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六乂六乂(むかむか) - タテ書き小説ネット

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六乂六乂(むかむか) - タテ書き小説ネット
六乂六乂(むかむか)
枝野メル
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
むかむか
︻小説タイトル︼
六乂六乂
︻Nコード︼
N0192CP
︻作者名︼
枝野メル
︻あらすじ︼
あらすじ:
恵まれた生活をしつつも不満を抱えた少年・焼鎌広路が謎の転校
生・仁志純と危機に巻き込まれる。
危機を脱した後、転校生の上司から自分の境遇の秘密を知らされ、
原因となったその上司に復讐しようと戦いを挑む。
まえがき:
1
作中の復讐対象が本来の主人公でしたが、ちんたらしてるうちに
すっかり時代遅れになったので今のに変更しました。オチまでプロ
ットは確定しています。使い捨てちょろインを沢山出す予定です。
別タイトル:三つの願いでやり直そうとしたら失敗したので責任は
とる
2
第一部
前事不忘後事之師︵やり直しの前を覚えていないと酷いこ
何日是歸年
目次︵適宜更新︶
第一話
第二部
第九話
第八話
第七話
第六話
第五話
第四話
第三話
第二話
指比との出会い
ボーイ・ミーツ・ガール・アンド・グッド・バイ
老人風の話し方をする褐色ポニ娘は実在する
人生不相見動如参與商︵やり直しの後の再会は幸福か︶
花發多風雨人生足別離︵さよならだけが人生だ︶
酔臥沙場君莫笑︵へこんだからって笑ってくれるな︶
此恨綿綿無絶期︵この恨み晴らさずにおくべきか︶
相去復幾許︵二人の距離はいかほどか︶
別有天地非人間︵こんな世界もある︶
為歓幾何浮生若夢︵青春は短い︶
とになる
第十話
3
人物名読み一覧︵前書き︶
本編登場順です.
十八禁ゲームの作法に習って家族・知人と被らないようにしていま
す.
4
人物名読み一覧
第一部から登場
焼鎌,広路︵やいかま,こうじ︶
焼鎌,小径︵やいかま,こみち︶
穴師,夕掛︵あなじ,ゆか︶
風祭,矢摩︵かざまつり,しま︶
八荒,万弓︵はちこう,まゆみ︶
澁衣,景︵しぶい,えい︶
蘆原,九音︵あしはら,くいん︶
熊澤,夢人︵くまざわ,むと︶
長濱,亜蘭︵ながはま,あらん︶
美浦,肇︵みうら,はじめ︶
仁志,純︵にし,じゅん︶
一ノ二,愛生︵いちのに,あい︶
井路端,大九︵いじばた,だいく︶
第二部から登場
指比,憧子︵ゆい,とうこ︶
中音,そよ︵なかね,そよ︶
5
第一話 前事不忘後事之師︵やり直しの前を覚えていないと酷い
ことになる︶
やいかまこうじ
少年・焼鎌広路には秘密が三つある.一つは,生まれる前の記憶
がないことだ.
そんな記憶喪失は当たり前だ.それ以前に,生まれる前ってある
のか.
最近はよくあるらしい.
実際に聞かれたら,答えは﹁宗教による﹂が無難だろう.﹁信仰
による﹂の方がやや穏当か.﹁ジャンルによる﹂は高等すぎる.
﹁ある﹂か﹁ない﹂と断言する奴は,詐欺師かグノーシストに違
いない.もちろん,黒でも白でも緋色でも好きに答えればいい.ど
っちでも普段は困らないんだから.
じゃあ,﹁ない﹂のに記憶があったら?
困る.紙の雑誌の投稿欄にお便りを出さなきゃならない.例えば
こんなの.﹁前世で共に戦った仲間を探してます.覚醒し,波動存
在にリンクできたら,切手を貼ったタングステン・鉛合金加工の返
信用封筒を同封の上,お手紙下さい.盗聴防止のためデジタル不可.
キーワードは︱︱﹂以下略.
人,それを電波と言う.広路はこの逆だが,不可視領域なのは同
彼ら高貴な勇者たちと違って,あったのに何も知らない.
じかもしれない.
逆?
知らないので想像する.生まれる前の別の自分は何者だったのか.
例えば,神に気に入られた凡夫異生.
例えば,神秘に傾倒した紫の独裁者.
例えば,顕世の全てを憎む生贄の巫女.
細菌から始まって微生物ループを経て一気に食
例えば,機械仕掛けの熱月の志士.
人でないもの,
物連鎖を登りきった感すらある.別人への心機一転再出発ではなく,
6
二週目以降のループというのもなくはない.元がデータだったり,
逆に今がデータだったりするのも否定できない.いや,仮説上なら
世界はデータである可能性の方が高い.なら,せめて量子コンピュ
ータ上であってほしい.ついでに,世界が五分前に始まっていても
おかしくない.その続きに,この世は既に誰かが勝った後の世界だ
なんて考えたくもない.
ここまでくると﹁別の自分﹂なんて呼びたくなくなる.﹁別の他
人﹂がいいかもしれない.なら,それはただの他人だ.
よかった.前世なんてなかった.
こんな風に,あっちこっちと想像を走らせてみたところで,正解
へはたどり着けない.第三帝国の哲学者がいう﹁投げられっぱなし
性﹂だ.手掛かりを求めて怪奇事件の記事を調べるのはとうに飽き
た.
引き継ぎデータやMODを入れて二週目を始めたゲームのキャラ
も,こうなのかもしれない.ふと気が付くと,手元に大量の金と強
い力と充実した装備がある.あるいは全裸である.何があったか思
い出せない.でも,何もなかったはずがない.
彼ら勇者たちはひとしきり喜んだり困ったりした後,ある考えに
至るだろう.
それは︱︱.
布団に入って秘密のことを考えると,いつもこの辺で意識が薄れ
ていき,気付けば朝になっている.試行錯誤で編み出した不眠を誤
魔化すライフハック.たまになら夢のような何かだって見られる.
不眠で死ぬ人間はいない.
不眠で死ぬキャラはいる.
二〇時五五分
:
起床
,
そう聞いて以来,広路は念のため寝ておくことにした.
︷
四月だというのにまだ肌寒い.寝る前に暖房の入タイマをセット
しておけばよかった,と広路は後悔した.
7
起きあがる気になるまでの時間稼ぎとして,布団に入ったままケ
ータイで夢日記をつける.
今日は夢の中で起きる夢だった.夢の夢の中で誰かに正面から拳
で殴られ,目が覚めたら夢の中だった.日記検索によると半年ぶり
六度目.この手のやつは何か損した気がするので,上書きして忘れ
たい.でも﹁二度寝﹂する時間がない.
移動
,
大きく息を吐いて気合いを入れ,もそもそと布団から這い出て,
急いで胴衣を着る.
:
やいかまこみち
二〇時五九分
隣室の姉,焼鎌小径を起こしに行く.
ノックもせず部屋に入り,真っ直ぐ窓へと向かってカーテンを開
ける.
女子高生らしからぬ室内は,朝日の白さでより殺風景に見える.
無地の机と椅子とクローゼット,鏡台,ベッド,エアコン,照明,
空気清浄機,自動掃除機とその基地,ゴミ箱.他には何も表に出て
いない.枕元の古いぬいぐるみがなければ,病院の個室かビジネス
ホテルの一室と間違えそうだ.
以前は二段の下だったベッドに腰掛けて,毛布にしがみつく小径
の穏やかな寝顔を眺める.
よく似た顔の彼女は本来,広路の姉になるはずではなかった.こ
れは秘密ではない.
広路と小径は,不妊治療の賜,性別違いのMD型二卵性双生児だ.
出生は広路からだが,﹁姉ブームくる﹂という母の一存で,書類上
は姉弟になったらしい.これこそ秘密にしてほしかった.あと,姉
ブームはこなかった.
その﹁入れ違い﹂のせいかはわからないが,小径はみなに隠れて
﹁兄さん﹂と呼んでくることがある.これは小径の秘密だ.
そもそも双子になるはずではなかった.これが広路の二つ目の秘
密.
理由は知らない.でも,なるはずなかったのは知っている.
8
この生殺し感は一つ目の秘密,生まれる前の記憶喪失と共通して
いる.もっとも,予定の内だろうと外だろうと境界だろうと,今は
血の繋がった家族なのだから,どうでもいいといえなくもなくはな
いかもしれない.
小径は何か知っている可能性もあるが,聞くことができない.今
と同じく,誤魔化すように頭を撫でたり頬をつねったりするだけだ.
呪いか,それとも勇気がないだけなのか,あるいは⋮⋮.
いつものように迷走し始める思考を打ち消すつもりで呼びかける
と,応えるように小径の瞼が痙攣し,静かに開かれる.寝ぼけてい
るのか,這うようにこちらへ腕を回して胴にしがみつき,小さく唸
りながら下腹部に顔を埋めてくる.すぐにひきはがし,自室から持
ってきた胴衣に着替えさせる.
着替え終わっても立とうとしないので,背負って階下へ向かう.
:
移動
,
背中と息の当たる首筋だけ温くて気持ちが悪い.
二一時〇三分
薄暗い廊下に微かな衣擦れの音と小径の欠伸が響く.
一階の洗面所に着いたら,小径を降ろして壁に立て掛け,自分の
顔をバシャバシャ洗う.ニキビができたのでいつもより雑ではない.
それから二人羽織の要領で小径の顔をぬるま湯と水で丁寧に洗い,
化粧水と美容液を使ってから,髪とまつ毛も整えてやる.ここまで
してもぐずるので,また背負う.
母屋の隣にある共同稽古場へ向かう途中,耳元での囁きに従い,
トイレへと寄る.小径を便座に座らせ,一人で先へと向かう.
トイレのそば,一階奥の扉から渡り廊下へ.屋根はあるが壁はな
い.すぐ脇に植えられた梅は,ほとんどが零れ落ちていて,季節の
変わり目だと感じさせる.が,そんな風情を楽しむよりも,今は寒
さを感じる前に渡ってしまいたい.ここは祖母が入院してから掃除
:
別棟着
,
が足りないので,そろそろ壁を設置させてほしい.
二一時〇五分
水分を補給してから掃除を始める.叩いて,掃いて,拭くのが終
9
マンション紫烟楼へ移動
,
わる頃,剣術の師匠である祖父が小径とやってくる.納戸から刀を
:
出してもらい,型の稽古を始める.
二二時〇〇分
稽古場の二階に昇り,来たのとは別の渡り廊下から隣のマンショ
本棟浴室へ移動
,
ンへ.非常用通路の一番奥から身を乗り出し,外の銅灯籠,秋葉様
:
の火を新しい蝋燭に移す.
二二時〇五分
:
台所へ移動
,
いつもより二十五分ほど早く抜け,シャワーへ.
二二時〇九分
包丁に持ち替えて料理の時間.相手は五人分の朝ごはんとお弁当.
今日の献立は,メバルの煮物,じゃこ菜っ葉のふりかけ,筍のお味
噌汁.お弁当の主菜は,豚肉とブロッコリーの塩炒め.豚はロース
を薄切りでやわらかく.にんにくの代わりにしょうが多め,片栗粉
少なめにし,生姜焼き風にさっと炒める.これで約百五十キロカロ
リー.旬を過ぎてもなおブロッコリーの汎用性は異常と言わざるを
得ない.今度は魚のすり身とフライにしよう.
副菜は,蒸し海老と野菜の盛り合わせバーニャカウダ風.バーニ
ャカウダソースは,昨日つくって保存しておいたスープをペースト
化させて作る.自家製アンチョビの食感を残しつつなめらかに仕上
げ,にんにくの香りをミルクとスパイスで抑制している.こちらは
約三百キロカロリー.
彩り鮮やかで香り豊か.春らしくなってるじゃないか,とひとり
ごちる.そこらの解凍茶色弁当とは違うのだ.
七時半ごろ,両親が起きてくる.居間のセットトップボックスを
起動してラジオ番組を流すと,すぐ気象情報コーナーになる.
今日の関東地方のお天気は,不安定ながらも日中は晴れ.都内で
はところによりにわか雨に注意.弱い南風.花粉は少な目で,各種
放射線と磁気嵐,微小有害化学物質の量は平常通り.地震予報とデ
ブリ落下予定は無し.
続いて,星座×干支占い.今日は獅子座×辰年が百点.乙女座×
10
辰年は零点.出生二時間差でこうも違うのは何なので,五十点くら
いかと思っていたら,母も同じことを口にする.誤差が五割になる
ので無意味だと気づいて言おうとしたら,父に先を越された.
CMが明け,次のニュースコーナーが始まると同時に朝ご飯完成.
耳を澄ますが,東側俳優のお忍び来日がトップニュースな程度に平
和らしい.いつもの中米中東中阿の内戦情報,大規模ネット回線障
害の復旧と続く.
自室へ移動
,
容器にご飯とお味噌汁をよそって,お弁当も完成.蓋は開けてお
:
き,少し冷ます.
二二時三八分
居間へ移動
,
部屋へ戻って制服に着替える.体形に合わせて仕立て直してもら
:
ったばかりなので着心地が良い.
二二時四一分
鞄を持ってダイニングに戻ると,既に祖父も食卓についていた.
十数秒後,小径がけたたましい足音とともに飛び込んでくる.髪は
濡れたまま,セーラー服の襟が外れかけ,ブラ紐もちら見えという
適当さ.一言も発さないまま母に連行される.誰に似たのか,と祖
父がいつものように嘆く.数分後に全体が整って戻ってきた.家で
の母は,本業のデザインよりスタイリストの仕事が多い.
では,いただきます.
FM花街が七時五十五分をお知らせします.
ごちそうさまでした.
思春期の子どもたちの前で,父とキスしてから母が出勤.
いってらっしゃい.
さっと後片付けをしてから,残りを食器洗い機に入れる.今日の
,
雲一つな
洗濯は,教授会以外に予定のない父に任せておく.いつまで全員分
玄関へ移動
任せられるのか,もういいならずっとか.
:
いってきます.
二三時〇〇分
玄関から出て,すっかり明るくなった空を見あげる.
11
い晴天.だが,十二階の方にUAVらしき影が見える.視認できる
ということは攻撃機ではないのだろう.先月,ペットボトルロケッ
トで撃ち落とされたのは,どこだったか.考えようとするのだが,
記憶がぼやけてしまい思い出せない.
気にせず物置のクロスバイクを担いで表門へ向かう.門を開ける
と,幼馴染が三人,いつもの順に広路たちを待っていた.
いつも通り,小径は挨拶だけして一人で先に行ってしまう.いや,
あなじゆか
今日はUAVも一緒だ.テロリストに見えないことを祈る.
一緒に見送る三人の右端にいるのは,穴師夕掛.小径の背に手を
二年生版だよー﹂
振り終えると,こちらに笑顔で向き直る.
﹁どう?
ペンギンの翼みたいな手をして,とてとてと,出来の悪い電動ぬ
いぐるみのようにゆっくり回転し,新しい髪型を見せてくる.
﹁新鮮な感じがする.初めてだっけ?﹂
﹁うん.いろんなのやったのに普通のショートは初.子供っぽくな
いかなー?﹂
﹁いや.シミュレータのより合ってるし,心配してたほどでも﹂
大げさに心配してたよりは,なので子供っぽさはある.とはいえ
美容師さんの腕か幼馴染補正か,小学生には見えずに済んでいる.
見えたらそれはそれで,かもしれんが.
﹁地毛の茶系に戻したのが良かったのかも.稽古にも都合がいいし,
シャンプー節約できるし,見た目が問題ないなら.うん,当分これ
で行くからねー﹂
夕掛はもう一回,今度はバエレ風に片足上げながらつま先立ちで
くるりと回転してから,軸足だけでピタリと止まってキメ顔をする.
目視確認.本日のペチパンは黒.
﹁名探偵みたいな顔しやがって.当分って,先月,うちと同じボブ
にした時もじゃん.前のシニョンの時も,前の前の︱︱﹂
かざまつりしま
﹁保育園まで遡る気かー﹂
風祭矢摩が三人の左端からつっこんできて,つっこまれた.
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﹁ほぼ毎月変えてるのに,どうして覚えきれるんだ﹂
前は広路も覚えていたが,本人も忘れているので諦めた.
﹁髪は判子絵もといキャラの命だからね.プレジデントと呼んでく
れたまえ﹂
原稿途中で寝落ち?﹂
﹁閣下,お命にトーンが⋮⋮取れた﹂
﹁ありがと.なんで付いたんだろ?
HAHAHA!
﹁ごめんね,気付かなくて.しまちゃんのてっぺんは何か邪魔だか
らさー﹂
﹁嘘つけ.ただの身長差だろ﹂
去年の身体測定だと十四センチ差.現在は目測で十五センチプラ
スマイナス三ミリといったところか.服の上からわかる何かの差は,
あまりなさそうなのが何とも言い難い.文字通り表現しづらいとい
う意味で.
いや特に思うところはないですええはいマジで本当に.
﹁トーンは白髪っぽくなるから嫌なんだよね.墨ならいいけど﹂
言われてみればか.いつから?
染めるか抜いた方
﹁よくないよー.しまちゃんの,二重の意味で緑髪だから分かる﹂
﹁そうなん?
がいい?﹂
健康診断
矢摩はこちらの顔色を窺いながら,両手で髪をぐしゃぐしゃにす
る.
﹁結構前からだよね.色替えはどっかなー.原因次第?
は明後日だよね﹂
﹁ああ.悪いとこないなら,そのままでもいいんじゃないかな.今
のじっくり見たのは初めてだけど,艶も深みもあって,髪型にも合
ってるんじゃないか﹂
﹁なら,今度のサロンまでほっとく﹂
矢摩はそう言って髪を乱すのをやめた.自発的に行くことがない
から,下手すると六月くらいまでそのままになってしまうのか.夕
掛が眼で何か言っているので,後でそれとなく行くように仕向けて
13
おこう.
﹁うーん.附子の舐めすぎー?
﹁じゃあ,筆折るか﹂
﹂
﹁木食苦行だから仕方がない.外で同じくらい食べてる二人は,っ
て運動量の差か.なら今年こそ,あ,ねえねえ,話変わるけど,二
年のクラス,一年は見事ばらばらだったけど,今回は紙幅の都︱︱﹂
﹁はい,ブラシ﹂
はちこうまゆみ
無意味なメタ発言を割って,さっきまでケータイをいじっていた
真ん中の八荒万弓が入ってくる.
﹁ありがと.どうせすぐ崩れるからいいのに﹂
﹁やー,流石にあんなはダメだよ.ね?﹂
気にはしないが頷いておく.
さっきの気づいてた?﹂
﹁ほら.ミストとかしないんだから注意しようよ.まゆちゃんはど
う思う?
﹁私が取ってもね.白髪なら問答無用で抜いておくけれど﹂
﹁ずっとケータイに夢中だったじゃないかねチミは﹂
﹁部屋の照明を消すのに手間取っていただけです.遅れそうになっ
たから﹂
﹁あれだとまだ点いてないか﹂
﹁⋮⋮広路,お願い﹂
操作のついでにロゴ部分の保護シールも剥がしておく.その間に
万弓は,濃紺にも見える長い黒髪を櫛で梳き,シュシュでアップに
結んだ.
﹁うん,まあ,どんまい.後で練習しよーね﹂
﹁茶色い電気の実績と消灯ですよの実績が解除されました﹂
﹁それより,クラス分けなら既に明らかでしょう.特進コースが始
まるから,矢摩と夕掛だけ別﹂
万弓はばつの悪そうな顔で話を戻した.
﹁まーたそんな顔してー.まゆちゃんもこうじくんも,けいちゃん
だって結局,希望は普通コースになってたじゃん.前回ついに一桁
14
﹂
入ったくせにー.これって,まだみんな一緒がいいってことだよね
?
﹁そうはっきり聞かれると困るのだけれど.あと盗み見は感心しま
せん﹂
口を真一文字にしているのは,照れ隠しにしか見えない.
﹁かわいいから照れんな.あと,これども﹂
﹁こっちも﹂
ケータイを返す.
﹁ありがとう.ありがとう﹂
各員,登校準備はできたようだ.
さて,ここからどうなるか,話題を振ってみる.
﹁そういえば,お隣さんは今年からエクシードならぬアルティメッ
まゆならギリかな﹂
トコースができたって﹂
﹁究極のお嬢様向け?
マネーロンダリングと迂回献金指南
﹁女子高でその名付け方はどうかしら.節税の方法とか慰謝料のも
ぎ取り方を教えてくれるの?
なら興味ありますけれど﹂
もっかい言ってみ?
﹂
﹁女子校の女子高生のアラサー化ならぬフィクサー化とな.筆が滑
るな﹂
﹁はー?
﹁微塵もうまくありません.二度と言わないように﹂
容赦がないので少し逸らす.
﹁うちの高等部でも特別特進コースなんてのつくるらしい.バカロ
レアとれる医,薬,法,生物,情報の5つ﹂
﹁違和感感じるねー.全席優先席みたい﹂
﹁ほとんどが特進希望で真上に行かないんだから,自然なんじゃな
いかね.選抜進学だと他のクラスに悪いだろうし.今更だけど︱︱﹂
﹁待て.誰か黒助門に来る﹂
広路がそう言った直後,周囲に裏大門番所の警鐘が鳴り響く.一
打と三打の連続.刃傷沙汰か.
15
﹁何人?﹂
広路が感じたのは,どろりと粘つく湿気のような皮膚への刺激.
そして,ヒュンヒュンと風を切る鳥の羽音とブブブと唸る虫の羽音.
﹂
さらに黄色い光がちらちら視界に入り,鼻孔をニラのような匂いが
くすぐる.これを翻訳するのは簡単だ.
﹁一人.追手は小糠屋さんと十寸見さん﹂
二ヶ月ぶり五回目の七代目出動?
﹁この季節.業者に潜って会いに来て,かしらね﹂
﹁かもね.どうする?
﹁そうする.まだ得物持ってるし﹂
﹁補助するよー﹂
﹁うちら引っ込んでる.気をつけて﹂
﹁黒助さまのご加護がありますように﹂
この時,夕掛の二つ上の姉さんが,箒を持ったまま家の門から顔
を出してきたのだが,こちらに気づくと,口パクで頼んだと言って
すぐに引っ込んでしまった.
﹁出たー.有理姉さんのしょくむほうきだー﹂
﹁箒でやったらずっとネタにされるわな﹂
ニラの匂いが強くなってくる.
﹁十秒﹂
﹁おけ.二人は下がって﹂
夕掛が言い終わるのと同時に,裏小門の切戸が乱暴に開かれる.
京町二丁目の南端,九郎助稲荷社殿の脇にあって焼鎌家と穴師家
に挟まれる黒助門こと裏小門は,狼藉者を誘い込むためにわざと開
けやすくなっているので,蹴破る必要はない.
一拍おいて出てきたのは,作業着姿の中年らしき男性.その手に
は⋮⋮血のついたカッターナイフ.いかにも事務作業用という小さ
さだ.門を通る前の身体検査はちゃんとやられたようだ.
死にたいのか!﹂
男はこちらに気づき,吠える.
﹁どけよ!
無関係な人間を避けようとしたであろう気遣いに,広路は応えず,
16
小道を真っ直ぐ向かっていく.夕掛はやや左斜め後ろをついてくる.
さらに,木刀を持った祖父が家から飛び出てくるのがわかる.だが,
時間をかける気はない.
﹁うわーあぶないぶきをすてるんだー﹂と棒読みで告げてから,さ
っさと間合いに入っていく.
隅田公園で散歩するかのようなこちらの平静さに怯えた男は,カ
ッターナイフを振りかぶり、こちらを威嚇しようとする.
そこへ一気に踏み込み,刃が振り下ろされる前に跳んで,片足で
睾丸をピンポイントに蹴り上げる.
息が止まって悶絶する男.間髪入れず近寄って,腕を掴んで捻り,
カッターナイフを落とさせる.落ちたのは駆け寄った夕掛が堀へ蹴
り飛ばした.関節を極めたまま,祖父と追手の到着を待つ.
先に着いた追手側に引き渡し,次いで祖父に後処理というか身代
わりをお願いして,小道を戻る.途中で,また鐘が鳴る.今度は長
い三打が三回.事態解決の報せだ.
自転車のところに着くと,うちの門の影から二人が出てくる.
﹁お疲れ様.黒助さま,ありがとうございました﹂
﹁乙.無事よし.帰還よし﹂
﹁今回はやることあったよー﹂
﹁一応,靴は拭いときな﹂
懐紙を取り出して渡す.
﹁ありがとー.⋮⋮こうじくん,何だか今日は機嫌悪い?﹂
さて.話戻すと,成績で切られる可能性あ
﹁あれは単に時間短縮のため﹂
﹁金的でもやったの?
変えられなくはないんだし﹂
るうちらと,忙しいこうちゃんとけいは措いといて,まゆは特進行
っても良かったんじゃない?
﹁私は普通がいいの.お祖母様も,学歴が高すぎる女子に老人は厳
しいと仰るし,お馬鹿に見せてあげた方が各方面の心証に良いから﹂
待つ間にいじりすぎて絡まった髪を矢摩と解きながら,自嘲ぎみ
に万弓は言った.
17
﹁そーいえば,女子生徒の学業成績とモテは一定まで反比例するっ
て研究結果,前に焼鎌せんせーが言ってたよね﹂
﹁さすが十中八九方美人ですな﹂
﹁妙な言葉を発明しないでもらえるかしら,フールーさん.言って
おきますけど,あなたたち全員が特進にするなら,行っても構いま
せんから﹂
﹁はいはい.偽造ツンデレごっこ代行,お疲れっす.つーか,新鮮
だよ.腐ってるのは頭だっての﹂
﹂
﹁あら,ガスが溜まっているのかと.それより,今のは聞き捨てな
りませんね.私がいつ,あなたたちの前で自らを偽ったと?
﹁今.あれ入れてるじゃん.でも,入れてそれって⋮⋮﹂
﹁何を言います.あなたが作った衣装の時だけです.それもモデル
に合わせないのが原因でしょう.寸法を隠すために広路抜きでやっ
て,その上,漫画の方を優先するから,品質を下げないと間に合わ
ない.なのに質は下げたくないと言い張る.結局,この前のように
高い既製品を買わざるをえない.腐っていて覚えられなかったのか
しら﹂
途中から話を変えても逃げられなさそうだ.
あ⋮⋮ごめ⋮⋮元⋮⋮.うち,
﹁その件はマジですまない.直近の風呂での印象でやったらああな
った.もしかしてさらに萎んだ?
眼鏡曇ると微かな違いはわからんのだわ﹂
風呂の時は裸眼だと言ってなかったか.知る必要は全くないが,
変えたのか.
﹁心が曇っているからでしょう﹂
心で見るイコール妄想になってしまわないかと思ったが,口には
出さない.顔を無表情に保ち,息も殺しておく.ただ視線は二人の
間を交互してしまう.反対側の夕掛からはテニスの観客にでも見え
ていそうだ.
その時,三人の後ろ,向かいの門から出てきた矢摩の弟が,口論
している二人へ汚物を見る眼を向け,念仏を口ずさみ,逃げるよう
18
に小学校へ向かった.三人は気付いていない.合掌.
救われない言葉のドッヂボールは続く.
広路は角海老楼の大時計に視線を移し,まだ余裕があるか確認す
クラス一緒だったらいい
る.それに反応して,相槌役だった夕掛が割って入る.
﹁なんで罵倒合戦になってるのかなー?
よね,ってだけの話がさ﹂
ごもっともで.
﹂
﹁そう.二人を無理に上にあげるとみな苦労するから,合わせて私
たちも普通にしてるというだけのこと.お分かりかしら?
トリプルエス
生まれも育ちも普通じゃないだろ.このまま行
﹁ほんとはAだけどBでいいって,カップですか?
級魔導師ですか?
けば,宗の字が三つもつくんだから.体型も和服向きだしなあ.う
らやましいなあ.うち,似合わないしなあ﹂
飛んで火に入る薩摩武士.
﹁心配しないで.即身仏になれば似合うでしょうから.ああ,もう
腐っているからミイラ化は無理でしたね﹂
﹁おお,確かに.頭いいな.ご褒美にお昼は唐揚げを分けてあげよ
う.これで盆地が平原くらいにはなるといいね.たぶん氷原かツン
ドラタイルだけど﹂
﹁遠慮しましょう.我が家には,成長ホルモンが投与された鶏肉な
んか食べる必要ないほど,余剰食料がありますからね﹂
﹁ぐ,ブルジョアめが﹂
食いかかったわりに,矢摩はうまく言い返せず,下を向いてしま
矢摩にはそれがお似合いね.前を向いては足元
う.さっきの﹁九の対偶!﹂がピークだったようだ.
﹁もうおしまい?
が覚束ないのだし﹂
﹁小学生じゃないんだから,足元見えなくても転ばねえよ﹂
あの頃は矢摩が一番大人しかったっけ.
﹂
﹁その重くて硬い後ろの肉塊で,前の脂肪の塊とバランスがとれる
ようになったからかしら?
19
万弓はみんなのお姉さん役だったのに.
﹁どこもかしこもやーらけーっつうの.あ,自慢になっちゃった.
そっちはすぐ骨だもんね﹂
﹁腹部だけでしょう,柔らかいのは.いえ,メンタルもでしたね﹂
さすがに飽きたのか,また夕掛が割り込む.
﹁もーいー加減にしなよ.今日はしまちゃんの敗けでいーじゃん.
きっかけもどっちかといえばそーだし﹂
夕掛が口数少ない影の牽引役というのは,あまり変わらないか.
﹁勝手に負かすな.非は認めるけど勝敗は別だ.ちびっ子の出る幕
じゃない.あっちで蟻でも潰して遊んでな﹂
やぶれかぶれの挑発に,優勢の万弓も何故か乗っかる.
﹁おねえちゃんたちは忙しいの.幼稚園の送迎バスがくるから向こ
うにおいきなさい﹂
なら,
普段は穏やかな振りをしている夕掛も,これには抗戦してみせる.
﹁おっと.これはTGっていうんだ.また忘れたのかな?
脳の筋トレしたげよう﹂
一応,血管はあるから筋トレか.
﹁あたし脳は腐ってるからいいや.まゆはそこにしてもらえば.届
かないし,掴めないけど﹂
まあ,そこにも血管ならあるか.
﹁頑張って背伸びして偉いね.でもまだ早いかな.矢摩にはしない
であげて.数年後には悲惨なことになってしまうから﹂
﹁そんな心配しなくてもいいよ.脳震盪起こすのに,直接触る必要
ないから.卒業まで気絶しとけば,クラス分けも関係ないよね﹂
時計に再度目をやる.時間切れだ.
﹁クラス,今度は俺だけ別だったりして﹂
﹁あ,それありありだねー﹂
﹁いや,それフラグだから.うちもそれでいいけど﹂
﹁うん.それが次善かしら﹂
なんて馴染み甲斐のある人たちだ.
20
明治より残る浅草十二階﹁凌雲閣﹂の下,吉原北里遊郭外縁,足
洗町.義理と人情と任侠と色欲にまみれたこの街で共に過ごしてき
た.こんな関係だと気になるところの恋愛感情はと言うと⋮⋮言わ
せるな.
広路は三人の気持ちを知らない.一応,悪党ではないので普段の
言動でおおよその見当はつけられる.それでも,例え彼女たちが,
個人としてあるいは総意として﹁何か﹂を決めていたとしても,は
っきりと言葉にされていなければ,冷戦だって共同戦線だって無い
のと同じだ.家が近くて小さい頃からよく遊ぶだけの人かもしれな
いし,そうじゃないかもしれない.
こういう関係だと,何でも知っているように思ってしまいがちだ
けれど,そんなのは部外者の幻想だ.
例えば,先月,示現会の時.町会の雑用が予定より早く終わった
ので家に帰ると,なぜか広路の部屋に小径と夕掛がいて,静かな口
論兼組手をしている.止めて理由を問うと,小径がここにいる時に,
夕掛が堀の屋根伝いにやってきて侵入を計り,入れろ入れないにな
ったと.何をするのか,していたのか,それぞれに改めて問うと,
今度は二人が顔を見合わせ,何かを謀ったように,それぞれ無言で
去った.後から別々に二人に聞いてみたが,覚えてないという.ま
さか二人も記憶喪失だったとは.いや,幻覚だったのかもしれない.
つきあいの長さや深さに関わらず,知らないことはある.幼馴染
でも家族でも,自分でさえも.言葉にするまでもなく当たり前のこ
とだ.
21
第二話 為歓幾何浮生若夢︵青春は短い︶
角海老時計塔の鐘が吉原に鳴り響く.
なんとか間に合うように話を締めることができた.みなで弁天様
:
移動
,
と黒助様へ手を合わせてから,隣町の高校に向けて出発する.
二三時一五分
キラー衛星までよく見える晴天の下,日暮里通りの裏道,遅咲き
の桜で満開の並木沿いを,縦列で走り抜ける.クロスバイクの夕掛
が先頭で車列を引っ張り,次に自作ロードバイクの矢摩,それから
電動軽快車の万弓と続き,最後の広路が全体を調整する.
安全横丁を順調に進んで,学校のそばの信号待ち.
今日はお隣の女子校も始業式なので,駅から門前までが混雑して
いる.その様子を探ると,視界から彩度が落ちていき,無彩色にな
ったあたりで校舎の方に微かな光源が見えてきた.
小径はもう抜けているようだ.友人や先輩も見当たらない.
群衆から気を逸らしたその時,不意にどこからか起伏のないピッ
チの低い音が聞こえてきた.言語化はできないが,するならボーと
いう音.種類は金属の振動.
たぶん鐘だ.確信はない.でも予感はある.とても低く響いてお
り,チャイムではない.教会のものとも寺のものともつかない不思
議な音色だ.汽笛や呼び声に似ていなくもないが,もっとわかりに
くく,濃い霧の中で遠くから反響し,その途中の音も飲み込んでき
たような,出処の曖昧さだけが際立った波.名状しがたいだけで済
ませたくなる複雑さ.
腕時計で辺りの音を数秒だけ録る.すぐに耳へ当てて再生するが,
雑踏や電車の音だけで鐘の音は入っていない.
辺りを見回す視界の端で,信号が青に変わる.
道を渡ってまっすぐ正門へ向かおうと動き出すと,それを合図と
22
したのか,鐘の音は止んだ.
渡りきったところで少し考えてから,広路は先頭の夕掛に声をか
ける.
﹁今日は裏門から行くぞ﹂
﹁はいはーい.後ろ,右折しますよー右ー﹂
﹁ここでハンドルを右に﹂
﹁前を見なさい.怪我しますよ﹂
広路の秘密は三つ.一つ目は前世の記憶喪失.二つ目はいるはず
のなかった家族.そして三つ目は,正体不明の鐘の音が聞こえるこ
と.
鐘は不意に鳴り始め,不意に止む.他人には聞こえない.録音で
きない.楽器で再現もできない.経験則として,鳴ったときにしよ
うと思っていたことをその通りに実行すると,八割超の割合で良い
結果になっている.もしかしたら考え方の違いで本当は十割,ある
いは零割なのかもしれない.
今回は,混雑する正門を避けて裏門へ行こうか思い付いたところ
だった.これなら失敗リスクも大したことがなさそうなので,従っ
てみる.
ぐるりと学校の外周を回ったところにある裏門に無事到着.誰も
いないので静かだ.ケータイに仕込んでおいたスマートキーを使っ
て電子ロックを解除する.
ちゃんと門から入ったので,誰かの何かが金網につかえることも
:
学校着
,
なく,無事に駐輪場へ到着できた.つかえたのは小学生の頃に一度
だけだ.
二三時三〇分
正門はまだ混んでいる.リプレースされたばかりの認証ゲートと,
春休み明けの再会のせいだろう.
部の先輩や前の級友を見つけて人だかりの一部になった三人と別
れ,広路は掲示を見に行く.
玄関そばのラウンジに設置された大型ディスプレイの前にも,今
23
日の日程とクラス分け表を見る人だかりができている.皆ああだこ
しぶいえい
うだと盛り上がっているが,広路は一瞥もしない.ラウンジの壁側,
自動販売機のそばで隠れるように立っている友人,澁衣景のもとへ
まっすぐ向かう.
夕掛曰く,﹁細いのにふわふわで,石鹸やシャンプーじゃない良
い香りがする﹂らしい.
﹁広路さん.おはようございます.また同じクラスになることがで
きて嬉しく思います.不束ものですが,今年度もよろしくお願いい
たします﹂
澁衣は透き通った声でこちらに挨拶をしてから,ゆっくりと長め
かつ浅めに頭を下げる.文人の礼の見本といえる所作.垂れる長い
髪から微かな香りが立ちのぼるが,何かまではわからない.うま味
のように,いい匂いという名前でいいんじゃなかろうか.
広路たちは高等部からの外部受験,澁衣は中等部からの内部進学
と,級友歴はまだ一年.けれども,小学一年生の時に茶会で知り合
っていたので,付き合いは長い方になる.内進でも普通コースなの
は矢摩の建前と似たようなもので,婚約者よりも大学の格を下げる
ためだとか.ただしこっちは強制.門閥と財閥の違いか.
ゆっくり頭をあげた澁衣は何か言いたそうに,それでも口は優し
げに微笑んだまま,こちらを見てきた.察して適切に反応できなか
ったら,そのまま萎んでしまいそうな予感がする.こんなときは外
見の変化だというのが母の教え.
目が合ってから一秒で全身を見渡すが,それらしき変化はわから
出会って以来ずっと,どストレートだったはずだ.万弓曰
ない.見当違いか.いや⋮⋮毛先が巻きぎみに内側へ向いているよ
うな?
く﹁ヘアケアは私以上かもしれない﹂ので不自然といえる.
よし.ここまで二秒.
﹁あれ,髪型変えた?﹂
澁衣の穏やかな微笑みが激しい笑顔に変わる.
本物の専属家政婦さんがいるご家庭に寝癖はないと踏んで正解.
24
しかし,研究会の先輩にやらされたハイレゾ音源のブラインドテス
トより違いがわからん.
﹁はい.ほんの少し,なのですけれど.昨日の夕掛さんのお話に,
私もと思い,できる範囲で変えてみました.気づいてくださって,
とても嬉しいです.⋮⋮こういった螺旋状の髪型はお嫌いですか?﹂
矢摩曰く﹁上目遣いと首傾げと頬赤らめの合体は熱血最強.これ
にはにかみ笑いが付くと元気爆発.チラ谷間が加わると絶対無敵.
ブラチラの追加で完全勝利.さらにボディタッチが合わさって地球
滅亡.とどめの桃色吐息だと次元崩壊﹂らしい.
﹁げ,もとい,精美で良いと思います.はっきりとわからないのは
勿体ない﹂
﹁ありがとうございます.せっかくですけれど,ひけらかしたい訳
ではないので,これでよかったのです﹂
﹂
ラウンジの混雑が増して地球が滅亡したので,少し理解が追い付
かなかった.
﹁気づけてなにより.ところで,他のクラスは見た?
﹁はい.小径さん,矢摩さん,万弓さん,夕掛さんは別でした.残
念です﹂
それを受けて,幼馴染ネットワーク﹁しまゆうこミュ﹂にクラス
分け結果を流す.次善の結果にどう反応するか.
﹁それでも,亜蘭さんと美浦さんはご一緒でしたよ﹂
幼馴染たちと引き換えに,数少ない友人たちと同じクラスになっ
たようだ.学校行事の多い二年目だから,これはこれで最善だった
かもしれない.馴染み甲斐の無いことを思ったところで三連発の返
信.
﹁うまく揃ったねー.焼鎌って名字の人,けいちゃん以外にもう一
人いたんだ.知らなかった﹂
全国にはあと十二人いる.
﹁生徒会の力でやり直そうそうしよう﹂
新宿の某学園に転校しよう.それか四十年前に行こう.
25
﹁行くより呼んだ方が楽だしおかえりなさい御館様って言ってあげ
るから来て︵病院と檻と鎖と注射器とビールジョッキの絵文字︶﹂
病院,転じてホスピタリティー,即ちおもてなしの心.わかりづ
らい.檻とかは知らん.
﹁せっかく別れたんだし,今度からお昼は新しい学食にする?﹂
本文を全て無視して返信したところで後ろへ振り向くと,高低差
のある声が飛んできた.
﹁いよう生徒会役員ども.同伴重役出勤とは,いいご身分だな﹂と
下段から酔っぱらいボイス.
あしはらくいん
﹁はよ⋮⋮﹂と上段からウィスパーボイス.
くまざわむと
酔い声の主,蘆原九音.
良い声の主,熊澤夢人.
いろんな面で高低差の激しい二人にも,澁衣の礼は等しい.つら
れて蘆原先輩も礼をする.
焼鎌兄妹と澁衣,熊澤・蘆原の両先輩は,去年まで手芸研究会員
だった.母を含む業界人が在籍していたことから,一時期は文化研
究会系最大規模を誇った老舗だ.
しかし,一年生の広路ら三人が入った時,会員は二年の二人だけ
しか残っていなかった.逃げた連中に主たる原因とされたのは,熊
澤先輩のコミュニケーション能力だ.彼女と長く話していると,損
したような気に陥るらしい.十重二十重と対策を張り巡らせなけれ
ば最終的に正気が失われる,とまで言う人もいた.実際,彼女のほ
とんどの人間関係は破滅した,あるいは破滅させられた.
広路たちが入会してしばらくした後,家庭の事情で澁衣が退会.
中途での新入会員が確保できず,規定より人数不足になったため,
昨年の年度末で廃会が決定.それから色々あって,紆余曲折を経て,
蘆原先輩から無茶苦茶な提案があり,かくかくしかじかの結果,魔
がさして,ついカッとなって,電撃的に﹁裁縫と自由﹂党で生徒会
役員会選挙に立候補することになってしまった.
それからはとにかく大変だった.
26
ここでの選挙における最大かつ根本的な問題は,明白なスクール
カーストがみられないという点だ.体育会系がギークの機材買いに
パシられる.絶滅危惧種のギャルともはや主流派の腐女子が連れシ
ョンをする.中等部からのボンやボンボン同士ですらつるまないし,
そいつらの腰巾着も見当たらない.
明確な階層を形成するほどのやる気が誰にもないからじゃないか,
と思う.父曰く﹁地方国立大学の工学部キャンパスに近い雰囲気﹂
だそうだし.
もちろん,いじめや可視化されない階層意識はあるだろう.そん
なの無くならない.幼馴染みや友人たちが関わらなければ次善とい
える.こういう思考がそれらの存在を助長することは自覚している.
でも,手が回らない.広路たちは,万弓や澁衣を﹁適度にお馬鹿さ
んでいた方がいい﹂と言われる社会から連れ出すことさえ,まだで
きない.もっと言えば,性産業に文化的価値を与える道化一族に差
別を語る資格はない.
それはそれとして,階層構造の不在は間違いなく良いことだろう.
しかし,選挙となると別.多数派工作のために交渉すべき相手がい
ないのだ.
なぜ業界団体は時代遅れや癒着の温床と批判されてもつくられ続
けるのか.理由の一つは,業界の構成員をまとめることで業界を定
義し,お上から業界へ,業界からお上へ,まとめて連絡できるよう
にするためだそうだ.一度に親族縁者へ挨拶を済ませるための,結
婚披露宴の様なものらしい.いくつもの団体に関わってきた祖母が
言っていた.
根本的な問題はまだ他にもある.社会勉強のためか,国政選挙と
似た一党制で,さらに棄権がデフォルトなのだ.部活のような支持
母体を持たない広路たちの党は,まず投票率を上げなければ話にな
らない.かといって,破滅を語る人たちに届いてしまうと,落選の
危険が高まる.トレードオフというよりヤマアラシのジレンマ.
