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平成25、26年度行事予定(総会のご案内)

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平成25、26年度行事予定(総会のご案内)
平成25年11月15日
九州大学経済学部同窓会報
第55号
第 号
55
目 次
九州大学経済学部同窓会
事務局 〒812−8581
福岡市東区箱崎 6−19−1
九州大学経済学部内
TEL 092―642―2442 FAX 092―642―2348
mail:[email protected]–u.ac.jp
郵便振替 01750−6−21743
C o n t e n t s 平成25・26年度行事予定(総会のご案内)/1
特別寄稿
経営戦略と私の歩み
池田 弘一(昭和38年卒)/ 2
支部だより
東京支部 事務局長 吉元 利行(昭和53年卒)/ 5
関西支部 事務局長 中野 光男(昭和50年卒)/ 6
福岡支部 事務局長 平井 彰(昭和55年卒)/ 7
同窓生健筆模様
「日本経済再生論—ディスラプティブ・イノベーションの道」
三輪 晴治(昭和35年卒)/8
「東アジア統合という思想」
川本 忠雄(昭和49年卒・昭和52年博士入)/ 10
リレー随想
少子高齢化社会における自助・共助のあり方
池原 洋志(昭和33年卒)/ 12
雑感――図書館に一度も行かなかった男
坂口 賢史(昭和37年卒)/ 13
専門学校講師となって思うこと
菊池 武成(昭和38年卒・平成17年修士修了)/ 15
心細かった思い出 藤丸 修(昭和42年卒)/ 16
でも人生の土台は九大経済学部…悔いて余りある青春
市川 順一(昭和49年卒)/ 18
不思議グループ
「健人会」
平川 紀義(昭和50年卒)/ 21
ロシア会計の研究者として生きる
齊藤 久美子(昭和62年修士修了・博士進学)/ 22
上海の空の下で
中野 浩一郎(平成2年卒)/ 23
人物往来〜新教員紹介
宮崎 毅/ 24
大坪 稔/ 25
岩下 仁/ 25
/
26
経済学部名誉教授の会
国際学術交流振興基金執行状況報告
(平成24年度)
国際交流委員会委員長 川波 洋一/27
平成24年度卒業生就職状況/28
平成24年度決算報告/29
同窓会役員名簿/30
同窓会歴代会長/32
同窓会費納入のお願い/32
平成25、26年度行事予定(総会のご案内)
平成25、26年度の各支部総会を下記の通り開催いた
します。皆様、お誘い合わせの上、多数ご参集下さい
ますようご案内申し上げます。
平成25年度 広島地区九大法・経同窓会総会
日時 平成25年11月8日
(金)19時〜 21時
場所 メルパルク広島
(広島市中区基町6-36
TEL(082)222−9867)
<お問い合わせ先>
広島地区九大法・経同窓会事務局 藤森 誠
中国電力㈱ お客さまサービス本部内
TEL(050)8202-2057
E-mail [email protected]
平成26年 関西支部総会
日時 平成26年2月15日
(土)15時〜
場所 大阪弥生会館
(大阪市北区芝田2−4−53
TEL(06)6373−1841)
<お問い合わせ先> 関西支部事務局 中野 光男
富士精版印刷株式会社管理本部 気付
TEL (06)6394−1182
E-mail [email protected]
平成26年度 全国・福岡支部合同総会
日時 平成26年6月6日(金)18時~
場所 ハイアットリージェンシー福岡
(福岡市博多区博多駅東2-14-1
TEL(092)412-1234)
<お問い合わせ先> 福岡支部事務局 平井 彰
㈳九州経済連合会内 TEL(092)761-4261
E-mail [email protected]
平成26年度 東京支部総会
日時 平成26年7月7日(月)18時~20時50分 場所 学士会館 210号室
(東京都千代田区神田錦町3-28
TEL(03)3292-5936)
<お問い合わせ先> 東京支部事務局 吉元 利行
株式会社オリエント総合研究所
TEL(03)5877-5590 (ダイヤルイン)
FAX(03)5877-5859
E-mail [email protected](会社)
[email protected](自宅)
平成26年度 広島地区九大法・経同窓会総会
日時 平成26年11月開催予定
場所 未定
1
平成25年11月15日
九州大学経済学部同窓会報
第55号
特別寄稿
経営戦略と私の歩み
アサヒグループホールディングス株式会社 相談役
経済学部同窓会長
池田 弘一氏
1963(昭和38)年卒
自己紹介
い経験でした。
私は1940年に福岡県に生まれ、63年に九州大学経
1981年、本社に異動し営業部副部長や埼玉支社長
済学部を卒業しました。60年代は多くの国立大学経
などを務めた後、95年、九州・中国・四国地区本部
済学部でマルクス経済学が勢いのある時代でした。
長を拝命しました。この3地域の営業の責任者です。
九州大学では向坂逸郎先生は退官されていましたが、
地区本部制というのは、全国をいくつかの地域に分
高橋正雄先生はお元気な頃でした。私も『資本論』
け、「この地域はお前に任せた」と現場にほとんど
に挑戦しましたが、数ページ読んでは挫折し……を
の決定権を任せてくれる制度で、非常にやりがいが
繰り返す日々でした。残念ながら、当時学んだこと
ありました。弊社は2001年に業界第1位になるので
が就職してから直接役立ったということはないと思
すが、それに先駆けての、九州地域での大躍進に貢
います。本日の話も全て就職後に現場で経験して学
献できました。97年には常務取締役・首都圏本部長、
んだことと言えます。
99年には専務取締役、2001年には酒類事業本部長と
1963年、アサヒビールに入社しました(弊社は
して酒類事業全体を統括しました。その後、2002年
創立時、
「大阪麦酒会社」であり、
「大日本麦酒㈱」
1月に社長、2006年会長になり、2010年に相談役に
「朝日麦酒㈱」と社名変更した後、
「アサヒビール
退きました。以上が私のキャリアですが、卸会社に
㈱」になった。本稿では混乱を避けるため、「アサ
出向した時の経験と地区本部長時代の経験が、自分
ヒビール」で統一した)
。当時は業界シェア25%程
のキャリア形成や、現在の考え方などに大きく影響
度で、二位から三位に落ちた時期でした。翌年九州
を及ぼしたと思っています。
支店に配属され、以後13年間、そこで営業をやりま
した。77年、初めての転勤先は東京支店千葉営業所
アサヒビールの歴史
でした。部下はいませんでしたが、課長代理として
1889(明治22)年、大阪の財界人によって設立さ
初めて管理職になりました。
れた大阪麦酒会社がアサヒビールの前身です。今年
ところが翌78年、成田空港開港の年ですが、38歳
2013年で創立124年目ということになります。当時
の私は突然地元の酒類卸会社に成田支店長として出
も現在同様、ビール会社の競争が激しく、1906年に
向を命じられたのです。アサヒビールの経営状況が
は大阪麦酒、日本麦酒、札幌麦酒の3社が合併し大
厳しくなり始めた頃で社内の空気も暗く、私には出
日本麦酒となりました。戦前はこの大日本麦酒が
向が左遷のように感じられ、大変不本意でした。
ビール市場の75%、麒麟麦酒が25%を占めていまし
しかし、出向先で私は実に得がたい経験をしまし
た。しかし戦後、産業界の独占を一掃するためにG
た。国際空港開港という大きなビジネスチャンスの
HQが過度経済力集中排除法を制定すると、1949年、
中、部下の営業マン達と次々に新しい販路を開拓し
大日本麦酒は、西日本主体の朝日麦酒(後のアサヒ
たのです。その結果、私の出向していた3年間で成
ビール)と、東日本主体の日本麦酒(後のサッポロ
田支店は営業成績を2倍半から3倍に伸ばしました。
ビール)に分割されました。
活気ある環境で物事がうまくいっている時、人がど
分割後のアサヒビールは、後に財界の重鎮として
れ程自発的に大きな力を発揮するか、どれ程劇的に
有名になる山本爲三郎初代社長のもと全国展開しま
成長するか、
私は目の当たりにしました。アサヒビー
したが、比較的西日本で優勢でした。しかしながら、
ルに残っていたならば決してできなかった素晴らし
高度成長期に入ると成長の波に乗り遅れ、70年代、
2
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九州大学経済学部同窓会報
や ゆ
第55号
80年代には売上が低迷し、
「夕日ビール」と揶 揄さ
した。当初の販売目標は年間100万箱だったのです
れるようになりました。
が、87年だけで1,350万箱の販売を達成し、この年
こうした状況を改善するため、中島正義2代目社
の日経ヒット商品番付の東の横綱に選ばれました
長が退任すると、メインバンクである住友銀行の
(翌88年の販売実績は前年の5.6倍の7,500万箱、89年
副頭取、高橋吉隆さんが3代目社長(71年〜 76年)
には1億500万箱という驚異的なものであった)。当
に就任し、以後、延命直松さん(76年〜 82年)、村
時、私は関東支店次長として営業に回っていました
井勉さん(82年〜 86年)
、樋口廣太郎さん(86年〜
が、1ヶ月で1年分が売れる勢いでした。樋口社長
92年)と、住友銀行出身の社長が4代続きました。
の時代にはアサヒビールは完全に復活し、売上は約
85年、シェア10%割れという最悪の数字となり、
2倍半、市場占有率も24%と10%以上伸び、業界第
ついに会社存亡の危機を迎えました。5代目社長
2位を回復しました。
の村井勉さんは創立100周年を目前にしてなんと
3倍近く売れたということは、生産設備も3倍に
か会社を生まれ変わらせようとCI(Corporate しなければいけません。ビール会社は大変な装置産
Identity)活動をすることを決定しました。企業理
業です。樋口さんは社長在任の6年半で6,000億円
念を明確にし、それに合わせて企業イメージを再構
近い設備投資を行いました(樋口氏就任以前、アサ
築すべく、従来の「波に旭日」という創業以来のラ
ヒビールの設備投資額は年間70 〜 80億円程度だっ
ベルやロゴ、主力ビールの味を改めることにしたの
たので、10倍近く増加したことになる)。樋口さん
です(1989年、創立100周年を記念して社名も「朝
がハーバード・ビジネス・スクールに招かれて講演
日麦酒株式会社」から「アサヒビール株式会社」へ
をした際、あまりの積極投資ぶりを「クレイジー
と変更した)
。
当時、ペプシの追い上げを受けたコカ・
だ」と驚かれたそうですが、「チャンスは貯金でき
コーラが長年親しまれた味を変更し大失敗したばか
ない!」と言った話は有名です。こうして次々と大
りだったので、ビールの味の変更は大きな賭けでした。
型設備投資をして、あらゆる醸造タンクでスーパー
味の変更にあたって、東京と大阪で計5000人を対
ドライを製造しましたが、それでも在庫を切らす売
象に大規模な味覚調査を実施しました。今でこそ新
れ行きでした。
製品を出す時に市場調査をするのは当たり前ですが、
バブル真っ盛りだった当時、銀行出身の樋口さん
当時のビール会社はどこも「自社ブランドのビール
は、メインバンクからの借入金や社債発行に加え、
が一番美味しく、売れないのは営業努力が足りない
高株価をテコにしたエクイティ・ファイナンス、特
せい」と考える傾向にありました。崖っぷちにあっ
定金銭信託など多彩な方法で資金調達をしました。
た私達は、お客様の求めるビールの味を謙虚に探っ
樋口さんは、「利益責任は社長にあり。営業は利益
たのでした。
を考えず、どんどん売ってこい」と言っていました。
業界初の味覚調査の結果、お客様は「コクがあっ
それだけの営業外利益を出していたのです。
えんめい なおまつ
てキレがあるビール」を求めていることが分かりま
した。醸造部門の人は、「そんなことは無理だ。コ
スーパードライに集中、鮮度管理、財務体質改善
クがあればキレがない。キレがあればコクがない」
91年にバブルが崩壊しました。この年のアサヒ
と言いましたが、お客様の望むビールがそれだとい
ビールの有利子負債は1兆4,000億円に上りました。
うので、苦労して新ビールを開発しました。86年、
売上高9,500億円の1.5倍の額でした。樋口さんが千
新しいラベルのもと、
「アサヒ生ビール」が発売さ
載一遇のチャンスを逃さず果敢に積極投資したから
れると、好調な売れ行きを見せました。
こそ急成長できたのですが、結果として弊社は莫大
しかし、当時の商品開発部はこの新商品に満足せ
な債務を抱えました。保有資産の含み損も大きくの
ず、
「もっとキレのあるビールが望まれている」「も
しかかりました。
う一度、
新商品を追加させてくれ」と言ってきました。
翌92年、スーパードライの売上が横ばいになる中、
7代目社長の瀬戸雄三さんに代わりました。アサヒ
スーパードライの大ヒット、積極的投資 ビール生え抜きの社長です。瀬戸さんは、他社が新
そして、1986年3月に就任された樋口新社長の指
製品を次々と投入したフルラインの品揃えをする中、
揮の下、さらに新商品を開発することになり、翌87
スーパードライ1点に集中し、鮮度管理を徹底する
年3月、
「スーパードライ」として首都圏限定で発
戦略を取りました。鮮度こそビールの美味しさの決
売されました。これが起死回生の大ヒットとなりま
め手です。鮮度管理については実は樋口社長就任当
3
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九州大学経済学部同窓会報
第55号
時、製造後3ヶ月以上たったビールを問屋や販売店
回るという状況でした。そこで業績の悪い子会社は
からすべて買い戻したエピソードが残っています。
トップを交代させたり、売却したり吸収させるなど
想定の10倍の返品があって大変だったそうです。
して整理しました。
92年当時、工場で製造してから出荷するまでに
次に、ビールだけでなく酒類を総合的に扱うこと
16日かかっていましたが、ITを用いたサプライ・
にし、事業を拡大しました。2001年ニッカウヰスキー
チェーン管理により、93年には出荷まで10日、98年
の全株式を取得して完全子会社化し、ウイスキーや
には7日になりました。ちなみに現在、スーパード
ブランデーなどの洋酒事業に本格参入しました。02
ライの製造から出荷まで3日台です。ビールは製造
年には協和発酵工業と旭化成の酒類事業(日本酒を
の24時間後に微生物検査をしなければならないので、
除く)を譲り受け、焼酎やワイン、カクテル飲料の
出荷までに2.1日は必要です。スーパードライは3
分野にも参入しました。マキシアム・ジャパンとも
日台で出荷ですから、ほぼ究極に近い形で回転して
戦略的提携をし、輸入洋酒、輸入ワイン、テキーラ
います。この鮮度管理によって、工場や流通過程で
や各種リキュールの分野にも参入しました。更に、
の在庫が削減され、年間100億円規模のコストダウ
エルビー、和光堂、サンウェル、天野実業のM&A
ンに成功しました。
や、カゴメなどとの業務提携を通じ、食品分野にも
こうして瀬戸さんは莫大な負債を着実に返済し、
進出しました。
財務体質を改善していきました。98年、アサヒビー
こうして事業が多角化し、扱う商品が総合酒類、
ルは国内ビール市場シェア第1位になりました。た
飲料、食品まで広がると、グループ全体での在庫管
だし当時、他社は発泡酒という新しいジャンルが出
理の効率化が必要になりました。また、酒販売と言
ていて、発泡酒を入れるとキリンビールが第1位で
えばかつては町の酒屋さんが主流でしたが、いわゆ
した。
る流通革命が進み、スーパーやコンビニが酒販売の
99年、福地茂雄さんが8代目社長に就任すると、
主役になると、仕入れの一元化や物流の効率化が求
発泡酒も発売し、2001年、ついにビール類市場シェ
められました。
ア第1位に返り咲きました。1953年以来、48年ぶり
