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銀行主義と 一 八四四年のピール条例

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銀行主義と 一 八四四年のピール条例
銀行主義と一八四四年のピール条例
ートゥーク﹁物価史﹂研究の一節ー
Principle)の代表者トーマス・トゥーク︵ThomasToor)の大著﹁一七九二年から一八五
峰 本 啅 子
一、はしがき
銀行主義(Banking
六年にいたる諸価格および通貨の状態の歴史﹂は、トゥークの研究を基礎としてニューマーチ(William
march)の補足したものである。ニューマーチは、エコノミスト誌統計指数の創案者であり、王立統計協会の指導
者でもあった。一方、トゥークは王立為替会社の総裁であり、ニューマーチより社会的地位も高く、熟慮の余暇
も多かった。専門的な科学者でもなく実業面に活躍していた二人が三千頁にのぼる数巻の英国経済史を世に送っ
た業績は、たとえそれが十八年のながきにわたり、また各所にくり返しをまぬがれないとしても、高く評価さる
べきものである。
トゥークとニューマーチは、経済的真実の設定に対して、歴史的資料をはじめて体系的に用いた人々であり、
New・
-21-
そのことこそ今日なお独特な魅力を読者にあたえている理由の一つでもあろう。トゥークの心をうばった当時の
通貨の状態は、今日のインフレーション、デフレーションの問題であり、また今日の経済的、貨幣的諸問題とか
なり類似した現象でもあった。立法面では、トゥーク学派は決定的に敗北したと云われ、十九世紀の最後の十年
Bank Act of 1844)の実施はほとんどリカード思想の産物であった。第一次大戦中
間と二十世紀の初期の十年間においては、正貨兌換停止期間中のリカード的解釈が一般に受け入れられ、一八四
四年のピール銀行条例(the
W. AngQ一一︶らが、トゥーク
M. Keynes)やホートレエイ(R.G.
J. Silberliロ叫)あるいはエンジェル(J.
の貨幣的混乱は多くの経済学者にとってリカードの立場をさらに確信づけるように思われた。しかしながら振子
はふたたびゆれはじめ、シルバリング(N.
のリカード教義への批判を復活しはじめたのである。一方、ケインズCJ.
Hawtrey)は、通貨の統制よりも信用の統制を重視し、トゥーク、ニューマーチがはげしく批判した一八四四年
の銀行法に対する反論を復活せしめたのである。
トゥークの物価史は、大きく分けて以下の四つのグループに分けられる。
一、穀物価格を決定する要因の研究。
二、現金支払停止ならびに一ハ一九年以後の現金支払再開の外国為替および物価への影響。
三、イングランド銀行政策の影響。
四、イングランド銀行の法令と銀行券発行権変更の方策。
等以上の主要な課題に加えて、穀物法、税金、鉄道制度の拡大、金の新供給の実際的、窮極的効果等について
であった。そして、銀行法に関する論争における敗北者へのトゥークの転向が特に強調されている。トゥークは
−22−
初期においてかならずしも厳正な地金論者ではなかった。トゥークの態度は最初から折衷的であったし、彼の折
衷主義は、はじめ気質の問題であり、それが彼の経験と調査の方法によって次第に強調されていった。
トゥークが豊作と不作との間の関係について、また一般の取引状態について明確な考えをもっていたかどうか
は疑わしい。また豊作の状態と景気の状態との因果的呼応は第一巻あたりでは非常にばくぜんとしてい私。トゥ
ーブが景気変動の主要原因に関してとった見解は、かれの初期の書物では、かれが後に、一国の紙幣通貨の運営
の問題に反対することになった人々の態度とたいして異なっていなかった。しかしながらトゥークは物価指数を
使用しなかったおかげで、心に物価の傾向についての一般的画像をもっていなかったために、また物価史を扱っ
たほとんどの期間中、英国は金本位制であったという理由から、トゥークをして特殊な物価に影響する特殊な
要因という偏見をもたしめる結果になったとも考えられる。ここで興味深いことは、トゥークと通貨主義者
(ca39ySchool)との間の分裂の過程をあとづけて見ると、強調点の相異が、基本的な理論の相異よりもより
重要となっているということである。
しかしながら、トゥークの特殊な商品の動きに対する激しい偏見が、かれの著作にどんな影響をあたえよう
Aftp一一0ロ︶らによって示された物価の所得説におどろくほど
と、通貨主義者が仮定した貨幣量と物価水準の間の精密な関連を拒否したかれの理論は、後年におけるウィーザ
ー︵吻・Sia)、ホートレエイ、アフタリオン(A.
