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表象による憎悪を断ち切るために 国際シンポジウム『戦争と表象/美術

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表象による憎悪を断ち切るために 国際シンポジウム『戦争と表象/美術
「表象による憎悪を断ち切るために―国際集会『戦争と表象/美術 20世紀以降』より(上)」
『あいだ』 123号, 2006年3月20日, 37-42頁
あいだのすみつこ不定期漫遊連載 第 曖回
表象 による憎悪 を断ち切 るために
―一国際シンポジウム 「
戦争と表象/美 術 ∞ 世紀以降」よ り (上)
稲賀 繁美
(いなが Lげ́み/国 際日本文化研究センター,
総合研究大学院大り
20世 紀 は戦争 の世紀 として記憶 され ,し
かもその過去は現在に影を投げかけ,加 害 ・
被害 をめ ぐる物質的 ・精神 的な清算は21世
紀 に持ち越 されたぅ このかん戦争そ の もの
も,君 主国間の家 臣団あるいは傭兵組織 に
依存 した形態 か ら,国 民皆兵で前線 と銃後
夕
継
轡
催
尋
意
奮
季
鼻
菖
晨
提
署
卑
負
醤
蟹
輝
卜
来 の国際秩序に31染まぬ殺裁が蔓延す るに
至っている。そのなかで,メ ディアによる
表象のありかたが,戦 争の遂行 にとって無
視できない要素 となったのも,世 界史的 に
みて,お およそ日露戦争以降といってまち
がいなかろうて第 2次 世界大戦の敗戦の後,
日本は超大国主導の代理戦争からの経済的
も採
恩恵に与る一方,徴 兵制度 (英米では女1■
のみ)に よる国民総動
用されたが,独 ・8は男1■
員体制の解体 を体験 した。軍隊は戦前期ま
での日本ではもっとも大きな影響力を発揮
したホモソー シャルな社会 システムのひと
つだった。だがもはやその実態を,大 多数
の国民は直接には知 らないという状況が生
しよ うとす る意思が顕在 化 した もの といえ
るだろう=そ して喪失 へ の予感 はまた,こ
の数 年来,記 憶 をめ ぐる政治学 を前景化 さ
せてきた。
東京国立博物館 は平成館講堂で開催 され
た国際 シンポジウム 「
戦争 と表象//美術 、
20世紀以降」 は,主 として美術 史とそ の周
辺領域 を中心 として,以 上のよ うな問題 を
討議す る機会 となった。実行委員会,共 催
者は千葉大学大学院社会文化科学研 究科.
2日 間 にわた るシンポ ジウムは,第 1セ ッ
シ ョン 「日露戦争か ら15年戦争へJ,第 2
アジアと日本 J,第 3セ ッショ
セッション 「
ン 「
第 2次 世 界大戦期 I:日 本 とい う国家
2次 世界大
と表象」,第 4セ ッシ ョン
'第
戦期 Ⅱ :そ れぞれの国家 と表象」か らな る、
紙面 の都合で,遺 憾 なが ら13の発表 と4つ
の討議す べ て を逐一細部 にわた って検討す
る余裕がな い。評者な りの問題意識 にそ っ
て,以 下 シンポ ジウムの概要 を伝え,批 判
的 に検 討 してみたい。
まれて,半 世紀以上が経過した。殖民地獲
美術研究 と表象研究 との落差
本 シ ンポ ジ ウム にかか わ る科 学研 究 費
得戦争 を実際に成年で体験した生き証人の
世代は,あ と数年で消滅しようとしているし 補助金の研究代表者 であ り,会 合の総合司
会 をも兼任す る長田謙一氏 は,冒 頭 の発表
ポス トコロニ アリズムと呼ばれる学問動向
で青木繁 の (海 の幸》 (19o4)を
中心 に取 り
も,戦 争体験 の風化と裏腹 に,忘 却を回避
あいだl
上げた。提起 されたのは,九 十九里浜の布
