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Page 1 過去と現在をつなぐ旅 アルノ・ズルミンスキの 長編小説
過去と現在をつなぐ旅-アルノ・ズルミンスキの
長編小説『ポルニンケンあるいはあるドイツの恋』
宮内俊至
2002年初頭ギュンタ-・グラスの『あとずさり卦l)が出版された。そしてわずか数週間
で30万部以上を売り,ベストセラーのトップに躍り出た。戦争末期,ドイツの避難民と兵
士たち1万人近くを乗せたナチスドイツの誇る客船ヴイルヘルム・ダストロフがダンツイ
ヒ近郊のゴーテンハーフェンを出港して間もなく,バルト海上においてソ連の潜水艦に撃
沈された。グラスのこの新作は,その史実をもとに東方ドイツ人の運命を描いたノヴェレ
である。『ブリキの太鼓』以来ドイツ人の戦争責任を追及してきたグラスが,この作品で
は被害者もしくは犠牲者としてのドイツ人に焦点を当てたのである。グラスのこの「転向」
は,少なくとも先の大戦に関する限りでは,近年のドイツ社会の精神的傾向を象徴する出
来事であると言えよう。
時を同じくして,週刊誌シュピーゲルが「ドイツ人の逃亡」というタイトルで3回連続
して特集を組んだ。l"さらにそれが8月に特別号(シュピーゲル・スペシャル)として刊行
された。(:り本号・特集号ともに売れ行きは非常によく,かつ反響も常になく大きかったとい
う(41
。これらのことは当のテーマに寄せる関心の高さを物語っているが,注目すべきは,か
って東方から逃れてきた人々だけではなく,彼らの孫ともいうべき若い世代が大いに興味
を懐いていることである。北ボヘミア出身で東欧の専門家であるハンス・レ-ムベルクは
「いま彼らはしきりに彼らの祖父に質問を発している」(5'と述べている。このようなドイ
ツ社会一般における関心の高まりにはいくつかの理由が考えられようが,基本的には,戟
後もすでに半世紀以上経過し,また再統一からも12年経ったいま,自らの悲惨な過去を身
近に引き寄せられる精神的な余裕の生じたことがその根底にあると見ることができよ
う(6)
。'
また日記や記録といったノンフィクションの分野ではすでに多くの作品が出版されてお
り,この3月に国葬の栄誉に浴したマリオン・デーンホフ伯爵夫人の『もう誰も呼ぶこと
のない名前』(7)のように32版を数える古典と呼ぶに相応しい著作から,最近ヴァルター・
ケンポフスキの手によって編まれた大部な日記集『音響測深器距に至るまで枚挙にいと
まがないほどである。一方,グラスの新作のテーマを長編小説でもって展開した作家とし
て,先のシュピーゲル・スペシャルは,アルノ・ズルミンスキ,レオニー・オソフスキ,
ハインツ・G・コンザリクの名を挙げている。娯楽小説家としての名が高いコンザリクを
脇に置けば,残るのはズルミンスキとオソフスキである。オソフスキはシュレ-ジュンの
出身で,いわゆるシュレ-ジュン三部作川で知られる作家であり,ズルミンスキはその文
学活動の出発点ともいうべき最初の長編小説で,まさに東プロイセンの村人たちの悲劇的
な逃避行を描いてみせた作家である。
アルノ・ズルミンスキは1934年に東プロイセンのマズーレン地方の村イェ-クラックで
-121-
新潟大学言語文化研究
生 まれた。父親はマ イス ターの資格 を持つ仕立屋 であった。1
9
45年 3月に両親が ソ連 に抑
留 されたあ と,当時 1
0歳 だったズル ミンスキ は西へ の逃避行 のの ちブ ラ ンデ ンブルクと
947年 に,同郷の出身で シュ レースヴ イヒ ・ホルシュ
テユー リンゲ ンの施設 に収容 され, 1
タインに逃れて きていた,子 どもがすでに 6人い る家族 に引 き取 られた。法律事務所での
962年以降はハ ンブル クに居 を定め,作家兼経済分
見習いや 2年間の カナ ダ滞在 を経て, 1
野の ジャーナ リス トとして活動 している。
ところでズル ミンスキは ドイツで も論 じられることの少 ない作家である。 本格的な研究
u
o
J
知 名度 におい て も同 じ東 方 出身 のギ ュ ン
はむ しろ隣 国 フラ ンス の方 が先行 してい る。
タ一 ・グラスや ジー クフ リー ト ・レンツには遠 く及ば ないが, ドイツではよ く知 られた存
002年 の 1月に南 ドイツ新聞は,読者が よぐ懐
在 と言 って も過言ではない。例 えば,今年 2
4人の人気作家」訪問の記畢 目せ 掲載 しているが,
く質問に直接答 えて もらうとい う形で 「
その 4人 とは, ヴァル ター ・ケ ンポフスキ,ギュ ンタ一 ・クー ネル ト, ジー タフリー ト・
レンツ,アルノ ・ズル ミンスキである。因みに「
仕事 をす るうえで最 も好 ましい環境 は ?」
とい う質問に対 して, ズル ミンスキは 「リンゴの木の下」と答 えている。
ズル ミンスキは主要 な文学作 品 としては, これ まで に長編小説 を 8作 ,短編集 を 5作発
表 している。 本稿が扱 うの は 4番 目の長編小説であるが,それ までの長編 をご く簡単に見
てお きたい。最初の作 品 『ヨケ- ネンあるいは東 プロイセ ンか ら ドイツまで どの くらい走
(
1
2
'
は1
97
4年 に発表 された。東 プロイセ ンの村 ヨケ-ネ ンにおける,1
93
4年か ら1
9
46
るのか 』
年 までの柑 人たちの生活 と運命 を措いた小説であ る。 特 に後半の 3分の 1は もっぱ らソ連
軍 による占領 と村民 の西へ の逃避行 にあて られている。 その点で はこの作 品は 「
犠牲者 と
しての ドイツ人」とい うテーマ に正面切 って取 り組 んだ最初 の小説 と言 えよう。 2番 目の
『クデノーあるいは異郷 の水辺 で泣 く』(13)では,東 プ ロイセ ンか らシュ レー ス ヴ イヒ ・ホ
ルシュタインへ逃れて きた人々 と土地 の人々 との共存 と乳蝶 を措 いて敗戦直後の混乱 を極
める ドイツ社会の一側面 にスポ ッ トを当て,そ して 3番 目の 『
遠 い国あ るいは自由が まだ
持 ちえた時 』(14)では,兵士 と して戦争 を体験 したの ち東 プ ロ イセ ンか ら西 ドイツへ逃れて
きた父親 と,戦争 と ドイツ とい う国その ものに疑 問 を懐 く息子 との間に繰 り広 げ られる世
代 間の衝突 と葛藤 を展 開 してみせ た。以上 3作品に共通す るのは「
東 プロイセ ン」であ り,
さ らに戦争 の犠牲者 となった人々を描 くことによって 「ドイツの戦争」に もメス を入れよ
うとしたこ とである。 そ して本稿が考察の対象 とす る 4番 目の長編小説 『ポルニ ンケ ンあ
るいはある ドイツの恋』
(
1
5
)
で は,前 3作 とは趣 を異 に して,束 プ ロイセ ンか ら西へ 逃れた
人物ではな く,東プロイセ ンはお ろか戦争す らも全 く知 らない戦後生 まれの若者 を主人公
にす え,その若者の 日を通 して東 プロイセ ンの歴 史, もしくは ドイツの歴 史を再認識 し,
同時 に DDRの娘 との恋愛 を通 して東西両 ドイツの関係や政 治状況 にまで踏み込 んだ,い
わば ドイツの過去 と現在 を結ぶ線 を縦軸 にし, ドイツの西 と東 を結ぶ線 を横軸 に した座標
軸上 に冷戦期 における ドイツの位置 を確認 し, さ らにそ こか らあ らまは しき未来の姿 を求
めたのである。
0頁,全 1
5章で構成 されてい る。
『ポルニ ンケ ンあるい はあ る ドイツの恋』はお よそ36
主人公の旅行の 日程 にそって 「
第 1日」か ら 「
第1
3日」まで続 き,次 に 「ある ドイツの恋」
0数頁 とい う群 を抜 いて長い章が来て,最後 に 「そのあ との時」とい う短い
と遺 された,5
章で終 わる。 では,以下 に作 品を考察 してい きたい。
-1
2
2-
過去と現在をつなぐ旅- アルノ・ズルミンスキの長編小説 『
ポルニンケンあるいはあるドイツの恋』
1
9
8
0
年夏 ,西側 諸 国が ボ イ コ ッ トしたモ ス クワオ リンピ ック も終盤 を迎 えた 8月始め,
リューベ ック市職員 イ ンゴ ・マ イェフスキは一人で乗 プ ロイセ ンへ の旅 に出 ようと して い
た。休暇旅行 の 目的地 として東 プロ イセ ンを選 んだ ことには二つ の理 由があ った。一つ は,
親友の シュメ-デ イングが一足早 く休暇旅行 か ら戻 って きて東 プロイセ ンのマズー レンを
「
最後 の楽 園」と絶賛 した こ とであ り,そ して もう一つ は,マ ズー レンが インゴの両親 の
