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岩手県における東日本大震災沿岸被災地の 社会福祉

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岩手県における東日本大震災沿岸被災地の 社会福祉
岩手県における東日本大震災沿岸被災地の
社会福祉施設実態等調査(職員調査)報告書
岩手県立大学社会福祉学部
被災施設調査プロジェクト
はじめに
2011 年 3 月 11 日に発生した東日本大震災津波から 4 年を経た現在、なお人的な被害のみならず、物
理的にも精神的にも、被災した方々の現実は苦難の中にあります。困難から立ち上がろうと努力している
一方で、むしろ潜在化して問題が深刻になっているケースも散見され、大震災津波後の支援体制は、むし
ろ、さらに継続的かつ厚くしていく必要があります。
前回私たちは、
『岩手県における東日本大震災沿岸被災地の社会福祉施設実態等調査報告書』
(平成
25 年 3 月 31 日)を作成しました。調査の結果、岩手県沿岸部の社会福祉施設・事業所職員の方々が
震災津波による被害状況や甚大な被害を受けた中、沿岸部地域の社会福祉施設として機能し、災害時
における被災地域の社会福祉施設・事業所が様々な形で地域の中で大きな役割を果たし、地域貢献し
ていた状況が分かってきました。
今回の報告書は前回調査報告書の第二弾として、
「職員調査票」の結果を中心にまとめています。
「職員調査」については、災害時における地域の社会福祉施設としての機能・役割をさらに明らか
にするため、さらに社会福祉士施設・事業所で勤務している職員を対象として、被災の状況、当時の
勤務状況、震災に対する思いなどの調査を実施しました。前回の報告書とあわせ、福祉専門職として
の職員の行動や思いを震災の記録として後世に残すとともに、当時職員が置かれていた状況や感じて
いたストレス・不安を明確にし、今後の災害や緊急時の対応も視野に入れた施設体制や職員へのサポ
ートについて検討しています。
まだまだ沿岸地域の社会福祉施設・事業所で支援をする上での人的・物的資源、サポート体制が不足し
ていることが課題であり、人員や予算の確保は必須です。その意味では地域全体や福祉ニーズを見据えた
包括的で継続的な支援が必要です。また、これらの課題に対して取り組んでいく前提としては、人々の最
善の利益が保証されるよう、支援者および支援利用者の声を丁寧に拾いあげていくことが大切です。そし
て地域と周囲の人々とつながりを大事にしながら沿岸地域の支援者や利用者の方々の実情やニーズに合わ
せて、生活基盤の構築を後押しする支援体制を継続していくことが重要ではないかと考えます。
本調査は、ご協力いただいた岩手県沿岸地域の福祉施設・事業所のご理解と多大なご支援があって
初めて成り立ったものです。関係された皆様に改めて厚くお礼を申し上げるとともに、被災地域の一
日も早い復興を祈念いたします。
2015 年 3 月
岩手県立大学社会福祉学部
被災施設調査プロジェクト一同
1
岩手県における東日本大震災沿岸被災地の社会福祉施設実態等調査
(職員調査)報告書
はじめに
-目次-
第一章 東日本大震災時に社会福祉施設の置かれていた状況(
「岩手県における東日本大震
災沿岸被災地の社会福祉施設実態等調査」2013年3月31日報告より)とその後の追
加報告
・・・ 3
第二章 職員調査の概要
・・・ 9
第三章 職員調査結果報告
1)回答者の概要
・・・ 14
2)回答者の被災状況について
・・・ 19
3)震災時の行動について
・・・ 21
4)震災後のストレスについて
・・・ 47
5)震災を通じて感じたことについて
・・・ 57
<資料編>
・
「岩手県における東日本大震災沿岸被災地の社会福祉施設実態等調査」職員調査票
・・・ 83
2
第一章
東日本大震災時に社会福祉施設の置かれていた状況と
その後の追加報告
(
「岩手県における東日本大震災沿岸被災地の社会福祉施設実態等調査」平成25年3月31日報告より)
3
【東日本大震災時に社会福祉施設の置かれていた状況】
(
「岩手県における東日本大震災沿岸被
災地の社会福祉施設実態等調査」平成25年3月31日報告より)
「岩手県における東日本沿岸被災地の社会福祉施設実態等調査」は、岩手県沿岸地域の福祉施設に
おける、東日本大震災による被害の状況やその後の状況について把握し、震災の記録として後世に残
すと共に、被災時のニーズについて明らかにし、今後の災害に対する備えや、これからの福祉施設の
あり方を再考することを目的に行われた。具体的には、平成 24 年 3 月 1 日~3 月 31 日の間に、岩手
県内の沿岸 12 市町村(宮古市、大船渡市、久慈市、陸前高田市、釜石市、大槌町、山田町、岩泉町、
田野畑村、普代村、野田村、洋野町)を所在地とする、児童、障害、高齢者福祉施設に、震災時及び
その後の状況についてアンケート調査を実施し、震災時に福祉施設が果たした役割や震災が福祉施設
に与えた影響を明らかにし、今後、復興へ向けた地域づくりをしていく上で、福祉施設はどうあるべ
きか検討した。
調査は、
「施設調査票」と「職員調査票」に分かれており、
「施設調査」の結果については、
『岩手
県における東日本沿岸被災地の社会福祉施設実態等調査報告書』として、平成 25 年 3 月 31 日に冊
子としてまとめている。以下、前回の施設調査の概要を掲載する。なお、職員調査の結果報告が第 2
章からの報告となっている。
1 施設調査の概要
(1)
.研究方法
調査方法は郵送による質問紙調査である。調査票配布期間は平成 24 年 3 月 1 日~3 月 31 日であ
り、平成 24 年 2 月 1 日時点の岩手県 HP の掲載情報をもとに、児童福祉施設 7 ヶ所(入所施設 3、
通所施設 4)障害者福祉施設 62 ヶ所(入所施設 23、通所施設 39)高齢者福祉施設 203 ヶ所(入
所施設 84、通所施設 119)
、総計 272 ヶ所の事業所に調査票を送付した。
調査票は入所施設用と通所施設用と 2 種類作成した。入所施設の中にはグループホーム等の居住
施設も含み、通所施設には一部宿泊サービスも行う小規模多機能型居宅介護事業所等も含んでいる。
114 ヶ所の事業所から返送があり、回収率は 41.9%である。対象種別の回収率は児童福祉施設
28.5%(2/7)
、障害者福祉施設 38.7%(24/62)
、高齢者福祉施設 43.3%(88/203)であった。
(2)研究結果
114 ケ所の事業所のうち避難者を受け入れた施設・事業所は約 6 割にあたる 67 事業所であった。
一日で最も多く受け入れた人数は、10 人以下が 23 施設、20 人以下でみると 32 施設で、回答した
施設のほぼ半数は最大 20 人以下の受け入れであった。一方、41 人以上でみると約 3 割(19 施設)
となり、うち 100 人以上が 5 施設ある。避難者として受け入れた方(複数回答)は「在宅で生活
する高齢者、障害者等」
、
「地元の一般住民」
「施設の入居者」
「入居者家族」の順であった。避難者
に提供した物資(複数回答)は「食料品」
「飲料水」
「寝具」
「衣料品」
「防寒具」
「医薬品」
、提供し
た設備(複数回答)は「トイレ」
「食堂やホール」
「入居者の居室」
「浴室」
「厨房」の順であった。
「震災時の地域住民とのかかわり」は、
「地域住民から食料の提供を受けた」
「地域住民が心配して
様子を見に来た」
「地域住民から物資の提供を受けた」
「地域住民が避難」
「地域住民に食料を提供」
「地域住民から情報の提供を受けた」の順であった。
4
「震災後の地域住民との関係の変化」は、全体として「特に変化していない」が 69.3%、
「変化
した」が 24.6%弱であった。施設種別では障害者施設の「特に変化していない」の割合が 75%と、
高齢者福祉施設 68.2%や児童福祉施設 50%と比して高かった。入所・通所別では、入所施設の「特
に変化をしていない」の割合が 84.8%で、通所施設 72.7%、グループホーム 51.9%、小規模多機
能型居宅介護 50%に比して高かった。
「地域住民との関係の変化」の内容についての自由回答は、
「震災で地域がなくなった、あるいは大きく変わったから交流等がなくなり、またそのきっかけを
作ることさえ難しくなった」
《地域がなくなった》
、
「困難な経験を共にしたことで関わりが深まり、
声かけや防災計画での協力もより進んだ」
《関係が深くなった》
、といった2つに分かれた。後者の
方が回答数は多い。
(3)
.考察
避難者として受け入れた方々からみて、地域における福祉施設の機能として、①高齢者、障害者
等災害弱者と呼ばれる人たちの拠り所、②在宅の高齢者、障害者を支える家族にとっての拠り所、
③地域住民にとっての当面の避難先、といった機能が考えられる。
地域とのかかわりでは地域とのかかわりが深められる見通しがある施設がある一方、地域全体の
崩壊という深刻な状況の中で、地域との関係をどうしていけばいいのか、悲観し苦慮している施設
があることもうかがえた。ただ避難者の受け入れが地域とのさまざまな関わりを生み出すきっかけ
となったことも見て取れた。
東日本大震災で社会福祉施設は多くの避難者を受け入れた。その経験から、地域住民への支援の
可能性や地域とのかかわりの新たな方向性が示されたと言える。
(藤野 好美)
続いて、
「施設調査」の結果を踏まえつつ、震災後の社会福祉施設を取り巻く状況として、福祉避難所
についても触れておく。
【福祉避難所調査への展開】
本調査は岩手県と岩手県立大学が共同して行った「「東日本大震災津波における福祉避難所の状況
と課題についての調査研究」( 2012 年 9 月~2013 年8月 研究代表者 細田重憲 - 岩手県立大
学地域政策研究センター平成 24 年度地域協働研究(地域提案型)-)の基礎となり、それを踏まえ社
会福祉施設が福祉避難所となる場合についての意見・提言としてまとめられた。以下福祉避難所調査
結果の概要を述べる。
1 調査の目的と概要
調査は、震災以降 1 年半が経過した時点においても明らかになっていなかった福祉避難所の実態
(開設箇所数、収容人員、運営実態等)について、数値的な整理を行うとともに福祉避難所となった
施設等の生の声を蒐集して記録として残し、その中から今後に繋がる課題を提起していくことを目的
とした。
調査の方法は次の通りである。対象は、岩手県本庁への報告書類等をもとに選定した。
調査Ⅰ 福祉避難所となった8施設(福祉施設及び宿泊施設等それ以外の施設)からの「聞き取
5
り調査」 2012(平成 24)年 9 月~10 月
調査Ⅱ 福祉避難所を開設した市町村への「アンケート調査」
13 市町村 回答 12 市町村
平成 25 年 1 月~2 月
調査Ⅲ 福祉避難所となった施設からの「アンケート調査」
63 施設 回答 41 施設 平成 25 年 1 月~2 月
2 開設された福祉避難所の数等
(1)事前指定の状況
2011 年 3 月 11 日以前に県内市町村が指定していた福祉避難所は4市町(盛岡市、紫波町、住田
町、大槌町)18 カ所であった。被災地では大槌町だけである。これらは主に高齢者関係の社会福
祉施設である。
(2)3 月 11 日以降の開設状況
発災後に開設された福祉避難所は、12 市町村、65カ所であった。これは、上記調査及びそれ
までの岩手県調査等を総合して判断したものであり、これ以外に、指定は受けないが住民の避難を
受け入れた社会福祉施設があるかもしれない。被災地域での開設は 47 カ所、内陸部で 18 カ所で
あった。
盛岡市 7、宮古市 16、大船渡市 14、花巻市 2、北上市 4、久慈市 2、一関市 5、
陸前高田市 1、釜石市 3、大槌町 6、山田町 3、野田村 2
(3)福祉避難所となった社会福祉施設
65 カ所の福祉避難所のうち 44 カ所が福祉施設であった。その約半数は通所型施設である。「そ
の他(宿泊型)」には旅館等の宿泊施設、宿泊機能を持つ交流型施設が含まれる。
(4)社会福祉施設が福祉避難所となるまでの経過
ほとんどは事前指定がなく、外部からの避難者への対応の経験もないなかで、必要に迫られて避
難を受け入れ、福祉避難所となっていったという経過である。社会福祉施設についてみると大まか
には次のような類型があったと考えられる。
① 一般住民を含めた地域住民の避難場所となった(主に入所型の施設、灯り、食事、暖かさ等
への期待等)
② 利用者の帰宅困難・家族の被災等のため、宿泊を伴う避難を受け入れた(主に通所型の施設)
③ 同一法人内、近隣所在の社会福祉施設が被災したため、その利用者を受け入れた(入所型、
通所型とも)
6
④ その他(これらが混在している)
(5)平均的な開設期間
65 カ所の平均では約 56 日である。最長は 160 日を超えている。宿泊施設が多い内陸部の平均日
数が高くなっているが、沿岸部の特別養護老人ホームでも 100 日を超した施設がいくつもある。
(6)被救助者数と内訳
65 カ所で救助した延べ数は 26,681 人である。このうち属性がはっきりしている約 20,875 人に
ついてみると、高齢者が約 10,934 人、障害児・者約 2,667 人、乳児、妊婦等 659 人、高齢者の家
族等 804 人、その他(乳幼児と家族、一般避難者等)5,811 人となっている。
3 福祉避難所運営上の課題
65 カ所から寄せられた意見等から次のように整理した。
(1)物資の備蓄が必要
食料、水、燃料、暖房器具、衣類、医薬品等の備蓄が必要。個々の施設では対応が難しいので行
政の関与による地域毎の体制整備が求められている。
(2)避難者の属性毎に課題がある
避難者の多くについては個人情報がないことに加え、属性毎の対応課題が出ている。
・ 高齢者 認知症高齢者の不適応への対応等
・ 障害者 精神障害者では、病状の把握、服薬管理、通院継続等
・ 難病患者 対応方法不明、器具等確保
・ 乳幼児 ミルク、離乳食、紙おむつ等の確保、玩具の用意等
(3)日常業務では対象としていない避難者への対応に苦慮した
高齢者施設で児童を受け入れた場合などのほかに、病気の者、服薬管理が必要な者等への対応が
難しいという意見があった。そもそもの問題として、個人に関する情報が全く得られないというこ
ともあった。
(4)人的支援の必要性
時期により違いはあるが、外部からの人的支援(医師、看護師、介護職員等)は不可欠であった。
職種だけでなく量的な確保も考えなければならない。
(5)福祉避難所となる場合の対応可能人員、期間等
全ての施設から回答があったわけではないが、通常業務に加えて福祉避難所を開設するとすれば、
対応可能人員は概ね 20 人程度まで、対応可能期間は 10 日~2 週間程度までという回答が多い。
(6)建物の設備や構造の問題
バリアフリー化されている場合でも、外部からの避難者受け入れのためには新たなスペースの増
設、備蓄設備、自家発電設備の整備等、設備や構造に手をかける必要のあることが指摘されている。
(7)個人情報を獲得する問題
避難者の個人情報について、行政側では個人情報として提供しない場合もあり、福祉避難所では
支援の前提となる情報の収集に時間と手間をとられた。
7
4 災害対策基本法の改正
平成 25 年 6 月、災害対策基本法が改正された。それにより市町村は、
〇 被災者の年齢、性別、障害の有無その他の事情を踏まえ、その時期に応じた適切な援護
(第2条の2第5号)
〇 避難所の供与及び安全性、良好な居住性の確保等生活環境整備の努力(第86条の6等)
〇 被災者の搬送(第86条の14等)
〇 市町村長による「避難行動要支援者」※名簿作成の義務化及び本人同意に基づき消防、警察、
民生委員等への情報提供等が可能となったこと(第49条の10等)
※ 市町村内に居住する要配慮者で災害時(発生のおそれ含む)自ら避難することが困難であ
り支援を要するもの
〇 平常時からの物資の備蓄
等、新たな対応が求められることになった。特にも、避難行動要支援者名簿の作成とそれに基づ
く個別の避難支援計画策定は、速やかに取り組まなければならない課題である。
5 福祉施設を福祉避難所とする場合に備えておくべきこと
以上のことから、次のような意見・提言を行った。
福祉施設が福祉避難所となることは、本来業務と福祉避難所と二重の業務を引き受けること。
そのために市町村は、改正災害対策基本法に則り
①
災害時要援護者(避難行動要支援者)の把握を基に
② 個々の福祉避難所の業務の範囲(対象者と地域など)を明確にして
③ 福祉避難所を指定し
④ 指定に伴う物的(機材の整備等)
、人的(専門職等による)支援の仕組み(市町村域を超え
る場合もある)や物資の備蓄など地域における連携の仕組みを構築する必要がある。
また、福祉避難所となる福祉施設においても、同一地域内、同一法人内、同一事業(業界)団体内
における物的・人的連携の仕組みを積極的に構築していく必要がある。
6 現在までの動向
岩手県においては、人的支援の仕組みとしての「災害派遣福祉チーム」が立ち上がり、既に 200 人
を超すチーム員を確保するに至った。また業界団体としての相互支援等の動きも出ている。災害時に
おける要支援者対応の基礎となる避難行動要支援者名簿は、平成 25 年度末で 23 市町村(約 7 割)が
作成済みである。しかし福祉避難所の指定市町村は 27 年 11 月時点で 16 市町村と半数に満たず、全
国的にも約1/4の市町村において指定が行われていない(27 年 3 月6日岩手日報記事)
。対応は緒
に就いたばかりである。
(細田重憲)
8
第二章 調査の概要
9
1.目的
本研究の目的は、岩手県沿岸地域の福祉施設における、東日本大震災による被害の状況やその後の
状況について把握し、震災の記録として後世に残すと共に、被災時のニーズについて明らかにし、今
後の災害に対する備えや、これからの福祉施設のあり方を再考することにある。具体的には、岩手県
内の沿岸 12 市町村(宮古市、大船渡市、久慈市、陸前高田市、釜石市、大槌町、山田町、岩泉町、
田野畑村、普代村、野田村、洋野町)を所在地とする、児童、障害、高齢者福祉施設に、震災時及び
その後の状況についてアンケート調査を実施することにより、震災時に福祉施設が果たした役割や震
災が福祉施設に与えた影響を明らかにし、今後、復興へ向けた地域づくりをしていく上で、福祉施設
はどうあるべきか検討することが目的である。
なお、本研究で行った調査は、
「施設調査票」と「職員調査票」の 2 部にわかれて行っており、本
報告書は、平成 25 年 3 月 31 日に報告した『岩手県における東日本沿岸被災地の社会福祉施設実態
等調査報告書』の第二弾としての位置づけになっている。前回の報告書が、
「施設調査票」の調査結
果を中心に構成されているのに対し、本報告書は「職員調査票」の結果を中心にまとめている。
よって、
「職員調査」については、震災時に職員自らも甚大な被害を受けながら、どのような思い
や方法で地域の社会福祉施設として機能し、その役割を担うことになったのかを明らかにするため、
社会福祉士施設・事業所で勤務している職員に、現在から過去にさかのぼっての被災の状況や当時の
勤務状況、震災に対する思いなど、一部、時系列を意識した形での調査を実施した。前回の報告書と
あわせ、福祉専門職としての職員の行動や思いを震災の記録として後世に残すとともに、当時職員が
置かれていた状況や感じていたストレス・不安を明確にし、今後の災害や緊急時の対応も視野に入れ
た施設体制や職員へのサポートについて検討する。
2.実施主体
公立大学法人岩手県立大学社会福祉学部
学部プロジェクト研究「岩手県における東日本沿岸被災地の社会福祉施設実態等調査」
研究プロジェクトメンバー 代表 藤野 好美 (岩手県立大学社会福祉学部 准教授)
三上 邦彦 (岩手県立大学社会福祉学部 教授)
鈴木 聖子 (日本赤十字秋田看護福祉大学 教授)
細田 重憲 (前岩手県立大学社会福祉学部 准教授)
岩渕 由美 (岩手県立大学社会福祉学部 実習講師(助教))
3.調査対象
調査対象施設は、平成 24 年 2 月 1 日時点で岩手県のホームページに掲載されている、沿岸の児童福祉施
設 7 ヶ所(入所施設 3 ヶ所、通所施設 4 ヶ所)
、障害者福祉施設については、平成 24 年 2 月 1 日時点で、
岩手県のホームページの「指定障がい福祉サービス事業所・障がい福祉施設一覧」に掲載されていた 62
ヶ所(入所施設 23 ヶ所、通所施設 39 ヶ所)の施設・事業所、高齢者福祉施設については同じく岩手県の
ホームページの「介護保険にかかる指定事業所一覧」に掲載されていた、沿岸部の 203 ヶ所(入所施設 84
ヶ所、通所施設 119 ヶ所)の施設・事業所の総計 272 ヶ所の事業所である。それぞれ、職員が 30 人以上い
る施設には 10 人分、職員が 30 人以下の施設 3 人分、調査票を送付した。総配布数は 1,208 枚であり、詳
10
細は次の表の通りである。
児童施設 7ヶ所 計 42 枚 入所施設 3 ヶ所×10 枚=30 枚
通所施設 4 ヶ所×3 枚=12 枚
障害者福祉施設 62 ヶ所
通所施設 39 所×3 枚=117 枚
計 242 枚
高齢者福祉施設 203 ヶ所
計 924 枚
入所施設 8 ヶ所×10 枚=80 枚
グループホーム・ケアホーム 15 ヶ所×3 枚=45 枚
入所施設 45 ヶ所×10 枚=450 枚 グループホーム 39 ヶ所×3 枚=117 枚
通所施設 97 ヶ所×3=291 枚 小規模多機能型居宅介護 22 ヶ所×3=66 枚
4.調査方法
郵送による質問紙調査をおこなった。なお、272 ヶ所の事業所のうち、職員が 30 人以上いる施設には
10 人分、職員が 30 人以下の施設 3 人分、調査票を送付した。総配布数は 1208 枚となった。施設には、
2011 年 3 月 11 日時点で所属していた職員に調査の協力をお願いすることにし、職員の選定については、
各施設に任せた。調査期間は平成 24 年 3 月 1 日から 3 月 31 日である。
114 ヶ所の事業所から返送があり、469 人の施設職員からの回答を経た。回収率は、返送されてきた施
設で見ると 41.9%、配布数でみると 38.8%であった。調査内容は、①被災状況について、②震災時の行動、
③震災後のストレス、④震災を通じての思い、等である。
5.調査に関する倫理的配慮
調査・研究に当たっては、依頼文にて、事業所に調査の目的と内容について説明するとともに、調査は
拒否できること、また回答による不利益は生じないこと、研究の結果は統計的に処理し、個人(事業所)
情報は保護される旨を明記し、研究倫理上の配慮に努めた。
6.報告書の執筆者及び分担
はじめに
三上邦彦
第一章
細田重憲
第二章、第三章1)
、2)
、3)①~⑪、4)
岩渕由美
第三章3)⑫、5)
藤野好美
11
第三章 質問紙調査結果の報告
12
1)回答者の概要
① 施設種別
入所と通所の別については、入所施設が 54.8%(257)
、通所施設が 25.6%(120)
、グルー
プホームが 12.4%(58)
、小規模多機能型事業所が 7.2%(34)となっている。
② 年齢(問 1)
年齢については、
20 歳代が 13.0%
(61)
、
30 歳代が 30.5%
(143)
、
40 歳代が 26.9%
(126)
、
50 歳代が 23.0%(108)
、60 歳以上が 5.8%(27)となっている。
また、年齢別に男女構成をみると、20 歳代では男性が 41.0%%(25)
、女性が 59.0%(36)
30 歳代では男性が 34.3%(49)
、女性が 65.0%(93)
、40 歳代では男性が 29.4%(37)
、
女性が 69.8%(88)
、50 歳代は男性が 19.4%(21)
、女性が 80.6%(87)
、60 歳以上は男
性が 18.5%(5)
、女性が 81.5%(22)となっており、いずれの世代も女性の回答割合が高
い。
13
③ 性別(問 2)
性別については、男性が 29.2%(137)
、女性が 69.7%(327)となっており、回答者の 7
割が女性である。
性別に年齢構成をみると、男性は、20 歳代が 18.2%(25)
、30 歳代が 35.8%(49)
、40
歳代が 27.0%(37)
、50 歳代が 15.3%(21)
、60 歳以上が 3.6%(5)となっている。一方
女性は、20 歳代が 11.0%(36)
、30 歳代が 28.4%(93)
、40 歳代が 26.9%(88)
、50 歳代
が 26.6%(87)
、60 歳以上が 6.7%(22)となっている。男性は、20 代 30 代の若い世代の
割合が若干高く、女性は 50 代 60 代のベテラン世代の割合が若干高い。
④ 最終学歴(問 3)
最終学歴については、
「中学校」1.1%(5)
、
「高校」48.8%(229)
、
「福祉系専門学校」13.6%
(64)
、
「福祉系以外の専門学校」9.0%(43)
、
「福祉系短期大学」3.0%(14)
、
「福祉系以外
の短期大学」6.4%(30)
、
「福祉系 4 年制大学」4.9%(23)
「福祉系以外の 4 年制大学」5.5%
(26)
、
「福祉系以外の大学院」0.2%(1)
、
「看護医療系学校」は 6.8%(32)
、
「その他」0.6%
(3)となっており、高卒以下だけで半数を占める。また、
「福祉系専門学校」
、
「福祉系短期
大学」
、
「福祉系 4 年制大学」4.9%(23)
をあわせた、福祉系の専門学校卒以上が 21.5%(101)
、
「福祉系以外の専門学校」
、
「福祉系以外の短期大学」
、
「福祉系以外の 4 年制大学」
、
「福祉系
以外の大学院」をあわせた、福祉系以外の専門学校卒以上は 18.9%(89)であった。
性別では、男性が「中学校」0.7%(1)
、
「高校」40.1%(55)
、
「福祉系専門学校」17.5%
(24)
、
「福祉系以外の専門学校」8.8%(12)
、
「福祉系短期大学」0.7%(1)
、
「福祉系以外
の短期大学」2.9%(4)
、
「福祉系 4 年制大学」10.2%(14)
「福祉系以外の 4 年制大学」13.1%
(18)
、
「看護医療系学校」は 4.4%(6)に対し、女性は「中学校」1.2%(4)
、
「高校」52.9%
(173)
、
「福祉系専門学校」12.2%(40)
、
「福祉系以外の専門学校」6.1%(20)
、
「福祉系短
期大学」4.0%(13)
、
「福祉系以外の短期大学」8.0%(26)、
「福祉系 4 年制大学」2.8%(9)
「福祉系以外の 4 年制大学」2.4%(8)
、
「福祉系以外の大学院」0.3%(1)
、
「看護医療系学
14
校」8.0%(26)
、
「その他」0.6%(2)で、男性のほうが学歴としては高く、福祉系の専門
学校以上の学校を卒業した割合が女性よりも若干高い。
また、年齢別では、若い世代のほうが、福祉系の専門学校以上の学校を卒業した割合が高
い(問 3 グラフ参照)
。
問3 年齢別 最終学歴
(20代=61,30代=143,40代126,50代=108,60歳以上=27,不明=4)
13.1%6.6% 1.6%
24.5%
24.5% 6.3% 0.7%
0.7%
18.3% 16.7% 5.6% 1.6%
32.8%
1.4%
45.9%
42.0%
57.9%
59.3%
11.1%
0%
中学校
高校
10%
13.0%
44.4%
20%
30%
福祉系学校
(専門学校以上)
40%
18.5% 9.3%
3.7% 18.5% 7.4%7.4% 7.4%
50%
60%
福祉系以外の学校
(専門学校以上)
70%
80%
看護医療系
学校(準看含)
90%
100%
その他
不明
⑤ 業務内容(問 4)
主な業務については、
「主にケアにかかわるスタッフ」が最も割合が高く、63.3%(297)
、
続いて「看護婦」10.0%(47)
、
「主に相談援助にかかわるスタッフ」9.6%(45)
、
「厨房ス
タッフ」5.5%(26)
、
「事務」5.3%(25)
、
「世話人」1.7%(8)
、
「看護師以外の医療系専門
スタッフ」と「管理職のみ」が同数で 1.1%(5)
、
「その他」0.6%(3)となっている。
性別では、男性が「主にケアにかかわるスタッフ」
、63.5%(87)
、
「主に相談援助にかか
わるスタッフ」13.9%(19)
、続いて「事務」9.5%(13)
、
「看護婦」7.3%(10)
、
「看護師
以外の医療系専門スタッフ」1.5%(2)
、
「厨房スタッフ」
・
「管理職のみ」
・
「その他」0.7%
(1)と続いているのに対し、女性は、
「主にケアにかかわるスタッフ」63.6%(207)
、続
いて「看護婦」11.0%(36)
、
「主に相談援助にかかわるスタッフ」8.0%(26)
、
「厨房スタ
ッフ」7.6%(25)
、
「事務」3.4%(11)
、
「世話人」2.4%(8)
、
「看護師以外の医療系専門ス
タッフ」と「管理職のみ」が同数で 1.2%(4)
、
「その他」0.6%(2)となっており、男女と
も回答者はケアスタッフの割合が高いが、相談援助に関わるスタッフの割合が男性のほうが
若干高く、看護師や厨房スタッフの割合は女性が若干高い。
年齢別では、若い世代のほうが、ケアスタッフの割合が高い構成となっている(問 4 グラ
フ参照)
。
15
⑥ 職位(問 5)
管理者や主任・リーダーなど、職員に指示ができるような立場にいるかどうか確認するた
めに聞いた設問では、
