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実施報告書 (PDF:850KB)

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実施報告書 (PDF:850KB)
日 時:平成 25 年 4 月 22 日(月)9:20~10:00
場 所:北久米小学校 南校舎2階 マルチルーム
対 象:6 年生 99 名
語り部:田中 有男
1.教諭から語り部紹介
2.語り部体験談(約 30 分)
北久米小学校には初めて来た。今から68年前の私が中学2年のときに、学
校の目の前にある池に毎日来ていた。今の久米小学校と窪田小学校の間ぐらい
に飛行場を造っていた。重信川に石を取りに行って飛行場に置いて行った。置
いていくと、久米の人たちが、固めて慣らして、滑走路を造った。ここの池に
あった芝生を刈り取って、久米の飛行場まで持って行き、敷いていった。終戦
ごろ、毎日毎日、松山の空にアメリカの戦闘機が来ていた。私たちが、モッコ
を担いで飛行場までを行き来しているとき、そのアメリカの戦闘機が降りてき
て機銃掃射をしてきた。小学校の近くの溝に飛び込んだりして隠れていた。今
や平和な松山だが、そんな光景を想像できるだろうか。そんな恐ろしいことが
松山でもあったことを忘れないでほしい。
今の人は、アメリカと戦争をしたことも知らない。まして、アメリカの爆撃
機が松山の街を焼き払ったり、松山の人たちを機銃掃射したことなど知らない。
私が10年前より市内の小中学生に対し平和の語り部で戦争は絶対にしては
いけないと訴えかけてきた。後から感想文をもらうと、語り部の話を聞いて、
松山が空襲を受けたことを初めて知ったというものが多い。アメリカの飛行機
が、上空から人を撃つのを狙っている、これが戦争である。このことを絶対忘
れないでほしい。今は、みんな中学校へ行くことができる。こんな恵まれたこ
とはない。私たちの時代は小学校にろくに行くことができない。小学校を卒業
して中学校に行くことができるのは、クラスに1人か2人だった。それも試験
を受けて合格しないといけなかった。私は、北予中学に進学することができた。
進学したものの、毎日モッコを担いで松山飛行場にあった格納庫(掩体壕)を
造った。勉強なんてできなかった。雨が降ったときだけ勉強ができた。おにぎ
りも水筒もなかった。弁当箱には白米ではなく、イモだった。今は給食があり、
こんな幸せなことはない。
昭和20年7月26日午後11時ごろに、アメリカのB29が松山に来て、
焼夷弾を落としてきた。(焼夷弾の説明)焼夷弾は、油が詰まっている。地上
に落とすと、油が散ってしまう。散った油に火が付いてしまうので、辺りがた
ちまち火の海となってしまった。B29は2時間焼夷弾を何千発も落とした。
なので、松山はすべて火の海となった。私は、川の中に飛び込んで逃げた。伊
予鉄の線路の下に隠れて、空襲を見ていた。そうすると、B29が松山の街の
上空をぐるぐる回って焼夷弾を落とした。まるで地獄だった。
空襲後に、いつも中学校へ一緒に行く友人の家に行った。玄関に防空壕があ
って、その中に友人と妹と母親が真っ黒焦げになって転がっていた。私の兄も
市内の寮に入っていたので、心配で見に行った。兄の寮に着くと、5人の遺体
が並べられていた。全員、私の中学校の同級生だった。首がない者もいた。松
山の街が焼け野原になったことを知らなかった、信じられないという人もいる
だろう。しっかりと覚えていただきたい。
戦争で1番困ったことは食べるものがなかった。米も卵も漬物もなかった。
食べる物といえば、サツマイモかカボチャだった。私たちは鍋に一掴み米を入
れ、カボチャや葉っぱと塩を入れたものを食べていた。それは、雑炊のようで
おかゆよりもっともっと薄かったが、おいしかった。それが1番のごちそうだ
った。ところがすぐお腹が空いた。何とか飢えをしのいでいた。ところが、戦
後になると、さらにひどくなった。家はない、着る物は焼けてしまった。お茶
碗もなく、何もなかった。みんな焼け跡に行って、使えるものを拾って生活し
ていた。いつ飢え死にしてもおかしくなかった。
私は、昭和23年に東京の学校に進学した。上野駅には、両親を亡くした子
供たちがたくさんいた。寝る所も家もないので、その辺に寝ていた。1番の戦
争の被害者は子供だった。みんな食べる物も家もなくなり、戦争により何百万
人もの若い人たちが亡くなり、戦地より帰ってきた人たちもみんな傷ついてし
まった。今後の日本の将来は大丈夫かと思った。戦後68年が経って、今では
みんな学校に行けて、給食もある。当時は、肉を食べるなんて1年に1回ぐら
いだった。卵を食べるのは風邪を引いたときぐらいだった。戦争に負けた日本
が、今では贅沢な暮らしができている。一生懸命勉強した人は進学でき、努力
した人はいい人生を送ることができる。信じられるだろうか。戦争に勝ったア
メリカは、その後も戦争を続けて大変な状況となっている。私の友人と話をす
るときも、「戦争は絶対してはいけない、戦争をすると、食べるものがなくな
ってしまう。」という。当時の苦労を考えると、戦争は絶対にしてはいけない
と思う。私たちのように体験した人たちはみんなそう思う。今は、食べ物があ
りふれているので、実感がないかもしれない。戦後は、アメリカにより援助を
受け、日本は復興を遂げることができた。
3.質疑応答(約 10 分)
Q:松山で空襲により亡くなった人はどれくらいいるか?
A:市の発表では250人ぐらいと言われているが、実際は500人ぐら
いではないかと思う。ただ、正確な数字はわからない。
Q:1日にアメリカの戦闘機はどのくらい来たか?
A:朝から晩までしょっちゅう来ていた。
Q:日本は、戦闘機をどのくらい用意していたのか?
A:戦争の初めは、日本もゼロ戦など良い飛行機があったが、次第にアメ
リカにやられ、終戦が近づくと、アメリカの飛行機の方が性能の良い
飛行機がたくさんあった。
Q:睡眠をとる時間はあったか?
A:どの家庭も父は戦争に行って、家におらず、母と子供が夜になると、
家の中を暗くしていた。
Q:日本は、終戦間際になると、飛行機で攻めて行ったのか?
A:終戦間際になると、アメリカにより日本の艦隊や飛行機などやられて
いた。ほとんど飛行機がなかった。アメリカはジープに乗ってきたが、
日本は竹やりで対抗していたぐらいだった。
ハーモニカの演奏『ふるさと』
防空頭巾を児童にかぶらせ説明
ゲートルの説明…包帯、おんぶ紐、タンカとしても使える。
4.生徒代表からお礼の言葉
日 時:平成 25 年 4 月 23 日(火)9:25~10:25
場 所:三津浜小学校 南校舎 4 階
対 象:6 年生 43 名
語り部:一色 茂美
1.教諭から語り部紹介
2.語り部体験談(約 50 分)
私が小さい時経験した、戦時中の松山の様子などを話したいと思う。私は昭
和3年生まれの85歳である。私が小学生の頃は、毎日戦争だった。朝から警
戒警報や空襲警報のサイレンがあり、十分に授業ができなかった。
私が小学4年生の昭和12年7月7日に支那事変が起こった。中国の盧溝橋
という所で日本と中国が演習をし、いつの間にか撃ちあいになり、それが元で
武力衝突が起こった。当時、中国を支那と呼んでおり、日本の約10倍の面積
があった。私の叔父も堀之内にあった二十二連隊に所属していたので、叔父を
含め約2,000人の兵士が出征するのを、叔父について三津まで見送りに行
った。三津には、当時、日本一大きかった戦艦『陸奥』が来ていた。当時は、
南京占領など戦争に勝ったという情報が入ると、私たちもちょうちん行列をし
ていた。そのような状況で戦争は続いた。戦争は日に日に激しくなった。
その後に大きな戦争が起こる。1941年の真珠湾攻撃である。昭和16年
12月8日、私が朝食を食べていた時ラジオから、「大本営発表。帝国陸海軍
は、西太平洋上において米英と戦争状態に入れり」と放送があった。12月8
日は日曜日だったので、兵隊は休んでいた。船には兵隊がいなかった。敵の抵
抗もないと思い、日本は攻撃した。軍艦や駆逐艦などを攻撃した。だまし討ち
のような感じだった。ラジオからは、戦果をおさめたと報道があった。日本軍
はどんどん手を広げ、各地を攻めて占領していった。当時は、大東亜戦争と呼
んでいた。アメリカは真珠湾攻撃を受けたので、日本に応戦しようとした。
アメリカは、物も資源も豊富なので、飛行機や軍艦を大量に造った。飛行機
では、B29という大きな飛行機を造った。爆弾を積んで日本に攻めようと考
えた。それから、昭和19年11月24日の東京空襲を皮切りに全国各地で空
襲を始めた。B29は上空1万メートルを飛行するので、地上から高射砲を撃
っても届かなかった。日本国内でも被害がだんだんと大きくなってきた。
昭和20年3月19日、アメリカの空母艦載機のグラマンが約150機飛ん
で来た。松山からは戦闘機50機が飛び、南の山の方で空中戦があり、グラマ
ンを42機落としたと新聞で大戦果をおさめたと報じられた。5月4、10、
14日には、松山航空隊が攻撃を受けた。
昭和20年7月26日は、松山大空襲のあった日だった。この日の夜は、静
かでよく晴れて、月もよく見えていた。もう寝ようと思っていたが、夜11時
過ぎ頃、ラジオから警戒警報が鳴り、B29の編隊が豊後水道を北上している
と放送があった。最初は古町に照明弾を落とした。上空は真昼のような明るさ
だった。ラジオでは、B29が60機来て、焼夷弾や爆弾を落としていったと
報じた。松山の街は火の海となった。松山城を取り囲むように、焼夷弾を落と
された。この空襲により、市民の大半は逃げるのに、慌てふためいてごった返
した。空襲の夜はほとんど眠れず、家を捨て郊外へ逃げるのに必死だった。市
民は、空襲に備えて、日頃から防火訓練をしていた。日本は、木造家屋だった
ので、焼夷弾が投下され、火が燃え続けた。(焼夷弾の説明)翌朝、街に行っ
てみると、松山の街は焼け野原になって、きれいな灰になっていた。戦争とは
ひどいことをするものだと思った。道後には温泉があったせいか、焼夷弾を落
とされなかった。三津も落とされなかった。
私は、防空壕に入って、空襲の様子を見ていた。私の家にも焼夷弾が落ち、
家が焼け始めたので家族全員でバケツリレーをして火を消した。家の門にも焼
夷弾を落とされた。その最中に納屋も燃え始め、中には麦を入れていたので、
家族3人で朝5時ごろまで一生懸命消火活動をしたが、半分は焼けてしまった。
隣の家の牛は、みんなが逃げてしまったので、大きな声で鳴いていたが焼け
死んでしまった。戦争で、牛まで犠牲になった。自分の家の牛は父が逃がした
ので、探していると針田町で見付かった。牛も私のことが分かったようで、し
っぽを振って寄って来たので連れて帰った。おしりに焼夷弾が落ちたようで、
痛々しかった。松山の街は、どこに行っても火の海で逃げる所がなかった。
約2時間半の松山大空襲の被災状況では、当時の松山市の人口は約12万人
で、そのうち約53%の62,200人が被災した。市内全26,000戸の
うち、約55%の約14,300戸が被災した。大空襲により死者251名、
行方不明8名とされている。アメリカの発表では、松山に250キロの焼夷弾
を2,350発で470トン、170キロの焼夷弾を100発で17トン、3
5キロの焼夷弾を11,437発落としたとある。私の家の裏には、50キロ
の焼夷弾の不発弾が落ちていた。家に命中していたら、壊れていたかもしれな
い。
当時、学校の教科書は国定教科書といって、どの学校も同じ物を使っていた。
教科書は親戚のお兄さんからのお下がりで、みんなで順番に大事に使った。親
戚同士でゆずり合っていた。戦時中は、そういうこともあり、物を大切にする
習慣が身に付いた。放課後の遊びは、男の子は相撲や鉄棒、女の子はドッジボ
ールやお手玉をし、履物は下駄や草履で、今のような運動靴は無かった。農繁
期になると3日ほど田植え休みがあり、家が農家でない子は、百姓の子守など
して手伝った。戦後も食べ物が不自由で、米は配給で、米穀通帳があった。白
米だけのご飯は食べられないので、ご飯は麦と米の半々でパサパサしており、
食べてもすぐお腹が減った。
戦後の物資の買出しでは、列車やバスが定員オーバーになり、町中では米や
野菜など物々交換が行われた。空襲後はバラックなど粗末な建物で、電球はど
の家も20ワットで貧しい生活を送った。
戦争によって、数多くの教訓を得たのではないかと思う。当時の苦難に満ち
た生活を二度と忘れることはできない。平和の尊さや大切さを後世に伝えてい
きたいと考える。戦争の悲劇を二度と繰り返すことのないよう願う。
家におじいさん、おばあさんなど年長者から、戦争について聞いたことがあ
る人は手を挙げて欲しい。(手を挙げた児童は約3人)
3.質疑応答・感想(約 10 分)
Q:戦争が起きてから1番うれしかったことは?
A:毎日戦争だったので、日々振り回された。勉強もろくにできず、ゆっ
くりできなかった。慌ただしく日が経っていった。戦後も食べる物が
なかった。貧しい生活をしていて、ゆっくり物を考える時間もなかっ
た。
Q:戦争はどのくらい続いたのか?
A:昭和12年から昭和20年8月15日まで。妻の兄はビルマで戦死し
た。終戦頃は、戦地でも食べる物がないぐらい苦労した。
Q:戦争はどうやって終わったのか?
A:無条件降伏で終わった。8月15日にラジオで天皇陛下の玉音放送が
あった。戦争に負けたと実感した。
4.児童代表からお礼の言葉
日 時:平成 25 年 4 月 25 日(木)9:25~10:10
場 所:椿小学校 北校舎2階 図書室
対 象:6 年生 154 名
語り部:中山 淳
1.校長から語り部紹介
2.語り部体験談(約 40 分)
自身の活動紹介。
私は1930年、昭和5年に生まれた。私が生まれた頃には、日本はどこか
と戦争をしていた。私が15歳のときの1945年にポツダム宣言を受け入れ、
戦争が終わった。それから、日本は平和憲法を制定し、平和な時代となった。
私が生まれた翌年に満州事変があった。小学校1年生のときに、中国と戦争を
始めた。小学校5年生のときに太平洋戦争が始まった。5年生の1941年1
2月8日は今でも覚えている。当時はテレビもなかったので、ラジオから勇ま
しい海軍の軍艦マーチが流れてきた。「大本営発表、帝国陸海軍は西太平洋上
において、米英軍と戦闘状態に入れり。」と放送が流れた。日本は、アメリカ
やイギリスを敵に回して戦争を始めた。太平洋戦争は4年間続いた。ハワイの
真珠湾に奇襲攻撃を仕掛けた。中学校3年生の昭和20年8月15日に終戦を
迎える。私はその間、爆撃を受けたり、火の中を逃げたりもした。
私は、当時堀之内辺りに住んでいた。当時、堀之内には陸軍の二十二連隊本
部があり、兵隊がたくさんいた。兵隊でないと、入れなかった。訓練は練兵場
でしていた。練兵場は今の日赤辺りにあった。私も中学生になると、鉄砲を担
いで訓練していた。練兵場は塹壕を掘って、鉄条網が張りめぐらされ、戦車が
置いてあった。
中国などに出征する際に、隊列を組んで松山駅まで行進していた。子供や母
親たちが日の丸の旗を振って見送っていた。戦場から帰ってくるときも出迎え
もした。先頭で帰ってくる人は戦死した人の遺骨を持っていた。兵隊は、行く
時は勇ましくきれいな服だが、帰ってくる時はボロボロの服だった。その頃は、
戦争は出征してするものだと思っていた。実は、そうではなかった。日本国内
で被害が出るとは思わなかった。松山は空襲により灰となった。
現在は、小学校を卒業すると、全員中学校へ行くことができるが、当時はそ
うではなかった。当時は、中学校や女学校へ行くことができるのは、3分の1
ぐらいだった。男子は試験を受けて中学校へ進学した。4人に1人ぐらいしか
合格しなかった。松山には5校ほどしか中学校がなかった。女子も試験を受け
て女学校へ進学した。女学校も少なかった。
中学では、教練といって鉄砲を抱えてほふく前進やグライダーの訓練を受け
ていた。二十二連隊本部から若い将校が来て、教えてくれた。
今の松山空港は、海軍航空隊の基地だった。今の2~3倍の広さだった。零
戦や大きな爆撃機がいた。中学2年生になると、その基地に行って土のうを積
んで掩体壕を造った。掩体壕は教室より広かった。爆撃から戦闘機を守るため
に造った。作業中に、グラマン機が低空飛行でやって来た。アメリカの兵隊の
顔が見えるぐらいまで近寄ってきた。何度も何十基もやって来て航空隊の基地
を攻撃してきた。また、瀬戸内海上にてグラマン機とゼロ戦の空中戦があった。
後ろにつかれると撃たれてしまうので、円を描きながら撃ち合いしていた。上
から飛行機が落ちてきたと思うと、日本の戦闘機だった。4月、5月になると、
航空隊基地から沖縄援護のため多くの爆撃機や戦闘機が向かっていた。無傷で
帰ってくる飛行機ばかりでなく、敵の戦闘を受け、足の出ない飛行機もいた。
また、片方の足しか出ない飛行機もあり、羽の先でくるりと円を描くように止
まった。仲のいいパイロットに爆撃機に乗せてもらったが、トイレがなかった。
聞いてみると、砂箱のようなものがあり、トイレ代わりに使っていた。いらな
いものは排除し、少しでも軽くし、爆弾をたくさん積むためだった。
中学3年生になると、新居浜の軍事工場に学徒動員として行った。5月下旬
頃、空襲に遭った。朝起きて、警戒警報が鳴った。みんな寮へ戻り、防空壕に
隠れた。カラスの急降下のようなものが見え、その瞬間、目の前がピンクのよ
うに真っ赤になった。猛烈な風に吹き飛ばされた。一緒にいた友人5人のうち
3人が弾片により負傷した。1人は、手から血が噴き出したので、私は必死に
応急処置した。近くで爆弾が破裂したらものすごかった。近くで少年工が頭を
ぱっくり割られて即死しているのを見た。その時、初めて人の脳みそを見た。
7月25日に休みになったので松山に帰っていた。
(松山大空襲の話)
私が松山に帰った翌日の7月26日に松山大空襲があった。当時の新聞では
60機のB29が来たとあったが、アメリカの記録では128機が来たとなっ
ていた。
(模型を使って焼夷弾の説明。)重さが約3キロ。中には爆薬が仕掛け
られ、ドロドロの油脂が詰まっていた。不発弾を見つけたことがあるが、とて
も臭かった。36本が束になっていて、B29が落とした。数百メートル上空
で破裂して、火が付いた。上から火の玉が円になって落ちてきた。雨が降るよ
うな音だった。日本の家屋は木造がほとんどだったので、焼夷弾をアメリカは
使った。私の家の近くも燃え始めたので、防空壕から飛び出て、弟と妹と逃げ
た。上からザーザーと火の玉が落ちてくるので怖かった。消防もやられている
ので、助けることができなかった。街中が焼けており、熱くて街には入れなか
った。
空襲から2日後、自宅に行くと6発の焼夷弾が落ちていた。小鳥を飼ってい
たが、骨がマッチ棒のようになっていた。板切れ1枚も残っていなかった。す
べて灰になっていた。広島から来ていた友人が松山に帰ってこなかったので、
戦後間もなく、広島に行ってみた。皆さんも広島に行くとき、広島と松山の被
害状況の違いを比べてほしい。広島、長崎の原爆後と松山の空襲後の光景で違
うのは、松山では塀が残っていた。広島、長崎は塀も残っておらず、ものすご
い力が加わったことが分かる。
私たちは、松山大空襲の際、今の済美高校辺りを通って石手川まで逃げて、
空襲の様子を見ていた。花火のようだった。
これからの近代戦争は、戦場だけで行われるわけではない。戦争と関係のな
い子供やお年寄りの人たちまでが被害にあう。松山出身の水野広徳さんは、太
平洋戦争前に戦争は絶対にしてはいけないと訴えていた。皆さんも、学習して
いって、これからも平和を守っていかなければならない。兵器は進化している
ので、今後は被害も大きくなるかもしれない。
3.質疑応答(約 5 分)
Q:B29は、爆弾をどのくらい積んでいたのか?
A:1機に10発ぐらい積んでいたと聞いている。焼夷弾1発に36本束
ねていた。松山にも焼夷弾を雨、あられのように落とされた。戦争を
する前に、アメリカのことを知っていれば、こんな国と戦うのかと思
ったはず。戦争を防ぐには、相手のことを調べることが大事である。
Q:爆発して、家がなくなると、どこに避難したのか?
A:空襲により何も無くなったので、焼けた鉄板を探して、屋根にして生
活している人たちもいた。私たちは谷町の知人のミカン倉庫にミカン
箱を並べて寝ていた。いくつかの家族がその知人の家でしばらくお世
話になった。疎開といって、田舎の百姓にお世話になったこともある。
焼け残ったものと百姓のお米と交換したりした。山を開墾して、イモ
や豆などを栽培したり、ニワトリを飼ったりした。道後は燃えなかっ
たので、知人を頼って身を寄せた人もいた。みんなが助け合っていた。
4.児童からのお礼の言葉
日 時:平成 25 年 4 月 26 日(金)9:10~9:50
場 所:石井東小学校 体育館
対 象:6 年生 153 名
語り部:中山 厚
1.教頭から語り部紹介
2.児童代表のあいさつ
3.語り部体験談(約 35 分)
今から70年近く前に、松山の街がきれいな焼け野原となった。そんな状況
を聞いたこともあると思う。その当時は、私はみなさんと同じ年頃だった。そ
ういう体験をもとに話をしていきたい。今日の話を聞いて戦争の悲惨さを考え
る機会としていただきたい。
私が生まれたのは、1933年の昭和8年である。世界は当時覇権主義であ
った。列強国のアメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・ロシア・オランダな
どが弱い国を支配していた。私が生まれた時には、日本も大陸に進出していた。
中国の満州に大勢の開拓団を送り、鉄道や街・学校を造った。私が4歳のとき、
中国との国境付近で衝突があった。それがきっかけで日中戦争が始まった。
私が小学校に上がるときにヨーロッパでも戦争が始まる。ドイツがポーラン
ドを攻め込むのが原因で第二次世界大戦が始まる。第二次世界大戦はヨーロッ
パで始まったが、それから2年後ぐらいにアジアでも戦争が始まった。中国と
仲の良かったアメリカから、日本に戦争から手を引くよう迫られた。日本は拒
否し、ドイツ・イタリアと手を結んだ。また、アメリカより経済的圧力をかけ
られ、日本は12月7日の夜、ハワイの真珠湾にいたアメリカの海兵艦隊に奇
襲攻撃を行い、宣戦布告し、太平洋戦争が始まった。
昭和16年12月8日の朝、私は新玉小学校の3年生教室で聞いたと思うが、
勇ましい軍艦マーチとともに「大本営発表、大日本帝国陸海空軍は、西太平洋
上にて米英と戦闘状態に入れり」と流れてきた。日本も初めは破竹の勢いで中
国・香港や南の島々などを占領し攻勢だった。しかし、その勢いも半年ほどし
か続かなかった。ただ、アメリカも兵力増強して、昭和17年6月、日本はミ
ッドウェー海戦を機に不利になっていく。その海戦により、日本は多くの軍艦
や飛行機を失う。また、それまで保っていた制海権、制空権を失ってしまう。
アメリカの記録によると、南の島へ兵隊・兵器の補給のため日本は輸送船団8
隻で兵員5,000名と兵器・弾薬を輸送するのに、護衛艦6隻に守られ向か
っていたが、アメリカはそれを察知して潜水艦、飛行機により攻撃されて撃沈
された。海に投げ出された日本兵を3日間アメリカは機銃掃射し続け、南の海
は真っ赤な血で染まったという。
昭和18・19年に戦況は悪化していき、各地で撤退、玉砕されていく。昭
和19年6月にグアム・サイパンを占領された。サイパンはアメリカによって
戦略上の拠点とされた。昭和19年10月に捨て身の戦いを始める。それが、
神風特攻隊と呼ばれ、片道だけの燃料を積んで敵に突っ込む人間魚雷だった。
昭和20年に入ると、日本本土で空襲が始まる。3月になると、東京大空襲が
あった。3月にアメリカが沖縄を攻撃開始。4月1日に沖縄本土上陸する。皆
さんも知っている戦艦大和が2,000名あまりの兵員を乗せ沖縄へ応援に向
かうが、アメリカの潜水艦、飛行機により九州沖で撃沈される。4月には、ド
イツが降伏し、ヨーロッパでの戦争が終わる。7月26日に連合国が日本にポ
ツダム宣告を迫る。日本は降伏を渋る。その晩に松山大空襲が起こる。8月6
日に広島原爆。8月8日にロシアが北方を攻撃開始。8月9日に長崎原爆。本
土決戦を覚悟したが、8月15日に無条件降伏した。
私は、南堀端辺りで生まれた。当時は車もそんなに通っていなく、夏になる
と、演台が出ていた。戦争が始まると、街並みも変わっていった。空襲が始ま
ると、しょっちゅう空襲警報や警戒警報が鳴った。警戒警報は断続的に鳴り、
空襲警報はそのまま鳴りっぱなしだった。広場では女性が竹やり訓練をしてい
た。夜になると、灯火管制で家から光を出さないように真っ暗にしていた。数
軒おきに用水桶を置き、バケツリレーの消火訓練を行っていた。体育の時間に
はほふく前進の練習や手りゅう弾を投げる練習、相手の股を蹴り上げる練習を
行っていた。武器になる鉄が不足していたので、寺から鐘、家庭から鍋、釜、
自転車など金属類が消えた。私は、昭和20年3月に5年制の北予中学へ進学
した。3年生になると、学徒動員となり、工場で働かされた。学校には1・2
年生しかいなかった。毎日のように出征兵士を見送る会があった。
5月頃に松山の上空で吉田浜から出た爆撃機とアメリカのグラマンの空中
戦を中庭で茫然と眺めていた。1週間後、親のおつかいで、田舎の知り合いの
ところへ行く途中、南の空から急に金属音がしたと思うと、グラマンより機銃
掃射を受け、とにかく必死で草むらに逃げ込んだ。そのときはびっくりして、
体中の血液が凍りついたようだった。日本の空が抵抗もなくなり、アメリカ軍
が遊び半分、練習半分で動くものを狙ったとも言われている。
(松山大空襲の話)
昭和20年7月26日夜11時半頃、警戒警報が鳴りっぱなしでなかなか鳴
りやまなかった。外がにぎやかになり、本町が燃えていると聞いて兄と見に行
くと燃えており、空を見ると東からB29の6機編隊が飛んでいた。急いで家
に帰り、兄が「家に飛び込め。」と言ったので玄関に飛び込んだ。裏に防空壕
があったが、そんなものではどうにもならなかった。父は町内の役員で居なか
ったので、兄と妹と逃げた。今の済美高校辺りを走り回った。どこを走って逃
げたかはっきり覚えていない。妹が白い服を着ていたので、「お兄ちゃん、敵
に見つかる。」としきりに言っていた。真上から焼夷弾がカラスの大群のよう
に落ちてきた。必死に逃げた。田んぼの中も走っていたので、溝に足がはまっ
たせいか、気が付けば裸足だった。
(模型と写真を使って焼夷弾の説明。)焼夷弾は、日本の家が木と紙ででき
ているので焼き尽くすために作られた。中にはドロドロの油脂が詰まっており、
地面に落ちると信管が作動し、油が飛び散る。建物にくっついて燃えた。
私たちは無事石手川の土手まで逃げることができた。振り返ってみると、街
は煙で全く見えなかった。田んぼの中に落ちた焼夷弾が花火のように打ちあが
っていた。翌朝、松山の街は全滅で、道後は無事と聞いたので、道後に行った。
途中でムシロをかぶせられた遺体を見た。後で友人から聞いた話では、頭のな
い子供を抱え茫然とした母、用水桶に首を突っ込んだ遺体、黒こげになった遺
体、橋の下で窒息した遺体を見たものもいたらしい。道後で両親に会うことが
でき喜んだ。松山大空襲で亡くなった人は、松山市が当時発表したのは約25
0名とされているが、実際は500名を超えていると言われている。
空襲後、潮見の知人の倉庫を借りて生活していた。ムカデやヘビに悩まされ
たが、それから何もない生活が始まった。空襲の10日後ぐらいに西の空に大
きな雲が見えた。学校に行ってみると、大きな音がしたとか光が見えたという
人もおり、それが広島の原爆であった。それから終戦を迎えるが、ラジオで天
皇陛下の声で聴いた。この戦争で亡くなった人は、日本人で約300万人、ア
メリカで60万人、ドイツでも300万人を超えており、ロシアでも1,00
0万人を超えていると言われている。終戦の年の昭和20年1月1日から8月
14日までに、1日あたり約9,500名もの日本人が戦争により亡くなった。
戦争は、国と国との意地の張り合いで、利害関係のぶつかり合いによって起
こる。ルールのない殺し合いでもある。若い元気な人たちが、戦争に動員され
た。戦争というものは、悲惨である。今では、平和の大切さを身に染みて感じ
る。みなさんも今日の話を聞いて、平和について考えていってもらいたい。
3.質疑応答(約 5 分)
Q:松山大空襲で亡くなった人はどのくらいいるのか?
A:市の発表では251名亡くなり、行方不明が8名としているが、実際
は500名を超えた人たちが亡くなったのではないかと思う。
Q:日本がアメリカに降伏したことをラジオでどのような思いで聞いてい
たか?
A:茫然自失だった。その時の天皇陛下のお言葉は、今でも耳に残ってい
る。日本人の誇りを壊され、日本の街も壊され、これから立ち上がっ
ていくのは困難ではないかと思った。
Q:空襲警報が多かったのは、どの時間帯か?
