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クロンシュタットの聖イオアンの - 横浜国立大学教育人間科学部紀要

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クロンシュタットの聖イオアンの - 横浜国立大学教育人間科学部紀要
クロンシュタットの聖イオアンの
『キリストにおける我が生命』
一一20世紀初頭ロシアにおける「名前の哲学Jの源流の探求一一
渡辺圭
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ク詰ンシユタットの聖イオアンの『キリストにおける我が生命』
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言は神と共にあった。
雷は神であった。
この言は、初めに神とともにあった。
万物は言によって成った。
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. 序論:「我らの時代の聖人」
アメリカのニューヨーク州立大学の歴史学教授ナジェージダ・キツェンコは、 2000年にロシ
ア正教会を代表する聖人である長司祭クロンシュタットの聖イオアン( 18291908年、俗名イヴ、ア
ン・イリイチ・セルギエフ)の生涯と思想を考察した『我らの時代の聖人:クロンシュタットの
イオアンとロシアの民衆』(以下、『我らの時代の聖人』と略)を上梓した 2。キツェンコは、問
書において、敬漫なキリスト者の鏡であり神の存在の生きた証である聖人に対する崇敬は、ロシ
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ア正教の宗教性(p
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)の中心に立つものだと主張している。彼女によると、その崇敬は、
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7年のロシア革命による帝政崩壊までの時期に高まっていたという。つまり、
ピョートル大帝による聖宗務院の設量によってロシア正教会が国家の一機関となっていた時代で
ある。しかしながら、帝政末期の研究、すなわち、 B.O.クリュチェアスキーに代表される 1
9世
紀末から 20世紀の頃のロシアの歴史学者による聖人崇敬の研究においては、キエフ朝およびモ
スクワ朝の時代、つまり中世ロシアの聖人ばかりが考察対象になっていたとキツェンコは述べて
いる。その後、ロシア正教会の聖人研究は、 r
.
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.フェドートフ、 H.ゼルノフ、社K.スモリチ、 M.M.
コンツェヴィチ等の海外に亡命した学者たちによって進められた。 1988年 4月のゴルバチョフ
書記長と総主教ピーメンによる国家と教会の「歴史的和解」、同年 6丹のロシア正教会受洗 1000
年祭以降は、アルヒーフ資料が活用できるようになったこともあり、ロシア正教会の聖人研究は
飛躍的に高まっていくのた、った 3 この流れに乗って、キツェンコは「近現代ロシアの聖人」と
0
いう研究対象としてク口ンシュタットの聖イオアンに注目したのである。
3
3
渡辺圭
それでは、クロンシュタットの聖イオアンとはいかなる人物であったのだろうか。キツェン
9世紀に室るまで、ロシア正教会で列聖(敬鹿な信者を聖人のリストに加えること)
コによると、 1
されるのは修道士、高位聖職者、社会活動家、イ羊狂者(神がかり行者)等であり、都市や農村
の一般の教会に勤務する白僧(6enoe瓦yxoBeHCTBO妻帯を許された聖戦者):在イ谷市祭はそこに
含まれていなかった九それに対して、聖イオアンは、在俗詩祭の領域から誕生した聖人なので
ある。この聖人が南牧生活を送ったクロンシュタットは、現在ペテルブルグ市の一地区であり、
フィンランド湾のコトリン島に位置している。聖イオアンは、 1905年にこのうらぶれた軍港の
街で水兵たちによる反乱が発生した当時、在俗需祭として当地の人々に奉仕していた。彼は、
聖体礼儀を毎日行うことの必要性を説き、慈善事業を通じて多くの信者たちと密接な関係を保
の精神に学び、禁欲節制を徹底し、祈りによる神との一致を芯
l
持しつつ、東方正教会の修道市j
向する観想生活を送っていた。聖イオアンの卓越した説教を「心のパン」として熱望する信徒
たちは後を絶たなかったと伝えられている。聖イオアンの名声は、ロシアから東方正教を受容
した日本の正教徒の間にも響き渡っており、彼の説教集は、円安望神父説教集』との邦題で明治
8年
時代に訳出されている。この邦訳版説教集の第一巻に序文を寄せた瀬沼’陪三郎氏は、明治 1
8日に、ロシア留学の締めくくりとして、聖イオアンに会うべく軍港クロンシュタット
の 9丹 1
に赴いた O 邦訳販説教集の序文によると、瀬沼氏が乗っていた門船から降りた乗客たちは、聖
イオアンとの面会を希望し、彼のいる教会を目指す正教徒ばかりであった。瀬沼氏は、盟イオ
アンが勤務するアンドレフスキイ聖堂で奉神礼を行う彼を初めて日にした。瀬沼氏の記述によ
れば、ロシア中にその名を轟かせた霊的偉人聖イオアンは、背が低く痩せこけではいたが、そ
の自民光は全てを射抜くが如く鋭いものであり、彼の声には勇壮快潤の精神が躍っていた 50 瀬沼
氏と誼に対面した聖イオアンは、クロンシュタットから遠く離れた異国日本からの訪問者に歓
した。彼は、瀬沼氏に次のようなことを告げたということである。すなわち、「私は、信者の
ためにのみ祈るのではなく、異教徒のためにも常に祈り続けているのですよ J と 60 カトリック
2年)の著者であるヘレーネ・
6
9
1
] (
に改宗した亡命ロシア人であり、『ロシア人とキリスト教j
イスウォルスキーは、聖イオアンを霊感に恵まれた祈りの人であるとし、彼が当時のロシア正
教会に貢献したのは、在俗司祭の田家に対する司牧という使命の重要性を再確認させた点にあ
)
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8
9
] (1
ると述べている 7。また、セルゲイ・ボルシャコフは、著書『口シアの神秘家たち J
聖体礼儀註解Jで知られるギリシ
において、聖イオアンは「イエスの祈り」の実践者であり、 f
ア教父(盟師父)聖ニコラオス・カバシラス (1322もしくは 1323-1391年以降) 8 と同様に、
イエスの印肉による教会と信者のコスモロジ、カルな一体化を重視した奉神礼犠の神秘家であっ
たと主張しているにいずれにせよ、聖イオアンがロシア正教会の霊性の歴史において韓大な足
跡を残していることに疑いの余地はない。現在でも聖イオアンの著作は正教信者の啓蒙に有用
な霊的吉典として出販され続けている。それ故に、キツェンコは、死後 100年以上が経過した
現在でも聖イオアンはロシア正教徒が「聖人Jという存在に対して抱くイメージの受け皿になっ
ているとして、彼のことを「我らの持代の諜人(CB5!TO長HarneroBpeMem1)J と呼んだのだ、った。
1.本輔の考察対象と毘的
クロンシュタットの聖イオアンの没年から遡ること一年、 1907年にカブカスのバタルパシン
スク(現在のチェルケスク) IOで fカフカス山脈にて:イエスの祈りによる主と我々の心の内
] (以下『カフ
的統一に関する二人の隠修士、長老の対話、もしくは、現代の際、修士の霊的行い j
也を求め、カブカス山脈の「荒れ野j
カス山脈にて』と略) ll の初版が刊行された。これは、苦行のi
34
クロンシュタッ卜の聖イオアンの Fキリストにおける我が生命』
に階、遁した「長老」、修道士スキマ僧イラリオン (18451916年)が東方正教会の伝統的祈祷法「イ
エスの祈り j の達人である「長老」ディシデリイとの対話を通じてこの祈りの功徳について論じ
幽
た約 900頁に及ぶ大著である(「スキマ僧j とは一定の禁欲苦行を積んだ修道士の最高位 12)。「イ
エスの祈り」とは、「王イエス・キリスト、神の子、罪人なる我を憐れみたまえ」という唱匂を
間断なく反復することにより神との恒常的な交接を志向するものであり、 f
静寂主義( He邸 前M」
)