「管理者・管理職」が 6.6%(31)
、
「主任・サブリーダー」25.2%(118)
、
「それ以外(職位なし)
」67.2%(315)となっている。
性別では、男性が「管理者・管理職」10.9%(15)
、
「主任・サブリーダー」29.2%(40)
、
「それ以外(職位なし)
」59.9%(82)
、女性が「管理者・管理職」4.6%(15)
、
「主任・サ
ブリーダー」23.5%(77)
、
「それ以外(職位なし)
」70.6%(231)
、
「不明」1.2%(4)とな
っており、男性のほうが、管理職クラス、主任クラスの割合が若干高い(問 5-1 グラフ参照)
。
年齢別では、年齢が高くなるにつれて、管理者クラス、主任クラスの割合が高い(問 5-2
グラフ参照)
。
16
⑦ 雇用形態(問 6)
雇用形態については、
「正社員」が 69.5%(326)
、
「非常勤職員、臨時、パート」は 27.5%
(129)
、その他 1.3%(6)となっており、約 7 割が正社員、約 3 割が臨時や非常勤である。
性別で雇用形態を見ると、男性が、
「正社員」75.9%(104)
、
「非常勤職員、臨時、パート」
は 20.4%(28)
、その他 3.6%(5)
、女性が「正社員」67.6%(221)
、
「非常勤職員、臨時、
パート」は 30.0%(98)
、その他 0.3%(1)となっており、男性の方が正社員の割合が若干
高い(グラフ問 6 参照)
。
年齢別では、20 歳代が「正社員」73.8%(45)
、
「非常勤職員、臨時、パート」は 24.6%
(15)
、その他 1.6%(1)
、30 歳代が「正社員」69.9%(100)
、
「非常勤職員、臨時、パー
ト」は 27.3%(39)
、その他 0.7%(1)
、40 歳代が「正社員」73.0%(92)
、
「非常勤職員、
臨時、パート」は 27.0%(34)
、50 歳代が、
「正社員」72.2%(78)
、
「非常勤職員、臨時、
パート」は 25.9%(28)
、その他 0.9%(1)
、60 歳以上が、
「正社員」37.0%(10)
、
「非常
勤職員、臨時、パート」は 44.4%(10)
、その他 11.1%(3)となっており、年齢別で見て
も 60 歳以上以外は全体とほぼ同様の傾向である。
17
⑧ 勤務年数 5 区分(問 7)
現在の職場における勤務年数については、
「3 年未満」27.3%(128)
、
「3~7 年未満」25.2%
(118)
、
「7 年~10 年未満」13.0%(61)
、
「10 年~15 年未満」17.5%(82)
、
「15 年以上」
16.2%(76)となっており、勤務年数としては最も短い 3 年未満が、最も構成割合が高くな
っている。
性別では、男性が、
「3 年未満」26.3%(36)
、
「3~7 年未満」29.9%(41)
、
「7 年~10 年
未満」15.3%(21)
、
「10 年~15 年未満」18.2%(25)
、
「15 年以上」10.2%(14)
、女性が
「3 年未満」27.5%(90)
、
「3~7 年未満」23.2%(76)
、
「7 年~10 年未満」12.2%(40)
、
「10 年~15 年未満」17.4%(57)
、
「15 年以上」18.7%(61)
、
「不明」0.9%(3)となって
おり、女性のほうが、勤務年数の長い人の割合が高い。また、年齢別では、年齢が高くなる
につれて勤務年数が長い人の割合が高い。
雇用形態別では、正職員が、
「3 年未満」21.2%(69)
、
「3~7 年未満」22.4%(73)
、
「7
年~10 年未満」13.4%(44)
、
「10 年~15 年未満」21.5%(70)
、
「15 年以上」21.2%(69)
、
非常勤・臨時・パートが「3 年未満」44.2%(57)
、
「3~7 年未満」31.8%(41)
、
「7 年~10
年未満」10.9%(14)
、
「10 年~15 年未満」21.5%(10)
、
「15 年以上」21.2%(6)
、
「不明」
0.3%(1)となっており、正職員と回答した人の勤務年数は分散しているが、非正規職員の
4 割は 3 年未満の勤務年数である(問 7-2 グラフ参照)
。
問7 雇用形態別 勤務年数
(正職員=326,非常勤・臨時・パート=129,その他=6,不明=8)
21.2%
22.4%
44.2%
31.8%
33.3%
0%
3年未満
33.3%
20%
3~7年未満
40%
0.3%
10.9% 7.8%4.7%
0.8%
16.7%
60%
7~10年未満
21.2%
21.5%
13.5%
80%
10~15年未満
16.7%
100%
15年以上
不明
2)回答者の被災状況について
⑨ 被災状況(問 8)
<家族、友人、同僚について>
震災の影響のうち、ご家族の状況について、震災で亡くなった人がいると回答したのは、
22.8%(107)であった。
「同居家族を亡くした」と回答した人は、3.4%(16)
、
「別居家
族・親族を亡くした」と回答した人は 17.9%(84)
、
「ペットを亡くした」と回答した人
は 2.6%(12)であった。また、友人や同僚の状況について、震災で亡くなった人がいる
18
と回答したのは 53.9%(253)であった。
「友人・知人を亡くした」と回答した人は、51.2%
(240)
、
「同僚、上司、部下など職員を亡くした」は 8.7%(41)であった。回答者の約 7
割が、家族、友人、同僚など震災によって身近な人を亡くしている。
<自宅(建物)>
震災の影響のうち、自宅(建物)の状況について、
「自宅が流出・全壊した」と回答し
たのは、17.9%(84)
、
「自宅が半壊した」は 6.2%(29)
、
「自宅が浸水した」1.7%(8)
、
自宅への影響はなかった」72.7%(341)となっており、回答者の 2 割が全壊又は半壊の
影響を受けている。
19
3)震災時の行動について
⑩ 発災時の勤務状態(問 9)
震災発生時、勤務中だったかどうかの質問には、
「勤務中で施設(敷地)内にいた」57.1%
(268)
、
「勤務外又は出張等で施設(敷地)外にいた」40.3%(189)であった。
⑪ 震災後の出勤(問 10)
なお、問 9 で「勤務外又は出張等で(敷地)外にいた」と回答した 189 名に震災当日の
11 日中に職場に駆けつけたかどうか聞いたところ、
「11 日中に駆けつけた」
は 46.0%
(87)
、
「11 日中には駆けつけられなかった」は 51.9%(98)であった。
これを職位別にみると、
「管理者・管理職」は「駆けつけた」72.7%(8)
、駆けつけら
れなかった 27.3%(3)
、
「主任・サブリーダー」は、
「駆けつけた」71.7%(33)
、
「駆け
つけられなかった」28.3%(13)その他の職員については、
「駆けつけた」35.1%(46)
、
「駆けつけられなかった 62.6%(82)と、なっており、管理者や主任クラスの職員の 7
割が震災当日に職場に駆けつけている。
20
⑫ 震災直後の行動(問 11)及び震災の翌日~1 週間ぐらいの間の行動(問 12)
震災直後及び震災の翌日から 1 週間ぐらいの間の行動について、それぞれ「起こった出来
事」
「行動」
「考えたこと・感じたこと」をたずねた。未回答の調査票や「覚えてません。
」
といった 1 行だけの回答も多くあった。したがって、問 11 と問 12 ともに記入がある調査
票について、施設種別ごとに記述されている内容の分類を行った。今回は「小規模多機能型
居宅介護」
「通所施設」
「グループホーム」の職員の行動についてまとめていくこととする。
〔小規模多機能型居宅介護〕
対象とした調査票は17 枚であった。
震災発生時の17 名の状況をみると下記の通りになった。
①震災発生時、勤務中で事業所にいた人 8 名
②事業所外にいたが、地震が起きて当日中に事業所にかけつけた人 4 名
③事業所外にいて、当日中に事業所に駆けつけられなかった(もともと休日の場合含む)人
5名
それぞれの回答のうち、代表的なものをとりあげ、下記の通りにまとめた。回答は多くあっ
たため全てをまとめることは難しく、あくまで代表的なものをとりあげている。
①震災発生時、勤務中で事業所にいた人
11 日の行動:利用者の頭を保護、利用者とともに高台へ避難、地域の方々が避難されてき
た、夜勤対応
考えたこと・感じたこと:いつもと違うと感じる、全員が無事でひとつになり行動した事、近隣にお
世話になり感謝、恐怖と無力感、雪が降り寒くて仕方がなかった、余震への恐怖、風景を見てどうなるん
だろうという不安(声も出ない)
、家族の安否が心配、着の身着のままだったので寒くて寒くて耐えられな
かった、毛布が全然足りない、トイレが困った
12 日から1週間くらいの間の行動:停電・ライフラインの停止、利用者の安否確認、地域の炊き出
しに参加、利用者に不安を与えないよう過ごす、安否確認のため人の出入りが激しい、食材がなく食事は
1日2回、利用者の気分転換を行うため以前のように体操や歌を歌って過ごす、夜はろうそくで過ごすた
め暗くなる前に夕食をとるようにした、ライフラインが戻った他事業所へ移る、自宅に戻り家族と過ごし
た、燃料・食料の確保ができないため通常業務できず等
考えたこと・感じたこと:1日1日を過ごすのが一生懸命、人数的にトイレに困った、空腹もあった
がガマンしていただいた、利用者の不穏とトラブルがあり夜中見守りを行い辛かった、情報が入ってこな
い為不安がつのった、
疲労のピーク、
家族の安否ができた喜びで頑張れた、
この状況はいつまで続くのか?、
この先どうなるの? 自宅周辺を見て動揺を隠しきれず涙が出た、仕事も家族も心配でどうしようもなか
った、スタッフの応援が欲しい、自宅に帰宅できない利用者の帰宅要求・徘徊が多くなり、ケアの難しさ
を感じた、物資不足で不安が大きくなる、食べ物には困らなかったが水と電気が復旧せず困った等
21
②事業所外にいたが、地震が起きて当日中に事業所にかけつけた人
11 日の行動:津波を見て急いで施設に向かい利用者の避難誘導を手伝った、もともと夜勤だったので夜
勤にはいった、予定外の宿泊で自宅に帰られない利用者のケアにあたった、避難してきた地域住民と利用
者ともに一晩過ごす等
考えたこと・感じたこと:家族の安否が心配、利用者の安全、利用者を自宅に帰すこと、自宅が流さ
れた等
12 日から1週間くらいの間の行動:自宅待機となり自宅に帰る、利用者の安否確認、避難所よりひ
とり暮らしの利用者を連れてくる、泊まりの方のケア、自宅へ帰る、火事の危険のためさらに避難し避難
先で利用者とともに過ごす、内陸の避難先に移る等
考えたこと・感じたこと:家族の安否が心配、寒さ、不安、自然災害の怖さ、道路状況の悪さも含め
が見たこともない信じられない光景、利用者の不穏状態の対応が大変等
③事業所外にいて、当日中に事業所に駆けつけられなかった(もともと休日の場合含む)
11 日の行動:家族や親戚の安否確認、消防団の活動に出動、食料の確保、高台に避難、自宅に戻ろうと
するが津波のため自宅に戻れず、小学校に子どもを迎えに行く、施設へ行くが既に避難場所に避難してい
た等
考えたこと・感じたこと:施設の人たちが無事で良かった、情報がない、災害の備えが全く無い、怖
かった、電気も止まりまた津波が来るのではないかと恐ろしかった、家族のことが心配、建物にヒビが入
ったため、いつ崩れるのか不安だった等
12 日から1週間くらいの間の行動:
自宅待機、道路が寸断され出勤できない状態が続く、親戚が自宅に避難してくる、道路が通行止めで遠回
りして出勤、朝から夜まで少し眠るといった状態で介護にあたる、消防団活動の継続、自宅に戻る、道路
がなく山の中やガレキの中徒歩で自宅に帰る
考えたこと・感じたこと:家族の安否が心配、携帯や電気の復旧がいつになるか、余震が怖い、職場
はどうなっているか、心身共に疲れる、職場も心配だが自宅も心配、大きな不安、夜になるととてもユー
ウツ、これからどうなるんだろう、物資の確保の心配等
〔まとめ〕
12 日中に水道、電気が復旧した人もいるが、ガソリン不足に直面する人が多かった。そ
のため、自宅待機となった人もいた。また、特に影響を受けなかった事業所は物資不足では
あるが、通常に近い勤務だったことがうかがえた。そうでないところは決まった休憩もとれ
ない、24 時間勤務であったり、泊り込みであった。
食料や燃料の不足とライフラインが止まったことへの大変さだけでなく、使えなくて困っ
たものととしてトイレがあげられる。また入浴ができず困ったという記載もあった。
2ヵ所避難先を移ったり、自宅に帰れないという場合に、利用者の不穏行動への対応のた
めに、ケアが難しくなったという苦労がうかがえる。また、一晩中でも不穏行動への対応や
見守りのため、職員が十分睡眠がとれない状態もあったこと、職員自身の家族や親戚の安否
が確認できない状況であり、本当に大変だったことがうかがえた。
22
〔通所サービス〕
対象とした調査票は48 枚であった。
震災発生時の48 名の状況をみると下記の通りになった。
①震災発生時、勤務中で事業所にいた人 35 名
②事業所外にいたが、地震が起きて当日中に事業所にかけつけた人 8 名
③事業所外にいて、当日中に事業所に駆けつけられなかった(もともと休日の場合含む)人
5名
それぞれの回答のうち、代表的なものをとりあげ、下記の通りにまとめた。回答は多くあっ
たため全てをまとめることは難しく、あくまで代表的なものをとりあげている。
①震災発生時、勤務中で事業所にいた人
11 日の行動:
・利用者やスタッフの安全確認、建物の破損確認、利用者を安全な場所へ誘導した、毛布や寝床の準備、
食料や入居者の支援、
・施設内で利用者への声掛け誘導に徹する、
・寝ている利用者の安否確認。布団等で頭部を隠す等し、揺れがおさまるのを待つ、利用者を庭へ皆避難
し安否確認をする、毛布等暖を取る物を室内から運び出す、メールがしばらくは使用できたが、全て使用
できなくなる、津波が来た事を知らされる、利用者を室内に戻す、食料や暖や電池等使用する物を買いに
出る、役所等に状況を確認しに行く、有る物を利用者と食す、ホールで皆で集まり毛布に包まり過ごす、
ラジオを聴く、山の向こうの空がオレンジになり爆発音と灰が空から降…、
・利用者様の安全確保、テーブルの下へもぐらせた、揺れがおさまり屋外へ利用者様を避難させラジオ等
による情報収集、
・利用者を施設の外に出す、施設のパソコン等を車に運ぶ、利用者を移動させる、利用者を避難所に移動
させる、避難所で 3 日間過ごす
・利用者が不安にならないように「大丈夫」と声掛けをした、物が落ちて頭に当たらないように布団など
を掛ける、地震が一時落ち着いてから外へ誘導する、さらに高台へ避難するために車に乗れる人を誘導す
る
・揺れがガタガタときて、しかも長く大きな地震だと思い、職員全員(8 人)で利用者 15 人を、テーブル
の下にもぐらせ、じっとしていた。棚からモノが落ちたり、本箱が倒れそうになり、私はそっちを主に押
さえた。5 分くらいして、電気が切れ、電話、インターネット、携帯電話も使えなくなった。地震は落ち
着いたが、情報が何も入らなくなり、暗い室内で利用者を落ち着かせ、おやつを食べさせ、3 時半、帰し
た。どことも連絡が取れず、5 時で終了し自宅に帰った。
・営業中で利用者がいた。移動しようとしても体が思うように動かず、側にいた利用者の頭にタオルケッ
トや枕で支えベットで休んでいた方の見守りをするので精一杯でした。
服をぬらした方が飛び込んできて、
始めて津波で市内が壊滅状態を知る。近くの利用者を自宅に送る。帰れない利用者と夜を過ごす。揺れが
おさまってから自分の家族の安否確認の TEL を入れるが不通で連絡取れず。
・
(デイ)利用者の側に行って、手を握ったり肩を抱いたりした。転倒したり、落下する物がないか注意し
た。座布団、タオルケット、クッション等を各自に渡す。施設周辺の利用者には、迎えに来てもらい、帰
23
宅してもらった。帰宅できない利用者とデイホールに泊まった。
・特養にて入浴介助中であった。
・デイサービスにて勤務中。安全確保、上司の指示が出るまで、現場待機。帰宅可能なデイ利用者の送迎
開始。職場内が臨時的に避難所となり、対応にあたる。一部の職員を残し、帰宅出来る職員から解散する。
・仕事中すごい揺れを感じ、利用者全員外に出た。寒い日だったのでジャンパーなどを着せ、荷物をもた
せそれぞれの自宅へ車で向かった。私は、利用者 4 人を乗せ一番最後に作業所の鍵をかけ出ました。一人
をおろし、車の渋滞にあい、車で駅に向かっている時向こうから来た車の人に「逃げろ」と言われ、車を
置き、歩いて皆で逃げました。皆を連れ、利用者がいる高台のアパートにいました。利用者の好意で皆で
寒さをしのぐことが出来ました。夕方利用者の携帯電話で津波の様子がわかり、声が出ませんでした。み
んなで助け合いながらその日を過ごしました。
・地震発生後、利用者さんを送迎用の車に乗せ、中学校に避難(途中で利用者さん一人を家族へ渡しまし
た)
。中学校のすぐ下まで津波が来ていると聞いたので気仙川を波が上がっているのを見た。寒いので利用
者さんを車の中で待機させていた。体育館の中に集められて名前の確認が始まった。利用者さんの介護は
ずっとしていた。
・机の下に入れない利用者に対し座布団をかぶって保護していた。施設の外へ出て警報を聞くと共に状況
把握。高台方面の家から来ている利用者がいたため、家族に引き渡す事を考え、そちらの方面へ避難しよ
うと上司と相談する。利用者全員と職員(上司 1 名を残し)高台へと車 3 台で避難する。荷物は利用者、
個人の持ち物のみ。高台方面 2 名の利用者を家族へ引き渡す。
(道路渋滞始まっている)高台(避難所)へ
移動。
・利用者さんの所に行き、
「大丈夫ですよ」と声掛けした。スタッフと利用者さんに地震であることを伝え
る。スタッフに台所のガスの元栓を切るよう指示。部屋が冷えてきたのに気付き、利用者さんとスタッフ
上着を着る。運転手が出勤してきて、津波があった事を知る。
送迎の時間だったので、送っていける人は自宅に送り、通行止めになっている利用者さんの自宅には戻れ
ないため施設内で情報を待つ。家族に連絡がなかなか取れず、やっと取れた時に義兄が津波で流され行方
不明になっている事を知り、自宅に帰り、捜索の手伝いをする。
・デイ利用者は情報が入るまで待機していた。
大津波が来て被害が分かるにつれて影響のない利用者は送って行ったが、流失した家の利用者等はデイサ
ービスで待機していただく。今後の相談をする。その日はデイサービスが避難所的な場所になった。居宅
介護支援事業所、訪問介護事業所の職員とデイサービスの職員が交代で昼夜勤務についた。道路が通行止
めなので夜勤に入る。
・2F 事務所で仕事中。揺れがおさまらず、すぐに 1F デイルームへ行く。自宅へ送迎できる利
利用者さんを送る。街(海沿いは通行止め)大津波だとのことで情報が入る。
・高台へ上った。高台から津波を見る。ただ見ているだけ。何人かの利用者さんと施設に戻る。
・利用者の安全確保を行う、バスへの誘導、自宅の安全確認のため移動中、道路規制、身動きとれず。皆
の安全確保・確認。保温・食料等の準備。今後の対応について打ち合わせ等。
・バス~人数確認、校庭でしばらく待つ。校庭から津波を見て、呆然とする。室内が寒くストーブをつけ
る。一般の方々が避難して来る、夜に向けてのローソクの準備。利用者の方々の健康の確認、休む場所の
確認をし、みんな一緒に行動する。園の食堂で寝る。地震が続き、怖くて寝る事ができなかった。夜スト
24
ーブを囲んで一夜を過ごす方々もいる。
・利用者様の安全、保護(落下物等)
、「大丈夫だよ。ここは高台ですからね」等の声掛けをする。外を見
ると湾港防波堤がなくなっているのが分かる。利用者様への対応で外の状況が分からなかった。和室に移
動した時に敷布団、掛け布団、毛布にて身体をくるんで暖をとってもらう。菓子等を利用者様に配布。い
ろいろ声掛けをしたり、利用者のそばにつきっきりとなっていた。寒さのため体調不良を訴える方もおり
対処していた。
・利用者の安全確保を行う安全のため(落下物)
。お年寄りに寄りそっていた。声掛けしながら「大丈夫だ
よ」と言ってあげていた。ビスケット 1 枚、飴を食べ一夜を過ごす。お年寄りのトイレ利用の際水が出な
いのでチリ紙など入れないようバケツを利用した。
和室に移動して掛け布団、
毛布をかけ寄りそっていた。
・建物が揺れで壊れるのかと思いながらも、利用者に上着や靴をはかせ、すぐに逃げられるようにした。
利用者、職員の安否を書いた大きな紙を外のボードに張り出した。自分の家族の名前、連絡先を書いた紙
を沢山作った。
・停電。送迎車で利用者を自宅まで送り届ける、ラジオで地震の情報収集、帰宅できない高齢者の受入れ、
夜勤者を決めてそれ以外の職員は帰宅。
・施設が大きく揺れた。レク中のため皆テーブルに向かって椅子に座っていたが、びっくりして大声を出
す人、立ち上がり、何があったのか分からず震える人、逃げようとする人など一時パニックになりました。
地震だと職員が叫びました。落ち着いて行動するようなだめる事が出来ましたが、これからの行動を電話
でやり取りしている中でも地震があり、おびえている人のそばについてあげました。
家族、施設長等に連絡を取りながら送迎する。送迎中にも津波が道路を走っている車から見えて、利用者
の方も青ざめて興奮気味だった。
落ち着いて乗るよう心がけましたが、車に乗せるだけでも大変でした。無事、家族のもとへ帰すことが出
来て安心した。電気が消えました。携帯、電話は使えたがなかなかつながらず困った。
・施設内で療育中(生徒 4 名)
。出入り口の戸を開ける。施設外へ出ることの指示。生徒 4 名と共に玄関か
ら外へ出る。揺れが大きく一つにかたまってその場で身をかがめる。避難場所への指示。早足で避難場所
へ向かう。そこで一晩子どもたちと一緒に過ごす。
・1F 自動ドアを手動にし開放。1F ホールにいた通所利用者の安全を確認。
「落ち着いて下さい。大丈夫で
すよ。
」と声掛けを続ける。地震の揺れが弱まる中、併設病院の天井が崩れてきているとの情報から 2F、
3F の入所者と併せ、通所利用者も中庭に誘導、搬送し避難する。
(津波の影響はない場所であるため、高
台には避難せず)中庭で待機する利用者の椅子と、寒さ対策に居室から衣類、布団、毛布などを準備し、
頭~肩から次々に利用者にかぶせた。会社の車、送迎用バスにも利用者を避難させる。海岸近くの利用者
4 名を除く、6 名を送迎バスで自宅に送り届け、ご家族に確実に手渡した。待機の 4 名は、海岸付近の自宅、
独居暮らしということもあり、本日より 1F 施設で寝泊まりとなる。夜中に不眠になる方もあり添い寝をし
て夜間のトイレにも付き添った。施設泊
・施設駐車場の止めてあった車が全て生き物のように動いていた。向かい側の山から土ほこりが上がりあ
っという間に空気が土色になったように見えた。施設 2、3F の大きな窓ガラスがプラスチックのようにあ
おるように動いていた。帰宅願望の強い利用者が外に出たのを追いかけて、施設玄関前に利用者と一緒に
いた。停電になる。地震がおさまり大津波警報が出る。施設内にいた利用者を玄関前に誘導する。車いす、
椅子、ベッド、寒かったため、布団、毛布、コート等を利用者に使わせる。携帯電話、車のテレビ等で津
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波の様子が現実のものとして見れる。病院側から患者、スタッフが避難してくる。患者、スタッフを 1F
ホールへ誘導する。通所利用者を送迎バスに移動する。施設スタッフが利用者の安否確認に動き出す。師
長の指示のもと、利用者宅の安全確認へ行き、自宅へ戻せるのかどうか連絡をとる。
(電話も使えない、利
用者を津波被害、独居者除く)無事自宅へ送る。
・利用者を家に送った。その後帰宅出来なかった市内の利用者と一晩、施設の車の中で過した。
(職員 5
名、利用者 3 名、その他 1 名)
・利用者の安全確保、玄関、非常口の開放を指示、エレベーター内確認、停止指示。利用者には動かず椅
子に座ってもらい落下物の被害を受けない場所にまとめる。泣きわめいた方を抱きしめ落ち着かせる。揺
れがおさまってから敷地内の外に避難指示、椅子、ベット、毛布、布団、ラジオ、懐中電灯、携帯電話を
持ち、情報収集する。
併設病院より入院患者がデイホールに避難してきた。送迎車 3 台に利用者を乗車させ、ラジオを聞きなが
ら暖をとってもらう各車で待機させる。運転手、職員各 1 名ずつ乗車させる。利用者宅を訪問し家族と各
家庭の状況確認に出発。
(軽自動車使用)待機中の職員 3 名に対し迎えに来たら、所持品を持たせ帰所させ
るよう指示し、チェックさせる。デイケアの一時停止を決定(再開のめどがたつまで)
。施設に戻り、安全
確認出来た方を自宅に送る。自宅へ戻れない 2 名を同一事業所内入所施設に避難させる。自身宅が津波被
害区域にて帰宅できず、入所施設にて夜勤応援する。
・利用者の安全確保(通所者、入所者)
。ライフラインが絶たれる。通所利用者を家まで送る。大津波が来
たことを知る。一時帰宅し、入所者の対応のため、泊まりであることを告げ、再度施設へ
・通所者 10 名全員を外へ誘導し、入所者の誘導手伝いを行う。2 名家族が迎えに来てくれる。沿岸部離れ
た通所者を 3 名自宅へ送る。その際利用者家族の安否も確認する。3 名送迎する(相談員と 2 名で)
。独居
の利用者は近くに子どもがいるとのことで 1 名娘さん宅へ送る。娘さん宅へ送迎。沿岸部 3 名、独居者 1
名は施設で泊まる。知らない中での泊まりになるため、ずっとつきそい、会話していた。
・揺れがおさまるのを待った。訓練用ベットで治療中だった入所利用者を車いすに乗せた。
エレベーターが動かないので、男性職員と 3 人で階段を使って逃げた。ラジオにて情報収集。
通所利用者の家に家族がいるか個人の車で行って確認するが、避難済みで不在。その途中、実家が津波で
浸水しているのを確認した。
・玄関の戸を開け、席に着いている利用者さんに落ち着けるよう声かけし、布団などをかぶせ、地震が落
ち着くのを待った。
デイケアであり、入所も併設していて、上司の指示もない中避難した。冷蔵庫の中にある飲み物や布団も
車に積み、運転手と介助者を。送迎バスで避難。待機する
考えたこと・感じたこと:
・皆が動揺しパニックにならなければいいなと思ったし、二次災害の恐れを感じた。電気や水道が止まり、
ただ事ではない現状を目の当たりにした。初めての夜勤で不安だった。家族や友人、知人と安全に避難し
ていればいいと感じた。
・何より、初めての出来事でしたので正直何をどうすれば良いかわかりませんでした。地震は、沿岸地方
に住んでいますので、色々体験していますが、今回の地震は今迄に無い揺れを感じて、正直「もうだめか」
と思いました。
利用者の安全を確保するのに余震が続きとても大変でした。余震と言っても震度 5 ですからとても大きな
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揺れでした。市街地を確認する為に、国道を車で出掛けると、渋滞に巻き込まれて状況が理解出来ません
でした。車から降り、先頭まで行くと、国道事務所関係者が市内の写真を渡しているので、それを見て、
初めて事の重大さを実感しました。それからは、施設に戻り、利用者及びスタッフへ状況報告をし、現実
を受け止めてもらう事に必死でした。
(震災時から 18:00 までの出来事です。
)
・長いなあ(揺れが)
、余震が多い、雪が降って寒い…、長く外に居るのも調子を崩すなあ…、子どもは大
丈夫だろうか? 今度は何だろうか?火事か…火が消えず近づいたら、利用者と共にどこに逃げれば良い
か…、壊滅的とラジオでは繰り返すが壊滅って何だろう…子どもは…家族は…
・認知症の方々の誘導・安全確保の難しさ。屋外避難の寒さ対策。停電に対する発電機等の重要性。
・自分の家が火の手が迫っていたので、避難先でもしかしたら家が燃えてないと思った。
・一名立てなくなり、もう一度施設に戻り外に出すが、もう少し男性の手を借りたかったと思う。施設が
火災で無くなるのではと考えた。皆を家族のもとへ送ろうとした。しばらくは現実を受け入れなかった。
しかし利用者の気持を考え、まず状況をしっかり把握しなければと思った。利用者の家族のこと、家のこ
と、情報がほしいと思った。
・大きい地震だ。津波が来なければいいが、自分もとても怖い。不安にさせてはいけない。けがをしない
ように、とにかく落ち着いてもらう。全員とにかく、安全に素早く避難させなければ。
・ずいぶん大きいなあと思った。電気も電話もインターネットも携帯電話も切れ、何もわからない状態。
情報がどこからも入らず、車に行きラジオを聞いたら、大津波のニュース。これは大変だと皆に知らせた。
なぜ、役場でも社協でも情報を教えないのか疑問に思いながら帰宅した。
(場所的に役場から 10 キロ程離
れている)
・何が起こったのか?呆然としていた。情報が入らず不安。子どもが町に出掛ける予定だったので、心配
になる。
・不安を感じさせないようにと思った。利用者が動揺しないようにと、自分が落ち着くように努めた。建
物が倒れたり、天井が落ちてきた時のために、頭を守ろうと思った。家族の安否、家の様子(室内、建物)
、
市内の様子はどんなか
・すぐに、利用者を避難させる事ができるように、不必要なものを撤去し、室内を必要なものだけで整え、
スムーズな往来が出来る環境を整える事が必要だと感じた。
・家族の安否が心配であった。家族、沿岸在住の身内、親族の安否が不明。ケータイ不能にて。自宅、家
族の安全を確認する。
