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なぜ人は嘘をつくのか

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なぜ人は嘘をつくのか
な
人 は嘘 を つ くの か
― 自己 と自己物語 が作 り出す “フィ クション"世 界一
学籍番 号
:19051029
名 前 :木 村
指導教官 :立 木
奨
茂雄
目次
要約・ キ ー ヮー ド
は じめに
1
1。
ゴ フマ ンの社会学
1
ドラマ トゥルギ ー
1.2 印象操作
1。
3
儀礼ゲ ー ム
1.4 儀礼 と秩序
1。
1。
5
6
2
役割距離
多元的役割 演技者
自己物語論
2.1 自己物語論 とは
2。
2
「自己」 と 自己物語
2.3 自己物語 の特徴
(1)視 点 の二 重性
(2)出 来事 の時間的構造
(3)他 者 へ の志向
2。
4
3
「語 りえな い もの」 と 自己物語
現代社会 と対人関係
3.1 メデ ィア と対人関係
3。
3。
2
3
メデ ィア と若 者
若者 と友人関係
(1)多 チ ャ ンネル化
(2)状 況志向
(3)繊 細 さ
(4)開 かれた 自己準拠
4
4。
現代社会 と 自己物語
1
物語不在 の時代
4.2 現代社会 と 自己構成 のモー ド
おわ りに
注
参考文献・ 引用文献
要約
この論文は、「嘘 をつ く」 とい う日常的 に起 こって い る現象 を社会学的 に
解 明す る もので
ある。カ ナダの社会学者である アー ヴ ィ ング 0ゴ フマ ンは他者 との対面的相互
行為 を研究
す る 中で印象 操作 に注 目し、人び とが 状況や 相手 によって態 度 を変 え、そ の数 に
対応す る
役割 を使 い分 けて い る こ とか ら 「人間は多元的役割演技者 で ある」 と考 えた。 これ は
浅野
智彦が論 じる 「自己物語論 」 と深 い関連性がある。
自己物語 とは 「自分 につ いて語 る こ と」 であるが 、そ こに は必 ず 「語 りえな い もの
」が
含 まれ る。つ ま り語 り手 は意 図的・ 非意 図的 にか かわ らず、 聞き手 に寄 り添 うよ うに ら
語
れ る 自己物語 の性質上 「事実 の隠蔽」 は避 け られな い。そ して個 人が状 況や他者 の
数 に対
応す る数 の 役割 を持 つので あれ ば、そ の 役割 に対応す る数 の 自己物語 を必然 的 に る こと
語
にな る。そ こで第三者 の視点 に立 った 場合 に、 相手 との 間 に生 じて しま う矛
盾 を 「嘘 をつ
くこと」 であると解釈す る ことができる。
キー ワー ド
多元的役割 演技者、 自己物語、語 りえな い もの、 自己 の多元化 、現代社会
-1-
は じめ に
人は嘘 をつ く。 あ ま りにも当た り前 の ことであ り、疑 間 に感 じる必
要 のな い ことな のか
も しれ な い。 しか し、 この疑 間 に興 味 を持 って い る人 はた くさん い る。
さまざまな著作 の
中で多面 的か ら研 究 されて い る ことか らも容易 に判断できる。 今 を生きて い る人、 こ
れか
ら生 きて い く人 を含 めて、 人間で あれ ば誰 もが この テ ーマ か ら逃れ る ことはで
して、 日常生活 の 中で当た り前のよ うに起 こって い る現象だか らこそ、 この
きな い。そ
テ ーマ をあえ
て 問題視 して みよ うと思 う。
この テ ーマ を思 いつ いたきっか け となったの は、 昨年度
(2008年 )に 履修 して いた社会学
Ⅱで
演習
行 った グル ー プヮー ク とそ の時 に配布 された 資料 で ある。 グル ー プ 内で のコ ミュ
ニ ケ ー シ ョン能 力を図 るい くつかの ワー クを体験す る 中で、 自分 の意 図を相手 に
伝 える こ
とが あま りにも難 しく、 また 逆 に相手 の意 図す る ことを把 握す る難 しさも同時 に実感 した。
日常的 に行 って い る コ ミュニ ケ ー シ ョンとい うものを改めて考 えさせ られ、 またそ の面 白
さに惹かれた。そ して、社会学演習 Ⅱで配布 された 資料 の 中で最 も印 象 的であった のが 以
下 の文章である。
「コ ミュニ ケ ー シ ョンは不完全な ものだ と知 って、そ の うえで
不都合が生 じた ときにい
ち早 く気 づ く感 受性 と、 不都合 をそ の ままに放置せず に修復 して い く勇気 とスキル を持 つ
ことが 大切だ ということです」 (添 付資料 「20 コ ミュニケー シ ョンのプロセス と留意点」
『人間的 コ ミュニケー シ ョンをめ ざ して 』80ペ ー ジ)
この文章 を読む までは、「コ ミュニ ケー シ ョンとは 自分 の頑張 り次第で伝える ことができ
る、 また伝わ る もの」であると確 信 していたが、 全 く逆 の発想 にあっけにとられた 。「伝わ
らな い ことを前提 として、 コ ミュニ ケ ー シ ョンをす る」 ので ある。 この 文章 を読 んだ後、
率直 にそれでは 「どう して人は会話 をす るのか」 とい う疑 間を もった。そ して、伝わ って
いな いのに、伝わ って い る振 りを して い る 日常生活 のさ まざまな場面、例 えば、「母親が子
供 に昔話 を語 って 聞かせ る とき」「子供が家 に帰 って 学校 での 出来事 を親 に一生懸命語 り聞
かせ よ うす る とき」「就職活動で 自己 PRを す る とき」「友 人 に 自分 の恋愛 につ いて相 談 を も
ちか ける とき」 な ど挙 げれ ば切 りがな いが、そ のひ とつひ とつの場面 を考 えてみた。そ し
て、「コ ミュニケー シ ョンとは、お互 いがお互 いの言葉 を理 解す るふ りをす る、つ ま り、お
互 い を蝙 しあ うこと (嘘 をつ きあ う こと)で 成立す る もの」 だ とい う自分な りの結論 に至
った。 しか し 「人間が生 きる社会 に嘘が あるとい うことには、きっ と意 味が あるはずだ」
と考 えた結果、卒業論文のテ ーマ を 「なぜ人は嘘 をつ くのか」 に設定す る ことに した。
-2-
以下 に述 べ る文章 は この研 究 をは じめ るに 当た って、 このテ ーマ につ いて考 えた
自論で
ある。
『僕 には 「嘘 をつ くとい う行 為」 が 防衛行 為 で あるよ うに思 え る。
子 どもの 頃 に親 に し
か られた くな い とい う思 いで必 死 に苦 し紛れ の嘘 をつ いた ことを思 い出す。今で
ももちろ
ん多 くの嘘 をつ いて い るが、や は り自己 防衛 のため に嘘で 自分 を武装 して い る
気がす る。
結 局廃業 にお いや られた船場吉兆 の社長 の主 張が 二 転 三 転 して いた こと も、のれ ん を と
何
か 守 ろうとい う一 身で苦 し紛れ につ いた嘘 の連続であった ことを表 して い ると思
う。
僕 の場合 は他者 (相 手)の 存在 、船場吉兆の場合 は社会 の存在 を意識す る、とい うよ り避 け
る ことができな い対象が存在す るか ら逆 に嘘 というものが必 要 にな って くるのだ と思 う。
この世界 に 自分ひ と りしか存在 しな いのであれ ば嘘 をつ く必 要は無 い と思 う。
また地 域 によって嘘の価値 は変わ ると考 える。都市部では嘘の価値 は高 い気がす る。広告
0
雑誌・ 新 聞・ テ レビな どのメデ ィア の 中心地、情 報が氾濫 して い る場所 は特 に嘘が 前提 に
な って い る と感 じる。人が人 を疑 うことが 前提。 自分 を偽 る ことが 前提。何か間違 って い
る気がす る。 逆 に離島な どの場合 はあま り嘘 をつ く必 要が無 い と思 う。 自分 を守 る必 要が
無 いか らなのか もしれな い 』
この 自論で は、「嘘は 防衛行為で ある こと」「この世界 に 自分だ けで あれ ば嘘 をつ く必 要
がな い こと」「都市部 ほ ど嘘が必 要で ある」 とい う仮説 を立てて テ ーマ に向き合 ってみた。
少な くともこの 文章か らは 「嘘 をつ く」 ことに対 して、 不信感 を抱 き、 否定的な見方 を し
て い る こ とが分 か る。 この論文 の最後 に、 自論 に対す る批判 を述 べ よ うと思 うが、実 際 に
「嘘 をつ くこと」 に対 して は、心理 学 0哲 学・ 倫理学な ど
多面的な方面か ら研 究 されて い
る。 もちろん本論 は社会的な側 面か らアプ ロー チす るもので ある。本 論 は大 き く分 けて 2
つの視点か らこのテ ーマ を考 える。それ は 「ゴ フマ ンの社会学」と 「自己物語論」である。
まず 1つ 日であるが、カ ナダの社会 学者 にアー ヴィング・ ゴ フマ ン
(1922-1982年 )(以
下 ゴ フマ ン)と い う人が い る。 彼 は人 間が生活す る社会 を 「舞台」 に喩えた ことで有名であ
るが、 他者 との対面的相互行 為 で ある社会 とい う舞台の上で、 人間のさまざまな行動 を多
面的 に観察 して い る。そ こで ゴフマ ンの著作 を手がか りに して 「人が どのよ うな状 況 で嘘
