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E. サイードと中東現代史

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E. サイードと中東現代史
E. サイードと中東現代史
慶應義塾大学教授 坂 本 勉
今から10年ほど前、エドワード=サイードを招
いて講演会を開いたことがある。準備の段階で文
明批評家として八面六臂の活躍をつづける彼のよ
うな忙しい人が果たして来てくれるものかどうか
心配したが、幸い同僚の教授がコロンビア大学で
教鞭をとっていた頃、知己だったということもあ
って無事、開催にこぎつけることができた。
当日は、
『オリエンタリズム』などの刺激的な
後列左から5人目がサイード、2人おいて筆者
本をそれまで出してきた著者の話を直接、聴こう
ごしている。父親は、そこで中東でも屈指といわ
とたくさんの人がつめかけた。立錐の余地がない
れる事務機器・文房具の販売会社を経営する実業
ほど盛況で、改めて彼の影響力の大きさ、人気に
家であった。このためサイードが誕生する前から
驚いた。穏やかに噛んで含めるように進める話は、
カイロに本拠を移し、パレスチナとは夏の暑い盛
予想にたがわず感銘深かったが、個人的にはこれ
りに避暑のため長期に滞在するという程度のつな
とは別にもうひとつ忘れがたい思い出がある。
がりをもつにすぎなかった。
それは、サイードに同行してピアニスト、指揮
1952年のエジプト革命以前のカイロには、パレ
者として世界的に有名なダニエル=バレンボイム
スチナを含むシリアから移住し、経済的に隠然た
がついて来たことである。聞けば、古くからの友
る力をもつマイノリティ社会が形成されていた。
人だという。サイードは、カイロに住んでいた少
サイードは、そうした家族の一員であり、ある意
年の頃、巡業公演に来たフルトヴェングラー率い
味で現地のアラブ社会から浮いていた。また、
るベルリン・フィルの演奏を聴き、身体が震える
1948年のイスラエル建国によってカイロに多数、
ほど感動した、と自伝『遠い場所の記憶』に書い
流入してきたパレスチナ難民とも生活の仕方・意
ている。それほどの音楽通ならバレンボイムのよ
識において埋めがたい溝があった。
うな友だちがいてもいっこうにおかしくない。
それは、音楽に対する嗜好によくあらわれてい
しかし、私にとって印象的だったのは、パレス
る。彼が無上の喜びとするのは、1869年のスエズ
チナ人であるサイードが、アルゼンチン生まれの
運河開通を記念してつくられたオペラ座に行くこ
ユダヤ人であるバレンボイムと何のこだわりもな
とであり、エジプト人が賞賛してやまない国民的
く、親しそうに話をする光景だった。パレスチナ
な女性の演歌歌手ウンム=クルスームの歌は単調
人といってもサイードは、どこか違う。これがそ
で退屈きわまりなく、聴くのが辛かったという。
の時、率直に感じたことであった。
宗教的にもサイードは、アラブ・ムスリム社会
のなかでは少数派のキリスト教徒であった。しか
希薄なアイデンティティ
も、それは中東に昔から根をはるギリシア正教、
サイードは、確かにパレスチナ人のなかでも異
アルメニア正教といったオーソドックスなもので
質な存在である。1935年にエルサレムで生まれた
なく、19世紀を過ぎてアメリカから入ってきた福
が、16歳までの幼少年期のほとんどをカイロで過
音主義派のキリスト教への改宗者であった。母方
−1−
の祖父、父はいずれもその教会組織の有力な現地
こみあげてくる怒りを故郷を追い出された難民と
人聖職者として活動していた。
は違うレベルでアメリカに在住するパレスチナ知
このようなサイードの身の置きどころのなさは、
識人の立場からぶつけていった。
国籍も関係している。彼の父親は第一次世界大戦
サイードが危惧し、不当と感じたのは、パレス
前夜、当時、パレスチナを支配していたオスマン
チナ問題に対する一般のアメリカ人の知識、国と
帝国の徴兵を嫌い、単身、アメリカに渡り、そこ
しての政策があまりにもユダヤ人寄りで、パレス
で実業家として成功するきっかけをつかんだ。第
チナ人については無視、隠蔽、黙殺が横行してい
一次世界大戦末期、アメリカが参戦すると、兵士
るという現実だった。ユダヤ人についてはその苦
としてフランスに行き、戦功をあげた。これによ
難の歴史、ホロコーストの悲惨さが繰り返し報じ
って彼はアメリカの市民権を取得し、かたちのう
られ、イスラエルへの支援も手厚かった。しかし、
えでは「アメリカ人」になったのである。息子に
パレスチナ人については、巧妙な情報操作が平然
エドワードという名前をつけたのは、アメリカ人
と行われ、正当な扱いに欠けていた。こうした状
として生きてほしいと願う父親の夢だった。 況をサイードは組織的な抑圧と断じ、これ打破す
カイロ時代のサイードは、パレスチナ人として
るためパレスチナの歴史と現実をありのままに物
もアラブとしてもアイデンティティが希薄な人間
語り、それを使命とする活動をつづけていこうと
であった。教育も小・中・高校ともイギリス、ア
したのである。
メリカ系の学校に通い、そこで行われる授業はア
本来、比較文学者であるサイードは、
『オリエ
ラビア語でなく、すべて英語であった。生徒も大
ンタリズム』のなかで西洋の東洋に対する認識の
半が欧米人の子弟、アラブ系のキリスト教徒、ギ
根底によこたわる救いがたい歪み、偏見を洗い出
リシア人、アルメニア人、ユダヤ人などであり、
し、そこから生じる西洋の文化的な優越感が東洋
アラブ・ムスリムの子どもと交わることはほとん
に対する植民地主義、帝国主義に転化していく元
どなかった。アメリカ人になることには強い
藤
凶だと非難した。このような問題意識の延長線上
があったが、さりとてパレスチナ問題、アラブ民
から現代のパレスチナ問題をめぐるアメリカのジ
族主義の動向に敏感な少年ではなかった。
ャーナリズムの偏向性、故意に事実を隠そうとす
るイスラーム報道のあり方、合衆国政府の公正で
パレスチナ問題への積極的な関与
ない外交政策が批判されていった。彼にとって、
1951年、16歳の時、サイードは、アメリカ市民
それはただ糾弾すればよいというものでなく、真
となるためには21歳になるまで最低5年間そこに
実の姿を『パレスチナ問題』
、
『パレスチナとは何
住まなければならないという事情のため、アメリ
か』などの著作を通じて語っていったのである。
カに渡った。大学に入学した頃の彼は、
「クルー
サイードのパレスチナ問題への積極的な関与は、
カットのアメリカ人大学生と、貧しいパレスチナ
1960年代末からはじまるアラファトによるPLO
人に関心のある上層ブルジョワ階級の植民地アラ
を軸とする解放運動の進展と軌を一にしている。
ブ人という珍妙な組み合わせであった」と回想す
二人の考え方、行動には、イスラエルをいたずら
るように、政治には無頓着な人間だった。
に敵視せず、共存の可能性を探ろうとする点で共
しかし、1967年、第三次中東戦争が勃発すると、
通するところが多い。サイードの場合、パレスチ
サイードは敢然と反イスラエルの行動に立ち上が
ナ人とユダヤ人の協調、和解に対する姿勢はより
っていく。彼を駆り立てたものは、ヨルダン川西
徹底していて、両者の合意のもとに世俗的民主主
岸地区とガザ地区がイスラエルによって占領され、
義国家の建設を夢みていた。これにはバレンボイ
パレスチナ人はこのまま何もしなければ永遠に故
ムとの交友関係にみられる自由人としてのサイー
郷を喪失してしまうという危機感であった。彼は
ドの面目躍如たるものがあらわれている。
−2−
世界史A 授業研究
近代ユダヤ史の授業研究
東京都立町田高等学校 住 司 憲 史
1.は じ め に
2.現代のユダヤ人問題
歴史に対して苦手意識を持っている生徒は少な
まず、学習にあたって現代のユダヤ人問題につ
くない。だが、
「ユダヤ人問題」はこうした生徒
いて一瞥しておきたい。英国においてアウシュビ
にも世界史を積極的に学ぼうとさせる一つの契機
ッツの風化が甚だしいという報道があったが、日
を与えうる格好の素材である。ナチスによるユダ
本の高校生もほとんど予備知識はない。教科書の
ヤ人迫害にしろパレスチナ紛争にしろ、これらの
p.169にアンネ・フランクについての囲み記事、
問題が何故生じたのか、世界史の学習を始める以
ワルシャワのゲットーから強制収容所に送られる
前にきちんと答えられる生徒はまずいない。また
ユダヤ人についての写真があるので、まずここを
説明しようとすれば、ユダヤ教の成立まで遡った
開かせ、ナチスのユダヤ人迫害政策について説明
うえでその後のユダヤ人の辿った道を2000年以上
する。p.164の囲み記事も印象深い。
『アンネの日
の長きにわたり要点を押さえていかなければ理解
記』は2003年に文藝春秋より増補新訂版が出たが、
は得られない。こうした極めて今日的な問題にし
