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五箇山和紙 - 関西電力HPへ

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五箇山和紙 - 関西電力HPへ
やまびこ
No.102 winter
関西電力㈱北陸支社のホームページに「やまびこ」の掲載を始めました。
http://www.kepco.co.jp/info/hokuriku/yamabiko/index.html
関西電力北陸支社からのメッセージ
No.102
歴史を訪ねる─ 水辺の暮らしと産業
五箇山和紙
冬
安全・安定供給の使命を果たす
黒薙第二発電所
12月8日、当社は151箇所目の水力発電所として新黒薙第二発
電所(富山県黒部市宇奈月町)の営業運転を開始しました。
本発電所は、既設の黒薙第二発電所(最大出力7,600kW・昭和
22年発電開始)の取水えん堤、導水路等の既存設備を利用して新
たに建設したもので、最大出力1,900kW、年間の発電電力量は約
1,200万kWh(一般家庭約3,300世帯の年間電気使用量に相当)
を見込んでおり、CO2排出量を年間約5,000t削減することが可能
新黒薙第二発電所
放水口
となります。
なお、既設の黒薙第二発電所と同時に稼動できるようになるのは、
導水路拡幅工事が完了する平成25年12月の予定です。
また、平成26年度に同黒部川水系において、出し平ダムで河川維
持流量※を利用した「出し平発電所(仮称)」
(富山県黒部市宇奈月町)
新黒薙第二発電所
配電盤室
の建設を予定しています。
これからも水力発電設備の適切なメンテナンスで安定した運転を
続けるとともに、既設設備の出力向上や中小水力の開発などにより、
需給変動への柔軟な対応や、さらなる環境負荷軽減に取り組んでま
いります。
※ダム下流の景観保全等、河川環境の維持のために放流する必要流量
出し平ダム
維持放流管
(既設)
水圧鉄管
出し平発電所
(仮称)
やまびこ発行休止のお知らせ
水圧鉄管
最大出力
最大使用水量
有効落差
ダム高さ
発電所
510 kw
1.76 ㎥ /s
37.16m
76.70m
放水口
このたび弊社は停止中の原子力プラントの再稼動時期が見通せない中、火力燃料費等の負担が大幅に増加し、現行の
電気料金水準でこれらをまかなうことが極めて困難であるため、苦渋の決断として電気料金の値上げ申請を行いました。
お客さまをはじめ、社会の皆さまからご理解いただくため、徹底した経営効率化への取り組みを推し進めており、
弊誌においても今回、発行休止を決定いたしました。何卒、弊社の状況について、ご理解賜りますよう、お願い申し
上げます。
弊誌は昭和61年の創刊以来、地域の情報や人物等を紹介する情報誌として、皆さまの元にお届けしてまいりました。
25年の長きにわたり、多くの皆さまにご協力とご愛読を賜り、深謝申し上げます。
北陸支社は、これからも水力発電の安全運転に努め、電力の安全・安定供給に全力を尽くし、皆さまに信頼いただ
ける会社として一層努力してまいります。
25
50
EDITOR'S NOTE
37
編集後記
■弊誌は、今夏100号を迎え 年の変遷
を振り返りました。多くの方にご協力いただ
きながら発行を重ねてきましたが、今回、発
行休止を決定いたしました。長い間、本当に
ありがとうございました。■北陸支社は、富
山県、岐阜県、福井県内に カ所の水力発
電所を保有し、関西方面へ送電しています。
古くは、大正時代からの水力発電所もあり、
先人たちの技術を受け継ぎ、守りながら安
定 し た 電 力 供 給 の一翼 を 担っていま す。
2013年は、黒四発電所が竣工して 周
年。これからもクリーンで安定した電力供給
に貢献してまいります。
取材・写真協力
(敬称略)
宮本友信/宮内庁京都事務所/富山県観
光連盟/南砺市平行政センター/五箇山和
ほか
紙の里 13
参考文献
2
12
「越中五箇山 平村史 上巻・続編」 平
村
「上平村誌」 上平村役場
ほか
27
1
冬の号(季刊)
'
12
青柳志郎
No.
