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科学技術人材育成費補助事業

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科学技術人材育成費補助事業
現 場 で 生 き る 9 人の キャリアモ デルファイル
科 学者 としての
働き方。
科学技術分野における人材の育成、確保、活躍促進のため、
(1)独創
的で優れた研究者を養成するため、大学及び公的機関が、公正で透明
性の高い人事制度により優秀な人材を登用する「テニュアトラック制」
を支援する事業、
(2)博士人材の専門能力を産業界などで生かすため
のキャリアパス開発を支援する事業、
(3)女性研究者の一層の活躍促
進に向けた環境整備を支援する事業が、科学技術人材育成費補助事業
において実施されています。本冊子に登場するのは、これら文部科学省
科学技術人材育成費補助事業のもとでキャリアを磨き、現在活躍されて
いるみなさんに加え、キャリアモデルとして注目される方々です。研究
者として独立、会社に勤務し能力を活かす……等それぞれの分野で活
躍する 9 人が「今」に至ったもの・ことについてクローズアップしています。
制がんを目指して、
真摯に研究に取り組み続ける
福井大学 医学部医学科 教授
青木 耕史 さん
悩み続けろ、思考を止めるな
北海道大学 遺伝子病制御研究所
テニュアトラック講師
三浦 恭子 さん
自分の研究と向き合い、
プロセスを楽しもう
東京大学 分子細胞生物学研究所 病態発生制御研究分野
特任准教授
岡田 由紀 さん
研究成果を世に出すため、
フルスピードで走り続ける
MVP株式会社 専務取締役
武田 泉穂 さん
行きたい道を行く、
やりたいことをやる
東北大学 大学院生命科学研究科 生命機能科学専攻
発生ダイナミクス分野 教授
杉本 亜砂子さん
博士課程での経験が、
ものづくりの現場で活きている
株式会社日本製鋼所 研究開発本部 広島研究所
材料・分析グループ 研究員
植田 直樹 さん
名古屋大学物質科学国際研究センター 教授
名古屋大学 大学院理学研究科 教授
唯 美津木 さん
ひとつひとつ積み上げて、
自分の立ち位置を確立する
流されてみる。
それもひとつの道
日立造船株式会社 機械事業本部 開発センター
東京大学 大学院理学系研究科 生物科学専攻 教授
電池プロジェクトグループ 研究員
府金 慶介 さん
塩見 美喜子 さん
編集後記
成果を出し続けるための生き方を見つけ、
制がんを目指して、
他者の生き方も認めよう。
真摯に研究に取り組み続ける
青木 耕史 さん
福井大学 医学部医学科 教授
東京大学薬学部を卒業後、京都大学大学院医学研究科で博士号を取
得、博士研究員を経て同研究科遺伝薬理学教室に助教として採用された。
その2年後、戦略的創造研究推進事業さきがけの採択を受けるとともに、
テニュアトラック普及・定着事業を活用して独立し、Principal Investigator
(PI)
となった。
さらに2年後には、38歳の若さで福井大学医学部医学科薬
理学領域の教授に就任。経歴だけを見ると誰もが羨む「成功コース」に
乗っている青木耕史さんだが、
その道は決して平坦なものではなかった。
るもの・こと
い
て
っ
く
つ
を
ん
さ
史
今の青木 耕
を信じて、
研 究のインパクト
レベルを
投 稿する論 文 誌の
たこと
落とさず、受 理され
算を獲 得し、
独 立するための 予
採 択を受けたら
を探したこと
すぐにポジション
る、
集まる場に参 加す
優 秀な研 究 者が
けるなど、
積 極 的に仕 事を受
続けたこと
新しい 刺 激を受け
青木 耕史 さん
創薬を目標に、
腸疾患のメカニズムを追う
東京大学教授)や木村暁氏(現・国立遺伝学研究所
准教授)などの、卓越して優秀な学生がいることを
目の当たりにしました」
。一方で、がん遺伝子やが
ん抑制遺伝子への興味が強かった青木さんは、4 年
「とにかく治療薬の標的を見つけて、疾患の治療
生の卒業研究には、遺伝子変異マウスを用いて大腸
に貢献する基礎研究をしたい」
。大腸がんや炎症性
がんの研究を進めていた武藤教授のラボを選択し
腸疾患に共通する分子メカニズムの研究を進める青
た。その後、福井大学で独立するまでの 13 年間に
木さんは、そう力強く話す。まだ 39 歳という若さだ
わたって所属した武藤研のラボ選択について、
「今
が、
「こういう研究者になりたいとか、研究室を大き
は感謝しかありません。ただ当時は、楽しいけれど
くしたいとかは、特に考えていません」と言い、ただ
つらいことも多かった」と語り始めた。
成果をもって社会に貢献することを目指している。
研究の世界に足を踏み入れたのは、学部 2 年生の
後半。生命現象の中でも細胞の増殖制御や、その異
学生時代から
「自調自考」を実践した
常によるがんに強い興味をもち、3 つの研究室で勉
強をさせてもらった。お世話になったのは、入村達
とにかく教育的指導が厳しくも優れている。武藤
郎教授、堀越雅美准教授と武藤誠教授のラボだ。
「入
教授はそういう人だった。研究課題の大枠を示して、
村先生のところでは、メラノーマ細胞をマウス尾静
その課題をどうブレイクダウンするかは、スタッフ
脈から注射して、肝臓や肺に転移するという実験を
や学生の能力に合わせる。研究戦略に一切の妥協は
行って、がん研究に対する強烈なインパクトを受け
なく、徹底した実験の遂行が不可欠となる。そこで、
たのを覚えています。堀越研では、上田泰己氏(現・
課題解明のために、青木さんは博士課程に入る頃か
学生の頃から13年間お世話になった、
武藤教授の研究室メンバー。
ら教授と 1 対 1 のディスカッションを繰り返して研
『Nature Genetics』に出しましょうと提案した。そ
究を進めた。
「多くのラボでは、助教など教室スタッ
れほど下がっていないハードルに、厳しいのではな
フの指導を受けながら研究を進めていると思うんで
いかとも言われたが、さらに実験を追加して博士課
すよね。一方で、武藤先生は細かい指示をせずに、
程 3 年の 6 月に投稿。すると、予想もしていなかっ
私を信頼して任せてくれたので、可能な限り自分で
たほどスムーズに、10 月には受理されたのだ。
「最
研究計画を立てて、実験を進めるように努力しまし
初に『Cell』に蹴られた後、1 年間必死に実験を行っ
た」。
たことが論文掲載というかたちで認められて、研究
研究室全体のミーティングでの進捗報告は、2 か
を続けてもいいんじゃないかという気持ちを少しも
月に 1 回。その機会だけでは充分な議論を重ねるこ
てるようになりました」
。
とができない。そこで、2 週間に 1 回程度は、メー
残された道は、
独立しかなかった
ルでアポイントメントを取り、実験データを示して、
今後の研究方針について武藤教授とディスカッショ
ンを行った。
「大学院生のときは、いつも夜中の 2
時とか、きついときは夜明けまで実験して、朝 10
当時所属していたのは医学部で、博士課程は 4 年
時ぐらいにはまた来て、という生活でした」
。誰かに
次まであったが、青木さんは成果が認められ、3 年
頼るよりも、自分で試行錯誤することが楽しくてが
次終了時点で博士号が認められた。
「以前は製薬企
んばれた。学生の頃からオリジナリティーを追求し
業の採用試験を受けようかと考えていましたが、急
て研究を続けたことが、結果的には後に独立してい
遽修了が決まってしまったので、それもできません
くための基礎になったと話す。
でした」
。論文発表によって気持ちが上向いたこと
その一方で、
「自分は研究者としてはやっていけ
もあり、また研究の途中で、論文にまとめきれない
ない」とも考えたという。博士課程 1 年のとき、そ
データも残っていた。教授に進路を問われ、京都大
れまでの研究をまとめて『Cell』に投稿した。結果
学大学院医学研究科が採択されていた COE プログ
はエディターによるリジェクト。学位の取得を優先
ラムの予算でポスドクとして雇ってもらうことが決
して論文のランクを下げたいと思ったが、武藤教授
まった。
は実験を追加してもう 1 回『Cell』に出そうと言う。
青木さんの立場が学生から職業としての研究者へ
1 年間努力し、コメントに応えるデータを出して再
と移行したことで、自調自考の精神に拍車がかかっ
度投稿したが、またリジェクトされた。リジェクト
た。
「ポスドクになって、それまで以上に自分で出し
を繰り返す中、上田泰己氏や木村暁氏のような優秀
た実験データや自分の考えを大切にするようになり
な人たちの活躍を論文などで知り、
「自分なんかが
ました。武藤教授と意見が合わないときに、自分の
この世界で生きていくのはとても無理だ」という思
アイデアを試したいと思うようになったのです」
。
いがあった。
そうなると、残された道は 2 つしかない。別の研
転機となったのは、2 回目のリジェクトの後のこ
究室に移るか、独立するかだ。
「その頃の研究テー
とだ。次にどうするかについて、武藤教授は迷われ
マに強い興味がありました。他の研究室に移ったり、
ていた。そこで青木さんは、いろいろな雑誌を見て、
海外に留学したりすると、研究テーマを続けること
分が大学院生だったときの経験から、毎週のディス
はまだ 31 歳。独立なんてとても考えられないし、無
カッションを通じて、考えること、議論することを
理でした」
。迷いを抱えたまま、7 年間同じラボで実
大切にしています。最後は自分自身の力で壁を突破
験を続けた。その間にも、新しい課題が見えてくる。
できるかどうか。武藤研で学んだように、難問を自
ますます自らが主体となり、研究を展開したいとい
分の力で解くことで研究者としての力が向上した
う気持ちが強くなってきた。
り、個性が育ったりするのではないか」と青木さん
第 2 の転機がやってきたのは 2011 年 8 月末。戦
は話す。
略的創造研究推進事業さきがけ「炎症の慢性化機構
青木さんも、諦めそうになったこともあったが、
の解明と制御機構の解明」への採択が決まったのだ。
試行錯誤と努力を持続することで、今の独立研究ポ
「独立を目的に応募したので、応募書類の作成やヒ
ジションを与えられた。それでも、これまでの挑戦
アリングの発表練習に、自力で取り組みました。そ
者としての姿勢のまま、当初の目標に向かって前進
れがひとりで書いた初めてのグラント申請書になり
し続けている。薬理学領域の主任教授になった現在
ました」
。
では、教室運営や学部教育など、行うべきことは増
さきがけへの採択が決まったらすぐに募集中の独
えたが、研究にも、それ以外の仕事にも全力で取り
立ポジションを探し、テニュアトラック普及・定着
組んでいる。依頼があれば経験のない仕事でも、で
事業(機関選抜型)に採択されていた福井大学に応
きるだけ引き受けるようにしている。
「新しいことに
募。10 月には採用が決まり、
11 月にはテニュアトラッ
チャレンジできる機会を楽しむことで、新たな発見
ク個人選抜型による支援も決まった。翌年の 2012
や感動があるかもしれないですよね」
。チャンスの
年 1 月に、福井大学の若手研究者支援プログラムの
神様には前髪しかない。それを掴むため、いかなる
中、独立ポジションで研究を開始した。
ときも心構えをもち続けることが大切なのだ。
甘い世界じゃない。だからこそ、
自らの足で立てる人を育てたい
最後に青木さんは、現在の研究室を主宰できるの
も、たくさんの人の支えによるものであることを強
調した。武藤教授や入村教授をはじめとする恩師な
どによる指導、さきがけ領域の研究アドバイザーの
「さきがけの領域会議には、同じくらいの年齢で
助言、研究仲間からの励まし、福井大学の若手研究
大きな規模のラボを主宰する研究者も参加していま
者育成プログラム、そして現在の研究室では、教室
した。一流誌に複数の論文を発表した研究者がほと
スタッフがいるから目標に邁進することができる。
んどで、実力の差を痛感しました。一方で、高名な
いずれの出会いでも、人と真摯に向き合うことが、
アドバイザーの先生方から実験への助言を受けて、
青木さんの目標達成を後押ししているのだろう。
研究のレベルアップの必要性を感じました」
。その
ためにはチームが必要と考えて学内の薬理学領域の
教員公募に応募。2014 年 3 月には厳しい選考を経て、
教授のポジションを得た。
「いろいろな場面で、タ
イミングがものすごくよかった」と話すが、その背
景には目標である創薬への熱い思いが感じられる。
「研究の目標を達成するためには、挑戦し続ける。