・地震があった時には、まず高台に歩いて逃げる事だと思いました。車の中から家と主人に TEL をしまし
たが、かかりませんでした。たまたま主人が高台に上ってきて、お互いの無事を確かめられてほっとしま
した。主人がスーパーでカップラーメン、パンを皆の分買ってきてくれました。いつもお金は持っていな
ければならないと思いました。安全がわかるまで移動しないようにしました。
・大津波警報は出ていたが、一中の下の方で何が起きているのかよく分からなかった。
生まれて初めて見る津波のすごさにびっくりして怖くなった。家で1人いる母のことが気になったが行け
なかった。一中の下の町はみんな流されたと聞いたが受け入れることが出来ず何が起きているのかよく理
化できなかった。
・高台へ…という意識はなかった。ここまで津波は来ないだろう…と。そちら方面の利用者がいたため、
向かったようなもの…。本当ならば被災した避難場所への移動だったはず。
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来ないだろう…と上司は残ってしまった。今となってはなにがなんでも一緒に避難すればよかったと。こ
こでもすぐ帰って来れるだろう…と荷物も最小限にした。早く高台へ…という気持ちはなく、危機感がな
かった。次から次へと車は来たがまだまだ少なかった。
・とにかく利用者さんが不安にならないようそばにいて、情報を待つ。
・今まで経験したこともない大きな長い地震だったので、何か重大な事が起こるような気がした。大津波
が来て村が消失したことは信じられず夢のような感じだった。停電もあり電話も通じなくて、仕事以外に
も家のことや家族が心配だった。
・揺れが大きく、開けたドア一人で閉まってしまう。今までにない揺れで不安を感じ、家族を心配する。
信号が機能しておらず混乱している。運転もとても怖かった。現場を見ていないため、あんなにひどいこ
とになっていると思わず。なぜ道路を通してくれないのか不満になる。
・利用者さんが全員そろっていてよかった。無事でよかった。家が流されないか心配。目の前の出来事が
現実として受けとめられずにいた。娘たちは無事か?明日からどうなるのか、どうしていいのか考えもつ
かない。
・混乱を防ぐため声掛けを行わなければ。怪我等は大丈夫か。安全な場所への避難。
施設は大丈夫、家は大丈夫か。家族は無事、きらりの皆は大丈夫か。不安。
・何度も地震があり怖かった。夫が家族の無事を知らせに来たので、安心して仕事に従事。
・これは大きな津波が来る。家族の方が迎えに来るまで食事をどうしよう。菓子類があるだけ。この時点
ではあまりというより全然「被害」の 2 文字は浮かばなかった。暗くなるにつれて不安が増して来る。照
明がつき“明るい”こんなにホッとするものなんだと改めて感じる。余震があるたびに利用者様方の不安
が募る様子に胸が痛くなるような思いが、怒りにも似て来るような感じがしていました。
・大きな津波が来ると直感した。食料の蓄えが欲しいと思った。水洗トイレも不便なものだなあと思う。
暗くなるにつれて不安が増してきましたが、お年寄りに不安を与えないようにとラジオからニュースが流
れるのを聞かせていた。
・数日前の津波の際の道路の通行止めエリアや、小さい頃からおじいちゃんに聞かされた津波の話、小学
校の時に何度も見せられた「いなむらの火」のことを思い出し、どう行動したらいいか頭の中で考えた。
自分の家族、親戚の安否が気になった。ラジオから、家のある地区の情報が入ってこないと何度も聞いた
ので、息子のことが心配だった。
・全く情報がなく、余震がまだ続くのではないかと不安。施設内全員の安全は確認できたが、家族や親戚
等の安否への不安。携帯のワンセグで津波の映像を見て、信じられない気持でいっぱいだった。
町内の海岸近くへの被害がどの程度なのか全く分からない。ラジオで被害情報は聞けたが、離れて暮らす
家族と連絡が取れず不安。
・大したことはないだろうと感じていたが、津波を見た時は「あ~」という感じで、何が起こっているの
かすぐのみ込めなかった。とにかく利用者を家に届けることだけを考えていましたので、ケガなどしてい
ないか気になりました。自分の家族の安否確認をすることにしました。海の近くに住んでいるため。自宅
へ帰って姉夫婦、子ども夫婦は私の所に避難していましたが、長男が 15:00 頃仕事先から出たのが 20:30
頃で心配しました。
・大きい。ただ事ではない。壁や天井が崩れる。怖い。津波が来る。靴と上着が必要。子どもたちをとに
かく守らなければ。家族の安否。これからどうなるのかの不安やとるべき行動。無事でいること、居る場
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所を知らせたい。
・長く強い地震…。一刻も早く止んでほしいと願うばかり。2F・3F の入所者は大丈夫だろうか?この建物
は地震で崩れることはないだろうか。通所利用者を無事に帰せるだろうか。家族(身内)は無事だろうか
…。携帯のワンセグで津波情報を把握。一気に津波が押し寄せ、家々をのみ込む映像が映し出され、ショ
ックを憶えた。
親、子どもは無事だろうか。ライフラインが途切れており、連絡手段がない。津波により、通勤時の道中
も遮断されている。帰れない。どうしよう。
・今までに経験したことのない揺れでとても長かったので早く止まれ早く止まれと思っていた。自宅がも
しかしてつぶされたのではないか、
母が自宅にいたが火事は大丈夫か、
保育園の孫は…?と不安になった。
利用者を自宅に送っていけるのかどうか心配になる。
隣町の病院に勤める娘の安否が気がかりとなる。サイレンの音が耳から離れず現実のものとして受け入れ
られず。娘との連絡がとれないため、18 時孫と保育園に迎えに行き、自宅へ戻る。20 時単身赴任の夫が花
巻より戻る。
・大きな津波で市内がとんでもない状況であることなど全く分かっていませんでした。防災無線で大津波
警報が出ているのは知っていましたが、実際どうなのかということを放送で教えてほしかったと思いまし
た。
・利用者を不安にさせないよう、声掛けを多くし、そばで付き添い、見守る。自分が不安げな顔をしない
ように努めた。施設倒壊の可能性を考え、またいつ余震が発生するか分からないため、とにかく安全な場
所に利用者を避難させなければと、そのことだけを考えた。
デイホールに避難者があふれたため外から施設内にて待機する場所がなくなり、
暖をとれる場所を考える。
可能な限り利用者を家庭に送ることを考え、停電で、TEL 確認出来ないため直接各家庭の状況を把握する
方法を考える。デイ利用者 17 名中、15 名を家族のいる自宅へ送り届けることができ、いくらか安心する。
自身の同居家族の無事を確認でき、自宅には帰れない状況を伝え、入所施設利用者のために施設に残るこ
とを決断。翌日までそのまま勤務する。今後どうするのか不安と空腹と余震におびえていたように思う。
・この地震はいつまで続くのだろうか。実家の家族、預けていた娘は大丈夫だろうか。いつまでこの状態
が続くのだろう
・施設が崩れないかと心配した。3 名の家族の安否が確認とれるか
慣れない所に泊まることや家族の心配で寝れないのではないかと思った。
・大津波が来るだろう。主任から指示がないのか?事務長から指示がないのか?
中庭より 3F が良いのではないか。
でもオーストラリアの地震では建物の中で圧死した方が多いので外が良
いのか。本当に帰して良いのか。
(実家が津波に浸水しているのを確認して)がっかりした。
・このままデイホールが解体してしまうように感じた。今にでも津波が来る感じがして不安だった。
車の燃料がなくなったら寒さをしのげなくなると不安だった。
12 日から1週間くらいの間の行動:
・車両にて利用者宅訪問。車両にて、被害のない所へ送迎する。避難所を訪問し、利用者の安否を確認。
水の確保や利用者支援。
知人宅の後片付け。安否確認。利用者支援。水の確認。利用者支援。夜勤業務。
・モーニングケア実施。朝食準備と摂取。利用者一人一人のカルテを見て、お薬の準備と投薬。水の確保
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に努める。近隣の利用者は自宅に送る。田老地区にあるGHの利用者を避難所に迎えに行く。市街地の状
況を確認する。利用者のお世話継続。
モーニングケア実施。朝食準備と摂取。利用者一人一人のカルテを見て、お薬の準備と投薬。
モーニングケア実施。朝食準備と摂取。服薬準備と投薬。利用者のお世話継続。この頃から、独居生活者
の安否確認に徹する。モーニングケア実施。朝食準備と摂取。
利用者のお世話継続。この頃から、独居生活者の安否確認に徹する。夜間巡視。
モーニングケア実施。利用者のお世話継続。この頃から、独居生活者の安否確認に徹する。
・自宅に戻るため、途中道のある所まで友人に車で送ってもらう。
歩く途中、利用者の家に寄り、安全であずかっていることを伝える。家族が少し車で送ってくれる。海岸、
川岸、山道を歩く。内陸を車で来た母に偶然会い、2 人で山道を歩く。
自宅付近で旦那の車にあい、家族の無事を知る。
置いてきた車をとりに内陸回りで施設へ向かう。友人の家へ確認に寄る。
車をとり、自宅のある市の利用者の家族の名前等を聞き、探すからと約束し、帰る。
避難所回りを始める利用者の家族や親族を捜す。知人、友人の安否確認。水汲み。
避難所回り。水汲み。ガソリンスタンドに並ぶ。避難所回り。水汲み。
避難所回り。友人宅に様子を見に行く。水汲み。内陸の店まで食料品を買いに出る。
・発電機やソーラーライトの手配。安全確保。井戸から水を運搬。支援物資の手配。
施設を離れることが出来ず、何の行動も取れなかった。
・避難所で、利用者が不安からか、誰彼かまわず訴える。薬のことで訴える。
自宅に帰らせてもらう。自宅のがれきの片づけ。様子が気になり、避難所へ。
・水を汲みに行く。買い出しに並ぶ。近くの避難所を捜す。
迎えに来ない利用者の対応にあたる。薬の確認をし、確保する。健康状態の観察。
・暖房も使えず、電気も使えずデイを休むことにする。ヘルパーたちは(4 人)炊き出しのボランティア
に駆り出される。
職場に行き、情報収集。
ガソリンスタンドに行くと品切れで休業。社協で来て、打ち合わせを午後からしたいと申し出あり。デイ
はガソリンがなく休業。
デイは休業、従業員は出勤。従業員には明日から休業する旨伝えた。従業員は、炊き出し等のボランティ
ア。全員の古着や靴などを役場に届けた。
燃料の確保を考えるも方法なし。ケアマネは役場に協力し、独居高齢者宅を巡回する仕事。
地震や津波の影響はなかった。
・町場の方へ帰すことが出来ないため、職員 2 人で避難所、利用者宅の安否確認に歩き、連絡の取れた家
には、無事を伝える。確認の取れた方を送る。自宅がなくなった方を交替で見守る。
何日目かに家に戻ることができたがガソリンが少ないため、施設に残っている利用者の家族に無事である
ことを伝え、出来れば迎えに来ていただきたいと伝える。
旧道を通って自宅へ送る。再度町場で家族に連絡をとるため、職員 2 人で歩く。
・利用者の息子さんが家に連れて帰れないからと薬をもって訪ねてきた(歩いて)
。外の様子はどうか、聞
いてみた。利用者の自宅、家族の様子、帰宅できるかどうか、職員 2 人 1 組になって、車と徒歩で市内ま
30
で行ってみた。
帰宅できる利用者を送迎した。調子の悪い利用者をヘリコプターで搬送した。
勤務について上司より何の説明、
指示があるわけでもなく、
大変だったので!自分たちでシフトを考えた。
交替で、帰宅できるようになった。
・施設に泊まってひたすら仕事。
・避難者の支援対応に職員が関わる。
・利用者と、漬物、ご飯だけで食事。主人と 2 人で一度母のもとに会いに行こうとしたが、消防に止めら
れ、戻る。皆で買い物に歩いている時、利用者の家族と会って、利用者をあずける。もう 1 人の利用者(次
の日自宅に戻る)をあづけ、男性だけになったため、私は主人の知り合いの所へ行った。主人と 2 人で歩
いて自宅へ行く。主人の母を 2 階の仏間に上げ、線香をあげ、靴下をとりかえ、顔を洗ってあげる。自衛
隊の方が 10 名程はしごを上って母を連れて行ってくれた。
主人と 2 人で壊れた家に泊まった。主人と車で家族に連絡をとるため、NTT に向かっている時、ラジオで
私と主人を捜す息子の伝言を聞いた。
・利用者さんの介護と助けられて運ばれてきた人たちの着替えの手伝いをずっとしていた。
ヘルパーということで、避難してきたお年寄りの方の介護もした。
やっと利用者さん全員を家族へお渡ししたので、自分の親戚の家へ行った。夫と母が行方不明だったので
捜した。やっと東京にいる息子と連絡が取れた。やっと息子が来てくれて一緒に夫と母を捜して歩いた。
・寒さで目が覚めた。オムツ、ミルク、布団、毛布などを確保するため、空き時間に色々な人たちに声を
かけた。利用者の健康状態のチェック。運ばれてくるけが人の処置(簡易)
。高齢者の介助。認知症の利用
者さんのご家族が迎えに来る。利用者 2 名のご家族が迎えに来られる。
・デイ利用者と避難者の介護をする。デイサービス事業は運営できなかった。
デイに避難している人の介護。
・施設を車で出る。津波の被害を見る。道路が通れず、歩いて帰宅する。ヒッチハイクで再度、車に乗せ
てもらい、家へ。
近くの避難所の子どもたちへ、おやつ、オムツを届ける(家にある分だけ)
。
知り合いに携帯で元気である旨伝える。
・外からのお客様の対応。利用者の見守り。食事の準備など、一日の流れをつかむ。お客様の対応。利用
者の見守り。
地震後、初めてテレビを見る。お客様の対応。利用者の見守り。毎日お客様の対応に追われる日々。
・寝床準備、食料準備、名簿作成、利用者の見守り。食料準備、まき等準備、利用者の見守り。休み。作
業所内片付け。利用者の見守り。
・ストーブを囲んで、何となく話しをする。朝食後は、利用者の方々をみまもる。泊まる。
避難している方々に朝食を運び利用者方と朝食を食べた後、みまもる。
利用者の方々が職員がくるのを待っていた。中日はただみまもる。
朝食後は、それぞれが食堂をうろうろしたり利用者の方々と話しをする。日中、女子の方々は編み物する
人あり。中日活動で女子の方編み物する人あり。
・皆様のいる和室へと誘い、布団に横にさせる。
職員が被害の大きさに驚いて帰って来る。ガスコンロ、うどん等を差し入れしてくれた。
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13 日からは掃除と畳や水に浸った家具を外に出したりと忙しくしていた。家財や畳を外に出したり、ガス
が使用出来たので圧力鍋で御飯を作る。
自治会で朝会が始まっておりそこでいろいろな情報が入って来る。
自衛隊の方々が水や物資を運んでくれたのでそれらを取りに行ったり家の中の整理をする。
ガソリンが手に入ったので行動しやすくなる。母の急な体調不良にも適応出来た。
・ストーブをさがしに行ったが、どこにもなかった。
煮こめを食べさせたらこんな美味しいうどんを食べたのが始めてと言ってくれました。
北小に行ったら、息子の方から私を見つけ二人で抱き合って泣く。大丈夫だと思いながらもお互い心配し
合っていた。付き添って寝るが夢を見てさけぶ利用者も出てきたので手をにぎってあげていた。ガス釜で
おにぎりを作って来た。わずかの米を朝、昼、夜、おかゆにして食べた。川水で茶ワンを洗い山の水を沸
騰させて殺菌して使った。
毎晩 7~8 回トイレに起きる。
おもらしをするのでリハパンを役所にもらいに行くが 5 枚だけなので一晩に
なくなってしまう。ガソリンもないので役所にさえ行くのもたいへんでした。
・上司と相談し、自宅まで帰る事にする。通信手段がないため、生きてるならその日の内に戻る約束で出
発。自宅より、食糧と水を持ち、再び施設へ向い歩く。
何十㎞も歩き、足の裏から出血が止まらなくなる。
市内に親せきの安否を確認するため、父の会社が東京なため、自分たちの安否を知らせるべくラジオの中
断車などを探す。
朝の地域の会合に年配の男だけだとケンカになるとの事で私も参加する事に。水も電気もない為、体の不
自由な高齢者の清拭も難しく、私が地域を回り、援助することになる。
・停電のためエレベーター停止、厨房から 2 階、3 階入所者への食事を運ぶ。入所者の食事介助。施設内
そうじ。夜勤(避難してきている高齢者の夜間の見守り。
)何度かガソリンスタンドに足を運ぶ。
・安否確認のため各自宅へむかったのですが、たいていの人は、すわって私達がむかえに行くのをまって
利用するつもりだったようですが、休みである事をつたえる。
この日の利用者はだいたいきたのですが、電気がつかないので、紙しばいを見せたり話しをきいたりする
ことで時間をもたせました。昼もガスが使えたので食事もとる事が出きたのでたすかりました。風呂に入
れる事が出来たのがうれしかったです。
・自動車で被害の少なかった安全な学校へ移動する。子どもとその家族や学校に居た生徒や先生達と共に
過ごす。自宅へ向う
家族が自宅のあった場所で再会できた。内陸へ避難する
・独居利用者宅を本人の了解を得て訪問し、着替え・内服薬を確保する。通所カルテに記載していた情報
から必要な内服薬を確保すべく収集する(情報のみ)
。入所者の配膳・下膳、寝場所の確保、布団しき、バ
イタルチェックなどの業務を手伝う。
海岸近くに住む利用者家族の安否を確認するため、通所スタッフ 1 名を連れ歩いて避難所をめぐる。がれ
きの山を越え、自衛隊が遺体を運んでいる様子や遺体を発見し泣き崩れる人にもそうぐうする。ようやく
たどり着いた避難所で家族 1 人に出会い、施設で保護していた事を伝える。避難所の貼り紙をみながら、
家族の所在確認をしながら歩いた。
津波の影響で自宅被災、送迎が困難となった透析患者の受け入れを試みる。流木で負傷し骨折搬送された
患者さんも受け入れる。避難所にはいるが、介護用ベッドが必要な要介護レベルの方の受け入れを調整、
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情報収集にあたる。
・孫と 75 才の母がいる為、職場へは食事を運ぶ(自宅調理)
。職員用お湯をわかしてポットで運ぶ。師長
と連絡を取り娘が自宅に戻るまで休ませてもらう事とする。施設より米を預り、自宅でごはんを炊いて届
ける。毛布、ダンボール等をもっていってもらう。
施設へ食事を届ける。18 日以降働らける事を師長に連絡をし、シフトに入れてもらう。この日、夫も赴任
先へ戻る。食材を買う為、徒歩でベビーカーを押して、買いものをする。
・避難所を回って歩いた。
利用者に支払う工賃の日だったので、金融機関で、払戻しが出来る額だけでは足りなかったので何とか工
面をして渡して歩いた(1 人 1 人に)
。
・入所施設利用者・職員用の食事、備品購入へ市内スーパーをめぐる。米・果物・インスタント食品・パ
ンなど午前中いっぱいかけて、OPEN している店をさがした。その後は、入所施設で、そのまま勤務し夜間
帯も働く。勤務シフトが完成し一度、避難先へ行き、ゆっくり休む(夫の実家に避難)
。再び出勤し、入所
施設での夜勤をする(デイ再開まで、デイ職員は、入所施設各階にわかれて勤務する事になる)
。勤務明け
後約 2 時間かけて徒歩で、がれきの山をこえながら自宅アパートまで行く(夫と)
。残っていた最小限の衣
類を持ち出す。
少しの水や食糧を持ち、1 時間 30 分かけて両親の居る実家へ徒歩で行く。
・泊まりこみで利用者の対応。実家のある町へ行く手段を得、むかう。火災にて実家付近の高台に行けず、
一時自宅に戻る。
再度、町へむかい、家族・娘をさがす。仕事にむかう。
(状況に合わせ、入所者の対応)
日勤・夜勤をくり返す。休みの日は父を探しにでかける。
・沿岸部 2 名の家族のひなん場所を探し歩く(相談員と 2 名)
。
1 名の家族と会い、しばらく泊まる事決める。家族が遠方に居る沿岸の利用者自宅近付へ行き、あずかっ
ていますと伝えてもらえる様近所の方へ伝える。もう一名の沿岸に住む家族をさがしに行く。一緒にそば
にいて行動を共にした。
・実家の被害状況確認。非番だったが出勤してみる。親せきの GS まで給油に行った。移動は全て自転車。
ガソリンがなくて出勤できない同僚に分けてあげる。
出勤。入所者とレク。
・保存食のビスケットなどが配られたが、いつまでこの状態が続くか不安で食べる事も戸惑いあった。職
員が 2~3 名でかかえトイレ誘導介助する。自宅へ帰れる人は帰る様相談し、送り帰宅を始めた。
考えたこと・感じたこと:
・被害の大きさを翌朝に知り、戸惑いと絶望感を感じた。
住み慣れた自宅へ帰宅できない方や、家を流された方がかわいそうに思えた。
いつまでこんな業務が続くのかという不安感。
被害の大きさに驚いた。
水や電気が早く復旧すればいいなと思う。
慣れない夜間帯の業務で疲労を感じた。
・利用者が飲んでいるお薬が、老健施設に中々ないので代用薬で済ませたが、苦労した。特に、血液さら
さらに関する薬が不足気味となり大変だった。
33
初めて自衛隊を間近で見て驚いた。今まで見たことがない車が何十台も走り、空ではヘリコプターや飛行
機が飛びまわり、まるで戦争をしているみたいだと思った。戦争の経験はないが、多分こんな感じなんだ
ろうなと思った。とにかくすごい、彼らは、何も言わず笑顔で私たちに接してくれた。本当に感謝の気持
ちでいっぱいになった。感謝と感動で涙が出た。こんな非常事態の時に政治家でも役人でもない、私たち
を助けてくれたのは自衛隊の隊員の皆さまだった。そのことを強く言いたい。GHの救出に向かい、町を
見て唖然とした。何もない。三陸の線路を歩き、避難所に向かい、入所者一人一人を背負って約 2 キロを
歩き、無事救出できた。
施設送迎車にて、旧道を回り市内に入り唖然とした。以前の市内の様子は全く見当たらず、泥とがれきの
山で本当につらかった。市内中心部に漁船が何艘もあり住宅に突っ込んでいた。その中を黙々と歩く市民
に勇気づけられた。水の確保に苦労した。日中は一般の人たちが水汲みに来るため、施設の者は気を使っ
て一般の人が来ない夜間に汲みに行かなければならなかった。入所者 100 名と通所者 40 名と職員約 40 名
の飲み水と排泄物のため、1 回の汲む時間が 2 時間かかった。行政は全く役に立たなかった。市内中心部
にある市役所が水没して公用車がほとんど流されて中に取り残されている職員が大半だった。
4 日目でやっと電気が一部地域で回復した。やっとテレビが見れた。現実の放送で唖然とした。ガソリン
不足で町中パニック状態。しかし、人間は物がなくなるとそれを求めて理性を失い、争いになることを痛
感した。少しずつ食料が乏しくなった。しかし、利用者、職員、おにぎり 1 個でも不平不満を言わず笑顔
だったことは一生忘れない。ないものねだりしても仕方ないね、と思う気持ちと、皆で協力しようという
気持ち「絆」を深めることが出来たと思う。そのようなスタッフを誇りに思う。実家のことも顧みず、利
用者のケアを一番に優先させたほほえみの職員を心から感謝する。
死亡した利用者、職員のご家族、それぞれ確認するなかでとても辛く涙であふれる日が毎日続いた。
自衛隊の隊員は素晴らしい。国会を見るたびにむしずが走る。
何より物資が乏しくなったが、シルバーグループ八戸より救援物資が定期的に届き、大変助かった。グル
ープと言う施設は強いものだと思った。行政も少しずつ動き出してきた様子。
震災より 1 週間、
まだまだ落ち着きはなく、
ヘリコプターの音と自衛隊の装甲車が国道を行き来している。
いつになったら元のように復元出来るか想像もつかない。何人の人が亡くなれば、この状況が収束するの
か分からない。原発による放射能が今後心配になってくる。
・山道もあって良かったなあ。子どもの安否確認を…。
「無理だと思ったら引き返してうちに寄りなさい。泊まっていってもいいんだし」と優しい人に感謝。子
どもは無事か…。山道を車は多く走るが、やはり知らない人は冷たいなあ…。
家族が誰も来ないと泣く友人とただ一緒に泣く…。一緒に行こうと誘うも「誰か帰って来るのを待つ」と
言うので、また来る約束をして出る。
(ただ悲しい…)
ガソリンがなくなるから歩くしかない…。ガスもなくなったら…。
・いつまでこのような状況が続くのだろうか?また津波が来なければよいが。
蛇口から水が出る日常生活のありがたさを感じた。高齢者の栄養バランスは大丈夫だろうか?元気だろう
か?早く電話等の連絡手段が復旧してほしい。
・これから先どういうふうにして暮らすのか不安になった。
娘の安否が心配になり、一日も早く家に戻りたかった。電気、水道も止まり、不自由だった。
・皆被害にあっていて、とにかく情報がほしいと思った。
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皆がそれぞれ、家族もしくは親戚、地区の避難所に行ったということで安心した。
毎日毎日疲れた。とにかく疲れた。ただひたすら片づけることしか考えられなかった。
・いつまでこの生活が続くのだろう。不安な気持ちが強い。生きていてほしい。
早く前の生活に戻りたい。
体調を崩さないで日々過ごしたい。
早く家族が迎えに来て無事帰してあげたい。
・役場から正式な情報はなし。関係者の噂話で全容を想像。結局、役場・行政からは何もなかった。東京
の息子と娘とも連絡がつかない。
電話も携帯も、インターネットも使えないので、ただいるだけ。
社協の打ち合わせも具体的なことは分からず、すごい津波の確認だけ。ガソリンのありがたさがよく分か
った。何も情報がない中、職場で残務整理。情報がなく皆不安そうだった。
・自分の家族の安否確認が出来たので施設に泊まり込む。何日家に帰らなかったのか覚えていない。
・家族の様子を気にする利用者に不安を感じさせないために、皆でいるようにした。明るく振る舞った。
利用者以上に家族もパニックになっていて困惑していた。
この状態(帰れない)がいつまで続くのか。誰からも指示がなく、不安だった。
帰宅できない利用者について、食料、暖房用の燃料など、いつまで間に合うのか不安だった。
ガソリンが手に入らず、通勤が大変だった。
通勤途中、街灯もなく不安で、危険だった。仕事に行かないで、自宅で家族と一緒に過ごしていたかった。
・施設に非常時の物品があまりないことに気付いた。
・職場内でも混乱していた。上層部の指示がはっきりせず、行政からの要望に何とか対応できる状態。
・情報が全く入らず、これからどうなるのだろうという不安ばかりであった。職員の疲労もかなりきてい
た。
・寒さで眠れない夜を過ごした。不安。
主人が迎えに来た時、カップラーメンを皆の分買ってきてくれた。作業所が無事でほっとする。私と主人
の車が無事でびっくりした。
利用者の 2 人がどうなったのか心配(送達)
。
私が車で乗せた利用者 4 人全員、自宅または家族のもとへ行き、ほっとする。
主人と 2 人で母を自衛隊の方に渡すことができてほっとした。主人の母を助けることができなかったこと
が悔やまれる。
壊れた家の中で、食べれる物、お金、ロウソクを探した。水は一中の所で 2 本頂き、とてもありがたかっ
た。
まさかラジオで私たちの名前が呼ばれるとは思っていなかった。
送達をしていた 2 人を助けられなくて悲しい。
・起きたことの大変さはだんだんと分かってきた。
家族がどうなっているのかとにかく早く知りたかった。
とにかく不安だったが、職場の仲間がいたので救われた。
なかなか自分の家族のことが分からないのですごく不安だった。
夫と母は津波に流されたようだと聞いてショックだった。
これからどうしていいのか分からなかったが、とにかく捜さなければと思った。
・今どうなっているのか…。どの位の範囲で、どれくらいひどい状況なのか…。
車いす、簡易ベットの不足。トイレが使えない(介助しながらの人はきびしい)
。高齢者は、トイレに行き
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たくなるからと、飲水をこばむ。
とても安心した。
高齢者の内服薬がなく不安。認知症の利用者は状況が把握できないため、何でここに…。早く帰りたいと
情緒不安定になる。
とても嬉しかった。
涙を流して喜んでおられた。車いす、ベットが不足のため、畳への移動をしたが、何をするにも介助が大
変だった。とにかく不安。
・東北地方がすごい被害にあって、こんなことがあってよいのだろうか。まさかこういうことは予想した
ことがなく、これからどうなるんだろうと不安がいっぱいだった。
全国から応援の自衛隊や警察、ボランティアの方々が来てくれて頼もしかったし、ありがたかった。いろ
んな所から支援物資が届き、とてもありがたかった。世界中が心配してくれていると思うと、人間は素晴
らしいと感激した。
今後どうなるのだろうと不安だった。でもどうにかして打ち勝っていかなければと、気持ちは高ぶってい
た。きっとどうにか立ち直っていくと考えるようになってきた。自分の家も家族も無事だったので、気持
ちは被災された方よりは楽だった。
・とにかく子どもが心配で、家を目指すも被害の大きさに不安になる。
家族が皆無事で待っていた。とにかくほっとする。山火事があったが、消すことができずただ泣いて見て
いた。関西方面の消防車が何台も来てくれて嬉しかった。
次々に助けに来てくれる人がいることに安心する。各方面でも大きな被害があり、今の状態がいつ改善さ
れるのか不安になる。市販の薬を飲ませたが、肌寒い日が続くため不安になる。
盛岡は何事もなかったかのように見えた。自分は夢を見ていたのではないかと思った。入浴したらすっき
りして少し頑張ろうと思えた。
・家族が全員無事で良かった。
町は?自分のこと?夢?どうしていいか分からない。利用者さんの不安をどう受け止め、どう説明するか?
