Comments
Description
Transcript
61.04.16 コロン共同墓地前でのフィデル・カストロ演説
キューバ革命の社会主義的性格の宣言から50年経過して 1961年4月16日、キューバ革命が社会主義的性格をもつ革命であると宣言されてから、50 年を迎える。また、この宣言の翌日午前1時半に、米国により支援された反革命の傭兵1500 名余がキューバ中南部の海岸プラヤ・ラルガ及びプラヤ・ヒロンに侵攻し、19日午後5時 半に撃退された事件からも50年を迎える。この革命の社会主義的性格の宣言は、どのよう な時代的な背景の中で出されたのであろうか。 フィデル、ラウル達の指導する7・26運動が、5年と5カ月の戦いののちにバチスタ独裁専 制政権を打倒してからの、主要な事件を追ってみると次のようになる。 1959年 1月 1日 リチャード・ビッセル、CIA秘密工作本部長となる。CIA内部でカストロに 民主的政府を樹立させるために武器と弾薬を提供してはどうかとカストロ支 援を提案。 1月 5日 革命臨時政府発足。マヌエル・ウルチア大統領に就任。首相にホセ・ミロ・カ ルドナを任命。公式に共和国議会解散され、その機能を閣僚評議会に移す。 1月 8日 カストロら、ハバナに凱旋入城。 1月13日 カストロ、米国との軍事使節団協定の破棄を宣言。国軍基本法を公布。軍隊を 一新。 1月28日 最初の反革命組織、マイアミで結成される。 2月 7日 共和国基本法公布される。同法は、1940年憲法の基本点を維持しつつ、新 たな状況にあった修正を行った。 2月13日 フィデル・カストロ、首相に就任。 2月17日 全国貯蓄・住宅庁設立される。全国宝くじ廃止。 3月 2日 法律第122号にてキューバ電話会社(米系企業)に介入、電話料金を値下げ。 3月10日 米国家安全保障会議、秘密会議でカストロ政権以外の政権樹立について討議す る。法律第135号にて家賃を50%切下げ。 3月20日 薬価格を値下げ。 4月15-26日 カストロ首相アメリカを訪問、ニクソン副大統領と会談。同副大統領カストロ を共産主義者とのべて、同政権の打倒をアイゼンハワー大統領に進言する。 5月17日 第一次農業改革法制定され、400ha以上の大農地が国有化され、多くのアメ リカの製糖企業が影響を受ける。 7月 3日 教科書代25%値下げ。 8月11日 ソ連、キューバ糖17万トンの買付発表。 8月19日 法律第502号により、米系企業キューバ電気会社の電気料金を30%値下げ。 10月21日 アメリカより飛来した航空機、ハバナ市を爆撃。2名死亡、50名負傷。10 月下旬、アイゼンハワー大統領、カストロ政権打倒のため、反カストロ勢力を 支援するというCIAが同意した国務省の提案を承認する。 10月26日 全国革命民兵組織創設される。 10月27日 法律第617号を公布し、鉱山に利権譲渡を検討すると発表。 12月11日 アレン・ダレスCIA長官、アイゼンハワー大統領に、1年以内のカストロ政 権打倒とフィデル・カストロ暗殺を進言する。 12月20日 第一次総合教育改革法公布される。 1960年 1月 8日 ダレス、ビッセルにカストロ政権転覆のための特別作業班WH/4の設置を指示。 1月22日 法律第697号にて前年度下半期より顕著となっていた商業投機を規制する。 2月 4日 ミコヤン・ソ連外相キューバを訪問、相互貿易援助協定締結される。 3月 2日 キューバ政府、法律第122号でキューバ電話会社に介入、電話料金を値下げ。 3月 4日 ハバナ港に入港中の軍需物資輸送船のフランス船「ラ・クーブル」爆破され 沈没。約70名が死亡、100名余が負傷。カストロ首相、アメリカのCI Aの陰謀と非難する。翌日、犠牲者の埋葬式で、フィデル、初めて「祖国か 死か」ということばを使う。 3月17日 アイゼンハワー大統領、カストロ政権を打倒するため、キューバ侵攻秘密作戦 「プルト計画」(後にプラヤ・ヒロンの侵攻として実行される)を承認する。 4月 4日 キューバ政府、農業改革の実施において、ユナイティッド・フルーツ会社と補 償交渉が合意に達せず、その資産を接収。 5月 8日 キューバ、ソ連との外交関係樹立。 5月13日 医療サービスが、無料と制定される。 6月 7日 米系石油会社テキサコ、エッソ、シェル、ソ連産原油の精製を拒否する。 7月 1日 キューバ政府、石油会社エッソ、シェルを接収。 7月 2日 米国政府、キューバ糖の買い付けを停止。 7月 6日 アメリカ、キューバ糖の輸入割当停止 7月10日 ソ連、アメリカの輸入停止分の砂糖の買付を同意する。 8月 2日 コスタリカで第7回米州機構(OAS)会議開催され、キューバのラテンアメ リカへの干渉行為を非難。 