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死体探偵 ID:73884

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死体探偵 ID:73884
死体探偵
チャーシューメン
︻注意事項︼
このPDFファイルは﹁ハーメルン﹂で掲載中の作品を自動的にP
DF化したものです。
小説の作者、
﹁ハーメルン﹂の運営者に無断でPDFファイル及び作
品を引用の範囲を超える形で転載・改変・再配布・販売することを禁
じます。
︻あらすじ︼
忌まれ憎まれ蔑まれ、石を投げられ里追われ。
己の在処を見失い、流れ流れて、死体探偵。
天道は何処にありやと問いかける、雲無くして照る秋の太陽。
今宵も半ば捨て鉢気味に、迷える死体を探しておったという次第で
ございます。
※﹁Coolier │ 新生・東方創想話﹂からの転載です。
・東方Projectの二次創作小説です。
・世界観の曲解や登場人物の性格、背景などをいじっていて、設定
が崩壊しています。苦手な方はご注意ください。
・一般的と思われる二次創作設定は一部流用させていただいていま
す。すみません。
・作者は二次創作初心者です。
・ご意見を頂けると泣いて這いつくばって喜びます。
グッド・バイ │││││││││││││││││││││
目 次 アート・ワールド ││││││││││││││││││││
││││││││││││
アジテーション・ホワイト ① ││││││││││││││
サウンド・オブ・ヘイナウ ││││││││││││││││
ユー・メイク・ミー・ハッピー ││││││││││││││
ミス・トラブルメイカー │││││││││││││││││
アイ・ディド・ウェール、ライト
サイレント・ヤマメ │││││││││││││││││││
ライク・ア・ヒューマン・ビーイング │││││││││││
リバー │││││││││││││││││││││││││
ニューサンス │││││││││││││││││││││
ニトリ・ボンバイエ │││││││││││││││││││
トラスト・ユー │││││││││││││││││││││
パーフェクト・コガサ ││││││││││││││││││
ファース ││││││││││││││││││││││││
ファイト・フォー・ジャスティス 下 │││││││││││
ファイト・フォー・ジャスティス 上 │││││││││││
サンダー・クラウド │││││││││││││││││││
ガールズ・タイフーン ││││││││││││││││││
アイ・アム・ノット │││││││││││││││││││
アンインテンショナル・シンズ ││││││││││││││
スマイル、オンリー・フォー・ユー ││││││││││││
ザッツ・ザ・ウェイ・イット・ゴーズ・ダウン │││││││
マスター・セイガ ││││││││││││││││││││
1
290 250 237 228 210 188 176 166 149 137 126 117 105 91
81
74
62
53
46
33
23
14
6
?
アジテーション・ホワイト ② ││││││││││││││
アジテーション・ホワイト ③ ││││││││││││││
アジテーション・ホワイト ④ ││││││││││││││
フレイム ││││││││││││││││││││││││
サファリング │││││││││││││││││││││
372 361 335 322 307
グッド・バイ
嫌 な 所 で 嫌 な 奴 と 出 会 っ て し ま っ た。私 は こ い つ が 苦 手 な ん だ。
こいつらの縦長の瞳に見つめられると、背筋がゾッとする。こればか
りはいくら修行を積んだって克服のしようがない。只の鼠だった頃
の私の本能がそうさせているのだ。言うなれば、遺伝子に刻まれた呪
いである。まったく、世の中はままならない⋮⋮。
私は奴に悟られぬようにロッドを持ち直した。このロッドは仕込
みがある。柄のある部分を叩くと、先端から退魔針が飛び出すという
仕掛けだ。飛び出す針は、あの博麗の巫女が使っている針と同じ。ど
んな悪魔だってイチコロってものだ。窮鼠猫を噛む、私なら龍にだっ
て噛み付いてみせるさ。
あたいにはその気は無いんだがね、ナ
夕闇の中、奴は私の挙動を不思議そうに眺めて、首を傾げた。
﹁なんだい、やるつもりかい
ズーリン﹂
嘘をつけ。現に奴、火焔猫燐の瞳は縦長の野獣の目になっている。
見た目は只の赤毛三つ編み少女だが、舐めちゃいけない。こいつの正
体は化け猫、鼠の妖怪である私の天敵なのだ。そりゃあ背筋も凍え
るってもの。
﹁私だってやる気は無いさ。だが、どうやら目的は一緒らしいからな。
奪い合いになるのは避けられないだろう、燐﹂
燐は火車と呼ばれる妖怪である。火車は死体を地底へと持ち去り、
灼熱地獄の燃料にすると言う。既に燐ご自慢の猫車に被せられた布
には、嫌な膨らみが見える。
私の目的も、彼だった。
燐は目を細めて笑った。
﹁ははぁん。あんたかい。最近、巷で有名な死体探偵ってのは。なる
ほどねぇ﹂
﹁別に死体だけを探しているわけじゃあないんだがな﹂
宝石、財宝、掃除に説法、人生相談から恋人探しまで、なんでもご
ざれの探し屋﹁星鼠亭﹂。然れども、何の因果か死体探しばかりを依頼
1
?
され、誰が呼んだか、死体探偵。今宵も半ばやけくそ気味に、迷える
死体を探しておったという次第で御座います。
主の寅丸星が世話になっている、命蓮寺の家計の足しになればと
⋮⋮あと、晩酌をちょっと豪勢にする為に始めた、この仕事。あんま
り割に合わないなぁと最近思い始めている。
﹁その死体には待ってる人がいるんだ。善良な市民の為に、私に譲っ
ちゃ貰えないか﹂
⋮⋮それと、私の晩酌の為に。おっといけない、命蓮寺の為に。
﹁ウム⋮⋮。そう言われちゃあ、善良妖怪のあたいとしちゃあ、返す言
葉に困っちまうねぇ⋮⋮﹂
燐は顎に手を当てて考える素振りをする。何が善良か、この泥棒猫
めが。
﹁そうだ、こうしよう﹂
燐はポンと手を打った。一挙手一投足が大袈裟な奴だ。
﹂
理の手間が省けるってもんだ。これぞ三方一両得ってもんさね、どう
だい
だが、ここで燐と争うのも避けたい所である。戦って死体が傷つい
義の味方のナズーリン様には、到底飲めない条件だ。
わざわざ怨霊にするなんざ、仏門に関わる者のする事じゃあない。正
火車に持ち去られた死体は、怨霊になると言う。成仏できる死体を
しかし、私は騙されない。
寺の家計も助かる。私にとっては魅力的なプランだ。
満足させる事が出来るし、私の晩酌も豪勢になる⋮⋮いやいや、命蓮
なるほど、口が上手い奴である。確かに損は無い。待ち人の感情も
燐はニコニコ人懐っこく笑いながら言う。
?
2
﹁この仏さんは、あんたに渡そう。あんたはその待ち人とやらに、仏さ
んを渡すがいいさ﹂
﹁何だい、馬鹿に気前がいいじゃないか﹂
あ ん
﹁だけど条件を一つ。後で仏さんを埋めた場所、教えてくれないかい
あ た い は そ こ か ら 戴 く と す る さ。悪 か な い 条 件 だ ろ う
?
たは金が入る、あたいは仏さんが手に入る、おまけに待ち人は死体処
?
ても嫌だし、何よりその⋮⋮ちょっと怖いし。
﹁なるほどな。良いだろう﹂
私はうんうんと頷いて見せた。
﹁交渉成立だね。よし、仏さんを渡そう。あんたとはこれからも、いい
お付き合いをさせて貰いたいねぇ﹂
燐は揉み手しながら言う。調子の良い奴である。
私は猫車に近づいて、被せられていた布を取った。
⋮⋮少し腐乱してはいるが、綺麗な死体だ。ここが魔法の森の中で
ある事が幸運だったろう。魔法の森は年がら年中、魔法茸の胞子が
舞っていて、妖怪でも辟易するような場所なのである。死体を食害さ
れる事は少ないのだ。生えかけた茸を取り除けば、十分に遺族と対面
させられるだろう。
大方、森に住む魔女に恋でもして魔法の森に入り込み、そのまま
迷って餓死したのだろう。馬鹿な話だ。しかし、恋に命を捧げるその
3
生き方は嫌いじゃあない。一念に全てを懸けるその行為は、一切の執
着を捨てよと教える仏道に反してはいるが、しかし何処か似通っても
いる。そこには邪念や雑念など無いだろうから。叶わぬ恋に挑むそ
の時、彼の心は真理に近づいたに違いない。
何なら、乗せてってやるが﹂
私は持ってきた白布で丁寧に彼を包むと、抱き抱えて猫車から下ろ
した。
﹁移動はどうするんだい
翌朝、死体にこびり付いた茸を払い、少々の死化粧を施す。死んで
を呼び集め、死体を無縁塚の私の家まで運ばせた。
燐は猫車を押して去っていった。それを見送ると、私は部下の鼠達
﹁気にしてないよ﹂
﹁すまんな﹂
﹁ああ、いいともさ。また会いに行くよ﹂
て姿を見せないんだ、すまんが席を外してくれないか﹂
﹁それには及ばないよ。鼠達に運ばせる。しかし、君がいると怖がっ
嫌いじゃあないんだがな⋮⋮。
なんだかんだで人の良い燐が、私を気遣って声をかける。人間性は
?
いる人間、しかも男に化粧なんてナンセンスだが、これをやるのとや
らないのでは、遺族の感情が違ってくる。せめて安らかに死んだ、そ
う思わせてやらなければ、誰も救われない。私も。
化粧が終わると、用意していた棺桶に死体を入れ、妖怪だとバレな
いよう少し変装をしてから、里の依頼人の所まで引きずって行った。
里中では、私を見かけると人が避けた。ずきりと胸が痛むが、その時
私は、死を運んでいたのだから仕方ない。
依頼人の老夫婦は、私の報らせにがくりと膝を落とし、咽び泣いた。
いつもの光景、何度見ても慣れない。苦い思いが臍を噛ませる。死神
とはこういう気分なのだろうか。彼女達も大変だなぁ、いつもそんな
事を考えている。
老夫婦は息子の綺麗な死に顔を見ると、私に対して礼を言った。そ
れが、せめてもの救いだった。
何処に埋めたんだい あたいに教えと
私は少し笑ってしまった。私はそれに救われたのだ。まったく、忌々
しい化け猫の癖に、嫌いになれない奴である。
そんなぁ
話が違うじゃあないか
﹂
﹁命蓮寺の墓地に埋めるってさ。私が勧めておいた﹂
﹁ええっ
!
!
り起こしてくりゃいいじゃないか﹂
﹁むむむ、無理だよぉ。あの怪力尼さん、聖白蓮に殺されちまうよぉ
﹂
燐は首を振る。
﹂
﹁聖は殺生はしないぞ。ただ説教されるだけだろう、死ぬ程な﹂
﹁どっちにしたって死ぬじゃないか
ウワァン、あぁんまりだぁ∼
!
!
4
仕事を終え、重い足取りで依頼人の家を出ると、街の外で燐が待ち
で
?
構えていた。
﹁お疲れさん。で
くれよぉ∼﹂
?
ニコニコと無邪気に問いかける。なんて空気の読めない猫だろう。
?
﹁違うもんか、埋める場所を教えるまでが約束だったろう。行って掘
?
お下げがあばれヌンチャクのようにぶるんぶるん音を立てるほど、
!
﹂
燐が子どものように声を上げて泣きじゃくるので、辟易した私は、
そっと耳元で囁いてやった。
﹁無縁仏を見つけたら、今度から都合してやるから﹂
﹂
それを聞くと燐はすぐさま泣き止み、私に抱きついた。
ナズちゃん大好き
﹁イヤッホゥ
変態猫に鉄拳制裁を加えて、私は青い空を見上げた。
そうだ、久し振りに今日の晩酌、肴はチーズにしよう。私は上機嫌
りも悪くはないのかもしれない、と。
く。迷う余地があるのなら、あるいはこの火車に連れられて、地獄巡
しかし。今日はふと、こうも思ってしまったのだ。死してなお楽し
出来たのなら、私も甲斐があったというものだ。
帰るべき場所に帰れた彼は、成仏出来たのだろうか。その手伝いが
!
!
抱きつくな、ムシャぶりつくな、腰を振るなーっ
﹁や、やめろ
!
で家路へと就いた。
5
!
アート・ワールド
﹁くそ、このポンコツめ﹂
のっけから悪言で申し訳ない。
しかし、滅多に悪口を言わないことで有名なこのナズーリン様が
言っているのだから、相当な理由があるのだとご理解頂けないだろう
か。
と言うのも、探し屋を始める際に新調したこのナズーリンペンデュ
ラム・エンシェントエディション、これが全く役に立たないのである。
今も依頼を遂行すべくダウジングを行っていたのだが、素っ頓狂な方
向を指し示し、止む無く導かれて来てみれば、何処ぞの屋敷の敷地内。
こんな所に死体が埋まって居ようはずも無いではないか。この寒空
の下、温厚な私が頭に血を昇らせている事情も分かって頂けるだろ
う。貰いものをそのまま使おうとしたのが間違いだったのだろうか。
いや、きっと貰った相手自体が悪かったに違いない、胡散臭いあの隙
間女め。
屋 敷 の 広 い 庭 の 中 で ぽ つ り と 立 ち 尽 く し て い る の も な ん で あ る。
仕事は明日に回す事にして、私は意図せず訪れてしまったその庭を歩
き、体を温める事にした。
とにかく広い屋敷だ。枯山水の庭園でここまで広いのは初めて見
る。しかし、丁寧に刈り込まれた植木が緑の道を作っており、見るべ
きものに迷うことは無い。自然と足が弾んだ。朱色の太鼓橋を渡る
と、下には敷き詰めた白砂。水を使わずに水を表現する枯山水ならで
はだ。船に見立てた岩が浮かぶのも面白い。ぐるりと目玉を回せば、
向こうの苔生した大岩には、見事な仏が彫られている。まるで刀で切
り出したかのように荒削りだが、それだけに力強い存在感を放ってい
た。右手に宝塔、左手にはネズミを持つ、筋骨隆々の堂々たる威容。
これは毘沙門天だ。こんな所にも我々の像があるというのは、少し鼻
が高いな。
坂を登ると、二階建ての小さな茶室がある。私は少し冒険心を起こ
6
して、その茶室の二階へと登ってみる事にした。秋も深まろうという
頃合いである。私は期待に胸を膨らませていたのだ。
靴を脱いで、備え付けられた木製の階段を上がる。冷たい木の感触
が足の裏を刺激して気持ち良い。一段一段体重を移す度に、ギシリギ
シリと小気味良い音がした。中に入ると、仄かな光差す四畳半の畳の
間。床の間には見事な水墨画の掛け軸が飾ってある。作者は分から
ないが、水面で遊ぶ二羽の鶴が美しく幻想的だ。私は矢も盾もたまら
ず、三面を閉じていた雨戸を開け放った。
一面、紅の海である。
庭一杯に植えられた桜紅葉達が、私に向かって一斉に自己主張をし
ている。我は此処に在り。情熱的な赤を纏うその手を空へ向け、そう
叫ぶのである。ふわりと風が吹く度に、さわさわと紅葉達が手を叩
き、拍手喝采雨霰。爽やかな風に乗ってくるくると舞い上がる桜紅葉
の葉の一つが、私の髪の間にすとりとおさまった。何とも洒落たかん
ざしだ。
この庭は、この場所に立つ人の為に、全てを計算して造られている。
なんと素晴らしい眺めであろうか。有頂天とはかくの如き気分に違
いない。私は先程までのイライラも忘れ、ただただ美しい赤の津波を
眺 め て 目 を 細 め た。こ の 庭 を 造 り 上 げ た 職 人 は 間 違 い な く 天 才 だ。
今度は主の星も連れて来てやろう。あいつは花見が好きだからな。
ふと、紅の海の向こうに、巨大な樹が聳え立つのが見えた。他の桜
達と同じように紅葉しているが、その大きさ、枝振りの見事さは、此
処からでも見て取れる。すっかり楽しくなってしまった私は、テーマ
パークでも見て回るような気軽さで、その大樹の元へと向かった。
近くに寄ってみると、その巨大さは想像以上だった。大人二、三十
人がぐるりと手を回してもまだ余るだろう。枝振りは力強く、まさに
見事だと言う他無いのだが、
﹁⋮⋮何だか嫌な感じだな、そう思わないかい、賢将﹂
尻尾の先に括り付けた籠の中で、賢将もこくこくと頷いた。同じ不
穏を感じたらしい。
この桜の樹から、どうにも禍々しい感じがするのである。しかもこ
7
の禍々しさは、今迄感じた事が無いような、寒々しさと寂しさを伴っ
ていた。これには何か謂れが、それも凄惨な謂れがある、私の直感が
そう告げている。そう⋮⋮ロッドが微かに反応するのである。
これは、この妖木は、この見事な庭にはあまりにも似つかわしくな
い。
﹁燃やしちゃおうかな﹂
私は思わずそう呟いていた。
その時、一陣の風が吹き、賢将がキィと鳴いた。
振り返った私の眼前で、白刃が火花を散らして止まった。反射的に
構えたロッドで、敵の斬撃を受け止めたのだ。一瞬遅れて、鋼と鋼が
ぶつかり合う、耳障りな悲鳴が庭を駆け抜ける。敵はギリギリと体重
を掛け、刃を押し込もうとするが、私のロッドは長い。大地に突き刺
してしまえば、それ以上押し込む事は叶わないのだ。
体勢に余裕が出来た私は、蹴りを放って下手人を遠ざけた。下手人
8
はその銀髪を振り乱し、大きな半透明の靄のようなものを自分の体に
まとわりつかせている。あれは、半霊と呼ばれるものだ。
﹁知った顔だな﹂
命蓮寺の説法や博麗神社の花見で見かけた事がある。名を確か、魂
魄妖夢と言う。半人半霊という特殊な種族の少女で、いつでも眠たげ
な表情をした半人前の剣士だ。
しかし、その半人前の少女剣士は今、両眼をくわりと見開き、長物
を上段に構え、私の隙を窺っている。放つ殺気は只ならぬ。いつも宴
会でご機嫌になる、酔っ払いのへべれけ少女という印象しか無かった
のだが、この変化には正直、肝を冷やした。
﹁その鉄杖、業物とお見受けする。決着の前に是非、銘を教えてはもら
えまいか﹂
静かな声で妖夢が言う。少女らしいか細い声だが、ドスが効いて聞
くものを威圧するような声色である。
﹁ナズーリンロッド、タタラカスタム﹂
⋮⋮そうか、あの。成る程、合点がいった。道理でこの楼
私がそう答えると、妖夢はほんの少しだけ表情を緩めた。
﹁多々良
?
﹂
観剣でも斬れぬ訳だ﹂
﹁待て
妖夢の顔から再び感情が抜け落ちるその前に、私は鋭く叫んだ。こ
の威圧感、出来れば戦いたくない相手だ。会話で逃げる隙を作るしか
ない。
﹁何故、私を攻撃する﹂
おかしな奴だな。勝手に人の庭に入り込み、あまつさえ放
その問い掛けに、妖夢は首を捻った。
﹁何故
火をしようとしている輩。叩き切られても文句は言えまい。世が世
⋮⋮あっ﹂
なら、市中引き回しの上、打首獄門だぞ﹂
﹁人の家
分かっている。無意味な自問だ。答えなど、端から決まっている。
キィ。背中で賢将が声を上げる。
どうする、ナズーリン。
どうする。
汗が流れた。
獲物で私を突くつもりだろう。果たして避けられるか。額を冷たい
二刀使いであったはず。長物を受けさせた後、腰に差したもう一つの
上段に構える妖夢の左手が、僅かに力を抜いていた。確か、妖夢は
この気迫。これで半人前とは、剣の道のなんと遼遠なことよ。
触れさせない﹂
﹁その桜には﹂妖夢の瞳が赤熱を帯びたように光を発する。﹁指一本、
デュラムに導かれ、いつの間にか迷い込んでしまったのだろう。
ない筈だが、この頃その結界も薄まっているらしい。ポンコツペン
白玉楼は冥界に位置している。本来は結界に阻まれ往き来が出来
い。
な庭を見て直ぐに思い至らなかったのは、我が身の不覚と言う他無
妖夢はこの白玉楼の主人、西行寺幽々子の護衛だったはず。この見事
ここは歌人達の魂が行き着く先、音に聞こえし白玉楼に違いない。
そうか、言われてみれば。
?
無益な殺生など、我が道には要らぬ。
9
!
?
私はフッと息を吐いた。
瞬間、妖夢が踏み込んだ。上段からの振り下ろしは正に神速。受け
るロッドごと、私の体が傾く。この一撃で両断されなかったロッド
は、流石小傘と言うべきだろう。しかし妖夢がその隙を逃すはずも無
い。ゆるく構えた左手が素早く腰に伸び、もう一つの獲物を抜刀す
る。
必殺の白刃はしかし、私の眼前ギリギリで止まった。
妖夢の目は、舞い上がり行く桜紅葉の葉を眺めていた。あの洒落た
かんざしを、私が空へ飛ばしたのだ。
舞い行く桜紅葉は蒼い空を昇り行き、やがて巻き起こった紅の風に
そんな事、お前
飲まれた。私も妖夢も、その光景に目を奪われていた。真の芸術は、
人の心から邪念を奪うものだ。
﹁この素晴らしい庭を、我らの血で汚すつもりかい
の主も望むまい﹂
私の言葉に、妖夢は笑った。少女らしい、思わず抱きしめたくなる
ような、そんな笑みだった。
﹁違いない﹂
それでも、妖夢は刀を引かなかった。私はそれに感心した。この少
女は真に剣士である。剣士たろうとしている。
﹁西行妖を燃やすと言ったな﹂
あの桜の名であろう。これほど見事ならば、銘がついていて然るべ
きだ。
﹁あれはその﹂私の歯切れが悪いのは、仕方がない事だろう。﹁言葉の、
綾 だ。君 に と っ て 大 切 な も の な ん だ ろ う、燃 や し た り は し な い さ。
誓ってもいい﹂
﹁何に誓う﹂
﹁⋮⋮我が主に懸けて﹂
その言葉でようやく妖夢は刀を収めた。
今の今まで鬼面のような顔をしていたのに、もういつもの眠たげな
表情に戻っている。気の抜き方が激しい奴だ。案外、気性が荒いのか
もしれない。
10
?
私もようやくロッドを下ろし、息をつくことが出来た。それでつい
つい、文句が口を突いて出てしまう。
﹁まったく⋮⋮お茶目な冗談も理解出来ないとは﹂
﹁そんなの、分かりませんよ﹂
いやぁ⋮⋮﹂
﹁こんな見事な庭を燃やそうとする馬鹿が居るわけなかろう。人類に
とっての損失だぞ﹂
﹁え、そ、そ、そうですかぁ
今日はどんなご用事なんです
?
色悪い。何でこいつが照れているんだ。
﹁それで
﹂
捩った。おでんのはんぺんみたいにデロンデロンになっている。気
妖夢は真っ赤にさせた顔をだらし無く弛緩させ、もじもじと身を
?
﹂
﹁この後は何かご予定でも
﹂
なそれを連想して、私は頭を掻いた。
なんたら饅頭とか、なんたら最中だとか。言葉にすると激しく不穏
﹁嫌な名物だなぁ﹂
いです﹂
人なんかもう、ありふれてますんで。むしろ名物と言っても良いくら
﹁それなら此処に迷い込むのも頷けます。此処は冥界ですからね。死
﹁⋮⋮悪評って奴には翼でも付いてるのかね﹂
いうのは﹂
﹁ああ。ナズーリンさん、貴女でしたか。今、巷で有名な死体探偵って
私のロッドを改めて見直し、妖夢は得心がいった顔をした。
﹁迷う
しまっただけさ﹂
﹁いや、用事は無いよ。探し物をしていたら、道に迷ってここまで来て
?
庭を眺めながらの一杯、なかなか風流で
正直、惹かれる提案ではあるのだが⋮⋮。
妖夢は、それはもう満面の笑みだ。
すよ﹂
﹁なら、お茶でも如何です
見た後では、やる気になれん仕事だからな﹂
﹁いや。仕事が無いと言ったら嘘になるが。こんな素晴らしい庭園を
?
?
11
?
﹁君はなんでそんなニヤついてるんだい。お茶は欲しいが、ちょっと
怖いぞ﹂
妖夢ときたら、はしゃぎ回る仔犬のように楽しげなのである。さっ
きまで私を斬り捨てようとしていた癖に。
﹂
﹁いやもう、嬉しくて﹂
﹁嬉しい
き、き、き、君がこの庭を造ったのかい
﹂
るってものです﹂
﹁え
え。
﹁えッ
思わず、素っ頓狂な声を出してしまった。
﹁そうですよ、白玉楼の専属庭師とはこの私の事です
えっへん、と妖夢は胸を張った。
まさか。
なんということだ。
﹁そんな眠たそうな顔してる癖に⋮⋮﹂
﹁別に眠くないですけど﹂
信じられない。
﹂
﹂
﹁こ ん な に 庭 を 褒 め て く れ る 人、初 め て で す か ら。庭 師 冥 利 に 尽 き
?
うなあの西行寺幽々子が、常に傍らに侍らせているくらいの少女なの
である。その芸術的才能も折り紙付きと言ってよいのかもしれない。
私達は例の茶屋の二階に上り、温かい玄米茶をいただきながら、風
流な庭を眺めた。そよ風が吹いて、私の髪を揺らす。いつも剣を使っ
て手入れしてるんですよ、こう、えいやってね、あの仏像も剣で彫っ
たんです。妖夢が身振りを交えて嬉しそうに語るその声もまた心地
﹂
良く。いくら眺めていても飽きない。まるで時間が止まったかのよ
うだ。
﹁⋮⋮君、剣士じゃなくて、庭師に専念したらどうだい
いことだろう。
だから、ついついそんな詮無いことを言ってしまうのも、仕方の無
?
12
?
?
しかしよくよく考えてみれば。自らも歌人であり、芸術にうるさそ
!
!
妖夢はもちろん、首を振った。
﹁剣は、私の道ですから﹂
人の世の、なんとままならぬ事よ。しかしそれもまた、世の定めと
言うものなのかもしれない。
世界はそれでいいのだ。
毒があるから、美しい。
あの悍ましいまでに美しき西行妖を戴く、この白玉楼のように。
こういう日には、久しぶりにチーズを肴に一杯やりたくなる。窓か
ら見える極上の芸術を前に今日の晩酌を考える私は、自分でも呆れ返
るほどに欲深い鼠だった。
13
マスター・セイガ
見つけた。
見つけて、しまった。
私は彼女を前にして、思わず溜め息を吐いた。彼女は最早、彼女と
呼ぶ事を迷わざるを得ないような有様であり、辛うじて原型を留めて
いると表現するのが正しい。留めていなかった方が幾分かマシだっ
たろう。まともな人間ならば、目を背けずにはいられまい。
夕刻。有象無象が妖しげに蠢く林を越えた先にある見晴らしのい
い 丘、そ の 一 画 に あ る 切 り 立 っ た 崖。そ の 下 に、彼 女 は ひ っ そ り と
眠っていた。崖上から転落して死亡し、その遺骸を野生動物や有象無
象の妖怪共にやられたらしい。よくある話だが、人間の持つ尊厳を著
しく損ねる光景である。死体探偵。その汚名を持つ私を、それでも人
間達が頼るのは、そういう理由がある。
秋晴れの爽やかな風、高き空から降り注ぐ赤光、彼方に見える麗し
き我らが命蓮寺。その全てが死臭に染まり、風情も何もかもが死それ
一色に汚されている。人間の中には死体にある種の憧れを持つ者も
いると言うが、私には到底理解出来そうもない。目の前の彼女は、今
や汚物と腐臭を撒き散らす肉塊に過ぎないのだから。
嗚呼、こういう時、燐でも来てくれたら良いのに。縋るように首を
回して見ても、あの嫌な瞳の、だが人の良い地獄猫の影も形も見えや
しない。まったく、これだから猫って奴は。
私は鼠達を呼び集めると、彼女を布で包み、無縁塚の私の家まで運
ば せ た。気 付 け に 一 杯、焼 酎 を 呷 っ て か ら、作 業 小 屋 の 中 で 彼 女 の
パーツを並べ、何処から手を付けたものかと頭を抱えた。
私は彼女に修復、エンバーミングを施すつもりだった。
彼女は最早、ただの肉塊に過ぎない。そこには魂も尊厳もありはし
ない。
しかし、だからこそ。ほんの少しでもそれを取り戻すために。この
ナズーリン様は正義の味方なのだから。
14
私は彼女の残ったパーツとその損壊具合をチェックし、表にまとめ
た。その結果、私の持つ資材と力量では作業不可能だと判断した。私
に出来ないのなら、出来る者に頼むしかない。あまり気は進まない
が、思い当たる人物がいる。この際、頼るしかないだろう。
私はすぐに書状を認め、それを私の右腕である賢将に届けさせた。
その人物を動かすには、こちらも礼を尽くさねばならない。と言う
か、そうしないと後が面倒なのである。
賢将は二刻とせぬうちに戻って来た。
﹁おや。あの人は不在だったのかい﹂
彼女に消毒と防腐処理を施していた私は、賢将が一人で、いや一匹
で戻った事に、ガッカリするやらほっとするやら、複雑な思いだった。
﹁仕様がない、明日にするか﹂
振り向いた私の視界が急に暗転し、何かあったかくて柔らかいもの
﹂
二つが顔面に押し付けられるのを感じた。
﹁ナズちゃあ∼ん、来たわよ∼ッ
この薄気味の悪い猫撫で声は、まさか。
﹂
すぐに押し当てられたものの正体を察し、私は慌てて振りほどい
た。
﹁ゲェッ、青娥
である。聖徳王率いる道教の信仰団体﹁神霊廟﹂の道士にして邪道の
仙人。そして、死体修復のエキスパート。
彼女は動く死体、いわゆるキョンシーを使役して決闘に用いる。彼
女の使役するキョンシーは実に血色が良く、感情豊かで、妙に生き生
きとしているのだ。死体の癖に。その事実は青娥の技術の高さを客
観的に証明している。ことエンバーミングにかけては、この幻想郷で
右に出る者はいないだろう。以前に仕事を依頼した事があるのだが、
青娥の仕事は完璧以外に適切な表現方法が無い。
﹁お土産、ここに置いておくわね﹂
青娥は私の威圧視線も意に介さず、手にした瓢箪を机の上に置い
た。マイペースな奴だ。
15
!
そこに居たのは、ふわりふわりと宙に遊ぶ、悪名名高きかの霍青娥
!
﹁いつの間に入った
にぃ﹂
﹂
知ってるでしょう、私の前では、鋼鉄の壁も障子や襖と変わ
﹁誰が師匠だ、誰が﹂
確かに修復は習ったが、師事したつもりは無い。
﹂
!
胸を押し付けるな
!
﹁んもう、ナズちゃんたらいけず。でも好き
﹁分かった、分かったから、くっ付くな
﹂
!
が混じっている。私には分かる。それはプライドの輝きだ。
さっと目を通す目付きはトロンと蕩けるようであるが、既にある光
﹁貴女でなければ出来ない仕事だと判断した﹂
表を青娥に渡した。
なんとか青娥を引き剥がすと、私はこほんと咳払いして、作成した
は馴染めん訳だ。
娥も含めて、彼奴らは全員快楽主義者なのである。そりゃ堅物の聖と
中はこういう過剰なまでのスキンシップをして来るから苦手だ。青
あの聖徳王もそう︵と言うかあいつが筆頭︶なのだが、神霊廟の連
を強調せんでいい
谷間
﹁酷 い わ、折 角 お 師 匠 様 が 弟 子 の お 招 き に 乗 っ て や っ て 来 た っ て の
い。
私の舌打ちを聞いた青娥は、悲しそうに眉を顰めた。わざとらし
ず、ネチネチしつっこく追及する女なのだ、こいつは。
云々以前に礼儀に欠けるだろう。その癖、自分に対する非礼は許さ
に塞がるが、こう毎度やられてはいい気分はしない。プライバシー
わざと聞こえるように舌打ちしてやる。どうせ鑿の力で穴はすぐ
﹁またか﹂
るのである。
は不思議な力があり、どんな硬い壁も豆腐のようにくり抜く事が出来
見ると、作業小屋の壁面に大きな丸い穴が開いていた。青娥の鑿に
かんざし代わりに髪に挿した鑿をトントンと叩いて。
りはしないわ﹂
﹁あら
私が怒鳴ると、青娥はあっけらかんと言い放った。
!
!
16
?
﹁どこまで修復するつもりかしら﹂
﹁全身だ﹂
流石の青娥も目を剥いた。
竹箒をそれっぽく見せる術なら、教えてあ
﹁酔狂ね、七割以上補おうだなんて。魔女に頼んで一から人間作った
方が早いんじゃないの
げるわよ﹂
﹁駄目だ﹂
私は首を振る。
﹁夫が待っている。彼女自身を会わせてやりたい﹂
青娥はニヤリと嘲るように笑った。妖怪鼠がセンチになるなど、青
娥でなくても笑うだろう。
﹁被害者を見せてちょうだいな﹂
私が作業台を指し示すと、青娥はそれにゆっくりと近づいた。その
仕草は、獲物に飛び掛る直前の虎、その足取りを連想させる。
無惨な彼女を見て、それでも青娥は愛おしそうに、その一部を撫ぜ
た。
﹁⋮⋮いい子だわ﹂
それは、青娥が私の依頼を了承した合図である。
私達はすぐに作業に取り掛かった。と言っても、彼女自身に施せる
処置は高が知れている。絶対量が少ないからだ。作業は主に、青娥の
使役するキョンシー用の﹁予備パーツ﹂を彼女に合成する事と、それ
でも足りない部品を法術などで作成する事に分かれた。
前者は非常にスムーズに作業が進んだ。青娥の持ち寄ったキョン
シー用の﹁予備パーツ﹂は保存状態も完璧で、そのまま縫合するだけ
で使えるような代物だったからだ。青娥の鮮やかな縫合術により、継
ぎ目の跡は完全に消されている。よもや元から繋がっていたのでは
ないかと疑ってしまったほどだ。
後者は私が担当したが、これも滞りなくこなせた。聖から習ってお
いた肉体強化法術を応用し、パーツ間の差異を埋め、左右の長さの違
いを調節し、自己融解して脆くなった部分を補強する。欠けた爪は別
の動物の爪を削ってあてがい、破れた皮膚には豚の皮を張った。
17
?
それらの作業を終え、一通りの形が整った時には、東の空が白み始
めていた。
残る作業は顔の修復であるが、これが難しい。依頼人に協力しても
らい作った似顔絵は精巧で、目標とする形に迷う事は無いのだが、そ
れを再現するとなると別問題である。私が青娥に応援を頼んだ理由
はまさにそこだった。青娥のキョンシー、宮古芳香は美しいから。
長椅子にもたれて休憩していた青娥が顔を上げる。私を見るその
微笑みは、しかし少しやつれて見える。それは青娥がこの仕事に真剣
に取り組んでいた証左に他ならない。
﹁道士ってのは案外、やわなんだな﹂
私が憎まれ口を叩くと、青娥は頭を掻いた。
﹁嫌だわ。熱中しちゃって。いつもいつでも、桃の香りのように優雅
に在りたいものだけど﹂
﹁神にだってそんな事は出来やしないさ。気に病む必要は無いよ、青
﹁君の愛が生死すら分け隔てしない事には敬意を表しよう。だが愛す
るのなら、その者が最期に一番望んだようにしてやるのが正しい道だ
と私は思う﹂
今度は青娥が首を振った。
﹁ナズちゃん﹂
18
娥﹂
﹂
﹁あら。ナズちゃんが慰めてくれるなんて珍しいわ。でももっと気軽
に、にゃんにゃん、って呼んでくれても良いのよ
﹁生憎、猫は苦手でね﹂
﹁残念﹂
に、光る瞬き。
﹁あの子を依頼人とやらに返すのかしら
﹁当然だろう﹂
﹁やめて。私に頂戴﹂
﹁青娥﹂
﹂
不意に、青娥は言葉を切った。トロンと蕩けるような眼差しの中
?
私は首を振った。そんな事は論外に決まっている。
?
彼女にしては非常に珍しく、憂いに顔を曇らせている。
﹁あの子は事故死じゃないわ。殺されたのよ﹂
私は、息を呑んだ。
﹁何故、分かる﹂
﹁致命傷になった頭蓋骨の陥没。これには生活反応、つまり傷の治癒
がされようとした跡があった。対照的に、崖から落ちた際についたと
思われる、身体のあちこちの裂傷や打撲骨折。これには生活反応が全
く見られなかったわ。つまりこれは、被害者が後ろから殴られて殺さ
れ、その後、崖上から遺棄された事を示している﹂
自らの後頭部を指し示しながら言う。
私は声を荒げた。
﹁馬鹿な。依頼人は目の前で崖上から滑り落ちたと言っていたぞ﹂
﹁だから。返しちゃ駄目。私に頂戴。せめて死んだ後くらい、面白可
笑しく暮らしたっていいじゃない。私にはそれが出来るわ、させてあ
げられる﹂
青娥の瞳は真剣だった。
青娥は死体を欲している。嘘を言う可能性もある。
しかし一方、私は信じてもいるのだ。青娥は千年以上も死と戦って
きた道士である。死をおろそかにするような真似はしない、出来な
い、と。
私は言葉に詰まり、机の上に置かれた青娥の土産、味のしない酒を
呷った。
﹁少し時間をくれ﹂
それから私は支度を整え、里に出向いた。
不足していた化粧品や消毒液などのエンバーミング用資材を買い
込む。そのついでにそれとなく聞き込みをしたり、鼠を使った盗聴を
行うと、どうやら依頼人の男が不倫していたらしい事が分かった。
事の筋書きはありふれている。
庄屋の娘と結婚し婿養子になった依頼人、いわゆる逆玉に乗った彼
は、庄屋の下女を見初めて手を出した。そして、嫁が邪魔になったの
で事故に見せかけて殺し、死体を崖下に棄てた。しかし、前々から彼
19
の素行を疑問視していた大旦那の意向で、娘が死んだ事がこの目で確
認出来なければ家を継がせる事は出来ぬと言われ、慌ててこの私を
頼った。そんなところだろう。
死体はどうせ食害され断片しか残らぬと踏んだのだろうが、そうは
問屋が卸さない。青娥の技術を知らなかった事、そしてこの私、正義
の味方のナズーリン様に悪事の片棒を担がせようとした事。それが
彼にとっての命取りだったようだな。
私が作業小屋に戻ると、青娥は修復作業を再開していた。額に汗
し、せっせと顔の修復に励んでいる。
﹁考えたが、やはり君に渡す訳にはいかない。待っている家族がいる
んだ﹂
青娥は予想していたようだ。手を止めず、はにかむように笑っただ
けだった。
私も青娥の助手として修復に参加し、何度もスケッチと見比べなが
ら作業を行った。青娥の手腕はまさに神業である。こいつの腕には
悪魔が宿っているのではないか。飛び出た眼球、欠けた鼻、千切れた
耳は見る見る修復され、彼女は生前の美貌を取り戻した。今にも起き
上がり、笑いかけて来そうなほどだ。
傷んだ頭髪を刈り込み、里で調達して来たかつらを着けてやる。白
い衣を着させ、白粉と口紅で死化粧を施せば、彼女の姿が完全に蘇っ
た。
﹁うん。流石だ、青娥。これなら遺族も穏やかに彼女を送る事が出来
るだろう﹂
私は手放しでそう褒めたが、青娥は複雑そうな顔をしている。
﹁このまま燃やしちゃうの、なんだか可哀想⋮⋮﹂
﹁彼女の魂は家族の元へ還り、そして彼岸へと旅立つだろう。君の下
で楽しく暮らすのも悪くはないかもしれないが、葬式ってのは死んだ
人間の為だけにやるもんじゃない。生きている人間の事も考えてや
らなきゃ﹂
﹁⋮⋮ああ、嫌だ。弟子に説教されるなんて、師匠の面目丸潰れじゃな
いの﹂
20
師匠ね。まあ、そういう事にしておいてやろう、今日の所は。
用意していた桐の棺桶に彼女を横たえ、例によって変装をしてか
ら、私は棺を引きずって里に向かった。里の人間が私を避けるのもい
つもの事だ。
依頼人を訪ねると、待ってましたとばかりに夫と大旦那が飛び出し
て来た。夫は白々しくも、彼女に縋り付いて泣いていた。大旦那も大
粒の涙を零していたが、娘の安らかな死に顔に安堵したのだろう。取
り乱す事は無かった。
﹁最近、新しいサービスを始めまして。あの聖徳王のお弟子さんのお
﹂
力を借りて、ご家族の最期の言葉を届けるってやつです。今、キャン
ペーン期間中でして、特別にロハでやりますよ、どうです
私が言うと、夫はさっと青ざめ、いや、いらん、結構だ、帰ってく
れ。そう言って首を振った。
﹁まあ、そう言わずに﹂
愛していたのに﹂
言いながら、私が青娥謹製の札を彼女の額に貼ると、彼女の唇が僅
かに動いた。
﹁貴方、どうして
夫は里の自警団に捕縛された。どうせ死んだ後にはあの恐るべき彼
岸の閻魔、四季映姫に断罪されるのである。顕界にいる内に罪を償う
機会を与えてやったのは、ひとえに私達の優しさ故だと誇っていいは
ずだ。
騒動に紛れて、私はこっそり里を抜け出して来た。
﹁この私を利用しようなんざ、千年早い。肝に銘じておけ﹂
もちろん、夫をキツく脅しておくのも忘れずに。
里の外で待っていた青娥は、私を見かけるとちょっぴり哀しげに
笑った。
﹁上手く行ったよ。青娥、全ては君のお陰だ。礼を言う﹂
﹂
﹁そう⋮⋮﹂
﹁残念かい
21
?
それからの顛末は、細かく語る必要もなかろう。大旦那の通報で、
?
﹁うん⋮⋮芳香のお友達が出来ると思ったんだけどな﹂
?
しきりに髪に挿した鑿を弄りながら言う。
彼女を本当に気に入っていたのだろう。その見境いの無さは邪と
断言するに値する。が、それは罪ではないのだ。所詮、正も邪も悪も
他人の批評に過ぎない。彼女は見境いがなく、そして手段を選ばない
だけだ。穢れを嫌い、お行儀良くしかしない連中に、彼女を、あの大
旦那を救う事が出来ただろうか。
﹁青娥。君は本当に邪な奴だな。そしてあまりに欲深い。もし君が仏
教徒に改宗しても、待っているのは無間地獄かもしれん﹂
﹁嫌な事言うわね﹂
﹁でも私は﹂その胸に指を突き付けて言う。﹁そんな君が嫌いじゃない
よ。マスター・にゃんにゃん﹂
青娥の頬がほんのりと桜色に染まる。私は笑ってしまった。邪仙
も存外、うぶなところがある。
夜半。無縁塚の掘っ建て小屋で、賢将と二人、酒を呷った。青娥の
酒は、蕩けるように甘い。こんな酒に合う肴と言えば⋮⋮チーズしか
ないな。
22
﹂
ザッツ・ザ・ウェイ・イット・ゴーズ・ダウン
﹁ぎゃおー、口裂け女だぞぅ
﹁はにゃーん﹂
﹁ふみゅうぅ、とかか
﹂
﹂
?
﹁アタシ、キレイ
﹂
いをして、甘ったるい声を吐く。
服をずらして肩を晒し、スカートの裾を捲り上げ、扇情的な上目遣
意気揚々とぬえ。
﹁いいか、見てな。口裂け女ってのはこうするんだ﹂
ちょっと懐かしい。因みにマミゾウは宇宙人の都市伝説を選んだ。
た ブ ー ム に な っ て い る の だ。こ こ ろ が 選 ん だ 都 市 伝 説 は 口 裂 け 女、
る事で自らの力を増す⋮⋮それが幻想郷の妖怪達の間で、ちょっとし
最近幻想郷にも広まった、外の世界の都市伝説。その伝説に成りき
ら、こころが新しく得た力の使い方を練習しているようだ。
の中庭に座り、二ッ岩マミゾウはそれを横目で眺めていた。どうや
秦こころと封獣ぬえが喧しく騒いでいる。秋晴れの空の下、命蓮寺
﹁⋮⋮か、可愛いから許す
﹂
﹁じゃあ、はにゃーん、とかか
﹁いやいやいや。口裂け女はぎゃおーとか言わないから﹂
!
﹁いや、普通﹂
全国三千万のぬえちゃんファンに謝れコノ
こころは無表情に言い切った。
﹂
﹁なんだとこの能面女
ヤロウ
!
当恥ずかしかったようだ。なら、やらなきゃいいのに。幾つになって
も、ぬえは幼い。こころと遊んでいるくらいが丁度いい。
首を回して本堂を見やる。
中では住職の聖を付き添いに、妖怪鼠のナズーリンが座禅を組んで
23
!
?
マミゾウはずっこけてしまった。それは風俗嬢じゃ。
?
真っ赤になって半ベソかきながらぬえが怒っている。どうやら相
!
いる。
普段はあまり見掛けぬ子鼠なのだが、今日は珍しく姿を見せ、これ
また珍しく仏道修行などしている。格は高いらしいが所詮は鼠だ、な
どと見下していたマミゾウであったが、その座禅姿たるや、目を見張
るものがあった。流石は毘沙門天の補佐役を嘯くだけある。その姿
を見ているだけで、気付かぬ内に日が暮れてしまいそうになって、マ
﹂
ミゾウは慌てては目をぬえ達に戻した。
﹁ふむ、こうか⋮⋮アタシ、キレイ
﹁よーし、みんなに聞いて回ろう
﹂
﹁いやごめん、あたしが悪かった。スカートは捲らなくていいよ⋮⋮﹂
?
﹂
﹁馬鹿村紗。そう言うと自分も口裂けにされちゃうんだよ﹂
一輪に言われて、こころの方が驚いたようだ。
﹁そ、そうだったのか⋮⋮それなら、村紗の口を裂くしか⋮⋮
﹂
明らかに悪戯だと思ったのか、村紗はろくに見もせず生返事だ。
﹁うんうん、キレイキレイ﹂
ぐいい、と指で口を広げながら言うのである。
﹁アタシ、キレイ∼
にまずは声を掛けた。
こころ達はとてとてと駆け出し、屋根の修理をしていた村紗と一輪
!
けたらしい。
懲りぬ奴らである。
﹁何その呪文﹂
﹁はいはい、ポマードポマード﹂
﹁アタシ、キレイ∼
﹂
されて、二人はふらふらとした足取りでマミゾウの方にやって来た。
案の定、ここの空気まで震えるほどの、ものすんごい大きな声で返
﹁アタシ、キレイ∼
﹂
ぬえ達は正門のほうに行って、今度は山彦妖怪の幽谷響子に声を掛
ていた。
ぬえと一輪が止めに入り、事無きを得た村紗がホッと胸をなで下ろし
ギラリと光る包丁を取り出して、ぷるぷると震えるこころ。慌てて
!
24
?
?
?
﹂
意外と弱いな、口裂け女﹂
﹁こう言うと、口裂け女は退散するんじゃ。のう、ぬえ
﹁そう言えばそうだっけね﹂
﹁退治方法まで伝わってるなんて
?
﹁おい、そこのお前
アタシ、キレイ∼
﹂
その時、修行を終えたらしい例の子鼠、ナズーリンが通りかかった。
!
?
ナズーリンの奴、なんかあったのか
去ってしまった。
﹁なんだ
ぬえが首を捻った。
﹂
﹁分からない。でもあいつ、いつもああだ﹂
こころが口を尖らせている。
﹁こころお前、なんかやったんじゃないの
﹁何もしてない﹂
?
でいた。
﹂
﹁こころよ、あの子鼠はいつもああいう態度なのかの
マミゾウが問うと、こころはこくりと頷いた。
﹂
こころは無表情だが、困惑するぬえのスカートの裾をぎゅっと掴ん
﹁あいつ⋮⋮嫌い﹂
﹁あれぇ、いつも割とノリはいい奴なんだけどなぁ
?
﹂
とも思えないような冷酷な目でそれを一瞥すると、何も言わずに立ち
こころは同じ調子で問いかけをしたが、ナズーリンはこの世のもの
!
果は無かったようだ。気は重いまま変わる事は無い。しかし今はそ
この煩悩に打ち克つ為に聖に付き合ってもらったのだが、あまり効
る。
ている。逆に言えば、煩悩に囚われているから禅が必要になるのであ
聖はそう言って持ち上げるが、そんな事は無い。私は煩悩に囚われ
﹁流石ですね、ナズーリン。禅行も非の打ち所がありません﹂
た。
興味を覚えたマミゾウは静かに立ち上がり、件の子鼠の後を追っ
かったナズーリンであるが。
マミゾウの記憶の中では、寅丸星の腰巾着というイメージしか無
?
25
?
?
れでも構わない、そう思う事にする。悩み苦しむ事もまた生きるとい
う行為に他ならないだろうから。
そ う だ。気 は 重 い ま ま。変 わ る 事 な ど 無 い。あ っ て は な ら な い と
も思う。
これから、嫌な仕事が待っている。
﹁聖、今日は一日、ありがとう。助かったよ﹂
﹁ナズーリン⋮⋮﹂
﹁少し、やらなければならない事がある。もう行く事にするよ﹂
聖の口から弱気を肯定する言葉が出る前に、私はさっさと寺を離れ
た。
壺を取りに戻った無縁塚の私の家、その前に、見覚えのある影が
立っていた。
﹁やあ、鼠の大将﹂
佐渡の化け狸、二ッ岩マミゾウである。
私の彼女に対する印象は、有り体に言って﹁曲者﹂だった。
マミゾウはいかにも年長者らしい、慈悲と余裕に満ち溢れた優しい
笑みを浮かべている。が、眼鏡の奥に光る光は、油断なく私を品定め
していた。
﹁珍しいじゃないか。何か用かい、狸の大将﹂
しかし、歳を経た大妖怪に警戒されるというのも、悪い気持ちはし
ない。警戒は反感に繋がるが、敬意にも変わりうるからだ。
表面上は取り繕いながら、マミゾウは眼鏡を直す振りをして視線を
隠した。
﹁いや、何。珍しくおぬしの修行姿を見掛けたもんだからの。興味が
湧いてな﹂
﹁なんだい、仏教徒になろうってのかい﹂
﹁いや、そういうわけではないんだがの﹂
﹁要領を得ないな。まあ、いい。入りたまえ﹂
我が家のガタつく扉を開け、私はマミゾウを招き入れた。魂胆が見
えないが、構いはしない。丁度、話し相手が欲しい気分だった事もあ
り、私は囲炉裏に火を焚べ、茶を淹れてやる事にした。
26
﹁酒の方が良かったかな﹂
﹁いんや、まだ昼過ぎじゃ。茶のがいい。それに酒なら、自前のがある
わい﹂
大きな尻尾を丸めて座布団に胡座をかいたマミゾウは、自慢の瓢箪
を叩いて見せた。人好きのするその屈託の無い笑みは、彼女の武器な
のだろう。狸は人を騙くらかすと言うから。
粗末な鉄瓶からしゅんしゅんと水煙が立ち始め、私の肌を濡らす。
﹁意外と質素なんじゃな﹂
﹁何処かで景気の良い噂でも聞いていたのかい﹂
﹁お主のシノギは今や有名だからのう﹂
死体探偵。
その名が重くのしかかる。
﹁大体、命蓮寺に寄付しているからな。まあ、晩酌は豪勢になったが﹂
ニヤリと笑うと、マミゾウも膝を打って笑った。
﹁他人の死体で豪勢な飯を食うとは、業の深い鼠じゃのう﹂
マミゾウの言葉には激烈な毒が含まれていた。だが私は、さらりと
流した。
マミゾウは音に聞こえし大妖怪。争っても勝てる見込みなど無い。
湯が煮えた。
私が茶を淹れてやると、マミゾウはうまそうにそれを飲んだ。
﹁中々香り高い﹂
﹁茶葉は﹂ただの自虐だとは自覚している。﹁仕事先での貰い物さ﹂
﹁それも役得と言うところか﹂
挑発するように、にやにやとマミゾウが笑う。
﹁そうだな。まったく、役得だよ﹂
マミゾウの魂胆は分からないが、やりたい事は理解出来た。
だが、彼女には分かるまい。
彼女が私を責める事で、私の心は救われているのだという事など。
その後もマミゾウは世間話に毒を織り交ぜ、面白おかしく喋くりな
がら私を、死体探偵を嘲った。
曰く、
27
﹁他人の不幸で蔵を建てる﹂
だの、
﹁他人の生き血を啜る﹂
だのである。
尤もな意見なので、私はいちいちそれに頷いて見せた。マミゾウは
に こ に こ し な が ら 毒 入 り の 鋭 い 言 葉 の 剃 刀 で 私 を 切 り 刻 み 続 け た。
他人が見れば、痴呆の二人が笑顔で殴り合っているように見えた事だ
ろう。
﹁おっと、これから仕事があるんだった﹂
茶葉が出涸らしになる頃、私は席を立った。
﹁すまないな、狸の大将。折角来てくれて悪いのだが、この辺でお開き
にさせて貰いたい﹂
﹁ああ、構わんて﹂
マミゾウは席を立つ素振りを見せなかった。
﹂
許さん。鼠を甘く見ると死ぬぞ。私の鼠は龍にだって噛み付く、狸一
匹など造作も無い﹂
マミゾウは唖然として私を見ていたが、目を伏せると懐から手ぬぐ
いを取り出し、私へと差し出した。
知らず、私の両目からは涙が零れていた。
﹁すまん﹂
暫くして、私の身体の震えが止まった頃、マミゾウは静かにそう
28
仕方なく、私は変装して里に行く準備をした後、奥から例の壺を取
﹂
り出して来て、持ち運びやすいよう風呂敷で包んだ。
﹁依頼の品かえ
﹁なんじゃと
﹁次に同じ台詞を吐いてみろ。その舌をもぎ取ってやるぞ、化け狸﹂
私は手を止め、彼女を睨み付けた。
﹁そんなもんに高い金を出すなんざ、人間ってのは訳が分からんのう﹂
私が頷くと、マミゾウはまたもヘラヘラと笑いながら、言った。
﹁まあ、そんなところだ﹂
?
﹁私への批判は構わん、甘んじて受け入れよう。だがこれに対しては
?
言った。そうして、彼女は囲炉裏の火を焚べ直した。
﹁見苦しいだろう、情けないだろう、みっともないだろう。毘沙門天の
遣いなどと見栄を張っても、結局、私はただの妖獣さ。主のように悟
る事など出来はしない。煩悩の焔に身を焼かれ続けている、今も﹂
私は冷え切った茶を喉に流し込んで、息をついた。
﹁誰の差し金かは知らんが、これで満足かい、狸の大将﹂
マミゾウは首を振った。
﹁お主が虎の威光を笠に着て尊大に振舞っているのなら、少し意地悪
をしてやろう。そう思っただけじゃ﹂
﹁威光か﹂
あの天道を追ったところで、その身を焦がすだけだ。
しゅんしゅんと、鉄瓶が蒸気をあげる。静かな部屋で、その音だけ
が響き渡る。それは心地良くて、温かである。このまま時間が止まっ
てしまえばいい、そう思えるほどに。
﹂
29
﹁お主は面霊気が、秦こころが嫌いなのかえ﹂
﹁こころ
からこそ彼女は大妖怪と慕われるのだろう。その情義に命を懸けた
には勝てんという事だ。むしろ情に脆いとさえ言っていい。いや、だ
外の世界から鳴り物入りでやって来た大妖怪、佐渡の二ッ岩も、情
私は少し、笑ってしまった。
ければいかんのではないか﹂
めた、いわば子どものような妖怪じゃて。大人の我々が寛容にならな
てはくれんか。こころは最近になってようやく自我や感情を学び始
して、それをお主が気に入らないのだとしても、少し大目に見てやっ
﹁こころに当たるお主と、今のお主が重ならなくてのう。彼女が何か
私は何となく、壺を手元に引き寄せてしまった。
まるで子ども同士の喧嘩にしゃしゃり出る母親だ。
ろう。他人が言えた事ではないかもしれないが、お節介な狸である。
面霊気に冷たく当たる私に、マミゾウは意趣返しをしたかったのだ
﹁そういう事か。あんたは彼女の保護者役だったな﹂
突然の飛躍に私は眉を潜めたが、すぐに理解した。
?
いと思う者も、一人や二人ではあるまい。
だがマミゾウは根本的な勘違いをしている。
出涸らしに湯を注ぎ、私は茶、と言うより、色の付いた白湯を啜っ
た。
﹁こころか。あれは良い奴だな。あいつを見ていると、何というか、微
笑ましいよ。あんたが庇いたくなる気持ちもよく分かる﹂
私がそう言うと、マミゾウは一層、眉を潜めた。
﹁ならば、何故﹂
﹁マミゾウ。あんたの言う通りだ。私は大人だ、示し続けてやらねば
ならない。いつか、因果は応報するという事を﹂
湯呑みから湯気が立つ。
マミゾウの眼鏡が曇って、その視線が隠れてしまった。
彼女が伸ばした手が、壺に触れた。
﹁これは、何じゃ﹂
私は首を振った。
﹁忠告する。見ない方が良い﹂
それでもマミゾウは聞かず、風呂敷包みを破り棄て、壺の蓋を開け
た。
中を覗いたマミゾウは最初、あっ、と疑問の声を上げた。しかしす
ぐにその正体に思い当たったのか、顔付きが険しくなった。
﹁これは、まさか⋮⋮﹂
そう言って、下唇を噛む。
私は彼女の手から蓋を奪い取り、壺を封印して胸に抱いた。
﹁マミゾウ。あの寺は良いところだよな。聖の理想はこの身を委ねる
に足るし、星のご本尊振りも惚れ惚れする程見事だ。一輪も村紗も面
倒見がよくて人好きのする性格をしているし、ぬえや響子なんて見て
いるだけで楽しくなる。あの寺のみんなは優しいから、何時までもそ
の優しさに浸っていたくなってしまうよ﹂嗚呼、麗しの我等が命蓮寺
よ。﹁だけど、優しいだけじゃ正義にはなれない﹂
﹁ナズーリン﹂
﹁私はな、マミゾウ。正義の味方なんだ。正義ってのは冷酷だ。悪に
30
仏罰など下さんし、善に助力する事も無い。打ち拉がれた者に差し伸
べる手など持ち合わせん﹂
﹁⋮⋮ナズーリン﹂
﹁それでも私は、正義の味方だ。だから示し続けなければならん。こ
の世界はままならぬ。例え思慮無き力でも、振るえば必ず、誰かが傷
付くという事を﹂
﹁ナズーリン、分かった﹂マミゾウは右手を挙げて、顔を背けた。﹁分
かった。もう、いい⋮⋮﹂
マミゾウは自慢の瓢箪を取り出すと、口を付けた。酒に縋っても、
その顔は晴れない。晴れようが無い。
私は奥に行って、新しい風呂敷を取りだした。壺を包んで戻ると、
囲炉裏の火もろともマミゾウの姿は消えていた。
ありがとう。
そう言いそびれたのを、少し、悔いる。
一人だったら、この壺の重さを支えきれなかったかも知れない。
壺を抱え、紅葉を踏みしめ。私は里へと、依頼人の元へと向かった。
依頼人は商屋の娘だ。まだ年端も行かぬ。
私が壺を差し出すと、娘は大粒の涙を零した。
ごめんね。
ごめんね。
耳にこびり付く幼いその声。彼女は何度も謝っていた。壺の中の、
生まれ落ちる事すら叶わなかった息子へ。
通りかかった商屋の旦那、つまり娘の義父は、私を見掛けると怯え
て姿を隠した。以前に私が馬乗りになって奴の顔をしこたま殴りつ
け て や っ た の を 覚 え て い た ら し い。だ が、顔 の 腫 れ は 引 い て い た。
きっとすぐに忘れてしまうのだろう。男とはそういうもの。割を喰
うのはいつだって女なのだ。正義の味方のはずの私に出来ることな
ど、何も無い。
それでも、義父は人格者である。平素通りの正気ならば、こんなこ
とを仕出かしたりはしなかったろう。
誰が悪い訳じゃない。
31
しかし、面霊気の引き起こした、人々の感情の暴走││あの熱狂は、
未だ記憶に新しい。
心が定まらず、私は幻想郷中をふらふらと歩き回った。無縁塚の
掘っ建て小屋に戻った時、既に細い月が中天にかかる深夜になってい
た。
無性に喉が渇いた私は、酒のあてにチーズを求めたが、こんな日に
限って切らしてしまっていた。仕方無しに、徳利とお猪口だけの晩酌
とする。
口を付けると、苦味が口一杯に広がって⋮⋮私はお猪口を思い切り
壁に叩きつけた。陶器の砕ける鋭い音が、こころの悲鳴に重なって、
堪えきれず、私は身体を震わせてしまった。
32
スマイル、オンリー・フォー・ユー
私は三日に一度は星鼠亭に立ち寄る事にしている。新しい依頼が
無いか、確かめる為だ。
星鼠亭は人里にある。と言っても、その外れも外れ、辛うじて里の
内側に建っていると言えなくもない、そんな場所である。そこは、人
里と林の境界。必然的に人通りは少ない。
なんでそんな所に建っているのかと言うと、安かったからだ。いや
安いなんてもんじゃない、タダ同然だった。好んで里の外れに住もう
なんて奴はいないからだろう。里の外れ近くに住むという事は、妖怪
の近くに住むという事と同義なのである。
もちろんその分、建物は狭く安普請である。五坪程の敷地に建てら
れた板張りの小屋。塗装もされていない壁は、侵食により所々腐って
33
いる。私の掘っ建て小屋よりも酷い有様なのだ。しかし、別に毎日寝
泊まりするわけでもなし、里での活動拠点が欲しかっただけの私には
それで十分である。
初めてあの建物を紹介された時は、中に鼠がわんさか居て、紹介し
た大家の方が腰を抜かしていたっけ。お前たち、こんな所でサボって
たのか。あの時はその言葉を飲み込むのに必死だったな。
まあ、そんな隅っこに建っているお陰で、命蓮寺や私の掘っ建て小
屋からアクセスはしやすい。里の門をくぐり、ほんの少し歩けばすぐ
見えてくる。ほら、もう見えた。大きな看板には、雲山の大きな字で
﹃星鼠亭﹄。必要以上に力強いが、気に入っている。
星鼠亭の建物は昔、煙草か何かの小売店だったらしく、小さな売り
台が備え付けられている。
その中に、人影があった。
﹂
﹁⋮⋮何をしてるんだい﹂
﹁ふにゃっ
てから、目を擦りつつこちらに顔を向けた。頭に蓮の花の冠を乗せ、
居眠りしていた寅丸星が寝惚けて奇声を上げる。大きく伸びをし
?
右手には鉾を持つ毘沙門天スタイルをしている。所謂、他所行きの格
好だ。
星は虎の妖獣に過ぎないのだが、毘沙門天の代理として命蓮寺の本
今日はいつもと違う格好
尊となり、しかもその役を見事にこなしている。
﹂
﹁おお、ナズナズではないですか。おや
ですね。イメチェンですか
?
う、星﹂
﹁そんな事にはなりませんよ﹂
た聖を魔界に封印するつもりかい
﹂
は見ない。それは君が一番良く分かっているはずではないかな。ま
﹁私だってそうだ。必要とされるからやっている。しかし世間はそう
存外、星はしつこい。
﹁私は貴女のしている事を恥ずかしい事だとは思いませんが﹂
る。
脳天気な虎坊主は無視して、私は投書箱を開けた。一通、入ってい
のほほんと笑う星を見て、ため息が出た。
﹁まあ、それもまた良いではないですか。本当の事ですし﹂
どうするんだ﹂
﹁命蓮寺のご本尊が死体探偵の片棒を担いでる、なんて噂が立ったら
﹁そうでしたっけ
﹂
﹁変装してるんだ。君もここに来る時は変装してから来いと言ったろ
?
﹁驚きました
﹂
﹁⋮⋮なんだい、これは﹂
﹃ナズーリンさん、いつもありがとう﹄
封書を開けて、中の便箋を取り出し、広げてみる。
?
発想が可愛らしい事は認めるが、お互い大人である。もう少し別の労
い方というのがあるだろうに。
﹁そうさな、一緒に小判でも入れておいてくれれば、もっとびっくりし
たかな﹂
﹁なるほど。次回、考慮しましょう﹂
34
?
星 は ニ コ ニ コ 笑 っ て 私 を 見 て い る。星 が 書 い て 入 れ た の だ ろ う。
?
こんな所で、何しているんだい
﹂
星の手紙を懐にしまって、私は売り台に肘を預けた。
﹁で
﹁お店番です﹂
星は満面の笑みで返すが、
﹁そそそ、そんな事ありませんよ
私は頑張っているナズナズの為
私に言い当てられて、すぐに目が泳ぎ始めた。
んだろう﹂
﹁嘘つけ。どうせ買い出しついでにこっそり買った甘味でも喰ってた
?
﹁なんだい
﹂
今度は何宝塔を失くしたんだ
団子宝塔か、あんみ
﹁しかしナズーリン、用事があるのは本当です﹂
言えなくもないが、毘沙門天にはもっと威厳が必要だろう。
そして言い訳とやり込められ方まで同じくらい幼い。微笑ましいと
シ ュ ン と し て 俯 く 星。こ い つ の 嘘 は 子 ど も と 同 じ レ ベ ル で あ る。
なくて⋮⋮﹂
﹁うう⋮⋮。す、すみません⋮⋮。焼きたてのお団子の匂いには勝て
うぞ﹂
﹁毘沙門天の化身が嘘なんかついて良いと思ってるのか。報告しちゃ
に、少しでも何かできる事はないかと思ってですね⋮⋮﹂
!
?
あれ⋮⋮﹂
真っ青になって周りをキョロキョロし始める星。
私が溜め息を吐いてしまうのも、仕方がない事だと思わないかい
﹁後ろだ、後ろ﹂
やすい奴である。
?
人呼んで、寅丸キャンディ。
は、虎柄の包み紙に包まれたキャンディである。
誤魔化す様に言いながら、ポケットをごそごそやって取り出したの
﹁あっ、そうだ。ナズナズ、アメちゃん食べます
﹂
振り返って宝塔を手に取り、心底ほっとした様に星は言う。分かり
﹁えっ⋮⋮あ、ああ。嫌だなぁ、分かってましたよ。冗談ですよ、冗談﹂
?
﹁ちちち、違いますよ、宝塔ならちゃんと此処に在りますし⋮⋮って、
つ宝塔か
?
?
35
?
体中の産毛がゾォっと逆立った。
﹂
﹁き、君はまたそれを配ってるのかい、危険だからやめろと言っただろ
う
寅丸キャンディは妖怪の脳細胞とプライドを蕩かす恐るべき劇薬
である。食べると脳の幸福中枢がこれでもかと刺激され、どんなクー
ルな妖怪も強制的に破顔するという一品だ。一口舐めたぬえがヨダ
﹂
響子とかこころとか、特にぬえには好評だった
レを垂らしながらアヘ顔ダブルピースしていたのを目撃した事があ
る。あな恐ろしや。
﹁えー、そうですか
んですけどねぇ﹂
ぬえ⋮⋮。
﹁わ、私はいらん、絶対にいらんからな
しかし、温泉か。何とも甘美な響きであるが。
無表情の方が珍しい。
星 は 満 面 の 笑 み で あ る。こ い つ の ナ チ ュ ラ ル フ ェ イ ス は 笑 顔 だ。
﹁とあるツテで手に入れたんです。一緒に行きましょうよ、ナズナズ﹂
表面には﹁温泉宿一泊ペアチケット﹂とある。
だった。
またもやポケットから取り出したのは、皺くちゃになった紙切れ
﹁ええ、これです﹂
﹁本当に用事があったのか﹂
があるんでした、ストンと忘れてました﹂
﹁あっ、と﹂私が言うと、星はポンと手を叩いた。﹁そうでした、用事
﹁しかし、そんなアメを配りにここまで来たのかい。酔狂だな﹂
ろだ。自分で食べるつもりは毛頭無いが。
りに食べさせたら、一体どうなるのだろう⋮⋮。非常に気になるとこ
しかし、興味が無いと言ったら嘘になる。凶悪と名高い花の妖怪辺
を撫で下ろした。
星は悲しそうな顔でキャンディをポケットにしまい、私はほっと胸
﹁そんなぁ⋮⋮。折角ナズナズに食べて貰おうと思ったのに﹂
!
?
﹁いや、君の良い人と行ってきたまえよ﹂
36
!
こういうのはそういう人と行くべきものではなかろうか。
﹁ええ、だからナズナズと行こうかと﹂
星はあっけらかんとそう言い放つ。私は頭を抱えた。
星はもう本当に、そういう所が駄目だ、駄目駄目だ。体格に恵まれ、
しかも万人受けのするキリリと凛々しくも丸く可愛らしい顔立ちを
していると言うのに。いくら仏教徒で出家者と言えども、今時分、独
身を貫く者など少ないだろう。というか、星が代理を務めている毘沙
門天も妻帯者であるし。
これから行きましょうよ﹂
﹁君は、アレだなぁ。君はホントに⋮⋮アレだなぁ﹂
朴念仁にも程がある。
﹁ナズナズも温泉、好きだったでしょう
﹁おいおい、しかも今から行くのかよ。私はこれから仕事があるんだ
が﹂
﹁依頼なんて無かったじゃないですか﹂
﹁溜まってるのが有るんだよ﹂
﹂
﹁サボりましょう﹂
﹁あぁ
﹂
﹁あのな、君や聖達の無駄遣いのせいで、命蓮寺の家計は火の車だって
こと、ちゃんと理解してるのかい
﹁それはそれ、これはこれです﹂
門天の名において
﹂
﹁ナズーリン、今日、貴女は労働をしてはいけない日と定めます。毘沙
﹁いやいやいや。私の労働の理由を無かったことにしないでくれよ﹂
?
見た目によらず、頑固なのである。
か、一度こうだと決めたら絶対に曲げようとしない奴なのだ。柔和な
崩れぬ笑顔で優しく威圧してくる。本当に星はしつこい。と言う
﹁とにかく行きましょう﹂
﹁職権乱用だぞ、それは﹂
!
37
?
ニコニコ。星は太陽の様に笑っている。
﹁今日くらい、いいじゃないですか﹂
何を言い出すんだ、こいつは。
?
私はもう、溜め息を吐くしかない。
多聞天の化身としては聞き捨てなりませんね。温泉
﹁君は人の話を聞かないなぁ﹂
﹁そうですか
につかりながら、ゆっくりと議論しましょう﹂
﹁私の都合はお構い無しかい﹂
﹁だってほら、ナズーリン、見てくださいよ﹂
星の滑らかで白く華奢な指が、天を指す。
釣られて、私は空を見上げてしまった。
突き抜けるような、雲ひとつない蒼天。飛び出せば、何処までも行
けそう⋮⋮そんな気を起こさせる。
私は一瞬、自分の身体の重さを忘れてしまった。
﹁こんなにも空が青いんです。だから、ねえ、一緒に行きましょう、ナ
ズーリン﹂
売り台をひらりと軽やかに飛び越え、星は私の手を取って歩き出し
た。重さを忘れた私の足は、そんな星へと付き従ってしまう。私の心
は一瞬で仕事の重責を放棄してしまったのだ。
﹁まったく、君と言う奴は﹂頬が緩むのを自覚する、少し熱を帯びるの
も。﹁毘沙門天信仰の御利益を、サボタージュにするつもりかい﹂
﹁素敵な御利益じゃないですか﹂
﹁ヤバいな、信仰しちゃいそうだよ﹂
腕を引く星の強引さを、ほんの少しだけ心地良いと思ったのは、口
が裂けても言えやしない。
やれ団子が美味かったやら、しまった鉾を忘れて来たやら、私達は
取り留めの無い会話をしながら件の温泉宿に向かった。︵もちろん、
繋いだ手はすぐに放したとも。恥ずかしいだろう︶
目的の宿は、妖怪の山の麓に最近出来た温泉街の中にある。何で
も、地中から巨大な宝船が現れた際に湯が噴き出したそうで、効能は
皮膚疾患と美肌に金欠と謳っている。巨大な宝船⋮⋮我等が命蓮寺
所有の聖輦船の事だな。つまり我々にも縁がある街なのである。
その温泉街は人も妖怪も両方相手にしており、道行く影には明らか
な人外も多いのだが、人間達は恐れる風でもなく、普通に接している。
38
?
効能に美肌を謳っているせいか、若い娘も多い。何でも、街の人間は
妖怪達と条約を交わしているらしく、妖怪は温泉客を絶対に襲わない
約束になっているらしい。このような中立地帯は各地に結構あった
りする。狭い幻想郷、人間は怖い相手とも逞しく付き合わなければな
らないのだろう。
この温泉街、実は今、人里でかなり話題になっている。何でも、か
の聖徳王が宿泊し大層気に入ったそうで、聖徳王の名の下、人里から
の安全な通行路が整備されたのである。もちろん、妖怪はその途上で
人間を襲う事を禁止されているし、人間も妖怪や妖精を挑発、調伏す
る事が禁止されている。このルールはかなり徹底されていて、人間側
の聖徳王もさる事ながら、妖怪側にも相当な実力者がパトロンに付い
ている事が伺える。
﹁やあ、キンモクセイの甘い香りがしますね﹂
﹁秋咲きのバラも見事だな。花の温泉郷とはよく言ったものだ﹂
39
温泉郷は至る所に四季の花が飾られ、甘い香りと湯の香りが混ざ
り、独特の空気を作り出している。空気が変われば気分も変わるとい
うもの。歩いているだけで夢見心地だ。なるほど、これなら妖怪も人
を襲う気分にはならないな。
空には天狗が気ままに飛び交い、川には妖精達が石投げ遊び。河童
の土産物屋を冷やかすのは人間の娘達だ。里では見られない光景で
あるが、なかなか様になっている。聖徳王、あの色情魔も、たまには
粋な計らいをするじゃあないか。
﹁なんでも、今日の宿には名物があるらしいですよ。確か、かにチーズ
楽しみですねぇ﹂
なんだその組み合わせは﹂
まんとか﹂
﹁えぇ
﹁ナズナズ、チーズ好きでしょう
﹂
だらり、よだれを垂らしながら、ハングリタイガーが顔をとろけさ
﹁おまんじゅうですよ、おまんじゅう﹂
星が指さした先には、蒸かし煙を撒き散らす、温泉まんじゅう屋が。
﹁あっ
﹁残念だが、私はチーズなんて色の薄いものは好かん﹂
?
?
!
せている。
﹁かにチーズまんはないのか﹂
中身は普通の餡子のようである。
﹁一個買っていきましょうよぉ﹂
﹁かにチーズまんが食べられなくなるぞ﹂
﹁別腹ですよ﹂
﹂
一個と言いつつ、星は三個も買った。
﹁ナズナズも一個、どうです
﹁いや、私はいいよ。かにチーズまんが食べられなくなるからな﹂
しかもその三個を瞬く間に平らげてしまった。惚れ惚れするほど
の食べっぷりに、見ている私のお腹もぐぅと鳴る。
﹁ああ、ここですよ、ここ﹂
星が立ち止まったのは、温泉郷の中でも一際小さな民宿だった。し
かし、軒先は綺麗に掃除され、飾られた花の手入れも行き届いている。
何より、少し外れにあって喧騒から離れているというのが良い。
﹁ここが、かにチーズまんか﹂
八目鰻と書かれた提灯の隣にはためく、カニとチーズのかわいいイ
ラストがついた幟。好印象である。
民宿を経営しているのは何と響子と夜雀で、秋から冬の間に不定期
に宿を開いているらしい。そんな適当な経営で大丈夫かと思うが、彼
女達﹁鳥獣戯楽﹂が開いているコンサートの客をターゲットにしてい
るので問題ないと言う。
﹁なるほど、ツテってのはこれか﹂
﹁まあ、そんなところです﹂
この宿は妖精や弱小妖怪達を給仕に雇っているようで、狼女や蛍の
妖怪が割烹着姿でちょこまかと可愛く走り回っていた。しかし、私達
を部屋へ案内した人魚の給仕が、びたんびたんと飛び跳ねながら廊下
を進む様には、流石の星も微妙な顔をしていた。
荷物を置いて人心地ついた私達は、早速温泉へと向かった。
宿の小ささに似合わず、岩造りの露天風呂は広々としていて、しか
も面した谷を一望出来ると来た。秋の赤く色付く美しい木々を見な
40
?
がら、日本酒を片手に早風呂なんて洒落ている。
しかし、温泉は何と混浴だった。なるほど、
﹁鳥獣戯楽﹂のアイドル
二人と混浴出来る︵かもしれない︶宿なら、客もわんさか集まろう。夜
雀も体を張っているなぁ。
﹁いやあ、良いところですねぇ﹂
湯に浸かり、だらしなく弛緩した顔で星が言う。体に巻いたバスタ
オルから豊満な胸が溢れて大売り出し状態になっている。男の客が
居なくて良かった、こいつはそういうの、本当に気にしない奴だから
な。まあ、誰も見ていないので、小言を言うのはやめにしよう。時間
も少し早いからか、幸い客も少なく、温泉は貸し切り状態だったのだ。
しかし、星の奴、また成長したんじゃなかろうか。一体いつまで成長
するつもりだ、こいつは。
温泉は私好みの熱めの湯。体の芯から疲れと穢れが染み出して行
くようだ。浮かべられたバラの花弁が甘い香りを放ち、天にも昇る心
地である。空には気の早い白月が顔を出していて、羨ましそうに私達
を眺めていた。
湯に浮かべたお盆の上のお銚子をとり、お猪口に一献、注ぐ。美味
い。後味のすっきりとした辛口の日本酒は、夜雀に勧められたもの。
小鳥の癖に、なかなか物が分かっている。嗚呼、私、駄目になってし
まいそうだなぁ。
﹁私にも下さい﹂
星が言う。
﹁おいおい、戒律はいいのか﹂
﹁般若湯ですよぅ﹂
﹁まったく⋮⋮﹂
星が酒をせがむのは珍しい。私は少し意外に思いながらも、お猪口
に酒を注いでやった。
星はそれを呷ると、空を見上げた。
﹁ねえ、ナズーリン﹂
吐き出す息が、白く溶けた。
その様子に、私は思わず居住まいを正した。
41
﹁貴女は仏教を信じていますか﹂
﹁何だい、藪から棒に﹂
﹁仏教の正しさを、心の底から信じられていますか﹂
笑顔ではない。表情が抜け落ちている。
﹁私は毘沙門天の弟子だぞ﹂
答えにならない答えで返す、それしか出来なかった。
星がやけにしつこく私を誘ったのは、この問いを発せんが為だった
のか。
﹁私はですね、聖を尊敬しています。彼女のようになりたいなぁと、そ
う思うんですよ。彼女は私の目標なんです。彼女を追って仏道に入
り、彼女を追って修行して。かつての私は、彼女の歩いた道をなぞっ
ているだけでした。今も、ひょっとしたら﹂
﹁毘沙門天が聞いたら怒るぞ。何で俺を目標にしないんだ、ってな﹂
﹁でもそれって﹂私の茶化しも、今の星には通じなかった。﹁仏教を信
仰していると言えるんでしょうか。貴女はどう思いますか、ナズーリ
ン﹂
視線は天に預けたまま。星は涅槃に至ったかのような、静かな顔を
し て い る。そ の 後 ろ に、後 光 が 差 す。幻 で は な い。そ れ は 智 慧 の 光
だ。
﹁さあな。私には分からん﹂
私は光から目を背けた。
私は、卑怯で矮小な鼠だ。
﹁貴女は仏教など信じていない、そう思っているんじゃないですか﹂
背に投げかけられた言葉から逃げるように、私は湯から上がった。
星は静かに私の後に従う。
浴衣に着替え、私達は部屋に戻った。
沈黙が私を責め続ける。
淹れた茶を飲み干しても、味がしなかった。私は動揺しているの
だ。星に言われた事は図星だった。私は本当は、仏教など信じていな
い。
仏教の境地は、言わば諦めであろう。欲を捨て、全てを諦め、ある
42
がままを受け入れて、心の平穏を手に入れる。結局の所、それが悟り
と呼ばれるものではないのか。
だが、涅槃に至り入定する事が、果たして正しい事なのだろうか。
この世界はままならぬ。
聖は妖怪にも信仰と安らぎを与え、人間との架け橋となるべく尽力
した。その結果、彼女は魔界に封印される事となった。他ならぬ人間
の手によって。
私が探してきた迷子たちもそうだ。理不尽に死を与えられ、打ち捨
てられた者。悲劇によって形造られ、それ故生まれ落ちる事すら叶わ
なかった者。
遠い未来に衆生を救うと言われる弥勒菩薩は、何故彼らを救わな
かったのか。彼らに救う価値など無いと、そう切り捨てるつもりなの
か。そんな冷酷が許されるというのか。
毘沙門天。私を救ってくれた光を、私は追った。それが正義だと信
43
じた。
しかし、現実が変わる事は無かった。
聖は封印されても己を曲げず、布教に尽力し続けている。星は毘沙
門天の代理として、彼女を崇める人々に心の安らぎを与え続けてい
る。燐や青娥だって、迷える魂に行き場を与えている。
現実を救い続ける彼女達こそが、本当の正義なのではないか。
私の、私が信じたあの光は、こんなにも鈍く冷たいものだったと言
うのか。
﹁そうだよ、星。君の推測は正しい。私は仏教なんざ、これっぽっちも
信じちゃいない﹂
私は絞り出すように、そう告白した。
湯から出て時間が経ち、体は冷え切っている。だが、頭は熱を帯び、
感情は昂っていた。
﹁信仰は誰も救わない。少なくとも、私を救ってはくれなかった﹂
私は笑った。乾いた笑いだった。
﹁いつもと立場が逆だな。毘沙門天に報告するかい そうすれば、
私は確実に破門される。小煩い鼠を消す事が出来るぞ﹂
?
何という皮肉だ。毘沙門天の弟子を名乗る私が、誰よりも彼を信じ
ていないなんて。
私の言葉が終わるのを根気よく待っていた星は、静かに微笑んだ。
﹁貴女が天道を追い求めてその身を焦がしている事、私は知っていま
す。死体探偵、その使命と汚名に潰されそうになっている事も。理想
と現実の著しい乖離、貴女がそれにたった一人で立ち向かっている事
だって。ねえ、ナズーリン。私も貴女と同じです。毘沙門天様を恨ん
だこともありました。聖が封印された時。私達の寺から信徒が離れ、
私と貴女の二人ぼっちになった時。戦争が起こった時、飢饉が起こっ
た時。二人で必死に山のような数の死者を弔い続けたあの時。いつ
もいつでも、私を助けてくれる味方はいませんでした。ナズーリン、
貴女以外には﹂
その時の星の笑みは、私が憎悪し恋焦がれる、あの毘沙門天のそれ
と同じに見えた。私は畏怖さえ覚えて、獣を超え人を超え、仏神の境
地に至ろうとしている友に、目を見張った。
﹁私にとって、正義の味方は貴女です。貴女だけなんです。だから、ね
え、ナズーリン。負けないで下さい。きっと貴女の苦しみが、他の誰
かの救いに繋がっているんです。その迷いや苦しみを貴女一人で抱
えきれない時には、私が半分支えてあげます。今までもずっと、そう
して来たように。例え貴女がそれを望まなくなったとしても、勝手に
半分こしちゃいますから﹂
微笑みながら、星はポロポロと涙を零した。何故泣いているのか、
私には理解が出来ない。きっと未来永劫理解出来ないのかもしれな
い。だが、ほんの少しだけ、胸が軽くなった気がする。ほんの少し、鼠
一匹分くらい⋮⋮。
彼女は優しすぎる。正義は冷酷でなければならない。星は毘沙門
天にはなれないだろう。
きっと彼女は、それ以上のものにしかなれないのだ。
﹁私もまだまだ精進が足りませんね。心の底から、教えに帰依する事
が出来ません。私に出来るのは、誰かを信じる事くらいです。聖を、
命蓮寺のみんなを、貴女を﹂
44
﹁帰依か。本当の意味でそれが出来るのは、悟りを開いた者だけだろ
う。君も私も、それには遠いようだ﹂
﹁そういう意味では、私達は仏道の途上にいるのでしょう﹂
﹁強引なこじつけだな﹂
﹁貴女に﹂涙を拭いた星は、また太陽のように微笑んだ。﹁遠くへ行っ
て欲しくないんですよ。今は、まだ﹂
それは、私だって同じさ。
その言葉を、口にする事が出来なかった。私は星のようにはなれな
い。せめて笑いかけようにも、視界が滲んで上手くいかない。
﹁なあ、あれ、くれよ。今朝のさ﹂
﹂
目頭を押さえて、私は星にせがんだ。
﹁キャンディ、ですか
﹁ああ﹂
ポケットから、虎柄の包み紙を二つ。
﹁い い ん で す か ナ ズ ナ ズ。か に チ ー ズ ま ん、食 べ ら れ な く な っ
ちゃいますよ﹂
﹁別腹さ﹂
二人揃って、キャンディを口に入れる。
ふやけた顔で、星が笑った。
﹁甘いですねぇ﹂
﹁ああ、甘いなぁ﹂
45
?
﹁じゃあ私も、別腹です﹂
?
アンインテンショナル・シンズ
人間が死ぬという事には、様々な原因があるものだ。病や事故、寿
命。恋の病なんてロマンチックな死因もあるし、時には人間同士で殺
し合う事もある。
外の世界では、その同胞同士の殺し合いが人口減の大きな理由に
なった時期もある。人間の数は多いが、この宇宙全体から見ればちっ
ぽけなものであるというのに、勝手知ったる少ない同胞と何故争うの
か。世は正に無常である。
しかし、殊この幻想郷に限って言えば、人死にの大きな理由の一つ
に、妖怪による被害が挙げられる。
妖怪は人を殺すものであるのだ。
それを好むと、好まざるとに関わらず。
今宵も私は、例によって死体を探していた。
今回の依頼は、至極簡単に思えた。探す必要が無いからだ。場所が
特定されていたのである。
ふらりと出かけて行った少年が、いつまで経っても帰らないと言
う。集 落 の 人 間 は 皆、口 を 揃 え て 言 っ た。き っ と あ の 道 を 通 っ た の
だ、と。
妖怪の山へと続く幾つもの道筋の中の、一際草深い荒れた道。この
道は、地元の人間達から人死の出る道と恐れられている。妖精や妖怪
に惑わされ、崖から落ちて死ぬらしい。
私に依頼が来たのはその為で、地元の人間は怖がって捜索に行かな
いのだ。みな我が身が惜しいのである。なら、私は死んでもいいって
事かい⋮⋮そう突っ込んでやりたくなるが、その通り、死んだって構
わないから私に頼んだのだろう。その為の死体探偵なのだから。だ
から私は、黙ってロッドを握りしめるのだ。
月の下、件の荒れ道を歩いていると、ふと、甘い香りが漂ってきた。
桃の香だ。
46
この時期に旬を迎える黄桃のような柔らかな香りではなく、白桃の
それを煮詰めたような、脳が痺れる程の甘い甘い香りである。
興味を惹かれて、私は匂いの元を追い求めた。草を掻き分け、道無
き道へと入り込む。少し汗が吹き出てきた頃になって、私は険しい岩
場に囲まれた隠し湯を見つけた。これは想定外のお宝だぞと、胸を躍
らせて近寄る。しかし、そこには先客がいた。
それは、我が目を疑うほどに美しい女性だった。
月光を浴びるしなやかな肢体。しっとりと湯に濡れるきめ細やか
な肌は、私の視線をすら滑らかに受け止めて、妖艶に揺らめいている。
藍色の髪から滴り落ちる雫が、球雷のようにきらきらと弾けて、一糸
纏わぬ姿だというのに華やかですらあった。湯煙が彼女のナイトド
レス。長い睫毛を瞬かせ、湯面に映った月を眺めるその表情は、まる
でラファエロの名画からそのまま抜け出して来たかのよう。
ふと気付くと、私の足元には彼女が脱ぎ捨てたのであろう桃色の羽
私の羽衣
﹂
恐る恐る近づいて、私の足元から羽衣を奪うと、彼女は急いで岩陰
に隠れた。別に倒錯趣味も無いので、彼女が服を着る間、私は手近の
岩に腰掛け、湯面に揺蕩う月を眺めていた。良い湯、良い風情である。
私も仕事が無ければなあ。
やがて桃色の羽衣を纏った彼女、永江衣玖がバツの悪そうな顔で姿
を現し、私と同じように向かいの岩にちょこんと腰掛けた。
そよぐ風に乗る、桃の香。どうやらこれは衣玖の香りだったよう
47
衣が畳まれて置かれていた。伝説の通り、天女というものは湯浴みが
好きらしい。何とも無防備な事だ。
﹂
私の存在に気付いたのか、彼女はきゃっ、と声を上げた。
﹁だ、誰ですか
﹁か、返して下さい
!
﹁私は泥棒じゃない。取ったりしないよ﹂
!
私の足元にある羽衣を認めて、彼女は慌てたらしい。
たと思ったんだが、先客がいたとはね﹂
﹁邪魔して済まなかったな。私は出歯亀じゃないよ。隠し湯を見つけ
その慌て様がなんだか少し可笑しくて、苦笑しながら私は言った。
!
だ。天女ってのは、妙な体質を持っているものだな。
﹁良さげな湯だな。隠し湯ってのには、憧れてたんだ﹂
﹁はあ﹂
声を掛けると、衣玖はぼんやりと頷いた。
﹁今日はツイてる。こんなお宝の他に、空飛ぶレアアイテムさんにも
お目に掛かれるとはね﹂
竜宮の使いと称される妖怪である永江衣玖は、普段は雲の波間を
漂って滅多に人前に姿を現さず、かつてはその姿形を知る者すら少な
かったらしい。しかし、天狗の新聞にその姿を激写されてからという
もの、その類い稀な美しさが評判を呼び、一気に有名になった。人里
にはファンクラブまであるという。会員であるぬえからしつっこく
勧誘を受けたので知っている。
﹁少し聞きたい事があるんだが﹂
﹂
私がそう言うと、衣玖はおもむろに立ち上がり、私の前に跪いて
﹂
﹂
むしろ据え膳食わねば武士の恥
﹁殿方にあられもない姿を見られるなど、乙女の恥。この上は契りを
結んでいただくしかありません
とも言います、さあ。さあさあさあ
鼻息荒くまくしたてるのである。
⋮⋮まったく。
!