たとえその一部分でも原文を読ませたい。高校生
てもその起源が実に古く、まさに世界史的教養が
にとってみると世代的に近いということもあり結
必要とされる。現代の問題を理解するためには、
構反応がある。アンネや家族の写真もあり、隠れ
過去を知らなければならないという世界史学習の
家の建物内部の図面もわかりやすい。迫害政策の
一つの意義が実感されるのではないだろうか。こ
実相を知るのによい資料である。筆者はアムステ
こはまさに教師の腕の見せ所であり、生徒にとっ
ルダムを訪れた際、アンネの隠れ家を見学したこ
て印象に残る教材をどのように提示するかも鍵と
とがあるのでその際撮影した写真も紹介している。
なると思われる。ここでは帝国書院の「世界史A
教科書の裏見返しには「歴史に関連する映画を観
最新版」と「最新世界史図説タペストリー 三訂版」
てみよう!」というコーナーがあるので、ここに
を用い、筆者が授業で使用している文献・映像資
掲載されているスピルバーク監督の『シンドラー
料も紹介しながら授業展開を考えてみたい。
のリスト』についてはふれたい。時間の制約から
すべてを観せることはもちろん困難であるので、
はくがい
ユダヤ人迫害と
1933年ユダヤ人の家族ととも
筆者はクラクフ・ゲットー解体のシーンを使用し
アンネ=フランク
にナチスの迫害を逃れてオラン
1929∼45
ダのアムステルダムに移住した。
ている。スピルバーク自身がユダヤ系であるとい
ドイツ占領後にユダヤ人狩りが
うことも説明する。ホロコーストを扱った映画も
かく
はじまると一家は2年間隠 れ家
数多いが、筆者は一昨年公開されたポランスキー
にひそんだ。44年秘密警察に踏
み込まれて,姉とともに強制収
監督の『戦場のピアニスト』についても言及して
容所に送られ,チフスで死亡し
いる。ポランスキー自身もユダヤ人で幼少時はク
た。隠れ家生活をつづった日記
ラクフに住んでおり、まさにゲットー解体の現場
は全世界で読まれ,隠れ家は現
に居合わせていた。
『シンドラーのリスト』の監
在記念館になっている。
督も当初スピルバークから依頼されていたのだが、
あまりにも生々しすぎて固辞したという。
「明解世界史 A 最新版」p.169
−3−
教の成立からの理解が必要なことを示す。教科書
p.35にユダヤ教・キリスト教・イスラム教につい
て表にされている。またタペストリー p.238も関
連するのでこれらに基づき解説する。旧約聖書の
映像化ということで『十戒』が使用されることが
多いようだが、筆者はスピルバーグ率いるドリー
ム=ワークス初のアニメ作品『プリンス・オブ・
エジプト』を推奨したい。
「葦の海の奇跡」の場
面を授業では使っているが、迫力満点で生徒の関
心を喚起するという効果は十分である。
その後のヘブライ王国建国からバビロン捕囚、
「明解世界史 A 最新版」裏見返し
異民族支配下の時代という苦難を歩むわけだが、
『戦場のピアニスト』は主人公シュピルマンの
この間、ユダヤ教団は組織や儀礼が整備されて行
原作が改編され、ポランスキー自身の体験が描か
く一方、選民思想、救世主待望、戒律遵守といっ
れている場面が見られる。ワルシャワ・ゲットー
たユダヤ教の特徴を鮮明にしていく。離散(ディ
の場面でユダヤ人輸送列車にシュピルマン一家が
アスポラ)以降もユダヤ人が他民族に同化せず、
乗せられそうになったとき、旧知のユダヤ警察官
独自性を保持した要因となるものであるが、であ
がシュピルマンだけ逃がしてくれる場面がある。
るが故に彼らへの差別、偏見も醸成されていく。
その際このユダヤ警察官は「走って逃げるな。歩
ヨーロッパにおいてユダヤ人迫害が激化してい
いて行け。
」と言うが、これは原作にはない。ポ
くのは中世後期以降とされるが、ユダヤ教徒は多
ランスキーの体験が下敷になっている。ポランス
くの職業から閉め出され、キリスト教徒の忌み嫌
キーはクラクフ・ゲットーから脱出する際、ドイ
う金貸し業・行商に進出するが、
「強欲なユダヤ人」
ツ兵に見つかるが、
「走らない方がいい」とだけ
という偏見を生んでしまう。
その勤勉さから医者・
言われ何故か見逃してくれたという。
学者として成功する者も出た。市民革命期に同等
強制収容所の実態についてはフランクル『夜と
な市民権を獲得するが、ユダヤ人の中からその経
霧』から紹介している。筆者は訪独の際、ノイエ
済的成功によって近代市民社会の中で重要な役割
ンガウメとダッハウを見学しているので、その時
を果たす者も登場する。その代表格として、教科
の見聞も話している。ちなみにアンネの隠れ家に
書のp.97にはネイサン=ロスチャイルドが紹介さ
一緒にいたフリッツ=プフェファーはノイエンガ
れているので、彼を切り口に国際金融資本におい
ウメで命を落としている。全身に冷たい悪寒が走
て大きな影響力を持った点についてふれたい。フ
るような重苦しい雰囲気が漂い、見学者の誰もが
ランクフルトの零細な古物商兼両替商から身を起
無言であり、忘れがたい体験であった。筆者は授
こしたロスチャイルド家であったが、第2代にあ
業の際には、写真集や実物教材を教室に持ち込み
たるネイサンはワーテルローの戦いの際、ロンド
生徒に回覧させているが、ここでも現地で入手し
ンの金融街シティで一世一代の勝負に出る。ネイ
たパンフや写真集を見させている。これらは生徒
サンは迅速な情報網によってナポレオンの敗北を
にとってはやはり大きな衝撃であるようである。
誰よりも早く察知していながら、戦時公債をロン
ドン証券取引所で大量に売りに出したのである。
3.国際金融とユダヤ人
これを見て市場はウェリントンは破れたと受け止
次に、
「それでは何故ユダヤ人は迫害されたの
めてパニックに陥り、公債は大暴落した。こうし
か」という発問につながるのだが、これはユダヤ
て紙切れ同然になった公債をネイサンは今度は一
−4−
存外少ないが、佐藤唯行氏の『アメリカ・ユダヤ
情報収集能力の勝利
ネイサン=ロスチャイルド 1777∼1836
人の経済力』
『アメリカ・ユダヤ人の政治力』
(い
ゆくえ
ワーテルローの戦いの行方が
ずれもPHP新書)が有益な知見を与えてくれる。
注目されているなか,ネイサン
ホロコーストの被害者であるユダヤ人が、パレ
はいち早く勝利を知ったにもか
せん じ こうさい
かわらず,戦時公債を証券取引
だい
スチナにおいてはアラブ人の土地を奪う形でイス
暴落した。一転してかれが買い
ラエルを建国し、領土を拡大してきたのは歴史の
所で売り続けたため,公債は大
ぼうらく
占めた直後に勝報が届いたため
皮肉としかいいようがない。パレスチナ問題に関
だいぼうとう
に,公債は大暴騰し,かれは数
きょ り
百万ポンドの巨利を得た。ロス
しては、シオニズム運動の展開、列強の植民地政
チャイルド家が国際的金融資本
策、とくに英国の三枚舌外交が招いた帰結につい
家の地位を不動のものとしたこ
の事件は,情報収集能力の勝利
て丁寧に説明する必要がある。イスラエルが中東
でもあった。
諸国を敵に回し圧倒的な軍事的優位を誇示してき
「明解世界史 A 最新版」p.97
たのは、もちろんアメリカの巨額の財政援助によ
気に買い占め、その直後に英軍勝利が伝えられ、
るものである。額にして毎年30億ドル。アメリカ
公債は大暴騰した。これによってネイサンは天文
が行っているすべての海外援助の実に5分の1を
学的な利益を得て、国際金融における不動の地位
占める。この背景には全米600万といわれるユダ
を獲得したとされる。この時、どのようにしてネ
ヤ票の存在がある。その投票率の高さ、組織的投
イサンはいち早く情報を得たのか。ベルギーから
票行動、大口の政治献金などにより、他のエスニ
の快速船、伝書鳩など諸説あるようだが、ロスチ
ック集団とは破格の影響力を行使している。ユダ
ャイルド家が情報こそ命という確信のもと、欧州
ヤ系政治家としてはキッシンジャーが名高いが、
に当時としては破格の情報網を張り巡らしていた
近年でもクリントン内閣では、オルブライト国務
という点は注目に値する。19世紀初めの至急便で、
長官、コーエン国防長官、ルービン財務長官、ラ
ロンドン∼ナポリが236時間(9日と20時間)の
イシュ労働長官と4人のユダヤ系が入閣している。
ところロスチャイルド家の早馬は168時間(7日)
因みにこの時は、CIA長官のドイッチもユダヤ
で到達したという記録がある。この情報力を武器
人であった。前回の大統領選挙では大接戦の末に
に5人の兄弟たちはフランクフルト、ロンドン、
ゴアが敗れたが、彼が副大統領候補に指名してい
パリ、ウィーン、ナポリにそれぞれ居を構え、緊
たリーバーマンは厳格なユダヤ教徒で知られる。
密に連携をとっていく。オーストリア宰相メッテ
もしゴアが当選していれば史上初めてのユダヤ人
ルニヒとの提携、英国のスエズ運河株買収への関
副大統領が誕生しているところであった。多くの
与など欧州の歴史に大きく関与していった。この
