Comments
Description
Transcript
Page 1 Page 2 大分県木浦鉱山開発の起源をたずねて はじめに 本浦
熊本大学学術リポジトリ Kumamoto University Repository System Title 大分県木浦鉱山開発の起源をたずねて Author(s) 野田, 雅之; 福島, 功; 堀, 五郎; 麻生, 昭雄 Citation 熊本地学会誌, 135: 7-10 Issue date 2004-03-19 Type Departmental Bulletin Paper URL http://hdl.handle.net/2298/26981 Right 「研究 大分県木浦鉱山開発の起源をたずねて 野田雅之*’・福島功*2.堀五郎*3・麻生昭雄* はじめに 地質 木浦鉱山は大分・宮崎の県界に近く大分県南 託宣にあったアズキカブからセリバ谷一帯は 海部郡宇目町にある.古くから銀・鉛・錫を産 九州の地質区分では秩父帯南帯にあたり尺間山 出し,その開発は古文書によれば保元2年(豊 層で代表される.従来,木浦鉱山として開発・ 後国誌)とも平安末期(大神氏系図)ともいわ 稼行の対象とされた鉱床は尺間山層の上位に相 れている.木浦鉱山長門町に民宿「梅路」を営 当する南帯床木層の石灰岩と密接に関連して生 む米田寿美氏によれば,木浦集落の北方の山々 成されたスカルン鉱床を主体とするものである の写真を見て祈祷所の歴女から「欽明天皇の御 これに対してこの度の対象地域の尺間山層では 宇に遠江から来た佐藤大膳という鉱山師(代々 石灰岩はなく,砕屑岩起源のホルンフェルスや 襲名)が地元の武平治(代々襲名)の案内でア チャートがほぼ東北東∼西南西の走向を示し, ズキカブ,神事で錫と鉛を採掘した」,また,「貞 北または南に急傾斜する.これらの地層を横切 観7年頃の鉱山跡がセリバ谷の上方に草に埋も って花崩斑岩の岩脈や地層とほぼ平行に走る小 れて眠っている.」という意味の託宣があったと 規模な岩床が発達する.花樹斑岩中にはしばし いう.かりに,これが事実だとすれば今までの ば晶洞に富む石英脈が走る. 古文書による平安末期開発の定説が大きくさか のぼることになる.写真霊視による駆女の託宣 鉱床の旺胎状況 などオカルトの領域は科学とは全く異質の次元 従来,文献上に扱われた木浦鉱山の鉱床はす で,これらを同次元でとらえることはナンセン べて床木層中のスカルン帯のものであって尺間 スであるが,その託宣の内容が事実かどうか科 山層中のものではない.託宣どおりに指示され 学的に検証可能な部分もある.たまたま筆者の た地域にあるとすれば,鉱脈型のものであるこ 一人野田は平安末期鉱山開発にあずかった大神 とが予想される.山の所有者米田実氏の案内 一族の末喬でもあるので祖先の業績を検証する でアズキカブ,神事,セリバ谷の調査を試みた 意味もあって,あえてこの問題に取り組んでみ (2003年7月31日.8月1日,11月8日). セリバ谷に沿って登れば標高450mあたりから ることにした. 造林された杉の落葉の下にズリが認められるよ うになる.その多くは尺間山層を構成するチャ ートかホルンフェルスの角喋であるが,中には グライゼン化した母岩や小さい菊座状の電気石 をちりばめたグライゼン,電気石石英脈を包蔵 した花崩質岩(一部グライゼン化)なども見ら れ,その榊成鉱物や母岩の変質は気成鉱脈であ ることを強く示唆する.セリバ谷の下から向力 って左の小沢に1つ,尾根近くに4つの半ば埋 もれた旧坑口を確認した.なお,ズリを頼りI 写真1正蓮寺より西の山を望む 1:セリバ谷2:神事3:アズキカブ ** 13 大分市深河内5組の2 大分県速見郡日出町川崎成行114 、!