故郷であった こ とにはか な らない。 もっ ともいず れ も旅の動機 としては極 めて希 薄 で,本
来な ら恋人のモー ニ カ とスペ イ ンへ 行 く予定 だったのであ る。 ところが彼女 の同僚が病 気
になったために,彼女 は休 暇 を先送 りせ ざる をえな くなった。 そ こで先ず インゴが一 人で
マズー レンへ 行 き,そのあ と二 人一緒 にスペ イ ンのベ ニ ドルムへ行 くとい う, まるで 「グ
リー ンラ ン ドの氷 山 とコ ンゴの原始林 の組 み合 わせ 」 (8) の ようなプ ラ ンがで きあが っ
たのである。
母親か らよ く聞か されてい た とはい え, イ ンゴに とって国境 の東側 は全 くと言 っていい
ほ ど関心 の対象外 であ った。 生 まれ た時 には国境 はす で に存在 していた し,その向 こう側
には親類縁 者 もい なければ思 い出 も何一つ なか った。彼 の歴 史 は1
9
5
2
年 に リューベ ックで
始 まったのであ り,それ以前 の歴 史,そ して リューベ ックの東側 に広が る土地 には何 の関
0
歳 になったばか りの母親 とは対照 的である。彼女 に とっ
係 もなか った。 そ の点で は彼 は6
て故郷 の村 ポルニ ンケ ンは永遠 の思 い出の地 として消 える こ とな く, オルシュテ ィンは依
然 としてア レンシュ タイ ン, グ ダンスクは ダ ンツ イヒの ままであ り,東 プロイセ ンは彼 女
の中で はい まだ に ドイツの地 で あ る。 また国歌が流 れて くれ ば,その度 に 日に涙 をため,
「ドイツ, ドイツ,世界 に冠 た る ドイツ」 の フ レー ズになる と直立す る とい うように, そ
の意識 は戦前 の ままであ る。 そ れ は 『ヨケ- ネ ン』で 「
彼 らは全員骨 の髄 まで ドイツ国家
1
5
頁) と形 容 された ヨケ- ネ ンの村 人た ち と変 わ る ところはない。 ま
主義者であ った」(
地
た DDRに対 して も,多 くの年 輩者 同様 ,強 烈 な固定観念 に支 配 されてい る。彼女 は 「
上 にまっす ぐ線 が 引か れ,そ の束側 は悪魔 が支 配 し,西 側 は神様が支配 してい る」(
1
5
)
と言 ってはばか らない。一方 , イ ンゴに とっては,母 親か ら聞いたかの地の話で最 も印象
2
6
)で しか な く, また DDR
に残 ってい るの は 「ヴ ァイ クセ ル を流 れ て い く馬 の死体 」(
は敵視 の対 象 にす らな りえず , む しろな きに等 しい存 在 で しか ない。
その DDRと旅 に出た イ ンゴ との最初 の出会 い は象徴 的で あ る。 国境 を越 えて DDRに
入 った イ ンゴの運 転す る
V
Wの カー ラ ジオか ら流 れ 出 したニ ュー スが それであ るO-一つ
は DDRとソ連 との緊密 な関係 を伝 え, DDRが社 会 主義 の 国家 で あ る こ とを先ず確 認 す
ることにな る。
「なお テ レビをご覧 にな る皆様 にお知 らせが あ ります。 今 日日曜 日午後 8時か ら第-
0
周年 に際 しての レオニー ド ・ブ レジネフの訪 問 に スポ ッ トが 当
れ ます。 DDR創立 3
て られ てい ます 。
」(15)
また,次 の西ベ ル リンの男 が 国境 で逮捕 され た とい うニ ュー スは, DDRが体制維持 の た
めに厳 しく国境 を管理 してい る こ とを物語 り,同時 に東西両 ドイツが冷戦構造の最前線 に
位置 してい る とい う現実 を も示 唆 してい る。
-
1
2 3
-
新潟大学言語文化研究
「
DDRの秘密情報機関は 8月 8日に,DDRマ リーエ ンボル ン国境検 問所 においてベ
ル リン (
西)の住民 デ トレフ ・ヴイツテンを現行犯逮捕 した。彼 は犯罪組織 に雇われ
たエージェン トとして DDRの通過区間における破壊活動 に関与 していた。犯行に使
用 された乗用車は押収 された。
」(
1
8
)
インゴは漫然 と聞 き流 しているが, これは国境逃亡者射殺のニュース とともに何度 も繰 り
返 され,のちに生 じる悲劇的な出来事の重要な伏線 となっている。 さらに刻 々とラジオを
通 して伝 え られる各地の集 団農場 の収穫状況報告 な どとあい まって,DDRの大 まかな,
それでいて非常に基本的な姿が提示 されるのである。
マズー レンに着いたインゴはラジオのニュース とい う間接情報ではな く,生身の人間を
通 して DDRの, もしくは東西両 ドイツの現実 を知 ることになる。 彼 はオー トキ ャンプ場
で二組の ドイツ人夫婦 に出会 う。 それぞれイーザ-ロー ンとツヴ イツカウか ら来た夫婦で
ある。 つ ま り西 と東か らやって来てマズー レンで落ち合 っているのだ。夫同士が兄弟で,
一人は東か ら西へ は行 けず, もう一人は束へは行ける ものの,東 にいる兄弟が国家人民軍
に勤務 しているために面会 は許 されない。そこで彼 らは妾 を伴 って年 に一度郷里のマズー
レンで会っているのである。 のちにインゴはイーザ- ロー ンの男か らダンツ イヒでス トラ
イキが起 きたことを知 らされるが, この男 はソ連軍の侵攻 を恐れて直 ちに帰国す ることを
勧める。男 はその理由 として次の ように語 るのだが,それは大戦時の体験が男の体の中に
色あせ ることな く生 き続 けている証拠であ り,同時 にインゴは この ような人物 を通 して「
歴
史」に接す ることになるのである。
「
東プロイセ ンが第二次大戦中 ドイツ全土で最 も多 くの犠牲者 を出 したのをご存 じか
5
万人死んだが,それが最悪 とい うわけではない。東 プロイセ ンでは兵士
な。兵士 は2
よりも民間人の死者の方が多かったのだ。人口の 5分の 1が死んだが,それ もただ逃
げるのが遅れたか らだ。
」(1
1
8
)
イ ンゴは,母親が 「
私たちの村 」と呼んでいるポルニ ンケ ン- 向か う。 現在 はヴイルコ
ヴァというポーラン ド名で呼ばれている。 母親が インゴの衣類 とともにバ ッグにこっそ り
忍ばせた古い地図の余 白には 「ここが私たちの柑」 と書 き込 んである。 彼女 は娘時代の 4
年間を領主の屋敷で働 き,道路管理人 をしていたマイェコフスキの息子 と結婚 した。イン
ゴの草はその祖父が世話 を していた善雄樹 の並木道を通 って母親が 「
お城」 と呼んでいた
かつての領主館 に着 く。 現在 は役所 として使 われてい る。 そ してそこには運命的 とも言え
る出会いが彼 を待 ち受 けていた。その相手は最初,「お城 」の周辺 に広が る緑 の公固の中
に小 さな白い点 として姿 を現す。 インゴは白い犬ではないか と思 うが,やがて白いブラウ
スを着た若い女だとわかる。 白いのはシャツだけではな く,黒い髪の毛 と瞳以外 は,つ ま
り肌 も透けるように白い。小柄で華替 なその娘 は「
夢の ような美女,愛 らしく,柔 らか く,
白 く, まるで前世紀のお姫様」 (
50) の ように見える。
インゴはやがて,写真 を撮 っていた とい うこの小 さな 「
お姫様 」と愛 し合 うようになる
が,その出会いはむ しろ敵対的です らあった。それは彼女が DDRの女性 であ り,インゴ
が BRDの男性であることに起因す る。 蜂蜜 を採 っていた老 人か ら蜂蜜 を買 うことになっ
-1
2
4-
過去と現在をつなぐ旅- アルノ ・ズルミンスキの長編小説 『
ポルニンケンあるいはあるドイツの恋』
た時,老人はイ ンゴの西 ドイツマ ル クは受 け取 って も,娘 の 出 した DDRのマ ル クは拒 否
する。 インゴが彼女 に代 わって西 ドイツマル クで支払 うことを申 し出る と,彼女 はそれ を
強 く拒絶す る。自尊心 を痛 く傷 つ け られたのである。彼女 は 自分の トラバ ン トに乗 って去 っ
てゆ く。の ちに彼女が手紙 で告 白す るように,彼女 は一 日で イ ンゴを気 に入 ったのであ る
が,彼が DDRの娘 をか らかお うと しているのではないか と誤解 していたのであ る。
蜂蜜 を採 っていた老人は名前 をカー ジ ミル といい, ロシアか ら逃 げて きてポルニ ンケ ン
に落ち着 き,すで に人生の半分以上 をこの村 で過 ご してい るポー ラ ン ド人である。 捕虜時
