Comments
Transcript
Page 1 州工業大学学術機関リポジトリ *kyutaca 『 Kyushulnstitute of
九州工業大学学術機関リポジトリ Title Author(s) Issue Date URL 良心の成立(V) レー, パウル; 栗山, 次郎 1996-03-29T00:00:00Z http://hdl.handle.net/10228/2965 Rights Kyushu Institute of Technology Academic Repository 鵬 良心の成立︵V︶ 序言 阜心が生じて来る要因は、 パウル・レー著 栗山次郎訳 一 処罰 二 神による処罰の認可 である。 三 道徳上の掟及び禁止 これら諸要因の成立は人類の歴史の内にあり、良心自体 の成立は個々の人間の内に探ることが出来る。 理の部よりなる。 これにしたがって本書は二つの部分、即ち歴史の部と心 目 次 一七共同体、国家による復讐の買い上げ支援 ニ 一 超自然的説明 一八 国家への金銭支払い、ゲルマン法の和平金、 フ ー4序論 三 超自然的説明と自然的説明の闘い 紀要︵人文社会科学編︶第八号所載] 二 自然的説明 処罰の原初形式[以上九州工業大学情報工学部 四 哲学における超自然的説明 一九 処罰 五 哲学における自然的説明 第二章 神による処罰の認可 二〇 神々の起源 第一書歴史の産物としての良心 二一神々の人類近似性[以上﹁九州ドイツ文学﹂第 郎 七 良心の形式と内容 第三章 道徳上の掟及び禁止の歴史的起源 六 良心の記述 九号所載] 次 八 良心と道徳哲学者 二ニ キリスト教倫理[以上本号] 九 良心と低文化段階 山 一〇 結論 第三書 個人における良心の成立 栗 = 研究方法 二一二 心理的事実 [以上﹁かいうす﹂第三一号所載] 二五 定言的命令の成立 一二 研究経過 二四 概念内容 第二書 人類における良心の諸要因の成立 二六 報復の概念︵正義感︶ 第一章処罰の成立 二七良心 一三 復讐とその歴史家 二八 共感は善、反感は悪という概念混合 一五 低文化段階での復讐 三〇 低文化段階での道徳判断 一四 復讐欲と正義感 二九 同情の起源について 一六 復讐の買い上げ [以上﹁九州ドイツ文学﹂ 三一 定義︵要約︶ 第八号所載] 派はこれを説いた。エピクテトスは、﹁自分の息子を叱ら 第二書人類における良心の諸要因の成立 なければ、息子をろくでなしに育てることになる。君がも 、 し進歩を望むのであれば、このことをしっかり考えるべき である。というのも君は自分が不幸であるよりも、息子が いる。 第三章 道徳上の掟及び禁止の歴史的起源 ろくでなしになる方を善としているからである﹂と述べて ニニ キリスト教倫理 グロートによれば、プラトンの倫理学も本質的にエゴイ 殺人、強奪、詐欺を国が禁じ、それが個人に関して適用 スティックである、﹁プラトンは人々がエゴイスティック W されたとしても個人の幸福が充分に保証されるわけではな な道徳理論と呼んでいるものの対立物を理論化し、それに 立 い。人々の幸福願望はより完全な保護を求める。国家によ よって有名となった[⋮]。これは彼には似合わない 成 る禁止が人間にもたらし始めた幸福を完結させるのは道徳 名声である。というのも、正義を為そうとか不正を避けよ ② 論者及び彼らによって作り出されると共に彼らに類似して うとする動機は・プラトンにとっては単に行為者自身の幸・ 尤 良 いる神々である。 不幸判断に存していたのであるから﹂︵グロート﹃プラト 人々はそれを達成するのに二つの方策を採用した。