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講演記録はこちら - 浦安市国際交流協会

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講演記録はこちら - 浦安市国際交流協会
浦
浦安
安市
市国
国際
際交
交流
流協
協会
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ミニセミナー第Ⅱ弾
ルーマニア
報
告
書
2011 年9月 10 日
浦安市国際交流協会(UIFA)主催
ミニセミナー第Ⅱ弾
ルーマニア
報
告
書
2011 年9月 10 日
浦安市国際交流協会(UIFA)主催
目
次
参加者プロフィール
ⅰ
会場写真
ⅱ
1.講師紹介
2.講
演:ルーマニア
浦安市国際交流協会副会長
小西
堀江
英雄
副武
1
1~17
参加者プロフィール
司
会 :小西 英雄(こにし ひでお)
浦安市国際交流協会 副会長
講
演 :堀江 副武(ほりえ そえむ)
1966、1967 年 大学の交換留学生として、インド、デリー大学
ST. Stephen’s College に留学
1968 年 慶応大学経済学部卒業、外務省入省
1968 年8月 在ルーマニア大使館(語学研修、館務)
1973 年 外務本省勤務(東欧2課、経済協力第二課)
1978 年 在ルーマニア大使館
1982年
在アメリカ・シアトル総領事館
1983年
外務本省、国内広報課、東欧課(1984 年9月、浦安市に転居)
1988年
在インドネシア・メダン総領事館
1992年
在アメリカ・アトランタ総領事館
1995年
在ルーマニア大使館(参事官、臨時代理大使)
2000年
会計検査院に出向(国際業務室長)
2003年
在オーストラリア・メルボルン総領事館
2004年
在カナダ・カルガリー総領事館(総領事)
2008年
退職(その後1年間、外務本省にて非常勤の外交記録審査員として勤務)
UIFA 会員
i
会場写真
講師:堀江
ii
副武氏
ミニセミナー第2弾「ルーマニア」
1.講師紹介:小西副会長
堀江様の略歴を紹介します。外務省に入省され、ルーマニア大使館、アメリカのシアトル総領
事館、インドネシアのメダン総領事館、アメリカのアトランタ総領事館、オーストラリアのメル
ボルン総領事館、それからカナダのカルガリー総領事館に勤務しました。ルーマニアには3回延
べ 13 年間、勤務されました。今日のご講演の内容は、ルーマニアが共産主義社会から資本主義経
済へ向かう時、現地の人達の変化を話していただきます。
2.講
演:堀江副武講師
私は UIFA の会員の堀江と申します。
今日の話は、私の現役時代の仕事あるいは生活に密接に絡んでいます。外務省に 40 年間働いて
おりまして、3年前に退職しました。25 年間が外国勤務、15 年間が国内勤務でした。国内勤務
は、3年間が会計検査院に出向していました。帳簿を見ていた訳ではなく、会計検査院の国際交
流というものがあって、そちらのお手伝いをしていました。外務省においては、今ご紹介にあり
ましたようにルーマニアの専門という感じで、合計 13 年間がルーマニア勤務、国内においても2
回の合計4年間がルーマニアを担当していました。そういうこともありまして、ルーマニアにつ
ては多少ものが言えるのではないかと思っています。そのような訳で私の方からお願いして、今
日の話の場を持つことができて、たいそう嬉しく思っています。
1
ルーマニアという国について聞いたことはあると思いますが、どれだけ詳しくご存知かという
とそれほどではない方が多いと思います。そこで、ちょっと簡単に基礎的な事実をお話しておき
ます。ルーマニアはヨーロッパの東にあります。ルーマニアとブルガリアの地図がここにありま
す。これが黒海、こちらがトルコで、ここがイスタンブールです。こちらがモルドバ共和国で人
口の7割位がルーマニア人、言葉もルーマニア語です。こちらがウクライナ。ここがハンガリー、
セルビア、ブルガリアとなっており、ウクライナとモルドバは昔、ソ連でした。ソ連邦崩壊まで
は、ソ連と国境を接していました。ブルガリアは、ヨーグルトで日本人にも馴染みがあります。
ルーマニアというとドラキュラとコマネチとチャウシェスクを思い浮かべるでしょう。コマネ
チといっても何十年も前のモントリオール・オリンピックのことで、チャウシェスクが銃殺され
てからも 20 年経ちます。ドラキュラは、勿論実在の人物ではなく、ルーマニア人なのかハンガリ
ー人なのかよく分からないのですが、小説上のドラキュラは国籍不明です。ドラキュラのモデル
になったヴラド・ツェペシュというルーマニア人がいました。ルーマニア人とかルーマニアとい
う概念は新しいもので、19 世紀の半ばになってできたものです。それまでルーマニア語はキリル
文字、ロシアと同じ文字を使っていました。そういう訳で東方の色が濃かったのです。ルーマニ
アの面積は、23 万8千キロ平米で日本の2/3、本州と同じ位ですが、丸い国なので真ん中から
はどこへ行くのも近いです。人口は大体、ご多聞に漏れず減少していて、2150 万人位です。割合
に単一民族で、ルーマニア人はラテン系です。東ヨーロッパにあるからスラブ系かと思われるの
ですが、違うのです。あとは、少数民族としてはハンガリー人、それからロム、つまりジプシー
です。ジプシー人口は、1992 年に公式の国勢調査をやり、2150 万人の内、自己申告でジプシー
であると言った人が 52 万人でした。いろんな説があって、いやこの3倍はいると言う人もいて、
よく分からないのです。要するにジプシー人口が世界一多い国です。
平成 19 年1月1日、今から4年以上前にブルガリアと一緒にEUに加入しました。ルマニアも
普通の国になってしまいました。インターネットでルーマニアを検索すると沢山ヒットしますし、
東欧の一つの国になってしまいました。大統領は、トライアン・バセスクと言う人です。議会は
二院制です。首相はエミール・ボックと言います。数年前の一人当たり国内総生産(GDP)は、
ルーマニアが 7390 ドル、日本が 35000 ドル位でした。数字上で日本の1/5 でした。ルーマニ
アの経済成長率が-1.9%、インフレ率が 5.8%位です。通貨はユーロではありません。ユーロ圏
に入れてもらえないのです。レイという通貨を使っています。4.2 レイが1ユーロです。1レイが
30 円位です。現地では VAT、要するに消費税が 24%です。日本では、5%を 10%にするかでお
おもめしていますが、世界的にみたら消費税が 10%を超えているのが当たり前です。カナダは、
州の消費税が掛かり、連邦の消費税も掛かります。日本との関係では、2009 年、在日ルーマニア
人が 2470 人いました。ルーマニアにいる日本人が 289 人でした。
皆さんが若い頃、学生の頃、社会主義とか共産主義に多少の関心と憧れを持っていた世代では
ないかと思います。私もそうだったので、その辺からちょっと話を始めて、実際に私が感じた非
常に主観的な社会主義社会での生活と、それが 89 年 12 月にチャウシェスクが殺された革命でど
う変わったか、ルーマニアは、その後、どんな状況になったかを話し、できたら 30 分位質疑の時
間が取れたらと思います。まず、私自身、68 年に外務省へ入りました。60 年安保世代よりは若
いのですが、その後の安田講堂などがあり、それよりは前でした。その中間位に学生時代を過ご
しました。国内的にはあまり大きな状況はなかったのですが、国際的にはベトナム戦争がたけな
わで、中国では文化革命が始まったばかりでした。それから日韓国交正常化があり、私もいろん
2
なグループに入っていまして、資本論は読みませんでしたが、共産党宣言とか、毛沢東語録とか
は一生懸命読みました。サルトルの本とか、カミユの本とか、今考えてみると単に格好付けだっ
たのかなと思いますが、ある程度真面目に読んでいました。本を読んでいるだけではよくないと