類似していたのである。すなわち﹁貨幣価格の原理を最終的に規制する原理は、諸銀行によって発行された紙幣
の量ではなくて、国家の異なった階級の準備を構成する貨幣量である。すなわち種々の階級の欲望や習慣によっ
て、経常支出として予定される地代、利潤、俸給および賃金の項目の下に構成される貨幣量であり、それのみが
--
−23
総貨幣価格を定める原理をつくるものである。生産費が供給をきめる原理であるように、消費支出にむけられた
総貨幣所得は、商品需要を定める原理である﹂加。
筆者は、かつて﹁地金論争に対するトゥークの立葵﹂さらには﹁トゥーク通貨原理の研光﹂等で、トゥークの
反地金主義ならびに所得説の主張を明らかにしてきたが、本稿ではさらにトゥークが反地金主義から銀行主義へ
と脱皮し、かれの銀行主義思想が、一八四四年のピール条例、イングランド銀行政策の批判等を通していかに形
成されていったかの過程に考察を向けて見ようと思う。
二、銀行主義の生成過程
一八四〇年におけるトウークの議論の線は通貨学派によって設定された原因と結果の鎖を逆にすることであっ
た。すなわち、通貨の増大の物価に対する影響を否定したのみならず、物価に影響する唯一の要因は、商品に影
−24−
響する諸事情であり。また商品を取引する人々の意見であると主張したのである。
トゥークは以上の結論を三つの別々の箇所でのべている。すなわち、トゥークは、それらを一八四四年に﹁通
貨原理の研心﹂の結論の章でのべ、また一八四八年にふたたび物価史の第四らで不充分な説明をなし、さらに第
四巻の補論に、一八四〇年の発券銀行に関する委員会の前でなしたかれの証言の一部を再説している。これらの
連続的表明は、トゥークの精神的発展と共に銀行主義の形成に深い係わり合いをもつものである。
銀行主義の骨組が完全に作り出されたのはトゥーク一人によるものではなかった。むしろ重要な貢献のいくつ
FuUartQロ)、またウェストミンスター銀行(Westminster
Ban貳)の著名な総裁であるギルバート{}・
かはトゥークによってではなく、オーバーストン(ro「dogKog」と同様に才気のある文章を書く著述家フラ
ートン︵John
Wilso咋)の貢献がある。物価史の第四巻で、トゥークはフラートンからのある論
測・の一FE)、さらに、ジャーナリスティックにはなばなしい活動をした点では、雑誌エコノミストの創立者ジ
ェームス・ウィルソン(James
議 を と り 入 れ て い る 。 フ ラ ー ト ン の 著帥
書は、銀行学派から発したもっとも精妙なもっとも有用な著書であった。
フラートンによれば銀行券がいかに多く発行されようとも、それが優良堅実な商業手形にもとずく短期貸付であ
る限り、その量を制限する必要は少しもないと、トゥークよりも多くの銀行主義理論を簡明に基そずけている。
そして通貨量の季節的変動の意義をみとめたのも実にフラートンであった。しかしながら、フラートンの貨幣数
量説に対する議論は、トゥークの実証的研究の成果に立脚していたことをその著書の第六章に明記しているので
あって、フラーートンもトゥーク同様貨幣数量説を実証的に批判し、通貨学派の主張に対する内在的批判を行なっ
たのである。したがって、銀行主義完成の土台として、トゥークとフラートンは互いに深い影響を受け合ってい
−25−
たことは明らかである。
いま、銀行主義の主張を要約すれば、第一に、銀行主義においては不換紙幣が支払によって発行されるのに対
し、兌換銀行券が貸出によって発行される点が指摘される。第二に、銀行主義は、政府紙幣が支払によって、銀
行券が貸出によって発行される結果として、政府紙幣は政府よりこれを受領した人々の所得を形成し、消費者対
企業者間に流通するに対し、銀行券は資本として企業者の間に流通するとしている。第三に、銀行主義は、この
ように所得流通と資本流通を区別した後、物価が形成されるのは基本的にはこの所得流通の部面にあると主張す
る。第四には、銀行主義は不換紙幣が支払として、兌換銀行券が貸出しとして発行される結果、前者においては
発行者が意のままに発行し得るのに対し、後者においては社会が信用を需要せざる限り発行し得ないという点を