と呼ばれる東方正教会修道制の伝統的祈祷法である。この祈りの体得に遇進する二人の「長老」
の対話篇という体裁をとった問書は、優れた自然描写を含んでおり、そこには当時のカフカス
の「荒れ野(nyCTbIH5I)」での隠遁修道者たちの暮らしぶりを窺うことが出来る 13 この『カフ
カス山脈にてJ の中でイラリオンは「全能なる神の名前は神自身である( HM5IBorasceMorymero
0
)J という表現を用いた
これは、本稿で取り上げるクロンシュタットの聖
イオアンの著作『キリストにおける我が生命(Mo5I)KH3出 soXpncTe)JJ (初版の発行年について
は諸説があるが不明。筆者が確認した最古の版は 1
8
9
3年
) 15からの引用として提示されたもの
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であり 16、カフカスのイラリオンは聖イオアンに依拠して「神の名前j の神聖さを説いたのだ、っ
た。そこでイラリオンは、「主イエス・キリスト、神の子、罪人なる我を憐れみたまえ」という
f
イエスの祈り」の言葉の中にある「イエス・キリストの名前自身j が神であると主張したので
ある。「汎神論j をも想起させる「全能なる神の名前は神自身である」というイラリオンの言説
は、後に神の名前をどのように解釈するかという「神名論Jの問題として、東方正教会修道制の
聖地であるギリシアのアトス山で、騒乱を巻き起こすこととなった( 1
9
1
3年)。『カフカス山脈に
て』は、アトス山のロシア人修道士コミュニティの聞に広まり、上記のイラリオンの言説に共鳴
する当地のロシア人修道士たちは、教会側から「神名派(名前を神とする者 HM5I60)KHHKH)」と
称され(当の修道士たちは自らを「讃名派(名前を讃英する者 HM5Icnasuhl)」と呼んだ)、「新
たな教説j を信奉する異端として糾弾された。これがロシア正教会の 20世紀初頭における異端
開題「讃名派句協悶組問)」をめぐる論争である。やがて、アトス山における修道士間の争いは
激化し、この争いは口シアとギリシア関の外交問題にまで発展し、アトス山で修行していたロシ
ア人修道士の多くはロシア本土に強制送還されたのだ、った(「アトス山の動乱」) 170 当時讃名派
を擁護する立場に立ったのは、「神の名前も f
聖物J としての崇敬を受けるべきである」という
考えを持ち、同派の思想に共鳴した C.H.ブルガーコフ( 1
8
7
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4年)や孔 A
.ベルジャーエ
フ (1874 1948年
)
、 B.φ.エルン (1882 1
9
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7年
)
、 TI.A.フロレンスキイ (1882 1937年
)
、 A.φ,
“
口一セフ (1893-1988年)等の 20世紀ロシアを代表する哲学者たちで、あった。讃名派に同情を
寄せた上記の哲学者たちのうち、ブルガーコフ、フロレンスキイ、ローセフらは向派の思想を分
析・吸収し、 f
名前」そのものを哲学の考察対象とするようになる。彼らの「名前j にかんする
思索は深められ、ブルガーコフの f
名前の哲学』(主要部分執筆 1918-1919年
) IS、フロレンス
キイの『名前』( 1
9
2
3 1
9
2
6年執筆) 19、ローセフの『名前の哲学』( 1
9
2
3年執筆) 20等に反映さ
れた。これが、 20世紀初頭のロシアにおける「名前の哲学(φHnOCOやH5IHMeHH)」の流れである。
このように見てくると、ロシアの「名前の哲学」は、クロンシュタットの聖イオアンが著書『キ
リストにおける我が生命』で発した「神の名前は神自身である」という言辞にその起源を持っと
も雷い得るのである。
カフカスのイラリオンの著書『カフカス山脈にてJ とは異なり、今やロシア正教文学の吉典的
読み物である聖イオアンの『キリストにおける我が生命Jは「異端」と見徹されることはなかっ
た。聖イオアンの生涯と思想の考察を『クロンシュタットのイオアン神父』(2003年)という大
著に結実させた 21 府主教ヴ、ェニアミン・フェドチェンコ( 1880-1
9
6
1年)によると、「アトス山
の動乱」の時期( 1
9
1
3年の夏頃)のロシアの宗教界では、『カフカス山脈にて』から遡及するか
3
5
渡辺圭
たちで聖イオアンの言説が再考されるようになったというへ府主教ヴ、ェニアミン岳身は、聖イ
オアンを「イエスの祈り」の体得者であったとし、『キリストにおける我が生命』の読者は問書
を「神名論J とは受け取らず、護名派の問題も理解していなかったと述べているヘ府主教ヴ、エ
ニアミンによれば、『キリストにおける我が生命J は、日記という形態ではあるが、十分に神学
的な内寄を有しており、問書が聖イオアンの観想生活に根差した深い宗教経験を基盤にしている
点に{函館があると主張している。それでは、『キリストにおける我が生命』において聖イオアン
はどのように「神の名前Jを扱っていたのであろうか。盟イオアンの宗教観、キリスト観は、「神
の名前」についての彼の思想、にどのように反映されているのであろうか。讃名派との関連から
イオアンの『キリストにおける我が生命』のテクスト分析を行った先行研究としては、主教イラ
、 2巻本)
2年
0
0
2
](
リオン・アルフェエフの『教会の聖なる秘密:讃名派論争の麗史と問題序説J
キリストにおける我が生命J
):オンは、この研究において聖イオアンの F
が挙げられる。主教イラ 1
で「神の名前」がどのように扱われていたのかを概観している 240 しかしながら、主教イラリオ
ンは、『キリストにおける我が生命』全体に共通する聖イオアンの思想の傾向については言及し
ておらず、また、聖イオアンの他の著作も参照していない。本稿の目的は、「神の名前j をキーワー
ドにして聖イオアンの『キリストにおける我が生命J のテクスト分析を行い、問書で開示された
彼の思想の特徴を抽出することである。必要に合わせて聖イオアンの他の著作も考察する。これ
9世紀後半から 20世紀初頭の宗教思想家の、関心の対象の一端
らの作業から得られた知見は、 1
を照射し、また讃名派の思想および 20世紀初頭ロシアにおける「名前の哲学j の構想の再解釈
に寄与することと見込まれる。
. クロンシュタットの要イオアンの生涯
2
クロンシュタットの聖イオアンの生きた時代とその生濯を略述しておこうへ塑イオアンが活
5年)による西欧化改
2
7
2-1
8
6
8世紀のピョートル大帝(在位 1
躍した当時のロシア正教会は、 1
0代目
革によって国家の一機関として管理されるようになっていた。 1700年、口シア正教会の 1
総主教アドリアン(在位 1690-1700年)の死後、ピョートル大帝は後任の新総主教選出を許さ
なかった。霊的な権威の象徴でもある総主教は、政治に介入する意圏などはなかったが、特定の
場面では皇帝に対し、キリストの名において皇帝の意思を変更するように助言する権利は認めら
れていた。これに対して、ピョートル大帝は、教会の役割は閤畏に国家への忠誠心を植え付ける
ことであると考え、教会が国家の問題に介入することを認めなかったのである。教会組織の監管
1年)、総主教制は廃止され、ロシア正教会は皇帝誼属の大
2
7
機関である聖宗務院が設寵され( 1
臣である「聖宗務院総監j の監視下に置かれることとなった。これによりロシア正教会は自治独
立を失い、この状態は 1917年の帝政崩壊まで続くこととなる。ピョートル大帝の改革以降高まっ
た宮廷貴族や知識階級における商歌文化への関心は、ロシア正教会の宗教性から多くの入者遠ざ
9世紀になるとアトス山で修行し
けることになってしまったのである。しかし、その一方で、 1
たモルダヴィアの長老盟パイーシイ・ヴ、エリチコープスキイ( 1722 1794年)の修道経験を受
け継いだ弟子たちが「知恵の祈り(y乱rna51MOJIHTBa)ニコイエスの祈り」のイデーをロシアの地に
広め 2ヘロシア正教会の霊性が修道制の領域から鼓舞されることとなった。その中心となったの
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1年)のような数多くの高徳の「長老(c
9
8