研究テーマを進めるために研究費も取るし、チーム
や環境も築く。たとえ乗り越えられそうにない困難
に直面しても、目標に近づく努力を継続することが、
それほど優秀でない僕みたいな研究者には大事だと
思います」
。
現在は 2 名の助教と 1 名のテクニシャン、1 名の
秘書と一緒に研究室を立ち上げたばかり。青木さん
は、自分でも手を動かして実験をしているが、後進
を育てる立場でもある。その育成方針はやはり、自
ら考え、自ら動けるようにする、というものだ。
「自
今も現役で手を動かして
実験を進めている。組織
切片の作成は得意だ。
青木 耕史 さん
ができない。それがすごく残念で、かといって当時
成果を出し続けるための生き方を見つけ、
他者の生き方も認めよう。
悩み続けろ、思考を止めるな
三浦 恭子 さん
北海道大学 遺伝子病制御研究所 テニュアトラック講師
「小学生のときの自由研究が、
サイエンスとして一番純粋だ」。北海道
大学遺伝子病制御研究所でテニュアトラック講師として研究を行う
三浦恭子さんは、高校時代の恩師に言われたこの言葉を、今でも思
い出す。
「なぜ?」
「どうやって?」
という根本的で単純な問いに答えるサ
イエンスをやりたい。三浦さんがそう思って選んだ研究対象は、
ちょっと
変わった動物、ハダカデバネズミだ。
今の三浦
もの・こと
る
恭子さんをつくってい
え、
るサイエンスを教
単 純な問 いに 答え
れた、
さんあっても、
研 究を支 援してく
できないことがたく
ち
で
これまでの恩 師た
できるようになるま
努力し続けたこと
る際 に、
研 究テーマを考え
だけではなく、
論 文 や 総 説を読む
察 から
一 般 書 や自然 観
るようになったこと
発 想 のヒントを得
iP S 細胞研究の2人の恩師のもとで
研究スタイルを形成
三浦 恭子 さん
大学卒業後、奈良先端科学技術大学院大学バイオ
サイエンス研究科に入学した三浦さんは、山中伸弥
教授の研究室で胚性幹細胞(ES 細胞)を材料として、
DNA の中のメチル化部位を調べるエピジェネティ
クス研究に取り組み、多能性の維持や分化のしくみ
を調べていた。山中教授の異動に伴って博士課程か
ら京都大学に籍を移した後の 2006 年、iPS 細胞が発
表された。三浦さんもテーマを変え、iPS 細胞から
分化誘導した神経細胞に関する研究を始めた。
ことができた。
京都に移って 1 年半ほど経ったある日、山中教授
「iPS 細胞ができたときに居合わせ、iPS 研究分野
と慶應義塾大学の岡野栄之教授が共同研究をするこ
が発展していく過程を見ることができ、しかもそこ
とになった。三浦さんは、新しい分化誘導技術を習
に貢献できたのは、ものすごく運がよかったと思い
得すべく、iPS 細胞を抱えて東京の慶應義塾大学に
ます。この時代に山中先生、岡野先生の 2 人の恩師
移った。結局そのまま、博士課程の間の約 1 年半は
から学んだことが、今の私の研究スタイルをかたち
東京で過ごすことになった。
作っているといっても過言ではありません」と三浦
iPS 細胞は、皮膚や血球など分化後の体細胞をリ
さんは語る。
セットすることでつくられる、多様な細胞に分化す
博士課程を修了するとき、ちょうど京都大学に
る能力をもつ細胞だ。ここから神経幹細胞をつくる
iPS 細胞研究所が完成した。その頃、彼女が新しく
とき、iPS 化した際の細胞株によって、分化誘導効
取り組もうとしていたのは、世界でもあまり研究さ
率が大きく違ってくる。そして分化誘導の効率が違
れていないハダカデバネズミだった。
「周りにはとて
うと、移植した後に腫瘍化して奇形腫ができる確率、
もびっくりされましたね」と三浦さん。しかし、山
すなわち安全性が変わる。この原因が何なのか研究
中教授は三浦さんの提案を非常におもしろがり、旅
していくうちに、由来となる体細胞の種類が大きく
立ちを後押ししてくれた。
「もともと、めずらしい変
影響するという非常に重要な現象が明らかになり、
な動物が好きだったんですね。いうなれば、アマゾ
それが三浦さんの学位論文となった。また、安全性
ンのジャングルにひとりでまさかりを持って突入す
の高いクローンを使って、脊髄を損傷させたマウス
るような、ちょっとへんてこな研究を始めてみたい、
の移植治療に関する研究を行い、大きな成果を出す
という気持ちがありました」
。
純粋に「ふしぎ、おもしろい」と
思える研 究をしよう
ころです。まず、実験用のマウスくらいのサイズな
のに、
寿命は 10 倍あって、
28 年ぐらい生きるのです」
。
一般的に、動物の寿命は体が大きくなるほど延びて
いく傾向がある。しかし、ハダカデバネズミはげっ
三浦さんの心に深く刻まれているのは、高校時代
歯類の中でも最長寿で、さらに老化するのが非常に
の恩師、村上忠幸先生の言葉だ。
「サイエンスとし
遅い。また、マウスでは生きているうちに約半分程
て一番純粋なのは、小学校の自由研究だ」
。当時は
度にがんが発生するのに対し、ハダカデバネズミで
意味がわからず聞いていたが、研究の世界に入って
は未だにがんが確認されたことがないそうだ。さら
から、たびたび思い出すようになった。
「たとえば小
には、アリやハチのような王と女王だけが生殖機能
さい頃に、どうして空が青いんだろうとか、どうし
を担う社会性をもっており、野生では土中で集団生
てこっちの木の葉は丸いけど、こっちはギザギザな
活をする。他の動物にはない特徴をいくつももつこ
んだろう、そのしくみはどうなっているんだろうと
のネズミを、
「研究対象としてすごくおもしろい」と
か、疑問に感じていましたよね。そういう子どもの
感じた三浦さんは、研究の準備を始めることにした。
ような気持ちで、根本的で単純な問いに答えるサイ
エンスというのがやっぱり楽しいと思うんですね」
。
新しい研究テーマを模索するために、最初はさま
苦 労続きの研究スタート
ざまな分野の論文や総説を読んでいたが、
「それで
はだめだと気づいたんです。論文はすでに誰かが研
日本では当時、理化学研究所に所属していた岡ノ
究した結果。それだけを頼っているままでは、新規
谷一夫リーダーが、ハダカデバネズミの音声コミュ
性があまり大きくないことも多い。もっと別の発想
ニケーションの研究を行っていた。その研究室で研
の導入が必要だ、と」
。そして一般書を読んだり、
究したいと思いコンタクトを取ってみると、
「東京大
道を歩きながら植物や昆虫を観察したりしながら考
学に異動してハダカデバネズミ研究はストップする
え続けた。
ので、ハダカデバネズミはあなたにあげましょう」
そんなときに、生命科学研究の世界に、次世代シー
とのお言葉。いただけるのは大変うれしい、しかし、
ケンサーと呼ばれる最新の DNA 配列解析装置が登
飼育室も何もない状態でもらうことはできない。ど
場した。小さな研究グループでも比較的容易にゲノ
うしようかと博士時代にお世話になった慶應義塾大
ム解析ができるようになったのだ。これを使えば、
学の岡野教授に相談したところ、なんと岡野研で部
今までやりたかった変な動物の研究ができる。では、
屋をつくってくれるという話になった。
「岡野先生と
今まであまり研究されてきておらず、わかりやすい
岡ノ谷先生の多大なご支援のおかげで、ハダカデバ
身近なサイエンスとして扱える、おもしろい動物は
ネズミ研究を立ち上げることができました」
。
何だろう。そして出会ったのが、ハダカデバネズミ
その後、実験室や飼育室を 1 から設計し、岡ノ谷
だった。
研で飼育のノウハウを学んで、動物を移動させて研
「デバの魅力はやっぱり、特徴が際立っていると
究をスタートさせるのに丸 1 年かかった。しかし、
本当に大変なのはその後だった。
もともと野生の動物であるハダカデバネズミの飼
育はマウスとは勝手が違い、移設時のストレスや飼
育環境の変化のためか 1 年半の間 1 匹も子どもが産
まれなかったのだ。
「当時は悲惨でしたね。岡野先
生とすれ違うたびに、
『産みましたか?』
『すみません、
まだです』
っていうやりとりが続いて。あと半年経っ
ても生まれなかったら、教授室に書き置きを残して、
ギター抱えてハワイにでも逃亡しようかなと思って
いました。……冗談ですけどね」
。
飼育部屋のハダカデバネズミ。三浦さんにとって
興味が尽きない魅力ある研究対象。
ハダカデバネズミが無事に子どもを産むようにな
るまでの間は、細胞を使ってできるところから研究
三浦 恭子 さん
細胞培養実験の様子。ハダカ
デバネズミ研究も最初は細胞
レベルで始まった。
を進めようと、海外のグループの論文を参考に試行
が見えなくて不安だったんですね。でもそれは、き
錯誤を繰り返した。しかし、研究人口が少ないため、
ちんと実験を進めていけば、解消することだったん
当時は細胞の培養条件ひとつとっても固まっておら
です」
。実験がうまくいかない、論文を読んでも理
ず、なかなか簡単にはいかない。悩みながらも少し
解できない、先生に言われたことはできても自分の
ずつ実験系を確立し、2014 年からはテニュアトラッ
考えはトンチンカンで怒られる……、研究生活はい
ク制度を利用して、北海道大学遺伝子病制御研究所
つもできないことだらけだったと話す三浦さん。
「で
に赴任。それまでに学んだ iPS 細胞技術や分子生物
も、できないことを意識して、努力し続けたらいつ
学・発生工学的手法を駆使して、ハダカデバネズミ
かは改善できる。発想が足りないとか、新しいテー
研究に邁進している。
マを思いつけないとか、それは誰しも抱えている悩
みです。考えつけないからもういいや、で終わって
努力の積み重ねが
前へ進む力になる
しまったらそこまで。それを考えつくまで努力でき
「いつも楽しそうやねって、よく言われるんですけ
ジョンと気合の入った実行力が、研究ではとても大
ど、今もずっと悩んでいます。たぶん、研究やって
事だと思います」
。絶対に思考を止めないこと。そ
いる人はみんなそうだと思うんですよね」
。学生の
れが、彼女の研究スタイルだ。
頃の三浦さんは、アカデミアに本当に進んでいいも
高校生の頃、何のために勉強をするのか、何のた
のか、ずっと悩んでいた。
「修士の頃は、先輩から
めに大学に行くのかについて「人生で一番悩んだ時
るかどうかが重要だと思うんです。そして、考えつ
いただけで終わらずに、必ず死ぬ気で実行する。ビ
山中研で一番運が悪い女って呼ばれていました。2
期だったかもしれない」
というほど考えた。そこから、
年間で 3 つ研究テーマがあったんですが、少し条件
頭の中がクリアになったことはないけれど、恩師た
を変えると再現性がとれなくなるとか、始めて半年
ちに支えてもらいながら、考え抜いて自分の意思で
後くらいに同じテーマで他のラボがよい雑誌に論文
道を決めてきた。独立して学生を指導する立場に
を出してしまうとか、結局どれもうまくいかなかっ
なった今、純粋にサイエンスを好きで 研究を楽しめ
た」
。その横でよい成果を出している先輩たちもい
る学生を育てたいと未来を見据える三浦さん。新た
て、果たして運が悪いだけなのか、自分の実力が不
な困難が待ち受けていたとしても、悩み抜いた末に
足しているのかわからなくなり、まったく自信をも
きっと彼女なりの答えをもって進んでいくのだろう。
てない時期が続いたという。
「修士課程にいるとき
も博士課程にいるときも、ひっそりと就職活動をし
た方がいいのかと悩み、3 か月に 1 回くらい先輩た
ちに相談していました。最後の頃は、
『もう悩みを
聞くのに飽きたから、黙って実験しろ』って言われ
ていました」
。
そんな状態から吹っ切れたのは博士 3 年の頃。
「今
思うと、論文を書けるだろうかとか、自分でおもし
ろい研究テーマを考えられるだろうかとか、ただ先
学生時代の思い出。
「身近
な問い」に答えるサイエン
スの素晴らしさを教えてくれ
た高校時代の恩師と
(左)
。
大学時代は、髪を真っ赤に
染めてバンド活動に明け暮
れていた
(右)
。
成果を出し続けるための生き方を見つけ、
自分の研究と向き合い、
他者の生き方も認めよう。
プロセスを楽しもう
岡田 由紀 さん
東京大学 分子細胞生物学研究所 病態発生制御研究分野
特任准教授
北海道大学大学院で博士号を取得し、
その後アメリカに留学して
6年間のポスドク生活を送った岡田由紀さん。周囲の助けを得なが
らステップアップを果たし、現在は東京大学分子細胞生物学研究
所で学生の指導をしている。研究者としての考え方の基盤は、
これ
までの恩師たち、
そして周りの研究仲間たちによってつくられてきた。
今の岡田
もの・こと
る
由紀さんをつくってい
教員の勧 めで
博 士 課 程の指 導