強調する。
Principleという言葉は、currency
このような銀行主義に対して、ウィクセルは﹁事実上かなり不明瞭な事柄に対する不明瞭な名私﹂であると批
判しているが、トゥークは、この∽pロkFg
一八四〇年の発券銀行委員会の席上、イングランド銀行理事ノーマン(の・詞・ッ﹃0'En﹄が参考人として供述し
た意見の中にはじめて用いられたことを指摘している。﹁地方銀行券は、今日金属通貨流通の場合に生じたであ
Principleという言葉と共に、
Principleとでもよばるべきものに従って変化しているよう
ろうところの変化と一致するように統制されているか﹂との質問に対して、ノーマンは次のように答えている。
﹁そうは考えない。地方銀行券流通高はBankink
に思われる。すなわち、これらの銀行券は金利と物価とが上昇すると増加し、低落すると減少する。これは
CurrencyPrinc一tleというべきものと正に反対である。後者によれば、地方銀行券は地金の増減につれて増減
−26−
するはずである﹂加。
三、ピール銀行条例に対するトゥークの批判
トゥークは﹁物価史﹂第五巻において、一八四四年のイングランド銀行特許条例(Bankcharter
に
た
い
す
る
批
判
を
、
か
れ
の
﹁
通
貨
原
理
の
研
究
﹂
か
ら
次
の
よ
う
な
三
つ
の
項
目
に
要
約
し
て
い
る
叫。
一、イングランド銀行が外国為替に直接の影響をおよぼしうるのは、ひとり利子率および信用状態をとおして
のみ可能であるということ。
二、利子率の変動傾向の大小は、紙券の兌換性および諸銀行の支払能力の維持ということにすぐ次いで、わが
国の銀行制度の統制におけるもっとも重要な考慮事項となっているということ。
Act。
1844)
−27−
三、発券業務の銀行業務からの全面的分離は、現在の両部門の結合の制度よりも利子率および信用状態におい
てより大きくまたより急激な変化を生ぜしめると考えられること。
イングランド銀行は、一八一九年の兌換再開条例にもとづいて、一八二一年から銀行券に対する正貨兌換を再
開し、一七九七年からほぼ四分の一世紀にわたって続いた銀行制限時代に終止符をうった。そしてこれと同時に
金貨および地金の取引が自由化されて金本位制度が完成されたのである。その後、一八二五年、一八三六年およ
び一八三九年に激しい金融恐慌が発生した。貨幣、金融上の対策としてまず地方に流通する銀行券の質的強化が
はかられ、ついで、一八三三年には高利禁止法(白日yrw∽)の部分的な廃止やイングランド銀行券を法貨とす
るなどの処置もとられた。そしてこれらとともに、銀行券の発行が諸銀行特にイングランド銀行の自由裁量に任
H. Palmer)は、パーマーの法則を明らかにした。すなわち、
されているために発行量が大きく変動することに対しても注意が向けられ、対策がとられるようになった。一八
三二年の議会の委員会で同銀行の総裁パーマー(J.
外国為替相場が不利になっていない時期には、イングランド銀行券と預金とからなる債務総額に対して3分の2
は有価証券を、3分の1は金を準備として保有し、為替が不利に転じて金の流出が始まると、銀行債務を金保有
量の変動と一致して変動させるというのである。この法則は地金論争の段階で銀行理事がのべたところの、商業
手形の割引にもとずいて銀行券を発行するという法則と大きく相違するものである。ところがそれにもかかわら
ず、恐慌は一八三六年、さらに三九年と続発した。その結果このパーマーの法則に対する議論が百出し、トレン
’オーヴァーストーン、ノーマン等の発言によって、いわゆる通貨主義が登場したのである。
ズ(R.Torrens)
すなわち、かれらは金の保有量と一致して変動させるべきものは、パーマーの法則のいう銀行券と預金との合計
−28−
Peel)は、この通貨主義に立ちつつ、現実的
ではなくて銀行券のみであり、このことを実現させるには発券のための新機関の設置、またはイングランド銀行
の機構改革が必要であると主張したのである。時の首相ピール(R.