をつ くのか」 また 「どうして嘘 をつ くのか」 を解 明す る。
2つ 日の 「自己物語論」 であるが、 ここでは浅野智彦 (以 下浅野)の 議論 に限定す る。 自己
物語 とはそ の言葉通 り 「自分 につ いて 語 る物語」 で あるが、 日常生活で行われて い る他愛
のな い会話 の メカ ニ ズムを解 明 して い く中で 「発話 にお ける嘘」 につ いて考 える。
最後 に以 上の
2点 を踏 まえた上で、現代 の 日本社会で 「嘘 をつ く」 とい う行 為 を考 えて
みた い。
-3-
ゴ フマ ンの社会学
1.1 ドラマ トゥル ギー
ゴ フマ ンは、人間の社会生活 を演劇 に喩え、「人生は舞台であ り、みん
な何か しらの役割
を演 じて い る」 と考 えた。 確か に劇場で演 じられ る役柄 は現実的で はな く、 もちろん
現実
をフ ィクシ ョンに置 き換 える ことによって 無理が生 じる部分 もある。 しか し、 ゴ フマ ンは
「人 を欺 く演 出が成功 を生む演 出であれ ば、 日常生活 にお
ける相互 行為 に置 き換 える こと
ができる」 (石 黒 1974)と 考 え、他者 との対面的相互 行為 の分 析 を 「 ドラマ トゥルギ ー」、
つ ま り演 劇論 とい う観点か ら研究 したので ある。
日常 生 活 にお いて 人 び とは 「パ フ ォー マー 」で ある。パ フ ォー マ ー とは演技 を行 う行
為 者 の こ とで あ る。 そ して 、「パ フ ォ ー マー 」 が 演 じる行 動 は 「パ フ ォ ー マ ンス 」 は)と
呼 ばれ 、ゴ フマ ンは、対面 的相 互 行 為 が成 立 す るた め には 「パ フ ォ ー マ ンス は欠 かす こ
とがで きな い」 (石 黒
1974)と 考 えた ので ある。
状況 2)内 にお いて 参加者たちは、他者 に対す る 自己 の印象 を管理・ 統制 しなが ら、他者 の
前 に身体行為 を呈 示 して い る。 しか し、パ フ ォーマー ひ と りでは、 舞台 は成立 しな い。そ
こには演劇 と同 じよ うに、舞台装置やオー デ ィエ ンスそ してチームの存在が不可欠である。
ここで対面的相互行 為 とは、「人 に限 らず、そ の空間を構成す るす べ ての ものによって作 り
上 げ られ る舞台」 と言 い表す ことが できる。
1。
2
印象操作
安藤清志 によれ ば『印象操作 とは、 自分 の外見や言動 を調整す る ことに よって、 自己 の
様 々な側面の うち、特定の側面 を選んで 「見せ」、他 の部分 を 「見せな い」 こと』と定義す
る ことができる。 (安 藤 1994)6)多 くの人が 意 図的・ 非意 図的 にかかわ らず、 日常生活 の
中で 印象操作 を行 って い る。そ こで 「どうして 印象操作が必要なのか」「本 当 の 自分 とは何
者な のか」 という疑 間がわ いて くる。
印象操作 のひ とつ に 「面子 の 繕 い」 とい うものが あ る。 これ は 「ある人の主張 してい
る立 場 と一 致 しな い情報が提供 され る事件が予期 され る場合 には、 面子 を失 う危険 を回避
し、 実際 に起 こった場合 には失われた面子 を修 復す る発言 が 交わ され る」 ことであ り、対
面的相互 行為 にお いて は、 自分だ けではな く相手の面子 も立て る ことが 期待 され る。
また 「釈明」 とい うものが ある。 これ は 「望 ま しくな い不適 切な行為や 期待 はずれ の行
為が生 じた 場合、そ の行為 と期待 の間 のギ ャップを埋 め合わせ るために行為者が行 う言明」
の ことで ある。
-4-
「釈 明」 には、相手の 自尊心 を
維持 した り、相 手 との 間 に溝が生 じる ことを防 いだ りす る
効 果が ある。 この よ うに他者 との生 活 にお いて、 印象 操作 は、相互行 を
為 円滑 に進 め る上
で必 要不可欠なの である。
ここで 面 白 い こ とは、「人が ′
いか ら相手 の面子 を立て よ うと して行為 して い るか どうか
」
はわか らな い とい うことで ある。 他者 との相 互 行為 を本心 か ら望 んで
行為 して い る場合 も
あるか もしれ な いが、それ を望 んで 行為 しな い、すなわ ち心 と行為が ともなわな い ー
ケ ス
はた くさん ある。そ のため、印象操作 には 「自己を偽 る」「嘘 をつ く」 という
側面が必然 的
に含 まれ るので ある。
1。
3
儀礼ゲ ー ム
ゴ フマ ンは、「印象 操作 とは、 言 葉 だ けで はな く 「身振 り」 全体 によ って 行 われ る も
ので あ る 」 (安 川
1991)と 考 えた 。 つ ま り印象 操作 とは、 自ら全体 を記 号 として 他者 に
呈示す るコミュニ ケ ー シ ョンと考 えたので ある。 対面的相互行 為 にお いては、そ の記号 を
操作す る ことによって 自己 を実際以上 に見せた り、詐 欺師 の よ うに社会 的 自己 を偽 って呈
示 した りす る ことが可 能で ある。 これ は現代社会 のお けるさまざまな 日常的場面 にお いて
も容 易 に想像が つ く。
しか し記号で コ ミュニケー シ ョンを行 って い る とい う事実 は、 同時 に人が構成す る 自己
や活動 のイ メー ジが、 どれ ほ ど本 人が 自らに忠実であろ うと努 力 して も、それが記号 に依
拠す る限 り、必然 的 に他者 に不安定な印象 を与 えて しまうことか ら逃れ られな い こと も意
味 して い る。 この よ うに人 間 には、 記号 を用 いた コ ミュニケー シ ョンをす る とい う側面が
あるとい うことをゴ フマ ンは 「身体 イ デ ィオ ム 」 0と い う言葉 を使 って 説 明 して い る。
ゴ フマ ンによれ ば、「個人が他者 との直接 的面前 に登 場す るとき、そ の個人は身体 的存在
である とい う事実 によって 自己 に関す る何 らかの情報 を意 図的・ 非意 図的 にかかわ らず 表
出 して い る」 ので ある。 (安 川
1991)要 す るに、人 間 の身体 自体 が コ ミュニ ケー シ ョンの
媒体 と して機能 して い るのである。 身体 イデ ィオ ム によって 獲得 された 自己情報 と しての
印象が、 まず は他 者が状況 の定義 に)を す るための主 要な情報 とな る。
そ こで対面的相互行 為 は、お互 いが記号化 された情報 を公表、または隠蔽 を繰 り返す 「戦
略的」 な性格 を持つ 情報ゲ ー ム に置 き換 える ことがで きる。 もちろん このゲ ー ム にはルー
ルが 存在 す る。それ は、 自己 に関す る道徳 秩序 に基づ く社会 的行為でな けれ ばな らな いと
い う ことで ある。つ ま り他者 との対面的相互行 為 とい う社会 では、 日常 的 に儀 礼ゲ ー ムが
行われて い る とい うことにな る。
1。
4
儀礼 と秩序
-5-
儀礼ゲ ー ム にお いて、 個人 の 印象 は状況 にお いて簡単 に変化す る。そ の
ため 印象 を管理
す る技 法が必 要 にな って くる。 先 に述 べ た 「面子 の繕 い」 の よ うに相
手 との相互行 為 が 円
滑 に進むよ うに、社会では儀礼秩序 を維持す る ことがお互 いに求め られ る。
まず、状況が 保証 され るため には、 自己 と他者 にお いて 「防御措置」 と 「
保護措置 」が
同時 に講 じられ る必 要がある。 防御措置 とは、「個人が 自己 の投企 した状況 の
定義 を保護す
るための方策」 の ことであ り、保護措置 とは、「他者 の投企 した状況 の
定義 を救済す るため
の方策」 (安 川 1991)と 定義す る ことができる。この どち らか一
方で も欠 けて しま うと、個
人の印象 を維持す る ことができな くな る。
ここで 印象 を維持す るため に 「儀礼」 とい う技法が必 要 とな って くる。
儀礼 とは 「対面的
0非
場面
対面的場面 にお ける行 為者 の真意が込 め られて いな い行為」(安 川 1991)の ことで
ある。 ゴ フマ ンは、「相互行 為 にお ける秩 序 は対面的場面 にお いて こそ保つ ことがで きる
」
と述 べ て い る。 社会 にお ける傾向 と して、 自分 の面 目を保 とうとす る防衛 的傾向、他人の
面 目を保 とうとす る保護的傾 向がみ られ る。 この 2つ の傾 向は、社会 の 中で入 り混 じって
い るのが 自然な ことであ り、相互 行為儀礼 と呼 ばれて い る。
相互行 為儀礼 には 「敬意」 と 「品行」 とい うものが ある。 敬意 は 「社会行為 に個 人が参
加す るときに、そ の人 はひ とつの全体 的人格 と して 参加す るのではな く、ある意味で特定
の資格な い し特定 の立 場で参加す る こと」 である。そ して 敬意表現 の主 要な タイ プは 回避
儀礼 と呼 ばれて い る。 回避儀礼 とは、「行為者が受容者か ら距離 をと り、受容者 の領域 を侵
さな い儀礼」 の ことで ある。 例 えば、電車 に乗 った 時 に、 怖そ うなお兄 さんた ちか ら離れ