人見知りのオタクと牢入りのお嬢さまでもできる辻立ちの時間と
27
場所割り,戸別訪問の時期と効果的な実弾の用意,世論調査と当落
ラインの分析⋮⋮と際限なくやるべきことは増えていき,涙と安楽
椅子と茶菓子無しに語れない苦労の結果,なんとか勝利.会長は熊
澤先輩で,広路と澁衣が副会長,小径は書記,会計に葦原先輩,庶
務が該当無しという布陣.庶務は先輩たちの友人の鈴内先輩に内定
していたのだが,諸事情で取りやめになった.
﹂
当選祝いの凌雲閣ケーキバイキングの帰り,蘆原先輩に立候補の
生徒会なんだぞ?
理由を聞くと,予想通りの答えが返ってきた.
﹁だって,高校の生徒会だぞ?
澁衣はいつか,あの頃の苦労を回顧録にまとめるべきだ.たとえ,
立候補かスクールアイドルデビューの二択だったとしても.
﹁とはいっても,都内じゃみんなで遊べる場所はいくらでもあるか
ら,別に落ちても良かったんだけどな﹂
この人は回顧録を毎日読むべきだ.
無駄に深い礼から頭をあげた蘆原先輩に,広路は時間差で挨拶す
る.
﹁おはようございます.鈴内先輩はどうかしたんですか?﹂
﹁んーとな⋮⋮風邪だ.風邪でいない.新学期初日からついてない
やつだ.昨日提唱したばっかりの,街の女子高生はなぜか三人組の
法則がいきなり崩された﹂
﹁なら先輩たちもお休みすればよかったのに﹂
﹁ひでえ﹂
話を一旦切ったつもりなのか,先輩が袖を掴んで引っ張ってきた.
そのまま,引っ張られるように人だかりから離れたところへ移動す
る.澁衣たちは置き去りだ.
太い柱に隠れて止まったところで,あーだのうーだのを小声で発
し,何か言いたいアピールを露骨にしてくる.多分,自覚はない.
﹁本当はなんでお休みに?﹂
幾つか候補を考えてから,一番無さそうな話題を振ってみた.
﹁⋮⋮なんかな,とあるギャルサーから声掛けられてるらしくて,
28
しばらく姿消さないといけないかもって.これは冗談じゃないから
な﹂
ドラッグ!
何等かは分からないが,当たったので続けてみる.
﹁ギャルサー﹂
﹁そ.ぐあるすあ.生きた化石﹂
セックス!
おまけに完璧な着地!だろ﹂
暴力!
﹁話を勝手に補間すると,危ないんですかそこ?﹂
流血患者!
﹁ああいうのって全部,金!
バイオレンス!
声がでかい.
﹁﹃週刊実は﹄か﹃作家になって声優と結婚しよう﹄の読みすぎで
は﹂
小声で意思表示をする.
﹁途中からは冗談だ﹂
一部わかってくれたようだ.
﹁でも,そのギャルサーは実際そうらしい.昔よくあった若作りの
おっさんが雑誌に出してあげるとか声かけて薬漬けにして金貢がせ
て食い散らかすタイプのじゃなくて,ギャルがボスでオタ女や野郎
どもに薬ばら撒く奴.前者は三年くらい前にトップつーか下請けの
おっさんが逮捕されてニュースになっただろ.ああいうのを金主と
ま,なんでも
農場含め乗っ取ってできたんだってさ.羊の中にシミュレータのヤ
ギが混じってたわけだ.いや,カッコウの託卵か?
いい.全部伝聞とネットで調べたことだから本当か知らんけど,リ
ンちゃんがやばいって言うんならやばいんだろう.なんか用心棒,
もちろんギャルのな,雇って,ギャルサー狩り狩りとかもやってる
らしい.みんなモヒカンで肩パッドしてんじゃねえのかな﹂
﹁ギャルサー狩り狩り﹂
﹁聞いた話なんでつっこまれても困る﹂
バギーと火炎放射器はありえる.合羽橋で売ってたし.
﹁なるほど.推測するに,幹部として勧誘ですか.搾取される側な
のかと﹂
29
﹁残念だが当たりだ.リンちゃんのコミュ力パネエからな.営業部
長にってことらしい.いや,支社長だったかな﹂
出口調査の結果,我が党の得票は半分以上が鈴内先輩への個人票
だったりする.
﹁で,学校来ると待ち伏せからのハイエースあるから逃げるんだと.
あ,そういや用心棒もまだ探してるらしい.だから穴師とかは気を
付けとけよ﹂
身内に警官がいて使いやすくても,家柄的な問題で声を掛けない
とは思うが,未知の相手に期待をしても仕方ない.
﹁鈴内先輩のお連れさん,うちのOGで三田の院生でしたっけ?﹂
﹁知らんそうだ.匿ってすらないな﹂
﹁付き合いだしたの先月ですよね﹂
﹁そりゃ,割れてるだろ.寝取られてたりして.ヤンキーなら隠れ
れば何とかなりそうだけど,ギャルサーじゃそうはいかねえってこ
と.時間稼いで代わりが見つかりゃいいけど,じゃないとなあ.ど
うしよマジで﹂
ああ,権力者の子女が幹部っぽいんで,金にならなくても
﹁ギャルサーって,そうなんですか?﹂
﹁あ?
徹底的にやってるってさ.このへんがヤンキーとの違いだな.廃れ
た理由ともいうが.今どき続いてるってことは筋金入りよ.サーク
ルの体とってるから,末端の何も知らん連中に事情伏せて回状まわ
してるみてーだ.実際,別件であたしの蜜壺端末にも,借りパク下
手人探しを偽装したメッセージ着たことあるし.うちと隣の学校に
ダークかっこわらいウェブ潜ったんですか?﹂
も遠めの関係者いるの見つけたし﹂
﹁裏は?
﹁ガチハカーかっこわらいでもないのにそこまではやんねえよ.ゲ
ームのアカとか鍵の売買で雑魚を少しずつ釣っただけ.だから半分
くらいは統合的推量.ガードかてえし,国内限定だから﹃ミルキー
ウェイ﹄とか行っても,たぶん出てこないと思う﹂
﹁サークル名は?﹂
30
﹁知らん.知ってたら話しとる.あたしの予想じゃトップは某アイ
ドル声優なんで,﹃オリガ﹄って呼んでる﹂
つい顔をしかめてしまったが,葦原先輩にではない.鈴内先輩に
わざわざ目を付ける程の組織体で,名前が出てこないというのはな
んだかヤバそうだ.
﹁アンテナ高いんだか低いんだか﹂
とりあえず危機感を悟られないように誤魔化しておく.
﹁まあ,大事なのは感度だと申しますし.何とは言いませんが﹂
﹁何だ﹂
﹁胸です﹂
﹁死ね﹂
﹁嘘です.い︱︱﹂
﹁地獄に落ちろ﹂
誤魔化せたのならよし.
﹁はあ,マジやべーよな.名前わからんとか.公園とか図書館でも
やってるであろう生会合を探すのができんし,カマもかけらんねー
し﹂
なじられ損だった.
連中,さすがに売りは手出ししてねえっぽい﹂
﹁何かがどうにかなったら,吉原とか深川の人が出てきたりしねえ
かな?
ポジショントークになるが,野良援交を経済的に壊滅させた売管
法はやはり偉大だ.
﹁ただのミテコの火遊びなら,どうにかなる前にやることはやるで
しょう.それ徹底して赤線が残ったわけですので.ただ,薬物が建
前抜きでダメかと.門内に一粒たりと入れまいとするなら,関わり
たくないはずです.無論,そいつらから来るなら別ですが.あと深
川辰巳は縮小してるので期待しない方がいいです﹂
﹁んー,それはちょっと想定外かな.バックからすると警察は厳し
いし,軍を引っ張り混むネタはないしな.自衛のためにポストアポ
カリプス一式を揃えざるをえないか.機械化PMC雇ってUAVと
31
衛星運用とかなら現代娘っぽくて面白いけど,さすがに実在させた
くない﹂
﹁実際,ドローンなんて,高性能3Dプリンタといくつかの部品と
公開されてるソース使えば誰でも作れちゃいますしね.買っても初
期費十万程度,民間レンタルで月八千円,大学なら無料から﹂
﹁まあほんとになんてお得なのダニー.じゃあうちでも作ろうぜU
AV,ってかドローン.で無人機空戦しよう.BGMはテクノかド
ラムンベース.基盤とソフトはあたしにまかせろーバリバリー﹂
作るより問題なのは運用です.
﹁本気なら一応,生徒会プロジェクトにできるかつついてみますか.
民生機は高度とエリア制限がめちゃくちゃ厳しいですが,教育機関
ならもっといけますし.安定性や離発着用地のこと考えると,飛行
機じゃなくヘリか飛行船の方がいいかもしれません﹂
確か謎の予算枠があったはず.
﹁おー,苦労だけで実入りのない役職の使いどころだな﹂
あんたが望んだ結果だよ.
﹁実は無くても夢は見れます﹂
﹁神託機械実装プロジェクトとか夢見てる巨大数同好会に下請けや
らせよう.一人月十劾ペンゲーくらいで﹂
﹁多めに払ってキックバックさせた方がいいんじゃないでしょうか﹂
﹁どうやんの?﹂
﹁去年掘って死蔵してる仮想通貨で支払って,現金化手数料で取る
とか﹂
﹁桁的に連中なら普通に貯蓄しそうだ.いずれにせよ,その程度の
プールじゃギャルサー対策費にもならんがな.さっさと競合と高田
馬場か西麻布か新潟あたりで潰し合ってくんねえかなあ.でも金に
こだわらないなら,ルート分割して生き残りそうなのが怖え﹂
ここらで掲示を見ていた熊澤先輩と,それに付いていた澁衣がこ
ちらにやってきたので,葦原先輩をつついて促す.
﹁ああ.リンちゃんは定期連絡あるから⋮⋮知らせてもいいよな?
32
﹂
葦原先輩視点でノータイムになるように頷く.
こんなに地味で忙しいとは思わん
﹁助かる.で,汚れた社会の話は措いといて,本題だ.今日までの
生徒会仕事は終わってるのか?
かったから,不安なんだよ﹂
初めに推測したうち,最も可能性が高いと思ったのが一等だった
みたいだ.
﹁忙しいって,そりゃ一応は教育実験校ですし,先代以前は特定の
部活関係以外あまり熱心ではなかったみたいですから,やるべきこ
とは大量にあります.でも,今日までのは昨日のうちに終わってま
す.ご心配なく.先輩は遠くで見ていたから進捗がわからなかった
のでしょう﹂
﹁失敬な.座ってただけの夢人と違って,手え動かしてたわ.つー
か,隣だったじゃねえか.サイズ的に遠くにいるように見えたか.
その場で遠近法とかいうんじゃねえよ﹂
ずいぶん遠くまで一人で走ってくれるな.
﹁ごめん.役立たずで.前もそうだったね.研究室で生地の在庫を
︱︱﹂
じわりじわりとやってきていた熊澤先輩の横槍で話が逸れそうに
なるのを,澁衣が留めようとする.
﹁あの件は倉庫の鍵が︱︱﹂
﹁澁衣にも悪いことをしたよね.あのときも︱︱﹂
口を挟んだことの後悔をわずかに目に表した澁衣に二人で心の敬
礼をし,話を行事の打ち合わせに戻す.
﹁詳細ですが,事前作業と各委員会への当日作業の割り当てとその
マニュアル配布は済んでます.欠員が出ても全ての代替は準備可能
です.会長は式の後の説明会で,最初に原稿読む挨拶だけ.後の表
に出る仕事は,俺と小径と澁衣だけです﹂
それを聞いて先輩は大きく頷く.
﹁了解した,てか安心した.お疲れさま.最初からわかってたこと
33
だけど,あたしらこれでも受験生なんで.今後も三人に任せること
多くなるから.澁衣ちゃんは家のことあるし,焼鎌姉弟が頼りだ.
わりーともありがてーともちゃんと思ってる.返そうとも.なんで,
そんかわり,あたしは夢人をなるべく引き受ける.リンちゃんはア
レだし.あたしの屍をこえてけ﹂
熊澤先輩が蘆原先輩ラブなのは,唯一の救いともいえる.ケアを
防波堤に集中すれば全体を守れる.生け贄ともいう.
﹁用件が済んだところで,だ.愛しの小径お姉ちゃんどこ行った.
抱きしめないと一日が始まらない.一回のハグは,一日のストレス
を半減させるんだぞ.これ豆ちゃんな.二回でどうなるかはしらん﹂
﹁今日は始まらないまま終わりそうです.一日分若くてお得ですね﹂
﹁いや,まだだ.計算してみたが,講堂への移動中に襲える.そう
しないと我が右腕の力が云々で女子生徒が触手まみれに.故にわた
しが抱かねばならんのだ.それをわかるんだよ広路﹂
それが本当なら,阻止してもいいんじゃないだろうか.
﹁わかりません.愛しくない方と似てるのに﹂
﹁似てるのに大人しくて可愛らしい.出来ないことが出来て二倍お
いしい.義理でもいいからあんな妹が欲しい.あ,いや,姉か﹂
こういう無自覚っぽいワイルドカード発言があるから,反応に困
って聞き役にならざるをえない.釘を指しておくべきか.
﹁弟として前から言おうとしてたんですが,姉は大人しいんじゃな
くて,先輩と話をするのが億劫なんです﹂
双子だろうと
﹁直球過ぎてひでえ.でも,これはこれで将来のデレがおいしい﹂
効いていない様子だ.
﹁いや,待て,待て.今のはおまえの想像だろう?
他人なんだから,勝手に決めるのはおかしい.そういうのあたし,
もやもやして嫌なんだよ﹂
やっぱり効いてた.発言に内心で同意しておく.口では無視して
話を先に進めておく.
﹁本人の証言に基づく再現です﹂
34
﹁マ,マジでか.ごめんよ⋮⋮.よし,やめるよ.やめないかもし
れない.やめないんじゃないかな.ま,ちょっとは覚悟しておけ﹂
﹁その宣言,ここからじゃ届きません.もっと大きな声で.さあ,
かんばれ,かんばれ﹂
﹁いきなり失脚させんな.いや,小径ちゃんて,あたしにだけ人見
知りだから,おまえが伝えてくれ﹂
﹁わかりました.さすが気付かれない気配り上手です.先輩の半分
はオブラートでできてますね﹂
﹁いやいや,重ねるなよ.高校生の会話というのはすべて漫才でな
きゃならんのだぞ.女子はボケ,男子はツッコミなんだぞ.これじ
悪かっ
だから場の役回り的にツッコんで助けてくれ!せめて,こ
ゃあたし空回りしてるみたいだろ,っていうかしてるよ!
たな!
いつウゼェーって顔してくださいお願いします.あたしだって,こ
んな時くらいは直接謝るから.あと,あたしの実質が半分しかねえ
じゃねえか﹂
ようやく暖まってきたようだ.これは何まわしというのか.
﹁ハーフボイルドのヒーロー?﹂
﹁そうだけどちげえよ.ちげえけどそうだよ.会話と会話の前提知
識,両方を端折りすぎだろ.てめーどこの禿だ.あたしと風祭ちゃ
ん以外ついてこれねえって.光ってるネタと違って,ボケは理解と
ツッコミがあって初めて輝くんだからな.訓練されすぎだろ,お前.
話がいくらでも通じるから嬉しいけどさ﹂
﹁ただの私的な雑談なんですから,先輩と通じあえばそれでいいじ
ゃないですか.外向けに前提から語ってたら,今のうざさの非じゃ
なくなりますし,政治的正しさに配慮までしたら何言ってるかわか
らなくなりますよ﹂
﹁本当にうざかったのか⋮⋮すまねえ⋮⋮すまねえ.このご時世,
同世代の五割はオタクっていう調査結果とか鵜呑みにしちゃって,
現実の節度わきまえてなかったわ⋮⋮すまねえ⋮⋮すまねえ﹂
﹁先輩が他人のふんどしでばかり喋ってうざいのだって,俺や澁衣
35
に対してだけでしょう?
なら大丈夫ですよ.舞台では大暴れする
けど楽屋では礼儀正しい芸人さんと同じです﹂
﹁またうざいっていった.そら,時と場合によるんだよと言われれ
ばそうなんだけどさ.んー,自分の言葉で言わせてもらうと,あた
しゃ,もうちょっと段階を踏ませてほしいんだよ.で,上げてから
落とす.登りきって涅槃には着きたくない﹂
持ち上げたら落としていいのか.持ち上がったらそのままでいた
い性分なのでわからなかった.
﹁じゃあ,最初から行くので塔を降りてください.さっき気になっ
たのですが,今回の会長って,小さいことにこだわりますね﹂
さて,どう出る?
﹁そこからか.しかも今回って.あれ何人目とか何週目とかじゃね
えから.⋮⋮ま,昨日とか鼻息荒かったからな.それなりに歴史あ
る部を潰した責任を,あいつも⋮⋮多いに感じてるんだろ.あたし
らにも責任あるけど﹂
一期生の頃から研究会があったらしい.
﹁リコールも解散もないんだし,所詮は内申書にあるだけの名誉職.
ひと味違う高校生活を楽しむだけでいいのにさぁ.⋮⋮ノイズ多く
てわかりにくいけど,夢人はわからず屋なんだよ.いや,悪い意味
で真面目なのかも.見方変えると完璧主義で自閉モードだから,当
たってほしくない憶測だけどな.現時点で,家がアレな以上,ほぼ
間違いなくアダルトサバイバーなわけで.CBTを真面目に勉強し
たほうがいいのかもな.そこまで友人関係に費やせるかわからんが,
逃げた連中みたいにはなりたくねえし﹂
さっきまでとはうってかわった真面目さなので,合わせて広路も
真面目に応える.
んん⋮⋮?
あー,たしかにそうかも.なるほど,そ
﹁真面目に良い意味なんて,これっぽっちもないです﹂
﹁そうか?
ういう考え方もあるか.お前や澁衣ちゃんはそういうの,わかって
はいるけど,やることは巧くやるタイプにみえる.あたしはわかっ
36
よくわからん﹂
ちゃったらもうやらないタイプなんだよ.小径ちゃんはお前と同じ
ではないけどあわせる感じ?
独りで納得してから一旦黙る先輩.それを見てこちらが応えよう
とするのを,遮って口を開く.
大袈裟じゃな
﹁その前に⋮⋮人を見ながら何度も小さいとかこれっぽっちって言
いじりの名を借りたいじめだ!
穴師にんなこと言ってるのみたことねえぞ!﹂
うんじゃねえよ!
く差別だ!
さっきからわざと腰を屈めている自分に対抗して,全身で背伸び
をしてくる.そのつま先を見ながら,もしかして,これが望んでい
た落ちなのだろうかと考える.だとすると,落とされるのは広路の
方になってしまう.生憎,落ちるのは嫌いだ.
ていうか﹃細かいこと﹄じゃな
﹁はい.いじめでした.小さいことにこだわるなんて思って,すみ
ませんでした!﹂
﹁声が小さいなんて言ってねえ!
いのは,それ言いたかっただけだろ.てめぇは別に小さいもん好き
じゃねえのに,しつけえよ﹂
﹁え,声小さい?これくらい?﹂
澁衣との一方通行を断りなく中断して会長が反応する.計画通り
お前ら人の話ちゃんと聞けよ!﹂
だが,どうなるか少々恐ろしくもある.
﹁はい﹂
﹁だから小さくねえよ!
いちいちぃ
﹁聞いてないのは先輩でしょう.俺が言ったのは会長のことです.
﹂
誰がチビ,つり目,剛毛三つ編
お求め通り,落とすために最初から話したんですよ?
細部につっこまないでください﹂
ぶっとばすぞ!
﹁ぎなた読みしてんじゃねえよ!
みの三重苦だ!
なんて楽しそうに怒る人だろう.あと,三重苦じゃなくて瓶底眼
鏡,デコ出し,太眉,八重歯,洗濯板,オタクだけど腐れない,で
九重苦だって自分で言ってましたよね先輩.三つもあったらちょっ
と多すぎるんじゃないかと言われるところを,九つもですよ.
37
よらば貴公の首を柱に吊るすぞ!﹂
﹁九音はそういうこと言っちゃいけない﹂
﹁ええい,よるな!
てきとーなお姫様っぷりだったが,熊澤先輩は勝手に納得して,
澁衣へ向き直る.微苦笑で待っている澁衣の,忍耐と寛容さにはい
つも感心する.あれ?いつも押し付けてるのか,もしかして.
﹁さて.微修正します.今回の会長は意外と大物でした﹂
﹁今回の方を修正しろ.夢人が三十人とかいたらアメリカ滅ぶわ.
止めるのにあたしが百五十人くらい要るぞ﹂
毒針スペシャル!﹂
﹁さすがヒーロー.頭数は敵の五倍.悪なら敵の七倍﹂
﹁ならてめーは外道だ.小バーストキック!
ピキーンと効果音も言いながら蹴ってくる.ダメージはゼロだ.
あまりの無衝撃っぷりに,もう一回お願いする.
﹁SMは愛の上に成り立つんだよ!﹂
それに続けてDDTの態勢に入ろうと密着してきたところで,遮
ぎるように腹から出した良い声と精一杯の決め顔で言う.
﹁俺なりの愛です﹂
葦原先輩は﹁そんなものは要らない﹂とは続けずに,こちらを突
き飛ばしながらバックステップで離れる.そして,うつ向いて﹁ち
くしょう﹂と小声でつぶやき,時計を確認する.この人のツボが未
だによくわからない.商業創作物流通規制の影響で,使いやすいネ
タが全体的に古いせいもあるのだろうか.それとも付き合いが短い
だけか.
なにはともあれ,自分たちの間では落ちたようなのでよしとする.
第三者の視点など考えたくないし,何がどこに落ちたのかは聞きた
くもない.これでよしとする.以上,閉廷,解散.さっさと散れ.
﹁⋮⋮夢人.こいつらもあたしらも時間がねえんだから,もういく
ぞ.はやく用件伝えろよ﹂
﹁もう終わってる﹂
なんか聞こえてきたのボーンズマンだの中野の
澁衣の眼からはハイライトが消えていた.撮影しておきたい.
﹁いつの間に!?
38
学校だのだったよね!?
﹂
﹁てんでバラバラの細かい話をしているのにいつのまにか重要な話
が完結しているのは,必須スキルだそうですよ.お隣の現役女子大
にょこちから
あたし夢人に女子力で負けてんの!?﹂
生が言ってました﹂
﹁そうなの!?
やべーやべーとぶつぶつ言いながら,撮影もせずふらついて歩き
だす蘆原先輩.その後を追おうとする熊澤先輩.一歩を踏み出して
止まり,ひらりと偽制服のスカートを翻して,用件らしきものをま
くしたてる.
その話は完全には聞き流しておいた.澁衣の仕事だ.
幸い,一息というか一回転分で終わったらしく,先輩はフィギュ
アスケートのような華麗さで走り去った.その姿に澁衣と顔を見合
せ,苦笑する.
やらなければいけないことが,後からわかることもある.わかっ
たときにはすでに遅いときもある.それと,現象を一般化しすぎる
まったく,高校生ってやつは余
moveTo︵35.732436,
と中身のない格言みたいになる.
:
計なことを考える暇もない.
1459727100
,
139.764879,12.0,"Room&nbs
p;Blue−28"︶
チャイムに急かされて教室へ駆け込む.初めての,それでいて前
とは大して変わらない二年の教室は,騒がしさと静けさが同居して
いた.騒がしいのは引き続きクラスメイトになった人たちで,静か
なのはそうではない人たちだとはっきりわかる.今のうちから騒が
ないと後で辛い気がする.
最後なので空いている席は残り二つだけだ.白板の座席表をみる
と,広路は窓際列の一番後ろという特等席だった.幸福質量保存の
みうらはじめ
法則が怖い.澁衣はその右隣の列の最後だが,窓際列は席一つ分少
ないので,広路の隣ではない.
広路の一つ前には数少ない男の友人,美浦肇がいる.
39
﹁よお,久しぶり.終業式以来だな﹂
大丈夫か?
美浦は脇に立ったこちらを見ずに言う.
﹁昨日も会っただろ﹂
これにはこちらへと向いてくる.
﹁おめーじゃなくて,澁衣嬢だよ﹂
頭打って記憶飛んだか?
﹁澁衣も﹂
﹁あぁ?
顔が勝ち誇ったように見えてむかつく.
﹁お会いしましたよ﹂
﹂
渋い顔の澁衣.⋮⋮多分,本人すら思い浮かべて心が冷えたはず.
最近になってようやく気づいた事だが,澁衣と美浦はそりが合わ
ないらしい.澁衣は,人間関係を狭く深く望む傾向があるみたいな
のだが,美浦の方は,とにかく交友関係が広く,付き合いが軽い.
そして戦闘能力を有しない異性に対する認識がかなり甘い.故に,
社交性や容姿や実績のわりにモテない.別にその必要もなさそうだ
が.
﹁マジかよ.すまん.だっせえな俺﹂
ながはまあらん
﹁ごめんね,景.この子,脳が横紋筋だから﹂
広路の席に座っている美浦の彼女,長濱亜蘭.矢摩曰く,﹁ヤン
キーとオタクは親和性が高く,ゲージツ家とは合わない﹂らしい.
長濱は,美浦と人前で堂々キスをしてから,全校で一人しかいな
いド金髪をなびかせ前方の席に戻る.親和性は高くとも,やはりヤ
ンキーとオタクは違う.これは無理だろ.
右隣は知らない男子だったが,寝たふりをしているので放ってお
く.
もっとも,知らないといえば,長濱と美浦と澁衣以外は,見たこ
とがある程度で誰も知らない.学校に来てから会話した五人全員が
友人,でもってそれが校内では全て.統計学者である父曰く,一説
では人が一時的に維持できる知人の数は平均百五十人,生涯の累計
でも五百人程度.別の調査でも百人から三百人の間だ.だから友人
40
ならこれくらいでも妥当なんだと,無理やり納得している.
何を以て友人かは,中高生にとって難問だ.社会学者も客観的な
定義の不在を嘆いているらしい.
広路の友人と考える基準は,幼馴染たちを﹁しまゆう﹂と呼べる
かどうかによっている.改めていうことでもないが,彼女たちは凡
庸ではない.吉原外周に住んでるだけでも特殊だし,それぞれの家
がその中でも特別な役割を担っている.八荒は芸事指南役,風祭は
鎮守社の管理者,穴師は遊女・小桜を輩出した武術道場主と自警団
長,そしてついでに,焼鎌は秋葉常灯明の管理者兼裏大門の守護頭
と.
近くの八荒のマンション群にはその手の人しかおらず,他の一般
家庭は洗足通り商店街か龍泉まで出ないとない.吉原病院近くの保
育園は遊女の子供で常に満員だが,小学校へ上がる頃には吉原を離
れるのが通例だ.そして,小中では﹁吉原の子﹂は避けられる.
個人としてはなんというか,あれだ,言いにくいが,方向性は違
えどみんな綺麗だし,可愛いし.体型はバラバラ,性格もバラバラ
でその上に裏表まであるし,ってなんか話が暴走してきた.
とにかく,そんな濃度を無視してひとまとめにできる人を友と呼
びたいと,広路は思っている.
蘆原先輩曰く﹁あいつらが普通とかいったら,それはほんとに普
通のやつにとっての虐殺に等しい.じゃあ自分たちなんなのさ,っ
てな.MOBAのレベルキャップ無視した糞マッチングみてーなも
んだ.ケーキカットもしてない奴らをアイアムヌーブって言いなが
らスコープ覗かずにビューティフォーヘドショトしてるんだ.糞が.
あたしでさえ趣味とか学校的に,普通っていったら怒る奴がいるだ
ろ.お前はその辺の自覚あるみたいだから言いやしないが,あいつ
らはよりによってお前と比較したりするから,危険だ﹂と.うらや
ましいな,は易しい.大変だな,は難しい.高校までは,親戚縁者,
それと海外に引っ越してしまった一名を除いて,同世代でそういう
人とは出会えなかった.つまり,ずっと澁衣以外に友人がいなかっ
41
たわけだ.そりゃ,部活もやらずに稽古ばかりで,普段は決まった
普通じゃない女子たちとべったりつるんでいれば,そうなるだろう.
しまゆうと小径狙いの踏み台扱いすらなかった.なので,出会いは
どうあれ,美浦や長濱はそんな自分によく付き合ってくれてる,と
てもいい人だと広路は思っている.
翻って,広路は自身を見なおしてみる.進路が制限されない程度
に裕福で伝統のある家.聡明で,個人を尊重してくれる両親と祖父
母.仲の良い姉と幼馴染たち.尊敬する武芸の師匠たち.気の置け
ない先輩と級友.そして,誰かに言わせれば﹁全身凶器﹂﹁無駄性
能﹂﹁童貞の妄想﹂﹁普通とかいったらマジ絶交﹂﹁原作版リア王﹂
﹁美形は死ね﹂﹁英国貴族次男坊執事﹂﹁緑のあいつ﹂﹁昔のジュ
ヴナイルポルノ﹂﹁非実在青少年﹂で,誰も知らない秘密がある自
分.超能力がないのは,少し残念かもしれない.とはいえ,この状
況だけでもネタには事欠かない.
実際,煮詰まって修羅場だった矢摩が,勢いで描いたラフを﹁焼
却してほしい﹂と持ってきたこともある.広路らしき男が,矢摩の
弟らしき子供を何やら調教しており,それをみた矢摩らしき男が手
当り次第に薔薇を咲かせる﹃淫魔の学校乱舞る﹄という,作者の重
厚長大な葛藤が伺える作品だった.生にもほどがある.実物でがっ
かりする,とは言えなかった.そして,カフェインの過剰摂取と徹
夜のテンションの産物は,灰になった.あれは産まれるべきでなか
った.
とにかく.例え,他人の創作物の影響でツッコミ役を押し付けら
れそうと,やられるまでの主役だとしても,今の恵まれた人生に不
満はない.三つの秘密を除いて.
42
:
moveTo︵35.732083,
第三話 別有天地非人間︵こんな世界もある︶
1459728000
,
:
moveTo︵35.732436,
139.765456,1.0,"Gymnasium
"︶
1459731600
,
139.764879,12.0,"Room&nbs
p;Blue−28"︶
始業式は粛々と執り行われた.何の問題もなかった.
式の後は教科別オリエンテーションのはずだったが,教室にやっ
てきたのは担任だった.さらに机と椅子が一組,広路の席の後ろに
増えていた.どっかの武将が一番後ろに座りたくて移動させたのだ
と広路は思うことにした.
﹁突然ですが,二年からの編入生を紹介します﹂
確かに突然だ.講堂で軽い打合せしたばかりの生徒会役員がそれ
を知らない程に.
見るからに面倒そうな溜め息まじりの担任に促されて教室へ入っ
てきたのは,一人の女子.
外見ではまず髪に目が行く.やや灰がかった黒髪で,傾斜のきつ
い前下がりのボブっぽい髪型.身長は平均的で,やせ気味に見える.
澁衣や小径と同じくらいか.肌の色と頭の形から言うと西アジアか
北アフリカの雰囲気.無表情の中で目立つ鋭い目つきがなんだか気
になる.あれがジト目というやつだろうか.長濱に聞いてみよう.
あとどうでもいいが,眼鏡が顔に比べて大きくて,フレームも太い
から似合ってない気がする.思い入れでもあるんだろうか.
編入生は後ろを向き,白板へ左手で名前を横向きに書き始める.
その字はうまいことはうまいのだが,癖が無さすぎて広路が習って
いるような書道向きではない.
43
﹁仁志純です.初めまして.両親の仕事の都合で長く中国に住んで
いました.なので,日本語はあまり得意ではないです.出身は東京
ですが,ほとんど記憶はありません.両親の転勤に伴って,日本に
戻ってきました.中国語,英語,話せます.連絡の行き違いがあっ
て,今日からお世話になります.至らないところもあると思います
が,よろしくお願いします.趣味はラジオと動画鑑賞とサッカー観
戦です﹂
お前は!﹂とここで言い出す奴がいないのはダメだと,
前を向いて一礼の後,ところどころつまりながら自己紹介をする
仁志.
﹁あー!
一部の連中なら口を揃えて文句言いそうだ.実際,周囲を見渡す長
濱の態度からは不満そうな感じがする.
担任の話を聞き逃してそんな飼い慣らされた思考をしていると,
美浦が拍手もせず,ぐるりと首だけまわして話しかけてきた.
﹁知ってた?﹂
だいたいとは友達だけど,聞いたことねえな.
﹁いや.一人,中退したのなら聞いてたけど﹂
﹁欠員補充なんか?
留年か休学中のかな.しっかし,トリリンガル帰国子女か.ここで
も珍しい方だな.お前いくつだっけ.日英中露独仏西亜葡希羅梵⋮
⋮﹂
美浦も同類のくせにとは言わないが,顔には表しておく.
﹁そんなにできたらサッカーの監督か武器商人やるかね.まともに
話せるのは美浦と同じだよ.あとは手話くらい﹂
﹁なにそれ.キモくね?﹂
イイヤツダナー.
﹁顔怖い.子どもが泣くからやめてね.いや,マジすまん.ポリリ
ンガルって格好いい.響きはかわいい﹂
話を切ろうとするので引き留める.
転校生?
ナイチチだということ以外には特に.なんで
﹁それより,何か気にならないか?﹂
﹁ポリ?
44
?
好み?
どこが?
俺,わかんねえ.おめーは,しまゆーども
をほっときぱなしといい,見る目あるな.初見だとちちしりにしか
目いかねえから俺﹂
言うに事を欠いて﹁放っておきっぱなし﹂とは.そうかもしれな
いと思うこともなくはないかもしれないが,そんなつもりはないし,
そうだとしても他人には言われたくない.
﹁俺が泣くからその顔やめろ.もう二度と言わねえから﹂
﹁お前は,目より口を閉じる筋肉を鍛えたほうがいい﹂
﹁お,そこ鍛えたことねえな.噛み技は盲点だった﹂
﹁アルミホイル噛むとすごくなるらしい﹂
喧嘩売れってか?
あんなん雑魚だぞ﹂
﹁なるほど.さっそく弁当で試してみら.で,何が気になったんだ
?
それがわからない.
﹁冗談でもやめとこう.気になったのは顔つきだよ.お前と同じ沖
縄系かと﹂
﹁なら違げえな.あれはもっと大陸寄り,ってかアラビア半島だろ.
東から転校ってとこで,医者か学者の家かな.あとは駐在武官.
十六才だとしたら⋮⋮アラブ事変の世俗派難民のクォーターじゃね
?
それ逆じゃないのか?
﹂
世界史ABレベルの知識しかないから,勘だけど﹂
﹁いいとこ出?
﹁それがな,親父の話じゃ,融和はかなり前から始まってたんだと
よ.で,なんなんだ?﹂
﹁てっきり,仁志で中国と来たんで,馬かと﹂
﹁さよか﹂
予定外に察しが良くて困ったが,なんとかごまかせた様子.顔つ
きというのは嘘で,喧嘩狂のアンテナにかひっかかるか知りたかっ
ただけだ.全体的な印象が薄いせいで,何かよからぬ隠し事がある
のではないかと勘繰ってしまった.でも,カツアゲや喧嘩を察知す
る度に,目鼻の穴空きビニール袋を被って乱入するほどの馬鹿が無
反応なのだ.気のせいだろうし,であるべきだ.
45
注視をやめると,仁志に向けられた別の強い視線に気づく.その
元は隣,ではなく後ろの澁衣だった.何かをいぶかしるように見て
いる.もしかしてあの発言だろうか.なんとなくやめさせようとし
たところで,﹁ええと,や,焼鎌広路さん,澁衣,け,景さん.挙
手を﹂と担任から急に声がかかった.
﹁彼らは生徒会副会長です.日常生活や情報保障で困ったことがあ
ったら,まず彼らに相談を.席は焼鎌さんの後ろです﹂
振り替えって澁衣を見ると,彼女もこちらを見て首を振る.学生
組織と教員の連携が形骸化している現状を考えると,文句を言う気
にはなれない.今さらだが,生徒会役員二人が同じクラスってのも
おかしい.編入生の席が一番後ろなのは,好意的に考えて,他の生
徒を観察しやすくするためだろう.あと,いつまで前に立たせてた
んだ.
﹁いい香り﹂はさせずに座った仁志へ,香港なまりの中国語で挨拶
し,続けてマナー違反の手を差し出す.
仁志は口に手を当て,驚いたような顔から笑顔へ変わる.すぐに,
中国語で﹁話せるんですか?﹂と聞かれる.
これは普通話か.笑顔が朗らかなのは印象に残った.以後は笑っ
てもらえるように努めよう.
﹁少しだけ.拳法の先生に教わってる.君の隣,澁衣も話せるよ﹂
話を振られた澁衣は,こちらの手をチラ見してから,上海なまり
で軽く自己紹介した.小学生の頃,世話になった人に似ていたらし
い.
放置ぎみになった手を改めて突きだし,強引に握手する.澁衣の
驚いたような視線には曖昧に応えておく.
この手は何かやってる人のではない.指が全体的にきれいだし,
骨も肉も皮も普通に思える.自分のなんか酷いもんだ.
手を離した途端,広路は倦怠にも似たうんざりする感覚に襲われ
た.
恵まれた人生に,もっとお楽しみが必要なのか.日常に飽いたの
46
か.長年の疑問が解けるかもしれないとでも思ったか.
サプライズの余韻もなく,オリエンテーションが始まった.課題
〇三時〇〇分
〇二時五五分
〇二時〇五分
〇一時五五分
:
:
:
:
:
教室へ移動
トイレへ移動
食堂へ移動
トイレへ移動
教室へ移動
隣の教室へ移動
,
,
,
,
,
,
の内職たちを並行処理することで,広路は湧き出す欲望を潰してい
〇三時四〇分
:
校舎内を移動
った.
〇三時四三分
:
,
〇五時〇〇分
予定外の人事の影響もあってか,去年の始業日より早めに終わっ
た.今日はノー部活デー,ただし生徒会を除く.なのでしまゆうと
級友たちを見送り,戸締まり確認を兼ね,澁衣と二人で仁志を案内
する.現実では休み時間のたびに囲まれることもないが,昼休みに
侵攻してきたしまゆうこたちとの会話の濁流で,仁志はかなり疲れ
ているようだった.
日本の伝統文化である学校の七不思議の話を交えつつ校内を一周
し,ラウンジでジュースをおごってから職員室前で仁志と別れる.
:
moveTo︵35.732083,
そこから澁衣と二手に別れ,残りの校内施設を見回る.
1459746600
,
:
,
roundTo︵35.73236
139.765456,1.0,"Gymnasium
"︶
1459747200
5,139.765387︶
﹁よっつかれー﹂
生徒会室前で,部室棟の戸締まり確認を終えた蘆原先輩と遭遇.
周りに誰もいないのを確認してから,つかつかと近づいてきて,じ
っと目つきの悪い上目遣いでこちらを見てくる,というより睨んで
くる.
47
十数秒は経っただろうか.なんの前置きもなく,くるりと反転し
て,ひらひらと手を振って去ろうとする.
﹁⋮⋮必要なことは伝えた.じゃ,迷惑かけないように明るい内に
帰るから.また明日な﹂
﹁何言ってんだこいつ.これから地味できついお仕事の時間ですよ﹂
﹁これが女子力だろ女子力﹂といいながら,振り返って自分の腕を
ぺちぺち叩く.
﹁古人によると,用件を口に出さずに伝えたことにするのではなく,
会話の流れに分割して埋め込むスキルのはずなんですけど.例えば,
ファミレスで話してて,いつ帰るかとかを自然に決めるような﹂
先輩は足を止めて振り返ると,﹁ええー.じゃあ最初は関係ない
話な.三銃士って実は︱︱﹂と言いながら戻ってくる.
﹁俺を練習台にするのはやめましょう.同性間の会話スキルなんで
すから﹂
﹁それを最初に言え.なら朝のは相手がお前だったせいじゃないか.
陰謀力足りてるじゃん﹂
﹁しかも熊澤先輩,あのとき用件伝え終わってませんでした﹂
ぽかーんとして固まった.少し考えてから腕時計のカメラで撮影
しておく.撮り終わるのを待っていたかのように口を開く.
﹁昔,おフランスにギヨタンという︱︱﹂
﹁話をそらす異能でもありません﹂
﹁うっせえ.黙れ,そして最後まで聞け.こんなときだけ軌道修正
するなよ.お前じゃ練習にはならんことくらいわかってる﹂
﹁お役にたてず,すみません﹂
また目付きが変わってこちらをじろりと見てくる.
﹁そうしてお前はすぐ謝る.ここは,なんだと駄女子!とか,異能
とか,練習じゃなければ本番か!
で返せよ.
高エネルギー女子体はさしすせそ連発しとけ!とか,ちやほやされ
たきゃ高専にいけ!
ギブミーツッコミオアノリツッコミ.もっと非現実的な言葉のドッ
ジボールを楽しみたいんだよ﹂
48
ったく浅草民だからって,あたしも一瞬わか
﹁鉄球でいいですか?﹂
﹁だーかーらーな?
んなかったっての.墨絵同人作家の引き出しも,それをインストー
ルされてるお前もめんどくせえよ.⋮⋮はぁ,仕事しながら続きし
ようぜ.あと,さっき撮ったの送って元は消せ﹂
﹁仕事しながら﹂
小言は無視された.ドアに手をかけたところで,こちらへ仰け反
りながら言う.
﹁ああ,そうそう.そうなのよん.用件忘れるとこだった.性徒会
長,家の事情で先に帰った.友達がいないからあたしも帰りたい﹂
﹁欠席のことなら直にメッセージもらいました.それより,性門開
帳とかはしたない.小径に言いつけますよ﹂
﹁誰も下ネタなんて言ってない.下ネタだという奴のIMEがエロ
いのだ﹂
今度はのけぞった状態から頭の位置を固定するように回転し,お
辞儀の形になる.
﹁エロついでに,言いにくいんですが,さっきのとその体勢だと︱
︱﹂
じゃなくて,えーと,んだっけ,み,みぜてんのお!﹂
聞くが早いか,葦原先輩は胸のあたりを腕で覆ってまくし立てる.
﹁殺す!
これには広路も加虐心の促しが抑えきれない.
﹁顔真っ赤ですけど,それは合わせてるんですか?﹂
1459747500
,
:
roundTo︵"Sc
校舎をまた一周する羽目になった.
hool"︶
再び生徒会室前.先輩の息が整うのを待ちつつ,どう教えれば地
面を蹴らずに走れるようになるか考える.
﹁もう.いい.しね.くそ,わすれろ.たのむ.くそ.わすれ.く
そ.ミス.てか,おまえ,あたし,おしえて,ない,からな﹂
﹁俺も教えてないです.訊かれてもないです.そのメッセージが来
49
るまで会長だと気づきませんでした.たしか先輩も相互に友達状態
だったと思います﹂
﹁インターネットこええ﹂と震える先輩を横に置いて生徒会室に入
ると,澁衣と小径が椅子の上の座布団に正座して,お茶を飲みなが
ら談笑していた.
﹁おかえりなさい﹂
﹁ただいま.はぁ,疲れた.悪いけどあたしにも冷たいの一杯ちょ
うだい﹂
﹁あ,そういえば今日は皆さんに良い物を⋮⋮﹂
﹁持ってきていたら良かったのに,って来なかったのかよ!﹂
求めてたなら潰さないでほしい.
﹁ふふっ.今日は私がお菓子を作ってきました.ご用意しますので
お待ち下さい.葦原先輩はおしぼりをどうぞ﹂
コンロが堂々と使えるのは大きい特典かもしれない.
﹁熱った肌にスーッと効いて、これがありがたい.って今日のそれ
刺繍がき
黒パンストじゃなくてストッキングとガーターベルトだったの!?
しかもイッタリーのラ・なんとかじゃないすかこれ!