配慮も加えて、一八四四年にいわゆる﹁ピール銀行条例﹂を制定した。この条例に対して前述のトゥークの批判
がなされたのである。
第一の点で、トゥークは、イングランド銀行の為替相場にたいする作用力が、通貨主義のいうような国内通貨
量ー物価ー対外流出入という一義的な因果関係にしたがってではなく、利子率変動を通じて、とくに貨幣の移動
への作用によってなされることを指摘した。第二の点では、銀行の現金支払能力の維持が国内信用・銀行制度の
安定性の基礎的要件であるということ、それへの配慮を銀行制度統制の規準とすべきことを主張した。また第三
には、通貨条例は、二部門分割によって発券部に関しては保証発行分を別とすれば、保有地金量の増減に照応し
て、発券を統制することを定めたが、銀行部に関しては、一般の預金銀行と同様な自由競争原則が推奨された。
銀行条例による二部門分割が、利子および信用の状態の急激な変化、推移をもたらしたというトゥークの批判
は、この銀行部の自由競争原則への依拠ということから展開されたのである。後章で実状をのべるように、実に
二部門分割が利子率および信用の状態の急激な変化、推移をもたらしたのであって、トゥークは﹁一八五五年末
の熱狂、おどろき、および公衆の不満は、銀行準備のこのようなはげしい変動とその不可避の所産である割引利
率への極度の干渉にだけその起源を辿りうるのである﹂とのべている。銀行部への自由競争原則が利子引き下げ
をもたらした投機を助長したとトゥークは主張したのである。トゥークは、このような銀行条例に対する批判
を、やがて﹁銀行準備Lにおける金属準備の分割状態、すなわち﹁銀行準備﹂の不当な制限への批判へと問題の
−29−
焦点をしぼっていったのである。この銀行準備についてのトゥークの考えに立ち入る前に、後章では、ピール条
JoneL
soyに)はかれの小冊宍で、﹁一八四四年に先立つ
例と関連のある多くの実例を考察しながら、トゥークの主張をうらづけて見よう。
四、一八四四年の条例の成功に関する賛否両論の予想
一八四四年の法案の通過後ただちに、ロイド(Samuel
銀行制度は、大衆に圧迫を加えながら、地金流出時に信用と物価に対して激しい影響をあたえた。新しい法案
は、初期のうちに堅実で継続的な収縮の制度に代える目的である。通貨の収縮は時と量に関して、地金の減少と
正確に一致させられることになる。条例の本質的目的は、いままで地金流出の間に大衆がとうむった不便さを増
大させずに達成されるであろう﹂とのべている。トレンズ大佐{co}og}T09呻∽)はさらに確信をもって、また
特に予言的な言葉で次のようにのべている。﹁提案された制度の下では、外国為替の不利は全く生じないであろ
う。また外国為替の平価から乖離することなど不可能である。実際に利子率と商業信用事情の変動は、それが通
貨価値の変更から生ずる限り、新しい制度の運用の下ではそれらの変動は絶対にない﹂と。
ロバート・ピールは、一八四四年五月二十日のかれの演説の結びで﹁提案された発行制度への制限が、貨幣的
危機や、商業的危機等に、活躍するイングランド銀行のエネルギーをそぐものと心配している人もいる。しかし
この方策の目的は、一八二五年、一八三六年そして一八三九年に生じた困難をふたたびくり返さないことにあ
−30−
る﹂とのべている。またトゥークが前述のように、発券部と銀行部に機能を完全に分離することによって、今ま
での制度の下でよりもはげしい変化が生じるとしたのに対し、トレンズ大佐は﹁トゥークは二つの部門にイング
ランド銀行業務を分けることは、発券部の過剰発行をチェックできても、預金部の過剰取引をチェックできない
とするが、私は新しい分離は、両部門において過剰を防ぐことが出来ると考えか﹂とのべている。しかし、トゥ
ークによれば、国際収支の変動の場合、たとえば一八二八︱九年、一八三一ー二年の場合イングランド銀行の金
準備は、五、六百万ポンドに減少したが、イングランド銀行の証券や利子率に対する何の操作もなしに補充され
た。既存の制度を継続し、イングランド銀行がいつも多額の準備を用意すれば、貨幣市場の混乱なしに、また大
衆の手にある銀行券量に何の影響をあたえることなしに、このような流出、還流を行うことが出来よう。トレン
ズ大佐の支持する二部門分離の状態で三百ポンド程度の金の輸出需要をどう操作するのであろうか。多分その需
Mill︶もまた、﹁イングランド銀行による金の流出は、経験に
要は例外なく予金部門にふりかかってくるであろう。かれらは証券を売らねばならず、また貸付や割引の扉を閉
ざさなければならなら。この点についてミル(J.