いうので、デモに参加したりしましたが、民青に入ったり、革マルに入ったりしてゲバ棒を振り
回すようなことはやっていませんでした。これが私の一つのモチベーションでした。もう一つ、
高校時代からテレビに「パパは何でも知っている」という番組がありました。これはアメリカの
中流家庭の生活を描いた連続ドラマでした。アメリカというのは非常に民主的でいい国だなと思
っていまして、アメリカに行ってみたいなと思いました。言葉ではアメリカ帝国主義とか言って
いましたが、そんな気持も強かったのです。そういうこともあって、いろいろ考えて外務省に入
りました。
68 年はいろいろ特異な年でまだ日本も高度成長が始まって5、6年が経っていた頃で、勢いは
あったが豊ではありませんでした。68 年というのはドゴールが倒された5月革命、それから社会
主義ウォッチャーにとって非常に重要なチェコ事件がありました。これは、68 年の5月位からア
レクサンドル・ドゥプチェクというチェコスロバキアの共産党第一書記が始めた民主化・自由化
運動を、8月 20 日、ソ連軍の戦車がプラハの街に入って鎮圧した事件です。当時のドゥプチェク
以下の指導者は全部逮捕され、政権を挿げ替えられました。このときのソ連側の言い分は、いわ
ゆるブレジネスドクトリンというもので、要するに社会主義共同体を壊すような動きがあったら
それは外国であろうが何であろうが、そこに武力介入してそれを抑えることが共同体全体の利益
を守るのだという理屈で、当時は正しいものとなっていました。このブレジネフドクトリンが否
定されたのは、68 年から 20 年位経ってからで、それからようやく公式に各国に否定されました。
社会主義というのは、理論によれば、能力に応じて生産し、必要に応じて消費するというもので
す。夢のような世界だったのです。そのためにいろいろな矛盾を解消する目的で生産手段を国有
化し、集団化し、共同所有することにしました。非常によさそうな感じでした。我々の時代にも
周りには信奉者が沢山いました。中国のやっていることは全ていいのだと。たとえば、中国には、
ハエはいないんだと言われ、実はいたのですが、核実験をやっても、アメリカの核実験は悪いが
中国のやる核実験は平和のための核実験だとか、分かったような分かんないことを言っていまし
た。米帝国主義は日中共同の敵だと、いろんなスローガンがあり、私もそうだ、そうだと思って
いました。選挙があれば共産党に投票していました。
まず、ブカレストに着いのが 68 年8月 31 日、さっき言いましたチェコ事件が8月 20 日、21
日にありまして、緊張していました。チャウシェスクが政権を取って3年位経っていましたが、
最初の頃のチャウシェスクは西側に人気がありました。何故あったかというと、対ソ自主外交、
まさにソ連の言うことを聞きませんでした。西側にとっては都合のよい人間で、チャウシェスク
を取り込めば、東側の鉄のカーテンの一角を切り崩せるかもしれないということで、チャウシェ
スクもそれに乗るような素振りも見せていました。場合によっては、ソ連が毒を食らわば皿まで
ということで、チェコの次はルーマニアだと結構緊張していました。私が着いた翌日、日本の文
化放送から大使館に電話があり、ソ連軍がルーマニア国境を通過して入ってきたという未確認情
報があるが本当かと言っていましたが、ガサネタでした。その時はその程度で収まりました。あ
とは、東ヨーロッパ情勢は割合に平穏でした。私が最初感じたルーマニアの印象は、8月の終わ
りということもあって、サマータイムであって、先ず車が少なかったです。たとえて言えば、今
の北朝鮮の街角みたいな感じで、ガラっとしていました。夏の日の夕方、外は明るく、車がいな
3
いので静かで、緑が多く、非常にいい国だと思いました。最初はルーマニア語の語学研修に行っ
ていました。身分は大使館員なので外国人にとっては住み易い所でした。しかし、だんだん単な
るツーリストではなく、住民として住んでいると、大変だなということが見えてきました。ルー
マニア自体、当時、外資を入れて発展させようと外延的発展で勢いがあって、その分では悪くは
ありませんでした。我々には非常に理解がし難いこととして、政治体制が二重構造になっていま
した。例えば、北朝鮮の権力者金正日の肩書きは総書記です。なんで大統領でもなく、首相でも
なく、書記なんですか。要するに、何故か、党の第一書記とか書記長というポジションにいる人
間が最高権力者なんです。政府があって、その上に党があります。憲法上そのように決まってい
ます。共産党が社会を指導する勢力なんです。ルーマニアだけでなく、社会主義国家の憲法には
皆書いてあります。共産党の中の書記長、国によっては第一書記が最高権力者であって、一番偉
いのです。昔 64 年頃でしょうか、フルシチョフが変わって新しい体制になったとき、ソ連のトロ
イカというのがあって、ブレジネフが書記長、コスイギンが首相でボドゴルヌイが最高会議幹部
会議長となり、そのときはそのようなトロイカ体制でした。ルーマニアもそういう時代がありま
した。書記長と国家評議会議長という国家元首と首相がいました。政府と言うものはありました。
これは、閣僚評議会と言う名前でした。政府にはものすごく沢山の省庁があって軽工業省、金属
工業省とか、各産業部門に一つずつありました。経済は全て国家が運営します。いろんな産業部
門にそれぞれ省があって、そのトップは大臣でした。例えば、農業食品工業水利省というのが一
つあり、国防省、化学工業省、教育省、電力省、外国貿易省、林業省と、それぞれの大臣はざっ
と 30 人位いました。副首相という肩書きを持った人も9人位いました。この中で行政機関の長で
ある首相は、さすがに相当ハイランクで、党のランクも2番目か3番目ですが、一般の閣僚にな
るとガタッと落ちてしまいます。党中央委員 300 人の中の一人になってしまいます。党の中央委
員会があって、その中の一人です。それ以外に 200 人位の中央委員候補がいました。変な話です
が、場合によっては、党の序列から言えば、大臣が中央委員候補で次官が中央委員と逆転してい
るケースもありました。政府というのは、共産党の決めた施策の執行機関でした。大臣のステー
タスもそれ程高くはありませんでした。政府以外にまず共産党の書記局があり、7~8人の書記
がいて、産業担当の書記とか、イデオロギー担当の書記とか、外交担当の書記とか、人事担当の
書記とかが膨大な権限を持っていました。外交担当の共産党の書記は、外務大臣よりはるかに偉
いんです。そちらの書記の事務局は、外務省なんか鼻にも掛けていないという風でした。例えば、
日本から共産党の議員団が来たことがありまして、たまたま空港で会ったルーマニアの外務省の
日本担当官に聞いたら、彼は何も知りませんでした。日本から国会議員が来るんだということを
ルーマニアの外務省の日本担当官が全然知らないのです。要するに、俺達、党のやることにいち
いち政府は口出しをするな、我々は必要なことだけを命令する、そんな感じでした。ルーマニア
には党執行委員会がありまして、10 数名で週に2回ありまして、そこがどんどん決めていきまし
た。党の中央委員会は 300 人いて、中央委員会を年に3回か4回やり、これも一種のお祭りでし
た。党大会は4年に1回やりました。2 千何百万人の人口に対し、共産党員は2百万人以上です。
子供を含めて国民の 10 人に一人以上は共産党員です。何故こんなに多いかというと、つまり共産
党に入っていないと出世ができません。そういうことで、少しでも出世がしたければ党に入らざ
るを得ないのです。共産党時代ですから、自由がありませんでした。
小話がありました。まず、共産主義って何だと。共産主義の根本の理論は、唯物弁証法、弁証
法的唯物論だと。弁証法とは、テーゼがあって、それを否定して、またそれを否定されて、螺旋
4
的に世の中が変化していくのが弁証法の理論です。ソ連共産党の場合は、これが非常によく当て
はまっています。最後のロシア皇帝ニコライ二世は、頭に毛がふさふさとしていました。それを