良での経験 を下敷きに した豊漁の図が,フ
ェルデ ィナ ン ド ・ホ ドラーの (マ リニ ャー
ノか らの帰還)(19ol)を下敷 きに している
との斬新 な仮説で ある。錯の作 り出す左向
きの矢印 と横向きの群像な どの共通点 を踏
まえれ ば,ス イスの建 国にかかわ る表象を
青木が利用 して,自 作 を構想 した様が想定
できる。 ここにはゼ ツェ ッシオ ンと自馬会
との共鳴のみな らず,20世 紀初頭 の国民主
義 の国際的な広が りも浮かび上がるt続 く
(大穴牟知命》(1"5),(わだつみのいろこの
宮)(1∞つに至る作品か らは,青 木が同時代
の建国神話 をめ ぐる関心の高 ま りに深 く関
わ って いた様が知 られ る.ま た 日露戦争に
至 る同時代の総合雑誌 『
太陽』では海洋国
家論 が声高に論 じられていた。に もかかわ
らず,ど うしたわ けか 《海 の幸)を 同時代
の 日露戦争 と結び つ ける論点 は,こ れ まで
百年にわた って 一度 も提出 されて こなか っ
た らしい。 ここには,美 術 を社会情勢か ら
極力切 り離 して論 じよ うとす る,従 来 の研
究姿勢 による隠蔽が露呈す る。
とは いえ司会 ・論評 の丹尾安典氏 も指摘
した とお り,解 釈 の許容度 にはなお振幅が
残 る.日 清戦争期 の山本芳翠 の (浦島図)
(1893)には,海 の彼方 の異界か らもた らさ
れた幸が描かれ,青 木 の (わだ つみのいろ
この宮)も 南国 の衣装 を纏 った女性か ら宝
物 を受 け取 る山幸 を描 くぅ皇孫 の姿にアジ
アの盟主たる新興 君主 国の意気 をみるな ら,
(海の幸》の獲物 の鮫 に 日露海戦でのバル
チ ック艦隊撃滅 へ の期待 を読 む こととて,
あながち不可能 ではあるまい。大陸雄飛の
夢 と,日 本 による大陸支配を正 当化す る殖
民地価値観 のイデオ ロギー とは,五 十殿利
治氏が言及 した川端 龍子制作 の 《源義経 =
チ ンギ スハ ンヽ 像 (1930になるとすでに紛
llもない。だが35年 の時代差 を無視 して両
者 を同列 に論ず るのでは,短 絡 。強引な深
読み となろ うしまた ,た しかに (大穴牟知
命)は ,「良きサ マ リタ人」の主題を描 く先
行作 品 を援用 して い るだ ろ う (長田氏の主張
するホドラー作品とは別に,評者はテオデュール・リ
ぁぃだ口)38
ヴォーの作品を提案したこと力
ちる)tだ がこれは
画法教科書にしばしば見 られる短縮法の人
体表現であり,構 図の借用は明白としても,
青木繁が聖書の教訓を頼 りに古事記の世界
を解釈 してみせた,と までは立証しがたい`
構図が類似 しているからとって,そ れによ
って伝達されるイデオ ロギーが同質だとは
結論できないか らだ,
方法論的な こうした限界はさらに,作 品
解釈 の 目的にかんする議論へ と拡散しうる。
ここには古典的な対立がある。一方で作品
を作品生産の社会的文脈に結びつけ,作 品
に反映した社会規範を批判するマルクス主
義の方向.他 方,反 対 に,作 品が同時代の
社会的文脈からどれだけ逸脱 しているかに,
藝術的自律性の根拠を見出し,作 品の価値
評価を行 うモダニズムの立場。すでに半世
紀以前の歴史社会学派は,両 者を統合 しよ
うとした。すなわち時代的制約下に成立す
るけれ ど時代的限界に還元できぬ特異性に,
個 々の作品の意義を探ろうとしたわけだ=
だがこの折衷案 の限界が,こ こに頭をもた
げる,果 たして藝術作品は,そ れを生み出
した社会を批判するための道具あるいは材
料 に過ぎないのか,そ れとも藝術作品は社
会批判を超えた存在 として,別 個 の次元で
評価されるべ き価値を担っているのか.