よれば多くの場合、主として予金からのひき出しによって行なわれる。新制度の場合も、金に対する需要は、予
金部にまず求められるであろう。既存の制度ではイングランド銀行所有の金が全部枯渇するまで支払停止の危険
はない。しかし新制度下では予金部は自分自身の資金に頼らなければならない。予金部の準備は、発券部から何
の援助をひき出すことも出来ず、発券部に働きかけられるすべての動きの矢表に立たなければならないであろ
う。銀行券をさらに発行することによって、この金の需要を相殺することは禁止されているので、予金部は割引
を中止せざるを得ず、証券を既存の銀行制度の下で必要とする以上に急速に売却しなければならないであろう﹂
−31−
とのべている。
五、一八四四年以前の金融恐慌に関する通貨主義者の誤解
ピールがうちたてた理論の結論はすでに検討したが、トゥークはさらに、ピールが一八四四年以前の金融恐慌
を、兌換券の過剰発行による証拠であると主張した点をきびしく批判している。
ピールは、一八四四年五月二十日の演説で、二十年前の経験は銀行券通貨の量を法律によって制限すべき必要
性のあったことを証明するものであるとしている。ピールによれば、一八二五年、一八三二年、一八三七年、一
八三九年のどの時期にも地方銀行紙幣の過剰発行があったとし、一八四四年六月一三日にふたたび一八三二年の
事情について強調している。しかしながらトゥークによれば、一八二五年、一八三二年について地方銀行券発行
高についての信ずべき、推測出来る証拠がないとしている。さらに、ロイドの証言によれば、一八三〇年から一
−32−
八三二年までの金流出はイングランド銀行側の収縮によって相殺されたという。それは単に貸付や割引の方法で
の融通を制限するか、証券の強制的売却によって制限するだけである。しかし一八四〇年のパーマーの証言によ
ればイングランド銀行はそのいずれもしなかったし、イングランド銀行は完全に受身であったということは全く
明 ら か で あ る 。 さ ら に フ ラ ー ト ン は 前 述 の 有 名 な 小 冊 子 で 、 次 の よ う に 指 摘 し て い る 。叫
﹁ロイドは、前掲書の第
二版で、かれは以前の議論に何ら重要な議論をつけ加えていない。ロイドは一八三〇年五月と一八三二年五月の
間に生じた地金流出は、商業的不況や不信用なしにイングランド銀行の通貨の収縮によって相殺されたが、一八
二五年、一八三三ー七年、一八三八ー九年の三つの地金流出の場合は、﹃紙幣通貨は減少するよりむしろ増大し
た﹄とのべている。しかしながら、一八二五年、一八三三ー七年、一八三八ー九年の地金流出は商業的原因によ
るものであり、一八三〇l二年の金の需要は恐慌による需要であったということは、ロイドも知らなかった筈が
ない。一八三〇年における地金需要は、はじめ外国から起ってきたもので、それはヨーロッパ大陸における政治
的諸動乱ならびに諸凶兆のために商人たちが注文を取消し商品よりも貨幣の方に重きをおくに至った結果であっ
た。しかしこれに続いてさらに国内的需要が生じたが、それはわが国においても同様の政治的不安が生したのに
もとづくものであって選挙法改正案の宣伝の結果であった。この需要が一八三二年の春に頂点に達したときに
は、外国為替相場はすでに完全に回復していたのみならず金も外国から巨額に還流しつっあったのである。この
時の金流出には、何ら、商業的興奮、投機、あるいはまた物価騰貴などがみられなかった。反対に、商人間では
商取引の未曽有の不振と産業の停滞とが共通した不平の話題になっていた。イングランド銀行からの金の引出は
外国筋の購入のために送り出す目的でではなしに、国内に退蔵するため、ないしは地中に埋蔵するためであっ
−33−
た。もしも、このように過当取引もなければ物価の不当な急騰もなかったとすれば、どうしてそれらの反動から
一般的な困難危局が生ずるなどということがあり得ようか。この地金の国内的流出も通貨の収縮にょって相殺さ
れたとして、イングランド銀行が積極的な方策をとったというのなら、それは全く不当な主張である。事実、イ
ングランド銀行は、この恐慌の全期間を通じて、割引を求められた一切の優良手形をば、引きつづき平常通り自
由に割引いた。総裁のパーマーも﹃一八三二年までの十八ヶ月ないし二年間というもの理事会は通貨を収縮させ
る
よ
う
な
如
何
な
る
方
策
も
と
ら
な
か
っ
た
叫﹄とのべている﹂。
さらに、一八三六ー七年について、ピールは銀行券の流通量のみを注目しているが、トゥークはすでに第二巻
の二七四頁で詳細にその当時の状況をのべているように、イングランド銀行券の量とは何の関係もなかったとい
う豊富な例証があげられる。イングランド銀行も地方銀行も一八三五年ならびに一八三六年の初期にかれらの貸
付に対して賢明ではなかったが、それらの貸付の過剰は銀行券の量に何の徴候も残さなかったとトゥークは指摘
し
て
い
る