アサヒグループでは、全国に抱えていた200近い
のことでした。2000年には赤字決算をしてバブル期
倉庫をすべて整理し、工場で在庫管理を始め、ライ
の含み損の清算を大きく行いました。
バル、キリンビールと手を組んで共同配送、共同回
収を始めるなど、効率化とコスト削減に取り組んで
総合酒類、飲料、食品にも事業拡大
います。
2002年、私が9代目社長に就任した時、1兆4,000
億円あった借金のうちまだ5,000億円弱が残り、財
グローバル化
務体質が弱い状況でした。社内では長年スーパード
日本市場はすでに飽和状態にあり、少子化で縮小
ライ1本に集中し、その品質管理に一生懸命になっ
しつつあったため海外にも目を向けました。2004年、
てきたせいで、新商品を開発する意欲が衰えていま
中国最大の食品事業グループ、康 師 傅と飲料事業で
した。また、村井さんから福地さんまで優れたリー
合弁事業を始めました。康師傳はインスタントラー
ダーが続いたことでリーダー依存の気分が生まれ、
メン、菓子、飲料などを製造する台湾企業で、中国
保守的になっていました。業界第1位を達成したこ
大陸に進出し、1社でインスタントラーメンを年間
とで、次に何をすればいいのか、目標も見失ってい
80億食売っています。この合弁会社は2012年、中国
ました。
でコカ・コーラを抜いて飲料会社第1位となりまし
しかも、国内ビール市場は94年をピークに縮小し
た。弊社にとっては持分法適用関連会社で連結の対
始めていました。スーパードライ1本を売っていれ
象にはなりませんが、利益に大きく貢献してくれて
ばよいという時代は終わろうとしていました。そこ
います。
で私は「グループとグローバル」を目標として掲げ
弊社は94年に中国に進出し、自社ブランドを展開
ました。
していたのですが、赤字となっていました。日本の
まず、
グループ子会社を強化しました。アサヒビー
ビールは当時の中国人には高価格だった上に好まれ
ルは飲料会社や食品会社などいくつかの子会社を抱
る味が違ったからです。そこで、
「味覚はその国の
えていましたが、上場した途端に赤字に転落するな
歴史と文化の上に成り立つ」という理解に立ち、地
ど、赤字の子会社が多く、連結利益は単独決算を下
元のビール会社の株式を買収することにしました。
4
カン シー フ
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九州大学経済学部同窓会報
第55号
1995年に北京ビール、煙台ビール、97年に中国大手
を設置し、アサヒビールはその傘下の子会社の一つ
ビール会社の青島ビールなどと合弁で深圳青島ビー
となったのです。これで国内大手ビール会社4社は
ル社を設立、2009年にはリーマンショックの機を捉
全て、純粋持株会社制になりました。
え、青島ビールの株式を2割取得しました。生産管
純粋持株会社は利益を生まない組織です。思い
理などの技術を提供するだけで商品開発などは現地
切った成長戦略で成果を上げない限りコストを生じ
の人々に任せています。
させるので、私は反対でした。しかし、
「海外企業の
オーストラリアやニュージーランドでは、シュ
買収とグループ化(M&A)が重要な戦略となった今、
ウェップス豪州社など、飲料会社4社を完全子会社
純粋持株会社にした方がいい」という声が社内で高
化し、オセアニア地域への足がかりとしました。こ
まったので、私の会長退任後、移行しました。
の時も経営陣には残ってもらっていました。韓国や
この新体制の下、各事業会社に最大限の権限を与
台湾では地元企業と合弁会社を設立し、タイ、イギ
え、思い切りやらせて、今のところうまく行ってい
リス、チェコ、ロシア、カナダなどではライセンス
ます。例えば、アサヒビールという事業会社は、今
生産を行い、
「スーパードライ」を世界的に展開して
後の海外展開や株主対策などについてはアサヒグ
います。
ループホールディングスに任せ、酒類の製造販売だ
かつて1兆円を超えていたビール類の売上は、今
けすればよくなりました。役割分担が明確化し、自
や9,000億円を切るようになりました。しかし、飲料
社の事業だけに専念できる環境になったと言えます。
や食品の売上が漸増しています。私の前任の福地さ
アサヒビールの組織変更は、いわば「現場主義の
んの時代までは営業利益が上がっても金融機関への
徹底」です。冒頭で地区本部長時代の思い出をお話
返済で精一杯でしたが、2003年あたりから当期利益
しました。もともと弊社では本社の営業部が全国の
も緩やかに成長し、年間900億~ 1,000億円のキャッ
販売を統括していたのですが、瀬戸社長の時代、
「現
シュ・フローが出るようになりました。この資金を
場のことは現場が一番知っている。現場に権限を譲
財務体質強化や株主還元や設備投資に回すだけでな
り、思い切りやらせよう」ということになり、地区
く、M&Aや海外展開に回しているのです。
本部制を採用したのです。これがうまく行ったので、
私が社長になった時も「本社の常識は現場の非常識」
「純粋持株会社」制に移行
今までは、アサヒビールはビールの製造販売とい
と言って、工場や支店の声に耳を傾けるよう言い続
けました。
う事業を行いつつ、親会社として、いくつかの子会
社を管理する「事業持株会社」でした。しかし2011年、
「純粋持株会社」制に移行しました。純粋持株会社
である「アサヒグループホールディングス株式会社」
支 部 だ より
編集部注記(本稿は、東京神田の学士会で2012年9
月20日に行われた講演に添削を加えて、特別寄稿し
て頂いたものです)
にある「TKP有楽町センター」において開催しま
した。
3月に箱崎で開催された卒業祝賀会での開催案内
に加え、Facebookで先生方や諸先輩からの告知を
した結果、当日は、新卒者、昨年・一昨年の卒業生
を中心に20名の参加がありました。歓迎会では、昨
東 京 支 部 年度の卒業生2名の方から新卒者へのアドバイス等
のプレゼンをいただき、全員の自己紹介をしたあと、
池田同窓会長差し入れのアサヒビールを飲みながら
平成25年度前半の東京支部の活動状況をご報告い
懇談を行いました。
たします。
この企画は、学生から社会人、同窓生の橋渡しの
1.第3回新卒者歓迎会
場として、また、プレ同窓会として今後も継続して
第3回目を迎え、すっかり恒例化した東京支部新
いきたいと思います。先生方から、関東地区就職予
卒者歓迎会を4月13日(土)午後3時から、有楽町
定者、関東地区での研修予定者の方に、ご紹介をよ
5
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九州大学経済学部同窓会報
ろしくお願いします。
2.東京支部総会・懇親会
第55号
関 西 支 部 7月5日(金)午後6時から東京・神田神保町に
関西支部では昨年に引き続き見学会を5月に開催
ある学士会館210号室で東京支部総会・懇親会を開
しました。「池田まちめぐり」の報告です。
催しました。今年は、全国総会も同時開催で、東京
平成25年5月18日(土)、週間天気予報では雨に
支部総会初参加の藤井同窓会事務局長から決算、予
もかかわらず、当日は絶好のハイキング日和に恵ま
算、役員等の報告がありました。
れ、同窓生30名、同伴者2名の総勢32名が阪急宝塚
東京支部総会では、昨年の活動報告、予算関係、
線池田駅に午前10時に集合。最初の目的地である「逸
役員の補充などが承認されました。承認されました
翁美術館」まで徒歩15分程度で到着、阪急グループ
決算・予算、新役員一覧につきましては、東京支部
の創業者である小林一三氏の生誕140周年記念とし
ホームページ上に公開しておりますので、ぜひご覧
て開催されていた「復活!不昧公大圓祭」をじっく
ください。
り鑑賞したうえで近隣にある「小林一三記念館」ま
第二部では、
日本ユニシスの前社長籾井勝人様(経
で足を延ばし小林一三氏の足跡を学びました。その
済学部昭和40年卒:東京支部副支部長)に「コン
あと「インスタントラーメン発明記念館」まで徒歩
ピュータの歴史とその後の変化」と題して記念講演
で移動、日清食品の創業者である安藤百福氏とイン
を行っていただきました。記念講演の講演内容の概
スタントラーメンの物語を学びました。そしてお楽
略につきましては、東京支部HPに掲載しております。
しみの懇親会会場である「かごの屋」まで戻り、昼
第三部の懇親会は、今年は氏名順にテーブルに集
食を兼ねた懇親会で大いに盛り上がり、午後2時半
まり、各テーブルの「テーブルマスター」の下で自
に一応お開きとしました。懇親会の始めに今回の
己紹介や近況について和やかに懇談が行われました。 見学会の手配等で大変お世話になりました跡部理
今年は80名を超える出席者でしたが、4月の新卒者
事(昭和44年卒)から開会の挨拶と乾杯の発声があ
歓迎会に参加した新卒者らを含め、平成年代の参加
り、最後の締めの挨拶では参加者の中で最高齢の内
者が約3割、女性も1割近く出席があり、大変華や
田勝敏先輩(昭和22年、九州帝国大学卒)からDas
かな雰囲気での同窓会になりました。若手の皆さん
Leben ist gut(人生は楽しい)との言葉を頂戴し、
とベテランの皆さんの新たな交流の輪もできつつあ
みんなが感激した次第です。
ります。最後は、恒例の九大コールアカデミーOB
の指揮者宮崎誠二さんの指導で「松原に」を斉唱し、
福岡支部から駆けつけていただいた貫支部長の博多
手一本で締めました。
【事務局長 吉元 利行 昭和53年卒】
ラーメン発明記念館の前で
関西支部の年間行事予定は、基本的に第3土曜日
に実施することとし、
2月に支部総会(来年は2月15日、於:大阪弥生会館)
3月に春のゴルフ会(来年は3月15日、場所:未定)
5月に見学会(来年は5月17日、見学先:未定)
9月に秋のゴルフ会(今年は9月21日、於:愛宕原
ゴルフ倶楽部)
11月に勉強会(今年は11月16日、場所:ハートンホー
ル、講師:昭和36年卒の恋塚先輩)
を開催いたします。
参加ご希望の方は遠慮なく事務局まで連絡をお願
いします。
6
平成25年11月15日
九州大学経済学部同窓会報
【関西支部事務局長 中野 光男(昭和50年卒)】
富士精版印刷株式会社 管理本部気付
第55号
により総会実行委員会を福岡市・電気ビル共創館「エ
スペランサ」において開催し、総会や懇親パーティ
Tel:06-6394-1182
の運営について検討しました。
Fax:06-6394-1082
2.平成25年度福岡支部評議員会を開催
Mail:[email protected]
上記総会に先立ち、平成25年4月24日(水)、福
岡市・九経連会議室において評議員会を開催しまし
た。当日は正副支部長、監事、評議員など18名が出
席し、平成24年度事業報告・決算報告、平成25年度
事業計画案・収支予算案について審議しました。
3.福岡支部活動活性化のため、運営委員会を開催
5月28日(火)、福岡市・九経連会議室において
「かごの屋」にて懇親会
福 岡 支 部 1.平成25年度福岡支総会を開催
平成25年度の支部総会を6月7日(金)開催しま
した。当日は、平成24年度事業報告・決算報告並び
に平成25年度事業計画案・収支予算案すべてが承認
され、引き続いて経済学研究院の山本健兒研究院長
による特別講演「最近の大学をめぐる動きと九州大
学経済学部・学府の現状と将来について」が行われ
ました。
今回より、会場を昨年までの博多都ホテルからハ
イアットリージェンシー福岡に変えましたが、続く
懇親パーティは昨年以上に盛り上がりました。パー
ティでは貫支部長の開会あいさつのあと、来賓と
してご出席の酒匂一郎法学研究院長や池田弘一会
長、石橋英治関西支部長をはじめ東京、関西両支部
の役員の方々の紹介に続き、名誉教授紹介として大
屋先生、市村先生、原田溥先生、兒玉先生、逢坂先
生、福留先生、丑山先生、堀江先生をご紹介。続い
貫支部長、吉井・光富各副支部長はじめ10名が出席
て山本研究院長より先生方のご紹介があり、池田会
し、運営委員会を開催しました。
長の乾杯ご発声により懇談に移りました。途中、中
当日は、総会・懇親パーティ活性化のため、今後
国や韓国、台湾等各国からの留学生を紹介し、学生
の支部活動はどのようにすべきかが話し合われまし
歌「松原に」を出席者全員で歌ったあと、嶋田正明
た。現在も福岡支部では運営委員制度を設けていま
運営委員と平井彰、森内勇貴の事務局合わせて3名
すが、さらなる活性化のために運営委員を見直し、
が、山笠期間ということで解禁になった博多山笠の
地元主要企業メンバーから成る新たな運営委員を選
法被をまとい博多手一本で閉会しました。
任し、総会をはじめとする福岡支部活動の活性化に
集まった130名のOBや留学生、現役の学生たち
取り組んでいくこととしました。
は1年ぶりの交流を深めました。
4.第54回交流ゴルフ会を開催
なお、
5月10日(金)には事務局を含め4名の方々
第54回目となる福岡支部交流ゴルフ会が6月2日
7
平成25年11月15日
九州大学経済学部同窓会報
(日)
、佐賀県の北山カントリー倶楽部で開催されま
第55号
5.アサヒビール博多工場見学会・アサヒビール園
した。
交流会を開催
貫支部長(昭和43年卒、九州電力会長)をはじめ
福岡支部の夏の恒例行事となったアサヒビール博
7名が参加しました。
多工場見学会と、隣接するアサヒビール園交流会を
最長老は牛房良嗣さん(30年卒)で、80歳を迎え
今年も7月8日(月)に開催しました。
られ、スコアやプレイ内容もエイジシューターを実
池田弘一同窓会長が社長、会長を歴任されたアサ
現されるのではないかと思うくらい若々しくされて
ヒビールの工場見学をしたいとの思いから数年前に
いました。保険会社を定年退職されたあと、故郷の
企画し、以後、毎年開催しているものです。通常は
福岡県志免町で町会議員として町のために尽くされ
工場の操業は夜間や土日は止まっていますが、夏期
ていることと、健康にゴルフをされていることが
に限って夜間の工場見学が実施されていることから、
我々のお手本になります。
福岡支部では毎年7月に工場見学会と、隣接するア
貫支部長と一緒にラウンドされた佐渡義夫さん
サヒビール園での交流会を開催しています。
(51年卒)
、工藤重之さん(52年卒)のお二人とも、
今年は兒玉先生、福留先生、濱砂先生、東定先生
支部長は九州電力の会長として相当ご多忙でしょう
の4名の名誉教授の先生方をはじめ藤原靖司さん
が、自分たちとはあまり面識もなく、年代の違いも
(昭和36年卒)、青柳泰教さん(46年卒)、嶋田正明さ
あるのに、全くそういうことを感じさせずにフラン
ん(54年卒)、藤本淳一さん(55年卒)、鹿毛祐宏さ
クに一緒にラウンドすることができてとても嬉し
ん(58年卒)、早崎栄一さん(58年卒)、梅原晋さん(59
かったと言われていました。
年卒)、竹下将史さん(平成8年卒)、永松隆行さん(14
交流ゴルフ会は貫支部長に必ずご参加いただくこ
年卒)、事務局の平井彰(昭和55年卒)、森内勇貴(平
とが慣例になっており、支部長のご予定に合わせて
成22年修士修了)の15名が参加し、ビールの製造工
日程を決めています。次回は11月30日(土)9時6
程を見学した後、出来たてのスーパードライやスー
分スタートで、筑紫丘ゴルフクラブを4組予約して
パードライドライブラックを試飲。その後、アサヒ
います。福岡支部のみならず他支部の方のご参加も
ビール園で、生ビールとジンギスカンに舌鼓を打ち
大歓迎です。どうぞ皆さんご参加ください。これか
ながら交流を深めました。
ら参加してみようという方は、福岡支部事務局(担
【福岡支部事務局長 平井 彰 1980(昭和55)年卒】
当:平井)宛お問い合わせください。
同窓生健筆模様
『日本経済再生論―
ディスラプティブ・イノベーションの道』
イーエイシック ・ ジャパン株式会社 社長
三輪 晴治氏
1960(昭和35)年卒
文真堂 2013年6月刊行
前回同窓会報第50号(2011年)に書かせていただ