が、聖アムヴ口一シイ・グレンコブ( 1812 1
たちを輩出したカルーガのオープチナ修道院で、あったヘ長老聖パイーシイ・ヴ、ェリチコープス
キイは、「イエスの祈り」の伝統を後世に伝える東方正教会の聖師父(教父)の著作選集『フィ
J 28
ロカリア Jをギリシア語からスラヴ語に訳出し、その訳を土台にした『ドブロトリューピエ]
36
クロンシュタットの聖イオアンの『キリストにおける我が生命』
の初版が 1793年にモスクワで刊行され、 1
9世紀後半には『自分の聴晦司祭への巡礼者の告白物
語(OTKposeHHhiepaccKa3bI CTpaHHHKaぇ,YXOBHOMYcsoeMyOTUY)J
d 29 という教会文献が登場し、聖
と『ドブロトリューピエ』を背負い、「イエスの祈り Jを唱えながらロシア中を行脚する敬虐
な巡礼者という文学的形象が宗教界に提示されたへこのような時代を背景として、クロンシュ
タットの聖イオアンは正教会の理想的な司牧者として生き、街の人々が神とともにある生活に参
入出来るように尽力し、歴史に名前を刻んだということである。彼は、クロンシュッタットの人々
が神の前で懐悔し、イエス・キリストの血肉を拝領することを何よりも望んでいたという。
聖イオアンは、 1829年にアルハンゲ、リスク地方(ピネシスキイ郡スラ村)の教会の下位勤務
者(瓦MI'lOK)の貧乏な家庭に生まれた。聖職者である聖イオアンの父イリヤ・セルギエフとその
妻は極めて敬慶な信者であり、彼らは常に貧困に端いでいたが、信仰においては豊かで内面的な
生活があった。 1829年の 1
0月 1
9日のことである。この夫婦に一人の男の子が生まれた。ブル
ガリアの聖人リラの翠イオアン( 876年頃 946年)引にちなんで「イオアン」と名付けられた
その子は、生まれっき虚弱体質であったが、時親の熱心な祈りが通じ、「神による治療J によっ
て、やがて健鹿になったという。翠イオアンは、幼少時現に祈りを習慣としており、村の人々か
らは特別な存在と見徹されていた。聖イオアンが 6歳の頃、読み書きを習うことになったが、彼
には上手く習得で、きなかった。このことに苦しんだ聖イオアンは、膝をっき、ひたすら神に祈り
を捧げた。ある暁天使が彼を訪問し、その後、聖イオアンは識字能力を獲得したとされている。
彼は、アルハンゲリスクの神学校(時XOBHOeY'lHJIHIUe)、神学セミナリヤ(江yxoBHaJI ceMttHaptt51)
と進学し、 1
8
5
1年にはペテルブルグ神学アカデミー(瓦yxosHa5I aKa,UeMtt5I)に入学し、同校の最
初の学生となった。この頃、父のイリヤは亡くなっており、セルギエフ家の家計は逼迫していた
が、ペテルブルグに住む聖イオアンが、アカデミーの事務昂の手紙配達人( IIHCbMOBO,UHT悶 b)の
アルバイトをして月 1
0ルーブルの収入を得、故郷の家族を支えたのだった。アカデミーで聖イ
オアンは教父学や神学といった聖職者に必要なものの他、ラテン語、その他の諸外国語、哲学、
文学、腫史等の人文科学系の科自だけでなく、物理や化学も学んでいた。アカデミー卒業の頃、
聖イオアンは、クロンシュタットのアンドレフスキイ聖堂を夢に見た。それは、今までに一度も
行ったことのない場所の光景であった。 1855年、ク口ンシュタットのアンドレフスキイ聖堂の
長司祭ネスピツキイが死亡すると、聖イオアンは彼の娘のエリザヴ、エータと結婚し、司祭に叙任
された。彼は、同聖堂の在俗司祭として、当地で 53年過ごした。クロンシュタットの生活で聖
イオアンは、乞食に手持ちの金銭を施し、時には履いていた草花まで与えてしまうなど、伴狂者(神
がかり行者)のように振舞った。また、彼は、ホームレスや失業者の受け血としての「働き者の家J
を建設するなど福祉事業を積極的に行ない、キリスト教における購入愛の実践者として多くの民
衆に愛された。聖イオアンは、ロシア正教徒に人気の高いサーロフの聖セラフィム( 1759 1833
年)等と同様に治癒能力を持っていたと伝えられている。 1883年には『新時代(Hosoesp倒的』
紙に聖イオアンの祈りによって奇跡的な治癒を施されたある信徒の書簡が公表され、彼の名声は
一気に高まり、聖イオアンその人自身が熱心なロシア正教信者の f
巡礼(日制OMHH'leCTBO)」の対
象となったのである。彼は、 1894年に死床にあった皇帝アレクサンドル 3世(在位 1881-1894年
)
のために祈るように宮廷に招かれたが、この時聖イオアンの名前はロシア冨外にも知れ渡るよう
になり、西欧諸国やアメリカから彼のところに数多くの手紙が寄せられた。精神的教導者として
の聖イオアンは皇帝ニコライ 2世(主位 1894-1
9
7
1年)にも助言を与えた。ここに、霊的権威
が世俗的権威に働きかけるというロシア古来の閤式が復興されたのである。聖イオアンは治癒者
として何千もの人々を祈りによって治療し、彼を慕い痛悔を行う者は後を断たなかった。宮廷の
寵愛を受けた聖イオアンは、皇帝による専制政治を絶対的なものとみなす反動主義者でもあった。
37
渡辺義
彼は徹底した反トルストイ主義の論陣を張り、様々な記事や論文を著した。また、聖イオアンは、
彼の元老訪れた怪僧ラスプーチンを気に入り、ラスプーチンを支持してペテルブルグ、の高位聖職
者たちに紹介してしまうこととなった。その後ラスプーチンは、自友病という難病を抱えていた
皇太子アレクセイの治癒者として活躍するようになるのであった。帝政崩壊からボリシェヴ、イキ
による宗教弾圧という受難の時代を迎えることとなるロシア正教会の行く末を暗示させるような
エピソードである。クロンシュタットの聖イオアンは、その霊的功績を称えられ、 1990年にロ
シア正教会により列聾された。
. ロゴスの科学としての正教信仰
3
本稿で取り上げるクロンシュタットの盟イオアンの『キリストにおける我が生命Jは、彼の日々
の信仰生活を綴った日記である。日本において問書は、日本ハリストス正教会編集局によって『静
8年にかけて全 4巻の翻訳本として刊行された九な
3年から 3
思録J との邦題を付され、明治 3
お、本稿では、ロシア語原文によって分析及び鶴訳作業を行っている。さて、『キリストにおけ
る我が生命』の前書きの代わりに付された序文を読むと、この観想の記録はそれ自体が読者に語
りかけるものになっているので、余計な説明は不要だとされている。
私はこの出版物に、前書きを付けるようなことはしません。これは、それ自身で語るようにな
ればいいのです。ここに書かれていること全ては、自分自身に深く注意を向けているとき、自
己を試しているとき、とりわけ、祈りのときにおいて、全てを照らし出す神の霊によって私に
与えられた、思;患に満ちた魂の光明なのです。可能なときに、私は恵みのある思想と言葉を書
き記し、この本は、長年に渡るそれらの覚え書きから作成されました。もしも、読者たちがこ
れを見たら、本の内容は甚だ多彩なものであると感じるでしょう。彼らがこの出版物の内容を
吟味できればよいですね。
3
3
実際、『キリストにおける我が生命』は、聖イオアンが教会における毎日の聖書講読と儀礼体
神名論j の展開を企図したものではなかった。問書は、
験から紡ぎ出した言葉の集積であり、 f
lつてなされた聖職者の思索の軌跡なので、ある。本稿の先行研究で、ある『我
基本的に聖書の記述に員j
らの時代の聖人』において、キツェンコは、聖イオアンが東方正教会の「砂漠の師父たち」と問
様に、ロゴス(言)である神との直接的・個人的な交わりを志向していたことを強調している
”。聖イオアンが日指した「神との直接の交わり」において、唯一の同伴者であり、教導者となっ
たのは、聖書そのものであった。彼は霊感に満ちた聖書のテクストに神の意志を読み込もうとし
] という表題から想起
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たのである。さて、『キリストにおける我が生命(MmI双 1
4世紀のギリシア教父聖ニコラオス・カパシラスであろう。万人
されるのは、既に名前の出た 1
に開かれた神的なものへの参入行為であるキリスト教の秘蹟にかんする聖ニコラオス・カパシラ
)J と呼ばれているヘ聖ニコラオス・カ
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スの論説は、「キリストにおける生命()!(!