否定したレーニンには、毛がありません。レーニンを継いだスターリンは、頭に毛がありました。
スターリン批判をしたフルシチョフは、毛がありませんでした。次のチェルネンコは毛がありま
した。次に来たブレジネフには毛があり、次のアンドロポフには毛がなく、チェルネンコには毛
がありました。ゴルバチョフは毛がありません。次のエリチンは毛があります。しかし、社会主
義の破綻した時代のプーチンは毛があります。
もう一つ、チェコ事件に関して知れ渡っていたジョークがあります。共産党ジョークの最高傑
作です。チェコがソ連軍に占領され身動きが取れなかったとき、チェコの政府代表団がソ連に行
ってお伺いを立てました。「チェコも海軍を持ちたいと思っていますが、異存はありませんか。」
ソ連は、チェコが海軍を持とうが持つまいがちっとも脅威にはならないのでどうでもよかったの
ですが、チェコには海がありません。
「どうして海軍が必要なんだ。」と聞きました。
「我々も海軍
創設に当たっては、ソ連のことをよく調べさせてもらいました。お国には文化省という立派なお
役所があります。」・・・つまり文化のないソ連に文化省があることを皮肉ったものでした。
結局、ルーマニアを含めてソ連の各国は、皆嫌々ながら共産主義国家にされてしまい、喜んで
共産主義に留まっていようとする人間は、実はいなかったということです。
また、ジョークですが、チャウシェスクが党の要職に就いて立派な家に住みました。ドクトル・
ジバゴを読んで分かるように、結局、前の政権を倒して前の金持ちのいた所に来て入り込んで、
そこに住むことになり、チャウシェスクは豪邸に住みました。田舎から両親を呼び寄せると、両
親はびっくりして、
「よくぞこんな立派な家を持ってうれしい。しかし、絶対に共産党に言っては
いけない。あいつらは、何でも国有化してしまうから。
」
経済に関しては、生産手段を国有化することで、大きな工場は全て国営工場です。店とか、サ
ービス業の小さいやつとかは、協同組合を作りました。農村は、土地や何かを共同で拠出して、
共同農場を作って、自分たちで出荷しました。何をどの位作るかは上から来ました。個人が自分
の自由意志で何かをすることはできませんでした。結局、悪平等でやってもやらなくても同じだ
ということになりました。そうすると、最低限のノルマだけ果たしていればいいんだとなります。
ノルマは、質を問わず、量です。リンゴを何トン作れと言われれば、傷があろうが決められた量
だけ作ればよいとなります。そのような人間のやることには、市場メカニズムが利かないから、
小回りが利かず非常に不便です。5か年計画で決めたとおりにしかなりません。決めたとおりに
なればまだいいのですが、ならないこともあります。卑近な例では、私がルーマニアに行って一
番困ってしまったのは、辞書がなかったことでした。ルーマニア語に関しては何も知識を持たず
に行きました。外国人用の語学コースに入ったのですが、私ができたのは英語だけだったので、
ルーマニア語・英語辞典はあるかと聞いたら、ないとのことでした。いつ出版されるかも分から
ないとのことでした。ルーマニア語・フランス語辞典はあったので、第二外国語で習ったフラン
ス語でルーマニア語を勉強しなければなりませんでした。しかも、時々フランス語を日本語に直
さなければなりませんでした。非常に不便な思いをしました。ああいう国ですから、もちろんル
ーマニア語の聖書もありませんでした。チャウシェスク演説集なんかは沢山溢れていました。例
えば、本に関していうとそういうことでした。食べ物に関しては、決められたものしかありませ
んでした。共産主義、社会主義では、バラエティーはなくても必要最低限のものはあり、贅沢さ
え言わなければ、段々よくなるのかなと思っていましたが、そうはいきませんでした。ちょっと
5
でも資本主義の空気を味わった人間にとっては物凄く不便でした。何を買うにも行列です。大体
20 分位の行列は覚悟しなければなりませんでした。肉を買う時は特にひどく、1時間位になりま
した。
これもジョークですが、あるとき、店の前に行列ができました。チャウシェスクがその前を通
ったとき、
「あなた達は何故並んでいるのか。
」と問うと、
「2時間も前から肉を待っているのだ。」
「そうかすぐ解決してやる。」いなくなり 30 分位するとトラックがやって来て、皆が喜んでいる
と、何人もの男達がトラックから椅子をどんどん降ろしたということです。座って待っていろと
いうことでした。
私自身感じたこと、例えば、クリーニングのことです。人口2百万人の街です。クリーニング
屋に行くのに何キロも行かなければなりません。行きました。また、行列です。
「お前のは 3 日後
にできるから、その頃に取りに来い。」という紙切れを貰いました。私は、その日がたまたま都合
が悪く、4日目に行きました。「何で来なかった。」と怒られるのです。保管料を払えと言われま
した。普通ならそんなことをやればつぶれますが、そこしかないのです。何か月かしてから、ま
たそこへ行きました。三日後に行ったら、できていませんでした。ちょっと文句を言うと、何や
ら出してきて、「当店は仕上がり期日には責任を持たないと書いてある。」とのことでした。要す
るに、このような状況でした。売ってやるという態度でした。一方的に強いのです。当方は、行
列をして、頭を下げて、売ってもらう状態でした。どうでもいいものならまだしも、食料とか、
是非必要なもの、ノート1冊買うのにも行列していました。当時は、レジ袋はありませんでした。
スーパーマーケットもありませんでした。一般人は自分で袋を持って歩いていました。行列があ
ったら、「これは何の行列か。」と聞いて、必要なら並びました。レジ袋がないことはエコのため
にはいいことでした。とにかく行列して、これをくれと言って、紙切れを貰って、次の行列に並
んで金を払い、ようやく物が貰えました。物がないので、例えば、バナナです。ルーマニアでバ
ナナは取れませんが、世界中にバナナの取れない国は沢山あります。当時でも、西側では非常に
ありふれた安いものになっていました。ルーマニアにおいては、バナナは年に1回しか出回りま
せん。大体2週間位、新聞でバナナが入荷したと出ます。バナナの料理方法とか食べ方も出ます。
そんなものまで記事に出ました。今年、ようやくバナナを口にすると、次は 1 年後になります。
イチゴなんかも5月、6月のシーズンになると物凄く大量に取れます。私も一度イチゴでお腹を
一杯にしたいと思っていたので、イチゴを大量に仕入れました。国内で売っているものは安いの
で、たくさん買ってきてどんぶりに入れて、イチゴだけで食事をする贅沢をやってたんですが、
5月、6月が過ぎるとぴたっとなくなってしまいました。サクランボもそうでした。冬に西側に
行って、イチゴを買ってきてルーマニア人にあげたら、「一体どこで見つけてきたんだ。」、「外国
だ。」、
「外国にはこんなものがあるのか」とびっくりしていました。消費生活に関しては大変レベ
ルが低かったです。中国製品は、今でこそ結構いい物が出ていますが、40 年位前の中国製品は、
安かろう悪かろうでした。ヒーロー・英雄という万年筆がありました。日本だったら中学生が使
う程度のものでした。これが向こうでは、我々がパーカーを持つような感じでした。それから居
住の自由はありませんでした。ブカレストの人口が増えては困るという事情はあるのでしょう。
学生が卒業すると、成績順にどこの企業に就職できるかが決まります。ある程度成績が下になる
とブカレストでは就職ができません。自分の希望する所には住めなくなります。そいうこともあ
りました。最初にブカレストに行った時に、非常に車が少ないと言いました。本当に少ないので、
走っている車は目に付きました。タクシーはヴォルガというソ連製の車でした。それ以上に目に
6
付いたのは、ベンツでした。全部黒塗りのベンツでした。しかも、後部座席はカーテンで覆われ
ていました。外からは誰が乗っているかは見えません。ベンツに乗っているのは、党や政府のお
偉方だけで、特権階級、赤い貴族と言われていました。
