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4月 - 医療情報システム研究室

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4月 - 医療情報システム研究室
Vol.4, No.1, 19 April 2014
Monthly Lecture Meeting
第 33 回 月例発表会
第4巻1号
同志社大学生命医科学部
医療情報システム研究室
Published by the Medical Information System Laboratory
of Doshisha University, Kyotanabe, Japan
Medical Information System Laboratory
The Monthly Lecture Meeting
Contents
グラフィックス仮想化
信楽 慧, 岡村 達也,杉田 出弥 . . . 1
Bitcoin
石田 和, 滝 謙一, 將積 彩芽 . . . 8
動画圧縮技術
田中 那智,塙 賢哉, 後藤 真櫻 . . . 14
人工頭脳「東ロボくん」
村上 秋穂, 小淵 将吾, 大村 歩 . . . 18
3 次元 NAND メモリ
田村 陵大, 三島 康平, 関谷 駿介 . . . 23
スマートマシン
伊藤 悟, 小淵 将吾, 松浦 秀行 . . . 32
SDx(Software Defined 技術)
宮嶋 めぐみ, 大谷 俊介, 西村 祐二 . . . 36
進化する活動量計
下村 絵美子, 塙 賢哉, 吉田 倫也 . . . 41
二光子励起顕微鏡
長谷川 由依, 岡村 達也, 井上 楓彩 . . . 48
ウェアラブル機器
竹中 誠人, 滝 謙一, 白石 駿英 . . . 53
臓器保存技術
西田 潤, 林沼 勝利, 大西 夏子 . . . 58
レーザー医療機器
吉田 拓也, 林沼 勝利, 早川 温子 . . . 62
MEMS (Micro Electro Mechanical System)
田中 勇人, 三島 康平, 後藤 真櫻 . . . 67
グラフェン
伊藤 千幸, 大谷 俊介, 真島 希実 . . . 71
ロボットスーツ
森下 拓哉, 佐藤 琢磨, 大久保 祐希 . . . 75
第 33 回 月例発表会(2014 年 04 月 19 日)
医療情報システム研究室
グラフィックス仮想化
信楽 慧
Satoshi SHIGARAKI
岡村 達也
Tatsuya OKAMURA
杉田 出弥
Ideya SUGITA
Abstract 近年,ワークステーションがエンジニアの側にあることによる,セキュリティ,生産性,
コストなどの問題点に注目が集まってきた.これを解決するソリューションとして,デスクトップ仮想
化が提案された.しかし,高負荷のグラフィックスなどをデスクトップ仮想化の環境で利用することが
できなかった.これを解決するために提案されたソリューションが,GPU を仮想化して,デスクトップ
仮想化の環境で利用するグラフィックス仮想化である.本稿では,このグラフィックスの仮想化の具体的
な手法,発展の流れについて述べる.
1
はじめに
もの作りをビジネスの中心に置く日本企業において,部品や製品の設計やデザインを行う
CAD(Computer Aided Design)ワークステーションは重要な IT(Information Technology)
機器となっている.しかし,この重要な CAD 等のデータのセキュリティ面の問題が浮き彫り
になっている 1) .たとえば,CAD ワークステーションを設計などで用いることの多い製造
業では,設計を海外の関連会社と連携しながら共同で設計する機会が増えている.しかし,今
後の成長が著しいであろうアジアや中東,アフリカ,南米などの従業員は,コンプライアンス
や著作権などに対するモラルのレベルが低い.データの流出を防ぐ上で人的な教育が必要に
なるが,それには継続的に膨大なコストがかかる.さらに,データが流出しないように高いセ
キュリティを施す必要もある.一方,従業員によるデータ流出ではなくとも,東日本大震災の
ような災害により個人のデスクにあるワークステーションが損壊することで,データが消失し
てしまうといった恐れもある.また,現状開発現場では,非生産的でセキュリティが確保され
ていない体制で関連企業などでの設計データの表示や編集,上層部へのプレゼンテーションが
行われている.
このワークステーションをデータセンターに集約して,グラフィックス処理を担当する GPU
(Graphics Processing Unit)を仮想化することで,CAD や 3D グラフィックス等高負荷のグ
ラフィックス環境を,リモートに実現しようというグラフィックスの仮想化が近年注目を集め
ている.GPU を仮想化し,ワークステーションをデータセンターで集中管理し,リモートア
クセスすることで,運用コストの削減,利便性・業務効率の向上,騒音や発熱などの業務環境
の改善,データの安全性の向上など様々なメリットを得ることができる.その他にも,医療分
野における 3D CT(Computed Tomography),建設や設計における CAD,ゲーム開発など
の 3D グラフィックス等様々な分野での活躍が期待されている.ここで,本稿ではグラフィッ
クスの仮想化について述べる.
2
仮想化
仮想化とは,コンピュータシステムにおけるサーバや OS(Operating System)など物理リ
ソースの抽象化のことであり,Fig. 1 に示すように,仮想化によってリソースの物理特性を,
それらとやりとりをするシステム,アプリケーション,エンドユーザーなどから隠蔽すること
である 2) .それによって,1 台の物理サーバのリソースを分割して複数の仮想マシンを同時
に実行したり,複数の物理リソースを単一の論理リソースにみせかけることができる.これに
より,OS とアプリケーションが対応していなくても,対応していない OS を使用することが
できる.例えば,あるハードウェア上に OS,そしてアプリケーションが動いていたとすると,
見せかけのハードウェアを作り出すことで,別の OS,アプリケーションを起動するというも
のである.
1
Fig. 1 コンピュータの構成概念図(参考文献 1) より自作)
2.1
サーバ仮想化
複数の OS が同じデータへアクセスすることによって起こるアクセス競合を妨いで,複数の
OS の並列的な稼働を可能にするのがサーバの仮想化である 3) .コンピュータシステムを構
成する要素には Fig. 1 のように,利用者が操作するアプリケーションソフトや,アプリケー
ションが動く土台となる OS,さらに,ソフトウェアを動かす土台となるハードウェアなどさ
まざまなものがある.これらの各構成要素は,アプリケーションが製品ごとに動作できる OS
が違うように,下層の規格や仕様に合わせて作られる.そのため通常複数の OS で 1 つのハー
ドウェアを制御するということはできない.サーバ仮想化は,仮想化ソフトといわれるソフ
トウェアによって実現される.仮想化ソフトは,CPU(Central Processing Unit),メモリ,
HDD(Hard Disk Drive)などハードウェアをソフトウェア的に模倣・再現し、OS が起動す
るハードウェアリソースを見せかけ上に用意する.この見せ掛け上で再現されたハードウェア
を仮想マシンあるいは仮想ハードウェア,仮想マシンの上にインストールされ稼働するそれぞ
れの OS をゲスト OS と呼ぶ.また,仮想化ソフトをインストールするサーバーハードウェア
は物理マシンあるいは物理サーバと呼ばれ,仮想マシンと区別される.
従来のサーバ運用では,1 台のサーバに 1 つの OS をインストールして使用するのが一般的
であった.しかし,CPU 等の半導体技術の発展に伴い,サーバの低価格化と同時に性能も大
幅に向上してくるにつれ,1 台のサーバに 1 つの OS ではサーバリソースを大量に余らせてし
まい,CPU 処理能力や電力のほとんどがアイドル時間に消費されるようになった.そこで,
サーバ仮想化が注目され導入されたのである.
サーバ仮想化は,基本的に複数の異なった OS を実行するための受け皿となる仮想ハード
ウェアを,物理サーバ上に模倣することで実現する.このサーバ仮想化の現在採用されている
手法は Fig. 2 に示すように,ホスト OS 型とハイパーバイザ型の 2 つに大別される.
Fig. 2 ホスト OS 型とハイパーバイザ型(参考文献 1) より自作)
2.1.1
ホスト OS 型
ホスト OS 型のソリューションは,通常の OS の環境の上に仮想マシンを立ち上げ,別の OS
を起動するソリューションのことである 3) .ホスト OS 型の長所は,低価格と簡単な手順で
ある.既存のマシン環境において,アプリケーション感覚でインストールや起動が可能なた
め,汎用マシンでの仮想化や検証用途で多く用いられる.近年は,Mac マシン上で動作検証
用の Windows OS を立ち上げるといったケースがよく見られるが,多くはホスト OS 型の仮
想化ソフトが用いられている. 一方,ホスト OS 型の短所としては,ゲスト OS つまり仮想
サーバの処理のほかにホスト OS 自体の処理にもリソースを割かれるため,処理速度が出ない
2
という点がある.こうした理由からホスト OS 型は,複数のゲスト OS を同時に稼働させたい
場合などには用いられることは少ない.
2.1.2
ハイパーバイザ型
ハイパーバイザ型とは,ホスト OS 型のパフォーマンスがでないという短所を補うような
方式である 3) .ホスト OS 型の場合だと,物理ハードウェアおよび仮想ハードウェア間には,
ホスト OS と仮想化ソフトウェアの 2 つの層が介されている.一方ハイパーバイザ型は,物理
ハードウェアの上に「ハイパーバイザ」と呼ばれる仮想化を実現するためのレイヤーが作ら
れ,その上で仮想マシンが実行される.よって,ホスト OS が存在せずハイパーバイザが直接
ハードウェアを制御できるため,ホスト OS 型と比べ,ゲスト OS の動作速度の低下を最小限
に抑えられるという長所がある.このことから,パフォーマンスが求められる近年の企業シス
テム仮想化においては,ハイパーバイザ型が主流となっている.ただ,このハイパーバイザ型
の短所は,初期の導入コストが大きいということである.
ハイパーバイザ型においては,サーバハードウェアのスペック向上により,複数の OS を 1
つの物理サーバ上で立ち上げるケースが非常に多い.ハイパーバイザ型の代表的なソフトウェ
アでは,1 台の物理サーバに 10 台前後の仮想マシン,あるいは大規模データセンターなどにお
ける,100 台規模の物理サーバーに数千の仮想マシンを立ち上げて運用するケースも見られる.
2.2
デスクトップ仮想化
デスクトップ仮想化とはクライアント仮想化とも呼ばれ,クライアント PC(Personal Computer)からデスクトップ環境を切り離しサーバ上で起動させることであり,そのサーバシス
テムのことを VDI(Virtual Desktop Infrastructure)という.この技術は,サーバ性能やネッ
トワーク帯域の制約などから導入が難しいものだった.しかし,近年サーバの高性能化やネッ
トワークの広帯域化などにより実用段階になった.
ここで考え出されたデスクトップソリューションがシンクライアントである.シンクライア
ントの概念図を Fig. 3 に示す.シンクライアントとは,記憶媒体を持たず,キーボードやマ
ウス,ディスプレイといった入出力デバイスのみを持つ端末である.そして,セキュリティの
確保されたデータセンター内にデスクトップ環境を持ち,端末を画面転送型のデスクトップ環
境に接続し,キーボードやマウスなどの入力情報と画面上に表示される情報のみをやり取りす
る.デスクトップ上の処理は,端末上ではなくデータセンター内で実行される.このソリュー
ションは,画面転送を主としているため画面更新が多いアプリ,つまりグラフィックスや動画
には不向きである.
Fig. 3 シンクライアントソリューション概念図(自作)
デスクトップ仮想化の VDI を導入することにより,ワークステーションをエンジニア側に
置いておく環境に比べ,セキュリティ,事業継続性の向上,クライアント端末の運用管理負荷
の改善,生産性の向上など様々なメリットが生まれる.しかし,従来の PC に比べると自由度
が制限されることや,動画や音声の編集など高負荷なリッチコンテツに対応できるほどのパ
フォーマンスが出ない, また,初期導入コストはサーバとシンクライアント端末を用意しない
3
といけないため,むしろ個人が 1 つの PC を導入するより高いことに加えて,サーバ,スト
レージ,仮想化ソフトウェアなど様々な製品が必要であり,導入が複雑である,さらに,オフ
ライン環境での使用不可,運用時のサーバへの負荷集中,ウィルス対策への課題などの問題点
がある.したがってこの VDI は,サーバ仮想化のように物理サーバが減ることによるコスト
削減を目的とするのではなく,事業継続性の向上やセキュリティの強化,運用管理性の改善な
どを目的とする導入に効果的である.
グラフィックスの仮想化
3
グラフィックスの仮想化とは,グラフィックス処理に必要な GPU カードを実装したサーバ
をデータセンターに配置して,リモートにアクセスし利用するというものである.CAD や 3D
グラフィックス,クラウドゲーミングなど容量が大きくリアルタイム性が求められるデータを
転送し表示するためには,高い処理性能が求められるので,グラフィックス仮想化のソリュー
ションを用いることで,CAD や地図アプリケーション,医療用アプリケーション,負荷の高
いシミュレーションやゲーム制作などがリモートで利用可能になり,デスクトップ仮想化の
メリットに加えて,高価な GPU を共有しコスト削減,高負荷のグラフィックス,シミュレー
ションが VDI 環境で使用可能などのメリットがある.
3.1
GPU
GPU とはコンピュータやワークステーションの画像処理を担う半導体チップである.画像
処理には,浮動小数点演算の計算処理が必要であるが,多くの CPU において算術演算機能は
最低限であるため,GPU は浮動小数点演算において CPU の 100 倍の処理速度になる.
また,その演算処理の速さより,GPGPU(General Purpose Computing On Graphics Pro-
cessing Unit)として,スーパーコンピュータなど画像以外にも近年用いられている 4) .
3.2
GPU 仮想化方式
GPU 仮想化には様々な方法がある.ここで,最近注目を集めているものは,GPU 仮想化機
能を実装した GPU をデスクトップ仮想化環境で利用するソリューションである.従来 CPU 負
荷の高いグラフィックなどはアプリケーションを動かすのに GPU が必要であったので,GPU
が使用できない仮想デスクトップへ移行することが困難だった.また,この仮想デスクトップ
環境では,ネットワークの物理的な距離だけでなく圧縮や描画処理からくるレイテンシが大き
な問題だった.しかし,GPU をソフトウェア的,又はハードウェア的に仮想化を実装するこ
とによって,デスクトップ仮想化だけでは困難であった CAD データなどの容量の大きい 3D
グラフィックスやシミュレーションなどが処理性能の低いノート PC やタブレット,スマート
フォンなどからも利用できるようになりつつある.
GPU の仮想化方式には以下の 3 つの方式がある.
• API インターセプト方式
• GPU パススルー方式
• GPU 仮想化方式
3.2.1
API インターセプト方式
API インターセプト方式は,ハイパーバイザーを通して,GPU を仮想化して仮想デスク
トップに対して割り当てる方式である 5) .そのシステム構成を Fig. 4 に示す.利点は,1 台の
物理マシン上に立ち上げられる仮想マシンの数(統合率)が多い点である.しかし,欠点は,
仮想マシンと GPU がハイパーバイザを通してやり取りするため,パフォーマンスが低くなる
点である.また,仮想グラフィックスドライバを経由して,API(Application Programming
Interface)コールでやり取りするため,利用できるアプリケーションに制限がある.
この仮想化方式を用いた例として,Citrix の仮想マシンがある.これは,GPU をソフトウェ
ア的に仮想化したもので,実際にこの物理マシンに搭載され計算処理を担当しているのは CPU
であるが,ハイパーバイザを通して GPU を仮想ハードウェアとして仮想的に作りそれを使う
というものである.物理マシンを共有できる統合率は高くなり,コストの削減にはつながる
が,実際の計算処理を行っているのは CPU であるため,GPU を使うものよりもパフォーマ
ンスが劣る.したがって,高性能を必要としないエントリークラスのユーザーにはコスト削減
4
Fig. 4 API インターセプト方式(自作)
が大きなメリットとなるが,高い性能を必要とするユーザーにとっては性能が足りないものと
なる.
3.2.2
GPU パススルー方式
GPU パススルー方式は,GPU のコアを直接仮想マシンに割り当てる方式である 6) .その
システム構成を Fig. 5 に示す.利点は,アプリケーションの制約を受けず GPU 性能を占有す
ることが可能であり,パフォーマンスが高い点である.しかし,欠点は,GPU を共有するこ
とができず,仮想マシンの統合率が低くなり,API インターセプト方式よりコストなどの面に
おいて劣っている点である.
Fig. 5 GPU パススルー方式(自作)
この仮想化方式を用いた例として,VMware vDGA がある 7) .これは,高い性能を必要と
するユーザーには GPU を直接割り当て,高い性能を必要としないユーザーには API インター
セプト方式を用いる,という使い方ができるものである.
3.2.3
GPU 仮想化方式
GPU 仮想化方式は,GPU をハードウェアレベルで論理的に分割して仮想デスクトップに割
り当てる方式である 6) .そのシステム構成を Fig. 6 に示す.API インターセプト方式と GPU
パススルー方式は,ソフトウェア的に仮想化を実装したものであるが,この方式は,ハード
ウェア的に仮想化を実装した新しい技術であり,利点は,仮想マシンから見ると GPU をその
まま使用することができるので,API インターセプト方式より高いパフォーマンスは確保し
つつ,統合率はパススルー方式より高いという点である.
この方式を用いた例として,NVIDIA の VGX ボードがあげられる 8) .この方式は NVIDIA
の Kepler アーキテクチャベースの GPU で初めて実装された技術である.VGX ボードを例と
5
Fig. 6 GPU 仮想化方式(自作)
してこの方式を説明する.VGX ボードで実現された GPU 仮想化技術は以下の 2 つである.
• ハードウェア管理ユニット
• 仮想マシン用の専用チャンネル(Per-VM Dedicated Channels)
ハードウェア管理ユニットとは,各仮想マシンのグラフィックスタスクで使用グラフィック
スメモリを,実体 GPU 側のグラフィックスメモリから直接割り当て,管理できる機能であり,
仮想マシンごとの専用チャンネルとは,仮想マシンと実体 GPU がアプリケーションを介さず
直接やり取りできるというものである.ハードウェア管理ユニットと仮想マシン用の専用チャ
ンネルにより,一度ハイパーバイザを通してやり取りを行うと次の命令時からは,ハイパーバ
イザ等のアプリケーションを通さず,GPU のメモリを経由して直接やり取りができる.これ
らの技術により,ソフトウェア実装の GPU 仮想化よりもオーバーヘッドを非常に小さくでき
るうえ,GPU 側ではグラフィックスメモリ管理をハードウェアで行えるため,高い描画性能
を発揮できるようになる.また,仮想マシン上で起動できるアプリケーションの制限がほとん
どない.
ここで VGX をクラウドゲーミング向けに応用した GeForce GRID という製品がある 9) .
この技術と従来のクラウドゲーミング,そして家庭にある据え置き型のゲーム機とのレイテン
シの比較を Fig. 7 に示す.Fig. 7 より,この仮想化技術によって大幅な高速化が行われたこ
とがわかる.従来の GPU では,ソフトウェアによる処理に 100 ms 以上の遅延が発生してい
た.しかし VGX では,処理は 10 ms 以下に過ぎず、CPU に対する負荷も発生しない.
Fig. 7 ゲーム入力におけるレイテンシ比較(参考文献 9) より自作)
VGX を用いた GPU 仮想化技術には,仮想マシンからの画像処理タスクに対して,割り込
みにおける優先処理が行われないという問題点がある.これは,仮想マシン 1 から発注された
画像処理の最中に,仮想マシン 2 からの画像処理の発注があっても,取りかかっている仮想マ
シン 1 からの発注を中断せず,その処理を終えてから仮想マシン 2 の発注に取りかかるという
ことである.
これは,Kepler アーキテクチャベースの GPU のコンテキストスイッチングが,優先処理に
対応していないからである.つまり,Kepler アーキテクチャベースの GPU はいま取りかかっ
ているタスクが終わるまで,次のタスクが積まれていることを知ることができないのである.
6
4
展望
グラフィックス仮想化の大きな問題点は,GPU の機能自体に割り込みによる優先処理を行
う機構と,高速なコンテキストスイッチングの機構がない点である.割り込みによる優先処理
を行う機能をつけ,コンテキストスイッチングの機能を高性能化することで,仮想化環境下で
のグラフィックス処理と GPGPU の並行実行や,異なるアプリケーションに向けたグラフィッ
クス処理のオーバーラップ実行,また GPU 機能の共有がより容易になり,コスト削減や業務
効率の向上などが期待されている.それにより,医療分野における 3D CT,建設や設計にお
ける CAD,ゲーム開発などの 3D グラフィックス等での活躍が期待される.
5
まとめ
近年,ワークステーションがエンジニアのデスクにあることによる,セキュリティ,生産性,
コストの問題点が指摘されていた.この問題を解決し,デスクトップ仮想化の環境下で高負荷
なグラフィックスを実現するためのソリューションとして,グラフィックス仮想化が注目を集
めている.グラフィックス仮想化は,GPU を搭載したサーバをデータセンターに配備してリ
モートに利用可能になるソリューションであり,高負荷なグラフィックスを扱う環境である医
療画像システム,製造業,建築業,ゲーム開発分野等での活躍が期待されている.
参考文献
1) 香西勇美. サーバ統合に向けた仮想サーバ技術の活用, 2005.
2) 島崎聡史, 吉田佳宏, ビーナステクノロジィズ. 仮想化技術徹底活用. 秀和システム, 2008.
3) 清野克行. [初版第 1 刷発行] 仮想化の基本と技術. 翔泳社, 初版第 1 刷発行, 2011.
4) 川井敦, 福重俊幸, 中里直人, 成見哲. Gpu の導入を容易にする 2 つのツール:goose と
ds-cuda, 2012.
5) Citrix. Xendesktop.
http://www.citrix.co.jp/products/xendesktop/overview.html?link_id=pxd,
2013.
6) NVIDIA. Nvidia grid.
http://www.nvidia.co.jp/object/virtual-gpus-jp.html, 2012.
7) NVIDIA. Vmware vdga.
http://www.nvidia.co.jp/object/vdga-jp.html, 2013.
8) NVIDIA. Nvidia kepler.
http://www.nvidia.co.jp/object/nvidia-kepler-jp.html, 2012.
9) NVIDIA. Cloud ゲーミング.
http://www.nvidia.co.jp/object/cloud-gaming-benefits-jp.html, 2013.