ユダヤ系アメリカ人がイスラエルに肩入れかとす
時の英首相ディズレーリは改宗ユダヤ人であり、
るのは、自分が安全な所にいるという負い目から
ロンドン・ロスチャイルド家に頻繁に晩餐に訪れ
であるとか、あるいは再びホロコーストのような
る関係にあった。
ことが起きたときに逃げていく場所としてイスラ
エルの存続を望むからといわれている。今日のパ
4.米国ユダヤ人の今日
レスチナ紛争の深刻さを見ると、これまでのよう
さて今日、ユダヤ人は国際金融、とくに米国に
に米国がイスラエルに資金援助を続けるだけでは
おいてどの程度の影響力を持っているのだろうか。
なく、和平についてもっと毅然としてイニチアシ
「ユダヤの陰謀」を怪しげに唱える通俗本も多い
ブをとらない限り出口は見えないと感じる。その
ので冷静な検証の要求されるところである。過大
ためにも米国のユダヤ人にも発想を変えなくては
な評価は禁物である。この分野に関して、統計な
ならない部分があるのではないだろうか。生徒に
どに基づいて客観的資料を提供してくれるものは
もじっくり考えさせたいところである。
−5−
世界史A 授業研究
1920 年代のアメリカ−大量消費社会を学ぶ
か や だに
京都府立加悦谷高等学校 堀 江 嘉 明
ーガーショップを開店したものが1号店であり、
は じ め に
セルフサービスなど徹底した合理化を図ったもの
第一次世界大戦後に債権国となったアメリカ合
であった。
衆国は、未曾有の急成長をとげ「永遠の繁栄」を
1932年、後の「ケンタッキーフライドチキン」
謳歌する大量消費社会を実現した。この「アメリ
の創始者カーネル(大佐)
・サンダースはレスト
カ式生活様式(American way of life)
」は現代
ランを経営し、圧力鍋を使った独自の鶏の調理法
の日本をはじめとする諸地域の生活にも様々な影
で人気を得たが、新しいハイウェー建設のあおり
響を与えている。帝国書院『明解世界史A 最新
で集客能力を失ったためフランチャイズ権を売却
版』p.154∼155「あこがれの生活 アメリカの大
しなければならなくなり、全米各地に行脚し、チ
量消費社会」では「電気冷蔵庫の普及がアメリカ
ェーン店を増やしていった。
国民の食生活を大きく変えたのと同時に豊かな生
1907年にミズーリ州で誕生したガソリンスタン
活を象徴するものとして人々のあこがれの的とな
ドは、初期の自動車が故障しがちであったため整
った」とある。
備工場と兼業であるタイプが多く、自動車の普及
「歴史」の授業のなかで、上記単元は、単なる
に伴って全米に広がった。
過去の事柄を学ぶのではなく、物質文明を享受し
これらファーストフード店が1920年代の自動車
ている「今(現在)
」に大きく繋がっている事柄
社会の実現なしには誕生しなかったことにふれ、
を学ぶ単元の一つであろうと考える。
現在の私たちの消費生活と対比させたい。
そこで1920年代のアメリカを『明解世界史A 繁栄の20 年代
最新版』
(以下「世史A」と略記)と『最新世界
史図説タペストリー 三訂版』
(以下、
「タペスト
続いて、
「世史A」p.154 の自動車王ヘンリー =
リー」と略記)を活用しながらの授業案を示す。
フォード(1863∼1947)の項および「タペストリ
ー」p.229⑩の車の販売台数のグラフを見せる。
1920 年代と今日
フォードのベルトコンベアによる大量生産方式
まず、現在の高校生の生活に馴染みが深い語句
の導入により「1台のT型フォードを製造するに
<コカコーラ、マクドナルド、ケンタッキーフラ
は、はじめ14時間かかったが、ベルトコンベア方
イドチキン、ガソリンスタンド>を示し、いつ頃
式で 93分になり、さらには25年には、年間100万
に、どこの国・地域で一般化したか発問する。
台も生産され、1台当たりわずか10分程度」とな
コカコーラは1886年にジョージア州アトランタ
ったことが、一般労働者の年収の「4分の1ない
の一薬剤師が南米産コカの葉とアフリカ産コーラ
し5分の1」程度という「低価格」化をもたらし、
の実を調合したもので二日酔いに効く良薬として
分割払いのクレジット決算により所有世帯が劇的
販売され、瞬く間に全米を席巻した世界的飲料で
に増大したことを、
「タペストリー」
(p.229⑩)
ある。
(
「世史A」p.155③参照)
のグラフで確認させる。
また、マクドナルドは1937年にマクドナルド兄
また、モータリゼーションの発達により、道路
弟がカリフォルニア州にドライブイン式のハンバ
沿いのドライブインや郊外の駐車場を設置した大
−6−
型ショッピングモールなどが建設されたことを理
解させる。
さらにはゼネラルモータース社がライバルT型
フォードの屋根が防水に難がある幌製である点を
指摘し、高級感を演出した「シボレーK型」を売
り出す戦略に出たこと、この開発競争が当時の新
しいメディアであるラジオ放送などを媒介として
非価格競争を激化させ、広告費の増大、モデルチ
ェンジ熱の高まりをもたらしたことにもふれたい。
「明解世界史 A 最新版」p.155「大衆社会のパノラマ」
続いて、
「タペストリー」
(p.229⑧)の写真を
また、ダンスホールでは黒人がピアノ演奏をし
見せ、20年代の「大量消費社会」の到来を象徴す
ている点にも注目させたい。20世紀初頭にニュー
るものとして、電気冷蔵庫等の家電製品の普及が
オーリンズに誕生したジャズが北部にも広がり、
あることにふれ、便利で豊かな生活が女性のライ
アメリカの代表的な音楽となった。第一次世界大
フスタイルをどのように変えたか発問する。
戦で白人が従軍したため、かつての白人街ハーレ
1929年には全米の家庭の7割に電気がひかれ、
ム地区に黒人が流入し、黒人芸術家のメッカとな
その約4分の1に洗濯機が普及していたことにふ
り、いわゆる「ハーレム・ルネサンス」を現出し、
れながら、洗濯などの家事労働の軽減が家事労働
その文化は大西洋を横断し、疲弊していたヨーロ
以外の余暇の時間をもたらし、1920年に全米の女
ッパに流入した。
「褐色のエロティシズム」のジ
性は参政権を獲得していたが、政治参加に加えて、
ョセフィン=ベーカーがパリの社交界に進出した
さらに社会進出までも容易にしていったことにふ
のはその好例である。
れる。とくに商業、運輸・サービス業、営業・事
加えて、
「世史A」
(p.155①)の「大衆社会の
務などの分野の従事者が増大していることを「タ
パノラマ」に映画館が登場している点にもふれた
ペストリー」
(p.228⑥)の産業構造の変化のグラ
い。1911年にはハリウッドで映画製作が始まり、
フで確認する。
第一次世界大戦後からヨーロッパ出身の多くの映
さらに「世史A」
(p.155①)の「大衆社会のパ
画人や俳優を受け入れた。イギリスからアメリカ
ノラマ」中のダンスに興じる女性の服装と頭髪に
に渡った喜劇王チャップリンは抜群の演技力で大
ついて思うことを述べさせる。
衆を魅了し、映画産業の大衆化に貢献し、サイレ
パーマをかけショートヘアで濃い口紅、肌を露
ント・ムービーからトーキーへと切り替わってい
出させながらジャズに合わせて踊るチャールスト
った。
ンダンスに興じる若い女性は、自由に羽をバタバ
「タペストリー」
(p.229)の「Theme 航空機
タさせる雛鳥(
「フラッパー(ばたばたのお転婆
産業のパイオニア」の写真を参照し、1927年にミ
娘)
」にたとえられ、大胆な水着姿で肉体美や脚
ネソタ出身の寡黙な青年リンドバーグが大西洋横
線美を競い合う「美人コンテスト」が開催された
断単独無着陸飛行を行い、一夜にして国民的英雄
のも20年代であったことにふれる。
となったこと、いわゆるアメリカンドリームの体
それまでのモラルに縛られた禁欲を是とする価
現者となったことにふれる。
値観が一変し、未来への夢より現在の享楽に熱中
大量消費・大量生産時代の渦中のアメリカの大
する時代であった。1920年代のアメリカの
「熱気」
衆は現状に満足せず、ラジオがもたらす精神的な
には、熱冷ましのアスピリンが不可欠であったか
刺激やヒーローを求めていた点は媒介がラジオで
もしれないことを、当時の呼称が「アスピリンエ
あるか、テレビやインターネットであるかという
イジ」であったことから把握させたい。
点を除けば今日とまったく変わりはないことを理
−7−
解させたい。
位置する州の「分布状況」
(タペストリー p.228
)が南北戦争時の南部諸州と一致することを視
国内に抱える矛盾
覚的に理解させたい。
「世史A」p.155②の摩天楼「エンパイアステー
また、南欧系移民に対する人種差別の事例とし
トビル」の偉容はまさにアメリカ式生活様式の象
てはサッコ・ヴァンゼッティ事件があげられる。
徴である。自由の女神像が立つリバティ島の近く
ボストン近郊の靴工場の殺人事件の容疑者として
にあるエリス島には移民局が置かれており、移民
靴職人のサッコと行商人ヴァンゼッティが逮捕さ