れーだなー!﹂
お嬢様も放課後だけはスカート短めの露出で,しかもガーターベ
ルトや網タイツ装備だったりする.この感覚は長い付き合いでもよ
くわからない.もしかして隠れ兵器オタクだったりしないだろうか.
﹁こういったものはお嫌いでしょうか?﹂と,澁衣はわざわざこち
らを見て首を傾げる.
﹁嫌じゃない.その動作と質問がかわいい.内輪差に巻き込まれて
死にたい,ってこいつが言ってる﹂
内輪差の前までは合ってる.
﹁先輩,朝もチラッチラッ見てたのに気付いてなかったんですか?﹂
﹁うるせー.見てたのはストッキング越しのふくらはぎのラインだ
よ.和混洋裁手芸研究会員だったからって,服ならなんでもわかる
と思うな﹂
50
こちらを向いた顔は大真面目だった.
﹁それよりシブイチャーンどうなってんのよー中はー.あすこのセ
クシーで有名だから気になる﹂
前を向いた一瞬で欲望丸出しのダミ声になり,手をわきわきさせ
ながら,にじり寄ってスカートをめくろうとする先輩.澁衣ですら
隠しきれないおびえた瞳を見るに,人知を越えたとてつもなく下品
な顔なのだろう.怖くて手が出せない.残念ながら,小径は撮影し
てくれない.
﹁大丈夫,怖がらないで.さあ,シブイチャーンのスカートを直そ
う﹂
﹁名台詞汚さないでもらえますかね.姉さんが不機嫌そうなんで﹂
﹁なんだと.だが,今はパワーをパンツに!﹂
いいですとも.
﹁おやめください!﹂の声よりも明らかにはやく放たれた平手打ち
が,デコにいい音をさせて先輩涙目.平謝りの澁衣.それをニヤニ
ヤして眺めながらほうじ茶を入れる広路と,それを無表情に手伝う
小径.これぞ先輩の望んだ放課後茶菓時間.
調子に乗った先輩からいきなりお題でだされた世界の処刑法につ
いて適当にだべりながら,当面の作業を片付ける.明日の入学式と
残りの生徒会役員採用と月末の校外実習関係と予算編成.話の方は
期待通りに澁衣が詳しかったおかげで盛り上がった.
﹁お茶もお菓子もおいしくて楽しくて幸せだ.お前ら家に一人ずつ
ほしい﹂
これじ
﹁お茶,少し苦かったかもしれません.淹れるとき,先輩たちのこ
とが頭に浮かんでしまったので﹂
﹁飲んだら即死じゃねえか,ってんなの拾えるかボケぇ!
ゃドッヂじゃなくてバレーだ﹂
このやり取りを最後に,向かいの席の先輩は作業割り当ての一切
を放棄してセーターを編み始めた.使ってる毛糸の量から推測して
男物だろう.今からなので,マフラーと併せてクリスマスプレゼン
51
トかもしれない.アーガイル柄ということは本命か.難儀なことだ.
いやがらせとして一言言っておこう.
﹁せめて受験勉強をしては?﹂
﹁受験は再来年以降でもできるが,現役の高三は今しかない.今,
ここで,青春できないと,一生,あの時ああしてれば良かったああ
ああああ!って布団の中で叫びたくなる.ってうちの父ちゃんと母
ちゃんが力説してた.結局はオタ仲間と結婚までしたくせにな﹂
さんざんリア充と馬鹿にされる広路でも,そのことは何故か強く
同意できる.
﹁じゃあ,なんで国立中高一貫なんかに来たんですか.世間的には
進学校ですよ.普通といったら文句が出る程度の﹂
﹁近いし面白そうだったから.高専も面白そうで,あたしなんかで
も行けばモテるらしいけど,まだモテちゃだめだと親バカ父ちゃん
が言ったから.でも,後悔はいまんとこない,や,研究会のことと
かあるこたあるが,甘酸っぱい青春できてる.大学落ちても,母ち
ゃんのベンチャーで株貰ってバイトするからいいのだ﹂
これには流石に澁衣も説得を始める.小径の方は無関心で書類を
片づけている.
﹁プラトンバリアだ.バリア貼ったからお前らの啓蒙は効かん.だ
いたい,自分らはどこ行くか決めたのか﹂
﹁私は父祖の学校と決められています﹂
﹁俺は未定ですけど,真上でいいかなとは思ってます.両親の母校
で悪い評判も聞きませんし﹂
﹁ふーん.そうかいそうかい⋮⋮.ところで,転校生が来たらしい
な.進路のうゆうティーが漏えいしてた.知ってるか?﹂
慌てたように話を逸らす先輩.広路は説得をもう諦めることにす
る.
﹁うちのクラス,普通進学コース二年二組です.あと編入生です﹂
それを聞くなり,しっかり胸元はガードしてテーブルの上までこ
ちらに身を乗り出してくる.
52
﹁細けえ.で,どうだ?﹂
﹁大雑把すぎます﹂
先輩は一旦身を退き,偉そうにふんぞりかえる.
﹁編入生だよ.どうなんだ?﹂
﹁エントロピー減ってませんけど.見た目女性です.中国からの帰
国子女で,トリリンガルです﹂
﹁ふむふむって,ちげーよ.聞きたいのはそうじゃない.今回はう
まく拾えなかったな,お互いに.ま,あたしが楽しすぎたんだけど
な﹂
わかっているなら歩み寄れ.見本はこうだ.
﹁⋮⋮聞きたいんじゃなくて,話したいんですよね?﹂
悪かったなチキショー.で,聞くかい?﹂
﹁ご明察.さすが.あたしに転校生を語らせるとうざいくらい長い
ぞ.短くてもうざい?
﹁手を動かすなら﹂
先輩は適当に書類をつかんで開く.
﹁ったく,一人一台ずつ情報端末が貸与されてて,出欠確認すら電
子化されてるこのご時世に,なんでこんなに紙の書類が作成されて
んだよ﹂
﹁そういうのを仕組んでる人たちがまだ紙でやり取りしてるからだ
と思います.あと保存性﹂
﹁だろうな.ていうか,欲しいのは正解じゃなくて共感.女心と秋
空のよみ方はごま塩程度に覚えとけ.勘違いした優しさだから嫌だ
これ
って奴もいるけど,あたしは別に気にしない方だ.さて,話を戻す
ぞ﹂
元は先輩の進路の話だ.
﹁まず質問.転校生には二種類ある.何と何か,わかるか?
を澁衣ちゃん﹂
﹁私ですか.する側とされる側でしょうか﹂
﹁うん,それも正解の一つといっていい.けど,あたしの話とは合
わない.でも,よく反応した.振られるって予想してた?﹂
53
﹁いえ,お話を伺っていただけです﹂
﹁はぁ,こーゆーのが地頭の差ってやつなんかねー.ま,いいや.
次﹂
﹁括弧付きとそうでないの﹂
﹁ん,どういう意味?﹂
﹁転校してきた生徒ではあるけど,それは副で,別の顔が主である,
とか﹂
﹁ふむ.括弧は文章表現での話ね.まあ,それも正解といえるだろ
う﹂
小径も含めてもう二往復くらいさせられそうだったので先を促す.
﹁先輩の話的に正解は?﹂
﹁それいきなり聞いちゃう?﹂
先輩はニヤリと笑いながら立ち上がって,後ろのホワイトボード
に向かい,ペンを走らせる.きっとここからさらに転がす自信があ
るのだろう.書類の記入欄は真っ白なままだ.
﹁答えは⋮⋮異質と同質だ﹂
二つの単語を書いた部分をノックする.
﹁それは広路さんのいわれたこととほぼ同じなのではありませんか
?﹂
珍しく澁衣が自分から質問する.
﹁んにゃ,違うよ.例えば,田舎の学校に都会からやって来た転校
生がいるとする.都会と田舎の文化的摩擦が生じるなら異質,生じ
ないなら同質﹂
話ながら説明図を事細かに書き込んでいく.これ完全に仕事放棄
だ.しかも澁衣が共犯じゃないか.
﹁問題は,属する文化や持ってる考え方が異なるかどうか,だ.も
っといえば,異質さから転校先に変化をもたらすもの.どんなに転
校生が括弧付きで特別でも,学校や同級生も格好付きの特別なら,
それは同質だ.でもって,もたらされる変化が終わりの始まりなら,
なお良い﹂
54
﹁変化は結果ですよね.異質でも変化させない場合とか,同質でも
変化する場合があるのではないですか﹂
わざとペンを大袈裟に走らせながら話に乗る.
﹁確かに.だがな,それは視野が物語的というか,主人公の視点に
より過ぎだ.一対一なら変化は相関だが,一対多なら因果なんだよ﹂
この辺で澁衣は話を聞くのをやめたみたいだ.案外,無責任なと
ころがあるようで.
﹁何でですか?﹂
広路は話を続けた.
以降,転校生論が十数分ほど語られたが詳細は伏す.どうでもい
い話だ.
﹁なので,この観点ではその娘⋮⋮名前聞いてなかった﹂
﹁姓は仁志,名は純,さん﹂
﹁仁志さんは,まだ同質な転校生にあたるはずだ﹂
﹁意外にあっさりでしたね﹂
﹁だって小径ちゃんが徹頭徹尾すんごいつまんなそうなんだもん.
あと澁衣ちゃんも振っといてさりげなく無視モードになってたし.
うるうる.広路だけだよ,うざいと言いながらもあたしなんかの話
聞いてくれるのは,うるうる.それに会ったこともない,この場に
いない人をネタにするのも良くないと気づいた.我ながら遅い.反
省.批判,感想はまた今度な.ちなみに,異質さは女性が同性を嫌
う要因として,他よりも弱いらしい.意外だよな﹂
広路視点では,小径は興味をもって聞いていたのだが黙っておく.
代わりに,目の前の書類を積み増す.
大きくため息を吐きながらも,先輩は判子だけ押し始めた.澁衣
がその様子からこちらへ視線を移す.意味を推測するに,どうやら
先程の会話参加は話を早めに終わらせる策だったようだ.効果は別
にして,そこまで考えが及ばなかった.
﹁澁衣さんさすがです﹂
﹁いえ.私にできることをしたまでです﹂
55
﹁あぁ?
何この三人いれば疎外感.ぼっち回避のための急造グル
ープみたい﹂
﹁二人なら無敵ってやつです﹂
﹁ふふふ,そうですね﹂
﹁なんというまぶしい笑顔.あたしの知ってる澁衣ちゃんじゃない.
疎外通り越して孤独すら感じる.これが自意識過剰による去勢か﹂
﹁一人だけ手が止まってるからじゃないすか﹂
﹁鬼や,鬼がおる﹂
﹁石を積んだら帰してあげます﹂
﹁今夜は帰らせない宣言?﹂
﹁それがいいならそれでいいです﹂
﹁ごめんなさい.やります﹂
﹁ああ,早くしろよ﹂
一通り作業が終わったところで本日の生徒会終了.執拗に編み物
やめろ!
まだ終わっていない!﹂
を続けようとする先輩を抱えて外に出る.
﹁離せ!
﹁俺が帰れないのでお願いします﹂
先輩は昨年,夜道で本物の変質者に襲われ,たまたま通り掛かっ
た広路に助けられるという冗談みたいな目に遭った.以来,いろい
ろあって,だいたい帰りは途中まで広路が送っている.だが,今日
は﹁いつも怖くなくしてくれてありがとう.必ず恩は返す,がしか
し.特に理由ないけど,ホントに理由ないけど,今日だけは他で頼
む﹂と強硬に主張してくる.
理由はわかるようなわかりたくないような,なのでお車送迎付き
moveTo︵35.732365,
の澁衣に任せることにする.またどこかで鐘が鳴ったので,手伝い
:
を志願する小径も先に帰す.
1459753200
,
139.765387,1.0,"Staffroom
"︶
一人で鍵を返しに職員室に行くと,見慣れない生徒と入れ違いに
56
なった.在校生はみんな帰ったはずだから,また知らない編入生だ
ろうか.だとしたら嘆かわしい.断固,教員に抗議しなくてはと内
心いきり立つ.
ところがよく見ると,その生徒は仁志だった.さっきまでと雰囲
気が違い過ぎて気づけなかった.やはり,自分には人を見る目がな
慣れてないなら,駅まででもつきあうけど﹂
いのかもしれない.
﹁帰り一人?
完全にナンパだこれと言ってる途中で気づき,寒気で心が凍る.
﹁大丈夫.この国はまだ安全ですから.親切にありがとう.また明
日﹂
振られてしまった.が,すでに冷たい状態だったので問題ない.
本当だ.
笑顔なのに目は笑ってないのに気づいて惹かれ,つい踏み込んで
しまった.手も振られて,この上に予報通りの雨まで降られると困
るので,急いで残りを片付ける.
今後について,あと報連相について,先生方に相談してから校舎
を出ると,澁衣と蘆原先輩がちょうど車に乗り込んだところだった.
:
駐輪場へ移動
,
耳を澄ますと,駅前が何やら混雑しているようだ.
〇七時一五分
二人に手を振り返してから,ケータイをいじりながら第二駐輪場
へ向かう.
しまゆうこミュの溜まった未読を返しきらないうちに到着.広路
以外誰もいない.
一台だけ残った自転車の鍵を外すと,途端にどこからかの弱い熱
を感じる.日の暖かさとは違うハロゲンヒーターのような皮膚だけ
の表面的な熱だ.去年の秋ごろから頻繁に感じるのだが,少し経つ
とすぐ消えてしまう.今日のもそれだろうか.
これに気付かない振りをしながら,わざとらしく口笛を吹き,ケ
ータイ片手に自転車を曵いて,裏門ではなく正門へ向かう.熱さの
方は弱くなったがなくならない.
57
,
心当たりは例のギャルサーくらいだが,
正門へ移動
いつもとは別なのか?
:
時期が合わない.
〇七時二〇分
ちょうど校門を出たところで未読のメッセージを処理し終えた.
立ち止まり,続いてどうしたらいいのか考えてみる.とりあえず
は五事七計から三十六計まで一通り.こういう場合,やる気がある
近親
索敵して追うのがい
それより,一目散に逃げてしまった方が安全か?
なら誘い込んで待ち伏せるのがセオリーか?
いのか?
者に危険はないか?
考えてはみたがわからない.それもそうか.情報がないんだから.
﹁そういうときは心に聞け﹂というのが拳法の師匠の教えだが,今
まで従ったことはない.
今日は⋮⋮実は少しばかり機嫌が悪い.そして鐘は鳴らない.
それでも広路は攻める方向でプランを考えつつ,ケータイで時間
指定メッセージを作成する.送信してから,ケータイを出したまま
振り返らずに,校舎全体を強く意識して探ってみる.
流れる清流のような水音.図書室に学校司書さんが一名.しかし,
ここは見えない位置にある.
蜂の巣の匂い.会議室には高等部の教員八名.同じくここは見え
ない.
ナメクジが這った後のような触感.体育館を移動しているのは,
さっき職員室にいた用務員さんか.これも見えない.
これで全部だ.高等部の校内に他の人はいない.中等部は探索可
能範囲外だし,ここへは視線が通らない.
道路を挟んで向かい側の女子高は普通に半休で人気がなく,門も
閉まっている.
ストローを噛んだような食感.警備員さんが一人,詰め所にいる
だけで,視線はこちらを向かない.つまり,気のせいでない限り,
何者かはかなり遠くにいることになる.
ヤバそうな状況がある程度は把握できたので,ケータイをいじる
58
:
移動
ふりをしながら歩き出す.
〇七時二八分
,
いつも通学に使っている線路沿いではなく,お寺とラブホテルだ
らけの入り組んだ道,通称ラブホ寺街を抜ける.人生墓場ともいう.
お山のそばから明治通りに出たところで改めて探ってみると,熱
はすっかり感じなくなった.だが,その場で自撮りカメラに気にな
る挙動の車が映り込む.この車線数で路肩に繰り返し止まる運転は,
明らかに異常だ.
九円六園へ移動
,
まいったな.少し,わくわくしてきた.
:
国鉄の線路を越えて根岸の路地へ.
〇七時五〇分
昔からの付きあいがあるお茶屋さんの裏道に入る.自転車を脇に
止め,壁をけって塀に登り,すぐそばの桜の木の陰に身を隠す.木
登りは久しぶりだったので、少し左手が擦れてしまった.
体勢を整え終えたところで,安い印刷機の製版マスター紙の触感
が両手に生じる.
さすがにこれは大袈裟だろうか.いや,例のギャルサーが相手な
ら妥当か.自分のいるところから舞っていく花吹雪を眺めて逡巡し
ているうちに,一分ほど遅れて小走りにやってきた人間,大人の男
一名を確認.
﹂
広路はすぐに花びらまみれになりながら飛び降りて,真後ろに立
ち,声をかける.
﹁ここは私道で通り抜け禁止です.何かご用ですか?
向こうを向いたまま固まる男.クルーカットに,微妙にサイズが
合っていない月皺の浮いたノーベントでダブルの黒シャドーストラ
イプスーツと,襟から覗く派手な柄シャツ,それとロングノーズロ
ーファーの黒ギョーザ靴,左耳ピアス.見た目から判断するに,八
の字ではなかろうか.少なくとも美浦の母,元警官の探偵とは雰囲
気が違うし,穴師家の道場にやってくる軍人や警官とも違う.スラ
ックスの皺からして,さっきの車はこいつだろう.
59
﹁どこの組の人ですか﹂
矢摩が以前挙げていた中高生が一生に一度は言ってみたい台詞そ
の四を口にしてみた.後で教えたら悔しがるだろうか,とバランス
をとって気の抜けたことを考える.
しばしの沈黙.聞こえるのは涼しい春の風の音だけ.その風もと
うとう止んでしまい,間を埋めるように防災放送が流れ始める.
滑った.やばい,恥ずかしい.
この空気でどう口を開いたものかと悩んでいると,放送が終わっ
た直後,あっさりと白状された.﹁息子が惚れた男がどんなもんか
見て来い﹂って﹁上司﹂に頼まれた,と.辰巳の方に関わる組名だ
った.
今時そんなことあるんだなぁと感心しつつ,嘘臭いので名刺とバ
ッヂをみせるように言う.不貞行為などを行っていないのに尾行し
たり写真を撮影したりすることはプライバシーの侵害であること,
私道への侵入は場合によって違法であること,などをお互いに確認
し,車の所まで案内させる.そして,鞄からレポート用紙と筆記具
を取り出して念書を作成する.一応は顔を立てて﹁息子﹂のことは
聞かないでおいた.
その代わりといってはなんだが,念のためにと先輩から持たされ
た小型GPSロガーを車にくっ付けておく.あとはログが溜まって
行動パターンが読めたら適当なタイミングで回収すればいい.これ
くらいが自分には精々だろう.集団暴力とは戦えない.職業柄,土
地柄,芸の師匠たちは八の字ともそれなりに付き合いがあるので,
心苦しいが後で頼ろう.ついでに,鈴内先輩の件も含めて,おかみ
さん会やのれん会の人にも聞きこみをした方がいいかもしれない.
肩を落として去っていく男の後ろ姿を見て,本物なら小指が何本
なくなるだろうかと憐れな気持ちになる.ま,多くても四本だし.
そんなもやもやを振り払ってから,念の為,改めて辺りを見まわ
す.滅多に通らないルートを使ったので,懐かしい物がちらほら見
える.その中の一つ,通っていた小学校は,広路たちが卒業した二
60
年後に少子化と耐震基準の関係で廃校になり,今はアートセンター
に改装中のはずだ.
普段は学校が終われば,稽古に次ぐ稽古が待っている.夕飯の後
にはまた剣の稽古もある.今日は生徒会の仕事で剣以外はお休みな
ので,時間はある.気温は低くなってきているが,予報が外れたの
か雨は降りそうにない.
せっかくの機会だし,いろいろ使えそうな場所だし,気分転換も
兼ねて面影が残っているうちに中を見ておこうか.広路は先ほどか
らの高揚を自覚したうえで,いつもと違うことをやってみることに
した.
自転車をお茶屋さんに置かせてもらい,ついでにいくつか小物を
拝借してから,歩いて小学校へ向かう.売れ残りの三ノ輪ラムネを
もらったので,屋上で飲もうか.
着くまでのついでに,万弓に電話をかける.
﹁はい,八荒です﹂
﹁広路です.今いい?﹂
﹁少々お待ちください﹂
長い保留音.
﹁ごめんなさい.待たせてしまって﹂
﹁いや,こっちが悪い.とってもらったけど,やっぱりかけ直す﹂
﹁いいの.三社祭の会合で置物やってて,抜け出したかったところ
だから,助かった.作り笑顔がつらくて,私は懸仏だと言い聞かせ
てた﹂
﹁お疲れ様.顔役が集まる時期ならちょうどいい.悪いけど,個人
的な頼み事があると先生に伝えてくれ﹂
﹁はい,承りました.お急ぎかしら?﹂
﹁いや,明日でもいいんだけど,色々あって今のうちに﹂
﹁そう.その話する時は,お稽古と別なら早めに来た方がよさそう﹂
﹁ありがとう.よろしく﹂
﹁よいよい.感謝しながらもっと私とお話するがよい.まだ会合終
61
わらないし,お稽古に来られない代わり﹂
﹁ごめん.ちょいとこれから用が﹂
﹁なんだ残念.なら,今夜は私が寝るまで寝かせませんから﹂
﹁それもごめん.いつもくらいの時間だと確約できない.万弓とは
長くなりがちだから﹂
﹁話があるのだから仕方ないでしょう.眠らせたいなら子守歌でも
歌えばいいじゃない﹂
なら,別に我慢し
数秒間,こちらの反応を待つだけのとは違う沈黙が流れる.
﹁もしかして,しばらく忙しくなるのかしら?
てあげてもよくってよ﹂
とりあえず流せないか試してみる.
﹁はいはい﹂
できればしないで欲しいな﹂
今度は少し長く,考えるような間が空いた.ケータイを持つのと
は逆側で,冷たい風が頬をなでる.
﹁⋮⋮ねえ,何か危ないことしてる?
隠すつもりはなかったので,特に驚かない.
﹁善処する﹂
﹁危ないことするんだ?﹂
低く,怒気を多少含んだ言い方.
﹁悩ましいところ﹂
そしてまた沈黙.でも広路は待ちはしない.
﹁ごめん,もうそろそろ﹂
﹁はぁ⋮⋮わかりました.また後で.暇があったら,夕掛と矢摩に
も電話してあげて.矢摩は今日買った本の話をしたがっていたから﹂
﹁覚えておく.また後で﹂
隠さなければ察してくれる,依存ではない共存.これぞ仲の良い
幼馴染の特権.母は﹁都合のいい関係﹂と嘲弄するが,ここまで積
み上げるのは一日二日じゃできない.一緒にいる間,有限実行で約
束は必ず守り,剛毅木訥の中にも細やかな気配りを欠かさず寄り添
う,そんな綱渡りのコミュニケーションを続けてきたのだ.都合が
62
:
金杉小学校に移動
よくて,何が悪いのかと開き直る.
〇八時一八分
,
広路はしばし脳内の誰かと戦い,小学校に到着.信号には一度も
引っかからなかった.
誰もいない.今日の工事は予想通り終わっていた.
二四時間警備のステッカーもないし,カメラも敷地内には見当た
らない.警察署から近いのもあってか,警備は巡回だけのようだ.
赤羽根警備保障という社名から北区の会社だろうし,使いまわしく
さい看板の汚れ具合などで判断すると,発報から到着にはそれなり
に時間が掛かるとみる.
参った.入れてしまう.
鐘は鳴らない.そのまま帰るべきだとは分かっている.それなの
に足は止まったままだ.そうしている内,辺りに人がいなくなった.
仁志に購買のデザートを奢ったせいで,投げられる硬貨が無かっ
た.
不意に,真後ろから車の近づく音が聞こえた気がして振り向く.
でもいない.そもそも後ろは道じゃ無かった.
前を向き,息を吐いて,吸ってから,防護壁の隙間のフェンスを
駆け上がって敷地に入り込む.
復興小学校特有の重厚な児童用昇降口は閉まっているものの,幸
い,一階の壁が新しい入り口用にぶち抜かれており,中まで入れそ
うだ.靴跡は⋮⋮埃の具合を見るに,気にしなくてもいいだろう.
やっちまったものは仕方がない.やるだけやろう.広路は諦めに
近い意志を固めた.
春の夕暮れ時,薄いカバーに覆われて電気のついていない校舎は,
窓を覆った蔦もあってかなり暗い.しかし,六年も通った校舎,そ
れでなくとも空間把握は十八番だ.移動には何の支障もない.
入り口からまっすぐ特別教室棟の四階に向かう.途中,ところど
ころに仮置きの工事用具が見え,床の砂利や瓦礫もまばらで意外に
整然としている.薬品や土の匂いもほとんど無いし,湿気もこもっ
63
ていない.怪談の舞台には力不足な雰囲気だ.
迷うことなく数分で四階に着いた.少しだけゆっくり歩いてから,
目的地,内装にほとんど手が入っていない多目的室へ駆け込む.こ
こは反対側の家庭科準備室と外廊下で繋がっているはずだ.
部屋に入ってきたまま足を止めず,外からみえない位置で一気に
加速して準備室に入る.さらにガラスの抜けた換気窓へ潜って隣の
家庭科室に入り込み,廊下側の扉上の窓枠に駆け登って,天井の古
い空調機に怪物のように捉まる.状態の維持はきついが上手くいっ
てよかった.
呼吸を整えてから息を殺し,隠し持っていた模造カランビットを
取り出して口にくわえる.
ほのかな熱さ自体にはすぐに気づけた.でも,尾行者が二人だと
いうことに気づいたのは一人目を処理した直後のことだ.熱さが消
えたら,今度は冷たさだった.他人の尾行に便乗するなんて,もう
一人は明らかに先ほどのとは違う.きっと﹁普通﹂ではない.その
憶測は,尾行者その二が,後ろ向きで家庭科室に入ろうとしたこと
で確信に変わった.
理由は三つ.一つ目.この位置関係で多目的室を陰から覗くには
この場所しかないから.薄暗い中,初めてのはずの場所でそれをす
ぐに選べる.二つ目.この砂利だらけなコンクリ床の校舎内を新品
の革靴で歩いて,一切の音がしなかった.自分にもそんなことはで
きない.練習したことないし.そして三つ目.そいつの正体.
全身をはっきり捉えられるくらい尾行者が教室に足を踏み入れる
と,広路はすぐに窓枠から真後ろに飛び降り,後ろから右手を回し
て模造カランビットを喉に押し当てる.
﹁お前は何だ﹂
刃はしなやかで鋭いが,所詮は模造なので当てただけでは血は出
ない.でも力を込めて引っ掻けばちゃんと傷つけられる.反応を探
るためにあえて口に出す.
﹁言わないと困ることになる﹂
64
主に俺が困る.栄えあるキレる十代の仲間入りである.
反応はない.動揺も感じられない.さっき一度やったので,もう
この手のセリフを口にする恥ずかしさはない.左手と右足で極めて
押さえつけたまま,引きずるようにじりじりと家庭科室を出て,廊
下中央へ移動する.資材置き場が脇に形成されているものの,本校
舎より廊下は広いので移動の邪魔にはならない.
何もなくなった辺りで一旦止まり,質問を続ける.
﹁なんでここにいる.何の用だ.ずっと見てたのはお前か﹂
回答はない.拘束する力をやや強め,また引きずるように廊下を
移動し,多目的室前の十字路へと戻って来たところで改めて尾行者
に言う.
﹁答えろ,仁志純﹂
全く出来すぎている.責任者出てこい.
仁志の方は,名前を言っても反応がない.これは骨が折れそうだ.
落ち着いて尋問するのに適した場所はどこかと思案する.が,こ
れまでの人見知りっぷりからすると,どこへ行っても無駄かもしれ
ないと思い,とりあえずその場に跪かせる.
中国語と英語,あとその他で質問を繰り返すが,無反応.
三つの秘密があるから,この手の状況を想像したことがないわけ
ではない.というより,これまでの人生で準備は出来る限りしてい
た.しかし,相手がこうだと事前のプランは台無しだ.腹とか殴れ
ば痛がる反応は引き出せるだろうが,欲しいのはそれじゃない.
黙秘がこんなに面倒だとは知らなかった.もし捕まることがあっ
たら自分もそうしよう.
一旦,仁志から完全に注意を外して辺りを探索する.校舎内に他
の人間はいない.外の人もまばらだ.
仁志は意識を外されても何もしなかった.今度は急に強く殺気を
当てて,軽く首を刃の先端でなぞってみる.結果は変わらず.元ヤ
ンの黒服なら小便を漏らす程なのに.
やはり,この手のには模造じゃ通じないのか,と思ったその時.
65
粗悪な煙草の悪臭が鼻を刺激した.
視界の外側にあった窓ガラスと壁が,消えた.
大きな粉砕音ともに,何かが外から飛び込んで来た.
一瞬だけ目に入ったのは金属の塊.
仁志をたまたま空いていた左手で突き飛ばしながら,ぎりぎりの
ところで後ろに跳んで身をかわす.
何かは,入って来た勢いのまま,廊下側の壁を二つ突き破って,
対角の多目的室へと突っ込んだ.咄嗟の防御につかった右手の模造
カランビットは,束から上が粉々になってしまった.高い買い物だ
ったが,命よりは安いか.
突っ込んで来たものを確認せずに,大きく空いた壁の穴に飛び込
もうとする.すぐそばの雨樋とカバーを掴んで,外の木に伝って逃
げるためだ.が,大きく跳ぼうとする寸前で,奇妙な現象に気づく.
止まろうとしたものの,間に合わずに顔からぶつかった.黒くせり
あがった鉄のような壁にだ.
目の前では,タンカーの座礁事故のように黒光りするものが壁の
あったところに広がりつづある.振り返ると,多目的室の方の突き
破られた壁はそのままだ.
何がなんだかわからない.けど理屈抜きで危険だとわかる.
まだ黒く覆われてない隣の窓を開けようと手をかけるがびくとも
しない.木刀の残った束でガラスを打つが音すらしない.外の探索
を試みても,何かに遮られるようで全く把握できない.
まさか,閉じ込められた?
それでも出ようと殴る蹴る引っ掻くの試行錯誤している内に,爆
発ならぬ大きな音がしたので振り向く.音の出処には,エグゾスケ
ルトンのような全身鎧をまとった何者かがいた.それは崩れた壁を
粉砕して,二足歩行でこちらへやって来る.だんだんと近づいてく
るにつれ,薄暗い中でも全身が見えるようになってきた.
触覚のはえた,昆虫のような頭.鋼鉄のような装甲で覆われたム
キムキの胴体.四肢も装甲で覆われているが,関節部は皮のような
66
質感が見える.人間発電所よりは生物よりな感じだ.エグゾスケル
トンではなく,外法系装着変身ヒーローというのが正しい姿.ダン
スマカブルの本に一体はいそうだ.
名前がないのは不便なので,以降,便宜的に怪人と呼ぶことにす
る.
怪人の顔はこちらを向いているが,歩みは倒れた仁志の方に進ん
でいる.その動きに合わせて広路はじりじりと階段側へ移動する.
仁志は体を起こしたものの,その場から動こうとしない.怪人を
挟んで仁志と向き合うようになる.
問答無用,見敵必逃.階段までは自分がいちばん近い.逃げるの
は得意だ.囮もいる.
でも.
いぶかしげに怪人を見ていた仁志が,はっと何かに気づいたよう
に手をかざし,言う.
﹁私は帝国の宮殿任用局人事部観察課員,玉座第七柱職人付き,職
人担当地域の上帝推薦候補観察役一二一番,登録名は一ノ二愛生,
本任務での仮名は仁志純です.貴官の所属は?﹂
手の平に,光る青いあざのようなものが浮き出してくるのが見え
る.
怪人はさっきまでの仁志と同じように,なにも反応しない.
﹁貴官の装備と紋章は軍人配下のものではないのですか?﹂
怪人の歩みは止まらない.仁志は手をかざしたままだ.広路がた
だそれを見ているうちに,怪人は手の届く間合いに到着した.
怪人は,これから素振りをするかのような無造作さで,ゆっくり
と右拳を振り上げる.
それほど長くはない人生の大部分,いくつもの武術を学んで来た
身だが,実戦経験は多いわけではない.友人の美浦に付き合って路
上MMAに参加したり,同じく付き合いで紙袋を被って人助けをし
た程度だ.しまゆうへのナンパは殺気を飛ばして避けており,喧嘩
にはならない.師匠たちとの組み手も,実剣を使おうが鍛練の範囲
67
でしか.ない.もちろん鍛錬が実戦に劣るわけではないが,経験値
の種類が違う.自分はこちらがまだまだ足りていない.
それでも言える.仁志はやられる.やれば自分もやられる.
振り上げられた怪人の拳は頂上で止まった.
その時,仁志の顔が変わる.
それを見た途端,広路の意識の外で体が動いた.
鐘の音が聞こえたかは覚えていない.⋮⋮いや,それは嘘だ.
息が無意識的に止められていて,頭がくらくらする.目眩とふら
つきで体が勢いよく前のめりに倒れ,床に叩き付けられる寸前,ほ
ぼ平行の状態から,息を吸いこむと同時に,脚を全力で踏み込んだ.
やるしかない.
怪人の無造作に振り下ろされた拳が仁志に届こうという刹那,真
横に辿り着き,勢いを生かしたまま,腰に捻り込む.そして,学校
を出た時から練って蓄えていた勁を通し,股関節辺りの装甲の隙間
めがけて,後ろ回し蹴りを叩き込んだ.
自動車以上の重さが,足腰から背骨,頭にまでずしりと響く.同
時に,カーーーンと場違いな高い音がして,怪人は,入って来た時
の半分くらいの速さで吹き飛び,修復された窓に斜めに叩きつけら
れる.その勢いのまま脇の工事資材置き場へと回転して突っ込んで,
視界から消える.衝撃で足場が崩壊し,資材が雪崩落ちる.床にま
で軽く揺れが伝わって,力の抜けきった足元がふらつく.
ぶつかった窓のガラスにはヒビすら入っていない.そして屋内の
壁は直っていない.広路は一連の流れの中でそのことを確認すると,
固まったままの仁志の手を取って引っ張り上げ,叫んだ.
﹁来い!﹂
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第四話 相去復幾許︵二人の距離はいかほどか︶
目の前であがった怒声と飛んできた唾に対する仁志の反応は鈍い.
ゆっくりと顔を上げてから広路を見る.
広路は,仁志の腕を掴んだまま,半ば引き摺るようにして勢いよ
く走りだす.
仁志は最初こそもたついたものの,すぐに足並みを揃えてきた.
その場の近くの階段を降り,さらに進んで渡り廊下へ続く廊下を
曲がったところで止まり,スイング系社交ダンスのように仁志を振
り回して奥に押し込む.一旦呼吸を整え,角から後ろの方を覗く.
まだ怪人の姿は見えず,気配らしきものもさっきから動かない.
それだけ確認してからまた走って校舎の端へ向かう.
途中の教室は壁がぶち抜かれて一つの大きな大きな部屋になって
た.壁の地や柱はむき出しなので,まだ改装途中だとわかる.場所
によってはかなり工事が進んでいるようだ.
真っ直ぐに渡り廊下も走り抜けて隣の本校舎へ.広路は仁志を引
っ張りつつ,棟の端にある音楽室へ駆け込む.本校舎は板張りなの
で,静かに移動するよう気を付けはしたが,さすがに音は鳴らして
しまった.音楽室を選んだのは,防音で話が漏れにくいし,準備室
もあって離脱がしやすいと踏んでのことだ.
入ってまず辺りを見渡す.暗くなってきてしまったものの,まだ
状況は見て取れる.運良く,こっちの方には工事の手は入っていな
かったようだ.アートセンターでもそのまま残すのだろうか.在学
中は不評だった音楽室だけ本校舎にある構造が,まさか役に立つと
は.
広路は昔を少しだけ思い出しつつ,真っ赤になるまで固く掴みっ
ぱなしだった仁志の腕を離して,再び息を整える.呼吸が落ち着い
てくるにつれ,汗がじわりと噴き出す.窓にぶつかった時の鼻血を
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拭うが,すでに乾いてしまっている.
仁志にも呼吸の乱れ,顔の紅潮,発汗が見られる.そのことに広
路は少し安心した.どうやら人間のようだ.なら,ここからは質疑
応答の時間にしよう.
﹁あれは何だ?﹂
さっそく本題に入る.会話を試みたということは,当然,何か知
っているのだろう.知ったかぶりという可能性もなくはないが,そ
の時はその時だ.
返事がないので,広路はケータイを懐から取り出した.予想はし
ていたが,やはり圏外だった.
﹁あれには勝てない.何とかしないと﹂
通知画面を仁志の方に向けてから,率直な感想を伝えた.
さっきのは不意打ちでありながらカウンター相当で完璧に決まっ
た.怪人は体ごと大きく吹き飛んだ.でも,そういうつもりで打っ
たのではない.留める蹴り方だった.恐らく自分からも跳んだのだ
ろう.決まったけど効いてない.一撃で沈めるつもりで無茶をした
ため,軸足が痛んでしまった.同じ威力ではもう打てない.
返答を待ちつつ足の状態を確認していると,煙草の臭いで怪人が
動き出したことに気づく.そのせいで広路は顔が不意に歪む.
ついてくる間,そして,今も広路の顔を見続けている仁志も,状
況を察したようだ.しかし,動こうとはしない.
﹁来る.時間がない.答えろ﹂
肩をつかんで迫るが,こちらの顔を見るばかりで反応はない.
﹁お前だって困っただろ.さっき無反応で﹂
相変わらずだ.いや,さっきまではこちらを見もしなかったから,
変化してるのかもしれない.とにかく前向きにいこう,ここだけは.
﹁あれは何だ﹂
広路はなんのひねりもなく,同じ質問をただ繰り返してしまった.
しかも,言ってから気付いた.前向きにいこうとした矢先のことだ
というのもあって,これにはかなりのショックを受けた.
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恵まれた人生?
だから何なのだ.
あの秘密がある限り,こんな時が来るかもしれないのはわかって
いたはずだ.それなのに,自分ではどうしようもなくなって,会っ
たばかりの何も知らない他人にすがっている.
息はすっかり整ったのに,どこか苦しい.無意識に歯噛みし,拳
を強く握る.なんでもいいから気を紛らわせたい,そう思った広路
は,最も自身を苦しめることを口にしてしまった.
﹁お前は,俺がやり直す前のことを知ってるのか?﹂
冷静な,いや,冷静になるつもりだったが,残響だけではっきり
わかるほど声は震えていた.何の勝算もない,ただの博打ですらな
かった.バレてしまった以上,この機会を逃せば二度と会えないだ
ろうから,これだけは聞いておきたかったのかもしれない.
⋮⋮いや,言い繕ってもしょうがない.ただ理性が衝動に負けた
んだ.
広路は文字通りうなだれた.
それでもこの敗北は幸か不幸か,次の戦いに繋がった.
﹁何ですか,それ﹂
初めてまともな反応があった.仁志の声は,自分がそれを知らな
いことに驚いているようでさえあった.
﹁知らない,か.いや,表現の問題か.けど,他の言い方を知らな
いんだ﹂
なにせ秘密童貞だったんでね.
﹁俺は人生をやり直した.でもって,やり直す前の記憶がないんだ﹂
頭を上げて言い直したのには無反応だった.仁志の感じるところ
だからここに
が分からない.ならば,さっきの流れを追うしかない.
﹁お前はそのことに関わってるやつじゃないのか?
いるんだろ?﹂
首を振ろうとして止まるのが動きから見て取れた.少しだけ進展
してる.
﹁あれのこと知らないのか?﹂
71
今度はこちらを見たまま,かすかに首を振る仁志.
﹁そうか.お前がここで,抵抗もしないまま死ぬ気なのはわかった.
死ぬのが怖くなさそうなのも何となく読める﹂
さっきの,あの何もかも諦めたようなやるせない顔が思い浮かん
で,今の表情に重なる.その幻影を見るのが嫌で,また何かしてし
まいそうで,仁志に背を向けて言う.
﹁俺は死ぬのが怖い.また続くかもしれないから﹂
自分は幸せ者だろう⋮⋮.きっと.
なんで言い切れない?
幸せと判断される大きな要因には,人間関係とかの環境と本人の
恵まれていても,幸せと言い切れるのか?
能力が挙げられるはずだ.でも,もしそれが誰かに仕組まれたもの
であったとしたら?
何者かが﹁奇跡のように恵まれた環境下で,卓越した才能を有す
る人としての人生のやり直し﹂を願った結果,自らは生じたもので
ある.このことを,人としての意識を持った時から広路は理解させ
られていた.そうして,生まれる前があったことだけを知った.
そして,いや,だから,自分を鍛えた.二度とこんなやり直しな
どしないように.
やり直しというのはどういうものか,毎日寝る前に考えているよ
うに,可能性はいくつもある.
まず一つ目.やり直しはただの脅迫観念で実際にはなかった.こ
の場合,この植え付けられた意識を我慢すれば良いだけだ.我慢す
るためには鍛えないといけない.
次.やり直しはあった.やり直したのは自分だ.やり直しは繰り
返されている.矢摩がいうところのループものだ.この場合,フィ
クションの例を信じるなら,自分次第でループから抜けられるかも
しれない.故に努力し続ける必要がある.
三つ目.やり直したのは自分で,繰り返し無し.これも俺が我慢
するだけ.どうしようもない.
まだある四つ目.やり直したのは自分ではなく別人で,しかも繰
72
り返しが有る.この場合が一番辛い.やり直したそいつは今も生き
ているのだろうか.そもそも人間だったのだろうか.この世界のも
のだったのだろうか.いつまたやり直させられるんだろうか.何も
わからない.不安で,憎くて堪らない.何かで気を紛らわせる必要
がある.
最後の五つ目,別人のやり直しで繰り返さない.この場合でもや
っぱり何もわからない.
他,以下省略.
対策は気合と努力と根性のみ.結局のところ,なぜやり直すこと
になったのか,何がそれを可能にしたのか,またそれは起こるのか,
何一つわからない.理解しているのは,ただやり直したという結果
だけだ.またやり直させられるかもしれない.だから,死にたくな
い.
けど,死んでいいとも思ってる.だって,四六時中こんなことを
考えさせ続けられてるなんて,自分で想像するのも嫌じゃないか.
それだけじゃない.やり直しのことは他人に知られてはならない,
という暗黙的な心の縛りがある.ただ電波だから言えないんじゃな
い.口に出そうとすると,全身がそれをこばむのだ.
さっきのみたいに口に出せるようになったのは,修行のたまもの
と危機的な状況だからだろう.もっとも,今まで口に出したことは
なかったから,結果的に鍛錬の成果の確認ができた.
でもこのままじゃ,無駄になる.
﹁俺って案外,頑張ってたのかな﹂
思考に逃避したのと同じくらい長く,長い,溜息を吐く.
﹁なに?﹂
呟くように仁志が聞いてくる.心配されてるのかこれは.
﹁独り言﹂
もう一息吐いて,へその下,丹田に気を置く.仕切り直しだ.
怪人の気配は渡り廊下の中央付近にあり,こちらへは徒歩のペー
スで向かってきている.
73
﹁さて,仁志純.俺はこの状況から脱したい.あれはもうすぐ来る.
速やかな対処が必要で,それには情報が要る.知っていることを教
えてくれ﹂
広路は改めて言って仁志の正面に向き直る.
仁志はただ首を振った.
なんでこいつが幼馴染じゃないんだろう,なんて理不尽なことま
で広路は考え始めた.
﹁死んでもいいのか﹂
仁志は首を振らなかった.それを見て広路の何かが切れた.
最大の技術を以って,予備動作なしに両手で制服の上から仁志の
胸をつかむ.
美浦の見立ては外れだったようだ.着やせするタイプなんじゃな
いか.ずいぶんと硬いけど気にせず揉む.
なんで?
死ぬんだろ?