A:始めのうち、空襲は夜間に限られていた。松山の上空を呉に向かって
爆撃機が通った。そのたびに、警戒警報や空襲警報が鳴った。上空を
飛ぶ爆撃機を地上から高射砲を撃つが、なかなか当たらなかった。終
戦間際になると、日中でも空襲警報が鳴っていた。
・祖父が戦争を体験していて、生きているときは体験談を聞いていた。こ
れからも勉強をして、戦争のことを知りたい。
→いろいろ戦争のことを聞くと思うが、時が経てば忘れられてしまい、記
憶が薄れていってしまう。私たちは、実体験をした。戦争の悲惨さが頭
にこびり付いている。皆さんは、話を聞いただけでは分からないと思う。
今日の話を聞いて、戦争がいかに悲惨なものか考える機会としていただ
きたい。
5.児童からのお礼の言葉
日 時:平成 25 年 4 月 30 日(火)13:45~14:30
場 所:東雲小学校 北校舎3階 多目的ホール
対 象:6 年生 52 名
語り部:竹内 よし子
1.教諭から語り部紹介
2.語り部講話(約 40 分)
平和をつくるためにどうすればよいか考えていきたいと思う。
『平和』とは。
・どんな色をイメージするか児童に問いかける。
→児童より白、水色と声が上がる。
モザンビークでは白が平和の色である。純粋であることや何もないことから
平和の色とされている。
平和の反対というと、戦争である。戦争がなぜ起きてしまうのか考えていき
たい。広島に行った際、戦争が悲惨というより、どうして戦争が起きたのか考
える修学旅行にしてほしい。平和を考える時、日本の至る所や自分の心を考え
てほしい。
『平和』にはどんな意味があるか、字について説明。アジアの農耕民族から
生まれたと言われている。
「平」は、平等の意味がある。
「和」は、みんながち
ゃんと食べられることを指す。
・ちゃんと身を守る衣服や靴はあるだろうか。
・ちゃんとご飯を食べられているだろうか。
・ちゃんと寝る所があるだろうか。
・ちゃんと命を大事にできているだろうか。心が豊かでないといけない。
『今、世界で起こっていること』
・2100年には、地球の平均気温が6.4℃上昇すると言われている。森
がなくなることで生態系が変わってくる。
・1日に小豆島と同じ面積の農地や牧草地が砂漠化している。砂漠化すると、
食べ物が作れなくなる。
・1日に200種類の生物が消えている。
(絶滅している。)私も護国神社の
近くの大川でメダカを調べたが、いなかった。
・1日に2万4千人が空腹で餓死している。毎日起きていることなので、ニ
ュースに出てこない。日本でも餓死している人がいる。新聞などのメディ
アで出ている情報がすべてでない。
・1日あたりの所得が1ドル以下という貧困人口が10億人もいる。2ドル
以下の暮らしをしている人は30億人。現在、世界の人口は約70億人い
るので、その数の多さが分かるはず。
・1日に軍事費として2,500億円使われている。この中には、戦争に行
ってケガなどをした兵士の治療費も含まれている。私は暴力が嫌いである。
武器を使ったり、作るのをやめてほしい。
・世界の戦場で戦う子供兵が25万人いると言われている。そのうちの4
0%が女子。モザンビークは、世界中で初めて子供兵が生まれた国と言わ
れている。
・14秒に1人の子供はエイズが原因で親を失っている。残された子供は1
人で生きていかないといけなくなることもある。
・学校に行けない子供が6,100万人もいる。勉強ができるということは、
自分の未来を考える意味でとても大事である。
・人口比20%の先進国が地球資源の80%を使い、残り80%の国々で2
0%の資源を分け合っている。
アフリカ大陸には、54カ国の国々がある。
講師の活動している『モザンビーク』の説明
国旗の意味の説明。モザンビークの国旗の中にある銃がなくなればいいと思
っている。アフリカの国旗には銃がある国がいっぱいあったが、独立を果たし
てなくしていった。国旗の中に銃がある国はモザンビークだけとなった。モザ
ンビークから銃がなくなって平和になればいいなと思っている。1975年に
ポルトガルから独立した。2010年のデータによると、人口は約2,400
万人近くなっている。平均年齢は18歳。全人口の約1,000万人は14歳
以下である。若い人がどんどん生まれている。
モザンビークでは、『銃を鍬(くわ)へ』の活動をしている。内戦が終わっ
ていっぱい武器があったので、その武器を自転車、ミシン等と交換するプロジ
ェクトである。本当に武器がなくなっているので、応援しようと思った。松山
市には「放置自転車」の問題があった。この活動によって、松山の放置自転車
も約半減した。モザンビークと松山市とのいろいろな問題を乗り越え、人と人、
心と心でつながっていった。顔が見えるつながりができていった。
具体的に『銃からくわへ』とは
・モザンビークの武器と松山市の放置自転車を交換
・モザンビークの武器はほとんど爆破処理
・モザンビークでは自転車があると便利。学校に行ける。荷物が運べる。
・自転車と交換された武器の約5%は平和アートに変わる。アートは武器のな
い平和を訴えるために作っている。
首都マプトは、近代化が進み、空港や港も新しくなって経済成長している。
村は首都マプトとは対照的である。村の家は自分たちで建てている。とうもろ
こしも自分たちで作っているが、家畜に食べられないように上で作っている。
1日2回子供たちは、毎日水汲みで川に行っている。川にはワニやカバがいる。
大人も子供も助け合って共同生活している。小さな5、6歳の子供でもお手伝
いをしている。
そんな状況を見て、私は何か仕事ができないか考えた。そこで、自転車だけ
でなく、ミシンも送った。ミシンで、自分たちで作って売ることができるよう
になった。生活を自分たちで変えていくことができると思った。モザンビーク
の村は電気も水もなかったので、水汲みや薪を拾いに行くのに自転車は大切な
ものとなった。自転車がパンクしても、タイヤも縫って使っており、大事にし
ている。タイヤを縫って使うのを初めて見た。私たちは使えるものやいらなく
なったものはリサイクルやリユースせず捨てていないだろうか。私たち先進国
が世界の8割の資源を使っているので、その資源の使い方を考えないといけな
いのではないか。
現在、モザンビークの村に学校を建てている。鉛筆やノートも使えるように
なった。お父さんやお母さんが頑張って建てている。今はトイレもないが、少
しずつ出来上がってきているので、応援したい。モザンビークの子供たちは、
日本のことや松山のことに興味をもって、行きたいと言っている。私は、皆さ
んがだれかのために仕事をするようになってくれたらうれしいと思っている。
えひめグローバルネットワークの目指しているものは、あらゆる人々が、人
として平和に暮らせる持続可能な社会をつくっていくこと。途上国の人たちと
出会った時に、あまり「かわいそう」などと上から目線で見ない方がいいと思
う。自分の心に平和ができて、その気持ちを相手に伝えることができればいい
と思う。私が思う「平和」とは、日々のコミュニケーションを大切にして、相
手の気持ちを大切におもって付き合うことだと思っている。
自身が持参した武器アートなどの説明
3.児童からの質問(約 5 分)
Q:モザンビークの言葉の「カニマンボウ」の意味は?
A:「ありがとう」の意味。
Q:14秒に1人がエイズで亡くなるとあったが、送られる病院はあるの
か?
A:お金がなくて治療を受けられない人もいる。また、病院が遠いから行け
ない人もいる。そういった人たちが多い。
Q:武器アートは1つの銃だけでなく、いくつかの銃で作っているのか?
A:銃を切断して、部品を取り出して作るので、1つの銃から作るのはめ
ったにない。
4.児童代表からのお礼の言葉
日 時:平成 25 年 5 月 1 日(水)8:45~10:10
場 所:福音小学校 北校舎1階 ランチルーム
対 象:6 年生 119 名
語り部:田中 有男
1.教諭から語り部紹介
2.語り部体験談(約 70 分)
私は戦争でいろいろなことを体験した。命が助かって、82歳まで生きるこ
とができた。ただ、戦争によって食べる物や住む所などを無くし、辛い経験を
した。今や日本は世界から評価される国となった。日本には資源がないのに復
興できたのは、日本人が正直で一生懸命働いたからである。今日話すことを1
つでも覚えてもらい、皆さんの子供や孫に戦争の悲惨さや平和の大切さを語り
継いでもらいたい。
ハーモニカの演奏『ふるさと』
私たちが子供のときは、テレビもラジオがなかった。あるのはハーモニカぐ
らいだった。自己流で弾いて、いろいろな曲を覚えた。苦しいときや辛いとき
にハーモニカを弾いていた。
私は、山の中の生まれだった。11人兄弟の末っ子だった。小学校から中学
校へ行くのは、クラスに1人か2人ぐらいだった。今は、中学校に全員が進学
するのが当たり前になっている。こんな素晴らしいことはない。当時は、貧乏
でお金がないと中学校・女学校に行けなかった。私は、試験に合格して北予中
学に進学した。嬉しくて、中学に入学するのを楽しみにしていた。中学に進学
したのが、昭和19年の終戦間際だった。日本は相手にしてはいけないアメリ
カやイギリスと戦争をした。それまで日本は中国と戦争をしていた。最初は、
日本の勝ち戦だったが、半年もすれば形勢は逆転し、撤退が相次いだ。しかし、
日本は敗戦したことを国民に伝えなかった。とうとう日本は沖縄までアメリカ
に攻め込まれた。次に、アメリカは日本本土を焼け払った。ちょうど、その頃
に私は中学に入学した。今まで松山の上空は日本の飛行機ばかりだったが、今
の空港がある辺りに海軍の飛行場があったが、アメリカに飛行機を破壊され、
日本の飛行機が飛べなくなった。アメリカのグラマンが毎日のように飛んで来
た。
中学に入ったが、勉強どころではなく、毎日勤労奉仕だった。今の久米小学
校辺りに空港を造っていた。石などを埋めて、飛行機の滑走路を造った。モッ
コに土を入れて担いだり、石手川に石を取りに行ったり、芝生を取って滑走路
に敷いたりした。私たち中学2年生の仕事だった。勉強できるのは雨の日だけ
だった。お弁当はお米がないので、サツマイモだけだった。水筒もなく、近く
の家に水をもらいに行った。毎日久米小学校辺りに行っていたが、列車に大勢
が乗ると止まるので、歩いたりした。作業中にグラマンがよく飛んで来た。飛
行士の顔も見えるぐらいの近さだった。機銃掃射ほど怖いものはなかった。雨
が降ればいいなといつも思っていた。私たちの時代には、学校に行くのが嫌だ
とか登校拒否する人は1人もいなかった。英語は敵の言葉なので、教えてくれ
なかった。勉強したくてもできなかった。
1番辛かったのは食べる物がなかったこと。今では食べる物がありふれてい
るが、戦時中はお米がなかった。戦地にいる兵隊に米を送るので、国内は配給
だった。砂糖、塩もなかった。米が配給されたら、鍋に一掴み米を入れ、カボ
チャや葉っぱと塩を入れたものを食べていた。それは、雑炊のようでおかゆよ
りもっともっと薄かったが、おいしかった。ただ、すぐにお腹が空いた。
(松山大空襲の話)
昭和20年7月26日午後11時ごろに、寝ていたら、叩き起こされ、外を
見ると、真っ赤だった。隣の家が燃え上がっていた。アメリカのB29から焼
夷弾を落とされた。焼夷弾を消そうにも消えなかった。焼夷弾にはたくさんの
油が入っていて、落ちてくると、油が飛び散った。落ちた油に火が付くので、
辺りはすぐに燃え上がった。池の中でも川の中でも油なので、燃えていた。日
本の家屋は木造なので、すぐに燃えて、逃げるのが大変だった。私は、高浜線
の線路沿いに川があったので、川の中に潜って隠れ、2時間ぐらい空襲の様子
を眺めていた。アメリカのB29は約130機が松山の上空をぐるぐる回って
焼夷弾を落としてきた。城山も真っ赤に燃え上がっていた。アメリカは、爆弾
で攻撃するのはもったいない。日本の住宅が木造なので、焼夷弾で十分だと思
った。人々が逃げる前に松山の街をぐるりと油をまいていた。人間のすること
かと思った。それが戦争である。原爆もそうだが、人間を焼き殺してしまえと
いう考えだった。みるみるうちに燃え上がり、竜巻になった。まさに生きた地
獄だった。東京や大阪などの大都市だけでなく、松山や今治、宇和島まで空襲
を受けた。想像できるだろうか。
空襲が終わった後、同級生の家に行ってみた。毎朝、一緒に中学に通ってい
た友人だった。その友人の家は燃えてなくなっていた。玄関に防空壕があった
が、その中で、お母さんと小さな弟と3人で真っ黒焦げになって亡くなってい
た。当時の防空壕は、家の中に掘ったものが多く、燃えだしたらすべてが燃え
てしまった。その後、私は、兄が独身寮にいたので、確認に行った。兄たちは
逃げていなかった。ただ、独身寮の前に5人の遺体が並べてあった。中学の同
級生だった。首のない遺体もあり、服装の名札で誰かわかった。逃げようがな
かった。約2時間の空襲で、松山の街はすべて焼けてしまった。残ったのは道
後温泉ぐらいだった。
中学校もすべて焼けて、なくなっていた。グラウンドには、焼夷弾の不発弾
や燃えたカスが散らばっていた。水道から水が出たり、焼け跡が燃えていたり、
これでは勉強ができないと思った。
それから戦後の生活が始まった。家が焼かれて住む所がない人が多かった。
焼け跡からトタンや木材を引っ張り出し、寝泊りできる場所を造ったりした。
東日本大震災で起こった被害状況と同じようだった。焼けたお茶碗やヤカンな
どを引っ張り出して使っていた。
松山大空襲から約10日後の8月6日に、アメリカは広島に原爆を落とした。
たった1発の爆弾で10数万人が亡くなった。いまだに原爆により苦しんでい
る方もいる。何てひどいことをするのかと思った。広島の原爆は松山からも見
えた。北高校の校庭からも光が見え、爆音が聞こえた。3日後には、長崎も原
爆を落とされた。昭和20年8月15日に終戦を迎えた。
戦後は、戦時中よりも食べる物に苦労した。バッタやカエルやヘビなど食べ
られるものは食べた。みんな食べることに必死だった。お金も自由に使えない
ようになり、1人が使える額が決まっていた。今では、毎日卵や肉を食べるこ
とができる。当時は、肉を食べるのは1年に1回、卵は風邪をひいたときしか
食べられなかった。母たちは、自分の着物を米と交換してもらうなど苦労した。
お父さんは戦地に行って、傷ついて帰ってきたり、戦死して遺骨で帰ってきた。
私の父は、満州に行っていたが、終戦して5年間シベリアで強制労働させられ
た。何の連絡もなかったので、戦死したのではないかと思った。戦争が終わっ
てもひどい目にあった。日本がまともにご飯を食べることができるようになっ
たのは、昭和25年ぐらいだったと思う。
昭和25年になると、韓国と北朝鮮の朝鮮戦争が起こり、アメリカが日本製
品をいっぱい買ってくれて、日本の景気がだんだん良くなってきた。戦後、日
本が良くなっていったのは、戦争をしていたアメリカのおかげでもある。戦後
は、アメリカが食料や薬などを届けてくれた。日本は工場も焼かれてしまった
ので、機械を造ることもできなかった。そこで、アメリカが新しい技術を教え
てくれた。昭和28年にテレビ会社ができた。今の教育制度もアメリカのおか
げである。現在の義務教育で勉強ができ、給食があるというのは、とてもあり
がたいことである。当時は、女子生徒も勉強ではなく、勤労奉仕をさせられて
いた。
(松山大空襲被災後の市街地の写真を見せながら)空襲によって、建物は焼
けてしまい、県庁ぐらいしか残らなかった。今は、立派な街並みだが、想像で
きるだろうか。砥部辺りまで逃げた人もいた。途中で石手川や重信川で倒れて
亡くなった人もたくさんいた。牛や馬なども逃げて、途中で焼け焦げて死んで
しまったのもいた。こういったことがあったことも覚えておいてほしい。
防空頭巾を児童にかぶらせ説明
ゲートルの説明…包帯、おんぶ紐、タンカとしても使える。
草履を児童に履かせる。当時は、自分たちで草履を作っていた。
昔は、何もなかったので、自給自足の生活をしていた。また、お金もなく、
買うものもなかった。そういった時代があったことを覚えておいてほしい。私
が子供たちに言っていることは、物がたくさんあるから幸せとは限らないとい
うこと。何もなくても、幸せなこともある。家族が助け合って仲良くしている
ことが幸せである。家族がバラバラになってしまうと幸せではなくなってしま
う。現在、日本は世界で1番長生きしている国である。昭和5年の日本女性の
平均寿命が45歳だったが、今では80歳を超えている。今の日本人は、食べ
物がありふれて、食べすぎて体を壊している。
日本には資源がないが、人が資源である。そのことを頭に入れておいてほし
い。また、今では教育環境が整っているので、しっかりと勉強してもらいたい。
私が感じるのは、年を取ってからも勉強をしている人は長生きしていること。
学校を卒業してからも勉強を続けることが大事である。運動もしないと病気に
なる。
ハーモニカの演奏『蛍の光』
私は海外に行く時、ハーモニカを持って行く。ハーモニカを吹くと、外国人
は喜んでくれる。
3.質疑応答(約 10 分)
Q:グラマンの翼についていたマークは何か?
A:アメリカの飛行機には星のマークがついていた。
Q:田中さんは戦争に行ったのか?
A:私は、どうせ兵隊になるのなら、海軍兵学校に行きたいと思い、一生
懸命勉強していた。中学2年生のときに終戦になったので、海軍兵学
校に行けず、戦争にも行かなかった。当時、20歳になった男子は強
制的に兵隊に入らされた。私の兄は19歳で志願兵になって満州に行
った。手りゅう弾を持って、ソ連の戦車が来たときに爆発させる訓練
をしていた。道路に穴を掘って、手りゅう弾を持って、上をソ連の戦
車が通ると、信管を抜いて戦車を爆発させて、自分も死んでしまうよ
うなことをしていた。兄は1年間訓練した。ソ連は昭和20年8月9
日に満州に攻めてきた。日本とソ連はお互いに戦争をしない条約をし
ていた。兄も信管を抜いて、ソ連の戦車を爆発させて亡くなった。1
0代で沖縄に特攻隊に行った人もいた。
Q:今でも友人や兄弟で生きている人はいるのか?
A:今でも毎年、松山大空襲のあった7月26日になると、生き残った友
人と一緒に空襲で亡くなった友人のお墓詣りに行っている。
Q:当時、お金がなかったのに、どうやって戦車などを取り入れたのか?
A:国が国民から税金を徴収して、飛行機や船などを造った。国民はお金
がなく、食べる物もなかった。
Q:どうして命を投げ出してまで戦ったのか?
A:当時は、小さい時から、国のため、天皇のために命を捧げると教育さ
れてきた。教育とは怖いものである。私も小中学生のときは、自分の
命も惜しくないと思っていた。みんなが死ぬのなら、自分が死ぬのも
怖くないと思っていた。皆さんは想像もできないと思う。過去に小学
生から、
「なぜ、死ぬと分かっているのに、特攻隊に行くのか?」と質
問があったが、命令に逆らえば、後ろから撃たれたり、親や家族も監
獄に入れられていた。親、兄弟のことを考えると、拒否できなかった。
戦争に行きたくなかった人も多かったはずである。戦争が怖いのは、
行きたくて行くのではなく、無理矢理連れて行かれた。結婚したから、
子供ができたからといって拒否できなかった。
4.児童代表からお礼の言葉
日 時:平成 25 年 5 月 2 日(木)14:00~14:45
場 所:湯築小学校 多目的ルーム
対 象:6 年生 87 名
語り部:中山 淳
1.教諭から語り部紹介
2.語り部体験談(約 40 分)
私が生まれたのは1930年である。翌年の1931年には、日本は海外に
出て戦争を始めていた。長い間、外国と戦争をしていた時代が続いた。そして、
満州事変が起こった。小学校1年生のときに日中戦争が始まり、小学校5年生
のときには太平洋戦争が始まった。今のような平和な時代が続いていることは
とても幸せなことである。当時の湯築小学校辺りは、家1軒なく、畑や田んぼ
ばかりだった。私が小学校5、6年生のときには、稲刈りなどをやっていた。
働き手の若い人たちが戦争に行ってしまっているので、私たちのような小学生
も農家の手伝いをしていた。
当時は、全員が中学校へ進学できるわけではなかった。男子は中学校、女子
は女学校へ進学した。中学校の数も少なく、4、5人に1人ぐらいしか進学で
きなかった。今の大学試験よりも厳しかった。私は戦争で悲惨な体験をしたの
で、二度と戦争をしてはいけないと思っている。そういった話を皆さんにして
いきたい。
当時の戦争といえば、国外へ行ってするものと考えていた。(出征の説明)
当時、堀之内には陸軍の二十二連隊本部があり、兵隊がたくさんいた。兵隊で
ないと、入ることができなかった。訓練は練兵場でしていた。練兵場は塹壕が
掘ってあり、鉄条網が張りめぐらされ、グライダーの練習場もあった。中学生
になると、兵隊の訓練をしていた。女学生は、作業で兵隊の服を縫っていた。
兵隊が出征するときは、日の丸の旗を振って見送っていた。戦場から帰ってく
る時、先頭の人は戦争で亡くなった方の遺骨を持っていた。私たちは、日本国
内で戦争するのではなく、外国に行って戦争するものだと思い込んでいた。実
際そうではなく、後に大変なことがあった。
今の松山空港は、海軍航空隊の基地だった。今の3倍近い広さだった。零戦
や大きな爆撃機がいた。そこから沖縄救援のために爆撃機などが飛んで行った。
中学生になると、兵隊のような服を着て、実弾訓練も行った。中学2年生にな
ると、午前中授業を受け、午後になると1台のトラックに乗せられ、海軍航空
隊基地に行って、土のうを積んで戦闘機を格納する掩体壕を造る作業を行った。
昭和20年3月になると、グラマン機が何十機もやって来た。5月末の沖縄
戦闘が終わるまでグラマンは飛んで来た。低空飛行だったので、アメリカの操
縦士の顔が分かるぐらいだった。何度も何十機もやって来て航空隊の基地を攻
撃してきた。また、瀬戸内海上にてグラマン機と零戦の空中戦があった。後ろ
につかれると撃たれるので、上空で旋回していた。4、5月になると、航空隊
基地から沖縄援護のため多くの爆撃機や戦闘機が向かっていた。無傷で帰って
くる飛行機ばかりでなく、敵の戦闘を受け、足の出ない飛行機もいた。足の出
ない飛行機はガソリンを抜くために上空を回って、着陸するときはひっくり返
った。また、片方の足しか出ない飛行機もあり、羽の先でくるりと円を描くよ
うに止まった。仲のいいパイロットに爆撃機に乗せてもらったが、トイレがな
かった。聞いてみると、猫の砂箱のようなものがあり、トイレ代わりに使って
いた。いらないものは排除し、少しでも軽くし、爆弾をたくさん積むため。
中学3年生になると、新居浜の軍事工場に行った。5月下旬頃、空襲に遭っ
た。朝起きて、警戒警報が鳴った。みんな寮へ戻り、防空壕に隠れた。目の前
にカラスの急降下のようなものを見た。それが爆弾だった。目の前がピンクの
ように光った。猛烈な爆風に吹き飛ばされた。一緒にいた友人5人のうち3人
が弾片により負傷した。お腹が痛い、背中が痛いと友人はうめいていた。私は、
必死に応急処置した。近くに墓があり、弾片が墓に当たると割れてしまうぐら
いの威力だった。田んぼに落ちた爆弾を見ると、円すい形になっていた。硬い
所に落ちると、弾片は飛び散ってしまう。近くで少年工が頭をぱっくり割られ
て即死しているのを見た。その時、初めて人の脳みそを見た。爆弾はすごい殺
傷能力があった。
当時、「月月火水木金金」という歌があり、1週間休み無く、毎日軍事工場
で働いていた。時々、まとめて3日ほど休みがあり、7月25日に休みになっ
たので松山に帰っていた。翌日の26日の夜に松山大空襲があった。
(松山大空襲の話)
当時は、夜になると、電球に黒いカバーをして、部屋の電気を落として暗く
していた。夜11時過ぎごろにサイレンが鳴りだした。通常は、まず警戒警報
が鳴り、敵が攻めてくると空襲警報に変わる。松山大空襲のときもそうであっ
た。木屋町辺りに様子を見に行っていたが、町内会より逃げるように言われた
ため、今の済美高校辺りを通って、石手川の土手まで逃げた。逃げる途中に、
火がどんどん迫ってきて、大変だった。(模型を使って焼夷弾の説明)鉄の筒
でできていた。焼夷弾はB29が使った。重さが約3キロ。36本の束で落と
された。中にはドロドロの油が詰まっていた。飛び散ったときに火が付くよう
な仕組みだった。36本が束になって落ちてくるため、大雨のときのような音
がした。かなりの範囲で火の玉になって落ちてきたので、怖かった。直撃しな
ければ死ぬことはなかったが、当時は平屋か2階建ての木造家屋が多かったの
で、屋根を突き抜けるぐらいの威力だった。
空襲から2日後、自宅に行くと、防空壕の入り口に空になった焼夷弾が6発
刺さっていた。街の中心地にはたくさんの焼夷弾が落ちていた。空襲はまるで
花火のようだった。焼夷弾と爆弾が一緒に落とされると、さらに死者が増えて
いたかもしれない。翌日の新聞では、60機のB29が松山に飛んで来たとあ
ったが、アメリカの資料では128機飛来したとあった。B29を撃ち落とす
ことができればよかったが、4、5月で多くの戦闘機を失っていたと思う。
松山には、現役兵士であった水野広徳さんという戦争反対者がいた。これか
らの近代戦争は、子供や女性など戦争に関係のない人たちまで巻き込んでしま
うので、絶対戦争をしてはいけないと唱え、軍人を辞めさせられた方である。
第1次世界大戦のときに、ヨーロッパの惨状を見てきたため、戦争をしてはい
けないと唱えた。事実、日本は世界に証明した。広島、長崎の原爆では多くの
方が亡くなった。
全国の300近い市町村が焼け野原になるぐらい攻撃を受けた。私は、空襲
後に焼け跡に行くと、板切れ1枚無かった。燃える物はすべて燃えてしまった。
広島出身の友人がいたので、原爆に遭い、気になり、戦後間もないときに広島
に様子を見に行った。原爆の跡を見た。松山の街も空襲により灰になって何も
無かったが、広島ではものすごい力が加わった関係かもしれないが、レンガや
ブロック塀が壊され、ガラクタになっていた。広島に行った際は、松山での空
襲の跡との違いを見て来てほしい。
3.児童からの感想(約 5 分)
・今日の話を聞いて、焼夷弾と爆弾の違いが分かり、どちらも恐ろしいも
のだと思った。
・戦争のことはよく分からなかったが、戦争の悲惨さがよく分かった。
日 時:平成 25 年 5 月 7 日(火) 10:40~11:40
場 所:高浜小学校 本館3階 特別教室
対 象:6 年生 55 名
語り部:愛原 章
1.教諭より語り部紹介
2.語り部体験談(約 50 分)
(事前に児童に配布したレジュメに沿って話を行う。)小学校入学する前の年
の昭和16年に大東亜戦争が始まった。戦後は太平洋戦争と呼ぶようになった。
父が呉の海軍工廠(船の改修などしていた)に勤めていたので、呉の小学校へ
入学した。当時は小学校を国民学校と呼んでいた。小学校6年と高等科2年ま
でが義務教育だった。小学校卒業して働きに出る人も多かった。今とは違う教
育制度だった。私が小学校に入学したときは、真珠湾攻撃などで日本は勝ち戦
が続いていた。昭和18年になると、形勢が悪くなってきた。昭和20年8月
15日に終戦を迎えた。アメリカやイギリスなどに無条件降伏した。私が小学
校4年生までは戦争中だった。4年生の後半から戦後となった。分からないこ
とがあれば、今ではインターネットで調べることができると思う。
当時の学科の「修身」というのは、天皇陛下のお言葉を勉強することやみん
なで仲良くしましょうとか当たり前のことを学んだ。当時、弱い者いじめをす
ると、先生にひどく怒られた。また、体操も今のようなものではなく、相撲を
とったり、竹のはんとう棒を上まで登る競争などしていた。音楽は、今ではド
レミファだが、当時はハニホヘトイロハと言っていた。戦後にドレミと変わっ
た。楽しみは、放課後に山に登って呉の軍港をのぞくことだった。見つかった
ら怒られるので、腹ばいになって見ていた。船が何隻いるとか、航空母艦や軍
艦がいるとか友達とのぞいていた。変わった遊びでは、山の近くの池ではトン
ボやオニヤンマなどがいたので、トンボを捕まえていた。
昭和19年4月に、父に召集令状が来た。村長より電報が届いた。兵隊に行
く人はお守りを持たせた。働き手の父が戦争に行ったので、一家は6月に松山
に来た。百姓だった伯母の家に身を寄せさせてもらい、百姓の手伝いをしてい
た。
小学校4年生になった昭和20年7月26日に松山大空襲に遭い、街は大変
な被害を受けた。B29がやって来て空襲を受けた。B29はB787の半分
ぐらいの大きさだった。B29は当時世界で1番大きかった。サイパンから何
時間もかけてやって来て、爆弾を落として帰って行った。高浜や三津は被害が
少なかったと思うが、西から飛行機がやって来て、東へ向いて焼夷弾を落とし
ていった。落ちた時は、爆弾とか焼夷弾とは分からなかった。焼夷弾の中は油
脂のかたまりが詰まっていた。落ちると、下の火薬が爆発して、中の油が噴き
出た。家や人に付着すると焼き尽くされた。焼夷弾や爆弾をB29は積んでい
た。松山に128機ぐらいB29が飛んで来たと言われている。1機あたり約
2,000個もの焼夷弾を落としたと言われている。上空3,000メートル
ぐらいまで飛行機が降りてきて、1,000メートルぐらいになると、大きい
爆弾が破裂して、36~48個ぐらいの小さい爆弾が落ちてきた。焼夷弾には
リボンが付いていて、自然に発火して落ちてきた。火のかたまりが落ちてくる
ような感じだった。空襲の炎によって、飛行機が赤く見えた。
2時間余りの空襲によって、西は朝美や南江戸、南は石手川、東は上一万、
持田、旭町、北は山越から清水町まで焼けた。城山は上手に残された。また、
城山近くの陸軍病院は焼け残った。終戦間際になると、負傷した兵隊が桑原国
民学校に収容されて、私たちは近くの神社で勉強していた。空襲する前に予告
ビラを巻いていた。市内の人たちが田舎に行くことを警察は嫌っていた。警察
より「逃げるのか。」と言われて、市内に残った人もいたようだ。7月26日の
午後11時過ぎから翌朝1時過ぎまでの2時間B29が続々とやって来て、空
襲を受けた。西からやってきて、南東に向けて空襲を行い、B29は高知の方
へサイパンに向けて帰っていた。この空襲により251名の方が亡くなったと
言われているが、それ以上の方が亡くなっているのではないかと思う。私も調
査をしているが、約350名の方が亡くなっていることが分かってきた。軍関
係者となると、なかなか名前がつかめない。推定では500~600名の方々
が亡くなっているのではないかと思う。
私は畑寺に住んでいたが、近くの竹やぶにあった防空壕に隠れていた。呉の
ときは、家の下に防空壕があったが、爆弾を受けると蒸焼になってしまう。空
襲警報が鳴ると、防空壕に隠れた。警戒警報が鳴ると、学校も終わり、集団下
校になった。空襲警報が鳴ると、撃たれるか空襲を受けた。当時、防空頭巾は
必需品で、必ず手元にあった。効果があったかどうか分からない。隠れる際は、
目を押さえ、鼓膜が破れないように耳を押さえて、防空頭巾を被って伏せてい
た。このことは子供の頃から訓練で行っていた。
艦砲射撃は、空に向かって敵を撃つこと。夜になると、敵が見えにくいので、
探照灯を照らして、敵の飛行機を狙って撃っていた。B29は上空1万メート
ルを飛んでいたので、なかなか当たらなかった。下の方で破裂して、破片が落
ちてきた。吉田浜から艦砲射撃を撃って、破片が私の住む畑寺に落ちてくるこ
ともあった。防空壕に逃げたものの蒸し焼きで亡くなった人もいた。
全国では、松山のように空襲を受けた都市は200ぐらいあった。空襲によ
り焼け野原から復興するのに時間がかかった。
松山大空襲により、市役所の一部や日銀などは焼け残った。呉にいたときは、
下駄を履いていたが、当時はわら草履を履いていた。自分で作っていた。空襲
後に、少しの街中に入ってみた。入ったところ辺りにラムネ屋さんがあった。
ラムネの瓶が山積みになっていた。当時、めったに飲めないラムネだったので
もったいないと思った。
空襲は飛行機が爆弾や焼夷弾を落とすだけではなかった。松山ではなかった
が、海から艦砲射撃を受けたところがあった。被害が大きかったのは、浜松や
清水、日立、釜石、室蘭など軍艦の兵器を造っているところが狙われた。陸か
ら船が見えるところまで近寄ってきて撃たれたこともあるという。また、瀬戸
内海などの海には機雷を落とされた。機雷によって、船を沈められた。
爆弾を落とされたのは、海軍航空隊基地のあった吉田浜辺りだった。吉田浜
には予科練の兵舎などもあったので、狙われた。吉田浜や垣生辺りでは、爆弾
で亡くなった人も多い。5月8日頃だったと思うが、爆撃により70名ぐらい
の方が亡くなった。
7月26日が明けると、市内から畑寺の方にも逃げてきた人が多かった。お
年寄りや女性が多かった。着る身着のままで、やかんを持ってきたり、刀を持
った人もいた。ほとんどの人たちが裸足だった。稲の収穫時に使う納屋などで
暮らしていた。私が身を寄せていた伯母の家にも3世帯ほどの家族を受け入れ
た。
しばらくして、8月15日の終戦を迎えた。昼ごろに天皇陛下のお話しがあ
ると聞いた。伯母の家にはラジオがあったが、当時はラジオがある家は珍しか
った。近所の人たちがたくさん集まって天皇陛下のお話しを聞くことになった。
玉音放送といって、子供だったのでよく意味は分からなかったが、日本が戦争
に負けたことを知った。戦争が終わったので、兵隊が帰ってくると思った。当
時、ラジオは第1放送しかなかった。たまに臨時ニュースがあったが、日本が
戦争で勝ったというときぐらいだった。第2放送ができたのが、戦後しばらく
経ってからだった。
当時は非常に物の不自由な時代だった。金物、鉄、銅、貴金属など供出で国
におさめていた。私たちが使うもので、鉄製品がほとんど無くなっており、代
わりに陶器などを使っていた。
暮らしの中で、電気は灯りをつけたり、ラジオを聞いたりしか使えなかった。
ご飯は薪で炊いていた。薪をとりに行くのは、子供の仕事だった。お風呂も井
戸水を汲んでたいていた。手間がかかることばかりで、今とは全然違う状況だ
った。子供がする仕事も多かった。
戦後初めての電化製品はコンロだった。それから徐々に電化製品ができてい
った。戦後の教科書は、戦争に関係する部分は墨で黒く塗られていた。私が中
学校に入ってから、まともな教科書ができた。
高浜から広島の原爆の雲が見えたと思う。私も山の方から見えた。原子爆弾
と言われたのは、戦後からずいぶん後だった。当時は、新型爆弾と呼ばれた。
2.質疑応答(約 5 分)
Q:お父さんは帰ってきたのか?
A:伯父とともに戦死してしまい、帰ってこなかった。戦地に行った人の約
3割が帰ってくることができなかった。
Q:どうやって助かったのか?
A:弾に撃たれなかったこと、食べるものがあったこと、病気にもならなか
ったことがあると思う。当時は、病気で亡くなった人が多かった。
Q:原子爆弾の大きさはどのくらいか?
A:大きなカボチャぐらい。
Q:戦争が終わった後、残っていた建物は何か?
A;県庁の建物。昔から変わっていない。市役所は一部焼けてしまった。
Q:原爆でどんな被害があったのか?
A:原爆のニュースはだいぶ後になってから入ってきた。日本も原爆の開発
をしていたが、間に合わなかった。軍の上層部は原爆の特性など知って
いたと思う。
Q:戦争を体験して、どう思ったか?