各人 ン﹄1=二一、=二一二頁︶。 が自力で自分をこの世界の苦痛から解放し、自分を幸福に 仏陀も自己救済を求めている。伝説によれば、外で病人 するというのが一つ。他は、多数の人々が互いに協力しあ と老人と死者を見た折りに感じた老病死という人間の悲惨 って、みんなが幸福になるべしという方法である。 さの三形式が彼に大きな影響を与えた。その結果、王位を 最初の方法を提案したのは古代ギリシアのモラリストた 捨て、如何にして人はそのような大きな苦しみから脱せ得 ちであった。どういう行為が自分を幸福にするか、最小の るものであるかを考える道を選んだのである。最も簡単に 不快を、最大の快楽を、またはその両方を得るにはどうす 見える自殺という道も有効ではない。輪廻の教えがそれを 46 ればよいか。ストァ派とエピクロス派、犬儒派とキュレネ 妨げている。自死した者は再び生まれ来たり、改めて老病 三 囑 死に直面するのである。それに対し、生そのものへの意志 る﹂︵同前五一、二九八、三〇八頁︶。 四 と生の形式への意志︵名誉心、愛︶を自分の内で完全に抑 従って仏陀自身が先ず救われた。しかし彼は同情から自 え込んだ人、言はば一つ一つの衝動を消し得た人こそ死に 分の思考の結論を他に伝えようとした。﹁彼は世界へのあ 際して善き、且つ全き死に至るのであり、苦しみの道から われみ、民の幸福のために弟子とともに旅を続けた﹂︵同 永遠に自由になるのである。 前=二一二頁︶のである。 そのような心性を得たという想いが同時に地上の最高の 本書は、私たちが親切行為を賞賛すべきとし、エゴイズ 善である、﹁快と欲を自ら放棄した弟子が知恵ある者であ ムや残酷さを避難すべきと識らず知らずのうちに判断して り、この世で死からの救い、静識、浬樂、永遠の地を得た いる理由を求めようとしている。その意図からすればキリ β 者か であ に ﹁ ス汝 トの 教敵 のを 倫愛 理せ はよ 特﹂ にと 重い 要う で掟 あは るキ 。リ 親ス 切ト 心教 に対 良 くる て﹂ 仏︵ 教オ 徒ル にデ とン っブ てル はク キ﹃ リ仏 ス陀 ト﹄ 教二 に七 言〇 う頁 地︶ 獄。 は. 地 上 倫す 理る で評 は価 特、 別な 次あり・キリスト教で求める天上は全き無三ルヴァーナで 地位を有している・イ三がそのような評価を作り出し、 山 ある。﹁インドの熱い太陽の下での疲れた身体にとって冷 そのような掟を口にしたのはなぜであろうか。好意によっ 栗 たき影の下での休息が最上の善き事である如く、疲れた精 てである。父親が子どもを愛するが故に子どもたちにお互 神にとって静詮、永遠の静寂こそが求める唯一のもの﹂で いに愛せよと説教するのに同じく、イエスは自分の持って あった︵同前二二五頁︶。このシステムにとって同情、他 いた隣人愛から隣人愛を説いたのである。 人に身を捧げる行為、敵を愛する心は、それらが生気あふ 好意がそもそも可能であるのは如何にしてであるのか、 れるエゴイスティックな衝動の消滅を意味している限りに 他人の苦痛が自分の苦しみを、他人の喜びが自分の快を呼 おいて、しかるべき位置を占めている、﹁慈善の本来的な び起こすのは如何にして可能であるのかについては第二九 要因は禁欲的自己犠牲の背後に隠れてしまう。仏教は敵を 節で詳説するつもりであるが、いつれにしてもそのような 愛せよとは言わない、敵を憎むなとも言わない。道義は世 感覚が存在しており、キリスト教関係の本の中では特に強 界の中での行為形態ではない。世界からの自己消滅であ 調されているのである。 