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モ ン ゴ ル の 今 ②

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モ ン ゴ ル の 今 ②
ヤギの乳絞りをする子/2006.06.22(青木)
モ
ン
ゴ
ル
の
今
②
BKYUKL
YEMUNAY VGLHN
3月4日(日)〈郡山ビックパレット〉
ふくしま地球市民フェスティバル2007
モンゴル
体験談・情報満載!!
雄羊の毛を刈る子/06.22(大島)
体験/06.22(根本)
ムルンで行われた様々な馬の競技会の一駒 05.06.21)
mail ID
Z"KY−BKYUKLSY
HGJNLWGGYS
NO.55/2007.01冬
[email protected]
YGAJGB:GL
YNAUTBLTU
モンゴル交流協会ナイラムダル
郡山まで来て見ませんか
栃木県大田原女子高Sクラブ(1.2年生の福祉活動のクラブ)
モンゴル・ハラホリンの学校との交流・援助の新たな発展に!!
ナイラムダルも参加します
09月30日∼10月06日、生徒(白井彩織、金沢舞、岸有紗、秋元志織)、国際ソロプチ
ミスト(加藤益子、加藤紋子)、教員(根岸範子、高瀬豊子)の8人は、長年続けてきた交流
を発展させるために、今回、モンゴルを訪れ、直接交流が実現しました。
帰国後、彼女たちは、積極的
な活動をして、何度となく下野新
聞に紹介されました。
〈ナイラムダルとモンゴル側友好団体ア
ンディー・ホルボーが協力しました〉
←09.08 ↓10.19
←
12.08↑12.27
後日、報告を期待したいと思います。
02
03
2つの援助に遭遇!!
あなたはどう思います
栃木県国際交流協会・JICA(国際協力機構)の泡銭? 76万4744円也!
「とちぎ文庫」アリバイ援助!?
物を出した人にどう説明するの!?
〈おおしま〉
大田原女子高Sクラブ
ハラホリンの学校に現地の教員が選んだ書籍援助と心温まる援助!!
9月30日から10月7日に、大田原女子高Sクラブの生徒4人、大田原国際ソロプチミス
ト2人、教員2人の8人は、これまで交流・援助をしてきたハラホリン(首都ウランバートルか
ら西に350キロ)の学校を訪れました。その際、今回は、学校側からの要望もあって本を
援助することになりました。そして、事前に相談し、現地学校のバットジャルガル(英語、ロ
シア語の教員)先生は、ウランバートルまで出てきて、開店したばかりの大型書店で、生徒
たちが必要なモンゴル語、ロシア語、英語の専門書などの書籍を事前に選び、大田原の
メンバーと共に、購入しました。
金額は、日本円にして5万円ですが、モンゴルでは、50万トグルクになります。学校の
先生の賃金は、今年春に大幅アップして7万∼8万トグルクですから、金額の規模が想像
できると思います。しかし、資本主義経済になってから書籍は高価なものとなっていること
と、特に数学の専門書、英語の辞書などは、高価です。
日本の援助した人にとっても、モンゴル学校で必要な本を自ら選んでもらっての援助
に、有意義さを感じてもらえると思います。
また、Sクラブでは、生徒たちが家庭科で学び自ら制作したペンケースも学校の生徒全
員に渡るよう用意し、制作した一人ひとりのメッセージも同封してあります。そして、大田原
女子高の4人は、以前に同じペンケースを送り、少しいたんでいるものの大事に使ってい
る生徒ガいるのを目にして、感動していました。
合わせて、これも手作りの「しおり」(裏面に日本語、モンゴル語の言葉が書いてある)も
渡され、モンゴルの生徒たちは、すぐそれを見て、日本語で挨拶するなど、なごやかな光
景がありました。
04
通信「モンゴルの風」2006.07 で問題にした「とちぎ文庫」について、10月にモンゴル訪
問した際に、その書籍等が送られた現場に2度見に行く機会がありました。
まず、ウランバートルにある建物の部屋に入ると、大量の無造作に積まれた段ボール
箱が占領していました。見るからに段ボール箱は、一つひとつが整理されていず、ごちゃ
混ぜに物が入っているようです。入って左奥には、狭い部屋に区切ってあって、英語の
シリーズものなのか参考書籍が整然と書架になべてあり、見るからに、必要なものを確保
していると移りました。その書架の手前の日本からの段ボールが積まれた部屋は、その2
倍以上広そうでした。
さて、この段ボール箱は、10日ほど過ぎて2度目に行ったときもそのままです。そんな
にすぐ必要ないのでしょう。
この書籍などを提案した亀田さんとも2度会いました。今回の「とちぎ文庫」の目的は、
日本語教員の教材を確保したいということで、それほど大量の資料を想定していなかった
ようです。しかし、県国際交流協会は、どういうわけか下野新聞、チラシなどで大々的に
県民に呼びかけ、「モンゴルの人たちが日本に親しむための図書等を集めた“とちぎ文
庫”を設立する」と持ち上げることになります。そのため、たぶん目的とは違った、必要な
いものまで大量に集まって送られたと思われます。
良心的な人々が送料をかけて送った費用、そして、栃木県国際交流協会から35万円、
JICA「世界の笑顔のために」プログラム/書籍類のモンゴル輸送費414,744円が使われ
ました。さらに、部屋の占領、そして、整理するにも人手が必要ですし、金もかかります。
本当に現地日本教員が必要なものかどうか、アリバイ援助になっているといわざるを得
ません。協会担当者は、この費用について高額ではないと態度を示したことには驚きで
す。いや、自分のカネでないのと、モンゴルの実態を知らなければ、やむを得ないことか
もしれません。JICA も同様です。担当者にモンゴル日本センターに150万円もするプラ
ズマテレビがありますが、おかしくありませんかと尋ねると、すかさず「おかしくありません」
と、きっぱりと言い張ります。事情も分からず、反射的に親方日の丸なのでしょう。
さて、ウランバートルには、モンゴル日本センターに立派な図書館、日本紹介の物品な
どが完備しています。ここの日本人 JICA 職員に「とちぎ文庫」の計画を尋ねると、知らな
いといいます。あきれます。
まあ、当の栃木県国際交流協会は、ウランバートルにある「モンゴル日本センター」が
あり、図書館があることを知らないのですから、どっちもどっちです。
こんな状況を、書籍など送ってくれた人たちに、どう説明するのでしょうか。
05
モンゴル音楽演奏家と再会
池内 眞澄(長野県)
我が町で開催した3回のモンゴルコンサート演奏家に、モンゴルの地で、また会えまし
た。
カンゲキでした。
6月16日午前 9 時、ウランバートルよりダルハンにむけ出発。
大島、中込、根本、青木、池内、案内人はボルトさん、通訳オオガナさん、運転手はジ
ャギーさん。車にテント、水のボトル、トイレットペーパー、ガスボンベを積み込み、初日は、
走ること500kM、夜中の12時45分、目的のゲルに到着、テントを張り眠りにつきました。
朝は、朝露が下り寒いぐらいです。ホルホック料理の準備を始めてくれましたので、まき
割りをお手伝い。石を焼き、羊の肉と一緒にカンにいれ待つこと2時間、料理の出来上が
り。皆で昼食をいただきました。1時ムルンに向け出発330kmを走り、子供キャンプ場で
一泊。
フブスグル湖(琵琶湖の4倍の広さがあり、ロシアのバイカル湖の近くにある)に向け出
発、ホトガルにて「オブスのひびきコンサート」を開催した際の演奏家、バートル、アマル・
ホルガナー家族、ルハグバジーさんに再会。お昼にカレーを作ることとなりました。タマネ