た席 に座 る ことは これ に当た る。そ して、「提示儀礼」 と呼 ばれ るもの も敬意 表現 に含 まれ
る。 提示儀礼 とは 「行為者が受容者 を どう見て い るか、 これ か ら生 じる相 互 行為 にお いて
受容者 を どう扱 うか、 につ いて行為者が受容 者 に具体 的 に明示す る行為」 の ことで ある。
日常的にみ られ る挨拶 は これ に当たる。
もうひ とつ の相 互 行為儀礼である 「品行」 は 「装 いや言葉遣 いによって、 まわ りか ら尊
敬 され るよ うな 自分 を演 じる こと」 (浅 野敏夫 2002)と 定義す る ことが できるが、 これ はパ
ー テ ィー や 結婚 式、葬式な どにみ られ る。 この よ うな儀 式 には もちろん ドレス コー ドが存
在 し、 出席者 には、 服装や言葉遣 い をそ の場 にふ さわ しい ものにす る ことが 要求 され る。
また 対面状況 では、そ こに居合わせ る人び ととの 間で生 じるよろめき、つ まず き、げっ
ぶ、放屁 な ど身体 的不作法や過剰 演技や過 小演技、状 況 に合わな い演技や タイ ミングのズ
レな どによって 印象 は容 易 に攪乱 され る可 能性 をもって い る。ここで用 い られ る技法が「儀
礼的無関心」である。儀礼的無関心 とは、「演技 の破綻 によって生 じた 「関係」 へ の疑念 を
は じめか ら生 じなかった もの として振 る舞 うこと」 (浅 野敏夫 2002)と 定義す る ことができ
るが、簡単 に言えば、「見て見ぬふ りをす る」 ことである。
-6-
ゴ フマ ンが 「当事 者 の 自己提示 (印 象操作 )に よる
状況 維持 の努 力は、 さまざまな 攪乱要
因を慎重 に排除 しなが ら続 け られ るので あ り、そ の努 力 の しかた のなか に一
定 のル ー ル を
見 出す ことができる」 (秋 元 1990)と 述 べ て い るよ うに、儀礼 によってお互 いに
印象 を管理
こ
す る とによって、社会 の秩序 は維持 されて い るので ある。
1.5 役割距離
人び とは他 者 との 対 面 的相互行 為 にお い て 「自己」を呈示 し、 自分 の 目的 を達
成す る
た め に、様 々 な駆 け引き を しな けれ ば な らな い 。そ この た め、状 況 にふ さわ しい「
自己」
を演 出す る ことが必 然 的 に必 要 とな って くる。人 は 買 い物客 、職 場 で の 地位 、家 族
内で
の 役割 、結婚 式で の 来賓 な ど、状 況 に応 じて 役割 を与 え られ 、そ れ を演 じて い る。
状況
が 変 われ ば、 当然 役割 も変 わ る。 個 人 は多 くの 舞 台 を掛 け持 ち して い るので ある。
ゴ フマ ンは、「典 型 的な 役割 とそ れ を演 じる 人 の 実 際 の 役割 遂行 行 為 との 間 に
観察 さ
れ るギ ャ ップ」 の こと を 「役割 距 離」 と呼 んだ。 (佐 藤
1985)そ して 「自己」 は、そ の
演 出 の 仕方 の 中 に こそ現れ 、役割 距 離 によ って こそ表 現 され る と述 べ て い る。要す るに
社 会 的な 役割 、 例 え ば裁判官 は真 面 日、パ イ ロ ッ トは冷静、会計士 は正 確で几帳面 とい う
よ うに彼 の個人的な特質 を表 して いな いに して も、実際 に帰属 させ られて い る役割 が 他者
に対 して 彼 のイ メー ジの基 礎 を与 えて しま うのである。つ ま り、 ある役割 を受 け入れ ると
い うことは、そ の状況 の 中で得 られ る と見 な され る事実 上 の 自己 の 中 に完全 に消えてな く
な る ことを意 味す る。 言 い換 える と 「役割 を受 け入れ る ことは、役割 に受 け入れ られ る こ
と」である。この ことに対 して、ゴフマ ンは「コ ミ ッ トメ ン ト」(つ とい う表 現 を用 いて いる。
(佐 藤
1985)し か し個人は役割 を半 ば強制的に与え られて い る半面、役割 を一 時的 に停止
す る こと も放棄す る こと もできる。 役割 を一 時的 に停止 できる機能 は 「役割分離」 と関連
が ある。 役割分離 とは 「個 人 の主 要な役割セ ッ トのひ とつ の 役割 に登 場す る個 人は、 他 の
役割セ ッ トでは役割 を演 じてお らず、個 人 は矛盾 した 性質 の 役割 を持 つ ことができる」 と
い うものである。 この機能 のおか げで 日常生活 にお いて人 は多 くの舞台で異な る役割 を使
い分 け、演 じているので ある。
また 役割 を放棄す る機能 は 「役割破壊」 と関連 が ある。役割破壊 とは 「誰 も自分 を見 て
いな い ときには、 役割 にとどま らな い」 とい うもの である。 例 えば、外科 医 とい う素 晴 ら
しいパ フ ォーマー が、手術後 に外科 医 らしか らぬ行為 をす る とい うのはまさに役割破壊 に
当た る。 この よ うに役割 は全体 と して の 役割 シス テムや役割 パ ター ンに対 して 「持続 的効
果」 と 「破壊的効果」 とい う 2つ の効果 を持 ち、人び とは状 況 に応 じて この
使 い分 けて い るのである。
1.6 多元的役割演技者
-7-
2つ の機能 を
『個 人 が 「矛盾 した 性 質 の 役割」を状 況 に応 じて い
使 分 ける こ と
』を ゴ フマ ンは、「多
元 的役割 演技 者」 と表現 して い る。 ここで は 「多元 的役割 演技
者」 と 「多重 人格」 とい
う病 理現 象 と関連 づ けて「自己」につ いて 考 えて みた い。 )社 会 で 生 きて い
くた め には、
“
複 数 の 役割 を演 じる こ とを要求 され る。
しか し役割 分離 の 境 界 はあ い まいで あ り、どんな に うまくいって い る 互
相 行為であって
も、 自己 にとって事実上の主 張が表現上で何か矛盾 した結果 を生むのは
避 け られな い。
複数 の 役割 をそ の場面そ の場面で使 い分 ける ことは非常 に難 しく、ふ と した 瞬間 に の
別
役割セ ッ ト(つ で演 じて い る役割が顔 を出す こと もよ くある ことである。また活 動 シス テムは
行為 のため に舞台 を与 えるため、 当然 の ことで あるが、 役割 の飾 りつ けが広がれ ば広が る
ほ ど、役割距離 を示 す機会 は多 くな る。そのため個人はひ とつの集 団か ら自由にな って も、
他 の集 団 につか まって 役割 を与え られ る ことにな る。 この よ うに ゴ フマ ンの 「多元 的役割
「社会生活 を送 る上で、複数 の役割 を演 じざるを得な い ことである
演技者」とい う表現 は、
」
と解釈できる。
ここで 「多 重 人格 」 とい う 「病 理」現 象 を考 えて み る。「多重 人格 」 は以 下 の よ うに
定 義す る こ とがで き る。 ③
① 患者 の 内部 に二つ以 上の異な る人格 または人格状態が存在す る こと
② これ らの人格 または人格状態の少な くとも二つ が反 復的 に、そ の 人の行 動 を完全 に
制御 している
これ らの定義か らわかることは、複数 の人格が記憶 を通 して一定 の連続性 を与え られ、
それ によって 同一 性が保たれて い る状 態が正常であ り、その連続性・ 同一性が保たれて
いな状態である点 において 「多重人格」 は 「病」 と認 定 されている ことである。
しか し、「多重人格」 は本 当に 「病」な ので あろ うか。 ゴフマ ンの議論 をふ まえ る と、
「ほん とうの私」とい う言葉で しば しば示 され るよ うな 自我 の実体性 は、役割 に
対す る
距離 の うちに還元 され るため、「多 重人格 とは何か」 とい う問 い 自体 が無 意味 とな って
しまうのではな いだろ うか。「自己」 をひ とつ に して しまうと社会 で満足 に生きる こと
ができない。そ こで 人は複数 の 自己 を持 つ ことは必然的であ り、人 間 の多重人格性 をあ
る程度認める ことが 自然である。個人が持 つ 役割 の数だ け、状況 の数 も存在 し、ひ とつ
の役割 を放棄 した ところで、ゴフマ ンが 「個人は一つの集団か ら自由になって も 自由 に
な らな い」 (浅 野 1996)と 述 べ ているよ うに、仮面、 つ ま り役割 の背後 には もう一つ
の仮面がある。そ して い くら仮面 をはが し続 けた として も「素顔」と考 え られて い る実
体 的 自己 にた どり着 くことは絶対 にできな いのである。
-8-
2
1
2。
自己物 語論
自己物 語 とは
自己物 語 とは、そ の言葉 の通 り 「自分 につ いて語 る物語」 の ことである。そ して
自己物
語 には 2つ の大 きな テーマ がある。それは 「自己は 自己物語 を通 して生 み出され る 「
」 自己
物語 は語 りえない ものを前提 に し、それ を隠 蔽す る」 とい うもので ある。 この 2つ のテー
マ につ いては後で詳 しく述 べ る。
(
今 日まで 自己 に関す る議論 は数多 くされて きたが、 そ の多 くは 「多かれ少なかれ 関係が