7
第 33 回 月例発表会(2014 年 04 月 19 日)
医療情報システム研究室
Bitcoin
石田 和
Izumi ISHIDA
滝 謙一
Kenichi TAKI
將積 彩芽
Ayame MASADUMI
Abstract Bitcoin とは,実体を持たない仮想通貨の一つであり,専用のサーバーを介さない P2P(Pear
To Pear) ネットワークという個人対個人で直接取引を行うため,短時間で低額に取引が可能であるとい
う特徴を持つ.また,管理サーバーが存在しないことから,システムの変更や紛失等への保証がきかな
いなどの課題も不安視されている.しかし,国や政府といった国家の権力に左右されないため,国境を
越えた世界共通の通貨となることが大いに期待できる.
はじめに
1
現代の日本における国内での金融取引は,日本銀行が発行している円が用いられ,主に銀行
などの金融機関が仲介に入り行われている.また国際金融市場や外国為替市場などで行われ
ている外国為替取引や国際金融取引といった金融取引も,当該国の通貨が国際取引通貨とし
て用いられ,国や中間組織が仲介に入り行われている.これはインターネット上の取引でも
同様で,円やドルといった現金をウェブマネーやデジタルマネーなどに変換する際や,ネット
ショッピングにて商品を購入する際にも,信頼できる第 3 者の存在が必要となってくる.しか
し,このように仲介に入る組織が存在することで安全に取引できるようになる代わりに,その
組織に支払う仲介手数料がかかってくる.また海外との取引を行う場合でも,関税などといっ
た形で国による管理や金融機関に手数料がかかっているのが現状である.
そこで近年注目され始めているのが,インターネット上で流通している電子通貨「Bitcoin」で
ある.Bitcoin は PC が専用のサーバーを介さないで,インターネット接続された PC(Personal
Computer) 同士で直接やりとりを行う,P2P ネットワークと呼ばれるシステムで運営されて
いる 1) .そのため金融取引などにおける仲介に入る組織が存在せず,取引にかかる手数料も
非常に安価なものとなる.現在アメリカでは NBA(National Basketball Association) のチー
ムが大手プロスポーツチームでは初となる観戦チケットやチーム関連商品の購入に Bitcoin の
利用を認める方針を示している
2)
.また,オーストラリアに拠点を置く ATM(Automated
Teller Machine) 企業が全国的に Bitcoin の ATM を設置する計画をたてている 3) など,世界
的に Bitcoin の利用が広まりつつあり,現在では 140 万人ものユーザーが利用している 4) .本
稿では Bitcoin の現状やシステム,抱えている課題,今後の展望について述べる.
2
Bitcoin の起源
Bitcoin のシステムは 2008 年に論文を発表した中本哲史が創案者で,P2P ネットワークと
いう個人対個人の取引を行うことから,取引に仲介する国や組織が存在しない.そのため,手
数料が非常に安価な点や,通貨として国境がなく政治や経済の変動や権力者の支配にも影響
されない点が特徴として挙げられる.Bitcoin サービスの始まりは論文の構想に共感したプロ
グラマー達が 2009 年に Bitcoin のシステムを立ち上げ,ゲーム感覚で始めたことが起源とさ
れている.そんな Bitcoin がその物珍しさと利便性に惹かれて徐々に注目され始め,一般の人
にも認知され始めた.2009 年からのユーザー数の推移は Fig. 1 に示す.
3
3.1
Bitcoin のシステム
取得法
Bitcoin は「miner」という特別なソフトを使うことで,PC を持つ人ならば誰でも利用する
ことが可能である.一般的なデジタル通貨は,取引所で既存の通貨とデジタル通貨を両替する
ことで手に入れられる.しかし,Bitcoin の入手経路は全世界に 50 以上ある取引所で円やドル
8
175
ユーザー数
ユーザー数 [万人]
150
125
100
75
50
25
0
2009
2010
2011
2012
2013
2014
日付 [年]
Fig. 1 ユーザー数推移 (参考文献 4) より自作)
といった国が発行している現金通貨と両替する手法だけでなく,自らの手で mining という計
算科学的に難しい問題を解く行為によっても得ることができる.Bitcoin の取引は Bitcoin ネッ
トワーク上で行われており,ネットワークは自動的に mining の報酬量を調整し,流通量を制
限することで,最高でも 2100 万 Bitcoin しか流通しない仕組みになっている 5) .現在,2013
年 11 月時点で約 1200 万枚の Bitcoin が出回っている.このまま流通していけば 2140 年まで
には流通量が 100 %になると予想されている 5) .また,Bitcoin に参入する人数も年々増加し
ており,取引量も増加しているため,mining する人数が多くなっている.しかし,mining は
Bitcoin の残量が少なくなるにつれ Bitcoin を入手するのが困難となるように設定されており,
これも流通量の制限の役割を担っている.
3.2
3.2.1
取引上のシステム
ネットワークでの受理
Bitcoin の取引は Bitcoin のネットワークで行われており,公開鍵暗号方式が用いられてい
る.取引の手順を Fig. 2 に示す 1) .
1 Bitcoin の受信者は自分の公開鍵を Bitcoin の送信者に送る.
⃝
2 送信者は受け取った受信者の公開鍵を Hash 値に変換する.
⃝
3 送信者は Bitcoin,直前の取引の情報,Hash 値化した受信者の公開鍵の 3 つを送信者の秘
⃝
密鍵でデジタル署名し,取引情報としてネットワークへ送る.
4 送信者から送られた取引情報が,ノードによって送信者の署名が正しいか確認される.
⃝
5 署名が正しく確認されたのち,取引情報はネットワークに受理される.
⃝
6 ネットワークでの承認作業終了後,受信者に Bitcoin が送金される.
⃝
初めて Bitcoin のシステムに参入する人は予め秘密鍵と公開鍵を作成する必要がある.対に
3 では,直前の
なった鍵は作成以降全ての取引においてその鍵を利用することになる.また⃝
取引の情報もデジタル署名すると述べているが Fig. 2 では図示されていない.これは直前の
取引情報とはヘッダーというものなのだが,ヘッダーについては次の項で述べるためここでは
4 で述べられているノードとは主に PC などのネットワーク接続ポイントのことで
省略する.⃝
ある.よって,ノードが確認するとは,すなわち Bitcoin ネットワークへの参入者が確認する
ことを指す.また,送信者の公開鍵の情報は Bitcoin ネットワーク上で公になっており,誰も
が送信者の秘密鍵の暗号化された情報を公開鍵で復号化でき,取引の情報を知ることが出来
5 では,確認が正しく行われた後,Bitcoin ネットワークにこの取引の情報が送られ承認
る.⃝
されるまでネットワーク上に滞留するのだが,もし署名が正しくないと判断された場合,ネッ
5 で受理された取引情報はネットワーク上で承認作業が行
トワークに受理されない.また,⃝
われるのだが,このことについても次の項で述べる.
9
Fig. 2 取引の流れ (自作)
3.2.2
プルーフ・オブ・ワーク
Bitcoin ネットワークは専用のサーバーを介さないことから,取引の情報を残す場所が存在
しない.そのため,取引の情報や記録を残すためにネットワーク全体で記録を残していく作業
が必要となる.その作業をプルーフ・オブ・ワークという.また,この作業に入る前にネット
ワークに滞留している複数の取引の情報は 10 分ごとにブロックと呼ばれる単位にまとめられ
る.このブロックの前にはさらに前の 10 分にまとめられた承認済みのブロックが,その前に
はさらに 10 分前の承認済みのブロックがというように,10 分単位のブロックは時系列的に一
列に並べられており,承認されたブロックは順々につながれていく.これをブロックチェーン
という 5) .プルーフ・オブ・ワークの手順を Fig. 3 に示す 1) .
1 miner は特定の条件を満たす Hash 値を算出する nonce 値を探す.
⃝
2 特定の Hash 値を算出し,ネットワークに公開する.
⃝
3 全ノードは Hash 値が適切か多数決で決定する.
⃝
4 採用された Hash 値はブロックに格納され,チェーンに繋がれる.
⃝
5 Hash 値を導き出したノードに報酬の Bitcoin が与えられる.
⃝
6 格納された Hash 値は次のヘッダーとして使用される.
⃝
7 次の nonce 値の算出に取り掛かる.
⃝
ブロックを時系列的に並べていく理由は,ブロックを一纏りにすることで,一つのブロックか
1 のように,
ら過去のブロックへと遡り, 過去の取引記録を閲覧可能にするためである.ここで⃝
未承認のブロックを承認することでブロックチェーンにつなぐ人が登場するのだが,この取引
を承認する人のことを miner と呼び,ブロックチェーンにブロックをつなぐ作業の事を mining
2 のように未承認のブロックを承認済みのブロックにつなぐために Hash 値
と呼ぶ.miner は⃝
という値を求める必要がある.Hash 値を求めるには未承認のブロックの情報とヘッダーとい
う値(これは一つ前の承認済みブロックの Hash 値)と,nonce 値という数字列の計算のかけ
合わせによって求められる.しかし Hash 値は元のデータの長さによらず,関数ごとに一定の
大きさとなっており,同じデータからは必ず同じ hash 値が得られる一方,少しでも Hash 値
10
Fig. 3 プルーフ・オブ・ワークの流れ (自作)
を求めるデータが異なるとまったく異なる Hash 値が得られる性質を持つ.よって,ヘッダー
とブロックの情報はすでに決まっていることから,Hash 値を決めるのは nonce 値の数字列と
なる.しかし,Hash 値を見出すための効率的なアルゴリズムは見出されていないため,nonce
値をひたすら試行錯誤して探すしかない.こうして条件を満たす nonce 値を見つけ,Hash 値
3 のように全ノードに Hash 値を公開する.全ノードはその Hash 値が適
を生成した miner は⃝
4 のようにチェーン
切であるか多数決で決定する.そして適切であると判断された Hash 値は⃝
に繋がれ,ブロックチェーンに未承認のブロックをつなげていくことで取引を完了していく.
ここで生成された Hash 値は次のブロックのヘッダーとして使われる.取引完了後,Hash 値
の生成者には報酬として Bitcoin が与えられる.初期の報酬で獲得できる Bitcoin は 50Bitcoin
であったが,発行数が制限されているため miner の数が増えるごとに報酬も徐々に減り,現
在では 25Bitcoin が報酬として与えられる.また,先ほどブロックチェーンにブロックをつな
ぐ作業の事を mining と述べたが,正しい Hash 値を見つけるための行為を mining という方
が的確である.取引が完了すると送信者から受信者へ Bitcoin が送金されるのだが,何か目に
見えるような形で送られるわけではない.正確にはもともと送信者が取引に使用可能だった
Bitcoin が使用不可能になり,代わりに受信者が取引で使用可能になる.
3.2.3
取引の不正
Bitcoin のネットワークは miner の使うノードのシステムパワーによって運用されている.
このことから,Bitcoin のシステムに参入している人を銀行の一片とみなすことで,ソフトを
使うすべての人全体を銀行そのものであるとみなすことができる.そして mining は流通シス
テムを支えるいわば業務にあたり,その業務に対しての報酬として Bitcoin を獲得することと
も考えられる.また,前項でブロックを時系列的に並べていく理由は取引のデータを全て記録
するためであると述べた.これは,取引の情報は一つのチェーンとして参入者全員に定期的に
更新されるので取引全体を誰もが把握できることから Bitcoin の不正利用に対しても有効に働
く.例えば先ほど承認した送信者から受信者への取引情報を書き換え偽の取引情報を作ろうと
する.しかし,その取引情報にはすでに受信者の公開鍵による Hash 値がブロックに組み込ま
れていて,その情報が全員に知らされているため,取引はネットワークに受理されない.ま
た,仮にブロックの情報を書き換えに成功したとしても,Hash 値は少しでも求めるデータが
11
異なれば生成される Hash 値がまったく異なることから,すべてのブロックは前のブロックの
Hash 値を持っているため,一つのブロックの Hash 値が変わればチェーン上の Hash 値も次々
に連鎖的に変わってしまう.よって偽造が露呈することになる.次に一度取引が終わっている
取引が再度取引にかけられる二重取引の可能性がある.しかし,これは先ほどの送信者から受
信者への取引を例にすると,一度目の取引終了時に,すでに所有権が受信者に移っている.そ
して,その Bitcoin の情報には受信者の公開鍵の Hash 値が記されているため,再び Bitcoin
ネットワークに受理されることはない.
3.3
通貨価値の管理
仮想通貨という実体がなく,データ上の記録だけで存在する Bitcoin の価値は金同様に考え
ることが出来る.金は中央政府などによって発行されるわけではないため,もちろん中央政府
がその価値に影響を与えることはない.金の価値は,世界中の誰もが「金には価値がある」と
考えるから認められているもので,完全に市場の判断にゆだねられている.そして,金の埋蔵
量には限界があることもその価値を下支えしている.これに照らし合わせると,Bitcoin も金
同様に,発行権限を有し,その価値を担保にする中央政府の存在はない.また,最高でも 2100
万 Bitcoin と発行数が設定されており,また一度の取引におよそ 10 分かかるため,Bitcoin が
急速に流通することはない.このように埋蔵量,流通量が共に制限されていることで過剰発行
によるインフレを防ぐと共に,Bitcoin 自体に価値を生み出している.
Bitcoin の課題
4
4.1
匿名性の不正利用
世界共通,政治経済に左右されないなど,通貨として理想的な設計を持つ Bitcoin だが,課
題も多く抱えている.Bitcoin は実体を持たない通貨であるため,個々の所有量が把握できな
い.また,匿名で使用できるという点を悪用し,非合法的なものを売買しているブラックマー
ケットでの支払いや,マネーロンダリングの手段に使用され,テロリストなどの資金源になる
危険性も非常に高い 6) .実際,悪用されていることが判明しても中央機関が存在しないため,
口座凍結等の制裁を加えることも出来ない.このように,Bitcoin は普及するにつれ通貨の出
所や行方を把握しにくくなる. 4.2
通貨の流動性
通貨の発行上限数をあらかじめ 2100 万 Bitcoin と定め,参入数により価値が上がることか
ら,Bitcoin は生まれながらにしてのデフレ経済である.この特性は Bitcoin 自体に価値を生み
出し,早期に参入した人のリスクに対してのインセンティブとなるようにするための特性だが,
パラドックスが生じている.Bitcoin の価値が上がり,通貨圏が広がるのであれば,Bitcoin を
早期に所有し,成長を信じる人にとっての最良の投資策は,一度 Bitcoin を所有したら手放さ
ないことである.しかし,所有者の誰もが手放さなくなれば,通貨の流動性はなくなり,通貨
圏が消えるため,通貨としての意義を成さなくなってしまう.
4.3
管理組織の不在
Bitcoin にはシステムを管理する専用のサーバーや組織がないが,これは根本的な設計を後
から変えることが出来ないことを意味する.管理する中央政府が存在する仮想通貨であれば,
課題や問題個所が明らかになった場合,簡単ではないにしろそれに合わせて設計を変えること
は可能である.しかし,Bitcoin は中央政府が存在しないため,匿名性を無くすことや,2100
万 Bitcoin の上限を無くすといった提案が上がっても,誰が指揮を執り,誰に許可を取れば良
いのか定かではない.
また,2014 年 2 月に Bitcoin 取引所である Mt.GOX がハッキングにあい,総額 270 万ドル
(約 2 億 7500 万円)相当の Bitcoin が紛失するという事件が発生した 7) .このように,一度
でも紛失等によりデータを失うと,後ろ盾となる管理団体などがないため保証がきかない.
5
今後の展望
Mt.GOX 社の事件により世間に敬遠される対象となっている Bitcoin だが,今後も消滅せず
普及し続けると考えられる.Mt.GOX の経営破綻は一見 Bitcoin のシステム崩壊とみえるが,
12
ハッキングされたのは Mt.GOX のシステムであり,Bitcoin のシステムではない 8) .よって
Bitcoin そのものの信頼性が大きく揺らぐことはないと思われる.
また,高い匿名性によりマネーロンダリングや脱税といった犯罪の温床になる恐れがある
反面,個人情報の流出防止の側面も持つ.Bitcoin での決済とインターネットでの決済を比較
すると,カード番号や個人情報を提示することで悪用されかねない危険性のあるクレジット決
済に比べ,Bitcoin での決済は個人情報が流出する危険性が非常に低い 8) .そのため,今後
Bitcoin を採用する企業が出てくると考えられる.
そして Bitcoin が普及すると思われる最も大きな理由は,短時間で取引が可能で手数料が非
常に安価なところである.グローバル化の進展で先進国と新興国との間でのマネーフローは
拡大を続けているが,新興国に送金する際には多額の手数料が発生するほか,送金完了まで時
間がかかるといったデメリットがある.そのため,Bitcoin は異国間での取引に非常に適した
通貨であると言える.
また,すでに mining にかかる時間をさらに改良した Ripple という別の仮想通貨にも注目が
高まってきている.これらより,Bitcoin だけに関わらず仮想通貨は,ビジネス界でのグロー
バル化の流れに非常にマッチしており,世界中で広く利用されていくと考えられる 8) .
6
まとめ
本稿では Bitcoin の現状やシステムについて触れた.Bitcoin は P2P ネットワークという専
用のサーバーを介さない個人対個人での取引が可能であるため手数料が非常に安価である.ま
た匿名性の高さによる個人情報流出のリスクの低さや,秘密鍵と公開鍵を取引のシステムに
用いた高いセキュリティなどの特徴を持つ.しかし,その匿名性による犯罪への悪用や非中央
集権故の課題が多いのも現状である.普及率もあまり高くなく課題の多い Bitcoin だが,既存
の金融システムにはない秘匿性や手数料が安価といった特徴から今後も利用者が増えていくと
考えられる 9) .
参考文献
1) Satoshi Nakamoto. Bitcoin:A Peer-to-Peer Electronic Cash System.
https://bitcoin.org/bitcoin.pdf.
2) THE WALL STREET JOURNAL.
http://jp.wsj.com/article/SB10001424052702303996604579364232991867734.
html.
3) THE WALL STREET JOURNAL.
http://jp.wsj.com/article/SB10001424052702303919304579326122618947760.
html.
4) BLOCKCHAIN.
https://blockchain.info/ja/charts/my-wallet-n-users.
5) ロイター通信.
http://jp.reuters.com/news/technology/bitcoin.
6) 公明党.
https://www.komei.or.jp/news/detail/20140306_13434.
7) ロイター通信.
http://jp.reuters.com/article/jp_bitcoin/idJPTYEA3102520140402.
8) 村田雅志. ビットコインは本当に終わったのか.
http://jp.reuters.com/article/jp_bitcoin/idJPTYEA2D08X20140314.
9) 日経経済新聞.
http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM2701Q_Q4A330C1FF8000/.
13
第 33 回 月例発表会(2014 年 04 月 19 日)
医療情報システム研究室
動画圧縮技術
塙 賢哉
Kenya HANAWA
田中 那智
Nachi TANAKA
後藤 真櫻
Mao GOTO
Abstract 近年,動画の高画質化に伴い,扱うデータ量が多くなり送受信の際により長い時間を要
する.そこで大容量のデータでも高速で通信を行うことができるよう,動画データを圧縮する技術の発展
が求められている.動画圧縮の処理は画像をブロックに分割し,全ての処理をブロック毎に行う.圧縮の
際,データ量を減らすため不要なデータを削除するが,削除されたところを予測によって補完する.こ
れにより画質を落とさずデータ量を削減できる.最新技術 H.265 はこれら全ての処理に影響するブロッ
ク分割が革新的であり,それにより従来よりも高い圧縮率を得ている.
はじめに
1
近年,スマートフォン,テレビ,パソコンなどで観られる動画の画質や音質が高くなってき
ている.それに伴い,扱うデータ量がさらに多くなるため大容量のデータでも高速で通信を行
うことができるよう,動画データを圧縮し送受信にかかる時間を削減する技術の発展が求めら
れている.動画データは,複数の静止画データと音声を含むため,データ量が大きくなってし
まう.動画圧縮とはその大容量のデータを符号と呼ばれるデータに変換し,データ量を減らす
処理のことである.
本稿では動画圧縮技術の概念,また現在使用されている代表的な H.264 / MPEG-4 AVC
(以下 H.264)と最新の動画圧縮の規格 H.265 / MPEG-H HEVC (以下 H.265) について詳し
く述べる.
動画圧縮技術
2
動画圧縮の規格
2.1
動画の圧縮方法は多数存在する.動画をどの機器でもうまく再生するため,規格化が必要で
ある.動画圧縮の規格は2種類ある.ISO (International Organization for Standardization:
国際標準化機構) および IEC (International Electorotechnical Commissio: 国際電気標準機
構) が規格する MPEG-1∼4 (Moving Picture Experts Group) と,ITU-T (International
Telecommunication Union-Telecommunication Standardization Sector: 国際電気通信連合電
気通信標準化部門) が規格する H.261∼H.265 である.Table. 1 に動画圧縮の規格の年表を示
した.H.264 は 2003 年に規格されてから広く普及し,10 年以上経った現在でも通常のテレビ
放送などは H.264 が使用されている.そして 2013 年には最新規格 H.265 が登場した.
Table. 1 動画圧縮規格
年
規格
規格団体
導入事例
1990
1993
H.261
MPEG-1
ITU-T
ISO / IEC
テレビ会議,テレビ電話
1995
1996
H.262 / MPEG-2
H.263
ISO / IEC / ITU-T
ITU-T
DVD-Video,Blu-ray
テレビ電話,携帯電話の動画
1999
2003
2013
MPEG-4
H.264 / MPEG-4 AVC
H.265 / MPEG-H HEVC
ISO / IEC
ISO / IEC / ITU-T
ISO / IEC / ITU-T
インターネット上の動画
14
ビデオ CD
Blu-ray,iPod,PSP
超高精細動画
2.2
動画圧縮の原理
動画圧縮をする場合,複数の技術を用いる.多くの場合符号化を用いるが,符号化を行う前
に別の処理を行う.それらの大きな分類の方法として静止画自体を圧縮する手法と,動画とし
ての時間的な圧縮をする手法がある.一方,別の分け方として可逆圧縮と非可逆圧縮がある
が,可逆圧縮では圧縮倍率が 3 倍程度であるのに対し,非可逆圧縮では 20 倍から 200 倍の圧
縮率が得られることから非可逆圧縮の方が多く利用されている.非可逆圧縮の利点はデータ
のサイズが膨大な動画データの圧縮率を上げられることである.一方,非可逆圧縮は圧縮率が
高すぎるとノイズが生じ,元の動画データが再現できなくなってしまう.そのため,自然な再
生が行える範囲に押さえつつ圧縮率をあげる研究が行われている.Fig. 1 に,現在最も一般的
な H.264 と最新規格 H.265 における処理の流れを示す.変換と予測両方を行う,ハイブリッ
ド方式を採用している.まず画像をブロック分割し,直交変換,量子化,符号化を行い,一度
出力する.その後,逆量子化,逆変換して予測を行い,そのデータを再び変換,量子化して追
加データとして出力する.
