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地球宇宙平和研究所所報 創刊号 - IGCP 地球宇宙平和研究所
IS S N 1 8 8 1 - 4 9 7 2 地球宇宙平和研究所所報 創刊号 2006 年 創刊 の辞 中西 治 宇宙 地球史の 展開 中西 治 東ア ジアの平 和のために 岩木 秀樹 グロ ーバリゼ ーションとネ パール 植木 竜司 公教 育におけ る宗教教育と ナショナ リズム 宮川 真一 中国社会动乱的周期性与自律性 王 元 東ア ジア安全 保障レジーム と日米安 保再編 林 亮 2005 年 8 月 高橋 勝幸 人種 から見た キューバの歴 史 木村 英亮 北朝 鮮を訪ね て Institute for Global and Cosmic Peace(IGCP) No. 1 2006 地球宇宙平和研究所所報 創刊号 目 次 http://www.igcpeace.org/ 創刊の辞/中西治...........................................................................3 宇宙地球史の展開――地球宇宙平和学入門/中西治............................4 東アジアの平和のために ――日本と朝鮮民主主義人民共和国の課題と将来/岩木秀樹 ..........36 グローバリゼーションとネパール/植木竜司 ...................................49 公教育における宗教教育とナショナリズム ――日本の「教育改革」を事例として/宮川真一 .........................69 中国社会动乱的周期性与自律性 ——兼答木村英亮《中国的文化与现代化》书评所提问题/王元...84 書評 王元編著『中国の文化と近代化』/木村英亮.................98 研究ノート 東アジア安全保障レジームと日米安保再編/林 亮........................100 北朝鮮を訪ねて 2005 年 8 月/高橋勝幸.....................................107 人種から見たキューバの歴史/木村英亮 .......................................114 特定非営利活動法人 地球宇宙平和研究所 設立趣旨書 20 世紀は科学技術が飛躍的に発展し、大量生産と大量消費の社会をつくりだし、人間の生 活を物質的にも精神的にも豊かにしました。しかし他方では、20 世紀は「戦争と革命の世 紀」と言われるように、この世紀には大量破壊と大量虐殺が行われ、人類は大きな犠牲を払い ました。 「21 世紀を人道主義と平和の世紀に」という多くの人々の願いにもかかわらず、2001 年 9 月 11 日に米国で民間旅客機による建物の爆破事件が起こり、多数の犠牲者が出ました。米英 両国はこれに対してアフガニスタンを攻撃し、ここでも多くの犠牲者が出ています。人間は再 び大きな過ちを犯しています。 1945 年に第二次大戦が終わったとき、人々は戦争の惨禍を目の前にして、どのような困難 があろうとも、どのように時間がかかろうとも、紛争問題は戦争によってではなく、話し合い によって平和的に解決しなければならないとの教訓を学びとりました。これが国際連合憲章と 日本国憲法を生み出したのです。 ところが、いま暴力に対して暴力で対抗するという悪の循環が始まっています。これを止 めないと、人類は再び世界的な大戦争に突き進むことになります。戦争は国家による最大の暴 力行為です。 さらに、人間が生活の利便を求め、自然を破壊し、有害な物質をまき散らした結果、地球 の環境が悪化し、地球上の生命体の存在そのものが危機に瀕しています。戦争は国家による最 大の自然破壊です。 人間は今こそ宇宙から地球を見直し、地球に住む人間を見直すべきです。そして、どのよ うにすれば、この地球上で人間が豊かに、幸せに、平和に生活できるのかを考え直すべきです。 現在、地球上には 60 億の人間が住んでいると言われています。この 60 億の一人ひとりにそ れぞれの生活があり、文化があり、歴史があります。この 60 億の人間が仲良く平和に暮らす ためには、なによりもまず、お互いによく知りあい、理解しあい、お互いの生活、文化、歴史 を尊重しあわなくてはなりません。 私たちの研究所は、地球を宇宙全体の中で位置づけるとともに、地球社会を自然と人間の 共生の場として多面的に研究し、その成果を全世界の人々と分かち合いたいと考えています。 国際的な文化学術交流を促進し、積極的に平和のための提言もしたいと願っています。 私たちは幸せを求め、平和を願う人々の輪を広げることが、迂遠なようではあるが、もっ とも確実な平和確立への道であると考えています。 私たちは人間の幸福と平和をめざして、特定非営利活動法人 地球宇宙平和研究所を設立 します。 2001 年 12 月 15 日 3 創刊の辞 特定非営利活動法人 地球宇宙平和研究所理事長 中西 治 Preface to the First Number Osamu Nakanishi 地球宇宙平和学が誕生しました。 地球宇宙平和学は地球と宇宙に永遠の平和をもたらすことをめざしています。この目的 を実現するために、地球上に住むすべての人々が互いにそれぞれの考え方と生き方を尊重 し合いながら、協力しなければなりません。 地球宇宙平和学は人間の魂に触れるものであり、地球上のすべての人を元気づけ、勇気 づけ、未来に希望をもたせるものです。 地球宇宙平和学は、人間が地球と宇宙の平和への旅で道に迷ったときに、平和への道を 求めて仰ぎ見る導きの星となるものです。 私たちは宇宙の誕生、地球の誕生、人間の誕生以来の道を振り返りながら、宇宙と地球 と人間の平和への現実的な道を探求します。 私たちは地球社会の現実から出発します。中東では戦争が続いています。東アジアでは 朝鮮半島をめぐって緊張が高まっています。 私たちはこれらの現状を正しく認識し、それを解決する方途を明らかにします。 このような学問は一人では創り出せません。それは多くの人々の共同の事業です。 地球と宇宙の平和のため、すべての人間の幸せのために、ともに新しい学問を創り出し ましょう。 2006 年 8 月 29 日 中国東北への旅立ちの日に 4 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 宇宙地球史の展開 ――地球宇宙平和学入門―― 中西 治 The Process of Cosmic and Global History: An Introduction to Global and Cosmic Peace Studies Osamu Nakanishi 1. はじめに 平和学とは何か 私はこの文をできるだけわかりやすく書こうと思っている。 一般に学術論文というのは、その分野の専門家の論文であり、専門家にしかわから ない用語で書かれている。なかには専門家でもわからないような文がある。 平和学の文はそのようなものであってはならない。平和学はこの地球上に永遠の平 和を確立することをめざしている。それはこの地球上に住むすべての人々の共同の事業 である。平和学はすべての人にわかるように書かれなければならない。1 地球史とは何か、地球学とは何か 地球史とは何か、地球学とは何か 地球史とは何か、地球学とは何か、についてはすでに幾つかの議論がある。私は地 球史とは地球の歴史を単に地球上に住む人間の歴史としてだけではなく、地球と地球を 取り巻く自然の環境、人間と他の生物との関係、個々の人間の営みと人間自身が織りな すさまざまな関係のなかで描き出すものであると考えている。 地球学とは地球史の展開のなかで生ずる諸問題を解決する方途を示す学問である。2 宇宙地球史とは何か 私はこの論文ではさらに大きく「宇宙地球史」という新しい枠組みを設定し、地球 を宇宙に浮かぶ一つの天体として位置づけ、その地球上に住む人間の歴史を単に地球だ 宇宙地球史の展開(中西治) 5 けではなく、宇宙全体のなかで論じたいと思う。 人間の生活で一番重要なのは自然の環境である。150 億年ほど前に宇宙ができたとた んに地球が生まれたのではない。46 億年ほど前に地球ができたとたんに人間が生まれ たのではない。地球上に単細胞生物が現れたのは地球が出来てから 5 億年ほど経ったあ とであり、それが人間に進化するのにさらに 40 億年ほどかかっている。人間が単なる 動物から脱して人間らしくなるのはほんの 1 万年ほど前である。 単細胞生物から人間に進化する過程でもっとも大きな影響を与えたのは宇宙と地球 の自然環境である。それは今も変わらない。宇宙地球史はこうした宇宙と地球の自然環 境の変化のなかで人間の歴史を描く。 地球宇宙平和学とは何か それでは「地球宇宙平和学」とは何か。それは宇宙地球史の展開のなかで生じる諸 問題を明らかにし、その解決策を提起する学問である。 宇宙地球史では宇宙を最初に置き、地球宇宙平和学ではなぜ地球を最初に置くのか。 前者では地球の歴史は宇宙の歴史の一部であるからであり、後者ではまず地球の平和を 維持することが第一の課題であり、地球の戦争を宇宙に拡大させないことが第二の課題 であるからだ。 この文では最初に宇宙・地球・人間の誕生から今日までの地球社会の発展の歴史を 振り返る。ついで、古代の人々が宇宙と地球と人間の誕生をどのように見ていたのかを 聖書、ギリシャ神話、古事記の記述を通して学ぶ。続いて、儒教と仏教とキリスト教と イスラームの始祖といわれる孔子、ブッダ、イエス、ムハンマドがどのように人間を見 ていたのか、人間にいかなる生き方を求めていたのかを検討する。近現代に至り人間の 人と社会についての考え方がどのように変化したのかをマルサス、ダーウィン、マルク ス、エンゲルスの著作を通して考察し、近現代という時代がいかなる時代であるのかを 考える。最後に、地球宇宙平和学が当面している課題を検討する。 2. 宇宙・地球・人間の誕生から今日までの地球社会の発展 宇宙と地球の誕生 宇宙はおよそ 150 億年前のビッグ・バンといわれる大爆発に始まり、140 億年前に銀 河ができ、46 億年前に地球ができ、今もなお何十億もの銀河が飛び散っている。 できたばかりの地球の大気の主成分は二酸化炭素であり、生物は生存できなかった。 6 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 地球は「水惑星」といわれるように、地球には形成されて間もない時から現在まで地表 を覆う海が存在した。40 億年ほど前に海底の熱水噴出孔や地表の硫黄くさい温泉水の 沸きだすようなところで単細胞生物が発生した。生物は久しいあいだ海のなかでしか生 きられなかった。 大気の主成分が窒素と酸素となったことで、生物がやっと海から出て、地上で生活 できるようになった。大気中の二酸化炭素が炭素塩岩の形成や生物の光合成によって有 機物に変えられ、酸素が光合成の副産物として生成され、大気中に蓄積されたからであ る。3 現在地球上に生存するすべての生物はかつて海底で発生した単細胞生物の進化の結 果である。 人類の誕生と進化 人類の誕生と進化 私たち人類にもっとも近い現生の動物はゴリラ、チンパンジー、ピグミー・チンパン ジー(ボノボとも呼ばれる)の三種の大型類人猿である。私たち人類の先祖も、もとは と言えばこれらの動物と同じ類人猿であった。700 万年前に人類が誕生したというのは、 現在の人間のような人類が突然現れたということではなく、後に現世人類(ホモ・サピ エンス)へと進化する猿人が、ゴリラから枝分かれしたのに続いて、チンパンジーとも 枝分かれしたということである。 このような最初の猿人はアフリカ中央部のチャドで発見されたサヘラントロプス属の チャデンシス猿人であり、いまから 700 万年前から 600 万年前に生存したといわれてき た。続いて現れたのがケニアで発見された 600 万年前ころに生存していたとされている オロリン属のツゲネンシス猿人である。そのあとに 570 万年前のアルディピテクス属の カダバ猿人と 440 万年前の同じくアルディピテクス属のラミダス猿人がいた。 かつて猿人といえばアウストラロピテクス属の猿人をさしていたが、このアウストラ ロピテクス属とアルディピテクス属のラミダス猿人を結ぶようなアウストラロピテクス 属のアナメンシス猿人の存在が 2006 年 4 月に明らかになった。これはラミダス猿人と 同じくエチオピアで発見されたものであり、420 万年-410 万年前に生存していたとされ ている。このあとに 360 万年-300 万年前のアウストラロピテクス属のアファール猿人 が続く。 アウストラロピテクス属の進化では犬歯はきゃしゃに、臼歯は大きく、エナメル質は 厚くなる傾向があるが、これはラミダス猿人からアナメンシス猿人への変化にも見られ る。森で軟らかい果実を食べていた人間の祖先が、草原に出て固い食物をゴリゴリ、ガ リガリとかじるようになったのが、直接の原因と考えられている。4 宇宙地球史の展開(中西治) 7 人類発祥の地はどこか 人類は最初の 500 万年-600 万年、つまり 200 万年-100 万年前まではアフリカ大陸で 生活し、人類がアフリカ大陸を離れて東南アジアのジャワ島で暮らすようになったのは 約 100 万年前または 180 万年前といわれている。この間に人類は約 400 万年前に直立姿 勢を取り始めた。人類がヨーロッパ大陸で生活するようになるのは約 50 万年前である。 13 万年前ころからヨーロッパと西アジアにネアンデルタール人といわれる人類が住ん でいた。 人類はこの間に簡単な石器と火を使うようになった。旧石器時代はおよそ 200 万年前 ころから始まっている。 現世人類の登場 およそ 5 万年前に人類の歴史は大きく変化した。約 4 万年前にヨーロッパに現世人類 の骨格をもつクロマニヨン人が出現した。このころの人類は生物学的にも行動学的にも 現代人となんら変わらぬ人たちであった。約 1 万 3000 年前、最終氷河期が終わった時 点で人類はアフリカ、ヨーロッパ、アジア、オセアニア、アメリカなど地球上の多くの 地で暮らすようになった。人類はみな狩猟採取によって生きていた。5 植物の栽培と家畜の飼育 地球上でもっとも早く植物の栽培が始まったのはユーラシア大陸の「肥沃な三日月地 帯(The Fertile Crescent)」と呼ばれる地域であった。現在のトルコ、シリア、イスラ エル、ヨルダン、イラクにかけての地域である。それは 1 万 500 年ほど前、西暦紀元前 (以下、紀元前と略称)8500 年ころである。野生種から栽培化された植物は小麦、豌 豆、オリーブなどであった。この地域ではやや遅れて 1 万年ほど前、紀元前 8000 年こ ろに羊や山羊などの動物の飼育も始まっている。 続いて植物の栽培と動物の飼育が始まったのは中国である。ここでは 9500 年前、紀 元前 7500 年ころに米、粟、コウリャンなどの栽培が始まり、豚、蚕の飼育が始まって いる。 南北アメリカ大陸の中央アメリカではトウモロコシ、隠元豆、カボチャ、アンデスと アマゾン川流域ではジャガイモとキャッサバなどの植物の栽培が 5500 年前から 5000 年 前、紀元前 3500 年から紀元前 3000 年ころに始まっている。北アメリカ大陸の東部でヒ マワリ、アカザなどの植物が栽培されたのは 4500 年前、紀元前 2500 年ころである。6 8 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 原始時代から歴史時代に 植物の栽培と家畜の飼育が始まった時期に、ほぼ時を同じくして新石器革命が始まっ た。この革命は 1 万年前から 7000 年前ころまで 3000 年ほど続き、人間は最終的に動物 の状態から脱した。労働の道具、踊り、歌、岩面彫刻、口頭のコミュニケーションなど の物質的・精神的文化が芽生え始めた。原始時代は終わり、歴史時代が始まった。7 農業社会から工業社会、知識情報社会へ 1 万年ほど前に始まった農業革命は 9000 年以上にわたってゆっくりと進み、人間の 主たる生活の手段を狩猟採取から栽培飼育に変えた。17 世紀なかばから 18 世紀なかば に始まった工業革命は 300 年ほどのあいだに人間の社会を農業社会から工業社会に変え た。そして、20 世紀後半に始まった情報技術革命は人間の社会を急速に知識情報社会 に変えている。 地球人口、200 年間で 10 億から 60 億へ 地球人口、 科学技術革命の進展とともに地球上に住む人間の数は急激に増えている。紀元前 1000 年ころの地球の人口を 1 億人、紀元元年ころを 2 億 5000 万人とすると、1800 年は 10 億人、1930 年は 20 億人、1975 年は 40 億人、1999 年は 60 億人、2006 年 2 月は 65 億人である。このままいくと、2013 年には 70 億人、2050 年には 92 億人に達するとい われている。別の推計では 2030 年に 100 億人、2070 年には 200 億人、2115 年には 800 億人という数字も挙っている。8 なぜアフリカで人類が誕生したのか 私は長い間どうしてアフリカだけで人類が誕生したのだろうか、本当にアフリカで 生まれた人類が地球全体に広がっていったのだろうか、たとえば、中国でアフリカとは 別に人類が誕生する可能性はなかったのだろうかと考えてきた。そのさい無意識のうち に前提となっている地球はいまの地球であり、いまの人間であり、いまの生活である。 700 万年前の地球と人類と人類の生活はいまとはまったく異なったものであった。 700 万年前は地質学的には新生代第四紀、氷床が拡大と縮小を繰り返した時代とされて いる。長い氷河期が終わり、地質学で現世代と呼ばれる時代が始まったのがやっと 1 万 年ほど前のことである。700 万年前の地球の人類は 1 万年前の地球の人間よりもはるか に生きにくかった。700 万年前の人類の食べ物は周りにある動植物であり、着るものは なく、自然が住みかであった。 このように考えると、700 万年前としては比較的温暖であった赤道直下に近いアフリ 宇宙地球史の展開(中西治) 9 カの地で人類が誕生し、食を求めて飛び回っている間に地球全体に広がっていったとい うことは十分にありうる。猿の素早い移動を見ていると、当時の人類の移動もこのよう であったのかと思う。 なぜ人間は生き残り、繁栄しているのか 宇宙と地球と人間の歴史は長く、億年・万年単位である。人間は 40 億年かけて単細 胞生物から今日の状態に進化した。チンパンジーと枝分かれしてからでも 700 万年経っ ている。その過程で多くの生物が誕生し、息絶えていった。人間が生き残ったのは、人 間が宇宙と地球の自然の恩恵に浴しながら、その変化に適切に対応してきたからである。 とくに重要なのは人間が声を発し、言葉を話し、それを文字にしたことである。これら の行動は人間をいっそう知的な動物にした。人間が繁栄したのは、人間がこの 1 万年ほ どのあいだに技術と科学を飛躍的に発展させ、自然に対して能動的に対応してきたから である。 3. 古代の人々は宇宙・地球・人間の誕生をどのように見ていたのか 文化とは何か 植物を栽培し、人間が一定の場所で生活するようになったことにより、食糧を安定 的に確保できるようになり、人間の生活が豊かになり始めた。人間の文化が向上し、文 明が生み出された。 文化と文明についてはさまざまな考え方があるが、私は「人間の生活の仕方が文化 である」と考えている。したがって、文化は人間の誕生とともに存在する。狩猟採取も 文化である。しかし、一般には文化を意味する英語の culture が「耕す」「栽培する」 という意味を有することからも分かるように、文化は植物の栽培や農村での生活と深く かかわっている。狩猟採取から栽培牧畜への生活の変化は文化の向上である。 文明とは何か それでは文明とは何か。文明を意味する英語の civilization は「市民(civil)化」であ り、文明は都市の生活と深くかかわっている。バグビーは「文明とは都市の文化であ る」と定義しているが、トインビーはこの定義に基本的に賛成しながらも、都市がない 社会で文明が発展した社会があることを考慮して、食糧生産のみならず、他のいかなる 経済活動にも従事していない職業軍人や行政家や僧侶などの非生産的専門家が存在する 10 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 ようになった社会状態を文明と名付けている。私もこれでほぼ良いと考えている。9 食糧生産が増大し、社会全体の生活に余裕ができたことによって、直接食糧生産に 従事しない人を社会が抱えられるようになった。こうした物質的生産に携わらない人が 精神的生産に従事することになり、人間の知的水準が著しく向上した。神話と宗教は人 間の知的活動の所産であり、文化・文明の所産である。 神話と宗教 トインビーによると、およそ 5000 年前、紀元前 3000 年ころからティグリス=ユーフ ラテス川流域(シュメール=アッカド文明)、ナイル川流域(エジプト文明)、エーゲ 海地域(エーゲ文明)、インダス川流域(インダス文明)、黄河流域(シナ文明)に文 明が生まれている。10 これらの地域はいずれも栽培飼育が先行したところであり、ユダヤ教、ギリシャ神 話、仏教、儒教などが生まれたところである。 これらの宗教や神話は宇宙と地球と人間の誕生をどのように見ていたのであろうか。 これをユダヤ教の聖書(キリスト教の旧約聖書)、ギリシャ神話、日本の古事記などに ついて検討しよう。ここで神が登場する。 聖書の天地創造観 3000 年ほど前、紀元前 11 世紀ころから語り継がれてきたといわれている聖書による と、文明の最初の発祥の地である「肥沃な三日月地帯」の人々は、天地万物の創造者は 唯一の神である、と考えた。人間の男も神が土(アダマ)の塵で作り、それに命を吹き 込んだもの(アダム)であった。女は男(イシュ)のあばら骨の一部を抜き取って作っ たもの(イシャー)であった。このような考えはイスラエルの民、ユダヤ教徒だけのも のではなく、ユダヤ教徒の聖書を旧約聖書として崇めるキリスト教徒とイスラーム教徒 の考えでもある。11 ギリシャ神話の天地創造観 紀元前 9 世紀から紀元前 8 世紀ころにまとめられたといわれるギリシャ神話によると、 最初に存在しているのはカオス(混沌)であり、このカオスからガイア(大地)、タル タロス(地獄)、エロス(愛)、エレポス(闇)、ニュクス(夜)の神が生まれ、この 神々が天地を創造した。この神々は母と子が結婚したり、兄弟姉妹が結婚したりすると いった動物的な神であった。神は唯一ではなく、たくさんおり、良い神もいれば、悪い 神もいた。12 私たちは一般にヨーロッパ文明の根底にはキリスト教が存在すると考えているが、そ 宇宙地球史の展開(中西治) 11 うではなくて根底に存在するのはギリシャ神話である。そこへ後にキリスト教が浸透し、 両者が融合して新しいヨーロッパ文明が形成されたのである。 古事記の天地創造観 時代は下るが、紀元 8 世紀に日本で編まれた神話『古事記』も最初に存在したのは混 沌であったとしている。この混沌とした天のいと高き高天原(たかまのはら)に宇宙を 統一する神と宇宙の生成を司る二神をはじめとする神々が現れた。地上にも多くの神々 が現れた。このうちの男神イザナギノミコトと女神イザナミノミコトが日本の国造りと 神造りで大活躍したというのである。日本では天地の万物を造り出したのは八百万(や およろず)の神であった。13 神と人間との関係は これらの宗教や神話は古代人の天地創造と自然に対する素朴な感情をよく表している。 天地のすべてのものを造ったのは神であるとするのはこの問題に対するもっとも簡単な 回答である。そのさい目に見えない唯一の神がまずあって、それが人間をも含むすべて のものを造り出したとするのか、まず混沌があって、そのなかから目に見えない神や目 に見える神が現れて、その神々が天地の万物を造り出し、神々を生み出したとするのか では、神と人間との関係は著しく異なってくる。 前者にあっては、神は絶対的な存在であり、人間を含めてすべてのものが神によって 造られたのであり、人間はつねに神の下にある。人間は絶対に神に成り得ない。後者に あっては、まず混沌があって、そこから目に見えない神も、目に見える神も生まれたも のである。神も混沌から生まれたものであって、絶対的なものではない。これらの神々 が神や人間を生むが、これらの神々と人間はともに最初から存在したものでなく、生ま れ出たものとして対等である。人間は神に成り得る。 人間が人の子を神とした 神と人間との関係を考えるうえで大変参考になるのは、イエスをユダヤ教の単なる預 言者であったとするのか、それともユダヤ教の預言者をこえる救い主=神であったとす るのかの問題である。 ユダヤ教やイスラームにあっては、神は唯一であり、目に見えない存在である。アブ ラハムやモーセやイエスやムハンマドは人間であり、神の言葉を預かり伝える預言者で あるが、神ではない。人間は神には成り得ない。 ユダヤ教にはヘブライ語でメシアという言葉がある。メシアとは就任式で「油を注が れた者」、つまり王や祭司のことであった。それがのちに理想的な王を意味し、さらに 12 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 「救い主」を意味するようになった。ローマの支配からの解放を求めていたユダヤ人は メシアの到来を望んでいた。イエスを信奉する人びとはイエスこそメシアであると信じ ていた。メシアのことをギリシャ語でキリストという。イエスこそキリスト、救い主で ある。イエス自身も自分がメシアであると考えていたが、弟子にはそのことを誰にも話 さないように命じていた。14 イエスが十字架にかけられたのは、イエス自身が自分をメシア=キリストと考え、彼 の信奉者たちもイエスをキリスト=神として崇めたからである。ユダヤ教徒にとってこ れは神を冒涜するものであり、イエスは偽の預言者ということになる。 イエスは人の子として生まれ、人の子として死んだ。イエスを信奉した人々がイエス をキリスト=神とした。人間が人の子を神とした。 4. 孔子、ブッダ、イエス、ムハンマドは人間をどのように見ていたのか 人間の知恵と知識が開花 2500 年ほど前、紀元前 6 世紀ころから人間の知恵と知識が大きく花開き始めた。孔 子(紀元前 552-479 年)、ソクラテス(紀元前 469-399 年)、ブッダ(紀元前 463-383 年または紀元前 460-380 年、100 年遡って紀元前 6-5 世紀という説もある)、プラトン (紀元前 428-348 年)、アリストテレス(紀元前 384-322 年)、孟子(紀元前 372-289 年)などが現れた。 イエスが生まれたのはそれからずっと後、紀元前 4 年ころ、ムハンマドが生まれたの は紀元後 570 年ころである。 このうち儒教、仏教、キリスト教、イスラームの開祖といわれる孔子、ブッダ、イエ ス、ムハンマドなどがどのような人間観を持ち、どのような生き方を人間に求めていた のかを検討しよう。 孔子とは何者か 私が初めて漢文に接したのは第二次大戦中の国民学校(小学校)の児童のときであっ た。2 年生のときから担任になられた先生が大変教育熱心な方で授業以外に冬の朝は剣 道の寒稽古、夏休みは近くの川に子供を連れて行って水泳の特訓などをして下さった。 先生は吉田松陰を尊敬されておられて、私たち児童に吉田松陰の「士規七則(武士 のあり方を示した七つの規則)」を教えられた。「凡生為人 宜知人所以異於禽獣(凡 そ生まれて人となったならば、宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし)」に始まる 宇宙地球史の展開(中西治) 13 「士規七則」の一部を暗記し、覚えたものは先生のところへ来て暗唱するようにとの宿 題が出された。私は翌朝だったか、翌々朝だったか、授業の始まる早朝に学校に行き、 宿直明けの先生の前で暗唱したことを覚えている。 「士規七則」の教えを吉田松陰自身が次の三つに要約している。第一は「立志以為万 事之源(志を立てることをもって万事の源となせ)」。第二は「択交以輔仁義之行(交 わるべき友を選んで仁義の行いをたすけよ)」。第三は「読書以稽聖賢之訓(書を読ん で聖人賢者の教えを考えよ)」。振り返って見ると、この 3 つが幼き日の私の出発点に なっている。15 私は漢文の訓読(読み下し)の調子が好きであった。高等学校の漢文の時間に孔子の 論語に出会った。 孔子の弟子たちが書き残した論語第一巻第一の一は「子のたまわく、学んでここに習 う、また喜ばしからずや。とも遠きよりならび来る、また楽しからずや。人知らずして いからず、また君子ならずや。(先生がいわれた。ものを教わる。そしてあとから練習 する。なんと楽しいことではないかね。友だちが遠くからそろって来てくれる。なんと うれしいことではないかね。他人が認めないでも気にかけない。なんとおくゆかしい人 柄ではないかね。)」とのべている。 孔子は紀元前 552 年ころ中国東部の山東省内の小さな都市国家、魯(ろ)国に生まれ た。姓は孔(こう)、名は丘(きゅう)、字は仲尼(ちゅうじ)。父は武士であったが、 父母ともに孔子が幼いときに亡くなったといわれている。 孔子の一生は論語第一巻第二の四「子のたまわく、吾十有五にして学に志し、三十に して立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳したがう、七十に して心の欲する所にしたがいて矩をこえず。(先生はいわれた。私は十五歳で学問に志 し、三十歳で一本立ちとなり、四十歳で迷いがなくなり、五十歳で天から与えられた使 命をさとり、六十歳で人のことばをすなおに聞けるようになり、七十歳で自分の思うま まに行なってもゆきすぎがなくなった。)」の通りである。なかなか立派な一生である。 孔子は紀元前 499 年に 50 歳代なかばにして魯国の大司寇、つまり、司法長官に任ぜ られ、大臣の一員となった。俗世間での出世の絶頂のときであった。孔子は天命を知っ た。しかし、ときの魯国は下克上のような状態であった。孔子ははやくも 2 年後の紀元 前 497 年に追われるように魯国を去って流浪の旅に出た。孔子が魯国に帰るのは紀元前 484 年、足かけ 14 年後であり、孔子も 60 歳代末であった。その後、孔子は紀元前 479 年に亡くなるまで魯国の都、曲阜で教育に従事した。享年 74 といわれる。 孔子の教えのなかで最高の徳は仁である。仁とは何か。 論語第一巻第一の三は「子のたまわく、巧言令色、すくないかな仁。(弁舌さわやか 14 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 に表情たっぷり。そんな人たちに、いかにほんとうの人間の乏しいことだろう。)」と 言い、論語第二巻第三の三は「子のたまわく、人にして仁ならずんば、礼を如何せん。 人にして仁ならずんば、楽を如何せん。(先生はいわれた。人として人間らしさの欠け たものが、礼を習って何になるだろう。人として人間らしさの欠けたものが、楽を歌っ て何になるだろうか。)」と言っている。仁とはまず人間性である。 さらに論語第九巻第十七の六は「子張、仁を孔子に問う。孔子のたまわく、よく五つ のものを天下に行なうを仁と為す。これを請い問う。曰く、恭と寛と信と敏と恵となり。 恭なれば則ち侮られず、寛なれば則ち衆を得、信なれば則ち人任じ、敏なれば則ち功あ り、恵なれば則ち以て人を使うに足る。(子張が仁について孔先生におたずねした。孔 子先生がいわれた。五つのことを天下に実行することができたら、仁といえるね。子張 はさらに、その五つのことはなにかとおたずねした。先生がいわれた。恭・寛・信・ 敏・恵である。恭つまり礼儀正しいと他人に侮られない。寛つまりおおらかであると人 望が集まる。信つまり誠実であると他人が信頼する。敏つまりすばやいと仕事がたくさ んできる。恵つまり恵み深いと人をじゅうぶんに使うことができる。)」とのべている。 仁とは、一言でいうと、人間にたいする愛の心、慈しみ、慈愛、情け、思いやり、哀 れみ、恵みである。 孔子は政治家としては成功しなかったが、教育者としては成功した。孔子の弟子たち は孔子の教え、儒教を中国の主要な学問とした。人間にたいする愛、これこそが儒教を 今日でもなお人々の心のなかに生きる教えとしている。16 ブッダとは何者か ブッダの幼名はゴータマ・シッダールタ。父はスッドーダナ、母はマーヤー。父はイ ンド平原の北、ヒマラヤ山麓に住むシャーキヤ族の小さな貴族共和国の議長であったと いわれている。一般には父は王、ゴータマは王子ということになっている。ゴータマは 29 歳ころに出家し、35 歳ころに悟りをひらき、80 歳で亡くなっている。人びとは彼を シャーキヤムニ(釈迦族の賢者)と呼んだ。釈迦牟尼、釈尊、世尊はここからきている。 悟りをひらいた人をブッダ(覚者)というので、シャーキヤムニ・ブッダとも、ゴータ マ・ブッダともいう。ここではブッダ(仏陀)とする。 仏教の教典はブッダが書き残したものではない。それらはすべてブッダの死後に弟子 たちがブッダの教えを整理、編集したものである。仏典が文字に書写されるのは紀元前 1 世紀ころのスリランカにおいてであるといわれており、これが現在に伝わる原始仏典 である。17 この原始仏典によってブッダの人と思想を検討しよう。 宇宙地球史の展開(中西治) 15 第一に、ブッダは人間が多様であることを理解していた。衆生のなかには知恵の眼が 煩悩の塵でよごれていないものもいれば、ひどくよごれているものもいる。生まれつき 資質のすぐれたものもいれば、劣ったものもいる。性質のよいものもいれば、悪いもの もいる。また、来世に生まれて苦をうけねばならぬおのれの罪業についておそれを知り つつ暮らしているものたちもいる。 第二に、ブッダが悟った法は縁起の道理と涅槃の道理である。縁起とは、あるものに 縁(よ)って他のものが起こることである。涅槃とは、すべての存在のしずまること、 すべての執着を捨てること、渇欲をなくすこと、欲情を離れること、煩悩を消滅するこ とである。ブッダは自分が悟った法は深遠であり、この法がものごとに執着している人 には理解しがたく、悟りがたいことをよく知っていた。理解されないのであるならば、 それを説くのは疲労であり、苦悩である。ブッダは案外、気の短い人である。 第三に、ブッダは二つの極端(一つはさまざまな対象に向かって愛欲快楽を求めるこ と、もう一つはみずから肉体的な疲労消耗を追い求めること)を避け、中道を歩めと勧 めている。中道とは、正しい見解、正しい思考、正しい言葉、正しい行為、正しい暮ら しぶり、正しい努力、正しい心くばり、正しい精神統一である。これを八つの正道とい う。それは人の眼を開き、知を生じさせ、心の静けさ・優れた知恵・正しい悟り、涅槃 のために役立つという。 第四に、ブッダは人生のすべてのことは苦であると考えている。生まれること、老い ること、病むこと、悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い・悩むこと、憎いものに会うこと、愛 しいものと別れること、欲するものを得られないこと、すべてが苦である。どうすれば この苦から逃れることができるのか。すべての対象に対する渇欲、すなわち、情欲的快 楽を求めること、個体の存続を願うこと、権勢や繁栄を求めることから脱し、中道=八 正道を歩むことである。これが仏教の根本教説である。18 ブッダが説くように人間がすべての欲望を捨ててしまえば、個人の維持も子孫の保持 も社会の発展もない。ブッダがいくら説いてもすべての人間がすべての欲望を完全に放 棄することはありえない。ブッダもこのことを百も承知している。だから、ブッダが悟 った法は理解しがたく、悟りがたいというのである。ブッダが言いたいのは欲望の充足 をほどほどにせよということである。 人間が生きている限り、すべての執着を断ち切り、すべての存在がしずまる涅槃は実 現困難である。しかし、それは必ず実現する。人間は死ねば、すべての人が涅槃となる。 ここでもブッダが言いたいのは、人間は生きているうちから涅槃のために努力せよとい うことである。そうすれば個人も生きやすいし、世の中も生きやすくなる。 ブッダは幸せな一生を過ごした。母は彼が生まれて間もなく亡くなっているが、父は 16 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 地域の有力者であり、幼いときから物質的に豊かな生活をおくった。結婚もし、子供に も恵まれた。29 歳ころに出家し、35 歳ころに悟りをひらき、45 年間ほど説法と布教を した。この間に苦行もし、苦労もしたが、それは彼が求めたものであり、選んだ道であ る。 ブッダは 80 年も生きたので人間をよく知っている。良い人もいれば、悪い人もいる。 欲の深い人もいれば、欲のない人もいる。人間には生老病死があり、人間は必ず死ぬ。 その一生をどのように生きるべきか。欲望を抑え、極端に走らず、正しい道を歩む。き わめて常識的な回答である。 ブッダの教えは単純であるが、実践するのは難しい。 イエスとは何者か イエスの生まれた年を西暦紀元元年とし、12 月 25 日を誕生日としているが、本当の 生年月日ははっきりしない。イエスが実際に生まれた年は紀元前 4 年ころといわれてお り、12 月 25 日が誕生日とされたのは 4 世紀のローマ時代である。19 イエスの教えを弟子たちが書き残した新約聖書によると、イエスはヨセフと婚約中の 母マリアが結婚前に聖霊によって身ごもり、出産したといわれている。ヨセフは正しい 人であったので、マリアのことを表沙汰にしないで、ひそかに縁を切ろうと考えていた が、そのときに主の天使が夢に現れて「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアは男 の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからであ る。」と言った。イエスとはヘブライ語のヨシュア(イエシュア)のギリシャ語訳で、 「神は救い」という意味である。イエスはのちにユダヤ教の洗礼(バプテマス)をうけ ており、そのとき「これはわたしの愛の子、わたしの心にかなう者」との天の声が聞こ えたといわれている。20 イエスはユダヤ教の意識的な改革者であった。ユダヤ教は「十戒」のなかで「6 日の あいだ働いて、7 日目はあなたの神、主の安息日であるからいかなる仕事もしてはなら ない。」と命じているが、イエスは文字通りに安息日や断食などについての律法を守る ように要求した律法学者やファリサイ派(律法を守らない人々から自分たちを分離した ユダヤ教の一派、律法学者の多くはこの派に属した)の人びとを厳しく批判している。 この戒律が民衆の生活を不便にしていたからである。 イエスは「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。 廃止するためではなく、完成するためである。あなたがたの義が律法学者やファリサイ 派の人びとの義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができな い。」と説いた。イエスはこれまでのユダヤ教を越えようとした。 宇宙地球史の展開(中西治) 17 イエスはユダヤ教よりも他人に対して寛大に接するように説いた。イエスは山の上で 説いた「山上の垂訓」のなかでユダヤ教の「目には目を、歯には歯を」に対して「誰か があなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。求める者には与えなさい。あな たから借りようとする者に背を向けてはならない。」と教えた。さらに、イエスはユダ ヤ教の「隣人を愛し、敵を憎め」の教えに対して「敵を愛し、自分を迫害する者のため に祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。あなたがたの天の父が完全 であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい。」と語った。 イエスは他人にはやさしいが、自分にはきびしかった。イエスは彼の信奉者に対して もユダヤ教より厳しく身を持するように求めた。イエスはユダヤ教の「殺すな。人を殺 した者は裁きを受ける。」に対してさらに「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受け る」と諭した。十戒の「姦淫するな」に対して「みだらな思いで他人の妻を見る者はだ れでも既に心の中でその女を犯したのである。」と説いた。 伝統的なユダヤ教徒はイエスに強く反発した。イエスは最高法院に立たされた。大祭 司が尋ねた。「お前は神の子、メシアなのか。」イエスは答えた。「それはあなたが言 ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神 の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」と。「神を冒涜した」と大祭司は言った。 「諸君はどう思うか」。人々は「死刑にすべきだ」と答えた。ローマの支配からの政治 的解放を求めていた民衆もイエスから離れた。 イエスは十字架にかかり、死に、復活した。復活したイエスは語った。「わたしは天 と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたし の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じて おいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたが たと共にいる。」 