Comments
Description
Transcript
初代クラウン 2代目クラウン
初代クラウン 国産自動車がまだ海外メーカーの協力を必要としていた頃、トヨタは独自の純国産技術による日本初の本格的乗用車初代クラウンを 開発、1955年(昭和30年)1月に発表発売した。前輪ダブルウィッュボーン式独立懸架、乗用車専用シャシーなど随所に画期的な新機 2代目クラウン RS系(1955.1〜) 構を備えると共に、観音開きドアを採用しているのが特徴。1453cc 48psエンジンで最高速度100㎞/hをマークした。1960年10月、 RS40系(1962.9〜) 世界的流行の兆しを見せていたワイド&ローを前面に打ち出し全高を70㎜下げ、ホイールベースは160㎜も延長、4灯式ヘッドランプ に象徴される斬新なスタイリングで初代のイメージはがらりと変わった。フレームも初代のボックス型からX型フレームとなり、変速 機も全自動式2速トヨグライドへ進化した。ボディはセダンとステーションワゴンの「カスタム」の2種類。カスタムのバックドアは下開 き式を採用していた。 クラウンに1900㏄ 3R型エンジン搭載車RS31型を追加し、トヨグライド付AT車を設定した。 初代トヨペットクラウン (RS型) 。純国産技 術による日本初の本格的乗用車である。 1453cc、48psR型エンジンを搭載。フ ロントウィンドウは2枚の曲面ガラスを 使用、ウインカーはBピラーに埋め込ま れる腕木式(アポロ式) を採用している。 2代目クラウン・デラックス(RS41型)。 丸型4灯式を採用し、ワイド&ローのア メリカンスタイルとなった。4リンクコ イル式のリアサスペンションを採用し、 1897cc、90psの3R型エンジンを搭載。 スタンダード (RS40型) は80ps仕様となる。 デラックスのインパネ。握りの細いステ アリングと横長の計器盤そしてコラムシ フトが当時の標準仕様であった。視界 も従来モデルより広くなり、ウィンドウ 当時のトラック用シャシーに架装した乗用モデルとは一線を画すべく、前輪独立懸架やリア3枚ばね仕様を積極的に採用、乗り 面積はフロントで25%、リアで8%広く 心地の向上に貢献している。9代目モデルまで続いたクラウンの伝統ともいえるフルフレーム構造はここからスタートしている。 なった。 3代目クラウン MS50/51系(1967.9〜) 高速長距離セダンをテーマに開発され、主力エンジンは直列4気筒3R型から直列6気筒OHC1988ccM型へ移行した。初代、2代目は 1968年(昭和43年)10月に2ドアハード 主に法人向けであったが、3代目はその洗練された高級感や当時の名キャッチフレーズ「白いクラウン」で一気に個人ユーザーの需要 トップモデルが追加設定された。セン を喚起した。ボディは当初セダンとカスタムであったが、1968年(昭和43年)11月、クラス初の2ドアハードトップモデルを新設発売し、 ターピラーのない外観、4ドアモデルと クラウンのパーソナルユース化を加速させた。 異なる角型ヘッドランプが特徴。写真 のSU型ツインキャブレター仕様の、M -B型125psハードトップSL(MS51型) と、 シング ル キャブ 仕 様 のM型105ps ハードトップ(MS51-B型)の2種が設定 され、ともに4段フロアと3段トヨグライ ドのフロアシフトが選べた。 “白いクラウン”のキャッチフレーズで一 世を風靡した3代目クラウン。フレーム は先代のX型からペリメーターフレーム へと刷新され居住空間が大幅に改善さ れたほか、ディスクブレーキやパワース テアリングなども設定された。カタログ のモデルはスーパーデラックス(MS50 -F型) 。ツインキャブレター仕様のM- D型(直列6気筒SOHC)110psエンジン を搭載。オーナー向け「ハイライフ・セ ダン」として、オーナーデラックス(MS50 -B型) も用意された。 