代に覚 えた とい う少 しおか しな ドイツ語 を話す。 この カー ジ ミルが イ ンゴを 「ドイツの歴
史」へ と導 くことになる。 それ もインゴが関心 もなければ殆 ど覚 えることもなか った学校
の 「
歴 史」 とは異 な り,「
過去 の事実
」「過去 の証拠」が,いわば教材 として インゴの 目の
前に提示 される。
カー ジ ミルはかつ ては相 の学校 であった建物 に住 んでい る。老 人は, インゴを昼食 に招
いたあ と,暖炉 の レンガを抜 いて中か ら分厚 い書類 の束 を取 り出す。 それは何 と村 の学校
888
教師 タ-ベ ルの 日記 であった。 タ-ベ ルは母親の昔話 に出て きた人物 である。 日記 は1
年 1月 1日に始 ま り, 1
947年 2月24日に終 わ っている. カー ジ ミルは言 う, この 日記 は年
老いた ドイツ人 に渡すつ も りはない, また 自分の好 きな もの しか読 まない人間に も読 ます
わけにはいか ない と。 そ うではな くて, イ ンゴの ように まだ若 くて歴 史を読み歴史か ら学
ぶことので きる人間に読 んでほ しいのだ と。 しか しイ ンゴは生 々 しい歴史に関わ ることに
抵抗 を覚 える。 彼 には タ-ベ ルの 日記 に書 か れてい る こ とが はるか遠 くに感 じられ るの
だ。
「
何 と遠 く聞 こえるこ とか ! いや, この記憶 の詰 まった針金の篭 は自分には何 の関
」(
71
)
係 もない。
しか しカー ジ ミルはイ ンゴの軽視 しえない 「
歴史の証拠」 をつ きつ ける。 つ ま り,それ
は学校 の教室 だった部屋 の窓台 に刻 まれた昔 の生徒 たちの名前 である。 インゴはその中 に
ゲルハ ル ト ・マ イェフスキ,
す なわち父親の名前 を発見 して思 わず「これはぼ くの父だ !」
と叫ぶ。カー ジ ミルは,ち ょっ と擦 りさえすれば ドイツは どこにで も顔 を出す と言 う。ポー
ラン ドの時代が高 々35年 であ るの に対 して ドイツのそれ は350年 になる と。 とはい え, イ
ンゴは相変 わ らず 自分 は 「ドイ ツの時代 」には関係 ない, 自分 は休暇で来ているだけだ と
述べ る。 しか し,その言葉 を欄笑す るかの ように彼の休暇旅行 を 「ドイツの歴史」が浸 食
してゆ く。 それ はす でに, イ ンゴが両親の住 んでいた家 を見 たい と思 ったことの中に見 て
取 ることがで きる。
「この部屋 の中で父 と母が暮 らしていたのか,
二 人は結婚式 を挙 げたのだろ うか,い っ
74)
たいいつの こ とだったのだ ろ う ?」 (
いつの ことだったのか, とい う疑 問 こそ歴 史へ の関心 にほか な らない。そ して ドイツの
歴史に 目を向ければ,戦争 を避 けて通 ることはで きない。 もちろん結婚式 は行われた。 だ
がすで に戦時 中だ ったため に歌 や踊 りは禁 じられてお り,「
手早 く」済 ませ ねばな らず ,
-
12 5
-
新潟大学言語文化研究
その 6週間後 には新郎に召集令状が届いたのだ。 さ らにインゴの関心 は両親か ら祖父母へ
と過去 を遡 ってゆ く。 彼 は道路管理人をしていた祖父 をこう思い措 く0
「
祖父は前世紀の人間で,プロイセ ン国王が ドイツ皇帝 になった時に生 まれた。その
9
45
年 に彼 は逃亡 を拒 んだ。高齢 を理由にし
一致 を彼 はものす ご く誇 りに していた。1
ていたが,実際はア ンガーブルクに向かって立 ち並ぶ千本の菩提樹, コルシュ ンに向
かって立ち並ぶ千本の樫 の木 を見捨て られなか ったのだろう。 彼がその後 どうなった
0
9
歳,ポー ラン ド民主共和 国で最高齢の人
のかは誰 も知 らない。 もし生 きていれば1
間になっているだろう。
」(
77)
「ドイツの歴史」 と 「白い娘」のためにインゴの中ではモーニカもスペ インも急速に色
あせてゆ く。 いざ絵 はが きを書 こうとして もモーニカへ の言葉が見つか らない。 スペイン
は 「
渦巻 き星雲」が飛 び去 ってゆ くように彼の視界か ら消 えていった。 もっともスペイン
を彼か ら遠 ざけたのは歴史 とい うよりはむ しろまだ名前す ら知 らない娘の方である。 だが
偶然町中で見かけて声 をかけて も,「
人前で話 しかけないで ください」 (
63) と取 りつ く島
もない。そんな彼女 との関係 を急速 に発展 させ るきっかけ となったは,ポルニ ンケ ンにお
ける墓探 しである。 彼女の希望で二人は昔の ドイツ人の墓地へ行 く。 そ こで彼女 は思いが
けないことを言 う。 彼女 はインゴの祖父の名前 を尋ね,彼が 「ダス タフ ・マ イェフスキ,
そ してぼ くはインゴ ・マイェフスキ」と答えると,「
あなたのお祖父 さんは道路管理人だっ
たか しら」と言 う。 またイ ンゴの期待 に反 して自らの名は名乗 らない。 さらに二 人の会話
に政治的な話蔵は持 ち出 さないでほ しい と,これ また意外 なことを言 う。 なぜ な ら 「
私た
ちは互いに異 なった世界 の人間です,転 向させ ようとす るの は不愉快 なだけですか ら」
(
91
) と。 もちろんイ ンゴに異存 はない。それ どころか大歓迎である。 もともと政治的な
問題 には関心がない。 この聡明そ うな DDRの娘 に太刀打 ちで きるはず もない。社会主義
への正 しい道や資本主義の没落の不可避性 について彼女 と議論す るには余 りにも知識に乏
しいことをインゴは自覚せ ざるをえない。その 日の夜,彼 はキャンプ場 を出て祖父の家で
寝 る。頭の中に去来す るのは祖父や祖母,父 と母,そ して彼 らのポルニ ンケ ンでの生活で
ある。 彼 は湖で泳 ぎ, きれいな空気 を吸 うためにやって来たのに,至 る ところに過去への
道標が立っていることを思 い知 らされたのである。
翌 日は領主の墓地へ行 く。娘 はそ こで 自分が領主の娘であることを告 白 し,フォン ・ザラウ家の歴史を次の ように語 る。
「
私の家は3
0
0年続 いた家系 を とて も誇 りに していたわ。 この辺 りは3
0年戦争のあ と
ペス トが猛威 を振 るって,その荒廃 した土地 に また再 び人 を住 まわす ため に西 ヨー
ロッパ中か ら移住者 を募 ったの。ザ-ラウ家 はヴェス トファー レンのオスナブ リュッ
ク周辺の出で,独 自の紋章 を持 った,古 くか らの由緒ある貴族だったの よ。 ポルニ ン
0
0
年 もの間彼 らの領地 だったの。1
9
45
年 に終 わった時,私の父が最後の領主
ケ ンは3
」(
1
1
2
)
だったの。
彼女 は 「イレ-ネ ・フォン ・ザ-ラウ」 と刻 まれた墓石 を見つ ける。 それは彼女の曾祖
-
2
6
-
1
過去と現在をつなぐ旅- アルノ ・ズルミンスキの長編小説 『
ポルニンケンあるいはあるドイツの恋』
母の墓で,彼女 はこの曾祖母か ら名前 を もらった とい う. す なわちイ レ- ネ。 ここで初 め
てインゴは彼女 の名前 を知 る。 イ ンゴは これ とい った関心 も目的 もな くポ ルニ ンケ ンに
やって来たが,その点ではイ レ- ネ も大差 ない。彼女 は イェ-ナの学校教師で,同僚 た ち
と 「
社会主義 はポー ラ ン ドを どの ように変 えたか」とい うテーマの研究旅行で来ていた。
従って本来単独 行動 が許 され ないため,「
両親 の出た相 を見つ け,そ こが社 会主義 ポー ラ
ン ドにおいて どの ように発展 したのか を調査 したい」 とい う口実 を設 けてポルニ ンケ ンを
訪れていた。 もっ とも少 しばか り相 を見てみ るつ も りが, イ ンゴ同様,至 る ところに 「
接
。
以前 は 自分 の両親 の所 有
点」 を発見 して しまい,村 に吸 い寄せ られていったので あ る 「
11
5) と彼女 は言 う。 しか しな
だった石や壁や木 を見 る と, どうして も考 えて しまうの」(
が ら,それは単 なる思 い入れや感傷 ではな く, もっ と複雑 な感情 を ともなう。 社会主義 の
もとで成長 し,いわばその思想 や体制 を支 える役割 を担 わ され る教 員 となった彼女 に して
みれば,領主や貴族 とい うあ り方その ものに疑問 を懐 か ざるをえない。そ こに葛藤が生 じ
る。 彼女 はイ ンゴに問 う。
「