イエスは死に、復活することによって神になった。この話を信じる人々がキリスト教 徒である。父と子と聖霊の三位一体説は神とイエスを聖霊によって結びつけイエスを神 とするものである。21 イエスの生涯は短い。ユダヤのベツレヘムで生まれ、敬虔なユダヤ人としてシナゴク (礼拝堂)の礼拝に参加し、律法を学んだといわれている。職業は大工、寡婦の母や兄 弟を養った。32 歳ころに洗礼を受け、荒野で祈祷と断食のあと生涯の使命を悟り、独 自の布教活動を始めた。最初は虐げられた庶民の支持を得たが、既成の宗教家や支配者 からは危険視され、最後は力での解放を求める大衆からも見放され、十字架にかかって 亡くなった。時に紀元 29 年、35 歳くらいであった。22 イエスの布教活動はわずかに 3 年ほどである。イエスのユダヤ教改革の事業は始まっ 18 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 たばかりで、挫折した。しかし、イエスをキリストと信じる人々がユダヤ教とは別に一 宗をたて、イスラエルの民の宗教を人間の普遍的な宗教へと発展させた。ユダヤ教はユ ダヤ人の宗教であるが、キリスト教はユダヤ人をも含むより多くの人々の宗教である。 ムハンマドとは何者か ムハンマドは紀元 570 年ころにアラビア半島南西部の紅海沿いのヒジャーズ地方にあ るメッカで生まれたといわれている。正確な生年月日は分らない。幼くして孤児となり、 祖父、ついで叔父に育てられた。メッカはアラビア半島南端のイエーメンから地中海に 臨むシリアに至る通商路の宿場町として栄えた。叔父も商人であった。ムハンマドも商 人となり、金持ちの未亡人ハディージャから隊商をまかされ、シリアに旅した。ムハン マドはハディージャの信頼を得、二人は結婚した。ムハンマドは 25 歳、ハディージャ は 40 歳であった。610 年、ムハンマドは 40 歳になるころ、突然、神の啓示を受け、神 の使徒としての自覚をもつにいたったといわれている。23 この啓示は次のようなものであった。「おお、外衣を纏う者よ。起きて、警告せよ。 汝の主を讃えよ、汝の着衣を清めよ、不浄なものを避けよ、余分の報酬をと思いながら 与えるな、汝の主のために耐え忍べ。」一言でいうと、「神を讃えよ」である。24 メッカには多くの偶像をまつるカアバの神殿があった。ムハンマドは偶像を崇拝する 多神教に反対した。メッカの住人との対立が激化した。619 年にムハンマドの良き理解 者であったハディージャが亡くなった。メッカでの活動が困難になっていたムハンマド は 622 年 7 月 16 日にヤスリブ(のちのメディナ)に移住(ヒジュラ)した。この日は のちにイスラームの暦年でヒジュラ紀元元年 1 月 1 日になった。25 メディナにはユダヤ教徒がたくさん住んでいた。ムハンマドはユダヤ教徒との関係を 良くするために礼拝の方向をユダヤ教徒と同じエルサレムにした。しかし、関係は良く ならなかった。ユダヤ教徒たちはムハンマドを偽預言者呼ばわりした。624 年 2 月にム ハンマドは礼拝の方向をエルサレムからメッカに変えた。ムハンマドはユダヤ教徒と決 裂し、イスラームを確立することにした。 そのさい、ムハンマドはユダヤ教の預言者モーセよりも古く、アラブにとって民族の 始祖とされるアブラハムにまで戻ることにした。アブラハムこそ一神教の信仰心の厚い 預言者であり、ユダヤ教でもキリスト教でもなく、それらの歴史的宗教の源にある、よ り根源的な一神教という純正な信仰の人、神に帰依する人(ムスリム)である。アブラ ハムの信仰は神に対する絶対的服従・帰依(イスラーム)であって、ムハンマドの宗教 はユダヤ教の模倣ではなく、アブラハムの宗教、すなわち、イスラームであると宣言し た。イスラームはアラブの民の宗教として始まった。26 宇宙地球史の展開(中西治) 19 630 年にムハンマドは平和裏にメッカに入り、神殿カアバのなかの偶像をたたき壊さ せた。彼は「いまや異教の時代は完全に終わった」と宣言した。632 年にムハンマドは メッカに正式に巡礼した。これが彼の最初で最後の巡礼であった。同年 6 月 8 日にムハ ンマドは 60 歳余で亡くなった。ヒジュラからわずかに 10 年であった。27 ムハンマドは実践的な宗教者であった。彼はメディナで驚くべき偉業を成し遂げた。 ここにはアラブの二部族とユダヤの三部族が住んでいたが、いかなる首長も支配者も存 在せず、政治的混乱状態にあった。ムハンマドはこのアラブの諸部族を唯一の神に帰依 するイスラームによって統合し、戦争と外交によってイスラーム国家の支配者となった。 彼は王ではなく、預言者であった。ムハンマドは成功した宗教家であり、政治家であっ た。28 平和とすべての人間の幸せのために競争を 一般にユダヤ教、キリスト教、イスラームは一神教であり、ギリシャの神々、日本の 神道は多神教といわれている。そして、一神教はかたくなであり、多神教は柔軟性に富 むといわれている。確かに、そのような面がある。しかし、もとは同じ一つの神である のにユダヤ教、キリスト教、イスラームに分かれ、さらにそれぞれのなかにさまざまな 宗派があり、あたかも多神教的である。他方、多神教といわれる諸宗派もそれぞれの宗 派のなかではそれぞれが信仰の対象とするものを最高とし、あたかも一神教的である。 だから、私は一神教だからかたくな、多神教だから柔軟とは一概にいわない。そも そも信仰というものは自分が信じるものが最高で、最良で、絶対的であると信じないと 成り立たない。だから、諸宗派間で競争があり、争いが生じるのである。 問題はこの争いを暴力的なものにしないことである。私はそれぞれの宗派の人々が他 の人々の思想、信条を尊重しながら、それぞれの宗派が人々に平和を保障し、人々を幸 せにすることを現実に示すことで競い合えば良いと考えている。人々を幸せにする宗教 はいくら多くあっても良い。 儒教、仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラームに共通するのは人間に対する愛であ る。問題はその人間がユダヤ人だけか、アラブ人だけか、それぞれの宗派に属する人だ けか、それとも、性別、人種、思想信条を越えてすべての地球上に住む人間であるのか である。 20 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 5. マルサス、ダーウィン、マルクス、エンゲルスは人と社会をどのよう に見ていたのか マルサスの人口論 英国の経済学者マルサス(Malthus=モールタス)は 1798 年に匿名で『人口論』(An Essay on the Principle of Population)を発表した。彼はこの論文で食糧は人間の生存に 必要であること、男女両性の情念は必然であることを前提として、人口は等比数列(幾 何級数)的に増大する(25 年ごとに倍加する)が、人間の生活に必要な食糧は等差数 列(算術級数)的にしか増えない(25 年ごとに現在の生産高しか増えない)ことを指 摘した。 具体的に英国について見ると、の人口は約 700 万人と算定されており、最初の 25 年 間に人口は 1400 万人になり、食糧も倍加すると予想している。しかし、次の 25 年間に 人口は 2800 万人になるであろうが、食糧生産は 2100 万人分にしかならないという。さ らに、次の 25 年間に人口は 5600 万人になるが、食糧は 2800 万人分しかない。最初の 1 世紀が終わるときには 1 億 1200 万人になるが、食糧は 3500 万人分しかなく、7700 万 人は食糧なしとなる。 地球全体ではどういうことになるのか。地球全体の人口を、たとえば 10 億人とする と、人口は 1、2、4、8、16、32、64、128、256、512 の比率で増えるが、食糧は 1、2、 3、4、5、6、7、8、9、10 などのように増え、2 世紀と 4 分の 1 で人口は生存手段に対 して 512 対 10 となり、3 世紀で 4096 対 13 となる。2000 年ではその差はほとんど計算 不可能である。 これがマルサスの理論であるが、現実にはこのようになっていない。実際には人口と 食糧との差が大きくなると、食べられない人が出てきて人口は減少するからである。こ のことをマルサスもよく理解していた。彼はこの過程を次のように説明している。 たとえば、人口が 700 万人のところで生存手段が増大する前に人口が増えたとしよう。 そうすると、これまで 700 万人を扶養していた食糧を 750 万人か 800 万人で分けなけれ ばならなくなる。その結果、貧しいものはさらに悪い生活をしなければならなくなる。 労働者の数も増えるから労働の価格は下がり、逆に食糧の価格は上がる。結婚も困難に なり、家族を養うのも難しくなるから人口は停滞する。 他方、農業は栄え、食糧生産が増え、生存手段が人口に対してふたたび出発時点と同 じになる。そうなれば、労働者の状態が安楽になるから人口増加に対する抑制は緩み、 人口は増え始める。こうして前進と後退が繰り返される。人口は自然の選択(natural 宇宙地球史の展開(中西治) 21 selection)によって調節されながら増えていく。 マルサスは人口が増加する原理を積極的に評価していた。彼はこの原理が人間を土地 の耕作にかりたて、増加した人口の扶養を可能にする強力な刺激として作用していると 述べている。29 マルサスがこの論文の初版を発表したのは 1798 年、32 歳のときであった。彼は 1793 年にケンブリッジのジーザス・カレジのフェロウ(研究員)となり、1796 年にオール ベリ(あるいはオークウッド)の教会の牧師補についていたが、初版は匿名で発表した。 1803 年に第二版を発行するにあたりマルサスはケンブリッジの肩書きで著者名を明 らかにした。彼は 1804 年に東インド会社の職員を養成する学校の教授に就任すること を承諾し、イングランドで最初の経済学の教授となった。1826 年に出版された第六版 は、初版にくらべて量的に 5 倍ちかくになった。30 ダーウィンの進化論 1838 年にこの本は偉大な読者を得た。ダーウィンである。ダーウィンはこのとき 29 歳であった。 彼は最初エディンバラ大学で医者になるために医学の研究を始めたが、途中で方向を 転換し、牧師になるために 1828 年にケンブリッジ大学神学部に入学、1831 年 4 月に卒 業した。 ダーウィンは牧師にはならなかった。同年 12 月にケンブリッジ大学のヘンスロー教 授の薦めにより調査船ビーグル号に博物学者として乗り組み、1836 年 10 月までほぼ 5 年間、世界を周航して帰国した。当時、ダーウィンは周航記を書きながら、生物の種 (species)の起原について思いを巡らしていた。31 そのときにたまたま慰みに読んだのがマルサスの人口論であった。マルサスの自然選 択という考えがダーウィンをとらえた。ダーウィンの進化論の基礎が固まった。 ダーウィンはこの時すでに生物の種は不変ではなく、変わるものであると考えるよう になっていた。もし飼育動物や栽培植物の品種が人為的な選択によってもたらされると するならば、自然状態においては動植物の種の変化は何によってもたらされるのであろ うか。ダーウィンはそれがよく説明できなかった。そのときにマルサスの本に出会った。 生物界は生まれたものを全部生かすだけの余裕をもっていない。生きるものと途中 で死ぬものができる。好都合な変異は保存され、不都合なものは滅ぼされる。こうして 新しい種が生まれる。 ダーウィンは 1842 年に自分の考えを 35 ページの概要にまとめ、1844 年にこれを 230 ページに引き延ばし、さらに 1856 年からこれを大著とすべく執筆に取りかかった。32 22 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 同じような考えを持っていた研究者がもう一人いた。アルフレッド・ウォレースであ る。彼はダーウィンのビーグル号航海記に感激してアマゾン地方に探検に行き、さらに マレー群島に赴いて調査していた。そのウォレースが 1858 年にマレーからダーウィン に論文を送り、イングランドでこの論文を発表するように依頼した。内容はダーウィン の考えと同じであった。 ダーウィンは彼自身がすでに同じような考えを以前から持っていたことを証明する文 書二篇とウォレースの論文を同時に公表した。そして、急遽、これまで進めてきた進化 論にかんする大著の出版計画を縮小して 1859 年に『種の起原』を出版した。33 『種の起原』の正式の書名は『自然選択による、すなわち、生きるための闘争での恵 まれた種属の保存による、種の起原について(On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life)』である。 この本は 1872 年に第六版が出版されたが、この版では書名から「On(について)」が 削除されている。この間の 1871 年に『人類の起原』と一般に称されている本が出版さ れた。この本も正式の書名は『人の遺伝と性関係における選択(Descent of Man, and Selection in Relation to Sex)』である。 ダーウィンは『種の起原』では「種は継起する軽微で有利な変異の保存と集積によっ て変化してきたのだし、また、いまも緩徐に変化している」と言うにとどめ、人間に触 れることを避け、「私は、遠い未来においては、さらにずっと重要な研究にたいして、 いろいろな分野が開かれるであろうと思う。(中略)人間の起原と歴史にたいして、光 明(第六版では「多くの光明」)が投じられるであろう。」と記しているだけである。 それでもダーウィンは人間がアダムとイヴの子孫ではなく、猿の子孫であると主張して いるとして非難された。34 『人類の起原』も原本は『人の遺伝』であるが、ダーウィンは同書で次のような主 張を展開した。 第一は、人間も、他のすべての種と同じように、もっと下等なある生物から由来した。 人間は他の哺乳類と先祖をともにしており、他の哺乳類と同じ一族の末裔である。 第二は、人間と他の哺乳類との差が生じたのは、生活の糧が増えるよりも人間が増 える方が多いので、ときどき人間は厳しい生存競争に追い込まれ、自然選択が行われた 結果である。 第三は、人間の人種間で差異が生じるのは、変化のどの段階においても、その生活条 件に適した個体があまり適さなかった個体よりも数多く生き残ったからである。人間は このようにして種族を遅々とした歩みではあるが、着実に変化させ、知らず知らずのう ちに新しい種族を作り上げた。 宇宙地球史の展開(中西治) 23 第四は、比較的高等な動物の心理的能力は本質的に人間と同じである。人間の知能が 高いのは、人間が言葉を発明したからであり、言語は人間の知能を飛躍させた。人間の 道徳的資質が高い原因は、人間の社会的本能のなかにある。その本能の重要な要素は愛 であり、同情である。神を信ずることは人間と動物をもっとも完全に区別するものであ り、人間の理性が進歩し、人間が想像し、好奇心を持ち、驚嘆する能力を持った結果で ある。 第五は、人間は配偶者を選ぶこと(性選択)によって自分の子供の体質や体格だけで なく、知的資質とか道徳的性質に影響を与える。 第六は、急激な人口増加はたくさんの害を生み出すが、これを極端に下げようとして はならない。人間は人口増加にともなう激しい生存競争のなかでの自然選択によって進 歩し、習慣や推理力、教育、宗教などの道徳的資質によって向上した。 ダーウィンは結論として、人間はあらゆる高尚な資質をもち、どんなに品性下劣なも のにも同情を寄せ、人間だけにとどまらずどんな下等な生きものにも慈悲心を及ぼし、 神のような知性をもって太陽系の構成やその運行まで見通すなどの崇高な力を身につけ ているのだが、それでもなお、人間の体のつくりとか器官には消し去ることのできない 刻印が刻まれていて、それが人間の起原の下等なものからの由来を示しているのだとい うことを認めなければならない、と述べている。 ダーウィンは決して人間が下等動物に由来することを卑下せず、敵を苦しめて喜ぶ人 間の子孫であるよりも、飼育係の命を救おうとして敵に立ち向かった猿の子孫であるこ とを願っている。35 ダーウィンの進化論は人間が神によって造られたものではなく、自然の選択による進 化によって造られたものあることを明らかにした。人間は人間の誕生と成長の過程を科 学的に知るようになった。 マルクスとエンゲルスの共同体論 人間は人間の歴史を法則的に捉えるようにもなった。 マ ル ク ス と エ ン ゲ ル ス は 1848 年 に 「 コ ミ ュ ニ ス ト 党 宣 言 ( Manifesto of the Communist Party)」を発表した。コミュニストはこれまで共産主義者と訳されてきた が、私はコミュニストとはコミューン(commune)主義者のことであって、共産主義者 という訳語はその思想の一部しか表していないと思うので、ここではコミューンを共同 体、コミュニズムを共同体論、コミュニストを共同体論者と訳する。 この「共同体論者党宣言は」は「すべてこれまでの社会の歴史は階級闘争の歴史であ る」と規定した。エンゲルスは 40 年後にこの文章の前半を「すべての文書によって伝 24 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 えられている歴史は」に補正し、文書によって伝えられていない時代には村落共同体が 存在したことを指摘した。これは大変重要な変更であった。 最初の文では人間の歴史は最初からずっと争いの歴史ということになるが、あとの文 では最初に長い共同体の時代が存在したことになる。共同体論者は人間の社会の歴史を 原始共同体から古代奴隷社会、中世封建社会、近代ブルジョア社会への変化として捉え、 次の時代にはプロレタリアートが支配階級となり、将来は「各人の自由な発展が万人の 自由な発展の条件となるような一つの共同社会」が現れると考えた。36 実はキリスト教徒も初期の段階では共同生活をしていた。使徒言行録は「信者たちは 皆一つになって、すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応 じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り,家ご とに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、 民衆全体から好意を寄せられた。」と述べている。また、「信じた人々の群れは心も思 いも一つにして、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有して いた。」と紹介している。修道院での生活はいまも共同生活である。37 マルクスとエンゲルスの共同体論の思想は人間の歴史において画期的な意味を持って いる。人間は人間の社会の歴史に法則があることを知った。この思想を信じた人々はこ の法則にしたがって世の中を変えようとした。19 世紀なかばから 20 世紀末にかけてこ の思想が宇宙地球史の動向に大きな影響を与えることになった。38 人間の思想、新しい段階に マルサス、ダーウィン、マルクス、エンゲルスの思想は人間の考えが新しい段階に入 ったことを示している。人間は神から解放された。人間を造ったのは神ではなく、自然 であり、人間自身である。人間の運命を決めるのも神ではなく、自然であり、人間自身 である。人間は人間自身に対して、人間の運命に対して能動的に対応するようになった。 新しい時代が始まった。 6. 近現代とはいかなる時代か 地球一体化、本格的に始まる 1492 年にコロンブスがアメリカ大陸に到達したことによってアフリカ大陸から地球 上の各地に飛び散り、基本的には各地で独自の生活を営んでいた人間がふたたび一体化 し始めた。 宇宙地球史の展開(中西治) 25 私はこのときから今日までを近現代とし、それを四つの時期に分けている。第一は、 1492 年のコロンブスのアメリカ大陸到達から 1776 年のアメリカ独立宣言までの時期、 第二は、アメリカ独立宣言から 1917 年 11 月のロシアにおけるソヴェト革命までの時期、 第三は、ソヴェト政権の発足から 1991 年 12 月のソヴェト社会主義共和国同盟(以下、 ソヴェト同盟と略称)の解体までの時期、第四は、それ以後今日までの時期である。39 神の支配から人間の支配へ 第一の時期には、地理上の発見の先頭を切ったスペインとポルトガルがアメリカ大陸 とアジア・太平洋に進出し、各地に植民地(コロニー)を建設していった。ヨーロッパ では 1517 年にルターが宗教改革を唱え、1618 年にはローマ・カトリック派(旧教)と ルター派(新教)のあいだで戦争が起こった。この戦争を終結させたウェストファリア 会議(1643-1648 年)はこの地上を支配するのは神や教会ではなく、世俗の権威である ことを示した。日本では 1590 年に豊臣秀吉が国内を統一したあと朝鮮に二度出兵した が、失敗し、徳川幕府は 1639 年に鎖国した。 18 世紀なかばには日本、中国、ロシア、西ヨーロッパ、アメリカなどに地域社会が 確立した。西ヨーロッパとアメリカ大陸のあいだの交流は頻繁になったが、その交流は アメリカにとって従属的であった。 工業革命・独立革命・民主主義革命の進展 第二の時期には、工業革命と独立革命と民主主義革命が並行して進行した。1765 年 にはワットが蒸気機関を発明し、工業革命が始まった。1776 年にはアメリカの 13 の植 民地が独立し、それぞれが国(ステート)となった。1789 年にはフランス革命が始ま り、ルイ王朝が崩壊し、共和制が発足した。工業革命・独立革命・民主主義革命の担い 手は新興ブルジョアジーであった。都市化が進行し、社会のシステムは封建制から資本 制へと移行した。 地球が一つになる過程が急速に進行した。1854 年に日本が安政の不平等条約によっ て国際社会に従属的に引きずり込まれることによって地球はほぼ一つになった。ときは 力による広域支配(インペリアリズム)の時代であった。日本はこの時代に力で対抗し、 近隣の中国や朝鮮を犠牲にすることによって従属的地位から脱した。 社会主義をめざす政権の誕生 第三の時期は、1917 年 11 月にロシアでソヴェト政権が発足したときに始まる。この 政権は、同年 3 月の革命によって樹立された臨時政府が当時進行していた第一次大戦か ら離脱せず、戦争を継続していたためにこれを打倒し、代わって登場したものであった。 26 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 新しい政権の首班はロシア社会民主労働党多数派の指導者レーニンであった。社会主義 社会の建設を目標とする政権が地球上で初めて誕生した。 ソヴェト政権はただちに戦争相手国のドイツ、オーストリア=ハンガリーなどと講和 条約を結んで戦争から離脱した。帝政ロシアの同盟国であった英国、フランス、日本、 米国などはソヴェト・ロシアが同盟国との合意なしに戦争から離脱したことを認めず、 戦争を続けさせるためにソヴェト・ロシアに軍隊を送った。ロシア国内のソヴェト政権 に反対する勢力もこれに呼応した。新しく生まれたばかりの政権は「戦時コミュニズ ム」の体制で内外の敵と戦い勝利した。ソヴェト政権は生き延びた。40 1922 年にロシア、ウクライナなどで結成されたソヴェト同盟は、レーニンの後を継 いだスターリンのもとで社会主義社会の建設を強行した。それは常に戦争に備える非常 時の体制であった。実際、ソヴェト同盟は 1941 年 6 月にヒトラー・ドイツの侵略を受 けた。ソヴェト同盟はこの戦争に勝ち、米国と並ぶ大国となった。非常時の体制はここ までは有効であった。 ソヴェト同盟はフルシチョフのもとで非常時の体制から平時の体制への転換を図った が、途中で挫折した。1960 年代後半には当時進行していたヴェトナム戦争の段階的拡 大のなかで、ソヴェト同盟は米国との核ミサイル兵器生産競争に突入し、国力を疲弊さ せた。さらに、1979 年にアフガニスタンの内政に軍事介入し、失敗し、1991 年 12 月に ソヴェト同盟は解体した。41 この間にモンゴル、中部・東部ヨーロッパ、朝鮮、中国、ヴェトナム、キューバなど で社会主義をめざす政権が成立したが、ソヴェト同盟の解体と前後してモンゴルと中 部・東部ヨーロッパの社会主義をめざす政権は崩壊した。 現在は 1991 年の湾岸戦争に始まる第四の時期であるが、この時期についてはあとで 述べる。 20 世紀の四つの大戦争 20 世紀には四つの大戦争があった。第一は、1914-1918 年の第一次大戦である。第二 は、1931-1945 年の第二次大戦である。第三は、1950-1989 年に行われた朝鮮戦争、ヴ ェトナム戦争、アフガニスタン戦争である。第四は、1991 年の湾岸戦争から 2001 年の 9.11 事件、1993 年以降のイラク戦争を含む第四次大戦である。 第一次大戦の結果、戦前の三国同盟(ドイツ、イタリア、オーストリア=ハンガリ ー)・三国協商(英国、フランス、ロシア)体制は崩壊し、新たにヴェルサイユ・ワシ ントン体制ができた。第二次大戦の結果、ヴェルサイユ・ワシントン体制が崩壊し、ヤ ルタ・ポツダム体制が成立した。そして、第三次大戦の結果、ヤルタ・ポツダム体制が 宇宙地球史の展開(中西治) 27 ヨーロッパでは完全に崩壊したが、アジアではまだ残っている。朝鮮戦争がまだ完全に 終わっていないからである。現在進行中の第四次大戦は米国がバルカン半島から中東に いたる地域において力で新しい秩序を確立しようとしているのに対して、この地域の 人々が反対していることによって起こっている。42 20 世紀は偉大な世紀 20 世紀は偉大な世紀であった。 第一は、科学技術革命が急速に進み、人類が初めて地球の引力圏を脱して大気圏外に 飛び出し、月に降り立ったことである。人類はすでに太陽系の他の惑星の調査も始めて いる。人工衛星が地球の一体化を促進している。インターネットが世界をつないでいる。 43 第二は、地球人口が 1800 年に 10 億人であったのが、1930 年には 20 億人、20 世紀末 には 60 億人、2006 年に 65 億人と飛躍的に増えたことである。 20 世紀後半に地球人口は 25 億人から 60 億人以上に増え、2 倍半ほどになったが、総 生産高は 6 兆ドルから 41 兆ドルとおよそ 7 倍に増え、人口一人当たりの生産高も 1950 年の 2500 ドルから 2000 年には 5750 ドルとなり、2 倍以上になった。44 世界の平均寿命も「貧しい国」を含めて、1950-55 年と 2000-2005 年とを比較して 42%も長くなっている。貧しい国ですら平均寿命は 64 年になっている。45 第三は、社会主義をめざす政権がロシアに誕生し、ロシアを中心とするソヴェト同盟 が第二次大戦での反ファシズム勢力の勝利に大きく貢献したことである。ソヴェト同盟 では無料教育や無料医療、退職後の年金制度などが実施され、それが資本制の国々の労 働者の労働条件の改善や国民の福祉の向上、教育の普及に大きな影響を与えた。ソヴェ ト同盟は解体したが、いまも中国では中国的特色をもった社会主義の建設が進められて おり、この四半世紀ほどのあいだに飛躍的に発展している。中国は 21 世紀中に国内総 生産でも、人口一人当たりの生産でも、地球一になる可能性を秘めており、国際的な影 響力を強めている。 20 世紀の負の遺産 20 世紀には深刻な問題も起こっている。 第一は、戦争による大量殺戮と大量破壊である。第一次大戦での死者は軍人だけで 860 万人、民間人を加えると 2000 万人に及んだ。 第二次大戦では 1939 年 9 月 1 日から 1945 年 8 月 15 日までのあいだだけで直接の死 者が 2500 万人、間接の死者が 1500 万人、この他に 1931 年 9 月 18 日から 1939 年 8 月 28 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 31 日までの日本と中国との戦争における死者がいる。中国だけで第二次大戦中の死者 は 1000 万人といわれている。広島と長崎で原子爆弾が投下され、それぞれ一発だけで 広島で 20 万人、長崎で 8 万人の死傷者がでた。 第三次大戦では朝鮮戦争で軍人の死者だけで韓国・米国側が 44 万 9000 人、朝鮮・中 国側が 66 万 3000 人、ヴェトナム戦争で北と解放戦線側の戦死者が 100 万人、南と米国 側が 25 万人以上、アフガニスタン戦争ではアフガニスタン側の死者が 30 万人から 90 万人、ソヴェト側が 1 万 4000 人ほどである。46 20 世紀の戦争による死者は 1 億人を越えるといわれている。 戦争に反対して始まったロシア革命と中国革命でも革命の過程で多くの犠牲者が出た。 第二は、飢餓である。日本は飽食の時代といわれているが、現在でもこの地球上に は飢餓に苦しむ人が 8 億 4000 万人ほどおり、発展途上国ではそれが 5 人に 1 人いる。 毎日、3 万 5000 人の子供が餓死し、その数は 1 年間で 1000 万人にも達する。 私たち日本人の食生活も安泰ではない。日本の穀物自給率は 27%である。1978 年の 段階で、もし食糧の輸入が止まったら 1 年間で 3000 万人が餓死すると予測されていた。 その後さらに減反政策が強化され、種子の輸入依存が増大し、離農者が増え、人口が増 加している。現在、食糧の輸入が止まれば、日本の餓死者はもっと増えるであろう。47 日本は絶対に戦争はできないし、してはならない。日本人の生活は平和を前提として 成り立っている。 第三は、地球環境の変化である。工業化と都市化によって大気汚染、水汚染、土壌汚 染が深刻になっている。水の供給も限界に達し、すでに地球人口の 40%ほどが慢性的 な水不足に悩んでいる。48 人間活動の拡大によって二酸化炭素やメタンなどの温室効果ガスが大量に大気中に排 出されることで温室効果が強まって地球の温暖化が進んでいる。20 世紀中に全地球の 平均地上気温が摂氏 0.6 度上昇したことによって平均海面水位が 10cm-20cm 上昇して いる。暑い日(熱指数)が増加し、寒い日(霜が降りる日)がほぼすべての陸域で減少 している。北半球の中高緯度で大雨現象が増加し、干ばつの頻度が一部の地域で増えて いる。氷河が広範に後退し、積雪面積が 1960 年代以降に 10%減少している。 1990 年から 2100 年までの 110 年間に全地球の平均地上気温は摂氏 1.4-5.8 度上昇する ものと予想されている。これは過去 1 万年間に観測されたことのないものだといわれて いる。そうなると平均海面水位は 9cm-88cm 上昇する。洪水、干ばつが増え、台風が強 力になる。熱ストレスの増大や感染症の拡大といった人間の健康への影響も考えられる。 一部の動植物が絶滅し、生態系が移動することもある。穀物生産量が当面増える地域も あるが、多くの地域では減少する。水の需給バランスが変わり、水質に悪い影響がでる。 宇宙地球史の展開(中西治) 29 とくに一次産物中心の発展途上国で大きな経済的損失が予想される。 オゾン層が破壊されると、地上に到達する有害な紫外線が増え、皮膚ガンや白内障な どを発生させるだけではなく、植物やプランクトンの生育を阻害する可能性もある。49 戦争は最大の環境破壊である。 現在はいかなる時期か 1991 年のソヴェト同盟の解体から今日に至る期間は、地球社会で二つの大きな変化 が相互に影響を与え合いながら進行している時期である。一つは 20 世紀後半から急速 に進展している工業社会から知識情報社会への移行であり、もう一つは第二次大戦後の 国際秩序であったヤルタ・ポツダム体制がヨーロッパでは完全に崩壊し、アジアでも崩 壊しつつあり、21 世紀の地球秩序が形成されつつあることである。 1989 年 11 月 9 日のベルリンの壁の崩壊に始まる劇的な変動はソヴェト同盟を解体さ せ、中部・東部ヨーロッパの国々をソヴェト圏から離脱させた。第二次大戦後の地球の 政治地図は大きく変わった。ヨーロッパ連合が拡大し、その領域はトルコにも及ぼうと している。ユーラシア大陸ではロシアを中心として新しい独立国家共同体が形成され、 中国を含む上海協力機構との連携が図られている。 地球上で不安定な地域は二つある。一つはバルカン半島から中東に至る地域であり、 もう一つは朝鮮半島を中心とする地域である。前者では米国が力で新しい秩序を作ろう としてそれぞれの地域の人々の激しい抵抗を受けている。後者では米国の一部の人々は この地域で新しい戦争を起こそうとしているが、この地域の人々は新たな戦争を望んで いない。 現在は 20 世紀の国際秩序から 21 世紀の地球秩序への過渡期である。 21 世紀なかばにはどのようになるのか 地球人口は国連の中位推計で 2050 年までに 93 億人に達すると予想されている。50 他の予測では、2013 年に 70 億人、2030 年に 100 億人、2070 年に 200 億人、2115 年 に 800 億人というのもある。いずれにしても地球人口が増大することは間違いない。日 本では人口の減少が取り沙汰されているが、どこが増えるのであろうか。 2050 年の段階で地球一になるのはインドである。インドは 2000 年には 10 億 1400 万 人であったが、2050 年には 16 億 2000 万人になると予想されている。第二位は中国、 12 億 6200 万人が 14 億 7100 万人になる。以下、米国、インドネシア、ナイジェリア、 パキスタン、ブラジル、バングラディシュ、エチオピア、コンゴ(キンシャサ)、フィ リピン、メキシコ、ヴェトナムの順である。先進国のうちで人口が増えるのは米国(2 30 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 億 7600 万人から 4 億 400 万人)だけであり、ロシア、ヨーロッパ諸国、日本は減少す る。51 数は力である。数が知恵と知識を持ったとき世の中は必ず変わる。21 世紀なかばに は間違いなくアジア、アフリカ、ラテンアメリカの国々が歴史の前面に出てくるであろ う。 7 .むすび 他の人の考え方、生き方を尊重しよう 私たちは宇宙と地球と人間の誕生から今日にいたる宇宙地球史を概観し、ついで、古 代の人々の天地創造観や人間観、近代の人々の人と社会についての考え方、私たちが生 きてきた 20 世紀という時代を振り返り、検討してきた。 私がここで人間について多く語ってきたが、それは平和学とは人間をどう見るかとい う人間学であるからである。また、私が過去の歴史や人々の考え方を重視するのは、私 たちが現に生き、これから生きていく時代は過去と現代の延長線上にあり、先人の考え に学びながら、それをいっそう発展させなければならないと考えているからである。 私はあらためて地球上に生きるすべての動植物の命の大切さを感じた。私はたまたま ここに生きているのではない。40 億年ほど前に地球に芽生えた一つの小さな命が長い 年月をかけてやっと私になった。すべての人がそうだし、すべての生物がそうである。 私たちはもっと自分の命も他人の命も大切にしなければならない。戦争などのような愚 かな行為で自分の命を失い、他人の命を奪うようなことがあってはならない。私はこの 文を書くことのよってこのことを痛感した。 これまで学んできたことを要約すると次のようになる。 第一は、宇宙と地球と人間の誕生は自然の産物であり、いまも時々刻々と変化してい ることである。 第二は、私たち人間は宇宙のなか、地球のなかに生きる一つの生物だということであ る。 私たち人間は地球に発生した単細胞生物の後裔であり、すべての生物は私たちの仲間 である。私たち人間は他の動植物を食べて生きており、他の動植物の恩恵をうけている。 私たちは生きとし、生けるものすべてに感謝しなければならない。 第三は、神が人間を造ったのではなく、人間が神を造ったことである。 人間の営みはその人間の意志と行動だけで決まるものではない。ある人間の行動は自 宇宙地球史の展開(中西治) 31 然の条件とその人間の行動に対する自然の反応、他の人間の意志とその反応のなかで決 まる。私はこのような自然の条件と反応、他の人間の意志と反応などをひとまとめにし て「天」と呼んでいる。個々の人間の行動も人間の集団の行動も天のもとで決まる。 第四は、地球上にはたくさんの人が住んでおり、それぞれの人がそれぞれの考え方を 持ち、生き方をしていることである。これらの人々が平和に幸せに生きるためには互い にそれぞれの考え方、生き方を尊重しなければならない。自らの考え方、生き方を最良 とし、それを他の人に強制してはならない。これが争いのもとになり、自らも他の人も 不幸にする。 地球宇宙平和学の当面する課題 私たちが当面している具体的な課題はいかなるものであるのか。 第一は、現に行われている戦争を止めさせ、新たに戦争を起こさせないことである。 米国はアフガニスタンとイラクから手を引き、中東の問題は中東の人々に任せるべ きである。朝鮮半島と台湾をめぐって戦争を起こさせないようにすることである。 問題はその地域に住んでいる人々のあいだでの紛争をどのようにして解決するのかで ある。イスラエルとアラブの人々のあいだ、イスラエル人のあいだ、アラブ人のあいだ、 朝鮮半島の南北の人々のあいだ、南北それぞれの地の人々のあいだ、朝鮮半島とその周 辺の日本、中国、ロシアに住んでいる人々のあいだ、台湾と中国大陸に住む人々のあい だ、台湾・中国大陸とその周辺諸国に住む人々のあいだ等々での紛争である。これらの 紛争は基本的にはその地域に住む人々によって平和的に解決されるべきである。 どうしても当該地域の人々だけで問題を解決できない場合には、六者協議のように他 の関係国も参加した話し合いで解決するというのも一つの方法である。2006 年夏のイ スラエルによるレバノン攻撃のように、両者だけでは問題を平和的に解決することがで きず、武力衝突に至った場合、国連が介入するというのも一つの方法である。 人間は実践のなかで学ぶものである。あれほど長いあいだ争ってきたフランスとドイ ツのあいだでもはや戦争は考えられなくなった。ヨーロッパの人々は長い争いから学び、 ヨーロッパ連合という新しい共同体を作り出した。いずれ中東共同体が形成されるであ ろうし、東アジア共同体が形成されるであろう。そして、地球共同体が。 私たちは短期的視点ではなく、長期的観点から事態に対応しなければならない。各共 同体の治安は各共同体の警察が確保し、地球共同体の治安は地球警察が維持するように し、軍隊はなくさなければならない。 第二は、飢餓と貧困の克服である。 当面は先進国からの援助が必要であるが、援助では根本的な解決にはならない。個人 32 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 が、また、社会が独り立ちするためには教育が必要である。いまは完全な消費者であっ ても、教育を受ければ、20 年後には立派な生産者になる。自立への確かな道は教育に ある。 飢餓と貧困を克服するだけではなく、ますます増大する人間に衣食住を保障できるよ うな、持続的発展を可能にする、新しい経済・政治・社会制度を構築する必要がある。 私たちは 20 世紀の社会制度、すなわち、資本制と社会主義制の二つの社会制度を再検 討し、両者の利点をいかした新たな制度を考え出さなければならない。 第三は、地球温暖化の問題である。この問題はこれからも生物がこの地球上で生き続 けられるか否かの問題である。 46 億年ほど前に地球が誕生した当時は、地表が二酸化炭素で覆われており、生物は 生きられなかった。初めて誕生した生命は海中でしか生きられなかった。地上で生物が 生きられるようになったのは僅か 4 億年ほど前のことである。それがいまや危機に瀕し ている。地球環境問題はまさに地球上に生きる全生命体の問題である。二酸化炭素の問 題はそれほど深刻な問題である。52 第四は、災害時の緊急救助援助復旧体制の確立である。 近年、地震、津波、ハリケーン、台風などの自然災害や航空事故、鉄道事故やその 他の大規模な人為的災害が増えている。その都度、各国から援助グループが組織されて、 派遣されているが、私は各国の軍隊を災害時の恒常的な緊急救助援助復旧組織に改組す れば良いと考えている。これは軍隊をなくす一つの方法でもある。 第五は、以上のような諸問題を研究し、解決方法を提起する新しい学問の創造である。 新しい学問の根底には、生命を大切にする心と普遍的な人道主義と殴られても殴り返さ ない思想がある。地球宇宙平和学は、そのような学問である。 この文は地球宇宙平和学を確立しようとする最初の試みである。次の仕事は上に掲げ た諸課題を詳細に検討し、解決方法を具体的に提起することである。 注 1 平和学の最近の研究状況については、星野昭吉「グローバル社会における平和学の枠組みと課 題」星野昭吉『グローバル社会の平和学』同文舘出版、2005 年、3-60 ページ参照。 2 地球史と地球学については、中西治「地球社会と地球史―ロシアでの地球学研究を中心とし て」『ソシオロジカ』第 30 巻第 1 号(通巻 50 号)、創価大学社会学会、2005 年 12 月 30 日、 17-19 ページ。地球史に関する諸論については同誌 33-66 ページ所載の辻村伸雄「地球宇宙史 のための方法論的覚書」を参照。 宇宙地球史の展開(中西治) 3 4 33 N. コールダー著(山口嘉夫・岡村浩・中澤宣也訳)『宇宙を解く鍵―素粒子論と宇宙論』み すず書房、1980 年、260 ページ:川上紳一・東條文治著『図解入門 最新地球史がよくわか る本』秀和システム、2006 年、3、161-162 ページ。 