1969年(昭和44年)8月にマイナーチェンジが実施され、フロント、リアの外観の変更や安全性の向上などが行なわれた。写 真のスーパーデラックスでは三角窓が廃止され広い視界を確保。「SUPER DELUXE」のエンブレムが、ボディサイドにプラス してボンネット左端にも装着される。 インパネデザインもがらりと変わり大径丸型3連メーターを配置、先進的な 横開き式バックドアとなったクラウン・カスタム (MS52型) 。乗車定員は8 デザインになった。2次衝突対策としてインパネがソフトな素材で覆われて 名でサードシートは横向きで2名乗車となる。シングルキャブ仕様のM型 いる。内装は“あなたの「第2の住まい」 としてつくられた室内です”と謳われ、 105psエンジンを搭載し、3段コラムマニュアル、2段/3段トヨグライドか ハードトップモデルも同時にマイナーチェンジを受け、ハードトップ・スーパーデラックス(MS51-WF型)が新設された。ツ トヨグライド3段フロアの登場などで、スポーティ志向のセパレートシート ら選択できた。全長4690mm×全幅1690mm×全高1465mm。 インキャブレター仕様のM-D型110psエンジンに4段マニュアル、3段トヨグライド(ともにフロア)を設定。後に定員6名の仕 も多くのモデルで設定された。 様も追加され、より充実したワイドセレクションとなった。手前がハードトップSLで、奥がハードトップ・スーパーデラックス。 ■第1章■ ■ 目 次 ■ 【初代】 堅牢な足回りで好評を得る ■クルマ創りの DNA「技と知と誇り」を秘めたクラウン 小口泰平 / 3 ■「初代主査」中村健也のこだわりと英断 ■はじめに / 5 トヨタが「日本人の頭と腕」によって本格的純国産 が国における乗用車の開発を批判する談話であった。 乗用車の開発に着手したのは1952年 (昭和27年)1月 当時トヨタの常務取締役であった豊田英二は中村に である。開発車種はクラウン。初代クラウンの生みの 「主査」という特別な肩書きを用意し、クラウンの開 親となったのは中村健也である。中村は初代クラウン 発に必要な全権限を与え、1952年1月から開発をス の主査として開発を担当すると同時に、トヨタ初の「主 タートさせた。この頃他メーカーは自主開発よりも外 査」として主査制度の規範を作り、クルマの開発生産 国技術の輸入を優先し、外国メーカーと技術提携し 体制の基盤を築いた人物でもある。 「主査」 (新型車 て乗用車技術を取得する方法を選んでいたが、トヨタ 開発の設計責任者) は今日のチーフエンジニアに当た は当初から全て自主開発することを決め、純国産技 第 3 章 【 3 代目】 開発テーマは「高速長距離セダン」…………… 33 るものだが、初代クラウンにはこの中村健也を抜きに 術開発とその生産準備を進めていた。 第 4 章 【 4 代目】 時代を先取りした紡錘型空力ボディ …………… 39 は語れない数々のエピソードが隠されている。 1953年5月、トヨタ自工は正式に技術部に主査室 プロローグ 創業期、終戦、そして「クラウン」誕生へ …………… 9 第 1 章 【 初 代 】 堅牢な足回りで好評を得る …………… 19 第 2 章 【 2 代目】 全面刷新で高級車市場を制す …………… 27 第 5 章 【 5 代目】 53 年度排出ガス規制を見事にクリア …………… 45 現在のトヨタ自動車株式会社の前身であるトヨタ 自動車工業株式会社 (トヨタ自工)が設立されたのは 第 6 章 【 6 代目】 高性能エンジンと電子制御装置を積極的に展開 …………… 53 1937年8月だが、中村がトヨタ自工に入社したのは翌 第 7 章 【 7 代 目】 プレステージサルーンとしての基本性能と品質を追求 …………… 63 1938年9月で、当時は軍の要請もあってトラックの生 第 8 章 【 8 代目】 先進装備と熟成された基本性能で高級車市場に君臨 …………… 75 産が主であった。