馬車 を乗 り回 した り馬 の背 に またが った り,人か らご主人梯 とか奥様 とが 呼ばれ た
11
5)
りした ら,それだけで もう罪 になるん じゃないか しら ?」(
一方 インゴはイ レ-ネが教員 であ る と知 って シ ョックを受 ける。 彼 はイレ-ネか ら借 り
9
8
0
年 8月1
3日のその新 聞には, 1
9
6
1
年 8月1
3日の
たノイエス ・ドイチュラ ン トを読 む。1
「
壁」の構築 に関す る記事 が載 っている
それは確か に ドイツ語で書 かれている ものの,
。
その内容 は遠 い国の ことの ように感 じられる。 と同時 に, リューベ ックとイェ-ナの間 に
は壁以上の ものが横 たわってい ることを理解する。 さらに, どうして彼女が政治的 な話題
。「政治 は感情 を殺せ る ことを,友情 を引 き裂
を避け ようとしたのか も理解 す るのであ る
くことを,家族 を分裂 させ る こ とを,温 も りよ りも冷た さを広 げることを,彼女 は とっ く
」(
1
4
0
)
に知っていたのだ。
インゴの旅の 8日目は彼 に とって, またイ レ- ネに とって も,記念すべ き日となる。 余
りの暑 さに二人は泳 ぎにい くこ とにす る。 カージ ミルが地 図 を広 げ る。 それは何 と 「
一学
年 と二学年用の東 プロイセ ン郷 土地 図」であ り,ハーケ ンクロイツも書 き込 まれている。
カー ジ ミルはその地図 を ドイツ人な ら誰 にで も見せ るわけで はない と言 う。 なぜ な ら, こ
こにや って来 る ドイツ人はたいていが老 いた人た ちであ り,ハーケ ンクロイツが存在 した
時代 に身につけた思考方式か ら抜 け られないか らであ る。 彼 らは ドイツ時代の方がず っ と
美 しく清潔 だった と思 い込 んで いる。 一方ポーラ ン ド人 は, ドイツ人が来れば,その ドイ
ツ人はポー ラン ド人 を殺 しただ ろ うか と考 える し,大声 で 「
ハ イル」と叫んだのか,それ
とも穏やか に 「グーテ ンター ク」と言 ったのか と考 える
。
老 いた ドイツ人 と老いたポー ラ
ン ド人はそれほ どに異 なってい る。 だか ら彼 らが死 んで しま うまでは別 々の道 を行 った 方
がいい。そのあ とには新 しい, よ りよい考 えを持 てる人 々のための場所がで きるだろ うL
l
そ うカージ ミルは 自らの考 えを披涯す る。
さて二人 はポルニ ンケ ンか ら1
0キ ロほ ど離 れた湖へ行 く。 その岸辺 は,流れ込んでい る
川に因んで, ドイツ時代 には 「
愛の岸辺」 と呼ばれていた とい う。 イレ- ネは初めて イン
ゴの
V
Wに乗 る
。
イ ンゴは DDRの人間が西側の車 に乗 っていい ものか と自問す る。 ポー
-
1
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ラン ド人, ロシア人, フランス人,イギ リス人だった ら何 とも思わないのに どうしてだろ
うと不思議 に思 うのだ。 ここには,同 じ ドイツ人であ りなが ら異 なる思想の もとに異なる
道 を行 くことへの疑問が素朴 な形で表現 されていると同時に,イレ-ネ との距離 をいまだ
に計 りかねているインゴの心理状況が表 されている。だが,
泳 ぐために服 を脱いだ彼 らは,
水 には入 らずに岸辺の草 の上 で愛 し合 うことになる。 そ して彼 らは 自分 た ちをロ ミオと
ジュリエ ッ トになぞ らえる。 どうして昔のラブス トー リーは悲劇 に終わるのだろうとイン
ゴが問 うと,イレ-ネは,ハ ッピーエ ン ドはハ リウッ ドで発 明されたか らだ と答 える。 イ
ンゴが二人の愛は悲劇 に終 わ らせてはいけない と言 うと,イ レ-ネの顔か ら明るさが消え
る。 DDRの市民であ り教 師であるイ レ-ネは,西 ドイツの若者 との愛 の不可能性 を十分
過 ぎるほ どにわかっていたのである。
ち ょっと擦れば ドイツの歴史は どこにで も顔 を出す というカー ジ ミルの言葉 どお り,そ
してまた,至 るところに過去への道標が立っているとインゴが思 ったように,イレ-ネが
村の氷室へ行ってみたい と言 った時に も歴史が姿 を現す。戦争中,湖の氷 を割 って氷室へ
運び込むのは捕虜の仕事 だった。 カージ ミルがその仕事 に就か されたのは捕虜 になった最
初の冬だけで,その次の冬 はフランス人捕虜が氷 を割 り,そのあ とはもっぱ らロシア人捕
虜の仕事 になった。ある時 ロシア人捕虜の一 人が湖面 に開けた穴 に誤 って落 ちて しまっ
た。 仲間が助 け上げて小屋 のス トーブのかたわ らに寝かせたが,肺炎を起 こ して死んだ。
1
9
43年 1月26日のことだった とい う。 カージミルは年月 日まで記憶 している。 そ してその
ロシア人が戦争中ポルニ ンケ ンで死んだ唯一の捕虜であった。仲 間は彼 の遺体 を街道脇の
ジャガイモ畑 に埋葬 し,夏 になると毎晩仕事か らの帰途その墓 に立 ち寄 っては歌 をうたっ
た。す ると ドイツ人たちは外 に出て耳 を傾けるのだった。 なぜ な ら, ロシア人捕虜たちの
その歌声 こそ,戦争 中のポルニ ンケンにあって最 も美 しい ものだったか らである。 こうし
てカージ ミルによって再現 された 「
歴史」で もって,「
公式 の歴史」か らは想像 もで きな
い捕虜 と ドイツ人 との触 れ合 いのあった ことが明 らか にされ,「ソビエ トの捕虜の半分は
ファシス トに殺 された と思 っていた」 (
16
3) と驚 きを隠せ ないイ レ-ネの,DDRの教育
によって形成 された 「
歴史」が正 されたのである。
二人がポルニ ンケ ンで遭遇す るのは 「
過去の道標 」にとどまらず 「
過去その もの」でも
ある。 彼 らは相前後 して二組の老いた ドイツ人夫婦 と出会 う。両者 ともカージ ミルの言 う
昔の ドイツ人である。 それ どころか,「
愛 の岸辺」 に続 く湖畔 を歩いていて出会 った夫婦
は19
45年でそのまま時間が止 まって しまったかの ような, まるで化石の ような ドイツ人で
ある。 彼 らは戦後ず っと湖畔の一軒家 に住んでいる。 話す言葉は, リューベ ックのある女
性たちの話す言葉,すなわち束 プロイセ ンの方言である。部屋 には1
9
45年のカレンダーが
かかっている。 彼 らはポー ラ ン ドでの生活に も飽 きたのでそろそろ ドイツへ帰 ろうと思っ
ている。 イ ンゴが DDRかそれ とも西 ドイツか と尋ね ると, どち らで もいい と答 え,重要
なのは ドイツであることだ と述べ る。 彼 らは情報か ら隔絶 された状態で暮 らしてお り,秦
は ドイツが分割 されたことも知 らず,多少は事情 を理解 してい る夫 も, ドイツは半分がロ
シア,そ して もう半分がアメリカの占領下にある と思 っている。それに もかかわ らず彼の
頭の中には 「
古 き良 き ドイツ」が存在 してお り,彼 ら自身 も 「
良 き ドイツ人」だ と信 じて
疑わない。「われわれはいつ だって良 き ドイツ人だった」し 「ドイツ人であ ることを隠 し
たこともなかった」 と夫は言い,妾 も 「ドイツ人 は心 を持 っているわ,善良な人たちです
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過去と現在をつなぐ旅- アルノ ・ズルミンスキの長編小説 『
ポルニンケンあるいはあるドイツの恋』
よ, この世界に ドイツ人ほ ど善良な人々はい ませ ん よ」(
1
6
2
)と主張 し,その価値観 が「世
界に冠 たる ドイツ」と通底 している ことをあ らわにす るのである。
次 に二 人は氷室か らの帰途西 ドイツ車 に乗 った老夫婦 に道 を尋 ね られる。夫はかつて ド
イツ兵 としてポルニ ンケ ンの高射砲 陣地 に配属 されていた とい う。彼 らはその跡地 を探 す
ためにや って来たのである。 そ して彼 らは,湖畔の夫婦 同様,口を揃 えて 「
古 き良 き ドイ
ツ」 を絶賛 し,現在 のポー ラ ン ドを批判す る。
「
畑 は雑草 だ らけで,ポー ラ ン ドが飢 えるの ももっ ともだ。 [
-弓 昔 は ドイツが どこ
で終 わ り,ポー ラン ドが どこで始 まるのか はっき りしていた。東へ行 くにつれて汚 く
なった ものだ, シラ ミは言 うまで もない。
」(
1