バシラスによると、キリスト者としての神聖な人生は、教会の秘蹟によってかたちづくられるも
のである。ある人物が洗礼を受けてキリスト教徒になるとき、その人間はイエス・キリストと同
様にこの世で一度死に、キリストと同様に新たな人間として娃る。私たち人間がイエス・キリス
トの血肉であるパンとぶどう潜在拝領するとき、私たちはキリストの生命のうちにあり、キリス
聖イオアンの『キリストにおける我が生命」の記述のトーンは塑
ニコラオス・カパシラスの言説に類似しているが、問書には彼の著作の引用がないため、両者の
トと一致しているのである
360
8
3
クロンシュタットの聖イオアンの fキリストにおける我が生命』
具体的な因果関係は不明である。そのため、本稿では聖ニコラオス・カバシラスの著作が盟イオ
アンの?キリストにおける我が生命Jのサブテクストとなっている可能性を指摘するにとどめて
おく。
聖イオアンは、ペテルブルグ神学アカデミーを卒業したインテリであるが、どの分野の学問の
知識も彼を満足させることはなかったと『キリストにおける我が生命Jの中で、語っている。聖イ
オアンが求める神の世界の真理や真実は、神のロゴスによって開示される。彼によれば、人関の
信仰も、本性も、理性も、神の言葉に由来するものなのであるへこのように、聖イオアンの思
想とは、「ロゴスの科学としての正教信仰J なのであった。
あなたは、自らの過失に対する神の働きかけを予見することに慣れているだろうか一一一遍在す
る知としての、生きたロゴスとしての、生命を創造する者としての神を?聖書は一一知の領域
のものである。ロゴスと霊は一一三位一体である。(−−−)聖師父の書いたものは一一これもま
た、人間の霊自身を交えた位格的な思惟、ロゴス、霊なのだ。通常の、世{谷の人たちが書くも
のは一一罪深い愛着の情、習慣、激情をともなった堕落した人聞の霊の発露なのである。神の
言葉の中で、私たちは顔と顔とを合わせて(江間O MK 四町)神を一一一そして私たち自身一一一そ
うだ、私たち自身を見るのだ。神の言葉の中で弓自身を知り、常に神の臨在に参入せよ。 38
彼によると、神とは、全てのものを言葉によって創造したロゴス的、言語的存症( cnoBecHoe
cy羽 目TBO)であり、それに関連して、人間は以下の事実在崇敬しなくてはならない。すなわち、
神はその口から発する言葉によって、神の権力によって創造というわざを行った。私たちの住む
物質的世界は、聖三位一体において崇拝される父である神と聖霊の働きかけ、神の言葉によって
創り出されたものなのである 39 また、嬰イオアンは、神のものだけではなく、人間のロゴス、
0
言語一般を特別なものとして扱っている。彼は、『キリストにおける我が生命Jにおいて、ロゴ
ス、言葉には聖三位一体の像があり、思惟があり、霊があると主張するのであるへ聖イオアン
のロゴス論では、人間は己の言葉において不死の存在である。そして神の言葉は、時間と空間を
超えて生き、存在し続けるという。彼は、人関が知の営みによって得ょうとする神の世界の真理
は、福音書の記述=神のロゴスによって関かれるものであるとし、神の言葉、ロゴスそれ自身が
神であり、神の事業であるとも述べている 410 このように、聖イオアンの思想では、神のロゴス
は、真理に意見えた人間の心をj
留す生きた水なのであった。
喜びをもたらす雷葉、聖師父の著作、祈り、そしてとりわけ位格であるロゴスの言葉は一一真
に生きた水(MCTI1HHOBO瓦a)J(IlBaa)なのである。水は涜れ、言葉もまた流れるのだ。水は肉体
を新鮮なものとし、活性化させるが、喜びをもたらす言葉もまた、平穏と歓喜の念でもって、
あるいは感動、そして罪についての嘆きによって、魂の中へと浸透していくのだ 42
0
聖イオアンは、自身の説教において、次のように語っている。すなわち、キリスト者は、救い
主イエス・キリストの教えの言葉に神自身を見る。その神とは、「心とはらわたを調べる方」(詩
7: 1
0)として、あらゆる人間の心の内側を見抜く神である。人間の心を知る神は、説教者を通
じて放たれる神の言葉、ロゴスに対する人間からの反応を待っているのであるへこの聖イオア
ンの発言からは、正教会の説教者とは、神の言葉と畏衆を結びつける存在であるとの強い責任感
が感じられる。いずれにせよ、彼の思想においては、イエスの言葉は人間を生かす命そのものな
のであった。つまり、聖イオアンが自著に付した『キリストにおける我が生命J という書名は、
39
渡辺圭
福音書の言葉の中でこそ人間は真の生命を獲得するというキリスト教の極意を示唆しているので
ある。
敵が、ある救い主の言葉に対する疑いというかたちで心に取り付いたのなら、心の中で、こう
いなさい。私の神であるイエス・キリストの、あらゆる神の言葉は、私にとっては命である、
と。そうすれば、疑いという害毒は心から排出され、魂は、安らかに、軽くなるでしょう 44
0
4. Iキリストにおける我が生命J の「祈り」論と「神化j のイデー
在俗司祭であるクロンシュタットの聖イオアンは、盟書のテクストを通じた神との交接を重視
したのだが、それでは、彼はプロテスタント的な聖書中心主義の立場に立つ者であったのか。彼
と東方正教会の修道制、「イエスの祈・り j との関{系はどうだ、ったのだろうかo fキリストにおける
我が生命Jには、東方正教会の禁欲主義の伝統である静寂主義(ヘシュカスムス)の影響を色濃
く反映したと考えられる個所がある。そこで盟イオアンは、読者に心の限で自分の内側、自身の
魂を眺めることを勧めている。自己の内面の観察により、人間は自らの思惟の中にも、心臓の鼓
動にも主である神の存在在確認することが出来るということであるぺ『キリストにおける我が
生命』の 2007年版に付けられた聖イオアンの伝記の、監名の筆者によると、彼は在{谷市祭であ
りながら自身の妻と肉体関係を持ったことはなく、禁欲生活を送り、その苦行の基盤には絶えざ
る祈りと斎戒(HenpeCTaHHa5!MOJlHTBaH nocT)があったという。そして、置名の筆者は、問書には、
聖イオアンの罪深き雑念との禁欲主義的な闘争の経験が反映されていると主張しているへ
イオアンは、聖書を神の知の領域(o6JlaCThYMa)に属するものであるとしている。ここでモル
ダヴィアの長老聖パイーシイ・ヴ、エリチコーフスキイが「イエスの祈り j を「知の営み(yMHOe
反eJlaHHe)」と呼んでいたことを思い出す必要があろう。しかし、『キリストにおける我が生命』
教神学において神の聖霊
の祈りのモメントにおいて、「知(yM)J より目立つて見えるのは、工E
が宿る神殿とされている人聞の「心(cep江田)」の役割である(「イエスの祈り Jには、「心の祈
り( cep,Ue1rna克 MOJlHTBa)j という別称もある)。聖イオアンによると、人間は、自らの力のうち
に心を引き入れ、それを神へと向けなければならない。彼は次のように主張する。すなわち、神は、
入閣の心を欲する。何故なら、心は人間の生命にとって枢要なものであり、言い換えればそれは
人間自身である。心によって神に祈ったり、神に仕えたりしないものは、祈っていないのと問じ
である。何故なら、心、魂によってではなく、身{本のみで
ただ、存在しているだ、けの大地と問じことだ、カ、らであるヘ翠イオアンは、人間が祈りという行為
を行うということは、完全なる理性(pa3yM)を有する神の前に立つことだと述べている。祈り
において、完全なる理性老持つ神と対面するためには、人間もまた、全理性でもって祈らなくて
ここにあるのは、人間の罷定された理性によって、神の無限の理性に向
かうという国式である。理イオアンはその著述活動全般において祈りの功徳にアクセントを罷い
ている。彼は、その生涯の晩年にあたる 1907年の 6丹 28日の説教で、「祈りは、全てのキリス
はならないのである
480
ト教的善行の始まりであり終わりである」と断言しているのであるぺここで、 1913年に刊行され、
現在でもロシア正教会の一般信徒の簡に「スタンダードなものJとして流通している教理問答書、
「聖フィラレートのカテキズム(φHJlapeTOBCKHHKaTHXH3HC)」の「祈り(MOJlHTBa)J の定義を克
ておこう。
. 質問:祈りとは何ですか?
7
8
3
回答:祈りとは、神に対する人間の敬虚な言葉によって示される、知と心の神への上昇
40
クロンシユタットの聖イオアンの『キリストにおける我が生命』
(B03HO凶 eHHeyMaHc
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.
u
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aK Eory)です。
50
3
8
8
. 質問:キリスト教徒は、知と心を神へと飛期させながら、伺をしなければならないので
すか?