終戦直後はトラックの生産こそ再開 が許可されたものの乗用車の生産は禁止されていて、 第 9 章 【 9 代目】 伝統を継承しながら新世代へ飛躍 …………… 87 占領軍の禁止令が解除されたのは1949年10月であ 第10章 【 10代目】 新鮮な動的魅力で“新たなクラウンらしさ”を構築 …………… 97 る。ちょうどその頃を前後してトヨタは日本人による純 第11章 【 11代目】 新シリーズ「アスリート」を加えラインナップを拡大 …………… 109 国産乗用車の生産確立を目指して動き始めていた。 第12章 【 12代目】 クルマ造りの原点に立ち返り、高級車の新しい潮流を提示 …………… 127 は米国に依存すればいいではないか」というもので、わ 中村が1950年3月に車体工場次長になった翌4月、 トヨタ自動車販売株式会社 (トヨタ自販)が設立され 第13章 【 13代目】 ハイブリッドをクラウン・シリーズの頂点に設定 …………… 143 た。偶然にも時を同じくして日銀の一万田尚登総裁が 第14章 クラウン、マジェスタ開発者インタビュー …………… 167 国産車不要論を唱え物議を醸していた。国産車不要 本格的純国産乗用車の開発には技術研究部門の充実が必要とし、 1953年(昭和28年)1月にトヨタ・テクニカルセンターの建設を決定、 1954年10月に完成して技術部は同センターへ移った。写真はその 設計室。製図板とT定規の時代である。 論の主旨は「わが国で自動車工業を育成しようと努力 ■クラウンおよびトヨタ自動車関係、関連年表 / 178 することは無意味だ。いまは国際分業の時代。クルマは 米国で安くていいものができるのだから自動車の生産 ■ CROWN HISTORY / 186 ■クラウン国内販売台数 / 187 ■クラウンにおける主な初搭載装備 / 188 ■初期の輸出モデル/クラウンの主な受賞歴 / 189 ■おわりに / 190 初代クラウンの開発主査中村健也。 乗用車成功の可否は究極的にはボ ディの生産技術にあるとしてトヨタ 首脳陣は当時車体工場次長であっ た中村健也をクラウン担当主査に 抜擢した。この頃シャシーは挙母工 場で生産、ボディは外部で組み立 てていたが、RS型からはシャシー もボディも共に挙母工場で生産する ことになった。 自動車の総合研究施設として1954年(昭和29年)10月に完成したテ クニカルセンターには設計室、デザイン室、エンジン実験室、物 理試験室、化学試験室など最新の設備が揃っていた。 19 を発足させ、中村をその初代主査に任命したが、前 ないこと。 後してきわめて興味深いスタッフの動きがあった。ひと ③乗り心地が良く、運転性能の優れたクルマとする。 りは1946年6月にトヨタ自工に入社、初代カローラの ④タクシー用として格安なクルマとする。 主査として広く知られ、専務、技監を歴任した長谷川 ⑤丈夫で、悪路に十分耐えるクルマとする。 龍雄である。長谷川は1952年2月に中村のサポート ⑥最高速度は時速100キロとする。 役を命ぜられ主査付きになった。長谷川は1951年秋 そして、初代クラウンの開発において中村がこだわ に技術部ボディ設計課長と車体工場技術課長を兼務 っていた技術は次の5つであった。 していたが、中村のアシスタントを命ぜられ、1957年 ⑴前輪は独立懸架装置とする。 に主査(パブリカ開発) となって中村グループを離れる ⑵シャシーはフレーム付でスポット溶接にする。 までクラウンの開発に従事していたのである。 ⑶ドアは観音開きにする。 初代クラウンの前輪はダブルウィッシュボーン式コイルスプリングの 後輪懸架には3枚の板ばねを使用したリーフリジッド式を採用。リー もうひとりは3代目カローラの主査を務め、専務、 ⑷自動車用トランジスタラジオを開発する。 独立懸架。乗用車では日本初の採用である。