67)
さらに夫 は,ヒ トラーがユ ダヤ人に手 を出 した りしなけれ ば,ここはい まだって ドイツだ っ
たはず だ,アメ リカを敵 に回 したのが敗 因だ, と主張す る。 彼の頭 の中には戦争 の是非や
責任 を問 う視点 は微塵 もな く,勝 ち負けだけが関心事 と して存在 し続 けている。 また妻 も
ポーラ ン ドで価値 のある もの は琉輯 だけだ と述べ て,ポー ラ ン ドへの偏見 を隠さない. こ
9
4
5
年で止 まって しまっている。 イ ンゴの 「ぼ くたち もああなるのだ
の夫婦の時間 もまた 1
ろうか。3
5
年後 に昔 の高射砲 陣地 を探すのだろ うか」(
1
7
0
)とい う問いに, イレ-ネは「決
して」と答 える。 若 い二 人 は こ う して 「
1
9
4
5
年」 に直面 した こ とに よって, 「
1
9
4
5
年」に
なることのない 自己 を確 認 しえたのである。
イ レ- ネは町 中の ホテル を出て イ ンゴのテ ン トに引 っ越 して くる。 彼 女の接近 は DDR
の BRDへ の接近 と見 ることもで きる。異 質 な両者が近づ くこ とでお互 いの欠陥が明瞭 に
なるのである。 イ レ-ネが イェ-ナの地図 を広 げて市内の説 明 を した際, インゴをヴァイ
マールへ も連れてい きたい し, プ-へ ンヴ ァル トの KZも見せ たい と言 う。 インゴは もち
ろんブ-ヘ ンヴ ァル トの こ とは聞いていた。 だが漠然 とアウシュヴ ィッツと トレプ リンカ
の問にある もの と思 っていたのであ り, まさか ゲーテにゆか りの ヴァイマール近郊 にあ る
とは思 って もみ なか ったのであ る。 それ故,KZを訪 れ た こ とはあるか とい うイ レ- ネの
質問には困惑す るばか りであ る。 ベ ルゲ ンーベ ルゼ ンは リューベ ックか らそ う遠 くは な
かった し, ノイエ ンガメは もっ と近 かったはず だ。 こう して インゴは KZに対す る無知 と
無関心 をさ らけだす のである。 彼 は戦後生 まれの西 ドイツの平均的な若者である。 市役所
に務めてい る とい うことか らす れば,知的 レベ ルは比較 的高 い と見 ることがで きよう。 そ
れで も KZにつ いて知 る ところは極 めて乏 しか った。つ ま り,著者 は こうしたイ ンゴの姿
で もって西 ドイツの歴史教育 の欠陥 を指摘 しようとしたのであろ う。
カー ジ ミルは歴 史の語 り部 である とともに, イデオロギー に くもらされていない 目で事
物の本質 を見 る ことがで き,かつ人 間の良心 を信 じるこ とので きる人物である。 従 って彼
は, イ ンゴとイ レ- ネが愛 し合 っている以上,た とえお互 いの国の政治体制が異 なろ う と
ち,結婚す るべ きである と言 う。 どうして ドイツの男が ドイツの娘 と結婚 してはいけない
のか,若い人たちが愛 し合 い結婚す るの を禁 じられ る国は どこに もない, と彼 は 「
真理」
を述べ る。 彼 には,DDRの国境 逃亡者 は射殺 され る とい うことが信 じられない。
「もし人が無 断で国境 を越 えようとした ら,国境警備兵 は どうす るのかね ?」
-1
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新潟大学言語文化研究
「
彼 らは撃つ さ, カー ジ ミル」
「しか し, まさか 当て た りはせ んだ ろ う」
「いや ,当てる さ」 (
188)
カー ジ ミル は 「
壁 」 を築 い たのが ドイ ツ人で あ る と も思 って い ない。 「
壁」 は,戦争 を起
こ した ドイツ人 を罰す るた め にア メ リカ とソ連が造 った と思 って い る。 だか ら, どうして
ドイツ人が 同 じ ドイツ人 を撃つ のか理 解 で きない。 この カー ジ ミル に対 して イ ンゴ とイ
レ- ネは異 なった反応 を示 す。 イ ンゴは生 まれて初 め て 自分 が ドイツ人であ るこ とを恥ず
か しく思 う。 つ ま り彼 は, なぜ ドイツ人 は,壁 を越 え よう と してい る人間 を射殺 す ること
は立派 な仕 事 だ と信 じて疑 わ ない犬 の ように調教 され て しまったのか と疑 問 に思 わず には
い られ ない。一方 イ レ- ネは, 自分 の属す る国が批判 された と感 じて次 の ように反論 し,
また再 びホテ ルへ戻 って しまうのであ る。
「
DDR は私 の国です 。一 度 として私 は地獄 や牢獄 で暮 ら してい る とい う気持 ちになっ
た ことはあ りませ ん。 生 まれて このかたず っ と過 ご して きた国です 。す ぼ ら しい こと
」(
189)
もた くさんあ りま した。私 はそ この人間です。 そ こが私 の家 なのです 。
第 9日は フ ォン ・ザ - ラウ家 の歴 史が 明 らか に され る 日で あ る。 前 日気 を悪 くしてホテ
ルへ戻 って しまった イ レ- ネが うか ない顔 を して現 れ , 「よ くない こ とが起 きた」と言 う
。
同僚 た ちが彼 女 を置 き去 りに して帰 国 して しまったので あ る。 そ こには もち ろん,単独行
動 を とるイ レ- ネに対 す る非難が含 まれてい るの だが ,突然 の帰 国 には何 か政治 的な理由
が あ り,それ は現在 ポー ラ ン ドで起 きているス トライキか も しれ ない と彼 らは想像す る。
ともか く二 人 はカー ジ ミルの案 内で昔 の領主館 に入 る。 カー ジ ミルは案 内 しつつ領主の
妾 と二 人の子 どもの運命 を語 る。 ソ連 軍 の侵攻 を受 けての逃 避行 か ら,娘が銃弾 に当たっ
て負傷 したため,再 びポルニ ンケ ンに舞 い戻 った母子 は空 き家 になって いた平民 の家 に住
む。 しか し連 日ロシア兵 の慰 み に され る こ とに耐 え られ な くなった彼女 は,領主館 に居住
していた ソ連軍司令 官 ゲオ ルギー に懇願 して彼 の庇護 を受 け る。 ゲ オルギー は彼 女 を愛 し
大切 に扱 うが,彼 の留 守 中 に彼女 は秘密警察 に連行 され て しまう。 ゲオルギー は彼女 を取
り戻すべ くス ター リンに手紙 を善 くが ,彼 も召喚 に応 じて出か けた まま二 度 と戻 らなかっ
た。あ とに残 された二 人の子 どもた ちは,面倒 を見 て くれ る者 もな く,い まイ レ- ネが立 っ
てい る小部屋 で死 んだので あ る。 イ レ- ネは涙 を流 し,それ を許 る カー ジ ミルに イ ンゴは
事情 を説 明す る。 イ レ- ネは,姉 と兄 は ジフテ リアで死 んだ と母 親か ら聞か され ていた。
イ レ- ネは 「
母 は よ く東方 の こ とを話 して くれた けれ ど,いつ もこんな気が していたの。
それ は母 の話が 自分 の都 合 のいい ように案配 され てい て,語 るこ とので きない部分 は隠さ
れてい るので はないか と。 だか ら自分 の 目で確 か めた くて こ こに来 たの」 (
21
7) と語 る。
母親 は現在 イ レ- ネ とともに イェ-ナ に住 んでい る とい う。 母 親 はアス トラハ ンの ラーゲ
リの こ とと, 1
9
49年 に DDR に送 り返 された こ とは よ く話 して くれ たが , しか し1
9
45年の
あの夏 の こ とは記憶 か ら消 して しまって い たの で あ る。 そ して 1
951
年 に イ レ- ネの父親
リュ-デ イガ-が帰還す る。彼 は最初西側 に釈放 され たのだが,妻 が イェ-ナ にい る と知 っ
て DDR に移住 したのであ る。 その 2年 後 に イ レ- ネが生 まれ る。 6月1
7日の民 衆蜂起の
-1
3
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過去と現在をつなぐ旅- アルノ ・ズルミンスキの長編小説 『
ポルニンケンあるいはあるドイツの恋』
ために予定 よ りも 3週 間早 く。 こう して イ レ- ネの歴 史の暗部 もまたポルニ ンケ ンに来 た
ことに よって明 らか に され た。 「
歴 史の暗部」 とはす なわ ち 「ドイツ人の迫害」であ り,
暗部」 にほか な らない
