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チョロの台頭にみるインディオ・アイデンティティの弁証法

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チョロの台頭にみるインディオ・アイデンティティの弁証法
SURE: Shizuoka University REpository
http://ir.lib.shizuoka.ac.jp/
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チョロの台頭にみるインディオ・アイデンティティの弁
証法
吉田, 栄人
人文論集. 44(1), p. A37-A62
1993-07-30
http://doi.org/10.14945/00008904
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チ ョロの台頭 にみ る
イ ンデ ィオ・ アイデ ンテ ィテ ィの弁証法
吉
田 栄
人
1.ア ンデ ス都市 人類 学 にお けるチ ョロの扱 い
ア ンデス諸国では、学校教育や都市部における中
から白人・ メスティ
な生活様式・ 価値観 を身 に付 けたイ ンデ ィオは一般 にチ ョロ choloと
ばれる
呼
。 このチョロとい う用語 は、通常 は話者が対話者 ないしは第二者 を社
会的劣等者 と見なそうとするコンテクス トで用いられることが多い2)。 したがっ
て、自人がチョロとい う用語 を用 いるとき、イ ンデ ィオは所詮 は自人社会 に同
ソ1)的
化で きない社会的劣等者であるという意味合 いを多分 に含んでいるだろう。ま
た、逆 に伝統的な生活様式を守ろうとするイ ンディオにとっては、それはイ ン
ディオ文化を捨てた恥ずべ き人たち、時には裏切 り者であることを意味するか
もしれない。 この否定的な価値 ゆえに、一般 にチョロと形容 される人々が自ら
を指 してチョロと呼ぶことはほとんどない。 しか し、農地改革後のインデ ィオ
の都市部への大量 の流出によってチョロと称 される人々の集団が加速度的に都
市部 を中心 に形成されつつある今 日3)、 我々はチョロを仮想的な分析用語 とし
てだけ使 っていて もいいのだろうか。実際問題 として運送業や商業、建設業、
警察官、下級公務員などに従事 し、都市 の経済活動 を底辺 で支えているのはこ
のチョロたちである。特 に、イ ンフォーマルな経済活動 は彼 らに負 うところが
大 きい。
ア ンデス人類学 はこのチョロの問題 の扱 いにおいてかつての文化変容論的パ
ラダイムが支配的だった時代からどれだけ進展 したと言えるだろうか。確かに、
調査 スタイルや議論的展開 は都市人類学的な様相を帯 びている。都市 に出たイ
ンデ ィオヘの言及がないイ ンディオ共同体 の研究 はもはや存在 しないだろうし、
また都市 に移住 したイ ンディオたちを対象 とした研究 も数多 い。 しか し、彼 ら
の研究 によってチョロの実態が明 らかになっているとは決 して言 えない。む し
-37-
ろ、それは都市 に出たイ ンディオたちの「 イ ンディオ性」を追求 し、そして盛
んに彼 らの出身地 とのつなが りを強調す る。あるいは、民族関係 に基づいた議
論 を放棄 し、階級の問題 に置換えようとする (Van Den Verghe 1974;Van
Den Verghe and Primov 1977)。 そういった議論 によってチョロ (都 市 イ ン
ディオ)が 語 りつ くされるとしたら、それはアフリカ研究者 たちが打 ちたてた
「 再部族化」の理論 を無理矢理 ラテ ンアメ リカに当てはめ、あ るいはそれを利
用す る形でイ ンディオ・ イメージを強化す ること以外のなにもので もないので
はないか。そ ういった研究姿勢 には本来的に少 な くとも二つの理論的・ 実践的
問題点が見え隠れするように筆者 には思われる。
まず第一は、再部族化議論 のパ ラダイムが官製 イ ンディヘニスモの伝統内部
に取 り込まれて しまう危険性である。 ブー リコーはこの問題 を次のように指摘
している。
「 1950年 代、 リマでの都市 [研 究]ブ ームが顕著 になった時、人類
学者 は共同作業 の伝統 の存続 に狂喜 した。彼 らは、セラノ [山 地出身 イ ンディ
オ]た ちが家族や同郷の仲間 (パ イサーノ)の 家を建てるのを手伝 った り、出
身県層1の グループに属 していることを書 きたてた。
….こ ういった見方 はイ ン
テリ層の関心、特 にその先入観 とマ ッチしていたために長 らく続 いた。彼 らは
進歩主義 を装 って、植民地時代の伝統 さながらに、イ ンディオに対 して温情主
義的・ 保護主義的な態度を取 ろうとしたので ある」 (1975:383)。 彼 は、再部
族化理論 の都市 イ ンディオ研究への適用 は一方で、都市 イ ンディオ自身 による
主体的なアイデ ンティティの再構築およびその政治的利用の萌芽的な諸形態 の
存在を予感 させながらも、現実 にはそういつた運動そのものが非イ ンデ ィオに
よって掠 め取 られてい く現実を告発 しているのである。ア ンデス地域 (ひ いて
はラテ ンアメ リカ全体)の 都市人類学が都市 イ ンディオ研究 において再部族化
の過程を見 い出そうとするのは大 いなる誤解であるように思われる。少なくと
も、それは文化変容論 (イ ンディオの国家への統合)を 隠微する官製 イ ンディ
ヘニスモヘの追従 もしくは黙認 に終わ って しまう危険性 と背中合わせである。
その時、我 々はブー リコーが指摘する研究者の「進歩主義」を再部族化 のプロ
セスからどれだけ明確 に区別することがで きるだろうか。
ここに第二の問題点が付随的に派生す る。 インディオ・ アイデ ンティティの
再構成 を促すいわゆるイ ンデ ィオ運動 はどれだけ主体的なものでありうるのか。
あるいは、もっと懐疑的に言えば、イ ンディオの様 々な復権・ 再興運動 に何 ら
かの形で国家 (非 イ ンディオ)の 介入が不可避であるとすれば、イ ンディオ自
身 による自 らの再活性化 は半永久的に不可能 とい うことになるのだろうか。 こ
-38-
の点 に関 して多 くのアンデス (ラ テ ンアメ リカ)研 究者 は楽観的である。それ
ゆえに彼 らはイ ンディヘニスタだ ったのかもしれない。いずれにせよ、インディ
オの扱 いにおいて、 ラテ ンアメ リカで もアフ リカの再部族化 と同 じようなエス
ニ シティの発現が可能だと無批判 に思 い込む傾向が一般 にあったとは言 えない
だろうか。そうだからこそ、都市 に出たイ ンディオ (チ ョロ)は 共同体 に残 っ
たイ ンデ ィオの延長線上 に付置 されねばならなか ったのだろう。 しか し、ア ン
デス地域 の「 イ ンディオ運動」をアフ リカの再部族化 に重ね合わせようとする
方法論、都市 イ ンディオ (チ ョロ)を 共同体 イ ンディオと同一視 しようとする
視点 こそがチョロの存在 を不透明なものにして しまっているように思われる。
換言すれば、人類学者は本来 ア ンデス (ラ テ ンアメ リカ)地 域 においてアフリ
カと同様 の形でのエスニシティの発現は可能 なのかとい う問題提起か ら出発す
べ きであり、さらにはアフリカやその他の地域 における「 再部族化」 にもそこ
か ら立ち現われて くるかもしれないアンデス地域特有のエスニ シティの在 り方
と共通す る側面があるのではないかといった議論へ と立ち返 っていかなければ
ならないはずである。にもかかわらず、ア ンデス人類学者 はそういった手続 き
を怠 って きたのである。
筆者の意図するところは遠大 に響 くか もしれない。 しか し、本稿 の目的 は単
にチョロという存在をもっと可視的な存在 として扱 うことであり、またその場
合 のチョロとイ ンディオとの関係 にまで言及 を試みることである。チョロと呼