2日 間の議論を通 じて,通 奏低音あるい
は不協和音として水面下に響き,と きに噴
出したのが,こ の価値対立だった。それを
評者なりに,お およそ歴史的事実発掘,歴
史記述,記 憶操作とい う3つ の局面に分け,
そこに潜む政治性をめぐって整理してみた
い。
歴史的事実の発撮
歴史的事実発掘の成果として,ま ず安松
みゆき氏による 「
第 1次 世界大戦 ドイツ人
捕虜の藝術活動,フ リッツ 。ルンソフを中
心に」を挙げたい。Frltz Rulnpf(18881%9)
はバ ンの会に参加したボヘ ミアンとして知
られるが,彼 が第一次世界大戦に志願 して
チンタオで捕虜 とな り,大 分収容所で 4年
を過 ごした事実は,広 くは知 られていなか
った。江戸 の戯曲に親 しんだ版 画家 は,収
容所内で人形劇 の制作や演劇活動全般 に才
能 を振 い,ま た 『
大分黄表紙』Oita Clb
Buchを 編集 してお り,こ れは収容所 の 日
常生活 を描写 した 貴重な記録 とな っている。
事後 の戦争 と違 って 当時の 日本 は極 カジュ
ネー ヴ協定 を遵守 した件虜管理 を徹底 した
らしく,と りわけ大分収容所の待 遇 の良さ
には定評 があった.だ が こうした事実 の発
は,石 窟 の 子供 た ち を撮 影 し 「
土民の生
活」 に言及す る,一 方,長 谷川 は 自分 の撮
原始写真」 と命 名 した。そ こにはい
影を 「
かなる夢想が託 されていたのだ ろ うかっ
柳瀬や長谷川の被写体選択 との関係 で想
起すべ きなのは,今 回の シンポ ジウムでは
割愛 された領域だが,同 時代 の記録映画だ
ろうt満 映 の残 した ドキュメ ンタ リー の 3
掘 と復元 が,か えって続 く時代の 日本軍の
犯罪行為 を隠蔽す る日実 へ と流用 さオ1る危
大傑作 には,道 教 の廟 の祭礼 に集 う民衆 の
人類学的調査 (「娘々廟楷會」,1"7),承 徳
の遺蹟 の 記録 (「秘境熱河」,1986),そ し
険 を宿 した ものであることは,扶 桑社版歴
史教科書 の 例を引 くまで もあるまい。 と同
て新 京建設 の都市計画 (「躍進国土」1987)
(し
ヽ
ずれも日本映画新社)が 指摘できよ う。 この
時 に,日 本語 に流暢な停虜ゆえ,双 方か ら
スパイ視 されかねなかったル ンプフの境涯
大多数の 日本人たちがル ンプフを敬遠 した
なかで,旧 友 の太 田正雄 こと木 下杢太郎が,
3幅 対 は,満 洲 の 「
文明化」 を目論んだ 愧
儡国家 の 関心を的確 に要約す る。柳瀬 は南
満洲鉄道北支事務局の招聘 によ り雲聞石窟
を訪れたが ,そ れ もまた決 して偶然の選択
ではない。同地は1937年 の慮溝橋事件以降
