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http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/ Title Author(s) Editor(s
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Author(s)
江戸時代後期における精神障害者の処遇(5) : 当時の医師の成立状
況、役割、その精神障害の知識について
板原, 和子; 桑原, 治雄
Editor(s)
Citation
Issue Date
URL
社會問題研究. 2001, 50(2), p.1-45
2001-03-20
http://hdl.handle.net/10466/6849
Rights
http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/
江戸時代後期の精神障害者の処遇(5)
一一当時の医師の成立状況、役割、
その精神障害の知識について一一
桑原治雄
板原和子
1.はじめに
1
I
.1
8
世紀後半からの専業医師の成立状況とその役割と知識をめぐる状況
i
l
l
.1
8
世紀後半から 1
9世紀初頭で医師の精神障害の知識について
I
V
. 江戸時代後期の判例に見る精神障害の症状と、当時の医師の役割と精神障害の認識
について
v
. まとめ
1.はじめに
私たちは、これまで、江戸時代後期の精神障害者の処遇の研究を、その当
時の医師の役割とその精神障害の知識について、解明すべき問題を抱きなが
ら、この分野に触れないままで進めてきた。当時の精神障害者の処遇への知
識が増えるにつれて、当時の知識層や、医師層の精神障害の知識について私
たちなりにまとめておく必要が大きくなった。しかし、 18世紀末から 1
9世紀
初頭までの、「御仕置例類集」等の判例に記載されている精神症状を当時の江
戸中国医学のテキストに見いだそうとしたが、未だ発見出来ていな L、。これ
らの判例から読みとれる症状の記載を理解するために、まず、当時どのよう
な精神障害の記述体系が用いられていたかを知ることから始めなければなら
なかった。それは、同時に、「専業医師」の成立過程を明らかにすることであ
り、また、その出自階層である在村在郷町庄屋名主等有力農商階層等に成立
した知的読書階層の成立と、その知的営為の質的・量的拡がりを確かめてゆ
-1
社会問題研究・第 5
0巻第 2号
く作業が必要だった。この知的読書階層の成立は、すなわち、印刷した「刊
行本」の「知」を「解読する」という知的営為の変革は 1
8世紀初頭までに達
7世紀初頭から始まっ
成されていた。後述するが「医学テキスト」の刊行は 1
ている。それゆえ、当時広く流布したと思われる代表的な「医学テキスト」
を見出し、その「テキスト」から精神障害の記述の基礎となっている概念を
読みとる作業から始めなければならなかった。今回報告できることは、「御仕
置例類集」等の判例に記載されている症状やそれを記載している言葉の特質
についてである。だが、それらは、私たちが李朱医学の集大成と思っている
『束医宝鑑』や後世派の代表的著作である『牛山活塞』などのテキストからは
見出すことが出来なかった。古方派や蘭学派のテキストには未だ取り組んで
いない。今後の課題である。しかし、まず、李朱医学に触れたことで、世界
性を持った体系的な精神医学概念が存在していたことを知り、その知的資産
の基擦の上で、古方派の批判や蘭学派の主体的摂取を示す訳語の創出も行え
たのだと考えるようになった。ここまでの過程で、判例に記載されていた精
神症状を記述した慨念の全体的解明には至っていないが、それへの手がかり
を得ることができた。中間的な報告て、あるが、これまでの私たちなりの考え
をまとめ、さらに進めるための、いわは、仮説を提示することになる。多くの
ご批判を頂き、さらに検討を深めたいと願っている。
1
1
.1
8
世紀後半からの専業医師の成立状況とその役割と知識を
めぐる状況
1.江戸時代後期の精神障害者の処遇でも、医師の証言を求める場合が意外
に多いように思われる。例えば、私たちの論文「江戸時代後期の精神障害者
の処遇について(1)J(以下引用する場合は、(1)1)、(2)2)、(3)3)、 (4)0
と略す)の人権の事例でも「町医竹内元龍 j の証言が求められている。明和
元年(17
6
4
)から 9年(17
7
3
)までの武士階級の家族メンバーの乱心による「入
植」の事例の記録である『仙台領乱心者記録』では、藩のお抱えの医師であ
る「御医師」の外に「無足医師」も招いて治療と証言を求めている記載があ
-2一
江戸時代後期の精神障害者の処遇 (
5
)(桑原・板原)
る。精神障害者も収容していた牢や溜では、毎日医師が収容している病者の
診察に訪れている。品川溜では日に 2回も診察していたらしい。それにして
も、牢と溜では処遇がかなり違ったらしい。
① 高 柳 金 芳 に よ れ ば 5)、元来牢屋には付属の医者がいて診察し、薬煎所の
設備もあって、薬を与えて治療に努めてきた。ところが不衛生な環境と
留
施設の不備により病人が絶ゆることがなかった。このため重病囚人を j
に預けた。もとより、溜にも牢屋に準じた定めがあって、収容者を拘束
していたが、牢屋よりも寛大であり、その施設も整っていた。このため
楽をしようとする者や、裕福な町人などは牢屋奉行や牢屋付医師に賂
(まいない)を贈り、溜預けにして貰った。また牢屋付医師が、溜預けに
便宜を図ったということが『江戸真砂子六拾帳』に見えている。即ち当
時浅草代地大川端に住んでいた、平賀養眼という牢屋付医師が、裕福な
囚人からは多額な金子を取り、無宿からは特別の礼金を受けて、さした
る病気でない者を溜預けとし、これにより多くの家・屋敷を持ち、巨額
の富をなしたとある。これら牢付医師、溜医師の氏名については、記録
留については慶応 2年(18
6
6
) 頃の南品川海蔵寺
が少なく、僅かに品川 j
留について
門前町医師藤井周見、同妙国寺門前町医師藤井勇健と、浅草 j
は、千住宿三丁目高橋晋斎、浅草安倍川町茂木泰元及び黒川洞仙等の名
が見られるに過ぎない。
ただし、牢医者の配置は、江戸に限らな L、。秋田の鶴岡藩の町奉行所
8
7
) 7月
例書に天明 7年(17
i
深野道順の牢医者の名目御免願」に、「別
出
而嫌候ニ付」これからは、御町医が「月番持」でやってほしいと願 L、
て、許されている。
②
「旧幕府引継書」の「南撰要類集」に、記録への注釈として、朱書で、
「此の儀者、毎朝 5時頃医師とも牢内江見廻り熊越、牢番同心立合、囚人
病駄見候上、薬相用候もの井病気差重御預等申上候もの者、当番錨役江
逸逸申聞、病鉢書江医師印形致し、諸向江御届等差出候儀ニ有之、鎚役
3-
社会問題研究・第 5
0巻第 2号
当番目々相廻、誰様駄如何之旨牢内役人江も相尋、当人江も少々も快哉
之旨相尋候儀ニ御座候、牢死仕候もの有之候得者、早速医師窯越、様勝
見候上、病死致し候旨、鑑役当番江相届候ニ付き、牢内ヨリ下男ニ改番
所迄為出、鎚役当番死骸相改、一一一。書面囚人共薬相願候ハ
差遣し、薬相願候囚人之様林等、得与為受見、実々病気ニ候ハ
N
H
、医師
薬差遣、
其外死骸改之儀井錨役当番等見廻り候儀者、是迄之通取計可申候。」とあ
留医師が存在し、投薬や検屍を行っていた。
る。このように、牢付医師、 j
③
留が始まったのは、貞享 4年(16
87)とされているが、公式に溜の設
浅草 j
置の土地と費用を与えられたのは元禄 1
3年(17
0
0
)で、それは預かる人数
が増えたためであった。寛延
2年 (
1
7
4
9
)に、初めてー畳敷の仕切圏 6ツ
が乱心者用として設置された。これは、通常の病者などの収容者たちと
同じ空間に置いておけないことを確認したためであろう。
安永 7年
(
1
7
7
8
) の改築で、二聞に五間であった女溜を二聞に三聞に
狭めて、残る二間四万を乱心者用に当てている。つまり、乱心者用の仕
切圏が 4ツになったわけである。薬謂合所は続けて設置されていた。そ
の改築は火事のため浅草溜が焼失したためである。改築までの聞は、女
溜の囚人と乱心者用の囲いの囚人は品川溜に預けられた。品川溜にも乱
7
8
)
心者用の囲いが設けられたのであろう。事実、品川溜では安永 7年(17
には乱心者用の溜の設置の費用が認められている。もっとも、それ以前
には無かった訳でない。あったのだが老朽化していたらし L、。いずれに
せよ、溜には乱心者用の圏は設置されていたのである。牢には、乱心者
留に預けたこと
用の仕切圏は無かった。牢で手に余るようになったら、 j
は
、 (4)に記載したように記録にも残っている。但し、「南撰要類集」
に、「手鎖之儀者、牢屋敷役所ニ有之、乱心もの立騒、其外不法之{義致し
候もの江者、鎧役当番相札取計候上手鎖掛、牢屋見廻中井頭弁之助江申
聞候儀ニ御座候、当番同心取計二而手鎖掛ケ候儀、決市無御座候」とあ
り、牢では手の掛かる状態の乱心者は手鎖で抑制されていたことが判る。
4
江戸時代後期の精神障害者の処遇 (
5
)(桑原・板原)
④
j
留医師の誓詞
留
浅草溜は、非人頭善七が自分入用をもって町医師を頼み置き、毎朝 i
内を巡回診察させた。急病人の場合は、伺時でも呼び寄せて診察し施薬
91)以後は溜
することになっていた。最初は 2名だったが、寛政 3年(17
預けの囚人が少なくなったので 1名となった。
留は毎日 2回ずつ溜医師に j
囲
品川溜も、浅草溜と同様だったが、品川 j
内を巡回させていたらし L
。
、
溜医師から、つぎのような誓詞をとっていた。
一、溜預け申し付け置き候病人共を療治致し候については、毎朝 j
留の薬
留掛詰め合いの者に相届け、立会人同道いたし
調合所へ罷り出て、 j
溜内へ入り囚人どもの病症を診察いたし、薬種入念に調合すべく候。
留より知らせあれば早速溜内へ薬掛之者共立
尤も急病人これあり、 j
Iて薬種入念に加減致し調合
ち合い、変症の様子を得と診察の上、男 J
付き添い居り煎詰めて相用いるよう致すべく、尤も重病人は名前症
状ともに溜掛之者に申し聞かせ置き候様致すべく、且つ病人共何様
望み候とて、病気に応ぜざる薬は決して差し遣わし申す間敷候
留め内へ入り候節は、囚人共如何様に相頼み候とも、密かに囚人共
一
、 j
之宿並びに知人万へ内通カ間敷儀は、例え親類縁者に候とも、伝言
等一切致す間敷く候。
右の趣堅く相守り申すべく、万一心得違 L¥ 溜 内 取 り 締 ま り に 関 わ
り候不正之儀致し候はば,、吟味の上、急度沙汰に及ぶべく候問、そ
の旨存すべく、右の通り仰せ渡され畏み奉り候。{乃如件
溜医師の囚人との交流を制限していたことが判る。溜医師の乱心者と
の関わりは無かったのだろうか。投薬はしていたかもしれな L、。それに
しても、「乱心者」についての記録は無 L、。「南撰要集」に、乱心者らし
留に送った 1例の記録があるが、溜での行状は記録さ
い行状を挙げて、 j
れていない。
~5
社会問題研究・第 5
0巻第 2号
2
. 医師の証言は、妊娠の証言にも及んでいる。 1
8世紀後半から、農村人
口の停滞・減少に悩む諸藩が間引き禁止令を出して、堕胎・間引き防
止策をとるようになるが、その一つに、懐胎・出産取り締まりがあっ
、 9件の事例の
た。美作津山藩での記録を検討して、沢山美果子 6) は
1
8
0
3
)以降の事例には、懐胎の確認に、すべて医者
うち、享和 3年 (
が登場していることを指摘している。もっとも、津山の在村医仁木家
1
7
8
8
) によれば、当時の
に残された写本『賀川有斉子、口述手術解J(