ばれる人 々が不可逆的に蓄積 していることは事実であって も、彼 らを「 集団」
として扱 うにはまだ時期尚早か もしれない。 しか し、集団としては依然形成途
上であるとい うだけで、そういった扱 いを拒否す ることは上記 の二つの問題点
を放置 し続 けることを意味す る。少なくともその場合、我々はイ ンデ ィオ運動
におけるイ ンデ ィオのニュー・ リーダーおよび運動参加型の人類学者 の私意性
とイ ンディオの「 主体性」を混同 じ続 けることを了解 しなければな らない4)。
小論では、以下、ボ リビアにおけるチョロの台頭 を一つの事例 として、ア ンデ
ス地域における都市を中心 とした民族関係の素描 とし、今後の研究の一つの指
針 としたい。
2.チ ョ回の創世神話
白人、混血 、イ ンデ ィオ
今 日のチ ョロ問題 を考 えるに当 た ってまず、 チ ョロとい う用語 の歴史的な背
-39-
景 について述べてお く必要がある。チョロとは本来、メスティソなどと同様 に
スペイ ン植民地行政 において用 い られた混血の度合を指す民族分類の一カテゴ
リーであり、その中でも社会の底辺 に位置づけられた人 々であった。 しか し、
スペイ ンの植民地行政が原住民支配のために土着のエ リー トなどに依存 しなけ
ればならなか ったこと、あるいはスペイ ン人 と原住民貴族 などとの正式な通婚
で生まれた混血がスペイ ン人 (白 人)社会の正式なメンバーになっていったこ
となどによって、支配者層である自人 カテゴリーには人種的に純粋でない多 く
の非白人が含 まれ、民族 カテゴ リーそのものが変化 してい く。自人内部 の人種
的特徴の多様化や都市社会 の複雑化などに伴 って白人 とその他 の人種 0民 族 カ
テゴ リーの線引は実質上不可能 になっていったのである。その結果、原住民 イ
ンディオや混血であって も、言語や衣服、教養、富などにおいて白人 と同等 の
社会的文化的特徴 を示す ことがで きれば白人 として振舞 うことも可能 となる。
こうして人種的な特徴 と民族文化的な基準 が矛盾を来たす中で、混血 の精緻 な
分類体系 に代 って、 ラテ ンアメリカ社会 は原住民共同体での生活を基盤 とする
5)に
よっ
イ ンディオ、支配層 としての白人、そしてそれらの中間者 としての混血
て構成 されるとい う考え方が支配的になってい く。そしてそこに、混血 には不
完全な国民・ 二級市民 といったマイナスのイメージが付加 されて行 った。チ ョ
ロはこうした政治的文化的な意味での混血 を指 し示すためのアンデス固有 の表
現である。
しか し、そういったチョロに分類 される側の個人から見た場合、チョロ化 は
ライフスタイルの変化 に過ぎない。それは人類学 の今日的な用語で言 えば民族
的なパ ッシング行為 と見 なすべ きものである。ただ しそれは、パ ッシング的行
為が個人的な選択 の問題であるにしても、民族的忠誠 に抵触す る問題である以
上 (De Vos 1982)、 民族集団の政治 レベルにまで引き上げられる可能性 があ
ることに注意 しておく必要がある。パ ッシングは無制限に可能であるとは限 ら
ず、常 にその人数 とパ ッシング後の行動が監視 される。通常、人々はパ ッシン
グを認 めることへの見返 りとしてグループヘの政治的忠誠を要求 し、またパ ッ
シングした人を政治的に利用 しようとする。カシケあるいはクラカと呼ばれる
かつての原住民支配者がその貴族 の身分を約束 される代わりにスペイ ン支配 の
一官吏 と化 したのはその一例である。
さらにもう一つ、混血、特 にア ンデス地域ではチョロは、自人 とイ ンディオ
い
と う基本的な民族関係の中で常 に特異な社会的領域を占める人々であった こ
とを忘れてはならない。チョロは植民地時代から白人世界 とイ ンディオ世界 を
-40-
行 き来 し、またこの二つの世界が交錯す る市場 という公共空間を占有す る人 々
でもあった。彼 らは、出自におけるイ ンディオ世界 との繋が りを禾J用 してイ ン
デ ィオ農村から農産物 などを容易 に入手 し、それを都市 =白 人社会の市場 に並
べ る経済的なプローカーすなわち商人であったのである(Seligman 1989:698)。
もちろん、彼 らはこうした商品の媒介者であるだけでなく、常 に情報 の運び屋
であり、時には助言 をした り諸種 の手続きを代行 したりするエスニック・ プロー
カーで もあった。
チョロの存在を規定するこうした民族的社会関係 は、チョロが常 に両義的な
存在であったことを示 している。チョロは、一方で、民族社会的にマイナスの
価値 を与えられ、時には排除 される者でありながら、他方 で彼 らを排除 しよう
とする者 にとって経済的 0文 化的に有益 な媒介人で もあ ったのである。
ハキとカラ
自人 とイ ンディオ、そしてその中間的存在 としてのチョロが自人社会か ら見
た民族の分類 カテゴ リーであるのに対 し、イ ンディオ社会 に も同様 に自他 の集
団を区別する分類体系 (ア イマラ語でハキ 」
ic9,と カラ 9'α κ [「 裸」 の状態
j)が 存在す る。 チ ョ
を意味す る]、 ケチュア語でルナ 認閥 とミスティ れたι
ロが自人対 イ ンディオの体系から生み出されたものであるにして も、チョロは
何 らかの形でこのイ ンデ ィオ側の規定を受けるはずである。少な くとも、イ ン
デ ィオ側 の民族分類体系 と白人側の分類体系の交点 には何 らかの相互作用があ
るだろう。
イ ンディオであることの基本的要因 はイ ンデ ィオの文化的特徴を保持するこ
とよ りもアイユ6)と 呼ばれる共同体 に帰属す ることである。ア ンデスでは孤児
(″ aJich)と
い う概念が家族 の欠如だけでなく属すべ きアイユを持 たない状態
であること (Platt 1988:436)を 示すように、 アイユ はアイニや ミンカなど
様々な相互扶助 の関係 を制度化す ることで個人の生存 を保障 している「 家族」
であ り共同体 なのである。個人 は結婚 し独立の生計を持つに至 って初めて、ア
イユの正式のメンバーとして認め られ共有地の使用権 を与えられる。そして、
この土地使用の権利を維持 し互酬 システムの恩恵を享受するためには、さらに
祭礼 の主催や政治的役職 の遂行 などアイユの成員 としての義務 を果 たさなけれ
ばならない。 こうしたアイユの成員 として認め られる者がハキすなわち共同体
に守 られて「 人間的な」生活を送れる人なのであ り、それ以外の人 は全てカラ
すなわちハキとしての道徳性・ 共同体運営への参画が欠如 しているために共同
-41-
体 という隠れ蓑を得 られない人々なのである。
都市 に居 を定 めたイ ンディオはこうしたアイユの社会的義務 を事実上逃 れて
いることになり、たとえ出自がイ ンデ ィオであって も相互扶助のネ ッ トワーク
から切 り捨てられ、アイユの成員 とはみなされな くなることが予想 される。彼
らはハキとしての「 人間的」道徳心 に欠けたカラであり、イ ンディオ社会が彼
らを反道徳者 としてアウトカース トしたとして も決 して不思議ではない。佐藤
が報告 しているようにチ ョロがイ ンディオ共同体内部 に留 まる場合 においてさ
え、伝統的宗教実践 に冷淡で合理主義的経済行為 に専心する者 は他 の成員 と対
立す ることになる (佐 藤 1967:140)。
しか しながら、イ ンディオが自人文化を身につけたり、アイユを離れたりす
ることで、即 アウトカース トの対象 とはなるわけではない。む しろ、そういつ
カを買われ、イ ンディオ社
ヒ
たイ ンディオはエスニ ック・ ブローカーとしての台
会 のニュー・ リーダーに起用 されることも少なくない。都市 イ ンディオと共同
体 イ ンデ ィオの間にはアイユ=土 地 に限定 されない互酬性の確立が可能なので
ある。
都市へ移住 したイ ンディオに関する調査研究の多 くは、彼 らが出身地 との間
に密接 な関係 を維持 していることを指摘 している (Alb0 1985;Calderon 1984;
