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ニコライ一世時代の教育政策 - 横浜国立大学教育人間科学部紀要

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ニコライ一世時代の教育政策 - 横浜国立大学教育人間科学部紀要
ニコライー世時代の教育政策
-教育の一元化と貴族の官僚化佐々木弘明*
Educational
-
The
Policy
unification
ln
the Reign
of educational
families
noble
Hiroaki
Emperor
Nikolai
I
the trainlng・
system
and
for the
bureacratic
-
service
SASAKI
1825年12月若手貴族将校団による革命的企て,いわゆるデカプリストの乱,と同時に
即位したニコライー世(在位1825-1855)は,その鎮圧後デカプリストたち反乱者に予想
以上の苛酷な判決を下し,
設置し,
1826年には「検閲令+を発布し,また皇室直属官房第三部を
1830年にはポーランドの革命運動の勃発とその鎮圧そしてポーランドのロシア
併合,さらに1848年のヨーロッパ各地の革命運動に対する鎮圧の協力や出兵,いわゆる
<ヨーロッパの憲兵>としての役割を担い,国内では検閲の一段の強化と言論と出版に対
する厳しい監視体制を強化し,
「革命予防のための警察国家体制+(1)を作り上げ,
1853年
にトルコをめぐってイギリスをはじめ西欧諸国との戦争(クリミヤ戦争)に突入し,農奴
制の専制ロシア国家の後進性を暴露し惨めな敗北を喫し,失意のうちに死亡した(毒を仰
いだとの噂まであった)。このようにニコライー世の30年にわたる治世は,リベラルへの
期待を抱かせた兄アレクサンドルー世(在位1801-1825)の時代と比べれば,また1861年
の農奴解放を実施し新しいロシアへの出発を導いた子息アレクサンドルニ世(在位18551881)と比べれば,暗く重苦しい反動と抑圧の時代であった。これがニコライー世に対し
てなされてきた評価である。
こうした評価は,デカブリストたちに対する厳罰,とりわけカ・ルイレ-エフ,ペ・ペ
ステリら5人の首謀者に対する死刑執行が,彼らを圧政に苦しむロシア国民の解放と福祉
に不屈の精神と正義をもってその身を犠牲的に革命運動に捧げた殉教者として賛美させる
こととなり,いわゆる「デカプリスト伝説+をいくつも作り出してきたことによる。ア・
ゲルツェンは,
14歳の時に「死刑にされた人々のために復讐すること+を誓い(2),革命運
動にその身を投じ, 「我々がデカブリストから受け継いだ財産は人間の尊厳に対する覚醒,
独立のための努力,奴隷制への憎悪,西欧及びフランス革命への尊敬,ロシアにおける変
*教育学教室(°ept.
of
Education)
佐々木弘明
・54
革可能性の信念,それに参加する情熱的欲求,我々のエネルギーの若さとみずみずしさで
あった+と,
30年後にも変わらぬ革命への信念を書いた。(3)レーニンは「まずはじめは,
貴族と地主,デカブリストたちとゲルツェンであった。これら革命的民主主義者たちのサー
クルは狭小なものであった。彼らはおそろしく民衆から遠ざかっていた。それでも彼らの
事業は無駄に終わったのではなかった。デカブリストたちはゲルツェンを目覚めさせた。
ゲルツェンは革命的宣伝を展開した。そしてチェルヌィシェフスキーに始まり<人民の意
志派>の英雄たちに終わる革命的民主主義者たちとしての雑階級人たちが,ゲルツェンの
宣伝を引き継いだのである+(4),とデカプリストのロシアの革命の歴史における役割を増
幅的に書いた。一方,デカブリストの乱の100年後にエム・アルダーノフは「革命の歴史
的価値は3つの条件に依存している。すなわち,革命が破壊するもの,革命が創造するも
のに,及び革命が後世に残す伝説に。
--デカプリストは何も破壊せず創造もしなかった。
デカブリストの業績の価値はまったく彼らの伝説にある。しかしこれで十分である+(6)と,
デカプリストを革命家としてではなく革命運動に伝説を残したことに意義を認めた。
いずれにしてもその後のロシアの革命運動の歴史の中でデカプリストの乱が価値づけら
れ偶像化され,それが増幅された分だけニコライー世の憎むべきその弾圧者としてのイメー
ジが強められていった。こうしたニコライー世に対する偏見を取り除き,彼のすぐれた人
格と皇帝としての公正と国民への愛と福祉への限りない努力を認め,ニコライー世に客観
的な正しい評価をしなければならないとした著作にエム・ザレフスキーの『皇帝ニコライ・
(1978年)がある。
バグローゲィチと彼の時代』
この中で,彼は,デカブリストの乱に対する処罰は皇帝によってきわめて寛大に行われ,
厳罰に処せられたものたちは,
「疲らの大部分が将校であり,そしてそれ故に彼らが,軍
人としての本分にもとり,軍人としての誓いを破りそして将校としての名誉を傷つけた軍
人とみなされたが故+にであり(7),それは公正なる裁きであったとする。彼は,ある将官の
未亡人が,ニコライ皇帝にたいして「外国人にロシアの力を知らしめたことにたいする敬意
に,内部において国家を支え保ったこと,つまりロシア国民の精神をよく知っていること
及びロシア人すべてを愛したことに,最後に陛下によってわが夫並びに家族に示されたあ
らゆる善意と親切に,心から崇拝する人々の列に加わるものである。商人階層は彼を高く
評価し,一方平民と兵士は彼を崇拝したのであった!+(8)とする回想を引用し,ソヴュー
ト時代に『イズヴュスチャ』誌で「非情なる暴君,すべての生きているものや先進的なも
のの圧殺者+(9)とニコライー世を決めっけたことは故意にニコライー世を革命運動の弾圧
者とするために作り出されたものであ考とする。
「余はわが祖国における第一の市民+(10)で
あるとするニコライー世は,兄アレクサンドルー世が理念的にロシアを捉え机上で空想的
な政策プランを立て「ロシア及びロシア人に対し軽視的な態度をとり+(ll)それらを知ろう
としなかったのにたいし,
「自分の国民をよく知りそして愛し+
「すべてのものを現実的な
目で見た+(12)のであるとする。これはニコライー世のもっ高い資質と人格の現れにほかな
らず,彼は,家族への限りない愛情と優しさ,質素で節度ある生活,臣下への仁慈,誠意
と同情と寛大の心を特性とし,その「本質となっているのが,公平さ(スプラヴェドリー
ヴォスチ)+(13)であったとする。
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ニコライー世時代の教育政策
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ニコライー世は, 「余は,余の息子を皇帝にするより前に,彼の中に人間たること(チェ
ロベーク)を青くみたいと望んでいる+(14)と述べているが,皇太子(後のアレクサンドル
ニ世)の教育はこの皇帝の意向のもとに詩人ヴェ・ジュコ-フスキー(178311852)に託
1815年に宮廷に招かれて皇太后マリヤ・フヨー
された。ジェコーフスキーは浪漫派詩人で,
ドログナの侍講として仕えていたことから,ニコライー世の信任を得,即位後まもなく皇
太子(当時8歳)の侍育官となった。彼は,任命に際して,
1826年に『教育プラン』を
皇帝に提出した。それは,
<準備
3つの時期,つまり第一期一少年時代(8-13歳)
<詳細な教育>,第三期一青年時代(18
の教育>,第二期一昔春時代(13-18歳)
-20歳) <応用の教育>,に分け,各時期の教育の目的,内容そして方法が詳しく具体
的に記されており,教育内容は多岐にわたり,宗教,ロシア語,フランス語,ドイツ語,
英語,ラテン語,歴史,地理,自然法哲学,政治学,物理,科学,天文,数学,幾何,文
学,詩歌,軍事学,体育,手作業,技工,絵画,音楽,と教養主義的であるが,その教育
方法は, 「容易なものから困難なものへ,明瞭なものから不明瞭なものへ+漸進的に進み,
「生徒自身の活動を刺激すること+
械的に暗記させないこと+
「できるだけ自分自身で見つけ出し,わからないまま機
「知識欲・好奇心を引き起こし,注意力を促し,想像力を培い,
心に語りかけ,一つまり,できるだけ人間のすべての部分に働きかけて,教育の対象
そして教育そのものを魅力あるものとなすこと+であるとし,表や絵やカードを用い,直
観や体験を重要な手段として積極的に取り入れている。彼はペスタロッチの教育に通じて
いた。彼は教育は「知性の教育+と「心の教育+の二つがあり,これらの目的は「徳(ドブロ
「善良さ+ 「道徳性+ 「悪の予防+ 「悪への駆りたてと悪癖の根絶+
ジェチェリ)+の形成にあるとした。(15)このプランの提出の際ニコライー世に,
「法を敬え。そして自ら範を
たれて,法を敬うことを教えよ---啓蒙を愛しそれを広めよ--世論を尊重せよ-そ
れはしばしば君主を啓蒙するものとなる--自由を,すなわち,公正を愛せよ。なぜなら,
その中に皇帝の仁慈と国民の自由が存しているからである。自由と秩序は同一のもので
ある。自由に対する皇帝の愛は,臣民の中に服従に対する愛を強める。力ではなく,秩序
をもって支配せよ--言葉を守れ一信頼なくして尊敬はなく,尊敬されないものは
無力である+
「国民を尊重せよ,そうすれば国民は尊重に値するものとなる。国民を愛せ
よ一国民に対する皇帝の愛情なしに,皇帝に対する国民の愛はない+(16)とあるべき皇帝
の姿を皇太子に説くつもりであることを書き添えた。彼はアレクサンドルー世の賛美着で
あり,彼の皇帝像はリベラリストとして歓迎されたその治世初期の理想化されたアレクサ
ンドルー世と重なり合っていたと言える。また皇太子アレクサンドルにエム・スベランス
キー(1772-1839)が進講し(1835年10月から1837年4月まで),その中で次のように
説いたと言われる。 「人間存在の基本的な統一要素は愛に基づくところの社会的統合力で
ある。そして生命はこのだれかにたいする愛,取るよりも与えるをよしとする愛がなくて
は完全なものではない--それ故,自由は愛,すなわち各人がそれぞれの資質を独自の
人格として互いに与え合う認知の表現なのである。
--社会の機能は個人的・私的利益の
限界を広げることにあるのではない。逆にその機能は,真の道徳法の行使や良心の満足と
いうことが存分に行なわれるよう,利益の追求を制限することである。
--家族は社会生
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佐々木弘明
活の規定にあり,我々の知るあらゆる政治形態はすべてこれから発展したものである。そ
れらは家族が拡大したものか,あるいは数戸の家族単位が連合したものである。発展の過程
は緩慢であって,その中で道徳法は時と場所によって種々さまざまな形態をとった。
--主
権は,社会生活の道徳法が十全に作動すべき(歴史的に決定された)このような諸条件を