Fig. 1 H.264 と H.265 における動画圧縮の流れ(参考文献 1) を参考に自作)
以下に H.264 と H.265 で使用している代表的な動画圧縮技術について述べる.
1. ブロック変換
全ての処理を行う前に画像をブロックに分割してブロック毎に適した処理を行う.H.264
では MB(Macro block)と総称する.しかし H.265 では CTU(Coding Tree Unit),
CU(Coding Unit),TU(Transform Unit),PU(Prediction Unit)の4つに区別す
る.CU は符号化処理の基本単位,TU は変換処理の基本単位,PU は予測の基本単位
となっている.
2. 直交変換
ブロック分割で分割されたブロック毎に変換され,その後量子化が行われる.直交変換
の代表的な例として DCT(Discrete Cosine Transform:離散コサイン変換)が挙げら
れる. DCT によって動画データを周波数領域に変換する. これにより,人の視覚が鈍
感な高周波の画素から情報量を削減していくことができる 2) .
3. 画面内予測
一般に 1 枚の画像における隣接画素の相関は高いため,符号化済みの隣接画素値から
符号化する画素値を予測することで,予測画像を再生することができる.輝度信号を用
いる方法と色差信号を用いる方法があり,また多方向からの情報を重ね合わせて予測さ
れるが,H.264 で 8 方向であったのに対し,H.265 では 33 方向から予測を行うことが
できる 3,
1)
.
4. 画面間予測
動画像の性質として参照画像と前後の画像は似ている.この性質を利用して,既に符号
化済みの画像に最も似ているブロックを予測画面の中から探し出してベクトルとして考
える.このときこのベクトルは物体の動きを示し,これにより物体の動きを予測できる
のでこの物体の動きの予測を動き補償という.また,このベクトルの情報と二つの画像
の差分のデータを符号化することで,差分のデータのみの場合よりも高い圧縮率を実現
できる 4) .
5. エントロピー符号化
15
エントロピー符号化は各種変換処理を行った後のデータに符号を与える処理である.可
変長符号化ともいい,出現頻度の高いシンボル(複数個のビットをひとつの固まりと見
なし,それをシンボルと呼ぶ)に近い符号,逆に出現頻度の低いシンボルに長い符号を
与えることにより圧縮を行う.Table. 2 にエントロピー符号化の例を示す.
Table. 2 エントロピー符号化の例
出現率
符号
符号長
A
B
C
0.5
0.3
0.1
0
01
011
1
2
3
D
0.1
111
3
A,B,C,D の出現率がそれぞれ等しいとき,一定の符号長で符号化を行い 00,01,
10,11 の 2 桁にすれば平均の符号長は 2 ビットだが,Table. 2 の出現率を反映し,か
つエントロピー符号化で行うと式 (1) に示す通りになる.
平均符号長 = 0.5 ∗ 1 + 0.3 ∗ 2 + 0.1 ∗ 3 + 0.1 ∗ 3 = 1.7
(1)
これは可変長符号化を行わない場合の 2 ビットに比べ 15 %削減できていることがわ
かる.
3
H.265 / HEVC (High Efficiency Video Coding)
3.1
H.265 の概要
ISO および IEC と ITU-T が共同で規格化した既存であった H.264/AVC は,ブルーレイ,
CS 放送,海外での放送などに応用されている.しかし高精細動画の 4 倍や 8 倍の画素数を持
つ超高精細動画,4K や 8K に対してはさらに高圧縮な符号化技術が必要になることから 2013
年 1 月に H.265 の規格化が行われた.H.265 は H.264 と同様に,直交変換とインター予測の
両方を用いるハイブリッド符号化方式をベースとしている.これに様々な改良を加えて,従来
の 2 倍の圧縮性能を持つ.H.265 では超高精細画像を圧縮するために,従来方式より大きなブ
ロックサイズ(予測は 64 × 64 画素,変換は 32 × 32 画素)を用いて平坦部分のデータ量を
大幅に削減する.一方で,起伏部分では小さなブロックサイズ(動き予測は 8 × 4 画素または
4 × 8 画素まで,画面内予測と変換は 4 × 4 まで)を使うことができる.このブロック分割は
木構造で表される.H.265 では,ブロック分割の方法を変えることが圧縮率向上に大きく関与
している 5) .
3.2
木構造分割
H.264 のブロック分割法は全て 16 × 16 画素のブロックに分けて処理を進めるのに対し,木
構造分割を採用した H.265 ではデータのばらつきによって CTU のサイズが 64 × 64,32 ×
32,16 × 16 画素と変化する.CTU は符号化処理の基本単位である.また CTU 内でも再帰
可能な 4 分木分割が行われる 3) .Fig. 2(a) に CTU のサイズを 64 × 64 とした場合の例を示
す.また Fig. 2(b) にこの例に対応する 4 分木構造を示す.CU とは CTU の木構造の末端の
ユニットであり,予測処理,変換処理の基本単位となる.CU は CTU の 4 分木分割を 0∼3 回
したユニットなので,64 × 64,32 × 32,16 × 16,8 × 8 画素のサイズになる.また CU は
PU と TU から構成される.PU は予測変換の基本単位であり,TU は PU による予測データ
の変換処理の基本単位である.また TU は PU からの予測処理後の信号を直交変換する.
平坦であまり変化のないユニットと細かい変化の多いユニットを分けることで無駄な処理
が減り,画像の質はそのままに圧縮率を上げることができる.また,64 × 64 のように大きな
CU での処理を減らすだけでなく,8 × 8 のように範囲を狭めるとユニット内の画素がばらつ
きにくくなるため,予測の差分データや符号化の符号長データが小さくなりやすい.これによ
り大幅な圧縮率向上を実現した.
16
(a) CTU の分割例
(b) 4 分木構造
Fig. 2 木構造分割の例(参考文献 1) を参考に自作)
3.3
H.265 の導入事例と展望
H.265 は新しい規格であり,導入事例は多くない.2013 年 10 月,H.265 / HEVC を利用し
た 4K 映像の伝送実験が日本で初めて実施された.また 4K 映像の試験放送が 2014 年 7 月か
ら衛星放送にて開始される予定である.2020 年に行われる東京オリンピックまでに 8K 映像
の放送スタートを目標にしている.またこれまでの技術と比較してユーザが設計するにあた
り自由な規格なので,各社の技術の差が画質に大きく反映されて商品の差別化もされやすく
なった.これまで以上に符号化技術の開発が重要になっていき,激しい競争の中,更なる技術
の進化が期待できる.また具体的な展望としては 4K や 8K 映像を用いたアプリケーションや
モバイルでの配信が期待される.H.265 は様々な改良技術を導入することで,H.264 に対し 2
倍の圧縮率を得ている.そのため,超高精細画像の放送やインターネットでの配信,及び携帯
機器での動画のやり取りといった応用が期待されている.一方で,従来方式よりも処理量が増
加するという問題点がある.物理的に CPU などの性能があがることによっても解決される可
能性はあるが,より無駄を省いたアルゴリズムに改良することが最善の解決策となる.
4
まとめ
本稿では動画圧縮技術の概念と最新の動画圧縮の規格 H.265 の既存の規格との比較につい
て述べた.時間的また空間的に予測を行うことで不要なデータを削減して圧縮する動画圧縮
技術であるが,最新の動画圧縮規格 H.265 は木構造分割を取り入れることにより予測などの
処理において従来より高い圧縮性能を得た.H.265 は超高精細画像 4K や 8K に対応できるよ
うになり,世間に広がりつつある.
参考文献
1) 松尾翔平, 高村誠之, 重要性, 標準化動向. 次世代映像符号化規格 hevc の標準化動向. NTT
技術ジャーナル, p. 54, 2013.
2) 蝶野慶一. Hevc のブロック分割構造および変換・量子化 (特集新しい画像符号化技術)–(hevc
(mpeg-h/itu-t h. 265) 技術解説). 映像情報メディア学会誌= The Journal of the Institute
of Image Information and Television Engineers, Vol. 67, No. 7, pp. 533–536, 2013.
3) 坂東幸浩. 映像符号化技術の最前線:hevc. IEICE Fundametals Review, Vol. 7, No. 3,
2013.
4) 鈴木輝彦. フレーム内符号化とフレーム間予測符号化 (特集新しい画像符号化技術)–(hevc
(mpeg-h/itu-t h. 265) 技術解説). 映像情報メディア学会誌= The Journal of the Institute
of Image Information and Television Engineers, Vol. 67, No. 7, pp. 537–540, 2013.
5) 谷沢昭行, 山口潤, 中條健. 動画像符号化の新規格 hevc に向けた高効率な重み付き画素値予
測技術 (特集 東芝の映像・イメージング技術を支える基盤研究). Toshiba review, Vol. 68,
No. 2, pp. 15–18, 2013.
17
第 33 回 月例発表会(2014 年 04 月 19 日)
医療情報システム研究室
人工頭脳「東ロボくん」
村上 晶穂
Akiho MURAKAMI
小淵 将吾
Shogo OBUCHI
大村 歩
Ayumi OMURA
Abstract 人工知能の最終的な目標は, 人間と同程度の知能を作ることである.しかし,現在の人
工知能による推論や学習は,人間のそれらに比べると,ごく一部しか実現できていない.そこで,国立
情報学研究所などが中心となって,東京大学に突破することを中間目標に掲げ,人工頭脳「東ロボくん」
を開発している.東ロボくんが問題を解くのに必要な技術には,含意関係認識,オントロジー,数式処
理ソルバー,そして物理シュミレータなどがある.東ロボくんが 2013 年に受けた,センター試験のテ
ストは,東京大学を突破するにはほど遠い結果であった.大学入試問題を解くというプロジェクトにお
いての課題は,問題文をより正確にロボットに理解させることにある.
1
はじめに
近年,高性能なコンピュータが開発されたことにより,哲学や数学などの分野で論じられ
ていた,人間の知的活動を行う機械を作る試みが始められた.人工ニューロンの提案や制作,
チェスのプログラムの作成などの試みがこれに当たり,1956 年のダートマス会議で,この研
究分野が,人工知能 (Artificial Intelligence: AI) と呼ばれるようになった.その人工知能の最
終的な目標は,人間と同程度に世の中の目標を達成し, 人間のような知能をもった人工物をつ
くることである 1) .この目標を達成することにより,人間の思考プロセスが解明できると考
えられている.しかし,現在の人工知能による推論や学習は,人間のそれらに及ばず,ごく一
部しか実現できていない.したがって,最終目標の達成には非常に時間がかかることが想像さ
れる.そこで,中間目標を設定し,その達成を具体的に目指すことが期待される.この中間目
標として,国立情報学研究所が 2011 年に「人工知能プロジェクト」―ロボットは東大に入れ
るのか?―のプロジェクトを発足した.東京大学入試の突破を目指すコンピュータプログラム
である人工知能「東ロボくん」を開発することで,人工知能技術を飛躍させ,また,社会貢献
も期待される.
本稿では,人工知能について概説した後に,東ロボくんの技術や,現状,問題点そして展望
について述べる.
2
人工知能
人工知能とは,人間の脳が行っている知的な作業をコンピュータで模倣したソフトウェアや
システムのことである.具体的には,人間の使う自然言語の理解や,論理的な推論,経験から
の学習を行うコンピュータプログラムのことを言う.人工知能の研究は 1950 年前後に始まり,
人工知能の目標は,人工物に人間のような知能をもたせること,そしてその試みを通して,人
間の知能に関する知見を得ることである.実際は,人工知能の基礎分野である,自然言語処理
や推論といった基礎の技術が,ロボットを作るときに応用されている.以下に基盤となる技術
を示す 2) .
• 自然言語処理
私たちが日常生活で使用している言葉を,コンピュータで理解させるための技術である.
自然言語処理は 1 から 3 の順番で処理される.
1. 形態素解析
言葉で意味をもつ最小単位である形態素に分割し,それぞれの品詞を判別する.
2. 構文解析
形態素間の関係を説明する,つまり文章の文法的な関係を説明する.
3. 意味解析
18
構文解析の結果意味を利用して,構造を決定する.
• 推論
推論は知識をもとに,新しい結論を得ることである.知識を組み合わせることで,新しい
結果や目標を達成するために必要な事柄を導き出せる.特に,コンピュータ上で推論を実
行させることを自動推論と呼ぶ.
人工頭脳「東ロボくん」
3
人工頭脳「東ロボくん」とは,国立情報学研究所が中心となって,1980 年以降細分化され
た自然言語処理,画像認識,音声認識,ロボティックスなどの人工知能分野を再統合すること
で情報技術分野を開拓し, 人間の思考プロセスに関する理解を深めること目的に,若い人たち
に夢を与えるプロジェクトとして発足したものである 3) .このプロジェクトは,コンピュー
タプログラムである東ロボくんが,2016 年度までに大学入試センター試験で高得点をマーク
すること,そして,2021 年度に東京大学入試を突破することを目標にしている.東京大学入
試では,自然言語処理の他に,知識処理,推論などの認知に基づく意味理解や,常識的判断
などの総合的な技術が必要となる.大学入試問題を解くにあたり,様々な常識が必要になるた
め,人工知能では困難とされるコンピュータに常識をもたせることが期待される 4) .
東ロボくんは,人間の形をしているロボットというわけではなく,コンピュータの中のプロ
グラムで,その頭脳の大きさは USB メモリにも入る程度の 4 ギガバイトである.また,問題
冊子をめくる,筆記による入力を行うなどの物理的な処理はしない.開発する問題解答のプロ
グラムの入力は,図や音声を含む試験問題を電子化したデータで,自然言語で記述されてい
る.センター試験に対しては,正解と判断された選択肢が出力されるが,二次の試験問題で
は,解答形式について問題ごとの指定を読み取り,自然言語による出力を行う.大学入試の科
目では,解答に必要になる知識の質は異なる.したがって,それぞれの科目ごとに解決するモ
ジュールが必要がある.本章では,科目ごとの人工頭脳「東ロボくん」の解答までのアプロー
チ方法について述べる.
3.1
英語と国語
英語と国語の問題はロボットにとって,どちらも外国語なので,同様のアプローチをとる.
単語や文法の知識を問うような問題は,教科書や Wikipedia のような知識源を参照すること
で解くことができるため,推論が必要とされる.一方で,文章読解や常識判断を伴う問題は,
次で示す含意関係認識を用いる手法や文章の要約の技術が必要である.
3.2
社会
社会の問題では,専門知識と常識が共に必要になる.演繹的な推論ではなく,適切な知識表
現と柔軟な検索が必要である.知識を問う問題には,二つのアプローチがある.一つは自然言
語処理における統合的意味解析である含意関係認識である.他方は,知識を形式的に記述する
ことで,誤りを検出するオントロジーである.
3.2.1
含意関係認識
含意関係認識とは,Wikipedia や教科書などの知識源から選択肢や問題文のの正誤を判断す
る技術である 5) . 年代,人物名,組織名などの広い意味での固有表現を問う問題や,出来事
の理由や定義を問うような問題,また正誤問題などは,正誤判断の根拠を正確に計算すること
は難しい.このような問題は教科書などの知識を前提とした含意関係認識が必要な問題とみ
なすことができる.
含意関係認識では,二つの文 T1,T2 があるとき,その二つの文の間に含意関係が成り立つ
か,つまり表現が違っても同じことを意味しているのかを判別する.実際の問題で含意関係認
識を利用した例を Fig. 1 に示す.
人間は T1 が成り立つときに,T2 も成り立つと容易に判断できる.これをコンピュータが
認識するためには,
「鎌倉幕府が 1185 年に成立した」という意味構造を正しく解析する必要が
ある.言葉に関する知識や「始まった」と「開かれた」の表現の違いを吸収したり,
「1185 年」
が「12 世紀」に言い換えられるという常識的知識から推論できる情報を補い,文間の関係を
推論する.その結果,T1 と T2 の意味内容が同じであると判断され,含意関係が成立する.
19
Fig. 1 含意関係認識の例 (参考文献 3) より自作)
オントロジー
3.2.2
オントロジーとは,テキストには明示的に現れない時間や空間に関する必要条件を定式化
し,誤りを検出する推論を用いた技術である 6) .人物や国家,組織,場所などの主要なイン
スタンスに対する事実の記述に加え,あるイベントが忠実かどうかを決定するための,イベン
ト成立のための条件を記述することに重点をおく.以下に歴史的オントロジーを用いた例を示
した.
1. ピピンはランゴバルド王国を滅ぼした.
2. 西アジアに伝わった仏教は,ゾロアスター教の成立に大きな影響を与えた.
東ロボくんの推論より,1 と 2 は共に忠実でないと判断される.その理由は,1 はピピンの存
在期間がランゴバルト王国の存在終了時を含んでいないからであり,2 は仏教が紀元前 5 世紀
頃に成立しているのに対し,ゾロアスター教はそれより前の紀元前 7 世紀ごろに存在してい
るからである.イベント成立のための条件には時間的条件,地理的条件,人物の立場に関する
条件,主義主張,思想に関する条件,人物との所属関係に関する条件などがある.これらの条
件は知識源に書かれておらず,あるイベントが実際に成り立つ可能性のあるかどうかに判断す
る際に用いられる.
3.3
数学
東ロボくんが数学問題を解く手順はまず,自然言語処理を行い,立式を経て, その式に対応
する推論,次に計算アルゴリズムであるソルバーによる処理を行う.数学の問題の求解システ
ムを Fig. 2 に示す.東ロボくんでは,数学問題の求解のためのソルバーとして,一階述語論
理式に限量記号消去 (quantifier elimination: QE) と呼ばれるアルゴリズムを適用している 7)
.一階述語論理式とは,限量記号の∀ (全称記号) や∃ (存在記号) が付いた不等式や等式から
なる論理式のことである.計算代数のさまざまな技術を組み合わせて成立した計算アルゴリ
ズムである QE を利用して,この論理式を処理し解答を得る.
Fig. 2 数学問題の求解システム (参考文献 7) より自作)
20
3.4
物理
物理の問題は,東ロボくんが問題文を理解する際,自然言語だけでは曖昧であり,三次元的
な配置関係が決定できない状況ができるため,問題文に書かれている図を理解し,適切な物理
モデルをシュミレーション上に構築する処理を行う.自然言語処理の結果とシュミレーション
結果の双方の結果を相補的に処理することで,曖昧性を解消することが必要がある.物理の問
題を解く手順を Fig. 3 に示す.
まず問題文の意味解析をし,シュミレータ用いて,問題の状況をシュミレーションで再現す
る.物体やばねの位置や長さ,複数の物体を配置関係など,機械要素の結合関係を Modelica
と呼ばれる記法で記述する.そのシュミレーション結果の解釈をし,解答する 8) .
Fig. 3 物理の求解システム (参考文献 8) より自作)
3.5
東ロボくんの実績
上述した技術を用いて,2013 年,人工頭脳「東ロボくん」のプロジェクトとして初めて代々
木ゼミナールの全国センター模試と東京大学プレ模試に挑戦した.全国センター模試の結果
を,Table. 1 に示す.合計点は 900 点中 367 点となり,東京大学を目指すにはほど遠い点数
だった.また,東京大学プレ模試では,文系の数学は 4 問中 2 問完答,理系の数学は 6 問中 2
問完答で,文系理系とも受験者中,偏差値約 60 だった.
Table. 1 全国センター模試の結果
英語[点] 数学 IA[点] 数学 IIB[点] 国語[点] 古文[点] 物理[点] 世界史[点] 日本史[点]
52
4
60
40
42
20
39
58
56
問題点と展望
全国センター模試における,物理の点数は 39 点と最低点だった.それは,テキストや図形
を立式する時の曖昧性が生じたためである.したがって,より深い言語処理と推論が必要にな
る.一方で,数学の問題では,正しい式でも変数が多ければ,計算量が膨大になり,解答する
まで時間がかかる.データ量に対して対数的にしか精度が向上しないため,精度向上のために
はビッグデータが必要となる.しかし,日本国内の学術機関だけで必要なビッグデータを集め
るのは難しいため,スモールデータで精度が上がる技術が必要である.
文系科目では,読解問題や文章の要約が難しい.問題文の意図を正確に読み取るためには,
常識的推論の妥当性の判断や比喩的表現の意味解析など,これまでに取り組まれていない自
然言語処理や意味理解の技術が必要とされる.
これらを解決することにより,現在の人工知能の課題である人間が無意識に行っている知識
処理や常識の理解が可能となるであろう.IT 技術が進むに従い,ロボットにおいても周りの
環境の状況理解,因果関係に基づく将来予測なども含めた技術が必要になると予測される.ま
た,人間に近い人工頭脳を実現するために,頭脳だけでなく,心や感情などの要素を取り入れ
21
ていくことが必要だと考えられている.大学入試を解くというプログラムを作成することで,
意味に基づく対話システムやコンピュータでは理解できないが,人間にとって簡単な問題で
も,それをどう思考しているのかという思考プロセスを解明できると期待されている.
5
まとめ
人工知能の最終的な目標は, 人間と同程度の知能を作ることであるが,現在の人工知能によ
る推論や学習は,ほとんど人間のそれらに及ばず,ごく一部しか実現できていない.国立情報
学研究所などが中心となって,東京大学に突破することを中間目標に掲げ,人工頭脳「東ロボ
くん」を開発している.人工頭脳「東ロボくん」を開発することで,人工知能技術を飛躍させ,
また,社会貢献も期待される.東ロボくんのプロジェクトは,2016 年度までに大学入試セン
ター試験で高得点をマークすること,そして,2021 年度に東京大学入試を突破することを目
標にしている.東ロボくんが問題を解くのに必要な技術には,含意関係認識,オントロジー,
数式処理ソルバー,そして物理シュミレータなどがある.東ロボくんが 2013 年に受けた結果
は,東京大学入試を突破するのに十分ではなく,これからさらに深く正確な言語処理や,文章
を要約する技術が必要である.大学入試問題を解くというプロジェクトにおいての課題は,問
題文の意図をどれだけ正確にロボットに理解させるかにある.これを解決するためには,問題
文の内容を,より深く正確に理解する自然言語処理や意味理解技術が必要である.