A:「欲しがりません。勝つまでは。」と軍人のような気持ちだった。普段、
誰も軽々しく天皇陛下のことを口にすることはなかった。
3.児童よりお礼の言葉
日 時:平成 25 年 5 月 7 日(火)13:50~14:35
場 所:石井小学校 体育館
対 象:6 年生 145 名
語り部:田中 有男
1.校長から語り部紹介
2.語り部体験談(約 30 分)
私は82歳になった。私の妻は石井小学校の卒業生で、当時は石井村だった。
妻の父は石井村の村長をしていた。私は10年近く松山市内の小中学校で戦争
体験談を話している。昭和20年7月26日に松山は大空襲を受けて、焼け野
原になった。その空襲は石手川より中心部にかけて受けたが、石井村も少し被
害を受けた。当時、石井に住んでいた妻は助かったが、家は焼けてしまった。
小学校3年生の時に大空襲を受けた話を妻がしていた。今日の話を聞いて、み
なさんも戦争はしてはいけないと後世に伝えてもらいたい。日本は戦争に負け
て、ひどい目にあったが、その後戦争をせず平和だったので、世界でも豊かな
暮らしをすることができるようになった。
私は終戦1年前に松山の中学に入学した。現在、皆さんは全員中学校へ入学
することができるが、当時は貧しい家庭では中学へ行くことができなかった。
私は久万で生まれ、11人兄弟の末っ子だったので、父より「うちは貧乏だか
ら、お前に財産を与えることはできない。勉強したかったら、中学には行かせ
てやる。」と言われ、一生懸命勉強した。一生懸命勉強したおかげで、松山の
中学に合格することができた。
当時、日本は世界で1番強いアメリカとイギリスに戦争を仕掛けた。戦争を
起こした原因はいろいろな説があるが、戦争をしたことは事実である。開戦し
て半年は、日本が勝ち戦をしていたが、1年も経つとアメリカは戦艦や船を整
備して、反撃にあった。日本は防戦一方になり、武器や弾薬、食べ物、薬もな
かった。兵隊が死んでいき、各家庭の父や兄が兵隊に召集され、倒れていった。
日本は追い詰められて、沖縄を占領された。アメリカは太平洋上の島に飛行
場を造り、日本本土を攻撃しようと考えた。毎日のようにアメリカの飛行機が
やって来た。日本の家屋は木や紙で造られていていたので、油で焼き尽くすこ
とを考えた。東京や大阪、名古屋などの大都市は焼かれた。県内でも松山の他
にも今治、宇和島、新居浜が焼かれた。松山の上空にアメリカの戦闘機や爆撃
機が来て、空襲を行った。アメリカのグラマン機が、子供たちが下校している
途中に機銃掃射をしていたこともあった。いつアメリカの飛行機に撃たれるか
分からなかったので、怖かった。
中学生になると、毎日勤労奉仕でモッコを担いで飛行機の格納庫を造りに行
っていた。勉強できるのは雨の日だけだったので、雨が降ればいいのにと思っ
ていた。戦時中は食べる物もなく、おにぎりもなかった。米や砂糖、塩も配給
制だった。大きな鍋に一掴みの米を入れ、カボチャや葉っぱと塩を入れたもの
を食べていた。それは、雑炊のようでおかゆよりもっともっと薄かったが、お
いしかった。ただ、すぐにお腹が空いた。お弁当には米が入ってなかったので、
米ほどありがたいものはないと感じた。卵を食べられるのも、風邪をひいた時
ぐらいだった。肉を食べるのは、お正月の年1回だけだった。私たちの年代で
集まると、食べ物に困るから戦争だけはしてはいけないと話す。食べる物がな
いことほど辛いことはなかった。私は食べ物に困る時代と有り余る時代を生き
てきた。
松山大空襲があったのは昭和20年7月26日の午後11時頃だった。私は
寝ていたが、目の前が真っ赤になった。家の前に焼夷弾が落ちて、燃え上がっ
た。(焼夷弾の説明)焼夷弾にはたくさんの油が入っていて、落ちてくると、
油が飛び散った。落ちた油に火が付くので、辺りはすぐに燃え上がった。池の
中でも川の中でも油なので、燃えていた。アメリカのB29が大量の焼夷弾を
積んで、約130機ものB29が松山にやって来た。松山市街は火の海となり
地獄だった。私は高浜線沿いの川の中に隠れて、約2時間アメリカによる空襲
の様子を眺めていた。危なくそこから出ることができなかったが、何とか無事
だった。近所に友人がいたが、友人の家に行くと、すべて焼けていて、友人と
弟と母の3人が入口で真っ黒焦げに焼けていた。その光景を見て、本当に許せ
ないと思った。私の兄も市内の寮に下宿していたので、様子を見に行くと、兄
はいなかった。そこには5人の遺体が並べられていた。その5人は防空壕に隠
れていたが、上から焼夷弾を落とされて逃げることができなかったようだ。空
襲がいかに恐ろしいか思い知った。
戦争は兵隊同士の戦いだと思っていたが、そうではなかった。年寄りだろう
が、子供だろうが殺された。皆さんはそんな無茶なことができるだろうか。皆
さんは松山の街が焼け野原になったことを想像できるだろうか。学校で語り部
をした後に感想文をもらうと、松山が空襲にあったことを知らない人が多い。
松山大空襲があった10日後に広島に原爆を落とされた。3日後には長崎に原
爆を落とされた。広島に修学旅行に行った際は、原爆の悲惨さを学んできても
らいたい。
戦争によって学校が焼けてしまったが、何より苦労したのが食べる物がなか
ったことである。バッタやヘビまで食べた。戦後になると、さらに食べ物が不
足した。飢え死にする人がたくさんいた。母親たちは、自分の着物を農家に持
って行き、米と交換してもらったりした。米が食べられるようになったのは、
昭和25年ぐらいだったと思う。それまでは本当に苦労した。
私が勉強で東京に行った時は、駅には親を亡くした子供たちがたくさんいた。
現在では、中学校には誰でも行くことができるし、給食もあり、こんな恵まれ
たことはない。また、世界中から日本人は評価されている。こんな立派な環境
で毎日勉強できることがいかにありがたいことか感じてもらいたい。皆さんに
は、日本だけでなく、世界のために役立てる人間になってほしい。
ハーモニカの演奏『ふるさと』
防空頭巾を児童にかぶらせ説明
私が中学校へ入学すると、少年兵としてゲートルを巻いて登校した。
ゲートルの説明…包帯、おんぶ紐、タンカとしても使える。
3.質疑応答(約 15 分)
Q:配給は誰が配るのか?
A:町内会の人が配る。配給を受けてもほんのわずかだった。よく食べた
のがサツマイモだった。当時は学校の運動場でサツマイモを栽培して
いた。
Q:戦時中苦労したことは?
A:食べられるものは食べた。おいしかったのはカエルとヘビだった。サ
ツマイモの茎なども食べた。
Q:雨の日に勉強ができると言っていたが、晴れの日の様子は?
A:晴れの日は、アメリカの戦闘機が来て暴れまわっていた。当時はいつ
死ぬかわからなかった。人間にとって1番大切なのは命である。しか
し、戦争ではその命が奪われる。そんなことが許されていいと思うだ
ろうか。戦争は絶対にしてはいけない。人を殺すのが戦争であり、そ
んな恐ろしいことはない。
Q:空襲によって松山ではどのぐらいの死者が出たのか?
A:はっきりとは分からないが、300名ぐらいの方々が亡くなったので
はないか。石手川や小野川には亡くなった方がたくさんいた。市内に
は逃げる所がなくて、市内から森松の方に逃げていた。
Q:広島に原爆が落ちたことをどのように知ったのか?
A:広島の原爆雲が松山からも見えた。音も聞こえた。広島と松山の距離
がいかに近いかというよりも原子爆弾の威力がすごかった。
Q:空襲により家が無くなった人はどうしていたのか?
A:焼け跡からトタンを引っ張り出し、寝泊りできる場所を造ったりした。
また、焼けたお茶碗やヤカンなどを引っ張り出して使っていた。空襲
に遭い、食べる物も着る物もすべて焼かれてしまい、何もなかった。
戦後驚いたことが、アメリカ軍が松山に入ってきて、さっそうとジープが
入ってきたことだった。それまで、私たちは松山でトラックや車を見たこと
がなかった。私たちは食べる物がなく、竹やりで訓練をしていたぐらいだっ
た。20歳になれば兵隊に行くことができたが、私の兄は19歳で志願して
兵隊に行った。兄は満州に行き、道路に穴を掘って、ソ連軍の戦車が上を通
ったら、手りゅう弾を持って信管を抜いて爆発させた。自分が犠牲になって
ソ連の戦車を破壊させた。10代で沖縄に特攻隊に行った人もいた。現在は
平和な世の中なので、皆さんにはしっかり勉強をして良い人生を送ってほし
い。
4.児童代表からお礼の言葉
日 時:平成 25 年 5 月 9 日(木)9:30~10:15
場 所:北条小学校 南校舎1階 会議室
対 象:6 年生 71 名
語り部:松友 順三
1.校長から語り部紹介
2.語り部体験談(約 40 分)
今日は主に2つの話を中心に行いたいと思う。1つは広島の原爆のこと。も
う1つは、今との家族構成の違い。私が生まれてからずっと戦争が続いて、戦
地に行って、父がいない家庭が多かった。祖父母と母と子の家族構成が多かっ
た。学校の朝礼で、クラスの子の父が戦死したことが知らされ、授業が始まっ
た。私の父も40歳のときに召集令状の赤紙が届いた。戦争が嫌と拒否するこ
とはできなかった。太平洋戦争により、約300万人もの方々が亡くなったと
言われている。そのうち、200万人が兵隊、100万人が一般人。戦争は一
般人まで巻き込まれてしまう。沖縄戦闘や空襲や爆撃により亡くなった人もい
る。
なぜ広島に原爆が落ちたか。アメリカは原爆を落とした前後の被害状況を調
べなければならなかった。広島にはアメリカの捕虜がいなかった。広島以外に
も原爆を落とす候補地が新潟、小倉、長崎などあった。B29という爆撃機が
原子爆弾を積んで広島にやってきた。まず、警戒警報が鳴ったが、解除された。
今日は空襲がないと思ったら、昭和20年8月6日8時15分に原爆を落とさ
れた。地上800メートルで爆発した。普通の爆弾と違い、温度が数千度で、
焼かれるというレベルではない。北条からも広島のキノコ雲が見えたと思う。
詳しくは広島に行った際に調べて欲しい。3日後には長崎に原爆が落とされた。
当初、小倉に落とすつもりだったが、曇っていたため長崎に落とされた。広島
は当時人口が約35万人だった。原爆により約15万人もの方々が亡くなった。
その後、後遺症になった人もおり、数十万人もの方が犠牲になった。当時は、
その後50年は草木が生えないと言われたが、今では広島は復興を遂げている。
昭和16年12月から当時でいう大東亜戦争が始まったが、日本は、A:ア
メリカ、B:イギリス、C:中国、D:オランダのABCD国(それぞれ国名
を英語にした頭文字をとって)と戦った。日本は資源がなかったので、資源を
求め、東南アジアなどに進出しようとした。しかし、アメリカなどに包囲網を
敷かれた。昭和16年12月8日朝、ラジオから臨時ニュースで「西太平洋上
にて、米英軍と戦闘状態に入れり」と流れた。何のことか分からなかった。西
太平洋がハワイとは分からなかった。初めは、日本が勝ち戦だった。マレー半
島を占領し、イギリスに勝利したと報道があった。勝利した報道があれば、ち
ょうちん行列をしていた。ミッドウェー海戦を機に攻勢が変わった。優秀なパ
イロットが多数戦死してしまった。各地で敗退、撤退が続き、日本各地で空襲
が起こるようになった。北海道を除く日本各地のほとんどの都市で爆撃を受け
た。
アメリカは、B29から焼夷弾を落としてきた。(焼夷弾の模型で説明)六
角形で重さが3キロある。36本が束ねられて落とされた。焼夷弾の中にはゼ
リー状の油脂が入っている。その油脂はとても臭かった。落ちると信管がはじ
けて、油脂が出てくる。油脂に火が付くと、火の海となる。水の中でも燃えた。
なぜ、アメリカは爆弾ではなく、焼夷弾を使ったか。アメリカは、焦土作戦で
日本の木造家屋を焼き尽くすために使った。東京大空襲では約13万人もの方
が亡くなった。
(松山大空襲の話)松山大空襲は、昭和20年7月26日の夜11時から翌
朝1時半に起きた。アメリカもビラを落として空襲してくるのは予告していた。
ただ、先生らによってビラを回収された。愛媛では、他にも今治、新居浜、宇
和島などでも空襲を受けた。
皆さんは寝る時にパジャマに着替えると思うが、当時はいつでも外に出てい
けるような格好をして寝ていた。また、外は真っ暗だった。外灯も落としてい
た。家には裸電球が1つあるだけで、黒い幕で覆っていた。光がもれると、空
襲を受けてしまう。初めに警戒警報が鳴り、しばらくすると空襲警報に変わっ
た。空襲警報は赤信号のようなもので敵が来たことを知らせた。
(当時の松山市街図を見せながら)私は、防空壕に隠れていたが、古町に1
発目の焼夷弾が落とされた。B29は128機来たと言われている。1機あた
り約8トンもの焼夷弾を積むことができた。城山を中心に空襲を受けた。田ん
ぼの中にも焼夷弾が落ち、燃えていた。松山大空襲により251名が亡くなり、
行方不明が8名だった。負傷者が800~900名だった。当時の松山の人口
が約12万人だったが、53パーセントが罹災した。26,000戸あった家
の55パーセントが焼けた。被災者数は実際さらに多いと思う。空襲を受けて、
残った建物は、県庁、市役所ぐらいだった。松山の街は東日本大震災のような
ガレキの山となった。私が罹災証明を受けるために市役所に行く途中、ムシロ
をかけられた遺体が並んでいた。四国で最もひどかったのは高松で、2000
人もの方が亡くなった。
戦争を行うと、止まらなくなる。良い戦争も悪い戦争もない。戦争は、殺す
か殺されるかで、理性がきかなくなる。戦争はブレーキの無い自動車のような
もの。戦争を1回やりだすと、やめられなくなるぐらい怖いものである。過去
に実際戦争があったことを覚えておいてもらいたい。
日 時:平成 25 年 5 月 10 日(金)9:30~10:15
場 所:浅海小学校 本校舎2階 多目的室
対 象:6 年生 4 名
語り部:竹内 よし子
1.教諭から語り部紹介
2.語り部講話(約 40 分)
広島はなぜ世界中の人たちに知られているのだろうか?
→広島と長崎に原爆を落とされた。世界中の人たちが広島から平和を学ぼう
としている。皆さんは修学旅行で広島に行った際、いろいろなことを学ん
でもらいたい。
『平和』とは。
・どんな色をイメージするか児童に問いかける。
→児童よりオレンジ、黄緑、黄色、と声が上がる。
・次にどんな形をイメージするか児童に問いかける。
→丸い、四角と声が上がる。
平和の反対というと、戦争である。
『平和』にはどんな意味があるか、字について説明。アジアの農耕民族から
生まれたと言われているが、『和』は、みんながちゃんとごはんを食べられる
ことを指す。
『今、世界で起こっていること』
・2100年には、地球の平均気温が6.4℃上昇すると言われている。3.
6℃上昇すると、ブナ林(=森のダム)がずいぶんと減ってしまう。
・1日に小豆島と同じ面積の農地や牧草地が砂漠化している。
・1日に200種類の生物が消えている。
(絶滅している。)私も護国神社の
近くの大川でメダカを調べたが、いなかった。外来種がいた。
・1日に2万4千人が空腹で餓死している。
・1日あたりの所得が1ドル以下という貧困人口が10億人もいる。2ドル
以下の暮らしをしている人は30億人。アフリカのモザンビークでは、1
ドル以下の暮らしをしている人が全体の半数以上いると言われている。
・1日に軍事費として2,500億円使われている。ミサイルや核開発に使
われている。
・世界の戦場で戦う子供兵が25万人いると言われている。そのうちの4
0%が女子。モザンビークでも戦争をしていたが、20年前に戦争は終わ
った。子供兵だった人たちが大人になっても、苦しんでいる。
・14秒に1人の子供はエイズが原因で親を失っている。
・学校に行けない子供が6,100万人いる。
・人口比20%の先進国が地球資源の80%を使い、残り80%の国々で2
0%の資源を分け合っている。
講師の活動している『モザンビーク』の説明
世界中で国旗の中に銃があるのは、モザンビークだけ。早く国旗から銃が無
くなればいいと思う。ポルトガルに支配されていて、戦争により独立した。独
立した後も内戦があった。モザンビーク製の武器はなかったが、外国の大量の
武器が残されて困った。
モザンビークでは、『銃を鍬(くわ)へ』の活動をしている。5年前に初め
て愛媛にモザンビークの大統領が来た。
松山市には「放置自転車」の問題があった。モザンビークと松山市とのいろ
いろな問題を乗り越え、人と人、心と心でつながっていった。
具体的に『銃からくわへ』とは
・モザンビークの武器と松山市の放置自転車を交換
・モザンビークの武器はほとんど爆破処理
・モザンビークでは自転車があると便利。学校まで10キロから20キロも歩
いて通学する子供もいたので、学校に自転車で行けるようになった。
・自転車と交換された武器の約5%は平和アートに変わる。残りの95%は爆
破処理する。
モザンビークで内戦があったころ、鉄の雨が降っていた。空が自由になった
ことが平和を象徴している武器アートを作った職人もいる。私たちは14年間
『銃からくわへ』の活動をしている。今までに、7回で約70台の自転車をモ
ザンビークに送っている。
首都マプトは、近代化が進み、ヨーロッパのポルトガルのような街並みにな
っている。また、インフラ整備も進んでいる。村は首都マプトとは対照的であ
る。私たちはボンドイア村と交流している。村の家は自分たちで建てている。
とうもろこしも自分たちで作っているが、家畜に食べられないように上で作っ
ている。自分たちで持続可能で循環可能な社会で生きている。私たちはスーパ
ーで食料を買って食べるが、彼らは自然の中で食料を得ている。1日2回子供
たちは、毎日水を汲みに行っている。それでもみんな不満を言う人はいなかっ
た。現地の子供たちは、水汲みするより学校に行くことが楽しい。私は、そん
な子供たちをみて「たくましい」と感じた。
アフリカでは井戸を掘るのも大変。雨が降らないので、地下100メートル
ぐらいまで井戸を掘る。モザンビークでは、病気を運ぶマラリアの蚊が怖い。
マラリアの蚊で死んでしまう人が多い。
モザンビークの道は荒れているところが多いので、自転車がよくパンクする。
タイヤも縫って使っており、大事にしている。鉛筆も最後まで使い切る。
現地の「カニマンボウ」という言葉があるが、「ありがとう」という意味で
ある。モザンビークの子供たちは、最初草のつるで長縄をしていたが、私たち
が支援物資で長縄を送った。回し方も日本とは違う。
えひめグローバルネットワークの目指しているもの。銃をなくし、安全にす
る。鍬や生活物資の支援を行い、貧困からの脱却を目指す。例えば、本を送っ
たり、自転車を直す工具を送り、自分たちで生活ができるようにする。あらゆ
る人々が、人として平和に暮らせる持続可能な社会。
3.児童の質問・感想(約 5 分)
Q:なぜ戦争が始まったのか?
A:モザンビークは、ポルトガルに支配されて、白人に農業を強制され、で
きたものは白人に取られた。支配される国との貧富の差が出てきた。1
960年から1970年代にアフリカの国々が独立するために戦争を
始めた。皆さんも広島に行った際、なぜ広島に原爆が落とされたのか調
べてきてほしい。
Q:モザンビークの子供たちは、苦しい生活を送っていると思うが、笑顔を
見せることはあるのか?
A:自然に囲まれて生活しているので、たくましい。モザンビークを貧しい
と思うのは、日本のような先進国と比べるから。その中で生活がうまく
いっている時は幸せで、学校に行くことがうれしい。縄跳びを持って行
って、遊んだときもうれしそうだった。
・武器アートを作ることはすごいと思った。武器もなくなるのでいいこと。
松山の放置自転車を送ると受け取る人たちも喜ぶと思う。
・『銃からくわへ』の活動で武器がなくなっているので、これからも継続し
てほしい。戦争がなくなれば、幸せな生活が送れるので、なくなってほし
い。
・私たちはインターネットを通じて世界のことを知ることができるが、モザンビーク
では、教科書もままならない中、学校できちんと勉強している。日本では、小さい
頃から甘やかされている。モザンビークの子供たちはわがままを言わないのですご
いと思った。
日 時:平成 25 年 5 月 13 日(月)10:35~11:20
場 所:味酒小学校 北校舎1階 多目的ホール
対 象:6 年生 188 名
語り部:中山 厚
1.教諭から語り部紹介
2.語り部体験談(約 40 分)
今から70年近く前に松山の街が焼け野原になった。日本がアメリカと戦争
をして、松山が大空襲を受けてしまったからである。今日は松山大空襲の体験
を中心に話をしたい。戦争の悲惨さを考える機会としていただきたい。
1933年の昭和8年に私は生まれた。当時、日本はアメリカ、イギリス、
フランス、中国、ロシアなどと戦争をしていた。また、当時は覇権主義で、ア
メリカやイギリスなどの強い国々が弱い国の領地など支配していた。私が生ま
れた頃には、日本は満州や大陸に開拓団を大勢送り込んでいた。鉄道や学校を
造った。日本は南の国の資源(石油、ボーキサイトなど)を求め、アジアに大
東亜共栄圏を作ろうとした。当時の日本は大きな野望を持っていた。
昭和12年、私が4歳のときに、満州の国境辺りで日本と中国の間で衝突が
あり、日中戦争が起こった。私が小学校に上がった頃に、ヨーロッパでも戦争
が始まる。ドイツがポーランドを攻め込んだのが原因で第二次世界大戦が始ま
った。その前に第一次世界大戦があったが、その時初めて戦闘機や戦車が使わ
れた。第二次世界大戦は第一次世界大戦より、武器もものすごく進歩した。ヨ
ーロッパでは、近隣諸国を巻き込み大きな戦争となった。アジアでは、日本が
中国と戦争しており、中国と仲の良かったアメリカから、日本に戦争から手を
引くよう迫られた。日本は拒否し、ドイツ、イタリアと手を結んだ。アメリカ、
イギリスなどの連合国から経済封鎖を受け、日本はハワイの真珠湾にいたアメ
リカの海兵艦隊に奇襲攻撃を行う。
私が小学校3年生の時の昭和16年12月8日の朝、ラジオから「大本営発
表、帝国陸海軍は、西太平洋において米英と戦闘状態に入れり」と流れてきた。
小学校の教室で聞いた。日本も初めの半年は中国を占領し攻勢だったが、昭和
17年6月末にあったミッドウェー海戦を機に不利になっていく。ミッドウェ
ー海戦により、軍艦や飛行機を大量に失った。補給路を断たれ、制空権、制海
権も奪われた。アメリカ軍の記録によると、日本が5,000人の兵員と武器、
弾薬を輸送船8隻と6隻の護衛軍艦で南の島へ輸送することになった。しかし、
アメリカに飛行機と軍艦により沈められてしまった。海に投げ出されてしまい、
救命ボートに乗っていた日本人を3日間飛行機から動くものがなくなるまで
撃ち続けて、南の海が人の血で真っ赤に染まったと記録に残っている。
昭和18、19年になると、戦況は悪化していき、各地で撤退していく。昭
和19年6月に戦略上の拠点としていたグアム・サイパンを占領された。昭和
19年10月に捨て身の戦いを始めた。片道の燃料を積んだ神風特攻隊で攻撃
を仕掛けた。しかし、形勢が良くなるわけではなかった。昭和20年2月に、
日本各地で空襲が始まった。海からは艦砲射撃を受けた。4月1日にアメリカ
が沖縄に上陸し、沖縄攻撃が始まった。5月になると、ドイツが降伏して、ヨ
ーロッパで戦争が終わった。7月26日に連合国が日本にポツダム宣告を迫る。
その晩に松山大空襲が起こった。8月6日に広島原爆。8月8日にロシアが日
本との約束を破棄して攻め込んできて、大勢の人たちが殺され、捕虜となり占
領されていった。8月9日に長崎原爆。8月15日に日本は無条件降伏した。
私が中学1年生になった夏に太平洋戦争が終わった。
私は、南堀端辺りで生まれた。当時は、街も落ち着いていて、みんな仲良く、
堀之内や花園町で遊んでいた。戦況が悪化していくと、街の様子が変わってい
った。学校から銅像、寺から鐘、家からは鍋や釜が消えていった。武器を作る
ための鉄を供出された。空襲が激しくなると、灯火管制により、家に暗幕をか
けたり、電球に黒いカバーをかけたりして、夜になると真っ暗にしていた。数
軒おきに用水桶を置き、消火訓練を行っていた。広場では、モンペ姿の母たち
が竹やり訓練を行っていた。私が中学生になった時から、空襲が激しくなって
いった。警戒警報や空襲警報が頻繁に鳴り、上空を敵の爆撃機が通過して、高
射砲を撃っていた。
昭和20年5月頃、松山の上空で吉田浜から飛び立った航空隊とアメリカの
グラマンの空中戦を見た。私は庭から呆然と眺めていた。それから1週間後に
親のおつかいで、外出した際、グラマンより機銃掃射を受け、とにかく必死で
草むらに逃げ込んだ。体中の血液が凍りつくようだった。何の抵抗も無くなっ
た日本の上空を我がもの顔で飛んでくるアメリカの飛行機は、動くものを遊び
半分、練習半分で機銃掃射してきたのではないかと思う。
(松山大空襲の話)
昭和20年7月26日夜11時頃だったと思うが、普段は警戒警報が先に鳴
るのだが、その日は空襲警報が鳴りっぱなしだった。そのうち、本町が火事だ
と聞いて、兄と一緒に様子を見に行った。当時、学徒動員で兄は新居浜の工場
に行っていたが、7月26日は松山に帰っていた。人々が右往左往していた。
東から爆音が響いてきた。スズメバチの大群が近づいてきたようだった。東か
ら爆撃機B29の編隊が飛んで来た。急いで家に帰り、兄が「家に飛び込め。」
と言ったので玄関に飛び込んだ。裏庭に防空壕があったが、危険だと判断して
逃げた。父は町内の役員で居なかったので、兄と妹と逃げた。真上から焼夷弾
がカラスの大群のように落ちてきた。
(模型と写真を使って焼夷弾の説明。)焼夷弾は、日本の家が木と紙でできて
いるので焼き尽くすために作られた。中にはドロドロの油脂が詰まっており、
地面に落ちると信管が作動し、油が飛び散る。B29が焼夷弾を落としていっ
た。
アメリカのB29は、6機編隊で空襲を行った。東から西に向かって空襲を
行った。南か西に向かって逃げるしかなかった。今の済美高校辺りを通って、
南に向かって逃げた。その後はどこを通ったか覚えていない。気が付けば、田
んぼのあぜ道を逃げていて、足をとられ裸足になっていた。妹は白い服を着て
いたので、
「お兄ちゃん、敵に見つかる。」としきりに言っていた。焼夷弾はカ
ラスの大群が急降下するように落ちてきた。大雨が降ったような音だった。無
事石手川まで逃げることができ、空襲も落ち着いてきた。振り返って松山の街
を見ると、煙で何も見えなかった。松山の街が全滅で、道後が無事と聞いたの
で、兄妹3人で道後に行くことになった。途中でムシロをかぶせられた遺体を
見た。後で友達から聞いた話では、街の中で首がなくなった子供の遺体を抱え
た母親や道端に黒焦げになった遺体、用水桶に顔を突っ込んだままの遺体、橋
の下で窒息死した遺体を見たと聞いた。昼ごろ、両親に会うことができ嬉しか
った。
戦後、家もなく、着る物もなく、何もなかった。それからの生活が大変だっ
た。気が狂いそうな空腹も体験した。食べられる草を一生懸命探して食べた。
(渡嘉敷島の集団自決の話)戦争の悲惨さといえば、沖縄を忘れることができ
ない。
第二次世界大戦中、日本で300万人、アメリカで60万人、ドイツで30
0万人、ロシアでは1,000万人を超える人が亡くなったといわれている。
昭和20年1月1日から8月14日までに亡くなった日本人は、1日あたり約
9,500人とされる。その中には原爆で亡くなった人も含まれる。
私が松山大空襲で被災して10日後、学校の焼け跡整理のため、学校へ行く
途中、人々が西の空を指さしているので、振り返って見ると、奇妙な雲がモク
モクと湧き上がっていた。それが広島の原爆のキノコ雲だった。
戦争は国と国との利害関係や意地のぶつかり合いにより引き起こされる。戦
争を始めるのも止めるのも人間である。一旦戦争が始まると、坂道をブレーキ
が故障した車が転がり落ちていくように止めることができない。今後、二度と
戦争が起きないと思うが、分からない。今日の話を聞いて、平和について考え
てもらいたい。
3.質疑応答(約 5 分)
Q:兄妹は無事だったのか?
A:空襲後、潮見の知人宅に疎開したので、3人とも無事成長することが
できた。私たちは、貧しい生活を体験して物の大切さや我慢することを
学ぶことができた。
現在は豊かな生活で自然と甘えが出てくると思う。私が皆さんと同じぐ
らいの歳に、貧しく、何もない生活から夢を持って立ち上がった。心を
豊かにする人生を送ってもらいたい。
4.児童からのお礼の言葉
日 時:平成 25 年 5 月 14 日(火)9:50~10:50
場 所:浮穴小学校 会議室
対 象:6 年生 105 名
語り部:吉島 清
1.教諭から語り部紹介
2.語り部体験談(約 50 分)
自己紹介。(故郷の佐賀県伊万里市のことなど)
6歳で伊万里第1高等尋常小学校に入学した。その時は、高等科があったが、
4年生のときに高等科がなくなり、尋常小学校(6年制)へ名前が変わった。
12歳のとき、試験を受けて県立伊万里商業学校へ入学した。小学校の時は、
制服がなかったが、商業学校に入って制服などに決まりがあった。入学して初
めて革靴を履いた。ゲートルを巻いて革靴を履いて、登校した。商業学校に入
学した頃には、満州事変が起こっており、世の中は悪化していた。先生や上級
生に会うと、敬礼していた。
商業学校の教科の中に「教練」という軍人がするような訓練を受けていた。
学校に軍の久留米の師団から将校が配属された。1~3年生までは整列や体操
をして、4年生になると、それぞれに歩兵銃を与えられて、扱い方や手入れの
仕方を習った。軍人の教官から戦闘訓練を敵味方に分かれて行った。5年生の
半ばぐらいになると、実際の12師団の軍隊に1週間泊まり込みで実弾射撃の
訓練などをさせられた。幹部候補生の資格を得て、試験を受けて甲官になるか
乙官になった。甲官というと、将校。乙官というと、下士官。
当時、どの学校にも奉安殿というものがあった。天皇陛下の写真と教育勅語
を学校の行事のたびに奉安殿から教頭先生が持って、校長先生に渡した。校長
先生がうやうやしく読み上げられた。私たちは、毎回頭を下げて聞いていた。
私は、学校からの就職で朝鮮銀行に勤めることになった。日本銀行と同じ仕
事だった。何百人もの女性行員が古い破けそうな紙幣を勘定して、紙幣を使え
るもの、使えないものに分けていた。そして、古い使えない紙幣を焼いた。ま
た、軍関係や官庁にお金を回す仕事もしていた。
その後、ソウルの本店からピョンヤンの支店に転勤になり、それから釜山の
支店に行った。釜山に行って、20歳のとき徴兵検査を受けた。その検査で、
甲種合格になると、兵隊になった。そのほか、乙種、丙種とあり、乙種は補充
兵で、丙種は兵隊になるには足らないといった具合だった。戦争が厳しくなる
と、乙種を第1から第3乙種に分けた。私は、第3乙種だった。ちょうど私が
第3乙種になった年にアメリカと戦争するようになった。丙種はほとんど召集
令状が来なかった。補充兵までは召集があった。
私が釜山に来て1年も経たないうちに召集令状が来た。ソウルと釜山の間に
大邱があったが、そこに部隊があったので、入隊した。私は、身体が小さかっ
たが、入隊した者はみんな身体が大きかった。入隊した部隊は、山に大砲を担
ぐ部隊だった。大砲で1番軽いのが、30キロだった。あとは、100キロや
120キロだった。毎日俵担ぎをさせられたが、50キロの俵が動かなかった。
30キロの俵を肩に担がせてもらい、50メートルの距離を行ったり来たりし
ていた。3ヵ月ぐらい訓練を行った。何とか30キロまでは担ぐことができた。
大砲を引っ張る綱がたるんでいると、鉄の棒で殴られた。その後、私は部隊か
ら外されて、釜山に帰ることになった。
大邱での訓練時は、内務班で隣の古い兵隊の世話(洗濯など)をしなければ
ならなかった。私の隣には、韓国人の志願兵がいた。私が入隊してから、隣で
寝起きする戦友だった。この人のおかげで、私は命拾いしたと思っている。こ
の志願兵より、「幹部候補生の試験を受けるな。受けたら、早く死ぬぞ。」と言
われた。私が幹部候補生の試験を受けなかったので、教官よりずいぶん殴られ
たが、理由は明かさなかった。幹部候補生の試験を受け、下士官になっていた
ら、ソ連が終戦間際に侵攻してきたので、シベリア抑留されていたかもしれな
い。
大邱での訓練から3ヵ月もしないうちに、釜山の港から連絡があり、私がい
た部隊の戦友がニューギニアの戦地に向かうので、面会に来るよう言われた。
ニューギニアは、一番南方で奥の方だった。終戦近くになると、船がないので、
食料や弾薬が届かなかった。戦地では、戦死ではなく、ほとんどが飢え死にし
たと聞いた。私の兄もボルネオで戦死したが、ボルネオでも同じような状況だ
った。
中国にも支店があったので、中国に転勤希望を出し、中国の済南支店に移っ
た。そこで、中国の人たちと付き合いを深めた。当時の中国人は良い人ばかり
で、メンツを大事にした。それから1年後に、徳州の出張所に派遣された。徳
州には日本人が2,000人ぐらいいた。そこでは、毎晩敵の襲来があり、銀
行員でもピストルを所持していた。この徳州で2回目の召集令状を受けた。
(昭
和18年4月)それから山西省の陽泉(ヨウセン)に移った。陽泉は炭鉱の町
だった。石炭も日本のものと違い、家で炊いても煙が出ない良質なものだった。
陽泉に本隊があったが、私はその晩に40キロもの距離を歩いて盂県(ウケン)
というところに行った。盂県城は山奥にあり、石垣の塀で囲まれ、その中に兵
隊がいた。日本が雇った中国兵もいた。中国兵200名と日本兵200名の半々
の陣容だった。盂県は卵とほうれん草の産地だった。朝ごはんで卵焼きが出た。
兵隊で卵焼きが出るのかと思った。卵がしょっちゅう出た。盂県城でも毎晩、
敵襲があった。夜に犬が吠えると、間違いなく敵襲だった。敵襲がなくても、
毎晩交代で警戒していた。銃剣を上に向けると、月の光で照らされ敵に撃たれ
るので、下に向けていた。敵襲といっても、相手は今の共産党の軍隊だった。
当時の共産党は、本来の中国軍とは違い、本式ではなかった。我々は、重慶軍
と戦争しなければならなかったのに、共産党軍と戦った。重慶軍は、アメリカ
の援助もあり、新鋭の銃など所持していたが、共産党軍は装備が十分でなかっ
た。なので、共産党軍は日本の武器欲しさに嫌がらせをしてきた。
盂県からの移動は、地雷が多くて、道路は歩けなかった。地雷を踏むよりは、
山道の方が安全だったので、山道ばかり歩いていた。兵隊に入隊した人の中で
は、40代の方もいたので、山道は辛そうだった。山でも人が逃げ込みそうな
ところに地雷を埋めていた。そのような状況に慣れてくると、敵襲があって初
めに逃げると地雷を踏んでしまうことが分かってきた。
私は、1か月遅れの昭和20年9月に終戦になったことがわかった。原爆が
落とされたことも知らなかった。7月に撤収作戦で陽泉に帰らなければならな
かったが、その時が激戦だった。命からがらで逃げた。戦争でも逃げるときが
1番危ない。
友人の1人が終戦後に、中国軍の狙撃により亡くなってしまった。生きてい
る間に、「内地(日本)に帰りたい。」と言って死んでしまった。武器を中国軍
に渡す最中の出来事だった。
終戦後、済南に妻と子供がいたので、迎えに行った。済南は京都のように区
画造られ、キレイだった。道に迷うことがなかった。日本に帰るには、青島(チ
ンタオ)に行かなければならなかったが、済南から青島までは汽車で6時間か
かった。日本に帰るのにも大事な物を持って帰れなかった。大事な物は体に身
にまとったり、お金は靴下の下に隠していた。青島に行く手前で、線路が破壊
されて通れなかった。汽車が通れないときに、兵隊が入ってきて、時計、金な
どを出すように迫られた。そこから青島まで小さな子供や女性をトラックに乗
せて行ったが、人数も多いので、限られていた。トラックが襲われないように、
畳で壁を作った。私は、そこから徳州の出張所の所長の子供2人を抱えて青島
まで15日かけて歩いて行った。15日間は生きた心地がなかった。中国人は、
日本人が着ている服もひきちぎって持って行ってしまった。日本に帰ってきた
ときは、何もなかった。親からは「乞食が帰ってきた。」と言われた。中国から
日本にまともに帰ってきた人はいないのではないか。青島からアメリカの輸送
艦で佐世保まで帰ってきた。佐世保の港に着くと、あちこちで軍艦が縦に向い
ており、日本は負けたのだと、なおさら気持ちが強くなった。
実家に帰っても、米の配給や品物がなかった。着物を持って帰っていたら、
着物と米を交換できたが、米を買うお金がなかった。日本に帰って2年間、白
い米を食べた記憶がない。この2年間は本当に苦労した。電気もなかった。物
はなくなり、働く所がなく、ひどかった。
この戦争で民間人を含め何百万人もの人が亡くなり、また中国や朝鮮などの
外地で何十年もかけてできた財産をすべて失ってしまった。戦争により大きな
犠牲を受けた。私もいろいろと苦労してきたので、今のような平和な時代がい
つまでも続くようにしなければならないと思う。皆さんが平和に向けて、頑張
らなければならない。
3.質疑応答(約 5 分)
Q:日本に帰ってから、どこに住んでいたのか?
