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C:fiVŠš‚å−w−wŁñ icoh 86

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C:fiVŠš‚å−w−wŁñ icoh 86
32
「見るな」の禁止考
ーグリム童話と日本民話の対比から−
中川義英
I
対立関係表現と禁止
グリム童話や日本民話の中には,人聞の行為そのものや心的行為などとともに道徳や社会通
念などが象徴的に語られている。それらは,く女子・嫌〉,〈快・不快〉,〈支配・恭順〉などの心
の行動に関連したものとともに,く美・醜〉,〈幸・不幸〉,く善・悪〉などといったようにある
種の評価を得た結果に関するものがあり,これらの表現は,対立的に把握されることが多い。
周知のように,グリム童話は民間に伝わり,語り継がれてきたものを特にドイツ人女性たち
ゃ,フランスからドイツに移り住んだユグノ一派に家系を持つ女性たちからグリム兄弟が聴き
取り,収集したものを基にし,さらに,それらを修正したり,書き加えを行って完成したもの
である。日本民話も,民衆の間で口述され,いく世代にも語り継がれた物語であり,それらが
文章として表現され,伝えられて来たものである。従って,この両者においては,創作作品と
は違い,語り手である作者や話そのものの起源が明白ではない。
異なった民族や文化圏において類似した話や物語が存在することがある。それは交易や文化
の交流により相互に取り入れられて定着した場合や,人聞の存在に伴って自然発生的に類似し
た考えを持つことにもよる。また類似した生活態度や生活状況から生まれてきた場合もある。
いかなる場合にも,なんらかの社会共同体の中で生まれた話や物語であることから,その共同
体の中に利害関係が生じ結果的にはく対立関係〉といフ表現が出現する。その対立関係の代
表的なものがく善・悪〉であり,く善〉はく正直,まじめ,成功〉などによって表わされ,
〈悪〉にはその正反対の表現が用いられる。く善〉とく悪〉にさらに加わる要素としては,社
会共同体を安全に,確実なものとして導くために設けられた規則があり,その中にいくつかの
禁止事項が存在する。禁止が定められると,必ずと言えるほど,それを破る者が出現すること
は否めない。〈禁止を守る〉とく禁止を破る〉という対立は,不可避で、あり,洋の東西,古今
を間わず常に存在するものである。
グリム童話や日本民話においても,この対立が不可欠になっているものが多々ある。本稿で
は,これらの話や物語の中に存在するく禁止〉の表現の中で,〈「見るな」という禁止〉につい
て論考した。
II
「「見るな」の禁止」の原典
グリム童話や日本民話の舞台となっているのは,マックス・リューテイが「彼岸者とこの世
の者が出会っても驚きを感じることはない」と述べている世界や,動物を初めとして,植物や
鉱物,自然現象でさえもが人間と話を交わしたり,動物が人聞に,人聞が動物に変身したりし
ても違和感を感じることがない世界,つまり,非現実的な出来事や現象がなんら問題にされる
ことなく受容されている世界の存在である。しかし,その土台となっているのは,現実の人間
42
天理大学学報
を除外できない社会共同体であり,また,その共同体に属する人聞の行為や心的行為であり,
それらが象徴的に述べられている。そこで,「『見るな』の禁止」の原典にさかのぼりたい。
「『見るな』の禁止J の原典と考えられるのは,グリ ム童話では,その源はキリスト 教の
く聖書〉にあり,〈日本民話〉では,〈日本神話〉の源流ともなるく古事記〉にあるといえよ
う。次に,これらを示し,論考を加える。
旧約聖書のモーゼの第ーの書に「『見るな』の禁止」がある。
神の教えに従わず,信仰も省みないで,道徳的退廃を極めている住民に対して,神は罰を
与える。町と住民,その他一切を含め,全てを減ぽすという罰である。その町がソドムと
ゴモラであり,ソドムに住む,信仰篤きロトという人物に天使たちがそのことを知らせに
来る。天使の導きに従い,妻と二人の娘を連れてその町を出るが,この時天使たちがロト
に告げる:
eterE
.dneg
enied
Auf
den
eleS
Berg
und heis thcin
ih ηret ;hcid
,hcid
daB du thcin
umkomst.