海 外 留 学したこと
分 野を変えて、
ウイルス研 究から
だった
当 時まだ興り始め
を
エピジェネティクス
こと
研 究テーマとした
とで、
スカロライナ 大 学
北 海 道 大学とノー
してくれる
学 生 の 考えを重 視
えたこと
指 導 教員 に出会
恩師の勧めで、
分野と国境を越えて留学へ
北海道大学の獣医学部で学び、獣医師となった岡
田さん。獣医学部出身者の進路は、臨床獣医師をは
じめさまざまあったが、
「特になりたい職業がなかっ
高額機器を壊してしまった。先生に謝ると笑顔で許
してくださり、不審に感じていたところ、翌朝机の
上に大学院の願書が置かれていて……それで岡田さ
もおもしろそうだと考えていたことから、獣医学で
んは、大学院に進学することにしたのだという。
もウイルスでもない分野を探すことにした。行き先
進学を機に医学部にも足を運んで基礎研究に携わ
のヒントを得たのは、大学院で行っていた JC ウイ
るようになり、長嶋和郎教授のもとで JC ウイルス
ルス研究だ。JC ウイルスのタンパク質のひとつがエ
と呼ばれる、ほとんどの健常人に無症状に感染して
ピジェネティック因子と結合してその核外放出を助
おり免疫不全状態で脳症を引き起こすウイルスの研
けるということを見出し、エピジェネティクスに興
究に取り組んだ。
「長嶋先生は不思議でおおらかな
味がわいた。
人。自身はお医者さんなのに、
『臨床なんかやって
DNA の化学修飾や、DNA が巻き付いているヒス
いたらだめだ、研究しなよ』と言って、研究が楽し
トンというタンパク質の修飾の制御によって遺伝子
いということを教えてくださった人ですね」
。やりた
発現を調節する機構を研究するエピジェネティクス
いことは、予算が許せば何でもやっていいと、本当
という学問分野は、当時は海外では大きな分野にな
に好きなようにやらせてくれた。
りつつあったが、日本ではまだ黎明期であり、エピ
長嶋教授のもとで研究に取り組むうち、岡田さん
ジェネティクスを謳っている研究室も少ない印象
の心の中では、研究者として生きていこうという将
だった。
来の方針が次第に固まっていった。学位を取ったら
このキーワードでインターネット上を探すと、ア
国内の研究所でポスドクになろうと考えていたのだ
メリカのノースカロライナ大学から出ていた、日本
が、長嶋教授に推薦状を書いてもらいたいと相談に
人ポスドクの求人を見つけることができた。
「メール
行ったところ、研究者として生きていくなら海外留
を送ったら、すごく好意的な返事が来て、1 週間く
学をすべきだと、初めて反対されてしまった。
らいであっさり決まってしまいました」
。電話インタ
その助言に促されるかたちで、留学先を検討する
ビューもあったのだが、
「私は英語があまりできな
ことにした岡田さん。学会や研究会に行ったときに
かったので、先方がほぼ一方的に話して終わりまし
他の分野を見て、まったく違うことをやってみるの
た。
『イエス』
しか言ってなかったような気がします」
。
岡田 由紀 さん
た」
。そんな最終学年の夏のある日、所属研究室の
う。岡田さん自身は、
「自分が知りたいことを世界
で最初に知ることができるのが研究の魅力」と話す
ように、あくまで基礎研究に重きを置いており、臨
床での応用を明確に思い描いて研究を進めていたわ
けではなかったようだ。
「でも実際にこういうかたち
になったのを見てみると、よかったなと思います。
基礎研究でも人の役に立つ可能性がある。こういっ
た体験を自分がすると思ってなかったので、ちょっ
とびっくりしました」
。
その後も楽しく研究を続け、留学も 7 年目を迎え
ようとしていた 2009 年に京都大学の独立ポジショ
こうして岡田さんは、トントン拍子でポスドク 2 年
ンに応募し、日本で PI(Principal Investigator)と
目からイー・ザン教授のもとに留学することになっ
して研究をスタートすることになった。
た。エピジェネティクスはその後、学問分野として
拡大し、今では生命科学の大潮流となっている。
周囲 の力を借りながら、
研究を進める
エピジェネティクスの分野に
飛び 込んで
6 年ぶりに戻った日本での新しい研究環境は、一
当時のザン研究室は、生化学的精製手法で新規の
成ユニットと名づけられたその組織では、10 人ほど
ヒストンメチル化酵素を次々に同定しており、朝か
の独立したての PI が、ひとつの建物の中でみんな
ら晩まで FPLC が稼働している激しい競争の中にい
がバラバラに、生命科学という大きな括りの中で多
風変わったものだった。生命科学系キャリアパス形
た。岡田さんもそのチームに参加するのかと思って
様な研究を行うというスタイルがとられていた。
いたところ、
「それは他の人がやるから」と、ウイル
「ちょっとしたルールなど、いろいろなことを民主主
スを使ってマウス初代培養細胞に遺伝子導入する実
義的に自分たちで話し合って自分たちで決めていま
験系を立ち上げることを指示された。その時点で、
した。アメリカとも違う、ちょっと不思議な雰囲気
ザン研究室ではようやくネズミ部屋が割り当てられ
でしたね」
。ここで研究を行った 3 年間、同じよう
たところで、P2 実験室もウイルスベクターも何もな
に独立したての研究者仲間が常に周囲にいたこと
い。
「英語で申請書を書いたり、他のラボに行って
は、研究を進めて行くうえでも大きな助けになった
手技を習ったり、自分の席にいるよりラボの外にい
と岡田さんは話す。
る時間の方が長かったですね」と岡田さんは留学当
日本に戻ってからは、生殖細胞を中心としたテー
初を振り返る。
マで研究を行っている。ザン研究室時代から少しず
ようやく実験系を立ち上げ、手をつけた研究テー
つ始めていたテーマだが、独立するにあたって、ボ
マは、DOT1L というヒストンの修飾酵素と白血病
スとは少し分野を分けて、自分なりのテーマを開拓
との関連を調べるものだ。白血病にはさまざまな種
類が存在する。岡田さんは、その中で MLL という
遺伝子が他の遺伝子と融合して起こる MLL 融合白
血病に DOT1L が関与するのではという仮説を検証
した。その結果、DOT1L が仲介分子への結合を介
して MLL 標的遺伝子上に誤ってリクルートされ、
その発現を異常に高めることで、骨髄細胞をがん化
させることを発見した。
その後、この現象はヒト白血病患者細胞において
も確認され、さらに米国の創薬ベンチャーが DOT1L
の酵素活性阻害化合物を白血病治療薬として開発し
た。現在は、すでに治験段階にまで進んでいるとい
留学中に発表した論文。
このときのデータが臨床応用につなが
る大きな仕事になった。
したい気持ちがあった。
また、
世の中の動きとしても、
験を進めていく時間をもてたことが本当によい経験
2006 年に登場した iPS 細胞をはじめとして、幹細胞
になったと、当時を振り返る。
や受精卵に世の中の注目が集まっていた。日本には
とはいえ、独立して学生を指導する立場となった
発生や受精の分野で活躍する研究者が多く、彼らが
今、研究だけを考えていればいいという状況ではな
エピジェネティクス分野に参入し始めていたため、
いのも事実だ。研究結果を出すサイエンティストと
先達の力もうまく借りながら、自分の研究を進めて
しての能力以外にも、研究費獲得のための申請書を
いけるのでは、という可能性を感じたことも大きな
書くライティング能力や、研究室を運営していくた
理由だ。
めのマネージャーとしての能力、学生指導の際には
コミュニケーション能力も必要とされる。
「マルチタ
レントですよね。どちらかというとひとりで黙々と
や染色体の構造変化に関係するエピジェネティック
やるのが好きだったので、今、ジレンマを感じてい
イベントは何か、といったことを中心に研究してい
ます」。
る。
「他にも顕微鏡観察下で受精卵に RNA や阻害
留学先のザン教授は、研究室の実験台で動いてい
薬を注入して、何が起こるか調べています」
。岡田
る機材を、誰が何の実験に使っていて、今どこまで
さんが研究を進める中で活用している技術の多く
進んでいるのか、全部把握しているような人だった
は、日本人研究者が開発したり、第一線で研究を進
という。スタッフや学生が考えた研究計画を相談す
めてきたりしたものだそうだ。そういった最先端の
ると、コラボレーターや実験手法、使用する機械ま
技術を気軽に教えてもらえる環境があることを、岡
で一緒に真剣に考えてくれた。
「それこそがボスの
田さんは素直に喜んでいる。また、京都大学のとき
仕事だな、と実感しました。これが今、自分が研究
と同様に研究室間の垣根が低く、相談したいときな
室のメンバーのためにやらなきゃいけない一番大事
どに同じ建物のいろいろな研究室に出入りできる環
なことなんだと思います。ラボメンバーには、
『私は
境も、岡田さんの研究を加速させている。
みなさんのボスというよりは、
最強(?!)のコラボレー
先 達としての自分が
できることを探す
ターです』と伝えています」
。
本当は、学生たちに負けないくらい、現場でバリ
バリ実験したい気持ちもあるけれど、一方でボスと
して自分がやらなくてはいけない仕事の重要性も岡
「研究していて一番楽しいと思うのは、やっぱり
田さんは知っている。自分が指導を受けてきた上司
自分で考えて期待していた成果が出るとき。でも、
たちのそれぞれのやり方を思い出し、ときには周り
自分が思っていたものとまったく逆の結果ならもっ
の研究仲間にも相談しながら、自分なりのやりかた
と楽しい。とにかく、
『あぁ、そうだったんだ』と目
を模索しているところだ。
「学生さんたちには、自分
の前の雲が晴れるような瞬間がいいですね」
。岡田
で考えて自分で最終的に答えを見つける過程を楽し
さんは、結果を急ぎすぎず、失敗も貴重な情報とし
んでもらいたいですね」
。自分がかつて経験し、教
てプロセスを楽しむようにしている。留学していた
えてもらった研究の魅力。今度は、自分がそれを伝
ポスドク時代、自分の研究としっかり向き合って実
えていく番だ。
受精卵にRNAや薬剤を導入する装置。
顕微鏡をのぞきながら微細な操作を行う。
岡田 由紀 さん
現在所属する東京大学の分子細胞生物学研究所で
は、精子が形成される過程で起こる、細胞のかたち
成果を出し続けるための生き方を見つけ、
研 究 成果を世に出すため、
他者の生き方も認めよう。
フルスピードで走り続ける
武田 泉穂 さん
MVP株式会社 専務取締役
大学にある技術の事業化や製品化に携わる仕事をしている
MVP株式会社の武田泉穂さんは、5つもの会社に所属し、株
主と役員を兼ねている。
そのうちのひとつは自身で起こした会社
で、代表取締役を務める。
もともと生物物理学の研究者で、研
究の道を突き進んでいくと心に決めていたはずの武田さんが今
に至るまでには、
どのような心境の変化があったのだろうか。
今の武 田
もの・こと
る
泉穂さんをつくってい
の
医 科大 学 T LO へ
ビジネスの世界に
インターンシップで
と
足を踏 み入れたこ
経営に参 画し、
M V P 株 式 会 社の
ーズを
自らが発 掘したシ
果で
製品化し、研 究 成
とを経 験したこと
社 会の役に 立つこ
スを重 視し、
ライフワークバラン
成 果 主 義である
労 働 時 間ではなく
だこと
経 営 者の 道を選ん
面接に行ってみると、会場には企業の方がおよそ
30人ずらっと並んで応募者を待ち構えていた。この
「研究者ではない人々」に向けて、自分の研究を発
表しなくてはならなくなってしまったのだ。
「
『この
研究は将来、
世の中に出ていくと思いますか』といっ
た内容ばかりで、研究者から出る質問とは全然違っ
ていました。基礎研究をしていた私にとっては、と
ても刺激的でしたね」と武田さんは当時を振り返る。
研究をしていると、ふとこれは何の役に立つのだろ
うと思うことがある。この疑問に対する答えを、
「大
風呂敷を広げてでもいいから、こういう夢に向かっ
思いがけないところで、
研究の外の世界を知る
てやっているのだということを明示しなければなら
ない場がある」ということを実感したという。
「これは落ちたな」という武田さん自身の感触と
は異なり、
無事に採用が決まった。企業へのインター
ンシップはさっさと済ませて研究室に戻り、論文を
いたのは、いわゆるビッグラボといわれる研究室で、
書きたいと考えていたというが、実はこれが、現在
JST の ERATO プロジェクトにも参加していた。博
の仕事につながる扉を開く瞬間だったのだ。
士号取得後もポスドクとして同じ研究室で研究を続
けていたが、自身の研究費を取得するため科研費な