左右の車輪がちょうど フ相互間の摩擦が少なく柔らかにたわみ、悪路に強く、しかも乗り 膝関節のように別々に屈伸運動を行なうのでニー・アクション式独 心地も良いという利点がある。これもわが国では初めて実用化に成 副社長を歴任した佐々木紫郎である。1949年に入社、 ⑸計器盤は一体ダイカストにする。 立懸架とも呼ばれた。 功した懸架方式である。 シャシー設計に配属されていた佐々木に初代クラウン 初代クラウン開発の責任者に任命されるまで中村は のサスペンション開発担当が命ぜられた。佐々木は当 車体工場の次長としてボディ造りに没頭していたから、 時の劣悪であった日本の道路事情とタクシー用途も考 スポット溶接によるフレーム付シャシーの開発には深 問題は4ドアに観音開きを採用することであった。こ 慮して、初代クラウンのリアサスペンションに3枚リー い見識があった。フロントの懸架装置にはウィッシュ の点について中村主査をサポートしていた長谷川龍雄 フスプリングを採用したリーフ・リジッド式を開発し、 ボーン式を採用し、乗り心地と操安性を両立させた。 (2008年5月、94歳にて逝去)は当時をこう振り返っ これを見事に成功させている。 当時の乗用車の需要は大半がタクシーであり、そのタ ていた。 『観音開きについては最後まで私と意見が合 ところで、中村は初代クラウンの設計方針として次 クシー業界は独立懸架に不信感を抱いていたから、 いませんでしたね。私は安全性に問題があるとして反 の基本的項目を掲げていた。 中村は念には念を入れ必要以上に頑丈な設計をし、 対したんです。もし半開きで走行すると後ろのドアが ①アメリカンスタイルとし、明るく軽快な感じを出す。 テストも十二分に行なったうえで生産工程に移したと 開きやすいわけです。ところが中村さんはリアシートへ ②ボディサイズは小型車規格一杯とし、貧弱に見え いう。 の出入り性をゆったりさせるためには観音開きにする 必要がある、の一点張りでした。結局、観音開きに 決まったわけですが、その後、観音開きのために事故 を起こしたという話は聞きませんでした』 (編集部取材 初代クラウンRS型には、当時の劣悪な道路情況を考慮して、悪路 走破性と居住性の両立を目指した頑丈な梯子型フレームが採用さ れていた。メインボディとフロントボディはボルトで直結、リアフェ ンダーは脱着式、ドアは観音開きの4枚ドア、防振ゴムを使ってフ レームとボディを結合するなどトヨタ独自の工夫が随所に見られた。 まとめ) 。 観音開きにしたもうひとつの理由は、タクシー会社 新開発R型エンジンを囲む初代クラ ウン開発の首脳陣。左から中村健 也主査、長谷川龍雄、藪田東三(い ずれも故人)。長谷川は当時技術部 ボディ設計課長、藪田は当時技術 部設計課長でエンジン関係を担当 した。 20 の要望に応えるためでもあった。繰り返しになるが、 また、フロントサスペンションに日本初の独立懸架 当時の乗用車の需要はタクシーが大半を占めていた ウィッシュボーン式を採用したものの、当時のタクシ から、まず耐久性が第一条件ではあったが、当時の ー業界が抱いている不安を無視することができず、従 タクシーは運転手の他に助手が乗っていて、客を乗 来から営業用に使用されていた懸架方式を採用したも せるとき助手がクルマから素早く降りてドアを開けてい うひとつの車種を設定したのである。それがトヨペット・ た。したがって助手がドアを開けるのには観音開きの マスターであった。 方が楽だという理由である。 トヨペット・マスターは1953年9月に発表されたトヨ もうひとつ考えられることは、中村はセンターピラー ペット・スーパー(RH型) のシャシーをベースに改良 にドアの荷重を持たせたくなかったからではないか、 開発されたものだが、トヨペット・スーパーのもとを というものである。