Sandoval and Sostres 1989)。 たとえば、出身地 に土地 を所有 して いる場合、
彼 らは親類縁者 にその耕作を依託 し所有地自体を手放す ことは少ない。通常 は
種子や肥料 などを土地所有者が提供 し、収穫物を土地所有者 と耕作者 との間で
折半する αJ pα rι か もしくは ″αλJが 行われ る。 アルボーの調査 (1987)に
よるとラ・ パ ス市在住の96%が 出身地 に土地 を保有 し、その内29%が 自分で土
地を耕 し、60%が 家族や親類、 7%が 知人 に耕作 を依頼 している。 こうした関
係 を持つことで、都市 イ ンディオは都市生活における収入の不足分 を補填す る
(Calderon 1984:20)と 同時に出身地 とのつなが りを維持 で きる。一方 で、共
同体 イ ンディオは耕作を引き受けることの見返 りとして都市 イ ンディオから資
金供与などの様 々な便宜 を引き出す ことを期待 している。
また、ラ・ パ ス市 には都市在住者 センターと呼ばれる一種の県人会組織が多
数存在する。都市在住者 センターは本来、新 たに都市 に出てきた同郷者が都市
に定着す るまでの援助や同郷者同士 の親睦 と相互扶助を目的 とする機関である
が、各共同体の在外公館 あるいは出張事務所的な性格を帯 びている場合が多い。
CIPCAが調査を行 ったサ ンティアゴ・ デ・ オッヘ村 の場合 には、都市居住者
は村 の役員改選 の総会に出席 し、またその会合で都市在住者 センターの役員 も
-42-
決定 される。この都市在住者 センターの役員 は簡易保健所や中学校 の建設ある
いは電話線 の架設、上水道 の敷設、農業普及員の招へいなどサ ンティアゴ村の
公共福祉のためにラ・ パ ス市 にある各省庁 に足を運 び、 ロビー活動あるいは正
規 の交渉を代行 している(Alb6 1979:508)。 このような形で都市 イ ンディオを
共同体の運営 に参加 させるのは、共同体を不在にすることによって社会的義務
を果 たせなくなった彼 らへの一つの制度的な救済の試みと見 ることもできる。
いずれにせよ、都市イ ンディオと共同体 とのつなが りはアイユだけの閉鎖的な
互酬性から空間的及 び関係性 において拡張 された互酬性 として展開 されてい く
可能性がある。
土地 の所有権をめ ぐる農地改革国家評議会 の特別機動隊 と農民 との見解の対
立に も、都市への移住者 の共同体 における社会的位置付 けを見ることができる。
農地改革 は土地を農民 に分配する際、実際に農村に住み土地を耕作する者 をそ
の対象 とすることを大原則 としていた。そのため、先祖から受継 いだ土地 の権
利を所有 しながらも都市 に居住す る者 は原則 としてその対象から外 されること
になった。農地改革が農民自身の手で実施 された場合 には彼 らに対する配慮 も
行 なわれていたが、政府の農地改革特別機動隊が介入 し農地改革 を実施す るよ
うになって以降、都市居住者 は強制的に排除 された。 これに対 して都市居住者
から権利 を主張す る抗議が多数起きている。イルパ・ チコ村 の住民 はこの抗議
を当然の権利 として擁護 しているのである。イルパ 0チ コ村の住民 にとって都
市 に居住する親類縁者、特 に成功 を収めている者 は彼 らの家族あるいは村 の住
民全体の誇 りであ り、ただ都市 に居住 しているだけで土地に対す る権利が剥奪
されることは彼 ら自身がその権利を奪われることと同 じであると証言 している
(Carter and Mamani 1982:410-11)。 この発言 は裏 を返せば、村 の住民 と都
市居住者 との間 にはすでに互酬的な関係が成立 してお り、共同体居住者だけが
土地 に対する権利 を与えられることはその関係のバ ランスを崩す ことに等 しい
ことを意味 している。
このように都市 と共同体の互酬的な関係が樹立 されることで表面的にはアイ
ユが拡張 され、都市 に出たイ ンディオも共同体に残 ったイ ンディオと同 じアイ
デ ンティティを持 っていると見 ることがで きる。 しか し、それは両者 の関係が
互酬的なものとして意識されている場合 にのみ言えることであり、その関係が
崩れたとき都市 とアイユ とい う異なるアイデ ンティティ基盤が浮き上がること
になる。本来、表面的には互酬的に見える行為 に も、その背後には人々の様々
な思惑が輻鞍 してお り、それをアイユの互酬性 とい う言説がイデオロギー的に
-43-
覆 い隠 し、他のアイデ ンティティの表出を抑制 しているだけに過 ぎない。都市
イ ンディオが出身地 に定期的に帰村す ることにして も、都市ではあまり評価 さ
れることの少ないサクセスス トー リーを、価値観 をある程度共有 しているアイ
ユの人々に語 ることで都市生活の うっぶんをはらし、自慢 しようとする心理的
な意図が働 いているためであると考えることもできる(Albo 1987:704‐ 5)。 に
も関 らず彼 らの帰郷行為をアイデ ンティティの連続性 と解 してよい ものであろ
うか。少 なくとも、 こうした下心を持 って帰 って くる都市 イ ンディオを共同体
イ ンディオは必ず しも快 く思わないだろう。
また、表面的には互酬的な関係 にある都市 イ ンディオと共同体 イ ンディオと
・ク
の関係 は、 しばしば都市 イ ンディオの側の大幅な供出超 とな り、パ トロン
ライア ン ト的なものに転化 しやすい(Alb6 1979)。 都市 イ ンディオの方 が利用
可能な情報 の質および量において圧倒的に勝 っていること、経済的成功の機会
が多 いことなどがその主 な理 由であるが、 これ らの絶対的な条件 に加 えて、 コ
ンパ ドラスゴ 7)に 見 られるような長 い白人支配 の中で制度化 されて きた社会
的上位者への強い依存体質がイ ンディオ社会内部 に存在 してお り、 この社会文
化的な諸制度が都市 イ ンディオと共同体 イ ンディオとの間の情報及 び経済力、
政治力 の不均衡な関係 を従属的な関係へ と転化 させる重要 な要因になっている。
アルボーが指摘 しているように、
「 [イ ンディオ社会では]社 会関係 は生産関係
に至るまで垂直的である。(中 略)自 ら生産できない ものに関 しては「 上 の」
誰かの援助 を必要 とする」(Alb6 1979:521‐ 522)。
コンパ ドラスゴはすでに存在する友人関係などの再確認 の意味を持つ場合が
多 いが、新 たに政治的な主従関係を樹立す る目的で使 われることが少 な くな
い。たとえば、かつてアシエンダ領主 は農夫をアシエンダにつなぎ止 めて置 く
手段 としてパ ドリーノ役 を引き受けていた。一方 で、 イ ンディオは社会経済
的な援助への期待から進んで社会的上位者 にパ ドリーノを見つ けようとす る
(Buechler and Buechler 1971:47)。 農地改革 によって地主 が都市部 へ引 き
上げた後 は、 このパ ドリーノ役への依頼 は農村駐留 の軍人や新興 の商人、 さ
らには経済的に成功 した都市 イ ンディオなどに向 けられるようにな っている
(Crandon 1986:465)。 ところが、 こうしてパ ドリーノを依頼 される人 たちも
一方では、政治経済的にさらに上位の人々とコンパ ドラスゴを結んでいる。そ
の結果、 コンパ ドラスゴのネットワークが商取引や政治的主従関係、労働組合
組織などを通 じて都市を中心 に張 りめ ぐらされ、系列化されることになる。 こ
うした関係の中間的な位置を占める都市 イ ンディオは、一方 において共同体 イ
-44-
ンディオのパ トロンとしてイ ンディオ社会を率 い、他方で自人社会への忠誠 を
要求 される。アイデ ンティティ (社 会的帰属 の表明)が グループヘの忠誠 と行
動 の源泉である限りにおいて、彼 らは少 な くとも二つのアイデ ンティティを使
い分けなければな らない。その操作 に失敗 したとき、彼 らはアウトカース トと
い う最後通牒を突 きつけられる。