A:まず、実家の伊万里に帰った。就職を探すため、福岡の博多に行った。
福岡でなかなか良い働き口が見つからず、伊万里に戻った。伊万里でヤ
ミ米を買って、福岡の闇市にヤミ米を売りに行っていた。それで生活し
ていた。ただ、ヤミ米の警察の取り締まりは厳しかった。また、炭鉱で
働いたこともある。
4.児童代表からお礼の言葉
日 時:平成 25 年 5 月 16 日(木)14:00~15:00
場 所:伊台小学校 北校舎4階 コンピューター室
対 象:6 年生 53 名
語り部:中山 淳
1.教頭から語り部紹介
2.語り部体験談(約 55 分)
私が皆さんと同じぐらいの歳には、日本はアメリカ、イギリスなどの連合国
と戦争を始めていた。好きなものを食べられる時代ではなかった。現在は、小
学校を卒業すると、みんな中学校へ行くことができるが、当時は、男子は中学
校、女子は女学校へ進学していた。当時、松山には公立の中学校は3校、私立
は2校、女学校も2、3校しかなかった。なので、全員が進学できるわけでは
なく、試験を受けなければならなかった。5人に1人しか中学校へ進学できな
いぐらい厳しかった。中学校へ行けなかった人たちは、農家など家の手伝いを
していた。現在とは違う学校生活をしていた。
私が小学校5年生のときに、太平洋戦争を経験した。1941年12月8日
に、海軍の軍艦マーチとともに、「大本営発表、帝国陸海軍は、8日未明、南
太平洋上にて米英軍と戦闘状態に入れり。」とラジオから流れてきた。それか
ら4年間、日本とアメリカを中心とした激しい戦争があった。その当時、私た
ちは日本国内で殺し合いがあるとは思わなかった。当時、日本は、ハワイにい
たアメリカ海軍の軍艦を奇襲攻撃した。
その頃は、戦争は出征してするものだと思っており、(出征について説明)
そのため、日本国内で兵士でない一般市民も犠牲となった。当時、堀之内には
陸軍の二十二連隊本部があり、兵隊しか入れなかった。今の日赤辺りに訓練す
る場所の練兵場があった。練兵場には戦車などがあった。塹壕を掘って、戦車
が攻めてきても落とすことができた。周りには鉄条網を張りめぐらされていた。
男性は、20歳になると、病気など以外の人は全員兵隊に入らなければなら
なかった。法律で決まっていた。女性は、看護婦さんなど兵隊を手助けする仕
事をいっぱいした。何も訓練していない人たちが、20歳になると戦争に勝つ
ための訓練をしなければならなかった。松山には、大勢の兵士がいて、練兵場
で訓練していた。子供の頃は、堀之内から兵隊が隊列を組んで、松山駅まで出
征するのを見送っていた。行く時は、きれいな服だったが、戦場から帰ってき
た時は、ボロボロだった。必ず1番先頭の人は、戦死した遺骨を入れた箱を抱
えて帰ってきた。
今の松山空港がある場所には海軍航空隊の基地があり、面積は今の空港の3
倍ほどあった。そこから戦場に飛び立っていた。空軍にとって、最前の基地の
1つだった。
私が生まれた翌年の1931年に満州事変が起こった。日本の勢力範囲を置
くための戦争だった。その頃から、日本は海外に出かけて、戦争をしていた。
そして、日本が中国と戦争を始めたのは1937年だった。私たちの元には、
戦争に勝ったという情報が入り、戦争に負けるはずがない、神の国と信じてい
た。私が小学校低学年の時は、よく戦争に勝って万歳していた。1945年8
月15日に連合国軍に無条件降伏するまで、こういった状況が続いた。
中学校の制服は、陸軍と同じような色だった。足にはゲートルを巻いて通学
した。また、中学では教練という兵隊の訓練をしていた。堀之内の連隊本部か
ら若い将校が来て、練兵場で鉄砲を担いだり、ほふく前進をした。スポーツな
どできなかった。中学2年生になると、午前中は授業を受け、午後からはクラ
スの50人がトラックの荷台に乗って海軍航空隊基地に行った。土を掘って土
手を造り、掩体豪を造った。掩体壕には、ゼロ戦などを格納していた。敵から
の爆撃に備えるために造った。仲のいいパイロットに戦闘機に乗せてもらった
が、手動であった。また、爆撃機にも乗せてもらったが、トイレがなかった。
聞いてみると、猫の砂箱のようなものがあり、トイレ代わりに使っていた。い
らないものは排除し、少しでも軽くし、爆弾をたくさん積むため。戦闘により
故障して着陸時、足の出ない戦闘機もあった。片足しか出ないものや羽が半分
ちぎれたものなど無事で帰ってきた飛行機ばかりではなかった。
1945年3月だったと思うが、作業中には、時々、グラマン戦闘機が飛ん
で来た。パイロットの顔が見えるぐらいの高さだった。基地には予科練の学校
があったが、その建物や戦闘機、爆撃機を攻撃してきた。実際、瀬戸内海上で
ゼロ戦とグラマン機の戦闘があった。
(松山大空襲の話)アメリカのB29が100機以上来て、焼夷弾を落とさ
れた。私は、中学3年生になり、学徒動員として新居浜の工場に働きに行って
いた。当時は、1週間を月月火水木金金で、一週間休みが無かった。時々、ま
とめて3日ほど休みがあり、7月25日に休みになったので松山に帰っていた。
その時に、松山大空襲に遭った。新居浜の工場でも、5月24日だったと思う
が、最初は警戒警報が鳴り防空壕に逃げたが、解除になって出てきたところ、
爆弾が落ちてきた。敵が近づくと空襲警報が鳴る。爆弾が破裂し、目の前が赤
色になり、猛烈な風で自分も吹っ飛んだ。落ちた所と自分がいた所の間にはお
墓があったので、それくらいで助かったのかもしれないが、墓石も割れていた。
爆弾の落ちた後は、円錐形の跡が残っていた。一緒にいた友人5人のうち3人
が弾片で負傷した。近くにいた少年工は、脳が破裂して亡くなっていた。
模型を使って焼夷弾の説明。中にはドロドロの油が詰まっており、落ちてく
る時に火が付いて、爆発する。火の玉のようで、それが円になり、大雨の時の
ような音がした。直撃すると、即死してしまう。日本の建物は木造ばかりだっ
た。木造の建物に火のついた油がつくと、消しようがなかった。松山の市街地
は2万戸近い家が焼けてしまった。灰しか残らない状況だった。道後は、焼夷
弾を落とされなかった。鉄筋コンクリート4階建ての建物は、戦後しばらく経
ってからできたのがほとんどだった。消防士も自分の家が焼けていたので、助
けに行くことができなかった。板切れ1枚も残らなかった。原爆投下後の広島
の街との違いは、松山ではレンガ造りのものは、レンガの塀が残っていたが、
広島ではレンガなど壊れてしまい無くなっていた。松山でも、焼夷弾に爆弾が
入っていたら、さらに被害が拡大してしまったかもしれない。松山大空襲によ
り、死傷者が500名以上とも言われている。
広島に行った際、松山の空襲との違いなども見てきてもらいたい。絶対、今
後も戦争が起こらないようにしてもらいたい。私たちが子供のときは、日本国
内で被害が起こるなんて考えられなかった。ただ、実際には戦時中は日本国内
の主要都市は焼け払われた。東京では10数万人が亡くなってしまった。亡く
なった人も、兵隊だけでなく、多くの一般人も犠牲になった。これからの近代
戦争になると、ますます多くの一般人が犠牲になってしまう。松山の水野広徳
さんも近代戦争の危険性を唱えていた。罪のない人たちが戦争に巻き込まれる
ことのないよう平和であり続けるように努力してほしい。
3.質疑応答(約 5 分)
Q:戦時中、困ったことは?
A:困った時は、みんなが助け合った。農家の子はおにぎりを余分に持っ
てきてくれたり。私は、ある人から鉛筆をもらった時、5つに切って
みんなに分けた。ある人は、裏が白い用紙を切ってみんなに分けた。
ないものをみんなで分け合った。欲しいものを選んで買えたのは、戦
後からずいぶん後だった。
Q:戦争が終わり、今の時代は良い時代と思うか?
A:当時、勉強したい人がきちんとできる環境ではなかった。20歳にな
ると、兵隊にならなければいけなかったので、選択の自由がなかった。
努力すれば、選択の自由が広がる今の時代はうらやましい。戦争に巻
き込まれて、命を危険にさらされることもない。こんな素晴らしい時
代はない。これからも大事にしてほしい。
・鉛筆を5つに分けて使うという話を聞いて、今では欲しい物を自由に
買うことができて、もっと大事にしなければいけないと思った。
→小学生のとき、運動靴をもらったときがあったが、とても大きくて履け
ず、靴屋に持って行くと、
「靴を自由に履ける時代ではありません。靴
に合わせなさい。」と言われた。それぐらい自由に物を選べない時代が
続いた。その大きい靴は新聞紙などを詰めて使った。机が無い時は、
ミカン箱を代わりに使っていた。
・今の時代ほど幸せな時代はないと思うので、これからは物を大事にし
たり、感謝の気持ちをもって生活していきたい。
4.児童からのお礼の言葉
日 時:平成 25 年 5 月 17 日(金)14:00~14:50
場 所:湯山小学校 東校舎4階 たけのこ広場
対 象:6 年生 73 名
語り部:藤村 敏夫
1.校長から語り部紹介
2.語り部体験談(約 40 分)
今から68年前の8月6日、私は、広島に投下された原爆(当時はピカドン
と言われていた)に遭い、当時の模様や胸に刻み込まれたことを中心に話した
いと思う。これからも戦争はしてはいけない。原爆も作っていけないし、持っ
てもいけない。後世にも今日の話を伝えていただき、これからも永久に戦争の
ない平和な世の中を築くことができればと思う。
昭和19年11月3日、私が13歳のとき、国鉄広島第1機関区に勤労学徒
として広島に居た。機関士になるための教育を受けていた。配属して半年は、
機関車の構造などを学んだ。それ以降は、勤労学徒として働いた。当時は、若
い人は兵隊で出て行っていたため、女性や子供、老人が国に残っていた。
原爆当日は、いつも通り8時前に寄宿舎を出て機関区で働くため出勤した。
機関区に着いて、20人ぐらい集まってミーティングを行った。その最中に、
車庫の各窓から青いような、白いような、紫のような目に突き刺さるような光
が入ってきた。それと同時に爆風というか熱風が吹いてきた。ミーティングを
行っていた全員が2メートルぐらい吹き飛ばされ、怪我をした。何が起きたの
かわからなかった。意識ははっきりしていたので、何とか起き上がり、立ち上
がって外を見ると、広島の市街地の家が1軒残らず壊されていた。当時の家は
木造のものがほとんどだった。
家にいた女性や子供、老人のほとんどが下敷きになり、「助けてくれ。」と
叫ぶ声が多く聞こえた。ある家では、子供が「お母さん、背中に何か落ちてき
た。助けて。」と叫んでいた。母親も「今、助けてあげるから。」と叫びあっ
ていた。その母親も家の下敷きになっていたので、どうしようもなかった。そ
れでも母親は必死で我が子を助けようと体をよじりながら近づき、やっと親子
の手が触れあい、手首をつかんで引っ張っても、なかなか子供を引き出せなか
った。私たちも助けようにも多くの家がそういった状況であったし、道具もな
かったので、どうしようもなかった。
そのうちに、倒れた家から火災が発生し、辺りに広がってきた。その親子の
家にも火が迫ってきた。「お母さん、熱いよ。」と子供が叫んでいた。母親は
それでも手をしっかり握って子供を引っ張り出そうとしていた。とうとう親子
の家にも火が回ってきて、2人は生き殺しになってしまった。私もずっとその
状況を見ていたわけではなく、後で親子の家に行ってみると、親子が手首をし
っかりと握ったままの白骨死体になっていた。
何かの用事で外に出ていた人たちは、家の下敷きにならなかったが、全員が
火傷を負った。火傷といっても、全身に火ぶくれができていた。そういった人
たちが何とか歩いて、私たちの働く機関区の広場に集まってきた。広場が埋め
尽くされるほどの人が集まってきた。当時は、名前と住所のある名札をつけて
いたので、集まった人の中には、「助けてくれ。良かったら、ここに連絡して
くれ。」という人もいた。
原爆投下された日は真夏でとても暑かった。次第に火ぶくれが破れていき、
中からは赤いような、紫のような筋肉がむき出しになってきた。辺りからは、
「水をくれ。水がほしい。」といった声が上がった。私の近くにいた10歳ぐ
らいの少年が水を欲しがっていたので、水をあげようにも水道の蛇口をひねっ
ても出てこなかった。パイプの中に残っていた水が少し出ていたので、容器に
入れたが、その水は腐ったような赤くさびたようだった。少年に飲ませてやる
と、1口飲むごとにゴクンと音を立て飲んでいた。2,3口飲んで、今まで張
りつめていた気持ちが和らいだのか、にっこりと笑ったような、
「ありがとう」
と言ったような顔を今でも覚えている。まだ、容器に水が残っていたので、隣
の人に水を与えようとすると、先ほど水をあげた少年がその場に崩れるように
倒れてしまった。日陰に移動させようと体を抱き起そうとするも、全身が火ぶ
くれだったので、つかむことができなかった。近くにあった板切れで陰をつく
った。
8時15分に原爆を投下されたが、昼までにはその場に倒れてしまった人の
多くは亡くなってしまったのではないかと思う。広場は死体の山だった。線路
は焼けつき、真夏の太陽が照りつけ、辺りは火災で燃え上がっていた。私はそ
の光景をこの目に焼き付けた。
これからも絶対戦争をしてはいけない。今では、当時の原爆より威力の大き
い爆弾ができているらしい。戦争になれば、原発を狙ってくるかもしれない。
これからも原爆を作ってはいけない、持ってもいけない、ましてや使ってもい
けない。平和ボケと言われているが、平和であることは幸せである。今では、
何不自由なく食べることができるが、戦争になると食料は海外にいる兵隊に送
られてしまう。戦時中は、食料を積んだ輸送船を狙われ、せっかくの食料、兵
員も失ってしまった。
当時は、肥料として使われている油かすを食べていた。いつもひもじい思い
をしていた。また、着る物も履くものもなかった。
3.質疑応答他(約 10 分)
Q:兵隊が戦争に行っている間、会社や工場で仕事をしていたのは?
A:残っていた60歳近くの人や私たちのような10代前半の者たちだっ
た。圧倒的に労働力が不足していた。海外に出ていた兵隊も食料など
の物資が届かず、ひもじい思いをしていたと思う。
Q:1週間にどのぐらい空襲警報が発令されたのか?
A:1日に4、5回は空襲警報があった。グアムからB29が飛んで来た。
終戦近くになると、日本には迎え撃つ戦闘機もなかった。
・戦争や原爆は恐ろしいものだと分かった。
4.児童からのお礼の言葉
日 時:平成 25 年 5 月 20 日(月)9:35~10:20
場 所:正岡小学校 南校舎2階 6年生教室
対 象:6 年生 19 名
語り部:阿部 純子
1.教諭から語り部紹介
2.語り部体験談(約 45 分)
紙芝居『ヒロシマの火』の実演
(原爆投下当日から、数日後にヒロシマの火を見つけ、それを福岡県星
野村に持ち帰り、火を絶やさず守り続けてきた話)
児童の感想
・原爆がどれほど恐ろしいか分かった。原爆で恐ろしい火が平和を願う火とな
って、今は人々を守ってくれていると思った。習い事で、広島からの平和リ
レーをしているが、これからも絶やしてはいけないと思った。
・私たちは戦争を体験していないが、原爆により犠牲になった方々の気持ちを
大切に生きていきたい。
・広島に行った際、戦争を絶対にしないと誓いたい。
(語り部より)私も生まれて6ヵ月しか戦争を体験していないので、はっきり
と覚えていない。被爆も体験していないので、資料を読んだり、被爆者の方
からお話を聞いて勉強した。皆さんも広島に行った際、いろいろな場所に行
って勉強してもらいたい。
・戦争や核兵器の恐ろしさを知り、これからの生活に役立てたい。
・日本が犯した戦争の過ちを二度と繰り返さず、忘れないようにしたい。
(語り部より)人間が起こす戦争を繰り返していくうちに、武器も進化してい
き、核兵器までできてしまった。地球を滅ぼすかもしれない核兵器をやめよ
うとするのが世界の良識。どうしてやめられないのかというと、世界には政
治家や軍隊、先生など様々な人たちがいる。国を守るためには核兵器が必要
だと考える人もいる。核兵器の恐ろしさを知っている人たちは必要ないと考
える。
語り部
「原爆が一瞬で起こったこと」の説明。紙芝居の絵を用いて説明。
1秒の何分の1の出来事だった。広島で原爆のあった8月6日のうちに亡くな
った方々は5万人と言われている。原爆が投下された瞬間に亡くなった人もい
る。戦争に勝ったアメリカは、原爆を投下する際、指1本でレバーを引いただ
けだった。核兵器はこれからも使ってはいけない。
児童からの質問
Q:戦争を体験した母親から話を聞いてどういう気持ちになったか?
A:私は1945年2月に北京で生まれた。戦時中は、産業などで多くの日本
人が中国に行っていた。ニュースでは、侵略と言う人もいるが。戦争に負
けた途端、全員が捕虜となった。何もかも奪われ、日本に帰らなければな
らなくなった。物を取られてしまうので、靴下に時計を隠したり、着れる
だけの服を着て帰った。捕虜収容所に集められ、食べ物もなかったので、
多くの方が亡くなった。父の話では、北京から船が出る港までかなりの距
離があり、多くの赤ちゃんが亡くなったという。死んだ赤ちゃんを泣きな
がら中国の土地に埋めた親もいたという。死んだ赤ちゃんを埋めなかった
親は、海に放った人もいたという。他の人の話を聞くと、せめて死んだ赤
ちゃんを日本につながる海に放ちたかったのではないかと思う。
3.児童代表からお礼の言葉
日 時:平成 25 年 5 月 21 日(火)14:00~15:00
場 所:久枝小学校 中校舎4階 多目的ルーム
対 象:6 年生 117 名
語り部:藤村 敏夫
1.校長から語り部紹介
2.語り部体験談(約 40 分)
私は、昭和6年(1931年)3月15日生まれで、今年82歳になる。
今から68年前の8月6日に、私は、広島に投下された原爆に遭い、悲惨な
体験をした。原爆は1発で何十万人もの命を奪った。当時の様子が今でも目の
中、胸の中に残っている。今日はその時の状況を話して、1人でも多くの方が
戦争はしてはいけない、まして原爆は使ってはいけないと感じてもらいたい。
後世にも今日の話を伝えていただき、地球上がいつまでも戦争のない平和であ
り続けてほしいと願う。
なぜ、原爆が投下されたときに広島にいたのか話をする。昭和19年になる
と、アメリカやイギリスなどの連合国軍が日本に攻めてきている状況だった。
13歳の暮れの昭和19年11月3日に私は広島第1機関区に勤労学徒とし
て広島に徴用された。入社して半年は、国鉄の仕組みや機関車の構造などを勉
強していた。やがては、機関士として運転する仕事だった。原爆が投下された
8月6日は、いつものように8時前に寄宿舎を出て機関区で働くため出勤した。
みんなが集まって、班長の号令のもと朝礼を行った。ミーティングの最中に、
機関車が入っている車庫の各窓から一斉に光が入ってきた。その光は、青い様
な、白い様な、紫ともいえるようなものだった。目を突き抜くような光だった。
それと同時に、爆風と熱風が車庫の各窓を突き破って入ってきた。爆風により
ミーティングをしていた者たちは2、3メートルぐらい吹き飛ばされてしまっ
た。建物の柱や消火栓にぶつかり、大勢が外傷を負った。何が起きたのかさっ
ぱり分からなかった。怪我はしていたが、意識ははっきりとしていたので、何
とか起き上がり、立ち上がって外を見ると、広島の市街地が1軒も残らず無く
なっていた。
家の中にいた人たちは、家の下敷きになった。どの家からも、「手が抜けな
い。足がはさまってしまった。助けてくれ。」と叫び声が聞こえた。すべての
家がそういった状況だったので、どうすることもできなかった。私がいた近く
には小さな子供と母親の家があった。子供が、「お母さん、背中に何か落ちて
きた。苦しいよ。」と叫んでいた。母親も我が子の名前を呼びながら、「待っ
といてくれ。今すぐお母さんが助けてあげるから。」と母親は子供に体を近づ
けていった。ただ、その母親も倒れた家の下敷きになっていた。母親は何とか
我が子に手を差し伸べていった。やっとの思いで、親子は手を取り合った。そ
こから、母親は我が子の手首をつかみ、家の下敷きから引っ張り出そうとした。
母親も下敷きになっていたが、「今、助けてあげるから。」と言いながら勇気
づけていた。そんな中、辺りの倒れた家から火事が起こり、炎が海のように押
し寄せてきた。やがてその親子の家にも炎がやってきた。子供は、
「お母さん、
熱いよ。」と泣き叫んでいた。それでも母親は子供を勇気づけていた。しかし、
親子の家も火にのみこまれ、親子の声がだんだんと聞こえなくなった。私たち
もずっと親子の状況を見ているわけではなく、助ける手段がなかった。
機関区の上司より、機関区の管理部の消火に行くよう命じられた。管理部は
広島駅の西にあったので、駅を通り抜けないといけなかった。線路に落ちてい
る散乱物を取り除きながら駅に向かった。駅に行くまでに、被爆して体全身に
火ぶくれができていた人が助けを求めながら右往左往していた。また、子供を
おんぶしていたお母さんがいた。子供は背中、顔、腕を火傷して泣き叫んでい
た。お母さんも子供をなだめていた。真夏で火傷をしたので、子供はなかなか
泣きやまず、お母さんは帯で子供をくるめてしまった。それでも子供が泣きや
むわけでもなく、母は頭をかきむしり、もがいていた。その時の様子は今でも
覚えている。
駅の構内に入ると、ちょうど上下線の汽車が停まっていた。ホームには乗り
降りする人でいっぱいだった。何千人といたのではないかと思う。その中には、
衣服を破かれ、火ぶくれができた人たちが右往左往していた。当時の広島駅に
は地下道があった。ホームから地下道を通って駅の外に出るので、大勢の人た
ちが地下道に降りる入口に集中した。火傷をして、ほとんど裸のような人たち
ばかりがひしめきあっていた。前の人が転んでしまうと、後ろの人たちも重な
ってしまった。後ろからは、我先に降りようと押しかけていた。
私たちはそういった状況を見ながら、やっと管理部に到着した。管理部は7
階にあり、消火しようにも駅周辺が大火だったため消すことができなかった。
消火をあきらめて帰ることになった。来た道を機関車で帰ることになった。広
島、岩国、尾道などの大きな駅には機関車に大量の水を注入するタンクがあっ
た。そのタンクが何かの拍子で倒されて、地下道に水が流れ込んだ。地下道に
倒れこんでいる人たちの上を容赦なく水が流れ込んだ。たちまち地下道には水
があふれてしまい、線路ぐらいまでの高さになった。
帰りに親子が火事に包まれた家に立ち寄ってみると、親子は手を握り合って
白骨死体になっていた。
戦争はしてはいけない。原爆は悲惨で、人の命を奪う破壊力を持ったもので
ある。一方、フィリピンやボルネオなど南方に派遣された兵隊もいた。その兵
隊に武器や兵隊など必要物資を日本から送ったが、アメリカなどの軍艦が輸送
船を待ち構えていた。敵の魚雷により、輸送船は沈没させられた。せっかくの
食料などは海の中になってしまった。
戦争は今後もしてはいけない。ましてや原子爆弾は作ってもいけないし、持
っても、使ってもいけない。
3.質疑応答他(約 20 分)
・原爆により、あっという間に辺りが火の海となり、原爆は恐ろしいものだ
と感じた。
→当時の建物のほとんどが木造だった。原爆の爆風により、建物が壊された。
私は爆心地から2.5キロの地点にいたが、百貨店、銀行、新聞社の3棟
の鉄筋コンクリートだけが残っていた。
Q:広島が復興するまでどのくらいかかったのか?
A:8年ぐらいで構想ができあがり、大きな道路もできた。10年ぐらい
でかなりの復興を遂げたと思う。多くの日本国民が努力した結果であ
る。
Q:日本が戦争をしていたことをどう思ったか?
A:当時の教育では、今のような科目を学べなかった。学校では、戦争に
勝つことばかり教えられた。戦争に勝つための教育、精神力を埋め込
まれた。戦争が終わってから、戦争はいけないと思った。
・原爆により、何十万人もの方が亡くなり、また大きな被害を受け、原爆
は恐ろしいものだと思った。
Q:原爆が落ちる前と後で、生活はどのように変わったのか?
A:当時は、兵隊に食料を送っていたので、国内にいた人たちはひもじい
思いをした。私たちは油かすが主食だった。終戦後に田舎に帰ると、
イモや麦を食べていた。米はなかった。
Q:戦時中、アメリカのことをどう思っていたのか?
A:敵だったので、憎かった。日本には資源がなかったが、アメリカは武
器、弾薬、食料などが豊富だった。沖縄では、残虐な殺され方もした
ようだ。
Q:原爆に被爆して、考え方は変わったことは?
A:戦争はしてはいけないと感じたこと。原爆を落とされたから、日本は
戦争をやめたと誤った報道があったが、原爆はどのような目的であっ
ても使ってはいけない。
Q:戦争で恐ろしい体験したことは?
A:私は兵隊として戦地に行ったわけではないが、毎日空襲警報や警戒警
報が鳴っていた。サイレンは鳴りっぱなしで、少ない日でも10回は
空襲警報が鳴っていた。原爆投下された朝も、警戒警報が鳴った。た
だ、敵が来ないと思ったらしく、解除された。警戒警報が解除されて
から、B29がやってきて、原爆を広島に投下した。
Q:戦争が終わるまで、日本が戦争に勝つと思っていたのか?