回答:キリスト教徒は、次のことを行わなくてはなりません:第一に、神の神聖なる完全性
に対して、神を讃美( npoc江aBJUITh)しなければなりません。第二に、神の善行に対して感
謝(6naro且apHTh)しなくてはなりません。第三に、自らの貧しさに対して、憐れみを乞わ
(
叩O開 Th)なくてはなりません。それ故に、重要な三種類の祈りの言葉が存在します。讃美の
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江OBHe)、感謝の言葉(Enaro.uapettHe)、憐れみを乞う
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1
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9
. 質問:言葉無しに祈ることは可能ですか?
回答:可能です一一知と心によって祈るのです。その例は一一紅海を渡る出エジプトを前に
した預言者モーゼです(出 1
4:1
5
。
) 52
3
9
0
. 質問:このような祈りに特別な名前はありますか?
回答:それらは、霊の祈り(江yxoBHaJI)、あるいは、知の祈り(yMHaJI)、心の祈り(cep丘四回耳)
と呼ばれていますが一一一言で言うなら、内的な祈り(BHyTpeHHaJIMOJIHTBa)です。それと
は逆に、発語によるもの、敬慶さを表す別のしるしによるものは、口頭の(ycrna心、あるいは、
外的な祈り(ttapy氷日制)と呼ばれています 0 53
聖イオアンは、『キリストにおける我が生命』の中で聖フィラレートのカテキズムを引用して
いるヘカテキズムの上記の箇所に静寂主義の影響を読み取ることは可能である。このカテキ
ズムを編纂したモスクワとコロムナの府主教聖フィラレート・ドロズドフ (1782 1867年)は、
高位聖職者、説教者、神学者であり、問時に東方正教会の聖師父たちの、観想、を最重視する禁欲
ゃ
主義の伝統の継承者であった。彼は、聖パイーシイの影響によるロシアにおける「イエスの祈り」
の復興の同時代人で、あり、聖師父(教父)の禁欲主義的教説に精通していたと言われているヘ
聖フィラレートのカテキズムと同様に、在俗司祭であった聖イオアンが『キリストにおける我が
生命』において「祈り」について論じた部分は、静寂主義的な禁欲の視点で書かれている。そこ
で繰り返し強調されているのは、肉体ばかりを重視し、己を見失い、救済の道から外れていく人
間の無力さである。「祈り」こそが、神に辻べてあまりにも貧しい存在である人聞を正しい道へ
と引き戻す力なのであった。
祈りとは一一常に自身の霊的な貧しさと病弱さを感じることであり、自分自身における、人々
における、叡智の、慈悲の、全能なる神の力の本質における観想である。祈りとは一一常に神
に対して厳粛に謝意を表する気持ちなのである。 56
祈りについて言おう。赦しを請う(nporneHHe)という祈りは一一私たち自身に帰せられる私
たちの倣’慢な肉体のためにある。感謝する(6naro.uapeHHe)という祈りは一一私たちの肉体
が数え切れぬほどの神の善行に対して不感症になっているため、存をする。神を賛美する
(
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江aBOCJIOBHe)による祈りは一一自分自身の名誉ばかりを追い求める肉体的な人間のためにあ
る 57
0
4
1
渡辺圭
さて、聖イオアンの「祈り J論で注目すべきは、「人間(tieJIOBeK)Jそのものである。そこで
まどの存夜とされている。彼の別の著作『キリスト
人間は咋庁り Jを通じて神と直に向かい合う l
教哲学』( 1902年。これも日記のような覚え書きをまとめたもの)においては、人関の堕罪から
論が紐解かれ、それにイエス・キリストの臆罪が対置され、最後に人間自身が神の救済の事業へ
主体的に参加すべきであると説かれている。問書において、聖イオアンは、楽産!を追われたア
)
」
ダムとイブに刻み込まれた呪い( npo知 見m e)は、創造主である「神であるロゴス(Eor-C瓦OBO
が受肉(籍身 sonJIOillem1e)し、人間という存在になること(B問 問oseLiem1e)を通じて解除され
る契機を与えられたと述べているヘロゴスの受肉によって、神は全人類を自らの位格の統一
BOI1nocTaCHCBOe話)のうちに引き受けるという思寵を地上にもたらしたのだ、った。
服 部T
e
(
神であるロゴスの受肉によって、人類は慈悲を与えられ、復興され、脳新され、聖別され、啓
蒙され、不朽化され、神化され、基礎づけられたのである。思考し、感謝の念に溢れ、神を恐
れる人間たちは、この比類なき神の窓みを認識し、感知し、それを自分と他者の救済に適用し、
永遠の幸福を継承した。それとは逆に、思考することをせず、世界や肉体に傾倒する人間は、
罪の中で間断なく破滅し、それどころか、罪によって自己を賛美するのである。
9
5
聖イオアンの『キリスト教哲学』では、神の思寵による堕落した入閣の刷新は、耕1の言葉、口
ゴスの受肉を起点として始まる。救済の道行きは、人闘が、ロゴスの受肉の神秘について思考す
ることが出発点となっている。受肉は、神の人間の肉体への下降( CHHCXO)K服 部e)なのであり、
今度は人間の方が天に向かつて歩在進めなくてはならない、ということである。このように、
イオアンの『キリスト教哲学J は、イエス・キリストのひそみに倣って神の似姿の回復を志向す
るという「神化(o6o)KeHtte)Jのイデーを前面に出したものと言えるだろう。
析りとは一一私の理性的人格(pa3yMHa51江 別HOCTh)の、私が神の像によって創造されたこと
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(6oroo6p目 前CTh)の証明であり、私の未来における神化(o
の保証である。私は無から創造され、自分のものは何も持たぬ者として、神の前では何者でも
ないが、顔があり、理性、心、自由意思を有し、自らの理性と島由において、神に心を向ける
ことによって、自身に対する神の永遠の支配を段々と強めていくことができるのだ(ー・) o 60
キリストにおける我が生命3 においても、「神人論」的な人間観が展開さ
上の引用のように、 F
れる。聖イオアンの神学では、人間は神の像を持つ唯一の被造物であり、全ての真理を解き明
かす神のロゴスと「祈り」によって交わりを持つ。しかも両者は、顔と顔とを合わせて(四日OM
1交歓を果たすのである。聖イオアンによると、人間は、何があろうと他者の顔、相貌
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) J として崇敬しなくてはならない。何故なら、主イエス・
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(m1K)を、「神の顔、相貌(m1KEo
キリストの顔、相貌は、人間の顔、相貌だからである。彼は、人間の顔、相貌を敬わないという
ことは、神の顔、相貌を尊ばないことと同じであると断言しているへまた、聖イオアンは、神
の像(06pa3Eo)K凶)としての人間の利点、は素晴らしいものであるとも主張している。彼によると、
聖人のように、生きた信仰を持つものが奇跡、在成すのは、人間が神の像だからである。神が自分
の息子であるイエス・キリスト老人類の元へ送ったことも、人間が神の像であることに由来する
へ以上のように、東方正教神学の人間論に準じた聖イオアンの思想においては、人間とは神に
似せて創造され、神化へと招かれた特権的な被造物なので、ある O
42
クロンシュタッ卜の塑イオアンの『キリストにおける我が生命』
覚えておきなさい、祈っているときには、主である神は私たちの、値的人格を有する始原の像
(
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nnepBoo6pa3)として、私たちに一致している。そしてそのとき、神は、私たちの全
ての言葉、全ての心の動きに応えているのである。 64
5
. 『キリストにおける我が生命』と「神の名前J
神の像が理め込まれた被造物である人関と神が「祈り」を通じて交わる場所として、クロンシュ
タットの聖イオアンが重視したのは「名前(HM5!)J である。ここに、讃名派の問題と連なる
説が登場してくる。実瞭、彼は神の名前そのものを讃美すべき対象として扱っているのだ。
おお、最も甘美なる名前よ、最も神聖なる名前よ、全能なる名前よ、私たちのイエス・キリス
トの名前よ!私の勝利である、主よ、あなたに栄光あれ!主よ、私たちは、あなたの肢体であ
り、身体として一つであり、あなたは
頭です。主よ、私たちから全ての煩悩を去らせ給え、
私たちから悪魔を追い出し給え! 65
聖イオアンは、悪魔の誘惑から逃れる手段として、神の名前を唱えることを推奨する。そして、
祈りの際に発せられる神の名前には、神そのものの実存が感じられると言うのである。しかし、
神の名前だけが呼びかけた対象の実存を感じさせるものではない。聖母マリアの名を呼べばそれ
が彼女の存在を感じさせる。天使の名前や、聖人たちの名前の呼びかけもまた同様だということ
である。
祈る人よ!主の名前、あるいは、聖母マリアの名前、あるいは、天使、及び聖人の名前は、そ
う、あなたにとって、主ご自身、聖母ご自身、天使や聖人それ自身の代わりとなる。あなたの