ギ、人参に大量の肉、お米を市場で買出し、鍋いっぱいを皆で作り大好評でした。ゲル
のキャンプ場で5日ぶりにシャワーをあびました。
2500mほどの峠を越えて、南へ向かう、高山の花が咲ききそっている。夜12時宿泊予
定より手前の「24時間営業のカラオケ」食堂の敷地にある、ゲルに泊る。
翌日は近くの遊牧のゲルに行き、ホルホック料理をいただき、1日遊ぶ、乗馬、羊の毛
をかったり、乳をしぼったり、近くの山に登ったり。
次の日は、40万年前の火山の噴火口を見に山に登る。日本と違い少し登ればもう巨
大なお釜のふちに出る。付近も溶岩が流れた跡のため岩に覆われている。また、噴火の
後のガスが抜けた洞窟も多い、中に氷が張っている穴も有った。溶岩にせき止められた
湖も有る。
次の日は、山から南下したが、途中雨とひょうが降り草原一面水浸しになってしまった。
だから耕作ができないんだなと思いました。テントがはれず、ボルトさんの友人の家に泊
めていただくこととなりました。夕食には、10kgほどの冷凍の魚を調達、油で揚げていた
だきました。旅も後半に入り、またキャンプ場の泊りとなり、小川が流れておいましたので、
06
皆で洗面器をかり、頭や顔を荒い洗濯をしました。
夜の11時頃から、子供たちのダンスの発表会リハ
ーサルが行われました。小学校低学年の子供たちが、
ワルツとかブルースをドレスアップして踊り、男の子も
タキシードに蝶ネクタイでとてもかわいい。モンゴルで
は学校でダンスを教えるので、大人も皆ダンスが好き
です。大人も混じり私も久々にダンスをして楽しい夜
でした。
25日、ウランバートルの近くまで帰り、トーラ川でウ
ランバートル在住の演奏家家族と合流し焼肉などで、
再会パーテー、馬頭琴などの演奏をしてもらい遅くま
で盛り上がりました。翌日午前中は、水浴びをしたり、
サッカーをして遊び、ウランバートルに向かいました。
途中、話には聞いていましたが馬乳酒を初めて飲ん
でみました、すっぱい味がしました。これがモンゴルの味だと感じました。
14日間の旅でしたが、楽しい仲間にめぐまれまして、思い出に残るモンゴルでした。
07
仲間の近況
〈敬称略〉
息子は、保育園に通って、歌や詩を一生
懸命に覚えています。妻は、学校で働い
ていますが、学位をとろうと、勉強していま
す。(11.25/手紙)
■バトラーの暗殺後に生まれた次女インドラム
バトラーが暗殺(6月15日)されて、ちょうど1ヵ月後の7月15日、無事次女(インドラム)が
誕生しました。また、長女(エニカ)2歳とも会いました。私は、10月8日、バトラーの両親
ダッシュドルジュ、ムルンガワさん夫婦宅を訪れ、何人かの知人から預かった見舞いの手
紙、香典を渡しました。2人からは、「ナイラムダルの仲間たちが心配してくれてありがとう。
よろしく伝えてください」とのことでした。
バトラーがなくなってから4ヶ月近く過ぎたことから、ダッシュドルジュさん、ムルンガワさん
とも平常心に戻っていました。しかし、大変さびしそうにしていました。
そして、2人は、4人になった孫たちの面倒を見ることに追われていました。バトラーの奥
さんは、心を癒すこともあり、今後のことから近々オーストラリアに留学するとのことです。
長男ゾリゴーは、外務省から大蔵省に異動して、忙しそうにしています。奥さんは、医者
ですが、オランダに留学中。さらに、一緒に住んでいた姪のインへは、イギリス留学が終
わったと思ったら、現在は、アメリカへ留学しています。
ムルンガワさんは、「モンゴルに私たち夫婦と、孫たちだけが取り残されている」と、さびし
そうに言っていました。また、孫は、4人になりましたが、全員女の子ということで、男の子
が欲しいとも言っていました。しかし、まだ、ダッシュドルジュさん、ムルンガワさんとも元気
がありませんでした。(おおしま)
■ノミン・エルデネ(11歳)金メダル3個、ホス・エルデネ(9歳)銀メダル受賞
私たち(ウルジー、ドルジュさん夫婦)の娘ノミン・エルデネ(11歳)、息子ホス・エルデネ(9
歳)は、学校で自主活動の発表コンクールに参加しました。ノミン・エルデネは、3つの金メ
ダルを受賞。モンゴル民族の踊り部門、歌の部門、楽器の部門では石を使っての演奏で
した。ホス・エルデネは、歌の部門で銀メダルを受賞しました。しかし、その後、受賞した
学校を転校することになってしまいました。最近、家族は他の地区に引っ越すことになっ
たからです。(2006.10.20)
*ウルジーさん(軍隊の楽団でヨーチン奏者/前オブス県立劇場所属/2000 年来日)
*ドルジュさん(大学で勉学中/前オブス県立劇場指揮者)
■オトゴンフーさん(ウランバートル/前オブス県立劇場ホーミー歌手)
モンゴルは、大変寒くなってきています。10月25日、3才の息子が髪を切る儀式しました。
大勢の親類・友人が来てくれました。私は、失業中ですが、冬の期間は、スケートリンクで
働き始めています。今、馬頭琴(大島がウランバートル置いているもの)を練習しています。
1月には、中国のモンゴル自治区フフホトの大学でホーミーを教えに行く予定です。
08
■オトさん(ダルハン)
12月なのに秋のようで、今年は暖かい。
息子は、ウランバートルの病院に入院した。
左/ムルンガァさんと次女インドラム
以前から直腸が悪く、病院にかかっていた。病院
右/右長女エニカ。左ゾリゴーの次女
は、たいへん高く、金がないとかかれない。今年
もウランバートルに入院したら、10万トグルク以上か
かるだろう。社会主義時代は、金がかからなかったの
だが。中国の病院に行って直したいが、金がない。
(12.10/電話)
今、生活が大変なので、部屋を日本人に貸している
ため、兄弟の部屋に居候。(10.15)
■比留川 (市川市)さん(家族通信 月
刊/オラシオン)
寒さを感じるこの頃ですが、道端に育っ
ている菜の花を見ると、黄色い花を連
想し、心が明るくなってきます。お健や
かに、新年をお迎えください。
○朝樹君 /受験を控えて、毎日が真
剣勝負です。「良き出会い」に恵まれ
て、高校生活ラストスパート。
○哲人君/市原市高等学校バレー大会が11
月23日にありました。優勝。
1月の県大会向けて練習が
始まります。
○大樹君/大学に入学して
から3年6ヶ月のヨット部。最
後の試合は決勝進出。2年
生の後半から主将を務め、
みんなの協力でやってこら
れました。
上/ウルジーさん夫婦
左/明るく、面倒見の良いノミン
右/ホス
オトゴンフー一家/3才の息子
09
10年振りの再会/8月06日(土)∼13日(土)
2006年5月5日/田口 治(神奈川県)
10年振りの再会
5
17.キャンプ地へ
翌朝7時位に目が覚めたので身支度を整えて、ホテル内の食堂へ行った。中を見ると、
一組の若い夫婦が食事をしていた。その他のテーブルを見ると前日の食べたあとの食
器が置かれていた。私は通りに面したガラス戸の近くの席に座った。5分ぐらいで朝食が
来た。食パンと紅茶、そして黄身の無い目玉焼きだった。なぜ、黄身がないのか今も不
思議だ。食事を終え部屋に戻ると約束の時間まで今日の用意をしながらテレビを見た。
日本の番組(NHK)が流れていた。天気予報を見て、帰りの日の天候を気にした。約10
日間の滞在だが、住み慣れた日本が懐かしくなった。
待ち合わせの時間通りにツェルマさん、ボルトさん、バトマーさんが部屋に来てくれた。
昨日、日本から来たばかりの早川さんという方もいらした。名前は知っていたがお会いす
るのは初めてだった。この後、バトマーさんと地方へ行くとのことだ。ボルトさんと今日の
予定を話した後、タクシーに乗った。ここでバトマーさん達とはさよならだ。
キャンプ地までは30分位だったが、その間ツェルマさんは日本語の辞書を見ながら私