当時から、共産党の幹部になると自分たちの特権を維持することが一つの重要なモチベーショ
ンになっていました。それから、閣僚だけでなく国会議員の地位も低かったです。三権分立の考
えがありません。一番偉いのが共産党でした。国会は一院制でした。年に2回位、合計4日間位、
春に2日間、秋に2日間開かれました。それまでに決まったことを全部法律にしました。拍手で、
大政翼賛会みたいでした。国会はあって無きがごとしでした。国会議員は、皆地位が低かったで
す。日本から国会議員団が来ると、当然カウンターパートは国会議員でした。外国人用にある議
長とか、何人かそれ用の人がいて、一応内政問題や外交問題について話のできる人間がいました。
何故低いかと言うと、一つの党だけの選挙で、候補が一人で信任投票になっているためでした。
私自身は投票場を覗いたことがないので分からないのですが、まず行かないと駄目なんです。投
票率が 99%、支持率が 99.5%。不支持が何となく分かっちゃう感じで、記名投票ではないようで
すが、要するに意味が無いんです。そんな選挙で選ばれた議員ですから、ステータスは低かった
です。日本から議員団が行っても大したことはないんですが、逆に党から行くと、共産党のハイ
レベルの人が対応するんです。自民党の桜内幹事長が来たこともありましたが、英語で言うと
secretary general 、ルーマニアでは書記長になります。さすがにチャウシェスクは出てこないの
ですが、これに準ずる位の書記が出てきました。だから自民党の議員が来たとなると、大臣より
はるかに格の上の人間が出てきました。結局、何においても党が優位でやっていました。
最初の 68 年に行ったとき、ルーマニア自体が外的に拡大していたので、矛盾は孕みながらも表
面化していませんでした。次に 78 年から3年程行ったんですが、段々おかしなことになってきま
した。結局、工業化して、それを輸出して外貨を稼いで、それで外国からの借款を返そうと思っ
ていました。しかし、そこがルーマニア人のいい加減なところなんですが、要するに東側では売
れるが西側では売れなかったんです。例えば、ダチアという国産車を作りました。年間何千台と
いう程度のものでした。安いんですが、価格競争力だけでは売れません。いろいろな物を作って
も、結局、どんどん借金が膨らんでしまいました。これを返すために先ずやったのが食料の飢餓
輸出でした。それからエネルギー輸入の縮小をすることになってしまいました。ルーマニア自体
が産油国で原油を生産していたのですが、結局、輸入になってしまいました。食料は足りないし、
エネルギーは足りないということで、段々人々の生活が困窮していきました。こうなるとどうな
るかというと、ますます物を売る人がいばってくるのです。それと同時に、特権階級が自分達の
体制とかを維持しようと、段々変なことになってきました。例えば、外国人と話をしてはいけな
くなりました。これは立ち話も含みます。どうもよく分かりませんが、タイプライターを全部登
録することになっていました。タイプライターで勝手なことを書かれて、ばら撒かれては困るの
でしょうか。今みたいにインターネットがあったら、もっと大変だったでしょう。当時は、その
程度でした。通信手段もその程度でした。困ったことに、最初、私も研修で学校に行った時、時
間割を大きく書いて張り出してくれればいいのに、万年筆で書いたような時間割がぽんと置いて
あって、それを皆が押し合いへし合いして写しているのです。この辺が遅れていました。情報操
作も露骨で、自分に都合の悪いことは何も言いません。例えば、ソ連のペレストロイカです。86
年位から始まりました。これも、ルーマニア国内では何も言いません。自由化もそうでした。そ
れからソ連軍がアフガニスタンに侵攻したことも言いませんでした。どうでもいいような、日本
7
で春闘が行なわれたとか、こんなことが出ました。日本の春闘がルーマニアや世界情勢にどれだ
けの影響を与えているか分かりませんが。それからもっと露骨だったのは、写真の操作でした。
スクンテイア(火花の意)というルーマニアの共産党の機関紙の一面にチャウシェスクとエレナ
という奥さんの写真が出て、誰それに会ったという記事でした。チャウシェスクとエレナとお客
は写真に写っているのですが、その後ろは露骨に真っ白に消されていました。消し方が下手だか
ら人間の形に白くなっていました。その場にいた筈の人が消されていることになります。逆に、
その場にいなかった人間の写真が埋め込まれていることもありました。チャウシェスクが青年の
頃、こういう集会に参加したというのが出ていました。チャウシェスクのその頃の写真をそこに
貼り付けていたのです。毎年、指導者のカリスマ性を高めるためにいろんなことをやりますが、
エレナ・チャウシェスクの誕生日は、大々的に一面トップに出ます。普通だと、誕生日というか
らには、エレナ第一副首相は何歳になりましたとなるのですが、年齢は一度も見たことがありま
せん。だから、エレナさんが何歳なのか最後まで分かりませんでした。旦那のニコラエ・チャウ
シェスクは何年に生まれたと発表されていました。結局、二つくらい姉さんだったらしい。それ
を本人が嫌っていたのか、理由は分かりません。そういうことを片方でやっていながら、言いた
くないことは隠しておきました。非常にアンバランスで露骨でした。
私が二度目に赴任したとき、秘密警察に関わるいろんなことが露骨にありました。外交団は、
外交団だけでアパートに住んでいます。あるとき、ドライブから家族と一緒に帰ってきたら、私
のアパートは一階でしたが、半分位の煉瓦が寝室に投げ込まれ、ガラスが割れていました。外交
団の住居なので、警備の警察官が 24 時間張り付いていました。だからそういうことはあり得ない
ことです。さすがにこちらもびっくりして、警備の警察官を連れて来て、
「これは一体何だ。どう
してこうなったんだ。
」と抗議したのですが、らちがあきませんでした。結局、後で考えると、何
でそうなったかと言うと、思い当たる節がありました。その日、ドライブに行って、その帰りに、
私の車を追い越した車をまた追い越そうとしたんです。その頃は、彼等はベンツをやめて国産の
ダチアという車に乗っていました。三桁の番号の車は政府の要人の車です。それが最初分かりま
せんでした。私の乗っていたのが西側の外車のボルボでした。追い越す時に、させまいとするの
で、どけどけとライトで嫌がらせをしたんです。それが気に食わなかったんでしょう。車で戻っ
たときに、警官に止められて何か言われました。家に帰ったら煉瓦が投げ込まれていました。い
かにもでき過ぎた話でした。私の車のナンバープレートから調べて、住んでいる所にすぐ通報さ
れて、少し嫌がらせをしておけということでやられたのでしょう。
外交団にはこれに類する話が他にもありました。出張して家族もいないときに、何者かが入っ
てきてコーヒーを飲んで出て行って、その跡をはっきりと残していったという話もありました。
何も盗まれてはいませんでした。お前の行動は常に見張っているので、あまり勝手なことはする
なよというウォーニングだったのでしょう。
役所の運転手を連れて、業者から車を引き取りにウイーンに行ったときでした。飛行場に着い
て、外に出ようとしたら、変な男が二人やって来て、ルーマニア語で「ブカレストの天気はどう
かね。
」といきなり話し掛けてきました。私なんかあまり気にしていなかったのですが、運転手が
ビビッて、
「奴らは秘密警察だ。」と言いました。
「お前達の行動はこれから俺達が見張るから、亡
命とか変なことを考えるなよ。
」とかの警告なんだということでした。実際、日本の会社の事務所
で働いているルーマニア人が亡命しちゃったとかいうことは時々起こりました。社会主義という
のは、あまり自由がありません。人々から嫌われていたんですが、89 年になりまして、ご存知の
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とおり東欧各国でいろいろなガタがきて、民主化が行なわれ、その半年間で東欧諸国が崩壊して