ところで、イ ンディオはイ ンディオである以前にアイマラやケチュアであり、
またそれ以前 に各共同体すなわちアイユの成員である。我 々がイ ンディオとい
う集団を考えようとする場合、それはまずアイユにベニスを置いた集団であり、
次 にアイマ ラやケチュアなどの民族集団、そして被征服者 としての原住民集団
とい う複数 のカテゴリーの重層構造をなしていること、またそのアイデ ンティ
テ ィは状況 において使 い分け られることに注意 しなければな らない。おそらく、
これはアイユ自体ある程度伸縮自在 なエゴ集団であることと無関係ではないだ
ろう。アイマラ語やケチュア語の人称体系の第 1人 称複数形 には第 2人 称 を含
む包括的第 1人 称複数形 とそれを含 まない排他的第 1人 称複数形が存在す る。
つまり、アイマラ語・ ケチュア語話者は会話のレベルにおいて常 に対話者が自
分の集団の人間であるか否かを区別 している。ハキとカラの区別 は本来 この第
1人 称複数形 の使 い分けに連動 していると考えられる。ハキとは話者 の集団 に
属す人、つまり排他的第 1人 称複数形 で語 られる人である。 このハキ集団が同
心円上 に拡大 して行 った姿がイ ンディオのアイデ ンテ ィティ構造であると考え
られる。アルボーはアイマ ラ、農民、イ ンディオという3つ のカテゴ リーにハ
キとカラを区別す る基準がそれぞれ存在す ると述べている (Alb6 1979:518)。
都市 に住み、農業を営まなくてもアイマラ語を話す とい う点ではハキであり得
るし、また農業を数世代前に捨てた鉱山労働者 も自人支配を受けるイ ンデ ィオ
であるとい う点では農民 と同 じハキとなる。 このようにイ ンディオのアイデ ン
テ ィティ領域 はアイユを中心 としてある程度自由に拡大 した り、縮小 した りす
ることがで きる。チョロ (都 市 イ ンディオ)も そのアイデ ンティティのスケー
ルによってアウトカース トされた り、あるいは逆 に リクルー トされた りするこ
とになる。
イ ンデ ィオ内植民地主義
以上二つのチ ョロ=カ ラをめ ぐる民族関係 を背景 としてイ ンディオが都市部
へ移住 してい くとき、彼 らは時には「 イ ンディオ内植民地主義」 とで も呼ばざ
るを得ない関係 の中で自らの生計を立てていかなければならない。つまり、都
-45-
市 に移住 したイ ンディオは共同体 に残 った家族や親戚からなんらかの援助を期
待できるにしても、原則 として都市で独立 した生計を立てることを期待 されて
おり、当然自らの経済活動 における合理性 を追求せざるを得ない。その場合、
彼 らは無意識 の内にであれ意図的にであれ、自人 によるイ ンディオ支配 の関係
を踏襲 し再生産することになる。差別を回避す るためには可能である限 り差別
をする側 に同化 してしまうことが最 も容易な方法であることは何の説明 も要 さ
ないであろう。また、都市 イ ンディオは基本的には農産物 の消費者であ り、そ
の生産者である共同体 イ ンディオの経済的利害 と根本的に対立するとい う関係
にある。あるいは、都市 イ ンディオが交通及 び流通 システムを支配 しているの
に対 し、共同体 イ ンディオはその利用者である。 こうした都市 イ ンディオと共
バ
同体 イ ンディオとの経済的な関係 は必ず しも自由市場の需要 と供給 の ランス
の上 に成 り立 っているわけではない し、またいわゆる植民地主義的な資本主義
経済の世界 システムからも自由であるわけではない。む しろ、国家 の政治 シス
テムや経済機構が自人によるイ ンディオ支配 とい う権力構造を温存 している限
り、経済政策 の多 くは自人・ イ ンディオの民族関係を反映 したものとなる。チョ
ロを取巻 く全ての経済活動 は自人 とイ ンディオという民族関係の力学 の作用を
受 けるがために、都市 と農村 といったイ ンディオ内部 の経済的なクラス関係 も
自人対 イ ンディオとい う民族の関係 に置 き換えられることになる。
たとえば、都市 イ ンディオの行商人の中には自分たちも本来 イ ンディオであ
ることを棚 に上げて、
「紳士 (白 人)だ った ら値切 った りしない もんだ」 とい う
3)ヵ
、
脅 し文句 を使 ってイ ンデ ィオの劣等感 に付 け込 んだ商売 をす る者 れ る
(Montai0 1987:70)。 また、警察官や下級公務員 による弱 い者 い じめ的 なイ
ンディオヘの対応 は日常茶飯事である。 もちろん、親戚や友人などの身内には
融通を利かせることはあるにせよ、行 きずりの見知 らぬイ ンディオに対 しては
優越的な感情をあからさまにした紋切型 の官僚手続 や自分 の利益 を優先す る経
「 都市
済活動が行 なわれる (Alb6 1985:199)。 結局、アルボーが言 うように、
居住 イ ンディオの多 くは都市的上昇の野望 を半ば絶 たれた結果、注意を再 び農
村 に向ける。 しかし、今度 は社会的に上位の立場からであ り、必要 に迫 られて
とい う状況 もあって、農民自身を食 い物 にすることになる。 こうして、 [イ ン
ディオの]都 市居住者 の中に農民 [イ ンディオ]を 直接搾取す る者が現れるの
である」(Alb0 1985:104)。 ほとんどの経済活動が自人対 イ ンディオという民
族関係 のフィルターを通すとい う点で、彼 らは自人のイ ンディオに対する民族
差別的な態度 を踏襲することになる。彼 らが自入社会 に同化 もしくは吸収 され
-46-
たか らそういった行動 を取 るというよりは、むしろ、自人 によるインディオ搾
取 の民族社会的な関係 の中で経済活動を行 う以上、経済的合理性 を追求するた
めには自 らを自人 と見 なさざるを得ないのである。本稿 ではこのような状況を
イ ンディオ内植民地主義 と呼ぶ。 このインディオ内植民地主義を実践する都市
イ ンディオ個々人が出身地 の共同体からアウトカース トされることは希である
にして も、イ ンディオ内植民地主義がイ ンディオ間の社会的言説 として語 られ
るとき、彼 らは匿名性 を帯 びた無名の不特定な人々とな り、イ ンディオの意識
のレベルで次第 に普遍化 され、共同体イ ンディオ対都市 イ ンディオとい う対立
関係が意識されるようになってい くだろう。そうなった時、チョロが自人 によ
るイ ンディオ搾取 の関係 をイ ンディオ内部 に繰 り込み再生産 してい くとい うプ
ロセスの円環 は閉 じる。イ ンディオ内植民地主義がチョロの倉J世 神話 と化すの
である9)。
白人対 イ ンディオの民族関係がイ ンディオ内部 に繰 り込まれた時、チョロ的
行為 をとる人 々の集団ないしは階級 は民族 のサブ・ グループを形成す る。たと
えば、植民地時代、自人が不在である地方村落 において行政 を握 る支配層 を形
成 したのは、混血あるいは元 イ ンディオ貴族、パ ッシングによる成 り上が リイ
ンディオなどであった。彼 らは出自の点からすれば本来 イ ンディオであるが、
ミスティなどと呼ばれ民族的にはイ ンディオと区別 された。スペイ ンの植民地
行政 に組み込まれることで、彼 らはイ ンディオの支配者 として自 らをイ ンディ
オから差異化する特権を付与 されたのである。 こうしたイ ンディオ内部 の差異
化が常 に存在 し、支配者側 はそれを吸収することで植民地支配を強化 して きた
と言える。現在生 じつつあるチョロが支配者層 に取 り込まれるか、あるいは独
自の利益集団を形成す るかは別問題 として、チョロの台頭 はイ ンディオ内部 に
おける植民地主義的な民族関係の再生産 のメカニズムから無縁ではない。それ
はまた、ハキとカラもしくはルナとミスティという上 に述べたア ンデス・ イ ン
デ ィオ社会 における民族分類 の力学の影響を受けるものである。
3.チ ョロの エ スノ・ ポ リテ ィクス
インデ ィオの地位改善戦略
前章 における考察からチョロ化現象 というのはイ ンディオ農民 を取 り巻 く二