どの申請をしていく中で、新しいプログラムの公募
運命を変えた仕事との出会い
をたまたま目にしたのがすべての始まりだった。
それは、東京工業大学に新しくできたプロダク
採用が決まると早速、インターンシップ先の選定
ティブリーダー養成機構のインターンシップ・プロ
に取りかかることになった。このとき武田さんは、
グラムだった。企業等で活躍するための人材として
なんと乳児を抱えていた。
「ですから、なるべく家の
のキャリア能力を養成することを目的とした機構
近くの企業で、しかも時間にちょっと融通が利くと
で、ポスドクとして採用されると、給与が支払われ
ころを 希 望しました。 研 究 だ ったら自 分 で スケ
ることに加え、期間内に希望する企業でインターン
ジュールをデザインできるけれども、企業では時間
シップできることになっていた。そこで、
武田さんは、
で区切られてしまうので。今となっては反省点です
あくまで研究を続けるための資金を獲得するという
けれど、当時はそういった条件ばかりに目がいって
目的で応募してみることにした。
いましたね」と武田さんは苦笑いする。
武田 泉穂 さん
東京工業大学大学院の博士課程在籍時に所属して
他の採用者たちは、自分の研究と関連のある大手
思います」
。そうでなければ就職していなかったかも
製薬企業や医療機器メーカーなどを選ぶ中、武田さ
しれない、と武田さん。それまでの研究生活で身に
んは、プロダクティブリーダー養成機構の担当者が
つけてきた、人から習うのではなく自分で何でもや
紹介してくれた、今も連携パートナーとして所属す
るというスタイルが活かされている。
る MPO 株式会社というベンチャー企業に行くこと
になった。MPO は聖マリアンナ医科大学の指定技
術移転機関だ。医師の研究成果を世の中に出してい
社会の役に立つ
エキサイティングな仕事
くのが MPO の役割といえる。
突然、これまでの研究とはまったく異なる仕事に
事業化できそうなシーズは、研究者との雑談から
飛び込むことになり、戸惑うことはなかっただろう
見つかる場合もある。研究者自身、それが事業のタ
か。武田さんは、
「視野が広がってすごく楽しかっ
ネであることにまったく気づいていないことも多い
たですね。研究を具現化していくところのおもしろ
のだ。武田さんがそんな会話の中から拾い上げた
さを実感したんです」と、目を輝かせながら当時を
シーズから製品となったものに、食物アレルギーの
思い出す。研究では誰ともしゃべらず黙々とやらな
負荷試験食がある。
ければならない時間も長いが、MPO では医師と研
アレルギーをもつ子どもは多い。以前は、
そういっ
究の話で盛り上がったり、一緒にグラントの申請書
たアレルゲンを含む食品は一切食べさせないという
を書いたり、特許のコンサルテーションをしたりす
方法がとられていたが、現在は、少しずつ食べさせ
ることがとにかくおもしろかった。自分も知らなかっ
ていって減感作させ、治療するという経口減感作療
た一面が引き出されるようで、
「この仕事が私の天
法が行われている。しかし、家庭での毎日の食事で、
職かもしれない」と思ったという。
たとえば卵を少しずつ食べさせ、量を段階的に上げ
1か月間だけのつもりで始めた MPO でのイン
ていく……といったことをするのは難しい。病院で
ターンシップは、結局期間いっぱいの1年間継続し、
行われる負荷試験でも、自宅から持ってきたゆで卵
最終的には就職するに至った。
「いろいろ迷いつつ
の重さをナースが量るという煩雑な作業がある。
「う
も、研究に戻らずにこちらに飛び込むことにしたん
ちの子もアレルギーなので、負荷試験専用の食品が
です」
。就職の際、代表からは、武田さんの分の給
欲しいなと思っていたんです。小児科のお医者さん
料はグラントの申請書を一緒に書いて取ろうという
とお話ししていたら、偶然、親も子どもも医療関係
話をされたが、
「研究者じゃなかったら戸惑ってい
者も大変な思いをしているという話を聞きました。
たかもしれませんよね。自分の分は自分で稼ぐとい
それで、負荷試験にも使えるお菓子をつくりましょ
うところが研究の世界と一緒だったので、特に驚き
うということになったんです」
。
もなく、受け入れられました」
。
こうして、3 大アレルギーといわれる卵、乳、小
MPO のインターンシップでは、業務を細かく教
麦の 3 種類に対して、
負荷試験のガイドラインに沿っ
えられることはなかった。
「何かを教えてもらうのを
たアレルゲン含量のボーロの開発が始まった。論文
待つというよりは、自分でどんどん業務を遂行させ
など参考になる知見が何もないところから外部資金
ていただける環境だったんですね、それを当時の代
の調達を行ってプロジェクトを進め、現在、ついに
表でもある今のボスが優しく厳しく見守ってくれて
ボーロとしてでき上がってきたところだ。商品を目
いたというところが、私にフィットしていたんだと
の前にすると興奮するというが、次はパッケージデ
ザインを考えたりホームページを整えたりするなど、
今まさに販売へ向けた最終フェーズへと走り出す。
「お菓子やジュース、医療機器などの製品が完成し
て実際に売り出されるときが、一番エキサイティン
グですね。研究成果の事業化が現実のものになり、
ついに社会にこれを出した、役に立てた、というと
東京工業大学での研究
生活で培われた知識や
スキルはビジネスでも活
かされている。
ころですね」とワクワクした瞳で語る武田さんは、
研究経験を糧に自分のビジネススタイルを身につ
け、興奮する瞬間に向けてひた走る。
MVP株式会社のオフィス。
大学の基礎研究が具現化
されていく場所だ。
負荷試験のガイドラインに沿ったアレルゲン含有のボーロ。
あと1ステップで商品化に漕ぎ着ける。
選ぶとおのずと退職することになりますが、自分の
家 族と将来の自分のために
事業があれば世界中どこにいても仕事ができる。も
ちろん、身ひとつで戦うので、容易なことではあり
ません。一方で、社員という身分は本当に魅力的で
現在は、2 人の男の子の母親でもある武田さん。
もありますので、それぞれに合った立場を選択する
のがベターだと思います。MPO に入って社員とし
究もビジネスもフルスピードで頑張ってきた。そこ
ての最初の 5 年間は無理もしましたが、その間に自
には時間のやりくりなどさまざまな苦労もあっただ
分の会社も立ち上げるなどやりたいことを実現で
ろう。研究室では同僚の男性が 24 時間研究してい
き、今はちょっとだけ、その頃の無理が実を結んで
る横で自分は帰らなければならないこともあり、悶々
くれたかなと思っています。当時も今も、支えてく
とすることも多かった。
「でも、泣き言は言わないで
れる夫には心から感謝しています」。
すね。もうやるしかない、という感じでした。今も
海外出張に行ったり夜遅くに仕事に出たり、休日
悩む暇がないぐらい忙しいというのが実情です。悩
にも仕事があったりする日々。核家族での生活にお
む時間のあった昔の自分を振り返ると、実はそんな
いて夫と子どもの協力は欠かせない。海外出張に行
に忙しくなくて、むしろ暇だったんじゃないかな、
く前に息子からもらったどんぐりのお守りは、今で
と思うんです」と、あっけらかんとした様子だ。
も大切な宝物だ。普段仕事が忙しい代わりに、休日
ビジネスの世界に入っても、妊娠・出産・育児な
は家族の時間をできるだけつくろうと努力し、勉強
どのライフイベントでどうしても機会損失につな
なら何でも教えると子どもと約束をしている。
「テレ
がってしまうケースがある。だから武田さんはフル
ビはなぜ色が映るかというとね、光の三原色という
スピードで走り続ける。
それは将来の自分のためだ。
のがあってね……」と、小学生の息子に全力投球で
「家族は大事にしたいんです。研究を続けて大学の
説明しているそうだ。
ポストを得ていこうとする中で、子どもと 5 年間離
武田さんのやりたいことは、大学で研究していた
れて生活していたというような方に会ったこともあ
頃から変わっていない。
「論文でも商品でも、自分
りますが、正直、私はそうなってまで研究者という
の成果を残し世の中の役に立ちたい」
。今後は、組
仕事を続けたいのかなと疑問に思っていました。で
織として成長できるように経営者の視点を勉強し、
も、自分で事業を創出して稼げるようになれば、研
より深めていきたいと思っている。
究の最前線に立つのは諦めなければいけないけど、
思いがけないきっかけから自分の居場所を見つけ
働く女性にとって課題でもあるライフワークバラン
た武田さん。研究で鍛えられた視点と経営者として
スを保ちながら、研究を糧に社会の役に立てるかも
の視点を兼ね備えたビジネスパーソンへと、まだま
しれない、と思ったんです」と胸の内を明かす。
だ階段を駆け上がっていく。
「私のライフプランのリスクヘッジは、ビジネスの
リスクヘッジとちょっと共通していて、常に考えて
います。たとえば、もし夫が転勤することになれば、
家族が離れて生活するか、家族一緒に転居するか、
選択することになります。私が雇われの身であれば、
仕事を選ぶと家族と離れた生活となり、家族一緒を
息子さんからもらったど
んぐりのお守り。今でも
大事に持ち歩いている。
武田 泉穂 さん
第 1 子は博士課程在学中に出産したが、これまで研
成果を出し続けるための生き方を見つけ、
博士 課程での経験が、
他者の生き方も認めよう。
ものづくりの現場で活きている
植田 直樹 さん
株式会社日本製鋼所 研究開発本部 広島研究所
材料・分析グループ 研究員
長さ数百メートル、幅数十メートルはある巨大な建物の中で、人の背
丈以上もある鉄の塊の成形や組み立てが進む。1907年に北海道で
創立した株式会社日本製鋼所は、古くは戦艦の大砲のような大口径
火砲の国産事業から始まった会社だ。2014年に信州大学大学院
総合工学系研究科で博士号を取得した後、
日本製鋼所に入社し、研
究開発本部に所属する植田直樹さんに、学生の頃と社会人となった
今との間での考え方の変化をうかがった。
今の植田
もの・こと
る
直樹さんをつくってい
技で
アルペンスキー競
ルの 強さ
培ってきたメンタ
して、
プログラムに参 加
インターンシップ・
ョンで
なる考え方やビジ
大 学の研 究とは異
りを知ったこと
行われるものづく
過 程で得た、
博 士 号を取 得する
、
る力、説 明する力
実 験 系を組 み立て
考える力
研 究の先の 展 望を
材料開発から製品が売れるまでが
ひとつの仕事
日本製鋼所は、長年培ってきた鉄鋼製品の高度な
製造技術と品質を核として事業を幅広く展開し、発
電用タービンの大型ロータシャフトや石油化学プラ
ントの石油精製用圧力容器、プラスチック原料から
ペレットをつくる造粒機やペレットからプラスチッ
ク製品をつくる射出成形機など、素材から機械製品
までを一貫して製造、販売している。同社広島製作
所では、造粒機や射出成形機などの設計・開発・製
「大学では、学会発表や論文掲載というかたちで成
造を行っており、それらに使用する材料を研究・開
果が出ますが、それとは違ったタイプのシビアさを
発するのが植田さんの仕事だ。樹脂機械では、使用
感じています」
。
目的や部品種類によって必要な特性が異なり、それ
に応じた材料をより高い品質、より低いコスト、よ
り短い納期でつくるための研究が日々行われている。
大学入学時からの信念に従い、
迷いなく博士号取得まで進む
その研究環境は、日本製鋼所ならではの特徴的な
部門配置によってつくり出されていると植田さんは
植田さんは、大学入学当初から企業で研究開発す
話す。
「自分が開発を担当しているものをいかに製
ることを目指していたわけではない。それどころか、
「大学に入学するときから博士号を取得することを
事業部門、製造部門、研究部門が密に連携しながら
考えていて、その先は大学の教授になることを目指
つくっています。
ですから、
たとえば大学のラボでは、
していました」という。子どもの頃から、何でもか
こういう特性が得られましたというところで自分の
んでも自分で調べてつくって解決したい、というよ
仕事は終わるけれど、ここでは、それが最終的に製
うな好奇心旺盛な性格だったという植田さん。大学
品になるまでがひとつの仕事なのです」
。
や大学院の研究でも、時間を見つけては何かと機械
研究開発の成果として狙った特性をもつ材料をつ
の分解や器具の自作をしていた。博士号の取得は
「簡
くり、特許を取得できたとしても、それで終わりで
単にいくとは当然思っていませんでしたが、やると
はない。その材料を使った製品が安定した品質で生
決めたらどんな苦労があっても行き着くんだ、とい