しまいました。その元を作ってしまったのは、ソ連がペレストロイカをやって墓穴を掘ってしま
ったということがあるんでしょう。通常の感覚の人間では、社会主義というのはゴメンというこ
とで、いずれもたなくなっていたのでしょう。ルーマニアは一番厳しく社会主義をやっていまし
た。
一つのジョークがありました。わが国も少し国を解放して外国からのツーリストを増やそうと
いうことになりました。そうすれば外貨獲得にもなるし、いいんじゃないかということになりま
した。そのために何をしたらいいか。いろいろ共産党で討議した結果、レストランシアターとい
うものが西側にあるらしいことが分かり、これがいいんだとなりました。1年間準備してレスト
ランシアターをブカレストに開きました。そしたら最初の1週間は物凄く人がやってきました。
段々減り始めて、一か月もすると誰も来なくなりました。びっくりしてなんでこんな風になって
しまったんだろうと、その原因究明の会議を開きました。党の方から、
「レストランのマネージメ
ントに関して、あなた達はちゃんと西側の人間が食えるような立派な料理を作ったのか。」と質問
されました。
「シェフはちゃんとフランスに修行に出しました。」
「ウェイターは、どうかね。ウェ
イターは、社会主義国ではぞんざいで態度が悪いと言われているが、大丈夫かね。」「ウェイター
は、皆東ドイツに修行に行かせてあるので、礼儀が行き届いています。」「それでは、踊り子はど
うかね。」「踊り子こそレストランシアターの中心です。だから、踊り子の選出には力を入れてい
ます。全員が党員歴 40 年以上の人になっています。
」
89 年にああいう形でルーマニアの社会主義が倒れました。それで何が起こったか。当初は肉も
食えないと言っていたが、一挙に貯蔵していた肉が出てきました。少しばかり食料事情が改善さ
れました。誰でも自由に外国に行っていいよということになりました。ルーマニア人は、外国か
ら見て来てもらっちゃ困るという国民で、NO ビザで行ける国は非常に限られていました。トル
コ、ユウゴスラビアなど東側の国へは行けたんでしょう。ユーゴに行けば、多少、西側的な物が
あったのでしょう。トルコも同じでした。個人が出稼ぎに行ったり、買出しに行ったりして、物
を買ってきて売り払うことをやっていました。小さな商売を始めた連中は少しいるんですが、そ
れまでの生活を続ける人が大部分でした。
これだけ時代が変わったのでよくなるかと思いましたが、よくなりませんでした。まず、権力
の座に着いた連中は、結局は共産主義者です。チャウシェスク時代にちょっとチャウシェスクに
疎まれて地方に飛ばされていたとか、首になっていた連中が出てきました。その中で、大統領に
なったイオン・イリエスクという人がいます。党の書記位になった男ですから、ベスト・テン位
には入っていたのでしょう。こういう人達も結局は、頭の中が共産主義の手法なのです。1か月
位経ってしまうと、さっき 200 万人以上の党員がいると言いましたが、いろいろな組織の中枢は
全部共産党員になってしまいました。共産党員を駄目だと言って排除してしまうと、人材がいな
くなってしまいます。強いて言うと、大学の先生で自然科学系統の先生は、共産党に入っていま
せんでした。次の大統領になったコンスタンティネスクは地質学者で、全く政治とは無縁でした。
人材がいなかったので、官僚には共産党の人間を連れて来て、やらざるを得ませんでした。
革命政権は何かやろうとしたけど、碌なこともできなくて、知識人や学生が反対して大学の中
でデモが始まりました。イリエスク、当初、救国国民戦線を作って総選挙をやるまでは、我々が
やりましょうと、彼がやったことは、軍隊や警察を使って鎮圧するのは、勿論、やろうとすれば
できたんでしょうが、それをやったらまた昔と同じではないかと考えて、変なことを考えたんで
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す。炭鉱夫を何百人、何千人か呼び寄せて、彼らはヘルメットを被って、棒を持っています。そ
の彼らがトラックでブカレストにやって来て、デモをやっている連中を排除してしまいました。
それは、勿論、やらせなんですが、彼らに言わせると見るに見かねてやって来た。彼らのやって
いることはなんの役にも立たない。そんなことを二度、三度とやりました。それですっかり西側
と国民の信用を失いました。
複数政党による自由選挙とかがだんだん行なわれるようになりました。西側の物も入ってくる
ようになりました。例えば、西側に金持ちの親戚がいるような人はその資本を入れたり、あるい
は悪いことをして国営工場を乗っ取ってしまう人もいました。ルーマニア人が何でもいいよと飛
び付いたのは、外国旅行、輸入品、それから車でした。ただ、車は高いですから、まず中古車で
した。あっという間に、街中に、それまで殆ど車の無かったブカレストに中古車が溢れ、交通渋
滞を引き起こすようになりました。面白いのは、共産主義時代も犬を飼ってはいけないという法
律は無かったのですが、犬がやたらに増えました。それを途中で捨ててしまうので、野良犬が物
凄く増えました。私は、95 年に転任でルーマニアに行ったんですが、そのとき、アメリカには犬
を跳ね除ける超音波を出す物があるそうだがそれを買ってきてくれと頼まれました。アメリカで
は、郵便配達の人などが持っていました。それを買って持って行きました。野犬がいて、一緒に
しては悪いのですが、昔はいなかったストリートチルドレン、それから乞食もいました。結局、
資本主義的ネガティブなものが直ぐ出てきてしまいました。犬に関しては、しょうがないので政
府が野犬狩りを一生懸命やっていると、動物保護をしていたブリジット・バルドーがやってきま
した。当時のコンスタンチネスク大統領にとってバルドーは青春時代の大スターだったので、喜
んで会いました。それから今は携帯電話が相当に普及しているようです。
ルーマニアは、政治体制、経済体制を整えなければいけないのですが、政治体制では民主主義
の経験がないのでなかなか理解できませんでした。三権分立というのが分からなくて、なんで最
高裁の長官がそんなに偉いのかも理解されませんでした。ルーマニアでは、最高裁長官は、法務
大臣が任命していました。ですから、最高裁長官もせいぜい次官クラスでした。そういうことが
理解されませんでした。95 年の5月、とにかく EU に入れてくれと、ルーマニアの全政治勢力が
合意して加盟申請を行ないました。EU に入れたのが 2007 年、申請してから 12 年掛かりました。
EU に入るためにはいろんな条件がありまして、まず、政治体制を民主化して政治制度を西側並
みに改めろとなりました。これまでのように複数政党を認めないとか、信任選挙とかは駄目だと
いうことです。こういうことは受け入れられました。その結果、どういうことが起こったか。凄
い小党乱立になり、こういうことがありました。私が行ったときに、全体の議席の4割位を取っ
た第一党で連立政権を作り政府を組織した農民党がありました。次の選挙で全員がいなくなって
しまいました。4割位を占めていた、最大与党の全員が落選するという信じ難いことが起こりま
した。経済的には、凄い混乱でした。インフレ率が 100%、150%。一般市民にとっては恐ろしい、
いや恐ろしくないのでしょう。共産主義社会では、あまり貯金のできる生活をしていなかったの
で、インフレが年率 150%あっても、自分の持っている銀行預金がなくなることはありません。
元々ないのですから。銀行口座なんかもっていない人が大部分だったんです。インフレ率が 100%
で預金金利が 100%でした。為替レートもどんどん悪くなって年下落率が 150%位になりました。
日本みたいにデフレだとか、円高だとか外貨が溜まりすぎるとか、まさに何を言っているのかと
いう状況でした。贅沢な悩みなんでしょう。当時、もう既に消費税は 10 何%になっていて、物価
も結構高かったです。スーパーマーケットがどんどんできてきました。日本においてはスーパー