津山城下の医師の診察は問診が中心で、懐胎の確認は、経水停止、胎
動、腹部の膨らみであり、その意味では、女性自身の懐胎の判断と医
師の診断とは、あまり差がなかったと言えよう。それゆえ、医師によ
り懐胎が確認されることが、つまり、妊娠・出産の管理の一環として
医師の役割があったのである。だから流産、死胎出産、新生児死亡、
産婦死亡の際に、医者は、これらが堕胎・間引きの結果でないことを
証明する容体書を作成する際にも登場する。これらの記録(医師の証
明書以外も含めて)には医師の氏名があり、沢山は、 8名のこれらに
登場する医師を、その状況・背景も含めて挙げている。
3
. 塚本学7)によれば、 1
7世紀後半には、民間医の藩医登用が多かった
が、尾張藩の『土林訴酒』にみえる藩医のうち、以前の系譜や師匠等
の記述がなく、医師に召し出されたとする例があり、そのなかには町
医・村医からの登用例が少なくないことを指摘している。青木歳幸 8)
によると、高島藩における藩医は、元禄頃 7名、享保 1
8名、文化年間
1
9名であり、その出自は、 i.近世初頭からの医家、 U 旅人や遍歴者
v
. 町医・村医からの登用
からの藩医、温.藩士から医家になった者、 i
に大別される。青木は町村に在住する医家の広範な存在を予想し、茅
2名の在村医を明らかにして
野市域において元禄 7年から明治期まで 4
いる。
①
このように診断、治療に加え医学的証言も行える医師、つまり専業的医
6-
江戸時代後期の精神障害者の処遇 (
5
)(桑原・板原)
業が成立し始めたのは 1
8世紀後半であろう。 1
8世紀後半には、専業医師
の増加を裏付ける研究も多い。近世初頭における医療行為の担当者は、
宗教者(修験者など)・村落・在郷町上層農商層や医師(半農半医)、そ
して医師(官医)であり、医療の内容は、呪術・食物の禁思・薬を含め
8世紀後半からの医療の特徴は、医業の
た医業であったとされている。 1
拡大と専業的医師の増加であろう。
農村での専業的医師の成立について、中村
文 9) は、次のような事例
を紹介して、村医の成立過程を明らかにしている。
年(18
2
3
)
6月に以下のような願書
信濃国諏訪郡高島領の高森村は文政 6
を提出した。
「雇医願」
乍恐奉願上口上書
一、当村之義医師無之急病人杯之節難儀仕候ニ付、甲州巨摩郡天神之久保
村文之右衛門伴為三与申医師年頃も相応実株成者ニ御座候、「尤女房並
男子弐人ニ御座候、右妻子召連j 何卒来ル亥年迄五ヶ年之内差置中度
奉存候、員J
I
別紙身元引請一札相添願上候、御慈悲を以右願之通被仰付
被下置候ハパ難有仕合奉存候、以上
高森村
年寄重郎左衛門
同断波右衛門
同断市郎右衛門
文政六突未年六月
名主芳右衛門
御郡御奉行所様
同断平兵衛
身元引請一札之事
一、当村百姓文野右衛門伴為三与申医師御村方ニ当未年ヨリ来酉年迄三ケ
年熊在医業致度段申出候、右為三義不行跡之筋之無、女房並女子弐人
有之、身元』随成者ニ御座候、右妻子召連熊、越候、万一如何様成義致出
~7~
社会問題研究・第 5
0巻第 2号
来候共私共引請其御村方江少茂御厄介懸申間敷候間宜敷御世話可被下
候、依之身元引請一札差出置申候、為後日{乃如件
甲州巨摩郡天神久保村
文政六突未年六月日
為三親文野右衛門
信州諏訪
一類
武右衛門
組頭
兵左衛門
名主
兵右衛門
高森村御役人中
2
6
)1
1月、為三の年季継続願いが高森村
さらに、 3年後の文政 9年(18
18
3
2
)年正月に、高森村
年寄・名主から奉行所あてに提出され、天保 3(
は為三のさらに 5ヶ年賦の「御雇願」を提出している。中村はこのよう
な村医の存在を高森村の近くの村々にも認めて、氏名も挙げている。
②塚本学は、医師の出自の多くは在村有力者層であったが、医療需要の
高さから町方で専業化が進んだと述べて、同時に、医師層は刊行された
書物から「知」を読みとる「知的読書」階層であり、経験的・伝統的知
(民俗)の伝承だけでなく、書籍の知の解読に基づく知的営為としての面
も含んで新たな権威をもった専業医師として現れたことを述べている。
その一例として、『官刻普救類万」の浸透を挙げているが、それについて
6世紀後半から P
r
i
n
t
i
n
gから P
u
b
l
i
s
h
i
n
gへ、「活字版から版木
語るには、 1
7世紀後半には商品生産としての大量出版文化
による製版」に移行し、 1
の時代となっていたこと、そして、印刷された書物から「知」を読みと
る「知的読書階層」が成立していたことによる当時の知的営為の変化に
。
、
ついて述べておかねばならな L
③
儲回冬彦川(;l:,貝原益軒の著作が当時のいわゆる出版メディアの成立にと
もなって大量出版された現象を、著者の側からではなく読者の側から、
どの程度の深さと広さで読まれていたかを確認する作業を行っている。
元禄・享保期に、益軒本を初めとする様々な書籍の主たる読者層は、村
8
江戸時代後期の精神障害者の処遇 (
5
)(桑原・板原)
落庄屋層と在郷町年寄層であった。その日記等から、大坂近郊の庄屋・
年寄層の蔵書の形成、地域社会における貸借ネットワーク、個人的ない
し共同的読書行為等が成立していた。その蔵書の中に医学書もあり、医
学書の読解では、それらの一人の伊丹の酒造家八尾八左衛門の日記から
も、かなり専門的な医学書に取り組んでいたことが伺われる。それによ
れば、八左衛門の常備薬である八味地黄丸を自製する知識を得ており、
その知識は、享保 1
8
年 (
1
7
3
3
) 4月 6日から「医者衆発起」で始まった中
国の明の医家虞博(天民)の編集した『医学正伝』の巻ーにあたる『正
1
6
8
2
)和刻本刊行)の「講談 J(共同での読書)に加
伝或問 J(天和 2年 (
わって得られた知識である。八左衛門は「講談」の場でこの中国医書
『正伝或問』を読みながら、同時に自宅でほぼ毎日『医学弁害』を独習し
6
8
0刊)は紀州の医師宇治田友春が、
ていた。この『医学弁害 J(延宝 8年 1
最近の医師たちは「末書ヲ読み而内経ヲ読マズ」とその「俗習ノ害」を
憂いて、いわば入門者のために基本的医学書を解説して、正当な医学の
学習に必要な文献を紹介・解説したいわば「入門書」であった。『正伝或
問」の第4
8条に「黄柏・地黄之類、倶ニ鉄器ヲ忌ミテ蒸揖スル」のはな
ぜかという間いを挙けて、難解な陰陽五行説を基本に答えている。『医学
弁害』では、「目録」で中国の著名医家の名を挙げ、その説の概要をまと
め、それが「医学弁害』全 1
6巻の何処に書かれているか記載している。
6論」と警かれて
「王海蔵」の項に「黄葉地黄之類倶ニ忌鉄器、在十巻第 1
いる。八左衛門は『医学弁害』を参考にしながら『正伝或問』を解読し
ていったと思われる。このような努力を重ねながら、八左衛門らは中国
の古典的医学書を解読して知識を得ょうとしていた。
④
江戸時代の医学を、あえて無理に分ければ、李朱医学を信奉する後世
派日と『傷寒論』等を基本に実証的医学を目指す古方派本本率と、その折衷
である考証派**刊に分かれ、更に西洋の医学知識を学ぶ「蘭学 J**車場*
派が加わって 4つの学派があった。
9-
社会問題研究・第 5
0巻第 2号
⑤ 享保期で、は八左衛門たちだけでなく多くの読書階層が李朱医学に親しん
でいて、『医家七部書』図 1が刊行され、なかでも李東垣の著書を集めた
「東垣十書」図 2も刊行され、広く読まれていた。李東喧は、少なくとも
当時の日本の読書階層には、刊行された医学書の著者として広く親しま
5年 5月に「訂正東医宝鑑』
れていたと思われる。また、八左衛門は享保 1
図 3を購入している。その少し前に、「病薬を委細に認候『官刻普救類方』
図 4と申書物十二冊」を、「書物問屋井小売之者同直段」で刊行する旨の
5日に布達されたのをうけて、同 1
8日、森
幕府令が出され、大坂で 2月 1
長右衛門は、大坂の本屋吉野屋で、相庄屋の分も合わせて『官刻晋救類
方J2部を購入している。『官刻普救類万』は八左衛門の蔵書にあるかは
不明だが、横田によれば、大阪近郊の豪商三田家の蔵書目録にも、杉山
1
0
一義経本義居建議論,
一十圏一延設揮滞・畑象一
図
一持議体諭原ム持久↑
態息芝郵客一
骨・戎問大差向一
本草本例牌言論一
弓方設揮持惑論一
1
E
家の蔵書にもある。
江戸時代後期の精神障害者の処遇 (
5
)(桑原・板原)
ム版 e晶町晶同第HA
ホ帥﹃三 λ
楠望書林柳原積五圃嘗主成目録得屋喜兵備
図
図
2
3
図
-11一
4
社会問題研究・第 5
0巻第 2号
⑥
このように、 1
8世紀後半に増加した医師たちには、医療の経験だけでな
く、その出自階層である在村・在郷町有力商・農民層が持つ、刊行され
た書物を解読して「知」を得る「知的読書」という知的営為を修得する
ことが加わっていた。それにより新しい知的権威の加わった「専業医師」
としての町医、村医としてあらわれてきたのである。それは『官刻普救
類方』が庄屋や年寄層に購入されていた事実にも適合すると思われる。
塚 本 学 が そ こ に 「 民 俗J(呪術的民間医療)の世界に文書の権威が浸透
する状況を見事に読みとったことは先に述べた。
⑦
また、岡田靖雄 11) が、その存在を明らかにした「江戸医学館」の「考試」
6
5
)に私立の隣書館として創立
がある。多紀元孝(玉池)が明和 2年(17
した医師養成機関が、その子多紀元徳(藍渓)の代に至り、寛政 3年
91)より公儀の医学館となった。そのとき、若年寄堀田摂津守正敦が
(
17
目付にわたし、惣医師にふれさせた書き付け三通のうちに考試のことも
規定されていた。医学館では来春から年に二回春秋の考試をするが、「典
薬頭弁奥向之面々法印法眼之御医師等」および「四 O歳にも及候分」は
のぞき、年齢二O歳ぐらいになった者はのこらず考試を受けなくてはな
らない。また医学館へつねづね出席して修行している者はうけなくてよ
い、とある。考試は翌春からおこなわれたようである。岡田は、また、
5が寛政 6年(17
9
4
)
森潤三郎の論文を引用して、その中の『半日閑話」巻 2
秋の考試につき述べていることを引用している。寛政 6年 9月には「療
治不行届井医学館えも間遠に被致出席候 J御番医ならび、に小普請医とも
3
1名に考試が仰せつけられ、五名ずつ医案五カ条、虚実医学、本草、外
6名は相応に出来たが、御番外科村山元格
科について口答試聞がされ、 1
1月
は一向に答えられず、帰宅後すぐに吐血して死亡した。また同じく 1
1
3日には御医者一同に脚気痛風之耕、虚腫実之耕、乾霊乱湿霊乱之耕、
脈結促代塘之耕の五カ条につき耕書を仰せつけられたとある。
この「考試」にも、また、書物を解読することで得られる「知」が基
本になっていることが読みとれる。考試という状況は医師に標準的に求
12-
江戸時代後期の精神障害者の処遇 (
5
)(桑原・板原)
められる医学的知識が存在するという前提がある。多数の医師に標準的
な医学的知識の修得を求めることが出来るためには、多くの医学書が普
及していなければならな L、。当時は、既に刊行された医学書があり、そ
れを解読することで標準的な医学知識が得られた状況があった。
それゆえ、当時の医師が持っていた精神障害に関する医学知識につい
。
、
ては、このような知的状況を基本に検討してゆかねばならな L
日後世派
黄河文化圏の『黄帝内経』の成立は前漢時代であろう。黄帝は漢民族の始
祖と仰がれる伝説上の聖天子である。本文は黄帝とその臣岐伯との問答の
形で進められるが、全体は「素問」と「霊枢」の 2経に分かれる。「霊枢」
は中国独自の治療法である鋪灸術を述べたものであり、「素問」は、中国医
書としては珍しく、人体の生理・病理を説いたものである。後述する『傷