参考文献
1) 新井紀子, 松崎拓也. ロボットは東大に入れるのかー国立情報研究所「人工頭脳」プロジェ
クトー. 人工知能学会誌, Vol. 27, No. 5, pp. 463–469, 2012.
2) 人工知能学会. 人工知能のやさしい説明「What’s AI」.
http://www.ai-gakkai.or.jp/whatsai/.
3) 国立情報学研究所. ロボットは東大に入れるか。Todai Robot Project.
http://21robot.org/, 2013.
4) 松原仁. 人工知能のグランドチャレンジ. 人工知能学会誌, Vol. 27, No. 5, pp. 459–462,
2012.
5) 宮尾祐介, 川添愛. 「大学入試問題を解く」ことから見える言語,知識,世界知識に関する
研究課題. 人工知能学会誌, Vol. 27, No. 5, pp. 470–478, 2012.
6) 川添愛, 宮尾祐介, 松崎拓也, 横野光, 新井紀子. 「忠実としてありえない」という判断を
可能にする世界史オントロジー. In The 27th Annual Conference of the Japanese Society
for Artificial Intelligence, pp. 483–491, 2013.
7) 相澤彰子, 松崎拓也, 穴井宏和. 自然言語処理と計算代数の接合による数学問題へのアプ
ローチ. 人工知能学会誌, Vol. 27, No. 5, pp. 483–491, 2012.
8) 稲邑哲也, 横尾光. 物理モデル理解と自然言語処理の統合による理科問題の回答. 人工知能
学会誌, Vol. 27, No. 5, pp. 479–482, 2012.
22
第 33 回 月例発表会(2014 年 04 月 19 日)
医療情報システム研究室
3 次元 NAND メモリ
田村 陵大
Ryota TAMURA
三島 康平
Kohei MISHIMA
関谷 駿介
Shunsuke SEKIYA
Abstract スマートフォンやパソコン,USB メモリなど,様々な機器の記憶媒体として活躍して
いる NAND 型フラッシュメモリであるが,近年大容量化が停滞している.コストを下げつつ,記憶容
量を増やすために,次世代の 3 次元 NAND 型フラッシュメモリが注目を集めている.そのような状況
の中で,日本の東芝が考案したメモリの3次元化技術(BiCS 技術)による,BiCS フラッシュメモリの
サンプル品の製造,発表会が 2014 年上半期に予定されている.早ければ,今年から 3 次元 NAND 型フ
ラッシュメモリが市場に出回ることになる.
1
はじめに
NAND 型フラッシュメモリは,日本の東芝が開発して以来,市場が急激に大きくなってい
る.それに伴い,メモリの記憶容量の増加と価格の低下が進んでいった.しかし近年では,記
憶容量の増加が低迷し始めている.そのような状況を打破するため,立体構造の NAND 型フ
ラッシュメモリの開発が進められている.本稿では,現在主流となっている 2 次元 NAND 型
フラッシュメモリの歴史と構造について述べ,これから普及していくことが予想される,3 次
元 NAND 型フラッシュメモリと比較検討していく.
2
半導体不揮発性メモリ
NAND 型フラッシュメモリ(以下,NAND メモリと略記)は,半導体不揮発性メモリ(Semiconductor non-volatile memory)の一種である.そのため,まずは半導体不揮発性メモリに
ついて述べる.
「不揮発性」とは,電源を切っても保存したデータを保持できる,という性質
のことである.半導体不揮発性メモリは,種類が豊富にあり,メモリ自体の構造や使用用途に
よってメモリの分類が可能である.Fig. 1 のように,半導体不揮発性メモリを大きく分類する
と,MROM( Mask Read Only Memory),PROM(Programmable Read Only Memory),
UV-EPROM(Ultra-Violet Programmable Read Only Memory),EEPROM(Electrically
Erasable and Programmable Read Only Memory)のように分けることができる.EEPROM
は,ビット毎に電気的消去および書き込み可能な Conventional EEPROM と,一括で電気的
消去および書き込み可能な Flash EEPROM(以下,フラッシュメモリと記載)に大別される.
フラッシュメモリのメモリセル構造は多様であり,NOR 型と NAND 型がある.したがって,
このフラッシュメモリに NAND メモリが分類される.また,NAND メモリは,メモリのアク
セス方法が順次アクセス(シーケンシャルアクセス)方式であるため,シーケンシャルアクセ
スメモリ(SAM)とも呼ばれる場合がある 1) .
Fig. 1 半導体不揮発性メモリの分類(自作)
23
2 次元 NAND メモリ
3
3.1
2 次元 NAND メモリの進歩
NAND メモリは,1987 年に東芝に在籍していた舛岡富士雄氏によって発明されてから,数
十年の間に飛躍的な成長を遂げている.NAND メモリの大きな特徴は,不揮発性メモリであ
るということ,他のフラッシュメモリに比べて回路規模が小さいことや,消費電力が小さいこ
と,書き込み動作や消去動作を高速に行えることである.一方,バイト単位の書き換え動作は
行うことができないという欠点がある.現在では,部品の小型化や機械加工の正確性の向上に
より,大容量で低価格なものが数多く登場しており,そして,NAND メモリは様々な製品に
組み込まれている.例えば,SD カードや USB メモリ,WALKMAN を代表とするデジタル
オーディオプレイヤー,デジタルビデオカメラの保存メモリ,HDD(Hard disc drive)に代
わるストレージデバイスの SSD(Solid state drive)の記憶装置など身の回りの多くのものに
利用されている
NAND メモリの進歩には 2 つの大きな理由がある.一つは,現代の仕様の NAND メモリが
1990 年代前半に登場し,1990 年代半ばから DSC(デジタルスチルカメラ)1 が急速に普及し
たことで,最初の大市場となった. そこから 15 年以上が経過し,フラッシュメモリを応用した
ストレージ市場が多様化し,拡大進行している.先ほど例で挙げたデジタルオーディオプレイ
ヤーなどへの,応用分野の拡大が NAND メモリの低コスト化を後押しした. また,NAND メ
モリの低コスト化が新たな市場に貢献する循環が生じている. この循環が,NAND メモリの
目覚ましい進歩を促した理由の一つであると考えられる 2) .
もう一つの理由として,数十ナノメートル単位の精密な加工技術の開発が考えられる. この
技術により,NAND メモリの小型化,記憶容量の増量が可能になり,様々なデバイスに組み
込み,応用させることができるようになった技術的な面も関与していると考えられる 1,
3.2
3.2.1
2)
.
2 次元 NAND メモリの基本的メカニズム
2 次元 NAND メモリの構造と記憶
NAND メモリのメモリチップは,膨大な量の「メモリセル」と呼ばれる素子からできてい
る.
「メモリセル」は,ワード線 2 とビット線 3 の交点に位置し,制御ゲートとシリコン基板と
の間に浮遊ゲートを設けた二重ゲート構造から成る MOSFET(Metal-Oxide-Semiconductor
Field-Effect Transistor)4 である.なお,メモリセルを駆動するのに必要な導線を複数のメモ
リセルで共有している.この構造が原因で,バイト単位での書き込みや消去が困難である 1) .
浮遊ゲートは絶縁膜であるシリコン酸化膜で周囲を覆われている(Fig. 2).ただし,浮遊
ゲートとシリコン基板の間は他のところと比較して薄くなっている.浮遊ゲート内に入ってい
る電子は通常状態では外に出ることはなく,また,新たに電子が入ることもないので,電源を
切っても記憶した情報は保存されたままになる.これによって,NAND メモリの特徴である
不揮発性が実現されるのである.
Fig. 2 メモリセルの構造(参考文献 1) より自作)
データを記憶するメカニズムは,浮遊ゲート内の電子の有無で制御している.浮遊ゲート
内に電子が存在しない状態を Fig. 3(a),電子が存在する状態を Fig. 3(b) に示している.浮遊
1 主に静止画を撮影することを目的としたデジタルカメラ.
デジタルビデオカメラとは区別される.
2 メモリセルを選択するための信号線のこと.
3 メモリセルに対する書き込みや読み込みのためのデータ転送線のこと.
4 電界効果トランジスタの一種.電圧による電流制御,電気信号増幅とスイッチング動作を行う.
24
ゲート内の電荷の有無によって,メモリセルに流し始める制御ゲートの電圧が変わってくる.
電子が存在する場合は,制御ゲートの電圧が 1V を越えると,電流が流れ始める.一方,電子
が存在しない場合,制御ゲートの電圧は 5V 以上に高くしなければ電流が流れない.このこと
から,浮遊ゲート内に蓄積された電子の量によって,メモリセルのトランジスタのしきい値電
圧が変化する.これにより,論理データの“ 0 ”および“ 1 ”を記憶するのである 1) .
(a) 論理的“ 0 ”の状態
(b) 論理的“ 1 ”の状態
Fig. 3 メモリセルのデータ保持メカニズム(参考文献 1) より自作)
3.2.2
書き込み/消去方法
NAND メモリの特徴の一つである,データの書き込みと消去は,共に同様の動作で行われ
ている.その動作とは,シリコン基板の n 型間に電流を流すことで,シリコン基板と浮遊ゲー
トの間に Fowler-Nordheim Tunneling と呼ばれるトンネル現象 5 が生じ,シリコン基板と浮
遊ゲートの間に FN(Fowler Nordheim)電流が流れる.それによって,シリコン基板と浮遊
ゲート間の電子が移動することで,データの書き込みと消去を行う.したがって,メモリセル
に関してのみ考えれば,原理的には書き込み,及び消去動作を行うために必要な電流は FN 電
流だけであり,消費電力は非常に小さい.このため,同時に大量のデータの書き込みを行った
としても,消費電力の増加はほとんどない.
書き込みを行う場合は,Fig. 4(a) のように,制御ゲート側の電圧を上げていくと,制御ゲー
トがシリコン基板よりも高電位となる.この状態で FN 電流を流すと,シリコン基板に存在し
ていた電子がトンネル効果により,絶縁膜を透過して浮遊ゲートに移動する.一方,消去を行
う場合は,書き込み動作とは反対に,Fig. 4(b) のように,シリコン基板側の電圧を上げてい
き,シリコン基板側を高電位とする.今度は,浮遊ゲートに存在していた電子が,書き込みの
場合と同様に,トンネル効果により,浮遊ゲートからシリコン基板へ電子が移動する.このよ
うにして,データの書き込みと消去を電圧と電流の制御だけで行っているのである 1) .
(a) 書き込み動作
(b) 消去動作
Fig. 4 データの書き込みと消去方法(参考文献 1) より自作)
NAND メモリでは,3.2.1 で述べたように,メモリセルを駆動させるために必要な配線を複
数のメモリセルで共有しているため,バイト単位での書き込みや消去が不得手である.このた
め,データの書き込みや読み込みについては,
「ページ」と呼ばれる複数のビット単位で行わ
れる.また,消去は「ブロック」と呼ばれる「ページ」を複数でひとまとめにした単位で一括
5 障壁構造に電子が入射した時,確率的に電子が透過存在する現象のこと.
25
に行われる.標準的な NAND メモリでは,1 ページおよそ 2.1k バイト,1 ブロックあたり 64
ページ(およそ 135k バイト)となっている.消去はブロック単位で行うことしかできず, ま
た,1 動作では上書きできずに消去してから書き込みを行う必要がある. そのため,1 ページ
の書き換えでも一度 1 ブロック 64 ページの内容を NAND メモリの外部に読み出し,1 ブロッ
ク消去した後,外部の記憶領域で必要な書き換え加工処理を行ってから,消去済みブロックに
改めて書き戻す動作を行うのである 1,
2)
.
平面構造の大容量化技術
3.3
NAND メモリが利用されている SD カードなどの小型記憶媒体ですら,32G バイトや 64G
バイト程度の記憶容量がある.この NAND メモリの大容量化は高度な「多値化」と「微細化」
によって成し遂げられた.
3.3.1
多値化
「多値化」とは,文字通り多くの値をメモリに記憶させる技術である.Fig. 3 のように,メ
モリセル一つの中の浮遊ゲートに電子が“ ある ”,
“ ない ”の 2 通りの情報を記憶させる事が
できる.これは一つのメモリセルに,論理データ的には 1 ビットの情報を記憶できることに相
当する.ここで,書き込み時の電圧量を細かく制御することを考えてみる.電圧量を細かく制
御して,電子が“ 多量にある ”,
“ 通常量ある ”,
“ 少量ある ”,
“ ない ”のような状態を作り出
すと,4 通りの情報を記憶できる.つまり,一つのメモリセルに論理データ的に 2 ビットの情
報が記憶できることと同義である.このように,一つのメモリセルに記憶できる容量を増やす
ことで,同じ素子数を持つメモリの全体としての容量を増やしているのである 1) .
3.3.2
微細化
メモリチップの中には目に見えない極めて細い配線(10 n m)が大量に存在する.この配
線が重ならないように, 配線同士の幅を細かくしていくことで, 同じ面積の中で多く配線を引
けるようにしている. これによって配線の交わる点であるメモリセルも同様に小さくなり,「微
細化」ができる. SD カードなどは規格の大きさが決まっているので,「微細化」が進めば, そ
れだけ大容量の情報を同じ面積のままで記憶できるようになる. なお, 現在では配線幅が最小
19nm のところまで「微細化」が進んでいる 1,
3.4
3)
.
2 次元 NAND メモリの技術低迷
2 次元 NAND メモリの進歩を支えてきた「多値化」や「微細化」などの技術が,ここ近年,
低迷期を迎えていた.現在のもの以上の記憶容量の増加を行うためには,さらなる「微細化」
が必要不可欠である.しかし,これ以上の「微細化」は,今後の難易度が非常に高くなること
と,必要な加工装置の価格が高騰することが予想される.このため,
「微細化」技術を進めた
としても,NAND メモリのビットコスト 6 が増加してしまい,NAND メモリの価格高騰が起
こると考えらてきた 2,
4, 5)
.
そこで,
「微細化」だけに頼らずビットコストを低減し,大容量化を進めることができる 3 次
元 NAND メモリの製造が考案された.
3 次元 NAND メモリ
4
4.1
3 次元化技術
以上のような背景があり,世界のメモリ業界が次世代型 NAND メモリの開発に取り組み始
めた.現在発表されている NAND メモリの 3 次元化技術をまとめる.
1. BiCS(Bit-Cost Scalable Technology)
2. TCAT(Terabit Cell Array Transistor)
3. VG-NAND(Vertical Gate NAND)
4. Simply-stacked NAND
5. 3D FG-NAND w/ESC(3D Floating Gate-NAND with the Extended Sidewall Control
Gate)
6. DCSF NAND(Dual Control-Gate with Surrounding Floating-Gate)
61
ビットあたりの価格
26
この中で,実用化が目前となっている技術が BiCS である.以降はこの BiCS 技術を取り上
げ,それについて述べていく.
4.2
4.2.1
BiCS 技術
BiCS 技術によるメモリセルアレイの製造
BiCS 技術のメモリセルアレイ(Memory cell array)の製造工程の概念を Fig. 5 に示す.ま
ず,Fig. 5(a) のように,板状の平面電極と層間絶縁膜を交互に積み重ね,積層構造を形成す
る.続いて,Fig. 5(b) のように,その積層構造を貫通する孔を一度のフォトリソグラフィ7 と
RIE(Reactive Ion Etching)8 によって一括で開ける.そして,その孔の側面にメモリ膜(電
荷蓄積膜)を形成したあと,柱状電極を埋め込む.このような製造工程において,メモリセル
は平板電極と柱状電極の交点に一括形成される 5) .
(a) 板状電極積層
(b) 貫通孔メモリ膜形成
(c) 柱状電極埋め込み
Fig. 5 BiCS 技術のメモリセルアレイ製造工程(参考文献 4) より自作)
4.2.2
BiCS 技術の特徴
BiCS 技術は以下の点において,他のメモリ 3 次元化技術よりも優れている.
• 積層数が増加しても,加工にかかるコストが少ない.
• 積層数が増加しても,周辺回路の面積が小さい.
• 積層数が増加しても,フォトリソグラフィの回数が増えない.
以上のことから,メモリを立体構造にしても,大容量化しつつビットコストを低減し,製品
自体をコンパクトに仕上げることができる 5) .
4.3
4.3.1
BiCS フラッシュメモリ
BiCS フラッシュメモリの立体構造
BiCS 技術を適用したフラッシュメモリを BiCS フラッシュメモリと呼称する.BiCS フラッ
シュメモリにおいて,4.2.1 で述べた,平面電極と柱状電極は,それぞれ NAND メモリの制御
ゲートと NAND string
9
に対応している.2 次元の NAND メモリでは,浮遊ゲートに電荷を
蓄積していたが,BiCS フラッシュメモリにおいては,浮遊ゲートを配置する空間が無いこと
と,一括加工との親和性により,平板電極と柱状電極の交点にはメモリ膜が配置されており,
膜中の電荷蓄積量で情報を記憶する.
BiCS メモリを NAND メモリとして動作させるため,BiCS 技術により製造したメモリセル
アレイに,上下の選択ゲート,ビット線,及びソース線 10 を加える.制御ゲートは上下選択
ゲートによって挟まれ,その構造の上にビット線,下にソース線が配置されている.Fig. 6 に
BiCS メモリの概略図を示す 5) .
4.3.2
メモリ動作
BiCS フラッシュメモリも,読み出しと書き込み動作に関しては,2 次元 NAND メモリと同
様の電圧印加条件で行うことができる.行選択線の上部選択ゲートと列選択線のビット線で,
1 本の NAND string を選択し,その中の 1 ビットを制御ゲートで選び,制御ゲート読み出し
または書き込み動作を行う.
消去動作については 2 次元 NAND メモリとは異なる.その理由として,2 次元 NAND メ
7 感光剤を塗布した物質を部分的に露光することで,回路のパターンを生成する技術.
主に半導体素子などの製造に用いられる.
8 ドライエッチングに分類される高精度な微細加工技術の一種.
9 直列接続されたメモリセルの列のこと.
10 電源供給のための配線の総称
27
(a) メモリの立体化
(b) 3 次元構造
Fig. 6 BiCS フラッシュメモリ(参考文献 4) より自作)
モリの場合は,制御ゲートと基板が直接つながっている.一方,BiCS フラッシュメモリは立
体構造であるため,制御ゲートと基板が離れている.このため,従来のように基板側の電位を
上げ,制御ゲート側の電位を下げて FN 電流を流す方法では,電子を移動させることができな
いのである.
BiCS フラッシュメモリでは,選択ゲート端のチャネル 11 で生じる GIDL(Gate Induced
Drain Leakage)ホール電流 12 によって,制御ゲート下のチャネル電位を上げて消去を行う.
Fig. 7 は GIDL 電流が流れるイメージ図を示す.GIDL 電流を生じさせるために,まずソース
とドレインの電位を上げていき,その後少し遅らせて上下選択ゲートの電位を上げる必要が
ある.つまり,消去を行うための基本概念は 2 次元 NAND メモリと同様で,電子を保存して
いるメモリ膜から電子を引き抜くために,シリコン基板の代わりに制御ゲート下の柱状電極
の電位を上げる必要がある.そこで Fig. 8 のように GIDL 電流を発生させることで,メモリ
膜から電子を抜き出す程度の高電位を得ることができる 5,
6)
.
Fig. 7 GIDL 電流の様子(自作)
Fig. 8 BiCS フラッシュメモリの消去動作(参考文献 4) より自作)
11 半導体中でキャリア(伝導電子とホール)が流れ,制御される部分のこと.
12 ゲート電極下のドレイン端に高い電界がかかる事により,正孔(ホール)がドレイン側に流れ,
28
電流が流れる現象.
BiCS の問題点
4.3.3
4.3.1 で述べたことが基本的な BiCS フラッシュメモリの立体構造である.しかし,BiCS フ
ラッシュメモリの製造には 4 つの問題点がある.
1. 熱処理順序による下部選択ゲートのトランジスタ特性の劣化
2. ソース線の構造による抵抗値増加
3. メモリ下部構造を加工中のメモリ膜損傷
4. 不純物を添加した多結晶シリコンの使用による制御ゲート抵抗値増加
上記で述べた問題点.1 から問題点.3 が原因で,BiCS フラッシュメモリのメモリセルアレイ
を大規模化した場合,データの読み込みが難しくなること,問題点.4 によりフラッシュメモリ
の動作が遅くなることが判明した.3,
4.4
5)
BiCS 問題点の解決策
4.4.1
p-BiCS
4.3.3 で述べたように,BiCS フラッシュメモリにも改善するべき問題点があった.そこで,
東芝が新たに考案した構造が p-BiCS(pipe-shaped BiCS)である.p-BiCS を用いたフラッ
シュメモリを p-BiCS フラッシュメモリと呼称する.
通常の BiCS フラッシュメモリと p-BiCS フラッシュメモリの構造の変更点は,NAND string
の上端だけに選択ゲートを接続し,隣接する NAND string の下端同士を水平方向にシリコン
柱でパイプのように接続する.NAND string 下端を接続した部分を,バックゲート電極 13 に
よって,トランジスタ動作させることで導通させる.そして NAND string が接続された選択
ゲートの上端は,それぞれビット線とソース線に接続されている.Fig. 9 に構造のイメージ図
を示す.
Fig. 9 p-BiCS フラッシュメモリ構造(参考文献 3) 自作)
この p-BiCS 構造に変更することで,4.3.3 で述べた問題点.1∼問題点.3 を一気に解決する
ことができ,メモリセルアレイを大規模化した場合でも,データの読み込みが可能になった.
さらに,メモリ膜に損傷を与えない加工方法となったため,メモリ膜の特性が向上し,一つの
セルに 2 ビットの情報を記憶する多値化動作も可能となった.3,
4.4.2
4)
側壁シリサイド化技術
通常,トランジスタなどの半導体素子に用いられるものは,高純度の単結晶シリコンから作
られるシリコンウェハーである.しかしながら,シリコンウェハーは必要なコストが高いこと
と,加工の難易度が高いことから BiCS フラッシュメモリには使用されず,代わりに多結晶シ
リコンが使用されている.多結晶シリコンを用いることで,BiCS フラッシュメモリの製造方
法は容易になったが,4.3.3 で述べたように,制御ゲートの抵抗値が増加し,フラッシュメモリ
の動作が遅くなるという問題が出てきた.そこで開発された技術が側壁シリサイド化である.