A:教育で教えられていたので、戦争に負けることは考えていなかった。
日本国民全員がそうだった。当時は、武器がなかったので、竹やりを
使ってでも勝とうとした。今、考えると、ナンセンスな話だが、精神
的には日本人は負けていなかった。
4.児童からのお礼の言葉
日 時:平成 25 年 5 月 22 日(水)13:15~14:15
場 所:津和地小学校 パソコン室
対 象:3,5,6 年生 4 名
語り部:田中 有男
1.校長から語り部紹介
2.語り部体験談(約 50 分)
私が中学校2年生のときに松山大空襲に遭った。今考えると、最近のことの
ように思える。平和の語り部として、子供たちにずっと二度と戦争をしてはい
けないと伝えてきた。私たちが体験してきたことを1人でも多くの方に伝えた
いと思ってきた。今から68年前は、上空はアメリカの飛行機だらけだった。
アメリカの爆撃機により日本各地が焼かれた。住む所もない、着る物もない、
食べる物もない、飢え死にするような悲惨な状況を味わった。後から感想文を
もらうと、語り部の話を聞いて、松山が空襲を受けたことを初めて知ったとい
う人が多い。日本がアメリカと戦争をしたのは本当なのかと言う人もいる。あ
んな悲惨な状況を受け、世界で初めて原爆を投下された。広島はこの津和地か
ら近くだった。松山からも広島の原爆が見えた。広島や長崎に行くことがあれ
ば、いかに原子爆弾が恐ろしいものだったかを見てきてほしい。今の日本人は
そういったことを忘れつつある。これからも二度と戦争をしてはいけないと皆
さんも伝えていってもらいたい。今のような幸せな生活ができるのも平和だか
らできると伝えてもらいたい。私たちの年代は、戦争は二度としたくないと思
っている。
戦争は殺し合いと思われるが、1番辛いのは食べる物がなくなることだった。
今では食べる物がありふれている。当時は、肉を食べるのは年1回だった。卵
は風邪をひいたときだけだった。今では毎日のように食べられる。私は久万で
生まれたが、米を作れなかったので、とうきびやカボチャなどを食べていた。
当時は当たり前のことが当たり前ではなかった。
日本は戦争に負けたのに、今こうして幸せなのか不思議だと思うだろうか。
一方で、戦争に勝ったアメリカは大変な問題を抱えている。アメリカはその後
も戦争を繰り返した。戦争に勝っても苦労するので、戦争は怖い。戦争がなぜ
いけないかというと、人と人の殺し合いで、人の自由を奪ってしまう。死ぬと
分かっていても、戦争に行くのを断れない。当時、戦争に行かなければ、監獄
に連れて行かれた。みんな好きで戦争に行ったのではない。私たちは小学校に
入った時から、国のために自分は死ぬ、天皇陛下のために自分の命を捧げる、
そのためなら死ぬことは怖くないと教えられてきた。想像できるだろうか。み
んなが死ぬので怖くない。そういったことを小学校入学してからずっと教えら
れてきた。当時は私も死ぬのが怖くなかった。アメリカに負けてたまるかと思
っていた。それが戦争であり、戦争は人間の心も変えてしまう。
私の兄は、終戦間際に19歳で志願して兵隊に入った。中国の満州に行った。
手りゅう弾を持って道路に穴を掘って、ソ連の戦車が上を通ったら信管を抜い
て爆発させた。そうして、自分の命を捨ててソ連の戦車を破壊した。その訓練
を1年間した。ソ連はそれまで日本と戦争をしない約束をしていたのにもかか
わらず、広島に原爆が落とされ日本の形勢が悪くなったとなると、大量のソ連
軍が進駐してきた。私の兄は20歳で亡くなった。自分の命を捨ててソ連の戦
車を破壊することを考えられるだろうか。また、特攻隊は九州沖から爆弾と片
道の燃料を積んで、沖縄にいる1,000~2,000機ものアメリカの軍艦
などに突っ込んでいった。ろくに訓練もできず、向かった。自分の命を捨てて
体当たりした。今の高校2~3年生ぐらいの年頃だった。私も中学1年生にな
ると、兵隊の訓練をした。毎日勉強などできなかった。土を担いで、飛行機を
格納する掩体壕を造っていた。勉強できるのは雨の日だけだった。当時は雨が
降ったら勉強できるのにと思っていた。勉強したかったのにできなかった。今
のように平和な時代で勉強できるのは素晴らしくありがたいことである。皆さ
んは良い時代に生きている。
戦時中は食べる物がなかった、飲むものがなかった、水筒がなかった。水が
飲みたかったら、近くの家に行って飲ませてもらっていた。
アメリカが沖縄に上陸されて、今度は日本本土を焼き尽くせというようにな
っていった。アメリカは焼夷弾を使った。焼夷弾にはたくさんの油が入ってい
て、落ちてくると、油が飛び散った。落ちた油に火が付くので、辺りはすぐに
燃え上がった。昭和20年7月26日に松山大空襲があり、松山の街は燃えた。
夜11時ごろに起こされて、家の前が真っ赤だった。池の中でも田の中でも川
の中でも油なので、燃えていた。夜11時から2時間空襲が続き、約120機
ものB29が飛んで来た。上からあられが降ってくるようだった。逃げる余地
がなかった。私は高浜線の近くの川に隠れて、空襲の様子を見ていた。本当に
地獄だった。近所に毎日一緒に学校に行く友人がいたが、その友人の家に行く
と、母と妹の3人が防空壕の中で亡くなっていた。戦争に行っていない人たち
まで巻き込まれて、ひどいと思った。兄も上一万の学生寮にいたので、様子を
見に行くと、兄は逃げていて、5人の遺体が並べられていた。5人とも同級生
だった。首がない者もいたが、名札があったので分かった。何も悪いことをし
ていないのに、ただ松山にいただけで亡くなってしまった。私は、7月26日
になると、亡くなった友人のお墓まいりに行っている。7月26日が、松山大
空襲があった日と1人でも多くの人に知ってもらいたい。私が通っていた松山
北高校は何もかもなくなった。学校が焼けて、行くことができなかった。焼け
跡からトタンや木材を引っ張り出し、寝泊りできる場所を造ったりした。
戦後、困ったのが食べる物がないことだった。明日にでも飢え死にするよう
だった。米がなかったので、米が配給されたら、鍋に一掴み米を入れ、カボチ
ャや葉っぱと塩を入れたものを食べていた。それは、雑炊のようでおかゆより
もっともっと薄かったが、おいしかった。ただ、すぐにお腹が空いた。お米が
食べることができたら、どれだけ良いかと思った。母たちは、自分の着物を米
と交換してもらうなど苦労した。それぐらい米を食べるのが大変だった。今後、
人口が増えていくと、食べる物が無くなるかもしれない。米ほどありがたいも
のはなかった。当時は、お金があっても食べ物がなかったので買えなかった。
食べることを大事にしてもらいたい。また、故郷に感謝しなければならない。
ハーモニカの演奏『ふるさと』
平和だからこそ、今のような幸せな生活を送ることができる。ただ、今の世
の中が当たり前と思ってはいけない。どこで生まれようが関係ない。勉強はど
こで生まれても一生懸命することができる。皆さんも津和地に生まれたことを
誇りに思ってほしい。
3.質疑応答(約 10 分)
Q:戦時中、何を食べていたか?
A:サツマイモでもカボチャでも何でも食べた。弁当箱の中はサツマイモ
だった。なので、学校の運動場にはサツマイモを栽培していた。サツ
マイモは作りやすかったので、食べる物がなければ、よく食べた。戦
後はさらにひどかった。イナゴやバッタ、カエル、ヘビなどを食べた。
Q:戦時中、1番大変だったことは?
A:食べる物がなかったこと。その次に大変だったことは、お父さんやお
兄さんがいなかったこと。お父さんは、家族を残して兵隊に行かなけ
ればならなかった。今では、父が毎日いるのは当たり前だが、父が戦
死して、遺骨で帰ってくるのは辛い。私は、兄と姉の主人が戦死した。
姉は5人の子供がいたので、女手1つで育てた。戦争で1番かわいそ
うなのは、親がいなくなること。当時、東京に行った時、駅で寝泊り
している子供たちでいっぱいだった。戦争は当たり前のことを奪って
しまう。
ハーモニカの演奏『仰げば尊し』
4.生徒代表からお礼の言葉
5.校長よりお礼の言葉
日 時:平成 25 年 5 月 23 日(木)10:35~11:35
場 所:道後小学校 図書室
対 象:6 年生 136 名
語り部:中山 厚
1.教諭から語り部紹介
2.語り部体験談(約 50 分)
今から70年近く前に松山の街が焼け野原となった。なぜそうなったのか知
っている人はいるだろうか。日本がアメリカと戦って、空襲を受けたからであ
る。私は皆さんと同じぐらいの歳に体験した。私が生まれたのが1933年の
昭和8年である。当時は覇権主義で、列強国と言われるアメリカ、イギリス、
フランス、ドイツ、ロシアなどの国々が弱い国を占領して競っていた時代だっ
た。日本も負けずに、私が生まれたときには朝鮮を支配していた。また、満州
にも大勢の開拓団を送り、街を造り、学校を造り、線路を敷いたり、輝く国を
つくろうと頑張っていた。それだけにとどまらず、日本は南方より石油、石炭、
ボーキサイトを得ようとした。アジアの南方まで栄えた地域をつくろうとして
いた。
私が4歳の昭和12年に日中の国境付近でいさかいが起き、日中戦争が始ま
った。私が、小学校にあがった頃、ヨーロッパでも戦争が起きていた。第二次
世界大戦の始まりである。第二次世界大戦は、まずドイツとポーランドが戦争
を始めた。ポーランドと仲の良かったイギリス・フランスがドイツと戦争を行
った。1914年に5年ほど第一次世界大戦があった。第一次世界大戦で、初
めて飛行機や戦車が使われた。終結して、約20年後にまた戦争が起こった。
日本は中国と戦争を始めたが、当時、中国はアメリカと仲が良かったので、
アメリカから日本に戦争から手を引くよう迫られたが、耳を貸さずドイツ、イ
タリアと手を組んだ。アメリカなどから経済的圧力がかけられ、昭和16年の
冬にハワイの真珠湾に奇襲攻撃を仕掛けた。小学校3年生の教室でラジオ放送
を聞いた。「大本営発表、我が帝国陸海空軍は、8日未明、西太平洋上におい
て米英と戦闘状態に入れり」と勇ましい軍艦マーチとともに流れてきた。一気
に戦時色が高まってきた。
初めのうちは、日本が破竹の勢いで勝ち上がっていった。南京、香港、フィ
リピン、インドシナなどを占領していった。しかし、その勢いも半年ほどしか
続かなかった。ミッドウェー海戦により、日本は多くの軍艦や飛行機を失った。
制空権、制海権を奪われてしまい、海外に出ている日本軍への補給が難しくな
っていった。アメリカ軍の記録によると、南方にいる日本軍のために8隻の輸
送船と6隻の護衛艦が出発するのをアメリカが傍受して、沈められてしまった。
5,000人の兵員が海に投げ出された。その投げ出された兵員をアメリカ軍
は3日間撃ち続け、南の海は真っ赤に染まったという。そんな状況もあり、日
本は急速に戦況が悪化していった。昭和18,19年になると、各地で次々と
玉砕されたり、撤退していった。昭和19年には、戦略上の拠点とされたサイ
パン、グアムが占領された。アメリカはサイパン、グアムから日本本土を攻撃
できるようになった。それまでは、航空母艦から飛行機が飛んできていた。
昭和19年10月に日本は捨て身の戦いを始める。皆さんも聞いたことがあ
る神風特攻隊が片道の燃料を積んだ爆弾で敵に体当たりをした。日本の若い人
たちは、国のために体当たりをすることになった。人間魚雷「回天」という1
人乗りの潜水艦で敵に体当たりをした。そんなことで戦況がよくなるわけがな
かった。
昭和20年になると、日本各地で空襲を受けるようになった。海からは、軍
艦が近づいて艦砲射撃を受けた。4月末には、ヒトラーが自殺し、5月にドイ
ツが降伏した。ヨーロッパでの戦争は終わる。しかし、日本はまだ頑張った。
4月1日に沖縄上陸。沖縄救援のために2,000人の兵員を乗せた戦艦大和
を呉から向かわせたが、九州沖で撃沈された。6月末になると、沖縄が玉砕さ
れ、いよいよ本土決戦になるのかと思われた。私もまだ小さかったが、戦わな
ければいけないのかと思った。敵に追い詰められる夢をよく見るようになった。
7月26日に連合国がポツダム宣言で日本に降伏するよう迫ってきた。日本は
回答を渋った。その夜、松山大空襲が起こった。それから、8月6日に広島に
原爆が投下された。その2日後に不可侵条約を結んでいたロシアが満州に侵攻
してきた。9日には長崎にも原爆が投下された。ついに、8月15日に日本は
ポツダム宣言を受け入れて無条件降伏した。当時、私は中学校1年生になって
いた。皆さんと同じぐらいの歳だった。
堀之内の電車通りの1つ南のとおり、今の三番町6丁目辺りに私の家があっ
た。当時は、車もなく馬車が行き交っていた。戦争が始まると街並みが変わっ
た。戦況が悪化すると、何軒かおきに用水桶を置き、防火訓練をしたり、広場
ではモンペ姿の女性が竹やり訓練をしていた。各家では灯火管制で暗くしてい
た。また、毎日のように出征兵士を見送る会を行っていた。学校からは銅像が
消え、寺からは鐘が消え、各家からは鍋や釜、自転車が兵器の金属になるため
供出された。
昭和20年になり、北予中学に進学した。5年制だったが、3年生以上にな
ると、学徒動員として工場に働きに行っていたので、学校には1,2年生だけ
だった。体育の時間は、ほふく前進や手りゅう弾を投げたり、アメリカ兵と遭
遇した時のため股を蹴り上げる練習をしていた。5月中頃に松山の上空で敵の
グラマンと吉田浜から飛んだ爆撃機の空中戦があった。煙を吐きながら墜落し
ていくのを庭から呆然と眺めていた。それから1週間たった後、親のおつかい
で田んぼ道を歩いていると、金属音がしたと思うと、グラマンが高度を下げて
きた。周りには誰もいなかった。グラマンより機銃掃射を受け、体中の血液が
凍りつくぐらいびっくりした。日本の空は抵抗がなくなり、グラマンは我がも
の顔で飛んできて、動くものは遊び半分練習半分で撃ったとも言われている。
7月26日の夜10時半ごろ、サイレンが鳴り始めて、いっこうに鳴りやま
なかった。警戒警報なしで空襲警報が鳴った。防空頭巾など被って備えた。外
は騒がしくなった。本町が火事と聞いたので、新居浜の工場から帰っていた兄
と様子を見に行った。東の空から不気味な爆音がしてきた。見上げると、何機
ものB29が近づいてきていた。大変だと思い、必死で逃げた。家に近づくと、
頭の上からヒューッと爆撃の音がしてきたので、兄が「飛び込め。」と言った
ので、玄関にヘッドスライディングのように飛び込んだ。裏庭に防空壕があっ
たが、間に合わなかった。父は、近所の役で見回りをしていたので、兄が「逃
げるぞ。」と言ったので、兄と妹と一緒に逃げた。頭の上では、ものすごい爆
音と焼夷弾が降っていた。
(模型と写真で焼夷弾の説明)
中にはドロドロの油脂が詰まっており、地面に落ちると信管が作動し、油が
飛び散る。日本の家は木造なので、アメリカによってものすごい数の焼夷弾を
落とされた。黒いカラスが急降下で襲ってくるようだった。必死で逃げた。妹
は白いシャツを着ていたので、敵に見つかるかもしれないと恐れていた。B2
9は6機編隊で来た。当時60機が来たと言われているが、南へ飛びまわって、
焼夷弾を落としていった。今の済美高校辺りを逃げた。後は、どこを逃げたの
かよく覚えていない。気が付けば、田んぼのあぜ道を走っていた。途中で溝に
はまって履いていた物が無くなり、裸足だった。石手川の土手に着いて、橋を
渡り、街を振り返って見ると、煙で松山の街は何も見えなかった。それから朝
方を迎えた。
道後が無事と聞き、そこに行く途中、ムシロをかけられた何体かの遺体を見
た。友達から聞いた話では、焼け焦げた遺体、首のない遺体、用水桶に首を突
っ込んでいる遺体、窒息死した遺体を見たと聞いた。道後の伊佐爾波神社の下
で両親と会うことができとてもうれしかった。
翌日、焼け跡に入ると、物は何もなく、兄は音まで燃えてしまったようと言
っていた。遠くで女性の叫び声が聞こえたが、遺体でも見つかったのかと思っ
た。
それからの生活が大変だった。学校も焼けて、着る物もなく、食べ物もなく、
住む所もなく、何もなかった。食べられる物は探して、食べた。気が狂いそう
な空腹を体験した。松山大空襲により、500名ぐらいの方々が亡くなったと
言われている。
沖縄での惨状はさらにすごいものだったらしい。
(渡嘉敷島の集団自決の話)
第二次世界大戦により、日本で亡くなったのは300万人、アメリカは60
万人、ドイツは300万人、ロシアでは1,000万を超える人たちが亡くな
ったと言われている。ちなみに、日本では終戦の年の昭和20年1月1日から
8月14日までに1日平均9,000人を超える人が亡くなっている。
私も、松山大空襲から約10日後に学校の焼け跡の整理をしに行く途中に広
島の原爆のきのこ雲を見た。学校に着くと、友人の中にはピカッと光ったのを
見た者や大きな爆音を聞いた者もいた。
戦争は大量無差別殺人のようなもの。国と国の利害関係や意地がぶつかり合
い、憎しみが増幅していく。お互いに仲良くしていかなければならない人たち
が殺し合いをしなければならない。そして、後に残るのは憎しみだろう。私が
戦争を体験して勉強したことは、平和を考える時の原動力になっていること。
また、物を粗末にしないことや我慢することが身に付いた。これからも平和な
世の中を築くのは、皆さんのような若い世代である。実際、戦争が起きたとき、
戦争を止めるのは人の力だが、なかなか止められず、坂道をブレーキがなく下
っていくようなものである。人間は愚かなものだと思う。今後、平和について
真剣に考えていってもらいたい。正しい道を歩んでほしい。
3.質疑応答等(約 10 分)
Q:キノコ雲を見たとき、どう思ったか?
A:ちょうど学校の焼け跡整理に行くときだったので、何か分からなかっ
た。変な雲がモクモクと湧き上がって、こちらに広がってきた。その
時は、どういうことか分からなかった。学校に行くと、友人から新型
爆弾だと言われた。後から原爆と聞いて、広島の祈念館に行ったが、
本当にひどいものだなと感じ、絶対に使ってはいけないと思った。
Q:知人で戦争に行った人はいるか?
A:私の年代の人で戦争に行った者はいない。しかし、先輩が戦地に行っ
て戦死した人がいた。また、仲の良かった友人が松山大空襲により離
れ離れになってしまったが、何年か後に出会った者もいる。その他に
も音信不通になってしまった仲の良かった友人もいる。私自身も戦争
には行っていない。
Q:空襲警報のサイレンはどんな音だったのか?
A:今のサイレンとほとんど変わらない。ウーウーといって不気味だった。
敵が呉に行くのに、爆撃機が松山の上空を通るたびにサイレンが鳴った。
敵が上空を通るたびに、吉田浜から高射砲を撃ったが、敵には届かなか
った。しょっちゅうサイレンが鳴ったが、空襲警報はたまに鳴るぐらい
だった。
Q:知人が戦死したことをどう思ったか?
A:戦後、私の友人が吉田浜の飛行場で弾の整理をしていて、高射砲の弾
を見つけていじっているとき、爆発して即死した者もいて、みじめだっ
た。
Q:戦艦大和が出たとき、どう思ったか?
A:戦艦大和が沖縄に向かうというニュースはなく、後から聞いた。大和
が沈んだことも後から聞いた。戦時中は自分たちに都合の悪いことは教
えてくれなかった。
Q:戦争で必要だったものは何か?
A:私たちの年代では、防空頭巾やゲートルなど。
Q:松山大空襲で、松山が焼け野原になってどう思ったか?
A:茫然とした。住む所もなかったので、どうしようもなかったので、親に
頼るしかなかった。空襲後、谷町の知人宅に身を寄せさせてもらった。
その当時は、これ以上悪くならないだろうと思った。日本中が灰になっ
ていた。
Q:松山大空襲の威力はどのくらいだったのか?
A:爆弾が落ちたのかはっきりしないが、主には焼夷弾を落とされ、街を焼
き尽くされた。道後は焼けなかったので、後からアメリカの進駐軍が温
泉に入るからなどと言われた。広島の原爆は、高熱と爆風で一瞬にして
跡形もなくした。松山大空襲では、焼夷弾の油脂により、なかなか消火
することができなかった。私の家にも6本の焼夷弾が落ちていた。
・戦争は二度とあってはいけないと思っていたが、今日の話を聞いて、被
害など詳しく分かり、さらに戦争をしてはいけない気持ちが高まった。
・広島、長崎だけでなく、松山でも空襲があったことを知り、戦争は恐ろ
しいと分かった。
・これから戦争の体験談を話してくれる人たちが少なくなる中、今日は貴
重な話を聞くことができた。
・改めて戦争の悲惨さなどが分かり、二度と戦争はしていけないと思った。
・戦争が起こった原因を調べてみたい。
5.児童からのお礼の言葉
日 時:平成 25 年 5 月 24 日(金) 13:40~14:40
場 所:湯山中学校 校舎1階 学習センター
対 象:3 年生 80 名
語り部:愛原 章
1.教諭より語り部紹介
2.語り部体験談(約 50 分)
(事前に児童に配布したレジュメに沿って話を行う。)私は昭和10年生まれ
の78歳になる。昭和12年には中国と戦争をしていた。小学校入学する前の
年の昭和16年に大東亜戦争が始まった。戦後は太平洋戦争と呼ぶようになっ
た。ハワイを攻撃して、最初は戦果をあげていた。広島の呉の小学校へ入学し
た。呉には軍港があった。船の改修などの呉海軍工廠(こうしょう)に父が勤
めていた。母も共働きで工廠に通っていた。家では、祖母と弟と私の3人で留
守番をしていた。小学校3年生まで呉にいた。
小学校1年生のときの通知表が残っていた。今の学科で違うのは「修身」と
いう科目があった。修身は今でいう道徳のようなものだった。天皇陛下のお言
葉をまとめた教育勅語を中心に教えられた。弱い者いじめや女子を泣かしたり
すると、厳しく怒られた。小学校は町の中心部にあり、木造4階建ての大きな
学校であった。
その後、父が兵隊に行くようになって、松山に疎開することになった。街の
中心部から田舎に移ることを疎開と呼んでいた。昭和19年6月頃に松山に戻
ってきた。桑原小学校へ転校した。松山に戻って約1年後の昭和20年7月に
松山の街が焼けてしまった。
松山大空襲の前から、上空ではB29が飛んでいた。B29はB787の半
分くらいの大きさだった。B29は兵隊が11人ぐらい乗ることができ、爆弾
や焼夷弾を積んで、サイパンから飛んで来た。時速500キロぐらいだったの
で、サイパンから松山まで3~4時間かかったのではないかと思う。日本の上
空に来て、爆弾(主には焼夷弾)を落として帰った。
(焼夷弾の説明)焼夷弾の
筒の長さが約50センチだった。筒が1つずつ落ちてくるわけではなく、約1
6個ずつの束を3段に重ねて落としてきた。地上3,000メートルから落と
し、地上1,000メートルぐらいになると自動的にバラバラになった。B2
9は1機あたり約2,000発の焼夷弾を落とした。松山大空襲時には、12
8機のB29が飛んで来たと言われている。
B29が飛んでくる前には、警戒警報が鳴った。昭和20年7月26日の夜
11時過ぎ頃から空襲が始まった。翌日の27日の午前1時過ぎまで空襲が続
いた。相当な数の焼夷弾が松山の街に落とされた。最初に古町あたりに落とさ
れた。西から燃え始め、城山の周りをぐるっと燃えていった。西は朝美や南江
戸、南は石手川、東は上一万、持田、北は山越、清水町まで焼けた。当時、私
は畑寺に住んでいた。家の近くの竹やぶに防空壕を掘っており、防空壕に隠れ
ていた。呉に住んでいたときは、家の床下に防空壕があった。防空壕より顔を
突き出して、松山の空襲の様子を見ていた。次々と飛行機が来ていた。私は直
接、火の中をくぐったわけではない。明け方になると、市内からお年寄りや子
連れの女性が、裸足に着の身着のままで逃げてきた。男の人は刀を持って来た
人もいた。ヤカンやバケツを持って来た人もいた。伯母の家は農家だったので、
3家族ぐらいとしばらく同居することになり、炊き出しなど手伝った。
当時は物が不足する時代だった。特に、食べ物は配給制だった。決められた
量しか政府からいただけなかった。サツマイモをふかして食べたりしていた。
当時は、塩もなく、砂糖も少なかった。農家で米や麦を作っても、政府におさ
めるので、手元には少ししか残らなかった。戦後になると、サトウキビが出て
きた。塩は、堀江まで塩水を汲みに行って、家にあった釜に入れて焚いて作っ
ていた。自給自足の生活をしていた。肉はニワトリを飼っていた。
当時、空襲などがあると、防空壕に隠れていたが、焼夷弾を落とされると、
逃げ出さないと助からなかった。地区ごとに避難場所を決めていたように思う。
私が通っていた学校は避難場所ではなかった。桑原小学校は兵隊が負傷したり、
病気になったときの収容所になっていた。学校が病院になってしまったので、
私たちは近くの神社に行って、朝から晩まで教育勅語を暗記させられた。勉強
らしいことはできなかった。
昭和20年8月15日の天皇陛下の玉音放送があって、戦争も終わり、兵隊
も帰ってくるだろうと思った。戦地に行っていた父は戦死して帰ってこなかっ
た。疎開先の叔父も昭和19年7月に出征したが、戦死して帰ってこなかった。
通学時には防空頭巾を持っており、警戒警報が鳴ると、防空頭巾をかぶって
集団下校した。
松山大空襲により、大きい鉄筋建物は焼け残ったが、その他の多くは焼けて
しまった。木は立ち枯れになってしまい、葉も焼けてしまった。新立橋に伯母
がいたので、心配で様子を見に行った。当時、自分で作ったわら草履を履いて
市内に入ったので、地面のぬくもりを感じた。嫌な臭いがただよっていた。近
くにラムネ屋があったが、瓶が溶けて、山になっていた。当時、ラムネはめっ
たに飲めない貴重品だったので、もったいないと思った。
その後、広島、長崎に原爆を落とされた。広島原爆のときは、黒いキノコ雲
が立ち上がるのが見え、呉に新型爆弾が落とされたのではないかと心配した。
当時は、原子爆弾とは知らなかったので、新型爆弾と呼んでいた。音がした、
光を見たという人もいた。
当時の給食は味噌汁1杯だった。大根が入っていれば良いほうだった。昭和
20年10月になると、三津や高浜に米軍の進駐軍が上陸して、市内に入って
きて、市役所と日銀の間に図書館があり、そこに司令部を置いた。市役所の一
部にも米軍が入っていたようだ。それから米軍の兵隊が四国中に分散していっ
た。そういったこともあり、米軍の兵隊を見るようになった。米軍はジープで
やってきて、子供にチューイングガムを与えていた。
当時、松山には電車があった。今はなくなったが、森松線もあった。乗り物
は、車、自転車もあまりなかった。歩く以外に汽車に乗るほかなかった。その
ため、汽車はずいぶん混んでいた。バスが運行し始めて、森松線が廃止になっ
た。
小学校6年生になると、久米に転校した。久米小学校の近くには、飛行場が
あった。飛行場の跡地に久米中学校ができた。当時は、小学校が6年制で、高
等科が2年制で、義務教育が8年だった。私が、中学に入る頃に今と同じ義務
教育制度になった。新制中学と呼んでいた。新制中学になり、修身という科目
もなくなり、今と近い科目になった。終戦直後は、教科書が間に合わず、アメ
リカに都合の悪いところは黒く塗って使った。
父が戦死したので、私は中学卒業後に就職した。当時の月給は3,300円
だった。戦時中の小遣いは10銭前後だった。100銭で1円だった。あめ玉
を買っていた。戦後になると、お金の価値が上がった。
戦時中の国内では、空襲や爆撃だけでなく、船からの艦砲射撃を受けた所も
あった。浜松、日立、釜石、室蘭など軍艦などを造っている所が狙われた。艦
砲射撃により亡くなった人も多い。
2.質疑応答等(約 10 分)
Q:これからの平和を維持するためにできることは?
A:戦前と戦後で変わったことを勉強すれば、平和のために何ができるかを
考えることができる。戦争で傷ついた人はたくさんいる。戦争により亡
くなった人は、一般人も含め約300万人と言われている。全国のほと
んどの都市で焼けてしまい、復興するのも大変であった。人の気持ちの
変わり方も大変だった。当時は、自由にものを言えなかった。軍を批判
すると、スパイと言われた。今は、自由に意見を言うことができ、良い
時代である。私は両方を経験しているので、違いがよく分かる。皆さん
は平和な時代に生まれているので、昔の時代に戻さないようにしなけれ
ばならない。
・小学校で学んだときより、本日の話を聞き、戦争の悲惨さを知ることがで
きた。今後も平和のために活動を続けて欲しい。
→私は、直接空襲の中を逃げたわけでないが、1度グラマンより機銃掃射
を受けたことがある。警戒警報が鳴り、下校途中だった。
・今日の話を聞いて、改めて戦争の怖さや戦争の必要性がないことがよく
分かった。
3.生徒よりお礼の言葉
日 時:平成 25 年 5 月 28 日(火)14:15~15:00
場 所:立岩小学校 南校舎2階普通教室
対 象:5、6 年生 7 名
語り部:藤村 敏夫
1.校長から語り部紹介
2.語り部体験談(約 35 分)
私は、今年82歳になった。私は、今から68年前の8月6日に世界で初め
て投下された原子爆弾にあい被災した。その時の悲惨で悲しい、胸の中におさ
めていることを話す。原爆は大勢の人の命を奪う、許しがたい爆弾だった。今
日の話で、1人でも多くの方が、戦争の悲惨さや原爆の恐ろしさを感じてもら
い、後世にも語り継いでもらいたい。今後も地球上がずっと平和であることを
願いたい。戦争はいけない、まして原爆など使ってはいけない。
昭和19年になると、アメリカやイギリスにどんどん攻められて、戦況が悪
化してきていた。その年の11月3日、私が国民学校1年生の13歳のとき、
学徒動員として校長先生から国有鉄道広島第1機関区に配属のため広島へ行
くよう命じられた。始めの半年間は、国鉄の仕組みや役割、機関車の構造の勉
強をしていた。毎日が警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴りっぱなしだった。
田舎から出てきた者たちは、そんなサイレンに慣れていなかった。上空は敵の
飛行機だらけだった。爆弾を落とされるのは、恐怖だった。直径8メートル、
深さ4メートルの穴が開くほどの威力だった。上空1万メートルの高さから爆
弾を落とされるので、どこに落ちるか分からなかった。空襲警報になると、サ
イレンが鳴りっぱなしになるので、授業どころではなかった。授業にしても、
今のように数学、国語、理科、社会などを教えてくれるわけではなく、戦争に
勝つことや兵器は何を使うかといった内容だった。
原爆投下当日の8月6日、暑い真夏日で、朝8時前に寄宿舎を出て機関区で
働くため出勤した。ミーティング中、車庫の窓からは白いような紫のような青
い様な目に突き刺さるような光が見えた。さらに、爆風と熱風が吹いてきた。
2、3メートルぐらい吹っ飛ばされ、頭、顔、胸を怪我した。何が起こったか
分からなかったが、何とか起き上がり、立ち上がって外を見ると、広島の市街
地の家が一軒残らず無くなっていた。
家の中に居たお母さん、子供、老人はみんな下敷きになってしまった。「助
けてくれ。」と至るところから叫び声が聞こえてきた。ある家では、小さい子
供がお母さんに「背中に何か落ちてきて痛いよ。」と泣き叫んでいた。お母さ
んは、子供の名前を呼びながら「助けてあげるから、もう少し頑張って。」と
言っていたが、そのお母さんも下敷きになっていた。お母さんはもがいて、よ
じりながら、子供に近づいていった。やっとのことで、親子は手を握ることが
できたが、お母さんは子供を引っ張ることができなかった。そのうち、周りの
下敷きの家から燃え始め、辺りは火の海になった。その親子の家にも火が迫っ
てきた。子供が「お母さん、熱いよ。」と言うが、母はどうすることもできな
かった。後で、焼け跡を見に行くと、その親子は手を握り合って白骨死体にな
っていた。まさに、生き殺しであった。
外で作業していた人や外に食料を求めていた人たちは、下敷きにならなかっ
たが、熱風により全身に火傷を負うことになった。しかも、1人残らずとも。
火傷をすると、火ぶくれができる。機関区にも、次々と全身火傷をした人が5
0人ぐらい来た。当時の状況は地獄だった。真夏で暑く、さらに周りも火事だ
った。全員が「水をくれ。のどがたまらん。」と叫んでいた。
しばらくすると、火ぶくれが破れ、皮膚が破れて垂れ下がり、赤色か紫のよ
うな筋肉がむき出しになっていた。近くにいた少年に水をあげようとしたが、
水道は止まっており、パイプに残っていた腐ったような茶色いぬるい水をあげ
た。一口飲んで、ゴクゴクと音を立てて、飲んでいた。2、3口飲んで、少年
がありがとうと言った気がし、にっこりしたような顔が生で刻まれている。次
の人に水をあげようと思って2、3歩歩いて振り返ると、先ほどの少年が崩れ
るように倒れた。倒れたところが、真夏の地面だったので、影に移動させよう
と抱き起そうとしても、全身火傷のためつかむことができなかった。周りでも
大勢の人たちが倒れていった。8月6日の午前中には、大半の人が亡くなった
のではないか。
私は、実際にこういった状況をこの目で見た。戦争はいけない。戦争をして、
いいことはない。原爆は使ってはいけない、作ってもいけない、ましてや、持
ってもいけない。戦争は大変である。まず、食べ物がない、武器、兵器がない。
何もない。広島に行った際は、資料などを見て、戦争をしてはいけない、平和
のありがたみを感じてもらえればと思う。
3.質疑応答他(約 10 分)
Q:原爆ではなく、飛行機から落とされた爆弾はどのくらいの大きさだった
のか?
A:当時、大きかったもので250キロ爆弾があった。密集している住宅
地では、1度の投下で50軒は飛ばされてしまう。そんな爆弾をB2
9が上空1万メートルから投下した。不発弾が落ちていることもあっ
た。
Q:原爆後の黒い雨を見たのか?
A:私は、6日の夕方に郷里の岩国に帰っていいと言われた。12日には
広島に戻るように言われていたので、帰ってきた。私が、岩国に帰っ
ている間に黒い雨が降ったので、見なかった。
Q:爆弾はどのくらいの速さで落ちてきたのか?