の 日中戦争期,巡 礼の地 へ と昇格 し,北 支
収容所のル ンプフ宛 に和文 の葉書 を送 って
いた事実 も突き止め られた。
鉄道株 式会社の現地派遣 関係者 は じめ,多
数 の文化人を惹きつ けている。 さらに 日本
その木下杢太郎 は奉天勤務期 に木村荘八
と共著で 『
大 同石窟寺』(1922)を
発刊 してい
るが,五 十殿利治氏は 「
雲同石窟 ・写真 。前
が鉄道 開削に現地の多大な犠牲 を強 いた清
朝 の故地,承 徳 も,雲 商同様 に 「
聖 地」 と
「
して遇 された。龍門 の 発見者J関 野貞が
衛」で,こ の雲商遺跡を 日中戦争期のl CJ38
年 に訪れた 日本人藝術 家 の うち,柳 瀬正夢
(19∞ 1%5)と 長谷り
││三郎 (19o61957)の比
晩年実地調査に従事 し,保 存 を訴えた承徳
の壮大な ラマ廟は,満 洲国展覧会 の審査 に
に接近すれば,戦 争状況 にお ける人間の実
存 に迫る糸 日を求めることもできるだろ う,
較に焦点 を当てた。建築史家 の伊東忠太が
1902年 に 「
発見」 した大 同石窟寺院 は,推
古 。天平 の いにしえを偲 ばせ,仏 教東漸を
物語る北魏様式の巨大遺蹟だが,そ れ を写
真 に収めた柳瀬 は,東 洋 におけるギ リシア
に思 いを馳 せ る。また長谷川は個人 の力量
では とうてい実現不 可能な,圧 倒的な偉大
さへ の羨望 の彼方 に,黄 河 の洪水 を治める
ダム建設の夢 を語 る(東 洋 の文明史的な課
題 を見定め る長谷川 の姿勢には,時 代特有
の誇大妄想 も影 を落 としている。 『
大菩薩
峠』 の 中里介山は,中 国 の過去 の偉大 さを
壽 ぐとともに,そ れ を現代 において引き継
ぐのを日本の使命 とす る見解 を示 していた。
五十殿 氏は ここに,当 時 の時代意識の最大
公約数 を見て,そ の うえに二 人の写真 を据
える。プ ロ レタ リア運動か ら転向 した正夢
招かれた安井曽太郎 も立ち寄 って油彩 に描
いている。広義 の殖民地絵 画,日 本 に内在
化 された東方趣味 (ォリエンタリズム)絵 画 の
系譜 に位置づ け うる こうした文化事業 をい
かに評価す るか。そ こに戦争 と表象/美術
の課題が ある〔
記念碑の政治学 と記憶の変貌
遺蹟保存 と聖地巡礼 の文化政策 は,「 記
のアムス
憶 と忘却 」をテーマ とした lCJCJ6年
テルダム国際美術史学会 の主題 のひ とつだ
った。だが,当 時 日本か らは この主 旨 にそ
った報告の提案 は 1件 とな されなか った。
準備期間 も計算 にいれれ ぱ,日 本 の学界 に
おける問題意識が,な お優 に10年 の遅れ を
取っていることは,否 めない事実だろ う.