自分のこととして受けとめられない。
・近い将来への漠然とした不安。目の前の職務を全うする。
・眠ってくれたとホッとする。
ガレキの中を歩いたり遠回りしたりして家族の方々が苦労して来られた事に感謝。家族の顔を見たり温か
い食物で利用者様の顔が明るくなった。
チリ津波の時自宅は被災しなかった。しかし今回は高台だと思っていた自宅が床上浸水(40~50cm)し驚
きだった。
近隣の方が手伝ってくれたり心配して来てくれたりととても心強かった。
娘達の無事がわかってホッとする。温かい気持ち、温かい食物、折れていた気持ちが持ち直して気力が出
て来た。負けるもんか。お互い様の言葉がとても嬉しかった。
携帯が通じず施設との連絡もつかない。お金が手に入り、何んとなく安心する。
母が暖かいと喜こんでいた。これでガスを節約出来ると思うとホッと一息つけると思った。避難所にいる
娘達が寒いと言っていたので、自宅が被災していなければと思う。
新聞が回覧されて来て「壊滅」の 2 文字。これはかなりショックでした。
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・反射式ストーブも一台が必要だなあとつくづく思う。
少しのうどんでしたが温かい食物を食べたせいか利用者の顔も明るい。
気持がらくになった。なんのためのケイタイなんだと怒りを感じる。
食物を見ると安心する。いつまだ手に入るかわからないのでおかゆにして食べさせた。
それぞれ食料を持ちよって皆で作って、子供達には良い経験をさせたなあと思う。
近所の人達が家の前の川にきて洗たくしたり、茶ワンを洗ったり、ありがたいと言ってくれていた。
夢を見て夜になると叫び家族が起きて来るので私の方が精神的つらくなり、血圧が上が 180 に上がり本当
に苦しい毎日でした。
・帰宅途中、道は流され泥とガレキにまみれた道をひたすら歩き続けた。
(約 20km ぐらい?)あちこちで
人の名前を呼ぶ人や亡った人の足を見たり、それでもひたすら歩き続けた。途中、
「米沢消防」の服を着た
人を見て、助けに来てくれたんだと思い涙が出た。
夜、目を閉じると、助けられず流されてしまった人々を思い出しつらい日々を送る。
どこが一番ひどいのか分からず援助に向われているのか全く分からなかった。
自宅周辺では、ささいな事(発電気など…)でケンカに近い様な事が起こり、9.11 や新がたの地震の記
事や本を読んでた私が、色々話しを聞かせると、だんだん落ち着いてくれた。
自元でも知らない顔が増え、疲れもあったのか、声かけやあいさつが少なく、精神的に一気に疲れた。
・ラジオで音声だけの被害情報だった為、テレビで津波被害の映像を見て、ショックを受ける。何度かガ
ソリンスタンドに足を運ぶ。開店待ちで長い列ができている。
・順番に利用者の所へ安否確認するため、送迎表通り、各自宅をまわる事が出き無事である事がわかり安
心しました。
・1 人暮らしの人はもちろん自宅にいるよりは、デイにいったほうが安心だったと思いますが、家族がい
る方でも、玄関先でつれていって下さいというような事をいわれた時はすこしビックリしました。
出勤はしたのですが利用者の方ももちろん心配なのですが、母親なのですこし感える事がありました。
電気はついたのでたすかりました。
ガソリンがすくなくなってきました。施設長がとにかくくめんして、送迎の分は確保してくれたすかりま
した。カップラーメンを大量に買いました。仕事が終ると急いでスーパーに皆ではしったのをおぼえてま
す。自分の車のガソリン確保にはたいへんでした。仕事がおわってからではまにあいませんでした。
・電気と電話以外のライフラインが確保できた場所、又、避難を共にしていた子どもたちも落ち着ける場
所だったので気持ちが楽になった
家族の安否の不安が大きくなる。情報なし、地区が全滅したとのことで絶望的な気持ちと絶対生きている
という思いで頭の中がいっぱいだった
内陸はライフラインが復旧していた。食べることや車での移動が不便で被害の大きさを(情報)やっと知
ることができた。震災の経験は気持ちが沈み、地震で揺れがあるたびに鼓動が高なり怖いという感覚。そ
の時に感じた恐怖感が蘇ってきた。今も続く心の声です。
・利用者宅、家族の安否
家族が無事であること、本人を無事に保護している事を双方に早く報告したいという思いがありました。
本人の不安、動揺の気持ちに添えたか…?夜間落ち着かなくなる利用者に添い寝をし共に過ごすことで不
安感を軽減できたか。
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ようやく家族に無事であることを伝えることが出来て安心した。ようやく夜ぐっすり眠ることが出来た。
・仕事をしている他の同僚に申し訳ないと思った。娘との連絡はこの日も取れず。
通勤不可能な為 24 時間勤務(施設とまり込み)をする人もいて、自分がその中にいられない事に後めたさ
を感じる。
働いているスタッフに少しでも暖いものを食べてもらえればと思い自宅にある食材で、調理をし届ける事
で許してもらえればと思う。この日も娘と連絡取れず、不安が大きくなる。
寒いのに大変だし、自分達は家で暮せる分だけ幸せだと思う。
無事の知らせがあり安心する。
娘が戻り安心する。津波の様子、ずっと見ていた。逃げる人々の様子も、病院の 6F から大きな声で叫んで
も声は届かなかった。沢山の人が院内にあふれ、食べるものもなく大変だったとの話を聞き、切なくなっ
た。
毎日サイレンをならして、自衛隊、警察、消防、ヘリコプターの音が緊張を高める。自宅が国道添いにあ
る為嫌でも目や耳に入る。
・ライフラインが止まっていたので水などどうしようかと考えた。
一人暮らしの利用者の無事を確認してホッとした。ガソリンがなかったので、昨日、今日と歩いて市内中
を廻って確認した。
ガソリンが入れられずバスで通勤をした。10:00~14:00 までの勤務。
・復旧のめどが立たない為、とにかく、購入出来る分、また、手間をかけずに食べられる物、栄養の取れ
る物をと…。水道、電気、ガスのない中、職員で協力し震災を通して、改めて皆の力に感謝しながらも暗
やみを静けさの中で再々起こる余震に不安でいっぱいだったように思う。
数少ない懐中電灯と、ろうそくにて明りを確保し最小限の暖ぼうにて暖をとりながら寒さの中で仕事して
いた。利用者が体調を崩すのではと心配だった。職員も震災時より、体を休める時間がとれず、不安感と
疲労感がみられていた。変わりはてた街並みに言葉はなく涙しか出なかった。
久しぶりに、夫の実家で布団で休む事が出来た。
ライフラインの復旧しない中で様を工夫し、不便さはたくさんあったが、利用者の対応など、最低限、ス
ムーズに出来るようになってきた。
・町の大部分が津波で被害にあったと聞き、家族・娘が無事であることを願う。不安でいっぱいである。
母・娘の安否は状報により確認できたが、父・祖母の状報は得られず、不安がつのる。
祖母は町の施設に運ばれるも状態不明。父の安否分からず不安でいっぱい。
ライフラインが回復するのは、いつになるのだろう。いつまでこの状況が続くのだろう。変わらず、父と
祖母が気になる。どこにいるのだろう。もう亡くなっているのではと不安がよぎる。祖母と再会できた。
・利用者の家族を探し歩き、無事に助かっていて欲しいと思った。
・両親の喪失感を共有してしまう。通所より利用者・家族は大丈夫だったのか。
寒さ、水不足でケアが困難な状況に絶望的な気持ちに。
いつまで続くのか。被害の全容が不明。情報不足にイライラ。
明日からの業務の指示はないのか?と疑問に。通信手段(けいたい)が復旧して良かった。
当然。なぜもっと早く指示が出ないのか。農家の備蓄野菜を交渉して売ってもらえば良いのに。ガソリン
も食料も、水もないのであれば、当分、通所は休みだな。
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衣・食・住足りてこそレクなのではないか?でも自分のできることはこれ位なのか。
・どこの避難所に行けば良いのか、自分達の判断が出来なかった。本部との連絡が出来ず、困った。避難
者が多く、利用者も困惑し、夜も眠らず、トイレ通いに困った。
認知症の方など、自宅に帰れない事で大声を出したり興奮する状態となり、早く家族に帰れたらと、家族
にも連絡が出来ず困った。職員がなだめ声かけする。
②事業所外にいたが、地震が起きて当日中に事業所にかけつけた人
11 日の行動:
・遠方にいたが施設に向かう、他の施設に移動、
・すぐに施設に向かう、利用者の捜索、利用者の発見、利用者の状況確認、
・子どもを迎えに行った、子どもと家に向かうが途中で通行止めになり職場に向かう、そのまま家に帰れ
ず、同僚の家に泊めてもらう
・午前出勤、午後公休、施設に到着し、施設の状況確認と利用者の安全確認、高台に住む利用者を山道を
経由して自宅に送る、当日のデイ利用者・避難してきた一般の方々と夜を過ごす
・相談業務で利用者宅にて、大きな揺れを感じすぐ施設に戻った、利用者さんを誘導、向かいの平屋建て
の施設に移動、
・休日で自宅におり、揺れがおさまってから会社へ向かう、通所リハ利用者で帰宅できなかった方の対応
等行う、夜間避難されて来た方の対応を行い、明け方いったん自宅に戻る
・定休日で自宅にいた、20 時頃職場に行った、職場に行ったら暗いセンターの中を電灯とろうそくで明か
りをとり自宅に帰れない利用者 15 人位、職員 20 人位おり、利用者を休ませ、職員が交代で見守りし、中
には一晩中歩き回る利用者もいた、厨房からおにぎり・カップラーメン・バナナ等準備してもらい利用者・
職員で食べた
・外出支援で出かけていて被災、携帯電話で施設へ連絡するも不通、海岸で防波堤のないところだったた
め急いで避難
考えたこと・感じたこと:揺れの大きさから「津波」が頭をよぎる、避難の車がどんどん高台にあが
ってきたので、危険を感じ始めた、子どもは大丈夫かな、家にいる子どもは大丈夫かな?何が起こってい
るのだろう?いつ帰れるのだろう? 街の助教がわからず不安と今後のことを考えた、ラジオの情報から
とんでもない大きな災害がおきたと知りとても不安だった、戻る途中信号が動かず渋滞、また横道を見る
と津波が来ていた、こんな所まで津波がと思い大変な事がおこったんだと改めて恐怖を感じた、自宅へ戻
ることが困難になってしまい利用者さんがパニックにならないか等心配になった、職場に駆け付けようと
したが家族に余震もあるから道中何があるかわからないからと言われ、夜まで待った、停電になりテレビ・
電話が使えなくなり、ラジオもなく、今何が起こっているのかもわからなかった、そんな大きな津波がき
たことも知らなかった、不安に思いながらも今できることをしようと思い職場の人もいたので自宅にいる
よりは心強かったし安心でした、利用者 4 名を安全なところまで避難させなければとあせった。
12 日から1週間くらいの間の行動:
・トイレが不衛生になった、近くの川に水を汲みにでかけた(トイレに流すため)
、利用者と一緒に町の
様子がわかるところまでおりて行った、自宅へ行く、となりの町へ買い出しに生きながら息子をさがしに
いった、施設に泊まりながら利用者・職員の食事・掃除・洗濯の毎日だった、利用者家族の安否確認、自
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分の家族の安否確認、
・透析を受ける予定の利用者さんを受け入れてもらえるか県立病院に行き相談する、非常用発電機の軽油
を確保するために GS と交渉、診療所が被災したため入院患者さんを施設に移ってもらう作業を行う、避難
している方々のお世話、特養えの応援、ガソリン・灯油などの確保につとめた
・寒さのためトイレ通いが続き転倒に注意し不安のない様努めた、建物が耐震上問題なく施設に戻る、他
施設の利用者が避難してきてホールも訓練室も避難者でいっぱいになる、病院・介護施設が優先となり電
気が通る、電気が通ったことで皆拍手がおこる、ガソリン不足で職員は地域別で相乗りで出勤
・断水の為、近所の民家から湧水を分けて頂き施設へ運ぶ、夜間は避難された方の対応を行う、翌朝ミー
ティングを行い今後の職員配置等を決める、自分は夜間の避難者対応となり何日間か夜 7 時から朝 7 時の
勤務となる、その後シフトを変更し日勤・夜勤を交互に行う、日中は避難者の入浴や見守り・健康状態の
確認を行ったり入所者の食事介助・移動の介助等行う
・利用者家族と連絡を取るため、職員が自宅まで行き帰れる利用者は帰宅した、連絡のつかない利用者は
近くの避難所へ連れていった、社会福祉協議会より避難所にいれない・おけない利用者を何人か見て欲し
いとの話があり受け入れることにした、20 人位なら預かれることを伝えこの日を境に何人かずつ受け入れ
ることにした、最終的には 20 人位いたと思う、職員も二交替のシフトを作り交替で夜勤をした、食事もで
きる範囲で作って利用者に食べてもらいました、夜勤をしたことがない職員もおり私もそうでした、皆気
を張りつめて仕事したように思います、そんな生活が 1 か月くらい続きました
・避難所へ到着、他の職員や利用者をさがした、避難所の移動、利用者と一緒に別の避難所へ車で移動
考えたこと・感じたこと:
家のことはとても気になったが利用者をおいて施設を出られなかった、家族も家もなかった、息子と会え
て安心した、息子を一緒に施設へつれかえる、早く家に帰りたい、みんな(家族)といたい、食べ物どう
しよう、子どもに何でもいいから食べさせないと、街の状況を初めて目の当たりにし、呆然となり何も考
えられない状態、家族の安否もわからず、いつになればライフラインが復旧するのかとても不安だった、
この状況がいつまで続くのか不安でいっぱいだった、電気が通ったことで少し安心した、ライフラインが
一部しか通っていない状態で多くの利用者の介護で職員に疲労が出てきた、次の日になった壊滅した地域
があることを聞かされ同僚の自宅も流され、家族も行方が分からないと知り、連絡のつかない同僚もあり
心配になり不安で何かしなければと、いてもたってもいられない気持ちになった、ガソリンも買えない・
食料品も買えない・水もない、不安ながらも自分は家族おいる、職場もある、今できることをしようと強
く思い先のことは全く考えられなかった、職場にはラジオもなく電灯も不足で今何が起こっているのかも
わからなかった、今後の方針について上司とも意見があわずつらかったです、職場にいると自分も何かに
役立ってる気がして安心感がありました、先のことはなにも考えられずその日その日の事しか考えられな
かった、大変な事が起きていると感じたが余震もひどいからまわりの様子をみていた、座れたり横になれ
利用者のケアもしやすくなったがいつまで続くのだろう、家族はどうしているだろう、夜になり不安が強
くなっていった
③事業所外にいて、当日中に事業所に駆けつけられなかった(もともと休日の場合含む)人
11 日の行動:
母の通院に付き添い病院の帰りに食事をとっていたときに震災にあった、夫の実家に顔を出した、近くの
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避難所に行き点呼をした、私の実家に行ってきた、避難所に戻ったら水しぶきが目に入り一人で山に逃げ
た、持っている荷物を落としましたが拾うことが出来ず夢中で移動した、近くの神社に移動、高台に避難、
近くの避難所に家族とともに移動、町内の職員宅を徒歩にて訪問(職員と職員家族の安否確認)
、消防団員
の為屯所に出動、
ラジオで情報を集めた。停電。小屋でまきストーブをたいて生活した。暗くなる前に海岸の方へ行こうと
したが、丸太やヘドロで車が通行出来なかった。
考えたこと・感じたこと:
何度も来る余震で一睡も出来ず朝になる、心細かった、山の中 1 人での移動が暗くなったら…、という不
安になりました、何時間もしないうちに友人と会う、職員はじめ利用者は大丈夫だろうか?認知症状は落
ち着いているだろうか?これからどうなるのだろう?とりあえず自分にできることはなんだろうか?代表
と役員は仙台出張のため今後の相談、最初は本当に大津波が来るとは思えなかった、津波発生後本部より
出動指示なくもどかしく感じた、施設には看護師長やセンター長が居るので心配はないと思った、大津波
や余震が続いているので、外出しない方が安全と考えた。しかし自宅の中では揺れてとても恐くて住めな
いので、
外の平家の小屋で一晩生活することにした。
線路にも丸太や発泡スチロール等が散らばっていた。
12 日から1週間くらいの間の行動:
3 月 12 日に出勤、3 月 15 日に出勤、3 月 21 日に出勤、給水車を待って給水してもらう、全員が協力し少
しでも暖がとれるようにしていた、たまっていた書類等の処理、車が流され移動することが出来ず避難所
でみんなで話をしていました、一ノ関の親戚のところでしばらく過ごしました、避難所にてボランティア
活動、職員・利用者ともに無事との報告を受ける、利用者と家族の安否確認を行いながら各避難所を回り
情報収集する、同じ避難所にいる利用者家族を訪問、しばらく落ち着くまでそのまま等施設に避難しても
らうこと話し安心してもらう、大きな施設より介護の必要な高齢者が搬送されてくるとのこと、14 日まで
消防団の活動
途中まで車で送ってもらい歩いて出勤、山の道を歩いて出勤、ご飯を土鍋でたく、ガソリンが手に入らな
い
考えたこと・感じたこと:
不便だと思う、いざとなるといろんな人がいろんな知恵を出す、寒い、ガソリン不足で車が急に止まった
らどうしよう、今までにない不自由さにむなしくなりました、11 日の利用者家族はみんな無事だろうか?