続いた。
いたとき、最後の本として次の本を書いていると申
今日の日本経済の衰退、世界経済の混乱にはちゃ
し上げたが、2年遅れで2013年6月に『日本経済再
んとした理由があり、それを正しく理解すれば、そ
生論:ディスラプティブ・イノベーションの道』と
の再生の道は見えてくるというものだ。その見方は、
して出版した。原稿は2年前に書いていたのだが、
大学で習ったヘーゲル、マルクスの弁証法的な「土
この2年世の中がどんどん変化するので書き直しが
台と上部構造」の概念である。経済的、技術的土台
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九州大学経済学部同窓会報
第55号
の上に、社会としての制度、仕組み、法律、文化、
者には日本は絶望の国とまで言われている。そして、
芸術など上部構造ができあがる。しかし土台はどん
アメリカに対して日本は未だに自分の思うことが言
どん先に変化、進化するものであり、かつて整合性
えず、ある見方では第二次大戦の敗戦から未だにア
のとれた「土台と上部構造」も、土台の変化で、そ
メリカの属国という位置にあり、海舟、竜馬が求め
の両者の間に乖離、矛盾が起こり、社会は混乱に陥
た「列強国と対等に話ができる状態」にはない。こ
る。今日の日本経済社会がまさにその状態になって
の宿題を後世のわれわれは果たさなければならない。
いるのである。その乖離をイノベーションにより解
向坂先生の思いもそういうものではなかったかと思
決し、新しい上部構造を創ると、経済社会は再び発
う。
展する。土台と上部構造の間にある乖離、矛盾を解
これには何が重要であるかは、この本でいろいろ
決することが「産業のイノベーション」の道になる。
の角度から書いてみた。つまり日本は新しい産業を
これを日本経済の再生に生かそうということである。
どんどん開発して、多くの職場を創造し、国富、経
本は発売以来お陰様で企業、政界、官界で少しず
済力、国力を増強することである。
つ読まれるようになり、いろいろと講演の機会が増
2013年7月11日に、かつてのアメリカの国務長官
えてきている。特に本の第三章、第四章での「資本
であったコリン・パウエルは、アメリカ経済の疲弊
主義経済の本質」のとらえかた、日本の「国のかた
のなかで、「最も強力な政治的武器は、核武装では
ち」の問題点が話題になっている。これが日本国家
なく、経済成長だ」と言った。つまりこれからは経
としての本当の構造改革になるということであろう。
済力である。勝海舟や坂本竜馬が造ろうとした軍艦
学生時代には、向坂逸郎先生には大変お世話に
や大砲ではない。日本の「経済力」が相対的に衰退
なった。学生の頃、先生の下宿先に日曜日に何度も
してきてから尖閣問題、竹島問題が浮上してきたと
お邪魔し、日当たりの良い12畳ぐらいの大広間でい
も考えられる。このままではもっといろいろの難題
ろいろとお話を伺った。話題は、絵画のゴーギャン、
が持ち込まれる恐れがある。
ゴッホの絵の素晴らしさであったり、先生は時代劇
つまり経済の発展をドライブする主導産業をイノ
映画が好きということで、映画においてその時代の
ベーションにより開発するということである。これ
経済社会の問題点、またそれが現在の問題点までえ
までの19世紀末から20世紀は、世界の経済成長を牽
ぐり出されているということであった。先生から、
引してきた主導産業はアメリカが開発してきたもの
ある時汽車の中で隣り合わせになった雪代敬子さん
であった。残念ながら日本はアメリカで開発された
は時代劇のヒロインの一人で、大変綺麗で奥ゆかし
商品をより安く、より良いものにすることに専念し
い方であったというような話が出たことを覚えてい
てきたが、これからはアメリカは日本にはそうはさ
る。
せないであろう。
私も歳を取り近年はテレビの時代劇専門チャンネ
しかし日本産業にも経済発展をドライブする新し
ルをよく見る。その時代劇テレビからいくつか大切
い産業を興すことはできる道がある。それは「ディ
なことに思い至った。それは戦国時代、竹中半兵
スラプティブ・イノベーション」による産業の開発
衛、黒田官兵衛は常に「民、百姓が安心して暮らせ
である。これまでに存在しなかった全く新しい商品
る、
豊かな国にするにはどうしなければならないか」
を開発するのは日本にはまだ無理であろう、しかし
を考えていたようだし、幕末の勝海舟、坂本竜馬は
既存商品、既存市場から枝分かれして、それとは似
「欧米の国と対等にものが言える国にしたい」と願っ
て非なる新しい大きな市場を開発する道である。こ
て闘ってきたということである。しかしあれから大
れなら日本産業にもできる筈である。これを「ディ
きく発展してきたという現在の日本社会は、先人の
スラプティブ(分岐的)・イノベーション」と呼ぶ。
彼らの願望を叶えていると言えるであろうか。どう
その例は、IBMの代名詞としてのメインフレー
もそうではなく、見方によっては現在はその昔より
ムコンピュータ(MC)からアップルなどが創造し
もっと悪くなっているのではとも思われる。
たパーソナルコンピュータ(PC)であり、貨物輸
つまり今日の日本経済社会は、失われた20年と言
送から宅配便、部屋に置くステレオからソニーのウ
われ、半兵衛、官兵衛が望んだ「民・百姓としての
オークマン、多車種一品生産車からフォードのMo
一般の市民が安心して暮らせる」ようにはなってい
delT、業務用ミシンから家庭用ミシン、業務用
ない。デフレ、産業の停滞、経済の衰退、所得格差
プリンターから家庭用プリンター、などいろいろあ
の拡大が深刻化し、生活苦による自殺者も多い。若
る。しかしこれまでは分岐的イノベーションという
かいり
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九州大学経済学部同窓会報
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明確なコンセプトでこれらは開発されたのではな
メリカにも多くの弱点があり、経済も疲弊しており、
かった。これを明確に意識して新しい商品を開発し、
いろいろな意味で今アメリカは大きな深手を負って
新しい市場を創造しようとすれば、日本の再生につ
いる。聖書のバベルの塔の崩壊に象徴される事態に
ながるというものである。
も遭遇している。
無敵を誇った日本半導体産業、電子産業、ものづ
しかし、まだアメリカは、社会経済制度の仕組み
くり力は信じられないくらい突然その無敵のポジ
において、日本と比べて比較にならないくらい大き
ションから引き下ろされてしまった。多くの当事者
な力を持っている。この事実を正しく理解し、アメ
は何が起こったかまだ分からない状態である。その
リカに逆襲するのではなく、アメリカの弱点を日本
原因を本書で明らかにした。土台と上部構造の乖離、
が補い、共存する道を見つけなければ日本は生きて
変化を見れば、その原因が分かる。そしてその乖離、
ゆけないのではないか。特に今日のグローバル市場
変化を見ればこれからどんなイノベーションを興せ
では超国家企業がグローバルサプライチェーンを張
ば日本産業の再生になるかがわかる筈である。これ
り巡らせて拡大しているが、その陰で肝腎の国民国
を「ディスラプティブ・イノベーション」でやり遂
家、国民の富を確かなものにするベクトルがなく
げようということである。
なってきている。これからは「新しい世界産業構造
その中で重要なことはアメリカという国の凄さと
分業論」という視点でアメリカ、中国、アジア、E
アメリカがこれからどうしようとしているのかを正
Uという国々のそれぞれの弱点を補完し、全体の世
しく理解することである。第二次大戦に入るときあ
界産業の分業体制を描き、それを形作ることを進め
る識者は日本とは比較にならないくらいの力をもっ
なければならないと考えている。
ているアメリカとは戦争すべきではないと諌めたが、
そうした意味でも日本は国家戦略として、日本が
軍部と一部の一般人は聞き入れず戦争に突入してし
21世紀に生き抜けるように「国のかたち」も変え、
まった。今日でも日本はアメリカとどう付き合うか
経済力を一段と強化する必要があるというようなこ
という点でもアメリカの力を十分理解しているとは
とをこの本書で書いて見た。もし寿命がもう少しあ
言えない。戦後60年たったが日本の大半は、未だに
れば、最後に『21世紀ものづくり哲学:戒律』とい
アメリカの力を正しく理解しようとしていない。ア
う本を書いてみたいと思っている。
『東アジア統合という思想』
下関市立大学経済学部教授
川本 忠雄氏
1974(昭和49)年卒
1977(昭和52)年博士入
文真堂 2013年3月刊行
私は1968年から74年まで経済学部に在学し、1975
には、研究主体の視座・視点が曖昧であり、何を主
年から80年まで大学院(木下研究室、世界経済論)
張したいのかよく理解できないものも多い。従って
で研究生活を送った(その後、2年間、助手)。
得心がいかず感動が少ないように私は思う。
ここで何を学んだのだろうか。それは「国家」で
私は、1997年春から1年間、ロンドン大学SOAS
あり「国民経済」である。つまり国際経済を国民経
(東洋アフリカ研究院)の客員研究員として欧州で
済論的な視点から読み解く方法である。現在は未曾
生活し各地を訪ねた。本書を書く問題意識の萌芽は
有のグローバリゼーションの時代とはいえ、それは
この時期得られた。
決して平板なボーダレスなものではなく、様々な経
EUは1999年初頭のユーロ導入に向け邁進してい
済主体が重層的に、いわばクロスボーダーに存在し
た。素人目にも着実に統合の歩みを進めているよう
ている、そういう見方を学んだ。昨今の経済学の中
に感じられた。欧州で生活する前は、EUは国民国
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九州大学経済学部同窓会報
第55号
家の連合体であるという程度の認識であった。ほぼ
であったりして、論理次元の相違を自覚しながら分
同民族・同言語である多くの日本(島国)の人々も
析している見解が意外に少ない。
同様の認識であったと思われる。
本書ではまず、これまでの東アジア統合論の諸見
しかし英国だけでも、スコットランド、ウエール
解を整理し、今後の「現代東アジア型地域協力」の
ズ、アイルランドの独立問題があり、大陸欧州での
展望を考察した。またEUとの比較の視点から、東
バスク、カタルーニア、ロンバルジア同盟など多く
アジアにおけるマクロリージョンとアイデンティ
の地域(ネーション)の存在は、否応なく100を超
ティの関係を論じた。
える地域の集合体としてのEUという側面に気付か
次に東アジアの中で事実として進展している各国
せてくれた。
民経済の枠を超えた有機的結合を論じた。現実に存
しかも、EU加盟国以外の一部地域と加盟国内の
在するこの結合を説明する意味は、この地域の制度
複数地方が、国境を跨って協働の運動体(サブリー
的連携が空論ではないということを指摘するためで
ジョン、例えば北海地域委員会)を形成し、これを
ある。そのために経済の最表層面(物流過程)と最
EU本部が支援する(EU本部が国家の当該地域への
深部(農業の生産過程)での有機的結合の動向を分
介入を阻止する)という、極めて重層的な構造である。
析した。
EUの統合の現状を見ることにより、地域統合に
最後に、何のための、誰のための制度的枠組みの
関する私自身の理論的課題(国民経済と地域の関係、
構築なのかを考察していった。重要なのは日々、地
各種アクターとアイデンティティの関連など)の本
域で生きる諸個人であり、そこでの生活の質である。
質を理解する端緒がようやく見えたような気がした。
従って各個人(新しい人間類型)の地域アイデンティ
またそこから、国家、国民経済の枠組みを超える次
ティおよび住民主権の視点が重要なことを強調した
の時代のステージを考察していくようになった。
(事例として「関門地域」を取り上げた)。
さて1990年代に冷戦体制が崩壊し、東アジアでも
そしてそのような地域の「住民協働体(コミュー
旧来の枠組みを超えた様々な社会経済現象が現われ
ン)」を保証するものとして、それを取り巻く国内
てきた。特に、国家・国民経済の枠組みを超えて、
外の制度的枠組み構築の重要性を指摘した。また将
クロスボーダーに経済交流が進展していく。環黄海
経済圏、環日本海経済圏、環東シナ海交流圏、辺境
来の日本社会は「地方再生」という美しい言葉では
しゅうれん
収 斂 できず、ギリギリの生存を賭けた仕組み創り
地域での国境貿易などの動きがそれである。
が必要であると強調した。
21世紀に入り、更なるグローバリゼーションの進
その意味では、将来の「このくにのかたち」と世
展とともに、世界各地でFTA・EPAの締結が見られ、
界の将来的枠組みの方向を考察したことにもなる。
国連、WTO、IMFなどの世界的枠組みだけでなく、
従来の諸理論は、「共同体」「統合」の際のメンバー
世界各地で地域連携の多層的な各種ネットワークが
構成(国家、地域、サブリージョン等)の議論はあっ
形成されていった。
ても、そこで生きる個人の視点は稀薄であったよう
国家・国民経済が相対視されるにつけ、それらを
に思う。
包含する政治経済的枠組みも構想され論議されてい
脱稿後、やはり私の思考にとって「国家」「国民
く。東アジアにおいては、「東アジア共同体」「東ア
経済」が躓 きの石であり、同時にまた飛躍のスプ
ジア統合」がそれである。これらは、様々な位相で
リング・ボードであったと思い知らされている。
研究され議論されていく。政策論(現実の経済連携・
最後に、同時代を生きた同窓生諸兄へ(特に1968
経済協力の分析)、歴史論、文明論、価値論(アイ
年入学、L-9組)。私が21世紀初頭において垣間
デンティティ論)
、地域・国家論(制度的枠組みの
見た東アジアの思想風景(本書)について、読後感
分析)など、正に百家争鳴の20年間であった。
をいただければ幸いです。
しかし多くの理論・見解をみると、地域間の経済
交流が進展すれば自然と「経済圏」が形成され、そ
れがいずれは「共同体」へと発展していくという素
朴な発想、願望が多い。機能主義(新機能主義)的
理解といったら良いであろうか。また政治理念実現
の決意表明
(アジアは一つになるべきである)であっ
たり、
あるいは逆の断定(アジアはバラバラである)
つまず
[本書の構成]
第1章 現代世界経済の基本的性格
第2章 東アジア統合論の諸潮流
第3章 東アジアにおけるマクロリージョンとアイデンティティ
第4章 東アジア海運と日本港湾の有機的ネットワーク
第5章 グローバルスタンダード下の日韓農業の現状と連携
第6章 グローバリゼーションと地方の自律
終 章 人口減少社会の「衝撃」と地方の生存
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リレー随想
第55号
O法人ナルク茨木・摂津)を知り、直ちに入会し、
現在に到っている。
ボランティア団体の正式名称は、特定非営利活
動 法 人 ニ ッ ポ ン・ ア ク テ ィ ブ ラ イ フ・ ク ラ ブ
(Nippon・Active・Life・Club)で、その頭文字をとっ
少子高齢化社会における
てナルク(NALC)と称している。
自助・共助のあり方
を置き今年19年目を迎える。北は北海道から南は鹿
(地域を支える元気な高齢者のボランティア)
1994年(H6)4月の設立、大阪市中央区に本部
児島まで国内約130の活動拠点と会員約3万人を擁
し、海外にもアメリカ、スイス、イギリスに現地法
人を持つグローバルなボランティア団体である。
昔と違って、定年を迎えた男性、子育てを終えた
特定非営利活動法人
女性はまだまだ元気一杯、自分だけの勉強や趣味・
ニッポン・アクティブライフ・クラブ
旅行に明け暮れるのは勿体無い、住み慣れた街で地
池原 洋志氏
域の人と一緒にいつまでも健康で精神的に「自立」
1958(昭和33)年卒