叫。
さらに、ピールが一八三九年を恐慌あるいは金融的撹乱時と考えるならば、一八二五年や一八四七年のような
状態の年のために、われわれは新しい商業用語を考えなければならないであろう。一般に金融的撹乱とは、物価
の下落、商業の倒産、不信用を指すものである。しかるに一八三九年にはそれらの何も生じなかったのである。
生産物市場は安定して居り、一件の商業的倒産や銀行の破産もなかった。九十五日払の手形に対してイングラン
ド銀行は五%ないし六%で割引いてくれた。トゥークによれば一七九二l三年と一八一〇l一一年の恐慌と商業
的危機を注意深く検討すれば、ピールが前にあげた四つの恐慌の例は誇張と無知にすぎないといえよう。真実そ
― 34 ―
れらの四つの年の中で一八二五年だけが恐慌のカテゴリーに入れられるであろう。一八一〇l一一年の商業不況
や 銀 行 の 不 信 用 は 、 そ の 強 さ の 程 度 の 点 で 、 一 七 九 二 年 と 一 八 二 五 年 に 比 較 し 得 る と 考 え ら れ よ う 。如
つぎに破産銀行に関するピールの報告に関して検討すると、ピールによれば、一八三九年、一八四〇年、一八
四一年、一八四二年、一八四三年の期間に破産した銀行は八二行におよぶとしている。しかしトゥークによれ
ば、一八四七年三月のバンカース・マガジンの統心によると発券銀行である個人銀行の破産数が二七行、その非
発券銀行の破産数八行で合計三五行であるという。このことからも、ピールは銀行の支払能力の問題と発行権所
有間題とを混同していると思われる。もっともピール自身も、通貨主義に賛同するトレンズ大佐の巧妙な合理性
や、ロイドの雄弁でもっともらしい議論、さらにはノーマンによる熱心さに魅惑され、かれ自身は充分にその理
論に精通していなかったように思われる。法案は意見の分裂なしに上院を通過した。そしてロード・アシュバー
トン(Lord
Ashburton)は法案の原理に反対したただ一人の上院議員であった。
−35−
六、一八四四年の条例の実際的効果
トゥークは第四巻の六〇頁、二九四頁でくりかえしのべているが、イングランド銀行は条例が発動されるや、
割引率を各種手形の四%から、一流手形は二死%に、普通手形は三%に引き下げた。理事たちはかくして他の諸
銀行やマネl・デイラーたちと直接競争することになったのである。この利子率の引き下げによってイングラン
ド銀行は割引業務を以前より多額にかくとく出来た。たとえば鉄道の投機を促進するような傾向もあった。しか
しピールは銀行券通貨に対するかれの特殊な見解によって盲目となり、かれの政策の作用の判断に問題であるの
は、流通通貨量ではなくて銀行の融資額、資本の用い方と方向であったことに気づかなかったのである。ダンソ
ン(むQ on)の説明によれば﹁一八四五年三月と九月の合資の投機は、この国でかって関係したなかでもっとも
多額なものであった。鉄道だけにあげられた額でも、議会の認可は三四〇、〇〇〇、〇〇〇ポンドを上廻ってい
た。実に取引市場での多くの計画が発行後二、三週間で高い打歩をつけたのである﹂。
一八四七年一月まで通貨主義者の側には、少しもイングランド銀行の運営を非難するかげはなかった。割引率
は一八四六年八月には三麹%から三%に引下げられた。その当時トゥークには無分別とさえ思われたが、通貨主
義者によれば、通貨は地金の増減と共に増減されるべきであるということで、前述の引き下げには理由があった
わけである。そして理事たちが完全に政策を実行出来るのは利子率を通してのみであった。イングランド銀行の
地金の量は着実に数ケ月間増大して居り、四六年の八月二十九日には一六、三六六、〇六八ポンドに達してい
た。それ故に通貨主義によれば、とうぜん割引率の減少は正しい方策であった。一八四七年までは以上のように
― 36 ―
通貨主義者たちにとって一見何の間題もなく、またトゥークの目には僻見的政策の実施としてすぎたのである。
ところがバンク・レートが四%にあげられた一八四七年一月二十一日と、さらに五%に上げられた四七年四月
ハ日の間に、地金はいちじるしく減少し、銀行部の準備は相対的に大きな減少となった︵次表参照︶。 準備のこ
のような減少は、バンク・レートの一そうの引き上げこそ適当であると考えられ、理
事たちは利率をより一そう早く引き上げるべきであったと批難された。四月十五日、
五%が最低利率で、九十五日という条件は省略と告示された。この省略によって、わ
ずか二、三日の手形には最低利率が適用され、十日以上ないし十四日の手形に対して
より高い利率が課せられたのであり、このきびしい貸付の削減は国中の信用取引をほ
とんどまひさせ、一八二五年以来の危機となった。通貨主義者を当惑させたことは、
Bari品)は一八四七年の十二月三日の討論で、﹁イングランド銀行
引締のきびしさが、為替を変化させ金を還流させたが通貨量を減少させなかったこと
である。
ベアリング(F.