側壁シリサイド化とは,CVD(Chemical Vapor Deposition)法 14 によって,制御ゲートの
側壁に金属膜を堆積させ,熱処理で金属とシリコンを反応させることで,シリサイド 15 を形
13 MOS
トランジスタの基板の部分
14 化学気相成長法とも言う.材料ガスを熱やプラズマで分解し,基板表面に堆積させる成膜法.
15 シリコンと金属の合金.
29
成させる技術である.制御ゲートの側面をシリサイドにすることによって,制御ゲートと柱状
電極との抵抗を一桁以上低下させることに成功した.Fig. 10 にはシリサイド形成後の p-BiCS
の断面のイメージを示している.4)
Fig. 10 側壁シリサイドのイメージ(自作)
5
今後の課題と将来の展望
p-BiCS を用いることで,BiCS で生じていた問題点を解決できた.2014 年上半期には東芝
から p-BiCS を用いたフラッシュメモリを試作公開する予定である.早ければ今年中には市場
に登場することも予想される.今後の課題として残るのは,積層数の上限に達した時,さらな
る大容量化を行うとなると,多値化が必須となる.しかし,現段階でメモリ膜に用いられてい
る電荷蓄積膜はシリコン窒化膜であるため,多値化が困難である.従来のように浮遊ゲートを
用いた場合,セル一つのサイズが大きくなってしまうが,シリコン窒化膜よりも更に多値化で
き,実効的な 1 ビットあたりの面積は縮小できる可能性がある.シリコン窒化膜の多値化技術
を開発をするか,p-BiCS フラッシュメモリに浮遊ゲートを組み込むかが今後の大きな焦点と
なることが予想される.
3 次元 NAND メモリが市場に登場すれば,現在よりも記憶容量が大規模な SSD やスマート
フォン,デジタルオーディオプレイヤーなどのデジタルデバイスが登場することになる.試
作段階の BiCS フラッシュメモリでは 1 チップあたり 32G ビット(約 3.7G バイト)だが,将
来的には 1 チップあたり 1T ビット(約 116.4G バイト)も可能だと考えられている.2 次元
NAND メモリの現在の 1 チップあたりの最大容量が 128G ビット(約 14.9G バイト)である
から,3 次元 NAND メモリはそれの約 7.8 倍の容量があることが見込まれる.
6
まとめ
2 次元 NAND メモリが開発されてから,まだ 30 年も経っていない短期間で,NAND メモ
リは平面構造での大容量化が限界に到達し,立体構造に形を変えようとしている.本稿で紹介
した立体構造の NAND メモリは BiCS フラッシュメモリと,それを改良した p-BiCS フラッ
シュメモリであるが,現在も他の立体構造案が発表されている.NAND メモリの大容量化を
後押ししている背景には,インターネットとコンピュータが普及し,デジタル情報が飽和して
いる情報社会がある.様々なファイルやデータをコンパクトに,そして大量に保存することが
求められており,今後もこのような記憶媒体の発展は進んでいくと考えられる.
参考文献
1) 作井康司. Silicon movie 時代に向けた大容量 nand フラッシュメモリ技術. FED ジャーナ
ル, No. 3, pp. 76–88, 2000.
2) 大島成夫. 東芝レビュー, No. 9, pp. 2–6.
3) 勝又竜太. 超高密度不揮発性メモリを実現する 3 次元構造のパイプ型 bics フラッシュ技術.
東芝レビュー, Vol. 64, No. 12, pp. 56–57, 2009.
4) 青地英明. 超大容量不揮発性ストレージを実現する 3 次元構造 bics フラッシュメモリ. 東
芝レビュー, Vol. 66, No. 9, 2011.
30
5) 田中啓安, 青地英明, 仁田山晃. 低ビットコストで大容量な 3 次元構造の nand 型フラッシュ
メモリ. 東芝レビュー, Vol. 63, No. 2, pp. 28–31, 2008.
6) 宇佐美公良. デバイス設計の視点で見た低消費電力技術. Design Wave Magazine, No. 1004,
pp. 58–68, 2006.
31
第 33 回 月例発表会(2014 年 04 月 19 日)
医療情報システム研究室
スマートマシン
伊藤 悟
Satoru ITO
小淵 将吾
Shogo OBUCHI
松浦 秀行
Hideyuki MATSUURA
Abstract 近年,ハードウェアの進化及びクラウドコンピューティング技術の登場により処理速度
が向上し,大量のデータを蓄積することが可能となった.さらに機械学習によるデータ解析技術が発達
したことによりこれらのビッグデータを有効に利用できるようになった.そのため今まで人間にしかで
きなった行動が,電子情報機器で可能となってきた.これらの電子情報機器のことを「スマートマシン」
と呼び,今後の社会で活躍することが期待されている.
1
はじめに
近年の Information and Communication Technology: ICT 技術の発展に伴い,これまで解
決できなかった問題の解決が期待されている.その例として自動車の交通事故が挙げられる.
自動車における交通事故の多くは運転中の携帯電話の使用やアクセルとブレーキの踏み間違い
等のヒューマンエラーが原因である.このヒューマンエラーを無くすために ICT 技術を駆使
した,人が運転せずに自動で運転をしてくれる車が開発されている.一方で,発展した ICT
技術を用いて,今まで人々が行ってきた仕事を電子情報機器に任せ,既存の生活がより便利に
なることが期待される.このような問題の解決や,人々の要望をに対して ICT の技術を駆使
して応えるため,開発されているのがスマートマシンである.本稿では,スマートマシンの基
盤となる技術を述べた後に,実際の製品とともにスマートマシンの仕組みを説明する.
2
スマートマシン
スマートマシンとは,人間と同じように自律的に行動することができる電子情報機器のこと
を指す 1) .スマートマシンには自ら考え,移動することができる Google 社のセルフドライ
ビングカーや自ら考え,人々の期待する情報を提供することができる IBM 社のワトソン等が
ある.これらの登場により,ヒューマンエラーによる交通事故の削減や,人々が自分で調べも
のをする労力が減り,より快適な暮らしができることが期待されている.これらのスマートマ
シンは主に次の 4 つの技術,ハードウェア,クラウドコンピューティング,ビッグデータ,機
械学習が組み合わさることにより,構築できるようになった.本章では,その 4 つの技術につ
いて説明する.
2.0.1
ハードウェア
ハードウェアの進化によって処理速度が向上し,保存できる容量が増えた.IBM で製品化
されている Central Processing Unit: CPU である,Power7 プロセッサーは 2010 年に発売さ
れたモデルで,コア周波数が 8 コア,クロック周波数が 4Ghz,メモリが 1TB となっている
2)
.過去のモデル (2001 年型) の性能はコア周波数 2 コア,クロック周波数 750MHz,メモリ
が 1024MB なので,ここ 10 年ほどで大幅に性能が上がったと言える 3) .これらの性能が向
上したことにより,Power7 の処理速度は Power4 の約 30 倍になる.
2.0.2
ビッグデータ
ビッグデータとは,膨大な量で非定型かつリアルタイム性が高いデータのことである.ビッ
グデータを解析することで,これまで予想できなかった,新たなパターンやルールを発見でき
る.近年では CPU の進化やクラウドコンピューティングの登場により,解析が可能となった.
スマートマシンではこのビッグデータを解析することで自律的な動作に,より正確性を持たせ
ることを行っている.
32
2.0.3
クラウドコンピューティング
クラウドコンピューティングとはネットワーク上データを保管し処理する技術のことをい
う.従来ユーザーは使用している PC 端末にデータを保存していたため,保存できるデータの
量はハードウェアの容量に依存していた.しかしクラウドコンピューティングの登場により,
仮想化技術やデータ分散処理技術などの最新の技術を駆使してハードウェアの容量に関係な
く,ネットワークを通じてサービスの形で大量のデータを必要に応じて利用することが可能と
なった.
2.0.4
機械学習
機械学習とは人間の学習能力と同様の機能を PC で実現しようとする技術である.入力され
た質問に対する,最適な解を抽出するために,決められた一定のアルゴリズム上でデータを解
析し,求められている解に最も近い解を導き出すことを目的とする.スマートマシンは自律的
に動作するために,この機械学習を用いて周囲の環境の認識や最終的な意思決定を下す.
セルフドライビングカー
3
セルフドライビングカーとは,自動車自ら道路や障害物を判断し,自律的に移動する車のこ
とである.通常の車との違いは LiDAR4) ,POSITION ESTIMATOR,VIDEO CAMERA,
DISTANCE SENSOR,GPS,PC の各種ハードウェア,人工知能のソフトウェアが搭載され
ていることである.本章では Google 社のドライバーレスカーを例にとって,どのように自律
的に動くのかを記述する.Fig. 1 にセルフドライビングカーを示す.
Google 社のドライバーレスカーは搭載された PC 上でハードウェアから得られた情報を人
工知能によってリアルタイムに処理することで自律的に走行することが可能となっている.以
下に自律走行までの流れを示す.
Fig. 1 セルフドライビングカー
3.1
周辺環境の認識
まず,GPS をもとに PC の Google Map 上に自身を投影する.この段階で大まかな周辺の
環境を認識する.しかし GPS は人工衛星から位置情報を取得するため,天候などの影響もあ
り,周辺環境の情報を常に正確に得ることが難しい.情報を正確に得るために使用されるのが
LiDAR という車上部に設置されたセンサーである.LiDAR をもとに PC 上に詳細な 3D マッ
プを作成する.LiDAR は周辺空間を 3 次元の座標として認識し,座標における 1,333,000 の
点に毎秒レーザーを照射する.反射してきた箇所が密集していた場合,そこに障害物があると
認識し,反射箇所の過多により,車や人間,木等の予測を行う.レーザーの照射はリアルタイ
ムに行うため,次に照射された際に認識された障害物の場所に変化がなかった場合,それは固
定物体として認識される.認識された障害物の場所に変化があった場合,それは移動物体と
して認識され,レーザー照射間隔での障害物の移動距離より歩行者や車等を分類する.この
LiDAR から得られた情報を順番に分類し,周辺環境の予測を行うまでの一連の流れが機械学
33
習によるものである.測定可能な距離は半径約 120 m以内で,リアルタイムに膨大な量のデー
タを処理するため,得られるドライバーレスカ―と周辺の障害物との距離の誤差は 2 cm以
内に留まる.次に車前方に 3 つ,後方に 1 つ取り付けれた,DISTANCE SENSOR を用いて,
前後方の車との距離をさらに正確に計測し,VIDEO CAMERA を用いて信号の色や移動物体
を確認する.
3.2
自律走行
各種センサー群から得られた大量の情報を PC 上のソフトウェアである人工知能で統合す
る.ここで得られた情報と過去の事故データ等を照合し,どうすれば最も安全に運転ができる
かの答えをリアルタイムに抽出する.抽出された答えから人工知能がアクセルやブレーキ,タ
イヤ等に取り付けられた各種センサーに命令を出しスピードの加減速や進行方向の変更を行
うことで人間の手を借りず,自律的に移動することが可能となっている 5) .
ワトソン
4
ワトソンとは,質問に対して最適な情報提供をする人工知能である.ハードウェアは IBM
の power750 上に IBM の Power7 チップを 4 つ,合計 2880 コアから構成され,IBM Content
Analytics という自然言語処理ソフトなどが使用されている.解答速度は問題の出題からおよ
そ 3 秒以内で,アメリカのクイズ番組「Jeopardy!」で優勝したことで一躍有名になった 6) .
本章ではワトソンが,クイズに答えるまでの流れを説明する 7) .Fig. 2 にワトソンのクイズ
解答までの全体像を示す.
4.1
質問の解析
入力されたファクトイド型の問題,例えば「日本の総理大臣は?」のように答えの表現方法
が簡単なものに対して自然言語処理を行う.自然言語処理は照応処理を利用し,文章中の主語
と代名詞などの相関関係を特定する.そして問われていることが何かを推測する.
4.2
解答候補の抽出
次に元々ワトソン内に大量にインプットされた語彙や百科事典,歌詞等のデータ (ビッグデー
タ) をもとに仮説を立て,解析した質問に対して,いくつかの解答を用意する.この時,アプ
リオリアルゴリズムというアルゴリズムを用いた機械学習により,解答候補の抽出を行う.
4.3
解答根拠の抽出
いくつかの解答候補が抽出できたら,次にその解答候補が正しいのか,根拠を抽出する.抽
出はワトソンにインプットされている大量のデータから行われる.また,高性能なハードウェ
アが並列処理を行うことで高速で根拠の抽出をすることが可能となった.
4.4
解答のランク付け
根拠を見出した段階で,解答の候補は若干数に絞られる.そして最後に行われるのが解答に
対するランク付けである.ワトソンにインプットされた過去に出題されたのクイズの問題や
その解答のデータ,またその出題頻度などと解答候補とを照合し,解である可能性を順位付け
し,最も順位の高いものを答えとして出力する.なおこの一連の照合過程は,ロジスティック
回帰という機械学習を用いて行われる.
5
展望
セルフドライビングカーが 10 %まで普及すると,ヒューマンエラーによる交通事故を 50
%減らすことができ,90 %まで普及すると,交通事故が 90 %削減できるとされている.しか
しながら,現在のセルフドライビングカーでは,駐車の際に問題がある.白線を優先して駐車
するあまり,隣の車が自車の駐車スペースにはみ出して駐車していることを認識できず,ドラ
イバーが車から出れなかったという例がある.これを改善するために優先事項の改善や駐車し
た後にもう一度周辺障害物との距離を確認し,一定以下の距離なら再度駐車を行うなどの命
令を加える必要がある.
ワトソンのようなスマートマシンが普及することによって人間の代わりに秘書のような仕
事ができるロボットの生産が期待できる.これらが登場してくると,医療機関で活躍すること
34
Fig. 2 ワトソンの解答までの流れ
が可能である.医療機関において医者と同時にワトソンによる診断を行い,症状などとビッグ
データを照合しあてはまるであろう病名を抽出し,医者の診断の精度を上げることが期待さ
れる.
6
まとめ
近年,主にハードウェアの進化やクラウドコンピューティングの登場に伴い,日常生活にお
いて大量に生成されるビッグデータの蓄積や処理が可能となってきた.また,機械学習の新た
なアルゴリズムの登場により,ビッグデータを解析し,人間の学習能力と同様の機能を PC で
実現できるようになってきた.上記の技術を用いて,人間と同じように自律的に行動すること
ができる電子情報機器のことをスマートマシンと呼ぶ.現在製品化されているスマートマシ
ンとして,自律的に移動する車であるセルフドライビングカーや,質問に対して最適な情報提
供をするワトソンがある.これらの技術の発展によって,ヒューマンエラーの削減や人間のよ
り良い生活が期待されている.
参考文献
1) 破壊的テクノロジ、”スマートマシン ”が到来する.
http://www.argocorp.com/cam/special/Velodyne/HDL-64e.html.
2) 世界最速のプロセッサー「power7」搭載サーバの発表.
http://www-06.ibm.com/jp/press/2010/02/0901.html, 2010.
3) Power4 プロセッサー概要とチューニング・ガイド.
http://www-06.ibm.com/jp/support/redbooks/AIX_pSeries/SG88850900.pdf#
search=’IBM+power+4’, 2010.
4) HDL-64e レーザーライダーユニット.
http://www.argocorp.com/cam/special/Velodyne/HDL-64e.html, 2013.
5) Google の自動運転カーは毎秒 1GB のデータを処理,これが Google カーから見た世界.
http://gigazine.net/news/20130502-google-self-driving-car/, 2013.
6) What Is Watson?
http://www.ibm.com/smarterplanet/us/en/ibmwatson/, 2014.
7) 質問応答システム:Watson クイズ番組への挑戦.
http://www-06.ibm.com/software/jp/data/events/iodc2011/handout2115/pdf/
iodc2011_2k-2.pdf#search, 2013.
35
第 33 回 月例発表会(2014 年 04 月 19 日)
医療情報システム研究室
Software Defined 技術
宮嶋 めぐみ
Megumi MIYAJIMA
大谷 俊介
Shunsuke OHTANI
西村 祐二
Yuji NISHIMURA
Abstract 情報化社会により,ネットワークの複雑化,情報量の増加,通信機器の負担が増えた.
この状態を解消するために Software Defined 技術が誕生した.この技術はネットワークや無線の規格,
ストレージをソフトウェアで管理し,ソフトウェアとハードウェアを分離させる事でそれぞれの機能に
柔軟性を持たせよう,という概念である. この技術により,それぞれのシステム管理負担やコストの削
減が可能になった.現在では SD 技術が多岐に渡り使用され,作業の効率化に繋がっている.そのため,
これまで利用が進んでいなかった一般企業や病院への導入が期待されている.
はじめに
1
近年 IT 化が進み,クラウドの登場や,取り扱う情報量は膨大になり,様々な無線規格が使
用されるようになった.そのため,ネットワークが複雑化し,ストレージ機器の管理負担が増
え,広い周波数帯域に対応する無線機が必要となった.そこで Software Defined 技術 (以下
SD 技術) が生まれた.この技術はネットワークや無線の規格,ストレージをソフトウェアで
管理し,ソフトウェアとハードウェアを分離させる事でそれぞれの機能に柔軟性を持たせよ
う,という概念である.
本報告では,SD 技術の一部である,SDN (Software Defined Network),SDS (Software
Defined Storage),SDR (Software Defined Radio) の概念について述べた後,それぞれの導入
事例と今後の展望について述べる.
Software Defined 技術
2
2.1
Software Defined Network
従来のネットワークでは,Fig. 1(a) のようにネットワーク機器ごとにコントロールプレー
ンとデータプレーンが一緒に入っていた.データプレーンとはデータを宛先情報に基づいて適
切なポートへ転送するスイッチ群であり,コントロールプレーンは目的のホストまでデータを
転送する最適な経路を選択する機器である.これらの機器を用いたネットワークにサーバーを
追加する際や,ネットワークを複数に分割する際に,管理者が個々のネットワーク機器ごとに
設定を変更していた.しかし,クラウドの普及に伴い仮想サーバが多数存在するようになり,
それが生成や消滅するたびに管理者がネットワーク機器の設定を行っていては実用的な運用
ができない.そこで,ネットワークのあらゆる構成や機能をソフトウェアだけで設定できる
ようにしようという概念が SDN である.Fig. 1(b) に示すように,SDN は従来のネットワー
クとは違い,データプレーンとコントロールプレーンを分割し,SDN コントローラにコント
ロールプレーンの機能を持たせ,データプレーン機能のみ持たせたすべての機器の経路制御
を行う.
2.1.1
Open Flow
Open Flow とは,SDN を実現するための技術であり,Fig. 1(a) の従来のネットワーク機器
におけるデータプレーンのようなフォワーディングの機器を持たせたものが「Open Flow ス
イッチ」(以下スイッチ),コントロールプレーンのようなルーティングの機能を持たせたもの
が「Open Flow コントローラ」(以下コントローラ) である.スイッチは起動時にコントロー
ラに対し制御用の通信路を確立する.これによりコントローラからスイッチへの要求や,ス
イッチからコントローラへの問い合わせが可能となる. Open Flow の導入事例として,金沢
大学付属病院がある.従来は個別に構築していた部門ネットワークを Open Flow を使って仮
想化し,同一の物理ネットワーク上に統合した.これにより,ネットワークの管理・監視コス
トを抑える事ができる.Open Flow では,仮想ネットワーク構築のほか,障害発生時に代替
36
サーバが処理やデータを引き継ぐ機能であるフェイルオーバーなどの制御を実施する.Fig. 2
に病院に導入されている Open Flow の概要図を示す 1) .
(a) 従来のネットワーク
(b) SDN の概要図
Fig. 1 従来のネットワークと SDN の違い (参考文献 2) より参照)
Fig. 2 病院での Open Flow 導入例 (参考文献 1) より参照)
2.2
Software Defined Storage
従来のサーバは,安定したシステムの性能を確保するために,ピーク時の負荷を対応できる
稼働容量を搭載していたが,普段はほとんど使われておらず有効活用はできていなかった.そ
こでユーザ自身が必要な時に必要な稼働容量を設定し,使用するサーバの仮想化が浸透して
いる.これに伴い,ストレージの仮想化が求められる.それは,仮想化されたサーバは柔軟に
拡張できるようになり,仮想化されていないストレージの管理負担が大きくなってしまうため
である.そこでストレージも柔軟に拡張できる事が求められており,ソフトウェアによってス
トレージを仮想化統合し,それぞれのサーバの使用頻度によって最適なストレージを自動的に
振り分ける技術が SDS である.
Fig. 3 に SDS 技術の概念図を示す.Fig. 3 に示したように,内臓ハードディスクや外付け
ハードディスクなどの既存のストレージを一つの仮想ドライブとして統合し,効率よく管理す
る事ができる.また,容量が足りなくなった時には新たなストレージ製品を追加し,システム
を停止する事なく,容量を追加する事が可能である.
37
Fig. 3 SDS 技術の概念図 (参考文献 3) より参照)
SDS の概念を実現したソフトウェアが様々な企業向けに構築されており,VVAULT という
ソフトウェアがある.Fig. 4 に企業への VVAULT の導入図を示す. VVAULT を導入する事
で,ストレージ管理者の管理負荷を軽減し,部署ごとに容量の差があれば,空きがある部署の
ストレージに他の部署のデータを保存し,業務の効率化やコスト削減を目指す 4) .
Fig. 4 企業への VVAULT の導入図 (参考文献 5) より参照)
2.3
Software Defined Radio
近年,携帯電話や無線 LAN に代表される移動通信システムでは,その普及とともにそれぞ
れの規格にあったサービスが使用されている。例えば,携帯電話では国によって採用される
通信方式の規格が異なり,これらのシステムには互換性がない.また,無線 LAN ではイーサ
ネットというネットワークケーブルの技術規格の標準化が進められており,互換性はあるが,
イーサネットの中で複数のシステムが存在する状態となっている.このような中で,すべての
サービスを利用できる端末を持ち歩くことは困難であり,新しい機能やシステムが増えるたび
にユーザは端末を交換し,増設することになる.そこで同じハードウェアで,システムの変更
が可能な無線機が求められており,このような無線機を実現する手段の一つが SDR である.