Jared Diamond, Guns, Germs and Steel: The Fates of Human Societies, W. W. Norton & Company: New York, 1997, pp. 35-36; ジャレド・ダイアモンド著(倉骨彰訳)『銃・病原 菌・鉄』上、草思社、2000 年、48-50 ページ。『朝日新聞』2006 年 4 月 13 日朝刊と 2006 年 4 月 21 日夕刊。なお、2006 年 5 月 17 日に『ネイチャー』誌電子版に発表された DNA(遺伝 子)の分析結果によると、ヒトの祖先とチンパンジーの祖先が枝分かれしたのは 630 万年前か ら 540 万年前ころであったとされている。そうなると、チャデンシス猿人(トゥーマイ)の年 代が違っていたのか、チャデンシス猿人がヒトの先祖ではない可能性があるということになる。 『しんぶん赤旗』2006 年 5 月 21 日。 5 Ibid., pp. 36-39 ; 同上訳書、50-54 ページ。 6 Ibid., p. 100 ; 同上訳書、143 ページ。 7 Мазуp И. И. и Ч умаков А. Н. (гл.ред.), Глобалиcтика: Энциклопедия, Диалог, М., 2003,c. 177-178. 8 Там же, c.201: Уткин А.И., Месть за победу —новая войн а, Алгоритм,М., 2005, c. 6,10:『朝日新聞』2006 年 2 月 27 日朝刊。 9 文化と文明については、濱島朗・竹内郁郎・石川晃弘編『社会学小辞典』増補版、有斐閣、 1990 年、「文化」「文明」の項参照。トインビーの説については、Arnold Toynbee, A Study of History: The New One-Volume Edition Illustrated, Oxford University Press in association with Thames an d Hud son Ltd.,1972 ; (桑原武夫・樋口謹一・橋本峰雄・多田道 太郎訳)『図説歴史の研究』学習研究社、1975 年、47-49 ページ参照。 10 同上訳書、84-85 ページ。 11 『聖書 新共同訳―旧約聖書続編つき』日本聖書協会、1988 年、(旧)1-5 ページ参照。 12 吉田敦彦『ギリシャ神話』日本文芸社、2005 年、23-55 ページ参照。 13 福永武彦訳『古事記・日本書記』河出書房新社、1976 年、11-17 ページ参照。 14 前掲『聖書 15 新共同訳』、(新)36-37 ページ、32-33 ページ参照。 http://t-susa.cool.ne.jp/sikisitisoku/siki.htm, 2006/08/06. 16 貝塚茂樹「孔子と孟子」貝塚茂樹責任編集『孔子 孟子』世界の名著 3、中央公論社、1966 年、 19-37 ページ:貝塚茂樹訳「孔子 論語」同上書、59-60、62、74-76、89、342 ページ。 17 長尾雅人「仏教の思想と歴史」長尾雅人責任編集『大乗仏典』世界の名著 2、中央公論社、 1967 年、10-11 ページ:菅野博史『法華経入門』岩波書店、2001 年、4-10 ページ参照。 18 長尾雅人「原始の仏教経典」長尾雅人責任編集『バラモン経典 原始仏典』世界の名著 1、中 央公論社、1969 年、53-56 ページ:桜部建訳「説法の要請」「はじめての説法」同書、431439 ページ参照。 19 21 世紀思想研究会編『世界の宗教 20 前掲『聖書 21 新共同訳』(新)1-2、5、(12)ページ参照。 同上、(旧)146-147 ページ、(新)7-10 ページ、(新)62-69 ページ参照。 22 『世界の宗教 23 101 の謎』河出書房新社、2005 年、28 ページ。 総解説』改訂新版、自由国民社、2004 年、107-108 ページ。 藤本勝次「コーランとイスラム思想」藤本勝次責任編集『コーラン』世界の名著 15、中央公 論社、1970 年、11-12 ページ。 24 同上書、525 ページ。 25 藤本、前掲論文、同上書、14-15 ページ。 26 27 同 上 、 15-16 ペ ー ジ : 井 筒 俊 彦 「 解 説 」 井 筒 俊 彦 訳 『 コ ー ラ ン 』 下 、 岩 波 書 店 、 1982 年 、 330-331 ページ参照。 同上、井筒「解説」、334-335 ページ。 34 28 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 Michael Cook, A Brief History of the Hu man Race, Gran ta Books: Lond on , 200 5, p p. 276-278; マイケル・クック著(千葉喜久枝訳)『世界文明一万年の歴史』柏書房、2005 年、 350-353 ページ参照。 29 水田洋責任編集『バーク 参照。 マルサス』世界の名著 34、中央公論社、1969 年、417-424 ページ 30 水田洋「イギリス保守主義の意義」、同上書、28-35 ページ参照。 31 Charles Darwin, Journal of Researches into the Natural History and Geology of the Countries visited during the Voyage round the World of H. M. S. Beagle, 1st edition, J. M. Dent & Son s Ltd .: Lond on , 1906 ; チャールズ・ダーウィン著(島地威雄訳)『ビーグル 号航海記』全 3 冊、岩波書店、1959 年、参照。 32 Charles Darwin: His Life Told in an Autobiographical Chapter, and in a Selected Series of his Published Letters, edited by his son, Francis Darwin ; F. ダーウィン著(小泉丹 訳)『チャールズ・ダーウィン 自叙伝宗教観及び其追憶』岩波書店、1927 年、82-83 ペー ジ:今西錦司「ダーウィンと進化論」今西錦司責任編集『ダーウィン』世界の名著 39、中央 公論社、1967 年、7-17 ページ。 33 F. ダーウィン、同上訳書、83-85 ページ:島地威雄「解説」チャールズ・ダーウィン、前掲訳 書『ビーグル号航海記』下、226-227 ページ。 34 Charles Darwin, On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life; ダーウィン著(八杉竜一訳)『種 の起原』上、岩波書店、1963 年、257-269 ページ所載の八杉竜一「解題」および同書、下、 岩波書店、1971 年、210-211、220、276 ページ参照。 35 ダーウィン著(池田次郎・伊谷純一郎訳)「人類の起原」前掲今西錦司責任編集『ダーウィ ン』545、560 ページ。 36 マルクス=エンゲルス著、マルクス=レーニン主義研究所訳『共産党宣言 大月書店、1952 年、25-75 ページ参照。 共産主義の原理』 37 中西治「共産主義」学校法人上智学院新カトリック大事典編纂委員会編『新カトリック大事 典』第 2 巻、研究社、1998 年、341-344 ページ参照。 38 中西治「階級闘争史観とコミュニズム」「人間共同社会論」中西治『新国際関係論』南窓社、 1999 年、60-67、99-103 ページ参照。 39 中西治「近・現代とはいかなる時代か」同上書、107-129 ページ参照。 40 中西治「革命・戦争・平和とレーニン」中西治『現代人間国際関係史』南窓社、2003 年、23122 ページ参照。 41 中西治「第二次大戦とスターリン、ローズヴェルト、チャーチル」同上書、123-392 ページ参 照。 42 中西治「第三次大戦とヤルタ・ポツダム体制の崩壊」中西治、前掲『新国際関係論』192-204 ページ参照。 43 イ ン タ ー ネ ッ ト の 普 及 と そ の 影 響 に つ い て は 、 Th omas L. Fried man , The Wo rld Is Flat: A Brief History of the Tw enty -f irst Cen tury, Upd at ed and E xpand ed Ed iti on, Int erna t iona l Creat i ve M ana gement , Inc . : Lond on , 2006; ト ー マ ス ・ フ リ ー ド マ ン 著 ( 伏 見 威 蕃 訳 ) 『 フ ラット化する世界』上、日本経済新聞社、2006 年、89-114 ページ参照。 44 Уткин, Указ. книга, c. 16. 45 Alvin Toffler & Heid i Tof fler, Revolu tiona ry Wealth, Cu rtis Brown, Ltd., 20 06; ア ル ビ ン・トフラー/ハイジ・トフラー著(山岡洋一訳)『富の未来(下)』講談社、2006 年、344 ページ。 46 中西治、前掲『新国際関係論』20-21 ページ:三野正洋・田岡俊次・深川孝行著『20 世紀の戦 争』朝日ソノラマ、1995 年、55、79、145、253、280、468 ページ参照。 47 「迫り来る食糧危機」http://www.kumagera.ne.jp/marutoku/syokuryou.htm,2006/08/11 宇宙地球史の展開(中西治) 48 同上。 49 「平成 18 年版 図で見る環境白書」第 2 部 http://www.env.go.jp/policy/hakusyo/zu/h18/html/vk0602010000.html,2006/08/11 50 同上、第 1 部。 51 Уткин, Указ. книга, c. 6、46. 52 不破哲三「マルクス主義と二十一世紀の世界」2006 年 5 月 25 日、中国社会科学院での学術 講演、http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-05-30/20060530004_01_0.html,2006/08/20 35 36 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 東アジアの平和のために ――日本と朝鮮民主主義人民共和国の課題と将来―― 岩木 秀樹 For the Peace of East Asia: The Relations between Japan and Korea Hideki Iwaki はじめに 2005 年 8 月 25 日から 9 月 2 日まで、特定非営利活動法人地球宇宙平和研究所の朝 鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)と中華人民共和国(以下、中国)の訪問団に参 加した。朝鮮社会科学者協会や金日成総合大学、中国北京大学日本研究センターの先 生方と有意義な学術交流ができ、朝鮮社会の一部ではあるが、実際に目にすることが できたのは大きな成果だった。大韓民国(以下、韓国)への日本人の渡航が年間約 250 万人であるのに対して、朝鮮への渡航は約 1000 人弱である。この違いは非常に 大きいものがあろう。実際に見て、対話をし、知ることが重要であり、まず知らなけ れば評価できないのは当然である。 朝鮮半島を中心とした東アジアの平和を考える際に、自分たちの問題として捉える 必要がある。歴史的に日本がもたらした影響は大きく、現在でもその負の遺産を引き ずっている。日本人には当事者意識が希薄で、朝鮮半島の問題を他人事のように見て いる傾向がある。歴史的にも現在においても、日本の動向がこの地域の平和を大きく 規定しているのである。 本稿の目的は、まず日本自体の問題点を指摘した上で、日朝関係や周辺諸国の課題 を考察し、朝鮮を中心とした東アジアの平和と安定を目指すものである。 このような観点から本稿では第 1 章と第 2 章で日本の有事体制や靖国問題をまず論 じ、それらの問題が東アジアの平和への大きな障害になっていることを指摘する。第 東アジアの平和のために(岩木秀樹) 37 3 章では、東アジアの地域枠組み形成が困難である要因を見ていき、南北に分断され た朝鮮半島と日本との対照性を考察する。第 4 章では、冷戦崩壊以後の朝鮮の歩みを 一瞥し、日本と朝鮮における拉致問題の解決の方途を探る。第 5 章では、六カ国協議 の問題点と今後の朝鮮半島の平和への課題を考察する。 1. 日本の有事体制の問題 現在の東アジアの平和と安定を考える上で、朝鮮半島問題とともに重要なのが、日 本の有事体制と靖国問題であろう。朝鮮半島の平和や東アジアの安定を損ねているも のがこれらの日本の問題である。つまり日本の動向が東アジアの平和に大きな影響を 与えているのであり、日本のこの流れを止めることが東アジアに平和と安定をもたら す上で第一歩となるのである。 現在日本において有事体制の整備が進んでいる。有事とは戦時であり、有事法制の 整備とは戦争のできる国作りのことである。戦時体制下において、国民の安全・自由 を守るのではなく、むしろ制限し、自衛隊と米軍を円滑に運用し、戦いやすい状況を 作り出すのである。日本国憲法における武力行使の放棄や平和主義に反するのはもち ろんのこと、基本的人権の尊重や国民主権にも大きな制約を加えるものである。 そもそも有事法制が本当に必要なのかを問わなくてはならないであろう。日本が武 力攻撃を受けるような事態は、外交の失敗を意味し、あってはならないことである。 「有事法制を整えておくことは法治国家として当然のことだ」との議論があるが、そ れではなぜ今までほっておいたのか。当然の義務を怠った政治の責任は重く、今にな ってその論法を振りかざすのは自己欺瞞に満ちているのである。「冷戦崩壊後はテロ の多発などで状況が変わった」という言い方もされるが、いつの時代でも脅威は喧伝 されていたのであり、状況はさほど関係ないのである。 2003 年 6 月に成立した有事関連三法は冷戦崩壊後の状況に対応しておらず、時代 錯誤ですらある。陣地を築いて防御するということは地上戦を戦うということであり、 これがどのようなことを意味しているのかは、沖縄での地上戦の犠牲を見れば明らか であろう。日本は人口密度が高く、資源に乏しく、多くの原子炉を抱える国である。 到底戦争を前提にしては存在できる国ではないのである。 「有事法制は自衛隊が勝手に行動することを防ぐためのものである」との主張は、 つまり現行の自衛隊法では自衛隊は何をするか解らないということである。そのよう なシビリアンコントロールされていない軍隊は非常に危険であろう。 有事法制が軍の超法規的行動を防ぐということも疑問である。有事法制が整備され 38 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 た戦前の日本の行きついた先は、焼け野原と多大な民衆の犠牲であった。現在でも強 力な有事法制をもつ国が民主的である例は少ない。個人や企業、地方公共団体の権利 や自由を奪うのがこの有事法制である。軍隊に超法規的行動をとらせないために、国 民に対して超法規的措置を強要するのは大きな矛盾である。 「公共の福祉のために、自由は制限される」との議論はすり替えである。「戦争は 公共の福祉であり、従って自由や権利は制限され、戦争協力の義務を押しつけ、逆ら えば投獄される。」この論理は真に国民の生命と財産を守るものではない。武力行使 を放棄した日本国憲法において、公共の福祉のなかには戦争は当然含まれていないの である。 「もし敵が攻めてきたら」との言説そのものが、自己中心的発想である。日本が攻 めてくると想定しているのは、東アジアの諸国である。しかしかつて日本はそこを侵 略したのである。むしろ東アジア諸国の方が、日本がアメリカと協力して再び介入し てくるのではないかと危惧するのは当然であろう。冷戦崩壊後の日本では、周辺事態 法、新ガイドライン関連法、テロ対策特措法等が作られ、戦時体制の整備が進められ てきた。さらに歴史認識問題、靖国公式参拝、国旗国歌法など国家主義的傾向が強ま っている。東アジア諸国が日本に対して不信感を抱くのも不思議ではないのである。 また政府答弁ですら、外国軍が日本に対して侵略することは想定できないとしてい る。不審船は海上保安庁が行う国境警備問題であり、拉致は外務省と警察が対応すべ きであり、「テロ」は警察が行うべき治安維持の問題である。このような問題と軍事 組織が対応すべき有事とを混同すべきではないのである。 未だに「戸締まり論」や「もし誰々が攻めてきたら」ということが言われるが、多 くは具体的な状況判断を前提としていない空論が多い。そもそも家庭における戸締ま りとのアナロジーは、国家におけるパスポートコントロールや税関である。家庭にお いて外敵からの攻撃を防ぐためにピストルや刀を日本では持たないのと同様に、国家 においても対外的に友好関係を築いていけば、過度な武力は不必要である。 「備えあれば憂いなし」との陳腐なスローガンは、暴力を基準にした考えである。 備えが充実していれば安全であるとは言えない。世界第一の軍事力を持ったアメリカ でさえ、9・11 事件において経済と軍事のシンボルが破壊され、多くの人が亡くなっ たのである。合理的な理由もなく軍事的な備えをすれば、むしろ周辺の警戒や不信が 高まり、憂いを招くこともある。憂いを招かないためには、軍事的備えではなく、 様々な平和的備えが必要である。 有事法制は対米支援のための基盤整備でもある。これができれば、米国の単独主義 的な先制攻撃に日本も巻き込まれ、自衛隊だけでなく自治体や企業、国民も総動員さ 東アジアの平和のために(岩木秀樹) 39 れる。まさに自衛隊と米軍に超法規的特権を与えるとともに、米国の戦争に協力させ るために国民の権利を制限し、罰則つきで戦争協力を強制するものである。さらに自 衛隊の海外での武力行使を合法化し、集団的自衛権まで踏み込むものであり、大きな 問題点を抱えているのである。 2. 靖国神社の問題と解決 2006 年 8 月 15 日の敗戦の日、東アジアから見れば勝利の日に、小泉首相は靖国神 社を参拝をした。中国、韓国、朝鮮などの東アジア諸国から強い批判の声が政府およ び民間から挙がっている。小泉首相の靖国参拝は東アジアの平和に大きな打撃を与え るものとなっているのである。 これらの批判に対して、一部の論者たちから「外圧に屈するな」などという反批判 の論調がある。これらの論調の間違っている点は第一に、単に外圧なのではなく、日 本国憲法に違反しているということである。2005 年 9 月 30 日の大阪高等裁判所の判 決は、訴訟内容とは直接関係のない実質的傍論という形ではあるが、首相の靖国参拝 は違憲であるという見解を出し、「国が靖国神社を特別に支援している印象を与え、 特定宗教を助長している」と述べた。 第二は、仮に外圧であっても、他人の意見には耳を傾ける、ましてや正論はそれを 受け容れるという姿勢が重要である。誰が言うのかよりも、言っている内容によって 判断することが当然であろう。外国人が言っているからその言論を取り入れず、日本 人というだけで取り入れるというのは現在の国際社会では通用しない。そもそも、外 交問題のあらゆる案件は、駆け引きや圧力などを駆使して行われるのは当然であり、 靖国問題だけ外圧だと言うのは何か他に意図があると思われても仕方がないであろう。 また外圧に屈するなとの主張をする保守の政治家らはアメリカの外圧にはいとも簡単 に屈してしまうことが多いのである。 そもそも靖国神社の歴史的経緯やその目指しているものをきちんと考察しなくては、 単なる外圧とそれに対する外国戦略の問題にすり替わってしまうであろう。靖国神社 問題は日本の近代史や天皇制の問題とも密接に関連し、過去と現在の東アジアの平和 を考える上で非常に重要である。 靖国神社は、大日本帝国の軍国主義の支柱であり、悲しみや痛みの共有といった追 悼施設ではなく、戦死を賞賛し美化し功績とし、後に続く模範とする顕彰施設であっ た。 1 このような問題を抱える靖国神社であるが、さらに重大な論争となったのが 1978 年に A 級戦犯 14 名が合祀されたいわゆる A 級戦犯合祀問題である。 40 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 そこで最近議論されているのが、A 級戦犯を分祀し、さらに靖国神社とは別の無宗 教の国立追悼施設を建設するということである。これは問題解決の一つの方法であり、 多少ともアジアの人々の印象も変わる可能性がある。 しかし分祀された靖国神社に堂々と首相や天皇まで参拝することになり、無宗教の 追悼施設が第二の靖国になる危惧がある。A 級戦犯に戦争責任を負わせ、スケープゴ ートにすることによって、昭和天皇の責任を免責し、多数の国民も自らの戦争責任を 不問に付した東京裁判と同じ構図が誕生するのである。 したがって単なる分祀問題や別の追悼施設を作るといったことではなく、靖国神社 そのものの問題点を考察しなければ、根本的問題解決にはならない。 靖国神社は 1869 年に作られた東京招魂社が前身で、普通の神社とは異なり、単な る死者ではなく特殊な戦死者のみを祀る施設である。特殊な戦死者とは、敵の戦死者 は言うまでもなく、味方の民間人も対象外で、さらには日本人の軍人の戦死者でも官 軍でなければ対象とはならない。つまり天皇の軍隊についた戦死者のみが祀られた。 また靖国神社に合祀されたくない人も強制的に合祀されている。旧植民地出身の遺 族やクリスチャンから合祀取り下げ要求が出ているが拒否されている。その理由とし て、靖国神社の池田権宮司は「天皇の意志により戦死者の合祀は行われたのであり、 遺族の意志にかかわりなく行われたのであるから抹消することはできない」と言った。 つまり合祀はもっぱら天皇の意志によって行われたのであるから、何者であろうと合 祀取り下げは出来ないということである。 さらに靖国神社の歴史観は現在においても、戦前の皇国史観から抜け出していない。 『靖国神社忠魂史』にはアジア太平洋戦争などの戦争の歴史が「聖戦」の立場から記 述されている。また靖国神社の展示施設である遊就館には、アジア太平洋戦争を「自 存自衛のための戦争」として過去を正当化しているのである。 これらの靖国神社の言説や歴史観は戦前のものではなく現在のものであるというこ とが驚かされる点である。そのような神社に行くということ自体、ましてや一国の首 相や国会議員が大挙して行くということは大きな問題であろう。 このまま日本と東アジア諸国の関係が悪化すると、両方のナショナリズムが沸き立 ち、どちら側にもいる穏健派の言論が抹殺されかねないのである。むしろ保守の論者 らはナショナリズムを台頭させ、軍事力を増強させ、再び東アジアでの覇権を目指し ているのかもしれない。 靖国神社や日本の近代史をきちんと見つめながら、顕彰施設でなく、敵も民間人も 含めた追悼施設を作るとともに、日本国憲法に書かれた戦争放棄や軍事力の廃棄を目 指すことがこの問題の解決になり、東アジアの平和に寄与することになるであろう。 東アジアの平和のために(岩木秀樹) 3. 41 東アジアの地域枠組みと南北朝鮮の歴史 東アジアでは朝鮮半島がいまだ分断されており、まだ冷戦の遺産は残っている。ま た過去一世紀の間、東アジアにおいては安定した共同体や安全保障の枠組みは存在し なかった。日本や韓国は第二次大戦後、覇権国家であるアメリカとの二国間同盟によ って、自国の安全を保障しようとした。この二国間関係は不均衡ないわばハブとスポ ークの関係であり、東アジア全体の地域安全保障体制には発展しなかった。 なぜ東アジアにはこの地域を包括する枠組みが存在しえなかったのか。原因の第一 は、域内の国家単位間の著しい格差と不均衡のゆえに、水平的な地域協力の発想と制 度が生まれにくい構造である。ヨーロッパの比較的均質な政治単位同士の水平的関係 としての対等性を原理とする地域秩序とは対照的である。東アジアに歴史的に存在し た秩序は、中華秩序や西欧列強の植民地支配、そして日本の大東亜共栄圏など上から 押しつけられた地域主義であった。 原因の第二は、歴史による対立の遺産である。長年の帝国的な秩序に加え、近代以 降の植民地支配と戦争の歴史を背景に、域内各国に相互不信と対立が根強く存在して いるからである。このため東アジアの国際関係は、バランサーとしてのアメリカに代 表される域外諸国との二国間関係を中心とする勢力均衡の原理が強く働いているので ある。 2 したがって東アジアの新しい地域枠組みを構築するには、歴史の対立を克服 し、アメリカとの二国間関係のみではなく、多様な地域の特徴を生かした下からの平 等な共同体を構想することが重要である。 この東アジアの中心に位置するのが南北朝鮮であり、この地域の安定と繁栄が東ア ジアの平和に直結し、日本の安全保障の前提ともなる。日本は第二次大戦前はこの地 域の覇権を目指し、戦後は冷戦の枠内でアメリカとの二国間関係を基軸にして、朝鮮 戦争特需という経済的利益という観点で南北朝鮮を見る傾向にあった。 この地域の近代史において、19 世紀末から 20 世紀初頭にかけての東アジアにおけ る列強間の争いは、基本的には朝鮮半島の覇権を獲得することであった。日本は戦前 の日英同盟、戦後の日米安保と、常に覇権国家と共同歩調をとり、東アジアでの権益 を拡大するスタンスを取ってきた。アジアに日本の隣人がいないので、常に西側諸国 の覇権国家とのパートナーシップを模索してきたとも言える。 3 この百年を朝鮮半島 から見れば、日本による植民地化、朝鮮戦争、南北分断、権威主義的政治体制など苦 難の歴史の連続だったと言っても過言でないだろう。 第二次大戦後の朝鮮半島解放は、国内の地下組織や海外の独立運動団体の武装抗争 によるものではなく、連合国の勝利による「不意の解放」であった。その突発性が、 42 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 解放後の朝鮮半島の歴史に大きな影を落とすことになる。また日本の敗戦が 8 月 15 日まで延びたがために、南北朝鮮は米ソ両国によって分割占領されたのである。敗戦 国でない南北朝鮮が分断されるという悲劇に見舞われた。仮に日本本土の占領にソ連 軍が参加していれば、日本も分断の可能性もあったであろう。しかし実際は、敗戦国 日本と解放国である南北朝鮮の明暗は逆転したのである。 4 4. 朝鮮の現状と日朝関係の課題 戦後の朝鮮は建国当初から中国とソ連の大規模な援助の供与を継続的に受けて国家 建設を行っており、被援助大国とも言える状態であった。 5 しかし冷戦崩壊後、社会 主義陣営から支援を受けられなくなった朝鮮は深刻な経済的打撃を受けた。社会主義 陣営の路線変更は、朝鮮の食糧とエネルギーをはじめとする経済システム全般に影響 を与え、さらに追い打ちをかけるように 1993 年の冷害や 1994 年の降雹によって食 糧危機の被害が増大したのである。 6 このような状況の下で、朝鮮は対外関係の正常 化による体制存続の保障を確保しつつ、南北間の経済協力の拡大と日朝国交正常化交 渉による経済「補償」を、突破口にしようとしていた。そのため朝鮮は 1990 年代の はじめに、南北高位級会議を重ね、さらに 1991 年に国連に南北同時加盟するととも に、「南北間の和解と不可侵および交流・協定に関する合意書」を 1991 年に、「朝 鮮半島の非核化に関する共同宣言」を 1992 年に調印した。 7 日朝間には植民地支配の精算、敵対関係の解消とその間の不当行為の精算、核ミサ イル問題の解決という三つの課題があり、これを解決する道が国交交渉、国交樹立で あった。国交交渉は 1991 年、日本が植民地支配に対する反省とお詫びを表明したこ とで、開始された。しかし日本が拉致問題と核問題を提起すると、朝鮮側は交渉を拒 否し、1992 年には決裂した。決定的な転機は 2002 年 9 月 17 日の小泉首相の訪朝、 日朝平壌宣言によってもたらされた。 8 だがその後大きな進展は見られず、現在に至 っている状況である。 日本は日朝間の三つの課題のうち特に拉致問題解決のみを強く主張している。この 拉致とは主に 1977 年から 1983 年までに行われたものである。その目的は、対韓工 作のための特殊機関での日本語教師、工作員が日本人に偽装するための日本の生活習 慣の習得、日本関係の翻訳の仕事、さらに朝鮮工作員の身分隠蔽のための旅券を手に 入れることであった。 9 このような拉致問題に関して、日本政府の一部や拉致被害者の会は朝鮮に対して、 強く非難している。それに応酬するかのように、朝鮮は第二次大戦中の日本による朝 東アジアの平和のために(岩木秀樹) 43 鮮人の強制連行の問題を持ち出し批判をしている。どちらも自分たちの意見を主張す るのみで、相手の歴史や状況を理解しようとせず、議論は硬直状況に陥っている。 強制連行と拉致事件は固有の悲劇であり、交換することも相殺することもできない ものである。また歴史的側面や規模の面でも等価なものではないであろう。しかし日 本社会にあふれているのは、拉致の責任については朝鮮を徹底的に追及するが、強制 連行について無視をするという考え方である。しかもそれを被害者や家族個人が行う のではなく日本社会全体が行っているのである。拉致被害者とその家族は、自分たち が被った悲劇を社会に訴え、生存者の帰国・死者の遺骨の返還・責任者の処罰・補償 などを朝鮮政府に要求している。だが実は自分たちの国が、60 年後のいまなお、植 民地化した朝鮮の人々に対してきちんとした責任も果たしていないことを忘れている のである。 10 強制連行も拉致も国家が政策として行った国家犯罪であり、日本政府も朝鮮政府も きちんとした対応をすべきである。日本政府は強制連行の歴史を解明し、しかるべき 補償をすべきであるし、朝鮮政府は拉致問題の真相を解明し、被害者の引き裂かれた 状態を解決することが重要であろう。 一部に、拉致事件と日本の過去の責任を相殺しようと図り、またかつての日本の朝 鮮支配は、「帝国主義の時代」のことであり、それに対して日本人拉致は「平和の時 代」のことで、全く別の問題だと議論もある。しかし朝鮮の立場からすると、植民地 時代、朝鮮戦争、日米韓軍事同盟体制による包囲、社会主義陣営の崩壊とそれによる 援助停止、冷害や洪水等、「平和な時代」はほとんどなく、まさに準戦時体制であっ たのである。「平和な時代」に行われた拉致被害のみを主張して、日本の朝鮮侵略、 植民地支配を等閑視することは偏りがあろう。 11 また拉致問題が起こったのは、日朝の不正常な関係がもたらしたという側面も指摘 できよう。拉致問題を解決するためにも国交を正常化することが重要であり、国交が 回復した後の方がむしろ拉致問題の捜査や引き渡しが容易にできるのではないだろう か。 このような観点から、対朝鮮政策で参考になるのが韓国の取った方法であろう。朝 鮮戦争で双方 400 万人の死者を出し、現在も 1000 万人の離散家族を抱えているのは 南北朝鮮の人々である。半世紀にわたって、南北分断に苦しみ、膨大な犠牲を払った 韓国国民が甘い認識で朝鮮に接近しようとしているのではない。分断を逃れ、朝鮮戦 争で潤った日本が韓国の政策を批判できるのだろうか。むき出しの朝鮮に対する憎悪 は、以前は日本より韓国のほうが比べものにならないほど強かった。しかし、脱冷戦 に向けて、太陽政策に乗り出し、南北共存を模索しているのである。 12 このように韓 44 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 国にもならい、硬直した対応を朝鮮にさせないためにも、日朝国交正常化が待たれる のである。 日本政府の拉致問題のみへの執着をする態度に対して以下のような議論も出てきて いる。「日本は北朝鮮の核・ミサイル開発を口実にして軍事大国化を指向するために、 日本人拉致問題を取り上げて朝日国交正常化交渉を遅らせているのかもしれない。ゆ えに日本は、米国が北朝鮮の核問題を解決する時まで、朝日関係の改善を遅延させる 可能性が高い。」 13 このような議論が出てくるのも理由がないわけではない。有事法 制を整え、ミサイル危機を過度に煽ったり、軍事演習を行ったり、さらには靖国参拝 や歴史教科書問題などを考慮すると、朝鮮側の危惧もある程度納得がいくであろう。 このような危機意識を作らないためにも、また国交正常化のためにも、2002 年 9 月 17 日の日朝平壌宣言にもう一度立ち返る必要があろう。この宣言が 1965 年の日 韓条約に比べて画期的な部分は二点ある。第一は過去の植民地支配に対するお詫びの 気持ちがはっきり表明されていることである。第二は東アジア地域の平和と安定のた めに、関係諸国の多国間的な信頼醸成の枠組みと協議体制を整備し、事実上、冷戦終 結後の朝鮮半島と東アジアの新しい地域秩序形成への展望を示したことである。日本 はアジア不在の、日米二国間主義でなく、この宣言によるほうが東アジアの平和構築 のためにも重要であろう。 14 5. 朝鮮半島の平和への課題 現在ではやや停滞しているが、六カ国協議などを通じて、朝鮮半島を中心とする東 アジアの平和と安定の問題が話し合われる必要がある。この中で日本のスタンスは国 内世論への配慮から拉致問題解決が最優先事項であり、他の国とはかなり異なってい る。アメリカの非核・軍縮問題優先策や韓国の南北和解優先姿勢と比べれば、日本の 政策の相違は明らかである。 15 あまりにも日本が拉致問題優先を強く主張し続けると、 自国の利害のみを優先し、東アジア全体の平和を軽視しているとも受け取られかねな いのである。 拉致問題が解決しないと国交正常化交渉をしないとの態度は、外交戦略としても問 題があろう。過去の歴史においてもまた日本の近代史においても民主主義が平和を生 むというよりも、平和が民主主義を生み出すということが多くある。その意味で拉致 問題に象徴される朝鮮の体制の変化には平和が必要なのである。 16 朝鮮に平和がもた らされると、いわゆる先軍政治も変化せざるをえないであろう。先軍政治とは体制を 維持するために朝鮮指導部が名づけた危機管理体制という性格が強い。対外的な危機 東アジアの平和のために(岩木秀樹) 45 への対応であると同時に、国内的な安定と経済難の克服のメカニズムとして、先軍と 呼ばれているのである。だが先軍政治は朝鮮体制の発展に相当に否定的な影響を及ぼ している。軍隊に優先的な資源配分がなされることによって、経済部門はいっそう困 難に陥っている。体制全般が非常戒厳体制のような軍隊式システムへと急激に再編さ れる中で社会の疲労現象も深刻になっているのである。 17 国交正常化により朝鮮の安 全を保障し、平和がもたらされると朝鮮の準戦時体制も変化し、平和による民主化の 道も開かれる可能性が高いのである。 また日本政府は過去の国交正常化交渉にも学ぶべきである。1956 年の日ソ国交正 常化は、領土問題の最終的決着を棚上げして実現した。1972 年の日中国交正常化は、 歴史問題・台湾問題・日米安全保障問題・尖閣列島問題などに曖昧さを残したまま外 交関係の樹立を最優先させたのである。 18 日朝国交正常化もこのような大局に立った 外交こそが両国の国益にも資するのである。 六カ国協議の主要な議題は朝鮮半島の非核化である。2005 年 9 月 19 日の共同声明 において、朝鮮は全ての核兵器と今ある核計画を放棄し、核不拡散条約(NPT)に復 帰し、国際原子力機関(IAEA)の査察受け入れを約束し、大きな前進をした。だが その後、2006 年 10 月 9 日に朝鮮が核実験宣言をしたことにより、著しく後進した。 朝鮮半島の非核化とは単に朝鮮が核兵器を持たないということではなく、核兵器に 関して南北朝鮮が非保有を米中ロが不使用を誓うことである。そもそも朝鮮半島の核 問題は、アメリカによる朝鮮半島への核兵器配備によって発生し、その本質は、アメ リカからの核の脅威を取り除く問題である。またアメリカの朝鮮停戦協定や NPT な どの国際法を無視した状況を解消する問題でもある。 19 このように非核化問題はむし ろアメリカなどの大国の核問題とも言えよう。また朝鮮の核の平和利用の問題もさら なる論議が必要であろう。朝鮮の要求する核平和利用の権利は、NPT で保障されて いるだけではなく、原子力発電を推進する東アジア地域の現実を反映するものであろ う。原発の危険性の問題はあろうが、日本と韓国は現在総発電量の 40%を原子力発 電から得ている。このような状況を見ても、NPT で保障されている権利を朝鮮から 剥奪することは今後議論を呼ぶであろう。 20 朝鮮半島の平和と安定が崩れれば、朝鮮、韓国ともに国家存亡の危機に陥り、東ア ジア全体に難民が押し寄せ、日本にも大きな影響が出よう。また東アジア全体が経済 的にも大打撃を受け、しばらくは立ち直れない事態が生ずる。このような問題に最も 切実に直面しているのが韓国であり、このような事態を回避すべく努力をしている。 それはアメリカへの対応でも見て取れ、韓国と日本ではかなり異なっている。例えば イラク戦争において、日韓両国はアメリカを支持したが、その動機は全く逆であった。 46 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 韓国はアメリカの朝鮮攻撃を絶対に阻止するために、アメリカに対する発言力を留保 しなければならなかった。それに対して日本は、朝鮮半島での戦争の可能性を前提に アメリカの保護を受ける必要があるという立場であり、韓国人にとってきわめて不快 で挑戦的な発想であろう。 21 日本のように戦争を前提にすると、不信と軍拡の負の連 鎖に陥り、東アジアの平和を大きく損ねるであろう。 おわりに 日本は冷戦崩壊後、新ガイドライン関連法・周辺事態法・テロ対策特措法・有事関 連三法・イラク措置法など次々と戦争に備える法律を作り、国旗国歌法・靖国公式参 拝・歴史認識問題など国家主義的傾向を強めている。 アメリカも冷戦崩壊後、湾岸・コソボ・アフガニスタン・イラクなどに次々と侵攻 し、包括的核実験禁止条約・弾道弾迎撃ミサイル制限条約・生物兵器禁止条約・京都 議定書などの国際機構から脱退し単独主義を強めている。 朝鮮半島を中心とする東アジアの平和において、日本とアメリカの動向が重要であ る。実は日本とアメリカの以上のような動きが朝鮮半島の平和に阻害要因として介在 しているのである。 平和への阻害要因を促進要因に変えるためには本稿で議論をしたように以下のよう なことが考えられよう。日本の有事法制の問題点を指摘し、軍事力の増強を止めなく てはならない。また靖国神社の本質を見据え、新たな追悼施設も検討されよう。この ように日本がまず東アジア諸国からの信頼を得ることが重要であろう。その上で、早 期の国交正常化により日朝間の様々な問題点を解決し、南北朝鮮の統一を促進すべき であろう。朝鮮半島の非核化を実現し、東アジアの新たな共同体形成も志向されよう。 人類史は戦争と平和の葛藤の歴史であった。国際社会の営みも戦争違法化の歴史で あった。グロティウスは国家が戦争に訴えることができる要因を制限し、カントは常 備軍の廃止こそ永遠平和への方途であるとした。第一次大戦後のパリ不戦条約では国 家の政策の手段としての戦争を禁止し、第二次大戦後の国連憲章では武力の行使を禁 止し、さらに日本国憲法では戦力の不保持まで宣言するに至った。ここにおいて人類 史は非戦と非武装にまで到達したのである。 このように今後の日本と東アジアの進むべき道は非戦と非武装の方向であろう。し たがって日本国憲法こそ東アジア平和構築のひとつの理念となるであろう。その上で 具体的にどのようにして東アジアに平和を作ればよいのだろうか。政治レベルでは、 日米安保条約のような二国間関係ではなく、多国間関係が望まれる。安保を即時廃棄 東アジアの平和のために(岩木秀樹) 47 すると日米関係は悪化し周辺諸国も刺激してしまう恐れもある。安保固持でもなく即 時廃棄でもなく、日米関係を対等な関係にしつつ、安保条約を多極的な東アジアの地 域安全保障に再編することが必要である。そこでは東アジアの非核化、朝鮮半島問題 の解決、経済格差の是正、相互交流の伸展が図られよう。日本は過去の侵略から目を 背けるのでもなく、冷戦期の同盟戦略にこだわるのでもなく、新たに東アジアの平和 のための地域構想を考えなくてはならない。 民間レベルでは、憎悪と分断から和解と共存へ向かわせるために様々の交流が大事 になる。暴力の応酬をくり返してきたイスラエルとパレスチナに、「イスラエル・パ レスチナ遺族の会」がある。双方から身内を殺された遺族による会である。最愛の人 を殺された当初は復讐を誓ったが、それは新たな復讐を生むだけで何の解決にもなら ないことに気づく。平和がないから殺されたのであり、交渉を続けることこそが憎し みを止める唯一の道であると言う。このような会を民間レベルの一例として、日本と 朝鮮半島の人々で作ってはどうだろうか。強制連行された数百万人の朝鮮半島の被害 者と朝鮮による拉致被害者が「強制連行と拉致被害者の会」を作り、交流をするなか で歴史認識などを議論し、相互の理解と共存を目指してはどうだろうか。この二つの 問題は政治的にも歴史的にも等価ではないが、戦争と平和の問題、国家犯罪という観 点では要因を一にしている。 このように政治レベルでも民間レベルでも、東アジアの平和とそこに住む人々の幸 福を目指す必要がある。日本はこのような平和的備えにこそ、人も金も知恵も使うべ きであり、東アジアの平和問題で強いリーダーシップを発揮すべきであろう。 注 1 靖国問題に関しては、高橋哲哉『靖国問題』筑摩書房、2005 年を参照した。高橋は、多く の論者がA級戦犯合祀を問題にしているのに対して、それのみでは問題の矮小化だとして、 靖国神社そのものの存在自体を問うている。 