変われ ば 自己 も変わ る」 とい うものである。 要す るに 「自己」 とは変わ りやす い もの と考
え られて いたので ある。 しか し、一 方で変わ りた いの に変われな い 「自分」 を切 実 に感 じ
る人が増 えてきて い るのが現状である。 変わ りた い 「自分」 になれ な い人 には、「自己が変
わ るため には関係が変わ らな けれ ばな らな い、だが 関係 を変 えるためには 自己 を変 えな く
て はな らな い」 とい う悪循 環が見 られ る。 ここで 自己物語 を用 いた 物語論 的 アプ ロー チ (0
が必 要 とな って くる。 物語論的アプ ロー チ は、 自己物語 の 「語 りえな い もの」 とい う特徴
を手がか りに して、 自己物語が 書 き変 え可 能で ある ことに注 目して い る。そ のため、 この
「物語論的 アプ ロー チ」 はヵ ゥンセ リングな どのセ ラ ピー の一 と して
環
取 り入れ られて い
る。
2.2
「自己」 と 自己物語
「物語 を語 る」 とい う行 為 自体 は 日常的 に当た り前のよ うに
行われて い る ことで あ り、
誰 もそ の行為 を意 識す る ことは少な い。 しか し 「自分 自身が何者 かであるか を説 明 しよ う
とす るな らば、人は 自分 自身 の人生のエ ピソー ドの うちある ものだ けを選び出 し (他 の も
の を捨て る)、 それ をある筋 に沿 って紡 ぎ合わせ るほかな い」 (浅 野 2001)の である。
例 えば、 町きの多 い生涯 を送 ってきま した」 という人 を例 に考 えてみ る。 この人が聞き手
を納 得 させ る物語 を語 りた けれ ば、『「私 が」 何者で あるか を、 今 に至 るまで人生上 に起 こ
つた 「恥」 のエ ピソー ドを連ねて い く以外 に語 る方法 はな い。そ の一 連 の筋か らは、「恥」
と相 反す るよ うな、例 えば 「輝 か しさ」 とか 「誇 り」 といった ものをあ らわすエ ピソー ド
は排 除されな けれ ばな らな いのである 』(浅 野 2001)と い うよ うに、 自分 の物語 にあ うエ ピ
ソー ドを選択 し、配列 して い くことによって 自己物語 は成立 している。
ここで重 要な ことは、「私」 とい うものが、エ ピソー ドの選択 と配列 を通 して始めて現れて
くる ということで ある。
-9-
「私 は …である」 と言 うため には
、そ の 「…」 の部分 を成 り立たせ
が必 要 にな る。 例 えば 「私」 が教 師である とす る。
て ぃ る他者 との 関係
す る と私 が教 師であ りえるの は、生徒
と親 との 関係 にお いてのみである。そ して 私が生徒、 また
は親 との会話 の 中で、教 師 とし
「
て の 私」 が 受 け入れ られ るよ うなエ ピソー ドを選 んで
他者 である生 徒や親 に語 るので あ
「私」とは、それだ けで取 り出 して みれ ば、
る。
何 とも名指 しよ うのな い空虚な もので ある。
自己物語 は 自伝や 自分史 と同 じよ うに、「自己物語 を絶 えず 語 り続 ける こと によっ
」
て 自己
ー
イ メ ジを維持 して い る。 多 くの人が考 えて い るよ うに 「私」 とい う存在が
前提 と して あ
るのではな く、自分 につ いて物語 る ことを通 しては じめて 「自己」は現れて
くるので ある。
2。
3
自己物語 の特徴
自己物語 には 「視点 の二 重 性」「出来事 の時間的構造」「他者 へ の志向」 とい
3つ の特徴
が ある。 以下順 に見て いきた い と思 う。
(1)視 点 の二重性
自己物語 には 「語 り手が 聞き手 に向 けて語 りか けて い る世界」 と 「そ こで語 られた登 場
人物が活躍す る世界」 とい うよ うに
2つ の世界が存在す る。 この 2つ の世界 を関連 させ る
ことで しか物語 は成立 し得な い。例 えば、Aさ ん (語 り手 )と Bさ ん (聞 き手 )が
会話 を
して いる とす る。Aさ んは現実 の社会 を生きて い る主人公であ り、登 場人物である。しか し
Aさ んが生きて い る現実世界の ことを他者 に語 る とい うことにな る ともうひ とつの視点が
必要 にな って くる。 自己物語 を語 る とい うことは、 フ ィク シ ョンそ の ものであるの で、 聞
き手 の Bさ んは、現実世界の Aさ んではな くフィク シ ョンの主 人公である Aさ んを通 して
Aさ んの ことを理解す るので ある。
(2)出 来事 の時間的構造
自己物語 は 「諸 々の 出来事 を時 間軸 に沿 って構造化す る語 り」 の ことである。 自己物語
は、物語 の結末が大変重 要 である。 物語 の結末が 「納得 のい くもの にな るか どうか」 を基
準 に して、どの よ うな出来事 をどのよ うに関連 づ けて語れ ばいいのかが 決 まる。そ のため、
納得 のい く結 末 に矛盾が生 じな い よ うな エ ピソー ドを選択 し、 配列 して い くことにな る。
この作業 の ことを 「構造化」(10)と 呼ぶ。 この作業 によって 語 られた 世界 場人物 の活動す
(登
る世界)は 、意 味 と方向性 を持 った 時間的流れ を産み出す ことにな る。 この特徴か らもわか
るよ うに 自己物語 は、物語 は出来事 をあ りのままに語 るものではな く、「いつ で も違 ったよ
うに語 り得 る」という潜在的可能性 を下敷 きに して いるのである。
-10-
そ して、「自己」 はそれ が物語 られ る限 りにお いて、
必ず 結末か ら逆算 された 形で選 択 0配
列 され るた め、「自己」があ りのま ま語 られ る こ とはまず あ
り得な いのである。
(3)他 者へ の志向
自己物 語 は 「本質的 に他者 に向 け られた 語 り」 である。そ して 自己物語 は、
自己 と他者
の視点 の差 異が乗 り越 え られた とき にのみ成立す る。 この よ
うに他者 を納得 させ るよ うな
語 りを しな ければな らな いのである。
ここで 自己物語が次 の よ うな 「二 重 の正当化」 を必 要 として い る ことがわか
る。
ひ とつ は 「物語 を語 るための権 利 は、他者 に対 して正 当化 されな けれ ばな らな い
」 とい
うもので ある。
そ して、 もうひ とつは 「聞き手である他者 を納得 させ る こ とによって 、 語 られた
つ ま り過去 か ら今 に至 るまでの 自分 は、は じめて 他者 との 間で共有 された
己は聞き手 と同 じ道徳共 同体 へ所属す る ことにな る」 (浅 野
自分 、
現実 とな り、 自
2001)と い うものである。
そ して もうひ とつ は例 えば、 自分史 の執筆 、カ ウンセ リング、セル フヘ ル プグルー プな ど
は、 この よ うな正 当化 を もた らす 制度的な文脈 にほか な らな い。 この よ うな 文脈 の 中で、
人は安 ん じて 自分 自身 を語 る ことができ、そ れ によって 自分 自身 を共 有 された 現実 と して
作 り上げて い くのである。
2。
4
「語 りえな い もの」 と 自己物 語
自己物語 の大 きな テ ーマ として 「語 りえな い もの」 の存在 を見 逃す ことはできな い。語
り得な い もの」 とは、「自己物語 のただ 中 に現れて くるよ うな ものであ り、 自己物語が達成
しよ うとす る一貫性や完結性 を 内側 か ら突 き崩 して しま うもの」 で ある。 自己物語 はいつ
で も 「語 り得な い もの」 を前提 に し、それ を隠 蔽 して いる ことで成立 して い る。
ここで注意 してお きた い ことは 、「物語 りえな い」 とい うことは、「語 りつ くせな い」 こ
と同 じではな い とい うことである。「語 りつ くせな い」 とは、「体験 された 事実が あま りに
も複雑す ぎて特定 の物語 によって は、 す べ て を語 りつ くす ことがで きな い」 とい うことで
ある。そ の よ うに考 える と、 自己物語が 一 貫 した 自己同一 性 を産 み出 して い る とき、 この
「語 りえな い もの」 は、 隠蔽 され、見 えな い状態 にな って い るので ある。浅野
智彦 によれ
自己物語が書 き換 え可能である大 きな 要 因は構造 にある。浅野智 彦 も 「私 が私 につ いて語
る (私 が一 語 る一 私 を)」 とい う自己物語 の独特な構造 によるものである」 (浅 野 2001)と
述 べ て い る。
ここで 「私」が 二つ の位置 (私 が /私 を)を 同時 に 占めて いる ことがわか るが、 自己物語
では『「私」 は 同一 的で差異的である』とい うパ ラ ドクスが成立 す るのである。
-11-
物語行 為 の主体 (物 語 る私 )と 物語 の主 語 (物 語 り内 の私 )と は、
異な って い るが 同 じで
な けれ ばな らな いのである。仮 に 2つ の 「私」 が完全 に一致 した な らば、
もはや 語 りは起
こ り得な いであろ うし、完全 に差 異化す るな らばそれ は もはや 「