保証する手段である。この点からみて,それは個人の良心の力と通じるものがある。この
ような機能は分割されない単一の主権,すなわち純粋の君主制と純粋の民主制によってこ
そもっともよく果たされる。混合君主制や混合民主制(すなわち共和制)は問題を解決し
えない。なぜならそのような制度のもとでは,主権は数個の集団の間で分有され,利己的
利益追求の具となる危険があるからである。絶対民主制はどうかといえば--主権は完全
に人民の掌握するところとなる。これは実際的というより理論的な形態である。
I--純粋
君主制はもっとも実際的な問題の解決であり,言うまでもなく,それは絶対君主主義を意
味する。 ・--統治と法とは国民が精神的自己実現をめざして努力するのを指導するのが役
目である。それらの機能は各個人の多様な良心を社会の枠内で調和させ,妥協させること
にある。その目的とするところは道徳的善である。それ故,純粋君主制の存在するところ
では,混合形態へ変化すべきいかなる道理も,物質的利益も存在しない。
--独裁者とし
て人格化された主権はまた,社会集団相互間の<発展の時期>のずれを平準化するため教
育・開化の活動に率先して当たらねばならぬ。立法の目的は,存在(社会の文化)の保存,
あらゆる力の真理への指導,善への意志の指導,及び人間存在の改善にある。
-・・・いかな
る権力も,もちろん独裁者の権力も例外でなく,それが正義に基づくかぎり正しい。正義
が歩みを止め,不正が姿を現す時,主権は変わって圧制となる。+(17)。彼は「倫理的・精神
的自由と人格の連結の保持一人々をこの目標に達せしめる手段としてのツァーリによ
る法秩序の整備・完成+(18)を説いた。
さて,ジェコーフ不キーとスベランスキーを長々と引用してしまったが,彼らはアレク
サンドルー世時代のいわゆるリベラル派と称された人々に属していたのであり,その彼ら
にニコライー世が皇太子の教育を委ねたことは,ニコライー世自身彼らと基本的に同じ思
想に立っていたことを意味しよう。ザレフスキ,-のようにニコライー世をすぐれた君主で
あったと称賛するのは必ずしも当をえたものではないが,また「暴君+とか「圧政者+と
して決めっけることも誤りであろう。彼はアレクサンドルー世の兄弟であり,基本的には
君主として同じ教育を受けてきたのであり,同じように強さと弱さを同居させていたので
あり,時代性によってそれらの強弱が明白に現われたにすぎないとみるのが妥当であろう。
ロシアの皇帝にとって長年の最大の懸案は,皇帝の絶対主義権力の下での官僚制国家の
樹立であった。その試みはピョ-トル大帝によって試みられたが貴族階層の抵抗により実
現されず,その後貴族は政府内部でイニシアチブを握り彼らの特権と利益を守ろうとして
きた。この皇帝権力との並列を求める,いわゆる貴族主義を皇帝権力に脆かせ,彼らを官
僚と化そうとする試みは,エカテリーナニ世にもあり,
「専制とは,貴族の横暴+とみな
した(19)ァレクサンドルー世はその治世の前半改革者として「若き友人たち+そしてスベラ
ンスキーとともに本格的に試みた。農奴解放の問題はエカテリーナニ世時代から論議され,
人道的にもまた国家経済発展のためにも必要不可欠であるとする認識はすでにあったが,
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ニコライー世時代の教育政策
その最大の障害は貴族の同意がえられないことであり,したがって貴族の善意に期待し,
漸進的な解放を期待せざるをえなかった。結局アレクサンドルー世は貴族主義に敗れ,ス
ペランスキーは流刑に処せられ,彼自身改革を放棄してしまった。
デカプリストの乱は,貴族階層に対する皇帝の優越性,貴族の官僚化への道を開いたも
のでもあった。デカブリストの乱は皇帝に大きな衝撃を与えたが,それは貴族の家庭にお
1826年7月13日皇帝はデ
ける私的な教育の悪い結果によるという認識を彼に抱かせた。
カプリストに対する判決を言い渡した勅書の中で,
「教育(プロスヴュシチェーニェ)に
ではなく,肉体的諸力の無為よりもはるかに有害な知力の無為一堅固なる知識の欠落
にこれらの思考の身勝手さ,これらの半可通の有害の極み,夢想の極限までのこれらの昂
揚の原因を求めなければならない。それらがもとになっで性格の悪化となり,結局は破滅
となる。もし家庭の教育が性格を予め教育しその発達を助成しないならば,あらゆる努力,
政府の財政支出のすべてが無駄になってしまうだろう。+(20)と書いている。その少し前の
5月14日に,教育システムの根幹的改革のための特別委員会を設置したが,そのための
勅令の中でニコライは「ロシアの若者が国家への勤務のために形づくられるような教育施
設の設立に特別な注意をもって検討されたが,余はこれまでそれらには教育もまた学問も
その基となるような当然のかつ必要な一元化(オドノオブラーゾェ)が存在していないこ
とを遺憾に思っている+(21)と述べた。貴族の家庭教育への政府の介入と貴族の官吏として
の役割認識,つまり公僕としての公益への奉仕意識の強化を公的教育の目的とすること,
そのための教育システムの見直しと改革を求めた。家庭教育から大学教育に至るまでの目
的の一貫性,教育システムと内容そして教育行政の単純化,つまり「一元化+の確立がニ
コライ治世下の教育政策の最大の課題であった。したがって教育政策の関心は必然的に貴
族の子弟の教育,つまり貴族をいかにしてギムナジャや大学に集めるか,またそれらで卒
業まで教育を継続させるかが具体的な課題となる。貴族を学校に引き寄せることはピョトル以来の懸案でもあったが,貴族は,自分たちの思惑で,あるいは家庭でそれも外国人
家庭教師によって,あるいは外国の学校で,政府の呼び掛けを無視して子弟を教育した。
そのため学校を充たしてきたのは室困の貴族や下級官吏,そして非貴族階層であった。そ
れがまた中流や上流貴族の学校忌避の要因となった。ここに教育政策のジレンマがあった。
ニコライの教育改革はまさにこのジレンマの解決策を求めようとしたものであった。・官僚
貴族に支えられた皇帝権力による絶対主義国家の確立がロシア国家の安定と社会並びに経
済発展の基礎となるというのが歴代皇帝の認識でありまた願望であった。
ニコライ治世の30年間に国民教育相を4人が勤めた。ア・シシコープ(1754-1841在任
在任期間1828年
期間1824年5月15日11828年4月25日),カ・リーグェン公爵(1767-1844
在任期間1834年4月21
4月25日-1833年3月18日),エス・ウヴァ一口フ伯爵(1786-1855
Eト1849年10月20日),ペ・シリンスキーーシフマト-フ公爵(1796-1853
在任期間1850年1
月26E]-1853年3月5日),ア・ノロフ(1795-1869在任期間1854年4月11日-1853年3月23
日)である。
シシコーフは,アレクサンドルー世治世最後の国民教育相でそのままその職にあったが,
『新旧ロシア語文体についての考察』
典型的な保守派貴族で民族・愛国主義看で知られる。
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佐々木弘明
でカラムジンの新文体論を攻撃し, 「ロシア語愛好者の談話会+を組織し,教会スラグ語
を基にしたロシア語を擁護し,ロシア語・文学者としても特定の位置を占めているが,彼
の反ヨ-ロッパ主義もロシア語・文学観と密接に結びついていた。
1815年からその死に
至るまでロシア・アカデミー総裁を兼任した。
リーグェンは,熱心なキリスト教信仰者でアレクサンドルー世時代のリベラルな思想の
持ち主であって大学で哲学の講義を完全に停止するというオ・マダニツキーの提案や一連
の教師や学生に対する抑圧的政策に反対の立場を取り続けた。デルプト学校管区監督官か
ら大臣となり, 「キリストに心からの信仰-これこそがすべての基礎である。それに科
学の建物が基づくならば,裂目をもたらすことなく,また崩壊することもないだろう。そ
の時にそこで生きているものには危険がなく,快適で安全でかつ利益をもたらすものとな
るであろう+(22)というのが就任直後の彼の見解であった。しかし大臣の職務の重圧に苦悩
しまた健康を損ね辞任した。
ウヴァ一口フは,アレクサンドル時代にペテルブルク学校管区監督官として古典語教育に
よるギムナジャの改革,ペテルプルク中央教育大学の大学改組などに功績があったが,煤
守派貴族と対立して大蔵省官僚に転出した。すぐれた古典語・文学の研究者として外国で
も高い評価を受けゲッチンゲン王立科学協会などの正会員でもあり,
1818年に帝国科学
アカデミーの総裁となりその地位を生涯勤め,リーヴェンの辞任と同時に実質的に省を任
され翌年大臣となり,皇帝の厚い信頼を受けて16年間の長きに渡ってその職にあったが,
1848年のヨーロッパ各地での革命運動勃発の後反動化へと転じていった皇帝との衝突で
辞任を余儀なくされた。
シリンスキ--シフマトーフは1841年からウヴァーロフの次官を勤めていた。人物は温厚
実直であるが熟L、な正教徒で愛国主義者であってシシコ-フの信任を得てその大臣時代に
国民教育省の官房長に引き抜かれ,彼もシシコーフを心服しており,
1848年以後宗教・
道徳に傾斜していったニコライー世の信頼も厚く,皇帝の意向を忠実に実行したが,病気
で急逝し,皇帝はその死に顔したという。
ノロフはシリンスキーーシフマトーフの大臣就任と共に次官となり,その死後大臣に就
任した。人道主義的で教養も高いことで知られていたが性格的には弱く,ニコライの反動
化に抵抗できなかった。アレクサンドルニ世の即位後もそ.の地位に留まり,検閲の改革や
教育の改革を試みたが成功しなかった。
ニコライー世時代の教育改革は,シシコープとリ-ヴェンの新しい教育法令の作成の準
備と1828年の「中等及びf級学校法+の発布など-一部法令化がなされ,ウヴァ一口フの
時代にそれらの本格的実施とそれらの一部改正と1835年の「一般大学令+によって一応
目的が達せられ,
1848年に至るまでに教育の行政及び組織の整備充実が図られ,
一元化+の完成に向っての成果が見られたが,
「教育の
1848年以後に警察国家と化していった体
制下でこれらの試みは覆されていく。
dシア教育史においてシシコ-フは「科学は--塩のように適度に利用され教授される
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ニコライー世時代の教育政策
時にのみ有益となる+と農民などの教育の制限を露骨に表現したことで,またウプアーロフ
は「ギリシャ正教,専制主義,民族性+を教育の基礎とすることを宣言したことで反動家
の格印を押されてきたが,それぞれの信念から国内の安定化を意図したものであったoこの
二人は,シシコープが厳格なギリシャ正教徒の上熱烈な愛国主義者で反ヨ-ロッパ主義に
かたくななまでに凝り固まった頑固な老人であったのにたいして,ウヴァ一口フはむしろ
リベラルな思想をもつ古典教養主義者で貴族の教育と教養を高めることで国内の安定化を
求めた官僚的タイ7:,という違いがあった.ニコライー世はウヴァーロフに厚い信頼を置い