産できるかどうかを実証し、さらに顧客の満足が本
うのが昔からの考えだったのです」
。
当に得られるかを確認して、製品とすることができ
大学院での研究テーマに選んだのは、セラミック
る。そこまでいって、はじめて仕事が完了するのだ。
スの複合材料の開発だった。信州大学では多様な学
植田 直樹 さん
品までもっていくか、製造をどうするかを含めて、
部学科が互いに連携しながら研究を進めるというス
キャリア開発事業による企業へのインターンシップ
タイルをとっており、植田さんが所属していた工学
だった。
「最初は深く考えていなくて、ほんの好奇
部物質工学科の研究室では、工学部内の各学科や医
心で参加したような感じでした」
。企業関係者が出
学部と連携していた。植田さんのテーマは、医療分
席する場で研究に関するプレゼンテーションを行
野の材料開発にもつながる研究だったのだ。
い、企業側が興味ある大学院生やポスドクを選ぶと
セラミックスの原料を使って複合材料をつくり、
いうマッチング会のようなものがあり、そこで出会っ
構造の分析や強度試験などを行う。目標とする特性
たのが日本製鋼所だったのだ。
に到達するためにはどのような種類の材料をどれだ
インターンシップに参加するまで、
植田さんは「大
け混ぜるのか、どういう混ぜ方をするのか、焼き方
学の研究は自由度が高いが、企業はコストなどを重
はどうするのかなど、さまざまなものづくり要素の
視して研究に制約がある」というイメージをもって
試行錯誤を繰り返す。なかなかうまくいかない実験
いた。学会等で企業の研究者とディスカッションし
に、精神的に追い込まれることもあったが、
「スポー
たときにも、
「コストと効果の兼ね合い」といった助
ツで培ったメンタルの強さに助けられていたかなと
言を受けていたことも、
そのイメージを助長していた。
思います」
。
ところが、このインターンシップを経て、その考
実は植田さん、アルペンスキー競技で何度も故障
えは大きく変わることになる。確かに、企業の中で
をしている。入院して手術をすると筋力が大幅に落
の研究開発には、コストや生産性、製品としての実
ち、歩くのも難しい状況になることもある。そこか
現性など、いくつかの条件がある。その中で、さら
らスポーツ復帰は厳しい道のりというが、
「私は無
に最終的に製品とするには、必要な特性が一定基準
茶をするタイプだったもので、同じ場所を 3 回手術
を超えていかなければならない。
「思いついたままト
しているのですが、そのたびにリハビリして復帰し
ライできた大学での研究よりも、条件に即した中で
てきました」
。その踏ん張りは研究にもいかんなく発
最高の品をつくるためのアイデアや工夫が求められ
揮され、手を動かし続けた。結果、
「カーボンナノ
る感じがして、非常に難しいけどおもしろいなと感
チューブ複合アルミナセラミックスの微構造と機械
じました」
。
研究の自由度がないわけでは決してなく、
的性質」というタイトルで博士論文を書き上げ、大
どう機転を利かせるか、会社が得意とする技術やノ
学入学時からのひとつの目標であった博士号を取得
ウハウをどう活かし、どう新しいものを生み出して
した。
いくか、という考え方のおもしろさに気づいたのだ。
企業でのインターンシップで
視野が広がった
3 か月間におよぶインターンシップの経験は、大
学に戻った植田さんの考え方と行動に影響を与え
た。たとえば学会に参加した際、以前なら自分が専
門とするセラミックスの材料開発に関連するテーマ
しかし、博士課程修了時、植田さんの頭にはすで
ばかりを追っていたが、直接的には関係のない技術
にアカデミアの道に進むという選択肢はなくなって
の発表も見に行くようになった。視野を広げてさま
いた。その考えの転換のきっかけとなったのは、博
ざまなことを学ぶことで、自分の研究が行き詰まっ
士課程 2 年生のときに参加した、ポストドクター・
たときに「あのときに聞いたことが使えないだろう
インターンシップのときにも、
そして現在もお世話になっ
ている上司と。
装置を使って材料を分析する。
か」と考えるようになったという。入社してからも、
を使って改善できないかという解決案にたどり着く
「あるひとつのテーマを達成することは、自分ひとり
ことがあります」
。専門書や学術論文に載っている
では当然無理なわけです。いろいろな部署の人と連
技術や知識は内容が難しいが、その中の要点を必要
携しながら進めていくのですが、そういう人からも
な分だけわかりやすく現場の作業者に展開すること
らえるアドバイスやアイデアが、研究を前に進める
が、会社の技術力の底上げにつながるのだ。
力になります。あるいは逆に、自分がもっている知
博士号を取得するまでに、国内外の学会でのプレ
識を人に役立ててもらうこともありますね」
。得意分
ゼンテーション、論文執筆、研究指導などアウトプッ
野にとらわれずに視野を広げ、他者とコミュニケー
トの機会はたくさんある。
「それはつまり、何かを人
ションを取りながら、ものづくりを進める。そのよ
に説明、解説する経験が多いということで、博士人
うな考え方の重要性こそ、植田さんがインターン
材はそれが得意なはずなんです」
。そうした力が、
シップで得たものなのだ。
新しいアイデアを具体的な技術として現場に伝える
さらに、研究発表を行う際、今後の展望について
述べることが多いだろう。研究者がビジネスを学ぶ
ことで、
「先のことを考える力」を企業の経営に活
植田さんは、新製品の研究開発だけでなく、製造
かせるのではないかと植田さんは考えている。
「方
生産技術の改善・開発というプロジェクトにも携
向性を間違えれば、時間もコストも無駄になってし
わっている。いくつもの広い工場の中を行ったり来
まいます。会社として目指すべき発展の方向性を考
たりしながら、さまざまな製品が組み上がるまでの
えて、どうすれば無駄を少なく、利益につなげてい
工程をひとつずつ追う。たとえば、製造工程のうち
けるかというビジョンをきちんと意識して、ゆくゆ
どれか一部を別のやり方に変えれば、生産のコスト
くはもっと広い視野で見られるようになりたいと
が下がる、製品の品質が上がる、納期が短縮するな
思っています」
。
ど、製法の改良につながる提案をしていく。
「現場
世の中に流通する膨大な知識から、自らの取り組
で作業に携わる人たちは、普段から何かしら気づい
みに関係するものを見つけ出し、そこに自分のアイ
ているんですよ。これ、
もう少しよくならないかなあ、
デアを足して新たな仮説を構築する。その検証結果
と。それを現場の人たちと一緒に実現していくのが
から、先々の発展を考える。大学での研究で築いて
私の仕事なのですが、ものづくりは現場から始まる
きた経験は、企業のものづくり現場の最前線で活き
ということを、すごく実感しています」
。
るのだ。
大学の実験室でいろいろな材料をつくっていた頃
は、
「これが将来のものづくりにつながれば」と思っ
ていた。しかし、
「ものづくりの最前線は企業の現
場の中にもあって、そこでのひとつひとつの積み重
ねが、大きな目で見て将来のものづくりを支えるの
かもしれない」と考えるようになった。
会社の中で博士人材としてできることは多い、と
植田さんは言う。専門知識を収集してつなげる力、
人に説明する力、そして先を見通す力を活かすのだ。
「製造の各工程の狙いを明確にしていくと、いま困っ
ていることの原因が見つかって、こんな感じの技術
インターンシップの
報告会。インターン
シップをきっかけに
視野が広がった。
植田 直樹 さん
博士人材として、
企業経営に貢献できること
際に役立つのだという。
成果を出し続けるための生き方を見つけ、
ひとつひとつ積み上げて、
他者の生き方も認めよう。
自分の立ち位置を確立する
府金 慶介 さん
日立造船株式会社 機械事業本部 開発センター
電池プロジェクトグループ 研究員
博士号を取るまでは一切の就職活動を行わず、ポスドクになってから
の就職活動で日立造船株式会社に入社した、府金慶介さん。学生
の頃から今まで、電極材料の設計という一貫したテーマで研究を行っ
ており、
「やりたいことを仕事にできている」
という。環境が変わっても、
自らを貫き続けるために、
どのような心構えをもっているのだろうか。
今の府金
もの・こと
る
慶介さんをつくってい
を求めて、
よりよい 研 究 環 境
修士 1年 次 から
関 に出 向したこと
連 携 先の 研 究 機
考え方が 魅 力 的で
共 感できる恩 師 に
出 会えたこと
すため、
自らの 強 みを活か
異なる分 野の
自分の専 門 性とは
企 業を選んだこと
学ぶ 楽しさを求め、
より良い研究環境に身を置く
所とはどんなところだろう、大学と比べて何が違う
のだろうと気になって、学部 4 年生の時に夏季イン
ターンシップで訪れた。
「環境も人も、ただすごい
と感じました」
。ここで研究をしたい。そう思った府
岩手県出身で、高校生の頃はスキーしかしていな
金さんは、修士 1 年生の秋から連携大学院協定を利
かった、という府金さん。スポーツ特待生として、1
用して、NIMS での研究を開始した。
年の半分は雪の上にいた。
「当然、大学の現役合格
恵まれた研究環境で進めていたのが、燃料電池の
は無理でした」
。浪人してスキーをやめ、再受験の
電極触媒の設計だ。どのような物質、構造だと触媒
ために勉強に集中し始めたことで、学ぶ楽しさに気
性能が高まるかをシミュレーションで予測し、実際
づいていった。わからなかったことが、わかるよう
につくって確認する。そのサイクルで、より高性能
になるのは、楽しい。その感覚は今でも続いており、
な材料をつくっていく。博士号を取得した研究内容
は、セリア(セリウム酸化物)を使った触媒に関す
いる。考えたことが、
その通りになる。そういう瞬間っ
るものだ。白金セリア系の触媒は高い性能を示す。
て、おもしろいですよね」と話す。
それがなぜなのか、金属と酸化物との界面の構造を
大学に入学し、ひとつめの転機が訪れたのは学部
シミュレーションで予測し、実際にそのような構造
3 年生の後期。研究室に配属され、
実験が楽しくなっ
が存在するのかを分析した。さらに、その界面が触
てきて、よりよい研究環境をもつ他の大学院の受験
媒性能に重要ならば、同じ構造を別の材料でつくっ
を考え始めていた頃だった。同じ研究室の卒業生で、
てもいいはずだと、白金より安価なタングステンを
茨城県つくば市にある物質・材料研究機構(NIMS)
用いて実証した。この研究で培われた専門性が、今
に勤めていた人が講演に来た。独立行政法人の研究
も仕事に活かされている。
府金 慶介 さん
「誰も見たことがないことを、世界で初めて目にして
考え方と人生に影響を与えてくれた、
恩師の森 利之先生と。
研究も人生も、
積み上げの先に道がある
NIMS での研究生活の中で、もうひとつの転機で
ある、北海道大学の森利之教授との出会いがあった。
間出身の人だったこともあり、企業の中で、研究成
果をもとにして実際に使われる材料をつくりたいと
考えるようになった。
異なる専門性の中で、
自らの強みを活かしたい
「考え方がすごく魅力的な先生なんです」
。研究と生
き方は、同じだ。それが森教授の哲学だった。研究
企業に入って仕事をしたいと考えていた府金さん
では、ひとつひとつ結果を積み上げながら、根拠に
は、ポスドクになった後、北海道大学が採択されて
基づいて仮説を立てていく。検証の結果、仮説が間
いたポスドク・インターンシップ推進事業に参加。
違っていたら、確かな根拠をもって積み上げた場所
7 月から 9 月までの間、材料系を得意とする企業で
まで戻り、別の仮説を立てる。
「人生においても、
インターンとして働いた。そして大学に戻った後に
その考え方は適用できる。そうすれば、自分のやり
出会ったのが、日立造船だった。日立造船は現在、
たいことをできる可能性が高まり、人生を豊かにで
舶用エンジン製造やシステム開発に加えて、ごみ焼
きる」
。
却発電施設の設計・建造を事業として行っている。
自分がこれまで積み上げてきたことが、自らを支
さらにその中で、焼却熱を利用した発電や蓄電も
える根拠となる。それがないと、考え方が場当たり
行っており、自分の研究が活かせるかもしれないと
的になり、一貫性のない人生を送ることになってし
考えて、研究所の見学を願い出た。
まう。そうした考えをもつ森教授は、
「ひとつのこと
「ずっと材料の研究をしてきて、知識と実績を積
を追いかける意志こそが君のもち味なのだから、そ
み上げてきたので、同じ専門性をもった集団よりも
れを忘れないようにスキーは続けたほうがいい」と、