一 ノ瀬 俊也氏 は 「日露戦争の戦跡」が,装
備 の劣勢を分析する兵学校教材か ら,犠 牲 の
ぁぃだ2)39
大き さを美談 として物語 る巡礼 の聖地 へ,
さらには 日本軍 の精神主義 を強調 し肉弾攻
撃を正 当化す る情操教育のための洗脳施設
へ と変貌 を遂げる過程 を描 いた :そ の変貌
の様 は,第 1次 世界大戦 の総 力戦 を直には
体験せず,日 露戦で の失敗に頬被 りの論功
行賞 を実施 した陸軍 の体質 とも密接 に連動
石井柏亭な どは,日 本画家 の技法や経験
は戦争画 には不 向き との判断 を下 している
が,油 彩修行 の経験 ある新興大和絵 の旗手
たる蓬春 に とって,時 代 の挑戦 を受 けて立
つ気概 は (香港 島最後 の総攻撃図)に も帳
って いる :と 同時 に 日本軍の仏 印進駐期 の
しているだ ろうし フ ァシズム期 の記念建造
物 の意味作用 とコンペ をめ ぐる水面下の駆
ファ
け引きに関 しては,上 村清雄氏よ り 「
作品,(南 海薄暮)(1940)は,画 家 の台湾体
験を下地に した牧歌的な南国情緒だが,瘤
牛 の隣 にターバ ンを巻 いた イ ン ド風 の人物
が点景で添え らオlていて,画 家 の 「
政治的
シズム期 のイタ リア彫 刻」 と題す る報告 を
得たが,こ れ は例 えば木下直之氏 も分析 し
ている宮崎は (現)平 和台公園 の (旧)八
無意識」 とで も言 うしかない態度が横溢 し
ている=ア ジアの画家 としていかなる 自己
表現 を目指すべ きかが,創 作家 にとって喫
紘 一宇 の塔をめ ぐる記憶 の政治学な どと交
差 させての検討 に値す る.質 疑応答で河 田
明久氏 は,「南京事件」の戦犯 として処刑 さ
緊 の 問題 となっていた時代 に,蓬 春 は自ら
の画業にいかな る判断を下 していたのか =
れた松井磐根が関与 した ,熱 海 の興亜観音
に触れ ,戦 場 の血潮 を吸った素材で建立 し
た記念建造物 の フェテ ィシズム を問題 とし
時代 の うね りをも自らの審美観の うちに塗
りこめて しまったかのよ うな この画家 の営
み を,後 世は戦争不感症 として断罪できる
のだ ろうか :司 会か らの指名を受 けて青木
茂氏 も述 べたよ うに,絵 画 には戦 場 に漂 う
たが,こ うした話題が,狭 義 の美術史研究
か ら排除 されてきた体質 こそ 問題だろう=
歴史に残すべ き戦蹟が公式注文 によって
死臭 を伝達す る能 力はな い.だ が無臭処理
の処方 に こそ ,画 家が戦時 にいかなる姿勢
制作 され るのが 戦争画 の場合だが,こ れ に
つ いて は水 沢勉氏 が 山 口蓬春 (18931971)
(香港 島最後 の総攻 撃図)(1942)を検討 し
で対峙 していたかを探 る鍵があ り,そ こに
施 された藝術 の臭気 を敏感 に嗅 ぎ分 ける分
析が要請 され る ことだ ろう。
た ,同 時期 ,(シ ンガ ボー ル最後 の 日)を
制作 中の藤 田嗣治が蓬春 に寄 こした幾 つか
の戯作調 の絵入 り葉書が紹介 された。蚊取
線香 の煙 を観察 して ブギテマ高地 の硝煙 を
復元 しよ うと腐心す る 7歳 年上 の嗣治 の 自
己戯画の朝晦ぶ りか らも,嗣 治が蓬春 に一
目置 いている様 が浮 かび上が る=一 方 の蓬
春 には占領 後 の香港 に赴 き ライカで撮影 し
た現地写真53枚 が遺 されてお り,人 物 を排
し,も っば ら鳥欧 図を描 こうとす る画家 の
意図がそ こにも窺 われ る.同 時期 の
寒)
(1942)も含 め,水 沢 氏 は 「
`残
戦争 の英雄的な
殖 民地支配下の他者表象 と自己演 出
