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(草稿)連載 経済学と競争政策 イノベーションと市場構造 東京大学

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(草稿)連載 経済学と競争政策 イノベーションと市場構造 東京大学
(草稿)連載
経済学と競争政策
イノベーションと市場構造
東京大学大学院経済学研究科教授
大橋 弘
わが国の経済が厳しい状況に置かれている。いわゆる六重苦(円高、高い法人税、自由貿
易協定の遅れ、労働規制、温暖化対策、電力懸念)の深刻化もあって日本経済は長期にわた
る低迷を続けている。加えて昨今の領土問題を巡る中韓との関係悪化で経済回復の足取り
はさらに重い。東日本大震災の復興支援に伴う不可避的な財政支出増も然ることながら、国
内工場の海外立地が促進され対内直接投資にもブレーキがかかることで、わが国経済の生
産性に対する影響が生じることも懸念材料だ。こうした様々な問題で閉塞感が漂う状況に
対して、社会的・経済的な活力を取り戻すために、
「イノベーション」に対する期待がわが
国においてこれまでになく高まっている。
わが国の企業活動におけるイノベーションを活性化させるうえで、競争政策の果たす役
割は小さくない。本稿では、イノベーションについて市場競争の観点から論じることを通じ
て、競争政策における含意を考えてみたい。第 1,2 章にてイノベーションの定義を与えた
のち、第 3 章では市場競争とイノベーションとの関係について経済学における代表的な見
方を紹介する。第 4 章では実証的な観点から市場競争とイノベーションとの関係における
知見を簡単にサーベイし、最後に第 5 章競争政策からのイノベーションの視点について簡
単な試論を行う。
第 1 章 「イノベーション」とは
「イノベーション」という用語は科学技術と並列して語られることが多い。実際に今年度
の科学技術白書では「科学技術イノベーション」という用語も登場している。しかしこの「イ
ノベーション」という言葉は、その定義となると識者や文脈によってまちまちではっきりし
ない 1。わが国ではしばしば「技術革新」と訳されることが多いイノベーションだが、本稿
では「新たな製品やサービスを登場させ、あるいは既存製品やサービスをより効率的に生み
出すことなどを通じて、経済的・社会的な価値を新たに創りだす活動」であると定義した
い 2。
ちなみにこのイノベーションの定義は、
「科学技術」の 1 つの側面を取り出して再定義し
たものと捉えることもできる。
「科学技術」とは、知識獲得や学理構築のために知識を生み
1実に定義が曖昧な故に「イノベーション」が幅広い支持を得ているともいえそうである。
4 類型を意識したものである。4 類型
とはプロダクト・イノベーション(新しい財貨の生産)とプロセス・イノベーション(新
しい生産方法の導入)、マーケティング・イノベーション(新しい販売先の開拓・新しい
仕入先の獲得)、そして組織イノベーション(新しい組織の実現)。最初の2類型につい
ては第3章で改めて議論する。
2この定義はシュンペータが新結合の例として挙げた
1
出す「科学」と、社会の利益に直結するような実用可能な応用研究を行う「技術」とを融合
させた概念である。しかし明治維新期に学問体系をヨーロッパから移入した日本は、欧米の
脅威の前に国家基盤を短期間に固めなければならない局面にあったことから、研究成果が
すぐ利用可能となるような「技術」を重視する形で科学技術の振興がはかられた歴史があ
3。つまりわが国における「科学技術」は、科学的原理や技術的課題の解決方法を発見
る
することによって新たな知識を創出する活動のみならず、その知識で社会に貢献するとい
う意識も持ち合わせた用語と考えられる。こうした多義的な意味合いを持つ「科学技術」の
うち、研究成果が経済・社会に対して貢献する側面に焦点をあてたことを明確にする用語が
「イノベーション」であるとみなせるだろう。
なおイノベーションによって新たに作り出される「経済的・社会的な価値」は、念頭に置
く事例や状況に応じて様々な形態をとり得る。例えば経済的な価値とは、イノベーションの
市場規模を指すこともあるだろうし、そのイノベーションを生み出した企業の利潤を意味
していることもあるだろう。あるいは社会的な価値とはツィッターやフェイスブックとい
った SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)の普及に伴うコミュニケーションが増
加することによる便益と考えられるかもしれない。ここではイノベーションの価値とは必