の質問に答えてくれたり、話し掛けてくれた。ここまでしてくれることが嬉しかった。目的地
に到着すると、早速案内をしてくださる方を紹介していただいた。ボルトさんとはここで別
れ、キャンプの見学に行った。
*
*
*
最初、たくさんのテントが並んでいる所に行った。ここにはモンゴル国内から集まった日
本で言う低学年から高校生ぐらいまでの子ども達が生活をしていた。皆制服を着ていて、
モンゴルではないかのような感じがした。また、海外(アメリカ・フランス・韓国等)からの学
生さんもこのキャンプに参加していた。フランスの学生さんと話す機会があったが、挨拶
までは出来たがそこから先の会話ができず、残念な思いをした。しかし、気さくな人達だ
ったのでよかった。
続いて、キャンプのスタッフとゲームをしている子ども達がいたのでそこへ行った。外で
遊べる簡単なゲームを3種類ぐらい楽しんでいた。その中で私は、先生と同じ動きをする
ゲームに混ぜてもらった。先生の合図と体の動きに合わせるゲームだったが、思ったより
もみんなと同じぐらい出来たので、自分でも驚いてしまった。笑顔で楽しんでいる子ども
10
達の姿にあたたかい気持にさせられた。
次は、フェイスペインティングや大きな布に
絵を描いたり紐でアクセサリーを作るコーナ
ーへいった。アクセサリー作りでは、スタッフ
に3色の紐を編んでいく方法をマンツーマン
で教えてもらった。裁縫関係が苦手な私だっ
たが一通り出来るようになった。嬉しかったで
す。この後、凧揚げコーナーがあったのでそ
こにも参加させてもらった。三角型の凧で少
し風に泳がせただけで実によく飛んだ。最後
に糸を絡ませてしまったが、ここでも先生にお世話になってしまった。
今度はバンガローで生活をしている子ども達の所へ行った。一つの建物に約8人位で
生活をしていた。まず、低学年の子ども達の所に案内された。整理整頓がしっかり出来
ていて、みんなで歓迎してくれた。お互いに写真を何枚か撮った。続いて上の学年のバ
ンガローへ案内された。室内は整頓がされていたが、少々恥ずかしがっていた。この辺り
は、日本と変わらないと思った。どちらの子ども達も先生の話を聞いてしっかり行動して
いたので感心した。
*
*
*
午後になり昼食の時間になった。たくさんいるので、各団体ごとに食堂へ向かって移動
する。私達もスタッフの方に案内されて食堂へ入った。大きな建物で、びっくりした。先程
のバンガローでも思ったことだが、キャンプ内の施設が整っていることに驚いた。モンゴ
ルにもこうした施設があることに新たな発見をした。列に並んでいると先程凧の時にお世
話になったスタッフの方が後ろに並んでいたので話をした。自分がこちらに見学に来た
理由やどこから来たかなど。そしていよいよ食事がもらえるときが来た。金属製のおぼん
で中は、3つ位に仕切られていた。そこにご飯や肉を煮込んだ物やポテトサラダをのせ
てもらった。こんなに美味しそうな物をいただける事が意外だった。モンゴルの料理=塩
味の料理というイメージは古いのかもしれない。食べてみるとそんなに違和感なくいただ
くことが出来た。たまたま、同じ席にいた学校の先生に話し掛けた。するとここから300キ
ロメートル位離れたところから40人の子ども達とマシーンに乗ってやって来たというのだ。
ここには1週間滞在するとのことだ。この先生は女性で年齢が私と同じくらいだと思うが、
話す姿を見ているとさすが先生といった感じがした。何となく自分が幼いような気がして
しまった。食事を終え先生の子ども達のいるバンガローへ連れて行ってもらった。やはり、
子ども達もしっかりしていた。私達は彼らとここで別れた。
*
*
*
その後、キャンプのセレモニーがあるので、その会場へ行った。そこにはボルトさんが
いて、スタッフの人達と打ち合わせをしていた。最初にお会いしたとき、どんな仕事をここ
で行っているのか疑問に思っていたが、解決した。かなり上の立場の人で、忙しそうだっ
11
た。
私は、ツェルマさんとその会場でセレモニーが始まるのを待っていた。30分位してキャ
ンプ地のあちらこちらから子ども達が集まってきた。今日はテレビ放送がされるそうで、テ
レビ局の人達が拍手のタイミングやウエーブの話をみんなにしていた。いよいよセレモニ
ーが始まった。海外から来た人達やモンゴル国内から来た人達の代表が国旗や団体の
旗を持って会場に入ってきた。最初からすごい盛り上がりで驚いてしまった。その後キャ
ンプ代表の方の話や議員さんの話があった。続いて、親子で馬頭琴演奏や3人の子ども
達によるダンスがあった。一番盛り上がったのは、モンゴルで人気の高い女性歌手が歌
ったときだ。名前は忘れてしまったが、すごい人気だった。オールスタンディングで、アン
コールを2回してくれた。こんなに盛り上がっているモンゴルの人達を見るのは初めてだ
ったのでここでもびっくりしてしまった。
セレモニーが終わり、私はボルトさんと帰るため事務室の前で待っていた。まだ忙しい
せいか、なかなか会えなかった。その間、「こんにちは」とモンゴルの女性の方に声をかけ
られた。なぜ日本人だと思ったか聞いてみると、数年間父親の仕事の都合で日本にいた
ときがあり、なんとなく雰囲気で分かったと言っていた。いったいどんな雰囲気なのか気に
なったが、ここに来た目的などを話した。そのうちツェルマさんがボルトさんと連絡が取れ
た。忙しいのでキャンプのマシーンに乗って先に帰っていてほしいとのことだった。すると
しばらくして、ボルトさん本人が来てくれマシーンを手配してくれた。このマシーンは、新し
い四駆で、ユニセフのマークが入っていた。ウランバートル市内に行く人が他にもいたの
で一緒に乗った。車内はきつかったが歩いて帰るよりはましだ。
18.デパートがきれいになっていた
ウランバートル市内でマシーンがパンクした。運転手さんは手慣れた感じで予備のタイ
ヤを取り付け再スタートした。私達は大きなデパートに近くで降りた。デパートの建物は、
10年前に来たときよりもきれいになっていた。その反面、スリが多いことを教えられた。以
前は入り口近くの外側に公衆電話があって、長蛇の列ができていた。今は入り口近くの
建物内に出来ていた。店内もきれいで、以前とは見違えるようだった。音楽コーナーでは、
キャンプ地で見た歌手のCDがあった。ツェルマさんも言っていたが、やはり有名だった
のだ。
*
*
*
夕食の時間になったので、お店を探し回ったが予算に合う店がなかなか無かったので、
昨日の中華屋さんに行った。昨日と同じように2種類の野菜炒めとご飯を注文した。待っ
ている間、ツェルマさんと日本の話をした。彼女は以前、日本に3ヶ月滞在したことがある
そうだ。場所は埼玉県の田舎の方で漬け物工場のアルバイトをしていたときのことを話し
てくれた。職場の人達がとても優しくしてくれたことを嬉しそうに語っていた。将来は、日本
の田舎の方に住みたいそうだ。私も今の仕事のことを話した。そうした話をしているうち
12
に料理が運ばれてきた。今日は色々と歩いたので美味しく頂くことができた。食後、明日
の予定を話した。市場やウランバートル市内の様子を見たいということを伝えた。彼女は
快く了解してくれた。帰り道、たばこがなかったので、キヨスク(小さな雑貨店)に立ち寄っ
た。銘柄は知らないが日本円で50円程度のお金で1箱買うことができた。この安さにはび
っくりした。ツェルマさんとホテル前でさよならをし、部屋に戻った。今日はシャワーが使え
るか蛇口をひねってしばらく待っているとお湯が出てきた。「やったー」という感じだ。早速、
頭からつま先まで洗った。とても気持ち良かった。ついでに、洗濯もした。今日はぐっすり
寝れそうな気がした。
19.頭が痛い!