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というものは、普通の人間が買物する所です。スーパーマーケットとはルーマニアの一般市民の
入らない所でした。物が高いです。その代わり、今まで無かったものが売られていました。スパ
ーマーケットの前には乞食が一人、二人座っていました。そこに行く豊かな人間から施しを受け
るんです。
EU に入るためにはどんなことが必要かということで法整備をやらなければいけませんでした。
ルーマニアではホモセクスシャルは違法でした。EU に入るためにはホモの人権を認めなければ
いけません。法律的には、ロム(ジプシー)に対する人権が認められなければいけません。もっ
と面白いのは、民間レベルでどういうことが起こったんでしょうか。一番顕著なのは、マクドナ
ルドが開店するということでした。西側のマクドナルドとかケンタッキーフライドチキンとかピ
ザハットが、私がいた 95 年位からでき始めました。マクドナルドが有難かったのは、サービスが
ちゃんとマニュアル化していて、共産主義社会とは全然違うサービスをしてくれることでした。
それからトイレがきれいでした。特に、地方都市に行ってマクドナルドがあると、トイレがきれ
いだということでホットしました。西側のチェーン店がどんどん入ってきました。それから、経
済的には、証券取引所を開設しなさい、独占禁止法を制定しなければいけませんなどと、EU に
入るためにはいろんな条件を突きつけられて一つずつやっていくのに時間が掛かりました。ルー
マニアにとって、EU に入るということは何故それほど重要なのかというと、これは実際にルー
マニア人になってみないと分からないのですが、同じヨーロッパ人の中でも微妙な人種差別感覚
がありました。フランス、ベルギー、イギリス、その辺の人から見ると、バルカンの人間という
のは、一段下の人間と見られているそうです。面と向かってそんなことは言いませんが、ヨーロ
ッパ人ではなくバルカン人だと見られています。宗教だって東方教会だとか、トルコ人の血がま
じっているんだね、とか。ということで一段下に見られています。逆にルーマニアから見ると、
ちょっとコンプレックスがあります。EU に入ることによって自他共に自分たちはヨーロッパの
一員だと認められることになります。メンタルな要素が非常に強かったと思います。
EU に入るには、これもいろいろとジョークがあります。西ヨーロッパと東ヨーロッパには時差
が1時間あります。サマータイムに移行する時間がちょっとずれていました。それである期間、
西と東と同じ時間になってしまいました。
「本日をもって、ルーマニアも西側の仲間入りをしまし
た。」というジョークがありました。
これは自由化後だったんですが、国会で、
「選挙では政権を取ったら国を前進させると言ったの
に、実情は全然前進していない。あれから4か月も経っている。
」と野党の議員が首相に詰め寄り
ました。首相は、
「あなたの考えは間違っている。4月1日をもって一斉に1時間進んだじゃない
か。」
ルーマニア人はラテン系だということで仕事がチャランポランなんですが、自分たちが遊んだ
り、楽しんだりすることにはエネルギーを使います。お金が無くとも、ちゃんと3週間の連続休
暇を取って、海とか山に行って休んできます。最初に一人当たり GNP が日本の1/5と言いま
したが、生活レベルからいったらそれ程ではなくて、日本より高いとは言いませんが、結構楽し
んでいました。
テ
グ
日本からルーマニアの関係を言いますと、韓国の大丘の世界陸上で金メダルを取った室伏広治
のお母さんは、ルーマニア人で槍投げの選手でした。
ルーマニアと日本の関係で、共産主義時代に外国人と結婚する場合は、外国人男性とルーマニ
ア人女性が結婚することが多かったですが、日本人とは非常に少なかったです。大体そういった
11
問題が起こるのは、ルーマニアの女子学生でした。20 年から 30 年位前ですが、日本人を含めて
外国人と結婚したいと言うと、まず、お金を払いなさいと言われました。4,000 ドルから 5,000
ドルでした。何か人身売買のようですが、言い訳は、教育費だということでした。本来だったら
その女性には、ただで教育して、卒業後国内で働いて貰って、国のために還元して貰う筈だった
んです。国外に出ちゃったらそれができなくなります。だから使った教育費として 4,000 ドルか
ら 5,000 ドルをとにかく払えということになります。
ある日本人がいました。この人は、外国人用のホテルで女性と知り合って、結婚したいと言い
出しました。普通は、外国人と結婚したいといってもお金と最低1年以上待たなければなりませ
んでした。しかし、このケースでは直ぐに許可が出ました。お金も払う必要がないと言われまし
た。この女性は大学へ行っていないからだということでした。当局の筋は通っていました。
社会主義ということに戻りますと、現在、世界で社会主義の看板を掲げている国は4つくらい
です。キューバ、北朝鮮、中国、ベトナムです。結局、キューバがある意味で、もともと社会主
義理念に忠実なのかなと思います。その代わり、経済発展も遅れているけれども、強いて言えば、
カストロのカリスマ性で国がもっていたようなものです。カストロ兄弟が両方ともいなくなっち
ゃうと体制がもつのかどうか分かりませんが、あすこはある意味人間的な社会主義が行なわれて
いました。一番グロテスクに変身したのが北朝鮮だと思います。ごく一部の特権階級の権力保持
が第一の目的になっているのでして、チャウシェスクも世襲による権力保持を計り、失敗しまし
た。金正日一族の世襲制とか権力保持、・・・。それで中国は非常に最近経済が発展してますが、
これは社会主義の観点から見ると市場経済で発展しているので、矛盾です。社会主義だからでは
なく市場経済だから発展したのです。社会主義という看板を掲げているので、いざというとき、
思想の統制とかいろんなコントロールがやり易いという国家から見れば利点があるのかもしれま
せんが、人間の究極の自由とかから見たら、まだ民主的ではありません。ベトナムは、私はよく
知りませんが、遅れて中国をフォローしているのかなという感じがします。「社会主義」中国は、
今後も、以外にしぶとく生き延びるのかもしれません。
あと5分くらい観光案内をします。ルーマニアは、ルーマニアに限らず東欧諸国は、かつてセ
ックスアッピールのない国々であるということで、ちっとも行ってみたいなという気を起こさせ
ません。最近、西ヨーロッパは行き尽してしまい、行く所がないから東に行こうという人が少し
現れてきました。それでクロアチアなんていう国に人気があるようです。ルーマニアの観光要素
は幾つかあるんですが、大体日本人のツアーが組んだものは、ルーマニアだけではだめで、ルー
マニアとブルガリアと一緒に回ります。ブカレストからちょっと行ったブラッショフは、ドイツ
人が作った町です。そこからちょっと奥に入った所のドラキュラの城と言われるブラン城、これ
がドラキュラのモデルになったブラド・ツェペシュ王とあまり縁のない城でした。トランシルバ
ニアのオースツリア・ハンガリー帝国時代に作ったお城とかそういうものを観光地の山々と見せ
るのが一つ。もう一つは、ユネスコの世界遺産指定された外壁に壁画がある修道院がモルドバ地
方に5つ、6つあります。それから、ドナウ川が黒海に注ぐ所のデルタ地帯があります。ここは、
鳥とか野生の宝庫です。
それからバルカンという言葉がありますが、地理学的にはドナウ川より南側がバルカンになり
ます。ある意味、ルーマニアはバルカンではないのかもしれませんが、ルーマニアの海岸地域は
バルカンになります。ブルガリアはバルカンです。旧ユーゴスラビアもバルカンです。
何でもご質問があれば聞いてください。これで終わります。
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質疑応答
Q1:第二次世界大戦のとき、ドイツはルーマニアの石油を頼りに戦いました。石油ショックの