寒論』のような治療書を「経方」と呼ぶのに対して、「素問」のような医学
の原理を説いた書物は「医経」に分類される。「素問」では中国人の宇宙観
を反映して、人体機能の哲学的考察が行われ、天地という大宇宙に対し、
人聞はその写しである小宇宙であり、大宇宙が陰陽の気の調和から成り立っ
ているように、人間もまたこの陰陽の気を受けて生存する。もしこの陰陽
の気が調和を失えば、そこに病気が起こるというのが「素問」の病理説で
ある。『傷寒論』にも陰陽二元説による解釈が行われるが、「素問」ではさ
らに五行説による解釈が加わる。内臓は五臓六腕と呼ばれ、この五臓は五
行説と結ひーっけられる。五臓の肝・心・牌・肺・腎は五行の木・火・土・
金・水に宛てられ、また酸・苦・甘・辛・献などの五味に宛てられる。こ
うした自然哲学的医学観は金・元の時代にその学説から発展した性理の学
(陰陽五行説を発展させた自然、哲学)で医学理論を深化させる。この時代に
強壮、滋養の温補剤を用いた李朱医学(李果(東垣)・朱震享(丹渓))や
発汗や吐下なと‘の潟剤を用いた劉張医学(劉河間・張元素)が台頭し、後
世の明・清医学に影響を与えた。これらを金元医学ともいう。江戸時代の
日本でのこの信奉者たちは「後世派」と呼ばれた。富士川閣は「支那の宋
1
3
社会問題研究・第 5
0巻第 2号
以後の医方(即ち後世医方)、撃論空説を主として実験の医方を廃せるに対
して、古医道と称したのである」と述べている。「古方派」が後に盛んになっ
たので、その比較からこのように呼ばれたのだろうか。岡田靖雄助は、江
戸時代初期の曲直瀬玄朔から後世派に入り、『牛山活套」を書いた香月牛山
(
16
5
61
7
4
0
) を江戸中期の後世派の代表としている。良原益軒は医師では
ないが、医師だったなら当然、後世派に入るだろうし、私たちは『酒説養生
17
2
7年刊)を書いた守部正稽も後世派に入ると考えている。
論J(
$日古方派
0
0
年頃に後に張仲景が、当時高熱を伴う
江南文化圏で、後漢時代の西暦2
伝染病が蔓延して数百人にのぼる一族が死んだため、この『傷寒論』を
編纂したという。この『傷寒論』は実地の治療に直ちに役立つ優れて実
証的な医学書として、後世に大きな影響を与えた。金・元の頃には熱心
に研究されていた。日本でも医学の必読書とされていた。明代の喰嘉言
(
15
8
5
1
6
6
4
) の著した『傷寒尚論篇J(
16
4
6
、1
6
9
6
年日本でも刊行)は、
のちに起こった日本の復古の学説の原動力となった。名古屋玄医は、こ
の『傷寒尚論篇』を読んで発憤し『傷寒論」こそ真の医法であると「古
医方」を唱道し、彼の説は弟子の後藤艮山によって敷街され、当時、伊
藤仁斎らが儒学において官学である朱子学を批判したのと相まって、「古
学復興」運動の口火が切られた。後藤艮山の門人から、香川修徳、山脇
r
東洋らの著名な医家が輩出し、実証性のある『傷寒論J 金匿要略』に基
づく研究が盛んになった。この医学観の信奉者たちを「古方派」という。
江戸時代中期から後期にかけて「古万派」が盛んになったとされている。
日本*考証派
「古方派」と「後世派」の衆説を折衷して、特に江戸医学館の多紀家一
門により、古典の考証が行われ、望月鹿門、山田図南、多紀桂山らに
-r考証派」と呼ばれている。岡田は
より、卓越した研究が行われ、 f
「多くの医説にもかかわらず、こういった考え方〈註、考証派的考え方}
14-
江戸時代後期の精神障害者の処遇 (
5
)(桑原・板原)
が江戸期を通じて基本としてあったのだろう。」と述べている。私たち
も同感である。
...彬事蘭学派(漢蘭折衷派)
6
4
)に刊行した『漫遊
山脇東洋の弟子だった永富独噺庵が明和元年(17
雑記』を、富士川瀞の解説で読んだが、『漫遊雑記』では徽毒の症例と
治療法に多くの記載があり、富士川は「徽毒の治療法以外にも阿蘭陀
医学の影響を受けている」として『刺絡』を例に挙げている。独噺庵
は「漫遊雑記』のなかで阿蘭陀医学の優秀性を認めて、その科学性と
して「病理解剖」を挙げている。独鴫庵のように中国医学の知識に蘭
学の長所を積極的に認めて受け入れることを漢蘭折衷派と呼ぶのだろ
うか。そして、独晴庵は蘭学の徽毒治療法も学んで、梅毒治療医とし
ても著名だったらしい。同様に、漢方医たちもオランダ医学の水銀治
療法の優越性を認めていた。後世派の代表の香月牛山も『牛山活套』
7
8
刊)で、「揚梅磨日久ク不愈ニ防風通聖散を 5匁ガケホドコメ用効
(
17
ヲトル事多シ又奇験方トテ近来阿蘭陀外科ノ用イル方あり伺モ山帰来
ノ入タル大料也是モ紅毛(オランダ)流其家々ノ秘方多シ可考合又伝
来ノ方ヲ諸医ニ逢テ秘方ヲ談ずベシ」などと述べて、自分の家の秘方
の水銀製剤の嘆薬を紹介している。蘭学派は梅毒治療技術の修得から
登場したように思われる。杉田玄白は彼の著作『形影夜話』でも語っ
ているように梅毒治療の専門医であったが、それから進んで蘭学の科
17
7
4年刊)の翻訳に進んだ。富士川
学面を学ぼうとして『解体新書J(
は、漢蘭折衷派に華岡青州や本間藁軒も挙げている。その後に、宇田
1
7
9
0-1810刊)が刊行される。この
川玄随が訳した『西説内科撰要J(
オランダ医学の訳書には、二つの特徴がある。一つは、従来の江戸中
国医学の体系と独立した医学理論体系を持ち、一つはその訳語が、江
戸中国医学から種々の表現を換骨奪胎して新たな医学の記述体系を表
現していることである。『西説内科撰要』について、江戸中国医学との
比較は、もっと研究すべき分野と思われる。
1
5
社会問題研究・第 5
0巻第 2号
⑧
それでは、具体的に、後世派と古方派を見分ける特徴になるのはあるの
だろうか。それは医学である以上、治療上の課題となろう。
江戸時代は初期から、梅毒(揚梅磨、唐磨、梅癌)、結核(労療、労咳、
種苦労、労証、欝証)、ハンセン病(嬬病、痛風)の 3大慢性伝染病があった。
これらの病気の治療薬は日本では生産できる生薬は無く、あってもま
ことに少なかった。それで、享保時代に、幕府は和薬(日本産漢方薬)
の生産を行い、質・量的にも供給できるシステムを作るが、その頃から
始まった漢薬への需要の増加に応じられるほど生産量が確保できないの
で、輸入に大きく頼らざるを得なかった。
。
梅毒の曜患者は、日本全国に極めて多数存在していた。
「江戸市中の大人の住民の半数近くは、何らかの形で性病の梅毒に侵さ
2
3体の頭蓋
れていたのではないか」一江戸時代の墓地から出土した成人 9
骨を調べた古病理学・骨学の研究者の鈴木隆雄の研究から、このような
状況が明らかになっている凶。
当時、梅毒の治療に使われた漢薬に「山帰来」があるが、それは梅毒
7世紀初頭から梅毒が急速に侵淫した中国では、
治療の新薬であった。 1
最初は、痛病の薬であった「軽粉」が用いられていた。日本に初めて渡
来したキリスト教宣教師が信者の廟病者に軽粉を与えて治し、人々に感
動を与えた話は広く知られている。
軽粉(塩化第 l水銀)は梅毒には有効だったが、副作用が余りにも酷
かった。『本草綱目』の著者李白珍は、水銀製剤のみの治療では即効性が
あっても、「昔ノ人、之(山帰来)ヲ用いるコトヲシラズ。近時、弘治・
正徳ノ問、楊梅磨盛行スルニ因リ、率、軽粉薬ヲ用いて効ヲトル。毒、
筋骨ニ留マリ、遺:欄シテ身ヲ終わるニ至ル。人、此レヲ用イテ遂ニ要薬
c
r
ト為ス J 本草綱目』巻 4、土夜苓、釈名目)。山帰来は、土夜苓とも言い、
ヴェトナムの中部地方が原産地で、日本には勿論自生しない。これを、
軽粉と併用することで良好な治療効果が挙げられた。実際に、ヨーロッ
7世紀から 1
9
パにも効果が認められて輸出されていた。山脇悌二郎助の 1
-16
江戸時代後期の精神障害者の処遇 (
5
)(桑原・板原)
世紀にわたる「中国船の山帰来輸入量」の研究によれば、 1
7世紀中葉か
8
世紀中葉から 2
0万斤から 3
0万斤購入して
ら輸入量が漸増していたが、 1
いる。それは、売薬業が盛んになったことも反映している。『牛山活套』
では、土夜苓の導入後も、軽粉を鼻から吸入させる(嘆ぎ薬)か、「誕薬
トテ丸薬アリ。軽粉 2匁、上茶 I匁、梅干黒焼 5分、土夜苓 1匁、辰砂
5分、右細末ニシテ丸スルニ梧桐子ノ大きさニシテ挽茶ヲ衣トス用イル
時ニハ歯ニ中ラザルヤウニ用イレパ歯師ヨリ血出テ咽嫡レテ病人死スル
ホドニ苦シムト雄モ 7日ヲ過ギレパ食気出テ本復スル者多シ Jと旧態依
然たる治療法だった。私たちの手許に、恒和出版の江戸科学叢書 25
「水銀系薬物製法書九篇」のうち、『生々乳製法秘録 J
、『升求丹製法秘録
r
r
、『徽清秘録標記坤J 徽塘秘録別記 J 神丹秘訣Jの 5つの原刊本
訣J
Z7lの「蘭療方上』の原刊本のコピーがあ
のコピーがあり、『江戸科学叢書J
7
5
5年以降は、昇求
る。それらや片桐一男 1勺こよると、ヨーロッパでは 1
(塩化第二水銀)が医師スィーテンの処方で内服に用いられ、副作用も格
段に少なかったことから広く用いられていた。それが、蘭医ツンベルグ
より日本に伝えられ、急速に広がった。杉田玄白もこの処方を早くから
用いて梅毒治療医として有名だった。オランダ医学のこの梅毒治療法に
魅せられて、その水銀治療法を学ぶことから蘭学派が生まれてきたよう
7
4
3年(寛保 3)赤降禾(酸化第 2水銀)
に思われる。また将軍吉宗が、 1
をオランダ船に注文しているのは象徴的である。
。結核、とくに肺結核は、中国医書で「労療、労咳、労病、種事労、虚労、
骨蒸 Jなどと呼ばれていた。とりわけ、労療、警苦労は元の朱丹渓が用い
た。山脇からの孫引だが、朱丹渓は「穆労は愁憂、思量過多で、心を傷つ
け、気を普きする。また、心は血を主どるから、血流が乱れて通和しなく
なり、腎も傷つき、血燥き精尽きて労擦になる」と『虚労』原因説だっ
た。『此病ハ七情六慾ノ火中ニ動キ、飲食労倦ノ過度屡々身体ヲ傷ブリ、
漸クニシテ真水枯渇シ、陰火上炎スルニヨリテ成ル』という説だった。
香月牛山の『牛山活套』巻之中に次のような記述がある。
-17
社会問題研究・第 5
0巻第 2号
諸気
O 諸気ノ病ト号スルハ七情ノ大過ヲ云也其脈多ハ沈伏スルナリ
O
男子婦人共ニ諸気和セズ憂愁思慮急怒ニ因テ神ヲ傷リ抑着替ノ気留滞シテ
散ゼズ呑酸憶気幅?悪心頭目昏舷シ四肢倦怠シ面色萎黄シ口苦ク舌乾キ飲
食減少シ日々ニ?痩スル類ノ症アルヲ云ウ。気脳ノ病ヲ云也分心気飲ニ加
減シテ用へシ委夕方考ニ出ス参考ニスベシ
O 諸気和セズ瑞咳シ脇肋刺痛シ胸幅宿悶スル者ニノ、小降気湯沈香気湯愈山
降気湯ノ類ヲ見合セ加減スへシ
という表現で現れている。金子準二川 l
こよると、田村玄仙の「療治茶談J
(
18
0
8
)
にも、肺結核の初めには「心疾」と同様な「心気むつかしくなる」症状があ
ると記述している。肺結核の初期には欝症状が表れるとしている。朱丹渓の
影響は勿論だが、それによる「穆労」の暖昧さも影響しでか、江戸時代後期
の労療治療薬は、後世派と古法派では違いが在った。後世派は人参だったが、
古方派は、労療の治療に「桂校」を使った「桂枝労療方」を使った。山脇に
1
6
5
6
) から「桂枝」の輸入が急増し 6
1,
0
0
0
庁
、 1
6
5
7
年には
よると、明暦 2年 (
2
1
9,
0
0
0斤にもなった。それ以前は、 4
0
0
0斤程度だった。この「桂枝」の輸入
量の増加は、「後世派」から「古方派」への勢力交代のよるものだろうか。
嬬病の薬として多用された「大風子」には、朱丹渓が否定的だったらしい。
6
5
8年
そのせいか、日本で、「大風子」が使われ始めたのは、山脇によれば、 1
(明暦 4年)以降だろうとのことである。古万派により「大風子」の輸入量は、
1
6
5
0年代から増加して、 1
7
1
0
年には 5
4
.