!
48
言った。
﹁ふ、不束者ですが、よろしくお願いします
﹁そうはいきません
﹁いや別に、羽衣は取ってないだろう。勝手にやってくれよ﹂
あったな。
あ あ ⋮⋮ あ れ か。そ う 言 え ば、羽 衣 伝 説 っ て の に は そ う い う 話 も
﹁ヨメとな﹂
⋮⋮﹂
﹁あ、あ の よ う な 様 を 見 ら れ て は、お ヨ メ に も ら っ て い た だ く し か
﹁⋮⋮何を言っているんだい、君は﹂
私はと言えば、目をしばたかせて眉をくねらすしかない。
!
ずい、と衣玖が顔を近付けてくる。一層強くなる桃の香。むせる。
!
﹁私も女なんだが﹂
﹁えっ﹂
﹁見りゃ分かるだろう、スカート履いてるじゃないか﹂
﹁男の娘なのかと⋮⋮﹂
﹁何処をどう捻ればそういう考えが浮かんで来るんだい﹂
まあ、少年に間違えられるのはよくある事なのだがな、腹立たしい
事に。
衣玖は、腐った。
君にとっても相手にとっても不幸でし
﹁そんなぁ⋮⋮せっかく背が低くて可愛い旦那様が出来ると思ったの
に⋮⋮﹂
こいつ、ショタコンか。
﹁児童淫行はやめておけよ
かないぞ﹂
﹂
水浴びってのは、天女にとって婚活の一種なのかい
﹁な、何言ってるんですか、そんなことしませんよ
﹁あれなのか
﹂
!
?
﹁ちちち、違いますよ、滅相もありません
﹂
い。言ったろ、ちょっと聞きたい事があるんだ﹂
私が名乗ると、衣玖は眉をひそめた。
?
﹁汚名ってのは風に乗るのが得意らしいな。天界にまで届いてるとは
﹁もしかして。貴女があの有名な、死体探偵ですか
﹂
﹁そりゃ気の毒にな。だが、そんな事はどうでもいいんだ、興味がな
縁遠い、か。少し分かる気もする。衣玖は美しすぎるのだ。
自虐的にそう言うと、衣玖はしょんぼりと肩をすくめた。
遠いと言うのに、ますます殿方が遠のいてしまいます⋮⋮﹂
﹁ちょっ、ホント、その噂流すのだけはやめて下さいね。ただでさえ縁
ないんだが﹂
﹁まあ君が婚活しようが児童淫行でしょっぴかれようが、私には関係
今度ぬえに教えてやろう、天女が婚活してるって。
両手を振って否定する衣玖だが、その大袈裟な身振りは逆効果だ。
!
49
?
まるで獲物が巣に掛かるのを待ち受ける毒蜘蛛のようだな。
?
ね﹂
﹁そうですか、貴女が⋮⋮。こんなに夜遅くまでお仕事なんて、大変で
すね﹂
﹁最近、少し金欠気味でね﹂
⋮⋮まさか食事代が宿代と別だとは思わなかった。まったく夜雀
の奴、やってくれる。
私は件の少年を見掛けなかったか衣玖に尋ねた。
﹂
﹁年の頃は十四、五歳と言った所だ。君のストライクゾーンからは少
し外れてるかな
この近くの道を通ったと思うんだが﹂
﹁いや、ホント、もう許してください⋮⋮﹂
﹁とにかく、見なかったかい
衣玖は首を振った。
﹂
?
﹁そうですか
でしたら、良いのですが﹂
﹁ありがとう。とても参考になったよ﹂
いだろう。
しれない。衣玖の美しさならば、少年一人を虜にするくらい造作もな
恐らく少年は出歯亀をしていたのだ。衣玖に恋をしていたのかも
だったが、そういう事だったのか。
何故少年が、人死にが出ると恐れられる道へ立ち入ったのか疑問
⋮⋮なるほど。
近は夜に湯浴みをしていたんですけれど﹂
んだか視線を感じるようになって。怖かったんですよね。それで最
﹁ちょっと前まで、お昼にここで湯浴みをしていたんですけど、近頃な
ポンと手を打つ衣玖。
﹁変わった事、ですか。⋮⋮あ﹂
﹁なら、何か変わったことは無かったかい
﹁いいえ。すみません、残念ですが、見た事も聞いた事もありません﹂
?
﹁ナズーリンさん。貴女が例の死体探偵であるのならば、近々、またお
会いするかもしれません。私は龍神さまのお言葉をしかるべき方に
お伝えする役割を担っておりますので﹂
50
?
衣玖は姿勢を正し、急に真面目な顔になって言った。
?
﹁龍神が
私に何か用ってのかい
﹂
人死にの出る道、そう恐れられるのも納得出来る程の数の犠牲者
彼だけではない。
そこには、件の少年が横たわっていた。
飛翔術を使い、私はゆっくりと崖下に降りた。
たようだ。
であろうと、危なかったかもしれない。またも小傘のロッドに救われ
飛翔術を使う間も無かった。あのまま落ちていたら、いくら妖の身
のまま息を吐いた。
だ。全体重が掛かった右腕に走る痛みに堪えながら、私は宙ぶらりん
握りしめた小傘のロッドが、崖にしがみつく古木に引っかかったの
しかし、軽い衝撃と共に、落下は途中で止まった。
力に従って自由落下を始めていた。
自分の発した声が上から聞こえる。足を踏み外した私の身体は、重
と思った時には遅かった。
﹁あっ﹂
ある。男が寄り付かないと言っていたのも、
られてしまう。あれは天然の芸術だ。人を引き寄せ畏怖させる力が
んやり考えつつも、私の視線は衣玖の美しい姿形についつい引き寄せ
苦情でも延々と聞かされるのだろうか、辟易するなあ。そんな事をぼ
それにしても、龍神が私に何の用だろうか。毘沙門天に対する文句や
空には月と、そよ風の様にゆったりと飛ぶ、衣玖の小さな後ろ姿。
歩き出した。
私は隠し湯に後ろ髪を引かれつつも、ロッドを握り直し、元の道を
そう言うと、衣玖は別れの挨拶をし、ふよふよと浮かび上がった。
する事もあるかもしれません。その時は、どうぞよしなに﹂
役割を持った方が必要だと仰っておられました。今後、お力をお借り
﹁それは今現在では私にも分かりませんが、幻想郷には貴女のような
な。
いつも﹁噛み付く﹂だとか引き合いに出していたから、怒ったのか
?
が、そこに眠っていた。その殆どは有象無象共にきれいに食害され、
51
?
骨だけになっていたが。
私は、夜空を見上げた。
暗黒の海を泳ぎゆく、美しき天女の後ろ姿。緋色に輝くその様は
神々しさすら覚えるほどであり、漂う死臭とは別世界の出来事のよう
だ。
地べたに転がる彼らは、私と同じように、彼女の美しい姿に目を奪
われていたのだ。だから崖に気づかず、足を踏み外して転落死した。
衣玖は気付いていないのだろう。自らの人間離れした美しさのせ
いで、誰かが死んでいるなどという事は。
殺意なんてある訳が無い。
だがそれでも、人は死ぬ。
私はそれを責めるつもりは無いし、誰もそれを責める資格は無いと
思う。仮に衣玖がこの事実を知ったとしても、気に病む必要すら無い
だろう。彼女には何の罪も無いのだから。
所詮、この世は苦輪の海。
我々は生まれ落ちたその時から、誰かを殺め、誰かに殺められる宿
命を背負わされている。世は正に、無常である。
だが見てくれ。この少年の死に様を。
穏やかな顔で、幸せそうに死んでいる。空を泳ぐ想い人の姿を、も
はや閉じられることの無いその瞳に映して。
叶わぬ恋に生き、叶わぬ恋に死ぬ。なんと羨ましい人生だろうか。
私の中の女は、彼の死に様に若干の嫉妬心を抱いて立ち尽くしてい
たが、私の中の死体探偵は、彼の損傷の様子を冷静に分析して、青娥
に応援を要請する判断を下していた。
私は溜め息を一つ吐き、彼を小屋へと運ぶべく、小鼠達を集めた。
仕事はするさ。
たとえこの世界が無常であっても、我々はそれに付き合っていかな
ければならないのだから。
52
アイ・アム・ノット
私は死を覚悟せざるを得なかった。
役立たずのナズーリンペンデュラム・エンシェントエディション
も、小傘特製の仕込みロッドも、龍にだって噛み付く忠実なる我が僕
達も。全てがその場所を指し示していたのだから。目の前が真っ暗
になるとはこういう事か、血の気が引いて頭痛がして来た。自分の能
力を疑えば私に生き場は無くなるし、信じれば死が待っている。何と
いう事だ、私に逃げ道は無い。
ふかふかと柔らかな土についた、探し人の小さな足跡は、背の高い
向日葵達に遮られて見えなくなっている。
ここは、太陽の畑。
季節に逆らい、年がら年中向日葵が咲き誇る美しき場所。そして、
この幻想郷において、恐らく最も危険なスポットである。何故か。こ
の場所には幻想郷でも一、二を争う極悪妖怪、風見幽香が居を構えて
いるからだ。
だから両親は子供探しに私を、死体探偵を頼ったのか⋮⋮。最早、
生存を諦めているのだ。確かに、そう考えるのも仕方ないのかも知れ
ない。跳梁跋扈する有象無象共だけでも危険なのに、その上、風見幽
香とは。待ち受けるのは絶望だけだ。
蒼空は雲一つ無く、心地良いそよ風が私の髪を撫ぜる。
﹁私は、何者だ﹂
広すぎる空からは、何の木霊も返っては来ない。
代わりに、尻尾の籠の中の賢将がキィと鳴いた。
﹁そうさ。私は毘沙門天の使者、ナズーリン。正義の味方だ﹂
こんな日に死ねるなら、本望さ。
他人の子供の骨を拾うために、地獄へ踏み込む馬鹿な鼠が、一匹く
らいはいたっていい。それが自由ってものの筈だ。
だが私は、只の馬鹿な鼠じゃあない。龍にだって噛み付いてみせ
る、誇り高き毘沙門天の使者。仕事は完うしてみせる。例えこの命に
53
代えても。
私は呼吸を整え臨戦態勢を取ると、足跡を追って、太陽の畑に踏み
入った。
むせ返るような草いきれに、今の季節を忘れてしまいそう。私より
もずっと背の高い向日葵達が両脇に規則正しく並ぶ。生えっぱなし
かと思われたそれらは、しかし縦横に走る道に沿って規則正しく空を
見上げている。枯れて萎れる向日葵は居らず、全てが全て、修行僧の
ように静かに鎮座していた。土は綺麗で落ち葉が散乱する様な事も
無く、誰かがこまめに整備をしている事が伺える。風見幽香、又の名
をフラワーマスター。意外とマメな様だ。
太陽の畑は一面の向日葵というイメージを持っていたのだが、どう
やらそうではないらしい。確かに向日葵は多いのだが、所々の区画に
別の作物も植えられている。小麦やトマト、胡瓜なんかもある。美味
そうだな。
それに加え、色とりどりの花達も咲く。アヤメにスイセン、キンモ
クセイにアサガオなど、生育場所や開花する季節がバラバラな花達が
一斉に咲き誇っている。背筋が寒くなるような異常な光景ではある
が、素晴らしく美しい事は否定出来ない。
風が吹くと、さわさわと音を立てて向日葵達がお辞儀をした。蝶は
舞い、蜂はせっせと蜜を運ぶ。小鳥のさえずりが静寂の畑に響き渡
る。
何だか気を張っているのが馬鹿らしくなってくるような、長閑な光
景である。
この様な美しい場所を作り出す妖怪が、果たして本当に邪悪である
ものなのだろうか。
風見幽香。その噂は色々と耳にするが、意外な程に情報は少ない。
全て眉唾な情報ばかりだからだ。
曰く﹁八雲紫と互角以上の力を持つ﹂だの、
﹁たった一人で閻魔達を
相手に争い、旧地獄を破壊し尽くした﹂だの、
﹁あの恐るべき吸血鬼レ
ミリア・スカーレットとタイマンを張って力尽くでねじ伏せた﹂だの。
果ては﹁ずっと昔に博麗の巫女をやっていたが、あまりに凶暴過ぎて
54
妖怪に成り下がった﹂、﹁定期的に人妖を虐殺して回っている﹂など、恐
ろしげな噂が飛び交っている。その一方で、非常に礼儀正しく、紳士
的であるとも言う。どっちなんだよ。
噂の真偽は分からないが、強者である事は間違いない。そして強者
は、私の様な弱者を踏み潰す事を意にも介さないだろう。
そんな事を考えながら歩いていた私は、突然飛び出してきた人影に
﹂
驚き、素っ頓狂な声を上げてしまった。
﹁何、今の声
﹁お客さんよ、姉さん。驚かせちゃったみたいで﹂
切ない秋色の柄のドレスを身に纏った二人の女性には見覚えがあ
る。姉の秋静葉と妹の秋穣子、二人合わせて秋姉妹と呼ばれている。
﹁貴女方は、季節を司る土着神の﹂
私はロッドを置いて、秋姉妹に礼をした。
移りゆく季節の神、しかも土着の神である彼女達は行使できる力が
弱く、幻想郷では邪険に扱われている。
が、本来、季節を司る神は神格が高いものだ。彼女達の仕事が毘沙
門天のそれに劣るなどという事は無い。信仰を集めやすいかそうで
ないか、それだけの違いである。
﹁そういう貴女は、毘沙門天の使者、ナズーリンさんね﹂
﹁私を知っていらっしゃるとは、光栄ですね﹂
﹁そりゃあ知ってるわよ。なんてったって、あの毘沙門天様の⋮⋮だ
もん。ねー、姉さん﹂
﹁そうそう、有名よ﹂
﹁そ、そうですか﹂
私は頭を掻いてとぼけた。彼女達は色々と噂を知っているらしい。
﹂
世間というのは狭くて窮屈だなあ。
﹁お二人は何故ここに
⋮⋮幽香ちゃん
﹂
﹁私は幽香ちゃんのお庭を色付けしに、ね﹂
﹁何故って、幽香ちゃんの畑を耕してあげてるんだけど﹂
?
﹁何か弱みを握られていらっしゃるので
?
?
55
?
﹂
﹂
私が問うと、二人ともキョトンとした。
﹁別に
﹁なんでそんな事聞くの
﹁い、いえ⋮⋮﹂
私も首をひねって、三人揃ってハテナマークを浮かべる。
凶悪と噂される風見幽香を恐れもしないとは、最近の土着神は肝が
﹂
据わっているようだ。
﹁貴女は探し物
しばし逡巡。だが結局、私はドアノブに手を掛けた。風見幽香が不
もう一度叩いても、中からは物音一つしなかった。
しかし、反応は無い。
息を止め、リーフを象った金属製のノッカーを叩いた。
れ、中を伺い知る事は出来なかった。
木製の階段を登り、ドアの前に立つ。窓は全てカーテンが閉めら
す。それが私の作戦である。
私自身は真正面から歩みを進める。私が囮となり、賢将が子供を探
走って行った。
て裏口に回るように命じた。賢将はこくこくと頷くと、ちょろりと
私は深呼吸を一回すると、尻尾の賢将を下ろし、向日葵畑を迂回し
る。これが風見幽香の家だろうか。
中心には、煙突を備えた煉瓦造りの家屋がポツリと立ち尽くしてい
やがて道が途切れ、向日葵に包まれた広場に突き当たった。広場の
秋姉妹に示された道を進んで行く。
二人は仕事に戻り、私は再びロッドを手にした。
﹁な、なるほど。ありがとうございます﹂
この道を真っ直ぐよ﹂
﹁そうね。幽香ちゃんならなんでも知ってるわ。幽香ちゃんのお家は
聞けば一発よ。ねえ、姉さん﹂
﹁私たちは忙しいから手伝えないけど、畑の中のものは幽香ちゃんに
﹁はあ、一応、まあ﹂
?
在なのだとしたら、絶好の機だからだ。
56
?
?
ドアノブを回し、少し押す。開いた。鍵はかかっていない。音を立
てないように、ゆっくりとドアを開く。
部屋の中は暗い。大理石の床に、モザイク模様の美しい壁面が見え
る。天井にはシャンデリア、暖炉の前にはペルシア絨毯とその上に置
かれた安楽椅子が見える。悔しいが趣味は良い。
視線を走らせ、私は息を飲んだ。
正面の床に、大きな血溜まりが出来ていた。
素早く身を中に入れると、ドアを閉める。抜足で血溜まりに近づ
く。
この血は、探し人の血なのか⋮⋮。
﹁何をしているのかしら﹂
その声で、私の動きは凍りついた。
視線を上げる。
そこには、バスタオル一枚の姿の女性が立っていた。切れ長の目
57
が、濡れた暗緑色のショートボブの間から覗く。その光は優しげで、
しかしどこか超越的に思えた。
私は最初、その女が風見幽香だとは思えなかった。大妖怪というの
は周囲を威圧するようなオーラがあるものだが、彼女にはそれが無
かったからだ。
この風見幽香の前で礼を失すればどうなるか、分
﹁小鼠とは言え、人の形をしているのなら、人らしく礼儀を重んじるべ
きではなくて
﹁またの名を、死体探偵⋮⋮﹂
の子どもを探している﹂
﹁名乗らせてもらおう。私は毘沙門天の使者、ナズーリン。行方不明
る⋮⋮そう感じる。
んな爽やかな笑みだった。私の全てを見透かして、児戯だと笑ってい
風見幽香はそれを見やると、微笑した。初夏のそよ風のような、そ
込みロッドを構えた。
自分の悪運と迂闊さとを呪っても、今の現実は変わらない。私は仕
その言葉でようやく風見幽香なのだと認識したほどだ。
かっているでしょう﹂
?
風見幽香は歌うようにそう言うと、ゆっくりと無造作に私の方へ近
づいて来た。
私は仕込みロッドから退魔針を発射しようと努力したが、それは叶
わなかった。腕が動かなかったのだ。蛇に睨まれた蛙のようにぶる
ぶると震える事しか出来ない。風見幽香の存在自体に圧されている
とでもいうのか、龍にすら噛み付いてみせる、この私が⋮⋮。
風見幽香は私を通り過ぎ、血溜まりの前でしゃがみ込む。血溜まり
を見つめて瞬きをすると、血液は蒸発するようにして消えてしまっ
た。
立ち上がった幽香は、括目する私に言った。
﹁お茶にしましょう﹂
気が付けば私は、青空の下、小さな茶会の席に着いていた。
幽香の入れるカモミールティーは優しい香りで、胸の中のもやもや
し た 不 安 や 恐 れ が 洗 い 流 さ れ て い く よ う に 感 じ た。普 段 は ハ ー ブ
ティーなど飲まない私だが、少しだけ興味を覚えてしまう。
赤いチェックのツーピースに着替えた幽香は、ウクレレを弾きなが
ら、気持ち良さそうに鼻歌なんて歌っている。この曲は夜雀の曲だ。
ファンなのだろうか。
﹁私を咎めないのか。無断で貴女の家に立ち入った、この私を﹂
﹁私の家は、この大地全て﹂
興味なさそうにそう言う。私もどうでもいい気がした。風見幽香
は超越者だ。この女にとって、そんな事は重要じゃあない。
嘘や体裁を取り繕う方便に意義を見出せなくなった私は、素直に要
求を口にすることにした。
﹁私は死体探偵を営んでいる。両親に依頼された。この畑に迷い込ん
だ子どもがいるはずだ。遺体を返してくれないか﹂
﹁それは無理よ﹂
﹁何故だ。骨の一本でも構わない。それとも、全て食い尽くしたと言
うのか﹂
幽香は流し目でちらりと私を見やると、例のそよ風のような笑みを
浮かべた。
58
キィキィキィ。
そのとき、賢将の鳴き声が木霊した。
﹁幽香お姉ちゃん、ネズミ、捕まえた﹂
声のした方を見やると、年端の行かぬ少女に尻尾を捕まえられ、ぶ
﹂
ら下げられてもがく賢将がいた。
﹁け、賢将
なんて間抜けなんだ、人間の少女に捕まえられてしまうなんて。慌
てて少女から賢将を助け出す。
﹁あれ、君は⋮⋮﹂
ふと見やると、その少女は両親の作った似顔絵によく似ていた。
少女は幽香に駆け寄り、咎めるように言う。
﹁ネズミは悪い奴なんだよ、畑を荒らすの﹂
﹁ネズミさんも生きているから、仕方ないのよ﹂
﹁で も、お 父 さ ん も お 母 さ ん も 言 っ て た も ん。ネ ズ ミ は や っ つ け な
きゃって﹂
﹁そうかもしれないわね。でも、あのネズミさんは、そこのお姉ちゃん
のお友達みたいだから、許してあげましょう﹂
幽香に諭され、少女は口を尖らせながらも頷いた。
﹁貴女が保護してくれていたのか⋮⋮﹂
これほどの大妖怪が、たかが人間の少女の守護をするなどと、到底
考えられない事だ。しかしそれも、風見幽香の瞳に灯る光を見ていれ
ば、納得してしまう。
それは慈愛の光だ。
風見幽香にとって、人間や木っ端妖怪など、植物と同じように﹁愛
でるべきもの﹂に過ぎないのかもしれない。彼女にとって迷い子を保
護する事は、道端の枯れかけた木に水をやるのと変わらないのだろ
う。ある意味、それは傲慢と言えなくもない。まるで神か仏のようで
はないか。
﹁しかしそれなら、家の中にあった血溜まりは一体⋮⋮﹂
﹂
59
!
﹁あれは血じゃないわ。ただの血糊﹂
﹁何⋮⋮
?
﹁血の匂いがしなかったでしょう﹂
﹁言われてみれば⋮⋮﹂
﹁相当に慌てていたようね。可愛いわ﹂
くすくすと幽香が笑う、
﹁あれは紫の仕業よ。他愛のない嫌がらせ。陰険な紫らしいわ。この
前、あいつの式をちょっといじめてやったから、その仕返しかしら﹂風
見幽香の流し目が私を捉える。﹁それとも、貴女に対しての当てつけ
﹂
かもしれないわね﹂
﹁私に
﹁紫との契約を放って、ここで死ぬ覚悟を固めた貴女に対する警告か
もしれないわ﹂
﹁な、何故⋮⋮それを知っている﹂
声が震える。動揺を隠せなかった。
風見幽香は、私と八雲紫との契約を知っているのか。
そんな私を無視して、幽香は少女の手を握り、優しく微笑みかけた。
﹂
﹁お 別 れ ね。さ あ。あ の お 姉 ち ゃ ん が お 家 ま で 連 れ て 行 っ て く れ る
わ﹂
﹁本当
﹁そうよ。また、遊びに来てね。でも一人じゃあ駄目よ。今度来ると
﹂
きは、そこのお姉ちゃんと一緒になさい﹂
﹁このお姉ちゃんは、誰なの
﹁ううん﹂
﹁シタイタンテイ
﹂
﹁このお姉ちゃんは探偵さんなのよ。それもただの探偵じゃないの﹂
幽香は私を見つめると、静かに言った。
?
嗚呼、そうか⋮⋮。
名探偵なのよ﹂
﹁他人の子どものために自分の命を懸ける、とびきり馬鹿な探偵⋮⋮
にも似ていた。
全てを許すような幽香の笑みは、仏神に迫りつつある寅丸星のそれ
幽香は首を振った。
?
60
?
?
今日の私は、死体探偵ではないのだ。
﹁⋮⋮その依頼なら、最優先で受ける事にするよ﹂
少女と手を繋ぐ。あたたかさが、私の胸にまで響くようだった。
﹁またね、幽香お姉ちゃん﹂
﹁ええ、またね﹂
初夏のそよ風のように爽やかなその笑顔は、しかし少しだけ寂しげ
に見えた。
また今度、美味いハーブティーを飲みに来ることにしよう。
61
ガールズ・タイフーン
﹂
⋮⋮何しに来たんだ、こいつ。
﹁きゃっ、ネズミネズミ
おい、人様に向かって米粒投げつけてんじゃな
﹁ネズミの方がレア度低いですよ、マイナスです、マ・イ・ナ・ス ﹂
﹁まったく、レア度ゼロの人間の癖に﹂
以前に、只の迷惑な馬鹿じゃあないか。
店の前でうなるほど米粒撒き散らすってのはどうなんだ。常識云々
いくら﹁常識に囚われない﹂がキャッチコピーであっても、人様の
星鼠亭の売り台に座り、青空の下、私は頭を抱えていた。
いよ、散らかすなよ、片付けろよ﹂
⋮⋮って、痛たた
﹁君 ぃ、自 分 か ら 訪 ね て 来 て お い て そ の 言 い 草 は な ん な ん だ い。
!
せんからね
﹂
﹁ふん、おだてたって、ネズミなんかには米粒一粒だって分けてあげま
も高そうだな。なかなか居ないぜ、君みたいなの﹂
﹁そうさな、君みたいに脳味噌の配線が繋がってない人間ならレア度
!
飽食の巫女、東風谷早苗は相も変わらず、私を敵視してくる。敵視
だけならされ慣れているから別にいいのだが、問題はこいつの頭のネ
ジが二・三本ブッ飛んでいるところにある。ぬえは会う度おめかしさ
せられて写真を撮られるとぼやいていたし、小傘なんて出会い頭に脳
天唐竹割されると恐れていた。こいつ、絶対頭おかしい。
﹁用が無いなら帰れよ、私は君たちとは関わり合いになりたくないん
だ﹂
﹂
貴女のような性悪ネズミを放っておいたら、
幻想郷の巫女は、みんなブッ飛んでいるからな。大風みたいな女達
なんだ。
﹁そうは行きません
どんな悪さをするか分かったもんじゃありませんからねっ
﹁別に迷惑かけてないだろ。ちゃんと人間のフリしてるじゃないか﹂
!
!
62
!
﹁ツッコミどころが多すぎて面倒だな、まったく﹂
!
﹁そうやって己を偽るのは、悪巧みをしているからに決まってます
﹂
﹂
妖怪が天下の往来を堂々と行き来するなど、たと
﹁じゃあ耳と尻尾出して表を歩けってのかい﹂
﹁なんたること
えお天道様が許しても、この私、東風谷早苗が許しませんよ
なのではないか﹂
﹁そんなんじゃありません
﹂
打撃も与えられんぞ。むしろ君の名とともに守矢の名も貶めるだけ
ないな。それに私を痛めつけたところで、命蓮寺の信仰には蚊ほどの
﹁命蓮寺が商売敵だからって、敵視するだけなのは賢いやり方じゃあ
なんなのこいつ、ホント怖い。ヒステリーかよ。
早苗は大幣をブンブンとフルスイングし始めた。
﹁どうだか﹂
や生活を真似ているんじゃあないか﹂
﹁私は人間に敵対するつもりはないぞ。だからこうやって、人間の形
ネズミの天敵でもあるんだ。
をもてあそんでいる。髪に挿した白蛇の髪飾りが嫌な感じだ。蛇は
早苗はイライラと貧乏ゆすりしながら、ウェーブの掛かった長い髪
﹁どうしろと﹂
!
駄々っ子のように喚き始めた。
﹁だからさっきから言ってるじゃないですか
﹂
ネズミの耳が悪いだけですぅー
﹁ひとっことも言ってないから﹂
﹁言ってますぅー
!
﹁子供か、君は﹂
﹂
私だって彼氏の一人や二人いますぅー !
!
貴女の信仰する毘沙門天なんかより、ずっといい男ですぅー
﹁子供じゃありません
﹂
早苗は売り台をバンバンと叩くと、涙目になり、顔を真っ赤にして
﹁じゃあ一体、君は何がしたいんだ﹂
!
﹂
のもんか、このナズーリン様が直々に検分してやろうじゃないか﹂
﹁おーおー、言うじゃないか、なら連れて来てみな。君の男がどの程度
!
!
!
!
63
!
!
﹁それを探してくれって言ってるんでしょ
⋮⋮あ
?
宝石、財宝、掃除に説法、人生相談から恋人探しまで、なんでもご
ざれの探し屋﹁星鼠亭﹂。
然れども、何の因果か死体探しばかりを依頼され、誰が呼んだか、死
体探偵。
今宵も半ばやけくそ気味に、迷える死体を探しておったという次第
で御座います。
嘘ですか
嘘吐きですか
﹂
﹁だってだってだって、ちゃんと売り文句に書いてあるじゃないです
か
!
﹂
店員のいる蕎麦屋に足しげく通ってみたり⋮⋮﹂
!
﹁巫女のくせにそんなことしてんのかい﹂
﹁でもでもでも、なぜかみんな、私を避けるんです
最初はイイ感じ
﹁私だって、努力してるんです。道行くイイ男に声かけたり、イケメン
のだが。
多い現人神とはいえ、こんな美しい年頃の娘を放っておくはずがない
幻想郷の男たちだって馬鹿じゃあない、いくら山の上の巫女で畏れ
性格はまあ、置いておくとして。
顔とスタイルだけ見れば、早苗は間違いなく美人と言えるだろう。
つかりそうなもんだけどな﹂
﹁しかし、意外だな。君ほどの器量があれば、いい人なんざ、すぐに見
ていたからだろう。
早苗。機嫌が悪かったのは、恋人探しなんて依頼を頼むのに恥を感じ
仕方無しに私がいうと、雨が上がるように、パッと顔を明るくする
﹁ホントですか
﹁嘘じゃない。依頼だって言うなら、全力を尽くすさ﹂
ホントに食付いてくる奴がいるとは⋮⋮。
いやさ。確かに謳ってるけどさ。
しい。
この﹁人生相談から恋人探しまで﹂の文句に、早苗は食いついたら
⋮⋮つまりはだ。
!
!
64
!
なのに、すぐに冷たくなるんです∼
経験豊富なオトナだと
﹂
﹁依頼受けるのやめようかな﹂
﹁嘘ですごめんなさいすいません
﹂
﹂
﹁つまり、ちんちくりんでぺったんこのナズーリンさんのほうが、逆に
すぎると、逆に縁遠くなってしまうのかもしれないな﹂
﹁災難だなぁ。でも、天女も男に縁が薄いと言っていたよ。器量が良
なってきてしまった。
ボロボロと涙をこぼしながら言うので、流石の私も、少し気の毒に
!
この女の考えることはよくわからん。
﹁大体、君はどんな人が理想なんだい﹂
﹁もちろん、イケメン・高学歴・高収入です
⋮⋮﹂
ぐっ、と握りこぶしを作る早苗。
﹁君は実に馬鹿だな﹂
ああ、憧れの玉の輿
何せ私は、人々に忌み嫌われる死体探偵なのだから。
﹁正直、今の私にそんなことを頼む奴がいるとは考えもしなかったよ﹂
﹁考えてなかったんですか、謳ってるくせに﹂
早苗を引っぺがしながら、私は頭をひねった。
﹁しかし、恋人探しか。どうやって探すかなあ﹂
か
早苗が慌てて頬ずりしてくる。もしかしてこれ、媚びてる合図なの
!
?
うぞ﹂
﹁じゃあもう、イケメンなだけでいいですよ
?
まあ、若いうちはそれだけでもいいのかもしれないな。
﹁そこまで言うからには、誰か目を付けている人がいるのかい
﹂
イケメンね⋮⋮。結局そういうのは相性の問題に帰結するのだが。
プンスカ怒って早苗が言う。
﹂
﹁ハッキリ言って、里のほとんどの蔵には、君んとこほど米は無いと思
﹁うっ⋮⋮な、ならイケメン・高収入ってことで⋮⋮﹂
﹁里の寺子屋がここの最高学府なんだぞ。全員同じ学歴じゃないか﹂
高学歴て。そんなん、この幻想郷にいるわけないだろうが。
!
!
65
?
﹁目を付けた人には全員、振られました
﹁ふん。べ、別に、ナズさん優しい
﹂
なんて思いませんからね
﹂
﹁死体探偵なんかとつるんでると、君にも変な噂が立っちゃうだろ﹂
﹁なんでまた変装なんか﹂
変装をした。
私はほっかむりをしてボロい着物を羽織り、死体探偵の時とは別の
﹁なら、町に繰り出して探そうか﹂
ああ、くそ、何だこの、無性に保護欲が掻き立てられる娘は⋮⋮。
ぐっ、と握りこぶしを作る早苗、涙目で。
!
!
た。
﹁あ っ ち の 彼、カ ッ コ い い
﹁あいつはどうだ
﹂
と、早苗に耳打ちした。
私はさっと目を配り、出来るだけ人畜無害そうなやさ男を見繕う
り君達にも十分チャンスはあるという事だ、良かったな。
でもなかった。面食いと言いつつ、割とハードルは低いらしい。つま
早苗が黄色い声を上げている奴らを見てみると⋮⋮まあ、言うほど
ああっ、あのお蕎麦屋さん、いつ見ても渋いなぁ⋮⋮
﹂
で も 向 こ う の お じ 様 も な か な か ⋮⋮。
目貫き通りまでやって来ると、早苗はやおらキョロキョロとしだし
たら困るだろ﹂
﹁勘違いするな、依頼の為だよ。これ以上君に男が寄り付かなくなっ
!
﹂
﹁お眼鏡に叶ったんなら、声掛けて来な﹂
﹁えっ、ちょ、手伝ってくれるんじゃ
から﹂
﹁な、なるほど﹂
﹁ほらほら、早く行く
﹂
﹁馬鹿、デートに誘うんだよ。そしたら裏から色々サポートしてやる
?
目当ての男の方へふらふら歩いて行った早苗が、声を掛けて呼び止
子を伺う。
気後れする早苗の背中を押し出した。私は物陰に隠れて、早苗の様
!
66
!
!
﹁むっ、むむむ。中々やりますね、ナズーリンさん﹂
?
めると、男の顔がぽっと赤らむのが見える。
緊張してガッチガチの早苗が大袈裟な身振り手振りで何か言うと、
男の方も乗り気なのか、歯を見せて笑った。いい感じだ。
わやわやと喋っていた早苗は、やさ男が頷いたのを見ると、パッと
手を取った。おお、早苗、中々大胆だな。私は感心したが、そこで事
態は一変した。途端に青ざめた男は首を振りつつ、早苗の手を振り
払って、駆けて行ってしまった。
しょんぼりと肩を落とした早苗が戻ってくる。
﹁誘い出す前に撃沈か⋮⋮﹂
﹁うう⋮⋮強引にいったのがいけなかったんでしょうか⋮⋮﹂
﹁いや、うん、まあ、その、なんだ、あれだよ。次、頑張ろう﹂
とは言ったものの、早くも私は手詰まりに陥っていた。早苗の話で
は本人も努力しているらしいのだが、その悉くが失敗しているらし
い。
﹁絶対大丈夫です
﹂
﹁博麗の巫女に殺されるだろ。なんで私が自分の命懸けてまで君の恋
﹁んー。じゃ、なんかごっつい凶器を持つとか﹂
﹁アホか、私みたいな小さい奴に襲われて逃げる奴がいるか﹂
ポン、と私の肩を叩く早苗。目をらんらんと輝かせている。
﹁大体、暴漢役がいないじゃないか﹂
う。どう考えてもうまくいきっこないからだ。
妙にやる気まんまんの早苗に、今度は私のほうが気遅れしてしま
﹁き、気合い入ってるな﹂
!
67
原因は一目瞭然だったが、いかんせん、今はその原因を取り除く事
が不可能である為、打つ手が無い。どうしたものか。
﹂
そしてそ
﹁こうなったら、とっておきのあの手を使うしかありませんね﹂
﹁あの手
﹁イケメンさんの目の前で、私が暴漢に襲われるんです
﹂
!
﹁そう上手くいくかなぁ﹂
ション⋮⋮
れをイケメンさんに助けてもらう⋮⋮ああ、乙女の憧れのシチュエー
!
?
路に協力せにゃならんのだ﹂
﹁そこをなんとかするのが貴女のお仕事でしょうが
﹁まったく、我儘だなぁ、君は﹂
た。
﹁なんです
﹁だ、大丈夫なんですか
﹂
﹁これを使って、君の作戦を実行するとしようか﹂
﹁なにそれ怖い﹂
﹂
使うと、見た目がなんだかよくわからんものになるらしい﹂
﹁これは正体不明の種だ﹂ぬえから借りておいたものである。﹁これを
早苗はそれをのぞき込むと、首を傾げた。
は﹂
これ。このなんていうか、こう⋮⋮形容しがたい物体
私は懐をまさぐると、こういう時のためにとっておいたアレを出し
為だ。心を鬼にせねばなるまい。
としよう。あまりこの娘を傷つけたくはないのだが、根本的な解決の
仕方無い。結果が見える故あまり使いたくなかったが、アレを使う
!
﹂
﹁ひっ、ひえぇーっ
﹂
私は正体不明の種を肌に押し当て、念を込めた。
緊張した面持ちで、早苗が頷く。
﹁は、はい
バいからな﹂
﹁手早くやるぞ。時間を掛けて寺子屋の教師か博麗の巫女が来たらヤ
ことに、人気も少ない。
程なく、空き家の路地裏にて一息つくやさ男を見つけた。丁度良い
私たちは先ほどのやさ男が走って行った後を追った。
﹁まあ、何とかなるだろう。ホレ、さっきの男を追うぞ﹂
?
動いた キショい
﹂
ナズーリンさんだって分かって
試しに両手を掲げてみると、早苗はすっ転んで尻餅をついた。一体
途端、早苗が素っ頓狂な声をあげる。
!
!
!
どんな姿に見えているのだろう。
﹁ぎゃー
てもキショい
!
68
?
!
!
演技どころか本気で腰を抜かしたのか、わたわたとその場でもがく
早苗。
声に釣られて、なんだなんだと人が集まってくる。ターゲットのや
さ男も路地裏から出てきた。私の姿を何に見間違えたのか、人々はそ
れぞれ個性的な悲鳴を上げている。
嗚呼、視線が怖い⋮⋮。
﹁がおー﹂
触手がっ
触手が絡みつくぅ
そこの御方
﹂
助け
﹂真っ青な顔で、縋るよ
とか言ってみつつ、戯れに早苗の足をつかんでみる。
﹁ひぃぃ
うにやさ男のほうを見やる早苗。﹁も、もし
この怪物をやっつけて
⋮⋮なんでいきなり時代劇風になるのだろうか。
てくださいまし
!
誰かーッ
!
がり⋮⋮そのまま回れ右して、走って逃げていってしまった。
皆さん、誰か、助けてください
!
まあ、そりゃ、そうなるよなあ。
﹁そっ、そんな
﹂
ともかくも、やさ男はそれを聞くと、雷撃に撃たれたように飛び上
!
!
﹁立てるか
﹂
﹁ナズーリンさん⋮⋮﹂
私は正体不明の種に込めた念を止め、肌から放した。
﹁失敗、だな﹂
﹁えっ⋮⋮うそ、そんな⋮⋮﹂
に逃げた。
取り巻きに手を伸ばすが、私が﹁がおー﹂と脅すと、彼らも一目散
!
﹁あんまりです、こんなの⋮⋮﹂
ボロボロ、ボロボロと、止めどなく。
﹁すまん。やり過ぎた﹂
﹁ナズーリンさんの所為じゃありません⋮⋮けど、こんなの、あんまり
です⋮⋮﹂
女の涙は美しいと人は言う。
幻想郷の男達は、美を解さない奴らばかりのようだな。こんなにい
69
!
!
!
!
私が手を差し伸べると、早苗はボロボロと涙をこぼした。
?
い女を放っておくなんて。例え神に抗ってでも手に入れる、そんなロ
マンスを、女は求めているものさ。
私は泣き咽ぶ早苗を背負って、ひとまず星鼠亭に戻った。
﹁ハーブティーはいかがかな。最近、ハマっていてね。心が落ち着く
ぞ﹂
茶を沸かして淹れてやると、早苗は放心状態でそれを啜っていた。
その様を見て、胸が痛む一方、この女にも少女らしい心があったのだ
なぁと、大変失礼な事を思ったりしてしまう。
﹁私、嫌われてるんでしょうか⋮⋮﹂
ぽつり。早苗が漏らした弱音は、彼女の本心か。この娘もこの娘な
りに、虚勢を張っているのかもしれない。
﹁そんなことはない、今日は日が悪かっただけさ﹂
別に慰める気なんて、さらさら無い。
﹁でも、私、外の世界でも⋮⋮﹂
70
その俯いた瞳が、気に入らないだけだ。
﹁思い通りにいかない時には、そんな風に思うこともある。それだけ
さ。今の自分の気持ちを真実だと思わない方がいい﹂
少女の瞳は、前を向いてしかるべきものだろうから。
﹁そう⋮⋮でしょうか﹂
﹁そうさ。言い方は悪いが、みんなそんなに他人に興味を持っていら
れないんだよ。自分が生きることで精一杯だからな。この幻想郷も、
豊かになった外の世界でだって。魔法の森もコンクリートの森も、変
わりはしないのさ﹂
誰にでも優しい桃源郷なんて、何処にも無いのだ。茶を啜りなが
ら、かつてそれを探していた自分を思い返す。忘れたいけど、忘れた
くない記憶。
﹁ナズーリンさんは、大人なんですね⋮⋮﹂
﹁伊達に長く生きてはいない﹂
早苗は不思議そうな顔で言う。
﹂
﹁それにしてもナズーリンさんは、まるで見てきたかの様に外の世界
を語るんですね⋮⋮あれ
?
﹂
早苗が目をやったのは、束ねて置いておいた雑誌。私や星が店番し
ている時に読んでいる奴だ。
﹁これ⋮⋮外の世界の、少女漫画雑誌じゃないですか﹂
﹂
⋮⋮って違います、何でこんなの持ってるんですか
﹁少年漫画もあるよ。読むかい
﹁読みます
﹁来る時に持って来た奴だよ﹂
⋮⋮って事は。もしかしてナズーリンさん、外の世界に居た
﹂
﹁はぁ、やけに話の通じるネズミだとは思ってましたが⋮⋮﹂
早苗は目を丸くして驚いている。
ね﹂
ご主人様は、外の世界から幻想入りしたんだ。聖を復活させる為に
﹁そうだよ﹂懐かしいあの頃を思い浮かべながら、私は頷いた。﹁私と
んですか
﹁え
?
?
な、何故それを
﹂
﹁だから、君の事も知っているぞ。昔、特撮の子役でテレビに出てた
ろ﹂
﹁どげげ
﹁観てたからな﹂
!
それかモロッコでも﹂
熱っぽい顔で私ににじり寄る早苗を、外に放り出す。
﹁君は実に馬鹿だな、本当﹂
﹁ちょっと永遠亭行きません
こいつ、悪い男に騙されやすいタイプだな。
﹁待て待て待て。私にその気は無いぞ﹂
何言ってんだこいつ。
ぞわっ、と体中の毛が逆立つ。
ズーリンさんに惚れちゃいそうです⋮⋮﹂
﹁はい⋮⋮﹂早苗は目を潤ませている。﹁でもあの、ヤバいです。私、ナ
うとすれば、どこかに必ず応えてくれる人はいるものさ﹂
探索を継続しようじゃないか。ま、気長に待てよ。君がいい女であろ
日は君の依頼に応えられなかったけれど、今度は外の世界も含めて、
﹁だからさ。私が探せるのは、何も幻想郷の中だけじゃないのさ。今
顔を真っ赤にする早苗。私は笑った。元気が出たようで何よりだ。
!
?
71
!
?
?
早苗はちらちらと名残惜しそうにこちらを見ていたが、私がひと睨
みすると、ふわりと飛び上がり、山の方へ戻って行った。
私は溜息を吐いた。
﹁まったく。いい迷惑ですよ﹂
本当にな。嫌な役を引き受けてしまったものだ。
﹁泣いてましたよ、あの娘。過保護も大概にして下さい﹂
﹁う、うム⋮⋮﹂
草葉の陰から出てきたのは、守矢神社の二柱神である。幻想郷にお
いて、この二人は実質的に早苗の保護者役をしている。
早苗がモテないのも無理は無い。後ろで荒ぶる神々が物凄い形相
で睨んでいたら、誰だって震え上がるだろうに。困ったデコボココン
ビである。まあ、その気持ちはよく分かるがな。関わるまいとしてい
ても、つい助けてやりたくなってしまう。早苗は見ていると危なっか
しいんだ。
72
﹁ホラ、小鼠も言ってるじゃん。神奈子は過保護過ぎるんだよ。もー、
毘沙門天に作らなくていい借り作っちゃったじゃんか﹂
力の一部だけ飛ばしているのか、姿が妙に見えにくい。帽子を被っ
た小さいほう、おそらく洩矢諏訪子が言う。
﹁でも早苗はまだ子供だし⋮⋮﹂
﹁あれ位、今時は普通だよ。まったく神奈子はもうさあ﹂
﹂
﹁何言ってんの、諏訪子が面白がってミシャグジなんか使うから、みん
な怖がっちゃったんでしょ
和の神も、変われば変わるものだな。
シュンとして項垂れる、八坂神奈子。その昔、戦神と恐れられた大
﹁はぁい⋮⋮﹂
﹁でももストライキもありません。信じて待つのも親の務め﹂
﹁でも﹂
せるなんて、そりゃ、悪い男のする事ですよ﹂
﹁何でもいいけど、少しは自重して下さいよ、ご両人。年頃の娘を泣か
やっぱりこいつらは苦手だ。
ああもう、かちゃましい。
!
ここぞとばかりに、私はたっぷりとお小言を言ってやった。最初は
他人事のようにゲラゲラ笑っていた諏訪子だったが、私の説教が飛び
火すると、神奈子と同じくしおらしくなり、終いには二人揃って正座
していた。
もちろん、鞭の後には飴を用意してやらねば、単に反感を買うだけ
で終わってしまう。恩を着せるために、私は一連の出来事を天狗に
リークしない事を約束した。分かりやすく貸しを作ったわけである。
これで少しは命蓮寺の布教活動もやり易くなるだろう。
二人はそれを聞いて、泣いて喜びながら去って行った。なんて単純
な奴らだ。
ようやく喧しいのが去ったので一息つける⋮⋮と思ったが、星鼠亭
の周囲が早苗の撒いた米粒だらけになっていたことを思い出し、私は
頭を抱えた。
大人は辛いな、まったく。
73
サンダー・クラウド
嫌な風が吹いた。
空は低く、濁った大気が塊となって、この無縁塚全体を押し潰そう
としているかのようだ。先程まで、あれだけ清々しい朝の空気に包ま
れていたと言うのに。
掘っ立て小屋の中に居ても、その空気の変化は如実に感じ取る事が
出来た。元来、鼠と言うものは、危機察知能力に長けるものであるか
らして。
小さなダーツ矢を手の中で玩びながら、私は眉をひそめた。
﹁賢将、奥に隠れてな﹂
震える賢将を奥の間に追いやって、扉を閉めた。
窓の外を見やる。
雨の匂いはしないのに、黒雲が立ちこめている。
朝だと言うのに、赤光が天より降り注いでいた。
この違和感が示す事は、ただ一つ。
既にここは、無縁塚ではない。
林立する木々の枝には、縄で吊るされた人型の物体が揺れていた。
落とす影の先には、かつて人型であったもの達がカサカサと蠢く。血
河が林の間を縦横無尽に駆け巡り、顔を黒く塗り潰された得体の知れ
ない連中が、神輿を担いで川縁を歩いて行く。ギラリ。光る白刃、そ
れを揚々と振りかざしながら。赤い空に飛び行く、無数の黒い渡り鳥
達。何処からか子供の泣き声がしている。その声は、何処かで聞き覚
えがあるような気がする⋮⋮。
この不可思議な現象。
分かっている。彼女が来たのだ。
彼女が来る時には、決まって怪現象が発生する。これは彼女の演出
なのだ。私を脅し、震え上がらせるための。
タチの悪い事に、この現象には力がある。聖と星の法力によって護
られた、この掘っ立て小屋の外に出たが最後、私もあの光景の一部に
74
成り下がってしまうのだろう。
しかし、ここまで歪な光景は初めてだ。いつもは精々、見慣れない
生物がうろついていたりするぐらいなのだが。これでは完全に異界
である。
そんな狂った風景の中を一人、決然とした足取りで歩み来る女がい
る。
その姿を認めて、私は窓の簾を下げた。この悪趣味は、私の性に合
わない。
程なく、私の小屋の扉が叩かれた。そいつにはそんな必要など無い
と言うのに。
﹁開いている﹂
ぶっきらぼうに放ったその言葉をまるで待ち焦がれていたかのよ
うに、扉は素早く開け放たれ、そして同じ様に素早く閉じられた。息
を吐くその少女の名を、幻想郷に住む妖怪ならば誰でも知っている。
八雲紫。
幻想郷最強の妖怪と噂される、妖怪の賢者である。そして、私が死
体探偵と呼ばれるその理由を作った女だ。
大陸風のゆったりとした衣の裾を叩きながら、紫は血の気の無い、
正に妖怪と形容するに相応しい、美しくも忌み憚られるようなその顔
を、私へと向ける。威圧を込めたその目を。鼠が見下されるのは慣れ
たものなのだが、それは明らかに侮蔑や軽視を含んでいた。
白い帽子を脱ぎ、胸の前に抱えるようにすると、紫は囲炉裏の前、私
の隣にちょこんと座った。
なんでこいつ、毎回毎回、隣に座るんだ。向かいに座ればいいのに。
この距離感が鬱陶しくてたまらない。
﹁収穫は﹂
声色に変わりは無い。胡散臭い、抑揚の効いたいつもの声だ。酒宴
で見かける時よりもかなり強い口調だが、これは私と対する時の常で
ある。紫は鼠が嫌いなのだろう。
私は壁に貼った布製の地図を指し示した。それは、この無縁塚周辺
の地図だ。地図はブロック毎に区切って色分けされ、それぞれにダー
75
ツ矢が刺してある。
﹁昨日の時点で、残っていた西側地区の捜索を完了した﹂
ストン。
私の放ったダーツ矢は、最後のワンピースを埋めた。
﹁これで全区域の捜索を完了した事になる﹂
﹁収穫は、と聞いたのよ﹂
手にした扇子で肩を叩きながら、紫は鋭い目を私に向けた。視線で
人を殺そうというのだろうか、並々ならぬ眼力である。
﹁無いよ﹂
小鼠の私などは、取り繕う言葉すら失くしてしまう。
紫は大きな音を立てて扇子を開くと、イライラとそれを振るった。
乱暴な風に乗って、金色の髪がさらりと優雅に舞う。
﹁巫山戯けているのかしら﹂
﹁仕事に対しては真摯に取り組んでいるという自負がある﹂
ま あ、た ま に は サ ボ っ た り す る が ね。⋮⋮ な ん て 馬 鹿 正 直 に 言 う
程、私は空気を読めない鼠ではない。
﹁むしろ評価して貰いたい所だがな。スケジュールを前倒しにしたん
だ﹂
﹁収穫が上がらなければ意味が無いわ﹂
﹁君の言う収穫なんてものが、果たして本当に在るのかね﹂
その言葉は地雷だったらしい。
紫 は 目 を 見 開 く と、私 に 扇 子 を 投 げ 付 け た。私 を 掠 め た そ れ は、
掘っ立て小屋の壁に当たり、大きな音を立てた。私の頬に、一筋の赤
い軌跡を残して。
﹁小鼠が考える事ではない﹂
髪は逆立ち、溢れた膨大な妖力が其処彼処に迸る。狭い掘っ立て小
屋内はすぐさま嵐になり、陶器や囲炉裏の灰が渦を巻いて乱れ飛ん
だ。小屋全体がガタガタと音を立てて震え、今にも崩れ落ちそうなほ
どに。
子鼠達の不安そうな鳴き声が響き渡る。私も泣きたい気分だとも、
妖怪の賢者のヒステリーなんて。
76
睨むその目は、紛うことなき人殺しの目。
彼女の感情の揺らめき一つで、私や小鼠達の命は消え去るだろう。
我らの命など、風の前の塵芥である。
﹁君が存在を確信しているのは理解したよ。だがね﹂
私がそれを取り出すと、紫の力の奔流がはたりと止まった。小屋の
中を、パラパラと灰の雨が降り注ぐ。
﹁このペンデュラムは私を導かない﹂
紫は、唇を噛んだ。
このナズーリンペンデュラム・エンシェントエディションは、八雲
紫から借り受けたものである。正確に言えば、破損した私のペンデュ
最近、副業に精
ラムを八雲紫が回収し、修復したのだ。ある目的の為に。
﹁貴女が仕事に身を入れていないだけではなくて
を出しているようだけれど。夜遅くまで探しものなんて、ご苦労な事
だわ﹂
﹁悪趣味だな、見ていたのかい﹂
この出歯亀妖怪めが。
﹁しかし、それを許したのは、他ならぬ君自身だろう。私は契約を守っ
ている。言ったろう、小鼠の私にも、自負があるんだ﹂
一つ、ペンデュラム・エンシェントエディションを肌身離さず身に
付ける事。
一つ、ペンデュラム・エンシェントエディションが反応したものに
対しては、その所有権を全面的に放棄し、速やかに八雲紫へ差し出す
事。
数多い契約条項の中の一節である。
その条項の中に、私の行動の自由を束縛するような文言は無い。
﹁何処へ行こうが、このペンデュラムが何かを指し示す事は無かった。
君が信じようと信じまいと、それが事実だ﹂
﹁⋮⋮そう﹂
紫は私から目を逸らし、溜め息を吐いた。その横顔は、何故か少し
寂しげに見えた。
しかし、開いた口から出たのは、予想通りの言葉だった。
77
?
﹁ならばもう一度、無縁塚全区域の再調査を命じます﹂
そら来た。今度は私が溜め息を吐く番だ。
﹁またか。何度同じ事を繰り返させるつもりだ﹂
﹁勿論、見つかるまでよ﹂
﹁いい加減にしてくれ。君の妄執には十分に付き合っただろう﹂
﹁収穫が無いのであれば不十分だわ﹂
﹁君はそれしか言わない﹂
﹁私はそれしか求めていない﹂
ザアア⋮⋮。
窓に打ち付ける雨音が、沈黙の小屋内に響き渡る。雨が降って来た
らしい。
くさくさした私は、席を立った。こんな胡散臭い頑固女の顔を見て
いるよりかは、狂った外の景色の方がまだマシだ。窓に近寄り、下げ
た簾を上げようと、手を掛けた。
78
その手がはたと止まる。
か細い手が、私の腕を掴んでいた。
﹁お願い、窓は開けないで頂戴⋮⋮お願い﹂
今にも泣き出しそうな顔で、あの八雲紫がそう言った。
紫の白い手は、震えていた。
驚愕が私の思考をも震わせる。
まさか。
怯えているのか
幻想郷最強と謳われる、あの八雲紫が
炎の光を瞳に焼き付け、紫は虚ろな顔をしている。その姿は、まる
横目でちらりと、相変わらず隣に座る紫の方を見やる。
えれば、どれだけ救われる事だろうか。
を清らかにする。過去も未来も喜びも苦しみも、この火に焚べてしま
仏教でも護摩焚きなど、炎を修行に用いる事があるが、炎は人の心
しゅんしゅんと蒸気が立ち昇る。
﹁今日は嫌に冷えるな。温かい茶でも淹れようか﹂
私は手を下ろし、震える紫の手も払って、言った。
?
?
で雨に打たれる迷い子だ。
外 の 現 象 が 紫 に と っ て も 脅 威 で あ る と 言 う の な ら。こ の 場 所 に
やって来る事、それは紫にとって、相当な決意を要するものなのかも
しれない。
無縁塚には大きな結界の綻びが存在し、異界に繋がる事もあると言
う。
あの狂った世界の中を歩み行く、八雲紫のその姿。あの決然とした
足取りは、恐怖を堪えていたからではないか。必要以上に強い姿勢と
言葉は、己を叱咤し虚勢を張るためなのではないか。
煮えた湯を急須に注ぐ。使ったのは、フラワーマスターから譲って
もらった、とっておきの茶葉である。先の妖力嵐でも無事だった木製
の湯呑みで茶を淹れてやると、紫はそれにおずおずと口を付けた。
﹁温かいわ⋮⋮﹂
その表情が、少しだけ和らいだ。
﹂
79
﹁知ってるかい。鼠ってのは、とっても口が固いんだ。何でだか、分か
るかい
﹁さあ﹂
を取ると、口に運んだ。
少し目をぱちくりとさせていたが、少しだけ笑ってチーズの切れ端
﹁君はどうかな﹂
﹁賢者ってのも、口が固いって聞くが﹂私は紫にチーズを差し出した。
﹁凄まじい屁理屈ね﹂
いんだからな﹂
﹁破戒もまた仏道だろう。仏道にいなけりゃ、破戒なんてしようがな
いわ﹂
﹁貴女、仏教徒でしょう。食い意地の張った修行者なんて、聞いた事な
紫は呆れたように言う。
言いながら、私はチーズの切れ端を摘まんで口に運んだ。
お喋りをする暇が無い﹂
﹁それはな、いつも何かを齧ってないと、餓死しちまうからさ。余計な
紫は興味なさそうに、虚ろな目で相槌を打った。
?
﹁⋮⋮ありがとう﹂
誰だって、他人に知られたくない傷を持っているものだ。
炎の中に浮かび上がる、私の過去だって。
﹁でもこんな切れ端程度じゃ、満足出来ないわ﹂
一瞬、目を離した隙に、紫は元の顔に戻っていた。流石、妖怪の賢
者 で あ る。自 分 を 見 失 わ な い。悪 い 男 に は 騙 さ れ な い タ イ プ だ な。
見習いたいものだ。
﹁また来るわ。その時こそ、収穫を期待したいものね﹂
﹁出来ない約束はしない﹂
﹁利益が欲しいのなら、対価が必要なのよ﹂
﹁まったく、世知辛いな﹂
隙間の向こう側に消えていく紫を見送って、私は息を吐いた。
紫が去ると同時に、水が引くように嫌な気配が去った。異界が消滅
したのだろう。
キイキイと、賢将や小鼠達が安堵の声を上げる。
私は壁に貼り付けた地図を眺めた。
正直、また実りのない探索に乗り出すのは気が滅入る。
だが。
今日の紫の白い腕が、小刻みに震えるその指が、私を捉えて放さな
いのだ。
だから私は、矢を全て抜き取ることにした。
外に出ると、清々しい朝の空気が私を迎えてくれる。木々の影には
小動物の影が走り、地面を這いずるのは蟻の列だけだ。空は青いし、
響くのは雀のさえずりである。いつもの正常な、美しき幻想郷だ。
だがその空気に、僅かに雨の匂いが混じる。
空の片隅を見やると、彼方に雷雲が渦巻いていた。
80
ファイト・フォー・ジャスティス 上
参ったな。とうとう降ってきてしまった。雨に濡れる鼠なんて、あ
りきたりすぎて洒落にもなりゃしない。私は慌てて近くの木陰に駆
け込んだ。
ここ最近ぐずついた天気が続いていたのだが、少しずつ雲は薄く
なっていたのに。この分なら大丈夫だと高を括ってロッドを握った、
あの時の自分がうらめしい。雨の下で探しものなんてするもんじゃ
ない。身も心も滅入るばかりだろうに。
見上げた空は分厚い雲で覆われており、降り注ぐ冷たい雨で視界が
白く濁る。そろそろ日も落ち始めようかという頃合い、私は少し焦っ
ていた。夜闇が恐ろしい訳ではないが、明かりが無くなるのは面倒
だ。この雨では提灯も使えない。懐中電灯でも持って来れば良かっ
た。
木にもたれて溜め息を吐いていると、尻尾の賢将がキイキイと鳴い
た。
見ると、その手に折り畳み傘を持っている。籠の中に入れていたの
か。
﹁でかした、賢将﹂
ケバケバしい桃色の傘を開いて、私は再び雨中の人になった。
片手でロッドを構え、林の中の小道を歩いて行く。
長いロッドに小雨が当たって弾け、それが雑音となって私の感覚を
乱している。ダウジングは繊細な技術だ。この雨の中では精度が格
段に落ちてしまう。本来ならば、こんなシチュエーションでは使わな
いのだが。
だが、この悪条件を冒してでも、捜索を急ぐ理由がある。
私は努めてロッドに神経を集中させながら、同時に周囲を注意深く
観察していた。わずかの痕跡も見落とさないように。
秋の長雨がただでさえ低い気温を一層冷たいものにしている。寒
がりの賢将が文句を言わないので不思議に思ったが、自分だけちゃっ
かりレインコートなぞ着込んでいやがった。まったく、大将を敬わな
81
い賢将である。溜め息を吐くしかない。
やがて小道は、霧に包まれた湖に突き当たった。
静寂の中で、音もなく波打つ湖面。珍しく、誰もいないようだ。普
段は妖精などがたむろする、割と賑やかな場所なのであるが。
ここは霧の湖と呼ばれる。日中は霧が出ていて、視界の悪い場所
だ。
目をこらすと、霧の向こうにぼんやりと西洋風の館が建っているの
が 見 え る。あ れ は 紅 魔 館 と 呼 ば れ る、恐 る べ き 吸 血 鬼 レ ミ リ ア・ス
カーレットの住まう悪魔の館だ。触らぬ神に祟りなしと言う。私は
湖の外周を紅魔館とは反対の方角へ歩いた。
やがて、湖に注ぐ小さな川のほとりで、ゆっくりとロッドが開いた。
さっと辺りに視線を走らせる。
水辺の一点に、夥しい量の血液がぶちまけられていた。
その血だまりに近づいて観察を行うと、血液は新しくない事が分
82
かった。ここ最近の降り続いた雨に打たれて流性を残してはいるが、
既に固まり掛けている。付近には他にも血の跡が点々としており、さ
らには破れた服の切れ端も散見される。どうやら、ここで捕り物が
あったようだ。
⋮⋮何やらキナ臭くなってきたな。
里の自警団を名乗る男に依頼されたのは、商屋から金品を強奪した
盗賊の捜索であった。
盗賊は里から脱出したが、逃げる途中で怪我をしている。盗まれた
金品の返還は勿論、その男に公正な裁きを与えたいので、生かして連
れてきて欲しい。あの怪我では妖怪にやられてしまうかもしれない。
一刻も早く見つけ出してくれ。
その男はそう言った。
だが。
たかが物盗りの捕縛に、ここまで派手な流血が必要なのだろうか
おまけにここは里の外、霧の湖である。年がら年中妖怪共が跳梁跋
?
扈し、近くには悪魔の館もあるこの場所で、自警団が一体何をしてい
たと言うのか
?
しかも、私は自警団の中にその男の姿を見掛けた事が無かった。
何かが裏で動いている。
異変とは違う、何かが。
鼠の危機察知本能が警鐘を鳴らしていた。
その時。視線を感じた私は仕込みロッドを構え、振り向いた。
私の背後、距離を取るようにして。少女が二人、相合傘で立ってい
た。
一人は赤いマントの襟に深く表情を埋め、責めるようにくねった眉
と、じとりとした赤い瞳を私に向けている。もう一人は、赤みがかっ
た長い黒色の髪を揺らし、赤いマントの少女の陰に隠れるようにしな
がら、怯えた目をしていた。
その少女達が妖である事はすぐに分かった。耳と尻尾丸出しの私
を見ても物怖じしない事に加え、長い髪の方には獣耳があったから
だ。
死体探偵のあんたが
﹁私に何か用かい﹂
﹁小鼠なんかに用はないしぃ﹂
﹂
がその袖をクイクイと引っ張っている。
頼んでみたら
﹂
?
﹁何よ、影狼﹂
﹂
﹁蛮奇ちゃん。この人、探偵なんでしょ
﹁えーっ、小鼠にぃ
?
赤マントの少女はプイとそっぽを向くが、引っ込み思案の獣耳の方
?
あからさまに嫌そうな顔をするマント少女。顔を半分以上マント
?
83
しかし、妙に存在感が薄いというか、妖怪としての気迫に欠けてい
る。人型をしている事から有象無象共よりかは力がありそうだが、私
﹂
と同じく、弱小妖怪なのかもしれない。
﹁君達は誰だ
﹁人探しぃ
﹁私はナズーリン。毘沙門天の遣いだ。故あって、人探しをしている﹂
﹁あんたこそ。小鼠がこんな所で何やってんのよ﹂
私が問うと、赤マントの方が声を上げた。
?
彼女達は私を知っているらしい。
?
の中に埋めているというのに、やたらと表情豊かである。
﹁私に依頼があるのか﹂
獣耳はコクリとかわいく頷いた。
﹁はい。私は今泉影狼、こっちは赤蛮奇ちゃん﹂
今泉影狼に赤蛮奇。少し前に起きた付喪神騒動の際に暴れ、博麗の
巫女に退治された妖怪だと聞く。種族は確か、狼女に飛頭蛮。飛頭蛮
は三国志の頃から記録のある伝統的な妖怪であるし、狼女は言わずも
がなである。
私は首を振った。
﹁残念だが、私は君達の食料探しには協力しない。そう決めている﹂
﹁私達は人喰いじゃあないしぃ﹂
軽い調子で赤蛮奇が言う。その簡単さは、彼女がそれを誇りにして
いる事を示していた。
﹁私達の友達に人魚の娘がいるんですが、最近、その娘が姿を見せなく
﹂
﹁あの姫に限って、そんな事無いと思うけどなぁ﹂
84
て。それを探して欲しいんです﹂
﹁失せもの探しならぬ、失せ妖怪探しか﹂
なんとまあ、珍しい事もあるものだ。妖怪が妖怪を探すなんてね。
自分勝手な木っ端妖怪にしては、珍しく仲間意識が強い。
赤蛮奇達と知り合いの人魚と言えば、先の異変で同様に退治され
た、わかさぎ姫であろう。彼女は霧の湖を住処としていると言う。だ
から影狼達は今、ここにいるのか。
﹂
﹁人間にやられるようなヤワな娘じゃないのですが。最近、様子がお
かしかったもので⋮⋮﹂
﹁失踪の兆候があったのかい
﹁男ぉ
﹁ウキウキね﹂ピンと来た。﹁駆け落ちだろ。男が出来たんだよ﹂
いましたね﹂
﹁そういうのはなかったですけど⋮⋮何か、ウキウキ楽しそうにして
私が聞くと、影狼は少し考え込んでから言った。
?
赤蛮奇は軽く体を振って、困惑しているようだ。
?
﹁いやいや、大人しそうな奴に限って、そういう思い切った事をしでか
すもんさ﹂
したり顔で私が言うと、赤蛮奇はうむむと唸った。
﹁大体分かった。しかし今、別の急ぎの案件を抱えている。ついでに
なってしまうが﹂
﹁構いません﹂
﹂
﹁依頼を受ける代わりに、と言ってはなんだが、教えてくれ。ここで起
﹂
こった事件について、君達は何か知らないかい
﹁事件
?
て眉を顰めた。
﹂
﹁蛮奇ちゃん、人間の里に住んでるんじゃなかった
の
﹁いや⋮⋮何も知らないしぃ﹂
赤蛮奇は青ざめて首を振った。
?
血の河が現れたと言うのだ。
の部下の報告を聞いて、私は自分の耳を疑った。
その間も私は川を遡り続け、妖怪の山に入ろうかという頃合い。一匹
私はダウジングを行いながら、部下の鼠達を調査に走らせていた。
いうところである。
問題は、あの量の血を失った盗賊が、果たしてどこまで動けるかと
にはいないはずなのだ。
だろう。それにも関わらず、私に捜索の依頼が来ている。つまり、湖
だ。そしてそれは、追手も分かっていたはず。追手達は湖を探したの
あの血痕は川に向かっていた。追われた盗賊は、川に飛び込んだの
二人は二人で、湖を探すと言う。
めながら。
私は二人と別れ、川を遡った。相変わらず、片手でロッドを握りし
地の者ですら知らないとなれば、いよいよもってキナ臭い。
﹁そうか⋮⋮﹂
何か知らない
二人共首を傾げていたが、やがて私の足元の血痕に気付くと、揃っ
?
血の河。脳裏に浮かぶのは、無縁塚で度々起こる、あの怪異である。
85
?
急いで報告の場所に向かうと、成る程、支流の一つが赤く染まって
いる。水面一杯に積もった紅葉の赤で。
慌て者の部下を怒鳴りつけてやろうかと思ったが、ふと、その川の
水から、血の臭いがする事に気付いた。鼠の鋭敏な嗅覚を持ってす
ら、ギリギリ感じ取れるほど僅かではあるが。
私はロッドを構え、川縁を慎重に歩く。
途端、ロッドが大きく反応した。
しかし。ロッドに頼るまでもなかった。
眼前にはぽっかりと口を開けた洞窟があり⋮⋮そしてその前。一
匹の人魚が水の中から顔を出していた。
﹂
その顔には敵意がみなぎり、暗黒の意志で歪んでいる。
﹁待て
叫ぶと同時に、私は傘を放り投げ、その場から飛び退いていた。一
瞬後、私の立っていた場所にキラリと光る鋭利な刃││よく研がれた
魚の鱗だ││が突き刺さり、地面を抉った。
﹂
続くニ弾、三弾を転がるようにして避け、そのまま手近な岩陰に飛
び込み身を隠した。
﹁何故、私を攻撃する
!
うと慌てて構えをとった。
今泉影狼と赤蛮奇が君を探しているぞ
必殺の攻撃を防がれた人魚はハッと息を飲み、続く弾丸を撃ち込も
て弾き返し防御した。小傘のロッドは、鱗弾如きにやられはしない。
私はロッドをプロペラのように回転させると、撃ち込まれた弾を全
逃げてばかりでは能が無い。
る。
堪らず岩から躍り出ると、待ち構えた鱗弾の津波が私へと殺到す
だが。
とも元から力ずくな性格なのか⋮⋮。人魚は温厚な種族のはずなの
と言うのか、構わず撃ち込んでいるらしい。正気を失ったのか、それ
返答の代わりに、身を隠した大岩が激しく振動した。岩ごと砕こう
!
86
!
﹁お前はわかさぎ姫だろう
﹂
!
﹁えっ⋮⋮﹂
その人魚⋮⋮わかさぎ姫は友人の名を聞くと、表情を少しだけ柔ら
﹂
かくした。
﹁あっ
その隙を見逃す私ではない。牽制に退魔針を投げ付け、同時に姿勢
を 低 く し 降 り し き る 小 雨 を 切 っ て 駆 け 出 す。わ か さ ぎ 姫 が 防 御 に
回っている間に、私は洞窟の中へ滑り込んでいた。
ぬめる岩肌に足を取られそうになりつつも、私は洞窟内を走った。
川の流れが入り込んでいるその洞窟はひんやりとして、吐き出す息が
白くなる。ゆらゆらと揺れる水光の乱反射の中を、最奥まで駆け抜け
た。
そこに、件の盗賊はいた。
ボロボロの着物を纏い、壁にもたれかかるようにして座っている。
身体のあちこちに包帯が巻かれ、そこから滲む血が地面を伝い、川に
入り込んでいた。
﹂
一目で死んでいると分かった。
遅かったのだ。
﹁彼は渡さないわ
事に気付き、攻撃を躊躇った。
私は首を振った。
﹁わかさぎ姫﹂
﹁お前らなんかに、この人は絶対渡さないんだから
﹁姫﹂
﹂
!
!
私は絶対、負けないんだから
﹁もう遅い。もうこの男は死んでいる﹂
﹁何言ってるのよ﹂
私が一喝すると、わかさぎ姫は眉を顰めた。
!
﹁死んでいる。もう君に笑いかける事は無い。脈を取ってみろ、鼓動
﹁嘘よ⋮⋮﹂
﹂
追いついたわかさぎ姫は再び構えを取ったが、私の後ろに彼がいる
!
勝負よ
﹁表に出なさい
!
﹂
﹁死んでるんだ
!
87
!
を聞け﹂
﹁脈なんて、そんなの⋮⋮﹂
﹂
﹁人間はそれがなければ生きては行けない﹂
﹁嘘よ
わかさぎ姫は水から上がると、這いずって彼の傍に寄り添った。
わかさぎ姫は彼が死んだ事に気付いていなかった。はぐれ妖怪や
低位妖怪には良くある事だ。幻想に生きる妖の理と、現実に生きる人
間の理との違い。それを認識する事が出来ないのである。妖怪にし
元気になるよね
ねえ⋮⋮﹂
てみれば浅い傷でも、人間にとっては致命傷になり得る。彼は血を流
しすぎたのだ。
﹁ねえ、嘘でしょ
?
慰めにもならない言葉を吐くくらいしか、私に出来る事は無い。今
﹁人はいつか死ぬ。君は良くやった。これは仕方の無い事なんだ﹂
いるような気がした。
ありがとう。彼の穏やかな死に顔が、わかさぎ姫にそう語りかけて
﹁最期に看取ってくれる人がいて⋮⋮﹂
そう感じる。
﹁幸せ者だな﹂
別れは、いつだって辛い。
愛別離苦。
た。
ようやく彼の死をさとったのか、わかさぎ姫はさめざめと涙を流し
﹁嘘よ⋮⋮こんなの⋮⋮﹂
姫だったのだ。
重傷を負った盗賊を湖で助け、追手から匿っていたのは、わかさぎ
抱し続けたのだ。いつか回復すると信じて。
ろだろう。しかし包帯は真新しい。わかさぎ姫は彼が死んだ後も介
硬直の様子等から見て、彼が死んだのはここ二、三日といったとこ
る。
わかさぎ姫は、もはや物言えぬ彼に向かって、懸命に話し掛けてい
?
までもたくさん目にしてきた。人間と妖の恋は、いつだって不幸なの
88
!
だ。
何故、人は誰かに惹かれるのか。何故、人は誰かを愛するのか。
苦しみは消えることはない。思うままにならない事のほうが多い、
それが人の世だろう。それは幻想に生きる我々も、変わることはな
い。
だが思う。誰かのために涙を流すことが出来るのは、きっと素敵な
事なのだろう。たとえその事で、生に苦しみが満ち溢れたとしても。
泣きじゃくるわかさぎ姫を前に、私はただただ臍を噛むしかなかっ
た。
端無く。わかさぎ姫は涙でぐしゃぐしゃになった顔で私を見上げ、
﹂
ぽかんと言った。
﹂
﹁何の光
﹁え
ペンデュラムが反応しているのか
﹁まさか﹂
ションが、赤い輝きを放っていた。
胸元にぶら下げたナズーリンペンデュラム・エンシェントエディ
た。
わかさぎ姫の視線に導かれ、自分の胸元に目をやった私は、絶句し
?
のように、私は彼の身体に手を掛けた。
私は抗う術を持たなかった。まるで魔法の糸に操られる自動人形
踏み出す度に、光は徐々に強まってゆく。
一歩。
一歩。
得体の知れない力に引きずられ、私は一歩、踏み出していた。
赤々とした光、しかしそれは、熱を持たない冷たい光。死んだ太陽。
に、私達は為す術もなく飲み込まれていた。
内の如く蠢いている。赤光は弱まる事を知らず、輝く光の奔流の中
ぬらぬらと濡れる岩壁が迸る赤光に炙られ、苦悶に脈動する龍の体
を見開き、呆然とその光を見つめていた。
私の驚愕を糧にしたかのように、赤光は一際強さを増した。私は目
?
89
?
ぼろりと、それが彼の衣の中から
血の流れの中に。
がれ落ち、地面を転がった。鮮
何故、彼は追われていたのか
何故、私は彼
?
血溜まりの中に手を伸ばし、私はそれを手にした。
渦巻く疑念と赤光の中。
の捜索を依頼されたのか
れ出していたのか
今更ながらに違和感を覚える。何故、既に死んだ彼の体から血が流
?
血に飢えた妖のように禍々しい気配を放つ、紅白の陰陽玉を。
90
?
?
ファイト・フォー・ジャスティス 下
りぃん。
鈴の音のように細く美しい音が木霊する。
⋮⋮最悪だ。
﹁何よ⋮⋮何なのよ、それ﹂
わかさぎ姫が呻く。その視線は血に塗れた陰陽玉に張り付き、わな
わなと震えている。怒りか、それとも恐怖か。
私が陰陽玉を手にすると、ペンデュラム・エンシェントエディショ
ンから放たれていた赤光はピタリと止まり、再び洞窟内は揺らめく水
光で満たされた。
水。
この洞窟はここで行き止まり。そして中には川が引き込まれてい
91
る。しかも、外は雨。
最悪だ。最悪以外の何物でもない。
﹁わかさぎ姫。生き残りたければ協力しろ﹂
私は言う。声が震えるのを自覚しつつ。
﹁え⋮⋮﹂
状況が飲み込めないであろうわかさぎ姫は、訝しげに私を見上げ
た。
りぃん。
またあの音が響く。
﹁何処かに脱出路は無いか﹂
私は首を回して洞窟内を見渡すが、何処にも出口になり得る隙間は
無かった。洞窟の壁面は強固で、打ち崩すには時間がかかるだろう。
﹂
水に入るなどは愚の骨頂。
﹁脱出⋮⋮
耳障りなその音が、一際大きく鳴り響いたその時。振り返った私の
りぃん。
涙で腫らした目を瞬きさせて、わかさぎ姫は呟いた。
?
目に映ったのは、紛れもなく、奴の姿だった。
霧虹を背に立ち尽くす、雨に打たれる蒼暗色のレインコート。すっ
ぽ り と 被 っ た フ ー ド の 隙 間 か ら、眼 光 だ け が ギ ラ リ と 光 っ て い る。
コートの表面は雨に濡れててかり、のっぺりとした両生類の皮膚を思
わせた。右手に握りしめた鎖の先には、仄かに赤い光を放つペンデュ
ラムが揺れている。
りぃん。
これは高純度の石英結晶同士がぶつかり合う時に発生する音。揺
れたペンデュラムが周囲に巡らされたリングにぶつかり、音を立てて
いるのだ。リング内に石英が仕掛けられているのだろう。この音に
は妖の感覚を刺激し覚醒状態にする作用がある。ダウジングとして
は、邪道。自らの感覚をロッドやペンデュラムで増幅して探索を行う
のがダウジングである。感覚そのものを無理矢理過敏にさせて知覚
を拡大しようなぞ、本末転倒も甚だしい。それはダウザーの領域では
92
ない。シャーマンの領域だ。
奴は私を認めるとゆっくりと指を持ち上げ、私へと向けた。私は、
小傘のロッドを斜めに構えた。
私と奴との間の時が止まる。
額から冷や汗が流れ落ちて行く。それは額を伝い、頬を伝い、顎を
伝い、ぽたりと溢れ地面に染み込んだ。
私は呼吸を深くし、全身の筋肉にいつでも伝令を届けられるよう、
気脈を整えた。獲物を求めるように揺れる奴の指先が、いつ止まって
もいいように。しかしそれは、奴に取っても同じ事。ほんの少しずつ
移動する奴の重心が、戦闘体勢に入った事を示していた。光る眼光が
﹂
些細な動きの一つも見逃さぬよう、素早く私を舐めまわしている。
﹁誰よ、あんた
私から逸れている。威嚇、或いは次の攻撃の為の布石。私は最小限の
私は瞳を開き、指先から放たれた奴の得意技、水爆弾を見切った。
来る。
瞬間、揺らめく奴の指先が、ピタリと止まった。
凍結した時を打ち破ったのは、わかさぎ姫の怒声だった。
!
動きでその余波を回避する。
炸裂音を背中で聞いて、私は奴の次弾に備えた。
だが、揺らめく奴の指先から次弾が放たれる気配は無かった。
私は眉をひそめた。
フードの下で、奴が笑った気がしたのだ。
﹁あ⋮⋮﹂
茫然とした、わかさぎ姫の声。
﹁あああ⋮⋮﹂
指の谷間から砂が零れ落ちる時のような。或いは、天上に輝く太陽
﹂
が遠く空の彼方へ落ちて行く時のような。
﹁ああああ⋮⋮
それは、喪失の声だ。
眼前の脅威に巨大すぎる隙を晒して、それでも振り返った私が目撃
したのは、爆裂四散した盗賊の身体と、その血に塗れて我を失う、わ
かさぎ姫の姿だった。
迂闊だった。
奴の目的は、盗賊を確実に始末する事だったのだ。
﹂
ぐるりと首を回したわかさぎ姫は、血に塗れるその顔を強烈な憎悪
で歪め、奴を睨んだ。
﹁お前が⋮⋮お前が⋮⋮
尻尾は胸の前に。
!
るほどの圧力。聖から習っていた身体強化術が無ければ、私の身体は
水流に逆らい、私はロッドにしがみついた。四肢が千切れそうにな
残さず押し流そうというのか、狭い洞窟内を瞬く間に満たした。
清らかで荒々しい水龍が牙を剥く。渦を巻く濁流は砂粒一つすら
﹁賢将、しっかり掴まってろ
﹂
にした。私はロッドを強く壁に突き刺すと、両手で抱え息を止めた。
奴も目を剥いたのが気配で分かる。奴の動揺が、かえって私を冷静
の龍となって洞窟内をのたうち回り始めた。
が放たれた。水滴は見る間に水流となり、さざめき立ち、渦を巻き、水
おこりのように体を震わせる。小刻みに振動するその体から、水滴
!
93
!
簡単にバラバラになっていただろう。
この現象は長く続かないはず。そう私は予想していた。こんな大
規模な術、弱小妖怪では力が保たないのだ。
しかし、流れは一向に衰える気配を見せなかった。
水の中、私は目を凝らして、水の膜の向こうのわかさぎ姫を見やっ
た。姫は輝きながら小刻みに振動し続けているように見えた。が、そ
の体が少しずつ透明になって行く様にも見える。自分自身の存在を
術力に変換しているらしい。言うまでもなく、これは危険な行為だ。
私はもう一つのロッドを前方の壁に突き刺し、体を移した。最初に
突き刺したロッドを引き抜き、さらに前方へと突き刺しなおす。そう
してロッドを交互に壁へ突き刺してゆく事で、わかさぎ姫に近づい
た。
小傘印の退魔針をわかさぎ姫の腕に軽く突き刺すと、ようやく術が
解け、荒れ狂う水の竜は俄かに消え去った。
私は濡れた体に構わず、気を失うわかさぎ姫を担ぎあげた。奴が来
る。一刻も早く、ここから移動しなければならない。
四散した盗賊の残骸を見やったが、今はそれを搔き集め供養する余
裕が無い。
﹁⋮⋮すまん﹂
私は洞窟を出ると、降り注ぐ雨の中、上流へ向かった。わかさぎ姫
の出した水は、もちろん下流に向かったのだろう。それに流された青
いレインコートの妖も。奴は水を武器に使う。あの水流でやられた
とは思えない。必ず追って来るだろう。少しでも距離を取っておか
なければならない。
暫く登った先に、小さな岩室があった。私はその中にわかさぎ姫を
横たえ、自分も座り込んだ。少し疲労を覚えていたのだ。降り注ぐ冷
たい雨は、体温だけでなく気力と体力も奪ってゆく。雨を防げるこの
岩室がありがたい。非常用に常備しているゴールデンエメンタール
チーズを賢将と二人でつまみ、一息ついた。
空を見上げれば、黒雲の隙間から夕日が漏れている。
夜の闇は隠れ潜むのに適しているが、奴を振り切る事は出来ないだ
94
ろう。この陰陽玉が、私の手の中にある限り。
奴は私と同じく、赤光を発するペンデュラムを使って探索をしてい
た。奴のペンデュラムもこの陰陽玉に反応するのだろう。逃げ切る
事は不可能だ。
一体、この陰陽玉は何なのだろうか。
陰陽玉と言えば、まず思い付くのが博麗の巫女だ。彼女は陰陽玉を
武器として扱うことがある。私も目撃した事があるが、その力は絶大
であり、博麗の巫女を幻想郷の調停者たらしめる原動力となってい
る。だが今、私の手の中にあるそれは、巫女の使っていたそれよりも
ずっと禍々しい。
そしてもう一つ。付喪神異変を引き起こした幻想郷のお尋ね者、鬼
人正邪も陰陽玉を持っていたと聞く。鬼人正邪は数々のマジックア
イテムを何処からかくすね、それを使って追っ手から逃れ切ったらし
い。これがそれと同じものであるのなら、今、活路を開く助けになる
のかも知れない。
陰陽玉を眺めていた私は、その陰と陽の間に継目がある事に気付い
た。上下に手を添え、少し捻るようにしてそれを開いてみる。
その、中には。
﹁⋮⋮あの人は﹂
わかさぎ姫の口が開いた。意識を取り戻したのだ。
私は救われるような気持ちで、陰陽玉を元に戻し、彼女のか細い声
に耳を傾けた。
﹁あ の 人 は 湖 の 岸 辺 に 倒 れ て い た の。血 が い っ ぱ い 出 て、苦 し そ う
だった⋮⋮。私、人間は怖かったけど、どうしても放っておけなくて
⋮⋮﹂
穏やかな顔で夢語る。まだ意識が朦朧としているのだろう。無理
もない、文字通り全身全霊をかけた術を放った直後だ。
﹁私が怪我の手当てをしてあげると、あの人、私に笑いかけてくれた
わ。あ り が と う っ て 言 っ て く れ た の。と っ て も 嬉 し か っ た わ。い つ
か人間と友達になりたい、それが私の夢だったから﹂
妖は人を襲い、人を殺すものだ。だが同時に、人に惹かれ、人を求
95
めるものでもある。
私にも何となく、彼女の気持ちが分かるのだ。
﹁好きだったのかい﹂
私は不躾に問うた。
﹁⋮⋮どう、だろう。分からないわ﹂わかさぎ姫はそう言うが、はにか
んだその笑顔が、全てを語っていた。﹁でも、楽しかった。あの人と色
ん な お 話 を す る の が 楽 し か っ た。あ の 人 が 退 屈 し な い よ う に っ て、
私、湖の事、色々お話してあげたの。あの人も楽しそうに聞いてくれ
た﹂
⋮⋮だからこそ、悲劇だ。
﹁でも、あの人は追われていたの。沢山の武器を手にした人間達に。
すぐに湖に居られなくなって、私達は川を遡ったの﹂
人間⋮⋮。
ちらつくのは、私に依頼をした自警団を名乗る見慣れない男の顔。
あの野郎⋮⋮
﹂
﹁絶対、絶対許さない⋮⋮必ず、必ず八つ裂きにしてやる
﹂
﹁憎しみの為に戦うな。君の身を滅ぼすだけだ﹂
﹁彼だってそう望んでいるわ
﹂
!
争いを望みはしない﹂
﹁も う 一 度 言 う。憎 し み の 為 に 戦 う な。死 な ば 皆 仏。死 ん だ 人 間 は、
!
96
確かにあれは、人間だった。
だが、果たしてただの人間だったのだろうか。
﹁私、戦ったわ。戦いは得意じゃないけど、一生懸命。あの人を助ける
為に。でもあの人⋮⋮どんどん喋らなくなって⋮⋮﹂
﹂
わかさぎ姫は目をくわりと見開くと、体を起こした。その顔は再
あの河童野郎は
!
び、憎悪に歪んでいる。
﹁あいつは何処
河童。
﹁臭いで分かるわよ
!
涙を流し震えながら、わかさぎ姫は口から泡を飛ばした。
!
﹁奴は河童なのか。それにしては雰囲気が異常だが﹂
確かに奴は、水を使う。
!
﹁うるさい、小鼠の癖に
﹂
りぃん。
⋮⋮来た。
奴だ。
﹁奴が来たのね
あんたなんかに何が分かるって言うのよ
私も戦うわよ﹂
﹁私は戦わねばならん。君はここで隠れていろ﹂
私はロッドを取って立ち上がった。
!
度だって言ってやる。憎しみの為に戦うんじゃない﹂
﹁じゃあ、あんたは⋮⋮一体、何の為に戦うのよ⋮⋮
﹂
後方から殺到する水爆弾の連打を身をひねり、飛び跳ね、転がりな
目論見どおり、奴はすぐに追いついて来た。
スを落として。
賢将を残し、私は森を駆けた。奴が追い付きやすいよう、少しペー
﹁賢将。彼女を頼む﹂
に私を掴んでいる。
あの時の八雲紫の白い腕が、震える瞳が、か細い声が。呪いのよう
私は右腕を押さえた。
だが、しかし。
う。
この陰陽玉を捨てさえすれば、無用な争いから逃れられるのだろ
何の為に戦う、か。
首筋に手刀打ちする事で、ようやくわかさぎ姫は気絶した。
?
んでいたのは、きっと君が生きることだったはずだ。だから私は、何
なくていい。憎しみの為に特攻をする輩など、足手まといだ。彼が望
﹁あの術を使った後でもその生命力。存外、丈夫だな。しかし君は来
一撃で失神させるつもりだったのだが、失敗したようだ。
﹁あんた⋮⋮﹂
睨んだ。
わかさぎ姫の腹にロッドをめり込ませると、姫はえずきながら私を
!
がら躱し、私は蛇行しながら下流へ走った。
97
!
奴の弾切れを狙いたい所だが、この雨では不可能だ。弾薬が無尽蔵
に天より降り注いでいるのだから、こんな厄介な軍隊も無い。おまけ
に水爆弾の威力も上がって、一撃で大岩を砕くほどである。射撃戦で
﹂
は分が悪かった。接近戦に持ち込まなければ。
﹁滑稽だな
﹂
退魔針を応射しながら、私は奴に向かって叫んだ。
﹁盟友にコキ使われる妖なんてな
奴の指先が走る。
私は瞳を開いた。
﹁この距離では、炸裂弾は使えまい
﹂
水から飛び出た私は、奴の懐に飛び込んでいた。
を砕き、正体を見破った時にはもう遅い。
ジグザグに飛ぶ飛礫に向かって、奴が水爆弾を連射する。奴がそれ
た。
もうとしていた青いレインコートの妖に向かい、力いっぱい投げ付け
明の種をくっつけ、念を込めた。その石に術をかけ、丁度川へ飛び込
私は素早く潜水し川底の石を拾いあげると、ぬえから借りた正体不
隠す事が出来る。
である。敵うわけが無い。だが、川に飛び込む事で一瞬、奴から姿を
勿論、水の中で河童と戦おうなど、聖相手に説法を挑むようなもの
私は迷わず川に飛び込んだ。
さぎ姫の戦いの跡がある。あの洞窟に戻って来たのだ。
やがて、川岸に出た。周辺には鋭利な鱗弾が突き刺さり、私とわか
その誘いに敢えて乗り、川へと向かった。狙いがあったのだ。
奴の水爆弾は私を川へ追い詰めるようにして放たれている。私は
る。そこに違和感を感じる。奴は本当に、ただの河童なのか。
本的なスタンスなのであるが、奴の態度には妖としての強い自負があ
河童は人間を盟友と呼ぶ。人間と対等であるというのが河童の基
た。苛烈な爆影を背に、私は遮二無二走った。
私の挑発に奴は言葉を返さなかったが、水爆弾は一層密度を増し
!