24 102
(あおやぎ・しろう)
題字 書家。
昭和8年富山生まれ。
日展入選8回。
毎日賞、毎日グランプリ受賞。
アメリカフィラデ
ルフィア個展、中国上海個展、パリ・マドリー
ド 巡 回 展 な ど 国 内 外 で 個 展 を 開 く。富 山 県 文
化功労賞受賞、北日本美術大賞展特別賞受賞。
現在、上海復旦大学芸術顧問、上海中国画院名
誉会員、毎日書道展審査会員、北陸書道院理事
長、
東京北辰書道会主宰。
やまびこ
本誌は再生紙を利用しています。
発行日/平成 年 月 日
発行所/〒9308513
富山市東田地方町  
大切に守り継がれてきた五箇山和紙
関西電力株式会社北陸支社
総務・広報グループ
4326111
(代)
☎(076)
文化財修復に五箇山の和紙が活躍 こだわりの紙すきで需要を開拓する 2
深い雪に閉ざされた冬の五箇山で 受け継がれてきた手すき和紙 4
五箇山和紙の作り方 6
おすすめエリア情報 7
関西電力北陸支社からのメッセージ 8
編集後記
interview
文化財修復に五箇山の和紙が活躍
こだわりの紙すきで需要を開拓する
(みやもと・とものぶ)氏
東中江和紙加工生産組合長
宮本友信
プロフィール
か。それだけコストがかかるんです。
…手間暇をかけてまでも、楮100
楮100%ですいた和紙は、
1000
品質が保障されなければいけません。
少なくとも500年以上にわたって
宮本■文化財の修理修復は、この先
うのは、素晴らしいことですね。
んがつくる和紙が使われているとい
…重要文化財の修理修復に、宮本さ
最近では、加賀藩前田家の奥方御
殿として重要文化財に指定されてい
なければ、この先長くは持ちません。
いところでも、昔と同じつくり方をし
目には見えない箇所ですが、見えな
ただいています。襖の下張りなどは
古文書の修理修復の際に発注してい
初 で す。 以 来、 障 子 や 襖 の 下 張 り、
理の際に利用していただいたのが最
から和紙の原料になるのは、全体の
歩留まりが良くなります。1本の楮
ると、質の良い楮が育ち、結果的に
草刈りや間引きをして手をかけてや
いと、楮は雑草に負けてしまいます。
に少なくとも3~4回草刈りをしな
は、手をかけないと育ちません。年
すけないということです。良質な楮
宮本■良い原料がないと、良い紙は
して手がける理由は?
…原料の栽培から手すきまで、一貫
まれていれば、和紙と呼ぶのが慣例
で、例えばほんのわずかでも楮が含
宮本■和紙は定義が非常にあいまい
ることだと。
…そのこだわりが、楮100%であ
を持ってやるというのが、信念です。
とができる。やるからにはこだわり
る人がいるからこそ、やり続けるこ
紙を求めている人、使っていただけ
伝統だからということよりも、この
そ、やり続ける意味がある。日本の
宮本■こだわりを持ってやるからこ
%にこだわるのはなぜですか?
年の耐久性があるといわれます。伝
る「成巽閣」の壁紙修復に利用して
わ ず か 5 % に あ た る 皮 の 部 分 の み。
化しています。世の中に出回ってい
原料からこだわる
だからこそ意味がある
昭和 年、南砺市平村生まれ。和紙の原料栽培から、最終工
程の紙すきまでを一貫して行う、全国的にも数少ない和紙生
産業者。農閑期の副業だった紙すきを、事業として通年化し
て取り組む。平成6年から「悠久紙」としてブランド化し、
毎年「悠久紙展」を開催する。
…例えば、どのような文化財に利用
されましたか?
かつらりきゅう
統的な紙すきをしている人が全国的
いただきました。
1・5ヘクタールの耕地で楮を栽培し
る和紙のほとんどは「和紙風」の洋
宮本■「桂離宮」における昭和の大修
にも少なくなっている現在におい
自分のつくった紙が、文化財とし
て先々まで残るというのが、この仕
ていますが、使えるのはほんのわず
の和紙を使えば、何十年も張り替え
文化財として残り続ける
それが一番の誇り
て、我々の仕事は重要であり、文化
事の一番の誇りですね。
います。
なくていいわけです。しかし今の市
として差別化する必要がありました。
つくる我々の和紙は、別のブランド
しょう。だからこそ、楮100%で
げることも、一方では必要なことで
ただくには、楮を減らして価格を下
り、戦後は洋紙に押されて、みんな
ようです。戦前までにその半分が残
1500戸以上の紙すき屋があった
宮本■明治時代には、五箇山だけで
て、どうお考えですか?