それ以外の集団の中で研究開発する方が自分の強み
府金さんに大学受験以降やめていたアルペンスキー
を生かせるのではないかと考えました」
。日立造船
を再開することを薦めた。
は、名前の通り、もともとは造船業が主軸だった会
研究は、これまで誰もやったことがないことを、
社だ。そこから、造船事業を切り離し、造船事業の
自分が初めて行うものだ。人生も、まったく同じ生
き方をする人間などいないのだから、誰も歩んだこ
とがない道を歩んでいくことになる。そういう意味
で、研究と人生はリンクする。自分の望みに沿った
生き方をするためには、一瞬一瞬を自ら考えて、進
みたい方向に行かなければならない。迷いが生じた
とき、これまでの自分の積み重ねが、自信をもって
判断する後押しをしてくれるのだ。
府金さんが森教授と出会って、もうひとつ考えた
ことがある。それは「民間企業に入って、物をつく
れる研究者になりたい」ということだ。森教授が民
2015年ぐんま国体にて。森先生に再開を促されてから、
今もずっと滑り続けている。
築港工場の中に、
職場であ
る研究所がある。ポスドク
時代にも見学に来た場所
で、
今働いている。
技術を生かし、プラントや機械の事業展開を行って
究では、実験結果の積み上げとともに、そこに自分
きた。ごみ焼却発電施設もそのひとつであり、今や
のアイデアをプラスして「新しいもの」をつくらな
主力事業となっている。そうした、会社がもつ強力
いと成果にならない。コンスタントに結果を出して
なエンジニアリングの力は大きな魅力だった。さら
いきたいという会社や組織の思惑に、アカデミア経
に、すでにある材料や部品を利用して性能のよい焼
験者が貢献できるのは、結果の積み上げによりブレ
却装置や発電装置を設計し、組み上げていく中に材
イクスルーを起こして、研究開発のスピードを一気
料設計の考え方を入れ込むことができれば、さらに
に上げることなのだと府金さんは言う。
よいものをつくれるかもしれない。積み上げてきた
今後は、日立造船の中で、材料系の事業を大きな
自らの強みを活かせる場として、日立造船への入社
柱にしていきたいという府金さん。日立造船でしか
を決意した。
つくれないような材料を開発して、オンリーワンの
博士として、
企業の研究開発に貢献できること
製品をつくっていきたいと考えている。
「当社のこれ
までのやり方は、買ってきたものを加工して組み上
げていくエンジニアリングだったのです。今、私が
行っている研究は、会社としてもチャレンジです」
。
企業の研究員として働いておよそ 1 年。
「大学で
その研究で成果を出し、材料が重要なのだという
認識を社内に広めていくことで、自分の強みが活き
る場所をつくっていく。そのためには、社内への成
在している。その中で、競合相手よりも価格が安く、
果のアピールも大切だ。大学にいた頃は論文を書い
性能が高いものを開発することが求められるのだ。
て学会で発表すれば、成果になった。今は、日々の
また、
時間も限られている。常に複数の研究プロジェ
報告や能力評定の中で、評価する人にも合わせなが
クトが動いており、年に一度、達成度などが審査さ
ら、自らの取り組みの意義を伝えていかなくてはな
れる。十分に進められていないプロジェクトは解散
らない。
「苦手なんですけど」と苦笑いで話すが、
の可能性もあるという。
自分の立ち位置をつくり、やりたいことを通してい
その中で活かせる、博士号をもった人材としての
くために、ひとつひとつ積み上げていくのだ。
強みはと聞くと、
「考察力と、次にどう進めるかを考
える力には、自信があります」と答えた。プロジェ
クトを進めるにあたって期限が切られているため、
条件を多様に振って、網羅的に調べてみるというア
プローチが多い。
「そのやり方は時には必要だが、
無駄も多くなってしまう。時間がかかるやり方では
あるんですが、きちんとした知見をコツコツ積み上
げるのも大切なのです」
。長く企業の中で研究をし
ていると、どうしても使い続けている材料や技術を
活用しながら、
「よりよいもの」をつくることに意識
が向きがちになる。それに対し、アカデミアでの研
大阪市・八尾市・松原市
環境施設組合舞洲工場
府金 慶介 さん
の研究と最も大きな違いを感じたのは、コスト意識
です」と府金さんは話す。電池は、すでに市場が存
成果を出し続けるための生き方を見つけ、
他者の生き方も認めよう。
行きたい道を行く、
やりたいことをやる
杉本 亜砂子 さん
東北大学 大学院生命科学研究科 生命機能科学専攻
発生ダイナミクス分野 教授
博士号を取得後すぐに留学し、
アメリカでの4年間のポスドク経
験を経て帰国。出身研究室の助手、理化学研究所のチームリー
ダーを経て、現在の職に至った。そのキャリアパスのひとつひとつ
で重視してきたのは、
自分の興味を追求すること。研究者を志し
た高校生の頃から変わらずに、杉本さんはその姿勢を貫いてきた。
るもの・こと
い
て
っ
く
つ
を
ん
さ
子
今の杉本 亜砂
興 味に従って、
生物から
研 究 対 象を単 細 胞
えたこと
多 細 胞 生物へと変
留 学 先で
わり、
ラボ 立ち上げに 関
たこと
濃 密な指 導を受け
りの 技 術を
世 に出 始めたばか
きたこと
積 極 的に 活用して
遺伝のしくみに魅せられて
研究の世界へ
高校生の頃、生物の授業は暗記科目というイメー
ジで、あまり好きではなかった。しかしメンデルの
遺伝学を習ったとき、その印象ががらりと変わった。
先生が見せてくれた教育用映画の中には、DNA の
二重らせんが分かれて、半保存的複製をするしくみ
が描かれていた。
「だから親と子どもはちゃんと似る
ことができる。子孫に DNA を渡すことで生物は成
り立ってきたんだっていうのが、すごく腑に落ちた
んです」
。
当時、まだ教科書には載っていなかった DNA や
遺伝子について興味をもつようになり、もっと深く
「酵母の研究は非常に楽しかったけれど、栄養状
理 解 し た い と 思 っ た。 時 代 は 1980 年 代 の 初 頭。
態によって分裂するか胞子をつくるかを切り替える
1973 年にアメリカで遺伝子組換え技術が確立された
という単純なしくみなんですよ」
。一方、私たちヒト
ことでバイオベンチャーが次々と立ち上がり、その
の生殖においては、精子、卵子をつくる時期や、つ
波が日本にも押し寄せた時期だった。大学でもまだ
くれる場所が決まっている。さらに、そのようなし
分子生物学を取り入れている学部は多くはなく、自
くみをもつ体をつくるのは、もとはひとつの細胞で
分なりに調べていく中で、東京大学の生物化学科に
ある受精卵だ。どうやって細胞の多様性が生み出さ
行き着いた。
れるのか。あるいは、精子や卵子といった生殖細胞
大学院では山本正幸教授の研究室に所属。そこで
と、それ以外の体細胞との違いは何だろうかという
取り組んだのは、分裂酵母を使った研究だ。酵母は
疑問に惹き寄せられていったのだ。
単細胞の真核生物で、栄養があるときには細胞分裂
で増えるが、栄養がなくなると接合し、減数分裂し
て胞子をつくる。体細胞分裂と減数分裂、有性生殖
センチュウ研究のメッカで、
細胞の多様性にせまりたい
と無性生殖のステージをどのように切り替えている
そこで杉本さんは、博士号の取得を区切りに細胞
て関連遺伝子を探るという遺伝学的アプローチで研
の多様性の謎にアプローチできる多細胞生物を研究
究を行い、博士号を取得した。ただ、博士課程の後
しようと考えた。何を使うのがよいだろうか。細胞
半から、新たな興味が湧いてきた。
性粘菌、ボルボックス、センチュウ、ショウジョウ
杉本 亜砂子 さん
のか、それらの機能に異常が起きた変異体を解析し
留学先の選定にも活躍した、
センチュウ研究のバイブル。
細胞の分裂中の様子を捉えた顕微鏡画像。
細胞内で起こっている現象を解き明かす。
バエ……いくつかの候補の中から、遺伝子操作をし
やすいセンチュウ(
)を選んだ。酵母研究の
際に体感した、遺伝学という研究手法のパワフルさ
を活かして個体発生の解析ができると考えたから
んなりと決まった。
研究室の立ち上げから始まった、
濃密な研究経験
だ。
その頃、センチュウに興味をもち始めた研究仲間
第 1 志望だったジュディス・キンブル氏の研究室
が周りにも何人かおり、一緒に勉強会を始めた。そ
は、いわゆるビッグラボだった。対してジョエル・
の と き に 使 っ て い た 教 科 書『 The nematode
ロスマン氏は、これからラボを立ち上げるいわば無
』は、ポスドクとしての海外留学
名の人。留学はキャリアに箔をつけに行くものだろ
先の絞り込みにも活用した「センチュウ研究のバイ
う、無名のラボにわざわざ行く意味があるのか。リ
ブル」だ。
スクが高いんじゃないか。成果は出るのか。当時、
当時一番行きたかった研究室は、ウィスコンシン
周りの先輩たちが懸念する声も聞こえてきたが、杉
大学マディソン校にあったジュディス・キンブル氏
本さんの意思は変わらなかった。
の研究室。センチュウの体細胞分裂から減数分裂の
「実際、その選択は今となっても間違っていなかっ
移行メカニズムについて研究しており、それまで酵
た、むしろ成功だったと思っています」
。ビックラボ
母を使って研究してきたことを活かせると思った。
では、ひとつの研究テーマを分担しながら実験を進
しかし、人気ラボだったために応募者が多く、最終
めることも多く、ボスも忙しくて直接ディスカッショ
選考の 2 人にまで残ったものの、残念ながら不採用
ンする時間がなかなか取れないこともある。一方で、
となってしまった。
ジョエル・ロスマン氏の研究室は、大学院生 2 人と
望んでいた研究室への採用がなくなり、どうしよ
テクニシャン 1 人、杉本さんが初めてのポスドクで、
うかと悩んでいた杉本さんに、キンブル氏は同じ
研究室の中もガラガラ。本当に何もないところから
キャンパスでこれから立ち上がるラボを紹介してく
研究を始めることになった。自ら研究室を立ち上げ
れた。PI(Principal Investigator)のジョエル・ロ
る際に必ず伴う苦労を、先に味わうことができたわ
スマン氏は、イギリスでセンチュウの研究をしてい
けだ。この経験は、日本でセンチュウの研究グルー
た、新進気鋭の研究者だという。彼の研究内容は、
プを立ち上げる際にも活きたという。
生殖細胞ではなく胚発生を切り口としたものだっ
また、実験スキルを習得する際にも、胚発生の過
た。受精卵からさまざまなタイプの細胞ができる過
程で生じる 558 個の細胞のひとつひとつの見分け方
程に注目し、どのような遺伝子が関わるのかを調べ
などを手取り足取り教えてもらい、ことあるごとに
るというもので、研究の広がりや可能性がありそう
時間をかけてしっかりとディスカッションすること
な気がした。憧れのジュディス・キンブル氏の隣の
ができた。彼から直接教えてもらった知識や技術は、
ビルで働けることも魅力的だ。また、同じ大学に他
大きな財産になったと杉本さんは話す。
にもセンチュウを扱う研究室が 3 つあり、国際ミー
留学中、彼女の一番大きな仕事となったのは、
ティングも開催される、
「センチュウ研究のメッカ」
p35 と呼ばれるタンパク質に関する研究だ。もとも
といえる環境だった。この場所でなら自分がやりた
と昆虫に感染するバキュロウイルスがもつもので、
いことができそうだと感じ、杉本さんの気持ちはす
感染した細胞の自死(アポトーシス)を妨げる働き
研究室で学生たちの実
験の様子を見守る。研究
室は和やかな雰囲気。
をもっていた。これをセンチュウに発現させたとこ
んは着実に実験を進め、成果が出る頃には周囲の理
ろ、同様に細胞死を抑えることができたのだ。この
解も追いつくようになった。
「他の人からの評価は、
ことは、線形動物であるセンチュウと節足動物であ
私は基本的にあまり気にならない。でも、自分の好
る昆虫との間で、共通のメカニズムがあることを示
きなこと、嫌いなことっていうのはすごくはっきり
唆する。さらには、ヒトを含む哺乳動物にも共通か
しているんです」
。好きだと思うことでなければ続か
もしれない、という考えにまで発展させることがで
ないしアイデアも浮かばないと話す杉本さんは、い
きる。
「アポトーシスのメカニズムがわかり始めたば
つでも自分の興味に従って道を選んできた。
かりの頃だったので、哺乳動物の研究者は、センチュ
そんな杉本さんが今、興味をもっているのは、細
ウと同じしくみだなんて、思いもしていなかったん
胞内で起こる生命現象がどのように進化してきたか
です」
。その後、p35 はさまざまな生物種でアポトー
を調べることだ。2013 年頃、広く使われているモデ