0
0
0斤、以降さまざまな事情で、輸入量
に変化がでているように見えるが、実際は 5万斤程度が日本に入ってきてい
5
0日間
ただろう。それで、山脇の試算の方法を借りて算出すると、 5万斤で 1
投与なら約 3万人程度の治療ができる。治療を受けないでいる病者を含めて
0倍程度の 3
0万人ほど桶病の病者がいたのではないだろうか。
その 1
このように、後世派、古方派の違いは、このような「薬」の輸入量の違い
にも現れている。
。
口
江戸時代後期の精神障害者の処遇 (
5
)(桑原・板原)
m
.1
8
世紀後半から 1
9
世紀初頭で医師の精神障害の知識について
1
.1
8世紀後半に医師が急増したことは、種々の研究から推測される。尾張藩
で、享和元年 (
1
8
01)、医師門弟の登録と、独り立ち療治すなわち開業医
の認可制を命じたのも、医師の急増が背景にあるからにちがいない。布施
4
5
)に発行された
昌一聞によれば、弘化 2年(18
r
c
浪華)医家名鑑』には、
0
0名の医師がいた。天保 1
4年 (
1
8
4
3
) の大坂の人口は 3
3万2
0
0
0人だ
当時 3
から、比率では、千人に 1名の医師がいたことになる。多数の医師の養成
は、従来の徒弟形式では不可能だったはずである。
2
.青木歳幸が「在村漢学者伊藤忠岱考j'O
l に明らかにしている多くの事実は、
新しい医学の修得について示唆するところが大きし、。伊藤忠岱の父は、信
濃国佐久で呉服商で成功し、先の分類で言えば、在郷村名主層であった。
3歳から吉益南涯に師事し、宏、
宏、岱も父の家業を継いで、呉服商の傍ら、 2
9歳で家業を辞め、医業に専心するようになる。それまで、忠岱は京に
岱2
出る都度、その商売で得た金はすべて書籍の購入にあて数個の竹寵に積ん
5歳から江戸の儒医太田錦城に学び、実Ij苦勉励
で帰ったと書かれている。 2
して書写に専念した。その晩学ぶりは彼の墓碑銘にも「一一一蓋し君恒に
書写を好み」と書かれている。上毛須藤寿圭(吉益南崖門人)説『傷寒論
4年 (
1
8
1
7
)に忠岱は刺絡の師三輪東朔の説を
反正」も手写している。文化 1
筆記し刊行したが、その自序に「初李朱ノ説ヲ尊重セシカ後東洞先生ノ著
書ヲ朋友ノ許ニ見テ仲景氏ノ方法ノ精妙ナルヲ知リ」と南崖に師事し、傷
寒論を医学観の基本とするに至る経過を述べている。吉益東洞や南崖の刊
行されていた書籍のいくつかを手写して学習している。しかし、多くの刊
行された書籍(例えば、永富独噛庵の著作などや、高野長英から蘭学の手
解きを得て、以降蘭学の翻訳医書の解読に努めている)を解読することに
より、独自の医学思想、を身につけていっている過程が明快に記述されてい
る。庁、岱は、伺よりも、刊行された書籍を解読して「知」を得る新たな
「知的読書」の営為を修得することを基本に、医学という「知」を自己の
-19-
社会問題研究・第5
0巻第 2号
「知」に組み入れたのである。本を得るために手写するなら写字生を雇え
ばよ L、。彼には写字を頼む費用ぐらいは容易だったはずである。だから、
手写は彼の独自な書物の解読法だったのだろう。刊行されていない講義記
録の類は手写しただろうが、良い講義だと思った「刺絡」は自分の費用で
刊行している。繰り返すが、刊行された書物を解読して「知」を得る「知
的読書」が伊藤忠岱の学習の「基本Jであった。宏、岱は、それを知る故に、
彼の著作も数冊刊行している。彼に影響を与えた永富独噺蓄は、直接教え
た門弟は少ないが、その刊行された著作によって影響を与えた。忠岱も独
輔蓄の刊行された著作を読んで影響を受けている。忠岱の医学知識は、家
元・徒弟制度の教育によるものではなかった。刊行された医学書を解読す
ることで知識を得ることが、忠岱の頃には既に不可欠になっており、師匠
からの伝授だけが、医学修得の手段でなくなっていた。どの師匠の弟子で
あるかだけが、決定的な問題ではなくなっていたと考えられる。
3
. 横田冬彦は、益軒本の読者を、村落庄屋層や在郷町の年寄・名主層の日
記や蔵書目録から見だし、益軒本が大量に受容されていくあり方を当時
の地域社会の民衆文化の構造の問題として解明している。これらの庄屋・
名主層の家々には、それぞれ蔵書が形成されていたのであり、さらに日
常的な相互貸借が行われることで、地域社会における文化的ネットワー
クを形成していただろう。もちろんそれは地域だけで完結するものでは
なく、日常的に京・大坂の本屋との交流も不可欠であったろう。手写本
r
i
n
t
i
n
gから、木版印刷(整版印刷)に
から印刷本、それも古活字による P
l
i
s
h
i
n
g
'こ移ったのは 1
7世紀であり、 1
7世紀後半には京坂では西鶴
よる PUb
等の作品にみるように商業出版がさかんになっていた。そして、横田が
こ
、
明らかにしたように、大坂近郊在郷町の年寄層や村落庄屋層を中心 l
その蔵書の形成、地域社会に貸借ネットワー夕、個人的ないし共同的読
書行為が成立していたことが、彼ら自身の記録から明らかにされた。そ
こには、出版文化の大衆化というだけでなく、<知的読書>というべき
読書行為が存在した。興味深いことに、彼らの蔵書には医学書が含まれ
-20一
江戸時代後期の精神障害者の処遇 (
5
)(桑原・板原)
ており、医学を職業とするのではなく、一つの知的な営為として、中国、
朝鮮の医学書が共同で、あるいは、独習されていた。彼らの蔵書の中に、
享保期という同時期に、幕府の医療政策の一環として刊行された「東医
宝鑑」や「普救類方」といった医書が含まれており、李東垣の著作の
「東垣十書」にふくまれる「湖沼集」や、明末の虞天民(博)の「正伝或
問」、朱丹渓の「格致余論」等をまとめた「医家七部書」がシリーズで刊
行されており、八左衛門のグループには医師も加わって、活字から「知」
を読みとる営為として医書を読んでおり、このような知的読者層から、
多くの医師が生まれていたはずである。
4
. 享保期に行われた医療政策は、イデオロギー的には元禄期の将軍綱吉の
生類憐み令の一環としての病人保護令に由来しているが、元禄期には幕
府自体は有効な具体策を持たなかった。享保期の特質は、それを現実に
政策として進めようとしたところにある。
① 享 保 7年 (
1
7
2
2
) に小石川薬園に施薬院、小石川養生所を設けたのは
1
7
21)には、幕府医宮古林見宣の『医
よく知られている。 6年 5月 (
学入門』療*本事事の講釈に聴講希望の医師を募り、またその療治を受け
4年 (
1
7
2
9
)、 2
0年には、幕府医官丹羽正伯の調
たい者を募っている。 1
7年(17
3
2
)
整した諸薬を、町中望みの者に買わせる触を出している。 1
には、象洞・白牛洞という薬の販売を願い出たので、その効能を試し
たところ効果があったので、庖療・麻疹等の薬として売り広める願い
を誌!めることとした。
•r
医学入門』は明代の医師李挺の著書で、中国医術の概観に便利
なので日本でも広く用いられた。古林見宣は後世派の著名な医学者で、
幕府の医療政策の一環として、この本の講義を行ったのである。
②
この時期の幕府による医学書普及政策が、当時の医療を取り巻く状況
に及ぼした影響は大きい。享保 7年 5月古林見宣の「医学入門 Jの講
釈に続いて、幕府は朝鮮の許竣の選した医書『東医宝鑑』を幕府医官
2
1
社会問題研究・第 5
0巻第 2号
法眼源元通に命じて訓点を打たせて刊行した。その序言に『東医宝鑑」
の高い水準を讃へ、この本があまり日本に来ていないので、知る者は
少ないことを述べている。
医学も学問だから、多くの本を読む必要があるのに、近年の医者は医
者は病気を治せばよいのだと何時も言っていて、どうして書を読んで
から病気を治さねばならないのかと言っているが、これは道理を間違っ
て聞き直っている。病気の治療法を学ぶには書を除いであるはずがな
い。医術の頼みとするものを知らないで診るところの者が判らない。
診るところの者が判らなければ疑惑錯乱のその苦しみは、一生の一大
事に関わることで心配しないわけにいかない。その学んだ知識があれ
ば、疑惑を持たないでその治療法は精確になり、だから錯乱しない。
その治療プランを建てるにしてもはっきりしていて、若い時から学ん
だ袋を持っていなければできないことである。医学の本は多くて、書
を読んでから病気を治すといっても、数十年間を無駄にすることはな
い。この本には、そのような害はない。
③
6
1
0年に李朝朝鮮で刊行された書籍であり、中国と朝鮮
「東医宝鑑」は 1
の伝統的医学の体系化を行った朝鮮の医官許波の編纂した医学書であ
る。韓国の高校歴史教科書叫では、「従来の漢医学の観念的な短所を克
7世紀の初
服し、実証的な姿勢で医学理論と臨床の一致に努力した。 1
めに書かれた彼の「東医宝鑑Jはわが国の伝統医学を確立したもので
あり、医療知識を民間に普及することに貢献した。」と書かれている。
6
4
)に渡来している。
日本には、寛文 3年(16
21
) 5月 2
8日から行われた古林見
既に述べたように、享保 6年(17
宣の医師への「医学入門Jの講釈は終わったが、それと重なるように
1
7
2
3
)に完成し発売された。これらの幕府
『訂正東医宝鑑』は享保 8年 (
の政策は、新しく成立している医師層への医学知識の普及にあり、幕
府が『訂正東医宝鑑』の水準の医学的知識の普及の必要を認めていた
-22-
江戸時代後期の精神障害者の処遇 (
5
)(桑原・板原)
ことは確かだろう。
④
享保 1
4年(17
2
9
) に『官刻普救類万』が発売された。
この医書は、「訂正東医宝鑑』が知的読書階層(医師以外の層も含む)
を主な対象としていたと思われるのに対し、これは医学知識をもっと
広く普及させようとして編纂された書籍である。
その序文に
大君命スラク彼ノ天禄石渠之書ハ以テ巨家之備へ為リ失
重量日窮巷
ノ医薬ニ之シキハ小民之患ウル所ニテ仁網之漏ル所也。
台意遺憾無キ能ワズ是レ誠ニ忍フ可ケン乎
之ヲ忍ブハ仁ト謂ウ
可ケン乎是ニ於テ、辱モ、林良適丹羽正伯ニ命ジテ、官庫群籍
ヲ点検セシメ……
幕府が所蔵する大量の書物は勢力のある家の備えになっているが、将
軍が僻遠の地や貧困な地域の人たちは医薬に乏しく苦しんでいるが、
この人たちにも医薬が無くて苦しまないようにすべきであると命じた。
それで、林良適と丹羽正伯に命じて、幕府の書庫の医書を点検し、其
の至要(この上なく重要な)を選び、品目も 4 ・
5くらい、方法も 8・
9以上にせずに、患家で礼が無く知識もない人にも利用しやすいよう
なもので、効果があるものを、国字で書いた医書にして刊行しようーー
ここに述べられているのは、医師層を対象としたものだが、いわば、