この日は夜中の12時に寝た。翌朝8時位まで寝たが、頭が痛くなってきた。着替えて朝
食はとったが、今日一日町中を歩き回るのはきついと感じた。ツェルマさんと10時に会う
約束をしていたので、その時間ぎりぎりまで寝て様子を見ようと思った。しかし、全然よくな
らなかった。彼女が約束の時間に部屋へ来たので、事情を説明した。そして、午後3時ま
で寝て、様子を見させてほしいと伝えた。せっかく来てくれたのに申し訳のないことをして
しまった。ツェルマさんが去ってしばらく寝ていると、また彼女がきた。手には頭痛薬を持
っていた。私のために来てくれたことに感謝した。本当に有り難いことだ。
約束の3時が近づいてきた。朝よりもだいぶ楽になった。でもまだ頭は痛かったが、この
ままホテルにいるのもつまらないのでツェルマさんと共に外へ出た。ホテルの外には、彼
女の友達とその息子さんがいた。彼らとバス停まで歩いてバヤルタイをした。
*
*
*
しばらく歩いていくと、遊園地があった。小さな観覧車や乗り物があり、家族連れの人
達が多く見られた。ビリヤードを屋外で楽しむ若者もいた。外でビリヤードをする姿を見る
のは初めてだったので、新鮮な感じがした。ここで少し休憩をした後、日本の物が売って
いるというお店に行った。
ここでは、店員さんが着物を着ていて、日本で100円で売られている物がそれよりも高
い値段で売られていた。輸送代を含めると、こういう値段になってしまうのかもしれないが、
少し疑問が残った。その後人通りの少ない道を歩いていった。なぜかというと、以前日本
のテレビでモンゴルのストリートチルドレンが特集されたのを見たからだ。実際にどうなの
か見てみたかったのだ。しかし、そのような子ども達の姿は無かった。もしかしたら、別の
場所に移動させられたか、保護されたのかもしれない。10年前に来たときは、姉妹で街
路樹の落ちた木を拾っていた子ども達やジュースを売る子、靴磨きをする子がいた。そう
した子ども達も見られなかった。それだけ社会が安定してきたのだろうか・・・。
歩いていてこの他に気になったことがあった。それは高層マンションがあちらこちらに建
てられていることだ。労働者はもちろんモンゴル人だと思っていたが、中国人が多いという
ことだ。どうしてなのかここでも疑問が残った。
13
資本主義経済制度になって生まれた、モンゴル人気質
遊牧民の牧歌的な心を失った人々の群れ
かされます。私は、いつも音の大きさで、せっかくのすばらしい音楽も疲
れます。近代的な機器をつかうことは、よいとの発想のようだ。
最近、日本でモンゴル民族音楽を聴く機会がありました。音がどうもエコ
ーがかかり聞きづらい。コンサート終了後、担当者の若者は、自慢げに
エコーをかけてよかったでしょうと。驚き。
3
おおしま
金持ちの親たち
ある知人は、成金になっていく中で、自分の子どもに「汚い服を着ている
子とは、話をしてはいけません」と、しかりつけているのを見て驚いたこと
があります。こんなことは、珍しくなくなりました。
若い成金は、貧乏な高齢者に“チー(おまえ)
”
資本主義経済が進む中で、若者が成金になることも珍しくありませんが、
そんな中で、以前は、必ず年上の人に対しては、“テー(あなた)”という
敬語を使いました。しかし、最近は、若い成金の中には、貧乏な高齢者
などに“チー(おまえ)”という言葉が飛び出すことを見受けました。
友だちなら高く買って
知り合いなどになると,「友だちなら高く買って」と、物を売りつけます。こ
れは、良く聞くことでした。
地方テレビ局のコンサート撮影は、携帯持って
ダルハンの劇場で馬頭琴のりコンサートが開催され、ダルハンのテレビ
局から撮影に来ていました。開演予定の6時過ぎに入ってきて、日本の
報道陣並みに我が物顔で、回りの観客の邪魔になることなど、まったく考
えていないようだ。さらに、3人の若い撮影者は、自らの携帯電話の電源
が入っていて、撮影中に鳴り出したり、電話をしたりと平気だ。自己中心
だけではなく、専門家としてのいろはを知らないことに驚く。
他方、現地の新聞記者でカメラマンは、観客の邪魔にならないように移
動しながらの撮影だ。やはり、専門家の常識は、モンゴルにもある。
ボリュームいっぱいのコンサート
モンゴルでは、どんな催し、コンサートでも、ボリュームいっぱいにして聞
14
メダル・賞の連発
メダルもらっても飯は食えないよ!!
社会主義時代は、よく表彰するというイメージがありました。しかし、資本
主義経済になって、賞状、メダル、バッチは、以前を上回っているような
気がします。どこでもかしこでも、メダルの授与を多く見かけます。人々は、
生活が大変なのに、精神的におだて上げて不満を解消させるためなの
でしょうか。または、権力者の権威を確保することなのでしょうか。
評価は、権力者からではなく、大衆、人民からが民主主義の原点です。
新たに成金に捧げる賞が出現
金儲けは素晴らしい!!?