もしいないときはどうしたらよいだろうか、みんな無事で良かった、トイレが外で遠すぎる、ポータブル
トイレ見つける、廊下に工夫し簡易トイレ作成、利用者になるべく日中起きておしゃべりしたり体操をし
たりと声かけしメリハリのある生活を心がけてもらう、施設に居た人たちは良かったなと感じました、道
路はヘドロと流された車・家でとても歩けず引き返した、海の近くはとてもすごい状態になっていた、ま
るで戦争で爆弾が落ちたような状態だった
〔まとめ〕
通所サービスは通常のサービスの継続が難しい事業所もあり、一方で避難所として機能し
たところもあった。利用者を自宅に帰そうにも自宅が流されたり、道路の寸断で帰すことが
できない利用者がいたことで、泊まり込むことになるケースも見られた。そういった事業所
では、初めて夜勤をした職員もいた。
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自身の家族の安否確認をしたいという思いは通所サービス事業所の職員でも多く見られ
たが、家族の方から安否を知らせてくれるケースがいくつか見られた。そういった場合安心
して利用者のケアを続けられたことがうかがえた。
〔グループホーム・ケアホーム〕
対象とした調査票は 28 枚であった。震災発生時の 28 名の状況をみると、下記の通りになっ
た。
①震災発生時、勤務中で事業所にいた人 13 名
②事業所外にいたが、地震が起きて当日中に事業所にかけつけた人 9 名
③事業所外にいて、当日中に事業所に駆けつけられなかった(もともと休日の場合含む)人
6名
それぞれの回答のうち、代表的なものをとりあげ、下記の通りにまとめた。回答は多くあっ
たため全てをまとめることは難しく、あくまで代表的なものをとりあげている。
①震災発生時、勤務中で事業所にいた人
11 日の行動:
・入浴介助中だったが落ち着いたところで服を着ていただいた、落ちたものや壊れた物を確認した、
・他の職員に一時職場を任せ子どもを迎えに行く、子どもと一緒に職場へ戻った
・ダンボール・ブルーシート準備した、自宅からローソクや反射式ストーブを持ってくる
・利用者が避難した場所を行こうとしたが浸水が始まりたどり着けなかった、不明利用者の捜索、ホーム
の見回り、
・小学校に利用者全員で避難、体育館に泊まることになった、夕食はパン半分とお菓子等を食べてもらい
ガマンしてもらう、
・建物内の点検、避難場所へ移動、泊まれる場所の確保、
・避難した場所から更に高台に避難、高台に避難した後お寺に避難
・小学校に徒歩で避難、体育館のマットを借りて床に敷いて利用者に座ってもらった
・怖がる入居者についてなだめた、自宅から反射式石油ストーブ・灯油を持って来る、
・入居者の安全確保、入居者を併設施設前に移動、その後 GH 内へ再び移動し一夜を過ごす
考えたこと・感じたこと:
事業所が高台にあったため津波は大丈夫だと思った、余震があり不安、もう市内はムリだ、これから先ど
うなるの? トイレ・ガスコンロが使用できることが分かり煮炊きができる安心感を感じた、不明利用者
の無事、避難場所を変える事を検討する必要があると思った、ラジオや毛布が欲しい、食べ物がなかった、
ただごとではないと思った、普段から持ち出す物など確認しておけば良かったと思う、店には人があふれ
すぐに食べられるもの・電池・ろうそくはなく考えが甘かったと思った、家族に会い無事か確認したかっ
た、何で今日仕事だったのか、家族の方から会いに来て無事を確認した、子どもが震えていたのを見て家
族と子どものそばに居たいと、こんなときに子どものそばに居てあげれない自分を情けないと思った
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12 日から1週間くらいの間の行動:
3 月いっぱいは日中・夜 3 人体制でホームに泊り込んだ、3 月 18 日まで泊まる、1週間泊り込み勤務した、
15 日まで帰れなかった、
入居者の方は服のままで寝ていただいた、何度も説明しなければ理解してもらえないため認知症の方への
対応に疲れつつあった、本体の助けで食料や物資に困ることなし、市よりホールとガスを利用して避難所
の炊き出しをしたいとの依頼あり、入居者が体調を崩す、通院先の HP と連絡を取り合う、利用者と避難所
へ泊まる、利用者の避難場所へ行き体調確認・食料の手配を行った、職場の後片付け、農家だったので夫
に頼み米をもらいホームに配った、地区センターで炊き出し用のおにぎりを作る、避難先での健康管理、
さらに高台に避難、母体施設へ避難、入居者を歩かせたり体を動かしてエコノミー症候群を予防する
考えたこと・感じたこと:
電気・水のありがたさがわかる、入居者は大きな混乱なく生活されていた、余震の不安が常にあった、ラ
イフライン・ガソリン不足の不安、自分の家・家族の心配、誰も寝ていないため職員の疲れが気になった、
眠くなかった、皆がそろったことで安心した、子どものストレスも考えたが慣れた事と他スタッフや入居
者の気遣いに助けられた、ガソリン不足で準備必要と思った、災害マニュアルの見直しの必要を感じた、
食料の確保ができるか不安、ライフラインが思ったより早く復活し安心した、地域の人たちの食配はあり
がたいと思いました、利用者も悲しみをのりこえている様子、電気がついた時はみんなで喜びました、イ
ンフルエンザやノロウィルスが心配だった、水がなく手洗い・うがいが十分出来なかった、昼夜徘徊を繰
り返す方の付き添い、環境に戸惑う入居者の介助・見守り、入居者が重い、ようやく助かったという思い
があふれてきた、疲労・・・疲労、不安、入居者の状態悪化に心配、地域の方がグループホームを知らずにい
た、認知症という病気がまだ理解されていないと感じた、冷静に仕事をしようと心がけた、認知症の避難
者の受け入れをすべきではないのか、電気がつけば灯油がなくてもなんとかなる、家に帰りたい、家族に
会いたい、いつまでこの生活が続くのか、早く誰か助けに来て欲しいとずっと思っていた、友人や知人の
無事を祈っていた、睡眠時間 4 時間ほどで職員の疲れがかなり見られた。
②事業所外にいたが、地震が起きて当日中に事業所にかけつけた人
11 日の行動:事業所の様子を見に行った、出先より自宅に戻り自宅の安全を確認、職場に向かう、早め
に出勤、市外にいたが戻って職場に行き利用者の安否確認・状況確認する、自宅にいたが職場へ、研修会
場から職場へ、職場に向かう小休止中津波がせまるのを目撃、会社へガスコンロ持って行く。
入居者の安全確認、入居者を併設施設に誘導、避難場所の交渉を上司に依頼、県立高校へ避難、動きたく
ない利用者を必死になって車に乗せた、ろうそくを囲んでちくわやお菓子を夕飯にした、利用者をざこ寝
状態で就寝できるよう介助する、施設の建具を締め暖気を逃さないことと散乱した屋内の片づけを始めた
考えたこと・感じたこと:
寒さや余震により職員入居者共恐怖を感じていた、職場の損壊・自宅の流出の為今後どうなってしまうの
か不安、勤務外のスタッフの安全が心配だった、施設の立地場所及び建物の安全は全く心配はなかったの
で利用者に対しての心配が要らないことで精神的に安心だった、地震・津波の出来事を忘れている利用者
をどう誘導するか考えていた、オムツ・毛布・ゴミ袋・ティッシュ・薬等必要な物を用意して待つ、利用
者は認知症の為か地震のことも忘れ「テレビつけろ!」と言っていて穏やかな様子だった、被災した現場
に居たのだったがうららかな天気の下周囲の皆がのんびりしていたのを妙に直前の記憶となっている、意
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外にも社内落ち着いていた感じがあり、職員もたくさん居て安心する
12 日から1週間くらいの間の行動:
自宅が全壊したためアパートを借りたり片づけ作業を行う、限られた食材での食事の提供(1 日 2 食)
、自
衛隊より食料・水・ストーブの物資が届く、近隣の山からの湧水を汲み施設へ運ぶことに終始した、利用
者の体調不良、食品の買出しに出ても手に入るものは限られた、不穏な利用者の側に添い寝する、22 時に
別の避難所に行く様指示がある、利用者は眠剤服用し就寝中で今の時間の移動は転倒、不穏等で難しいた
め再検討を願う、夜勤のため仕事場に子ども達連れて行く、夜は余震がある度に利用者の様子を見た、認
知症の人がほとんどなので忘れている人たちが多く、いつもと変わらない様にも見えたが知らない人たち
(利用者の受け入れ)が増えると口数が少なくなってた、帰宅困難職員又は無事な職員の集合、安否確認
(職員、利用者家族等)及び勤務体制確保へのシフト作業開始、被災要介護者の受け入れ開始(6 名引き
受け)
、事業所住み込みを覚悟、祖母を連れて会社に行く、おむつの確保に他事業所まわる、発電機でごは
んたいてもらう、コンロやストーブでおかず作り、他施設より受け入れ、ベッド移動させ 1 人部屋を 2~3
人用に
考えたこと・感じたこと:
家族全員疲労重なりつつあったがお互い励ましあいながら一緒に食事し並んでアパートに寝た、ライフラ
インが全て途絶えた為不便さや寒さ、トイレ、空腹、今後の心配をしていた、ほぼ眠ることなく過ごした
為疲れを感じる、職員・入居者ともに不安を感じ空腹と疲労を訴え始める、未来への不安を感じる、ライ
フラインの途絶えた中での介助の不便さ、早く復旧して欲しいと願っていた、病院・救急車への連絡不可
でどの様な自体になっても覚悟をするしかないと密かに思った、飲料水・食品(米・みそ)は備蓄してお
くべきと実感、利用者は落ち着きをなくし不安で余震が来るたび怖がり、いつもそばに居なければと感じ
た、
どことも誰にも連絡がとれず通信不通でこれからの不安がいっぱいあった、
職員の不安へのフォロー、
いつまで続くのか分からない不安、利用者の不穏に対する対応、家族の無事は確認したが離れている事の
不安を覚える、ラジオで情報が入るようになる、他の所の情報を知りもっと大きな津波が来たら…とゾッ
とした、停電のため寒い、利用者の体温調節が心配、反射式ストーブだけでは寒い、早く電気・水が使え
るようになった欲しい、ケイタイのテレビで津波の画像を見るが映画みたいだと思った、ガソリンが自由
に手に入らないのは困った、なるべくいつもと変わらないようにレクとかしていた、人によって考え方と
行動と別々だと思った、ストレスでみんないっぱいいっぱいだった、連日避難者対応してきたが避難所扱
いされなかった、余震も多く祖母ひとり自宅に置いておけず会社に連れて行ったが職員みな快く受け入れ
てくれてありがたかった、食事に関してはコンロやストーブがあったからこそおかずなども作れ避難所よ
り良い食事だった、停電していたが利用者さんも落ち着いていたので良かった、いつまでこういう状況が
続くのが不安だった
③事業所外にいて、当日中に事業所に駆けつけられなかった(もともと休日の場合含む)人
11 日の行動:隣の市の知人宅に避難、自宅で過ごす、自宅で家族の帰りを待つ、すぐ孫を迎えにいった、
研修会場から自宅へ帰る、高台に避難、
考えたこと・感じたこと:津波の心配はしていなかった、会社は大丈夫か? TEL がつながらず心配、
職場は大丈夫だろうかと心配になったが家族の安否が第一だと上司から言われていたので家に居ることに
した、家族の安否がわからず不安が募る、寒さが堪えた、家族のこと・会社のことが心配
44
12 日から1週間くらいの間の行動: 12 日から出勤した、13 日により出勤、15 日より勤務にはいっ
た、16 日から出勤、17 日から出勤、3~4 人での夜勤、2 日泊まり 2 日休むようなシフト、避難所で食事の
手伝い、利用者と一緒に避難先で泊まる、夜寝ないで歩く人もいてなんとか話をして横にさせるようにし
たがムリだった、利用者に体調を崩す人もいた、心配で夜もあまり眠れず、いつより早く出勤しガスコン
ロ・缶詰を持参する、利用者が不安にならないよう寄り添い話し相手になるよう上司に言われ会話したり
トランプをする、道路がガレキの山で町へいけなかった、ガレキが散乱し車での移動が困難、歩いて家族
を探したがガレキが多く歩ける状態になかった、地域の集会所で情報収集や炊き出しを手伝った
考えたこと・感じたこと:スタッフの安否がわからず不安、通電し暖かいものが食べられる嬉しさ、
みんなの助けに感謝、利用者も家族のことを考えているよう、利用者を安心させることができず自分も不
安になる、商店街の人たちが食事の材料を差し入れてくれ頭が下がる思いをした、情報が少しずつはいっ
てきて事の大変さを知る、夜勤対の職員・上司が冷静に知恵を出し対応していた、利用者さんも落ち着い
ていた、山の上から初めて惨状を目の当たりにし信じられないしウソだろうと思いたかった、入居者はい
つも通りに自分のペースで暮らしていたと思う、余震が続いていて夜が怖い、役場の対応や警察の対応に
腹が立つことが何回かあったが、この状況じゃしょうがないかと諦めようとしたが…、電気・水・ガスな
しで不便な生活、職場に行こうと思ったが母に引き止められ母の不安な気持ちを優先
〔まとめ〕
近くの避難先からさらに高台への避難場所へと、避難場所の移動があったことがうかがえ
た。そういった中でも、母体施設との連携(食事、物資や職員のやりとり)が見られた。
24 時間勤務や泊り込み勤務をしていた人も多く、子どもや家族と一緒に出勤し、子ども
と一緒に泊り込んでいたケースも見られた。出勤できなかった人は道路の状態が悪く事業所
まで行けない場合、ガソリン不足、家族の安否確認等といった理由であった。
環境に慣れない利用者の徘徊や不穏行動への対応に、常に付き添う必要がある場合もあり、
疲れを感じていたことがうかがえた。また他事業所の受け入れ等で、いつも以上の利用者の
ケアをしなければならない状況もあり、職員のストレスや疲れが高かったことがうかがえる。
いつまでこの状況が続くのかといった不安も大きかった。また、備蓄や備えの不足について
見直す必要を感じた人がいた。
【小規模多機能型居宅介護、通所サービス、グループホーム・ケアホームのまとめ】
それぞれ利用者・入所者が避難して、避難場所の移動ということもあれば、避難先として
機能した場合も見られた。いずれにしても、それまでと変わらない生活を送ることが難しい
がために、利用者・入所者の不穏行動への対応が求められたケースが多数見られた。職員自
身が家族の安否確認や物資不足という大きなストレスにさらされている中、利用者への対応
でさらに疲弊するケースも見られた。また、母体施設や系列施設との連携があると、物資の
提供、職員の派遣等を行ったケースも見られた。
どこの事業所であっても、家族の安否、これからの不安等、職員は大きなストレスをかか
えており、その中で利用者のケアを行うといった大変な状況に置かれていたことがわかる。
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4)震災後のストレスについて
施設職員が感じていたストレス・不安については表1のとおり 15 項目を作成し、それ
ぞれ「1 全く感じていない」
「2 あまり感じていない」
「3 まあ感じていた」
「4 非常に感じ
ていた」の 4 件法で「震災からいヵ月後ぐらいのこと」と「震災から一年経った現在のこ
と」2 つの時期について聞いている。
表1 震災後のストレス・不安
※グラフ中の各項目名が途切れている場合があるので下記参照のこと。
1 身体的な負担感や疲れ
2 家族・親族・友人・ペット等大切な人を亡くした喪失感
3 日常生活が崩された喪失感
4 自身の感情のコントロールができない
5 今後の生活に対する不安
6 職員不足によって仕事量が増えたことに対する負担感
7 休憩・休日がとれないことに対するストレス
8 精神的に不安定(フラッシュバック等震災の影響を含む)な入居者の対応に対する負担感
9 物資不足により、十分なケアができないことに対するもどかしさ
10 夜勤時に余震や何かあったらという不安
11 職員間のイライラ・衝突に対するストレス
12 指揮系統の乱れがあって、指示が不十分だったりすることへのストレス
13 避難してきた地域住民への対応に対する負担感
14 行政や支援団体とのやりとりに対する負担感
15 自身の家族の理解やサポートが不十分なことへのストレス
⑭(1)震災から一ヶ月のストレス状態(問 13(1)
)
それぞれの平均値を出して比較した全体の結果として比較的平均値が高かった項目
は「身体的な負担感や疲れ」3.43、
「夜勤時に余震や何かあったらという不安」3.23、
「今
後の生活に対する不安」3.18、
「日常生活が崩された喪失感」3.17、
「物資不足により、
充分にケアできないことに対するもどかしさ」3.05 であった。
これらの項目について、
「1 全く感じていない」
「2 あまり感じていない」
「3 まあ感じ
ていた」
「4 非常に感じていた」の 4 件法の割合で見ていくと、
「3 まあ感じていた」
「4
非常に感じていた」をあわせると、上記 4 つの項目については、震災後 7 割以上の人が
ストレスを感じていたことになる。これらについては、震災から 1 ヶ月の間において特
にストレスや不安の強かった項目と言える。
また、性別では、どの項目も女性のほうがストレスを感じていたとする割合が高いが、
男女で最も顕著な違いがあったのは「夜勤時に余震や何かあったらという不安」の項目
で、男性が「非常に感じていた」割合が 36.8%に対し、女性は 60.6%となっていた。ま
た、女性と比較して、男性のほうがストレス割合の高かった項目としては、
「指揮系統
の乱れがあって、指示が不十分だったりすることへのストレス」と「行政や支援団体と
のやりとりに対する負担感」であり、職場の地位や役割として、男性のほうが、職員を
取りまとめたり、体外的な対応を求められたために、これらの項目の割合が女性と比較
して高くなっているのかもしれない。
さらに、震災で身近な人を亡くしたかとストレスをみると、全体的に震災で身近な人
46
を亡くした人のほうが、どの項目においてもストレスを感じている割合が高い。特に「身
体的な負担感や疲れ」
(亡くした人 66.4%、亡くしていない人 49.7%)
、
「夜勤時に余震
や何かあったらという不安」
(同 56.5%、同 48.6%)
、
「日常生活が崩された喪失感」
(同
55.2%、同 33.5%)
、
「今後の生活に対する不安」
(同 52.6%、同 33.7%)
、
「家族等亡く
した喪失感」
(同 48.9%、同 8.2%)の 5 項目については、全体と比較しても顕著に高く、
「3まあ感じていた」
「4非常に感じていた」をあわせると、震災で身近な人を亡くし
た人の 8 割以上が、特にこの 5 項目でストレスや不安を感じていたということになる。
そして、自宅が被災したかどうかとストレスをみると、
「日常生活が崩された喪失感」
(被災した 70.3%、被災していない 38.5%)
、
「身体的な負担感や疲れ」
(同 69.2%、同
56.5%)
、
「今後の生活に対する不安」
(同 65.3%、38.3%)
、
「家族等を亡くした喪失感」
(同 52.6%、同 25.7%)の4つの項目については、被災した人の5割以上がストレスや
不安を非常に感じているとした項目であり、被災していない人との差が顕著である。
(2)震災から一年のストレス状態(問 13(2)
)
一方、1 年後のそれぞれの平均値比較したところ、全体的に平均値は下がってはいる
ものの、1 年後でも高かったものは、
「夜勤時に余震や何かあったらという不安」2.71、
「今後の生活に対する不安」2.63、
「身体的な負担感や疲れ」2.52 であった。
これらの項目について同様に、
「1 全く感じていない」
「2 あまり感じていない」
「3 ま
あ感じていた」
「4 非常に感じていた」の 4 件法の割合で見ていくと、
「3 まあ感じてい
た」
「4 非常に感じていた」をあわせると、上記 3 つの項目については、5割以上の人が
感じていたと回答していることとなる。震災から 1 ヶ月の場合と比較すると、
「日常生
活が崩された喪失感」と「物資不足により、充分にケアできないことに対するもどかし
さ」については、感じていたとする割合が低くなっているが、
「夜勤時に余震や何かあ
ったらという不安」
、
「今後の生活に対する不安」
「身体的な負担感や疲れ」については、
震災後から 1 年後経っても非常にストレスや不安の強い内容であることがわかる。
また、震災から一年後で、全体として、ストレスを感じていたとする割合は減ってい
る中でも、性別でみると女性のほうがストレスを感じていたとする割合が男性と比較し
て高い。特に高いのは、全体の傾向と同様、
「夜勤時に余震や何かあったらという不安」
と「今後の生活に対する不安」である。
さらに、震災で身近な人を亡くしたかとストレスをみると、こちらも、一年後は、全
体として、ストレスを感じていたとする割合は減っている中でも、やはり、震災で身近
な人を亡くした人のほうが、どの項目においてもストレスを感じている割合が高い。特
に、
「夜勤時に余震や何かあったらという不安」
、
「今後の生活に対する不安」
、
「家族等
亡くした喪失感」
「身体的な負担感や疲れ」
、
「日常生活が崩された喪失感」の項目につ
いては、
「3まあ感じていた」
「4非常に感じていた」をあわせると、いずれも震災で身
近な人を亡くした人の 5 割以上が、震災から一年経ってもストレスを感じていたという
ことになる。
そして、自宅が被災したかどうかとストレスをみると、
「日常生活が崩された喪失感」
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「身体的な負担感や疲れ」
、
「今後の生活に対する不安」
、
「家族等を亡くした喪失感」の
4つの項目については、被災していない人と比較し、被災した人のほうが、震災から一
年経ってもストレスを感じていた割合が相変わらず高い。
震災後のストレスや不安について、直後と一年後では、非常にストレスを感じていた
とする割合は確実に減っている。特に、震災直後に物資が不足して、充分なケアができ
なかったことや、職員不足による仕事量の増や、休憩・休日が取れないこと、避難住民
への対応については、震災後の状況が落ちつくまでの一時的なことであり、これらの項
目については、1 年後確実にストレスを感じていた割合が減っている。しかし、夜勤時
の不安、今後の生活に対する不安については、ストレスを感じている割合自体は、震災
から 1 年後に減ってはいるものの、項目全体としてみると割合は高く、特に女性におい
て不安だとする割合が高くなっている。また、震災で身近な人を亡くした人や自宅が被
災した人については、そうでない人と比較すると、ストレスを感じていた割合が、震災
から 1 年後であっても高い。震災で身近な人をなくした人については、整理できない気
持ちや喪失感を抱えながら、また、自宅が被災した人については、復興が目に見えて進
まない中で、
「今後の生活に対する不安」を抱えながら仕事をしていた実態が明らかに
なったとともに、それらの不安やストレスが、
「身体的な負担感や疲れ」として、自身
が実感としてわかるほど体調に現れていても、仕事を続けていた実態も明らかになった。
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5)震災を通じて感じたことについて
⑮今回の震災について考えたこと、感じていること(問 14 自由回答)
問 14 として、今回の震災について考えたこと、感じたことを自由回答で求めたところ、
非常に多くの回答をいただいた。ただ単に掲載するのではなく、内容にもとづいてカテゴリ
ー分けを行った。カテゴリー化を行うにあたって、長文の回答については文脈を損なわない
よう配慮して切片化した。長文の回答であっても全体で意味を成していて、切片化が難しい
と判断した場合には、長文のまま掲載することとした。
〔震災時のことと思い〕
・職場の人達が流されたりしなかったのでよかった。早めに避難したことでみんなで一緒に避難所で座れたので
安心感があった。物より人の命という考え方が日常生活において大切にされるべきだとつくづく思った。日頃い
くら防災グッズを用意していても、いざという時には仏様(過去帳等)を持って逃げる人が多かった。避難所で
は食べ物があっても自分の家族だけでは食べれないので、少しずつみんなで分け与えて食べることにより全く知
らない人同士にでも絆が生まれたと思う。
・市役所の方達は市職員同士で連絡のやり取りを密にやったら良いと思う。各課で聞きにきても困る。職員不足
なのに聞き取りきて、人手を取られた。どこにどんな施設あるか把握していても良いと思うのに(ここはどんな
施設か、施設の内容の説明からだった。今!!暇なんだなあとあきれてしまった)
。自衛隊の人達には感謝して
いる。自分達も人助けでストレスがあるだろうにいつもやさしい言葉と一緒に物資を運んで頂きました。
・震災時は一人で居なかったこと、仕事があったことで気がまぎれた。目先のやることに追われる毎日で、何も
考えることができない状態でした。ライフラインの遮断、燃料不足がとても大変でした。情報がなかったことが
とても不安でした。
・停電が一週間ほど続いたため、夜間時明るさがないため、不安に感じた。震災時の情報不足。
・自分は本当はであれば施設に駆けつけなければならなかったが、消防団員でもあり、たまたま、インフルエン
ザにもなり、当日は公休であったので消防団活動して感じた事はなぜ津波を見に行ったのか、それでギセイにな
った人達が多くいたのにはびっくりしています。同じ父団員も活動中宮古市でも 11 名死亡していました。指示
通り動くのがあたりまえと教育されギセイになった事がすごく、くやしいです。又今でも、発見した遺体が頭に
うかんで来る事があり、ちゃんと家族の元へ帰る事ができたのかなと今でも感じています。最初から高台へ避難
していたらもっとギセイ者は少なかったと思っています。
・津波浸水想定区域内に施設を建てたことへの疑問があります。3・11当日、ケアマネの「逃げるよ!持ち物
準備して!ハイエース二台用意して」の号令のもと、行動した。この一言で私達は助かったのです。
・情報が得られず、今何が起こっているのか分らない不安がありました。最小限の備え(懐中電灯やラジオ等)
は必要だ。電気以外で使えるガスストーブなど持っていないと乗り切れなかった。日が経つにつれて感じる何と
も言えない不安感。
・う回路が少ない事。家はあったが自営の店がなくなった人への物資の提供がなく生活資金もなく大変な思いが
あった事(仮設に入らない人への対応)。情報が届かなかった事。
・いざ、震災に会うと、全く何もできない事に気が付きました。(食糧不足、様々な物の不備等)皆、不安なのは
分かるが、イライラ、暴言などが凄かった。どんな時でも平常心を保って貰いたい。支援物資等が全員に行きわ
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たらず、片よりが凄かった。
・地震の後停電になったり固定電話も使えなくなり、情報が不足したこと。
・ガソリンがなく家に帰れないし、携帯もつながらず、家族、友人と連絡がとれず、そこに非常にストレスを感
じた。
・ガソリンが足りなかった(常に満タンに入れておく様にした)
。会社や家族と連絡が取りたいのに連絡できな
かったこと(ソーラーでも充電できる電池を購入)
。震災時は休日でその日の夜には家族全員の安否が確認でき
たが会社の人達、施設の状況が全く分からず不安だった。家に 1~2 日分位の水や乾パン、軍手、ラジオ、ティ
シュ等を常に準備(非常持出袋リュックに入れておいたが、1階に置いておけば良かった事(1階において持ち
出せるようにした)
。普段出来ている事(食事、入浴、トイレ、洗濯)が出来ずに不快。近所の人たちが毎日家
や避難所に来てくれて地域の人達にも助けられた。
・建物が壊れるかと思った。建物のしたじきになり、死ぬと思った。家族、知人が今どんな状況か心配だった。
利用者、職員にケガがないか心配だった。
・停電・道路状況により、
ガソリンの供給がストップしたことにより職場に行けなくなるのではと不安になった。
・自宅では物が少し落ちただけで何事もありませんでした。この地震が夜あったらと思うゾーとします。
・介護職員として利用者様をどこまで救出する事が出来るのかはとても不安です。実際 3 月 11 日は利用者様の