これは定かではないが、中村が頑 質せばタクシー業界で好評だったSF型乗用車であり、 固に観音開きを押し通した本当の理由はそれらの全て SF型はSB型トラックのシャシーを用いたSD型乗用車 かもしれないが、いずれにしてもこの観音開きが初代 の改良型であるから、つまりマスターのルーツはSB型 クラウンの最大の特色となったことは事実である。 トラックということになる。 21 ■第6章■ 【6 代目】 高性能エンジンと電子制御装置を積極的に展開 クラウンディーゼルは、1978年(昭 和53年)9月、シリーズにスーパー デラックスを追加。パワーウィンド ウなどの快適装備が充実しただけ でなく、ディーゼル乗用車としては 日本初となる、オーバードライブ付 4速ATフロアシフト車が選択可能に なった。価格(東京)は184.8万円 ■2800㏄エンジンを搭載、 全ての機能の熟成と向上を図る れまでの同型車と比較して30㎏も軽くなっている。さ らに空力特性の改善や搭載エンジンの変更および改 トヨタ自動車工業およびトヨタ自動車販売 (いずれ 良などによって燃費性能も優れたものとなっている。 も当時) は中型車クラウンシリーズを1974年 (昭和49 その一例が、従来の4M-EU型に代わりこの6代目か 年)10月以来4年11ヵ月ぶりにフルモデルチェンジし、 ら新搭載された5M-EU型で、その搭載車の燃費性 1979年9月より全国一斉に発売を開始した。 これでクラ 能はそれまでの8.2km/ℓから8.6km/ℓへと向上し ウンは第6代目 (主査は進藤和彦) を迎えたことになる。 ている。 え、トヨタはクラウンシリーズにディーゼルエンジンを が、これはより高級なディーゼル乗用車への需要に対 クラウンは1955年にわが国初の本格的乗用車とし 6代目クラウン (MS110系) はそれまでの4M-EU型 搭載した4ドアセダン3車型 (LS100型) を追加設定し 応するもので、パワーステアリング、パワーウィンドウ、 てデビューしてから、常に国産乗用車をリードすると 2600㏄エンジンに代わり新しく開発した5M-EU型 て1977年10月より発売した。搭載されたパワーユニ AM/FMマルチサーチ式ラジオ、水晶3針式時計な 共に、トヨタを代表する高級乗用車として高い評価を 直列6気筒SOHC2800㏄エンジンを採用した。4M- ットは最新の技術を取り入れて新開発した小型で軽 ど標準装備の内容は豊富であった。また、OD付4速 得てきたが、この6代目の開発に当たっては、その歴 EU型をベースに内径を80㎜から83㎜へ拡大し、総 量かつ高性能のL型2200㏄ディーゼルエンジンで、 AT搭載のディーゼル乗用車は当時としてはわが国初 史と来るべき1980年代を踏まえ、先進的な設計思想 排気量を2563㏄から2759㏄へ増量したものである。 国産ディーゼル乗用車では初めてオーバーヘッドカム めての設定で、運転操作性の向上を狙ったものであ のもとに開発の基本テーマを「新しい時代を開く伝統 その結果、最高出力は140ps/5400rpmから145ps シャフト機構を採用したほか、ボッシュ式分配型燃料 る。このATはクラウンのスーパーサルーン以上に装備 の最高級車」とし、省資源・省エネルギーをはじめ安 /5000rpmへ、最大トルクは21.5kgm/3600rpm 噴射ポンプ等により高出力を確保している。 しているA40D型をベースに開発されたディーゼル車 全性と快適性の充実など新時代の要請に応えるため から23.5kgm/4000rpmへと性能アップした。また L型のスペックは4気筒直列SOHCで総排気量は 専用のOD付4速AT(A42D型) である。ちなみにクラ 次の3点を重視したという。 M系エンジンにも細部の改良を施し、デュアルエキゾ 2188㏄、圧縮比21.5、最高出力72ps/4200rpm、 ウンディーゼル・スーパーデラックスOD付4速AT車 ⑴ゆとりと信頼をもたらす高品質なクルマづくり。 