2 李鍾元「序論 東アジアの地域論の現状と課題」『国際政治』135 号、日本国際政治学会、 2004 年、3 ページ。 3 姜尚中『東北アジア共同の家をめざして』平凡社、2001 年、24、217 ページ。 4 姜尚中『日朝関係の克服-なぜ国交正常化交渉が必要なのか』集英社、2003 年、33-42 ペ ージ。 5 今村弘子『北朝鮮「虚構の経済」』集英社、2005 年、49 ページ。 6 金敬黙「北朝鮮食糧危機をめぐる NGO の活動とそのジレンマ」前掲『国際政治』、116 ペ ージ。しかし最近の朝鮮の経済については、以下のように回復傾向にあるとされている。 「食糧問題、健康状態、企業経営パフォーマンスなどを総合してトレンドとしてみる限り回 復の傾向があることがうかがえる。北朝鮮では、朝鮮労働党結成 55 周年を機に、水害を機 48 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 に始まった『苦難の行軍』が 2000 年に終了したことを公式に宣言した。これは、単なる政 治的スローガンではなく、実態を伴った政策的判断でもある。」文浩一「北朝鮮の経済をど う見るか 『迂回情報』によるバイアスからの脱却を」『世界』No.744、岩波書店、2005 年、155 ページ。 7 姜、前掲『日朝関係の克服』136 ページ。 8 和田春樹「日朝交渉-方針転換のとき」前掲『世界』、123 ページ。 9 金賛汀『拉致-国家犯罪の構図』筑摩書房、2005 年、19 ページ。 10 太田昌国『「拉致」異論』太田出版、2003 年、121-130 ページ。 11 康成銀「朝日間の歴史的精算から見たピョンヤン共同宣言」武者小路公秀監修『東アジア時 代への提言 戦争の危機から平和構築へ』平凡社、2003 年、98-99 ページ。 12 姜、前掲『日朝関係の克服』30-31、160-161 ページ。なお 2000 年 8 月 14 日中央日報に 掲載された世論調査結果は非常に興味深いものであった。「統一後の望ましい社会体制」を 聞いたところ、「韓国の体制」が 17.8%にすぎなく、「南北の折衷形態」53.6%にのぼり、 「一国二制度」24.1%、「北朝鮮の体制」1.4%であった。つまり八割近くが、朝鮮の体制 を何らかの形で認めているのであった。森千春『朝鮮半島は統一できるのか』中央公論新社、 2003 年、169 ページ。 13 大妥協か体制危機の継続か」前掲『世界』、139 高有煥「金正日体制の現状をどうみるか ページ。 14 姜、前掲『日朝関係の克服』168-169 ページ。 15 金煕徳「日朝交渉と日本の選択-東北アジア平和構築における日本の役割」武者小路、前掲 書、80 ページ。 16 姜尚中『在日 ふたつの「祖国」への思い』講談社、2005 年、168 ページ。 17 高、前掲論文、132 ページ。 18 金煕徳、前掲論文、84 ページ。 19 太錫新「北朝鮮は何を主張しているか 界』、143、146 ページ。 朝鮮半島非核化・原子力政策をめぐって」前掲『世 20 ガバン・マコーマック「核の傘ときのこ雲 ージ。 21 北朝鮮と核のポリティックス」同上書、115 ペ 徐勝「『平和国家』日本が東北アジア時代をひらく」武者小路、前掲書、12 ページ。 49 グローバリゼーションとネパール 植木 竜司 Globalization and Nepal Ryuji Ueki はじめに 近年、グローバリゼーションに関する議論が盛んに行われており、多くの本・論文 が出されている。国外の本が翻訳されて紹介されることも少なくない。しかし日本に おいて、いわゆる発展途上国の議論が紹介されることは少ない。 日本でも 1996 年からネパール共産党マオイストによって展開されている「人民戦 争(People’s war)」の問題やそれに伴う政治的混乱は、ネパールに関心を持つ人び との間のみならず、これまでほとんどネパールについて報道することのなかったマス コミにも取り上げられるようになった。それでも後発発展途上国であり、南アジアの 「小国」といわれるネパールの社会学や国際関係論といった分野における研究は多く ない。 本稿は、ネパールにおけるグローバリゼーションの中心議論の検討と、グローバリ ゼーションの影響についての一考察である。まずネパールにおけるグローバリゼーシ ョンの中心議論を見た上で、その中心議論を検討するため対インド関係や外交の多角 化の努力といったネパールの国際関係の歴史を見ていく。そして WTO 加盟などを経 て対インド関係がどのように変化したかを見ることで、グローバリゼーションの議論 に対する筆者の意見を述べる。次にグローバリゼーションのプロセスにおけるネパー ルの経験を概観し国内へのインパクトを見た上で、ネパールが地球社会においてどの ような位置に置かれるようになったのかを明らかにする。 50 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 1 .先行研究 ネパールにおけるグローバリゼーションの議論 1 ネパールにおけるグローバリゼーションの研究や議論は、経済面、特に世界貿易機 構(WTO)と関連づけて行われてきた。 ネパールでは一般的に「グローバリゼーション」は bishwobyapikaran と訳される。 これは、bishwa と byapi と-ikaran からできた単 語である。bishwa は「 世界」 2 、 byapi は「広がっている」 3 、-ikaran は「~化」を意味する。この単語が使われるよ うになったのは、ネパールが WTO のオブザーバーの地位を獲得した 1995 年頃から である。ネパールは、1989 年にインドによって物資通過の国境地点 15 のうち 13 地 点を封鎖され、混乱を招いたことから関税及び貿易に関する一般協定(GATT)に加 盟申請をした。そして 1995 年に GATT に代わって WTO が設立されると、オブザー バーの地位を獲得し WTO に加盟申請をした。ネパールにおけるグローバリゼーショ ンの議論を専門とする文献はほとんどが 1996 年以降に出版されている。 ネパールでのグローバリゼーション研究の文献を通した中心的なテーマのひとつは、 グローバリゼーションがネパールのインドへの依存を減少させる機会を供給するか否 かである。そして主な議論では、一方はグローバリゼーションを WTO に参加するこ ととして捉え、そのことがインドへの依存から脱する機会になるとし、他方ではグロ ーバリゼーションを自由化と捉え、グローバリゼーションによってネパールの国家自 体が脆弱になりそのことによってインド経済に統合されると論じている。多くの研究 者が前者の立場を採り、「グローバリゼーション=WTO 加盟」がネパールを外の世 界へ開く機会をあたえると考えている。 先行研究批判 以上のようにネパールではグローバリゼーションの議論は特にインドへの依存状態 から脱却か、インド経済への統合かという視点で論じられている。しかしグローバリ ゼーションに関する議論・研究は、インドとの関係に限定されるべきではない。 そもそも英語の「グローバリゼーション(globalization)」ということが広く話さ れるようになったのは、1980 年代が始まってからである。「グローバル(global)」 という単語は、英語を話す人びとが以前は主に「球形の」を意味していた global を 19 世紀終わりから「全世界」を示すものとして使うようになった 4 。ブルース・マズ リッシュは、地球史=グローバル・ヒストリーの概念を考える際に、world と globe の単語の語源を振り返っている。それによると、中世英語の「人間の存在」から来て グローバリゼーションとネパール(植木竜司) 51 いる world が濫用されたことから、global という用語が生み出されたのであり、グロ ーバルは宇宙の方向に焦点を当てており、その観念は我々の天体の外に立ち「宇宙船 地球号」を見据えた考えを可能にしているとする 5 。 そこで私はネパール語においても、グローバリゼーションを bishwobyapikaran で はなく bhumandalikaran=「地球一体化」として捉え、WTO 加盟も自由化も地球一 体化のプロセスの一部として考えたい。bhumandalikaran はリシラジュ・ バラルが 「メディアのグローバリゼーションと文化帝国主義」 6 というネパール語の論文でグ ローバリゼーションの訳語に当てている単語である。これは「地球、丸い物体、グロ ーブ」をいう意味の bhumandal 7 と、「~化」の意味の-ikaran とでできている。 2003 年の WTO 正式加盟から数年が経った現在、加盟の影響を含めてグローバリ ゼーション=地球一体化のネパールへの影響を検証する必要がある。 2 .ネパールの国際関係とグローバリゼーション 対インド関係の歴史 対インド関係 の歴史 本章ではネパールにおけるグローバリゼーションの中心議論を検討するため、まず 対インド関係と外交の多角化の努力を、ネパールの国際関係の歴史として見ていく。 ネパールと独立したインドは、1950 年 7 月 31 日に平和友好条約と通商貿易協定を 調印した。 平和条約は全 10 条からなっていたが、ネパールにとって特に問題があったのは、 第 5 条、第 6 条、第 7 条であった。 第 5 条は兵器輸入についてである。この条項において、ネパールはインドからもし くはインドを経由して、兵器輸入の自由を保持する、と定められている。これには調 印時に明らかにされていなかった付随文書があって「ネパール政府はインドを経由し て輸入する兵器についてインド政府の合意の上に輸入することに合意する」と細かく 規定されていた 8 。 この「秘密」交換公文は、「平和友好条約の協議の際に、特定の事項に関して細目 を交換公文で規定することに合意した」と述べた上で、「両国政府とも互いの国への 外国の侵略を容認しない。このような脅威に対しては互いに協議し、有効な手段を検 討する」との規定や、「ネパール政府がネパールの天然資源開発と工業プロジェクト を外国援助の導入により遂行する場合、ネパール政府はインド政府とインド国民を優 先的に遇する」ことも定められている 9 。 52 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 第 6 条と第 7 条は、相互主義で同一の待遇を規定しており、一括して読まれるもの である。第 6 条は、「産業・経済の開発への参加及びこのような開発に関する特典の 賦与や契約に関して」相手国国民に内国民待遇を与えることを規定している。第 7 条 は相互主義により「居住、財産所有、貿易・商業への参加、移動・旅行その他につい ての特典に関し」同一の特典を与えることを規定している 10 。これらの条約は当初ネ パールにおけるインド人の経済活動を対象とするより、むしろインドでのネパール人 の保護が目的と説明された。しかし時代が進み、ネパールへのインド資本、インド人 の進出が活発化するにつれてネパールが不満を抱くようになった 11 。それは、経済的 にはインドが圧倒的に強者であり、ネパール人がインド内で何をしてもインド経済を 左右する力にはならないが、インド人はネパール経済を支配する力になっており、ネ パールが自国民保護のためにインド人の活動を制限しようとしてもこの条約に縛られ て制限できないからである 12 。ちなみに西澤憲一郎は、この第 6 条・第 7 条は、現在 に至るまでネパールとインドの関係を特徴づけている「オープン・ボーダー」という 政策を、「まさにその実質を規定したもの」であるとしている。西澤によると、オー プン・ボーダーという政策が何時頃からとられだしたかは良くわからないが、この言 葉が公文書に用いられたのは 1978 年 3 月の協定が最初であるようであった。しかし、 「1950 年以降の両国間の人と物の移動はそれ以前のものとは質的にも、また流れの 方向も異なっているのであり、真のオープン・ボーダーは 1950 年に始まったといえ る」と述べている 13 。この政策によって、ネパール人とインド人は身分証明書など書 類の提示なしに自由に国境を超えて互いの国に入ることができる。 通商貿易協定も 10 条からなっており、平和友好条約と同日に調印され 3 ヵ月後に 発効した。この条約は、ネパールの対第三国貿易貨物のインド通過を認め、インド消 費税・輸入税を免除するなどの点でインドが内陸国ネパールに便宜をはかっているが、 ネパールの課税権を否定し、また第三国貿易貨物の通過には煩雑な手続きを要したこ となどから、調印直後からネパール国内から不満が出されていた 14 。 以上のように、独立インドとネパールとの間に結ばれた条約・協定は、ネパール側 から見て不平等で制約の多いものであったが、1950 年に当事者で専制政治を敷いて いたラナ家は、国内における自らの地位の不安定を察知してその資産をインド側へ逃 避させており、それに対するインド政府の保護を求めていたりしており 15 、不都合な ことはなかった。しかし次第にこれら条約はネパール側からの批判の対象となってい く。 インドの協力と圧力によって 1951 年にはトリブバン・ビール・ビクラム・シャハ 国王を元首とする臨時政府樹立で合意がなされ、ラナ家専制政治が崩壊する。ほぼ鎖 グローバリゼーションとネパール(植木竜司) 53 国状態であったラナ体制は、近代的な国家機構に必要なものは何一つ残さなかった。 新政府の発足に当たっては、当時の情勢からインドを差し置いて第三国に援助を仰ぐ ということは考えられなかったため、インドの援助(指示)を頼ることになった。そ れは、治安の維持から、行政組織の再編、経済援助までに及び、対インド依存は深化 していった 16 。 通商貿易協定は 10 年の満了後、さらに 10 年間延長できるとされていたが、ネパー ル側の不満が続出して打ち切りとなり、1960 年に貿易・通過協定に置き換えられた。 この条約は 1970 年に失効したが更新が遅れ、1971 年 6 月にマヘンドラ・ビール・ビ クラム・シャハ国王が訪印して、インディラ・ガンディー首相と会見し、8 月 4 日か ら新協定の交渉が開始され、8 月 13 日に調印し、8 月 15 日から発効した。 新協定は、ネパール産製品・原材料は関税・量規制免除でインドに輸出できるが、 ネパール産原材料・労働比が 50%未満の場合インド輸出を禁止しており、ネパール の第三国貿易からインド経済を保護する意図が鮮明に出ていた。この原材料比条件は、 ネパールの産業発達を妨げた。このことで被害を受けたのはネパールで生産が始まっ たばかりのステンレス鋼と合成繊維であった。両製品は、インドが輸入を禁止してい たため、ネパールが原材料を第三国から輸入して単純加工を施した後、製品のほとん どを高値で輸出することができたという、インド市場を当てにした産業であったため、 協定でインドへの輸出への道が閉ざされ、衰退していったのである 17 。 1971 年協定は 1976 年に失効し、またしても更新が遅れたが、1978 年にジャナタ (人民)党のデサイ政権がネパール政府の要請を受け入れ、貿易協定と通貨協定の二 本立てとなって調印された。二協定は 5 年ごとに改訂されることになっていたが、ラ ジブ・ガンディー政権となってインド側は、ネパール向け貨物がカルカッタ‐ネパー ル国境間で大量に密輸されていることを理由に、二協定の一本化を要求、両国の主張 が激しく対立、平行線をたどったまま、二協定は 1989 年 3 月に失効した。これにと もない、従来 15 ヵ所で認められていた国境貿易は二ヵ所に制限され、ネパール経済 は大混乱に陥った 18 。 インドがこのような厳しい措置をとった理由について井上恭子は、第一にネパール におけるインド人就労をネパール政府が規制したこと、第二に 1985 年にネパール政 府が中国にネパールの東西ハイウエー建設への参加を認めたこと、第三にネパールに よる中国からの兵器購入をあげている。そしてインドがネパールの行動を容認せず、 強く反発した背景として、1950 年条約に付随する前記の「秘密」交換公文と、それ に加えて 1965 年 1 月にインドとネパールが交わした新たな「秘密」交換公文(Arms Assistance Agreement)の存在をあげている。この交換公文は経済封鎖にからむイン 54 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 ドとネパールの交渉の過程でその存在が明らかになり、1990 年 5 月にインド政府も 公に認めた。交換公文は、1962 年の中印国境紛争を経た 1965 年 1 月 30 日にインド 外務次官と駐インド・ネパール大使が調印したもので、内容はインドがネパールの防 衛上の必要に独占的に関与し、ネパール軍の武器需要はインドが対応し、ネパール軍 の装備から中国を排除する、さらに中国がネパールのインド寄り国境地域で活動しな いこととする、などとなっている。これに基づいて東西ハイウエー建設から中国が撤 退させられ、中国からの武器輸入にインドが強く抗議した 19 。 1989 年 11 月末に実施されたインド第九次連邦下院選挙でラジブ・ガンディー首相 のコングレス党が大敗を喫し、ジャナタ党を中心とする中道 5 党連合「国民戦線」に よる V. P. シン新政権が発足した。1990 年 4 月にネパールにおいては国王親政パンチ ャヤット体制が崩壊し、ネパール・コングレス党の K. P. バッタライによる暫定内閣 が発足した。ネパールの民主運動を支持していたシン首相は、親インド派のバッタラ イ首相就任に好感を抱いて、同年 6 月に、1 年 3 ヶ月ぶりに貿易、通過両協定を復活 させることに合意、インドがネパールへの経済封鎖を解き、両国関係は 1989 年以前 に戻った 20 。しかし貿易関係と通過地点の再開が緊急の課題であったというネパール 側の差し迫った事情があり、1950 年条約を対インド関係の基点として再確認する結 果となり、ネパールがインドの利益に大幅に譲歩した形であった 21 。 外交多角化の努力と WTO 加盟 以上のとおり、ネパール・インド間で結ばれた条約はネパール側にとって不利なも のであり、ネパールはインドに従属する形を強いられてきた。しかしそのなかでもネ パールはインドへの依存状態を脱し外交を多角化するための努力を行ってきた。 ネパールは、印中両国にとって、緩衝国家として戦略的重要性を有してきた。ネパ ールにとっては地理的な関係もありインドが中国に比べて重要な位置を占めていたが、 特に中印関係が緊張した時には対インド交渉で中国の影響力を利用するなどして、中 国とインドの間でバランスをとってきた。 1949 年に中華人民共和国が成立すると、中国は早くからネパールとの国交を求め ていたが、インドはできるだけその時期を遅らせようとした。ネパールのほうも中国 への接近に積極的ではなかった。中国の共産主義よりもインドの民主主義の方が安全 であると考えられ、中国に対しては敬して遠ざける傾向があった 22 。ネパールはティ ベットとの関係を維持し、ティベットにネパール代表を置いていた。 しかし共産主義中国のティベット支配は、ネパール、中国、ティベット関係におい て変化を導いた。年ごとのティベット貢物使節は 1954 年に停止し、1955 年中頃には グローバリゼーションとネパール(植木竜司) 55 中国は大使交換のために条約を協議することに成功した。1955 年のバンドンでのア ジア・アフリカ会議は中国とネパールに互いにコンタクトを樹立するよい機会を与え た。同年、ネパールと中国の外交関係は、中国の周恩来総理とインドのネルー首相に よって展開された平和共存の原理に基づいて樹立された 23 。 1956 年 2 月 3 日中国の援助申し出に応じ、14 日 T. P. アチャリア首相が中国とテ ィベット問題及び国境確定で交渉する用意があると発言し、8 月カトマンドゥで中 国・ネパール交渉が開始され、9 月 20 日ネパールがティベットにおけるすべての特 権を放棄するとしたネパール・中国間の友好関係維持及び貿易-交通に関する協定が 成立した(1958 年 1 月 17 日発効)。9 月 25 日アチャリア首相が訪中して、10 月 7 日経済援助協定が締結された 24 。この経済援助協定では、中国は 3 年間に 6000 万ル ピー相当額を 3 分の 1 は外貨キャッシュで、残りは機械、器機、原材料等で贈与する ことを約した。これはまったくの紐なし援助で、ネパールはこれを自由に使うことが でき、中国は専門家も派遣しないというものであった。これによりネパールにおける 中国株は一気に上昇した。そして周総理が 1957 年 1 月 25 日から忙しい日程のなか 5 日間カトマンドゥに赴いて、友好ムードを固めた 25 。中国は、1956 年以降は、現金贈 与に代え機械・他のプロジェクト援助を進めた 26 。 1959 年 3 月 19 日、ティベットで反乱が起こり、31 日にダライ・ラマがインドへ亡 命するという事件が起き、この地域の緊張が高まる。中国はネパールに対しては、イ ンドとの特別関係は十分に承知しつつも、ネパールとの友好関係を固め、他方、イン ドの影響力を弱めるよう努め、中国に対する警戒心を解きほぐす努力を重ねた 27 。 1960 年 3 月 11-21 日には B. P. コイララ首相が訪中して、1 年間に 1 億ルピーの無 償援助をネパールに提供することが合意され、これにより国境協定の交渉に入った (21 日国境協定の締結)。さらに 4 月 26 日-29 日周総理が、再びカトマンドゥを訪 れ、そのうえ翌 61 年 9 月 25 日-10 月 15 日マヘンドラ国王が訪中して、15 日国境条 約が締結された。また、周総理がカトマンドゥを訪れた際には、中国・ネパール平和 友好条約が調印された 28 。 ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハ国王の時代に入っても中国との友好関係は 続いた。皇太子時代にも訪中していたビレンドラ国王は、即位の翌年 1973 年 12 月 に国王として訪中し、その翌年 1 月は中国から 5000 万ルピーの援助を得てカトマン ドゥ・リングロードの建設を開始した。1975 年にも新貿易支払協定が締結され、従 来のコダリにラスワ、ヤリの 2 地点を交易地に加えてティベット交易の拡大がはから れた。このため中国製品のネパール流入が増大した。1978 年 2 月には鄧小平副首相 のネパール訪問があり、9 月にはキルティニディ・ビスタ首相が訪中して製糖、製紙 56 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 工場建設協定に調印した 29 。 ネパールは、インドや中国以外の国とも外交関係を多角化していく政策をとってき た。外交関係樹立を通じての政治的多様化は、インドへのネパールの依存という内在 的危機要因を大きく軽減するばかりか、インド経済との関係をも調整させるところと なっている 30 。 1955 年 3 月に即位したマヘンドラ国王は翌月にはバンドンでのアジア・アフリカ 会議に代表団を派遣して、平和十原則を決議、同年 12 月には国際連合に加盟した。 1956 年にはスイスと公使交換をした後、翌年 4 月にエジプトと、同年 7 月にはセイ ロンとの国交を開いた。1962 年にはインドを牽制する意味でパキスタンと通商条約、 翌年には通過条約を結んだ 31 。 米国とはすでに 1947 年 4 月に通商・友好協定が結ばれており、1948 年に大使交換 も始まっていた。1956 年にはソヴィエトと日本との国交が開かれ、ことにソヴィエ トとはその翌年に 3000 万ルーブルの無償援助協定を結んだ。ソヴィエトはさらに 1959 年に技術援助協定を結んで 3 億ルーブルの援助を行い、製糖工場、たばこ工場、 水力発電施設を建設した 32 。 ネパールの外交政策は、1955 年のバンドン会議、国連加盟以来、平和十原則、国 連憲章の精神に則り、米ソ対立の冷戦にあって、いずれの陣営にも属さず中立の立場 をとり、すべての国と友好を保つ、いわゆる非同盟中立国家への道を選んだ。1961 年にユーゴスラヴィアのベオグラードで開催された非同盟諸国首脳会議に積極的に参 加した 33 。 浦野起央は特に「米国およびソ連との関係は、ネパールの「非同盟」政策において 重要な役割をもち、1960 年以降、これら両国は、ネパールの地政的条件を形成し、 かつインドの基本的安全保障を構成するヒマラヤの安全保障システムの維持において、 その責任を担うことになってきたのである」と評価している 34 。 マヘンドラ国王の後を継いだビレンドラ国王の外交政策の基調はネパール平和地帯 構想であった。「平和地帯宣言」がネパールの政策として公式に発表されたのは、 1975 年 2 月 25 日の戴冠式後のレセプションにおけるビレンドラ国王の演説であった。 この構想は、ネパールが国内建設に専心し貧困と闘うために平和な環境が必要である が、それは単なる非同盟では不充分で積極的に友好を勝ち取らなければならないとい う考え方である。その後この平和地帯宣言は、ネパール外交の基本原則として位置づ けられた。同宣言に対しては、ソヴィエト、中国、パキスタンはいち早く支持を表明 した 35 。 ビレンドラ国王の外交政策は活発で、1995 年にアゼルバイジャン共和国と国交を グローバリゼーションとネパール(植木竜司) 57 結 び 、 国 交 樹 立 は 108 ヶ 国 に 達 し た 。 1985 年 に 発 足 し た 南 ア ジ ア 地 域 協 力 連 合 (SAARC)の事務局をカトマンドゥに設置し、1989 年には国連安全保障理事会の 2 月の議長国を努めた 36 。 1950 年代までネパールは、単にインド経済の延長であり、ネパールの貿易政策は、 90%以上がインドとのものであった。しかし開発援助の流入、ツーリズム、英国ゴル カ兵からの送金等により、1960 年代に徐々に変化し始めた。そしてネパールは、イ ンドより他の国々からより多く輸入をし、輸出し始めるようになった 37 。 以上のようにネパールは外交を多角化する努力を続け、その成果も出ていたのだが、 それでもインドの影響力が絶大であることを思い知る出来事が 1989-90 年にかけて起 こる。すでに述べたインドによる国境封鎖であった。1989 年 5 月、一方的にインド によって課された貿易と通過停止のために混乱し、貿易を更新し条約を移行させる努 力が結果を生み出さなかった時に、ネパールは GATT に加盟を申し込んだ 38 。 1995 年に GATT に代わって WTO が設立されると、同年 12 月にネパールは WTO のオブザーバーになり、それ以来オブザーバーとして参加した。GATT へのネパール 加盟のために設立された専門調査委員会は 1995 年に WTO に加盟における専門調査 委員会にかえられた。ネパールは 1998 年 7 月の WTO 事務局への外国貿易制度にお けるその覚書を提出した。1998 年 8 月に疑問を抱いている加盟国に WTO 事務局は 外国貿易制度におけるネパールの覚書を流した。WTO 事務局員は加盟国によって送 られた外国貿易制度における覚書におけるすべての質問とコメントを編集し、1999 年 1 月にネパール王国政府に手渡した。ネパール王国政府は 1999 年 5 月に返答文書 を提出した。ラム・クリシュナ・タムラカール商業大臣によって率いられてきたネパ ール協議チームは、専門調査委員会との交渉と、2000 年 5 月のジュネーブにおける 他の関係加盟国との二国間交渉に参加した。再び、モハン・デヴ・パント商業省秘書 官は、2000 年 9 月にジュネーブでの交渉の第二ラウンドに参加した 39 。 最終的に 2003 年にカンクン会議でフルメンバーとして加盟が許可された。 一般的に、WTO 加盟によって得られる利益として、①貿易相手国に差別的な扱い を受けない、②体制改革の誘因となる、③貿易紛争処理手続きを利用できる、④将来 の多角的貿易交渉に参加できる、などが期待される 40 。 ネパールにとって WTO 加盟は、インドへの依存状態からいかに脱するかという文 脈ででてきたもので、WTO に加盟がそれを実現する機会を提供するという考えの下、 交渉が進められてきた。そのため、もちろん WTO 加盟はグローバリゼーションのプ ロセスの一部であることは間違いないが、本節で見てきたとおりネパールの文脈にお いては、単に国際関係の多角化の延長線上にあるものといえる。 58 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 グローバリゼーションと対インド関係 以上、ネパールの国際関係の歴史を振り返り、それがインドへの依存状態からいか に脱するか、そのためにいかに外交を多角化し、二国間の関係ではなく多国間の関係 にするかの努力の歴史であることを見た。前章では、ネパールにおけるグローバリゼ ーション研究を概観し、ネパールにおけるグローバリゼーションの中心議論がインド との関係に限られていることを見たが、それはこのようなネパールの置かれている国 際関係上の理由にある。 では実際グローバリゼーションの影響を受け、また WTO に加盟して、特に近年ネ パールとインドの関係はどのようになったのであろうか。そしてその結果ネパールは 地球社会においてどのような位置に置かれるようになったのであろうか。 以下に提示した貿易の傾向の表 1・2 と図 1 は、ネパールがインド経済に統合され ていっていることを示している。ネパールにとっての国際貿易の相手としてインドは、 1990 年代後半、年々貿易総量を増大し、2001/02 年度には対インド一国だけでその他 の国との貿易総量を上回った。これはネパールにおけるグローバリゼーションの中心 議論においては、グローバリゼーションによってネパールの国家自体が脆弱になりそ 表 1 貿易の傾向・インドと他国の比較(100 万ネパールルピー) 41 貿易の傾向・インドと他国の比較( インド 総量 年度 1989/90 1990/91 1991/92 1992/93 1993/94 1994/95 1995/96 1996/97 1997/98 1998/99 1999/2000 2000/01 2001/02 2002/03 2003/04 2004/05 2004/05 * 2005/06 * *最初の 8 ヶ月。 5277.0 8875.3 12695.5 14173.8 19444.3 22740.2 28081.2 30079.5 36125.4 44650.4 60880.8 71241.2 84578.3 97354.2 109516.6 127592.0 78168.6 102076.8 他国 割合 (%) 22.5 29.0 27.8 25.1 27.4 28.0 29.8 25.9 31.0 36.2 38.5 41.6 54.8 55.9 57.6 61.3 60.3 63.5 総量 18204.1 21738.7 32951.0 42308.3 51419.9 58578.5 66254.4 86110.4 80390.1 78551.2 97446.8 100100.1 69755.5 76928.5 80671.2 80586.9 51475.1 58719.7 合計 割合 (%) 77.5 71.0 72.2 74.9 72.6 72.0 70.2 74.1 69.0 63.8 61.5 58.4 45.2 44.1 42.4 38.7 39.7 36.5 総量 23481.1 30614.0 45646.5 56472.1 70864.2 81318.7 94335.6 116189.9 116515.5 123101.6 158327.6 171341.3 154333.8 174282.7 190187.8 208179.3 129643.7 160796.5 グローバリゼーションとネパール(植木竜司) 59 図 1 貿易の傾向・インドと他国の比較(割合) 42 4 /0 2 03 /0 インド 20 19 20 01 /2 0 99 97 19 95 19 00 8 /9 6 /9 4 /9 19 91 19 89 19 93 /9 /9 2 0 90 80 70 60 50 40 30 20 10 0 他国 のことによってインド経済に統合されるという論や、インドの資本と市場に対する依 存状態を増大させるだけであるという論が正しいということを示している。 スディンドラ・シャルマも表 1 と同じ資料の 2000/2001 年版を使って検証している が、本資料(2005/2006 年版)で注目すべきは、WTO 加盟後の 2003 年度、2004 年 度、そして 2005 年度の最初の 8 ヶ月を見ても、インドとの貿易の比率が増加する傾 向が変化していないことである。そのことは表 2 の 2004 年度の数値を見てもわかる。 WTO 加盟から 3 年経過しただけの結果であるが、ネパールにとって現在のところ WTO 加盟がインド経済への依存から脱却する機会になっていないことがわかる。そ してグローバリゼーションの議論としても、グローバリゼーションがネパールのイン ド経済への統合を進めており、インド経済への依存からの脱却の機会を与えるもので はないことがわかる。 ではなぜグローバリゼーションが進展する世界においてネパールはインド経済に統 合されていっているのであろうか。 スディンドラ・シャルマはネパールがグローバリゼーションのプロセスを利用する ことは困難であるため、グローバリゼーションによって逆にネパールの政治的弱みが 増大し、それに伴いネパール国家がインド経済により統合されていくとしている 43 。 またエコノミストであるミーナ・アチャルヤはネパールにおいてグローバリゼーショ ンのプロセスは、輸出を促進し貿易を多様化し海外投資を引き付けて成長率を加速し 60 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 表 2 国際貿易の傾向(100 万米ドル) 国際貿易の傾向( 44 1987 1990 1995 2000 2001 2002 2003 2004 147.6 211.3 323.5 676.3 613.8 543.0 570.8 640.5 37.2 14.8 25.0 216.8 239.3 259.8 249.5 312.5 米国 34.3 49.5 98.7 220.2 198.2 150.5 169.2 142.9 ドイツ 38.4 76.6 135.0 87.3 65.4 40.6 42.9 54.6 英国 12.5 12.2 6.6 16.2 12.9 12.1 15.2 17.8 日本 2.5 1.7 1.6 25.7 10.3 5.7 6.5 6.9 フランス 3.1 5.5 7.0 14.2 7.8 6.4 7.9 14.3 イタリア - 3.3 6.6 8.4 8.2 8.4 7.5 10.0 輸出合計 インド カナダ 0.5 1.2 3.6 7.1 10.4 5.6 7.1 11.3 スイス 6.0 12.7 11.0 11.6 5.1 3.3 3.9 4.3 中華人民共和国 0.9 4.8 0.2 6.8 4.2 4.8 4.9 7.3 1987 1990 1995 2000 2001 2002 2003 2004 466.4 586.6 767.4 1058.1 908.6 873.1 1401.7 1554.1 インド 80.1 58.5 117.8 157.7 173.5 188.3 628.4 667.9 中華人民共和国 22.4 43.1 58.7 216.8 163.5 115.6 134.2 154.7 輸入合計 - - - 85.9 92.6 98.5 124.7 156.1 シンガポール 35.2 86.4 93.2 108.4 81.6 75.8 71.0 62.4 香港(中国) 11.1 25.9 81.8 107.5 57.8 40.4 26.2 33.9 - 0.0 2.7 37.8 40.7 43.3 54.8 68.7 アラブ首長国連合 サウジアラビア … … … 31.9 34.4 36.6 46.3 57.9 28.3 39.8 142.1 31.9 33.0 24.1 30.8 41.1 ドイツ 16.2 22.6 28.1 19.4 23.3 33.2 27.8 27.2 大韓民国 25.2 19.3 14.5 21.0 16.0 19.5 33.5 35.6 クウェート タイ より多くの雇用と収益を生むことを期待されてきたが、外国の民間投資の圧倒的な部 分はインドから来ると推計されインド資本は労働者とともに来るため、雇用または収 入はそのような外資からほとんど発生していないと述べている 45 。そして結論として、 ネパールのグローバリゼーションのプロセスはむしろ大部分の人びとにとってほとん ど利益のない労使のプロセスであり、それは人びとの暮らしのより一層の破壊と収入 の不均衡を増大させるとしている 46 。 グローバリゼーションとネパール(植木竜司) 61 3 .グローバリゼーションとネパールの経験 自由化と貧困の広がり 本節においてはまずグローバリゼーションのプロセスにおけるネパールの経験を概 観し、貧困の広がりを見ていく。 国王親政・パンチャヤット体制下の 1980 年代、ネパールの国民経済は停滞あるい は衰退する様相を見せていた。1981 年国勢調査ではネパールの人口は 1502 万人で、 1980 年 代( 1981-1991 年 )の 人 口増 加 率は 年 2.08 %で あ った 47 。政 府 統計 では 、 1980/81 年の市場価格による国民総生産は 284 億 5200 万ルピーで、それを単純に人 口で割ると、一人当たりの国民所得は 1828 ルピーであった。これは、1978 年行程レ ートの 1US ドル=12.5 ルピーで計算して、名目 146 ドルになるが、実質はもっと低 かったようである。国民総生産のうち農業部門は 60.9%を占めていた 48 。 パンチャヤット政体は既存の経済的病状――低成長、財政赤字の増大、国際的貯蓄 の低下が原因でマクロ経済が不安定であった――を治すため、1985 年には国際通貨 基金(IMF)の安定化プログラムを、1987-1989 年には世界銀行主導の構造調整プロ グラム(SAP)を、1987-1990 年には IMF 出資の構造調整融資制度(SAF) 49 を受け 入れることを強制された。民営化の下部組織である民営化局も 1989 年末に財務省内 に設置された。ドナーである特に世界銀行、国連開発計画(UNDP)などは 1988 年 以来ネパールの民営化プログラムを加速するための重要な位置を占め続けた 50 。 ネパールで導入された構造調整プログラムは、実際の場ではしばしば、世界貿易秩 序と国営企業の民営化にリンクしている補助金、国内の自由化、間接課税の増大、輸 出の増大、支払残高の状況の補正を含む国家支出の減少を意味しており、多国間貸与 組織の方でこれらの手段を導入する目的は、貸付を受ける国がそれらの対外債務を支 払うことを保証することであった。構造調整プログラムをネパールが最初に導入した 時、世界銀行及び国際通貨基金は、ほとんど抵抗なしでこれらを押しつけることがで きたようである 51 。 1990 年民主化後、選挙を経てコングレス党によって形成された政府与党で首相と なった G. P. コイララは、経済の自由化とグローバリゼーションのプロセスを促進す るさまざまな立法を行った。1991 年には、政府の予算を減らし他のセクターが財源 となること、工業の手続きの許可を簡単にするためネパールの通貨決済の十分な交換 性を含めた私的セクターの改革を促すこと、事業の営業上の効率性と生産性を生じさ せること等を目的とした民営化法を制定した 52 。続いて政府は 1992 年に工業事業法、 62 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 外国投資と技術移転法等の法案を公布した。これらは外国直接投資を引き付けて、ジ ョイント・ヴェンチャーを促進するために工業部門で改革を導入するためのものであ った。数年早く導入された世界銀行からの構造調整貸付金に、国際通貨基金の命令で、 拡大構造調整融資制度の導入が 1992 年に続いた。このようにネパール政府は、防衛、 公共衛生、環境と関連したものを除いた、利益の自由化、関税及び売上税構造の単純 化、当座預金でのネパール通貨の完全交換性の実施など、すべての商品の輸出入のた めのライセンスの不要求を含む経済自由化の法案を採用していった 53 。 以上のような経済の自由化によって、ネパール経済の対外依存度は深まっていった。 長田博によると、輸出依存度は 1990 年度の 10.5%から 2000 年度には 26.6%と急激 に上がっている。輸入依存度も同時期に 21%から 34%へと上昇しており、世界経済 の影響を受けやすい構造となってきている 54 。 既述のように、1995 年に GATT に代わって WTO が設立されると、同年 12 月にネ パールは WTO のオブザーバーとして参加するようになり、2003 年のカンクン会議 でフルメンバーとして加盟が許可されている。 ラム・K. ダハルは、グローバリゼーションのプロセスは、政治経済のさまざまな セクター、労働市場、外国投資と工業セクターにネガティヴなインパクトを引き起こ していると述べている。 ダハルによると、自由化の段階で、ほとんどの小規模産業が敗北を被った。70000 ある小規模産業のうち 30000 が事実上閉鎖され、国の失業と貧困を悪化させている。 調整の期間はネパールの通貨の重大な切り下げを示した。