言葉の、あなたの心への近さは、主ご自身の、いと清らかなる乙女の、天使と聖人の、あなた
の心への近さになるであろう。主のお名前は主ご自身である(HM5!rocno,UaecTbCaMrocno凪
)
一一聖霊はいたるところにあり、全てを満たすものである。聖母マリアのお名前は彼女ご自身
であり、天使の名前は一一天使自身であり、聖人の名前は一一聖人自身である。どういうこと
でしょうか?分かりませんか?一一一例えば、あなたの名前がイヴァン・イリイチであるとしよ
う。もしあなたがこの名前で呼ばれるとしたら、あなたはその名前の中にあなた自身を認める
であろうし、その名前に反応するであろう。つまり、あなたは、あなたの名前は一一魂と肉体
を持ったあなた自身である、ということに賛成する
聖人にとっても同様である。あなたは
聖人たちの名前を呼びなさい。あなたは聖人自身に呼びかけることになるのです。面
聖イオアンによると、人関による神の名前の発語は、神の存在を彼の心に近づける行為である。
たとえイコンのように可視的な語りかけの対象が無くとも、言語を用いた名前の呼びかけは、神
の臨在者確信させるものとなる。聖イオアンの考えを整理すると、次のようになる。私たちは自
分の名前に対する呼びかけに反応する。何故なら、私たちの持つ個々の名前は、私たちと不可分
に結びついており、さらに言えば、名前とは私たちそれ自身だからである。私たちは、名前を呼
ばれることにより、他者に自分が「認識されていることを認識する」のだ。聖イオアンの名前論
を正教信仰の立場をとらぬものから敷街すると、「限定された理性しか有しない被造物である人
閤の、神の名前を呼ぶという行動は、不可知の神の認識を志向する行為である j となる。さて、
私たちが他者から名前で呼ばれるとき、私たちの何がその働きかけに応えようとするのだろうか。
4
3
渡辺圭
聖イオアンの考えでは、それは魂である。彼によると、肉体というものは、魂を覆う物費的な殻
のようなものであり、魂が住まう建物という位置を与えられている。それに対して、魂は、人間
自身であり、人間の本質、あるいは、内的人間(BHYTP印 刷 訴 qenoBeK)とも言うべき存在である。
ある人物が名前を呼ばれるとする。すると、肉体ではなく、肉体的な器官在通じて魂がそれに応
答するという図式である。それ故に、物質的世界で肉体を持たなくなった神や聖人が、私たちの
呼びかけを感知するのは、彼らの不滅の魂によるものなのであったぺ
聖イオアンの思想、における名前の概念は、やはり、キリスト教の人賠論と深く関わっている。
彼は、名前という存在について、次のようにも解釈している。魂と肉体から構成される全ての人
間は、一つの言葉、例えば、「イオアンj という言葉で名付けられる。このことは、人間が神の
よって「存をするもの(6bm1e)J へ導かれたことを意味する。名前には、入閣の霊の豊か
さと深さ、物質の分節可能な部分の集合が隠されている。すなわち、名前とは、真に神の{象であ
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8 このように、盟イオアンの思想においては、「神の名前」だけで誌なく、人
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間の名前も重視されている。彼は、個々の人間に与えられた名前という個別性には、人間に埋め
込まれた神の像と似姿を読み取ることができると主張するのである。
例えば、イヴァンの名前にはイヴァンの魂がある。その名
前による呼びかけにおいては、こうだ。イヴ、アン・イリイチ、その人物の魂は、この名前の中
入閣の名前には、入閣の魂がある
O
に自分店身在意識し、この名前に対して応答するのだ。このように、イエス・キリストの名前
にはキリストの全てが一一神性と結びついた彼の魂と肉体があるのだ。 69
上の引用には、名前をプラトニズム的なイデアの発出、あるいはその発現在捉えたものと解釈
φ.ローセフらの 20世ー紀ロシアの「名前の哲学」
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に類似した忠考の枠組みが見られる。聖イオアンにとって名前とは、名付けられた人間の本質を
表し、その人聞が神の操と似姿を有する人格的存在であることを示すものなのである。ここで考
えねばならないのは、このような神の名前にかんする聖イオアンの言説に、「イエスの祈り」が
どこまで影響を及ぼしたのか、ということである。この祈祷法は、「主イエス・キリスト、神の子、
罪人なる我を憐れみたまえ j という唱匂を無限に反寵するものであるが、ここでは、盟三位一体
の第二位格である神人イエス・キリストの名前によってイエス自身を想起することが重損されて
いる。この祈りによって、信者とイエス・キリストは、顔と顔とを合わせて(J1HUOMK nnuy)相
対することとなる。従って、「イエスの祈り」においては、「イエス・キリスト j という回有名詞
の存在が強調されるのである。『キリストにおける我が生命』にも、この祈祷法の伝統の藍接的
影響在感じさせる部分がある。
忠まわしき暗閣が、疑いが、憂欝が、絶望が、困惑があなたを覆うとき、ありったけの心で、最
も甘美なものであるイエス・キリストの名前を呼びなさい。あなたはそこに全てを、光在、礎
を、期待を、そして慰めを見出すことでしょう。そしてあなたはそこに寛仁、慈悲、賜り物を
見つけることでしょう。これら全ては、豊かな宝物のように、一つの名前の中にあるものとし
て見出されるのである。
70
キリストにおける我が生命』における名前論の根拠になっ
しかし、「イエスの祈り j が直接 F
ていると断定するのは難しい。何故なら、問書には、東方正教会の静寂主義の真髄を伝える禁欲
44
ク2ンシュタットの聖イオアンの『キリストにおける我が生命』
主義文献『フィロカリアJ のスラヴ語版である『ドブロトリューピエ』からの引用が明示されて
いないからである。上記の引用では「キリストの名前には全てがある」とされているが、『キリ
ストにおける我が生命』の日j
lの個所では、人間が祈りに用いる様々な神の名前が紹介されている。
キリスト教における神の不可知論から考えると、神の名前は無限に付けられるものであり、「イ
エス・キリスト」という一つの名前が神の本質全てを言い当てることはないからである。聖イオ
アンは次のように述べている。
私たちの神にはどのような名前があるだろうか?一一一愛(凡ぬ 60Bb)、寛仁(E脇 rDCTb)、人間
を愛すること(4enoBeKOJII06田)、賜り物(l
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I)等の名前がある。あなたが祈るとき、
あなたの前に愛と寛仁のお方が立っていることを、人拐を愛するお方(可eJIOBeKO瓦
ぬ6eu)があ
なたを受け容れているということを、心の眼によって見なさい。 71
神よ!あなたの名前は一一愛である。私を錯誤した人間として拒絶しないで下さい。あなたの
名前は一一力である。力尽き、盟落した私に力を与えて下さい。あなたの名前は一一光である。
日常の欲望に暗くされた私の魂を照らし出して下さい。あなたの名前は一一平穏である。押し
演された私の魂に王子穏を下さい。あなたの名前は一一一慈悲である。私に諮悲を垂れるのを止め
ないで下さい。 72
人間に対する様々なかたちの神の働きかけには、それに応じて色々な名前が付けられる。しか
し、神の本質は人間の能力では知り得ないままである。このように、製イオアンの考えでは、キ
リスト教の神とは様々な名前で人関に働きかける神なのであった。彼によれば、人間が様々な名
前で神に語りかけるとき、それらの名前には神の臨在が感じられるということである。それでは、
何が聖イオアンの神の名前の解釈の基盤になっているのだろうか。『キリストにおける我が生命』
に引用されているのは、カテキズムを除くとほぼ聖書のみである。従って、彼が同書で用いた「神
の名前は神自身である」との言辞も、聖書の記述によって基礎づけられている。
神の名前は、神ご自身である(I
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)。何故なら、「あなたの神、主の名を
みだりに唱えてはならないJ (
出 20:7)と言われているからである。あるいは、「ヤコブの神
の御名があなたを高く上げJ (
詩 20:2)ると、もしくは、 f
わたしの魂を榔から引き出してく
ださい。あなたの御名に感謝することができますように J (
詩 142:8)とあるからである。主
である神は、単純なものを趨越した存在であり、霊であるので、その神はある一つの言葉にも、
一つの思惟の中にも一一全てが完全に、そして問時にあらゆるところに一一全ての被造物の中
にいらっしゃるのである。それゆえに、あなたに、ただひたすらに主の名前を唱えなさい、と
うのだ。あなたは、主一一信じる者たちの救い主を呼び、そして救われるのだ。「主の名を
呼び求める者は皆、救われる J (
使 2:21)0 「それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わ
たしはお前を救おう」(詩 50:1
5
。
) 73
この引用は、讃名派論争を引き起こしたカフカスのイラリオンの『カフカス山脈にて』の言説
に直接繋がるものである。確かに、ここで聖イオアンは「名前を讃英」しており、「全ての被造
物の中には神がいる j との物言いは、汎神論をも想起させる。カフカスのイラリオンは、このよ