もっと広範な層への判りやすく具体的な日常生活の医療ハンドブック
もあったろう。
『東医宝鑑』と違って、総論、各論の叙述ではなく、
u
内
ぺ
n
y
“
社会問題研究・第 5
0巻第 2号
普救類方巻之四下
まようま
驚惇
品のあ・ごろま ζ ζ ろ主わ さ
物に驚き
や正
心惇して止るに
半夏麻黄等分粉にし蜜にて練り小豆の大きさに丸じ三十粒白湯にて
用ゆ日に三度用いてよし、
いちじぐのみ
Lろ J
ji
5/
)
,
'
:
J
oのみ
又方木鰻頭妙り
白牽牛子等分粉にして二匁麦飯の取り湯にて持
ちゅ
といった書き万で、簡単な症状とその治療法が書かれている。
幕府は、享保1
4年(17
2
9
) 2月に全国に「官刻晋救類万 Jを代銀 9匁
8分で売り渡すと触れた。これは当時の米 3斗ほどの値段であった。
8匁、次本6
0匁に値下け‘して売り出して
翌月、「訂正東医宝鑑Jを上本 7
いるのに比べても、『官刻晋救類方』にはどのような購入者層を想定し
ているかが伺われよう。
⑤享保期の幕府の医療政策は、諸国に少なからぬ数の医師が存在してい
たことを前提としている。『東医宝鑑』はもとより、『普救類方』は名
主・庄屋層や在郷町の名主・年寄層も対象にいれているが、いわば、
半農半医に近い僻村の「裸足の医者」も当然、含まれていた。前述の大
坂近郊の庄屋森長右衛門は、「病薬を委細に認め候『普救類方』と申す
2冊」を大坂の本屋吉野屋で、仲間の庄屋の分も合わせて 2部購
書物 1
入している。『普救類方Jは、刊行された書物であり、文字を媒介とす
る「知」の優越を医療として行き渡らせるのに絶大な力を発揮したの
ではないか。だから、塚本
学のいうように、文字(活字)により
「知」を読みとる「知的読書」層が成立しており、『官刻普救類方』は
2
4
江戸時代後期の精神障害者の処遇 (
5
)(桑原・板原)
呪術(民間医療)のレベルに対して、新たな知的権威として立ち現れ
ることになる。
5 享保拐の幕府の医療政策は、専業医の成立の条件となる「薬」の質的・量
的供給のネットワークを作り上げている(表)。大石
学 ω によれば、薬
物の質的保証のための「和薬改所」の設立、問屋制度を改革して流通の
ネットワークを作り供給の安定を図っている。薬草の大量生産のために
薬草の栽培園を設置する。それにより、和薬(日本産の漢薬)が増える。
しかし、薬の需要が増えたので、輸入する漢薬も 1
8世紀後半から 1
9世紀
8世紀前半の 2倍に増える。これ
にかけて増加する。特に、化政期では 1
らは、専業的医業の増加と一致する傾向であろう。
享保 1
6(
1
7
31)年に、町医快翁が普救類方諸薬の調合所を設けて、販
売することを許可されている。これを見ても『官刻普救類方』はかなり
広く読まれていたのではないだろうか。
表 1 享保改革期薬種流通政策一覧(一部)
享保 7年 6月│市販の和薬取調べのため、江戸・大坂など 5ヵ所の薬種問屋仲間の代表が江戸に集まる(清水龍太郎『日本薬
l
学史 J
3
7
9頁
)
。
7
. 7
江戸和薬問屋を 2
5名に限定。問屋以外への中売・直売を禁止 (
r
御触書寛保集成』第1
9
9
2号)。
7
.7
和薬改薬所を 5ヵ所に設置 (
r日本薬学史J382頁)。
8
.1
1
大坂和薬問屋を 2
0名に限定(,一件J3頁)。
9
. 7
江戸薬種問屋2
5名以外への唐薬の直売を禁止 御触書寛保集成』第1
9
9
3
号、『京都町触集成』第 l巻第1
4
3
8
'
号
・
│第 1
5
8
8
号
)
。
.9
朱陸での辰砂商売を禁止。以後薬種屋が取飯い 御触書寛保集成』第1
9
9
4
号
)
。
11
11
.1
1
辰砂製造商売を禁止 御触書寛保集成』第1
9
9
5
号
)
。
1
2正
│和久屋源左衛門白石薬を和薬改所で吟味をうけるよう指示(,一件J7頁
)
。
の販売を許可 徳川実紀』第 8篇4
9
4頁
)
。
1
4
.2
丹羽貞機に異宝丹・適中散の三方膏j
1
4⑨
│大伝馬町組薬種屋1
9
人。旧来のごとく唐薬・和薬の直取引を出願、許可されるが、以後他の者へは申し付けず
9
9
8
号
)
。
!と触.6
9種の薬種を除いて薬種屋への直売を禁止 御触書寛保集成』第1
1
5
.2
唐薬・和薬とも江戸薬種問屋2
5人。大伝馬町組 1
9人以外への直売禁止 御触書寛保集成』第2
0
0
0
号
)
。
1
5
.6
大坂和薬種改頭取に対して助成金の下賜を令す (
r
東京市史稿J
)
。
1
5
.9
対馬藩役人へえり下ヶ人参の売り出しを督促 r.御触書寛保集成』第1
9
9
9号
)
。
1
6
.2
江戸元町問屋押大伝馬町以外へ大坂より薬種を輸送することを禁止 (
r
東京市史稿J
)
。
8
頁
)
。
1
6
.3
町医快翁普及類方諸薬調合所の設置及び売薬を出願。許可される ,一件J1
1
6
.8
辰砂製法を和薬改会所にて行うことを指示 (
r
御触書寛保集成』第2
0
0
1号
)
。
1
7
.4
武蔵野新田農民川崎平右衛門ら象洞・白牛洞の発売を出願、江戸・京・大坂・駿府での販売を許可される
I
(,一件J3
2頁
〕
。
諸国より大坂に廻着の和薬種は、売買に先立ち必ず和薬改会所の検査をうけることを指示 大阪編年史 J
)
。
1
8
.2
)
。
1
8
.2
江戸牛込門前牡丹昆彦右衛門熱湯散・八色くだしの売広めを出願、許可される 撰要類集J2-316頁
1
8
.3
植村新八諸国産出の和人参を唐の製法にて売り広めることを出願、許可される。幕府は公定価格を定め、その
8
頁)
│効能を町触する(,一件J2
1
8
.1
0
和小人参製法売出し (
r
正宝事録』第2
2
9
8
号
)
。
r
c
c
r
r
c
r
c
(
r
r
c
c
c
(
r
f
撰要類集J31
。
注。「一件」は「薬種問屋一件之事 JC
W歴史学研究JNo.639l より
大石学「日本近世国家の薬草政策JC
2
5
r
c
社会問題研究・第 5
0巻第 2号
6
. 当時の医師層、庄屋・名主・年寄層に読まれたといわれる『官刻普救類
方Jはどのように精神障害を記載していたか。
①
『官刻普救類方』巻四之下は、主として精神疾患に類する症状をまとめ
ている。そこでの症状を挙げて検討する。以下病名と症状の簡略化し
た記載を取り上げてのべる。
0驚 惇 物 に 驚 き 心 騒 ぎ し て 止 ま ざ る に
0不 採 附 多 睡 昼 夜 眠 る こ と 無 か ら ざ る に
0物に驚き由々しく胸騒ぎなどして夜眠ることならざるに
O煩わしく熱して眠り難きに
O
H
.
民ることを好みて眼を覚まし難きに
O健 忘 病 に て 物 忘 れ す る に
起居雑症
Oかけ走り喉乾き冷や水を飲まんより気のぼりて熱さしたるに
O遠道などへ行き来なくして喉乾くに
0車に乗り船に乗りなどしたる時、頭痛し胸もだえ吐かんとするに
O水泳ぎなどしてその毒にあたり患うに
労症
O労症はじめ時を定めて熱さし咳出寝汗などいで気重く未だやまいにか
からざるに
O骨肉のうちに熱ありてよく飲食すれども痩せおとろえ汗出るを骨蒸の
症という、日にでも夜にでも熱さしひきあるは治しやすく日夜さしひ
きなく熱あるは治し難し
0労症手足の心熱するに
0労症疲血目客血などにて咳歌寒熱もあるに
O虚労にて睡ることならざるに
-26-
江戸時代後期の精神障害者の処遇 (
5
)(桑原・板原)
0虚労 口乾き止ざるに
腎虚乃労症に
O労症血分少なく面黒く耳聾れ目くろく日中乾き小便白濁でるに
0労症血おとろへ骨髄虚し面たそがれ脊痛て久しく立つこともならず歯
よわく目民りカまちなるに
0虚労陽気おとろへ漉(したじの)残るに
O労椿伝え染みて一門ことごとく O煩うに
癒腐
癒痢ハ俗にくつじかき又ハてんごかきなどし、ふ病なり
O癒痢脇はりいたみ耳蝉の鳴くがごとく吐逆するに
0癒痢たびたび発り肱量誕出悶乱して死なんとするに
O小児の癒痢
狂乱度々おこり大いに人を怒り人を殺さんとし水をも火をもさけざるに
病により笑いてやまざるに
血症
O一切吐血に
0心気を労(っくりなして)吐血するに
O肺経を損じるにより吐血する
邪崇(じやすい)腫魅の病をなすハ今俗にいう津き物などによく煩う類
なり
自締結りて死にかかりたるに或いは死にたるにも
溺死水に溺れ死にたるに
-27一
社会問題研究・第 5
0
巻第 2号
②
『官刻普救類方」は、若干の医学的知識を前提としているのは明らかで
あり、かっ、症状を具体的に分類するなど、更に、精神障害について
の分類を提示している。だから医師層へ影響も小さくなかっただろう。
7
3
0年の刊行売に大坂近郊の庄屋・名主層がいち早く購
横田冬彦は、 1
入している状況を述べている。『官刻普救類方』はこの層にも普及して
、
Lf
こ
。
7
.r
訂正東医宝鑑」は、精神障害についてどのように記載していたか。
①
「官刻普救類方』の精神障害に関する内容は、「東医宝鑑』の影響を色
濃く受けている。精神障害に関するかぎり「東医宝鑑』の普及版とも
言える記述である。
②
驚惇
『官刻東医宝鑑』の精神障害に関する記述の概略は以下のようである。
内経に日く、血陰に井せ、気陽に併す故に驚狂を為す。内経註に日
く俸は心跳動する也仲景に日く、心惇するは火水に懐れる世、惟た
腎心を欺く、故に停を為す、傷寒水を飲むこと多ければ必ず心下俸
す。丹渓日く驚俸は時有り而作る、血虚するは朱砂安神丸に宜し。
疾有るは加味定志丸に宜し。一一
朱砂安神丸
東垣日く熱淫勝つ所、黄連之苦寒心煩を去り潜熱を除して以
て君と為し甘草生地黄之甘寒火を潟し気を補い陰血を滋生す
るを臣と為し当帰血の不足を補い朱砂浮溜之火を納れ而神明
を安んずる也、黄連六銭朱砂五銭甘草生乾地黄酒に洗い各三
銭半当帰酒に洗い二銭半右末と為し湯浸し蒸餅に和して黍米
の大きさに丸し津唾して、二・三十丸を礁下す。
↑正仲戴氏日く柾仲は心中操動して安からず楊楊然として人の将に捕えら
れんとする者是也。多くは富貴に汲々し貧賎戚戚として遂に所願を
遂げざるに因っ而成る也。心虚し而疲欝すれば則耳に大声聴き異物
を目撃し険に遇い危に臨み事に触れ志を喪い人を↑易協の状に有らし
め是を驚俸と為し心虚し而停水を為す員iJ胃中浸漉し虚気流動して水
既に上升し心火之を悪みて心自安せず人を快快の状に有らしむ、是
2
8
江戸時代後期の精神障害者の処遇 (
5
)(桑原・板原)
を↑正仲と為す。
健忘霊枢に日く黄帝問う人之善んで忘れる者は何カ気か然しむるか、岐
伯対へて日く上気不足し下気余有り、腸胃実し而心肺虚す、虚すれ
ば則栄衛在於下之久し時を以って上らず故に善忘る也、又日く腎盛
にして怒り而止ざれば則志を傷わる、志傷るは則喜んで其の前言を
忘れる、