たが,シシコーフを即位してそのまま大臣に留任させたのは彼の実直さとひたむきな愛国
主義であった。
ァレクサンドルー世は,スベランスキーの失脚後シシコーフを身近に置きやがて大臣に
したのも,彼を「国民大衆に熱烈な言葉たよって影響を与えうる巧みな作家一愛国者+(23)
と認めたからにはかならない。
シシコ-フの教育観の根幹にあるのは「民族精神(ナツイオナ-ルヌィイドゥーシ)+の
「学校を堕落させ,風紀素乱+
滴養であり,その欠如がロシアの教育の最大の欠陥であり,
を招き,ロシア文化のすべてを誤った方向に導いているという認識からゴリツイン公爵時
代の教育政策に危機的感を強めていった。(24)彼は特に貴族階層のフランスかぶれ的風潮に
「彼ら〔フランス
強く反発し,フランス人家庭教師のもたらす弊害を次のように述べた。
人家庭教師〕は我々に全てを教える。服の着方,歩き方,立ち方,歌い方,話し方,お辞
儀の仕方,果ては鼻のかみ方からすすり方まで。我々は,彼らの言葉を知らないというこ
とを無知であり,愚かであるとみなす。互いの手紙もフランス語で書く。貴族の娘たちは
ロシアの歌を歌うことを恥じる。フランス人なら誰でもいい,生まれ,身分,階級は問わ
ぬ,高給に加えて,大きな敬意と信頼を添える条件で,子供たちの教育を引き受けてくれ
るものは誰かいないか,と我々は呼び掛けた。
--自分たちがすることには何でも驚くよ
うに我々に教えた。すなわち,我々の先祖の敬度な風習を軽視し,祖先の意見や業績の全
てを噺笑することを教えたのである。一言で言えば,彼らは我々を馬車に繋ぎ,自分たち
は馬車の上にふんぞり返って座り,我々を御しているのであり,一方我々は得意になって
馬車を引っ張っているのである。しかも,進んで馬車を引っ張るのを名誉と思わぬ者は・
わが国では噸芙されるのである!+(25)と。このようなフランス人家庭教師のみならずフラ
ンス革命後そこからもたらされた思想的悪影響から占シア人を守ることそしてロシア人の
誇りと民族的精神を深めることそして各身分に相応しい教育を施すことを教育相としての
「何よりもまず人間が
基本的考えとした。彼は教育省としての課題を次のように述べた。
青年時代に老人となるかを考え,そして彼を年老いて青年とするような危険な過った意見
に人間を引き込むような,似非賢者の空理空論,風のようなはかない夢想,この上ない倣
慢さと有害なる自尊心+による伝染病から若者を護らなければならずそして「知性を鋭敏
にする科学は,信仰がなければまた道徳性がなければ国民の平穏を作り出すことはできな
い。
・--さらにまた科学は,人々の身分そして地位が人々のうちに有している必要に応じ
て,塩のように,適度に利用されそして教授される時にのみ有益なものとなる。それらの
過剰は,不足と同じ程度に,真の教育に反するものとなるのである。全ての国民にあるい
60
佐々木弘明
はその数に不相応な量の人々に読み書きを教授することば,有益となるよりも,より多く
の害をもたらすことになるだろう。農民の息子を修辞学で導くことを彼を誤ったそして無
益なあるいはさらに有害な市民に準備教育することにさえなるであろう+と(26)0
シシコーフは大臣に就任後,中央学校局に対して「悪いあるいは不必要な命令のうちで
科学の教授に忍びこんでいるものを阻止し,根絶し,そして信仰の純粋さ,皇帝と祖国へ
の忠誠と義務を,社会生活の安寧,利益と満足を基礎づける原理に向けるような恒常的な
規定を引き出すこと+が必要であるとして(27),
「教育施設の状態の調査と一般法令作成の
ための委員会+ (委員は三等文官エム・ムラヴィーヨフ-アポストール伯爵,四等文官エム・
マダニツキーとカザタ-エフ)と「大学,学校とパンシオンの検閲の組織ならびに視学に
たいする教示の作成のための委員会+ (委員は少将カルポルニイエル,海軍大佐リコルドと
海軍大尉シリンスキーーシフマトーフ公爵)を設置した。シシコ-フは新しい教育システ
ムは8つの原理に基づかなければならないとした。
「1)わが帝国における国民教育は,
信仰の多様さ,いわんや言語の多様さにもかかわらずロシア語でなければならない.
2)ギ
リシャ正教徒,ローマカトリック教徒そしてルーテル派教徒,その第一のものは堅固かっ
揺るぎなきギリシャ正教であり,第二第三のものは自身の宗派の定められた信奉の完全な
る正確さにおいて,教育されなければならない。
3)あらゆる異教徒とのロシアに在住の
若者はわれわれの言語を学びそしてそれを知りつくさなければならない。 4)全ての科学は,
それらに関係しない有害なあらゆる思索が除かれ,精錬されなければならない。
5)教科
目の余分な量や多様さは分別をもって制限され,第一に異なった教育施設のシステムによっ
て決定されている知識に,第二に生徒たちが予定されている身分や階級に相応して,集中
されなければならない。
6)スラグ語,すな■ゎち気高き古典のロシア文学・語学があまね
く導入され奨励されなければならない。 7)ギリシャ語は,異教徒の学校を除いて,どこ
でもラテン語に対する優越性を有しなければならない。
8)ひとっ知識の教授が教育であ
るのではなく,キリスト教徒にとって,教会抜きでは何処にも見いだすことが出来ない,道
徳性の感化がなければ有害とさえなるということを見失ってはならない+(光)。こうして「教育
施設の状態の調査と一般法令作成のための委員会+は1825年1月に活動を開始し,翌年
5月まで16回の会議を重ね資料の収集や法令案の作成の活動を続けたが,ニコライー世
は5月14日に新しく「学校設立委員会+を設置したため,その活動を停止し,また検閲に
関する委員会もほとんど成果をあげないままに活動を中断した。
学校設立委員会は,帝国内の教区学校から大学に至る迄の全ての教育施設に関わる法令
を対照することを任務として設置され,ニコライー世の教育政策を方向づけるものであっ
たo委員会は,シシコープを議長の下に9人,つまり陸軍大尉カ・リーザェン公爵,三等
文官エム・スペランスキー,ラムベルト伯爵,三等文官エス・ウヴァ一口フ伯爵,海軍大
尉シヴェール伯爵,四等文官シュトールフ,ハリコフ学校管区監督官事務取扱ベトロー
プスキー,侍従武宮大佐ア・ペローフスキーそしてストロガーノフ公爵,から成った。こ
の顔ぶれは,明らかに皇帝の意向を反映し,中央学校局が保守派や貴族主義者から成って
いたのに比べると,貴族主義者からの攻勢で失脚したスペランスキーやアレクサンドルー
世の「若き友人たち+の一人で典型的なロシアのリベラリストのストロガ-ノフ,そして
61
ニコライー世時代の教育政策
マダニツキーと対立したウヴァ一口フなど,法の整備と絶対主義体制の確立を求めた広い
意味でのリベラルな思想の持ち主で実務者タイプが復帰し,シシコーフは委員会の書記官
にシリンスキーーシフマートフ公爵の就任を認めさせたが,彼の委員会での主導力は著しく
失墜した。保守派・貴族主義者たちは皇帝の側から遠ざけられはじめた。
委員会は,
6月2日にシシコ ̄-フの演説で始まり,彼は1804年の4つの『大学令』な
らびに『大学管下の学校令』以来の全ての学校令についての対照,そして最良の教師用指
導書の選択と教授課程の確立の2つを今後の議題の主要テーマとすることを提起し,ロシア
の教育施設の衰退の主要原因として,
1.国民教育の基本的目的-
の要求に相応しい教育+が見逃されてきたこと,
「異なった身分と階層
2.教育関係者の俸給額の制限,
育施設に対する全般的ならびに個別的な監督の欠陥,
3.教
4.若者を大学からそらしているリ
ツェイと貴族パンシオンの特権, 5.ギムナジャと下級学校における長すぎる教授期間(29),
を挙げた。彼は, 「ロシア人における民族的性格を抹殺するのではなく,それを向上させ
強化させること+(30)が新しい教育のシステムの重要な基礎とならなければならないと持論
を主張した。
6月の第2回の会議では,学校と行政機関との関係,つまり,監督官の権限,
大学の学長の選出権や教授の大学運営からの分離,等の問題が審議され,
7月の第3回で
12
中等及び下級学校の法令案の作成に着手することが当局に委託することが決められ,
月の第4回から法令実の審議に入った。しかし法令案と関係する種々な問題,例えば古典
語の教授について,貴族パンシオンについて,学校管区の県の再配分について,教科書の
作成について,等をめぐって紛糾し,会議は遅々として進まず,その状況に皇帝は不快の
意を表し1827年9月の第12回での会議に「余は,審議がより迅速に進められることをきっ
と求めるものである+(31)と書き送った。このため審議は急がれ,いくつかの個別な問題の
解決を除き,法令案の作成作業を1828年1月に終了し,
の全体集会で検討され,部分的修正を加えられ,
2月と3月に法令部局と国務院
4月のはじめに法令案が作成されたが,
この月にシシコーフは解任され,リーザェン伯爵が大臣に就任し,リーザェンの手で法令
案は再度国務院に提出され,最終的には12月8日に『中等及び下級学校令』として皇帝
の認可を得た。委員会の活動は新大学令の作成に移り,それと関連した学校管区の新たな
区分,いくつかの特権学校について,西方及び東方地域での学校について,等があわせて
審議された。
1828年の『中等及び下級学校令』 (以下「1828年法+)には,それに先立って決定され
たいくつかの個別規定,すなわち1824年のギムナジャから政治学の授業の排除と言語の
授業の強化について,
1826年のギムナジャに付設して貴族と官吏の子弟のためのパンシ
オンの設立についての勅令,
1827年の教育施設に解放身分及び農奴身分の者の入学許可
についての規定,またギムナジャに自由な身分の者だけの入学許可についての勅令,
1828年
のギムナジャと郡立学校に兵士の子弟の入学禁止についての規定,の意図も盛り込まれた。
中でも注目すべきなのが,ギムナジャの階級性・閉鎖性の明示をめぐって委員会での対
立があり,最終的に皇帝の決断によった「ギムナジャに自由な身分の者だけの入学の許可+
の規定であった。委員会で,ラムベルト伯爵は,
「さまざまな階級に所属している子供た
ちが一緒に教育されることば出来ない.道徳的本質の点からみて,これらの混合は許され
佐々木弘明
62
ないのである。知識に関してはそこでは異なることが必要である+と階級的・身分的仕切
りを明確にすることを求めたが,リーヴュン公爵はそれは不可能であることを次のように
論証して猛然と反対した。
「身分がお互いに厳格に分離され,ひとつの階級から他の階級
への移行,特に中流から貴族への立身が非常に困難であるような,そういうことがきわめ
て稀にしか起こらないような,これやあれやに貴族だけに長年にわたってかつこの上ない
貢献で委ねられている国家において-このような国家においてはこのような制度を定
めることば非常に容易であろうと言いうるだろう。しかし中流あるいは市民階級が存在し
ない,ただ一人商人階級だけがある程度それを装うており,全ての点に関して職工が農民
に等しくそしてほとんどいっも大部分が身をもち崩しており,裕福な農民はいっでも商人
