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ブラジュニャーの開発――ラティオに関わって

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ブラジュニャーの開発――ラティオに関わって
︿研 究 論 文 6 ﹀
プラジュニヤーの開発
求 められる。
︱︱ラティオに関わって︱︱
近 世 西 洋 哲 学 の 出 発 点 は デ カ ル ト Descart
es R .
,
彼 は 、方 法 的 懐 疑 を 経 て 、 周 知 の ご とく 、 思 惟 す る者 と して の 自
竹 内
明
て 、 自 然界 の 様 々 な 法 則 が発 見 さ れ 、 そ の自 然 法 則 に よ って つい
教 育 は 、 教 育 す る意 志 が被 教 育 者 の 意 志 を捉 え 、意 志 さ れ た 目 標
味するものとなった。たとえば、ナトルプNatorp, P.によれば、
が出 現 し た の で あ る。 教 育 に おい て も 、 そ れ は 、意 識 の発 展 を 意
に 自 然 を変 形 し 、 利 用 し 、 征 服 す る と い う方 向 に近 代 の科 学 文明
り ﹂ と の 明 証 的 意 識 の存 在 を 真 理 把 握 の前 提 と し て 、 古 代 ギ リ シ
へ導 く も の で あ る から 、 意 志 の陶 冶 に 他 な ら ず 、 自 覚 的 ・意 志 的
己 の 存 在 は 否 定 す る こ と が で き な い 、 と し 、﹁ 我 思 う 、 故 に 我 あ
ア以 来 の二 元 論 を 徹 底 さ せ 、 思 惟 す るも の と 延長 さ れ たも の 、 す
巨 大 な成 果 を も た ら し 、 世 界 は 莫 大 な利 益 に浴 す るこ とと な っ た。
い る 。 こ の よ う に 、 デ カ ル ト 的 世 界 観 の下 に 、 近 代 科 学 が 成 立 し 、
ら 、そ の本 質 を ﹁ 自 然 の 理 性 化 を助 成 す る作 用 ﹂ で あ る、 と し て
生 ま れ な が ら の自 然性 を 理 性 的 た らし め る作 用 で あ る と の立 場 か
る 、 と され た。 そ の影 響 で あ ろ う、 わ が国 の 篠 原 助 市 も 、 教 育 は
か ら 更 に 理 性 意 志 Vernunf
twi
ll
e の段 階 へと 発 展 さ せ るこ とで あ
に衝動Triebの段階から意志Willeの段階へ高め、意志の段階
な わち 、 理 性 と 自 然 、 主観 と 客 観 、 精 神 と 物 質 、 精 神 と 身 体 と を
厳 密 に分 離 し 、独 立 さ せ 、 こ こ に 、 見 る主 観 以 外 の一 切 を対 象 化
し 、そ れ を観 察 も 、 分 析 し 、 更 に そ の 分 析 し た も の を総 合 し 、再
構 成 し てゆ く と い う 方 法 論 を確 固 と し たも の とし て 築 き 上 げ た 。
そ の 影 響下 に 、 人 間 に 固 有 な理 性 を高 く 掲 げ、 一 切 を自 然 の光 の
下 に見 て 、 現 実 の 経 験 を重 ん じ 、合 理 的 に世 界 を理 解 し 、論 証 す
る 態 度 が強 まり 、 い わ ゆ る 啓蒙 主義 時代 を現 出 し て 、自 然科 学 的
認 識 の正 し さ と 人間 理 性 の 偉 大 さ に 対 す る確 信 を 生 んだ 。 かく し
4
・只
︶
し かし 、 そ の二 元 論 は近 代 科 学 と人 文 的 世 界 と の 越え が た い断 絶
を 生 み 、 理 性 の力 によ って 地 上 の 万 物 を 改 善 し 、 無限 に進 歩 さ せ
る こ と がで き る とい う 自 己 の 力 を 過 信 し た オプ テ ィミ ステ ィ ッ ク
な 進歩 の 思 想 は 、 か え って 理 性 中 心 の機 械 文 明 に よ る人 間 の機 械