はその政策をもっと早く始め、金がひきあげられると共に、銀行券を流通から除々に
引きあげることによって産業界にあたえる影響が緩慢で用心深いことを期待されてい
たのであるが、私のこの期待は完全に裏切られた。一八四六年九月十二日、イングラ
ンド銀行の地金の量は一六、三五四、〇〇〇ポンドであり、一八四七年四月十七日に
は、九、三三〇、三三〇ポンドに減少したのに対し、銀行券は同時期間に、二〇、九
−37−
八二、〇〇〇ポンドから二一、二二八、〇〇〇ポンドに増大している。地金が七、〇二三、六七〇ポンド減少し
たのに、大衆の手にある銀行券は減少せずむしろ二四六、〇〇〇ポンドも増大するという事実は、条例の立案者
のだれも考慮にいれなかったことであろう﹂と卒直にピール条例の失敗をみとめてい秒
ここで興味あることは、一八四七年四月十五日のタイムズ紙に出た記事である。すなわちイングランド銀行の
とるべき政策が三つあつたということである。第一に、地金流出を相殺するため同額まで大衆の手にある銀行券
を減少すべきである。そして銀行準備を維持する。この政策は必要以上に貨幣市場と信用状態に急激でしかも深
刻な圧力を加えることになろう。そしてイングランド銀行は銀行券の収縮の一部を放棄するためには銀行準備に
たいして地金を減少せざるを得ない。第二に、大衆の手にある銀行券の一部と銀行準備の一部を銀行券の必要な
収縮にあてなければならない。もしそうすれば貨幣市場や信用に対する緊迫が地金の流出と同時にはじめられる
であろう。しかしこの手段によって取引の正常なコースが撹乱されることなしに、地金流出が徐々に抑制され、
為替の逆調も徐々に修正されることは疑いない。第三に、必要な銀行券の収縮が銀行準備に全くかかるように決
定する。しかし地金流出中は大衆の手にある銀行券は減少せしめないようにする。これがイングランド銀行が、
その時までやってきた政策である。預金や大衆の手にある銀行券の多額の収縮を許し、しかもそのことは地金の
大量の流出と輸入の増大等貿易収支の赤字にもかかわらず行われた。この政策の進め方は、銀行行動の慎重なす
べての法則に反したものである。通貨原理によれば、通貨を収縮するかどうかはイングランド銀行の責任であっ
たので、タイムズヘの投書者は、理事たちが第二の方策の代りに第三の方策をとりあげたことを批難したのであ
叫
る。
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- 一八四七年の五月の第一週後に、イングランド銀行の両部門の地金量にいく分の増大があった。理事たちはそ
の貸付をますます自由にした。当時ロシア政府がその金銀の一部を四、七五〇、〇〇〇ポンドまで主としてフラ
ンスとイングランドの民間資金に投資するという意向があったため、ロシアからの多量の穀物の買付が地金輸出
となり国際収支を逆調にするのではないかという心配を吹き消したのである。五月末には多量の輸入によって穀
物の高値も下落した。そして貨幣市場の混乱も一応終ったかに見えた。しかし、ニケ月前から上昇していたイン
グランド銀行、ならびはロンバード・ストリートの利子は何れも下がらなかった。鉄道会社の継続的資本需要が
高利の充分な理由となったのである。
四七年八月五日には、最低利率が五%から五麹%にひきあげられた。九月二十三日にはニケ月手形を五麹%
に、三ヶ月手形を六%にあげる公示がなされた。これは十月の実質的な引き締めの始まりとなった。コンソル
(co or)は、八六麹であったものが、急速に八五に下落し、市場利子率は上昇した。九月二十五日には銀行準
備は四、七〇四、〇〇〇ポンドに落ちこんだ。このような事柄が生じている間に商業不信用という貨幣的混乱の
重要な原因となる新事件が生じた。それは穀物取引の破産から始ってかってない商社の破産がつづいたことであ
る。しかもイングランド銀行の準備は二百万以下に減少し、四月の最低額より百万少ない実状となったのであ
匈
る。
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七、む す び
イングランド銀行の部門の分離に対する要求は、一八三二年のtrり呂rcharterco日日犀tgにおいてイン
グランド銀行理事たちによって宣言されその政策が通貨学派によって承認されたことによって実現されたことは
すでにのべてきた通りである。かくして成立したピール銀行条例をトゥークは種々言葉を代えて、﹁物価史﹂の
各所で批判している。
トゥークにとって一八四四年の銀行法の代替策といえるものは、﹁イングランド銀行の準備を増大Lすること