自己」物語で はな くな っ
て しまうのである。
それで も自己の物語が語 り手の 「私」 をそれ な りに一貫 した 存在 と して
産み出 して い く
とす るな らば、「語 りえな い もの」 は何 らかの形で隠蔽 されて いな けれ ばな らな い
。
ここで 「他者」 の存在が重 要 とな って くる。た とえ語 りが ある部分 で一
貫性 を欠 いて い
た り、全体 として の真偽が未決 定 で あった として も、そ の こ とが 聞き手 に対 して 隠 し
通す
ことができれ ば、 自己物語 はそれ な りに納得 の い くもの と して 受 け入れ られ るので
ある。
この とき、 あたか も 「語 りえな い もの」 な ど存在 しな いかのよ うに ことは進み、語 り手の
「私」 もあたか も安定 した 同一性 を備 えて い るかのよ うに現れ る。
-12-
3
3。
1
現代 社会 と対 人 関係
メデ ィアと対人関係
1990年 代初頭にバブル は崩壊 した。それによ り日本 の様 々なシステムが
急激に変化 した。
もちろんメディア、例外ではない。1990年 代半ば以降、テクノロジーの発達により、イン
タ ー ネ ッ トや 携帯電話な ど新たな コ ミュニ ケ ー シ ョン手段が 次 々 と登
場 した 。それ によ り
対 人関係 の範囲や伝達 され る情報量 は増大 し、 人間関係 に も大 きな影響 を もた らす こと
と
な った。
近代社会 にお ける対人 関係で は、職場や プライ ベー トの領域 である家庭、友 人関係 とも
に、特定 の共 同体や集 団 の 中で比較 的長期 に生活す る とい うことが 伝統
的であった。そ し
て外部 との交渉す る こと もほ とん どなか った。 しか し現代社会 にお ける対人 関係で は、
職
場 と家庭 を往復す るだ けではな く、 趣味 のサ ー クルや 異業種 間交流な ど、 これ まで 以 上 に
多様な関係性 を築 いて い る ことは珍 しい ことではな い。
企 業社会 にお いて も、電話 に加 え、 フ ァックスや電子 メー ルな ど、新たな コ ミュニケー
シ ョンツール を導入 した り、終 身雇用 シス テム の衰退 によって 、一生の 間 に複数 の職場 を
経験す る人が 増 えて い る。そ こで 、 以前 の職場で求 め られた 対人関係 のル ー ルが次 の職場
で通用す るとは限 らな いため、「対人関係 マニ ュアル 」な どの人 間関係 を 円滑 に進めて くれ
るお 手本が人気 を博 して い る。 もちろんそ の背景 には、対 人関係 の脱伝統化・ 多様化 とい
う現 象が存在す る。
コ ミュニケー ションとは本 来、直接 的な対面状況 にお いて、機械 を通 しては伝わ らな い
微妙な感情や ニ ュアンス もや りと りす る 「こころの触れ合 い」 (11)で あるが、産業構造が変
化 し、都市化 の進んだ現代社会 にお いて、機械 を介 した 間接 的な コ ミュニケー シ ョンが一
般 的 とな って い る。
3。
2
メデ ィア と若 者
バ ブル 崩壊後 の 1990年 代以降、メデ ィア の多様化 にともな って若者 の友 人関係 にも変化
が見 られ るよ うになった。「友人関係であるが、結論か ら言 えば、多チ ャ ンネル化 し、状況
志向を強めなが らその 内部で独特 の繊細な感受性 を育んで い るよ うに思われ る」(浅 野 2006)
とい うよ うに現代 の若者 の友 人関係 では、 い くつかの特徴 がみ られ る。 ここでは 「自己 の
多元化」 とい う特徴 とメデ ィアの多様化 との 関連性 に絞 って見ていきた い。
-13-
現代 の若者、特 に 「新人類」世代、「団塊ジュニア」世代 と呼ばれる
世代の 自己が多元化
している傾向が顕著にみ られる。(12)自 己の多元化 とは、「状況や
相手によって、違った 自己
があ らわれる」 ことで ぁる。言 い換えると、複数 の 「私」 を
相手や状況 によって使 い分け
ているということである。
イ ンターネ ッ トや携帯電話の急激な普及は自己の多元化 を推 し進める要因になっている
と考え られる。イ ンターネ ッ トや携 帯電話 の世界では、原則的に「匿名性
」が保たれ、一
「
「
種 言 いたい放題」 言 った もの勝 ち」の雰囲気が形成 されつつ ある。この現象 を「フレー
ミング現象」 と呼ぶが、その原 因 には、「相手 の顔や声 に含 まれて い るは の
ず 表情や韻
律な どの情報が、電子 ネ ッ トヮー クでのコミュニ ケー シ ョンでは欠落 している こと」や、
「絵文字」な どの欠損 情報 を補 う新 しい
記号 によるコ ミュニ ケー シ ョンの 出現な どが挙
げ られ る。
この よ うに イ ンタ ー ネ ッ トの 世界 で は、 顔 の見 えな い コ ミュ ニ ケ ー シ ョンが
成 立 し、
自己が多元 的 にな りや す い環境 が整 って い るので あ る。そ の た めイ ンター ネ ッ ト上で取
り結 ばれ る人 間関係 は、現実世界 に比 べ て、他 の参加者 を蝙そ うという気持 ちはな くて も、
複数 の 自己 を使 い分 ける ことができる。 また 他者 との親密性 の敷居 が非常 に低 くな る。 こ
れ は、 自分 の好 ま しい側面だ けを無意識 の うちに選 択す る ことが可 能で あ り、安心 して コ
ミュニ ケー シ ョンを とる ことがで きる とい うものである。チ ャッ トや 出会 い系サイ トな ど
はそ の例である。
この よ うに現 代社 会 で は、パ ソ コ ンや 携帯電話 のモニ ターの 中の世界 の肥大化 によって 、
「自分が 自分 の主 人で ある」 とい う “ホス ト感覚 "が 失われて いる。複 の「
数
顔」は、 情報
機器 の 力を借 りる ことによって、 リアルタイ ムで簡単 に作 られて い るので ある。
3。
3
若者 と友 人関係
メデ ィア の 多様 化 が 、自己 の 多元 化 を推 し進 めて い る ことを見 て きた が、現 代 の 若者
にはそれ 以外 に も、い くつ か の 特徴 がみ られ る。03)こ こで は、自己 の 多元 化 と深 く関係
して い る 「多 チ ャ ンネル化 」「状 況志 向」「繊細 さ」「開かれ た 自己準 拠」 とい う 4つ の
特徴 を順 にみ て い く。
(1)多 チ ャ ンネル化
イ ンター ネ ッ トや 携帯電話 の普及 によって 、若 者 の友人関係 は、 大人が考 えて い るよ り
もず っと多元的な広が りを持つよ うにな って い る。 青少年調査で 「親友や仲 の 良 い友 だち
と知 り合 った 場所」 を 聞 いた ところ、「アルバ イ ト先で」「イ ンター ネ ッ トや携帯 電話 のサ
イ トで」が一 定 の数で存在す るという結果が出た。
-14-
これ は、 199o年 代以降の 「パー トタィム高 生 の
校 」 増大 と時期が重な る。 高校生の生活構
造が必 ず しも学校 を 中心 に した ものではな くな ってき て い るので
ある。 この よ うに、 量的
な意 味で友 人が 増大 して い るだ けで はな く、 質的な意 味で友
人をつな ぐチ ャ ンネルが 広が
つて い る ことを友 人関係 の 「多チ ャンネル 化」 と呼ぶ。
(2)状 況志 向
状況志 向 とは、「複数 の顔 を使 い分 けるが、 どの顔 も単な る仮面ではな くそれ
な りに本気
であるとい う態 度 を とる」 こ とで ある。 簡単 に言 うと、状況 に応 じて、
態度 をかえるので
この
ある。
状況志 向 にとって ィ ンター ネ ッ トや携 帯電話 は実 に好都合で ある。先 にイ ンタ
ー ネ ッ トや 携帯電話 を使 うことによって、 複数 の 「顔」 の い
使 分 けが しや す くな る という
ことを述 べ たが、現代 のコ ミュニケー シ ョンでは、「顔」 の使 い分 けが重
要なスキル と感 じ
られて い る。確か に、情報化が進む以前 の社会 にも「状況志向」と同 じよ うなある種 の 「
使
い分 け」 はあった 。例 えば、会社 にいる ときの私 と古 い友 人 といる ときの
私、家庭で の私
と趣 味 のサ ー クル での私 とい うよ うに。 しか し両者 の大 きな違 い は、そ の 「顔」が使 い分
けて い る者 の 間で相互 に了解 されて い るか、ルール 化 されて い るか とい う点 にある。譲 許
志 向 には、ルールが存在せず、ルール に従 お うとす る一 貫 した 「自己」 が 存在 しな いの で
ある。
(3)繊 細 さ
多チ ャ ンネル化や状 況志 向 とい う特徴 を もつ 現代 社 会 にお いて、若者 は、相手 へ の 関係
の持 ち方 につ いて、 これ まで とは異な ったセ ンスを養わ ざるを得な い。それ は 「空気読め」
「地雷踏 んだ」 といったょ ぅな言 い 回 しに も表れて い るよ うに、 コ
ミュニケー シ ョンにお
いて、以前 にも増 して 「繊細 さ」 とい うものが 要求 され るよ うにな った ので ある。 ここま
で読む と、「現代社会 にお いては、対人関係 を取 り結ぶ ことが難 しくなって い る」 と考 える