化 、人 間 性 の 衰 弱 、 人 間 疎 外 な ど の深 刻 な 問 題 を 招 き 、 自 然 の荒
と と な った 。
廃 や核 兵 器 の 開 発 な ど 全 地 球 的規 模 で の 人 類 の危 機 を 招 来 す るこ
こ の近 代 的 世 界 観 の中 枢 を なす 理 性 は 、 中 世 ス コ ラ 哲 学 に お い
て 、 被 造 物 の 自 然 を 照 ら す 概 念 的 ・論 証 的 能 力 た る ラ テ ィ オ rati
o
で あ って 、 自 然 を超 え た神 に向 かう 直 観 的 認識 能 力 た る イ ン テ レ
クトゥス intellectusと対をなし、ともに古代ギリシア哲学におけ
る 心 の 最 高 部 分 と し て の ヌ ー ス nous よ り 分 岐 し た も の で あ っ た 。
つたのである。この点はアリストテレスAristotelesに至って明瞭
に 認 識 さ れ 、 ヌ ー ス は 心 の最 高 の部 分 とし て の理 性 を 意味 し 、そ
の 対 象 た る イ デ ア ま た は エ イ ド ス は 自 然 physi
s と 呼 ば れ てい る。
し か し て 、ア リ ス トテ レ スは 、 形 相 因 とし て 理 性 を 有 し てい る が
故 に 、人 間 は 、動 物 と異 な って 、 質 料 を 含 ま ぬ純 粋 な形 相 た る神
に 連 な って い る存 在 で あ る、 と し た の で あ る 。
一 方 、 キリ スト 教 に おい て 、 そ の 哲 学 は 、 そ の実 体 から す れ ば 、
.然の哲学であるから自然の哲学たるギリシァ哲学とは別個の
超111
哲 学 と い わ な く て は な ら な い。 す な わ ち 、 キリ スト 教 哲 学 に おい
ては、ギリシア人が被造物にはあらずとしてきた自然を、神がそ
の 愛 の 故 に 無 か ら 創 造し た、 そ れ 故 に 全 く 超 自 然 的 な 神 の信 仰 を
基本 と し 、 そ れ を 理解 し よ うと す る哲 学 だか ら で あ る 。し かし な
がら 、 超 自 然 的 な 神 的 世 界 を 理解 す る に 際 し て 、新 プラ ト ン派 の
哲学やアウグスティヌスAugustinus, A.の哲学によりながらも、
ギ ジ シ ア 哲 学 に おい て 、 根 本 的 に 重 要 な 意 義 を 有 す る も の は こ
の ヌ ー ス な の で あ っ て 、 ア ナ ク サ ゴ ラ ス Anaxagoras に お い て は 、
創 造 さ れ た自 然 的 世 界 を 説明 す る に 際 し て は 、 一部 の ギリ シ ア哲
に対し、ラティオは可知的真理を認識すべくすでに認識された一
ク ト ゥ ス が可 知 的 真 理 を 端 的 に推 論 な し に 把 捉す る能 力 で あ る の
義 を 体 系 化 す る た め に 、 ア リ ス トテ レ ス 哲 学 を 採 用 し 、 イ ン テ レ
、Thomas Acquinasについてこれを見ると、彼は、キリスト教教
り と し て 、 た と え ば 、 ス コ ラ 哲 学 を 代 表 す る ト マ ス ーア ク ィ ナ ス
は、ギリシア哲学の非連続の連続的展開である、といえる。しか
学 を 依 用 し て い る の で あり 、そ の 意味 に おい て 、 キリ スト 教 哲 学
コ スモ ス た る自 然 に秩 序 と運 動 とを も たら す 純 一 無 雑 な原 動 力 と
考 え ら れ て い た の で あ る が、 そ れ は い ま だ 在 来 の質 料 論 的 ・機 械
論 的 説 明 の 域 を 出 る も の で は な か っ た 。 し か し 、 ソ ク ラ テ ス Sokrat
es は 、 形 相 論 的 ・ 目 的 論 的 哲 学 の 道 を 歩 み 、 ヌ ー ス を し て 外
的 な自 然 の秩 序 の原 理 か ら内 的 な自 然 の秩 序 の 原 理 と い う 方 向 に
向 け し め た 。 こ の こ と は プ ラ ト ン Pl