し、それまで取得した知識、技術、経験を他人のため、
地域社会のために役立てて(奉仕、助け合い)、相
1954年(S29)鹿児島の片田
舎の高校から九州大学経済学部に入学、教養部は牧
手が喜んでくれる事を自分の喜び・
「生き甲斐」とし、
より質の高い有意義な人生を過ごそうと熱い志・理
歌的・のどかな環境の小森野の久留米分校で過ごし、 念を持って集まるボランティア団体である。
一年半後の1955年9月箱崎の学部に進学。
会の最大の特徴は、「時間預託制度」で、困って
向坂逸郎先生、高橋正雄先生、田中定先生、高木
いる他人のためにボランティアした時間を点数で貯
幸二郎先生、都留大治郎先生、近江谷左馬之助先生
めていき、自分や配偶者、両親に支援が必要になっ
等の格調高いマルクス経済学華やかなりし当時の名
たときその点数を使って支援を受けられるというユ
講義と向坂ゼミ、近江谷ゼミを受け、人生の基本的
ニークなシステムである。全国組織の利点で、遠方
考え方を学んだ。教室でのゼミ以外に、時々近江谷
に住む親の「遠距離介護」も可能だ。これほどの急
先生の太宰府の自宅にお邪魔して、勉強会後に美人
激な少子高齢化の到来を予測したわけではなく、第
の奥様に振る舞って貰ったすき焼きの味はまだ物資
二の人生の生き甲斐として、他人の為、地域社会へ
の不足していた時代だけに格別だった。1958年(S
の貢献活動を目的として始めたわけだが、今になっ
33)卒業後、大阪の繊維・工作機械メーカーに就
てみれば先見の明が有った事になる。
職、6年後我が国で始めて合弁事業として設立され
私の所属する茨木・摂津拠点は大阪と京都の中間
たキャタピラー三菱に転職し、論理的、合理的且つ
点にあり、1995年(H7)に設立、会員数404人(H
ワールドワイドな物の考え方を学び、列島改造・高
25.4.1現在)。活動は、行政の手が届かずに本当に
度経済成長期の大型宅地開発、空港・ダム・ゴルフ
困っておられる人の子育て支援から高齢者・障害者
場・道路のインフラ整備等の社会資本の充実に貢献。 支援まで多世代にわたって、多様な支援を地域に密
最後は後継者に悩む歴史ある中小企業の経営建て直
着した形できめ細かく行っている。主な活動の事例
しを依嘱され、10年間で建て直し、後継者も育てて
を子育て支援と高齢者・障害者支援に分けて簡単に
バトンタッチし、2004年(H16)47年間の会社勤め
説明すると、
を引退した。こうして長い年月、朝早くから夜遅く
まで仕事に専念できたのも、女房の理解・内助の功
「子育て支援」(在宅支援が主体)
子供は「家族の宝」であると同時に次世代を担う
は勿論の事、周囲の人の理解・協力があってのこと。 大事な「社会の宝!」との考えの基に。
従って、現役を退いたら他人のため地域の為に少し
事例1、産前産後のお母さんの支援。核家族化で身
でも役に立つ事をしようと引退前から考えていたの
近な人に相談できない人が増えている。悩
で、直ぐに市の市民活動センターに出向き、社会福
みの相談に乗り、食事作り、掃除、洗濯、
祉協議会主催のボランティア講習を受講し、タイミ
沐浴、見守り、買い物等の手伝い。特に最
ングよく身近のボランティア団体の活動拠点(NP
近共稼ぎ、双子出産、第2第3子出産時の
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九州大学経済学部同窓会報
支援依頼が多い。
事例2、病児の家での見守り、病児保育園への送迎
第55号
制作りが急務である。引きこもりをなくし、社会と
交わって心を若く保ち、心身の健康維持に努める。
と入院時の付添・見守り支援。幼児を保育
在宅介護の拡充に切り替えると共に、厚生労働省が
園に預けて働いているお母さんの子供が病
提案している地域包括ケアに向かって、行政の指導
気になったとき、見守りと病院への送迎や
の下、医療機関と地域住民・NPO・ボランティア
入院児の親代わりの付き添い・見守り。
団体が連携して軽度の認定利用者を支え、保険給付
事例3、母子・父子家庭、共稼ぎ家庭の仕事で帰宅
は重度介護認定者に集中利用するように改めて、現
が遅くなる時の保育園への迎え支援。食事
行社会保障制度を守っていかねばならないとの強い
作り、親が帰ってくるまでの見守り、話し
思いでいる。幸いに18年間の地道な地域に密着した
相手。
我々のボランティア活動は市長以下福祉関連機関の
事例4、障害児の通園、通学の送迎の支援。目や足
十分に認知するところで、安心安全でより良く住み
腰の身体障害児や知的障害児を働いている
易い地域社会にする為、今後一層の協力・関わりを
親に代わって施設・保育園学校へ送迎。
行っていく所存である。
事例5、学童の登・下校時の安全見守り活動。痛ま
しい事件・事故の防止。
事例6、市内の府立高校5校への出前授業。「元気
な高齢者の生き様」をテーマに体験講話と
車椅子の体験実習。
リ レ ー 随 想 雑感 図書館に一度も行かなかった男
「高齢者・障害者支援」
(在宅支援が主体)
事例1、90歳の独り暮らしの女性、要介護1、認知
症Ⅱの支援。生活保護の申請、通院、銀行、
市役所の手続き外出介助等の支援、身近な
坂口 賢史氏
1962(昭和37)年卒
身寄りが居ないので市民後見役を受任して
終末期までの支援を行っている。市民後見
1.下松高校及び浪人時代
人受任は他1名あり。
高 校3 年 生( 昭 和32年 ) の
事例2、84歳の独り暮らしの男性、要介護2、糖尿
とき、九大目指して受験勉強をしていた。自宅の1
病、腎不全、食道癌、脳梗塞の後遺症で歩
階が商店(紙文具店)で、2階に勉強部屋があった。
行困難のため通院、銀行・役所への外出等
道路を挟んで向かいの家の2階に同級生の女子がい
の支援。
た。容姿端麗であった。こちらの窓を開けると、向
事例3、86歳の女性、アスベルガー障害の独身息子
こうも窓を開け、目と目があった。彼女は時々2階
と2人暮らし。要介護5。食事作り、掃除、
に上がってきて、学校や同級生のことなど話し合っ
話し相手、散歩の介助等。
たものだった。いつしか私の胸中に恋心が芽生えた。
事例4、
高齢者宅の一般的な家事支援。庭の手入
彼女が側で寝そべると、近づきたい衝動に駆られる
れ、室内の片付け、清掃、洗濯、食事作り、
ことがあった。父親が時々、2階に上がってきた。
買い物、病院・散歩等の外出介助他多数。
二人の様子を見に来たものと思われる。
利用者の「本当に助かった、有難う、また頼みます」
そんな胸中では勉強に身が入らず、見事に入試は
の感謝の言葉に胸と目頭が熱くなる。感謝する人と
不合格となった。経済的に予備校にはやれないとい
される人の心が一つに結びついてくる、これがボラ
うことで、自宅で自習することになった。
ンティアの醍醐味だろう。
2度目で落ちたら、父から商売を引き継ぐように
我が国の少子高齢化は予測を遥に上回るスピード
言われた。商売はしたくない、一本槍の九大に受か
で進展し、高齢者の急増の一方、出生率は大幅に低
らなければならない。時折、配達等仕事の手伝いを
減し、生産人口が激減した結果、年金・医療・介護
しながら勉強に励んだ。すると月日の経過とともに
保険等の現行社会保障制度維持の危機が大きな社
彼女への想いは薄れていった。勉強の進捗状況をみ
会・政治問題となっている。もはや国・地方自治体
るため、母校で在校生と共に模擬試験を受けた。(32
等の公助だけに頼る事は期待すべくもない。国民一
年秋及び33年冬)結果、全国模試で山口県で8位、
人一人が自立し、地域で支え合う共助で打開する体
県模試で3位であった。特に、県下で例年、全国模
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九州大学経済学部同窓会報
第55号
試で25位以内はほぼ全員が東大に合格している由、 いたい」と言われた。また、高橋正雄教授の講義で
従って、進学担当の先生方から東大を受験するよう
は、「ソ連や中国は真の社会主義国ではない。何故
に進言された。しかし、両親と相談の結果、再度九
ならば、自由と民主主義が確立していないから」と
大を受験することになった。今度は自信をもって受
言われた。当時、日本経済学界で、九大経済学部の
験に臨んだが、5教科のうち、数学のみ大苦戦だっ
先生方は多士済々且つ、「西南学派」として、その
た。3月中旬のNHKラジオの合格者発表まで自
名を馳せておられた。ゼミ演習は武野秀樹助教授で、
室に籠もり、悶々の日々を送っていた。(当時、数
参考書を購入して、いい加減乍ら、「産業連関分析」
学2科目100点満点で30点以下は不合格と公表)。発
をレポートした。先生には勉学や就職でもたいへん
表当日、ラジオで放送された合格者のなかに私の名
お世話いただいた。
前が読み上げられた。
(後日、成績を聞いてみると、 3.就職(出光興産に入社)
文科系4学部合格者約550人中1/10以内であった。)
36年夏、折からの日本経済の高度成長期で、凡庸
2.九大在学時代
な私でも引く手数多であった。ただ、苦労した面も
昭和33年4月の入学式には、父が参列して呉れた。 あったが、地元徳山に製油所を持つ出光に就職した。
六本松の教養部在籍時、下宿先は梅光園で、同じ高
両親は私が長男であるし、家から通勤できると喜ん
校の同級生(工学部)の部屋(6畳和室)にもぐり
でいた。ところが、37年6月、振り出しは新潟支店
(事務系は全員、第一線の配属)。1 ヶ
込んだ。隣の部屋には高校の先輩(理学部)がおられ、 勤務となった。
心強かった。
(下宿代、3食付き5,000円/月、送金
月の給油所、油槽所の実習を終え、担当は特約販売
6,500円/月)
。私は人なつっこい性格なので、自ら
店関係で、与信関係、給油所の建設及び販売促進等
近づき、友人も沢山できた。ただ、肝心の勉強の方
であった。仕事は多忙であったが、夕刻が待ち遠し
はさておいて、ダンスパーティ(各文化部、運動部
く、日本一の「こしひかり」のごはん、銘酒の「越
の活動資金カンパ)への参加、映画鑑賞、親睦コン
の寒梅」、日本海で獲れた新鮮な魚貝類の料理を度々
パへの参加、パチンコ遊戯、またはスタンドバーの
頂いた。新潟では私が初めての学卒出身ということ
はしご(1杯50円のハイボール)、更には、徹夜の
で、重宝された。また、豪雪や大地震に遭遇したが、
麻雀で明け暮れた。後に、母に言われた。「君は経
今でも、新潟は忘れ得ないところである。
済の勉強をしているのに不経済になった」と。それ
39年11月、東京の出光石油化学(株)へ出向となっ
でも、フランス語の勉強で大辞典(?)5,000円を
た。(設立同年9月、出光興産100%出資)。最初は
要すと手紙すると早速、下宿先まで、父に内緒で持
得意先のコンビナート各社のサブ担当となった(エ
参して呉れた。
チレン、プロピレンガス等をパイプラインで供給)。
昭和34年10月、いよいよ箱崎の経済学部に進学と
その後、仙台及び徳山にも転勤した。
なった。間借り先は最初は網屋町、最終は帝大前町
4.結婚について
であった。食事は学食中心であった。朝食(20円)
42年10月、21人目の見合いで岩国の農家の22歳の
昼・夕食(40円)で、腹が空けば、中華そば(70円)、 娘と結婚した。仕事は多忙であったが、上司の理解
アンパン等で補った。
により見合いのため都合5回の帰省を許可して貰っ
経済学部1学年の学生定員は当時190名で、先生
た。「背が低く、男前は悪いが、一流大学、一流会
は教授11名、助教授7名の陣容であったと記憶する。 社だから」と仲人に勧められたと、後日、家内が私
財政学、中小企業論等不足は他大学(東大、広大、 に話した。その家内は平成19年11月、入院4カ月後、
京大等)からの先生の集中講義で補われた。
胃癌のため62歳でその生涯の幕を閉じた。
次に、諸先生の著作を記してみたい。栗村雄吉教
結婚生活は相続問題等で取っ組み合いもあったが、
授の「経済学原論」、岡橋保教授の「貨幣論」、馬場
総じて良く尽くして呉れた。没後6年が経過したが、
克三教授の「減価償却論」
、吉村正晴教授の「貿易
彼女の容姿、優しさ、細やかさを思い出すと目頭が
論」
、高木暢哉教授の「銀行論」、高木幸二郎教授の
熱くなるこの頃である。
「恐慌論体系序説」等(以上6冊購入済み)
。
5.再度、会社生活について
さて、向坂逸郎教授の最終講義は法文系11号室で
49年8月、東京本社に転勤となり、業務部で原料
満員の聴講生のもとに行われ、記憶を辿れば、三池
(ナフサ、分解ガソリン、粗ベンゼン等)調達の担
争議の最中であり、
「諸君が工場長や経営者になっ
当となった。上司は大嶋常務(故人)で経理部も担
たとき、労働者の立場を充分に理解し、配慮して貰
当されていた。頭の切れる、数字に強い方であった。
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それに比し、私は鈍重且つ数字に弱かった。従って、
リ レ ー 随 想 「調達回議書」はことごとく返されて、私は途方に
暮れ、
ノイローゼ気味になった。従前の父の教訓「ひ
とのいいばかりでは駄目だ。頭のきれる人になれ」
専門学校講師となって思うこと
を思いだし、負けてなるものかと、残業や自宅での
持ち帰り作業を通じ、熟慮を重ね、その結果、「調
達回議書」も徐々に印鑑を頂けるようになった。
ヒューマンアカデミー非常勤講師
ある時、常務は言われた。「坂口君、賞与の査定
菊池 武成氏
を最高点にしたよ。本郷社長(故人)が驚いておら
れたよ」
。先輩からは「君は数字に強く、論理の展
1963(昭和38)年卒
開も良く、常務の懐刀だね」と褒められた。(こそ
2005(平成17)年修士修了
ばゆい?)
。その常務の一言、「坂口君ネ、社長から
質問を受ける場合を想定して、僕は7つの返答を用
私は昭和38年3月に経済学部を卒業し、住友信託
意しているんだよ」
。たいへん参考とすべき教訓で
銀行(現三井住友信託銀行)に勤務、46歳の時にオ
あった。
レンジライフ(現阪急オレンジライフ)に役員とし
6.結び
て出向し、そのまま61歳まで経理・財務担当として
以上のような中身が薄く、知性の感じられない拙
勤務しました。62歳に至り、経済学府大学院修士課
文を書いていると、40歳の頃、出光元社長・会長の
程に社会人として入学し、卒業後、企業立の専門学
有り難いお言葉が蘇ってくる。私の発言等に対して、 校であるヒューマンアカデミー(福岡校)で経営学
「君は相変わらずだね。成長していない」と。私は
を担当する非常勤講師として勤務し、現在に至って
現在74歳、残り少なくなった人生。詩人サムエル・
います。
ウルマンの言葉を思い出す。
「青春とは人生のある
私の所属するビジネスカレッジには種々の経歴の
期間ではなく、こころの持ちかたを言う。年を重ねた
学生が入学してきます。
だけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。
」
①就職を目指して高校卒業後入学してくる学生。②
一日一日、実りある、有意義なものにしなければ
大学への編入を目指す学生。③起業して会社経営を
と考える。末尾乍ら、お世話頂いた高校、大学の先
目指す学生。④企業へ一旦就職したものの、本人の
生の方々及び、会社の上司、先輩の方々に深甚の謝
考えていた働き方と隔たりを感じ、専門的な知識を
意を表したい。
修得して再挑戦を考えている学生等々。
6月7日経済学部福岡支部同窓会の際に福留久大
先生から寄稿の機会をいただきましたので、昨今の
若い人たちについて感ずることを述べさせていただ
きます。
⑴ 自分の人生シナリオが描けていない学生が多い
①一昔前と比較すれば生活が豊かになり、なんと
か食べていける時代になったからでしょうか?②あ
るいは、少子高齢化で両親が子供を必要以上に甘や
かし、親が子供の独り立ちを妨げている(親の世話
やき過ぎ?)面があるのかもしれません。③高校ま
昭和37年卒50周年同窓会(2012.12.7)
巣鴨三菱養和クラブにて
での学校教育で「人としての生き方」を教えられて
いないのでしょうか?