人が出て くるか もしれな い。 確か に、 情報化 とい う利便性 と引き換 えに、対 人関係が希 薄
にな った と考 える ことがで きるか もしれな い。 しか しメデ ィアの多様化 にともな うコ ミュ
ニ ケー シ ョンの変化 には、悪 い面だ けではな く、 良 い面 もある。それ は、「対人関係それ 自
体 を楽 しむ資質が高 まって い る」 とい うことで ある。 メデ ィアの多様化 にともな って コ ミ
ュニ ケー シ ョンも多様化 した。 多 くの人が この変化 を受 け入れ、順応 して い る こと も事 実
である。
(4)開 かれた 自己準拠
-15-
現代 の若者 は、 自分 らしさ を追求す べ きだ と考 えなが ら、
他方 ではそ れ を損な うよ うな
形で多 元化 を進め ざる を得な い とい う板 挟み の状態 に って い
陥
る。 開かれた 自己準 拠 とは、
「自分 らしさ を基 準 と して ものを
考 え、そ れで いて 自分 らしさを多元的で あ りうる もの と
して み る姿勢」 (浅 野 2006)の ことで ある。
青少年調査 では 「自分 らしさが ある」 と答 えなが ら 「場面 によって
出て くる 自分 とい う
ものは ちが う」 とぃ ぅ若 者が、全体 の七割 弱、そ の うち八
割弱が 自分 自身 を好 きである と
い
して
回答
る。 この結果 は、多元 的であ りなが らも 自分 らしさを基準 に とるよ
うなス タイ
ル をとって い ると考 える ことができ る。
1990年 以降、社会 制度や ライ フコー スの在 り方が急激 に流動化 した ことによって、
若者
はそれ に代わ る基準 を 自らの手で調達 しな けれ ばな らな くな った。「
自分 らしさ」 はそ の基
準 のひ とつで ある と考 え られ る。そ して 「自分 らしさ」戦略が多 くの若者 によって
れて い る ことは、 同時 に若者が 「自分 らしさ」 を探 し求 め るべ きで ある とい う圧
採用 さ
力 に恒常
的 にさ らされて い る ことを意味 して い る。「自分 らしさ」 とは、「自分が強 く深 くコ ミ ト
ッ
す る何か を手がか りに して得 られ る もの」 (浅 野 2006)で あるが、特徴的な ことは 「何か」
に軸足 を置 き、そ してそ の軸足が複数 ある ことである。 これ は 自己 の多元化 と きな
大
関係
が ある。 軸足 を置 く対象 は、 音楽、 フ ァッシ ョン、 車、文学、 マ ンガ、 アニ メ等、なんで
あれそ こに深 い関わ りが あるな ら 「自分 らしさ」 は輪郭 を獲得できる。そ して 複数 の軸足
を置 いて い る場面 にお いて若 者 は複数 の「自分 らしさ」を獲得 して い るので ある。
-16-
4
1
4。
現代 社会 と 自己物 語
物語不在 の時代
バ ブル 崩壊後 の社会 変化 、特 に メデ ィアが多様 化 した ことに
よって若者 の友 人関係が変
化 した ことをみてきたが 、そ して 時期 を 同 じくして 自己物語 という ものが
社会 に出現 した。
そ の背景 には 「大 きな 物語」 の消滅 、つ ま り現 代社会が物語 を持た い
な 時代 である ことが
挙 げ られ る。 (榎 本 2002)こ れ は必 然的 に 「自分探 し」 を しな けれ ばな らな くな った こと
を
意味す る。
「大 きな物語」 とは、個 人 を 「この よ うに生きるべ
きである」 とい う生 き方 を規
定 して
いた 伝統や制 度 の ことである。江戸 時代 を考 えてみれ ばわか るが、
日本 社会で は
固定 的な
社会制度や 伝統が重ん じられ 、そ の こ とが 「本 当の 自分」 へ の 問 い を無 意味な もの に して
いた。 しか し時代 とともに、そ の よ うな 制度が崩壊 し、伝統 へ の 関心が薄れて い
く
中、拍
車 をか けるよ うに 1970年 以降、 日本 は高度消費社会 に突入 した。
高度消費社会では、 自己は、衣 料や家電な どの 商品 の流行サイ クル に合わせて 変化 して
い くものにな り、エ リクソンが考 えて いた よ うな 変わ りに くい基 準 であるア
イデ ンテ ィテ
ィは徐 々 に掘 り崩 されて い った。 は4)
現代社会では、「私」 は、職場ではや り手営 業 マ ンであ りなが ら、 家庭では無愛想な夫で
あ り、趣味 のサ ー クル では シ ャィでや さ しい好 青年 とい うよ うに、人び との行動範囲の広
が りによって、所属 の多元化が進み、それ ぞれ の場所 の相 互 隔離が起 こって い る。 この構
造的特徴が 「私」 へ の 問 い を浮 上 させ る要 因 とな って い る。
自己物語 とは、誰 もが 物語 の 文脈 を生 きてお り、そ の物語 の文脈 に沿 って 目の 前 の現実
を とらえ、過去や未来 まで も規定 して しまうもので ある。つ ま り、「自分 らしさ」や 「人生
の意味」 を与えて くれ るものが 自己物語なのである。現代社会 は1「 自分探 し」 の時代 とな
ったので ある。現代社会 を生きる人び とは、「自分 は何者 にで もなれ るという可能性 と引き
換 えに、一か ら物語 を作 る苦 しみ を与 え られた」 ので ある。
4。
2
現代社会 と 自己構成 のモ ー ド
現代社会 にお ける 自己構成 は、 相対化 0虚 構化 の方向性 を もって い る。 しか しこれ と同
時 に特権化 0物 語化 の方向性 をもって い る。
「相対化 0虚 構化」 は、 自己 を構成 し、 再構成 して い く際 に、「今 ある
自分 とい うものを
あ り得 る複数 の可能性 のひ とつ として みなすよ うな 自己」 とのかかわ り方である。
-17-
言 い換 えると 「そ の文脈 にお いてのみ成 り立つ、虚構 の
よ うな もの とみなす こ と」 (浅 野
2003)で ある。 複数 の可能性 を並 べ て、 自分 の
可能性 を判断す る とい う相 対主義 の立 場 に
立 っていた。199o年 代以降 に広 まった 「キ ャラ」とい
う言葉 は、相対化 0虚 構化 を表 して
い る。 キ ャラとい う言葉 は、マ ンガ業界 の
用語であるが 、 まさに ある暫定的な 特定文脈 に
お けるそ の人の物語化 された 人格特性 を指 して い る。 05)
次 に 「特権化 ・ 物語化」 であるが 、 これ は 「語 りの 関係 にお
ける、納得 と正 当化 を追求
す るよ うな 関わ り」 (浅 野 2003)の ことで ある。 言 い換 る と 「
複数 ある物語か ら、 どれか
え
を積極的 に選び取 り、 自分 にとって いぃ ものを作 り上 げる」 こと
である。
ここで重 要な ことは、現代社会 では、「同 じひ と りの人 に この 2つ
間
の方向性が 常 に内在
して い る こ と」 である。相 対化 を徹 底的 に推 し進 める ことは、
相対化 され る足場 自体 もい
つ か相対化 され る ことを意 味す る。そ こで 人び とは、 選ぶ という
営みが 準拠す るいか な る
基盤 も実 は不在なのではな いか という不安 に駆 られ るので ある。
「大 きな物語」が 消滅 した現代社会 では、 この よ うな相
対化 ・ 虚構化が 進み、 自己物語 の
着地点を描 けな くなったのである。
そ こで物語化 0特 権化 の需要が高 まって くるので ある。
物語化 は複数 の可能性か ら選 択す る ことに よって、特定 の物語が含意す る 「価 値」 へ
着地
す る。 要す るに現代社会 を生きる人は、「自分 の人生 をいつで もリセ ッ トした いが、本 当の
自分 もほ しい」 と思 って い る傾向 にある。「大 きな物語」 を失 った 時代 にお いて、 自己物語
の 手本 とな る物語 は商品 と して価 値 を もつ よ うにな る。 例 えば、 書店 でよ く見 か
ける 自己
啓発本や時 代 の カ リスマの生 き方や考 え方 を描 いた書 籍 はメデ ィアで も紹介 され、ベス ト
セ ラー とな る。 この現象 はまさ しく現代 を生きる人び とが、 自己物語 の方向性や 帰結点 を
求 めて い ることを表 して い るのではな いだ ろ うか。
-18-
おわ りに
「なぜ人は嘘 をつ くのか
」とい う疑 間 に対 して、 ゴ フマ ンの「役割距 離」とい う概
念か ら導
「
き 出 された 多元的 役割演 技者」、そ して 浅野 の「
自己物語 論」とい う議論か ら考 察 してきた。
次 の 2点 が 「嘘をつ くこと」 と深 い関係が ある。
① 対面的相互行為において、状況や相手に応 じて役割を演 じることを
要求され、ひと りの
人間が持つ役割はひとつではないこと
② 会話の中で自分のことを語ることはフィクションを作 り出す ことに等 しいとい
うこと
まず① であるが、人は誰 もが、社会 とい う他者 との対面的相互
行為 の場 において、ひと
つの 自分ではいられな いようにで きている。さまざまな状
況 においてそれに応 じた役割を
無理や り与え られ、演 じることが要求される。つ まり社会で生きてい く上で、
役割は多元
的 にな らぎるを得な いのである。人によって状況 の数は異なるが、多ければ多 いほどその