at
on に お い て も 同 様 で あ り 、
し う る も の こ そ が普 遍 的 なも の た る ヌ ー スで あ
形相にして不滅の実在たる自然すなわちイデアーideaまたはエイ
i
dos を 認 識
ドスe
発
開
一
の
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る
。
る 相
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成
、
ち
世
、
為
の 縁
・
界
も
的
起
観
の 法
の 実
は
直
に
を
が
伴
体
っ た
認 す
皆 空
識する能力、その故に最高の直観的能力たるべきものであるイン
する。すなわち、ヌースは、質料を含まぬ純粋な形相たる神を認
体
に
は 見
出
し
が
た
い 、
と
い
っ て
ここに、東洋の仏教のプラジュニャーprajnaが注目されなぐ
客
る 故 に
的
宇
・ 客
一 体
宙
の
、
す
観
総
意 識
発
る
的
否
い
さ
定
・ 固
合 判
と
展
断
せ
定
る
の 契
っ て も
可
機
能
に 捉
よ く
性
を 含
を
ん
を 空
な
ゆ
対
克
念
一 切 法
ではならない。プラジュニャーは、周知のごとく、音訳して般若、
あ
る 主
し
の 観
ね
や 神
で
っ た
い
あ
知
で
、
結
、
的
帰
し
的
れ
践
史
ぼ
覚
の 歴
呼
・ 実
自
想
に
思
慧 と
的
洋
的
の 西
観
心
智
動
中
し て
・ 直
を
性
と
状況を招来していった。これは近代の合理主義的な人間中心。理
的
つの事柄から他の事柄へと推論によって段階的に進む能力であっ
こ
りインテレクトゥスなりを回復させる原理は、その神学や哲学自
訳
体
て 、 そ れ故 に 、両 者 は 静 止 と 運動 、 所有 と 獲 得 と の 関 係 に比 定 さ
る
。 意
主
い
テレクトゥスと、質料と形相とからなるいわゆる自然の実体を認
あ
よ
識する概念的・論証的能力たるラティオとに分けられるに至った
る
れい結局それぞれ完全と不完全とに属することになっている、と
のである。デカルトは、明晰判明知の規則を立て、自然を照らす
あ
を 相
超
で
光としてのこのラティオのみを理性として継承して、人間最高の
の具体的世界において意義を持つ空観であり、あらゆる限定や観
純粋経験ともいうべく、それは、対立観・固定観を否定し、。現実
す
御
相
精 神 的 機 能 と み な し 、 ス コ ラ 哲 学 の 目 的 論 的 ・ 本 質 的 自 然 観 に対
の で
界
、
と 観
し て 、法 則 的 ・ 機 械 的 ・ 現 象 的 自 然 観 を 樹 立 し たの で あ っ た。 も
た も
把 捉
統
ト
ロ ー
ル す
と を
る
倫
斧
理
る
一 す
え
ン
的
る
え
に 世
し
存
超
に
批 判
、
も
心
摂
を
中
体 的
を
空
時
我
包
、
全
論
念
自
を
っと も 、 デ カ ルト は 、そ の ﹃方 法 序 説 ﹄ に おい て 、 疑 っ て い る自
を
識
で あ
的
知
・ 全 知
性
べ て
認
理
論
の す
な
ら 、
理
か
的
在
な
己 は 完 全 で は あり え ず 、 そ れ と対 照 さ れ る﹁ 完 全 な 存 在 者﹂ と い
・
う生 得 的観 念 の う ち に は 現 存 が含 ま れ て い る 、 と し て 神 の 存 在 を
理
し 、
的
。
論
る
学
、 科
い え
象
お り
洋
と
の 対
で
西
、
証明 し 。神 に よ っ て 創 造 さ れ た 物 質 的世 界 の 認 識 へ 向 かう と い う
る
このプラジュニャーは、戒・定・慧の三学のうちの慧であり、
い
持
っ て
立場を取っていた。しかし、近代科学の発展のなかで、延長され
た物 質 の 領 域 の み が科 学 の対 象 と 考え ら れ る よ う に なり 、 神 す ら
疑い、教会に戻らない者を輩出させ、神を知るインテレクトゥス
統
想
コ
る 瞑
を
、 精
を
せ
る 所
の 実
れ
た
る
が な