ずしも商業的な側面に留まるわけではない、という点を確認するにとどめておこう。
第2章
イノベーションを規定する要因
イノベーションに係る過去の文献をみると、例えば Cohen(2010)4にてサーベイがなさ
れているように、イノベーションの水準を左右する要因として、市場規模の大きさ、技術機
会の存在、そしてイノベーションから得られる利潤の専有可能性の 3 つの要素が挙げられ
ることが多い。経済学の分析枠組みを用いれば、イノベーション活動の水準はその需要の大
きさを規定する「市場規模」と、どの程度容易に供給がなされうるかを左右する「技術機会」
によって決まる。そしてこのイノベーション活動における「需要」と「供給」をシフトさせ
るような要因として、専有可能性を指摘することができるだろう。
他方で、市場での競争度合いを意味する「市場構造」は、シュンペータがイノベーション
との関係で命題を提起したものである。本稿でのタイトルにも用いた「市場構造」は、伝統
的に経済学においてもイノベーション活動との関係が活発に実証分析された論点であるが、
過去の実証研究の中には市場構造とイノベーション活動の成果との間に明確な関係が見て
とれていないことから、市場構造は市場規模と技術機会とによって説明されるのではない
3
例えば村上陽一郎(2010)「人間にとって科学とは何か」(新潮新書)はわが国が技術偏
重であることを指摘している。中山茂(1995)
「科学技術の戦後史」
(岩波新書)はわが国
が「市場目当ての、いわば金儲けの科学技術に徹してきた」
(p1)としているが、技術的
な応用研究を重視してきたという点で同様の指摘と考えられる。
4 Cohen, W. M., 2010, “Fifty Years of Empirical Studies of Innovative Activity and Performance,”
Handbook of the Economics of Innovation, Chapter 4
2
かとの見方がある 5。実際に第 5 章にて触れるように、市場構造を捉える指標として伝統的
に用いられる市場占有率やその関数であるハーフィンダール指数(HHI)は、市場構造とイ
ノベーションとの関係を捉える上で不完全であり、競争政策からのイノベーションの評価
においてはこれらの伝統的な指標に依らない分析視点が必要とされているように思われる。
そうした点を議論する前に第 3,4 章では、伝統的な指標に基づく市場構造とイノベーショ
ンとの関係についてそれぞれ理論的・実証的な観点から俯瞰しておきたい。
第3章 市場構造とイノベーションとの関係
3.1.
市場構造がイノベーションに与える効果
本連載では市場支配力が消費者に対して厚生損(いわゆる死荷重)をもたらす点を指摘し
てきた 6。イノベーションを考慮に入れない世界においては、社会的な観点から望ましい市
場構造は、死荷重を最小にする完全競争である 7。それでは、イノベーションを考慮に入れ
たときにも、社会的に最適な市場構造はやはり完全競争になるのだろうか。
この点については昔から 2 つの見方が存在する。1 つはやはり完全競争が望ましいとする
見方 8であり、もう 1 つは独占が望ましいとの見方である。この点を明らかにするためにイ
ノベーションの中でもプロセス・イノベーションに焦点を当てて、以下述べてみたい。なお
プロセス・イノベーションとは、新プロセスの導入または既存プロセスの改良をいう。これ
には製品・サービスの製造・生産方法あるいは物流・配送方法の新規導入や改良だけではな
く、製造・生産あるいは物流・配送をサポートする保守システムやコンピュータ処理などの
新規導入や改良も含まれるとされる 9。ここでは図1のように限界費用が C0 から C1 へと
低下することをプロセス・イノベーションと呼ぶことにしよう。
このとき完全競争をする企業がイノベーションを行う誘因は A+B で表すことができる。
イノベーションによって他の競争企業よりも低い限界費用を手にした企業は、価格を C0(よ
りも若干低め)につけることでイノベーションからの果実を得る。他方、独占企業の利潤は
A となることから、完全競争における企業の方がイノベーションから得られる誘因が大き
5
代表的には Levin, Richard, C., Wesley M. Cohen, and David C. Mowery, “R&D Appropriability,
Opportunity, and Market Structure: New Evidence on Some Schumpeterian Hypotheses,” American
Economic Review, 75(2): 20-24.