切迫感が少なく、自分の人生シナリオが描けてい
ない若い人が多いように思われます。
「自分とは何者か」、「私はどう生きるか」の問い
に解を出すことは、長らく青年の発達課題とされて
いた。(『おとなが育つ条件』柏木恵子、岩波新書
146頁)。アイデンティティの確立を先延ばししてい
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平成25年11月15日
九州大学経済学部同窓会報
る学生が多いのです。
人生シナリオをはっきり描いていないとどうなるか。
①緊張感のない毎日で朝早く起きれない。②本を
読まない。③単位を取るために授業に出て、教室で
第55号
リ レ ー 随 想 心細かった思い出
意見表明を求めても意見表明がスム-ズにできない、
又は意見を出しても内容が稚拙。④論理的思考力を
株式会社九州リースサービス社長
磨くように訓練されていないので、他人を説得でき
藤丸 修氏
ない、したがってコミュニケ-ション能力もレベル
1967(昭和42)年卒
が低い。
⑵ 個別指導で若者は自立し、歩み始める
関西支部同窓会理事の佐野
①現代の若者は自分で動かなくても親も含めて自
壬彦先輩(昭和38年卒)の推薦
分以外の人がなんとかしてくれるだろうという考え
があり、事務局より寄稿の要請を受けたため、引き
が強く、困難を自分で切り開く気概が少ないように
受けざるを得なくなり筆を執ることにいたしました。
見えます。
(企業に就職して3年以内ぐらいで鬱状
九大応援歌を作曲
態になる人が増加していると聞くが、職場の上司の
応援団の創設に奔走し、初代団長を務めた川崎賢
ある意味での厳しい指導に対して対応能力がないか
祥君(昭和42年文学部卒・現三共生興社長)から声
らではないかとも思えます。自分の人生シナリオが
をかけられたのが応援歌作曲のきっかけです。彼の
しっかりと描けておれば、自分に振りかかってきた
話は、次の通り。「七帝戦の応援合戦で寂しい思い
困難を自分で払いのけることができるはず)。②そ
をしている。他の大学はれっきとした応援歌があっ
んな若者を辛抱強く個別指導し、アドバイスしてい
て、華々しい応援をしている。九大は学生歌(松原
くと、1年から1年半でまるで人が変わったように
に)はあるが、応援歌がない。是非応援歌を作って
成長に向かって歩み始めます。③つまり自分自身の
他大学に対抗できるようにしたい。すでに準備は整
ことが見えてなかったのではないかとも言えます。
い歌詞は公募で決定しているので、今からこの詞に
⑶ 高齢者になったら自分の人生シナリオを書き替
つける曲を公募するようになっているので君も手を
える
挙げないか。君は以前から曲を作ったりしていたか
若者のことについて偉そうなことを申し上げまし
ら、作曲ができるだろう」。彼のおだてに乗って応
たが、自分が高齢者になってみて、自分の人生シナ
募することにしました。その後、「審査の結果君の
リオを書き替える必要に迫られています。
(もはや
曲に決定したので、応援団の中にブラスバンドを立
遅いという声が聞こえて来るような気がします。)
ち上げる手伝いをしてくれ。予算の手配は済んでい
平均寿命が高くなってきましたが、定年後の時間
るから」と半強制的に手伝わされる羽目になりまし
が長くなり、定年後の人生を如何に有意義に過ごす
た。予算の関係で10名足らずのバンドしかできませ
か、若いころからしっかりとシナリオを描いておく
んでしたが、早速応援歌発表会・七帝戦の市中パレー
必要があると思います。男はしごと、男は一家の稼
ド・前夜祭での応援合戦(阪大の当番大会)など大
ぎ手というプレッシャ-でこれまで生きてきたよう
変な思いをしました。九大吹奏楽部の数名の部員に
に思いますが、まずこの考えを変える必要があるの
協力をしてもらいましたが、この縁が元で九大と西
でしょう。仕事との関連で人間関係や人脈を構築し
銀吹奏楽部の関係ができあがることになりました。
てきたのを、仕事以外の関連で人脈を若いころから
私は西日本銀行に就職すると同時に銀行の吹奏楽
構築する必要性を強く感じます。
部に所属し、どんたくを始め銀行のイベントに出演
⑷ 企業は女性をもっと活用してほしい
していましたが、部員不足の状態で、どんたくのパ
概して女子学生の方が真面目に勉強し、学業成績
レードは九大に応援してもらうことになりました。
も良く、人としての考えもしっかりしています。女
現在でもこの関係は続いているようですし(今は九
子はやがて家庭生活に入りますが、再び仕事の場へ
大に丸投げ)、葛原雅昭君(51年卒)はじめ数名の
戻ってきます。会社内での仕事でも女性に能力を充
吹奏楽部出身者が西銀に就職しています。
分に発揮する環境を整えることがこれから大事にな
いまだ現役で仕事中
ると思います。家庭でも男性が仕事に逃げず、家事
昭和42年西銀に就職し、37年間勤務し、平成16年
も一部分担する必要があると思います。
に退職しましたが、大部分が本部勤務で、山あり谷
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九州大学経済学部同窓会報
第55号
ありの連続で苦労が絶えない37年間でした。その間、
て自宅に戻れるようになられることを祈るばかりで
金融自由化・国際化、業務の機械化・コンピュータ
す。
化、単独普通銀行転換、バブルの崩壊と不良債権問
心細かった思い出
題、福岡シティ銀行との合併準備等深く関わってき
数年前、ある取引先のお誘いがあり、オーストリ
ましたが、今では「苦労は多かったが良い経験をさ
ア・チェコを訪問しました。ウィーン最後の夜を、
せていただいた」という想いで一杯です。
郊外のホイリゲ(居酒屋レストラン)で音楽とワイ
平成16年から平成22年までの6年間「FM福岡」
ンを楽しむことにしました。
で過ごしました。銀行と180度違う業種の仕事でし
18時30分に現地集合ということで、事前に公共交
たが、目新しいことばかりで楽しんで仕事をするこ
通機関を使っての目的地への行き方と周辺の略図を
とができました。ここでは新社屋(業界随一の規模)
渡されました。それによると、ある地下鉄のターミ
建設という私にとっても一生の記念になる事業をす
ナル駅近くのバス停に18時に集合し、バスで一緒に
ることができました。
目的地に出発する予定でした。私は集合場所へタク
「FM福岡」への転出を機に、ここが音楽に関係
シーで向かいましたが、運転手がどうも素人のよう
の深い仕事ということもあって、25年ぶりに楽器で
で、地下鉄駅への道がわかっていないようであり、
もやってみようと思って、60歳の手習いでアルト
途中で何度も車を停め、道を尋ねながら何とか18時
サックスを始めました。今では、周辺の人とセッショ
過ぎに駅に着きました。ところが大きなターミナル
ンをしたり、発表会をしたりして楽しんでいます。
駅だったためバス停がたくさんあり、目的のバス停
平成22年に現在の「九州リースサービス」に移り
を探すのに一苦労し、探しあてたときは18時40分で、
3年になろうとしていますが、まだ現役で仕事をし
仲間はもう誰もいませんでした。ここにたどり着く
ています。
平日は「日中は仕事、夜は会合」、休日は「ゴ
だけでも大変で(ここはドイツ語の国)、途方に暮
ルフ、サックス、ウォーキング、サウナ」と充実し
れましたが、しかたがないので目的地方面行きのバ
た日々を過ごしています。
スが来るのを待つことにしました。6台目のバスが
深町先生の見舞いに行きました
目的地方面行きでしたので、慌てて飛び乗りました。
大学の時は「深町ゼミ」に所属していました。福
バスの中で乗客数人に略図を見せながら「どこで降
岡在住のせいか、先生とお目にかかる機会も時々あ
りたら良いか」英語のツギハギ単語で尋ねたましが、
りました。中でも特筆すべきことは「西銀50年史」
私が何を喋っているのか判らなかったようでした。
の編纂を先生に依頼しようとなったときです。
すると近くにいたご婦人が、「その店を知ってい
深町先生をキャップに、川波先生(九大)、坂本
るので、バス停に着いたら教えてあげます」と言っ
先生(熊本学園大)外総勢15名の先生方のチームを
てくれ、5番目のバス停で降りるように教えてくれ
組んで、2年間にわたりこの仕事に取り組んでいた
ました。バスを降りるとき乗客はプリペイドカー
だきました。おかげで素晴らしい「50年史」が完成
ドみたいなものを機械に当てて降りていきました
しましたが、
「外部の方に年史のすべてを執筆して
が、私は持たなかったので、ポケットからユーロ紙
いただいた銀行史としては例のないこと」として注
幣を取り出して運転手に渡そうとしましたが、運転
目を浴びました。
手は紙幣を受け取らず、降り口を指さすだけでした。
その深町先生ですが、昨年3月に路上で倒れられ、
何を言っているのか判らずにモジモジしていたら、
頭を強く打ち「脳挫傷」と診断され2回にわたる頭
さっきのご婦人が「おつりがないから早く降りなさ
の手術を受けられ、療養中です。昨年までは「見舞
い。お金はいらないから、と言っているよ」と教え
いはご遠慮ください」とのことでしたが最近になっ
てくれましたので慌てておりました。バスから降り
て「短時間くらいなら」と聞きましたのでゼミ仲間
て100メートル程前方に目的のホイリゲの看板が見
四人(元東海銀行の永松勝文君・松村快三君、いず
えたときはホッとしました。
れも名古屋在住、鹿児島在住で不動産鑑定士の森山
会場に着いたときは集合時間をすでに1時間を過
俊孝君、そして小生)で見舞いに行きました。先生
ぎていましたが、仲間は誰も見当たらず、案内の人
と話もできましたが、私たち四人の名前もおわかり
に予約の有無を尋ねたら、「日本人の予約は受けて
のようでした。奥様の話では、
「リハビリを兼ねて
いない」とのことでした。ここでまたびっくりして
の入院ですが(車イス生活)
、年令もいっており時
慌てましたが、「もう一度調べてください」とお願
間を要するでしょう」とのことでした。早く回復し
いしたら、「日本人からの依頼で、ウィーンフィル
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九州大学経済学部同窓会報
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の首席コンサートマスターのライナー・キュッヒル
なあ!」
、「すごい先生方がいらっしゃったのに申し訳
さんの名前で予約がありますが」と言われ「それに
無く、もったいなかったなあ!」という学生時代>
間違いないです。しばらく待たせてもらいます」と
何故か自分の思いを素直にぶつけてみたくお願い
いうことにしました。
して投稿させてもらいました。本来、筆不精と言っ
それから待つこと30分、仲間が到着しました。そ
ても差支え無いくらい筆が遅くこれまでもいろんな
の瞬間、安堵と同時に怒りが爆発し、「1時間30分
ところに迷惑ばかりかけてきました。あまり肩肘を
も遅れるなら電話くらいしたらどうだ」と喰って
張らずに気楽に思うまま述べさせていただきます。
かかると、
「ザルツブルグからの帰路、交通渋滞で
私は昭和45年に九州大学に入学し、昭和46年10月
ウィーン到着が1時間30分遅れた。連絡しようにも、 に教養部(当時)から経済学部経営学科に進学し昭
ここは日本ではないので連絡のしようがなかったん
和49年に卒業致しました。当時、下降気味ではあり
だ」と言われ、納得した次第です。
ましたが入学時より学園紛争(活動家は闘争と呼ん
それにしても、この3時間半、一人で大変心細い
だ)の影響はあり、予定されていた入学式も行われ
思いの連続でした。ただ、パーティになると、素晴
ず、すぐストライキとか行われ、箱崎九大前から当
らしい音楽の生演奏と、美味しいワインと食事で楽
時の路面電車で六本松の教養部に着いたら、配られ
しい時間を過ごすことができ、
「さすがは音楽の都
るビラの山や立て看板、鳴り響くアジ演説(何を
だな」と一生の思い出ができました。外国で言葉が
言っているのかは全く聞き取れず 「我々は!」や
通じないことの大変さを痛感し、いまから英会話教
「学友諸君!」というフレーズのボルテージの高さ
室に通うかなと思いましたが、
「時すでに遅し」と
だけが耳に残っています)の洗礼を受けたものでし
いうもう一つの心が頭をもたげ、いまだ始められず
た。私は全くのいわゆる「ノンポリ」を決め込んで
にいます。
いまして、クラス討論や集会よりも周りの映画館な
どを好んで、とてもではありませんが、良好な学生
とは言えませんでした。当時の教養部は留年(落第)
が新聞記事にもなるくらい多く(2,000人入学して
500人留年する)、私もとにかく箱崎(学部)に進む
ことだけを考えていました。ただ、そういうずぼら
な教養部生活を送っていた私でも、福留久大先生に
出会えたことは大きな喜びでした。経済学部ですか
ら経済学を履修しなければならないと思っていまし
たが(因みに当時は経済学部進学予定者でも経済学
は必修ではない)なかなか馴染めない。それで当時
主に理科系の学生を対象に開講されていた福留先生
リ レ ー 随 想 でも人生の土台は九大経済
学部・
・
・悔いて余りある青春
の講義にいわば潜り込ませていただきました。実は、
その時のノートとテキスト(宇野弘蔵編『経済学』
角川書店)はまだ残っていて、現在、私の大学での
講義に時々有効活用させていただいているのです。
例えば、労働価値説を英訳すると 「The theory of
labor value」と書きたくなるが 「The labor theory
of value」即ち“価値に関する労働説”である、な
どということは楽しみながらもその正しい意味を伝
えることができるのです。 福留先生から学期の終
折尾愛真短期大学准教授
わりに 「経済学部に進学するのだったら、もっと厳
市川 順一氏
しく採点しとけば良かった」という内容のお話をい
1974(昭和49)年卒
ただいた記憶があります。よほどひどい内容の答案
だったのでしょう。『資本論』等々非常に重たいイ
<勉強をしなかったばっかり
メージを描いていた経済学に対して、なんとなくで
に、社会に出て 「ああ!勉強しておけば良かった
はありますが少し親しみを覚えてきたのかなという
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九州大学経済学部同窓会報
第55号
感じを持ったのもこの頃だと思います。
先生(当時 立教大学)の 「マルクス経済学者は自
「経済学部は必修科目が無く楽だ!」という揶揄
分だけが正しいと思っている。云々~」というあく
を他学部の同窓生から受けながらも、何とか昭和46
まで言葉の端ではありますが、そこを謂わば、いい
年10月に箱崎に進学致しました。正直言って、嬉し
とこ取りに捉えて変に触発されて幼稚な論争を挑ん
かったです。 当時は経済学科と経営学科の2学科
だのですが、先生は静かに聴いていただき、そして
制で進学時にどちらかを選択するようになっていま
見事に打ち砕かれた事がありました。話に論理性が
した。私は経営学科を希望しました。ただ当時は学
無いものは、相手を説得することができない、そし
生にとっては講義は全く同じで、取得する単位数も
て論理の一貫性がないものはそもそも論理にならな
全く同じで殆ど差がありませんでした。教養部では
い、ということを本当に教えていただいたと思って
「経済学」という言葉で一括りになっていましたが、
います。卒業時にゼミの送別コンパ(といっても送
「経済原論」
、「金融論」、「社会政策」、「日本経済史」、
る人も送られる人も一緒)で川端先生が「社会に出
「西洋経済史」
、「経営学総論」、「会計学・原価計算論」、
て10年間はとにかく馬鹿になったくらいに勉強しな
「経営労務論・労務管理論」等々、極めて専門的に講
さい、云々」と餞の言葉をいただきました。
義が構成されていて専門学部に進学したんだなあと
私はそのことを実行しなかったのだなあ、と後で
いう思いになりました。 私が経営学科を選択した
しみじみと申し訳なさと後悔に襲われたものでした。
のはひとつは経営学科の方が少数(当時は一学年が
220名くらいで、そのうち経営学科は60名前後だっ
<高度成長の就職貴族の時に採用決定を受け、オイル
たと思います)でなんとなく優秀なのかなあと子
ショックの中で社会人となり、バブルもその崩壊も経
供っぽく思ったことと、もうひとつには経営学の方
験、そして大学の教員となり、元気でやっています>
が将来の経営者を育成してくれるので就職するのに
私が社会に出たのは昭和49年(1974年)ですから、
有利かなあという全く的外れな他愛もない漠然とし
早いものでもう40年近くになります。家電メーカー
た理由によるものでした。
に就職致しました。昨今、大学生の就職が氷河期で
折しも昭和46年というのはいわゆる「ニクソン
あるとか、何十社も受験したが全く内定がもらえな
ショック」があった年で円の固定相場(¥360=1$)
いという話がよくありますが、私達の時は正に就職
が崩れた年でした。
「円高」
、
「円安」という言葉が
貴族でした。確かに公務員の上級職を目指す者はか
出てきたのもこの頃です。経済学系のテキストを小
なり厳しい試験もありましたが、民間企業について
脇に抱えて電車に乗っていたら、
「あなたは経済学
は、「行けば内定(内々定)」というのが一般的でし
部の学生ですか。円高について教えてください」と
た。何社もの内定を持っていた者もたくさんおりま
知らない人にいきなり声をかけられてドギマギした
した。現在のように大学が就職の指導・心配をする
思い出もあります。3年生、4年生と2年間は川端
など考えられませんでした。私自身は、就職につい