auch
ehets
thcin
ni reseid
ganze
Ge
ロトは山まではとても到達できないので,近くのゾアル村へ逃げることが許される。その
村に到着した直後,ソドムとゴモラは煙と大爆音とともに消滅する。ロトの制止を聴か
ず,妻が振り向き,塩の柱に変わってしまう。
Und
nies
Weib
has retnih
hcis
und
ward
ruz .eluaszlaS
新約聖書のルカによる福音書では,禁を犯した原固までが述べられている。
ロトの妻は,ソドムから逃げだした時,家財を失うのを恐れ,振り向いたので,塩の像に
された。キリストに従う者は,いつかは失われる物に執着してはならない。このように,
後ろを振り向くことは,救いを危うくする。
ここではロト本人ではなく,ロトの妻が「『見るな』の禁止」を犯してしまう。
一方,〈古事記〉の神話に関する文章での「『見るな』の禁止」に相当するものを慨略す
る
。
日本神話に登場する国生みの二神,イザナキノミコトとイザナミノミコトを巡る話である。
二神は,国生みの後,次々と神々を産む。火の神を産んだことでイザナミノミコトはこの
世を去り,彼岸の世界,つまり黄泉の国の住人となる。イザナキノミコトは妻の死をたい
そう悼み,この世に連れ戻すために,貫泉の国へ赴く。しかし,イザナミノミコトは「す
でに黄泉の国の食べ物を口にしたので,帰るわけにはゆきません。でも,この国の神と一
度相談してみますから,暫くお待ち下さい」と夫に言う。別れ際に「どうかその聞は私を
見ないで下さい」とつけ加える。いつまで、待っても妻が戻る気配を見せないので,イザナ
キノミコトは頭髪に刺していた櫛の歯を一本折り,それに火を灯す。奥に足を踏み入れ,
変わり果てた妻の骸を見て,あぜんとし,恐ろしくなり,逃げ出す。イザナミノミコト
は,見られたくない姿を見られたために,「恥をかかされた」と思い,夫を黄泉の国に引
きずり込もうとする。イザナキノミコトはいろいろな術を用いて,辛うじてこの世に逃げ
帰る。
ここではイザナキノミコトが「『見るな』の禁止」を犯す。
く聖書〉とく古事記〉の両者に共通する「『見るな』の禁止」を犯す者は,自己の本来願う
ことが崩れ去るという結果を迎える,つまり,失敗に終わることを意味している。ロトの妻の
場合には,人聞がはんらい備えている「物欲」に対する人的行為の結果であり,イサナキノミ
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「見るな」の禁止考
コトの場合は,擬人化された人間としての「焦り」という人的行為の結果,失敗に終わるので
ある。
III
「グリム童話」と「日本民話」における「「見るな」の禁止」
ドイツや日本における民衆の聞に伝わる童話や民話の中で,この「『見るな』の禁止 J を明
らかに犯している部分を,グリム童話と日本民話から次に取り出す。
)
」
3 )「マリアの子供( Marienkd
貧しい木こりの夫婦の一人娘が聖母マリアに引き取られ,天上でなに不自由なく,幸せに
暮らす。ある日聖母マリアが旅に出るので,その娘に31 の部屋の扉の鍵を託す。 21 の部屋
グリム童話(KHM
には入ってもいいが, 31 番目の部屋だけは決して開けてはいけないことが言い渡される。
娘は聖母マリアが旅立った直後すぐに,次々と 21 の部屋を見て回る。
Nun
Ganz
eilh,cnsefua
β
ri.iT niella
war eid entobrev
lliw hci eis thcin
aufmachen
riw nie ginew
timad
EngleiJ
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. und hcarps
noch ;girbi.i
thcin ,nehegnienih
auch
und lliw
《
ned ztiR .nehes
hcrud
hci lliw
reba
ers
好奇心旺盛となった娘は天使たちに,上述のように,「隙聞からちょっと覗〈程度でいい
から」, と言うが,天使たちは次のように言って,聖母マリアからの禁止を強調する。
Mari
.. :eid uarfgnuJ
tah se,netobrev
und
se konte
.nedrw
nied kci.ilgnU
thciel
ある時,天使たちも出かけてしまい,誰もいなくなった時に,ついにその禁止を犯してし
まう。その直後に聖母マリアが戻ってきて,娘に三度「禁を破っていないか」と尋ねる
が,娘はその都度完全に否定する。しかし,聖母マリアには全てが判明しており,娘が正
直に告白するまで,一言も口をきけぬょっにして,俗世界の森へ追放するという罰を与え