SDR が実現可能となったのは,FPGA が大規模化したためである.Fig. 5 に示すように,
FPGA とはプログラミング可能な半導体集積回路であり,ディジタル変復調回路に組み込ま
れている.FPGA はゲートという回路が集まってできており,ゲートとは,AND や OR など
の論理演算を行う回路である.簡単な変調器であれば数十万ゲートの FPGA が必要となるが,
十年前はこの FPGA ですら手に入れるのがやっとであった.しかし現在では技術の発展によ
り,数百万のゲートを持つ FPGA が手に入るようになった.このため,大規模化した FPGA
を無線機のディジタル信号処理部に組み込み,ソフトウェアをダウンロードする事で,様々な
周波数の変復調処理を行うソフトウェア無線機(SDR)が実現可能となった.Fig. 5 に FPGA
の概要図を示し,Fig. 6 に従来の技術を用いた無線機と SDR 技術を用いた無線機の違いを示
す.Fig. 6 に示したように従来の無線機では,周波数帯域の選択を高周波部で行い,その信号
を A/D 変換器した後,ディジタル信号処理によって受信信号を復調する.したがって,複数
システムへの対応は複数の受信機を組み合わせる事で実現していた.これに対し,SDR 技術
ではソフトウェアのダウンロードにより高周波部,変換部,ディジタル信号処理部の半導体回
38
路を制御して機能を変更する事ができ,1台でそれぞれの通信システムに対応した無線機を
実現する.これにより,ハードウェアを交換する必要がないため,コストがかからないという
利点が挙げられる.
このソフトウェア無線機が活躍する場としては,自動車があげられる.Fig. 7 に従来の自動
車搭載受信機とソフトウェア無線機を搭載した自動車の概要図を示す.自動車は AM/FM ラ
ジオや TV などの放送受信機,カーナビの情報システム,ETC など多くの無線システムがあ
る.Fig. 7(a) に示したように,それぞれの無線通信システムには個々の端末が必要であった.
そこで Fig. 7(b) で示したように,ソフトウェア無線技術を用いる事で 1 台の無線機ですべて
の無線通信システムの制御を行う事を可能にし,コスト削減や新たな通信方式へ素早く対応
できるようになる 6) .
Fig. 5 FPGA の概念図 (参考文献 7) より参照)
アンテナ
Ch1
アンテナ
OUT1
Ch1
Ch2
OUT
アンテナ
OUT2
(a) 従来の技術を用いた無線機
(b) ソフトウェア無線技術を用いた無線機 1
Fig. 6 無線機のマルチモード化 (参考文献 8) より参照)
(a) 従来の自動車の搭載受信機
(b) ソフトウェア無線機を搭載した自動車
Fig. 7 従来の自動車搭載受信機とソフトウェア無線機を搭載した自動車 (参考文献 9) より
参照)
39
3
今後の展望
Software Defined 技術の導入により,ネットワークの構築・変更を柔軟・迅速化し,サービ
ス提供までのリードタイムを短縮する.しかし,Software Defined 技術には,通信障害やシ
ステム障害によるシステムダウンリスク,企業情報や個人情報の流出などのセキュリティの不
安が伴う.今後は障害が起こらないためにシステムの定期的な点検,セキュリティに特化した
ソフトウェアの導入が必要であると考えられる.SDN 技術より災害時の集中的な通信や,通
信障害が起こった時に対応できるようにするため,優先度に応じてネットワークの経路選択を
し,重要な通信経路の確保をし,電話が繋がらない,メールが送ることができないという状況
を減らすだろう 10) .
4
まとめ
近年クラウドの登場により IT 化が進むに伴い,インターネットの複雑化,様々な業務のシ
ステム化による各通信機器の設定管理,またサーバの仮想化に伴うストレージの管理が負担と
なっていた.そこで登場した Software Defined 技術とは,複雑なネットワークや様々な無線
の規格,さらにはデータセンターを構成するハードウェアすべてをソフトウェアで管理するこ
とで柔軟・迅速化,またコスト削減を目指す技術である.SD 技術を導入する事により,サー
ビス提供までの時間の短縮,コスト削減,仕事の効率化が期待され,これまで利用が進んでい
なかった一般企業や病院の情報システム用途にも SD 技術は浸透していくと考えられる.
参考文献
1) 日本電気株式会社. open flow/sdn はもう準備万端!
http://businessnetwork.jp/portals/0/sp/1208_nec_pf/?prtext.
2) 5 分で絶対わかる open flow.
http://www.atmarkit.co.jp/ait/articles/1112/12/news117.html.
3) クリエーションライン株式会社. 北海道大学アカデミッククラウド.
http://www.creationline.com/news/3664.
4) publickey. software defined storege、これからのストレージ技術が実現する世界とはどの
ようなものか?
http://www.publickey1.jp/blog/14/software-defined_storage.html,.
5) OREGA. Vvault-無料で使える仮想化ストレージソフトウェア.
http://vvault.jp/.
6) モバイルテクノ. software defined radio-富士通.
http://jp.fujitsu.com/group/mtc/technology/course/g4/index_p5.html.
7) 日本アルテラ株式会社. Fpga の全体像を掴む.
http://special.nikkeibp.co.jp/ts/article/a0ab/107698/.
8) 菅野秀明 小田切英明高呂賢治. ソフトウェア無線機.
https://www.oki.com/jp/home/jis/books/kenkai/n204/pdf/204_r20.pdf.
9) 西坂真人. 車内無線端末の“ pc 化 ”.
http://www.itmedia.co.jp/mobile/0206/19/n_its.html.
10) 加藤英雄. クラウドコンピューティング. 共立出版, 改訂第 5 版, 2011.
40
第 33 回 月例発表会(2014 年 04 月 19 日)
医療情報システム研究室
進化する活動量計
下村 絵美子
Emiko SHIMOMURA
塙 賢哉
Kenya HANAWA
吉田 倫也
Tomoya YOSHIDA
Abstract
人々の健康意識の高まりにより,日常生活におけるあらゆる身体活動量を消費カロリーとして計測する
ことができる活動量計の需要が高まり始めた.現在普及している活動量計には加速度センサや角速度セ
ンサ,気圧センサが内蔵されており,人間の複雑な行動をより正確に計測できるようになった.しかし,
加速度センサを内蔵したスマートフォンの登場により活動量計の存在価値の希薄化が懸念されている.
今後は,現在研究・開発ともに注目を浴びている「ウェアラブル」タイプの活動量計において,より広
範囲かつ高精度な計測を可能にすることで,スマートフォン内蔵センサーとの差別化を図ることが課題
となる.
はじめに
1
日常生活に伴う身体活動や運動は,食事や睡眠などと同様に我々の健康に大きな影響を与え
ていることが知られている.身体活動量を増やすことで,糖尿病や高血圧が改善され,生活習
慣病の予防やそれらを原因とする死亡リスクの低減につながる.日常の身体活動量を視覚化
することで,人々の運動への意識やモチベーションは高められる.したがって,健康の維持・
向上のために運動や身体活動を行う上で,身体活動量を正確に把握することは重要であると
考えられる.
これまで健康管理機器として主流であった歩数計の機能に加えて,身体活動量を消費カロ
リーとして測定するのが活動量計である.人々の健康意識の向上に伴い,様々な種類の活動量
計が登場している.これまでの活動量計では,階段や坂道などの上り下り時の消費カロリーの
違いを認識するなど,特定の活動における正確な測定は不可能であった.この問題点を克服す
るためには,内蔵センサの精度を上げるなどの改良が必要であり,より正確な測定の実現に向
けて多くの研究が進められている.本稿では,活動量計の概要,そして活動量計の内蔵センサ
として主流となっている加速度センサを中心とする活動量の検出原理について述べ,進化し続
ける活動量計の今後の展望・改善点を考察する.
活動量計の概要
2
2.1
活動量計とは
日常生活における身体活動量を消費カロリーとして計測し,記録することができる生体計測
機器である.現在普及している活動量計は,消費カロリーに限らず,歩く・走るといった大き
な動きから,家事やデスクワークなどの小さな動き,睡眠など安静時の基礎代謝まで,1日の
全ての活動の消費カロリーや活動時間,活動距離などを測ることを目的としている.
2.2
身体活動量の指標
身体活動とは,睡眠や読書などの安静にしている状態より,多くのエネルギーを消費するす
べての動きのことである.いかに身体活動量の指標を述べる.
M ET s (身体活動強度の単位)
「Metabolic equivalents」の略である.身体活動の強さを,安静時の何倍に相当するか
で表す単位で,座って安静にしている状態は 1[M ET s],普通歩行は 3[M ET s] に相当す
る.Table. 1 に主な身体活動における活動強度を示す.
• エクササイズ Ex(身体活動量の単位)
身体活動の量を表す単位で,身体活動の強度 [M ET s] に身体活動の実施時間 T [s] をか
41
Table. 1 主な身体活動強度
身体活動の種類
運動
身体活動強度 [M ET s]
生活活動
バレーボール
歩行
3
速歩,ゴルフ
自転車
ジョギング
階段昇降
4
6
ランニング,水泳
重い荷物を運ぶ
8
Fig. 1 消費カロリー算出方法
けたもの.より強い身体活動ほど短い時間で 1[Ex] となる.
e[Ex] の身体活動量に相当する消費カロリー E[kcal] は,個人の体重 W [kg] によって異なる.
消費カロリーは式 (1) により算出することができる.言い換えるならば,エネルギー消費量は
身体活動強度とその活動の実施時間によって求めることができるということである.
E[kcal] = 1.05・e[Ex]・W [kg]
(1)
活動量の測定法
3
身体活動量の測定には,二重標識水法やブレスバイブレス法,心拍数法,加速度計法などの
様々な方法がある.その中でも,現在普及しているほとんどの活動量計には,加速度計法が採
用されている.加速度計法とは,加速度センサによって検出される電気信号の振幅と頻度から
運動の種類・強度を推定し,身体活動量を推定する方法である.最近では,加速度センサに角
速度センサや気圧センサを組み合わせて活動量を計測することで,より高精度な測定を実現
している.活動量計で,消費カロリーを算出するまでの流れを Fig. 1 に示す.まず,加速度
センサにより検知した加速度を電気信号に変換する.その電気信号の振幅や周期によって身体
活動強度を推定し,体重と掛け合わせることで消費カロリーを算出する.以降,各センサの原
理を述べる.
3.1
加速度センサ
加速度センサとは,加速度の測定を目的とした慣性センサである.加速度を測定し,信号処
理を行うことによって,傾きや動き,振動や衝撃といった様々な情報を得ることができる.加
速度センサの応用範囲が広まった要因は2つある.
1つ目は、MEMS(Microelectromechanical Systems) 技術 1 を応用した MEMS 加速度セン
サの登場である.MEMS 加速度センサを利用することで,小型軽量化,高精度化,広帯域特
性,低価格を一度に実現することができる.2つ目は,多軸(2軸方向、3軸方向)の加速度
を検出することができる加速度センサが登場したことである.これまでは,多軸を実現するた
めに1軸の加速センサを複数組み合わせていた.しかし多軸加速度センサの登場によって1つ
のセンサで複数のセンサの機能を満たすことが可能になった.また加速度と同時に角速度や気
圧変化を検出できるできるセンサも開発され,センサ機能の複合化が進んだ.
1 半導体技術を応用して,小さな機械構造を作りこむ微細加工技術.
42
加速度センサの原理
3.1.1
加速度センサは,ばね定数 k のばねに支えられた質量 m[kg] のおもりを使って,ばねの変
位量 x[m](移動距離)を元に加速度 a[m/s2 ] を検出するセンサである.以下に加速度の検出
原理式を示す.ニュートンの運動方程式により,物体に働く力 F [N] は 式 (2) で表すことがで
きる.
F = ma
(2)
フックの法則により,バネとおもりで構成されるシステムにおいては,式 (3) で表すことが
できる.
F = kx
(3)
したがって,式 (2) と式 (3) の連立方程式を解くと加速度は 式 (4) のようになる.
a=
kx
m
(4)
活動量計に内蔵されている加速度センサは,加速度を検出する検出素子部(Fig. 2)と,検
出素子からの信号を増幅,調整して出力する信号処理回路(Fig. 3)で構成される.ここでは,
Analog Devices 社 2 の静電容量方式の低G加速度センサ 3 を例に説明する.
Fig. 2 加速度センサの検出素子部(参考文献 1) を参考)
検出素子部は加速度によって動く可動部(おもり)とバネ,またその動き(移動距離)によ
り静電容量変化を発生させるためのくし歯状電極が形成されている.可動部に形成された可
動電極1本が2本の固定電極に挟まれる形で電極の単位セルを形成している.
次に内分信号処理の流れを説明する.単位セルの2本の固定電極にそれぞれ逆位相のクロッ
ク信号を印加する.そして加速度によって可動電極は振動し,どちらかの固定電極に近づいた
時,近づいた方の固定電極に印加されているクロックと同相の信号を発生させる.この信号を
増幅し,同期検波や整流を行うことで可動部の移動距離,つまり加速度に比例した電圧出力を
得ることがで,消費カロリーを算出する 1) .
3.2
組み合わせセンサ
現在普及している活動量計の多くは、加速度センサだけでなく角速度センサや気圧センサを
内蔵している.これらの技術を組み合わせることで,従来製品と比べ,広範囲かつ高精度な計
測が可能となった.
3.2.1
角速度センサ
角速度センサとは,センサ本体の回転量を電気信号に変換することで角速度を算出するセン
サである.角速度センサを搭載することで,ゆっくりとした動きから速い動きまでの広い範囲
2 半導体デバイスを製造するアメリカの多国籍企業
3 一般的に約
20G 以下の測定範囲をもつ加速度センサ.それ以上の測定範囲を持つものは高G加速度センサ.
43
Fig. 3 内部信号処理(参考文献 1) を参考に自作)
を正確に検出することが可能となった.MEMS 技術を利用したジャイロ 4 のほとんどは,コ
リオリ力を利用してる.
センサに外から回転力が加わった時,センサ内の振動する方向と垂直方向にコリオリ力が発
生する.そして,センサ内ではコリオリ力に応じた振動が発生し,この振動から角速度を求め
ることができる.Fig. 4 に,振動角速度センサの構造とその検出原理を示す.固定部の左右に
駆動脚と検出脚が配置されている.質量 m[kg] を持つ駆動脚が速度 v[m/s] で振動していると
ころに角速度 ω[m/s2 ] が入力されると発生するコリオリ力 Fc [N] は式 (5) となる.
Fc = 2mvω
(5)
コリオリ力により駆動振動と垂直方向に振動(以降,コリオリ振動と称す)が発生し,固定
部を通して検出脚に伝達する.この検出振動を検出脚に配置した電極により電圧を検出する
ことで,消費カロリーを算出する.
3.検出振動
伝
達
2.コリオリ振動
(a) 駆動振動
(b) コリオリ力と検出信号
Fig. 4 角速度センサ(参考文献 2) を参考に自作)
3.2.2
気圧センサ(圧力センサ)
気圧センサを組み合わせることで,微小な気圧変動から体の上下の移動を認識し,階段や坂
道などの上り下り時の消費カロリーを個別に計測することが可能になる.また,階段を上った
時の歩数まで認識できるものもある.Fig. 5 に示す,圧力センサの一種である半導体ピエゾ抵
抗拡散圧力センサ(以降,圧力センサと称す)を用いて,検出原理を説明する.
4 物体の角度や角速度を検出する計測器
44
圧力
半導体ひずみゲージ
ダイヤフラム
空洞部
Fig. 5 圧力センサ(参考文献 3) を参考に自作)
圧力センサは,ダイヤフラム 5 の表面に半導体ひずみゲージ 6 を形成している.気圧変化に
よって,ダイヤフラムが変形し,発生するピエゾ抵抗効果による電気抵抗の変化を電気信号に
変換し,消費カロリーを算出する.Fig. 6(a) に示す,長さ L[m],断面積 S[m2 ] の導体の電気
抵抗値 R[Ω] は式 (6) で求められる.
R=ρ
L
S
(6)
L
L+1
S
S-s
(a) 電気抵抗 1
(b) 電気抵抗 2
Fig. 6 ピエゾ効果
次に,Fig. 6(b) に示すように導体を左右に引き伸ばした場合,長さは長く,断面積は小さ
くなる.そして,この時の電気抵抗値 R′ [Ω] は式 (7) となる.
R′ = ρ
L+1
S−s
(7)
よって,式 (8) に示す関係となる.
R > R′
(8)
ピエゾ効果(圧電効果)とは,このように導体に応力が加わることにより電気抵抗値が変化
することである.
4
加速度センサの活用例
Fig. 7 と Table. 2 に加速度センサおよび,角速度センサ,気圧センサを搭載している活動
量計の一例を示す.
3 軸加速度センサを内蔵している Active style Pro では,速歩やジョギングなどの運動だけ
ではなく,掃除、洗濯などの日常における活動を高精度に推定することが可能である.一方,
3 軸加速度センサと気圧センサを組み合わせて内蔵してる MY CALORY による計測では,従
来の機能に加え,高さの感知を可能となり,階段や坂道などの上りと下り時の消費カロリーを
表示することもできる.また,ViM スポーツメモリは加速度センサと角速度センサを内蔵し
5 圧力の作用に応じ、変位を生じる膜
6 物体のひずみを測定するための力学的センサ
45
(a) Active style Pro
Fig. 7 導入一覧 4)
5) 6)
Table. 2 活動量計 4)
商品名(型番)
(c) ViM スポーツメモリ
(b) MY CALORY
製造元
サイズ [mm]
Active style Pro
オムロン
74 × 46 × 34
MY CALORY
YAMASA
68 × 37 × 11
ViM スポーツメモリ MicroStone 71 × 64 × 57
5) 6)
重量 [g]
内蔵センサ
60 3 軸加速度センサ
3 軸加速度センサ
22
気圧センサ
加速度センサ
113 角速度センサ
ているため人間の複雑な運動パターンを解析することが可能となる.例えば,ゴルフスイング
の動きを体の円運動と腕の上下運動のように直線運動と回転運動に分解して解析することが
できる.
5
今後の展望・改善点
現在普及している活動量計は,多軸センサを内蔵することで従来よりも広範囲かつ微細な活
動量を計測することができるようになった.さらに MEMS 技術を利用することでセンサが小
型化され,手軽に身に着けられるヘルスケア機器となった.そして最近注目を集めているのは
ウェアラブル 7 タイプの活動量計である.製品そのものが小型化されただけでなく,スマート
フォン等と連動させ,計測データを容易に管理することができる.また,ウエアラブルタイプ
の活動量計は,睡眠や運動などのライフログの記録や,音楽プレーヤーなどの端末内のアプリ
操作も可能なものも今後登場すると予想される.
しかし、活動量計の進化と同様に,モバイル端末に加速度センサなどの多彩なセンサが内蔵
された製品も普及し始めている.そのため,活動量計の存在価値が希薄化する可能性もある.
今後の課題としては,モバイル端末での計測は困難と考えられる分野(体重,体温,血圧な
ど)についての研究・開発や,ウェアラブルタイプの活動量計で,より広範囲かつ微細な計測
の実現に取り組むことで,差別化を追求することが挙げられる.
6
まとめ
人々の健康に対する意識が高まると同時に,日々の運動の確認や生活習慣の見直しに役立て
ようというニーズの高まりに伴い,活動量計が注目され始めた.活動量計とは,日常生活にお
けるあらゆる活動量を消費カロリーとして計測する生体計測機器である.現在普及している
活動量計には,加速度センサや気圧センサなどの多彩なセンサが内蔵されており,正確な計測
データの取得が可能となった.しかし,これらの機能がスマートフォンに代替されてしまうと
いう懸念もある.今後は,現在研究・開発ともに注目を浴びている「ウェアラブル」タイプの
活動量計において,より広範囲かつ高精度な計測を可能にすることで,スマートフォン内蔵セ
ンサーとの差別化を図ることが課題となる.
7 身につけて持ち歩くことができる情報端末の総称.最近では,腕時計型,メガネ型などがある.
46
参考文献
1) Tomoaki Tsuzuki. 加速度センサーとは? http://www.analog.com/static/imported-\
\files/jp/application_notes/ANJ-0005_jp.pdf.
2) 中島光浩, 細川武志, 倉本健次. 振動ジャイロの開発. https://www.jae.co.jp/gihou/\\
gihou30/pdf/g_09.pdf.
3) オムロン株式会社. ヘルスケア機器と MEMS センサ. http://m.semi.jp/sfj13pr/files/
seminar/pdf/07_3.pdf.
4) オムロン株式会社. 活動量計 HJA-350IT Active style Pro. http://www.healthcare.
omron.co.jp/product/hja/hja-350it.html.
5) MicroStone. ViM スポーツメモリ. http://www.microstone.co.jp/product/sensor-\
\vim.html.
6) YAMASA. 活動量計 MY CALORY HIA-350IT Active style pro. http://www.yamasa-\
\tokei.co.jp/seihin/katsudouryoukei/mc_700.html.
47
第 33 回 月例発表会(2014 年 04 月 19 日)
医療情報システム研究室
ウェアラブル機器
竹中 誠人
Makoto TAKENAKA
滝 謙一 Kenichi TAKI
白石 駿英
Toshihide SHIRAISHI
Abstract ウェアラブル機器は 1980 年代に開発が始まった.ウェアラブル機器は文字通り身につけ
て使用する電子機器を指すが,当時の技術では利用に適った機器を開発することが出来なかった.しかし,
MEMS や IEEE802.15.6 やリチウムイオンポリマー電池などの技術の登場により, 理想に近いウェアラブ
ル機器の開発が可能になりつつある.本稿ではウェアラブル機器の概要と無線通信規格の IEEE802.15.6
とリチウムイオンポリマー電池について述べる.
1
はじめに
1990 年代後半にコンピュータが普及され始めた.当時のコンピュータは大型で設置型であっ
たが,現在はノートパソコンやスマートフォンなどの小型化が進んだ.さらに,近年のニー
ズとして身につけて場所を気にすることなくその機能を利用したいという考えからウェアラ
ブル機器が注目されている.背景としてバッテリーや Central Processing Unit の小型化,IT
インフラなどの開発技術や環境が挙げられる.中でも 2012 年 4 月に発表された Google 社の
GoogleGlass や年内に発表が噂されている Apple 社の iWatch などが注目されている.