…五箇山和紙を取り巻く現状につい
らの作業を通して、伝統を継承する
信や力になると思っています。これ
ことが、現代を生きる若者たちの自
いかに大切かを身をもって体験する
程において、ひとつひとつの作業が
てもらっています。ものづくりの過
刈りや芽かき、間引き作業を体験し
シップを受け入れており、楮畑の草
宮本■ここ数年、学生のインターン
ては?
ために、今後も力を尽くしていくつ
知っていただき、後世に残していく
て五箇山和紙の良さを多くの方々に
た伝統和紙「悠久紙」の魅力、そし
かっています。楮100%でつくっ
出展するなどして、需要の開拓をは
商品を開発したり、ギフトショーに
はデザイナーと組んで新しい感覚の
久紙」を買ってもらうために、最近
されてしまいます。若い人たちに
「悠
場は、どうしても価格と見栄えに流
ふすま
財に必要とされているといえます。
日本に古来からある楮100%でつ
…次の世代への継承という点につい
…「 悠 久 紙 」 は、 宮 本 さ ん の 信 念
辞めていきました。今の五箇山には、
ことの大変さが、若い人たちに伝わ
もりです。
こうぞ
紙。でも楮の割合を増やせば、どう
くった和紙であるということです。
から生まれたブランドですね。
私と、和紙の里、五箇山和紙のたっ
ればうれしいのですが…。
せいそんかく
してもコストがかかるため、製品は
宮本■楮100%でつくった本来の
た3事業所しか残っていません。現
…若い世代に、和紙の魅力を伝える
*
「悠久紙」ホームページ
高価になり、庶民的な感覚から外れ
和紙は、1000年もつということ
在の市場を考えると、人を雇って事
とすれば?
ゆう きゅう し
らったり、土産品として購入してい
てしまいます。気軽に手に取っても
が実証されています。私がつくる紙
業 を 継 続 す る というのは 大 変 難 し
新商品の開発で
需要の開拓をはかる
に「悠久」と名付けた以上は、混ぜ
宮本■いろんな意味で、後世に残る
http://www1.tst.ne.jp/yukyushi/
い。それでも、売れるものをつくっ
力作が並ぶ「悠久紙展」
2
No.102 [YAMABIKO]
冬の号
No.102 [YAMABIKO]
冬の号
強くて優美な悠久
紙は、桂離宮の修理
の際に利用された
(宮内庁京都事務所
写真提供)
物は一切しません。
「悠久紙」とは、
楮100%でつくら
れる悠久紙
ということ。例えば、障子紙に本来
和紙の製造工程を
体験するインターン
シップの受け入れ
ていくために、みんな日々頑張って
楮の皮を雪にさらし、自然漂白を行う
文化財修復に五箇山の和紙が活躍 こだわりの紙すきで需要を開拓する
文化財修復に五箇山の和紙が活躍 こだわりの紙すきで需要を開拓する
3
31
洋紙とは全く異なる発想でつくった、
悠久紙を用いてつくられたテーブルウエア
は残っておらず、本格的に和紙がつ
五箇山で紙が生産された記録や形跡
が塩硝製造に携わっていたのに対し
に支払われましたが、農民の大多数
は楮と紙を売却した代金によって主
年貢は、夏と冬の年2回に分けて
納入しました。夏は養蚕と塩硝、冬
売却して、現銀で年貢を納めました。
な く「 金 納 」
。村人たちは生産物を
として買い上げることとし、紙生産
し、出来上がった紙をすべて御用紙
一括で買い上げて紙すき屋へ配分
安定化をはかることを名目に、楮を
を確保するために、楮価格の低廉化、
したため、紙の生産量が極度に減少
した。これに加えて、楮価格が高騰
深い雪に閉ざされた冬の五箇山で
受け継がれてきた手すき和紙
くられるようになったのは、年貢制
て、紙すきを行ったのはごく一部と
を実質的な藩営事業にすることを目
原料とする長い繊維に、トロロアオ
イの根などから採取した粘液を加
ほう もつ
え、独特の製法ですくものです。約