そのようなイエスの性格をより深く理解するためには彼 よれば、すべての人間は血を同じくしており、天上におけ の生涯のさまざまなシーンを思い出してみるのも一つの方 る一人の父親から生まれたものであるという考えを奇異な 法である。そこでは人間の悲惨さが感動的に、分かりやす 説だと聞かなかった民族はどこにもいなかった。どの民族 く表現されているので、人々は自分の健康さとか自分の持 も自分たちの神は他の民族を敵意を以て見ていると心底か ち物とかをあたかも非難の対象であるかのように感じ、人 ら考えていた︵﹃アーリア民族﹄一九頁︶。上述した如く、 間の悲惨さを減らすためには自分の生活さえも捧げるべき イエスの隣人愛はこの枠を打破した。イエスの隣人愛はす であるように思い込むのである。イエスのおいてはこの傾 べての人間を対象としている。 向は一時的心情ではなく、継続的状態であり、本来的性格 更にイエスは旧約聖書の教えを深化させてもいた。旧約 α であった。 においてはもともと、﹁殺すな﹂、﹁嘘言するな﹂、﹁不貞を 立 旧約聖書の指示に従い、自分が属している民族の成員を 働くな﹂など他人に不利となる行動を禁止するところにそ 成 心から尊敬する。これだけでは、イエスの燃えるような隣 の倫理の主眼がおかれていた。イエスは旧約聖書よりも深 シし ② 人愛は満たされない。彼が﹁汝自身を愛する如く、汝の敵 く思索し、そもそも他人に不利となる考えをも禁じた。 ∪ を愛せよ﹂と説教した時、そこには全人類が想定されてい ﹁汝らは﹃姦淫するなかれ﹄という教えを聞いた事がある たのである。かくて彼は、小数の文明化された民族に共通 だろう。しかし私は汝らに告げる。女性を見る時、その女 する教えを表現しているにすぎない旧約聖書の教えを拡大 性に欲情をいだく者は既にその女性を心の内で姦淫してい したのである。 るのである。汝らは﹃殺すなかれ。殺す者は裁きを受け入 旧約においては見知らない外国人は敵であった。カール れるべし﹄という教えを聞いた事があるだろう。しかし私 ・フリードリッヒ・ヘルマンの﹃ギリシア古代国家﹄によ は汝らに告げる。兄弟を怒る者は裁きを受ける﹂︵マタイ れば、言葉の上では﹁外国人﹂と﹁敵﹂とはもともと同義 伝第五章二七節︶。更に彼は隣人愛の心性を命じてもいる。 であった︵ヘロドトス六書二節︶。ラテン語のおいても事 ﹁汝らは﹃姦淫するなかれ﹄、﹃殺すなかれ﹄、﹃盗むなか @情は同じである︵キケロ﹃義務論﹄1一二節︶。ハーンに れ﹄、﹃嘘言するなかれ﹄、﹃倉ぼるなかれ﹄という教えを聞 44 五 六 ⋮⋮ いた事があるだろう。今一つの掟がそれに勝る。それは はイエスの個人的な願望の域を出なかったであろう。親切 ﹃汝ら隣人を愛せよ、汝ら自身よりも﹄である。愛は隣人 を為し、説教するのがイエスの性格にまさに合致していた に何も悪をなさない﹂︵ロマ書第=二章九、一〇節︶。 という事情があったにしても、﹁汝の隣人を愛せよ﹂は普 ︵ベンサム流の説明法で︶旧約聖書での掟と新約聖書で 遍的で命令的な道徳律の地位にまでは達しなかったであろ の倫理を二つの輪で比較してみよう。共通する中心は幸福 う。その指示は命令としては機能せず、イエスの推薦事項 の達成である。この中心の周囲を旧約聖書の教えが小さな として個人的な好みを流布させているとしか見なされなか 円を描きながら回っている。これは一つの民族の幸福のみ ったであろう。 を対象としており、他人に不利となる行為を禁じている。 イエスは単に人間を愛するという人物ではなく、神を愛 8 全 イ人 エ類 スの の幸 教福 えを は求 大め きて なお 円り を、 描他 き人 なへ が不 ら利 回と っな てる い心 る性 。