る。娘は,これまでとは違 7 苦痛を強いられる生活に長い間耐えなければならない。鹿狩
に来た王に助けられ,妃となる。妃は三人の子供を産むが,その都度聖母マリアが現れ,
娘の告白を待つ。依然として拒み続けたため,聖母マリアが子供を天上へ連れ去る。子供
が三人とも行方不明になったことで,「妃は人喰いだ」との噂が流れ,二度目までは妃を
かばった王も,三度目には,さすがにしかたなく,妃を火刑にする。薪に火がつけられる
と同時に妃は,悔悟の念にかられ心中で,聖母マリアに向かい,否定を覆す。その時,聖
母マリアが現れ,全てを許し,子供も返す。その後は幸せに暮らす。
この物語では,「『見るな』の禁止」を犯した娘は,最終的には幸せになるが,一時期は「『見
るな』の禁止」を犯し,自己の願望が満たされたがために,〈幸〉からく不幸〉へと転落し,
失敗を招いている。
」
)
:
Trua
別のグリム童話には次の記述がある。(KHM 34 )「トルーデさん(Frau
両親に従順で、ない,わがままな娘が,常々「トルーデさんの所へは行ってはいけない」と
両親から言われている。トルーデさんは,魔女で,この娘が自分の所にやって来るのを待
ちかまえている。娘は,わざわざ魔女の家に入り込み,体を震わせながら,魔女に問われ
たことに答える。
} hci
.,edurT
lefuT
habe
os nekcorhse
mich
hci
mir ,etsuarg
.fpoK
tim megiruf
has
《
rebi.i
shcrud
,sad
retsneF
was
hci nehsg
und has
Euch
habe
,thcin
仁..》
wohl
,hcA
reba
Frau
den
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天理大学学報
「窓からみたのはあなたでなく,頭に火が燃えている悪魔なの」と告白したとたん,木材
に変えられ,火の中に放り込まれ,燃やされてしまう。
この話では,直接「『見るな』の禁止」は述べられていないが,「窓から見た」と両親からの
「トルーデさんの家には近づいてはならない」という禁止が総合され,「『見るな』の禁止」を
表わしていると考えられる。娘は自らそれを犯し,自己の願望を満たしたが,悲劇的な結末を
迎える失敗を招いている。
次に, 日本民話から挙げてみる。
〈鶴女房〉,一般的には,〈鶴の恩返し〉として,古来より知られ,親しまれている話である。
若者が山へ草刈に行き,矢を負 7 て苦しんでいる鶴を助けてやる。その年の秋に見知らぬ
若い女性が若者の家に来て,一夜の宿を乞う。幾日かが経過するうちに二人は夫婦とな
る。正月を迎える時期が来たが,家が貧しく,その支度が出来ない様子を妻がみて,「私
が反物を織るので,それを売ってください」と夫に言う。夫は反物を町に売りに行くと,
高〈買われ,もう一反織って欲しいと言われ,帰宅する。妻にそのことを話すと,快〈承
知してくれるが,「機織りしている様子は絶対見ないで下さい」と伝える。時間が経っと
共に,夫は次第に誓いを忘れ,ついに機識り部屋をのぞき込む。一本一本羽を抜いて,反
物を作り上げる妻ならぬ鶴の姿を見て,驚く。鶴は正体を見られたので,以前助けられた
鶴であり,恩返しに来たことを告げて,飛ぴ去る。
これは,「『見るな』の禁止J を犯す典型的な話である。「トルーデさん」の娘は,禁を破った
結果,自らが姿を消すことになった。この「鶴女房」では副主人公である鶴が姿を消す。「日
本民話」では,禁を破った者が消滅することはないが,その対象者が姿を消すことが多い。結
果的には,主人公の若者は,「『見るな』の禁止」を犯し,自己の願望は満たすが,何かを失う
ことになり,失敗へと続く。
上述の「『見るな』の禁止」では,〈見られたくない〉とく見たい〉の対立が明白である。
〈旧約聖書〉の場合は,夫のロトが,妻や娘達に「後ろを振り向いて欲しくない J ,つまり,
く見られたくない〉と心中思っているし,実際に,振り返る妻に,〈見るな〉と言葉を発して
いる。しかし,妻の方は,その抑制力を失い,く見たい〉という心的行為に走ってしまう。こ
こにも,その対立関係が生じているのである。
N
象徴化された表現
「『見るな』の禁止」が間接的,象徴的に語られているものには次の話が挙げられる。グリ
ム童話(KHM
2 )「ねことねずみのともぐらし(Katze
und Maus
nitfahcsleseG
」
)
猫とねずみが知り合い,一緒に暮らす。冬の食料を蓄えることにし,脂肪の入った壷を買
う。相談の結果,安全な教会の祭壇の下に隠し,時期が来るまでは手を出さないことを互
いに約束をする。猫は,「親戚に子供が出来たので,その名付け親に頼まれている」と言