O丹渓日く健忘之証は精神短小の者多くは亦有疾者、 0健
忘者捗然、とし而其の事を忘る心力を尽くして思量するに来らず也、
心牌二経を主どる蓋し心官は別思い牌之官も亦思いを主どる、此れ
思慮過多するに由って心傷をなせば則血耗散し神舎を守らず牌傷れ
ば則胃気衰微し而慮り愈深くニ者皆人事を令して卒然とし而忘れし
める也。
類
自
痢 黄帝問て日く人生まれ而崩疾を病む者あり、病名之を得る所日何安、
岐伯対日く病名づけて胎病と為す、此れ之を母の腹中に在る時に得
ると、其の母大いに驚く所有り気上し而精気下がらず併せ居す故に
子をして鼠疾を発せしむ也。
0疾幅聞に在れば則ち舷微イ卜れず疾幅
上に溢るは則肱甚地にイト倒し而人を知らず之を名ずけて癒摘と日う、
大人を癒と小児を捕というも其の実は一也、又日くイ卜倒して省みざ
るは皆邪気陽分に逆上し而則頭中気乱るに由る也、癒摘は疾邪逆上
する也、疾邪逆上すれば則頭中気乱る、頭中気乱すれば則脈道閉塞
して孔寂通ぜず故に耳声を聞かず白人を識らずし而昏肱イ卜倒する也、
以って其の病頭鼠に在る故に癒疾と日う。
O
療者異常也平日能言
摘は則沈黙して平日不言癒は則申吟し甚しきは即置イト直視し心常に
楽ざる言語倫無く酔うが如し療の如し痢者卒然、として量倒して牙を
岐み声を作し誕沫を吐き人事を省みず随後醒醒たり。
癒狂
内経に日く黄帝問うて日く怒狂を病む者有り、此の病安にか生ずる、
岐伯対日く陽に生ず也、帝日く陽何以ってか人をして狂せしむ。岐
伯日く陽気は暴折に因り而決し難し故に善く怒る也、病名づけて陽
阪と日う。帝日く之を治するに奈何岐伯日く其の食を奪いて即ち巳
む夫れ食は陰に入りて気を陽に長す、故に其の食を奪いて即ち巳む、
白d
n〆“
社会問題研究・第 5
0巻第 2号
之を使むるに服するに生鉄洛を以って飲と為し夫れ生鉄洛は気を下
す疾世。
0又日く多く喜ぶを療と日い多く怒るを狂と日う又日く陰
其の陽に勝らず則脈流薄疾併せて乃ち狂す又日く衣被収めず言語善
悪親疎を避けず此れ神明の乱也、 0又帝日く陽明の病甚しきは則衣
を棄て而走り高きに登り而歌う或いは食せざるに至るに数日垣を越
えて屋に上る上る所之処皆平素より能わざる也、病反って能くする
は何也、岐伯日く四肢は諸陽の本也陽盛んなれば則四肢実す、実す
れば則能高きに登る也、帝日く其の衣を棄て而走るは何也岐伯日く
熱身に甚しく故に衣を棄て而走らんと欲す也、帝日く其の妄言罵誓
親疎を避けざるは何也、岐伯日く陽盛んなるは則人をして妄言罵誓
親疎を避けずし而食を欲せざらん故に妄に走る也、文日く邪陽に入
るは則狂すと。 0癒者異常也、精神癒呆言語倫を失す狂者兇狂也軽
ければ則自ら高ぶり自ら是歌を好み舞を好みて甚は則衣を棄て而垣
を越え屋に上り又甚は則頭を被り大いに叫んで水火を避けず Eつ人
を殺さんと欲す是疾火曜盛し而然りと。 0狂は妄言妄走を謂う也、
癒は橿イト省みざる也。
邪崇
邪崇之形証
視聴言動倶に妄する者之を邪崇と謂う甚すれば能く平生未
だ見聞きせざる事を言う及び五色神鬼此れ乃ち気血虚極神光不足或
いは疾火を挟み真に妖邪鬼崇有るに非るなり。邪崇之証癒に似而療
に非ず時有りて明らかに時有りて昏し O邪之病の為或いは歌い或い
は突し或いは吟し或いは笑い或いは眠りて溝渠に座し糞積を峻食し
或いは裸体形を露し或いは昼夜遊走或いは噴罵度す無し。 O 人之
精神不全心志多悪遂に邪鬼の為に撃つ所或いは附者沈沈黙黙妄言語
語誹諒罵雪人事を肝露しめ誹嫌を避けず口中好言未然禍禍其の時に
至るに及びて宅髪も差無し人起心有るは己其の故を知る高きに登り
険しきを渉りて平地を往くが如し、或いは悲泣坤吟し人を見るを欲
せず酔うが如し狂うが如し其の状万端。
十病五死回) 人死三年之外になれば魂神風慶となり病を作り出し人に着て
ハU
江戸時代後期の精神障害者の処遇 (
5
)(桑原・板原)
病に成らせるので、日く風病・寒病・気病・生病・涼病・酒病・食
病・水病・尺病、蓋し病者は住也、其の言は其の病は連滞停住する
を言う、又注に人に傍き易き也。
③
江戸中期の後世派の精神障害の分類や概念は、『訂正東医宝鑑』や『宮
刻普及類方』のような「テキスト」により普及し、それを基礎として
発展したのではないか。
6
5
6
1
7
4
0
)の
江戸中期における後世派の代表とされる香月牛山 0
1
7
7
8
) の精神疾患の分類は、健忘、↑正仲附き驚惇、暖気、
「牛山活套 J(
而気、癒狂、痢症、不寝、邪崇等で、その疾病概念もほぼ「東医宝鑑」
のそれと等しい。
r
東医宝鑑』が李朱医学の集大成であったから、そ
れは当然だった。『牛山活套』の精神障害の記述よりも、『訂正東医宝
鑑』の記述が詳細であり、場合によっては、より実用的であると思わ
れる。例えば、処方にも単方としても「金属」とくに水銀を使用して
いることなどである。また、心因論を取り入れ、治療を行っているな
どである。
牛山は、李東垣の著作を重要視し、「予カ門ニ遊者ハ東垣ノ流ニ湖掴ス
ベシ、諸病共ニ東垣ノ治方ニ因ッテ治スベシ、鼎惑論、牌胃論、蘭室
秘蔵ヲ常ニ請スベシ」と強調しているが、『東医宝鑑』への言及が無し、。
もっとも、牛山の師の員原益軒もその著書の『養生訓』で読むべき医
5部を挙げているが、その中に「東医宝鑑』は入っていない。『東医
書3
宝鑑』の内容や文体の質の高さから見ても、挙げて良い筈だが、まっ
たく触れられていない。
『訂正東医宝鑑』は、江戸時代後期の代表的医学著述書のなかでは、
4
1こ 1ヵ所引用されているが、この著作が
竹中通庵の『古今養性録 j 2
引用されることはほとんどなかったと思われるが一少なくとも、私た
8世紀中葉から多くの
ちの目にはとまらなかった一。江戸時代後期、 1
読者を持っていたのではなかろうか。
-31一
そうでなくては、
2度も刊行さ
社会問題研究・第 5
0巻第 2号
れなかったろう冊。私たちが、最初に読んだ後世派の医学テキストが
『訂正東医宝鑑』であった。その体系的で可能性を持つ症状の記述を、
種々の文献から引用しており、精神疾患に関する項目も、総論の、い
病理学」的記述と相まって、後に読んだ日本製の漢方
わば「生理学JI
医学テキストと比べると明快で論理性が高く、以降の後世派の漢方テ
キストの解読に役立った。私たちの思い入れが強いのかも知れないが、
幕府が刊行したはずだと思わせる記述の質の高さがあり、広く読まれ
ただろうと考えている。
r
官刻普救類方』も多くの読者を持っていた
し、大きな影響を与えただろうが、忘れられていることでは同様の状
況にある。
I
V
.江戸時代後期の精神障害者の処遇についての医師の役割と
精神障害の認識について
1.論文(1)で既に記載したように、入櫨に際して、医師の証言(口上)が
必要であり、また、病状が回復して入艦から出す場合にも同様に証言が求
められている。繰り返すことになるが、医師の口上書を提示する。
①.この事例は、上記論文(1)に詳細を記載しているので、医師の口上
書の部分のみを挙げる。
事例1.
口上
一、神田永井町家持利兵衛父天順病気ニ付頼参リ候ニ付、罷越様子見分
候処、天順義一綜摘痛之差募候節者、手荒に罷成申候処、此節嫡痛
強ク被昇乱心仕候様子ニ而ノ¥勝鉢定不申候、尤私義熟合ニ付、腹
薬等仕候様、先達而ヨリ度々申聞候得トモ腹薬不仕候、
勿論、食事等給候へトモ気遣成義茂無御座候、併、変症之程者難斗
奉候、容体御尋ニ付、口上書差上申候、巳上
小十人
u
ntu
,
。
江戸時代後期の精神障害者の処遇 (
5
)(桑原・板原)
田中兵太夫地借
町医
竹内元龍
丑
七月廿日
田中金次郎殿
平野初五郎殿
事例 2
. (上記論文 (2) の ( 資 料 1
2
) を挙ける)
乱心快気見分書
差上申一札之事
一私庖清兵衛伯父意蔵儀乱心仕火之元無心元候ニ付清兵衛住宅内樟
舗理入置養生致シ度段去亥年七月廿八日甲斐守殿御番所へ私共一同
御訴訟申上得ハ御見分被下置候上願之通被仰付難有奉存候其瑚ヨリ
同所西仲町庄右衛門居村上献寿ト申医師相掛養生仕候処右意蔵儀追々
静ニ罷成只今ニテハ乱心相直平生駄ニ御座候テ櫨ヨリ出シ気ヲ付養
生為致度奉存候間将文今日一同御訴訟申上候ハハ御見分被下置私共
立会意蔵容体御尋被成候処労強御答ハ相成不申候へ共乱心相直候ニ
相違無御座候為後目的如件
浅草東仲町
清兵衛家主
円HH
r
↑LV
五人組
意蔵甥
名主
清兵衛
印
印
何誰殿
何誰殿
右御届
・・・・私共見分罷越清兵衛幼年ニ付代惣兵衛町役人為立合イ相尋
の
d
nべ
υ
社会問題研究・第 5
0巻第 2号
候処労強相分不申依之医師ニ様子相尋候処乱心ノ、相直候へ共気ニ付
相揃不申旨申シ候O別紙口上書井町役人一同一札取御届申上候以上
見分人
⑧ 事例での医学の証言で使用された精神障害に関する医学的用語と思われ
るものを挙げながら、前記の口上を書き下してみる。
事例 1
神田永井町家持の利兵衛の父親の天順が病気になったので往診し病状を
診察したところ、天順はもともと痢痛で、それが募ってくると、粗暴に
なっていたが、今度も「痢痛」が悪化して病状が募り乱心の状態となっ
た様子であり、その前の正常な状態である本当の姿が表れないままであ
り、もっとも私はよく知っているので、薬を服薬するように、以前から
何度も説得したけれども服薬しませんでした。食事などは食べているの
だが、その点は心配はいりません。しかし、病状により様子がわ変わる
恐れがあり安心はできません。容体をお尋ねになられたので、口上書を
差し上げる次第です。以上。
事例 2
一、私自に住む清兵衛の伯父の意蔵が乱心致しまして火の元も心許ないた
8日
めに清兵衛の住居の中に濫掘り入れ置き養生させたい旨昨年 7月2
甲斐守殿御番所へ私共一同が訴えでましたが御見分頂き願い通り仰せ
つけられまことに有り難く存じます。その際、浅草西仲町の庄右衛門
自に住む村上献寿と申す医師に掛かり養生致しましたところ、右意蔵
追い追い静かになり、只今では乱心も直って平生の様子になっており
ますので、憧より出して注意しながら養生させたく思し、ますので、な
おまた、今日一同御訴え申し上げ御見分いただき私どもも立ち合い意
蔵の容体をお尋ね頂いたところ、労強お答えは出来ませんでしたが、
3
4
江戸時代後期の精神障害者の処遇 (
5
)(桑原・板原)
乱心は直っていることは相違ありません。後日の為的如件
浅草東仲町
清兵衛家主
E
P
五人組
E
P
意蔵甥
清兵衛
名主
印
E
P
何誰殿
何誰殿
右御届
…・私共見分に参りましたが、清兵衛幼年に付き、代理の惣兵衛と
町役人立ち会わせ、本人に尋ねましたところ、労強相分かり申さず、
それ故、医師に様子を尋ねたところ、乱心は直っているけれど、気に
ついては揃っていない旨申しました。別紙に医師口上書並びに町役人
一同から一札取りお届け致します。以上
見分人