うな聖イオアンの思想、を継承して、自著に反映させたのであろう。上記の引用では旧約聖書の詩
編が効果的に用いられている。実擦、詩編には神への呼びかけの効用を示す言葉が多いのである。
45
渡辺圭
声をあげ、主に向かつて叫び
声をあげ、主に向かつて’憐れみを求めよう。
御前にわたしの悩みを注ぎ出し
御前に苦しみを訴えよう。(詩 142:2-3)
. 結論
6
これまでに考察してきたクロンシュタットの聖イオアンの『キリストにおける我が生命』の思
想、そこで語られた神の名前の解釈についてまとめておきたい。問書において聖イオアンは、ロ
ゴスとしての神を強く崇拝している。彼によれば、キリスト教が人間の救済にかんする神の教え
だとすると、その秘舘はロゴス、言葉によって開示される。私たちが神の言葉である聖書を読む
とき、そこには、神自身が存在しており、言葉の中に践す神は、そこから人関を観察している。
それ故に、人闘が神の言葉に触れるときは、神自身に向かい合うようにしなければならない。聖
イオアンは、キリスト教徒の善行の、始まりであり終わりである「祈り」の功徳を信者に繰り返
し説いていた。祈りという行為によって人間は神と顔と顔とを合わせて(JIHUOMKmruy)、己の
心を神へと飛ばすのである。それでは、何故被造物である人間は、神と直に対面することができ
るのだろうか。ここで前景に出てくるのが、東方正教神学の「神化(o6o)!(eHne)」のイデーであ
る。人間は元々神の像と似姿( o6pa3Hno.no6nebO)!(tte)によって創造された。であるから、神で
ある父は、堕落した人間を救いの道に戻すために人間と同じく「顔と閤有名詞を持った」神であ
る恵子、イエス・キリストをこの世に送ったのだ、った。聖イオアンは、「神であるロゴス(Eor
Cnoso)」の受肉(籍身 BODJIOIIJeHHe)の神秘を人間の後興の起点に揖え、思索を深めている。彼は、
人間もまた、言語を用いる存在であり、人間の言葉の中には、神の像と似姿を見出すことができ
冊
ると述べている。
聖イオアンの宗教思想においては、聖三位一体の神は言葉、ロゴスとして人間の前に顕現し、
|吃立する神である。創造主である神が人間へと発する言葉、ロゴスに対し、被造物である人間は
向じく言葉をもってそれに対峠する。神的な光や崇高な美として顕現する神の、人間に対する働
きかけには、人間によって様々な名前が付けられる。そして無限に付与される神の名前のうち、
「顔(JIHUO,JIHK)j を持ち、「人格(nwrnocTh)Jを有する名前が、聖三位一体の第二位格に付けら
れた国有名詞「イエス・キリスト (lfacycXpttcToc)Jなのである。「イエス j が「神は救いである j
在意味するように、名前というものは基本的に名付けられたものの本質を突くものである。この
ように整理すると、聖イオアンの神の名前論には、名前をイデアの発出の認識行為であるとした
ブルガーコブ、フロレンスイ、ローセブら 20世紀ロシアの宗教哲学者たちの「名前の哲学Jの
構想、に類似する患想の韻向が見出されるであろう。しかしながら、両者には明確な違いがある。
聖イオアンの神の名前論では、神人であるイエス・キリストの存夜が中心にある。それに対して、
20世ー紀ロシアの「名前の哲学j の方は、キリスト論として展開されているわけではない。聖イ
オアンの思想は全て神の言葉である聖書に根拠付けられているが、「名前の哲学」の根底にある
の註プラトニズム 74であろう。いずれにせよ、聖イオアンの『キリストにおける我が生命Jが、「名
9世紀末の口シア宗教患想の考察対象として重要視されるようになっ
前( HM5!)」という概念が 1
ていたことの証左であることは疑いなし、。聖イオアンは、神人イエスと人聞が一致する場所とし
て「神の名前j を提示したのである。このことは、神性と人性が、不可分に混じり合うことなく
結びついた神人イエス・キリストの解釈そのものと関わっている。聖イオアンによると、ロゴス
46
クロンシュタッ卜の聖イオアンの『キリストにおける我が生命』
が受肉した子である神のイエスは、顔と人格を持っており、それらは、彼の「名前自身j に読み込む
ことができるということである。これらのことを総合すると、聖イオアンの『キリストにおける我が
生命Jで語られた神の名前論は、 f
名前( 11M5I)」を用いた「ロゴスの神学としてのキリスト論j であ
ると結論づけられる。
本稿で見てきたようなクロンシュタットの聖イオアンの忠想を讃名派のルーツと考えて良いものだ
ろうか?この点についても触れておきたい。「神の名前は神自身である J という吉辞を同派に提供し
たという点においては、答えはイエスである。しかし、カフカスのスキマ僧イラリオンや彼の言説を
弁護したスキマ修道司祭アントニイ・ブラトヴ、ィチ (1870 1919年)といった讃名派の修道士たちが、
聖イオアンの「ロゴスの神学としてのキリスト論」を継承せず、「神の名前は神自身である」という
表現のみを文献から切り離して用いていたとすれば答えはノーである。これについては、詳細な比較
考査が必要となるため、別稿で論じたい。また、ブルガーコフ、フロレンスキイ、ローセフ等の宗教
哲学者たちに聖イオアンの思想は受け継がれたのか、そうでないのかという疑問も残っている。これ
も同様に本稿が扱う範囲を越えるため、分析は他日を期したいが、先回りして言うならば、哲学者た
ちに直接的な影響を与えたのは聖イオアンではなく、讃名派の修道士の方である。ギリシア教父(聖
師父)翠グレゴリオス・パラマス (12961359年)に依拠して「神の名前」を f
神の本質J ではなく
“
「神の働きかけヱヱエネルゲイア J であるとしたのは、聖イオアンではなく讃名派のアントニイ・ブラ
トヴ、ィチという人物なのである。また、本稿で何疫力、述べたように、嬰イオアンの『キリストにおけ
る我が生命』とは異なり、 20世紀初頭ロシアの「名前の哲学」は神人イエス・キリストの存在在中
心として展開されておらず、そこにあるのはプラトニズム的なイデアリズムの視座である(両者の違
いを神学と哲学の相異と捉えると興味深い)。しかし、フ口レンスキイは、論文「哲学的前提条件と
しての讃名派」 (1922年)において、聖イオアンによる「神の名前は神自身である」との表現を「公
式(中opMyna)」として用い、ギリシア語と比較しつつ、解説を加えているへこの一例を見ても、讃
名派を通じて届いた嬰イオアンの言葉が(文脈から切り離された可能性はあるが)「名前の哲学」形
成の遠悶で、あったとは言い得るのである。
クロンシュタットの聖イオアンは、絶えざる祈りによって不可知の神を観想する神秘家であったが、
同時に慈善事業によって社会の発展に貢献する活動家でもあった。ロシア帝圏在統べる皇帝にも助言
と励ましを与えた。そう考えると、彼はラドネジの聖セルギイのように天上と地上の二つの世界への
志向が統一された聖人のように見えてくるのである。禁欲主義的な観点から聖イオアンの諸著作を読
むと、彼の思想は、地上の物質的なものには一切慰めを見出さないペシミズムに翼かれていたことが
分かる。 1899年の 1
0月刊日にリラの聖イオアンの祝日に寄せた言葉で、聖イオアンは、彼がこの世
に生まれ育ち、襲職に就くことができたのは全て神のおかげであることを強調しているへそれ故に、
彼は、数多の学問の中でも人格神の認識の問題に関わる「神学(6orocnoB問)」を己の道とし、これ
に癌進したので、あった。
(高等教育を受けていた時代に一一一引用者註)幅広く、深く教えられた神学的、哲学的、鹿史
的なものやその他諸々の学問は、私の世界観を解明し、広げてくれたのだが、神の思寵により
私は、叡智に満ち素晴らしく、慈悲でもって全てを創造し、厳格な生の調和的な法問j
によって
自らが創造したものを従属させた神の寛仁の深さを意識すればするほど、神学的観想の深淵に
沈み込んでいったのである。特に私の知と心を魅了したのは、世の罪を取り除く神の小羊(ヨ
ハ 1:29)であるイエス・キリストによる、破滅する運命の種である人類の、叡智に満ちた驚
惇すべき救済のプランで、あった。 77
物質的な価値観の不毛さを説く一方で、聖イオアンは、地上の世界を少しでも神の世界に近づける
47
渡辺圭
ベく積極的に実社会と関わりを持った。彼が目指したのは、クロンシュタットという街そのものをキ
リスト者の共同体、イエス・キリストの身体である教会へと変容させることであった。聖イオアン
は、街の信者一人一人が神人イエス・キリストと直接交わることのできる「場」として、「神の名前J
を提示したのである。この点からすると、彼の生涯そのものに「ソボールノスチ(co6opHOCTb霊的
共同性) Jの精神が色濃く反映されていることが分かる。なるほど、時かに聖イオアンは「祈り j の
功徳を繰り返し強調してはいる。だが、隠遁を好む修道士とは異なり、教会における毎日の儀礼の中
でイエス・キリストの名前を呼び、神の臨症を体感することを彼は重視していたのだった。聖イオア
ンが「キリストにおける我が生命j で用いた「神の名前は神自身である j という表現は、好余曲折を
経て「名前」そのものを哲学の考察対象とするロシアにおける「名前の哲学」形成の動因となったの
である。聖イオアンの生涯と思想は、彼の没後に登場する 20世紀以降の口シアの軍人や神秘家たち
に直接的間接的に大きな影響を与えていくことになるが、それは筆者の今後の考察で次第に明らかに
なっていくことであろう。
註
1 本稿で使用した聖書は、新共同訳である。
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5 長司祭伊望塞耳求布著、木村伊薩阿克訳