6例えば大橋弘(2012)
「独占禁止法と経済学」公正取引 4 月号、「産業組織と競争政策」
公正取引 5 月号、「市場支配力と市場画定」公正取引 6 月号を参照のこと。
7なお連載においては完全競争が現実問題として成立するかどうかについても議論した。完
全競争が達成できない場合は、市場支配力(つまり死荷重)がもっとも小さくなるような
競争状態と考えてよい。本章では理論的な観点から市場構造を論じていることから、完全
競争に焦点を当てている。
8
この点を指摘したのは Arrow, Kenneth, 1962, “Economic Welfare and the Allocation of
Resources for Inventions,” In: Nelson, R.R. (Ed.), The Rate and Direction of Inventive Activity:
Economic and Social Factors, Princeton University Press, Princeton.
9詳しくは、科学技術政策研究所第1研究グループ(2010)
『第2回全国イノベーション調
査報告』NISTEP REPORT No.144 を参照のこと。
3
いことが分かる 10。
換言すれば、独占と完全競争という市場構造の違いは、前者においてイノベーションを行
う前に独占利潤を得ていることがイノベーションを行うことの阻害要因になっているのに
対して、後者においては事前におけるそうした利潤がない点である。この効果を「置換効果
...
(replacement effect)
」と呼ぶ。一般的に、置換効果では事前に高い(低い)市場支配力を
持つ経済主体はイノベーションによって失うものが大きい(小さい)ために、イノベーショ
ンをおこす誘因が小さい(大きい)ことになる。そこで独占においてイノベーションの誘因
が最も小さいとしばしば結論付けられている。
...
しかしここでいう独占や完全競争はイノベーションを行う事前における市場構造をさし
....
ており、イノベーションの成果は、事後的に企業に独占的に専有されている点に注意すべき
である。もしイノベーションの成果が専有できず他企業に事後的に模倣されてしまうので
あれば、完全競争ではイノベーションの利潤はゼロとなる。独占においてはイノベーション
の成果は定義上専有されることから、知的財産権により成果が保護されない場合には、イノ
ベーションの誘因は独占の場合の方が完全競争の時よりも低くなる。
....
つまりイノベーションの誘因の観点で市場構造を考えると、完全競争は事前では望まし
......
いが、事後的には「動学的な競争」を通じた結果として独占を保証してやることが望ましい。
後者の点に注目したのが、ジョセフ・シュンペータであると考えられるだろう。シュンペー
タは 1942 年の著書『資本主義・社会主義・民主主義』の中で「完全競争をするような企業
は技術的効率性の観点で多くの場合劣っている」と述べたが、この言葉は、既存企業による
従来製品を販売するような競争ではなく、既存企業や従来製品を駆逐するようなイノベー
10独占企業の利潤は、限界収入と限界費用との両曲線にて囲まれる面積(但し数量は正)
にて表現される。
4
ションを通じた潜在的な企業との競争(これを本稿では「動学的な競争」と呼んでいる)に
よって事後的に独占となる市場構造が社会的に望ましいことを指していると考えられる。
「創造的破壊(creative destruction)」とはまさにその点を表現しているのだ。
さてここではプロセス・イノベーションを取り上げて議論をした。「置換効果」や「創造
的破壊」は、プロセス・イノベーションのみならずプロダクト・イノベーションにおいても
見られるが、イノベーションの誘因の観点からプロダクト・イノベーションにおいても事前
には完全競争、事後的には独占が市場構造として望ましいかどうかは必ずしも明らかでは
ない。この点はプロダクト・イノベーションから生み出される新商品が、既存商品とどのよ
うな代替・補完的な関係にあるかに依存する。例えば新商品と既存商品が代替的な場合には、
独占企業は双方の商品が共食いになる(いわゆるカニバライゼーションが起こる)のを最小
限にするような価格付けを行うことが可能だが、そうした利潤の内生化は完全競争ではよ
り困難である。その点で「置換効果」が十分に働かず、事前においても独占のほうが完全競
争の時よりもイノベーションの誘因が高いことが十分にあり得るだろう。
3.2.