シスの阻害因子として活用されるようになり、アポ
ル生物以外でも自由自在に遺伝子配列を改変でき
トーシスの研究の盛り上がりに貢献した。
る、CRISPR-Cas9 システムと呼ばれるゲノム編集技
術が誕生したことで、それまでは机上論でしかな
いつだって、
自分の興味を第一に
かった進化を、実験的に調べられるようになった。
留学の最後の年、センチュウ研究のコミュニティ
ると考えられている。ゲノム編集によって遺伝子を
では RNAi と呼ばれる現象が噂になっていた。短い
改変し、それによって引き起こされる生命現象の変
進化は、ある生物個体の細胞分裂や生殖の際に遺
伝子配列が変化し、それが広まっていくことで起こ
RNA を細胞に導入することで、狙った遺伝子の発
化を調べることで、進化の過程を推測できるのだ。
「塩基配列の変化が細胞の内部の現象の変化を引き
いために積極的に用いられていたが、他の分野の研
起こします。それがさらに細胞のかたちや役割、動
究者からは、センチュウだけでしか起こらない妙な
き方にどういう影響をおよぼすのか、さらには個体
現象であるとか、原理がわからないので信頼性が低
レベルでのどのような変化につながるのかを調べて
いなどと揶揄されていた。
いきたいと思っています」
。
帰国して、学生時代に師事した山本教授のもとに
東北大学に移ってから、周囲に生態学を専門とす
戻った杉本さんは、RNAi の有用性を重視して、減
る研究者が増えた。遺伝子操作というミクロなレベ
数分裂や生殖細胞形成に必要な遺伝子の探索に使お
ルでの研究と、生物集団を相手にする生態学とでは
うと考えた。そして、RNA の溶液にセンチュウを
接点が少ないようにも思えるが、
「話してみると、環
浸すだけ、という簡単な操作で遺伝子の発現を抑制
境の変化が生物に与える影響を遺伝子レベルで調べ
できる方法を確立し、網羅的に遺伝子の機能を調べ
るなど共通の議論ができそうなんです」
。将来的に
ることを可能にした。
は、そうした方向性の研究もできればと考えている。
この現象が生物に普遍的であることが広く知られ
新しい技術や視点を次々と取り入れて研究を進め
るようになるには、2 〜 3 年の年月が必要だった。
ていく姿勢の根底にあるのは、研究テーマへの愛着
そのため、研究を始めた当初は、周りの研究者には
だ。自分の興味に従って選んだからこそ、その時点
意義を理解してもらえないこともあったが、杉本さ
での常識など気に留めず、道を切り拓いていける。
杉本 亜砂子 さん
現を抑えることができるというものだ。有用性が高
成果を出し続けるための生き方を見つけ、
他者の生き方も認めよう。
唯 美津木 さん
名古屋大学物質科学国際研究センター 教授
名古屋大学 大学院理学研究科 教授
化学反応を促進する物質「触媒」は、反応前後で自身は変化しないと
いわれるが、
それは正しくない。本当は、化学反応中にとてつもないス
ピードでかたちを変えているのだ。その様子を
「目に見えるかたちで捉え
たい」。名古屋大学物質科学国際研究センター教授の唯美津木さん
が学生の頃から掲げてきた目標は、
いま叶いつつある。
っているもの・こと
く
つ
を
ん
さ
木
津
美
今の唯
、
合 成と解 析という
分 野の異なる
につけたこと
2つのスキルを身
、
早いうちに 独 立し
ていく
自分で研 究を進め
さを知ったこと
おもしろさや 大 変
の芽となる
自 由な発 想と研 究
て
やすい 環 境を求め
アイデアが 生まれ
こと
大 学に 籍を移した
きたりする。それがどんなしくみで起こっているの
かがすごく不思議だったという唯さん。
「できれば、
そういうものを自分でつくってみたい」と思い、新
しい触媒の合成をテーマに卒業研究を行った。
触媒は、自身は変化せずに化学反応を促進すると
いわれているが、実際には、反応中さまざまに形を
変えている。反応の最後には、最初と同じ形に戻っ
てしまうから、一見変わらないように見えるだけだ。
研究室では、反応中の触媒の変化を明らかにするた
めの方法を勉強した。研究が楽しくて、就職を意識
せずに博士課程まで進学した。
最初の転機は、博士課程 2 年の夏にやってきた。
同じ研究室のスタッフが転出するタイミングで、助
手にならないかと先生から誘いを受けたのだ。悩ん
だ末に博士課程を中退し、同じ研究室で学生からス
タッフへと立場を変えて研究を続けることにした。
同じ学年の友人たちが楽しく学生生活を送るのを
横目に見ながら、唯さんは、慣れない仕事に追われ
学生生活の代わりに得た、
研究の幅を広げるスキル
ていった。自分の研究も進めながら学生の面倒も見
るという多忙な 1 年半を過ごした。
「最初はだいぶ
後悔しました」と唯さんは話す。
「卒業したら、違
う研究室で 1 から新しいテーマをやるのが普通。同
高校のときから、化学と数学が好きだった。東京
じ学年のみんなは、そうやって環境を変えていろい
大学に進学した後、3 年生になって化学科を選んだ
ろなことを吸収しているのに、自分はずっと同じこ
のは、
「2 年間通い続けた駒場キャンパスから外に出
とをやっていていいのかな、と迷いました」
。しかし、
て、違うキャンパスに行けるから」
。化学は好きだっ
後から振り返ってみると、同じ研究室で自分の研究
たけれど、立地の方が大きな理由だった。
を継続できたことが今のキャリアに活きているという。
4 年生の卒業研究で、触媒の研究室を選んだ。触
唯さんが所属していた研究室では、触媒の合成と、
媒に対して漠然とした興味をもち始めたのは高校生
物理化学的な構造解析法の開発や分光計測の大きく
のとき。それから時を経て、大学の 1 〜 2 年生のと
2 つのテーマを柱としていた。唯さんは合成の研究
きに授業で触れる機会があり、触媒への興味が再び
をしていたが、助手になれば、計測をテーマにした
顔をのぞかせるようになった。
学生の面倒も見なければならない。そのため、助手
化学反応が起こるとき、触媒があるだけで反応が
になってから初めて、分光などの計測法も必死に覚
起こりやすくなったり、まったく異なる化合物がで
えた。触媒の研究者で合成と先端計測の両方を対象
唯 美津木 さん
としている人はほとんどいない。
「合成と計測では使
は 2 つ。ひとつは、ポジティブであること。研究は、
う技術やスキルがまったく異なるため、学生のうち
自分でおもしろいと思って始めたテーマでも結果が
に最初からどちらもマスターするというのは不可能
出ないことも多く、どうなるか先が読めないもの。
に近いですね」
。ここで唯さんは、現在の研究の基
それを最初から「うまくいかないかもしれない」と
盤となる「合成と計測の両方ができる」という強み
尻込みする人は、
何をやってもうまくいかない。
一方、
を手に入れた。
その研究のおもしろさが
理解できなければ、人は動かない
「やってみれば、何か見つかるに違いない」くらい
ポジティブな人は、どこに行っても伸びるというの
が唯さんの意見だ。
もうひとつは、人とコミュニケーションがとれる
こと。自分ひとりで考えつくことはたかが知れてい
愛知県岡崎市にある分子科学研究所に移ったの
る。いろいろな人と話をして、これはおもしろそう
は、2008 年秋のこと。
「准教授としての採用でした。
だと思ったらすぐに動ける人は、どこに行っても何
ここでは、准教授も独立して小さなラボを構えるこ
をやっても結果が出るだろう。唯さんも実際に、
「分
とができる。初めて、本当に自分ですべてを運営し
野を変えて新しいことをやってみたい」という人を
ないといけない立場になりました」
。唯さんの他、研
これまでにも何人か受け入れたことがある。4 年半
究所のスタッフとポスドクだけの小さなグループで
でのべ 30 人の学生・研究員と一緒に研究を進めて
研究を進めることになった。
きた。
学生の頃は、自分で実験をして、それが自分の成
果になった。ラボをもつようになって感じたのは、
「自
分でできることなんて本当に微々たるもの」という
思いがけないところにある、
研究の
“芽”
を求めて
ことだった。一緒に研究をしてくれるポスドクやス
タッフ、学生たちと一緒にどうやって成果を出して
2013 年 4 月、名古屋大学に教授として赴任して最
いくか。この研究の何がおもしろいのか、彼らにそ
も変わったのは、研究室に「学生がいる」というこ
れを理解してもらわないことには始まらない。人を
とだ。実は唯さんが求めていたのはこの環境だった。
動かして成果を出すことの難しさが身にしみた。
ポスドクは即戦力だ。キャリアを積んで、十分な
スタッフの採用もすべて唯さんが行う。相性もあ
スキルももっている。
「このプロジェクトをやりま
るし、人それぞれの興味もさまざまだ。そんな中で
しょう」と言えば、1 年くらいでしっかり結果を出
優秀な研究者に来てもらうためには、自分たちがお
せる。
「だけど、失敗できないんです」
。確実に 2 年
もしろい研究をしていなければならない。化学の分
で論文を書けるようなプロジェクトにしなければ、
野では、人材が余っているということはない。優秀
彼らの将来に影響する。そのため、分子科学研究所
な人はすぐに就職してしまうし、アカデミアでも卒
では、リスクの高い仕事はなかなかできなかった。
業後にすぐポストを得て活躍する人も多いため、海
分子科学研究所には、東大時代からあたためてい
外まで視野に入れて人材を探す。いい人を採るため
たアイデアをもっていった。優秀なスタッフを得て、
に、唯さん自らが海外に行って面接をするというこ
それらをある程度かたちにできた 4 年半だった。し
ともあった。
かし、今までまったくやっていなかった何かをやろ
唯さんが一緒に研究をしたいと思う人のポイント
うと思ったときに、あまりにもリスクが大きすぎて、
ポスドクの方とではとても一緒にできない。自分の
中の研究の芽のアイデアが少し薄くなっているよう
な気がした。
学生には、変な先入観がない。ある程度研究経験
のある人は「これをやったらうまくいかない」
とか「こ
れは難しいな」とわかってしまってなかなか手を出
せないことに対して、学生はすぐ手が動く。実はそ
ういうところにおもしろいことが隠れている場合が
多い。そういうふうに研究の芽を探すことを始めな
唯さんが初めてラボを構えた分子科学研究所。
自分で手を動かすだけではなく、
いかに人を動か
して成果を出してもらうか。
その難しさを実感した。
いと先が見えてしまう、と唯さんは危機感を覚えた。
これが、名古屋大学への赴任を決めた一番のきっか
「何を研究したのか」
ではなく、
「どうやって研究したのか」
というプロセスを大切にして
学生の指導にあたる。
けだった。
えるかたちで捉えられるようになりつつある。また、
2014 年 3 月時点で、研究室に所属する学生は 20
100 ナノメートルという非常に細い X 線の光を当て
名弱。唯さんは基本的に、学生ひとりにひとつずつ
ることで、非常に小さな触媒の粒の構造もわかるよ
テーマをもたせることにしている。先輩に面倒を見
うになってきた。
てもらいながら同じテーマで研究する、ということ
「触媒は“魔法の石”なんて言われることもある
はさせない。
「大学で研究していたテーマを、就職
けれど、本当はちゃんと分子が反応している。その
先でそのままやっていけることはまずないし、アカ
様子を知りたいというのは、すごく純粋な興味で
デミアで職を得ても、卒業したら必ず研究テーマは
す」
。それがどういうふうに働いているのかという、
変わります。何の触媒をつくったかということは、
「そのもの自体を理解する」ことができなければ、本
学生のときはもちろん一番の関心事ですが、長い目
当の意味で物質を理解し、つくることは無理だと唯
で見たら触媒の中身よりも、研究を進める際に培っ
さんは考えている。自分たちが明らかにした反応の
た考え方や経験の方がずっと重要だと思います」
。
しくみが、実際の触媒づくりに使われること、それ
そういった経験を唯さんは大事にしている。
が唯さんの夢だ。
自分の専門分野から一歩踏み出し、
新しいアイデアを得る
唯さんは、5 年に 1 回くらいの頻度でテーマをガ
ラッと変える。
「一生懸命研究して、ある程度結果
が出てきたら、また新しいことを始めないといけな
いと思う」
。しかし、それはとても勇気の要ることだ。
目には見えない触媒。触媒はとても複雑な構造を
これまでと違う発想で新しいことをやるには、自分
しており、それがどういうものなのかを知ること自
の専門から一度外に出なければならない。そこは、
体が、今もってかなり難しい問題なのだという。
「触
まったく知識のない「素人」に戻って再スタートを