い,出かける。このことが三度起こる。その都度,猫は脂肪をなめ,ねずみに間われる
と,最初の子供はく上側ペロリ〉,二番目はく真ん中ベロリ〉,三番目はく全部ペロリ〉と
言う。ねずみはいぶかる。冬が来て,食べ物がなくなったので,猫と一緒に教会へ赴〈。
壷の中身が空になっているのをねずみが見た時,子供たちの名前がおかしいことが理解で
きたが,遅すぎて,猫に食べられてしまう。
日本民話:「猫と鼠」
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「見るな」の禁止考
猫と鼠が一緒にごちそうを作り,寺の本堂の奥にしまっておく。猫が鼠に「今日はお寺で
葬式があり,招かれた」と言い,寺へ行く。ごちそうの上の方をなめる。鼠に葬式の様子
を聞かれる。そういうことが三度ある。最初の葬式はく上なめと言う人の葬式〉,次が
く中なめと言う人の葬式〉,最後はく底なめと言う人の葬式〉と答える。しばらくしてか
ら,鼠は猫と一緒に本堂へごちそうを食べに行く。ごちそうが何もないのを見たとき,鼠
は恨みごとを言うが,猫に喰われる。
グリム童話も日本民話も偶然に同ーのテーマを扱っている。これらの話では,「『見るな」の禁
止」は直接語られていないが,猫が秘密にしていたことを,ねずみが暴くことになり,〈壷の
中を見る〉ゃくごちそうが何もないと知る〉と言う点で、は,く見られたくない〉とく見たい〉
の対立関係が生じ,猫自体の願う「『見るな』の禁止」が,ねずみにより犯されることにな
り,犯した方は,「トルーデさん」の娘と同じように悲劇的な結末を迎え,やはり失敗に帰す
ることになる。
V
善・悪の対立関係
く善〉とく悪〉の対立関係における「『見るな』の禁止」と捉えることが出来る話を以下に
取り出し,考察した。
グリム童話(KHM
31 )「森の中の三人の小人(eiD ierd
Manlei
im Walde
」
)
それぞ、れ娘がいる,妻を亡くした男性と夫を亡くした女性がいた。娘達はお互いに知り合
い,女性の家を訪問したことで,男性との再婚につながり,娘達は姉妹となる。夫の娘は
かわいらしいのに反して,妻の娘は,性格が悪かったので,妻は,継娘が憎らしく,常に
困らせようと企む。冬なのに継娘に紙の服を着せ,硬いパンを一切れ持たせ,森に主主狩に
行かせる。森の中で,三人の小人が住む小さな家を見つけ,中にはいる。ストーブで身を
暖めてパンを食べようとした時,小人たちがパンを欲する。やさしい娘は分け与える。小
人たちは娘に魔法の箸を与える。それにより毒が入手できる。それぞれの小人が「日増し
に美しくなる」,「口をきくたびに金貨が落ちる」,「妃となる」という魔法をかける。帰宅
し,森の中の出来事を語る。もう一人の娘が,やきもちをやき,自分も口から金貨を出
し,妃になりたいと欲を出し,小人に会いに行くと言い出す。実母は,わがままを聞き入
れ,毛皮の服を着せ,バターバンやお菓子を持たせる。森の中で一軒家を見つけ,勝手に
入り込む。しかも小人たちの頼みを聞かないし,何もしないで,出て行ってしまう。小人
たちは,妬み深い心の持ち主である娘に,「日増しに醜くなる」,「喋るたびにひきがえる
が口から飛び、出す」,「不幸な死に方をする」という魔法をかける。この娘が家に戻り,喋
る度に,ひきがえるが口から飛び出すので,みんなから嫌われる。母親は,いっそう継娘
に腹を立て,いじめるが,逆に王との出会いのきっかけを作り,娘は小人の予言どおり妃
になる。一年後に王子が誕生する。母親とその娘が城にやって来て,王が出かけた時に,
妃を川に投げ込み,この娘が妃のベッドに潜り込み,王をだます。妃は鴨の姿をしてい
て,三晩料理番に城内の様子を聞き,その時だけ人聞の姿に戻り赤ん坊の世話をする。三
日目の晩に,料理番を通して,夫の王に魔法の解き方を伝え,実行させる。これにより,
完全に鴨から人聞の妃に変身する。偽の妃は,王より「ベッドに寝ている人間を川に放り
込む人間への罰」を問われ,「釘の打ちつけてある樽に入れ,山から川の中へ転がすべき
だ」と言い,その通りにされる。
二人の娘の対立が話の中に盛り込まれている。
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継娘
妻の娘
か jついらしい
性格が悪い
小人たちの願いを叶える
小人たちの頼みを聞かない
日増しに美しくなる
日増しに醜くなる
口をきくたびに金貨が落ちる
喋るたびにひきがえるが口から飛び出す
妃となる
グリム童話( KHM
不幸な死に方をする
42 )「ホレきん( Frau
eloH
」
)
夫が亡くなった女性に娘が二人いる。一人は継娘で,働き者で,もう一人は実の娘で,怠