イノベーションが市場構造に与える影響
前節では市場構造を所与とした下でイノベーションの誘因を分析した。この節では、イノ
ベーションが市場構造に与える影響について考察したい。手始めに市場構造を独占と仮定
し、イノベーションによって市場構造がどのように変わり得るかを考えたい。市場には参入
圧力が存在し、潜在企業はイノベーションを起こすことによって独占市場に参入できるの
に対して、独占企業がイノベーションを起こすときは独占を維持できるものとする。このと
きイノベーションによって潜在企業が市場に参入するだろうか。
そもそも利潤を得ていない潜在企業が市場に参入すると、独占市場は寡占市場となって
既存企業と参入企業の利潤は(費用条件が同じであることから)等分されるものする(その
。また既存企業がイノベーションを起こした場合には
ときの1社当たりの利潤をπD となる)
既存企業は独占利潤πMを得るものとする。イノベーションの成果は知的財産権によって保
護されるとき、潜在企業はイノベーションを行ったときに市場参入から得るπD がイノベー
ションの誘因となる。他方で、既存企業はイノベーションを起こさない時には、潜在企業が
イノベーションによって参入することから、イノベーションの誘因はπM(イノベーション
を起こさなかった時の利潤)とπD (イノベーションを起こさない時の利潤)との差(πM −
πD )になる。同質財市場においては、πMのほうが2πD よりも必ず大きい 11ことから、既存企
業のほうが潜在企業よりもイノベーションの誘因があり、市場構造は独占となることがわ
かる 12。
11この点は、2つの企業がカルテルを行った得た利潤(πM )のほうが競争をした時の利潤
(2πD )よりも大きいことから明らかである。
12イノベーションの誘因が産業全体の利潤を最大化する方向に向かうこの点を指して、し
ばしば「効率性効果(efficiency effect)」と呼ばれる。
5
もちろん製品が差別化されているような市場では、消費者は参入による製品の多様化を
好むことが考えられる。そのときには潜在企業のほうが既存企業よりも高いイノベーショ
ンの誘因をもつことになるだろう。また以上の議論を用いると、イノベーションが既存商品
を駆逐してしまうような画期的なものである場合や、知的財産権がなくイノベーションが
簡単に模倣されてしまう場合には、独占企業と潜在企業とはイノベーションに対して同等
の誘因をもつことがわかる。
本章では、イノベーションと市場構造とが相互に影響を与えあう点を説明した。本章の簡
単なモデルからも明らかなように、イノベーションと市場構造との関係は一様に定まるわ
けではなく、市場の特性や知的財産制度の有無などの要因によって異なることが分かる。つ
まりイノベーションの観点から市場の競争性を判断するときには、注目する事例ごとに潜
在的な企業の存在も考慮に入れた分析を行うことが求められる。こうした理論的な帰結が
実証的にどのように支持されているのかを次章でみてみたい。
第4章
実証分析
わが国におけるイノベーション活動の側面を知る際に、文部科学省科学技術政策研究所
にて行われた「全国イノベーション調査」13が参考になる。2006 年度から 3 ヵ年を対象とす
る第 2 回目の調査が 2009 年に実施された(なお第1回目調査は 2003 年に実施)
。この調査
は、従業員数 10 人以上の農林水産業、鉱工業、建設業、サービス業など 88 分野の産業に属
する企業を、産業別・企業規模別に層化標本抽出して調査を行ったものだ。具体的には、
331,037 社から 15,137 社を抽出し、4,579 社より回答を得た(回答率 30.3%)
。
「全国イノベーション調査」を用いてイノベーションの成果と製品市場における競合企
業数との関係を平均値としてプロットしたものが図2である。ここではイノベーションの