を こも れ禁 は で しあ 、る 神よ をう 形に 成、 す彼 るも 存識 在ら でじ も知 あら っず たの 。う 神ち のに 創愛 造と 者い がう 全彼 て自 そ身 う 良 次じている・小さな輪は大きな円よりも成立は古い・先ず荒 の本性を神性の中に見ていたのである、﹁神は愛である﹂ 山 削りの輪が作られたのである。殺人や強奪に関する禁止は ︵ヨハネの第一の書第四章八節︶。神は、神の形成者イエ 栗 個人のエゴイズムと個人のエゴイズムの間にたてられた防 スに同じく、人間を愛する。神は、イエスに同じく、人間 御用枠組みであった。それが先ずは平和を作り、幾分か洗 が互いに愛するよう望む。 練されたシステムの基礎が構成された。ベンサムは小さい 神が人間愛を語るようになった理由、﹁汝の隣人を愛せ 円を﹁法﹂と言い、大きい円を﹁道徳﹂と呼ぶのである。 よ﹂が神的なる、すなわち、万人に尊敬されるべき指令と イエスは全人類を同じ愛で包むことによって、旧約聖書 なったいきさつについてもう少し詳しく検討してみよう。 心性にアクセントを置くことによって、旧約の教えを内に 存在することを知っていた。しかし彼の考えからすれば、 の教えを外に向かって広げた。同時に彼は行為にではなく、 イエスは神を創り出した訳ではない。彼は事前にそれが 向かって深化させもしたのである。 それは狭く、小さかった。イエスには似ていなかった。ま イエスが単なる慈善家であったのであれば、隣人愛の掟 さにそれ故に、彼はそれを識らず知らずのうちに変形し、 自分に似せたのである。 のではない。強い風、竜巻、地震、そよぐ風もエホバの出 そもそも神というものがどのように成立してきたかにつ 現を示している。彼は怒れば雨を降らせない。怒りを解け いては既に述べた。弱く、畏れ、希望を胸に持つ人間は雷 ば雨を降らせる。炎と光はエホバの付属物であり、輝く天 や地震という自然現象及びその原因の前にひざまずかざる はその力を示す。誰も近づくことの出来ない炎は彼の力を を得なかった。エホバの成立もこれ以外のところにはない。 見せつける。ここに示されているのは日の出から日没まで エホバはもともと雷の神であり、風の神であった。ティー 地を満たし、木も草も枯らすことなく照らし続ける日光で レによれば、時代が下がってもエホバを語る予言者や詩人 ある。風はカオスたる地上をなでる息である。アダムとイ の語り口にはエホバがもともと自然神であった様子がみて ヴはさわやかな朝と夕べの風にその姿を現す。これらを見 W とれる。六、七世紀の資料には﹁光は彼の服であり、風は れば、エホバはもともと天の神であったことは明かである。 立 彼の息である﹂とある。これは比喩的な表現ではあろうが、 とは言え、目に見える空がエホバと言うわけではない。 成 もともとは字義通りに解されていたのである。意味すると 見える空に隠れた神であり、自然神の中で最も崇高な神で ⋮ころは明かである.通例エホバは嵐の形で現れる.人間やあ亘すべての天空現象の原因であり宇宙全体に広がる 棺﹂に触れる者は死に倒れるという民間信仰はこの思考と に見える天空での自然現象から見えざるものへ昇華するこ 良 動物を驚かせる雷はエホバの声である。そして稲光によっ 生命の原理にして、源泉である。この自然神は多くの神話 て敵を倒す。エホバの住まいと信じられている﹁契約の では雷神とされている。自然宗教に基盤を置きながら、目 深いつながりがある。激しい嵐の中で十戒が告知されると とにより、人間生活との比類から天の魂、全宇宙と天上の という驚愕の現象が民衆にとっては神の出現であり、神と る。 