け者。怠け者の方がかわいがられ,継娘は全ての仕事を命ぜられ,一言も不平を言わず
に,尽くす。この娘は,毎日井戸端で,指から血が出るほど,糸を紡ぐ。ある時,血で染
まった糸を洗うために,井戸にかがみ込んで,血を洗い落とそうとした時,糸まきが井戸
の中へ落ちてしまう。母親は,井戸に入り,糸まきを取ってくるよう命じる。しかたなく
井戸に飛び込む。長い間気を失っていたが,気がつくと, 日が輝く草原にいた。そこを歩
いて行くうちに,かまどで焼けているパンの頼みで\パンを出したり,たわわに実ったり
んごの願いを満たす。さらに進むと,一軒家を見つける。そこには一見恐ろしそうなおば
あさんが住んてやいて,娘は怯む。おばあさんから「家の中の仕事をきちんとすれば,幸せ
にしてやるよ」と言われ,留まる。毎日仕事をこなし,幸せに暮らすが,家が恋しくな
り,「帰りたい」と言う。よく働いてくれた褒美として,ホレさん白身が娘を大きな門の
前へ連れて行く。門の下に娘が立っと,金の雨が降り,金に覆われる。糸まきも戻る。門
が閉まった時,元の世界に戻っていた。母親は,娘が金を持ち帰った話を聞いて,実子に
も同じ幸運を経験させようと考える。醜い,怠け者の娘は,無理矢理指を刺したりなどし
て,糸まきを血に染め,井戸の中に放り込み,すぐに自分も飛び込む。継娘と同様草原に
いたが,道中,継娘のよ 7 なことは一切せず,すぐにホレさんの家に入り込む。最初の日
だけ,自分をも偽って働くが,次の日からは怠けて何もしなくなり,ホレさんは嫌気がき
して,娘を大きな門の下に立たせ,金ではなく,ピッチを降らせる。家に帰れたが,その
ピッチはずっと取れない。
継娘は,「働き者で,落とした糸まきを取るために,やむをえず井戸に飛び込む。一人暮らし
のおばさんの住む一軒家を見つけ,頼まれた仕事をする。「帰りたい」という希望がかなえら
れるし,金をもたらす」。実の娘は,「怠け者」であり,自分の意志ではなく,母親の命令に従
い,継娘と正反対のことをし,ピッチをもらってしまう。
日本民話: 「見るなの座敷(鴬の一文銭)」
年若い農夫が旅に出て,峠で日が暮れてしま 7 。あかりの灯っている家を見つける。そこ
には若い,美しい女性がいて,泊めてくれる。若者は留守番に雇われる。「食べ物は戸棚
にあり,開けてもいいです。しかし,奥の間だけは決して開けてはいけません。」と言い
残して馬で出かける。若者は正直に一年間務め,白木綿一反と一文銭をもらう。その一丈
銭を庄屋にみせると,「鴬の一文銭という宝だ」と言って,千両で買ってくれる。隣の男
がそのことを聞きつけ,峠の一見家を訪ねる。留守番に雇われ,聞けてはならない部屋を
開けるが,なにもない。女性が帰宅し,その部屋を見て,「あの部屋を開けたために,長
年かかつて読んだ法華経が,みんな出てしまった」と言う。男は何も得ず,暇を出され
る
。
ここには,年若い農夫の誠実さと正直という善と,隣の男の不誠実による悪との対立がはっき
「見るな
J
92
の禁止考
りと見られる。
日本民話・「花咲爺」
いい爺と婆が白い子犬をかわいがって,育てる。ある時,白犬が爺を畑に連れて行く。犬
の鳴くところを掘ってみると, 大判小判が沢山出てきた。これ を見た隣の爺が,犬を借
り,無理に吠えさせ,掘ってみ ると,汚い物ばかりしか出てこ ないので,怒って犬を殺
す。いい爺が犬を引き取りに行 くと,「犬は死んだので,木を 植えておいた」と言われ
る。一晩でその木は大木となる。いい爺はその木で臼を作り,婆ともちをつくと,大判小
判が出てくる。隣の爺が,臼を借りて,もちをつくと,汚い物しか出ないので,怒って燃
やしてしまう。いい爺はその灰を持ち帰る。風が吹いて,灰が飛び,枯れ枝に花が咲く。
爺は「枯れ枝に花を咲かせる」 とふれ歩色殿様の前で花を咲か せ,褒美をもらう。隣の
爺が真似をするが,灰が殿様の目に入り,牢に入れられてしまう。
くいい爺と婆〉が登場するが,く婆〉の行動の様子は殆どない。いい爺は犬,臼,灰により幸
せな上,裕福になる。隣の爺は犬を殺すし,日は燃やしてしまう。いい爺の真似をし,灰をま
き,殿様の目に入れ,入牢となる。完全なく善〉とく悪〉の対比である。
そのほかにも, 日本民話の「舌切雀」,「鼠の浄土」,「溜取爺」などが,く善・悪〉の対立を
扱う筋を持ち,「隣の爺型』と名づけられている話である。
31 )「森の中の三人の小人」と( KHM
グリム童話の(KHM
42 )「ホレさん」では,く好・
嫌〉,く快・不快〉,く支配・恭)|慎〉などの心の行動に関連したものとともに,〈美・醜〉,く幸・
不幸〉,〈善・悪〉などが言葉で表現されており,これらの表現は,対立関係を語っている。日
本民話の「見るなの座敷(鴬の一文銭)」では,「正直に働き,反物や,お金を得る」という表