藝術 とい う化粧術 。そ こに秘 め られたな
かば意識下 の精神的葛藤 へ と果敢 に探測 を
降ろ したのが,池 田忍氏の 「
中国服 の女性
表象 ― 戦時下における帝国男性知識人のア
イデ ンテ ィティ構築 をめ ぐって」だろ う1
話題 は1卸 年代の 日本軍 占領時代 に北京飯
店五階 に陣取 って,計 1年 半におよぶ制作
を続 けた梅原龍二郎 の (姑娘 ″連作 で ある:
戦争 を描かず軍事的 占領 の情景 を避 けた梅
原 の選択 に,断 固たる反戦 の意思 あるいは
高揚 よ りも,破 壊 に対す る詠嘆的な挽歌」
が蓬春 の表現 を特徴 づ けるのではな いか,
との見解 を示す :戦 後 の (山湖)(1947)は
精 一杯 の良心 的抵抗 の跡 を読み ,画 家 の免
罪 を計る解釈が,従 来主流 をな してきた :
そ こには時局下で藝術 の 自律 を確保 しよ う
あき らか にホ ドラーの 山岳絵画の影響下 に
あるが,は た してそ こに戦時 中か らの断絶
とす る,同 時代の男性製批評家 たちの拶 い
願望 が反映す る。 とはいえそれ は,彼 らが
戦時体 制 に構造的 に組み込 まれた事実 を消
を認め うるのか,そ れ とも一貫性 を見出す
べ きなのか,に わかに割 り切 り難 い。
あいだロトJ0
去す るものではな い。
梅原 の 1北京秋天)(19“)あ るいは 1紫
には,安 井 曽太郎 の (承徳曜
禁城
'(1943〉 並んで,直 接 の戦争画 を描
嚇廟)(1938)と
出が ここで大 きな役割 を演 じた ことは,ブ
リ ッジ ・タ ンカ氏 による 「
アジア服復活 一
岡倉天心 ・イ ン ド ・衣服 の政治生命」が示
くことか ら免罪 された特権的な画家 の屈曲
した選択肢 一 あるいは免罪 された ことで特
権的な地歩 を固めた画家 の軌跡― が探 られ
し,ま たその具現 としての一人の舞踊 家 の
運命が,木 村理恵子氏 「
桂承喜 の 『朝鮮舞
るべ きだろ う=占 領地 の美 と荘厳 を壽 ぐこ
とは,他 者統治 と同時 に,自 己を越 えた伝
統 へ と自らを融合 させ る自己拡張の願望で
あ り,東 洋 の覇者た らん とする祖国の主張
に寄 り添いなが ら,政 治的意思 を美の世界
に翻訳する ことで免罪 させ ,ま た直接的な
時局宣伝か ら己が身を振 りほどく便法で も
あった=こ の文脈で司会 の吉見俊哉氏がヴ
ァルター ・ベ ンヤ ミンの 「
美 の政治化 ・政
治 の美化Jに 言及 したのは,い た って的確
だろ う.こ れ に加え,民 族衣装の女性 を描
く行 為は,殖 民地支配 の提喩であるととも
に,骨 董収集 に も似た逃避的な美 の世界ヘ
の没入で もあった.梅 原 の (姑娘)(1942)
像 を賞賛 した矢代幸雄 らは,美 を政治か ら
隔離す る救済策 を試みたが,こ うした時局
へ の消極的抵抗 において,批 評家 は画家 と
共犯的関係 を描 いていた ,な かで も池田氏
は,小 林秀雄が lCJ45年1月 に執筆 した梅原
論 に,挙 国一致 の国家イデオ ロギー との葛
藤か ら生 じた,歪 な反応 を犀利 に掬 い上げ
る,「 協和 の女」 とい う秩序公認 の女性像
か ら逸脱 した奔放な代替幻想 を占領地 ・北
何 を仕 出かすか
京 に求めなが ら,姑 娘 に 「
わか らぬ」不穏 さを嗅ぎ取 った小林は,そ
こに反 日意識の換喩 を半ば無意識の まま読
み込み,言 い知オ1ぬ女性恐怖 を覚える。こ
の 「日本男性知識人」 の姿は,池 田氏 も周
到に指摘す るよ うに,阿 部知二の 『北京』
1940)の主 人公 ,大 門 に通底す る =加 え
