Visiting of Footprint on Manufacturing of Automobile Engine in Japan
by user
Comments
Transcript
Visiting of Footprint on Manufacturing of Automobile Engine in Japan
シリーズ 未来を担う人づくり 日本の自動車用エンジン作りの足跡を訪ねる ─ 日産自動車横浜工場・日産エンジンミュージアム─ 日産エンジンミュージアム 学芸員 木 村 良 幸 1935 年、日本で初めての自動車一貫生産工場、日産自動車の横浜工場が操業を開始した。この地にあ る日産エンジンミュージアムには創業以来 70 年余の歴代エンジンを収集・展示し公開、エンジン技 術の変遷を語り継いでいる。 1.日産エンジンミュージアムの概要 ンジン博物館は資料の収集を続けるとともに、エンジ ン開発に携わる先輩エンジニアが入社まもない若手エ 日産エンジンミュージアムは自動車用エンジンを ンジニアに、歴代のクルマに搭載されたエンジンを前 テーマにした館で、日産自動車の発祥の地である横浜 に日産自動車のエンジン作りを語る教育の場として活 市神奈川区の横浜工場の敷地内にあり一般公開してい 用されていった。 る。横浜工場は 1935 年の操業開始以来、現在まで一 めまぐるしい技術革新が続く自動車分野で、また年々 貫して自動車または自動車部品の生産を続けてきてい 厳しさを増す環境技術開発や競合他社車との熾烈な商 る。2010 年現在、横浜工場の主要製品は自動車用エ 品力向上の競争に日夜没頭するエンジニアたち。とも ンジンで、日産が全世界で生産するエンジンのおよそ すれば見失いがちになる私たちのクルマ作り・エンジ 15 % を生産する主力工場のひとつである。 ン作りのアイデンティティ。私たちはこれまで、どの エンジン生産ラインの見学は小学生以上に公開され ようなエンジン作りをしてきたのだろうか?またこれ ているが、一般には馴染みの薄いエンジンを少しでも から先どのようなエンジン作りをしていったら良いの 理解していただくため、見学案内レクチャーのための か?そのような何とも言いようの無い不安感や焦燥感 施設としてゲストホールが設けられている。日産エン を抱きながら、毎日の業務に追いまくられていたのだ ジンミュージアムの収蔵品の展示と活動の拠点が、この が、日産エンジン博物館の存在そのものが心のよりど ゲストホール内に併設されている。最新のエンジン生 ころのようなものとしても機能していた。日産エンジ 産工場の見学と歴代の自動車用エンジンの展示を見学 ン博物館の存在はやがて社内の他部署はもとより、社 することができ、あわせて館内には日本を代表する自 外の自動車ジャーナリストにも知られるようになり、 動車製造会社の 70 年におよぶ発展の様子を解説パネル 次第に一般公開を希望する声が聞こえるようになって や映像で紹介しており、自動車産業の歩みをコンパク いった。しかし情報漏えいなどの面で一般見学者の立 トに学習することができる社会教育の場になっている。 ち入りが厳しく管理されている開発部門内のオフィス 収蔵しているエンジンは約 300 台、そのうち 28 台を にあることから、一般公開はなかなか実現しなかった。 常設展示。毎年 3 ∼ 4 台を入れ替えている。 一方、一般の見学者の受け入れとしてエンジン生産 工場の見学案内があり、この歴史は日産自動車の操業 2.日産エンジンミュージアムの歩み 開始まもない 1935 年(昭和 10)から始まった。当時の 1987 年、社内のエンジン開発部門のオフィス内に、 日本では、フォードや GM が米本国から自動車部品 を輸入し組立てる方式、いわゆるノックダウン(KD) 「過去を振返る中から新たな飛躍を求めて世界一のエ 生産が主流だった。