Dav i d." 2Samue l . "Har pe r' sBL bl eComT ne nt ar y.Ed.Jame sL.Mays.Ne w Yor k: Har pe r,1 9 8 8.2 873 0 4. Hi s hi kawa,Ei i c hi(菱 川 英 一 ). 「パ ウ ン ドの 詩 とヘ ブ ラ イ詩 」 (" pound' sPoe t r y and He br e w Poe t r y") 『神 戸 大 学 文 学 部 紀 要 』 ( Ki yo,Fac ul t y ofLe t t e r s,Robe Unl V e r S l t y)2 2 ( 1 9 9 5) :4 362. , Kav ka,Je r ome. " Ez r a Pound' s Pe r s onalHi s t or y:A Tr ans c r i pt ,1 9 4 6, " Pai de uT na 2 0 ( 1 9 91) :1 4 31 8 5. Koe hl er,Ludwi g,andWal t e rBaumgar t ne r.TheHe br e u ノandAr amai cLe xi c oT LO ft heOl d 『 詩 章』第7 4歌の研究 79 Te s t aT ne nt ,Tr am s.M.E.J.Ri c har ds on.5vol s.Le l de r l :E.J.Bri l l ,1 9 9 42 0 0 0, Le wi s,Char l t onT. ,andChar l e sShor t .A Lat i nDi c t i onar y.0Xf ord:0Xf or dUP,1 87 9. Lowt h,Robe r t .Le c t ur e s on t he Sac r e d Poe t T ・ yO ft he He br e ws . Trans. G. Gr e gor y. London:Chadwi c k,1 8 47. TheMi s hnah.Trams.He r be r tDanbv ,Oxf or d:Oxf or dUP,1 9 3 3. l e s OI s on and Ez r a Pound/An Enc ount e r atSt .El i z abe t hs . Ed. 01 s on,Char l e s.Char Cat he r i neSe e l eye.Ne w Yor k:Par agonHous e,1 9 91, Pound,Ez r a.Cant LPL S ani .Trams.Al f r e doRI Z Z ar dl .Mi l ano:Gar z ant i ,1 97 7. - 一 .ICant os .Trams.Mar ydeRac he wi l t z.Mi l ano:Ar nol doMondador i ,1 9 8 5. - - .TheCant oso fEz r aPoL L nd,London:Fabe r,1 97 5. - ." Cat hol i c i s m. " Mac hi neAT ・ tand Ot he r Wr i t i ngs .Ed.Mari a Lul S a Ar di z z one. Dur ham:DukeUP,1 9 9 6, We s t por t :Gr e e nwoodP,1 97 8, - - -.Pe r s onae: The Col l e c t e d Shor t e r Poe ms o f Ez r a Pound. New Yor k: Ne w 1 . Dl r e C t i ons,1 97 .TheSe l e c t e dLe t t e r so fEz T ・ aPound1 9 07 1 1 9 41 .Ed.D.D.Pai ge.Ne w Yor k:Ne w Dl r e C t i ons,1 9 5 0. - - .Se l e c t e dPr os e .Ne w Yor k:Ne w Di r e c t i ons,1 9 7 5. Si c ar l ,St e phe n.Pound' sEpi cAT nbi l i on:Dant eandt heMode T ・ n Wor l d.Al bany:St at eU of . Ne w Yor kP,1 9 91 Spe ar e,M.E.ThePoc he lBooko fVe r s e ,1 9 4 0,N. p. :Poc ke tBooks,1 9 5 6, St e ad,C.K Pound,Ye aL s ,El i otandt heMode r ni s tMou e T ne nt .London:Macml l l an,1 9 8 6. St e el e,JohnL." Ezatt heDTC:A Cor r e s ponde nc ebe t we e nCar rol lF.Te r r e l landJohnL. de uma1 2( 1 9 8 3) :2 9 43 0 3. St e e l e. "Ed.Mi c hae lFour nl er.Pai a f t s & Fr a gme nt s . "Pai de uma 1 4( 1 9 8 5) : St oi c he f f ,Pe t e r." Pound' sFl nalPe r s onael n Dr 2 7 33 0 2. - - Te r r e l l ,Car r ol lF.A Compani ont ot heCant oso fEz r aPound,Vol .2.Ber ke l y and Los Angel e s:U orCal i f or ni aP,1 9 8 4. Upwar d,Al l e n.TheDL U L neMys t e r J ノ .Sant aBar bar a:Ros s Er i kson,1 9 7 6. Wac ke r,Nor man." TheSubj e c tRepos i t i one d/TheSubj e c tRepos s e s s e d:Aut hor l t yandt he s an Cant os . "Pai de uT na21( 1 9 9 2) :81 1 0 0. Et hosofPe r f or manc ei n ThePt