A:とてつもない速さだったが、科学的な速さは分からない。
4.児童からのお礼の言葉
日 時:平成 25 年 5 月 29 日(水)10:15~11:15
場 所:桑原小学校 北校舎2階 マルチルーム
対 象:6 年生 127 名
語り部:杉野 富也
1.校長から語り部紹介
2.語り部体験談(約 55 分)
私は17歳で土浦の海軍少年航空兵に入隊した。早い人では14歳で入隊し
た者もいた。私と3歳違いの同期がいた。2年間予科練として訓練し、飛行練
習生となった。そこで、操縦と偵察に分かれた。私は偵察だったので、今の高
知の龍馬空港辺りで、通信の訓練を半年行った。
同期の島尾は体操がとても上手かった。1番驚いたのは、予科練で水泳大会
があり、練習したところを見たこともない高飛び込みに出場し、きれいな背面
飛びで優勝した。その島尾は17歳で特攻により亡くなった。島尾が特攻に行
く時に、「今度は、俺が転勤しそうな気がする。お互いに長生きしよう。死ぬ
なよ。」と言って手を握り別れた。その島尾は別れてから50日の命だった。
昭和20年3月21日に鹿屋基地から出撃した特攻隊で島尾は亡くなった。優
秀な人材を失った。
今のうちにできることをしておかなければならない。戦争は1対1の戦闘機
の戦いだった。敵を撃たなければ、自分が撃たれて死んでしまう。特攻は爆弾
を抱えた人間が敵にぶつかって死んで来いというものだった。17、18歳の
若い者が特攻に行ったが、どう思うだろうか。爆弾を抱いたまま突っ込めであ
る。無事に帰ってくることはめったにない。私の同期で125名が特攻により
亡くなった。他の攻撃や病死した者も含めると、同期で約450名が亡くなっ
た。否応なしに命がけで戦うのが戦争である。戦争は2度とあってはならない。
15歳になって戦争に行くようなことはあってはならない。
高知の練習機だったが、特攻に行くことになり、座席に爆弾を積んで突っ込
んで行くことを考えられるだろうか。私が鹿屋基地にいるとき、昭和20年6
月19日夕方に高知の練習機『白菊』がやってきた。私は飛行機を止めるため
に手でサインを送った。ドアを開けると、座席の下にマグロのような250キ
ロぐらいの爆弾がゴロゴロしていた。
「大丈夫か?」と聞くと、
「信管を抜いて
あるから大丈夫だ。」と言われた。座席の横にワイヤーで括りつけていた。聞
いてみると、明日から特攻といい、こんな鈍足な練習機で大丈夫かと思った。
同期の有賀とその夜を一緒に過ごし、翌日の飛び立つ前に「頑張れよ。」と声
をかけると、
「先に往って待ってるぜ。」と言われた。夜中に有賀が突入する際、
「我、突入する」と電文を打って、送信器をツーの状態にしてしまう。電波が
切れたときが、突入して戦死した時間になる。有賀は20歳ぐらいだった。1
7~20歳の若者がみんな爆弾といっしょに死んでいった。
(曳光弾の様子の写真を見せながら)日本の特攻隊に対する敵の機関銃の弾
の様子。どこを入り込んで行けるだろうか。入り込む余地がない。日本は、曳
光弾を5発に1発しか持っていなかった。アメリカは3発に1発だったと思う。
写真で見るより、実際2~3倍もの量が下から撃たれている。大勢の人が曳光
弾に当たり、途中で落ちて亡くなっている。曳光弾を見ただけで、生きた心地
がしなかった。
今ではハガキ1枚50円するが、当時はハガキ1枚が1銭5厘だった。召集
令状も1銭5厘の赤紙だった。当時の学校は、小学校6年間が義務教育で、今
の中学1,2年にあたる高等科は授業料を払っていた。その授業料は20~3
0銭だった。私は高等科2年が終わり、軍需工場の三井化学に入社した。そこ
で2年勤め、3年目に同じく入社した同期3人が土浦の海軍少年航空兵に入っ
た。それを見て、
「あいつらが入ったのなら、俺も航空隊に入りたいな。」と思
って真面目に勉強した。少年航空兵では、ずいぶん尻を叩かれた。そういった
ことを経て、1人前になれば特攻戦士になる。ひどい時代だった。ああいう時
代にはなりたくない。同期の島尾が特攻により亡くなったが、その日は同期9
人が同じ飛行機で特攻により亡くなった。特攻隊の搭乗員になると、今までの
写真をすべて焼かれた。
17歳で土浦の海軍航空隊に入隊したが、トン・ツーのモールス符号が始ま
った。覚えるのが大変だった。テストもあったが、誤字・脱字があると、班長
より尻たたきがあった。私は必死になって、モールス符号を覚えた。当時、ハ
ンモックで寝ていたが、寝る前5~10分ぐらいで「トン・ツー」など心の中
で言いながら覚えていた。すべての符号を言っていると、頭の中に入っていた。
私は予科練練習生の2年半の間でモールス符号の受信・送信で欠点をとったこ
とはなかった。通信の試験は2~3分以内で終わった。受信の試験は、1分間
で90字ぐらい、2分間で200字ぐらい受信した。
通信で欠点をとったことがなかったので、私は偵察になったのかもしれない。
偵察機『彩雲』は、上空1万メートルを悠々と敵の偵察をすることができ、
「我
に追いつく敵グラマンなし。」という有名な電文を打ったことでも知られる。
偵察になった者は、誰もが1番乗りたかった。昭和20年2月に、私が松山基
地に転勤命令が出たとき、今年の桜は見れないと思った。松山基地には、爆撃
機などしかなかったから。ただ、彩雲に乗れると聞き、長生きできると思った。
3月19日に松山基地上空や興居島沖などで紫電改とグラマンの空中戦があ
った。その日、彩雲は偵察に行っていた。1機はグラマンに囲まれたが、すっ
と離れて、岩国まで帰って、戦闘が終わり、松山に帰ってきた。敵からも彩雲
がとても速いと認識された。搭乗員もそういった話をしていた。また、1機は
敵の機動部隊の動きを察知して、状況を連絡してきた。ただ、途中でエンジン
トラブルにより四国山脈の上で敵のグラマンに取り囲まれた。結局、グラマン
に体当たりをして落ちてしまった。今でも天狗高原の近くのその場所に慰霊碑
が建っている。彩雲はエンジンのオイル漏れがひどかった。私も終戦時にエン
ストを起こしたことがあった。
私が長生きできたのは、通信が得意で偵察に回ったことだった。得意なもの
は、職業に生かすこともできると思うので、これからも伸ばしていってもらい
たい。戦争はこれからもしないように。今の平和がいつまでも続くように皆さ
んがしなければならない。戦争をすると、みんなが苦労してしまう。
3.児童からの感想(約 5 分)
・広島の原爆資料館に行ったが、本日の話を聞いて、さらに戦争の恐ろしさ
を知ることができた。
・特攻隊など自分の命を犠牲にするようなことを、今後絶対にないように自
分たちで平和な世の中をつくっていきたい。
4.児童代表からのお礼の言葉
日 時:平成 25 年 6 月 4 日(火)13:30~14:50
場 所:津田中学校 体育館
対 象:3 年生 166 名
語り部:竹内 よし子
1.教諭から語り部紹介
2.語り部講話(約 60 分)
戦争体験している人の話だけでなく、私たちが行っている平和構築の活動を
知ってもらうことで、平和について考えてもらいたい。
『平和』にはどんな意味があるか説明
「平和」というと、どんな色や形をイメージするか。
国によって、平和の捉え方が違う。「平和」の反対というと、戦争や暴力と
言われる。
『平和』という単語は、アジアの農耕民族から生まれた言葉である。もとも
とは、みんながちゃんと食べられることを表していた。
自身が代表を務めるえひめグローバルネットワークの紹介
自身が活動している「モザンビーク」の紹介
アフリカには54カ国あるが、そのうちの1つである。面積は日本の2.1
倍。総人口の約半数が14歳以下。日本とは人口構成が全然違う。日本では、
生まれると住民登録することができ、赤ちゃんも社会人となる。アフリカでは、
登録できていないところもあり、誕生日も分からない自然人となってしまうこ
とがある。
私がモザンビークに興味をもったのは、「銃をくわへ」というプロジェクト
があったからである。モザンビークは、昔ポルトガルに支配されていて、19
60年代には独立戦争を行った。1975年に独立戦争が終わり、その後には
アメリカと旧ソ連による冷戦構造下で内戦が始まった。資本主義と社会主義の
対立により、アフリカにはどんどん武器が入ってきた。内戦というよりは、代
理戦争と呼ばれた。1992年に内戦が終結し、現地の団体が「銃をくわへ」
というプロジェクトを始めた。今まで使っていた銃をくわや釜などに変えて、
戦争をやめましょうという趣旨だった。市民自らが立ち上がって、武器の回収
にあたった。モザンビークの内戦が終わった後、総人口の約1割しか識字率が
なかった。それぐらいひどい国になっていた。
私がそのプロジェクトを知ったとき、なぜ武器の回収を軍隊など国が行わず、
市民が行うのかと思い、驚いた。松山には放置自転車の問題があったが、その
放置自転車をモザンビークで活用できないかと考えた。2000年から支援を
始め、今までに7回で計660台の自転車をモザンビークに送った。自転車を
得たモザンビークの人たちは大きな荷物を運ぶことができ、学校に行くことも
できるようになった。モザンビークでは、中学校へ進学することができない人
がたくさんいた。日本とモザンビークにあるそれぞれ抱えている問題を結びつ
けて、解決しようと考えた。また、モザンビークにあった武器のほとんどは外
国で造られたものだった。現地にあった武器の95%は爆破処理している。残
りを武器アートとして作っている。戦争中は楽器を弾くことができないが、武
器アートで楽器を弾いている姿を表現したものもある。
モザンビークも現在は、都市部は発展しているが、農村部ではまだ貧しい生
活を送っている。富裕層が増えているが、1日1ドル以下の暮らしをしている
極貧層も増えており、格差社会が広がっている。日本でも格差社会が広がって
いる。平和な社会を作ろうと思えば、貧困率といった数字や現状を知る必要が
ある。私が支援しているモザンビークの村では、男性は出稼ぎに行っており、
女性が村に残り農業などをして生活をしている。村の女性の学歴は80%が小
学生以下である。女性の約半数は収入がない。
平和とは、戦争をしていないというだけではなく、貧困をなくさなければな
らない。世界の現状を聞くだけでは何も変わらない。皆さんも学校で学んだこ
とを社会に出たときに還元してもらいたい。
<世界で起きていること>
・1 日に小豆島と同じ面積の農地や牧草地が砂漠化している。
・戦場で戦う子供兵が30万人いると言われている。その4割が女の子。
・1日に24,000人が空腹で餓死している。
・小学校に通うべき年齢にありながら、8000万人ぐらいの子供たちが学
校に通えない状況にある。
・14秒に1人の子供がエイズで親を失っている。日本は先進国で唯一エイ
ズが増えている。
・1日1ドル以下の貧困人口が10億人、2ドル以下は30億人いると言わ
れている。
・人口比20%の先進国が地球資源の80%を使い、残り80%の国々で2
0%の資源を分け合っている。
国連では、「ミレニアム開発目標」を掲げた。2015年までに貧困や飢
餓にある人口を半減させる目標を立てた。ただ、未だに達成できていない。
具体的な目標を紹介するが、こんな目標を立てないといけない社会になった
のか知ってもらいたい。
1.とてつもない貧困と飢えをなくそう
2.みんなが小学校に通えるようにしよう
3.ジェンダーの平等を進めて、女性の地位を向上させよう
→モザンビークでは、まだまだ女性の地位が低い。
4.子供の死亡率を下げよう
→モザンビークでは、出生して死亡するのが日本の10倍ぐらいという。衛
生状態が悪い。
5.女性が健康な状態で妊娠し、子供を産めるようにしよう
6.HIV/エイズ、マラリアその他の病気が広がるのを防ごう
→モザンビークの子供たちに1番怖い動物は何か聞いたことがあるが、皆マ
ラリアの蚊が怖いという。蚊に刺されると、死んでしまうこともあるから。
7.環境の持続可能性を確保しよう
8.世界の一員として、先進国も責任を果たそう
途上国が貧困になる商品を買うのをやめて、フェアトレード商品を買って
もらいたい。フェアトレード商品は、誰が生産者で、製造者かということが
分かる。また、収益の一部が途上国に行きわたり、子供たちの教育にも使わ
れる。家庭菜園や地産地消など自分でできること、自分からやってみたいこ
と、「私発・志発」で始発できることを考えて、調べてみたり、話し合った
り、相談して、自分で決めたら、自分との約束を守りながらやってみよう。
「行動」が伴わなければ、世界は何も変わらない。新しい自分や価値観に出
会いながら動いてほしい。自分が変わらないと、周りを変えることはできな
い。
3.質問(約 15 分)
Q:モザンビークで壊れた自転車は、どのように直すのか?
A:現地で部品があれば、自分たちで直す。私たちが支援している村では、
部品が少なく、壊れて乗れない自転車から部品を取り出して直す。空
気を入れても、道が荒れているので、すぐにパンクしてしまう。パン
クしても、縫うなど工夫して使っている。
Q:モザンビークにある病院はどのようなものか?
A:大きな病院は、首都のマプトにある。小さな都市になると、病院はあ
るが、ベッドが足りない。松山の病院で廃棄処分するベッドを送った
こともあった。村に入ると、病院がない。クリニックが1軒あるが、
手術ができない。また、そのクリニックに行くのにも10キロもの道
のりを歩かないといけない。自転車があれば便利と思い、支援を続け
ている。
Q:世界には貧しい国がある中で、なぜモザンビークを支援するようにな
ったのか?
A:結婚で松山に帰ってくる前まで、国際機関で働いていた。松山に帰っ
て来ても、国際的な仕事をしたいと思い、調べていると、モザンビー
クで平和構築をしている活動が珍しかった。武器を回収して、アート
に変わるのはすごいと思った。
Q:モザンビークの人たちは自転車の乗り方を習得できたのか?
A:大人になると、バランスが悪くなるので、何人もコケながら練習して
いた。今は、自転車が普及してきたので、乗れる人が増えた。モザン
ビークの子供たちは子供用の自転車に乗ると、とても喜んでくれた。
日 時:平成 25 年 6 月 14 日(金)14:00~15:00
場 所:双葉小学校
対 象:6 年生 109 名
語り部:藤村 敏夫
1.教諭から語り部紹介
2.語り部体験談(約 35 分)
私は今年で82歳。今から68年前の8月6日の真夏の暑いときに、世界で
初めて使用された原子爆弾を受け、私も広島で被爆した。原爆は悲惨な爆弾で
ある。その時の模様が今でも胸の中に色濃く残っており、その状況を中心に話
をしたい。戦争はしてはいけない。まして、原爆は使ってはいけない。作って
もいけない。持ってもいけない。1人でも多くの方が感じてもらい、後世に語
り継いでもらいたい。また、今後も平和であり続けることがうれしいことであ
る。
昭和19年になると、アメリカ、イギリスなどの連合国軍が日本にどんどん
攻めてきた。私が13歳のときの昭和19年11月3日、校長先生に呼ばれ、
1週間以内に勤労学徒として広島の第1機関区に行くよう命じられた。機関車
は蒸気で動いているので、常に石炭を燃やしておかなければならかった。最初
の半年は、当時の国鉄の仕組みや役割、機関車の構造の勉強をした。あとは、
上司とともに仕事をしていた。
原爆投下の8月6日、いつも通り8時前に寄宿舎を出て、車庫で朝礼を受け
ていた。それが終わり、ミーティングをしていたその最中に車庫の各窓からピ
カッと光り、青とも白とも紫ともいえないような光が目に突き刺さるようだっ
た。次に爆風と熱風が吹き、みんなが2メートルほど吹っ飛ばされ怪我をした。
胸を打ったり、外傷を何か所か受けた者もいた。何が起きたか全く分からなか
った。私は、頭から血が出ていてうずくまっていた。布切れで頭からの出血を
止血した。意識ははっきりしていて、何とか起き上がり、立ち上がって広島の
市街地を見ると、一軒残らず吹き飛ばされていた。
家の中には、老人や子供、お母さんたちがいた。そんな人たちが、みんな自
分の家の下敷きになってしまった。各家から助けを求める声が聞こえた。「助
けてくれ。手がはさまれた。」など、どの家からも聞こえた。私の近くの家で
は、小さい子供が「お母さん、背中に何か落ちてきた。」と泣き叫び、母親に
助けを求めていた。その母親も我が子の名前を呼びながら、「今、助けてあげ
るから。」その母親も家の天井の下敷きになっていった。母親が子供に少しず
つ手を差し伸べていた。ようやく、手首をつかみ引っ張り出そうとしても、家
の下敷きになっているので、引っ張り出すわけにもいかなかった。そうしてい
る内に火事が起こり、辺りは火の海となり、ついには親子の家も焼けてしまっ
た。火事により、とうとう親子の声が聞こえなくなった。当時、助けることが
できなかったことを後悔している。
一方、家の外にいた人たちは、家の下敷きにはならなかったが、1人残らず
みんな火傷を負った。原爆の火傷による火ぶくれはとてもひどかった。火傷を
した人たちが機関区の広場に集まってきた。当時、真夏でみんなが助けを求め
ていた。火ぶくれが破けると、皮膚の中から赤や紫のような筋肉が出てきた。
筋肉がむき出しになる状態だった。
辺りでは、
「水をくれ。のどがやけつく。」とみんなが一生懸命訴えていた。
近くにいた10歳以下の少年に水をあげようとしたが、水道は止まっており、
パイプに残っていた腐ったような、赤く錆びたようなぬるい水をあげた。一口
ごとにコクンと大きな音を立てて、水が落ちていくのが分かった。二、三口ほ
ど飲んで張りつめていた気持ちが緩んだのか、にっこりしたような、ありがと
うと言ったような笑顔が今でも生で刻まれている。次の人に水をあげようとす
ると、その少年が崩れるように倒れていった。その少年を涼しい所に移動させ
ようとしたが、触るところがなかった。全身火傷をしていたので、触ると火ぶ
くれが破けてしまう。近くに吹き飛ばされてきたものを少年にかぶせてあげた。
周りにもそういった人たちが倒れていた。2時間もすれば、大勢の方が亡くな
ったのではないかと思う。
私も仕事があったので、助けてあげることができなかった。日陰を作ること
もできず、今でも残念に思っている。戦争はいけない。戦争をするから、原子
爆弾を落とされ、食べ物も薬なども無くなる。今では、欲しい物が手に入り、
食べたい物も食べることができる。平和のおかげである。平和が続くと、地球
上が幸せになることができる。一方、平和が続くと、平和ボケになると言われ
ているので、考えないといけないことである。これからも原爆を持ってもいけ
ない、作ってもいけない、使ってもいけない。みんなで力を合わせて、戦争の
ない世の中を作らなければならない。
3.質疑応答(約 15 分)
Q:原爆が落ちて、戦争が終わったときの状況は?
A:8月6日に原爆が落ちて、故郷の岩国に帰ることができた。火の中をく
ぐりながら、駅まで歩いた。その途中で、橋が落ちていたり、国鉄の鉄
橋の上では、汽車や貨車が燃えていた。駅に着くと、救援列車が来てい
た。汽車には、火傷をした人でいっぱいだった。列車には、水を貯めた
タンクがあったので、被災者はその水を飲んでいた。その救援列車で岩
国まで帰った。8月12日までには広島に戻るように言われていた。当
時の憲兵はとても権限をもっていたので、戻らなければひどい目に遭っ
てしまう。12日に広島に戻ると、家の下敷きになった人たちや火傷で
亡くなった人たちでいっぱいで、臭いがひどかった。
Q:戦後、どのように復興したのか?
A:日本人は精神力が強いので、一丸となって立て直した。広島も計画で、
大きな道路を造った。広島市は10年以内で以前に近い状態まで戻った。
復興の早さに驚いた。
4.生徒からのお礼の言葉
日 時:平成 25 年 7 月 17 日(水)10:30~11:15
場 所:河野小学校 体育館
対 象:6 年生 63 名
語り部:平野 幸雄
1.教諭から語り部紹介
2.語り部体験談(約 35 分)
私も河野小学校の卒業生である。
終戦から68年間、ずっと平和が続いている。皆さんは平和であることが当
たり前と思うが、私が小学校に入ったときには、戦争をしていた。戦争とは、
国と国で「お付き合いしませんよ」と宣戦布告を行ってから始めるものである。
私が小学校6年生のときに、中国と宣戦布告をして戦争を始めた。戦争は殺し
合いで、人を多く殺した方が偉い。こんな馬鹿げたことはない。中国で戦死し
た日本人は40万人ぐらいと言われている。中国人は、一般人を含めて1,0
00万人ぐらいが亡くなったと言われている。戦争は決してしてはいけない。
皆さんもそのことを心に留めておいてもらいたい。
私の小学校の同級生も6人が戦死してしまった。みんな二十歳ぐらいだった。
日本と戦争をしていた中国をアメリカ、イギリス、オーストラリアなどが助け
た。
昭和16年12月8日、ハワイの真珠湾にアメリカの太平洋艦隊がいた。そ
こに日本の飛行機や潜水艦が攻め込んで、アメリカの軍艦をすべて沈めた。私
も真珠湾に行ったことがあるが、沈められた船が1隻だけ残してあった。
昭和20年8月15日に、日本は周辺の国に攻められ、無条件降伏した。そ
の後、軍人の上層部などは裁判にかけられた。
戦時中は、アメリカの爆撃機B29が飛んできて、爆弾や焼夷弾をどんどん
落とされた。当時の日本の家屋は、木と紙でできており、すぐに焼き尽くされ
た。松山もB29による空襲によって、焼け野原になった。山越から市内を見
ると、石手川が目の前に見えるぐらい、市内の家や建物は焼き尽くされた。そ
れほど戦争は大変なものだと分かるはずである。戦争は二度としてはいけない。
日本には、広島と長崎に原子爆弾を落とされた。通常は1t爆弾を使った攻
撃を受けた。1t爆弾は投下されると直径20m、深さ10mの穴が開くぐら
いの威力だった。原爆はその1t爆弾の約1,600発分の威力がある、とて
も恐ろしいものである。原爆は光の熱が強かった。広島の原爆によって、約1
4万人亡くなったと言われているが、別の資料では20万人とも言われ、実際
どのぐらいの方々が亡くなったのか、はっきりしない。
ただ、原爆よりもっと恐ろしいのが水素爆弾である。アメリカの新聞記者が
報道したのだが、ビキニ島というところで水素爆弾の実験を行った。原爆の1,
000倍の威力があると言われている。その時、日本のマグロ漁船が遠く離れ
ていたが、水素爆弾の灰を浴び、多くの船員が亡くなった。
松山大空襲により、私の知人が2人亡くなった。戦争の爆撃は、一般人も巻
き込んでしまい、大変なことだったと覚えてもらいたい。東京の空襲では、約
10万人が亡くなったと言われ、日本各地で空襲を受けた。
大阪の空襲では、大阪の街もほとんどの家が焼けてしまった。私がはっきり
この目で見たのが、朝の大阪駅の地下鉄のホームで餓死している小さな子供だ
った。大きな子供であれば、何とかして食べる物を得ることができたが、小さ
な子供はできなかった。それが大阪で見た現実だった。戦後は、トタンを屋根
代わりにして、雨などをしのいでいた。戦争により大変な思いをした。
この近くの山にも、慰霊碑がある。当時の河野村では、175名の方々が戦
死しており、そのうちの約150名もの方々が祭られている。
正岡に、私の1つ年上の三島さんという方がいた。三島さんは、鹿児島の知
覧飛行場から飛び立って、正岡の学校の上に来て、3回ほど飛び回って、自分
の写真や日の丸の寄せ書きなどを落として、そのまま沖縄に爆弾を積んで行っ
た。その後、どうなったかは分からない。
戦争は恐ろしいものだと感じてもらいたい。また、皆さんも戦争をしないよ
うに声を上げてもらいたい。
3.質疑応答・感想(約 10 分)
Q:原爆のキノコ雲は、ここからも見えたのか?
A:北条からも広島のキノコ雲が見えたらしい。私は、当時兵隊で福井にい
たので、見ていない。
Q:広島に落ちた原爆の音は聞こえたのか?
A:音は聞こえなかったのではないか。
・戦争の話を初めて聞いたが、戦争はとても怖いと思った。
→原子爆弾より威力のある水素爆弾を3発落とされたら、日本人の多くが亡
くなってしまうだろう。現在では、原爆より威力のある爆弾が開発され、被
害も大きくなってしまう。そのぐらい戦争は恐ろしいものである。
Q:原子爆弾を開発したのは誰か?
A:アメリカの科学者である。日本も原子爆弾に近いものを造っていた。私の
先輩も、新居浜の工場で開発し、富士山で実験したが、アメリカが造った
原子爆弾ほどの威力がなかった。それが当時の実情だった。
Q:原爆は、なぜ広島に落とされたのか?
A:初めから広島に落とす計画だった。広島では、それまで空襲をしておらず、
1発でどのぐらいの人間が亡くなるのか調べたかったのだろう。
4.児童からのお礼の言葉
日 時:平成 25 年 11 月 9 日(土)11:45~12:35
場 所:新田青雲中等教育学校 体育館
対 象:3 年生 105 名
語り部:松友 順三
1.教諭から語り部紹介
2.語り部体験談(約 50 分)
私は昭和19年に新田中学に入学した。当時は旧制中学だったので、5年制
だった。運動場は当時のままで懐かしく思う。本日お話するテーマは平和と戦
争という難しいが、実際私が体験したことを中心に話そうと思う。私は皆さん
と同じぐらいの歳に終戦を迎えた。現在の松山市は非常に発展し、中核都市に
成長したが、68年前の昭和20年には松山の街も瓦礫の山となった。空襲に
あい、1時間半ほどで火の海に包まれた。見るも無残な廃墟になってしまった。
最初に結論を言うが、戦争は絶対にあってはならない。戦争は兵隊同士が戦
うのではなく、国民対国民で殺すか殺されるかである。そんなことができるだ
ろうか。実際、当時日本でも起きた。当時の日本の人口が約1億人で、戦争に
よって約300万人が亡くなった。そのうち兵隊が200万人、残りの100
万人が民間人だった。戦争と関係のない一般人まで犠牲となった。皆さんも疑
問に思うが、なぜそんな戦争をしたのか。もちろん原因があって戦争が起こる
が、皆さんで調べてもらいたい。
中学へ入学して、1学期は勉強したが、その後は土方作業などで掩体壕など
を造っていた。1週間勉強すると、1週間土方作業といった具合だった。それ
はどこの中学でも同じだった。勉強や部活動などできなかった。子供も大人も
一丸となって戦争一色だった。女子生徒も働かされていた。
2年生になると、1つ上以上の先輩がみんないなくなった。学徒動員により、
ほとんどが新居浜の軍事工場に行かされた。寮があって泊りがけだった。学校
には、私たち2年生と1年生だけとなった。そんな中、昭和20年8月15日
に終戦を迎えた。勉強をもっとしたかったが、仕方がないとも思った。そんな
中でも勉強や仕事をサボろうした人はいなかった。先生からも、「君たちがサ
ボればアメリカや外国の学生と差が付くだろう。」と言われていたので、私た
ちは頑張った。
戦争をやりだすと、ブレーキがきかなくなる。私は自動車に例えるが、ブレ
ーキがなくなると、アクセルを踏みっぱなしの状態になる。戦争は終わりまで
止めることができなくなる。戦争は悲惨で、戦場だけが被害にあうわけではな
い。日本も当時は20歳を過ぎると、兵隊へ行かされた。私の父も40歳を過
ぎて赤紙が届いて戦地に行った。当時の40歳というと、相当な老兵だった。
当時は国を挙げての時代だった。街中には、「欲しがりません、勝つまでは」
といった標語が掲げられていた。当時のご飯は、おかゆやイモなどが主ですぐ
にお腹が空いた。イモのつるをおひたしにして食べていたこともあった。
私が生まれたときには、戦争が始まっていた。昭和12年に満州事変が起こ
った。中学2年生のときまでずっと戦争をしていた。私より年上の方々は、さ
らに悲惨な体験をされていると思う。東南アジアなど外地に行った兵隊は、鉄
砲に当たって死んでしまうというより、食べる物がなくて飢え死していた。カ
エルやヘビなど食べられる物は何でも食べたという。屍の上を走って作戦を実
行するという話は涙なくして聞けなかった。今日の平和は、そういった同胞の
尊い犠牲の上にある。私はこれからも当時の話を語り継いでいくが、皆さんも
後世へ語り継いでもらいたい。
日本は、ドイツ・イギリスと手を組みA:アメリカ、B:イギリス、C:中
国、D:オランダ(それぞれの国名の頭文字をとって)と戦争した。私は、A
BCD包囲網と呼んでいる。日本には石油などの資源がなかったので、ABC
D国が日本に補給路を断とうとした。
戦争が始まった当初は、真珠湾攻撃やフィリピン沖でイギリスの東洋艦隊撃
破といった勝ち戦のニュースが流れていた。しかし、ミッドウェー海戦により
アメリカの反撃にあい、形勢逆転してしまった。そこで、マリアナ諸島を占領
され、空襲されるようになった。
現在の飛行機はジェット機が主だが、当時はジェット機などなく、プロペラ
機だった。アメリカにはB29という飛行機があったが、積載量が7トンから
8トンあった。拠点から日本まで往復できるようになった。最初は八幡製鉄所
など軍事工場を狙っていたが、だんだんと北海道以外の日本国中を焼いていっ
た。焼夷弾を落としていった。焼夷弾は36本が束になっていて、重さが3キ
ロぐらいだった。焼夷弾が落ちると、中からゼリー状の油脂が出てきた。もの
すごく臭く、水の中でも燃えた。
松山大空襲があったのは、昭和20年7月26日だが、その前に予告があっ
た。上からビラが落ちてきて、「早く降参しなさい。降参しない場合は、松山
も焼きますよ。」といった内容だった。そのビラを拾うと、先生がデマだから
持ってきなさいと言われた。当時は、灯火管制により家の中は真っ暗だった。
どの家も真っ暗で、外に出ても真っ暗だった。7月26日夜11時ころに警戒
警報が鳴った。すぐに敵が来ていることを知らせる空襲警報へと変わった。私
は防空壕に避難した。B29が松山に来た数は、日本とアメリカの発表で違う。
日本は少なめに発表した。日本の発表では約60機、アメリカの発表では約1
30機と、2倍も違った。
空襲の1発目は古町辺りに落とされた。私はその様子を見ていたが、雨あら
れのように焼夷弾を落とされていた。松山には総計約900トンもの焼夷弾を
落とされた。当時の松山市の人口は約12万人だったが、城山を中心に焼かれ
た。半数以上もの方々がり災し、家も半数以上の14,000戸り災した。県
庁や裁判所、市役所、図書館などの鉄筋建物は残ったが、ほとんどが木造だっ
たので、焼けてしまった。わずか2時間余りの空襲により一斉に焼けてしまっ
た。亡くなった人が、251名、行方不明が8名、負傷者が約900名と発表
されているが、死者も300名を超えていると思う。
四国で空襲がひどかったのは、高松で死者が3,000名を超えていると言
われている。日本で1番ひどかったのは、東京で13万人が亡くなった。原子
爆弾ではなく、空襲で亡くなった。県内でも、新居浜や今治、西条、宇和島な
どが空襲にあった。一晩で瓦礫の山となり、北条や森松方面などにみんな逃げ
た。この辺りの山西も焼けた。学校は焼けなかったが、本家は焼けた。そうい
う中で嬉しかったことが1つある。朝起きて、どこも焼けているなかで松山城
の天守閣が残っていたこと。みんなも喜んでいた。
それからの生活が大変だった。トタンを屋根代わりにしたり、焼け跡からお
茶碗などを引っ張り出して使ったりした。秋田県のある都市は、終戦の前日の
8月14日に焼けたところもあった。
今後も戦争がないようにしなければならない。これはいじめにも通じると思
う。みんなが仲良くしていかなければならない。皆さんが語り部になってもら
い、当時のことを風化してはいけない。当時のおかげで今があることを忘れて
はいけない。
3.生徒代表からのお礼の言葉
日 時:平成 25 年 11 月 18 日(月)14:00~15:00
場 所:垣生中学校 体育館
対 象:2 年生 108 名
語り部:杉野 富也
1.教諭から語り部紹介
2.語り部体験談(約 55 分)
私は大正14年生まれの88歳である。昭和17年5月に土浦の海軍少年航
空兵に入隊した。それから終戦までの間、土浦から三重航空隊へ移り、高知海
軍航空隊に飛行練習生を収容し、昭和20年2月1日付で松山基地の343海
軍航空隊に偵察隊として転勤した。今の松山空港に343海軍航空隊基地があ
った。私自身、戦時中特に勇ましいことはなかった。しかし、仲の良かった同
期たちが特攻で亡くなっていった。最後に分かれた同期は、練習機に500キ
ロの爆弾を抱え特攻に出ていくときに、私は手を握って車輪止めを外して見送
った。彼は当時20歳だった。私も松山基地に来て20歳を迎えた。
1番思い出に残るのが、同期の島尾という男だった。島尾は17歳と半年で
特攻により戦死してしまった。現在、ニュースにも取り上げられている17歳
の体操選手がいるが、島尾は同じ歳で戦死してしまった。平和ということは良
いことである。島尾が特攻に行く時に、
「今度は、俺が転勤しそうな気がする。
お互いに長生きしよう。死ぬなよ。」と言って手を握り別れた。その島尾は別
れてから50日の命だった。他にも18歳で特攻により亡くなった者もいた。
みんな若い命を散らしていった。島尾は体操がとても上手かった。生きていた
ら、戦後東京オリンピックに出場していたのではないかと思う。1番驚いたの
は、三重の予科練で水泳大会があり、練習したところを見たこともない高飛び
込みに出場し、きれいな背面飛びで優勝したことだった。
昭和20年3月19日には、この上空でグラマンと紫電改の空中戦があった。
戦闘機体の3飛行隊が参加し、大空中戦となった。私は偵察隊だったので、そ
の様子を下から見ていた。この辺りに住んでいた人たちも見ていたと思う。戦
闘機の戦死者が14名、偵察隊1機が四国山脈の上の天狗高原で体当たりして