となることが出来,しかもしばしばいずれでもあり,貴族階級の境界線が,一方の端で玉
座の足元まで触れ,もう一方の端でははとんど農民の中に消え失せてしまうはど果てしな
い広がりを有しており,毎年市民と農民階級の中から多くのものが,軍務で士官や文官職
で官位を受け取ることによって,貴族階級に仲間入りする,ロシアにおいて,
-ロシ
ア国家においてはこのような学校のシステムは困難である+,と(32)0
委員会はこれらの二人の意見を折衷した形で,学校の「優先的な指名である,しかし特
別指名でない+(33)ことを決定した。そして最終的には皇帝の「新しい教育施設設立につい
ての詔書+に従った。その中で皇帝は「何処においても教授の教科目ならびに教授の方法
そのものは,学ぶものたちの将来のあり得べき使命ができるだけ考え合わせられねばなら
ない。各人は,信仰,法ならびに道徳についての健全な,全てのものにとっての共通の認
識とともに,彼にとってもっとも必要な,彼の境遇の改善に役立ち得るそして自分の身分・
地位より低くない,知識を習得し,また事態の通常の成り行きによれば,彼が留まること
が運命づけられている位置より法外に高まることを志向しないようにすること+,そして
「大学及び他の教育施設に--またギムナジャ及び教科目の上でそれと同等の学校に・・・-解
ソス
放農奴(ヴォリノオトプーシチュンニキ)を除外することなく,自由身分(スヴァボードヌィエ
タヤーニヤ)の人々だけに入学が許可されること+ 「地主の農奴農民及び僕婦は・・--教区学
校と郡立学校で学ぶことを禁じられない+
「彼はまた--今あるまた今後設立される--
商業,園芸や農業技術や手工や工業--・一般的技能のための--特殊な施設にも入学が
許可される+(34)ことを要求した。このようにニコライ皇帝自身,教育の厳格な階層化の不
可能なことを認識しており,自分の意志で教育を受けられなかった農奴農民以外に実質的
に教育の機会を認めたことでもあり,それは同時に貴族階層のギムナジャ及び大学からの
忌避を招くことを意味し,教育の「一元化+そして貴族の官僚化への道は遠く,貴族の側
からの要求に対する妥協,すなわち貴族パンシオンやリツェイなど特権学校の存続,ギム
すでに当初か
ナジャからいかに非華族を締め出すかが相変わらず最大の課題となり続抗
ら「1828年法+は矛盾を抱えていた。
「1828年法+は学校を3種類の普通教育:教区学校と郡立学校とギムナジヤ,に分けた
点では1804年の『大学管下の学校令』
(以下「1804年法+)と同じであるが,後者がそれ
ぞれの学校に規定した2つの目的,つまり「上級学校への準備教育+と「教育の継続を望
まぬ者のための完成教育を与えること+は,ギムナジャについてだけ134条で「県立ギム
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ニコライー世時代の教育政策
ナジャの施設は二重の目的を有する。すなわち若者のうちで,大学での勉学を継続する意
図がないものまたそれが出来ないものに対して彼らの身分に相応しい教育の手立てを講ず
ること,そして大学に入学するための準備をしているものに対してそれに必要な予備的知
識を付与すること+と規定している。それにたいして郡立学校については46条で「郡立
学校は,全ての身分の人々のために開かれており,特に,商人,職工及び他の都市住民の
子弟に最善の道徳教育の手立てとともに,彼らの生活の形態,必要ならびに訓練の度合い
に応じて,彼らにもっとも有益なる知識を付与する+と,完成教育を目的としていること
だけを明記した。教区学校については4条で「教区学校の施設の特別な目的は,もっとも
低い身分の人々の間に,初等の,多少とも必要なあらゆる知識を普及することである+と
しているだけである(35)。学校の階級性を明白に規定している。しかし上述のように階級的
仕切りをつけてはいない。確かにギムナジャについて137条で「ギムナジャの施設のもっとも
主要な目的は,貴族ならびに官吏にとって相応しい教育の手立てを講じることである+(36'
と規定しているが,非貴族の入学を禁止しているわけではない。このためギムナジャへの
貴族の疑惑を解き彼らをギムナジャに引き入れることば出来なかった。その結果としてギ
ムナジャに付設のパンシオンの設置を認めなければならなかった。
239条で「県に在住し
ている貴族及び官吏に自分の子供たちを然るべく教育する手立てを,多額の費用を負担せ
ずに,与えるためギムナジャに付設してパンシオンが設立される+と規定された(37)0
教育内容については「1804年法+を大幅に変更したものとなった。特にギムナジャに
っいては委員会でも議論が重ねられ, 「1804年法+の百科全書的な教科目に対し「広汎な
る教育よりも,より基本的な目的を有しなければならない+とギムナジャの二重の目的に
「大学に準備教育する+目的には, 1819年にウヴァ一致させたものとすることで同意した。
ロフがペテルプルク学校管区で普及させた教育課程をもとに,さらに古典語を優越させ,
ラテン語に70時間とギリシャ語に50時間の案が提出された。これに対して古典語の優越
に反対する見解, 「完成教育+のためにはもっとも重要なのが数学であるとする見解,ギ
ムナジャの年長クラスを人文系と自然科学系に分けるべきとする見解,等があった。ウヴァ一
口フ自身は,古典語の優秀な教師の不足を理由に全てのギムナジャにギリシ■ヤ語を導入す
ることに反対し,ギリシャ語の導入が可能なのは大学付属のギムナジャとリガとミタグァ
のギムナジャだけであるとし,むしろフランス語とドイツ語を入れるべきであると主張し
た。彼の見解に他の委員たちは反対し,全てのギムナジャにギリシャ語を入れ,フランス
語は全く必要ないとする結論に達した。これに皇帝は不満を表明し「余はギリシャ語はす
ばらしく豊かなものであり,一方フランス語は必要なものであると思っている。それ故に
この決定に対して同意することば出来ず,その理由の詳細なる説明を求めるものである+
と述べた(38).結局法令の144条に「県ギムナジャにおける教育の課程は7クラスに分けら
1)神学,
れ,各クラスには1年の課程が予定される。それらでは次の科目が教授される。
聖史ならびに教会史,
そしてフランス語,
理,
2)ロシア語文法,文学,そして倫理学,
4)円錐曲線までを含む数学,
8)正字法,製図と絵画+,
3)ラテン語,ドイツ語,
5)地理と統計学,
6)歴史,
7)物
145条に「大学に付設のギムナジャにおいては,ギリシャ語
も教授する。必要に応じてまた可能なら県にある他のギムナジャにおいてもそれが導入され
64
佐々木弘明
るだろう+と規定された。二つの古典語を教授するギムナジャではラテン語に39時間,
ギリシャ語に30時間,数学に22.5時間当てられ
ギリシャ語のないギムナジャでは数学の時
間数は34.5時間に増加される。ギムナジャは基本的に貴族の教育を目的とする以上これ
らの課程の終了者に対する勤務上の特典は引続き用いられた射
その成績優秀者は1827年
の規定で昇進の期間が1年間と短縮された高級事務官の官等で文官勤務に向けられ,ギリ
シャ語を学んだものは直接14等級で任官することが規定され,特典は強化された(39)。
教区学校の教育内容は「1804年法+とほとんど変わらず,
による神の綻,
「1)簡易カテキズムと聖史
2)教会の出版物ならびに民間出版物での読み方と写本による読み,
3)
正字法, 4)算数の四則算+と規定されたが,工業住民を有する村落には郡立学校ととも
に補充クラスをさらに設けることが認められ,教育法としてランカスター法の相互教授法
を用いることも許可された(40)0
郡立学校は3年課程と1年延長されそして教師も5人に増員されやや拡張され,教育内
容は, 「1804年法+で規定されていたものから,
礎,技術学の基礎が除かれ,
部分を含めて,
3)算数,
「人間と市民の義務+,物理と博物史の基
「1)神の捷,聖史と教会史,
2)ロシア語,文法の高度な
4)幾何,立体幾何学まで,証明なしで,を含む,
6)ロシア及び世界の国家史,ただし簡易に,
5)地理,
7)正字法,製図と絵画+と規定された。
工業及び商業地域では必要に応じて,法学と訴訟手続き,工学,建築,農業また園芸の補
充クラスを設置することが可能とされた(41)0
授業料はギムナジャにだけ制定された。郡立学校にも適応すべきだとする主張もあっ
たがそれは否決された。 「1804年法+最大の欠陥は財源の不足であったが,それと比較す
ると「1828年+は定員競走法によって改善され,国庫からの増額,また都市議会と慈恵
院からの支出の義務づけやその他の資金源の確保策などによって財源の安定的確保が図ら
れ,地方の経済状況を考慮して3ランクに各県が分けられそれに応じて配分され,また教
育関係職員の俸給や年金の改善が著しく図られた。しかしこれらの改善策はギムナジャと
郡立学校に対してで,教区学校については従前通り地主,僧侶,都市ならびに村の諸団体
からの自由意志による献金に委ねられていた。
「1828年法+は,教科書と教師用指導書の検討と作成やいくつかの補足作業などのため,
完全に実施に移されたのは1832年になってからであった。なおこの「1828年法+はペテルプ
ルク,モスクワ,カザンそしてハリコフの4つの学校管区にたいしてだけ適用された。
こうしてリーヴュン公爵によって「1828年法+は制定されたが,彼には中央教育行政の
改革,高等教育問題,特権学校の扱い,
「1828年法+の適応外の辺境地域の教育について,
等の問題が山積みされた。
中央教育行政の改革は,省の管轄外にある他省の教育施設に対する省の監督強化と中央
行政機関の地方に対する権限の強化そして中央行政機関そのものの円滑化が課題であった。
他省の管轄下にある学校のうち,宗教と軍事関係の教育施設を除き,国民教育省の監督権
はやや強化され, 「地主農民及び皇室領地農民は教区学校,郡立学校ならびにそれと同等
の学校においてのみ学ぶ+(42)ことが確認されたが,内務省の内科外科アカデミーおよびそ
の他の教育施設,大蔵省の国有地農民の郷学校(ヴォロストヌィイ
ウチーリシチ),相互教
65
ニコライー世時代の教育政策
授による下級軍事学校などは「教授部門+に関してのみ国民教育省の影響を受けるという
ことに留まった。リーヴュンは中央教育行政についてシステムの簡略化,事務処理の削減
化によってその円滑な運営を図った。中央学校局は残されたが,学術委員会と相互教授の
学校設立のための委員会が廃止され,
2つの補助機関を有するだけの局に縮小された。国
民教育局は新設の会計部門を加えて3部門に縮小さ叫た。それとともにさまざまな関係文
書類の削減と交換文書の省略化が図られた。
高等教育の問題は,政治・社会問題でもあり,政府の最大の関心事でその解決は焦眉の
問題であり続けた。学生を有害な政治的影響からいかに護るかあるいは隔離するかの方策
によって高等教育への道を整備することに努力が傾けられた。それは具体的には大学への
「大
入学制限そして西欧の思想的影響からの隔離に手段が求められた。前者については,