これに対し日産自動車横浜工場は ンジンを生みだそう」という思いで、若手スタッフに 鍛造、プレス、溶接、塗装、組立といったすべての工 よる手作り博物館として 22 台の歴代エンジンを収集・ 程を含む日本で初めての自動車一貫生産工場というこ 展示し日産エンジン博物館が発足した。その後日産エ とで注目を集め、政財界はもとより、軍部、有名人の Vol.51(2010)No.8 SOKEIZAI 33 見学でたいへんな数の見学者をお迎えした。 その後、乗用車組立専用の追浜工場が操業を始める 3.館内のみどころ などによって、横浜工場はエンジンやサスペンション 日産エンジンミュージアムには、2008 年経済産業省 など自動車構成部品の生産工場に変化し、工場見学は から近代化産業遺産として登録、認定された資料が 5 地域の小学生、首都圏の大学、海外からの見学者など 点ある。これらはいずれも日本の自動車産業の黎明期 に広がり、ご案内を続けてきた。2002 年に、横浜工場 ともいえる昭和初期のもので、当時の日本の工業水準 内にある旧本社ビル(横浜 1 号館) (写真 1)が、横浜市 を推し量ることができる貴重な史料である。このほか から歴史建造物として認定されたことを機に、この建 に、日産自動車のもの作りの原点を物語る貴重なエン 物の耐震補強を実施するとともに一部を改修し、工場 ジンが展示されており、以下にご紹介したい。 見学のご案内のセンター機能を持つゲストホールとし てリニューアルした。リニューアルの機会に館内に日 (1)ダットソン車用 495 cc エンジン部品 産エンジン博物館(2008 年から日産エンジンミュージ (近代化産業遺産) アムに館名変更)を併設することになり、懸案の一般 ダットソン車は日産自動車の前身会社のダット自動 公開が実現し社会教育の場としての機能が充実した。 車製造㈱ の大阪工場で1931∼32年に造られたクルマ 2003 年のリニューアル後 7 年間の、日産エンジン で、クランクシャフトやピストンなどのエンジン部品 ミュージアム見学と横浜工場見学の合計来場者数は約 の一部が展示されている。このエンジンは、水冷式・ 17 万人、年平均 2.5 万人。このうち約 55 % は小学生(主 直列 4 気筒、排気量495cc、 に横浜・川崎両市・東京 23 区の)で、小学 5 年生の社 吸気バルブ・排気バルブが 会科授業を支援している(写真 2)。 シリンダの側面にあるサイ また、近年急増してきているリタイヤード・エイジ ドバルブ式を採用してい の方々や、「工場萌え」と称しての熱心なファンの見 る。このエンジンの設計 学も著しく増えてきており、神奈川県、横浜市の行政 リーダーはのちに当社常務 と、JR ほかのイベント企画、近隣の企業博物館との となる後藤敬義(ごとうの 共催でスタンプラリーなどを積極的に開催、社会教育 りよし 1898−1967・写真 3) のみならず産業観光の場としても広く活用していただ で、のちにピストン、コン いている。 ロッドなど運動部品を極力 軽く作ることに留意したと 写真 3 後藤敬義 社内技術誌で述べて いる。館内では当時 のヨーロッパ製小型 車の代表としてオー スチン・セブンの部 品と比較展示してあ り、 当 時 の495ccエ ンジン部品の優れた 軽量化設計が具体的 にわかるようになっ 写真 1 日産エンジンミュージアム(旧本社ビル) ている(写真 4) 。 写真 4 オースチン部品(右) 495cc エンジン部品(左) (2)7 型エンジン(近代化産業遺産) 7 型エンジンは、ダット自動車製造 ㈱ からダットソ ンを改名した小型車ダットサンの製造権を取得した 日産自動車が、横浜市神奈川区に新設した横浜工場で 稼動初年の 1935 年に製造したエンジンである(写真 5) 。上述の 495 cc エンジンをベースに排気量を 722 cc に拡大するとともに、ディストリビュータの駆動方式 の改良、気化器型式の変更など多くの部位の改良変更 写真 2 工場見学風景 34 SOKEIZAI Vol.51(2010)No.8 が施されている。 