現と「聞けてはならぬ部屋を開ける,何も得ない」という表現で対立関係が挙げられ,「花咲
爺 J では,くいい爺と婆〉,〈大判小判,褒美〉とく隣の爺〉,〈汚い物,牢屋〉という表現で,
対立関係が示されている。
先に述べた,四つの話では,「『見るな』の禁止」が描かれているのは,その表題が示す通
日本民話の「見るなの座敷(鴬の一文銭)」だけである。他の三つの話には,直接「『見る
,
り
な』の禁止」は述べられていないが,人聞の行動を補う心的行為の側面において「『見るな』
の禁止」を象徴的に表わしているといえる。すなわち,このような象徴的行為は,自己の精神
的判断から生じると考えられる。これは,昔話の世界観であると同時に,すでに昔話などから
得た知識を持っている幼児の世界観でもある。自分を世話してくれるはずのやさしい母親やお
ばあさんが, 自分が失敗を犯した時や,自分の願いを聞き入れてくれない時に考える幼児の独
特の世界観である。これについてマックス・リューティは,自分の幼児期の体験を通して,自
分が母親の命じたことに従わなかったことで,自分のお気に入りのおもちゃを母親に取りあげ
られた。その時,ほんの一瞬だけではあるが,「この人は自分のお母さんじゃない」と思っ
, と回想している。
た
Als
men.
.retumfeitS
hci
noch
nI diesm
nie
Kind
Augenblick
,raw
tah mir mein
- und run ri.if
Muter
neseid
nie
Augenblick
mir sebeil
fortgenm
guezleipS
- war eisri.if mich
田
enie
また,ブルーノ・ベッテルハイムは「昔話の魔力 J の「変身」の章で,このような例として述
べているのは,ある女子学生の幼い頃の体験である。それは,母親と一緒にスーパーマーケッ
トに行った時,自分が何かしてはならないことをしたらしいので,母親が自分のことをひどく
怒った。少女は,いつもの母親じゃないと,深く傷ついた。家へ帰る道々でも,母親は少女を
03
天理大学学報
悪い子だと言って叱り続けたため,「この意地悪な女は,自分の母親のように見えるけれど,
ほんとうは悪い火星人なのだ。他人そっくりに化けて人をだます悪い火星人が母親にとってか
わったのだJ と考えた。この少女は何度も,火星人が母親に化けて,ほんとうの母親ならけっ
してしないような意地悪で、自分を苦しめる, という想像をした, というものである。
上記の判断は幼児期のことであるが,一般的に考えられるのは,同じ一人の人聞が,あるこ
とを判断する場合,その対象とする事物や対象となる人聞の態度に対して,また自己が置かれ
ている状況の中で自己流に判断して,「感情をむき出し,さらけ出し,たけり狂ったように怒
る」場合もあれば,「落ち着き,やさしく,受け入れたり,許したりする」場合がある。同一
人物が,時には,人聞の持つ矛盾した性格,つまり,「善人」であったり,時には「悪人」に
なることを兼ね備えていることは否定できない。
同様の内容についてカール・ハインツ・マレは,「一人の人聞の特性,もしくは一人の人聞
の部分的領域が擬人化される」と述べている。これらについては,人聞の心の相補性と見るこ
とができるが,分析心理学者のユングが,この原理を「相反するものが互いに補いあってひと
つの全体性をつくりあげる傾向が,人間の心のなかに存在する」と規定している。さらに,
「人聞の心の相補性は二人の人聞の間よりも,まず一人の人聞の心のなかに働く。人聞の意識
的な態度が一面的になるとき,それを補うような傾向が無意識内に形成きれる
...ある個人
の自我が否定し,受け容れ難いとする傾向のすべてを,その人の『影』と名づけた。すべての
人はそれ自身の影をもっている。それこそ,その人の黒い反面である。」と述べている。それ
0
ゆえ,「人聞の心の相補性は二人の人間の間よりも,まず一人の人聞の心のなかに働く。」や
「すべての人はそれ自身の影をもっている。それこそ,その人の黒い反面である。」が示して
いるように,対立関係が述べられている二人の登場人物のうち,否定的要素を持つ人物は,同
一人物のく黒い面〉やく影〉であると考えられる。
グリム童話や日本民話における,このく黒い面〉やく影〉は,「隣の爺型』の典型で,自分
もく美,裕福,成功,幸せ〉を得ょうとするのである。しかし,く黒い面〉やく影〉には,不
純で,俗物的な心的行為が常に伴う。善者の行動を模倣するが,ほんらい備わっている「俗物
的欲望」に支配されてしまう。く善者の行動〉を認知しないでいれば,とうぜん模倣はあり得
ない。このく俗物的欲望による支配の模倣〉は,結局は,〈見てはいけないもの〉を見ること