〈
て小林は描かれた く
画家 の 自画
姑娘)に 「
像」 を認 め,そ こに制御不能な鬱勃た る画
家 の意思 を透視する。 ここには精神分析 で
い う鏡像の逆転移現象が認め られよ う。
《東洋》 を装 い,演 ずる こと
他者 をいか に描 くか によって,逆 に描 く
自己 の姿が露呈す る.服 装 を通 じた 自己演
踊』をめ ぐってJに よって分析 された :岡
倉 の衣装 への拘 りにつ いては,「 村 の鍛冶
屋」の詩人の裔,チ ャールズ 。ロングフェ
ローの刺青 について近著 のあるク リステ ィ
ーヌ ・グー トがすでに論 じている (『記号学
研知 21号),英 語が達者な ら和服 で外 国に
行け,不 得意な ら洋服 に しろ,と 言 った と
伝え られ る岡倉 にとって,服 装 とは何だっ
たのか=英 語が当時 の 国際共通 の意思疎通
手段だ った とす るな らば,服 装 とは地方色,
文化的固有性 の徴 だろ うかせタ ンカ氏 は佐
久間象山の 「
東洋道徳,西 洋藝術 Jを 引き
合 いにだ した=こ れ に岡倉 の論法 を重ね る
な ら,東 洋の徳 目を伝達可能な もの とする
にも,西 洋 のテク ノロジーが必 要 とな る=
アジアとしての民族的アイデ ンティテ ィを
国際的に訴えるためにも,西 欧列強の定め
た国際基準に則ることが不可欠な条件だった.
韓半島に生をうけ,日 本で石井漠の指導
のもとで西洋舞踊に導かれた後承喜 (1911
1969)の場合,服 装とは,自 らが演ずるべ
き舞踊 と演技そのものの選択と無関係では
ありえなかった。西洋舞踊 と朝鮮舞踊 との
二者択 ―に迷った彼女は,日 本での好評 を
受けて朝鮮舞踊 に力点を移すが,lCJ40年頃
から 「
時
朝鮮」民族的アイデ ンティティが 「
の対
るや,「東洋Jを
節」柄,検 関
象とな
具現する舞踊 へ と方向を転換 し,欧 米での
海外公演 でも高い評価を得た,と 一般に言
わオlている.だ が彼女の朝鮮舞踊に不服だ
った石井漠も,反 対に彼女の西洋舞踏を低
く評価した批評家たちも,い ずれ も西洋的
基準に照らした価値判断を下していたこと
は見落 としてはなるまい。岡倉のい う 「
英
語」を物にしたうえでなければ,和 服なり
朝鮮服 を纏 うことはできない相談 だった。
藝術」
言い換えれば,あ くまで西洋基準の 「
が要求する 「
構成」に沿って土着性の型を,
過度の繰 り返しを避けつつ,適 度 に強調 し
41
あいだ12鉾
彫 琢す る ことで捏 造 され た のが 「
朝鮮舞踊 J
の 実 態 だ った はず だ =さ らに44年 ごろ に
「
東 洋J振 りを求 め られ た桂 が意 図的 に取
り込 んだ能 楽 の所 作 な どは,か え って 「
物
足 りな いJと い った批 半1に晒 され た :イ ン
ドでは ノー ベ ル文学賞受賞者 ロビン ドロナー
ト ・タ ゴー ルの甥 に あた る画 家 オ ボ ニ ン ド
ロナ ー トの母 性 表 象 が 「
安 全 な民族主 義 」
創
囲内 の 「
朝鮮二 らしさを自己演 出 した 「
建」だ ったはずだ ,着 せ替え人形よろしく,
民族 の表象を代行 し代表する役割 を命 じら
れた稀 代 の舞姫 は,結 局は戦後 自ら望んだ
「
北越J先 の祖国で ,権 力闘争 に巻き込 ま
れ ,粛 清 され る運命 を迪 る。い ささか私見
を述 べ たが,木 村理恵子氏や 朴祥美 (プリン
ス `ン大学博士課程在籍。 「『日本帝国文化』を踊る一 ―
と して イ ギ リス官 憲 か ら許容 され て いた事
=承 喜のアメリカ公演 (19871940)と アジア主義」.