別に胸くらいいいじゃ
間髪抜きに飛んできた肘打ちと金的をすんでのところで止めて,
にらみ返す.
﹁怒ったのか?
ないか﹂
自分が知る中で最も下衆な人間の顔まねをして言う.
﹁怒るのは,話さないってことは,生きる気があるってことだ.お
前は走れば疲れる,痴漢されれば怒る,生きてる人間だ.まだ生き
てるし,まだ先のことを考えてる﹂
理屈になっていないなんてわかってる.今はとにかく,感情を揺
さぶるしか策が思い付かない.揺れれば揺れただけ,間違いは起こ
りやすいものだ.こんな手は使いたくないが,信用を積むには時間
がなさすぎる.
﹁生きのびられたら,その時に好きなだけ殴るなり蹴るなりすれば
炭酸と甘さが
いい.そうだ,ラムネが鞄に入ってるから,それもやろう.日本に
一つだけの六角瓶モデルだ.飲んだことないだろ?
爽やかなのが特徴だ﹂
睨まれたままだが,気のせいか目により力がこもったように思え
74
る.すり足一歩分くらい前進か.
﹁風祭矢摩曰く,少女マンガの九割は,報告連絡相談の徹底によっ
て消滅するそうだ.言葉が尽くされてないと話が拗れるってことだ.
秘密は守るし,守らせる﹂
知り合ったばかりの二人だからこそ,お互いの情報をできるだけ開
示しないか?
仁志の表情がフラット,というか元の無表情に戻る.例えが悪か
ったか.これはバックステップくらいの後退だな.
﹁俺は,このやり直し人生がどんなに嫌でも,俺個人の意志だけで
はまだ死ねない.芸を託されてるから.これは初めから贈られたん
じゃなくて,後から託されただけだから,勝手に捨てるわけにもい
かない.姉にその気はないし.俺が死んだら,次のが育つ前に祖父
が死んで伝承が間に合わない.それこそ,最初からやり直しが必要
だ﹂
絶対に絶対に嫌だけどな.
﹁死なないために仁志と協力したい.詐欺師の論理は使わない.こ
れが本題だ.俺の質問に答えてほしい.俺も答える.一律じゃなく
ていい.今できる事とできない事を分けて考えてくれ﹂
床板が軋む音は,この部屋にいてもわかるほど近づいている.
﹁そっちから出る﹂
仁志の手を握り,一気にギアをトップまで上げて準備室へ飛び込
み,今度は急停止する.数秒後,怪人が音楽室へ入ってドアが自動
的に閉まるのと同時に,廊下へ駆け出し,音を気にしつつ全力で走
る.階段に差し掛かったところで,握っていた手を離し,慣性で流
した仁志を抱える.握るのにも抱えるのにも,抵抗はない.ひとっ
飛びに階段の手すりへ座り,滑り降りる.仁志が軽かったおかげか,
踊り場でのターンまで久しぶりでもできた.
そうして走り抜けて辿り着いたのは,改装が半端に進んだ元教室
の一つ.確か⋮⋮三年生のだ.壁に見覚えのある世界地図の切れ端
が残っていた.本校舎にベランダはないが,隣の部屋への非常用扉
がある.ここの黒板の左は,扉が除かれていてそのまま通れる状態
75
だ.
息を整えつつ,また声をかける.
﹁助けが要る.頼む.俺を助けてくれ.﹃帝国﹄の一二一番,一ノ
二愛生﹂
広路は仁志をじっと見つめる.
仁志は目をゆっくりと閉じてから,重かった口を開いた.
﹁私は⋮⋮﹃帝国﹄の﹃宮殿﹄で儀典庁長官官房任用部局人事部観
察課玉座第七柱設置地域係に所属している上帝位推薦候補監察官で
す﹂
表情は変わったように見えない.が,何かが仁志を動かした.何
が使えるカードなのか,急いで整理する必要がある.
﹁なるほど.わからん.それは俺の理解力を買いかぶり過ぎだ﹂
どっかの先輩みたいだ.説明を求めようとしたが,煙草の臭いが
鼻をくすぐる.怪人だ.気配と足音が分かりやすいのは結構だが,
ホラーとしか言いようが無い.
﹁また走るぞ﹂
これ以降,こちらが走れば向こうは歩いて追う,少し休むと追い
つかれる,を繰り返す.落ち着けないので,棟の左右,正確には中
庭の運動場を挟んだコの字の両端で距離を開けて,向こうの反対に
動くことにした.こちらが階段を昇ろうとすると向こうも昇り,降
りようとすれば向こうも降りる.結果として,左右の二階の階段踊
り場で身動きが取れない状態になった.なお,途中で見に行った昇
降口と職員玄関は当然のごとく開かなかったし,入る時の通り道と
屋上への扉も何か黒い金属のようなもので塞がっていた.
怪人からすれば,体力の差で走り続けるのが正しい勝ち方なんだ
ろう.そうしないのは何か理由があるのだろうか.時間稼ぎか道楽
か.どうせ考えてもわからないので,この間に会話を集中して試み
る.
﹁さて,﹃帝国﹄って何,からいこうか﹂
本題は別だが,話しやすそうなところを選んだ.そして,それが
76
間違いだった.
仁志の答えのいくつかの部分については脳が理解を拒否した.言
元始,この世には様々な勢力があった.それぞれ勢力の中でも
葉がわかる部分だけまとめるとこうだ.
とりわけ強い勢力の代表は,お互いの領分を守るために,生存のた
めに,滅ぼしあう争いを回避すべく取り決めをした.
一つ,全てを統べる上帝を選ぶこと.
一つ,上帝を選ぶために争わず協力すること.
一つ,上帝に選ばれるのは幸福なものであること.
一つ,上帝が不在の間は代表者たちが合議制の組織を運営するこ
と.
一つ,その組織は上帝のためにこの星を統べること.
この組織を﹁帝国﹂という.各勢力の代表七名が上帝を支える幹
部の﹁玉座﹂七柱になり,選定にかかる作業は行政部門の﹁宮殿﹂
が行う.﹁玉座﹂の柱はそれぞれ,第一柱﹁聖人﹂,第二柱﹁夜行
人﹂,第三柱﹁異星人﹂,第四柱﹁軍人﹂,第五柱﹁妖人﹂,第六
柱﹁魔女﹂,第七柱﹁職人﹂という.
仁志は﹁宮殿﹂の職員.﹁玉座﹂の一人の﹁職人﹂という奴が担
当する東アジア地域で,彼の下につき上帝候補を観察する役割なの
だと.
馬鹿げている.とても馬鹿げている.それ以外にどんな感想もな
い.
君主がいないのに国かよ.
今さら専制王政なんて気持ち悪い.
どうせ誰がやったって自分を含め民衆が糞なんだからどうにもな
んねえだろ.
なんだよ幸福って.君主さえ幸福ならあとはいいのか.
あと人縛りやめたの?
﹁夜行人﹂と﹁妖人﹂と﹁異星人﹂って人間じゃなくね?
﹁聖人﹂と﹁魔女﹂ってかぶってね?
﹁職人﹂だけ普通じゃね?
77
﹁軍人﹂てどこのだよ.
そんな頭の大部分を占めるツッコミを全てスルーして,現状を打
破することに思考を集中しようとするが,上手くいかない.
そうだ,落ち着くためにもう一回胸を揉もう.いや,待て,落ち
着け.
邪念を感じ取ったのか,仁志は一歩離れる.続けて口を開くが,
言葉が思い浮かばなかったのか,何も言わずに閉じてしまった.
﹁何だ?﹂
﹁﹃帝国﹄の政治体制について,現在の言葉で定型の説明があるの
で使おうとしたのですが,思い出せません﹂
﹁秘密組織っぽいのに何のための定型だ﹂
必修か?﹂
いや,末端なら知ら
﹁一部の有力な臣民向けです.例えば,澁衣財閥は﹃帝国﹄の出入
り業者の一つです﹂
あの時の反応,そういうことだったのか?
ないような.
﹁まあ,それはいい.それどこで知ったんだ?
﹁いえ⋮⋮思い出しました.ありがとうございます﹂
﹁何の礼かわからん.いいから続けてくれ﹂
﹁はい.﹃帝国﹄は反動です.上帝による統治は不合理を保つため
のものです﹂
﹁はあ?﹂
﹁まだ続きます.建国当時,発祥地の欧州都市国家では共和政治が
主流でした.その後は王政と帝国の時代が続き,革命を経て現在に
至ります﹂
﹁うちのテストだとそれ,点貰えないよ﹂
﹁続けます.現在のような共和制から王制に戻る可能性は低いです.
なぜなら合理的ではないから.もはや,たかが王に権力を集中させ
る妄信などできない﹂
﹁⋮⋮あ,わかった.それで反動か﹂
理路は見通せたが,相変わらず馬鹿じゃねえかという感想しかな
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い.
﹁まだ﹂
お役所仕事.
﹁それでも人間たちは不合理な妄信を捨てられない.神,宗教,魔
法,妖怪変化などについて語らない日はない.不合理な妄信が社会
の一部,欠けがえない一部なのだ.⋮⋮例えば,ラジオの干支と星
座の占いのように﹂
仁志もあの番組聴いてるのか?
﹁しかし,我ら,﹃帝国﹄のことですが,我らの元には聖人,魔女,
妖人,異星人らが確かに存在する.彼らにとって自らの存在や力は
合理的なものだ.彼らのことを知れば,人にとっての不合理が失わ
れる.彼ら同士からも失われえる.存在や力に対する不合理が,対
話や学習によって根絶されようとするのなら,常に意識しうる統治
者を不合理のものとしてしまえば良い.統治が無害であればなお良
い.お分かりなら,あとは省略します﹂
﹁理屈はわかった.それで幸福が条件なのね﹂
でなければ,きっとやってられない.
﹁あなたは,上帝位への推薦候補者として,今日の日本標準時午前
零時より観察対象になっています﹂
もしかして朝の寒気もお前か.
﹁継承候補って,公子でも皇子でも王子でもないのになれるの?
俺はやり直しだから,だから間違いなく血縁上は両親の実子だよ﹂
﹁継承とは違う.推薦候補.世界には三〇分ほど前の時点で推薦候
補が九千八百十七人いる.あなたは推薦候補四六四九四六五一号で
す.上帝がいたことはないから皇族もいない﹂
馬鹿馬鹿しいがその理屈ならわかる.
﹁なるほど.ずいぶんと数が多い気がするけど,通し番号か?﹂
それとも?
﹁そうです.頻繁に入れ替わりがある﹂
不幸になったんだろうか?
﹁んー.観察しているらしいけど,俺の個人情報は網羅していると
79
?﹂
仁志は言葉でなく,こくりと頷いて答えた.なんだかかわいく思
えてきた.吊り橋効果かストックホルム症候群か.どっちにしろ正
常じゃない.
﹁じゃあ,明日の俺の放課後の予定言える?﹂
﹁午後四時終業.同一〇分頃帰宅.着替えの後に移動.四時一五分
に馬家着.太極拳の稽古.五時五分,稽古修了.同一〇分,馬家か
ら風祭家に移動.書の稽古.六時,稽古修了.移動.同五分,自宅
着.同一〇分,夕食準備.同四〇分頃,夕食.移動.七時,穴師家
着.柔術の稽古.七時五〇分,稽古修了.移︱︱﹂
﹁わかった.もういいよ.ありがとう.霊媒師だったらお金払うと
ころだ﹂
他の人のことは何か知っているのかと気になったが,こんな時に
聞くものでもないので話を戻す.
﹁ええと,何か候補に入る理由はあるのか?﹂
﹁儀典丁情報局情報部情報収集課玉座第七柱設置地域係に情報が渡
り,計測された幸福値が閾値を越えていれば﹂
﹁幸福って数値計れるのかよ⋮⋮って,それは別にいいか.なんか
で運動量とか遺伝子と相関があるとか読んだし﹂
やり直された人間がいるなら,幸福を計る仕組みがあったってい
い.世界を征服してる組織があるならなおさらだ.今はそう思うこ
とにしよう.今は,まだ.
﹁問題はその前だ.俺は,何かの作為で恵まれてただけで,公に目
立ったことは,吉原以外じゃしてないはずなんだけど﹂
それこそ,恵まれたなりの普通のつもりでいたのに.
﹁そうですね.特記事項はなかった.あなたが候補に入った理由は
現在の﹃職人﹄による最初の直接選定.幸福値の計測は行われてい
ない﹂
﹁何で?﹂
比喩的な意味で,陰謀の臭いがしてくる.
80
﹁知りません.私の権限で選定理由は閲覧できない﹂
ここまで話してくれているのだし,嘘ではないだろうと思う.し
かし,何かがちぐはぐだ.
﹁一応,簡易計測はできる.測りますか?﹂
仁志は眼鏡を人差し指でクイッとあげる.やはりそれか.
﹁要らない.今日の占いは百点だったから.できれば,あいつのを
測ってほしいね﹂
﹁それはいい考えです.が,複数の値から総合的に判断するので,
遠隔では不正確﹂
﹁健康診断みたいなものか﹂
﹁はい.やはり測っておくべき﹂
仁志も気になっていたのか,言うより早く,こちらを見ながら眼
鏡のフレームの角をなぞって叩いた.
それを広路は何となく避けてみる.
﹁ズレた.が,問題はない.総合値2/8fg+−190.観察要
件をごく僅かに上回っています.ただ,誤差が見たことないほど大
きい.故障か,あなたのせいか,現状のせい.非常時の簡易計測で
しかないので目安程度﹂
﹁ようわからんが,俺って案外,幸福なんだねえ﹂
﹁ですから,簡易計測だと︱︱﹂
﹁それでも結果は結果だろ﹂
そう,原理はわからなくても,結果が出たのならいい.
だいぶ落ち着いてきたので,気になっていたことを直球で聞いて
みる.
調べはついてたはずだろ?
気配が読める相手にここまで近
﹁話変わるが,なんで,こんなにあっさりと仁志は俺に捕まったん
だ?
そのような情報はありませんでした.なぜ?﹂
づいて尾行とか,ありえん﹂
﹁え?
﹁知らんがな﹂
こっちが驚きたいほど予想外の答えだ.何だろうか,この違和感
81
は.世界を牛耳っていると称する割に,肝心なところ,対象を観察
できるかどうかにかかわる部分が抜けていたり,その抜けていると
いうことの重大性に仁志自身が驚いていたり.
﹁いえ,あの,なぜというのはなぜ気配が読めるのかということを
お聞きしたくて﹂
﹁は?﹂
﹁すみません.ごまかしました.それはそれとして,せっかくなの
で,私の知っている原理であれば助言できるかもしれない﹂
照れたように言う仁志.なんかずうずうしくなってないか.
﹁秘密﹂
﹁そうですか﹂
でもつれない.仕方がない.
﹁家の剣術,つーか軍配術を習っているから,のはず.うちのって,
山鹿あたりも教わってる
自称の起源は某天孫で,鎌倉から明治まで禄を賜ったトンデモ系で
さ.文書によると,鬼一,九郎,金柑,
らしい.どこまで本当だかわからんけど﹂
祖父曰く,当流派は﹁軍の大将が天守や陣から逃げるとき,または
逆に,大将首を逃がさない﹂ことを主眼に置いており,その教えは
戦術レベルでの空間掌握技術に特化している.この先祖伝来門外不
出の稽古を一万時間ほど積むと,気配だの視線だのがわかるように
なるのだ.一般的に気配は静電気や音だと言われてるが,自分たち
のは違うようだ.感覚の鋭敏化か,戦術勘の発達か,詳しい理由は
知らないし,どうでもいい.母曰く﹁人生は緻密な考証が求められ
るSFじゃない﹂んだから.﹁要は,視線や気配を読むなんて訓練
すれば誰でもできる,ただの謎の技術だ.超能力なんかじゃない﹂
と伝えた時のしまゆうの顔は今も覚えてる.
もっとも,出来には個人差がある.小径は同じくらいやっている
が,まだ四メートル程度が限界だ.祖父ですら二十五メートル.ち
なみに広路は二百メートルだ.
﹁なるほど﹂
82
こんな話でいいのか.楽だ.
﹁あ,そうだ﹂
﹁なんですか﹂
追ってきている怪人は,現実の,今ここにある危機だ.
つい,声が出てしまった.さっきの﹃帝国﹄云々は嘘だという可
能性は?
多分.でも,仁志の話は妄想.つまり,怪人と仁志の話は全く関係
ないという可能性.たまたま二つが同じ場所で同じ時に交わってし
まった結果,一つの大きな出来事に見えてしまっているのでは?
さっきの格闘技っぽかっ
ありえなくはない.いや,むしろその方が自然な気さえする.これ
は確かめなきゃいけない.
﹁⋮⋮えーと,仁志は何かやってるの?
たけど.あと,体格に比べて動きが良いよね﹂
﹁はい.軍格闘の中級を修得しました.薬物による強化もある﹂
自称ヤク中.妄想説に十ポイント.
﹁なんか職人てよりは魔女とか軍人だな﹂
﹁誤解しないでください.わたしは宮殿の職員.職人ではない﹂
﹁よくわからん.さっきの説明と何が違うんだ﹂
また釣ってみる.
﹁わからなくて結構です﹂
やはり掛からない.主導権はこちらにあるはずだが,判断力は鈍
っていないようだ.あと,世話好きではなさそう.方向を変えるか.
﹁﹃帝国﹄のことはもういい.今につながる話にしよう.んで,武
器は使える?所持品は?﹂
毒,薬,爆発とかで﹂
化学式
﹁基礎生存訓練は受けました.ナイフ,銃,薬品をいくつか﹂
﹁薬品の種類は何系?
﹁医薬品と爆発物です﹂
﹁クジラ動けなくする毒薬とか,バスが爆発する爆薬は?
まで詳しくなくていいから,使い方だけ教えてくれ﹂
﹁どうぞ﹂
制服の下をまさぐって,ホルスターごとプラスチックでできた銃
83
のようなものと,巨大なクレヨンのようなもの,注射器のようなも
のを渡してくる.さらにスカートの下からワイヤーと手裏剣が出て
きた.
おへそと温もりと裏ももとパンモロも頂きましたが嬉しくはない.
あと,硬かったのはこれか.なら,未遂じゃん.
﹁何これ?﹂
﹁閃光弾,催涙弾,発煙弾が一つずつ.威力の違う爆弾が二種類二
つずつ.銃口部分に装填して撃つ.手投げでも使える.注射器は麻
酔と神経毒.銃弾としても注射としても使える﹂
﹁カンプピストルと各種小型ロケット弾?﹂
銃の表には何の刻印もない.
型番の話までいかなくていいから﹂
﹁大体はあっています﹂
﹁違いは?
﹁どちらにも魔力や妖力,祝福が加わっています﹂
コミュニケーションが上手くいきはじめたようだ.驚きは最良の
潤滑剤だな.
﹁オカルト,いやミステリか﹂
﹁魔力とは︱︱﹂
﹁細かい説明はいい.悪いけど,背景とか体系にはまだ興味がない
し,聞いてる余裕もない﹂
余裕が出る前にとりあえず銃の照準を確認してみる.
﹁射撃の経験はないんだ,これがな﹂
﹁二年前に南洋のリゾート地で短期の射撃訓練を受けたのでは?﹂
﹁よくご存じで﹂
陶芸家の叔父に連れられて滞在した時の話.ただの電波ストーカ
ーではないようだ.
﹁この銃は仁志が持ってた方がいい﹂
今度ははっきりと脇やブラが見える.言っておくがこれ狙いでは
ない.
﹁ポエムのついでに.いや,やっぱりこれが本題か.あれは何もの
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?﹂
遠回りにもほどがある.
いや,またの機会でいいか.
﹁軍人に属するものです.四弾倉の黒い銃が描かれていた.﹃帝国﹄
の紋章の一つ﹂
銃の紋章だ?
﹁仕様についてもう少し具体的に聞かせて﹂
﹁人間が装着して戦闘能力などを強化する外骨格の一種です.ベー
スには超高温高圧化の無重力環境で精製された特殊合金を使用.間
接稼働部分は妖人属の海洋種由来の皮膚素材.頭に見えた触覚状の
センサーも同じ.熱や振動,呼気,電磁気など,いわゆる気配とい
うものを感知する機能あり.システムのコアをもたない分散型の設
計.電磁波の吸収と各所の体温発電で稼働.デザインはゴキブリが
モチーフ﹂
よりによって人類の宿敵をモチーフにするとは,本気だな.喋り
それが当たり前?﹂
が乗ってきたようなので,ここでまた広路にとっての本来の方向に
戻してみる.
﹁なんでそんなに詳しいの?
﹁いえ.前の職場が兵站庁総務部装備倉庫管理課目録係でしたので﹂
﹁地味できつそうな仕事だな.しかも,そこから最前線て﹂
﹁確かに⋮⋮いえ,何でもない﹂
ガードが開くのは確認したので,次は生き残るために話を進めよ
人が着てる感
う.交互に攻めるんだ.甘いの,塩辛いのみたいに,合間合間のキ
ャベツはダイエットの友.
﹁でもさ,なんか違和感あった.その強化外骨格?
じじゃない﹂
﹁なぜそう言えるのですか?﹂
﹁蹴った感触とか.偽装の可能性は?﹂
﹁着用前提です.それに﹃帝国﹄の住人以外が紋章を使うことはあ
りえない.使えば存在を抹消される﹂
﹁消す,ね.話聞いて,仁志を見てると,そこまですごい組織に思
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えないんだけど﹂
﹁今ここで口で説明しきれるものでもありません.今ここでなくて
も言えません.緊急だから﹂
﹁ああそう.何もかも掌の上だってんなら,別に知らなくてもいい
よ.話戻すけど,仁志はどこかに紋章持ってるのか?﹂
早歩きで階段を上下しながらだったので外すのに手間取っていた
ナイフを,ホルスターごともらう.刃物自体はあんまり詳しくない
ミステリ?
SF?
ギャグ?﹂
が,一目でシンプルなサバイバルナイフだとわかる.
﹁これはオカルト?
﹁とにかくよく切れる,しなやかで頑丈なナイフです.紋章はここ
に渡されていたものが.思考と連動する刺青だそうですが,装備で
はないので詳細は知らない﹂
掌にじわりと,さっきまでは見えなかった青い蛇状の模様がにじ
み出る.
﹁職人で蛇?﹂
とりあえず,仁志の話は本当であり,﹁帝国﹂と
﹁鎌だそうです﹂
人食いかよ.
﹁職人﹂は間抜けか,どちらかが意図的に情報を隠しているという
ことで考えを落ち着かせるとしよう.戦闘中だし.
﹁今まで戦う前提の話だったけど,交渉はできる相手か?﹂
仁志は少し考えるように人差し指を顎に当てて,首を振る.
﹁理由は?﹂
﹁﹃帝国﹄住人同士の争いは法で禁じられています﹂
﹁それが理由?﹂
﹁﹃帝国﹄警察はとても恐ろしい人たち﹂
﹁それでもこうしてるからか.でも,禁じられてることをしてて,
厳しく取り締まる奴がいるのに慌ててないのは,何かおかしい﹂
﹁そうですね﹂
原因がわかればどうにかなるかもしれんが,情報を向こうから引
き出せるとも思えない.広路が避けさせなければ最初で仁志は死ん
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でいた.後の行動は理解できないが,あの時点ではそれがはっきり
していた.だから,怪人にとって現状は予定外のはずだ.
﹁うん,よし.もう質疑はいいや.んで,お願い.仁志,力を貸し
てくれ﹂
﹁あなたの方が戦闘能力は上です.先程からはそう理解してる.だ
から私では足手まとい﹂
﹁特殊な力とかないのにか.世の中には妖人だの魔女だのが跋扈し
てて,あれもそれの一種なんだろ?﹂
﹁でも,今のところは単独行動が最善でしょう.最善を尽くしてく
ださい﹂
盗聴までしてるとは.電話もおちおちできないな,これからは.
てか夜の営みは.
そういえば,怪人はどうなんだろう.気配がわかるだけでなく,
話も筒抜けなのか?
手話を試してみる.
︵﹁わかるか?︶﹂︶
仁志は人差し指をこめかみに当てて首を傾げる.お前,あざとい
な.
﹁もしかして盗聴してたのか﹂︵﹁触ったの胸じゃなかったから,
痴漢ノーカンね﹂︶
﹁はい.全ての通信・通話を﹂︵﹁ふざけてるんですか?﹂︶
さすがエージェント.良い教育を受けていらっしゃる.
﹁今度からは手紙と会話でなるべくやりとりするよ﹂︵﹁冗談だ.
ごめん.あれは遠くの会話もわかるのか?﹂︶
﹁そうですか.別に全て集める必要はないので,構わない﹂︵﹁セ
ンサが多い分,集音性能自体はさほど高くない.ほぼ人間並みのは
うさ耳ゴキブリなのか?
ずです.集音性の高い拡張パックは外見が違います.もっとこう,
触覚がこう﹂︶
うさ耳っぽいのか?
﹁そうかい.やめてほしいけど言っても無駄だろうな.仕方ない.
とりあえず⋮⋮ここではお互いに出来る限りのことをしよう﹂︵﹁
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わかった.念のため,行動に関しては口ではフェイクをまぜて,手
では本当だけ言う.いいか?﹂︶
﹁いやです﹂︵﹁いいです﹂︶
これで万一,仁志経由で盗聴されててもなんとかなる.思考盗聴
など知らん.
﹁なんでそうなる﹂
﹁情報は提供しますが秘密は明かせません﹂
さっきのは秘密じゃないのか.
﹁嘘言えばいいじゃん﹂
﹁嘘はつきたくないです﹂
﹁隠匿じゃなくて自己都合かよ﹂
﹁﹃帝国﹄のことは隠しているというより,必要がないから教えて
ないだけだと聞いてます﹂
愚民は黙ってろってことかい.
﹁イルミナティかよ﹂
﹃帝国﹄ってイルミナティじゃないの?﹂
﹁なんでしょうか?﹂
﹁ん?
知らない訳ないだろ﹂
﹁そのイルミナティとはなんですか?﹂
﹁え?
﹁嘘はない,と言いました﹂
職人
﹁えっとな⋮⋮秘密結社として有名な組織だ.世界規模でなんかあ
るとだいたいこいつらのせいと言い出す人もいる﹂
﹁そうですか.その単語は知りません﹂
﹁﹃帝国﹄はイルミナティではないということでいいのか?
とかそれだろ,まさにフリーメーソンだし﹂
﹁ですから,違います.そういった秘密組織は聞いたこともありま
三百人委員会は?
竜
せん.﹃帝国﹄下の組織にもありません.そもそも,秘密なのに有
名なのはおかしい﹂
まさかイルミナティて存在しないのか?
兵会は?
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﹁あ,そうそう.﹃帝国﹄内の親子ってどうなの?
るの?﹂
﹁個人的な話です﹂
﹁じゃあ,プライバシー権はあるんだな﹂
一緒に生活す
﹁あの,こんな情報が状況の打破に必要なのですか?﹂
仁志の表情が硬い.カルトの特徴を確認しようとした途端にこれ
だよ.
﹁いや,ほらさ,そう,そうだ.なにかのヒントになるかもしれな
いっしょ?﹂︵﹁組織のことを知っておけばゴールが変わる.すご
い組織なら,逃げまわってればその内捕捉されて助けがくるかもし
れん﹂︶
倒すのではなく時間を稼げばいいなら,やりようは色々ある.
﹁発言が曖昧です﹂︵﹁すごい組織です﹂︶
今一つ信用できないのは大部分が仁志のせいだと思う.
﹁曖昧のままのが都合がいいんだよ.誤解を招けるから﹂︵﹁こっ
ちは早ければ夕飯の時間,遅くとも明日の朝になれば,所在確認や
捜索が始まるはずだ.俺は優等生だからな.連絡がつかないってこ
とで,祖父と妹が探しにくれば,ここの異常に気づくはずだ.あと
は警備員の巡回と工事の再開だな.それまで逃げまわれば向こうも
撤退するかもしれない﹂︶
﹁なら,正解も出してください﹂
﹁そういう頭の回し方,好きだ﹂︵﹁そっちは連絡取らないでいい
のか?﹂︶
﹁ふざけないで下さい.撃ち殺しますよ﹂︵﹁定時連絡はあります.
最後は三十五分ほど前.次は二十五分後の予定.けれど,観察が優
先される事態が起きた場合は後でもいいです.学校では授業もあり
ますし.電波が届くなら位置情報は常に送られています﹂︶
﹁俺はふざけてなんかない.好きだ.死ぬ前に童貞捨てたい﹂︵﹁
じゃあそれがロストしてれば上司なり同僚なりが動くわけ?﹂︶
﹁⋮⋮あそこに何かのチューブがある.私は向こうを向いているの
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で,それで処理してください﹂︵﹁はい,おそらく﹂︶
﹁そんなタチコキプレイを強要されると僕は思いませんでした.興
奮します﹂︵﹁じゃあ,三十分から二時間くらい逃げられれば何と
強要?
興奮?﹂︵﹁そうなります﹂︶
かなるかもしれないわけか.確証はないが﹂︶
﹁プレイ?
﹁嘘です.被虐趣味ありません﹂
﹁ならば知能の問題ですね﹂
﹁どこでそんな切り返しを覚えるんだ﹂
﹁思ったことを述べたまでです﹂
会話が楽しくなってきた広路だった.
﹁じゃ,ここを切り抜けられたら,明日から昼ごはんに付き合って
時間を稼ぐのでは?﹂︶
先の事を考える余裕がおありなら,この場を切り抜ける案
くれ﹂︵﹁よし.なら攻めよう.いいよな?﹂︶
﹁は?
を出してください﹂︵﹁何故ですか?
﹁いいじゃん.同級生なんだし,ご飯くらい﹂︵﹁兵法三十六計の
三十四,苦肉計﹂︶
﹁なぜ食い下がるのですか﹂︵﹁知りません﹂︶
﹁軍格闘教えてほしいから.代わりにお弁当作ってくのでどうかな.
自慢じゃないけど上手いよ﹂︵﹁今の主目的は時間を稼いで増援を
待つことだ.向こうも遊ぶ気らしい.一気には来てない.これは俺
たちにとっても都合がいい.そのことを悟られては困る.だから,
主目的ではない攻めに出る.適度に攻めてから逃げるのを繰り返す.
倒すつもりなのだ,戦うしかないのだと,誤解させるわけ﹂︶
﹁⋮⋮万一,この状況を切り抜け,後もあなたが私を覚えていて,
私が任務を継続していたのなら,その時は考えます﹂︵﹁そうです
か.理はあるといえる﹂︶
いいか?﹂︶
﹁よし,約束な﹂︵﹁それに,攻めないと向こうに主導権握られっ
ぱなしになるから,逃げにくくなるしな.わかった?
﹁できない約束はしかねます﹂︵﹁わかった.いいでしょう﹂︶
﹁真面目だねえ﹂︵﹁よし.ちょっと待て﹂︶
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﹁悪かったですね﹂
﹁⋮⋮そこも聞いてたのかよ﹂
盗聴器だろうか.あの玄関の人混みで聞けるとは侮れん.
﹁悪かったですね.仕事ですので﹂
﹁いや,そういう意味じゃない.そのそこのそれかあらぬかだろ﹂
﹁は?﹂
﹁これは昨日の話﹂
﹁観察は今日からですので﹂
﹁お役所仕事﹂
﹁公務中の公務員ですので﹂
﹁いくらもらってるの?﹂
﹁住居衣服食事ほか日用品や活動にかかるモノとカネは全て支給で
す.私物の所持も許可されていますが,私は必要に思ったことがあ
りませんでした﹂
﹁身軽でいいねえ﹂
姉と話が合いそうだ.
﹁⋮⋮そうでもないかもしれません﹂
⋮⋮さて,もう戦うしかないな﹂
含んだような物言いをして,こちらから目をそらす仁志.
﹁ふーん?
﹁わかりました﹂
﹁決断はええな﹂
これまでの対応からして,もっと考えるのかと思っていた.
﹁私は決断などしていません.貴方に同意しただけ.私の決断は必
要ない﹂
﹁それをいうなら,あらゆる決断など無意味,だな﹂
﹁なんですか,それ﹂
﹁えーっとな,時間に関する線形の考え方の一つだ﹂︵﹁作戦でき
た﹂︶
﹁話したいなら,どうぞ.私の知らない話だから聞いてもいい﹂
万弓がネタで同じ言い方をしたことがあったっけなあ,と広路は
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場違いに懐かしんだ.
Aになっ
Aの歴史でも決断Z
Aの分岐点Xに置かれる
Aの分岐があったとする.次に,Aをする,あるいはしな
﹁何だその反応.うん,よし,聞かせてやろう.まず,選択肢Aと
Not
いと決める.この決断Zは,AとNot
のが自然だ.となると,Aの歴史でもNot
は存在する﹂︵﹁その名も爆弾でぶっ飛ばす作戦﹂︶
作戦名には無反応だった.
﹁すると問題が起きる.決断ZによってAまたはNot
た,言い換えると決断Zが選択の結果の原因であるとはいえなくな
るのだ.だって,選ばなかった方にも,あるんだから﹂
広路は仁志についてくるよう手で促す.
仁志は真剣な面持ちで相槌を打った.どっちのことかは分からな
いが,進めることにして,三階へ上る.
﹁でも,分岐点X以外に決断Zを置くと不自然だ.分岐の前に置け
ば,決断で分岐したことにならない.分岐の後に置いても同じだ.
決断した後に分岐を消したら,そもそも選ばなかったのと変わらな
い﹂
今日何度目かの三階に到着した.怪人も反対側で着いたのを確認
し,広路は手すりに腰掛ける.そして,仁志に手を差し出し,隣へ
座るよう促す.
︵﹁一気に降りるぞ﹂︶
﹁だから決断は無意味だと?﹂
納得していない顔で仁志は言いながら,こちらの手を握る.それ
だけでなく,先ほどのように抱えられようと跳んできた.
別の言い方するなら,可能性と必然性は違いがないって
広路は驚きつつも,しっかりと受け止める.
﹁さあ?
こと.自由意志の有無にかかわらず﹂
﹁何か矛盾があるはずです﹂
広路が抱えたまま動かないので,仁志は困った顔をしている.
﹁かもね.その時々で並行する道が見えるだけなのかも.あと,時
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間は線形でないとか.大森哲学的な﹂
﹁あるいは,あなたの理解に誤りがあるのかも﹂
﹁これは厳しい﹂
﹁だって⋮⋮いえ,何でもありません﹂
﹁そういう言い方,よくないと思うんだが﹂
﹁ごめんなさい.何か言うことがあった気がしたのですが,はっき
りしなくて﹂
﹁思い出せたらどうぞ.さて,らちが明かないから大きく動こうか﹂
﹁はい﹂
尻に力を入れて,手すりに沿って滑り降り始める.前よりはゆっ
くりだが,今回も上手く下まで降りられた.
怪人も遅れて階段を降り始めたのがわかる.
仁志を降してから,﹁さっきので思ったけど,黄金の夜明け団と
かもいないのかなぁ﹂と聞こえそうな大きさでつぶやく.
﹁それなら同じかわかりませんが,あります﹂
﹁え?﹂
﹁黄金の夜明け錬金教団.玉座第四柱の下部組織です﹂
それじゃあ魔術師もいるのか?﹂︵﹁さて,特別教室棟
これは秘密か,それともガードが無くなったのか,確かめないと.
﹁へえ?
まで走るぞ﹂︶
﹁それはいません﹂
仁志はまたこちらの手を握る.そういうつもりではなかったが,
そのまま引いて走り出す.
﹁なんだ.錬金術師はいても魔術師はいないのか.科学だからかね
?﹂
﹁魔術の使い手は,魔女との玉座の座を賭けた争いに敗れ,滅びま
した﹂
﹁魔術師と魔女って別なのか?そういえば魔女宗とかあるしな.そ
っちは薬草とか悪魔とかか.なんで負けたんだ魔術師.くじ引きだ
ったのかな﹂
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﹁ただの戦力差だとされています﹂
﹁魔女のが多いのか﹂
﹁魔術師は素質と訓練で,魔女は血脈でなるものなので﹂
特別教室棟の一階は,図工室と家庭科室だったところだ.今は大
きな作業場のような形に改装されているが,やはり半端な状態で,
片付いていない.
﹁あの,聞いてもいいでしょうか?﹂
︵﹁このゴムをまず剥がそう﹂︶
仁志からもらったナイフで壁の石膏ボードの下についていたゴム
シートを切り取る.
﹁聞くだけならどうぞ﹂
﹁﹃お前はやり直したものだ﹄ということを﹃理解させられ続けて
いる﹄とは,どういうことなのでしょうか?﹂
﹁なんだ,そんなことか.誰狙いか聞かれると思った﹂
﹁はい?﹂
広路は反応を保留して,また手を差し出す.仁志の手を握って,
棟の三階からまた渡り廊下経由で元の階段まで戻ってきた.
﹁何にもなかったな.マジでどうしようか﹂︵﹁これ,靴に巻いと
いて﹂︶
仁志に取ってきたゴムシートを渡す.これで仁志なら足音がほぼ
なくなるだろう.
﹁体術でどうにかするしかないのでは.グレネードが当たる気はし
ません﹂︵﹁はい﹂︶
﹁だよねえ﹂︵﹁終わったら今度は背負って移動するから﹂︶
﹁あの,先ほどの件ですが︱︱﹂︵﹁はい.そして単独行動ですね﹂
︶
遮るように被せて聞き返す.
﹁なんで知りたいの?﹂︵﹁お察しの通り﹂︶
﹁⋮⋮記録のためです﹂
﹁仕事熱心だな﹂
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﹁先のことを考えてますから﹂
広路は仁志に背を向け,目を閉じた.
﹁人に話すの初めてだから,上手い説明がすぐには思いつかない.
それに,聞いても面白くはない﹂
﹁面白くないのはわかっています.仕事なので仕方ない﹂
いい根性してるよ.こういうのは,自分の周りじゃ久し振りかも
しれない.もっとも,これ以上友人は要らない.
﹁記録しないなら教える.できれば忘れてくれると助かる﹂
﹁わかりました.記録も報告もしないので教えて下さい.お願いし
ます﹂
返事は間がなかった.意外だった.見えてはいないが,頭を下げ
ているのはわかる.
広路は諦めとも覚悟とも違う,意地のような溜息を吐き,大きく
深呼吸してから話始める.
これは秘密ではない.聞かれないから答えなかっただけの話だ.
﹁雪降ってるの見たことある?﹂
﹁えっ.ありません﹂
﹁じゃあ雨は?﹂
﹁それくらいありますよ﹂
むっとしているのが声だけでもよくわかる.ういやつだ.
﹁外の,学校のグラウンドでいいか.想像してくれ.一歩先も見え
ないくらい強い雨が降ってる.でも傘がない.服は下着までもうぐ
ちゃぐちゃで,べっとり張り付いて重いし冷たい.鼻を突くのは排
ガスと放射性物質混じりの雨のにおいだけ.いや,微かに鼻の奥か
ら鉄の匂い.そう気づいた頃,雨音に混じって,校舎から鐘の音が
聞こえてくる.なんだろうと見上げる.突然,轟音と一緒に空気が
揺れて,あたりが一瞬真っ白になる.雷が落ちたんだ.慌ててしゃ
がみこむ.あれ,息ができない.溢れた水が全身を呑み込む.苦し
さに意識が遠のく.気がつくと,耳元で誰かが囁いている.声がだ
んだん大きくなってきたので耳をふさぐと,筋肉の動く音が聞こえ
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る.雨も鐘も雷鳴も水流も声も,耳をふさいでるのに聞こえてくる.
想像できた?﹂
﹁⋮⋮なんとか﹂
﹁その時に,見えるもの,匂い,肌の感触,温度,聞こえる音,苦
しさ.その全部が﹃お前はやり直したんだ﹄って言ってくる﹂
味覚が無いのは例えでなく,事実だ.
﹁⋮⋮今もですか?﹂
振り返ってみると,仁志の表情が固まっている.まるで,嫌悪や
失望を何一つ気取らせないようにしているかのような,強い拒絶の
意志を感じさせる.何が見えているんだろう.
﹁今までも,今も,たぶんこれからも﹂
訳がわからない﹂
﹁想像できません.あなたの言った通りだとして,それでどうして,
歩いたり会話したりできるのでしょう?
﹁努力と根性,あと気合とか気合とか気合とか﹂
﹁具体的にお願いします﹂
﹁そうとしか答えようがない.消せないから,無意識的にフィルタ
リングしてるっぽい.あんま覚えてないけど,二歳のころには慣れ
てたはず.慣れたからといっても気にはなる.だから,気にもしな
くした.終わり﹂
二三年あれば山の手の幼児も少年兵になれる.
﹁それでも,わかりません﹂
広路は痒くもない頭を両手で掻く.
俺はたまたま二分のど
﹁えーっと,そうだな.例えば,俺が百人いたら,そのうち九割八
分くらいは病んで死んでるんじゃないか?
っちかだった.今話している相手はそういう場合だ,と考えてみる
のはどうか﹂
﹁その例えは非現実的で,なおかつ,あなたが二分である理由が説
明できません.それに,幸福計測の結果も︱︱﹂
﹁黙れ﹂
こちらが引くくらい真剣だった仁志の顔が無表情に戻る.
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﹁失明してから音で色んなことがわかるようになったとか,そうい
うことなんじゃないかね.障害が発生したせいで,それ以外で補っ
てるみたいな﹂
仁志も歯を食いしばっているようだ.お互いに歯噛みしながらの
会話とか新鮮だな.
なら,無くす方法もあるのかもな⋮⋮.例えば,
﹁ま,その辺は理屈じゃないからねぇ﹂
﹁理屈です﹂
﹁そうなのか?
かんむり座の星々をぶっ壊すとか﹂
﹁わかりません﹂
﹁これでも不便ばかりじゃなくてな.何も見聞きしたくないとき,
ちょっと気を抜けば何もわからなくなるから重宝するんだ﹂
無視して回答を終えることにする.これでよかったのかは知る気
がない.
﹁なあ,俺からもまた質問していいか?﹂︵﹁次は爆弾の加工だ.
数を分けるぞ﹂︶
﹁もう,構いません﹂︵﹁できるのは気体燃料の二つくらいですね﹂
︶
失礼だけど,世間知ら
もう,に引っかかるが,止める気はない.
﹁仁志は何で﹃帝国﹄の人になったんだ?
ずにみえる﹂︵﹁ああ.これを使う﹂︶
﹁それですか﹂
もしかして楽しんでいるのかこいつは.
﹁てっきり?﹂
﹁スリーサイズを聞かれるのかと﹂
口元が上がって明らかに顔が緩んでいる.よし.
﹁それは見た感じで大体わかるし,どうでもいい.上から言おうか
?﹂
今さら体を隠すようにするとか,お前さん,貴いな.
﹁⋮⋮気がついたら戦場にいました.そこで拾われて今に至ります﹂
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﹁気がついたら?﹂
﹁記憶喪失です.名前どころか言葉も忘れていた﹂
﹁記憶喪失仲間だな﹂
﹁あなたと一緒にしないでください﹂
ゆるんだかに見えた顔が元に戻る.いや,あれが元かは知らんが,
自分からするとふりだしだ.
﹁これは厳しい﹂
﹁いえ,そういう−−﹂
﹁名前と言えば,一ノ二と仁志のどっちで呼べばいいんだ?﹂
一ノ二って自分が言うのもなんだが,変わってる.