いうのも同じ事情である。稲妻が光り、雷鳴がとどろく雲 隠されたる生命原則として崇拝されるようになったのであ の契約を感じる瞬間である。天上の炎によるエリアスのい モーゼは、言葉の厳密な意味において、一神論者では有 けにえも同じ考えによって説明される。嵐はエホバの重要 り得なかったようだ。最高神たるエリオンは国々をエルの @ 且つ印象深い出現ではあるが、エホバはそこにだけ現れる 息子たちに分け、エホバにはイスラエルの民を与えた、と 42 七 八 ⋮⋮ いう伝承が時代が下がってもなお伝えられていた。更に時 に人間的でない全てのものが排除されるに至った︵﹃比較 代が下がっても、エホバ自身が分割を為し、さまざまな民 歴史論﹄四九一頁以下︶。 を太陽と月と星々に与え、自分のためにはイスラエルを確 イエスは神性を拡大しただけでなく、それを深化させた。 保していた︵﹃エジプトとセム族の古代宗教比較論﹄︵オラ 旧約聖書の主要部分が﹁殺すなかれ﹂、﹁盗むなかれ﹂、﹁嘘 ンダ語︶三四二頁以下。キューネン﹃イスラエルの宗教﹄ 言するなかれ﹂などの十戒にあるのを見れば明かなように、 ︵オランダ語︶二二三頁も参照︶。 旧約の神は本質的に法の、処罰に関する、一人の神であっ イエスの時代までエホバはその本質において、民族神で た。愛の神ではなかった。イエスは、神を創り出した人物 あり続けた。イエスが最初に人類全体を見て、神性を拡大 がそうであったように、自分の性格の基底本性を識らず知 β と しな たっ 。た 一。 つこ のこ 民に 族地 の域 守主 護義 神・ か個 ら別 全民 て族 の主 民義 族に 、代 全わ 人っ 類て 、普 の遍 父 体 ら化 ずし のた うの ちで にあ 神る の。 基イ 本エ 性ス 質が と人 し間 たを 。愛 神す のる 中如 にく 自、 分彼 のの 愛神 をは 基 良 次主義が登場する・このような震が旧約馨に少しも見ら 人間を愛する.碧その息子をこの世界に送ったことの中 山 れなかったという訳ではない。ティーレはその点を指摘し に私たちに対する神の愛が示されている︵ヨハネの第一の 栗 ている。﹁特にイザヤ書にはユダヤ主義の最終的な進化が 書第四章九節︶し、私たちが神を愛したところにではなく、 みてとれる。しかしそこに予言されているのは人類宗教へ 神が私たちを愛し給うたところに愛は存する︵同一〇節︶ の萌芽に過ぎない。そこではセム族の宗教における基本原 のである。 則たる神権政治がその最高の発展段階まで達しているので 神が愛を備えている結果として隣人愛も認可されること はあるが、民族宗教・部分宗教は大いなる拡大を経験する になる。この関係は、神が愛または愛の性質を有してこそ という考えとその神権政治が密接に結びついたままで終わ 神は立証されると考える人が多い点を見ても納得されるの っている。部分的普遍論である。宗教分野での民族性の克 である。これに関して考慮すべき点が二つ生じて来る。 服という大いなる一歩はまだ踏み出されていなかった。イ 一 愛する人は対愛を求める。かくて神は、人間が神を エスの教えにおいて初めて普遍的でない全てのもの、純粋 愛し返すよう求める。 ︶ 二 愛する者は、自分にとって貴重なるものを愛されて 互いに愛するのである。 いる者も貴重に扱うよう要請する。かくて神は、自 神は燃える愛を以て人間に与えられている。それ故に神 分にとって貴重な人々を誰もが愛するように、すな は、私たちが直接的にばかりではなく、間接的にも燃える わち誰もが人類を愛するように要請する。 