はその地で合衆国への忠誠を誓い、自由の女神像
れ、2人がアナーキストであったことを理由に死
の眼下に入国した。
刑判決が下り、ロマン=ロランらの抗議声明も空
しかし、移民らは国内に抱えるさまざまな矛盾
しく死刑が執行された。この事件は20年代アメリ
に直面したことを、東欧・南欧・アジア系移民に
カの負の側面を物語るものであり、2人が名誉回
対する排他的な差別・敵意、マフィアの横行、左
復するのはマサチューセッツ州知事が誤りであっ
翼への弾圧などの具体的事象を示しながら理解さ
たことを認めた1977年であった。
せる。
「タペストリー」
(p.228⑦)のグラフ「不況に
「タペストリー」
(p.228
)の「禁酒法」の
あえぐ農村」を参照し、フーヴァーが「永遠の繁
写真を見せる。1919年に禁酒法が制定された背景
栄」を叫んだその一方で、農村では第一次世界大
には、第一次世界大戦での反独感情の高まりとビ
戦中の過剰な設備投資などにより農産物価格が下
ール業者の多くがドイツ系移民であったことへの
落し、離農者が増大し「繁栄のなかの貧困」の状
反発、道徳的な理想論などがあげられる。
態に陥ったことを理解させ、後のニューヨーク証
しかし、この法は反対者も多く、ごく普通の市
券取引所の株の大暴落に続くことを紹介し結びと
民が遵法精神をかなぐり捨て、密造酒の密造・密
する。
輸入・密売に手を染めるようになった。ブーツを
まとめ
履いて脚の部分に密造酒の小瓶を隠したため、
「ブ
ーツレッギング(ブートレッグ)
」が密造・密輸
1997年、京都で気候変動枠組条約第3回締約国
を意味する隠語となった。また、密造酒の売買の
会議(温暖化防止京都会議)が開催され、先進国
交渉を声をひそめて話すことから「speak easy」
に温室効果ガスの削減を義務づけた
「京都議定書」
がもぐり酒場という隠語となった。いわゆる海賊
が採択され、今年(2005年)ようやく発効した。
盤レコードや海賊盤CDなどを「ブートレッグ」
しかし、世界最大の温室効果ガスの排出国である
と呼称するのはこの故事に因んでいる。
アメリカが、2005年3月現在、上記議定書から離
密売が大きな収入をもたらしたため、ギャング
脱していることも周知の事実であり、環境問題解
やマフィアがその勢力を拡大して、映画「ゴッドフ
決に向けた多くの課題を残している。
ァーザー 」で名高いアル=カポネが密造酒販売、麻
1920年代のアメリカの大量消費社会、
「アメリ
薬、賭博、売春、「聖バレンタインディの虐殺」に代
カ式生活様式(American way of life)
」の延長線
表される敵対者の殺戮など悪事の限りを尽くした。
上に現在の(京都議定書から離脱している)アメ
「タペストリー」
(p.228③)の「K.K.K.の集会」
リカがあることを考えさせ、まさに歴史は過去の
の写真を見せる。いわゆるWASP至上主義を標
遺物ではなく、現在と未来を考察する学問である
榜した彼らはアメリカ生まれの白人プロテスタン
ことを理解させたい。
トこそが「生粋のアメリカ人」であると主張し、
《参考文献》
当時の会員は数百万を数えた。
木村靖二/柴 宣弘『世界の歴史26』中央公論社
黒人らに対する集団暴力事件の報告数の上位に
猿谷要『物語アメリカの歴史』中公新書
−8−
世界史A 授業研究
自由主義・国民主義の進展
「1848 年− 19 世紀の転換点−ショパンの生涯を軸にして」
埼玉県立所沢高等学校 廣 瀬 和 義
上がったという筋立て)を観て興奮した観客が
は じ め に
街に飛び出してベルギー独立のための蜂起を始め
ウィーン体制を崩壊させ、それ以後の「ナショ
た、というエピソードが有名である。ショパンの
ナリズムと国民国家」の出発点となった“諸国民
音楽もその後の歴史の中でポーランド民族の拠り
の春”1848 年革命の流れと展開について、生徒
所になっていく。なにより生徒にとってもショパ
たちはいかなる認識を持っているであろうか。お
ンの旋律はどこかで耳にしているはずであり、身
そらくイギリス革命やフランス革命・ロシア革
近に感じることができるだろう。以下、実験的に
命等に比べて知名度や興味は著しく低いと思われ
記述してみた。
る。実際教える側にとっても、
難しい箇所である。
複数の地域で時系列的に並行に事件が起こってい
1.ショパンの生涯 幼年期∼少年期
(1810 ∼ 1829 年) るうえ、イギリス革命におけるクロムウェル、フ
ショパンは1810年3月1日
、
(一説には2月22日)
ランス革命におけるマリー = アントワネットや
ポーランドのジェラゾヴァ・ヴォラで生まれ、首
ナポレオン、ロシア革命におけるレーニンのよう
都ワルシャワで育った。父はフランス人でフラ
な時代を代表する人物を軸にするにも、この時代
ンス語教師をしており、母は没落したシュラフタ
では選定しにくい。そこで教科書「明解世界史A
(ポーランド貴族)の娘であった。彼には3人の
最新版」
p.108 に掲載されている
“ピアノの詩人”
姉妹がおり、彼自身は第二子である。
フリデリック = ショパン(1810 ∼ 1849)の人生
ポーランドは 1772 年から 1795 年にかけて三回
とポーランド史を軸にこの時代にアプローチでき
の「ポーランド分割」で地図上から抹殺されてい
ないか思索してみたい 。
たが、ティルジット条約(1807)でナポレオン支
ポーランドは三つの大国
配下とはいえ、ワルシャワ大公国として独立を一
によって消滅させられてお
時期取り戻していた。ショパンが生まれた 1810
り、そのナショナリズム的
年頃はナポレオン帝政絶頂期だったが、その後
な運動と失敗はある意味“諸
モスクワ遠征の失敗(1812)で没落してしまう。
国民の春”を代表している。
ウィーン会議(1814 ∼ 1815)の結果、正統主義
またショパンはポーランド
の原則を掲げたウィーン体制が成立し、ポーラン
生まれの愛国者であり、時
ドにおいてもロシア皇帝が国王を兼ねるポーラン
代の精神を代表するロマン
ド立憲王国が建設され、独立を失った。
派の芸術家だった。
幼い時よりショパンはピアノの神童として名を
音楽が歴史的な事件とか
はせている。最初の作曲の出版が7歳(1817)と
かわった事例としては 1830
いうから凄まじい。この頃からワルシャワ貴族界
年夏ブリュッセルでオー
のサロンからお呼びがかかり、上流階級に出入り
ベールのオペラ「ポルティ
している。1823 年ワルシャワ高等学校に入学。学
チの物言わぬ娘 」(スペイン
生生活を始める。夏休み中はシュラフタの友人の
「明解世界史 A 最新版」p.108 人の圧制にナポリ人が立ち
田舎の屋敷で過ごすことが多かった。この機会に
ピアノの詩人とうたわれた
ショパン
1810∼49
かれは,革命にゆれた時代に
生きた作曲家であった。1810
年にワルシャワで生まれたが,
まもなく祖国ポーランドは独立
を失った。七月革命直後にパリ
を訪れ,二月革命後にここで息
を引き取った。かれは祖国への
熱い思いをピアノに託し,数多
くの民族舞曲(ポロネーズ・マ
ズルカ)を作曲した。
−9−
ポーランド農民の音楽を知り、民族音楽採集に
ワルシャワの情勢を気にしながらウィーンに留ま
情熱を傾けている。いわゆるポロネーズやマズル
ったが、オーストリアはポーランドの一部(ガリ
カにふれたわけで、彼の作曲家としての方向性に
ツィア地方)を領土にしていた関係から反乱に対
大きな意味を持つことになる。1826 年 16 歳でワ
して友好的でなく、居心地が悪かった。また当時
ルシャワ音楽学校に入学。しかし翌 1827 年、末
はやっていたウィンナワルツに対して芸術的な興
の妹エミリアを結核で亡くす。この時期より彼に
味を持てなかったらしい。しだいに悪化するワル
も結核の症状が出始め、一生苦しむことになる。
シャワの情勢を耳にし、家族や友人を思って精神
1829 年音楽学校卒業。学校側の評価では「格別
的にもまいっていた。そこで彼はポーランドを支
の天才−音楽的天才」とある。同年ウィーンに行
援する気運があるパリをめざすことにした。1831
き、曲の出版を決め、演奏会でも成功している。
年7月、ウィーンを出発。ところが途中9月にシ
彼は世界の表舞台をめざし始めたのである。
ュトゥットガルトで革命の敗北とワルシャワ陥落
2.ショパンの生涯 旅立ち
(1830 ∼ 1831 年)
の悲報を聞く。そのうえ故国の家族や友人たちと
1830 年フランスで起こった7月革命はヨーロッ
有名な「シュトゥットガルトの手記」を残している。
連絡が取れなくなった。ショパンは激しく動揺し、
パ各地に波及し、民族統一運動や自由主義運動を
シュトゥットガルト。これまで僕は何も知らずに書い
ていたのだった。敵が家にあがりこんでいると知らずに。
町の郊外地区は壊され−焼き払われた− ( 中略 ) − おお
神よ、いたか! いるが復讐はしないのか! これでも
まだロシア人の犯罪に飽き足りないというのか。( 中略)