つの社会的な構造が大 きな要因 となっていることがわかる。つまり、一つ は共
同体の運営管理への参加を要求するイ ンディオ社会のアイユ構造であり、もう
-47-
一つ は都市へ移住 したイ ンディオ農民 は自らの生活の維持 のためにはイ ンディ
オ性 を搾取す る側に回 らねばならないこともあるというポ リビアの植民地主義
的な社会構造である。 この二つの社会構造 の下でアイデ ンティティの操作に失
敗 した時、都市 イ ンディオはカラとしてイ ンディオ社会からアウトカース トさ
れ、都市部でチョロとして堆積 してい くことになる。 しかし、チョロは止むを
得ない理由があったにせよ、自 らの意志で都市 に移住 し、また共同体イ ンディ
オを搾取 している点を忘れてはならないだろう。都市 イ ンディオの研究 に関 し
ては往々にしてこの点が看過 されてきたように思われる。チョロ化 は、仮にイ
ンディオ 0ア イデ ンティティを剥奪 されたとしても、チョロとして振 る舞えば
それ以上 の見返 りが期待できるという予測の下での行動だったのではないのか。
少 なくとも、チ ョロの行動 は非 イ ンディオ文化に手 を付 けたときからすでにイ
ンディオ・ アイデ ンティティが剥奪 されることを織 り込んだ一つの戦略であっ
たはずだ。そういう意味ではチョロ化現象 はイ ンディオが自らの生活を改善す
るために選んだ一つの戦略であ り、民族構造を踏 まえた生活改善のためのポ リ
ティクスとして考える必要がある。自人優位 の絶対的な関係があるにしても、
チョロ化 のよ うなパ ッシングだけがイ ンディオの生活 を改善する唯―の方法で
はない。革命後のイ ンディオ農民の復権運動 にみられるようにイ ンディオ・ ア
イデ ンティティを再評価す る運動 さえ起 きている。そうい う意味では、チョロ
化現象 を理解す るためには、まずイ ンディオの生活改善のためのポ リティクス
の全体像から考え直 してみる必要がある。
イ ンディオとは繰 り返すまでもな く、自人の政治及 び権力機構 に対峙 させ ら
れる民族的カテゴリーである。植民地支配 という社会関係の中で構造化 された
民族的 カテゴリーであるため、イ ンディオ及びその文化 は自人のそれに比べて
劣 った ものであるという偏見ない しはステ レオタイプが植民地時代を通 じて形
成 されてきた。 しかし、イ ンディオが自人 よりも劣 っているというレッテルを
貼 り付 けられ、そうした差別による疎外感をより強 く意識 し出 したのは、ある
意味で植民地時代 よりもむ しろ独十後、特 にポリビアでは1952年 革命後のこと
である。イ ンディオは農民 (カ ンペシーノ)と 呼ばれ、国家の一員 としての政
治的経済的役割 を果たす ことを期待 された。農民 という名称が自人やイ ンディ
オといった民族的なカテゴ リーを取 り払 い、イ ンディオの国家への統合 を容易
なものに しようとする意図を含んでいたことは確かである。 しかし、実際問題
として農民 という用語 はただ単 にイ ンディオに置き換 っただけに過 ぎず、民族
差別的な社会慣行が廃絶 されたわけではない。む しろ、彼 らは地主 の保護・ 監
-48-
督 を受 けられない法的に平等な市民 として扱われることになァた分だけ、教育
程度が低 く、都市の社会的マナーを知 らない二級市民 に位置づけられることに
なったのである。
こうした状況の下でイ ンディオが取 り得 る生活改善 の方法にはどのよ うな も
のがあるだろうか。本稿では一つの試みとして、(i)パ ッシング、(ii)パ トロ
ン
・ クライア ント的な関係 による社会的代償、(面 )政 治 もしくは武力闘争、
(市 )宗 教的帰依を考えておきたい。
第 1の 選択肢は、劣等市民であるとい うレッテルを回避するために指標 とな
るものを隠 し、本来持 っていないかのよ うに振 る舞 うことである。言 い換えれ
ば、 アイデ ンティティが問題 となるような状況を極力作 り出さないことである。
そのためには先ず、言葉や衣装 を変えることから始 まる。 この戦略 はまさしく
革命政権が標榜す る一国民 になることである。そのための教育制度や社会的機
会 は国家 によってある程度提供された。また、混血が進み人種構成が複雑化 し
ているためにスペイ ン語を話 し、自人 と同 じ服装をしていればインディオを見
分けることはほとんど不可能である。イ ンディオと自人、特 にメスティソとを
区別 しているのは言葉や習慣 などの文化 と帰属意識 の違 いだけであり、パ ッシ
ングはそれらを変更す るだけで容易 に実現で きる。
第 2の 選択肢はイ ンディオが社会的劣等者であるとい う社会的通念を逆手 に
取 り、白人など社会的上位者から援助や慈善事業などの形で社会的保障を引き
出す戦略である。 この方法が有効な限り、イ ンディオは敢えてそ ういった社会
的通念を取 り去ろうとはしないであろう。む しろ、彼 らは自分たちは劣 った人
間であるか ら社会的上位者 の援助が常 に必要なのだとさえ主張 し得 る。それは
ある意味でパ トロン
・ クライア ント的な関係 に寄生する形で劣等市民のレッテ
ルが持つマイナス面を補 うとする戦略である。前章で述べたコンパ ドラスゴが
この社会的補償戦略の典型的な例である。 コンパ ドラスゴ関係 において劣 った
市民であるというレッテルはスティグマ的な感情を誘発するアイデ ンテ ィティ
とい うよりは、縦型 コンパ ドラスゴを成立 させるための一つの社会的記号 とし
て機能す る。上位者への社会的忠誠を誓 うことが コンパ ドレを見つける最善 の
方法であろう。
「 私 は絶対 にあなた様 に逆 らいません」 と言 うよりは、
「 私 はイ
ンデ ィオですから逆 らおうにも逆 らえません」 と言 った方が説得力があるはず
。
だ。
ただ し、 こうした関係 の樹立 もしくは継続 は社会的保障が得 られる限 りにお
いてなされるものであり、実質上の見返 りが期待できない場合には、む しろ搾
-49-
取的な関係 を告発す る契機 を提供することになる。たとえば、ポ リビアのイ ン
ディオ農民 はパ リエン トス軍事政権時代 (1964-1969)に 、農民が軍事政権 を
支持す る代わりに軍事政権 は学校や保健所など公共施設の建設 を農民に優先的
に実施するとい う軍農協定を結んだ。 この協定 はほぼ軍事政権時代を通 じて維
持 されるが、軍事政権半 ば頃からイ ンディオ農民が復権運動 を展開する上で、
彼 らの政治的自主性 を否定するものとして徹底的に糾弾 されることになる。
第 1と 第 2の 戦略 は他者 によってステレオタイプ化された自らのアイデンティ
ティを改善 しようとはしない。パ ッシングのように否定的なアイデ ンティティ
が問題 となることを避けるにせよ、パ トロン 0ク ライア ン ト関係のよ うにアイ
デ ンティティを社会的保障で隠蔽するにせよ、イ ンディオ 0ア イデ ンティティ
は否定 されたままである。逆 に、イ ンディオがアイデ ンティティの主体性を回
復す るには少なくとも二つの方法が考えられる。一つは武力 もしくは政治闘争
によって抑圧的な関係を改善 し、社会的民族的な主体性を取 り戻す こと、つま
り第 3の 戦略である。そして、 もう一つは白人 との関係 を断ち切 ることである。
しか し、運動 としてあるいはイデオロギーとしてイ ンディオの孤立主義が展開
されることはあって も、現実問題 としてイ ンディオだけの孤十 した社会 を形成
することは不可能である。む しろ、神話や宗教など情報 の隠蔽 によって外部社
会 との接触を最小限化する方法が現実的である。 これが第 4の 戦略 となる。い
。
ずれの場合 にせよ、否定 されているアイデ ンティティの価値転倒 す なわちイ
ンディオ文化の再評価が不可欠の条件 となる。
第 3の 戦略では、以前 は千年王国的な反乱 とい う武力的手段 に訴 えざるを得
なか ったが、革命などによってイ ンディオの国家 レベルの政治への参加が認 め
られた ことによって、もっぱら政治闘争 もしくは労働組合運動 の形 を取 るよう