久夫先生のゼミにお世話になりました。C.I.バーナー
ては家庭の事情もあり紆余曲折がありまして、一旦
ドの 「経営者の役割」とサイモンの 「経営行動」が
早々と決まっていた製鉄会社をお断りし、地場を中
テキストでした。これは後で伺ったお話ではありま
心とした家電メーカーに遅くに内定しました。卒業
すが川端先生は昭和42年に九州大学に赴任され、経
するまでの自らに対する複雑な心境は今でも思い出
営学をご担当され、バーナード、サイモンを深くご
します。卒業時に川端先生から「独立自尊」という
研究されてこられましたがが、ゼミのテーマ・テキ
言葉を色紙で頂戴し、その時にその想いを深く噛み
ストとして採り上げられたのは私たちの世代が最初
しめたものでした。
ではないかと聞いた事があります。そうであったの
入社してすぐ会社の創業記念式で永年勤続者が表
であれば本当に大変ありがたい事だと思っています。 彰され、勤続30年表彰と聞いたときは「会社にそん
川端先生は静かな語り口の中にも学問・学説に対す
なに永くいるのかなあ」と思い吃驚しましたが、私
る純粋な厳しさをお持ちで、将に先生も研究の真っ
自身はそれから35年間も勤めました。私達が入社し
只中という充実した中で教えをいただいたことは本
たころはオイルショックで、その後にプラザ合意に
当に貴重な事だったといつも振り返っています。友
よる超円高等、困難な面もありましたが、日本全体
人の権代力君(山口県庁)と二人で川端先生にマル
がひたすら拡大成長した時代でした。確か入社した
クス経済学について不遜にも論争を挑んだ事があり
時の初任給が63,000円でその年の春闘(今や死語で
ました。それは、当時、集中講義に来られた三戸公
すが)で一挙に83,000円というなんと30%を超える
19
平成25年11月15日
九州大学経済学部同窓会報
第55号
ベースアップが行われたのですから、ある面、後に
接しています。また本来、もっと早くやるべきであっ
出現するバブル景気の時よりも経済が活発だったと
た勉強(まだ研究というほど大したものでは無い)
も言えるでしょう。私は会社生活の大半を外国為替、
にも取り組んでいます。学会等にも積極的に参加し
海外取引等対外関係の業務に従事していましたので
発表する機会もいただきましたが、まだまだ 「未だ
ずっと忙しく働いていたように思います。休みの日
山麓」という感じです。ただ気持ちはずいぶんと若
も仕事の事、特に明日の会議・報告が気になって出
くなりチャレンジする意欲が湧いてきています。そ
かけて行った事が何度もありました。
してそのバックボーンになっているのが、40年前に
平成21年(2009年)5月31日に57歳で退職致しま
経済学部で学んだ事(もしくはもっと勉強していれ
した。確かその年の5月31日は金曜日だったと思い
ばもっと学べた事)であると近頃気がついてきたの
ますが、その日の終業時間を一時間超えるくらいま
です。あの当時の先生方の素晴らしさには、どう頑
で仕事をしていました。そしてそのまま皆からの記
張っても到底足許にも及ばない。しかしほんの少し
念の花束と記念品を持ったままで会社関係のパー
でも近づけるように懸命に努力することが、素晴ら
ティーに業務として出かけて行きました。いつもの
しい環境にも拘わらず全く勉強しなかった私にでき
ように遅く帰宅したらその日は妻が花束を準備して
る唯一の罪滅ぼしかなという気持ちになっているこ
待ってくれていました。そのときでもまだ退職した
のごろです。
気分がピンと来ませんでした。土曜日、日曜日と休
日を挟んで月曜日の朝に 「今日から行かなくていい
のか」と思った時になんとも言えない不思議な気分
になったことを覚えています。会社生活はきついな
あと思う事も度々でしたが、それでも頑張って踏ん
張ってやってこれたと思っています。一度、川端先
生が大学院生を連れて会社を訪問して下さいました。
充分なご説明はできなかったかも知れませんが一生
懸命に対応させていただきました。また、現在学会
等で懇意にしていただいている九州産業大学の土井
現在の研究室での学生達とのスナップ
一生先生も英国工場見学等でお見えになり、その後
学会(国際ビジネス研究学会)で再会したときに親
来年2014年は卒業40年になります。今度こそは川
しくお話させていただきました。
端ゼミの同窓会をやりましょう。皆で過去の不勉強
塩次喜代明先生(現在福岡女子大)には在職中よ
を大いに反省し、しかし今からチャレンジできる新
りいろいろご助言も頂戴し、社員の中にはビジネス
しい希望に向かってしっかりと踏み出すことを誓い
スクールでずいぶんお世話になった者もいます。 合いましょう。
35年の会社生活の後、ご縁をいただき平成22年
(2010年)より折尾愛真短
期大学で教鞭を執る機会を
与えていただきました。大
学で教鞭を取るということ
は大変な事ではあります
が、逢坂充先生から「これ
からの時代を担う若い学生
がヒューマニズムと夢と希
望を持った立派な社会人に
育つよう力を尽くして下さ
い」という激励の言葉を頂
戴致しました。正にそのつ
もりで現在、自分の子供よ
りもはるかに若い学生達に
20
川端ゼミ昭和47年 九重の山の家にて合宿時
平成25年11月15日
九州大学経済学部同窓会報
リ レ ー 随 想 不思議グループ「健人会」
第55号
核という仕事がおもしろくなく、会社を辞めるいい
タイミングだったなと、心中思ったが、これは女房
殿にはいえない話。それから、パナソニックでの実
績を引っ提げて、新しい仕事に挑戦!と、やってみ
たがうまくいくわけがない。
そんな回り道をしている中で、柏原幸代さんとの
出会いがあった。
日本健康食育協会
2、柏原幸代さんとの仕事
平川 紀義氏
柏原さんは、管理栄養士であり
1975(昭和50)年卒
食について独自のメソッドを開
発した。そのメソッドを世に送
はじめに
る手伝いをしている。本年、ダ
私は、昭和46年、運よく九州大学に入学できた。
イエット本を出版し、ベストセ
出身高校は、大分県立日田高校。いなかの高校であ
ラーになりつつある。「お米を食
り、九州大学に10名くらいしか入学できないレベル
べると健康になり、メタボ解決となる。」という考
の学校である。
その高校の中でも、ただのガリ勉だっ
えだ。還暦を迎えた今、新しいビジネスづくりにチャ
た私が、天下の九州大学に入れたのは、奇跡としか
レンジを始めた。この数年間、右往左往してきたが、
言えない。
60歳のタイミングで新しい人生を歩き始めることが
当然、入学後、居並ぶ秀才諸氏たちを前にして大
できたのも、健人会の仲間のアドバイスがあったか
いに委縮したはずであるが、幸運にもL1-11とい
らだと感謝している。
う不思議な教室で不思議なメンバーに出会い、気ま
3、健人会という不思議なグループ
まな学生生活を送ることができた。そして、このメ
昭和46年入学し、L1-11のクラスに入ったとき、
ンバーたちといまだに交友が続いている。人生最大
その時点で不思議な空間だったのを記憶している。
の幸運である。
あっという間に、仲間になった。中原さんと浜中さ
1、自己紹介
んという大看板がいて、西嶋さんという無骨なリー
私は、厳格な父のもとで生活をしていた反動で、
ダーがいて、多士済々のメンバーがいる。しかも、
大学時代はまったくめちゃくちゃな学生生活になっ
全員が、女子との合ハイに積極的という集団ができ
てしまった。にもかかわらず、卒業しパナソニック
た。おりから、学生運動のまっただなか、授業中止
に就職できたのは、一にも二にもこのメンバーのお
が続き青臭い議論を交わしながら、すぐに麻雀と合
かげである。
ハイ企画の日々をみんなで送った。勉強は、要領の
当然のことながら、成績は最悪。入社試験の成績
良いメンバーばかり。ところが、全員、トップクラ
も芳しくないのにパナソニックに入れたのは、なぜ
スの企業に就職し、全員、企業で大活躍をした。あ
かなと疑問をもちつつ、社会人となった。悪いこと
んなに遊びほうけた連中が、なぜ、こんなに仕事が
に、私の学生気分は骨まで染み込んでいたため、新
できるやつらばかりになったのか。不思議である。
入り社会人としては、まるっきりダメ社員としての
4、不思議さは、続いたこと
数年間を経過した。この悪夢のような社会人生活の
卒業後、新入社員の我々は、何かにつけて集合し、
合間合間に私を励ましてくれたのは、健人会のメン
飲み交わした。そして、会を作ろうという事にな
バーだった。
り、
「賢人会」というなんとも思いあがった会を作っ
その後、車部品関連を担当し、なぜか仕事がうま
た。それから40年近く。ほとんどの人が、海外勤務
くいく。40歳代では、アメリカで10年間も勤務でき
で日本を離れた。当然、何年もほとんどのメンバー
た。担当したミッションは、ほとんど成果を上げ、
が、参加できなかった。ところが、ここに2人の巨
本社部長職までたどり着いた。
人が我々の中にいた。中家さんと中野さんだ。この
ところが、55歳になったとき、サブプライムロー
二人が、この40年間、メンバーの消息を把握、確認
ン不況が起き、私の担当事業部は大赤字に陥った。
しあい連絡を取り合ってくれた。そのおかげで、総
やむなく、大リストラ。55歳以上の管理職は当然、
員約30名。ほぼL1-11の当時の仲間たちと交流が
早期退職ということになった。ただ、私は会社の中
できている。
21
平成25年11月15日
九州大学経済学部同窓会報
第55号
5、健人会の素晴らしさ
ないので、ロシアの地理、社会などを説明しなが
中原さんがいて、浜中さんという大御所がいる。
ら、高校生にも興味を持てるように話をすることに
西嶋さん、中家さん、中野さん、自ら買って出る
務めた。「世の大人たちは、学校で勉強したことなど、
リーダーがいる。そして、個性あふれるメンバーが、 社会に出ても役に立たない、などとしたり顔で言う。
勝手気ままに発言し行動する。お互いに敬意をもち、 しかし、それは違う。何でも役に立つ。直接役に立
そして自由奔放にふるまうことができる。そこが、
たないにしろ、その考え方、洞察力などは大いに役
健人会の魅力かなと感じる。これからの人生、本当
立つ。役に立たないと言っている大人たちはそうい
に楽しめる人生をこの健人会の友人たちと作り上げ
う生き方しかしていないのだ」という趣旨の話をし
ていきたいと願っている。
た。その話を聞いて喜んでくれたのは、高校生より
も高校の先生方であった。
リ レ ー 随 想 ロシア会計の研究者として
生きる
1983年の大学院修士課程入学以来、一貫してロシ
アの会計について研究してきた。1992年には特定国
派遣研究者としてロシアのモスクワ大学に一年滞在
した。1991年12月にソ連邦が崩壊し、相手国側のソ
連邦高等教育委員会(日本の文部科学省に当たる)
が消滅し、交渉にはかなり骨が折れた。また、ソ連
邦崩壊後の一年間であったので、社会は混乱を極め、
その苦労話をすると何冊も本が書けるほどの経験を
した。
和歌山大学経済学部教授
私のモスクワ大学でのホスト教官は経済学部会計
齊藤 久美子氏
学科主任教授であり、独立国家共同体会計士・監査
1987(昭和62)年修士修了・博士進学
士協会会長(いずれも当時)であった。あるとき、
先生のおうちに呼ばれて、奥様も含めて三人で食事
九州大学大学院経済学研究科修士課程を修了した
をした時のことである。丁度、5月9日の対ドイツ
のが、1987年3月、その後、博士後期課程を中退
戦勝記念日の直後でもあったので、私はこういった。
し、和歌山大学に奉職したのが1988年4月というこ
「ソ連は戦争もしないで崩壊してしまったのに、い
とを思い起こせば、すでに四半世紀を経過し、その
まさらドイツ戦勝記念日なんて祝うのは、私という
間に起こったことが走馬灯のように頭の中を駆け巡
日本人の目から見ると滑稽に思います」と。その時、
る。大学院では津守常弘先生のゼミで会計学を研究
シェレメット先生も奥様も大きな声で次のように言
した。自分自身は出身学部が理系の農学部というこ
われた。「我が国はドイツのファシストたちに勝利
ともあって、数理的手法に興味を持っていた。当時
したのだ。それを誇りに思う」と。その時、私は、はっ
の農学部は入学時に専門を決めず、1年半の教養部
とした。ロシア人たちは、ソ連邦がなくなっても愛
終了後に、希望と成績によって、学科を振り分けら
国心を持っている。日本だけだ、愛国心を持たない
れるようになっていた。教養部時代は、理系学部の
ように教育されてきたのは、と。この時から、私は、
学生たちは結構必修科目が厳しかった。化学Ⅰとい
国益とか愛国心ということを考えるようになった。
う名の量子力学、量子化学の授業は今でもそのシス
ロシアでのソ連崩壊直後の一年があまりにも苦労
テマティックな数理的演繹法の精緻さを懐かしく思
に満ちていたので、「どうしてこんな国のことなど、
い出させる。当時とは畑違いの分野を専門としてい
専門にしてしまったのだろう」と滞在中、後悔もし
るにもかかわらず、このような学問に触れたことを
た。しかし、帰国すると当時、橋本・エリツィン・
私は今でも自分の生きる糧にしている。
プランによるロシア市場経済化のためにという支援
和歌山大学のような地方の国立大学に勤めてい
プランを日本政府が主導する中で、指導し始めてお
ると、
「地元貢献」の重要性が叫ばれることが多い。
り、ロシアの会計がわかる専門家として、ロシア研
その一環として、数年前、和歌山県の南部、三重県
究から離れるわけにはいかなかった。いや、日本の
に隣接する新宮の和歌山県立新宮高校に講演(出前
国益のために積極的に関わってきた。しかしながら、
授業)に呼ばれたことがある。私の専門とするロシ
私の力はまだまだ微力である。
アの会計学についてそのまま、話すわけにはいか
今、また、ロシアと我が国の関係は、経済だけで
22
平成25年11月15日
九州大学経済学部同窓会報
第55号
なく、政治や領土問題において大きな転換点を迎え
日気づいた政治活動の無さ(選挙カーも駅前演説も
ようとしている。大学院修了以来、ロシアをはじめ
ありません)。一方でファッション雑誌や広告はな
とする旧ソ連諸国には数十回も出張してきた。今後、 かなかスマートですし(画一化したのかもしれませ
日ロ関係がどのように動くか、これはまだ定かでは
ん)、スマートフォンは当たり前、タブレットPCは
ない。プーチン政権は領土問題に関して、今までの
日本よりもよく見かけます(そういえば本屋さんが
頑なな姿勢を替えようとしているようにも見える。
極端に少ない)。事例をあげていると本当にネタが
まだまだ研究者としては、私は多くの課題を残して
つきないのですが、3か月の修行(?)を経たある日、
いる。近いうちにそれらのうちの一部でも著書にま
赴任直後は違和感が拭えなかった街並みに馴染んで
とめることができればと考えている。
いる自分を発見した時は不思議な気分でした。そし
て、年に数回は出張で来ていたものの、赴任するま
リ レ ー 随 想 上海の空の下で
では小さい覗き窓から覗くようにして中国を見てい
たんだなぁ、ということに気付きました。感情を剥
き出しにした反日デモのTV報道も、小さい覗き窓
がその方向にしか向いていなかった、というのが本
当のところだと思います。
私が一番象徴的だと思ったのは、私の家内の体験
株式会社ファーストリテイリング
です。家内は、赴任直後に2泊3日で上海にやって
中野 浩一郎氏
きました(家内は今年5月に8か月遅れで上海に越
1990(平成2)年卒
してきました)。反日デモが一番盛り上がった日に、
(迂闊にも)そうとは知らず、上海市内を観光して
おりました。そして翌日に帰国、過熱した日本の
経済学科平成2年卒の中野です。在学時は関源太
TV報道を見てびっくりして電話をかけてきました。
郎先生のゼミに所属しておりました。現在、ファー
その時に家内は、タクシーの運転手が優しく接して
ストリテイリングという会社に勤務し、2012年9月
くれたこと、ガイドブックに載っているのを知らず
より中国上海に赴任して、中国での自社製品の物流
に店に入ったことを喜んでくれた片言の日本語がで
と貿易の仕事に携わっています。赴任して一年余り
きる店員さんと話したこと、バスや電車で老人や子
が経ちましたが、その間に経験したこと、感じたこ
供に席をゆずる光景を何回も見たこと、散歩した公
とをご紹介したいと思います。赴任したのが反日デ
園がとても平和な雰囲気だったこと、それなのにテ
モの最中で、赴任直後に自宅待機の指示を受けま
レビでは感情をむき出しにしている中国人の光景だ
した。その後もPM2.5、鳥インフルエンザなど悪い
けが映り、たいへん混乱していました。
ニュースに事欠きませんでしたが、言葉や習慣の違
私は家内が上海で体験したことが、より正しい中
い、中国の住宅事情に至るまで、赴任から3か月程
国のありかただと信じます。中国人は日本人の感性
度はストレスの多い毎日を送っていたように思いま
には理解し難い面も少なくありませんが、言葉や習
す。周りにお構いない大きな声(赴任直後はよく振
慣の壁がそれを助長している点も多く、また実際に
り向きました)
、言い争っているかと思うような会
付き合って感じるのは、国民性の違いよりも個人と
話(実は言い争いでないことが多い)
、歩行者が目
しての違いのほうが大きいということです。個人と
に入らないかのように横断歩道に突っ込んでくる車
して信頼できる人、尊敬できる人がいます。少なく
(実は交通ルールも違う)、無音で背後から忍び寄る
とも私たちは隣人としての中国人をもっとよく知っ
電動自転車(たぶん帰国までに一回は轢かれます)、
たほうが良いと今は思っています。中国人は、中国
芸術的なまでに過積載しまくりの自転車(荷崩れの
という空の下にたまたま生まれ、中国人ならではの
現場を見た事がありません)