蹂躙され一千人の他人の死体の下敷きになっているか。
町は焼かれた! ああ何ということだ、僕はモスカル(モ
スクワ人)一人殺すことができなかった! ( 中略 ) ところ
が僕はここで武器ひとつ手にせず−時にピアノ相手に呻
いたり、苦しんだり−悲嘆にくれたりしているだけだ−
いったいそれが何になる? 神よ、神よ! 地を揺るが
せ、大地は別の世紀の人間を呑み込め。( 以下略 )
B.S. ジェリンスカ著 関口時正訳
「決定版 ショパンの生涯」
音楽之友社より抜粋
各地で起こした。フランスで7月王政が成立した
のとベルギー独立以外はすべて列強に鎮圧されて
しまうが、ウィーン体制に対する諸国民の大きな
揺り返しである。ポーランドでもロシアからの独
立を求める 11 月蜂起が起こっている。直接のきっ
かけはロシアがフランスやベルギーの革命運動に
軍事干渉を企て、ポーランド軍を動員しようとし
ているという噂だった。しかしこの独立革命は1
年を経ずして翌年9月にロシアの大軍によって鎮
圧され、それまでの自治も取り消された。参加し
た多くの市民、軍人は亡命を余儀なくされた。
この悲憤の中で作曲されたといわれているのが
さて、ショパンはこの激動の年11月、ポーラン
「革命」と呼ばれるエチュード、ピアノ練習曲第
ドを離れ再びウィーンをめざした。今回は長期間
12番ハ短調である。ピアノを叩きつけるような旋
の旅を予想し、友人たちと別れをかわしている。
律は彼の苦悩と絶望を文章以上に雄弁に語ってい
友人たちは彼に銀杯に盛った故国の土を贈った。
る。また、悲劇的な故国に寄せる愛はマズルカや
しかし彼は二度と故国に帰ることはなかったので
ポロネーズの形態でその後の作品に濃い民族性を
ある。ウィーン到着1週間後に11月蜂起の知らせ
映し出しているのは周知のごとくである。
が届く。ショパンに同行していた友人のティトゥ
スは蜂起に参加するためポーランドにもどってい
3.ショパンの生涯 青年期
(1831 ∼ 1846 年) った。ショパンも一緒に帰国し戦いに参加するこ
ショパンがパリに到着したのは1831年9月末で
とを望んだが、病弱な彼は兵として役に立つはず
ある。七月王政が成立し、大ブルジョワジーが政
もなく、ティトゥスに「自分の芸術に専念し、ポ
権を握っていた。彼はここに居を定める。当時パ
ーランドの名を世に広めることによって、銃を手
リには多数のポーランド知識人が亡命しており、
に取るよりも遙かに多くのことを祖国のために成
「大亡命」と呼ばれる集団をつくっていた。ポー
し得るはずだ」と説得され、帰国を断念した。彼は
ランド文学同盟という組織もつくられ、様々な文
− 10 −
化活動を行っていた。ショパンはこの組織に入会
ズムに幻想を抱きすぎ、農民等の大衆動員につい
している。また、メンデルスゾーン、シューマン、
てほとんど念頭に置かなかったということもある。
ベルリオーズ等ロマン派のそうそうたる音楽家た
蜂起はしたがその後国内の諸勢力を組織しきれ
ちと交流する。パリで彼は名声を博した。ただし、
ず失敗するという図式は、まさに後に来る1848年
内気な彼はコンサートを好まず、ピアノレッスン
革命の経過そのものである。ちなみにその後1863
と作曲をおもにしていた。この時期が彼にとって
∼1864年にかけてワルシャワで1月蜂起と呼ばれ
人生最良の日々であり、作曲数も多い。1836年に
る対ロシア反乱が起こったが、この時は前回の教
はシュラフタ出身のマリア=ヴォジンズカと婚約
訓をふまえ、農民解放令を出している。しかしツ
した。
ァーの出した解放令の方が条件がよかったので、
しかし翌年破棄。彼の健康状態が理由といわれ
農民の協力を得ることに失敗した。
ている。結核はじわじわと彼の身体を蝕んでいた。
1848年、パリで2月革命勃発。健康状態がかな
このようなどん底の時に会ったのが女流作家ジョ
り悪化していたショパンは喧噪のパリを離れイギ
ルジュ =サンドだった。サンドは彼より6歳年上。
リスへ演奏旅行に出かけた。しかし北の国でさら
離婚した夫との間に2人の子があり、自分で引き
に身体をこわし、すぐパリに戻る。翌1849年10月
取っていた。最初に会った時、葉巻をすい、男も
17日、姉のルドヴィカに見守れながら永眠。死因
のの外套とズボンという出で立ちだったので「本
は結核だった。享年39歳。遺骸はパリで葬られ、
当に女性なのか?」と呟いたとか。以後1846年ま
墓にはいつも持ち歩いていたポーランドの土がま
で彼女とつきあうことになる。サンドは母性愛に
かれた。そして遺言により心臓だけは故国に持ち
満ちた女性で病弱なショパンの面倒をよく見てお
帰られ、ワルシャワの聖十字教会に安置された。
り、彼にとって得難いパートナーだった。ドラク
ポーランドの“諸国民の春”は失敗した。国内
ロアが二人の並んだ肖像画を描いている。後年彼
の諸勢力を独立に糾合できなかったからである。
らが別れるとこの絵は二つに切り分けられた。
しかしショパンの残した曲の数々は以後長くポー
4.ショパンの生涯 晩年
(1846 ∼ 1849 年)
ランド・ナショナリズムの紐帯となるのである。
1846年、この年ショパンにとってはなかなかに
お わ り に
辛い年だった。サンドと破局をむかえ、決別した
以上、簡単に“諸国民の春”をポーランドとシ
のである。彼はサンドを忘れられず死ぬまで彼女
ョパンを中心にして記述してみた。授業展開とし
の髪の束を持っていた。健康状態もますます悪化。
ては、生徒にショパンの人生について調査させる
一方で芸術的感性はとぎすまされたのか、傑作「幻
とか、年譜を調べさせ、その時代について対比し
想ポロネーズ 変イ長調」を作曲している。また
た年表をつくらせるとか、様々な方法が考えられ
同時期、故国ポーランドでも悲劇が起こっている。
ると思う。その時は、まずショパンの曲を聴かせ
1846年2月オーストリア領ガリツィアのクラク
てほしい。ショパンの曲の多くは、おそらくは生
フで民族蜂起が起こり、
「ポーランド共和国国民
徒がどこかで聴いたことがあると思われるので、
政府」が樹立された。しかしこの蜂起はロシア、
この時代に興味を持つきっかけになればよいと思
オーストリア、プロシアの三大国によって鎮圧さ
う。千の言葉より一つの曲の方が彼とその時代を
れてしまう。それどころか蜂起側に立つシュラフ
知るうえで大きなヒントとなるであろう。
タの地主をポーランド人の農民が襲撃するという
《参考文献》
事態まで起こっている。そもそもここは再版農奴
制のもと地主による収奪が厳しい地域だった。ま
た、蜂起側があまりにもポーランド・ナショナリ
「東欧の民族と文化」南塚信吾 編 彩流社 1989
「世界各国史13 東欧史」矢田俊隆 編 山川出版社 1977
「決定版 ショパンの生涯」B.S.ジェリンスカ著 関口時正
訳 音楽之友社 2001
− 11 −
世界史A 授業研究
ココ = シャネルを切り口に女性の社会進出を考える
東京都立高島高等学校 大 見 真 由 美
これはフランス革命時、かの人権宣言を批判し
は じ め に
たフェミニズム理論家グージュの言葉である。グ
ージュは、この革命がそもそも女性の権利につい
私の授業ではこれまで女性については、
「女性
てはまったく想定していないことを喝破し、
「人
史」にような形で独立しては取り上げてこなかっ
権宣言」に対抗して「女性の権利宣言」を発表し
たので、本稿については、あくまで実践ではなく、
たが、国王処刑に反対して断頭台送りになった。
研究例としてお読みいただきたい。
この言葉から、18世紀においてもこのように考
もちろん、授業中折々に女性についてふれるが
えられていたことや、遡ってポリスの民会の構成
(たとえば選挙権の話など)
、何しろ歴史の記録者
にも触れ、女性が政治的権利を持つなどとは考え
は圧倒的に男性であるため、
「制度の中の女性の
られなかった時代が長く続いたことを述べる。
扱われ方」は分かっても、女性の「姿」は見えて
だが一方で、経済的には女性は農業や家内工業、
こない。姿が見える史料としては、文字通り絵画
商売などの仕事をこなし、重要な家計の担い手で
や写真などが、女性を映し出す。これも決して多
あったこと、したがって労働しないから権利から
いとはいえないものの、図版を使って、その中の
排除されていたわけではないことを、
「最新世界
女性の姿から推理を働かせたり、時代背景を考え
史図説タペストリー 三訂版」p.131の「農民の
る授業ができるであろう。
くらし」
(ベリー公の時祷書挿絵)
で確認させる
(女
性の姿が見えるのは9月)
。
導 入
7月
9月
11月
まず、シャネルのロゴマークを見せ、答えさせ
たうえで、意識にとどめておくように言ってから、
次の言葉を紹介する。
展 開
人間が真に自由と平等であるなら、当然女
も・・・。だが、革命が起こっても、女性は
市民にも数えられていないのが実態ではない
Ⅰ 産業革命期
か!