学にはしばしば,然るべき予備的な知識もないのに,学生がしばしば入学しており,その
ため大学講義の聴講についていくことが出来ず,高等の教育を修得する代わりに,療駄に
時間を失っている+という情報が皇帝にまで伝えられ,
1831年に皇帝は「今後大学の学
生として,規定の科学の全課程をギムナジャにおいて終了しなければ,誰であれ決して受
け入れることがないように厳重に監視すること+(43)を命じた。後者については,外国での
教育は有害であるという認識から,
1831年の元老院に対する勅令で,
「若者たちは,とき
にはロシアについての非常に誤りに満ちた理解をもってロシアに戻ってくる。その真の必
要や要求,法律,道徳,制度,またしばしば言語さえも知ることなく,彼らは祖国人の間
では異邦人となってしまうのである+として,
10歳から18歳にいたる間の教育はロシア
国内でなければならないこと,そしてその例外は皇帝の裁可を得なければならないことを
命じた(44)。これらの命令の前にすでに学生の警察一裁判に関する特権も制限されはじめ,
1827年にモスクワ大学の私費学生を一般住民と同様都市警察の監督の下に置くことが認
められた。このような動きと平行的に学校設立委員会でも新大学令の作成が着手され,大学
1831
の自治,特に学長の選出権や行政当局との関係をめぐって論議が重ねられていった。
年に委員会で大学の行政の基本として,一切の行政部門は,協議会と学長の管轄下に残さ
れていた学術ならびに教授の部門から分離され,そして監督官の議長の下に局外の官吏か
ら任命される顧問官から構成される管理局に委託されること,学校管区の学校の行政は,
教師の選抜と決定を除いて,大学の管理局あるいは監督官の議長の下の特別学校委員会に
負わされること,大学の裁判は以前の基礎の下に残されること,学長は選出されるものと
して留まること,が確認された(45)0
リツェイや高等ギムナジャや大学付設貴族パンシオンなどの特権学校については, 1830年
の勅令で, 「特別なプランを有しかつまた特権を有するこれらのパンシオンのこれ以上の
存在は国民教育システムを堅牢なかつ同一の諸規則の上におくという政府の期待と相容れ
ず,また貴族の若者の大学での真剣な学問のためにも有害である+(46)と宣言したが,特権
学校の改造に対する貴族の側の猛反対に出会い,恩うにまかせなかった。
「1828年法+の適用外にあったシベリヤやザカフカス地域そして西方地域,つまり非ロ
シア語地域における教育政策は,基本的には「1828年法+に準じた教育システムを整備
することそしてロシア語化を進めることが基本となっていた。しかしそれは困難の連続で
佐々木弘明
66
1832年にはゲィリノ大学の廃
あった。とりわけポーランド地域は1830年の暴動に与り,
止とゲィリノ学校管区の閉鎖そしてその地域の全ての学校ベロルーシ管区への統合となり,
ますます混迷を続けた。
ウヴァ一口フの時代は先の二人の大臣によってはじめられた改革の実行と仕上げの時代
であった。彼は大臣に就任とともに,国民教育省の活動の基礎に「世界的に共有の教育を
われわれの民族生活に,われわれの民族精神に適合させること+を挙げ,そしてそれを
「ギリシャ正教,専制主義そして民族性+の歴史的原理の上に確立することこそがロシアの
国威と安寧の保持のために必要であるとした(47)。この「ギリシャ正教,専制主義そして民
族性+の三原則がウヴァ一口フの国民教育相時代の教育政策の基本原理として保持された。
ウヴァーロフはこの三原則にたびたび言及し, 1843年の年次報告書の中で次のように述
べている。
「わが皇帝陛下によって省にもたらされた方針並びにかの三原則は,自由主義
や神秘主義の思想の痕跡をまだ帯びているもの一切にある程度まで敵意を抱かねばならな
い。自由主義思想に,なんとなれば専制政治を宣言している省は,ロシアの君主制の原理
に真直ぐに完全に復帰しようとする確固たる願望を声明しているがゆえに。神秘主義思想
に,なんとなれ畔『ギリシャ正教』の表現はキリスト教信仰の目的に関して全く肯定的で
あることの省の志向を明白に表しそして一切の隈想的幻想,あまりにもしばしば教会の聖
なる伝説の純粋さを失わせるもの一切を遠ざけることへの省の志向を非常に明白に表して
いるがゆえに。最後に,
『民族性』という言葉も,省がロシアを他のヨーロッパの民族性
の後から進むのではなく少なくともあい並んで進んでいるほどに成熟しかつそれに値して
いるとみなした大胆な確信に対する敵対の感情を悪意ある人々の中に呼び起こした+(48)と。
ここには10年間ウヴァ一口フの変わらぬ三原則への信念が明確に示されており,彼は専
制政治体制の確立を第一義にし国民教育省はそれを堅持する官僚機構の一翼を積極的に担
う役割にあるという意識,そしてそれを脅かす存在としての自由主義や神秘主義の思想に
対する危機感,またロシアの民族的自立への疑惑や敵対を抱く者たちへの非難を表明して
いる。ウヴァ一口フの掲げたこの三原則は保守的なものであることに変わりないが,これ
は,当時のヨーロッパの政治・社会的な不安定な状況下にあって,ロシアにおいて反ヨー
ロッパ的風潮そして愛国主義的傾向が高まりつつある中で,一口シアの政治・社会的安定化
と文化的発展への拠り所としてむしろ受け入れられていたといえる。例えばヴェ・ペリン
(1834)
スキーは,まだドイツ観念論の世界にあったといわれる初期q)作品『文学的空想』
の中で次のように語っている。 「こういうわけで,われわれには文学,自分の方からはど
ういう努力もせずにその時にあらわれた文学は,必要ではなく,必要なゐは開明なのであ
る!
この開明ということば,賢明な政府のたゆむことのない配慮の串かげで沈滞するこ
とばない。ロシア国民は呑み込みが早くて利口であって,父なるツァーリの手が国民に目
的を指し示すとき,その威力ある声が目的にむかって国民に呼び掛けるときには∴すべて
よいことや美しいことにたいして熱心であり熱意がある!そして政府が自分自身,開明
の拡大の唯一のたくましい手本となるとき,それが教育施設にたいして巨大な金額を費や
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ニコライー世時代の教育政策
し,教師と学生の仕事を,開明された知性と才能に全ての特色と利益をわかちうる道を開
くことによって,輝かしい褒賞で励ますときには,この目的をわれわれが達成しないこと
があろうか!根気のいい政府の側から開明のためゐ新しい成功,あるいは学者身分の
ための新しい恩恵,新しい仁慈が行なわれなくして,一年たりとも過ぎることがあろう
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か!家庭教師と学校教師の身分の一つの制度がロシアにとって量り知れない利益を招来
するであろう。なぜなら,ロシアを外国の教育の有害な結果から救うからである。そう
だ人!わが国には自分のロシアの,国民的開明が,速やかにやってくるであろう。われわ
れは間もなく,外国からの精神の世話を必要としなくなるのを証拠だてるであろう。この
ことを,われわれは優秀な高官,ツァーリと功業を共にする人々が,ロシア開明の中央殿
堂にいる知識欲に富んだ若者たちの間にあって,これらの若者に国王の聖なる意志を伝え,
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ロシアのギリシャ正教,専制,及び民族性の精神で,開明の進路を示すために現れている
ときには,われわれにはこのことを行なうのはたやすいことであろう+(49)と。
ウヴァ一口フは,リーグェンによって遂行された省事務機構の簡素化と文書事務の省略
化は逆に省の機能の円滑化を妨げるものとして,廃止されたいくつかの部や課の復活と官
吏の増加を求め中央行政機関の強化を図った。
1835年に皇帝に認可された「暫定制度+
によって省の整備がなされた。大臣官房は長官3人の書記官そしてそれらの補佐に2人ず
っからなり,国民教育局は教育施設と学術機関に関する業務の2つの部門と会計と経済事
務の部門の3部門を有し,経済委員会が復活され,局の傘下に営業施設,省の雑誌発行所,
書店や公文書保管所などを置いた。中央学校局はすでに実質的に機能しておらず,会議も
40
年に-・二度招集されるだけで,それも決定権はすでになく,実権は官房長に移り,
年代半ばにはその活動を停止した。
省の整備と強化また管轄下の教育諸施設の拡大は当然多額の支出を必要としたが,国家
はすでに財政難にあり,各省の支出の最高限度額が定められ,さらには各省に帰属してい
た特別基金の配分額の減額,等の一連の財政措置が続き,国民教育省も例外ではなかった。
省にはいくつかの特別基金があり,中でも最大の基金が没収されたイエズス会の領地と資
金から成る「一般教育基金+であったが,
1834年にそれは全て国庫に納入させられ,そ
の内から20万ルーブルが省に還流されたが,大学,リツェイ,ギムナジヤ,郡立学校な
どへの支出のますますの増加に伴い,改めて「市民教育施設一般資金+として省に返され,
この資金の利息を教育施設への補助にあて,さらに学校の建設や修理た別に国庫からの補
助金が支出されることが認められた。しかし1849年には国庫から補助金は打ち切られ,
「市民教育施設一般資金+の利息だけではなく資金そのものも食いっぶしていくことを余
儀なくされた。省には他に事業収入として教科書等の発行による収入があり,それは教区
学校の教師と家庭教師など私的教育者に対する年金の資金に当てられた。
ウヴァーロフ時代の教育改革の最初となったのが,学校管区の改革であった。この問題
は当初1826年の学校設立委員会の第2回会議でシ■シコーフたよって管区の監督官の職務
権限の強化と大学の協議会と管理機関とによる特別委員会の廃止の提案として審議された
が,リーブェンは改革の必要を認めず反対を表明し,その後中等教育問題に審議が移され
たためにこの間題の審議は延期された。
1831年から本格的に審議が開始され,
1835年6月
68
佐々木弘明
25日に『学校管区についての規定』として発布された。規定には「今日の大学による諸学
校に対する管理のシステムは非常に不都合をきたしている+とし,その理由に「もっぱら
自らを科学に捧げている大学の教授は実際的な行政またギムナジャと諸学校に対する好ま
しい監督に対して時間もまたそれなりに適切な能力も有していない+こと,
「他の国家で
は教育施設は大学の管理から切り離されている+ことなどを挙げ,その目的は「1)権力
と責任の一元化, 2)行政の単純化
従って行政の確実性, 3)しばしばそして大きな利
益をもって学校を監督する機会+に含まれているとした。具体的には,リツェイやギムナ
ジャの校長,私立学校やパンシオンの生徒官は監督官に直接従属し彼に報告書を提出する,
教区や財政問題の審議のために監督官の下で学長や生徒官やギムナジャ校長から成る協議
会が形成されるが,発議権は監督官にあり,決定事項の履行は監督官の名をもって行なわ
れる,管区の行政に関する文書事務の処理は全て監督官の官房に集中されるなどである(50).