神
さ
わ
・ 定
な
修
活
定
の 生
安
っ て
自 己
を
律
誓
禅
体
戒
ら
ち
身
ち
自
わ
、
わ
定︵
な
な
戒
定 す
る 。
戒 す
諦
と
と 集
立 す
は否 定 さ れ る に至 り 、ラ テ ィオ が神 に 代 わ って 世 界 を支 配 す る原
成
理 で あ る、 と され たこ と は 、結 局 の とこ ろ 、 自 己 を裁 き 、理 性 を
諦
の 行
み
る 四
礎
る 苦
ゆ
基
の
わ
に
け
い
れ
て
は
こ
お
心
、
れ
ば
し
に
と
ら
け れ
件
諦
統 御 す る倫 理 的 規 準 の喪 失 を意 味 した か ら、 欲 望 の 肥 大化 、利 己
づ け
的自我の克服、一謙虚さ、情緒性、生命の畏敬などの衰弱といった
の下 に 留 まり 、 仏 智 は 発現 し な い 。
﹁ 懴 悔 偈﹂ には ﹁ 我 昔 所 造 諸
の影響を全く払拭してしまわなければ自己は善悪相対の阿頼耶識
非
に 留 ま るの で あ る。 大 乗 に おい て 、三 学 を開 き 、布 施 ・持 戒 ・忍
に
辱 ・ 精 進 ・ 禅 定 ・ 智 慧 の六 波羅 蜜 と さ れ る 場 合 に お いて も 、こ れ
因
der A rchet
ypus と 呼 ば れ る 本 能 的 な 心 の 働 き の パ タ ー
'das kollektive Unbewusste'と名付け、これに人格の基礎を求め
は 自 立 し て 活 動 す る 遺 伝 的 か つ 普 遍 的 な 原 意 識 を﹁ 集 合 的 無 意 識 ﹂
かのユングJung, C.G.は、個人的経験を超え、人間の意志と
ず 。﹂ と 説 く 所 以 で あ る 。
る 。 一 遍 が ﹁ 我 心 は 六 識 分 別 の 妄 心 な る 故 に 、 彼 土 の 修
悪業皆由無始貪瞋痴従身語意之所生一切我今皆懺悔﹂とあ
つて 、 周 知 の 例 で い え ば 、﹃ 法 句 経 ﹄ に ﹁ 禅 な き 人 に 智 あ る な し ﹂
に一 点 の 揺 る ぎも な い。 智 慧 は静 か な 清 い 心 か ら 生 ま れ る の で あ
と あ る ご と く で あ る 。 禅 定 sam adhi は 三 昧 と 音 訳 さ れ る が 、 ま
っ て 諸 々 の 事 象
た 止 観 と も 意 訳 さ れ る ご と く 、 雑 多 な 想 念 を 止 め て 瞑 想 し 、 心 を
一 つ に 集 中 さ せ て 正 し い 智 慧 を 喚 起 し 、 そ れ に よ
を 観 察 し 、 洞 察 す る こ と な の で あ る 。
た 。 元 型
人 生 経 験 に 伴 う 情 動 化 さ れ た 心 理 的 複 合 体 が 囲 繞 し て い る 、 と す
ン の 総 称 で あ っ て 、 そ の 回 り を 、 意 識 の 表 面 に 現 わ れ る こ と の な
と こ ろ で 、 こ の 仏 教 の 唯 識 思 想 に よ れ ば 、 意 識 は 無 意 識 の 深 淵
無
を 背 後 に 持 ち 、自 己 存 在 の 内 面 を 定 す な わ ち 瞑 想 に よ っ て 立 体 的 ・
に
いコンプレックスKomplex、すなわち、生まれてから今日までの
の 底
る 。 そ し て 、 ユ ン グ は 、 こ の 集 合 的 無 意 識 の 中 心 に ﹁ 自 己 ﹂ das
﹁
’
Sel
bst と い う 超 越 的 な 本 当 の 自 分 を 想 定 す る 。 そ れ は 、 意 識 と 無
m anovij
nana
重 層 的 に 掘 り 下 げ て い く と 、 第 六 識 と い わ れ 、 眼 ・ 耳 ・ 鼻 ・舌 ・
潜在し、更に、自己存在の内面をボーリングしていく深層にア・プ
意 識 の 両 方 を 含 ん だ 心 的 作 用 全 体 の 中 心 で あ っ て 、 究 極 的 に は 人
身 の 前 五 識 に 基 づ い て い る い わ ゆ る 意 識
リ オ リ な 根 源 的 意 識 で あ る 阿 頼 耶 識 al
ayav i
j
nana す な わ ち 第 八 識