とき、ルーマニアが石油を売って儲けた話は聞きませんが、石油はどうなったんですか。
A1:ルーマニアは、明治時代の終わりに近代化が完成しました。面白いことに、ルーマニアの
王様はルーマニア人ではありませんでした。ドイツ人でした。外国から王様を連れて来て王様
にしたのです。第二次世界大戦のときは、枢軸側に就いてしまいました。当時の原油生産高は
600 万トン、当時のレベルからいえば相当の量でした。石油地帯は、ブカレストの北方約 80 キ
ロあたりですが、ここに石油の精製工場もありました。連合軍がここを爆撃に来ました。その
途中で撃墜された英国人飛行士の墓が 100 位ありましたか。それだけヨーロッパにおける石油
は不足していて、産油国ルーマニアとハンガリーが重要だったということです。私がルーマニ
アにいた 68 年から 70 年頃の原油生産高は、年間 1300 万トンでした。当時のルーマニアの需
要量の半分位でしたから、オイルショックのときはもう駄目でした。面白いことに、ルーマニ
アの石油は、6000m位の穴を掘って出てきた石油を無理やり吸い取っていました。そのため、
穴を掘る技術は高く、青函トンネルの工事が難航している時、穴を掘ることに関しては自分た
ちは少しノウハウがあるから助けましょうかと、言ってくれました。
Q2:ルーマニアでは民族間のゴタゴタはなかったのでしょうか。
A2:無いかというとそうでもないですが、もう EU になって国境がなくなってしまったので、
もう必要なくなったんです。ルーマニアの政党にハンガリー人民主同盟というのがあります。
ハンガリー人の政党です。ハンガリー人の人口に見合うくらいの国会議員を送っています。こ
の辺も実際にルーマニア人にならないと分からないのですが、微妙な民族間の優越感なり、コ
ンプレックスなりがあるみたいです。ユダヤ人というのは割りに嫌われています。なんで嫌わ
れているのかというと、自分たちより優秀だから嫌われているようです。それからルーマニア
からいえば、ブルガリア人は田舎もんだと馬鹿にしていますが、ハンガリー人には優劣両面の
コンプレックスを持っています。どこでも隣の国とは仲が悪くて、よく言われるポーランドと
チェコは仲が悪いがポーランドとハンガリーは仲がいいのです。どこまで本当か分かりません
が。これからはグローバリゼーションということで、大分少なくなるのではないでしょうか。
Q3:ルーマニアはラテン系なのですか、スラブ系なのですか。
A3:ラテン系ですが、もともとルーマニア人の祖先は出処進退が分かりません。ダキア人とい
う古代民族がいました。これには紀元1世紀、2世紀の初め位ですか、ローマ皇帝のトラヤヌ
スがダキアを征服してしまおうとドナウ川を渡って2回戦争をやりました。106 年から 271 年
までローマ軍が駐屯しました。その間にローマ人とダキア人の混血が行なわれてローマ化して
しまいました。ところが、ドナウ川の北を保持していくのがローマにとって負担になってきて、
7世紀の終わりにそこを放棄していなくなりました。しばらくルーマニア人は留まったのです
が、民族大移動の中でルーマニア人は歴史から姿を消してしまいました。それから 1000 年経っ
て、13 世紀に忽然とルーマニア人が現れました。ルーマニア人という名ではなくワラキア人と
してでした。その間にラテン系の特徴が無くならなかったのが不思議で、それが保持されてい
たというのが奇跡です。民族大移動でスラブ人などが入ってきましたが、スラブ語の影響はあ
りますが、言葉はラテン系でした。イタリア語と近かったです。イタリア語では「アリベデル
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チ」、ルーマニア語では「ラレベベデーレ」と音感も似ています。「それをなんと言うか」をイ
タリア語で「コモシスキャーマ」、ルーマニア語で「クムセキャーマ」。これはたまたまよく似
た例です。しかし、双方は、別な言葉でイタリア語が分かるからルーマニア語も分かるという
ものではありません。ボキャブラリーの8割位が絡んでいます。
Q4:文字はキリル文字でロシアに近いのですね。
A4:古い教会なんかはそうですね。俗にギリシャ正教会、各国独立していまして、ルーマニア
正教と言います。名前だけ違い、中身は全部同じです。そのような教会の前に行くとキリル文
字で書いてあります。今のアルファベットが使われるようになったのは、19 世紀になってから
です。
Q5:飛行場が一つしかないと聞いたんですが、交通機関、汽車や電車は発達してるんですか。
A5:ブカレストに国際空港と国内空港と二つあります。汽車は走っています。私がいた頃は非
常に不便で、特に市内にバスと電車とトロリーバスは走っていましたが、地下鉄はその当時は
無かったです。今はあります。
Q6:自家用車はかなり持っているのですか。
A6:自家用車が増えたのは 89 年以降で、それ以前は、普通の人の収入からはとても車は買えま
せんでした。車を持っている人は何か悪いことをして金を儲けた人だと思われていました。面
白いことに 95 年に行ったんですが、私の知っているルーマニア人に会ったら、
「共産主義時代
はよかった。黙って決められた時間に行き、その場でくれた仕事をして帰ってくると、食うだ
けのものは貰えた。今は、自分がちゃんとやらないと収入がゼロになる。」何十年もそのような
体制に慣らされてきていると簡単には新体制に適応できない。
Q7:今のメインの産業は何ですか。
A7:農業になってしまうんでしょうね。産出額から言うとトップは農業ではないんでしょうが。
工業をやっても売れるようなものは作れません。鉄の厚板、アルミのインゴット、そんなもの
が値段が安ければ売れます。それからエネルギーです、原子力発電所を作って電気を輸出しよ
うと二つ作ってストップしてしまいました。それですから、皆出稼ぎに出ています。それで面
白いことは、ルーマニアから西ヨーロッパに出て行って労働力不足になり、その穴を埋めるた
めに中国人が入ってきました。中国人は凄いです。89 年以降、雨後の竹の子のように中華レス
トランとかが増えましたが、日本人は全然駄目です。会社として進出するのはそこそこあった
んですが、日本人が個人で何か商売しているのはまずありませんでした。97、8 年に日本レス
トランができたのですが、それはやっぱり奥さんが韓国人で、尻を叩かれて始めたとの噂でし
た。
Q8:鉄とか石炭はどうですか。
A8:非鉄金属は採れます。石炭はあまり採れません。今のご時勢になると足りないのですが、
昔は共産圏だけでものが回っていた時は、そこそこ自分たちだけでやれたんでしょうが、チャ
ウシェスクがちょっと欲をかいて工業化したいと考えて、結局うまくいきませんでした。102
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億ドルの対外負債がありました。たいした金額ではなかったです。それを真面目に払って、払
い終えたときにつぶれてしまいました。ポーランドは 350 億ドル位借金がありました。それを
払わないと開き直ったんです。そしたら大き過ぎてつぶせないと、西側がなだめて利息さえ払
ってくれれば待ちましょうとなりました。
Q9:そうすると昔のコメコンの中の体制の位置付けでは、お隣のブルガリアと同じ農業国です
か。
A9:コメコンの中では農業国になります。チャウシェスクは、これに反発して自主外交を始め
ました。こんなジョークがありました。ルーマニアはソ連の言うことを聞きませんでした。あ
るとき、ソ連の共産党の代表団が乗り込んでルーマニアの共産党代表団と3日間にわたって会
談をしました。いろいろな問題に対してルーマニアの代表は、
「そのとおりです。異存はありま
せん。」と全部賛成してしまいました。ソ連の団長が喜んで、「二つの党の立場が一致している
とは、思ってもみなかった。うれしい。ルーマニア共産党とソ連共産党の関係は家族か、友達
か、どっちなんだ。」ルーマニアは、
「勿論家族ですよ。友達なんかではありません。」ソ連は喜
んで、