﹁⋮⋮少なくとも,ここから出たら仁志で通してもらわねばなりま
せん﹂
﹁じゃ,今だけ愛生って呼んでいい?﹂
﹁ご勝手に.私はこうくんとか呼びませんが﹂
﹁おお,懐かしい呼び方﹂
﹁今でも使われているはずですが﹂
﹁どこで?﹂
﹁⋮⋮失礼しました.秘匿されていたのですね.なら言うことはあ
りません﹂
﹁いや,もう遅いだろ.しまゆう以外いないし﹂
﹁私は彼女たちのプライバシーを守ります﹂
﹁専用コミュの中身なんて聞く気はないよ﹂
﹁覗いたのは観察開始前の下調べでだけです﹂
﹁で,こうくんと呼んでたわけか﹂
﹁私が関係した証拠はないので,彼女たちに言ったらあなたが犯人
です﹂
﹁言わないと愛生が犯人のままだ﹂
﹁仕事です.上司の指示です.乗り気じゃなかった﹂
楽しんでるようで何よりだ.
﹁そういえば,失礼だけど,一ノ二さんは今おいくつ?﹂
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﹁解析によると肉体年齢は二一歳となっています﹂
驚かないつもりだったが,咳き込んでしまい,失敗した.
﹁同い年ではないと思ってたけど,まさかの成人.その年でセーラ
ー服はきついな.先生として来た方が良かったんじゃない?﹂
またむっとした表情.コツを掴んだかもしれない.普段から言葉
のドッジボール見てるとこういうとき楽だな.楽と怒で感情の振り
幅は大きいほど良い.
﹁事前に﹃職人﹄直属の装飾担当官から,生徒に見えるよう外見を
調整して頂きましたし,今日も指示通りの化粧・服装をしています﹂
﹁化粧って,リップとマスカラ,あと,かなりシンプルな,ってい
うのもあれなネイルだけじゃん.塗りが下手すぎる.それっぽいと
いえばそうかもしれんが﹂︵﹁よし,できた﹂︶
﹁下手かどうかは私にはわかりません.化粧が高校生の平均と比べ
て少ないのは,あなたが原因﹂︵﹁こちらもです﹂︶
﹁なんだそれ?﹂
﹁化粧品が苦手なのでしょう?﹂
﹁あー⋮⋮そうだけど.別に気分的なものだし,そこまでするのか
?﹂
化粧品というより,化粧自体になんとも言いがたい違和感がある.
これは秘密ではないが,何故かわからない.
﹁場合によっては,交際して観察する必要も生じますから.接近し
やすいように,あなたに配慮している小径,穴師,風祭,八荒,澁
衣,蘆原が基準設定﹂
ハニートラップ宣言ととればいいのかこれは.
﹁彼女らは,そういうことでほとんど化粧しないんじゃなくて,家
の事情とか,めんどくさいとか,化粧品代と時間がもったいないと
か,スキンケア重視とかだよ﹂
本当のところ,少なくとも姉と幼馴染みたちは広路に気を遣って
いるのだと思う.言われたことがないので推測でしかないけど.苦
手だと言うべきでなかったかもしれないが,十年前には戻れない.
99
﹁そうとは知りませんでした.要報告﹂
﹁二一歳でその肌なら,別にこの仕事してない時でもいらないと思
うよ,化粧.きれいだから.あ,年上なのに敬語じゃなくてごめん
なさい﹂
﹁別にいいです.むしろ年上扱いは困る﹂
﹁そういやそうですね先輩.わかった.今まで通りでいくよ﹂
﹁もう無駄かもしれません﹂
なら
﹁それはいうなよ先輩.あと,俺にも丁寧語使わないでいいよ﹂
﹁仕事ですので﹂
﹁接触は仕事じゃねえだろ﹂
﹁性分ですので﹂
﹁なら結構﹂︵﹁さて,作戦を説明する﹂︶
仁志は大きく一回うなづく.すっかり仲良くなった,か?
やることは一つだ.
﹁一息ついたところで,もう一つ質問.怒らせるかもだけど﹂
﹁聞くだけなら怒りません﹂
悪いが怒らせたいんだ.
﹁なんで真面目に王様なんか探す仕事してんの,一ノ二は﹂
﹁王ではなく,上帝.理由は先ほど言いました.建国の理念です﹂
﹁俺が言ってんのは,王様のいない空っぽの椅子と砂の城を守り続
けて,意味あるのかってことだよ﹂
蜃気楼といった方が近いかもしれないな.実体はないんだから.
﹁話聞く限りじゃ,世界は二千年くらいの間,七分割で﹃帝国﹄に
支配されてるってことになる.王様探すって名目でだ﹂
平和なんだから群雄割拠ではない.七すくみとも一所懸命とも違
うだろう.統治者なき分割統治とか意味が分からない.
﹁そんなの,一人の人間ごとき加わったところで,どうにかできる
状態じゃねえだろ.そいつがいなくても,やばい連中が喧嘩しない
自分で言ったはずだ.王を
でいるんだから,探す振りだけ続けてりゃいいんだ.そもそも,そ
ういう安定状況のためだったんだろ?
100
探すこと,それ自体が既に十分な不合理じゃないか﹂
最初に抱いた個人的な感想.たとえその椅子が生け贄の祭壇でも,
幸福な人間が暴力装置を使って全てを支配できる仕組みは気に入ら
ん.
で,次の感想.
﹁なのに,なんでお前は真面目に仕事してんの?﹂
怒らせるつもりだったのに,仁志の表情は悲しげだった.
﹁喧嘩は,しました﹂
仁志は目を伏せて言う.
﹁玉座同士の大規模戦闘は過去に一度ありました.それが⋮⋮﹂
言っている途中で何かに気付いたような顔をしたのに気づき,広
路は目で発言を促す.
﹁確信はありません.あくまで可能性﹂
﹁あれの正体?﹂
﹁はい.恐らく,あれは魔女によるもの.悪魔の力でしょう﹂
ようやく公式に悪魔の登場か.長かったような短かったような.
﹁どうしてそうなる.魔女も玉座の一柱なんだろ?﹂
﹁前の魔女です﹂
﹁代替わりするんだ﹂
﹁はい.先代であり初代,そして人類史上最強といわれた最古級の
魔女.名前はモルガン.年齢は,生きていれば千五百歳余り﹂
﹁なんだそれ.アーサー王か﹂
﹁そうです.その本人﹂
話のスケールが急に理解可能な範囲で大きくなった.
﹁本人.や,それはひとまず措いといてだ.生きていればとか先代
なのは何でだ﹂
﹁モルガンは,十一年ほど前,魔女全体ではなく単独で,﹃帝国﹄
に反逆した.私が拾われる直前のことなので記録を見ただけですが,
一人で玉座六柱の全てを一時的に戦闘不能にしたと.私が拾われた
戦場の原因でもあるらしい﹂
101
仁志を狙った理由につながってきた.
﹁しかし,モルガンは現在の﹃職人﹄に討たれて死亡.単独での行
動として,魔女の玉座第六柱の席は残り,今の二代目が後任に就い
た﹂
﹁死亡?﹂
必殺技!﹂
﹁正確には,瀕死の状態で必殺技を受け,異次元に飛ばされたそう
です﹂
﹁異次元!
変な声が出てしまった.
﹁ええと,その,﹃職人﹄にはそういうものがあるのです.文字通
り,必ず殺す技が﹂
仁志は顔を赤らめている.見た目通りにかなり恥ずかしそうだ.
﹁しかし,死体はない.死亡確認ができないから確実ではないと,
小規模ですが未だに探索がなされています﹂
﹁なるほど.仇の部下と,仇が最初に決めた候補で多分なんか関係
ありそうな奴を狙ってる,って話ができるな.部下狙いっぽいけど﹂
それならある程度の説明はできるかもしれない.ある程度は.
﹁なら︱︱﹂
それは言わせない.
﹁なおさら,退けなくなったな﹂
いい.もう一回聞きたい.もう一回だけ﹂
﹁あなたは巻き込まれただけで︱︱﹂
思わず爆笑する.
﹁あっははははは!
﹁笑い事ではありません﹂
語気も顔も明らかに怒ってる.すっかり馴染んだな.
﹁巻き込まれたってなら,生まれる前からだ.それに,さっきの話
じゃ,推薦候補は何かに巻き込まれて死にそうでもほっとくんだろ
?﹂
﹁でも︱︱﹂
﹁見捨てて逃げて,その先どうしろと.やり直さないために鍛えて
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きたんだ.ちょうどいい.俺にはこれくらいでいい.要するに俺の
事情だ﹂
そう,これでいい.やっと見つけたのだから.
﹁あなたは,馬鹿なんですね﹂
こちらの真意などつゆ知らず,仁志は言う.その言い方は,少し,
優しかったかもしれない.でもどうでもいい.こいつのことなんて
どうでもいいんだ.
﹁これまでの大半を鍛錬に費やしてきたようなやつが馬鹿でなくて,
なんだと﹂
俺だって,こんな呪いさえなければ何もしなかった.もっと怠惰
に,努力なんて何もしないで生きていたかった.そうすれば人生を
楽しめたんじゃないかって思う.
﹁おかしいです﹂
今度は笑顔にはならなかった.人間は簡単じゃない.だから苦労
してる.
﹁ちょっと待て﹂
煙草の臭いが,野焼きの煙のような沁みる刺激に変わった.怪人
の移動ペースが明らかに上がった.やはり聞いていたか.
﹁やばいな.急に来た.これだと二人じゃ追いつかれるかもしれな
い.一旦,別れよう﹂︵﹁さあ,やるぞ﹂︶
﹁分りました.私は下に行きます﹂︵﹁はい﹂︶
仁志は数歩だけ,足音を少しずつ小さくしながら階段を降りて止
まる.元から小さかったのがゴム巻きによってほとんど聞こえなく
なっていた.
﹁隣の棟の二階廊下で合流しよう﹂
両手で仁志を引っ張り上げて背負う.重さが足音に出ないよう気
を付けて渡り廊下へ向かう.
怪人は仁志が行ったことになった下へ向かったようだ.
上手くいったかもしれないという安堵より,驚きが広路を支配し
た.背負った仁志の体が姉と比べ物にならないほど冷たかったから
103
だ.
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第五話 此恨綿綿無絶期︵この恨み晴らさずにおくべきか︶
広路は一人,特別教室棟の一階廊下に腕を組んで仁王立ちしてい
た.
真っ直ぐ前を向いた険しい顔の視線の先.仁志を追っていたであ
ろう怪人が,黒いもので覆われた渡り廊下を通ってこちらへ近づい
てくるのが見える.
﹁どうも怪人さん.俺の名前は焼鎌広路.どうやら上帝候補の一人
らしい.で,一緒にいるのは﹃帝国﹄の人だ.相手に間違いはない
か?﹂
やや大きな声で稚気を含ませず問いかける.
今更だが,エグゾスケルトンが女性的なフォルムをしていること
に広路は気付く.股間の部分にある影は玉門か地獄門か.どっちに
しろろくなもんじゃない.
怪人は問いかけを意に介する様子もなく,歩みを止めない.コン
クリートの床でもずんずんと足音が近づいてくる.
広路は腕組みを解いたが,その場に留まった.重心を調整してす
ぐ動けるように踵と膝へ力を貯めておく.
大きな足音とかすかな振動.とうとう怪人は目の前にやってきた.
それでも止まろうとはしない.広路は牽制のつもりで,一歩踏み出
して右耳のあたりを目がけて平手打ちを放つ.
不意の攻撃を避けるどころか,首を動かすこともせずに受ける怪
人.箱を叩いたような音がボンと鳴る.続けて顎を下から右の掌底
で狙おうとしたところで,怪人が歩きながら構えもせずに正拳を突
き出してきた.
腰も入っていないのに大きく風を切る音がする.速度はかわせる
ギリギリだ.狙っているのか?
広路はわざとらしく大きく後ろに飛びのいてかわす.こうして跳
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ぶ程度のことなら今の足でも問題ないようだ.
今度は前蹴りで股間のあたりを狙うが,横にずれてかわされた.
前に出した足をそのまま曲げて,それを追う.軽くはなったが股間
に踵が当たった.
それを見て,怪人はよろけるように壁へと後ずさった.さらに,
拳を無造作に振り上げ,柱に叩き付ける.コンクリートが軽い音と
同時に砕け,上半身ほどの大きさの穴が空く.威嚇のつもりだろう
か.当たったらやばいってことならもうわかってる.
﹁仁志に用があるなら,俺は帰らせてもらえないかなー﹂
広路はそう言いながら一階昇降口側へじりじりと移動する.
怪人がこちらを見たところで,手を叩いて合図をする.広路の後
ろ,本校舎の方の廊下の角から,仁志が上半身をのぞかせて,グレ
ネードを装填したピストルのようなものを構える.それを冷気で感
じ取った広路は,後ろ,と思わせる動きをしてから,前へ全力で駆
け出す.
一度横切った怪人の前を再び横切って階段へ向かう.親柱に差し
掛かったところで,後ろから爆発音が聞こえてくる.広路は振り向
かず,三階まで一息で駆け上がる.
仁志は一発撃った後,同じように本校舎の中央階段へ向かい,三
階へと移動している.
怪人は爆発の位置から少しの間動かなかったが,仁志の方へ向か
って走り始めた.
距離は十分にあったので,追いつかれる前に三階の渡り廊下で広
路は仁志と合流した.そして,仁志の靴からゴムをはがし,広路の
に巻き付ける.さらに,二人とも来た方の校舎へ引き返す.ただし,
仁志は足音を大きく立てて走り,広路は音を殺して小走りで特別教
室棟の二階を目指した.
怪人は二階と三階の踊り場で立ち止まり,二階へと踵を返す.渡
り廊下方面へ向きを変えたようだ.
広路はそれを確認し,二階の理科準備室へ潜り込む.ドアは少し
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音を出して開閉しておいた.
怪人が音をセンサで感知しているのはほぼ確定.そして,仁志か
どうかの認識には足音の大小を使っていると予想し,さっきの嘘別
行動で試した.結果はこの通り.仁志の真似して足音を消し,誘い
こんだというわけだ.
仁志はこちらから合図がなければ,ぎりぎり追いつかない程度の
速度で怪人の後をついてくる手筈だ.
怪人は少しの間をおく形で,準備室前にやってきた.簡易な鍵が
かかったドアを破ろうと拳を振り上げたのを感知して,広路は跳ぶ
ための準備としてかがむ.そしてドアが破られた瞬間,跳んで両足
を大きく開いてつっかえ棒代わりにし,天井側に上る.
怪人は室内に足を踏み入れて,奥にある古カーテンで覆われた膨
らみへ向かう.
広路は怪人と廊下の真後ろにできたわずかな空間へ降り,背中で
体当たりをする.
バランスが崩れた怪人はよろめくが,倒れない.すぐに振り返っ
てこちらへ向かってくる.
廊下へ少し出たところで構えて待つ広路に対し,また構えること
なく正拳を突き出す怪人.
その踏み出た足の間接部分,装甲の隙間を目がけて,忍び寄って
いた仁志がナイフを死角から突き出す.出てくるのが少し遅れたた
め,広路もカウンターの正拳を打ち込む振りをして怪人の意識をそ
らそうとする.
だが,完璧と思われた不意打ちも,刃の届く寸前で怪人が跳躍し,
かわされてしまう.
残念,予想の範囲内だ.広路は既に真下に潜り込んでいた.とっ
さの回避行動でがら空きになった胴体を,足で投げるようにオーバ
ーヘッドキックで打った.
怪人がドアのガラスを破って放り込まれたのは,理科準備室の向
かい,手芸準備室という名の実質空き部屋だ.薄い仕切りで作られ
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た室内には窓も別の入口もない.そこに,仁志が医薬品扱いで持っ
てた小型酸素ボンベの中身と,資材の粉体塗料をぶちまけてある.
吉原は風呂を沸かすための可燃物がそこらじゅうにあるので,建物
を見ればだいたいどこにそれがあるかわかる.広路の使い道がなか
った得意技だ.
仁志はナイフを広路に放り投げてから,グレネードピストルへ持
ち替え,ほとんど狙わずに横転しながら手芸準備室へ撃った.
問題です.可燃性の粉塵の舞った酸素濃度の高い密閉空間でグレ
ネード弾が爆発するとどうなりますか.
はい,皆さん正解です.急速な着火により大爆発を引き起こしま
す.グレネードなくても部分点です.
大爆発のエネルギーは筒状の空間から収束的に放出され,反対側
にある開けっ放しの溶剤塗料と二つの爆発物を設置した理科準備室
へと流れ込む.
覚えとけ!﹂
仁志は既に離脱中.広路も既に体制を立て直している.後は逃げ
るだけ.
﹁お約束だ!
広路は振り向かずに全力で走りながら,連続する爆発音に負けな
いよう大声で叫んだ.
が,直後に来た衝撃と熱で前方に投げ飛ばされる.秒速二百メー
トル以上の爆発力だ.
ごろごろと転がって衝撃と抑えてから止まる.すぐ起き上がり,
爆煙の奥に意識を凝らす.爆弾を大量投入したおかげか,壁の代わ
りのパネルで区切られていたいくつかの部屋は繋がって,大きな部
屋になっていた.床も天井も逃げながら刃を入れておいたところが
脆くなっているようだ.母曰く,﹁劣化したコンクリは見た目より
脆い﹂のだ.
薄目で煙の先を凝視すると,三十メートルほど離れたところに怪
人がうつぶせ状態で倒れており,両足の部分が運良く古い空調機な
どの下敷きになっているのがわかる.燃えたカーテンが顔に掛かっ
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ているが,動きは見えない.
広路は怪人の顔あたりを目がけて足元に転がっていたひしゃげた
鉄棒をほうり投げた.相変わらずの甲高い音が響く.当たった部分
に動きはない.
同じく吹き飛ばされていた仁志へ手話で合図し,打ち合わせてお
いた場所に向かわせる.それから広路は近辺の物を手当たり次第に
投げまくった.半分くらいしか当たらなかったものの,反応は全く
なかった.
数分後,広路と仁志は音楽室にいた.あの場でトドメがさせるか.
広路の判断は否だった.
﹁やっぱり起きてきやがった﹂
二人が部屋に入った直後,怪人が何事もなかったかのように起き
上がったのを,広路の意識は捉えた.
﹁怪我は?﹂
﹁ない.そっちは?﹂
﹁問題ない﹂
﹁なら良し.これで向こうはこっちの攻めをはっきり意識しなきゃ
ならなくなった,はず﹂
その代わり,裏で声以外のやり取りが行われていたことはバレた
だろう.ダメージかそのせいか,怪人は歩いて移動している.
﹁タイミング,合いませんでしたね.私はこういう役目に向いてい
ないのでしょう﹂
﹁そういうときは目より耳を信じるといいらしい.時間に対する認
知の精度は,感覚器では耳が最も高いそうだから﹂
広路は仁志の顔に手を伸ばし,顔の汚れを制服の袖で拭ってやる.
あざといかもしれんが,こういうのが後で効くはずだ.
仁志も広路に同じことをしてきた.
それを打ち切るかのように,広路は前置きなく聞く.
﹁上帝って,何をするんだ?﹂
なぜ今そんな話を,としか表現しようのない困惑した顔をする仁
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志.
﹁走り回ってたら,高校のことを思い出した.うちの学校,一部の
連中が声大きくて,トップが居なくて回ってたんだけど,それをト
ップがいないとあんまりうまくいかないようにつくりかえた﹂
相槌は打ってくれるが,まだわからないという感じだ.
﹁で,こんな世界があることを知ってしまった.こんなのが当たり
前以下の連中の上って,幸せなだけで何ができるんだろうなって﹂
これは本当に思ったことだ.統治,いや,長の意味がわからなく
なってきた.こうする前は,ただ上手くやれればいいんだと思って
いた.
﹁せめて,鐘が鳴ればな﹂
今日何度目かの溜息を吐く.
﹁鐘?﹂
仁志は予想通り食いついてきた.
﹁なんでもない﹂
広路はわざと誤魔化す.
﹁お互いの役立ちそうな情報はできるだけ開示する.約束です.私
だって秘密をいくつか明かしてしまっています﹂
約束できた覚えはないが,さらに手を打つまでもなく確認が取れ
たので,広路は隠さず答えた.
﹁鐘が鳴るんだ.時々,何故か,頭の中でな.それはどうも行動の
正否の判断材料になるらしい.ここではまだ一回も鳴ってない.だ
からどうしようもない.不快で,不要で不正確な情報だから黙って
た.気をもたせるような言い方をして悪かった.鳴ったら伝える﹂
広路は不意に思いついて,もう一言付け加える.
﹁本当はこれも話したくなかったんだけど,どうせ死ぬし﹂
﹁少々お待ちを﹂
もういいかな.これ以上は面倒くさい.
﹁何﹂
﹁死ぬので話しても良いというのは,貴方が否定した後ろ向きその
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ものではありませんか﹂
﹁確かに﹂
﹁ですので,先ほどのように学校の話をしましょう.この状況を突
破でき,その後の追及を逃れれば,任務は再開されます﹂
﹁そうなのか﹂
﹁恐らくは.では︱︱﹂
﹁ダメだ.一ノ二さん,あなたは,年齢と出自を偽って生徒として
高校に潜入している.任務は観察だ.その任務に一般生徒に馴染ん
あなたの上司は,仮初の学校生活を楽しめ
例えば,あなたが私の仲間で,学校生活に憧れてい
だ学校生活は必要か?
と言ったか?
たとしたら助力する.でも,あなたは巨大な権力に遣わされた俺の
ストーカーだ.そんなことをする義理はない.あえて言おう.あな
知ったことか.
たは任務に必要ないことを,自分の欲求のために求めてる.配置換
えでもう二度と経験できる機会がないからか?
現状で最も適切な俺の意識を保つ会話内容は﹃帝国﹄について,だ﹂
と言いたいが堪える.
﹁悪いが,来たぞ﹂
音楽室から出て,最初のように階段へ向かう.ただ,今回は中央
階段だ.
止まって懐から外しておいた腕時計とケータイを取り出すと,ど
ちらもパネルが割れて画面が付かなかった.矢摩か葦原先輩に余り
を一台貰うことにしよう.SIMカードだけ抜いておく.
仁志が代わりに時計を見せてくれた.目を疑ったが,まだ五時を
回ったばかりだ.
広路は天を仰いでから,反対の懐から受け取っていた爆弾を一つ
取り出した.
爆弾を一挙に投入したのは,爆発した数を悟らせないためだった
のだ.一発分はラムネ瓶にガスと薬品を詰めた疑似弾頭.
残る一発はなんと,六十年にわたり最強と名高い窒素爆弾.まさ
か完成していたとは.日本列島とまではいかないだろうが,学校ご
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と消えるんじゃなかろうか.
︵﹁バスは消滅しますが,それ以上はないです﹂︶
仁志は真顔で告げて,カンプピストルとナイフの鞘を渡してくる.
広路はそれを受け取ってから,仁志を一階まで降ろさせる.自身
は二階で留まり,また仁王立ちで怪人を待つ.
仁志が下に着くのと同時に,怪人が追いついて上から降りてきた.
﹁今だ!﹂
広路はそれを見て叫び,すぐさま一階と二階の中間あたりを目が
け,横っ飛びしながら仁志のした様に撃った.
白い閃光,鼓膜が破れそうな轟音と腹まで伝わる振動,もわっと
した熱が続けてやってくる.その情報の洪水の中で,一階までの階
段が消滅して怪人が落下したことと,仁志が吹っ飛んで転がったこ
と,壁が健在なことを把握する.さらに,接続部分に刃を入れてお
いたおかげか,怪人の頭上へ三階の階段が崩壊して落下した.さっ
きより倍以上に大きな瓦礫の下敷きになる.
広路は体を起こして,吹き抜けとなった部分からまだ埃でよく見
えない一階へ飛び降りる.そして,コンクリートサンドイッチの具
になった悪魔めがけて,右腕で瓦礫ごと寸剄をぶち込む.中身がた
とえ空だろうと関係ない.
続けて左腕.さらに左足.最後は右足.
全身が猛烈な倦怠感に包まれる.
痛めた足に無理させたせいか,打ち込み加減の調整が乱れてしま
い,瓦礫はぱっくりと割れてしまった.これでは押し潰しっぱなし
作戦ができない.
﹁退くぞ!﹂
広路は叫んだつもりだったが,声がほとんど出なかった.それで
も仁志はこちらを見て頷き,校舎端の階段に向かっていった.
広路はふらつきながらも何とか走り,反対側の階段を上って三階
で仁志と合流する.
﹁⋮⋮ここまでタフとは.予想しててもきついなこれ﹂
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﹁怪我ですか?﹂
﹁いや,体力が無くなってきただけ.そっちは?﹂
答えを聞く前に,足のところどころから血が垂れていることに気
が付く.
﹁痛みは消せます.問題ありません﹂
﹁俺にはある﹂
懐から懐紙を取り出して,汚れを取ってから圧迫止血する.その
上にあるだけの絆創膏を貼っておく.
アルコールは爆破に使ってしまったから,これが限界だ.
﹁作戦変更.プランBだ﹂
﹁何ですか,それ﹂
答える前に,怪人が瓦礫を粉砕して立ち上がったのが上から聞こ
えた.
逆の階段を利用して距離を稼ぎ,辿り着いたの体育館手前の給食
室.改装されていないのは確認済みだ.
適当な大きさの保存庫を開けて,仁志に言う.
︵﹁入って.じっとしてろ.さっきので個人の識別精度はわかった.
隠れていれば見つからないかもしれない﹂︶
仁志は大きく首を振り,広路の腕をつかんで拒絶の意志を示した.
﹁いやです.私だけ生き残ったら,処分されますから.意味がない﹂
﹁そういうことゆーなよ.黙っててくれた方が格好つくのに﹂
﹁あなたもです﹂
﹁それなら別にいい.ずっと誰にも言えなかった事が言えた.すっ
きりした.あとは余生みたいなもんだ.なんなら上帝やってもいい﹂
﹁無理です.前例がない﹂
﹁あれ倒せたら逃亡生活くらい余裕だって﹂
﹁あれの在庫は八十あります﹂
﹁一個欲しい﹂
と言いつつ,説得を諦めたふりをしながら仁志の後ろに回る.そ
して首に腕を回し,太い血管を狙って一気に締め落とす.
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気絶した仁志の鼻に手を当てると呼吸が感じられる.これをやる
のは久しぶりなので緊張したが今度はうまくいった.
起こさないように保存庫にしまい,そっと扉を閉める.小学校の
時に隠れたことがあるので息はできるはずだ.
さて,後はやるだけやってみるさ.勝ちたいなら自分で自分の想
像を越えなければいけない.
こんな気持ちは初めてだ.広路は一度も経験したことがなかった
ほどのすがすがしさを感じ,顔が綻んだ.
途中の職員室に寄ってから,一階の元中央階段と昇降口へ向かう.
怪人はすぐにやってきた.動きが鈍っているような印象を受ける.
外観は汚れており,傷らしきものも見えるが,へこみはなさそうだ.
話しかけることもせず,まずは煙幕を放る.続けてチャフ.また
爆発させたいが,あえてそうしない.上階の鉄筋の出っ張りに職員
室から持ってきたカーテンを引っ掛け,ターザンロープの要領で弧
を描きながら一息に接近する.そのまま,目を閉じ,息を止め,煙
幕へと突っ込む.
一時間近くも追いかけっこをしたんだ.見えなくたって,どこに
いるかははっきりわかる.
怪人の左に降り立ち,振り返る間を与えず,鞘からナイフを振り
抜く.
引っかかるものは何もなく,ぼとりと首が落ちた.
上手くいったとか殺したとかではなく,勝ったと思った.初めて
の高揚感が溢れ出る.
すぐに,閉鎖されていた空間が広がったことを感じる.昇降口の
黒い何かも無くなっていた.
しかし,崩れ落ちた怪人を見下ろしつつ勝ちどきをあげようとし
たところで,広路は固まった.
頭が,いや,中身がなかった.
崩れ落ちた姿勢から無造作な拳が振り抜かれる.
広路は伏せた.
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起き上がりつつの後ろ回し蹴り.
広路は四つん這いから跳んだ.
回転に続けての袈裟切りの手刀.
着地は間に合わない.
﹁馬鹿野郎!﹂
言うより早く,仁志が体当たりで広路を弾き飛ばした.
怪人の手刀は仁志の背中から左半身を引き裂いた.
飛び起きた広路は,怪人に背を向けて仁志に駆け寄る.
仁志は口から血を吐き出して咳き込む.そんな流血が気にならな
いほどのむせ返る鉄の臭い.左腕は根元から吹き飛んでしまってい
て,辛うじて残った骨もほとんどねじ切れている.
反射的に首の脈を測った.まだ消えてはいない.
﹁緊急だから勘弁してくれ﹂
一応の断りを入れつつ,セーラー服を引き千切る.傷口,という
久しぶりに見たなこういうの,とえぐれた脇腹から目を背
より裂け目の全体像が露わになった.そして,色気のないスポーツ
ブラ.
ける.赤黒に染まりきったブラだけ見ながら考えるが,どうすれば
いいかまるでわからない.
目の前が真っ暗になる代わりに,五感の端々をやり直しの呪詛が
覆い始める.
﹁いい.逃げて﹂
仁志が絞りだした声に我を取り戻し,応える.
﹁うるせえ﹂
手拭いだけでは到底足りない.思い付きで袱紗挟みから布巾を取
出し,拡げた懐紙を目立つ傷に押し付ける.
﹁触らないで.私の血は毒になる﹂
﹁黙れ﹂
床を温い液体が覆いつくしていく.煙草の臭いが完全に呑まれて
消えた.
どうして来たのかは聞かない.理解したくないからだ.
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﹁おい,あんた.なんて呼んだらいいかわからないんだけど﹂
広路の背に向けて手刀を構える姿勢の怪人に声をかけた.
﹁必要はないでしょう﹂
山羊の頭のような黒い影が頭の部分に見える.
﹁自分を殺す奴のことくらいは,冥土の土産に知っておきたい﹂
﹁復讐の職能をもつもの,それだけです﹂
冷た
職能⋮⋮呼び出された悪魔の能力のことだっけ.てことはやっぱ
り﹁魔女﹂か.
﹁焼鎌﹂
今度は遮らなかった.
﹁聞いて︱︱﹂
だが,言いかけて仁志は気を失った.いや,死んだのか?
さで判断できない.
﹁我があるじはその肉体を失われた.そして信仰の礎になった﹂
怪人は構えたまま話し続ける.合成音声としか言いようのない機
械的な声だ.
﹁魔女が信仰する実在しない神?﹂
﹁知っていたとは﹂
気休めにもならない止血の真似事を終え,立ち上がって向き直り,
ナイフを正眼に構える.
﹁知らねーよ﹂
そう吐き捨てるように呟いてから,広路は間合いに入っていく.
﹁遊びは終わりです﹂
﹁俺にもこいつにも,遊びじゃない.こいつは仕事.俺は生活﹂
話しながら,刃を細かく振っていく.
﹁あるじにとっては遊びです.そうだ.では,もっと楽しめるよう
に一つ,提案をしましょう﹂
が,それまでとは打って変わって,怪人は全てをかわしていく.
対人であれば立ち回りだけではなく,気配を発して動きを変えら
れるのだが,怪人は全く意に介していない.
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﹁その死にかけにとどめを刺しなさい.そうすれば,あなたの命は
助けましょう.元からそれだけのつもりなのでしたし.どうせ放っ
ておけば死ぬのですから,悪くないでしょう?﹂
死にかけってことはまだ生きてる.それを聞いて,やや深く強く
早く踏み込む.
刃が届き,怪人の腕に新しい傷を刻んだ.
﹁いい案だ.だが,殺さずに済むならもっといい案になる.俺と契
約したいなら資料揃えて出直してこい﹂
怪人は広路の上げた速度に合わせて,より機敏に動き出した.そ
のせいで,先ほどまでのように刃は届かなくなった.
﹁いつまでも人間は愚かだ﹂
﹁受け入れられそうもない提案しかできない愚かな悪魔に言われた
くねえよ.そんなのでよく契約してもらえたな﹂
そういいながら左手に握っていた手拭いを投げつける.
怪人は避けようともしない.
﹁毒でどうにかなるとでも?﹂
﹁なら飲んでみろよ.効かないんだろ﹂
山羊の表情など読めないが,馬鹿にしたような雰囲気は伝わって
くる.
広路はそれに反応した振りをして,激しく攻め立てて仁志のいる
場所から大きく距離をとる.流石に呼吸が苦しくなってきたからだ.
そのおかげで,大きすぎて気づかなかったそれに気づくことがで
きた.それがすさまじい速さで近づいてくることにも.
感じたのはただの強さだった.翻訳の必要がない.
その直接的すぎる刺激で動きが鈍る.怪人は隙を見逃さず,ナイ
フを狙って指を突き立てた.金属の弾ける音.
﹁は,ははっ,あはははははは﹂
広路は折られたナイフを放り出し,笑った.
﹁狂ったか.もうよい.済ませてしまいましょう.復讐するのなら
悪魔を呼びなさい﹂
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広路は体を丸め,うずくまってから言った.
﹁復讐は自分の手でするものだ.それに,これから負けるようなや
つに頼むことはない﹂
天井を割って,拳が降ってきた.
伏せた意味もなく,体が吹き飛ぶ.波のような衝撃波に押され,
空中では転がって勢いを殺すこともできず,そのまま壁に強く打ち
付けられる.
空中歩法も誰かに習っておくんだった,なんて今さらだ.
勢いで仁志の脇まで転がらされてきた.近くのセーラー服から仁
志のケータイを取り出すが,電源が入らない.核爆弾かよ.
落ちたものの方へ這い寄っていくと,煙で何も見えない穴の下か
ら,何かがひと跳びで飛び出してくる.
出てきたのは人.筋肉質の若いラテン系の女性だ.自分が最強で
す,と全身で主張する佇まい.ちらりとこちらを見たときの威圧感
をまともに受けてしまい,足が制御できずに震える.さっきのがチ
ュートリアルだとしたら,こいつは隠しボスでないと困る.
﹁発見.状況.四六四九四六五一番は緑.観察官は赤.輸血と完治
ポッド用意﹂
日本語で状況を報告したようだ.
﹁彼は確かに似てるかもね.見えるでしょ?﹂
そういって彼女は,こちらをじっと見る.ただただ怖い.
ほぼ左の肘だけで体を起こし,仁志を背にして向き合う.構えよ
うにも半身は思い通りに動かないが,気持ちだけでも迎え撃つ.逃
げたいけれど,逃げたくない.
﹁でも,やっぱり別人だ.無謀﹂
とどめ?﹂
彼女はこちらを見て呆れたように言った.そしてこちらから顔を
背け,穴の底を覗いて言う.
﹁実体化してる.生け捕り?
通信機が全く見当たらないが,どうせ謎の技術かインプラントだ
ろう.
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﹁わかった﹂
返答したと思ったら,彼女の姿は消えていて,もう一度大きな音
と振動.さらに振動が止む前にまた穴から飛び出してきた.そして,
まばたくばかりで動けない広路に告げる.
﹁さて少年.よく生き延びました.今はゆっくり休みなさい﹂
﹁そうします﹂
顔は真っ青で
広路は応えながら,手に握っておいた仁志の血を彼女の顔めがけ
てかける.かすりもせず,空中に散る毒の霧.
﹁なぜ?﹂
﹁あなたが俺と仁志の味方である確証はない﹂
﹁でも,勝ち目がないことはわかってるんでしょ?
体はろくに動かない﹂
﹁それは,あの悪魔の時も同じですよ﹂
﹁そう.薬のせいかも.でも,もう話はいい.時間がないから,殴
る﹂
彼女が言い終わる前から瞬きしていなかったのに,いつの間にか
鼻と前歯が粉砕される感覚がして,広路は意識を失った.網膜に焼
きついたのは,汚れ一つない純白の手袋だった.
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第六話 酔臥沙場君莫笑︵へこんだからって笑ってくれるな︶
あ
広路が目を開いたのは,自宅の門前に停められた車の中だった.
まずは自分の状態を確認だ.
よし,五体満足.いや,おでこのニキビが無くなっている?
れ,左指の傷も治ってる?
今度は周りを見る.車の名前は分からないが,とても速そうな低
くて尖った形だ.臭いは新車ではない.
腕時計によると,学校を出てからちょうど二時間半後だ.なのに,
いつもの見世清掻が聞こえてこない.防音か.でも,それだとクラ
言葉わかる?﹂
クションが聞こえないような.妙なところに引っかかってしまい,
頭に手をやる.
﹁ああ,目が覚めた?
こちらの動きに反応し,運転席にいた女性が口を開いた.出てき
たのは流暢な日本語.サングラスをし,白タンクトップにベージュ
ホットパンツの白人.雰囲気だけで,全く太刀打ちできないとすぐ
にわかる.こんな強そうな人,見たことがない.あと,色々けしか
らん.
念の為,問いに頷く.
﹁よろしい﹂
﹁今,何時ですか﹂
考えた結果,自宅前で三味線の音色が聞こえないということは,
ま,いいか.御覧なさい.時計の通り﹂
今が十七時半ごろではない,つまり時計が間違っている可能性が高
い.
﹁最初に聞くこと?
﹁間違︱︱﹂
全身が鋏で切り刻まれるようなイメージが視覚と触覚を覆い尽く
した.人間て殺気だけでも死ぬんだな,と初めて知った.勉強にな
120
った.
﹁時計の,通り﹂
何が人の琴線に触れるか分からないものだ,とやり直しの呪詛を
最近あったような?
かき消さんばかりの心臓の鼓動を聞きながら思った.こんなに怖か
ったのはいつぶりだろうか.あれ?
﹁さて,貴方が何故ここでこうしているかだけど,覚えてるかな?﹂
﹁えー⋮⋮どういうことでしょう?﹂
全くわからない.
﹁やくざに追われて自損事故を起こしたの,貴方は.そこに私がい
て,事を収め,車内に寝かせ,ここに連れてきた﹂
ああ,確か尾行してきた人を捕まえたんだっけ.ギャルサー関係
だっけ?
その後のことは確かに覚えてないな.走り回ってたような,そう
でないような.いまいちはっきりしないが,ここで異を唱えてもろ
くな事にならない気がする.別にそういうことでもいいか.何か殴
られたような気はするが,それは今朝の夢だ.
問題があるとすれば,一つ.呪詛の影響か,自分は胎内より出て
くる前から意識を完全に絶たれたことが一度もない.
﹁何を言ってるんですか?﹂
広路はいくつかの発想を飛躍させて,思いついたことをそのまま
言う.
﹁俺は,起きてました﹂
驚いたことに,彼女からは一切の動揺を感じられなかった.これ
しかないと思ったのだが,違うのか.それともポーカーフェイスな
のか.
﹁待って.確認するから﹂
ほんの少しの間も空かずに彼女は返答し,電話機らしき端末を操
作する.
正直,当たってほしくはなかった.
﹁大九に代わって﹂
121
多分,初めて聞く名前だ.
﹁書き換えに失敗してる﹂
だとした
記憶の書き換え,あるいは人格か.まさか完成していたのか.
﹁治癒は完璧.愛生,もとい仁志純もでしょ?﹂
なぜか編入生のと同じ名が出てくる.彼女のことか?
ら彼女にも何かあったのだろうか.今の流れを整理して論理を飛躍
させると,魔法か科学か知らないが,記憶を書き換えられ,肉体を
仁志ともども治療されたということになる.もちろん,記憶の書き
換えは正直怪しい.が,ニキビと傷痕のことから,肉体の治癒はあ
り得るし,できてもおかしくはない.あるいは書き換え後で,これ
も芝居なのかもしれないけど,それではどうしようもない.
﹁わかった.愛生は再検査させるから.じゃあね.愛してる﹂
我が家の帰るコールか.ちょっと羨ましい.
﹁覚えてることを述べろ﹂
有無を言わさぬ口調より,その強い視線にたじろぐ.まるで親し
い誰かを殺された相手を見るような,それでいて底知れない憐れみ
をもったような,矛盾する青く鮮やかに淀んだ瞳.
覚えてること,か.実のところ,覚えているのは彼女がさっき言
ったことだ.しかし,そうではない,こうだったと,何かが全感覚
を通じて伝えてきたのだ.だから,知ってるんじゃなく,わかって
いるだけ.いや,正確にはわかったふりをしているだけだ.
﹁話すと長いので簡単にいうと,凄く強い,あなたくらいのと戦っ
て,いや,戦おうとして,死にそうになった.仁志も一緒に﹂
推論としてはこれしか出てこない.
﹁原因はわからないが,貴方の記憶の書き換えに失敗した﹂
いいえ,成功してますよ.
﹁あなたの荷物を預かる.三十分以内に返却する.クロスバイクも.
ケータイと腕時計は三分待って﹂
聞くまでもなく強制のようだ.何かするんだろうが,何をされて
もわからないのだろう.身柄を預かるでないだけマシか.
122
渡したケータイを車に繋いで何やら操作する彼女を見ていると,
不意に側のドアが上に開き,ミラー越しの目で降車を促される.
言われたままに降りると,彼女も降りる.外で立っている姿を見
ると,すっとした立ち振る舞いがラグジュアリーブランドのモデル
さんみたいだ.
﹁はい,これ.一応,元に戻しておいた﹂
ケータイと腕時計を投げて渡してくる.
﹁あなたのことは放っておく.⋮⋮ただ,一つ⋮⋮いえ,やめまし
ょう.さようなら.二度と会わないと助かる﹂
こちらを見ずにそう言って,彼女は黒いスポーツカーに乗りこん
だ.そして,濃い排気ガスだけ残し,瞬く間に走り去った.ナンバ
ーがスパイ映画よろしく隣国の大使館ナンバーに切り替わっていた
のは,かろうじて見えた.
広路は車を追いかけることもせず,ただ見送ってその場に立ち尽
くす.
これで終わり?
何も話すなとすら言われなかった.必要がないからだ.
明日からまた,秘密を除いて不満のない毎日を過ごす.そういう
ことになったようだ.
なら,それがいい.何かの危機があった後としては最善といえる.
そう思いながらも,しばらく門前でボーッとしてしまう.
自分を取り戻したのは,ケータイでポケットが振動してからだっ
た.受信したのは小径からのメッセージだ.今は穴師の家にいると
のこと.
返信しようとしたところで,はたと気がつく.今,この状態は,
もしかして,あれだろうか.
だめだ.これ以上,考えを進めてはいけない.広路は必死に色ん
なことを考えて抗った.明日のランチメニュー,お盆に父方の実家
で作陶する時のテザイン,学校がテロリストに占拠されたらどうす
るか.
123
しかし,虚しくも一つの答えにたどり着く.
ああ,やり直されてしまった.
そう思った途端,呪詛に五感が埋め尽くされる.全身から力が抜
けて,広路は地面に顔から叩きつけられる.
鼻が折れても,痛みはない.いや,倒れたことにすらまだ気がつ
いていなかった.逆流した鼻血がのどに詰まって息が止まりかけ,
反射で体がはね起こされてもなお,何も考えることはできなかった.
そうしているうちに,予報通りの雨が降っていた.
パラパラ,ポツポツ,ザーザー,バシャバシャ,ピロピロ.
しまゆうからの電話だ.
広路は反射的にケータイに手を伸ばす.濡れてはいるが,幸い無
傷だった.大きく咳き込み,喉に溜まった血を吐き出す.勘で這っ
て門の軒下までたどり着き,なんとか体を起こす.着信はもう切れ
ていた.履歴を呼び出そうとするが,手が悴んで滑ってしまい,誤
って写真帳を開いてしまう.
自動で最初に開かれたのは,万弓が先週送ってきたすさまじい寝
癖を撮った写真だった.
広路はまた大きく咳き込んでから,息を整える.そして思い切り
両手で顔を叩く.
痛みに集中しながら履歴を改めて見ると,最後のは夕掛からだっ
た.その前は万弓への発信だ.確か木に登ってた時に話したはずだ
が,これは書き換わっているのだろうか.
わかることもなさそうなので,諦めて夕掛に電話を掛ける.呼出
は一回で出た.
﹁もしもし.広路だけど,今,いい?﹂
﹁もちろーん.休憩中だから長くはできないよー.ごめんねー.け
もしかして外?