成果として画期的なプロダクト・イノベーションから得られる売上高を指標としている 14。
この図の特長は、そのピークを競合企業数 6-10 社程度とする逆 U 字型の関係が見られる
点だろう。単に売上高だけを見ると画期的なプロダクト・イノベーションがより高い経済的
な付加価値を生み出すためには、ある程度の競争的な市場環境が望ましいことが分かる。し
かし図によると 11 社以上の市場競争に直面すると画期的なイノベーションからの売上高は
減少し、また他に競合企業がいない独占のときが画期的なプロダクト・イノベーションから
の売上高がもっとも小さい。企業数を異なる市場の間の差異で調整していないことから、図
13科学技術政策研究所第1研究グループ(2010)を参照のこと。
14「全国イノベーション調査」では製品市場といういわば「下流」における競合企業数を
データとして記録しているが、イノベーションを生み出す「上流」での競合関係について
は調査していない。そのためここでは、アウトカム指標としてプロダクト・イノベーショ
ンの実現割合をみなかった。仮に「上流」における競合企業数が製品市場における企業数
と同じだとして作図をすると、画期的なイノベーションの実現確率は競合企業数に関わり
なくほぼ一定との結果になる。
6
2は単なる相関関係を示すプロットに過ぎず、この図から経済学的な解釈を導き出すこと
には慎重であるべきことは言うまでもない。しかしながら市場競争とイノベーションの成
果との逆 U 字型の関係、すなわち競争度が低くても高くてもイノベーションは低調であり
中程度の競争度がある場合に最も盛んになっているという結果は、Aghion et al (2005) 15の
企業データを用いた分析でも報告されており、日本のデータでも共通点が見られる点は興
味深い。
図2
中央値
百万円
180
画期的な新商品・サービスからの売上高
168.4
160
151.4
148.5
140
120
100
100.5
80
60
45.0
40
60.8
20
0
0社
1-2社
3-5社
6-10社
11-20社
21社以上
競合企業数(国内、2008年度)
ただし図2は市場の一般的な傾向を考えるうえでは有効な知見であるものの、この結果
を競争政策に直接にあてはめることに対しては慎重であるべきだろう。第3章でも議論し
たように、きわめて単純なモデルを用いた分析でさえも、製品特性や知的財産保護の程度に
よって市場構造とイノベーションとの関係は異なりうるからだ。
さらにそもそも直接的にデータで確認することができない「市場競争」や「市場構造」と
いった概念をどのように定量分析にて捉えていくべきかについても丁寧な議論が必要だ。
Cohen と Levin(1987) 16によるとイノベーションと市場競争との関係をテーマとする実
証研究は経済学の論文数において2番目に多く(なお最も多いのは企業数と利潤率との関
係をテーマにした実証研究)
、過去の経済学の研究では、市場競争の程度を製品差別化の程
度に置き換えて議論するものや、後発企業による模倣の程度を用いるものなど、様々な指標
が用いられている。競争政策を考える上で、われわれの関心があるのは市場競争の事後的な
結果ではなく、競争の過程が有効に機能しているかという点であることを考えれば、こうし
Aghion, Phillippe, Nick Bloom, Richard Blundell, Rachel Griffith, and Peter Howitt,
2005, “Competition and Innovation: An Inverted-U Relationship,” The Quarterly
Journal of Economics, 120(2), 701-728.