今2 叩、 *・1 下から登っていくと斜面に径3∼4mの凹地が 大分市東大道2丁目7−1 ㈱戸高工業社津久見市 上背江川内5783の2 −7− 蕊灘雛撰蕊謝 数ヶ所あり,それより上にズリがないことを考 えあわせると,これらの凹地は坑口の埋もれた 跡であろうと‘思われる.神事の谷からアズキカ ブにかけてズリの中に2∼3cmの透明の水晶 や蛍石を伴う石英脈を包蔵する母岩などが見ら れたが凹地はあるものの坑口は発見できなかっ た.採掘跡の坑道は全くの狸堀りで不規則に分 岐し曲がりくねっているが掘り残した鉱脈のよ うすから石英脈中に賦存する鉱石を採取したら しい.石英脈中にしばしば錫石が賦存しており, 明らかに石英錫鉱脈であり所によっては細脈に 分Il皮して網状鉱床を形成する部分もある. 写真4母岩中で分岐した石英錫鉱脈 電気石が卓越する部分は金属鉱物は少なく,鉱 床としては不毛帯である.神事,セリバ谷から 錫を採掘したという託宣は年代のことをのぞb て調査の結果ほぼ実証することができた.し力 し,この地域から鉛鉱の産出は確認されなかへ た.気成鉱脈では錫石と方鉛鉱とが相互に随伴 することは理論_上不合理である. 写真2半ば埋もれた旧坑口セリバ谷 床屋場(製錬所)跡の確認 セリバ谷を下った所に徳台という台地状の扇 状地がある.神事,アズキカブの水系はセリノ 谷とは尾根1つ距てた異なった水系であるが, 標高350m付近で徳台の扇状地と繋がるやや工 坦な面がある.徳台のすぐ下は中岳川の氾濫原 である.託宣によれば,鉱山師佐藤大膳,金堀 武平治,中国系の製錬技術者金梅仙がこの徳台 に住み,セリバ谷の豊富な水を使って選鉱し錫 や鉛を製錬したという.思うに,セリバ谷,神 キンマミチ 事,アズキカブの採鉱現場から木馬道をそりを 使って鉱石を運びおろし,集積するには徳台は 格好の位置にある.この徳台台地の裾の近くは 傾斜がやや急になっており,厚さ2∼3mの堆 積層の中からおびただしい鉱津や木炭が出土ず 写真3坑内は鉱脈を追って不規則に 掘られた狸掘り る.鉱津には2つのタイプ°があり,Aは板状織 密,13は不定形粗しようでしばしば気泡を含む −8− これは明らかに原材料が異なるか,製錬方法 本研究の対象としては論外である.少量の亜 の相違を反映したものと思われる.さきに米 鉛と鉛の痕跡が認められたことに関して,閃 田氏の依頼により広島造幣局でこれらの鉱津 亜鉛鉱と方鉛鉱はしばしば密接な随伴関係を を分析した結果,珊素と少雛の亜鉛と鉛の痕 示す硫化物である.これに対して錫石は酸化 跡が検出されたという.惜しいことにA,B 物であるのでそれらの製錬にあたっては炉の 2つの鉱津を混合して粉砕したとのこと,検 構造,必要とする温度,投入される媒溶剤な 出されたil素,亜鉛,鉛が何れの鉱津に由来 ど異なるはずで,小規模な専用の炉が使い分 したものかは今のところ確認できない.しか けられていたものと予想される.以上の分析 し,少なくとも剛l素は電気石に含まれる特有 に基づく検証結果とそれから類推される事項 の元素であるので,セリバ谷∼アズキカブの は錫や鉛が徳台で製錬されたという疋女の託 鉱床が電気石を伴う気成の石英錫鉱脈である 宣とよく符合する.ただ,鉛の原料である方 ことを考慮すればこの製錬に使用された鉱石 鉛鉱が何処からもたらされたのか疑問が残る. はセリバ谷∼アズキカブからもたらされたも 筆者の調査不一'一分の反省もあるが鉛・亜鉛鉱 のと断定できよう.最近,囲山のエメリー鉱 床に随伴する脈石鉱物と特有の変質を示す.母 床から電気石の産出が知られているがこの鉱 岩はズリの中からは全く確認されなかった. 床は昭和25年発見,同38年操業であるので 篭 鉱津量 写真5鉱津, −9− 残された問題 その年代は天慶3年(940年)である.大膳の 木浦鉱山開発の起源をどこまで遡れるか.