雨降ってきてるよ.傘ある?
いちゃんいるよ.今からでも来れば,って電話したんだ.何その声.
風邪ひいたの?
いまどこ?﹂
﹁屋根のあるところにいる.声はちょっとむせただけだ.悪いけど,
124
ずぶ濡れかと心配したよ.よくわからないけどお大事
今日はもう行けない﹂
﹁ふーん?
に﹂
﹁そうするよ.で,用件な.一つ聞きたいことがあるんだ﹂
﹁セクハラ以外,なんなりとどぞー﹂
﹁突然だけど,人を目だけで殺せる人はいると思う?﹂
﹁いないんじゃないかなー﹂
﹁即答だな﹂
﹁いたの?﹂
﹁いや.もしそんなのがごろごろいたら,今どうすれば勝てるかな
?﹂
﹁武器とか毒を使った不意打ち?﹂
﹁それは無駄な気がする﹂
﹁うーん.普通じゃない人たちに勝つのって,普通でいちゃだめな
のかなー.普通なまま勝つ方法あるなら知りたいよねー.って質問
二つになってるよ﹂
﹁ごめん.じゃあね﹂
﹁ちょっと待って﹂
見えないが,渋い顔しているのは息遣いからわかってしまう.
勝ち方?﹂
﹁甘えたらどうかな﹂
﹁何?
﹁違う.悩んでる振りするなら,もっとちゃんと頼ればってこと﹂
夕掛はこういう時ずば抜けて勘がいい.否,普段がネコかぶって
るだけ.だからこそ,覚えてないことを引き出すために都合よく電
話したわけだが.
﹁わかりにくい.頼るな,じゃなくて?﹂
﹁そんなんいうわけないじゃん.た・よ・れ.頼るだけじゃなくて,
もっと甘えればいいよ.いろんな人にね.いつまでも人にだだ甘え
大学だってすぐだよ?﹂
させてるだけじゃだめだと思うんよ.わたしたち,もうすぐに高校
卒業するよ?
125
予定と違う話になったが,神妙に聞いておく.
﹁悩んでるつもりなときに相談の振りされるとか,感激で録音しち
ゃったー﹂
﹁悩んでるつもりなのは否定しないけど,喜ばれるとか考えてなか
った﹂
﹁伊達や酔狂で幼なじみやってないから.わたしたちはね.きっと,
こうじくんが思うよりも考えてるし,話してる﹂
﹁だろうな﹂
﹁それよりずっと﹂
﹁なら,もっと手抜いてもいいと思うぞ﹂
﹁相手が相手なんだからしょうがない﹂
苦労かけてるんだな,と広路は反省した.
﹁あー,休憩終わりだって.とにかく,もっとだめな面を十中一二
方に公開して︱︱﹂
声が遠くなったので耳を離す.
﹁大事な電話中!﹂
あまりの大きさに,ここからでも生の声が聞こえた気がした.
﹁ごめん.無理強いはしないよ.今回は貸し借りなしにお終い﹂
﹁それはそれで後が怖い気もする﹂
﹁求めないけど,埋め合わせたいならどうぞ.あと,まゆちゃんが
すごく心配してたから,あたしも一言いっておく.危なくなったら
走って逃げて.逃げるのすごく巧いのに,もったいない﹂
ようやく狙いの情報を引き出せた.
﹁耳が痛いです﹂
﹁あたしは最善を尽くせとは言わないよ.頑張れとも.ただ逃げろ
と言うだけ﹂
全く,都合がいい.
﹁なーんてね.声が凄かったから,ちょっとだけマジになっちゃっ
たかも.じゃ,またねー.戦利品報告したがってるから,しまちゃ
んにも電話してあげてねー﹂
126
通話が終わると雨もちょうど止んだ.
甘えるか.こんなのを一体どうやって?
自問しても仕方がないので,びしょぬれのまま,門を開けて家に
入る.
祖父はまだ入院中の祖母のところにおり,家には誰もいない.
顔の傷を治療し,私服に着替え,道場の戸棚の奥から箱を二つ取
り出す.どちらも中身は無銘の真剣.祖父名義で登録されたものだ
が,一口は誕生祝に,もう一口は中学卒業時に祖父に勝った記念で
賜ったものだ.二口とも,矢摩がコスプレ用に作ったベルトに差す.
さらに父方の祖父母から同じく誕生祝で貰った短刀を後ろに仕込む.
これでは外を歩けないので,玄関に陣取って待つ.
五分後,バイクの音が門前で止まった.降りた人間が玄関へと向
かってくる姿が薄く曇りガラス越しに見える.そしてチャイムの音.
すかさず玄関を開けると,バイク便のライダーズスーツにオープン
フェイスヘルメットをかぶったままの男がいた.ヘルメットの下は
白髪で,年齢は初老といったところか.身長が同じくらいなのは意
外だ.
手に持った小包とともに,﹁亀配便です.失礼します.お荷物置
きますね﹂と言いながら入ろうとする.
敷居を跨ぐ寸前で,二刀を抜き,刃先を押し当てるように男へ突
進する.かすかに肉へ刃が食い込む感覚.そのまま押し出しつつ,
刃を引いて斬る.
手ごたえは最初以外に無い.
﹁アホか.真剣で二刀流なんて聞いとらん﹂
瞬時に距離をとって退いた老人が呆れたような愚痴る.服すら斬
れていない.
﹁そりゃ,誰にも言ってませんし﹂
当家に二刀流はない.見栄えだけで無駄が多いからだ.それを,
他の武術の知識と経験とを合わせて無理やり自分のものにした,広
路の隠し玉.元凶を殺すためだけに培った技術.
127
勝ち目無しなら,全力で当たるのみだ.それで負けたら終わりで
いい.負けても終わっても人生は続くが,その時はその時だ.
﹁よく気づいたとは言ってやるか﹂
﹁別に.なんだか急に﹂
老人からは何も感じなかった.臭い,触感,温度⋮⋮誰からも気
配に相当する何かを感じるのに,だ.だから,こいつにだけは家の
敷居をまたがせてはいけない気がした.無抵抗で全部やり直されて
しまったことになると,そう思った.殺しても,殺しても,殺して
も足りないくらいに嫌だった.
こいつは前の運び屋よりダンチで弱い.せいぜい広路の三割増し
くらいだ.なら刃は喉元に届く.
﹁おっと,電話だ.ちょっと待て﹂
老人の行動を無視し,左を逆手に持ち変え,駆けて一息に間合い
を詰める.他流派の技を二刀用に改良した突撃だ.
鈍い金属音がして,刃が空中で止まる.しかし,そこには何もな
い.二撃目を放とうにも刀は動かない.完全にその場所で固定され
ている.続けて右手を離して短刀を抜き,頭めがけて投擲する.
老人は驚きとともに体を後ろにそらして避けた.目論見通り.短
刀はバイクの後輪に刺さり,小さな爆発音とともにタイヤの空気が
抜けていく.
﹁待てって言っただろ!﹂
刀を空中に放置しつつ,相手の発言を避けて懐に入り込んで正拳
を打つ.これぞ言葉のドッジボール.
また金属音がして,拳が寸前の空中,数センチ手前で止まる.と
てつもなく硬い何かの感触.決まった気配はない.今度は固定され
ていないようなので,半歩だけ下がり,流れるまま次の攻撃に移ろ
うとする.
﹁そこまで﹂
目の前の男とは別の声がした途端,今度は体全体が動かない.何
かに挟まれているような,嵌っているような感じ.
128
この様子を見て老人がほっとしたように言う.
﹁ここで退くなら,なかったことにしてやる.だが︱︱﹂
﹁待て.私が代わる﹂
別の声が話を遮った.男に聞こえるが,それ以外は全く想像でき
ない.
﹁初めまして焼鎌広路.私の名前は井路端大九という.仁志純と彼,
サム・アーシタというんだが,二人の一番上の上司で,本業は衣装
屋の﹃職人﹄だ.衣装の作成,化粧,小道具,大道具,舞台装置,
必要なら演技指導もやる,装いの何でも屋といったところか.コス
プレ衣装とドール服専門の通販サイト﹃世界制服洋品店﹄というの
をやっている﹂
別人の声は男の付けている無線通信機器から聞こえている.普通
のマイク兼スピーカーなのに,はっきりと耳元まで届くのが不思議
だ.
﹁褒美に,三つ願いを叶えてやろう﹂
その言葉だけは,はっきりと笑顔で発せられたとわかった.
129
第七話 花發多風雨人生足別離︵さよならだけが人生だ︶
﹁願いは,私の叶えられるものならば,何でも三つ.私には無理で
も,私が頼める奴が叶えられるなら良い.ただし,願いの回数は増
やせない.そして︱︱﹂
はっきりとではないが,少し相手のことが読めてきた.広路は思
い切って,まだ続けようとしたところを見計らって口を挟む.
﹁仁志純のいるところに連れて行ってください.無事を確認したい﹂
何の褒美なのかくらいは聞くべきだろうが,くれるというのだか
ら貰ってやる.
﹁︱︱そして,願いの理由は聞かない﹂
井路端が言い終えると,広路の体を拘束していた透明な何かが外
れた.
透明人間か触手か,あるいは鎖か.何にせよ,捕まるまで全く分
からないのはどうしようもない.厄介だな.
広路が対策を練り始めたところで,井路端の時間差回答が来た.
﹁いいだろう.仁志純,といってもコードネームだが,彼女のとこ
ろに連れて行こう.サム,荷物を置いて戻ってくれ.焼鎌君には車
を向かわせる.五分待て﹂
﹁了解﹂
老人は無線を切り,小脇に抱えたままだった荷物を玄関において
出ていった.バイクは何故かパンクが直っていた.
広路は道路に出てバイクが走り去ったのを確認してから,刀を置
きに戻る.何か仕込もうか迷ったが,役に立たせられる気がしない
のでやめておいた.その代わりと言っては何だが,少し食事をとっ
ておく.小径が作っていたビワのゼリーを一杯.ただただ甘い.
お茶で口をすすいでから玄関に戻ると,探索に全くかからなかっ
た車が門の前に止まっており,先ほどと同じような老人が運転席で
130
待っていた.車の見た目はただのハイヤーだ.吉原に一日中通って
いるのに,どこのかはわからなかったが,フェンダーミラーのくた
びれ具合から年季ものだとは思った.
近づくと後部座席のドアが開く.乗り込むと老人は被っていた制
帽をくいっと上げ,ゆっくりと車を発進させた.カーナビが見当た
らないが,指向性のHUD方式だろうか.
﹁あの,聞いてもいいですか﹂
広路はすぐ,まだ国際通りにも入らない内に聞いた.
﹁それは許可されていませんな.私はただの案内人だ﹂
老人は事も無げに応えた.
﹁いえ,さっきの人にです﹂
わざとそれを省いて言ったので,老人の役割を引き出せた.細か
いことだが,負けっぱなしなのでは気が済まない.
﹁少々お待ちを﹂
老人は表情を変えずにラジオの調整を行った.すると,スピーカ
願いと区別されるのかどうか,教えてくだ
ーからまた井路端の声が聞こえてきた.
﹁何だ﹂
﹁質問はできますか?
さい.区別されないなら答えなくてもいいです﹂
返答はない.
しばし沈黙が続く.
下谷の高速入口で信号につかまったところで,ラジオから井路端
の声が聞こえてくる.
﹁ああ,すまん.少し用があって席を外していた.質問は﹃質問は
可能か?﹄だな.もちろん願いと問いは区別する.問いには,答え
られても答えないということがある﹂
﹁どうも.では続きは後でお願いします﹂
それだけ言って,思考回路をフル稼働させる.考えて,考えて,
考え抜かなければならない.
﹁︱︱着きました﹂
131
突然の声で考えが止まる.
辺りを見ると,いつの間にか上野の山のようだ.ここは⋮⋮国立
東京博物館の西門だったろうか.博物館動物園前駅は使わないし,
正門からしか入ったことはないが,周辺の状況的にはそうだ.月曜
日で休館のはずなのに門が開いている.一般向けは閉まっていても
職員はいるだろうから,これは普通か.でも詰所には誰もいない.
やっぱり普通じゃないな.
薄闇の中,辺りを見回しているうちに,入って左手の坂を登った
ところの玄関前に車は停まった.
﹁降りて下さい﹂
老人に言われるままに降りる.
辺りを探ると,カップラーメンのような安っぽい醤油の匂いが漂
ってくる.範囲内には隣の文化財研究所の人間しかいないようだ.
道の反対側にある国立図書館も休館日のようだ.
老人の後について館内に入ると,入り口近くだけ電灯が点いてい
る.窓口にも誰もいない.奥の方に見たことのある講堂がある.こ
んな風に繋がってたのか.
﹁私について来なさい﹂
老人は,玄関のそばの階段を降りていく.降りた先は少し開けて
いた.大型のエレベーターなどがあるので搬入用通路だと思う.過
去の展示に使われたらしき器具が脇に積まれていて,その間を通っ
て進む.途中で直角に曲がると,その先も荷物だらけだ.
これで国立のフラッグシップ博物館なのか,と余計な心配を思っ
てしまった.
高い天井の白い通路が続く.途中に金庫のような大きな扉があっ
たが,老人は一瞥もしない.良く見ると燻蒸室と書いてある.さら
に進むとT字路に突き当たった.左は上る階段と木の壁が見え,修
復室と書かれた部屋などが並んでいる.右はさらに下る小さな階段
と,西門そばの資料館方面に続く通路がある.正面には,さっき見
たのと同型の機材用エレベーター.歩いた距離などから考えると,
132
ちょうどこの辺が本館の中心か.
老人は,正面のエレベーターを操作した.微かな振動と駆動音が
してから,ドアが開いた.顎で先に乗るよう促される.
ここの階では呼び出しボタンが昇る方しか見えなかったが,後か
ら乗った老人は自然に降りる方のボタンを押した.そして,当たり
前のようにドアが閉まり,下降する感覚が生じる.
秘密の通路がこんな簡単でいいんだろうか.どうせ,他に何かあ
るんだろうけど.
体感的に四,五階分くらい降りてから,エレベーターは停まった.
そして,ドアが開いた途端に,周囲の気配が全く別のものに変わる.
大きな大きな呻き声.鉄と血の匂い.錐に刺されたような鋭い痛
み.
それまでなかった仁志の冷たい気配も感じられるようになった.
他にも何人かいるようだ.そいつらの強さは,平均すると隣にいる
老人の倍くらいだろうか.自分との差は計る気がしなかった.
あのモデルさんみたいな運び屋もいて,こちらに殺気を向けて遊
んでくる.何故かとても嫌われているようだ.
蛇に食われたカエル状態になっているうちに,老人は一人で先に
行ってしまった.すると,置いていかれたのを確認したかのように,
蛇の口から吐き出された.慌ててついていくと,老人は仁志の冷た
い気配がある部屋の前で停まっている.
余裕が戻ったので,辺りをよく見てみる.建物の様子は,病院と
研究所の中間といったところ.ほとんどの壁に手すりがあり,所々
には酸素吸入器のようなものも見える.エレベーターで降りただけ
なら上野の山の中にあるのだろうが,あの切り替わる感覚からする
と全く別の場所かもしれない.この辺は地下鉄が沢山あるはずだし.
そこから思考を進める暇もなく,ノックもされず,目の前の扉は
開かれた.
部屋では,仁志が全裸にガウンを羽織った姿でベッドに腰かけ,
暇そうに足をぷらぷらさせていた.訪問で診察が中断でもされたの
133
だろうか.
こちらを見て固まる仁志をよそに,老人がいつの間にか手に持っ
ていた無線端末から井路端の声がする.
﹁さて,無事を確認したな.なら一つ目の願いは叶えた﹂
その声に反応したのか,仁志はガウンとシーツで体を覆い隠して
から,顔だけ出してくる.何がなんだかわからないという顔だ.
﹂
実のところ,広路もよくわかっていない.なので聞いてみる.
﹁お前は,なんでそこでそうしてる?﹂
﹁彼女との会話は禁止だ.手話もな﹂
これには時間差が無かった.
﹁聞きたいこと,あるんですけど﹂
﹁なら,私が答えよう﹂
﹁あなたが仁志の何を知ってるんですか?
﹁大体のことは.何を考えているかとか,学校で何があったかとか
でも,人の力を借りればすぐわかる﹂
借りるのに偉そうだ.借りられるから偉いのかもしれんが.
﹁なら,仁志は俺のこと覚えてますか﹂
﹁仁志純の記憶はいじっていない﹂
つまり,仁志から情報が引き出せれば,何があったかわかると.
学校で何かあったというのは,井路端が語るに落ちたのか,どうか.
﹁無事といいますが,前側の身体にけが⋮⋮怪我が見えなかっただ
けですよね.他がわかりません﹂
﹁それもそうか.愛生,立って返事を.それから,後ろ姿を見せて
やってください﹂
仁志はその指示に一瞬たじろいだ様子をみせたが,すぐに返事を
してベッドの上に立った.そして,後ろを向き,羽織っていたもの
を落とす.
ただ時間稼ぎなので思考に集中する.
﹁結構です.どうもありがとう﹂
仁志は急いでガウンを羽織り,またシーツにくるまる.なんなん
134
だこの生き物は.
﹁気分は悪くないのか﹂
仁志は広路の問いにこくりと頷く.学校,高校の方にいたときは
こんなんじゃなかったな.こっちが本性なのか?
﹁愛生﹂
井路端の嗜める声に,仁志はびくりと体を震わせる.
その前に,場所を替えようかね﹂
悪いな,と広路は素直に思ったので,仁志へ頭を下げる.
﹁二つ目の願いは?
井路端は仁志に聞かれたくないようだ.ならここでけりをつける.
﹁俺を縛っている,この﹃お前はやりなおした人間だ﹄という呪詛
を,消し去ってください﹂
井路端は十秒以上沈黙し,大きく息を吐いてから感情の起伏を感
じさせない声で言う.
﹁そうか.そんなことになっていたとは﹂
答えを聞いた瞬間,辺りが真っ暗になった.停電とも異なる,月
の無い夜より闇だ.そして,気配が隣の老人のもの以外なくなった.
さらに,隣の老人が別人になっていた.いや,正確には別人の気配
になっていた.ううん,それも違う.前の老人,サムのように目の
前にいるのに気配が感じられない人間になった.
﹁許しを乞うわけにはいかないだろうから,謝ることもできないな﹂
さっきまで端末を通して聞いていた井路端の声が直に聞こえる.
空間の広さは,さっきの部屋からベッドの分を引いたくらいか.
﹁私,井路端大九はおよそ十八年,いや十四年前か.ひょんなこと
から﹃三つの願い﹄を叶えることになった.そのうちの一つがそれ
だ.人生のやり直し.正確には,別の人生のかな﹂
うっすらとだけ見える老人だった顔は,青年と壮年の間くらいの
顔に若返っていた.というか輪郭も変わっていた.黒塗りの暗さで
表情までは全く見えない.
﹁その時の願いは﹃俺に人生をやり直させたい.素晴らしく幸せな
人生をだ.俺の魂をコピーして,奇跡のように恵まれた環境に産ま
135
れる⋮⋮男として生まれ変わらせてくれ.
先天的な病気とかはな
しで,とにかく元気なやつ.顔のつくりも素晴らしくいい感じに.
かわいい幼馴染みってのも欠かせない.
進路が制限されない程度に裕福で仲の良い円満家庭.どうせだから
歴史のある家がいいな.
それも複数だ.その他の恵まれ具合の細かい調整は任せる.あくま
で大事なのは奇跡のように恵まれた環境であることだからな.そし
て,やり直し前の記憶は要らない.ただし,本人にだけは自分がそ
ういう存在であることを伝えてやってくれ.これが最後の願いだ﹄
だ.今でも一言一句覚えている﹂
広路はその時に自分が何を考えていたか覚えていない.嘘じゃな
い.
﹁最後の部分が曖昧過ぎたんだろうな恐らく.でかい山を越えた後
で気が抜けてたんだ.願いを叶える精霊任せになってしまった﹂
色々とあって,私は四年分
広路は何とか思考を整える時間を稼ぐため,質問を挟んだ.
﹁十四年前?﹂
﹁ああ,自分の年齢と合わないって?
若いんだ.だから暦の上では十八年前でいい.君の人生に関係はな
いから,そういう細かいことは気にしなくていいよ﹂
何があったか気になってもこういう切断をされるととてもストレ
スがたまる.自分はやらないように気を付けよう.
﹁とにかく,君の魂は間違いなく俺のコピーだったものだ.俺には
わかる.あと,俺の相棒,君を殴り倒した娘にもわかったみたいだ﹂
殴り倒されたらしい.あの夢みたいにだろうか.だとしたらそれ
にも意味や裏があるんだろうか.
考える時間が足りない.横やりを入れ続けないと.
﹁人間に魂なんか,ない.あるのは五蘊で成り立っている仮想の私
だけだ﹂
風祭のお坊さんに教わった知識を垂れ流す.マブイは一人の人に
七だか九だかあって,尸の虫は三匹らしいが,向こうに話させるこ
とができれば何でもいい.
136
﹁人生やり直す理由なんか,誰にもない﹂
そしてこれは全くの計算外の発言.
﹁うはははは.今の反応はいいな.よし,サービスだ.答えてやろ
う.理由はあるさ.それはな⋮⋮﹂
もったいぶって言葉を切る井路端.闇の中に浮かぶ笑顔を消す為
に広路は目を閉じた.
﹁秘密だ﹂
殺意を隠すのはもう無理そうなので止めた.広路は湿った気配を
剥がれぬように井路端へと思い切り叩き付けた.
井路端は微動だにしない.
﹁それも良い.よし,理由を一つを教えよう.私は孤独だった.大
学三年生の時,喋ったのが﹃袋いいです﹄と﹃レシートください﹄
と﹃お箸一膳ください﹄と﹃すみません﹄の四種類だけだった.死
んでほしい人間がそうでない人間より多かった.というか,死なな
いで欲しい人間はいなかった.きっとそうなったやつは死ぬべきだ.
この時までに青春というのをできなかった人間は,一生幸せにな
れないと思ってた.これ,わかるか?﹂
井路端は昔を懐かしむ様子とは違う,ただ思い出す用に言った.
﹁わかりません﹂
わかるはずだが,わかりたくはない.
﹁そうだろうな.神性の采配で恵まれているのだから,そうでなけ
ればならない﹂
﹁違う.恵まれた環境というのは,あくまでもあんたにとっての,
つくられた,
というだけで,他人にとっては違う.きっと,全然,恵まれてなん
かいない.俺みたいなのが周りにいたらどう思う?
怠けることができない天才がいつも視界にいたら?﹂
周りが感じているであろう不満が口を衝いて溢れていく.もう止
まらない.
﹁それに,恵まれるのは産まれた時点での話であって,その後の保
証は何にもない.例えば姉だ.あいつはただ,俺と遊びたかっただ
137
けで,武術に興味なんかなかったんだ.今だってそうだ.それくら
い家族なんだからわかる﹂
わかるさ,俺にだって.小径がお兄ちゃんを望んでないことはわ
かっているんだ.でも仕方がなかったんだ.
﹁そうだろうな.だから,その呪詛以外に君が今でも苦労してるの
は,君のせいだ﹂
このことに気付くのに,時間はかからなかった.何せ二十四時間
三百六十五日休むことなく,やり直しを教えられていたのだから.
だから.
﹁次の願いです.俺たちを,具体的には,俺と,俺の家族・親戚と,
俺の幼馴染みたちとその家族,そして通っている学校関係者,芸の
師匠たち,俺の手が届く範囲の人たちを,あなた方のいざこざに巻
き込まないでください﹂
﹁ふむ.今回のことは完全に俺たちのミスだ.別に願いを使わなく
ても,そのつもりだし,この願いもそのお詫びを兼ねている﹂
﹁いいえ.お願いします﹂
﹁いいだろう.叶えたというのに時間がかかりそうだが,受け付け
た.叶える﹂
﹁具体策は.それがないと納得できません﹂
﹁悪魔の具現化は防ぐ方法がある.仁志による観察とは別に地域警
ら担当をつける.観察担当との情報交換は頻度を固定する.私も不
定期で周辺を回ろう.ついでに,今ある他の火種も取り除いてやる﹂
仁志は何かの観察担当なのか.これまでで情報がある程度そろっ
ている.よし,間に合った.これで行くぞ.広路は考え続けていた
策の一つを使うことにした.
﹁それでは続きまして,最後の願いです﹂
﹁願いは三つだといったはずだ﹂
﹁俺の呪いの由来については,あなたが自分で語っただけです.そ
して,願いは叶えられなかった.俺の中の呪いは消えていない﹂
順番がずれたけど,ここが勝負.どうだ.
138
﹁確かに.君の願いはまだ一つしか叶っていない.二つ目は,俺に
は叶えられない.君の体を治したとき,ついでに呪いの類も消すよ
うにしてあってな,それで消えてないんだから,恐らく,全てに刻
みこまれてるんだろう.科学技術でも魔法でも呪術でも超能力でも
奇跡でも時間でも回復できない.願いとはそういうものだ.消すな
ら同じく﹃三つの願い﹄で叶えるしかないはずだ﹂
広路は次の策へ移る準備をしていたが,今の回答で頭が真っ白に
なってしまった.
この呪縛が消えない.
﹁でも,残念ながら,もうこの世では,何者も,神によって願いを
叶えられなくなってしまったんだ.十六年前からな.﹃三つの願い﹄
に限らず全ての願いがだ.神によっては,世界をやり直したり,変
革したり,乗り換えたりすることも,もうできないんだ.これは君
の人生にとっても端切れではないが,もう,誰にもどうしようもな
いので,気にしない方がいい.私がこうしてるのは,その罪滅ぼし
みたいなものだ﹂
﹁そうですか﹂
一瞬息が詰まって膝から崩れ落ちかけたが,気取らせないように
慎重に言葉を選んで続けた.
﹁いいですよ.もう.鍛えてますから﹂
﹁そうか﹂
﹁みなと騒いでいれば気になりません﹂
﹁そうか﹂
﹁嘘です.目の前が真っ暗です﹂
﹁真っ暗なのは私がそうしているからだ﹂
殴りかかる気力は一欠片も無かった.その分は今,全部頭に回し
ている.
﹁では,三つ目,最後の願いです﹂
そう言った直後,辺りの黒いのが消え,元の病室に戻った.仁志
は退屈そうにベッドに伏せていたが,こちらに気づいて正座する.
139
さらに,井路端に気づいて,敬礼する.慌ててやったので肌が露わ
になるが,それには気づかないようだ.
﹁愛生,それはいい.横になっていろ﹂
仁志は言われた通り横になったが,首だけでこちらを見ようとし
ている.
広路の方は仁志どころか勝負の結果を気にすることもできず,淡
々と予定通りの言葉を紡ぐ.
﹁仁志の役割を組織内で留め置いてください﹂
﹁⋮⋮理由は聞かないといったが,一つだけ聞かせてくれ.仁志で
いいのか?﹂
﹁答えますよ,俺は.理由は,他の観察を気にしなくて済むからで
お互いに事情を知っている訳ですし.あと,仁志が転校二
す.もちろん,元から仁志一人だけじゃないのかもしれないけど.
あと,
日目にしていなくなるというのも周りにいろいろありますし.みん
なの記憶をどうにかされてもいい気はしません.ついでに,かわい
いからです﹂
かわいいといいながら,仁志を見る.表情は読めない.
﹁そうか.わかった﹂
望んだ答え.勝ったのか?
﹁だがその願いを叶えることはできない.なぜなら,君の言う組織
なんてものは存在しないからだ﹂
予想できた範囲に収まった.後はもう一つ.最後の問題はここか
らだ.
﹁わかるな?﹂
﹁わかりません﹂
どういう意味だ﹂
広路は間髪入れずに答えた.
﹁ん?
﹁じゃあせめて,観察に至った理由を教えてください﹂
﹁それは答えられないと知っているはずだ﹂
広路は内心ガッツポーズをできるほどに気力が回復した.
140
﹁ではなぜ,それが答えられないと,俺が知っているのを知ってい
るのですか?﹂
この件はずっとダメ元なんだ.ここで攻めるしかない.
﹁それに,やり直しの呪詛ことを知らなかったというのに,やり直
しは知ってる.仁志は明らかに治療が終わったばかり.いつ知った
のか.最中だ﹂
広路は溜めて言った.
﹁あんた,仕組んだな?﹂
言い終わる前に,また辺りが黒く塗りつぶされる.気を効かせて
やったんだ.ちゃんと聞かせてもらうぞ.
﹁合格,といったら失礼か.よく見逃さなかった.これならいいだ
ろう﹂
﹁何かもらえますか?﹂
﹁事実を﹂
今度は一瞬で黒いのが消えたと思ったら,仁志のベッドだけが黒
く覆われていた.よく見ると,金属のような光沢がある.
井路端の表情が良く見える.
﹁君は恵まれていたか?﹂
﹁ええ﹂
即答した.
﹁君は幸せだったか?﹂
俺は恵まれていた.これだけならきっと,幸福だ.
でも,俺と俺の周りにあるものは,何者かの作為によると,作り
物なんだと,知らされ続けてきた.そして,そのことだけが自分を
つき動かしてきた.こんなものが幸福であるものか.あってたまる
か.
それでも,俺が作り物だとしてもなお,俺は恵まれていたのだか
ら,幸福ではなかったと言うことはできない.言ってはならない.
﹁まだわかりません﹂
即答は不可能だった.これからもずっとそうだ.
141
﹁では,気付かなければ隠しておくつもりだったことを明かそう﹂
あんたは,自分がモー
﹁その前に聞かせてくれ.俺にはあんたの本心が全く分からない﹂
一矢報いなければ気が済まない.
﹁あんた,何で自分でやり直さなかった?
ツアルトになっても幸せになれないと思ったんじゃないか?﹂
井路端は無表情で頷いた.
﹁そうだ.私には四つの選択肢があった.何もかも覚えてやり直す
か,やり直しだと覚えてやり直すか,何も覚えずにやり直すか,や
り直さないか.いや,最後のやり直さないというのはなかったか.
どうやり直すかだけだ﹂
それが間違いを生んだんだよ.
﹁もし,やり直して,それでも幸せになれなかったら,私は幸せに
なれないということだろう.かといって,引き継がずにやり直すに
はいかなかった.他に叶えた願いの都合でね.そこで,比較するこ
とにした訳だ.やり直しと続きの﹂
表情はよく見えるが,何も読めない.
﹁あんた,願い叶えて幸せか?﹂
﹁ああ.願いを叶えて手に入れた力で道を切り開いた.道中,色々
なものを手に入れた.一昼夜語り明せる友がいる.背中を任せて信
じ合える相棒がいる.技と力を競い合える強敵がいる.命を賭けて
愛し合える妻がいる.出来のいい子どもたちがいる.二人,大切な
人たちと別れてしまったが,一人とは再会し,見守ることが出来て
いる.幸せだ﹂
﹁なら,俺はもう要らないだろ.結果は出た﹂
井路端は初めて感情を表に,その全身に見せた.強く硬い何かの
意志だというのは確信できる.
﹁残念ながら,そうじゃない.なぜなら,まだ死んでいないからだ.
私もまた,願いの代償を負っている.君と同じではないが﹂
井路端は意志を宿しながらも淡々と,末期がんをドラマで告げる
医師のように言う.
142
﹁願いを叶え終えた人間は,幸福の絶頂で死ぬ﹂
広路は唸り,息を止めた.
﹁ちなみに,これを知るのは願いを全て叶えた後だ.ついでに,そ
のことを知らされ続ける.幸せに近づくにつれ,はっきりとな﹂
﹁それで鐘か⋮⋮﹂
広路は掠れた声で呟いた.
﹁そう.それがあったから,私は確信を持てた.君だということを.
四つめの願いを叶えた人間とは,私だけなのかという問いの答えも﹂
﹁俺にも代償を払えってことか﹂
﹁いや,どちらかだ﹂
井路端は宥めるように両手で抑えるジェスチャーをする.
﹁そんなのわかるのかよ﹂
﹁証拠はない.が,確信はしてる.願いと同じく,代償も一度きり
だと.根拠といえるほどではないが,手がかりもある﹂
じゃあ,どっちかに死ねってことか.
﹁私は,やり直しの私,すなわち君が幸福に生きられることを願っ
たつもりだった.が,運良く失敗した.不幸中の幸い.まだ君は生
きている.だから代償は私が払う.そのために,これから君が幸福
ならないよう,不幸を与える.君が道半ばで死なずに済むように.
そのための監視を仁志純にさせる.あの一件は,君が仁志純を異物
のまま受け入れるための儀式のようなものだった.極力それを意識
させないための書き換えも含めてな﹂
井路端は一息挟んで,犬猫も認識するであろう悲しさしかない表
情で言う.
﹁残念なことに,君は,これから私が最も幸福になるまで,不幸に
生きなければならない.でもそれは難しいだろう.だから不幸を確
実にするために,もう一つ秘密を教えよう.恐らくこれがある限り,
君は幸福になれない﹂
広路は耳を塞ぐこともできなかった.
﹁一ノ二愛生,つまり仁志純は元精霊だ﹂
143
それでもベッドに跳びかかることはできた.そして,振り下ろし
た拳は阻まれた.
﹁彼女が君をそうした共犯だ.そのころの記憶はないがな﹂
井路端は広路をまっすぐ見ながら続ける.
﹁正確には,元人間の前精霊の今人間でな,私が願いで人間に戻し
た.今から十八年前﹂
広路は肉が裂けて血が噴き出た拳を振り下ろすのをやめた.
﹁幸せになりたかったんだ.なのに﹂
﹁言うな.もう遅い﹂
まだ,全部ひっくり返す方法はある.
﹁君が幸福で死なないためにできるのは,私の幸福を願うことだけ
だ.一つことのために他の全てひっくり返すなんて,君にはできな
い﹂
井路端に抱えられ,広路は黒い塊から降ろされた.
﹁そこが私との決定的な違いだな﹂
完敗した上に情けまでかけられた.
黒いのは消え,混乱した表情の仁志がベッドから起き上がった.
怪我くらいは治しておいてや
血まみれの拳の広路を見て,声にならない声であたふたしている.
﹁そろそろお帰り願いたいのだが?
ろう﹂
﹁願い忘れてた.仁志純に,通学用自転車をプレゼントしてくれ.
きっとあった方が良い﹂
﹁ああ,叶えるよ﹂
その後,広路は治療とはっきりと記憶を戻す処理を受けることに
なった.
そして,待っていた運び屋に連れられて地上に戻っていった.こ
の時は全く殺気が刺さってこなかった.むしろ憐れみが前面に出て
いて,頭を撫でられた.
送りの車は手前の路地で降ろしてもらう.午後七時半.いつもな
ら合気の稽古からちょうど戻ってくる頃で,今日は夕飯の準備をす
144
るはずたった.
玄関前で仁王立ちしていた小径に問い詰められた.
どうにか切り抜けて部屋に戻ると,窓に端切れでつくられた小物
袋が貼られてあった.中身は運び屋と八の字の車に仕込んでおいた
GPSロガーと領収書だった.
﹁運送料金三○万円は井路端の預金口座より確かに頂戴しました﹂
145
第八話 人生不相見動如参與商︵やり直しの後の再会は幸福か︶
日課の新聞斜め読みを終えると,時計は九時を指していた.やり
:
台所へ移動
,
直しの原因が分かってもこの習慣は止められない.
〇〇時〇〇分
台所へ向かい,しまゆうコミュでのステータスがオンラインなの
を確認してから,矢摩に電話する.
﹁こんばんは.今いい?﹂
﹁ないす,はいえーす.掛けようかなーと思ってたところ.うちの
話もしていい?﹂
﹁どうぞ.ただ,次があるから短めに.まず用件だけど,﹃世界制
服洋品店﹄って通販サイト知ってる?﹂
﹁おむろん.この前イベントで着てたの,あすこのキャンセル品.
不定期の完全注文生産で,受付開始一秒で完売が当たり前なんすよ
奥さん.買えたのほんと運良かった.なんてゆうか,格が違うんだ
余所と.技術とか素材だけじゃなくて.あと,ドール服とかフィギ
ュア服もやってて,オークションで百万とかざらみたい.古参が言
うにはそっち本業らしい﹂
﹁あれ確かにいいやつだったな.ほつれも毛羽立ちもなかったし.
所在地は?﹂
:
移動
,
招待制の会員サイトだから,入ってから画面共有するね﹂
﹁うーんとどらんく.銀座の,何丁目だったかな.今ネットつなが
る?
〇〇時〇二分
住所表記は銀座九丁目.うちから自転車でも三十分程度か.
﹁オフィスは普通だった.もっと凝ってるのかと思ったんだけど﹂
﹁行ったの?﹂
﹁はいんりっひ.先々月ね.秘密倶楽部なんで隠してた.前にゲス
トさせてもらったサークルさんと中の人が知り合いで,今後の参考
146
にってことで.工房はシンプルな感じ.最後,いろいろ見せてもら
った道具がカッコよかった﹂
﹁へえ.中の人って,社長さん?﹂
﹁ネタ切れた.うん.すんげーきれいなおねいさんだった.お嬢ど
もより上よ,あれは.ん,何かね?﹂
﹁秘密は男を男にするってことで﹂
﹁逆だろ.⋮⋮まあ,言いたくないなら仕方ない.気になりますけ
ど.気になりますけどね.いいさ.でも,危ないのはダメ絶対.二
人が言ってたのはこれ関係?﹂
﹁たぶん,別.その辺は今ので終わりだ﹂
﹁ふうん.じゃあ,もういいよね.普通の話しよう﹂
﹁ああ.今日は何買ったんだ?﹂
﹁ほほほ,よくぞ聞いてくれました.ノーチェックのサークルだっ
たんだけど,めちゃパコなカットがあってさ﹂
﹁普通﹂
﹁ぐへへ,すまねえ﹂
以降はただの長い雑談.
腕時計を見ると九時半になっていた.そろそろ真弓に電話する頃
合いか.
﹁すまん.そろそろ次が﹂
﹁あいあい.まゆ待たせちゃ悪いね.無駄話に付き合ってくれてさ
んくす.ぐっない.しーゆーともろう﹂
﹁おやすみ.また明日﹂
:
銀座九丁目着
,
終話をタップしてヘッドセットを外す.
〇〇時三〇分
騒がしい飲食店エリアから離れた位置に﹁普通の雑居ビル﹂はあ
った.
ビル自体はありきたりな古びた建物に見える.入り口にはシャッ
ターが下りていて,窓に明かりはなく,中の様子はわからない.外
からメーターは見えない.一回りしつつ気配も探ってみたが,何も
147
感じられない.向かいにはバーらしき看板が掲げらているものの,
こちらも無人のようだ.
自転車に跨がったままビルを見上げ,ため息をつく.そして,ハ
ンドルにもたれかかって目を閉じる.
もう他に糸はない.できることもない.
そのビルの反対側.同じく﹁普通の雑居ビル﹂に見せかけた建物
内で行われた会話を,焼鎌広路は知る由もない.
それでも想像はできる.
﹁しばしの不幸を受け入れた﹂
観察している連中がいるなら,こう結論づけただろう.何故か.
事実だからだ.当の広路さえそう思っている.それ以外は不合理だ
からだ.
だが,合理的な思考だけが広路の行動を決めるのではない.
鐘はまだ鳴りつづける.ここが幸福な死へ続く道だと,自分にだ
け教えてくれる.すべての感覚を呪詛で塗りつぶして,誰も何も分
:
起床
,
からなくなっても,鐘は鳴る.今日,初めて知った.
二〇時五九分
枕元の携帯を取って夢日記をつける.今日は,異性の友人総出演
のエロい夢だった.
:
移動
,
昨日の今日で格好が付かない.今後もこれが続くとか,性癖の幅
二一時〇七分
が広がるやもしれん.
:
移動
,
小径を起こし,急いで道場へ.
二一時一四分
掃除が終わる頃,剣術の師匠である祖父がやってくる.刀を出し
,
てもらい,型の稽古を始める.
二二時〇〇分:移動
:
移動
,
隣のマンションの外廊下から秋葉様の灯篭を新しい蝋燭に変える.
二二時五分
今日も朝食と弁当の担当なので二十五分ほど早く抜け,シャワー
148
で汗を流す.
二二時一二分
:
移動
,
キッチンで五人分の朝食とお弁当を作成する.朝食はカリカリの
ベーコンと目玉焼き,缶詰のオニオンスープにパン.お弁当は,寝
る前に仕込んでおいたロールキャベツ風煮込みが主菜で,副菜は海
老とサーモンのサラダ.ちょっと手抜きだ.
両親が起きてきて,ラジオの気象情報が聞こえてくる.
一日中晴れ,北風,花粉少なく,各放射線量は通常通りとのこと.
続く占いの前にチャンネルは変えられてしまった.
今朝のトップニュースは殺人事件.昨晩,コンサートライブ中の
女性声優にUAVが衝突.被害者は死亡.直後に操縦者の女子高生
が自首.出頭時は薬物を服用していた様子.動機は﹁彼女が私以外
に向けて歌うのが許せなかった﹂と証言.通っている高校が付属す
る大学の3DプリンタでUAVを作成したとのことで,教育機関の
:
moveToDiningRoom
moveToPrivateRoo
3DプリンタとUAVの規制が強化される見通し.
朝ご飯完成.
お弁当完成.
,
1459809660
m
:
急いで制服に着替える.
1459809900
,
moveToHouseGate
,
ダイニングに戻ると,稽古を終えて着替えた小径と祖父がやって
きた.いただきます.
:
八時になったので母が出勤.いってらっしゃい.
1459810980
見えているものが赤く染まる.
後片付けをしてから家を出る.
いってきます.
空に今日も雲はなく,そよ風が涼しい.
149
自転車を抱えて門の外へ出ると,
幼馴染が三人並んで待ってい
る.挨拶しようとした小径は,そちらを一瞥して固まる.普段から
気配を探ろうとしないからそうなる.
いつもの三人の左,今まで誰もいなかった場所に立っている彼女
について,知っていることを挙げてみる.
一二一番.薬漬け.備品管理歴十年.五年留年中.足音を立てず
に歩く.着やせするタイプ.命令には時として従わない.笑顔は作
り物.俺のことを,もしかたら誰よりもよく知ってる.
あとは知らない.興味もない.
﹁おはようございます.昨日はありがとうございました﹂
﹁いや,こちらこそ﹂
﹁純ちゃん,自転車通学は初めてらしくて,うちの前に迷い込んで
きてたから,一緒に行こうって.いいかな?﹂
﹁大門から入ってまっすぐ南西へ抜けようとすると,突然のカーブ
に戸惑う.その後に直進して水道尻まで来ると,裏門の先が大きく
南に曲がってさらに驚く.吉原あるあるね﹂
﹁んで,戻ろうとしてすぐに左折すると,うちの行き止まりにホイ
ホイされると.一応,オフリミットの看板は出してるんだけどなあ﹂
﹁あの詩人像を看板といつまで言い張るつもり?﹂
﹁無論,死ぬまで﹂
﹁看板の見た目より,ご自由にお入り下さいって書いてあるのを何
とかした方がいいんじゃないかなー﹂
﹁なら,ぬけられませんの看板も用意しよう﹂
﹁今度はどの部分にするのかしら?﹂
﹁門本体以外無かろう.で,どう?﹂
﹁毎日でも﹂
﹁やったーはーれむるーとだー﹂
﹁矢摩は何を?﹂
﹁気にしない方がいいよー﹂
湧くしまゆうをよそに,肝心の仁志は浮かない顔だ.
150
﹁よろしいんですか?﹂
こちらに聞かれても,何もよろしくはない.