、 2
伊望神父説教集』巻之一、正教会編輯晶、 1899年
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6 前掲書、巻之一、 4
7 ()内は原著の刊行年。ヘレーネ・イスウォルスキー著、平塚武訳『ロシア人とキリスト教』中央出版社、
、 297-301
1964年
8 ニコラオス・カパシラス著、市瀬英昭訳『聖体礼儀註解』
u中世思想原典集成 3
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後期ギリシア教父J
平凡社、 1994年、所収入
9 註 7同様、()内は原著の刊行年。セルゲーイ・ボルシャコーフ著、古谷功訳『ロシアの神秘家たち J
、 449
あかし書房、 1985年
現在のカラチャイ・チェルケス共和国の首都。
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1 筆者は、第 4販を使用した。 Cxzι
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3 これについては、拙稿「カブカス山脈の隠修士スキマ僧イラリオンの『荒れ野J の穆道思想J u
1
、 2006年を参照。
ヴ、研究J 第 53号
. 正確には、イラリオンと対話したという長老ディシデリ
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困難なため、問書をまとめたイラリオンの意見とした。
1955
](
5 例えば、セミョーノフ・ティヤン・シャンスキイ神父の『クロンシュタットのイオアン神父 J
1
年)や、 2004年に刊行された聾イオアンの著作選集の巻末に付された彼の著作一覧では、『キリスト
、 1894年から 1905年にかけてモスクワとペテルブルグで 4冊本として刊行さ
における我が生命Jは
話 OpK,1955.
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ロシア語版ウィキペディアは、『キリストにおける我が生命』の刊行年を 1905年としている。 h
48
クロンシュタットの聖イオアンの fキリストにおける我が生命』
ru.wikipedia.org/wiki/%D0%98%DO%BE%DO%BO%DO%BD%DO%BD
一
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。
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DO%BD%D1%88%D1%82%DO%BO% %B4%D1%82%D1%81%DO%BA%DO%B8%DO%B9 (2009
年 9月 1
6日 1
7碍 6分開覧)
筆者が本稿で使ったのは、 2冊本の体裁をした 1893年ペテルブルグ販のリプリントである。 CBJ!TOH
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7 讃名派についての概要と「アトス山の動乱」の顛末については、拙稿「ロシア正教会における 20
世紀初頭の異端論争『讃名派』問題:その思想的特徴と『アトス山の動乱Jの背景」『ロシア史研究J
第 76号
、 2005年参照。
1
8 ブルガーコフの『名前の哲学』は、堀江広行氏により「人格論j の見地から考察されている。堀
江広行「セルゲイ・ブルガーコフの『名前の哲学』とその人格(リーチノスチ)の概念の問題に
2005年
、 3-19賞。ブルガーコフの『名前の哲学Jそのもの
ついて」『ロシア史研究』第 77
にかんしては、次の版を参照した
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9 ブロレンスキイの「名前J論の概要として、次の論文を参照せよ。フロレンスキイ著、桑野睦訳「哲
学的前提としての襲名 j 『逆遠近法の詩学』水声社、 303 375真。なお、彼の『名前』については、
次の著作集を用いた。 C65lllfeHHUK刀aee!lcfJJ1opeHCK叫 .I1MeHa(oH0MarnnomJ1)//Co朝 日e
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20 大須賀史和氏は、以下の論考でローセフ哲学における「名前 j の問題を概観している。大須賀史
和「ローセフの砲の哲学』の脊景一一20世紀初頭の哲学的状況との関連について一一JIロシ
ア史研究』第 64号
、 1999年
、 3443頁。筆者は、次のものでローセフの f
名の哲学』を参照した。
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正確には、 H.B.スヴ、エトザルスキイ (196ト 1999)が、様々な時期に書かれた聖イオアンにかん
する府主教ヴ、エニアミンの論文や記事を繍集したものである。 MumponomanBeHu似 1UHf
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25 クロンシュタットの聖イオアンの略伝を記述するにあたり、キツェンコ(註 1
)とセミョーノフ・
ティヤン・シャンスキイ神父の研究(註 1
5)を参考とし、その他に次のものを参照した。 C6RU/.A.
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27 オープチナの長老たちと「イエスの祈り j の関係については、次のものを参照せよ。 Heo
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28 筆者は、聖フェオファン・ザトヴオールニクによるロシア 語版を使用した。瓦o
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民礼者の手記Jエンデルレ書店、 1969年
; A.ロー
テル、斎田靖子訳『無名の}
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慎礼者:あるロシア人順礼者の手記Jエンデルレ書店、 1998年
]
30 ロシア版『フィロカリアJの成立過程については、次の論考において検討されている。清水俊行「ロ
49
渡辺圭
シア正教と禁欲主義の伝統:ロシアにおけるフィロカリアの受容について J印ド戸外大論叢J第
。
、 65 96貰
、 1999年
50巻第 3号
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1 リラの聖イオアンについては、ブルガリア語版ウィキペディアを参照した 0 h
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一
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7時 38分閲覧)
%BS (2009年 9月 9日 1
。
静思録』巻之ー∼四、正教会編輯局、 1901 1906年
F
33 1真日より前の頁に寄せられた塑イオアンのコメントより。ここには、「前書き」との但し書きも
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32 イオアン・セルギエフ著、上田将訳
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34 Haoe:>JCoaKuz1eHKO.C
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ロシア思想におけるキリスト』あかし書房、 1983年
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とは、聖ニコラオス・カパシラスの著作の題でもある。
35 パーウェル・エブドキーモフ著、古谷功訳
キリストにおける生命j
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これは、『コリント信徒への手紙 一J におけるパウロの言葉に由来する。「わたしたちは、今は、
鏡におぼろに映ったものを克ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。
わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知
ることになる。 J (ーコリ 13:12)
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ここで筆者が用いた広義の「プラトニズム」は、プラトンの弟子であるアリストテレスの形市上
学の構想も含む。「名前の哲学」に影響を与えたのは 14世紀のギリシア教父(聖師父)嬰グレゴ
リオス・パラマスであるが、彼はフラトンではなくアリストテレス在学んでいた。「エネルゲイア j
という言葉はアリストテレスも用いている。
75 フロレンスキイ著、桑野隆訳「哲学的前提としての賛名 Jf
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逆遠近法の詩学』水声社、 335-336真
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