力を込めた人差し指がぶるぶると震えている。接近戦に奴が選ん
!
98
!
だのは、読み通り。高圧圧縮された水のレーザーだ。忘れもしない。
以前遭遇した時、古いロッドとペンデュラムを真っ二つにしてくれた
技。
だが今のロッドは、小傘の鍛えたロッド。負けるはずがない。
発射された水レーザーに対し、正確に軸を合わせ、私はロッドを突
き出した。小傘のロッドは水を押し返し、奴の右手の指先を打ち据え
た。
勝った。
追撃を加えるべく振りかぶった私を、しかし衝撃が襲った。奴の左
手から発射された水爆弾が、地面で爆裂したのだ。自分のダメージを
省みず、奴は特攻を仕掛けたらしい。
吹き飛ばされて倒れた私は、起き上がろうとしてよろめき、再び倒
れ込んでしまった。思った以上にダメージを食らったようだ。右足
と右手、何とか繋がっているようだが、それぞれの感覚が鈍くなって
しまっている。地面に叩きつけられた時に打ち付けたのか、背骨にも
鈍痛が走った。
私は左腕でロッドを構えようとしたが、吹き飛ばされた時に落とし
たらしい、手の内から離れてしまっていた。
舞い上がる土煙の向こう。
奴の影が揺らめく。
フラフラとした覚束ない足取りで、奴も同様に負傷しているようだ
が、凄まじい執念である。
ゆっくりと、奴の右手が持ち上がった。
私は倒れたまま、手近に転がっていた桃色の折り畳み傘を拾い、開
いて威嚇した。
それが滑稽に見えたのか、奴は口角を吊り上げた。そして、奴は私
に止めを刺すべく、指先から水爆弾を発射した。
瞬間、奴の背後に回った私は、傘を放り捨て、左手を伸ばし奴の首
根っこを掴んだ。
﹁馬鹿な⋮⋮﹂奴が声を漏らす、意外にも女の声だ。﹁まさか貴様、隙
間の⋮⋮﹂
99
この折り畳み傘は、八雲紫が忘れて行ったものだ。少女趣味のケバ
ケバしい桃色傘など、この私が好んで買うはずもない。
この傘には隙間を生成する力がある。八雲紫のように自由自在と
は行かないが、相手の背後に回るくらい朝飯前である。
これはルールのある弾幕ごっこではない。真剣勝負なのだ。相手
も必死だ。私は接近戦を防がれる想定もしていた。だから私はこの
傘を求め、この場所に戻ったのだ。
﹁安 心 し ろ。殺 し は し な い。私 は 殺 生 は せ ん。だ が、答 え て 貰 お う。
貴様は誰だ。目的は何だ﹂
﹂
この体勢なら、水爆弾で自爆をされても、奴の体が盾になる。
﹁小鼠が⋮⋮
﹁答えろ。私は短気だぞ﹂
左腕に力を込めると、奴が呻いた。が、同時に、その口からは笑い
声が漏れた。
﹁何が可笑しい﹂
﹁小鼠にしては良くやったと褒めてやる﹂
﹁何⋮⋮﹂
周囲に目を配ると、いつの間にか囲まれていた。
黒い忍者装束を纏い、鳥の嘴を模した鉄仮面を着けた男達。七、八
人はいるようだ。漲る妖力、一目で分かる。
﹁か、烏天狗だと⋮⋮﹂
馬鹿な。
何故、河童の女が烏天狗共と。
﹁貴様ら⋮⋮﹂
私は女を盾にしようとしたが、
﹁無駄だ。奴らは私諸共、お前を殺す﹂
じゃらり。
奴の言葉に答えるように、烏天狗達は背負った白刃を抜刀する。
しかもその上、動揺した隙を突かれてしまった。奴は私の腹を肘で
打ち据えて、支配から逃れた。
雨脚が強まり、水音が丸腰の私の頬を打つ。
100
!
奴がフードを外すと、その長い黒髪が露わになった。つり目がちの
瞳が冷酷に私を見据えている。
ゆっくりと、その右腕を持ち上げて。
﹁観念しろ。最早、お前が助かる道はない。これ以上、煩わすな。大人
しく陰陽玉を渡せ﹂
奴の揺れる指先が、再び私を捉えた。
死が頭を過る。
死が怖くないと言ったら嘘になる。だが今は、それ以上に強く思
﹂
う。この悍ましき陰陽玉を、こいつらの手に渡してはならない、と。
私は、唇を噛んだ。
﹁観念するのはお前らだ
響き渡る怒声。
上流から現れたのは、わかさぎ姫。その顔からは憎悪こそ抜け落ち
ているが、烈火の怒りに猛っていた。
だが、それは奴らの失笑を買っただけだった。
﹁のこのこ戻って来たか、馬鹿め﹂
この状況で、弱小妖怪が一人増えても、高が知れている。
天狗共はわかさぎ姫の放った鱗弾を事もなげに弾いた。そして、嘲
るようにその鱗弾を踏み砕いた。
﹂
元来温和な人魚と天狗とでは、力量差がありすぎる。
﹁笑っていられるのも今の内だけだよ
反対側、下流からも声がする。
んだお笑い草だね
﹂
﹁あんた達は包囲されている。囲んだつもりが囲まれるだなんて、と
影狼はその手を天にかざし、宣言した。
だ。
赤みがかった黒髪に獣耳の少女。確か、霧の湖で会った、今泉影狼
!
言い放った。
﹁見え透いた嘘だな。貴様ら木っ端妖怪に、そんな組織力があるもの
か﹂
101
!
その言葉に天狗共はざわめいたが、青いレインコートの妖は冷静に
!
﹁どうかな
﹂
影狼は不敵に笑い、掲げたその腕を振り下ろした。
途端、四方八方から赤色のレーザーが殺到し、奴らの足元を焦がし
た。天狗共は色めき立ち、レーザーを防御することで手一杯になった
ようだ。
その隙に、疾風のように私の下へやって来た影狼は、私を抱えその
場を離れた。
﹂
包囲されている事実に加え、敵の数の多さに、流石の奴も戦慄した
らしい。
﹁り、離脱する
﹂
!
通にホラーな光景だ。その顔が泣きじゃくっているので、さらにホ
飛頭蛮はその頭を飛ばし、しかも分裂させる事も出来ると言う。普
た。
女の周辺に何か丸っこいものが浮かんでいる。それは彼女の頭だっ
影狼が言うと、林の中から赤マントの少女、赤蛮奇が出てきた。彼
﹁蛮奇ちゃん、もういいわよ﹂
私を下ろした影狼は、気の抜けた声を出した。
﹁上手くいったわね。あ∼、怖かった﹂
した。
私は懐に収めたこの悍ましい陰陽玉を封印するように、襟を締め直
この陰陽玉には、それほどの価値があると言うのか。
その自負を曲げてまで、この陰陽玉が欲しいと言うのか。
山に入ることさえ好まないと言うのに。
築いている。しかも天狗は独善的かつ排他的で自負が強く、他種族が
妖怪の山に暮らす妖で、共生関係はあるものの、基本的に別の社会を
天狗共は明らかに奴の指揮の下で動いている。天狗と河童は共に
行った。天狗共もそれに続き、背を見せて空に逃げ出した。
お決まりの捨て台詞を残し、雨降り注ぐ黒雲の中へ一目散に逃げて
﹁また会うぞ、小鼠
慌てて空へ飛び上がると、
!
ラ ー で あ る。そ の 上、四 方 八 方 か ら 彼 女 の 頭 が 飛 来 し て 来 た。そ の
102
?
数、全部で九つ。林の中に分散配置した頭から攻撃を加え、数を多く
見せかけたらしい。なるほど、上手い手である。
﹁うえぇん、怖かったよぉぉ⋮⋮﹂
影狼の胸に飛び込んだ赤蛮奇の頭達がむせび泣く。弱小妖怪が強
大な天狗に逆らうなど、そうそう出来る事ではない。かなりの覚悟が
必要だったのだろう。
赤蛮奇の肩には、賢将がちょこんと座っていた。
﹁賢将、影狼達を呼びに行ってくれたのか﹂
﹁この作戦を考えたのも、このネズミなんだよね、悔しいけど﹂
賢将はえっへんとふんぞり返った。
むかつく。が、ここは素直に褒めておいてやろう。
﹁良くやった、賢将。後でチーズ奢ってやる﹂
キイキイ。
賢将が嬉しそうに鳴いた。
103
﹁君たちも、助かったよ。礼を言わねばなるまいな﹂
﹁いいえ。ナズーリンさん、貴女のおかげで、姫を見つけることができ
ました。こちらこそ、ありがとうございます﹂
影狼はそう言って、私へ頭を下げた。
﹁ふん。まあこれで、以前の事はチャラにしてやってもいいしぃ﹂
赤蛮奇はジト目で私を睨みながらそう言う。以前の事って、なんだ
ろう⋮⋮
ぽろぽろと輝く涙を零しながら、わかさぎ姫は言う。赤蛮奇と影狼
たいんです。私に教えて下さい﹂
﹁どうしたら良いのか分からないけれど、あの人のお葬式をしてあげ
だが、振り返った彼女の瞳は、憂いを帯びつつも力強く輝いていた。
復讐、か。
彼女の眼差しは、四散した彼が眠る洞窟に向けられている。
﹁依頼か﹂
﹁貴女、探偵なんですってね。私のお願い、聞いて頂けませんか﹂
一人、わかさぎ姫は湖のように静かな顔をしている。
﹁ナズーリンさん﹂
?
はその肩にそっと手を置き、一緒に涙を流していた。
人を生かすのは、憎しみではない。
それは、悲しみと決別するために。
﹁⋮⋮任せろ。得意中の得意さ﹂
胸を張って、私は言った。
後日。命蓮寺では、前代未聞、喪主が人魚の葬式が開かれた。
104
ファース
さてさてナズーリン、いきなりのお小言である。
﹁⋮⋮聖。なんだいこれは﹂
﹁違います﹂
聖は駄々っ子のように首を振った。隣ではぬえが笑い転げている。
いくつになってもぬえは幼い。⋮⋮まあ今回ばかりは、一緒になって
野次馬しているマミゾウも同じ穴のムジナであるのだが。
久し振りに寺に顔を出したナズーリンは、聖を睨みつけ、イライラ
と貧乏ゆすりをしている。無理もないと思うマミゾウであった。
﹁何が違うんだい﹂
声色も、いつもにも増して冷たい。
﹁違います。これは無駄遣いではありません﹂
﹂
﹁じゃあ、なんだって言うんだい﹂
﹁空間の有効活用です
台所の壁に吊るされたワイヤーラックを叩きながら、聖は言い訳を
始めた。
﹁見てください、ホラ。ホラ。普通ならただの壁も、このラックを使え
ばこの通り。お玉にしゃもじ、おろし金だって掛けることが出来ま
す。その上、な、なんと 付属の網棚をセットすれば、細かな調味
!
のである。
﹁じゃあこれは
﹂
窮屈している訳ではないのだ。即ち、壁掛けラックなど無用の長物な
様々な調味料が必要である。だが、命蓮寺の敷地は広い。別に台所に
確かに、食材の限られる精進料理には、風味に幅をもたせる為に
聖の訴えにも、ナズーリンのジト目は揺るがなかった。
﹁⋮⋮いや、場所余ってるくらいだし﹂
通販かい。
の道﹂
料などを置いておくことも これぞまさしく空間の有効活用。仏
!
105
!
尻尾を揺らしてナズーリンが棚を開けると、小さなプラスチック製
?
のタッパーがごっそりと。中に詰まっているのは米や麦だ。一回に
使う分量ずつ分けて入れているのである。
聖はとにかく首を振った。
﹁主婦の知恵です﹂
主婦て。
思わず吹き出しそうになるのを、必死に堪えるマミゾウであった。
ぬえは無頓着にゲラゲラ笑ったが。
ストレスでシワのよった眉間を押さえながら、ナズーリンは深い深
い溜め息を吐いた。自分が必死に稼いだ金をこんな風に無駄使いさ
れたのでは、さぞ遣る方無いだろう。
その気まずい沈黙を打ち破るようにして、耳をつんざく爆裂音が響
き渡った。その音は、外界にいたマミゾウには馴染みがある。
﹁姐さぁ∼ん、エンジンかかりましたよ∼﹂
裏庭から響くのは一輪の声。彼女の間の悪さには定評がある。こ
106
のタイミングでさらに燃料投下するなど、流石としか言いようが無
い。
﹁違います﹂
聖はまるで赤べこ人形だ。脳震盪を起こすんじゃないかと、心配に
なるレベルである。素直にごめんなさいと言えば良いのに。
だがそんな懐柔策など、鉄血宰相ナズーリンには通用しない。追い
すがる聖を振り払い、軍人ばりのキビキビとした歩調で裏庭に出る
と、妙に明るい声で言った。
﹁ほう。これはなかなか立派な単車じゃないか。ハーレーって奴かな
﹂
﹁いやいや、確かにハーレーに似てるけど、こいつはれっきとした国産
ようになった聖に憧れているらしい。
いる。何処のレディースだ。近頃、ライダースーツで単車を乗り回す
一輪は襟立て特攻服に身を包み、サングラスなんてかけて気取って
が逃げ出した。
一輪は得意げにふかした。ぶぉん、心地良い轟音が響き渡り、小鳥達
背後のナズーリンに気付かず、黒光りするオートバイのアクセルを
?
車でね﹂
﹂
﹁ほう、そうなのかい。オートバイには疎くてね。相当値の張るもの
なのかい
それを土蔵の
﹁そりゃあんた、こいつはレトロな上にレアな型らしいからね。マニ
アなら目ん玉飛び出るくらいの金を積むらしいよ
﹁いくらしたんだい﹂
﹂
﹂
﹄って背文字が熱いでしょ
森の人
﹂と山彦を返していた。律儀な奴め。
﹁なるほど。確かに良い音だな。心が洗われるようだよ﹂
で響子が﹁ぶおぉん
かした。ぶぉん、心地良い轟音が響き渡り、聖が少し青ざめる。遠く
相当気に入っているのか、またも一輪はオートバイのアクセルをふ
聖も慣れぬオートバイには手こずったようだ。
一輪の言うとおり、オートバイには少し傷が付いている。さしもの
つくつと笑う。
などとのたまい、命蓮寺のおっちょこちょい代表、雲居一輪氏はく
壁にぶつけっちまうんだから、姐さんもおっちょこちょいだよ﹂
?
?
﹁洗われるってあんた、仏教徒じゃあるまいし。って⋮⋮﹂
な、な、な、ナズーリン
振り返った一輪はようやく気付いたようだ。
﹁ごっへェ
小さな鉄血宰相の鋼槍が如き視線に。
﹁ご機嫌だね、一輪。何か良い事でもあったのかな
!
﹁い、いやぁ、今日も天気が良いからさ∼﹂
﹁格好良い服じゃないか﹂
﹁で、でしょ∼ この﹃聖命
!
?
ナズーリンの鋭い視線が飛んだ。
﹁君も笑っていられる立場なのかい
﹁な、なんの事やら﹂
﹂
ぬえは相変わらず他人事のように大爆笑していたが、今度はそこへ
ミゾウは苦笑いするしかない。
た。まあ、自分で自分を追い込んだのだから、自業自得であるが。マ
秋風よりも冷たいナズーリンの声の前に、一輪は貝になってしまっ
?
!
形師に特注して作ってもらったんだから﹂
?
107
?
!
﹂
そっぽを向いて口笛を吹き、古典的な惚け方をするぬえ。分かりや
すいフラグである。
﹂
﹁知っているぞ。今度は九十九姉妹FCに入ったんだってな
﹁げっ、な、なぜそれを
?
いつまでもふらふら遊び歩いていて、良心の呵責は無いの
﹂
るまい
いくつ掛け持ちすれば気が済むのかな、君は。会費だって馬鹿にはな
﹁プリズムリバーFCに永江衣玖FC、紅魔館UMA研究会⋮⋮一体
!
﹁そう言えば村紗は
﹂
やおら、ナズーリンは辺りを見回した。
堪えるのに必死の形相だった。もちろん、マミゾウも。
ナズーリンから手痛い口撃を受け、絶句した。一輪とぬえは笑いを
﹁ババ⋮⋮﹂
﹁聖。今年一杯の君のアダ名、ターボババァだから﹂
だが、
自分の所業を棚に上げ、ここぞとばかりに保護者アピールをする聖
﹁まあまあ、ナズーリン。ぬえも反省している事ですし﹂
無いぬえが悪い。
悪い癖である。命蓮寺に帰依した身のわりに、生活態度を改める気の
てしまった。面白そうな事に何でも首を突っ込みたがるのは、ぬえの
流石ナズーリンである。いつも五月蠅いぬえすらもシュンとさせ
﹁うぐ。ご、ごめん⋮⋮﹂
かね
?
いくら出家者とは言え、
?
布施で喰っているのを忘れているんじゃないのか
他人の金の上
う。君達のは余りにも、余りにも行き過ぎている。我々が在家信者の
今日日、趣味を持つなとは言わん。だが節度を持つ事が大前提だろ
本的な教義に中庸があるのを知らんのか
﹁まったく⋮⋮たるんでるなんてもんじゃないな、君達は。仏教の基
を吐き、呆れ返った顔で首を振った。
ナズーリンは本日何回目になるか分からない、深い深い深い溜め息
行くとか何とか﹂
﹁ちょっと前に、湖に遊びに行ったぞい。おニューのボートを沈めに
?
?
108
?
に胡座をかいて私欲に耽るなど言語道断だぞ。君達はそれでも仏教
徒か。一人ずつみっちりとお説教が必要みたいだな﹂
一輪達には耳が痛い言葉であろう。恥ずかしそうに俯いていた。
が、聖は胸を叩いた。
﹁任せて下さい、ナズーリン。弟子の不始末は私の不始末。私がお説
教をしておきましょう﹂
清々しいまでの棚上げ振りである。
もちろんナズーリンは、いの一番に聖の腕を掴んだ。
﹁じゃあ君からね、ターボババァ﹂
﹁ひぃっ、そんなぁ⋮⋮﹂
ナズーリンに引きずられ、聖⋮⋮いや、ターボババァは本堂の中に
消えて行った。
﹁ひえー、くわばらくわばら。姐さんには悪いけど、逃げちゃおっと
⋮⋮﹂
﹁賛成賛成﹂
一輪とぬえはこそこそと命蓮寺を出て行った。ほとぼりが冷める
まで、人里で時間を潰すつもりだろう。それでは結局、火に油だろう
に。というか、特攻服姿で人里へ行くつもりか、一輪よ。
ナズーリンも気の毒になあと思いつつ。鈴奈庵に顔でも出そうと、
マミゾウも歩き出した。今日は﹁文々。新聞﹂の発刊日である。あの
下らないゴシップ記事を肴に酒を呷るのも良いだろう。
しかし。
違和感がマミゾウの足を止めた。
一連の出来事が、ふと茶番のように感じられたのだ。
聖達が無駄遣いをやめず、本当にナズーリンが辟易しているのであ
れば。死体探偵で稼いだ金を命蓮寺に入れなければ良いだけのはず
なのだ。使える金が無ければ、そも散財も出来まい。
││私は、正義の味方だ。
あの時のナズーリンの涙。マミゾウには、偽りだとは思えない。
締め切った本堂の内は暗く、雨戸の隙間から差し込む仄かな光だけ
109
が、辛うじて堂内を照らしている。
広々として寒々しい堂内には、梵鐘や金剛杵など様々な仏具が整然
と並べられているが、この厳かさはそれらが作り出しているのではな
い。
正面。
張り付くように冷たい板張りの床の上に、薄っぺらい座布団一つだ
けを敷いて、仏像が座している。
いや。仏像ではない。
寅丸星が坐禅を組んでいるのである。
その顔は、穏やかなようにも、激しているようにも見える。冷酷な
ようにも、慈悲深いようにも。それは、聖者だけが持てる矛盾。
彼女の放つ光背が、この空間を神聖な場所に作り変えている。
﹁待たせたな﹂静寂の中、私の声は思ったよりも大きく響いた。﹁人払
いは済ませた。さっさと始めよう﹂
星は静かに目を開けた。大きな瞳が知性の輝きを放った。
﹁報告を聞きましょう。聖、ナズーリン﹂
聖は星の対面に敷かれた座布団の上に腰を下ろした。私は二人か
ら少し距離を取るようにして、本堂の柱にもたれかかった。
﹁霧の湖の氾濫は﹂聖が口を開いた。﹁紅魔館の尽力によって、被害は
最小限に抑えられたようです。幸いな事に、人的被害はありませんで
した﹂
青いレインコートの妖との戦いで、わかさぎ姫が使った術の余波で
ある。彼女の術が生み出した膨大な量の水は、川を下って湖に注ぎ込
み、氾濫を引き起こした。下手をすれば人里に大きな被害が出ていた
所だが、然るべき者が然るべき対応を迅速に行い、被害は小さく抑え
られたのだった。紅魔館の対応の早さには頭が下がるばかりである。
しかし、やはりこれは天佑というべきものであろう。
﹁ただし、術の余波で湖は迷宮化していました。暫くの間、湖は立ち入
り禁止となるようです﹂
先程、村紗が湖に立ち入ったとマミゾウが言っていたが、舟幽霊の
村紗の事だ。放っておいても大丈夫だろう。と言うより、結界内に飲
110
み込まれた者をサポートするために、わざと聖が送り込んだのかもし
れない。
﹁分かりました。霧の湖に近づかぬよう、信徒達に注意を促しておき
ましょう﹂
星は静かにそう言った。
﹁聖、紅魔館へ礼状を出しておいたほうが良いでしょう。執筆をお願
い出来ますか﹂
﹁ええ﹂
これを期に紅魔館側とのパイプを作る気だろう。
星は戦略的に物事を考えられるようになって来ている。名実共に
命蓮寺の代表となる日も近いだろう。自分の弟子が自分を超えつつ
ある事、聖もさぞ鼻が高いに違いない。
﹁ナズーリン﹂
星の言葉を待って、私は口を開いた。
﹁件の盗賊を調べた。結論から言おう。身元は分からなかった﹂
わかさぎ姫が匿い、禍々しい陰陽玉を手にしていた盗賊。彼の死体
は青いレインコートの妖によりバラバラにされ、首実検も出来ない状
態であった。
﹁鼠も使ったが駄目だった。分かった事は唯一つ。遺留品の材質と遺
体の状態からして、件の盗賊は決して外来者ではないという事﹂
その事実を口にした途端、堂内の空気がより冷たくなったように感
じた。
遺体の身に着けていた持ち物は全て幻想郷内部で生産されたもの
であった。また、遺体には予防接種等の近代医療を受けた跡も無かっ
た。幻想郷内で生まれ育ったと判断するべきだ。
その事実は、ある一つの事柄を示している。つまり。
﹁つまり﹂聖は淡々と言葉を継いだ。﹁敵は貴女の探索から逃れる能力
を持っている、と﹂
﹁そうだ﹂
敵。
そう、敵だ。
111
﹁今回の件で確信した。命蓮寺を、いや聖白蓮という僧侶を歓迎しな
い勢力が、この幻想郷に確実に存在する。そしてそれは、我々が考え
ていたよりも大きく、根深いもののようだ﹂
最初に起こった事は、宝塔の紛失だった。
私と星が命蓮寺ごと幻想入りをした際。毘沙門天の力を宿し、魔界
に封印された聖を助け出す鍵となる宝塔が、忽然と消え失せたのであ
る。紆余曲折の末、宝塔は私が見つけ出し、聖救出は成った。
星は大事をとって自分の過失と公言しているが、そんな事があるわ
けが無い。聖復活を望まない誰かが盗んだのだ。
つまり。
宝塔を盗んだ者は、宝塔が聖救出の鍵となる事を知っていたのであ
る。
我々以外にそんな事を知っている者。
それは聖を封印した者たち以外に考えられない。
敵。
我々に明確な害意を持つ者達。
私はそれを突き止める為に、幻想郷の管理者たる八雲紫と契約し、
死体探偵となった。
﹁陰陽玉と引き替えに、八雲紫から一つ面白い話が聞けた。陰陽玉を
狙った連中は、自ら賢者達と名乗っているようだ﹂
││賢者気取りの馬鹿共め。
苦々しい顔で、八雲紫はそう吐き捨てていた。八雲紫にとっても、
奴らは敵であるらしい。
﹁賢者達。なんと愚かで傲慢な⋮⋮﹂
聖は眉をひそめ、嫌悪感をあらわにした。
知恵の足りない者に限って、自ら智者を名乗りたがるものだ。馬鹿
馬鹿しい、まるで茶番である。
だが、相当数の烏天狗を動員出来る点から見て、侮れない規模の勢
力を持っている事が伺える。我々は知恵の足りない巨人を相手にし
なければならないのだ。
﹁我々の敵対者がその賢者達とやらの一員なのかは分からん。だが、
112
あり得る話だ。聖。君を封印した人間達の子孫が、この幻想郷で生き
ているとしたら⋮⋮﹂
あるいは、術力を維持し続けるために、自ら進んで幻想となったの
だとしたら⋮⋮。
﹁やめましょう﹂
星が私の思考を遮った。静かな、しかし大きな声で。
﹁現段階では、憶測に過ぎません。憶測を重ねる事は智慧の働きを阻
害し、我々の目を曇らせるでしょう。確実な事は二つ。身元の分から
ない人間がこの幻想郷に存在する事。そして、賢者達と呼ばれる勢力
が存在する事。それが分かっただけでも前進です。二人には引き続
き、内密に調査をお願いしたい﹂
星は話を切ろうとしたが、
﹁待て。星、それに聖﹂
私はそれを制した。
113
﹁この際、聞いておきたい。我々に仇なす者が立ちはだかったその時、
﹂
君達はどうするつもりだ﹂
﹁どう、とは⋮⋮
頃の、荒々しい光を帯びている。
智慧の光は搔き消え、遠い昔、星がまだ単なる妖獣に過ぎなかった
星が私を睨んだ。
﹁ナズーリン⋮⋮﹂
覚悟があるのか﹂
来ん。それは虐殺と呼ばれる行為に他ならん。君達にはそれをする
全て無力化する、それを調伏などと生やさしい言葉で誤魔化す事は出
﹁敵は人間だぞ。しかもおそらく、相当数存在する。仏罰の名の下に
私はあえて強い言葉を使った。
﹁敵を殺戮する覚悟があるのかと聞いている﹂
それだけでは、正義にはなれない。
だが。
にする優しい魅力に溢れている。
聖は困惑したように私を見つめた。ふわりとした眼差しは人を虜
?
星自身が迷いを持っているからこそ、それを言葉にした私に怒りを
向けるのだろう。
﹁相手もまた知恵を持つ者であれば、対話により道が開けると私は信
じています﹂
聖の言葉は模範解答だ。
だが同時に、模範解答でしかない。
﹁千年前にも対話をした。だが、君は結局封印されたな。奴らの害意
は理屈じゃあない。熱狂、あるいは狂信と言って良いだろう。また封
印されるか、今度こそ殺されるかもしれん。座して死を待つつもり
か、聖﹂
聖は沈黙した。
私の言う事が正論だからこそ、聖は何も言えないのであろう。
悟りを開いたシッダールタでさえも、戦争を押しとどめる事は出来
なかったと言う。理不尽で一方的な害意が吹き荒れる時、教義は力を
失くしてしまうのだろうか。
私は正義の味方だ。
たとえ、その正義が揺らいだとしても。
﹁⋮⋮それもまた﹂
﹁毘沙門天様は、何と﹂
聖を遮り、星が押し殺した声を上げた。
﹁幻想郷での布教活動に励むように、との事だ﹂
星は目を閉じた。その体が少し震えるのが見える。内心、忸怩たる
思いだろう。
まるであの時と同じだ。
千年前のあの時と。
だが、瞳を開いた星は、穏やかな顔に戻っていた。
﹁今はまだ、どうするべきか分かりません。ですが、私は聖を再び封印
させるつもりはありません。これだけは揺るがない、決して﹂
そうして、再び光背を負った。
それでこそ、星だ。
﹁良いだろう。それだけ聞ければ十分だ。私は調査に戻ろう。聖、外
114
の技術に慣れておけよ。事態がどっちに転んだって、きっと役に立つ
だろうからな﹂
体を預けていた柱から離れ、私は冷たい床を軋ませた。
本堂を出る直前、大事な事を言い忘れていたのを思い出し、振り
返って言った。
﹁だが、無駄遣いは控えろよ﹂
ワイヤーラックは、要らないと思う。
﹁何故、隠す﹂
本堂から出てきたナズーリンは、目を丸くしていた。
石段に座り、マミゾウは煙管をふかしていた。少し寒い。
﹁⋮⋮聞いていたのか﹂
マミゾウはゆっくりと頷いた。
煙草が苦い。煙管の吸い口を少し噛んでから、煙を吐き出した。少
し不機嫌だった。
﹁そんなにワシらは信用ならんか﹂
客に過ぎないマミゾウだけならまだしも、帰依しているぬえや一輪
達にすら秘密にしているのが解せないのだ。
﹁簡単な話さ。私達もどうするか決めかねているんだよ﹂ナズーリン
は遠い目をして言った。﹁それに、信徒達に無用な不信感を植え付け
たくないんだ。何と言っても、敵は人間なんだからな﹂
なるほど、とマミゾウは思った。
ナズーリンは命蓮寺の信徒に、件の﹁賢者達﹂が入り込んでいると
確信しているのだ。集団の結束を破壊するには、内部から互いの不信
感を煽るのが手っ取り早い。
﹁なればこそ、一丸とならねばならぬのではないか﹂
﹁分かってくれ、マミゾウ﹂
ナズーリンは首を振った。
﹁仏教徒でないあんたには分からないかもしれんが、これは信仰の問
題なんだ。理不尽な暴力の前に、我々が信仰を持ち続けられるのか。
今はその瀬戸際なんだ。そしてそれは、あの聖ですら例外でないの
115
さ﹂
﹁そういうものか﹂
信仰そのものとすら思える、あの聖白蓮ですら揺らぐ事がある。人
間なのだから当然だが、信徒でないマミゾウには俄かには信じられな
い。
﹁だから今はまだ、他の者には伏せておいてくれ。今、躓く事は出来な
い﹂
﹁気が進まんな﹂
マミゾウは煙を吐き出した。
空に搔き消えるこの煙のように、何物にもとらわれず心のまま自由
に生きる。それがマミゾウの哲学である。
﹁頼む﹂
しかし、ナズーリンが頭を下げたので、マミゾウは煙管の火を消さ
ざるを得なかった。
116
真摯な頼み事を断れないのは、マミゾウの弱点かもしれない。
﹁代わりという訳ではないが、一つだけ言っておこう。我々の目的は、
敵を殲滅する事ではない﹂
﹁そりゃ、布教じゃろうな﹂
﹁それは毘沙門天の目的だ﹂
マミゾウは眉をひそめた。
この小鼠、毘沙門天の遣いではなかったのか。
﹂
﹁我々の目的。それは、聖を復活させる事だ﹂
﹁なんじゃと
また一つ、しがらみを作ってしまった気がした。
も、儚いものなのかもしれない。
空を登り行く紫煙は、風に吹かれて消えてしまった。自由も信仰
その小さな背を見つめながら、マミゾウは再び煙管に火を着けた。
﹁まさか、あいつら⋮⋮﹂
そう言って、ナズーリンはさっさと石段を降りて行ってしまった。
﹁それだけだ。では、私は仕事に戻る。後の事、宜しく頼むよ﹂
?
﹂
パーフェクト・コガサ
﹁わちき、カンペキ
炉の光に幾分焼けた笑顔で言うのである。
その姿がなんだか可愛らしくて、私も笑みを零してしまった。
﹁なんだい、その女児向けアニメのサブヒロインが言いそうな決め台
詞は﹂
﹁いやぁ、今日もいい仕事が出来たから、つい嬉しくて﹂
﹁そりゃ、お疲れさん﹂
多々良小傘にタオルを渡してやると、彼女はそれでごしごしと顔を
拭いた。顔に付いた煤と汗で、白いタオルはすぐに真っ黒になってし
まった。
なんでも、鍛冶は神聖な仕事なので、仕事の際は必ず白装束を纏う
事にしているらしい。鍛冶用の白装束には汗の染みが大きく浮き出
ている。私はそれを汚らしいとは思わなかった。むしろ美しいとさ
え思った。それは勲章なのである。一つの仕事に全力で取り組んだ
という証だ。
ブツの完成度はどんなだい﹂
火の入った工房は暑いので、私達は外へ出て、木陰に腰を下ろした。
﹁それで
得意満面、小傘はそれを取り出して、掲げて見せた。あれだけ傷つ
いていたロッドが、新品と見紛うばかりの真新しい輝きを取り戻して
いた。
小傘の手からロッドを受け取り、感触を確かめてみる。ロッドは手
に吸い付くようで、先の先まで自分の手と変わらぬ鋭敏さを感じた。
惚れ惚れするほどの出来である。私は頷いた。これは確かに、完璧
と言っても過言ではない。
﹁流石だな。里の鍛冶屋ではこうはいかない﹂
﹂
私が手放しで褒めると、小傘はふふんと鼻を鳴らした。
﹁もっと褒めてくれてもいいのよ
?
117
!
﹁そりゃあもう、カンペキだよ﹂
?
﹁完璧だよ﹂
﹁もっと、も∼っと褒めてくれてもいいのよ
﹁これ以上思いつかないよ﹂
﹂
まったく、小傘は調子に乗り易い。まあ、それが小傘の良いところ
でもあるのだが。
﹁それにしても、今回はかなり傷んでいたね﹂
小傘は白装束の胸元を大きく開いて風を入れていた。女同士とは
いえ、少しはしたない。どこに人の目があるか分からないというの
に。
﹁今回も同じ相手なんでしょう﹂
﹂
ロッドの傷つき具合でどんな相手と戦ったのか分かるらしい。道
具に関する事で、小傘に隠し事は出来ない。
﹁前のロッドを真っ二つにした奴って、どんな奴なの
﹁うむ⋮⋮﹂
尚更哀れに思えたのだろう。
小傘は言い淀んだ。傘の付喪神である小傘には、無残な姿の道具が
﹁六角十手か。これは業物だね。よく使い込んである。でも⋮⋮﹂
り出してまじまじと見やると、ほう、と声を上げた。
私は懐から取り出した巾着袋を小傘に渡した。小傘は中の物を取
に話題を変えた。﹁修復して貰いたいものがある﹂
﹁それより、もう一つ頼みがあるんだ﹂小傘の追求を逃れる為に、強引
奴との戦いに、小傘を巻き込みたくなかった。
私がそう言うと、小傘は訝しげにふうんと唸った。
﹁大した相手じゃあないよ﹂
今、私が生きているのは、小傘の鍛えたロッドのおかげだ。
放たれる、高圧圧縮された水のレーザー。
脳裏に浮かぶのは、青いレインコートの妖の姿。揺れ動く指先から
?
十手はその棒身の半ばの部分から、ぽっきりと折れてしまってい
た。
﹁それは里の自警団長を務めていた男の十手だ﹂
私は小傘に今回の事件のあらましを説明した。
118
?
と言っても、事は単純である。自警団長が里の外に出たまま姿をく
らまし、死体探偵に捜索依頼が来た。果たして彼は見つかったのだ
が、既にその命は尽き果てていた。傍らに折れた十手を残して。
団長は自警団の武装化を良しとせず、あくまで人間相手の捕物を主
眼にした装備しか持たなかった。捕物に際して持つ装備は先祖伝来
の十手だけ。必要以上の武力は敵対心と不信感しか生まない、妖怪退
治はその道の者⋮⋮即ち博麗の巫女に任せる。我々は里の治安を守
れればそれで良い、それが団長の口癖だった。
だが今回は、彼の信念が裏目に出た。有象無象の妖怪に襲われた
﹂
時、非力な人間が十手だけで立ち向える訳が無かったのだ。
﹁妖怪に襲われたの
﹁今、青娥に調べてもらっているが、遺体はかなり食害されていた。間
違いないだろう﹂
死体探偵である私は、団長から依頼を受ける事も少なくなかった。
彼は私が妖怪だと気付いていたようだが、それを追求する事はなかっ
た。妖怪だろうがなんだろうが、里に危害を加えなければ何でもい
い。彼は妖怪との付き合い方を十二分に心得た、まさしく幻想郷の守
り人であった。
﹁惜しい人を亡くした、そう思う﹂
﹁そっか⋮⋮﹂
小傘は十手を蒼い空に掲げた。
使い込まれた鈍色の十手には、沢山の傷が付いている。それが陰影
となり、複雑な紋様を拵えていた。それは、深い皺の走った団長の仏
頂面を思い起こさせた。
﹁形見として遺族に渡したいんだ。だけど悲劇の象徴みたいにはした
くない。小傘、修復してくれるか﹂
私の問いには答えず、小傘はしばらく、十手を空に掲げ続けていた。
気のせいか、その手つきは何か重いものを支えているかのように見え
た。
﹁団長さんには息子さんっているのかな﹂
不意に、小傘が問うた。
119
?
﹁確か、年頃の一人息子がいたはずだ﹂
﹁ふうん﹂
小傘は十手を下して、私をまっすぐに見据えた。
﹁いいよ。受ける﹂
﹁すまんな﹂
﹂
﹁その前に一つ、私からの依頼を受けて﹂
﹁君からの
なんでまた﹂
﹁もう少しかかる﹂
を願っているのだ。
上、覚悟はしている筈だが、それでもまだ心の何処かで生きている事
緊張した顔に、僅かに希望を残して訊く。死体探偵に依頼した以
﹁親父は見つかりましたか﹂
彼は私を見つけると、木刀を置いて駆け寄って来た。
巻きして、詰所の前で木刀を素振りしていた。
さを残している。それが青年団の青い法被に身を包み、頭に捻じり鉢
団長の息子はまだ十代前半と言ったところで、その顔には多分に幼
里に点在する詰所を当たり、三ヶ所目で果たして息子を見つけた。
もしやと思い、私は自警団の詰所に向かった。
家を訪ねると、生憎と息子は留守であった。
平屋である。職人気質の団長は派手を嫌い、倹約を好んでいた。
里の一等地に居を構えているのだが、立地に反してその家屋は質素な
団長の家は里の中心近くにあった。稗田家と繋がりがあるらしく、
私は首を捻りながらも、変装して里へ向かった。
﹁わちき、半端な仕事はしたくないからさ﹂
小傘はにっこりと笑った。
﹁息子の
べて来て欲しいの﹂
﹁団長さんの息子さんが、団長さんの跡を継ぐ気があるのかどうか、調
小傘は淡々と頷いた。
予想外の依頼に、私は少し困惑した。
?
見つけてはいるが、まだ見せられる状態ではなかった。
120
?
﹁そう、ですか﹂
彼はがっかりしたような、安堵したような、複雑な表情を浮かべた。
﹁自警団に入ったのか﹂
﹁はい。親父の跡を継ぐつもりです﹂
﹁剣を習っているんだな。君の親父さんは十手術の達人だったが﹂
彼の顔に陰が差した。
私は、溜息を吐いた。
﹁復讐のためか﹂
彼は力強く頷いた。
﹁親父が帰らなかったら、俺は妖怪共を許すつもりはありません﹂
あどけない顔に殺気を漲らせて、彼は言った。
私はかけるべき言葉を持たなかった。
私はとぼとぼと掘っ立て小屋に戻り、青娥とともにエンバーミング
を行った。作業自体は青娥の悪魔的手腕により、夜が明ける頃には終
121
わった。
﹁ナズちゃん﹂
﹂
青娥は少し憂いを帯びた目で言う。
﹁どうするつもり
小傘は白装束姿で、工房に併設された小屋の畳の上に座して待って
翌早朝、十手を受け取りに、私は小傘の元を訪ねた。
は無力だった。
愛や憎しみを理や言葉だけで打ち消す事など、夢のまた夢である。私
だが、修行を積んだ僧侶でさえ、八苦を完全に滅する事は出来ない。
そう言葉にするのは簡単である。
復讐など無意味だ。
かった。
だが、私の中の教義は、彼を押し留める言葉をもたらしてはくれな
ある。
を相手に刀を振るのと変わりはしない。返り討ちに遭うのが落ちで
有象無象の妖怪共に復讐など、無謀もいいところだ。それは雨や風
私は押し黙った。
?
いた。
﹁出来てるよ﹂
﹁流石だな。仕事が早くて助かる﹂
﹁その前に。わちきの依頼の結果を教えて欲しいな﹂
﹁⋮⋮彼は跡を継ぐそうだ﹂
小傘は優しく微笑むと、白い和紙を乗せた台を背後から取り出し
て、私の前に置いた。和紙の上には、修復された十手が乗っていた。
﹁なんだ、これは﹂
﹁修復は完璧に終わったよ﹂
﹁しかし、これは﹂
確かに、十手は修復されていた。だが、接合箇所が盛り上がり、色
も 変 わ っ て い る。こ れ で は 修 復 の 跡 が あ り あ り と 分 か っ て し ま う。
付いていた傷もそのままだ。まるで素人修理ではないか。
﹁強度には問題はないよ。これは使える道具だよ﹂
﹂
122
﹁これでは駄目だ、小傘。こんなものを見せれば﹂
﹁息子さんが復讐に逸るって
だが、小傘のいう通りかもしれない。
長く生きすぎた私には、ピンとこない概念だ。
歴史を伝える、か。
﹁これは、これでいいんだよ﹂
小傘は少しだけ寂しそうに笑った。
すも、使う人間の手に委ねるべきだと思う。だから﹂
の傷は歴史だよ。歴史は伝えてあげなくちゃ。その歴史を刻むも消
使ってくれた人達の事も、捨てた人達の事も。それは、私の傷。道具
﹁わちき、覚えてる。わちきを作ってくれた職人さんの顔も、わちきを
小傘は自らの本体である、茄子色の傘を抱きしめた。
砂になる。人の歴史を残してあげるのは、道具の役目なんだよ﹂
が悪い事かどうか分からないよ。でもね、ナズーリン。人は死んだら
﹁ナズーリンがそれを止めたいと思うのは分かるし、わちきにはそれ
小傘は首を振った。
⋮⋮分かっていて、やったのか。
?
私は復讐という不毛な行為を止める事に囚われすぎて、逆に遺族へ
の誠実を欠いていたのではないか。
﹁礼を言う﹂
和紙の上の十手を受け取り、立ち上がった。
私は私の出来る事をするだけだ。
遺体を入れた桐の棺を引きずって、私は団長の家に赴いた。
覚悟していたのか、妻も息子も、涙を流さなかった。青娥が整えた
団長の穏やかな死に顔を見て、ただ肩を震わせ、ありがとう、と言っ
た。
私は団長の息子に十手袋を渡した。
﹁これは、親父の⋮⋮﹂
﹁勝手だが、修復させてもらった﹂
十手に残る痛々しい修復の跡を見て、彼の顔にまた深い陰が差し
た。
その十
だってあったはずだ。あの人はその十手で戦ってきたんだ。今まで、
ずっとな。その意味を、よく考えてみてくれ﹂
彼は目を閉じ、ぶるぶると震えた。
﹂
漢の涙を見るのは失礼だ。私は彼に背を向け、里を後にした。
﹁ばあ
鼓動を止めるところだった。
小傘は子供のようにケタケタと笑っていた。小傘は人の心を食べ
る妖怪で、人を驚かせるのが趣味と実益を兼ねる、妖怪としての活動
なのだ。
123
﹁君が親父さんの跡を継ぐ気なら、それを使うといい﹂
﹁こんなものでは、妖怪は倒せませんよ﹂
彼はそう吐き捨てた。
﹁そうだな﹂私は頷いて、しかし言った。﹁だが、見えるか
﹂
手に刻まれた傷が。それが親父さんの歴史だ﹂
﹁歴史⋮⋮
?
﹁傷が沢山付いているだろう。捕物だけでなく、過去に妖怪と戦う事
?
里の門を出た途端、小傘が飛び出して来たので、私の心臓は危うく
!
﹁えへへ、驚いた
﹁遺憾ながらな﹂
﹂
﹂
品同様に直してくれるんだ
﹂
﹁なあ小傘、教えてくれ。道具の傷が歴史なら、なんで私のロッドは新
朝の陽差しを浴びて、きらきら輝きながら小傘はつぶやいていた。
﹁きっと、そう﹂
る権利など、誰にも無いというのに。
も復讐をやめさせたいと、そう思うことを捨てられない。それを止め
果たしてそうだろうか。私は執着を捨てきれない、欲深い鼠だ。今
﹁ナズーリンは、優しいだけだよ﹂
たと思う﹂
かったんだろう。人の行く末を操ろうなどと、おこがましいことだっ
﹁彼が復讐を捨てられるかどうか、それは分からん。だけど、あれで良
私は立ち止まって、首を振った。
ぽつりと、小傘が言った。
﹁怒ってる
しい。それが私の足を速めた。
こんな子供だましの古典的な手にしてやられるなんて、ちょっと悔
林の小径を並んで歩く。
?
⋮⋮そう。
小傘の完璧な仕事振りに驚嘆しているのは、事実なのだから。
﹁君にはいつも驚かされているからな﹂
私は笑った。
だが。
うな単純な奴だ、という。
それは皮肉なのだろうか。私が小傘の子供だましに引っかかるよ
﹁わちきはナズーリンといると、いつもおなかいっぱいだよ﹂
人間の自由ね。私は妖怪なんだがな。
刻むのも捨てるのも新しく始めるのも、使う人間の自由﹂
﹁それは簡単だよ。ナズーリンは今、歴史を創っているんだからね。
私が疑問に思っていた事を問うと、小傘はクスクスと笑った。
?
124
?
そうだ。
小傘の作品は完璧なのだから。
私達の思いは十手を通じ、きっと彼へと伝わるに違いない。
私はそう信じることにした。
125
トラスト・ユー
どんよりと曇った空が人々から天道を隠すべく里に覆い被さって
い る。嫌 な 空 だ。訳 も な く 不 愉 快 に な っ て し ま う。こ う い う 日 に は
家に引きこもって本でも読んでいるに限る。が、私は大人なので、そ
うも言っていられない。仕事は待ってくれないからだ。
星鼠亭の売り台に座っていると、この空と同じ顔色の女がやって来
た。
またか。
私は付けかけの帳簿を閉じ、耳を塞いで奥に引っ込もうとしたが、
﹁待ってくれ﹂
弱々しいその声を聞いて、仕方なく振り返った。
目に見えて憔悴した様子の上白沢慧音が、時雨を零しそうな顔で売
り台に手を付いている。
﹁やめろ﹂私は突き放すように言った。﹁私を頼るな。私は死体探偵だ
ぞ﹂
﹁頼む﹂
﹁駄目だ﹂
私は首を振った。
上白沢慧音の要件は、どうせ一つしか無い。
今。この人間の里で頻発する事件がある。
神隠しである。
それもただの神隠しではない。山中や森中に分け入った訳でもな
く、里中から忽然と人間が居なくなるのだ。ある例では、目の前で話
していた人間が瞬きする間に消えた事があるという。
これだけ聞くと犯人は疑う余地なく八雲紫だと思うだろう。八雲
紫が自在に支配する認識と空間の断裂、いわゆる隙間を使えば、神隠
しなど赤子の手を捻るようなものだからだ。実際、そう疑念を口にす
る者も多い。
だが、私は紫を知っている。彼女はこんな事はしない。自分で作っ
126
た自分の庭を好き好んで荒らす馬鹿などいない。もう少し理性的な
言い方をすれば、人里で神隠しをした所で、八雲紫にはなんのメリッ
トも無いのである。幻想郷最強の妖怪、八雲紫の雷名は、既に天下に
轟いているのだから。
紫以外の誰かが、この神隠しを行っている。何らかの目的を持っ
て。
脳裏にちらつくのは、賢者達という言葉である。
﹁君は被害者が生きている事を信じると言った。私もそれを信じた。
だから私は、君に手を貸す事はない﹂
半獣半人の妖怪、上白沢慧音はこの事件を食い止めようと躍起に
なっている。上白沢慧音は人間の里唯一の学府である、寺子屋の教師
だ。しかし彼女はその役目を超えて、真に人間の味方として、時に妖
怪と戦う事すらある。彼女は人間の里の守護神だ。
だが私は、彼女に協力などしない。
私の汚れた手を差し伸べて良い相手ではないのだ。
﹁帰ってくれ。今日はもう店仕舞いにする﹂
私は店のシャッターを下ろそうとロッドを手にしたが、次に慧音が
吐いた言葉は私の動きを止めるのに十分な驚愕を含んでいた。
﹁脅迫状が来たんだ﹂
脅迫状。
私は眉をひそめた。
妖怪の神隠しで脅迫状とは。短絡的で知恵の足りない有象無象共
の考えつく事では無い。
﹁天狗か河童か、それとも地底の連中か﹂
それは知恵を持ち、組織立った連中のする事である。
断るまでもなく、天狗や河童達も神隠しを行う。妖怪は人を攫い、
人を喰らい、人を殺すものだからだ。
が、有象無象共の行う単なる捕食行為とは異なり、彼らのそれは政
治的活動として行われる。人質の命と引き換えに、人間に対して要求
を行うのだ。山への開発が進み過ぎれば天狗が神隠しを行い、川が汚
染されれば河童が神隠しを行うという具合である。その行為は各々
127
の妖怪と里の人間とが結ぶ条約によって認められている。力のある
妖怪は、人里を無闇に襲わない代わりに、定期的な神隠しを行うので
ある。人里への影響力を保つ為に、そして何より、妖怪を妖怪たらし
めている力、人間達の畏怖を手に入れる為に。
﹁しかし、この時期に奴等がそんな事をするとは思えんが﹂
下手人不明の神隠しが頻発しているこの時期に、わざわざ人里を刺
激するような真似をするとは思えない。過ぎたる恐怖は畏怖よりも
敵意を煽るものだ。人間達が捨て身になって戦争を仕掛ければ、困る
のは妖怪達なのだ。
﹁脅迫状には、身代金の要求が記載されていた﹂
⋮⋮まさか。
﹁人間か﹂
﹁分からん﹂
慧音は首を振った。
﹁そうである確証も無い﹂
私は溜め息を吐いた。
﹁是非にも及ばん。身代金を払え﹂
﹁相手が天狗ならそうもしよう。だが、相手が見えない。被害者が無
事かすらも分からん。一刻も早く、探し出したいんだ。お前の力を貸
してくれ﹂
慧音は頭を下げ、必死に懇願している。が、私は自分でもぞっとす
るような冷たい声を出した。
﹁駄目だ。他を当たれ﹂
私は売り台を飛び越えると、手にしたロッドで星鼠亭のシャッター
を下ろした。
﹁待ってくれ﹂
慧音は私の肩を掴んだが、私はその手を打ち払った。
﹁私は死体探偵だ。手を貸さない事が君に対する最大限の敬意だと理
解して欲しい﹂
﹁しかし﹂
﹁くどい。二度とここへ来ないでくれ﹂
128
慧音の悲しい視線を背に感じながら、私は里中へと歩き入った。
その足で、私は里の外れのあばら屋に向かった。
戸を叩くと、あばら屋の主が顔を出したが、私の姿を認めるとその
﹂
顔はすぐに歪んだ。
﹁げぇっ、小鼠
﹁赤蛮奇、少し聞きたい事があるんだが﹂
﹁え∼っ、困るしぃ﹂
赤蛮奇は焦ってキョロキョロと周囲に目をやった。飛頭蛮という
妖怪である事を隠して、赤蛮奇は人里でひっそりと隠れ住んでいる。
死体探偵と関わるなんて悪目立ちをしたくないのだろう。
﹁も∼、どっか行ってよぉ﹂
ぐいいと私の体を押す赤蛮奇だが、私は退かなかった。私がどうし
ても退かないと知ると、赤蛮奇は眉をくねらせ、私をあばら家に引っ
張りこんだ。しめしめ、と言ったところか。
赤蛮奇のあばら家内は質素で無駄なものが無かった。そこは弱小
妖怪、生活に余裕は無いのかもしれない。土間は綺麗に掃除され、流
しも片付いている。暇なのか、几帳面なのか。赤蛮奇は後者だろう。
博麗神社もよく掃除が行き届いていて綺麗だが、あれは巫女が暇だか
らだ。
居間に通された私は、カニの形をした座布団に座らされた。この座
布団、殺風景な部屋の中で、異常に目立っている。赤蛮奇、カニが好
きなのだろうか。
﹁これ飲んだら帰ってよ﹂
湯呑みを机の上に置いて、赤蛮奇は眉をくねらせた。
﹁君の力を借りたいと思ってね﹂
﹁面倒事はごめんだしぃ﹂
﹁何、世間話をするだけさ、君なら人里の噂に詳しいと思ってね。もち
ろん謝礼もする﹂
謝礼、と聞いて、赤蛮奇は頬を緩ませた。素直な奴だ。
﹁寺子屋での事件の事だ﹂
﹁ああ⋮⋮神隠しね﹂
129
!
私は頷いた。
﹁結構話題になっているようだな﹂
﹁そりゃね。タイムリーだし、なんと言っても、身代金要求なんてあっ
たやつだしね﹂
私も人づてに聞いた噂だけど、と断ってから、赤蛮奇は詳細を話し
始めた。
攫われたのは寺子屋幼年部の男子生徒。事件発生は一週間前で、脅
迫状が届いたのは一昨日らしい。目撃者は無し。手がかりとなるよ
うな遺留品も見つかっていないと言う。被害者が生きているかどう
かすら不明である。脅迫状には身代金として相当量の銀の要求があ
り、その要求内容から、人間の関与も疑われている。
﹁でもねぇ﹂赤蛮奇は首を傾げた。﹁なんとなく、違和感があるのよね
え。この時期に脅迫状とか変だし。攫われた生徒っての、私は見た事
無いし﹂
出した。どうも一言余計だったらしい。参ったな。
約束の謝礼は後で賢将に届けさせる事にして、私は寺子屋へ向かっ
た。
途中、慧音が家々の壁に被害者の人相書きを貼っているのを見つけ
た。やつれた顔で、しかし真剣な目で。目撃情報を募っているのだろ
う。
人相書きを一枚拝借し、まじまじと見てみる。下手くそな似顔絵と
反比例して達筆な文字で、今回の事件のあらましが書いてあった。版
画を作って量産するなどは費用がかかるので、きっと一枚一枚手で書
いたのだろう。
あれだけ手酷く断った手前、慧音には見つかりたくなかった。私は
道を迂回して寺子屋に向かった。
130
﹁君は生徒達をよく知っているのかい﹂
﹁そりゃね。寺子屋ではよく人形劇とかやってるし⋮⋮﹂
﹂
﹁あ れ、見 て る の か。生 徒 に 混 じ っ て 子 ど も が 見 る も ん じ ゃ な
かったか
?
私が言うと、赤蛮奇は顔を真っ赤にして、私をあばら家の外へ放り
?
もはや言うまでも無いと思うが、私は今回の事件を私費で調べるつ
もりだった。それが私に与えられた使命だと、そう感じたからだ。
既に授業を終えたのだろう、寺子屋には人の気配が無かった。授業
を終えた後は、速やかに子供達を家に帰すのだろう。聞き込み調査を
行う事は出来なかった。最近は神隠しやらで物騒なので仕方がない
のだが、少しやりにくい。
もしや森の人形師が人形劇でもやっていないかと期待したのだが、
その当ても外れたようだ。寺子屋の中庭もガランとして、ただ土埃が
立つのみだった。
﹁もし、そこのお方﹂
背後からの声に振り返ると、いつの間にか一組の夫婦が立ってい
た。紋付袴に上等な質の振袖、なかなかの家柄だと感じる。
﹁死体探偵とお見受け致しますが﹂
﹁⋮いかにも﹂
131
平時、かつ別の事に気をやっていたとは言え、簡単に後ろを取られ
た事に疑惑を覚えつつも、私は頷いてみせた。
﹁その人相書き﹂夫は私の握りしめたビラを指差した。﹁既に事件の事
はご存知だとは思いますが﹂
﹁私共は、その子の親で御座います﹂
親、か。
私は胸騒ぎを覚えた。
﹁ならば、私に用は無かろう﹂
誘拐された子どもの捜索を死体探偵に頼むなどと⋮⋮。
私は不快感をわざと顔に出して、両親を威圧した。
それでも、両親は動じなかった。
﹁あなた様に依頼が御座います﹂
﹁あなた様に身代金の受け渡しをお願いしたいので御座います﹂
妻は持っていた風呂敷包を私に押し付けた。ずしりと重い。本当
﹂困惑した。﹁何故⋮⋮﹂
に身代金を用意したらしい。
﹁私に
﹁あなた様が一番の適任でありますゆえ﹂
?
﹁博麗の巫女の方が適任だろう﹂
﹁いいえ。あなた様以外、託せる方はおりません﹂
訳が分からなかった。幻想郷の調停者たる博麗の巫女よりも私が
適任とは、一体⋮⋮。
﹁場所は郊外の林の奥、時刻は今日、夕暮れ﹂
﹁待て。この件は上白沢慧音に伝えたのか﹂
夫は首を振った。
﹁何故だ。半妖だと嘲っているのか。上白沢慧音は真に君達の味方だ
ぞ﹂
﹁私共も上白沢女史を信頼しております。それ故に⋮⋮﹂
妻は優しく微笑んで言った。
﹁探偵殿。あの子の事、宜しくお頼み申す﹂
そして、夫婦揃って頭を下げる。
一陣の風が土埃を舞い上げ、私が顔を覆う内に、夫婦の姿は消えて
いた。私は狐につままれた気分で、星鼠亭に戻った。
星鼠亭に戻った私は、変装を解いて、装備の補充を行った。相手が
人間の場合も考えられる。退魔針は役に立たないかもしれない。最
悪、小傘の仕込みロッドでなんとかするしかない。
再び星鼠亭を出ると、曇り空の切れ目から、空が赤く染まるのが見
えた。私は風呂敷包を抱え、早足で里を出、林の奥へと分け入った。
ロッドを握りしめつつ歩いて行くと、どうにも林の中の様子がおか
しい事に気付いた。普段喧しい筈の有象無象共が、今日に限って大人
しいのである。
そしてもう一つ。
尾行するように、あるいは先導するように、幾つかの影が私の周り
をちょろりと動き回っている。害意が無い事はすぐに分かったが、一
体何が目的なのだろうか。私はロッドを握り締める手を緩め、いつで
も戦える準備をして歩いた。
影の先導に従って歩いて行くと、目の前に大きな岩が現れた。
その時、雲の切れ間から赤光が降り注いだ。
夕陽に照らされた岩の陰に、小さな子どもが座っていた。人相書き
132
と同じ、おかっぱ頭の小さな男の子。
子どもは私に気付くと、にっこりと笑いかけた。無事だったよう
だ。
﹁大丈夫か﹂
駆け寄ろうとした私の前に、大きな影が落ちた。
影のその背には、六つの尾が妖しげに揺れている。
﹁この岩は伝説の殺生石の一部と伝えられている。我々にとって大事
なものだ。君も敬意を払ってくれると嬉しい、毘沙門天の使者よ﹂
しわがれた老婆のような深みのある声。
妖狐だ。
六尾とは言え、大きな力を持つ事に変わりは無い。私の額を冷や汗
が伝った。
見上げた先には、大岩の上に佇む大きな六尾狐。白い毛並を夕陽に
赤く染め、穏やかに微笑んでいる。その周囲には、まだ若く体の小さ
あ、ああ⋮⋮﹂
い、私の手から風呂敷包をひったくった。
133
な狐が侍っている。六尾狐はこの群れの長らしい。
﹁あなたが神隠しの犯人か﹂
妖狐はくつくつと笑った。
﹁まあ、そうなる﹂
﹁天狗達と同じように、人里で政争を始める気か﹂
﹁我々は奴らほど数多くはないよ﹂
私は全身を緊張させていたのだが、妖狐は私を侮っているのか、気
を抜いて害意の欠片も見られなかった。尾を振る調子も穏やかで、こ
ちらの敵意を削ごうとしているのか。
私がどうやってこの場を切り抜けるか高速で思案していたその時、
私の服の袖を引っ張る者がいた。
﹂
件の男の子である。
﹁これ、おみやげ
﹁え
風呂敷包を差して言う。
?
それどころでない私が適当に生返事をすると、彼はにっこりと笑
?
﹁あ、お、おい
重いぞ、危ないぞ
﹂
まさか、あの子どもは。
⋮⋮ばーちゃん、だって
﹁ばーちゃん、おみやげ
﹂
いひょいと岩を登って、妖狐の隣に座った。
男の子はしかし、重いはずの風呂敷包を軽々と持ち上げると、ひょ
!
なっておるしな。きっと話せば力になってくれたとも思う。だから
信頼しているよ。人里での彼女の献身は賞賛に値する。孫も世話に
﹁そう、だな。彼女には済まないと思っている。しかし、我々は彼女を
た。
チクリとそう言うと、流石の妖狐も申し訳無さそうに身をすくめ
﹁上白沢慧音は心を痛めているぞ﹂
そう言えば、白狐は善狐、人間の味方だったな。
そうか。
﹁あ奴らは里を守る稲荷神だ。おいそれと離れる訳にはいかんよ﹂
﹁両親が同行すれば、そんな事は無いだろうに﹂
なってしまってな﹂
﹁今までは他の集落に行くと言って誤魔化していたが、それも難しく
下手人不明の神隠しの事だ。
境無い輩のお陰で警戒が厳しい﹂
﹁しかし、子どもが人里を出るには理由がいるのでな。特に、最近は見
のである。
だけだった。つまり、男の子の神隠しなど、最初から存在しなかった
男の子は攫われた訳ではなかった。自分の足で、自分の家に帰った
﹁里帰り、という訳だ﹂
﹁じゃあ、この神隠しは⋮⋮﹂
妖狐だったのだ。
幻視をしてみると、男の子に獣耳と小さな尻尾があるのが見えた。
妖狐は心底可笑しそうにくつくつと笑った。
﹁ようやく気付いたかね、毘沙門天の使者よ﹂
?
!
こそ、彼女の立場を悪くしたくなかった。人里で妖怪に与する事は重
134
!
罪だろう。一方的で独善的かもしれないが、欺く事が我々の恩返しな
のだ﹂
その気持ちはよく分かる。私も同じ事をしているからだ。私に何
かを言う資格は無かった。
なるほど。だからこそ、慧音や博麗の巫女よりも、私が適任という
訳か。
﹁しかし、これからはどうする。しょっちゅう神隠しされる訳にはい
かんだろう﹂
ホホホ、と狐は笑った。
﹁大丈夫だ、準備している。今度、私も人里に下りるでな。次からはい
つでも会えるて﹂
尾の一つで男の子の頭を愛しそうに撫でながら、妖狐は目を細め
た。
孫の為に群れを放り出すなんて、なんと言う孫バカだ。
毘沙門
135
﹁それに、何か困った事があれば、君に頼めばいいのだろう
天の使者、いや、人里の探偵よ。頼りにしているよ﹂
私を見つめて、妖狐はニヤリと笑った。
参った。
に帰した。両親と慧音は寺子屋で待っていたようで、男の子の声を聞
太陽がほとんど沈みかけた頃。人里に戻った私は、男の子を寺子屋
としなかったので、私は強引に男の子の手を引いて林を出た。
た。どうせいつでも会えるんだろうと言っても、男の子から離れよう
別れの時が来て、六尾の妖狐は寂しそうに尾をうな垂れさせてい
げを詰めるなんて、ちょっと可愛いじゃないか。
ている。私は笑ってしまった。私が銀と間違えるほどぎっしり油揚
嬉しそうに油揚げを頬張る男の子を見て、孫バカはでろでろになっ
﹁身代金﹂が油揚げとは、狐らしい。
﹁わあ、油揚げだ﹂
男の子は風呂敷包を解くと、中を覗いて歓声を上げた。
狐、老獪な物言いである。これでは怒るに怒れないではないか。
つまりこの狂言は、私とのコネを作る為でもあった訳か。流石妖
?
くと飛び出てきた。事情を知る両親は嬉しそうにニコニコと笑うば
かりだったが、慧音は男の子に抱きついて、大声で泣いていた。凛々
しく整ったその顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、人目も憚ら
ず。影で見ていた私は胸が一杯になって、思わず少し、震えてしまっ
た。
上白沢慧音。
彼女ほど情熱的で献身的、清廉にして誠実な女性はそういないだろ
う。聖や主の星と同様に、私は彼女に敬意を払っている。
いつの間にか雲は晴れ、月が顔を出していた。美味いチーズを買っ
て帰ろう。今日は久し振りに、楽しい晩酌になりそうである。
136
ニトリ・ボンバイエ
速足で沢を渡り、迷彩色のテントに近づくと、そのドアを無造作に
開け放ち、ずかずかと中に侵入した。テントの主は食事中だったらし
く、胡瓜を半分口にくわえたまま、仰天して目を見開いていた。それ
にも構わず、私はその河色のツナギの胸元をぐわしと掴んだ。
え
なにが
﹂
﹁おい。舐めてるのか﹂
﹁え
?
は
﹂
はぽかんとしている。
﹂
﹁いきなりやって来て、何に怒ってるのさ
これだから河童って奴は。
﹁決まってるだろ。これだよ、こ・れ
ナズーリン﹂
?
アルコールランプの灯りの下、私がジロリと睨みつけても、にとり
﹁へ
﹁すっとぼけもその辺にしときな﹂
もなるんだ、まったく。
ばかりだった。ガラクタに囲まれて無頓着に暮らしているから鈍く
口にくわえた胡瓜をポロリと落とし、河城にとりは目を白黒させる
?
?
にとりは私の文句を鼻で笑った。いかにも無学な輩を見下す潔癖
﹁操作したらいきなり爆発したぞ。どうなってるんだ、一体﹂
ベッコベコにひん曲がり、黒い煤で覆われている始末。
る た め の パ ネ ル に も ヒ ビ が 入 っ て い る。お ま け に 金 属 製 の 本 体 は
いた操作盤は吹っ飛んで内部基盤を晒しているし、探知結果を表示す
唸ったのは、一目見て分かるほどに壊れているからだ。上部に付いて
りに特注した、特定の金属を探知するための機械である。にとりが
この機材。名前をネオレアメタルディテクターと言う。私がにと
にとりはその機材を見ると、あーあとしたり顔で唸った。
り合いが取れている。
た。ドスン、とおおげさな音がするが、重さのほうも大げさなので釣
私は背負ってきた無意味に重いその機材をにとりの目の前に下し
!
137
?
?
症のインテリみたいな眼をして。なにこいつすごく殴りたい。
﹁ったく、素人はすぐそういう事言うんだから、困っちゃうよなぁ。あ
﹂
んたが悪い癖にさぁ﹂
﹁何ぃ
自爆スイッチ。爆発するのは当然じゃないか﹂
溜息交じりに私の胸を小突いて。
﹁押したんだろ
?
﹂
!
く貴重な物を庭に埋めて隠しては、下男にそれを探させて面白がって
いないと。なんでも、先代は人をからかうのが趣味の悪戯好きで、よ
私は盗難を疑ったが、家主は違うと言う。先代が死ぬ前に埋めたに違
先代が貴重な金属で作らせたという美術品が見当たらないらしい。
しいという依頼だ。
今回の探し物はなんと、死体ではなかった。先代の形見を探して欲
見事な庭と比べると、月とスッポン⋮⋮いや、比べるのも失礼だな。
者だったので、少し期待していたのだが。妖夢の造った白玉楼のあの
具合だ。家主の性格が伺えるというもの。先代の家主は有名な道楽
耐えるものではなかった。ただ単に空き地の隅に池があると言った
庭は広いが、これと言って手入れされているものではなく、鑑賞に
テクターを下ろした。
依頼人の家の広い庭の真ん中で、背負っていたネオレアメタルディ
﹁今度は大丈夫ですよ﹂
らな。そりゃ怖いよ。
配そうに言う。その気持ちもよく分かる。なにせ前回は爆発したか
頭なんだか分からないが、たぶん額︶の汗を手拭いで拭きながら、心
依頼人である肥満気味の中年男性は、額︵正直、禿げて額なんだか
﹁本当に大丈夫なんですか
﹂
﹁なんでそんなの、つけてるんだよ
数秒後。呼吸を整え、私はあらん限りの大声を振り絞った。
クターという名前の粗大ごみに手を付いた。
私はめまいを覚えて、よろよろとふらつき、ネオレアメタルディテ
?
いたという。子供か。
138
?
という訳で私は庭の探索を行う事になったのだが、人間の里でお
おっぴらにロッドや鼠を使う訳にもいかず。ダウザーの私としては
非常に癪だが、今回は機械の力に頼ったという次第である。
﹁また爆発なんてされたら⋮⋮﹂
小心の家主が汗を拭きながら言う。肌寒いと言うよりもう寒い季
節だと言うのに、汗っかきな家主だ。少しは節制したらどうだい⋮⋮
なんて、依頼人じゃなかったら言ってるんだけどな。
﹂
﹁大丈夫ですよ、自爆スイッチは外させましたから﹂
﹁えっ、自爆
﹁とにかく、スイッチオン﹂
操作盤上で一番目立つ赤いボタンを押すと、ウィィンと音を立て
て、ネオレアメタルディテクターが震えだした。ひぃぃ、と叫びなが
ら家主は庭の松の影に隠れた。小心だな。無理も無いけど。
ネオレアメタルディテクターは景気よくガタガタと震えていたが、
それだけだった。パネルを見ても、何も表示されていない。
﹁動かないな⋮⋮﹂
赤いボタンは単なる電源ボタンなのかもしれない。私は操作盤を
覗き込んで見たが、無機質なボタンが並ぶのみで、眺めるだけで頭痛
がしてきた。
まあこういうのは適当に押してみるに限るな。押しちゃいけない
自爆スイッチは取り外させたことだし。
私は適当にポチポチとボタンを押してみた。
すると、にわかにパネルに光が灯った。
パネルの中心の光源がこのレアメタルディテクターの位置を示し
ているのであろう。しかし他には何も映らない。感度設定が低すぎ
るのだろうか。設定を変えようと、私はいろいろなボタンを押し続け
た。
途端、目の前がまっ白くなり、熱風が私の体を吹き抜ける。
という爆発音が響き渡った。
数瞬後、ボォン
!
家主が慌てて駆け寄ってくるのを煤だらけの手で制して、私は言っ
やっぱり爆発しましたけど﹂
﹁だ、大丈夫ですか
?
139
?
た。
﹁⋮⋮ちょっと出かけて来ます﹂
ベッコベコになった粗大ごみを担いで、私は風になった。妖怪の山
の裏の滝、にとりのテントへと急ぎに急いだ。
﹂
沢で釣りをしていたにとりは、ゴミを担いで煤だらけの私を見やる
イメチェン
と、腹を抱えてゲラゲラ笑った。
﹁なにその格好、イメチェン
﹁そりゃ、外したよ﹂
あっけらかんとにとり。
自爆スイッチ﹂
﹁じゃあなんで爆発するんだよ
﹂
私は出来るだけ冷静に、声を押し殺して言った。
﹁おい。外せって言ったよな
竿が、がらりと岩場に転がった。
私が無言で釣り竿を蹴折ると、流石のにとりも黙った。折れた釣り
なんてムカつく顔だ。ぬえの煽り顔にも匹敵する。
?
﹁何ぃ
﹂
んたが悪い癖にさぁ﹂
﹁ったく、素人はすぐそういう事言うんだから、困っちゃうよなぁ。あ
制心は自慢するに値すると思う。すごい。
反射的に出そうになった手を、息を飲み込んで誤魔化した。私の自
の女王様みたいな顔して。
にとりはふふんと鼻で笑った。みすぼらしい農民を見下す浪費家
!
﹁どうせ入力したんだろ
えじゃあないか﹂
⋮⋮私は確信した。
自爆コマンド。爆発するのはあったりま
要らないんだよ、ぜんっぜん
!
い。
﹂
﹁なんでそんな機能つけてんだよ
外せ
!
話しているだけで人を頭痛にさせるとは、よっぽどの天才に違いな
河城にとりは天才である。
?
140
?
?
溜息交じりに私の鼻っ面をちょんと小突いて。
?
!
温厚な事で有名なこのナズーリン様が声を荒げてしまうのも、無理
はないだろう
﹁馬鹿言うな。自爆装置のない機械なんてロマンがない。それに、に
とりと言ったら自爆、自爆といったらにとりじゃないか。オーディエ
﹂
ンスもそれを期待してるんだぞ﹂
﹁私は期待してない
取説も読まないような輩に、文句言
?
振りをした。
?
﹂
﹁ぜ、前回は持ってなかったんですか﹂
﹁それに今回は取説もらってきましたから﹂
たぶん、の部分が小声になってしまうのは、仕方なかろう。
﹁大丈夫です。⋮⋮たぶん﹂
とり謹製の自爆ロボでも使いこなしてみせる。
だが今回の仕事は、絶対に完遂したいのだ、私は。そのためには、に
二回も爆発すればさ。私も怖いよ。
小心の家主が言う。いやまあ、小心じゃなくても怯えるだろうな、
﹁本当に、本当に大丈夫なんですか
﹂
にとりは口を尖らせながら吐き捨てたが、私は頑張って聞いてない
﹁へーへー。けっ、ロマンを解さない奴だよ⋮⋮﹂
ンドとやらを解除しろ﹂
﹁⋮⋮まあ、いい。早くこの粗大ごみを直せ。ついでにその自爆コマ
私は溜め息と一緒に怒りを吐き出した。
ひとえに修行の賜物である。やっててよかった仏門式。
しれっと言い放つにとりに私の右ストレートが飛ばなかったのは、
﹁欲しいって言わなかったじゃん﹂
﹁もらってないぞ、そんなの﹂
取説⋮⋮。
われたくないね﹂
せた。﹁あんたが悪いんだろ
﹁大体な﹂にとりは私の胸に指を突き付けて、責めるように眉をくねら
!
﹁それじゃあスイッチオン
!
141
?
操作盤上でキラキラ輝く赤いボタンを押すと、ウィィンと音を立て
て、ネオレアメタルディテクターが震えだした。ひえぇ、と叫びなが
ら家主は庭の松の影に隠れた。
ネオレアメタルディテクターは景気よくガタガタと震えていたが、
やはりそれだけだった。パネルを見ても、何も表示されていない。前
回と同じだ。
だが今回は大丈夫。何と言っても、私には取説がある。
私は操作盤に向かい、取説を開いた。
﹂
﹁なになに⋮⋮まず電源オンとな。そりゃ、やってる。次にやるのは
⋮⋮え、ユーザー認証
な、なんでそんな機能つけてんだ、あの河童野郎
﹂
操作盤の前でおろおろしていると、心配したのか、家主が声を掛け
てきた。松の影から。
﹂
なんとかします
﹁た、探偵さん、大丈夫なんですか
﹁大丈夫、大丈夫です
﹁そんなことはありません
﹂
﹁探偵さん⋮⋮もしかしてメカ音痴なんじゃ⋮⋮﹂
!
?
私は意気揚々と親指を押し当てた。すると、ブブーっと音が鳴っ
録画予約はいつも賢将。
あっぱれ賢将。
さすが賢将。
る。きっと指紋認証装置だ。
る。小さな金属面がむき出しになったそれは、どこかで見覚えがあ
いつの間にか盤上に登った賢将が、操作盤の一角を尻尾で指してい
賢将の鳴き声で我に返った。
キイキイキイ。
でいっぱいになって⋮⋮。
が、ダメだ、さっぱり頭に入らない。頭の中が焦りとにとりへの怒り
針のような家主の視線で背中が痛い。私は慌てて取説を見返した
録画予約とか苦手なだけだ。
舐めるなよ、私だってスマホくらいなら使えるぞ。ただちょっと、
!
142
!
?
!
た。認証に失敗したらしい。
それならばと今度は人差し指を当ててみる。しかし、またもやエ
ラー音。
そんなに言うならと、私は靴と靴下を脱いで、足の親指を金属面に
押し当てた。
という、もはやおなじみの爆発音が響き渡った。
途端、目の前がまっ白くなり、熱風が私の体を吹き抜ける。
数瞬後、ボォン
﹁だ、大丈夫ですか
今度も爆発しましたけど﹂
家主が慌てて駆け寄ってくるのを煤だらけの手で制して、私は言っ
た。
﹁すぐ戻りますんで﹂
私が妖怪の山へと駆けるその速度、きっと天狗にも負けない事だっ
たろう。
にとりは河原で焚き火をしていた。よだれを垂らしながら、胡瓜を
炙っている。今も昔も、河童のセンスは分からない。
私はバケツで水をぶっかけて、焚き火を消してやった。
﹁なにすん⋮⋮ぶふっ﹂
文句を言いかけたにとりだが、煤だらけの私と賢将を見て笑いを堪
えられなかったようだ。腹を抱えて転げまわった。
﹁何回同じことやれば気が済むのさ、ナズーリンったら﹂
﹁それはこっちの台詞だ⋮⋮﹂
焚き火も掻き消せそうなほど冷たい声で私は言う。正に怒髪天を
突く勢いで私は怒っていた。そりゃそうだ。何回同じ事させられれ
ばいいんだよ。
﹁ユーザー認証とか、いらない機能付けてんじゃねぇよ⋮⋮﹂
にとりは私の文句を鼻で笑った。いかにも田舎者を見下す都会の
若者のような眼をして。純粋に、腹立つ。
﹁何言ってんだ、時代は今まさに、セキュリティ戦国時代だぞ。ユー
ザー認証くらいつけなきゃな﹂
﹁ちっとも認証されなかったぞ﹂
﹁そりゃあんた、ユーザー登録してないからだろ﹂
143
!
?
聞いてないぞ﹂
悪びれも無くにとりが言う。
﹁⋮⋮登録
﹁したいって言わなかったじゃん﹂
この時ほど、自分の忍耐力の強さを恨めしく思ったことはない。嗚
呼、この小生意気なゲス顔を力一杯ひっぱたけたならば、どれほど気
が晴れるだろうか⋮⋮
一から十まで全部オートでやるってこと
?
で全部済ましてくれ﹂
﹁ボタンひとつで
﹂
のはいらん。取説が要らないような奴に改造してくれ、ボタンひとつ
﹁今度はユーザー認証とか、いろんなボタン押したりとかの小難しい
ついでに、私は追加注文をつけた。
泣き落としは成功。今度こそ、と言ったところだろう。
私が見つめると、にとりは目を伏せ、分かったよ、と呟いた。
応えたいんだ。頼む。力を貸しておくれよ﹂
知って、それでも仕事を依頼してくれた依頼人の期待に、私は絶対に
回 は 違 う ん だ。探 し て る の は 死 体 じ ゃ な い。私 が 死 体 探 偵 な の を
﹁そうだよ。いつもは死体探しばっかりさ。気が滅入るよ。だけど今
﹁死体探偵、だろ﹂
が里でなんて呼ばれてるか、知ってるだろう﹂
﹁なあ。最初に言ったろ。私はこの仕事、絶対成功させたいんだ。私
私はもう、不満で息も絶え絶えである。
あっはっは、とにとりが笑う。
てか私も忘れてたわ、認証機能の存在﹂
﹁あー⋮⋮うん、まあ、認証の件は、言わなかった私が悪かったな。っ
流石に悪いと思ったのか、にとりは頭を掻いた。
私は脱力して、その場にうずくまってしまった。
!
﹁⋮⋮なんだい、その手は﹂
にとりはおもむろに右手の平を上にして差し出した。
﹁まあいいけどさ。機能追加ってんなら﹂
もんだ﹂
﹁外の世界じゃ大体そうだぞ。何事もボタン一個、ワンタッチで済む
?
144
?
﹂
﹁決まってるだろ、金だよ、カ・ネ
﹁この上、金銭を要求なさると
﹂
こちとら遊びじゃねえんだよ﹂
!
仏の顔も三度までだ。
いる。
三度目の正直です
﹁大丈夫、今回は絶対大丈夫です
!
だから絶対、大丈夫です
﹂
今 回 は な ん と 言 っ て も、全 自 動 で す か ら
タッチです、ワンタッチ
﹂
!
﹁大 丈 夫 で す
ワ ン
この期に及んでしまったらもう、勢いで押し切るしかない。
いじゃないか、信用が無いな。⋮⋮無理もないけどさ。
松の影に隠れながら家主はそう言う。まるで私自身が爆発物みた
﹁毎回そう言ってますけど⋮⋮﹂
﹂
家主の私を見る目が、明らかに胡散臭いものを見る目つきになって
!
﹁あの⋮⋮もう、やめたほうが⋮⋮﹂
﹁大丈夫、大丈夫です
﹂
ら胡瓜色の液体が飛び出したのは、避け得ぬ運命だったに違いない。
私の飛び蹴りがにとりの腹に突き刺さり、にとりの花のような唇か
⋮⋮でも、足は出た。
た。自分で自分を褒めてあげたい。
私の鉄の自制心は、振り上げようとした拳を留めることに成功し
﹁当たり前だろ
?
﹁もう四度目なんですけど⋮⋮﹂
!
スイッチオン
﹁そ、そうですか﹂
﹁行きます
!
!
!
て、ネオレアメタルディテクターが震えだした。ひょえぇ、と叫びな
がら家主はアーク溶接用マスクを眼前に構えた。どこからそんなも
のを⋮⋮。
ネオレアメタルディテクターは景気よくガタガタと震えていたが、
やがてその震えがおさまると、パネル上に光点が表示された。
一つはこのネオレアメタルディテクターの位置を示す中心点。そ
145
?
!
操作盤上で燦然と煌めく赤いボタンを押すと、ウィィンと音を立て
!
してもう一つが目標物か。
⋮⋮はて。
﹁ちょっとコレを見てください﹂
私が機材を引っ張ってゆくと、家主は怯えて逃げ出そうとしたが、
先回りした私が腕を捕まえたので、それは叶わなかった。しぶしぶパ
ネルを覗き込む家主に、私は指差して説明した。
﹂
﹁この光点が現在地で、こっちの点が目標物らしいですが。明らかに
庭からはずれていませんか
﹁おや⋮⋮確かに﹂
﹂
光点の示す方角へ向かってみると、屋敷の縁側にぶち当たる。
﹁ということは、縁の下かな
家主は首を捻っていた。
私は何の気無しに庭から障子の空いた書斎内を眺めたが、ふと妙に
輝く物体を卓袱台の上に発見した。
﹁失礼﹂
家主に断って屋内に上がり、それを手にしてみる。
見た目は只の灰皿だが、その光沢は異様だった。触り心地はひやり
と冷たく、表面に映った私の影は揺らいで見える。
﹂
試しにそれをネオレアメタルディテクターの側に持ってゆくと、光
点がまばゆく点滅し始めた。
これだ。
﹁この灰皿、まさか。緋緋色金製ではないですか
私がそう口にすると、家主は目を剥いた。
?
﹂
あの剣を溶かして、灰皿になんか
全然気づかなかったぁ
﹁ああっ、ま、まさか親父のやつ
していたのか
!
!
なんてつっこみ、依頼人じゃなかったらしてたんだけどな。
つまり家主は目的の物を最初から所持して、しかも日常的に使用し
ていたわけだったのだが、そうなると私の苦労は一体なんだったのか
と思う。
だが、
146
?
?
⋮⋮いや、気付けよ。明らかに異様な風体じゃないか、この灰皿。
!
﹁いやあ、ありがとう。一時はどうなることかと思ったけど、依頼して
よかったよ、探偵さん﹂
手放しでそう言われては、悪い気がしない私だった。
﹁と こ ろ で。な ん か そ の 機 械、さ っ き か ら ピ ー ピ ー 鳴 っ て ま す け ど
⋮⋮﹂
﹁エッ﹂
確かに先ほどから、やかましい機械音が鳴り響いている。
﹂
慌ててネオレアメタルディテクターを見やると、ブスブスと黒い煙
を吐いていた。
﹁やばい、離れて⋮⋮
を吹き抜けて。
﹂
?
﹂
私は溜め息を吐いた。
﹁自爆しろなんて言ってない
﹂
﹁あんたが言ったんじゃないか、一から十まで全部ってさ﹂
くていいんだよ
﹁あのな。オートでワンタッチって、自爆するとこまでオートにしな
断じてそんなことは無い。
﹁またかよ。あんたもしかして、機械音痴
煤だらけの私を見ると、笑うよりも呆れていた。
にとりは川縁に座って、新聞を読んでいた。
発音が響き渡った。
数瞬後、ボォン
という、今ではもう親しみすら感じてしまう爆
私が呆気に取られていると、目の前がまっ白くなり。熱風が私の体
私が振り向いた時には、家主は既に松の影。
!
その台詞はゴマすりしながら言う台詞じゃあないだろうに。
﹁へっへっへ。持つべきものは金払いのいい上客ですなあ﹂
途端にほくほく顔である。
﹁ほっ﹂
た﹂
﹁まあ、いい﹂依頼は完遂できたのだからな。﹁今日は代金を払いに来
!
147
!
!
私は持ってきた紙袋をにとりへと放り投げた。
﹁ほら。代金だ﹂
紙袋を開けたにとりは、あっ、と声を上げた。
そりゃそうだ。中身は金ではなく、胡瓜だったのだから。
﹁河童なんだから、それで満足だろ﹂
あれだけ迷惑掛けられたんだ、金なんてビタ一文払ってやるもん
か。河童のあんたはそれでも齧ってるがいいさ。
そう言外に言ったのだ。
にとりはぶるぶると震えている。怒っているのだろうが、私だって
ひゃっほぅ
何故だ。納得行かない。
﹁そ、そんなに喜ぶ程かい﹂
﹂
﹂
ありがとう、ナズちゃん
﹂
怒っている。弾幕勝負をしようってんなら受けて立つさ、スペルカー
ドも持ってきているしな。
太陽の畑産
だが、顔を上げたにとりは満面の笑みだった。
﹁ねえ、この胡瓜、もしかして
顔を輝かせて、鼻息荒く私に迫るのである。
?
﹂
に手が出せないからねえ。それをこんなにくれるなんて⋮⋮ナズー
リン、やっさしい
まったく、これだから河童って奴は。
一から十までにとりの思い通りじゃあないか。
非常に納得が行かない。
喧嘩を売ったつもりが、逆に感謝されるとは⋮⋮。
い。
私に抱きつき、キスまでしてくる始末である。ええい、うっとおし
!
148
﹁そうだけど⋮⋮﹂
やったぜ
!
﹁ぶっちゃけ、グラム単価は金を超える﹂
﹁え
!
!
確かにそれは、風見幽香に譲ってもらった胡瓜だった。
﹁マジか
!
紙袋を抱きしめて、にとりは小躍りしている。
!
﹁あそこの胡瓜はめちゃくちゃ美味いんだけど、畑の主が怖くて滅多
!
ニューサンス
﹁わあ、油揚げだ﹂
﹁身代金﹂が油揚げとは、狐らしい。
嬉しそうに油揚げを頬張る男の子を見て、孫馬鹿はでろでろになっ
ている。私は笑ってしまった。私が銀と間違えるほどぎっしり油揚
げを詰めるなんて、ちょっと可愛いじゃないか。
だが。
﹁あんた達に悪意がない事は良くわかったよ。しかしな⋮⋮脅迫状を
出すだなんて、少しやり過ぎじゃあないのか。ただでさえ人里は緊張
状態にあると云うのに。上白沢慧音が気の毒だぞ。一体、誰の入れ知
恵だい﹂
私は六尾に向かって苦言を呈した。気持ちは分かるが、これでは完
149
全に大事件である。有り体に言えば、事態の収拾と後処理が面倒なの
だ。
単なる狐の子の里帰りを、里を揺るがす大事件に仕立て上げて。思
慮深い妖狐のする事とは思えないぞ、まったく、この孫馬鹿は。
﹂
しかし、次に六尾妖狐が口にした言葉は、私の予想の範疇を超えて
いた。
﹁脅迫状とは、一体なんの事だ
る。そう感じる。
いた。得体の知れない悪意が、この狂言誘拐劇の影で牙を研いでい
記憶の底で何かが引っかかっている。私の本能が警鐘を鳴らして
これでは辻褄が合わない。
け渡しに駆り出されていると言うのに。
里の守護神たる上白沢慧音は解決に奔走し、私もこうして身代金の受
子供が誘拐され、身代金要求の脅迫状が来た。だからこそ、人間の
何が何だか分からない。
感する。
妖狐は訝しげに首を捻った。その様子から、嘘は吐いていないと直
?