安否確認、不存者はいないか、各求とのチェックをかかさない様に心がけました。
・自宅は停電(4~5 日)し、食品不足や寒さ、夜中の予震の不安感と仕事場でのストレスで疲れはピーク。カ
ゼをひかないようにするのがやっとでした。
・私達は 1 人で生きている人ではないと思いました。他の人の手助けやお世話になって生活ができているのだと
思います。もう一つは灯油やガソリンの不足でした。ガソリンがなかったため車があっても走れないと言う事を
聞きました。ガソリンを買うため 5~6 時間待ちはざらにありました。
・海水浴場からほど近い所に住み、大きな地震災害に備えて集会が行なわれ、ハザードマップも配られていまし
た。避難場所となるところまでは歩いて 2 分とそして急な石段がある神社でした。しかし家族の約束事として
500M 先にある目の前の山へ登ること、必らず履き物をはくこと、何でもいいから防寒着などを着て逃げること
を話していました。自宅で1人で震災に合った 10 代の娘もこのことを実践し、地域の方々に助けられ命を守る
ことができました。日頃の会話や話し合いの大切さをあらためて再認識できました。
〔組織として、災害時の備え・準備、心がけにかかわること〕
・大きな災害時に、指揮する人が冷静にならなければ何もうまくいかない。また、どこまで私達に他の人達への
支援ができるのか、どこまでやってもいいのかを本部との取り決め等があり、ホーム長の判断で実行できる事柄
が必要だということ。非常食等の備えをしっかりする必要があること。オール電化の施設にあって電気を使用し
ないで暖を取ることのできるものの準備が必要だったこと。家族がそれぞれ自分の職場へむかわなければならず、
連絡のとり方をしっかり決めておく必要があること。私達 GH の持っている力を発揮できたらと 1 年たった今
でも悔いている。
・地震、火災の避難訓練はしていたものの、今回の震災は規模が大きく、交通手段、通信手段等、寸断され、情
報の共有や交換が出来ず大変だった。他の施設や近隣の方々が避難されて来て、何をどうしていいのか?さいわ
い当施設は被災せず避難場所になったが、被災した時の場合も含め、大規模時のマニュアルが必要。
・未曽有の大震災、予測されない大地震と言われていますが、あまりにも弱い防災だったと思います。勤めてい
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る施設は山間でしたので津波の被害はありませんでしたが、川のそばでもあり、いつ水害が起こるかもしれず、
防災意識を高めていかなければならないと思います。
・避難訓練の大事さ。連絡体制の強化(医療、家族、職員間)。
・同じような状況になった時に、利用者の命や生活を守るための対策を考えていかなければならない。
・津波のこわさ。災害時のマニュアルの重要性。地域の主要機関との連携。政治家の役に立たない事、対応の遅
さ、他人事な感じ。
・事業所毎の防災対策はもちろんだが、法人グループ全体としての大規模災害時の方針、対策が必要。
・入所や通所施設だけではなく、災害時には避難所としての役割を担っていかなければならないこと、また、迅
速に対応が出来るよう、訓練していかなければならないと感じた。
・日頃津波のひなん訓練はしていたと思うのですが、どうせここまでは来ないだろうと、軽くとらえて逃げ遅れ
た方々がたくさんいたと聞きます。私の住んでいる地域は他と比べたら大した被害ではなかったのですが、いつ
なん時東日本大震災の様な地震、津波が来るか分かりません。その時はきちんと指示に従って、避難したいと思
います。
・何事にも備えがなく、職場でも家でも不便を感じた。備畜は必要だと強く感じた。連絡手段がない事が初めて
だったので、とにかく動いて情報を収集するしかないと思った。緊急時の個人の動き方、家族との連絡の方法、
伝達、避難場所、第 2、第 3 の集合場所などをあらかじめ決めておくべきだと思った。
・こういう災害が起ったときのマニュアルも準備していましたが、実際その通りにいかず、日頃からマニュアル
を確認しておくことが大切だと感じました。
・停電期間中はさむくないように入所者の方の布団をたしたり、衣類の調節をおこないました。地震は、いつお
こるか、わからないので、いつ震災や他のさいがいがおこるか解らないので、それに対する準備をしておいた方
がよいと思いました。
・最低 1 週間は過ごせる準備必要。被災地にいながらどんな支援を出来たのか?もっとできることがあったので
はないか?マニュアルは役に立たなかった。
・想定される災害の規模を大きく超えた今回の震災に際し、備畜食量、備畜ケア用品(紙おむつ、尿取りパット
等)
、発電機等の不足により、ケアをする上で大きな負担がかかった事を受け、備えを充実させておく事が大切
であると感じた。又、行政においても、被災された利用者様や地域の方の受け入れ体制をしっかりマニュアル化
し、スムーズに受け入れができるようにして戴きたいと思う。
・水分不足による、不穏者が発生したことから、水の確保の必要性を感じる。
・老人ホームでの災害時のマニュアルを作りを早急に行ってほしい。今回の震災で多くの利用者や職員が亡くな
ったと聞いています。避難の方法や避難後の対応等考える必要があると感じました。また、今あるマニュアルの
見直しも必要だと思いました。
・いつ、どこで、何が起きても良いように避難グッツは備えておくこと。ガソリンは半分になったら満タンにす
る。車で出かける際はペットバトルのお茶とビスケット類は必ず持つ。携帯電は小さい LED 電灯は必ずズボン
のポケットに準備している。車の中にカナズチ、電灯、ジャンパー、ホッカイロを入れてある。施設にはオムツ、
食糧、寝具等備畜してあり、又、内陸へ買出しにも行かれあまり不便は感じなかった。他の避難者も多く受け入
れすばらしい施設だと思った。
・利用者達 2 人をなくしてしまいくやしいです。地震の時は車で移動せず、走って高台へ逃げる事。命の大切さ
を感じます。
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・今回の様な震災はめったに起こる事ではないと思うが、非常時の為の備えは必要だと思う。自分は何の被災も
していず、ボランティアもできず、申し訳ない気持ちでいる。1F のデイサービスは、他施設の被災された方が
職員と一緒に避難されていたが、私達は特に、お手伝いはしなかった。ベットに限りがあった為か、被災された
方が職員と入所されても数人で、たくさんの方の受入れをしなかったのは、どうだったのか?…本当はもっと受
けるべきだったのではないか…。停電で吸引機も使用できず、シリンジで手で吸引しており、発電機も必要だと
思う。
(命にかかわる事なので…)もう、こんなことが起こらないことを願いたい。
・非常用品(用具・食事・水等)の準ビが必要(病院として)
。
・緊急時の利用者への対応等を改めて確認しなければと感じた。
・マニアルを作成しても、実際、このような震災ではほとんど機能しないことが多く、情報を共有し、話し合い
を持ちながら、対応していく事が良かったと思います。
・又も来るとされる地震に非常に不安感を抱いている。異常気象でもあり、地球全体がおかしくなっているので
は、と恐怖を不安を抱いている。マニュアルも大事であるが、瞬時の判断が強く求められる。利用者に対して職
員の数少なく、避難にも何も限られた方しか搬出できないと限界を感じている。
・普段から電池やストーブ、食材、灯油などを確保しておくのが大切と感じた。利用者の不安、職員の不安もあ
るが、こういう時こそ協力して行動することが大切と感じた。初めての体験であったが、職員それぞれが、アイ
ディアを出し合って、
工夫しながら乗り切った事は、
今後の為に記録として残しておかなければならないと思う。
・今回震災にあい毎日バタバタその日その日行動したが 1 年ふりかえると記録の大事さを痛感します。幸い大き
な被害がなかったですがやはり今後何が起きるか全く分からないので災害対策時の再検討を感じています。
・最低限、水の供給くらいは何とかしてほしい。一般家庭と同じに考えているのか、数十人分も水をはこぶ大変
さ、今後の震災等を考え、行政等が対応してくれないとむり。川水まで利用していた。
(トイレやあらいものな
ど)
・何かあってから・・・ではなく、起きるかもしれないという気持ちを常に持つようになった。必要な物等も前
もって準備する事の大切さを強く感じたし、日常から他職種とのコミュニケーションや連携が出来ていないと大
変だと思いました。
・マニュアルどおりでなく、その場の判断も必要。
・あの震災が起きるまで、自分があのような大きな災害と関わることになるとはあまり思っておらず、起きた時
は正直パニックになっており的確な対応があまりできていなかったように思います。今回の震災を経て、災害と
は他人事ではなく誰にでも起き得るもので、しっかり準備をしていかなければならないと感じました。
・施設の設備の整備、非常灯だけでも点灯できる発電整備、水道水の整備タンク、並びに燃料不足。
・今まで、あたり前の生活が、一瞬にして全てを失い、悪夢を見ているようでした。幸いにして、職員、利用者
さん達は、一人も犠牲者となることもなく良かったと感じております。今回の大震災をふまえ、中、長期的計画、
現状のままでいいのか検証することが必要と思います。
(地震防災対策委員会の設置、マニュアル作成)
・震災前は物資に恵まれ贅沢三昧な生活であったことに気付いた。特に水の有難さを痛感。施設で 1 日 60t 消費
していた。近代設備は電気がないと全く不能。ボイラー暖房、エレベーター、テレビ、水道、お風呂、水洗便所
稼働せず。将来の日本を担う子供達に自然と親しむキャンプ生活体験の必要性を感じた。食料備蓄はカップラー
メン等の保存食品は飽きやすい。おにぎりが最高。最小限米と塩は確保したい。電話やメールが不能のため、情
報不足に悩んだ。ガソリン不足で困った。道路は二ルート以上必要。救援物資輸送ルートが混雑。
・今回は日中だったため人手もあり、リーダーもいて指示通り動くことができたが、夜間帯の人数のいない時だ
59
ったら…と思うととても不安に思いました。防災について見直し、緊急時のあり方を再度確認する必要があると
思いました。
・私達の入所施設は沿岸部でも高台の不便な場所に造られていたので今回の震災でほとんど被害がなくいい場所
にあったことを有難く思ったが、GH は平地の街にあったので流出した。沿岸地域に住む者としては高台に立て
なければならない。夜間だったらもっと被害があったと思う。街の中の警報が津波がおそってくるのとわからな
いでいたことが残念。
・避難する際迷う事なく逃げる事ができた(訓練の大切さ)。冷静に行動することができた。利用者さんも自分も
逃げられて良かった。命の大切さと日々の生き方について考え方が変わった。
・備蓄、災害時物品…、ライフライン止まった時の対応、避難者への対応。
・いつおこるかわからない事なので、対応できるマニュアルは必要だと思った。
・災害はいつくるものかわからない為、マニュアルがあったとしても、それがいい行動をとっているのか、わか
らなかった。
・ライフラインが途絶え食事は備蓄のものとなったが少ない量でも食事は提供できたし、オムツも支援物資でま
かない何とかなった。津波被害をうけた施設や津波で亡くなった方々を思うとこの程度の苦難は大した事ないと
思った。これから何があるか分からないので備えは必要だと思います。
・震災に対してのマニュアル見直し等、施設で行えた事は良かったが、まだ充分を言える対応が出来る状態にな
いのが現状であり、
とにかく今は二度とあのような震災に合いたくない、
起こらなければ良いと祈るばかりです。
・津波による被害がないことで大変ではあったが施設内で生活できた。裏が山なので土砂災害等の対策も必要だ
と思う。 備蓄食は入所者以外に、デイ利用者、職員の分も必要。 房が重油使用。非常停止により使用してい
なかったが夜一時的にでもつければよかった。重油は使用しているところが少なく数日後から入手可能となった。
・災害時の備え必要性、重要性を思いしらされました。停電時の照明確保、備蓄食の確保、避難訓練の強化など
を図っていきたい。
・又、非常時の日頃からの訓練や、備蓄の必要性を感じた。
・ライフラインが止まってしまったことが一番大変、連絡つかない、安否確認できない。
・備蓄の確保が食料品のみで、他の物はあまり考えていなかった。油類の備蓄も必要。暖房について今後は考え
る必要あり、情報の収集が必要。職員の安否確認の方法(家族)
、入所者家族への連絡方法。
・食糧の確保がスムーズにできる事を大切であることはもちろんのこと災害時に、どのような行動をとるべきか
のマニュアルをきちんとしておくことが、大切だと思います。
〔個人として、災害時の備え・準備、心がけにかかわること〕
・必要なもの用意しておく重要性。家族も仕事も両立する為には、人の協力や理解なくてはできない。
・私は内陸で育ったこともあり、津波のことが良く分からず、町から 1 ㎞位の所家丘走って逃げたが、高い所に
避難する事又少なくとも何かしらの食べ物・水は持ち歩く事、せめてアメ玉でも良いと思う。
・強い地震が来た時には、必ず津波が来ると思い高い所より高いと所と上がるように心がけます。
・地震があったらすぐ高台に逃げなければならないと次の世代の人達に伝えなければならないと思った。
(地震
の怖さを知らせること)
・備えと危機管理。
・次の世代の為にも、津波が来ない場所に住むべきだと思う。
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・常に非常時のことを考え、それに対する行動等の予備や準備をしておかないといけないと思う。
・震災により、水・電気の大切さを感じた。又、津波注意報が出たら、すぐに避難する。普段から、水か食料の
確保等準備しておくべきだと思った。
・備えは大事だし、自給自足とまでは行かなくても、畑等食料を作っておく事や水も電気でなく、昔の方法も使
えるようにしておくべきだ。避難所がいくらも高くない地域に指定されていなければ、もっと多くの人が助かっ
たかもしれない。命ほど大切な物は無い。
・今回のような大災害になるとは考えてもいなかった。日頃からの訓練や備えが重要であると痛感した。
・何が起こるかわからない世の中なので、守るべき物への確認、今できることを備えておきたい。周囲との連携、
助け合いが本当に必要だと感じた。
・日頃の防災に対する意識の高揚。
・命の大切さ、生きている意味。常に最悪な状況を考えながら、準備しておく必要性。
・燃料を多目に確保する様になった。
・常に準備。
・非常食、緊急時の暖房器具の準備ができていなかったことが反省点である。
・今回のようなことはもうないとは言えない。やはり備えは必要だと実感しています。
・とにかく高台へ避難し、絶対に戻ってはいけない。
・ライフラインが 1 つでもなくなるとストレスを感じる事が多かった。 日頃からとっさの行動を取れるよう備
えが大切だと思う。
・家族の仕事は以前と変わりなくあるので生活は変化なく続けています。日頃の防災意識が必要だと強く感じて
います。
・海の近くに居た時は、今までのヒナン所では×→高台に直接行く。食料、飲料、ガソリン等の確保をしておく。
新しい防災マニュアルの作成。
・水、電気、ガスの大切さを改めて感じた。今後、何が起こるかわからないので防災グッツの準備が必要。
・震災時は安全第 1 に。停電による情報伝達の遅れ、周囲の声がけ、最大の危険のサイレン等があれば逃げたか
も何も、放送もなく…国道の人は雰囲気で感じとれたが、全く見えない方は油断してたかなと思う。
(避難区域
ですから。
)この音がしたら、逃げるという、サイレン音がほしい。
・今までの津波注意報・警報とは違い、パトカーの呼びかけにすごく危機を感じた。また、電気が使えず、耳の
遠い独居のお年寄りや聞こえたとしても 1 人では動きの不十分な方、
携帯電話を持っていない方等の対応が今後
の課題にと感じた。津波の本当の恐しさを初めて知った気がします。自分の子供達やその世代にも一人でも多く
の方が助かるよう命が消えないよう迅速な判断・行動出来るように伝えていきたいと思った。
・震災があった時にそなえて、食べ物や物品は確保しておかなければならないと思った。
・とにかく日頃からのそなえと心がまえが何よりも大切と思った。想定という言葉のもつあやうさと悲しさ、人
間の非力さを感じた。
・物資不足は我慢出来るが、電気・通信・水道・ガスなどがストップした状態では何も出来ない。
・非常食を確保しておく大切さ。
・停電が長く続いたのでラジオが必要だと感じた。災害時に備え食事等悪くならない用な物を買っておいて方が
いいと思った。
・大きな津波など来ないと安心していたのが今回の震災を経験したことで考え方が変わりました。地震、津波に
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備えて、日頃から準備をしておかないとだめだと思いました。
・災害後の対応について準備するようになった。
・日頃の備えが必要。絶対安全ではない。海の近くに行くのがこわい。
・自分が生きている間にあのようなことが起きてしまうと誰も想像していなかったでしょうが(特に沿岸に生活
したことがなかったので)
、ライフラインが断えてしまっても大丈夫なように、備えをするようになり、懐中電
灯とくつは、部屋に常においてあります。今の生活が当たり前ではないということを思い知りました。今回のこ
とが教訓となり、色々なことが設備されたと感じています。
・何気なく生活していた日常が突然一変してしまう。自然の力の大きさに恐ろしさを感じた。休日に一人で出掛
けていて何かあったらと思うと一人で遠出するのははばかられる。
(今まではその様なことは考えず自由に出掛
けていた。
)災害発生時とるべき行動について考えるようになった。
・私達の世代は何不自のない生活をしてきたので、今回のような事があって 2~3 日の停電や灯油、ガソリンが
手に入らない等考えられなかった事が起きてパニクッてたので、それに対応する力をもっともっと自分自身に身
につけたいと感じました。
・現代にこのような大地震、大津波によってこれほどの被害を受け、体験するとは思ってなかった。今回の震災
により、まず安全な場所に逃げることが一番なんだと感じました。現在でも地震におびえてる毎日です。
・何かあってかの準備は準備ではないと思った。
〔職員同士の支えあい、連携〕
・震災直後は今後の見通しが全く立たず不安だった。しかし、仕事をしていると気がまぎれてよかったし、職員
のチームワーク、つながりを強く感じた。
・同じく 14 時 46 分という時間帯で良かったと思います。学校生徒がそのおかげで助かりました。夜間でなく
て良かった。帰宅時間でなくて良かった。皆といると心細さを和らげることが出来た。皆と協力して避難する事
が出来たのだろうと思います。
・極度の疲労の中、スタッフ間、密に連絡、調整をし、助け合い、声をかけ合いながら利用者、第一に業務にあ
たっている姿をみて、改めて、人の温もりや優さに触れることができた。あのとき感じた気持ち感動は今でもお
ぼえている。
・震災時、どの職員も疲れているのに笑顔で声をかけ合い、今出来ることを考えて、手を取り合って何とか乗り
きることが出来たと思う。改めて、仲間の大切さを感じたと共に、これからも大切にしていきたいと思う。
・施設内の職員は頑張っていると思った。一体感があった。
・不平不満を言う事の無意味さ。誰も(職員)何もなく生きている。みな、大切な仲間。仲間のすばらしさ。あ
わてないで、行動できるようにしたい。
・職員が一丸となれることに驚き、あの時体に対応出来たことはすごい。市外からの沢山の支援に孤立してない
ことを実感し安心できた。
・震災直後は十分なケアが出来ず、また自宅も被災し避難所生活となり、しばらくは肉体的にも精神的にも疲労
感があったが、どうする事も出来なかったので、あの状況の中で、今をどう乗り切っていくかしか考えれなかっ
た。震災にあって、共に過ごしたスタッフは、助けあったり励ましあったりし、信頼関係が強まったと思う。
・始めての出来事で何をどうしていいのか見当もつかず仲間に助けられ、上司のご指導のもと日を追うごとに先
が見えてきたように思いました。幸い自分の施設は津波の被害もなく全員元気で生活できたことがとてもうれし
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いです。
入所者にとっても私達支援員にとっても貴重な経験をすることが出来ました。
絆の大切さも知りました。
これからはこの経験を無駄にする事なく生活に生かして活きして行きたいと思います。
・すごく不安な気持ちもあったが、職場だと 1 人ぐらしで、震災後しばらく宿直したのでできた。職員同士の連
携がすごく大切だと実感した。実家が遠いので、緊急時、連携を取れるようにしておきたいと思った。
・大変な中、それぞれの出来る範囲で連携が取れがんばれた。ただ、自宅より施設優先で動いたので自宅に残る
家族の事も心配であり、1 ヵ月後くらいよりシフトが取れ休みの日が交代で取れるようになった時は身も心も疲
れがとれ、リセット出来た。
・当施設では津波の被害は受けなかったが、
今回の様な想定外の震災は、
理屈やマニュアルが通じないのが現実。
職員の知恵がマニュアルであった。
地震直後及び余震が続く中、
利用者にケガ、
事故がなく職員の底力を感じた。
普段のケアに対しては、不安な職員が色々な場面で頼もしい存在感を示してくれた。改めて上司としてケアだけ
でなく、すべてにおいて職員のよい所を引き出す様、心掛けなければいけないと感じた。
〔利用者を優先するのか、自分(の家族)を優先するのかという葛藤〕
・震災時、職場や入居者の為に命を懸けなければいけないのか?又、家族の安否や安全確認を優先してはいけな
いのか?
・正直、震災当日の事はふり返りたくありません。なので、12 月からの出来事は空白で申し訳ありません。今
回あのような大きな震災を経験し、命を守るという大切さを感じました。しかし、自分達の家族の事も心配だっ
たのも事実です。本当に守るべき命は、目の前の命なのか、大切な家族なのか・・・。大きな葛藤がありました。
・震災直後 家族の安否ばかり心配し、職場や利用者の事をあまり考える事が出来なかった。
(津波の心配のな
い所に立地、母体職員の協力もあるだろうと思った。
) 被災した方々や、大切な方を亡くした方の気持ちを考
え、言葉を選ぶ事や思いを想像するだけでとてもせつない気持ちになる。
(何も出来ず、家族や職場に居ること
のもどかしさ。
)
・急激な環境の変化による認知症症状の低下で職員の疲労、ストレスの増大、職業を優先させるか、自分の身を
守るのがいいのか悩んだ。結果的に入居者、職員全員無事に避難できたが・・・。
・私達は入居者がここで生活している以上、責任をもち、命を守らなければならないが、業務をしても、顔を見
るまでは家族も心配だった。
・仕事をしていると、利用者も大事。でも家族のところへもすぐかけつけたい。いろいろな葛藤があります。
・震災なので仕方がない、と言われればそれまでだが、家族の安否も確認しに帰れず、休みも休憩もない 24 時
間の介護は精神的にも体力的にもとてもつらかった。もう二度とあんな思いはしたくないとつくづく感じる。正
直、次にこのようなことがあったら職場に行く事をためらうと思う。
・仕事上、仕方がないことなのだが、家族や自宅のことよりも利用者を優先しなければならないことに納得がで
きない。ましてや臨時の立場なのになぜそこまでしなければならないことに疑問を感じる。
・自然が相手の為、見えないことが多く不安が大きく感じられ、少しでも早く利用者が家へ帰れるように、それ
だけを思っていました。家族へは、すぐに家に帰れず、電話も通じなかった為、不安な思いをさせ申しわけない
と思っています。
・私達は仕事をしているので、そちらがやはり優先であり責任があることがすこしひっかかる事がありました。
自分にも家族がいるので。でも私達デイの人はだれも支持があるまで帰る人がなく、スゴイと思っております。
この仕事を責任ある仕事としてやっていきたいと思います。でもやはり、すごくこわかったというのは本心でご
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ざいます。
・職場をとるか自宅家族をとるか・・とてもむずかしいと思いました。どっちを選んでも後めたさが残ります。
指揮をとる人が感情的になってしまってはいけないとも思いました。ひとつの施設ではなくグループ企業だと、
他施設との連けいというのもあって・・・自分の施設はこの震災時、スタッフがとても協力的で乗り切ることが
できた様に思います。
・人で不足なのに外部ボランティアを受け入れず職員のみで回しすごく大変であった。被災した職員をすぐに帰
してあげてボランティアを受け入れれば良いと感じた。
利用者第一に考えてしまうと、
職員が二の次になり大変、
身体、精神的に気がくるいそうになった。
・自分が施設で働いており、施設には利用者が居るという事。たまたま、震災時は自宅に居て、職場には来れず、
自分の家族のことを優先していた。他の職場の仲間は施設から自宅に帰れず、家族のことを心配しながら仕事し
ていたと思うと申し訳ないと思う。介護職員のボランティアがたくさん必要だと感じた。
・自分の親を探したくても、仕事をしなければならない、車も流された為自分一人ではどこにも探しに行けない
もどかしさがあった。人との助け合いを強く感じた震災でもあり、助け合いはきれい事思い知らされた震災でも
あった。同じ全壊の被災者でも、仮設に入っていなければ何の援助もなかったのが辛かった。
・子供達に不安と恐怖をあたえてしまった。仕事とはいえ、家族と離れて夜を明かし不安な時を過ごした。子供
は現在もトラウマとなっており地震のたび心配になる。
・震災当日から沿岸部に住む家族と連絡を取る事が出来ず、生きていて欲しいと願う反面日増しに絶望感に襲わ
れる日々を過ごした。震災時は仕事中で入所者を守らなければならない立場であり、本当は直ぐにでも帰宅し家
族の安否確認を行いたかったが職業上難しい面があった。震災の時は仕事どころではなく家族のことしか考えら
れなかった。自分の職業について色々考えさせられた。福祉とは何か改めて考えさせられた。
・業務中であったため業務、被災者の対応に追われ家族をさがしに行けなかった葛藤があった。パニックになっ
ている同僚もいた。もし業務を投げ出し家族のもとへ行っても誰もせめられない。もし自分の家族が死亡してい
たら一生後悔しただろう。一年も過ぎ記憶も薄れているけれどその当時の事はもう思い出したくないというのが
本音だ。
・ライフラインの寸断、交通の崩壊により残っていたメンバーだけで 3 日ほど不眠不休で働いた。家族や自宅、
親族の安否が気にかかり職務の事はほとんど覚えていない。
・震災当日から、3 日位、家族と連絡が取れず、安否が分からないままの、勤務が、精神的に参った。この震災
を教訓とし、これからの施設作りに役立つ事は何か、考えていかなければならないのだろうか、思い出したくな
い事実というのは確かだ。
・利用者の安全と再認識。自身の立場のもどかしさ(家族等の安全)
。
・事業の継続と私的部分の判断の難しさを考えた。当日、休みであれば、あえて出勤はしなかったと思う(家族
の安全を優先させたと思う)
。たまたま勤務であり、キャリア上、支援を継続したが、必要人員の確保は無理で、
居た人間だけで行う覚悟を今後も持てるか自信がない。
・勤務中であれば、超過勤務を強いられる状況、そんな中、利用者の安全の確保をはかりつつ、家族の安否確認
もできなかったと思います。自分が勤務中であったら、冷静に対応出来ただろうか?と思います。
・介護職は今日のような災害が起こった時、目の前の人達(入所者)を放って、いくら自分の家族や家が心配で
も、そこに行くことができない、自分の事でいっぱいいっぱいでも、目の前のケアをおろそかにできない。入所
者が悪いわけではないが、誰が悪い訳でもないが、この仕事はつらいと初めて思った瞬間であった。
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・今回助けようとして犠牲になった人を沢山知り、いざとなったら何を優先すればいいのか悩みます。自分の命
か?それとも介護職員として利用者の命か?