つまるところは従来大学に委託されていた大学管区内の学校行政に関する全ての職務と権
利を学校監督官に委譲させること,すなわち教育行政の官僚化システムを目指してい声こ
とば言うまでもない。しかし下級学校の中等学校に対する位階制的関係の制度には手が付
けられないままに残った。 『学校管区についての規定』は,ペテルプルク,モスクワ,カ
ザン,ハリコフ,キーエフそしてオデッサの各管区に適用され,他のシベリヤと西カフカス地域,デルプト管区,ベロルーシ管区は別の規定によるとされたが,翌年にはベロルー
シ管区がこの規定に準じた規定が作られたのをはじめ,順次同様な措置がとられていった。
『学校管区についての規定』は大学改革を急がせることに七り,
-カ月後の1835年7月
26日に『帝国ロシア大学一般令』が皇帝の認可を得た。大学令はこれまで大学毎に個別に
出されておりそれぞれの地域性などが考慮されていたので,一つの法令に統一しようとす
る作業は困難を伴い,その作業はなかなか進まなかった。
1833年の末にウヴァロフは皇
帝に「帝国の全ての大学のための一つの一般法令の作成は,この上ない困発さ,非常に重
大な当惑をもたらすので,おそらくはこの事柄の基となるような主要な問題を無条件で解
決することば出来ないであろう。すなわち南の諸県のために北の諸県にとって有益である
高等教育の全く同一の方策を決定することば容易には出来ない。モスクワとカザン,デル
プトとハリコフ,ペテルプルクとポーランドから返還された諸県,は地形の果てしなく続
く列であるのみならず,また,特に社会の支配層における教育の対立の列であり,従って
一つの試金石,一つの尺度が彼らの要求を等しく満足させそしてこれとともに政府が等し
く保証することが果たして可能であろうか+と説明し(51),大学一般令の作成というやっか
いな仕事を速やかに終える期待を持ちえなかった。しかし皇帝はその作業を急ぐことを求
めた。委員会は一般法令の作成の他にキーエフに新設される聖ウラジミール大学令の作成
も同時に課題としており,結局聖ウラジミール大学令を先にし,それを基に大学一般令を
仕上げることとなった。こうして1833年12月13日に聖ウラジミール大学令が4年の時限
的法令の形で発布された。この法令に持ち込まれている事柄として,
「自分の成員に対す
る大学の訴訟手続きが廃止されること,監督官の権力と大臣の権威が明瞭な境界で定めら
れること,経済部門が教育部門から切り離されること,大草o)講義を許可されるもの全て
に対する厳格な試験が定められること,内部警察が,学者からではなく,特別な官吏に委
69
ニコライー世時代の教育政策
託されること+などを要約的に挙げ,大臣は共通の規範となり得るかどうかを各学校管区
や各大学に示した(52)。概ね同意を得て,本格的に大学一般令の作成が急がれた。その最終
的段階で問題となったのが,大学協議会の教授の専任権の制限を規定し,また同時に大臣
「大臣
にも自分の裁量で教授を任命す.る権限を与えた条項であった。スペランスキーは,
に授けられている権限は大学協議会の選出と競争試験をも廃JtL,ており--大臣に監督官
を経て協議会に候補者を提案することを委ねることの方がよりよいのではないか。実効性
は同じとなろう,しかし専制に対する非難の口実を与えないであろう+(盟)と反対し,スト
「大臣の教授を任命
ロガーノフなどの大半もそれに同意した。しかしプラタソフ伯爵は,
する権利は,非常に安易に世紀の破戒的理論に取りつかれたり,またいっも多かれ少なか
れ外国の手本の疫病に罷りやすい,大学の側からの政府の方針と反対の方向にむいてしま
う傾向の予防のためにも+必要であり,この権利は「わが祖国における他の国家機関の精
神に完全に一致して,新しい法令のさらに一層基本的な考え方,つまりこれまで外国のど
んよりとしたニュアンスだけであったわが大学をついには根幹的なかつまた救いをもたら
すロシアの統治の原理に接近させること,を強化するであろう+と大臣の権限強化を主張
した(54)。皇帝もプラトフ公爵の見解を支持し決着がつけられた。
ウヴァーロフによればこの大学改革に次の2つの主要な目的を決めた。すなわち「第一
に,大学の教育を理にかなった合理的な形態にまで高め,そして長期にわたるそして不断
の努力にだけ適した水準をそれにおきながら,まだ未熟な若者の時期尚早な就職に分別あ
る障害を築くこと,第二に帝国内の上流階級の子弟を大学に引き入れそして外国人による
彼らの歪められた家庭教育に終わりを告げさせること,つまり外見上輝かしい,しかし堅
固さと真の学問とは無縁の外国教育熱の優勢を減らすこと,そして最後に上流階層の若い
人々間にも,また全体として大学の若者達の中に民族的,自主独立的な教育への志向を確
立させること+に(55)。このように大学は,それまでの学術機関として同時にまた教育機関
としての二重の役割を持ち,それ故に自治権を有する独立機関として位置付けられていた
が,今や主として教育機関として機能することを求められ,従ってその自治権は大幅に制
限され,国民教育省の管轄下に組み込まれていくことになった。大学裁判は廃止され,監
督官の権限が韓化され,選挙による原則は著しく制限された。学校管区監督官は大学の重
要なメンバーとなり,
「彼は大学教授,助教授,教師ならびに官吏の能力,勤勉さ,そし
て操行に注意を向け,怠惰なものを叱責によって矯正しまた思想的注意人物の追放の合法
的手段を講じる+ことが出来る。彼は大学の協議会と行政機関を監督する。そして彼の直
接の指揮下に武官と文官から選抜される生徒監と彼の補佐官が置かれた(56)0
学長は正教授の中から4年の任期で協議会によって選出され,皇帝によって承認される。
彼の権限は,教授と官吏に対して彼らの落ち度や不正が認められる場合には叱責や戒告処
分をなす権限が与えられ強化された。これに対して正教授と助教授から成る協議会は,学
校管区における行政権偶の剥奪と大学裁判の廃止の結果,その権限が縮小され,学長,名
誉会員及び準会員,教授と教師の選出,教育部門の全般的指導,学位の認定,に限定され
た。しかも教授の専任権は,大臣にも「自分自身の裁量で空席の講座に博学で優秀な教授
能力がある人々を,彼らが学位を有していれば,任命する+(57)ことを認めており,協議会
佐々木弘明
70
の権限はますます弱められていった。
新法令によって学部は,哲学部,法学部そして医学部の3学部から成った。哲学部は
史一哲学と物理一数学の2つの分野から成り,前者はロシア史とスラヴ語文学が中心とされ
た。法学部は,自然法が制限され,実用的な現行法が中心に置かれ,法律家ではなく官吏
を養成することが第一の任務とされた。神学,教会史そして法律が共通の科目として全学
生の必修とされた。哲学部と法学部は4年課程そして医学部は5年の課程となった。
入学の条件は,予備試験が課せられることと,ギムナジアの全課程修了の証明書があれ
ば無試験とされること以外には規定されず,主として国家勤務への準備教育される貴族の
若者の入学を促すことに重点が置かれた。そして私的聴講生(プリバートヌイエ
スルシァ
チェリ)の道も開かれ,聴講生であっても学生と同様に学位を得る権利を与えられた。学
位を得たものは文官勤務では12等級を受け,軍務では任官6カ月で将校に昇進する特典
が与えられる。
このようにして公布された新法令は,複雑な大学問題を解決したわけセはなく,引き続
き,工業や農業の発達に則した講義の開設の必要性,教授の養成について,そして学生の
入学条件と階層的制限について,等を中心に検討され法令に補足されていった。
新講座の開設について1843年にウヴァーロフが皇帝に「ロシアにおける農業の改善に
向けて,教師の養成の方策によって,農学の講座が開設される。また大学が存在していな
い重要な都市にこれらの学科目に関する公開講義が設けられ㌧る。工場の拡大強化に向けて,
いくつかのギムナジアや郡立学校に付設して実科クラスが,また大学に工学の公開講義が
設けられる。ペテルプルク大学に付設して農業,林業そして商業簿記についての講義が導入
される。モスクワ大学に農業,農芸と技術化学,機械建設,実用機械学と図形幾何学が導
入される。デルプト大学に付設して実用化学,機械学及び他の工学に閲す畠公開講座が設
けられ,またアルハンゲリスクに農業実科学校が設立される。このような公開講座がウラジ
ミール大学にも開設されそして少なくともいくつの大学に付設して教育農場を設置するこ
とが命じられている+(58)と述べているように,
1840年代にこれらの具体化が進められた。
教授の養成の問題は,すでに1827年の学校設立委員会で検討がなされた上,
1828年皇
帝の決定により, 20人の優秀な学生を各学校管区から選抜し,最初2年間をデルプトに
設立される「教授インスチチエート+で教育の後ベルリン中パリに2年間官僚とともに派
遣することが決められ,実行に移された。これらの学生は1834年から留学先から帰国し
て大学に教授として就任していった。
「教授インスチチエ-ト+は1833年に二度目の学生
選抜を行なったのち閉鎖されたが,外国への若い研究者の派遣は継続された。
1843年に
大臣は「若い人々の留学は,祖国の教育とヨーロッパの科学の発達との不断のそして生き
た結びつきに役立ち,その上かつて教育の道でわれわれをリードしている諸国民の高い知
識にロシアの学術階層とロシアの大学をいっも保持し続けるであろう+と留学を積極的に
勧め,
1844年に元老院は諸科学の完成のために外国に派遣される人々の出国のパスポー
トの無料配布を決定し,また1846年には皇帝の認可を得て国務院は外国に派遣されてい
る人々に外国に滞在の期間を勤務期間として算入することを決めた(59'。こうして大学の教
授の養成は積極的に取り組まれたが,しかしそれでも大学の空席の講座の多くをそれにふ
ニコライー世時代の教育政策
71
さわしいロシア人学者で埋めることは出来なかった。そして1848年のヨーロッパの革命
的諸事件の後は国民教育省に関係する全ての者をヨーロッパに派遣することも留学させる
ことも禁止されてしまった。
学生の入学条件を改めて定めたのが,
1837年1月29日の「大学に入学を望むものたちの
ための試験の規則+で,
4年の臨時の法令として出されたが,その後1842年と1849年に
「まだ大学への予
さらに4年ずつ継続された。これは,学生の準備教育の水準を高める,
備的教育を準備されていない若者を大学教育から遠ざけること+を目的としており,大臣
は「学生の数に受け入れに必要な条件に16才を定め,これらの規則は正確に知識の水準
を定め,それがなければ大学の通学は若者にとって無益な浪費であり,大学にとって利益
のない重荷になるだろう+と説明した(60)0 1844年には必要なレベルに適せずギムナジャ
を卒業したものを大学の学生に受け入れることが禁止され,その他の私的な方法で入学を
求めるものにもその準備教育が水準に達している証明がないものの入学許可を阻止する
ことに努めた。このようにして入学の条件の強化によって学生の質を高めることへの道は
ウヴァ一口フの考えている方向に開かれていったが,もうひとつの問題,つまり貴族など
上流階級の子弟を大学に引き寄せそ ̄して非貴族の子弟の大学への進学を困難にすること,
の階級的制限を設けることは容易ではなかった。ウヴァ一口フはそれを十分に承知してい
たが,非貴族の将来を保証する職業を有せぬ以上,非貴族の増大は社会混乱のもとになる
1840年暮れに学校管区監督官に秘密裏に次のような回章を送り方策
についての意見を求めた。 「わたしの見解では,学生の受け入れに際して完全なる公平さ
にすぎないと考え,
の遵守に加えて,高等の教育課業に自身を捧げる若者の出身に対しても,また彼らの前に
開かれている将来に対しても若干の注意を向けることが是非必要である。たとえ,一面か
ら,知的能力の幅広い発達が疑うべくもない利益をもたらすものであるとしても,他面か
ら,この発達は市民生活において将来の目的や使命と釣り合いのとれたものとならなけれ
ばならない。このことに関して厳格な規則を作って,確固たる境界を置くことは困難であ
るけれども,しかし至る所で,高まりつつある教育への志向を考慮すれば,学問の高等な
科目へのこの過度な志向によって市民階級の秩序をなんとかして動揺させることなく,豊
かな知識の獲得への昂揚を若い知性に呼び起こしながら,後になってしばしば成功を保証
することがない現実に直面し,貧しい両親の願いや若者の夢想的期待を裏切ることになっ
てしまうという不幸の時代が招来しているという判断を指針にしなければならない時であ
る+(61)と。監督官たちは大臣の考えに概ね同調し,授業料の値上げ,下層階級のため専門