、そこで鳴らさなくて
酸いも甘いも背負って生きている。そう思うと、政
もと思うほど多用される車のクラクション(負の感
治体制の違いとか関係なく、中国人が以前よりも近
情抜きの単なる合図感覚と悟りました)
、不具合が
しいものに思えてきます。
多かった最初の家(台所が水浸しになり、ガスがつ
話は変わりますが、写真は6月に福岡中洲で撮っ
かなくなり、真冬にお湯が出なくなり、以下略…)、
たものです。関源太郎先生のご退官を口実に?東
基本的に騒がしい土地柄なのに何か足りないとある
京、鹿児島、上海から福岡に集い、近況報告や昔話
23
平成25年11月15日
九州大学経済学部同窓会報
2013年6月8日 中洲のサインズの前で
前列左から柳田、松山 後列左から関先生、
中野、高江
第55号
をすることが出
今年で47歳になり、私が学生だった時の関先生の
来ました。ちな
年齢をすでに越してしまいました。年相応の自覚が
みに、上海―福
無いためか、なんだか不思議な気持ちです。私は学
岡間は、実は東
生時代に、物事は一元的に見ない、ものさしは一つ
京―福岡間と同
じゃないよ、ということを関ゼミで学んだのではな
じ距離しかあり
いかと思っています(関先生、勝手に学んでいたら
ません。先生ご
すみません)。それは今、異国の地での仕事と生活
紹介のスペイン
に生かされているのではないかと、勝手ながら考え
料理の店で小さ
ている次第です。
なテーブルを囲
んでいますと、約25年前に経済学部棟の最上階の突
き当りの関先生の研究室で、こんな風に少人数で机
を囲み、テキストを講読していたなぁと懐かしい気
持ちになりました。もう一枚は夏の久住にゼミ合宿
に行った時の写真です。久住山頂で撮ったと思われ
る写真です。ここで待っている(疲れた)
、という
女性陣2名を九合目に残し、男性陣だけで山頂から、
晴れ渡った眼下の景色を堪能したのでした(正確に
は先輩一名が山の家で、のんびりと私達の帰りを
待っていました)
。同窓会をすると必ず話にあがる
久住登山
1988年 前列左から中野、村上、関先生 後方に高江
懐かしい思い出です。
人物往来
宮崎 毅 准教授
【担当講義】
〜新教員紹介
専門は財政・地方財政で、所得税、市町村合併、
国と地方の財源の配分、震災における国と地方の財
政等を研究テーマとしています。経済学は理論と実
学部 「財政」
「情報処理I」 証に分かれますが、私の場合は、市町村や都道府県、
「経済工学基本演習」
個人のデータ等を使って、経済理論で得られている
「経済工学演習」
様々な結果を検証するという実証分析を行っていま
学府 「計量分析」「財政分析特
す。所得税を上げると税収はどのくらい上がるのか、
研I」「経済工学持論」 【自己紹介】
所得税によって所得不平等はどの程度小さくなった
のか、どのような市町村が合併を望んだのか、合併
2013年4月に九州大学大学院経済学研究院に赴任
によって市町村の歳出は削減されたのか、東日本大
しました宮崎毅と申します。前任校は、千葉県浦安
震災で都道府県と市町村の財政的な負担がどのくら
市にある明海大学という大学で、2007年4月から
いになるのか等について、これまで研究してきまし
2013年3月まで所属しておりました。東京生まれ、
た。九州大学では、学部の地方財政や、大学院の計
千葉県、埼玉県育ちで、大学と大学院も東京にあっ
量分析などを担当しています。
たことから、関東以外で生活するのは初めての経験
実際にデータを用いて実証分析を行っていること
となります。もちろん九州での生活も初めてですが、
から、経済理論や統計・計量分析の知識を基にして
父親が佐賀県出身で、親戚も住んでおり、九州には
実証分析を行うことの楽しさ(苦しみ?)について
何度も来たことがありました。今回、九州大学に赴
色々教えていきたいと思っています。今後ともどう
任することとなったのも何かのご縁ではないかと
ぞ宜しくお願いします。
思っております。
24
平成25年11月15日
九州大学経済学部同窓会報
大坪 稔 准教授
【担当講義】
第55号
代の楽しい思い出がたくさんあります。学部3年の
時、丑山 優先生(現九州大学名誉教授)のゼミに
入り、年2回の合宿に参加して夜遅くまで飲んだこ
学部 「経営学」 「経営政策」
と、卒論の企業分析を自分なりに頑張って書いたこ
学府 「上級経営学」
となど今でも懐かしく感じられます。学部を卒業し
「経営政策特論」
た後も、丑山先生には修士・博士課程とずっとお世
話になりました。
現在、伊都キャンパスへ移転中ということもあり、
【自己紹介】
9月に九州大学に着任致しました大坪稔です。出
理系のキャンパスは以前と比べて人が少なく、少し
身は福岡県小郡市で、大学・大学院ともに九州大学
寂しい感じもします。しかしながら、一方でちゃん
でお世話になりました。博士課程を修了後、1年間
こ御島、居酒屋の海門、ラーメン屋の赤のれん&と
九州大学で助手をし、その後はお隣の佐賀大学で経
ん吉など学生時代からよく行っていた飲食店をみる
営学および財務管理担当の教員をしてきました。佐
と当時の懐かしい思い出がよみがえります。
賀大学に勤務していた間、大学を巡る環境は大きく
これからは、教育および研究活動を通じて楽しい
変化しました。なかでも国立大学は国立大学法人と
思い出の詰まった母校の発展に少しでも貢献できる
なり、私を含め国立大学の教員は国家公務員でなく
よう専心努力していく所存です。至らない点も多々
なるなど、劇的な変化を経験しました。
あるかと存じますが、よろしくお願い致します。
九州大学は私の母校なので、学部および大学院時
岩下 仁 講師
【担当講義】
ホールド事業本部でマーケティング業務に従事しま
した。2004年に同社退社後、早稲田大学大学院商学
研究科修士課程に入学し、2006年に同大学院を卒業
学部 「マーケティング」
しています。同年より株式会社野村総合研究所コン
学府 「マーケティング戦略」
サルティング事業部にて、経営コンサルティング
「国際マーケティング」
業務に従事しました。通信業や官庁向けのマーケ
「プロジェクト演習」
ティング・リサーチのプロジェクトに携わりました。
【自己紹介】
2010年からは、野村総研勤務と並行して母校である
本年度よりQBSにて、マーケティング戦略および
早稲田大学大学院商学研究科博士後期課程に通学し
国際マーケティングの講義を担当します、岩下仁と
ております。野村総研を退社した後には、2011年に
申します。マーケティング戦略論の内容としては、
は、早稲田大学商学学術院助手に着任しております。
マーケティングの基本的な考え方にはじまり、消費
また2012年から現在では、立教大学経営学部にて、
者心理、市場戦略、製品戦略、サービス・マーケティ
消費者行動論およびマーケティング戦略を担当して
ング、ブランド戦略について講義します。国際マー
います。
ケティングでは、国内外の事例を交えながら、カン
最後に、自己紹介を簡単に書かせて頂きたいと思
トリー・オブ・オリジンやブランド国際化戦略と
います。九州大学のある福岡に来る前は30年余り、
いった理論やフレームワークを学ぶ予定です。一人
東京を拠点としてまいりました。ですので、福岡と
でも多くの受講生がダイナミックに変化するマーケ
は縁もゆかりもありませんが、主観的な魅力(日頃
ティングの世界を楽しみながら学んでくれればよい
から抱いていたイメージ)と、客観的な魅力(クチ
と願っております。心がけていることは、理論のみ
コミや噂)を感じてまいりました。一日も早く福岡
をストレートに紹介するのではなく、現実の事例を
での生活に慣れると共に、少しずつ知人を増やして
織り交ぜながら、講義を進める点にあります。
いきたいと思っております。右も左もわからない
経歴を振り返ると、
「マーケティング」で一貫し
日々が続いており、皆様にはご迷惑をおかけしてお
たキャリアを積んできたと思います。2002年に早稲
りますが、何卒宜しくお願い致します。
田大学商学部を卒業した後、花王株式会社のハウス
25
平成25年11月15日
九州大学経済学部同窓会報
第55号
経済学部名誉教授の会
第17回の九州大学経済学部名誉教授の会は、4月
を取ることなく、穏やかなくつろいだ雰囲気で進行
6日(土)16時から、故・中楯先生が世話役を担当
しました。3月に再任された山本健兒研究院長から
された初回以来馴染んできた「さかえ鮨」が閉店し
学部・大学院・大学の近況を報告いただきました。
たので、経済学部近くの「リーセントホテル」に場
基幹教育(かつての教養教育・共通教育の進化形)
所を変更して、開催されました。
の新試行、地球社会統合科学府や国際教養学部など
名誉教授の会としては、恒例の会に先だって、
の構想、そういう大きな変貌が起きているようです。
2012年10月6日(土)と10月27日(土)に、木下悦二・
名誉教授側は、写真に写っている13名が出席し、近
秀村選三・大屋祐雪・市村昭三・川端久夫・児玉正
況報告がなされました。2年半ほどインターネット
憲・原田溥・逢坂充・矢田俊文・福留久大・丑山優・
を駆使してBRICs(ブラジル・ロシア・印度・中国)
荻野喜弘・濱砂敬郎名誉教授が経済学部内に集まっ
の概要を取り纏めることができた、そういう現役顔
て、前院長の川波洋一教授、百年史編集委員会の北
負けの研究進展の話。ドイツの最新事情に興味を掻
澤満・鷲崎俊太郎准教授を交えて、二度ほど座談会
き立てられるとともに、91歳を迎えた鶴見俊輔氏の
を開催していました。各日とも、14―17時の予定を
随筆に耽溺している、そういう研究・趣味並進型の
大幅に超過して、話が続きました。まず、「学生時
報告。関根正雄氏の弟子となって聖書研究に勤しむ
代から九大経済学部へ」と題して各人の歩みの概略
方、米国ジャーナリスト・David Halberstamの筆
が語られ、その後、①経営学科の設立の経過。②
を頼りに朝鮮戦争・ヴェトナム戦争など戦後史を再
68 〜 70年大学紛争=闘争。③経済工学科設立の経緯。
検討する方など、精神活動旺盛な名誉教授の会でし
④QBS創設の経過。⑤その他九大内外の思い出。⑥
た。深町郁彌先生が顕著な回復ぶりを示しておられ
経済学部若手への期待・希望、という題目で、経済
るとの嬉しい病床見舞いの報告もありました。この
学部・経済学研究院の歩みが話し合われました。(内
日も予定時間超過で超過分の会場費を払うほどに
容は「九州大学経済学部名誉教授の会・座談会」と
盛会でした。よほどの異変がない限り、第18回は、
して取り纏められ、4月1日付けで経済学研究院に
2014年4月5日(土曜日)16時から同一場所で開催
より刊行されました)。
の予定です。(福留・記)
そのような経緯もあり、4月6日の集いは、記録
前列中央、山本健兒院長を挟んで、右より。秀村選三・木下悦二・大屋祐雪・川端久夫の各名誉教授。後列右より。
福留久大・丑山優・近昭夫・津守常弘・逢坂充・原田溥・児玉正憲・市村昭三・濱砂敬郎の各名誉教授。
26
平成25年11月15日
九州大学経済学部同窓会報
第55号
九州大学経済学部 国際学術交流振興基金執行状況報告(平成24年度)
経済学部創立60周年を記念して、同窓会の皆さまを中心にご寄付頂いた多額の資金は、「国際学術交流振
興基金」として、これまで30年近くにわたって、経済学部における国際学術交流のために活用させていただ
きました。平成24年度は、別表の通り、大学院生を中心に国際学術交流の活動のために計画を立て、執行さ
せていただきました。ご寄付いただいた方々のご芳志に想いを馳せ、改めてお礼を申し上げますとともに、
ここにご報告申し上げます。
近年の急速なグローバル化のなか、特に2000年代に入ってからは、海外からの留学生が急激に増加し、経
済学部の状況は一変したと言っても過言ではないと存じます。大学の中のゼミや研究会においては英語での
授業やディスカッションが行われ、また経済学部棟のあちこちで英語や中国語が飛び交っているのが現状と
なりました。今後、わが学部では、こうしたインバウンドでの国際化に対しまして、日本人学生を海外に送
り出すという意味の国際化(アウトバウンドと称しております)がますます必要になってきている状況にあ
ります。同窓会の皆さまからいただきましたこのご芳志は、外国人教育だけではなく、やはり日本人の国際
化にさらに活かすべきであろうと考えている次第です。また、これに併せて、研究レベルでの国際化もさら
に求められており、この方面への活用も積極的に行いたいと考えている次第です。ただ、その一方で、本基
金は、皆さまから頂いた貴重な財産でございますので、可能な限り持続可能な形で使わせていただけるよう
に使途を吟味しながら大切に運用して参りたいと考えている次第です。
今後、このような問題点を克服しながら、さらに実効の上がる国際学術交流の実現に向けて努力を重ねて
いく所存でございます。同窓会の会員の皆様へは、これまでのご協力に心から感謝申し上げますとともに、
今後とも一層のご支援を賜りますようお願い申し上げる次第でございます。
【国際交流委員会委員長 川波 洋一 】
申 請 者
内 容
劉 春燕
(大学院生)
※研究集会への参加
2012 Financial Markets and Corporate Governance Conferenceにおいて「Controlling
Shareholder, Split-Share Structure Reform and Cash Dividend Payments in China」につい
て研究発表を行う
2 4 .4 .1 0〜
2 4 .4 .1 3
岡本 隼輔
(大学院生)
※学会発表
The 20th International Input-Output Conferenceにおいて学会発表を行う
2 4 .6 .2 5〜
2 4 .6 .3 0
林 健怡
(大学院生)
※学会発表
2012 Cambridge Conference on Businessにおいて学会発表を行う
2 4 .6 .2 6〜
2 4 .6 .3 0
張 宇揚
(大学院生)
※学会発表
The20th Annual Conference on Pacific Basin Financ Economics,Accounting,and
Managementにおいて学会発表を行う
2 4 .9 .7 〜
2 4 .9 .1 0
陳 帥
(大学院生)
※学会発表
2012 European International Business and Economics Conferencel において学会発表を行う
2 4 .6 .4 〜
2 3 .6 .9
劉 剣雷
(大学院生)
※学会発表
Airlangga Accounting International Conference(AAIC)2012 において学会発表を行う
2 4 .6 .2 6〜
2 4 .6 .3 0
胡 慧敏
(大学院生)
※学会発表
The Global Chinese Real Estate Congress において学会発表を行う
2 4 .7 .2 〜
2 4 .7 .6
孫 月
(大学院生)
※学会発表
Asian Finance Association and Taiwan Finance Association 2012 において学会発表を行う
2 4 .7 .5 〜
2 4 .7 .1 2
陸 可
(大学院生)
※学会発表
International Cross Domain Conference and Workshop 2012 において学会発表を行う
2 4 .8 .1 9〜
2 4 .8 .2 5
ダスティン・ブルワー
(大学院生)
※学会発表
Sri Lanka Economic Research Conference (SLERC) – 2012において学会発表を行う。
2 4 .1 1 .29 〜
2 4 .1 1 .30
尾下 優子
(大学院生)
期 間
※海外派遣・在外研究(短期)
⑴ カルフォルニア大学サンタバーバラ校の交流訪問者(Exchange Visitor)として、産業エコロジー分野で顕
著な研究業績を挙げている同校のSangwon Suh准教授の指導、また共同研究の下、CO2排出やレアメタルなど
の資源集約的な産業クラスターを特定する手法の発展や応用分析を行い、持続発展可能な経済発展・産業育成
戦略のために有用な研究ツールの開発を行う。
2 4 .1 2 .3〜
2 5 .2 .1 5
27
平成25年11月15日
九州大学経済学部同窓会報
第55号
平 成 2 4 年 度 卒 業 生 就 職 状 況
平成25年5月1日現在、
( )
は女子で内数
学 部
就 職 先
ANA
アイ・ケイ・ケイ
旭硝子
アジア住友商事(クアラル
ンプール支店)
EMシステムズ
イオンリテール
壱岐市役所
伊藤忠商事
エイム
エイムハウス
エヌ・ティ・ティ・ドコモ
NEC
NASIC
NTTデータ
NTTデータ九州
オービック
大分銀行
大分県庁
大分市役所
香川県庁
鹿児島銀行
鹿児島県庁
鹿児島市役所
河野産業
関西電力
北九州市役所
キヤノン
九州大学
九州電力
麒麟麦酒
熊本県警
熊本国税局
熊本赤十字病院
熊本朝日放送
熊本大学
久留米市役所
ケーブルワン
京王バス東
コーエーテクモ
ホールディングス
公務員
国土交通省九州運輸局
財務省(財務局)
佐賀銀行
佐賀県庁
篠栗町役場
さなる九州
山九
山陽小野田市
ジー・ネットワークス
JFEエンジニアリング
JFEスチール
28
人数( )
1 (1)
1
1
1
1
1 (1)
1
1
1 (1)
1
1
1
1
2 (1)
1
2
1
1
1
1
2 (1)
1
1
1
1
1
1
1 (1)
3
1 (1)
1
1
1 (1)
1
1 (1)