・利用者、家族を守ることは大事だが、介護者、医療者は自分の安全を確保することが大事。その后に必ず必要
とされるのだから必ず生き残れと同僚とは話合っている。
・地震はいつか大きなものがくるとは思っていたがまさか大津波まで襲来するとは思わなかった。ここの施設は
海から遠い為津波被害はなかったが私自身、実家と家の伯父を津波で亡くした。仕事をしていなかったらすぐ非
難した両親に会いに行きたかったが交替で出勤しなければならない事もあり、すぐに行けなかったことが心残り
である。
・自分のいる施設は山側(海より遠かった)為、津波の被害はなかったが、入居者がどこにいるかによっても命
の危険がある事、いかにして避難させるかを考えた。職場の入所者が全員無事、ある程度の職員がいてくれた事
で上司の許可をもらい、自分自身の家族の安否を確かめることが出来たが、その行動をした事がよかったのか、
反省すべき点である。
〔ケアや自分の行動・対応にかかわる葛藤、悩んだこと〕
・震災の時は必死だった。利用者を助けなくては・・・と数日後、家族から心配のTELはなく、遂に「津波で
若い人が流されないで、うちのおじいちゃん達が流されればたのに・・・」という言葉に私のやったことって・・・
と全身から力が抜けた事を覚えています。
・家族が入居者の引き取りになかなか来ないためのストレスがあった。
・偶然に震災発生時に日本に居なかった事が、良かったのか悪かったのか・・・複雑な心境。震災発生時に不在
だった事で、その後の職場の人間関係が一部、微妙な空気も流れたり・・・休暇中の出来事だったのにも関わら
ず、自責の念に近いような感情が湧き上がり、気持ちの持って行き場所が見つからない状態が続いた。この感情
はおそらく一生抱き続けて行くのでしょう・・・。
・施設利用者の安全確保後は最低職員数を残し、被災地区への救助に行けたら助かる命もあったと思われる。子
供がいるので自分自身がボランティア活動を出きなかったことを反省している。
・自分の施設に直接被害は少なかったので、大きな混乱や乱れはなかった。ショートステイのリーダーという立
場なので、震災直後は家族にどのように連絡していいか申し訳ない気持ちになった。直接行けるところにはでき
るだけ早い段階で、安全に過ごされていることを伝えに行った。施設長との相談で、3 月 12 日の朝には緊急体
制をとり、疲れのある職員や、家族の安否がわからない職員から順に帰宅するように命じた。自分達のできる範
囲でやってきたが、もっと被災された方に支援ができたのでは?と後悔がある。
・震災当日は、自分の事だけでせえいっぱいで他人や職場の事は考えられなかった。震災後 1 カ月程は、すべて
自衛隊や警察に人捜しや片づけをしてもらい、自分はボーとしていた。
・仕事中に震災が起こった為、自分の事よりも皆の事どの様にしたらいいか悩みました。
・仕事中の出来事で、実際津波を見ていない為、しばらくの間は現実として受け入れることができなかった。業
務に従事し、利用者への対応、避難所ではないのに避難者が 2 か月以上も滞在することで各々への対応の難しさ
を感じた。又、施設として火災等の避難訓練は何度も行ってきたが、今回のような受け入れる側としての対応マ
ニュアルもなく、地域の中にある施設としての位置づけ、役割の重要性を考えさせられた自分の無力さが日々重
く、苦しく感じられる。
・老人ホームの対応というより、当施設の災害時の対応を良く考えて行かなければならないと思いました。
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・いざ震災を体験してみると、日頃の準備、心がまえがないと自分自身が不安が強く動く、判断、指示が全くで
きなかった。こうした方が良いのでは?と思う事は備えとして今できる事を準備しておく必要がある。人それぞ
れに受けたショック・ストレスに違いはあったと思う。休む事(休日減あり、休息場なし)も必要であったが、
マンパワー不足によりそれもできず。精神的負担が大きい時にこそ、ボランティアが必要であると思った。
(ケ
ア面においても)ストレスが何からおきたのか(仕事か震災か)わからなかったが、仕事のストレスストレスと
言われた事には納得できない自分がいた。震災の何が影響しているかもわからないが、今後も身体・精神的スト
レス不調が出てくる事があるのかという不安をもったままでいる。
・人が足りないからといって法にふれないギリギリの状態で働かされ、仕事への意欲・向上心がなくなった。
・仕事で利用する金融機関が震災で無くなり、遠い他支店まで行かなければならなかった。そのため移動だけで
時間がかかり、実際仕事する時間が少なくなってしまい、結果残業するしか方法が無く、毎日遅く帰っていた。
それでも仕事がたくさんあり、家に持ち帰って対応していた。それだけならまだしも、普段通りこらさなければ
ならない仕事が時期時期にあり、大変だった。プラス避難してきた地域住民、行政や支援団体とのやりとりで満
足に仕事に集中できる時間が取れず本当に大変だった。自分と同じ立場(部署)の代わりの職員がいなかったこ
ともストレスだった。利用者だけでなく職員に対するサポートが無かったことが残念に思う。
・日常すべてが変わり、ついていく事でいっぱいいっぱいになった。震災直後は何をしていたのか覚えていない
事が多く、
利用者さんにもどういったケアをしたか覚えていない。
必死だった事は確か。
備えは大切だと思った。
・避難の仕方、情報不足、備蓄にも限界があり不安を感じた。入所者が理解出来ず説明していく難しさ、現実に
起こった事なのに、他の出来事のようにしか思ってもらえない。余震が続いて不安になる人を落ち着かせるなど
の大変さを痛感した。
・デイ利用者(要介護者)は家族が迎えに来ない傾向にある。自宅が被災しているが生活できる環境にあっても、
送った際強く拒否されることもあった。誰もが大変な中で職員も被災していながら努力していることをわかって
ほしかった。困難レベルは比較できないが…。
・職員の中に被災した方もいるため、心のケアが必要だと感じた。
〔職場や法人への不信感〕
・また施設側が職員に対してのケアがなかったり、亡くなった職員に対しての言葉がないように思え、怒りがこ
みあげてきた。我々(職員)は施設の道具ではない。転職の機会があればさっさとこの仕事からは足を洗いたい。
・施設内の防災準備がなされていなかった事には少しがっかりしました。職員に対するケアがあまりにもなく師
長だけが一生懸命でした。働いていると食料の調達やガソリン、灯油の調達ができず、職員自らが自宅から持ち
より食べるという様に全て自分達でしなければならなかった。暖房器具もない為、職員が自宅から反射式のスト
ーブやランプを持ち寄らなければならない。
・震災当時は、職員も少なく休める状態ではなかったので、いる職員でその場をしのいでいたので、きちんとし
た職員収集をしてほしかった。
・指示系統がはっきりせず、かなりイライラした。そしてそれが教訓として活かされてもいないことに気づいて
いない管理職がいることに驚かされる。
・家が流されたり、家族をなくしたりした職員を休ませる事もなく、あたりまえの様に、しかもふだん以上に出
勤させたこの職場に不信感をいだいた。介護職員のボランティアさんが来てくれたのに、その方々をことわって
職員に過勤務を強いた。家族を亡くしたのに 11 日から 1 週間以上たったとの理由で忌引きにもならず、有休に
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もならなかった職員が大勢いた。
・上司が部下を守ろうとしなかった。自宅が被災した職員に充分な休みをあたえず、働かせていた。当施設の求
えん物資を切った(事務・病院優先)
・介護ボランティアの受け入れを拒否した。
(人数不足、休まず働いている
職員がいたのに)上記の事等色々ありすぎて、当法人に対する不信感がつのった。現在でも不信感が取れず、つ
のる一方。職員にも生活・家族があるのに、部下に対して一切考慮しようともしなかった。
・大きい組織ほど動きが悪い(市や会社)
。
・介護ボランティアが来たが、受け入れ拒否をし、職員を休ませようとしなかった。震災時、多くの介護従事者
の方々が、自分より入所者等の身を守ろうとし、命を落としていましたが、規定にある職員数で、すみやかに避
難させるのは難しい状態にある施設は多々あると思います。施設におけるガイドライン、もしくは今回のことを
教訓とした条例等の見直しは必要だと思いました。残された遺族にとってはかけがえのない家族、他者を守る為
に命を落とす事が美談ですまされるようであってはならないと思います。
(※ガイドラインについて施設がそれ
ぞれ考えるものではなく、監査・指導の入るよう一定の効力を生じさせるものであって欲しい)
〔避難所での受け入れについて〕
・避難所に問題がある。健常者と施設での生活をしている人は別の場所が良いと感じた。
・避難場所の受け入れについて、施設関係の行き場がない。
・実際に避難し、健常者と施設が同じ所に避難し、不便が沢山あり、困りました。難しいとは思いますが、別々
の避難所が必要なのかなぁ~と思いました。
・認知症の方の避難生活の難しさ、地域の方の認知症への理解が足りない、又は、状況が状況なので他人を思い
やる余裕がない。
・認知症への理解。避難所の物資不足(飲み物、食べ物など)
。
・避難所ではメンバーの事が理解されず、又薬のこともあってでざるを得なかった。仕事場が避難所になってい
る為戻った時は避難している人でいっぱいでした。火災がなければ仕事にいれば良かったのですがそれもできま
せんでした。
・避難所で、障碍者に対して、地域住民の方々から十分な理解をしてもらえず、出ざるを得なかったことに対し、
憤りを感じた。障碍者の人たちの薬が手に入らず、困り、今後考えるべきと感じた。情報がまったく入らず、不
安だった。
〔地域とのかかわり〕
・ライフラインを失って大変なこともあったが、幸い被災はしなかったので職員で協力し乗り切ったと思う。ま
た普段から地域の方々と協力し乗り切ったと思う。また普段から地域の方々と交流があり、多くの方に支援して
もらえた。乗り越えられたのは、周りの方々のおかげだと思いました。特に社長が「支え合い」の心を持った方
なので、普段のかかわり合いが深かった分、支援してもらえたと感じました。
・地域との関わりの重要性。
・地域の方々の支援にて乗り切れたこととして、地域への感謝は言葉になりません。
・本当に辛い出来事でしたが、そんな中かけつけてくれた業者やお米や野菜を持ってきてくださった近隣の農家
の方など色んな方々が支援して下さり本当にありがたかったです。
・震災で地域の人や人の絆を強く感じられた。人の優しさ、親切さを新ためて感じた。家族や家をなくした職員
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がいたが、いつもと変わりなくしていて強さを感じた。
〔家族への思い〕
・家族の大切さ。仲間の大切さ。地域のつながり、協力、絆の強さ!
・大震災が起きたことで、家族での行動等をよく話しをするようになった。
・いつ、何が起こるか分からないため、日頃から訓練又災害時においての準備が必要な事を再度確信。母、祖母
又娘の心のストレスを少しでも解消していきたい(大きなストレスは現在なし)
。多くの被災者がいるため、少
しでも役に立てるような事を自分なりに行おうと思う。
家族のありがたさがしみじみ分かった。
今後も震災の事、
父の事を忘れずにすごしたい。仕事の面では自分が不安に思うと利用者にも伝わると思うので、冷静につとめた
い。 etc…
・家族(妻)と離れて暮らしていたが、改めて一緒にいる事の大切さを感じた。ささいな事でも感謝し、ささい
な事でケンカをしなくなった。
・家族、親、兄弟など、皆無事だったので、それだけでも本当に助かったと感じています。実家が流され、何一
つなくなりましたが、今だに信じられない気持になります。何もかもなくした両親と共に今現在生活しています
が、いつまで続くのか・・・不安です。このような災害はもう二度と来ない・・・と思いますがまた何かあるか
わかりません。災害について家族と話し合うことが多くなりました。
・現実を受け止める事が出来る様になったが、実弟の死は死ぬまで背負っていくことと思う。
・津波のこわさ。家族が死亡して、今もわりきれていません。子供が一緒で支えてくれた。津波の高さを 3m と
言わず、高台に行くようにすれば命はたすかった。
・施設外にいる時は、職員がいるわけではないので、お互いにどこそこにいる様な話をする様に子供達には話し
ている。連絡が取れる様に子供達(高校生以上)には携帯電話を持たせるようにした。 今回の震災の様な時以
外でも常に津波のことを想定して行く様な訓練も必要かと思いました。
〔不安〕
・みんなが同じくらい不安を感じていると思う。私だけではない!という思いから救われている。
・3.11 震災後、4 月の停電時、夜勤だった為余震が有ると又、停電になるかと感じることが有る。そうなった場
合、職員当番がかけつける事が決まったので少しは安心できるが。
・何年くらいふっこう出来るか、残された者(?)にとっては不安だらけ。日本一の堤防を持つ町であったが災
害にはいかせなかった。でも、5 割ていぼうのおかげで家に残ったのである。
・停電、水道使用できず、不便な日が続いたが、幸い大きな被害は私のまわりはなかったが、いつまでも続く余
震が怖い。
常に油断できない状況にあると思っている。
本当にこれからどうなるのか。
子ども達の未来が心配・
・
・。
・認知症専門だけあり、入居者が、震災のストレスを感じていないことが何よりよかった。ただし、夜間の余震
が大変こわい。震災で体調を崩し、亡くなった方(入居者ではなく)も、居る事を知り、胸が痛い。
・今でも夜勤時に余震が少しでもあれば、不安が募ってくる。本当に地震に対するストレスは大きい。
・オンラインが落ちると余計に不安もあり、次に震災が来たら助からないだろうとの思いもあります。大切な人
を何人も失いました。言葉では表現できません。
・震災により、おじ二人を失い、生活する上で自分の心のコントロールがとても大変だった。再び災害が来るの
では!?という不安が今でも強く、ストレスを感じる。いまでに信じられない気持が強くある。それでも自分自
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身や家族が無事だったことに、ありがたさを感じています。これからも強い気持ちで生きなければ・・・。
・今世の中で再び大震災が起こるかもしれないというニュースが飛び回っている中で、夜勤時に地震が来たらど
こまで利用者を守れるか、どう判断すれば良いか、震災前とは状況も変わっているので、地域住民の応援も無理
だと思うので・・・!「てんでんこ」という言葉通り、果たしてそれでよいのか・・・と日々思い、不安の中で
業務を遂行しています。
・高台へもっと高台へ避難すること。また、地震・津波が仕事中にきたらと思うと不安。
・現在でも余震があるが、警報音を聞くだびに、こわくなる。又、子供がしばらく学校へ行けなくなり、子供達
の気持ちが心配になる。又、現在、住んでいる所への不安も大きく、他へ移住したくなるときもある。海付近に
は、1 人ではいけない。
・夜間帯一人でいる時に同じような地震が来たらどうしようという不安は常にあります。
・1 年経って、精神的には落ちついてきたとは思いますが、これからも自分の生活、利用者へのケアにはとても
不安を感じます。日本中に影響を与えた地震、もう絶対におきてほしくないです。
・停電の為にテレビの画像を見る事が出来なく、情報はラジオのみでテレビを見た時のショックはすごかった。
聞くのと見るのではまるで大違い。ただ、ただ、涙が出て、自分達はとても、恵れた環境にある事に感謝した。
それからは、今後、日本は…岩手はどうなっていくのかという不安、余震に対する不安がつのるばかりです。た
だ、最近はあまりにも小規模的な地震が多すぎる為、それに慣れた感が強く、それも不安の一つです。
・予震の中安全が不十分なのに営業を続ける不安。
・現在も地震があると、3.11 を思いだし、不安な時があります。でも、皆さんのおかげで一つ一つ前をむき歩
いています。
・今日は日中で、人員も多い時間帯であったことが幸いであったが、夜間におきた際、宿直者含め、4 名でどこ
まで対応できるのか、不安に思う。すぐに職員が来れない中で、一年生の方も受け入れるとなると大変な事態に
なると思う。
・いろんな不安やストレスを抱え、寿命が 3~5 年は縮んだように思う。
・1 年経ったからストレスが軽減されているとは思わない。逆に今後の生活においての不安やまた起こるんじゃ
ないかという不安はどんどん強くなっている。何も被害のなかった(家の流出や Fa が死亡したとか)私でさえ
こう思っていることは、被害にあった方々はとても大きいストレスを感じていると思う。
・施設が津波の浸水区域から離れていたこともあり、
不自由さはたくさんあったがなんとか皆で乗りこえられた。
職場があり、
仕事を失わずにすんだが、
自分の家族の安否確認が出来ないまま仕事をしなければならない辛さや、
家を失い、避難先での生活で、精神的にも身体的にも不安などでおかしくなりそうだった。1 年がすぎ、以前と
同じような生活が出来るようになり、この先の事も考えられるようになってきたが、今だに少しの揺れにも敏感
になっており、いつになったら気が休まるのかと・・・。
・いつどこで震災にあうかわからないと思ってます。電気や、ガス等が使えない時にどうしたらいいか今でも不
安に思ってます。
・いつ震災が来るかもしれないので不安です。
・今後の安全に対する不安がとてもある。地震、津波に対する恐怖心。
・何であの時、お母さんを残してきてしまったんだろうという後悔。一番は、自分が悪いのに、職場のせいにし
たり、他人にあたったり・・・1 人になったことが不安で悲しくて、寂しいのに、人を信じられなくなった。震
災前は良かった関係も、震災後はこわれてしまった。震災前に戻りたい。
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・人生が大きく変わってしまったことを強く感じる。しかし、仕事があるということは、その中でも幸せだった
のかもとよい方に考えている。しかし、精神的な不安、喪失感を受け止めてくれる所がないのでは?と思ってい
ます。心のケアをどうか、末長く考えていただきたい。
・夜勤など 1 人でいるとき、地震がくると、とても恐怖を感じる。避難させれないかもと思う。職場と自宅が遠
いので、
また災害があったらどうしよう。
すぐに自宅に帰れるところに転職したらよいのか?考えることがある。
子供とははなれるのが不安である。沿岸の道路を走ると不安になる。沿岸方面の遠出ができない。常に、今津波
が来たらどこに逃げたらよいか?考えてしまう。
・何といっても情報がほとんどなく、これからどうなっていくのか?という不安が強かった。一番は携帯電話が
不通になってしまったこと。普段から津波についての話しは聞いていたが、現実感がなく、もし自分が巻き込ま
れたら…と考えると恐怖感が強くなる。想像絶っする大惨事に対する認識が以前とは比較にならない程強くなっ
た。
・仮設住宅に住まわせていただいていますが、今後どうなるのか決まらず生活については不安だらけです。
〔疲れ、つらさ〕
・震災時から 1 年。今の方が精神的、肉体的に疲れているように思います。家族も同様に疲れている様です。子
供は海岸線を通ると今だに嘔吐し「こわい」と言い、今だにあの日は心に留まっています。心に余裕がほしいで
す。
・人生で最も大変な環境だったはずの震災直後より、今現在が心身ともに疲へいしているのはどういうことなの
か、釈然としない。
・震災後、最初は頑張れていた職員ですが、仮設住居に住んでいる方などに疲れが見えます。チームワーク、つ
ながりを強く感じていたはずなのに、今はやる気がどんどん低下してこれも震災の影響なのか?と思うことがあ
ります。
・今回の震災があり、あたりまえのことの大切さをかんじました。今までも心に穴があいたまま、1 年たった今
のほうがつらさはあると思っています。
・一年たった今、正直思い出すのも辛いです。アンケートも何度も行いました。もうできることなら、答えたく
ない物です。町内のハードの面だけでなく、被災者の心の復興にも少し配慮をいただきたい。一年たった今、様々
なことがフラッシュバックしています。
・自分自身は直接被災してはいませんが、震災以来仕事で被災された方のお世話や受け入れなどがあり、日常的
に物資不足以上の負担が増えています。震災後は休日も取れず、毎日業務が過剰に多くなっており、家族とのコ
ミュニケーションやフォローができず、子供も体調を崩してしまい、精神的に不安定になり、回復が時間がかか
りました。自身も疲労がたまっておりますが、休めず今後の健康が心配です。
・行政とのやりとり。指示系統の乱れあり、現場が混乱した。精神的に不安定である。1 年経過してからのほう
が強く感じる。
・なかなか先が見えないのが、もどかしい。1 年経っても、震災はこの間のような気がして、しばらくは忘れる
ことが出来ないと思います。精神的に不安定です。仮設にいますが、未だに落ち着かず、
「なんでー。
」と思う毎
日です。
・1 年以上、すぎて震災のことがだんだんうすれかけているので絶対に忘れないでこれからも支援してほしい。
精神的には 1 年すぎた今のほうがストレスやイライラがある。支援が足りないことにも不安を感じる。被災して
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いない人は、気持をわかってくれないとつくづく思う。
・自分も被災している為、仕事・家庭の両立への負担増。仕事を辞め精神的な安定を図りたいが、自宅被災によ
りローン返済しなければならず、続けなければならない。現在夜勤も入っているが、夜勤手当が低く体ばかり疲
れる。職員数が少ない為、夜勤回数も増えとてもつらい。しかし、職場が被災しなかった事は他の人に比べ幸せ
だとは思う。
・つかれている。
〔感謝〕
・自衛隊、ボランティアの方々等、多くの支援をして頂き感謝しています。震災は忘れてはいけないと思う。
・1 年が経ち、不便は全く感じていない。家は大丈夫、家族そろっている。利用者もスタッフも元気だ。私達は
いきているんじゃない、生かされたんだと思う。たまたまの運に恵まれただけだ。人との絆を知り、人のあたた
かさを感じた。悪い様に、解釈しないでほしいが、今回の大震災は、私の人生で良い経験・体験ができた出来事
だった。今度日本に災いがあったとしたら、私は進んでお手伝いにいきたい。
・二度とあってほしくない。全国から色々なものが送られ本当に助かりました。人の暖かさや優しさ、見ず知ら
ずの人達なのに。
・震災当時は、余震、停電も続き、物もなく、大変な思いもありましたが、次第に物資ボランティア等に助けら
れ、どうにかやってこれたと感謝しています。
・自分が被災して仕事仲間、いろいろな人たちの温かい援助をいただいたことに感謝しています。
・あたりまえの事に感じていた水、電気、ガス、ガソリン、ライフラインすべての物、事がありがたいと思いま
した。すべての人々に感謝をしたいと思います。生かされていること大切にして、皆とともに歩んで行きたいで
す。ありがとうございます。私が預かった利用者が無事に家族の元にもどった事がとてもうれしいです。
・自分の危機管理が全然無かった事にがっかりしています。平和ボケと言われますが、本当に考えが甘かったと
思っています。即時に対応してくれた自衛隊の方々や消防、医療、警察各機関の頑張りに感謝です。それと近隣
の方の温かい御親切にも感謝でした。足や膝の痛みで動かなかった母にいろいろ声をかけて下さっていました。
国よりも近所の方の対応の方が親身です。震災を肌身で知っている。苦労しているのがわかる。そういう方々が
「お互い様」と言いながら支えあった 1 年でした。この「お互い様」を忘れないでいたいと思っています。
・日常生活が失われた事により、自分の生活も落ちつかないまま職場優先の生活が続き、ストレス、疲労の毎日
だったが、一年経過し、まだまだ不便なところはあるが、除々に以前の生活にもどってきている事に感謝してい
る。
・今回の震災で、できた事、できなかった事、反省点、必要な物など、職場、家族間で話し合いをしました。今
後に備える為に、皆さんの善意(近所、日本中、世界中)にとても感謝しました。自分はひとりじゃないという
事を痛感しました。
・身近な方が亡くなったり家が流された方が多くいらっしゃるので大変な経験をしたと感じています。他の県か
らいらしたボランティアの方々にはありがとうございました。
・自然のおそろしさ。津波が来るとは言っても、ここまでの津波におそわれるとは思わなかった。一分一秒が生
死を分けたケースも聞く。私は、親戚は失くしたが、家族、家も無事で仕事もあった事に感謝したいと思う。仮
設住宅に住んでいる方も多いし、復興はまだまだ、これからで、心が止まる時もあるが、今回のことを教訓にし
て、課題はいっぱいあるが前向きに進んでいきたいと思う。自衛隊の皆様、ボランティアの皆様、ありがとうご
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ざいました。
・人力と知恵と支えてくれた家族と職員の協力に感謝です。
・支援物資などで頂く物も多くとても助かった。子供の幼稚園でもいただき物や励ましの手紙など頂き、温かい
気持ちになった。
・震災直後、職場では 24 時間労働でしたが、電気、水道、ガスが使用できない中、出来ることを出来る範囲で
行っていました。その中でたくさんの物資で支援を頂き、感謝の心でいっぱいです。そして、生かされた命で、
他の人の分も頑張りたいと思っています。
・震災で、平穏な日常生活がなくなり、あたり前の生活がなくなってしまった。町は、すっぽりと中央がなく、
夜は真暗、できるなら震災前に戻りたい。多くの方が亡くなり自分も死んでいたかもしれないと命の尊さを知っ
た。皆さんありがとうございます。心から感謝する事を知りました。
・皆様のご支援ありがとうございました。施設利用者、又非難者の食事提供に携わりました。職員同士、知恵を
出しあいその場を乗り越えたと思います。
・物資等たくさん頂いて大変助かりました。ありがたかったです。
・世界中の人々に深く感謝します。
・ボランティアで協力してくれた方々には大変感謝しております。
・自分が経験して初めて「阪神の時は、私は何をしただろうか」と沢山の方の援助を前に思いました。避難所と
仕事の往復(徒歩 50 分でした)、自分が自分が 1 食分浮かす事で家族に食事を持ち帰れるという食料不足、仕事
以外にも避難所での役割分担等苦しく負担も大きかったですが、今仕事ができるというありがたさも痛感しまし
た。又、多くのボランティアの方々には頭の上がらない思いです。人事として生活するのではなく、自分の身に
置き換えて動く事ができるようになりました。
・緊急時期に支援くださった自衛隊に本当に感謝。
・国内外から多くのご支援をいただいたことをとても感謝しております。ありがとうございます。あの日を忘れ
ることはないと思いますが日ごろの防災意識を高めみんなで協力して乗りこえていければと思います。
・海外や国内みずしらずのたくさんの方々が支援の手をさしのべてくれ、大変ありがたかった。
「いつか来る」
とは考えていたが、そなえが必要だと思った。
・全国からの支援に感謝しています。いつか恩返しをしたい。
・あたり前の生活のありがたさ便利さを痛感した。沢山の物資が様々な所から届けられ、非常に助かったし、あ
りがたかった。
〔喪失感〕
・初めての大震災で、被災ではありませんが、知人とか亡くされてショックです。多くの方々の悲しみをみて、
せつない気持ちでいっぱいです。
・自分の家や物、そして地元の街がなくなってしまった事による喪失感とさみしさは、時間がたっても解決しな
い。周囲の人に支えられた事は凄く感謝しているが同時に人の冷たい部分も見えた事がすごく悲しかった。
・自分は家も流されなく家族も亡くなった人はいなかったけど、友人や回りの人達が被害に合った人達が多くそ
の人達の手伝いや気持ちなど考えると気持ちに余裕ない 1 年になりました。
・家族や友人を亡くした人たちのことを考えると、今でも心が痛みます。家族と連絡がつかなかった時のことを
考えると涙が出そうになります。不安な気持ちだけでなく、家族のありがたさや友人職場スタッフの温かさを感
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じたことも多々あります。
・家や物はまた手に入れることができるけれど、失った人は二度ともどってこないという人の命の大切さ!と残
された家族の悲しさと寂しさは一生消えません。
・あの日 3/11~1 年たって、確かに夏や秋があったはずだが、そのまま一年がすぎただけ、何も変わっていない
気がする。これからも先、いつまでこんな思いをしていくのか、以前より良い街を作る元気が見つけられない。
・自分の中で消化しきれていない自分自身がありまだまだ復興とまでもいっていない。なにも始まっていない。
亡くしたものが多すぎる。夜だったらどうなっていただろうと思っただけで胸が痛い。
・なにもすすんでいないし、がれきや、被災者の方を思うと、喪失感がぐーとこみあげてきます。でもだいたい
の人は、生きていこうと思うだろうし、少しでも前へ、頑張ろうと進んでいきます。外国人には、バカにされま
すが、悲しいときでも笑った顔をする日本人は、でもりっぱだと思います。
・今回の震災で、家族は無事だったが、あまりにも多くの親戚知人が亡くなりました。町の復興もいつの事とな
るのか・・更地となった町を通るたび、この町で生まれ育った私は、たくさんの思い出が浮かんで、全て奪われ
てしまったという哀しみで、今だに、涙が浮かんで来る事が度々あります。
・身近な人達の死についてとても残念で悲しく感じている。
・友人を亡くして時間がたてばたつほど悲しくなります。
友人が津波で流された場所に行くと涙が止まりません。
ふっとした瞬間友人を思いだしどうしてここにいたんだろうと思い早く安全な所に逃げればよかったのにとい
ろんな事を考えてしまいます。
・何の準備もないまま、突然全てを失ってしまい、1 年の経った現在も、喪失感が残る。身近な家族や親戚、そ
して同じアパートの方々を失い助ける事が出来なかった後悔の気持ちを今も強く感じている。地震がきたら逃げ
ること、家族の避難場所・連絡方法の確認、何よりも日ごろからの準備・心構えが必要だと改めて感じた。生き
残った一人として、この津波の怖さを後世に伝えていきたいと思います。
〔無力感や自責、信じたくない気持ち〕
・何不自由なく便利な生活をしてきたのが、
あの日で一変しましたが、
いろんな意味で勉強になった 1 年でした。
ただ、大切な親友や、親族が亡くなったことは今でも信じられず一番辛い出来事であったし、今も信じたくない
出来事です。
・夢であってほしいとず~っと思っております。
現実を見ても受け入れる事が…。
実際震災はのがれていますが、
まだ信じられません。大人げないと思っております。
・なぜ自分が今生きているのか。なぜ自分が死ななかったのか。すごく考えてしまう 1 年だったし、これからも
考えるんだと思う。
・もっとたくさんの人を助けることが出来なかったんだろう。
・自分の場合、家族も自宅も大丈夫だったので、まず被害を受けた人や家族を亡くされた人に対しては申し訳な
いなと思っています。
・私事ではあるが、元借家にいたが、大家が被災、借家を出ることに・・・。今は狭い部屋でプレバブを借り、
夫の両親と同居。なれない生活にとてもストレスを感じ、仕事との両立の難しさを感じている。震災直後の一番
大切な時に職場に居なかった事で、自分の無力さを強く感じた。
・3/11 の東日本大震災で起こった出来事が、私にとって衝撃的で、心に大きく残り、今現在、この事を考えた
りする事が出来ません。申し訳ありません。