﹁ええ.それに,敬語なんか使わないでいいから﹂
﹁ありがとう.でも癖なので,少しずつでいいですか﹂
﹁もちろん.ところで,昨日は何かしたのー?﹂
﹁川で溺れてるところを助けたに十ハグ﹂
﹁誰に払うのかしら,それ﹂
﹁負け前提なのね.よし君に払おう﹂
﹁悲しいことがあるまでとっておいてくださるかしら﹂
昨日は⋮⋮釣って,脅して,逃げて,揉みそこねて,協力して,
突き飛ばされて,負けて,負けて,負けて,無視して,賭けて,負
けた.
﹁昨日は,ええと,学校を案内してくれて,七不思議も教えてもら
いました﹂
よく出来ました.
﹁七不思議なんかあったっけー?﹂
﹁壁を走る天狗女子高生とか,未承認薬が混入されてる水道水とか,
男女問わず不仲になる屋上とか.半分くらいは昨年から発生してる
んだけどね﹂
この辺りで硬直が解けたのか,小径は慌てて一人で学校へ向かう.
仁志は留めようとしたが,万弓に止められた.
﹁漫研というか,矢摩の捏造七不思議本が原因だな﹂
﹁そうです.それも私です﹂
﹁そういえば,部活はどうするのか決めたの?﹂
﹁今日から始まるんだよー.向こうでは部活ってなかったんだよね
?﹂
﹁はい.だから楽しみ﹂
眼が笑っている.
﹁漫研ではあなたを歓迎する!﹂
﹁私も入っている帰宅部はおすすめ.ゴーホームクイックリィ,略
151
してGHQね﹂
﹁帰宅部入ると洞察力が低下するから,漫研で.天文部は夜が来る
まで活動しないし﹂
﹁空手部入るくらいなら,うちの道場に来てほしいなー﹂
各々勧誘に勤しんでおり,楽しそうで結構.悪いが,この時を待
っていた.
﹁﹃裁縫と自由﹄党,もとい生徒会に入らない?﹂
全体に沈黙の効果.仁志の困った顔がおかしい.
﹁新設された設備がいくつかあって,そこに係る庶務の役できたん
だけど,人がいなくて﹂
あのニュースがあっても,鈴内先輩はどうなるかわからんし.
﹁私でいいんですか?﹂
君じゃなきゃダメなんだ.
﹁在庫管理は得意そうだし﹂
﹁どんな判断だ﹂
﹁何かの冗句なの?﹂
﹁今,門下生になるとー,なんと月謝が一割引きなんだよー,うち﹂
仁志の顔は見なかった.眼は向けていたが,像を呪詛で覆い隠し
た.
﹁やらせてください.庶務﹂
その言葉を聞いても,見なかった.これは小さな勝利といってい
いだろうか.
﹁お,おめでとう?﹂
﹁悪いことにはならないでしょう.きっと﹂
﹁生徒会しながら護身術もどーかな?﹂
呪詛を無視するのに手間取って,この時の皆の表情がわからなか
った.
﹁いい加減にお止めなさい.困らせるのは良くない﹂
﹁お小遣いが増えるかどうかの瀬戸際なのだー﹂
﹁人が金に見える病か.いいじゃん.またみんなでバイトすれば﹂
152
﹁そうね.ちょうどいい話もあるから﹂
﹁お,どこでなにするの?﹂
﹁まだ秘密.結構な額になるから期待していてね.ただ,問題があ
って,広路は参加不可なの﹂
﹁そーなのかー.残念﹂
﹁自費負担なら宿以外一緒もできるけれど,それでは本末転倒ね﹂
﹁みんなでおでかけのつもりじゃ,だめかなー?﹂
﹁うちらだけ労働あるけどな.ってそれは後にしよう.今は⋮⋮こ
のロードだ!﹂
矢摩は,仁志が乗ってきた自転車に向かって両手を広げ,さあお
食べ的なポーズでこちらに示す.
このフレームの国際標準完全無視の変態的美麗
最高級ナノマテリアルが惜しげもーー﹂
﹁見て見て広路!
フォルム!
﹁言いたくなるのはわかるけど,長くなるからさー﹂
﹁お昼にでもしておきなさい﹂
﹁あの,亡くなった親戚が使っていたそうで,自転車のことは詳し
くは知らないのですが,乗ってみますか?﹂
﹁それは無理ッ!﹂
﹁乗らんのかー﹂
﹁呆れた﹂
矢摩は,悲しそうな顔で嘆く.
﹁だって,他の乗れなくなっちゃう.こんなん乗ったら﹂
仁志は,手を叩いて頷く.
﹁なるほど.そういうこともあるんですね﹂
﹁一言でいうと錯覚ね.心持ちの問題ではあるけれど,自覚した上
で縛られずに判断するのは難しい﹂
﹁確かに歪むよねー.でも,美人は三日で飽きるとも.キムチ丼で
も食べたらいいんじゃないかな﹂
残念ながら,美人は三日で飽きないという研究結果が出てる.
﹁そのへんは,伸びしろを含めない話だわさ.最高がもっと成長す
153
るならいいのだわさ.こちらも成長すれば,もっと最高を引き出せ
たとえ
るのだわさ.だから,まだ,うちには乗れないのだわさ.あと,タ
イヤが百七十もあるんだから乗りにくいわさ﹂
﹁だわさはどこの方言なのかしら?﹂
﹁それはーー﹂
矢摩のボケ重ねを潰して,仁志が続ける.
﹁それは,人に対してもそうなるということでしょうか?
ば,家族,男女の間でも﹂
幼馴染たちは微笑のままだが,口は真一文字に結ばれてしまった.
一方の仁志は,まったく意に介していない様子で答えを待っている.
仕事熱心にもほどがある.
放送事故寸前で,夕掛が仮面の笑顔になって口を開く.
﹁⋮⋮どうだろうね﹂
春風でもどうにかできないような雰囲気になったので,さっさと
学校に行くことにする.
今日は五人で隊列を組むことになった.仁志は前から四番目.最
後尾の広路は,自転車のせいで無駄につきだされた仁志のショーパ
ン尻を眺めながら考える.
家族も幼馴染も観察役も知らない,やり直す前の彼だって知らな
い,今の自分のことを考える.
昨日まではたまに考えていた.もしも願いが叶うなら,何を願う
のか.
一つ目は,禊.自分がやり直したということを,一刻でもいいか
ら忘れたい.
二つ目は,力.もっともっと強い,やり直しなんか必要なくなる
ような力.
三つ目は,思い付かなかった.世界を平和に,とかでいいや.そ
う思っていた.例え,それで人類が消滅したとしても.
今は,その前に聞いてみたいことが一つある.願いを叶えずに幸
せになる方法を.
154
答えはもう聞くことができない.答えによっては,願いのシステ
ムを覆す完璧な最後の願いが言えたのに.
もう遅い.何もかも.可能性なんてもうないんだ.
ふと見上げた空に,またどこかの国のUAVが飛んでいる.今日
もどこかで誰かが誰かを殺すのだろう.金や大切な誰かのために.
標的を間違えて殺したりもするのだろう.
誰かが言った.今は赦しの時代だと.
俺は嫌だ.
155
第九話 幕間一 老人風の話し方をする褐色ポニ娘は実在する
ウェブがまだまだ科学者とオタクのものと捉えられていた頃の,
伝説的な話.とある,日本の無職・童貞・ひきこもりが集まるスレ
ッドフロート型画像掲示板に,ある日の朝四時,一枚の画像が投稿
された.ターバンを巻いた半裸の褐色美少女を描いたイラストであ
る.しかし,その画像は,無惨にもナローバンド回線によってアッ
プロードが失敗し,下半身が途切れてしまっていた.通常,そのよ
うな事態では,スレッドのレスは﹁貼りなおせ﹂や﹁こんナロー﹂
で埋まってしまう.ところが,今回は幸か不幸か,画像に添えられ
た本文に対する反応が少なからずあった.
結果,同一人物による同一時間における同一画像の投稿は,一週
間続くことになった.もちろん,匿名の掲示板であるので,投稿し
た人物が同一であった保証はない.管理人さんなら知っているかも
しれないが,管理人さんのことを知ろうとするところころされる.
それでも,そのスレッドに集った無職・童貞・ひきこもりたちは,
毎回下半身が途切れるその画像とレスの文体に同一性を見出し,投
稿した人物を親しみと憎しみを込めてこう呼んだ.
﹁こうなろう﹂と.
ちなみに,最後の投稿でも下半身が切れたので,下半身を想像で
描き足す祭が二,三日続いた.
な
お
せ﹂
ログ倉庫に残っていた一部の本文を抜粋するとこうだ.
り
﹁こんナロー﹂
﹁は
﹁ブロードバンドにしてもらえ﹂
﹁願いを,無限に﹂
﹁セックスさせろ﹂
156
﹁二次元との行き来を自由に﹂
﹁働きたくない﹂
﹁ババア結婚してくれ﹂
﹁あなたつかれてるのよ>願いを無限に﹂
﹁某有名海外ドラマの﹃三つの願い﹄いいよな.あのシーズンが一
番好きだ﹂
﹁お前がほしい﹂
﹁鯖増強してくれ﹂
﹁世界平和.人類の絶滅的な意味で﹂
﹁どこで攫ってきた﹂
﹁自殺しろ﹂
﹁バイトで某所の倉に調査に行って,その中の古い巻物を修復に持
って来たら出てきた.お決まりだけど願いの回数は増やせないって.
一つだけみんなに譲るから何がいい>どこで攫ってきた﹂
﹁死ね﹂
﹁生きろ﹂
﹁なんで倉にランプの精がいるんだよ﹂
﹁俺たち全員に職と嫁を﹂
﹁俺も調査と修復のバイトやるわ﹂
﹁俺も俺も﹂
﹁全俺が泣いた>俺たち全員に職と嫁を﹂
﹁これだ>俺たち全員に職と嫁を﹂
﹁自分を好きだったあの頃に戻してくれ﹂
﹁職じゃなくて金だけくれ﹂
﹁おいそういうことをいうのはやめろ>自分を好きだったあの頃に
戻してくれ﹂
﹁巻物というか絵図だった>なんで倉にランプの精がいるんだよ﹂
﹁﹃月曜の朝﹄とかもいいよね>あのシーズン﹂
﹁これでいい?金と嫁のがいい?>俺たち全員に職と嫁を﹂
﹁人間じゃないから中に出しても安心だな.ただしふやける﹂
157
﹁女子向けに婿も可にしてくれ!!!﹂
﹁女子などいない﹂
﹁ミノ粉と常温核融合を現実化してくれ﹂
﹁でもホモはいるから婿も可で>女子などいない﹂
﹁飛行機野郎は自重しろ>でもホモはいるから婿も可で﹂
﹁サイレン鳴らそうぜ﹂
﹁アカシックレコード掌握﹂
﹁まて!みんなが職と嫁を手に入れてしまったらここが過疎になる
ぞ!﹂
﹁お前頭いいな﹂
﹁あと﹃偉大なるマリーニ﹄とかな.おまえとはいい酒が飲めそう
だ>﹃月曜の朝﹄﹂
158
第十話 指比との出会い
ことは四月第三週の金曜日,午後六時半ごろ,隅田川沿いの荒川
自然公園で起きた.
この日,月末の校外実習に関する生徒会の雑事が急に増えて帰り
が遅くなったこと自体は,誰かさんの作為ではない.私用により澁
衣景の車は同乗できなくなってしまったため,焼鎌広路が蘆原紅音
先輩を家まで送った,その帰路.
突然のことだったので,前置きとして往路の会話を紹介しよう.
もう日の沈んだ公園を二人並んで歩きながらしたものだ.
﹁話しすぎて雑談のネタ切れしてるよな.ちゅーこって,某漫画を
俺は走る派ですね﹂
参考にお題な.アンデッドは走るべきか走らないべきか﹂
﹁それを聞くってことは走らない派ですか?
﹁このゆとりが﹂
﹁先輩の代から小中学校は脱ゆとりでしょう﹂
﹁珍しく普通につっこんだな,おい﹂
﹁嫌ですか?﹂
﹁澁衣にいいつけるぞ﹂
﹁そんな邪推を﹂
﹁ま,それは措いておいて,実際のところだ.走らない,かつ頭を
潰せばいいアンデッド相手であれば,たかだか東京の人口千五百万
程度,どうとでもなるんじゃないかな.倒せばその分だけ感染拡大
可能性が減るし.ただし空気感染は考えないものとする﹂
﹁俺は一日五百体くらいで力尽きますね,多分﹂
﹁銃無しでか.えらい.八十年で殲滅できるぞ﹂
﹁無茶言いますね﹂
﹁自爆すれば後の半分は逝けるだろ?﹂
﹁勝手にどうぞ.巻き込まないでください﹂
159
知
﹁とある統計的な研究によると,とにかく初めから殲滅しにかから
ないと人類絶滅確定らしいぞ.お父さん,統計学者なんだろ?
らない?﹂
﹁父は家じゃ研究しません.研究の話も滅多にしないです.でも,
今日は自主休講だそうで,いるはずですし﹂
その話なら知ってるかもしれません.どうせなら話聞きに来ますか
?
﹁あ,いや,いいよ﹂
﹁なに動揺してるんですか﹂
﹁うるせえ.死ね﹂
﹁死んだらゾンビで出ます.あーあーいいながら抱えてもってっち
ゃいます﹂
﹁したら肘打ちかべリィで殺す.あたしは参謀タイプで,初期の混
乱をパスして途中まで生き残るけど,私情にとらわれて幼児を助け
ちゃったりして死ぬな﹂
﹁ありそうですね﹂
﹁お前は人類が滅んだ後まで生き残りそうだな﹂
﹁いやー,本日最大の中二発言ですが,大事な人がみんな死んじゃ
ったら後追うんじゃないですかね﹂
﹁死ぬな.生きろ﹂
﹁あ,でもその前に,ゾンビになったそいつら探し出して殺さない
と.先輩も覚悟しといて下さいね.ショッピングカートで轢き殺し
ます﹂
﹁⋮⋮おお,殺せ.あたしは幼稚園バスに乗ってるだろうから,探
すとき参考にな﹂
﹁それだと腐敗してたら見分けつかないかも﹂
﹁老人会のバスに乗ってるわ.一番前の座席な﹂
﹁覚えておきます﹂
﹁そーいやー三分の一は子どもと老人なんだから,殲滅はもっと楽
だな﹂
﹁ゾンビ対老人の映画もありましたよね﹂
160
﹁走らないやつだけどな.ネタとしては良かった.あと規制された
けど子どものアンデッド対教師の映画もあったぞ.今度見ようぜ﹂
﹁また映研に忍び込むんですか.いい加減,許可取りましょうよ﹂
﹁罪悪感と背徳感がスパイスなんだよ﹂
﹁バニラがいいので,浅草あたりの名画座でやってたらそっちにし
ましょう﹂
ケータイで調べると,ちょうど連休中に神保町のゾンビ特集で予
定されていた.画面を葦原先輩に見せる.
﹁⋮⋮二人で行くのか?﹂
バックライトに照らされた葦原先輩の顔は二重の意味で陰影に富
んでいた.
﹁澁衣も小径も興味なさそうですから.熊澤先輩は毎回批評が濃す
ぎるので.嫌なら味付きでいいです.あと仁志は映画館好きじゃな
いらしいので﹂
﹁別に嫌じゃないよ.いつならいい?﹂
葦原先輩もケータイを取り出した.
連休は周りのが遠出して留守番なので﹂
⋮⋮ん⋮⋮分かった.細かいことは直前でまたな﹂
﹁初日はどうですか?
﹁すぐじゃん!
気まずくはない沈黙.頬を撫でる春の生温かな風.あたりに響く
少年野球の音.
﹁はー,沸いてんな.あたしら.特にあたし﹂
﹁春ですからね﹂
﹁もう終わるけどな.四季といいながら,夏と冬が長過ぎるんだよ,
この国﹂
話の終わりとともに公園の出口まで来た.葦原先輩のリハビリの
ために送る時は公園を通っている.先輩の家は線路の下の橋で隅田
川を渡ればすぐだ.
﹁ありがとう.じゃ,また明日.お前も気を付けて帰れな﹂
橋を渡りきったところで広路は手を振り,踵を返した.道路工事
を避けつつ,来た道とは違う公園の中を直進して突っ切る.ここか
161
らでも順調に行けば十五分で家につける.
しかし,今日は公園の中間で止まらなければならなかった.葦原
先輩がちょうど痴漢に遭ったあたり.この園の広さゆえの死角.
自転車に乗った広路の目の前へ,漂う木の葉のごとく現れたそれ
は,一言で表すと怪物だ.
まばらな照明によって描かれたのは,野焼きで煤けたような土色
の鱗肌に,蜘蛛様のまだらに禿げ上がった頭に,夜でも鮮やかにわ
かる真っ赤な目に,尖っていること以外が不揃いの牙に,牙を収め
きれず粘着くヨダレまみれ口に,地獄絵の餓鬼のように突き出た腹
に,牙よりも鋭く光る伸びた爪に,何かが乾いてこびりついたボロ
ボロの縄状の尻尾.さらに洗ってない犬の臭い,いわゆる獣臭が辺
りの闇をはっきりと染め上げていく.
来るのはただの人だと気配で判断していた広路は,その容姿に内
心で驚愕し,自転車を置いて観察し始めた.
顔はこちらを向いているが,見ているかは眼球に虹彩や瞳孔がな
いのでわからない.それでも怪物は,広路に対して明らかな殺意を
放ち,爪を立てて腕を振り回し始める.ただ,その動きははっきり
と見え,小径や矢摩でもいなせる程度の速度しかない.しばしフェ
イントを疑ってみたが,どうやらそうでもないらしい.何の小細工
もなく,ただ唸り声をあげながら空気を引き裂くだけだ.
余裕が出てきたので考える.
これがチュカパブラか.いや,むしろ猿人というべきだな.人間
やゾンビではなさそうだ.ヤギゾンビというのはぎりぎりありか.
その場合,武器は角ではなく爪だが.でも乳首はないから哺乳類じ
ゃないよな.
⋮⋮逃避はやめよう.先日の一件と違い,やらねばやられる,や
らなくてもやられる,という状況ではない.かといって,ただの人
間相手のように目を閉じてても楽勝という訳ではない.攻撃力は侮
れないだろう.皮膚と肉,さらには骨まで一度に持っていかれるに
違いない.
162
ふと,世界同時多発的にこんなことが起こってるのではなかろう
か,と不安になった.あるいは,これが感染源だったらどうしよう
とも.
広路は不安を超えてわずかに怖くなり,周辺を探った.
色とりどりのガラスを砕いたようなプリズムの反射光が目に入る.
周囲の道路とコンビニには人がいて,襲ったり襲われたりせずに動
いている.
毒ガスとか放射能とかまではわからない.毒を疑うなら周りと自
分をよく視ることが大事,と仁志は言っていた.周りにはよくいる
名も知らぬ虫たちが飛んでいる.攻撃のようなものをかわしながら
であるという事を勘案してもなお,自分の呼吸や脈拍に乱れは感じ
ない.体は軽快に動く.今朝,祖父も言っていた事だが,死線のよ
うなものをくぐったことで一つの扉を開けたみたいだ.他も見てみ
たが特に何も見当たらない.幻覚の可能性は考えなくてもいいか.
どうせどこが基底現実かなんて分からないし.
思考が一段落しても,怪物は相変わらず正面に向けて腕を振り回
すだけだ.
さて,どうしよう.万が一手負いのまま逃がしてしまって,匂い
とかを覚えられていたら,後から襲われることになるかもしれない.
でも,念のため以上に倒す必要性がない.逃げればいいんだから.
戦いながらこんなに悩むなんて初めてだ.予防的な殺しを自分は
許せるかなんて,考えたことがなかった.でも,考えておく必要は
なかった訳じゃない.
怠慢のせいで広路が苦慮していると,組手でペースを上げるがの
如く,次第に怪物の腕の振りが早くなり,余裕をもってかわしきれ
なくなってきた.気のせいか,怪物の腕や足がより太く隆々として
きている.目を凝らす間にもその変化は顕著になり,段々と攻撃が
危険域に入ってくる.
とうとう学ランのボタンに爪先が当たって火花を生じ,これ以上
はまずいという段階まで来た時,広路は当たりを付けておいた急所
163
の位置,肉の鎧の下で脈打つ心臓の辺りをめがけて,反射的にカウ
ンターの前蹴りを放った.
蹴りが刺さった怪物は,びくん,と全身が跳ね上がって,そのま
ま崩れ落ちた.
攻撃力の割に防御力が脆い,という推測はどうやら当っていたよ
うだ.
広路は構えたまま一分ほど様子を見た.ぴくりとも動かない.
殺したかもしれない,という動揺はほとんどなく,後処理のこと
が淡々と思い浮かんでくる.
何が付着してるかわからない.遠回りして近くのコンビニでサン
ダル買って履き替えないとな.もったいないけど.あと,言い訳も
考えないと.とりあえず,糞を踏んだ,でいいか.きっと呆れられ
て何も聞かれないだろう.
これらの考えに少し遅れて,まずいことをしてしまった,という
後悔がやってきて思考を奪った.
広路は深呼吸の代わりに両こめかみを指でぐりぐり押して思考の
主導権を取り戻し,辺りを慎重に探り直した.が,時既に遅し.最
初の存在を感知した時点で完全に囲まれていた.木々の陰から黒尽
くめの武装した人型の生物,恐らく人間が,アスファルトに根を張
る雑草のような気配を発しながら,ゴーグルの瞳を緑色に光らせて
向かってくる.
彼らの構えるテーザーガンの照準は確実にこちらを捉えていた.
プレイヤーの耳はプチュキュイーンという音が聞こえているはずだ.
これでも逃げられなくはない.全力でやれば倒せもするだろう.
でも,どちらもその後がより問題になる.
広路は両手を頭の後ろで組んで,制服の汚れも気にせず膝をつい
:
市ヶ谷駐屯地L棟へ移動
,
た.こんな時は確かこのポーズをするんだったと思う.
〇九時五五分
逆さのマスクが頭からとられた時には,広路は後ろ手に手錠をさ
れ,椅子に座らされていた.
164
そこは殺風景な会議室.ただし,床がつるつるのタイルになって
いて,でかい排水口が付いている.広路の正面の壁には,位置的に
蛇口と思われるものの蓋が見える.どんな会議をするのやら.
女性が一人,真後ろに立って広路の動きを封じている.といって
も両肩に手を置いているだけだが,それでも体を動かす気にならな
い.この手は表面上は滑らかだが,内は広路よりも遥かにひどく,
現在進行形で硬く鍛えられている.剣士の手ではない.恐らく色々
な得物があるのだろう.たぶん,彼女がこの中では一番強い.実力
的には同じか,少しこちらが下くらいだろうか.最近は世の中の広
さを知ることしきりだ.
﹁マルチツール,一点.短い木刀,一本.寸鉄,一点.以上.それ
から︱︱﹂
後ろで男性が広路の持ち物,今はベルトを何か仕込まれていない
かカチャカチャさせて調べている.後ろの人に身体検査された時,
流れるように抜かれてしまった.父のお下がりでやや高価なものな
ので,他の道具と違って放棄するには惜しい.
﹁焼鎌広路.十六歳.東京教育大学附属日暮里高校二年.住所は台
東区千束町⋮⋮吉原か.あそこに子どもが住んでいるとは知らなか
った.学校名はどこかで聞いた,いや,見た事があるな﹂
生徒手帳を見ながらの独り言のような調子に,真後ろの女性が応
える.
﹁わたくしの通っている学校の反対側にある.雑誌の帝大進学者数
ランキングに載ってるような所だから知名度はある.彼はそこの生
徒会副会長﹂
この声には聞き覚えがある.おぼろげな記憶を探ると,思い当る
人物がいた.確か,お隣の女子高の生徒会役員だ.名前は⋮⋮何だ
っけ.
﹁知っているのか,指比?﹂
そう.指比憧子.三年生の書記だ.今度の交流会の打ち合わせで
電話連絡をした人.門限の厳しい深窓の佳人,というどうでもいい
165
噂を蘆原先輩が仕入れていたっけ.実際は深淵の武人だったという
ことか.うむ,上手くはないので言わないでおこう.
﹁少しは.うちの学校にも知られているし﹂
指比は後ろから手を回し,広路の顎を赤いマニキュアの中指で撫
でて言う.
﹁例の件,彼にしましょう.単独,それも武器があるのに使わず素
手で渡り合うなんて,貴重,いいえ,重要じゃないかな?﹂
166
第十一話 中音との出会い
手錠をされたのまま広路が連れて行かれた先は,絵に描いたよう
な偉い人の執務室だった.白漆喰の壁,変な模様の厚くてでかいカ
ーペット,セピア色の地球儀が載った大きな木製事務机,黒い本革
張りの肘掛け椅子,ガラステーブルの応接セット,それと日本国旗.
持て余したであろう脇の空間には事典の収まった棚が置いてあり,
さらにその上には左馬が飾ってある.
どこかにリアクション撮影用隠しカメラは,と見渡すと⋮⋮監視
カメラが内外に向いて二台.
﹁初めまして,焼鎌君.私はここの指揮をしている者だ.楽にしな
さい﹂
迎えたのは,妙齢とも何とも言い難い茶髪サイドテールの女性だ.
若くなくはないこともない.ツープライスの下の方っぽいジャージ
生地のブラックスーツがはまっている.
楽にと言いながらも,後ろに密着した指比による見た目よりきつ
い拘束は解かれない.なお,ベルトだけはここへ来る前に返しても
らえたので真っ直ぐ立てている.
広路は自称指揮官を前に思考を整理しなおした.
まず,この後どうするか.逃げるのならこいつを人質にするのが
いいだろう.建物の構造も複雑そうではない.ただ,逃げる必要が
ないならそれがいい.ここに連れてこられたということは,何かの
話があるはずで,内容次第では良い事があるかもしれない.どんな
話かは,指比の先ほどの言葉と今の指揮官の態度で想像はつく.し
かし,もし期待通りなら,指揮官が名前を言わないのはどうしてだ
ろうか.指比はいきなりバラしてきたのに.あの﹃帝国﹄連中のよ
うに,バレてもいいからだったんじゃないのか?
広路の考えを知ってか知らずか,指揮官は期待通りの話を始める.
167
最近テレビでやっ
﹁子供向けにいうと,我々は超法規的措置を遂行するために設置さ
れた秘密部隊だ.漫画などでよくあるだろう?
てる何とか・何とかーみたいなものだ﹂
にこりともせずに言い切って指揮官は机に腰かけた.よく見ると
その顔色はとても悪い.電灯のせいかもしれないが,少なくとも化
粧で隠し切れない大きなクマがある.あとパンストの内もも部分が
派手に伝線している.ついでに白髪が一本見える.
肯定ならば,
困惑ゆえの無反応では少し悪い気がするので,広路は頷いて応え
た.同情心というほどではない.
﹁うん.それでは一つ質問する.我々に協力するか?
今日は無事に帰宅することができる.否定ならば,死んでもらう﹂
広路の予想とは協力という文言以外一致していた.
どう応えるかはいくつか考えてある.なんでこんな馬の骨を,と
いうツッコミは無粋か.このことを上帝推薦候補観察役の仁志とそ
の上司の井路端が知らないというのは流石にないだろう.ならば,
やることは一つ.
﹁その前に,お伝えしておきたい事があります.内容が危険なので,
人払いをお願いできますか﹂
広路はできる限り深刻そうに言った.
﹁言い方が悪かった.協力するということ以外の発言をしたら殺す﹂
予想とは違った反応で,指比の手から伝わってくる圧力も強くと
いうか痛くなったが,気にせずに続ける.
﹁俺は先月から﹃帝国﹄の上帝推薦候補にされています﹂
聞くがはやいか,指揮官は手を振った.
﹁下がれ﹂
指比は広路をすぐに離し,一礼して部屋から出ていった.
扉のすぐ向こうで待機する指比を警戒しながら広路は話を続ける.
﹁玉座﹃職人﹄付きの観察官がいます.今も見ているかはわかりま
せんが﹂
露骨に嫌そうな顔で舌打ちをされたが,知っていると分かっただ
168
けでも十分だ.
﹁そう⋮⋮﹂
指揮官は溜め息分九割の呟きの後,椅子に座り直した.
推薦候補
﹁言うだけ言ってなんですが,ご存じなんですね.﹃帝国﹄のこと﹂
﹁まあ,ね.それより君こそ,なぜ知っているのかね?
がそれを知っているという話自体,聞いたことがない﹂
﹁知らないことになってるのだそうで.多分,知っているのは﹃職
人﹄の身内だけかと﹂
指揮官はスーツの内ポケットから銀メッキの万年筆を取り出し,
もて遊び始めた.
﹁﹃帝国﹄のことで知っているのは他に何か?﹂
﹁いろいろと.前﹃魔女﹄と現﹃職人﹄の争いに巻き込まれまして.
昔ながらの巻き込まれ型なので﹂
着替えを覗いたことはない.仁志のアレは着替えではない.
﹁ああ.そんなことまで知っているのか.時代は変わったな⋮⋮﹂
指揮官は万年筆を懐に戻して立ち上がった.
﹁ここからは﹃職人﹄が聞くことを前提にして話そう.私の名前は
中音そよ.かつては﹃帝国﹄の人間と付き合いがあった.それでな﹂
年齢は分からないが,かつてはというのは変な言い方だ.
﹁しかし,これではどうしたものか﹂
中音は,立ったまま下を向いて唸りだす.それを見て広路は不意
にそろそろ帰らないとまずいと思った.そこで話を自分から進める
ことにした.
﹁ご協力はさせて頂きたいと思います.何故なのかはお聞きしてお
きたいですけど﹂
中音は顔を上げて首を傾げる.
﹁ふむ.理由が何かあるのか?﹂
﹁色々ありまして﹂
とりあえず,反応を知るためにはぐらかす.
﹁答えになっていない﹂
169
こういう反応か.普通だな.
﹁置かれている状況的に,修練と人脈作りが必要ですので﹂
中音は意外にも納得した様子で言う.あんまり普通じゃないかも
しれない.
﹁⋮⋮ふーん,その気なんだな.だが,人脈作りの方は無理だぞ﹂
﹁それでも構いません﹂
自分としても積極的な行動だと思ったが,考え直しても特に後悔
はしなかったのでこのまま進めよう.
鐘はさっきから全く鳴らない.というか,あの井路端との一件以
来,ほぼ鳴らないし,鳴り方も変わったように思う.以前は迷った
時の参考になるような鳴り方だったが,今は⋮⋮よくわからない.
いや,変わったのは自分の方か.
最後に鐘が鳴ったのは,屋上のドアを開けようとして躊躇ってい
た時だ.仁志と初めて屋上で待ち合わせた日.そこで彼女を目にし
たら突き落とさないでいられる自信がなかった.でも,鐘が鳴った
ことに驚いて開けてしまった.
﹁わかった.ならばこちらの計画に問題はない.受け入れよう﹂
中音はこちらを真っ直ぐ見て言った.続けて,椅子に再び腰掛け
て寛いだ風にしてから言う.
﹁一応だが,身辺洗浄はさせてもらう.日常の生活圏を申告するよ
うに﹂
﹁身辺洗浄?﹂
﹁君と関係者の身辺調査や盗聴盗撮などが行われていないかを調べ,
不適であれば何らかの対処をするということだ.と言っても政府の
力の範囲だ.﹃帝国﹄ほど大した事はできん.関係者に好ましくな
い人物がいた場合,ことが終わるまで君は飼い殺しということにな
るだろう.どの道,我々に損は無い﹂
﹁﹃帝国﹄の人がおりますが﹂
﹁それは問題にならない.観察官は玉座が部下として派遣するとは
いえ,所属は﹃宮殿﹄だからな﹂
170
広路にはその意味がよくわからなかったが,権限や管轄などの話
だろうと解釈した.
⋮⋮ああ,教育大附属なら澁衣家の片割れ娘か.
﹁あと,﹃帝国﹄御用の家人が同級生です﹂
﹁同級生だと?
それも問題にはならない﹂
﹁ご存知とは思いませんでした.ところで,片割れとは?﹂
﹁昔,いろいろあってね.これも詳しく話すようなことじゃない.
どうであれ,自己申告などほとんど無意味だ﹂
こちらにとってはちゃんと意味があった.澁衣とはどこかで話を
した方がいいのかもしれない.
﹁改めて,我々について説明をしよう.掛けなさい,と言いたいと
ころだが,門限などはないのか?﹂
﹁その前に,今は何時でしょうか﹂
﹁ああ,そういえばそうだった.十九時十五分になるところだ﹂
金メッキ腕時計のごつい金属ベルトがちゃらちゃらと鳴る.
﹁ここが新宿区か千代田区なら,そろそろ厳しいです﹂
﹁ふむ,どうしてそう思ったのか?﹂
﹁簡単に述べますと,車移動の時間と方向です﹂
あと,遠く,上の方に穴師家に来ることもある軍人らしき気配が
ちらほらあるので.
﹁隠し事か?﹂
広路はわからないという表情を全面に押し出して動揺を誤魔化し
た.実際,何故バレたかわからなかった.そんな広路の努力も虚し
く,中音は笑って言う.
﹁すまん,カマをかけただけだ.癖でな﹂
広路は安堵の気持ちを隠し,生暖かい目線で中音を見た.
﹁すまんと言っただろう.とにかく,やるべきことは済ませておこ
う﹂ 中音は息を大きく吸って話し始める.
﹁本隊は,警察庁の外局として設置されたとある機関と,軍の過去
171
の平和維持活動部隊派遣に伴って設置された秘密作戦群の合同組織
だ.任務は,我が国における遺棄生物兵器の回収と破棄.遺棄生物
兵器とは,君の戦った物のことだ.怪物とでも呼び給え.元は﹃帝
国﹄関係の品でな.具体的には﹃軍人﹄と﹃妖人﹄の外郭組織の末
端が,あるマッドサイエンティストと組んで起こした不祥事の産物
だ.諸事情により,﹃帝国﹄以外が処理することになった.既に大
規模な掃討は終了しており,今は残りを狩っているところだ.わか
ったか?﹂
一息だった.勢いに押されるように広路は頷く.
﹁ええ,背景は.すみませんが,俺で良い理由はわかりません﹂
中音は息継ぎしてから答えた.
﹁簡単に言うと人手不足だ.怪物は火器,銃弾と火薬に対してある
対策が施されている.なので,白兵戦が達者な人物がいると助かる.
これは別件の予算の残りで運営しているから,外部から人が呼べん.
さらにここからも減らさないといかん.実質的に確保できた戦力は
指比だけだったのだ.﹃職人﹄の作為かもしれんが,私にとっては
天禄だよ,焼鎌君は﹂
予算を増やして根本的に解決するよりこれで何とかするあたり,
ブラックだ.
﹁わかりました.ご奉仕いたしましょう﹂
﹁よろしい.一応,私費から最低賃金分は払うから奉仕ではない.
入れ!﹂
志願兵として扱おう.さて,改めて皆に紹介をしたいが,今日は遅
いし,その前に⋮⋮指比!
中音は手を叩いてドアの向こうで待っていた指比を呼んだ.
﹁御用は?﹂
﹁焼鎌は協力するそうだ.第二チームが戻る前に中を⋮⋮いや,時
間もない.最終確認をして帰らせろ﹂
﹁承知しました.ついて来なさい﹂
ようやく手錠が外される.
指比の後について廊下に出ると,彼女は立ち止まってこちらへ向
172
き直る.
﹁自己紹介がまだだけど,必要かな?﹂
﹁お声には聞き覚えがあります.駒女の指比さんでしたよね﹂
﹁はい.改めて名乗ろう﹂
指比は髪を手櫛で整えてから,笑顔で名乗った.
﹁指比憧子.ここで傭兵をしてる﹂
広路は何もせず名乗った.
﹁どうも.焼鎌広路です.よろしくお願いいたします﹂
﹁はい.早速だけれど説明しよう.私は第一チームの隊長.隊員は
貴方を入れると現時点で四名.来週には第二チーム全員と第一の三
人が減る予定で,中音さんと私と貴方の三人で終わり﹂
これは酷い.
﹁そうですか.指比さんのご負担が多いですね﹂
﹁物分かりがよくてよろしい﹂
﹁つかぬことを伺いますが,フリーでこの程度の人材の相場はいく
らぐらいでしょうか?﹂
広路は自分と指比を交互に指して聞いた.
﹁知ってどうするのかな?﹂
﹁何も﹂
﹁そう⋮⋮.このくらい,個人の才能と努力と小さな組織の育成体
系で辿りつける人間の上限には,そもそもほとんどいない.だから
相場といえるものはない.何故かというと,﹃帝国﹄のような常識
外れな存在にもっと上に引き上げられていって,ここに留まらない
から.そして,残ったのが今みたいに売れっ子になる﹂
﹁指比さんもご存じなんですね﹂
秘密であることが有名な秘密組織か.それを読んだように指比が
応える.
﹁実家が諜報関係で,仕事を貰ったこともあるから.細かいこと,
上帝のこととかは知らない.全ての情報を,知っていていい人物し
か知らないように徹底管理しているようだから﹂
173
信じがたいが,プロがそう言うならそうなんだろう.
﹁ご実家は⋮⋮忍者ですか?﹂
﹁正解だよ!﹂
サムズアップまでして嬉しそうだ.ていうかこの人,よく見ると
びっくりするぐらい端整な顔立ちだな.笑顔でも全く崩れず,白磁
みたいな色白の小顔でお人形さんみたいという表現がぴったりだ.
掌とのギャップがすごくて,頭だけ美少女のロボットのプラモデル
まで想起してしまった.
広路は見惚れそうになったのを誤魔化すために,発言に驚いたふ
りをする.
﹁まさか当たるとは.忍術を習ったことはないので,興味がありま
す﹂
今の反応からすると触れてもよさそうなので言ってみる.
﹁言われるまでもなく,私は教えるつもりだから﹂
予想の範囲外というわけではないが,広路はやや驚いた.
﹁ありがたいお話なので是非に.でも,どうしてでしょうか?﹂
指比は真剣な顔で言う.
﹁こんな所にいるせいで人生が短い.教えるに値する人間がいて,
その機会がある.しない理由がない﹂
この,顔だけでなく言葉,いや全身で表現された真剣さは,これ
までに広路が経験したことのない種類のものだった.信念ではなく
覚悟,あるいはそれに近い何かだという想像しかできなかった.
国内の武の流派は網羅しているから知っ
﹁忍術ではないけれど,これからに向けての助言をしよう.貴方は
気配を感じているよね?
ているよ,貴方の家も﹂
武芸流派大事典にも載ってない流派を抑えるその知識も授けて欲
しいかもしれない.
﹁その技術があることは,面や体で物事をとらえることに秀でてい
るともいえる.けれど,時には点や線でとらえることも必要になる.
物事を細かすぎる位に分けてみなさい.マクロ物理の粒と波の性質
174
の話は知っているかな?
ものが変わる﹂
粒度で性質は変わる.いや,観測される
よくわかるようなわからないような.自分を真空中ではない物体
の移動として観測しろということか?
下手ではあったけ
﹁事務所内では気配の察知を禁じる.それから自分の気配は常に消
そうとすること.公園でやろうとしてたよね?
ど﹂
﹁恥ずかしながら,師範でもない人に習い始めたばかりなのもので﹂
下手がうつらないかな?﹂
仁志の教え方.その一,実演.その二,実演.その三,実演.以
上.
﹁﹃帝国﹄の人?
﹁どうしても習得したいわけではありませんから﹂
今のままでは習得できる気がしない.
﹁老婆心ながら言っておくけれど,何かの当て馬のつもりならやめ
た方がいい.何にせよ,短期間で習得するコツはないから,ここで
は試行錯誤してもらう.何で気づいたか言うから,次からそれを潰
していくように﹂
おお,文明が講義という技術を新たに手に入れたぞ.時代の進歩
だ.
﹁早速ですね﹂
﹁当然﹂
広路は言われるまま,周囲の探索を止め,呼吸の回数を減らし,
重心と歩き方を変えて足音を極力抑えた.
﹁素人.可もなく不可もなく﹂
﹁音,匂い,温度,電磁波,気流.あと何が?﹂
﹁そのくらい自分で考えなさい﹂
公立校の部活の顧問か,という批判は口にせず,指摘されるまで
現状維持でいくことにした.
﹁着いた﹂
それから少し歩いて,防火扉脇の表札のない部屋の前で指比が止
175
まった.ここまで通った部分の建物は,古いながらも清掃が行き届
いており,まさに役所といった様子だった.役所と違うのは,スプ
リンクラーや防火扉が多いのと,案内と非常口のサインが一切無い
ところか.
﹁ここが更衣室.来たら荷物はロッカーの中に入れなさい.それか
ら中音の部屋へ向かう﹂
中にはロッカーとベンチとゴミ箱だけしかない.運動部の部室に
見える.古臭いものだらけの中で,例外的に新品同様にきれいなロ
ッカーは,半分以上鍵が刺さったままで使われていない.
﹁今は一つずつ空けて使っている.貴方はそこ﹂
指比はどこからか取り出した筆ペンでタグに広路の名前を書き,
近くの空きロッカーのプレートに挟む.仁志みたいに無個性だけど
綺麗な字だった.工作員は似たような訓練を受けるんだろうか.
﹁没収した武器は明日になったら返却できると思う.悪いけれど待
っててくれるかな﹂
質のつもりか,何かの作業をするのか.いずれにせよ,即時返却
の﹃帝国﹄品質とはいかないか.
入れるものは無いので,というかもう帰るので,広路は鍵だけ抜
いておいた.
指比は一つ挟んだ隣のロッカーから一振りの刀を取り出した.長
さと反りからすると大脇差だろうか.家にある貰い物の忍者刀とは
明らかに違う.⋮⋮てか,よく見ると脇差サイズなのに興亜一心刀
さあ,ついて来なさい﹂
だなこれ.そういうのもあったのか?
﹁見終わったかな?
言われるままついていった先は,また防火扉の脇の表札のない部
屋.中はさっきの拘束されていた部屋と同じ間取りだ.ただこっち
は,排水口の辺りから金属と石と塩素の臭いが混じり合って漂って
くる.
椅子のあった場所には無骨な金属の台.そこに拘束されていたの
は,あの怪物の同類だった.いや,同じ個体かもしれないが,判別
176
はできなかった.押し花のように萎れていたからだ.唸り声はせず,
ヒューヒューと掠れた呼吸音だけが微かに聞こえる. 武器を持ち出した時点で組手かこれの類だと思った.
﹁最終試験です.このものの首を撥ねなさい﹂
予想通りなので,とりあえず自分の都合で抗ってみる.
﹁お断りします﹂
﹁やれ﹂
﹁やりません﹂
指比は鯉口を切りつつ広路から距離を取った.拵えだけでなく刀
身も興亜一心刀だった.珍しい.
そんな広路のずれた意識に拍子抜けしたのか,指比は構えを解い
て首をかしげて問う.
﹁⋮⋮何故かな?﹂
﹁切迫していないからです﹂
やりたくない理由として嘘ではない.自分や家族の安全を脅かさ
れないなら,基本的にこういうことはしたくない.その覚悟もない.
例外の覚悟はあるが,それは例外.
﹁⋮⋮解放したらやるかな?﹂
﹁ここから逃げないなら必要に思えません.なので,やりません﹂
﹁そんな言い訳を︱ー﹂
﹁外で,遭遇戦ならやります.それは決めました﹂
敵なら,することにした.ついさっき.決めただけで,どうなる
かはその時だ.
﹁やらなければ殺すといった場合はどうするのかな?﹂
指比は抜刀し,正眼に構えた.構えただけでやる気は全く感じら
れない.
﹁色々なことを覚悟しないといけなくなります.結局,良いことし
たとはいかなくても,せめて仕方がなかったと思わないとやってい
られません.言い訳が必要です.売り手市場を盾にわがままを言っ
ているのは謝ります.すみません.でも俺には大事なんです,これ
177
が.土壇場で分かるよりいいと思って最初にお伝えします﹂
﹁⋮⋮わかった.今回だけだ.次はない.何があろうとなかろうと﹂
指比は一瞬で向きを変え,怪物の首を素早く撥ねた.