になる。それらの初期 の闘争では、イ ンディオは自人に対峙する利害集団 とし
て、アイユに根 ざした内発的なアイデ ンティティよりもその領域 を越えて全て
のイ ンディオに共通する「 抑圧 されたイ ンディオ」とい うイデオロギー的なア
イデ ンティティが運動 のシンボルに使われた。ポ リビアにおけるこうした運動
の中心的役割を果たすのが1960T頃 から始 まった トゥパ ック 0カ タ リ運動 であ
る。
第 4の 戦略 はあくまでも自入社会の支配 を受けないイ ンディオ社会を形成 し、
その中でイ ンディオの幸福 を追求す ることであり、個人的な信仰 によって救済
を求めることは含めない ものとする。個人的な救済 はむ しろ第 1あ るいは第 2
の戦略の付随条件 と見なすべ きである。 ここで第 4の 戦略 として考えているの
-50-
は民族 としてのポ リテ ィクスである。民族 は本来、構造化された相互関係 の中
で情報 を規格化する、つまり民族間の差異あるいは現象を民族的なタームで隠
蔽す るという特徴 を持つ (Barth 1970:25)。 だとすれば、物理的 に自人社会
か ら孤市 しな くて も、イ ンディオという民族性 を強化することでインディオ社
会 は閉鎖性 を高めることがで きる。たとえば、 カ リシ リ神話 つの活性化 にそ
の具体例を見ることができる。国家 など外部社会の他者がイ ンディオ社会 に侵
入 しその価値規範 を変革 しようとする場合、彼 らはしばしばカリシリのレッテ
ルを貼 られ、イ ンディオは彼 らとの接触自体を忌避するよ うになる (Crandon
1986;Lewellen 1978;Rivera 1989)。
この神話によって侵入者 はカ リシリのよ
うな非人間的なものとして再解釈 され、彼 らが もたらす価値 は脱構造化される
とともに共同体から排除 されるのである。
これ ら四つの戦略のいずれかが選択されるにしても、イ ンディオのアイデ ン
ティティには常 に二つの指向性があることに注意 しなければな らない。一つは
自人や他民族、他 アイユなど他集団 との関係 において生まれるグループ意識の
形成であ り、もう一つは家族やアイユなどに根ざした本源的なアイデンティティ
ヘの回帰である。イ ンデ ィオのアイデ ンティティ基準は常 に「 抑圧 されたイ ン
デ ィオ」 といった汎イ ンデ ィオ、アイマ ラやケチュアなどの民族集団、あるい
は州、アイユ、家族 などの成員 といったい くつ ものレベルの間で揺れ動 いてお
り、集団的なアイデ ンテ ィティ管理 は常 に細分化・ 個別化 という可能性を留保
していることになる。たとえば、 トゥパ ック・ カタリ運動 のような州あるいは
全国 レベルの政治闘争は本源的なアイデ ンティティ 0ベ ク トルによって常 に分
裂の危機 と背中合わせの状態 にある。実際、イ ンディオ農民運動 のシンボルと
して トゥパ ック・ カタリ (ラ ・ パ ス州 アイマラの英雄)を 受け入れていた各地
域で も、次第 に トマス ●カタリ (ポ トシ州)や アピヤヮイキ・ トゥンパ (タ リ
ハ州)な ど各地域 の英雄が シンボルとして用 い られるようになっている。また、
イ ンディオ・ アイデ ンティティの遠心力はパ トロン 0ク ライア ン ト関係 によっ
て政治的に利用 され易 く、第 3の 戦略を追求する集団 も場合 によっては第 2の
戦略 に乗 り換えることがあり、結果 として、イ ンディオの系列化が進み内部 に
抗争が生 じる。さらに、個人 によっては第 1の 戦略を重視す るようになる場合
もあるはずである。
こうした四つの戦略 は一人のイ ンデ ィオ農民がすべての選択肢 の中からどれ
か一つを自由に選べ るという訳ではない。個人 レベルで展開 し得 るのは第 1あ
るいは第 2の 選択肢 に限 られる。第 3、 第 4の 選択肢はそういった戦略 に必要
-51-
なイデオロギーの存在 もしくは新 たな形成が前提 となる。また、時代の変遷 に
よる四つの戦略への相互干渉 の可能性 もある。チョロ化現象 G轟 戦略)と トゥ
パ ック 0カ タリ運動 (第 3戦 略)は 戦略的には相補的な関係にあると言えるだ
ろう。 しか し、そういった見方 はチョロ化 した後の人々の存在を考慮 に入れた
ものではない。民族的なアイデ ンティティ・ フラッグは一度挙げて しまえば簡
単 には降ろせない。イ ンディオ農民がチョロ化 して しまうと、イ ンディオ農民
に戻 るとい うことは絶対ではないにしてもかなり困難 になってくるはずだ。そ
こに、チ ョロと呼ばれる人々が蓄積 してい く不可逆的なプロセスがある。また、
彼 らがチョロ集団 としての利益 に日覚め、またある程度 の既得権益 を確立 し、
政治的経済的実力を伴 うようになった場合、彼 らは自人が支配す る社会構造 そ
の ものへ挑戦するかも知れない。チョロの堆積 0台 頭がそ ういった民族 の関係
及 びポリティクスに変化 をもたらす可能性 を秘 めていることは否定できない。
しかも、そうした変化 はイ ンディオ農民 の戦略その ものに根本的な変化 をもた
らす ことになる。 トゥパ ック 0カ タリ運動 も実 はそうしたチ ョロのポ リティク
スの中で展開 されている可能性は否定できない (拙 稿 Ю鯰年参照)。 その場合、
第 3戦 略 としての トゥパ ック・ カタリ運動 はイ ンディオの地位改善戦略だけで
は理解できない別の要素を含んでくることになる。
インデ ィオ・ アイデンテ ィティの弁証法
チ ョロが政治運動や文化の活性化運動などで中心的な役割を果たすことはあっ
ても、チョロだけの利益を追求する姿勢 はほとんど見 られない。む しろ、彼 ら
はイ ンディオ農民運動の指導者 あるいは支持者であることが多 い。その場合、
彼 らは自らをイ ンディオ文化の正当なる継承者であると主張する。少なくとも、
自人支配 によって失われたイ ンディオの主体性を取 り戻すのだと主張す る。ボ
リビアにおいて今日、イ ンディオ農民運動の代名詞 とさえなった感がある トゥ
パ ック・ カタリ運動 も本来 は都市 に移住 したイ ンデ ィオの間に発生 した運動で
ある。それはチョロが都市生活で見失 った、あるいは否定 された自らのアイデ
ンティティを取 り戻す試みとして始め られ、後にイ ンディオ農民の労働組合運
動 に接 ぎ木 されていった運動である (Hurtado 1986)。
しか し、農民運動 は労働組合組織 を通 じて中央政府から高度 に系列化 されて
しまったため、共同体 に戻 った指導者 たちも次第 に官僚化 し、イ ンディオ内植
民地主義 の枠をはめ られ、再 びチョロ化 への道 をたどっているのが現状 であ
る②。 こうしてチョロ化の度合 いを強める指導者 はいずれ追放 された り指導カ
-52-
を失 うことになる。彼 らの全てが こうしたコースをたどるにせよたどらないに
せよ、彼 らは本当にイ ンデ ィオとしてイ ンディオの指導者 になったのか、もし
か したらイ ンディオであることを偽装 したチョロなのではないのか、 と疑 って
みる必要 があるだろう。アウトカース トされるまで何故 イ ンディオ農民運動を
指揮 し、支持 し続けるのか、また何故チョロ独自の運動を展開 しないのか、そ
の理由を考えなければな らない。
イ ンディオ農民運動では運動 のシンボルとしてイ ンディオの根元的なアイデ
ンテ ィティ基盤であるアイユよりも、理想化 されたイ ンカ帝国や植民地時代 の
イ ンデ ィオ反乱 の指導者 たちの名前 といったものが用 い られることが多 い。前
章で触れたようにイ ンディオのアイデンティティにはアイユ 0レ ベルから白人
との関係で表れる原住民 イ ンデ ィオ・ レベルまで複数 の段階がある。そういう
意味ではアイユ・ レベルにまで細分化 したイ ンディオを動員するために何 らか
のシンボル操作が必要であることは容易 に理解 できる。 しか し、そ ういった運
動が政治的なオプションとしてイ ンディオの取 り得 る戦略の一つであるにして