につながると言える。〈善者の行動〉は,く見られたくない〉を意味はしていないが,『隣の爺
型』のく悪者とみなされる他者〉は,〈黒い面〉ゃく影〉であり,く見たい〉という意味と同じ
行為を行動に移す。つまり,「『見るな』の禁止」を犯すことになり,ほんの一時ではあるが自
分の願望がかなえられる。しかし,その代償として,自己に対する不利益のみを被ることにな
る
。
羽
「日本の伝説」における象徴化された表現について
前述の W における象徴化された表現とは,いくらか意味が異なるものが「日本の伝説」の中
にある。それらをここに取り出し,考察したい。
「日本の伝説」のうち三大伝説として知られている「浦島太郎」,「竹取物語」,「羽衣伝説」
もく見られたくない〉とく見たい〉の観点から捉えることが出来る。
「浦島太郎」
水江浦の島子は雄略天皇の御代に,三日三晩釣りをしたが,何も釣れず,五色の亀がとれ
る。不思議に思い,亀を船中に置き,寝てしまう。亀は女性になり,女性の言うまま海底
13
「見るな」の禁止考
へ行く。その女性は亀姫であることが分かる。歓待を受け暮らしているうちに三年が経過
する。望郷の念に耐えきれず,戻ることを告げる。亀姫より,再びここに戻る気があれ
ば,決して聞けではならないと言う玉くしげが与えられ,別れる。故郷では知る人がな
く,三百年が経過している。亀姫の言葉を忘れ,玉くしげを開けると,白い煙が立ち上
り,たちまち老人となってしまう。
「竹取物語」
今は昔のこと,名を讃岐造麻呂といって,野山の竹をとって,それによって生活している
竹取りの翁があった。ある日,光り輝〈竹を見て,その節と節の聞に入っている美しい女
児を見つけて,大切に養育したが,三月ほどで大人の背丈になり,かぐや姫と名づけた。
非常に美しいので,多くの人が求婚したが,姫は一切誰も受けつけない。
中略一八月十
五夜の月光の晩に天上から迎えがきて天に昇る。一後略一
「羽衣伝説」
若者が村人たちと山仕事に行く。仕事が早〈済み,谷川の上流に一人で行くと,広い沼が
ある。水浴び、しようとすると,松の枝に美しい着物が係っている。珍しい物があると思い
手に取ると,淵の中から裸女が出て来て,私の衣を返えして下さいと頼む。女は,天女で
時々降来て水浴び、をすると言う。若者は無理に天女を連れ帰り,妻にする。 7 年経過する
うちに三人の子どもが出来る。天女は天に帰る意志、は捨てていないので,常に衣を捜し続
ける。子どもの歌から倉の中に隠しているのが分かる。子どもを連れて天に帰ってしま
う
。
後略
(この後は七夕伝説と関係する。)
「
I甫島太郎」では,く開けてはならない〉玉くしげを聞ける。く見られたくない〉ものをく見た
い〉側に立つ人物が見る。「竹取り物語」は,〈光り輝く竹〉を見てしまい,好奇心も手伝うこ
とにより,黄金を得,女児を見いだす。その女の子は結婚適齢期の女性となるが,天上界に戻
って行く。はんらいならば,明かしたくない過去というく見られたくない〉ものを好奇心とい
う俗物的な立場のく見たい〉が優り,見てしまう。「羽衣伝説」でも,く見られたくない〉もの
を偶然にしろ見てしまう。衣を隠すが,逆に若者がく見られたくない〉側に立ち,天女がく見
たい〉側に立つ。ついには羽衣は見つけられてしまう。
この三つの物語は,観念的に「『見るな』の禁止」を犯していると言えるであろう。
「「見るな」の禁止」を犯すパターンとしては,「浦島太郎」,「竹取物語」,「羽衣伝説」はど
ちらかと言えば,「|日約聖書」の「ロトの妻」型に属すると言えよう。
四要
約
対立関係の中で生まれる表現として,「グリム童話」と「日本民話」を中心に「『見るな』の
禁止」について論考した。次に要約をしたい。
(1 )グリム童話や日本民話の背景には社会共同体がある。その共同体のしきたりや慣習が
それらの中に象徴化されており,く善〉とく悪〉の対立関係で示されているものが多
い。共同体のしきたりが破られるのはく悪〉であり,「『見るな』の禁止」を犯すこと
につながる。
(2 )「『見るな』の禁止」の原典は,旧約聖書と古事記にあり,そこには,人聞の持つ俗物
的な煩悩が底流に見られる。
(3 )グリム童話や日本民話における「『見るな』の禁止」の中では,く見られたくない〉と
く見たい〉の対立が多い。特徴として,対象者の忠告に耳を貸さないというような命
天理大学学報
23
令への反抗がみられる。
(4 )象徴イじされた表現にも「『見るな』の禁止」があり,く見られたくない〉とく見たい〉
の対立が生じている。それらはく隠す〉ことを中心に存在する。
( 5) <善・悪〉の対立関係は,人間的特性として最も強〈認められる。いわゆるく人間臭
さ〉の表現が際だ、っている。また,〈悪〉は一人の人聞の持つ,いくつかの性格特性