古 呼称は大宝律令の施行(702年)にあたって宮 文書に記された範囲ではそれらの文献をたより 中に大膳職が設けられたのをはじめとする.し に該当場所を探索し,科学的.考古学的に検証 たがって,欽明帝の539年にはその姓も名も存 することもできようが,古文書で遡れる平安末 在は不合理である.ただ,後世この姓名は実在 期,保元2年(1157)より以前はどうなのか, しているし,襲名した事実もあるので,逆に鉱 やみくもに一帯を街樫するよりも,科学的には 山師に佐藤大膳,金堀(採掘技術者)に植木武 オカルトと目される超能力者の託宣の示唆する 平治の姓名を贈ったのかも知れない. 地域に足を踏み入れることも,あるいは無駄を 参考文献 省くことになるのではなかろうか.その結果が 足立富男・岩野庄市朗・皆川鉄雄・山中勉,1999: この度の錫鉱床採掘跡の発見,床屋場跡の発見 大分県産鉱物一覧地学究,47,(3),p.l57-186. に繋がった. 要は欽明天皇の御世539年頃(在位540 571) 景山春樹,1980:日本逆算年表端稿社,京都. 木村高士,1979:三鱗三本杉自費出版. 初代佐藤大膳が西の山(セリバ谷∼アズキカブ) 野田雅之,2000:九州祖母・傾山地における尾平 で鉱石の採掘を始めたこと,奈良時代 型金属鉱床野田雅之編シンポジウム「九州 (708 781)徳台で錫,鉛が製錬されたこと, 祖母・傾山地の地質」大分地質学会誌特別号, 貞観7年頃(860年頃)の旧坑がセリバ谷にあ ること等’絶対年代が特定されていることであ ( 6 ) , p . 5 5 9 6 , p l s . 3 5 . 野田雅之・足立富男,1999:九州尾平鉱床区にお る.これらを検証するにはC14法によるのが最 ける石灰岩に伴う金属鉱床とスカルン鉱物. も有効である.幸い仙祥境の地表から約1mに 野田雅之編西南日本石灰岩についてのシン 木炭の存在が確認されている.これが託宣によ ポジウム大分地質学会誌特別号,(5),p.69-85, る天平元年(729年)焼討ちにあった徳台寺の p i s . 1 3 . 残査とすればその事件の年代が,乾溜炭であれ 野田雅之・佐藤裕一郎,2001:緒方町の地形・地質 ば製錬のため集積された年代が特定される筈で 緒方町誌総論編,p.l-50.緒方町立歴史民族資 ある.また,床屋場の下にある鉱津包含層から 料館編. 出土する乾溜炭は1m以上の層準に分散してい 奥村公男・酒井彰・高橋正樹・宮崎一博・星住英 るために検証される年代に幅のあることが予想 夫,1998:熊田地域の地質.地域地質研究報告,5 される.このことは少なくとも床屋場が稼動し 万分の1地質図幅,99pp.地質調査所,つくば. ていた期間を示す筈である.何れにしても検定 大神氏系図胡麻鶴家蔵. にあたってはかなりの費用が必要で経済的な問 酒井彰・寺岡易司・宮崎一博・星住英夫・坂巻幸 雄,1993:三重町地域の地質,地域地質研究報 題が先立ってくる. 鉱津に2つのタイプが識別されたが,それぞ 告,5万分の1地質図幅,115pp・地質調査所,つ くば. れについての分析が必要となろう. 最後にここで製錬された鉛の原鉱がどこから 酒井博.2001:木浦鉱山史.大分地質学会誌, もたらされたか,さらに探鉱の必要があろう. ※人名についての疑問 ( 7 ) , p . 9 7 l l l . 渡辺澄夫.1990:源平の雄緒方三郎惟栄.199pp. 飛鳥時代の佐藤大膳,奈良時代の植木武平治 という姓名については疑問が多い.佐藤氏は平 山口書店,京都. 米田寿美,2003:大分県宇目町木浦鉱山むかし 安中期平将門を討った藤原秀郷(俵藤太)の孫 物語.224pp,鉱山資料館風民宿鉱山資料館 公修,公清兄弟が佐藤氏の祖先とされており, 梅路,木浦鉱山. −10−