実 が知 られ る :そ れ と同様 に,桂 の 民族 的
表現 とされ た 「
軽快 な躍 動感 」 もまた,日
『
思想』975号
,2005)氏による最新研究の刊行
しい:
が待ち遠
韓併 合 の 支配者 側 の 期 待 に沿 って,許 容 範
《資料》
シンポジウム 「
戦争と表象/美 術 20世紀以後」
開催日:2006年3月■E(土 ), 5](日 )
場所 :東京国立博物館平成館太講堂
主催 :シンポジウム 「
戦争七妻家 /美行 20世紀以
後J実行委員会
共催 :千葉大学大学院社会文化科学研究,
第一日 3月 4日
第 1セ ッション 日露戦争から15年戦争ヘ
ゼツェ ッシオン1 /
再考 ・青本繁 「
海 の幸J― ― 「
E露 戦争
長田謙一 (千東大学)
ヨ露戦争の戦跡
一ノ瀬俊色 (目立壺史民俗博物館)
安松みゆき
第 1次 大戦 ドイノ人捕虜の芸術活動
(別市大学)
三十殿力:治 (筑渡大学)
雲同石窟 ・写真 ・前衛
にこ蓬春 と戦争表現
水沢 勉 (神奈j立 近代美
行館)
司会 ・■メント :丹尾安奥 (早稲 田大学)
討論
第2セ ッション アジアと日本
中国Fiの女性表象――戦時下における帝国男性知識
人のアイデンテイティ構築をめぐって
(二東大学)
池ヨ 忍
アジア辱
=復活 :岡倉天心 ・インド・衣課の政治生命
プリッジ ・タンカ (デリー大学)
美麗と哀愁 :戦争につ01てのある台湾画家の思tt主
台湾國立成功大學)
爺竣瑞 く
「
1デ´
同床具夢」 歴史修正主義と世代問葛藤一― 「
て
シュテ ソフィ ・リヒター (ラ
ズム」の例を通t′
イプチヒ大学)
若桑みどり 0村 学園責子大学)
南京電殺 と女性
司会 ・コメン ト :久留島 浩 (日立歴史民
討論
俗博物館)
あいだ12342
′
ポリズム
河日明久 (早稲田大
戦時嬌 日本のシ〕
・
学 非常勤講師)
昭
目的芸術としての戦争実行とプロレタリア美術∼ 「
和の美術 1長 を通 して
澤日佳三 (新潟県立近代美
行館)
戦時とモダン ・デザイン
森 仁史 (松戸市美術
館準備室)
五十嵐太郎 (東北大学)
戦争 と建築
討論
司会 ・コメント :吉見俊哉 (東京大学)
第 4セ ッション 第 2次 世界大戦期 I それぞれの
国家と表象
菜 (千葉大学)
現代 ロシアの戦争映面
鴻野わうヽ
ファシズム期のイタリア彫刻
上村清雄 (千葉大学)
ヽ
」
沢節子 (早稲田大 ・非常勤講師)
原爆体験と表家
写真と戦争犯罪一一第 2次 世界大戦における国防軍
ンブ
の犯罪に関する論争
ウルリケ ・ユライ ト (ノ、
ルタ社会研究所)
討論
可会 ・コメント :三宅晶子 (千葉大学)
*前 号 〈
122号)の 本連載に次のよ うな誤 りがあり
ました、訂正してお詫びいたします:
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講演者Jの 間違t't
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*卒 連載第40回 (121号)で 報告したE仏 実行学会
での同音Fあおみ氏による発表の完全帳が r芸術 と性
差―武蔵野美術大学 ジェンダー ・リサーチ共同研究論
本村理恵子 (栃本県立美術館)
文集』(2006年 3月 1日 干1,非 売品)と して刊行 さヤt
てt:る.
第二日 3月 5日
第 3セ ッション 第 2次 世界大戦期 :
国家と表象
ダンス 朝鮮 ・日本
(次号に続く)
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