著者ズル ミンスキが 『ヨケ- ネ ン』以来光 を当て ようとして きた 「
のである。
しか しなが ら 「ドイツ人の歴 史」 だけを明 らか に して も歴 史の真実 は見えてこない。 そ
れには表裏の関係 にある 「ポー ラ ン ド人の歴 史」を欠 くこ とはで きない。そ こで ズル ミン
スキはカー ジ ミルを して次の ように語 らせ る。
「
東部のポー ラ ン ド人ほ ど半生 の間にあち こち動か された人たちを私 は知 らない。始
ま りは第一次大戦 だった。 当時乗 ポー ラ ン ドはロシア皇帝の領土 だったが,戦争が起
きると ドイツ人がや って来て戦争が終 わるまで帰 らなか った。その後ポーラ ン ドは独
立 し,乗 ポー ラ ン ドもポー ラ ン ドに入 った。1
92
0年 ピウスッキ元帥は大国ソビエ トか
ら土地 を奪お うと して勇躍東へ 軍 を進めた。だが うま くいか なかった。軍勢は撤退 し,
敵 は東ポー ラ ン ドを通過 して ワルシャワに迫 った。 そ こでポーラ ン ド軍 は奇跡 的 に も
ヴ ァイクセルの戦闘で赤軍 を打 ち破 った。 また再 び戦争 は何 もか も巻 き込み なが ら東
ポー ラ ン ドを通 って戻 っていった。 その後 は しば ら く,第二次大戦が始 まるまでは平
穏 な状態が続 いた。 しか し1
939年 にや って来たのは ドイツ人ではな く,赤軍だった。
彼 らは東 ポー ラ ン ドに攻 め入 ってそ こを ソビエ トに した。 2年後 には もう ドイツが ソ
ビエ トと戦争 を始め,初 めて ドイツ軍が乗 ポー ラ ン ドに入 った。再び戦争は前進後退
を繰 り返 し,鶏や人間や必要 な もの を奪 った。3年 にわた って昼 は ドイツ軍が支配 し,
夜 はパ ルチザ ンが支配 した。やがて戦争 は戻 って きて また必要 な もの を奪 った。東 ポー
ラン ドはソビエ トの手 に落 ちた。それで人間は ? この休 まることのない年月,い っ
たい彼 らは どうだったのだろ うか。そ う, なぜ神 は彼 らに足 を与 えたのだろ うか。彼
らは歩 くこ とが で きたのだ。東部のポー ラン ド人ほ ど30年の間にあちこち歩 き回った
者 はいない。土地 だけは,土地 は歩 けなか ったのだ, じっ としている しかなかったの
」(
2
21
)
だ。
従って現在ポー ラ ン ドに住 んでい るポー ラ ン ド人の多 くもまたウクライナや リ トアニアや
白ロシアか ら移住 して きたの だ とい う。 お よそ200万 人のポー ラ ン ド人が東部か ら追 い出
されて きた。 そ して この東か らや って来たポー ラ ン ド人の万が,東 を碓れた ドイツ人 よ り
も過酷 な体験 を余儀 な くされたのだ, とカー ジ ミルは主張す る。 彼 は また,戦後のポー ラ
ン ド人の外か らは窺 い知れ ない ドイツ人に対す る恐怖心 に も言及す る。 つ ま り,彼 らは長
い間,ドイツ人が 自分たちを追 い出す ためにまた戻 って くるのではないか,あるいは また,
戦車の代 わ りに強いマ ルクを手 に して家や土地 を買い戻 しに くるので はないか と恐 れてい
たのである。 こうして カー ジ ミルは ドイツ人の思い も寄 らない ドイツ人に対す るポー ラ ン
ド人の恐怖 を若い ドイツ人に教 えるのであ る。
もっ ともカー ジ ミル 自身 もあ ちこち歩か されたポー ラ ン ド人の一人である。 ドイツ軍 の
捕虜 にな り,家 を焼 かれ,家族 をすべ て失 った とい う過去 を持 ってい る。 彼 の村 は19
44年
に ドイツ軍 に よって焼かれた。パ ルチザ ンに加 わっていた旧友が ドイツの列車 を爆破 し,
ドイツ軍 はその報復 として村 を焼 いたのである。 カー ジ ミルは旧友の行為 を正当祝 してい
-
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たが,現在 は違 う。 彼 はい までは殺害や破壊 を正 当化 で きる ものは何一つ ない と考えてい
る。 イレ- ネは彼の 「
昔話 」に対 して, どうしていつ もそ こへ行 って しまうのか と異議を
唱えるが,彼 は,それはポルニ ンケ ンで起 きたことだか らであ り,今 日起 きたことは,昨
冒,一昨 日に起 きたことと関連があるのだ と答える。 二人の若い ドイツ人がポルニ ンケン
に迷い込んだこと, ダンツイヒで労働者たちが記念碑 を建て ようとしていること,それ ら
はすべて決 して終わろうとしない歴史 とつながってい るだ と述べ て,歴史の持つ連続性 と
因果律 を強調す るのである。
第1
1日は二人がポルニ ンケ ンを離れる 日である。 カージ ミルは彼 らに教師 タ-ベルの日
記 を渡そ うとす る。 それ を読んで本 を書いてほ しい というのだ。 いわゆる歴史上の 「
偉大
な」人物ではな く,ご く普通の人々について書いてほ しい という。 しか しインゴはそのよ
うな文書 を持 って国境 を越 えることはで きないとして断る。 因みに,このカージ ミルの願
庶民の歴史」 を描いて きたズル ミンスキの小説家 としての基
いには 『ヨケ-ネン』以来 「
本的なス タンスが現れていると見 ることがで きるであろう。
ポルニ ンケ ンを出た
V
Wと トラバ ン トは一路 ダンツイヒ- と向か う
。
市 内に入った二
人は レーニ ン造船所 での厳然 とした状況 を目の当た りに してそれぞれ異 なった反応 を示
す。 インゴは偶然歴史的現場 に居合わせ た幸運 を喜 び,一方 DDRにおいて思想 的に純粋
不合理 な混合」は礼
培養 されたイレ-ネは 「
礼拝 と労働の不合理 な混合」 と見る。 その 「
会主義 を揺 るがす恐怖 に通 じる。 彼女 は自らのうちに生 じたいわれなき恐怖 を打 ち消そう
とするかの ように,DDRでは「ス ト,デモ,騒乱,ガラスを割 られたシ ョー ウイン ドー,
バ リケー ド,その ような もの」 はあ りえない として彼女 の 「まともな」DDRを 「
熱っぽ
く」擁護する。イ ンゴはそんなイレ-ネを愛 らしく思い,「
今 日の君 はとて もきれいだよ」
と言 う一方で「
で も一度あった じゃないか,君が生 まれた時に」(
250)と皮肉を放つ。 もっ
とも言った とたんに後悔す る。彼 にして も二人で過 ごす最後の 日に喧嘩す るつ もりはない
のだ。
この 日彼 らにはさらに注 目すべ き出会 いが用意 されてい る。相手 の一人 はポー ラン ド
人, もう一人は ドイツ人である。 両者 は ドイツ ・ポーラン ド関係 についてイ ンゴにとって
は想像す らで きなか った視点 を与 えることになる。 イ ンゴは ダンツイヒで初老の男 を車に
乗せてや る。 文学の教授 だった とい う,そ して ドイツ語 を流暢 に話すその男の案内で市外
へ 出るのだが,男は意外 なことに,東 プロイセ ンがポー ラン ドの土地だった ことは一度 も
なかった,つ ま りドイツ人はそ こをポーラン ドか ら奪 ったのではな くて土着のブルッツェ
ンか ら奪ったのだ と言い出す。 インゴは,男が車 に乗せ て もらったので ドイツ人に口当た
りのいいことを言っているのではないか と疑 うが,男 はそれ を否定 して 自説 を滑 々と展開
す る。 すなわち, ソビエ トによる東部地域か らのポー ラン ド人追放がそ もそ もの原因であ
るか ら,ポーラン ド西部 は再 び ドイツに返還すべ きであ り, また ヨーロ ッパ は一つになる
べ きであるが,そのためにはポー ラン ドと ドイツが融和 しな くてはな らず,融和 は嘘の上
には成 り立たないか ら,歴史か ら虚偽,見せかけの真実,誇張 を削除 してい く必要がある,
と述べ たうえで次のように締め くくる。
「こうして歴史書か ら年 々誤 りが な くなってい き,やがて この浄化作業が完了すれ
ば,われわれすべ ての者が ヨー ロ ッパの歴 史 を,頂点 も恐 ろ しい逸脱 も,アウシュ
-
1
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過去と現在をつなぐ旅-
アルノ ・ズルミンスキの長編小説 『
ポルこンケンあるいはあるドイツの恋』
ヴイツツ も,そ うアウシュ ヴィッツす らもすべ てひっ くるめてわれわれの共通の歴 史
」(
2
5
5
)
として受 け入れ ることになるのです 。