実科学校の設立,納税階級者の学歴によろ勤務上の特権の廃止,等が提案された。しかし
「若者の大学へ
モスクワ監督官ストロガーノフ伯爵はこうした身分的制限措置に反対し,
の入学制限のためのあらゆる方策は,今日の教育部門の組織に際して,われわれのもとの
普及しつつある国民教育にとって有害な結果を招来することになるだろうし,また果たし
て社会的見解と一致するといえるであろうかゃ一もちろん大学が空になり,そうすればこれ
とともに,国民教育の事業における始まりつらぁる一切の成功もまた根絶してしまうだろ
うということもあえて認めるものである+と述べた(62)。結局ウヴァ一口フは,授業料の値
上げを採用することとし,監督官の最小限の値上げを求める大多数の意見を入れ,皇帝に
72
佐々木弘明
報告したo大臣はモスクワ大学とペテルブルク大学に年40ルーブル,
-リコフ大学とカ
ザン大学とキーエフ大学に年20ルーブル,リツェイに15ルーブルの授業料にすることを
報告したが,皇帝はそれに不満を表明し,前2つの大学を50ルーブル,後3つの大学を
40ルーブル,リツェイを30ルーブルにすることを求めた。ウヴァ一口フはこの大幅な値
上げは貴族を家庭や私的パンシオンに留まらせることになり「家庭教育や私的教育に対す
る省内の教育施設の公的教育の優越を維持する手段を省に困難にする+ことなどを理由に,
当初5年間は省の案で行なうことを求めたが,皇帝は3年間だけに同意した(鶴)。こうして
1845年6月15日に「高等及び中等教育施設における授業料の徴収についての規則+が発布
された。
この授業料の値上げはギムナジャにも持ち込まれ,大臣はその理由に「教育施設の経済
的資金の強化のためにだけでなく,また異なる特性を持っ階層の市民的生活習慣との若干
の均衡の範囲内で教育への若者の志向の保持のため+と明確に挙げ(u',皇帝は「雑階級人
(ラズノチンツイ)のギムナジャへの入学を困難にする方法を検討する+ことを求めた(髄,0
大臣はギムナジャに入学する商人及び町人(メシチャン)吃.どの納税身分の子弟が,成績
などの条件の他に,彼らが所属する共同体からの休暇証明書を求めることを提案し認めら
れたoまた第一階級の商人のギムナジャの入学を皇帝は「有益である+と認めた(鉱,0
休暇証明書はもちろんギムナジャに在学の納税身分の者の大学入学に際しても適用され,
また同時に納税身分に登録されていない解放農奴の大学入学が禁止された。
大学には入学のための試験もまた進級の試験も受けず,それにもかかわらず全課程を聴
講すれば学位の試験を受けられる私的な聴講生は増加の一途をたどり,しかも納税身分の
者が多数を占めていった。そのため1845年に聴講生規定が作られたが,むしろ混乱をも
たらすことになり,
1847年6月16日に「私的聴講生+は廃止された。ただし現職の官吏や
勤務上必要なものについては特例で学位の試験を受けることが認められた(67)0
貴族の特権学校は「教育の一元化+を達成するためには廃止を含めて大幅な改造が必要
であったが,前述のようにリーグェン公爵の時代にすでに貴族の側からの猛反対にあって
挫折した。当時次官であったウヴァ一口フは,
1832年にモスクワに大学の調査に赴き貴
族からの相次ぐ陳情を受けた。彼はその様子を「ありとあらゆるところから両親の不平を
いう耳をっんざくような声が私を驚かし,両親たちは,同じ基準に基づかなくてもあるい
は一つの権利を有しなくても,極端な場合はこの施設の以前の特殊な傾向にあってでも,
かっての貴族パンシオンの復活を全員一致して請願した。彼ら全員は,政府の監督の下に,
モスクワに子供たちを送り出すことが出来るような,そしてその目的が子供たちの将来の
勤務の任命にある程度適うものであるような,パンシオンが新たに開設されさえするなら
ば,息子のために年に1500ルーブルまたそれ以上に支払う用意があることを繰り返し言っ
た+(鶴)と報告した。彼は「ギムナジャ教育が,貴族の間に祖国のきたるべき奉仕者がそこ
から形成される,階級の市民的要求に果たして適うものであろうか+として当時すでにパ
ンシオンやリツェイで貴族の子弟を教育するほうが貴族を学校に引き寄せられると考えて
いた(69'。皇帝も彼の意見を入れ, 1833年2月に「貴族インスチチエ-トの予備教育につい
ての規定+が出され,これはギムナジャの下級2クラスの知識を入学条件にした5年課程
73
ニコライー世時代の教育政策
の特権学校であった。
ウヴァ一口フは大臣に就任後,この貴族インスチチエートとパンシオンを貴族のための
「専門的+な教育機関とすることを実行に移すことを企図し,彼は「われわれの教育シス
テムにおいて専門性の欠女は,第二段階の学校において特にはっきりと目立っており,そ
してまさにこの欠如を貴族パンシオンの設立によって補うことが期待される。もしも貴族
の子弟がこれらにもっぱら入学することになるならば,郡立学校とともにギムナジャは他
の階級のために留まるだろう+と書いた(70)。貴族の教育を他の階級のものと分離して行な
うことによって本来の貴族の任務たる官吏としての「専門的+教育を施そうとした。しか
し彼は「以前の無秩序に戻って,それらの生徒が皮相的な百科全書的教育に対して有力な
官位を受け,大学に行かず,そこから直接的に文官に入ること+(71)を復活させようと意図
したのではない。彼は貴族を特権者としてではなく国家への奉仕者・勤務者としてみなし
ていたにすぎない。
「貴族パンシオンは全体として大学での講義の聴講への準備的施設以
外の何物ではない+(72),つまり貴族に官僚として質の高い教育を大学まで国家の管理下で
保障させることであった。
1835年に国庫と貴族団の寄付によって経営されているパンシ
オンの生徒は全て彼らが教育を受けた県で6年間勤務することが義務付けられた。彼は貴
族パンシオンの普及を図り,
1840年代の末までに47校のギムナジャ付設パンシオンが開
設された,ウヴァ一口フは1843年に「第二段階の学校(すなわちギムナジヤ)の数は,
貴族パンシオンによって,
10年間に二倍になった+(73)と誇った。貴族パンシオンは基本的
に教育内容及び卒業後の特典もギムナジャに準じていた。しかし貴族パンシオンの多くは
以前の「皮相的な百科全書的+な教育のための科目で満たされたものや,省の管轄から外
れた独立した学校として存在しつづけるものなどがあるとか,また多くの貴族がギムナジ
ャに入り続けていること,によりウヴァ一口フの企図は成功しなかった。しかも40年代末
以降に貴族パンシオンの設立はほとんどみられなくなっていく。
貴族パンシオンは貴族を一定数集めることに成功したが,多くの貴族がギムナジャに通
い続けそしてその一方でギムナジャには非貴族階層が増え続けていったことば,必然的に,
ウヴァ一口フの貴族をパンシオンでそして非貴族をギムナジャと郡立学校へ向けることに
よってロシアの教育を量的にまた質的に拡大しようとした意図とは逆に,貴族の聞からギ
ムナジャに非貴族を入れないという禁止的な方策を求める声が強くなり,皇帝もそれを要
求した。その結果として上述のようにその最初の禁止的措置として1845年の授業料の値
上げとなった。ウヴァ一口フ自身「ギムナジャは主として貴族と官吏の子弟のための教育
の場となり,中流階層(スレドニェエ
ソスローゲィェ)は郡立学校に向けられるだろう+(74)
と認めざるをえなかった。この間にギムナジャに古典語クラスと実科クラスを並列させて
貴族と非貴族を分けて教育しようとして生まれたのがモスクワ第三ギムナジャの設立であっ
た。これは1839年の「モスクワの第三ギムナジャ規定+により,
「全体として若者の間に
強まりつつある教育への要求を満たすために,また特にわが国内の工業の中JL、での技術科
学の課程の教授+を目的とした。古典クラスは「世襲及び一代貴族,事務吏員及び芸術家
の子弟のために+,実科クラスは「商人及び町人階層及び他の自由身分の子弟のために+
もっぱら予定された(75)0
佐々木弘明
74
貴族の多くは相変わらず私立パンシオンを好みそしてまた家庭教師に教育を託し続けた。
ウヴァ一口フは公的教育の私的教育の優越性,つまりは国民教育省の管理下に全ての教育
「公立の教育施設
を置くことを求めた。特に外国人経営の払立パンシオンを減らすこと,
での教育の機会が与えられないところに+私立パン㌢オンを認めること,私立パンシオン
の特別な監督機関を設けること,等について皇帝に認可をえ,
1835年に首都では,アカ
デミー会員,教授,助教授及び官吏の中から一年毎に選出される監督官の職務を設置し,
地方では学校管区当局の監督下に置き,また1837年には回章で教育内容や入学者の条件
をギムナジャに準じることを命じるなどして,省の管理下に置いた(76)。しかし家庭教育を
公的教育システムに組み込むことは困難であった。彼は「省にとって,家庭で完成されそ
して家族の血縁の聖物と.両親の権力に対する政府の直接の影響からかくまわれた教育はさ
らにとらえがたく,一層不可解となった。省には間接的な手段が残されているだけだ+(77)
と述べた。彼のとった間接的な手段というのは,生粋のロシア人を家庭教師とすること,
家庭教師を望むものたちにたいする試験の導入,家庭教師等の権利と地位の保証,そして
その義務と責任の規定化,であった。それらは1834年7月1日の「家庭指導者と家庭教
師についての規定+として発布された。家庭の子供の教育に従事するものは全て「家庭指
導者(ドマーシヌィイ・ナスタ-ヴニク)+あるいは「家庭教師(ドマーシヌィイ・ウチーチェ
リ)+の名称を得たものでなければならない。これらの名称を獲得できるものは,自由身
分の人間であり, 「道徳的資質の面でも自他ともに許す+ギリシャ正教徒でありかつロシ
ア臣民であること。
「家庭指導者+の資格は,高等教育施設の一つで教育の全課程を好成
績で終了したもの,正規の学生の名称あるいは学位を有しているものに付与され,
教師+の資格は大学,リツェイあるいはギムナジャでの特別の試験で,
「家庭
「彼らが初等教育
のために必要な一般的知識のみならず,彼らが教える予定の教科目での基本的かっ精確な
知識を有している+ことを証明したものに付与される。彼らは実際の国家勤務にあるもの
とみなされ,
11等級から始まる官位等級,またメダルや勲章の報奨を受け,さらに年金
や一時金を受ける権利を有する。外国人も家庭教育に従事できるが,ロシア人の権利を受
けることは出来ず,また母国のロシア公使館からの承認証明書を受けることが義務付けら
れた。 「家庭指導者+また「家庭教師+の証明書をもたずにその職につくものは罰金を課
せられるとともに裁判にかけられ,またそうした人間を雇.い入れたものはその氏名が皇帝
に報告される,という厳しい罰則規定が盛込まれている(78)。この規定の発布後10年間に
証明書は4,483枚発行された。 1843年にウヴァ一口フが「家庭教育は少しずっ公的教育に
吸収さ■れてきた。こんにち私立の学校とパンシオンは国民教育の手段において小さな部分
を構成している+(79)と書いているように,私立パンシオンや家庭教師などによる家庭教育
は国民教育省の管理下に置かれ,彼の主要な目的は達成されたといえる。ウヴァロフがこ
1849年の報告によれば,
のように家庭教育に監視の目を配らなければならなかったのは,
省の管轄下に2,142校の教育施設が数えられたが,そのうち559校が私立の教育施設で(80),
実に4分の1を占めており,それに家庭教師などの数を加えれば私的教育は放置しがたい
影響力を有し,その上それらで学ぶ者の多くは中流以上の貴族の子弟であったからにはか
ならない。
ニコライー世時代の教育政策
75
以上みてきたようにウヴァ一口フの時代に国民教育省を中心とした「教育の一元化+に
向けて,学校管区,大学と中等教育に対する法的整備そして私的教育に対する公的教育の
優越性をほぼ達成した。また貴族を国家への奉仕者として官僚化する企図も,貴族への譲
歩を余儀なくされながらも,実現へ向っていったといえる。しかし同時にまた政治,社会
的運動の影に怯えその対応,つまり種々の禁止的措置に目が奪われ,その分産業・経済的
要求や民帯の教育要求を適切に汲み取りそしてそれらを活用することを怠り,さまざまな
不満を一層助長することになり,またそれらに抑圧的に対応せざるをえないという矛盾の
なかにあった。実質的に不安定な状態のなかで1848年の事件のショックがロシアを覆っ
ていった。
ウヴァーロフ自身は1848年のヨーロッパの事件を深刻に受けとめてはおらず,学校管
区監督官にもその影響はロシアの若者に深刻な影響を与えるものではないと回章を送り,
また自らモスクワ大学のその地域の学校を視察し,報告書『大学の若者の精神について』
の中で「ロシアは自らの堅固なかつ揺るぎなき土台に依拠しながら,荘厳な平静,それに