の中で否定的要素の部分を象徴化したものである。
(6 )「日本の伝説」においても,一般的な「日本民話」と少し異なった意味で,〈見られた
くない〉とく見たい〉の対立という意味の象徴化が見られ, そこから,観念的に
「『見るな』の禁止」がうかがわれる。
グリム童話や日本民話が生まれ,盛んに語られていた時代は,どちらかと言えば,洋の東西
を間わず,まだ封建時代を背景にしていた。民衆は上流階級と言われていた人たちには,何も
言えなかった時代であったので,物語の中では抵抗を示しているものもある。そういうものの
一つに「『見るな』の禁止」があり,それが犯されても不思議で、はなかった。しかし,「『見る
な』の禁止」は,上に対する反抗の他に,社会共同体が確実に安全に保たれ,導かれて行くた
めには不可欠な要素である。その時代としては,これを犯す者は,罰せられるのであり,犯し
た者自身の失敗へとつながる。このように「『見るな」の禁止」は,社会秩序を支えるために
求められる全ての倫理的,法的美徳の遵守の実行である。すなわち,道徳的規範や礼儀作法,
良俗が求められる社会共同体の約束ごとであった。その約束ごとの中に人聞の利害関係や,人
聞の俗物的な観点に立つく見られたくない〉とく見たい〉とい っ対立関係が生じ,それらが
「グリム童話」や「日本民話」の中にも象徴化され,「『見るな』の禁止」となって語られるこ
とになる。
註
マックス・リュテイ著/小津俊夫訳「ヨーロッパのむかし話」ーーその形式と本質一一岩
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崎美術社 591
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13.S
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ドン・ボスコ社,ルカの福音書 71
山本節 「神話の森一一イザナキ・イザナミから羽衣の天女まで
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東北から九州までの日本の代表的民話
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永田義直 「日本の民話4
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(5 )の同書 KHM
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「見るな」の禁止考
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(5 )の同書 KHM
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(7 )の同書631.S
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ブルーノ・ベッテルハイム/波多野完治・乾{有美子共訳
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「昔話の魔力」
評論社
昭和45 年
9.S
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カール・ハインツ・マレ/小川真一訳「〈子供〉の発見」 みすず書房 091
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河合隼雄 「昔話の深層 J 福音館書店 8791
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朝倉治彦,井之口章次,岡野弘彦,松前健共編神話伝説辞典東京堂出版平成
(19/20/21)
4 年本論中の引用はすべて本書に添う
参考文献
ルース・ボティックハイ 7
女と勇敢な少年」
槙佐知子
/鈴木品,田中京子,広川郁子,横山絹子共訳
「グリム童話の悪い少
紀伊国屋書店 091
東京書籍株式会社 591
「日本昔話と古代医術」
大修館書店 691
391
ちくま学芸文庫
」
7
「グリム童話一一子どもに聞かせてよいか
野村法
相 沢 博 「メルヘンの世界」 講 談 社 現 代 新 書 昭 和34 年
歴史が解く童話の謎」 講談社現代新書 591
森義信 「メルヘンの深層
昔話と竹取物語ー←」
高橋宣勝「語られざるかぐやひめ
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