1
1 (1)
1
1
1
1
1
2
3 (2)
1
1
1
1 (1)
1 (1)
2
1
就 職 先
人数( )
JSOL
1
JX日鉱日石石油基地
2
島屋
1
十八銀行
1 (1)
商工組合中央金庫
3 (1)
信金中央金庫
1
新日鐡住金
1
親和銀行
1
杉孝
1
スターティア
1
ステート・ストリート
3
信託銀行
住友化学
1
住友商事
1
住友商事
(上海)
1 (1)
住友生命保険
1
住友電気工業
1 (1)
全国農業協動組合連合会
1 (1)
(JA全農)
ソフトバンクグループ
1
ソフトバンクモバイル
1
損害損保ジャパン
1
第一生命保険
1
大正製薬
1
大和証券
3
タカギ
1
中国電力
1 (1)
TKC
1 (1)
テクマトリックス
1
電源開発
1
電通九州
1 (1)
東京海上日動火災保険
1 (1)
東京証券取引所
1
トヨタ自動車
1
トヨタ自動車九州
1 (1)
長崎県庁
1
中津市役所
1
西島製作所
1
西日本シティ銀行
2 (1)
西日本電信電話
2
西日本旅客鉄道
1 (1)
ニトリ
1
日本保育サービス
1 (1)
日本たばこ産業
1
日本メディアシステム
1 (1)
日本政策金融公庫
2
日本生命保険
1
日本放送協会
1 (1)
任天堂
1
農林中央金庫
1
野村證券
2
パナソニックシステムネッ
1 (1)
トワークス
肥後銀行
2 (2)
就 職 先
日立ICT
ビジネスサービス
日立システムズ
日立製作所
ひびき灘開発
広島銀行
広島市役所
ふくおか証券
福岡市立病院機構
福岡ひびき信用金庫
福岡銀行
福岡県警察
福岡県信用保証協会
福岡県庁
福岡市役所
福岡放送
福島工業
富士通
船井総合研究所
プライムデリカ
ボッシュ
みずほ証券
三菱UFJ信託銀行
三井住友銀行
三井住友信託銀行
三菱電機
三菱化学
三菱重工業
三菱倉庫
三菱東京UFJ銀行
宮崎銀行
ムトウ
明治安田生命保険
メモリード
安川電機
山口フィナンシャル
グループ
ラサ商事
LIXIL
リクルート
ホールディングス
りそな銀行
琉球銀行
総 計
人数( )
1
2
1
1
1
1
1
1 (1)
1
15 (3)
1 (1)
1
1
2 (2)
1
1
2 (1)
1
1
1 (1)
1
2 (1)
3
1 (1)
1 (1)
1
1
1
1 (1)
1
1
2 (1)
1 (1)
2
1
1
1
1
1
1 (1)
185
(48)
修士課程
(学府)
就職先又は在職先
人数( )
旭製作所
1
伊予銀行
1
SMBC日興証券
1
NTTデータMSE
1 (1)
大分銀行
1
九州電力
1
九州旅客鉄道
1
平成25年11月15日
就 職 先
人数( )
コート・ホテルズ・アンド・
1
リゾーツ
コカ・コーラウエスト
2
篠原公認会計士事務所
1
ステート・ストリート信託
1
銀行
西部技研
1 (1)
曹洞宗玄答院
1
第一三共
1
大成建設
1
大和ハウス
1
ChinaTelecom
(Beijing)Corp. 1 (1)
Ltd
中国招商銀行上海支行
1 (1)
凸版印刷
1
ナチュラル
1
ニコン
1 (1)
西日本電信電話
1
日本ボッシュ
1 (1)
日本澱粉工業
1
日本メドトロニック
1
農林中央金庫
1
日立製作所
1 (1)
福岡県庁
1
福岡市役所
1
マックスバリュ九州
1 (1)
みずほフィナンシャルグ
1
ループ
三井物産
1 (1)
三菱電機
1 (1)
三菱マテリアル
1 (1)
総 計
35(11)
九州大学経済学部同窓会報
第55号
平 成 2 4 年 度 決 算 報 告
収 支 計 算 書
平成24年4月1日~平成25年3月31日
(単位:円)
収 入 の 部
予 算
会費収入
(会 員)
(学生会員)
負担金収入
教員年間総会費
卒業祝賀会会費
雑収入
受取利息
名簿売上
寄付金
雑収入
当年度収入計
支 出 の 部
決 算
6,537,000
△ 1,963,000
4,500,000
2,502,000
△ 1,998,000
4,000,000
4,035,000
35,000
980,000
892,000
△ 88,000
580,000
540,000
△ 40,000
400,000
352,000
△ 48,000
65,000
26,928
△ 38,072
60,000
12,228
△ 47,772
5,000
14,600
9,600
0
0
0
0
100
100
9,545,000
7,455,928
△ 2,089,072
予 算
事業費
会報発行費
卒業祝賀会
卒業記念品費
名簿代
会員加入促進費
運営費
事務局員費
会議費
通信費
旅費交通費
消耗品費
消耗雑費
支部運営費
負担金
全学同窓会分担金
支部総会会費
(教員)
雑損失 盗難損失
当年度支出計
当年度収支差額
前年度繰越収支差額
正味会費納入金から繰入
正味会費納入金へ繰入
次年度繰越収支差額
貸 借 対 照 表
差 異
8,500,000
決 算
差 異
3,130,000
3,089,918
1,500,000
1,609,137
△ 40,082
109,137
1,200,000
1,078,681
△ 121,319
100,000
102,100
2,100
300,000
300,000
0
30,000
0
△ 30,000
6,320,000
6,793,592
473,592
1,500,000
1,550,000
50,000
50,000
9,343
△ 40,657
1,600,000
1,577,571
△ 22,429
1,150,000
1,650,000
500,000
100,000
92,853
△ 7,147
△ 6,175
70,000
63,825
1,850,000
1,850,000
0
250,000
100,000
△ 150,000
150,000
0
△ 150,000
100,000
100,000
0
0
14,829
14,829
9,700,000
9,998,339
298,339
△ 155,000
△ 2,542,411
△ 2,387,411
475,669
475,669
0
0
2,500,000
2,500,000
0
0
0
320,669
433,258
112,589
平成25年3月31日現在
(単位:円)
科 目
現金預金
現金
普通預金(西日本シティ)
普通預金(西日本シティ2)
普通預金(福 岡)
郵便貯金
郵便振替口座(通知)
定期預金(西日本シティ)
定期預金(福 岡)
資 産 合 計
金 額
科
目
金 額
41,632,621
908 前受金
84,167 預り金
124,445
負債合計
2,415,000
1,268,700
3,683,700
413,214
67,984 正味会費納入金
2,361,858 前年度繰越高
33,766,477 一般会計へ繰入
37,515,663
40,015,663
△ 2,500,000
4,813,568 一般会計から受入
0
次年度繰越収支差額
433,258
正味財産合計
41,632,621
負債・正味財産合計
37,948,921
41,632,621
29
平成25年11月15日
九州大学経済学部同窓会報
九州大学経済学部同窓会役員名簿
役 員
第55号
(カッコ内は卒業年次〜昭和、ただしHは平成)2013年9月
氏 名 会 長 池田 弘一(38)
佐野 壬彦(38) 渡辺 昌則(38) 黒岩 宏行(39)
副 会 長 石橋 英治(36) 貫 正義(43)
犬山 俊昭(40) 檀 豊隆(40) 松浦 哲也(40)
事務局長 藤井 美男(55) 籾井 勝人(40) 沖 弘隆(41) 安陪 義宏(42)
監 事 貞刈 厚仁(52) 工藤 重之(52)
平本 公雄(42) 右田 喜章(42) 杉 哲男(43)
顧 問 本田 精一(25) 大屋 祐雪(26)
寺原 義之(43) 貫 正義(43) 跡部 千春(44)
深町 郁彌(29) 淵上 敏晴(29)
一丸 孝憲(44) 甲斐 琢己(44) 靍川 洋(45)
福岡 道生(30) 松浦 正純(30)
森 恍次郎(45) 青柳 泰教(46) 太田 光一(46)
森山 靖章(30) 逢坂 充(32)
小森田憲繁(46) 橋本 純夫(47) 吉井 勝敏(48)
鈴木多加史(33) 有吉 孝一(34)
岩崎 俊彦(49) 久保 隆二(49) 園田 一蔵(49)
進谷 庸助(35) 檀 豊隆(40)
加藤 孝典(50) 佐藤 敏弘(50) 中野 光男(50)
(理 事)
石田 光明(51) 古賀 英樹(51) 光富 彰(51)
本 部 池田弘一会長 藤井美男事務局長
貞刈 厚仁(52) 工藤 重之(52) 志村 恭子(52)
山本健兒研究院長 丑山優名誉教授
岡田 裕二(53) 境 正義(53) 長竹 正隆(53)
深川博史教授 大石桂一教授
綾部 正博(53) 吉元 利行(53) 古賀 英基(53)
大 学 磯谷明徳教授 清水一史教授
小川 重巳(54) 小林 真幸(54) 嶋田 正明(54)
東京支部 池田弘一支部長 籾井勝人副支部長
三浦 正(54) 平井 彰(55) 池上 恭子(56)
杉哲男副支部長 吉元利行事務局長
窪田 秀樹(56) 冨山 幸三(56) 米村 健史(56)
関西支部 石橋英治支部長 小森田憲繁副支部長
楠 雅之(57) 片山 基之(57) 川上 寛(58)
久保隆二副支部長 中野光男事務局長
木村 博(58) 柴田 祐二(59)
福岡支部 貫正義支部長 吉井勝敏副支部長
齊藤久美子(62修士) 友池 精孝(59)
光富彰副支部長 貞刈厚仁副支部長
吉留 郁(59) 斉藤 浩志(60) 田中 和教(61)
平井彰事務局長
成宮 正和(61) 桜木 良平(62) 髙本 英一(62)
岩中 雄次
(63) 大坪 勇二
(63) 古川 和哉
(H1)
(評議員)
清丸 泰司
(H2) 山崎 正良
(H2) 谷村 信彦
(H3)
西川 宏
(21) 秀村 選三(22) 井上喜三郎(23)
北村 英照
(H3) 林 秀信
(H3) 尾花 研
(H4)
福田洋之助
(23) 冨田 敏郎(23) 大屋 祐雪(26)
中村 昌子
(H4) 松延 篤
(H4) 川島 満
(H4)
滝口 凡夫
(26) 棚倉 亨(27) 江藤 正憲(27)
権藤 健太
(H4) 原山 泰之
(H5) 三浦 芳徳
(H5)
井原 伸允
(28) 兼尾 雅人(29) 淵上 敏晴(29)
山崎 浩(H7) 百合田洋介(H7)
山下 正迪
(29) 山本 和良(29) 岩本 桂(30)
上田 純也(H8修士) 竹下 将史(H8) 富澤 義敬
(30) 松浦 正純(30) 村上 明夫(30)
久保 文一
(H8) 松本 康孝
(H9) 濱田 貴将
(H12)
森山 靖章
(30) 大田 孝生(31) 濱口 廣海(31)
岩貝 和幸(H15) 稲波 祥子
(H18) 森内 勇貴(H20)
吉田 正美
(31) 下川 浩一(32) 山本 兼茂(32)
中村 龍太(H24)
鈴木多加史
(33) 江口 傳(34修士) 市村 昭三(元教官) 清水 一史(現教員)
真藤 乃輔
(34) 小金丸哲夫(34) 森 重厚(34)
麻生喜久男
(35) 進谷 庸助(35) 濱崎 泰行(35)
三輪 晴治
(35) 石橋 英治(36) 首藤 晃良(36)
種村 茂明
(36) 山道 茂樹(36) 田口 廣則(37)
30
平成25年11月15日
九州大学経済学部同窓会報
第55号
各支部の役員 東京支部…………………………………………………
支 部 長 池田 弘一(38)
福岡支部…………………………………………………
副支部長 籾井 勝人(40) 杉 哲男(43)
副支部長 吉井 勝敏(48) 光富 彰(51)
顧 問 淵上 敏晴(29) 福岡 道生(30)
貞刈 厚仁(52)
監 事 森 重厚(34) 橋本 純夫(47)
事務局長 平井 彰(55)
理 事 髙岩 淡(29) 三輪 晴治(35)
監 事 森 恍次郎(45) 三浦 正(54)
種村 茂明(36) 箱島 信一(37)
評 議 員(*は運営委員)
富井 順三(50) 小林 真幸(54) 秀村 選三(22) 大屋 祐雪(26)
岩中 雄次(63) 百合田洋介(H7)
井原 伸允(28) 山下 正迪(29)
三角 佳奈
(H15)
瀧谷 善太
(H10)
山本 和良(29) 森山 靖章(30)
小林 秀章
(H18)
岩貝 和幸
(H15)
江口 傳(34修士) 真藤 乃輔(34) 亀井 祐輔
(H20)
稲波 祥子
(H18)
麻生喜久男(35) 進谷 庸助(35) 首藤 洋志
(H22)
日下部清香
(H20)
沖 弘隆(41) 安陪 義宏(42) 中村 龍太(H24)
平本 公雄(42) 右田 喜章(42) 事務局長 吉元 利行(53)
貫 正義(43) 寺原 義之(43) 事務局次長 川原 晃(54) 大坪 勇二(63)
一丸 孝憲(44) 靏川 洋(45) 林 秀信(H3) 原山 泰之(H5)
森 恍次郎(45) 青柳 泰教(46) 伊藤 健司
(H19)
吉井 勝敏(48) 岩崎 俊彦(49) 支 部 長 貫 正義(43)
加藤 孝典(50) 石田 光明(51) 関西支部…………………………………………………
支 部 長 石橋 英治(36)
古賀 英樹(51) 光富 彰(51) 副支部長 小森田憲繁(46) 久保 隆二(49)
志村 恭子(52) 岡田 裕二(53) 顧
問 松浦 正純(30) 鈴木多加史(33)
境 正義(53) 長竹 正隆(53) 佐野 壬彦(38) 檀 豊隆(40)
綾部 正博(53) 小川 重巳(54) 事務局長 中野 光男(50)
* 嶋田 正明(54) * 三浦 正(54) 事務局長代理 清丸 泰司(H2)
* 平井 彰
(55)
池上 恭子
(56)
会 計 佐藤 敏弘(50)
窪田 秀樹(56) 米村 健史(56) 監 事 太田 光一(46)
楠 雅之
(57)
* 梅原 晋
(59)
※以上の方は、理事を兼任。
柴田 祐二(59) 友池 精孝(59) 理 事 棚倉 亨(27) 江藤 正憲(27)
吉留 郁(59) 田中 和教(61) 濱口 廣海(31) 山道 茂樹(36)
成宮 正和(61) 桜木 良平(62) 松浦 哲也(40) 跡部 千春(44)
髙本 英一
(62) 古川 和哉
(H1) 甲斐 琢己(44) 園田 一蔵(49)
(H4) 山崎 正良
(H2) 尾花 研
古賀 英基(53) 冨山 幸三(56)
中村 昌子(H4) * 池田 泉(H5) 片山 基之(57) 川上 寛(58)
* 宇出 研(H5) * 三浦 芳徳(H5) 斉藤 浩志(60) 齊藤久美子(62修士)
* 山崎 浩(H7) 竹下 将史(H8) 谷村 信彦(H3) 北村 英照(H3)
手嶋 秀幸(H8) 渡辺 正司(H8) 川島 満(H4) 松延 篤(H4)
* 松田 和俊
(H9)
* 久保 文一
(H8)
上田 純也
(H8修士)
権藤 健太(H4)
* 安藤 大輔
(H12)
* 仲 芳雄
(H10)
貞刈 厚仁(52) 工藤 重之(52) * 森内 勇貴
(H20)
* 瀬戸 貴博
(H15)
……………………………………………………………
名古屋地区 板山 和弘(54)
広 島 地 区 佐藤 敬(23)
白石 順一
(34)
大 分 地 区 髙山泰四郎(39)
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平成25年11月15日
九州大学経済学部同窓会報
第55号
九 州 大 学 経 済 学 部 同 窓 会 歴 代 会 長
初 代 田中 定氏(昭和50年10月4日〜)
(3期8年)
(1期3年)
第2代 森下 弘氏(昭和58年2月4日〜)
(2期6年)
第3代 岡野 正實氏(昭和61年10月24日〜)
(1期1年)
第4代 谷川 大介氏(平成4年10月9日〜)
(1期3年)
第5代 渡邉 彦士氏(平成5年7月7日〜)
(1期3年)
第6代 福岡 道生氏(平成8年10月11日〜)
(1期2年)
第7代 吉田 清治氏(平成12年2月10日〜)
(1期3年)
第8代 森山 靖章氏(平成14年5月31日〜)
(1期3年)
第9代 平山 良明氏(平成17年7月7日〜)
第10代 池田 弘一氏(平成20年7月7日〜)
同窓会からのお願い
同窓会会費の納入をお願い致します。
会費は、終身会費(45,000円)と普通会費(3年間分4,500円)になっております。
終身会費は一括払いと分割払いとがあります。ご都合のつくときにご協力よろしくお願い致します。
①終身会費
一括 45,000円
② 〃 3分割
15,000円×3回(1.5年間で納入完了)
③ 〃 6分割
7,500円×6回(3年間で納入完了)
④普通会費
3年間分
4,500円ずつ(11回・49,500円の納入で完了)
◎平成18年(2006年)3月末日までに旧同窓会規定の終身会費を既に納入頂いております皆様は、そのまま新同
窓会規約の終身会員に移行しております。
◎従来の普通会員として今まで振り込まれた合計金額と、49,500円との差額を、今後何回かの分割払い、または
一括払いで払い込まれた場合も、終身会員に移行となります。
◎終身会費を分割払いにされます方は、半年毎に3回又は6回続けてお振り込み頂きますようお願い致します。
◎会費納入や住所変更等のデータは、平成25年9月30日現在で集計しました。
住所など身辺の事情に変更がありましたら、同窓会事務局までお知らせ下さい。
複数の同窓会関係者が写されている写真類を掲載したいと考えております。
適当なものがございましたら事務局までご連絡下さい。
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