も、それを選ぶ必要性 はどれだけあるのか。また、アイユからかけ離れた シン
ボルの使用 は、共同体イ ンディオにしてみればチョロをアイユからアウ トカー
ス トするために用 いた言説 を自 ら放棄 し、アイユを再 びチョロに解放すること
に もつながる。アイユの運営で危険を冒 してまで第 3の 戦略を選択するメ リッ
トは一体 どこにあるのか。イ ンディオ農民が リスクの最小限化を図ろうとする
モ ラル・ エコノミス トであり、また利益追求 においてはパ トロンの追放 も厭わ
ない合理キ義者であればある程、氾イ ンディオ的な運動は非イ ンディオ的な発
想であると言わざるを得 ない。
一方、チョロが経済的成功などによって出身地からの依存度を弱めてい く限
りにおいてチ ョロがイ ンディオ農民の復権運動を支持する必要性はあまりない。
む しろ、自らの利益追求 のためには独自の運動を展開する必要 があるだろう。
に もかかわらず、彼 らが敢えてイ ンディオに接近す るのは、自らの政治的発言
力 を高めるためにはイ ンディオ農民を動員する必要 があるからではないだろう
か。ボ リビアの人 口の過半数はイ ンディオによって占め られている。彼 らを動
員す る者が政治を制することは火を見るよ りも明 らかである。そうい う意味で
は、アイユ共同体のアイデ ンティティに訴えることがで きなくなったチョロに
とって、 トゥパ ック oカ タリ運動は両者がお互 いに共有で きる歴史的過去 にま
で遡ることで新 たなアイデ ンティティを共有す る格好 の口実 を与えたのだと言
えよう。
-53-
また、70年 代 にラ・ パ ス市ではグラン 0ポ デール祭のが急速 に発展 した。 こ
の祭 りは、そのパ レー ドのルー トがチョロの生活圏からラ・ パ ス市 の目抜 き通
りにまで拡大 して行 った ことに象徴 されるように、ラ・ パ ス市 においてチョロ
人口が急増 し、また経済的にも政治的にもかなりの影響力 を持つようになった
ことを示す ものである。 と同時に、 この祭 りの拡大 は、アルボーとプ レイスベ
ルクが指摘す るように、都市 に出てきたイ ンディオが都市 に同化 しようと必死
に努力 しながらも、ア ンデスのルーツ (想 像・ 創造 された氾 イ ンディオ的 な
伝統)に 帰 っていかざるを得ない、またそうして初めて都市化 (一市民化)で
きるとい う矛盾 と苦悩 に満 ちたイ ンディオの心理 に支 え られて い るので ある
(Albo and Preiswerk 1986:74_5)。 都市 の祭 りでイ ンディオ農民 の文化 を用
いることに対 し、祭 りの参加者の多 くは国の文化 を守 っているのだと主張す る
(ibid:74-75)。 それは決 して単 なるチョロのイ ンディオヘの回帰現象ではない。
それは、都市対農村あるいは白人対 イ ンディオという民族構造 を踏襲 して初 め
て可能 となる一つのナショナリズムなのである。
しか し、どれだけのチョロがそういった「 ア ンデス文化」の言説 におけるメ
タ言語性 に気が付 いているのだろうか。いずれにせよ、イ ンデ ィオ農民運動 あ
るいはイ ンディオ農民文化の保護・ 復興へのチョロの参加 は自人・ イ ンディオ
とい うカテゴリー、すなわちチョロという存在を認めない構造その ものを取 り
払 うための一つの戦略 として考えることができる。白人側につ くことはインディ
オを限 りな く疎外す ることであり、隠 されたチョロのアイデ ンティティの傷 口
を癒す ことにはならない。むしろ、疎外され抑圧 されたイ ンディオの側からそ
ういった民族支配の構造 を告発 し、弾劾す ることが必要 なのかもしれない。そ
のためにチョロはイ ンディオ農民運動 に加わ っているのではないだろうか。 し
か し、一方で、 こうしたチョロのイ ンディオヘの依存がイ ンディオ内植民地主
義 と表裏一体の関係 にあることも事実である。そうした関係への反発が しばし
ば、共同体 イ ンディオ側 においてアイユ・ アイデ ンティティヘの回帰現象 とし
て現れる。チョロのイ ンディオ動員 はイ ンディオ・ アイデ ンティティをめ ぐる
アイユ指向性 と氾イ ンディオ性の弁証法の形を取 らぎる得 ないのである。
4。
ま とめ
ア ンデス地域 における従来の人類学的 0社 会学的研究ではチョロを単 なるイ
ンディオの都市部への移住者 とみなそうとする考え方がかなり支配的であった。
-54-
確かに、都市 に移住 したイ ンディオが出身地 との間に強いつなが りを持 ち、ま
た彼 らが出身地 の共同体 における社会的互酬性 を都市 と共同体の経済的な相補
関係 に拡張す ることで、本来共同体の成員 に課せられる義務 を果 たそうとして
いる。その意味では彼 らは依然 イ ンディオであると言えるかもしれない。 しか
し、共同体を離れたイ ンディオは基本的には自分で独立 した生計 を営 まなけれ
ばならない。 しかも、民族差別的な社会制度や諸慣行 の多 くをいまだに温存 じ
ていると言われるア ンデス諸国においてイ ンディオが都市部で生計 を立てるこ
とは決 して容易ではない。自らの生存戦略 として、彼 らは共同体 に残 ったイ ン
ディオを支配・ 搾取す るための買弁 となって糊 口をしのがざるを得ない場合 も
多 々ある。その場合、彼 らはもはやイ ンディォとは見 なされず、イ ンディオ搾
取 の一翼を担 うカラとなる。 こうした状況 に追 い込まれた都市在住 イ ンデ ィオ
を共同体 イ ンディォと同 じイ ンデ ィオとい うカテゴ リーだけで分析す ることは、
もはやそれぞれの生存を賭けた戦略を明 らかにする意味で も不十分である。少
な くとも、都市在住イ ンディオは自らの存続 のためには、時には共同体 に残 っ
たイ ンディオとは異なる利害を追求す ることもあるという可能性を考えてお く
必要がある。そこで、本稿 では都市在住 イ ンディオが共同体 イ ンディオを搾取
するような状況をイ ンディオ内植民地主義 と呼び、そ うした関係が無名性 の下
にチョロとい う民族集団を生み出 してい くプロセスを検証 した。
チョロが集団 として仮想的に機能す るものであるにしても、都市在住インディ
オが都市 において一大社会勢力 となりつつある現在、彼 らが国家政治 に及ぼす
影響力 には無視で きないものがある。その場合、チョロはもはやイ ンディオの
メスティソ化 の過程における過渡的な存在 としてではな く、むしろ社会的資源
の獲得や再分配 を目的 とする独自のアクション・ グループとしてかな り現実味
を帯 びたもの となって くるのである。
農民の都市への移住 は世界中至 るところで起 っている現象である。 しか し、
都市 に移住 した農民が新たな民族的カテゴ リーとして認識されることはほとん
どない。そ ういう意味では都市化 したイ ンディオに対 してチョロとい う民族的
なカテゴ リーが付与 されるア ンデスの事例 は特殊である。それはスペイ ン植民
地支配によって作 り出された白人対イ ンディオという二元的な民族関係 とア ン
デス共同体が持つ、やはり二元的な社会的分類 のカテゴ リーが交差 したところ
に生 じたものであ り、一般的な民族 とい う概念から見ればいびつに歪んでいる
と言 って もおか しくない。それは自人及 びイ ンディオの双方から発せ られる、
他者 に対す る二つの恐怖 の眼差 しが結んだ民族 の虚像で しかないだろう。 とこ
-55-
ろが、 このチョロという仮想集団 は近年 の首都圏への一極集中によって実体性
を帯 びたものとな りつつある。歪んだ民族関係の中で彼 らはこの虚像 に代わる
新たな具体的なアイデ ンティティを確立 しようとはせず、むしろ彼 らの存在 を
虚像化す る眼差 しの構図その ものを批判 しようとしている。
多民族国家 において都市へ移住 した農民 は通常、縦割 りの民族意識つまり都
市 と農村 の間で民族的なつなが りを強化 してい く、いわゆる再部族化現象が生