間の心的な世界の本質をなす﹁内なる神﹂'der Gott in uns'とも
意識的な自我意識ともいうべき末那識manas すなわち第七識が
に 突 き 当 た り 、末 那 識 は 実 は こ れ に 支 え ら れ て い る 、と す る 。 あ た
呼 び う る も の で あ
き
か も 大 海 に 浮 か ぶ 水 面 下
がたくこの一点から発しているように見え、あらゆる最高かつ究
っ て 、﹁ わ れ わ れ の 全 精 神 生 活 の 端 緒 は 、 解
の 心 を 支 え る 無 意 識 の 領 域 が 考 え ら れ て い る の で あ る が 、 し か も 、
極 の 目 標 は こ の 一 点 を ひ た す ら 目 指 し て い る よ う に 思 わ れ る 。﹂
の 流 氷 の よ う に 、 意 識 の 下 に あ っ て 人 間
こ れ ら 深 層 意 識 の 極 、 無 意 識 的 な 心 の 深 奥 に 、 真 実 の 自 己 、 す な
ここにおいて、先の唯識思想が図らずもユング心理学に酷似し
とい う。
在 す る 、 と す る 。 こ の 仏 性 に 伴 う 意 識 が 仏 智 た る プ ラ ジ ュ ニ ャ ー
ていることが知られるであろう。末那識はコンプレックスとの、
わちいわゆる仏性buddhata ないし如来蔵tathagata-garbhaが存
っ て 、 第 九 識 と も 称 さ れ る 。 し か し 、 自 我 意 識 を 捨 て 、 過 去
で あ
発
開
ヤ
一
の
a
ニ
ジ
ラ
フ
87
き よ う 。 し か し 、 ユ ン グの 集 合 的 無 意 識 と は異 なり 、唯 識 に おけ
こ と が可 能 で あ り 、 仏 性 は ユ ング の ﹁ 自 己 ﹂ に 比 定 す るこ と がで
阿 頼 耶 識 は 集 合 的 無 意 識 と の ア ナ ロ ジー に おい て そ れ ぞ れ考 え る
る 。 た と え ば 、 道 元 は 、﹃ 正 法 眼 蔵 ﹄ に お い て 、 端 的 に 、﹁ し る べ
儒教 に も 老 荘 思 想 に も 、 最 も 典 型 的 な形 に おい て は 仏 教 に 見 ら れ
逆 に ﹁ 身 心 ﹂ と 熟 語 さ れ て 、﹁ 身 心 一如 ﹂ な る 思 想 が 広 く 行 な わ れ 、
べき で あ ろう 。 何 と な れ ば、 人 間 存 在 の 深 層 に知 識 や論 理 な ど の
おいて、﹁道を得ることは正しく身を以て得るなり。﹂といってい
に 説 く と こ ろ で あ る 、 と し 、 これ を 前 提 し て 、 そ の ﹃ 随 聞 記 ﹄ に
べ、 体 と 心 は 実 体 に おい て 全く 一 つ で あ る とす るこ とは 仏 教 の 常
人 間 の 意 識 で は 自 由 に な ら な い 独 自 の メ カ ニ ズ ム を持 っ た自 立 的
る 。 身 体 は 意 識 を 包 み 、 逆 に 意 識 は身 体 を貫 い て い るの で あ って 、
し仏法にはもとより身心一如にして性相不二なりと談ずる﹂と述
な 心 があ り 、 そ の無 意 識 層 の 力 に よ って 逆 に人 間 は支 配 され て お
身 体 と 意 識 と は 、二 元 対 立 的 な も の と し て で は なく 、 相 互 浸 透 的
る阿頼耶識の在り方は、修行によって昇華し、浄化・改善される、
り 、 し か も 、 教 育 は 、 こ の 意 識 か ら 自 立 し た無 意 識 層 の生 得 的 な
に把 握 さ れ 、 体 と 心 は密 接 な関 係 にあ る とい う 以 上 に 離 す こ と の
と さ れ て い る。 こ の 唯 識 説 に 基 づく 修 行 論 に、 わ れ わ れ は注 目 す
力を知らず、知識の伝達に終始し、ただ意識の成熟を説くに留ま
で き な い不 離 一 体 の も の と し て考 え ら れ てい る。 確 かに 、 人間 は
考えることがそもそも無理であったのである。
もともと身心の統一体である。デカルトのごとく独立した実体と