無性に胸騒ぎがした。
﹁別件の方はどうだい﹂
私が問うと、太陽の畑の胡瓜片手に小躍りしながら、河城にとりは
さらりと言った。
﹁さあね。少なくとも、私は知らないよ。山の天狗サマをアゴで使う
女河童なんてさ﹂
奴⋮⋮青いレインコートの妖の事だ。わかさぎ姫は奴を河童だと
言った。実際、奴は水を武器に使う。
命蓮寺を敵視していると思われる組織、
﹁賢者達﹂とやらに関する手
掛かりは少ない。私は青いレインコートの妖を探して、河城にとりに
調査を依頼していた。同じ河童なら、何か知っているかも知れないと
思ったのだ。その当ては見事に外れたが。
﹁一応、仲間にも聞いてみたけどね。まぁ、誰も知る訳がないさね、こ
の河城にとり様ですら知らないってんだからな﹂
﹁ふむ﹂
にとりはこの通りの性格なので扱い難いが、実力は本物である。こ
んな山の中で長期間キャンプをするなど、好き勝手に単独行動をしな
がらも、河童社会の中でそれなりの地位を築いているようだ。
そのにとりが言うのである。河童社会は奴、青いレインコートの妖
を、ひいては賢者達という組織自体を関知していないのかもしれな
い。考えてみれば、享楽的で短絡的で即物的な河童の性格と、賢者達
などという陰謀めいた回りくどい秘密結社は合うはずもないから。
﹁手掛かり無し、か﹂
﹁そう腐りなさんな。道ってのはそのうちに開けるもんさね﹂
﹁君に道を説かれるのは、非常に心外だな⋮⋮そうだ﹂
私はナズーリンペンデュラム・エンシェントエディションを取り出
し、にとりに示した。
﹁これと同じ物を持った奴を見かけたら、教えてくれ。勿論謝礼はす
る。だが、そいつには決して近づくなよ。危険だからな﹂
青 い レ イ ン コ ー ト の 妖 も こ れ と 同 じ ペ ン デ ュ ラ ム を 持 っ て い た。
150
奴もまた、私と同じく、八雲紫の求めるものを探しているのだろう。
それを奪い取る為に。
﹁それは⋮⋮﹂
声を上げたにとりを見やると、様子が一変していた。
胡瓜を抱えてウキウキ気分は何処へやら、彼女は全身に殺気を漲ら
せ、姿勢を低くして身構えたのだ。目深に被った帽子の下から光る目
は、切っ先の様に鋭い。
私は唖然としたが、私の身体は長年染み付いた防衛行動を正確にこ
なして見せた。即ち、一歩退がって距離を取り、息吹で気脈を整える
と、ロッドを前面に構えたのだ。
腰に伸びたにとりの手のひらが、ゆっくりと開いて行く。早抜き
か。手製の水圧銃を腰に隠しているに違いない。
私達の間にざらざらとした空気が流れた。にとりの放つ必殺の気
迫に私の肌は粟立ち、その不愉快さが私を戦へ駆り立てようと急かし
ている。黙れ。私の道は、私自身が決める。
﹁待て﹂
肉の呪縛に抗い、私は脱力して構えを解いた。
明らかな隙であるにも関わらず、にとりは攻撃を仕掛けて来なかっ
た。顔色は変わって見えないが、動揺しているのだ。
﹁君の敵意の理由は聞かん。だが、一つ教えてくれ。君も賢者達の一
人なのか﹂
ハッ。にとりは短く笑った。馬鹿馬鹿しい、そんな思いがこもって
いる。どうやら、彼女は賢者達ではない。考えてみれば、彼女には賢
者などという大仰な二つ名は似合いそうもない。最高の幻想技師、そ
ちらの方が相応しい。
﹁ならば、私には君と争う理由は無い﹂
﹁そうか。ナズーリン、あんたも探索者か﹂
ようやくにとりも構えを解いたが、眼光は変わらなかった。
﹁賢者達を⋮⋮﹂
言いかけた言葉を呑み込んだ。にとりが唇に指を当てている。声
が高すぎたようだ。ここは妖怪の山の裏の滝、天狗達のテリトリーに
151
近い。
﹁君は﹂今度は声を落として問うた。﹁奴らを知っているのか﹂
私の問いに答えず、にとりは先程まで読んでいた新聞を、私の方に
投げやった。
広げてみると、それは﹃花果子念報﹄だった。烏天狗の一人、姫海
棠はたてが発行する新聞であり、ネタの古さに定評がある。新聞とし
ては致命的なのだが、人里では少し前の出来事を思い返したい時に重
宝されている。
読め、という事か。
﹁覚えておきな、ナズーリン﹂河城にとりが背中で言う。﹁あんたみた
いに、下手に頭が良くて正義漢ぶる輩が、一番厄介で邪魔なのさ﹂
それきり、にとりはテントの中に引っ込んでしまった。
私は山を降りると、無縁塚の掘っ立て小屋に戻った。
小屋内では死体修復のエキスパート、霍青娥が作業をしてくれてい
のぎゃてみす亭が大人気だとか、恐怖の﹁人死にの出る道﹂︵秘湯付き︶
﹂
だとかである。目新しい記事は無いと言っていい。いつもの事だ。
﹁⋮⋮おや
新聞の隅の方に目をやった時、私は思わず声を上げた。
﹃人間の里の自警団団長、行方を晦ます﹄
それは今まさにここで進行している事件である。ネタの古い﹃花果
子念報﹄では珍しい、タイムリーな記事だ。
152
た。自警団団長の遺体の修復である。団長の死体は有象無象共に食
害されており、青娥でなければ修復は不可能なのだ。
﹁ちょっとお、ナズちゃんも手伝ってよ﹂
色々考える事があって疲れたので、私が休憩がてら作業小屋の長椅
ナズちゃん
子に寝転び﹃花果子念報﹄を読んでいると、青娥が文句を言ってきた。
﹁今いいとこなんだよ﹂
﹂
﹁ん、もう。お師匠様に対してなんて口の利き方なの
たらいけず
?
﹃花果子念報﹄は相変わらず古い話を蒸し返している。花の温泉郷
誰が師匠だ、誰が。
!
?
記事を読み込もうと目を凝らした時、新聞が私の手からするりと離
れてしまった。青娥に取り上げられたのだ。
﹁ナズちゃん、手伝ってよ。芳香ちゃんはメンテ中だし、手が足りない
のよ﹂
﹁分かったよ、仕様がないな﹂
しぶしぶ私は席を立った。
聖から習った肉体強化法術を用いて補強を行っていると、ふと、青
娥が呻いた。
﹁ナ、ナズちゃん、それ⋮⋮﹂
いつの間にか、小屋の中が仄かに赤く染まっている。
ペンデュラム・エンシェントエディションが光を発していた。しか
しその光は弱々しく、あの血に飢えた陰陽玉を見つけた時よりも、輝
きは小さかった。
団長の衣服の裏地を慎重に調べると、巾着袋が一つ、縫い付けられ
﹂
?
153
ていた。それにペンデュラムを近づけると、輝きが少しだけ強まっ
た。
巾着袋は、丁度野球のボールがすっぽり入るくらいの大きさであ
る。
﹁何に反応しているの、そのペンデュラムは⋮⋮﹂
青娥が震える声で言う。
その巾着袋には少量の血がこびり付いている。大体の見当は付い
ていたが、私は何も言わなかった。
翌朝、修復を終え、団長の遺体を遺族に引き渡すと、私は妖怪の山
へと足を向けた。﹃花果子念報﹄の記者、姫海棠はたてと会う為に。
﹂
﹁この﹃花果子念報﹄に団長さんの事件が載っているのが、そんなに不
思議な事なの
聞﹄にも載っていたよ
﹁話題が新しいのは確かに珍しいけど、事件自体は文さんの﹃文々。新
したのだ。
どうしても私に着いて行くと言って聞かなかったので、しぶしぶ了承
﹃花果子念報﹄を握りしめながら、多々良小傘が首を捻った。小傘が
?
﹁記事をよく見てみなよ。最後の文、なんて書いてある﹂
﹂
﹁えっと、
﹃捜査を依頼された探偵が、奪われた物品も含め、目下、行
方を捜索中との事である﹄だって。⋮⋮え、奪われた
﹁何も盗られたものは無い。ただ一つ、団長自身以外はな﹂
﹁ナズーリンは、そう思っていないって事だね﹂
そうだ。
団長は奪われたのだ。
その命だけではない。手にしていた、血に飢えた陰陽玉をも。
団長が何故それを所持していたのか分からないが、恐らくそれを団
長が持つ事で、賢者達への何らかの抑止力になっていたのだろう。
﹃下手に頭が良くて正義漢ぶる輩が、一番厄介で邪魔なのさ﹄
にとりの言葉が脳裏で揺れる。
きっと、だから団長は殺されたのだ。
﹁やっぱり、団長さんはあいつに殺されたんだね﹂ぽつりと小傘が言
う。﹁折れた六角十手の断面は、鋭利だったよ。まるで、ナズーリン、
貴女の古いロッドと同じ﹂
流石は小傘である。道具に関する事で、小傘に隠し事は出来ない。
青娥の検屍により、奴が団長の死に関わっている事は分かってい
た。直接の死因は別のようだが、団長の吹き飛ばされた右腕の断面
は、鋭利で滑らかだったのだ。
﹁ナズーリン。良かったらこれ、使って﹂
小傘が差し出したのは、真新しく輝く十手である。
﹁これは﹂
﹁団長さんの息子さんの為に、わちきが作っておいたの。もし息子さ
んが跡を継がないのなら、悲しい歴史を背負う必要も無いと思って
⋮⋮﹂
小傘は人間を愛している。それは付喪神としての宿命なのかも知
れないが、きっとそれだけではない。彼女は優しいのだ。
﹁そうか﹂
輝く十手を受け取り、腰に差した。
妖怪の山へと入り、天狗のテリトリーに近づくと、すぐに白狼天狗
154
?
達がやって来て、私達を阻んだ。小傘は怯えて私の陰に隠れたが、こ
いつらはただの哨戒天狗、門番のようなものだ。恐れる必要は無い。
﹁姫海棠はたてに面会したい。彼女の作っている新聞について、二、三
意見があるんだ﹂
そう言うと、白狼天狗達はうんざりした顔になった。烏天狗の新聞
は方々に迷惑を掛けている。きっとこういう殴り込みも日常茶飯事
なのだろう。
私が東風谷早苗から調達した割り符を見せると、白狼天狗達は大人
しく道を開けた。こいつらも好きで哨戒なんてやってる訳じゃない、
正当な理由と資格を持つ事を示せば、この通り従順である。
白狼天狗達からはたての住居の在り処を聞き出して、私達は森の中
の道を歩いてそこへ向かった。はたての住処は天狗の里の中心から
やや離れているようで、この機会に天狗の里の情報を仕入れようと
思っていた私は、少し肩透かしを喰らった形になる。
それでも、断片的な情報から天狗の里の文明度合いを推察する事は
出来た。例えば、天狗の里の住居は伝統的な日本家屋の体を取ってい
るが、正面玄関には電灯が備えられていたり、屋根にはアンテナが
立っていたりする。森の道には所々電灯まで据え付けてある始末で
ある。
外の世界程ではないが、人里よりかなり進んだ技術を持っている事
は確かだ。人間が山を切り拓くと怒る癖に、自分達はやりたい放題の
ようだな、天狗は。
﹁なんだか見た事がないものがいっぱいあるね﹂
仕事柄、技術馬鹿の気のある小傘などは、目を輝かせている。
また、家屋の配置の仕方にも私は注目した。中心部はどうだか分か
らないが、外れの方では配置の仕方に規則性や計画性を見出す事は出
来ない。
天狗の里は縦社会と言っても、その行政力は人里に比べて弱く、相
対的に個人の権力が大きい故だろう。例えば﹃文々。新聞﹄の記者、射
命丸文に代表されるような、強烈な個性を持った天狗を野放しにして
いるのは、彼女の力の前においそれと手を出す事が出来ないからに違
155
いない。高度な文明を築いていると言っても、やはり妖怪。個人の力
が物を言うのだろう。
しばらく歩くと、はたての住居らしきものが見えてきた。藁葺き屋
根の小ぢんまりとした建物で、家と言うより大きめの茶室と言った風
情である。ぐるりと張り巡らされた立派な生垣は、しかしあまり手入
れはされておらず、隙間にのぞくキンモクセイの花は萎れている。庭
には背の高い何かの樹木が植えられているが、時期悪く花も実も付い
ていなかったので、何の木かは分からない。
古風な外観に対して悪目立ちしている無機質なインターフォンを
押すと、中でピンポンと音が鳴るのが聞こえた。
しかし、しばらく待っても応答は無かった。
﹂小傘が首を傾げた。﹁まあ、取材で飛び回ってるだろう
もう一度押しても、結果は変わらず。
﹁留守かな
人だし﹂
小傘は引き留めたが、私は縁側の方へ回った。縁側の障子は無用心
にも開け放たれており、机の上には書きかけの原稿や写真が散らばっ
ているのが見える。さっきまで原稿を書いていたが、何かの事情で慌
てて家を飛び出した、そんな所だろうか。
﹁ナズーリン、まずいって﹂
﹁構うもんか﹂
私は小傘が止めるのも聞かず、室内に上がりこんで写真の束を取り
上げた。小傘は小傘で、私を止めておきながら自分もちゃっかり上が
りこんでいる。書きかけの天狗の新聞に興味があるのだろう。普段
はあまりお目にかかれない光景だからな。
写真の束をめくっていくと、変装した私が団長の息子と話している
写真を見つけた。
﹁そうか。念写とやらで団長が見つかった事を知って、慌てて取材に
飛び出した訳か﹂
﹁あー、なるほど。私はてっきり、何かの事件に巻き込まれたんじゃな
いかと思っちゃったよ﹂
﹁新聞記者とは言え、名だたる烏天狗だぞ。しかも能力はあの射命丸
156
?
文にも引けを取らない。襲われたって返り討ちさ﹂
以前、はたてと文の二人からそれぞれしつこく取材を迫られ、弾幕
勝負をした事があるが、おそらく、姫海棠はたては烏天狗の中でも高
い能力を持っている。この無用心さもそれを物語っていた。
私と小傘はしばらく縁側で待ってみたが、日が暮れかけてもはたて
は戻って来なかった。日が落ちては面倒である。私達は今日彼女と
話をする事を諦め、山を降りる事にした。
﹁あ。写真が一枚、机の下に落ちてる﹂
帰り際、小傘が気付いたその写真を拾い上げてみる。
写っていたのは、やつれた顔で行方不明者の人相書を配る、上白沢
慧音の姿だった。
狐の子の手を引き、私は林を歩いていた。
私達
夕陽の覗く曇り空から、ぽつりと涙が溢れ始める。それは柔らかく
件と取り違えたのか
聞いていない。
しかし、直近で類似する他の誘拐事件の話は
それとももしや、身代金を狙った里の人間が偽造したのだろうか
あり得ぬ話ではないが⋮⋮。
何かが、私の心の隅に引っかかっている。
﹁小傘か﹂
狐の結界を出て里に近づいた時、前方に茄子色の傘が見えた。
157
優しかったが、私の胸騒ぎはおさまらなかった。
﹁脅迫状が送りつけられていたなんて、一体どうなっている
はそこまで大事にする気は無かったのだが⋮⋮﹂
六尾妖狐が首を捻っている。
白沢慧音も﹂
﹁ううむ⋮⋮倅達の演出か
しかし、それにしても⋮⋮﹂
﹁両親もそう言っていたぞ。人里の情報提供者もそう言っていた。上
?
子狐の両親にしては六尾妖狐が知らぬ事が不自然だし、別の誘拐事
六尾妖狐も知らぬ脅迫状は、一体誰が送りつけたのか。
?
﹁あっ、ナズーリン。やっと見つけたよ﹂
?
?
小傘は私達を見つけると、傘を揺らして駆け寄ってきた。
いや、今は⋮⋮﹂
﹁はたてさんの新しい新聞を見たんだけど⋮⋮﹂
﹁新聞
﹁とにかく、これを見てよ﹂
小傘に押し付けられ、私はしぶしぶ﹃花果子念報﹄を見やった。斜
め読みしただけで分かる。いつもの通り、古いネタばかりだ。
ふと、新聞の隅にどこかで見かけた写真が小さく写っているのに気
付く。
上白沢慧音の写真と、﹃人里で誘拐事件、脅迫状も﹄の見出し。
﹁またこれだけ、情報が新しいんだよ﹂
小傘が不安げに私を見つめている。
誘拐された子どものために尽力する慧音のそのやつれた顔を見て、
何故だか、私の胸でざわめくわだかまりが薄くなったような気がす
る。私の心の中に引っかかっていたのは、この慧音のやつれ顔だった
のだろうか。
﹁確かに、何か変だが⋮⋮﹂
言いかけて。
﹃下手に頭が良くて正義漢ぶる輩が、一番厄介で邪魔なのさ﹄
にとりの言葉が脳裏で閃いた。
私は、息を飲み、目を見開いた。
謎の脅迫状。
人里の守護神。
不可解な﹃花果子念報﹄。
里を守護して殺された自警団団長。
賢者達、暗躍する青いレインコートの妖。
﹂
今、人里で最も厄介な邪魔者は⋮⋮。
﹁狙いは慧音か
私は叫んだ。
られている。
音だ。この誘拐劇の裏側には、慧音を誘き出し排除するための罠が張
間違いない。団長の次に狙われるのは、人里の守護者たる上白沢慧
!
158
?
誰かに狙われているのか
﹂
﹃花果子念報﹄は賢者達の動きを報じていたのだ。
﹁上白沢女史が
?
﹂
!
﹁お母様、それに坊やも⋮⋮﹂
﹁お前達、何故、脅迫状などを﹂
﹁お母様のお考えではなかったのですか
狐達は揃って顔を見合わせている。
﹂
?
りぃん。
﹂
その途上。
いだ。
途中、鼠達を放って斥候をさせつつ、私は風になって妖怪の山へ急
小傘は少し悲しそうな顔をしたが、頷いて走って行った。
れないが⋮⋮﹂
﹁小傘は命蓮寺の誰かにこの事を知らせてくれ。間に合わないかもし
訳には行かない。
小傘が声を上げたが、私は首を振った。小傘を危険な目に合わせる
﹁わちきも行くよ﹂
へ向かう﹂
﹁誘拐事件の収束は後だ、子どもは一旦、六尾が預かれ。私は妖怪の山
いている事を知っていれば、慧音とて軽率な行動などすまいに。
参った⋮⋮私が慧音の依頼を断った事が裏目に出るとは。私が動
白沢先生は一刻も早くと⋮⋮﹂
﹁事前の取り決めと異なるので不審に思い、私達は止めたのですが、上
﹁なんだと
﹁先程、新たな脅迫状が届いて、妖怪の山へと身代金を届けに⋮⋮﹂
私が怒鳴ると、狐の父親が震えた声で言った。
﹁慧音は何処だ
﹂
人里の門前では、狐の両親が待ちかまえていた。
狐の子を六尾の背に乗せ、私達は人里へ舞い戻った。
﹁話は後だ、一刻も早く里に戻ろう
事態を飲み込めない六尾妖狐は眉をひそめている。
?
!
奴のペンデュラムの音が響いた。
159
!
細雨が私の肌を打つ。奴と遭遇する時はいつも雨だ。雨女だな。
私はロッドを構え、それでも速度を落とさず走った。
音はすれども、奴の姿は見えず。私は山を彷徨う内、先に慧音を見
つけた。崖の下で、傘も差さずに風呂敷包を抱えて立ち尽くしてい
る。
﹁慧⋮⋮﹂
呼びかけようとした矢先、突如、奴が目の前に現れた。頭からすっ
ぽりと被った蒼暗色のレインコート、そのぬらりと湿る質感が、私の
目を不快にさせる。
﹁貴様⋮⋮そこをどけ﹂
奴はニヤリと笑うと、ゆっくりとその指先を持ち上げた。
細雨を切り裂き、私は奴に向かって突撃した。水レーザーは小傘の
ロッドに勝てはしないし、水爆弾は奴の懐に飛び込めば使えない。即
ち、近接戦闘を仕掛けるのが一番確実だからだ。
160
だが。
奴の指先が光ったと思うと、私は全身に衝撃を受けて吹き飛ばされ
た。私の手から離れたロッドが、ガラリと地面に転がる。
何をされたのか、一瞬、理解出来なかった。が、地面に空いた無数
の穴と奴の指先から上がる水煙を見て、ようやく気付いた。これは水
散弾だ。大量の小さな水弾を前面に放出して、私の突進を防いだの
だ。
一発の威力は低く、私のダメージは戦闘継続を望めない程ではな
い。しかし。
﹁これで武器はなくなったぞ、小鼠﹂
落としたロッドを踏みつけて、奴が得意気に言った。
私は跳び上がって距離をとったが、形勢が変わった訳ではない。そ
れどころか、悪化していた。既に刀を抜き放った鉄仮面に忍者装束の
烏天狗共が、私の周りを囲んでいたのだ。
数は以前より少なく、三人。残りは慧音の方に行ったのか
﹁殺せ﹂
奴が手を振り上げると、猿叫を上げ、丸腰の私へと烏天狗達が斬り
?
掛った。
しかし、私にはまだ武器がある。
私は瞳を開き、小傘から譲り受けた十手を抜き放った。
振り降ろされた刀を十手で絡め取り、体を回し梃子の原理で刃を折
ると同時に、その勢いのまま鳩尾へ肘をめり込ませる。崩れ落ちたそ
の首筋に手刀打ちをして無力化すると、落ちた刃をもう一人へと蹴り
上げた。怯んだ隙に懐へ入った私は、その頭を抱え込み、薄っぺらな
鉄仮面がへこむ程の膝蹴りを顔面に叩き込んでやった。最後の一人
が破れかぶれで上段から斬り掛って来たが、軽くいなして喉元に十手
を打ち込み黙らせる。
練度が低すぎる。人間の達
ものの数秒で転がった烏天狗達を尻目に、私は奴へと十手を向け
た。
﹁弱すぎるな。これが天下の烏天狗か
人の方が十倍は強い。強く出られるのは、武器を持たない女子供に対
してだけのようだな﹂
少なくとも、こいつらの練度は私の十手術の三分の一にも満たない
という事だ。
奴は声を上げて笑った。
﹁小鼠ごときにこうも圧倒されては、返す言葉も無いわ﹂
その物言いは、天狗社会に生きる者のそれでは無い気がする。少な
くとも、奴にとって烏天狗達は部下ではなく、駒のようだ。
その証拠に、私の足元に部下が転がるにも関わらず、奴は水爆弾を
発射して来た。私はペンデュラムに法術を掛けてシールドを造り、そ
れを防いだ。
水爆弾の煙が晴れた時、奴の姿は消えていた。
りぃん。
耳障りなあの音と、
﹁だが、勘違いはするなよ、小鼠⋮⋮﹂
囁くような台詞を樹々の間に託して。
理解不能のその言葉に呆然としたが、しばらくして我に返った私
は、急いで崖下を覗き込んだ。
161
?
﹂
慧音は私と同じように、三人の烏天狗に囲まれていた。
﹁慧音
私が弾幕を張って援護しようとしたその時。
木々の間から走り込んだ銀色の陰が、慧音と烏天狗共の間に割って
﹂
入った。そして、美しく煌めくその銀色の陰は、見る間に紅く輝く鳳
やろうってんなら相手になるぞ
凰へと変身した。
﹁なんだお前ら
?
やるのか、やらないのか
?
者というもの。慧音は真に知恵者だな。
﹁どうした
共﹂
はっきりしろよ、青二才
連れてきていたとは。どんな場面でも冷静な判断が出来る者が知恵
そうか、流石は慧音だ。不穏を感じ取って、用心棒代わりに妹紅を
術を使う一流の退魔師でもある。そして、上白沢慧音の親友。
見た事がある、あれは藤原妹紅だ。不老不死の蓬莱人にして、炎の
あの炎、そして錦のように輝くその銀髪。
?
慧音と妹紅が山を降りたのを見届けて、私は烏天狗達を尋問しよう
﹁賛成だな。ここに居たって雨に濡れるだけだ﹂
﹁一旦、里に帰ろう。今後の事をあの子の両親と協議する必要がある﹂
慧音は一先ず安心だろう。
流石、千年生きる藤原の姫君は察しが良い。妹紅が付いていれば、
慧音は肩で溜め息を吐いた。
忙しい時に﹂
﹁ならば、誘拐に便乗した強盗と見るのが妥当か。まったく⋮⋮この
所を理由無くコロコロ変えるなんて、筋が通らないよ﹂
﹁どうだかな。何にせよ、あの脅迫状は怪しい。身代金の受け渡し場
たのか﹂
﹁妹紅についてきてもらって正解だったな。奴ら、身代金を狙ってい
だったら、例え相手が龍でも噛み付いて見せる。
た。情 け な い、本 当 に あ れ が 山 で 恐 れ ら れ る 烏 天 狗 の 姿 な の か。私
荒ぶる焔鳥の威容に気圧されて、烏天狗達は先を争うように退散し
?
と、戦闘のあった場所に戻った。すると、烏天狗達は跡形も無く消え
162
!
ていた。
そうか。前に遭遇した時、烏天狗達は七、八人はいた。私に三人、慧
音に三人、残りの人員は待機して、撤退のサポートを行ったわけか。
迂闊だった、折角の手掛かりをみすみす逃してしまうとは。
私が唇を噛みながらロッドを拾い上げていると、俄かに突風が巻き
起こり、大気中を轟音が満たした。空の一角を見やると、光り輝く流
星が横薙ぎに飛んで空を割り、こちらへ近づいて来る。その流星の輝
きは、見慣れたものさ。
雲を破る勢いで飛んで来た寅丸星が降り立ち、肩で息をしながらそ
の豊満な胸を撫で下ろした。
﹁ああ、よかった。ナズーリン、無事でしたか。小傘から連絡を受け
て、急いで来たのです﹂
﹁慧音も無事さ。もっとも、私が行かなくても結果は変わらなかった
かも知れないが﹂
﹁尚の事、良かったじゃないですか﹂
星は丸顔をますます丸めて笑った。
﹁しかしな、君。もう少し地味に登場したらどうだい。空が割れてる
じゃないか﹂
星が飛んだ軌跡で雲が真っ二つに割れ、茜色の空から赤光が降り注
いでいる。
﹁まあまあ。いいじゃないですか。毘沙門天様の威光という事にして
おけば﹂
﹁大体合ってる所が嫌だなぁ﹂
きっと、翌日の新聞に載るんだろうな。
私達は一旦命蓮寺に戻り、翌朝、六尾妖狐の元へ向かった。
星は六尾に全ての事情を説明し、協力を請うた。
﹁賢者達とは、あれの事か﹂流石、六尾は存在を知っているようだった。
﹁あの八雲紫の太鼓持ち共の事か。しかし、あの中で真に知恵者と呼
べるのはほんの一握り。西行寺幽々子か、風見幽香くらいのものだ
が﹂
思わぬ大物の名前が出た事で、私と星は面喰らった。冥界の管理者
163
たる西行寺幽々子に、暴君と呼ばれ恐れられるフラワーマスター風見
幽香。そんな大物が関与する組織だったとは。
特に私は幽香と面識があったので、違和感を覚えた。あの超越者た
る風見幽香が、賢者達などという馬鹿げた組織に与するはずがないの
だが。
もしかしたら、賢者達とは私達が考えるような一枚岩の組織ではな
いのかも知れない。
﹁児戯に等しいと考え口出しを避けていたが、可愛い我が孫までもを
利用しようと言うのなら話は別だ。毘沙門天の代理殿。我ら一族、命
蓮寺への協力は惜しまぬぞ﹂
星は穏やかな顔で礼を言った。
星 が 六 尾 に 腹 の 内 を 全 て 明 か す と 言 っ た 時 に は ど う な る 事 か と
思ったが、上手くまとまったようだ。対等な協力関係を結べたのは、
星が前面に出たからだろう。
164
さて、孫狐を人里へ帰そうという段になって、予想通り孫馬鹿の六
尾がぐずり出した。なだめすかしているうちに日が暮れそうになっ
たので、私は腕付くで引っぺがすと、孫を連れて里へ戻った。
諸々の工作を終え、子狐の里帰りが通常の神隠しとして人々の記憶
﹂
から薄れ始めた時、私は再び狐の両親に会った。
﹁風体、ですか
せ型で、あまり血色
?
がよろしくないようでした。なんだか常に怯えたような目をしてい
たが、恰幅が良いという感じではなく。むしろ
した。髪は長くボサボサで、口の回りに少々の髭を蓄えておられまし
﹁そうですねえ。黒い着物を着た御仁で、自警団を名乗っておられま
狐の嫁は顎に手を当てて、遠くを見るようにしながら言った。
れた。
各屯所に聞いて回っても、口をそろえて、そんな話は知らないと言わ
脅迫状はいつも里外れの自警団屯所に届けられていたと言う。が、
持って来た輩の風体だった。
狐の子が毬遊びをする傍らで、私が両親に問うたのは、脅迫状を
﹁ああ。どんな奴だったかな﹂
?
て、そればかり覚えております﹂
それは、私に盗賊の捜索を依頼したあの男の風体と一致していた。
165
リバー
関係ないけど、灰被り姫
今月はかなりの売り上げがあった。思えば私、馬車馬のように働い
ているからな。いやこの場合、鼠車鼠か
の馬は魔法で変えた鼠なんだっけか、たしか。
その割に朱墨の減りが早いのが悲しい。使い過ぎだぞ、聖。マイク
ロファイバーのスポンジとかスチームクリーナーだとか、いろいろ買
いすぎだよ。外の技術に慣れておけとは言ったが、これ完全に趣味に
なってるじゃないか。まったく。
今日は星鼠亭の中で卓袱台に向かい帳簿を付けている。この前は
付けかけのまま仕事に行ってしまったからな。外はからりと晴れて
散歩日和だというのに、くさくさした話さ。
私は外の世界でもそれで喰っていた事があるが、探偵業ってのは割
と地味で、娯楽小説に出てくるようなスリルとサスペンスに満ち溢れ
た冒険譚や、密室殺人の解決依頼など現実には無い︵と言うか、そう
いうのに来られても困る︶。実際に来るのは浮気調査の依頼だとか人
探しの依頼ばかりだ。それはこの幻想郷でもあまり変わる事は無い。
まあ、人探しは人探しでも、私がこの幻想郷で探しているのはおおむ
ね死んだ人間なのだが⋮⋮。
私などは個人経営だから、帳簿付けなどの雑務も自分でこなさなけ
ればならない。まったく、面倒だ。売り上げに直結しない作業っての
は、どうも気が乗らないんだ。そろそろ誰かバイトでも雇おうかな。
絵面的に一輪あたりなら帳簿付けも似合いそうだけれど、いつもの
﹂
おっちょこちょいを金勘定でやられちゃ困るしなぁ。
﹁仏教徒って帳簿なんてつけるもんなの
﹁へぇ。じゃ、妖怪の賢者様は付けないのかい﹂
﹁付けないわよ﹂指先で頭をトントンと叩き、八雲紫が気取って言っ
た。﹁全部ここに入ってるもの﹂
格好つけちゃいるが、それって要するにどんぶり勘定って事じゃあ
ないか。
166
?
?
﹁賢者だって名乗るんなら、こんな所でマンガ読みながらケツ掻いて
るんじゃないよ、まったく﹂
八雲紫が、あの幻想郷の全妖怪に恐れられる妖怪の賢者が、星鼠亭
の些末な畳の上でだらしなく寝転んで少女マンガを読み耽り、あまつ
さえ私の今日のオヤツであるチーズせんべいをバリボリ齧っていや
が る の で あ る。何 し て ん だ、こ い つ。紫 色 の ド レ ス が め く れ 上 が っ
て、派手な下着が丸出しじゃないか。
そんなところ、君の式に見られたら。威
あの血に飢えた陰陽玉を彼女に渡してからこっち、妙に懐かれて
困っている。
﹁まずいんじゃないのか
厳もへったくれもないぞ﹂
﹁あー、藍に見つかったら面倒だわね。いつもうるさいのよ、ごろごろ
するなとか、掃除の邪魔だとか、ジャージはやめろとか⋮⋮人を粗大
ゴミみたいにさあ﹂
﹁休日のパパかよ﹂
あるいは、これが彼女の素なのかも知れないが。
真っ赤な帳簿を閉じて、私は投書箱の中身を開いた。二通程入って
いる。
一通は主の星からだ。無地の封筒に﹁ナズーリンさん、いつもあり
がとう﹂とだけ書かれた白い便箋。私を驚かせようとしているらしい
が、毎度同じやり口ではなぁ。今度は小判を入れておけと言っておい
たのに、入っていなかった。がっかりだよ。
もう一通は上白沢慧音からだった。
先日の誘拐事件への協力について、達筆でつらつらと感謝の言葉を
書いている。封筒の中には少額だが現金も入っていた。慧音には秘
密にしていたはずなのだが、私の関与を誰かがしゃべったのだろう
か。
ふと顔を上げると、紫がひらひらと手を振っている。
﹁君か﹂
私は溜め息を吐いた。
﹁これ以上。私を過労死させる気かい﹂
167
?
つまり紫は、私にこれからも慧音を守れと言っているのだ。彼女と
の繋がりを強くする事で私を、そして命蓮寺を巻き込もうという魂胆
だろう。
にこりと笑って、紫は言う。
﹁上白沢女史は、今の里には必要な人材ですからね﹂
君自身がそれをすればいいじゃないか。
その文句は口の中でだけ言った。
恐らく、紫にはそれが出来ないのであろう。それは勿論、賢者達と
のパワーバランスのせいだ。
たとえ紫が反対したとしても、賢者達が上白沢慧音の排除を強硬に
主張すれば、その流れを覆す事は難しいのだろう。紫が強権を振りか
ざせば反発心を呼び、立場が悪くなる。紫が表立って行動するには、
何らかの大義が必要なのだ。
紫は自由に動かせる手駒を欲している。だからこそ、私のような独
立した存在を抱え込もうとしている。だからこそ、紫は私と契約し、
私を死体探偵に仕立て上げたのだ。
これまでに得た情報から、私は賢者達に関するある一つの推論を導
き出している。
恐らく、賢者達と呼ばれる組織は、幻想郷における全体意思決定機
関なのだ。その意思決定プロセスは権力者達による合議制なのであ
ろう。
賢者達⋮⋮その名の意味するところは、賢人会議である。
妖怪とは本質的に身勝手で傲慢な存在だ。そんな妖怪達が多種多
様に集う幻想郷、それを存続させる為には、そのような機関が必ず必
要になる。賢者達とはそうして生み出された組織であり、そして恐ら
く、その試みは現在進行形で失敗している。それは賢者達という存在
が公の権力装置になっていない事から見ても明らかだ。
この幻想郷における妖怪同士の覇権争いは、私が想像していたもの
よりも激しいようだ。マミゾウの話では、人間の里の支配を巡り、妖
怪達は互いに牽制しあっていると言う。過去には権力争いに敗れた
妖怪達が地底に封印された事もある。
168
外の世界では淘汰され、存在するだけで精一杯だった妖怪という存
在。だが、この幻想郷では人間の姿をとり、人間のように我執に溺れ、
あさましく争う。この郷では人間と妖怪が溶け合っている。そこに
区別など無いかのように。
幻想郷はまるで魔女の釜だ。
﹁私は正義の味方だ。やらなければならない事はする。それだけさ﹂
宙に言葉を浮かべる。独り言だった。
その時、ちりん、と呼び鈴が鳴った。
﹁出てきなさいよ﹂
売り台の向こうで知った声が響く。私はペンデュラムを服の中に
隠し、対応に立ち上がった。
声の主は博麗霊夢、今代の博麗の巫女であった。
﹁あんた、この間の誘拐事件の時、動いてたんだってね﹂
整ったその刀剣のような面を意地悪く捻じ曲げて、霊夢が食いかか
﹂
なんで探偵なんかに﹂
169
るように言う。勿論、霊夢は私がこの仕事をしている事を知ってい
﹂
る。開業する時に申告しておいたのだ。黙ってるとうるさいからな、
この無法巫女は。
﹁依頼があったのは事実だ﹂
言葉を選んで、私は言った。
﹁私、なんも聞いてなかったんですけど
んだろ
知らなかったのは君だけさ。どうせ神社でグースカ昼寝三昧だった
﹁何言ってんだ。私も含めて、里の連中の殆どがその話を知ってたよ。
もちろん、言い含め方も考えてあった。
流石、勘だけは鋭い霊夢である。
に依頼が行ったのかしら。神隠しなのよ
﹁納得行かないわ。何故、博麗の巫女たる私よりも、死体探偵のあんた
もなければ、警察官でもないのだからな﹂
﹁君に届け出なければならない義務は無いだろう。君は自警団団員で
?
?
﹁私はちゃんと営業をかけているからな。情報の早さの違いさ。君も
﹁う、うぐ⋮⋮﹂
?
さぼってないで里の見回りくらいしたらどうだい﹂
﹂
﹁うるさいわね とにかく、あんたは怪しいのよ
なかったら、それなりの態度を示しなさい
巫女お得意の逆切れである。
退治されたく
!
﹂
!
困る﹂
﹂
振り返ると、紫が笑っている。手にしていた少女マンガを置くと、
﹁相変わらずね、霊夢は﹂
若いってのは、ああいうのを言うんだろうな。
やれやれ。早苗と言い、霊夢といい、巫女は問題児ばかりで困る。
と、霊夢は去って行った。
暴力を振るって満足したのか、妙にすっきりとした顔でそう言う
﹁次に怪しい動きしたら、退治してやるからね。覚えておきなさい﹂
加減ってもんを知らんのか。
衝撃で目から火花が散り、痛みで思わず頭を抱えた。この巫女、手
ごちん。
て振り下ろした。見えてはいたが、私は避けなかった。
突然、霊夢は持っていたお祓い棒を振り上げると、私の頭に向かっ
﹁問答無用
﹂
﹁慌て者だな。博麗の巫女なら、もう少しどっしり構えてもらわんと
﹁う⋮⋮む⋮⋮﹂
て、慌てて飛び出して来たってところか﹂
﹁手紙、見てないのかい。その様子じゃ、情報通の黒白魔女に言われ
﹁え、本当
書を君宛に送ってある﹂
﹁君に逆らう気なんざこれっぽっちもないさ。現に、今回の件の報告
こういう輩は下手に出てやり過ごすに限る。
巫女だこと。
霊夢はイライラと貧乏揺すりをしている。まったく、堪え性のない
﹁口の減らない小鼠ね
﹁だからこうして、正々堂々と店を構えてやってるんじゃないか﹂
!
!
大きく伸びをしてから立ち上がった。
170
?
!
﹂
﹁ねえ。ちょっと出掛けない
﹁出掛ける
気分だ。
﹂
﹂
何もかも投げ出して、草原に寝転んで一日中口笛でも吹いていたい
いい日だ。
やりと浮かんでいる。
外には秋の日差しが溢れ、抜けるような青空に千切れた白雲がぼん
とぼけてやがる。信じられん、この女。
﹁なんのことかしら﹂
ら、付き合おうかな﹂
﹁君 が 勝 手 に 喰 っ た チ ー ズ せ ん べ い の 代 わ り を 買 い に 行 く っ て ん な
まあ、いい。
だがな⋮⋮。
この後は新聞のチェックとレポートの作成をするつもりだったん
投げキッスをしながら、腹の立つどや顔をキメる紫。
﹁そう。デートしましょ、デ・エ・ト﹂
?
風の向くまま、気の向くまま⋮⋮﹂
﹁何処へ行くんだ
﹁さあ
?
う。
道行く人々は皆忙しく動いていて、ぼんやりと歩く私達とは時間の
流れ方が違って見える。人に近しく暮らしていると言えども、私は妖
怪であり、その溝は決して埋まる事は無いのかもしれない。
通りの端に、托鉢をしている僧を見かけた。あれは新しく命蓮寺に
入 信 し た 修 行 僧 だ。私 達 の 布 教 活 動 は 着 実 に 信 徒 を 増 や し て い る。
星や聖達の努力の成果だ。
だが、たとえ同じ光を信じようとも、それは分かり合えた事にはな
らないのかもしれない。この時間の溝が埋まらない限り。
だとしたら。人の作った人の為の道を、我ら妖怪は真に理解し得る
のだろうか。
だとしたら。仏道とは、果たして妖怪を救う道たり得るのだろう
171
?
桃色の日傘を差して、ふわりと歩きながら、紫は独り言のように言
?
か。
⋮⋮今日はどうかしている。私は頭を振って、嫌な考えを締め出し
た。
活気あふれる目抜き通りを抜けて。
稗田の屋敷の前を通り。
寺子屋に立ち寄って、慧音から送られた金をそっと募金箱に戻し。
里外れの自警団屯所を冷やかして。
私達は大きな川へとやって来た。
この川は人里に注ぐ川の中では最も大きく、その水源は霧の湖を超
え、妖怪の山に由来している。
よく整備された堤防を登り、私達はその上を歩いた。
﹁先の湖の氾濫では、この堤防がなければ危なかったな﹂
﹁これはね、土蜘蛛達が作ったのよ。彼等が地底に封印される前にね﹂
土蜘蛛⋮⋮黒谷ヤマメ達か。なるほど、建築に長けた彼女達の作っ
た堤防なら、ちょっとやそっとでは壊れないだろう。
﹁聞かないのね、ナズーリン﹂
不意に、紫が言った。
賢者達の事だろう。
﹁フェアじゃないからな。仕事の対価としてなら、話は別だが﹂
﹁まったく、意地っ張りな小鼠だこと﹂
﹁それに尋ねたとしても、君は答えまい﹂
くすくすと紫は笑った。私はそれを肯定の意と受け取った。
川面はきらきらと光り輝き、穏やかに揺れる波音は激務で疲労した
体に心地よい。むせかえる草いきれが、里で暮らしていると忘れかけ
てしまう、私達が自然より生まれた事実を思い出させてくれる。
遠くに掛かった橋の上には、往来に行き来する人々の影が見える。
川に小舟を浮かべて釣りをする者や、洗濯をする者もいる。
﹁美しいわね﹂
八雲紫が目を細めている。
﹁幻想郷は君が作った。君にどんな魂胆があろうと、この平穏は誇る
べき事だと私は思う﹂
172
﹁けれど、平穏には犠牲が必要なのよ﹂
広げた扇子の向こうに表情を隠して、紫はぽつりとつぶやいた。
﹁今なら、引き返せるかもしれないわよ﹂
﹁⋮⋮かもな﹂
確かに、紫の言う通りかもしれない。
かつてそうしたように。聖を見捨て、また外界に戻り、ひっそりと
暮らしてゆくことも可能だろう。
﹁だがその選択肢は、私には。私たちには在り得ないんだ﹂
きっぱりとそう言い放つと、紫は立ち止まった。
﹁⋮⋮答えてあげてもいいわよ。貴女の疑問に、でも﹂
そう言って取り出した物を見て、私は目を剥いた。
あの悍ましき、血に飢えた陰陽玉である。
﹁これが一体何であるか、貴女はもう、見当がついているんでしょう
﹂
﹂
紫は親指を噛んで血を流すと、その雫を陰陽玉に垂らした。
﹁やめろ
やがて、顔を黒く塗り潰された得体の知れない連中が現れた。白刃
だもの﹂
﹁貴女が怖れる事は無いわ﹂紫は眉を寄せて笑った。﹁これは、私の罪
私は襲い来る悪寒に身を震わせた。
まり、辺りは生臭い血の臭いで一杯になった。
上流から津波のように押し寄せるのは、血だ。川が瞬く間に赤く染
体の知れないもの達が這い出して来る。
河原で遊ぶ人々は影に変わり、同時に其処彼処から人の形をした得
を巻く。空を覆う黒い風は、渡り鳥の群れだ。
青く澄みわたる空は赤く染まり、千切れる白い雲は暗雲となって渦
美しく光輝いていた風景が歪んで行く。
め、私達はその虹に包まれた。
じゅるじゅると音を立てて血を吸った陰陽玉は、虹色の光を放ち始
私は鋭く叫んだが、遅かった。
!
を振りかざしつつ、大きな神輿を担いで上流へと歩いて行く。神が乗
173
?
るべき神輿のその中に、赤い衣を纏った人影が見えた。
その神輿に刻まれた紋章は。
﹁関係無い﹂
私は陰陽玉ごと、紫の手を掴んだ。
虹色の光が消えると、悍ましい風景は吹き飛ぶようにして消えた。
無縁塚のそれと違い、陰陽玉が生み出した幻影には力が無いようだ。
﹁君が過去にどんな罪を犯していようと、これからどんな罪を犯そう
と、私には関係無い。私は正義の味方だ。自分が正しいと信じる事を
する。君の弱さなど、私にはいらん﹂
陰陽玉に付いた血を手で拭うと、私は紫の手を放した。
紫は唖然としていたが、やがて声を上げて笑った。
﹁振られちゃったわね﹂
何故だか少し、嬉しそうに。
﹂
﹁仏教の教義には、罪を犯そうとしている人を止めるってのは無いの
かしらね
﹁今の私に、仏道を語る資格は無い﹂
﹁頑固な鼠ねぇ﹂
ひとしきり笑った後、紫は急に真面目な顔になって言った。
﹁奪われたもう一つの陰陽玉の奪還、依頼するわ﹂
殺された自警団団長の持っていた陰陽玉の事だ。やはりあれは、八
雲紫が団長に与えたのか。賢者達を牽制する為に。
先程の幻影は、八雲紫の罪であると同時に、賢者達の罪でもあるの
だ。
私は首を振った。
﹁契約は必要無い。元よりそのつもりだ﹂
契約をすれば、八雲紫の立場は悪くなる。
紫を私の後ろ盾にするためには、彼女と馴れ合う訳にはいかない。
﹁君はこの川の流れのように、鷹揚に構えておいてくれればいい。私
は私の仕事をする﹂
﹁そう⋮⋮﹂
ゆったりと流れる川の水面を見やり、紫は息を吐いた。
174
?
﹁無縁塚の捜索も、もちろん継続しなさい﹂
﹁いちいち釘を刺さんでもいい。その契約だけが、君と私を繋ぐ糸だ﹂
﹁死体、探偵⋮⋮﹂紫は歌うように、のびやかに楽し気に。﹁私の掌中
の鳥は、羽ばたいて行ってしまったようね﹂
﹁鼠に翼は無い。流されただけだ、奴等の作った濁流に。だが、知って
いるか。鼠は泳ぎも得意なのさ﹂
﹁⋮⋮もう貴女を小鼠なんて呼べないわね﹂
紫は陰陽玉を私へと放り投げてきた。
﹁奪還には、力が必要になるでしょう。その陰陽玉の力を使いなさい﹂
受け取った私は、迷わず陰陽玉を投げ返した。
﹁いらん。これは敵にとって毒だが、君にとっても毒だろう。封印す
べきものだ﹂
﹁本当、貴女、頑固ね。でもそういうの、嫌いじゃないわ﹂
涼やかな笑みを浮かべると、紫の背後の空間が裂けた。その向こう
175
側に得体の知れない目玉達が蠢いている。空間の断裂、隙間。八雲紫
の得意技である。
﹁また、会いに来るわ。成果を期待します﹂
紫は傘を折りたたんで一礼すると、開いた隙間の中に足を入れた。
そうさせじと、私は素早く紫の腕を掴んだ。
君が喰ったチーズせん
﹁何よ、折角私が格好良く退場しようとしてたのに﹂
困惑して、紫が言う。
﹂
﹁言いたいことだけ言って逃げるつもりか
べい、弁償してもらうからな﹂
﹁ええ∼⋮⋮それ、今じゃないとダメ
?
当たり前だろ。食い物の恨みは恐ろしいんだぞ。
﹁貴女、割と根に持つタイプなのね⋮⋮﹂
﹁ダメだ。弁償するまで絶対逃がさんぞ﹂
?
﹂
ライク・ア・ヒューマン・ビーイング
﹁約束が違うじゃあないか
あー、もう。喧しい。
﹂
!
だよ﹂
﹁キィィ
!
る。
﹂
﹂
決まってるじゃあないか
死体がどうした
﹁死体だよ、し・た・い
﹁あー
﹂
﹁あたいに死体を融通してくれるって、そう言ってたじゃあないか
!
﹂
この約束破りのコンコンチ
キ、へっぽこピーマンのぺったんこナス
!
り手が居なかった遺体を﹂
﹁いやいやいや。こないだちゃんと紹介してやったろう。誰も引き取
!
それなのになんだい、この仕打ちは
!
仕方なく新聞を下ろして起き上がると、燐は目に涙を溜めて力説す
﹁あーもう、何がそんなに不満なんだい﹂
のだから堪らない。やっぱり猫は嫌いだ、ドチクショウ。
りのついた猫みたいにニャーニャーニャーニャー喧しく喚きだした
なって掘っ立て小屋に戻って来た時だった。やって来た瞬間から、盛
喧しい地獄猫、火焔猫燐がやって来たのは、夜半、私がクタクタに
いし。
⋮⋮なんだこの会話は。マンネリ夫婦のピロートークじゃあるま
この浮気者
すなんて
あたいというものがありながら、他の輩にうつつを抜か
﹁今日は勘弁してくれよ。眠いんだ。最近、仕事尽くめで疲れてるん
としてもらうんだからね
﹁いつもいつもそうやってはぐらかすんだから 今日こそはちゃん
てやるからさ﹂
﹁もう勘弁してくれ。今日は今まで仕事だったんだよ。また明日聞い
た。
畳の上に寝っ転がりながら、読みかけの﹃花果子念報﹄を顔に被せ
!
!
!
?
!
176
!
?
﹂
幻想郷を滅ぼすつもりなのかい
欲を言えば十人、いや二十人
﹁足りないよぉ ぜんっぜん、足りないんだよぉ
しい
﹁君はアレかい
﹂
毎日三人は欲
﹂
﹂
そんなペースで死人が出たら、それこそ大異変だろうに。
﹂
﹁セキニンとって
﹁はあ
何言ってんだこいつ。
﹁あたいをこんな体にした、セキニンをとってよ
!
みな﹂
!
﹁死 体、シ タ イ、し た い
全 然 足 り な い
!
も っ と も っ と 欲 し い、
燐は私に噛り付いて尻尾を振り振り繰り返している。
適当にあしらいつつ、私は再び新聞に目をやった。
ともに話を聞いてたら日が昇ってまた暮れちまう。喚き散らす燐を
まったく、発情猫のヒステリーになんか付き合ってられないよ。ま
﹁欠乏してる方が健全なんじゃないのか、それ﹂
﹁あたいを死体欠乏症にしたくせに
﹂
﹁君が猫になったのは私のせいじゃあないぞ。恨むなら輪廻転生を恨
!
?
﹂
﹂
そんな我儘ばっかり言うんだったら、アタイにも考えが
ハン、今さら謝ったって
この小屋の柱という柱で爪研ぎしてやるんだか
障子でだってしちゃうぞ、畳もだ
あるんだからね
ら
﹂
あんたなんか、木屑にまみれて鼻
鼻水鼠になるがいいわ
もう許してやんないんだからね
炎になるがいいわ
﹁行こう﹂
?
!
﹁もうっ
﹁明日にしてくれ、ホント⋮⋮﹂
﹁そんなこと言わずにさぁ∼﹂
﹁嫌だよ、だから疲れてるんだってば﹂
よぉ∼。あんたのダウジングなら一発だろぉ
﹁ねえねえナズーリン、お願いだよぉ∼、死体探し、一緒にしておくれ
この発情猫が。まあ、ご近所なんていないけど﹂
﹁でかい声でご近所様に誤解されるような台詞を吐くんじゃないよ、
いっぱいいっぱいシタイ、もっと欲しい
!
!
!
!
177
!
!
?
!
!
?
!
!
!
!
﹁えっ
﹂
私は新聞を懐に入れて立ち上がり、小傘のロッドと地図を手に取っ
﹂
た。少し肌寒いので、厚手のコートも羽織って行こう。
﹁どうした。行かないのか
お
ナズちゃん大好きィ
そこかい
集落がある。
﹁お
体﹂
そこにあっちゃったりするのかい
?
だねぇ﹂
﹁⋮⋮そうかぁ
静かな夜だ。
﹂
死
﹁静かな森、天上の月、爽やかな風、待ち受ける死体。いいねえ、風流
つの手段に過ぎない。
必要に応じてダウジング以外の手段も使う。ダウジングは探索の一
は何度かダウジングを行い、少しずつ探索範囲を狭めて行くものだ。
⋮⋮断っておくが、ダウジングは百発百中という訳ではない。普通
?
揺れるペンデュラムは、森中のある一点を指した。そこには小さな
めて私くらいの修行は積まねばな。
光に心乱される未熟者は、正確なダウジングを行う事は出来ない。せ
妖力の源だからだ。が、強すぎる力は制御が難しいもの。この妖しい
ウジングは風の無い月の出ている夜に最も効果を発揮する。月光は
ンデュラム・エンシェントエディションをかざした。ペンデュラムダ
私は地面に地図を広げると、深呼吸で精神を統一し、ナズーリンペ
!
ると、大慌てで私に飛び付いてきた。
﹁イヤッホゥ
﹂
燐はしばらく目をぱちくりとさせていたが、私が扉を開けて外に出
?
そうして二人、月下の人になる。
!
さっそく私達は出発した、ペンデュラムが示した座標へと。
?
のだろうか、羨ましい。
普段は元気一杯さんざめく秋の夜の虫達も、今日は代休を取っている
響くのは私達二人の足音と、燐の押す猫車のキィキィ軋む音だけ。
?
178
?
﹁さてな﹂
?
暦が冬に近づくにつれて、大気は段々と情熱を失っている。この国
の季節って奴は中々面倒な性格をしていて、年に一回は深く深く沈み
こんでしまうんだ。まあ、年中無休でギラギラギラギラ脂ぎってた
り、時々手の付けられないほど泣きわめき始める国もあるから、軽い
躁鬱の気くらいは目をつぶってやらなきゃな。
﹁今日は本当に気持ちのいい夜だねぇ。絶好の死体日和だねぇ﹂
赤いおさげ髪を揺らして、燐が目を細めている。
死体日和かどうかはともかく、確かに良い夜だ。こういう日には、
何か出会いがある、そういう気がしてくる。
ふと遮二無二駆け出したい衝動に駆られたが、風を切る自らの後ろ
姿が脳裏に浮かぶばかりで、そのうち私の情熱は月の光に溶けて消え
た。歳をとったなと思う。落ち着きが出たのだと思えば、気にもなら
なかった。
﹁まさか、猫と一緒に散歩する日が来るなんてな﹂
猫と鼠、深夜の
り返り、深夜という時間帯を抜きにしても人気が無さ過ぎる。しかし
放棄された廃村にしては、家屋の損傷は少ない。井戸などの設備もま
だ使えそうだ。人間が使わなくなった家というのは、あっという間に
劣 化 す る も の で あ る。あ る 時 期 を 境 に 人 間 だ け が ぽ っ か り い な く
なった、そう見るのが正しいだろう。
﹁なんだい、死体どころか生きてる人間すらいやしないじゃないか﹂
燐がブツブツ文句を言う。
鼠から話を聞こうと尻尾の賢将に合図したが、賢将は籠にこもって
出てこなかった。燐がいるからだ。猫は鼠の天敵だからな、怖がって
るんだ。これでは鼠を使う事が出来ない。
179
世界中探しても、こんな珍妙な絵面はあるまい。猫と鼠が連れ立っ
て、夜の森を歩くなんて。
﹄ヤバイよ、芸能一面飾っちゃうよ﹂
﹁ブン屋に嗅ぎ付けられたらコトだね。﹃禁断の愛
密会
?
藁ぶき屋根の質素な家屋がいくつか並ぶ。集落はひっそりと静ま
やがて目的の集落に着いた。
﹁なぜ芸能⋮⋮﹂
!
あたい、絶対見つからないと思うんだけど﹂
﹁まあ、いい。探そう﹂
﹁ここで
﹁大丈夫さ﹂
﹁なんだい、やけに自信たっぷりじゃあないか、ナズーリン﹂
私はロッドを構えて、集落内を練り歩いた。首を捻りつつも、燐も
後に続いた。
小さな集落である。ロッドはすぐに反応した。
ロッドに導かれ、私たちは村近くの広場に到着した。森に囲まれた
広場では、つい最近祭りが行われていたらしく、やぐらや屋台の骨組
みがそのまま放置されている。
ミステリーじゃ
﹁なんだいこりゃあ。祭りの跡がそのまんま残ってるじゃないか。ま
﹂
さか、一夜にして村人だけが消え去ったのかなぁ
ないか、あたい、わくわくしてきたよ
?
ここ
でも⋮⋮何もないけど
﹂
域に分け入った先にある、崖下のどんづまりだった。
ロッドが強く反応したのは広場ではなく、広場の端から少し森の領
﹁それ以上いけない﹂
たらどうだい﹂
﹁ちぇっ、夢の無いネズミだよ。ちったあ夢の国のネズミ様を見習っ
そう燐に言うと、燐は眉をくねらせてボヤいた。
たのだろう。
どうやら、この集落は後者のようだな。時期が過ぎたので人が移動し
に里から来た労働者が一時的な拠点として作ったものだったりする。
由で里に住めなくなった者が流れ着いたものだったり、山岳開発の為
い。里の他にも小さな集落は沢山ある。そういう集落は、何らかの理
幻想郷は狭い狭いとよく言われるが、私に言わせればそうでもな
るんじゃないか﹂
に、雨ざらしにしちゃまずいもんは見当たらない。倉庫にしまってあ
﹁片 づ け る の が 面 倒 だ か ら 出 し っ ぱ な し に し て あ る だ け だ ろ う。現
!
?
﹁⋮⋮ここか﹂
﹁え
?
180
?
燐はきょろきょろと辺りを見回している。確かに、一見しただけで
?
は分からないかもしれない。だが、私の目は誤魔化せない。
﹂
崖面にロッドを突き立てると、土塊がボロボロと崩れ落ちた。その
なんだい、こりゃあ。隠し扉ってやつかい
下から、大人一人分くらいの大きさの岩戸が現れる。
﹁おおッ
立てて、分かりやすく興奮している。
﹁なんかすっごいお宝が眠ってたりして
﹁だといいんだがな﹂
二人がかりで岩戸を開く。
﹂
燐が喜声を上げる。ハプニングが好きな奴だ。耳と尻尾をピンと
?
!
ながら嬉しそうに声を上げた。
﹁わっ、死体だ、死体 さっすがナズーリン、一発じゃあないか
﹂
提灯を差し込み、中を覗き込んだ燐は尻尾をぴんと立て、揉み手し
死臭である。
なれている。
死体探偵の私も、死体を持ち去る火車である燐も、この臭いは嗅ぎ
中から異臭が漂ってくる。
うに見えた。
ゆっくりと開いた洞穴は暗く、まるで根の国へと続いているかのよ
!
どもの遺体だった。
﹁うひょう、いいねいいね、謎に満ちた子どもの死体
聞けそうだよ﹂
!
私が止めると、頭を掻いた。
﹁待て﹂
燐はほくほく顔だが、
﹁いやあ、ありがとうね、ナズーリン﹂
燐は自慢の猫車に遺体を乗せると、白布を掛けた。
﹁そういうもんかね﹂
あたい、これが楽しくて死体探しがやめられないんだよねぇ﹂
﹁そうそう。人生一回終わってる分、なかなか面白いこと言うのよ。
﹁君は死体と話せるんだったな﹂
楽しいお話が
ひょいと中に入った燐が抱えて来たのは、半ば白骨化した小さな子
!
181
?
﹁分かってるって。この子があたいと一緒に行きたいかどうか、ちゃ
んと聞いてから連れてくさ。あたいは本人の意思を尊重する、善良な
火車さね﹂
そりゃいいけど⋮⋮なんでまた
﹂
﹁それもあるが⋮⋮この子の話を、私にも通訳してほしい﹂
﹁え
﹁まあ、ちょっとな﹂
﹁ふーん⋮⋮。まあ、いいけど﹂
よ。まず、あんたのお名前は
一体、どこの誰だい
﹂
たい達はあんたと遊ぶために来たのさ。さあさ、あたいに教えとくれ
﹁あたいは火焔猫燐、こっちはナズーリンさ。怖がることは無いよ、あ
しく語りかけた。
燐は首をひねりながらも遺体の口に耳を近づけ、ささやくように優
?
?
た。
﹁分かんないってさ﹂
⋮⋮やはり。
﹁そうか﹂
﹁やけにあっさり納得するんだねぇ
﹂
あの空に浮かんでる、きんきらきん
たところ、手酷く折檻されたという。それ以来、足を悪くし、洞窟の
をしのいでいたらしい。一度、岩戸が開いた隙に穴の外に出ようとし
週に一度、穴蔵の中に誰かが食べ物を放り込んで行く。それで糊口
のやつさ。⋮⋮え、空を知らない。そっかぁ﹂
﹁お月さんも知らないのかい
生まれた時から、あの穴蔵の中に居たらしい。
あの狭い穴蔵の外だ。
外と言っても、結界の外じゃあない。
この子は外の世界を知らなかった。
遺体に質問しては、その答えを私に教えてくれた。
ゆっくりと猫車を押して無縁塚へ戻るその間、燐はあれやこれやと
﹁ふーん。まあいいさ、もっと詳しく話を聞いてみようかね﹂
﹁死人が嘘を吐く道理もあるまい。地獄猫もな﹂
?
燐はしばらくうんうんと頷いていたが、やがてくすくす笑って言っ
?
?
182
?
中で這うように生活していたようだ。
あ
﹁出してくれてありがとう いえいえ、こちらこそありがとうさ。
こっちも楽しい話が聞けたよ。でもこれからどうしようって
はは、そんなことは心配要らないよ、これからは楽しく暮らせるから
ねぇ﹂
火焔猫燐は底抜けに明るく笑う。
穴蔵の中で育てられたこの子は、どうやら自分が死んだ事に気づい
ていないようだった。無理も無い。その身は常に肉体的な生死の境
へと置かれ続けていたのである。この子にとって生と死の区別は、夢
そりゃそうさ、ここは幻想郷、夢
現と同じように曖昧なのであろう。
﹁外の世界はとっても綺麗だって
うーん、そうさねえ⋮⋮﹂
尻尾をだらりと垂らしながら、燐は満面の笑みで言った。
燐がちらりと私の方を見る。私は頷いた。
もっといろんな所を見てみたい
み た い に 美 し い 世 界 な ん だ。あ ん た も き っ と 気 に 入 る よ。⋮⋮ え、
?
?
行っくぞー、キャッツモービル発進
よーそろー
!
﹂
﹁んじゃ、あたいの自慢の猫車で、これからナイトクルーズと洒落込み
ますか
!
歩きまわった。
人間の里では、柳の下で首を飛ばす飛頭蛮を見かけた。声をかける
と、顔を真っ赤にして一目散に逃げてしまった。あれで妖怪が務まる
のかねと私が言うと、あの子も燐も腹を抱えて笑っていた。
迷いの竹林では狼女が体毛の処理をしていた。月の光の下でやる
ものだから、剃るそばから毛が生え出してキリがないとぼやいてい
る。おまえさん馬鹿だねぇ、ならロウソクの灯りで剃ればいいじゃな
いか。燐が言うと、狼女は返した、無駄毛処理しないと恥ずかしくて
ロウソクすら買いに行けないよ。これが引きこもりだよと教えてあ
げると、あの子はしきりにおねえちゃん頑張ってと繰り返していた。
狼女はちょっと泣いていた。
通りかかった霧の湖で人魚に綺麗な石を見せてもらった。人魚は
ここ最近沈みがちだったのだが、彼女の自慢のコレクションをあの子
183
?
?
それから、燐と二人、あの子の乗る手押し車を押して、幻想郷中を
!
が手放しで褒めると、嬉しそうに次から次にコレクションを披露して
きた。私から見ると全部同じような石にしか見えないのだが、あの子
は目を輝かせていた。
猫車の上のあの子が喜ぶ度、燐の笑顔は輝くように明るくなった。
私は、次第に項垂れてゆくその耳を見ているのが辛かった。
﹂
﹁幻想郷には面白い奴がたくさんいるからね。こんなのまだまだ序の
口さ。もっともっと楽しい事が一杯あるさね。さ、次行こう、次
太陽の畑で夜の向日葵を眺め。
泉のほとりで秋虫達の合唱会を聞き。
博麗神社で間抜けな巫女の寝顔に落書きして。
無縁塚に戻った時、東の空は白みかけていた。
猫車を押して、燐は真冬の太陽のように笑い続けている。
﹁いやぁ、遊んだ遊んだ﹂
﹁燐﹂
﹁でもまだまだ。楽しい事はまだ一杯あるよ、この世界。せっかく外
に出られたんだ、もっともっと⋮⋮﹂
﹁燐﹂
﹁なんだい、ナズーリン、やめとくれよ。袖が伸びちまうじゃないか﹂
﹁あの子は、もう行ったよ﹂
﹁⋮⋮そうかい。あたいと来れば、これからずっと、面白おかしく暮ら
せたってのに、せっかちな子だよ﹂
﹁燐﹂
﹁せっかく良い死体が手に入ったと思ったのに、ツイてないねぇ、まっ
たく﹂
﹁⋮⋮燐﹂
﹁しかし驚いたねえ、仏教のぶの字も知らん奴でも、成仏出来るもんな
んだねぇ。あはは、あんたんとこの神様も、なかなかやるじゃあない
か﹂
燐は声を上げて笑う。心から、楽しげに。
﹁燐﹂私は、とても見ていられなかった。﹁⋮⋮もういい。あの子はも
う行った。もう、やめてくれ﹂
184
!
﹁やめるって。何がさ、ナズーリン﹂
﹁もう笑う必要はない﹂
﹁あたいは別に⋮⋮﹂
﹁もう、泣いていいんだ﹂
私が叫ぶと、燐ははっと息を呑んだ。
地面にこすれて血まみれになった二本の尻尾が痛々しい。
燐は倒れかかるようにして私の胸に顔を埋めると、嗚咽を漏らし
た。いつもは大きい燐の体が、今はひどく小さく見える。
﹁⋮⋮あの子が何したって言うんだい。なんであんな穴蔵に閉じ込め
られなきゃいけないんだい。空も星も花も木も見たことないだなん
﹂
て⋮⋮。地獄のほうがまだマシさ。あれじゃあの子、何の為に生まれ
て来たんだか、わかりゃしないじゃないか
妖と人。種族は違えど。真に分かり合う事は出来なくとも。
あの子を前にして、何も感じない訳がなかった。
きっと燐は、今までだって。
幻想郷では、死体を弔わず放置すれば妖怪となる。
燐は私と同じだ。役目を負って、死体を探して歩いている。そのせ
いで人々から疎まれ、恐れられても。そのせいで妖から死体狂いと蔑
まれ、地底に封印されても。
﹁違うよ、燐﹂燐の赤い髪を撫ぜながら、私は慟哭する彼女に声を掛け
た。﹁最後に君が作ったんだ。あの子が生きた意味をさ。だからあの
子は迷わず逝けた。あの子はあんたが救ったんだ。私達にはとても
出来ない事だ﹂
生も死も知らず、名前すら与えられず、あの子は育った。私だけで
はあの子を救うことは出来なかっただろう、たとえ毘沙門天でも。理
不尽な暴虐の前に、今、我々の理は無力だった。
燐の気丈な笑みだけが、唯一、あの子を救えたのだ。
あたいは
﹁神様ってやつは居ないのかい。こんなの許していいのかい。閻魔は
これを許すのかい。あたいは、あたいは絶対許せないよ
⋮⋮﹂
﹁私も許すつもりはない﹂
!
185
!
顔を上げた燐は、私を突き飛ばすようにして距離を取った。
真っ赤に腫らしたその目に敵意を漲らせて、私を睨んでいる。
﹁ナズーリン⋮⋮あんた、迷いなくあの子を見つけたな⋮⋮まさか﹂
背筋も凍る嫌な瞳の、だが人の良いこの地獄猫に憎まれるのは、ほ
んの片時でも辛かった。
そうか、と思う。私はこいつが好きなんだな。
燐が喧しければ喧しい程、幻想郷は平和だったんだ。
﹁一般的に、人間の霊力は極限状態において飛躍的に高まると言われ
ている。道教では服毒により自らを生死の境に追い込んで力を得る
法があると言う。仏道でも、継続的に肉体へ負荷をかけて超人的な力
﹂
を得ようとする宗派が存在する。邪道だがな﹂
﹁⋮⋮なんだって
﹁私はずっと探していたんだ。死体探偵として⋮⋮﹂
身元の分からない、陰陽玉を盗んで死んだあの盗賊。
私の探索を逃れるその力。
きっと、これが答えだ。
﹂
﹁燐。たぶん、あの子だけじゃない。そしておそらく、これが初めて
じゃあない。そしてきっと、これで終わりじゃあないんだ﹂
﹁何処かで誰かが、今もこんなことを続けてるって言うのかい
こってるって⋮⋮それが、これか
﹂
﹁さとり様も言っていた。私の知らないところで、良からぬことが起
り裂けそうになる胸を押さえた。
焔猫燐ではなく、怒りに燃える一匹の妖怪だった。私は手を当て、張
と血が滴っている。陽気な光は焦がれて消えた。そこにいるのは火
燐の瞳に憎悪の炎が燃え上がった。握りしめた拳からはポタポタ
!
燐は拳を降ろして、静かに言った。
﹁でも、安心したよ、ナズーリン。あんたが敵じゃなくて﹂
どうやら、さとりは賢者達の一員ではないらしい。
古明地さとり。地底にある旧地獄の管理者で、地霊殿の主である。
した。大きな音がして、小屋が少し揺れる。
振り上げた拳を掘っ立て小屋の薄い壁に打ち付けて、燐は肩で息を
!
186
?
﹁あたいは、あんたは嫌いじゃないからね﹂
﹁⋮⋮私もさ﹂
思わず口をついた言葉。私は口元に手をやってごまかしたが、燐は
それを見てニヤリと笑った。張り詰めた空気が少しだけ和らいで、私
は救われたような気がした。
古明地さとりに報告すると言って、燐は去って行った。
﹁この子は、あんたに任せるよ﹂
白い布で包まれた小さな遺体を残して。命蓮寺で弔ってくれ、そう
いう意味だ。人として扱われなかった子だ、せめて最期くらいは人と
して弔ってやりたいのだろう。妖怪らしからぬ気遣いだが、なんとも
燐らしい。
朝日が差す中。
私は懐から新聞を出した。
﹃花果子念報﹄。この記事の導きによって、私はあの子を見つけた。
何としても、会わねばなるまい。この新聞の記者、姫海棠はたてに。
187
サイレント・ヤマメ
巨大な縦穴を降り切ったその先に、見事な一つの橋がある。鮮やか
な朱塗りの欄干を持ち、数多ある橋脚の一つ一つに百鬼夜行図が彫ら
れている、まさに巨大な芸術品と呼ぶに相応しいもの。地底蛍の薄緑
光の中に佇むその姿は圧巻で、この橋を見るためだけに地上からわざ
わざ足を運ぶ者もいるほどだ。地底に封印されているのが実に惜し
い。このような芸術は陽の光の当たる場所に置いてこそだと思うの
だが。
橋の美しき守り姫、水橋パルスィに通行証を見せると、案の定、嫌
な顔をした。
﹁あれだけ好き勝手やっておいて、今更通行証も何もないでしょうが﹂
橋姫お得意の嫌味である。まあ、聖復活の為に地底に侵入した時、
188
星が色々と無茶をやってくれたからな。まったく、嘘は言ってないと
ころが嫌らしい。
普段は無表情なパルスィが顔をしかめるくらいだから、相当根に
持っているようだ。
﹁悪いとは思っている。だから正式な手続きを取ったんじゃないか﹂
通行証﹂
﹁それが妬ましいのよ、まったく﹂
﹁じゃあ捨てようか
美しい橋に、美しい姫。嫉妬したいのはこっちだよ、まったく。
じゃあないぞ、もちろん。
に美しい。⋮⋮妖精って言っても、あのちんちくりんのチルノとか
瑙色に煌めく宝石のような瞳。パルスィは御伽噺の中の妖精のよう
らりと伸びる白く長い足、そよ風になびく金色の髪の合間に覗くは瑪
半は橋姫のその美しさ目当てだろうがな。ペルシアンドレスからす
素晴らしい話術に魅せられ、足繁く通う若者も多いと言う。まあ、大
この問答も最早名物である。どうあっても嫉妬に持っていくその
﹁めんどくさいなぁ。私は急いでるんだけど﹂
﹁許可も無しに橋を渡ろうだなんて、まったく、妬ましいわ﹂
?
二、三の手続きの後、私は橋を渡った。去り際、パルスィは地底蛍
を一匹お供に付けてくれた。なんだかんだで親切な奴である。燐と
言い橋姫と言い、地底には捻くれ者が多い。
ゆるいアーチを描く橋を早足で渡りきって、旧都の目抜き通りに入
る。
旧都は元々、地獄の一部だったものを鬼達が占拠して住みやすく作
り変えたものだと言う。地底で一番の繁華街であり、その賑わいは封
印された街であるとは思えないほどだ。薄暗い上に鬼の治める街な
ので、治安にはいささか不安が残るが、目抜き通りにいる分には問題
無い。
彼女の事務所の扉をくぐるが、中は暗く、人影も見えない。だが、何
処からかぐうぐうと寝息が聞こえてきた。ならばと上を見やると、果
たして、彼女を見つけた。天井から逆さ吊りになって揺れている。
地底蛍をトントンと叩き、術力を分けてやった。賢い蛍は彼女の顔
﹂
目がぁ∼
﹂
!
﹁目は覚めたかい
いくら地底とは言え、真っ昼間っから眠りこけ
その説教臭い物言いは、まさか﹂
てちゃいかんぞ﹂
﹁おお
?
﹁やっぱり、ナズーリンじゃないか
久し振りだね﹂
﹁そらそうよ、ヤマメちゃんはいつでも元気百パーセントさ。あれぇ
﹁君は変わり無いようだね﹂
印されていた村紗達とも仲が良い。
聖輦船浮上の際に非常に世話になった妖怪である。元々地底に封
たりのいい性格をしている。
地底に住む癖に、ヤマメは真夏の西方の空のようにからりとした人当
ヤマメは人懐っこい笑みを浮かべる。空気の淀んだ陰気で陰鬱な
!
189
の前まで飛んで行って、強力な光を発した。
﹁ふぎゃあ
﹁目がぁ
驚いた彼女が天井から落ちて、どしんと大きな音が響いた。
!
両目を押さえて転げ回っている。
!
目を擦りつつ、黒谷ヤマメが起き上がった。
?
あ、も
だめだよあんた、そんなちっちゃい身体し
あんたはなんかやつれてるね。ちゃんとご飯食べてる
栄養取らなきゃ
私、鰻の良い店知ってんだ、ちょっくら食べに行
てる癖にダイエットなんて。胸なんてぺたんこじゃないか、ちゃんと
しかしてダイエット中
?
﹁用
ってぇことは、建築の依頼かな
急ぎの用事があるんだよ
﹂ヤマメは土蜘蛛と呼ばれる
の。喋り出したら止まらない、マシンガンみたいな女なんだ。
張だとか口が軽いだとかという意味ではなく、端的に事実を述べたも
地底の明るい網、
﹃おしゃべり﹄黒谷ヤマメ。その二つ名は決して誇
だが、仕事の話をする時には困ってしまう。
だから堪らない。酒でも飲み交わしながら聞いてる分には最高なん
メの声が綺麗で、聞いてるだけでこっちも良い気分になってしまうの
調子で二、三時間は平気で喋り続ける奴なんだ、こいつは。またヤマ
危ない、危ない。日が暮れちまうところだった。放っておくとこの
!
えば、もう一つ可笑しな話があってねぇ⋮⋮﹂
﹁分かった、分かった、分かったから
!
私が慌てて遮ると、ヤマメはようやく口を閉じた。
﹂
たしてるあいつを肴に呑む酒が美味いのなんのって。ああ、勇儀と言
もう見てて滑稽なんだよこれが。勇儀も勇儀で困っちゃって、あたふ
かけるたびにコナかけてんのさ。相手になんざされてないってのに、
とね。そこの主人がけっさくでね、なんとあの勇儀にメロメロで、見
最近の楽しみなのさ。そうそう、あそこ行くなら鬼の勇儀も誘わない
こうよ。そこは酒も美味くてね。蒲焼つまみに熱燗で一杯やるのが
!
?
近頃は新築の依頼が無く
!
﹂
?
﹁それは道中話す。八雲紫の召喚状もある。急ごう、地上へ﹂
﹁それじゃあ、一体全体、私に何を依頼しようってのさ
ヤマメは露骨にがっかりしている。仕事、好きなんだな。
﹁えー⋮⋮﹂
﹁いや、いや、いや。建築の依頼じゃないんだ﹂
は⋮⋮﹂
てねぇ。ちょっと退屈してたとこなんだよ。最後に建てたのは、あれ
ねぇ、ヤマメちゃん、張り切っちゃうよ
種 族 の 妖 怪 で、彼 女 た ち は 建 築 や 土 木 工 事 に 秀 で て い る。﹁嬉 し い
?
190
?
?
﹁えっ、隙間妖怪の
﹂
首をひねるヤマメの手を引いて、私は旧都を後にした。
事件が起こったのは、昨日の事である。
妖怪の山の麓にある坑道で、落盤事故が起きたのだ。何人かが土砂
に飲まれ、行方不明となっている。
山岳開拓を行っていた技師集団からの連絡を受けた上白沢慧音は、
直ちに私へ生存者の捜索を依頼して来た。慧音に汚名を付けない為
にも、彼女の依頼は出来るだけ断りたい所だが、事が事である。依頼
を受けざるを得なかった。
﹁なるほどね⋮⋮そりゃあ、厄介だねぇ⋮⋮﹂
流石のヤマメも、落盤事故と聞いて眉をひそめた。
﹁と 言 う か、私 は 建 築 が 得 意 で、穴 掘 り は 得 意 じ ゃ あ な い ん だ け ど
なぁ﹂
﹁他 に 当 て が な か っ た ん だ。そ れ に 土 蜘 蛛 っ て の は 元 々、採 掘 集 団
だったと聞いているが﹂
﹁昔の話さ﹂
﹁なんとかならないか﹂
﹁私は現場主義でね。見てみない事にはなんとも言えないよ﹂
どんよりと曇った空の下。件の坑道の前には、上白沢慧音と藤原妹
紅が待っていた。
坑道の入り口は木々に囲まれた場所にあり、近寄って初めて穴があ
ると分かる場所だ。しかも入り口は葉でカムフラージュされ、空を飛
んでいたらきっと気付かないだろう。
一目見て、ヤマメは声を上げた。
﹁こいつは⋮⋮試掘坑か﹂
慧音は色褪せた紙切れを差し出して来た。
﹁そうらしい。これは坑道の地図だ。脱出した者の話を基に、潰れた
道には分かる範囲で印を付けている。落盤が発生したのは鉱床近く
の採掘場らしい。残念ながら、そこに生存者はいないだろう。もし生
存者が取り残されているとしたら、確率が高いのは中央の作業広場だ
と思う。捜索をお願いしたい﹂
191
?
﹂
﹁こんな盗掘まがいのやり方をする奴らさ。この地図も当てになるの
かい
ヤマメの指摘に、妹紅が頷いた。
﹁正直、眉唾かもしれない。開拓者達をとっちめたところ、どうやらこ
の坑道は天狗共には無届けだったらしいんだ。事故は天狗共の妨害
工作の可能性もある﹂
どうやら、その為のカムフラージュらしい。
﹁どうせすぐにバレるってのに、馬鹿な奴らだねぇ﹂
暫く地図を眺めていたヤマメは、やがて溜め息混じりに、しかし
きっぱりと言い放った。
﹁無理だね。生存者の救出は諦めるべきだよ﹂
﹁そんな⋮⋮﹂
絶句する慧音に、ヤマメは淡々とした口調で語った。
﹁この適当な地図と入り口を見りゃあ分かるよ。その開拓者って奴ら
は、碌な技術を持っちゃいない。そりゃそうさ、人の目を盗んで山の
神様の恵みを奪おうって輩さ、真っ当じゃあない。技術ってのはね、
カンバンなのさ。陽の当たる場所で正々堂々勝負出来ない輩に、一流
なんざいやしないんだよ。坑道内の様子も知れる。このまま捜索に
入ったら、木乃伊取りが木乃伊になっちまう﹂
﹁し、しかし⋮⋮﹂
﹁私 は 専 門 家 と し て 意 見 を 言 っ て る ん だ よ。閻 魔 様 だ っ て は っ き り
黒って言うと思うな。今、一番有効な処置は、そいつらの掘った穴を
﹂
全部埋めて、代わりに慰霊碑でも立てることだね。二次被害を出した
いってんなら話は別だけど﹂
﹁取り残された人はどうなる﹂
﹁あくまで可能性の話だろう﹂
﹁だが、少しでも可能性があるのなら⋮⋮
プロとしての自制が見え隠れする。本当に困難だと判断しているの
いつも明るいヤマメにしては珍しく、声色が冷淡であった。そこに
あんたのちっぽけな正義感なんかじゃ、岩一つ砕けやしないのさ﹂
﹁くどいね、ハクタクハーフの先生さぁ。山を舐めるんじゃないよ。
!
192
?
だろう。
ナズーリン
﹂
﹁せっかく地上に連れてきてもらって悪いけどね、ナズーリン。わた
しはこの仕事、受けられないよ﹂
﹁どうする事も出来ないか﹂
﹁いくらなんでも、危険過ぎる﹂
ヤマメは目を伏せて首を振った。
﹂ヤマメは目を剥いた。﹁行く気かい
﹁そうか⋮⋮仕方無いな。なら君は、外でサポートを頼む﹂
﹁まさか
﹁ああ﹂
!
﹁友人がむざむざ死にに行くのを、黙って見てられるか﹂
﹁尚の事、急がねばな﹂
﹁駄目だよ、いつ崩落するかも分からない状態なんだよ﹂
﹁その娘には何度も助けられている。私は行かねばならない﹂
いて貰っているが、一刻も早く助け出さねば。
小傘は事故で怪我をしたのか、動けない状態らしい。今は賢将に付
かしくはない。
が、鍛冶に携わる小傘である。鉱山開拓者達との繋がりがあってもお
小傘だった。何故小傘がそんな所にいるのか、詳しい事は分からない
坑道内に鼠達を放った時、賢将が中央の作業広場で発見したのは、
﹁⋮⋮友達が、取り残されていてね﹂
﹁馬鹿な。なんでそこまで﹂
出発しようとした私の肩を、ヤマメが掴んだ。
私と妹紅の説得によって、なんとか押し留めた。
してくる可能性もあるんだ。私達はここの確保をしなきゃ﹂
﹁そうだよ、慧音。落盤を起こしたのが天狗共なら、奴らが救出を妨害
﹁君と妹紅は退路の確保をして貰わねば困る﹂
慧音が無鉄砲にも付いて来ようとしたが、
﹁私も行くぞ﹂
ロッドを握りしめた。
慧音に用意してもらった装備一式をポシェットに詰め込み、私は
?
﹁私も同じ気持ちなんだよ、ヤマメ。大丈夫、私は体も小さい。仮に土
193
!
に埋まった所で、這い出してこられるさ﹂
ヤマメは眉根を寄せて唇を噛んだが、やがて決心したように言っ
た。
﹁分かったよ。私も行こう。だが、中では私がリーダーだ。命令には
必ず従ってもらうよ﹂
﹁⋮⋮恩に着る﹂
ヤマメも用意した装備一式を付け、私達は坑道内に進入した。
思ったよりも坑道は広く、私とヤマメが並んで歩ける程度の広さが
あった。一定間隔で木材による補強が行われており、土には粘り気も
ある。素人目には十分に強度確保されているようにも見えるが、
﹁くそ、素人共が⋮⋮。闇雲に道を広げて、強度確保がおざなりじゃあ
ないか。地盤が貧弱で浮石が多い癖に支保が少ないなんて⋮⋮自殺
行為だよ、こんなの﹂
ヤマメの目には十分ではなかったようだ。
194
﹁普通は横穴を掘るか、坑道の補強をしながら進むんだけど⋮⋮仕方
ない、応急処置で済まそうかな﹂
ヤマメは指先から魔法糸を発射して、坑道に蜘蛛の巣を張った。
﹂
﹁時 間 が 経 て ば 鉄 よ り 硬 く な る。こ う や っ て 退 路 を 確 保 し つ つ 進 も
う﹂
﹁だが、脱出する時の妨げになるんじゃあないか
だ。その様子を見て感心したのか、ヤマメは言う。
私は斥候から戻った鼠達の情報を基に、地図を更新しながら進ん
ンの出来上がりである。
保てた。用意していた籠の中へと地底蛍に入って貰えば、魔法ランタ
えると、地底蛍は眩い緑光を発して、洞窟内でも昼と変わらぬ視界を
で、橋姫から借りっぱなしだった地底蛍の出番である。術力を分け与
利く鼠に土蜘蛛と言っても、そも光がないのでは何も見えない。そこ
入り口から少し進むと、もうそこは闇の坩堝である。いくら夜目が
要らぬ心配だったようだ。
﹁そりゃ、そうか﹂
﹁私の力で作ってるんだから、邪魔にはならないよ﹂
?
﹁ここの奴らより、あんたの鼠の方がよっぽど山に詳しいみたいだね﹂
﹁そりゃそうさ。彼等はここに住んでいる鼠だからね﹂
﹁なるほど、道理だね﹂
すぐに分岐にぶちあたった。更新した地図を基に、私達は道を選ん
だ。広場への最短ルートは途中で崩落しており、遠回りせざるを得な
かった。選んだ道は徐々に斜坑気味になり、私達は少しずつ地下へと
降りながら進んだ。
洞窟内は静寂の世界かと思っていたが、意外にも其処彼処から水の
流れる音が響いている。
﹁鉱山ってのは、いつでも照明と換気、そして排水が問題になるんだ
よ。山ってのはでかいスポンジみたいなもんでね、至る所から水が溢
れ出して来る。そいつを汲み上げて地上に排水するのも、重要な仕事
の一つなの。でかい鉱山なら風車動力の水上輪を使う所だが、こんな
﹂
素掘りの試掘坑じゃあ、人力だろうねぇ﹂
﹁人力⋮⋮お、追いつくものなのか
﹁⋮⋮その答えがこれさ﹂
ヤマメがランタンをかざした先の通路には、薄っすらと水が張って
いる。
﹁こっから先は水没坑道みたいだね。事故で排水が出来なくなった途
端、これさ。まあ、もともとまともな排水機構がなかったんだろうけ
どね。ナズーリン、この一週間の地上の天気はどんなだったんだい
﹂
が﹂
﹁そ れ で こ れ か。こ の 上 も し 雨 が 降 っ た ら ま ず い ね ⋮⋮。ナ ズ ー リ
ン、部下の鼠達に連絡して、天気が変わりそうになったらすぐに伝え
るようにしてくれ﹂
﹁分かった﹂
鼠を走らせると、私達は薄張りの水の上を歩き出した。
坑道内の景色というものはそう変わらぬもので、ずうっと同じ景色
ばかり見ていると、平衡感覚が乱され、同じ所をぐるぐる回されてい
195
?
﹁麓では三日前に軽く振ったかな。山の上のほうじゃどうか分からん
?
る気分になってしまう。水の跳ねる音が耳にこびりついてとにかく
不快だった。
何度目かの分岐を曲がった時、二股の岐路に差し掛かった。一方は
かなり水が入り込んでおり、もう一方はそうでもない。地図上では、
水の入ったルートが最短ではあるが。
﹁鉱山の水ってのは、酸性水や重金属を含む水が流出してる場合があ
るんだよ。言わずもがな、こいつらは有毒さ。だから土蜘蛛は河を汚
すと嫌われたんだよね。多少遠回りでも、水の無いルートを選択しよ
う﹂
ヤマメの判断によって、私達は浸水の少ないルートを選んだ。
﹁⋮⋮おかしいな﹂
そこからさらに幾度目かの分岐を曲がった時、不意にヤマメがそう
こぼした。
﹁道は正しい筈だが﹂
土砂が崩れる崩落音が反響する。
﹂
鉱脈を求めてあちこち
196
﹁いや、そうじゃない。この辺りの坑道は最近掘られたようなんだけ
ど⋮⋮﹂
﹁試掘坑なら、そういうものじゃないのか
掘るんだろう﹂
﹂
?
どしん、という巨大な縦揺れが走り、坑道内を揺るがした。続けて、
その時。
言い淀んで、ヤマメは言葉を切った。
﹁いや、それでも早いよ。これはまるで⋮⋮﹂
﹁開拓者達の中に、妖怪が混じっていたと言うのか
変わらないんだ。だけど⋮⋮これは、余りにも早い﹂
狭い。いくら人員を投入しても、一つ一つの穴の掘削スピードはそう
﹁早すぎるんだよ﹂難しい顔をして、ヤマメが続ける。﹁坑道ってのは
?
私達は身を低くして身構え、さらなる揺れに備えた。が、続くの揺
れはなかった。
﹁地震、か⋮⋮
私の呟きに、ヤマメは首を振った。
?
﹁⋮⋮嫌な予感がするよ。先を急ごう﹂
ランタンをかざし、多少早足でヤマメは歩き出した。私はそれに
黙って従った。
道なりにしばらく進むと、落盤で道が塞がれていた。
﹁さっきの崩落音はこれか﹂
道は完全に土砂で埋まり、先へ進めそうもない。私達は引き返さざ
るを得なかった。
機関銃並みの口数を誇るヤマメが、さっきからずっと押し黙ってし
やはり天狗の妨害だろうか﹂
まっている。何か感じるものがあるのだろうか。
﹁崩落事故の原因は、何だと思う
﹁どうかなぁ⋮⋮﹂
返事も何だか上の空である。
私達は二股の岐路まで戻った。先程は選ばなかった浸水ルートだ
が、もう一方の道が崩落した以上、そちらを進まねばなるまい。こん
な狭い坑道内では、飛翔術も使えない。つまりは、水に入らなければ
進めないという事だ。しかも水は有毒である。いくら泳ぎが得意と
はいえ、そんな中を部下に行き来させる訳にはいかない。鼠の連絡網
が途絶えてしまう。
私は肩に一匹、部下を乗せると、水底を足で探った。思ったよりも
深いようだ。
﹁スカートにはちょっと辛いね。ウェーダーを持ってくるべきだった
なぁ﹂
私もヤマメもスカートを裂いて、腿の上辺りで結び、足を動かしや
すくする。そのままざぶざぶと冷たい泥水の中に歩き入った。心な
しか、足の皮膚がちくちくと痛む気がする。私達妖怪は人間よりも頑
丈だとは言え、有毒な事には変わりない。また、水の冷たさは体温と
体力を奪う。早く水から脱出するに越した事は無い。
黄土色の水はヤマメの膝上まで達しており、私に至っては下半身が
完全に水に浸かってしまうほどだった。水底は積泥し、足が取られて
歩きにくい。一歩踏み出す為に普段の三倍以上の労力が要った。
﹁倒れそうになっても、支保には触れちゃダメだよ。ただでさえ素人
197
?