如く神を愛し返すよう求めるのである。神を無限に愛する 最初の視点に関しては次のように記述されている。 が故に、私たちは私たちの仲間たる人間を無限に愛さなけ .︵ヨハネの第一の書第四章一九節︶神がはじめ我らを ればならない。人間の自然な感情に従えば憎悪や復習心を 愛し給うたが故に、我らをして神を愛させ給え。 呼び起こすに違いないような振る舞いを誰かが私たちに加 人間への神の愛は、神を創ったイエスの人間への愛に等 えたにしても、私たちは神への愛から、相手を愛し続けな σ しく、燃える如く激しい。かくて神は燃えるが如き対愛を ければならないのである。 立 求める。 ・︵マタイ伝第五章三九節以下︶誰かが汝の右の頬を打 成 ・︵マルコ伝第一二章三〇節︶汝は汝の主である神を愛 たば、相手に左をも向けよ。 団 すべきである。全ての心、全ての魂、全ての思い、全 汝らを訴えて下衣を取ろうとする者には・上衣をも 良 ての力を以て。 取らせよ。 後者の視点に移ろう。神を真に愛する者は神にとって貴 汝らは今まで﹁隣人を愛し、敵は憎むべし﹂と聞か 重なる人々をも愛せよと言う要請については次のように述 されて来たであろう。しかし私は汝らに告げる。汝ら べる。 の敵を愛せよ。汝らを呪う者に祝福を与えよ。汝らを .︵ヨハネの第一の書第四章二一節︶神を愛する者は自 憎み、侮辱する者に慈善を為せ。天上においでになる 分の兄弟を愛する。 汝らの父の子となるために。 .︵同二〇節︶﹁我は神を愛す、しかれどもわが兄弟は ・︵ロマ書第一二章二〇節︶汝らの敵が飢えておれば、 愛さず﹂という者は嘘言者である。 彼に食事を与えよ。渇いておれば、彼に水を飲ませよ。 40 神への愛は人類への愛に通じる。人間は神の中において 神は擬人化されて、人間への愛が添えられているのであ 九 一〇 ⑨ る。その結果として、神は対愛を求め、人間が自分への愛 なる。それを列挙してみよう。 から神の心にある人間をも愛するよう要求する。しかもそ ・︵ロマ書第一章五節以下︶汝が心固く、悔い改める心 の範囲は広く、深い。しかし神は人間が自分や人間に対し なければ、怒りを積みことになる。神の正義の裁きが て持つ愛を深く気に留めているが故にこの愛が十分に認可 現れ、怒りの示される日に向けて。神は神の技に従う されている、とは言い難い。神への愛を感じない人や愛を 者には、名誉と賞賛を与える。忍耐を以て善き技にお いだけない時に対してはどのように対処すべきであろうか。 いて永遠の命を目指す者には移ろい行くことなき命を 愛がないなら仕方がない、事態はこれで終わり、となるの 与える。争いを好む者には怒りと不興を下す。悪しき であろうか。そうではない。その時は愛の第三の性質が立 を為す者全ての魂には不安と苦境を、善きことを為す B し ち返 現す れこ てと くが るな 。い 私場 た合 ちに がは 愛、 し愛 ては い怒 るり 人へ がと ど変 んわ なる に。 し愛 てが も激 愛 ・ ︵ 全マ てタ のイ 人伝 に第 は= 平二 安章 と四 賞九 賛、 と五 名〇 誉節 を︶ 与世 え界 るの 。終わりに立 良 次しければ激しいだけ・怒りも深い・ ち至るであろう。エンジェルが抜け出て、正義なる者 山 その意味では神の愛は制限付きである。無制限ではない。 と悪しき人を分けるであろう。悪しき者たちを嘆きの 栗 神と神の創造したる人間を愛そうが、愛すまいが、神のも 声と歯ぎしりに満ちている煉獄へ下すであろう。 のとされた愛は揺らぐことなくふりそそぐ⋮とうわけ ・︵ヨハネ伝第五章二九節︶善きことを為した人は生命 ではないのである。