っている、といってよいからである。
人 間 は 、 善 と悪 、 美 と醜 と の 自 己 同 一 的 な存 在 で あ る から 、 本
思 う に 、人 間 の 生 は 、 行 動 ・ 言 語 お よ び 意 志 のい わ ゆ る身 ・ 口
能 的 ・衝 動 的 な 欲 望 を抑 制 し て こ そ よ り 価 値 の高 い自 己 の実 現 が
︵ 語 ︶・ 意 の 三 業 に 統 括 さ れ る が 、 身 ・ 囗︵ 語 ︶の 二 業 は 心 に 意 思 す
便随
世間
也。 数息為
遮
意。
去 る も の で は な く 、 心 の 奥 底 の記 憶 の集 積 所 と もい う べき 阿 頼 耶
か し 、 意 志 は も と より 善 悪 の言 動 も起 こ った なり で そ のま ま 消 え
﹂ を そ の 基 本 倫 理 と す る 所以 であ る。 し
図 ら れ るこ と は 自 明 で あ る。 し か し 、 そ の観 念 的 な道 徳 的抑 制 は
是六事
其意
他 律 的 な禁 欲 主 義 の傾 向 を 持 ち 、 し ばし ば神 経 症 そ の他 心身 の ゆ
道故。 離
耳 。﹂ と あ る 。 東 洋 に お い て
る 。 仏 教 が﹁ 自 浄
るこ と に よ って 成 ず るか ら 、意 の 汚染 を断 ち切 る こ と を根 本 と す
意。近
息 相 随 止 観 還浄
が み を 招 く 。 人 間 は 自 らの 心 をも って 心 を コ ン ト ロー ルす るこ と
習
は で き な い の で あ る 。﹃ 大 安 般 守 意 経 ﹄に は ﹁ 念
欲
此六事
相随為斂意。止為定意。観為離意。還為一意。浄為守
意故 行
識にその印象・エネルギーを移す。すなわち、身・口︵語︶の二業
制
によって生じる心の表面の経験も善・悪、浄・染ともに心の最深
能
意
層の阿頼耶識に遺伝子にも比すべきいわゆる種子bijaとして植
人不
は、創造主と被造物といった原理的パラダイムを持たなかった故
。用
で あ ろ う か 、古 来 身 体 と 精神 とは は っ きり と 区 別 され ず 、 む し ろ
現し、本来の自己自身になることを﹁個性化﹂,die Individuation'
Schatten'の領域を越えて生の目標であるいわゆる﹁自己﹂を実
え付け保存される、とする。ユングは、無意識の﹁影﹂'der
は ﹁ 転 識 得 智 ﹂ と い う 。 こ こ に 、第 八 阿 頼 耶 識 を 転 じ て 第 九 識 の
れ て 、 現 存 在 の 意 識 を 変え る こ と と なる 。 こ れ を ﹃ 成 唯 識 論 ﹄ に
わ れ わ れ は 、 自 己 の 自 覚 の 有 無 に関 わ ら ず、 そ の深 層 意 識 に 自
仏 智 す な わ ち プ ラ ジュ ニ ャ ー の 開 発 をみ る ので あ る。
と い っ て い る が 、 そ の 個 性 的 な 人 格 た る た め に 、 超 自 然 的 情 報 の
のみ か かず ら って い る 点 に 問 題 を 感 じ な い わけ には い か ない 。 そ
己 た る 根 元 的 な も の を 組 み 込 ま れ 、人 格化 され て い く 事 実 を 確 認
れ 故 に こ そ 、 身 体 を 通 し て 心 を 統 御 し 、人 間 存 在 の深 層 に何 ら か
源 泉 で あ る無 意 識 が意 識 に向 か って 発 し て い る強 い 感 動 や不 安 を
暗示 を理 解 す る こ と が 大 き な 意 味 を 持 つ こ と は確 か であ る。 人 間
の価 値 を 伝え て こ れ を 変革 し 、 そ の 行為 を善 導 す るこ と によ って 、
し た 。 し か し 、 現 今 の 教 育 が、 心 の内 な る世 界 に隠 さ れ た無 意 識
の 行 為 は善 き に つ け、 悪 し き に つ け 、 心 の深 層 に結 果 を 残 し 、 や
真 実 の 自 己 の 実 現 を 助 成 し 、 真 実 の 智 慧 を開 発 す る真 の 教 育 的 パ