であった。そしてこの代替策の主張に、かれはのこる生涯のあいだ固執し続けたといわれている。
金準備の問題に、トゥークが強い関心を示しはじめたのは物価史の第二巻であった。イングランド銀行は英本
国の他のすべてに対する供給の窮極的源泉であったということから、彼は準備の適正額として一千万ポンドを考
えていた。イングランド銀行はそれまで準備が一千万ポンドになった時はいつでも、その準備を強制的に減少
し、それが五百万以下におちるまで何ら警告しなかった。トゥークは﹁もしも外国為替が変化したならば、イン
グランド銀行は完全に受身であるべきであり、準備が一千万ポンドにおちるまでに金を証券におき代えることに
ちゅうちょしてはならない。何故ならばわが国の通貨価値の変動の多くの場合において、国際収支は十中八九地
金量の輸出によって満足させられるであろうからであ徊﹂と。トゥークのこの考えはやがて﹁もしイングランド
銀 行 が そ の 通 貨 を 収 縮 し な か っ た な ら ば 、 そ の 準 備 の 全 く の 枯 渇 ま で 進 む で あ ろ う卸
﹂という﹁流出の無限性の理
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論﹂に反対して銀行学派がうちたてた﹁地金輸出の自動流動性の現品﹂とよぶものにまで発展していった。事実
問題はナポレオン戦争下の地金論争とほとんど同じ事が話題となったのであって、第一には国際収支は独立変数
か、あるいは通貨政策の一機能であるのか、第二に地金が均衡要因として動くが故に国際収支の赤字はひとりでに
清算されるだろうか、あるいは地金はもっとも安い商品の故に、そしてその輸出は国際価格の均衡を回復する故に
送金されるのであろうか等の問題が、一八四〇年の発券銀行に関する秘密委員会によって討論されたのである。
トゥークの最大の不満は、イングランド銀行の行為に伴う重要性についてであった。すなわちあまり小さい準
備でその営業を統制してきたことである。一八三五年l一八四二年の一〇年間平均は、イングランド銀行の地金
高はわずか六八〇万ポンドであり、一八三九年、一八四〇年、一八四一年の三年間にはたった四五〇万ポンドで
あった。もしも金準備が一八四六年の額であったら、一八三六年、一八三七年、一八三九年の枯渇の困難はさけ
られたであろう。
トゥークは一八四〇年には、準備の適正量としてその最高を一、五〇〇万ポンド、最低を五〇〇万ポンドと提
唱したが、一八四八年にその数字を修正し、最高を一、八〇〇万ポンド、最低を六〇〇万ポンドとし、中間を
一、二〇〇万ポンドとした。またトゥークはイングランド銀行の割引率は四%以下に下落することは許されない
という見解をしめした。グレゴリーは﹁このトゥークの見解は、私の知る限り﹃利子率は準備が落ちた時はある
一定の計画によって騰貴されるべきである﹄という理論の最初の概略である﹂とのべてい石。しかしトゥークの
この先駆的議論も、たとえ二%の利子率が準備の流出をみちびくとしても、四%の利子率が何故当然安全である
かを充分示していない。また自動修正的流出が利子率の低い時に適応出来ないとしても、何故それが利子率の高
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い時には適用しうるかについてもトゥークの理解はあいまいに思われる。
ただトゥークの願いは、銀行準備が銀行条例のもとで分割され、金属準備の一部分に限定されている状態を解
消し、全金属準備の果すべき機能に対応しうるようにすること、さらに、金属準備の変動を可及的に防止し、そ
の増大をはかるべきだということにあったのである。トゥークが主張したような﹁銀行準備﹂の問題は、かれの
同時代にはまだ条例にたいする反対者の間でさえも一般の関心をひきつけていなかったといわれている。しかし
以上のトゥークの分析の展開から見ても、銀行主義は近代的な見方を多分に含んでおり、後世の金融理論の発展
の上には通貨主義よりもむしろ大きな貢献をなしたということが出来よう。本稿では、トゥークの物価史の中に
散見出来るかれの銀行主義思想の展開とピール条例との関係についてのべてきたにとどまるが、トゥークの理憩
とした銀行主義の開花については、金本位制の変遷の歴史、貨幣数量説の盛衰、さらには中央銀行政策史と共に
考究しなければならない多くの興味ある論議の点を残している。
二九七〇・五・宍︶
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