社会主義時代は、それなりに一般の人たちも納得行く賞も、最近は、ビ
ジネス(商売)で金儲けした人に、社会に貢献したとして、新たに評価す
る流れが出てきました。成金にとっては、金儲けが目的で、社会に貢献し
ているといえるのか疑問です。彼らにとってカネの次には、社会に認めら
れる賞を得たいということなのでしょうか。安い賃金でこき使ってボロ儲け
している人じゃないですか。日本も同じではないでしょうか。
瓶の使い捨て文化蔓延
以前は、アルヒ(ウオッカ)、ビール、ジュース、ジャム、ピクルスなどビン
類は、交換が一般的で、瓶で換金ができました。しかし、諸外国から様々
のアルコール類、瓶詰めなどが輸入され、使い捨て文化が蔓延すること
になりました。
夏休み子どもたちの“仕事”に大きな変化
特に、夏になると(日常的に見られる)街中や市場で目立つのが子どもた
ちの物売り、靴磨き、車の洗車など、様々です。両親の生活が困窮して
いる結果です。しかし、社会主義時代は、夏休みになると子どもたちは、
両親の仕事を“手伝う”姿があちこちで見かけました。例えば、バスの運
転手のお父さんや、店員のお母さんの脇に沿って手伝う子どもの姿です。
両親の仕事を知る上でも社会勉強になり、また、両親との親密さを深める
ためにも大きな役割ありました。
15
サンバィノーからソニン・ユウタイ・ベ
仲間との結びつきがズタズタに!!
新たな人間関係/成り金は、成金の友だち!
失われたもの−3
私は、90年代、モンゴルの友人とウランバートルを歩くと、彼は、街角で1日に何度とな
く、友だち、知人と出会います。すると、そこで長々と立ち話です。私は、ただ話を終わる
のを待つだけです。
ほとんどは、同級生、さらには、子どものキャンプで知り合った仲間、兄弟の同級生、学
校の先生、近所の家族などです。ウランバートルは人口約60万人で、世帯数は、10万ほ
どでしたが、人とひとの結びつきが大事にされてきた表れと思います。
そのうちに、よく耳にするようになったのは、90年代、失業が進み、それぞれが商売を
するようになって、人が会う挨拶は「サンバイノー/こんにちは」から、「ソニン・ユウタイ・
ベ」「ソニン・ユ・バイン」(何か良い情報ない)という挨拶からはじまります。あちこちで聞くよ
うになります。「何やってるんだ」「何かうまい金儲けの話がないか」という情報交換です。
それも歩道の真中で、通行人など知らぬ顔で延々と話し込みます。
ごく少数ですが、ビジネスをうまく成功(不法なことをやって儲けた者も少なくない)したも
のは、失業してブラブラいる友人・同級生と話しをするのを嫌うようになります。なぜなら、
自分にとって利益の有る成金の新たな友だちが必要なのですから。そして、現実問題と
しては、街角で顔を会わせることがなくなります。成金は車での移動になります。
社会主義時代、若者は、祝い事などで月1回といってよいくらい、仲間の家に集まって
は、飲んでは、みんなで遅くまで歌を歌い続け、交友を深めていたことを、懐かしく話すこ
とを聞きます。そんな姿は、資本主義経済が進む中で、急速になくなってしまいました。
生活が大変で、そんなゆとりがなくなってしまい、さらには、住居も変ったものが多く、仕事
もかわり、何をやっているのかさえわからなくなって連絡も取れなくなってきているのが実
情です。仲間のつながりは、ズタズタにされてしまいました。
そして、現在、成金たちは、高級レストランなどで、成金の友との会食ということになりま
す。他方、流れに飲み込まれ貧しい人たちの中には、毎日の生活に展望を見い出せず、
さらに精神的ストレスを抱えて安酒を飲み、アルコール依存症に陥る人々も少なくありま
せん。残念ながら、たぶん私の知人3人も、依存症に陥っていると思われます。私の10年、
20年来の良き友人との関係も、カネに執着した価値観になっていく中で、結びつきは切
れることになります。これらの状況を、どうにもできない悔しさと、誰がこんな社会にしたの
かと怒りさえ感じます。
モンゴルの諺「金より大事なのは、友だち」は、どこかに行ったのか?!!
〈おおしま〉
16
モンゴル側友好団体「アンディー・ホルボーの会」のとの関係停止!!
多くの人々にとって安定した生活展望が見出せない中
友好の結びつきは困難なのかも!!
〈ナイラムダル/おおしま〉
私は、10月21日までのモンゴル滞在中、これまでの「アンディーへ・ホルボー」の活動、
今後のあり方、ナイラムダルとの関係について、3度仲間が集まって話しました。
そこで、結論は、今後の友好活動への具体的展望が見出せないことから、ナイラムダ
ルとの関係を一時停止することになりました。そして、2006年末までに具体的展望を連
絡するとのことですが、納得行くものでなければ、関係を解消することにします。
残念ながら、12月はじめに話を持ったとの話を耳にしますが、12月27日現在、連絡
は入ってきていません。
友好の結びつきに期待が強すぎたのか
アンディー・ホルボーは、ナイラムダルと友好関係を深めた活動をしていこうと、2004
年8月6日に、仲間が集まって発足しました。その後、活動は、友好コンサートで来日した
仲間を中心に、興味ある人を誘うこともされました。いくつかの企画についても話し合って
きました。日本の仲間にモンゴルの情報をということで通信「モンゴルからの風」への原稿
を書いてもらうことも始めました。活動にとって資金の必要性が切実なことから、ナイラムダ
ルからは、情報原稿、通信1ページ当たり1000円を援助していました。さらに、この間、
中古ディスクトップ・パソコン2台、中古パソコン2台、プリンター、スキャナー、書籍など、
様々してきているところです。
そんな中、仲間に相談もなく、中心メンバーの1人、ミャグマンフーは、昨年日本に来て
音信普通です。さらに、その後、バッチョローンも音信普通になってしまいました。そんな
ことも重なってか、この1年あまり、バダムスレン(会計/通訳)、ボルトバートル(代表)との
連絡がスムーズに取れない状況が続きました。
そんなことから、私は、5月モンゴルを訪問して、アンディー・ホルボーの仲間と、今後
のことについてじっくり話し合いました。その結果、再出発ということで、援助資金でボルト
バートルの敷地内に事務所兼、活動の場としてゲルを建てることになりました。
そして、①モンゴルの仲間とは、月に1度は会って話をする。②通信の原稿を、身近な
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仲間の情報やモンゴルのニュースを送る。③ナイラムダルの仲間がモンゴル訪問の際は、
交流を大事にすること。④ゲルで日本語など、いろいろ教えるために利用することが話さ
れました。
*
*
*
私は、新たな出発として、展望が開けるのではと期待していました。
その後、6月に4人の仲間と2週間予定で、植物観察をしながら地方を回る旅に同行し
ました。この旅では、フブスグルの友好コンサート・グループとも親交を深める機会をつく
ることができました。さらに、ウランバートルに戻る最終日に、ウランバートルのアンディー・
ホルボーの5家族とテントを張っての交流を持ちました。参加者たちは、資本主義化が進
む中で、忘れるほど長い間、ゆっくりと家族、仲間との楽しい時間を過ごすことがなかった