米ドルに対して約 4 分の 1 の価値となり、資本へのアクセスの低下も一致して起こった。飲み水やミルク、日常 品、砂糖、電気、石油生産、輸送、といった項目の公のモノとサービスの値段は、人 びとの収入と給料の増加率に一致することなしに 2 倍以上になった。自由化の実行は、 ネパール人(消費者、有権者、女性、貧民、労働者)と環境への搾取を引き起こして いる。グローバリゼーションのプロセスによってもたらされたポジティヴな影響のほ とんどは地方や貧しい人びと、女性や労働者など社会の周辺に追いやられている人び とには手の届かないものであり、このプロセスはネパール社会において貧富の格差を 広げている 55 。 1990 年民主化後、選挙を経て樹立された政府は、これらの経済自由化と国際統合 から来るショックを和らげる役割を果たす必要があった。しかし政党政治家は権力闘 争に終始し、有効に対処することができなかった。大野健一は「途上国や移行国の政 府は有効な発展戦略を策定する能力をまさに欠いているというのが、残念ながら普通 の状態なのである。政府が弱いから経済が停滞する。経済の停滞は社会の混乱を招く。 グローバリゼーションとネパール(植木竜司) 63 それが政府をさらに弱体化させる。この悪循環こそが途上国が途上国にとどまりつづ ける究極の原因である。」としている 56 。 ネパールの周辺化 では、このようなグローバリゼーションのインパクトによってネパールは、地球社 会においてどのような位置に置かれるようになったのであろうか。 表 3 は世界銀行のデータに見る、1999-2003 年のネパールの諸指標であるが、各指 標 と も 低 調 で 、 顕 著 な 改 善 が 見 ら れ な い こ と が わ か る 。 国 内 総 生 産 ( GDP ) は 、 1999 年に約 50 億ドルだったのが 2003 年には約 58 億ドルとわずかに成長しているが、 GDP 成長率は 2002 年にマイナスも経験している。識字率も男女ともに低いが、特に 女性は 1999 年に 23%、2002 年には 26%と 20%台であり目立った改善が見られない。 世界銀行や国連開発計画等のレポートの数値は、ネパールが世界のなかでも貧困の 度合いの高い国であることを示している。 表 4 は世界銀行の『世界開発報告 2003』をもとに作成したものである。「一人あ たりの国民総所得(GNI)」「出生時の平均余命」「成人非識字率」「5 歳未満の死 亡率」の諸指標を、ネパールが位置する南アジア、世界の低所得国、中所得国、高所 得 国 57 、 世 界 と 比 較 し た も の で あ る が 、 「 5 歳 未 満 の 死 亡 率 」 が 低 所 得 国 平 均 の 115%より若干低い 105%であるのを除いては、ネパールがすべてにおいて最悪の指 標を示している。「一人あたりの GNI」は、低所得国平均の 430 ドルを下回る 250 ドル、「出生時平均余命」は低所得国平均と同じ 59 歳、成人非識字率は南アジア平 均の 45%よりも悪い 58%である。 また、表 5 は国連開発計画の 2005 年版の『人間開発報告書』から「人間開発指 数」 58 と、世界銀行のデータから「GDP」「GDP 成長率」の、インド、バングラデッ シュ、パキスタンそして中国との比較である。発展途上国で構成される南アジア諸国 表 3 ネパール基本データ 59 年 1999 2000 2001 2002 2003 GDP(10 億米ドル) 5.03 5.49 5.59 5.56 5.85 4 6 5 -1 3 GDP 成長率(年度・%) 220 230 240 230 識字率、女性(15 歳以上の女性・%) 23 24 25 26 識字率、男性(15 歳以上の男性:%) 58 59 61 62 一人あたりの GNI(米ドル) 出生時平均余命、全体(年齢) ― ― ― 60 240 ― ― 60 64 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 表 4 基礎開発指標の比較 60 一人あたりの GNI (米ドル)2001 年 出生時平均余命 (年)2000 年 250 450 430 1850 26710 5140 ネパール 南アジア 低所得 中所得 高所得 世界 59 62 59 69 78 66 成人非識字率 15 歳以上(%) 2000 年 58 45 37 14 .. .. 5 歳未満の死亡率 (1000 人あた り)2000 年 105 96 115 39 7 78 表 5 隣国との比較 61 国 ネパール インド バングラディシュ パキスタン 中国 人間開発指数 (HDI) 2003 年 0.526 0.602 0.520 0.527 0.755 GDP (米ドル) 2004 年 GDP 成長率(年 度・%) 2004 年 67 億 6919 億 568 億 961 億 1 兆 6 千億 3.7 6.9 5.5 6.4 9.5 のなかでも経済規模の小ささ、経済成長率の低さは際立っている。GDP 成長率を見 ると、成長著しい中国は 9.5%、インドは 6.9%であり、またバングラディシュも 5.5%といずれの国も 5%を越える成長率を見せている。それに対しネパールは 3.7% のみである。また人間開発指数でも、バングラディシュに次ぐ低い数値である 0.526 となっている。 経営コンサルタント兼ケンブリッジ大学シドニー・サセックス・カレッジ上級研究 員のアジット・S. バラと、フランス人でベルギーのカトリック・ルーヴァン大学経 済開発学教授のフレデリック・ラペールは、彼らの共著『グローバル化と社会的排 除:貧困と社会問題への新しいアプローチ』において、「WTO に加盟するためマラ ケシュ協定を批准した発展途上国の多くが、効果的な対外自由化政策を実施してきた。 しかしながら、統合のもたらす経済機会は先進工業国にあまりにも集中したままで、 発展途上国にはほとんど行きわたっておらず、世界の他の部分ははるか後方にとり残 されつつあるという事実から目をそむけることはできない」と論じている 62 。 ネパールは WTO 加盟をするなどして、グローバリゼーションの過程に積極的に参 加することでインドへの依存状態から脱しようと試みてきたが、現実には、ネパール グローバリゼーションとネパール(植木竜司) 65 にとってグローバリゼーションのプロセスを利用することは困難であった。バラとラ ペールは、グローバルなレベルでのマージナル化の過程を説明するために、世界資本 主義の発展における「中心‐周辺」類型といった観念や、ラテンアメリカにおける 「従属理論」をあげている 63 。ネパールは一方で地球社会において「周辺」の地位に 位置し、他方でますます経済的にインドに「従属」していっている。 4 .結論 本稿は、グローバリゼーションが後発発展途上国であるネパールにどのような影響 を及ぼしているかを検証した。本研究から、グローバリゼーションとネパールについ て以下のことが明らかになった。 第一に、ネパールにおいてはグローバリゼーションの主な議論では、一方はグロー バリゼーションによってネパールの国家自体が脆弱になりそのことによってインド経 済に統合されると論じ、他方ではグローバリゼーションを WTO に参加することとし て捉え、そのことがインドへの依存から脱する機会になると捉えており、多くの研究 者は、「グローバリゼーション=WTO 加盟」と捉え、このことがネパールを外の世 界へ開く機会をあたえると考えているが、WTO 加盟後のデータによればグローバリ ゼーションによりネパールはインドへますます統合・従属していっている。 第二に、グローバリゼーションはネパールに貧困と貧富の格差の増大というネガテ ィヴなインパクトを及ぼし、ネパールは地球社会においてまずます周辺化されていっ ている。 グローバリゼーションによってネパールにもたらされた貧困や貧富の格差は、マオ イストの台頭の一因となったと考えられネガティヴなインパクトであったといえる。 一方、ネパールにおけるグローバリゼーションの議論においてネガティヴに論じら れている「インドへの統合」は、短期的に見ればネガティヴなインパクトであると考 えられるが、長期的に見た場合本当にネパールにとってネガティヴなことなのであろ うか。このことは、中国を含めたこの地域の国際関係の動向とともに、今後検討をし ていく必要がある。 注 66 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 1 ネパールにおけるグローバリゼーションに関する議論について詳しくは、拙稿「ネパールに おけるグローバリゼーション研究」『ソシオロジカ』第 30 巻第 1 号(通巻 50 号)、2005 年 12 月、97-109 ページ参照。 2 大 学 書 林 の 『 ネ パ ー ル 語 辞 典 』 で は 宇 宙 、 森 羅 万 象 、 世 界 、 と さ れ て い る 。 ま た 、 Ratna Pustak Bhandar の Ratna’s Nepali English Nepali Dictionary では、the whole world; the earth; the universe と な っ て い る 。 ( 三 枝 礼 子 編 著 『 ネ パ ー ル 語 辞 典 』 大 学 書 林 、 1997 年、837 ページ。Babulall Pradhan, Ratna’s Nepali English Nepali Dictionary, Nepal, Ratna Pustak Bhandar, Trimurti Prakashan, 2002, p. 769.) 3 Ratna’s Nepali English Nepali Dictionary では、extending over; pervading となって いる(Babulalla Pradhan, op.cit., p. 789)。 4 Jan Aart Scholte, “The globalization of world politics,” John Baylis and Steve Smith eds., The Globalization of World Politics: An introduction to international relations, Second Edition, Oxford University Press, 2001, p. 14. 5 Bruce Mazlish, “Comparing Global History to World History,” In t erd i sci p l i n a ry Hi st o ry, Wi n t er 1 9 9 8 , Vol. 2 8 , Issu e.3 , p . 3 8 9 . Journal of 6 Rishiraj Baral, “Sanchar Bhumandalikaran ra Sanskriti Samrajyabad,” Nawa Chetana, 3:5, 1998, pp. 6-13.(ネパール語) 7 Ratna’s Nepali English Nepali Dictionary で は 、 the earth; a spherical body; the globe と な っ て い る ( Babulalla Pradhan, op.cit., p. 576 ) 。 『 ネ パ ー ル 語 辞 典 』 で は 1)地球、2)地表、地上、土地、となっている(三枝前掲書、679 ページ)。 8 井上恭子「ヒマラヤン・リージョンにおける国家関係――インド・ネパール関係の展開を中 心に」日本国際政治学会編『国際政治』第 127 号「南アジアの国家と国際関係」2001 年 5 月、97-98 ページ参照。 9 同上、98 ページ。 10 西澤憲一郎『ネパールの歴史――対インド関係を中心に』勁草書房、1985 年、140 ページ。 11 井上前掲論文、98 ページ。 12 西澤前掲書、140-141 ページ。 13 同上、141-142 ページ。 14 井上前掲論文、99-100 ページ。 15 西澤前掲書、141 ページ。 16 同上、164-166 ページ参照。 17 井上前掲論文、100 ページ参照。 18 鳥羽嶺次郎「ネパール:改憲と国際関係」『海外事情』38(12)、1990 年 12 月、35 ペー ジ。 19 井上前掲論文、102 ページ。 20 佐伯和彦『ネパール全史』明石書店、2003 年、664 ページ。 21 井上前掲論文、104 ページ参照。 22 西澤前掲書、174 ページ。 23 Bama Dev Sigdel, Nepal’s Relation with Japan and China, Centre for Policy Studies, 2003, p. 109. 24 浦野起央『国際政治における小国 25 西澤前掲書、189 ページ。 26 浦野前掲書、185 ページ。 27 同上、186 ページ。 28 同上、187 ページ。 浦野起央著作集(4)』南窓社、1992 年、185 ページ。 グローバリゼーションとネパール(植木竜司) 67 29 佐伯前掲書、662-663 ページ参照。 30 浦野前掲書、192-193 ページ。 31 佐伯前掲書、640-641 ページ参照。 32 同上、640 ページ。 33 同上、642 ページ。 34 浦野前掲書、192 ページ。 35 西澤前掲書、1985 年、298-300 ページ参照。 36 佐伯前掲書、664-665 ページ。 37 Sudhindra Sharma, ‘NEPAL: Integration in the In dian econom y’, Juhani Koponen ed., Between Integration and Exclusion Impacts of Globalization in Mozambique, Nepal, Tanzania and Vietnam, Institute of D evelopments Studies, Univers it y of Helsinki Policy Paper, 7/2003, p. 81. 38 Ibid., p. 78. 39 Ramesh Bikram Karky, “Review of the Status of the Nepalese Membership Procedure to the WTO,” Ananda P. Shrestha ed., WTO, Globalization and Nepal, Nepal Foundation for Advanced Studies, 2001, p. 56. 40 大野健一『途上国のグローバリゼーション 年、6 ページ。 41 自発的発展は可能か』東洋経済新報社、2000 Ministry of Finance, Economic Survey Fiscal Year 2005/2006, Government Ministry of Finance, 2006, Table 6.1 をもとに作成。 His 42 表 1-1 の割合を、図にしたもの。 43 Sudhindra Sharma, op.cit., pp. 73-74. 44 Asian Development Bank, Nepal: Key Indicators. (h t t p :/ / www.ad b .org/ Docu men t s/ B ook s/ Key_ In d i cat ors/ 2 0 0 5 / p d f/ NEP.p d f 10 月 28 日アクセス) Majesty’s 2005 年 45 Meena Acharya, ‘Globalization Process and the Nepalese Economy’, Madan K. Dahal ed., Impact of Globalization in Nepal, Nepal Foundation For Advanced Studies/ Friedrich-Ebert-Stiftung (NEFAS/FES), 1999, pp. 26-27. 46 Ibid., p. 45. 47 International Centre for Integrated Mountain Development/ Central Bureau of Statistics, Mapping Nepal Census Indicators 2001 & Trends, International Centre for In t egrat ed M ou n t ai n Develop men t , 2 0 0 3 , p . 2 4 4 , p . 2 5 2 . 48 西澤憲一郎『ネパール社会構造と政治経済』勁草書房、1987 年、194-195 ページ参照。 49 低所得国に対し低金利(0.5%)、長期(10 年)の譲許的条件で支援を行う目的で、1986 年 3 月 に 設 置 さ れ た IM F の 融 資 制 度 。 1987 年 12 月 に 拡 大 構 造 調 整 フ ァ シ リ テ ィ (ESAF)に引き継がれた。 50 Ram K. Dahal, ’ Impact of Globalization on Nepalese Polit y’, Madan K. Dahal ed., Impact of Globalization in Nepal, Nepal Foundation For Advanced Studies/ Friedrich-Ebert-Stiftung (NEFAS/FES), 1999, p. 55. 51 Sudhindra Sharma, op.cit., p. 78. 52 Ram K. Dahal, op.cit., p. 56. 53 Sudhindra Sharma, op.cit., p. 79. 54 長田博「第 2 章 経済・開発計画」、国際協力事業団/国際協力総合研修所『ネパール国別 援助研究会報告書――貧困と紛争を越えて』2003 年、62 ページ。 55 Ram K. Dahal, op.cit., pp. 55-56. 56 大野前掲書、29 ページ。 68 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 57 1 人あたりの GNI が、低所得国は 745 ドル以下、中所得国は 746~9,205 ドル、高所得国 は 9,206 ドル以上の国(世界銀行(田村勝省訳)『世界開発報告 2003』シュプリンガー・ フェラーク東京、2003 年、468 ページ)。 58 人間開発指数は、出生時平均余命、識字率、就学年数、購買力で調整した 1 人当たりの国内 総生産(GDP)を総合した指標。 59 World Bank, World development indicators database. (http://www.worldbank.org/data/onlinedatabases/onlinedatabases.html 月 24 日アクセス) をもとに作成。 2005 年 11 60 世界銀行前掲書、447、449 ページ。 61 United Nations Development Programme, Human Development Report 2005, Oxford University Press, 2005, pp. 220-221.と World Bank, op.cit., (2005 年 11 月 24 日ア クセス)をもとに作成。 62 アジット・S. バラ/フレデリック・ラペール共著(福原宏幸/中村健吾監訳)『グローバル 化と社会的排除:貧困と社会問題への新しいアプローチ』昭和堂、2005 年、224-225 ペー ジ。(A. S. Bhalla and Frederic Japeyre, Poverty and Exclusion in a Global World, Second Revised Edition, Palgrave Macmillan, 2004.) 63 同上、182 ページ。 69 公教育における宗教教育とナショナリズム ――日本の「教育改革」を事例として―― 宮川 真一 Religious Education and Nationalism in Public School: The Case of “Educational Reform” in Japan Shin-ichi Miyakawa はじめに 2005 年 3 月、第 19 回国際宗教学宗教史会議世界大会が東京都内で盛大に開催され た。同会議は 1950 年に創設され、現在世界 40 カ国以上の研究団体・学会が所属す る世界最大の宗教研究者の団体であり、5 年ごとに世界大会を行っている。「宗教― ―相克と平和」を総合テーマとしたこの大会には、海外からおよそ 700 人、国内か ら約 800 人以上の研究者が参加し、学際的な研究交流の場となった。 1 週間にわたる大会の 2 日目、国連大学共催パネル「宗教と教育」が開催された。 ここでは筆者を含め世界各地から多数の参加者を得、熱のこもる議論が展開されてい る。このパネルの主旨は次のようなものであった。 「現代社会において宗教と教育はどのように関わっているか、また関わることがで きるかは、本大会の総合テーマである『宗教――相克と平和』に直結するテーマで ある。宗教の多元的状況の把握、その中でのアイデンティティの形成、宗教間の相 互理解と共存といった今日的な問題は、宗教と教育が交錯する場において具体的な 形をとると考えられる。…「公教育と宗教」「宗教教育と平和」の二点について、 宗教と教育の関係をアジア・アフリカ・ヨーロッパ・アメリカの事例を織り交ぜな がら広く議論していきたい。 1 」 公教育における宗教教育は、ナショナル・アイデンティティと密接に関連するもの である。公教育における価値教育の内容は国ごとに様々であるが、一般的には欧米等 70 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 の「先進国」では多文化教育、市民性教育という側面が強く、アジア等の「発展途上 国」では宗教教育、道徳教育を通して国民統合を志向する傾向にある。これまで近代 国家というものは、人々の帰属意識を国家に集中させるような国民教育制度や言語政 策によって、一定の価値、信条を「アイデンティティの内実」として注入してきた。 江戸時代には「日本人」というアイデンティティはなかった例からも、ナショナル・ アイデンティティそのものが近代の産物であることが了解できる。 ナショナル・アイデンティティとはネイションへの帰属意識であり、ネイションの 自己規定でもある。ポスト近代と呼ばれる現代世界では、ミクロレベルでは家族が、 マクロレベルでは国際社会が脱近代化していくなか、国民国家という近代文明の所産 も変動を免れることはできない。政治的側面を重視し、統合を志向した国家ナショナ リズムは動揺している。とともに、文化的側面を重視し、分離・独立を志向する非主 流派民族のエスノ・ナショナリズムが覚醒した。そして、人種的側面を重視し、排除 を志向する主流派民族の極右ナショナリズムが台頭するのである。さらに、脱近代化 は再聖化も促した。世界各地で宗教的ナショナリズムが形成されつつある。現代世界 におけるナショナル・アイデンティティは多元化、再聖化という変容を遂げつつある 2 。そして、これらナショナリズムのどの要素に自己を同一化するかによってナショ ナル・アイデンティティは異なったものになるため、複数のそれが矛盾・葛藤・分裂を 起こすことは珍しくない 3 。 本稿は、現代世界の公教育において、宗教教育とナショナリズムがいかに関わって いるかを考察するものである。その際、1990 年代の日本に浮上した「教育改革」を 事例として取り上げる。まず、公教育が依拠する近代科学技術文明の世界史における 位置づけを検討し、現代世界における宗教復興を概観する。次いで、現代世界の公教 育における宗教教育の現状と、戦後日本の公教育における宗教教育の法制・政策を整 理する。そして、近年の「教育改革」と教育基本法「改正」の動きを検討し、道徳教 育の副教材として全国に配布された『心のノート』の問題性を明らかにする。最後に、 これからの日本の公教育で望まれる宗教教育の在り方を提唱したいと思う。 1. 近代科学技術文明の位置づけ 比較文明学会名誉会長の伊東俊太郎は、「新しい人類史の時代区分――5 つの『革 命』について」と題する論考の中で、人類史を次のように大きく区分することを提唱 している。 第一期は「人類革命」から「農業革命」まで(前 200 万年-前 1 万年)である。こ 公教育における宗教教育とナショナリズム(宮川真一) 71 の時期に四つの人種が形成され、この時代の人類は狩猟採集を生活の糧とし、石器、 火、調理を開発した。第二期は「農業革命」から「都市革命」まで(前 1 万年-前 3500 年)である。この時期は東南アジア、西アフリカ、メソポタミア、新大陸で野 生植物の栽培化が進んで農業が始まり、牧畜も開始された。農具、土器も製作される ようになる。第三期は「都市革命」から「精神革命」まで(前 3500 年-前 800 年)で ある。この時期にはメソポタミア、エジプト、インド、中国に都市文明が成立した。 ここに初めて王が出現して国家が誕生し、社会の階層化が進み、文字をはじめとする 知的装備が開発され、商業が盛んになる。また、精神的統合の原理として宗教の体系 が生み出される。ここに初めて人類は未開から文明へ移行したのである 4 。第四期は 「精神革命」から「科学革命」まで(前 800 年-1600 年)である。ヤスパースは「精 神革命」を「枢軸の時代」と呼んだ。前 8 世紀から前 4 世紀にかけてギリシャ、イン ド、中国、イスラエルにおいてほぼ並行して深い体系的な思想がはじめて生まれ出て いる 5 。 第五期は「科学革命」以後(1600 年-1950 年)である。かつて西欧文明は、ローマ およびシリア文明の周辺文明 6 として出発した。西欧文明の誕生は、カール大帝が西 ローマ帝国の理念を復興し、カトリック世界を統一した 8-9 世紀にもとめられる。ア ラビアを経てギリシャ文明が入ってきた「12 世紀ルネサンス」において、西欧文明 は本格的に文化的離陸を開始する。そして 17 世紀の宗教戦争とそれに続く世俗化 7 、 「科学革命」によって近代世界の知的センターとなり、18 世紀に啓蒙思想を創出す るとともに経済的には「産業革命」を遂げた。西欧国民国家はこの資本主義的拡張に よって、地球のほとんどをその支配下におき、19 世紀は世界のいたるところが西欧 文明の「周辺文明」と化するがごとき観を呈した時代といえよう 8 。 ここで「近代科学」とは、近代西欧で生まれた経験的事実についての新しい説明体 系の総称を意味している。その中核をなすのは自然現象についての説明体系であるが、 心理現象や社会現象も含む現象一般の説明体系として考えるのが適切であり、今日の 科学的方法の根幹をなしている。近代科学は西欧文明と並行して発展してきたのであ り、近代科学の思想的基盤は西欧近代文明を支える思想的基盤でもあった。それは第 一に、主体と客体の分離である。これは認識主体と認識対象の分離といってもよく、 これによって対象に対する観察・実験が可能になった。第二に、要素還元主義である。 これは対象を捉える際に対象を丸ごと捉えるのではなく、対象を構成する要素に注目 して、要素の働きや要素間の相互連関によって対象を捉えようとする方法である。第 三に、自然を支配し加工するという自然観である。これは自然と人間を分離するとい うキリスト教的な世界観に基づくものであり、人間は神によってつくり出された自然 72 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 を人間に便利なように加工していくという考え方である 9 。 こうした近代科学の発展のなかで最も注目されたのは、近代科学が技術との密接な 結びつきを示すようになったことである。技術とは、科学的知識が人間の社会生活に 適用されたものであり、近代産業文明はこの近代的な科学・技術なしには誕生しなか ったと考えられる。近代科学への批判は 19 世紀末以降、近代科学のもつ極めて楽観 主義的な科学信仰への懐疑として提出されてきたが、とくに 20 世紀後半以降の世界 が環境破壊、「成長の限界」という現実に直面してからが顕著であった。それゆえ現 代は、近代科学の見直し、科学の再編が喫緊の課題となっている時期であるといえよ う 10 。 2. 現代世界における宗教復興 現代世界における近代科学の権威喪失に呼応するかのように、20 世紀の後半から 世界各地において「宗教復興」、より厳密に言えば、政治的次元における宗教的諸勢 力の顕在化・活性化の現象と、政治次元における宗教化の現象が観察されている。従 来の研究では、世俗化や政教分離を前提とする近代国家およびそれを行為主体とする 国際システムにおいては、宗教が果たす役割は非常に小さいということになっていた。 「中世」は「宗教の時代」であり、それを超克したところに近現代の政治のあること が自明視されていたからである。この前提は、20 世紀後半における「宗教復興」に よって大きく揺らぐことになる 11 。 20 世紀末の世界に生起しつつある「宗教復興」の動向が暗示する意味を、中野実 は次のように整理している。①政治の世俗化を進め、「理性と合理性」への信頼によ って創出されてきた近代的な政治・経済システムは、必ずしも公正な富の配分、世界 の安定と平和の配分、環境の保全を保障しなかった。②近代的政治・経済システムに 組み込まれ、長く植民地支配下に置かれた第三世界の多くの諸国も西欧型の政治・経 済システムを採り入れ、「主権国家」としての体裁を整えたものの首尾よく「国民」 形成をなし得ず、内部矛盾が一挙に吹き出しつつある。これは旧社会主義諸国にも概 ね妥当する。③民族-宗教的要因によって国民国家の矛盾や擬制が明らかにされ、国 家が動揺している事例は、「エスノ・ナショナリズム」運動として先進工業諸国にも 見られる。④近代的システムそのものがその原理においても制度・機構においても根 本的な問題を内包しているのではないかと考えられる。⑤とりわけ民族-宗教的な要 因は、単に近代システムのもつ本来的な欠陥や逆機能に対する反作用だけでなく、も う少し根本的なアンチテーゼが示唆されている。それは、「近代」そのものの揺らぎ、 公教育における宗教教育とナショナリズム(宮川真一) 73 行き詰まりを予感する懐疑であり、近代システムが約束・予定する「発展」とは異な る方向への流れが確実に強く流れ始めていると見ることができる 12 。 現代世界における宗教復興の特徴を中野毅に従って整理すれば、第一に、民族主義 またはナショナリズムの台頭と深く結びついている点にある。旧ユーゴの状況は、伝 統宗教と各民族とが再結合して敵対的な民族主義が勃興している典型的な事態である。 宗教が再びナショナリズムの源泉として利用され、その結果として、社会の主流派的 宗教伝統と異なる新宗教運動が抑圧・排斥される事態も顕著に見られるようになった。 第二に、聖典の無謬性と文字どおりの受容を至上のものとして主張し、合理主義をあ る意味では否定して社会生活全体を宗教的倫理で律しようとする「ファンダメンタリ ズム」が台頭してきたことである。第三に、国境を越えて各地で展開しているさまざ まな新宗教の多くが、近代西欧文明を支えた、絶対神への信仰を背景とする禁欲的プ ロテスタンティズム的なものではなく、人間や自然に内在する神秘的な力や霊性を強 調する宗教運動であることである 13 。 21 世紀を迎えた現在、17 世紀以来の近代の科学技術文明は限界を露呈し、人類は さらにもう一つの新しい文明を模索している。伊東俊太郎によれば、現代という第六 の文明転換期は、人間の生き方の根本的な変革を要求している。それは「心と物の調 和」「精神と物質の統合」であるとし、次のように述べている。 「『科学革命』以後の近代科学技術文明は、物質・エネルギーの極大を求め、そ のことにより人間の福祉を増大しようとしたが、そのことは同時に自然を搾取し て生態学的危機を生ぜしめたのみでなく、精神的な価値をますます稀薄なものに している。先進国においても物質的豊富さと裏腹にさまざまな精神的アノミーが 発生している。『情報革命』も同様であって、情報ばかり多くなっても、心はま すます空虚になり、他律的な情報にふりまわされて自律性を失い、人間は無気力 になって生きがいを消失してゆく危険もある。物質や情報のような外的なものが 豊富になればなるほど、人間はその内部を充実させて自立し、それらの外的な豊 富さを心の内的価値と結びつけ、それらをコントロールしてゆかねばならない。 そのようにして『心と物』との両面において調和した豊かさをもつことが、真の 人間であろう。これを筆者は『人間革命』Human Revolution とよび、第六の文 明の変革期の象徴としたい……。そしてこのような『心と物の統合』というとき、 古くから東洋の精神文化の伝統を受け入れ、かつまた近代において西洋の科学技 術を吸収しその先端に立つ日本は、この新たな統合の文明史的課題を担っている と言えるであろう。 14 」 74 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 3. 世界の公教育における宗教教育 近代国民国家とその教育制度は、元来理念的には、人間の基本的権利や個人的な意 思決定などを尊重する西欧人権思想や政治的民主主義、あるいは近代科学の成果など といった近代西欧文明の価値を前提にして成立、発展してきた。公教育とは「国民国 家や地方自治体などの公権力が管理運営し、(1)義務制、(2)無償性、(3)世俗 性(宗教的中立性)を備えた学校で行われる教育」を意味している。この公教育の担 い手である近代学校は西欧における産業革命以降、産業化の進展とともに世界中に普 及し発展してきた。それゆえ近代学校は近代性を象徴する典型的な社会制度であり、 国民意識の形成、経済発展、社会病理の改善、差別や偏見の除去などが期待されてき た。しかし実際には、学校教育はそうした期待に十分に応えてこなかったのみならず、 様々な課題や問題が噴出した 15 。 鈴木俊之によれば「21 世紀を迎えた現在、先進諸国では公教育をとりまく環境が 大きく変化している。1990 年代初頭の冷戦構造の崩壊や経済のグローバル化の進展 とともに、近代的な価値観にもとづく国民教育だけでは、公教育として不十分である ことがしだいに明らかになってきた。新たに公教育に求められていることの 1 つに、 価値観が多様化した多文化・多元化社会のなかで生きていくために必要なスキル、つ まり他者と共生する能力をもった人間を育てることがあげられるだろう。そのために は他者の価値観や宗教などを知らなければならない 16 。」一方、アジアをはじめ多く の発展途上諸国では外来の文化や情報が無制限に流入するようになり、ようやく育ち つつあった国民意識や宗教的規範が危機にさらされるようになった。そのため伝統的 な価値観を擁護すべく道徳教育や宗教教育といった価値教育の見直しが行われ、その 強化や新たな導入が政策として計画・実施されてきた 17 。 従来、宗教教育は通常次の三つに分類されてきた。「宗教知識教育」は「宗教に関 する客観的な知識を理解させる教育」であり、ほとんどの国では、歴史、社会、道徳、 美術、音楽などの教科で行われている。「宗教的情操教育」は「人間形成にとって不 可欠だと考えられる究極的・絶対的な価値に対する心のかまえを育成する教育」であ り、「宗派教育」は「特定の宗教の立場から、その宗教の教義や儀礼を通じて信仰へ 導いたり信仰を強化するための教育」である 18 。 井上順孝は「宗教文化教育」という新しい用語を提起し、公教育での導入を提唱す る。宗教文化教育とは、「文化としての宗教についての理解を深める教育というふう に言い換えることができる。文化としての宗教とは、日本及び近隣諸国、そして世界 の主な宗教の習俗、伝統的宗教についての基礎知識、日本人の宗教に対処する態度の 公教育における宗教教育とナショナリズム(宮川真一) 75 特徴、世界の諸宗教の現状についての理解を深めることを目指すものである。宗教情 操というような曖昧とした概念ではなく、個別の宗教について、その文化的側面につ いての理解を深めるということである。知識と言ってもいいが、宗教知識教育という 場合にはすでに固定した解釈がある。また、文化の理解には知識だけではなく、共感 とか理解しようとする態度とか、判断力といったものが求められる 19 。」 公教育における宗教の扱いは国によって大きく異なっている。各国憲法の教育条項 で宗教がどのように規定されているかを基準にすると、次の三つの類型に分けられる。 第一は、「政教合一主義」であり、イギリス、北欧諸国、イスラム文化圏のアラブ諸 国、インドネシアなどが含まれる。政教合一主義は政治も宗教も唯一の意思によって 統治されるべきだという考え方であり、特定の宗教が国教として採用されている。第 二は、「政教分離主義」で、アメリカ、フランス、ロシア連邦、中国、日本などが含 まれる。政教分離主義は国家と宗教が相互に干渉しないことを原則とする。この立場 に立つと、宗教は原則として公教育から排除されるが、実際にはどの国でもなんらか の形で宗教教育は容認されている。第三は、「政教折衷主義」で、ドイツ、ベルギー、 ポルトガル、フィリピン、コロンビアなどが含まれる。政教折衷主義は国家と宗教の 分離を意識しながら、領域によっては両者が法的制度的関係をもっていることを認め る考え方である。この立場に立つ国々では特定の宗教が特権的に扱われるが、それと 同時に国家は宗教に対して一定の監督権をもっている 20 。 4. 日本の公教育における宗教教育 戦後の日本は連合国による占領体制のもと、国政の根本的改革を実施することとな り、教育の分野における宗教の位置づけも大きく変化した。1946 年に公布された日 本国憲法では、政教分離・信教の自由の原則が明確になっている。その第 20 条では 次のように規定する。「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗 教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。②何人も、 宗教上の行為、祝典、儀式または行事に参加することを強制されない。③国及びその 機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」1947 年に制定さ れた教育基本法では、日本国憲法の精神にそった宗教教育の在り方が明記されている。 その第 9 条では次のように規定する。「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活 における地位は、教育上これを尊重しなければならない。②国及び地方公共団体が設 置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」 このように、憲法および教育基本法により、国公立学校における宗教的中立の原則が 76 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 確立されることになった 21 。 戦後、文部省は学校における宗教教育を「宗教的情操」の涵養という表現を用い、 学習指導要領に「生命に対する畏敬の念」「人間の力を超えたものに対する畏敬の 念」として記述してきている。だが、「宗教的情操」教育は憲法第 20 条、教育基本 法第 9 条の関係で問題があるとも指摘されてきた。また、戦前・戦時中に「宗教的情 操」の名のもとに国家神道が押しつけられてきたという事情もある。戦後の道徳教育 で「生命に対する畏敬の念」が登場したのは、1966 年の中央教育審議会(以下、中 教審)答申の別記として発表された「期待される人間像」である。その第二部「日本 人として期待されるもの」は、「生命の根源に対して畏敬の念を持つ」ことであり、 「生命の根源すなわち聖なるものに対する畏敬の念」は「心の宗教的情操」であると している。しかし、「期待される人間像」に「宗教的情操」の育成を持ち込むことに ついては、その当時から厳しい批判があった。また、その第 4 章で「天皇への敬愛の 念をつきつめていけば、それは日本国への敬愛の念に通ずる」と記述されていること と、「宗教的情操」とは無関係ではないだろう。また、「生命に対する畏敬の念」は、 学習指導要領の改訂ごとに重点化されてきている。1969 年度版「中学校学習指導要 領」では、説明の中で記述されるだけであったが、1977 年度版「中学校学習指導要 領」では一つの徳目として格上げされる。1989 年度版「中学校学習指導要領」にお いては、道徳教育の目標、四つの視点の一つとして位置づけられ、1998 年度版「学 習指導要領」では「教育課程編成の一般方針」の中に道徳教育が位置づけられ、「日 本人の育成」に向けて道徳教育の役割を重要視している 22 。 5. 「教育改革」と教育基本法「改正」 1950 年以降、教育基本法「改正」の問題は脈々と続いてきた 23 。そして、近年「改 正」の動きはこれまでにない早さで進められている。こうした教育基本法「改正」の 動きは、そもそも深刻な教育の荒廃をどう解決するか、教育をどう変えていくのかと いう模索のなかから出てきたわけではなかった。「改正」は教育の外から教育に求め られてきた課題を解決するため、既存の社会システムを大きく変えていく改革の一環 として出てきていることを指摘しつつ、渡辺治は次のように述べる。 「1990 年代以降、支配層は既存の社会政治システムの大規模な改革に乗りだしま した。