事例 1の入櫨願いが奉行所に出されたのは、寛政 5年(17
9
3
) であり、
この口上書も同年 7月2
0日の日付で見分役同心 2名宛に出されている。
小十人田中兵太夫地借は、町医竹内元龍が小十人である田中兵太夫の
拝領地を借りて居住しているという意味であり、口上書は竹内元龍の
証言である。ここでは町医という言葉が、公文書で使用されている。
事例
2(
18
0
3
)では、見分人 2名が直接乱心者の意蔵に出会ってみると、
「労強相分不申」なので、掛かっている西仲町庄右衛門居村上献寿ト申
医師に尋ねたところ、「乱心ハ相直候へ共気ニ付相揃不申旨」返答した
ので、その証言も文書にして上司に報告したのだろう。
病状に関する用語については、後に検討するが、村上献寿という医
師は西仲町庄右衛門庖で、つまり借家住まいの医師で、前述の竹内元
3
5
社会問題研究・第 5
0巻第 2号
龍と同様の町医であったかと思われるが、これらの医師に公式に意見
を求めていることがわかる。この事例のその後の様子は記載されてい
ない。推測になるが、人権の場合には乱心者の家督相続権や財産相続
権の問題に関わることが予期されるから、事例 1のように、姻戚も加
わり、「乱心」による責任無能力や限定責任能力と公的に認定されるた
めにも、医師の証言が重要な判断の根拠とされたと思われる。事例 1
で、「食事等給候へトモ気遣成義茂無御座候」という表現は、前述の
「訂正東医宝鑑」の「癒狂Jで「帝日く之を治すること奈何、岐伯日く、
其の食を奪いて即ち己む」という「黄帝内経」の記述が、基本にあっ
て、このように「食べているが、気遣いは要らな Lリという持って回っ
たような表現をしていると思うのは考えすぎだろうか。
2
. これまでの私たちの研究から
私たちの論文 (3)に、それまでの「乱心j の表現をまとめておいた。
①
入櫨事例にみられた「乱心」の表現では、前述した事例 1、 2以外に
も
、
O取り留めのないことを申し乱心に相違ない
。五月頃より逆昇強く不揃駄になり此の節別して募り手荒になる
。尋ねたところ労強く受け答えが判らないので医師に様子を尋ねると乱
心は直ったが気脊のため揃わない
@20年以上前に男女を出産し、こどもが死亡した頃より「不快ニテ血治
ラズ」折々取り留めもないことをいってはいるが不揃いというほどで
なかった。この夏より病気が募り乱心し、昼夜に限らず駆け出す。(そ
の見分書)私ども(見分けの役人)が来る前に駆け出したため、所々
尋ね程なく連れ帰ったので得と様子を見分けたところ取り留めもない
こ相違無いと見える。(尤も、医師に様子を尋ね口上
ことを云う。乱心 l
書を取る。)
。不揃いの様子になり別して募り手荒になる。(櫨入時)
O快方になりむつかしきこともないので出したい。
。取り昇り乱心の様子になり、段々募る。(再入櫨)
の
ぺ
υ
nhu
江戸時代後期の精神障害者の処遇 (
5
)(桑原・板原)
@病気全快につき出櫨c7ヶ月後)
。前書同様取り昇り(その後 1ヶ月後)
②
「御仕置例類集」に見る「乱心」の表現
。七物之化之様子ニテ怪しき事共口走、相果候節迄正気には相成不申
(
17
8
6
)
@一旦乱心致し其後放心にて小児同様之段は一件申口符合
@乱心に紛れなく、申口一向不相分
。平日不揃い一体愚昧巧候儀無し
(
1
7
9
5
)
(
1
7
9
6
)
(
18
0
0
)
@ 痢 症 差 発 取 昇 ( 18
0
3
)
@持病の血の道差起一体愚昧
(
1
8
0
8
)
。持病の痢痛気分も治り正気付き
③
「逆昇強く
(
1
8
1
2
)
Jr
不揃いの駄Jr
取り留めもない事を話す Jr
労強く Jr
痢症」
「痢癒」などが病状の様子を示す言葉として使われているが、このままで
はよく判らないので、詳細を示す事例を「御仕置例類集 Jより挙げて検
討する。
文政元寅年(18
1
8
)御渡
京都町奉行伺
非蔵人松室陸奥、痢症ニて抜身を持、御所え立入候一件
非蔵人
松室駿河伴
非蔵人
松室陸奥
右之もの儀、痢症相煩引寵中、明暮身分之儀を相考、無跡形判断を付ケ、
何事も此もの立身之吉瑞と相心得、或何方となく黒越候様、誰申となく
相間候様、相覚候ゆえ、宮中え参可申事と不斗心ニ相浮ミ、当正月十一
日宿元を出、暮時後、御所え向熊越、宮中え入込、若相支候もの有之候
3
7
社会問題研究・第 5
0巻第 2号
は、振廻し可申と万を抜、一向不相覚段、申口不取留儀ニ候得共、御場
所柄え抜身を持入込、宮中を為騒、其上捕押ニ懸り候ものえ手庇為負、
狼籍およひ候段、乱心とハ乍申、右始末重々不届至極ニ付、死罪、
此儀、身分之儀を相考、無跡形判断を付ケ、何事も立身之吉瑞と心得、
或は何方ともなく熊越候様、誰申すとなく相聞候様相覚候故、宮中え参
可申事と不斗心ニ浮ミ、宿元を立出候段は、全乱心ニ無紛相聞申候、御
定書ニ、乱心ニて人を殺候共、可為下手人候、然共乱心之証拠惜ニ有之
上、被殺候もの之主人汗親類等、下手人御免之願申出ニおゐてハ、遂詮
議司相伺、但主殺親殺たりといふ共、乱気ニ無紛ニおゐてハ死罪、自滅
いたし候ハ
N
死骸取捨可申付事、乱心ニて火を附候もの、乱気の証拠於
不分明は死罪、乱心ニ無紛ニおゐてハ押込置候様、親類共え可申付事、
と有之、乱心ニて重キ不届およひ候もの、死罪か又は押込置候様、親類
共え申付候外、御定無之、尤去々子年評議ニ御下ケ被成候、松浦伊勢守
相伺候巣鴨町平七庖忠兵衛枠常蔵儀、持病之逆上強再発いたし、頻内裏
え熊越候様、耳元え相聞候由ニて、中宮御所とは不存、内裏と心得、四
月弐拾四日夜、中宮御所御門之扉え登り、透し彫物を帯し居候脇差ニて
切破候上、高塀を弐ケ所乗越、御場所柄え入り、翌朝迄
倒居候段、乱
心とは乍申不届ニ候得共、全病気再発いたし強取昇、右及始末候儀ニ御
座候問、父忠兵衛え引渡遣し、他行等為致問敷と相伺、評議之上、伺之
通と申上候例有之候得共、右は身分も違、殊ニ御場所内え入倒居候迄之
儀ニ有之、今般之松室陸奥は、吟昧書之趣ニては、宿元を立出候節、綿
頭巾井細引を懐中いたし、右頭巾を冠り、細引を棒ニ懸、若相支候もの
有之ハパ、振回し可申と万を抜持、常御殿辺え熊越候段は、幽ニ覚候由、
其後之儀は覚無之由ニ候得共、既御座所近く入込、御中段ニて被捕押、
其節大判事え庇附候趣ニ有之、乱心とハ乍申、御所勤仕之身分ニて、抜
身を持御座所近く迄立入、捕押候ものえ蹴をも附候段、重々不軽次第二
て、例も無之所業之ものニ付、再応勘弁評議仕候処、乱心ニ候迎、右体
不軽始末およひ候を、押込置候様、親類共え申付候而巳ニて
は、如何
可有御座哉、御定以前之儀ニは候得共、京都町奉行申上候例も有之、其
o
o
qυ
江戸時代後期の精神障害者の処遇 (
5
)(桑原・板原)
上御定書ニ添候例書之内、神田同朋町又右衛門儀、両親之顔馬ニ相見、
恐敷存庇附候旨申之、乱心ニ無紛候得共、両親え切付候段、不届ニ付、
死罪可申付哉、然共両親井親類其外所之もの共も、又右衛門乱心無相違、
両親手証も軽く、平愈仕候ニ付、又右衛門助命之儀度々相願候故、押込
置候様可申付哉と相伺候処、死罪と御差図御座候例有之、庇附候計ニて
も、事品ニ寄候てハ死罪被仰付候儀ニて、懸見込之儀ニも御座候問、芳
右例同様、伺之通、死罪、
(朱書)
評議之通済、
④
長い引用であるが、この判例の持つ意義はきわめて大きいと思われる
ので、読み下しながら、検討を加える。
。「一、非蔵人松室陸奥、痢症ニて抜身を持、御所え立入候一件」、
私たちは「病症」を「痢症ハ卒時ニ量倒シ岐牙誕沫ヲ吐シ人克ヲ不
省ソノ声牛馬羊犬ノ鳴ヲナス、火ノ中ニ癒狂ニシモ其アツキ克ヲ不覚
ノ類也、和俗此病ヲクツチノ病ト云フ多ハ疾火ナリ二陳湯ニ加減セシ
r
c
)I
府症、俗にいうクッチ
メ清心抑胆湯ヲ用ベシ有奇効 J 牛山活套 J
f
病名嚢解J
) と述べている。これ
カキなり。癒痛とも連ねていえり JC
は癒煽
C
f
訂正東医宝鑑 J
) と同義の病名であり、そのように理解する
のは、この判例の以下の記述から、誤りであることが明らかである。
「摘は驚、癒、狂の総名にして兼ぬる所、もっとも衆贋なり。それ痛の
謹たるや、あるいは憂い、あるいは怒り、あるいは悲しみ、あるいは
笑い、あるいは人に対して、人を見るを嫌思し、一、けだし、痢はそ
の総名にして、癒はまた新故軽重に通じてこれを称す。ただ、腐は病
凡痢之為療、為狂、為
問簡慢(症状のないこと)をもって呼となす JI
驚、外見に異常を見ると雄も、市其の実、則同一痢疾、或者癒狂を兼
ねて発する者有り、或者驚狂兼ねて発する者あり、或者癒狂驚兼ねて
f
一本堂行鈴医言J
) とし、富士川
発する者有り JC
滋は「癒(静かな
qd
n
u
社会問題研究・第 5
0巻第 2号
る精神病)も狂(操がしき精神病)も廟(癒摘)も共に之を痢症と称
するにいたれり」とまとめている冊。金子準二によれば、加藤謙斎の
「医療手引草J(
1
7
6
6
干Ij)では、「痢謹、楠謹とおしなめて唱えることは
不審なり。狂も癒も摘もおしなめ、嫡謹というは、狂も癒痛やみも、
人々忌み唱え悪ければ、三っともに痢謹というて、紛らかすはもっと
もなれども、医により何でもかでも、摘謹と覚えているもあるかなり」
と批判している。このことからも、「欄症」がかなり贋く用いられてい
たらしいことが窺われる。なお、「非蔵人」は、近世、賀茂・松尾・稲
荷の社家などから召され、蔵人の抱を着て、無位無官で宮中の表向き
の雑役を勤めた者を指す。
1
8
) の司法宮たち
。しかし、この判例での「痢症」では、文政八年(18
は「痢症」を、「乱心に紛れなく Jといった紋切り型の表現を取らず、
その時点で当人に体験されていた現象を取り出すことで、「痢症」を記
載している。この記述には「そこに何が起こったのか J との問いかけ
がある。その問いかけへの応答として、当人の体験した「現象」を出
来るだけ当人の体験に即して取り出そうとしている。このように、体
験の主観的部分を記述しており、それだけでも貴重だが、それに、そ
のような体験が何らかの形で実在することは、その対象は知覚し得な
いにしても、その性質がわれわれにも知覚の可能性をもつような「実
在」の現象として記述している。それが、「右之もの、痢症相煩引龍中、
明暮身分之儀を相考、無跡形判断を附ケ、何事も此もの立身之吉瑞と
相心得、或何方ともなく熊越候様、誰申となく相聞候様、相覚候ゆえ、
宮中え参可申事と不斗心ニ相浮ミ」という表現で記述されている。「右
の者は、「病症」で苦しんで人から見られないように白窒に籍もってい
る聞に、終始自分の体裁や見栄えなど(他者からの)が気になり、根
拠なく、突然に良いことが起きると確信したり、どこかの家へ尋ねて
出かけてゆくように、誰が話すとなく聞こえてきたように判って、宮
中へ参ろうという気持ちがふと浮かんで」と詳細に体験を記載してい