ので、大喜びでした。特に、子どもたちは、おおはしゃぎでした。子どもたちは、その時の
ことをずっと覚えているそうです。
しかし、その後、私にはよく見えていませんでしたが、せっかくできた新たな家族同士
の絆を大事にすることなく、進んでいたようでした。
ゲルの利用について、仲間に相談がなく、夏にモンゴルを訪問した仲間についても知
らされず、期待していた通信の原稿も寄せられませんでした。
*
*
*
話を戻して、10月に集まった話の中では、中心になっているボルトバートル、バダムス
レンが動いていないことが問題。今後、誰がまとめていくのかはっきりしないと進まないと
いう意見が出されました。2人の反省の声は、ありません。そして、この間の交流をやって
行きたいと希望も出されました。バダムスレンは、今後は通訳として協力しますとのことで
すが、この間、モンゴル訪問者への対応は、モンゴルの仲間への連絡がされず、自分個
人の通訳の客ということになっているとの意見もありました。代表のボルトバートルは、これ
まで話され提案されている企画などまとめて、改めて相談したいということになりました。
友好的な交流で結びつく困難さのあゆみ
ナイラムダルは、1991年、大島の友人オルギールボルトからの誘いで、仲間とともに
モンゴルをはじめて訪問してはじまりました。しかし、4∼5年ほどで、中心になっていたオ
ルギールは、友好ではなく、旅行受入れの商売化していくことになります。モンゴルの仲
間からも彼への悪評が聞こえていました。友好のための事務所をと、アパートを買うといっ
て資金をだまされることにもなります。ナイラムダルに余分な金がないので大島が工面し
ました。
その後、知人の紹介で、ダッシュドルジュさんとの友好クラブへとつながって行きますが、
やはり、夏の旅行客が少ないとの不満や、モンゴル人の中に友好のつながりがつくられ
ないまま、やはり商売化していくことになります。
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そして、2004年、アンディー・ホルボーにつながることになりました。
しかし、モンゴルの現状は、資本主義経済から16年も経った現在、多くの人々にとって
安定した展望ある仕事、生活が見えないままの状況です。そんな中で、「友好」などと言
っても無理だったのかもしれません。
*
*
*
そんな中で、今年8月に何年かぶりで、元友人のオルギールボルト(家族とアメリカ在
住)から手紙が舞い込み、「改めて、私の言っていることが分かってきた」というものでした。
その数週間後にアメリカからと電話が入り、私は彼と、ずいぶん話しましたが、どう変わっ
たのか判断できないでいます。10数年前に時間は戻すことはできませんが、将来への展
望への道はあるかもしれません。
また、私が6月ちょうどモンゴルに滞在していた際、バトラーが暗殺され、その両親であ
るダッシュドルジュ、ムルンガァさんに、お悔やみに行き、久々の再会でした。この関係も
人として大事にしていければと思います。
*
*
*
今後、モンゴル側に友好団体として活動することを求めるのは、当面考えないことにし
たいと思います。社会状況が許さないのかもしれません。
コツコツと仲間の結びつきを大事にして気楽に進めていきたい
しかし、モンゴルの仲間との個人的つながりは、まだまだあります。1から出直して、コツ
コツと仲間の結びつきを大事にして気楽に進めていこうと考えているところです。
少しでもモンゴルの具体的情報や、仲間の情報を提供できるように努力していきます。
そして、改めて、モンゴルの実情を考えてみながら、私たちの身近な生活を振り返って
みたと思います。
合わせて、これまでの国際交流のイベント、学校などでのモンゴル紹介、モンゴル紹介
の展示会などは、これまで通り積極的に参加していきます。協力ください。
現在、集まっている援助金<貧しい子どもたちへ「貧しい家族に自立への援助」>総
計/64,429円は、今後集まったものと合わせて、2007年中に、有効に使われるように
手配して行きます。
*
*
*
モンゴルの交流・友好の旅については、当面自粛することにします。どうしてもという場
合は、相談にのります。
また、ナイラムダルとして存在に関わる問題もあります。この間、モンゴル訪問する仲間
は、滞在体験・感想を個人のものにしておかず、通信読者に情報提供していくこととして
いましたが、残念ながら、まだまだ書いていただけない参加者がいます。
ナイラムダルの目的などの見直しも考えていければと思います。
19
2006かぬまワールドフェスティバル
〈2006年モンゴル6度目の訪問/07.22−08.02〉
早川
信一(埼玉県)
■11月12日・鹿沼商工会議所催事ホール■
〈ナイラムダルは、毎年参加〉
ウルギー、ホブドへの旅
ナイラムダルは、トルコ、ベトナム、ミャンマー、ペルー、パキ
スタン、スリランカ、韓国などの民芸品販売、料理、文化紹介な
どの団体に混ざって、写真の展示、民族衣装(デール)の試着、
モンゴルの民芸品販売などで参加しました。
今回、特徴的だったことは、鹿沼機械金属工業協同組合/ベトナムからの研修生が多
数参加し、ベトナム料理(フォー、上げ春巻き)販売をするなど、賑やかに感じました。
ナイラムダルでは、昨年以上に
多くの子どもなど大勢がデールを
来て、楽しんでいました。その大き
な功労者は、ボランティアで協力し
てくれた3人の中学生でした。自ら
デールを来て、訪れた人や友だち
にも積極的に進めていました。ま
た、ナイラムダルに訪れる人に、気
軽に「サンバイノー」と挨拶しての
対応には驚かされました。
また、最近、鹿沼市の建設会社
に研修生として来たというモンゴル
人の青年2人も訪れました。
2
ウルギーからホブドへ
26日(晴れ)10 時起床
いよいよウルギーを離れる日がやってきました。幸いにして二日酔いにもならず、清々
しい目覚めであった。早速エルジャンさんが迎えにきて、宿を後にした。過去のモンゴル
滞在を含めて、初めての宿の滞在だったが、シャワーも洗面所もない安宿にしては快適
に過ごせた。
車で数分走ったところで、チャパエプさんと昨日まで一緒に飲んでいた仲間達が待っ
ていた。彼らは、これから映画の撮影に行かなくてはならないとのことでした。別れの挨拶
と再開を約束した。その後、エルジャンさんとホブドまでの 250 キロの長い道程に備えて、
車の燃料補給とタイヤのメンテナンスに向かった。その間、我々は腹拵えをした。
昼までには準備が整い、エルジャンさんと若い助手を乗せて、ジープは颯爽に草原を
走りだした。約5時間の道程だが、道中は素晴らしい風景に助けられ時間を気にすること
なく、ホブドまでたどり着いた。現地でお世話になるセンゲドルジュさん夫妻もゲルを建て
て我々を迎えてくれた。そこは、夏だけ別荘としてゲルが建ち並ぶ地区で、去年知り合っ
た家族達も、我々の到着を楽しみにしてくれたようだ。
早速、馬乳酒で乾杯した。その後は去年の写真を見ながら思い出話しで盛り上がった。
日が暮れてきたので、夕食をとり、寝ることにした。23時30分就寝。
ホブドでキャンプへ
スタッフ/立花、渡辺、大島
ボランティア協力/鹿沼市立西中
上遠、和久井、奈良
20
27 日(晴れ)9 時起床