その改革は、日本企業のグローバリセーションを背景として起こっている世 界的な改革の動きの一環ですが、それには大きく言って二つの柱があります。一つ は日本の憲法と戦後民主主義のなかで裏打ちされた小国主義的政治システムを変え 公教育における宗教教育とナショナリズム(宮川真一) 77 て、世界のグローバル秩序に日本も普通の国として参画していくという意味での軍 事大国化、大国主義的な改革です。グローバル展開をしている日本の企業の安定し た活動や特権を守るために、日米同盟を強化し、自衛隊の海外出動をはじめとした 試みが行われていることは周知の通りです。もう一つは近年のグローバリゼーショ ンのなかで日本企業の競争力が減退し、それが大きな原因になって深刻な不況を克 服できない。この不況をグローバル企業の競争力を強化することによって突破しよ うとする新自由主義改革です。教育改革も、その二つの改革の一環として 90 年代 に台頭したと言えます 24 。」 近年の教育基本法「改正」の動きが表面化したのは、1990 年代末頃のことである。 「日の丸・君が代」を国旗・国歌とする法律が成立した 1999 年 8 月、自民党の教育 基本法研究グループが教育基本法見直しを決定。小渕首相は私的諮問機関として 2000 年 3 月に発足した教育改革国民会議に見直しを指示した。2000 年 1 月、小渕首 相の私的諮問機関「21 世紀日本の構想」懇談会が、「国家にとっては教育は一つの 統治行為」という最終報告を出す。同年 9 月、「新しい教育基本法を求める会」が、 森首相に「新しい教育基本法を求める要望書」を提出した。2001 年 11 月、遠山文科 相が中央教育審議会に教育基本法の見直しを諮問し、中教審は 2003 年 3 月に教育基 本法を「改正」すべしとの答申を出している。2003 年 1 月、「日本の教育改革」有 識者懇談会が発足。これは「新しい教育基本法を求める会」を発展的に改組した、教 育基本法「改正」を推進する右派の大同団結である。同年 5 月、自民党と公明党は 「与党・教育基本法に関する協議会」を設置して、与党間で「改正」内容についての 協議を開始した。2004 年 1 月、自民党は党大会で決定した「平成 16 年度運動方針」 の「重点政策」に、「教育基本法改正に向けた国民運動を展開する」と明記。同月、 自民党と公明党は名称に「改正」を入れて、「与党・教育基本法改正に関する協議 会」と改称して、不一致のある愛国心や宗教教育について協議を続けている。同年 2 月、自民党と民主党の有志による超党派の議員連盟「教育基本法改正促進委員会」が 発足し、同年 6 月に「新教育基本法大綱」を発表している 25 。 こうした教育基本法「改正」の動きに対し、各界から批判が寄せられることになる。 2000 年 9 月、創価学会の池田大作名誉会長は、「『教育のための社会』目指して 21 世紀と教育――私の所感」と題する教育提言を発表。2001 年 1 月には「教育力の 復権へ 内なる『精神性』の輝きを」との提言を再度行なった。それらの中で、大局 的な観点から教育基本法の拙速な見直しは慎むべきこと、公教育で「宗教教育」を強 制すべきではないことを提唱した 26 。2002 年 9 月、日本弁護士連合会は『教育基本法 の在り方に関する中教審への諮問及び中教審での議論に対する意見書』を発表し、法 78 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 的観点から「改正」反対を主張している 27 。2003 年 4 月には「教育基本法改正問題を 考える――中教審答申の検討」と題する公開シンポジウムが開催された。これは教育 学関連の 15 の学会が共同で主催したもので、学術的・教育的観点から「改正」批判 が展開された 28 。2005 年 1 月には、「教育の国家統制をめざす 教育基本法『改正』 法案の国会提出に反対する文化人一二九人の声明」が発表された。これは思想・哲学 的観点から「改正」反対を訴えるものとなっている 29 。 6. 道徳副教材『心のノート』 2002 年の春、全国の小中学生に『心のノート』という名の本が配布された。それ には小学 1・2 年生用、3・4 年生用、5・6 年生用、中学生用の 4 種類があり、教科書 よりもきれいに彩色され、メルヘンチックな絵や写真にあふれている。文部科学省が 道徳教育の切り札として作成したこの本には、7 億円余りの予算が投じられた。初版 で 1200 万冊出版され、以後 2 年ごとに 450 万冊増刷りということになる。しかし、 この本には著者名がなく、「文部科学省」とだけ記されている 30 。 『心のノート』が登場した直接的な背景には、これからの心の教育の在り方が示さ れた 1998 年の中教審答申「新しい時代をひらく心を育てるために」の第 4 章「心を 育てる場として学校を見直そう」における提言があげられる。この答申をうけて、 「心の教育」が政府の政策になり、「心の教育」についての国会質問回数は、1998 年(69 回)、2000 年(1307 回)、2001 年(2714 回)、2002 年(27 回)と推移した。 『心のノート』が完成したのは 2002 年 3 月のことである。こうした質問の量的な多 さとともに、『心のノート』作成のために改憲団体である日本会議と連携をとる国会 議員が動き、そして、自民党文教族の国会議員、文部副大臣、文部大臣が動くという 事態が進行していた 31 。 では、この『心のノート』はどういう意図のもとに作成されたのか。文部科学省教 科調査官を務め、『心のノート』作成にも関わった押谷由夫によれば、第一に「子ど もたちへの一生の宝となるプレゼント」であり、「これは全教育活動を通しての道徳 教育に資する教材ということになる」という。第二に、「学校発信の社会変革を」目 指しており、「『心のノート』は、学校の中だけで留まっているのではなく、家庭、 地域社会へと広がっていく、そこを巻き込んでいくように活用される」ことが期待さ れているという 32 。 『心のノート』を学校現場に導入する過程を、永野恒雄は次のように批判する。 「導入にあたって、十分な教育的検討がなされたとは思えない」、「導入の過程にお 公教育における宗教教育とナショナリズム(宮川真一) 79 いて、学校や教師に十分な説明がなされていない」、「『心のノート』の法的性格に ついて、十分な説明がない」、「導入の事実が父母・国民に周知されているのとは思 えない」、「導入後の子ども・父母・教師の反応もよくわからない」と、何から何ま で無理があるという 33 。 7. 宗教的情操教育と愛国心 中学生用『心のノート』は、学習指導要領における 23 の価値項目を「あなたが手 にしているのは 23 の鍵 あなたの生きていく世界を開く鍵」として、このノートに よって「自分さがしの旅」「自分づくりの旅」に出ようと呼びかける。そして、四つ の扉が用意されているが、それは学習指導要領の「四つの視点」にそって構成されて いる。第一の扉が「自分を見つめのばして(自分自身)」であり、第二の扉が「思い やる心を(他人とのかかわり)」、第三が「この地球に生まれて(自然や崇高なもの とのかかわり)」、そして第四の扉が「社会に生きる一員として(集団や社会とのか かわり)」である。この扉を開けるために、23 の鍵を自らのものにして「自分さが し」と「自分づくり」の旅をしていくという設定である 34 。 この本では、第一の視点が「個人」、第二の視点が「他人とのつながり」、第三の 視点は「生命への畏敬の念」、第四の視点は「社会・国家」となっている。第三の視 点「生命への畏敬の念」が、「個人」を「社会・国家」と結びつける重要な役割を担 っているのである。柴田康正は「自らは小さな存在だが『生かされている』ことの感 謝と『人間を超えたものに対する』尊敬の念をもって、国家の中で愛国心をもって生 きることを刷り込まれていく仕組みになっている。これが、文部科学省のいう『宗教 的情操』のめざしているものの正体である」と述べている 35 。この点について金子隆 弘は次のように書いている。 「『心のノート』(中学校用)をみると、各個人を畏敬の念に目覚めさせ『人間の 力をこえたもの』と直面させたすぐあとに『良心の声を聞こう』というページが登 場しており、<畏敬の念>教育が重視されています。『自分の力を越えた存在、そ れを認め畏敬の念を感じることは宗教の始まり』と河合氏は書いています。つまり、 河合氏は日本中の子どもたちを『心のノート』によって『宗教の始まり』の地点に まで立たせているのです。『人格の形成を図る上で、宗教的情操をはぐくむことは、 大変重要』とした中教審答申(2003 年 3 月 20 日)は、『宗教的情操に関連する教 育として、道徳を中心とする教育活動』がすすめられていると明記しています。道 徳副教材『心のノート』は、こうした方向にそって作られた教材なのです 36 。」 80 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 高橋哲哉も『心のノート』は「事実上の宗教教育」であるとし、「特定の宗教を教え るわけにはいかないので、崇高なものとか個人の命を超えるものとかに、畏敬の念を もたせることによって、個人の尊厳とか個人の価値の尊重を相対化しようとしている とおもわれる」と語っている 37 。 さらに、『心のノート』では、人為的・政治的な「国」の存在や「愛国心」があく まで「自然」なものとして描き出されている。中学校版では、「あなたは<日本の伝 統や文化>の頼りになる後継者である」と断定しており、この「心の教育」があくま で「日本人」の「心」をつくるものであることは明らかである 38 。教育基本法「改 正」案では、「日本の伝統、文化の尊重」「郷土や国を愛する心の涵養」「日本人で あることの自覚」が強調されている。これを要約すれば「日本人らしい日本人」にな るということである。『心のノート』は日本人としてのナショナル・アイデンティテ ィを具体的に語っている。入江曜子は、「『心のノート』は、かつての『教育勅語』 がつくりだした『絶対服従』の精神にかぎりなく近い、敷かれたレールの上を走るこ とを安全とする思考停止の精神構造をもつ、支配されやすい国民をつくりだすための 新式の鋳型なのである」と警鐘を鳴らすのである 39 。 むすび 現代日本の公教育における宗教教育は、法制面では政教分離主義に立脚するものの、 政策面では政教折衷主義に徐々に傾斜しているように思われる。『心のノート』を全 国に普及させるとともに、愛国心と結びついた宗教的情操教育が進行しており、その 方 向 へ の 教 育 基 本 法 「 改 正 」 が 現 実 の も の と な り つ つ あ る 40 。 自 民 、 公 明 両 党 は 2006 年 4 月 13 日、教育基本法改正に関する協議会の下に設置した検討会の与党合意 を了承、前文と 18 条からなる与党案を正式決定した。そこでは、「伝統と文化を尊 重し、それらをはぐぐんできた我が国と郷土を愛する」との文言が入っている 41 。 第二次世界大戦後におけるイギリスの宗教教育も、キリスト教的な宗教教育から多 文化的な宗教教育へと変化していったという。「宗教的信仰の差異と有無、さらには 政治的信条の差異を超えて人々を相互に結びつけるような、そして科学・技術の進歩 もそのために奉仕することが求められているような全人類的価値」を探求することが 価値教育の課題であるならば、「学校教育のカリキュラムについて……すくなくとも さまざまな宗教とそれに関わる文化や慣わしに対して寛容であるための対応が求めら れるようになっている 42 。」 日本においてもナショナル・アイデンティティの維持、伝統文化の擁護、国民統合 公教育における宗教教育とナショナリズム(宮川真一) 81 を志向する『心のノート』といった教材に過度に依拠することは望ましい方向ではな い。教育基本法は「改正」するより大いに活かすべきである。そして、異文化理解、 多文化共生、世界市民の育成を志向する宗教文化教育を併せて発展させることが、新 たな世紀を迎えた日本社会の安定に寄与するだろう。 (2006 年 4 月 30 日脱稿) 注 1 第 19 回国際宗教学宗教史会議世界大会実行委員会編『第 19 回国際宗教学宗教史会議世界大 会プログラム』高輪プリンスホテル(東京都港区)、2005 年 3 月 24 日-30 日、55 ページ。 2 拙稿「脱近代化とナショナル・アイデンティティの変容」『通信教育部論集』(創価大学通 信教育部学会)第 7 号、2004 年、参照。以下、本稿ではナショナル・アイデンティティを国 家レベルに限定して用いることにしたい。 3 矢沢修次郎「ナショナル・アイデンティティ」森岡清美ほか編『新社会学辞典』有斐閣、 1993 年、1121 ページ。 4 文化と文明の違いについては、次を参照。伊東俊太郎「比較文明学とは何か」伊東俊太郎編 『比較文明学を学ぶ人のために』世界思想社、1997 年、5-7 ページ。 5 伊東俊太郎『比較文明』[UP 選書 243]東京大学出版会、1985 年、51-74 ページ。 6 中心文明と周辺文明については、次を参照。山本新『トインビーと文明論の争点』勁草書房、 1969 年、148-150 ページ。 7 文明の世俗化については、次を参照。山本新「世俗化の比較研究」山本、前掲『トインビー と文明論の争点』。 8 伊東、前掲『比較文明』44-45 ページ。 9 友枝敏雄「近代科学」森岡清美・塩原勉・本間康平(編集代表)『新社会学辞典』有斐閣、 1993 年、319-320 ページ。 10 同上、320 ページ。比較文明学の視点から科学技術を論じた次の文献も参照。村上陽一郎 『文明のなかの科学』青土社、1994 年;同「科学技術と比較文明」伊東、前掲『比較文明 学を学ぶ人のために』第Ⅲ部第 5 章。 11 こ こ で は 次 を 参 照 。 日 本 経 済 新 聞 社 編 『 宗 教 か ら 読 む 国 際 政 治 』 日 本 経 済 新 聞 社 、 1992 年;小杉泰「現代の宗教復興と国際政治」『国際政治』第 121 号[宗教と国際政治]1999 年;中野毅『宗教の復権―グローバリゼーション・カルト論争・ナショナリズム』東京堂出 版、2002 年。 12 中野実『宗教と政治』[シリーズ 21 世紀の政治学 1]新評論、1998 年、9-11 ページ。神 川正彦によれば、19 世紀〈近代〉に〈中心文明〉にのし上がったヨーロッパ文明は決して 唯一の普遍文明ではなかった。今日の世界では「〈中心文明〉としてのヨーロッパ文明の 〈脱中心化〉と、したがって同時に〈周辺文明〉としての非ヨーロッパ文明の〈脱周辺 化〉」が進行しているのである。神川正彦「比較文明文化の現代的課題―21 世紀における 文明間の対話へ―」伊東俊太郎監修、吉澤五郎・染谷臣道編『文明間の対話に向けて―共生 の比較文明学―』世界思想社、2003 年、113 ページ。 13 中野毅「序 宗教・民族・ナショナリズム―読み解くための基礎と問題の所在―」中野毅・ 飯田剛史・山中弘編『宗教とナショナリズム』世界思想社、1997 年、5 ページ。 14 伊東、前掲『比較文明』77-78 ページ。現代文明の行方と問題点については、次の文献も参 照。伊東俊太郎・吉澤五郎(対談)「地球時代の文明史像」伊東、前掲『比較文明』;伊東 82 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 俊太郎「歴史の教訓と未来の展望」河合隼雄ほか編『岩波講座 宗教と科学 2 歴史のなかの 宗教 と 科 学』 岩 波 書店 、1993 年 ; 同 、前 掲 「比 較 文 明学 と は 何か 」 ; 伊東 俊 太 郎・ 広 重 徹・村上陽一郎『[改訂新版] 思想史のなかの科学』[平凡社ライブラリー430]平凡社、 2002 年。 15 ここでは次の文献を参照。江原武一・杉本均「世界の公教育と宗教」江原武一編著『世界の 公教育と宗教』東信堂、2003 年;江原武一「アメリカの公教育における宗教の位置」江原、 前掲『世界の公教育と宗教』;同「世界の教育現場で宗教はどのように教えられているか― 価値教育の充実が共通のテーマである」『中央公論』2003 年 9 月号;Takekazu EHARA, “Religious Education as a Form of Values Education in the State-system: From a Comparative P erspective”, The 19th Wor ld Congress of the International Association for the History of Religion, Takanawa Prince Hotel, Shinagawa, Tokyo, 2005.3.25. 16 鈴木俊之「イギリスにおける宗教教育の展開と現状」江原、前掲『世界の公教育における宗 教教育』113-114 ページ。 17 18 19 江原・杉本、前掲「世界の公教育と宗教」4-5 ページ。ここでは次の文献も参照。菅原伸郎 『宗教をどう教えるか』[朝日選書 630]朝日新聞社、1999 年。 江原・杉本、前掲「世界の公教育と宗教」5-6 ページ。 井上順孝「新しい局面をむかえた現代の宗教教育―日韓の比較を通して―」『宗教教育の 日韓比較』2002 年、参照。[http://www.kt.rim.or.jp/~n-inoue/pub-jap.files/ pa02-kor. htm] 国学院大学の井上順孝教授を中心に、日本・ 韓国の研究者が集ったシンポジウム「宗 教教育の日韓比較」では、異文化教育としての宗教教育がこれからの公教育では求められる との共通見解に達している。「ワークショップ③宗教教育の日韓比較―公教育において“宗 教”をどう扱うか―」『宗教と社会』第 9 号別冊、2003 年、参照。 20 ここでは次を参照。窪田眞二「諸外国における公教育と宗教」下村哲夫編『学校の中の宗 教:教育大国のタブーを解読する』時事通信社、1996 年、72-84 ページ;江原、前掲「ア メリカの公教育における宗教の位置」30-31 ページ;藤田祐介「世界の公教育と宗教」杉原 誠四郎・大崎素史・貝塚茂樹『日本の宗教教育と宗教文化』文化書房博文社、2004 年、262266 ページ。 21 日本宗教学会「宗教と教育に関する委員会」編『宗教教育の理論と実際』鈴木出版、1985 年、113-115 ページ。ここでは次の文献も参照。下村、前掲『学校の中の宗教』。占領期に おける宗教教育論争については次を参照。杉原・大崎・貝塚、前掲『日本の宗教教育と宗教 文化』。 22 柴田康正「学習指導要領における『宗教的情操』―「生命に対する畏敬の念」をめぐって ―」『教育』2004 年 3 月号、44-47 ページ。 23 ここでは以下の文献を参照。熊谷一乗「教育基本法改正論の構造―機能分析」『創価大学教 育学部論集』第 52 号;紀葉子・阿部英之助「教育基本法改正問題と教育の自由化をめぐる 今日的課題」『東洋大学社会学部紀要』第 41-1 号(2003 年度)。 24 渡辺治・田中孝彦「<対談>なぜ、いま教育基本法改正なのか(上)」『教育』2003 年 4 月号、10 ページ。1990 年代後半から台頭するナショナリズムと教育については、以下を参 照。日本教育政策学会編『ナショナリズムと教育政策』[日本教育政策学会年報 第 7 号] 八月書館、2000 年;「<インタビュー>高橋哲哉さんに聞く ナショナリズムの現在と教育 (聞き手 田沼 朗 『教育』編集部)『教育』2004 年 3 月号;西村拓生「ナショナリズム の『物語』と教育」『教育』2004 年 3 月号。 25 俵義文「教育基本法改悪と教科書問題」子どもと教科書全国ネット 21 編『とめよう! 戦 争への教育:教育基本法「改正」と教科書問題』[シリーズ世界と日本 21 -26]学習の友社、 2005 年、第 5 章。ここでは次の文献も参照。子どもと教科書全国ネット 21 編『ちょっと 待ったぁ! 教育基本法「改正」:「愛国心教育」「たくましい日本人」「心のノート」の ねらいを斬る』[シリーズ世界と日本 21 -21]学習の友社、2003 年;俵 義文「教育基本 法『改正』を目論むひとびと[特集・『日の丸・君が代』戒厳令―脅かされる思想・良心の 自由]『世界』2004 年 4 月号;俵 義文『あぶない教科書 NO!―もう 21 世紀に戦争を起 こさせないために』花伝社、2005 年、第 4 章「教科書と教育基本法の改悪を推進する人 公教育における宗教教育とナショナリズム(宮川真一) 83 脈」。 26 池田大作・松藤竹二郎『池田大作「教育提言」を読む 2006 年、参照。 新編第三の教育革命』毎日ワンズ、 27 日本弁護士連合会『教育基本法の在り方に関する中教審への諮問及び中教審での議論に対す る意見書』2002 年 9 月 21 日、参照。 28 「教育学関連 15 学会共同公開シンポジウム(第 3 回)教育基本法改正問題を考える―中教 審答申の検討―」明治大学、2003 年 4 月 19 日。 29 「教育の国家統制をめざす 教育基本法『改正』法案の国会提出に反対する文化人一二九人 の声明(2005 年 1 月 20 日)」[http://www1.odn.ne.jp/kyoikubunka/seimei0120.html] 参照。 30 ここで は次の 文献を 参照。 文部科学 省『心 のノー ト 中 学校』暁 教育図 書株式 会社 、2002 年;文部科学省『心のノート 小学校 5・6 年』暁教育図書株式会社、2002 年;三宅晶子 『「心のノート」を考える』[岩波ブックレット No. 595]岩波書店、2003 年;馬場久志 「『心のノート』考―役割としての愛国心―」『教育』2004 年 3 月号。 31 金子隆弘「『心のノート』が登場した背景」柿沼昌芳・永野恒雄編『『心のノート』研究』 [SER IES「教育改革」を超えて①]批評社、2 0 0 3 年、1 2 1 -1 2 2 ページ。 32 押谷由夫「道徳教育を中核に 21 世紀の学校を創ろう」越谷市立大沢小学校/前文部科学省 教科調査官・押谷由夫先生講話集/平成 13 年度版 [http://school.city.koshigaya.saitama.jp/osawa-e/kouwa13.htm]。 33 永野恒雄「身体の支配から心の支配へ―問われる教師の主体性」柿沼・永野、前掲『『心の ノート』研究』194-195 ページ。 34 35 文部科学省、前掲『心のノート 中学校』8-9 ページ。 柴田、前掲「学習指導要領における『宗教的情操』」50-51 ページ。 36 金子隆弘「河合隼雄の『心のノート』作成意図」柿沼・永野、前掲『『心のノート』研究』 134 ページ。 37 前掲「<インタビュー>高橋哲哉さんに聞く ナショナリズムの現在と教育」11 ページ。 38 高橋哲哉・三宅晶子「<対談>これは『国民精神改造運動』だ―教育基本法『改正』と『心 のノート』」『世界』2003 年 4 月号、39 ページ。 39 入江曜子『教科書が危ない―『心のノート』と公民・歴史―』[岩波新書 886]岩波書店、 2004 年、131 ページ。 40 現代ロシアの公教育における宗教教育も、法制面では政教分離主義を採るが、実際は政教折 衷主義に近い。「正教文化の基礎」コースが徐々に導入されることでロシア正教の宗派教育 が公教育にも浸透しつつあり、連邦憲法、連邦教育法、連邦宗教法の違反が指摘されている。 拙稿「現代ロシアのナショナル・アイデンティティと公教育における宗教教育」『ソシオロ ジカ』(創価大学社会学会)第 30 巻第 2 号、2006 年;同「現代ロシアの公教育における 宗教教育―『正教文化の基礎』コース導入をめぐって」『ロシア・東欧研究』(ロシア・東 欧学会)第 34 号、2006 年、参照。 41 『毎日新聞』2006 年 4 月 14 日、2、5 面。 42 窪田、前掲「諸外国における公教育と宗教」82 ページ。 84 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 中国社会动乱的周期性与自律性 中国社会动乱的周期性与自律性 ——兼答木村英亮《中国的文化与 —— 兼答木村英亮《中国的文化与现代化》书评所提问题―― 兼答木村英亮《中国的文化与 现代化》书评所提问题―― 王 元 The Periodic Recurrence and Self-Discipline of Social Upheaval in Contemporary China: in Reply to the Review by Professor Hidesuke Kimura Yuan Wang 感谢木村英亮教授 给我编著的《中国的文化与现代化》所写的书评 2 。本文拟交代 1 一些编著该书时未能交代清楚的问题、同时对木村教授书评中所作的评论及所提的问题 做出回答。由于木村英亮教授的书评主要是针对拙文〈儒学原理主义的终焉与中国的现 代化〉(以下称〈终焉〉)而写、因此本文将主要以〈终焉〉一文为中心做出回答。 1. 编写《中国的文化与现代化》一书的起因 编写《中国的文化与现代化》一书的计划是在编完《中国改变了面貌》 3 (以下称 《变貌》)一书之后开始的、从这个意义上说它是《变貌》的一个续集、跟《变貌》一 样、目的在于分析中国在现代化过程中遇到的问题、包括政治、国防、经济、能源、社 会以及文化等各个方面的问题。这一次主要集中在文化、社会以及政治等三个方面。 笔者在编后记中对《中国的文化与现代化》一书的着眼点有所叙述、这就是为了继 承和发扬依田熹家的日中比较文化论。其中〈终焉〉一文主要是为了补正依田日中比较 文化论中对中国文化中所包含着的普遍性与合理性论述得不够多这一问题。依田教授是 日本近代史研究出身、他的日中比较文化论是以日本的近(现)代化为本位展开的、具 体来说就是通过日中比较来证明日本现代化的成功的必然性。 比较分析的特点在于一分为二、这种做法黑白分明、一清二楚、给人印象深刻。但 是与此同时、这种方法在说明复杂的历史发展时、往往只能粗线条地勾画出一个轮廓来。 中国社会动乱的周期性与自律性(王元) 85 比较的结果是突出了中国的失败、这就很容易给人一种印象、即中国文化不适于现代化。 这一点在 20 世纪 80 年代还不怎样、90 年代以后、中国改革开放的成果日益明显、但 是诞生于 20 世纪 80 年代的依田日中比较文化论中缺少对这一现象的分析说明。尤其是 到了 21 世纪、中国在现代化道路上穷追猛赶、取得了举世公认的成就的今天、这一点 就需要有一个进一步的说明。 从这一意义上说、〈终焉〉一文中包含着对依田熹家的日中比较文化论的补充。本 书编写以及拙文写作过程中曾多次请教过依田先生。先生不仅不以为忤、还欣然为本书 做序、由此可见大学者风度于一斑。尤其值得欣喜的是、依田先生终于接受笔者的请求 在其即将发表的最新论文中增加对中国文化的论述的比重。 但是话又说回来、其实依田先生从未否定过中国现代化的可能性、他在本书的论文 中着重探讨的是两国在现代化进程中的速度问题、而不是能否现代化的问题。依田指出 日本文化有利于日本短平快地吸收西洋文化的长处为己所用、中国则进步较为缓慢、特 别是长期以来一直未能真正走上现代化的正轨。这些都十分正确。研究日本成功的经验 并不能用来作为否定中国的根据。中国并不一定要在各种具体方面学习日本。研究日本 成功的经验是要研究成功发展的普遍经验而不是为了把中国比下去或把日本贬下来。 “差别”是全面的、而非“某个环节”上的、因此并非只改革“某个环节”的问题。 笔者在后记中提到依田先生的另一高论、即对传统价值的有效范围的界定是实现现 代化的前提之一。位于传统价值中心的地域和社会文化、强大顽固的传统严重地阻碍了 社会变革的进程。结果就形成了在统一文化圈内、现代化从时间顺序上的自外而内、先 是在日本等处于传统文化边缘位置的国家、然后是韩国等四小龙为代表的处于中心和边 缘之间的国家、最后才是位于核心部位的中国今天的发展。很明显、依田这一论断是承 认中国现代化的可能性的、只是时间上要比周边国家晚上一到两拍而已。 关于中国现代化的可能性、笔者曾多次敦促依田先生进行补充性分析、先生以年事 已高为由、始终未能动手。反过来鼓励笔者加强研究、指出这是属于年青一代学者的使 命。 2. . 木村书评的要点 木村 书评的要点 关于书名 正如木村教授在书评中所指出的、与其说是正标题《中国的文化与现代化》、不如 说是英文副标题(Aspects of Cultural, Social, and Political Change in Today' s China) 更能概括全书的内容。之所以会出现这样的问题、主要是因为本书所具有的“以书代 86 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 刊”的性质、编者最初以《中国改变了面貌》为题向作者们约稿、约到的稿子其实都没 跑题、其中依田熹家与王元的两篇论文一脉相承、代表了本书所要解决问题的主要方向。 结果、《中国的文化与现代化》成为本书正式的书名、而为了把其他两篇论文也概括进 来、采取了一个更为宽泛的英文题目。这样就出现了正副标题乖离的问题。木村教授眼 尖、一下子就看出来了。 大小转换 大小 转换、 转换 、 民族机会主义 中国是可以实现现代化的、但是中国在现代化过程中多劫多难。中国人用“劫”或 “劫难”这个词来表示挫折或磨练。机会之来而复去就是“劫”。内部机会不成熟、现 代化就在劫难逃。但是即便是内部没有问题、现代化仍然可能会因为外部的力量而受到 挫折。由于缺乏发展的势能、大多数机会都短命夭折而不能成为真正的机会。 中国这种国家的发展是一个巨大的系统工程、因为中国这种国家的发展不是一般意 义上的国家发展、而是带有文化复兴文明崛起意义的发展、这种崛起和复兴不是任何时 代、任何制度下都可能的。往往需要历史性的机遇。这种历史性的机遇一方面固然来自 外部环境、另一部分也来自内部的调整和创造。由于所要求的条件苛刻、往往不能一蹴 而就、而必需在一次又一次的冲突、撞击甚至变换、蜕化中逐步形成。19 世纪 70 到 90 年代的洋务运动和 20 世纪 10 到 30 年代的中国复兴运动虽然得逞于一时、终因各种 内外环境因素的缺陷而无法一展全貌。 到了 1970 年代末、改革开放沛然而至、这第三次机遇特别强劲有力、更重要的是 世界和时代发生了巨大的变化、中国已经是一个统一的国民国家、具有 200 年来不曾 有过的巨大国力。这第三次崛起集天时地利人和之大全。从某种意义上说、如果时代不 变的话、中国的现代化也许永远不可能实现。但是二战结束以后的 20 年之间、世界变 了、时代变了。冷战以及后冷战时代为中国提供了有利的国际环境。无形中促成了中国 的这第三次崛起。就中国的现状而言、虽然情况已经有了很大的改善、但是至今尚未完 全摆脱现代化进程有可能被外力强制中止的危机。为此、中国也许还需要 10 年、能再 有 10 年左右的和平发展的时间、中国将更加繁荣富强起来、从而中国崛起被外力强行 中止的可能性将大大下降。从这种意义上说、今后的 10 年将是决定中国命运的十年。 10 年后的中国将不但能够站起来而且可以直起腰来说话。 唯一值得担忧的在于现在中国人身上随处可见的民族机会主义。虽然中国的现代化 过程因外力而被中止的可能性已有所降低、但是、中国人因此总担心好事难成、担心鸡 飞蛋打一场空。中国人还是不能放下心来、历史上中国人经历的苦难太多了、他们内心 深处有一种对“煮熟的鸭子飞走了”的忧虑。这种民族机会主义心态从某种意义上说同 时也是中国人自信心不足的表现。 中国社会动乱的周期性与自律性(王元) 87 对日本以及中国、韩国文化的分析 笔者比较强调的是国家发展的物理或环境原因:日本为一岛国、孤岛、害怕孤立、 努力奋斗要打破它。积极参与岛外事务。因此日本向往外部世界、外部世界对日本意味 着什么?在笔者看来、并非什么害怕孤立、而是跟大陆文化之间的文化差距时日本对大 陆文化抱有一种憧憬的心情。一旦这种差距缩小或消失了、日本将自然而然地走向保守 孤立。这将在两种情况下出现、一是日本强大起来、而是大陆(中韩)衰弱下去。时日 本将表现出更大的自信心、如锁国时代的日本。从结果上看、日本的锁国时代是脱亚的 准备期间、从过程上看、则纯粹是日本自信心上升的表现。 日本基本上没有什么跟城市或中央相对应的地方、少数民族不用说、方言只有冲绳 和青森秋田等极偏僻的地方才有、而且只有极少数人说。国土面积适中、尽管山多路 险、但是海上交通便利、民族比较单一、文化统一度高而且教育非常普及(简单易用的 假名使大多数的日本儿童在三到四岁左右就能识字了)、交通便利使日本较早地形成了 统一的国内市场。这些都是日本在现代化时的有利条件。 那么介于中日两国之间的朝鲜呢?不错、朝鲜也以吸收中国文化为主、但跟日本不 同、朝鲜在吸收中国文化时并不顺利、有很大的被动性、经常面临来自中国的压力、这 种压力尽管经常并不是在实际存在、但其形式是存在的、而这就足以消除朝鲜人在对待 外来文化上的平静心理。因此、朝鲜人在文化上对外一向是有戒心的。日本则比较主 动、自愿。不仅如此、作为文化上的“国际性国家”、日本远比中国稔熟于国际关系。 在中国、作为一个外交官很不容易、对内对外很难同时都摆平、要么保守生硬、要么就 成为汉奸走狗卖国贼。常常是两者必居其一。而在日本人则左右逢圆。 木村教授所提 木村教授 所提疑问 所提 疑问: 疑问 : 中国现代社会的 中国 现代社会的“ 现代社会的 “ 内部制动装置 内部制 动装置” 动装置 ” 在书评的最后、木村教授提出了一个把 1958 年大跃进、中苏论争、1966 年文化大 革命、社会主义市场经济(1978 年改革开放)以及 1989 年天安门事件等放在中国现代 史的“内部制动装置”中进行分的做法是否妥当的问题。对这一问题的回答放到本文的 后半进行。 3. . 〈 终焉〉一文中点到为止、 终焉〉一文中点到为止 、 未能进一步分析的几个问题 文章中有几个问题只能点到为之、没能深究。借此机会、稍微补充发挥一下。 88 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 家族主义家族制度的代替物 家族主 义家族制度的代替物: 义家族制度的代替物 : 关系主义与关系网 社会是由各种各样的组织和意识构成的、社会中的这些组织和意识对社会性质的形 成具有决定性的影响。其中、社会组织对社会意识具有决定的意义、是社会意识存在的 前提。中国社会中的家族主义和家族制度之所以具有重要的意义便在于中国社会中存在 着强有力的家族组织和家族意识。 在考察各种社会组织政治制度的变化对中国文化的影响时、笔者尤其重视家庭的变 化、甚于政治体制的变化。因为在我看来、中国的家族、家庭的变化也许是更加根本 的、具有从物理层面上将中国社会格式化的效果。家庭的人数从 20 世纪 40 年代的 10 人以上到 20 世纪 70 年代的 5 人左右、再到今天的 3 人左右。若兄弟姐妹关系如皮将不 存、则七大姨八大姑如毛将焉附。没有了这些。传统的中国家族主义和家族制度都将无 法维持。但是这种基本变化所可能产生的影响都不是一下子就能看到的。它今后将一步 步显示出来。 这种巨大的变化对改变中国社会具有什么意义上的作用是很值得研究的。此外还有 由此造成的中国人在个体层次上的变化、如独生子女的生活方式、心理卫生和个性形成 等情况都必将产生巨大的变化。如果中国人不再是中国人了、那么中国文化也就不复为 中国文化了。 而且上述的这种关系主义及关系网本身也很有可能之不过是一种过渡性的东西。家 庭人口的剧减不仅物理性地破坏了传统的家族主义和家族制度、甚至从一般意义上改变 了个体的人与人之间的关系。本文仍然用传统意义上的家族主义和家族制度来形容这种 变化、但实际上现在的家族主义和家族制度已经不是传统意义上的家族主义和家族制度 了。 大学在当代中国社会中的重要性 随着传统的家族制度、家族主义的衰弱或崩溃、社会上必然会出现取家族而代之的 社会组织。这是个十分值得分析的问题。笔者设想、在今后中国社会中、学校、公司、 社区以及重新组织起来的农村的地位有可能会大大上升、并成为最重要的组成部分。 首先是学校、特别是高等院校。在政治上已经显示出重要的意义。不仅仅是现在这 样为国家提供政治、行政以及技术官僚。校友关系将成为社会上最普通的人际关系的枢 纽性纽带之一、在政治、经济、文化等所有方面发挥最重要的连带作用。另外、作为社 会中最有组织性和知识性的团体、大学将成为更加敏感的政治化组织。权力派系、学派 本身将具有政治意义、从学派到政派的转换将越来越直接和便利。 中国社会动乱的周期性与自律性(王元) 其次是公司、工作关系今后将作为中国人社会关系中一个重要的组成部分、英语名 的使用和流行、有利于形成新的工作伦理、公司正在形成新文化、新经济的基础组织。 并有可能通过再组织化从静止走向活跃、从而成为一个强大的政治压力集团。 其三是城市里的社区、社区的文化将以其包括宗教在内的精神和心理意义而凸显其 重要性。 其四是农村、虽然中国正在高速实现着城市化、但是农村人口仍然占据着大多数。 即便将来城市化进程使中国大部分农村人口成为城市人口、但是仍然会继续存在着一个 非常庞大的农村人口。所谓的“三农”即农民、农村和农业问题将在今后相当长的一个 历史时期内困扰中国政府。中国农村今后将进入一个巨大的转型时期。家庭成员的减少 使改革开放以来的家庭式农业耕作方式无法维持下去。因此上述的组织和意识的重要性 将大大增加。今后、“家”的地位将大大降低。虽然不一定会被别的社会组织及社会关 系所取代、但是家庭所负担的一部分的社会功能将移转出去。届时、跟家庭内父母子女 血缘关系、兄弟姐妹长幼排行关系以及夫妇关系一样重要的、将会是一些社会关系、比 如学校特别是大学的同班、级友、系友、校友等关系、师生关系、以及包括课外小组活 动等在内的各种学生组织内的人际关系等。 对日本文化的分析 对日本文化的分析不是〈终焉〉的中心所在。但是为了呼应依田论文、拙文有时也 会提及日本文化。包括木村书评中提到的“日本文化是一种实用性很强的文化、有志气 而无理想、得过且过”之类的评价。不过这些评价是有前提的、是在跟中国进行比较时 得到的结果。因此它不是对日本的一般的评价、就像依田的日中近代化比较中有关中国 的评论也不能当一般论来给中国文化定性一样。 比较出来的一般是“差别”而非“差距”。比较是对比、对照、难以进行具体的说 明和解释。青椒红椒、花生土豆。基因与环境、基因与环境的作用是间接的和微弱的、 只有通过文化的内部因素才能起作用。用毛泽东的话就是、外因通过内部起作用。环境 过程、持续发展、稳定、坚持、生长。整体上需要一个基本稳定的体制、内部又能保持 一定的宽松、这样、从众多发展逻辑中必然会有一款上升发展、最后展现其全貌而不只 是种种可能性或“萌芽”。比较文化等比较分析都存在着同样的问题。 跟日本有较大不同的在于中国文化中的理想的部分的存在。比如仁政、天下、大同 等概念。文化中的理想的部分常常是些个难以实现的部分、但是尽管实现不了也仍然有 其存在的价值。就像西方思想中的自由平等博爱一样、它是一种目标体系、是价值体系 本身。我们也许永远找不到一个实存的自由平等博爱的国家、但是自由平等博爱作为一 89 90 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 种选择的可能性对西方文化、进而对世界文化都发挥着巨大的影响。在全球化的时代里、 仁政、天下、大同等概念将越来越重要、越来越为世界所接受、认同、遵守。 日本文化过于实用主义、显得有志气而无理想。同时由于缺乏有效的内部制动装置 而随波逐流、走到哪里是哪里、过一天是一天。当然、日本也有理想的成分、但是这个 理想的成分比较弱、常常受到来自主体思想、或主流思想的干涉而无法成为社会的指导 思想。相反、中国在很大程度上自成一体。外来的影响、不论是正的还是反的、都很难 直接对中国发挥作用。这并不是说中国不受外界影响、而是说这种影响常常由于受到中 国文化内部的自律作用而变形走调、时受时不受、或部分消失部分增强、或晚上半拍间 隔一端时间才凸显出来、有时还适得其反作用。 依田的高论 依田的高 论 东亚地区、由外向内的现代化顺序先是最外层的日本、接下来是中间阶层的四小龙 三小虎、最后才是内核部分的中国。这是一个很有意思的现象、跟经济学上所谓的“雁 行理论”有很多共同之处。在文明论则属于文明再生的范畴。就像森林在火灾后的再生 一样。烧得越光越有利于新森林的生长。 在对传统文化价值的有效性进行界定和限制方面、我觉得依田先生把顺序弄颠倒 了。在我看来、日本曾经做的不是对旧的传统文化价值的有效性进行界定和限制、而是 对新的西洋文化价值的有效性进行认定和承认。是先认可了新的价值、加强培养和巩固 新价值的地位和作用、然后才是对传统文化价值的有效性进行界定和限制。最多也就是 二者同时进行。如其不然、那将有悖于依田先生自己的理论、即日本是一个文化并存的 国家。按照文化并存的概念、应该是(单一文化的)中国、为了发扬新的西洋文化价 值、对旧的传统文化价值的有效性进行界定和限制。因此、依田先生所谓的日本对旧的 传统文化价值的有效性进行界定和限制云云其实不过是新的西洋文化价值扩张势力后自 然而然地导致了对旧的传统文化价值的有效性进行界定和限制的结果。 不用说、依田先生的这种说法还会碰到另一个问题、这就是韩国现代化的问题。依 依田之说、韩国现代化在先后顺序上介于中国和日本之间、而儒家原教旨主义(姑且假 定它是存在的)的程度高低直接影响现代化的进程、那么因为儒教国家、中华思想比中 国有过之而无不及而被称为“最后的儒教国家”的韩国、竟然先于中国现代化(或者说 现代化程度比中国高)岂非咄咄怪事? 对中国现代化初期之所以举步维艰的原因的分析 近代以来为什么会有那么一段越来越难吸收外国文化的时期?除了文化上的原因之 外我们还可以举出以下几个原因:(1)天灾人祸、(2)时机过熟、(3)处于守势、 中国社会动乱的周期性与自律性(王元) 91 找不到生长点和持续的动力装置。而且、跟文化上的原因相比、这些原因很可能更加重 要。这些都有待于进一步的分析。 近代以前对外国文化的吸收跟今天的情况大不相同:近代以来需要的是大规模的、 向更高水平的文化学习、这在中国人一下子就不大能够接受了。也就是说、中国文化在 近代和近代以前是很不一样的、从这个意义上说、中国人也许永远不可能以日本人那样 的方式向西方学习。