しょうそういん
1200年前の正倉院の宝物と平安
しました。加賀藩は城下で必要な紙
度が徹底された江戸時代以降と考え
考えられます。これは、紙すきを行
指しました。
越前和紙の製法が
伝承したという説も
られます。
う道具の調達や整備、原料の購入な
えん ぎ しき
こうぞ
(1615)
江戸時代初期で元和元年
以前に記された文献に、五箇山和紙
ど に 莫 大 な 資 本 を 要 す る た め で す。
日本の和紙は、西暦610年以来
ちょ ひ
の古い歴史があります。主に楮皮を
時代の延喜式に、朝廷へ和紙を納め
が 初 め て 登 場 し ま す。 五 箇 山 で つ
賀藩への献上品として紙すきが行わ
辺の農民を雇い、工場的な形態で紙
おいて藩から便宜を受けながら、周
の手厚い保護を受けながら、良質和
た。こうして五箇山和紙は、加賀藩
約5割増しの253軒にも上りまし
それ故、藩から指名を受けた数名の
世 ま で の 五 箇 山 の 主 た る 生 産 物 は、
れたことがわかります。ほかにも、万
すきを行ったと考えられます。天明
紙の産地として発展しました。
くった中折紙が、加賀二代藩主・前田
年(1846)には
糸や綿で、これらを公家や本願寺に
治元年(1658)の頃と思われる、
5年(1785)当時、紙すきに携
き屋は、天保
たびたび献上していたとされますが、
加賀藩主の請取状も残っています。
有力者だけが、施設や原料の調達に
和紙を献上した記録はありません。
わっていた五箇山の農民は、全体の
時代が明治に変わると、藩政時代
の 制 度 が 次 々 と 停 廃 止 さ れ ま し た。
%にあたる117戸だったこと
公的機関に代わる民間組織の出現が
大豆、粟、稗、蕎麦といった雑穀の
が記録されています。
た「藤島の合戦」に破れた新田義貞
畑作でした。それらの畑作業の合間
井波商法会社、佳葉組といった民間
ば
軍の家臣、脇屋義助らが五箇山へ落
に、養蚕や塩硝の製造が副業として
紙生産の藩営化
そして明治維新
そ
ち逃れたとき、越前和紙の技法を伝
行われたことはよく知られていま
売・流通を支える仕組みを形づくり
ひえ
えたのでは、といわれますが、これ
す。紙すきは農閑期となる冬に行わ
江 戸 時 代 後 期、 天 保 の 大 飢 饉
( 1 8 3 5 ~ 1 8 3 7) の 間 に 紙 す
ました。江戸から明治に時代が変わっ
する地場産業としてさらなる発展が
機関が現れ、楮の仕入れから紙の販
よし ば ぐみ
組織が母体となって、城端商法会社、
期待されるなか、藩政時代の株仲間
がどのような技法で、どのような種
れました。稲作が行われていなかっ
き屋は資本を食いつぶし、困窮しま
り近代化すると同時に、郷土を代表
わき や よし すけ
類の紙がすかれたかは定かではあり
たため、藩へ納める年貢は米納では
ら、江戸時代から受け継がれる古典
えんしょう
ま せ ん。 古 代 か ら 戦 国 期 に か け て、
年(1950)に
和紙の製造を継承しました。
ての特性を生かし、観光客が手すき
ひがしなか え
「 五 箇 紙 協 同 組 合 」 が、 昭 和
、現在の「和
昭和 年(1982)
紙の里」の前身となる「和紙工芸研
和紙づくりを体験できる体験施設が
と同じような環境で、良質な紙の生
が結成され、和紙原料の共同購入や
究館」が完成しました。施設内は機
設けられたほか、五箇山和紙の展示
、五箇山和紙
昭和 年(1988)
は八尾町・朝日町で生産されている
います。
を通して五箇山和紙の魅力を伝えて
いら」として親しまれ、展示や体験
在 も「 五 箇 山 和 紙 の 里 」
「道の駅た
かられました。これらの施設は、現
どして、五箇山和紙の普及促進がは
紙ができるまでの工程を紹介するな