ーストの採用やマフラー容量増大による背圧低減など 最大トルク14.5kgm/2000rpm、変速機は4速マニ の価格(東京) は184.8万円であった。 ⑵静かなくつろぎの居住空間の確保。 で動力性能全体を向上させ、より高級車にふさわしい ュアルのコラムシフトで、燃費は60㎞/h定地走行 (運 石油ショックで不況のどん底にあった1974年の国 ⑶省資源・省エネルギー時代への対応。 優れた走りを実現している。 輸省届出値) で19.5㎞/ℓをマークした。ちなみに価格 内自動車販売は385万台であったが、1975年には 1979年といえば先進国首脳会議 (東京サミット) 431万台と約12%増となり、乗用車の販売は急速な が開催されたとしであり、わが国の運転免許保有者 LS100型は、その後1978年9月にスーパーデラッ 回復を見せ始めた。しかし1977年に入っても国内 が4000万人を突破したとしである。また、1973年に クス5段マニュアル・フロアシフト車と、同じくオーバ の自動車市場は回復の足取りも重くほぼ前年並みの 次ぐ第2次石油ショック (1979年春)に襲われたもの ードライブ付4速ATフロアシフト車の2車型を追加した 420万台にとどまっていた。こうした国内市場の低調 の、わが国の経済は漸次立直りつつあった頃である。 を補い自動車産業を支えたのが活発な輸出動向であ 1973年のオイルショックのあとは、たとえば1974年 った。 のクラウンの販売台数は前年比30%以上も落ち込ん そんななかで1977年11月トヨタ自工は創立40周年 でいたが、翌1975年からは再び持ちなおし月販目標 を迎え、翌1978年5月にはクラウンが昭和30年1月に 8000台前後をほぼ維持していた。 デビュー以来国内の登録台数が累計で150万台を突 しかし社会情勢は確実に省資源・省エネに向かっ 破するという嬉しいニュースがあった。 ていることは明らかであった。開発時に重視した「省 (東京) はデラックスで158.5万円であった。 L型ディーゼルエンジンは、 当時では国産ディーゼル初と なるOHC機構を採用。また、 カムシャフトや燃料ポンプの 駆動は精度の高い歯付きベル トにより行なわれ、ベルト交 換時期は走行距離10万km。 また、ボア90.0mm×ストロー ク86.0mmのオーバースクエ アで、 高 回 転 域で の ハイパ ワーを生み出した。 52 ちなみに6代目クラウンにフルモデルチェンジする3 資源・省エネルギー時代への対応」は6代目クラウン としては当然のテーマではあった。ボディ構造を含む 各部の合理的な設計により車両重量が軽減されてい るのはその証拠である。たとえばM-U型エンジン搭 載のセダン・スーパーデラックス (3速AT) の場合、そ 4M-EU型を排気量アップした新開発5M-EU型エンジン。4ドア/ 2ドアハードトップ/セダンのロイヤルサルーン等の上級車に搭載。 最高出力145ps/5000rpm、 最大トルク23.5kgm/4000rpm。 変 速機はオーバードライブ付4速ATで、10モード燃費は8.6㎞/ℓ。 53 ヵ月前の1979年6月に、ライバルである日産のセドリ るうえ、奇をてらった部分がないので非常に端正で重 ック/グロリアがやはり4年ぶりに全面刷新され、こ 厚、かつ安定感が感じられる。当時のキャッチフレー のとき直列6気筒SOHC2800㏄エンジンが新たに搭 ズが「日本の薫り。」であったというから、このクラスを 載された。L28E型エンジンで、最高出力は145ps/ 求める顧客のほとんどはこのような佇まいを求めていた 5200rpm、 最 大トルクは23.0kgm/4000rpmと、 のかもしれない。1979年と1980年の2年間のクラウ ほとんどクラウンと同じ性能であった。クラウンとセド ン販売台数が平均12万台/年を上回り好調だったの /グロ連合軍が高級車市場で激しいバトルを展開して は、やはりこの風格あるデザインが効を奏したのでは いたという、いまとなっては懐かしい時代ではある。 