日本的成功以及这种成功所代表的特征实际上是由其发展过程所决 定的。这是一个相对稳定的发展过程。 4. . 木村所提的问题 木村所提的 问题: 问题 : 中国现代史的 中国 现代史的“内部制 现代史的 内部制动装置 内部制 动装置” 动装置 在书评的最后、木村教授提出了把 1958 年大跃进、中苏论争、1966 年文化大革命、 社会主义市场经济(1978 年改革开放)以及 1989 年天安门事件等放在中国现代史的 “内部制动装置”中进行分析的做法是否妥当的问题。 笔者的原文如下:“那么、作为超流动体的日本社会的制约的力量在哪里呢?不知 道。也许是有的、不一定就是中国那样的内部的制动装置、而可能存在于跟外界之间的 关系上、即一种建立在跟外界互动的外部制动装置。”(第 63 页) 首先、我想还可以在木村的事件名单上把 1957 年的“反右”、以及 1999 年的 “法轮功事件”放进去、相反、倒是可以把中苏论争从名单上去掉。理由是 1957 年反 右以民主党派为中心、把 55 万名(这是 80 年代后半期、由胡耀邦平反的人数)以上的 知识分子打成了右派、此后 1958 年的“大跃进”从某种意义上说是毛泽东为了文鸣放 之过饰反右之非而发动的。而法轮功事件涉及的范围更广、并且至今尚未彻底完结。以 上这些事件从范围规模及时间等各个方面来说都是巨大的动乱、其振幅之大、放在别的 国家足以令其崩溃。 笔者在文章中比较中日文化后得出了中国具有内部制动的功能、而日本则为一“超 流动体”、具有比一般的流动体更强的流动性、善于变化、难以捉摸。 那么、如何认识中国社会中的这种“内部制动装置”呢?这可以从几个方面来分 析: 第一、不等于说不受外力影响、特别是强权性的外力干涉如军事侵略。这些是在本 文分析范围之外的。 第二、笔者所谓的内部制动实在跟日本进行比较的时候所下的结论。主要是就社会 动乱的范围对象目标方向而言的。在我看来、日本是一个外向型的国家、既容易受到外 部的影响又经常给外部以影响。在面对外部世界的时候、日本人尊敬和重视他们不懂的 东西、中国人则无视甚至蔑视之。日本社会具有一致对外的性质、把国内矛盾转嫁到外 92 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 部去是其常套手段(如今天的“绑架即拉致”的热火朝天)、一有什么风吹草动就一致对 外硬。“要中国像日本那样暴发是不可能的。中国是一个具有高度内部制动装置的国 家、这种内部制动装置也是中国社会稳定的基本机制。但是、内部制动装置有利有弊、 它虽然带来稳定、但同时也带来了保守性。比如跟外界之间的关系(以下略)”(第 67 页) 从这个意义上说上动乱无论范围多广、规模多大、只要没有涉及到外国、就可以说 没有超过“中国”之外、也即都在系统的范围以内。虽然各个国家的具体情况不同、很 难进行单纯的对比、但是笔者的一个总的印象是 2005 年的反日示威是一个被过分报导 和渲染了的事件、其在中国国内的影响远远小于在日本的影响。 第三、笔者特别是针对中国威胁论提出这一观点的。中国发动对外战争的可能性不 是说没有、实际上 20 世纪 50、60、70 和 80 年代中国跟美国以及周边的印度、苏联和 越南之间都发生过战争。但是、这些战争基本上都属于武力纷争的范围、不具有征服或 侵略的性质。最根本的在于、都不属于为了解决国内问题而诉诸于国际纷争的性质。 第四是如何理解中国吸收各国文化成分这一问题。的确、改革开放以来、中国高密 度地吸收各国文化成分、但是、这种吸收基本上可以看作是中国自动地(自律地)吸收 外国文化成分、尽管也受到各种外部压力、但它基本上是来自中国内部的一种内在的需 求。这种需求虽然形成得非常缓慢、但由来已久、不因是否受到外力的胁迫而发生本质 的变化、今后也会长期持续下去。 第五、中国的“内部制动装置”是由中国文化的特征决定的、这个特征就是笔者所谓 的“食草性国家”(第 54 页)、国家的高速发展是中国社会的“自动稳定装置”、中 国一旦走上现代化的正规、是有可能长期稳定高速发展下去的。(第 42 页) 第六、中国的“内部制动装置”是通过周期性的社会动乱而得到实现的。有关这方 面的分析、拙文〈轮廓〉中有比较详细地分析。接下来本文的第五部分则包括了笔者在 这一方面的一些最新的思考。 5. . 中国还有一劫 在写〈轮廓〉时、我已经有一种预感、就是周期性的中国社会动乱已经快要走到头 了、最多也就是再有一次左右。原因很简单、导致中国社会动乱周期发生的几个基本原 因正在急剧地消失。实际上我们可以看到、动乱的震动幅度呈现出一个下降的趋势。而 政治风格、思想意识也从第一代毛泽东时代的“极左”到第二代邓小平时代的“中右” 4 、再到今天第三代胡锦涛时代的“中”。 中国社会动乱的周期性与自律性(王元) 93 中国政治社会动乱的周期循环 现代中国社会动乱的周期性是人们长期以来普遍谈论的话题。但是、一直没有见到 过比较系统的分析。笔者最初是在复旦大学历史系、朱维铮教授的研究生马勇(现为中 国社会科学院近代史所研究员)等人那里听到的。那还是 1989 年学潮一年以前的 1987 年秋天到 1988 年春天、当时我参加他们跟湖南人民出版社计划编一套文化大革命从 书、副主编是中国社会科学院近代史所刘志琴(主编是谁、我记不清楚了)。马勇当时 称、1978 年以后中国没有发生过比较大的动乱(前一年即 1986 年底到 87 年初有过一 次中等规模的学潮)、按照历史经验来看中国即将暴发一场大规模的动乱。当时处于 1987 年和 1989 年两次学潮之间、社会上比较平静、并无大规模动乱的迹象。当时我虽 然对动乱的周期性很感兴趣、但是对此基本上可以说是半信半疑。结果、马勇不幸而言 中。 笔者 1988 年留校(复旦大学国际政治系)任教、后来跟林尚立共同担任有关当代 中国政治的课程、尚立负责政治文化部分、我负责政治发展部分。动乱的周期性是我当 时讲授的重点之一。动乱讲得多了、同事同学们将我的“现代中国社会动乱 10 年周期说 (8 年≤现代中国社会动乱周期<12 年=” 5 戏称为“王氏定理”、还送了一个“动乱专 家”的绰号给我(学潮中有案在身的我实在是不敢当)。10 年以后、1999 年 4 月我在 创价大学文学部讲授“中国社会研究”、开学第一个星期讲的就是动乱周期的问题、话 音刚落第二个星期就发生了法轮功事件。这两件事坚定了我对现代中国社会动乱周期说 的信心。 除了马勇以外、对我的研究有启发的还有、林尚立、胡伟、任晓、川崎高志、童宾 和胡鞍钢等人。比如、林尚立提出、在 10 年周期外可能还有一个更长的周期、该周期 更多跟中国政治体制的转型以及中共领导人的换代有关、他认为不妨称这个较长的周期 为“大周期”。“大周期”迄今为止只周转了两次、毛泽东和邓小平分别为这两个周期 有代表性的政治人物。现在进入到第三个周期、以此类推、胡锦涛实际上为中共第三代 领导人、而不是我们通常所说的“第四代领导人”。 动乱周期跟四年制大学学制之间的关系是胡伟提出来的、当时胡伟研究生毕业、在 我担任的“中国政治发展”课程实习过两次、其中一次讲的就是这个内容。 川崎高志则提出应该对历次动乱时的传播手段进行比较分析、从 1957 年反右时的 “鸣放”、“吹风”、1966 年文化大革命时的“大串联”、“大字报”、1989 年学潮时 的“VOA 短波”和“传真机”、1999 年法轮功时的“录音磁带”、“光盘”到 2005 年 反日示威时的“伊妹儿”、“短信”等等。2005 年胡鞍钢提出“中国经济 5 年周期 说”。但是细读胡说可以发现、“中国经济 5 年周期”所讲的与其说是一个经济周期、 94 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 不如说是一个以每五年召开一次的中共全国大会为分期的政治周期。如果据此将林说称 为“大周期”、王说称为“中周期”、胡说称为“小周期”的话、那倒也是满有意思的。 可惜的是、上述的交流一直只是在一个很狭窄的范围内进行的。胡鞍钢的“中国经 济 5 年周期说”是公开发表的、川崎高志是在 IGCP 的一次小型规模的研讨会(〈中国 の社会変動と日中関係-中国社会変動の周期性から反日デモを検証する-〉 6 2005 年 5 月 22 日、 八王子市市民活动支援中心会议室)上提出动乱时传播手段问题的、除此 之外、其他的大都是私下交谈。动乱是一个很敏感的问题、前辈学者无法将其分析形诸 文字、由于缺乏有效的记录手段、很多珍贵的思考都自生自灭了。过去没有正式的学术 研究、这虽然有点遗憾但却可以理解。不过、现在中国言论自由了、我觉得现在是可以 放手研究社会动乱的时候了。 研究中国动乱的周期性的现实意义 研究中国 动乱的周期性的现实意义 研究中国社会与政治动乱的周期性具有很大的现实意义。我在〈轮廓〉中指出、当 代中国的动乱有两大“死穴”、一是动乱的时间基本上集中在春季(4、5 月份)、相反、 夏天和秋天很少发生动乱。 7 一是动乱的社会阶层大多以青年人(大学生)为起点。从 理论上说、只要当局能够彻底控制得住这两个薄弱环节就可以控制住动乱。由于动乱就 像滚雪球、大约需要有近一个月的时间才能滚成大规模的动乱。因此从时间上具体地说 是、3 月中旬到 4 月中旬这一段时间比较重要。此外、动乱的周期循环的基本原理在于 动乱可以缓解紧张、解消压力、而缓解紧张、解消压力的方式却不一定非得以反政府的 方式出现不可。当然、从另一种意义上讲、导致动乱的社会压力宜疏导而不宜堵压、一 味以高压强行压制的话、即便可以一时得逞、有可能会得不偿失。从更大的意义上说、 甚至会造成不可救药的后果。 认识社会发展的规律可以帮助我们减轻社会动乱带来的混乱、损失和痛苦。就像马 克思所说过的、“一个社会即使探索到了本身运动的自然规律、它还是不能跳过也不能 用法令取消自然的发展阶段。但是它能缩短和减轻分娩的痛苦。”(马克思《资本论》 序言) 2005 年的反日示威 的确、单纯的动乱周期说仍然无法完全回答木村教授所提的问题。这使我想起了 2005 年 5 月 22 日、ICGP 研究所中国研究部会研究会“中国の社会変動と日中関係- 中国社会変動の周期性から反日デモを検証する-” 8 上、林亮教授对笔者将 2005 年的 反日示威称为一次“中等规模的动乱”感到困惑一事。2005 年的反日示威在日本是一 次被过度报导和渲染了的事件、就电视上的视觉效果而言、在长期风平浪静的日本、这 中国社会动乱的周期性与自律性(王元) 95 是一件很刺眼、很有刺激性的事件。当时、有几位读过拙文的人最初的反应是:一场真 正意义上的动乱开始了(拙文中的确提到过、由于 1999 年法轮功事件是一次被利用了 的事件、它并未完全释放出中国社会所积压的全部压力、因此下一次的动乱有可能会来 得比较早 9 )。但是回过头来看一看的话、我们就不得不承认、在中国、2005 年的反日 示威距上一次动乱(1999 年法轮功事件)只有 6 年、而且无论就其规模、参加人数、 持续时间、所涉及的地域范围都是有限的、跟 1957 年反右、1958 年大跃进、1966 年 文化大革命、社会主义市场经济(1978 年改革开放)、1989 年天安门事件以及 1999 年法轮功事件根本无法相提并论。 为此、笔者倾向于认为、(1)2005 年的反日示威在现代中国动乱的周期循环中大 致相当于 1986 年底到 87 年初的那次中等规模的学潮。(2)由于反日示威释放了一定 的压力、2006 年的春天将风平浪静(这两点笔者已经在上次研讨会上提到过)。但是 由于 2005 年的反日示威的规模和范围以及持续期间等等都只是个中小型的动乱、它在 释放中国社会内部积聚的压力方面的作用是有限的。 2005 年的反日示威是在比较特定的环境下发生的。当时的情况是、先是 3 月上旬 开始在韩国发生了反日示威活动并逐渐趋于激烈。然后是海外华人、特别是在美华人以 及香港的中国人之间开始有组织地将反日信息向国内渗透。最后终于波及到了国内。但 是由于在国内发生的时期比较晚、这个雪球基本上从一开始就注定滚不大(当局的取缔 工作一开始比较松懈、可能也有这一方面的原因)。但是后来、一部分地区出现了投石 打砸等过激的行为、当局的取缔工作日趋严格。以后渐渐趋于平静。 至于今后会如何、我们首先应该明确一点、就是、现代中国动乱的周期循环说实际 上是一种经验型的归纳分析、也就是说是一种用来对已经发生的历史事实进行总结的理 论、这种理论本来不应被用于预测尚未发生的即未来的事。之所以如此是因为经验型的 归纳分析本身是机械性的、对变化和例外因素的分析十分薄弱、而历史是处在不断的变 化之中的、所谓的历史的必然性实际上是由无数的偶然性构成的。比如前面在说明研究 中国动乱的周期性具有很大的现实意义时提到过的、当代中国的动乱有两大“死穴”之 一是动乱的社会阶层大多以青年人(大学生)为起点。但是、笔者对最近中国的大学进 行的观察表明、现在的中国大学生跟 1990 年代以前的中国大学生之间有很大的不同、 这一代已基本上是完全的独生子女、他们有较多的个人空间和爱好、对社会和政治非常 疏远。当然、这并不一定就意味着他们没有紧张和压力、只是得他们的紧张和压力处在 难以觉察的半隐蔽的状态。具有一定的暴发性和突然性。这种难以捉摸的情况增加了我 们判断动乱周期的难度。 不过在假设前提条件不发生较大变化的情况下、翻翻老黄历也未尝不可。从 1999 年法轮功事件以来已经有 7 年半过去了、如果以最短周期 8 年计算的话、还有半年中国 96 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 将进入法轮功事件以来的下一个动乱期。也就是说从 2007 年春起、以后每年的春天都 有可能暴发动乱。这样、以最长周期 12 年计算的话、一直持续到 2011 年。如果到 2011 年没有发生什么的话、我们就不得不考虑下一个问题了:要么是传统意义上的中 国 动 乱 的 周 期 循 环 已 经 结 束 了 10 、 要 么 就 是 中 国 进 入 了 林 尚 立 所 谓 的 另 一 个 “ 大 周 期”。这样的话、不论属于上述哪一种情况、我们对中国动乱的分析都不得不从头开 始、全面更新了。当然、这并不必然地不问自明地意味着如果在 2011 年之前发生了什 么的话就一定意味着现在的中国仍然处于传统意义上的中国动乱的周期循环之内。至 少、如果这次动乱不是以青年大学生为起点的话、我们就得考虑另一个“大周期”的可 能性了。 当局的立场 当局的立 场 : 中国大局已定 中国 大局已定 最后、我们不妨换个角度来考察一下这一问题、站在当局的立场、中国共产党和政 府会如何对应呢?从 1999 年法轮功事件的对应情况来看、笔者相信中国当局对动乱的 周期性抱有理性的认识。一方面、我们知道、这一期间中国正好有两件大事要办、一是 2008 年的北京奥林匹克运动会、二是 2010 年的上海世界博览会。另一方面、笔者已经 提到、就缓解社会压力而言、理论上任何动乱(动和乱)都是有效的。因此、如果加以 有效的疏导、能够引导全社会来参加参与这个“动而不乱”的话、是有可能使 2008 年 的北京奥林匹克运动会和 2010 年的上海世界博览会成为缓解社会压力的工具的。这样 以来、2007 年的春天就成为一个非常关键的时间、只要能够度过这一难关、就有可能 把比较平静的局面维持到 2011 年以后。至于 2011 年以后、那就只能走一步是一步 了。 不过、我们还可以寄希望于传统意义上的中国动乱的周期循环走向完结。传统意义 上的中国动乱的周期循环走向完结是早晚的事、动乱的周期循环只是开发独裁的一个特 征而已。随着中国政治走向民主和高效、社会更加自由和谐和、那时中国的发展可以通 过科学的方式、自然合理地进行而无需通过内部独裁的方式强制地进行、社会压力无需 通过动乱的形式也能得到缓解。就笔者而言、虽然对“中国还有一劫”的恐惧尚未完全 消失、但是笔者相信、中国历尽劫难的时代就要结束了。 注 1 木村英亮、前二松学社大学教授、横滨国立大学名誉教授。 中国社会动乱的周期性与自律性(王元) 2 木村英亮 〈王元編著『中国の文化と近代化』書評〉『 IGCP 月第 10 号。 ニューズレター』2006 年 3 3 王元、汪鸿祥、川崎高志、林亮著『変貌する現代中国』白帝社、2004 年。 4 王元、汪鸿祥、川崎高志、林亮著『変貌する現代中国』白帝社、2004 年、第 32 页。 5 同前、第 17 页。 6 http://www.igcpeace.org/society.html#china 7 深町英夫(中央大学経済学部教授)「8 月 15 日、首相参拝を南京で知る(上)・妙に静か な今年の中国」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060824-00000005-scn-cn 8 同前。 9 10 王元、汪鸿祥、川崎高志、林亮著『変貌する現代中国』白帝社、2004 年、第 36 页。 同前、第 42 页。 97 98 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 ここに言及されている「書評」は、『地球宇宙平和研究所ニューズレター』第 10 号(2006.3)に掲載されたものである。下記に再録するとともに本稿に対する感想を 付した。 書評 王元編著『中国の文化と近代化』(白帝社、2006 年 1 月、148 ページ)。 英文題「今日の中国における文化・社会・政治の変化の諸様相」は本書の構成を よく示している。全 4 章、1 章は依田憙家の日中比較、2 章では王元が文化、3 章 では王威海が社会、4 章では野村崇弘が政治を分担し、序文を依田、編集後記を編 者の王が執筆する。ここでは、王元の 2 章を中心に紹介し、感想を述べたい。 依田は序文で、東アジアでは政治的信頼関係がないため、地域内協力のシステム 構築がおくれている。東アジアの将来にとって、まず過去の反省が必要で、また歴 史的にアジアの文化大国であったがアヘン戦争でその地位を失った中国の回復が課 題である、とする。 1 章で依田は、19 世紀半ば以降の日中の近代化を比較し、両国の違いが生まれ た原因を簡潔にまとめ提示している。 3 章の内容は、「中国における社会構造の変遷と社会流動」を、欧米や日本の社 会学の方法をふまえて論じ、不健全な市場メカニズム、都市と農村の二元構造、 「単位制」の障害を問題点としてあげる。 4 章は、「反腐敗の政治」をテーマとし、1980-90 年代、中国では、「官倒」か ら横領、賄賂など腐敗に対する政策が、権力強化と人気取りに利用されてきたこと を分析し、ロシアのエリツィンとプーチンの反腐敗政策との比較、検討を行ってい る。 王元は 2 章で「儒教原理主義の終焉と中国の近代化」をテーマとして論じるとと もに本書の基本的観点を示している。 2500 年以上続いてきた中国文化は、19 世紀に「西洋の衝撃」によって文化的地 位を逆転されたが、1990 年代以降の「小転換」によって、近代化の可能性を開い た。 中国文化は、儒、道、法、仏、墨など各種理論の交差的影響下に形成された。そ の特徴は、「天下皆兄弟」、「人本主義」、「社会契約の欠如」、「抽象的思索へ の反対」、「無神論的傾向」、「自給自足、知足長楽」、「家庭生活重視」、「中 99 庸の道」、「政治的大統一」、「儒・法・道・墨の学術思想循環による停滞」とい う 10 項目にまとめられる。 日本文化は、実用主義的で気概はあるが理想がなく、有効な内部制動装置を欠き、 成り行きまかせの「超流動体」のところがある。 中国では外来文化は自律作用で変形する。いま、中国では一人っ子政策によって 家族制度は崩れつつあり、それにもとづく儒教原理主義は終わりを迎えている。中 国の強大化は、内部制動装置の存在によって抑制される。「仁」、「天下」、「大 同」といった中国文化のなかにある理想は、世界に受け入れられるであろう。 中国人自身の自己認識として有益で、論旨にもおおむね賛成である。なによりも、 論じ方のスケールの大きさを見習いたい。ひとつだけ質問するとすれば、大躍進運 動、中ソ論争、文化大革命、社会主義市場経済と激動した中国現代史の大きな振幅 と「内部制動装置」との関係である。 感想 中国では桁外れに過激な事件が続いたが、たしかに自分で収拾したとも言える。 中国やアメリカの「内部制動装置」は、国内の多様性に関係があると思われる。中 国は、共産党の一党制であるが、実際には日本のほうが一党制的社会であるかも知 れない。 日本のいまの状況は、新たな戦前のように見える。 しかし、繰り返しを許さないような国際的条件は形成されている。それは中国、 韓国をはじめとするアジア諸国、諸民族の意志である。 日本の研究者としては、歴史ばかりでなく、社会的条件などもふくめ、さまざま な方法・角度からの分析を進めなければならない。 日本に中国に敗れたという意識がすくないことも原因のひとつではないかと思う。 アメリカがヴェトナムに敗れた歴史を学ぶのもひとつの方法ではないかと思う。 日本は、「シベリア出兵」以来、1938 年の「張鼓峰事件」、1939 年の「ノモン ハン事件」、1945 年の「第二次世界大戦」と、ソ連に勝ったことはない。対ソ関 係の検討は決定的に不足していると思う。 100 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 研究ノート 東アジア安全保障レジームと日米安保再編 林 亮 The Security Regime for East Asia Pacific Region and the Reorganization of the Japan-U.S Security Treaty Akira Hayashi 日米安保再編は東アジア地域の安全保障環境を無用に緊張させる。日本は平和憲法 と非核三原則を貫き、軍事的圧力に依存しない外交政策に立ち戻るべきだ。日本は仮 想敵を作らず東アジア共同体的発想に基づいた協調的で平和な安全保障環境を主体的 に構築すべきだ。 1. 大国主導外交への反発 7 月 9 日にかながわ県民センターにおいて、地球宇宙平和研究所主催の講演会に おいて、「アジア安全保障レジームと日米安保再編 不安定要因としての北朝鮮核・ 弾道弾問題」と題して、東アジアの安全保障レジームと日米安保再編について講演し た。本論は本講演会の内容を中心に文章に整理したものである。 2006 年 7 月 5 日北朝鮮は開発中のテポドン 2 をはじめとして、合計 7 発の弾道ミ サイルを実験と称して発射した。発射直後に分解したテポドン 2 を除いて、6 発の弾 道ミサイルがロシアの 200 海里内ウラジオストック沖に着弾したと言われている。 日本人はテポドン発射の理由をどうしても北朝鮮と自国の関係の中で理解しようと するが、この地域において日本はけして主要なアクターではないことを忘れてはなら ない。当日アメリカ太平洋艦隊の旗艦ブルーリッジがウラジオストックに接岸中であ ったことも、同じブルーリッジが 6 月には上海を訪問していたことも偶然とは思えな い。しかも日米軍事同盟の新局面への移行を象徴する日米首脳会談直後であったこと 東アジア安全保障レジームと日米安保再編(林亮) 101 を考え合わせると、北朝鮮の 7 発の弾道ミサイルがロシア、中国も含めたアメリカな ど六者協議枠組みを動かす大国への反発から発射されたと理解したほうが良いように 思えてくる。後ろ盾となるはずの中国やロシアといった「友好国」にも背を向ける北 朝鮮の国益とか均衡と外交の常識を度外視した政策の本質が見えてくるように思われ る。 しかし地域の大国が核保有国だからと言って北朝鮮の核保有が認められるわけもな い。関係各国で北朝鮮の核武装を歓迎する国は一カ国も存在しないし、万が一北朝鮮 が核保有国となっても現在の窮乏する孤立状態が改善されることもないだろう。現実 の国際政治を考慮しない無謀な行動は北朝鮮をさらに孤立へと追い込むにちがいない。 北朝鮮の核武装は日本の核武装を誘発する可能性が高く、中国もアメリカもロシアも 日本の核保有に耐えられないと思われる。アジアではすでにインド・パキスタンの両 核保有国の緊張が続いており、対立する関係各国が核武装して対峙するおろかな状況 を東アジアにまで拡大してはならない。 2. 米軍トランスフォーメーション戦略と日本 昨今その実現にむけた議論が盛んな東アジア共同体論議において、中国ファクター を加えた途端にそれまでの共同体の理念や希望を高邁に語っていた論調がきな臭くな ってしまう傾向がある。共同体的な協調と繁栄の理念実現による新たな国際関係の理 想が、在来の大国間の力の関係による勢力均衡システムに基づく国際関係観に逆戻り してしまうからだ。 米軍トランスフォーメーション戦略と日米同盟再編は、東アジア地域の大国間関係 を中心とする権力政治への逆行を象徴する重要な問題である。トランスフォーメーシ ョンは、米軍の情報・通信・指揮システムの一体化によって軍事力を強化する一連の 改革を示す言葉である。しかしトランスフォーメーションには米三軍と海兵隊の一体 化・情報化による効率化の側面だけでなく同盟軍の指揮情報システムを米軍と一体化 する改革も含まれている。日米安保再編は米軍の指揮下に自衛隊の指揮・情報システ ムを一元的管理することを目指すトランスフォーメーション戦略の重要な一貫である。 2005 年 2 月発表の「日米共通戦略目標」は、日米共同 BMD 計画推進や自衛隊に よる周辺海域制圧を確約したものであり、具体的には自衛隊による中国軍事力の封じ 込めを将来的な日本の戦略目標として確約したに等しい。アメリカはこれまでも日本 を世界展開の米軍への補給基地としてきた。しかし「日米共通戦略目標」は自衛隊の 米軍に対する補給能力を世界展開とし、さらに BMD 計画によって北朝鮮や中国の保 102 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 有する戦略核ミサイルを迎撃し日本をアメリカ本土防衛の前哨基地とするものである。 小泉政権が確約した「周辺海域の軍事的制圧」は、東シナ海に展開する中国戦略原潜 と近年急速に近代化を進める中国海軍の封じ込めを図るものである。 日本はすでにアメリカと緊密な軍事同盟を結び台頭する中国の影響力を減殺する役 割を担っている。米軍トランスフォーメーション計画によって日本の自衛隊は米軍の 一部となって打撃力の一部となることが強要されている。 3. アメリカの対中戦略に有利に働く東アジア・ミサイル危機 アメリカが推進する NPT(全面的核実験禁止条約)と MTCR(ミサイル関連技術 拡散防止条約)は核非拡散レジームを支える極めて重要な国際条約である。しかしア メリカ自体が核軍縮の努力を放棄しているために貴重な核非拡散レジーム自体が存続 の危機に瀕している。他国には核実験も長距離核ミサイルの保有も認めないのに自国 だけを例外として核兵器の保有を続けさらに新型核兵器の生産のために核実験を続け るアメリカに非拡散レジームを強要する資格はない。 北東アジア・ミサイル危機の動因に大国主導とくに核保有国による安全保障枠組み 支配への根深い抵抗が存在することは間違いない。この角度から見ると北朝鮮問題は 最早冷戦の残滓とは言えない。核保有国主導の国際関係に対して小国核兵器取得によ って異議を提示する北東アジア国際政治の新たなトレンドと言えるかもしれない。 しかし北朝鮮の原始的なミサイル実験を口実にして、アメリカが中国の保有する対 米核抑止力の無効化をねらった一連の軍事的措置を推進していることも事実である。 日米安保再編による米日軍事同盟の強化、パキスタン、インドへの経済・軍事援助の 拡大など最近のアメリカの一連の戦略的外交政策発動は、東アジア地域への影響力を 拡大しつつある中国を目標とする対中牽制・包囲戦略の一貫であろう。結果的に北東 アジア・ミサイル危機が中国の保有する戦略抑止力減殺を目的とするアメリカの戦略 目標達成に有利な条件を作り出していることは間違いない。 しかし核抑止力が抑止可能なのはロシアや中国のような国家だけである。地球の一 体化過程の中で国家の枠が溶融を始めており、近東・中東地域だけに止まらず、国家 間関係を軸としてアメリカが主導する国際秩序が直面する危機は、従来の国家中心の 勢力均衡システムでは解決不能な段階に達している。9.11 をきっかけに安全保障上 の危機は大国の保有する戦略核で制御可能な伝統的安全保障の分野から、テロや災害 などの非伝統的安全保障の分野に移行しつつあると言われている。旧来の大国中心の 国際秩序に固執するアクターはその影響力を大きく減じるにちがいない。 東アジア安全保障レジームと日米安保再編(林亮) 4. 103 中国の台頭戦略 中国の経済発展と国際社会への影響力拡大を長期的な脅威と見なすアメリカの基本 的な対中認識に対して中国は相反する二つの対応策を平行して推進している。 一つは WTO 加盟をはじめとする国際経済秩序、さらに NPT 体制と MTCR を軸と する安全保障秩序のふたつのアメリカが主導する国際秩序への積極的参入と協力であ る。中国は自国経済発展戦略の呼称さえ「平和台頭」から「平和発展」論へとより穏 健な表現に変更する。国際秩序とアメリカへの協力の意志は中国中央政府によって繰 り返し語られる。中国はアメリカが主導するグローバル秩序に積極的に協力する姿勢 を崩さない。 一方で中国は経済発展の果実を活用し、戦略核兵器をはじめ軍近代化の歩みを加速 しつつある様にも見える。鄧小平路線の一時期は確かに大々的な縮軍が実行されたが 現在は「経済大国に見合う軍事力の整備」すなわち東アジア地域大国に見合う軍事力 の整備に積極的であると見られて仕方のない軍備拡充を進めつつある。中国は近代化 によって得られた資金を活用してロシアからの軍事技術援助を受け、戦略核も含めそ の装備の近代化を実行中である。従来は不確実で政治的抑止力の意味合いが強かった 中国戦略核兵器は近代化改修によって次第に軍事的実効性を高めつつあると見られて いる。 さらに中国はいわゆる「上海ファイブ」をはじめとする同盟戦略、また ASEAN へ の急接近などを通じてアメリカの中国包囲網に対抗する「多国間多重周辺外交」も同 時に展開している。東アジア共同体形成への積極姿勢もアメリカの中国包囲戦略に対 抗するための国家間パワーゲームであると捉えれば、アメリカの世界覇権への中国の 戦略的対抗手段と見なすことも可能である。 5. 懸念されるアジアの質的軍拡競争 アジア各国の対 GDP 国防支出を見るとインド 280%、中国 290%、インドネシア 448%の 200%をこえるグループ、韓国、マレーシア、フィリピン、シンガポールな ど 150%前後のグループ、そして日本など国防費現状維持のグループが存在する。し かし軍事費が長期に減少傾向にある国はほぼ存在しないと言って良い。東アジアだけ でなく南アジアも含めアジアは軍拡傾向にあると言えるだろう。 しかもこれらの軍拡が軍事力の遠距離化・知識情報化・即時性の強化にむけて推進 されていることが問題である。弾道ミサイルは軍事力の長射程化と即時性を実現する 104 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 ものであり、韓国や日本が保有する大型強襲揚陸艦や、中国が保有を目指す航空母艦、 高性能駆逐艦、高性能戦闘機なども軍事力の遠距離投射能力を高めるものである。 TMD 配備と日米同盟の強化によってアメリカの対中軍事圧力は強まっている。こ れに対抗する中国の戦略核兵器システムの近代化によって、弾道ミサイル拡散に対抗 する TMD システムには配備数増強とさらなる高性能化が要求される。またアメリカ からの協力要請に応える形でアメリカの同盟国は補給艦や揚陸艦の整備に努め、軍事 力の遠距離投射能力の拡大に努める。この結果アジア地域の軍事的緊張と、米朝間あ るいは米中間の軍事的緊張が高まり、さらに東アジア、南アジアでの軍拡競争を刺激 している負の連鎖は否定できないだろう。 これらの緊張がいずれもアメリカが推進するグローバル化圧力と、国家主権を盾に これに対抗する国家の間で引き起こされていることに注目しなければならない。アメ リカは国際社会で支配的影響力を次第に失いつつあり、紛争を軍事力だけで解決しよ うとする傾向が強くなった。政治・経済両面の力を失いつつある現在のアメリカに残 された最大の資源は軍事力である。しかし残念なことにアメリカの支配力に対抗しよ うとする国家もまた核爆弾と長距離弾道ミサイルの核抑止力に安全保障を求めようと する傾向が強い。 力に力で対抗する現在の国際関係は危険である。アメリカが軍事力を中軸に据える 外交戦略を変更しないなら、東アジア、南アジアの地域には核兵器使用も含め戦争が 発生する可能性が高いだろう。 6. 理念の優劣を競うアジア安全保障レジーム 国際関係を大国間の政治ゲームと捉えても国際的な緊張状態は解決しない。外交の 目的は平和と繁栄の形成にあることは間違いない。グローバル化による世界の標準化 は確かに世界大の経済活動と巨大な利益を生み出した。しかし世界の画一化はこれま で国家の壁や異なる制度に守られていた個人や集団に直接グローバル企業が関わるこ とを可能にした。結果グローバル化は一方的な秩序や価値観の強要と経済的収奪とな って人々の生存さえ脅かすようになった。他面科学技術の発展は人々が国境を越えて 知識を共有することを可能にもした。情報は瞬時に全世界で共有されるようになった。 国際社会の民主化は間違いなく進展し人々は民主主義と豊かさを求めるようになった が、大量破壊兵器に関する情報も同時に拡散した。支配的な勢力が軍事力をもって 人々を収奪することは許されない時代になりつつある。 東アジア、南アジアには安全保障レジームめぐる二つの潮流が存在する。一つはア 東アジア安全保障レジームと日米安保再編(林亮) 105 メリカのグローバルな支配力と大国間関係を中軸とした大国主導の安全保障枠組みで ある。もう一つの潮流はアジア諸地域の植民地、半植民地状態の経験と、冷戦期の米 ソの強固な軍事同盟枠組みによる支配を負の遺産として、地域各国の自立と平和を最 大の価値とする潮流である。前者には日米安保や米韓軍事同盟、かつての中ソ軍事同 盟、さらに北朝鮮問題解決のための「六者協議枠組み」などもこの枠組みに含まれる だろう。後者には ASEAN 加盟国の安全保障レジームとして創設された TAC(東南 アジア友好協力条約)があげられる。TAC には ASEAN の自立性を認めるために域 外国が加盟するという制度が存在し、2003 年、04 年には印中ロがこれに加盟する一 方、二国間安全保障枠組みを重視する日米は TAC に消極的でさえある。 この二つの潮流の妥協の産物が ARF(ASEAN 地域フォーラム)と言えようが求心 力に乏しい ARF が高まる危機の調整に実効的な成果を上げることは困難である。各 国の国益ゲームに翻弄されつつ併走するが、米国主導のグローバルな国際秩序と、自 主性を強調するアジアの歴史的経験を調和させなければこの地域に実効的な安全保障 枠組みは形成できないだろう。国益を重視する各国の利害調整の中で安全保障枠組み 形成の調整は困難であろう。しかしそれでは地域の安定は確保できない。いずれ東ア ジア共同体形成によって地域軍拡を抑制、利害関係の調整を行うべきである。 アジア共通の安全保障レジーム構築は緊急の要請である。二国間軍事同盟枠組みを 中心にグローバル秩序維持に努力し、アジアの地域共同体形成を脅威と見なすアメリ カの外交政策はいずれ破綻するだろう。世界の生産を支えるアジアの安定に東アジア 共同体形成は不可欠であり、アジアがこれ以上不安定化すればアメリカ経済も行き詰 まってしまう。 東アジア、将来的には南アジアも含むであろうアジアにおいて地域的安全保障枠組 みを形成するにあたって、植民地と冷戦時圧政の記憶はアジア共通の歴史認識を加え ることは必然であり不可欠の条件である。アメリカを震源とする二重の軍拡圧力はア ジア軍拡を刺激し、我々はアメリカとの二国間安全保障と東アジアの地域的安全保障 枠組みの矛盾を解決して共通の安全保障枠組みの形成を要請されている。 日米安保再編は東アジア地域の安全保障環境を無用に緊張させ、アジア地域の平和 と繁栄への脅威となりかねない。日本は平和憲法と非核三原則を貫き、軍事的圧力に 依存しない外交政策に立ち戻るべきだ。日本は仮想敵を作らず東アジア共同体的発想 に基づいた協調的で平和な安全保障環境を積極的に推進すべきである。 106 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 以下に参考にした文献の中で特に重要と思われる文献をいくつか紹介する。 (1) 大橋英夫「中国対外経済政策の展開」『国際問題』日本国際問題研究所、2003 年 1 月。 (2) 平川均『新・東アジア経済論:グローバル化と模索する東アジア・改訂版』ミネ ルヴァ書房、2003 年 5 月。 (3) 高原明生「中国の多角外交――新安全保障観の唱道と周辺外交の新展開」『国際 問題』日本国際問題研究所、2004 年 2 月。 (4) 菊池努「『地域』を模索するアジア――東アジア共同体論の背景と展望」『国際 問題』日本国際問題研究所、2005 年 1 月。 (5) J. ブリスタッフ、C. ラム著「米軍のトランスフォーメーションと東アジアの安 全保障」『国際問題』日本国際問題研究所、2005 年 2 月。 (6) 石川卓「国際安全保障環境と日米防衛協力」『国際問題』日本国際問題研究所、 2005 年 6 月。 (7) Armaments, and Disarmanet International Security SIPRI Year Book 2005, Oxford University Press, May 2005. (8) THE MILITARY BALANCE 2004/2005, OXFORD University Press, October, 2004. (9) 唐世平「 再論中国的大戦略」『戦略与管理』2001 年第 4 期。 (10) 『中国的军控,载军与防扩散努力』2005 年 9 月、 http://china.com.cn/chinese/zhuanti/book/956904.htm より、2005 年 10 月 15 日取得。 107 エッセイ 北朝鮮を訪ねて 2005 年 8 月 ――ストックホルム・アピールから軍隊のない地球へ―― 高橋 勝幸 My trip to the Democratic People's Republic of Korea in August 2005: From the Stockholm Appeal to the earth without an army Katsuyuki Takahashi 私は 2005 年 9 月 11 日、北京の中国人民革命軍事博物館を訪れ、抗美援朝戦争館を 見学した。この展示は、中国人民志願軍出兵 50 周年を記念して、2000 年 10 月に一 般公開された。展示の入り口には平和運動のシンボルであったピカソによる鳩の絵が 見えた。中国人民の平和を願う署名運動についても写真と署名が展示の最初のコーナ ーを飾った。当時の中国にとって、「抗美援朝」、すなわち、アメリカに抵抗し朝鮮 を支援することは、家を守り、国を防衛し、平和を擁護する正義の行動であった。世 界平和の擁護とは、「アメリカ帝国主義」の侵略に反対し、解放戦争を支援すること であった。そして、志願軍は国際主義を象徴した。展示品の中に、金日成主席(当時 の役職名と異なる)直筆の題詞「羅盛教烈士的国際主義精神与朝鮮人民永遠共存!」 がある。これは志願兵の羅盛教が 1952 年 1 月、河に落ちた朝鮮の少年を救い、自ら は河の中に命を落したことに由来する。朝鮮人民は彼のために記念碑を建立し、金日 成主席が題詞をしたためた[中国人民革命軍事博物館編 2003: 296、322-323]。 一方、朝鮮革命博物館は平壌の万寿台の丘に位置し、その正面には高さ 23 メート ルの金日成主席の銅像がそびえ立っている。今回残念なことに、博物館前の銅像を拝 みながら、博物館を見学しなかった。見学していない博物館について書くのも憚られ るが、1974 年に発刊された同博物館の日本語の写真集がある。同書によると、博物 館は「国際共産主義運動と労働運動」の指導者である金日成主席の革命運動の歴史に 108 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 ついて展示している。そのうち「偉大な祖国解放戦争の時期館」は朝鮮戦争に関する 展示である。朝鮮は、朝鮮半島を「アジア侵略の橋頭堡」にしようとする「アメリカ 帝国主義者」を負かし、祖国解放戦争に勝利することによって、世界戦争への拡大を 阻止し、社会主義諸国の安全と世界の平和を守り、世界各地の独立運動を励まし、 「反帝反米闘争の新たな時期をきりひらいた」と解説している[朝鮮革命博物館写真 帳編集委員会編・訳 1974: 4、12、65、67]。 B. アンダーソンが指摘するように、博物館は極めて政治的なものであり、国家の 正統性を形成することを意図し、国民的アイデンティティを涵養する。ナショナリズ ムの表象の一つが博物館である[アンダーソン 1997: 293-301]。中国の博物館には、 平和運動に世界中からの参加者があったことに対する言及が見られない。朝鮮の博物 館の写真集には、中国に対する言及すらなかった。確かに、朝鮮戦争は他の独立運動 を奮い立たせたにちがいない。しかし、同時に、原子兵器の使用禁止と朝鮮戦争の中 止とを求め、とりわけ「アメリカの侵略」に反対して世界中の多くの人々が支援した こともまた事実である。冷戦期、朝鮮・中国・ソ連の間の相互不信、確執、対立は、 朝鮮の主体思想を強固にする一方、自主・自立の信念を屈折させ、偏狭な排他主義を 生み、国際連帯の記憶を封じ込める結果になった。 1 .ストックホルム・アピール 1950 年 3 月に始まるストックホルム・アピールの署名運動は原子兵器の絶対禁止、 厳重な国際管理、最初に使用した政府を戦争犯罪人とすることを求め、全世界で約 5 億人が参加した。この運動には朝鮮戦争反対の意思も反映した。日本では、朝鮮戦争 の中止を願う在日朝鮮人が大活躍した。1950 年 11 月 30 日、トルーマン大統領は記 者会見において朝鮮戦争で原爆を再び使用する用意のあることを示唆する。