本稿では,ウェアラブル機器の概要とそれを支える技術,及び今後の展望について述べる.
2
ウェアラブル機器の定義と技術
ウェアラブル機器とは文字通り「身につけることができる」コンピュータである.ウェアラ
ブル機器が注目されたきっかけとなったマサチューセッツ工科大学のメディアラボは,ウェア
ラブル機器の要件として,以下の要素を挙げている.
• 携帯して操作することが可能であること
• Hands Free(手ぶら)で使用が可能であること
• センサを装備していること
• ユーザに適時に警告などの情報を与えること
• 常時駆動していること
1980 年代当時のウェアラブル機器の入力インターフェースはキーボード,映像出力装置には
ディスプレイが取り付けられていた.そのため機器が大きくなり,重量も重く,身につけるに
は負担がかかり,普及するに至らなかった.しかし,現在は以上の定義を全てを満たしてはい
ないが,定義に沿ったウェアラブル機器が開発され普及しつつある.
現在,開発されているウェアラブル機器の種類は,日常活動量計測系,スポーツ計測系,ス
マートウォッチ系,ヘッドマウント系に別れる.日常活動量計測系は万歩計を起源としたデバ
イスである.運動以外のデスクワークや家事,睡眠など,日常のすべての活動の消費カロリー
を測ることができる.最近では,計測したデータをスマートフォンのアプリと連携して管理す
ることが主流となっている.スポーツ計測系は運動量の測定に用いられ,Global Positioning
System やセンサーを用いて走った距離や心拍数を測る.主にパーソナルコンピュータ (PC)
やスマートフォンと同期してデータを記録している.スマートウォッチの発展型で手首に装着
するものが多い. スマートウォッチは時計機能の他に,Bluetooth でスマートフォンと通信し,
スマートフォンからの通知や情報を表示したり,アプリケーションの機能を操作することが可
能である.ヘッドマウント系はメガネ型デバイスが主流となっている.ネットからの情報など
をディスプレイに表示することで現実世界とデータを重ね合わせることが可能である.医療現
場では,GoogleGlass を利用して,手術中に CT(Computed Tomography) 画像や患者の情報
48
をディスプレイに表示させることや,カメラで通信をし,遠隔地の専門医からリアルタイムに
音声とディスプレイを利用して指示を受けることなどが出来るように実験が行われている 1) .
これまでの課題
3
CPU やメモリ,バッテリーの小型化が不十分で機器の小型化ができなかった.また,バッ
テリーの容量不足,機器同士の情報共有に使用されるインターネット環境の不足なども,ウェ
アラブル機器の普及に至らなかった理由の一つである.しかし現在は MEMS(Micro Electro
Mechanical Systems) の発達で装置の小型化,通信規格 IEEE802.15.6 による新たな消費電力
低下につながる無線通信技術の発展,リチウムイオンポリマー電池によるバッテリーの小型
化,容量拡大などの技術が進歩しつつあり,ウェアラブル機器の開発環境が整いつつある.
今回は,IEEE 802.15.6 とリチウムイオンポリマー電池について記述する.
4
IEEE 802.15.6
4.1
IEEE 802.15.6 の概要
IEEE802.15.6 とは IEEE1 の IEEE802 委員会によって標準化された規格である.IEEE と
は,電気および電子技術に関する使用の標準化を行っている米国の組織である.IEEE は多数
の委員会によって構成されている.その中の LAN(Local Area Network) などに関する技術の
標準化を行っている委員会が「IEEE802 委員会」である.
IEEE802.15.6 は BAN(Body Area Network) の規格である.BAN とは無線ネットワークエ
リアのひとつであり,通信範囲によって WAN(Wide Area Network),LAN,PAN(Personal
Area Network),BAN に分類され規格が異なる.それぞれの通信規格の範囲は WAN:世界規
模,LAN:100m,PAN:10∼20m,BAN:2m と定義されている.今回は近距離および低消
費電力の無線通信規格の中でも,人体の表面または体内での機器の使用を想定している点で
他の規格と異なっている IEEE802.15.62) について述べる.
4.2
特徴
4.2.1
データ優先度マッピング
IEEE802.15.6 のデータマッピングは他の標準規格と比較すると緊急用データとメディカル・
イベントレポートに最高レベルの優先度を与えている.この優先度マッピングは他の通信規格
と異なり,医療とヘルスケアを重点に置いた標準規格だと言える.Table. 1 に優先度レベルを
示す.
4.2.2
チャネルアクセスモード
チャネルアクセスモードとは,スマートフォンなどの情報を処理する親デバイスとセンサー
などでデータを得るウェアラブル機器などの子機デバイスとのデータ通信方式である.BAN
の効率性と省電力化を図るため,アプリケーションの内容に応じてスーパーフレームとビーコ
ンを利用した3つのチャネルアクセスモードが定義された.スーパーフレームとは,データを
交換することができる期間を決める時間軸上の構造を表す.スーパーフレームにはコンテン
ション・アクセス期間とコンテンション・フリー期間に区切られる.コンテンション・アクセ
Table. 1 データ優先度マッピング
優先度レベル
7
データ内容
メディカルイベント・レポート
データの種類
データ
または緊急用データ
6
優先度の高いメディカルデータ データまたは管理
またはネットワーク制御データ
5
ネットワーク制御用データ
データまたは管理
またはメディカルデータ
1 Institute
of Electrical and ElectronicsEngineers(米国電気電子技術者協会)の略称
49
ス期間は,すべてのデバイスに対してチャネルにアクセスすることが許されている期間であ
る.これに対してコンテンション・フリー期間では,親機が割り当てた唯一のデバイスのみに
通信することを許されている期間である.ビーコンとは,周期的に親デバイスから子機デバイ
スに向けてスーパーフレームの情報などを送る時間の標識的信号である.
1. チャネルモード 1
時刻情報に基づくスーパーフレームを基本としている.親デバイスが各スーパーフ
レームの先頭でビーコンを送り,BAN のデバイス間の同期を図っている.このチャネ
ルモード 1 は周期的にデータを送る時間に依存したアプリケーションに適している.
2. チャネルモード 2
チャネルモード 1 と同様にスーパーフレームを基本としているが,ビーコンを使用
しない.親デバイスが必要な時だけポール (Poll2 ) を使って,子機デバイスにアクセス
し情報を得る.子機デバイスは周期的にビーコンを受信しないため,その分消費電力が
低減される.
3. チャネルモード 3
スーパーフレームを用いない非同期型アクセス方式を採用している.これはチャネル
アクセス頻度の非常に低い子機デバイスの為に用意したものである.時刻同期を省ける
ことで,子機デバイスは長い期間スリープモードに移り,消費電力を極めて小さく抑え
ることができる.特にインプラント型の子機デバイスに適する.
4.2.3
使用 PHY
PHY(Physical Layer) とは OSI 参照モデルの第1層の物理層に位置し,ネットワークの物
理的な接続・伝送方式を定めたものである.
BAN には利用できる周波数が複数あり,IEEE802.15.6 はこれらの周波数帯に対応するた
めに3つの PHY を定義した.3つの PHY には狭帯域 (NB: Narrow Band)PHY,超広帯域
(UWB: Ultra Wide Band) PHY, 人体通信 (HBC: Human Body Communication)PHY が挙
げられる.これらの使用周波数帯,データレートと特徴について Table. 2 に示す.高い周波
数を用いることによって,データの伝送速度は高速になるが,その分消費電力が高い.また,
低い周波数を用いることによって消費電力は低く抑えることができるが,データの伝送速度が
遅い.このような特徴が挙げれられるため,使用用途によって使い分ける必要がある.また,
周波数の干渉や他の無線デバイスや医療用のデバイスに対して影響を与える懸念があるため,
設計の際に注意する必要がある.
リチウムイオンポリマー電池
5
5.1
従来の蓄電池との違い
現在,実用化されている蓄電池としてはニッケル水素電池,リチウムイオン電池,鉛蓄電
池等がある.コスト面では,鉛蓄電池に優位性がある.一方コンパクト面(エネルギー密度)
では,リチウムイオン電池に優位性がある.リチウムイオン電池は電解質に液体を利用してお
Table. 2 3つの PHY の周波数とデータレート
狭帯域
周波数帯 [MHz]
データレート [kbps]
消費電力
400,800,900,2360,2400
75.9∼971.4
低い
6000∼10600,3100∼4800
390∼12600
高い
21
164∼1312.5
低い
PHY
UWB
PHY
HBC
PHY
2 親デバイスが子機デバイスに順次に通信したいかどうかを問い合わせる信号を送り,応答のあった子機デバイス
に送信権を与える通信方式である.
50
Fig. 1 構造の比較(参考文献 3) より自作)
Fig. 2 蓄電池の比較
り,正極材と負極材を分離するセパレーターが必要であるため,電池のパッケージングや形状
に制限があった.そこで,液体の電解質の代わりに伝導性ポリマーを用い,半固体化する事に
よりセパレーターが不要になり小型軽量化が可能となった.リチウムイオン電池とリチウムイ
オンポリマー電池の構造の比較を Fig. 1 に示す.また,伝導性ポリマーを用いることにより
電池容量の拡大が可能となった.実用化されている蓄電池の体積エネルギー密度,重量エネル
ギー密度を Fig. 2 に示す.
他にリチウムイオンポリマー電池の特徴として 3 点が挙げられる.1 点目として起電力の高
さが挙げられる.ニッカドやニッケル水素の 1.2V と比べると,リチウムポリマー電池は 3.7V
の高い起電力がある 4) .2 点目として安全性が挙げられる.従来の蓄電池の電解質が液状に
対して,リチウムイオンポリマー電池はゲル状である.電解質が液状の電池は,電解液が蒸発
しやすく,電池が膨れて液漏れするなどの問題点があった.しかしリチウムポリマー電池は電
解液をポリマー中に閉じ込めることにより半固体化させる.そのため,ゲルの保液性が高く,
液漏れがない.蒸気圧が低く電池が膨れない.などの問題点を改善することができた.3 点目
として形状の自由度の高さが挙げられる.リチウムイオンポリマー電池はポリマーを利用し
て電解液を半固体化しているため,形状保持性が上り外装にフィルムを使用することが可能と
なった.そのため,従来金属缶を使用していたリチウムイオン電池に比べ,リチウムイオンポ
リマー電池は薄い,軽い,形状を自由に設計することができるという特徴がある.
5.2
課題
小型軽量化や容量の拡大に成功したリチウムイオンポリマー電池だが以下の4つの課題が
挙げれられる.はじめにコストが高い点が挙げられる.リチウムポリマー電池の正極材料はコ
バルト酸リチウムを使用しているのため,ニッカドやニッケル水素電池に比べ電池そのものの
コストが高くなる.2点目に可燃性が高い点が挙げられる.負極の電位が低いため電解質を有
機物による電解液を使用しているため,高温になると気化した電解液が外部に漏れ、酸素と結
合して発火してしまう危険性がある.3点目に放電に制限である点が挙げられる.電圧が高く
使用状態によって内部抵抗の変化が激しいため放電電流の限界を設定する必要がある.また,
放充電の繰り返しによる界面剥離,性能低下によるサイクル寿命の低下が起こる.最後に実用
化には改良が必要がある点が挙げられる.現在 GoogleGlass で使用されているリチウムイオ
ンポリマー電池は 570mAh であり,スマートフォンのリチウムイオン電池は 1800mAh であ
51
る.大きさは異なるが,容量が 3 倍近く違う.体積あたりの電池容量は確かに拡大されたが,
搭載できる電池のサイズがスマートフォンより小さいため,1 日駆動させるためには,さらに
大容量の電池が必要となる.
以上の点を改善するために,低コストの電極を作成する.気化した電解液の漏洩を防ぐため
に,外部フィルムの強化,衝撃への耐性を強化するなど安全性の強化.放電による電圧制限を
厳しく管理する.ウェアラブル機器に適した形状で更なる電池容量の拡大.などを考慮し改善
する必要がある.
6
ウェアラブル機器の課題と展望
現在の課題として,一般に普及しているウェアラブル機器はスマートフォンと連動しデータ
通信を行うものが主流であるため,ウェアラブル機器単体では使用できない.ウェアラブル
機器単体で使用するためには,更なる小型化が必要となる.また今現在では,定義している
HandsFree と常時駆動が実現していないため,これからの技術の発展により音声認識やモー
ション認識の精度を向上させ HandsFree 操作の可能やバッテリー技術の進歩による常時駆動
が実現可能にする必要がある.更に,Google Glass などのヘッドマウント型ウェアラブル機
器はカメラを使用する為,プライバシーなどの問題があり着用禁止などの制限が設けられた
店舗が続出している.そのため,法的制度の改善を行う必要がある.
ウェアラブル機器は通信規格で述べたように,医療とヘルスケアに特化しているので,在宅
医療や自己管理など幅広く利用されると考えられる.また,入院中の患者の血圧や血糖値など
の情報が離れた部屋からでもリアルタイムに得ることができるなど医療システムが開発され
ている.いずれは,小型化の技術の発達により,ウェアラブル機器にコンピュータの機能を全
て搭載できるようになることが期待される.
7
まとめ
本稿では,ウェアラブル機器の概要とそれに関する技術や今後の展望について述べた.1980
年代のウェアラブル機器は大型で,重く,身につけるには負担が大きかった.しかし,現在
はポリマーや MEMS による小型化や,新たな省電力の通信規格などの登場により,ウェアラ
ブル機器を開発する技術が整いつつある.IEEE は現在多く使われている Bluetooth より省電
力であり,ポリマー電池はリチウムイオン電池より小型で大容量であるため,ウェアラブル
機器に適している.この二つの技術を礎として新たな機能を持ったウェアラブル機器として
GoogleGlass が挙げられる.GoogleGlass は,音声だけでカメラ撮影ができ,ディスプレイに
道案内のルートを表示して,あたかも現実の風景に矢印が出ているように見せることもでき
る技術が備わっている.今後,さらに新たな機能が望まれ,ウェアラブル機器はユーザーに負
担を与えることなく快適な暮らしを与えるデバイスになると考えられる.
参考文献
1) Appllio.
http://appllio.com/20130901-4015-google-glass-in-live-surgery.
2) 財団法人ニューメディア.
http://www.nmda.or.jp/keirin/h20houkoku/houkoku/h20bodyarea.pdf.
3) 二次電池.
http://www.jpo.go.jp/shiryou/s sonota/map/denki15/1/1-5-2.htm.
4) 上村メカトロニクス株式会社.
http://www.uemura-mechatronics.com/technical-lipo.html.
52
第 33 回 月例発表会(2014 年 04 月 19 日)
医療情報システム研究室
臓器保存技術
西田 潤
Jun NISHIDA
林沼 勝利
Katsutoshi HAYASHINUMA
大西 夏子
Natsuko ONISHI
Abstract 臓器の保存は心停止後の臓器では移植しても生着しないのではないかという疑問が生ま
れ,そこから臓器の保存技術の研究がはじまった.1960 年代の技術では血圧が上昇してしまい 30 分以
上の保存ができなかったが現在では数時間まで保存できるようになった.しかし低温で保存するため長
時間完全な状態で残すことができず,機能障害を起こしてしまう場合もある.そこでこのような欠点を
改善するために低温で保存する必要のないような新たな保存技術の研究が進められている.
はじめに
1
臓器保存や臓器移植は現在では一般的な言葉になっており,ドナーカードも多くの人に知ら
れている.1997 年 10 月 16 日には臓器移植法が施行され,これにより脳死と判断された場合,
家族の反対などがなければ臓器を提供することができるようになった.そこで,提供された臓
器を長時間保存するための技術が求められるようになった.現在,臓器を移植するためには十
分な時間保存できるようになったが,低温状態にする必要があるため機能の低下が問題となっ
ている.そこで本稿では移植用の臓器の保存方法, そして現在研究されている新しい保存技術
について述べていく.
臓器保存とは
2
2.1
臓器保存の必要性
臓器保存とは脳死した人間の体からとりだした臓器を移植が必要な患者のために保存して
おく技術のことである.死体腎移植が治療法として受け入れられるようになった 1965∼1966
年ごろから研究が始まった.当時カリフォルニア大学では,心停止後の臓器を移植していた.
しかし心停止後では臓器が傷んでいるのでうまく生着しないのではないかと考えられ,そこ
から臓器保存の研究が始まった.
2.2
臓器保存の歴史
最初はイヌの血液を腎臓に循環させる実験が行われたが,血圧が上昇して 30 分以上機能を
維持することができなかった.
しかし,1967 年の実験で,通常イヌから脱血した血液は血漿を分離させて冷凍庫で保存し,
実験を行う数時間前から解凍を行うところを,事前に解凍しておくことを怠ってしまった.こ
の時研究者は血漿をお湯で解凍すると,血漿が濁ってしまっていたため,これをろ過して使用
した.その結果,圧力が上昇することはなかった.
沈澱した物質を調べた結果圧力を上昇させていた原因はリポ蛋白であることがわかった.
これ以後血漿よりリポ蛋白を取り除いた血漿液が灌流に使用されるようになり,この液は
cryoprecipitated plasma(CPP)と呼ばれるようになった.その後自家移植のモデルを使って
72 時間保存後移植した結果生着し,同年 8 月には CPP を使って臨床例にうつり,腎臓摘出か
ら 17 時間後に移植したにもかかわらず,すぐに移植腎は動き出した 1) .
また血液を灌流させる方法では,装置を遠距離に輸送するのは困難なため,臓器を保存液に
漬ける浸漬保存の研究も進められた.浸漬保存も当初は時間を延ばすことが課題とされてお
り,当初は生理食塩水などで血液を洗い出し,腎臓を低温保存していたが,12 時間程度しか
保存できなかった.そこで 1969 年により長時間保存するため,カリウム濃度が高く,ナトリ
ウム濃度が低い保存液が開発された.これにより 30∼60 時間程度,腎臓を保存することが可
能となった.この液は発明者の名前を取ってユーロコリンズ液と名付けられた.これは現在で
53
も用いられている保存液の一つである.
2.3
臓器保存に求められるもの
臓器保存液は大きく以下の 5 つの特性が求められる 2) .
1. 細胞腫脹の抑制
2. 細胞内酸性化の抑制
3. 開放性血管網の維持
4. 血流再開時の虚血性灌流傷害の防止
5. 血流再開時の高エネルギーリン酸供給
これはどの保存液にも共通した特性であり,どれだけこの特性を臓器につけた状態で保てるか
が問われる.この状態を保てる時間は臓器の種類やドナーの年齢,体格などによって違うが,
現在では心臓が約 4 時間,肝臓が 20∼24 時間,腎臓が 48∼72 時間といわれている.この時
間を超えると臓器は腫脹し,酸化していき最悪壊死し移植に適さないものになってしまう.
現在の臓器保存
3
3.1
摘出方法と問題点
臓器を摘出するにはまず以下の二つを行う必要がある.
1. 多量の輸液で臓器の水分を増やす.
2. 尿の出を少なくする薬(抗利尿剤を適量の 10 倍以上使用する)によって臓器の水分を
増やす.
これらにより傷を負って腫れ上がっている脳をますます腫れさせ,脳圧を高めることで,健
康なほかの細胞を圧迫させ,脳の温度をあげ脳細胞を徐々に死に向かわせる.つまり,脳の治
療とは全く正反対の臓器保存術が行われる.脳に傷を負った患者への治療は, 脱水療法や低温
療法が行われることが多いが,この治療はほかの臓器にはダメージを与えることになり移植
に適さないものになってしまう.
さらに,移植される臓器は血流が途絶し血流を介した酸素の供給がない状態(虚血状態)で,
数分から数時間に渡り保存される.この際,保存温度や保存液などの保存条件が適切に選択さ
れない場合や移植までに長時間を要する場合がある.このような場合,移植によって移植臓器
内の血流が回復した際(再灌流時)に,移植臓器に基質的あるいは機能的な障害が生じる場合
もある.そのため臓器の保存というのは非常に短い時間しか完全な状態で残すことができな
いことが多い.このような症状を防ぎ,移植用臓器を生理的に良好な状態で保存するための方
法についての検討がなされてきた.
3.2
保存方法
現在までに報告されている臓器保存方法として,Table. 1 に示す灌流法と単純浸漬保存法の
2 つの方法がある.灌流法は保存期間中に臓器灌流を行い,細胞に必要な酸素や栄養素を補給
し,臓器の代謝を維持して保存する方法で,保存液が全身に行き渡るので生きた状態で保存で
きる.しかし,灌流温度,灌流圧,灌流量,灌流液の組成など様々な因子が関係するため,詳
細な至適条件が確立されていないという欠点がある.単純浸漬保存法は臓器を低温に保持し
て細胞の代謝を抑制することにより酸素欠乏の組織障害を防止する方法で簡単で有効な方法
なので臨床現場では広く用いられている.しかし,臓器の大きさや密度によって低温保存して
おける時間が違うので考慮する必要がある.
Table. 1 保存方法の種類
方法
灌流法
単純浸漬保存法
利点
生きた状態で
保存できる
簡単で有効な方法
54
欠点
詳細な至適条件が
確立されていない
臓器の大きさや密度を
考慮する必要がある
3.3
保存液
実用化されている臓器保存液はグルコースと諸種の電解質を含んでなるユーロコリンズ液
と,不浸透成分,膠質浸透圧成分,エネルギー代謝促進成分及びホルモンをそれぞれ含んでな
るウィスコンシン液がよく知られている.特にウィスコンシン液はグルコースを持たないの
で乳酸や水素イオンの生成が最低限に抑えられ,さらに低分子量のコロイド,Hydroxy Ethyl
Starch(HES) が細胞腫脹防止を行うので最大 72 時間の安全保存期間を可能にした.これは現
在も腹腔内臓器に対し最も広く用いられている冷保存液である.しかしながら,ユーロコリン
ズ液は生存能力の高い腎臓には有効であるが,腎臓以外の臓器に対しては,組織・細胞に対
する保護効果が十分でないと言われており,また,ウィスコンシン液は製剤として不安定であ
り,調製後は低温保存しなければならない欠点があると言われている.