数 に対応する役割をもっていることになる。 このことは他者 に対 して 自分 の印象を意図・
非意図的にかかわ らず、操作 していることを表 している。そのため、対面的相互
行為にお
いて個人を第二者か ら見た場合 に、状況や相手によって異なる印象を
与えて いることに気
シ
カ つく。
例えば、僕に Aさ ん、Bさ ん、Cさ んとい う友達がいるとする。Aさ んとは、キャンプ
をした り、旅行に行った りする。Bさ んとは、喫茶店を回った りしなが ら、長々 と
世間話を
する。Cさ んとは、よくお互いの家 に遊びに行き、テ レビゲームをして盛 り上がる。このよ
うにまった く異なる性格を持つ 3人 に対 して、ひ とりの僕では対応できな い。3人 に して
対
3人 の僕が必要になる。しか しここで、僕 と Aさ んが一緒 にいるところを第三者 として、B
さんや Cさ んに見 られた時、彼 らはどのように感 じるであろう。僕 に対 して 「あいつ には
あんな一面があるのか」 と感 じることもあるだろ う。要するに僕は
3人 に対 してまった く
異なる自分を見せているのである。 この矛盾 こそが 「嘘をついている」 と解釈できる。
次 に② であるが、 自己物語には 「語 りえないもの」 というものが必ず含 まれている。 こ
の 「語 りえないもの」 とは、 自己の語 りか ら一貫性 0完 結性を奪って しまうものである。
そ こで、自己の語 りに一貫性を与えるためには「語 りえないもの」を隠蔽せざるを得な い。
ここに嘘がある。 自己物語の性質上、嘘をつかざるを得ないというわけである。
また他者が語 り手の物語を認めることによって 自己物語が成立する ことか ら、話 し手 と
聞き手のある種の共謀によって物語は真実味を帯びて くる。 これは何 も特別な会話の中で
起 こっていることではな く、 日常的な場面で起 こっているので ある。
-19-
この こ とはゴフマ ンの ドラマ トゥル ギ ー 的観点 と似 て い
る。パ フ ォーマー ひ と りでは舞
台 は成立 しな い。 舞台装置で ある状 況、共演 者 であるチー ム、そ して
観客 であるオ ー デ ィ
エ ンス と共謀する ことによって、「嘘」 の舞台は成立 す るので
ある。
ここで① と② の関連性 につ いて考 えて み る。 社会で は複数 の
役割 を演 じざる を得 な い状
況が出来上が って い る。つ ま り自己が 多元化せ ざるを得な い状況が作 られて い る。
自己が
多元的であるとい うことは、 同時 に 自己物語 も多 元 的である ことを意味す る。つ ま
り、人
び とは複数 ある状 況 に応 じて 自己物語 を使 い分 け、そ の 内容 を第 三 者が耳 に した
とき に、
必然 的 に 「自分 に話 した こ ととは違 うことを言 って い る」 というよ うな矛 盾が起 こる こ
。
の矛盾 を 「嘘をつ くこと」 と解釈す る ことができる。要す るに 自己を語 る
自己物語 自体 が、
「個 人が他 者 に呈示す る印象 を操作す る身体
イデ ィオム の一つの要素である」 と考 え る こ
とができる。会 話 にお いて 語 る内容が 同 じで あった と して も、言葉 によって 異な る
印象 を
受 ける ことを考 えれ ば当然 の ことである。
現代社会ではメデ ィア の多様化 によって、 若者 の 自己が多元 化 して い る ことを見 て きた
が、ゴフマ ンの時代ですで に、『社会 の 中で人び とは 「多元的役割 演技者」 にな らぎるを得
な い 』(佐 藤毅 1985)の であれ ば、「メデ ィアの多様化が 自己 の多元化 を推 し進める要因 と
な って いた として も、現代社会 にお いて も自己の多元化 は珍 しい ことで はな く、人 間は ど
の よ うな社会で あった として も、生 きて い くため に必 然的 に複数 の 役割 を与え られ 演 じざ
るを得な い運命 にある」 という結論 に至 る。
それでは、 どうして社会で生きて い くため には必然的 に嘘 をつか ざるを得な いの か。 結
論か ら言 うと、「社会 の秩序 を維持す るため」である。ゴ フマ ンは、著書 の 中で 一貫 して「あ
らゆる相 互 行為 は、社会 の秩序 を維持す るため にある」 (安 川 -1991)と 述 べ て い る。要す
るに 「嘘 をつ くことが 社会 の秩序 を維持す る ことにつ なが る」 ので ある。 この秩序 とは、
些 細な きっか けで反転 、 豹変、崩壊 しかね な い脆弱な もので ある。そ して この秩序 を維持
す る人び とは、お互 いの ことをまった く知 らな いが、それ で も相手 の ことを無根 拠 に信 じ
て社会 とい う出会 いの場 に乗 り出 して い く人の ことで ある。 当然 この参加者た ちには、社
会 の秩序 を維持す るために、手探 りで調整 し続 ける ことが課 され る。そ して 参加者たちは、
「他 の参加者 とのそれ までのや り取 りをあ らか じめ記 した生 活誌」 と 「共有 されて い ると
思われ るはなはだ しい数 の 文化 的前提」 を武 器 に して、相手 に合わせた会話 をは じめ るの
である。要す るに秩序 とは、一種暗黙 の 「作業合意」である。 (安 川 -1991)今 見せ られて
い る リア リテ ィ とい うものはそ の場所 にいる参加者みんなで維持 して い るので ある。 この
ことは現代社会 にも当て はまる。 メデ ィアが多様化 しよ うと、それ によって若者 の 自己 の
多元化 とい う特徴が顕れ よ うと、現 代社会 もひ とつ の社会 で ある限 り、 ゴ フマ ンの言葉 を
借 りるな らば 「儀礼ゲ ー ム」 には変わ りな いの である。そ して 「自分 につ いて 語 る こと」
をひ とつの相 互 行為 と考 えるな らば、た とえ語 られ る物語が事実 でな い として も、 自己物
語が社会秩序 の維持 に大 き く貢 献 して い ると考 える ことがで きる。
-20-
一 一〇 一﹄ ∽0
また現代社 会 は、「大 きな物語」 が 消滅 し、
自己物 語 の需要が 高 まって い る時代 である。
自己 につ いて語 る こ とが 求 め られ て い る とい うことは 、必
然的に他者 を求める こ とにつ な
が る。 自己物 語 は他者 に認め られ る ことを前提 として い
るか らである。若 者が さまざ まな
メデ ィアを駆 使 して コ ミュニ ケー シ ョンを取 り、そ の
範囲を広 げて い る ことは、それだ け
多 くの人 に 自分 の物語 を聞 いて もらいた い と思 って い る こ との
表れ ではな いか と感 じる。
そ の 聞き手が顔 の見 えな いイ ンター ネ ッ ト上 の相手で
あった り、 出会 い系サイ トで 出会
つた 相手であった として も、 物語 を承認 して くれ る
他者 には変わ りな い。時 代 の変化 によ
つて他者 も変化 したの である。 この よ うに現代社 会で は
対面的相互 行為 にとどま らず、多
様な コ ミュニ ケー シ ョンが 共存す る社会 とな って い る。 もちろん
対面的相互 行為が基 本的
な コ ミュニ ケー シ ョンに変わ りはな いが、 ィ ンター ネ ッ ト上でのコ
ミュニ ケー シ ョンでは
身体 イデ ィォム とい う概 念 は通 じな い。 相手 の顔が見 えな い ばか りか、
文字 とい うひ とっ
の記号だ けを用 いて い るか らである。そ のため他者 に呈示す
る情報、他者か ら受 ける情 報
量 の少な さを考えると、 ある意味非 常 に難 易度 の 高 いコ ミュニ ケー ション
だ と言える。
ここで これ までの議論 をふ まえて社会 とい うものを考 えた
みた い。「自己物語がほかの物
語 と同 じよ うにフ ィクシ ョンで ある」 (浅 野 2001)な らば、歴 史や現代では
消滅 して しま
つた 「大 きな物語」 は、 小 さな 自己物語 の集合体 である と考 えるな らば、
もちろん フ ィク
シ ョンで ある。そ して 日常生活で交わ され るささいな 自己物語、また の
そ 集合体 である「小
さな 物語」 は無 数 に存在す る ことか ら、社会 は 「フ ィクシ ョン」 世界である
と考 える。そ
して、 この 自己物語で あふれて い る “
"社
現実
会 の 中で、人び とは物語か ら解放 され る こ
とはな い。 現代社会が 自己物語 を描 きに くい時代 にな った といえ ども、 人び とは
状況 によ
つて 役割 を与え られ、物語 を描か ざるを得な いのである。
最後 に 「なぜ人は嘘 をつ くのか」 というテ ーマ に対す る 自論 につ いて批判 した い。
「嘘は防衛行 為である こと」「この 世界 に
自分 だ けであれ ば嘘 をつ く必 要がな い こと」「都
市部 ほ ど嘘が必要である」 という仮説 を立 てたわ けであるが、最初 の 「嘘は防衛行
為 であ
る こと」 は間違 って いな い と感 じる。「儀礼 と秩序」 の ところで も述 べ たが、
対面的相互 行
為 にお いて、 自分 の面 目を保 とうとす る保護的傾向、 また 他人 の面 目を保 とうとす る保護