血のような液体は流れず,ただ頭と胴が離れただけだった.
指比は懐紙で刃を拭いてから収めた.
﹁さあ,戻りましょう﹂
道中,会話はなかった.
﹁失礼します.指比と焼鎌です﹂
改めて見ると,中音の部屋にも表札がなかった.
﹁入れ﹂
中音は立ったまま机の上のノートパソコンを操作していた.腰痛
だろうか.
﹁焼鎌をどうしますか?﹂
操作を続けたまま,こちらを見ずに応える.
﹁何もしなくて構わん.焼鎌,帰っていいぞ.次からは必要な時に
指比を迎えに行かせる.まず,明日の放課後は空けておきなさい﹂
﹁本当によろしいのですか?﹂
操作を止め,指比に応える中音. 友好会館ビルに移動
,
﹁他に仕方あるまい.計画はもう決まったのだから﹂
﹁ありがとうございます﹂
:
何故か指比は礼を述べた.
一二時三〇分
その後,指比に連れられて色々歩き回り,最終的に駐屯地のそば
の雑居ビルから地上に出てきた.
﹁また明日.さようなら,焼鎌君﹂
振り向くと,出口のドアは既に音もなく閉まっていて,戻ろうと
:
監察役に接触
,
しても開かなかった.指比の気配は駆ける速さで駐屯地の中へ戻っ
ていった.
一二時三二分
﹁そういうわけで不祥事の後始末に加わる事になった﹂
178
広路は帰る前に,近くのハンバーガー屋の隅の席にいた仁志の元
へ向かい,声を掛けた.机の上に宿題を広げていた仁志は,広路を
見ても全く驚かなかった.
﹁そのようですね.廃棄済み備品として聞いたことがあります﹂
﹁問題はあるか?﹂
広路は入店料代わりのコーヒーを仁志の前に置き,すっかり冷め
て硬くなったフレンチフライを一本無断で摘んでから聞いた.
﹁先ほど報告を上げてから何も言われていません.一応,確認して
おきます﹂
仁志はケータイを取り出して操作してから画面を見つめる.上か
ら覗くとそこには猫をかわいがるゲームアプリが映し出されている
ようにしか見えなかった.
﹁私に事後報告が一言あると良いそうです.全て済んだら一度だけ.
経緯に関する広路君の感想です﹂
それが推薦の役に立つのか,と真面目に考えてはいけない.
﹁気が向いたら﹂
﹁あと一つ,伝言,というよりは情報提供があるそうです.何故か
私が可否を決めていいそうですが,伝えておきます.多分その方が
いいと思うから﹂
﹁ちょっと待て﹂
﹁広路君の可否は問わないそうです﹂
広路は手で耳を塞いだ.
すると仁志は,広路の腕を掴んで手を離させ,耳打ちしてきた.
相変わらず冷たい手だ.
﹁情報の一つ目は広路君の自転車の位置.兵器との遭遇地点そばの
茂みです.二つ目は指揮官の中音そよについて.彼女は玉座﹃軍人﹄
の前第四秘書官です.当時のコードは﹃青い馬﹄.そして︱︱﹂
広路はそこまで聞いて仁志から離れた.そしてそのまま店から出
て駅に向かった.仁志はついて来ず,電車が探索範囲の外に行くま
で席に座っていた.きっと広路の置いたコーヒーを啜っていたんだ
179
ろう.
180
第十二話 葦原との出会い
指比たちと出会った翌日の放課後.上司になった中音に予定を空
けろと言われていたので,広路は生徒会室にいた.駐屯地までは吉
原の家より西日暮里の学校の方が近いからだ.
昼食を兼ねた正規の生徒会活動は既に終わっているため,部屋に
は広路と仁志しかいなかった.二人きりになってからは沈黙が空間
を隅々まで支配していたが,広路にとっては望むところだった.こ
のまま終業時刻まで行けるかという期待が生まれた頃,あざ笑うか
のように広路のケータイへ蘆原先輩からテキストメッセージで所在
確認が入った.三年生は午後の補習でまだ大半が残っているらしい.
メッセージに応えると,すぐに葦原先輩がやってきた.扉の向こ
うで少し間を置いてから部屋へ入ってきて,挨拶もなく広路にいき
なり告げる.
﹁悪い話がある﹂
﹁良い方からどうぞ﹂
﹁⋮⋮あたしはあなたにずっキュンドッきゅん﹂
真顔で酔い声,不自然なハートマークによって,プロレスラーの
決めポーズみたいになっている.
﹁良い方からどうぞ﹂
﹁魂の重さとされる四分の三オンスは,元の実験の一部でしかなく,
その実験結果も不正確な計測や自然現象よるもので,犬やマウスの
実験では変化がなかったから正しいとは言えない﹂
広路は全力で何事も無い振りをした.
﹁今から正しい数値が分かる.はい,良い方からどうぞ﹂
蘆原先輩は鞄を机の上に放り,いつもの席に腰かけた.
﹁⋮⋮例のいじめ,もとい不正アクセスな,主犯が自首した.被害
者と同じく一年だった.自主退学だって﹂
181
これは,生徒用メールアカウントが不正ログインで乗っ取られて
影で猥褻なメールなどが送られていた事件で,入学式直後から起き
ていた.本人が気づかない内に変態扱いで無視されるようになり,
そのせいで発覚が遅れた.最初は生徒会マターだったのだが,今は
法人のセキュリティ委員会が扱っているはずだ.
﹁証拠は?﹂
﹁別件のインシデント,先週の巨大数研の機械学習兼採掘用鯖乗っ
取りで,高校セグメントの緊急遮断した時に侵入ログが残ってたら
からの﹂
しい.上,大学の基盤センター情報な.多分そのうち一斉メールか
グループメッセが来る﹂
﹁偶然ですか﹂
﹁だな.操作中に遮断,改ざんできなくてあれやばくね?
﹁ろくでもないですね﹂
﹁な.手に汗握るカタカタ攻防もよーしいいこだもなし.で,悪い
話.駒女さんとの交流会が中止になった.向こうの一年にも共犯者
がいた.わかったのはこっちが先だ.しくって助け求めたのが運の
尽き.三人とも同中の﹃怪我人﹄で,なんか色々あったらしい﹂
怪我人,言い換えると手負いの人.地下やインディーズ市場で自
称芸の担い手を追っかけてる人を表す葦原先輩考案の駄洒落だ.
﹁それはそれは.残念でしたね﹂
﹁なー.アルティメット可愛い女の子たちとの情報交換が﹂
情報交換と言うには一方通行な手の動きだ.
﹁卑猥な動きやめてもらえますか.仁志もいるのに﹂
﹁これを卑猥だと認識するお前のライブラリが卑猥なんだ﹂
﹁失敬な.ソース開示しましょうか﹂
﹁広路のコードリーディングとか広路のコミッタ,て方が卑猥だ.
術語がみんな隠語に見えてくる﹂
﹁オープンじゃないんで改変はちょっと.脳内にフォークするのは
勝手ですけど﹂
﹁誰がお前で妄想するか﹂
182
﹁俺は先輩との問答は想定しますけど.こうしたら喜んでくれるか
なー,と﹂
﹁⋮⋮おう﹂
そして予想通りである. ﹁先輩と広路さんは,ずっとそんなに仲がいいんですか?﹂
ずっと黙って宿題をやっていた仁志が口を挟んできた.観察で忙
しいからか,仁志はいつも宿題に追われている.手伝うつもりは元
からないが,楽しんでいるようなので何も言わないでいる.
﹁⋮⋮ふたりはなかよし,か?﹂
﹁これで険悪なつもりだったら人間不信になりますけど﹂
手を差し出したらぺちりぺちりと往復で叩かれた.
﹁少なくとも,お二人の私への態度よりは自然かと思います﹂
﹁そりゃすまん.まだ慣れてないんだ.嫌いとかじゃない.可愛い
から好きだ﹂
﹁俺はそんなに不自然か?﹂
﹁言い方が悪かったです.基準が異なる﹂
﹁なら同じく慣れだ﹂
嘘だ.
﹁初めの頃はどうでしたか,蘆原先輩﹂
吐きなれないせいで嘘がばれたのか,仁志は広路に聞かなかった.
﹁あたしか.初めて会った時はなー⋮⋮怖かった﹂
先輩は手をぺちぺちするのをやめ,怖かったと言いながら広路を
指した.
﹁新歓の時期なのにチラシ一枚用意せず一人研究室に籠ってちくち
くしてたら,三人,小径ちゃんと澁衣ちゃんと広路が来たんだよ.
お,かわいこちゃんが二人もかーらーのー,こいつ.二人は可愛い
からいいんだけど,こいつ,このガタイでさ,エロ同人みたいなこ
とされると思った﹂
仁志にその例えは通じないと思う.
﹁美浦よりは穏和な体型だと思うんですけど﹂
183
向こうは筋肉がっちり付けても動き落ちない系.
﹁脚と腕と手,特に手だよ.あいつはチャラいから却って気になん
ねえんだよなあ﹂
一応,高校生になってからは手にマメを作らなくなっているが,
それまでの蓄積が抜けそうにない.
﹁彼は一途です﹂
﹁見た目の話してんだよ.ほんの二週間でまた真っ黒じゃねえか.
どこで焼いてんだよあいつ﹂
当人曰く,地黒だそうだが,話がそれているので何も言わない.
﹁閑話休題.んで,会は良くない状態だったんで,せっかくの入会
希望も歓迎できなかったのよねん.逃したら会潰れるけど,新入生
のブレイブニュー生活に嫌な思い出持たせたくなかったし,って言
ったらいい先輩っぽくね?﹂
﹁恥ずかしいからって誤魔化さなくても,みんな気付いてましたか
ら﹂
﹁ほげえ﹂
﹁中等部にまで伝わる良くない評判で不安がってた澁衣は親切そう
な先輩で安心したと﹂
﹁ほえ﹂
﹁今は不安視されてますけど﹂
﹁ほげえ﹂
またそれていく話に仁志の困惑が深まっているようだったので,
蘆原先輩をつつく.
﹁とにかく,あの時は継がねばならぬ何かがあると思って,それ優
先して拒絶せずに受け入れたんだよ﹂
続けて先輩はちょいちょいと広路をつついてから上目遣いで聞い
てくる.
落ちてた針を見つけたの﹂
⋮⋮思い出せません﹂
﹁なあなあ,覚えてるか?
﹁入会した時ですか?
本当に覚えていない.
184
﹁えー.あの時あたしがボソッと蜘蛛男かって言ったら,地獄から
来た訳じゃありませんよ,って返したから,踏み切れたんだよ.こ
やつ出来ると思って﹂
﹁ああ,そういえばその後,どこ住みかで吉原の話になりましたね﹂
﹁そうそうそれそれ.で焼鎌姉弟の母君が卒業生だというので,会
員名簿引っ張り出して来てな﹂
今度はすぐに仁志が軌道修正してくる.
﹁ということは,すぐに打ち解けたのでしょうか?﹂
﹁打ち解けた,とまでは言えないな.さっきも言ったけど,こっち
の都合,会の継続を優先したから,最初のうちは罪悪感があって,
今もあるけど,その辺が壁になってた自覚はある﹂
事実,今では考えられないほど真面目で腰が低かった.広路にも
さん付けだったし.付きっきりで小径の勉強を見ていたほどだ.
﹁伝統っていう幽霊が絡むと,好む好まざる問わず,合理非合理の
余地なく,受け入れなきゃなんねえんだろうなー.小娘の戯言だけ
どなー.受け入れについては,脱落した連中に悪いが,結果的には
この通りだから,あたしはやっててよかったと思ってるよ.お前ら
も良かったって,せめて悪くないと思ってくれてると嬉しい﹂
広路の方は,安易に裁縫の技術を身に着けようと思ったから来た
だけで,こうなる可能性は全く検討していなかった.仁志を除く現
状が良いかどうかは決められない.
小径の動機は広路と同じだと言っていたが,本当のところは分か
らない.今のところ不満はないらしい.澁衣もだ.
﹁広路ん家はやっぱりそういう話,理より優先される伝統ってあっ
たりするのか?﹂
自分が話しすぎたことを気にしてか,葦原先輩は広路に話させよ
うとしてくる.
﹁そうですねえ⋮⋮.せっかくなので部外者に話しちゃいけないこ
とになってたもので,命名規則とかどうですか﹂
一応,この名には理由がある.仁志は⋮⋮素っ気ない反応を見る
185
限り,ちゃんと知っているようだ.
﹁ことになってただと,今いいのか悪いのかわかんねえよ﹂
﹁今は別にいいです.聞きますか﹂
﹁はい,超拝聴﹂
広路は眉一つ動かさずに話し始める.
﹁では,まず路から.道に関する文字は,家の剣術流派の伝統です.
吉原来る前は別の家の人が継いでて,継承者のみだったんですけど,
今は家系と一致してるので,継いでない人,母なども含まれてます﹂
﹁小径ちゃんは継ぐのかね?﹂
﹁聞いてません.で広は⋮⋮家がこっち来てからある公卿の血が入
りまして,家女房の子どもなんですけど,その人が男子に広の字を
継がせてたのが加わって,続けた結果が,祖父広道の俺広路です.
あと続くかは分かりませんが,あるなら広衢あたりですかね﹂
﹁くの字どう書くんだ﹂
ホワイトボードまで移動するのが面倒なので,部首を読みながら
空中に指文字で書く.
﹁ユニコードで⋮⋮八八六二ですね﹂
何故か仁志が字を調べていた. ﹁ふーん⋮⋮.名前のそれ,何だか叙事詩感あるな﹂
意味がわからないコメントだ.
﹁公卿の人の次男が本家だったんですけど,将軍家の遠戚の高家で,
待遇が違いすぎるってんで,ご先祖はかなり妬んでたらしいです.
本家の二代目が蟄居隠居させられたんですけど,その原因は吉原で,
裏で画策したんだそうです.さらに実子ができないように色々やっ
てたそうです﹂
﹁ごめん,怖いからそういう話やめよう﹂
﹁あ,今のはまだ秘密ですよ﹂
﹁ほげえええ﹂
﹁というのは冗談半分です.あと,ほげ飽きました﹂
﹁半分かよ!﹂
186
落ちたところでお開きとする.
﹁はー,今日もお仕事楽しかった.そろそろ帰った方がいいよな.
広路,予定大丈夫なら悪いけどまたお願いできるか?﹂
普段は五時間目が始まる前に帰れるなら問題ないのだが,今日は
いつでも同じだ.
﹁それが今日は⋮⋮まあ行くだけ行きましょう﹂
﹁いや,何かあるならそっち優先してくれねえと﹂
﹁待ちなので,来たらそうします.それまでってことでもいいです
か﹂
﹁そうなのか.ごめんな﹂
表面上は仁志と別れて,露骨ともいえる寒気を感じながら蘆原先
:
荒川自然公園着
蘆原宅に移動
輩を送っていく.
〇五時三五分
:
,
,
〇六時〇〇分
蘆原先輩は道中ほとんど話しかけてこない.それどころか,かな
り離れて歩こうとする.でも,公園へ着くと近づいて饒舌になる.
足や顔につけられた傷はすっかり目立たなくなったものの,まだ忘
れがたいのだろう.
﹁今日は今後の話題考えようぜ﹂
﹁そうですね﹂
﹁よし.まず,OPまたはEDで主人公は走るべきか否か﹂
﹁OPまたはEDで踊るべきか否か﹂
﹁EDでは本編のシリアス度にかかわらず常に水着等のエロいカッ
トを使うべきか否か﹂
﹁最終話でOPは劇中でのみ流れるべきか否か﹂
﹁新人声優に喘がせた作品﹂
﹁ラジオが本編扱いの作品﹂
﹁原作漫画版でしかAAが作られてない作品﹂
﹁ネタ切れです﹂
﹁だらしないなあ.まあ,今回は別にいいや.そろそろだし﹂
187
:
南千住A5ビルへ移動
,
そう言って,葦原先輩は自宅の方ではない方向へ歩いていく.
〇六時〇〇分
広路が黙ってついて行くと,葦原先輩は公園近くのとある雑居ビ
ルの前で止まった.上から制服もどきや学校用かばんを扱う学校用
洋品店,ゴスロリ専門店と来て,一階がコンビニ,地下が古着屋だ.
ここのは古着といっても特殊な奴,いわゆるブルセラショップだ.
正規のブルマが絶滅した現代では,ハパセラと言った方がいいのか
もしれない.昨日,あの後で広路が寄ろうとしていたビルだった.
蘆原先輩は地下への階段の近く,ややコンビニ寄りのところに立
って広路の方を向いた.
﹁何故ここに?﹂
葦原先輩は声を潜めて答える.
﹁例の件,まだ終わりじゃなさそうだから﹂
長くなりそうだったので,広路は辺りに人が近寄らないよう殺気
を撒き始めた.コンビニで立ち読みをしていた人は逃げるように出
ていき,店員さんは奥に引っ込んだ.
ついでに周囲を探る.指比は探索可能範囲内にいない.仁志もだ.
上の店からはそれぞれ水漏れの音とガムを噛む音がする.店員さん
しかいないようだ.ゴスロリの方は柔道有段者っぽい.そして地下
からは,雪を踏み潰す音が聞こえる.深読みかもしれないが警戒し
ておこう.
﹁はぁ.つまり黒幕がいると﹂
言いたくないために遅れたという演技をしながら広路は応えた.
﹁多分な.犯人はどっちも入学したての一年.手口は標的型で,き
っかけの偽メールの文面は去年の正式なものとほぼ同一だってこと
がわかった.てことはどっかで手に入れたんだ.調べた限りじゃ直
近の卒業生に身内はいない.ってことは⋮⋮﹂
﹁二年か三年が関わってるかもだと.それが何故,特殊な古着屋に﹂
﹁駒女は自由服だ.けど,私服の奴はほとんどいない.ここの上に
もある学校洋品店の類で買った偽制服で来てる﹂
188
考える時間が欲しいので横道にそらす.
﹁もしかして,同じ経営者ですか﹂
﹁ああ.カジノの景品交換所みたいなもんだな.定期的に服を替え
られるから他所でもやってる.上で購入証明が貰えるから買い取り
価格が少し上がるんだよ,ここだと.まがい物とうちみたいな本物
でかなり差つくけど,それでも小遣いにはなる.吉原が手を出さな
い分野で,法の網を抜けるから学校の近くでできるし.ただ,神の
手は届くから,需給調整がないと値崩れするのが問題だな.例外は
どこぞにあるオーダーメードコスプレ服屋なんだが,そこ風祭に聞
いたことあるか?﹂
その問いで,広路はこれらの店が井路端傘下である可能性に初め
て気づいた.
⋮⋮やべえ⋮⋮すげえ⋮⋮肉が微かに乗ったこの絶
﹁はい.矢摩も一着持ってます.写真見ますか?﹂
﹁んだと!?
対領域には感謝しかねえ.ありがてえ﹂
考えるべきことが増えて面倒臭くなってきたので先に進める.
﹁それにしても先輩,詳しいですね﹂
﹁需給調整するカルテルのサーバ,今はあたしがホスティングとメ
ンテしてるから﹂
﹁⋮⋮ほげえ﹂
﹁言っとくがあたしは売ってないからな.裏方だからあたしのこと
知らない奴がほとんどだ.野良もいるから完全じゃないが,南の混
沌,目線なしエロ自撮り付き生脱ぎパンツ毛付きでようやく四千円
に比べれば,この辺はだいぶ穏当だよ.もう二十年くらい調整して
るらしいし﹂
援交やJK商売が関東じゃ成り立たないから代替として供給が多
いってことか.
﹁そうですか﹂
﹁おお.で話を戻すとな,共犯者の駒女の一年,さっそく売ってる
んだよ.リボンとソックス,それから駒女の校章刺繍入りハンカチ.
189
需給調整で高値のだけな.なんで売ったのがバレたかは秘密.んで,
この協定情報を見るには参加者の招待が要るんだが,招待者リスト
になかった.招待外が売ること自体は調整範囲に収まるなら良いん
だ.でも,今回は別の問題がある﹂
葦原先輩が秘密にするのはそれが違法行為だった場合なので,広
路は聞かないことにした.
﹁誰が招待せずに教えたか,ですか﹂
﹁そう.ここはその娘の行動圏内じゃないし,事件での行動見る限
り,避けられるほど頭が回る方でもない.買い取り価格はネットに
出ないから,店員か売り手の誰かが教えたと考える方が妥当だ﹂
﹁それで,招待しなかったということは,その候補も招待者以外だ
と﹂
﹁ああ.ざっと探索ツール走らせただけだが,招待済みとその娘の
学内外でやり取りは見つからなかった.犯人と発覚後の陰口大量放
出祭りにも交友関係は見られなかった.掛かったらアラート鳴る設
定なのに未だ無反応.要は高校デビュー失敗ぼっち.そもそもでき
るなら招待すれば問題にならない訳だしな﹂
それにしても,いつの間にこんな調査をしたんだろうか.
﹁もしかして,補習出てなかったんですか?﹂
﹁今はそんな話するな.その娘が売った時の調整は前日に入ったや
つだ.卒業式後の初調整な.金が何に必要だったかはわからんが,
攻撃用文書の情報提供料かもな﹂
他には生活費とか追っかけ費,薬代あたりか.
﹁それを見られた誰かで,一年の娘にそれなりに信用される二年か
三年が件の黒幕と.直接は話つながってないですけど,ありえなく
⋮⋮まさか蜂の巣つつくつもりですか?﹂
は無い話です.それで,何でここなんですか.店員さんに聞き込み
でも?
﹁ご明察.今年度二回目の調整が昨日入った.当分の間うちので売
れるのはスカーフ一点のみ.普段なら抽選だ.それをどっかの誰か
がまた断りなくすぐ売ったらどうなるだろうな﹂
190
﹁漁夫の利とはいかないと思います﹂
手を挟まれるだけでは済まないかもしれない.そもそも黒幕など
いない可能性だって充分にある.
止めた方が良いのだろう.
﹁そこまでは期待しないさ.メッセージが届けばいいんだよ.お前
を追ってるぞってな.つーことで,待っててくれ﹂
そう言いながら,葦原先輩は三つ編みをといて,前髪を垂らし,
後ろはゴムで縛った.広路は鏡代わりにケータイをかざした.
こんな楽しいこと他人にやら
﹁やるにしても,探偵研にやらせちゃダメなんですか﹂
﹁探偵コスプレ研究会が何だって?
せる訳ないだろ.よし,じゃ,逝ってくる﹂
先輩は眼鏡を外した.
﹁待った﹂
止めるだけ止めたが,鐘は鳴ってくれない.
﹁⋮⋮何故ですか?﹂
﹁楽しいから⋮⋮じゃダメだよな.えーと,前にも,あの自動破壊
USBメモリ事件の時,言ったのと同じだ.情報技術をあたしの生
活圏で悪用されるのに耐えられない.違法かどうかじゃなくて,理
不尽なことに使われるのな.行為じゃなく対象を簡潔に言えば,黒
ならやめるよ﹂
幕ってのが嫌いだ.それを殴れる数少ないチャンスなんだよ﹂
後半の言葉に広路は動悸を感じた.
﹁ノリで来たから今さらだけど,頼ったの迷惑か?
動揺したせいで止めきれなかった.何かあったら何とかすればい
いか,と思ってしまった. ﹁無茶しやがって﹂
先輩は敬礼してから覚束ない足取りで階段を降りていった.あれ
南千住A5ビル地階に移動
,
なら写真を見ても生徒会役員以外はすぐに気づかないだろうが,そ
:
ういう問題でもない.
〇六時十分
五分後,蘆原先輩が紅潮した顔で元いた所へ戻って行った.
191
﹁はーっ,緊張した⋮⋮.おい,どこだ?
んかー?﹂
おーい?
﹁前には二百三十メートルくらい誰もいませんよ﹂
びっくりした!﹂
広路は後ろから返事した.
﹁ひぁ!
誰かいませ
この高いよそ行きの声,久しぶりに聞いた気がする.葦原先輩は
興奮した様子で続ける.
たい焼きでも食べようぜ!
高い羽のやつ!﹂
﹁スカーフ,何故かマニア受け度が高評価で買い取り価格が少し上
がったぞ!
これは良い話なのか悪い話なのか.今回は悪い話か.
﹁とりあえずご無事で何より.換えのスカーフは?﹂
﹁今日の今日だから無い!﹂
﹁そんなこともあろうかと﹂
お前な!﹂
売った直後に隠れて買い直したものと目線付き写真を袋のまま渡
す.
﹁は?
﹁逆算できれば先輩が追ってることは伝わるでしょうけど,俺がい
ることも併せられるならその方が圧力は強いはずなので﹂
あと陳列期間が長くなって噂立っても困るし.
﹁ぐっ⋮⋮言える立場じゃないが,せめて一言断われ.売値は?﹂
﹁直後だったので二割値上げされて四千八百円.会の予算から立替
請求しておきます﹂
原価半分弱か.
﹁書類はあたしが書くよ.しっかし,相場は分かっちゃいたが実物
と領収書見るとやっぱ高えな.これのこれだぜ?
安全料とはいえ,これなら西の学校がカルテルありの個人取引に流
れるのも頷ける﹂
これのこれだからな気もする。
﹁スカーフだけなのに意外でした﹂
﹁スカーフ欠品てのがあるからな.制服上着の場合,付属物がない
と一万円近く変わる﹂
192
それもそうか.価格表じっくり見たのが今日初だから気
﹁それだともっと高いんじゃ?﹂
﹁んー?
にしてなかった.双方ともに足元を見ない方が良いっていう経営判
断かねえ.中古屋は在庫が命らしいし﹂
ここで広路は,常人ならざる速さで近づいてくる指比の気配を捉
えた.よくここが分かったな.
﹁どした?﹂
葦原先輩がこちらの様子の変化に気付いた.
﹁待ち人が来ました﹂
そう言った直後,公園の方から小径車に乗った指比が息切れもな
く現れた.さっき五十キロは出てた気がするんだが.
当然と言えば当然だろうが,昨日と違い,指比は制服もどきを着
ている.厚手の黒タイツなのでスカートの中はよく見えなかった.
行動とタイミングから,指比が黒幕ということもありうると広路
知らんがな.可能性は広げておい
は思った.美形で生徒会役員なら知り合ったばかりでもそれなりの
信用は得られるだろう.動機?
た方が後悔しない.作家じゃないから畳まなくても良いし.
指比は自転車を二人の目の前に停め,降りてから会釈をした.
広路はまず指比に葦原先輩を紹介した.浄化とやらをしたなら知
っているはずだが,話の流れを予想するとこの方が良いと判断した.
﹁どうも指比先輩.こちら,うちの学校の先輩で,同じ生徒会で会
計をしている蘆原紅音さんです﹂
蘆原先輩は急におどおどした様子で縮こまり,酔いとも呼べない
かすれた声でぼそりとつぶやく.広路と初めて会った時とほとんど
同じだ.
﹁⋮⋮ども﹂
﹁こんにちは﹂
指比は整った笑顔で挨拶だけした.
こっちは予想通りにすぐ終わった.次は逆だ.
﹁こちら,お隣りの駒女生徒会の書記をしている指比憧子さんです.
193
蘆原先輩と同じ三年生です.バイト先が同じで,今日の現場に案内
してもらう予定でした﹂
﹁初めまして.例の件で交流会がなくなってしまったので,とても
残念です.うちの焼鎌くんがお世話になっています﹂
﹁いえいえ,こちらこそ⋮⋮うちの広路がお世話になっております﹂
驚きの白さ,輝きの光.エンジョイ,エキサイティング.
﹁あれ,どうして名前で呼ばれてるのかな?﹂
この指比の質問は予想外だった.
﹁双子の姉がおりまして﹂
﹁それは知っているけれど,ここにはいないよね?﹂
﹁それはきっかけなだけで,いつもそうですので﹂
﹁なら,私も名前で呼びます﹂
﹁それは別に構いませんが﹂
もう十分だけ待って頂けませんか.諸事情で蘆
﹁では広路くん.お仕事に行きましょう﹂
﹁すぐにですか?
原先輩を送っているところなので﹂
二人乗りが見つからなければ五分を切れるだろうと思い,蘆原先
輩を目で促す.しかし,先輩はこちらに背を向けて言う.
﹁広路.あたし,ここから一人で帰るから.じゃな﹂
﹁え,ちょっと﹂
これも予想外だ.
﹁すぐだし,一目散に走って帰るから大丈夫なはずだ﹂
ちなみに,先輩は自転車に対して﹁不可解﹂という立場なので,
貸す訳にも行かない.
広路は慌てて進行方向を探索する.幸い,ほとんど人がおらず,
いても無害そうな老人だけだった.
﹁ごめんなさい.埋め合わせは必ずしますから.前に危ないのはい
ないので,躓かないように気をつけて﹂
言い終わる前に指比は広路の腕をつかんで連れて行こうとする.
﹁今から駐屯地へ向かう.ついて来きなさい﹂
194
指比は言い終わった後の一歩目で急加速し,南千住駅方面へ向か
う.市ヶ谷なのに直接あるいは地下鉄で行かないとは予想外だ.広
路は辺りに警官がいないことを祈ろうとして,無駄なことに気付き,
それを誤魔化すようにペダルを思いっきり踏んで指比を追った.少
:
南千住駅へ移動
,
しして追いつけたので,辺りを探索しながらケータイで電話する.
〇六時一三分
﹁もしもし,焼鎌広路です﹂
﹁お,なんだ.家なら,もう,目の前,ってか,今,着いた.はあ,
ただいま﹂
﹁そうでしたか.さっきは本当にすみませんでした.また月曜日﹂
﹁はぁはぁ⋮⋮謝ることじゃないだろ.それよりもおかえりってい
えよ﹂
﹁おかえりなさい﹂
﹁お前いまうちにいないじゃん﹂
﹁失礼しました.では﹂
前の指比がペースを上げたので,悪いとは思ったがさっさと通話
を終えてしまう.
﹁広路.南千住駅のそばで停められる場所は知ってるかな?﹂
﹁お寺かお稲荷さんのところなら切符切られないかと.このままま
っすぐで,右側です﹂
最近こっちには来ていなかったのですぐに出てこなかったが,変
化しにくい場所なら大丈夫だろう.もっとも,駐輪場を使えば済む
ことだが,予算の事を考えて触れなかった.
駅の近くへは数分で着いた.今度は予想通り,お稲荷さん側の目
立たないところに停められた.ここなら後で取りに来るのも楽だ.
指比は自転車から降りると,制服もどきのポケットからガムらし
きものを取り出し,噛み始めた.
﹁貴方も要るかな?﹂
至極どうでも良さそうに指比は聞いた.
﹁結構です﹂
195
上野駅へ移動
,
そもそもガムは一枚しか見当たらなかったので断ったが,求めて
いたらどうなっていたのか.
:
﹁さあ,電車に乗って移動だ﹂
〇六時二二分
指比はここでも営団地下鉄ではなく国鉄の駅に向かった.これだ
と日暮里の方まで行かなければならず,乗り換えも増えてやや時間
がかかる.もしかして遅い時間でないといけないのだろうか.広路
の疑問をよそに,指比は何も教えようとせず先を行くだけだ.
常磐線は久しぶりに乗っても混んでいた.成田からのようで,大
型のバッグやスーツケースを持った乗客がちらほら見える.
指比は黙ったまま,全員寝ている優先席の前に立った.広路は隣
に立ち,暇つぶしに家まで探索範囲を伸ばせるか試し始めた.しか
し,電車が発車した途端,バランスを崩したわけでもないのに指比
が彼女のごとく身を寄せてきたため,中断させられた.
﹁何でしょうか?﹂
指比は此方を見ずに小声で聞いてくる.
﹁仕事抜きで聞いてもいいかな?﹂
﹁内容によりますがどうぞ﹂
﹁ああいうの,貴方は望んでいるのかな?﹂
窓の外を見たまま指比は続けた.
ブルセラでのことか.やはり何か関係があるのか.広路は分から
ないふりをして情報を引き出そうとする.
﹁何がでしょうか?﹂
﹁戻れないのに危険地帯に足を踏み入れようとするところ.あるい
は戻ろうとしないところ﹂
指比は整った顔のまま不愉快そうな声で答えた.
﹁そういうのに生まれついたのでないなら,一時的にこういうこと
に関わったとしても,元に戻るべきだと思いますよ,俺は﹂
広路は思っている通りのことをそのまま言った.
﹁こういうこと,か.それは内容次第だ﹂
196
どちらかと言えばそういうのの方が重要だ.
﹁今回はそこまで険しいとは思いませんけど.何かご存じなら教え
て下さると助かります﹂
﹁見つけたものはあるけど,それは仕事の範疇だからできない.そ
れよりも貴方,戻れると思っているのかな?﹂
﹁いいえ.戻るべきだと思っているんです.戻してやりたい﹂
広路は呪詛に紛れて湧き上がる不快感を抑えるために,異なる対
象の話に移した.
﹁⋮⋮何か噛み合わない﹂
原因は分かっている.だが広路は何も言わなかった.別に言った
:
秋葉原駅へ移動
,
ところで何も変わらないと思ったからだ.
〇六時三五分
その後は何の会話もないまま電車を乗り継いでいった.
途中,最後尾付近の車両で,指比がずっと噛んでいたガムを吐き
出して手に取り,そのまま連結部の手すりの下に擦りつけた.広路
市ヶ谷駅へ移動
,
はわざとらしく目を見開いて凝視したが,指比は気にする素振りを
:
全く見せなかった.
〇六時四五分
駅から出ると,指比は近くの小型スーパーに真っ直ぐ向かった.
そして店に入るなり,買い物カゴに野菜ジュース,飲むヨーグルト,
コーヒー,栄養ドリンク,歯磨きガムなどを放り込んでいった.流
れるように見たことのない白い電子マネーカードを使って会計し,
両手に袋を持って駐屯地の方へまた進み出す.
広路は黙って袋の片方を貰い,後をついていった.
駅の近くで待っていた仁志の方はまたハンバーガー屋に陣取った
:
友好会館ビルに移動
,
ようだ.駐屯地の中は近くでないと観察できないのだろうか.
〇六時五〇分
昨日,駐屯地から出てくるのに使ったビルに着いた.指比は施錠
された扉に掌で触れ,何語かわからない言葉を発した.
鍵が開く音がするなど,特に何かが起きた様子はない.しかし,
197
指比はノブをつかみ,こともなげに扉を開いた.
﹁早く入れ﹂
促されて入った先は確かに昨日の建物だった.帰り道の逆を辿っ
て中音の部屋まで向かう.
:
市ヶ谷駐屯地に移動
, 言いつけ通り,ここからは探索なしの気配絶ち状態で進む.
〇六時五五分
指比の後を素直についていくと,昨日と同じ何も掲げられていな
い部屋に着いた.
中音は昨日と同じ服装と昨日よりさらに悪い顔色で二人を出迎え
た.室内には消臭制汗剤の匂いが充満している.
﹁こんにちは,中音指令﹂
そういえば中音の階級はなんだろうか.知っている創作物のキャ
ラからすると,少佐あたりか.
﹁ご苦労.司令などと呼ばなくていい.さて,今回の作戦,作戦名
ルアーは既に始まっている.貴方たちは直ちに装備を揃えて移動を
始めろ﹂
﹁はい.準備し,移動します﹂
指比は買ってきたものを袋ごと部屋に置き,出ていこうとする.
広路はそれに慌ててついていく.見てないとこうなるのが新鮮だ.
部屋から出た指比は,また黙ってロッカールームに向かっていく.
その背は怒っているようには見えなかったが,ポジティブな感情と
も思えない雰囲気だ.
ロッカールームでは,広路は鞄と制服の上着をしまった.ロッカ
ーには鍵をかけたはずなのに目出し帽が入れられていた.取り出し
て指比に見せると頷いた.指比の方はテニスラケットを入れるよう
な鞄を取り出した.
﹁中身は刀,鎖鎌,煙幕﹂
簡潔に説明をし,外へ出ようとする.広路はそれを止める.
﹁その格好でいいんですか?﹂
﹁私の下着が見たいのかな?﹂
198
チャラとマジで少し悩んだが,広路は沈黙を選んだ.
﹁冗談だ.気にするな﹂
:
市ヶ谷駅に移動
,
指比は慌てたようにこちらをしっかり見て言った.
〇七時一五分
:
秋葉原駅に移動
,
先ほどと同じ出口から出て,また駅に向かう.
〇七時二八分
今度も秋葉原駅で東京方面への山手線に乗り換えるようだが,指
比は中音と同じ腕時計を見ながら電車を見送っている.
外回りに乗車
,
できてないならすぐしなさい﹂
仁志は探索できる範囲外にいない.
:
﹁さて,準備はできたかな?
〇七時五ニ分
指比は何本目かの電車に乗り込んでから言った.
よくわからないながらも,広路は軽く体を動かし,目だし帽をす
ぐかぶれるように準備した.覚悟などというものはする気がなかっ
た.鎖鎌を使われた相手とのやり取りをいくつか想定してから,改
めて言い訳を繰り返す.
その内に東京駅を過ぎたが,何かをする様子も起こった様子もな
い.
さらに有楽町駅を過ぎた所で,車内アナウンスが入る.よくわか
らない﹁お客様の安全のための車両点検﹂をするので,品川止まり
何で?﹂
になるそうだ.
﹁あれ?
広路はアナウンスの方ではなく,探索範囲内に例の生物兵器らし
き気配が入ってきたことに驚いた.それは明らかに車内にいて,先
頭車両の方からこちらに近づいてくる.
﹁来たようだな﹂
﹁車内にいきなりですよ﹂
広路は慌てた.有楽町から乗ったのなら範囲内で気づいたはずだ.
あるいは⋮⋮.
広路でなくても,あの外見なら誰でも気が付くだろう.まさか異な
る外見なのか?
199
﹁落ち着きなさい.まだだから﹂
指比には一切の動揺が見られない.
浜松町を出たところで,再度,車両点検により回送電車に変わる
旨の放送が車内とホームに流れる.生物兵器は乗客を避けながらゆ
っくりと近づいてくる.
﹁気配を絶て﹂
指比に引っ張られて連結部に隠れる.そこには指比に付けられた
ガムがあった.
﹁これは餌.ここは針﹂
指比はまた簡潔に説明した.ああ,ルアーってそういう⋮⋮.
品川駅新幹線ホームへ移動
,
品川駅に到着し,ドアが開く.乗っていた人々は何も言わずみな
:
粛々と降りていく.
〇八時〇九分
連結部に隠れて辺りを探る.降りた人とホームにいた人が反対側
へ移動していくのが音だけでもわかる.訓練された乗客たちのおか
げか,車内の方は放送から数秒で運転手と車掌,生物兵器,指比,
そして広路だけになった.
再度放送が入り,ドアは閉まった.生物兵器の方はこちらに来る
のをやめ,座席の下に身を隠しているようだ.異状を察知したのか.
﹁この電車は臨時ホームに向かう.そこで一時的に隔離.すぐに仕
留めて搬出.分かったかな?﹂
指比がようやく段取りを説明した.悪びれる様子は微塵もなかっ
た.
﹁こっちからだと前方,運転手側に追い込む形になりますけど,逃
げられませんか?﹂
﹁近づけば私たちを倒して餌を取りに来ようとする.そこで私が回
り込む.行くぞ﹂
言い切って駆け出した指比を追う.生物兵器のいる一つ前,真ん
中辺りの車両に来たところで指比は鞄から鎖鎌を取り出した.
広路は呼吸を整えつつ指比の前に出て,扉の脇につく.指比が頷
200
くのを見て,扉を開き射線を通す.間髪入れず,指比は鎖鎌の分銅
を放る.
分銅は,座席の下から這い出てきた生物兵器の腕を掠めた.そし
て,指比が手首を捻ると,その腕に鎖が巻き付いた.
鎖を解こうともがいたところで,電車がホームに到着した.揺れ
で生物兵器が左側の座席の方へ寄る.
それを見て,指比は手すりに鎌を巻き付け,鞄から円盤を取り出
す.そして,生物兵器の足元の床に円盤を叩き付けて言う.
﹁目と耳塞げ!﹂
閃光手榴弾,いやセンサー地雷か.
広路は二つの気配を捉えつつ,目を閉じ耳を塞いで背を向けた.
それとほぼ同時に,ドンという破裂音が響き,微かな爆風が背を撫
でる. 指比はその間に右側の座席の下をスライディングで通り抜け,生
物兵器の前へ躍り出た.
忍者だ.いや吸血鬼ハンターだ.
指比は刀を素早く正眼に構えて生物兵器を牽制する.間髪入れず,
生物兵器がこちらを向くより先に,広路は後ろ向きのまま間合いへ
入った.二対一ということもあって今回は大きく余裕が感じられる.
﹁やれ﹂
指比は指示すると同時に,やや大きい動きで鋭い突きを放つ.
間合い良し,言い訳良し.
突きを横にかわした相手のアゴ目掛けて,広路は後ろ蹴りを最大
の速さで放った.
避けてくれたらいいと思っていたが,生物兵器はこれを避けきれ
なかった.蹴りはアゴの下を直撃し,勢い良く頭の向きを変え,ア
ゴと首に骨の折れる嫌な音を奏でさせた.
それだけに留まらず,広路は刈り取るように弧を描いて足を戻し,
今度は反対の足で横蹴りを放つ.
生物兵器は,頭を本来とは真逆に向けた状態で,傀儡人形の操り
201
糸が切れるように膝から崩れ落ちた.
﹁指比先輩﹂
広路は指比に確実なとどめを頼んだ.単に時間あたりの攻撃力不
足を懸念してのことだ.
﹁いや,ここではもう良い.よく出来た.さあ,搬出するよ﹂
指比の合図でドアが開き,外に待機していた男が二人が乗り込ん
でくる.一人は昨日も指比と一緒にいたはずだ.
二人は生物兵器を拘束具付きのごつい担架に乗せ,搬出していっ
た.
﹁ついてきなさい﹂
指比は鎖鎌と地雷の破片を鞄に放り込み,階段の方へ駆け出した.
広路は念の為に車両内に落し物がないか確認してから指比を追っ
た.見たことのない通路を通って駅の地下らしき場所へ出ると,搬
出口近くにトレーラ付きの無地トラックがアイドリング状態で停ま
っていた.先行した二人は生物兵器をトレーラに素早く運んで,そ
のまま乗りこんだ.広路たちもそれに続く.
トレーラ内部は救急車のようになっていて,中央には小型の檻が
ある.中には拘束具とキャスター付きベッドがあって,生物兵器は
そこに固定されていた.天井は何やらよくわからない機材で埋まっ
ており,檻を挟んで厚い壁のそばには収納式の長椅子がある.
広路はこれが昨日近くにあったかを思い出そうとしつつ乗りこん
だ.
指比が手招きしたので隣に座ると,反対側の奥に座った坊主頭の
人がはきはきした声で挨拶してくる.
﹁やあ,短い間だがよろしく.俺は黄野.こっちは青谷.運転手が
桜川だ﹂
青谷さんは軽く会釈をした.
﹁ご挨拶が遅れてすみません.焼鎌です.よろしくお願いします﹂
この距離で握手はできないが,顔付きがもう一般人とは思えない.
﹁皆,傭兵だ.上司でも部下でもない﹂
202
﹁YO!
YO!
HEY!
HEY!
ってハハハ﹂
ってな.
青谷さんが言うべきことを言った.
﹁黙ってろ﹂
黄野さんも言うべきことを言った.
﹁すみません﹂
﹁何故,広路が謝るのかな?﹂
青谷さんはこちらを見て苦笑いした.
:
市ヶ谷駐屯地へ移動
,
トレーラの扉が自動で閉まり,トラックは走り出した.
〇八時二〇分
203
PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n0192cp/
六乂六乂(むかむか)
2016年7月8日20時06分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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