そして、産業革命に話をつなぐ。農業社会であ
れば家族がともに働き、職場と家庭とが渾然一体
(この2つおよび人権宣言第1条はプリント印刷
となっていたが、工場労働が始まると、労働者は
で配布する。
)
家を出て工場に向かわねばならないことを述べて、
− 12 −
職場と家庭が分離したことを理解させる。
さらに、妊婦や子連れの女性が工場や炭坑での
重労働に適しているかどうかを問い、そこからよ
り効率的な生産を求める資本主義の要請が「結婚
したら、夫を送り出し家庭を守る」という専業主
婦を生み出したことをつけ加えておく。ただし、
それでも働かざるをえない女性たちはおり、彼女
たちの工場労働を支えるために、子どもを家庭外
で預かる保育施設が設けられるようになったこと、
さらに第二次産業革命期以降、新しい産業社会の
形成にともなう新しい職業の拡大が、女性に新た
な労働の場を提供したことによって女性の社会進
男性労働力の不足に対応するため女性の社会進出
出が促されたことを補足する。
が大幅に進んだことを、教科書p.157⑦の写真を
示しながら説明する。働くようになれば当然、先
ほどのような服装は動きにくいため活動的な服装
Ⅱ 女性と衣服
ここで、教科書(
「明解世界史A」
)p.156∼157
に変わっていくことを想起させる。
を開かせる。炭坑といわず、たとえ現在のような
オフィスであっても、クリノリンスタイル(下写
真左)やバスルスタイル(下写真右)が労働にふ
さわしいかどうかを尋ねる。
Ⅲ 女性と権利
さらに、女性の社会進出が各国経済を支えたが
ために女性の社会的地位が向上、それによって女
性の権利獲得も進み、1918年にはイギリスで、第
次に現在の女性の服装とどのように違うかを答
4回選挙法改正によって女性にも参政権が拡大さ
えさせる。スカート丈や締めつけぐあい、布地の
れたこと、ただし男性とは制限年齢が異なり、男
分量などが出てくると思われるので、ここで冒頭
女同一年齢になるのは1928年であることを指摘す
のロゴマークに戻って、現在のような活動的な衣
る。
服のもとがココ=シャネルであることを、教科書
ま と め
の写真(右段上)を用いて説明する。
そして彼女の開いた女性服専門店の開店が1915
年であったことから、それがどのような時代であ
ここでまとめに入る。プリントの人権宣言第1
ったかを発問する。第一次世界大戦が出てきたら、
条(
「人間は、自由かつ権利において平等なもの
「総力戦」や「銃後」という用語の説明とともに、
として生まれ、また、存在する。
」
)と冒頭のグー
− 13 −
ジュの言葉に戻り、自由と平等という価値は、制
なお、もし時間があれば、女性が陰の存在とさ
限のあるものかどうかを考えさせる。白人だけに
れてきたことには、宗教にも大きな責任があるの
あてはまるものでないと同様、一つの性に限定さ
ではないか、という私見についても、紹介したい。
れるものでもないことは、生徒にも容易に理解で
きるであろう。しかし大事なことはその先にある。
最 後 に
自由や平等や権利というものが、天与のものな
のか、黙ったままで手に入ったのかを考えさせ、
以上、女性である筆者が、世界史の授業で女性
そうではないのであれば、どのようにしてそれら
について考えるという試案である。初めに記した
が獲得されてきたのか、フランス革命を想起させ
ように、とくに女性にこだわった授業をやってき
る。ただし、革命が最終の解決ではないことに留
ていないので、最初にこの話をいただいた時はと
意させなければならない。一歩前進二歩後退とい
まどったが、今この授業を実際にやってみて生徒
う状況の中で、多くの犠牲を伴いつつわずかずつ
の感想を聞きたいと思っている。本稿のために古
でも権利が獲得されてきたこと、自由・平等や権
い文献を引っぱり出したり、調べたり、思いがけ
利が、このように「獲得」されたもので自然に備
ない勉強をすることができた。その意味で良い機
わってあるものではないとすると、永遠に保障さ
会であったと思う。
れているわけでもないことに気づかせ、ではそれ
ただ、女性から見た女性史であるので、一面的
を維持していくためには、何が必要なのかについ
であると思う。男性であればまた違った発想や切
ても考えさせる。
り口があるだろうから、ぜひ同じテーマで男性の
そのうえで、しかし人権宣言の「人間」は、有
方にも書いていただきたい。
色人種や女性を含んでいないこと、したがって彼
生徒は、学校の中では、男女差別的なことはあ
らがフランス人男性と同じ権利を持つためには、
まり感じないでこられたのではないかと思う。し
さらにその何倍かの時間と努力と犠牲を要したこ
かし、学校という組織を出てしまうと、女性はさ
とを説明する。ことに女性は、男性の陰におかれ
まざまな差別を受けて、愕然とするのである。筆
た歴史が長く、一方で権利の歴史は浅いので、容
者自身も、そういった差別のない(と思われた)
易に奪われるおそれのあることは、昨今の「ジェ
この職を選んだにもかかわらず、悔しい思いを何
ンダー」叩きからも想像できる。そこで、ジェン
度も経験している。全く経験しないですめば、そ
ダーという用語を説明し、
「ジェンダーフリー」
れにこしたことはないとも思うが、差別に愕然と
とは、現在批判されているような「男らしさ・女
することで、女性の歴史や現在の社会構造に思い
らしさを否定する」ものではなく、性の違いを理
を巡らすきっかけになるかもしれない。
由にした差別の排除を求めるものであること、性
市井三郎の言うごとく、
「自分に責任のないこ
差は能力差ではなく、生物学的な違い(体力・腕
とから受ける差別を減らしていくことが、進歩で
力等の差)であること、女性は男性より「能力的
ある」
(
『歴史の進歩とは何か』
)ことを確信して、
に劣っているから男性の補助的存在」なのではな
そのような世界を築いていこうという意欲のある
く、体力の差を除外すれば全く同じ地点に立つこ
生徒が出てくることを祈りたい。
と、したがって都知事らによる猛烈なジェンダー
フリー批判は、性差を固定的役割分担に結びつけ
たものでナンセンスであり、男女というより「そ
の人らしさ」を大事にすることが、男女共同参画
社会の形成につながることを述べて、この授業の
結びとする。
− 14 −
* * *
「世界史A」のこれまでとこれから
埼玉大学教養学部教授 岡 崎 勝 世
世界史A教科書の分野に帝国書院が参画したの
のであろうか。この点については、帝国書院企画
は、高等学校で授業が開始されて1年後の、1995
による「全訳世界の歴史教科書シリーズ」がヒン
年であった。以来今日まで「世界史A」とともに
トを与えてくれた。このシリーズを見渡すと、世
歩んできた一執筆者として、これまでの歩みを振
界の歴史教科書には大きく二つのタイプがあるこ
り返りながら、考えてきたことを記したい。
とがわかる。史料と討論を重視するタイプと、基
本的事実の記述とその学習を重視するタイプの二
おもしろい教科書をめざす
種である。日本の教科書の伝統は、後者の典型と
教科書を執筆することになった頃、私には二つ
いえる。それは一見無味乾燥のように見えはして
のことが念頭にあった。一つは、おもしろい教科
も、基礎的事実の客観的な記述という点では、コ
書にしたいということ、第二には、世界史教科書
ンパクトで優れた内容を有していると思われた。
の理念を明確にしたいということであった。
こうしたことから私は、
「理念としての教科書と
まず第1点についていえば、これは、高等学校
は、現在の日本における歴史的共通認識のエッセ
の世界史教師として約10年間、教科書に接してき
ンスを生徒に伝達するもの」と考えるようになっ
た経験からきている。そこでは教科書は、すでに
た。
「現在の日本」と限定するのは、
「現在と過去
歴史に興味を持っている生徒にとっては大変に有
との対話」
(E.H.カー)という、歴史学の特質か
用であった。世界史が選択科目であった間は、そ
らくる。また、これは「理念」であり、
「エッセ
れでもよかったかもしれない。しかし今や世界史
ンス」の具体的内容に関しては、明示された絶対
が必修科目となった以上、教科書は、歴史に関心
的なものは存在しない。それ自体が、また探求の
を持ったことがなかった、しかも多様な生徒たち
対象となるという性格を有している。しかし他方、
をも対象にしなければならない。このことから、
その内容については、その手がかりは与えられて
おもしろくする工夫は、極めて重要と思われた。
いる。たとえばこれまでの教科書や高等学校学習
だが歴史書を読んで楽しいと感ずるのは、何か
指導要領、各種の世界史シリーズなど、日本におけ
らであろうか。私にはその「最初の一撃」は、自
る様々な世界史記述の実例がそれである。執筆者
分にとっての「常識」が破られたときの「驚き」
の責任は、これらの実例と自らの研究を基礎に、
だと思われた。歴史では、当たり前と考えていた
「エッセンス」を抽出する努力をして、その成果
ことが、過去、あるいは他の地域から見れば非常
を記述することだと考えたのである。
識となるということにしばしば出会う。そうした
驚きを感じてもらう具体的工夫
出会いでの「驚き」こそ、歴史に興味を持つ契機
となると考えたのである。教科書が多面的な「驚
私たちの教科書では、全体の構成と本文につい
き」を提供し、その一つでもが生徒たちの何らか
ては、上述した「エッセンス」の記述に重点が置
の琴線に触れて、歴史への関心の入り口となって
かれている。前近代では地域文化の形成と発展を
くれる工夫が必要だと考えたのである。
通時的に、近代以降では地球単位での世界史を共
しかし、教科書は、ただおもしろければよいと
いうものではない。そもそも教科書の本分は何な
時的に記述している(現行教科書の構成は下図)
。
その際、一見開きを記述の単位として、厳選した
− 15 −
基本的事項の内容と意義について記述している。
アの繁栄」→アジアに向かうヨーロッパ→アジア
また、記述の基本となる史料は必ず明示してきた。