「何でそこまで言ってくれるのか」と言うと、
「友達は選ぶことができます。
」
Q10:山岳トレイルでいいとこはありますか。
A10:カルパチア山脈があります。一番高くて 1,800m位です。これは、車とケーブルカーを乗
り継いで 1,500m か 1,600mまで登れます。トレッキングみたいなことはできます。ルーマニア
人は、なんでも行列と言いましたが、社会主義が終わってから行列をしなくなりました。もと
もとは行列のできない国民です。人間は行列しないし、車も早い者勝ちで押し合いへし合いで、
こうなると譲り合いなんかやらないで、微妙なタイミングで飛び込むことになり、気の弱いや
つはじっと待っているしかありません。
Q11:共産主義の世界にずっと生活しているとどのような性格になるんですか。
A11:その国の国民として暮らすか、外国人として暮らすかでかなり違うでしょう。その国の国
民として暮らしたら、ある程度ものを考えたら、ちょっとやり切れないでしょう。そういうこ
とは一切忘れて共産主義体制に従って、その中で偉くなってやろうと思うしかないでしょう。
一つ可哀相だなと思った例です。詩人がいました。この人がルーマニアの有名な詩人のことを
研究し、世界ペンクラブにコンタクトして、日本で開催される大会に往復の交通費と滞在費全
部招待側で持ちますと言われ、喜んでパスポートの申請をして待っていました。当時は、共産
圏だからビザが必要で、1週間位前までには申請してくれ言ってありました。しかし、何時ま
で待っても申請に来ませんでした。本人に確かめると、実は、パスポートが下りないらしいと
いうことでした。翌日、外務省から電話があって、「日本でペンクラブの大会があるらしいが、
うちからは誰それが招待されているけれど、彼は自分の都合で行けなくなった。
」代わりに他の
詩人を行かせてくれというなら分かるが、
「外務省の日本担当官を参加させたい。それをできな
いか。」と言ってきました。さすがに頭にきました。ペンクラブに自分で掛け合ってくれと言い
ました。平然と招待状を取り上げて、しかも役人を送り込もうとする。そんなことは、耐え切
れないでしょう。
15
Q12:宗教はギリシャ正教とのことですが、他はどうなっていますか。
A12:あとはカトリックが少しあります。それ以外にグレコカトリカと言っていましたが、これ
はウクライナにもあるらしいのですが、私は東方教会とカトリックの教義がどう違うのか分か
りませんが、この宗教は、見たところは東方教会で、教えていることはカトリックだと言われ
ていました。要するに、宗教というのは、昔から権力者が認めるか、認めないかです。認めて
くれれば、見掛けが東方教会であれば、中で何を教えようと構わないということで妥協したの
ではないでしょうか。
Q13:世界一古い木造の教会があるんですね。
A13:ルーマニアのマラムレシュという地域にあります。ウクライナにもあるようです。一番古
くて 15 世紀位の物です。
Q14:歴史に疎いのでお尋ねしますが、バルト三国に聞きますと、ソ連にひどい目に遭った、日
本も用心しなさいと言われます。あれだけ併合したのは 19 世紀のロマノフ王朝で、ソ連もその
後は行かないようでした。19 世紀にあれだけカスピ海の方にロシアが下がって来ましたが、ル
ーマニアには手を付けなかった。オスマントルコも北の方を攻めたとき、インド近くまで行っ
たのにルーマニアは諦めていました。余程、団結して戦うとか、それともこんな土地取っても
しょうがないとか、そんな理由はあったんでしょうか。
A14:オスマントルコは、1453 年にコンスタンチノーブルに入って、一時的にはルーマニア、ブ
ルガリア、ユーゴを取ってしまいました。その後、統治形態が変わってしまい、ブルガリアは
トルコに近いので属国になりました。ルーマニアは年貢さえ納めていればいいですよというこ
とで、間接統治となり、トルコ軍は要所のみに配置しただけで、割合にルーマニアの伝統は残
りました。日本みたいに国境としての周りが海というと、攻められたのが蒙古から 2 回、攻め
たのが秀吉の2回しかありませんでした。ところがルーマニアを見てみると、クリミア・タタ
ールですか、その辺の人間が何十年毎に徒党を組んで馬に乗って略奪に来るんです。それを見
て驚いたんですが、最後のクリミア・タタールの最後の襲撃は何年だとか、終わったのは 1758
年だとか、それから南からトルコの軍隊がドナウ川を渡って略奪に来るんです。そういう連中
からなるべく目立たないように、家が半分埋もれたように作っていました。遠くからだと家が
発見されないように。理屈抜きで異民族がすぐ隣にいる所は大変だなと思います。ドラキュラ
というのは、ルーマニアでは民族的には、ヴラド・ツェペシュという 15 世紀の後半にいたワラ
キアの君主です。ワラキアとはルーマニアの南の方です。シギショアラという町で生まれてい
ます。ヴラド・ツェペシュの父の呼び名がドラクル、その息子でドラキュラというあだ名がつ
いていました。本名がヴラド・ツェペシュ、ツェペシュというのは串刺しという意味です。ヴ
ラドは、見たところ神経質だな、織田信長みたいな感じで残忍で、直ぐに頭に血が上る、その
代わり治安はよく保たれていました。これを念頭に置いてブラム・ストーカーが 100 年前にド
ラキュラの小説を書きました。
最後に、共産圏の名誉のために、共産党は全部悪いのか・・・。いいこともありました。まず、
治安がいいです。ストリートチルドレンやこそ泥はいませんでした。東京も安全ですが、ブカ
レストも安全でした。女性が一人歩きしても大丈夫でした。芸術に対するアクセスが非常に容
易でした。最初に行った頃は、外貨に余裕があったのか、西側からいろんなアーチストを呼ん
16
で何百円で見ることができました。ジリオラ・チンクエッティが来ました。中尾ミエも来まし
た。ユーディー・メニューヒンというバイオリニストも来ました。ファドの女王アマリア・ロ
ドリゲス。ルーマニア国内のオペラも超一流とは言えないが、相当高いレベルでしたが 200 円
位で見られました。芸術に関してはよかったです。
Q15:雪が見えるんですが、季節はいつ頃がいいんですか。
A15:ブカレスト近辺でいうと、5月になると 30℃位になってしまいます。5、6、7、8月位
が夏です。快適です。10 月になると寂しくなります。11 月になるとブカレストに雪が降り、3
月までは雪が溶けません。我々は春と訳しているのですが、5月位をプリマバーラと言います。
夏の初めという意味です。だから日本人的な感覚でいう春とはちょっと違います。もう夏が始
まりますよということで長い冬が終わります。
Q16:東ドイツに行くと英語が通じないで、外国に来たと言うか感じがするんですが、ここも英
語が通じないと思って行った方がいいんですか。
A16:昔は英語の通じない国で、ドイツ語は意外と通じました。今は、英語もOKです。
Q17:コマネチ位しか有名なスポーツ選手を知らないのですが、コマネチの話はありませんか。
A17:コマネチをじかに見たのは1回しかありませんが、コマネチに関してはいい噂はその後あ
りません。80 年代は、ルーマニアの広告塔としての役割を背負わされていましたが、それなり
に物質的には優遇されていました。89 年 12 月に政権が倒れるんですが、その前の 11 月にコマ
ネチが国境を越えて西側に逃げました。コマネチ位の立場にいる人にとっても非常に大変な時
期でした。ただ、手引きした人がルーマニア系アメリカ人で、何日間も一緒に行動していて、
何かあったんでしょうか。米国コロラド州で体育学校をやっていましたが・・・。
それではこれで終わりにいたします。
(文責:米田 喬)
17
ミニセミナー第Ⅱ弾
ルーマニア
報 告 書
発 行 :2011 年 11 月1日
編集発行:浦安市国際交流協会総務部会
住 所 :〒279-0003 浦安市海楽1-29-12 TM ビル3階
電話・FAX.:047-381-5931
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