層 の 大 き さ を 知 ら ず 、 主 知 主 義 に 走り 、 ま た表 層 の一 般 的 意 識 に
が て 表 層 心 理 や自 律 神 経 を 通 じ て 身 体 を も 左 右し てい く こ と と な
の み 考え ず 、む し ろ創 造 的 か つ人 間 形 成 的 に解 読 し 、そ の警 告 や
る か ら で あ り 、 や は り 行 動 を 慎 し み 、 言 葉 を 正 し て 身 ・ 囗︵ 語 ︶の
のブラジュニャーをもって西洋のラティオを統御し、東西両洋を
ラ ダイ ム が構 想 さ れ な く て は な ら な い。 そ れに よ って こ そ 、 東 洋
引き起こすメッセージ、﹁内なる声﹂'innere Stimme'を否定的に
浄 化 に努 め なく て はな ら ない 。 善 き も 悪 し き も衣 服 に香 が し み 込
a to rp
S oz ia l
p a d a g og
,
ik
,
F iin fte A
u fla g e
1 922 S 5
.
.
.
.
融 和 し 、 止 揚 す る とい う 世 界 史 的 課 題 に応 え るこ と が可 能 と な る
む よ う に自 己 の 心 の根 本 に 薫発 し 、 そ の性 を 移す 、 と さ れ る の で
P. N
あり、これを﹁薫習﹂'vasana’という。身心は一如であり、心で
︶
ので は な かろ う か。
︱
号、三一〇︱三一ニページ参照。
︵5︶ 川田熊太郎﹁xoaとPrajna﹂﹃印度学仏教学研究﹄第一巻第二
版社。
﹃実 存 と ロゴ ス ﹄三 三 六 ペー ジ ︵ 臼 木 淑夫 ﹁技 術 と科 学 ﹂︶、 朝 日 出
︵ 4 ︶ 臼 木 淑 夫 ・梶 芳 光 運 ・ 田 丸 徳 善 ・ 中川 栄 照 ・見 田 政 尚 ・峰 島 旭 雄
︵ 2 ︶ Ebenda S 54-83
, .
.
︵3︶ 篠原助市﹃改訂理論的教育学﹄一八ページ、協同出版。
︵
心 を 制す る こ と がで き な い か ら 身 体 を 通 し て 心 を 統 御す る 行 に よ
る の で あ っ て 、身 ・ 囗 ︵ 語︶ の 浄 化 を 経 、 意 の汚 染 を断 つ三 業 の
清 浄 に よ っ て阿 頼 耶識 は 薫 習 さ れ て 仏 性 と な る。 調三 業 の 行 に よ
って禅定は深まり、空への扉は開かれて、現存在は真実の自己に
超越し、自己の絶対転換を実現する。かの善導の﹃往生礼讃偈﹄
に﹁三業清浄奉持仏教﹂とあるのは這般の消息をいうのであっ
て 、 三 業 の 清 浄 に よ って 、知 ら ず識 ら ず の う ち に 、 心 の 奥 底 に 沈
澱 し て き た諸 々の 経 験 も 善 の 種 子で 満 た され 、阿 頼 耶 識 は浄 化 さ
発
開
一
の
ヤ
ユ
ニ
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︵7︶ 友松圓諦﹃ダンマパダ︵法句経︶﹄四一八ぺージ、真理運動本部。
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冊。一七一︱一七ニページ。
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︵6︶ トマス・アクィナスパ︵高田三郎 大鹿一正訳︶﹃神学大全﹄
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Jung, Zwei Schriften uber Analytische Psychologies
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︵8︶﹃大方広仏華厳経﹄巻第四十、﹃大正新脩大蔵経﹄第十巻華厳部下、
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︵9︶ 大橋俊雄﹃一遍上人語録︱付播州法語集︱﹄七七ページ、岩波書
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