ないだろうか。 6代目クラウンの車種体系は、ボディがセダン、4ド セダンは角型4灯式のヘッドランプを、ハードトップ アハードトップ、2ドアハードトップ、そしてワゴン・ 系はボディと面一化した角型2灯式ヘッドランプを採用 バンの5タイプ、エンジンは5M-EU型2800、M- しているが、当時はこのような角型ランプが流行で、 EU 型 2000、M - U 型 2000、M - J 型 2000、L 型 ライバルのセドリック/グロリアもほぼ同様なデザイン 2200、5R-U型2000の6タイプ、これにマニュアル を採用していた。クラウン4ドアハードトップはラップラ 変速機4タイプ、オートマチック変速機4タイプ、さら ウンドのリアウインドウが外観上の大きな特徴であり、 にグレードを組み合わせると計70車型と充実したもの 2ドアハードトップはツートンカラーとランドゥトップを になった。 オプション設定しているのが目新しかった。 M-J型はバンに搭載されるガソリンエンジン、5R 先代同様ペリメーターフレームを踏襲しホイールベ -U型は営業車 (タクシー) に搭載される4気筒LPG仕 ースも同寸の2690㎜、懸架方式は前輪ダブルウィッ 様のエンジン、L型はセダンと4ドアハードトップとワゴ シュボーン/後輪4リンクコイルのリジッドと、シャシ ン、バンに搭載されるディーゼルエンジンである。ち ーは基本的に5代目と変化はない。インストルメントパ なみに5代目まではクラウン・カスタムと呼称していた ネルは上縁をできるだけ低く抑えて広く明るい前方視 車種は6代目からクラウン・ワゴンと改名されている。 界を確保している。セダン/ワゴン/バン系のメータ いずれにしてもステーションワゴンに変わりはない。 ーは角型、ハードトップ系はタコメーター付の丸型(た さて、6代目クラウンのスタイルだが、どこから見て だしディーゼル車は角型) にしてスポーティさを出して も先代以上に角張った直線基調が印象的である。お いる。また、スーパーサルーン以上のフロアシフト車 そらく歴代クラウンのなかで最もボクシーでカチッとし にはチルトステアリングを新設、パーキングブレーキ たスタイリングかもしれない。空力特性を考慮した低 は足踏み式とステッキ式に加え、新たにセンターレバ いフードとベルトライン、ストレートなフェンダーレリ ー式を設定し、各部の操作性を向上させている。 ーフ (プレスライン) がボディをより低く幅広く見せてい 外形寸法は先代とほぼ同じに抑えながらも合理的 5代目までは「カスタム」と呼ばれて いたステーションワゴンは、6代目 からクラウン・ワゴンと改名された。 フルモデルチェンジ当初は2200㏄ L 型ディーゼルエンジン搭載のカスタ ムのみであったが、1980年(昭和55 年)1月にセダン系と共通のM-U型 搭載のガソリン仕様車も加わった。 写真は2000カスタム。3速ATで価格 は174.3万円。 54 ハードトップ系はボディと面一化し た角型2灯式ヘッドランプや大型リ アコンビネーションランプが特徴。 2ドアハードトップはツートーンカ ラーやランドゥトップをオプション設 定、スポーティなスタイリングを強 調している。写真上はM-EU型搭載 の2000EFIスーパーエディション。 下は5M-EU型搭載の2800EFIロイ ヤルサルーン。 ラップラウンド・リアウィンドウを もつ端正で優雅なスタイルの4ドア ハードトップ。ロイヤルサルーンと スーパーサルーンには5M-EU型エ ンジンが載る。写真は2800EFIロイ ヤルサルーン4速AT。当時で280.7 万円。 セダンのフロントグリルは角目4灯 式の端正なデザイン。セダンはク ラウンの上位車種に5M-EU型、そ の他M-EU型、M-U型、ディーゼ ルのL型とエンジンラインナップは 豊富。写真はM-U型110ps搭載の 2000デラックス。当時で155.4万円。 55