16 Cohen, W. M. and R.C., Levin,
1987, “Empirical Studies of Innovation and Market structure,”
In: Schmalensee, R., Willig, R. (eds), Handbook of Industrial Organization, Elsevier
15
7
た実証的な研究成果のすべてが競争政策上有益な含意を有しているとは思えない。図2を
含む産業横断的な分析においては、第3章にて重要な役割を果たすことが明らかになった
市場特性や環境の違いが考慮されていない点も注意が必要だ。競争政策においては、論点と
なる特定の事案ごとにその個別事案の特殊事情を丁寧に分析していくことが望まれる。
第5章
競争政策におけるイノベーションの視点
競争政策においてイノベーションをどのように捉えるべきかについては、経済学的にも
まだ確定した見方があるようには思われないし、そうした見方が近い将来に登場すること
を予見させるような「芽」はまだ見えてきていない。他方でわが国をはじめ先進国が低成長
に喘ぐなかで、イノベーションに対する政策的な期待は高まる一方である。競争政策の観点
からイノベーションを促進させるような基本的視点とはどのようなものであろうか。
Shapiro(2012) 17はイノベーションに関する経済学の文献をサーベイした上で、3 つの
視点の重要性を紹介している。第一に、ある企業がイノベーションを起こすことによって競
合企業から売上を奪うことができるかどうか(コンテスタビリティの基準)
。第二に、イノ
ベーションを起こした企業が、イノベーションから生み出された成果をどの程度専有でき
るのか(専有可能性の基準)
。最後にシナジー効果の基準である。
第一の視点は、市場特性に関するものである。例えばスイッチングコストなどの存在によ
って需要の交差価格弾力性が極端に低いような市場においては、イノベーションによる売
り上げ増を見込むことが難しく、それだけイノベーションが活性化することを見込むこと
は難しい。第二の視点は経済学的には 2 つの論点を含んでいる。1 つは、模倣などによって
イノベーションから生み出される利潤を専有することができないのであれば、企業がイノ
ベーションを起こす誘因は著しく削がれるという点であり、既に本稿にて触れた点である。
2 つ目は、イノベーションがもたらす社会的な価値をどの程度企業が専有できるのかという
点である。たとえば第 2 章で議論したプロセス・イノベーションを例にとれば、図 1 にお
けるイノベーションの社会余剰は(A+B+C)の領域で表すことができるが、企業が得るこ
とができる利潤はせいぜい(A+B)であった。この点で企業がイノベーションを生み出す誘
因は社会的に最適なレベル(つまり A+B+C)と比較して過少であるといえる。これら 2 つ
の視点はイノベーションの誘因に関するものであるが、最後の視点はイノベーションの能
力(capability)にかかわるものである。しばしばイノベーションは企業が単独で起こすも
のではなく、様々な異質な分野との交流・融合の中で生まれるとの指摘がなされる 18。例え
ば経営統合や事業提携などにおいて、企業のイノベーションに対する能力が向上するのか
17 Carl Shapiro, 2012, “Competition and Innovation: Did Arrow Hit Bull’s Eye?,” In: Lerner, J, and
S. Stern (eds), The Rate and Direction of Innovative Activity Revisited, NBER, University of
Chicago Press
18 例えば Marcus Berliant and Masahisa Fujita, 2011, “The Dynamics of Knowledge Diversity and
Economic Growth,” Southern Economic Journal, 77(4): 856-84 を参照のこと。
8
否かは重要な論点である。
これら 3 つの基本的な視点は必ずしも全てが定量化できるものではない。しかし定量指
標による可視化ができないことをもって、そうした視点が重要でないと考えることは間違
いである。市場の特性に応じてイノベーションが発現する様相が異なることを念頭に置き
つつ、この 3 つの視点をどのように現実の問題に当てはめていくかはまさに実務と学界と
が力を合わせて考えていくべき大きな課題の1つであろう。
9
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