8月 6日 キューバ、米国との交渉困難となり、法律第851号決定第1号により、アメ リカ資本の石油精製会社、36の製糖会社、電話会社などの企業を国有化する。 8月18日 ダレス、ビッセル、アイゼンハワー大統領と会談、キューバ侵攻作戦用に107 5万ドル追加支出を要請。CIAグアテマラで傭兵の訓練を始める。 8月28日 コスタリカのサン・ホセで米州外相会議を開催し、「サン・ホセ宣言」を採択 し、中ソのキューバ支援を非難。 9月 2日 サン・ホセ宣言に対抗し、第一次ハバナ宣言、発表される。 9月 9日 エスカンブライ山系において、革命軍、民兵軍5万人余が反革命勢力3000 名の掃討作戦を遂行。1961年3月までに1000名をせん滅。 9月17日 法律第851号決定第2号により、米系銀行を国有化する。 9月25日 フィデル、ニューヨークでフルシチョフと会談。 9月26日 フィデル、国連総会で演説、米国の対キューバ干渉政策を批判。 9月28日 革命防衛委員会(CDR)設立される。CIA、キューバの反政府勢力にグア テマラから飛行機で支援物資をキューバに輸送し、投下。エスカンブライ山系 に3000名の反革命分子が活動。 10月 3日 全国識字運動委員会設立される。 10月13日 キューバ人資本家階級の経済破壊行為、公然とした敵対行為に対処して、法律 第890号により、キューバ政府、すべての銀行(カナダ系を除く)及び38 2の商業・工業の大企業を国有化する。 10月14日 都市改革法公布。住宅の賃貸契約の破棄、現行賃貸契約の住宅の5-20年の 家賃支払いによる所有権の移転を制定。 10月15日 フィデル、モンカダ綱領の目標は達成されたと宣言。 10月16日 カストロ首相、タス通信記者アレクセーエフとの会見で「自分の行動の指針は マルクス・レーニンである」と述べる。 10月24日 法律第851号決定第3号により、残存するすべての米系企業164を国有化 する。 10月19日 アメリカ、キューバへの全商品のキューバへの輸出禁止を実施する。 11月18日 ケネディ次期大統領、ダレス、ビッセルと会い、キューバ情勢の報告を受ける。 CIAと国防総省の合同作戦が必要とケネディに進言。アイゼンハワーはキュ ーバ侵攻を承認しなかったが、ケネディはそれを知らなかった。 12月31日 米国の直接軍事侵攻の可能性があるとして、全国民総動員令が出される。 1961年 1月 3日 アメリカ(アイゼンハワー政権)、キューバとの外交関係を断絶。 1月 4日 反革命罪に対して、死刑を制定。 1月 7日 ピナール・デル・リオ、エスカンブライ地方にアメリカ製武器が、飛行機から 投下され、反革命攪乱行為が行われる。 3月11日 ビッセル、対キューバ4計画をケネディに提出。ケネディ満足せず、再検討を 要求。翌週、CIA要員、トニー・バロナにカストロ暗殺のため毒薬と数千ド ル渡す。 3月12日 CIAの船により、サンティアゴ・デ・クーバの「エルマーノス・ディアス」 精油所が攻撃される。 3月19日 キューバ、配給制度を導入。 3月30日 米国政府、エスカンブライの反政府勢力がせん滅されたので、プルト作戦の実 行を許可する。 4月9日 CIAのエスタライン、ホーキンズ、ビッセル宅を訪問、大規模な空爆を主張 するも受けいれられず、キューバ侵攻の中止を訴える。 4月12日 ケネディ大統領、キューバ攻撃のために米国領土を使用することを禁止。 4月13日 CIAのエージェントにより、ハバナ市の国有化された最大のデパート「エル カント」放火される。 4月15日 CIAに指揮されニカラグアから飛来した傭兵軍B-26、8機が、キューバ軍 の戦闘機をせん滅する目的で、サンティアゴ・デ・クーバ、サンアントニオ・ デロス・バーニョス、革命軍基地を爆撃する。7名が死亡、53名が負傷。キ ューバの航空機31機のうち5機が破壊され、10余機が損傷。 このように年代を追ってみると、キューバ革命は、国民経済を自立化させ、民主化し、社 会改革を実行する中で、キューバ経済を全面的に支配していた米系資本の利害と根本的に 対立することになり、米系資本を擁護するアイゼンハワー政権、ケネディ政権は、カスト ロ政権打倒に向かって干渉政策を進めることになったのである。そのことからまた、キュ ーバは、ソ連圏との貿易・経済関係を強化させざるをえなくなった。一方、当時の米ソの 冷戦構造の中で、米国政府は、反バチスタ闘争の最中にも7・26運動の共産主義化を警 戒し、カストロ政権誕生後、同政権への圧力を急速に強めたのであった。 1961年4月16日、前日の爆撃犠牲者を悼んで、ハバナ市のコロン共同墓地前でのフィデ ル・カストロは、つぎのように演説を行った。 (米国が傭兵を使ってキューバを攻撃するのは)、帝国主義 者たちは、われわれがここの存在するのを許せないからで あり、帝国主義者たちは、キューバ国民の尊厳、不屈な態 度、有機、堅固な思想、犠牲的精神、革命的精神を許せな いからである。 革命の社会主義的性格を述べるフィデル これが、彼らが、われわれに許せないことであり、彼らの鼻先に存在することを許せない ことである。つまり、合衆国の鼻先で社会主義革命を始めたことである。 だから、この社会主義革命を、これらの銃で守ろうではないか。だから、この社会主義革 命を、勇気をもって守ろうではないか。こうした勇気で、昨日対空砲火隊が侵略者の飛行 機に砲撃を浴びせたのである。・・・ 労働者、農民の同志のみなさん、これは、貧者の、貧者による、貧者のための社会主義的・ 民主主義的革命である。この貧者の、貧者による、貧者のための革命のために、われわれ は、命を捧げる用意がある。・・・ 社会主義革命万歳。 自由キューバ万歳。 祖国か死か、 われわれは勝利する。 プラヤ・ヒロン侵攻軍2506旅団1500名余は、米艦船5隻に分乗し、米海軍航空母艦を含む 艦船数隻に護衛され、4月13日ニカラグアのプエルト・カベサスを出発、17日の早朝、爆 撃機B-26約15機も動員され、キューバ中南部への侵攻を開始した。そこに上陸の橋頭保 を作り、エスカンブライの反革命勢力と呼応して、臨時政権を樹立し、 米軍の介入を依頼する筋立てであった。しかし、米国に支援されたプ ラヤ・ヒロンへの傭兵の侵攻は、キューバの主権と生まれたばかりの 社会革命を守ろうとしたキューバ革命軍、革命民兵、国民の反撃にあ って撃退された。 プラヤ・ヒロンの戦いで、戦車から飛び降りるフィデル 傭兵の主力は、大土地所有者、製糖工場所有者、大不動産所有者、大商業経営者、旧バチ スタ政権の軍・警察高官であった。キューバ側は、176名が死亡、800人余が負傷した。 侵攻軍は、89名が死亡、250名が負傷、1197名が捕虜となった。 この侵攻軍との戦いは、祖国の主権を守る戦争と同時に、熾烈 な階級闘争でもあった。 このように、キューバ革命の社会主義的性格は、キューバが米 国の干渉政策からキューバの主権と革命を擁護するために、祖国 プラヤ・ヒロンの勝利 を防衛する体制を強化する、すなわち国民総動員体制を強化する中で宣言されたのであっ た。しかし、このことは、この時点からキューバが社会主義体制となったことを意味しな い。1959年1月の革命政権樹立から、労働者、農民、勤労市民の権力を確立したキュ ーバ革命は、次第に資本主義的要素を消滅させ、社会主義的要素を建設していく、いわゆ る資本主義社会から社会主義社会への過渡期に入ったのである。 1975年に採択されたキューバ共産党の綱領は、このことをはっきりと述べている。 「資本主義と社会主義の間には、過渡期が存在し、その期間にはあらゆる社会生活が変革 され、資本主義の復活のあらゆる可能性が一掃される。この期間は、歴史的にはプロレタ リアートの執権として規定されている。その執権は、少数の搾取者に対する多数の労働者 の権力によって、また指導的な労働者階級、勤労農民、及びその他の手工業勤労者ならび に知識人層のためにより一層拡大される民主主義によって作られる。・・・ 現在のキューバ社会は、社会主義の建設期にある。そのための、キューバ人民の主要かつ 当面の綱領的目標は、マルクス・レーニン主義の科学的基礎の上で社会主義建設を継続し、 共産主義の第一段階に到達することである」 問題は、キューバが、現在、社会主義をめざし、社会主義的要素を建設している過渡期に あるが、建設の中で、アメリカ帝国主義の干渉政策と対決するために、総動員体制をとっ ており、社会的に進歩的な政策も、経済政策も総動員体制の側面をももっていたり、民主 主義の面では、本来社会主義社会、あるいは社会主義をめざす過渡期社会においては望ま しくない、少なからずの制限が見られることである。 特に重要なことは、革命の社会主義的性格の指摘は、プラヤ・ヒロン侵攻の1日前に行わ れ、その中で革命におけるキューバの主権擁護と社会のあり方である社会主義を結びつけ、 社会主義が理解されていなかったキューバで、社会主義を国民が受け入れるようにしたと いう、フィデルの卓越した戦略である。そのことが、社会主義に国民をひきつけるという 政治的メリットがあった一方、総動員体制との混同を生み、そこから過度な国有化、市場 要素の排除という経済的デメリットが、その後の歴史で現れてくる。そして、その点に、 キューバは、その後50年にわたり苦しんでいくことになる。この点を認識しておかなけれ ば、キューバ認識は、一面的な単純化されたものになってしまう恐れがある。 (2011年4月10日 新藤通弘)