工事で不安定なんだからね﹂
﹁大丈夫さ。私には小傘のロッドがある﹂
ヤマメは魔法糸で身体を支え、私はロッドを杖代わりにしつつ、浸
水坑道を進んだ。
泥水と悪戦苦闘していると、道の窪んだ所に小さな縦穴が見えた。
﹁そいつは換気口だよ。地上から空気を取り込むための縦穴さ。見た
ところ、小さくて私達じゃあ通れないだろうね﹂
覗いてみると、縦穴は深くて開口部が見えない上に狭く、身体の小
さな私ですら通れそうになかった。しかし、鼠達の連絡には使えそう
だ。肩に乗せていた部下を放つと、彼はするすると登って、あっとい
う間に見えなくなった。流石、山鼠である。こういうのはお手の物ら
しいな。
凍える水に危険な寒さを覚え始めた頃、道は徐々に登り始めた。同
時に少しずつ水かさは減って行き、私達は水から逃れる事が出来た。
しかし、その頃には私達二人、息も絶え絶えになっていた。
﹁流石に軽装過ぎたか⋮⋮﹂
﹁採掘ってのは命がけなのよ。相手は自然さ、妖怪の私達でも太刀打
ちなんざ出来やしない。時には見捨てる勇気も必要なのよ﹂
﹁分かっている﹂
少し休憩を取ることにして、私とヤマメは手近な岩に腰掛けた。
寒さで無性に身体が震える。対照的に、頭は熱を帯び、軽い頭痛も
覚えた。空気が澱んでいるせいだろうか。ポシェットに詰めた非常
食のチーズを齧り、英気を養う。
だが、あまり休んでいる時間も無い。
﹁さあ、あと一息だ。頑張ろうじゃないか﹂
ヤマメの言葉に背を押されるようにして、ロッドを杖代わりに私は
歩き出した。
しばらく起伏が続き、何度か短い浸水道を通りながら、私達はよう
やく目的の作業広場に到着した。
しかし、作業広場への入り口を大きな岩が塞いでいた。
﹁参ったな⋮⋮やっとここまで来たって言うのに。どうするヤマメ、
198
別の道を探すべきか
﹁いや⋮⋮﹂
﹁小傘
﹂
﹂
﹂
その先に、小傘がうつ伏せで倒れていた。
返事もせずに走り出した賢将を追う。
﹁賢将、小傘は
聞きつけたのだろう。
いの一番でそこから飛び出して来たのは、賢将だった。発破の音を
難い。支柱は健在のようだが、やはり長居は出来そうになかった。
中をチラリと覗くと、作業広場は所々崩落しており、安全とは言い
を払い退けると、作業広場への道が開いた。
を使って脆くなった岩を丁寧に砕いて行き、岩を退けた後に残る土砂
粉塵が落ち着いた後、岩には大きな亀裂が入っていた。ヤマメは槌
破をかけた。ごく小規模の爆発が起こり、洞窟内の空気が振動する。
道を塞ぐ岩にノミで穴を開け、ポシェットに詰めておいた火薬で発
﹁この地盤なら行けそうだよ。発破しよう﹂
坑道内を暫く見回して、ヤマメは言った。
?
﹁ばあ
﹂
突然上体を起こした小傘に驚いて、尻餅をついてしまった。私の様
ナズーリン﹂
子を見て、小傘はケタケタと無邪気に笑った。
﹁驚いた
﹁とりあえず、怪我が無くて何よりだ。早速、掘り出そう﹂
たかもしれないのだ。ここは素直に小傘の無事を喜ぼう。
心配して損したかな。しかし、下手したら本体を潰されて死んでい
﹁ああ、そう⋮⋮﹂
出せないし、困ってた所だったんだよ﹂
﹁怪我っていうか、まあ⋮⋮その、本体が埋まっちゃって。暗くて掘り
﹁負傷したんじゃなかったのか﹂
嬉しい半分、ムッとして私は言った。
﹁げ、元気そうじゃないか﹂
?
199
?
よろめきつつも走り寄った私は、
!
!
﹁あんた、付喪神だったのかい。掘り出すのは素人には難しいだろう
ね。ヤマメちゃんに任しときな﹂
ヤマメが手際よく土砂を掘り返す内に、私は小傘の話を聞いた。小
傘は強い娘だ、暗闇の中で丸一日過ごしたと言うのに、しっかりとし
た口調で喋った。
小傘は開拓者集団から仕事を請け負っていたと言う。その納品で
訪れた昨日、原因不明の大規模な落盤事故が発生し、混乱の内に取り
残されたらしい。
﹁大口の仕事だったから、張り切ってたんだけど⋮⋮こんな事になっ
ちゃって﹂
流石の小傘も言葉を詰まらせた。
﹁開拓者集団からの仕事はよく受けるのか﹂
﹂
﹁ん。そうだね。私は鍜治屋だから、採掘業者とはよく取引するんだ。
でも、今回の相手は初めての取引だったよ﹂
﹁開拓者の中に、妖怪が混じっていなかったか
﹁さあ⋮⋮でもそれは、良くある事だし﹂
妖怪との交流を禁忌としているのは、里くらいのものである。里を
出れば多かれ少なかれ、妖怪と取引をしなければ生きては行けない。
﹂
そしてそれは、妖怪にとっても同じなのかもしれない。
﹁この部屋に、他に生存者はいるか
まで気絶しててさ﹂
﹁なら、探そう﹂
私はロッドを構えた。幾つか反応があった。
⋮⋮だが私はロッドを下ろし、賢将に頼んで、部下達を使い生存者
の捜索してもらった。空気孔から降り立った勇敢な山鼠達は、作業広
場の隅々までを捜索し、五人を発見した。
いずれも土砂に潰され、既に故人であった。
付喪神の小傘を除き、生存者はゼロである。最悪の結果だった。
﹁ナズーリン。この量の遺体を抱えて脱出している余裕は無いよ。死
亡の確認が出来ただけでも、良かったと思うべきだ。もうこの坑道に
200
?
﹁それが⋮⋮ごめん、分からないんだよね。実を言うと、ほんのさっき
?
生存者はいないだろう﹂
ヤマメの意見は厳しいが、正しかった。
欲を張れば、我々も危ういこの状況である。今は捨て置くしかな
い。私の正義は力不足だった。
﹂
ありがとう、ヤマメさん﹂
﹁あんたの本体って、このナス色の傘
﹁あっ、そうです、そうです
?
ど、どうしたの
﹂
?
﹂
!
かった。
﹁す、すごい熱じゃない
問題大有りだよ
小傘が私の額に手を当てた。その手はひんやりとして、気持ち良
﹁いや、問題無い。少し目眩がしただけさ﹂
意識が途切れていたのか。
いつの間にか、小傘の心配そうな顔が私を覗き込んでいる。刹那、
歩き出そうとした私の足は空を掻き、派手に転んでしまった。
﹁ナズーリン
は元来た道を引き返そうと歩き出した。
もうこれ以上ここに用事は無い。賢将を尻尾の籠に乗せると、私達
しそうに顔を綻ばせた。
首尾よくヤマメは小傘の本体を掘り起こし、傘を手にした小傘は嬉
!
﹂
!
上に体が言うことを効かない。⋮⋮なんてことだ、こんな時に
何だ、あれは。
か、巨大なものだ。
作業広場の向こう側から、ガサゴソと何かが蠢いている。それも何
た。
その時、またもやどしんと言う大きな音が響き渡り、縦揺れが走っ
!
うとするが、体に力が入らず、ただただ震えるばかりだった。予想以
は無い。これくらい、一人で起き上がれるさ。そう呟いて体を起こそ
ヤマメが深刻な顔をしている。皆、大袈裟だ。これしき、大した事
﹁これは⋮⋮やっぱり⋮⋮
うなんて、修行が足りない⋮⋮。
けだと言うのに。まったく、情けない。あれしきで風邪を引いてしま
小傘が声を上げた。大袈裟な奴だ。あの水に入って、少し冷えただ
!
201
?
﹁ここを離れるよ
﹂
あんたはナズーリンを背負って
﹁えっ、はっ、はい
何て事だ。
﹁つ、土蜘蛛⋮⋮
﹂
の顔がついている。
﹂
て残忍に蠢く口。その額には、狂ったように笑みを浮かべる人間の女
蠢く巨大な八本の足。暗闇で光る六つの瞳。括れた腹、鮮血に塗れ
は、見た。
負った。ヤマメに急かされ走り出した小傘の背の上で振り返った私
小傘は私のロッドを取り上げると、自身の分身である傘とを私を背
!
あいつが死体を
落盤事故の原因が、ヤマメと同じ、土蜘蛛だったとは。
﹂
﹁ここでやりあったら、こっちまで埋まっちまう
貪ってる間に逃げるよ
!
﹂
!
の風上にもおけやしない
どれだけ忌み嫌われようと、それだけが
の存在意義とはいえ、私らの誇りである山仕事を穢すなんざ、土蜘蛛
﹁私の同族がこんな事を仕出かすなんて⋮⋮人を恐れさせるのが妖怪
言いながら、ヤマメは拳と拳を強く打ち付けた。
たからに違いない。ちくしょう
私を見やる。﹁あんたのその体調は、奴が坑道内に熱病菌を蔓延させ
は、人間じゃない、土蜘蛛が採掘してたからだ。おまけに﹂ちら、と
を掘るなんて出来ない。あんな素人工事でも坑道が維持されてたの
﹁嫌な予感はしてたんだよ。土蜘蛛じゃなきゃ、あのスピードで坑道
た。
ざぶざぶと泥没した道に入りながら、ヤマメは独り言のように言っ
なる。急ぐよ﹂
﹁これでも気休めさ、あの土蜘蛛が本気なら、あんな瓦礫、どうとでも
た通路入口のみを再度崩落させるという神業ぶりを見せた。
達も瓦礫に飲まれていた所だが、ヤマメの力加減は絶妙で、崩れてい
破壊した。奴の追跡を逃れる為だろう。下手をすればその時点で私
小傘を先頭に私達は水没坑道に戻ると、ヤマメが弾幕で道の入口を
!
私達の拠り所だったのに⋮⋮﹂
!
202
!
!
!
ヤマメの背中が震えている。朦朧としながら、私はその背を見つめ
ていた。
﹁人間が、好きなんですね。ヤマメさん﹂
しみじみと小傘が言う。それは妖怪のサガだ。地底に封印されて
もそれはきっと変わらない。村紗や一輪達が聖を慕い続けたように。
﹁ヤマメ、君が責任を感じる必要は無い。だが、こうなった以上、あの
土蜘蛛は地底に封印しなければならない。分かってくれるな﹂
ヤマメは振り返り、先回りした言葉を吐いた私を睨んだ。普段は明
るいあのヤマメからは想像も付かない、悲壮な顔をしていた。
﹁⋮⋮けじめは、同族の私が付ける﹂
﹁ヤマメ、それは違う﹂
﹁これが地獄の理さ。自分自身のルールを見失った者に未来は無い。
そうしてやるのが、奴の為でもある﹂
やはり。
203
ヤマメはあの土蜘蛛を殺す気だ。
私は彼女を止めなければならない。だが⋮⋮。言葉は掠れ、私の思
考はただただ熱を帯びるばかりだった。
私の理は、私に力を与えてはくれない。
水没坑道を抜け、斜坑を登り始める。ヤマメの張った魔法糸は、私
達が近づくと避けるようにして道を開けてくれた。
早足で歩く小傘は辛そうにしている。私を背負っている事もある
し、そもそも小傘は丸一日坑道内に取り残されていたのだ。消耗も激
しいのだろう。
﹁小傘⋮⋮すまん﹂
﹁何言ってるの、全然へっちゃらだよ。それにナズーリンが助けに来
てくれてなきゃ、今頃私、坑道の中で地縛霊みたいになっちゃってた
よ﹂
ニカリと小傘が笑う。私はただただ感謝して、熱に震える手で彼女
﹂
の背にしがみつく事しか出来ない。なんて情けない鼠なんだ、私は
⋮⋮。
﹁あっ
!
前を歩くヤマメが声を上げた。
見ると、斜坑との分岐部が崩れ、元の道を辿れなくなっている。奴
が破壊したのか。
﹁くそ⋮⋮先回りされてたか。この状態じゃ、とても発破は出来ない﹂
しかもかなり強い
﹂
ヤマメは歯噛みしている。この道をまっすぐ行けば、出口だったの
だが。
雨が降って来ただって
鼠の斥候がやってきて、私に耳打ちした。
﹁何
?
﹁他に道は無いの
ナズーリン﹂
ヤマメにも焦りの色が見え始めている。
﹁まずいな⋮⋮この坑道の状況じゃあ、すぐに溺死しちゃうよ、私達﹂
?
﹁本当か
﹂
ら出られないかな﹂
穴があったはずだよ。作業広場の空気取りに使ってるはず。そこか
﹁この地図、古いみたい。作業広場への最短ルートの途中に、大きな縦
小傘は私から地図をひったくると、首を傾げた。
﹁待って。私にも地図を見せてよ﹂
﹁もう一方の道は地図上、落盤で潰れている。戻るしか無いが⋮⋮﹂
た。
振り返って小傘が問う。私は震える手で地図を取り出し、眺めてみ
?
﹁小傘、ありがとう。でも、もういい。私を置いて行ってくれ﹂
体力も危うい。
かさはどんどんと増して行く。この泥水の中では、私を背負う小傘の
土砂に埋まった道を迂回して、斜坑を登る。そうしている間にも水
がなくなってるんだ。とにかく、急ごう﹂
﹁奴め、無節操に暴れてるらしいね⋮⋮通路が破壊されて、水の行き場
る。あっという間に足首まで水没してしまった。
雨は激しいのか、そうしている内にも洞窟内に水が染み出してく
させ、私達は小傘の言葉を信じ広場へ向かうルートを進んだ。
他の道を探している時間は無い。賢将を放って鼠達の退避を指揮
﹁だって、行く時に見たもの﹂
?
204
?
﹁ナズーリン。次それ言ったら、ぶつからね﹂
頑固さにかけては、小傘もなかなかのものである。
あそこだよ
見覚えがある、あの大きな窪み
﹂
迂回に迂回を重ねる内、水は胸の辺りまで迫って来ていた。
﹁あ
!
た。
﹁まさか、埋まっちまったかな⋮⋮
?
﹁な、何これぇ
﹂
ヤマメの腕に白い糸が巻きついた。
ヤマメが溜め息をついた、その時。
そうだね﹂
だけど、とりあえず水はしのげ
の景色は見えない。ランタンを掲げても、その先はいたずらに闇だっ
縦穴は広く、大人が十人は一度に入れる大きさである。しかし、外
があった。私達は水を掻き分け、急いで縦穴に入った。
小傘が声を上げたその先、通路の一部が膨らんだ所に、目的の縦穴
!
んでしまった。
ヤマメの魔法糸が生物のように蠢くと、それを全て受け止めて飲み込
壁に打ち込まれた。土蜘蛛はその口から炎の弾丸を連続で放ったが、
ヤマメが両手を開くと、その体から白い魔法糸が射出され、周囲の
けるようにして解け消えた。
ヤマメの瞳が光輝く。力が揺らめき、その右手に巻き付いた糸は弾
ろう、格の違いを思い知らせてやるよ﹂
﹁⋮⋮いい度胸じゃあないか、同族の私に挑もうってんだね。いいだ
誘導していたらしい。
かったのはそのためだ。ここは奴の餌場だ、奴は私達をこの場所へと
縦 穴 の 出 口 に は 隙 間 な く 蜘 蛛 の 巣 が 張 ら れ て い る。光 が 見 え な
蛛の目が光っていた。
上昇した地底蛍の光が照らすその先に、逆さ吊りになった奴、土蜘
ヤマメの手からランタンが落ちて、逃げ出した地底蛍が宙を舞う。
き、身動きが取れなくなってしまった。
小傘の悲鳴。同時に、小傘と私の体にも粘着性の白い糸が絡みつ
?
ゆっくりと水面に立つヤマメ。腕を振るう、その指先から発射され
205
!
た極細の魔法糸が、鞭のようにしなる。土蜘蛛の足の一本を打ったそ
﹂
れは剣よりも鋭く、打たれた奴の足はあっけなく切断された。
﹁あんたご自慢のその巣、ぶっ壊してやろうじゃないか
﹂
﹁ヤマメ
﹂
に浮かび上がった。
私は魔法糸を噛みちぎると、力を振り絞り、小傘を引っ張って水面
見える。ヤマメの体が上に引っ張られて消えた。
ヤマメが水の上で何事か叫んだ。その胴に白い糸が巻き付くのが
た大波に飲まれ、私と小傘は水に沈んだ。
マメの魔法糸も千切れた。岩塊はかさの増した水面に落下し、発生し
は、大きな岩塊だった。自由落下してくる巨大質量を前に、流石のヤ
砕けた土蜘蛛の巣の一角から、黒いものが零れ落ちてくる。それ
﹁は
うに見えた。
圧倒的な力の差を見せつけられて怯むはずの奴は、しかし笑ったよ
かと思うと、土蜘蛛の張った巣の一角がバラバラに破壊された。
舞うように腕を振るった。糸が緑光を受け、輝く軌跡が宙を走った
!
危ない
﹂
!
縦穴の入り口から飛び込んだ藤原妹紅は、炎の翼を広げると、土蜘
赤である。
破壊された巨大蜘蛛の巣の一角から差し込むその色は、燃える炎の
その時、洞窟内が地底蛍の緑光とは別の色で満たされた。
私には叫ぶことしか出来なかった。
﹁ヤマメ
る、援護出来そうにない。
足りない。体力を消耗しきった小傘は白い糸に絡まってもがいてい
私は手を掲げ、援護の弾幕を張ろうとしたが、熱病のせいで術力が
かに気を取られているようだった。
奴を間近で見つめるヤマメは、奴の牙が迫るにも関わらず、他の何
﹁あんた⋮⋮そうか⋮⋮﹂
られている。
ヤマメの体は白い糸でグルグル巻きにされ、奴の目の前にぶら下げ
!
!
206
!
蛛の腹に強烈な蹴りを叩き込んだ。土蜘蛛は縦穴の壁に磔にされ、カ
サカサともがいた。
﹁危なかったな、お前ら﹂
﹂
ヤマメの体を拘束していた糸を焼き切って、妹紅の銀髪がさらりと
揺れた。
﹁ナズーリン、無事か
縦穴の入り口から慧音が顔をのぞかせている。その肩には賢将が
しがみついていた。どうやら、賢将が慧音達を呼んでくれたらしい。
ヤマメは、悲しい顔で土蜘蛛を見下ろしていた。
﹁あんたは、人間に土蜘蛛にさせられたんだね。土に篭もる採掘従事
者は、差別されやすいから⋮⋮。忌み嫌われる妖怪、土蜘蛛と同じよ
うに扱われ、来る日も来る日も差別されながら土の中で暮らしていた
のか。そして、たくさんの憎悪と侮蔑を受けたあんたは、いつしか本
物の土蜘蛛になっちまったんだね。これは、その復讐かい﹂
土蜘蛛の額についた女の顔は、変わらず狂気に満ちた笑みを浮かべ
ている。だが今、その瞳から赤い血が涙のように零れた。
﹂
ヤマメは、優しく微笑んだ。
﹁ヤマメ、待て⋮⋮
その指先から走った細い糸が、女の額を貫く。
土蜘蛛の体がその動きを止めるのに、そう時間はかからなかった。
﹁開拓者達は自らで妖怪を生み出していたのか⋮⋮﹂
降りしきる雨を、寺子屋の中から眺めている。
妖怪の山から引き上げた私達は、事後処理の前に、慧音の寺子屋で
休憩をとっていた。
﹁幻想郷では、幻想が現実となる。人間を妖怪だと思い込ませること
が出来れば、他の人間を妖怪に変異させることも不可能ではあるま
い。問題なのは、それを人為的に行っていたという所だ。まさか妖怪
を使って金儲けを企む輩がいるとはな⋮⋮いや、人間を使って、か
⋮⋮﹂
207
!
私の絶叫を聞きながら、ヤマメは土蜘蛛に優しく手を差し伸べた。
!
慧音は何度も溜め息を吐いている。
﹁あんたも似たようなものじゃないか、ハクタクハーフの先生。何処
にでもそういう輩はいるもんだよ﹂
心なしか、ヤマメの言葉にも棘がある。
ヤマメの願いで,土蜘蛛の死体は妹紅が焼いた。あの坑道は完全に
封印され、入り口には石碑が立てられることになった。
一連の出来事は射命丸文によって新聞記事にされたが、私達が揃っ
て取材拒否したせいか、大部分が憶測とゴシップで塗り固められた記
事になっていた。﹃文々。新聞﹄らしいと言えば、らしい。
結局、この事件に天狗達は関わっていなかったようである。が、姫
海棠はたての﹃花果子念報﹄に速報記事が掲載されたことから見て、何
らかの形で賢者達が関わっていたと見て間違いないだろう。八雲紫
が動けなかったのもそのせいに違いない。
土蜘蛛にされた女の境遇は、先日、燐と見つけたあの子と重なる。
208
﹁ヤマメ⋮⋮すまん﹂
土蜘蛛が死んだことで、私は熱病から回復した。奴が死ななけれ
ば、私の方が死んでいたかもしれない。
だが。
私は本当に奴を救うことが出来なかったのか。
私は奴を見殺しにしたのではないか。
そしてその業を、私はヤマメに押し付けたのではないか。
その自問が、いつまでも消えない。
﹁なんで謝るんだい、ナズーリン。あんたが気にすることじゃあない
よ。妖怪が敵対する妖怪を倒した、このお話は、それだけだよ。さ、
せっかく地上に出てきたんだ、甘味処の一つでも案内しておくれよ。
もうヤマメちゃん、お腹減っちゃって減っちゃって。そうそう、地上
あ れ、食 べ て み た い ん だ よ ね。そ こ に は 温 泉 も あ
には最近、名物があるみたいじゃあないか。ぎゃてみす亭のカニチー
ズまんだっけ
ヤマメはそう言ってカラカラと笑った。
別だよねえ﹂
るって言うじゃあないか、いいねえ、仕事の後のお・ん・せ・ん。格
?
あのおしゃべりのヤマメがこの顛末について語る姿は、その後見た
ことがない。
209
アイ・ディド・ウェール、ライト
諸君らはプリズムリバー楽団をご存知だろうか。
⋮⋮愚問だったな、幻想郷に造詣の深い諸君らの事、もちろん知っ
ているだろう。
しかし幻想郷にやって来てからまだまだ日の浅い私、実は彼女達の
事を深くは知らない。命蓮寺では聖の監視の目を潜り抜けなければ
宴会やコンサートなどの娯楽行事に参加する事は難しいし、そもそも
私は死体探偵で忙しいからだ。よって私の彼女達に対する印象は、よ
く宴会で喧しい演奏をしているチンドン屋、くらいでしかなかった。
プリズムリバー楽団は三姉妹で構成されている。長女でリーダー
のヴァイオリ二スト・ルナサ、次女で人気者のトランペッター・メル
ラン、三女でお調子者のキーボーディスト・リリカである。音の霊を
操って、ルナサは鬱の、メルランは躁の、リリカは幻想の音をそれぞ
れ奏で、人妖の心を惑わす事が出来るという。彼女達は騒霊と呼ばれ
る特殊な存在で、強大な妖力を持つらしく、故にそんな芸当が可能で
あるらしい。それぞれの力が作用しあい、楽団としての活動では無害
な音色を奏でるといわれているが、本当かどうかは眉唾である。⋮⋮
なんて、諸君らには釈迦に説法だったかな。
兎に角。
印象は薄いとはいえ、プリズムリバー三姉妹が強大な力を持つこと
は周知の事実であるし、その強大な力が人々を惑わす事は私も知って
いた。彼女たちの音楽が、それ単体では極めて危険であることも。
だから、ヴァイオリンの妖しげな音色が里の境界付近に響くのを聞
いた時。星鼠亭の中で帳簿付けをしていた私は、すぐさま部下達を避
難させ、小傘の仕込みロッドを掴んで朝空の下へ飛び出したのだっ
た。ヴァイオリンなどというハイカラな楽器を引くのは、この幻想郷
ではプリズムリバー三姉妹しか居ないだろうから。
ヴ ァ イ オ リ ン の 音 色 は 里 の 外 の す ぐ 近 く で 奏 で ら れ て い る よ う
だった。私は仕込みロッドを前面に構えながら、物陰を通って音の発
信源へと近づいた。
210
?
そのうち、ヴァイオリンの幽玄なる音色はトランペットの勇壮なる
音色に変わった。姉妹が来ているのだろうか。私は精神を掻き乱す
妖しい音色に負けぬよう耳を塞いでいたのだが、やがて気付いた少々
の違和感によって、その試みは無意味であると悟った。
奏でられている音色が、幾度か聞いたプリズムリバー楽団の音色と
は異なっていたのである。思い返してみれば、先程のヴァイオリンの
音も違っていた気がする。別の誰かだろうか、いやしかし、それにし
てはこの音色は美しすぎる⋮⋮。
そんな自問に囚われていた私は、いつの間にか警戒心を幻想の中へ
と置いて来てしまったのか、音の主の前へと無防備にも飛び出てし
まった。
﹁あれ。貴女は確か⋮⋮﹂
切り株に腰かけてトランペットを吹いていた少女が、小鳥のように
小 首 を か し げ て 私 を 見 つ め て い る。白 い ブ ラ ウ ス に 赤 い ベ ス ト と
211
キュロット、頭には流星のマークの付いた赤い帽子を被っている。プ
リズムリバー楽団で赤をシンボルカラーにしているのは、末妹のリリ
カ・プリズムリバーだ。
私は辺りを見回したが、リリカの他の姉妹は来ていないようだ。い
つも三人一緒にいると聞いていたのだが。よく見ると、リリカの小さ
な体の後ろにはヴァイオリンとキーボードが重ねて置いてある。演
奏していたのはリリカだったようだ。
﹁器用だな。種類の違う楽器を三つも扱えるとは。しかも腕前も一流
だ﹂
純粋な敬意を抱いて言った。言ってから、挨拶もしていなかった事
に気付く。今日の私はなんだか抜けている。
私 に 弾 け な い 楽 器 な ん て 無 い の よ。ギ
不躾な賞賛にリリカは目をしばたかせたが、やがて満面の笑みを
作った。
﹁そ う よ、偉 い で し ょ ∼
帽子を揺らし、リリカは得意げにトランペットを鳴らした。
なんでもござれなのよ∼﹂
ターやお琴、ドラムにサックスは勿論、ブブゼラにテルミンだって。
?
﹁それはすごい。まるで一人音楽団だな﹂
﹂
テルミンなんてマイナーかつナイーブな楽器まで使えるとは、プリ
ズムリバー恐るべし。
﹁貴女、命蓮寺で見かけた事があるわ。確か、ナズーリン、だっけ
リリカから害意を感じとれなかったので、私は仕込みロッドを降ろ
した。
﹁ああ。私は毘沙門天の使者、ナズーリン﹂
﹁いつもと違う格好ね。妖怪ってのはイメージが大事だから、いつも
同じ格好をしてるって聞いてたけど﹂
﹁所用でね。君はプリズムリバー楽団のリリカだな。こんなところで
何を⋮⋮﹂
私が言いかけた時、背後から声が上がった。
﹁あれー、なんだよ、ゲリラライブかと思って急いで来てみたのに
やってないじゃん﹂
﹂
銀色の小さなトランペットを手にした年端の行かない少年が、口を
尖らせていた。
﹁メルランちゃんはいないの
いちゃうよー﹂
嬉しそうにキーボードを取り出すリリカ。
だが少年は、
﹁別にいいよ、メルランちゃんがいないなら﹂
つっけんどんにそう言い放った。
どうやら少年はプリズムリバー楽団の次女、メルランのファンらし
い。メルランは楽団の花形であり、ファンも一番多いと言う。握った
銀色のトランペットは、おそらくファングッズだろう。
流石にムッとしたのか、リリカは眉をひそめた。
聞いてく
﹂
212
?
!
﹁別にライブやってたわけじゃないけど。でもお客さんが来たなら弾
?
﹁姉さん達は来てないわ。今日は私だけ。でも私のソロ曲だってある
のよ
?
少年はけだるそうに手を振った。なんとも棘のある態度だ。
﹁いいって﹂
?
﹁何
私の演奏は聞けないってワケ
﹂
?
﹂
﹁何よ、ちんちくりんって。あんただってそんな変わらないじゃない
﹁ちんちくりんのリリカの曲なんて聞いてもなぁ﹂
?
﹁まあ、まあ﹂
リリカが激昂し始めたので、私は割って入った。プリズムリバー楽
団は人間に友好的と言えど、歴とした妖である。しかも察するとこ
ろ、リリカの精神年齢は見た目相応に低いようだ。感情に呑まれて何
を仕出かすか、分かったものではない。
﹁今日は楽団の演奏は無いようだ。里の外れは危険だぞ。今は神隠し
も起こっているんだ、君は早く家に帰れ﹂
私は手を振って少年を追い払った。
リリカは大きく溜息を吐いて、トランペットを不満げに鳴らした。
﹁リリカ、こんな里の近くで演奏されては困るな、しかも単独では。君
達の音楽が人間には強すぎる事、知っているだろう﹂
﹁私の音じゃあ、姉さん達の音みたいに躁鬱になったりしないわ。別
に大丈夫よ﹂
﹁そういう問題じゃあない﹂
仮に人の精神に及ぼす影響が皆無であったとしても、その音色は霊
気を帯びているのである。一般人にとって危険な事に変わりは無い
のだ。たまのコンサートでならまだしも、年がら年中耳にしていては
精神に変調をきたしかねない。
﹁うるさい小鼠ねー﹂
﹂
ぷくっと膨れるリリカ。それでも一応、トランペットを置いた。聞
き分けは悪くないようだ。
﹁何故、こんな所で演奏を
﹂
今、人 里 で 有 名 な 探 偵 が い る ら し い じ ゃ な い。ほ
ら、なんて言ったっけ。マサイ探偵⋮⋮いや、ジェダイ探偵だっけ
事あるでしょ
﹁何故って、そりゃ、用があったからよ。人に会いにね。貴女も聞いた
私が問うと、リリカはだるそうに伸びをしながら答えた。
?
⋮⋮なんか強そうだな、それ。
?
?
213
!
﹁死体探偵か
﹂
﹂
?
﹂
なんで貴女に⋮⋮あ﹂ポンと手を打って、今更気づいたよう
らっぽく笑った。
?
﹁何かあったの
メルラン﹂
ると、妹のメルランは物憂げに溜息を吐いた。
窓辺で愛用のヴァイオリンを磨きながらルナサが知らないと答え
﹁姉さん姉さん。リリカ、何処に行ったか知らない
﹂
よくあるブタを象った貯金箱を抱えて、リリカはニヤリといたず
﹁まあ、そんなとこよ﹂
﹁もう思い出したのか﹂
﹁じゃあ依頼するわ﹂
﹁へ ー ⋮⋮﹂リ リ カ は 不 躾 に 私 を ジ ロ ジ ロ と 眺 め、そ し て 頷 い た。
﹁死体探偵な﹂
だ。﹁貴女が例のジェダイ探偵
﹁は
い出したらまた来てくれ。私はこの先の小屋にいる﹂
﹁ここで演奏していると博麗の巫女に退治されてしまうぞ。依頼を思
いだな。
幽霊⋮⋮いや騒霊か、その癖にド忘れするなんて、まるで人間みた
﹁なんだいそりゃ。耄碌するにはまだ早いぞ﹂
も弾いてようかなって思ってさ﹂
覚えてたんだけど、コロっとド忘れしちゃって。思い出すまで楽器で
﹁それがねー﹂リリカはちょっと自嘲気味に笑った。﹁里に着くまでは
﹁何を頼むつもりなんだ
小鳥のように頷くリリカ。なるほど、私に用があった訳か。
﹁あー、それそれ﹂
?
末妹のリリカは調子のいい所がある。面倒な事は他人任せで、自分
﹁きっとあのお金を使って、里で遊ぶつもりね﹂
﹁まあ⋮⋮﹂
貯金箱を﹂
﹁いやね。リリカが貯金箱を持ち出したみたいなのよ、あのブタさん
?
214
?
?
はおいしいところだけ持って行こうとする困った性格なのだ。その
リリカならばやりかねない。
﹁まったく、人のものを勝手に取るなんて⋮⋮帰ってきたらたっぷり
お説教してやってよね、姉さん﹂
﹁そうね﹂
﹁本当、許せないわ。追加でお尻百叩きの刑にしてやって、姉さん﹂
﹁まあ⋮⋮そんな感じで﹂
﹁おゆはんだって抜きにしてやるんだから。姉さん、今日はリリカの
分は作らなくていいからね﹂
メルランはプリプリと怒っている。
と言うか。
﹁なんでメルランが怒ってるの﹂
ブタさん貯金箱はルナサの持ち物なのだが。お金だって全部ルナ
サのお小遣いである。リリカはもちろん、メルランだってビタ一文
215
払ってない。
﹁そりゃあ怒るわよ﹂当然、と言った顔で、メルラン。﹁私もいただこ
うと思ってたんだもん、あの貯金箱の中身﹂
ルナサはギィとヴァイオリンを弾いた。ルナサの音色には気分を
鎮静化させる効果がある。まったく、なんて便利な音色なのだろう
か。これで愛する妹に手を上げなくて済む。
そう。ルナサの家庭内円満の秘訣とは。
﹁⋮⋮鬱よね﹂
﹁本当、私まで鬱になっちゃいそう﹂どの口が言うのか、溜息混じりに。
﹁まったく、リリカには参っちゃうわよねー、姉さん﹂
麗らかな窓辺でヴァイオリンの音色に心を鎮めつつ、ルナサは妹達
の行く末について思い巡らしていた。
とりあえず二人とも、今日はおゆはん抜きだ。
まいったな。
もっと笑って
いつものことだが、安請け合いしてしまったかなぁ。
﹁ちょっと、ナズーリン。笑顔が引きつってるわよ
?
笑って
﹂
﹁⋮⋮まったく﹂
私は引きつった笑顔を晒しながら、ビラをばら撒いた。里の目抜き
通りである。お祭り好きの暇人達がなんだなんだと押し寄せて、すぐ
に黒山の人だかりが出来た。
﹁ナズナズ、そうかっかせずに。この様な仕事も、我々の大事な役目で
しょう﹂
毘沙門天スタイルの星は動じた風も無く、いつものニコニコ顔で
寄って来る人々にビラを手渡している。
﹁すまんな、忙しいのに付き合わせてしまって﹂
﹁いえいえ。割と好きなんですよ、こういうの﹂
そう言ってニコニコ笑う。まったく、星はお人好しだ。
星がいるので、私もいつもの格好に戻っていた。命蓮寺のご本尊で
みん
ある星と悪名名高き死体探偵、その間に繋がりを作りたくはない。
﹂
﹁はーい、プリズムリバー楽団の秋ライブのお知らせだよ∼
な来てね∼
!
﹁メルランちゃんも来る
﹂
を見つけた私は、彼にもビラを手渡した。
そうこうしているうちに、人混みの中であのメルランファンの少年
上げている。
その小さな身体の何処からそんな声が出るのか、リリカは声を張り
!
﹁あーん、もっと刷ってくれば良かった﹂
里を回る途中でビラはすぐに捌けてしまった。
立っているだけで人を惹きつける魅力が星にはある。効果は抜群で、
ま さ に 聴 衆 で あ ろ う。勿 論 そ ん な 事 に 力 は 使 わ な い だ ろ う 星 だ が、
集める力を利用しようと言うらしい。リリカ達にとっての財宝とは、
ビラ配りに星を呼べと言い出したのは、リリカである。星の財宝を
で見ていなかったが。
少年はビラに描かれたメルランばかり見つめて、リリカの方はまる
﹁ふーん⋮⋮﹂
﹁そりゃね。でも、リリカも頑張ってるぞ﹂
?
216
!
リリカはニコニコ笑顔で言う。嬉しい悲鳴と言った所か。
﹁しかし宣伝は十分だろう。後は天狗の新聞にでも広告を出しておけ
ば﹂
﹁そうね﹂リリカは星にペコリとお辞儀をする。﹁星さんありがとうご
ざいました。またお願いしますね∼﹂
﹁こんな事で良ければ、いつでもどうぞ﹂
お人好しの星は笑顔で去っていった。毘沙門天代理の政務やらで
忙しいだろうに、無理を言ってしまったかな。
﹁さて、次は﹂
﹁えっ、まだやるのかい﹂
腕まくりして意気込むリリカに、私の方が引けてしまう。
﹂
﹁そりゃ当然よ。あのね。ライブの準備ってのは、やらなきゃならな
い事がいっぱいあるんだから。まだまだやる事山積みよ
﹁はいはい﹂
姉さん達のピーキーな
あんなの日常茶飯事。でも
依頼を受けた以上は私も文句ばかり言っている訳にはいかないの
だが、そうは言っても⋮⋮である。
リリカの依頼は、
﹁あの男の子の言い草、聞いたでしょ
ね、私ってば、実はめちゃくちゃ偉いのよ
最近は私メインでやってるし、ステージで一番派手な動きしてるのも
私。私の作曲した曲だって姉さん達に負けないくらいあるの。最近
そ
なら、ファツィオーリの冥奏とか、二度目の風葬って曲とか⋮⋮あれ
なんて大変だったんだから、幻想郷中の音を集めて作ったのよ
れなのに、ファンときたらメルラン姉さんかルナサ姉さんばっかり
て、私の偉さをみんなに知らしめるのよーッ
⋮⋮らしい。
﹂
さん達を、ファンのみんなを 今度の新しいライブを大成功させ
私がちょっと体小さいからって⋮⋮。私、見返してやりたいの。姉
!
?
217
?
音を聴きやすくまろやかにしてるのは私だし。ライブの演出だって
?
?
とか、私はショービジネスには疎い
!
!
?
とか、色々言いたい事はあるのだが。それ以上に、死体探し以
正直、それ探偵に頼む事か
ぞ
?
外で頼られたのなら乗らない訳にはいかないのだ、私は。
しかし専門外の私に出来る事。それは、私の人脈を紹介するくらい
しか無い。
﹁貴女が多々良小傘さんね。超一流の鍛冶屋だっていう﹂
﹁超一流だなんてそんな、ちょっと完璧なだけで⋮⋮エヘヘ﹂
リリカのお世辞に、小傘はもじもじと照れ笑いした。デロンデロン
だな、まったく、小傘は調子に乗りやすい。
﹁今度のライブにでっかい金管楽器を象徴的に使いたくて。その制作
をお願いしたいんだけど﹂
﹁エ、楽器。わちき、楽器なんて作った事無いけど⋮⋮﹂
﹂
﹁大丈夫よ、元になる楽器なら渡すし。それに超一流なんだから出来
るでしょ
小傘が冷や汗を流している。完璧と言った手前、断るに断れないの
だ ろ う。だ が 私 は 助 け 舟 を 出 さ な か っ た。確 信 し て い る か ら だ。ど
うせ小傘ならなんとかしてしまうに決まっている。
リリカについて回る内に気付いたのだが、どうやらリリカには人を
使う才能があるようだ。
貴女の隠れた庭師としての才能、私が買うわ
﹂
﹁ナ ズ ー リ ン に 言 わ れ て 気 づ い た わ。妖 夢、貴 女 に 隠 れ た 才 能 が あ
るって事をね
!
くゥ
﹂
存分に発揮しましょう
ってことでライブ会場のデザイン、よろし
もれさせるには勿体無いわ。私達とコラボして、その隠された才能を
﹁こんなにも素晴らしい才能がある事、何故黙っていたのよ、妖夢。埋
て名乗ってるんですけど﹂
﹁あの、リリカさん。私、別に隠してませんけど。むしろ堂々と庭師っ
!
!
時に礼儀正しく、時に人を調子に乗せて、時に有無を言わさずゴリ
押しで。人に合わせて臨機応変に交渉の仕方を変えている。お調子
者の三女とはよく言ったものだ。調子者は調子者でも、調子に乗せる
側みたいだな。私も見習いたいものだと思う。交渉力然り、演奏力然
り、リリカ・プリズムリバーは物事のバランス感覚に非常に優れてい
218
?
﹁別に隠してないのに⋮︰⋮﹂
!
た。
﹁しかし、君﹂
﹁何よ、ナズーリン﹂
﹁こんなに人を使って、予算の方は大丈夫なのか
⋮⋮こんな貯金箱で本当に足りるのか
﹂
なんとも不安だ。
ブタを象った貯金箱をポンと誇らしげに叩くリリカだが。
﹁そりゃあ大丈夫よ、なんてったってこの貯金箱があるんだから﹂
?
な﹂
あれ、そのマーク⋮⋮﹂
﹁いやいや、そんなことないですよ
﹂
﹁おい⋮⋮それまさか、ルナサに無断で持ち出したんじゃないだろう
プリズムリバーで月と言えば、長女のルナサである。
だ。リリカのマークは流星であり、月はリリカのシンボルではない。
貯金箱をよく見ると、ブタの額に三日月のマークが入っていたの
リリカは慌てて身を捩り隠したが、私は見逃さなかった。
﹁あ、やば﹂
﹁ん
﹁だ、ダメよ。これは大切な軍資金なんだから﹂
と﹂
﹁ち ょ っ と 見 せ て お く れ よ。ど れ く ら い 入 っ て る か 知 っ て お か な い
?
じゃん
﹂
﹁な、なんでよ、ナズーリンにはちゃんとお金払うんだから、別にいい
﹁ルナサ達に謝りに行こう﹂
私はリリカの手を掴んだ。
で上手くなくていいのに。
まったく。人を使うのが上手いのはいいにしても、そんなところま
そっぽを向いて口笛吹くなんて、古典的な奴。
?
﹁い、嫌よっ、私は姉さん達を見返したいの
﹂
事ってのは真っ当なお金を使ってやるもんだ。行くぞ﹂
﹁馬 鹿 言 え。そ ん な 出 処 の 怪 し い 金、受 け 取 れ る か い。真 っ 当 な 仕
とは出来ない。
リリカは身をよじって抵抗したが、そんな力では私を振りほどくこ
!
!
219
?
見返す、ねぇ。本当にそんな必要があるのか、疑問だがな。
﹁とにかく、駄目だ﹂
駄々をこねるリリカを引きずって、私はプリズムリバー邸へとやっ
てきた。
プリズムリバー邸は霧の湖近くの林の中に建っている。あの悪魔
の館・紅魔館も近く、木々の間に赤い時計塔が頭を覗かせているのが
ここからでも見えた。
元々、さる貴族の屋敷だったというだけあり、窓の多い大きな四階
建ての白い洋館は伝統と威厳に溢れていた。かなり古びているよう
だが、リリカ達が補修しているのだろうか、窓や壁の所々に素人工事
の跡が見て取れる。泣く子も黙る幽霊屋敷、いや騒霊屋敷だと言うの
に、なんとも生活感に溢れているな。
金属製のノッカーを叩くと、コツコツと小気味よい音が響いて、陰
気な顔をした金髪の女が顔を出した。同時に溢れ出すトランペット
屋敷内も相応に古びていて、床など私が足を出すたびにギィギィ
鳴ったが、掃除は行き届いていて清潔感があった。家具や調度品もそ
れぞれ年季が入っている。例えばテーブル上にある銀製の燭台など、
重ねてきた歴史を感じさせる色艶である。毎日磨いて大事に使わな
220
の音。どうやらこの屋敷、防音対策は完璧なようだ。
﹁あら。貴女はたしか﹂
⋮⋮って、一つしか無いわね﹂
﹁毘沙門天の使者、ナズーリンだ﹂
﹁使者さんが何の御用
!
溜息を吐いた。
﹁とりあえず、中へどうぞ。メルラーン、お客様よー
﹂
練習は中止
ルナサは妹のリリカが抱えているブタの貯金箱に目をやると、深く
好だが、この陰気さは間違いない。
の黒いドレスではなく、白いTシャツにホットパンツというラフな格
陰気な顔をした女はルナサ・プリズムリバーだな。トレードマーク
﹁理解が早くて助かるよ﹂
?
ルナサは屋敷内へ向かって叫ぶと、私達を中へ案内してくれた。
!
ければ、あんな光沢は出せまい。付喪神の小傘などが見たら小躍りし
て喜ぶだろうな。
通りがかった階段の踊り場では、金色のトランペットを手にした女
がくるくると踊っている。次女のメルランだろう。階下の私に気付
くと、にこやかに手を振った。流石、一番人気なだけある。まるで外
界の芸能人みたいな応対だ。私はと言えば、ちょっと会釈を返すくら
いしか出来ない。
ルナサは私に応接室のソファを勧めると、自分はその向かいに座っ
た。
﹁その貯金箱を返しに来てくれたのかしら。すみません、わざわざ﹂ル
ナサは私に頭を下げて来た。﹁この子、調子のいい所があって。ご迷
惑おかけしたんじゃないかしら﹂
﹁いえ。それほどでも﹂
まあ、私にとっては仕事だしな。
﹂
221
﹁リリカ、よかったわね。おゆはん抜きはギリギリ回避よ﹂
ボソリと言う。ルナサは陰気だが、きっちりリーダーしているらし
い。
﹁さ、それを返して頂戴、リリカ﹂
リリカはイヤイヤと首を振ったが、笑っても暗いルナサである。差
し伸べられた手と浮かべられた笑顔に何とも言えぬ迫力があり、結
局、リリカは貯金箱を差し出した。
﹁せっかく新しいライブやろうと思ったのにー⋮⋮﹂
口を尖らせて多分に不満気ではあるが。
﹂
差し出した貯金箱をルナサが掴んだ時、私もその端に手をやった。
﹁何のつもり
﹁リリカに
その金に使い道が無いのなら、リリカに使わせてやってくれないか﹂
﹁その金を貰う立場の私が言うと少し胡散臭いかもしれないが。もし
仕草だ。
ルナサが小鳥のように小首を傾げている。流石姉妹、リリカと同じ
?
﹁彼女の仕事振りを見ていたが、大したものだよ。君もとっくに気付
?
いていると思うが、姉の欲目でない事は私が保証しよう。次の演奏会
はきっと成功すると思う﹂
リリカを見やると、ポッと顔を赤らめている。あれだけ自分の偉さ
を強調していたと言うのに、いざ褒められると照れるらしい。
﹂
ルナサはしばらくリリカと貯金箱を見比べていた。迷う、と言うよ
りは、何かを確かめるように。
﹁リリカ。このお金で貴女、何をするつもりなの
ルナサの問に、リリカは胸を張って答えた。
﹂
﹁げげっ、な、何故それを
﹂
﹁そう。リリカ最近、作詞もしてるもんね﹂
なきゃダメじゃない
もっと賑やかで楽しく。そうある為には、いつでも新しい事に挑戦し
バ ル も 増 え て き た し、私 達 も こ の ま ま じ ゃ ダ メ だ わ。騒 霊 ら し く、
﹁そりゃ、新しい事よ。最近は鳥獣戯楽とか九十九姉妹だとかのライ
?
﹁⋮⋮うん。だけど、貴女が言ってくれなきゃ、ああはならなかった
﹁姉さんに、だろう﹂
﹁貴女に借りを作っちゃったわね、まったく﹂
をしながら言った。
ルナサとメルランに礼を言って屋敷を出ると、リリカは大きく伸び
だろう。ルナサも何も言わなかった。
最後の言葉で目が宙に泳いでいたが⋮⋮まあ、今はそれでもいいの
﹁そ、そうね﹂
﹁だけど次からは、自分のお金でやるのよ﹂
﹁あ、ありがと⋮⋮ルナサ姉さん﹂
﹁ま、やってみなさい﹂
ルナサは立ち上がり、貯金箱をリリカに手渡した。
面があるものだ。陰気で根暗だなんて、他人のレッテルに過ぎない。
来る人なのだなと、私は妙に感心してしまった。どんな人にも様々な
慌てるリリカを見て、ルナサは朗らかに笑った。こういう笑いも出
﹁リリカの事なんかお見通しよ﹂
!
わ。私なんて、半人前だから﹂
222
?
リリカは自慢のキーボードを強く抱きしめている。己の拠り所を
求めるように。
どうも、リリカは己を低く見る傾向があるようだ。普段から自分の
功績を誇らしげに喧伝しているのは、自信の無さの裏返しという訳
か。なんとも、少女である。
しかしルナサもメルランも、きっとリリカを認めているに違いな
い。だからこそ、ルナサはリリカに貯金を託したのだろう。部外者の
私の言葉など、ただの切っ掛けに過ぎない。
リリカならばもっと大きな仕事が出来るのではないか。彼女の仕
事振りを見て、単純な私などはそう考えてしまうのだが。
﹂
﹁なあ、君。そういえば作詞もしてるんだろう。なら、曲に歌を乗せて
みたらどうだ
私の提案に、リリカは渋い顔をした。
﹁いい案だけど。でも、歌手がねぇ。私達は演奏したいし﹂
﹁鳥獣戯楽なら紹介してやれるぞ﹂
鳥獣戯楽のメンバー、幽谷響子は我が命蓮寺の門徒だからな。
ありえないわー﹂
だがリリカは素っ頓狂な声を上げた。
﹁何言ってんの、商売敵じゃない
曲に乗せてお歌を歌いたい、って﹂
﹁え、そ、そうなんだ⋮⋮なら別に、それでもいいけど⋮⋮む
﹂
﹁でも、響子はいつも言ってるぞ。プリズムリバーの曲が好きだ、あの
!
を打った。
﹁そうよ、それよー
﹂
ペットやらヴァイオリンなどから音が鳴り響いている。流石騒霊、喧
リリカの興奮を反映するように、リリカのキーボードやらトラン
﹁落ち着けリリカ、音漏れしてるぞ﹂
れは行けるわ
﹁上手く行けば向こうのファンもこっちに引き込めるし⋮⋮うん、こ
﹁お、おう﹂
﹂
ライ
!
バル同士のセッション、この展開に燃えないファンはいないわ
ありえない組み合わせ、合同ライブよ
リリカは一瞬、難しい顔をしたかと思うと、パッと顔を明るくし、手
?
!
!
223
?
!
しい。
リリカはくるりと回ってウインクすると、
﹁そうと決まったら、プランの練り直ししなきゃ。私、妖夢とか小傘さ
んとかと相談して来るわ。貴女は鳥獣戯楽との出演交渉、お願いね﹂
言うなり、駆け出して行ってしまった。
やれやれ。しかしああいう情熱が、人を動かす原動力なのかもしれ
ない。現に私も今、あの情熱に呑まれているから。
私は命蓮寺へ戻る前に、ふと思い立って里へと向かった。
変装をして寺子屋に向かったが、子供達は既に帰宅していたよう
だ。頻発する神隠しのせいで、最近は寺子屋の授業も圧縮されている
という。
当てが外れた私がぶらぶらと歩きまわっていると、川縁でトラン
ペットの音を耳にした。それはたどたどしく、プリズムリバー姉妹の
演奏ではない事はすぐに分かった。
﹂
の前のライブで初めて聞いて、俺、いっぺんで好きになっちゃった。
とってもかっこいいんだよ﹂
好きなメルランの話題になると途端に饒舌である。現金な奴だな、
224
音を頼りに探すと、あのメルランファンの少年を見つけた。少年は
川縁に座り、トランペットの練習をしていた。
﹁やあ﹂
﹂
私が声をかけると、少年はトランペットを置き、座ったまま鬱陶し
そうな顔を振り向けた。
﹁邪魔してすまんな﹂
﹁あんたは今朝の。俺に何か用
﹁さっきの曲は、メルランの
少年は興味無さげに銀色のトランペットを磨いている。
﹁へぇ。そう﹂
﹁構成はリリカがやるそうだ﹂
﹁知ってる。さっきビラ配りしてたし﹂
﹁今度、プリズムリバー楽団の演奏会をやるみたいだぞ﹂
?
﹁うん、そう。メルランちゃんの曲で、二度目の風葬っていうんだ。こ
?
まったく。
﹁それ、作曲したのはリリカだぞ﹂
﹁えっ﹂
動揺したのか、少年は私を見上げた。
﹁リリカが幻想郷中から音を集めて作った曲だそうだ﹂
﹁そ、そうなんだ﹂
揺れる瞳の奥に、少々の罪悪感が見える。少年もリリカに言い過ぎ
たと思っていたのだろう。
﹁私は音楽には通じていないが、これだけは言えるな。ルナサの音、メ
ルランの音、リリカの音。どれが欠けても、プリズムリバーじゃなく
なるんだ、きっと﹂
少年はポリポリと頭を掻くと、トランペットを構えた。
相変わらず下手くそな演奏だったが、その音には情熱がこもってい
た。曲を愛する情熱が。
﹂
ホラ、あのウサギさんの﹂
﹁自分で貯めて買いなさいな。馬鹿な事言ってないでさっさと準備し
て。今日は忙しいんだから﹂
今日は公開リハーサルの日だ。これから観客を入れて、鳥獣戯楽と
の音合わせがある。鳥獣戯楽のメンバーは個性が強いので、ルナサ達
も負けてはいられないのだ。
リリカは仮設のステージ上を飛び回って、方々に指示を出してい
る。ライブを成功させようと張り切っているのだ。昔の自分もあん
な感じだったのだろうかなどと考えて、ルナサは少し懐古の念に駆ら
れていた。
225
音楽は人種や国境を越えると言う。人妖の境など、越えられないは
ずがないだろう。
﹁姉さん姉さん、あの貯金箱知らない
る
﹁メルラン、まだ反省し足りないみたいね。今日もおゆはん抜きにす
愛用のヴァイオリンを磨きながら、ルナサは大きく溜息を吐いた。
?
﹁だ、だってぇ、次のライブ用に新しいドレスが欲しいんだもの∼﹂
?
﹁姉さん、何ニヤニヤしてんの﹂
メルランが顔を覗き込んで来たので、ルナサは少し慌てた。
﹁別にニヤニヤなんかしてないわよ﹂
﹁へー。ほー⋮⋮﹂ニヤニヤしてるのはお前のほうだろ、なんて突っ込
み た く な る よ う な ム カ つ く 顏 で あ る。﹁姉 さ ん は リ リ カ に 甘 い の
ねぇ。折角貯めたブタさん貯金箱を取られちゃったってのに、そんな
に嬉しそうにしてさ﹂
﹁メルランだって嬉しそうじゃないの﹂
テヘヘ、とメルランは頭を掻いた。
妹の活躍を喜ばぬ姉などいる訳がない。
﹁それにブタさんがやられた所で大した事はないわ。所詮、奴は四天
あの子、私のファンの子だよ。公開リハまで見に来てくれる
王の中でも最弱⋮⋮﹂
﹁あ
なんて∼﹂
メルランの指差した方には、リリカとナズーリンと、銀色のトラン
ペットを手にした見覚えのある少年がいる。いつも無料ライブの時
にだけやって来て、最前列に陣取る名物少年だ。
少年が何事か言っている。
リリカが少し赤くなった。
ああ、そうかとルナサは思う。リリカの情熱がまた一つ、人の心を
動かしたのだと。
メルランがスキップしながら近づいて行って、何事か話している。
﹂
不意にくるりと振り向くと、ルナサに向かって手招きした。
﹁どうしたの
私 達 の マ ス コ ッ ト が 付 い た ス ト
?
メルランはそのままそれを少年の手の中に押し込んだ。
トラップを外して、メルランに渡した。
ルナサは自分のヴァイオリンから三姉妹のマスコットが付いたス
﹁いいけど⋮⋮﹂
ラップ。貸して﹂
﹁姉 さ ん、あ れ 持 っ て る で し ょ
ルナサが近づくと、メルランは手を差し出してきた。
?
226
!
﹁はい。いつも来てくれてるから、お・れ・い。貴方だけに特別よ
これからもよろしくね﹂
今思い付いたんだけど﹂
も一緒にセッションしてみない
﹂
﹁どうせ鳥獣戯楽とセッションするなら、最近出てきた九十九姉妹と
リリカが手を叩いた。
﹁あ
どうでもよくなり、ルナサも一緒になって笑ってしまった。
たくなったが、リリカとメルランが楽しそうに笑う姿を見て、すぐに
た。長女はいつも貧乏くじを引かされる。やってられないとぼやき
それ私のなんだけど⋮⋮なんて、とても言える雰囲気ではなかっ
震えた。皆、声を上げて笑った。
メルランの笑顔に悩殺された少年が、耳まで真っ赤にしてぶるぶる
?
じゃないか
小傘と妖夢が泣くぞ﹂
﹁おいおい、今からプランを変えるのかよ。それはちょっと厳しいん
音楽家としては魅力的な提案だったが、
?
﹂
と、公開リハに間に合わないわよ
﹁しかも今からかよ
頑張って
?
﹂
﹁それを作って来るのが貴女の仕事でしょ、探偵さん。さあ、急がない
ぞ﹂
﹁大体、二人と面識あるのか、君達は。私は彼女達にコネなんて無い
リリカも譲る気は無いようだ。
﹁大丈夫よ、みんな超一流なんだし。何とかしてくれるわよ﹂
が。
う。
ナズーリンが額に眉して苦言するように、現実的には厳しいだろ
?
!
イオリンの音色を静かにそよ風へと乗せた。
星巡りの悪い小鼠と自分自身へのエールに代えて。ルナサはヴァ
質なのだろう。なんとなく親近感が湧いてしまう。
えた。文句は多いが、人は良いらしい。ルナサと同じく、貧乏くじ体
ぶつくさ文句を言いながらも、ナズーリンはダウジングロッドを構
!
227
!
ミス・トラブルメイカー
妖怪の山の一本杉と言えば、人里でも有名なスポットである。
と言っても、崖に掛かる古典的な縄吊り橋の向こうに、ぽつりと一
本だけ杉の木が立ち尽くしているという単純なもの。他に何がある
訳でもなく、景観に見どころは無い。
では何故有名なのか。
第一に、吊り橋が古びて崩れ落ちそうであり。
第二に、崖の切り込みは深く、落ちたら助からないだろう事が明白
であり。
そして第三に、この場所が天狗達の縄張りに近いからである。
つまり、無鉄砲な男たちの度胸試しのスポットとして有名なのだ。
﹁やあやあ、こんな所で会うとは奇遇ですね。死体探偵さん﹂
嫌な風と共に現れたその女は、己の身軽さを見せつけるように吊り
縄上で爪先立ちし、私を見下して来た。古風な頭襟とハイカラなミニ
スカートのミスマッチがなんとも言えぬ存在感を醸し出す。⋮⋮い
つも思うのだが、なんであのミニスカートは捲れたりしないんだろ
う、年中無休で空中を縦横無尽に飛び回っているくせに。
不安定な橋の上で、私は一歩下がって小傘の仕込みロッドを構え
た。
﹁何の用だ﹂
﹁つれませんねぇ。そのような物言いは己の徳を下げるだけですよ﹂
﹁取り繕う事が徳ではあるまい﹂
﹁連れない態度も徳とは呼びません﹂
﹁なら、連れる態度が徳というわけでもないな﹂
﹁ああ言えばこう言う﹂
﹁それは君の為にある言葉だろう﹂
無駄口、減らず口、憎まれ口筆頭のこの女にだけは言われたくない。
射命丸文。
この幻想郷にひしめく妖怪達の中でも頭抜けた力を持つ、恐るべき
228
大妖怪である。手にした楓の団扇を一振りすれば空を割り、飛翔する
是非独占取材させて下さい
﹂
もし
だけで台風が起こるとも言われる。その力を知る古き妖怪達は、畏れ
を込めて彼女をこう呼ぶと言う。千年天狗と。
お相手は
﹁こんな辺鄙な一本杉まで来て、今日は一体何の御用ですか
や、逢い引きですか
!
?
﹁捏造
それは聞き捨てなりませんね﹂私の苦言に、射命丸は眉根を
﹁また捏造するつもりか﹂
命丸文はそういう女だった。
まわっているのである。幻想郷でこれ以上ふざけた奴もいまい。射
は治めても当然の大妖怪が。然るべき地位に就かずに、ふらふら遊び
幻想郷最強に近い恐るべき千年天狗が、世が世なら国の三つや四つ
は伊達ではない。最も迷惑な天狗の異名も、伊達ではない。
ら事件のネタを作り出す事もあると言う。里に最も近い天狗の異名
装して里に入り込み、人間の噂話を集めて新聞を作るのだ。時には自
ない。彼女は悪名名高き天狗の新聞﹃文々。新聞﹄の記者である。変
その千年天狗の頭の中がゴシップとスクープ一色なのだから堪ら
?
持。この射命丸文を舐めて貰っては困ります﹂
﹄の記事の事である。
﹁リリカが顔を真っ赤にして怒っていたぞ。事実無根だってな﹂
先日出た﹃プリズムリバー三女、熱愛発覚
まったく。
た ら 実 る も の も 実 ら な く な る だ ろ う が。デ リ カ シ ー の 無 い 女 だ な、
⋮⋮まあ、あやしいとは私も思うけれど。周囲が無遠慮に囃し立て
違えている。
ように解釈しているだけだ。それを真実とは、真実という概念を履き
私はイライラして舌打ちした。奴は言葉尻を捕まえて都合の良い
﹁大体。顔を真っ赤にしたなら、十分脈ありじゃないですか﹂
やると男の子が照れて茹で上がっちまうから、ってな﹂
﹁リリカは姉のファンの子に教えてやってるだけだと言ってる。姉が
方を少年に手取り足取り教えてたら、そら噂にもなりましょうや﹂
﹁そういう噂があるというのは事実でしょうに。トランペットの吹き
!
229
?
寄 せ た。﹁私 は 真 実 し か 報 道 し ま せ ん。そ れ が 私 の 記 者 と し て の 矜
?
﹁記事を書くなら演奏会の事を書いてやればいいのに。今度大きな演
奏会をやるらしいぞ﹂
﹁それはもう書きましたんで。と言うか、そんな事はどうでも良いの
﹂
です。今は貴女の事ですよ、ナズーリンさん。一体ここで、何をして
おいでで
﹂
﹁見て分からないとは耄碌したのか、射命丸。探し物に決まってるだ
ろう﹂
﹁ほうほう。では、何を探しているのですか
口を叩く私も、どうやら捨てたものじゃないようだ。いつも言ってい
圧倒的という言葉では足りぬ程の力量差がある相手を前に減らず
脊髄反射で口にした言葉。
﹁貸しなど作った覚えはない﹂
射命丸の力は、神魔の領域にまで達している。
何と言う事だ。
戦慄が、私の足を一歩引かせた。
どの巨大さ。しかも射命丸には、まだまだ余力があるように見える。
この崖を通り越し、それどころか妖怪の山すら包みこもうというほ
見える。射命丸の戦闘領域が。
この私が、これ迄見た事もないほど速く強力な術。
始める。風の断層が光を屈折させ、周囲の景色がぐにゃりと歪んだ。
の刃が其処彼処に踊った。幾つもの竜巻が発生し、ゴウゴウと咆哮を
団扇を口元にやる。ただそれだけの所作で突風が巻き起こり、真空
﹁貸しは、返していただかないと﹂
俄かに風が出て、吊り橋を激しく揺らす。
突然、射命丸の目が鋭くなった。
﹁それでは困るんですよ、ナズーリン﹂
写真の使用も認めんぞ﹂
﹁今は取材には協力出来ない。探偵には守秘義務があるからな。その
でパシャリと私を撮影して言う。
人を小馬鹿にするようにニヤニヤ笑いながら、首から下げたカメラ
?
るだろう、私は龍にだって噛み付いて見せると。あれは本当さ、暴力
230
?
に屈するほどヤワな私ではない。
私と貴女が交わした報道協定を﹂手にした文化
射命丸も同様に感じたのか、その威容を少し和らげた。
﹁忘れたのですか
帖を開き、パラパラとめくる。﹁死体探偵の正体が貴女であると言う
事実を進んで報道しない代わりに、貴女は私に出来うる限りの情報提
供を行う。その約束の筈﹂
文化帖の一ページを示す。紛れも無い、私の血判が付いた協定書で
ある。
射命丸の幻視を誤魔化す事など出来ない。そう感じた私が、彼女に
申し出て結んだ協定だ。
死体探偵が忌み嫌われるのはいい。私が虐げられるのもいつもの
こ と さ。だ が、命 蓮 寺 に ま で 無 用 な 悪 評 を つ け た く な い。だ か ら 私
は、先んじて射命丸と協定を結んでいたのだ。
﹁その協定に違えたつもりはないぞ﹂
協定を守る事は、命蓮寺を護る事に繋がるのだから。
﹁この前の崩落事故の件。忘れたとは言わせませんよ﹂
⋮⋮あれか。
あの事件では、私を含めた関係者が全員取材拒否をした。
﹁協定違反ではない。私があの事件に関して言及する事は、出来ない
んだ﹂
人間が人間を意図的に妖怪にしていたあの事件。慧音と妹紅、それ
に博麗の巫女が目下捜査中の事案である。情報の流出は避けなけれ
ばならない。
それに、あの事件の真実を知らしめれば、黒谷ヤマメの立場が危う
くなる。ただでさえ忌み嫌われ地底に封印された妖怪、事によって
は、二度と地上へ召喚出来なくなる恐れもある。
そしてもう一つ。
その力量を鑑みれば、射命丸文は賢者達の一員である可能性が高
い。迂闊な情報を与える訳にはいかないのだ。
射命丸は溜め息を吐いて、やれやれと言うように首を振った。
﹁理解していないようですね、ナズーリン。私が納得出来なければ協
231
?
定違反なのです。それは私から貴女への貸しとなる。貸しは取り立
てなければなりません。同様に、借りは必ず返すもの。それがこの世
界の理でしょう。正しい摂理と言うものです。そしてそれこそが、人
と人との信頼を創り出すのです﹂
﹁守秘義務がある。話す事は出来ない﹂
﹁そんな義務など、自然の摂理の前では塵芥に等しい﹂
なるほど。
どうやら、私と射命丸とでは見えている世界が異なるようだ。彼女
にとっては公平な貸し借りこそが最も優先されるべき事柄らしい。
ある意味、彼女は非常に平等だとも言える。
だがしかし、それは余りにも超越的すぎる。
﹁要求はなんだ﹂
仕方無く、私は言った。
射命丸はゆるりと力を抜き、風の乱舞もピタリと止まった。⋮⋮感
﹂
プリズムリバー
232
情で気象を支配するなど、一妖怪の範疇を超えた力である。
﹁借りの返し方は当人の自由ですよ。それこそが個性と呼ばれる事象
ですから。でもまあ参考程度に私が喜ぶ事を言えば、新聞とってくれ
ると嬉しいですね、千部くらい﹂
何言ってんだこいつ。そんなの無理に決まってるだろ。
﹁残念ながら、私は既に姫海棠はたての﹃花果子念報﹄をとっているか
らな﹂
やんわりと拒否する。が、射命丸は途端に苦々しい顔になった。
﹁はたての出鱈目新聞なんて読んでるんですか あんなの読んでた
﹁あ、ああそう﹂
子供でも知ってますよ、まったく﹂
字してる上に、湖の恐竜の正体が河童共のからくりだなんて、人里の
四姉妹がどうのとか、霧の湖に本物の恐竜が出現したとか。盛大に誤
が多すぎです。この前の新聞なんて見ましたか
ら脳が腐りますよ、貴女。あの新聞は誤字脱字、取材不足の大間違い
?
?
﹁知識と教養、品性に品格を身に付けたいなら、私の新聞がお勧めです
よ。どうです
?
﹁家計に余裕があれば、それでもいいんだけどね﹂
ゴシップ新聞より夕餉のチーズのほうがそりゃ大事である。
﹂
﹁では貴女は﹂再び、射命丸の体の周りを風が渦巻き始めた。﹁私への
借りをどうやって返してくれるのです
そう言って、射命丸は団扇を扇いだ。吊り縄の上につま先立ちする
姿は静かな佇まいだが、同時に有無を言わせぬ迫力がある。返答次第
ではここで私を殺すことも辞さない、そういう目をしていた。
さて、困った。
新聞を購読する金なぞ無いし、守秘義務を破ることなど論外であ
る。落盤事件の情報を開示することも出来ない。まさに八方ふさが
りである。
大体、自分の貸し借りの概念を他人に押し付けてくる辺り、射命丸
文は相当な偏屈者である。天狗の中でもとびきりの異端として、腫れ
物を触るように扱われているのも頷ける。射命丸の名を出すだけで
白狼天狗達の目が次々と死んでゆくくらいだ。きっとこの調子で関
係各所に無茶を言って回っているのだろう。
ならば、と私は一計を案じた。
﹁知らないよ、そんなの。私は協定を守っている。君のこだわりなん
て知ったことじゃない﹂
そう言って唾を吐き捨てた。
次の瞬間、目論見通り射命丸が風の刃を飛ばして来た。瞳を開いた
私は、その攻撃を寸前で受け止めた。手加減しているだろうとは言
え、射命丸の攻撃を防ぐなど、小傘のロッド様様である。
攻 撃 の 余 波 で 散 っ た 真 空 の 刃 が 吊 り 縄 を 破 壊 し た。力 の 均 衡 を
失った吊り橋は真っ二つに崩壊し、それぞれの崖面に向かって叩きつ
けられた。
私は飛翔術を使わず、崩落する橋に掴まって、崖面に一緒に叩きつ
けられた。かなりの衝撃を受けたが、何とか橋から落ちずに済んだ。
崖面にへばり付く私は、さぞ情けない姿だったろう。
射命丸が黒い翼を広げ、呆れ顔で近づいて来た。
﹁参った﹂
233
?
開口一番、私はそう言った。
﹁情けないですねぇ、口ばかりですか﹂
﹁返す言葉も無いよ。借りの件は少し、考えさせてくれ、頼む﹂
﹁まったく⋮⋮﹂
情けない私を見て興が削がれたのか、射命丸は溜め息を吐きながら
空へ消えて行った。
私は飛翔術を使って崖下へ降りた。予期した通り、そこには幾つか
の死体が転がっていた。度胸試しでやって来て吊り橋から落ちたか、
妖 怪 に 襲 わ れ て 逃 げ る 途 中 で 足 を 踏 み 外 し た か の ど ち ら か だ ろ う。
残念ながらすべて白骨化していたため、最早エンバーミングの施しよ
うも無い。
部下を呼び寄せ、白骨死体を命蓮寺へと運ばせた。指揮は賢将に任
せ、私は里へと降りる。長くて丈夫な麻縄を幾つか購入し、石工に注
文しておいた地蔵を受け取ると、私は一本杉へ戻った。
234
杉の袂に地蔵を置いて簡単な供養塚を建てる。手を合わせてから、
橋の修復に取り掛かった。飛翔術とロッドの遠隔操作術を駆使し、持
ち上げて固定した橋を麻縄で固く結びつける。また、聖から習った身
体強化術の応用で、崩落の衝撃で破壊された木製の橋板を修復強化し
た。そのまま老朽化していた橋全体も強化する。一人では大変な作
業で、何とか終わった時には日が暮れてしまっていた。
翌朝。変装した私は依頼人の老婆に付き添って、三度一本杉へと向
かった。
修復した橋を渡って、一本杉下の供養塚へ。手を合わせる依頼人の
背には、無念さが滲み出ている。孫をここで失くしたと言う。子孫を
失うという事は、未来を失う事に他ならない。それも度胸試しなどど
いう馬鹿げた遊びが原因では、やりきれないだろう。この供養塚がせ
めてもの慰めになればよいのだが⋮⋮。
キャスケット帽にジャケットで記者姿に変装した射命丸が現れ、無
私の寛容にも限界がありまして﹂
節操に写真を撮り始めたので、依頼人から少し離れた場所に引きずっ
て行った。
﹁貸しの件、如何ですかね
?
ニヤニヤ笑いながらそう言うのである。
この女はわざとやっているのか。空気を読まないにも程があるぞ。
イライラを噛み殺して、私は口を開いた。
命蓮寺の檀家の中で
﹁依頼人に承諾をとった。情報開示しよう。この一本杉で人間達が度
胸試しを行っている事は知っているだろう
犠牲者が出たんだ。だからこの一本杉に供養塚を建てた。二度と同
じ悲劇を繰り返さないために。度胸試しの愚かしさをよく報道して
おいてくれ﹂
﹁ふむ⋮⋮なるほど。まあ、いいでしょう。ネタとしては少し足りま
せんが、私は寛容ですからね﹂
文花帖にメモしながら、射命丸はずけずけと言う。
﹁しかし、昨日壊したはずの橋がいつの間にか直っていますねぇ﹂
射命丸が不思議そうに吊り橋を眺めている。
﹁私が修復したんだ。君の新聞で報道があれば、他の犠牲者の家族も
供養に来たがるだろうからな。その時に橋が無ければ困るだろう
君の新聞の信憑性も疑われてしまう﹂
﹁⋮⋮む﹂
﹁貸し一つだな﹂
射命丸は苦い顔で舌打ちをした。
たこと、里の人間の自由な通行を認める条約を制定したことを伝える
さらに、人里から一本杉に向かう通行路が白狼天狗の監視下に入っ
立つ死体探偵姿の私の写真。
後日、
﹃文々。新聞﹄に記事が載った。事件のあらましと、一本杉に
﹁貴女とはぜひとも、対等な関係でいたいものです﹂
みとは違って、爽やかだった。
そう言って笑う。その笑顔は今までの人を小馬鹿にするような笑
が、この私に一杯食わせるとは、いやはや﹂
でも、気に入りましたよ。ただの酔狂な弱小妖怪だと思っていました
﹁侮れないですね。さすがは毘沙門天の使者と言ったところですか。
?
速報。天狗たちの監視下に入ったことで、有象無象達の被害は激減す
るだろう。供養塚までの安全な道が確保されたわけである。
235
?
拘るだけあって、借りはきっちりと返す女らしい、射命丸文は。良
くも悪くも、自分のルールを曲げない奴である。
236
﹂
なんとか言ってやってよ、ナズー
ユー・メイク・ミー・ハッピー
﹂
﹁まったく、メルラン姉さんてば
リン
ないのか。
って言うかなんでここで喧嘩を始めるんだよ、他所でやってくれ
いくら言っても聞きやしない。なんだこれは、新手のイジメか。
﹂
﹁あんたこの前、私のプリン勝手に食べたでしょ
﹂
﹁姉さんだって私のチョコレート食べたじゃない
﹂
!
﹁ケツでか万年便秘女
﹂
﹁この貧乳ぺたんこちび娘
﹂
以来だ、まったく、今日は厄日である。嵐よ、早く過ぎてくれ。
被って固く目を閉じているしかなかった。こんなに厄介なのは早苗
このめくるめくプリズムリバー・タイフーンの前に、私は座布団を
﹁頼むから他所でやってくれ⋮⋮﹂
!
﹁姉だからって、妹を思い通りに出来るなんて思わないでよね
うとしてさ。末っ子だからってなんでも許されるとは限らないわよ﹂
﹁まったくあんたはいっつもいっつも、自分だけオイシイ思いをしよ
!
大体君達、こんなことしてる場合なのか、週末は演奏会やるんじゃ
そもそも、それ君達のじゃないだろ、ルナサのだろ。
仲良く半分ずつにすりゃいいじゃないか。
の一つである。醜き金銭欲が、美しき姉妹愛を切り裂いたのだ。
太古の昔から連綿と続いて来た、人類がいまだ克服出来ていない問題
どちらがうさぎ型の貯金箱を手にするか⋮⋮それが争いの火種だ。
発端はもう、どうしようもなく下らない。
私の店の前でいきなり姉妹喧嘩を始めたリリカとメルラン。
プットしてくる。喧しいを通り越して、それはもはや暴力である。
性能で、頼みもしないのに姉妹のやり取りを脳味噌へせっせとイン
耳を塞いで星鼠亭の売り台に突っ伏しても、鼠の耳って奴は中々高
﹁勘弁してくれぇ⋮⋮﹂
﹁そうよ、ナズーリン。あんたからもリリカに言ってやって
!
!
!
!
237
!
!
暫く低次元な言い争いが続いていたが、ふと静かになった。
恐る恐る目を開けて見ると、リリカとメルランがただならぬ様子で
対峙している。全身を緊張させ、微動だにせず互いを睨みつけている
のだ。その佇まい、まるで西部劇のガンマン。
ひゅう、と風が吹いて、鮮やかな色の木の葉が舞う。
﹃抜きな。どっちが早いか勝負しようぜ﹄
⋮⋮って奴か。
私 は 慌 て た。こ ん な と こ ろ で 弾 幕 勝 負 な ん て さ れ た ら 堪 ら な い。
﹂
里に被害が出るかもしれないし、あの鬼も裸足で逃げ出す博麗の巫女
に退治されてしまう。
﹁おい待て、君たち⋮⋮
皮肉にも、私の静止の声が引き金となった。
電光石火、二人の右手が腰元へ伸びる。私は急いでペンデュラムに
防御法術を掛け、二人の間に放り込もうと、投擲姿勢をとった。
だが、彼女たちが取り出したのは、││よく考えれば当然だが││
拳銃などではなかった。
メルランは金色のトランペット、リリカは羽の付いたキーボードを
取り出し、鉛玉の代わりに音色をぶつけ合い始めたのだ。
流石、演奏を生業にしているだけある。白黒の付け方は演奏勝負
で、という事か。
拍子抜けした私は、やり場のなくなった右手をくるっと一回転させ
て、ポケットに突っ込んだ。慌てて防御法術まで使ったのが、なんだ
か恥ずかしくなってしまって、一人顔を赤らめる私だった。
向き合って演奏しあう姿、喧嘩としては滑稽な光景なのだが、当人
たちは結構本気らしい。音色は目まぐるしく変化を繰り返し、ぶつか
り合う音と音とが複雑な旋律を紡ぎだしている。メルランのトラン
ペットが楽し気に鋭く鳴れば、リリカのキーボードがそれを包み込む
霧のようにぼうとした低い音色を奏で、リリカが清らかなピアノソナ
タを演奏すれば、メルランは勇壮なマーチで返すといった具合だ。高
い演奏技術を擁するプリズムリバー楽団ならではの喧嘩といったと
ころだろうか。どのへんが勝負になっているのか、聞いてる私には
238
!
さっぱり分からないが⋮⋮。
しかしその音色は、七色に明滅する星の瞬きのように美しい。
聞き惚れていた私は、プリズムリバーの音色の危険性を思い出し
て、仲裁すべく売り台を乗り越えた。
だが、慌てることは無かったようだ。
すぐにがっくりと膝を突いたリリカ。どうやら決着が着いたらし
い、腹の立つメルランのドヤ顔がリリカの前で揺れている。
側から見ていても、勝敗の基準は全く分からなかったが⋮⋮。
﹁くっ⋮⋮ファゴットの低音でも押し込めないなんて﹂
そんな音じゃあみ
﹁うふふ。私の土俵で勝負しようとしたその度胸は認めてあげるけど
ねえ。姉より優れた妹なぞ存在しないのよッ
んなをハッピーには出来ないわ﹂
歯ぎしりリリカに高笑いメルラン。勝負の内容はよく分からない
が、とりあえず、メルランの方が一枚上手であるらしいな。
﹁それじゃあこれは、私の物ね。さっそく次のライブ用の新しいドレ
スを買いに行こうっと﹂
メルランはルナサのうさぎ型貯金箱を鷲掴みにすると、スキップし
ながら里の目抜き通りの方へ歩いて行った。⋮⋮なんと言うか、ルナ
サが気の毒である。
私は項垂れているリリカに声を掛けた。
﹁なんだかよく分からないが、まあ気を落とすな﹂
我ながら投げやりな慰めである。まあ、馬鹿馬鹿しい理由で始めた
喧嘩なんだからどうでもいいだろう。
﹁依頼のほうは諦めろ。そもそも受ける気は無い﹂
﹄なんて記事を書いた射命丸を懲らしめて欲しいと
貯金箱を握りしめてやってきたリリカの依頼は、﹃プリズムリバー
三女、熱愛発覚
である
もめている間にメルランがやってきて、貯金箱を巡る争いになった
というわけだ。
239
!
しかし、私は復讐屋じゃあない。探偵だ。そんな依頼は業務要件外
いうものだった。
!
﹁何回やっても、姉さん達に勝てないなぁ⋮⋮﹂深く溜め息を吐いて、
リ リ カ が 言 う。﹁私 の 音 じ ゃ、姉 さ ん 達 の 音 に 一 生 勝 て な い の か な
⋮⋮﹂
己を卑下するのはリリカの悪い癖である。
﹁勝てる勝てないじゃあないだろう。君はプリズムリバー楽団に必要
な存在さ、それは変わらない﹂
励ますつもりで言ったのだが、リリカは曖昧な顔をしただけだっ
﹂
た。そういう事じゃない、言外にそう言っている。
﹁なんだリリカ、また負けたの
いつの間にか、例のメルランファンの少年が後ろに立っていた。汗
だくで、肩で大きく息をしている。握りしめた銀色のトランペットに
は三姉妹のマスコットが揺れていた。メルランの音が聞こえたので、
急いで走ってきたようだ。
リリカはばつが悪そうに俯いた。会いたくない時に会いたくない
奴に出会ってしまった、リリカの顔に分かりやすく書いてある。
﹁うるさいわね、あんたには関係ないでしょ﹂
﹁ちんちくりんのリリカの音なんかじゃ、メルランちゃんの音に勝て
るわけないだろ﹂
﹁私だって腕を上げてるのよ﹂
﹁努力は認めるけど。リリカがメルランちゃんに勝とうなんて、百年
は早いよ﹂
少年がそう吐き捨てると、リリカは涙目になって唇を噛んだ。
あんたにトランペット
少年はリリカを認めたとは言っても、やはりメルラン至上主義は変
わらないようだ。
﹁あんたそれ、お師匠様に向かって言う事
教えてやってるの、誰だと思ってるのよ﹂
﹁何よ、その言い草
﹂
﹁メルランちゃんに教えてもらえたら、もっと良かったんだけど﹂
?
なんと言うか⋮⋮青春してるなぁ。
女の子の扱いはぞんざいでも楽器の扱いは慎重なのか、少年はキー
240
?
リリカはキーボードを少年に投げつけて、走って行ってしまった。
!
ボードをきちんとキャッチして落とすことはなかった。
﹁君ね﹂流石に目に余ったので、私は苦言を呈した。﹁ああいう事言う
か、普通﹂
﹁嘘ついたら逆に失礼じゃないか﹂
リリカを認めているが故に、思ったことをそのまま口にするという
事か。⋮⋮いや絶対、こいつの口が悪いだけだろ、これ。
﹁後でちゃんと謝りに行けよ﹂
﹂
少年の頭を軽く小突きながら言うも、彼はまったく気にした風もな
い。
﹁そんなことより、メルランちゃんは何処行った
﹁里で買い物だとさ﹂
﹁え⋮⋮﹂
少年は眉をひそめた。
﹁ちょっとこれ持っててくれ﹂
﹂
リリカのキーボードを私に押し付けて、少年は里のほうへ走って
行ってしまった。
﹁あ、ちょっと君、待てよ
う。仕方無しに私は、少年の後を追った。
メルランは里の目抜き通りにいた。
﹁⋮⋮何してんだ、あれ﹂
物陰に隠れて見ていた少年に私が尋ねると、少年は面倒くさそうに
首を振った。
﹁お団子買ってるんだろ、そりゃ﹂
両手に余るほどの団子を買い占めて、ルンルンと鼻唄交じりに歩い
ている。団子だけではない。通りにある煎餅屋、果物屋、鰻屋︵よく
見ると夜雀の移動屋台だ︶でも同じ様に食べ物をわんさと買っている
のである。にこやかな笑みを振りまきつつ。
﹁意外だな。食は細そうに見えるが﹂
﹁⋮⋮違うって﹂
メルランは目抜き通りで唸るほど買い込んだ後、そのまま通りを外
241
?
このキーボード、私からリリカに返したんじゃ話がこじれてしま
!
れて歩いて行った。
止まった場所は、自警団の屯所だった。買った食べ物を自警団の団
員に分けている。差し入れ、という事か。
﹁メルランちゃんは時々、ファンのみんなの所を回って、差し入れして
くれるんだ。前もそうだった﹂
﹁へえ⋮⋮ますます意外だな﹂
﹁メルランちゃんファンなら知ってて当然だろ、怠慢だな﹂
⋮⋮私は別にファンじゃないのだが。
しかしなるほど、三姉妹で一番人気がある秘密はこういう事か。普
段のふわふわした言動とは裏腹に、メルランは結構マメらしい。リリ
カが情熱でファンを作るなら、メルランは親しみ易さでファンを作る
といった所なのだろうか。
メ ル ラ ン は そ の 後 も 里 の 各 所 へ 回 っ て 挨 拶 と 差 し 入 れ を 続 け た。
少年はその後も物陰からメルランの様子を伺い続けた。
﹁のぞき趣味とは感心しないな﹂
﹁じゃあついて来なければいいだろ﹂
そうしたいのは山々だが、リリカのキーボードを押し付けられた事
と、少年の様子が少し気になるので、そうもいかない。少年について、
メルランを尾行した。
メルランは最後に寺子屋を訪れると、昼休みで外に出ていた子供達
にお菓子を配って回った。そうして、集まった子供達の前で簡単な曲
を一曲だけ演奏した。子供達はもっともっととせがんだようだが、メ
ルランは首を振り、すぐに立ち去ってしまった。
﹁あれ、服は買わないのか﹂
私は首をひねった。先程はドレスがどうとか言っていた筈なのだ
が。
メルランは里の外れまで行くと、そのまま里の外へ出て行ってし
まった。屋敷に戻るつもりだろう。
ついて行こうとした少年の腕を掴み、止めた。
﹁これ以上はいいだろう。メルランを好きなのは分かるが、里の外へ
出るのは危険だ﹂
242
﹁あんたに関係ないだろ﹂
﹁関係ない事あるか、目の前で危険な事をしていたら止めるのは当然
だろうが﹂
﹂メルランの様子に、特におかしい事は無かったが。﹁私は君
﹁⋮⋮メルランちゃんが心配なんだ﹂
﹁心配
のほうが心配だよ﹂
﹁あんた、死体探偵って奴だろ。里の外だって慣れてる﹂
﹁君の骨を拾うつもりは無い﹂
子どもの君に、依頼料が払えるのか﹂
﹁なら、一緒に来ればいいじゃないか。それで解決だろ﹂
﹁それは依頼か
﹂
?
少年は気にした風もなく、ケロリとした顔で言った。
﹁だっておっぱい大きいじゃん﹂
﹂
思わず転びそうになった。
﹁そんな下らない事かよ
﹂
﹁馬鹿野郎、男ならおっぱいに憧れを抱くのは当然じゃないか
んたも男なら分かるだろ
逆に少年に凄まれる始末である。
あ
下世話な話だと思いつつも、好奇心に負けてつい聞いてしまった。
﹁なあ、なんでそんなにメルランが好きなんだ
失ったが、少年には心当たりがあるのか、迷わず歩みを進めた。
メルランを追って、里の外の林へと出る。メルランの姿は既に見
﹁⋮⋮出世払いだぞ﹂
呼、なんて嫌な響きだ。
男が頭を下げた、それを無下にする事は出来ない。ただ働き⋮⋮嗚
てしまった。
私は溜め息を吐くしかない。なんとも断り難い空気を作り出され
絞り出した声でそう言って、頭を下げる。
﹁頼むよ﹂
少年の身なりは、裕福とは言えない。
少年はトランペットを握りしめ、押し黙った。
?
﹁言っておくけど私は女だからな﹂
!
!
!
243
?
﹁えっ⋮⋮﹂
少年は狼狽えて、私の胸の辺りを無遠慮にジロジロと眺めた。
﹁リリカより⋮⋮﹂
その先の台詞を口にする事は、私の鉄拳が許さない。
閑話休題。
﹂
少年は林の中で突然立ち止まると、キョロキョロと辺りを見回し始
めた。
こんな所に
﹁たしか、この近くなんだ﹂
﹁メルランがいるのか
﹁やめてよ
﹂
力一杯、何度も何度も。
た。
メルランが、手にした金色のトランペットを切り株に叩きつけてい
続いて響き渡る鈍い金属音。連続する。
ふと、トランペットの音が止まる。
少年と私は、音のするほうへ慎重に近づいて行った。
どうやらメルランは音を閉じ込める結界を張っていたらしい。
途中から鼓膜に突き刺さって来たからである。
現しなかったのは、本当にいきなり、大音量のトランペット音が曲の
すると突然、トランペットの高らかな音が現れた。耳に届いたと表
ぐるぐると周囲を回るように探索する。
﹁しかし、音は聞こえない。今日はもう帰ったんじゃないのか﹂
﹁メルランちゃんの秘密の練習場があるんだよ﹂
?
その瞳は、涙に濡れていた。
﹁メルラン⋮⋮﹂突然の出来事に、私の声は震えた。﹁ど、どうしたん
だ⋮⋮﹂
金色のトランペットはぐにゃりとひん曲がり、もはやまともな音を
出せそうもない。
メルランは涙を拭うと、顔を背けた。
244
?
メルランの動きがピタリと止まり、彼女の視線が私達を射抜いた。
少年が叫んだ。
!
﹁格好悪いところ、見られちゃったわね﹂
﹁そのトランペットは、君の大切な商売道具じゃないか﹂
﹁いいのよ⋮⋮﹂
﹁良いわけあるか、次の演奏会はどうするんだ﹂
﹁リリカがなんとかしてくれるわ⋮⋮﹂
普段の陽気さとは打って変わって、沈鬱で絞り出すような声で言
う。
﹁どうしたんだ、本当に。一体何があった﹂
﹂
﹁何も無いわ。私には最初から、何も無いのよ﹂
﹁やっぱり、リリカが原因なの
﹂
少年が声を上げた。
﹁リリカが⋮⋮
﹁そんなことは⋮⋮﹂
﹂
か、あそこに私の居場所は無くなる⋮⋮﹂
いな情熱も無ければ才能も無い。私は誰にも必要とされない。いつ
﹁私はルナサ姉さんみたいに誰かを導くことは出来ない。リリカみた
優秀な妹を持つと、姉は苦労するらしい。
ない、本人もそう豪語している。
確かにリリカの楽器を操る才能は驚異的だ。弾けない楽器なんて
メルランは妹の、リリカの才能に嫉妬していたのか。
ルナサ姉さんみたいに格好良くいられない﹂
リカの勝負。あの子の技量はもう私と大差無い。そうなった時、私は
らしくしてたけれど⋮⋮もう駄目よ。さっきも見てたでしょ、私とリ
﹁じきにリリカに抜かれるわ。今までは必死に努力して、なんとか姉
﹁君だってトランぺッターとして一流じゃないか﹂
で﹂
る。それこそルナサ姉さんのヴァイオリンから私のトランペットま
﹁⋮⋮貴方達なら知ってるでしょ。リリカはどんな楽器でも演奏でき
なってしまった。
悪 い こ と を し た 子 ど も の よ う に。メ ル ラ ン は 体 を 丸 め て 小 さ く
?