新規稼動した横浜工場は、 従来のダッ ト自動車を製造した大阪工場に比べて生産台数はおよ シリーズ 未来を担う人づくり (4)映像「ダットサンができるまで」 (近代化産業遺産) 1935 年、操業開始の年に横浜工場内の自動車製 造工程を撮影した 12 分の映像で、当社宣伝部が作 成したもの。エンジン製造工程では、クランクシャ フトの鍛造工程、ピストンやシリンダ・ヘッドの機 械加工工程、それにほとんど手作業によるエンジン 組立工程が写されている。車両組立工程では当時の 写真 5 7 型エンジン ダットサン車が木製骨組の上に板金製のボディを張 り付け溶接作業をしていく様子が細かく撮影してあ そ 50倍(200 → 8,000台/年 )で、 り、エンジンともども当時の日本の自動車産業の技 当時の日本の自動車生産規模を大 術レベルを知るうえで、とても貴重な史料と言える。 幅に拡大するものであった。生産 完成したクルマはその当時横浜工場内に新設された 用の設備は当時の日産自動車の 周回路で、最終テストが実施される興味深い様子も チーフエンジニアのウィリアム・ 写されている。 ゴーハム(William Gorham 1888− 1947、のちに当社専務・写真 6) (5)日産自動車旧本社ビル(近代化産業遺産) が米国デトロイトに赴き、米国流 1934 年、日産自動車の創業に合わせて横浜工場 の合理的な中規模生産方式 敷地内に建設された旧本社ビルで、前述したように の機械設備を買いつけ、横 2010 年現在は、工場見学案内の中核施設・ゲストホー 浜工場に設置した。 ルとして活用されている。鉄筋 3 階建てで、執務室 写真 6 ウィリアム・ゴーハム と廊下が不透明ガラス板により仕切られているタイ (3)ダットサン 15 型ロードスター プが採用されているほか、むき出しの天井部材など (近代化産業遺産) 当時の生産工場の事務所建物の特徴を見ることがで ダットサン 15 型は 1936 年に、横浜工場で生産さ きる(写真 8)。横浜市内は 1945 年の米軍機による れた 2 人乗りのオープンカーで、当館のマスコット 空襲で壊滅的な被害を被ったが、本建物は被災を免 的存在になっている(写真 7)。当時の日本国内は自 れ、市内に残るものとして大変貴重な存在であると 動車の普及状況も道路網の整備状況も現在に比較し して、2002 年に横浜市歴史的建造物として認定され て著しく未成熟の状況だったが、この時代から自動 ている。 車が単にモノや人の輸送手段としてだけでなく、ス ポーツタイプのロードスターをラインナップに加え ることによって、運転する喜びをお客様に提供して いくという日産自動車のクルマ作りの「思い」が創 業当初から明確にあったことを物語っている。さら にこの「思い」は、スポーツタイプの車をセダンタ イプから大きな変更なしに作ることで、お客様にも 比較的入手し易い価格で提供していくという商品コ ンセプトを採用しており、現在に続く日産自動車の クルマ作りの原点ということができる。 写真 8 館内の様子 (6)NB 型エンジン 館内に展示されている NB 型は 1953 年に横浜工 場で生産されたエンジンで、4.5 トン積みニッサン・ トラック 480 型に搭載されていた、直列 6 気筒、排 気量:3.7 L、サイドバルブ式エンジンである(写真 9)。このエンジンのルーツは 1937 年に生産された A 型エンジンで、小規模な設計変更はあるものの 写真 7 ダットサン 15 型ロードスター NB 型エンジンはほぼ 1937 年当時の A 型の仕様を ほとんどそのまま引継いでいる。A 型エンジン誕生 Vol.51(2010)No.8 SOKEIZAI 35 写真 9 NB 型エンジン 写真 10 C 型エンジン の背景は、当時中国大陸での武力衝突が拡大する方 い た ド ナ ル ド・ ス ト ー ン 氏 向にあり、兵站輸送用トラック需要の増加に呼応し (Donald Stone・写真 11)か て、日産自動車もいわゆる大衆トラック製造に進出 ら、日産自動車の資金力・技 するための一環としてのものである。