る。この判例で先例として出された「忠兵衛伴常蔵」も、『右之もの儀、
40-
江戸時代後期り精神障害者の処遇 (
5
)(桑原・板原)
持病逆上強再発いたし、頻ニ内裏え黒越候様、耳元え相聞候由ニて』
とその判例にも書かれている。このような判例での記述は、このよう
な内的体験を事実と認めている点で、精神疾患の認識の方法論の上で
重要であろう。
。夕方から、宮中に行ったが、留めに入った者に万を振り回したと幽か
に覚えているけれど、その後は『取昇り』一向に覚えていない。この
申し口が取り留めのない」様子であり、『乱心
ように『申口不取留 j I
乱心で、あるのは間違いないとはいっても」、宮中を騒がせ、
とハ乍申 JI
押さえようとした「大判事J(律令制の刑部省の上級の判事)にまで庇
を負わせた。
。
同じ症状で「声が聞こえて」、宮中に入り込んだ判例(忠兵衛伴常蔵)
もあるが、御所勤務の身で、抜き身を持って、それで宮中の高官に庇
まで負わせているので、親類へ預けて押し込めるだけでは、妥当でな
い。乱心者でも死罪とした御定書の判例があるから、それに従って死
罪と決めるのが適当と考えるのでお伺いする。死罪に決定した。
④
このように見て行くと、「逆昇」は、多分に精神病的状態による興奮に
近く、それにより状況を妄想的に確信して、「訳が判らないことを行った
り、主張したりする」。このような病的な体験を根底として、「逆昇 JI
不
勝林定まらず」の意味を想定できないだろうか。また、これらの
揃い JI
判例での「痢症」・「痢痛」はいずれも再発例である。これらから、「痢
痢症」は、「精神病的状態に陥りやすい病的状態」で、それの病状
痛JI
悪化を「逆昇」と表現していると考えられないだろうか。
⑤
そのような仮定の上に立っと、江戸時代後期の精神医学には、このよ
うな意味での「痢症JI
痢痛」の記載が行われていたか、私たちには判ら
ない。少なくとも、李朱医学では、前述のような記述の方法はなかった
だろうと思われる。だが、江戸時代後期の、少なくとも 1
9世紀初頭の判
例では、判決を下すためには、李朱医学を乗り越えるような記述を行っ
-41
社会問題研究・第 5
0巻第 2号
ていたことは確かである。
例えば、以下のような記載である。
O
.実母を殺、死骸切砕候一件
「此儀、吟味書之趣ニテは、石見村続一円山中ニて、山神之舎、折々有之
を怖、百姓共、里近え住居を替候処、定吉親子之ものは、一ツ家ニ熊在、
尤、近年、右山中にて、奇怪之ものを見受、病気問、相果、又は何とな
く山中ニて致発熱、物之化所為ニて、無謬も儀を口走り候儀有之、勿論、
侍七、最初引寄候節より、熱、病之駄ニて、吟味中も折々、不都合之事共、
御座候問、相様見候慮、相果候
節迄、正気ニは相成不申、尤、平日親
3
I
Jて、母小りんえは、三人之もの、孝心いたし候、
子四人とも、睦敷、 5
と有之,小りんを殺候,始末,本心ニて之仕業ニは無之,全,乱心之上て1
O
.当時無宿直吉儀、佐七娘くのを打殺候一件
「吟味書之趣ニてハ、去亥三月、麻疹相煩候後、痢症差発り、取昇、不相
勝、主人より暇被差出、受人喜助方え被引取候趣は、薄々覚熊在、追々
同人方ニて養生致し、少々気分も相治り候慮、国許より、姉婿輿三右衛
門、迎ニ熊越、荷持壱人相雇、立帰候途中、所名不存社有之、参詣いた
し度存、其段、輿三右衛門え申問、先え駈抜候迄ハ覚居候得共、其後は、
病気再発いたし候哉、前後之始末、覚不申、吟味中、正気ニ相成、輿蔵
持居候鉄さらえを奪取、くのを敵殺段は、吟味之上、初て承り、全、乱
心いたし、右始末およひ候儀ニて今更、後悔いたし候、と有之一一」
この 2例とも、感染症による脳器質疾患を思わせる症例を記述してい
るが、その前後関係(因果関係は未だ成立していないはずであるから)
の存在を明確に選んで記述し、さらに意識の変容があったことを、「平日
四人睦敷」ゃ「吟味中、正気ニ相成、一吟味之上、初て承り、一後悔
いたし候」と記述し、当人たちの外部から見られる様子だけでなく、内
面にも及ぶ記述をしている。これは判決の文章であるから、事実の認定
として記述しているわけであるから、前述したように方法論的にも重要
である。
-42-
江戸時代後期の精神障害者の処遇 (
5
)(桑原・板原)
v
.ま と め
私たちは、「御仕置例類集」等にある乱心者の判例を読む中で、種々の精神
障害の症状が記述されていることを知った。それを記述する方法論の持つ水
準は高く、このような方法論的自覚を持つ記載を当時の中心的な精神医学テ
キストに求められるか検討を行った。
当時既に専業医師が成立していて、「標準的」な医学知識が求められていた
8
世紀後半の医師層の増加は、吉宗時代の幕府の政策によ
ことを知ったが、 1
り、広く且つ組織的に行われた、薬物(本草)の質的量的供給体制の整備と、
医学知識の質的量的供給の整備が、専業的医業の成立基盤となっていた。そ
れ以前から『知的読書階層』が成立し、刊行本から『知』を読む『知的営為』
が、その当時の『知的パラダイム』となっていた。閉鎖的師匠相伝の家元制
度(例えば、吉雄流蘭方医学の成秀館塾では、吉雄耕牛は、阿蘭陀医学の訳
本は公刊せず、門外非出の弟子への相伝とした)は過去のものに成っていた。
富士川によれば、享保以降、全国的に各藩で医学校が設立されている。刊行
本を『解読』することで『知』を得ることが「医師」の勉学・医学修得の基
本となっていた。だから、「刊行」された書籍が「知」の基準であった。享保
期に幕府により刊行された『訂正東医宝鑑』や『官刻普救類方』は、「医学知
識j の「パラダイム」の変換を象徴するものであった。
「御仕置例類集」の判例に見た、精神医学的記述の方法論的水準の高さを
持つ精神症状の記述は、後世派の「精神医学テキスト」は、見あたらなかっ
た。江戸期の精神医学テキストだけでなく、種々の史料を、この判例での方
法論的記述と対比しながら解読する作業を続け、その作業の中で、この判例
に現れた視点を生み出した状況を明らかにしてゆきたいと願っている。
原典
『仙台領乱心者記録 J1頂天堂大学医史学教室・山崎文庫蔵
r
「南撰要類集 J 旧幕府引継書J(大阪府立大学総合情報センタ一所蔵・マイクロフィル
ム)
-43一
社会問題研究・第 5
0
巻第 2号
延宝8
年1
6
8
0
刊)京都大学富士川文庫蔵
『医学弁害JC
『訂正東医宝鑑」京都大学富士川文庫蔵
『官刻普救類方』享保 1
5年(17
3
0
)に板行された。京都大学富士川文庫蔵
『牛山活套』香月牛山著、 1
7
7
8
年刊、京都大学富士川文庫蔵
7
2
7
年刊、京都大学富土川文庫所蔵)
『酒説養生論J守部正稽著、 1
7
9
0
1
8
1
0
刊、京都大学富士川文庫蔵
『西説内科撰要』宇田川玄随、 1
7
3
年刊、京都大学富士川文庫蔵
『薬寵本草』香月牛山著、 1
9
2
2年刊
『形影夜話』杉田玄白著、杏林叢書第一輯、吐鳳堂、 1
r
寺社奉行書類J 旧幕府引継書j C
大阪府立大学総合情報センタ一所蔵・
『仕置例類集J1
マイクロフィ Jレム)
文献
1) 1
江戸時代後期における精神障害者の処遇
Cl)Jr
社会問題研究』第 4
8巻 l号
1
9
9
8
年1
2月
2
)1
同 C2
)Jr
社会問題研究』第4
9
巻 l号
、 1
9
9
9
年1
2月
3) 1
同 C3
)Jr
社会問題研究』第4
9
巻 2号
、 2
0
0
0
年 3月
4) 1
同
C4)Jr
社会問題研究』第5
0
巻 l号
、 2
0
0
0
年1
2月
5
)高柳金芳『江戸時代被差別身分層の生活史』明石書居、 1
9
7
9
年
6
)沢山美香子 I
r
産む』身体と懐胎・出産取締り Jr
江戸の思想J6、ぺりかん社、
1
9
9
7
年
7)塚本学『近世再考一地方の視点からー』日本エディタースクール出版部、 1
9
8
6
年
8) 青木歳幸、「医師の村方引請をめぐってー近世後期高島領医療事情一」
r
c
実学史研究Jv
.実学資料研究会編、思文閤出版、
1
9
8
8
年)
9
) 中村文、「村と医療一信濃国を事例として 」、『歴史学研究』第 6
3
9
号
、 3
6
4
3、
1
9
9
1年
1
0
)横田冬彦、「近世民衆社会における知的読書の成立J
、「江戸の思想 J 5
. ペりかん
社
、 1
9
9
6
1
1
) 岡田靖雄、「江戸医学館の考試郷書『癒痢狂塀』について(第 l報)一当時の精神病
r
学説をみる一 J 日本医史学雑誌』、 3
0C
4
)
:3
6
1
3
7
3、(19
8
4
)
1
2
)富 士 川 務 、 訳 解
「漫遊雑記 J
r
富士川滋全集』
第六巻; 1
1
4
1
1
5、思、文
9
9
8
年
閣
、 1
1
3
) 岡田靖雄「江戸期の精神科医療 J r
臨床精神医学講座
2
2
1
2
3
6、中山書居、 1
9
9
9年
4
4
s1
巻精神医療の歴史」・
江戸時代後期の精神障害者の処遇 (
5
)(桑原・板原)
1
4
)i
朝日新聞」、 1
9
9
6
年 4月 2日付夕刊。鈴木隆雄
書メチェ
『骨から見た B本人』
講談社選
1
4
2、1
9
9
8
年
1
5
)香月牛山『薬能本草』は『本草綱目 Jの水銀に関する記述を引用している。ここで
はそれを引用した。
1
6
) 山脇悌二郎、「近世日本の医薬文化ーミイラ・アへン・コーヒ J、平凡社選書
1
5
5、平凡社、(19
9
5
)
丸善ライブラリー 3
1
1、2
0
0
0
年
1
7
) 片桐一男 「江戸の蘭方医学事始』
1
8
) 金子準二 『日本精神病学史一江戸以前・江戸篇 』
1
9
)布施昌一、「医師の歴史ーその日本的特長
日本精神病協会、 1
9
7
3年
」中公新書、(19
7
9
)
2
0
)青木蔵幸、「在村漢学者伊藤忠岱考」、塚本学先生記念論集編集委員会編『近世・
9
5
)
近代の信濃社会』龍鳳書庖、(19
2
1)固定韓国高等学校歴史教科書『韓国の歴史」、明石書底、(19
9
7
)
2
2
)大石学「日本近世国家の薬草政策
享保期を中心に
Jr
歴史学研究 J6
3
9
号
0992年 1
1月)
2
3
)1
0
個の病状と 5個のまるで死んでいるような状態、の意味である。
2
4
)竹中通庵 『古今養性録J r
呉氏医聖堂叢書』
思文閣、 1
9
7
0年
2
5
)r
東医宝鑑』は『訂正東医宝鑑』として享保 9年(17
2
4
)に、京都栂井藤兵衛より
1年(17
9
9
)に大坂和泉屋善兵衛より等求版で刊行。『東医宝鑑』は、寛
板行、寛政 1
文 3年 (
6
6
4
)に幕府の求めにより朝鮮より渡来した。
2
6
)富士川 滋 『日本医学史』
医事通信社、 1
9
7
2年
-45-
Fly UP