媒の研究には、新しい触媒をつくり出そうとする研
切る、新しいフィールドだ。周りにもいろいろ言わ
究と、どんなものがよく働くのかということを理解
れるだろう。
「でも、その一歩を踏み出すのは上の
しようとする研究があり、私は両方の観点から研究
人の役割だと思う。現場の人は、半年後、1 年後に
に取り組んでいます」と唯さん。現在の研究テーマ
結果を出さないといけない。新しい場所に向かって
は、金属錯体と固体表面を組み合わせて新しい触媒
進むのは、ここでは私の仕事だと思う」
。
をつくること、燃料電池などの触媒の劣化をどう
5 年後あるいは 10 年後、唯さんがどんな研究テー
マに取り組んでいるのかは、きっと誰にも想像がつ
かない。
肉眼で見ていたらずっと変わらないように見える
触媒を「見る」にはいろいろな測定方法が必要だ。
触媒反応は、速いものだと 1 マイクロ秒、1 ミリ秒
という単位で終わってしまうので、それ以上速い時
間スケールでその様子を追わないと、その間の変化
を捉えることができない。現在、SPring-8 の非常に
明るい光を利用して触媒の「スナップショット」を
撮影することで、触媒粒子が変化する様子を目に見
唯 美津木 さん
やったら抑制できるかを、最先端の分光法を使って
明らかにすることだ。
成果を出し続けるための生き方を見つけ、
他者の生き方も認めよう。
流されてみる。それもひとつの道
塩見 美喜子 さん
東京大学 大学院理学系研究科 生物科学専攻 教授
東京大学大学院理学系研究科の塩見美喜子さんは、
まだ数少
ない女性教授のひとり。輝かしい経歴からイメージされるバリバリ
と働く女性の印象とは異なり、
とても柔らかい雰囲気の方だ。落ち
着いた声で「私の歩んできた道は特殊だから、
みなさんの参考に
なるかしら」
と話してくださった柔軟な生き方には、性別や職業に
かかわらず、人生を歩むうえでとても重要なヒントが含まれている。
るもの・こと
い
て
っ
く
つ
を
ん
さ
子
今の塩見 美喜
、
しないアメリカで
日本の常 識が 存 在
ったこと
方もある」ことを知
「それ以 外 のやり
、
そろって研 究をし
同じラボで、夫 婦
育 児をしたこと
初めて独 立し、
なったこと
ラボをもつように
生物が 特別に好きだった
わけじゃないけれど
塩見さんは、30 塩基程度の RNA で生殖に関わる
細 胞 に 発 現 し て い る piRNA(Piwi-interacting
RNA)研究の第一人者として国内外で注目を集めて
いる研究者だ。トランスポゾンという染色体上を動
き回る遺伝子が活性化すると、遺伝子配列の中に入
り込む確率が上昇し遺伝子を破壊してしまうが、
piRNA はそのトランスポゾンの活性化を抑える役割
を果たしている。塩見さんは、ショウジョウバエを
用いて piRNA が生体内で合成されるメカニズムと、
トランスポゾンの抑制機構の解明に取り組んでき
たところ、
「あなたはなんとなく教員向きではないか
た。2009 年には、この小さな RNA 分子の機能研究
もね」といった趣旨のことを言われて、これもやめ
に対する貢献を認められ、第一線で活躍する女性の
てしまった。その後、理学部などさんざん迷った結
自然科学者に贈られる「猿橋賞」を受賞している。
果、仲のよかった友人が希望していた農学部に一緒
そんな日本の生命科学研究のリーダーである塩見
に行くことにした。
さんは、驚いたことに大学進学時点では生物学が特
進学したのは実家から通える岐阜大学農学部。一
に好きだったというわけではないという。高校では
般の人がイメージするような、絶対に生物学の研究
理系選択だったが、学部を選択するまでに紆余曲折
者になるぞと熱く燃える若き研究者の姿とは対極の
があった。
第一歩だったといえるかもしれない。
最初に候補となったのは工学部だ。
「父は一級建
築士で建設会社を営んでおり、私が小さい頃から家
で図面引いたりしていたんです。それで興味があっ
「こうでなければならない」
なんてことはない
たんですけど」
。父親に相談してみると、当時住ん
でいた名古屋では「女性が建築家になってもやって
大学では有機合成の研究室に所属。卒業後は、京
いけないぞ」とひと言。それで塩見さんは工学部進
都大学大学院農学研究科に進学した。修士号を取得
学をあきらめてしまった。
後、所属研究室でそのまま 2 年ほど研究員として研
次に考えたのは教育学部だった。中学や高校の先
究を続けていたが、大学時代の先輩であった夫の塩
生になるのもいいかなと、進学指導の教員に相談し
見春彦氏とともに渡米することになった。
「夫が 1
塩見 美喜子 さん
留学先のアメリカのラボにて。
切磋琢磨しあった仲間
(左)
やボス
(右)
と一緒に。
塩見夫婦への取材記事が雑誌に掲載された
(Nature DIGEST, DECEMBER 2007, VOLUME 4 NO 12, pp24 - 25)
。
〜 2 年間くらい留学したいというので、それもいい
児も経験した。日本では、研究者夫婦が子育てをす
かなと思って。その間は専業主婦をして、
日本に帰っ
るのは難しい、出産・育児が女性研究者の研究を遅
てきたときに進学したければ進学して、就職したけ
らせてしまう、といったイメージが浸透している。
れば就職すればいいと思っていました。何とかなる
塩見さんがたった 8 〜 10 週間の産休後にラボに復
だろうって軽く考えていましたね」
。
帰できたのは、ラボで活躍する女性研究者が同じよ
留学先はペンシルバニア大学ハワードヒューズ医
うにして研究に戻ってくる姿を間近で何人も見てい
学研究所。夫についてラボのボスにあいさつに行っ
て、そういうやり方なんだということを、先に知っ
たところ、
「ミキコ、修士号もっているなら実験でき
ていたからだ。
「国際学会に参加したり留学したり
るよね。僕のところで働きなさい」と言われ、なん
して、世界で活躍する女性研究者を見るといいと思
とその日のうちに雇用が決まってしまった。
「これま
います。日本の常識以外にいろいろなやり方がある
で、必ずこれをしたいと思って自分で選択してきた
ことを知ってほしいですね」
。
ことはあまりなくて、結構流されてきているんです
よね」と笑う塩見さん。こうして、遠くアメリカの
地で、専業主婦の予定が一転、生物学の研究が始まっ
夫 婦二人三脚。
いつでも議論できる環境は居心地がいい
た。それまでの研究と分野は異なるものの、DNA
の扱い方や実験のテクニックは大学院の頃の知識が
1 〜 2 年で留学から帰るつもりが 9 年も同じラボ
活かせたので困らなかった。一方、
もともと堪能だっ
で研究することになった塩見夫妻。その間、
研究テー
たわけではない英語には苦労した。
マが 2 人で同じ時期も違う時期もあったが、どこで
しかし、塩見さんの心を最も動かしたのは、日本
でもすぐに研究についてディスカッションできるこ
の大学との違いだった。ラボでは、学生が先生と対
とがとても居心地がよかったという。
「たとえば、論
等に、ときには学生がボスのデスクに腰かけたまま
文がなかなか通らないとか困難にぶち当たったと
ディスカッションをしている様子を見かけることも
き、軽く話せる人が常にいるというのは、私はとて
あった。
「もう、カルチャーショックですよ。ちっと
もいいなと思っています。彼に助けられたことはた
もシャキっと座っていない。ボスに言いたいことが
くさんありました」
。
言えないということがまったくない。遠慮しなくて
研究室でも一緒。家に帰っても一緒。ずっと研究
いいんだ、言い方さえ間違わなければ大丈夫なんだ
の話は嫌だという方もいる一方で、うまくやってい
ということを学びました」
。日本と違ったのは、学生
る夫婦もある。
「これは夫婦によりますよね」と塩見
の様子だけではない。
「ボスの方も、
17 時くらいに
『今
さん。ただ、ひとつの研究を 2 つの脳で行うことは
日は疲れてもう何もできないから帰るね』なんて平
やはり難しい。多少の重なりはあるが、それぞれの
気で言っちゃうんです。そんな先生、日本では見た
分担、テリトリーと呼べるものが自然とつくられて
ことがないでしょう?」
。これまで日本で見てきた常
いったという。
「ここは彼に任せましょう、ここは私
識は、
アメリカでは関係ない。一歩引いてみれば、
「こ
に任せてください、みたいなことが、自ずとできて
うでなければならない」ことなんて、実はあまりな
きたような気がします」
。もしかしたらこれが、夫婦
いのではないかと気づかされたのだという。
で研究を続けることができた秘訣かもしれない。
さらに、アメリカ留学の最後の年には、出産・育
アメリカ留学中に自分の名前が載った論文がいく
学生に「最近どう?」
と
メールをすることも。指
導には熱が入る。
つか出たことで、京都大学で論文博士を取得したが、
塩見さん自身はその後も独立する気はまったくな
かった。夫の塩見氏が行く先について行って一緒に
初めての独立。
これからも柔 軟に、
自分のスタイルで
研究を続けられればよいと思っていた。
徳島大学で新しい研究センターを立ち上げるので
夫婦で徳島大学から慶應義塾大学に籍を移した
教授を探しているという話があり、いよいよ日本に
後、塩見さんは現在、夫の塩見氏の研究室から独立
戻ることになった。脆弱 X 症候群の原因遺伝子を
して東京大学で研究室を主宰している。これまで二
ショウジョウバエで研究しようと 2 人で決め、同じ
人三脚で研究を進めてきたが、どんな心境の変化が
ラボでスタートさせた。
あったのだろうか。
その後、塩見さん自身にも外部の大学のポストに
「彼と定年まで一緒に研究してもいいかなと思っ
アプライしないかという誘いがあったが、
すべて断っ
ていたんですけど、年を重ねて研究費をそれぞれ取
てきたという。その理由は「当時、独立する気があ
れるようなステージになってくると、独立した方が
まりなかったということもあるし、子どもが小さかっ
いいんじゃないかという意見もあって。絶対嫌だと
たというのもあるんです」
。たとえば、子どもが発熱
いうわけでもなかったですし、ポンっと背中を押さ
したりすると保育園から電話がかかってくることが
れる感じでアプライしてみたんです」
。
ある。夫婦で同じラボにいれば、お互いにどのよう
研究室内の設計は、夫からアドバイスをもらいな
な状況なのかを把握でき、今ならどちらが仕事を抜
がら、新しいラボのメンバーに手伝ってもらった。
けて迎えに行くかなどやりくりができるのだ。
「午後
何といっても目を引くのは、腰よりも高い位置にあ
2 時頃に電話がかかってきても、実験中だったりし
る実験台だ。足元には個人所有の冷凍庫が置いてあ
て困るじゃないですか。そういうときは、家ではな
る。アメリカのラボのスタイルだという。研究室の
く大学の当時の私の居室に連れてきて寝かせていま
メンバーがディスカッションをしたり食事をしたり
した。お布団を一式持ってきて。何かあれば彼も隣
するスペースや塩見さんの居室は、きちんと整頓さ
にいるし、大学敷地内に病院だってある。研究者夫
れスッキリとした印象だ。ものをたくさん持つのが
婦だと持ちつ持たれつで子育てできるので、とても
あまり好きではないという塩見さんらしい。留学時
よかったですよ」
。夫の塩見氏が教授という独立し
代や家族の話をしているときのやさしく穏やかな様
子とは一変して、研究モードに入るとテキパキと動
上司の目を気にすることなくやりくりできる環境
き指示を出す。
だったからだ。
これまでの塩見さんは、いろいろな人に助けられ
研究も子育ても夫婦が協力し合って進めてきた姿
情報をもらいながら歩んできたと言う。しかし、そ
は、近くで見ていた研究室のスタッフにも大きな影
れをうまく活かすことができたのはきっと、自分の
響を与えているはずだ。徳島大学時代から塩見夫妻
考えや常識にとらわれることなく、周囲からの助言
と一緒に勤めているスタッフの中にも夫婦がおり、
を受け入れ吸収することができる柔軟な姿勢があっ
現在、小さな子どもを育てているところ。常識にと
たからだ。今後は自身の研究室の新しいスタイルを
らわれずいろいろな方法でものごとに対処する塩見
つくり上げ、ますます piRNA の世界を明らかにし
夫妻から学ぶことは多いことだろう。
ていくことだろう。
塩見 美喜子 さん
たポジションにあったことも大きい。同じ研究室の
文部科学省科学技術人材育成費補助事業
「科学者としての働き方。
」
発 行 日
平成27年3月31日
発
文部科学省 科学技術・学術政策局 人材政策課
行
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