﹁怖いのよ、ステージに立つのが
!
245
?
涙を弾けさせて、メルランが立ち上がった。
﹁怖くて怖くて死にそうなのよ いつか大きなミスをするんじゃな
﹂
かって思うと⋮⋮。こんな気持ち、貴女には分からないでしょうね
いか、みんなに嫌われちゃうんじゃないか、失望されるんじゃない
!
そう泣き叫ぶと、メルランは走って行ってしまった。
少年は後を追おうとしたが、
﹁今は一人にさせておいてやれ﹂
またもや私に止められる格好になった。
﹁メルランちゃんは普段は明るいけど、実はとっても繊細なんだ。い
つもライブの重圧に悩んでるんだよ﹂
少年はそう言う。
とにかく、
﹁しかも今度のライブは九十九姉妹や鳥獣伎楽達も来る。きっと千人
は集まるよ﹂
﹁そ、そんなにか﹂
幻想郷で千人と言えば⋮⋮総人口の何パーセントだ
かなりの人間が集まるということか。
切り株の上には、うさぎ型の貯金箱が置いてあった。どうやら、メ
感動的だったんだがな。
少し悲し気な顔で。⋮⋮さっきの胸囲云々の話が無ければ、もっと
トを買ったんだ﹂
そう思ったんだ。だから俺も必死に小遣いを貯めて、このトランペッ
ひたむきにトランペットを吹き鳴らす姿がたまらなく格好良いって、
﹁俺、メルランちゃんが必死に努力してるところ見るのが好きだった。
﹁意外、だな﹂
⋮⋮きっと、重圧に負けないように﹂
に だ っ て。リ リ カ に 負 け た く な い 思 い も あ っ た か も し れ な い け ど
で一人で練習してた。雨の日も風の日も、演奏会が終わった後の深夜
﹁メルランちゃんはものすごい努力家なんだよ。いつもいつも、ここ
?
ルランは貯金箱の中身に手を付けなかったらしい。ならあの喧嘩の
意味はなんだったのだろう。
246
!
私は打ち捨てられた金色のトランペットを拾い上げた。
年季が入ったトランペットは、よく見ると何度も何度も修理された
形跡がある。きっと壁にぶち当たる度、このトランペットを打ち付け
ていたのだろう。ぶち当たる壁は、メルランの才能の壁だったのだろ
うか。
だが仮にメルランの才能がリリカのそれに劣っていたところで、彼
女が貶される必要は無いのだ。彼女が一流のトランぺッターである
ことは、疑いようが無い事実なのだから。自分を過剰に卑下するの
は、姉妹共通の悪癖なのかもしれない。
メルランはリリカの事を愛しているのだろう。だからこそ、格好い
い姉としてありたいと願っているのだ。この曲がったトランペット
は姉妹愛の証だ。
ふと気づく。トランペットには、三姉妹のマスコットが付いてい
る。不細工な造りで古びているが、小奇麗である、大切にしていたの
だろう。
﹁あ⋮⋮﹂少年が声を上げた。﹁それ、俺が昔あげた⋮⋮。まだ付けて
てくれたのか﹂
自らのトランペットに付けた真新しいマスコット││メルランか
らの贈り物││を握りしめて、少年がつぶやいた。⋮⋮リリカには悪
いが、こりゃ割って入る余地はなさそうだな。
﹁あんたにお願いがあるんだけど﹂
﹁分かってる﹂
みなまで言う必要は無い。私も同じ気持さ。乗りかかった船であ
るし。⋮⋮しばらくチーズはおあずけになってしまうなあ。
﹁だが、出世払いだぞ。そしてちゃんとリリカにキーボードを返して、
謝ること﹂
少年が頷いたのを見て、私は思わず皮肉を言った。
﹁なんだよ、ちゃんと素直にできるんじゃないか﹂
トランペットの修理はもちろん、小傘に頼んだ。
リリカに発注された巨大楽器の納期に追われていた小傘は、泣きべ
そをかきながら依頼を快諾してくれた。
247
﹁小傘は完璧なんだから出来るよな﹂便利な言葉である。しばらく
使い倒してやろう。
とは言っても流石に小傘が気の毒なので、その日の残りは小傘の助
手を務め、材料の買い出しやら何やらに奔走した。
翌朝、完璧に修理されたトランペットを持って、少年と私はメルラ
ンの秘密の練習場に赴いた。
果たして、メルランは切り株に座り込んでいた。
﹁貴方達⋮⋮そのトランペットは﹂
﹁小傘に修理してもらった。完璧だぞ﹂
﹁やめて﹂メルランは頭を抱えた。﹁私、もうステージには立てないわ
⋮⋮﹂
﹁なら、何故此処にいる。探していたんだろう、このトランペットを﹂
メルランは狼狽えて、視線を外した。
金色のトランペットを握りしめて、少年はメルランの前に進み出
248
る。
﹁俺⋮⋮メルランちゃんの演奏が好きなんだ。また聞きたいよ﹂
﹁でも、私は⋮⋮﹂
﹁リリカだってきっとそう言うよ。みんな好きなんだ、メルランちゃ
んの事が。だから、自分に負けないで﹂
少年の真摯な瞳と、差し出されたトランペット。
それを交互に見つめて、メルランは微笑んだ。
それは彼女のいつもの、真昼の陽光のような笑みだった。
﹁また、君に励まされちゃったね﹂
少年をそっと抱きしめて、メルランは瞳を伏せた。
金色に輝くトランペットを手にして。
﹂
﹁そうね。次のライブも、私の音色でみんなをハッピーにしてあげな
いとね
けばいい。彼女には多くの支えてくれる仲間がいるのだから。きっ
る。苦とは悩み苦しむ事に他ならない。だが、その度に乗り越えて行
メルランはこの先も何度も悩む事になるだろう。人生とは苦であ
ハッピーはメルランの合言葉である。
!
とこの先も、ずっと。
それこそが、悟りへ至る一つの道なのだろう。
﹁リリカが星鼠亭で待ってるってさ。昨日のリベンジをしたいって﹂
私が言うと、メルランはウインクした。
﹁そう。なら、魅せつけてやらないとね。姉の強さって奴をさ﹂
うさぎ型の貯金箱をひょいと拾い上げて、メルランは里の方へと歩
いて行った。
﹁一件落着、か﹂
溜め息を吐くと、朝だというのに肩が重くなった。
まったく、ひどいタダ働きをさせられたものだ。
﹂
ふと見やると、少年がぼーっとして動かない。
﹁⋮⋮どうした
私が目の前でひらひらと手を振ると、少年はいきなりどばーっと鼻
血を流した。
﹁メルランちゃんのおっぱい、めっちゃやらかい⋮⋮﹂
私は激しいめまいに襲われた。折角いい話で終わりそうだったの
に、まったくこのガキは⋮⋮。
夢見心地で放心状態の少年を引きずって里へと戻る間、ふと、私は
思い巡らせた。
かつての私にも兄弟がいたのだろうか、と。
その記憶は霧が掛かった海の向こうにあるのだろう、今の私ではも
う、たどり着く事も、覗き見る事さえも出来なかった。
249
?
サウンド・オブ・ヘイナウ
運命とは自分で切り拓くもの。
人間の可能性を信じてやまない人々が口にするその言葉、耳に聞こ
えはいい。
だが、微睡みの中で見る夢を、人が自分で選ぶ事は出来ないように。
往々にして、運命というものは他の誰かから理不尽に押し付けられる
ものだ。始まりはいつだってそう、我々の与り知らぬ領域で因果は始
まり、知らぬ間に忍び寄ったそれは、ある日突然、私達に牙を剥く。運
命とは非情である。それは私達の意思など一顧だにすることは無い。
全てを潰し、壊し、押し流してゆく。苦しみも痛みも、愛も未来も一
緒くたにして。私達は断頭台に立たされる時を待つだけの囚人に等
しい。
運命の刃が首筋に迫ったその時。人に残された選択肢は、余りにも
少ない。その時人は何を見るのか。泥を見るのか、星を見るのか、あ
るいは別の何かを見るのか。そこに人間の本当の価値があるのかも
しれない。
あの音色。きっと私は、一生忘れないだろう。
それは、勇気の歌だ。
先日訪れた時は、古びていながらも小綺麗な印象が強かったのだ
が、今。霧の中に佇むその洋館の窓ガラスはあちこち割れ、壁の塗装
は剥げ落ち、周囲の草花は萎れて茶色く変色している。雲間より微か
に差す陽射しは眩しいのに、それを遮る様にどんよりと空気が淀み、
瘴気すら出始めていた。まるでただの妖怪屋敷である。
プリズムリバー邸は、外観からも分かるほどに荒廃していた。
しかし、無理も無かった。
あんな事件があった後なのだから。
﹁よく来てくれたわね⋮⋮上がって頂戴﹂
ノッカーを鳴らすと出てきた女は、陰鬱と言うよりかは何処か熱を
250
帯びた声でそう言った。あれから着替える間も無かったのか、いつも
の黒いステージ衣装のままである。
強いな、そう思う。
人の本当の強さは追い詰められた時に発揮されると言うが、まさに
今、彼女の強さが必要な時なのだろう。その為に彼女は普段から強く
あろうとしていたに違いない。困難にぶち当たったその時、長女とし
て妹達を導くその為に。
﹁響子ちゃんは、大丈夫かしら﹂
こんな時にも、他者を思いやる心を忘れない。ルナサ・プリズムリ
バーは敬意を表するに値する女性だ。
﹁⋮⋮ずっと泣いていたよ。今はミスティアが付いてくれている﹂
﹁そう⋮⋮夜雀も、強いわね﹂
﹁あのおちゃらけた九十九姉妹と能天気なドラマーも、見る影が無い
ほどに落ち込んでいた。気に病むな、その慰めを気安く吐くには、今
回の事件は余りにも大きすぎる﹂
ルナサは私へ応接室のソファを示すと、自らも向かいの席に座っ
た。⋮⋮座った、と言うより、沈んだと言った方が正しいか。黒い革
張りのソファに全体重を預け、深く深く溜め息を吐いた。天井を見つ
めるその眼は虚無である。
しばしの沈黙の後。
弦を引き絞るように、ルナサが問うた。
﹁何人、死んだの﹂
キリキリと空気が乾いた。
その数字を口にするには、多少の勇気が必要だった。
﹁⋮⋮回収した遺体は、現時点で既にニ百を超えている。当時の状況
から鑑みるに、その倍は下らないと思う﹂
ルナサは目を伏せた。呼吸を止めて、微動だにしない。彼女の周り
だけ時間が止まったかのように。胸中に去来する痛み、哀しみ、後悔。
それら全てを受け入れるつもりなのだ。
だが⋮⋮女一人で抱え込むには、それは余りにも大きすぎる。
ルナサが小さく震えた。その耐え難い苦痛が、私にまで伝わるよう
251
だった。その痛みを癒す事も和らげる事も、今の私には出来ない。無
性に星の顔が見たくなった。
﹁⋮⋮そう﹂静かに開いた瞳は、鈍い光を放っていた。﹁出来うる限り
の捜索をお願いします。資金の心配は要らないわ。これでも私達、結
構稼いでいたから﹂
そう言って、ガラス製の水差しから注いだ水を飲み干した。だが本
当に飲み下そうとしたのは弱い言葉の方だったのだろう。苦い顔を
している。
﹁リリカとメルランはどうしている﹂
﹁リリカは、土砂に飲まれてね。幸い、自力で這い出して来てくれたけ
れど、今は永遠亭に入院している。メルランは⋮⋮﹂
ちら、と窓に向けた視線が物語る。
メルランが手当たり次第に物を投げつけたのだろう、窓ガラスには
幾つも穴が空いている。調度品も薙ぎ倒され、応接室の内装は嵐の後
の河川敷のようだ。
どうやらメルランは、かなり精神に失調をきたしているらしい。
﹁あの時⋮⋮あの場所を選ばなければ⋮⋮﹂
ルナサの口から、溜め息と一緒に、痛みが零れた。
昨夜。
その日はプリズムリバー三姉妹の演奏会の日だ。リリカの尽力に
より鳥獣伎楽や九十九姉妹といったメンバーを迎え、妖怪の山にてか
つてない規模の演奏会が開かれた。私もささやかながらその準備を
手伝い、妖夢や小傘といった優秀な人材をリリカ達に紹介した事は記
憶に新しい。
その演奏会の会場を、土砂崩れが直撃した。
演奏会には多数の人妖が集まっていた。その半数以上が、為す術な
く土砂の激流に飲まれたのである。
身体的に頑強である妖怪にもかなりの被害が出たのだ。土砂に飲
み込まれた人間達の生存は、絶望的である⋮⋮いやはっきり言おう。
全滅、そう言う他無かった。
まさに、悪夢である。
252
これ程の規模の死者が出たのは初めてだと慧音が言っていた。あ
の時の慧音の顔が脳裏にちらつく。呆然として、起こった事が信じら
れない、そういう顔をしていた。
誰もがそうだった。
星も聖も絶句していた。
八雲紫も頭を抱えていた。
能天気の代名詞たるあの博麗霊夢すらも、事故現場を見てさめざめ
と涙を流していたのだ。
私は事故当時、別件に当たっており、会場に居る事が出来なかった。
私も当事者の一人とは言え、冷静に行動出来ているのはその為だろ
う。心の何処かで私は、この事件を他人事だと捉えているのだ。
⋮⋮ 何 が 毘 沙 門 天 の 使 者 だ。何 が 正 義 の 味 方 だ。自 ら の 醜 悪 な 性
質に、怒りも哀しみも通り越して、ただただ呆れ返るばかりである。
いつまで経っても、何処まで行っても、私はあの時のまま⋮⋮邪悪で
矮小なる小鼠のままだ。身の丈に合わぬ天道に憧れ、その身を焦がし
ている。
だが今は、その醜さに感謝する事にする。
絶望と狂気に身を沈めて、時を費やしている場合ではない。
私は死体探偵だ。
今こそ私は、その役目を果たさなければならない。
﹁あの時、何が起こったのか。それが知りたい。ルナサ、話を聞かせて
くれ﹂
生存者達に話を聞いても、なぜか皆、一様に要領を得ない言葉を吐
くだけで、あの時、あの瞬間に何が起こったのか、私はそれを把握出
来ずにいたのだ。
ルナサは激しい痛みを堪えるように自分の身体を抱き、歪めた顔で
ぽつりと言った。
﹁ごめん⋮⋮今はまだ、そっとしておいて欲しい﹂
そう言って顔を背ける。
仕方の無い事だった。ルナサ達自身、まだ気持ちを整理する事が出
来ていないのだろう。同じ様に、私は鳥獣伎楽のメンバーや九十九姉
253
妹達からも話を聞き出せずにいた。
﹁分かった。その件についてはもう聞かない﹂無理に聞き出そうとし
ても結果が変わる訳ではないから。﹁折角だ、メルランの様子を見せ
てもらっていいか﹂
ルナサは少し迷う素振りを見せたが、やがて頷き、二階にあるメル
ランの私室まで私を案内してくれた。
嵐が吹き荒れた館内とは打って変わって、メルランの私室付近は不
気味なほど整えられ、静寂に包まれていた。
ノックをする前、ルナサは少し息を吐く。今のメルランに話し掛け
る事は、覚悟が必要なようだ。
コン、コン。
響き渡るその音。ぞくり、背筋に寒さを覚える。
﹁メルラン。ナズーリンが来てくれたわ。⋮⋮入るわよ﹂
静寂。
暫く待っても返事が無かったので、ルナサはノブを回し、ゆっくり
とドアを開いた。
メルランの部屋は、色鮮やかだった。趣味なのだろうか、犬や猫な
どの動物を象ったビビッドカラーの縫いぐるみが山ほどもベッドの
上に積まれている。壁一面に様々な金管楽器が飾られており、差し込
む陽光を反射して金銀に煌めいていた。焦げ茶色の大きな書棚は楽
譜で一杯だ。大きく壁を切り取る窓は空の蒼を映し、その窓際には小
さ な ポ ー ト レ ー ト が 立 て か け ら れ て い た。セ ピ ア 色 の プ リ ズ ム リ
バー三姉妹と、あと一人、友人だろうか。壁際に置かれた机の上には
灰色の新聞が無造作に捨て置かれている。﹃花果子念報﹄である。
その先で、視線が止まる。
私は、息を呑んだ。
極彩色の部屋の隅に、色を失くしたメルランが膝を抱えて座ってい
た。
驚くほどに気配が無い。放っておけば、そのまま霞になって消えて
しまいそうな程に。メルランの姿形を知らなければ、ただの不気味な
オブジェだと勘違いしていただろう。その顔は伏せられ、表情を伺い
254
知る事は出来ない。
﹁メルラン﹂重苦しい空気を掻き分けて、私は喘ぐように言った。﹁差
し入れを持って来た。食欲なんて無いだろうが、無理矢理にでも何か
口にしておいたほうがいい。妖とはいえ、食わなければ心も身体も保
たんだろう﹂
持ってきた包み紙を取り出しつつ。
静寂。
沈黙に引き伸ばされた時の中で、私の動きも緩慢になったように思
えた。水梨の入った包み紙をテーブルの上に置く、ただそれだけの動
作をするのに、永遠とも思える主観時間を費やした。
メルランは微動だにしない。
危惧していた通りである。メルランには精神的に脆い部分があっ
た。演奏会の重圧に負けて自らのトランペットを破壊した事もある。
この事件で大量の人死が出たという事実に、メルランの精神は崩壊一
歩手前まで追い詰められているのだろう。このままでは廃人になる
か、下手すれば消滅してしまうかもしれない。
﹁メルラン、君のトランペットを見つけて来たよ。一緒に置いておく﹂
粘りつく時間を振り切り、私は出来るだけ溌剌とした声で語りかけ
た。﹁何も心配する必要は無い。後は全て、私に任せておけ﹂
私は古びた三姉妹のマスコットが付いた金色のトランペットをメ
ルランの目の前に掲げて見せてから、机の上に置いた。メルランは自
分のトランペットにすら興味を示さず、ただ壁の一部になっていた。
﹁ではメルラン、また来るよ﹂
ルナサが私の袖を引っ張るので、私達はメルランの部屋から退散し
た。
﹁相当重症だな﹂
声を落とした私の言葉に、ルナサは暗い顔で頷いた。
﹁あの子は、自分を責めてるのよ﹂
﹁土砂崩れが起こったのは、君達の責任ではない﹂
唇を噛むルナサ。苦痛に悶えるように身体を震わせる。
何故だか、ルナサ達は必要以上に責任を感じているようだった。
255
﹂
﹁⋮⋮ナズーリン。音を、探して﹂
﹁音、だと
﹁最後の瞬間、鳴り響いた音を⋮⋮﹂
小鳥の鳴くような声でそう言って、ルナサはそれきり口を閉じた。
私はルナサに礼を言い、プリズムリバー邸を後にした。
音。
ル ナ サ の 謎 掛 け の よ う な 言 葉 が 頭 の 中 を 泳 ぐ。無 意 識 に 早 足 に
なった。
土砂崩れが起こった瞬間は、演奏会の真っ最中だったはずだ。曲に
何かあったと言うのだろうか。
灰色の空の下、川を遡る。霧の湖に注ぐこの川は、土砂崩れの影響
で土気色に濁っている。
川の中では河童達が土砂を取り除く作業をしていた。川縁に盛ら
れた幾つもの土の山は既に小高いが、それでも川の濁りは消えない。
相当量の土砂が流出したのだろう。普段は好き勝手に振舞って統率
の欠片も無い河童達だったが、今は無言で粛々と作業をこなしてい
る。そう、河童達にも犠牲者が出たのだ。
体 が 震 え る。寒 さ を 覚 え た。秋 の 空 気 は こ ん な に も 冷 た い も の
だっただろうか。
川縁に盛られた土に混じって、幾つもの筵が地面に敷かれているの
が見えた。漂う腐臭。その下から、はみ出た腕や足が覗いていた。膨
らみの薄い筵ばかりだ。この手の事故で五体満足のまま見つかる遺
体は少ない。
筵の前には水圧銃で武装した河童達が立って、周囲に睨みを利かせ
ている。鳥や獣、そして醜悪なる有象無象共から遺体を守っているの
だ。彼女達は人間を盟友と呼ぶ。同胞の遺体だけでなく、人間の遺体
も守ってくれているのだ。
既に河城にとりと話はついている、ここは河童達に任せていいだろ
う。私は川をさらに遡り、そこから妖怪の山に分け入った。
聖徳王が整備したという立派な街道はただの泥の道と化していた。
深く刻まれた土砂崩れの爪痕の脇を歩く。緑の残る木々も、天を衝く
256
?
大岩も、山に暮らす小さな生命の営みも、一切合切を飲み込んだ黄土
色の濁流は今、その時を凍らせている。土の中から突き出た紫色の腕
が、天に向かって叫んでいた。俺はここだ、助けてくれ、暗い、狭い、
苦しい、痛い。私はその叫びをはっきりと目にしていながら、無情に
通り過ぎるしか無かった。迂闊に掘り返せば二次災害の危険性があ
る。すまん、そう心の中でつぶやく事すらもせず、心を殺して足を早
めた。
﹁⋮⋮ナズーリン。ご苦労様です﹂
法衣に身を包んだ星の穏やかな顔が目に入る。ああ、と小さく返し
た。死んでいた心が蘇るのを感じる。
﹁プリズムリバー三姉妹の様子はどうでしたか﹂
汗ばんだ顔で微笑む星。私は首を振った。
﹁良くない。かなり精神的に追い詰められていた。彼女達は何故か、
過剰に責任を感じている﹂
﹁無理も有りません﹂
﹁ああ。解決出来るのは時間だけだろう。定期的に様子を見に行こう
と思う﹂
﹁それが良いでしょう﹂
土砂を登って、私は彼女の隣まで行った。事故現場となった演奏会
会場が見渡せる。その裏手にそびえる崖と、広がる森も。
元々は妖夢の見事な技によって整えられていたのだが、今はもう見
る影も無い。見渡す限りの敷地は全て土砂で埋まっており、演奏会会
場だった事実をにおわせるのは、土の中からはみ出ているステージの
残骸くらいだ。妖夢が一生懸命刈り込んだ植木も、小傘が徹夜で作っ
た巨大なホルンのオブジェも、最早何処にも見当たらない。全てが土
の下となっている。それを掘り返そうと、幾つもの人影が捜索にあ
たっていた。
作業員として捜索に従事しているのは、なにも河童や命蓮寺だけで
はない。白狼天狗達や永遠亭の兎妖怪、神霊廟の道士達やいつぞやの
六尾狐の眷属など、多岐に渡る。紅魔館の妖精メイド達はまあ、邪魔
しかしていないが。人間からも志願はあったのだが、場所が場所だけ
257
に断った。
また、作業従事者は他にもいる。私の掘っ立て小屋では青娥が出来
得る限りのエンバーミングを行ってくれているし、永遠亭では怪我人
の治療も行ってくれているのだ。
作業場の隅では、霊夢が火を焚いて祈祷をしている。地鎮の祈祷だ
ろうか、いつになく暗い顔で。その隣には早苗が座って、ぼうっと火
を眺めていた。まだ若い少女達には凄惨すぎる現場である、衝撃で正
体を失くしているのだろう
星は手にしたショベルを大地に突き刺し、掘り起こした土を傍に
盛った。
毘沙門天代理自ら、遺体の捜索を買って出ている。
﹁すまんな。任せてしまって﹂
﹁いいえ。私には私の責務があるように、貴女には貴女の果たすべき
役割があるのです。ただそれだけの事﹂
語りながら、彼女は衣が汚れるのにも構わず、土を掘った。慣れた
手付きだった。当然だ、何千何万と繰り返した動作だ。彼女がゆった
りと大地を抉る様は、ティツィアーノの宗教画のように美しく荘厳
で、しかし何処か陰がある。私はその姿を見るのが好きで、そして嫌
いだった。
﹁思い出しますね、ナズーリン。あの頃を。よく二人で土を掘り返し
たものです﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
今ほど防災技術が発達していなかった頃、大風が吹く度に川が溢
れ、多くの死者を出した。飢饉もあった。疫病も流行った。不毛な戦
争もあった。命蓮寺に残った私と星は、数え切れない程の死者を二人
で葬ってきた。土を掘り返し、遺体を焼き、骨を埋め、墓を建てる。遺
体を狙う獣を追い払い、盗掘を企む人間達を防ぎ、人々に仇なす妖共
を退治してまわったあの頃。たった二人の戦い、遠い思い出。
﹁悲劇は絶えませんが、今は仲間達がいます。心強い事です﹂
事故現場では、命蓮寺の面々がショベル片手に土を掘り返してい
る。聖、村紗、一輪、ぬえにこころまでいる。あの時とは違う。
258
﹁私は私の役割を果たさなければならん。星、ここを頼むよ﹂
﹁ええ。任せて下さい﹂
穏やかな星の視線を背にして、私は事故現場となった会場の中央へ
と歩みを進めた。
ふと、上の方から下卑た眩い光が連続する。
見上げると、烏天狗達がベルベットの空を大きく旋回していた。恐
らく新聞記者達なのだろう、カメラを地上に向けて飛翔しながら撮影
をしている。その様は、死骸に群がる腐肉喰いの烏そのもの。人妖へ
の情報の拡散、彼女達がそれに一役買っている事を理性では理解して
いるのだが⋮⋮青い価値観から来るこの嫌悪感が、私の胸の内から
沸々とこみ上げてくる。自然と足が早まった。
﹁ヤマメ﹂
仮設テントの下で地図と睨めっこしていた土蜘蛛の黒谷ヤマメは、
私を見つけると朗らかに笑った。
﹁おお、ナズーリン。ご苦労様﹂
事故発生の連絡があった後、私はすぐさまヤマメを地上へと召喚し
た。土木建築に優れた彼女の力が必要だったからだ。ヤマメには現
在、遺体捜索の総指揮を執ってもらっている。
ヤマメの服は泥だらけで、顔には汗が噴き出していた。疲れている
の か、簡 素 な 椅 子 へ の 腰 掛 け 方 が 深 い。現 場 主 義 の ヤ マ メ の 事 だ、
きっと今の今まで作業をしていたのだろう。
﹁どうした、地図に何かあるのか﹂
私が問いかけると、ヤマメは団扇で顔を仰ぎながら浮かない顔をし
た。
﹁ん。地盤の緩そうな部分がないか探していたんだよ。二次災害は怖
いからね。しかし⋮⋮﹂
﹁歯切れが悪いな﹂
﹁歯切れ悪いのも当然ですよ﹂
振り返った私は、眉をひそめた。
いつの間にか、背後に射命丸文が立っていた。古風な頭襟とハイカ
ラなミニスカート、いつもの天狗装束である。が、顔色はいつものに
259
やけ面ではない。暗い瞳が深く光る、ツンドラみたいな顔をしてい
る。
そうか。天狗にも被害者が出たのだ。流石の射命丸も、その事実を
﹂
前にしてにやけている訳にはいかないらしい。
﹁何故、当然なんだ
このライブ会場は我々天狗によって警備され
私の問いに、射命丸はやれやれと首を振った。
﹁知らないのですか
ていたのです。妖怪の山で行われるイベントで人間に怪我をさせた
とあっては、天狗の名折れですからね﹂
﹁だが、被害は出てしまった﹂
﹁なぜ事故が起こったのか、分からないんだ﹂ヤマメが口を挟む。﹁こ
の地図、そして実際に測量した情報から判断するに、この辺りの地盤
はかなり強固なはず。事件当夜には雨も降っていなかった。そうそ
う土砂崩れが起きるなんて考えられない﹂
﹁当然、我々天狗も調査していました﹂射命丸はヤマメの言葉を継ぐ。
﹂
﹁でなければ、こんな場所に会場を造ったりしませんからね﹂
﹁本当に何も兆候は無かったのか
ん、何か分かったら、そちらにも情報をお伝えしましょう。その代わ
﹁私は今、土砂崩れが起こった原因を調査しています。ナズーリンさ
それが直接の原因なのだろうか。
﹁地震⋮⋮﹂
との関連は不明ですが﹂
間帯に局所的なごく小規模の地震が観測されたようです。土砂崩れ
﹁白狼天狗からの報告によると、その一本杉のあたりで事故発生の時
奏会の騒音がかき消してしまったのだろうか。
小さくなかっただろうが、演奏会の人間は気づかなかったようだ。演
つまり、土砂崩れは結構な距離を移動したわけである。音や振動も
たようなのですが⋮⋮﹂
から山を下り、あのステージ裏あたりにある崖を下って会場に直撃し
は、此処よりも標高の高い、丁度一本杉のある場所です。土砂はそこ
﹁一つ﹂文花帖をめくりながら射命丸は言う。﹁土砂崩れが発生したの
?
260
?
?
り、貴女からもこちらへ情報を流して欲しい。ギブアンドテイクとい
う奴です﹂
あの射命丸が始めから下手に出るとは、天狗達の方もかなり混乱し
ているようだ。
少しでも情報が欲しいのはこちらも同じである。私は頷いた。
﹁いいだろう。こちらも二次災害を防ぐ為に情報が欲しい。定期的に
連絡を取り合おう﹂
射命丸は頷くと、また上空に消えていった。いつもより事務的で簡
素なやり取り。相当、参っているようだ。あの射命丸にも人並みの感
情があったのかなどと、なぜか妙に感心してしまった。
﹁それよりも、ナズーリン。次のダウジングを頼む﹂
﹁ああ。そのために来たんだ﹂
ヤマメから差し出された地図の上でペンデュラム・エンシェントエ
ディションをかざして集中する。反応があった場所に印をつけてゆ
261
くと、五分ほどで地図は一杯になってしまった。
﹁ご 苦 労 さ ん﹂ヤ マ メ は 印 だ ら け の 地 図 を 見 て 顔 を し か め た。﹁こ
りゃ、駄目だな。もう何回かダウジングしてもらわないとならないか
もしれないね﹂
﹁あと、燐を呼んである﹂私はペンデュラムを服の中にしまった。﹁そ
ろそろ着くはずだ。彼女は死体と話せる。燐の助言も参考にしてく
れ﹂
﹁あのさとりのとこの地獄猫か。なるほどね﹂
﹁すまんが、私は調査したいことがある。手が空き次第、手伝いに来
る﹂
﹁ああ。こっちは任せときな﹂
口を開けてヤマメは笑う。顔は明るいが、いつもより口数が少ない
のは仕方がなかった。
テントの外に出ると、ステージの残骸の前に見覚えのある赤い服が
﹂
立ち尽くしているのが見えた。
﹁リリカ
慌てて駆け寄る。
!
振り向いたリリカの悲壮な瞳が私を射抜いた。リリカは右目に白
い包帯を巻き、左腕を吊っていた。話には聞いていたが、実際に傷跡
の残るその姿を目の当たりにすると、胸が痛んだ。
﹁永遠亭に入院していたんじゃないのか、土砂に巻き込まれたと聞い
たぞ﹂
まさか、抜け出して来たのだろうか。
﹁ナズーリン⋮⋮﹂
私を見るなり、リリカは目に涙を溜めた。
リリカもまた、心に大きな傷を負っていたのである。
﹁今は事故の事は考えるな。永遠亭でゆっくり休んでいるんだ﹂
﹁いないのよ⋮⋮﹂
﹂
私の胸に縋りついて、リリカは泣いた。
﹁あいつがいないの
⋮⋮まさか﹂
﹂
﹁駄目ですよ
﹂
その札に描かれた紋章には見覚えがあった。
所に、赤い札が突き刺さるのが見える。
私はリリカを抱いたまま、横っ飛びに逃れた。私たちがいたその場
その瞬間、視界の端から何かが飛来するのが見えた。
を⋮⋮﹂
﹁あまり悪い方向に考えては駄目だ、リリカ。今は傷を癒すことだけ
﹁本当に
れただけだろう﹂
﹁大丈夫だ。きっとこの事件があったから、親から出歩くのを禁止さ
私はリリカの頭をそっと撫ぜた。
混乱しているのか、リリカは私にしがみついて体を震わせている。
故に巻き込まれたんじゃあ⋮⋮﹂
﹁いつもの時間に行ったのに、あいつ、来てないのよ。まさか、この事
あのメルランファンの少年の事か
﹁あいつ
!
早苗はそのまま、退魔の札を放った存在、即ち博麗霊夢を後ろから
鬼気迫る霊圧の向こう側から走ってくるのは、早苗である。
!
262
?
?
?
羽交い絞めにした。
﹂
﹁霊夢さん、それは駄目です、いけません
﹁放しなさい
﹂
!
決まってるでしょう⋮⋮﹂
?
しなさい﹂
﹂
!
と な の か。見 ろ
こ の 事 故 現 場 を。君 の ち っ ぽ け な 復 讐 心 を 満 足
﹁馬鹿を言うな。君にとっての異変解決は妖怪に八つ当たりをするこ
﹁変わるわ。それでこの異変は終わる﹂
﹁リリカを殺した所で何も変わらん﹂
なくて、何が異変だと言うの
﹁違わないわ。人が死んだ。たくさん、人が死んだわ。これが異変で
﹁異変だと
それは違う、霊夢。これは事故だ﹂
﹁この異変の元凶を退治しに来たのよ。さあ、その騒霊をこっちへ渡
霊夢は御幣を私の胸元へと突き付けた。
は想像もできないほど、刃金のように鋭い顔つきをしている。
涙の跡が残る目尻を吊り上げるその表情。普段のだらけた姿から
﹁なんのつもりですって
﹁なんのつもりだ、霊夢﹂
私はリリカを体の後ろに隠して、霊夢に相対した。
霊夢は簡単にそれを振りほどくと、私のほうを睨んだ。
!
そんなの誰も望んでません。これは事故
!
も良い事無いんです
﹂
﹂
﹁なら、どうしろって言うのよ
の巫女なのに⋮⋮
﹁う、うう⋮⋮﹂
!
!
その両目から涙が零れた。
!
こんなに人が死んで⋮⋮、私は博麗
当ってくれているのは妖怪達なんです。今ここで仲違いしたって、何
な ん で す。天 狗 に も 河 童 に も 被 害 が 出 た ん で す。被 害 者 の 捜 索 に
﹁そうですよ、霊夢さん
その隙を突いて、早苗が霊夢の手から御幣を叩き落とした。
私の言葉に、霊夢は唇を噛んだ。
ないんだ﹂
させた所で、死んだ人間は生き返らない。君の言う﹃異変﹄は終わら
!
263
?
霊夢が声を殺して泣いている。
普段のおちゃらけた姿しか知らない私にとっては意外だが、霊夢は
博麗の巫女としての責任を感じていたようだ。それだけに、この事件
が重圧としてのしかかっているのだろう。若い霊夢の心はそれに耐
えきれず、悲鳴を上げているのだ。
﹁顔を上げろ。今、この時こそ君が必要とされる時だろう。君は博麗
の巫女だ。事故が起こって人間たちは不安になっている。君が勇気
づけてやらなければ﹂
私の言葉に、霊夢は膝を突いて泣き崩れた。霊夢自身も自分の行為
を不毛だと感じていたに違いない。ただ、行き場の無い感情が拳を振
り上げさせただけなのだ。
うずくまる霊夢に早苗が駆け寄り、そっと肩を抱いている。あの台
﹂
風娘も存外芯は強いらしい。
﹁リリカ、怪我はないか
私は振り返って、リリカが居なくなっていることに気付いた。
﹁何処へ⋮⋮﹂
もしや、少年を探しに人里へ降りたのだろうか。
すでに陽が傾き始めている。
秋の日は釣瓶落としと言うけれど、今はこの日の短さが恨めしい。
ルナサは夜が来ることを恐れていた。暗闇の中に一人でいれば、どう
したって昨日の出来事を思い出してしまうから。
恐ろしい土砂の激流が猛烈な勢いで迫ったあの時、あの瞬間。瞼の
裏に焼き付いて離れない。耳の奥には全てを飲み込む土砂の轟音が
いまだ渦巻いている。あの時鳴り響いたあの音も、それが途切れゆく
様も。
午後になってから、空を覆っていた雲は少しずつ晴れ始めていた。
窓辺で沈みゆく太陽を見つめていたルナサは、メルランの世話をする
時間だと思い立った。メルランは事故のショックで廃人同様になっ
てしまっている。ルナサが面倒を見てやらなければならない。正直
に言えば、独りでいるのが辛いというのもあった。
264
?
ナズーリンが差し入れてくれた水梨をキッチンで剥いて皿に盛り、
永遠亭にて処方された抗鬱薬と水差しとをトレイに載せて、二階に上
がった。
相変わらず返事の無いノックの後、ルナサはメルランの部屋のドア
を開いた。
メルランは、自室に居なかった。
見慣れた妹の部屋の中で、メルランの姿だけがぽっかりと消えてい
る。
動揺したルナサは、自らの顔を撫ぜた。あの状態で、メルランは何
処へ行ったのだろうか。
慌ててルナサは屋敷中を探し回ったが、メルランの姿は無かった。
ふと思い出す。そういえば、ナズーリンが探し出してくれたメルラ
ンのトランペット、机の上に置いたはずのそれが消えていた。付いて
いたマスコットも。
ルナサは知っていた。メルランが精神的な弱さを抱えている事を。
演奏会の度にプレッシャーに悩まされている事も、メルランがリリカ
の才能に嫉妬していた事も。そしてそれを、あの少年が支えてくれた
事も。メルランのトランペットに付いている、プリズムリバー三姉妹
の姿を模したマスコットは、あの少年が作ってメルランに贈ったも
の。メルランのファンだというあの少年は、悩むメルランを励まし続
けてくれたのだ。
もしかして、メルランはあの少年に会いに行ったのではないか。
そう考えたルナサは、急いで支度をして屋敷を飛び出した。
霧の湖から伸びる川を下り、里へと向かう。ぐずぐずしていると陽
が落ちてしまう。ルナサは早足でメルランの姿を探した。
埃っぽい風が舞う。
里は不気味なほど静まり返っていた。人通りはほとんど無く、たま
に見かける人影もそそくさと早足で過ぎ去ってしまう。日暮れが近
いとは言え、普段の活気を考えれば異常である。
人間達は怯えているのだ。頻発する謎の神隠しに加え、今回の事故
である。当然と言えば当然だった。
265
﹁教えてよ
減るもんじゃないでしょ
﹂
ふと、通りの向こうから聞き覚えのある声が響いてきた。
!
このケチばんき
﹂
﹁い、いや、だから。私は知らないしぃ﹂
﹁ケチな奴ね
!
なさいよ
﹂
﹁いた、いたた
人里の噂話に詳しいんでしょ、教え
!
髪引っ張らないでよぉ﹂
﹁ナズーリンから聞いたわよ
割に元気いっぱい、赤マントの少女に食って掛かっている。
して来たようだ。顔に巻かれた包帯と吊るした腕が痛々しい。その
土砂に巻き込まれ永遠亭に入院していたはずだが、どうやら抜け出
めていた。
リリカは赤髪マントの少女を掴みかからんばかりの勢いで問い詰
リリカである。
﹁変なアダ名付けないでよぉ﹂
!
た。
﹁ちょ、ちょっとリリカ、やめなさいよ
妹が失礼しました﹂
鳴を上げた。
﹁ルナサ姉さん⋮⋮
﹂
そこの人、ごめんなさい、
リリカはルナサを見ると泣き出してしまった。
﹁どうしたの、リリカ﹂
﹂
!
もしかして、あのトランペットの少年のこと
﹁姉さん、あいつがいないの、いないのよ
﹁あいつ
﹂
力ずくで引っぺがすと、赤マントの少女は尻もちをついて小さく悲
!
とうとう本当に掴み掛かり始めたので、ルナサは慌てて止めに入っ
!
わ。いつも無料のライブのときにしか来なかったじゃない﹂
﹁リリカ、冷静になって。あの子が昨日のライブに来ているわけない
いるらしい。
どうやらリリカはあの少年が事故に巻き込まれたのだと心配して
たのだった。
リリカは最近、件の少年にトランペットの吹き方を教えてやってい
?
!
266
!
!
?
﹁そ、そうなの
⋮⋮よかった﹂
リリカは安堵して胸を撫で下ろした。
﹁そうよ。安心なさい。それより、メルランが居ないのよ。人里に来
ていると思ったんだけど⋮⋮﹂
メルラン・プリズム
件の少年に会いに来ていると思ったのだが、考えてみれば、ルナサ
も少年の家を知らない。
﹁そこの貴女、私の妹を見かけませんでしたか
そんなハイカラな楽器持ってるの、あんた達くら
にして止めた。﹁何が人里の情報通よ
﹂
﹁んもう、使えない奴ね ﹂リリカが暴れるので、ルナサは羽交い締め
いだしぃ﹂
﹁トランペット
﹁なら、銀色のトランペットを持った少年は﹂
赤マントの少女は涙目で首を振った。
﹁いや。見てないしぃ。それより謝ってほしいしぃ﹂
れど﹂
リバーです。白い服を来て、金色のトランペットを持っているんだけ
?
﹁げぇッ、小鼠
﹂
﹂
﹁赤蛮奇じゃないか﹂
かなかった。
もう一度事故現場に行く事、ルナサは気乗りしなかったが、行くし
﹁山、ね⋮⋮﹂
﹁少し前、山で会ったわ﹂
か、知ってる
﹁ナズーリンに頼むしかないわね。リリカ、ナズーリンは何処にいる
い。
と言っても、里全てを当たっていたら時間がいくらあっても足りな
探すしかない。
どうやら、赤マントの少女も知らないようだ。
﹁な、なんでそんなこと言われなきゃいけないのよぉ⋮︰﹂
!
!
里に下りると、街道で赤蛮奇を見かけた。赤蛮奇は私と目が合うと
267
?
?
?
!
眉をひそめた。なんだか良い印象を持たれていないようだな。
﹁丁度良かった。赤蛮奇、リリカ・プリズムリバーを見かけなかったか
君なら知っているだろう、プリズムリバー音楽団の末っ子で、赤
﹂
もうっ﹂
いドレスと流星のシンボルがトレードマークの﹂
﹁知ってるわよ
﹁⋮⋮なんで怒ってるんだ
﹁私を
﹂
てたみたい﹂
﹁妖怪の山に行くってさ。黒い方のお姉さんと一緒に、あんたを探し
赤蛮奇は腕を延ばすと、妖怪の山を指差した。
?
!
﹂
?
なんか、もう一人のお姉さん
?
﹁うん⋮⋮﹂
﹁まさか、演奏会に行ったのか
﹂
としぶしぶ言葉を発した。﹁昨日、さ﹂
﹁怪我したのよ、その⋮⋮﹂言い難そうに口ごもっていたが、私が促す
ている。
赤蛮奇は左足に包帯を巻いていた。よく見ると、少し足を引きずっ
﹁赤蛮奇、どうしたんだ。足に包帯を巻いて﹂
﹁な、なによぉ﹂
だ。
赤蛮奇は私に背を向けて歩いて行こうとしたが、私はその手を掴ん
﹁私はそれ以上何も知らないから。それじゃ﹂
陽も傾いて来た。そうとなったら、急いで山に戻らなければ。
見つける為に、ルナサは私を探していたのだろう。
廃人寸前だったメルランが何処かへ行ってしまったのか。彼女を
﹁メルランが
がいなくなったって言ってたし﹂
﹁早く行ったほうがいいんじゃない
参ったな。どうやら入れ違いになったらしい。
?
﹁私は運良く土砂崩れのコースから逸れていたから。でも、逃げる途
﹁よく、無事だったな﹂
私は言葉に詰まってしまった。
?
268
?
中で飛んできた岩にぶつかっちゃってね﹂語る赤蛮奇の表情は、暗い。
﹁本当、運が良かったんだ。後ろの方にいたから、なんとか正気にも戻
れたし⋮⋮あはは、安い席しか取れなかったのが、逆に幸運だったっ
てワケ﹂
そう言って、乾いた笑い声を上げる。
⋮⋮今、彼女はなんと言った
嫌な予感が頭を過る。
﹁⋮⋮赤蛮奇。正気とはなんだ
﹂
演奏会の最中に、何かあったのか
?
﹁何があったんだ
﹂
だし。誰も悪くないのは分かってるし⋮⋮﹂
﹁不可抗力なんだし。仕方なかったんだし。全部、運が悪かっただけ
﹁だから、なんだ﹂
ないし﹂
んな知ってたし、それを楽しんでもいたし。本当はこんな事言いたく
じゃないと思うし、これはある意味、演奏会の定番だったんだし。み
﹁私は彼女達を恨んでないし。土砂崩れが起きたのは彼女たちのせい
﹁そうだ﹂
リズムリバー三姉妹の依頼でさ﹂
﹁⋮⋮あんた、どうせ今回の事件も調べてるんでしょ。きっと、あのプ
躇った後、ゆっくりと話し始めた。いつになく重い声色だった。
た。し か し、私 の 視 線 か ら 逃 れ ら れ な い と 感 じ た の か、し ば ら く 躊
赤蛮奇はしまったという顔をして私から視線を外すと、体を揺らし
が、問わずにいられなかった。
震える声を抑えて、私は問うた。本当は答えを聞きたくなかった
?
パ ー ト だ っ た の よ。知 っ て る で し ょ 彼 女 の 音 色 は。み ん な ハ イ
﹁土砂崩れが襲った瞬間の曲目は、メルラン・プリズムリバーの独奏
赤蛮奇の胸ぐらを掴むと、彼女はぎこちなく唇を動かした。
!
な、なんて事だ⋮⋮。
﹁それが⋮⋮あの被害規模の理由か
﹂
になっちゃって⋮⋮土砂崩れが迫っても避難出来なかったんだよ﹂
?
!
269
?
だから生存者達の証言が、一様に要領を得なかったのか。
だからプリズムリバー三姉妹は、過剰なまでに責任を感じていたの
か。
土砂崩れが起こったのは事故に違いないが⋮⋮それを人災が拡大
していたとは。
﹁私は本当に運が良かったの。土砂が迫った時、音が聞こえて⋮⋮そ
れが雑音になって、躁のメロディが少し弱まったの。だから、後ろの
﹂
ほうに居た私は、逃げることが出来たのよ﹂
﹁音が聞こえただって
﹁うん。ステージの裏手の崖の方から⋮⋮誰か、あそこに居たんだ﹂
それが、ルナサの言っていた﹁最後の瞬間の音﹂の正体⋮⋮。
空は既に茜色に染まっている。
私は走っていた。
ペンデュラム・ダウジングが示したメルランの居場所、すなわち、事
故現場である演奏会会場、その裏手にそびえる崖の上へと。
﹃まだ耳に残ってる、あの音が途切れる瞬間﹄
赤蛮奇の言葉が、耳の中で反響を繰り返している。
﹃きっと、土砂に呑まれるその瞬間まで演奏していたんだ﹄
メルラン。
﹃あの曲⋮⋮私も知っている曲。﹁二度目の風葬﹂﹄
まさか、気づいていたのか。
﹃ぎこちない音だったけど、あの音は、そう⋮⋮トランペットの音色
だった﹄
﹂
崖の上で演奏していたのは⋮⋮。
﹁メルラン
大きな岩の前に、メルランは跪いていた。
その両手の爪は剥がれ、指先の皮膚は破れ、流れ出した血で赤く染
まっている。手で土を掻き分けたのだろう。岩の前には大きな穴が
出来ている。まるで墓穴のように。
動悸が早まるのを感じる。
270
?
崖上、土砂崩れの傷跡が刻まれたこの地。夕日に赤く染まる。
!
﹁ナズーリン⋮⋮﹂
メルランの平坦な声が響く。彼女は振り返らなかった。じっと何
かを見つめている。何かを。彼女は何かを手にしていた。
途切れた風の残響だけが、耳鳴りのように木霊している。気が狂い
そうな程の静寂。
意を決し、私は彼女へ近づいた。
メルランは泥だらけで、トランペットを手にしていた。
そのトランペットには、もう一本の手が添えられていた。メルラン
と二人、支え合うようにして。
視線がたどる、もう一本の腕の先。
それは、大地だった。
腕は地面から伸びていたのだ。土と汚水と血と肉と脳漿が混じり
合った地面の中から。
それを見慣れた私でさえも、思わず口元に手をやり、一歩後ずさり
かのように、メルランが振り返ってしまった。
271
した。
一見しただけでは、それが元々人間であったのだと認識する事は出
来なかった。砕けた白い骨と赤紫色の肉片が土と混ざり合い、気味の
悪い色をした土塊となっている。血で湿り気を帯びたそれは鼻の曲
がるような悪臭を放ち、暮れなずむ空から差し込む赤光で紅く紅く彩
られていた。
それに姉さんも﹂
絶望色をした墓穴の中で、トランペットだけが奇跡のように銀色に
輝いている。
﹁ナズーリン
﹂
!
私は必死に声を絞り出して止めようとしたが、その行為をあざ笑う
﹁リリカ、駄目だ、来るな
リリカとルナサが、手を振りながらこちらへ向かって来た。
響いたリリカの声、まさに悪夢と言う他無い。
﹁リ、リリカ⋮⋮﹂
それは今、最も聞きたくない声だった。
静寂を破るそ声に私の心臓は数秒鼓動を止めた。
!
﹁リリカ⋮⋮ごめんね⋮⋮﹂
﹁姉さん、ど、どうしたの⋮⋮
なんで
﹂
﹂
なんであいつがここにいるのよ
いて、泥だらけになりながら、涙を流して叫んだ。
﹁なんでよ
﹁リリカ⋮⋮﹂
!
﹂
あいつは絶対来てないって、そう言って
なのに⋮⋮なんで、なんでなのよ
﹁ルナサ姉さんの嘘つき
たじゃない
﹁リリカ、リリカ⋮⋮﹂
﹂
駆け寄ろうとしたのか、リリカは転んだ。土の中をもがいて、もが
ルナサは顔面を蒼白にして、体を小刻みに震わせた。
リリカは両手で頭を抱え、絹を裂く悲鳴を上げた。
気付いたのだろう。
﹁あ、ああ⋮⋮﹂
て、地面に落ちた。
トランペットに付いていた三姉妹のマスコットが揺れて、ちぎれ
風が吹いた。
﹁誰か、死んでるの⋮⋮
がっていることに気付いて、息を飲んだ。
が、メルランの持つ銀色のトランペットに千切れた人間の腕がぶら下
最初、リリカとルナサはメルランのただならぬ様子に驚いたようだ
?
阿鼻叫喚の地獄絵図の中。一人、メルランだけは呆けたように表情
を失くしていた。
﹂
なのに⋮⋮
﹁なんでよ なんでメルラン姉さんはそんなに平気な顔してられる
のよ
﹁リリカ、やめて⋮⋮﹂
﹂
﹁あんなにメルラン姉さんのこと慕ってたじゃない
なんでなのよーっ
リリカの絶叫に、メルランは静かに口を開いた。
﹁なんでだろうね。私にも分からないの﹂
悲しい顔で、にっこりと微笑んで。
!
!
272
?
ルナサは顔を背け、暴れるリリカを必死で押さえていた。
!
!
!
!
!
!
!
!
その瞬間、リリカはルナサをはねのけると、猛烈な勢いでメルラン
に駆け寄り、その頬をはたいた。
パアン。
大きな音が響いて、メルランの頬の上でリリカの涙が弾けた。
私が止めに入る間もなかった。
﹁姉さんがあんな曲弾かなければ、こんな事にはならなかったのよ
のせいよ
﹂
作業現場にはまだたくさんの妖怪達が作業をしていた。彼らの働
﹁あ、ああ⋮⋮そうだね﹂
かってくれ﹂
﹁ヤ マ メ。も う す ぐ 日 が 暮 れ る。今 日 は こ れ ま で だ ろ う。撤 収 に か
私はヤマメの方に振り返って、出来るだけ平静な声を出した。
た。
サに、術無く立ち尽くす私。ヤマメがうろたえるのも当然の光景だっ
していた。泣きじゃくるリリカと、地面に座り込んで頭を抱えるルナ
悲鳴を聞いて駆けつけたのだろう、ヤマメが眉をひそめて立ち尽く
﹁な、ナズーリン⋮⋮何があったんだい、一体﹂
た。
残された銀色のトランペットを抱いて、リリカは泣きじゃくってい
た。
笑いながら、メルランは森の中へふらふらと消えて行ってしまっ
んだわ⋮⋮﹂
い。そうよ。最初から壊れちゃってれば、こんな思いをせずに済んだ
ていた。﹁いや⋮⋮もしかしたら私、最初から壊れてたのかもしれな
らへらと不気味な薄ら笑いを浮かべながら、至極楽しげに唇を動かし
﹁リリカ。私、壊れちゃったのかな。全然涙が出ないの﹂メルランはへ
がった。
我に返った私がリリカを引き離すと、メルランがすっくと立ち上
﹁やめろ、リリカ
﹂
たくさん人が死んで⋮⋮あいつも死んで⋮⋮みんなみんな、姉さん
!
きは素晴らしく、私が今日ダウジングしたすべての遺体を回収してく
273
!
!
れていた。
私達はリリカを仮設テントまで運んだ。元々、怪我をしていたこと
もあり、リリカは備え付けられたベッドの上で昏倒してしまった。
ヤマメは撤収指示を出すべく出ていったので、テントの中には私達
三人が残されていた。
比較的平静を保っていたルナサは、リリカの眠るベッドの端に腰掛
け、私にぽつりと漏らした。
﹁メルランはね。弱い子なの。いつも力の使い道を誤っていた。重圧
に負けそうになった時、自分自身にも躁の魔法を掛けていたのよ﹂
﹁自分、自身にも⋮⋮﹂
﹁いつもの事なのよ。私達は知っていた。何度も止めたけど、メルラ
ンはやめることが出来なくて⋮⋮﹂
少年もそれを知っていたのだ。
だからあれほど、メルランを心配していたのだろう。
274
だから少年は、危険な妖怪の山まで一人でやって来たのだ。
﹁リリカ、頑張ってメルランを超えようとしていたでしょ。あれはい
ざという時、私達がメルランを止めなければならなかったからよ﹂
﹁あの演奏勝負には、そんな意味があったのか⋮⋮﹂
こくりとルナサは頷いた。
﹁でも、駄目だった。メルランは私達姉妹の中で最強の魔法力を持っ
て い る の。私 と リ リ カ が 束 に な っ て か か っ て も 敵 わ な い く ら い の。
昨日、あの瞬間も⋮⋮私もリリカも、もちろんメルラン自身も、メル
ランの魔法の暴走を止めようとして失敗した。あの子がトランペッ
トを吹いて邪魔してくれなかったら、被害はもっともっと拡大してい
た⋮⋮﹂
ルナサは立ち上がった。
﹂
﹁ナズーリン。リリカをお願い﹂
﹁君は
強い意志に満ちた顔でそう言うと、ルナサはテントを後にした。ル
てあげなきゃ⋮⋮﹂
﹁メルランを一人にしておくわけにはいかない。姉の私が迎えに行っ
?
ナサは、強かった。
少し、息を吐く。
地図を見返してみると、どうやら天狗達の警備は会場周辺の狭い範
囲に限られていたらしい。それをどうにかして知った少年は、会場を
見渡せるあの崖の上から、演奏会を覗いていたのだろう。
馬鹿な奴だ。そんな危険な事をして⋮⋮。
私は銀色のトランペットを手にとった。
その表面には幾つもの細かな傷跡が付いていて、輝きは鈍い。
﹁出世払いしてくれるんじゃなかったのかよ、馬鹿野郎⋮⋮﹂
あの生意気な少年が死んだ事、未だ幻想のように思えた。
溜め息を一つ吐いて、私は立ち上りテントを出た。気が滅入ってい
たので、体を動かしたかった。撤収作業を手伝おうと思ったのだ。
命蓮寺の面々は、皆一様に疲れた顔をしていた。彼女達もこれだけ
大きな災害に当たった事が無かったのだ。
﹁皆、ありがとう。現場の夜警は白狼天狗が買って出てくれた。今日
は撤収しよう﹂
声をかけても、うめき声にも似た声が上がるばかりだった。
私は現場に置かれたショベルや鋤、スコップなどを拾い集め、テン
トに納めた。また明日も使う事になるのだろう。その明日も、そのま
た明日も、その次の日にも。
掘り出された遺体を筵で包んで、仮設テントの下に並べてゆく。明
日には里の人間達に見せて、身元の特定を行わなければならない。今
が秋だとは言え、遺体をそのままにしておけば病が流行るかもしれな
い。出 来 る だ け 早 い 内 に 焼 く か 埋 め る か し な け れ ば な ら な い の だ。
遺留品も重要なので、失くさぬように一緒に並べる。ぐちゃぐちゃに
なって原型を留めていない遺体も多い。身元の特定は遺留品に頼る
ことになるだろう。これからの作業を思うと、頭痛がしてくる。
﹁ナズーリン⋮⋮﹂
﹁星か﹂
もう日もすっかり暮れてしまった頃。篝火の下で少し休憩してい
た私の元へ、星がやって来た。
275
星は泥だらけで汗塗れの酷い姿だが、その顔は穏やかで、清らかな
光背を負っていた。星が居てくれてよかった、心からそう思う。
﹁プリズムリバー三姉妹の事、聞きました。大切な人が亡くなったと﹂
﹁うん⋮⋮﹂
星はそれ以上何も言わず、私の隣に座った。
じっと篝火を見つめている。
まるであの頃と同じだ。
﹁なあ、星﹂言葉が口を突いて出た。﹁人がさ、自分の死が迫ったその
時に。自分以外の誰かの為に何かをするっていうのは、やっぱり尊い
事なのかな﹂
﹁自己犠牲、ですか﹂
﹁うん⋮⋮﹂
あの少年は土砂に巻き込まれる直前、何故トランペットを吹いてい
たのか。
276
きっと、メルランの躁のメロディを止める為だったのだ。
自分の背後にも土砂が迫っているというのに、会場にいた人々を救
うために。
それはきっと、すごい事なのだと思う。
だが一方で、こうも思うのだ。
君を愛する人々の為に、せめて君だけでも逃げてくれていればよ
かったのに、と。
﹁私にはどうしても分からないんだ。どうして人間がそんなことをす
るのか﹂
﹂
星はくすりと笑みを漏らした。
﹁何が可笑しいんだい
そんな事もあったな。
戦に巻き込まれた時、凶悪な妖怪と戦った時﹂
りましたね。聖が封印されたあの時はもちろん、野盗に襲われた時、
﹁ねえ、ナズーリン。私達も過去に何度も死線の縁に立ったことがあ
﹁悪かったな﹂
﹁ナズーリンは、おかしな人ですね。そんな事も分からないなんて﹂
?
﹁そ の 度 に 貴 女 は、そ の 身 を 挺 し て 戦 っ て く れ ま し た。時 に は 私 を
庇って傷ついた事もありましたね﹂
﹁君だってそうだろ﹂
﹁でもそれって、同じ事じゃないですか﹂
﹁私は無我夢中だっただけさ。誰かを救おうだとか、自己犠牲だとか。
そんな高尚な事、考えちゃいない。ただ、君を死なすわけにはいかな
だからきっと、みんな同じなんですよ﹂
い、そう思っただけさ﹂
星は頷いた。
﹁私も同じです。ね
⋮⋮そう、か。
﹂
﹁そうだな。ヤマメ、今日は命蓮寺に泊まるといい。いいだろう、星
﹁みんなに解散を告げてきた。あんたも早く休みな﹂
﹁ナズーリン、撤収準備が完了したよ﹂ヤマメがテントから出てきた。
あの時、あの瞬間。少年も、きっと。
?
﹁もちろんですよ﹂
﹁おっ、本当かい。助かったよ、テントのうっすい寝袋で寝ることにな
ると思ってたからさあ﹂
まあ、命蓮寺の布団も薄いのだがな。
﹁私はリリカが目覚めてから戻る。先に行ってくれ﹂
命蓮寺勢とヤマメを送り出して、私はリリカの眠るテントに入っ
た。
﹂
リリカは既に目覚めていて、銀色のトランペットを食い入るように
見つめていた。
﹁リリカ⋮⋮﹂
﹁姉さん達は⋮⋮
リリカは無反応だった。
日は命蓮寺に泊まっていけよ。響子も喜ぶ﹂
﹁まだ連絡は無い。なに、心配は要らない。私も後で探す。リリカ、今
ていないだろう。
問を発しても、リリカは視線を動かさない。私が首を振ったのも見
?
277
?
仕方なくリリカを背負おうと手を差し伸べると、リリカはその手を
力なく払いのけた。
﹁自分で歩けるから⋮⋮﹂
里へと続く山道をリリカと二人、歩く。押し黙って。
天上には既に丸い月が黄金色に輝いている。
暗くなっても、川縁には篝火が焚かれ、河童達が捜索作業を続けて
いた。河童達は一つの事に夢中になると見境がなくなってしまうの
だ。だが、それだけではないのかもしれない。同胞を失った痛みを作
業に熱中することで紛らわしているのだろうか。
﹁たくさん、死んだのね⋮⋮﹂
リリカが呟く。沈黙に耐えられなくなったのかもしれない。
﹁あいつがこれを吹かなきゃ、もっとたくさん死んでいた⋮⋮﹂
黄金の月を映すトランペットを見つめて。
﹁トランペットの音が途切れるの、私も聞いていた。あいつ、自分も危
278
ないのに、みんなを助けるために⋮⋮。あいつは英雄だわ。私にはと
ても、真似出来ない﹂
﹂
﹁そうかな﹂
﹁えっ⋮⋮
里の入り口付近の街道から、ふらふらと宙を舞う丸い影があったの
私の言葉は、驚きによって断ち切られた。
﹁あの子の最後の願いは、きっと⋮⋮﹂
スコットをその手の中にそっと置いた。
私は立ち止まってリリカの手を取り、はずれてしまった三姉妹のマ
好きで、そして君たちプリズムリバー三姉妹が好きだった﹂
の普通の男の子だったんじゃないかな。あの子は馬鹿で、メルランが
いうのにさ﹂リリカの頭を小突いて。﹁英雄でもなんでもない。ただ
メルランを慕っていた。目の前に他にも魅力的な女の子がいるって
もっぱら胸囲ってところも馬鹿らしい。そして何より、馬鹿みたいに
口が悪くて、女の子の扱いもなってない。女性の価値の判断基準が
﹁私が知ってるあの子は、ただの馬鹿な少年だった。ぶっきらぼうで
私の言葉に、リリカは眉をひそめた。
?
だ。
丸い影は私達を認めると、こちらへ向かって飛んできたが、途中で
地面に墜落してしまった。
﹁赤蛮奇か、どうした﹂
慌てて駆け寄ると、首だけの赤蛮奇が大きく息をした。
﹁ナズーリン⋮⋮﹂
﹁身体はどうしたんだ﹂
赤蛮奇はかなり弱っているようだった。玉のような汗を額に浮か
べている。
﹂
﹁里の人達が⋮⋮﹂
﹁里
言われて、里の方を見やる。
夜の静寂に包まれた街並み。だが何故か、胸にちくちくと予感が走
る。
この感じ⋮⋮まさか、妖気か。
﹁⋮⋮何があった﹂
持っていた水筒の水を飲ませると、赤蛮奇は少し咳き込みながら
言った。
﹂
﹁連れ去られたのよ。みんな、あの音色に惹かれて⋮︰⋮﹂
﹁音色⋮⋮﹂
﹂
﹁メルラン・プリズムリバーのトランペットよ
﹁ね、姉さんが
!
﹁な、なんだ
﹂
山の方から、高らかなトランペットの音が響き渡った。
リリカが驚愕の声を発したその時。
?
!
ていくような気さえしてくる。
﹁こ、これは⋮⋮この曲は、封印したはずの⋮⋮
﹂
こえた。その音を聞いているだけで心がかき乱され、脳細胞が死滅し
る旋律。いや、それは旋律を超えて、何か禍々しい呪文のようにも聞
色。時に荒波のように掠れ、時に大きなうねりを伴い、瞬き、爆発す
刺すように激しく、舞うように軽やかに目まぐるしく変わるその音
?
279
?
リリカが戦慄に体を震わせた。
﹁メルラン、なのか⋮⋮﹂
赤蛮奇は頭が痛むのか、眉間に深い皺を寄せている。そういえば、
私も頭痛を覚えている。この音には精神に干渉する魔法が掛けられ
ているのだ。
﹁いきなり町中でトランペットを吹き始めて⋮⋮そしたらみんな、操
られたみたいにあいつの後についていっちゃったんだ。私は距離も
﹂
遠かったし、なんとか首だけ飛ばして逃げて来られたけど⋮⋮﹂
﹁ハーメルンの笛吹きか⋮⋮
﹂
﹁ナズーリン、あいつ、普通じゃなかったし。目を血走らせて、髪を振
り乱して⋮⋮ホントの悪魔みたいな形相だった﹂
﹁メルラン姉さん⋮⋮まさかまた、自分に魔法を⋮⋮
リリカが呟く。
そうか。
迂闊だった。
私は頷いた。賢将を放ち、命蓮寺へと連絡に向かわせる。
赤蛮奇が辛そうな顔で言う。
﹁ナズーリン、早く行かないとヤバいよ、里の人達が⋮⋮﹂
メルランは人間を誘拐して、一体何をするつもりなのか。
里の人間が誘拐されたとあれば、最早、これは異変だ。
私は唇を噛んだ。
に、自分自身に魔法を掛けたのだ。自分の心を壊すために⋮⋮
少年の死に衝撃を受けたメルランは、その心の傷から逃避するため
メルランの言葉が蘇る。
││最初から壊れちゃってれば⋮⋮。
私達はそれを予想すべきだった。
それが重圧から逃れる、彼女のお決まりの方法なのだ。
演奏会の度に自分に魔法を掛けていたメルランならやりかねない。
!
私の言葉に、リリカは俯いた。
けだ﹂
﹁リリカ。一緒に来てくれ。メルランを止められるのは君とルナサだ
!
280
!
﹁無理よ⋮⋮知ってるでしょ。私じゃメルラン姉さんに敵わない。た
とえルナサ姉さんと力を合わせたって⋮⋮﹂
﹁だが、メルランを救うにはそれしかない﹂
﹁行ったって、何も出来ないわ。メルラン姉さんの魔法力は本当に強
いの。メルラン姉さんが本気になったら⋮⋮逆に私達が取り込まれ
て、被害が拡大するだけなのよ﹂
リリカの頬が打たれ、乾いた音を立てた。
打ったのは、私だ。
﹁分からないのか。これは既に異変なんだ。博麗の巫女が出て来る。
放っておけば、メルランは退治されるだろう。救えるのは君達だけ
だ﹂
それでもなお、リリカは俯いたままだった。
その手から、トランペットが滑り落ちる。
﹁⋮⋮出来ない。私はあいつみたいにはなれないよ﹂
281
私は滑り落ちたトランペットを拾って、土埃を払った。
﹁リリカ。あの子の死を無駄にしないでくれ。あの子の最期の願いを
﹂
叶えてやってくれ﹂
﹁願い⋮⋮
なって私を阻んだ。即ち、音色に支配された妖精や有象無象共が空を
しかもそれだけではなかった。メルランの音色は物理的な現象と
的に強くなってゆく。
近づくにつれ凶悪さを増すメルランの音色。襲う頭痛も二次関数
有象無象がざわめく森の上を飛び抜ける。
月下。
赤蛮奇の頭を抱え、飛翔術を使って夜空を駆けた。
﹁先に行く。時間稼ぎは任せておけ﹂
けた。
銀色に輝くトランペットを再びリリカの手に握らせて、私は背を向
子の勇気と願いが詰まっているんだから﹂
い。だが、三人の音ならきっと勝てる。このトランペットには、あの
﹁確かに、君たち二人の音だけではメルランに敵わないのかもしれな
?
飛び、襲いかかってきたのである。
私は小傘のロッドでそれらを軽くいなした。所詮は有象無象、弾幕
﹂
を張るまでもない。回転し、ジグザグの軌跡を描きながら、私達はメ
ルランの元へと急いだ
﹁見えたよ、ナズーリン
赤蛮奇が鋭く叫ぶ。
予想通り、メルランは演奏会会場の中央に居た。
ステージの残骸の上で、月に向かってトランペットを高らかに吹き
鳴らしている。髪を激しく振り乱し、血走った目玉がぐるぐると回転
していた。ボロボロの衣をまとったその姿は、悪鬼という他ない。半
裸でくるくる踊り狂いながら一心不乱に禍々しい曲を演奏している。
ステージの下では、目を疑う程の大群衆がメルランと同じ様に踊り
狂っている。人間だけではない。事故現場を警備していた白狼天狗
達も混じっていた。これほど多くの人妖を支配するなんて、メルラン
の魔法力の強さは誇張ではなかったようだ。老若男女問わず、そろっ
て目は虚ろで、口からよだれを垂れ流し、地団駄を踏むように激しく
踊っている。踏み鳴らされた大地が大きく揺れ、低い低い唸り声を上
げた。
この振動。まるで地震だ。
時間を掛ければ、もう一度土砂崩れが起こるかもしれない。
﹁まさか、あの瞬間の再現をするつもりか﹂
﹂
メルランの目的は、この群衆と一緒にもう一度土砂に呑まれる事な
のか。
﹁無理心中なんて、悪趣味だし
ヴァイオリンの音色をぶつけている。
破壊されたステージ上に現れたルナサは、メルランと対峙してその
ルナサだ。
幽玄なるヴァイオリンの音曲。
赤蛮奇がそう言った瞬間、夜空をもう一つの音が満たした。
﹁でもどうするの、ナズーリン。これ以上は私達も近づけないし﹂
赤蛮奇も怒りを露わにしている。
!
282
!
激しくテンポの変わるトランペット曲とは正反対に、一貫して落ち
着いたテンポのヴァイオリンの音色。相反する音が混じり合い、魔法
の効力が弱まったのか、頭痛が引いた。同時に、踊り狂っていた大観
衆もその動きを鈍くする。
﹂
だがメルランが不気味に微笑み腕を延ばすと、観衆がステージをよ
時間を稼ぐんだ
じ登り、演奏を続けるルナサに襲いかかり始めた。
﹁赤蛮奇、ルナサを援護してくれ
﹂
!
﹁事ここに至っては仕方がありません。それに⋮⋮﹂その瞳が妖しく
早苗は悲しげに首を振った。
﹁君も同じ意見か、早苗﹂
相変わらず、抜き身の真剣みたいな壮絶な顔をして言う。
る。邪魔をするなら、あんたも退治するまで﹂
御 幣 を 突 き 付 け て。﹁も う 人 が 死 ぬ の は た く さ ん よ。騒 霊 は 退 治 す
﹁これは異変よ。もう一度、あの事故を起こすわけにはいかない﹂私に
﹁悪いが、退くことは出来ない﹂
凍れるような霊夢の声。
﹁退きなさい、小鼠﹂
その後ろには、大幣を握りしめた早苗も来ている。
博麗霊夢である。
それは、異変の解決人。
﹁来たな﹂
落とした。
私はメルランとの射線上に陣取ると、ロッドを回転させて札を叩き
大量に飛来した赤光を放つ札が、群衆達を押さえつける。
夜空を切り裂く赤い光。
﹁私は⋮⋮﹂
妖怪、メルランの呪縛が弱まった隙を突いて体を取り戻したようだ。
回転する赤蛮奇の頭を、飛び出した彼女の体がキャッチする。流石
﹁あんたはどうするのよぉ
赤蛮奇の頭をルナサに向かって投げつけた。
!
光った。﹁やはり妖怪退治は、楽しいものですから﹂
283
!
目が据わっている。
早苗もやる気のようだ。覚悟を決めたのだろう。
﹁ニ対一、か﹂
﹁あんたごとき小鼠に、時間を掛けるつもりはない﹂
霊夢は御幣を両手で構えて、全身に力を込めるように緊張させた。
彼女の体が虹の帯に包まれ、光り輝くその帯はやがて体から離れ、幾
つかの光球に収束を始める。ぐるぐると渦を巻く極光色の球体が、魔
笛の鳴り響く夜空を傾く月よりも明るく照らした。
博麗の巫女の奥義、夢想封印である。
あ れ を ま と も に 喰 ら っ た 妖 怪 は 骨 も 残 ら な い と も っ ぱ ら の 噂 だ。
まして今のこの状況は、遊び半分の弾幕ごっこではない。霊夢はその
威力に歯止めをかけていないだろう。
早苗も黄緑色に輝く異常に密度の濃い風をその身に纏い始めてい
る。
284
こんなことなら、星から宝塔を借りておけばよかったのだが。今更
後悔しても何も始まらない。
たかが鼠が、笑わせるわ﹂
﹁⋮⋮仕方ないな。私も奥の手を使うしかない﹂
﹁奥の手⋮⋮
空を撫ぜるように腕を動かせば、虹色の光の帯がはためき、夢想封
い光は、見る間に虹色の光へと変わる。
私は息を整えると、ペンデュラムに術力を送り込んだ。放たれる赤
描いて私へと殺到する。
投げつけて来た。光球達はそれぞれ輝く光の尾を引き、複雑な軌道を
異常を察知した霊夢は、迷うこと無く夢想封印の光球を私めがけて
き赤き龍こそがよく似合う。
り、夜空に龍が如く浮かび上がった。禍々しき魔笛の音には、禍々し
ンは、燃えるような赤い輝きを放っている。その光は禍々しくうね
私が取り出したナズーリンペンデュラム・エンシェントエディショ
﹁な、何よ、その光は﹂
わった。
嘲笑う霊夢だが、私が懐から取り出したものを見やると、顔色が変
?
な、なぜあんたが⋮⋮
印の光球に干渉して爆発した。
﹁それは、夢想封印
﹁借り物だがね﹂
翻して相殺する。
﹂
﹁ただの鼠じゃないと思ってはいましたけど⋮⋮
風の刃が連続して放たれる。
﹂
その絶大な魔法力を己自身に向けたメルランは、完全に心を砕き、
メルランは完全に狂っていた。
一筋の流星が天駆ける。
有象無象が飛び交う、恐るべき魔の森の上。
﹁慌てるな。パーティの主役は私達じゃあない。ホレ、主役が来たぞ﹂
つ、私は空の彼方に目をやった。
爆光の合間を縫って突撃してくる霊夢と早苗を光の帯で牽制しつ
切れないほどの爆発が夜空を彩る。
つ、四つ、五つ⋮⋮神気に満ち溢れた風と光の帯がせめぎあい、数え
事は難しい。光の帯で防御出来なければやられていたところだ。三
回避運動を行うも、私の速度では早苗の本気の攻撃を全て避けきる
!
空振りした私の隙に、早苗が風の塊を投げつけて来るが、光の帯を
らの体を移動して相手の攻撃を無効化する、反則に近い技だと言う。
博麗の巫女のもう一つの奥義である。この時空とは別の時空に自
﹁これが夢想天生か﹂
るが、手応えが無い。
霊夢の体が半透明に透けている。ロッドは霊夢の体を貫通してい
霊夢の胴を捉えたはずのロッドはしかし、不自然に空を切った。
た。
急加速して霊夢の懐に飛び込んだ私は、小傘のロッドを突き出し
その隙を逃す私ではない。
いる。
どうやら、霊夢は自らの力の源を理解していないらしい。狼狽えて
!
自我を捨て去っていたのだ。実の姉であるルナサに向かって、殺気の
285
!
篭った弾幕を展開している。
ルナサはヴァイオリンを奏でつつ、その弾幕を相殺することに努め
ていた。だが、生来の実力差に加え、今のメルランには容赦が無い。
自らの使役する人間達が巻き込まれようとお構いなしの攻撃をして
くる。実は妖怪だったらしい赤マントの少女も加勢して、二人で防御
をしているが、限界が近い。赤マントの少女は息切れし、ルナサも疲
労を覚え始めていた。
加えて、メルランの演奏は時間が経つ毎に強力になっていった。締
め付けるような頭痛がルナサの動きを鈍くする。一瞬でも気を抜け
ば、ルナサも使役される側に回ってしまうだろう。
﹂
上空のナズーリンも巫女二人の相手に手一杯で、こちらに加勢出来
冷静になって、正気に戻って
そうになかった。
﹁メルラン⋮⋮
﹁リリカ
﹂
降り注ぎ、メルランとルナサの間に降り立った。
ルナサが悲痛な覚悟を決めかけていたその時、空から一筋の流星が
てでもメルランを止めなければならない。
これ以上、妹の為に人間を傷つけてはならない。この上は刺し違え
諦めが、ルナサの頭を過ぎった。
この状況。
いくら呼びかけても、メルランは反応すらしない。
!
ペットを掲げた。そのトランペットには、三姉妹のマスコットが再び
結び付けられていた。
それを見やったメルランは、ぴたりと動きを止めた。が、魔法力に
よって生み出されている魔曲は止まることはない。
﹁メルラン姉さん。あいつは死んだわ。もう二度と帰って来ない。姉
さんを支えてくれたあの子はもういないの。こんな事したって、なん
にもならないわ﹂
今にも泣き出しそうな、しかし凛として強さを持った声で。
﹁私 達 は 受 け 入 れ な き ゃ い け な い ん だ わ。私 達 が あ い つ を 殺 し た ん
286
!
リリカは隻眼でメルランを睨みつけると、手にした銀色のトラン
!
だ。私達が弱かったから⋮⋮
﹂
あいつは英雄なんかじゃない。ただの普通の男の子だ。
でしょ、姉さんの音が
﹂
落ちた。﹁好きだったからでしょ、姉さんの事が
好きだったから
みんなを助けたかったわけじゃない﹂リリカの瞳から、熱い涙が溢れ
か分かる
﹁姉さん。なんであいつが、自分の命を賭してトランペットを吹いた
撃ち抜かれて倒れ伏した。
ルナサと赤マントの少女は必死で防いだが、赤マントの少女が足を
メルランは構わず、レーザーを発し続けている。
もっと強く⋮⋮あいつに笑われないように﹂
﹁姉さん、もうやめましょう。私達は変わらなきゃならないんだわ。
ントの少女に弾かれ、地を焦がす。
を放った。ぐにゃりと曲がるレーザーは、リリカに当たる直前で赤マ
メルランは恐ろしい唸り声を上げると、リリカに向かってレーザー
!
!
ラン姉さん、自分に負けないで⋮⋮
﹂
﹁これは、勇気の歌よ。あいつはきっと、最期にこう願ったんだ。メル
の目に映った。
リリカがトランペットを構える姿だけが、やけにはっきりとルナサ
霞みゆく景色の中。
じゃない﹂
﹁メルラン姉さん、私、演奏するよ。でも今日奏でるのは、幻想の音楽
リリカは眼帯を放り投げ、腕に巻いた包帯を破り捨てた。
まった。途端、ルナサに激しい頭痛が襲いかかる。
レーザーを避けそこねたルナサは、ヴァイオリンを取り落としてし
!
まるであの時の再現だ、ルナサはそう思った。
不意に、リリカのトランペットは途切れた。
失っていた人々も、その音に耳をすませるように、リリカを見つめた。
前に禍々しい音曲は自らを恥じ入ったのか、音色をひそめた。正気を
それは美しく、幻想的で、勇壮で、優雅で、高貴だった。その音の
その曲の名は、二度目の風葬。
リリカのトランペットが高らかに鳴り響く。
!
287
?
たった一つだけ違うとすれば。
途切れたその音を継いで、トランペットが高らかに鳴り響いた事だ
ろう。震える手で、震える瞳で。メルランはトランペットを吹き鳴ら
していた。
魔笛の音は虚空に解け消え、後に残るのは澄み渡るトランペットの
音色。
曲が終わりを告げたその時、優しい夜明けの光に包まれた演奏会会
場は、大歓声に包まれたのだった。
﹁異変は解決した。メルランは自分自身に打ち勝ったんだ。最早、二
度と同じ事は起こらないだろう﹂
私がロッドを下ろすと、霊夢は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
﹁どうだか﹂一瞬で腑抜けた霊夢は、御幣で背中を掻きながら言う。
﹁でも、もういいわ。眠いし、飽きたし、疲れたし﹂
早苗は残念そうに言う。
﹁私、もう少しだけ、ナズーリンさんと本気で戦いたかったんですけ
ど﹂
なにこいつ、すごく怖い。やっぱり早苗は何処まで行っても早苗だ
な。
二人の巫女は地上に降り立った。誘導して里へ帰すのだろう。後
始末は彼女たちに任せて帰っちゃおうか、なんて悪どい考えが頭を過
る。が、赤蛮奇を残しているのでそうもいかなかった。
私はステージ上に降り立つと、怪我をした赤蛮奇に応急処置をし
て、肩を貸した。
﹁よくやってくれた。本当に助かったよ、ありがとう﹂
﹁うう⋮⋮悲しい話だしぃ⋮⋮﹂
赤蛮奇はリリカ達にもらい泣きして、それどころではないようだ。
私はメルランへ目を向けた。
銀色のトランペットを抱きしめて、透明な涙を流している。
その周りにはリリカとルナサが、メルランを支えるように彼女の肩
に手を置いていた。
288
この先もああやって、姉妹支え合って行くのだろう。
きっとそれが、あの少年の最期の願いなのだ。
それから。
しばらくしてプリズムリバー三姉妹は復活し、復帰記念と事故追悼
を兼ねた演奏会が太陽の畑にて行われる事になった。命蓮寺一同も
招待されたので、もちろん私も出席した。あの事故があったにも関わ
らず、演奏会は超満員になっていた。
演奏会のオープニングでは、メルラン・プリズムリバーによる独奏
﹁二度目の風葬﹂が奏でられた。その音色は途中で途切れ、自らの命を
投げうって危機を知らせた少年の勇気を讃えた。誰も正気を失うこ
とはなく、メルランは真剣な顔で粛々と演奏していた。⋮⋮まあ、厳
粛だったのはその曲くらいで、あとはプリズムリバーお得意の楽しい
演奏が待っていたのだが。鳥獣伎楽や九十九姉妹たちも加わってパ
ワーアップした演奏は大変好評で、彼女たちは先の演奏会の雪辱を見
事晴らしたのだった。
その後、途中で途切れるあの演奏は、彼女たちの演奏会で定番に
なったという。
あの音色。私達はいつまでも語り継いで行く。きっと私達は、永遠
に忘れないだろう。
それは、勇気の歌だ。
289
アジテーション・ホワイト ①
里の大路を往く風に、微かな騒めきが混じっている。
表を行く人の影は見当たらぬと云うのに、人々の言葉だけが活発に
飛び交っている。
朝の光は清々しいのに、この不穏な空気はなんだ。
がらんとした目抜通りの中心を我が物顏で闊歩する、普段は味わえ
ぬそんな贅沢を満喫しながらも、マミゾウは至極不機嫌だった。
く さ く さ し た 空 気 が 嫌 い だ。空 は か ら り と 晴 れ て い た 方 が い い。
人々はいつでも気ままに能天気であって欲しいと思う。そうでなけ
れば我々が存在する意味が無いではないか。妖怪は人間の暗部を請
け負う為に生まれたのだから。そう。人間が人を喰わぬよう、妖怪は
人を喰らうのだから。
今、人間の里に渦巻くこの漠然とした不安と憎悪。
人よりも遥かに永く生きてきたマミゾウにとって、それはある意
味、馴染み深いものである。過去に何度も経験をした。人々の間にこ
の風が吹き荒ぶ時、必ず何か良からぬ事が起こって来た。外界と隔絶
された幻想郷と言えど、これから起こる事はおそらく変わらないだろ
う。
そう。
そろそろ奴等が出現する頃合いである。
考えを巡らせながら歩いていた丁度その時。件のそれが姿を見せ
た。
﹁お、おいみんな、聞いたか。この前の土砂崩れの事件、どうやら何か
裏があるらしいぞ﹂
空き地に出来た人だかりに目をやると、みかん箱の上に立つ男が聴
衆に向かい何やら熱心に語り掛けていた。
﹁噂で聞いたんだが、この前の土砂崩れは、どうやら誰かがわざと引き
起こしたらしいんだ﹂
血色の良くない男が不安げな表情でまくし立てると、群衆にどよめ
きが広がった。
290
土砂崩れの事故。それは先日のプリズムリバー三姉妹の演奏会で
起こった、悲惨な事故である。死者数は人妖合わせて約六百と推定さ
れている。外の世界でも、これほどの規模の死者が出る事故は珍し
い。まして人の少ない幻想郷では。人里の人間が受けた衝撃たるや、
簡単には推し量れないものがある。
ただでさえ、原因不明の神隠しが頻発しているこの時期。
人里の人間がその方向に向かうのは、もはや歴史の必然と言っても
過言ではない。
即ち、不安から逃れるために、人間達は生贄探しを始めるのだ。
それを主導するのは奴等⋮⋮つまり、人々を愚行に駆り立てる扇動
者である。何時の時代も、何処の国でも、それは変わらないのだ。
﹂
﹁人 間 に 土 砂 崩 れ な ど 起 こ せ る は ず も な い。事 故 を 引 き 起 こ し た の
は、妖怪に違いないぞ
不安げな男がそう叫ぶと、群衆の間に言葉が走った。
やっぱり。
そうじゃないかと思ってた。
ちくしょう、妖怪どもめ⋮⋮。
あの人を返して
何を馬鹿なとマミゾウは思う。土砂崩れの事件では、人間だけでな
く妖怪にも大きな被害が出ているのだ。しかもあの天狗と河童に、で
ある。妖怪の山を牛耳る一大勢力の二つを同時に害するなど、有象無
象共には考えつきもしまい。妖怪の仕業と断じるのは早計なのであ
る。
だが、この馬鹿がまかり通るのが、今の状況だ。
人々はやがて怒号をそろえ、妖怪の排斥を訴え始めた。
マミゾウは笠を目深に被りなおすと、静かにその場から離れた。人
間の熱気と狂気を恐れたわけではない。それを嫌ったのだ。狂騒に
駆られた醜悪な姿は見るに堪えない。あれでは人間とは呼べない、ま
るで有象無象の妖怪に成り下がっているから。
しかし、喧噪から離れた理由はそれだけではない。
291
!
飛び交う言葉が徐々に怒号に変わってゆく。
!
小道の途中で立ち止まり、マミゾウは煙管を咥えた。
フッと煙を吐き出すと、素早く脇の垣根を飛び越え、その内側に身
を投じる。
音もなく着地したマミゾウは、鋭い目つきで油断無く敷地内を見回
したが、人の気配は無い。
庭を横切り、マミゾウは目の前の屋敷に近づいた。
正面、おそらく屋敷の主の書斎。
開きっぱなしの障子戸から、吊られて揺れる袴と白足袋が見える。
危惧した通りだった。
﹁遅かった、か⋮⋮﹂
吐き出した紫煙が空に昇った。
演奏会の出資者を調査してくれ。それがナズーリンから依頼され
た仕事である。彼女は今、事故現場の調査に掛かりっきりになってし
まっている。何せ、被害者数が多い。人里の調査はマミゾウがしてい
たのだ。
どうやらナズーリンは、演奏会の出資者があの事故の責任を問わ
れ、里の人間達に迫害されることを恐れたようだ。
その危惧通り、出資者の中年男性は首吊り死体になってしまってい
た。屋敷内には他にも人間の姿が見える⋮⋮床に転がったまま動か
ないが。家族も皆、死んでいるのだろう。
マミゾウの眼前で、吊られた男が左右に揺れる。
ぎしり、ぎしり。癇に障る音を立てながら。
普通に考えれば、出資者の男は自殺だろう。事故を起こした責任を
感じて、家族を道連れに無理心中を図ったというところか。
だが、この話は不自然である。
出資者の金の流れを追ったところ、そもそもこの男に演奏会の出資
を行うような金銭的余裕は無かったのである。それはこの屋敷を見
ても分かる。そう大きくはない。中流ではあったようだが、長者と呼
ぶには足りぬ。事実、この男は演奏会の出資のために方々に借金をし
ていた。回収出来なかったら首を括るしかないような額である。
しかも、今回の演奏会はこの男の単独出資だったと言う。
292
ルナサ・プリズムリバーに確認したところ、普段の演奏会では複数
の出資者を募るのだと言っていた。当然である。巨大な金が動くの
だ。金の回収に失敗した時のリスクは、一個人には大きすぎる。だか
ら複数の人間で分割出資を行い、リスクを下げるのだ。金を扱う者と
して当然の考え方である。
だが、今回は違った。出資者はたった一人、眼前にぶら下がる男の
み。しかも他の出資を断ったとも言う。わざわざリスクを大きくす
るような事をして、まるで死に急いでいたかのようである。
何故、この男はそんな真似をしたのか。
胸の内に確信が湧き上がる。
この男はある目的を持って演奏会の出資を行い、その上で口封じを
されたのだ。
賢者達。
ナズーリンの口にしていたその言葉が、マミゾウの頭の中にちらつ
293
く。
どうやら奴らは、手段を選ばないらしい。
マミゾウの胸に湧き上がった確信は、煮えたぎるようにその胸を熱
くする。
この懐かしい感覚。マミゾウは昔々、佐渡の侠客だった頃を思い出
していた。そう、これは義憤だ。己が欲望の為に策謀を巡らせ民を虐
げるなど、正に悪逆非道の極み。
﹁許せんな⋮⋮﹂
命蓮寺に居候している手前、ナズーリン達を手伝っていただけなの
だが、それだけではない理由がマミゾウにも出来始めている。
煙管を噛む口に力が篭もった。
こいつらは、気に入らない。
妖怪の動く理由は、ただそれだけで十分だった。
﹁死人に口無し、か﹂煙管の火を消し、マミゾウはつぶやいた。﹁じゃ
﹂
がそれは、外の世界での話じゃて。この幻想郷では、必ずしもそうで
はない。お主もそう思わんか
振り返ったマミゾウの瞳には、猫車を押す赤髪おさげの少女の姿が
?