相応しい美と力を保持しているという一般的認識が至る所で聞かれる。西ヨーロッパにおけ
る惨めな現象への嫌悪が全体的であるとみなすことが出来る+と自分の改革の教育成果に
対する自信と楽観的見解を書いている(81)。しかし政府内部や上流社会では大学を革命運動
の温床と化しているとする認識が強められ,大学に対する早急な対策を求める声が強まっ
た去そうした中で大学を擁護した論文が大臣の許可を得て『ソヴレメニク』誌に掲載され
たことから,大臣の責任を問う声が強まりまた皇帝も彼を強く叱責した。皇帝は,ウヴァロフに1849年4月30日に学生数を300人に制限することを命じた。こうした状況下でウ
ヴァ一口フの立場は次第に弱くなり皇帝の不信も強まり,彼自身神経障害を患い,この年
10月に退職した。彼に代わってシリンスキーーシフマ卜-フが就任した。
政治的目的を以て大学への対策が矢継ぎ早に出されていった。ウヴァ一口フの退職直後
に,大臣に大学の学長選出権,\また教授を自由に解雇する権利が付与された。シリンスキーー
シフマトーフは1850年1月に「大部分全く不動産を有していないが,しかし自分の才能
や知識についてあまりにも多くの幻想を抱いている下層階級の人々、は,特にもしも度を超
して自分を駆り立てている功名心に糧を見いださないとかあるいは上昇への途中で思いが
けず障害物に出くわしたなら,不満を持つ危険なものとなりそして心底不平不満分子と化
していくだろう+(82)と下層階級をギムナジャや大学から締め出す対策を講じることを進言
した。それはやがて1852年の一段の授業料の値上げとなって畢われた。大学の授業科目
にも禁止措置がとられ, 1849年に国法の教授が禁止され,翌年哲学の世俗教師による講
義が禁止され,また倫理学と心理学を神学の教授によって講義することが命じられた。哲
学講座の実質的廃止に伴い哲学部は歴史-哲学部と物理-数学の2つに分離した。まJ=大学
に付設の教育インスチチュートが廃止され,大学に教育学講座が新設された。これはイン
スチチエートが実践的教育技術の訓練を行なってこず,教師の資質向上を図ってこなかっ
たことを理由とした。これらとともに学生及び教授に対する監視的管理システムの一段の
76
佐々木弘明
強化が図られた。
ヨーロッパの事件はニコライー世に強烈な精神的ショックを与え,彼は兄と同様宗教に
急速に傾斜していった。シリンスキーーシフマトーフの大臣就任に際して「神学があらゆ
る有益な学問にとって唯一の堅牢なる基礎である+(83)とするはなむけの言葉を送った.そ
してモスクワ大学の創立100周年記念の祝典で,この時彼の死は間近に迫っていたが,吹
のように演説した。 「余は汝らに,余がわが時代の教育の事業をいかに患っているかを,
ここに語ろう。余は教育も学問も尊重しかっ高い評価を与えている。しかし余は,道徳を
さらに一段と高く評価するものである.それがなければ教育は無益となるだけでなく,育
害とさえなるであろう。道徳の基礎,それは敬度なる信仰にはかならない。これこそが教
育に対する余の見解である。省は余を理解した。これこそ余が汝らに期待しているものに
はかならない。信仰が多くの民族の間で衰えていった。それが変わりなくわれわれの地に
存続し続けた。大昔からそうであったようにロシアでぞれが保持し続けられなければなら
ない。多くの国では人々が信念の違いに陥り,誰もお互いを理解し得ず,自身で何を欲し
ているのかさえ知らない。われわれのところではそれはないのである。余の意志は汝らに
通じたことであろうと思う。汝らがそれを遂行することを信じよう+(84)と.
上述のように大学は神学の教授による講義が主流となったが,ギムナジャにも当然強く
影響した。シリンスキーーシフマトーフは中等及び下級学校の神学が全ての教育の基礎と
するのが皇帝の意志であり,それは「信仰の暖かさと愛の辛抱強さをもって若者や子供の
知性にキリスト教の聖なる真理を植え付けそして,ひとつ言葉によってだけでなく,自分
の生活の教訓的実例によって行動しながら,善行の種子を彼らの心に播く,自分の使命の
神聖さに対する確信で貫かれた,人々によって+教育されなければならない(鉱'と述べ,
宗教と道徳教育の強化が図られていった。
1850年代に入ると古典教育に対する非難が強まるが,それは一つには実用的教育内容
を求める声,そして一つには古典教育は「想像力の欺楠や錯覚+を作り出す源であり若者
の思考を歪めているとする教養主義を否定する主張であった(85)0 1852年にギムナジャの
新教授プランが導入され,ギムナジャは教科目の相違によって3種類に分けられた。すな
わち自然科学と法律学を有するギムナジヤ,法律学だけを有するギムナジャそしてギリシャ
語を有する9つのギムナジャに。ラテン語の教授は上級の.4クラスに残されたがそれはもっ、
ぱら教父と教会作家の作品の講読を内容とした。またギリシャ語についてはシリンスキー_
シフマトーフによれば,
「直接の目的は古代ギリシャ人の作家,それも特に東方教会(ギ
リシャ正教会)の聖父の作品の基礎的学習+であった。鉱)。こうして古典語は教養手段では
なく宗教教育の手段と化していき,ウヴァ一口フの古典教主義は完全に崩壊した。
1826年シシコ-フのもとで新しい検閲令が作られたが,それは検閲官に印刷物の内容
と精神を評価することが職務に課しているなど,検察官の個人の価値観を持ち込むことを
可能にした。この法令に対しニコライー世は不満の意を示し,リーグェン公爵につくり直
しを命じた。
1828年に改めて検閲令が出され,それは検閲官の個人的な宗教や道徳の価
値観を持ち込むことや慈恵的解釈や文章の書き直しなどが禁じられ,客観的に検閲するこ
とを求めており,検閲のシステムも簡素化された。この検閲令はウヴァ一口フの時代にら
77
ニコライー世時代の教育政策
継続され,検閲そのものは政治的目的をそれほどもってはいなかった。そのために逆にチャー
ダーエフの『哲学書簡』の事件(1836年)にもみられるように,検閲で通り,後にそれ
を担当した検閲官が処分されるというケースが生じたのであった。
1848年のヨーロッパの革命的運動の第一熟ま検閲をはっきりと政治的手段に向けた。
3月12日皇帝は検閲官を召集して直接また間接的な表現であれ,あらゆる有害な出版物の
検閲を厳格にすることや翻訳や外国書籍からの抜粋を禁止すること,等を命じた(87)。そし
て4月2日には「道徳的ならびに政治的関係における出版の精神と傾向に対する最高検閲
機関の特別委員会+の設置を命じた。これが「最高検閲委員会(ヴェルホ-ヴュヌィイ
ツェ
ンズールヌイイ
コミチェート)で通称「4月2日の委員会+である。この時から国民教育
省は検閲において最高検閲委員会の続制下に置かれ,委員会から,あるいは時には皇帝直
属官房第三課からの命令を受けて,それを受動的に遂行する機関と化した。ウプアーロフ
は検閲機関そのものを省から分離して委員会あるいは第三課に移すことを提案したが認め
られなかった.こうして検閲は警察国家的性格を強めるニコライー世の残りの治世をささ
える重要な役割を担っていった。
ちなみに1848-1854年の間に皇帝の命令や検閲当局の規定によって次のことに触れて
「政府及び皇帝の行為や命令に対する,たとえ
いるものは出版禁止とされた。すなわち,
「従属についての観念の弱化へ機会を与えう
間接的であれ,いかなる程度にしろ,非難+,
るような,あるいはある階層の他の階層に対する憎悪や嫉妬の感情を引き起こすような+
「科学の基礎
小説, 「秘かに,一つの偽りのあるいは専横的な心算にだけ導きうる論文+,
にしたがって研究されそして完全に根拠があると認定される以前に,発明や発見に対して
「現行の法律の
称賛すること+,民衆の蜂起を起こさせるような歴史に関する論文や研究,
解釈や批判+,大学に対する賛否の論文,
「禁止されておりそしてそれ故に知られてはなら`
ない,外国の書籍や作品に,たとえそれが体制に忠実で思想穏健なものであっても,に対
する論評+, 「教会伝説の絶対性に対する読者の信仰をゆさぶる恐れのある論文+,非道徳
的内容の民衆文学の作品,
「二流のヨーロッパ諸国の代議員制について,それらの憲法,
選挙,法律について,議員について,国民の意志について,労働者階級の要求必要につい
て,時に学生の身勝手さによって生ずる無秩序について,兵士の発言権について+,等に関
わる論文(8B)であった。
註
(1)岩間
徹
ロシア史
山川出版1979
過去と思索(Ⅰ)筑摩書房1964
(2)ゲルツェン,金子幸彦
(3)同
前
(6)A.G.マズーア・武藤
”. H.
(8)
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(9)
TaM、黙e.
41頁
204頁
(5)ヴェ・イ・レ-ニン
(7)
286亘
全集
潔
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CTp.8
CTp.67
第18巻14-15頁
他訳
デカプリストの反乱
HⅢKOJIa貞ⅢaBJIOB耶Bl
光和堂
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1983
E)r10Ⅹa
288頁
1978
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78
佐々木弘明
(10)
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(12)
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(14)
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CTp.33
CTp.32
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AETOJIOrL4兄Ile凸aI10r耶CKO丑MtJCJIE
(16)岡沢秀虎
1984
64頁
早稲田大学大学院『文学研究科紀要』第30輯
294頁
アレクサンドルー世時代史の研究
早稲田大学出版部1987
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(25)山田吉二郎
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1902
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ロシア語新旧文体論争-19世紀初頭のロシア文壇一
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rlpOCBel□eH広見(1802-1902)
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北海道大学言語文化部『国語・外国文学研究』第29号
(26)
1987
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上
C. B.
(22)
15号1969
ミ-イル・スベランスキー考
(19)山本俊朗
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XⅨ
ジェコーフスキーとアレクサンドルー詩人の皇太子教育について一
(17)山本俊朗
(21)
13
CTp.
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早稲田大学大学院『文学研究科紀要』
(20)
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120-127
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1974
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117-118
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79
ニコライー世時代の教育政策
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宏一訳
(49)森
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ペリンスキー著作集Ⅰ
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