日産自動車は 術力から、新規開発は止めて 1935 年に小型車ダットサン生産の操業を始めたばか オースチン車エンジンから派 りだったので、大衆車クラスのトラックは開発面・ 生させた 1.0 L エンジンの導 生産準備面ともに余力がなく、米国・グラハム・ペー 入を強く示唆され、これに従 ジ社(Graham Paige Motors, 本社 Detroit 市、創業 うこととした。C 型エンジン 1903 年、1927 年自動車製造に参入、1941 年同離脱) はオースチン車エンジンと生 から余剰となっていたエンジン生産設備・設計図面 産設備を共用し、構成部品も をともども買収し、横浜工場に設備を設置した。こ 共通使用することから信頼性に優れ、俊敏な吹き上 の設備移入に関してもウィリアム・ゴーハムが中心 がり特性を持つ優れたエンジンとなり市場で高い評 的役割を果たし、米国流合理的中規模型の生産設備 価を得るとともに設備費、部品コストとも抑制でき、 が横浜工場に導入された。 完成度の高いエンジンとなった。このため、社内で 写真 11 ドナルド・ストーン は C 型エンジンのことを「ストーン・エンジン」と (7)C 型エンジン 呼び、ストーン氏の見識の高さに敬意と感謝の気持 館内に展示中の C 型エンジンは 1957 年の横浜工 ちを表している。 場製で、ダットサン 210 型乗用車に搭載されていた もので、直列 4 気筒、排気量 1.0 L、OHV 式エンジ ンである(写真 10)。日産自動車は第 2 次世界大戦 36 4.日産エンジンミュージアムの将来像 により、自動車開発・生産の両技術分野で壊滅的な 日産エンジンミュージアムは、企業の広報・宣伝活 状況に陥っていたが、先進欧州自動車会社の技術支 動を目的にスタートしたのではなく、あくまでも社内 援を受けることで、その回復を図ることとなった。 の一分野であるエンジン部門のエンジニアの人材教育 1952 年、日産自動車は英国オースチン社(Austin の場として発足した。発足後 25 年が経過し、社内で Motor Co., Ltd. 本社 Birmingham 市、創業 1906 年) は日産ミュージアム見学を新入社員教育のひとつのプ と技術提携、1953 年からオースチン車のノックダウ ログラムに採用する部署が多くなり、さらにこの傾向 ン方式による組立開始、1956 年には全構成部品の国 は日産自動車の関連会社の新人教育にまで広がってき 産化が完了し、技術の習得が終了している。 ている。私たちが作ってきたモノを見ながら、これに オースチン車の直列 4 気筒、排気量 1.5 L、OHV 携わってきた「先輩エンジニアが自ら語る」コンセプ 式エンジンのシリンダ・ヘッド、シリンダ・ブロッ トは現在まで引継がれていて、しかも一般公開が始 クの機械加工用に日本で初めてとなるトランス まってからは対象は広く一般見学者にまで広がってき ファー・マシンが 1956 年に横浜工場に設置されて ている。さらに、自動車用エンジンを対象とした「エ いる。C 型エンジンは、このオースチン車用 1.5 L ンジンミュージアム」と「最新のエンジン生産工場」 エンジンのクランク・ストロークを短縮して排気量 がコンパクトに見学できるユニークなところも、大き 1.0 L としたものである。 な特徴になっている。 当時、日産自動車の技術陣は新設計の 1.0 L エン 私たちはこのような特徴を活かして、規模は小さく ジンを開発する構想を持っていたが、同じころ米国 ても社会教育の場として広く活用していただくことが ウィリス社から技術コンサルタントとして招聘して できるよう今後とも努力を続けたいと考えている。 SOKEIZAI Vol.51(2010)No.8