映る。
地底の地獄猫、火焔猫燐。マミゾウの協力者である。
彼女なら、彼岸へ旅立つ前の魂と会話をすることが出来る。
﹁今日の分はこれで終わりだ、一輪﹂
﹁まったく⋮⋮﹂
一輪は愚痴でも言おうとしたのだろうが、寸前でその口をつぐん
だ。不謹慎だと思って自制したのだろう。だがそれは、過剰な自制だ
と思う。
﹁愚痴の一つくらいこぼしたところで、浄土は遠のかんよ﹂
﹁でもね、ナズーリン。なんだか死んだ人に申し訳ないじゃない﹂
﹁死なば皆仏。仏はその程度では腹を立てんよ。それより、いつもの
明るい君に戻らなければ仏達も心配して、浄土に旅立てなくなってし
まうぞ﹂
﹁そう⋮⋮ね﹂
一輪はその頭巾を取って、額の汗を拭った。湿り気を帯びた髪がざ
んばらに風に舞う。
昼下がりの命蓮寺の中庭は、運ばれてきた遺体によって満杯になっ
ていた。先日の演奏会で起きた事件の被害者達である。運ばれてき
た被害者は、無事身元の照会が終わり、遺族の立会の元、火葬される
者達だ。
幻想郷では命蓮寺が出現するまで寺院が存在せず、仏式の葬儀を望
む者は少ないだろうと踏んでいたのだが、それは誤算だったようだ。
幻想郷でも火葬を望むものは多く、それ故、大部分の遺体の葬式を命
蓮寺で挙げることになった。命蓮寺以外にこれほど多くの遺体を処
理できる組織が存在しないというのも大きかった。
葬式を挙げるのは構わないのだが、一つ問題がある。膨大な死者数
に、弔う側の人間が疲労を覚えているのだ。愚痴の一つでもこぼした
くなるほどに。何せ、弔う側の人間よりも死者数のほうがはるかに多
いのである。
加えて、妖怪の山にはいまだ捜索されるのを待つ遺体も眠ってい
294
る。そちらの捜索も続行しなければならない。命蓮寺の面々は過労
でやつれ始めていた。
﹁なら言っちゃうけど⋮⋮これだけ多いと、流石に辟易するわよね﹂
ため息混じりに一輪が漏らす。その後ろでは、見越し入道の雲山も
憂鬱そうな顔をしていた。
﹁最近、お葬式ばっかりだしね。人魚が喪主のお葬式に、自警団の人の
お葬式、あの身寄りのない子のお葬式もさ。この前は檀家のお葬式も
あったし。⋮⋮ああ、あれはそうか、つい先日だったわね。時間の感
覚が狂ってきちゃったわ。しかし、折角あんたが供養塚を立ててあげ
たのに、その途端にってのもね⋮⋮﹂
先日の一本杉での事件である。あの後、依頼人の檀家の老婆はすぐ
に病死してしまった。関わった私やファンクラブ会員のぬえが演奏
会に出席出来なかったのは、丁度その葬式があったからだ。
もしも、ぬえほどの力を持った大妖怪があの場所に居てくらていた
295
ら。詮無い事と分かっていても、ついそう考えてしまう。
一輪も暗い顔である。
﹁正直、気が滅入ってきたわ﹂
﹁だろうな。人を弔うのにも力が要る。あのご主人様ですら、よく愚
痴をこぼしていたくらいだよ﹂
﹁そう、か。あんた達、外ではずっとそんな事してたんですもんね。本
当、大変だったわね⋮⋮﹂
﹁だ が、今 日 か ら は も う 少 し 楽 に な る だ ろ う。聖 徳 王 か ら 申 し 出 が
商売敵じゃないの﹂
あってな。神霊廟の道士が葬儀を手伝ってくれることになった﹂
﹁え、神霊廟の
嘩するんじゃないぞ﹂
﹁私は調査があってここに居られないが⋮⋮くれぐれも道士連中と喧
イメージが強い。一輪の気持ちは分からんでもなかった。
神霊廟といえば、あの豊聡耳神子のせいで快楽主義者の集団という
それでも、一輪はちょっと嫌そうな顔をしていた。
て事に当たらねばな﹂
﹁そう言っている場合でもないだろう。今は非常事態だ。力を合わせ
?
﹁そんな元気も無いわよ﹂
虚ろな目で息を吐くその様子に、私はなんとなく不安を覚えてしま
う。
﹁⋮⋮一輪、無理はするなよ。適度に休むのも僧の務めだ﹂
﹂
﹂
ふと、一輪はじっと私の方を見つめた。普段は柔和なその顔を憂い
で一杯にしている。
﹁なんだよ、何かあるのかい
その視線に、私は少し狼狽えてしまった。
﹁あんたの方こそ、無理してるんじゃないの
私は慌ててそっぽを向いてごまかした。
命蓮寺のおっちょこちょい代表として名高い一輪だが、その実、よ
く気がついて気が回る女なのだ。
﹁私は大丈夫さ﹂
﹁嘘おっしゃい。あんた、しばらく前から働き詰めじゃないのさ。死
体 探 偵。あ ん た が 何 の 為 に そ ん な 事 し て る ん だ か 知 ら な い け れ ど
⋮⋮身体を壊したら元も子もないわよ﹂
﹁肝に銘じておくよ﹂
﹁あんたから見たら頼りないかもしれないけど。私も村紗も、響子に
ぬえにこころだって。声を掛けてくれれば、みんな喜んであんたの力
になるわよ。もっと頼ってくれたっていいから﹂
そんな君達だから、余計な疑心を与えたくないんだ。
そう口にする事も出来ずに、私は口をつぐむしかない。
﹁⋮⋮分かっている﹂
追求する一輪の視線を背中でかわして、私は命蓮寺を出た。
妖怪の山へ向かう。
天狗達の縄張りまで来ると、律儀な白狼天狗達が道を通せんぼして
来た。彼女達は私を見やると、またか、とうんざりした顔になった。
﹁姫海棠はたてに会いたい﹂
﹃花果子念報﹄を突き付けてお決まりの台詞を言うと、白狼天狗達の
目が死んだ。
ここ最近、同じやり取りを繰り返している。姫海棠はたては私に興
296
?
?
味が無いようで、いくら書状を送り付けても返答が無い。こうして会
いに来ても、いつも門前払いされてしまっていた。
賢者達の動きを秘密裏に報道する姫海棠はたて。彼女は確実に何
らかの手掛かりを握っている。私は何としても彼女に接触したかっ
た。
そんな私を、はたてはいつも同じ事を言って追い払った。
﹁射命丸文としか会うつもりは無い﹂
そう言うのである。はたては引きこもり気味だという噂だが、友人
にしか会わないと言うのはちょっと度が過ぎている気がする。
射命丸文を引っ張り出せばはたてに接触出来るのかもしれないが、
射命丸は賢者達の一員である可能性が高い。二の足を踏んでしまっ
ているのが現状だ。
可哀想な白狼天狗達は、結果が分かりきっていても一応は取り次が
なければならない。死んだ目をしながら天狗の里の奥へ駆けて行く
様を見て、ちょっとだけ申し訳なく思う。
やがて戻って来た白狼天狗の一人は、姫海棠はたては留守だと言っ
た。
また取材に出かけたのかと思ったが、どうやら、ここ数日程、家を
空けているらしい。何処かに旅行でも行っているのだろうか。
白狼天狗相手にごねても埒が明かないので、私は諦めて事故現場の
捜索に戻る事にした。
ルナサ達はあの崖の上に来ていた。
そこに簡素ながら墓を造った。あのトランペットの少年の墓であ
る。大きな岩の下にポツリと石を立てただけ、墓碑銘も何もない墓だ
が、自らの命を掛けて人々を救った英雄の墓とあって、献花も多い。
里の人間が記念碑を建てるという話も出ていた、ルナサ自身はあまり
気が進まないのだが。
リリカとメルランとルナサ。三人で白い花を供え、手を合わせた。
こうしていると、あの少年は本当に死んだのだとルナサは実感する。
おそらくリリカもメルランも、同じ想いだろう。
297
少年の死と向き合い、その想いを継いだ事で、リリカは強くなった。
大事な人の死から目を逸らし続けていたリリカはもういない。いつ
の日かきっと思い出してくれるだろう、大切なあの人の事も。
メルランはあれから持ち前の明るさを取り戻した。以前には欠け
ていた落ち着きも得て、今は安定感がある。
自分達姉妹はそれぞれに精神的な脆さを抱えている。そうルナサ
は感じていたのだが、あの事件以来、リリカとメルランはその壁を乗
り越えたようにも思えた。
しかし、ルナサは。
﹁メルラン、リリカ。先に戻っていてくれるかしら。私は少し、作業現
場に顔を出して行くわ﹂
ルナサがそう言うと、リリカは自分も行くと言いだしたが、メルラ
ンが引っ張って連れ帰ってくれた。
メルランはルナサの闇に気付いているのだ。
﹁残念ながら、人為的に起こされたと結論せざるを得ないでしょう﹂
射命丸文が自慢の文化帖に何事が速記しながら言う。その顔色は
暗く、いつものにやけた表情も鳴りを潜めている。
298
ルナサは、この事件をこのまま終わらせるつもりはなかった。
自分でも分かっている。過去に囚われた所で、未来には繋がらな
い。だが、どうしても憎しみを捨て去る事が出来ない。
この事故を引き起こしたのは、一体誰だ。
﹁事実だけ言わせてもらうよ﹂
黒谷ヤマメが眉根を寄せた厳しい顔をして言う。
﹁土砂崩れの発生地は、一本杉の辺りだと皆知っていると思う。その
土壌を詳しく調べたところ⋮⋮発破の跡が見つかった﹂
騒めきが小さな小屋を満たす。
﹂
無縁塚近く、ナズーリンの掘っ立て小屋にて行われた会議は、早く
なら、この事故は⋮⋮
も紛糾の兆しを見せていた。
﹁発破だと⋮⋮
!
詰めかけた関係者一同も、驚きを隠せない様子である。
上白沢慧音が怒りに言葉を詰まらせた。
?
﹁それが白狼天狗の記録した、局地的かつ極小規模の地震の正体とい
う訳です﹂
﹁見つかった爆薬の残骸を解析したところ、高度な時限装置が使われ
ていた事が分かった﹂
帽子を目深に被った河城にとりが、部屋の隅から声を上げた。
﹁知能の低い有象無象共には不可能な犯行だろう。ただし、相応の知
能と知識があれば、誰にでも発破装置の製作は可能だ。妖怪でも⋮⋮
もちろん人間でもね﹂
﹁妖怪が爆薬なんて使う必要はありません。弾幕を使えば事足りる。
この犯行は人間の仕業だと見るのが適切でしょう﹂
射命丸の意見は尤もであるが、慧音はそれでも喰ってかかった。
﹁人間の犯行だと決めつけるのは早計じゃないのか。弾幕の力が弱い
妖怪が爆弾を使ったのかもしれない﹂
﹁そうですよ﹂
﹂
んじゃないのかい﹂
﹁なんですって
いきり立つ早苗を、ナズーリンが制した。
!
299
東風谷早苗も口を揃えた。
﹁大体、時限装置で爆破だなんて、やり口が近代的じゃないですか。こ
の幻想郷でそんな技術を持っている存在は限られますよ﹂
その視線は明確ににとりと射命丸へ注がれている。確かに、この幻
想郷で技術力と言えば、まず挙がるのが河童と天狗である。
﹁自分の庭を爆破するほど天狗は酔狂じゃありませんよ﹂
﹁川を汚すような真似を河童がするかい﹂
当然、二者は否定した。尤もな意見だった。
守矢の跳ねっ返り娘さん。あんたがやった可能性だってある﹂
﹁それに技術力といえば、外から来たあんた達も十二分に怪しいだろ
う
﹂
!
﹁自分で事故を起こしてそれを収拾することで、名を上げようとした
﹁そんなこと⋮⋮
こい彼女の姿からは掛け離れている。
指で拳銃の形を作って早苗を射るにとり。その様は、普段の人懐っ
?
﹁早苗、落ち着いてくれ。にとりもやめるんだ﹂
﹁先に仕掛けて来たのはそちらさんだろうに﹂
にとりは悪びれた様子も無く、帽子の下に視線を隠した。
﹁私の考えを言おう﹂ナズーリンは静かに続けた。﹁私は、今回の事故
を里の人間が起こしたのだと考えている﹂
﹁そんな⋮⋮。里の人達にそんな技術、あるわけないですよ﹂
﹁山師の技術ってのは、あんたが考えてるよりずっと高度だよ。私が
保証してあげる。少なくとも、私と同じ技術を持っていれば発破は十
分に可能さ﹂
そうヤマメに駄目押しされても、早苗は口を尖らせていた。
﹁そして残念ながら﹂地図を広げ、ナズーリンが言う。﹁もう一つ根拠
がある。ヤマメ﹂
﹁今回の土砂崩れが辿ったルートをおさらいしよう﹂
ヤマメが地図を指示棒で辿る。その動きに、一同の視線が集まる。
君は知っているはずだな。先日起こった誘拐事件の折、身代金の受け
渡しに指定された場所だ。あの時は様々な茶々が入って、身代金の受
け渡し自体が有耶無耶になったが、あの場所が選ばれた不自然さは君
も感じていた事と思う。あの時の脅迫状は誰かが作った偽物だった。
脅迫状を届けた男は、自警団を名乗った人間の男だと言う﹂
慧音は顔を青くし、口許に手をやって震えた。
﹁じゃ、じゃあこの土砂崩れは、もしかして⋮⋮﹂
300
﹁一本杉の崖から崩れた大量の土砂が、山を下って演奏会会場を直撃
した﹂
杉のマークが描かれた地点からスルスルとめぐる指示棒の先は、
印の付いた演奏会会場に到達する。
﹁その先。勢いの止まらない土砂は、もう一つ崖を超えて、街道を叩き
潰し、川に注ぎ込んだ﹂
崖を乗り越え、街道を横切り、指示棒は川の辺りで止まる。
﹂
あっ、と声を上げたのは、藤原妹紅だ。
﹁ま、まさか⋮⋮
×
﹁気付いたようだな﹂ナズーリンが頷きながら言う。﹁この崖。慧音、
!
﹁元々、君を狙ったものを転用した。私はそう考えている﹂
打ちのめされた慧音が表情を硬くし、隣の妹紅はその肩をそっと抱
いていた。
﹁ルナサ。君の話では、演奏会の場所を決めたのは、人間の里の出資者
だったな﹂
﹁⋮⋮ええ﹂
ナズーリンの問いに、ルナサは静かに頷いた。
﹁その出資者と前から取引はあったのか﹂
﹁今回が初めてだったわ﹂
﹁なら、決まりだわ﹂
博麗霊夢が声を上げた。その声に皆、凍りついた。身を切るような
鋭さが、その言葉にあった。
﹁その出資者が下手人だわ。引っ立てましょう。人間の身で異変を起
こそうとするなど、言語道断。一刻も早く断罪すべきよ﹂
そう言って立ち上がった霊夢だったが、
﹁事はそう簡単じゃないぞ。話を最後まで聞かんか﹂
二ッ岩マミゾウに押し留められて、臍を噛んだ。
﹁ワシが調べに行った所、出資者は既に死んでいた。事故の責任を感
じて無理心中をしたように見せ掛けておったが、あれは他殺じゃっ
た﹂
﹁何故、分かるのよ﹂
﹁死人の口を割ったんじゃ。のう、火車妖怪よ﹂
火焔猫燐は静かに燃える瞳をして言う。
﹁ああ。あたいが確認したところ、出資者の男は里の人間に殺された
と言っていたよ。裏切られた、ともね﹂
﹁誰に殺されたのよ﹂
﹁⋮⋮男は事件について何も知らなかったみたいだよ。騙されていた
可能性もあるが、男はこう言っていた。里の自警団の男に唆され、そ
して裏切られて殺されたのだと﹂
その場にいる誰もが、糸が繋がるのを感じた。
自警団を名乗る男。
301
その男が上白沢慧音の暗殺を企て、さらには人妖に甚大な被害をも
たらしたあの土砂崩れを引き起こしたのである、と。
﹁⋮⋮十分だわ﹂
﹂
それだけ言うと、霊夢は掘っ立て小屋を飛び出して行った。
﹁ま、待って下さいよ、霊夢さん
早苗が慌てて後を追って行った。早苗はリリカを襲う霊夢を止め
てくれたと言う。霊夢の過激な行動は、早苗に任せておけば何とかな
るだろう。
﹁この事実は報道させていただきますよ﹂
射命丸は文化帖を閉じて立ち上がった。
その射命丸をナズーリンが手で制した。
﹁待ってくれ。敵に手の内を晒したくない。自警団の男の存在は伏せ
て欲しい﹂
﹁しかし﹂
﹁犯人を逃がす訳にはいかん。報道規制が必要だ﹂
﹁そのような法、この幻想郷には存在しません﹂
﹁法の有る無しではない、これは倫理の問題だろう﹂
﹁知り得る全てを報道するのもまた報道の倫理でしょう﹂
ルナサは手にしていたうさぎ型の貯金箱を床に叩きつけた。
陶器の割れる鋭い音が議論を裂いて、その時を止めた。中から零れ
落ちた金貨達の転がる音だけが、言葉を奪われた室内を駆け巡った。
ことり。
転がる金貨がルナサの足に当たって、倒れた。
﹁⋮⋮私は。金に糸目を付けるつもりもなければ、手段を選ぶつもり
もありません﹂
静かに、ゆっくりとその決意を口にした。自分の感情が昂ぶってい
る事、ルナサは自覚していた。声に魔力が乗ってしまったかも知れな
い。集まった人妖達が息を呑んでいる。
いち早く冷静さを取り戻し口を開いたのは、やはりナズーリンだっ
た。
﹁⋮⋮これ以上被害を増やすつもりか、射命丸﹂
302
!
殺し文句である。そう言われては、射命丸は引かざるを得ない。こ
の場の人妖全てを敵に回す事になりかねないからだ。射命丸は渋々
と言った顔で頷いた。
﹁仕方ありませんね。どうやら、それが最善のようです。しかし、これ
は貸しですよ、ナズーリン﹂
射命丸が窓から飛び出して行くのを合図に、会議は解散となった。
あの事故は、里の人間によって引き起こされた。
この会議で出た結論に、それぞれ当惑しながら。
ルナサはしゃがみ込んで、砕いた貯金箱の欠片を拾い集めた。金貨
は全てナズーリンに託そう、そう考えながら。あまり他人を信用しな
いルナサであるが、あの小鼠は信頼に値すると思い始めていた。少な
くとも、目的が一致している今、この時は。
ふと、指に鋭い痛みが走る。欠片の切っ先で指先を傷つけてしまっ
たのだろう、赤い血が流れ出していた。
303
土砂に巻き込まれて死んだ人々の痛みは、こんなものの比ではな
い。
腕が震える。
どうして、彼らは死ななければならなかったのか。
どうして、あの子は死ななければならなかったのか。
どうして。
どうして⋮⋮。
﹁ルナサ⋮⋮﹂
顔を上げると、ナズーリンが立っていた。その後ろには、火車妖怪
の火焔猫燐の姿もある。
﹁君に伝えなければならないことがある﹂
そう言う彼女は、心なしか青い顔をしているようにも思えた。
﹂
﹁君に依頼されていたあの少年の身元だが⋮⋮どうやっても分からな
かった﹂
﹁あの子の⋮⋮
でいるのかも、全く知らなかった。だからあの子の墓に名前を入れる
ルナサもリリカもメルランですらも、あの子の名前も、何処に住ん
?
ことすら出来ていない。
﹁鼠も使ったが、駄目だった。口寄せも試したが⋮⋮﹂
燃える瞳の火焔猫燐が、首を振る。
﹁遅かったらしくてね。もう、トランペットの子は彼岸に行っちまっ
たらしい﹂
﹁手掛かりは無いのかしら﹂
﹁今のところ、見つかっていない﹂
﹁嘘を言うんじゃないよ、ナズーリン﹂
燐がナズーリンに喰ってかかり、その胸ぐらを掴んだ。ナズーリン
の服の間からペンデュラムが零れて揺れた。ほのかに赤い色を中心
部に湛えるペンデュラムである。
﹁あんたが力を使って分からなかったんだ。もう答えは一つしか無い
だろう。トランペットの子は、あの子と同じだ。名前を与えられない
﹂
子ども達だったんだ。奴らにいいように使われていたんだよ、あの賢
者達に
燐は激高し、耳と尻尾を逆立て震えている。
﹁声が高い﹂
ナズーリンは口に指をやって、その言葉を抑えた。
﹁ルナサ。それに燐も。君達も今日の会議で色々と思う所があるだろ
うが、くれぐれも早まった真似はしないようにしてくれ。今、私達は
敵の創った流れの中にいる。思慮に欠ける行動は奴らの思う壺だ﹂
﹁⋮⋮あたいの怒りも、奴らの手の平の上ってことかい﹂
ナズーリンは頷く。
﹁発破の跡は隠蔽された様子もなかった。人間の仕業だとアピールす
るために痕跡を残していたのだろう。奴らの目的は、おそらく人間と
妖怪の間の憎悪を煽る事だ。今は自制してくれ﹂
﹁あたいは絶対、奴らを許さない﹂燐はナズーリンを突き放し、背を向
﹂
けた。﹁人間も妖怪も関係ない。こんな事をしでかすような奴は鬼畜
生以下さ、必ず駆逐してやる⋮⋮
ナズーリンは深い溜め息を吐いている。
そう言い放って、燐は去って行ってしまった。
!
304
!
﹁貴女はどうするの﹂
﹂
﹁ああ⋮⋮調査は続けるが、私は一旦、外の世界に出ようと思ってい
る﹂
﹁外へ
﹁事件の調査も必要だが、遺体の身元確認も難航しているのが現状だ。
遺留品を外の技術で分析しようと思う。血液鑑定などは外でしか出
来ないからな﹂
﹁そう⋮⋮﹂
ルナサは、貯金箱の欠片をナズーリンに差し出した。
その欠片には、自らの血が付着していた。
﹂
ナズーリンは首を傾げた。
﹁⋮⋮なんだい、これは
気分を変えようと、長椅子に積み上げられた新聞を手に取った。
じゃな⋮⋮﹂
﹁やはり人間というのは、何時の時代も何処の国でも、変わらんもん
この幻想郷。どうやら、桃源郷とは程遠いらしい。
だとは。
外の世界はテロリズムの頻発で揺れていたが、まさか幻想郷も同じ
も衝撃的であった。
あの土砂崩れは人間に引き起こされた。それはマミゾウにとって
の下、茶を啜っていた。
苛ついた気分を沈めようと、マミゾウは茶屋の長椅子に座り、青空
煙管を吸う気にもなれなかった。
ナズーリンは、八雲紫の使者だったのだ。
新参の小鼠が事情に詳しい理由、ようやく得心が行った気がする。
た。
ルナサの視線は、ナズーリンのペンデュラムに釘付けになってい
予感⋮⋮﹂
﹁これも持って行くといいわ。一つ⋮⋮予感がするの。とても、嫌な
?
﹃文々。新聞﹄には今日の会議の結果が書かれている。流石射命丸、
305
?
記事にするのが早い。言葉通り、自警団を名乗る男に関しては記事に
されていなかった。大妖怪というのは自らの言葉を翻したりしない
ものである。
一本杉を誰かが爆破して土砂崩れを引き起こした
﹁おい、聞いたか。この前の土砂崩れ、どうやら誰かがわざと引き起こ
﹂
したらしいぞ
らしいんだ
ない、事故を起こして死体を増やそうとしたに違いないぞ
馬鹿な。
何故、そうなる。
﹂
﹁奴が事故を引き起こしたんだ 死体探偵は死体が無ければ儲から
られた今、こんな写真が出回っては⋮⋮。
く記事にしたのだろうが、タイミングが最悪すぎた。発破の件が報じ
載ったものと同じだ。記事の遅い﹃花果子念報﹄が今になってようや
あった。この写真は先日、一本杉の供養塚を伝える﹃文々。新聞﹄に
背景に、濁った瞳をカメラの方に向けている。マミゾウには見覚えが
体探偵⋮⋮即ち、ナズーリンの姿だった。一本杉とその下の供養塚を
息を飲むマミゾウの目に映るのは、
﹃花果子念報﹄の一面に載った死
ていたらしい﹂
﹁この新聞によれば、事件前後、あの死体探偵が一本杉付近をうろつい
ゾウは凍りついた。
だが、不安げな男が続けて放った言葉の矢が耳に突き刺さり、マミ
うと、さっと目を走らせた。
果子念報﹄。マミゾウは普段読まない新聞である。流し読みでもしよ
つくだけなので、マミゾウは再び新聞を漁った。手にした新聞は﹃花
またやっとる。マミゾウはうんざりしてしまった。見ていても苛
向こうの観衆を前に不安げな表情でまくし立てていた。
声がしたほうを見やると、新聞を手にした血色の悪い男が、通りの
!
戦慄するマミゾウを尻目に、群衆は次第に熱を帯びていった。
!
!
306
!
アジテーション・ホワイト ②
身を切るように冷たい風が、ビルの隙間を縫って吹き荒れている。
久方振りのこの感覚。甘い夢から覚めた後のように、立ち並ぶ灰色の
日常を前にして目の眩む思いがした。空を覆い隠す高層ビルの群れ
に、鳴り響くクラクション、排気ガスの鼻を突く臭い。科学と云う名
の未来予測魔法によって形作られたこの街。
私は外界にやって来ていた。相変わらずのかちゃましい街並みに
頭痛を覚えながらも、早くも慣れ始めた私がいる。当然と言えば、当
然。ほんの少し前まで、私の居場所はこの灰色の幻想の中だったのだ
から。
通りがかったビルの前、ショウウインドウに映った自分自身の姿が
目に入る。耳も尻尾も消え去ったその姿。特徴らしい特徴と言えば、
その痩せっぽちの小さな身体とどんよりと濁った瞳だけだ。此処で
の私は普通の女とそう変わらない。かつての私は、最早自分が妖怪な
のか人間なのか分からなくなってしまっていた。この街を離れ、聖を
復活させる為に幻想郷に飛び込むその時までは。
法の光の代わりに街に溢れるは、幻想を駆逐する科学の光。
私という存在の全てを否定するかのようなこの息苦しさ。
これが今現在の現実である。畏れの文化は忘れ去られようとして
おり、古き妖怪はその存在を保つ事すら難しい。
しかしもちろん、外の世界にも幻想は生き残っている。都会の隙間
にも人の心の闇はあるし、まして人間はこの地球の全てを踏破した訳
ではない。妖の付け入る隙など幾らでもあるのだ。人に心ある限り、
私達妖怪は消え去る事など無い。これからも形を変えて生き続けて
行くのだろう。妖怪もなかなか強かなのだ。取り残されているのは、
私のような古い妖怪だけ。古きは駆逐され、新しき力が世界を牽引す
る、それは自然の摂理である。
だが今は、そんな摂理などどうでもいい。私は私に課せられた使命
を果たすとしよう。
307
手近の駅に向かい、私鉄に乗り込んだ。旧友に会うつもりだった。
そいつはとある大学の教授職に就いており、顔も広ければ多少の融通
も利く。血液分析やらDNA鑑定やらを頼むには打って付けの人物
なのである。
鈍行列車にて都心から一時間ほど移動した街にあるさびれた大学
の隅。そこに奴の研究室がある。
﹁岡崎﹂
開けっ放しのドアの外から声を掛けると、ソファに寝転んでぐうぐ
ういびきを立てていた女が目を開けた。大きく伸びをして、欠伸しな
あなた。たしか⋮⋮﹂
がら目を擦っている。昼前まで眠りこけているとはいい度胸だ。
﹁ふにゃ⋮⋮。あら
﹁不用心だぞ、仮にもいい歳の娘が鍵も掛けないで﹂
しかも、掛けた毛布の下は下着姿だった。卓上には栓の抜かれたワ
インボトル。どうやら昨夜は酒をかっ喰らってそのまま寝ていたら
しい。本当に不用心だな、変質者に襲われたらどうするんだよ。
岡崎は胸元の辺りをボリボリと搔きむしりながら、再び大欠伸をか
ました。
﹁あー。その説教臭い物言い。永添じゃないの﹂
﹁欠伸するか喋るかどっちかにしろよ、まったく﹂
永添は外の世界での私の偽名の一つである。人より長く生きて来
﹂
た私や星は、人間社会の中でいくつもの名前を使い分ける必要があっ
た。
﹁また研究室に泊まったのか
とするか。
隣の部屋に行ってしまった。仕方ない、それなら私は私で勝手にやる
岡崎は傍若無人にもシャワーを浴びてくると言い放ち、私を放って
﹁普段一体どんな生活してるんだい、君は⋮⋮﹂
食コンビニ飯よりかは健康的よ﹂
﹁そうでもないわよ。ここなら不束な助手がご飯作ってくれるし。三
﹁相変わらず不健康な奴だな、まったく﹂
﹁だって帰るの面倒なんだもん﹂
?
308
?
久し振りにコーヒーでも飲もうと思い立ち、部屋の隅にあるコー
ヒーメーカーに手を掛けた。豆は確か、下の棚にしこたま蓄えられて
いたはず。岡崎の研究室に置いてあるのは、ワンタッチで豆からコー
ヒーを作れるという、国産メーカーのお高いマシンである。ブルジョ
アめ。
二杯分のコーヒーを淹れて、部屋に立ち込めるその香りを私が楽し
んでいる間に、岡崎が戻って来た。相変わらずド派手な真紅のコート
を羽織り、殺風景な研究室の中で悪目立ちしている。濡れた長い髪を
タオルで拭きながら大欠伸して、私の視線などお構いなし。ドライ
ヤーくらい使えよ、なんて言ってもどうせ聞かないので、私は黙って
カップを差し出した。
﹁あら素敵。サンキュー﹂
岡崎はそれを受け取りながら、へったくそなウインクをかました。
相変わらず変なところで不器用な奴だ。
岡崎とは結構長い付き合いになる。昔、岡崎が単なる一女学生に過
ぎなかった頃に依頼を受け、それからの腐れ縁。あの頃からこいつは
変な奴だった。物怖じや人見知りというものをしない。凄まじくマ
イペースな奴なのだ。
もちろん岡崎は、私の正体を知らない。だが彼女は私や星の事を聞
こうともしないし、知ったところで興味が無いと言い出しそうだ。考
えてみれば奇妙な友人関係である。長い長い時間の中で、私はいくつ
もの友人達を置き去りにして進んできた。彼女もまたその一人にな
るのだろう、なんて普通は思うのだが、私には岡崎のそんな姿がさっ
ぱり想像できない。それがこの女の凄みなのだった。
香り立つコーヒーを楽しみながら、私は壁に掛けられた絵を見やっ
た。
巨大な船の精密な設計図である。岡崎が描いたものだ。その生活
習慣は乱れに乱れているにも関わらず、岡崎は頭が切れる。専門外の
はずの船の設計をも簡単にこなしてしまう。天才というのは何処か
常人と感覚がズレているのが常であるのだが、この女もその類であっ
た。
309
﹁まだ諦めてないのか、この次元航行船﹂
﹁可能性空間移動船、よ﹂
熱い淹れたてコーヒーを一気飲みして、岡崎が言う。よく火傷しな
いな、こいつ。
﹁そりゃ諦めるわけないでしょ。私の研究のメインテーマだし﹂
異なる時空からのエネルギー抽出による化石燃料枯渇問題の解決、
それがこいつの研究テーマである。言うまでもなく、これは完全にト
ンデモ理論だ。学会ではほとんど相手にされていないと云う。それ
でも岡崎が若くして大学の教授職を得ているのは、そのトンデモ理論
実証の過程でいくつもの有用な成果が生まれているかららしい。そ
の成果を売り込んで国や企業をスポンサーに付け、豊富な資金力で
悠々自適に研究を進めている。つまりこいつは、完全に勝ち組なので
ある。
そんな岡崎が珍しく溜め息を吐いている。
また分析依頼
﹂
血液サンプルとを机の上に並べた。ラベリングされた小さなプラス
私は持参した事件の被害者の血液サンプルと遺留品から抽出した
?
310
﹁外装も理論も出来てるんだけど、理論の実証のほうがねえ﹂
﹁芳しくないのか﹂
﹁一応、最近注目されるようにもなってきたんだけどね。昨日も本筋
の理論について新聞記者の取材を受けたし。だけど⋮⋮正直、まだま
だね﹂
さしもの天才岡崎といえどもトンデモ理論の実証には苦戦してい
るらしく、本筋の研究のほうで学会を納得させられるような成果は出
ていないようだ。
そのトンデモ理論、私自身はあながち間違いではないかもしれない
と思い始めている。私は八雲紫の能力を目の当たりにしているから
な。異次元云々はさておき、岡崎がやろうとしていることはつまり、
八雲紫の能力の再現なのだろう。
今日は何
岡崎は話題を変えるように首を振った。
﹁で
?
﹁話が早くて助かるよ﹂
?
チック容器へと一つ一つまとめたのだが、その数は百をかるく超え
る。持ち運びも一苦労である。
﹁これだけの量だと、数ヶ月はかかるかな﹂
随分盛ったな﹂
﹁いえ﹂私が言うと、岡崎は不敵に笑った。﹁一日で済むわよ﹂
﹁一日
うふふふ、と岡崎は笑う。楽しくて仕方が無いというように。
﹂
岡崎の手招きに従って隣の部屋に入った私は、思わず変な声を上げ
てしまった。
﹁な、な、な、なんだこりゃ
﹂
?
もなるし
﹂
可能性空間移動船による時空を超え
くってもんよ。金持ちはロマンが好きだからね。それに税金対策に
た 種 の 保 存 な ん て ロ マ ン じ ゃ な い。こ れ で 新 し い ス ポ ン サ ー も つ
究テーマにも合致してるし
の。そいつを船に積み込んで、いつか異次元に出航するのよ。私の研
﹁この解析機であらゆる生物のDNAデータをサンプリングしまくる
ぺらしゃべりだした。
私が呆れ顔を向けて溜め息を吐くと、岡崎は言い訳するようにぺら
﹁いやぁ、欲しかったからさぁ﹂
﹁それを個人で買うか、普通﹂
し。千のサンプルを一時間以内に鑑定できるスグレモノなのよ﹂
﹁素敵でしょ。性能は折り紙付き。科捜研でも導入されてる最新型だ
てへへ、と照れ笑いする岡崎。なぜ照れるんだ。
﹁買っちゃった﹂
﹁え。なにこれ、まさかDNA鑑定装置
研究室のド真ん中に、巨大な灰色の機械が鎮座していたのである。
?
?
のが楽しいのだろう。傍から見ると単なる変態にしか見えない。
が楽しいのかさっぱり分からないが、まあ欲しくて買った機械を使う
岡崎は渡したサンプルを鼻歌混じりに機械へセットしている。何
たく、ブルジョアめ。
鑑定時間が早まるのなら、私としては文句はない。しかし⋮⋮まっ
﹁⋮⋮ああそう﹂
!
311
?
頭痛を覚えた私は、よだれを垂らしながら嬉々として機械操作する
岡崎を残し、研究室を出た。鑑定には一時間ほどかかると言う。時間
を潰そうと、大学の敷地内を歩き回った。
岡崎の居る大学は一応国立なのだがあまり規模は大きくはなく、資
金の潤沢な大手私大などに比べれば施設の老朽化は否めない。建物
などは軒並み低く、一部の新館を除けば精々が五階建てといったとこ
ろだ。また、敷地もそう広くはない。とはいえ、科学技術に特化した
専門大学らしく、研究設備の揃い方は一流だと岡崎が言っていた。
道行く学生達はその辺の私大生に比べるとより学生然としている
ようにも見える。つまり、課題に追われているのかみんな目が虚ろな
のである。私も一時期いくつかの大学で講義や聴講をしていたこと
があるが、やはり分野によって生徒の在り方も結構変わってくるもの
だ。何を人生の基点に置くかで変わるのだろう。この大学には岡崎
みたいに研究を生き甲斐とする人間が多いような気がする。あいつ
も他に移る気が無いようだし、結構水があっているのかもしれない。
昼休みの時間帯、生協前には生徒達がたむろしていた。掲示板に張
られたアルバイト募集の広告を見ているらしい。今はインターネッ
ト上でやり取りするのが普通だと思うのだが、技術の最先端にある学
府だというのに、変なところが古風だ。
風が吹いて、私はコートの前を閉めた。風の冷たさは、外の世界で
も変わらない。幻想郷に来てから日が浅いとはいえ、私はあそこでの
生活に慣れきってしまったようだ。こうして科学技術に囲まれてい
ると、息苦しくて吐き気を催してくる。風の冷たさは厳しいが、今は
逆にそれがありがたいとも思う。この居心地の悪さをほんの少しだ
け紛らす事が出来るから。
そんなことを言いながらも、私自身、科学技術を使うことが当たり
前になってしまっている。カフェテラスに座って携帯情報端末を操
作し、チーズバーガーを齧りながら外の世界のニュースに目を通すの
も慣れてしまった。便利さは麻薬だ。一度味をしめたら抜け出す事
は難しい。それが自分自身の首を絞めるのだと頭で分かっていても。
この息苦しさは私の自己矛盾から来ているのだ。
312
ぼうっとしながら、2つめのチーズバーガーに手をかけたその時。
響いたその音に、私は自分の耳を疑った。
りぃん。
全身の毛が逆立つのを感じる。妖の感覚を刺激し覚醒状態に追い
やるその音。
音に導かれて視線を投げかけた先にあった影は、紛れもなく、奴。
蒼暗色のレインコートにぶら下げたペンデュラム、フードは外して
いて長い黒髪が冷たい風になびいている。晴天だというのに雨合羽
を着たその姿は、少なからず周囲の奇異の目を引いていた。
馬鹿な。
何故、奴が。
無意識に立ち上がった私は、椅子をぶつけてひっくり返してしまっ
た。大きな音がして、奴が振り返る。
目が合う。
313
奴は目を見開き一歩引いた。この遭遇は、奴のほうでも想定外だっ
たらしい。
奴は背中を見せると、一目散に駆け出した。カフェの店員が咎める
﹂
のも無視し、私はその背を追って走った。
﹁待て
﹁知らなかったのか。ここは私のホームグラウンドさ﹂
を睨みつけて、苦々しい口調である。
私を睨みつけて、青いレインコートの妖が口を開いた。鋭い目で私
﹁小鼠⋮⋮何故、貴様がここに﹂
屋上にて、奴が待ち受けていた。
奴も逃げ切れるとは思っていなかったらしい。
駆け上がった。
奴が逃げ込んだ旧研究棟の最上階目指して、私は階段を疾風のように
ラムを使ってダウジングすれば奴の居場所を突き止めるなど容易い。
だが、その姿を見せた今、私から逃れることは出来ない。ペンデュ
角を曲がり、姿を晦ましてしまった。
静止の声も聞くはずがない。奴は学内の目抜き通りを駆け抜けて
!
﹁⋮⋮そうか、貴様は外から来たんだったな﹂奴は、笑った。﹁だが浅
はかだな、小鼠﹂
その右手には拳銃が握られている。
奴は私をここで始末するつもりらしい。そのために人目の付かな
い屋上まで私をおびき寄せたという事か。
いつもの水弾を使わないのは、能力が制限されているからだろう。
しかしそれは私も同じ。今の状態、拳銃それ自体は十分に脅威であっ
た。
ロッドを取り出す暇は無い。私は懐から小傘の十手を抜き放って
構えた。
同時に、奴が発砲する。
だが、弾丸の軌道は奴の目と銃口の動きを観察すれば簡単に分か
る。初弾を避け、私は一歩踏み出す。誘われた奴が次弾の発射を行う
と同時に、私は十手を投げつけた。回転する十手は銃弾を跳ね返し、
314
奴の拳銃に当たってそれを弾き飛ばした。
慌てて拳銃を拾おうとした奴に退魔針を投げ付ける。腕、そして足
に針を食らった奴は、その場に倒れ伏した。
﹁動きが鈍いな。外の世界は慣れていないのか、それとも雨が降らな
ければ力を発揮できないのか。何れにせよ、使い慣れない武器に頼っ
たのが運の尽きだ﹂
﹁くっ⋮⋮﹂
﹁答えてもらおうか。何故、貴様がここにいるのか﹂
だが奴は、一瞬壮絶な決意を湛えた目をしたかと思うと、懐から手
﹂
榴弾を取り出し、迷うこと無くピンを抜いた。
﹁馬鹿な
﹁ざまあないわね﹂
密な動作であった。
込んで爆発を防いだ。まるで人間が手で操作しているかのように精
不可思議にうねる風は、奪い取った手榴弾に巻き上げたピンを差し
た。
私が叫んだ瞬間、突風が舞い起こり、奴の手から手榴弾を絡め取っ
!
振り返った私が見たのは、吹き荒れる突風の中でも涼し気な顔で立
つ、姫海棠はたての姿だった。どうやらはたては外界の新聞記者に変
装しているつもりらしく、若緑色のよれよれコートに腕章を付けて、
眼鏡なぞかけている。
はたては自在に風を操り手榴弾を手にすると、自分のコートのポ
ケットに突っ込んだ。
﹁はたて⋮⋮君も来ていたのか﹂
はたては私を一瞥するも、何も言わずに奴のほうへ歩み寄り、落ち
た拳銃を拾い上げた。そしてそのまま、その銃口を奴へと向ける。
﹁馬鹿な奴ね。万が一にでも私を殺せると思ったのかしら、四万十﹂
四万十⋮⋮シマント。それが奴の名か。
皮肉っぽい笑みを顔に貼り付けたまま、はたては続ける。
﹁悪いけど、あんたごときでは相手にならない。今の私は、射命丸文を
すら凌駕する﹂
言葉通り、はたての全身には妖力が漲っている。私見だが、その様
は確かに射命丸にも引けを取らないと感じた。外界でもその能力を
失わずにいる事実が、私の意見を裏付けてもいる。
奴⋮⋮四万十は姫海棠はたてを睨みつけると、絞り出すように言っ
た。
﹁殺せ﹂
﹁お決まりの文句ね。あんたなんか殺しても、何の得にもならないわ﹂
はたてはそう嘲笑いながら拳銃をくるりと回すと、宙空に放り投げ
た。風の牙が舞い踊り、拳銃が部品単位に分解されてバラバラと地面
に落ちる。
そうして、四万十に背を向けた。
﹁愚かな姫百合に伝えなさい。私を殺すつもりならば、あんた自身が
来いと。それとも、怖がりの姫百合ちゃんにはそんな度胸も無いのか
しら﹂
強烈な侮蔑の混じった声色で。
それを聞いた四万十は顔を真っ赤にして身体を震わせた。震える
拳を床に打ち付けて呻く。
315
﹁おひいさまを侮辱した事、必ず後悔させてやるぞ⋮⋮
﹁あ。ま、待て
﹂
にフェンスへ突っ込み、それをぶち破った。
﹂
四万十は足に刺さった退魔針を抜き捨てると、床を蹴って横っ飛び
!
﹂
!
﹂
端々に棘が宿る。はたてに何が起こったのだろうか。
はもっと能天気と言うか、朗らかな性格だったのだが、今は言葉の
また、はたての異常な様子も気になる。前に取材を申し込まれた時
せないのだろうか。
憎んでいるのだろう。友人があの賢者達の一員だった、その事実が許
でも仲良く競り合う姿が見られたのに、今は何故こんなにも射命丸を
おかしい。射命丸とはたては友人だったはずだ。以前の取材勝負
初めて見る。その様に、私は少し圧倒されてしまった。
憎悪をむき出しにした顔で、はたてがつぶやく。彼女のこんな顔は
﹁私は射命丸文を許さない。ただそれだけよ﹂
﹁ならば、何故﹂
興味無いの﹂
﹁敵対﹂はたては失笑した。﹁私はあんな低脳な奴等、どうでもいいわ。
﹁君は賢者達と敵対していたのか﹂
でしょ。私の新聞のこと。奴らは私が邪魔なのよ﹂
﹁あれだけしつこく私に会おうとしたんだし、あんたも気付いてるん
﹁君を
かりきってる。私を追って来たのよ﹂
﹁メッセンジャーガールは必要でしょうに。それにあいつの目的は分
﹁何故、逃がしたんだ
残された私は、はたてへと詰め寄った。
つまり、逃げられたのだ。
ると言っても、この程度の高さを落下したくらいでは妖怪は死なぬ。
奴はそのまま階下へ落下して行った。能力の大半を制限されてい
その機を逃してしまった。
とっさに退魔針を放とうとしたが、はたての身体が死角になって、
!
﹁一体何があったんだ、はたて﹂
316
?
﹁あんたと話す事なんか別にないわ﹂
﹁ま、待ってくれ﹂
﹁しつこい小鼠ね﹂
追い縋る私を、はたては蠅を追い払うように手を振って遠ざける
と、さっさと歩きだした。私の事など全く眼中に無いようだ。
彼女の気を引くために、私はその背に言葉をぶつけた。
﹁何故、岡崎に会った。あいつになんの用がある﹂
はたてはぴたりと立ち止まった。
くるりと振り返ったその表情には、皮肉や憎悪だけでなく、多少の
驚きも混じっている。
やはり。岡崎に取材した新聞記者とは、変装した姫海棠はたてだっ
たのだ。はたてが外界に姿を現した時に、なんとなくそんな気はして
いた。
﹁あいつの研究が、賢者達に関わっているのか﹂
317
﹁あんた、岡崎教授の知り合いだったの。なんて偶然⋮⋮けどこれは
⋮⋮﹂
口元に手をやって考える素振りを見せたはたては、やがてにやりと
笑った。
﹁それにしてもあんた、噂通り頭は切れるようね。いいわ。教えてあ
げる。逆よ、私は彼女の研究が奴等に利用されていないかどうか調べ
に来たの。結果はまあ、お察しの通り。彼女の研究はいまだ実用段階
には程遠く、八雲紫の能力を再現するには足りないわ﹂
﹂
﹁賢者達はそんなところにまで触手を伸ばしていたというのか﹂⋮⋮
いや。﹁まさか、八雲紫が
頷くはたて。
は外の世界へも貪欲に手駒を求めていたらしい。
私を、そしてその能力の代わりに岡崎の可能性空間移動船を、か。紫
代替を欲っしている。手足の代わりに式神の八雲藍を、目の代わりに
自分の代わりをする式を使役しているくらいだ。紫は常に自分の
そうか。
﹁そう。岡崎教授を見つけ出したのは、他ならぬ八雲紫自身よ﹂
?
﹁奴等が教授の研究を利用しようなんて思い付く訳が無い。八雲紫の
足跡を辿って、その成果を掠め取る。あのド低脳連中にはそれくらい
しか出来やしないわ﹂
随分な物言いである。以前出会った六尾妖狐も馬鹿にしていたが、
賢 者 達 は そ の 所 業 の 悪 辣 さ に 反 し て か な り 見 下 さ れ て い る ら し い。
逆に、そのような所業に手を染める事で侮蔑されるようになったのか
もしれない。
﹂
﹁ついでよ。もう一つだけ教えてあげる﹂気取って私に指を突きつけ
るはたて。﹁あんた、あの土砂崩れの件でここに来たんでしょう
﹁ああ﹂
﹂
﹁血液鑑定で面白い結果が出るわよ﹂
﹁⋮⋮面白い
よ﹂
﹁遅 か っ た じ ゃ な い。何 処 ほ っ つ き 歩 い て た の よ。も う 出 来 て る わ
彼女の捨て台詞も気になる。私は急いで岡崎の所に戻った。
も、答えを持つはたてが居ないのでは意味の無い想像でしか無い。
聞きたい事は山ほどある。だが、寒空の下、いくら頭を回してみて
十のブレーンなのだろうか。
その名を冠する人妖は私の記憶に存在しない。そいつは、奴、四万
はたてが口にした姫百合という名前。
賢者達との敵対に、花果子念報の記事、射命丸文との関係。そして、
かと頭を抱えたくなった。
すのは一筋縄ではいかないようだ。どうやって口をこじ開けたもの
やはりはたては色々と事情を知っている風だったが、それを聞き出
さと消えるとは、流石天狗、なんて自分勝手なんだ。
が戻った時には、既にはたての姿は消えていた。言うだけ言ってさっ
はたてが高笑いすると突風が巻き起こり、私の目を眩ませた。視界
自業自得ってものだわ﹂
﹁プリズムリバー三姉妹はさぞ怒り狂うでしょうね。だけどそれは、
?
ホクホク顔の岡崎が私にレポートファイルを投げて寄越した。受
け取って、その重さと量の多さに愕然とする。
318
?
﹁おいおい、随分多いな﹂
﹁そりゃあもう、科捜研でも採用されてる最新式だもん。高精度かつ
多角的な分析をしてくれるのよん﹂
﹁精度が高いのは嬉しいけど⋮⋮﹂
これだけ多いとありがた迷惑なような気もしてくる。ざっと目を
通しただけで頭痛がしてきた。あとで星に手伝ってもらうしかない
なこれは⋮⋮。
ふと、ファイリングされた資料の中に、一つだけ付箋が付いている
なんだい、この付箋は﹂
ものを見つけた。
﹁あれ
﹁ああ、それ。一致した奴があったからさ﹂
その赤みがかった長い髪を櫛で梳きながら、岡崎が言う。
﹁そりゃ、あるだろう。どれとどれが一致するかを調べて欲しかった
んだから﹂
﹁いやあ。一致したの、前回依頼されたサンプルなんだよね。だから
印付けといたのよ﹂
⋮⋮前回、だって
が何故、一致などする
まるで馬鹿げている、機械の故障だとしか
も、DNA情報が一致する訳がない。同一人物でなければ⋮⋮。それ
う、あの盗賊は明らかに成人を迎えていた。仮に兄弟だったとして
あの子とあの盗賊は、似ても似つかない顔だった。年齢だって違
何故。
馬鹿な。
た。
一致したサンプルの番号は、あのトランペットの少年のものだっ
呼吸が止まる。
襲った。
呆然としながら付箋の付いたページを開いた私を、さらなる衝撃が
﹁一致するはずが⋮⋮﹂
盗賊の⋮⋮。
前回と言えば⋮⋮調査依頼をしたのは、あの陰陽玉を盗んで死んだ
?
?
319
?
思えない、そうでなければ何かの魔法でも使ったか⋮⋮。
その時、燐とヤマメの言葉が頭の中で瞬いた。
││トランペットの子は、あの子と同じだ。名前を与えられない子
ども達だったんだ。
││あんたは、人間に土蜘蛛にさせられたんだね。
﹂
覚えている、名前の無いあの子を、土蜘蛛にされた女を。
⋮⋮まさか。
どったの
まさか、そうなのか。
彼は。
彼等は。
﹁⋮⋮永添
﹁どうしたのよ、永添。急に恐い顔しちゃって﹂
ルナサ⋮⋮。
││嫌な予感がするの。とても、嫌な予感⋮⋮。
奴等は幻想郷の特性を利用し、クローン人間の生産を行っている。
間違いない。
そして忌むべき事に、幻想郷にはその悪夢を実現する力があった。
者はより悍ましき方法を夢想した事だろう。
史上、その多くは婚姻や僭称によって成されて来た。だが、貪欲なる
力を求める者が力ある血を求める、それは歴史の必然でもある。歴
る絶対の力だった。
能力至上主義が叫ばれているが、かつては血統こそが全てを決定づけ
力ある者の血は尊ばれ、その血の流れは王者の資格となる。今でこそ
血は力だ。血統、それは数多の国で信仰されてきた、一つの宗教。
て。例えば⋮⋮あるいは⋮⋮昔々、神話の時代の英雄達などに。
力を得るために、力を持った存在それ自体になってしまうことだっ
そ れ な ら ば。人 間 を 別 の 人 間 に 変 え る 事 も 可 能 な の で は な い か。
とも出来る、あの土蜘蛛にされた女のように。
人間を妖怪だと思い込ませることが出来れば妖怪に変異させるこ
幻想郷では、幻想が真実となる。
?
﹁⋮⋮岡崎。念の為、確認をさせてくれ。この鑑定結果。機械の故障
320
?
ではないんだな﹂
﹁そりゃそうよ、買ったばっかりの新品よ
よ﹂
ブッ壊れてたら困るわ
﹁ならばもう一つだけ、大至急で鑑定を頼みたい﹂
﹁アイサー﹂
岡崎はおどけて敬礼なんてしている。
私は別に持ってきていたサンプルを岡崎に差し出した。これには
ルナサに託された陶器の破片から採取した血液を封じ込めてある。
﹁一つだけなら、そんなに時間はかからないわね﹂
岡崎は鼻歌を歌いながら、サンプルを鑑定機にセットした。
鑑定が行われる間。私は岡崎の下手くそな鼻歌を頑張って聞き流
しながら、ゴウゴウと音を立てる鑑定機の前で辛抱強く待った。脳内
でぐるぐるといろいろな推測が駆け廻る。私にとって、その時間は苦
痛以外の何物でもなかった。
長い長い主観時間の末、やがて鑑定が終わり、機械が止まった。
﹁結果を詳細に分析したい。さっきの、付箋が付いていたサンプルの
データと比較したいんだ﹂
﹁詳細ねえ。ま、取りすぎなくらいデータ取ってるからどうにでもな
るとは思うけど﹂
﹁頼む﹂
岡崎は魔法を使うような手つきで鑑定機のタッチパネルを操作す
る。
﹂岡崎の髪をかき上げるもったいぶった仕草が、
﹁同一人物判定は否定みたいね。指数が低すぎるわ。親子判定も高確
率で否定⋮⋮あら
兄弟⋮⋮。
あの子と、ルナサ達が。
はたて⋮⋮この事実を、君は知っていたと言うのか。
321
?
逸る私をイラつかせた。﹁兄弟判定は肯定の指数が高いみたいよ﹂
?
アジテーション・ホワイト ③
太陽の光が陰りゆく。神話の時代より何千何万何億と繰り返され
てきただろう、この光景。
車窓の向こうでは、逢魔が刻に彩られる田畑が流れて行く。紅色に
色づいた実りが滑るように流れる様は、まるで血の河である。悪趣味
な例えかも知れないが、実際、秋のこの実り達が人の血脈を繋ぎとめ
ている。古より連綿と続く、人間の血の大河を。
ガラガラに空いたローカル線の端席に座りながら、私は岡崎の言葉
を思い出していた。
﹁そもそも。DNA鑑定っていうのはゲノムの全ての塩基配列に対し
て解析を行える訳じゃあないの。現在の技術じゃあそれは不可能な
のよ。現状、解析出来るのはDNAの型までってところね。だから、
私達がDNA鑑定と呼んでいるものは、実はDNA型鑑定と呼称する
のが正確よ。そのDNA型鑑定で完全に個人が特定出来るという認
識も誤りなの。確率的には千兆分の一と言われた﹃DNA型の偶然一
致﹄が、実際にアメリカで発生した事が報告されているわ。DNA型
鑑定は個人特定に非常に有効である事は確かだけれど、絶対ではな
い。数ある証拠の内の一つとして扱うのが正しいのよ﹂
コーヒーを啜りながら、事務的な口調で。
﹁付け加えて。父母のサンプル提供が無い場合の兄弟鑑定は、あまり
精度が高くならないわ。良くてフィフティフィフティってところか
しら。DNA型鑑定の在り方も含めて考慮すれば、鑑定結果をそのま
ま真実と鵜呑みにするのが危うい事は直観的に明らかでしょう。結
局の所、何が真実かなんて人間には分かりっこないのよ。それを保証
してくれる絶対の神様なんていやしないんだから。大切なのは、自分
自身が何を信じるか。そしてその信じるという行為に、ちっぽけな人
間はその全生命を懸ける必要があるという事﹂
何時に無く観念的な話。科学者の癖に、岡崎は意外とこういう話が
好きなのかもしれない。
﹁何に悩んでるのか知らないけれど、まあ、考えなさいな。もがき苦し
322
んだ上で出した結論なら、例え間違ってたって仕方ないって思えるわ
よ﹂
き っ と 岡 崎 は、頭 を 抱 え る 私 を 励 ま し て い た つ も り な の だ ろ う。
やっぱり変な所で不器用な奴だ。
岡崎の言葉を受けるまでも無い。私自身、既に確信していた。
あのトランペットの男の子は賢者達によって作られたクローン人
間で、賢者達により力を与えられていた事。陰陽玉を盗んで死んだ盗
賊の同族だったのだ。
思い返してみれば、様々な事実がそれを裏付けている。あの子が天
狗の監視を掻い潜って演奏会会場近くへ潜り込んでいた事。里の外
にあるメルランの秘密の練習場を知っていた事、そこへ行く事に臆す
る事も無かった事。そしてあの事故の時、メルランの演奏を聞きなが
ら正気を失わずにトランペットを演奏した事。どれもこれも、普通の
人間には難しい事だろう。
その力の源である血は、どうやらプリズムリバー三姉妹の内の一人
のものであるらしい。
ルナサは予感していたのだろう。だから私に自らの血を託したの
だ。つまり、ルナサ達は賢者達に関係しているという事になる。
三姉妹が賢者達と関わりを持っているのなら、今回の土砂崩れの事
件はまた変わった面を見せる。土砂崩れを起こした目的が、プリズム
リバー三姉妹の排除にあった可能性が出てくるのだ。実際、リリカは
土砂に飲み込まれ死にかけたし、事件の影響で三姉妹の音楽活動は大
きく制限されてしまっている。あのトランペットの男の子の命懸け
の行動が無ければ、三姉妹も死んでいたか、もしくは再起不能なまで
に追い詰められていた事だろう。
この一連の事件。
策謀しているのは、一体誰だ。
私の脳裏に浮かぶのは、あの男。自警団を騙る、血色の悪い男の影。
そしてもう一人。天狗の中にあって権力を振るう河童の女、四万
十。盗賊の死体を始末し、自警団の団長を殺して陰陽玉を奪い、上白
沢慧音の暗殺に共謀したあの女。
323
奴らの策動が八雲紫に対する何らかの圧力になっている。そして
それこそが、この事件が起こされた真の動機なのだろう。
つまりこれは、賢者達の権力闘争なのだ。
盗賊の死も。
自警団団長の死も。
数百の死者を出した、あの土砂崩れの事件さえも。
事件は単なる異変の枠を超えて、非常に政治的な面を表しつつあ
る。
鍵となるのは、あの血に飢えた陰陽玉か。盗賊はあれを何処からか
盗んで殺され、里の団長も殺されてあれを奪われた。あの陰陽玉がど
れほどの力を有しているのかは私のペンデュラムを見れば想像に難
くない。不可思議な虹の光を発し、異界を呼び起こしてもいる。そし
て、八雲紫と賢者達の罪の象徴でもあると云う。
博麗。
その言葉が、私の脳裏をかすめる。
幻想郷で起こる出来事は、全てその言葉を中心に回っている。
きっと、今回の事件も。
⋮⋮目的の為に、正気で大量殺戮をした奴らだ。
奴らはきっと、次もやる。
私はそれを阻止しなければならない。今の私は八雲紫の目である
のだし、何より、私は毘沙門天の使者。正義の味方なのだから。
考えている間に、電車は目的地に到着した。一昔前に比べて移動は
格段に楽になったものだ。まったく、文明様様である。まあ、妖が力
を自由に振るえた頃は飛んで行けばよかっただけなので、あまり変わ
らないと言ったらそれまでだが。
私は駅を出て、駅舎を見上げた。地方の観光地らしく、洒落た作り
の白い駅舎が中々に素敵だ。見回せば、辺りの山々は秋に紅く燃えて
いる。この村はスキーと温泉で持っているらしいが、秋の景色も十二
分に魅力的だ。温泉は年中無休だしな。
私はタクシーを調達して、ある場所に向かった。行きは徒歩だった
が、今は日が沈みかけているので急いだのだ。
324
車を使えば到着までそう時間はかからなかった。
タクシーを外で待たして、古びた鳥居をくぐる。紅く色づく木々の
小径を抜ければ、ある意味、見慣れた景色が広がった。
博麗神社である。
正確には、外の世界の博麗神社という事になるか。同じように森に
囲まれていて、境内の様子は同じように見えるのだが、微妙な違和が
ある。こちらの神社にはあの博麗霊夢は居ないし、向こうの博麗神社
ほど小綺麗でもない。向こうは暇に飽かせた霊夢が徹底的に掃除を
しているからな。
た だ し、向 こ う の 博 麗 神 社 よ り は よ っ ぽ ど 活 気 が あ っ た り す る。
元々は地元の人間だけが参拝するような小さな社だったらしいが、村
の観光地化に伴い、参拝客もそれなりに増えているらしい。なんと
言っても紅葉が見事だし、空き時間に散歩するにはちょうど良い感じ
なのだ。今も観光客だろう、背の高い金髪の女がふらふらと境内を歩
いていた。外人には神社が珍しいのだろうな。
私がこの場所にやって来た目的は二つある。
一つは此処、博麗神社こそが外界と幻想郷を繋ぐ最たる道だから
だ。博麗神社周辺は大結界の境目であり、結界抜けを行うには最適な
場所なのである。先程﹁行きは﹂と言った通り、幻想郷から外界へ抜
けた時もこのルートを使った。他にも抜けるルートはあるようだが、
詳しくはない。
もう一つは岡崎からの報告による。
前回、結界を抜けた時に岡崎に依頼していた事がある。例の陰陽玉
を盗んで死んだ盗賊の遺留品解析を依頼していたのだが、それが新た
な手掛かりを示したのだ。
私は参道を横道に逸れ、神社の裏手に廻った。
瓦屋根の倉庫が幾つか建ち並んでいる。人影は無い。ペンデュラ
ム・エンシェントエディションを取り出してみるが、反応は無かった。
﹁此処で﹂
懐から退魔針を抜きつつ振り返る。
声の主へ針が放たれる寸前で、私は辛うじて腕を止めた。
325
﹁それは出さない方がいいわ﹂
金色に輝く長いその髪が風を受けて膨らむ。美しくも意味憚られ
る、正しく妖怪と形容するに相応しいその美貌。
﹁君は⋮⋮﹂
﹁小泉、と申します﹂
にっこりと笑みを浮かべて、私の言葉を遮る。
どう見ても八雲紫である。
なのだが、その格好は幻想郷でのそれとはかけ離れていた。白い
ニットセーターに緑碧のストールを巻き、ジーンズなんて履いてい
る。おまけに縁の厚いサングラスなんてかけて小脇には高級ブラン
ドのバッグをぶら下げていた。歳を考えろと言いたくなる格好だが、
その少女離れしたスタイルの良さで割と様になっているのがなんと
なく悔しい。
もしやこれは、変装しているつもりなのだろうか。名前も小泉とか
名乗っていたし。
私はもう、溜息を吐くしかない。
さっきうろうろしてた外人は、こいつだったのか。
﹁⋮⋮永添、だ﹂
﹁そう。なら永添さん。先ずはそれをしまって﹂
紫がそう言うとは、私の想定が合っていたと言う事か。言葉に従
い、ペンデュラムと退魔針を懐にしまった。
﹁素直なのは良い事だわ﹂紫はサングラスを外すと微笑んだ。﹁さて、
永添さん。此処で話すのもなんだから、場所を移さないかしら﹂
﹁私は此処に用があるのだが﹂
﹁でしょうね。まあ、だからよ﹂
紫はくるりと後ろを向いた。艶のある長髪がさらりと揺れる。斜
陽を浴びて血の色に輝くそれは、なんとなく不吉な感じがした。この
場所と紫は存在自体が互いに合わない、そう感じるのだ。
歩き出した彼女の背を追って、私達は神社を出た。紫は私が待たせ
ておいたタクシーに迷いなく乗り込んで、奥の席を陣取った。流石と
言うかなんと言うか。戸惑う運転手に連れだと告げて、私も彼女の隣
326
に座った。
﹁部屋をとってあるわ﹂
紫が村の旅館の名を口にすると、タクシーは走り出した。
﹁私が此処へ来る事を見越していたのか﹂
﹁いいえ。私もさっき此処に来たばかりなのよ。貴女に会ったのは、
偶然﹂
何処までが本当なのやら。
﹁岡崎に会っていたのか﹂
﹂
﹁え え。彼 女 の 講 義 が あ っ た か ら ね。実 は 私、あ の 大 学 の 学 生 な の。
学生証、見る
﹁私の事も最初から知っていたのか﹂
私が見つめると、紫はなんだかバツが悪そうな顔をした。少しの間
俯いていたが、観念したのか、小さく頷いた。
こいつは岡崎の存在を通して、私や星、ひいては聖達の事も知って
いたのだ。
﹁聖の情報を私達にリークしたのは、君だったんだな﹂
やけにあっさり私と契約したと思ったら。彼女は最初からそのつ
もりだったらしい。それだけが理由ではないのだろうが、私の探査能
力を目当てに私達を幻想郷に引っ張り込んだのだ。私は未だ彼女の
望む物を見つけ出せていないので、彼女にとっては期待外れだった訳
だが。
﹁そういう事をするから、胡散臭いとか言われるんだよ、まったく﹂
だが、そのおかげで聖の救出は成った訳だし、私が文句を言う筋合
いは無かった。
﹁岡崎をどうするつもりだ。言っておくが、彼女は私の友人だ。危害
を加えようとするのならば、私も対抗措置を取らせてもらうからな﹂
﹁どうもしないわ。可能性空間移動船の研究は私にとっても有意義だ
し、見守らせてもらっているだけよ。それに、彼女が幻想になるには
まだ早いしね﹂
﹁あいつを君の政治に利用して欲しくはないな﹂
定期的に岡崎の元へ出向くという事は、岡崎が紫にとってのある種
327
?
の弱点にもなる。岡崎の身柄を確保する事で、八雲紫への取引材料に
しようと考える者がいるかもしれない。現にはたてが接触をしてき
たし、それに付随する形で青いレインコートの妖、四万十も現れた。
﹁⋮⋮しがらみが多くて嫌になるわ﹂
ため息混じりにそう零す紫。
その気持ちは分からないでもない。立場が上がれば気安く行動出
来ないのは世の常である。八雲紫が誰かに会った、幻想郷ではそれだ
けでニュースに成りかねないのだから。
ただ、彼女の口から反省や自戒の言葉は出なかった。岡崎への接触
を止めるつもりはないらしい。
やがて、車は旅館に着いた。
思ったよりも大きな旅館で、六、七階建てはある本館の左右には、宴
会場だろう別館を備えている。如何にも田舎の上宿と言った風情で
ある。お高価そうな宿だ。だが、シーズン前だからか、広い駐車場に
は空きが目立った。
車から降りると、どうやって察知したのか、女将が出迎えに出てき
ていた。平身低頭して来訪への感謝を述べる女将だが、その注意は私
よりも紫の方へ向いている気がした。
ボーイに荷物を預け、女将に先導されて旅館の中に入る。広いロ
ビーにふかふかして歩き難い絨毯、やはりお高価そうである。紫、財
政面には余裕があるのか、羨ましい限りだ。
展望用エレベーターを登って通された部屋は、最上階の一番奥の部
屋。なんと部屋の中に庭と鹿威しなんて備え付けてあった。無駄に
広く、無駄に高級である。好奇心から風呂場を覗いてみると、檜の露
天風呂なんてついていやがった。
あれこれとひとしきりの世話を焼いた後、女将はようやく出て行っ
た。私は広縁に設置された、これまたふかふかのソファに身を沈め
た。外の世界での私は、普通の女とそう変わらない。長距離の移動に
四万十との戦い。少し疲労を覚えていたのだ。
大きく開いた窓の向こうには、日本の中心を貫く山脈が遠く横た
わっている。沈んだ太陽の残光を受け、不気味に微笑んでいた。これ
328
からは山の妖怪の時間、我々の時間だ。
目線を下げれば、博麗神社も見えた。先に広がる森は山の一部に遮
られて見えないが、明らかにその先に幻想郷は存在しない。存在する
事を疑わせるような綻びすら感じられない。完璧に隠蔽されている。
あれだけの面積の土地をどうやって隠しているのかを考えると、博麗
大結界の凄まじさが分かるというもの。
紫は窓際に立って、遠く空を見つめていた。
﹁このフロアは貸し切ってあるわ。自由に使っていい﹂
﹁気前が良いんだな﹂
﹁ここにはコネがあるからね﹂
﹁良い旅館だな。今日はゆっくりして、博麗神社を調べるのは明日に
しようかな﹂
紫はクスクスと鈴が鳴るように笑った。
﹁此処は私の息が掛かった旅館よ。此処なら盗聴の心配は無いわ。見
え透いた誘導は不必要よ﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
逆を言えば、此処を一歩出たが最後、賢者達のテリトリーだと云う
訳か。
そう。外の世界にも、賢者達のシンパが居るのだ。
考えてみれば当然である。
幻想郷を覆い隠す博麗大結界。これだけ大きな結界を維持するに
は、内部からだけでは限界がある。外の世界にも協力者が居るのは当
然だ。外と内、両側からの隠蔽によって、幻想郷は外界から隔離され
ているのである。
﹁それに、この村の全てが彼等の仲間と云うわけではない。外の世界
ではそれ程の規模を保つ事は難しいのよ﹂
﹁なら、精々が博麗神社周辺くらいか⋮⋮﹂
紫は私の向かいに力なく腰掛け、女将の入れた茶を口にした。
﹁何故、私を此処へ連れてきた﹂
まさか一緒に温泉に入りたいからじゃあるまい。何か話があるか
らだろう。
329
﹁⋮⋮貴女にちゃんと言わなければならないと思って﹂少し悲しそう
な瞳をして、紫は静かに口を開いた。﹁彼らが何をしているか、もう貴
女は掴んでいるんでしょう。そして、私が何をしているのかも。私の
罪が何であるのかも﹂
私は一つ、溜め息を吐いた。
答える代わりに、ペンデュラム・エンシェントエディションを取り
出した。
﹁霊夢は知らないようだな。自らの力の源を﹂
博麗。
世代を超えて継承されるその力。
その力や血に宿る。
ならばその血は一体どこから来たのか
このペンデュラムに封じ込められているものは、最早口にする必要
は無いだろう。あの悍ましい陰陽玉の中にあったモノも。
﹁私は、奴らと同じ穴の狢よ﹂
八雲紫はか弱いが、しかし強い女だ。自らの悍ましい行為の告白
を、震えること無く淡々とこなした。
私は頷いた。
﹁知っている﹂
﹁私は許されない罪を犯している。今までも、そしてこれからも﹂
﹁理解している﹂
﹁全ては幻想郷の存続の為⋮⋮なんて言えれば格好は良いのかもしれ
ないけれど、私は個人的な理由でそれを行っている﹂
﹁承知している﹂
﹁それでも貴女は、探索を続けるつもりなのかしら﹂
私は思わず笑みを零してしまった。その様子を訝しんだのか、紫は
眉をひそめた。
だが、私が笑ってしまうのも仕方ないだろう。傑作じゃないか、妖
怪 の 賢 者 が 十 代 の 少 女 と 変 わ ら な い 精 神 構 造 を し て い る な ん て な。
自 分 が 誰 か に ど う 思 わ れ て い る か、確 認 せ ず に い ら れ な い な ん て
⋮⋮。存外、妖怪の賢者も可愛いところがある。
330
?
私は紫に向かって指を二本、突き付けた。
﹁君は二つ勘違いしている。私は君の味方ではない。前にも言ったろ
う。君 と 私 の 繋 が り は、あ の 契 約 だ け だ と。そ し て も う 一 つ。君 が
思っているほど、私は善人ではないんだ。はっきり言って賢者達が何
をしようと私には関係が無いし、興味も無い。奴らが私の敵だから
追っている、ただそれだけなんだ﹂
あの優しい燐に聞かれたら、嫌われてしまうだろうか。
だが私の手は二つしか無い。千手観音よろしく全ての衆生を余す
こと無く救う事など出来はしない。私は私の守るべきものを守る、そ
れしか出来ないのだ。
紫はというと、私の言葉に曖昧な顔をした。
﹂
﹁なら何故、貴女はこの事件を追っているのかしら。あの土砂崩れは
貴女達を狙ったものじゃないのよ
﹁決まっているだろう。私は毘沙門天の使者、正義の味方だからさ﹂
私がそう言うと、紫は声を上げて笑い出した。何が面白いのか、身
をよじらせてはしたなく笑い転げている。妖怪の賢者ってのはやは
りよくわからんものだ。
それから、素晴らしい湯に浸かって英気を養った。旅館の飯も豪勢
だったのだが、何故だか油揚げ料理が多かった。気になったので幻視
を し て み る と、成 る 程、給 仕 の 中 に は 妖 狐 も 混 じ っ て い る よ う だ。
きっと紫の式神、八雲藍の部下だろう。
深夜。
私は紫を置いて旅館を抜け出し、博麗神社へと向かった。外の世界
では私の夜目も弱くなってしまっている。痺れるほど冷たい外気を
裂いて、懐中電灯片手に急ぎ足で向かったのだが、明るくない土地で
ある、何度か迷いそうになってしまった。
やっとの思いで神社まで辿り着くと、身を低くして素早く社務所に
向かった。入り口には鍵がかかっていたが、ピッキング道具を用意し
ていたので問題無い。そう、私は空き巣をやる気だった。言うまでも
なく犯罪行為だが、探偵をしていた私にとっては日常茶飯事である。
そんなものが言い訳になるなど考えていないが。
331
?
社務所は小さく、宮司の居住は別である事は外観から分かってい
た。暗闇を懐中電灯でざっと照らすと、沢山の物で溢れかえってい
る。整理整頓がなっていない神社だ、そこばかりは霊夢を見習って欲
しいと思う。
いくつか目星を付けると、指紋を残さぬよう手袋を付け、早速調査
に取り掛かった。
机の引き出しを片っ端から開けて、中を調べる。あるのは社務所で
売っている御守りや絵馬ばかりで、目ぼしいものは特に無い。棚も開
けて調べて見るが、中身はやはり売り物。破魔矢に胡散臭い水晶、神
社のくせに数珠まである。ダイヤル式の金庫を開けてみても、中身は
現金ばかりだった。
私の目的は、あの盗賊の手掛かりである。岡崎の調査にて明らかに
なった事実は、この神社から神具の盗難届が出ていた事だった。犯人
が残した手掛かりとして警察のデータベースに登録されていたのが、
件の盗賊の指紋だったというわけだ。
もちろんこれは偽りであろう。被害届を出したのは賢者達だ。盗
賊 が 外 界 に 逃 げ た 場 合 を 考 慮 し て 指 名 手 配 を し て い た に 違 い な い。
実際には盗賊は幻想郷にて死亡し、その遺体は四万十によってバラバ
ラにされてしまった。それにより、盗賊の動向から賢者達に近づくの
は不可能かと思われたのだが、岡崎の調査により、幻想郷の外部に痕
跡が残されている可能性が出てきたのだ。
しかし、手掛かりは一向に見つからず。時間ばかりが無駄に過ぎて
行く。空き巣をやる時は、空き巣があった事自体を悟られぬよう、全
て元どおりにしておかなければならない。時間がかかるのだ。
積み上げられた段ボール箱の中身にも目ぼしいものは無い。ファ
イリングされた資料の山にも目を通したが、どれも清算伝票や地域会
報などで、有益のものではなかった。
時間がかかり過ぎている。社務所の中に居ても、既に空が白みかけ
て来たのが分かった。
イラついた私は、八つ当たりに足元にあった酒瓶のケースを蹴っ
た。すると、妙な手ごたえを感じた。酒瓶の置かれたケースをずらし
332
てみると、地下へ繋がる入り口を見つけた。
地下なんてベタ過ぎるだろう。しかもその入り口をこんな無造作
に隠してあるとは⋮⋮。さすが、低脳と云われる賢者達である。はた
ての気持ちがちょっぴり分かった。
しかし、入り口には封印が施されていた。神力の伴った、本物の封
印である。外の世界では失われて久しい技術のはず。やはり、賢者達
はかつての力を保っている。
私が解呪を施すと、地下への扉が開いた。
石造りの階段を降り切った先。四畳程のスペースに、小さな社が安
置されている。
中には紫色に染められたなめらかな絹織物が敷いてあった。その
中央には古ぼけたセピア色の写真が一枚、置かれている。
私はその写真を手にとって眺めた。
写真に写っていたのは、ルナサ達だった。
333
ルナサと、メルランと、リリカ。そしてもう一人。見知らぬ少女を
囲んで、三姉妹が微笑んでいる写真だ。
この写真、見覚えがある。
これは確か、メルランの部屋のポートレートにあった⋮⋮。
﹁懐かしいわ﹂振り返ると紫が立っていた。﹁そんな写真が残っている
なんて、人間も随分酔狂だわね﹂
﹁来たのか⋮⋮﹂
隙間でやってきたのだろう。紫にとっては造作も無い事だ。
なら、この少女は﹂
﹁レイラ・プリズムリバー⋮⋮馬鹿共のせいで、またその名を口にする
事になるとは﹂
﹁プリズムリバー
よ。さあ。幻想郷に帰りましょう﹂
﹁流 石 の 馬 鹿 共 で も 封 印 を 解 け ば 察 知 す る わ。姿 を 見 ら れ る と 面 倒
紫がそう言った途端、大きな上の方で物音がした。
ろじゃない﹂
﹁これ以上は私の口から話すべきではないわ。それに今は、それどこ
紫は首を振った。
?
紫は隙間を開くと、強引に私の手を取って中へ入った。
隙間を抜けた先は、博麗神社の境内だった。だが、先程まで居た外
の神社とは雰囲気が異なる。ここは霊夢の居る博麗神社だろう。
私は頭に手をやった。ちゃんと耳がある。尻尾の感覚も戻ってい
た。無ければ無いで慣れてしまうが、あればあるで安心するものだ。
紫の方を見ると、いつの間にかいつもの紫のドレス姿に戻っている。
外界でしていた格好に皆がどんな反応をするか見てみたいところ
だったのが、惜しかったなあ。
空はすっかり明るくなってしまっている。
﹁私は調査に戻るが、その前に頼みがある。次に岡崎に会った時、私が
礼を言っていたと伝えてくれないか﹂
﹁ええ。良いわよ﹂
紫は柔らかに微笑んだ。
その笑みが凍りつく。
私も強い敵意の波動を感じた。この感覚は⋮⋮。
振り返った先にあったのは、大幣を握りしめた博麗霊夢の姿であ
る。
﹁見つけたわ。異変の犯人⋮⋮﹂
その面は、夜露に煌めく妖刀のように美しく、壮絶な意思を湛えて
いた。
334
アジテーション・ホワイト ④
虹色の光の煌めきは、正に迸る神の雷と呼ぶに相応しい。不規則に
輝きながら回転する焔の剣が、博麗神社の境内を縦横無尽に駆け巡
る。
ペンデュラム・エンシェントエディションから漏れ行く儚げな極光
をバリアのように展開しても、流星雨のように降り注ぐ圧倒的な死の
光の前には所詮やわな薄布に過ぎなかった。
次々に飛来する夢想封印の光球を、弾幕を展開して逸らし、地を跳
ね回って必死に回避を行う。
視界は一面のオーロラ、地面が抉れ弾け飛ぶ音が耳を劈く。鼻を突
くオゾン臭、破れた唇から滲む血の味。激しく振動する五体全てが、
全身全霊の警告を発し続けている。
その時の博麗霊夢の攻撃には全くもって容赦というものが無かっ
﹂
余裕の色は無い。さしもの八雲紫も、博麗の巫女の全力攻撃を前にし
﹂
て涼しい顔は出来ぬようだ。
﹁己が役割を完うするまで
小傘の十手で打ち据え、逸らす。巨大な衝撃が右半身を貫き、一瞬、感
端無く、防御幕の隙間を突破した光球が私の眼前に迫った。咄嗟に
の力を持っているとは⋮⋮。
私達を猛追してくる。その様は、まるで戦車だ。博麗の巫女がこれ程
私の退魔針を札で薙ぎ払い、紫の繰り出す隙間を御幣で叩き潰して、
達へ向けて投げ付けつつ、己は夢想天生で私達の攻撃を受け付けぬ。
紫の訴えにも霊夢は耳を貸さない。次々と生み出される光球を私
!
335
た。前回対峙した時とは違う、私への敵意と害意に満ちた攻撃の嵐。
しかもそれだけではない。その攻撃には我が身すら省みぬ執念が込
められている。
どういうつもりなの
隣に八雲紫が居なかったなら、私は瞬く間に塵と化して居ただろ
う。
﹁霊夢
!
隙間を展開して光球を防御しつつ、紫が叫んだ。その声にいつもの
!
覚が麻痺した。鋼の焼ける臭いが脳に突き刺さり、気が遠くなる。頭
を振ってなんとか正気を保った。
ぼやけ始めた視界の端、散乱する光の帯の合間に、霊夢の姿が見え
る。
いや。
あれは残像だ。
視線を下に向けると、地を縫った霊夢が肉迫していた。突き出され
る御幣が轟々と音を立てて空を斬り裂く。
死が頰に触れる。
﹂
避けられない。
﹁ぐっ⋮⋮
微かな衝撃と共に、霊夢の得物が私の身体を貫くのが見えた。
だが、勝利の笑みの代わりに霊夢が浮かべた表情は、驚愕だった。
見やると、小さな亜空間が私の体表面を覆っていた。八雲紫の隙間
だ。寸前、私を致命傷から守ってくれたらしい。
隙間ごと私の身体を貫く霊夢の御幣を逃さぬよう、強く握り締め
る。息が触れそうなこの距離、私は霊夢に語り掛けた。
﹁私如きに拘わっている場合なのか。そんな暇があるのなら、あの事
故の犯人を探せ﹂
﹂
﹁だから、している﹂
﹁なんだと
﹁あの事故を起こしたのはあんただろう。証拠もある﹂
﹁⋮⋮馬鹿な﹂
﹁霊夢、貴女何を言っているの﹂
八雲紫も困惑している。
﹂
﹁私は博麗の巫女よ。幻想郷に害為す者は排除する。それが私の役割
⋮⋮
極光に、私は包まれてしまった。
﹂
叫ぶ紫の声が、オーロラの幕向こうから響く。
﹁ナズーリン
!
336
!
?
途端、霊夢の体が激しく振動し始める。その身体全体から溢れ出る
!
私は、見た。
極光の帯の超えたその先。
無縁塚の掘っ立て小屋の中で見た、あの光景。地べたを這いずる黒
い影、流れ行く血の大河。顔を黒く塗り潰された得体の知れぬ連中、
奴らの担ぐ神輿、輝く博麗の紋章。黄昏に赤く染まる空、飛び行く無
数の渡り鳥達。
何処かから子どもの泣き声が聞こえる。助けを求めるように、誰か
に縋るように泣いている。
今なら分かる。
これは。
これは。
紛れもなく、博麗霊夢その人の声⋮⋮。
嗚呼、と私は声を上げた。自覚する、それは恐怖に上ずっていた。
私の身体が先端から黒い影に侵食されている。そして、ようやく私
は理解した。地べたを這いずり回るあの黒い影達、あれはこの呪いの
中に飲み込まれた者達の成れの果てなのだと。
嫌だ。
嫌悪と恐怖に敗北して、私は声の限り叫んでいた。望まぬ初夜を迎
えた生娘のように身体を震わせ、踠いて、足掻いて、泣き叫んでみて
も、何も変わらず、ただ運命に組み伏せられるのみ。黒い影が私の身
体を食らいつくさんと駆け巡る。
私もこの光景の一部となるのか。この光の帯の中で、永遠に狂った
夢を見続けるのか。
封印される⋮⋮この夢想に。
﹁⋮⋮頭に来るわね﹂
カシャリ。
幻想郷に似つかわしくない、無機質な機械音が響いた。
それは外の世界に居た私にはある意味馴染みの深い音、カメラの
シャッター音だ。
途端、黄昏の光景は吹き飛び、極光の幕は宙に散乱して消え去った。
私の身体を喰らっていた影の牙も、たちまち朝日に溶け消えてしま
337
う。私は安堵の息を吐いた。幻想とはなんと恐ろしく、なんと儚いも
のか。
﹁私 の 新 聞 を 利 用 し て、博 麗 の 巫 女 ま で 動 か そ う と す る な ん て ⋮⋮
まったく、くさくさするわ﹂
いつの間にか現れた姫海棠はたてが、苛立ち混じりに言葉を吐き捨
てた。彼女は折り畳み式携帯電話に付属したカメラをこちらに向け
ている。以前、対峙した時にも苦しめられたのだが、あのカメラには
弾幕を掻き消す力があった。それで夢想封印の光を消したようだ。
あっさ
私は呆然とする霊夢の腕を打って御幣を落とし、一歩下がって距離
を取った。
﹁はたて⋮⋮すまん、助かった﹂
はたては相変わらず私を一瞥しただけで何も言わない。
代わりに、側に立つ八雲紫に食って掛かった。
﹁八雲紫。あんた、巫女の教育が足りてないんじゃないの
り奴らの計略に引っかかるなんて﹂
﹁貴女⋮⋮姫海棠はたてね。あの﹃花果子念報﹄の﹂
騙すって、どういう事よ﹂
﹁そ。巫女を騙すのに利用された﹃花果子念報﹄の、姫海棠はたてさん
よ﹂
﹁⋮⋮騙す
程には無かった困惑と躊躇が混じっている。
はたてはそんな霊夢を小馬鹿にするようにフッと息を吐いた。
﹂
﹁博麗の巫女ってのは脳味噌空っぽでも務まるもんなのね﹂
﹁なんですって
﹂
に立つ、どこかで見覚えのある写真だ。
た。一面に大きく私の写真が載っている。死体探偵姿で一本杉の前
はたてが取り出したのは、自らが作成した新聞、
﹃花果子念報﹄だっ
﹁あんたの言う証拠ってのはこれかしら﹂
﹁そうよ、証拠だってある﹂
えてるのかしら
﹁そこの小鼠があの土砂崩れを引き起こしたなんて、あんた本気で考
?
?
338
?
霊夢が眉根を寄せてはたてを睨んだ。殺気はそのままであるが、先
?
⋮⋮一本杉。
なるほど、そういう事か⋮⋮。
﹁死体探偵が事故の前に一本杉辺りに居た。だからそいつが犯人だ、
なんてイマドキ小学生でも言わないわよ﹂
﹁それだけじゃない。発破に使った爆弾と同じ物がこいつの小屋から
見つかったと書いてある。他にもある﹂
﹁この新聞にだけ、ね﹂
﹁里の皆だってそう言っている﹂
﹂紫が驚きの声を上げた。﹁一体、里で
それとも、このデマを広めているアジテーター共か
﹁あんたの言う皆ってのは、一体何処の何奴を指してるのよ。顔の見
えない棒人間
しら﹂
﹂
﹁あ、アジテーターですって
何が起こっているの
はたてはヤレヤレと首を振った。
﹁妖怪の賢者も地に落ちたものね。あんたが大事に守ってきた里は、
今や流言飛語が飛び交い、私刑の横行する無法地帯になりつつある﹂
﹂
は た て の 指 先 が 私 を 捉 え た。﹁そ し て そ の 槍 玉 に 挙 げ ら れ て い る の
﹂
が、そこの小鼠、死体探偵ってワケよ
﹁なんですって⋮⋮
!
﹂
!
そんなんで本当に博
?
﹁だからさ。あんたの目が節穴だって言うの。そこの小鼠ならとっく
だが、その的外れの言葉では、はたてを倒すにはまるで足りぬ。
﹁そのデマを流した張本人が、よくも言える﹂
霊夢は少し詰まったが、その口を開けてやり返した。
麗の巫女が務まるのかしらね
んたちょっと自覚が足りないんじゃないの
﹁博麗霊夢。こんな薄っぺらな扇動にまんまと乗せられるなんて、あ
る。
はたては混乱して目を瞬かせる霊夢に、﹃花果子念報﹄を突き付け
紫は驚愕と嫌悪に顔を歪め、ワナワナと震えた。
!
﹂
339
?
?
?
のとうに気づいている事実に、あんたはまだ気付いてないみたいね﹂
﹁事実⋮⋮
?
﹂
﹁霊夢﹂はたての望み通り、私は口を挟んだ。﹁その新聞は偽造された
ものだ﹂
﹁偽造ですって
つまり、誰かが意図的に情報操作を行っていると言う事だ。
⋮⋮ 相 当 に 酷 い よ う だ な。無 理 も な い。あ の 事 故 で は 数 百 の 命 が
れども﹂
里へ降りれば、黒烏の群れに白い烏を放り込むようなものでしょうけ
﹁さあ。自分の目で確かめてみたらどうかしら。尤も、今その格好で
﹁里の様子はそんなに酷いのか﹂
携帯を弄りつつ、はたては気の無い声で言った。
に今の状況も気に喰わないし﹂
﹁別に⋮⋮私の新聞を利用されたのが気に入らなかっただけよ。それ
残ったはたてに、私は問いかけた。
﹁何故、私を助けた﹂
る。八雲紫は幻想郷最強の妖怪であるが故に。
を想定して動いているからだ。対応策を準備しているに決まってい
ちらにせよ、紫の行動に効果はあまり期待出来ないだろう。敵もそれ
へ行くのか、それとも他の賢者達を問い質しに行くのか⋮⋮。だがど
体を滑り込ませるようにして、彼女もまた何処かへ消えて行った。里
まさに悪鬼のような表情と表現する他無い。開いた隙間にずるりと
八雲紫は怒りに震えながらも、にやりと笑みを浮かべた。それは、
とし前を付けさせてやろうかしら﹂
﹁どうやら、私の留守を狙われたようね。やってくれるわ⋮⋮どう落
しまった。
引き裂き打ち捨て足蹴にし、矢のようなスピードで駆け出して行って
るぶると震えた。そうしていたかと思うと、気合い一閃、偽造新聞を
霊夢ははたての手から新聞を引っ手繰ると、写真に目を落とし、ぶ
誰か⋮⋮言うまでも無い、あの事故の真犯人がな﹂
うか
とまるきり同じだ。誇り高き烏天狗が、競合相手の盗用などすると思
﹁よく見ろ。その写真は先日、射命丸文の﹃文々。新聞﹄に載ったもの
?