もう一人 は,荷物 を満載 した
V
Wトラ ンスポー ター に乗 る初老 の ドイツ人であ る
。
名
9
4
5
年 に東方か ら逃 れて きたのだが,い まは物資の不
前をポロフスキ といい,かれ もまた 1
足 しているポー ラ ン ドの人 々のため に食料 品や 日用 品 を集 めて は 自 ら搬送 して い る とい
う。 イ ンゴはその ようなこ とは夢 に も考 えた ことはな く,休暇旅行 しか頭 になかった 自分
を恥ずか し く思 う。一方 ポロブスキは東西両 ドイツの若 い男女が一緒 にいるのを見て大 い
に喜ぶのであ る。 「しか し,す ぼ ら しい こ とだ,本 当に うれ しくなる。 東 と西がそ んな に
もきれいに一つ になってい る とは。 こんなこ とがい まの世 の中に実際 にあるなんて,い っ
2
6
0
)とイ ンゴとイレ- ネの カ ップルに感激 を隠 さない彼 は,
たい誰が考 えただろ うか」(
過去の怨恨 か らは もとよ り,東西 の思想の対立か らも解放 された人物 である。そ して彼 は,
ダンツ イヒの教授 同様,歴 史の真実 に言及す る。生 まれ育 った土地 を再 び取 り戻 したい と
は思わない,だが少 な くとも真実 を要求す るこ とはで きるはず だ,と彼 は言 う。真実 とは,
赤軍侵攻 に伴 う ドイツ人の迫害,恐怖 の逃避行にはか な らない。 しか し同時に彼 は,最終
的な平和 の実現 のためには,赤軍 もまた赦 されねばな らない と考 えているのである
。
ゴは,東へ と向か う
イン
V
Wトラ ンスポー ター を見送 りなが ら, なぜ と問 うこ とには意味 が
ないのだ と思 う。 行動す るこ とが重要 なのだ と。
「
少な くとも彼 は行動 してい る。 ただ座 って議論 ばか りして思考の高層 ビルを建 て る
」(
2
6
5
)
よ りは ましだ。
DDRの トラ ンジ ッ ト道路脇 の林 の中で テ ン トを張 って イ レ- ネとともに一夜 を過 ご し
たために, インゴは予定 よ りも一 日遅れて リューベ ックに戻 った。 町は以前 とは異 なる顔
を見せ る。 もちろん町 自体が変 わったわけで はな く, イ ンゴの内部 に変化が生 じたためで
ある. ダンツイガ- シュ トラ-セ とい う通 りがあ るこ とは前 か ら知 っていたが,い まはそ
の名前 の意味す る ところが彼 にはわか る。 そ して この町 にははるか東方の名前 を持つ通 り
が多い ことに改 めて気がつ くのであ る。 東方への記憶 に満 ちた町がある とすれば,それ は
0年前 に
リューベ ックをおいてほか にはない。町が変 わっただけで な く,不思議 なことに1
病死 した父親 もまた よ り近 くに感 じられ るようになった。す なわち,ポルニ ンケ ンを訪 れ
たことによって現在が過去 とつ なが ったのである。
母親 はイ ンゴが ポルニ ンケ ンへ行 って きた ことを大 い に喜 ぶが,彼が DDRの娘 と知 り
合った と聞いて顔 を くもらせ る。 「うま くい くはずが ないわ。向 こうが絶対 に許 さないか
3
01)と言 う。さらにその娘 がポルニ ンケ ンの領主の娘 と知 って驚 きを隠せ ない。DDR
ら」(
の娘 とい うだけで も難 しいのに,お まけに貴族の娘 とは,平民の息子が貴族の娘 と結婚 す
るなんて とんで もない, と 「ポ ルニ ンケ ン」がい まだに生 き続 けている母親は時代錯誤 の
価値観 をあ らわにす るのであ る。
1
4
番 目の章 「あ る ドイツの恋」 のテーマ は DDR対愛,あ るいは政治対愛,政治 に対 す
る愛の敗北 と言い換 えるこ ともで きるo イレ- ネがいみ じくも述べ た ように,ハ ッピーエ
ン ドはハ リウ ッ ドの発明であ り,分断 された ドイツには相応 しくない。 インゴが感 じた よ
一
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新潟大学言語文化研究
うに, リューベ ックとイェ-ナの間には深い溝が横たわっている。 その溝 を越 えるべ く,
ポーラン ドの旅か ら帰 ったインゴは,今度は D
DRへの旅 に出ることになる。
連邦首相 シュ ミッ トと国家評議会議長ホ-ネッカー との会談が取 り止めになったことが
障害」 を取 り除 くために両者は会 うべ きだった, とインゴは思 う 障害 と
報 じられる。「
。
はもちろん両国の体制の相違か ら生 じるものであるが,彼 を取 り巻 く人々もまた一種の障
害である。 イレーネとの恋愛 に賛成 し,かつ彼 を励 ま して くれる人物が一人 としていない
のである。 親友 のシュメ-デ イングす ら,イ ンゴの母親 同様 ,D
DRの教員 との恋愛 は極
めて困難である,なぜ な ら国はそ うい う人物 には多額の投資 をしてお り,その価値 におい
ては半 ダースの国営販売店女子従業員にも勝 るか らであ り,従 って国は彼女の出国を認め
ない,お互 いに不幸 になるだけだか ら早 く忘れるべ きだ と忠告す る。 またイ ンゴが D
DR
へ行 くために休暇 を願い出た上司の場合 は,それ どころか 「
金 と女でスパイを買 うことは
君 も知っているはずだ」とイレ-ネにお とりの可能性 を見る始末である。 イ ンゴは 「
いっ
たいぼ くが何 を漏 らす とい うんですか。 このオフィス に何台 タイプライターがあるかです
か,それ ともリューベ ック市民が受け取 っている住宅手当の額ですか」(
3
2
5
)と苦笑する
しか ない。
イ レ-ネか ら届いた待望 の手紙 は,彼女 もまた厳 しい状況下 にあ ることを暗示 してい
る。片づけねばな らない食い違いがい くつかあったために手紙 を出すのが遅 くなったと彼
女 は書 く。 食い違い とは,ポーラン ドにおいて彼女が取 った行動が招いた結果であること
は想像 に難 くない。 とはいえ彼女 もまだこの時点では二人の愛の行 く末 に対 して楽観的で
あるように見える。 とい うのは,彼女 はインゴと同 じようにホ- ネッカー とシュ ミッ トの
会談が実現 しなかったのは残念だ と述べた うえで,彼 と一緒 に両国首脳 を始め, アメリカ
大統領,ブ レジネフ,あるいは国連や赤十字 に手紙 を善 くとい う子 ども染みた提案 をして
いるか らである。 もっ とも, ここには,何 とか困難な状況 を打 開 したい とい う彼女の切な
い心の内を察す ることもで きるが,同時に,彼女の母親がのちにインゴに対 して 「
戦後生
まれの人たちには重要 な経験が欠けて」お り,そのために 「
言葉がいか に危険な ものであ
3
5
4
)を知 らないのだ と述べ るように,恋 に盲 目の余 り冷静かつ客観的に状況 を把
るか」(
握で きない危 うさもまた透 けて見 えるのである。
一方 インゴは D
DR逃亡者が国境 で射殺 された とい うニ ュースに注 目す る ようになるo
以前な ら,すでに冒頭で見 た ように,気にもかけなか ったニュースである。それがいまで
は新聞記事 を読んで リューベ ック郊外 の現場へ と足 を運ぶ。そ して射殺 された男 に親近感
を覚 えるのである。 この時点ですでにイ ンゴには兄弟愛 とも人類愛 とも呼べ るものが芽生
えている。国境 の向こう側が ドイツであろうとモ ンテネグロ とい う名前であろうと,それ
自体 は重要ではない。重要 なのは人間をどの ように扱 うか とい うことである。 決 して人を
殺 しては行けない, と彼 は思 う。
「
好 きなことを話 し,考え,書 き,信 じてもいい,行進 して も旗 を振 って も横断幕を
掲 げて もいい しテールマ ンリー トをうたって もいい。ただ殺 してはいけない,殺すの
だけはやめて くれ !」(
3
2
1
)
ところで本書の特徴 としてフアク トの多用 を挙 げることがで きる。 フ アク トとは,つ ま
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過去と現在をつなぐ旅- アルノ ・ズルミンスキの長編小説 『
ポルニンケンあるいはあるドイツの恋』
り,随所 に挿入 されているラジオや新聞の報道,あるい はカー ジ ミルを始め とす る登場 人
物 によって語 られ る歴 史的事実 な どであ る。 それ らは状況説 明や ア クチ ュア リテ ィの付 与