の変動という順序に配列し、整理してみた。
「驚き」を感じてもらうための工夫は、主とし
また「現在」の視点を重視した。
「地球社会の
て特設頁や、一連のコラムなどで展開されている。
到来」
(3部6章)では、1970年以降の現在の世
たとえば「物を通してみる」世界史シリーズは、
界について、地球規模で多元化と一体化が同時進
1995年版から設けている。また、日本との関係で
行している「地球社会」を記述した。それととも
過去を見直す「世界史のなかの日本」シリーズは
に、そこで強く意識されているのは、①「人間の
じめ種々のキャプションでも、今日身近にある話
権利と自由の尊重」と、②「異文化理解」
、そし
題を広く取り上げてきた。カラー化するなど、ビ
てそれらの上に成り立つ、③「共に生きる世界」
ジュアル性を重視したのも、その一環である。
という三観点=未来に向けての課題である。
わが国の歴史学は1970年代に大きく変貌した。
「人間の権利と自由の尊重」と「異文化理解」
「世界史の基本法則」の追及を柱とする「戦後歴
の問題については、本教科書のすべての記述がこ
史学」から、
「社会史」への転換がそれである。
れに関係するともいえる。そのなかで人権と自由
そしてその具体的成果が提供されはじめたのは、
の問題についてとくに注意したのは、各時代の具
1980年代に入ったころからであった。この
「驚き」
体的様相、それを女性や子どもたちについても目
を提供するための記述では、同時にこうした現代
配りして記述するということであった。異文化理
の歴史学の成果を紹介することにもなっている。
解については、
「物を通してみる世界史」のほか
に
「クローズアップ生活・文化」
を特設したし、
「物
現行教科書への改訂で行った新しい取り組み
にも歴史あり」のコラムはじめ、キャプションな
全体の構成は1970年代以後行われてきた編成を
どでもこうした観点から重要なものを選んでいる。
踏襲したが、一部に手を加えた
(下図ゴチック)
。
共生の模索については、とくに、1部に「南北ア
(地球社会の到来)
メリカ世界」と「東南アジア世界」を設定した。
1970年以降
両世界、とりわけ「東南アジア世界」についての
3部
現代の世界と日本
基礎知識は、今後の日本の進路を考えていくうえ
19世紀末
2部
で、不可欠となると考えたからである。
一体化に向かう世界
理想的教科書をめざして
16世紀
現在、私たちは、現行教科書の改訂に取り組ん
ユーラシアの交流圏
1部
南
北
ア
メ
リ
カ
ヨ
ー
ロ
ッ
パ
世
界
イ
ス
ラ
ー
ム
世
界
南
ア
ジ
ア
世
界
東
南
ア
ジ
ア
世
界
でいる。改訂の主要点は、上でも述べた三観点を、
東
ア
ジ
ア
世
界
今まで以上に、目に見える形で教科書の構成に反
映させることにある。それによって、生徒たちが
自身の未来について考えるとき、教科書が一層役
立つものとなることを願ってのことである。
だが、理想的教科書への接近は、執筆者のみに
よって達成されるものではない。教科書を使用し
て下さる先生方や生徒諸君の批判も、また極めて
人類・文明のはじまり
重要な要件となる。現在進めている改訂では何度
世界史Aで最も苦労してきたのは、前近代の構
も現場の先生方からの批判を仰いだが、こうした
成と、それをいかに近・現代に接合するかの問題
協力関係もさらに深くし、批判をふまえて、可能
であった。今回は、2部(16世紀以後)を「アジ
な限り理念に近づいていきたいと考えている。
− 16 −
世界史B学習のこれまでとこれから
大阪大学教授 桃 木 至 朗
ーフェイスの人文学」内部には、
「イメージとし
人文学の危機とCOE
ての日本」
「モダニズムと中東欧」などいくつか
この原稿では、私たちが現在展開している、最
の研究班がある。いずれも、それ自体「横断的」
先端の歴史研究と高校歴史教育を結びつける活動
ないし「臨床的」性格をもつ研究や、関連する教
について、ご紹介させていただく。これは、大阪
育(大学院には「COE科目群」が解説されてい
大学の大学院文学研究科を中心に、同人間科学研
る)を行いながら、既存の学問のあり方・方法論
究科、言語文化研究科などと共同して進められて
の意識的な再検討をつねに試みている[詳細はホ
いる文科省21世紀COE(center of excellence)
ー ム ペ ー ジhttp://www.let.osaka-u.ac.jp/coe/ プログラム「インターフェイスの人文学」
(2002∼
を見られたい]
。
06年度)の一環をなす。
そのうち、歴史系の教員・若手研究者を中心に、
21世紀COEプログラムは、
「現代中国研究」
「砂
「日本史」
「東洋史」
「西洋史」などの学問分野間
丘の研究」など特定分野の集中的研究を想定した
の「横断」̶それは、従来の歴史研究(そして
しくみだが、
「インターフェイスの人文学」の場
あらゆる人文・社会科学研究)の根本的弱点だっ
合は、自然科学・社会科学と比べて(日本の)人
たアジア史に正当な位置づけをあたえながら行う
文系の諸学問が、19世紀以来の古い枠組みに拘泥
「横断」でなければならない ̶ を主目的として
するあまり、ひとしく発言力を失っているという、
つくられたのが、2002∼03年度の「シルクロード
個々の分野をこえた人文学の構造的危機を、
「研
と世界史」
(代表:森安孝夫教授)および、メン
究」
対象としている。
人文学が本当に純粋な
「虚学」
バーの異動にともなってテーマを再編した2004∼
であれば、それが大学から消失しようが騒ぐに価
06年度の
「世界システムと海域アジア交通」
(代表:
しない。が、現実世界を見れば外交やテロ、環境
桃木至朗)である。両方合わせて以下、
「歴史班」
から少子高齢化までどの社会問題も、科学技術の
と略称したい。班活動の中心は研究会で、
「中央
発達だけでは解決せず、文化や歴史への洞察を要
アジア学フォーラム」
「海域アジア史研究会」
「グ
する領域は日々拡大している。そこで、諸学問間
ローバルヒストリー・セミナー」など、阪大らし
や各国の学界間の「横断」
、研究者が社会と接す
くタテの地域割りでなく横に世界を輪切りにする
る「臨床」など、
「インターフェイス」
(接触面)
タイプの研究会が、定期的に行われている。
での活動を意図的に行い、人文学全体を「書斎と
またプロスポーツと同様、現代の学問研究も、
書物に閉じこもった硬直した学問」から、研究室
世界に直結していなければ優秀な青年は集まらな
−社会−メディア空間などを行き来しながら行う
い。04年度には、グローバルヒストリー・セミナ
柔軟で開かれた学問に改造しよう、
というのが
「イ
ー(すべて英語で行う)が7人の世界システム研
ンターフェイスの人文学」の示す人文学再生のシ
究者を海外から順次招聘して、日本発の諸理論と
ナリオである。
の討議を行い、一方「海域アジア史研究会」は、
シンポジウム「海から見た東北アジア:東南アジ
世界につながる新しい歴史学
アとの対話」
(10月29・30日、那覇)を国立シン
上のようなねらいを実践する場として、
「インタ
ガポール大学と共催して、日本・朝鮮半島・中国
− 17 −
などの東北アジア海域史研究(研究者が英語で発
表しないため、この海域の重要性が世界にはほと
んど知られていない)と英語圏を中心とする東南
アジア海域史研究との対話を組織した。
全国高校歴史教員研修会
歴史班では2003年度から大阪外語大大学院と共
同で開設したCOE科目「歴史学のフロンティア」
(新しい歴史学の方法論を扱うリレー講義)など、
教育や若手研究者のトレーニングにも力を入れて
第1回「シルクロードと世界史」講義一覧
・2003 年8月5日(火)
桃木至朗(大阪大学教授)
「現代世界とあたらしい歴史学・歴
史教育」
森安孝夫(同)
「世界史上における中央ユーラシアの意義」
川北稔(同)
「ヨーロッパとアジア」
・8月6日(水)
桃木至朗「東南アジア史の枠組を教える方法」
山内晋次(COE特任教員)
「遣唐使途絶後の日本とアジア」
杉山清彦(日本学術振興会特別研究員)
「清帝国と海域アジア
・内陸アジア」
・8月7日(木)
荒川正晴(大阪大学教授)
「シルクロード上のソグド人」
白須浄真(比治山大学非常勤講師)
「新しい世界史教育の創造
をめざして」
たり入試で出題しようとすると、必ず「難しすぎ
第2回「アジア史と日本史の対話」講義一覧
・2004 年8月9日(月)
平雅行(大阪大学教授)
「中世日本の三国世界観と神国思想」
桃木至朗(同)
「東南アジアにおける外来文明や「世界」との
向き合い方̶̶日本史との比較」
・8月 10 日(火)
森安孝夫(同)
「中央ユーラシア史から見たアジア史・日本史」
山内晋次(COE特任教員)
「中世日本列島と海域世界」
岡本弘道(大阪樟蔭女子大非常勤講師)
「琉球王国と東アジア
国際秩序」
杉山清彦(大阪大学助手)
「近世東北アジアと日本列島」
・8月 11 日(水)
秋田茂(大阪大学教授)
「世界システム・アジア交易圏と近代
日本」
て現場が困る、教えられない」という反応が返っ
よくわからず、参加者集めに苦労したが、第2回
てくる。また大学生への教育でも、入学前の予備
は口コミで話が広がり、希望者が多数になったの
知識がまったくないため初歩的な内容に時間を取
で、第1回の参加者の連続参加はお断りせざるを
られ、なかなか専門教育に入っていけない。そも
えなかった。
そも歴史系以外の学生の間では、世界史必修など
プログラムの中心は、COE歴史班のメンバー
どこの話かという、歴史への無関心が目に余る。
による最新の研究を解説する講義で、別表の通り
これらの問題は、通常の「高大連携」の枠内では
第1回は8本、第2回は7本の講義が行われた。
解消しがたい。同じような不満を募らせた大学教
1時間半程度の各講義の終わりに質疑を行うだけ
員・若手研究者が、それなら高校教員に組織的に
でなく、初日と2日目の最後に受講者から質問用
働きかけてみよう、という意図から発案されたの