奪われているのだ。人間たちが情緒不安定になり、その不安と不満の
340
?
捌け口を探しはじめる事も予想出来た事である。
だが、私は心配などしていない。
﹂
﹁はたて。君も賢者達に利用されっぱなしにするつもりは無いだろう
私に協力してくれないか﹂
﹂
﹁まさかあんた、このまま調査を続けるつもり
﹁ああ﹂
﹁あんた自身が槍玉に挙げられているのよ
はたては驚いているが、何も不思議な事はない。命蓮寺には星と聖
がいる。人心の荒んだ今この時こそ、我々の戴く真理とその教えとが
力を持つのだ。里の事は彼女たちに任せておけば心配無い。部下た
ちが少し心配だが、まあ置いてきた賢将がなんとかしてくれるだろ
う。
﹁今、優先すべき事は、奴らの次の凶行を止める事だ。君の念写なら奴
等の動向が分かるんじゃないのか﹂
姫海棠はたては念写により遠隔地の情報を得ることが出来る。﹃花
果子念報﹄の念は、念写の念。その力を用いて新聞を作っているのだ。
だが、はたては首を振った。
﹁無理ね﹂
﹁何故。君はその力で賢者達の動きを探って来たんじゃないのか﹂
はたては弄っていた携帯電話のボタンを強く押し込んだ。カシャ
リ。擬似的なシャッター音が響き渡る。撮った写真を見せつけるよ
うに、私へと携帯の画面を突き付けてきた。
﹁見て。画面が真っ暗でしょう。奴らは私の能力に対して妨害を行っ
ている。念写だけじゃ大した情報は取れないし、取れたとしても時間
が掛るわ。私は一人じゃない。協力者の力が無ければ⋮⋮﹂
﹂
﹁なんだ、これは﹂
﹁え
自分で撮った写真を見て、はたてが驚いている。
﹁何故、写真が⋮⋮﹂
はたてが行った念写には、明確に像が写し出されていた。
はたてが不思議そうな顔をする。
?
341
?
?
?
﹁待て。はたて。もう一度よく見せてくれ、これはまさか⋮⋮﹂
写し出された写真。
光差す畳の間の上に無造作に広げられた新聞紙。その上にポツリ
と置かれている物体にはどことなく見覚えがあった。束ねられた円
筒状の物体達で、脇に置かれた機械時計から伸びる幾筋ものコード
が、不味そうなスパゲティのように絡まっている。
ちょっと値が張るが⋮⋮今の世なら必須だぞ﹂
外界の資料で見る、時限式爆弾の姿形によく似ていた。
﹁これは凄いぞ
通りがかったマミゾウは、ふとそちらに目を向けた。
寒空の下、男がみかん箱の上に立ち、興奮した面持ちで聴衆相手に
語りかけている。だがどうやら、このところ頻発している扇動者共の
演説では無いらしい。
﹂
興味を覚えたマミゾウは、人だかりをヒョイと掻き分けて、男の前
に進み出た。
﹁ちょいと。今度は何の話じゃ
﹁ほう
それはまた現代医学的な⋮⋮﹂
男は﹁抗鬱薬﹂と書かれた薬を取り出して言う。
﹁ああ。この新薬は凄いぞ。なんと不安を取り除く薬なんだ﹂
?
とマミゾウは思った。これは兎妖怪の行商が持ち込んだ品であろう。
ということは、噂に聞く永遠亭の天才医師の処方に違いない。その効
能は疑うべくもないが⋮⋮。
﹁近頃は何かと物騒だろう。あの付喪神の事件に神隠し、土砂崩れの
事件と異変続きだ。おまけに最近、世界の終わりが近いという噂で不
安で眠れないし、汗も止まらず目眩や頭痛に悩まされていたんだが、
﹂
それらが一気に解消された。いやあ、これなら世界の終わりも怖くな
い
た。男が用意したサクラかとも思ったが、兎妖怪の臭いはしない。彼
女たちの回し者というわけでもないらしい。純粋に薬の信奉者なの
342
!
包装に書かれている発売元には﹁兎角同盟製薬﹂とある。なるほど、
?
周囲を見回してみると、既に幾人かが同じ薬を持っているのが見え
!
だろう。
﹁同じ症状に悩まされていたら、薬売りに聞いてみると良いぜ﹂
男は異常な目付きでそう勧めてくるのである。
﹁そ、そうか。儂は不安に悩まされていないから大丈夫じゃ﹂
不気味さを覚えたマミゾウは、その人だかりからそそくさと離れ
た。
人間の里では抗鬱薬が蔓延しているらしい。医師が処方するなら
まだしも、向精神薬を行商から買い付けて素人判断で服用するなど、
どう考えても健全ではない。
里の人間は明らかに情緒不安定になっている。
それは、不安と不満を焚き付ける扇動者達のせいだけではないらし
い。極限状態で発露される人間の弱さ、それが表面化し始めているの
だ。賢者達とやらは、何を思ってこのような事態を引き起こしている
のか⋮⋮。
なんだってこんな事をするんだ
何事かとマミゾウは走った。
﹂
通りの中心に居を構える大きな商屋の前に、黒山の人だかりが出来
ている。人混みを掻き分けて最前列に躍り出ると、木槌を片手に大勢
の人足達が商屋敷に乗り込んで行くのが見えた。
﹁な、何をしているんじゃ、あやつらは﹂
﹂
隣に立つ野次馬の一人を問い詰めると、彼は興奮しながらぺちゃく
ちゃと喋りくさった。
﹂
﹁打ち壊しですよ、打ち壊し
﹁打ち壊しじゃと
!
があったんですよ、例の死体探偵と繋がりがあるって
﹂
ホラ、あの
死体探偵ですよ、先日の土砂崩れの事件を引き起こしたって言う
﹁な⋮⋮﹂
!
!
343
煙管をふかし大路を行くマミゾウの耳に、今度は怒号が飛び込んで
きた。
﹁やめろ、やめてくれ
!
男が必死に叫ぶ声と、年端の行かぬ少女が泣き叫ぶ声が木霊する。
!
﹁ええ、ええ。ついに有志が突入したんです。この商屋は前々から噂
?
マミゾウは、絶句した。
既にそこまでの憎悪が死体探偵に向けられているのか。そして関
わりがあるというだけで排斥されるほど、事態は進んでいるというの
か。
﹂
﹁いやぁ、怖いですねぇ。でもあの憎っくき死体探偵に加担したんな
ら、自業自得だと私は思いますね
﹂
!
げた。
﹂
﹁あなた達にこんな行いをする権利はありません
警団に任せて下さい
事件の調査は自
彼は屋敷の打ち壊しに掛る人足の一人に飛びかかると、声を張り上
法被に身を包み、頭に捻じり鉢巻きを巻いている。自警団の一人か。
人混みの向こう側から進み出た少年が凛々しい声を上げた。青い
﹁やめなさい
ど、どぶに投げ捨ててしまったかのよう。
るその様は、まるで獲物に群がる牙獣である。人間の品性や品格な
マミゾウは目眩がする思いだった。木槌の一打ち毎に歓声を上げ
上げる。
木槌の打ち付ける大きな音が響いた。その音に、野次馬達が歓声を
るのは、きっとそれよりも。
る。悪い噂の早まるのは、炎が走るよりも早い。無思慮な憎悪が広ま
もう分別のつきそうな歳の青年でさえも、このような物言いをす
!
﹂
!
﹂
!
じゃねぇか
﹂
﹁何言ってやがる
俺達が里を守るんだ
﹂
その自警団自体があの死体探偵とつるんでるん
かじりつく少年を、人足達は払い除けて足蹴にした。
から
﹁早まった真似はやめて下さい 里の平和は我々自警団が守ります
﹁小僧、邪魔するんじゃねえ
簡単にはねのけられてしまった。
だが、悲しいかな、まだまだ若く身体の小さい彼は、屈強な人足に
!
﹁そうだ、お前達なんかに任せておけるか
﹂
!
!
344
!
!
﹁とっとと失せろ、小僧
!
!
!
凄まじい形相の人足達を前にして、若い彼にもう一度飛びかかって
いく気力は無かった。傷ついた六角十手を握りしめ、唇を噛んで悔し
さに身体を震わせている。
門前に引き出された店主の男とその家族や使用人と思しき人々は、
呆然と自分達の家が打ち壊される様を眺めているしかないようだっ
た。年端の行かぬ少女が、ただひたすらに泣いている。マミゾウはそ
の少女に見覚えがあった。あれはあの時の、あの壺の少女⋮⋮。
怒号と、打音と、歓声と、泣き声と。怒りと、憎悪と、悲しみと無
力感とが交錯する。
見ていられない。
マミゾウは力を使おうとしたが、はたと気付いた。妖力を使う、そ
んな事をすれば逆に商屋の一家の名を更に貶める結果となるだろう。
きっと迫害は加速する。
ならば、自分は指を咥えて見ているしかないのか。人間以上の、妖
の力を持った身の上で。人に恐怖される存在のはずの自分が、人の憎
悪 に 恐 怖 し て い る。こ れ で は 何 の た め の 妖 怪 な の だ か 分 か ら な い。
何のための自分自身なのかさえも。マミゾウの中で燃えたぎる侠が、
マミゾウ自身を焦がすかのように責め立てていた。
その時、沈鬱なる弦の響きが観衆の耳を打った。聞いているだけで
身体から力が剥がれ落ちて行くような、深い眠りに誘われるようなこ
の音色と感覚。マミゾウも知っている。
見上げると、今、正に打ち壊されようとしている屋敷の屋根の上に、
仁王立ちしてヴァイオリンを掻き鳴らすルナサ・プリズムリバーの姿
があった。
ルナサの音には気分を沈静化させる作用がある。その力を全開に
しているのか、憎悪に猛る人足達も、熱狂に踊っていた群衆達も、瞬
く間に目を虚ろにし始めた。人足は力なく木槌を取り落とし、群衆達
は潮が引くように無言のまま消え去って行った。
その様を見届けると、ルナサは屋根から屋根へ跳んで行ってしまっ
た。どうやらルナサは、里の各地で起こる暴力事件の沈静化を図って
いるようだ。あの事故に責任を感じているのだろう。
345
マミゾウは商屋の一家に近づくと、彼らに同情した一般人を装い、
しばらく命蓮寺に間借りしてはどうかと勧めた。聖白蓮はこの自体
を予見していたのか、実は既に命蓮寺の方では受け入れ体制が整って
いる。
呆然としながらも、ここに居ては危険だと判断したのか、商屋の主
は家族を引っ張って命蓮寺へ向かって歩いて行った。
﹁マミゾウ﹂
声のしたほうを振り返ると、陰鬱な表情の雲居一輪と寅丸星がい
た。二人とも袈裟姿をしている。布教に回っていたのか。
﹁見てたよ。まずい事になって来たわね⋮⋮﹂
﹁じゃが、おヌシらにとっては信者獲得の好機じゃろう﹂
﹁そんな言い方⋮⋮﹂
イラつきが口に出ている。これではただの八つ当たりだった。マ
ミゾウは慌てて言い繕った。
﹁古今東西、宗教家のやるべき事は同じじゃて。恥じる事はない。こ
うなった今だからこそ、人の心に平穏を与えられるのは宗教だけじゃ
ろう。ワシはそれを手伝う事は出来んが﹂
﹁そうですよ、一輪。今、私達が揺らぐわけには行きません。信者獲
得、大いに結構ではないですか。行わぬ善より行う偽善とも言いま
す。仮に我々の行いが偽善であったとしても、それが誰かの救いに繋
がるのなら構わないでしょう﹂
星は静かにそう言うが、一輪の顔色は晴れない。
﹁でも⋮⋮ナズーリン、大丈夫かしら﹂
﹁一輪。彼女なら心配要りませんよ。それより、急いで地蔵を建てま
しょう。今、人々の心に必要なものは、不安に負けぬ強い信仰の力な
のです﹂
そう言う星の顔は、いつもの柔和さが消えて、厳しくも力強い顔を
していた。
││優しいだけじゃ、正義にはなれない。
ナズーリンの言葉が蘇る。
星こそは、彼女の語る正義の化身そのものなのではないか。ふと、
346
マミゾウはそう思った。
人々の心は荒んでいる。あちこちで暴力を伴った事件が発生し、不
満と恐怖が渦巻く里。
ルナサが鬱のメロディを覚えたのは、今、この時の為だ。取り返し
の付かない事件が発生する前に、人々からその情念を削ぎ落とす。妹
から託された、ルナサの役割である。騒霊が騒がしい間は、人里は平
和でなければならないから。
今日だけでもう何件目だろうか。庄屋に押しかけていた人々を鬱
の音色で沈静化した後、ルナサは川縁に座って一息ついていた。
流石のルナサも疲労を覚えていた。力を使いすぎている。本来、こ
の役割はメルランとリリカ、三人で行うべきものなのだが、二人はま
だそれが出来る状態ではない。あの事件で傷ついたのは何も人間達
だけではないのだ。それに出来たとしても、ルナサは妹達にこの役割
ナズーリンは深呼吸すると、意を決したように口を開いた。
347
を行わせるつもりはなかった。この行為は賢者達との敵対行動に他
ならないからだ。
﹁ルナサ﹂
座ったまま声の方へ振り向くと、ナズーリンが立っていた。外の世
今、その姿はまずいわ、早く人目の無い所へ⋮⋮﹂
界から戻って来たのだろうか。しかしまずいことに、死体探偵姿のま
まである。
﹁ナズーリン
女に与えた物だ。
﹁これには君の血液が付着していた。そうだな
﹁⋮⋮ええ﹂
﹁鑑定結果が出た。心して聞いてくれ﹂
?
ルナサは息を飲んで、彼女の言葉の続きを待った。
ナズーリンは言葉を切った。
﹂
と、懐から陶器の欠片を取り出した。それは、出立の前にルナサが彼
ナズーリンはいつになく強い口調で差し伸べたルナサの手を払う
﹁そんなことはどうだっていい﹂
!
﹁君とあのトランペットの少年は、遺伝的に兄弟だったと分かった﹂
予想していた答え。それでも、ルナサの胸がズキリと傷んだ。
﹁それだけじゃない。君の兄弟は他にも居た。君に会う前に死んでし
まっているが⋮⋮。はっきり言おう。賢者達によって、君の兄弟のク
ローンが量産されている﹂
それも、ルナサは予想していた事だった。予想はしていたが⋮⋮胸
の内から怒りが沸々とこみ上げてくる。震える手で、ルナサはヴァイ
オリンを掻き鳴らした。自らの衝動を抑えるために。
﹁ありがとう、ナズーリン﹂憂鬱を奏でながら、ルナサは静かに言った。
﹁でも、お願いがあるの。この事、妹達には黙っていて貰えないかし
ら﹂
ナズーリンは何も言わなかった。代わりに、懐から一枚の写真を取
り出してルナサに示した。
﹁それは⋮⋮﹂
348
﹁外の世界の博麗神社で見つけた﹂
それは、ルナサ達三姉妹に加え、レイラの写った写真だった。
どうやらナズーリンは、ルナサの予想よりも多くの事実を知ってい
るようだ。
﹁ルナサ。単刀直入に聞こう。君は賢者達の一員なのか﹂
しばし逡巡したが、
﹁そうよ﹂
演奏を止め、ルナサはゆっくりと頷いた。
﹁正確にはその写真に写っている少女が賢者達の一人だったの。私は
彼女の付き人。大魔法使い、レイラ・プリズムリバーのね﹂
﹁大魔法使い⋮⋮﹂
﹁私達騒霊三姉妹は彼女の魔力で創られたのよ。生き別れたレイラの
実の姉妹を模してね。だからレイラは私の妹であると同時に、母親で
﹂
もある。私達三人を創り出したくらいよ。その力は推して知るべし
でしょう﹂
﹁その力を賢者達に利用されたというわけか﹂
﹁レイラはとうの昔に他界していると言うのに⋮⋮
!
ルナサは拳を地面に打ち付けた。衝撃で地面が抉れる。
あのトランペットの少年は、レイラのクローンにされていたのだ。
レイラの魔力を利用する為に。
死してなおその力に縋るとは、あさましいにも程がある。あまつさ
え造り出したその少年を自らの手で殺害するなど⋮⋮。どれだけ命
を冒涜すれば気が済むというのか、奴等は。
﹁妹達はレイラが賢者達であった事実を知らないでしょう。実を言え
ば、私もよく覚えてはいない。その頃の私達はまだ存在が確立してい
ない、不安定な状態だったから﹂
﹁君は土砂崩れの計画を知っていたのか﹂
ルナサは首を振った。
﹁そんなわけ、無い。知っていたら止めているわ。私の命に代えても
⋮⋮﹂
﹁だが、賢者達の一員だったんだろう﹂
ルナサの胸倉を掴んで、ナズーリンは怒鳴った。
﹂
﹁お、落ち着いて。何を言っているの、ナズーリン。貴女らしくない
わ﹂
﹁里に爆弾を仕掛けられて、落ち着いていられるか
﹁ば⋮⋮﹂
爆弾。
その言葉で、あの土砂崩れの地獄絵図が脳裏に蘇り、ルナサは息が
!
349
﹁そうだけど⋮⋮﹂
ナズーリンを見やる。
彼女は珍しく厳しい顔をしている。なぜだか、焦っているようにも
見えた。
﹁君は次の攻撃場所を知っているんじゃないのか。ルナサ﹂
﹁いいえ。知らないわ﹂
﹁嘘を吐くんじゃない。賢者達の一員だったのなら、知っているだろ
う﹂
﹂
﹁ナ、ナズーリン
?
﹂
﹁答えろ、ルナサ
!
詰まった。
﹁知らないのか、本当に
﹂
﹂
ナズーリンの怒号に、ルナサは必死で首を振った。
﹁くそ⋮⋮ならルナサ、君も探せ
﹁何処だ、何処にある⋮⋮
﹂
それしかないが、しかし⋮⋮。
ることしかない。
私達に出来るのは、奴らの予想よりも早く爆弾を見つけ出し処理す
私たちに向くというものだからだ。
は里が一番都合が良い。里の人間達に被害が出れば、それだけ憎悪も
ち会わせる事で爆破の罪を私達になすりつける事だろう。その為に
等の目的は、おびき出した私達をまとめて爆殺するか、その現場に立
奴等が爆弾を仕掛けたのは十中八九、里の何処かだろう。恐らく奴
でも探さない訳にはいかない。
はたてはそう言っていたが、そんな事は分かっている。だが、それ
わ。私達をおびき出す為に﹂
﹁ナズーリン、これは罠よ。意図的に私へ情報をリークしているんだ
ヴァイオリンを打ち捨てると、ルナサも立ち上がった。
をこのままには出来ない、絶対に。
殺意だ。三姉妹の内で、ルナサは騒霊現象の破壊を司っていた。奴等
ルナサの胸の内に黒い感情が湧き上がる。自覚している。それは、
けの血を吸えば、奴らの欲望は満足すると言うのか。
賢者達はもう一度土砂崩れの悲劇を起こそうと言うのか。どれだ
爆弾⋮⋮。
て行ってしまった。
ナズーリンはルナサを突き飛ばすようにして放すと、そのまま走っ
!
に、焦りだけが募って行く。
りながら、幻視を使って探索を続ける。せわしなく働く五感とは裏腹
探させているが、手掛かりが少なすぎた。里の屋根から屋根へ飛び移
ペンデュラムもロッドも全く反応しないのである。部下も放って
!
350
!
上空を見やると、はたてが旋回しているのが見える。彼女も探しあ
ぐねているらしい。
時 計 が セ ッ ト さ れ て い た の は 正 午 丁 度 で あ る。太 陽 は 既 に 高 い。
もう時間が無かった。
はたての写真には円筒形の物体が十本以上写っていた。あれが外
の世界から調達したプラスチック爆弾だとすれば、里の一画を吹き飛
ばすくらいの威力はあるだろう。仕掛けられた場所によっては甚大
な被害が出る。それだけは避けなければならない。
その時、私の服の谷間から赤い光が漏れていることに気付いた。
ペンデュラム・エンシェントエディションが反応している。だが、
辺りを見回してみても、近くに霊夢はいない。
とにかく私は、急いでそこへ向かうしか
赤い光が導くその先は、寺子屋だった。まさか、再び上白沢慧音の
暗殺を意図しているのか
無かった。
今日は休日だからか、寺子屋に人の気配は無い。火急の用なので土
足のまま上がり込み、戸を引き放って教室の一つ一つを素早く見回っ
て行く。
果たして、一番奥の教室にそれは在った。
時計仕掛けの時限爆弾と、その隣に無造作に置かれた、血に飢えた
陰陽玉。縁側から差し込む光を受けて、不気味に輝いている。
何故、こんな所に陰陽玉が⋮⋮。
考えている暇は無い、時計にはもう残りが少なかった。私は急いで
駆け寄って、爆弾に手を伸ばした。
﹁なっ⋮⋮﹂
途端、陰陽玉から極光の帯が吹き出した。
オーロラは寺子屋の天井をブチ抜き、猛り狂う龍となって空へ駆け
上 る。衝 撃 が 体 を 突 き 抜 け る が、姿 勢 を 低 く し、畳 の 目 に 足 の 指 を
引っかけて堪えた。
私がペンデュラムを構えてオーロラの幕へ干渉しようとしたその
時。
りぃん。
351
?
﹂
耳障りなその音が耳を打った。
﹁四万十
た。
﹁小鼠
陰陽玉は渡さん
﹁何⋮⋮﹂
﹂
爆弾が
﹁あれに力を与えたのは、私達さ﹂
﹁女を土蜘蛛にしたのは、貴様らだったのか⋮⋮
﹂
の落盤事故の折、お前はあの土蜘蛛を殺せなかっただろう﹂
﹁お前に私を殺せるのか、仏道に縛られるお前に。見ていたぞ。先日
しかし、四万十は嘲笑った。
のまま心臓を一突きできる位置だ。
私も左手の退魔針を奴の脇腹に突き付けていた。斜め上の方向、そ
﹁どうかな﹂
﹁詰みだ、小鼠﹂
前に奴の指先が突き付けられていた。
わる。手刀で水鞭を断ち切り、回転して龍を振りほどいた時には、眼
な水の龍に姿を変え、右腕の筋繊維を食らいつくそうと刹那に暴れま
私の右腕を絡め取りギリギリと締め上げて来た。さらに水流は小さ
が、私のロッドにぶち当たった瞬間、水の剣は鞭のように形を変え、
ロッドで難なくその攻撃を受け止めた。
甘い。妖夢の神速の踏み込みに比べれば甘いにも程がある。私は
水の本流が、鋭利な刃を形造った。
聞く耳は無し。四万十が突撃してくる。その指先から発せられる
﹁今はそれどころじゃない
﹂
交差した腕に術を一極集中で掛け、陰に体を隠して散弾をやり過ごし
術を一点集中して使えば、威力の低いこの散弾など物の数ではない。
この攻撃への対処法は既に考えてある。聖から習った肉体強化法
極光を受けて輝く、無数の光の粒。これは水散弾だ。
が放った攻撃が眼前に迫っていた。
私が瞳を開いて振り返ったその時、既に奴、青いレインコートの妖
!
左腕が動かぬ。いつの間にか、小さな水の龍が絡みついている。奴
!
352
!
!
!
!
の言葉に注意を向けたその隙を突かれたのか。
﹁勘 違 い す る な。私 達 は 切 っ 掛 け を 与 え た だ け だ。妖 怪 を 作 っ た の
は、差別をした人間達さ﹂
力を込めた奴の指先がぶるぶると震える。
息を飲む、その瞬間。
縁側のほうから突っ込んできた黒い翼の天使が、四万十に強烈な飛
び蹴りを喰らわせて、弾き飛ばした。
﹂
姫海棠はたてだ。虹の柱を見て、こちらへ急行して来たらしい。
﹁爆弾を
私は光の龍に向かってペンデュラムを投げつけた。光の幕が干渉
﹂
しあって一瞬、掻き消えたその向こう。正にその時、時計の短針が中
天を指そうとしていた。
﹁だめだ、爆発する⋮⋮
﹁別に⋮⋮あんたの為にやったわけじゃないし。ただ奴らの思い通り
﹁はたて。またもや助けられたな﹂
色を取り戻した視界に、私はほっと胸を撫で下ろした。
い。寺子屋は延焼せずに済んだ。
爆発によって生じた炎は、丁度光の龍が開けた大穴を通ったらし
精々教室の障子が破壊される程度である。
た。逃しきれなかった余波が私達を襲うが、それは大した事はない。
爆弾の炎の大部分は、檻の上部に開けられた穴から上空へと逃げ
いた、天上に至る道へと。
点に、猛る光が殺到する。上部の一点、即ち姫海棠はたてがあえて開
圧力に空気の檻が悲鳴を上げる。次の瞬間、脆くも破れさった堤の一
檻 の 中 で は 行 き 場 を 失 く し た 光 が 出 口 を 求 め て 猛 り 狂 っ て い た。
に、全てが色を失くして視界がモノクロになる。
でいる。同時に、檻の中で凄まじい破壊光が迸った。強烈な光の放射
周囲からかき集められた圧縮空気の檻が、時限式爆弾の周囲を囲ん
見える。
私は叫んだ、その叫び声が消えた。
!
になるのはムカつくってだけよ﹂
353
!
プイ、とそっぽを向いてそう言う。私はちょっと笑ってしまった。
なんだ、はたてにも可愛い所があるじゃあないか、なかなか。
それにしても、咄嗟に不燃性の空気だけを掻き集めるとは、姫海棠
はたての機転と器用さには恐れ入った。射命丸文にも匹敵するとい
うのは、はたての大言ではないだろう。
ふと見回すと、あの血に飢えた陰陽玉の姿が無い。爆発に巻き込ま
﹂
れて粉微塵になってしまったのだろうか。それとも⋮⋮。
﹁ナズーリン
縁側からルナサが駆け寄って来た。あの光の龍と吹き上がる爆炎
﹂
を見て、慌てて駆けつけたのだろう。
﹁爆弾は処理出来たの
で受け止めた。
﹁何故邪魔するの、ナズーリン
﹂
その指先から無造作に撃ち出された光の刃を、小傘の仕込みロッド
はっ、と気付く。ルナサの瞳に漆黒の炎が宿っている。
﹁賢者達の手先さ﹂
倒れ伏す四万十に目を向けて、ルナサが問う。
﹁そいつは⋮⋮﹂
﹁ああ、はたてのおかげでな﹂
?
ルナサの金色の瞳が私を射る。
いうわけかしら。でも⋮⋮﹂
﹁⋮⋮忘れていたわ。貴女、仏教徒だったわね。不殺の誓いがあると
﹁駄目だ、ルナサ﹂
﹁殺したほうが早いわ﹂
﹁こいつには聞かなければならない事がある﹂
なければ⋮⋮﹂
﹁止めを刺さなければ、害虫は何度でも沸いて出るわ。根絶やしにし
﹁ルナサ⋮⋮君こそ何故、倒れた敵を害そうとする﹂
た妖なのだ。
正気で殺戮を行う、底知れぬその闇。忘れかけていたが、ルナサもま
ルナサの声色は平静そのものだった。私はそれを不気味に感じた。
?
354
!
﹂
﹁それでこの先、どうやってこいつらと戦って行くつもりなのかしら。
こいつらは隙あらば私達を殺そうとしてくる、敵なのよ
私は返す言葉を持たなかった。
敵を虐殺する覚悟があるのか。
肩口を走り抜けた。
﹁ナズーリン⋮⋮どうして貴女、そこまでするの⋮⋮
私の中に確信としてあるのだ。
﹁野次馬共が集まってきたわよ。遊んでる場合
﹂
ただ、思う。きっと星も私と同じようにしただろう。それだけが、
教義の中でも正当化されている。なのに、何故。
乗る資格の無い身。そして憎むべき仏敵を討ち滅ぼす事、それ自体は
それは、私にも分からなかった。私は破戒をしている、仏教徒を名
ルナサが困惑し、首を傾げている。
﹂
肩の肉に食い込み、滴る血が教室の畳を濡らす。遅れて、鋭い痛みが
私は咄嗟にそれに体当たりして、倒れ伏す四万十から逸した。刃が
動揺する私の隙を突いて、ルナサが第二刃を放った。
はまだ、私自身の中にも無かった。
それはいつか、私が星に発した問いである。その問いの答えは、今
?
がる縁側の方に顔を向けた。
﹂
その時、私の背後から伸びた手が、はたての方へ向いた。
﹁は
﹂
かれたはたては無防備にそれを食らってしまった。
﹁はたて
﹂
﹁は。はは、やったぞ、大金星だ
小鼠、お前のおかげだな
あの姫海棠はたてを倒すなんて
!
﹂
起き上がった満身創痍の四万十が歓声を上げる。
!
!
はたては声も無く吹き飛ばされ、教室の床の間に叩きつけられた。
!
﹁貴様⋮⋮
!
355
?
私達の攻防を冷ややかな目で見守っていたはたてが、ざわめきの広
?
四万十の指先から発射された水爆弾が、はたてを直撃する。虚を突
一瞬の出来事だった。
!
ルナサが刃を振るうが、四万十は私をルナサのほうへ押し出し、盾
にした。躊躇したルナサの刃が空を切る。
入れ違いに放たれた水爆弾が、私の眼前で爆裂した。咄嗟に小傘の
ロッドでガードするが、重い衝撃が身体の芯を揺さぶり、私の身体は
木の葉のように吹き飛ばされ、ルナサもろとも教室の柱に叩きつけら
れた。
礼を言うぞ、小鼠
﹂
その隙に、四万十は天井の大穴から上空へと飛び上がって行った。
﹁は、あはは、仏教様様だな
狂ったような四万十の高笑いを残して。
あの時、四万十に止めを刺しておけば、はたては⋮⋮。
激しい後悔に襲われる。
﹁はたて、すまん⋮⋮私のせいだ⋮⋮﹂
ければ、命が危うい事は明白だ。
て、一目で重体と分かる状態だった。出血も酷い。早く医者に診せな
る。水爆弾の直撃を無防備に受けたはたては、全身がズタボロになっ
て息をしていた。が、その吐息は弱々しく、今にも消え去りそうであ
爆弾を放った四万十自体が弱っていたからだろう、はたては辛うじ
起き上がる気力も無い私は、地を這ってはたてににじり寄った。
﹁は、はたて⋮⋮﹂
だが、はたては。
ている。
先程使っていた肉体強化術のお陰で、私はなんとか五体と意識を保っ
体の節々が悲鳴を上げている。ルナサの刃と小傘のロッド、そして
四万十を追って天井の穴から飛び出して行った。
いきり立ったルナサは、覆いかぶさった私の身体を跳ね除けると、
!
あれ⋮⋮﹂
オーロラの龍が現れた事は、マミゾウ達もすぐに気付いた。
﹁何
﹂
?
﹂
﹁まさか、また奴らか
﹁⋮⋮行きましょう
!
356
!
一輪が不安そうに眉をひそめている。
?
いち早く駆け出したのは、寅丸星だった。マミゾウと一輪はその背
を追うようにして駆けた。
その直後、耳を裂く爆裂音とともに、今度は炎の柱が上がった。
一体、何が起こっているのか。
マミゾウ達が龍の現れた現場、即ち里の寺子屋へとたどり着いた時
﹂
には、既に寺子屋の周りに野次馬達が山のように集まっていた。
﹁あっ
半壊した寺子屋から、死体探偵姿のナズーリンが出てきた。その腕
には、血だるまになった少女を抱えている。あれは鴉天狗の姫海棠は
たて。何故、鴉天狗がこんな場所に、そして何故、あんな重傷を負っ
ているのか
ようだ。
﹂
ま、ま ず い ん
今度は何をやったって言うの⋮⋮
﹁死体探偵⋮⋮あれは死体探偵だぞ﹂
﹁なんか怪我してない
﹁寺子屋が壊れてる⋮⋮慧音先生は無事なのか
人間達に動揺が走っている。
﹂
﹁ナ ズ ー リ ン の あ の 怪 我 ⋮⋮ そ れ に あ の 格 好 ⋮⋮
じゃないの、星⋮⋮
﹂
?
なってしまった。
の拍子に、目深に被ったフードが剥がれ、彼女の顔と耳とが露わに
不意に群衆の間から放たれた飛礫が、ナズーリンの顔を打った。そ
丁度、立ち尽くすマミゾウ達の前を通りかかった頃。
はその異様さに肝を冷やし、沈黙のまま道を開けていた。
いてよろよろ歩いて行く。さながら、海を割る聖者のように。人間達
はたてを抱えたナズーリンは押し黙ったまま、詰めかけた人波を裂
なかった。
一輪に急かされても、寅丸星は何故かナズーリンに駆け寄ろうとし
﹁星ったら
一輪が不安げに言うが、星は厳しい顔で押し黙っていた。
!
?
?
!
﹂
た。その足跡には血が混じる。ナズーリンも相当の怪我をしている
ナズーリンは何も言わず、よろよろと弱々しい足取りで歩き始め
?
!
357
!
﹁あ
﹂
確 か、命 蓮 寺 の
あいつは妖鼠のナズーリンだ
あ い つ、幻 想 郷 縁 起 で 見 た こ と が あ る
⋮⋮﹂
﹁あの耳、間違いない
周囲の人間達が熱を帯び始める。
その時、ナズーリンの視線がマミゾウ達を射抜いた。
ていた。
﹁死体探偵の正体は、妖怪だったのか
﹂
﹂
﹂
こめかみから血を流し、満身創痍の姿でしかし、その瞳は鈍く輝い
!
!
﹁やっぱりあの事故は妖怪が起こしたんじゃないか
﹁畜生、妖怪野郎が
!
!
て行くだけだった。
た。
﹁一輪。命蓮寺に戻りますよ﹂
まさかあいつを見殺しにするって言うの
?
まさかの台詞に、マミゾウも一輪も愕然とした。
﹁ちょっと、星
﹂
ナズーリンをかばうべく飛び出そうとした一輪を、星の鉾が制し
﹁な、なんて事⋮⋮
﹂
それでも彼女は黙ったまま、はたてを守るように抱きかかえて歩い
の石は、すぐに視界を覆うほどになった。
めた。飛礫が彼女の身体を容赦無く打ち据えて行く。飛び交う憎悪
群衆が怒号を上げ、我先にとナズーリンに向かって石を投げつけ始
!
!
私は行くわ
﹂
!
のではないのか
﹁そんな事出来るわけないじゃない
﹁黙りなさい。戻るのです﹂
!
そしてそれは、かつて聖白蓮を見殺しにした行為と全く同じ所業な
のではないのか
だがそれは、ナズーリンを完全に命蓮寺から切り離す事を意味する
いるが⋮⋮。
のかもしれない。だから今、ナズーリンを見捨てる⋮⋮理に適っては
それは星達が最も恐れる、聖白蓮の再封印という結果を招いてしまう
確かに、今手助けを行えば、群衆の怒りは命蓮寺へも向くだろう。
!
?
?
358
!
!
﹁ちょっと、離してよ
﹂
暴れる一輪を引きずって、星は群衆から離れて行った。
なんという事だ。
まさか、寅丸星がナズーリンを見捨てるとは⋮⋮。千年以上も同じ
時を過ごして来たという同志を、こうも簡単に切り捨てられるものな
のだろうか。そこまでして守るべきものなのか、命蓮寺は⋮⋮聖白蓮
は。
マミゾウは、ナズーリンの背を見つめた。
飛礫の飛び交う中、力無い足取りで、大路を歩むその姿。まるで石
積みの道を背に行く苦行者のようだ。
妖怪に直接立ち向かう度胸なぞ、この群衆にはあるまい。こいつら
は呪いの言葉とともに石を投げつける事くらいしか出来やしないの
だ。だが、それは精神攻撃に弱い妖怪にとって、致命的なダメージを
与えるだろう。
命蓮寺が死体探偵を、ナズーリンを切り捨てた事もすぐに広まるだ
ろう。そうすれば、彼女に庇護はなくなる。醜悪な有象無象共が彼女
を狙い始めるかもしれない。
マ ミ ゾ ウ は 煙 管 を 取 り 出 し た。火 を 点 け る 気 に は な れ な か っ た。
ただ煙管を力いっぱい噛み締める。胸の内にくすぶる侠の炎の責め
立てから逃れるように。
最早出来る事は何も無い。手を貸そうにも、それすらも拒まれて
は。
あの一瞬。ナズーリンの瞳は明確にマミゾウ達を拒絶していたの
だ。
﹁自己犠牲のつもりか、小鼠⋮⋮﹂
気に入らない。何もかも。
いたたまれなくなったマミゾウは、醜悪な蛮行を為す人々の群れか
ら抜け出そうと、悍ましい熱気に背を向けた。
途端、すれ違った男と肩をぶつけてしまった。
神経がささくれだっていたマミゾウは、詫びもせずに立ち去ろうと
したが、男が物を落とすのを見てしまい、仕方無く立ち止まってそれ
359
!
を拾った。
﹁おヌシ。落としたぞ﹂
声を掛けると、黒い着物を着たその男が振り返った。マミゾウはそ
いつの顔に見覚えがあった。少し前に薬の宣伝をしていた男だ。例
の抗鬱薬の影響なのか、血色があまり良くない。口の周りに蓄えた髭
も相まって、不健康を絵に描いたような顔色をしている。
﹁あ。これはどうも、すみません﹂
落とし物を受け取ると、男はペコペコと頭を下げた。
﹁いやあ最近、不安で不安で。そのせいか、色々な事に気が回らなく
なってしまって⋮⋮﹂
﹁気をつけろよ﹂
早くこの不愉快な喧騒から逃れたいマミゾウは、適当にあしらっ
た。
﹁ありがとうございます。でも⋮⋮ああ、不安だなぁ。こんな大事な
物を落としちゃうなんて⋮⋮最近、失敗続きだしなぁ⋮⋮﹂
顔色の悪い男が、拾い物を確かめるように軽く振った。
りぃん。
揺れた拍子に鳴り響く甲高い音が、なぜだか無性に神経を逆撫でし
て、マミゾウは思わず振り返った。
男が手にしたそのペンデュラムは、ほのかに赤く輝いていた。
360
フレイム
耳鳴りがする。
地獄の鬼共が囚人へがなり立てるように、あるいは狂える吹雪が激
しく幹を打つが如く。頭の中を悪魔の絶叫が駆け巡っている。
じわりと首筋が痛んだ。思わず首元へやった手がぬるりとぬめる。
手を開いてみる。赤い血でかすれている。溜息が出る。
傷が開いていた。
眩暈がした。吐き気もひどい。肩は重く、腕が怠い。
地に立つというのに、沈み行くが如く。
﹂
纏わりつく業に、私は溺れかけていた。
﹁どうした、何を呆けている
まあ、あの礫の雨は中々のもの
烏帽子を被った童顔の少女が小首を傾げている。
﹁民衆にやられた傷が開いたのか
愚痴を言っている。それ今関係ないだろ。大体、そんな事こそ太子様
は毎日片付けろだとか、洗濯くらい自分でしろだとか、主婦みたいな
蘇我屠自古はペチャクチャとお小言を始めた。食べ終わった食器
﹁太子様の御前だぞ。まったくお前はいつもいつも⋮⋮﹂
る。そのはず、彼女は現世に漂う幽世の住人、亡霊なのである。
色硝子の嵌め込まれた窓辺に佇む、妙に気配の薄い女が声を上げ
﹁いい加減にしろよ、布都﹂
る。
薄暗い霊堂の中で、彼女の周りだけ火が付いたように明るい気がす
見ているこちらのほうも痛快な笑い転げようである。窓が少なく
﹁倉を食む悪魔がヤワとは、馬鹿を言いよる﹂
その少女、物部布都は腰を折って盛大に笑った。
﹁⋮⋮私は鼠だからな。ヤワなのさ﹂
怪じゃろう。その程度の傷など、どうという事はあるまい﹂
じゃったからな。我には石打ちの刑にも見えたぞ。しかし、お主は妖
?
とやらの御前で言う事じゃないだろうに。しっかり者を装ってはい
るが、この女も相当抜けている。
361
?
﹁屠自古。それくらいにしておきなさい。客人の手前です﹂
樫の机の向こう側に腰掛けるヘッドフォンをした女性が、小言を垂
れ流す屠自古を制した。その声にお小言亡霊はピタリと口を噤んだ。
凜として威厳のある、しかし何処か弱々しい声。
覇気の薄れたその面を儚げに崩して、聖徳王は私へと笑いかけた。
いつもは脂ぎった煮凝りを連想させる自信と自尊と精力とに満ち溢
れた笑顔が、今は澄み切った清水のようにさらりとしている。獲物を
狙う木菟の翼のように逆立った髪も、ふわりと優しいカーブを描き、
普段の威圧感が感じられない。
まったく意外な事に、豊聡耳神子は弱っているようだった。まさに
晴天の霹靂⋮⋮いや、天網恢々疎にして漏らさずとも言う、なるべく
して成ったというべきか。
布都と屠自古、二人の従者も、そんな主の姿を見て心配そうな視線
を向けている。
﹁恥ずかしいところを見せてしまったかな。すまないね﹂
﹁気にするな。命蓮寺も似たようなものさ、喧しいのには慣れている﹂
﹁そうか。それはさぞ楽しいだろうな﹂
神子は相変わらず、美しい笑みを浮かべている。それを強者の余裕
と見るべきか、商売敵への嘲笑と見るべきか、私は少し迷った。だが
結局はそのどちらでもない印象を持たざるを得なかった。
﹁この地で傷を癒やすとよいだろう。此処、神霊廟は私に付き従う者
達の街だ。里とは違う。君への憎悪も此処には無い﹂
﹁礼を言わせて欲しい。その言葉に甘えさせて頂いている﹂
私は聖徳王に頭を下げた。頭に巻いた包帯がズルリと落ちて、闇が
目の前を覆った。
民衆から石を投げられ、私は里を追われた。死体探偵、そして私自
体に憎悪が集まっている今、命蓮寺に戻る事も出来ない。拠点である
無縁塚にも恐らく有象無象共の刺客が向けられているだろう。私は
止まり木を失った鳥に等しい。
行く宛の無い私を拾ったのは、なんと商売敵の聖徳王だった。彼女
からの書状を受け取った私は、着の身着のまま、この神霊廟の青娥の
362
部屋に転がり込む事になったのだ。
私の窮状を見て、どうやら青娥が口添えをしてくれたらしい。彼女
にはいくら感謝してもし足りないくらいだ。
﹁もう一つ礼を言わせてくれ。先の災害の折の援助、旱天の慈雨と言
う他無い﹂
﹁そ れ は 筋 違 い と 言 う も の だ。あ の 災 害 は 幻 想 郷 に 住 ま う 者 全 て に
とって等しく厄災だった。力を合わせて事に当たるのは、それは義務
というものだ﹂
﹁それでも、重ねて助けられた事に変わりはない﹂
ずれた包帯を直して、私は神子を正面から見据えた。
﹁だが、私もタダ飯を喰らうつもりはない。仕事はするさ﹂
それは仏道に相反した、私の矜持でもある。
神子は首を振った。
﹁気にしないでよい。客人にたかったとあっては、私の名が廃れる﹂
363
﹁いや。私自身がそうしたいんだ。私は鼠だ。鼠は動き回っていない
と死んでしまう性分なのさ﹂
﹁そうか。ならば君には⋮⋮﹂
神子は口を開いたまま固まった。
一瞬だけその視線を二人の従者へと向け、それから目を伏せた。
﹁││いや、いい。忘れてくれ﹂言い掛けた言葉を飲み込んで、神子は
首を振った。﹁ここで君の行動を束縛するものは、法だけだ。あとは
君の心の赴くまま、自由にするとよい﹂
そうして、疲労を息で吐き出す。
バイセクシャルを公言して憚らない聖徳王のこと、夜伽の相手をし
ろなどと言い出すのではと恐れていたのだが、杞憂に過ぎなかったよ
うだ。
しかし、どんな言葉を飲み込んだのやら。
私の寵姫は幸せだぞ。愛と快楽に包まれた毎日を送れる﹂
﹁ああ、ちなみに寵姫はいつでも募集している。君もなってみないか
ね
調子を崩しても、やはり神子は神子のようだ。性欲が外套を羽織っ
⋮⋮飲み込んだのはそっちの言葉じゃなかったのかよ。
?
たような奴、聖は神子をそう評していたが、なるほどその通りである。
もちろん、そんな魅力皆無の勧誘など受けるはずもない。
﹁遠慮するよ。私は修行中の身だからな﹂
﹁そうか。それは残念﹂
神子は笑いながらそう言うと、席を立った。
﹁私はもう行かねばならない﹂
﹁わざわざの御足労、痛み入る﹂
﹁何、定期の巡視ついでに立ち寄ったまでだ﹂
二人の従者を付き従え、神子は押し戸に手を掛けた。
ふと振り返った神子は、その牡丹のような口を再び開いた。
﹁この神霊廟は、例えるなら水鏡だ。我々は君を受け入れよう、毘沙門
天の使者よ。ゆるりとしてゆくがよい﹂開かれた神子の瞳は、底知れ
ぬ光を帯びていた。﹁君が迷いを断ち切る、その時まで⋮⋮﹂
心の底の底まで見透かすような神子の瞳を逃れ、私は視線を石造り
の床に逸した。
甘夏のような香りを残して、神子は去った。
私は少し息をついた。私にとっては恩人に当たるのだが、それでも
やはりあの聖徳王を相手にするのは骨が折れる。しかし、この疲労は
それだけではない。
血で汚れた頭の包帯を取り換える。四万十の放った水爆弾で、私の
体はボロボロになっていた。殺到した飛礫の痛みも、まだ胸に響いて
いる。
だが、いつまでも腐ってばかりいられない。神子に仕事をすると宣
言したのだ。多少の強がりが入っていたとはいえ、その言葉に違う事
は出来ない。それに、八雲紫との契約もある。
私は死体探偵の変装をした。結局、これ以外で私が生きて行く道な
ど無いのだった。
耳鳴りの残る頭を抱えて堂を出る。溢れる太陽の光が薄暗がりに
慣れた目を刺した。
空は突き抜けるように蒼い。
蒼空を泳ぐ極彩色の鳥の赤い尾羽がはらりと落ちて、眼前の塀上に
364
落ちた。私はなんとなくそれに手を伸ばした。自然と、広がる景色に
目が吸い寄せられた。
高い城壁から見下ろすその光景。
視界一面に広がるは、巨大なる街。
碁盤目状に規則正しく区画整備され、精密画のように整然として美
しい。広い街道を無数の人や牛車が行き来しているのが見える。活
気のある声が飛び交い、街のあちこちからは生産活動を示す細い煙が
あがっている。雑然とした里とは違った、素朴ながらも洗練された上
品な街並み。
これが神霊廟である。
聖徳王こと豊聡耳神子が亜空間、言わば幻想郷の隙間に造り出した
この街は、中国文化の影響を強く受けているようだ。高く分厚い城壁
が四方をぐるりと取り囲み、東西南北それぞれに巨大な門、そして城
郭を備えている。所謂、城塞都市の体を取っていた。
城内部には小さな川が引き込まれ、秋に色づく小高い山もある。街
の各所には幾つもの背の高い倉が立ち並ぶ、城外に広がる田畑の収穫
を納めているのだろう。その貯蔵量たるや、目算しただけでも相当な
ものである。
神子が創り上げたこの神霊廟は、このように非常に戦闘的な、まさ
に要塞と形容するにふさわしい剣呑とした都市だ。妖怪達からの評
判はすこぶる悪い。しかしその高い城壁が、妖怪の影響に怯える人々
に安堵をもたらしているのもまた事実である。
そして、中心にそびえ立つは神子を戴く霊堂││正確にはあれを神
霊廟と呼称すべきなのだろうが。
神子という巨大な精神的支柱の存在が、この都市により強力な政治
的 価 値 を 付 与 し て い る。こ れ は 幻 想 郷 に 現 れ た 一 個 の 独 立 国 家 と
言って差し支えないだろう。
恐るべき豊聡耳神子。幻想郷に現れてから、あれよと言う間にこの
ような都市を創り上げてしまった。その行政面の知見たるや、目を見
張るものがある。その知見を活かし、神子は積極的に公共事業への投
資を行ってもいる。花の温泉郷だとか、妖怪の山への街路を引いたの
365
も神子である。その名声は鰻登りだ。彼女は既に幻想郷に対して大
きな影響力を持ち始めている。
加えて、先程の謁見である。人を見透かすあの瞳が脳裏に焼き付い
て離れない。噂によると、神子は人の心を聴き通す神通力を備えてい
るという。その超能力が彼女のカリスマ性をさらに引き上げている。
あの聖も認めているように、豊聡耳神子は稀代の傑物であった。⋮⋮
ふしだらなその性生活を公言さえしていなければ、今頃この幻想郷も
道教一色に染まってしまっていたのかもしれない。
私は手に取った赤い尾羽を髪に挿して、城壁の石段を降り街へと
入った。
この街の目抜き通りは四つある。即ち、東西南北それぞれの門か
ら、中心に鎮座する霊堂へと伸びる道である。北側は工業区画になっ
ているため少し人通りが薄いが、南側の参道は里の目抜き通りにも負
けない活気があるらしい。私は青娥の作業部屋がある北側の通りを
かりの勢いである。
﹁なんで神霊廟にいるの、ナズーリン﹂
﹂
366
抜けて、南通りを目指して歩いた。
行き交う人々は私の姿を見かけると皆一様に身を強張らせていた
が、それだけだった。罵声を浴びせられる事も無ければ、礫を投げつ
けて来る事も無い。神子の言った通り、ここの人間達はよく統制が取
﹂
れている。これも神子の統率力がなせる業なのか。
﹁ナズーリン
た。
﹂
?
駆け寄って来たのは、袈裟姿の少女である。
なんでここにいるの
﹁一輪じゃないか。どうしたんだ、こんな所で。説法か
﹁それはこっちの台詞よ
!
肩で大きく息をしながら、雲居一輪は私の胸ぐらを掴みかからんば
!
﹂
南通りに差しかかった時、聞き覚えのある声がして、私は振り向い
!
﹁君もあの場に居たのなら、知っているだろう。私は命蓮寺にはもう
戻れん﹂
﹁でも⋮⋮
!
﹁でもも季もない。それが真実さ﹂
私が歩き出すと、それを追って一輪が付いてきた。
﹁⋮⋮その格好。あんたまだ死体探偵を続ける気なの、ナズーリン﹂
﹁それ以外、生きて行く術を知らんからな﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁言ったろ。でもも季もないんだ﹂
通りの角に、人集りが出来ているのが見える。一輪もそこから来た
のだろう。
その中心には、よく見知った顔があった。
﹁ナズーリン⋮⋮﹂
袈裟姿の寅丸星が、説法を行う口を止めて、私へと視線を投げかけ
て 来 た。同 時 に、集 っ た 民 衆 の 視 線 も 私 へ と 殺 到 す る。あ る 者 は 怯
え、ある者は憎悪を瞳の中に宿らせて。
星が此処にいるのは、神霊廟での布教活動の為だろう。神霊廟から
﹂
割 る。﹁毘 沙 門 天 の 使 者 は 今 や こ の 神 霊 廟 の 一 員 と な っ た の だ。即
ち、毘沙門天の加護も我らが神霊廟にあるというもの
立ちしていた。
﹂
!
﹁物部の⋮⋮﹂
そうであろーう
﹁ナズーリン女史は太子様に心酔し、我らが門下に下ったのだ
うであろう
そ
喧しい声に振り返ると、いつの間にか背後で布都が腕を組んで仁王
!
﹁我もあの狂騒を見ていたぞ。ナズーリン女史が石を投げつけられて
なんとなく腹が立ったので、私はそっぽを向いた。
﹁さあね﹂
﹁本当ですか、ナズーリン﹂
鬱陶しいことこの上ない。
言 葉 の 語 尾 毎 に い ち い ち 無 意 味 で 暑 苦 し い ポ ー ズ を 決 め て く る。
?
367
シェアを奪おうと、攻勢をかけているのだ。相変わらず、真面目一辺
倒な奴。
﹂
﹁⋮⋮何故、貴女がここにいるのです
?
﹂甲高い声が殺伐とした空気を
﹁愚問だな、毘沙門天の代理とやらよ
!
?
いる間、貴様ら邪教の信奉者共は何もせんかったではないか。あまつ
さえその場から逃げ出す始末。これでは女史が我々を頼るのも仕方
無いというもの。窮鳥懐に入れば猟師も殺さずと言う、それすら実践
それに比べて、我らが
できぬとは貴様らが人の道に外れた邪教である証拠。貴様等の信奉
する正義は所詮その程度のものと言う訳だ
﹁ちょっと⋮⋮ナズーリン
﹂
﹂
私は生きるためになら、泥水でも啜る﹂
﹁私の意志は、以前に伝えたとおりさ。君も良く知っているだろう。
﹁ナズーリン。本気で仏教を捨てる気ですか﹂
星はそれには目も向けず、私の瞳を真っ直ぐに見つめて問うた。
る。
小さな体を目一杯反り返らせて、勝ち誇ったように笑みを浮かべ
毘沙門天の代理よ﹂
﹁ナズーリン女史は我々の手足となって働くことを誓ってくれたぞ。
刺し佇んでいる。
一輪は拳を震わせて怒っていたが、星は何も言わず、ただ鉾を地に
布都はその童顔を邪悪に歪めて、星を嘲笑した。
受け入れる。器の違いが出たな
太子様のお心のなんと深い事よ。異教の信徒と言えど分け隔てなく
!
た。
﹁道教に与すれば、貴女は本当に破門されるかもしれない﹂
﹁今の私に、仏教徒を名乗る資格は無い﹂
あの豊聡耳神子が看破したように。
経典の百万言には、もはや力が宿っていない。あらゆる教えも虚し
いだけ。私の中で、今まで培ってきた全ての教義が色を失くし始めて
いる。
いや。それはもっと、ずっと昔から始まっていたのかもしれない。
聖が封印され、私と星が毘沙門天に見捨てられたあの日から。
ちょっと、待ちなさいよ
﹂
!
368
!
一輪が私の服の袖を引っ張っているが、私は構わず言葉を吐き捨て
!
﹁⋮⋮そうですか。分かりました﹂
﹁星
!
星は背を向けると、信徒を引き連れて大路を引き返して行った。一
﹂
輪の呼びかけを背で聞いても、その歩みは止まらない。
﹁見たか、天魔覆滅ぞ
道教の奴らの仲間になるなんて⋮⋮
つつそろそろと在るべき場所に戻っていった。
﹁ナズーリン、本気なの
!
我はお主を信用しておる。お主は我らが太子様を信頼し
その物言いに、背筋がぞくりとする。
為政者だからな。お主もそれを望んでおるのじゃろう
﹂
というのは違うのだ。それは人を統べる者が行う事ではない。我は
はないぞ﹂布都はニヤリと笑った。﹁だが、信じているから座して在る
て神霊廟を頼ったのだからな。その信頼に報いるのにはやぶさかで
﹁いいや
﹁私が信用出来ないか﹂
要経費だと思ってくれ﹂
﹁む。そう言われると、辛いな﹂布都はちょっと頭を掻いた。﹁まあ、必
方かい﹂
﹁人の弱みにつけこんで、有る事無い事言いふらすのが、道士様のやり
代わりに、私は布都を睨んだ。
﹂
星が居なくなると、集まっていた神霊廟の住人達は、布都に会釈し
はっはっは、と声を上げて笑う布都。
!
一輪はしきりに私の袖を引っ張るが、無視した。
?
神霊廟を出ても、私の後をしつこく一輪が付きまとってくる。
﹁なんだい、一輪。後処理を頼むって言ったじゃないか﹂
﹁ナズーリン⋮⋮﹂
うか、掴みどころの無い奴である。怒る気にもなれなかった。
布都が大きく手を振りながら、子どもみたいな事を言う。なんと言
﹁夕餉までには戻るんじゃぞ∼﹂
私は歩き出した。
ぞ﹂
﹁一 輪。君 も も う 私 に 用 は 無 い だ ろ う。あ の 事 件 の 後 処 理 を 頼 ん だ
ているのか、底が知れない感じがする。
ただの嫌味な馬鹿かとも思ったが、この物部布都。どこまで分かっ
?
369
?
﹁ナズーリン、今からでも遅くないわ。命蓮寺に戻りましょう﹂
﹁それは出来ない﹂
﹁でも、このままじゃあんた、破門されちゃうかもしれない﹂
﹁それもまた、私の道なのだろう﹂
突然、一輪が私の腕を掴んだ。
﹁帰るわよ。今ならまだ間に合うわ﹂
﹁な、なんだい突然﹂
そんな
﹁納得行かないわよ、こんなの。里のみんなにちゃんと話して、誤解を
解きましょう。私も手伝うから﹂
﹁軽率だぞ、一輪。また聖を封印するつもりか﹂
﹂
﹁代わりにあんたが封印されちゃったら、意味ないでしょ
の姐さんも望まないわよ
!
﹁待たないわよ
﹂
﹁ちょっ、待て、一輪
﹂
その隙に、一輪は雲山に指示して私を羽交い締めにした。
一輪の大喝に、私は一瞬怯んでしまった。
!
﹂
里の入り口で私達を待っていたのは、もうもうと立ち上る黒煙だっ
た。
﹁なんて事⋮⋮
一輪が口元を押さえて戦慄いている。
燃えている。星鼠亭が。
天まで届くような火柱を噴き上げ、轟々と恐ろしい唸り声を上げな
がら。猛り狂う火龍が小さな星鼠亭の全てを喰らい尽くそうと、のた
うち回っている。辺りには木の焼ける嫌な臭いが充満し、息が詰まっ
た。
その炎の前に佇むのは、星だ。袈裟姿の信徒達を従えて、右手の燃
ど、どういうつもりなの
﹂
ゆる松明を掲げ。其の様は宛ら、冥界を照らすランパース。
﹁星⋮⋮
!
返ると、手にした松明を門の外の私達へ投げ付けて来た。それは私達
370
!
為す術のない私は、そのまま里へと引っ張られて行った。
!
!
一輪が震える声で問いかける。私達に気付いた星は、くるりと振り
!
﹂
の足元に転がり、炎の壁を作った。
﹁星、星
一輪が叫んでいる。
﹁ナズーリン。貴女がそこまですると言うのなら、私も毅然と立ち向
かいましょう﹂
そう言い放つ星の穏やかな顔は、炎に赤く彩られて、壮絶なまでに
美しかった。
﹁⋮⋮それでこそ、寅丸星だ﹂
酷い耳鳴りが私を責め立てている。
天道は何処にありや。空を見上げても、私には何も見えやしない。
雲無くして照る秋の太陽は、人の手で生み出された黒雲によって覆い
隠されてしまった。
髪に挿した赤い尾羽、蒼空を飛ぶ自由の欠片を、足元の松明に投げ
入れた。
私の過去も、この炎に焚べてしまおう。
371
!
サファリング
﹁気が滅入るわね⋮⋮﹂
疲れた声でぽつりと言うので、私は精神統一を解いた。
趺坐の姿勢はそのままに、片目だけ開けて彼女のほうを見やる。
﹁へえ。いつも陽気な君にしては、珍しいじゃないか﹂
﹁事故に事件に殺人に。おまけに可愛い弟子には濡れ衣着せられちゃ
うし。最近、色々起きすぎじゃない。これじゃ芳香ちゃんが面白おか
しく暮らせないじゃないの﹂
霍青娥は憂いを帯びた瞳でそう言った。
薄暗い部屋の中でも分かるほど顔色は優れず、長椅子にもたれかか
るその様子には覇気が感じられない。
流石の青娥も、疲れが溜まっているようだった。無理もない。先日
の事件では、余りにも多く人間が死んだ。遺体の選別、エンバーミン
372
グ、検屍などの諸々の全てがほぼ青娥一人の肩にのしかかっている。
幻想郷でその技術を持つのは、青娥を置いて他には居ないからだ。
﹁誰が弟子だ、誰が﹂
そう突っ込みを入れる私自身の声も弱々しい。それは自覚してい
る。
殺風景な青娥の作業部屋の隅で座禅を組む痩せっぽちの女の姿は、
まさに哀れな飢餓鼠と言う他ないだろう。私もまた、疲れ切ってい
た。
﹁太子様もなんだかお加減が悪いみたいだし⋮⋮悪い事は重なるもの
ね﹂
﹁そう言えば、何故か聖徳王も参ってるようだったな﹂
﹁そうなのよ⋮⋮﹂青娥はますます憂鬱そうな顔をする。﹁最近、政務
が無いときは日がな一日お部屋に篭ってらっしゃることも多いの﹂
﹁なんと言うか、意外だな﹂
あいつと会ってから
以前会った時には精力の塊みたいな奴だったのだが。一体、神子に
何があったのだろうか、少し気になる。
﹁きっとあいつが悪いのよ、あの森の人形師
!
お加減を悪くされたみたいで⋮⋮あの女、なんかごっつい病気とか
持ってたのよきっと﹂
﹁自業自得じゃないか、そんなの﹂
少年少女を片端からつまみ食いしているという噂の聖徳王である。
病気の一つや二つ移されても全く不思議は無い。因果応報、同情の余
地は無いだろう。悪は滅んで然るべきである。
﹂
探しに行か
﹁太子様に病気を移すなんて⋮⋮きぃぃ、なんて羨ましい
﹁羨ましいのかよ⋮⋮﹂
﹁太子様は神霊廟で抱かれたい女ナンバーワンなのよ﹂
﹁爛れてるなぁ﹂
流石は青娥、あの神子の師なだけはある。
ふと、青娥が柱時計を見ながら溜め息を吐いた。
﹂
﹁それにしても芳香ちゃん、遅いわね⋮⋮﹂
﹁何処かへ出かけたのか
﹁お遣いに出したんだけど、迷子になってるのかしら
剥き出しの荷台には麦穂が積まれているが、荷台自体は板に車輪が付
に比べて速度は遅いが、ゆったりトコトコ歩む牛の姿は愛嬌がある。
砂利の敷かれた大通りを、ガタゴトと音を立てて牛車が行く。馬車
タルジーにも似た感覚が胸に去来するのだ。
る。例えるなら、はるか昔の京都に近いと言えばよいだろうか。ノス
里の目抜き通りや、外界の都市を歩くのとはまた違う風情が楽しめ
神霊廟の街並みを歩くのは楽しい。
変装し、賢将を肩に乗せて作業小屋を後にした。
私の風聞を知っている青娥は渋った。が、私は素早くぼろを纏って
﹁丁度、身体を動かしたかったのさ﹂
﹁でも﹂
﹁いや。君は疲れているだろう。私が行こう﹂
青娥は席を立とうとしたが、先に坐蒲を蹴った私が制した。
なきゃ﹂
!
いただけといった風情で、小石に躓く度に荷が零れだすものだから、
北の門から一直線に綺麗な麦の轍が出来ていた。
373
?
?
人々の纏う麻製の簡単な着物も、里に比べると簡素ながら、それが
むしろ粋である。神霊廟で収穫した麻を用いているのだろう、真新し
いそれを身に付けて道を歩む荷運び達は、みな何処か誇らしげに見え
た。
西の水門から伸びる小川には女達が集い、洗濯ついでに世間話に華
を咲かせている。向こう岸には居眠り半分の太公望が水面に糸を垂
れていた。
なんてのどかな光景だろう。里の混乱が嘘のようだ。
この平和はひとえに神子の強力な統率力によって成り立っている。
人々が渦巻く不安で凶行に走らないのも、神子の存在があってこそ。
今の幻想郷にこのような場所を造り出したというだけでも、神子の業
績は讃えられてしかるべきだろう。まあ、心情的にはあまり持ち上げ
たくない相手ではあるが。
そんな事を考えながら、ペンデュラムの導くままに私はぶらぶらと
は、ナズーリンか。久し振りー
﹂
ある。青娥の技術によりその肉体は完全に近い状態で保存されてお
たない時があるので割りと困る。とはいえ、流石はあの青娥の従者で
娥曰く、脳味噌が半分腐っているらしい。そのせいか、会話が成り立
宮古芳香は青娥の使役する蘇った死体、所謂キョンシーである。青
見てたのかい君は﹂
﹁今朝会ったばっかりだろう⋮⋮っていうか、私の事をそう言う目で
!
374
歩いていた。
芳香はすぐに見つかった。
小川のほとりで座り込み、腕を天に掲げ、呆然としていたのである。
﹁芳香﹂
私が後ろから話しかけると、芳香は緩慢な動作で振り返って、ぽか
なんだっけ⋮⋮﹂
んと私を見つめた。額に貼り付けた札が翻って、彼女の美しい顔がハ
お前は確か⋮⋮ん。んー
テナマークで一杯になる。
﹁お。お。おー
?
﹁お ー。そ の 生 意 気 そ う な 物 言 い と ジ ュ ー シ ィ そ う な ほ っ ぺ の お 肉
﹁同居人の事を忘れるなよ﹂
?
り、死体と言っても、生前の美しい姿形を保っている。少々関節が固
いという難点があるが、そこはそれ、その方が逆にキョンシーらしい
と言えるだろう。
賢将が私の肩からちょろりと飛び降り、芳香の肩に登った。そして
鼻を鳴らし、色目を使い始める。まったく賢将は、かわいい女の子と
﹂
見るとすぐこれである。毘沙門天の使者の従者として自覚が足りて
いない。
﹁おー。かわいいネズミ君。おいしそう
﹁お、おい、喰うなよ﹂
でもかわいい
﹁あ、ああそう⋮⋮﹂
﹁おいしそう
だから我慢﹂
いでやられるようなヤワな賢将ではないのだが。
芳香が言うので、私は慌てて釘を刺した。まあ、噛みつかれたくら
!
﹁お遣い
﹂
﹁ところで、お遣いはどうしたんだ﹂
芳香は割りと小動物が好きらしい。キョンシーの癖に。
!
﹁青娥に頼まれてたんだろ﹂
﹁おー、にゃんにゃんか。にゃんにゃん元気ー
﹁毎日会ってるだろうが⋮⋮﹂
埒が明かない。
﹁何処にー
﹂
﹁ほら芳香、行くぞ﹂
永遠亭、か⋮⋮。
どうやら、行き先は永遠亭らしい。
﹂
つ開いてみると、様々な薬剤の名と量が書き連ねられていた。
﹁にゃんにゃんのひみつお買い物メモ﹂なる物を発見。若干脱力しつ
私 は 脇 に 置 か れ て い た 買 い 物 籠 を 覗 き 込 ん で、中 身 を 漁 っ た。
?
芳香の腕を取ると、何を思ったのか、芳香はその手を振り払って顔
を振った。
375
!
芳香は首をひねった。そこから忘れているとは。
?
﹁お遣いだよ、お遣い。まだ済んでないんだろ﹂
?
青娥に頼まれてるんだろ﹂
﹁やだ。行かない﹂
﹁えっ
﹁んー⋮⋮でも、行かない﹂
命令に逆らうとは、基本、主に忠実なキョンシーにしては珍しい。
私は少し驚いてしまった。
﹁お遣いがちゃんと出来れば、青娥に褒めてもらえるぞ﹂
﹁ん。ん。んー⋮⋮でもでもでも、なんだか行きたくない﹂
﹁な、なんでだよ﹂
﹁⋮⋮分かんない﹂
自分でもよく分からないのか、芳香はしきりに首を振っている。
私は溜め息を吐いた。
﹁分かったよ。私が代わりに行ってやる﹂
﹂
﹂
﹂
そう言って籠を取ると、今度は逆に芳香が私の手を掴んできた。
﹁⋮⋮なんだよ
﹁人の物を取るのはどろぼう
﹁君の仕事を代わりにやってやろうってのにかい
光差すというのに、どこか薄暗い診察室の中。
﹁今回は量が多いわね﹂
しているようだ。
き剥がそうとはしなかった。自分でも嫌な理由が分からなくて混乱
ともかく、芳香はかなり嫌がっていたが、それでも力づくで私を引
るのだろうか。
と言う。一度死んだ芳香にとっては、死を超越した存在が琴線に触れ
が本当なのか。永遠亭の住人達の正体は月人で、死を超越した存在だ
ね続けていた。永遠亭の薬品の臭いが嫌いなのか。それとも、あの噂
竹林の中をダウジングしつつ進む間も、芳香は嫌だ嫌だとダダをこ
行くことにした。
面倒になった私は、嫌がる芳香の手を引っ張って永遠亭まで歩いて
犬⋮⋮だが、融通は全く効かないらしい。
可愛い顔を必死で歪ませて、私を威嚇してくるのである。忠実な番
?
!
?
﹁にゃんにゃんのひみつお買い物メモ﹂を渡すと、永遠亭の薬剤師・
376
?
八意永琳は少し眉をひそめた。仕事柄、青娥はよく永遠亭を利用して
いるのだろう。かく言う私もそうだったりする。
﹁あの事件があったからな﹂
﹁それは分かっています。しかし、少し辛いわね。こちらも入用だか
ら﹂
永琳は珍しく溜め息なんて吐いている。見た目も仕草も全く普段
のそれと変わりないが、きっと疲労しているのだろう。
永遠亭は幻想郷で唯一、高度な医療行為が行える施設である。あの
土砂崩れの事件の被害者の多くが、この永遠亭に運び込まれているの
だ。私もそれを斡旋した。その対応に四苦八苦している事は想像に
難くない。
終わりの見えない現場捜索、連日の葬儀、追いつかないエンバーミ
ング依頼。そして、この永遠亭にて続く数多の怪我人の治療。今も多
くの人妖が、あの事件の後処理に奔走している。賢者達の残した傷跡
は、あまりにも大きい。
﹁今日はいつもの分しか渡せないわ。足りない分はこれから用意する
けれど、調合に少し時間が掛るの。後日、追加分を取りに来て頂戴﹂
﹁それで構わない﹂
﹁ごめんなさいね﹂
永琳は申し訳なさそうに頭を下げた。
﹁いや。こちらこそ、助かっている。君が居なければ救えなかった命
がたくさんあるだろう。私が言っても無意味かもしれないが、礼を言
わせて欲しい﹂
﹁ふふ。ありがとう﹂
陽炎のように笑う。その顔に深い陰が差している事が、少し気にな
る。
芳香は仏頂面をしている。彼女の腕にぶら下がる買い物籠に医薬
品を詰め込んでいると、永琳が声を掛けてきた。
﹁貴女の方は大丈夫なのかしら﹂
﹁憎まれるのには慣れている﹂
﹁その傷。その包帯﹂
377
﹁⋮⋮アクセサリーさ。洒落てるだろう﹂
信仰を失い、私の法力が弱まったのだろうか。あの時の傷は、まだ
癒えていない。
﹁面会もしていきたい﹂
追求される前に、私は話題を強引に変えた。
永琳は少し逡巡したが、許可を出してくれた。私は芳香を待合室に
残して、彼女の病室へ向かった。
﹁ナズーリン⋮⋮﹂
彼女の病室に、ルナサが来ていた。
ルナサは萎れた花の様に意気消沈していた。自らを責め続けてい
るようだ。あの寺子屋での攻防の後、ルナサは逃亡する四万十を追っ
たが、結局取り逃がしたのだった。
﹁ごめんなさい。私があの時、憎しみに呑まれていなければ、貴女達は
⋮⋮﹂
ルナサの協力を得られなかった私は、その身を人前に晒して飛礫を
浴びる結果となった⋮⋮そうルナサは考えているのだろう。
だがそれは、全く関係の無い話だ。
﹁仕方が無い。現場は混乱していた﹂
﹁でも、私が貴女達を置き去りにしなければ、彼女も⋮⋮﹂
ルナサは力なくベッドの方を見やった。
ベッドの上では、はたてが眠り続けている。全身包帯に包まれ、点
滴を受けながら。
あの青いレインコートの妖、四万十の水爆弾が直撃したはたて。す
ぐに永遠亭に運び込み、八意永琳の手によって治療を受けたが、未だ
目を覚ます気配は無い。
﹁まったく、はたてには呆れるばかりですね。天狗の恥晒しもいい所
です﹂
窓の外を見やると、射命丸文がその黒い翼をはためかせている。射
命丸はそのまま窓を開けて、はたての病室へと滑り込んで来た。
普通に扉から入ってくればいいのに、何に遠慮をしているんだか。
﹁河童の攻撃如きで昏倒するなんて、情けないにも程があります。普
378
段から鍛錬を怠っているからこのような事になるのです﹂眠るはたて
の頭をぺちぺちと軽く叩いて。﹁昨今の天狗の不甲斐なさっぷりには
本当、頭が痛いですねえ﹂
聞いても居ないのにべらべらと悪態を突きまくる。その割に、毎日
のようにはたての見舞いに来ているのだから笑ってしまう。あの射
命丸文にも人並みの感情があるというのには驚きだが、千年天狗の名
を冠するには、少々少女すぎると言ったところか。
はたてを永遠亭まで運び込んだのは、射命丸だった。あの熱狂を空
から見ていたのだろう、里の入り口で待ち構えていた射命丸はその自
慢のスピードを惜しげもなく発揮し、負傷したはたてと私を永遠亭ま
で急送したのだった。彼女の助けが無ければ、私は迷いの竹林で力尽
きていたかもしれない。
﹁射命丸。妖怪の山のほうはどうだ﹂
﹁貴女のダウジングが無くて捗らないと土蜘蛛が嘆いていましたが、
379
その辺りは地底の地獄猫と協力して上手くやっているようです。貴
女 の 持 ち 込 ん だ リ ス ト で 身 元 不 明 者 の 確 認 も か な り 進 ん で い ま す。
収束まであと一息と言った所でしょう﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
私ははたての眠るベッドに近寄って、彼女の顔を覗き込んだ。
血の滲む包帯から覗く彼女の寝顔は、安らかだった。
﹁はたて⋮⋮﹂
なんと言葉を掛けていいか、分からない。
あの時。四万十に止めを刺しておけば、こんな事には⋮⋮。
﹁そんな軟弱者など放って置きましょう。それよりコレです。見て下
さい、ナズーリンさん、それにルナサさん﹂
射命丸が懐から取り出したのは、一枚の新聞紙だった。
﹂
見た瞬間に、それが何かは予想がついた。
﹁これは、﹃花果子念報﹄⋮⋮
﹁はたてはここで眠っているというのに、一体誰がこれを発行してい
十中八九、賢者達の偽造だろう。
ルナサが驚きの声を上げた。
!
るんでしょうねえ﹂
射命丸はけたけたと笑った。道化ぶっているが、内心の憤りを隠し
きれていない。私とルナサはその威圧に気圧されて、しばし言葉を
失ってしまった。
﹁はたての馬鹿なんてどうでもいいのですが、この行為は天狗全体に
対する挑戦と見ました。ならば正面から受けて立つのが天狗の誇り﹂
悪魔の笑みを浮かべて、射命丸が静かに言う。
﹂
﹁私はこの愚行を行う馬鹿者を突き止め、然るべき制裁を加えようと
思っています。ナズーリンさん、ルナサさん、貴女達もどうです
ルナサは頷いた。
﹁協力します。誤った情報で里の人間を撹乱させる企て、これ以上看
過出来ないわ﹂
だが私は首を振った。
﹁私は今、表立って動くことは出来ない﹂
今 の 私 の 状 況 だ け が 理 由 で は な い。私 は 射 命 丸 を 警 戒 し て い た。
彼女が賢者達ではないという確証は、存在しない。
﹁⋮⋮まあ、そうでしょう﹂射命丸は文花帖を取り出して何事か書き込
んでいる。﹁仕方ありません。逆に貴女に表立って協力されては迷惑
ですからね。我々まで爆弾魔にされてしまう﹂
﹁射命丸さん、ナズーリンは⋮⋮﹂
﹁分かっています﹂ルナサの抗議を手で制し、射命丸は窓辺に寄った。
﹁だが図らずも今、各勢力は貴女を中心にして繋がっているのです。
その貴女が役割を果たさないというのでは困りますね。貴女には妖
怪同士の協力関係を繋ぎ止めるための鎖になってもらいます。この
愚行を止めるために。嫌とは言わせません。例え貴女が拒絶しても、
私は情報を流すので、悪しからず﹂
いつものように言いたい事だけ一方的にまくし立てて、射命丸は飛
び立って行ってしまった。
﹁私も行くわ。また人里で暴動が起きているかも知れない。私には、
レイラから引き継いだ役割がある﹂
﹁ルナサ。リリカとメルランによろしくな﹂
380
?
ルナサは力無く笑うと、病室を後にした。
残された私は、花瓶の水でも取り替えようと廊下に出た。
給湯室で水換えを終えて戻る途中、ふらふらと覚束ない足取りの青
年を見かけた。青い入院着を着て右腕を釣っているところからして、
入院患者だろう。
青年はそのまま手前の部屋に入って行った。
その部屋に掛かったプレートを見て、嫌な予感が走った。
薬剤保管庫とある。
慌てて扉を開けると、液体の入った薬瓶に青年が口を付けているの
が見えた。その瓶の表面には劇物指定を表すマークがラベリングさ
﹂
れている。
﹁やめろ
私は持っていた花瓶を投げ付けた。それは青年の腕に当たって瓶
ごと床に落ち、砕けて水をぶち撒けた。
﹂
その隙に駆け寄った私は、彼の腕を押さえた。
﹁馬鹿な真似はやめろ
﹁彼 女 が ね。死 ん で し ま っ て。私 は 彼 女 が い な い と 何 も 出 来 な い か
青年は淡々と話し始めた。相変わらず、穏やかで恐ろしい声色で。
﹁何故、こんな事を﹂
に、私は問い掛けた。
図った青年である。看護士達に取り押さえられ、病室に戻された彼
薬物管理体制の改善は後で永琳に進言するとして、問題は自殺を
かったのだと言い訳していた。確かにそうなのかもしれないが⋮⋮。
看護士は、急遽増築した病棟は洋間造りであり、自分達は慣れていな
て来た兎妖怪の看護士に、私は思いつく限りの文句を言ってやった。
劇物の保管庫に鍵もかけないとは何事か。騒ぎを聞きつけてやっ
は、絶望しか感じられなかった。
妙に落ち着いた、穏やかな声色。私はゾッとした。彼の言葉の中に
生きてたって良い事なんか無いんだから﹂
﹁死なせて下さいよ﹂蚊の鳴くような声で青年が言う。﹁これから先、
!
ら、生きていても仕方がないなと思って⋮⋮﹂
381
!
﹁⋮⋮何があったんだ﹂
﹁あの土砂崩れですよ。彼女と一緒に、飲まれてしまって⋮⋮﹂
私は言葉を失ってしまった。
あの事件の傷跡が、こんな所にも。
﹁幸い、彼女は見つかったんですけれどもね。五体バラバラで、首だけ
でしたよ。あれじゃあ、見つからない方がマシだったかもしれない
なぁ⋮⋮﹂半眼の青年は、抑揚の無い声で続ける。﹁私は不幸にも、土
の 中 か ら 助 け 出 さ れ て し ま い ま し て。何 の 因 果 な の で し ょ う か ね。
私のような役立たずよりも、もっと別の人間を助けてあげて欲しかっ
たのですが⋮⋮。ここの入院費用も、私にはとても払う事が出来ませ
んので、最後にご迷惑をお掛けしますが、死なせて頂こうと思った次
第なのです﹂
頭の中をぐちゃぐちゃと言葉が渦巻いた。何を口に出すべきか分
からない。胸にしまいこんだどの経典を紐解いてみても、私にはそれ
が空虚なものにしか思えない。
結局、私が絞り出した言葉は陳腐だった。
﹁君はまだ若い。死んだ彼女の為にも⋮⋮﹂
﹁無理ですよ。ほら、見てください﹂
彼が掲げた右腕には、包帯が何重にも巻かれていた。だがそれにし
ても、形がおかしい。その先端に在るべきものが無い。
彼の右腕は、手首から先が欠落していた。
﹁実はね。目もよく見えなくなってきていて。貴女の顔もぼんやりと
しか見る事が出来ません。脊髄をやられたんですかね、歩く事もうま
く出来なくなってしまって﹂
﹁⋮⋮里にも、君のように体に不自由を抱えた者はいる﹂
﹁片端者でも生きてはいけるだろう。言うだけなら、簡単なんですが
ね⋮⋮﹂
彼は首を振った。
﹁私はね。外来人なんですよ。貴女は知らないかもしれないですが、
外の世界からこの幻想郷に迷い込んで来たんです。当然、私を庇護し
てくれる人なんて誰もいない。右も左も分からなくて困窮していた
382
時、拾ってくれたのが彼女だったんですよ。彼女の家は金属の加工を
行う職人の家系で、私も手に職を付けようと頑張って修行したので
す。彼女に指輪を送って、プロポーズもして。でも、ハハ、全部パァ
になってしまいました﹂
彼は先の無い腕を振って、申し訳無さそうな顔をした。
﹁ああ、こんな話、貴女にはご迷惑でしたね。でも、これで分かったで
しょう。私なぞが生きていても、最早意味は無いのです。私には待っ
ている人もいなければ、大切なものもありません。あまつさえ、一人
で生きて行く事すら出来ないのですから﹂
溜息を吐いて、疲れた顔で。ポツリと言った言葉が、私の胸に突き
刺さった。
﹁なんであの時、一緒に死なせてくれなかったのかなあ⋮⋮﹂
それは、今も必死で不明者の捜索を続けるヤマメ達や、負傷者の救
護を夜を徹して行う永琳達を冒涜する言葉に他ならない。
だが、誰が彼を責められようか
他人の生死を決定する権利など、誰にも無い。
自らの運命を祝う事も呪う事も、遍く人々が保持する所与の権利だ
ろう。
生きろ。
そう言う事は容易い。
だが、どうやって。
私が培った千年の理は、瑞光を示すことすら出来ない。
﹁⋮⋮知っているか。死体探偵﹂
憎しみが、人を活かすのならば。
﹁ああ、あの死体探し専門の探偵という﹂
﹁あの土砂崩れを引き起こしたのは、死体探偵だと言う話だ。彼女の
敵を取ってやったらどうだ。死ぬなら、それからでも遅くはなかろ
う﹂
﹁敵⋮⋮﹂
私は席を立った。
迷いは消えぬ。人を活かす為に、人に憎しみを植え付ける。それが
383
?
果たして正しいことなのか、私には分からない。果たして生が、そう
までして守るべきものなのかも。
清浄とはなんだ。
涅槃とはなんだ。
悟りとはなんだ。
言葉だけが空虚に回転してゆく。いつからか、私は疑問に囚われて
いた。仏道の究極とはつまり、死ぬことなのではないか。
ならば私は、彼に死ねと言うべきだったのだろうか⋮⋮。
﹁⋮⋮芳香。帰ろう﹂
胸に迷いを抱えたまま待合室に戻ると、芳香の姿が見当たらない。
待合室の兎看護師に聞いてみると、少し前にふらふらと外へ出ていっ
てしまったらしい。
命令に忠実な芳香の事、薬を調達したので神霊廟に帰ったのかもし
いえ、まだ戻って来てないわ﹂
れない。私は急ぎ、神霊廟に戻った。
﹁芳香ちゃん
青娥に聞いてみると彼女は首を振った。
﹁命令無視をするなんて、何かしらねえ。悪いものでも食べたのかし
﹂
ら、それともパーツがよくなかったのかしら﹂
﹁パーツ
ツ と 入 れ 替 え て い る ん だ け れ ど。あ の 子、ち ょ っ と 敏 感 な 子 で ね。
パーツの持ち主の残留思念みたいなものに引っ張られちゃうことが
あるのよ﹂
﹁そう言えば、命令無視の理由は自分でも分からないと言っていたな﹂
﹁一応、そういう事が無いように気をつけてはいるんだけれど⋮⋮﹂
そのとき、扉の側で賢将がキィと鳴いた。
尻尾で﹁付いてこい﹂と言っている。賢将は芳香の肩に座っていた
から、居場所を知っているのだ。もっと早く出てこいよ、賢将。
賢将の後について行くと、芳香はすぐに見つかった。
神霊廟の小川のほとりで、呆然と座り込んでいたのである。腕を天
に掲げ、今朝と全く同じポーズで。
384
?
﹁メンテナンスのために、芳香ちゃんの体は定期的に他の死体のパー
?
﹁芳香。どうしたんだ、一体。青娥が心配していたぞ﹂
なんだっけ⋮⋮﹂
夕日を受けてきらきらと輝く川面を背に。芳香は緩慢な動作で振
お前は確か⋮⋮ん。んー
り返って、ぽかんと私を見つめた。
﹁お。お。おー
?
覚えがないなー﹂
﹁人の物を取るのはどろぼう
﹂
芳香の手から指輪を外すと、芳香は怒った。
まさかこの腕は、あの青年の⋮⋮。
﹁この指輪⋮⋮﹂
芳香はふふん、と得意気に鼻を鳴らす。
から、パーツを探して来て、自分でくっつけたんだ。すごいだろ﹂
﹁んー。ちょっと、怪我しちゃってなー。にゃんにゃんが忙しそうだ
﹁この腕。どうしたんだ﹂
があった。
芳香の手を取ると、その右手の肘の少し上に、下手くそな縫合の跡
﹁まさか⋮⋮﹂
それがあるのは、異国文化を取り入れた外の世界だ。
この幻想郷に、婚約指輪を送る風習は存在しない。
言い掛けて、私は気付いた。
﹁しかし、この幻想郷で指輪なんて、洒落て⋮⋮﹂
﹁んー
私がからかって言うと、芳香は首を傾げた。
﹁なんだよ、芳香。誰かからの贈り物かい。君も隅に置けないな﹂
見やると、その右手の薬指に銀色に光る指輪が嵌っている。
ふと、芳香の指先がきらりと光るのが見えた。
﹁そういうので私を識別しないでくれないかな﹂
は、ナズーリンか﹂
﹁お ー。そ の 生 意 気 そ う な 物 言 い と む っ ち り 美 味 し そ う な ふ と も も
﹁またかよ⋮⋮あのなあ﹂
?
﹁この指輪を、本当の持ち主に返す﹂
﹁う﹂
﹁この腕は君のものじゃあないだろう﹂
!
385
?
﹁う、あ⋮⋮﹂
芳香は、私の服の裾を掴んだ。縋るような、苦しげな表情で言う。
﹁や、やめたほうがいいと思うぞ⋮⋮﹂
﹁何故だ﹂
﹁分からん、分からんけれど⋮⋮。なんか、やめたほうがいい気がする
んだ﹂
あえぐようにそう言う。
これは、腕の持ち主の言葉なのか。
だがしかし⋮⋮生きる気力を失ったあの青年に今必要なのは、生き
てゆく意味だ。この指輪がそれになるのかは分からないが⋮⋮。逆
に彼女の死を意識して、彼を苦しめるだけになるのかもしれない。
それでも。
それでも、思い出の品なら、あるいは。
一晩迷ったが、私は結局、指輪を彼に渡す事にした。
翌朝、私は永遠亭に赴き、あの青年の病室を訪ねた。
彼はベッドの上でただ呆然としていたが、私が声を掛けると取り繕
いの笑顔を浮かべた。
﹁また貴女ですか﹂
﹁君に渡したいものがある﹂彼の左手の手のひらに、指輪を置いた。
﹁この指輪は、君のものかな﹂
﹁これは⋮⋮﹂
彼は目を細めて指輪を見つめ、感触を確かめるように左手の中で転
がした。
やがて、彼はゆっくりと口を開いた。
﹁一つ、頼みたい事があります。実はこの指輪の裏側に、名前が刻んで
あるんです。私はもう見えないので、読み上げてくれませんか﹂
私は彼の手から指輪を受け取り、裏側に刻まれた彼の名前を読み上
げた。
﹁ありがとう。どうやらこれは、私が彼女に贈ったリングのようです﹂
﹁そうか﹂
彼の左手に指輪を返すと、彼はそれを強く握りしめた。
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﹁でも刻まれているのは、私の名前じゃあなかった﹂
私は、息を呑んだ。
﹁そ、そうか。なら、私の勘違いだったかな。これは別の人の⋮⋮﹂
﹁い い え。分 か り ま す よ、こ れ は 私 が 彼 女 に プ レ ゼ ン ト す る た め に
作った指輪ですから﹂
全身が総毛立つのを感じる。
﹁薄々感づいてはいました。彼女⋮⋮気の多い女性でしたから。でも
まさかプロポーズを受けてくれた後で、贈った婚約指輪に別の男の名
前を刻むとは思わなかったなあ⋮⋮。まあ、幻想郷じゃあ指輪の風習
は無いし、仕方無い事かもしれませんね。しかし⋮⋮参ったな、復讐
する敵までいなくなってしまいました﹂
分かりますよ﹂私の顔
彼は笑った。乾いた笑いだった。私は息も凍りつく思いだった。
私は必死に震える声を絞り出した。
﹁ちがう、これは⋮⋮﹂
﹁死体探偵さん。貴女がそうなんでしょう
を正面から見据えて、彼は言う。﹁貴女は優しい人ですね。私のため
に憎まれ役まで引き受けてくれようとするなんて。今更言っても詮
無いことですけれど、恋をするなら、貴女のような人にすればよかっ
たなあ﹂
彼は笑った、初めて見せた、掛け値なしの笑顔だった。
﹁でも、もう良いんです。これ以上は酷ですよ。しばらく一人にして
くれませんか﹂
優しい笑顔の中に明確な拒絶を感じる。
私は、もうそれ以上、何も出来ることはなかった。踵を返し、逃げ
るように病室を後にした。
後日、兎角同盟製薬の行商から、あの青年が死んだことを聞いた。
劇薬を呷って、苦悶にのたうち回りながら死んだらしい。
青娥は芳香の腕のパーツを新調した。指輪をしていた彼女の腕は、
あの青年の発言を元に身元照会を行い、無事に家族の元へ返す事が出
来た。
だがあの身寄りの無い青年の遺体は、無縁仏として神霊廟の墓地に
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?
葬られる事になった。
﹁⋮⋮こういう事もあるわよ、ナズちゃん﹂
瞑想する私の傍らで、霞みを吐くように青娥が言う。
私は一体、何をやっているのだろう⋮⋮。
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