に貢献 し,歴史の再確 認 ・再検 討 を促す ことに役立 ってお り, さらに物語展 開のモ メン ト
として, また著者 の想念 を表す モ メ ン トとしての機能 を担 っている。モ メン トとしての機
能 とい う点 につ いて見てみ る と,上述 した DDR逃亡者射殺 の新 聞記事 がそれ に当た る。
この記事が インゴを事件現場へ と赴かせ , さ らに新 聞社へ も行かせ る。 そ して彼 は,犠牲
者の中に女性 はい るか と尋 ねて担 当者 を驚かせ るのだが,その担 当者が またフ アク トを口
961年以 降 ドイツ内国境 で 1
76人が死亡 し,その うち72人がベ ル
にす る。 す なわ ち彼 は, 1
リンの壁で殺 されたのであ り, ドイツ以外 には ヨー ロ ッパの 国境で これほ ど大量の血が流
された ところはない と述べ ,そ して さらにそのフ アク 吊 こ基づ いて 「この国境 こそ第二次
大戦後 に ドイツ人が成 し遂 げた最悪 の ものである」 (
32
4) と皮 肉混 じりに自らの見解 を表
明す るのであるが,それほ と りもなお さず著者 ズル ミンスキの 自糊 と憤怒が ともどもに込
め られた想念 にはか な らない と言 えよう。
イレ-ネの二通 目の手紙 は,彼女 に もまた変化が生 じた こ とを物語 っている。 マ ズー レ
ンか ら戻 って父親 を身近 に感 じられる ようになった イ ンゴ と同 じように,彼女 もまた母親
をこれ まで とは違 った 目で見 る ようにな り, さらには母親か ら型番 を借 りて生 まれ て初 め
て頁 をめ くり,曾祖母 の墓石 に刻 まれていたサ ロモ ンの歌 を読 んだ とい う。 このこ とは彼
女が偏狭 な価値観 か ら解放 されつつ あ る こ とを示 してい る。そ して これ もまた イ ンゴ同
樵,彼女 も人種 や 国籍や イデ オロギー とは無縁 の人間にな りたい と願 う。彼女 はい ま学校
世 界の廃城 の上で再会す る」 の
でゲーテの 『
ヘ ルマ ンと ドロテ- ア』 を読 んでい るが,「
は悲 しす ぎる,私 たちはマ ズー レンのパ ラダイスで また会いたい,ただの人間 として, と
述べ る。
「
私たちはただ人間であ りたい。西 ドイツ人で もな く,東 ドイツ人で もな く, ポー ラ
ン ド人で もな く, ロシア人で もな く,ただの人間に。私 たちは共産主義者 にも資本主
義者 に もな りた くない し,社会主義者 に も国家主義者 に もな りた くない,ただの人間
にな りたい-- ・
」(
320)
イレ-ネか らはすでに 4週 間便 りが ない。そ こに彼女 の母親か らの手紙が届 く。 そ こに
は もう手紙 は出 さないで ほ しい と記 されてあ った。それ を読 んだ イ ンゴは
V
Wを駆 って
イェ-ナへ 向か う.途 中 カー ラジオのニ ュー スで,DDRの市民がチ ェ コ経 由でオー ス ト
リアへ の脱 出に成功 した と聞いて,大いなる進歩 だ と気 をよ くす る。 イレ-ネの住 属 には
母親 しかお らず,ついい まし方連絡があって イレ- ネはい まライブツ イヒの病 院にい る と
いう。 イ ンゴは母親 を乗せ て ライブツ イヒへ 向か う。 着 いた先 は病院 とい うよ りも刑務所
の ような印象 を与 える。 母親 だけが入ることを許 され る。 制服の男が,長 くかか りそ うだ
か ら市内 を見物 して きては どうか と勧 めて くれ るが, イ ンゴは車内で待つ。そ して 1時間
ほ どで出て きた母 親か らイ レ- ネの死 を知 る. イ レ- ネが死 んだの は通常 の病 院 で はな
く,共和 国逃亡 を試みて負傷 した者が運 び込 まれる拘留病 院であった。
母親 はここに至 るまでの経緯 を語 る。 イレ- ネがマ ズー レンの旅か ら戻 ると,彼女が な
ぜ単独行動 を取 り, グループ とともに帰 国 しなかったのかが問題視 された。そ して イ ンゴ
ー
13 5
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新潟大学言語文化研究
との文通が露見す ると,DDRの教員が西 ドイツの男 と恋愛 関係 を持つのは不適切である
とされて,党幹部か ら文通の中止 を勧告 された。 イェ-ナにはヴ オルフ ・ビーアマ ンの女
友達がいて,彼女の周辺 にある種のサークルがで きていたため,当局は警戒 を強めていた
のだ という。 そ してついにはあ らゆる西側 との接触 を禁 じられて追いつめ られた彼女は出
国申請 を行い,その 3日後 に退職 させ られたのである。
インゴの懸念が現実の もの となった。 なぜイ レ- ネは出国許可が出るまで待てなかった
のか,インゴは疑問を呈す るが,母親の答 えは衝撃的な ものであった. イレ-ネは妊娠 し
ていたのだ。だか ら彼女 はいつ にな く感情 的になってあの ような行動 に走って しまったの
だろうと,母親は推測す る。 イ ンゴは自らの責任 を痛感す るが,母親 はそれを強 く否定す
る。 彼 は非難 されるべ きことを何一つ してはいない と.
「
責任 はあのおぞ ましいイデオロギーに毒 された人間たちにこそあるのです。彼 らが
何 もか も破壊 して しまうのです。いつ もいつ もあの政治 システム とい うものが人間と
その素朴 な感情 を食い尽 くして しまい,あ とには何 も残 らないのです 。
」(
356)
1
5
番 目の,そ して最後の章「そのあ との時」では,二人の人物が東か ら西へやって来る。
一人はフォン ・ザ-ラウ夫人, もう一人はインゴである。1
981
年夏,黒い服装 に身を包ん
だ長身の女性が リューベ ックにインゴの母 を訪ねる。 フォン ・ザ-ラウ夫人である。 最初
は一時的な訪問のつ も りが,途中で娘 を殺 した DDRには戻 らない と心 に決 めていた。二
度故郷 を失い,二度子 どもを失 った末に,かつての使用人の もとに柊の棲家 を求めたので
ある。彼女はインゴの母親 と並 んで窓辺 に立ち,東の彼方 に 目をやる
。
,
この二人の女たち
には 「
父たちの行為が子や孫 にまで及び,そ してそれが未来永劫 に繰 り返 される」 (
364)
とフォン ・ザ- ラウ夫人が述べ る歴史,すなわち男た ちによって作 られた歴 史に翻弄 され
て きた女たちの姿が投影 されているのである。
その 4か月後の1
2月中旬,インゴが 1年の刑期 を終 えて釈放 される。彼 は,フォン ・ザラウ夫人の忠告 に反 してホテルに寄 ったために逮捕 され,DDRの市民 を国外逃亡 させ よ
うとした廉で有罪判決 を受 けて服役 していたのである。 車か ら降ろされたイ ンゴは,降 り
積 もった雪 の上 を歩いてベ ル リンの壁 を束か ら西へ越 える。 雪 を踏み しめ なが ら彼 は思
う,「
社会主義は勝利す る
!
」と
「
一本の タバ コのためにはるばると」
(
1
6
)
,この二つの看板
の横 に 「
殺 しては行けない !」と書かれた素朴 な木の看板 を置 くべ きだ と。
先 に政治 に対す る愛 の敗北 と書 いたが,確 か にイ ンゴ とイ レ-ネの愛 は成就 しなかっ
た。しか し,その愛 を通 して二人は人間の生命の尊 さを理解 し,さらにその愛 を個人的な,
いわば閉 じられた愛か ら開かれた愛,つ ま りは人類愛へ と発展 させ えたのである。それほ
とりもなお きず カージ ミルの行 き着いた ところと一致す る。 インゴは, また再びそのカー
ジ ミルのいるポルニ ンケ ンへ行 き,あの 「リンゴの木の下で眠 りたい」 (
368) と思 うので
ある。 そ して恐 らくは, ドイツ人で もなければヨー ロ ッパ人です らな く,「ただの人間」
として。
-1
36-
過去 と現在をつな ぐ旅-
アルノ ・ズル ミンスキの長編小説 『ポルニ ンケンあるいはある ドイツの恋』
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(
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6
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ている。
-
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