的傾向が入 り混 じって い る ことが 自然である。 本論 は、対面的相互 行為 にお ける 「多元的
役割演技 者」 という側面、「自己物語」 とい う方向か らテ ーマ について考 えたため、心理
的
側面 につ いては述 べ なかった。2つ 目の 「この世界 に 自分だ けであれ ば嘘 をつ く必 要がな い
こと」も正 しいと思 う。ゴ フマ ンの舞台 は、パ フ ォーマ ニ ひ と りで成立 す るものでは
な く、
舞台装置やチーム 、そ して ォ ー デ ィェ ンス との共 同作業で成立 して い る こと、 また 自己物
語論で考 えるな らば、他者が 自己物語 を受 け入れ る ことに よって事実 の隠蔽が成立 す ると
い うことか ら結論が導 き 出せ る。 最後 の 「都市部 ほ ど嘘が 必要である」 ことに
対す る見 解
であるが、 これ は コ ミュニ ケ ー シ ョンが 「語 りえな い もの」 を隠 しあ うことを前提 と して
成立 して い る ことか ら判 断す る ことができる。
-21-
0 い〇 ︻一 ∽0
地域差 は 関係な い とい うこと、 また ノー ボ ー ダ ー化 した
現代社会 で は、 なお さ ら地
関係な い と感 じる。 どこにいて も人 は 「多元的 役割演 技者」
域差 は
なので ある。そ して 自己が多
元 的であるとい うことが 、 同時 に 自己物 語 も多元的 に して い るとい
うこと、 また社会が個
人 に対 して 自己を多 元化す る ことを要求 して い る ことか ら、『
個人は生 まれた 時か ら社 会で
生 きて い くために 「嘘 をつ く」権利 を与え られて い る 』と結論づ
ける。
文字 数
0 01,086字
01,157字
・
0 0961字
・
01,031字
・
01,244字
・
el,121字
1077字
0940字
・・
・
・
・
・
・
・
・
0990字
01,023字
0395字
0877字
01,009字
01055字
・ ・ 671 字
・
0918字
・
788字
01,073字
・
01,341字
・
01,367字
・
0193字
・・
総ペー ジ
・
020,267字
-22-
注
1)パ フ ォーマ ンス とは、「一組 の特定 の観察者た
ちの
前 に継続的にいる期 間 に生 じ、かっ観
察者た ちに何 らかの影響 を及 ぼす、 ある個 人の挙動全体 」 の こと。
(石 黒毅 ,「 ゴ ッフマ
『行為 と演技一 日常生活 にお ける 自己呈示― 』1974:24.参
照)
2)状 況 とは、「建物や 施設 の 内部 の よ うな、知覚上
物理的 に固定 した 障壁や境 界 に囲まれた
ンの社会学
1」
空間環境」 の こと。 (安 川 一編 ,「 ゴ フマ ン世界 の再構成―― 共在 の
技法 と秩序」 1991:
51。
参照)
3)安 藤清志・松井豊 ,「 見せ る 自分 /見 せな い 自分」
『
自己呈示 の社会心理 学 』1994:3-6。
参照
4)身 体 イデ ィォム とは、「多 くが社会 に制度化 されお り、
公共的な意 味 を付与 して い る身体
記号」 の ことであ り、 身体イデ ィォム の成立 は 「社会 の成立」 を意 味す る。 (安 川 一
「ゴ フマ ン世界 の再構成―― 共在 の技法 と
秩序」 1991:41-43。
編
,
参照 )
5)コ ミ ッ トメン トとは、「位置 に固定 され、そ の位置 に組み込 まれた
約束 と犠牲 に従 って生
きて く事 を強 制 され る」 こ とである。人び とに とって 役割 とい うものが 強制的 に
与 え られ
る ことを印象 づ ける表現。 (佐 藤毅・ 折橋徹彦 編 ,「 ゴ ッフマ ンの社会学 2」 『
出会 い一相互
行為 の社会学 』1985:89-93.参 照 )
6)「 多元的役割 演技者」 という表 現 を 「自己 の多元性」 と同 じ
意味 として解釈 した 6
7)「 役割セ ッ ト」 とは、「役割 の 中 にいる個人 にとってのさまざ まな
種類 の役割他者 を一 括
した もの」である。(例 )医 者 の 役割セ ッ ト… 同僚 t看 護婦、患者、病 院 の事務員な ど。
(佐
藤毅 0折 橋徹彦編 ,「 ゴ ッフマ ンの社会学 2」 『出会 い一相互 行為 の社会学 』 1985:86.
参照 )
8)浅 野智彦 ,「私 とい う病 」『社 会学 の すす め 』 1996:.参 照
9)自 己へ の物語論的アプローチ とは、「自己物語 (自 分が 自分 について語 る物語 着 日して
)に
0維
0変
の
自己 生成
持
容 を探究す る試み」 の ことである。
へ
の物語論
(浅 野智彦 ,「 自己
的接近―― 家族療法か ら社会学 へ」 2001:4。
参照 )
「無数 の 出来事 の 中か ら、意味 の ある ものだ けを選びだ して 互 に
10)構 造化 とは、
相
関連 づ け
るとい う作 業 を意 味 してお り、これ はまさに『選択 と配列 』に他な らな い」浅野智彦 ,「 自
己 へ の物語論的接近―― 家族療法か ら社会 学 へ 」 2001:8。
参照 )
11)「 本来 のコ ミュニケー シ ョン」の定義 につ いて。 (浅 野智彦編 ,「 図解
面 白 い ほ どわかる本」 2002,75。
社会学 の ことが
参照 )
12)若 者 の 中で も「新人類」世代、「団塊 ジュニ ア」世代 と呼 ばれ る世代 の 自己 の多元化が顕
著 である とい う見 解。(浅 野智彦編 ,「 図解
社会学 の ことが 面 白 い ほ どわかる本」2002:
61-64。 参照 )
-23-
13)青 少年研究会の
1998年 と 2002年 に行われた調査結果 をもとに分析 された
若者 の特徴。
青少年研究会 とは、 とくに都市部 を 中心 と した 若者 の意識 と
行動 の特性 とそ の変化 を明
らか にす るために結成 され、 1992年 、2000年 、2002年 に
調査 を行 って いる。 浅野智彦
をは じめ 、 高橋勇悦 (代 表 )な どの大学教 授で構成 されて い
る。「3。 3 若者 と友人関係」
で述 べ た若者 の特徴 はす べ て 青少年研究会 の調査 と
調査結果 に基づ く。 (浅 野智彦 編 「検
証 0若 者 の変貌―― 失われた lo年 の後 に」 2006:18-27.参
照)
14)ア メ リカの精神分析 医であるエ リック・ ェ
リクソンは、アィデ ンテ ィティを 「自分 の社
会 的な位置づ け と内的な指 針が明確 に定め られて い る状態」 で ある
と定義 し、そ れ を
確立す る ことを青年期 の課題 で ある と考 えた 。 しか し現代社会 では、
不変 の基準 を持
たな い 自己が出現 し、エ リクソンが考 えて いたょ うな アイデ ン
テ ィテ ィの確立 は難 し
くな って い る。 (浅 野智彦 編 ,「 図解 社会学 の ことが 面 白 いほ どわか
る本」 2002,44
-47。 参照 )
15)キ ャラとは、『確 固不変 の 「個性」や 「アィデ ンテ
ィテ ィ」 を示 す もの 』で もな けれ ば、
単 に便宜上 身 につ け られた 仮面で もな く、 関係依存 的 0文 脈依存 0状
的
況依存 的 に成 り
立つ 自分 (ら しさ)の ことである。そ の点で多元 化 した 自己 と
対応す る。(浅 野智彦 編 「検
証 0若 者 の変貌―― 失われた lo年 の後 に」 2006:250。 参照 )
-24-
参 考 文 献・ 引用文 献
石 黒毅 ,1974,「 ゴ ッフマ ンの社会
信書房
学
1」
『行為 と演技一 日常生活 にお ける
自己呈 示―
』
,誠
.
佐藤 毅 0折 橋徹彦 編 ,1985,「 ゴ ッフマ ンの
社会 学 2」 『 出会 い― 相互 行為 の社会 学 』誠信
書
房
.
秋元 律郎・ 正 岡寛 司 0吉 沢 四郎・ 長 田攻一
,1990,「 社会 学的世界 の呈示
͡
」 学文社。
安川 一編 ,1991,「 ゴ フマ ン世界 の再構成― ―共 の
在 技法 と秩序」 世界思 想社。
安藤清志・ 松井豊 ,1994,「 見せ る 自分 /見 せ
ンス社 。
な い 自分」『 自己呈示 の社会心 理 学 』サ ィ ェ
浅 野智彦 ,1996,「 私 とい う病 」『社 会学 の
す す め 』筑 摩 書房
浅野智彦 ,2001,「 自己へ の物語論 的接近― ―家
族療法か ら社会
浅野智彦編 ,2002,「 図解
.
学 へ」勁 草書房
社会 学 の ことが 面 白いほ どゎ かる本」 中経 出版
.
.
アー ヴ ィ ング 。ゴ フマ ン,浅 野敏夫 訳 ,2002,「
儀 礼 としての相互 行為」法 政大 学 出版 局
榎本 博明 ,2002,「 〈
ほん とうの 自分 )の つ くり方―― 自己物 語 の心理
学」講 談社
浅野智彦編 2006,「 検証・ 若者の変貌―― 失われた lo年 の
後 に」勁 草書房
浅野智彦 ,2003,「 現代社会 と物語的 アイデ ンテ
ィティ」
伍ttp:〃 shinrierisshOoip/book/pdf sinrゴ dateo9。 pdfi 2009。 12e17)。
-25-
.
.
.
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