3名戦死した。偵察機には、操縦員と偵察員と電信員の3名が乗ることになっ
ており、私は1番後ろの電信員席に乗っていた。前日の18日には、松山基地
から3機の偵察機「彩雲」が出て行った。足摺岬まで行って、そのうちの1機
が敵の艦隊を発見した。基地では、いつでも敵からの攻撃に備える配備をして
いた。19日未明にも3機の偵察機が出ていくのを私たちは見送った。私は、
その日の朝食で食器に卵を割ろうとしたときに、グラマンの攻撃にあった。そ
の時、初めてグラマンの空襲を経験した。南方から来ていた人が、「グラマン
だ。」と言って、ベッドから飛び起きて逃げて行った。私は逃げ遅れてしまい、
自分に合う飛行靴がなかった。近くに防空壕があったので、整備兵が逃げて行
った。私も防空壕に逃げようとしたが、グラマンの空襲を受けた。グラマンの
機銃の間と間は50センチぐらいしかなかった。弾の間を抜けながら逃げて行
った。グラマンが煙を弾いて落ちていくのが見えた。
基地では、プロペラを動かしながら即時待機していた。60機以上の戦闘機
が待機していた。待機していた戦闘機が飛び立っていくときの勇ましい音は今
でも忘れることができない。敵の高度4,000メートル以上の高度をとって、
待ち構えていた。敵の上から攻撃を行い、大戦果を収めることができた。状況
を報告していた偵察機1機がエンジン不調により、
「我、引き返す。」と電報を
打ったが、敵のグラマンに取り囲まれた。天狗高原の上空で体当たりをして戦
死してしまった。その中の1人が伊予市出身の人だった。
私は、昭和20年5月22日に松山基地から鹿屋基地へ転勤となった。私が
鹿屋に行ったときは、毎日のように人間爆弾「桜花」が出て行っていた。人間
が操縦して敵に体当たりするものだった。島尾もそういったものに乗って戦死
した。ものすごい爆音を立てて、滑走路の端から端まで使って出て行った。
偵察隊は生きて帰るのが仕事だったので、隊長より「無理をするな。」と言
われていた。
この垣生地区からも4名もの方々が飛行機で戦死している。皆さんもご遺族
かもしれない。この近くに掩体壕が残っているが、当時は60基以上あった。
3月19日の空襲から1週間経って、B29が偵察にやって来た。アメリカは、
松山に強力な戦闘機がいることを知らなかったらしい。その時、私は休憩時間
だったが、見張りをしていた。7倍の双眼鏡をかけて指揮所を歩いていると、
「B29が1機伊予灘からやって来る。高度8,000。」と報告をした。
それからB29の編隊が9機やって来て、基地を爆撃した。基地の北に予科
練があって、南に実戦部隊の基地があった。予科練と基地の間に爆弾をかなり
落とされた。予科練で多くの犠牲者が出た。基地でも2名ほど亡くなった。住
民も亡くなった方がいたと思う。爆撃の様子は強い雨が降るようなものだった。
250キロ爆弾が爆発せずにむき出しになっているものも見た。
紫電改がおかしな音を立てて不時着したものも見た。爆発したようだった。
保免辺りでは、落下傘で降りてきた兵士を迎えに行ったこともあった。戦時中
はいろいろなことを経験した。
戦時中に2回エンストを経験した。1回目が宮崎上空だったが、高度6,0
00メートルでエンジンが止まってしまった。考えられないぐらいびっくりし
た。その時頭をよぎったのが、高知で後輩が空中激突したことがあったことだ
った。その事故で12名が殉職した。肉片が散らばり、誰が誰だか分からず、
名札など身に付けていれば分かるぐらいだった。私はエンスト時に、「我、不
時着する。」と電報を打とうとしたが、手が震えてなかなか打つことができな
かった。ただ、高度3,000メートルでエンジンが復活して難を逃れた。
2回目のエンストは終戦翌日だった。終戦当日の朝、沖縄偵察のため鹿屋基
地を飛び立った。高度をとって南西に進み、種子島が見えたぐらいでエンジン
オイルが漏れて、全然視界が見えなくなり、機長より引き返すと指示を受けた。
私は電報を打ち、鹿児島の出水に不時着した。出水には、練習機の特攻隊がい
た。彩雲を整備できる者がいなかったが、私たち搭乗員ではできないので、で
きる限りのことはやってもらった。学校で弁当を食べているときに先生たちと
終戦の放送を聞いた。そこで戦争が終わったことを実感し、生きて帰ることが
できると思った。翌日の16日にエンジンが不調だったので、不時着の準備を
しながら海の上を通って帰ることにした。滑走路が見えた頃にエンジンが完全
に止まってしまった。パイロットは、オイル漏れにより前が見えなくなり、滑
走路を突っ切り、急旋回した。ただ、降りようにも追い風によりなかなか降り
ることができなかった。滑走路にぶつかりながら3段跳びのように降り立った。
そういったこともあり、私は今でも飛行機が好きではない。
福岡県出身の私がなぜ今松山にいるのかという話をする。松山基地にいた頃
下宿先が決まり、下宿する前日に鹿屋基地に異動が決まった。下宿先に私の本
籍地を書いた写真を渡した。終戦後、下宿先の娘が私をはじめ航空隊の人間の
安否が気になり、手紙を出した。その娘が私の妻である。1度もその下宿先に
住むことがなかったが、縁があり、こうして今でも松山で暮らしている。
当時は、小学校6年生までが義務教育だった。その後、高等科が2年まであ
り、今でいう中学2年生までであった。今の中学2年生が終わり、私は軍事工
場の三井化学に入社した。それから会社の同期が予科練に入ったので、私も後
を追って入った。
私が予科練に入ってすぐにモールス符号を覚えさせられた。なかなか覚える
ことができなかった。私は寝る10分前にハンモックでつぶやきながら覚えた。
1か月も経つと、符号が文字になるぐらいになった。いまだにモールス符号を
覚えている。
予科練では、入隊から6か月後に操縦と偵察に分けられたが、私は偵察に回
ることになった。最初は操縦になるために入隊した。通信では、送信と受信の
試験で欠点をとったことはなかった。おかげで攻撃機や爆撃機ではなく、偵察
機に乗ることができたのではないかと思う。私が予科練を卒業する前に、操縦
員が足りなくなり、班長より操縦に回るかと提案があったが、「通信が得意な
ので偵察に残ります。」と答えると、班長はじめ喜んでくれた。その後、予科
練を卒業して私は班長となった。
鹿屋基地に異動した翌日、3機あった彩雲すべてが空襲にあい、焼失してし
まった。新しい飛行機が来るまで作戦中止となった。また、空襲で防空壕に隠
れていた時に、入口付近にいたが、グラマンの襲撃にあい、吹き飛ばされてし
まった。私は無事だったが、横の長椅子に座っていた連中は鼓膜が破れていた。
その頃、他の者たちが特攻へ出ている戦況が激しい時に、私たちは作戦中止だ
った。
戦争は、相手を落とさなければ負けてしまう。これからも戦争が起きないよ
うにしなければならない。戦争になると、何もできなくなる。平和のうちにで
きることをしてもらいたい。
3.生徒からの感想(約 5 分)
・戦時中の様子などよく分かった。これから平和について考えていきたい。
・私たちの住んでいる垣生地区の方も戦争に行っていると知り、身近に感じ
た。
・体験したことがないので、分からなかったことも多かったが、今日の話を
聞いて身近に感じることができた。
・実際戦争を体験された方の話を聞いて現実的だった。
4.生徒代表からのお礼の言葉
日 時:平成 25 年 11 月 19 日(火)13:55~14:40
場 所:新玉小学校 図書館棟2階 多目的室
対 象:6 年生 93 名
語り部:松友 順三
1.教諭から語り部紹介
2.語り部体験談(約 40 分)
松山でも約70年前に空襲にあい、わずか2時間ほどですべて焼けてしまっ
た。私が体験した松山大空襲のことを中心に話をする。
私は今年で82歳になる。私が生まれた昭和6年に満州事変があった。昭和
12年に中国との戦争が始まった。小学校4年生のときに、ハワイの真珠湾攻
撃を機に太平洋戦争が始まった。昭和19年に新玉小学校を卒業した。入学当
時、新玉国民学校と呼ばれた。場所は今の済美高校辺りにあったが、1年生の
途中で現在地に移った。もちろん当時の校舎は木造だった。当時、市内の鉄筋
建物といえば、県庁、市役所、裁判所ぐらいだった。私が生まれたときからず
っと戦争だった。
広島、長崎には原爆が落とされた。広島では、1発の原爆で15万人もの方々
が亡くなった。他にも、北海道を除く日本各地で空襲にあった。日本国中が東
日本大震災のような瓦礫の山となった。戦争はやりだすと、とまらなくなる。
ブレーキのない自動車のようなものである。戦争とは、殺すか殺されるかであ
る。
太平洋戦争で亡くなった日本人は約300万人。そのうち兵隊が200万人
で、一般人で100万人が亡くなっている。当時、家庭には父がいなかった。
父は赤紙が届いて兵隊に召集された。私の父も40歳を過ぎて赤紙が届いて、
戦地へ行った。当時の40歳といえば老兵だった。学校の朝礼では、クラスの
親が亡くなれば、黙とうをしていた。当時は、食べる物、着る物が無かった。
今のように衣食住が充実していなかった。砂糖すらなかった。バナナ、リンゴ、
牛乳などは貴重で、病気のときぐらいしか食べることができなかった。
日本はA:アメリカ、B:イギリス、C:中国、D:オランダのABCD国
(それぞれ国名を英語にした頭文字をとって)と戦った。また、日本には石油
や石炭など資源がなく、アメリカに補給を絶たれた。
そんな中、昭和16年12月8日の朝に、ラジオから臨時ニュースが流れた。
「帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋上にて米英軍と戦闘状態に入れり。
」
という内容だったが、当時は西太平洋がどこなのか分からなかった。それから
4年ほど戦争が続いた。開戦当初は、ハワイやマレー半島などで勝ち戦だった。
野球に例えると、1回表に満塁ホームランを打ったようなものだった。しかし、
それも最初だけだった。昭和17年のミッドウェー海戦により、航空母艦を沈
められ、優秀なパイロットを大量に失った。それから攻守が逆転した。
アメリカはその後日本本土を爆撃してきた。当時は、今のようにジェット機
はなかった。ほとんどがプロペラ機だった。最初は軍事工場を中心に爆撃した。
日本を降伏させるために考えたのが、焼夷弾攻撃だった。
(焼夷弾の模型で説明)焼夷弾の中にはゼリー状の油脂が入っている。アメ
リカは、焦土作戦で日本の木造家屋を焼き尽くすために使った。落ちたら信管
に火がつく。焼夷弾はとても臭かった。火がつくと水の中でも燃えていた。B
29が焼夷弾を落としてきた。36本を束にしていた。上空1,000~2,
000メートルから焼夷弾を落とされた。日本の家は、木造で紙のような造り
だったので焼き尽くされた。3月の東京大空襲では、1晩で13万人もの方々
が亡くなった。
昭和20年7月26日は松山大空襲があった日である。終戦が8月15日で
あるから、終戦から約10日前である。秋田のある都市では、終戦の半日前に
空襲にあっている。当時は、寝る時もいつでも逃げることできるような格好で
寝ていた。空襲前に宣伝ビラがまかれた。「早く降参しなさい。降伏しなけれ
ば、あなたたちの街を焼きますよ。」といった内容のビラが上から落とされた。
学校の先生は、
「そんなデマを拾った者は持ってきなさい。」と言われた。実際、
予告通り空襲にあった。
松山大空襲により251名が亡くなり、行方不明が8名だった。負傷者が8
00~900名だった。松山には900tもの焼夷弾を落とされた。最初に古
町辺りに落とされた。それから城山を中心に焼夷弾を落とされた。翌日の新聞
では、B29が60機松山に来たとあった。終戦後に調べてみると、128機
のB29が松山に来たとあった。日本とアメリカの発表はそれぐらい差があっ
た。
当時の松山の人口が 約12万人だった。面積は現在ほど大きくなく、城山
を中心とした広さだった。人口の53%の62,000人が被災した。また、
当時の家は26,000戸あったが、そのうちの55%にあたる14,000
戸が焼けた。城山を中心にほとんどが焼けてしまった。私は橋の下に逃げた。
その後、焼け跡に行ってお茶碗など引っ張り出し、生活していた。り災証明を
とりに市役所へ行くまでに、ムシロをかぶせられた遺体を見た。一歩間違えれ
ば、私もそうなってしまったと思うと、ぞっとした。
四国で空襲の被害が大きかったのが高松で、約2,000人もの方々が亡く
なった。愛媛県内では、今治が大きな被害を受けた。他にも新居浜、西条、宇
和島でも空襲を受けた。
戦後は、無い物づくしの生活が始まった。私たちのいた内地でもひどかった
が、外地に行っていた兵隊も食料がなく、餓死した人が多かったらしい。私た
ちよりはるかに厳しい体験した方々が多かった。現在は何不自由ない生活を送
ることができる。今の生活が当たり前にできるようになったわけではない。当
時の方々が国のため、家族のために頑張っていただいたおかげで、今の平和が
あることを忘れてはいけない。これからも戦争は絶対にしてはいけない。皆さ
んも後世に伝えていってもらいたい。当時のことを詳しく勉強してもらいたい。
現在は言論の自由があるが、当時は言論統制を敷かれていた。私たちは、日
本には神風が吹くと信じて、戦争に負けるとは思っていなかった。当時は、み
んなが洗脳されていて、教育の力は恐ろしいと感じた。
私の宝は焼夷弾で作った桑である。いまだに使っている。当時は鉄がなかっ
たから。
3.質疑応答(約 5 分)
Q:当時はミカンも貴重だったのか?
A:当時もミカンはあったが、生産量は現在の10分の1ぐらいだったと
思う。品種も数種類だったが、食べたいときに食べることができた。
Q:戦時中の新玉小学校はどうだったか?
A:空襲にあうまでは、新しい木造2階建てだった。1学年150人の3
クラスだった。
Q:なぜ桑を作ろうと思ったのか?
A:当時は鉄など金属類を供出させられて、無かった。新しい桑など手に
入らなかった。
Q:戦時中、日本の味方をしてくれた国はあったのか?
A:ドイツとイタリアで日独伊三国同盟を結んだ。当時のソ連とは不可侵
条約を結んでいたが、終戦間近に攻めてきた。
Q:当時は何を食べていたのか?
A:カボチャやジャガイモをよく食べていた。お米にいろいろな野菜を入
れて雑炊にしていた。ただ、すぐにお腹が空いた。食べられるものは
何でも食べた。サツマイモのつるを食べていた人もいたらしい。イナ
ゴも食べていた。男の子はニワトリを飼っていたので、卵も食べてい
た。
私が小学校6年生のときに、中国から3人の留学生が来たが、今でも
交流している。当時、敵国から来るなんて珍しかった。
4.児童代表からのお礼の言葉
日 時:平成 25 年 11 月 19 日(火)13:55~14:40
場 所:たちばな小学校 南校舎3階 外国語活動室
対 象:6 年生 93 名
語り部:田中 有男
1.教諭から語り部紹介
2.語り部体験談(約 30 分)
私は83歳になったが、少しでも多くの方に戦争はしてはいけない、戦争を
すると大変なことになると伝え続けていきたい。私が中学2年生のときに松山
大空襲を経験した。小学5年生のときに、日本がアメリカと戦争を始めた。今、
考えてみると、どうして日本は世界で1番強いアメリカと戦争をしたのかと思
う。
私は久万の生まれで、当時は中学校がなかったので、松山の中学へ進学した。
皆さんは小学校を卒業すると、全員中学校へ進学することができるが、私たち
の時代は中学へ進学できるのはクラスで1人か2人だった。松山の中学へ進学
したが、アメリカと戦争をしていたので、毎日のようにアメリカの飛行機が松
山の上空を回っていた。授業にならなかった。アメリカのグラマンより機銃掃
射を受けたこともあった。そういった状況もあり、勉強ができず、吉田浜にあ
った海軍の予科練にモッコで土を担いで、掩体壕を造りに行っていた。掩体壕
はアメリカの爆撃から日本の飛行機を守る格納庫だった。中学校に入ると、兵
隊と同じだった。
昭和20年7月26日の午後11時頃に目覚めると、目の前が真っ赤だった。
B29がたくさんの焼夷弾を落としてきた。焼夷弾にはたくさんの油が入って
いて、地上に落ちてくると、油が飛び散った。焼夷弾は田んぼの中や池でも燃
えた。逃げようがなかったが、姉と赤ん坊と祖母の4人で逃げた。高浜線沿い
の川の中に潜って、松山城の方を見ていると、市内が真っ赤になっていた。生
きた心地がなかった。B29がいなくなるまで、隠れていた。
空襲も落ち着いたので、近所の友人の様子を見に行った。玄関に友人と母と
妹の3人が真っ黒焦げになり倒れていた。毎朝一緒に通学していた友人を亡く
して本当にショックだった。また、私の兄が市内の寮に下宿していたので、様
子を見に行くと、兄はおらず、5人の遺体が並んでいた。その5人は私の同級
生だった。髪は焼かれ、服はボロボロだった。今でもその光景を忘れることが
できない。
それから学校へ行ってみると、運動場には焼夷弾の不発弾が突き刺さってい
た。校舎が焼けてしまったので、松山商業の校舎の一部を借りて勉強したが、
勉強にならなかった。戦争に負けるとどうしようもなかった。
戦争により1番困ったことが食べ物である。戦争が終わっても食べ物がなか
った。私たちの年代では、戦争をすると食べ物がなくなるので、してはいけな
いと話す。人間は食べ物がないことほど辛いものはない。今では毎日給食を食
べることができるが、当時は米がなかった。米ほどありがたいものはなかった
ので、私は残さず食べていた。戦時中はおにぎりも食べたことがなかった。大
きな鍋に一掴みの米と雑草やイモの茎などを入れて雑炊にしてみんなで食べ
た。それはおかゆよりもとても薄かった。おいしかったが、すぐにお腹が空い
た。
アメリカのB29が焼夷弾を落として松山の街が焼かれたことを知らない
人が多い。水道が焼けて水もなかった。今のように自動販売機があるわけでも
なく、食べる物もなく、着る物もなかった。茶碗ややかんなどもなく、その辺
りから拾ってきて、使った。何もかもがなくなり、これからの日本はどうなる
のか悲しくなった。戦争だけはやめてほしい。戦争をしてもいいことはない。
原爆を投下され、悲惨なことが起きたのも戦争によるものだ。広島では、たっ
た1発の原爆により10数万人もの方が亡くなった。戦争に勝ったアメリカも
大変な状況になっている。戦争に勝ったからといって豊かになり、幸せになる
とは限らない。戦争に負けた日本は豊かになり、小学校から全員中学校へ進学
することもでき、社会保障もしっかりしている。私は日本に生まれて本当に良
かった。
戦時中は何もなかったが、ハーモニカを吹いていた。
ハーモニカの演奏『ふるさと』
戦争になると、家庭には父がいなくなってしまう。中学生から、「どういう
ことが平和というのか?」と質問を受けたことがある。良い質問だと思った。
平和であると、毎日家庭に父がいるが、戦争になると、父は戦場に行ってしま
う。父はいなくなり、いつ帰ってくるか分からない。兄も戦争に行ってしまう
かもしれない。私の兄は、志願して兵隊になり、手りゅう弾を持って、ソ連の
戦車が通ると、信管を抜いて戦車を爆発させ、兄は犠牲になった。特攻隊に行
く人もいる。母と子供は父の帰りを毎日待つ。これが戦争である。毎日父と過
ごせることほどありがたいものはない。これが平和である。皆さんもせっかく
生まれてきたのだから、戦争のない平和な世の中を作ってもらいたい。
皆さんにお伝えしたいことは、良い人生を送るためには勉強する必要がある。
せっかく立派な学校もあり、立派な先生もいるのだから、しっかり勉強しても
らいたい。昔は学校に行きたくても行けなかった人が多かった。私の母は小学
校にも行けなかった。母はこっそりと字を書く勉強をしていた。私へ手紙を書
くためだった。皆さんがいかに恵まれているかと分かると思う。
皆さんは毎日肉を食べていると思うが、当時は1年に1回しか肉を食べるこ
とができなかった。卵を食べるのは風邪を引いた時だけだった。いかに皆さん
はありがたいか感じてもらいたい。
3.質疑応答(約 15 分)
Q:戦時中はどんな生活を送っていたのか?
A:毎日のようにアメリカの飛行機が飛んで来たので、満足に勉強をする
ことができなかった。夜になり電気をつけていると、アメリカの飛行
機に狙われてしまうので、電気を黒い風呂敷のようなもので覆って、
光をもらさないようにしていた。そんな中で勉強をしていた。
Q:田中さんのお兄さんはどのように亡くなったのか?
A:19歳で志願して兵隊になり昔の満州に行った。日本と戦争をしない
約束をしていたソ連が満州に攻め込んできた。戦車の下敷きになり、
玉砕して亡くなった。
Q:戦争はなぜ起きたのか?
A:当時は食べる物がなく、自分たちの領地を増やして、食料を確保する
ために争いから戦争となった。
Q:戦時中苦しかったことは?
A:1番苦しかったのは食べる物がなかったこと。また、親や兄弟、友人
が殺されたことが辛かった。毎日一緒に登校していた友人が空襲によ
り亡くなったり、兄がソ連の戦車の下敷きになり亡くなったりと親、
兄弟を失うことほど辛いことはなかった。戦争は殺し合いなので、絶
対にやってはいけない。
Q:松山の空襲によりどのくらいの方が亡くなったのか?
A:はっきりとした数字は分からないが、400名ほどの方々が亡くなっ
たのではないかと思う。
Q:戦後どのようにして復興したのか?
A:木の1本をはじめ長い年月をかけて復興していった。県庁前の道路を
アメリカのブルドーザーにより一晩で整備した。私たちでは、毎日モッ
コを担いで整備しても1年以上かかったはず。みんなが苦労して復興に
取り組んだ。
日 時:平成 25 年 11 月 25 日(月)13:50~14:35
場 所:堀江小学校 体育館2階 ミーティングルーム
対 象:6 年生 114 名
語り部:中山 淳
1.教諭から語り部紹介
2.語り部体験談(約 40 分)
私が生まれたのは1930年で、生まれたときから日本は戦争を始めていた。
私が15歳の中学3年生のとき、終戦を迎えた。私が生まれた翌年の1931
年に満州事変が起こった。中国と本格的に戦争が始まったのが1937年であ
る。小学校5年生の12月にアメリカやイギリスなどの連合軍と太平洋戦争が
始まった。12月8日の朝に、ラジオから海軍の軍艦マーチとともに「大本営
発表。帝国陸海軍は、本8日未明西太平洋上にて、米英軍と戦闘状態に入れり。」
と流れた。当時はどういうことかよく分からなかった。日本はハワイの真珠湾
に奇襲攻撃を始め、アメリカの軍艦を撃沈した。市駅辺りで、アメリカの軍艦
が煙を上げて燃えている写真など、日本が大戦果を収めた模様を掲げていた。
当時、戦争は国外に出ていき行うものと考えられていたが、まさか国内で行
うものとは考えていなかった。
(当時の松山市街の地図を使い、堀之内や練兵場、住んでいた所の説明)
当時、堀之内には陸軍の二十二連隊本部があり、入れなかった。
今の日赤辺りにあった練兵場には鉄条網が敷かれており、戦車などを置いて
いた。そこで訓練を受けた兵隊が連隊を組み出兵した。今のJR松山駅から出
征する兵士を何度も見送った。
松山には水野広徳さんという方がいたが、現役兵士でありながら戦争反対を
訴えていた。戦争は、関係のないお年寄りや子供まで犠牲になってしまうと唱
えていた。
現在は全員中学校へ進学できるが、当時、男は中学校、女は女学校と別だっ
た。学校も少なく、中学へ上がるためには試験もあり、約4倍の倍率で厳しい
競争だった。
中学2年生になると、午前中は授業を受け、午後からはクラスの50人がト
ラックの荷台に乗って基地に行った。今の松山空港がある場所には海軍航空隊
の基地があり、面積は今の空港の3倍ほどあった。私たちは、飛行機を格納す
るための掩体豪を造った。モッコを担いで土を積み上げていた。
中学3年生になると新居浜に行き、軍需工場で働いた。工場の寮で寝起きし、
働いた。新居浜には、東南アジアで捕虜となったオランダ人の収容所があった。
私は少し英語ができたため、捕虜の世話をしていた。ただし、敵国なので仲良
くすると、怒られるので、こっそりと仲良くなった。ある日の昼休みに、10
分ほど前まで働いていた作業場が爆発して、無くなっていた。時間が違えば、
肉片になって散らばっていたかもしれなかった。また後日、警戒警報が鳴り防
空壕に逃げたが、解除になって出てきたところ、カラスが急降下するように爆
弾が落ちてきた。目の前がピンク色になり、自分も吹き飛んだ。一緒にいた友
人5人のうち3人が弾片で負傷した。負傷した3人のうち1人は手首から血が
噴出し、1人はお腹を抱え、1人は背中が痛いと言っていた。私も友人の応急
処置を行った。弾片に当たり脳が破裂して亡くなっている少年工も見た。
当時は土日の休みがなく、月月火水木金金だった。1週間休み無しで働いて
いた。歌もあった。時々、まとめて3日ほど休みがあり、昭和20年7月25
日に休みになったので松山に帰っていた。
翌日の7月26日にB29の攻撃を受けた。弟と妹の3人で手を繋いで逃げ
た。当時の新聞には60機、アメリカの資料を見ると128機と書いている。
夜の11時半頃から空襲が始まり、3時間ほど続いた。松山市のほとんどが全
焼した。
(模型を使って焼夷弾の説明)焼夷弾は36本が束になって落とされた。上
空数百メートルになると、爆発した。中にはドロドロの油が詰まっており、落
ちてくる時は火の玉のようで、それが光の輪になり、大雨の時のような音がし
た。地面に落ちると信管が作動し、火のついた油が飛び散っていた。日本の建
物はほとんどが木造であったため、すぐに燃え広がった。ドロドロの油であっ
たため、なかなか消えなかった。後片付けの時、自宅には6発の焼夷弾が落ち
ていた。新居浜で爆弾攻撃があったが、松山でも爆弾攻撃を受けていたら、さ
らに被害が拡大していたと思う。道後は焼けなかった。
(松山市の戦災時の写真を用い)広島から来ていた友人が帰ってこないので
広島に行った。松山はコンクリートやレンガが残っていたが、広島は建物が壊
れていた。松山大空襲の翌日は、熱くて焼け跡へ行けなかった。
松山大空襲のあと、市街地に行くと市役所の近くで、不発弾の爆発だと思う
が、女の人の悲鳴が聞こえた。空襲前は、電車やバスが通っており、生活の音
があったのに、空襲により音まで燃えてしまったのかと思った。地獄とはこん
なものかと思った。
松山大空襲のあった昭和20年7月26日は、連合国軍がポツダム宣言を促
してきた日だった。受諾が早ければ、松山も空襲を受けなかったかもしれない。
日本各地でもアメリカの焼夷弾攻撃を受け、焼け野原となってしまった。
戦争とは、関係のない人を巻き込み、財産や貴重な資料をも失くしてしまう。
決してやってはいけないものである。
3.質疑応答・感想(約 5 分)
Q:原爆を落とされた時の状況は?
A:私は戦後広島と長崎に行った。松山には当時、鉄筋コンクリートの建
物がほとんどなかった。ほとんどが木造建物だったので、アメリカは
焼夷弾攻撃で家を焼き尽くした。原子爆弾は1発の爆弾であるが、上
空数百メートルで爆発し、ものすごい爆風と熱で建物などを破壊した。
ものすごい力が加わったと思う。
Q:戦時中の生活は大変だったか?
A:今思うと、大変だった。ただ、当時は中学生のときに兵隊のようにゲ
ートルを巻いて、カーキの制服を着て訓練していた。
「日本は戦争に勝
つんだ。」と教えられていた。当時は、しんどいや辛いと思うよりも戦
争に勝つために頑張ろうという思いの方が強かった。戦時中、戦後は、
食べ物が無くて、配給制だった。みんなで分け合った時代だった。お
弁当には、満足なお米が入っていなかったので、農家の子より分けて
もらっていた。今でもそうした友人と仲良くしている。
4.児童からのお礼の言葉
日 時:平成 25 年 11 月 26 日(火) 14:00~14:45
場 所:清水小学校 南校舎3階 英語ルーム
対 象:6年生 84名
語り部:西原 輝茂
1.校長より語り部紹介
2.児童より歴史学習の発表
3.語り部体験談(約 35 分)
私は愛媛師範付属小学校に入学して、2年生のときに支那事変が起こった。
今の中国と戦争が始まった。皆さんと同じぐらいの歳に、アメリカやイギリス
などの国々と戦争をしないといけない状況になった。当時のアメリカの大統領
はルーズベルトだった。その後、太平洋戦争が始まった。当時は軍隊に憧れる
ような教育を受けていた。その頃には、軍人が素晴らしいと思うようになって
いた。
当時は小学校を卒業すると、5年制の旧制中学に進学していた。私が中学に
入学したときに4年制になった。今とは違う教育制度だった。その頃になると、
世間は戦争一色だった。私の父は国鉄に勤めていたので、食事に困ることはな
かった。父は私を教師にさせようとしたが、私は軍隊に憧れていたので、中学
3年生のときに陸軍と海軍の志願兵の試験を受験した。その後、海軍航空兵に
入隊した。
まず、配属されたのが三重海軍航空隊だった。その後、奈良海軍航空隊に入
隊した。当時は海軍の制服である七つボタンで桜の錨(いかり)ボタンに憧れ
ていた。入隊して、班長より言われたことは、
「スマートで、目先が利いて、几
帳面であれ。」だった。また、入隊して普段身に付けていた上着や下着などをす
べて送り返した。海軍から支給された衣服を着た。海軍の制服は階級により種
類が異なった。
予科練では、1号生である教官と2号生である助手が私たち3号生を教育し
た。すべての面で、
「早く走ること、早く行動すること」を教え込まれた。1人
が失敗すると、全員の責任となった。訓練初日は毛布やマットの包み方などを
教えてもらい、厳しい訓練が始まった。何事も早くするよう指導され、遅れが
死につながるとたたき込まれた。午前中は勉強、午後が訓練という内容だった。
また、ラッパの音が鳴ると、不動の姿勢をとり、ラッパの音ですべての行動を
していた。鳴り終わるまで直立不動の姿勢をとっていた。階級によって、姿勢
が違った。
海軍でも小銃の訓練を行っていた。海軍で飛行機に乗るのに、なぜ陸軍のよ
うな訓練を受けるのか疑問に思った。ほふく前進なども行った。その後適性検
査があり、操縦、通信、整備に分かれた。検査の結果、私は通信に配属された。
そして、吉田浜にあった松山海軍航空隊に帰ってきた。その日から通信教育を
徹底的に教え込まれた。今でも、当時の訓練が頭に残っている。トン・ツーの
モールス符号をいまだに覚えている。海軍は1人の失敗が全体の責任になるの
で、みんなが団結していた。みんなで支え合っていたし、幸いにも上官や先輩
に恵まれていた。あまり暴力を受けなかった。
昭和20年5月には、松山航空隊が空襲にあい、同期が数多く亡くなり、兵
舎に住むことができなくなった。空襲を受けて、訓練生は高知や北条のお寺に
部隊の宿舎を移した。私を含めた5人の同僚は松山憲兵隊にお世話になった。
憲兵隊は、いろいろな思想をもった人や反戦活動をする人を取り締まる厳しい
ところだった。憲兵隊でも大事にしていただいた。
昭和20年7月26日には松山大空襲があった。その後日、砥部でアメリカ
のグラマンがエンジン不調により、アメリカの若い搭乗員が落下傘で降りてき
た。その降りてきた搭乗員を村の人たちは、竹やりを持って殺そうと取り囲ん
だ。しかし、ある中心者が止めて、憲兵隊へ連れて行くよう指示した。憲兵隊
に徳島出身のある中尉がいたが、とても英語のできる人だった。戦時中に英語
教育は中止になったので、私たちは英語がそこまでできなかった。その中尉は、
捕虜を防空壕の中に入れて、目隠しをとってあげて、優しく声をかけていた。
厳しく恐ろしい憲兵隊でも敵国の兵士を大切にする人がいるのかと思った。と
ても紳士的だった。捕虜も泣いていた。私が握り飯をあげると、泣きながら食
べていたのを思い出す。憲兵隊へ来たときの捕虜は、目隠しをさせられ、血で
ドロドロだったが、顔も洗ってきれいになっていた。それから中尉はその捕虜
を国鉄で善通寺へ送った。陸軍でもこんな親切な人がいるのかと思った。
先輩より、「世界を制するのは航空である。」と教わり、飛行機がいかに大事
か教えられた。日本を敗戦に追い込まれたのは、飛行機の損失だった。昭和1
6年12月8日に戦争が始まり、ハワイにいたアメリカの太平洋艦隊を撃沈し
たが、そこにはアメリカの航空母艦はいなかった。後に、ミッドウェー海戦に
より日本の航空母艦を撃沈された。日本の飛行機にはレーダーがなかったが、
アメリカはレーダーにより、日本の飛行機が飛んでくるのを察知していた。ア
メリカには、グラマンなどの数種類の飛行機があった。日本は、アメリカほど
飛行機の種類はなかったが、技術があり、パイロットも訓練を受け優秀だった。
日本の戦闘機は、
「空の鬼」と呼ばれるぐらい優秀だった。日本は海上すれすれ
の低空で攻め込み、アメリカは上空から攻め込んできた。
8月6日に広島に原爆が落とされた。9日には長崎にも原爆を落とされた。
広島の原爆は、松山からも見ることができ、数十万人の命を奪われた。戦争ほ
ど残酷なものはない。私は、学校の先生や教官、先輩から教えられた恩を忘れ
ることができない。今のような平和になって良かったと思う。皆さんと先生は
魚と水の関係だと思う。水がないと、魚は泳ぐことができない。先生のおかげ
で、皆さんは立派な社会人になることができる。これからも絶対に両親や兄弟、
先生、友人の恩を忘れてはいけない。素晴らしい夢を実現してもらいたい。
4.感想、質疑応答など(約 10 分)
・今日の話を聞いて、戦争の残酷さが分かった。また、当時は私たちと同
じぐらいの歳で軍事教育を受けて悲しく思った。平和な現在の社会に感
謝したい。
・これからは先生や親に感謝して生きていきたい。
Q:戦争がひどかったときの思い出は?