はかられました。また、観光地とし
共同販売などが行われました。和紙
械すきと手すきの研究試作室や製品
室を開設。製品を展示するのはもち
(1968)に「東中江和紙生産組合」
の需要が全国的に減退し、それまで
加工研究所が設けられ、それらの施
産に取り組むことができたのです。
の生産地が次々と消滅するなかに
ろん、和紙の歴史資料をはじめ、和
年
おいては、昭和
あわ
約
利長公に贈られたというもので、加
なかおりがみ
藩政時代の到来と
五箇山和紙の夜明け
たとして
「越中国」が記されています。
これにより、天保 年(1839)
当時は五箇山に172軒あった紙す
雪の五箇山
山深い五箇山には稲作ができる田
地がなく、村人の主な生業は、麦や
五箇山でいつ頃から紙すきが始
まったかは、定かではありません。中
10
延元3年
(1338)
、
一節によると、
越前国藤島(現福井市)付近で起こっ
17
ても、五箇山の紙すき屋は藩政時代
にっ た よし さだ
12
設を拠点として、和紙製造技術をよ
25
あっても、伝統的な技術を守りなが
五箇山和紙で
つくられた作
品の数々
和紙の里の一角に
建つ「和紙体験館」
五箇山和紙
まつり
今
連綿と受け継がれる
手すき和紙の心と技
昔
57
43
今
今
月に開催されており、五箇
産業として今に受け継がれています。
るかのように、故郷を代表する伝統
人々の素朴で強靱な精神力を象徴す
五箇山和紙は、こうして今も、村の
る村の一角で静かにつくられてきた
かつて陸の孤島と呼ばれ、冬場は
2メートルにも及ぶ積雪に閉ざされ
として定着しています。
山に秋の訪れを告げる恒例イベント
も毎年
平成3年(1991)からは、「五
箇山和紙まつり」がスタート。現在
歴史と伝統が改めて評価されました。
の伝統的工芸品に指定され、
その長い
和紙とともに「越中和紙」として、国
63
10
民間の運営に任されるようになったとき
の紙すきの「免許札」表と裏(山崎甚三
郎所蔵)
戸外に仕立てられた釜場での楮蒸し(昭和31年)
戦後、あらゆる分野で新たな枠組
みが求められるなか、五箇山和紙に
昭和初期の頃の紙すきの様子
4
No.102 [YAMABIKO]
冬の号
No.102 [YAMABIKO]
冬の号
今
和紙の里では、
手軽に紙すき
体験ができる
昔
〈五箇山和紙づくりの今昔〉
加賀三代藩主・前田利常の請取状が文献
として残っている(瑞願寺所蔵)
深い雪に閉ざされた冬の五箇山で 受け継がれてきた手すき和紙
深い雪に閉ざされた冬の五箇山で 受け継がれてきた手すき和紙
5
昔
昔
7
おすすめエリア情報
冬の号
No.102 [YAMABIKO]
やまびこ学習室
冬の号
No.102 [YAMABIKO]
6
やまびこ
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http://www.kepco.co.jp/info/hokuriku/yamabiko/index.html
関西電力北陸支社からのメッセージ
No.102
歴史を訪ねる─ 水辺の暮らしと産業
五箇山和紙
冬
安全・安定供給の使命を果たす
黒薙第二発電所
12月8日、当社は151箇所目の水力発電所として新黒薙第二発
電所(富山県黒部市宇奈月町)の営業運転を開始しました。
本発電所は、既設の黒薙第二発電所(最大出力7,600kW・昭和
22年発電開始)の取水えん堤、導水路等の既存設備を利用して新
たに建設したもので、最大出力1,900kW、年間の発電電力量は約
1,200万kWh(一般家庭約3,300世帯の年間電気使用量に相当)
を見込んでおり、CO2排出量を年間約5,000t削減することが可能
新黒薙第二発電所
放水口
となります。
なお、既設の黒薙第二発電所と同時に稼動できるようになるのは、