今日も朝から天候に恵まれた。今日はセンゲドルジュさん夫妻と車でキャンプに出掛
ける。場所は街から100キロ以上離れた所で、前回行ってない新しいところだ。
チャーターした車も運転手も昨年と同じ人だった。最高の環境が整った。早速去年の
思い出話しで盛り上がった。出発前に劇場に寄った。昨年は老朽化が原因で閉鎖されて
いたが、政府からの援助で、リニューアル中だった。その状況を見学させてもらったが、
手作業で完成までそうとう時間がかかりそうな雰囲気だった。
21
劇場を後にして、キャン
プへ向かった。道中はいま
までに経験したことのない
程険しいものであった。しか
し景色がその辛さを乗り越
える気力を与えてくれた。よ
うやく目的地に近づいた時、
センゲドルジュさんの奥様
ギーマさんのお父さんが医
師として働いていた、遊牧
民達の社交場のような施設
(日本的に言うと健康ランド)
跡 地に 立ち 寄 っ た 。20年
前までは国営で運営されていて、映画館、食堂、シャワー室、談話スペース等があり、医
師まで常駐していたとのこと。今は国の
援助が打ち切られ閉鎖されているが、
外観からは当時の繁栄ぶりが感じとれ
る。
ギーマさんにとっては子供の頃に過
ごした懐かしい場所で、どこからともなく
昔の友人達が集まってきた。今となって
は滅多に来れない場所なので、たくさ
ん記念写真を撮った。その場を後にし、
15分程でキャンプ場に着いた。
早速食事の支度をはじめた。ギーマ
さんは食材の仕込み、運転手さんは鉄
砲 を も っ て タラ バ ガ ン 狩 り に 出 発 し 、
我々はテント張りと薪集めを担当。セン
ゲドルジュさんの的確な指示で、あっと
言う間にテント張りが終わった。水場も
近くで、景色も含めて全てが最高のロ
ケーション。早速メインの牛肉と野菜の
塩ゆでが、いい匂いを漂わせていた。
その頃タラバガン狩りに行っていた
運転手さんが手ぶらで帰ってきた。収
穫はなかった。タラバガン料理は味わ
えなかったが、十分過ぎるほど牛肉が
22
ゆであがった。早速ナイフ片手に食事タイム。当然ウォッカで乾杯し、食事が終わる頃に
は1本飲み干していた。その勢いで、夜の宴に突入!センゲドルジュさんによるモンゴル
民謡の独唱会が始まった。自分も昨年寄付したヴァイオリンで日本のメロディを奏でた。
楽しい一時も日が暮れて終了となり、就寝時間となった。
ゲルでカレーパーティー
28日(晴れ)
今日も朝からいい天気に恵まれた。今日は一旦ホブドに戻り、ワーシャさんと別なキャ
ンプ場へ行く予定だ。食事を済ませテントをたたみ、街へ向けて出発した。
途中ギーマさんやセンゲドルジュさんの友達や兄弟の住むゲルに立ち寄りながら、記
念写真をとり、4時間程でホブドに到着した。
ゲルで少し休んだ。その後は恒例のカレー作りだ。市場へ肉と野菜を買い出しに行っ
た。必要な物をたっぷり買い込み、ゲルに戻り仕込みを始めた。肉も野菜もじっくり煮込
み、いつものように出来上がった。近くのゲルの家族を招いてカレーパーティを開いた。
食後は馬乳酒をご馳走になったが、この家の作る馬乳酒は、コンクールでも優勝するぐら
いおいしいとの評判で、確かに自分の経験した範囲では、一番飲みやすいものであった。
でも日本人にあうとは思えない。でもその日は今までで一番飲んだかもしれない。
そうこうしている間に、日も暮れて明日の予定をセンゲドルジュさんと確認した。モンゴ
ルでの時間は、日本よりゆったりしているとよく言われるが、自分が滞在するときに限って
「あっ」と言う間に時間が過ぎていくように感じる。意外と欲張りな旅である。
今日は明日のためにも早く床についた。しかし夜中に目が覚め外に出た途端、満点の
星空が目に飛び込んできた。今までに何度となく見てきたが、今回のホブドの空は格別
であった。
〈トルガ〉
ストーブが使われるように
なるまで、このトルガが使
われていました。
23
モンゴル事情
〈「モンゴル月報/新聞などの翻訳」外務省発行を参考〉
「民主化」とは、異質の資本主義経済に移行が正しかったのでしょうか。移行の対応が
誤ったのでしょうか。16年経った現在、貧富の差が広がり、大量の貧困層、多くの失業者
が存在。子どもたちの状況、犯罪とひどい状況です。
もし、戦争、大災害で大破壊されたとしても、これまで莫大な支援がされている中で、
多くの人々の生活展望が見えない状況は、理解できません。何かが間違っています。
これは、モンゴル政府の責任だと思いますが、最大の援助国となっている日本の援助
のあり方に問題がないとは言い切れません。
「モンゴル紹介授業」小学生用
■目
案内
的
国際理解教育の一環として、モンゴルの現状、生活(都市、地方、遊牧)を紹介し、身近に世界
の人々の生活、習慣、文化、歴史などを知り、日常の生活と合わせて、世界で生きる人々の一
員として生活していること考えていくようにしていきたい。
〈注〉モンゴル民族は、大きく分けて3地域に生活しています。①中国とロシアの間に位置する
「モンゴル国」。②中国(モンゴル自治区)。③ロシア(フリアート自治区)
私たちが交流し、紹介できるのは、①「モンゴル国」についてです。
「スーホの白い馬」の民話は、②の地域です。モンゴル民族の遊牧生活など、①を紹介するこ
とは、可能です。ちなみに、モンゴル国の代表的な馬頭琴民話は「フフー・ナムジェル」です。
こんな社会に誰がしたの?
以前は、考えられなかったのに!!
●小学生の場合〈案〉/「スーホの白い馬」関連で2年生対象を含め
*.事前に写真、子どもの絵を貸し出しますので、展示して、モンゴルの様子を見てもらう。
〈児童労働4人に1人〉
政府、統計局(2004.10)は、児童労働についての調査で、5歳から17歳の679,000人
の内、労働をしている子どもの数は、172,000人と報告。
〈鉱業分野で児童労働8000人〉
(ゾーニー・メデー06.06.14)
児童庁は、2006年中に第3次児童就労撲滅プログラムを策定作業の最終段階。現在、
鉱業分野だけでも約8000人の児童が労働に従事。2016年までに児童労働を撲滅する
ことを盛り込む。
資本主義経済が16年も経って、この犯罪状況!!
(ゾーニー・メデー06.07.04)
<恩赦で未成年軽犯罪者1590人釈放>
7月3日、6月に成立した「大モンゴル建国800周年」の恩赦法が施行され、未
成年軽犯罪者で有罪となった初犯の受刑者1590人が釈放された。
1.子どもたちは、モンゴルについて、どのように見ているか。興味や質問などを聞きます。
2.子どもたちの思い、興味、質問に答えながら、モンゴル生活の様子など紹介します。
3.馬頭琴の紹介、民族服の試着、ジャンケンの紹介。
*①事前に写真を展示して、興味をもってもらう。②授業時間は、できれば2時限確保。
③クラスごと実施。④場所/教室。⑤全員が民族服試着。⑥世界地図を準備。⑦授
業は、おまかせください。見守ってください。先生が動き回ると、子どもたちが緊
張します。
*担任の先生が、モンゴルに興味があるかどうか、子どもたちに大きな影響を与えます。
事前に子どもたちと一緒に、興味のあること。聞きたいことなどを話してみてくだ
さい。
■条件/費用
①当協会発行「通信/モンゴルからの風」の該当年、年購読料/2000円 (事前に納入く
ださい)
日本と似てないですか?