12 月 4 日、イギリスのクレメント=アトリー首相が慌ててワシントンに赴き、トルーマンに 原爆の使用を思いとどまらせた。そのアトリー首相を動かした世論を形成したのが、 ストックホルム=アピールの署名運動を展開したイギリスの平和運動であったと、平 和運動側は主張する。ストックホルム・アピールの運動に続き、1951 年 2 月には、 朝鮮問題を平和的に解決し、世界戦争の危険を取り除くために、米・ソ・中・英・仏の 5大国による平和条約締結を求める署名運動(ベルリン・アピール)が始まった。 1951 年 10 月 29 日付『人民日報』によると、世界で約 5 億 6000 万人が署名した(最 終的に 6 億人以上が署名)。そのうち中国は 3 億 4400 万、ソ連は 9700 万、朝鮮は 700 万、ヴェトナムは 600 万、日本は 500 万であった。この平和運動には確かに中ソ 北朝鮮を訪ねて 2005 年 8 月(高橋勝幸) 109 によるアメリカに対する牽制という政治的意図があり、いくつかの欠点をもったが、 参加者の大半は戦争と核兵器に反対し、平和を誠実に希求した。 私はタイに関心をもっているので付言すれば、タイでも朝鮮戦争に反対して、スト ックホルム・アピールとベルリン・アピールの署名運動がそれぞれ行なわれた。その 数は、両者合わせても 30 万余であるから、他国と比較して決して多いとは言えない。 しかし、1952 年 11 月 10 日には「平和反乱」事件と一般に呼ばれる反政府活動家の 一斉検挙があった。平和運動に参加した多くの者が逮捕された。タイ国平和委員会委 員長のヂャローン・スープセーン、副委員長のクラープ・サーイプラディットが逮捕 され、約 4 年半入獄した。もう一人の副委員長のディロック師は僧侶のため入獄は免 れたが、取り調べを受けた。書記長のソー・チョーティパンは中国に逃れた。タイは アジアで最初に国連軍に参加した国であった。当時、タイはいわば軍部独裁体制下に あり、親米反共政策をとっていた。その中での反戦平和運動であったことを銘記して おきたい。ベルリンの平和会議には 2 人のタイ人が出席し、1952 年 10 月に北京で開 催されたアジア・太平洋地域平和会議には 9 人のタイ人が参加した[高橋 2006]。 これらの署名運動が形成した国際世論は、朝鮮戦争において原爆が投下されなかっ た要因の一つであったと考えられる。その後のイラク戦争における劣化ウラン弾の多 用は憂慮しなければならないが、広島・長崎以来、核兵器が使用されたことはない。 今のところ、日本が最初にして最後の被爆国であり、アメリカが唯一の原爆使用国の ままである。 2 .朝鮮半島非核地帯 姜尚中氏によれば、1980 年代までは、朝鮮が「核兵器の保有を積極的に考慮して いた形跡はみられ」ず、むしろ、朝鮮半島を非核・平和地帯にすることを主張してい た。朝鮮が朝鮮半島の非核・平和地帯創設に関する立場を公式に表明したのは 1986 年 6 月 23 日である。この非核・平和地帯は、核兵器の実験・生産・貯蔵・搬入を禁 止し、外国の軍事基地を撤廃し、そして、外国の核兵器の自国領土・領空・領海の通 過を禁止した。9 月 6 日、平壤で「朝鮮半島の非核・平和のための国際会議」が開か れ、中国、ソ連、東欧、非同盟諸国を中心に約 80 カ国から 93 の代表団が参加した。 最終日の 8 日、朝鮮半島非核地帯化を求める平壤宣言が採択された。12 月 6 日には 朝鮮の「民間団体・朝鮮非核平和委員会が結成され、非核・平和地帯創設に関するさ まざまな行事が開催された」という[姜 2003:107-108、『朝日新聞』1986 年 9 月 9 日]。 110 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 私は 1986 年のこれらの出来事を詳しく確認することができなかったが、1981 年 3 月 16 日に日本社会党と朝鮮労働党の間で、東北アジア地域非核平和地帯創設に関す る共同宣言が採択されたことを付け加えたい。ここでいう東北アジア地域は朝鮮半島 に加え、日本とこれらの周辺海域をカバーしている。共同宣言は、核兵器・生化学兵 器の開発・実験・生産・所有・運搬・貯蔵・持ち込み・使用の禁止、外国軍基地・外 国軍隊の撤退、および軍事同盟の破棄を謳った。両党の会談において、金日成主席は 「世界の平和と安全を保障するためには、世界の各地域に非核平和地帯を創設してそ れ を 絶 え ず 拡 大 し な け れ ば な り ま せ ん 」 と 述 べ た [ 『 キ ム イ ル ソ ン 主 義 研 究 』18 号:17-19]。 それから 10 年後の 1991 年 6 月1日、金日成主席は共同通信社社長のインタビュー で次のように答えている。「朝鮮半島を非核地帯・平和地帯にしようというのは、わ が党と共和国政府の一貫した立場です。われわれは久しい間に、朝鮮半島をふくむ東 北アジア地域を非核地帯・平和地帯にすることについて日本社会党と合意し、共同宣 言を発表しました。[・・・・・・―筆者注] アジアの平和と安全を守るのはアジア諸国 人民の共通の課題です。アジア諸国人民はかたく団結し緊密に協力して、この地域か ら外国の侵略的軍事基地と侵略軍隊を撤退させ、帝国主義者の侵略と戦争策動を阻止、 破綻させるためにたたかうことによって、アジアの平和と安全を守らなければなりま せん」[『キムイルソン主義研究』59 号:10-11]。 これらの金日成主席の発言は、「朝鮮半島の非核化は金日成主席の遺訓である」こ とを裏付けている。 米ソが戦略兵器削減交渉に調印する前日の 1991 年 7 月 30 日、朝鮮は朝鮮半島非 核地帯の創設について新たな提案をした。すなわち、①南北朝鮮は 1992 年末までに 非核地帯創設に合意し、それを共同で宣言する、②核保有国である米国、中国、ソ連 がその地位を法的に保証し、1 年以内に半島から核兵器を撤去する、③非核保有国も その地位を支持し、尊重するという三項目であった。ブッシュ大統領は 9 月 27 日、 米本土外の戦術核の廃止、戦略核の一方的大幅削減計画を発表した。11 月 8 日、盧 泰愚大統領は、韓国から在韓米軍の核兵器は完全に撤収したとする「朝鮮半島の非核 化と平和構築のための宣言」を発表した。非核化の内容は、核兵器の製造・保有・貯 蔵・配備・使用の禁止という非核五原則であった。韓国は同時に「今後、核燃料の再 処理施設や核濃縮施設を保有しないことを宣言した」[姜 2003:105-106]。 こうして朝鮮半島非核化共同宣言は 1991 年 12 月 31 日に南北間で仮調印され、翌 1992 年 2 月 19 日に発効した。この宣言は「核兵器の実験・製造・生産・搬入・保 有・貯蔵・配備・使用をしないこと、核エネルギーを平和的目的にだけ使用すること、 北朝鮮を訪ねて 2005 年 8 月(高橋勝幸) 111 核再処理施設とウラン濃縮施設を保有しないこと、南北核統制共同委員会を設置し、 相互査察を実施すること」を謳いあげた。その後、相互不信により、査察の具体的な 手続きを決定できないまま[和田 2002:229]、核をめぐって抜き差しならない状況 に陥った。 3 .東北アジア非核地帯構想から軍隊のない地球へ 第二次大戦において史上初めて原子爆弾が使用されたことにより、戦後、核軍拡競 争が始まり、と同時に、核の脅威が叫ばれ、反核平和運動が発展した。その先駆けが ストックホルム・アピールであり、朝鮮戦争での使用が危惧された。朝鮮戦争は停止 したものの、南北の対立は未解決のまま、在韓米軍には核が配備され、朝鮮は核の標 的にされた。米ソ冷戦が終結し、南北朝鮮が 1990 年代初めに非核化共同宣言に一旦 合意した。 私たちの目標は軍隊のない平和な地球をつくることである。非核化はその第一歩で あろう。梅林宏道氏が 2004 年暮れに提唱した東北アジア非核兵器地帯条約は、日本 社会党の宣言よりも現実的であり、朝鮮半島非核化共同宣言の対象地域に日本を加え た。同条約の骨子は、①核兵器を開発したり、それに依存しない、②中・米・ロは同 地域に核兵器を配備せず、使用・威嚇をしないことを保証する、③IAEA の追加議定 書に加盟し、その下に核の平和利用を行なう、④締約国は対象地域の核施設を武力攻 撃しないことを保証する、である。南北朝鮮は 1992 年に朝鮮半島非核化宣言を調印 した経緯があるし、唯一被爆国である日本は非核三原則を曲がりなりにも堅持してい るので、実現の可能性は高い。 私たちは今回の朝鮮訪問で、金日成主席の銅像、抗日革命闘争塔、社会主義革命お よび社会主義建設塔、チョンリマ銅像、凱旋門、チュチェ思想塔、党創立記念塔、祖 国解放戦争勝利記念塔、大城山革命烈士陵などさまざまな巨大モニュメントを見学し た。これらのモニュメントは植民地支配、抗日戦争、朝鮮戦争の記憶を彷彿とさせ、 「二度とこの地を戦場にするまい」という決意の表象にも受け取られた。とりわけ3 年に及ぶ朝鮮戦争の戦火の中で、平壌は 1,431 回の無差別爆撃を受け、428,700 余の 爆弾が投下されて瓦礫の街と化した。それを復興した朝鮮の人々が再び戦争を望むで あろうか。これらのモニュメント、そして、前述の博物館が、戦争と国のための死を 美化したり、狭隘なナショナリズムを涵養したりする国家装置とならないことを願っ てやまない。そして、軍隊のない地球の実現へのはじめの一歩として、金日成主席の 遺訓のとおり、世界の各地域に非核平和地帯を創設してそれを絶えず拡大していくこ 112 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 とが望まれる。 主な参考文献 ベネディクト・アンダーソン著(白石さや、白石隆訳)『想像の共同体――ナショナリズムの起源と流 行』NTT 出版、1997 年。 梅林宏道「提言 東北アジア非核兵器地帯条約」『論座』、2004 年 11 月号。 姜尚中『日朝関係の克服』集英社、2003 年。 高橋勝幸「戦後タイの平和運動――タイ国平和委員会事件をめぐって」『年報タイ研究』第 6 号、2006 年、 79-96 ページ。 朝鮮革命博物館写真帳編集委員会編・訳『朝鮮革命博物館 下巻』未来社、1974 年。 中国人民革命軍事博物館編著『走進中国人民革命軍事博物館』北京:兵器工業出版社、2003 年。 和田春樹・石坂浩一編『岩波小事典 現代韓国・朝鮮』岩波書店、2002 年。 「特集六者協議以後の朝鮮半島」『世界』2005 年 10 月号。 北朝鮮を訪ねて 2005 年 8 月(高橋勝幸) 113 朝鮮半島非核化をめぐる年表 1950 年 3 月 19 日 6 月 25 日 11 月 30 日 ストックホルム・アピール採択 朝鮮戦争勃発 米大統領、朝鮮戦争において原爆の使用を示唆 1951 年 2 月 25 日 ベルリン・アピール採択 1953 年 7 月 27 日 朝鮮戦争休戦 1974 年 9 月 16 日 朝鮮、IAEA 加盟 1981 年 3 月 16 日 1985 年 12 月 12 日 1986 年 6 月 23 日 9月8日 12 月 6 日 日本社会党と朝鮮労働党、東北アジア地域非核平和地帯創設に関す る共同宣言を採択 朝鮮、NPT 加盟 朝鮮、朝鮮半島非核・平和地帯創設を公式表明 朝鮮半島の非核・平和のための国際会議(平壤)、朝鮮半島を非核 地帯化する平壤宣言採択 朝鮮、朝鮮非核平和委員会結成 1989 年 7 月 19 日 朝鮮の核疑惑 1990 年 9 月 30 日 韓ソ国交樹立 1991 年 7 月 30 日 朝鮮、朝鮮半島非核地帯創設提案 9 月 17 日 南北朝鮮、国連同時加盟 9 月 27 日 米大統領、世界規模での戦術核撤収宣言 10 月 23 日 11 月 8 日 第 4 回南北首脳会談、朝鮮、朝鮮半島非核地帯化宣言提案 盧泰愚大統領、「韓半島の非核化と平和構築のための宣言」 12 月 18 日 盧泰愚大統領、「もはや1つの核兵器もない」と宣言 12 月 31 日 朝鮮半島非核化共同宣言合意 1992 年 1 月 7 日 「チームスピリット」中止発表。朝鮮、IAEA と核査察受け入れ表明 1 月 30 日 朝鮮と IAEA、核査察協定調印 2 月 19 日 朝鮮半島非核化共同宣言発効 2004 年 7 月 3 日 8 月 15 日 2005 年 8 月 15 日 梅林宏道、「東北アジア非核兵器地帯条約」提唱 地球宇宙平和研究所、「日本国憲法第 9 条を支持する宣言」発表 地球宇宙平和研究所会員、「9 条を広める会」設立 8 月 25 日 地球宇宙平和研究所、訪朝 9 月 19 日 第 4 回六者協議共同声明発表 朝鮮、核兵器・核計画放棄、NPT 復帰、査察受け入れ表明 114 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 研究ノート 人種から見たキューバの歴史 ――ラテンアメリカにおける社会主義と民族―― ――ラテンアメリカにおける社会 主義と民族―― 木村 英亮 Peoples in Socialist Cuba Hidesuke Kimura キューバの人口は、1960 年 703 万人、2005 年の人口は 1129 万人と、革命後 70 万 人近くがアメリカに脱出したにもかかわらず、5 割増加した。この間に、人種構成は、 革命当時の黒人(アフリカ人)・ムラート(スペイン系白人と黒人の混血)が 3 分の 1 から、2003 年 75%(黒人 25%、ムラート 50%、『中南米諸国便覧 2003 年版』ラテ ン・アメリカ協会)となった。黒人、ムラート、白人などの定義は明確でなくそのた めさまざまな数字があり、また現在のキューバでは、人種区別をおこなわない立場か ら人種別の統計をとっていないようであるが、大きく変わったことは確かである。一 般にラテンアメリカでは、先住民は長年にわたって差別されてきたため自分を先住民 と思う人はいない。実際、住民のほぼ全員が混血であり、民族間の衝突はほとんどな い(チュア『富の独裁者』光文社、2003 年、76 ページ)。キューバの人口は、世界 のなかでは僅かであり、日本と比べても 10 分の 1 にすぎない。しかし、今後の民族 の問題を考える場合重要と考え、ここで取り上げてみた。 国際関係論のテキスト(『21 世紀の日本と世界』山川出版社、2002 年)を書いた とき、「諸民族の自決と統合」に、キューバの子どもたちの写真を入れたいと思い、 写真家の樋口聡氏にいくつかの写真を見せてもらったが、そこに黒人が多いのを見て、 人種構成の変化に気づいた。最近、加茂雄三氏に紹介されたキューバ大使館参事官も 黒人であった。東隣のハイチは黒人とムラートの、ドミニカも黒人とカリブ・インデ ィアンの国であり、カリブ海地域は黒人が多い。 人種から見たキューバの歴史(木村英亮) 115 「今日のキューバ人は、ヨーロッパ人とアフリカ人の混合の結果形成された。また、 ハイチから移住してきたアジア諸国の出身者(中国人と日本人)も居住する。東部に はまた、他の人種グループと混合した朝鮮系の人びともいる。公用語はスペイン語、 信仰はキリスト教(主にカトリック)である」(『人口学事典』モスクワ、1985 年、 213 ページ)。 アメリカ合衆国でも、白人の人口比率は低下しつつあり、すでにカリフォルニア州 ではヒスパニック、アジア系、アフリカ系住民が白人住民を上回っている。合衆国全 体として、2060 年には、白人は少数派になると予測されている(チュア、293 ペー ジ)。黒人差別の強さは、革命後人種差別が法的になくなり実質的にもなくなりつつ あるキューバと対照的であり、これがアメリカに対するキューバの抵抗のひとつの背 景となっているのではないか、というのが本稿のテーマである。 キューバ革命に先立ち 1954 年アメリカの干渉で倒されたハコボ・アルベンス政権 のグアテマラは先住民とラディノ(混血)の国であり、53 年以後社会主義的政策を 掲げたインド系チェッディ・ジャガン政権のガイアナは、インド系 51%、アフリカ 系 43%(03)の国である。 いま社会主義政策を進めようとしているベネズエラ・ボリーバル共和国(白人 22%、黒人 10%、メスティソ 66%、03)のウーゴ・チャベス大統領は、メスティソ (先住民・黒人と白人の混血)であり、今年大統領となったボリビア(ケチュア族・ アイマラ族 55%、混血 30%、白人 15%、03)のエボ・モラレスは先住民である。こ の 2 国とキューバは、2006 年 4 月ハバナで ALBA(米州ボリーバル代替構想)、 TCP(人民貿易協定)実施協定を結び連携を強めている。 このように、ラテンアメリカでは、黒人、先住民、白人、混血など複雑な人種構成 をもち、さまざまな形で国境を越えたつながりが成立している。これは、キューバ革 命が、ラテンアメリカの革命の一部で、他の国の人民は同胞であるという意識をもつ 理由である。 同胞意識はさらにラテンアメリカを超え、他の大陸に広がる。たとえば、アフリカ は、キューバ人のルーツである。キューバは 1961 年にガーナにかかわり、62 年のア ルジェリア独立にさいしては軍事使節団の派遣や医療援助をおこなったが、64 年以 降ゲバラがポルトガル植民地の解放運動に従った。アンゴラでは、74 年ポルトガル が独立を認めると、キューバ政府はアゴスティーニョ・ネトーの率いるアンゴラ解放 人民運動(MPLA)を支持し、75 年 11 月独立時に半数が黒人の兵士 8000 人を出発 させ、翌年 1 月までに 1 万 5000 人を配置、やがて 4 万人とし 84 年に南アフリカ軍を 駆逐、91 年 7 月撤兵した。モザンビクには 80 年代半ばに軍人 700 人などを派遣した。 116 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 またエチオピアにも 1 万 7000 人の兵士を送り、87 年までにマルクス主義国家を樹立 した。 カリブ海地域では、20 世紀前半の音楽や文学に黒人性の再認識がうたわれている。 これは黒人知識層がアメリカによる覇権確立の下で無視されてきた文化的独自性を再 認識しようとするものである。また、アメリカでは第二次世界大戦後まで黒人はプロ 野球選手になれなかったが、キューバでは、19 世紀に伝えられて以来盛んである。 専門外ではあるが、ソ連の民族政策を研究してきた者として、このような観点から キューバ民族が形成されてきた歴史を、コロンブスまでさかのぼって概観してみたい。 数字など再引用の場合は、直接引用した文献のみ、その部分・表に記した。 全体は大きく 3 つに時期区分し、次のような章題とした。 1. 19 世紀末までのスペインによる植民地支配、先住民族の絶滅とアフリカからの黒 人の「輸入」 2. 20 世紀前半のアメリカの覇権の下での半植民地、砂糖モノカルチャー経済下の キューバ 3. 1959 年の革命以降、キューバ民族形成の完成へ向かって。 1. 19 世紀末までのスペインによる植民地支配 先住民族の絶滅とアフリカからの黒人の「輸入」 1492 年コロンブスはバハマ諸島のウェトリング島(サン・サルバドル島)に到達、 キューバ島、エスパニョーラ島(サント・ドマング島)を探索し、1493 年、98 年と この地域に航海した。スペイン人は、1508 年にサン・ファン島(プエルト・リコ)、 1509 年にジャマイカを獲得し、1510 年にはディエゴ・ベラスケスらがキューバ島征 服に着手した。港湾都市として、1514 年にサンチャゴ、15 年にハバナが創設される。 これらの大アンティール諸島では、強制労働、病原菌の持込、反乱制圧にともなう殺 戮などによって先住民人口は急減し、十数年で 1500 万人以上の先住民が死に、1537 年には 5000 人しか残らず、結局絶滅に近い状態となった。1521 年にはエルナン・コ ルテスがメキシコのアステカ帝国を、1533 年にはフランシスコ・ピサロらがインカ 帝国を滅ぼす。小アンティール諸島にたいするスペイン人の関心は少なく、英仏が入 植した。 16 世紀半ば以降、メキシコやペルーで銀の採掘が始まると、スペイン人はイギリ 人種から見たキューバの歴史(木村英亮) 表1 117 輸入地域別アメリカ大陸への輸入奴隷数推計:1451-1870(単位 (単位 1000 人) 輸入地域別アメリカ大陸への輸入奴隷数推計: 1451-1600 1601-1700 1701-1810 - - 348.0 51.0 399.0 75.0 292.5 578.6 606.0 1,552.1 英領カリブ諸島 - 263.7 1,401.3 仏領カリブ諸島 - 155.8 1,348.4 96.0 1,600.2 オランダ領カリブ諸島 - 40.0 460.0 - 500.0 デンマーク領カリブ諸島 - 4.0 24.0 - 28.0 50.0 560.0 1,891.4 1,145.4 3,646.8 旧世界 149.9 25.1 - - 175.0 合計 274.9 1,341.1 6,051.7 1,898.4 9,566.1 年 1811-1870 合計 地域または国 英領北アメリカ スペイン領アメリカ ブラジル 1,665.0 矢内原勝・小田英郎編『アフリカ・ラテンアメリカ関係の史的展開』平凡社、1989 年、14 ページより。 ス、フランス、オランダの「海賊」から航路を守るためにハバナなどに要塞を建設し た。イギリスは 1588 年にスペイン艦隊(アルマダ)を破り、1642 年ピューリタン革 命後は重商政策をとってオランダを圧倒、1655 年にはキューバの南の島ジャマイカ を占領、東方小アンティール諸島のバルバドスなどではプランテーションによる砂糖 生産をおこなった。 砂糖生産はすでにコロンブスがエスパニョーラ島に導入したが、カリブ海地域で盛 んになったのは、17 世紀半ば以降北アメリカのヴァージニア植民地でタバコの栽培 が拡大し新たな換金作物が必要になったことや、西欧で紅茶・コーヒーの習慣が広ま り砂糖需要が増えたことによる。キューバでは 18 世紀末まで畜産を主としていたが、 16 世紀末から 17 世紀初めにサトウキビとタバコのプランテーションが広がり、19 世 紀以降砂糖生産が急増する。奴隷制プランテーション経営のため、1880 年代までの 380 年間に、アフリカ大陸で推定 1200 万人の黒人が拉致され、うち 1000 万人程度が 新大陸に生きて到着、うち 35%はブラジルに、350-400 万人がカリブ海地域に運ばれ た(志柿光浩他『ラテンアメリカ現代史 3』山川出版社、2006 年、326 ページ、表 1 も参照)。 18 世紀後半独立したアメリカ合衆国は、カリブ海地域で重要な役割を果たしはじ めたが、1804 年西半球で合衆国に次ぎ 2 番目の独立国ハイチが黒人の国として誕生 118 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 した。キューバでも、1812 年に黒人の大蜂起がおこる。ハイチの黒人軍は 1821 年に 成立したムラートのドミニカ共和国も征服したが、ドミニカは 44 年に独立を回復す る。 キューバの人口は、1774 年 17 万人から 1841 年には 101 万人に増加したが、その 構成は、当時白人 41.5%、黒人 48.7%、ムラート 9.8%(工藤多香子「キューバ人の 形成」、後藤政子他編『キューバを知るための 52 章』明石書店、2002 年、20 ペー ジ)であった。それはおもにスペインからの移住とアフリカからの黒人の拉致による ものである。スペインは、ナポレオン戦争後、多くの植民地を失ったが、キューバと プエルト・リコは残された貴重な植民地となった。 19 世紀前半、イギリス、アメリカ、オランダ、スペインが奴隷貿易を廃止したが、 密貿易は続いた。キューバでは 1868-78 年にスペインに対する第一次独立戦争がおこ なわれる。これは、キューバの人口と富に大きな打撃を与えた。キューバでは 1886 年に奴隷制が廃止されたが、プランターはスペインの庇護かアメリカ併合による実質 的な奴隷制継続を望み、そのためもあって独立は遅れた。ハイチのように黒人奴隷が 白人支配を終わらせることを恐れたことも大きい。 大アンティール諸島の山間部斜面ではコーヒー、谷間の平地ではタバコ、沿岸平野 部ではサトウキビが栽培された。カリブ海地域での砂糖生産は、1830 年代後半に 33 万トン程度であったが、90 年代前半には 115 万トン程度に達し、その 4 分の 3、世 界の総生産量の 3 割をキューバが占めた。キューバではとくに 1890-94 年に 50 万ト ンから 100 万トンへと倍増し、その 9 割はアメリカに輸出された。 人口は 1899 年には 157 万人とスペイン人らのヨーロッパからの移住と黒人の「輸 入」によって増加した。人種構成は、白人(土着化したスペイン人クリオーリョとス ペイン人)66.9%、黒人 14.9%、ムラート 17.2%となり、1841 年に比べると、白人の 比率が増え、ムラートも増加している。黒人は酷使されたため短命で、比率が減少し ている。 2. 20 世紀前半のアメリカの覇権の下での半植民地 砂糖モノカルチャー経済下のキューバ キューバのスペイン人は、スペインに対し 1868 年-77 年の第一次独立戦争、1895 年-98 年の第二次独立戦争と 2 度の独立戦争をおこなったが、98 年にはアメリカもス ペインに宣戦し、米西戦争となった。戦争はスペインの敗北に終わり、パリ条約でキ ューバの独立とプエルト・リコ、フィリピン、グアムの主権のアメリカへの移譲が決 人種から見たキューバの歴史(木村英亮) 119 められる。 独立運動の指導者ホセ・マルティは、スペイン人、黒人、ムラートの融和と団結を 訴え、キューバ人像を提示した。民俗学者フェルディナンド・オルティスは、異人 種・異文化混淆を「キューバ性」と論じた。なお、当時カリブ海の英領植民地におけ る労働運動は反人種差別運動の性格をもっており、アフリカ帰還を訴えていたマーカ ス・ガーヴィが 1912 年ジャマイカに帰国し、14 年世界黒人向上連盟(UNIA)を結 成した。 アメリカのカリブ海地域における覇権の確立は、軍事的にも経済的にも進む。 1902 年独立にさいして採択された憲法には、アメリカへの海軍基地提供などが定め られており、翌年の条約にもとづいてグアンタナモ基地などが建設され、政治的に保 護国化された。 アメリカは、1914 年にはパナマ運河を開通させた。20 世紀初頭、ラテンアメリカ に対する投資は、鉄道・港湾施設を中心としたイギリスがリードしており、キューバ でも 1913 年鉄道に 2580 万ポンドの投資していた。アメリカはバナナ、砂糖、コー ヒーや石油などの分野で投資を伸ばし、32 年にはイギリスを抜いた。大アンティー ル諸島だけとっても、砂糖をはじめとしてコーヒーやタバコ、バナナの生産を発展さ せ、第一次世界大戦前にすでに最大の投資国となり、やがてアメリカ資本の寡占的支 配の下におさめた。全体としてキューバの輸出の 8-9 割は、アメリカ向けとなった。 キューバは、輸出の 8 割を砂糖が占めるようになり、その経済は、アメリカの砂糖の 輸入量の増減と価格操作に左右された。 アメリカ軍は、1906 年再占領、09 年に撤退したが、12 年には黒人蜂起がアメリカ 海兵隊の支援で鎮圧され、21 年には軍事的支配の下で再選挙がおこなわれた。25-33 年ヘラルド・マチャド大統領の独裁の下で学生や労働者の運動は拡大、25 年にはキ ューバ共産党も結成され、世界恐慌の下で反政府勢力の蜂起もおこり、33 年ラモ ン・グラウ大統領の下に革命政府が成立した。しかし 34 年、フルヘンシオ・バティ スタがアメリカの支持をえて実権を握り、プラット修正条項を撤廃した。アメリカは、 34 年に砂糖輸入割当制度を定めるなど経済支配を強めたが、34 年以降ストが続き、 35 年 3 月にはゼネスト、39 年には単一の労働組合本部が創設され、このようななか で 40 年に進歩的内容の憲法が定められた。最高司令官であったバティスタは、40 年 みずから大統領となったが、44 年はグラウに敗れる。 1948-52 年のプリオ・ソカラサ大統領の後、52-58 年バティスタの独裁が続く。こ の時期にキューバの人口は 4 倍となったが、人種別人口比率は、表 2 のようになって おり、白人が 7 割、黒人が 1 割、他がムラートである。 120 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 表2 年 人口 (人) 白人(%) 人種別人口比率 黒人(%) ムラート(%) アジア系(%) 1907 2048980 69.7 13.4 16.3 0.6 1919 2889004 72.3 11.2 16.0 0.6 1931 3962344 72.1 11.0 16.2 0.6 1943 4778583 74.4 9.7 15.5 0.4 1953 5829029 72.8 12.4 14.5 0.3 1981 9723605 66.0 12.0 21.9 0.1 後藤政子他編『キューバを知るための 52 章』明石書店、2002 年、20 ページより。 3. 1959 年の革命以降、キューバ民族形成の完成へ向かって 1959 年のキューバ革命、61 年の社会主義宣言の後、アメリカ資本の下にあった企 業は国有化され、59-60 年、63 年以降と二次にわたる農地改革によって、0.5%の経 営が土地の 36.1%を所有していたのに対し 85%は 19.9%しかもたない(46 年)とい った関係はなくなり、耕地は 58 年の 237 万 9103ha から 67 年には 371 万 1800ha へ と増えた(ヒューバーマン他『キューバの社会主義、上』岩波新書、1969 年、127 ページ)。失業はなくなり、教育・医療が整備され、農村と都市の生活水準が接近し た。経済的理由などで避難していた人びとが帰国する一方、60 年に始められた新た な社会経済的、政治的改革によって、アメリカへの脱出や移住がおこった。 1958 年には、失業者・不完全就労者が 33%であったが、62 年には一掃されたとさ れている。砂糖の輸出先、石油の輸入先がアメリカからソ連に変わったことは、表 3 に示されているが、貿易面でソ連・東欧が革命の成功に果たした役割は大きかった。 最低賃金は、無料の医療・教育、住宅・食糧への補助金などで補われている。このよ うな格差是正・平等を目指す政策は、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸民族の民 族解放、社会進歩への熱望を刺激した。それを表すのは、66 年 1 月にハバナで開か れた三大陸人民連帯大会である。そこには南北ヴェトナム代表をはじめソ連からラシ ドフ・ウズベク共産党第一書記、中国から呉学謙アジア・アフリカ連帯委員会副主席、 アメリカからロバート・ウィリアムス黒人運動指導者らが出席し、日本代表団団長の 甲斐静馬は、中ソの対立を乗り越えて成功をおさめたと報告を書いている(『エコノ ミスト』66.2.28 日号)。70 年チリでアジェンデ社会主義政権が成立し、73 年まで続 人種から見たキューバの歴史(木村英亮) 121 表 3 外国貿易の相手国の変化 1959 国名 輸出 1960 輸入 輸出 1961 輸入 1962 1963 輸出 輸入 輸出 輸入 輸出 輸入 ソ連 12.9 - 103.6 88.2 300.9 288.8 220.3 410.7 163.9 460.9 中国 0.1 - 32.1 11.2 91.6 97.5 89.6 103.2 72.7 90.7 10.4 14.2 7.8 17.8 4.0 39.2 4.1 0.6 - 35.4 442.7 504.4 326.3 309.7 30.2 26.1 12.1 26.5 20.2 53.8 27.9 7.4 15.1 10.5 26.4 11.4 25.6 10.8 20.6 5.2 カナダ アメリカ 日本 『歴史百科事典』第 8 巻、モスクワ、1965 年、237-238 欄 いた。ニカラグアでもサンディニスタ民族解放戦線による社会主義政権が 79 年から 90 年まで続いた。 生活条件の改善によって、平均寿命は 1981-82 年 73.9 歳となったが、これは当時 の社会主義国のなかでも最も長い。2 位は東ドイツで 72.4 歳(1983)、ソ連は 70 歳 (1971-72)である(『セフ統計集 1985』モスクワ、18 ページ)。2003 年男 75 歳、 女 79 歳、日本は男 78 歳、女 85 歳。1990 年と 2003 年の乳児死亡率(満 1 歳に達す る前に死亡した出生児 1000 人あたりの数)は、それぞれ 11 と 7(02 年)でアメリ カは 9 と 7、日本は 5 と 3 である(『世界経済図会』2005 年、248 ページ)。 1970 年代、経済はソ連型体制の下で安定し、76 年カストロは大統領に就任、議会 が設置された。80 年には 12 万 5000 人のマイアミへの脱出「マリエル事件」があり、 以後経済政策の若干の修正がおこなわれる。 1990 年 6 月、全労働力は 360 万人で、工業に 22%、農林水産業に 20%、教育・文 化に 13.3%、商業に 11%、サービス・政府関連に 16.7%、建設業に 10%、交通・通 信業に 7%である。58 年当時と比べ、工業が 17.2%から増えた。農業は 37.0%から大 きく比率を減らしたが、58 年の総労働人口は 220 万人であったので、絶対数はそれ ほど減っていない。女性は 75 年には労働力の 27%であったが、90 年には 38%とな った(『世界地理大百科事典 3、アメリカ』朝倉書店、1999 年、197 ページ、58 年 の数字は、『歴史百科事典』第 8 巻、モスクワ、234 欄)。 都市人口の比率は、1953 年 51.4%から 84 年 70.8%となった。都市人口の無統制的 な増加は抑制され、農村に都市型集落が作られた。工業化によってハバナ以外の都市 が発展し、カマグエイ州など東部への移動がおこった。 122 地球宇宙平和研究所所報(創刊号)2006 1989 年後半から 90 年にかけての東欧・ソ連の社会主義体制の崩壊はキューバ経済 に危機をもたらした。石油は全部ソ連からで、社会主義世界は、輸入先の 85%を占 め、砂糖のおもな輸出先でもあり、軍事的にも支援していたからである。 キューバ政府は危機乗切の方策を求めて自由な討論を呼びかけるとともに、新しい 国際環境に対応して、経済的には外国貿易の一部自由化、経済活動人口 350 万人中 17 万人しかなかった自営業の解禁、農業協同組合生産基礎組織(UBPC)創設による 国営農場の縮小、農産物自由市場の許可などの改革を行った。自由化を主導したのは アメリカ研究所(CEA)グループであった。しかし、91-93 年度に GDP は 37%落ち、 94 年 8 月にはハバナの中心部で暴動が発生した。このときはカストロ議長自身が現 場に赴いて説得したということである。 1996 年クリントン大統領期の「ヘルムズ・バートン法」による経済制裁の強化を 転機として、戦時的動員体制による引き締めが始められ、97 年の第 5 回共産党大会 では、キューバ人としてのナショナル・アイデンティティが強調された。野党の存在 はアメリカの介入を招いたニカラグアなどの経験に学び許されなかった。党員数は、 1975 年 20 万人、92 年 55 万人、2003 年 86 万人と増加し、とくに共産党青年同盟か らの入党が多い(小松康弘「キューバ社会主義の現段階」松下洋他編『ラテンアメリ カ、政治と社会』新評論、2004 年、261 ページ)。地域的動員組織である革命防衛 委員会(CDR)でも若手がリーダーとして活躍している。インターネットやテレビ も活用している。また、退役、現役の軍人の砂糖産業、観光産業など経済活動幹部へ の登用、在ハバナ米国利益代表部と接触していた反体制派活動家の逮捕など体制強化 の政策もとっている。法的支配、党や軍、治安組織や官僚機構を通じる統制とともに、 キューバ人のナショナリズムにも訴えている。 革命後のもっとも大きな変化は、人種構成におけるもので、初めに記したように黒 人とムラートが急激に増加した。たんに構成が変わったばかりでなく、学校などでの 異人種間の接触が日常的となることによって、異人種間の結婚も増加しつつある。 1990 年代の経済困難のなかで、相対的に貧しい黒人が、大学キャンパスに少なくな ったという発言もある(伊高浩昭『キューバ変貌』三省堂、1999 年、60 ページ)。 「『自由化』の進行とともにふたたび人種差別が復活しそうな気配が出ている。外資 企業が優先的に白人を雇い始めたのである」(後藤政子「キューバ風社会主義の行 方」『海外事情』2001.1、29 ページ)といった問題も指摘されているが、キューバ 民族の形成が完成に向かいつつあると言えるであろう。 また 1970 年代半ばからのアフリカ民族解放運動への兵士の派遣、79-83 年のグレ ナダの社会主義政権への援助など国際的活動も活発となった。2002 年のベネズエラ 人種から見たキューバの歴史(木村英亮) 123 でのクーデター未遂事件後のチャベス大統領のキューバへの接近、同年のルーラ・ブ ラジル大統領の当選、06 年のボリビアでの先住民モラレスの大統領当選などによる ラテンアメリカ諸国との経済関係の強まりによって孤立を脱しつつあり、たとえば、 ソ連崩壊後逼迫していた石油はベネズエラから輸入されるようになった。また同時に、 反米ナショナリズムの高揚にも支えられ、ラテンアメリカ諸民族との同胞意識が発展 しつつある。チャベスは次のように述べている。 「あなたがキューバ人民を知ったならば、ベネズエラ人民を知ったことになる。な ぜなら同じ人民であり、国の本質が同じだからだ。ボリーバルが言ったように、スペ イン領になる前の米州全体が私たちの祖国であり、その全人民が一つの国民だから だ」(『チャベス』作品社、2006 年、34 ページ)。 =編集後記= 研究誌は研究所のひとつの中心であり、この創刊号を出発点として、批判・発展さ せていかねばならない。誌名も、これを仮題とし、今後より適切な題を考えてほしい。 会員および読者のご感想、ご意見をお願いしたい。 表紙写真、デザインおよび印刷などの技術的な仕事は、吉野良子による。 「平和にたいする罪」「人道にたいする罪」「戦争放棄遵守違反」は、「東京裁 判」の原則であったが、いまやそれを一番破っているのはアメリカである。日本によ るアメリカの行動の支持、支援は、戦前の歴史の肯定となる。戦前は、アメリカに抗 して、戦後はアメリカに従って、過ちを繰り返しているわけである。本号の編集子と しては、以下の日本国憲法前文を想起したい。 「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しよう と努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」。 (木村英亮) 執筆者(執筆順) 中西 治 地球宇宙平和研究所理事長 岩木秀樹 地球宇宙平和研究所理事・事務局長 植木竜司 創価大学大学院文学研究科社会学専攻博士後期課程 宮川真一 創価大学通信教育部非常勤講師 王 元 鄭州大学アジア太平洋研究センター専任研究員 林 亮 創価大学文学部教授 高橋勝幸 早稲田大学大学院政治学研究科助手 木村英亮 横浜国立大学名誉教授 地球宇宙平和研究所所報 2006 年 12 月 15 日 創刊号 定価 1000 円 第 1 刷発行 編集人 木村 英亮 編集協力 岩木秀樹・吉野 良子 発行人 中西 発行所 特定非営利活動法人 地球宇宙平和研究所 印刷 マチダ印刷 治 Copyright © 2006, T okyo Institute for Global and Cosmic Peace ISSN 1881-4972 Journal of the Institute for GCP CONTENTS 3 Osamu Nakanishi Preface to the First Number 4 Osamu Nakanishi The Process of Cosmic and Global History: An Introduction to Global and Cosmic Peace Studies 36 Hideki Iwaki For the Peace of East Asia: The Relations between Japan and Korea 49 Ryuji Ueki Globalization and Nepal 69 Shin-ichi Miyakawa Religious Education and Nationalism in Public School: The Case of “Educational Reform” in Japan 84 Yuan Wang The Periodic Recurrence and Self-Discipline of Social Upheaval in Contemporary China: In Reply to the Review by Professor Hidesuke Kimura 100 Akira Hayashi The Security Regime for East Asia Pacific Region and the Reorganization of the Japan-U.S Security Treaty 107 Katsuyuki Takahashi My trip to the Democratic People's Republic of Korea in August 2005 114 Hidesuke Kimura Peoples in Socialist Cuba http://www.igcpeace.org/