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・私の場合実家が流されとてもショックです。このような出来事がおこると本当に夢のようです。もう二度とお
きてほしくないです。
・当初、情報が無く何が起きたのかわからなかった。時間が経つにつれ、亡くなった人、家が流された人、わか
った時のショックはいいあらわすことができない。大きな心の負担となった。通常通り生活できている事のあり
がたさに、気づかされた。とうてい、通常の心理状態ではなかった。
〔自然に対して思うこと〕
・まさか、こんな大きい津波を経験するとは思っていなかった。大きな地震があっても津波は「また 5~10cm
だろう」と考えていた。
・津波の怖さを聞いていたが、実際、軽んじていたところもあった。親類で友達がいなくなった事を実感できな
いまま一年が過ぎてしまった。
・自然とはもろいものだと思った。人間は強く、優しい存在だと思った。
・自然にはかなわないと思った。自然はおそろしいと思った。力を合わせる事は、他人を思いやることは、大切
なことだと思った。
・自然災害のおそろしさにびっくりしました。
かんたんに日常生活がこわれてしまうということを実感しました。
・自然災害の恐ろしさややりきれなさを感じた。明日は何があるかわからないので、一日一日大切に生きていか
なければならないと思った。早く復興してみんなが元気になってほしい。
〔当たり前の生活の有り難さ、幸せ〕
・普通が 1 番幸せだということ。
・今も続く予震には本当はビクつきながら過ごしています。ストレスもないとはいえないけれど利用者様が不安
にならないようにサポートできる様に日頃から考えていきたいです。あたりまえの生活のありがたさ。
・今回の震災では、私自身が釜石へ来て 1 年経っていなく、津波の事なんて全く考えたことがなかったけど、怖
いもだと思った。又、家族と連絡もつかず、不安でした。日々、あたり前な日常が大切なんだと思いました。
・何も準備していなかった。ものすごく怖い体験で、どれ程、普段の日常生活が大事だと思い知った。
・普通の生活が送られる事の幸せを感じた。又、時間をかけてコツコツと積み上げてきた物や今の生活が、一瞬
にしてうばわれてしまう自然災害の怖さ、恐ろしさを初めて身を持って感じた。
・津波の恐ろしさ。大事な人を亡くした人々の悲しみ。普通にあたりまえに生活している事がどんなに幸せであ
るか痛感しました。
・幸せ、に対する価値観が変わった。立派な物があれば幸せだと思っていたが普通に食べて、寝て話が出来る、
あたり前の生活の中に幸せがあるということを気付かされた。
・今までのあたり前の生活が幸せという事に改めて気づいた。今後、震災で辛い思いをしている人に少しでも役
に立てるようになりたい。
・何げないふだんの生活が送れる事のすばらしさを忘れてはならないと思っています。
・普通の日常が、いかに大事だったか、震災後すぐの時は、ずっと感じていました。又、家族が、どんなに大切
な物なのか、あの時、真剣に考えさせられました。人間は、一人では生きて行けない、この家族や、又、職場の
仲間や皆で助け合って行かなければいけないんだと本当に痛感しました。
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〔経験をいかす、できることをやりたい、前向きにやっていきたい〕
・日常のあたりまえがあたりまえでなくなるという事がどんな事なのか、よくわかった。物のありがたさもわか
った。大勢の方が亡くなったが、生きている私達で頑張っていかなければと思った。
・昨年は、地震直後なにがなんだか、信じられない気持ちで、いっぱいでした。毎朝夢なのか、本当にあったの
か、気持ちが落ち着くことのない日々でした。世の中どうなってしまうのか、とても心配な日々を送っていた事
を思い出しました。仕事場の近くにも仮設住宅があります。その人たちが、今までの生活に戻るには、あと、何
日、何年かかるのでしょう。私たちに出来る支援は、いったい何か、出来る事をやって行きたいと思います。
・大震災で多くの命をなくしてしまったが、この大震災の事をいつまでも忘れず、目をそむけずに、今後様々な
災害への糧にできるようにしたいと一年経過した現在は考えている。
・いつかは来ると思っていたが、こんなに大きいものが来るとは予想していなかった。沿岸に暮らす者として、
今回のことは今後生かしてしかなければならないと感じた。
・まさか体験すると思わなかった。看護師として、人間として、自分の行動をふりかえると、ああすれば良かっ
た…、と思う事あり。今後、災害対策について、アンテナを広げていきたい。
・家族、親族共にみんな無事だったが、友人等が被害にあい悲しかったです。私のところはかなりの被害だった
ので町を見た時は言葉になりませんでした。何か、ボランティア等手伝いができればやりたいと思いました。節
電等、日頃からできる事はやっていきたいです。
・前向きに生きて行きたい。
・大きな災害で日常生活が元に戻るまでは大変だったが、1 年過ぎた今では震災前と同じ生活に戻り、節約など
していた時の気持ちをわすれずに生活していきたいと思う。
・人を支え、人を預る立場に、たまたまあり、自分ながら必至で行動し皆様に尽せた・・・という気持より、本
当に、守らなければならない存在(利用者様)のおかげで、生きてこれました。私を支えて下さった皆様に感謝
すると同時に日頃からの生活を大切に生きていきたい。
・心身供つかれて成るようになると開き直った。自分にとって大切なものが見えてきた。
・震災によって、
利用して下さった利用者に充分なサービスができず、
震災後何名か亡くなったことが残念です。
震災がなければ、もう少し生きておられたのかもしれないなと思われます。この震災を機に、何をしたらよいの
か考えていけたらと思います。
・災害はいつおとずれるか分からない。家族で話しあっておくべきだと感じた。今後も余震がいつおこるかと思
うと、不安になるが、生かされた命。どういうことがあっても一日一日を大切に生きようと思う。
・人の命は尊さ、人々の絆、希望と絶望 これからの地元の復興のために皆が団結していかなければならないこ
と、自分になにが出来るかなど。
・全てが初めての経験であり、何をどうしていいのか全くわからなかった。職場は安全な場所にあったため、ま
ず自分の身の心配を第一に考えた。それが今時々これで良かったのか?と心が痛む時がある。今は普通の生活に
戻っているが、地震が来るとあの津波を思い出し恐怖である。でも私だけではないので自分なりに頑張っていこ
うと思います。
・本当に大変な思いでした。一瞬のうちにまったく違う生活になってしまいました。疲労感やストレスなど 1
年経った今でもまだ感じることはあります。しかし、たくさんの方から支援していただき助かりました。まだま
だ大変なこともあると思いますが、前に進んでがんばっていこうと思います。
・この経験をもとに次の震災がおこったときにつなげていきたい。あの時は無我夢中だった。
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・生かされたということ。
色々な場面、
場面ほんの少し違っていたら命をなくしていたということがありました。
そして、また、場面、場面でめぐり会った人も縁といえる人だったり、何かに守られ助けられたと思いました。
そうして、生かされた自分が何をすべきか、何ができるのか考えるようになりました。本当に多くの命が亡くな
り、多くのものが失われました。施設の子どもたちには生かされた命で何をするべきかボランティアとかだれか
のために寄付をするだとかありましたが何もない、普通の毎日を、普通に送ること。普通に笑ったり、楽しんだ
り、怒ったり、泣いたり、普通にすごすことでいいと思いました。
〔さまざまな今の気持ち、思い〕
・言葉にできません。
・一度にたくさんの命が失われた事は本当に悲しい事だと思う。このような大きい津波がくるとは誰もが思わな
かったから逃げない人が多く、被災したと思う。
・直接の被災者ではないが、回りに被災者がいることで気をつかう機会が多く、又、サークル仲間の死を知った
時の悲しみを誰にも話せなく、なんとなく心が折れそうな気分になったこともあった。落ち着いてきてからは、
何か自分の手伝いたいという気持ちを表現する機会がほしいと思った。
・自分自身被災したというわけでもなく、仕事、家族を失ったわけでもなく、普段と変わらない生活を送ってき
た。食料が少なかったり、買い物が不十分でなくても、慣れて来る事で、今までが贅沢だったのかと考えなおす
機会となった。
・人の優しさや、電気、水道のありがたさ、まだたくさん、感じた事、考えた事はあるけど、ありすぎて、言葉
に表せません。
・自分は被災しておらず、あまり変化ない生活であったが、被災することで仕事をやめたり、また大変な思いを
しながら仕事をしている人を見て、今後はこのようなことが起きてほしくない気持でいっぱいです。
・特にありません。ただ、ボランティア活動といったサークル活動をしている輩が被災地を写メで笑顔で撮って
いたりします。そういう人を見ると残念です。このようなアンケートも負担です。
・人間はあっけなく死んでしまうもので、生死を分けた理由はあったにしろ、何だか逆に気持ちが楽になったよ
うな気もします。失礼ながら。
・今回家族は大丈夫だったが、もしも自分が震災のときに、何か行動できれば誰かを救えたのではないかと感じ
る。
(実際 3 月 15 日前後に地震が起こるかもしれないと思っていた。
)若い人が亡くなり、年寄りが生きること
について、皮肉だと思う。
・被害にあった人と私達みたいにあわなかった人とは、比べようがない、ものだと思う
・たくさんの命がうばわれた事が、とても残念な気持ちでいっぱいです。きれい事では、前に進まない
・復興はいつになるのか、今後の見通しが不明。
・人間は小さいと感じた。
・赤崎ですが、道路が海岸線しかありません。山の方でもいいので道路がほしいです。
・自然の力や災害に対する認識不足。
・命についてと、震災後の人への思いやり、忘れかけていた心、等。
・行動を明確にしておかなければならないと思いながら日常に流されています。
・職場に居れば家族の心配していたが、すぐには帰れず、連絡も取れない状態だった為ケイタイはつながる様に
して欲しいと思った。職員入所者共にケガ等なく過せて良かったと思った。
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・平和で安定した生活はいつ崩れてもおかしくないという現実を体験した。また、高度な技術に支えられている
と思っていたが、それももろいものだということがわかった。
・物資不足が一番感じた。
・今までにない揺れや、津波の大きさに今さらながら本や写真を見るたび事の重大さを感じています。きれいに
かたづいた家のあと、公園や至るところに建てられた仮設住宅、復興はまだまだこれからです。海から離れた所
に住んで、仕事をしている為、精神的にも負担や疲れを私は感じることはありませんが、あの 11 日の津波によ
り、陸の孤島と化した施設ですごした友人は、今になって精神的に影響が出てきたといい、10kg以上やせて
しまい、体調不良を訴えています。岩手の農・海産物が早くもとどおりに食卓に並ぶようになってほしいと思っ
ています。
・震災後より周りの生活環境(家や近所、子供達の通園、学場所)の変化でストレスを感じています。1 年は経
過しましたが震災がなければ…と何度も思ってしまします。悔しいです。
・震災後 2 カ月くらいに、看取りに対応した際、津波で未だ見つからずにいる方を思うと、人の死を看取れると
いうことは、看取らせて頂くことは“有難い事”だと思うようになった。
・生活環境、家族のかたちが変わることが、こんなにもストレスだとは思いもしなかった。家も流されたけど、
家族一致団結して、
再スタートを…なんて簡単には前向きになれません。
それそれのペースがあり、
考えがあり、
ゆっくりかもしれないけど、新しいスタートを切っていけたらと思います。
・職場は自宅の近くが良かったのかと転職を考えさせられる。
・日本国どこでも大きな地震はきそうだ。人口密集地に災害がおこれば被害は想像できない。日本がなくなるか
も…個々の被災者の事情が異なり、すべての人が満足する復旧復興は難しそうだ。申し訳ないが、妥協をみいだ
してほしい。災害の事実、現象は次世代に伝承し、次回の折り、被害がより少なくなることを祈りたい。亡くな
られた方々のご冥福をお祈りいたします。合掌。
・今回の地震は震源地から離れていたので、被害が小さく済んだのは運が良かっただけだと思いました。
・こんなに大きな災害となってはどうにもならない…。直接被害をうけていないので、どうしても人事と考えて
しまうが、当事者の方々の日々の生活がどんなに辛いものだっただろう。突然、家族を失う、家を失った方々は、
どんなに辛かったのか…と考えました。
・政治、政治と、政治の責任にしてるのはおかしい。基本的には、復興は自分たちの力で行うもの。誰かにして
もらう復興は、要らない道路を作ってきた、これまでと同じ。10 年先、20 年先、子供が大きくなったころ、東
北人への差別(放射能に対する)が結婚などの障害にならなければ良いなあ、と感じる。
・こんなにゆれた地震は始めてであり、地震が起きた当時、ガソリンや停電、水道が止まったりし大変でした。
もう起きない事を願いたいです。
・施設が内陸にあり、生死にかかわる危険はありませんでしたが、入所様の自宅、ご家族の犠牲になっておられ、
その現実を知ってしまった時、どうなってしまうのか、心配でした。あの当時、流れていたCMを思い出したく
ありません。
・震災から 1 ヶ月後くらいは、これからどうなるのだろうという不安や色々な面での負担感は感じてはいたが、
スタッフや地域の人達の状況は皆一緒で、やるしかない、とりあえず自分が出来る事をと思っていた。お風呂に
入りたい、あったかいご飯が食べたい・・・色々な思いはあったが、それは皆一緒だと思って気持ちをふるいた
たせていた。1 年経って、その間に私は何か出来たかなと思うと、その日暮らしであっという間だった。この震
災は、これからは、プライベートも仕事も全力で人生を全うしたいと思わせてくれるきっかけでもあったかもれ
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ない。
・心の復興が真の復興と考える。
・皆、風化して行くことをおそれてはいるが、自分達も新潟の地震や阪神大震災などを忘れさっているのではな
いか。 自宅は半壊まではいかずとも、ひび割れなど今回の震災で生じたこともあるのに被災者とはみとめられ
なかった。
・このような目に遭うのは、私達の代で終わりにしてほしいと強く思った。
・生活全般的に不便なことだらけでたいへんだった。特に冬場ということで、寒さからなにからなにまで最悪で
した。
・できる事なら、ふり返りたくないです。はっきり言ってアンケートはつらいです。途中で書けなくなったので
やめました。すいません。
・自分一人では何もできないと再確認。みんなに支えられ、日々生活できている事に感謝できた。その日、その
日生活していく事しか考えられなかった気がします。あまり思い出したくはありません。今思うことは震災の写
真、報道はもうみたくないです。できれば津波や地震等、人が亡くなったり、不幸になるような出来事はあって
欲しくないと思います。
・私は被災者ではないので本当の悲しみ辛さはわかりません。被災された方は、父、母、子供を亡くして悲しみ
のどん底に、家を流されて大事な物を失い皆、なんとも言葉に出せない深い悲しみの中で生活されています。そ
の当時より一年たった今の方がもっと深い悲しみがおそってきていると話しています。通院しながら、薬を飲み
ながら仕事をしている職員もます。1 年 2 年で心の痛み、悲しみは消えるものではないようです。何年も時間を
かけて、心の痛みを和らいでいくしかないように感じます。早めにガレキを処理して、一日も早く、家を建てる
場所を確保して、民間のアパートを建てたり、仮設から一歩進んで生活を安定させて欲しいと願います。
・自分の役割、できることをできるかぎりの力で行えば、その瞬間のベストをつくせるし、多くの人がベストを
つくせば現状からのベストの結果(又はそれに近いもの)を出せると思った。日本人は強いと思った。
・命の大切さ。1 日の重み。
・世の中の、人生の不条理さ、津波に対する甘い認識、個人の無力さ、平凡な生活の幸せさ、世の中の温かさ。
・この調査の目的は福祉施設が果たした役割を明らかにすることですが、それで終わってしまってはならない。
ぜひ、次につなげて下さい。震災をふりかえることによって、情緒が不安定になる人もいる。そういった配慮を
してほしい。3,11 について、この時期にとるのはつらい。もと後にしてほしいとおもいました。
・同じ市民でも悲しむ人とそうでない人との格差をかんじる。泣かない自分が涙が出るようになった。
〔
(被災者)支援への疑問・不公平感、悩んだこと〕
・ボランティアの種類や団体にもよるが、自分達はこういう事をやりに来ました。という学生さん達は自分達の
気持ちをみたす為に来てる様に感じた。それでも有り難いと感謝すべきなのか?
・ボランティアに来て下さった方にもよくしていただいて、ありがたい気持ちでいっぱいでした。ただ、職員不
足ではなかったので、ボランティアを受け入れるにあたって、何をしてもらうか悩んだこともあります。逆に気
をつかった場面も…。
・救援物資の多大なことに驚いています。1 年経った今でも救援物資の恩恵を受けています。
(一時、被災者の
受け入れをしていたため)余る程の救援物資…日本は豊かなのか・・・かたよりか・・・。
・自分は全然被災していないので、不満を言うのもおこがましいが、食糧、ガソリン、電気など、今までは普通
78
にあったものが急に不足し、とても大変だと思った。自分たちの職場は津波など来るところではないが、いろい
ろ支援していただき、支援物資もたくさん来ました。でも、余すものも結構あったので、もっと必要な場所へ渡
るよう何かいい策を考えた方が良いのになと感じました。
・被災者との格差。この震災を忘れたいけど、忘れてはいけない。何かを伝えていきたいがそれが何かはわから
ない。震災の特集等見たいと思わないが見てしまう。ただもっと現実のヒドイ部分を出さないとたんなる同情の
美淡で終わってしまう。生と死。家族。本当に大事なものは何?災害時、介護ができることは何?介護しかでき
ないことはなに?様々な問いに対し現在も答えが出ません。
・非常食の不足(ミキサー食は特に必要)電機を使えないと非常食をミキサーにすることができない。避難者に
対して、もっと親切であるべき(非常に肩身のせまい思いをさせた気がする)
。被害にあった人と、そうじゃな
い人の温度差(数ヶ月すぎた頃から)
。
・人、物、情報のすべてが不足し、特に、情報が全くとれないことが、不便であった。また、スタッフの安否を
心配しながらも実施に自分が動くことができないことに、もどかしさを感じた。
・自宅に避難した私(家族)に対して、支援物資は自衛隊が去る時米 10kgと避難所閉鎖の時のカップラーメ
ン 1 箱のみであった。勤務が不規則な私は回りの事を考え、避難所に行かなかったのに…不公平さをずっと感じ
ていた。
・
(施設のことではなく、一般の被災者支援について)災害発生直後から半年位は余計なことを考えずに周囲の
人達と支え合ってがむしゃらにやってきたが、中にはだんだんとずるさが出てきて他者との協調性を保てない人
が出始める。例として、
「何でもタダでもらえる」
「要求すれば何でもタダでやってもらえる」など。事業所側で
求人を出してもほとんど応募がなく、働いて生活していく気がないのではないかとさえ思える。だから、ただ闇
雲に物を与え続けるだけでは被災者は甘えて自立心を失ってしまうので、
「与える形の支援」はあまり長引かせ
ることなく、一定の線引きが必要であると思う。
・復興にむけて頑張る人もあれば、その一方で出来ることもせず、只支援を待つだけの市民もたくさんあること
を目にする。支援はあくまでも自立させる手段であってほしい。
・直接的に負担を受けている人のみ優遇されている。
・被災した人と人ないけど食糧がなくて避難場所に来れば定員がいっぱいでと言ったところもあったらしく、結
局は頼るところに頼るしかなく、大変な方々も言ったということもあったことを事実です。
〔行政や報道への不信感〕
・被災者とそうでない人のギャップにストレスを感じることがある。報道は美談ばかりで真実など必要としてい
ない。
(NHK も)
・行政の対応の遅れがもどかしい。市民はお互いに絆を深め頑張っている姿がどの場所に居ても感じる事ができ
ている。日本人としての心がまだまだ残っているんだなぁと思います。今回の事で腹が立つ方々政治家です。あ
なた方は何のために政治家になったのか、政治家って何ですか?
・被害が大きすぎ、地元の対応の悪さにイライラする。
・1 年たって、生き残った意味をもう 1 度考えなおしたい。日本という国、行政はあてになりません!!
・自然災害の恐ろしさを知る。安全なところはあまりないし、何もこの世には起こりえると感じた。電気に頼り
過ぎた生活はもろい。
昔の生活であれば普段から不便だが、
電気が止まっても、
水道が止まっても生きていける。
自分は田舎なのでなんとか食べてはいける。あまり便利な生活をしてはいけない。原発の恐ろしさを始めて知っ
79
た。地震大国日本になぜ 40 数個を作ってしまったのか。目先の利益を追うのはやめてほしい。六ヶ所村の施設
に何かあったら北半球に住めなくなる。それぐらいの量の使用済み燃料があるとは。政治や識者の言うことを信
じてはだめ。この世で絶対に大丈夫はない。子供達のために自然をきれいにしておかなくてはと思った。汚れた
自然はやがて自分達の口に入ると思った。
・震災地域の住民は意外と明るいし、凄くがんばっている。政治家は何をしているのだろう?何の為の政治か自
身がもう一度考える必要があるのでは?完全に信頼を失っていることに気がつかないで、さもえらそうに国の未
来を語るがTVを見ていて、とてもこっけいだ。
・人間の心の汚さから暖かさ、様々な思いをたくさんしました。今回の震災を経て、人として考えさせられまし
た。正直、今回の震災を後世に伝えたいと報道していますが、震災に立ち会った者としては過剰ではないかと(報
道)感じています。
・町へ対する不満があり、伝えても紙面通りの言い方しかできない、してくれない。伝えても役場の中でたらい
回しで解決されない不満があり。震災時、自分が仕事中で良かったと思っている。
・指揮を取る役場の方とが緊急の場合の想定が出来ていないと強く感じた。私は防災センターに避難したが、ひ
ん死の方がかつぎ込まれ皆で手当をし、本人様より住まい、年令、名前をきいて報告しに事務所にいる役場の方
に言っても人事(ひとごと)のように流していました。
・原発の災害や大きな津波の被害は、スマトラ地震の後など政府が対策を取り国民 1 人 1 人にも危機意識を徹
底させるべきだった。スマトラの津波を対岸の火事と見えていたのだと思う。
・地震があって津波があって東京電力の事故があった。政府が絡んでよけい酷い事になった。全てを持っていか
れた人の思いは辛さは計り知れない。物的な支援、本当の意味での心の支援が継続して必要だと思います。こま
やかに丁寧に。自分だったら人生を捨て投げやりになるかもしれない。ギリギリで生きていくとしたら同じ境遇
の人。しかし状況は変化していく。羨望や妬みが生まれる。人は自分が一番。その証拠にがれき撤去が進まない。
東京電力の事故を人災だと強く非難するがその「人」の中に自分もいる事を忘れないでと思う。恩恵を受けてき
たのですから。
80
<資料編>
・
「岩手県における東日本大震災沿岸被災地の社会福祉施設実態等
調査(職員調査)
」調査票
81
職員用
No.
岩手県における東日本大震災沿岸被災地の社会福祉施設実態等調査
(アンケート調査)
平成 24 年 3 月
<記入上の注意>
○この調査は、平成 23 年 3 月 11 日時点で在籍していた職員の方がお答えください。
○ご記入いただきましたら、お名前を書かずに小さい封筒に入れて封をし、他の職員が記載した調査票が入った小さい
封筒と「入所施設用」の調査票ととともに返信用の大きい封筒にいれて送付してください。
なお、この調査の目的は、沿岸被災地の福祉施設の実態や震災の影響、福祉施設が果たした役割を明らかにすることで
す。この質問票に対する皆様の回答や結果はすべて統計的に処理され、個人が特定されることは決してありません。ご
多忙の折、お手数をおかけいたしますが、何卒ご協力賜りますようよろしくお願い申し上げます。
◇お答え下さる方自身、働いている施設・事業所の基本的な事項についておうかがいします。
問1 年齢について、以下の該当するところに一つに〇をつけて下さい。
1.20 歳未満
2.20 歳代
2.30 歳代
3.40 歳代
4.50 歳代
5.60 歳以上
問2 性別について、以下の該当するところに〇をつけて下さい。
1.男性
2.女性
問3 最終学歴について、以下の該当するところに○をつけて下さい。
1.高校
2.福祉系専門学校
3.福祉系以外の専門学校
5.福祉系以外の短期大学 6.福祉系4年制大学
9.福祉系以外の大学院
4.福祉系短期大学
7.福祉系以外の4年制大学
8.福祉系大学院
10.その他(具体的に:
)
◇あなたの勤務状況等についてお伺いします。
問4 あなたが行っている仕事について、あてはまるものひとつに〇をつけて下さい。
1.主にケアにかかわるスタッフ
4.事務
2.主に相談援助にかかわるスタッフ
5.その他(具体的に:
3.看護師
)
問5 あなたの職位について、以下の該当するものひとつに〇をつけて下さい。
1.管理者・管理職
2.主任・サブリーダー等
4.その他(具体的に:
3.職位にはついていない
)
問6 あなたの勤務形態について、以下の該当するものひとつに〇をつけて下さい。
1.
正社員
2.
非常勤職員・契約社員・パート 3.
その他
(具体的に:
)
問7 現在働いている事業所での勤務年数は、どのくらいですか?(平成 24 年 3 月 1 日現在)
82
年
ヶ月
◇震災の影響についてお教え下さい。
問8 ご自身の状況について聞いた次の①~③それぞれについてあてはまるものに○をつけて下さい。
(1)家族について
①同居家族を亡くした ②別居家族・親族を亡くした ③ペットを亡くした ④誰も亡くしていない
(2)自宅について
①自宅が流失・全壊した
②自宅が半壊した
③自宅が浸水した
④自宅への影響はなかった
(3)友人や同僚について
①友人・知人を亡くした
②同僚(上司、部下を含む)を亡くした
③誰も亡くしていない
◇震災時の行動、震災後のことについてお教え下さい。
問9 震災発生時は、勤務に従事されていましたか?
1 勤務中で施設(敷地)内にいた
⇒ 問 11 へ
2 勤務外又は出張等で施設(敷地)外にいた
⇒ 問 10 へ
問 10 勤務外だった方におうかがいします。施設・事業所には駆けつけられましたか?
1 11 日中に駆けつけた
2 11 日中には駆けつけられなかった→施設・事業所に出勤できたのは、いつ頃ですか?
月
日頃
問 11 平成 23 年 3 月 11 日の震災が起こってからの行動・感じたこと等を、覚えている範囲でお教えく
ださい。
時間
起 こ っ た 出 来 事
14:46
東日本大震災 発生
行
動
83
考えたこと・感じたこと
問 12 震災の翌日~1 週間ぐらいまで(3 月 12 日~18 日ごろ)の行動や考えたこと等について、覚えて
いる範囲でお教え下さい。
(日付や時間の正確さは問いません。
)
日付
時間
起 こ っ た 出 来 事
行
12 日
13 日
14 日
15 日
16 日
17 日
84
動
考えたこと・感じたこと
問 13 震災から 1 ヶ月と 1 年経った現在のご自身の体の状態や精神状態(ストレスや不安など)につい
て聞いた1~15 それぞれについてあてはまるものに○をつけて下さい。
(1)震災から 1 ヶ月後ぐらいのこと
非常に感
じていた
まあ感じ
ていた
あまり感じ
ていない
全く感じ
ていない
4
4
4
4
4
4
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3
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1
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非常に感
じていた
まあ感じ
ていた
あまり感じ
ていない
全く感じ
ていない
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1
1
1
1
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1
1
1
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1
1
1
1 身体的な負担感や疲れ
2 家族・親族・友人・ペット等大切な人を亡くした喪失感
3 日常生活が崩された喪失感
4 自身の感情のコントロールができない
5 今後の生活に対する不安
6 職員不足によって仕事量が増えたことに対する負担感
7 休憩・休日がとれないことに対するストレス
8 精神的に不安定(フラッシュバック等震災の影響を含む)な入居者の対応に対する負担感
9 物資不足により、十分なケアができないことに対するもどかしさ
10 夜勤時に余震や何かあったらという不安
11 職員間のイライラ・衝突に対するストレス
12 指揮系統の乱れがあって、指示が不十分だったりすることへのストレス
13 避難してきた地域住民への対応に対する負担感
14 行政や支援団体とのやりとりに対する負担感
15 自身の家族の理解やサポートが不十分なことへのストレス
(2)震災から 1 年経った現在のこと
1
2
3
4
5
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7
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15
身体的な負担感や疲れ
家族・親族・友人・ペット等大切な人を亡くした喪失感
日常生活が崩された喪失感
自身の感情のコントロールができない
今後の生活に対する不安
職員不足によって仕事量が増えたことに対する負担感
休憩・休日がとれないことに対するストレス
精神的に不安定(フラッシュバック等震災の影響を含む)な入居者の対応負担感
物資不足により、十分なケアができないことに対するもどかしさ
夜勤時に余震や何かあったらという不安
職員間のイライラ・衝突に対するストレス
指揮系統の乱れがあって、指示が不十分だったりすることへのストレス
避難してきた地域住民への対応に対する負担感
行政や支援団体とのやりとりに対する負担感
自身の家族の理解やサポートが不十分なことへのストレス
問 15 今回の震災について考えたこと、感じていることをお教え下さい。
お忙しい中、ご回答くださいまして、誠にありがとうございました。
85
岩手県立大学社会福祉学部被災施設調査プロジェクトメンバー
代表 藤野 好美
岩手県立大学社会福祉学部 准教授
三上 邦彦
岩手県立大学社会福祉学部 教授
鈴木 聖子
日本赤十字秋田看護福祉大学 教授
細田 重憲
前岩手県立大学社会福祉学部 准教授
岩渕 由美
岩手県立大学社会福祉学部 実習講師
岩手県における東日本大震災沿岸被災地の
社会福祉施設実態等調査(職員調査)報告書
発行日:平成 27 年 3 月 31 日
発行者:岩手県立大学社会福祉学部
被災施設調査プロジェクト
〒020‐0693
岩手県岩手郡滝沢市巣子 152-52
Tel:019‐694‐2300/Fax:019‐694‐2301
印 刷:山口北州印刷
〒020-0133
岩手県盛岡市青山4丁目10−5
Tel:019-641-0585
86
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