導水路拡幅工事が完了する平成25年12月の予定です。
また、平成26年度に同黒部川水系において、出し平ダムで河川維
持流量※を利用した「出し平発電所(仮称)」
(富山県黒部市宇奈月町)
新黒薙第二発電所
配電盤室
の建設を予定しています。
これからも水力発電設備の適切なメンテナンスで安定した運転を
続けるとともに、既設設備の出力向上や中小水力の開発などにより、
需給変動への柔軟な対応や、さらなる環境負荷軽減に取り組んでま
いります。
※ダム下流の景観保全等、河川環境の維持のために放流する必要流量
出し平ダム
維持放流管
(既設)
水圧鉄管
出し平発電所
(仮称)
やまびこ発行休止のお知らせ
水圧鉄管
最大出力
最大使用水量
有効落差
ダム高さ
発電所
510 kw
1.76 ㎥ /s
37.16m
76.70m
放水口
このたび弊社は停止中の原子力プラントの再稼動時期が見通せない中、火力燃料費等の負担が大幅に増加し、現行の
電気料金水準でこれらをまかなうことが極めて困難であるため、苦渋の決断として電気料金の値上げ申請を行いました。
お客さまをはじめ、社会の皆さまからご理解いただくため、徹底した経営効率化への取り組みを推し進めており、
弊誌においても今回、発行休止を決定いたしました。何卒、弊社の状況について、ご理解賜りますよう、お願い申し
上げます。
弊誌は昭和61年の創刊以来、地域の情報や人物等を紹介する情報誌として、皆さまの元にお届けしてまいりました。
25年の長きにわたり、多くの皆さまにご協力とご愛読を賜り、深謝申し上げます。
北陸支社は、これからも水力発電の安全運転に努め、電力の安全・安定供給に全力を尽くし、皆さまに信頼いただ
ける会社として一層努力してまいります。
25
50
EDITOR'S NOTE
37
編集後記
■弊誌は、今夏100号を迎え 年の変遷
を振り返りました。多くの方にご協力いただ
きながら発行を重ねてきましたが、今回、発
行休止を決定いたしました。長い間、本当に
ありがとうございました。■北陸支社は、富
山県、岐阜県、福井県内に カ所の水力発
電所を保有し、関西方面へ送電しています。
古くは、大正時代からの水力発電所もあり、
先人たちの技術を受け継ぎ、守りながら安
定 し た 電 力 供 給 の一翼 を 担ってい ま す。
2013年は、黒四発電所が竣工して 周
年。これからもクリーンで安定した電力供給
に貢献してまいります。
取材・写真協力(敬称略)
宮本友信/宮内庁京都事務所/富山県観
光連盟/南砺市平行政センター/五箇山和
ほか
紙の里 13
参考文献
2
12
「越中五箇山 平村史 上巻・続編」 平
村
「上平村誌」 上平村役場
ほか
27
1
冬の号(季刊)
'
12
青柳志郎
No.
24 102
(あおやぎ・しろう)
題字 書家。
昭和8年富山生まれ。
日展入選8回。
毎日賞、毎日グランプリ受賞。
アメリカフィラデ
ルフィア個展、中国上海個展、パリ・マドリー
ド 巡 回 展 な ど 国 内 外 で 個 展 を 開 く。富 山 県 文
化功労賞受賞、北日本美術大賞展特別賞受賞。
現在、上海復旦大学芸術顧問、上海中国画院名
誉会員、毎日書道展審査会員、北陸書道院理事
長、
東京北辰書道会主宰。
やまびこ
本誌は再生紙を利用しています。
発行日/平成 年 月 日
発行所/〒9308513
富山市東田地方町  
大切に守り継がれてきた五箇山和紙
関西電力株式会社北陸支社
総務・広報グループ
4326111
(代)
☎(076)
文化財修復に五箇山の和紙が活躍 こだわりの紙すきで需要を開拓する 2
深い雪に閉ざされた冬の五箇山で 受け継がれてきた手すき和紙 4
五箇山和紙の作り方 6
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