モンゴルでも金持ち、企業優遇税制!!
(ウドゥーリン・ソニン 2006.06、ゾーニー・メデー2006.06)
〈法人税は減税、個人所得税は累進課税廃止し一律に!〉
政府法人税原案/年間売り上げ 30 億トグルク以上 30%、30 億以下 15%。民主党は、
一律 10%を主張。
法人税は、純益30億トグルク以上が 25%、30億未満は 10%、付加価値税は 10%。
個人所得税は、これまでの累進課税 10%、20%、30%を廃止。一律7万トグルクの所得
に対して 10%に決定。
以上のため、歳入減約 500 億トグルクになると見られる。
24
郵便振替/「モンゴル交流協会ナイラムダル」 00150−1−763089
(モンゴルに少しでも興味を持ってくれることを期待します)
②必要経費/交通費(ガソリン代)/今市市木和田島(自宅)より、往復キロ数×30円
③貸し出し展示物についての送料負担。
■連絡・相談〈学校の担当者が直接お願いします〉
▲中学生、高校生については、相談ください。▲ゲル(移動式住居)の貸し出し可能。
▲子どもたちの生活紹介ビデオ/30分:2000円
民族音楽(馬頭琴など)CD/1000円
■連絡・相談先/モンゴル交流協会ナイラムダル
25
<ナイラムダル活動予定>2007.01∼参加協力ください !
01月26日
モンゴル紹介授業〈栃木県河内町立岡本小学校〉
02月03日
ふぐネット総会
04日
ふくしま地球市民フェスティバル打ち合わせ/郡山ビックパレット
03月04日
ふくしま地球市民フェスティバル2007/郡山ビックパレット
06月30日∼07月16日
仮称「モンゴル草原の花々写真展」/日光だいや川公園
公園内にゲルを建てる予定
――<いつになったら展望がある生活が見えるのか?>――――――――――――
16年前までモンゴルは、失業者もいず、社会の宝として子どもが大事にされ、教育、医療
が無料など、働く者にとって生活の心配がありませんでした。(問題もありましたが)■しか
し、「民主化」要求が始まり、いつの間にか「資本主義経済」に移行しました。すなわち商
品経済、競争社会です■首都ウランバートル中心地は、見違えるように建設ラッシュで近
代化が進んでいます。しかし、移行して16年も立ちますが、異常です!多くの失業者、
貧困層を生み出したままです。子どもたちの労働も蔓延■大きなギャップを感じます(お)
表紙子ども(2006年06月/立ち寄った遊牧民ゲルで
<ナイラムダルの動き>2006.10∼12〈敬称略〉
09月30日∼10月06日
大田原女子高Sクラブ、モンゴル交流訪問協力/大島
10月24日
大田原女子高Sクラブ、モンゴル交流参加者との会合/大島
11月04日
民族服貸し出し/宇都宮大学(中国モンゴル自治区の留学生)
12日
2006かぬまワールドフェスティバル/鹿沼商工会議所催事ホール
立花、渡辺、大島/(鹿沼市立西中/上遠野、和久井、奈良)
27日
2006かぬまワールドフェスティバル反省会/大島
敬称略
<モンゴル紹介展示物貸し出し>
*丸子町国際交流協会/池内(10.01)
*民族服貸し出し/中国モンゴル自治区の留学生
宇都宮大学 (11.04)
モンゴル交流協会ナイラムダル案内
URL http://www.d6.dion.ne.jp/‾nairamgo/ E-mail
[email protected]
Z"KY−BKYUKLSY HGJNLWGGYS YGAJGB:GL YNAUTBLTU
ナイラムダル ・ ・ ・ “YGAJGB:GL”「友好」という意味です。
なぜ、モンゴルとの交流 ・ ・1984年個人的なモンゴルの仲間との交流をきっかけに、モンゴルの
生活・文化に興味ある仲間が集まり、身近に友だちができるような交流を通じて「豊
かな社会を互いに考えながら、理解と友好を深めていきたい」と設立。
活動していること
*モンゴル民族音楽ナイラムダル・コンサート/1992年から毎年開催。この間、各地で2
24公演。内小中高学校・養護学校・施設などで84公演。/2005.06 年中止。
開
催/東京都、千葉県、神奈川県、栃木県、山梨県、佐賀県、長崎県、兵庫県、福岡県、長
野県、埼玉県、宮城県、青森県、愛知県、福島県
<援 助>
*日本人形2体
大田原女子高Sクラブから、交流先ハラホリンの学校、ウランバートルの学校で
の交流で手渡しました。
*衣類約60キロ
大田原女子高Sクラブの交流先/ハラホリンの学校、ハラホリン地区の貧しい
家庭、ハラホリン近郊の貧しい遊牧民家庭
大田原女子高Sクラブ見学で訪れたウランバートル/子ども教育センター
*書籍約15キロ
アンディーホルボーの会員で日本語を勉強している仲間
楽譜/アンディーホルボーの会員演奏家たちへ
子ども発展センター
ハラホリンの学校
*プリンター、スキャナー
アンディーホルボーの会
*夏、モンゴル交流の旅/1991年から、ホームステー、ゲル滞在と乗馬、遊牧民ゲル訪問、
植物観察、遊牧民ゲル生活体験など。
*通信「モンゴルからの風」1993.7 創刊/季刊 A5 版24P.
*展示会、モンゴル紹介展示品貸出、小学校等での授業
①モンゴル紹介展示会/40回、及び、コンサート会場で
開催。「写真パネル」「子供たちの絵画」「モンゴル各種民
具」「民族服」「民族楽器」「ゲル」などを所有
②小学校などへ写真パネルなどの貸し出し(多数)
(貸し出し無料。ただし、1年通信購読会員に!)
③小学校での国際理解「モンゴル紹介」授業(106回)
会員は ・ ・ ・全国各地に約200人。年会費2000円。
郵便振替/「モンゴル交流協会ナイラムダル」 00150−1−763089
団体、機関などに登録/栃木県国際交流協会、ふくしま地球市民ネットワーク、日光市市民活動支
援センター、オフィスふくしま、宇都宮国際交流協会
定例のイベント参加/ふくしま地球市民フェスティバル(3月)、モンゴル春の祭(ハワリンバヤル/東
京5月)、日光だいや川公園/展示会(7月)、とちぎインターナショナル・フェスティバル
(10月)、かぬまワールド・フェスティバル(11月)
扱っています ・ ・ ・会話集、民族音楽CD、ビデオ「草原の子たち」、モンゴル関係小冊子など。
<貧しい子どもたちへ「貧しい家族に自立への援助」>
総計/64,429円
11月12日/2006かぬまワールドフェスティバル 2300円
発
行 モンゴル交流協会ナイラムダル
321-2345 今市市木和田島 1526−152
26
tel.fax.0288−26−0130 /大島 武行
27
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