紙を回収し、翌朝講師が回答する、3日目の最後
が、この研修会である。
に総合討論の時間を設けるなどの方法で、
「講演
同研修会はこれまで2回、いずれも夏休みに大
の聞きっぱなし」でなくフィードバックのある連
阪大学豊中キャンパスで開催した[それぞれ報告
続講義にした点が特徴である。このため、講師陣
書刊行済み]
。第1回「シルクロードと世界史」
は原則として3日間フル出席、受講生側も部分参
(03年8月5∼7日)は世界史教員のみ、第2回
加不可、終了後には1000∼1500字程度のレポート
「アジア史と日本史の対話」
(04年8月9∼11日)
を義務づける、という濃密なスケジュールが組ま
は世界史・日本史両方の教員の参加を募り、どち
れた。第3回は昨年と同じ8月9∼11日に開催の
らも用意した会場がほぼ埋まる70名あまりが参加
予定である。
きた。なかでも最大の「臨床」活動と位置づけら
れているのが、以下に紹介する全国高校歴史教員
研修会である。歴史班のメンバーはもともと、入
試の出題や採点、高校教科書・参考書の執筆、出
身高校での講演や近隣の高校での出前講義などさ
まざまなかたちで、高校歴史教育との接点をもっ
てきたが、たとえば私が専門とする東南アジア・
アジア海域史のような新しい分野を教科書に書い
した(予備校講師、教科書編集者などの参加も若
語句を覚える歴史から枠組を理解する歴史へ
干名あった)
。第1回は都道府県の教員研修組織、
個別の高校や教員などどこに案内を送るべきかが
研修会の主眼としてすべての講師に要求したの
− 18 −
は、通常の講演会で行われる「専門のさわり」の
やり取りは、強い刺激になっている。
講演でなく、
(1)
現在の教科書等で、古い枠組と新
もちろん、課題も多い。語句の暗記がものをい
しい枠組が混在し混乱を深めている状況を改善す
う入試形態が支配的である限り、従来通りの語句
るため、枠組の解説に時間をさく、
(2)
新旧どの内
中心の暗記教育はやめられないように見える。高
容にせよ「用語集で頻度の高い語句・事項を並べ
校・受験現場の一部に勉強のしかたについての誤
ること」から出発している現在の教科書や入試に
解がある ̶英語で単語、化学や生物で元素・物
対し、語句と語句を結ぶ「説明」を提供する、の
質名だけをいくら暗記しても、構文や反応式を覚
2点であった。一部の質疑ではこれに加え、新し
えなければ成績は上がらない。歴史もそれと同じ
くなじみにくい分野に生徒を引きつける方法(東
で、
「構文」や「反応式」にあたる「説明」がわ
南アジアであればエスニック料理のような)につ
からなければ、純粋な語句と年代の暗記だけで取
いても、大学の教養教育の経験などをもとに議論
れる点数はたかが知れている ̶とはいえ、暗記
が行われた。興味を引く切り口、理解の枠組、語
型入試の大部分を出題している大学側の責任は大
句と語句を結ぶ説明の3点セットを身につけてい
きい。新学習指導要領も観点別評価も聞いたこと
れば、
(時間さえ捻出すれば)新しい分野が教え
がない、という大多数の大学教員への再教育が不
られるはずである。
可欠である。また、高校世界史はいちおう「世界
全体」を教えるタテマエになっている。ところが
大学の「文学部史学科」は、組織としては、東洋
史は中国だけ、西洋史は古代のギリシャ・ローマ
と中世以降の英仏独、それに近代以降の米露だけ
研究していればよい、その他の「マイナー」地域
などは、時たま現れる変わり者や、外語大などの
地域研究系大学に任せておけば十分だ、という、
明治以来の仕組みを固守している(イスラームす
らこの扱いを完全に脱してはいない!)
。ここを
第2回研修会より
一部の受講者からは、
「難しい研究もよいが、
変えねばならない時期が来ている。
高校の授業時数削減や生徒の学力低下を前にして、 こうした「大学を変える」
(そのために高校か
このままでは授業に使えない」という不満が出さ
ら学ぶ)取り組みとならんで、高校教師(現場)
れた。しかしCOE側では、研修会の限られた時
への働きかけも、さらに強めねばならない。たと
間や、高校間のレベル差なども考え、
「具体的に
えば、研修会に積極的に参加せず、従来の枠組で
授業でどう使うか」は高校側の検討に委ねること
しか教えられないような多数派の高校教員の立場
として、まず高校の先生に最新の研究の内容とそ
に立てば、刷新された教科書と一般向けの概説書
の「面白さ」を理解してもらい、ひいては高校歴
だけを与えられても、古い枠組との違いは具体的
史教育の内容刷新の必要性を感得してもらうこと
に理解できないのだから、より詳しく網羅的な指
に全力をあげたのである。さいわいこの方針は多
導書や用語解説の方が有用だろう。また、新しい
数の受講者に支持され、研修会の講師が事後に、
内容を教えるためにも教育内容の全体的精選が不
高校側が主催する研修会・講演会の講師として招
可欠であり、本当に最低限必要な事項を分野ごと
待されたり、Eメールを通じた細かい質疑が続く
に絞り込むような作業も、避けては通れまい。こ
などの、波及効果が生じている。大学教員や、と
うした取り組みは、COEが終わればそれまで、
りわけ講師および運営補助にあたってくれた若手
というものではなく、全国の高校教員を巻き込み
研究員・大学院生にとっても、研修会とその後の
ながら、長期的に継続してゆきたいと考えている。
− 19 −
インドの「地震」
・
「津波」表現 一体、インドや東南
南海寄帰内聞伝
アジアでは、「津波」や「地震」という現象を示す表現・
ベンガル湾の Oh Tsunami!
用語・伝承はあるのだろうか。
追手門学院大学教授 重松伸司
インド古典に詳しい同僚S氏は早速調べてくれた。
矢野氏らの研究『占術大集成1』
(矢野道雄、杉田瑞
枝訳注、平凡社東洋文庫589、1995、第32章)によれば、
「地震の相」という項に「巨大な地球の内部の水の中
に住んでいる生物によって起こされる」あるいは「大
地の重荷に耐えかねた巨象(ディッグガジャ)の吐息
によって生ずる」
「風が風によって打たれて大地に落
ちながら音をたてるという」表現がある。さらに「風
神(ヴァーユ)の地震」
「火神(アグニ)の地震」
「雷
神(インドラ)の地震」
「水神(ヴァルナ)の地震」
マラッカ海峡・ノースチャンネルに面したE&Oホテル
の説明が続く。このような宗教古典に詳述された「地
震」という事象の背景には、地球内部の地殻変動によ
インド洋大津波 2004年12月26日、スマトラ沖大地
って生じた
「大地鳴動」
、
あるいは、
インド聖地の山岳・
震によるインド洋大津波が発生した。翌27日早朝、テ
氷河の崩落・地すべりといった物理的現象の経験があ
レビの臨時ニュースは大地震の速報を伝えてきた。死
ったのではないか。しかし、そうした現象はもっぱら
者・行方不明者や被害の情報は錯綜し、状況ははっき
北インド内陸部の現象で、ベンガル湾に面する南イン
りしなかった。が、直後に映し出された映像は私を驚
ドではなかったのか。私の留学中の1969年であったか、
かせた。2か月前、私が宿泊していたペナン島ジョー
今回、大津波の被害を受けたチェンナイ市のベンガル
ジタウン北端のE&Oホテルの、その北庭に波が襲来
湾に面した大学寮で、一度だけ震度2∼3の地震を経
する光景であった。数日の間に伝えられてきた情報を
験した。寮生は地震という現象を理解しなかった。タ
総合すると、ペナン島では60名余の死者が出たらしい
ミル語では地震は「ブーミ(大地)ヤディラッチ(揺
が、インドネシア・スマトラ島の西北端アチェ、タイ
れ動く)
」
。
「ブーミ」はサンスクリット語を音写した
のリゾート地プーケットでは数万の死者・行方不明者
タミル語である。地震経験の有無にかかわらず、タミ
が出たという。ここ数年、何度も往来してきたベンガ
ル語には一応「地震」の用語・概念はある。津波はど
ル湾沿岸域は壊滅状態ではないか。2月に入って、ペ
うか。波は「アライ」と表現される。しかし、自然現
ナンの町おこし運動に取り組むNPO「ペナン・ヘリ
象としての津波、大津波という用語はタミル語にはな
テイジ・トラスト(PHT)
」の主要メンバーN氏から、
い。だから、
“tsunami 来襲”と伝えられても、理解
アチェ町並み復旧の緊急支援要請がメールで送られて
は困難であったに違いない。
きた。日本の町おこし運動を行っているNPOのメン
マレーシア語の「地震」と「津波」表現 では、マレ
バーと相談した後、2月23日ペナンへ飛んだ。ペナン
ーシア語ではどうか。
の被害は幸い軽微であったが、アチェの状況は、マレ
やはりサンスクリット語から借用された「大地(ブ
ーシアでは正確に把握できないほど甚大であった。
ミ)
」とマレー語の「揺れ動く(ゲンパ)
」が複合した
さて、地震とくに「津波」による人的災害を大きく
「ゲンパ・ブミ」が地震を意味する。またオンバ(ク)
、
したものは何か。ペナン博物館のミュージアムショッ
ゲロンバンには「波」の意味があるが、津波、大津波
プ店主ピーター =フイ氏によれば、ペナン最大の災害
の意味はない。自然現象とりわけ地殻変動や火山など
は「tsunami が何であるか知らずに、面白がって見物
によって生じた「津波」は経験したとしても、他の類
しに行って押し流された数十人の子どもたちだ」とい
似現象や、他の表現で理解していたのだろうか。
う。この言葉を裏づける状況は、タイやインドネシア、
「スシ、タタミ、カイゼン」といった生活・文化語
南インド、スリランカでも報道されている。
「津波」
としての国際日本語は定着しているが、今般の大災害
という現象が正確に理解されなかった、この現象を示
をきっかけに、自然現象の脅威を示す国際日本語とし
す言葉がなかったという。つまり、tsunami 情報の伝
て新たに一つ「Oh Tsunami」が加わるだろう。
達よりも Tsunami を示す概念がないのである。
− 20 −
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