対愛を拒否し、神の創造物を少しの愛 の蘇りを得る。悪しきを為した者は裁きへ帰る。 もなく無慈悲に扱うようなことがあれば、愛は怒りに変わ ・︵ルカ伝第一四章=二、一四節︶人を食事に招く折り るのである。神を愛し、神への愛から人間をも愛する者に は貧しき人、不具の者、体の萎えている者、盲た者を 対しては、神は愛と愛の贈り物を以て至福をもたらす。 招け。それによって汝は祝福を得る。というのも彼ら 神と人間を愛すれば幸福をもたらし、愛することなけれ は汝に報いるべきものを有していないが、裁きがよみ ば1一時的または永遠の1不幸を降りかからせる。こ がえる時、汝は報いられるのである。 れによって始めて、この愛はしっかりと肝に銘すべき掟と ・︵マタイ伝第一〇章四二節︶一人の弟子の名前におい て、まことに、私は告げる。これらの小さき者の一人 りいただきましたか。裸でいるあなたに何時着物を差 に一杯の冷たい水を飲ませる者は報いられざることは し上げたでしょうか。病んでいたり、獄につながれて ない。 いるあなたを何時目にしたでしょうか。そして何時訪 ・︵マタイ伝第二五章三一節以下︶人の子が栄光に包ま うたのでしょうか﹂。 れ、エンジェルに囲まれ来たり、その栄光の座にすわ 主は彼らに答えて、言われるであろう、﹁私はまこ り給うであろう。その方の前に全ての民は集まり、羊 とに汝らに告げる。私の小さき兄弟たちの一人に汝ら 飼いが羊と山羊を分けるように人々を分けるであろう。 が為したことは私に為したことである﹂。 羊は彼の右側に、山羊は左側に置くであろう。 それから主は左にいる者たちに告げられるであろう、 V それからこの王は右に向かって語られるであろう、 ﹁私より去れ、汝ら呪われたる者たちよ、悪魔とその 立 ﹁わが父に祝された者たちよ、来たりて、世界の始ま 使いたちに用意されたる永遠の業火の中へ。私は飢え 成 りより汝らに準備されたる王国を受け継げ。というの ていた、汝らは私に食事を与えなかっか。私は渇いて ゴし ② も私が飢えていた時、汝らは私に食事を与えた。渇い いた、汝らは水を飲ませてくれなかった。私は泊めて 臭 ていた時、水を飲ませてくれた。客として、旅の宿を もらおうとした、汝らは私に宿をかさなかった。私は かしてくれた。裸でいた時、着せてくれた。病の床に 裸であった、汝らは私に着せてくれなかった。私は病 ある時、私を訪ねてくれた。獄につながれていた時、 んでいて、獄にあった、汝らは私を訪うては来なかっ その時心正しき人々は答えて述べるであろう、﹁主 彼らは主に答えて、言うであろう、﹁主よ、私たち 私のところに来てくれた﹂。 たL。 よ、何時私たちはおなかを空かしているあなたを目に は飢え、渇いているあなたを何時見かけたと申すので したでしょうか。何時食事を差し上げたでしょうか。 しょうか。旅しているあなたを、病んで、裸で、捕ら 渇いていた時と申しましたが、何時水を飲まして差し われているあなたを。そして何時あなたに仕えなかっ 38 上げたと言うのでしょうか。何時私のところにお泊ま たと申すのでしょうか﹂。 = 一二 ⋮⋮ 主は彼らに答えて、述べるであろう、﹁まことに私 を愛さなければならない、汝自身の如く。なぜなら私が主 は汝らに告げる。私の小さき者たちの一人に汝らが為 であるから︵レビ記第一九章一八節︶。ミカエリスによれ さざりしことは、汝らが私に為さざりしことである﹂。 ば、この節は、﹁掟は汝が誰かを憎むことを許さない。相 そして彼らは永遠の苦境に行き、正しき者たちは永 手が汝の敵であり、以前汝を侮辱していたことがあるから 遠の生命に向かう。 