じる。 こうした部族意識を政治的バ ックとして国家 に正当な資源配分を要求す
るのが現代 の民族現象 の一般的なあ り方である。 しか し、ア ンデスでは都市化
したイ ンディオがチョロという異民族 に帰属変更されることによって、 この縦
割 りの民族関係が本来存在 し得なかった。 この都市 と農村 をつな ぐ民族 の縦割
関係が不在であるために、ポ ピュ リズムによって農村 のインデ ィオ農民を支配
しようとする、あるいは系列化 しようとする争 いが自人内部及 びイ ンデ ィオ内
部で行われてきたと言 って も過言ではない。チョロはある意味でその争 いに名
乗 りを上げたのだと言 えるかも知れない。 しか し、資源の再配分をめ ぐるこの
争いへのチョロの参加 は、白人 とイ ンディオの関係で規定 されたポ リビアの、
そしてア ンデス諸国の民族関係 に一つの変更を迫 るものである。チョロが都市
の祭礼 にイ ンデ ィオの文化要素を持 ち込むの も、また逆 にロックンロールのよ
うな外来文化 をもイ ンディオの文化 として捉 らえ直そうとするの もの、 いずれ
もイ ンディオ農民を動員す るためのイデオロギー操作 の一環であ りながら、そ
れは現在 の民族関係へのアンチテーゼとなっている。チョロは白人対 イ ンディ
オとい う現在の民族関係を批判す ることの中に先ず、自 らの存在意義 を主張 し
ているのである。
主
注
【
】
1)メ ステ ィソは単 に生物学的 な混血 とい うよりは、社会的文化的 な混血 の意味 で用 い
られ、支配者層 に属す非白人 を意味す ることが多 い。また、 ア ンデス地域 で は ク リ
オージ ョ cri01loが この意味 で用 い られ ることもある。本稿 では以降特別 の断 り書
きがない限 り、
「 白人」 カテ ゴ リーにはこうしたメステ ィ ソ及 び ク リオ ー ジ ョを含
む もの とす る。
2)し か し、 このチ ョロに対す る軽蔑 はチ ョロヘの恐怖 の裏返 しで もあ りうる。 た とえ
ば、次 のよ うな記述 には伝統的 なイ ンディオとは違 うチ ョロの姿 に恐怖 の 眼差 しを
向ける自人 の姿 が透 けて見える。
「 チ ョロはすば しこく、捉 え に くい。 いつ もの場
所 に行 けば チ ョロがいるだろうと思 って ももうそ こにはいない。社会階層 に位置 づ
-56-
ける ことなんて、できや しない。 チ ョロは我 々 よ りもず っと頭 がいい。 チ ョロ は押
しま くり、金を作 る。チ ョロは基本的 な世渡 りの方法 を修得 して い るか ら、躊躇 な
くこれ みよが しに札 び らを切 ることもある。 しか し、 それゆえに、チ ョロはイ ンディ
オや伝統的 な農民 をはるかに上回 る力を もってい るので ある」(Bourricaud 1975:
355)。
3)な お、 チ ョロ化現象 は農地改革以前 のペルーを調査 した佐藤 (1967)が 報告 して い
るよ うに、農村部 で もすでに見 られた現象である。
4)こ の点 に関 しては、拙稿 (1992)で すでに論 じている。 しか し、私 はそ うい った形
での人類学 の「 応用」 を決 して否定 して いるわけではない。
5)国 民国家 のモデル となる自人 は各国の政治的勢力図 によって様 々であ った。 た とえ
ば、混血 の人口比 が圧倒的に高 く、また混血 が政治的経済的 な実力 を備 え るに至 っ
たメキ シヨではメスティソ、混血 が あま り進 んでいなか ったボ リビアで は ク リオ ー
ジ ョがそれぞれ ここで言 うところの 自人 モデルである。混血 は国民国家 へ の統合 の
途上 にあるとい う意味 において文化的ハ ー フなのであ り、 そこには自人文化 を あ る
程度身 に付 けたイ ンディオすなわちラディー ノやチ ョロの他 に様 々な移民 が 含 まれ
る。
6)ア イユ は土地の共同利用 と相互扶助 の システムを中心 に形成 される地 縁的血縁集団
であるが、祭礼や政治関係 において、 よ り上位 の大 アイユ に繰込 まれ る分節型 社会
構造 を持 ってい る。
7)コ
ンパ ドラス ゴはキ リス ト教 の洗礼式や結婚式等で設定 される擬制的親族 関係 であ
り、生理的・ 血縁的な関係 のない間柄 に儀礼的 な親族関係を構築す る。 そ う して擬
制的親族 となった者同士 は心理 的 に同類感情 で結 ばれ、社会的 には同胞 と して 相互
扶助的 な関係 を義務 づ けられる。パ ドリー ノ (洗 ネLを 受 ける子 どもか ら見 た代父 )
は洗礼を受 ける子 どもに生涯を通 じて経済的援助 など様 々な便宜 を図 ってや るのに
対 し、実 の父 はこの コンパ ー ドレ (代 父 )に 対 し労働奉仕や政治的忠誠 な どで返 ネL
す る。
3)イ
ンディオの無知や社会的弱味 につ け こんで あ くどい商売 をす るこうい った商人 は
イ ンディオか ら転売人 (rescatiri)と 呼 ばれる。
9)ア
ンデス地域 では他者 ない しは異人 を排除す るメカニズム として しば しば カ リシ リ
神話 (後 述 )が 用 い られて きたが、自人 へ の迎合主義を取 るイ ンディオが この神話
による排除 の対象 にな らないとは言 えない。植民地時代 のイ ンディオの反乱 におい
てさえ迎合主義者 は非 イ ンディオと見 なされ、自人狩 りの対象 にな った 。 チ ョロが
カ ラ化 したイ ンディオであるとすれば、その転換 の契機 は非 カラ的す なわち非 イ ン
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ディオ的 な行動 にある。
10)従 来、低 い価値 しか認 め られず、ネガテ ィブな意味 しか持 ち得 なか った さまざま の
民族的徴表 や象徴形式 に対 して、一転 して高 い価値 を付与 し、 ポ ジテ ィ ブな意味 を
持 つ ものと して捉 え直そ うとす る こと (江 淵 1983:529)。
11)脂 肪 は人間 の エネルギー源 であ り、 それを抜 き取 ると病気 になるとい うア ンデ ス原
住民 の病因論 に、外国人 を畏れたり排除 した りしようとす る異人論 が結 びつ いた神
話。宣教師 や メステ ィソ、外国人 などはこの脂肪 を抜 き取 る特別 の方法 を知 って お
り、 イ ンディオか ら抜 き取 った脂肪 を石鹸 などに して外国 に売 ってい ると信 じられ
る。 カ リシ リはアイマ ラ語。 ケチ ュア語 では ピシュタコと呼 ばれる。
12)農 民運動 の指導者 の多 くは都市 で高等教育 を受 けた、あるいは都市経験 の豊 富 な 、
ある意味でチ ョロ化 した人たちである。彼 らをチ ョロと見なす点 には是非 があ るだ
ろうし、またい くつかの理論的課題 が残 される。 しか し、彼 らをイ ンデ ィオ の指導
者 とみな し続 ける ことは本稿 の冒頭 に述 べたア ンデス人類学 の轍 を踏 む ことに等 し
い。詳 しくは拙稿 1992年 で も論 じて いるのでそち らを参照 されたい。
13)グ ラ ン・ ポデール はラ・ パ ス市東斜面 の商業地区 に奉 られ るキ リス ト (Seior del
Gran Poder)の こと。5月 3日
(聖 なる十子朱 の 日)に 祝祭 が行 われる。 この 祭 り
の他 に も、 カーニバ ルなど都市型 の祭礼 が各都市 で発達 して いる。
14)1989年 6月 10日 、同年 の大統領選挙 で MRTKL(ト ゥパ ック・ カ タ リ解放革命 運動
党 )か ら大統領候補 として立候補 していたVictor Hugo Cardonasが Cafe Semilla
Juvenilで 行 った「 カ タ リスモ とは何 か ?」 という講演 において「 統合的 な文化 」
の一つの例 として ロ ック ンロールを取 り上 げた。
5。
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