A:1番心に残っているのは、同期の戦死である。松山海軍航空隊のあっ
た吉田浜でグラマンの機銃掃射にあい、多くの友人が亡くなった。良
き友人を失くしたことが残念である。
Q:海軍航空隊にいたとき、給料はあったのか?
A:あった。今の金額に置き換えると、700円ぐらいのお小遣いをいた
だいた。外出する際は、海軍航空隊に申告すれば日曜は自由だった。
実家に帰ると、近所の年下の子たちから憧れの目で見られた。その子
たちは訓練の厳しさを知らなかったので、外見だけで憧れたようだっ
た。
5.児童代表よりお礼のことば
日 時:平成 25 年 11 月 28 日(木)10:30~11:30
場 所:宮前小学校 西校舎1階 ランチルーム
対 象:6 年生 82 名
語り部:中山 厚
1.校長から語り部紹介
2.語り部体験談(約 50 分)
今から約70年前に松山の街が焼け野原になった。私が皆さんと同じぐらい
の歳に戦争を体験した。そういった体験を中心に戦争の怖さや愚かさなどを話
して、平和を考える1つの材料としていただきたい。
私が生まれたのは、1933年の昭和8年である。当時、世界は覇権主義で
あった。列強国と言われたアメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・ロシア・
オランダなどが弱い国を自分たちの領土にしようとしていた。アフリカのほと
んどの国々がどこかの領土になっていた。日本も、私が生まれた時には、朝鮮
半島や大陸に進出していた。中国の満州に大勢の開拓団を送り、鉄道や街、学
校を造った。また、日本には石油や石炭などの資源がなかったため、南方へ進
出したという記録もあった。満州には、日本の軍隊も行っていた。私が4歳の
とき、中国との国境付近で衝突があった。それがきっかけで日中戦争が始まっ
た。その頃は、中国のことを支那と呼んでいた。
私が小学校に上がる頃、ヨーロッパでも戦争が起こった。ドイツがポーラン
ドを攻め込んだのが原因で第二次世界大戦が始まった。その前にも、今から約
100年前の1914年に第1次世界大戦があった。その時、初めてドイツが
イギリスに空爆した。また、初めて武器として飛行機や戦車も使われた。それ
から20年経って、第二次世界大戦が起こった。20年の間に、武器や兵器が
大変進歩した。
アジアでは、日本と中国が戦争をしていた。中国と仲の良かったアメリカか
ら、日本に戦争から手を引くよう迫られた。日本は拒否し、ドイツ・イタリア
と手を結んだ。それが日独伊三国同盟である。また、アメリカより経済的圧力
をかけられ、日本はハワイの真珠湾にいたアメリカの海兵艦隊に奇襲攻撃を行
い、宣戦布告し、太平洋戦争が始まった。
昭和16年12月8日の朝、私は新玉小学校の3年生教室で聞いたと思うが、
勇ましい軍艦マーチとともに「大本営発表。我が大日本帝国陸海軍は、本12
月8日未明、西太平洋上にて米英軍と戦闘状態に入れり。」と流れてきた。日
本も初めは破竹の勢いで中国、香港、マニラ、フィリピンなどを占領し攻勢だ
った。ただ、その勢いも半年ほどしか続かなかった。アメリカも兵力増強して、
日本はミッドウェー海戦を機に不利になっていく。ミッドウェー海戦により、
航空母艦や飛行機を数多く失った。それにより、制海権や制空権を次第に失っ
ていった。日本から外地に兵隊や船を送っていたが、武器や弾薬を送ることが
難しくなった。アメリカ軍の記録によると、南の島へ兵隊、兵器の補給のため
日本は輸送船団8隻で兵員5,000名と兵器・弾薬を輸送するのに、護衛艦
6隻に守られ向かっていたが、アメリカはそれを察知して潜水艦、飛行機によ
り攻撃され撃沈された。海に投げ出された日本兵を3日間アメリカは機銃掃射
し続け、動く者がなくなるまで撃たれたという。南の海は真っ赤な血で染まっ
たという。
その後、戦況がどんどん悪化していった。私が小学5,6年生のときに、各
地で撤退や玉砕が続いた。昭和19年10月に日本は捨て身の戦いを始める。
それが神風特攻隊である。飛行機に弾薬と片道の燃料だけ積んで、アメリカの
陣地に体当たりを行った。若い元気な人たちが、命を懸けて戦った。また、人
間魚雷という特殊潜航艇に1人で乗って戦った。それでも戦況が良くなること
はなかった。
昭和19年7月に日本領であったグアム、サイパンを占領された。サイパン
はアメリカによって戦略上の拠点とされた。サイパンは、アメリカ軍が日本を
爆撃でき、往復することができた。そうして、日本の本土攻撃ができるように
なった。昭和20年2、3月になると、日本本土で空襲が始まる。東京や大阪、
名古屋も空襲を受けた。日本の主要都市や工場、港を攻撃された。また、空襲
だけでなく、海からの艦砲射撃も受けた。
昭和20年5月にドイツが無条件降伏し、ヨーロッパでの戦争が終わった。
日本では、4月1日にアメリカ軍によって沖縄上陸された。沖縄を援護しよう
と、呉の軍港から戦艦大和が駆けつけるが、九州沖で撃沈された。5月中旬に
は、沖縄が占領された。次は、本土攻撃しかないとみられた。その頃には、子
供心にも大変だと思った。瀬戸内海からアメリカ軍の戦車などが上陸してきて
追い込まれる夢も見た。
昭和20年7月26日に連合国が日本にポツダム宣告を迫る。しかし、首脳
陣が躊躇し、被害が広がってしまう。その晩に松山大空襲が起こった。8月6
日に広島原爆投下。8月8日にロシアが攻め込んできた。8月9日に長崎原爆
投下。8月15日に無条件降伏した。
(松山大空襲の話)
私は、南堀端辺りで生まれた。古い街並みであったが、みんな仲が良かった。
夏になると、家の前に演台を出していた。当時は車がほとんど通っていなく、
みんなで遊んでいた。ところが、戦況が悪化していき、街並みが変わってきた。
広場では女性が竹やり訓練をしていた。夜になると、灯火管制で家から光を出
さないように真っ暗にしていた。数軒おきに用水桶を置き、バケツリレーの消
火訓練を行っていた。鉄が不足していたので、寺から鐘、家庭から鍋や釜、自
転車など金属類が消えた。
「欲しがりません、勝つまでは。」というキャッチフ
レーズでみんなが我慢して供出していた。
私は、小学校を卒業して、5年制の北予中学へ進学した。3年生になると、
学徒動員となり、国のために働かされた。3つ上の兄は、新居浜の工場へ行っ
ていた。授業の半分近くは、イモの栽培などをしていた。また、体育の時間に
はほふく前進の練習や手りゅう弾を投げる練習、相手の股を蹴り上げる練習を
行っていた。様子がガラッと変わっていった。
4月の終わりに松山の上空で吉田浜から出た爆撃機とアメリカのグラマン
戦闘機の空中戦を中庭でぼう然と眺めていた。1週間後、親のおつかいで、田
舎の知り合いのところへ行く途中、南の空から急に金属音がしたと思うと、グ
ラマンより機銃掃射を受け、とにかく必死で草むらに転がり込んだ。そのとき
はびっくりして、体中の血液が凍りついたようだった。当時は日本の空が抵抗
もなくなり、アメリカ軍が遊び半分、練習半分で動くものを狙ったとも言われ
ている。
昭和20年7月26日夜10時半頃、いきなり空襲警報が鳴り、不気味な感
じがした。本町が燃えていると聞いて兄と見に行くと燃えており、空を見ると
東からB29の6機編隊が飛んでいた。スズメバチの大群が押し寄せてくるよ
うだった。急いで家に帰り、兄が「家に飛び込め。」と言ったので玄関に頭か
ら飛び込んだ。裏庭に防空壕があったが、役に立たなかった。父は町内の役員
で居なかったので、兄と妹の3人で逃げた。玄関を出ると、小さな女の子が素
っ裸で泣きべそをかいていた。今でもその女の子の真っ白な体を覚えている。
なぜ真っ白に見えたかというと、照明弾により、松山の街が満月のように明る
かったのではないかと友達から聞いた。母が、
「その女の子の面倒を見るから、
あなたたちは先に逃げなさい。」と言われた。
(模型と写真を使って焼夷弾の説明。)焼夷弾は、日本の家が木と紙ででき
ているので焼き尽くすために作られた。中にはドロドロの油脂が詰まっており、
地面に落ちると信管が作動し、油が飛び散る。私の家にも空になった焼夷弾が
6本落ちてあった。真上から焼夷弾がカラスの大群のように落ちてきた。
今の済美高校辺りを走り回った。後はどこを通ったか覚えていない。妹が白
い服を着ていたので、「お兄ちゃん、敵に見つかる。」としきりに言っていた。
必死に逃げた。田んぼの中も走っていたので、溝に足がはまったせいか、気が
付けば裸足だった。
私たちは無事石手川まで逃げることができた。石手川に着いたぐらいのとき
に、敵の攻撃も終わったようだった。振り返って見ると、真っ暗で何も見えな
かった。空には、満月に近かったせいか、月が真っ赤に見えた。翌朝、松山の
街は全滅で、道後は無事と聞いたので、兄妹3人で道後に行った。途中でムシ
ロをかぶせられた何人かの遺体を見た。後で友人から聞いた話では、首のない
子供を抱えぼう然とした母親、用水桶に顔を突っ込んだ遺体、黒こげになった
遺体、橋の下で窒息した遺体を見たものもいたという。堀之内では、遺体の山
になっていたとも聞いた。その日の昼に伊佐庭神社の下で両親に会うことがで
き喜んだ。
後日、焼け跡を見に行ったが焼け野原になっており、何もなかった。遠くで
大きな叫び声が聞こえたが、遺体を見てびっくりしたのではないかと思う。兄
は「音まで焼けてしまった。」と言っていた。にぎやかな街が静かになってい
た。
終戦後は、食べる物、着る物、学用品など何もなかった。空襲後は幸いにも
潮見の知人の倉庫を借りて生活することができた。ムカデやヘビに悩まされた
が、それから何もない生活が始まった。食べられるものは食べた。例えば、フ
ナ、バッタ、川で釣った小魚など。イナゴは当時ごちそうであった。食べられ
る草をよく探した。その頃の経験から、物を粗末にしないことや我慢すること
を学んだ。
空襲の10日後ぐらいに西の空に大きな雲が見えた。学校に行ってみると、
大きな音がしたとかものすごい光が見えたという人もおり、それが広島の原爆
であった。そんな中貧しくて辛い生活が始まった。
この戦争で亡くなった日本人は300万人を超えているという。ドイツでも
300万人亡くなった。アメリカでは60万人、ロシアでは1,000万人も
の方々が亡くなったという。終戦の年の1月1日から8月15日までに亡くな
った日本人は1日当たり平均すると、9,000人を超えるとも言われる。
戦争というと、沖縄の悲劇を忘れることができない。集団自決があったと聞
いている。戦争は、国と国または人間同士の意地の張り合いで、利害関係のぶ
つかり合いによって起こる。お互いが殺し合いをしてしまう。勝っても負けて
も悲惨な目にあってしまう。これからも戦争をしてはいけない。平和の大切さ
を考えていってもらいたい。
3.質疑応答(約 10 分)
Q:防空壕は、市内のどこにあったのか?
A:いろいろな所にあったが、城山の横にも掘ってあった。吉田浜にもあ
った。街中では、ほとんどの家庭にあった。私の家でも、自分たちで
造った。
Q:空襲の時、どのような気持ちで逃げたのか?
A:とにかく必死だった。ある程度覚悟はしていたが、無我夢中だった。
他にも大勢の人たちが逃げていたが、周りが目に入らなかった。離れ
離れになった両親のことも気になったが、その時は必至だった。
Q:終戦と聞いて、どのような気持ちになったか?
A:悔しい気持ちもあったが、やっと終わったという気持ちもあった。た
だ、何もかも失い、日本人の誇りや夢や希望など壊された気持ちだっ
た。それ以上悲しんでも仕方ないと思った。その後は必死で生きてい
った。
Q:戦時中、苦しかったときは?
A:本土決戦が始まるだろうと憶測された時、敵に攻撃され、逃げ惑う夢
を見た。空襲を受けた時や機銃掃射を受けた時は苦しかった。戦地に
行っていた人たちは、さらに悲惨だったと思う。
Q:特攻隊はどのくらい飛んで行ったのか?
A:はっきりとは分からないが、1回で数十機飛んで行ったのではないか
と思う。ほとんどが若い人だったし、残っている飛行機も少なかった
ので、数は限られていたと思う。
5.児童からのお礼の言葉
日 時:平成 25 年 12 月 3 日(火)9:00~10:00
場 所:和気小学校 北校舎2階 研修室
対 象:6 年生 111 名
語り部:藤村 敏夫
1.校長から語り部紹介
2.語り部体験談(約 45 分)
私は今年で82歳になった。今から68年前に、私は広島で被爆した。当時、
広島にあった国鉄の第1機関区というところに勤務していた。世界で初めて使
われた原子爆弾は、とても悲惨で、憎むべきものだった。その時の模様が今で
も目の奥に色濃く残っており、その状況を中心に話をしたい。1人でも多くの
方々に戦争の悲惨さや原爆は使ってはいけない、作ってもいけないということ
を感じてもらいたい。今日の話を後世にも伝えてもらいたい。また、今後も平
和であり続けることがうれしいことである。
私が皆さんと同じぐらいの13歳であった昭和19年11月3日、校長先生
に呼ばれ、1週間以内に勤労学徒として広島の機関区に行くよう命じられた。
賃金は少なかったが、労働力を補うために命じられた。当時は戦争により、国
内では18歳から50歳ぐらいまでのほとんどの男性が兵隊に行っていた。残
されたのは、女性や子供、老人ばかりで日本中で労働力が不足していた。そこ
で、私たちぐらいの年代の子供たちが引っ張り出され、機関車を動かすための
下準備や管理などをさせられた。
原爆投下の8月6日の朝、いつも通り8時前に寄宿舎を出て、車庫で朝礼を
受けていた。20~30人ぐらい集まっていた。朝礼を受けていた最中に車庫
の各窓からいきなり青とも白とも紫ともいえないような光が飛び込んできた。
目を突き刺すような光だった。それと同時に爆風と熱風が各窓を突き破って吹
いてきた。ミーティングを受けていた同僚も2メートルほど吹き飛ばされた。
頭を打つ人、柱にぶつかる人、腕を傷つく人もいて、みんな伏せていた。何が
起きたのか全く分からなかった。車庫の中のすすが燃えて、辺りが真っ黒にな
り、何も見えなくなった。その後、少しずつ先が見えるようになった。私は頭
や腕に傷を負ったが、意識ははっきりしていたので、立ち上がり外を見ると、
広島の市街地に所狭しと家が建っていたのが一軒残らず壊されていた。当時の
日本の建物が木造だった。鉄筋の建物は数えるほどで、私たちの職場からは遠
くに見えたぐらいだった。
家に居たおじいさんやおばあさんたちはみんな家の下敷きになってしまっ
た。下敷きになった人たちはもがいていた。倒れた家から「助けてくれ。足が
挟まった。手が抜けない。」という叫び声が聞こえた。近くの民家では、小さ
い子供が「お母さん熱いよ。背中に何か落ちてきた。」と泣き叫び、母親に助
けを求めていた。母親はわが子の名前を呼びながら「今、助けてあげるから。」
と叫んでいた。その母親も家の下敷きになっていたので、助けようがなかった。
それでも必死の思いで母親はわが子に手を伸ばし、やっとの思いで子供を下敷
きから抜け出すために手首を引っ張った。私たちは、周りの家もそういった状
況だったので助けることができなかった。
そのうち、倒れた家から火災が発生した。広島市内は火の海となった。ガソ
リンに火をつけたような状態だった。下敷きになっていた親子の家にも火が迫
ってきた。子供が「お母さん、熱いよ。」というような声まで聞こえてきた。
だんだんと親子の声が聞こえなくなった。
そんな中、班長より元気な者は国鉄の管理部に消火に行くよう命じられた。
管理部が国鉄の中枢だった。機関車を3台連ねて、20人ぐらいが乗り込んだ。
機関区から駅に行く間に、爆風により線路の上に物が散乱していた。それを取
り除きながら駅に着いた。駅の構内に着くと、山陽本線の汽車が上下ともに到
着していた。乗り降りする人でいっぱいだった。そういう状況で被爆したので、
人々は全身火傷をしていた。火傷をすると、身体全体に火ぶくれができた。逃
げ場を失った人たちが何千人といた。広島駅には地下道があった。地下道につ
ながる階段に大勢の人たちが押し寄せた。1人がつまずいて転ぶと、後ろの人
たちもつまずき、覆い重なってしまった。私も逃げたかったが、消火をしなけ
ればならなかった。
管理部に着いて、1時間ぐらい消火活動するも、周囲の炎に包まれて、管理
部からも火が上がった。手の付けようがなかったので、帰ることになった。
被爆当時、何かの用事で外出していた人たちは家の下敷きにはならなかった
が、熱風と爆風により、みんな火傷を負った。足を引きずり、助けを求めなが
ら歩いてきた。火傷をした人を触ると、火ぶくれが破けてしまう。火ぶくれが
破けると、皮膚が垂れ下がり、皮膚の中から赤とも青とも紫のような筋肉が出
てきた。筋肉がむき出しになる状態だった。
原爆投下した当日は、真夏でとても暑かった。太陽が照りつけていた。集ま
った人たちは、
「私はこういう者だ。郷里はここだ。郷里に連絡してほしい。」
と言って、皆名札を付けていた。とにかく悲惨な状況だった。
辺りでは、
「水をくれ。のどがやけつく。」とみんなが一生懸命訴えていた。
近くにいた10歳以下の少年に水をあげようとしたが、水道は止まっており、
パイプに残っていた腐ったような、赤く錆びたようなぬるい水をあげた。一口
ごとにコクンと大きな音を立てて、喉の奥に入っていくのが分かった。二、三
口ほど飲んで張りつめていた気持ちが緩んだのか、私に向かってにっこりした
ような、ありがとうと言ったような笑顔が今でも胸に刻まれている。次の人に
水をあげようとすると、その少年が崩れるように倒れていった。真夏で陰のな
い灼熱の地面だったので、少年を起こそうにも、筋肉で丸裸でつかむところが
なかった。つかめば火ぶくれが破けてしまう。陰をつくろうと、近くにあった
もので覆ってあげた。
真夏の中、私たちは機関車の石炭を燃やし続けなければならなかった。機関
車は、火を焚いて水蒸気で動くので、常に焚いていなければならなかった。
「こ
れもお国のためだ。」と教育を受けていたので、放棄せずに夕方まで仕事をし
ていた。
悲惨な経験をしたので、今でも無念な気持ちである。これからも愚かな戦争
をしてはいけない。まして、原爆は使ってはいけない、作ってはいけない、持
ってもいけない。今では、当時の原爆より威力のあるものが開発されていると
いう。そんなものを使われてしまうと地球は滅んでしまう。そういうことのな
いように、後世に平和の尊さを伝え続けてもらいたい。
3.質疑応答(約 10 分)
Q:藤村さんは火傷をしなかったのか?
A:原爆投下時は、窓と窓の間にいたので、直接爆風や熱風を受けなかった。
また、私は原爆を落とされた地点より2.5キロの距離にいた。火傷は
しなかったが、頭や胸に外傷を負った。
Q:一緒に仕事をしていた同僚でどのくらいの方が無事だったのか?
A:同僚が50人ぐらいいた。元気だったのは、4,5人ぐらいだったと思
う。
Q:13歳で広島に仕事に行ったときの気持ちは?
A:当時、小学校を国民学校と呼んでいた。戦争に勝つためには、みんなが
団結しなければならないと教えられていた。兵隊に行っている人たちは、
食料や武器もなかった。そんな中、私は少しでも役に立つため、国のた
めと思い、広島に行った。
Q:両親は無事だったのか?
A:故郷の岩国にいたので、原爆の被害はなかった。
Q:勤務先で知り合いはいたのか?
A:私の小学校から3名徴用された。その内1人とは、被爆した後に会うこ
とができた。その友人は火傷をしていたが、比較的被害は少なかった。
ただし、その友人は国鉄で重要な役割を担っていたので、故郷に帰るこ
とができず、広島に残ることになった。私たちは一足先に岩国に帰った
が、その友人はお盆に帰ることになった。岩国には、重要な飛行場があ
ったので、爆撃を受けた。駅も直撃弾を落とされた。その友人がお盆で
岩国に帰ってきたとき、駅で爆撃を受けて亡くなった。遺骨も遺体も発
見されなかった。無数に直撃弾を落とされたので、逃げ場がなかった。
かわいそうでならなかった。
4.児童の感想(約 5 分)
・平和のことについて修学旅行でも学んだが、今日の話を聞いて詳しく知
ることができた。
・広島でも原爆の様子を知ったが、今日の話を聞いて戦争の悲惨さを知る
ことができた。
・教科書などで学ぶより深く考えさせられた。改めて平和の大切さがよく
分かった。
・以前より戦争はいけないと思っていたが、さらにいけないと思った。戦
争を体験していないので、悲惨さを知らないが、原爆を使ってはいけな
いと思った。
日 時:平成 25 年 12 月 6 日(金)14:00~14:45
場 所:窪田小学校 6年教室
対 象:6 年生 60 名
語り部:阿部 純子
1.校長から語り部紹介
2.語り部体験談(約 20 分)
紙芝居『ヒロシマの火』の実演
(原爆投下当日から、数日後にヒロシマの火を見つけ、それを福岡県星
野村に持ち帰り、火を絶やさず守り続けてきた話)
ピアノ伴奏:烏谷 澄香
3.児童より感想、質疑応答(約 25 分)
・戦争はとても恐ろしいので、これからも二度と起こしてはいけない。
・修学旅行で広島の原爆ドームに行って、戦争の悲惨さを学んだが、改め
て原爆の恐ろしさが分かった。
・戦争の悲惨さや悲しみが分かった。
・学校や図書館で戦争の悲惨さを学んだが、本日の話でより分かった。
・戦争を二度としないようにしなければならないと思った。
・これからも平和であり続けてほしい。
・広島を焼け野原にした原爆の悲惨さを学んだ。
(語り部より)
私が紙芝居を始めたきっかけは、外国の方にも原爆の恐ろしさを知って
もらいたかったから。皆さんのように、日本人は広島や長崎に行くこと
ができるが、外国人はそうはいかない。
原爆により一瞬で起こったことを紙芝居のパネルを用いて説明
・戦争はたくさんの人の命を奪うものなので、二度としてはいけない。
・戦争により大切な命を失ってしまうので、悲しい。
・私たちの同じ年代の人たちが、戦争により亡くなってしまった。その人
たちのためにもこれからも平和であり続けるようにしたい。
・核兵器や原爆により、喜びが消え、苦しみができてしまうので、早く核
兵器がなくなってほしい。
・原爆により多くの命を奪われたので、これからも原爆は使ってはいけな
い。
・戦争が終わって何年も経った後、原爆により亡くなっている人がいるの
で、恐ろしい。
・今でも戦争をしている国があるので、世界中が平和になってほしい。
・本で勉強していたが、今までは戦争に対してあまり身近に感じなかった
が、本日の話を聞いて戦争はあってはならないと思った。
Q:いつから紙芝居を始めたのか?
A:私は終戦の年の2月に中国で生まれた。親から当時の話を聞いた。私
が1歳になるぐらいの時に日本に帰った。もし、広島や長崎で生まれ
ていたら、原爆で亡くなっていたかもしれない。原爆で亡くなった同
じ歳の人たちの気持ちを考えると、この話をしようと思った。
・私の曾祖父が海軍の兵士だったので、戦争はしたくない。
・原爆は一瞬で起こるので、怖い。
・今、平和で生きることができるのは幸せなことだと思う。
・インターネットで知ることができないことまで分かった。
・曾祖母から原爆のキノコ雲が見えたと聞いた。
・母から祖父は戦争のテレビ番組があると絶対見なかったと聞いた。
(語り部より)
今でも世界にはたくさんの核兵器があるが、なかなかなくならない。
戦争は悲劇しか生まない。皆さんから出た感想のとおり、平和が一番
である。それが当たり前と言う人もいるが、平和であることが大事で
あると思う。
4.児童代表からお礼の言葉
日 時:平成 26 年 1 月 27 日(月)14:00~15:00
場 所:八坂小学校 視聴覚室
対 象:6 年生 25 名
語り部:田中 有男
1.教諭から語り部紹介
2.語り部体験談(約 45 分)
今年で83歳になった。毎年、小中学校に戦争体験の話を行っている。今日
もきれいな空だが、今から約70年前の松山の空は、アメリカの飛行機によっ
て支配されていた。私たちは、毎日のようにアメリカの飛行機に狙われて、い
つ殺されるか分からなかった。情けない気持ちで毎日過ごしていた。今では、
日本の飛行機ではなく、敵のアメリカの飛行機が飛んでいるなんて信じられな
いと思う。私が中学1年生のときに悲惨な思いをしていたが、日本は戦争に負
けてしまった。広島には世界で初めて原子爆弾を落とされた。たった1発の爆
弾で十数万人もの方々が亡くなった。当時は、日本は過去に戦争をしても勝っ
ていたので、今回も戦争に勝つと信じていた。戦争に負けたときは、とてもシ
ョックだった。戦争をすると、大変なことになると分かった。今日まで日本は
戦争をせず、平和国家となった。今では世界でも暮らしやすく、豊かな国とな
った。
ハーモニカの演奏『ふるさと』
日本ほど美しく、素晴らしい歌がある国は世界にはない。苦しい時こそ歌を
唄って、お互いを励まし合っていた。世界では内戦をしている国もあり、戦争
のニュースを見ることがあると思う。皆さんは毎日学校に行くことができ、お
いしい給食があり、立派な先生に恵まれて、整備された学校で勉強できる国は
ないと思う。食べる物がなく、学校に行くことができない子どもたちが世界に
はたくさんいる。日本は戦争に負けたが、現在のように当たり前のように平和
の中で暮らすことができることを皆さんに伝えたい。
昭和16年に、日本はアメリカとイギリスに戦争を仕掛けた。開戦した当初
は、日本が攻勢だった。1年も経つと、アメリカの反抗に遭い、追い込まれて
きた。昭和20年4月になると、沖縄がアメリカに占領されてしまった。沖縄
では女学生まで兵隊に殺された。そして、アメリカは日本本土を壊滅させるた
めに、攻撃を仕掛けた。
昭和19年に中学校に入学して勉強できると思っていたが、吉田浜にあった
海軍の飛行場にモッコを担いで勤労奉仕をしていた。勉強ができるのは、雨が
降ったときだけだった。勉強できるのは、月に1回か2回ぐらいだった。戦時
中は食べる物がなかった。イモをはじめ食べられるものを何でも食べた。夜に
なると、アメリカの飛行機がやってきて、寝ることができなかった。
昭和20年7月26日の真夜中に松山大空襲があった。後から感想文をもら
うと、語り部の話を聞いて、松山が空襲を受けたことを初めて知ったという人
が多いことにびっくりする。広島や長崎の原爆のことを知っている人は多いが、
松山が焼け野原になったことを知らないのは、約70年前のことになるので皆
さんが知らないのも無理がないと思う。戦争の悲惨さを知らないのはいけない
と思う。
私の兄は陸軍の特攻隊となり、1つの手りゅう弾を持って、道路の真ん中に
穴を掘って、ソ連の戦車がやって来ると、信管を抜いて爆発させた。そうして
自分の命を捨ててソ連の戦車を破壊した。私の兄は19歳で戦死した。ほとん
どの家庭で、父や兄が戦死もしくは戦傷していた。
昭和20年7月26日の晩は、起きたら目の前が真っ赤だった。私は、姉と
生まれたばかりの赤ちゃんと祖母の4人で逃げた。ただ、逃げる所がなく、高
浜線の近くの川の中に潜って、約2時間空襲の様子を見ていた。アメリカの爆
撃機B29が松山の空をぐるぐると旋回して、焼夷弾を落としてきた。焼夷弾
にはたくさんの油が入っていて、地上に落ちてくると、油が飛び散った。家で
も山でも池の中でも燃えた。松山には数千発の焼夷弾を落とされた。2時間の
空襲で松山のほとんどが焼けてしまった。今では、考えられないと思う。
松山空襲から10日後、広島に原爆を落とされた。松山だけでなく、日本中
が焼き尽くされた。東京では、昭和20年3月10日の空襲により1日で約1
0万人亡くなった。戦後は着る物はなく、住む所がなく、食べる物もなく、さ
らに悲惨な生活だった。勉強できる学校がなかった。
食べる物がないことが1番辛かった。当時は食べる物を探すことが精一杯だ
った。イナゴやヘビ、カメなど食べられる物は食べた。大きな鍋に一掴みの米
と雑草やイモの茎などを入れて雑炊にしてみんなで食べた。すぐにお腹が空い
た。今では卵を毎日食べることができるが、当時は風邪をひいた時ぐらいだっ
た。肉は年に1回食べるかどうかだった。私たちの年代で集まると、食べ物に
困るから戦争は絶対にしてはいけないと話す。当時の母親は自分の食べる分を
子供に与えていた。
終戦から5,6年経って、状況もよくなってきた。アメリカは食料の援助を
してくれた。その頃になると、米を食べることができるようになった。今では、
毎日ご飯を食べることが当たり前だが、当たり前と思うだけではなく、ありが
たいことだと感じてもらいたい。
世界のホテルで1番泊まって欲しいのは日本人である。日本人は嘘をつかず、
真面目で一生懸命働くと高い評価を受けている。日本に生まれたこと、日本人
として生まれたことを感謝しなければいけない。日本の美しい伝統を守り、一
生懸命人のために尽くしてもらいたい。戦争になると、勉強したくてもできな
い。いかに平和であることがありがたいことかを考えていただきたい。平和で
ないと、こんな幸せな生活を送ることができない。
以前に中学生から「平和とはどういうことを言うのですか。」と質問があっ
た。私は、「あなたの家には毎日父は帰ってくるのか?」とたずねてみた。戦
争になると、ほとんどの父は戦地に行ってしまい、いつ殺されるか怪我をする
か分からない。皆さんは父のいない家庭を想像できるだろうか。兄も兵隊に行
かされるかもしれない。戦争になり、もう1つ困るのが、国の批判をすると、
監獄に入れられた。学校の先生でも変なことを言えない。今では言論の自由が
保障されている。自分の信念に基づいて、考えを述べることができる。
他にも、「戦争に行くと、必ず死んでしまうと分かっているのに、なぜ行く
のか?行かなくてもいいのでは?」といった質問があった。誰も兵隊に行きた
い人はいないし、死にたくない。行かないと、国家に反逆したとみなされ、監
獄に入れられてしまう。戦争には、人間の自由はない。戦争に行くことを拒む
ことはできない。特攻隊は、日本に打つ手がなくなり、片道だけの燃料を積ん
で敵の艦隊に体当たりをした。
「行って死んで来い。」というようなものだった。
人間の尊厳を傷つけ、自由を奪うものだった。これが戦争だった。
防空頭巾を児童にかぶらせ説明
ゲートルの説明…包帯、おんぶ紐、タンカとして使える。
3.質疑応答(約 15 分)
Q:戦争でどのくらいの日本人が殺されたのか?
A:約300万人が亡くなったという。ただ、正確な数はわからない。戦
争になると、人の命は軽いのかと思う。
Q:アメリカと戦争をしたのに、なぜアメリカは物資の援助をしてくれた
のか?
A:終戦後、朝鮮戦争があり、アメリカは南朝鮮を援助し、ソ連が援助し
ていた北朝鮮と戦った。アメリカの民主主義とソ連の共産主義が対立
した。アメリカは負けるわけにはいかった。しかし、アメリカも苦労
し、追い詰められていた。アメリカは日本に駐留していて、日本から
朝鮮に攻め込んでいた。アメリカは日本の援助が必要だった。また、
アメリカが日本に援助したのは人道的な面もあったと思う。
Q:原子爆弾の雲は松山からも見えたのか?
A:松山でも見えた。中島や興居島からも見えた。はじめにピカッと光り、
雲も見えた。松山も空襲を受けていなかったら、原子爆弾を落とされ
ていたかもしれない。人間の命は紙一重だった。
Q:戦争が終わって、いつからきちんとした授業が始まったのか?
A:とにかく校舎が焼けて無かったが、松山商業だけが焼け残った。多く
の中学生が松山商業に集まったので、狭くて授業にならなかった。講
堂を仕切って授業をしていたが、騒がしくて先生の声が聞こえなかっ
た。1、2年経ってから、ようやく授業を受けることができるように
なった。
Q:原子爆弾は松山にも影響があったのか?
A:光や雲は見えたが、影響はなかった。
学校を卒業しても、一生勉強することが大事である。人間が学ぶことをやめ
てはいけない。人間は学ぶことにより、他人の幸せを願い、世の中に貢献して
いく。一生懸命勉強やスポーツをしてもらいたい。それがひいては幸せな人生
につながると思う。私たちの時代は、全員が中学校へ進学することができなか
った。中学校へ進学するにも試験に合格する必要があった。今では、義務教育
で全員が中学校へ進学することができる。こんな素晴らしいことはない。
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