と言って汝が与えた侮辱を大目には見ない﹂と解されるべ 旧約聖書とその神は、前述した如く、単に他人に不利と きである︵﹃モーゼの法﹄n二一頁︶。そう解すれば、旧約 なる行為を禁じているにすぎない。盗んだり、欺いたりを 聖書での表明も他人に不利となる行為に対する国家からの 禁じている国家の方針を民族の神が認可しているのである。 禁止を言い替えているにすぎない。新約での愛の掟の前触 ﹃ シュトイドリンによれば、モーゼは多くの奴隷の規律を明 れは他にもある。 良 確にさせようとした。現在で言うところの政治的秩序であ ・︵申命記第一四章一八節︶汝は三年ごとにその年の収 次る・モ|ゼが与えようとしたのは・政治的掟である・これ 穫の+分の一を分けて置いて、汝の街の内に蓄えて置 山 を否定する人はいない︵﹃イエスの道徳の歴史﹄1一六八 くべきである。そこには汝とは血のつながりの少しも 栗 頁︶。 ないレビや、街の内に住むよそ者やみなし子や夫を亡 旧約聖書にあるのは行為と民族の神であり、新約聖書に くした女性が来たり、食し、心を満たすであろう。汝 は心性と世界の神がいる。 の主たる神は汝が手でなしたる全ての技において汝を 旧約には新約聖書に語られている教えが少しもみられな 嘉さんがために。 いと言うわけではない。前述したように、世界神の姿も示 ・︵同第二四章一九節以下︶汝が取り入れを為した後、 されているし・愛の掟も響いてはいる。否、﹁汝自身を愛 取り入れの束をいくつか畑に忘れたとしても、それを する如く・汝の隣人を愛せと﹂という原則さえも既に旧約 探しに畑に引き返すべきではない。それはよそ者やみ にみられるのである。﹁復讐的であってはならない。汝の なし子や夫を失った女性のものとするべきである。汝 民の子どもに対して怒りをいだいてはならない。汝は隣人 の神たる主が汝の手の全ての技において汝を嘉さんが ために。汝がオリーブの木を揺すり、実を拾った時、 あることは次を見れば明かである。 拾い揺すりをしてはならない。木に残っている実はよ ・︵申命記第二三章一九節以下︶汝は汝の兄弟から利子 そ者やみなし子や夫を失った女性のものである。ぶど を受け取るべきではない。金銭において、食物におい うを摘む時、拾い摘みをしてはならない。残っている て、利子を得ても不思議ではない全ての物において。 ぶどうはよそ者やみなし子や夫を失った女性のもので よそ者からは利子を得てよい。しかし兄弟から得て .︵出エジプト記第二三章一〇節以下︶汝は六年の間そ が為したる全てのことにおいて、汝の神たる主が汝を ある。 はいけない。汝が得んために来たりし土地において汝 の土地に種を蒔き、その実を取り入れるべきである。 嘉さんがために。 立 きである。汝の民の中の貧しき者がそこから食し、な bd。﹁ばPO碧二︶已問。犀而﹃ゴく旦①σq三。。。。O︶ W しかし七年目にはそこを休め、手を触れないでおくべ ︵勺①巳勾∩費08国日゜・穗古已oσqエ窃○。目・⋮而コ㊤ 成 お残りたるは地の獣たちが食す。オリーブの山もぶど 、也 ② うの畑も同じようにするべきである。 良 .︵同五節︶汝を憎んでいる者のロバがその荷に苦しん でいるのを見た時、それを放置せず、そのロバのため に汝のものを取りのけるべきである。 ・︵ヨブ記第三一章二九節︶私の敵に悪しきことが起っ た時、私は喜んだであろうか。敵に不幸が襲ったこと で私は鼻を高くしたであろうか。 えよ。渇いていれば水を飲ませよ。 ・︵箴言第五章二一節︶汝の敵が飢えていればパンを与 36 このような掟を定めている神は、しかし単なる民族神で =二