これらの欠点を克服するため,ほかにも提案されている保存液は数多くあるが,製剤の調製
と恒常性を保つのが難しく,溶解度が低いなどの問題が多い.さらにどのような臓器保存液も
低温保存しなければならないので,移植後の機能回復が妨げられるという問題や,搬送時の負
担が大きいなどの問題も改善すべき点として指摘されている 3) .
Table. 2 保存方法の種類
保存液名
4
ユーロコリンズ液
利点
腎臓の保存に
効果的
欠点
腎臓以外には
保護効果が不十分
ウィスコンシン液
最大 72 時間保存可能
製剤として不安定
最新の保存液
前章で述べた問題点の一つを解決するための研究が進められている保存液の一つに,ヤマ
マユガ科の天蚕がもつペプチドが挙げられる. このペプチドから作られる臓器保存液は,臓
器を低温で保存しなくても 酸素欠乏による臓器の組織障害を防止することができるため有用
性が高いと考えられている.この保存液がもつペプチドは「ヤママリン」と命名されている.
さらにヤママリンの発明者らは,C16 −ヤママリンについても研究を進め,既に C16 −ヤマ
マリンを有効成分とした臓器の保存液を提案している.
しかし,C16 −ヤママリンは, ヤママリンに比べ優れた細胞増殖抑制効果を有するため,
ヤママリンよりも低濃度でその効果を発揮するものの,溶解度が極めて低いという特徴があ
る.このため,例えば,C16 −ヤママリンを,細胞増殖抑制剤や臓器(細胞)の保存液に応用
する場合,有効濃度の C16 −ヤママリンを含む培地や保存液を調製すると,有効成分(C16
−ヤママリン)が析出してしまう場合がある.そのため新たな化合物を含む保存液が開発され
た 4) .
この保存液は,細胞または臓器を効果的かつ容易に保存できるとともに,有効成分の析出が
抑制されているため,実用性に優れている.この保存液は必ず低温で臓器を保存する必要がな
いため,移植後の臓器の機能回復がスムーズに行われる.また臓器移植においては機能回復の
問題はあるが,保存液の温度を低温(5 ℃以下)にすると,現在用いられている保存液よりも
長期間の細胞,臓器の保存が可能になる.
5
今後の展望
2014 年 2 月 11 日,アメリカの TransMedics 社によって,ドナーの体内から取り出された
肺を,患者に移植するまでの間,凍らせることなく保管・輸送し,患者へと移植することがで
きる OCS(Organ Care System) が開発された 5) .OCS は装着された肺に対して酸素を送り,
さらに特別に調整された血液細胞を流し込む.そのためドナーから取り出された肺は,直ちに
温かさを取り戻し,呼吸を始める.OCS には気管鏡検査,吸引能力,洗浄能力,生体検査な
どの能力がありこれにより生かした状態で肺を管理することができるようになる.そのため
すぐに復帰することができると考えられる.OCS はまだ臨床試験段階だが,これによって移
植後の経過によって著しい改善が見られたという報告もある.
OCS のような保存液を使わずに肺を保存することができる技術が開発されたことにより,
55
Fig. 1 OCS(TransMedics 社製)6)
さらに肝臓や腎臓などのほかの臓器も生かした状態で保存できるような装置の開発が進めら
れている.また保存液も今後はさらに保存時間を延ばし,数日程度保存することができるよう
なものの研究が進められており,機能の回復もよりスムーズにできるようなものが開発される
と考えられる.
6
まとめ
臓器保存は 1960 年代に心停止後の臓器では移植に適さないのではないという理由ではじま
り,研究者の失敗によって開発された技術だった.これによって時間は限られるが,移植を必
要とする患者のために臓器を冷凍保存しておくことができるようになった.しかし,冷凍保存
では,機能的な障害が起きる場合が多く,保存しておける時間が限られている.このような問
題を解決するために,OCS のような低温保存する必要のない技術や,新たな保存液が開発さ
れ,今後は常温で,長時間の保存が可能になるシステムの開発が求められるようになると考え
られる.
参考文献
1) 臓器保存の先駆者たち[1. 循環保存].
http://www.medi-net.or.jp/tcnet/history/hstr_015.html.
2) 石井徳味. 家兎腎を用いた uw(university of wisconsin) 保存液の臓器機能保持効果の検討.
近畿大学医学雑誌, Vol. 24, No. 2, 1999.
3) 細胞または臓器の保存液及び保存方法.
http://www.ekouhou.net/細 胞 ま た は 臓 器 の 保 存 液 お よ び 保 存 方 法/disp-A,
2010-239963.html.
4) 細胞増殖抑制剤、細胞または臓器の保存液,.
http://www.google.com/patents/WO2013133440A1?cl=ja.
5) 摘出後の肺を「呼吸させて」保存する、最新医療技術! .
http://tocana.jp/2014/02/pos.
6) Ocs lung now available in europe and australia.
http://international.transmedics.com/wt/page/ocslungintro_med.
56
第 33 回 月例発表会(2014 年 04 月 19 日)
医療情報システム研究室
レーザー医療機器
林沼 勝利
Katsutoshi HAYASHINUMA
吉田 拓也
Takuya YOSHIDA
早川 温子
Atsuko HAYAKAWA
Abstract
レーザーは,単色性・指向性・干渉性などの性質があり,幅広い分野で使われている.
医療分野におけるレーザーの開発も進み,旧来の手法では難しかった手術もレーザーを用いることによ
り容易になった.本稿では, レーザーの仕組みやレーザー医療機器について述べる.
はじめに
1
レーザー (LASER) は Light Amplification by Stimulated Emission of Radiiation の略称で
特殊な装置で発生させる人工的な光である,レーザーは 1960 年に発明された 1) .アメリカの
T.H.Maiman がルビーの結晶からレーザーを発振させることに成功し,その後,アメリカや
ソ連で工業・通信・軍事用のレーザーが開発された.医療分野への応用も早く,レーザーの誕
生した翌年には,アメリカの眼科で網膜剥離の手術にレーザーが使われた.日本では,1980
年前後に眼科からレーザー医療が始まったとされている 1) .レーザーは, 単色性・指向性・干
渉性などの性質があり,これらの性質に着目した L.Goldman によりレーザーと医療が結び付
けられた.その結果,今までは治療が難しかった疾患も治すことができるようになった.本稿
では,レーザーの原理について述べた後,医療用レーザーについて述べる.
レーザーの原理
2
本章では,レーザーの発振装置,および発生原理について述べる.
2.1
発振管の構造
レーザーの発生装置は,Fig. 1 に示す 3 要素から構成される.
1. レーザー媒体
• レーザー媒体とは,誘導放出を引き起こしている材料である.
2. 励起源
• 励起源とはレーザー媒質を励起するためエネルギーを与えるための装置である.
3. 増幅器
• 増幅器とは 2 枚のミラーで囲み光を反射させ光を増幅させる装置である.
• 2 枚のミラーは,全反射ミラーと出力ミラーがあり,全反射ミラーは反射率 100 %の
性質があり,全ての光を反射する.出力ミラーは,反射率 40∼99 %・透過率 1∼
60 %の性質があり一部の光を透過する.その光がレーザーである.
増幅器
レーザー媒体
出力ミラー
励起源
全反射ミラー
Fig. 1 レーザー発生装置の構造 (参考文献 2) より自作)
57
2.2
励起
励起について Fig. 2 に示す.外部から光が入射すると,原子中の電子は光を吸収し,基底
状態と呼ばれる一番低いエネルギー状態からより高いエネルギー状態になる.エネルギーが
高まると電子は通常の軌道から外側の軌道に移る.このエネルギーが高まっている状態を励起
という.
電子
基底状態の原子
励起状態
光
光
基底状態
励起状態の原子
Fig. 2 励起 (参考文献 2) より自作)
2.3
自然放出
自然放出について Fig. 3 に示す.励起された電子は, 吸収したエネルギー量に応じて, エネ
ルギー準位が上がる.エネルギーを高められた電子は, ある緩和時間が経過すると安定しよう
としてエネルギーを放出し,低いエネルギー状態に戻ろうとする.この現象を自然放出という.
励起状態
光
光
基底状態
Fig. 3 自然放出 (参考文献 2) より自作)
2.4
誘導放出
Fig. 4 のように高いエネルギー状態にある電子が存在し,そこに自然放出された光が入射
すると, エネルギー・位相・進行方向が全く同じ光を放出する.つまり,入射時に 1 つだった
光が出射時は 2 つになる現象が発生する.これを誘導放出という.誘導放出された光は,エネ
ルギー・位相・進行方向が揃っているため,多くの光を誘導放出することにより強い光を作り
出すことが可能である.
レーザー光は, この誘導放出という現象を利用して入射光を増幅している.そのため,以下
に示す 3 つの特徴を持っている.
1. 単色性 (全ての光のエネルギーが等しい)
2. コヒーレンス (位相が揃っている)
3. 高指向性 (進行方向が揃っている)
励起状態
光
光
光
光
基底状態
Fig. 4 誘導放出 (参考文献 2) より自作)
2.5
反転分布状態
レーザーの誘導放出を用いて発振させるためには,Fig. 5 のように,高エネルギー状態の
電子の密度を低エネルギー状態の電子密度よりも圧倒的に高めた反転分布状態にする必要が
ある.つまり,吸収される光よりも誘導放出される光の数を上回らせることで,効果的にレー
ザーを創り出すことが可能である.
2.6
媒体の違いによるレーザーの性質の違い
レーザー媒体には, 様々な種類がある.一般的に固体レーザー・液体レーザー・気体レーザー・半導
体レーザーと分類することができ,各レーザーからも数多くのレーザーに分類することができる.
本稿では,広い分野でよく用いられる炭酸ガスレーザーと Nd:YAG(Yttrium,Aluminium,Garnet)
レーザーについて述べる.
58
Fig. 5 反転分布状態 (参考文献 2) より自作)
2.6.1
炭酸ガスレーザーの発生のしくみ
Fig. 6 に示すように, レーザー媒体となる炭酸ガスに上下一対の放電電極が配置され,左右
に部分反射鏡と全反射鏡が対面しており,電極間に高電圧を加えると部分反射鏡からレーザー
光が放出される.
レーザーが発生する仕組みは電極間に高電圧を加えると電子が飛び出し, レーザー媒体中の窒
素分子を介してそのエネルギーを炭酸ガス分子に与え 励起された炭酸ガス分子は光子を放出
する.この光子は全反射鏡へ向かったものが 2 枚の反射鏡の間を往復しながら, 他の炭酸ガス
分子に衝突する. これが繰り返されるうちに光子が増加し,レーザーとなって部分反射鏡から
外部へ取り出される. 炭酸ガスレーザーの波長は 10.6[µm] である.
Fig. 6 炭酸ガスレーザーの構造 (参考文献 3) より自作)
2.6.2
Nd:YAG レーザーの発生のしくみ
Nd:YAG 結晶は,YAG(Y3 Al5 O12 ) 結晶中の Y の一部 Nd(ネオジム) に置換した結晶である.
この結晶にフラッシュランプやレーザーダイオードなどを 用いて外部エネルギーを与えるこ
とで, 結晶内の電子が励起され, 反転分布状態となる. ある一つの励起電子が基底状態に遷移す
る際に放出する光 (1064 nm) がトリガーとなって 誘導放出することにより, 放出光の位相がそ
ろった レーザー(基本波、波長 1064 nm)が得られる. この基本波を KTP(KT iOP O4 )結
晶に通すことによって 2 倍波 (波長 532 nm) が得られる.
レーザーを利用した医療
3
レーザーを利用した診断や治療は,外科,内科,眼科,歯科,皮膚科など広範囲の医療分野
で成果が挙げられている.レーザー医療は次のような特徴がある.
1. 非接触治療が可能であるので, 痛みが少なく,感染の恐れも少ない.
2. レーザーによる加熱治療は止血・凝固性が伴うので出血が少ない.
3. 熱的治療のほかに光線力学療法も可能であり,無血で局所的治療が可能となる.
4. 光ファイバーを利用することにより,体内の治療も可能である.
3.1
レーザーメス
レーザーメスでは, 炭酸ガスレーザーや Nd:YAG レーザーなどがよく用いられる. これらの
レーザーを使用すると, 熱エネルギーにより,血液が凝固して出血が少ないため, 従来の金属
59
メスの代わりにレーザーメスが利用されている. 応用例として内視鏡に組み込むなどの利用方
法がある 4) .
3.1.1
炭酸ガスレーザー
炭酸ガスレーザーは, 出力波長が遠赤外光にあたるため水に吸収されやすい性質を持ってい
る.皮膚に照射すると,皮膚組織内の水分に吸収されて熱を生じレーザー照射部の温度は 1000
度前後に上昇する.温度が上昇することにより生体組織の水分の蒸発などで表皮が押し上げ
られ, 表皮の破壊や組織が切開される. 切開された組織の表面は, レーザー加熱で炭化されるた
め出血は抑えられる 5) .
3.1.2
Nd:Yag レーザー
Nd:YAG レーザーは炭酸ガスと比べ, 近赤外光のため体内の水分や血液に吸収されにくく組
織の内部まで浸透する性質を持っている. 波長は 1064[nm] と 532[nm] を選択することができ
る.1064[nm] のときは, 高いエネルギーのまま深部まで到達するので, 太田母斑や異所性蒙古斑
のような深在性疾患治療に適した波長である.532[nm] を選択したときには, ヒトの皮膚の色素
でもあるメラニンに反応し, 表在性色素斑 (シミ・そばかす) の治療に用いられる.
3.2
光線力学療法
光線力学療法は PDT(photo dynamic therapy) とも呼ばれ,レーザーと光感受性物質を用
いた治療法であり.ガン治療によく用いられている 6) .光感受性物質は,ガンに多く集まり
特定の波長のレーザーを当てると活性酸素を発生させるという性質がある.その性質を利用
し,体内に光感受性物質を注入しガン組織に集積した後,レーザーを照射することにより,光
感受性物質は活性酸素を発生させ,その活性酸素がガン細胞を破壊する.レーザーの波長は光
感受性物質にしか反応しないため正常な細胞を壊すことなく今までのガン治療法と違い侵襲
が少ないという治療法である.
3.3
レーザー治療の問題点
レーザーは強力な熱エネルギーの持つため,熱を術部周辺まで広げてしまうので正常な細胞
を変性させるといった問題がある.その為,医師に高度な技術が要求され,操作を誤ると火傷
などを起こす場合がある.
4
今後の展望
前章で述べた問題点を解決するため,フェムト秒レーザーを用いた治療装置が考えられて
いる.フェムト(femto, 記号:f)は,国際単位系において基本単位の 10−15 倍の量を示し,1
フェムト秒は「1000 兆分の 1 秒」を表す.つまり,フェムト秒レーザーは,レーザーのパル
ス幅が 1000 兆分の 1 秒のレーザーである.そのため,現在使われている炭酸ガスレーザーや
YAG レーザーなどのナノ秒レーザーと比べ,照射時間が短いため熱が広がる前に体内に吸収
される.そのため,フェムト秒レーザーは,熱を広げないという性質を持っている 7) .これ
により,術部周辺の細胞を傷つけることは少ないので,今までの治療よりも質の高いものにな
ると考えられる.
5
まとめ
本稿では,レーザーの原理について述べたあと,レーザー機器の中の炭酸ガスレーザーと
Nd:YAG レーザーや光線力学療法について述べた. レーザーは,侵襲が少なく旧来の治療方法
と比べ身体への負担が少ない治療が可能というメリットがある.しかし,医師の操作・判断ミ
スにより疾患を悪化させる場合がある.
現在では医療用のフェムト秒レーザーが開発されており,今まで以上に侵襲の少ない治療が
可能になると考えられる.
参考文献
1) レーザーの歴史, http://www.lumenis.co.jp/laser/history.html.
2) 学ぶ レーザーの原理, http://www.marking.jp/tech/.
60
3) 山城邦定. 数値制御 (nc) 工作機械の活用ーレーザー加工機の教材作成ー.
4) 佐藤卓蔵. レーザー CD プレーヤーから X 線レーザーまで. 1987.
5) 清水忠雄. レーザーの入門 基礎から応用まで. 森北出版株式会社, 第 1 版, 1989.
6) 新田雅之. 光線力学療法 (pdt) を用いた悪性脳腫瘍の治療.
7) シグマ光機株式会社, フェムト秒レーザー.
61
第 33 回 月例発表会(2014 年 04 月 19 日)
医療情報システム研究室
MEMS (Micro Electro Mechanical Systems)
田中 勇人
Hayato TANAKA
三島 康平
Kohei MISHIMA
後藤 真櫻
Mao GOTO
Abstract 様々な製品の小型化を実現させている MEMS (Micro Electro Mechanical Systems) と
は,一つのシリコン基盤上に制御部や駆動部を集積させた装置のことをいう.この MEMS 技術は,小
型で高精度な部品を生み出すことができる.また,MEMS は電気信号だけではなく,様々な物理信号を
処理することができる.特に医療分野においても,医者が外部から患者の生体内情報を取得し,投薬を
操作することが可能になった.
はじめに
1
近年,パソコンや携帯電話,自動車の車載製品など小型な製品が開発されてきている.この
ような製品の小型化を可能にしたのが,MEMS (Micro Electro Mechanical Systems:微小電
気機械システム) の技術である.この技術は,既存の半導体加工技術を用いながら,新しい応
用技術を立ち上げようとして生み出された.これにより,微細な立体構造を形成し,この立体
構造を電子回路とともに集積することが可能になっている.この特徴を生かして,今や MEMS
技術は自動車分野や情報・通信分野,医療分野など様々な分野で実用化されている.本稿で
は,MEMS の技術に焦点を当て,そのあとに医療分野における MEMS の応用例を述べる.
MEMS の概要
2
MEMS とは,一つのシリコン基盤上に IC (Integrated Circuit:集積回路) やセンサ,アク
チュエータを搭載した装置のことを指す 1) . 身近な開発・製品例は,スマートフォンなどに用
いられるモーションセンサ,自動車のエアバックに用いられる加速度センサ,無線通信機器な
どに用いられる RF (Radio Frequency:高周波) MEMS スイッチなどがある.
2.1
MEMS の構造と特徴
MEMS には大きく分けて小型化・集積化・量産性の三つの特徴がある 2) .MEMS は半導体
加工技術を用いて製造されるので,小型な装置が得られる.エネルギーを蓄積する容量も微小
になるため駆動も容易となり,応答が早くて小型な製品が実現可能になった.また,一つのシ
リコン基板上に,センサや IC,アクチュエータが集積されている.センサは各種の物理信号
を電気信号に変換し,IC は電気信号を増幅させ,アクチュエータは入力されたエネルギーを
物理的な運動へと変換する役割をもつ.MEMS が小型ということから,センサにより変換さ
れた電気信号が小さくなることもあるが,IC により微弱な信号も増幅することができる.こ
のような同じ部品を並べて協働させたり,異なる部品を集積させたりすることで,電気信号だ
けでなく,磁気や光などの様々な信号を物理的な運動へと変換する装置を製造することができ
る.MEMS の構造は,Fig. 1 に示す.さらには,基板上に多数の回路を同時に作製できるの
で,MEMS を低コストに供給できるという特徴もある.
このようなデバイスに用いられる材料は,機械的強度が大きく,丈夫な単結晶シリコンであ
る.単結晶シリコンは高品質で,結晶欠陥が極めて少なくて高純度である.また,集積回路の
材料としても優れた電気的特性を示している.一般的な各種演算処理機能を持つ回路はもち
ろんのこと,MEMS の中のセンサの出力信号検出に用いる回路や,アクチュエータの駆動回
路も実現することができる.
62
Fig. 1 MEMS の構造(自作)
Fig. 2 表面マイクロマシニングの手順(自作)
MEMS の製造技術
2.2
MEMS は,設計パターンの一括転写を行うリソグラフィー技術や,不要な部分を除去する
エッチング技術を用いて,精密な構造をもつ小型デバイスを製造している.これらの技術は,
IC を作成する際の,半導体加工技術を基本としている.具体的な製造工程としては,表面マ
イクロマシニングとバルクマイクロマシニングと呼ばれているものがある 2) .
2.2.1
表面マイクロマシニング
表面マイクロマシニングでは,シリコン基板上に複数の薄膜を形成し,フォトリソグラフィ
技術とエッチング技術を用いる.フォトリソグラフィ技術では,薄膜上に感光性樹脂を塗布
し,光照射で回路パターンを焼き付けていく.エッチング技術では,薄膜あるいはシリコン基
板などの不要部分をガスや薬液で削り取る.これらの技術を組み合わせて,MEMS を作り上
げていく.表面マイクロマシニングの流れは,Fig. 2 に示す.この特徴としては,IC との集
積化に適しているので,微弱な電気信号を増幅しやすくなる.
2.2.2
バルクマイクロマシニング
バルクマイクロマシニングでは,シリコン基板自体を深く掘りこむことによって MEMS を
作り上げていく.この工程で使われる技術として,二種類のエッチング技術がある.
一つ目のウエットエッチングでは,アルカリ性水溶液を用いた化学反応により,基板表面を
深く溶かしていく.この処理方法では,金属を腐食溶解した薬品を流し去り,処理面に新鮮な
薬品を流す必要がある.特徴としては,一度に大量の基板が処理できるが,高精度な微細加工
が難しい.二つ目のドライエッチングでは,放電を発生させ,その内部で生成したイオンやラ
ジカルを利用して基板を加工する.基板表面にイオンやラジカルなどの粒子が衝突するとき
の運動エネルギーを利用して,表面の原子がはじき出されるという原理のもと,不要な部分を
除去していく.加工面の不純物汚染を防ぐために,真空空間内でイオンやラジカルを発生させ
る装置が必要になる.特徴としては高精度な微細加工が得られる.
これらの技術を用いたことによって,基板全体を立体的に加工でき,機械的に動くのに適し
た構造が実現可能になった.
3
医療分野の MEMS 応用例
これまで,病気を抱えている患者には病気を発見してから治すという対処療法がおこなわれ
てきた.しかし,近年では,病気を早期発見し診断するという予防医療という考え方も注目さ
れている.予防医療において,医者が患者の体を傷つけずに,正確かつ迅速に病状を診断でき
るような装置を実用化させるべく,MEMS 技術が開発されている.また,最近ドラックデリ
63
Fig. 3 カプセル型内視鏡の構造(自作)
バリーシステム (Drug Delivery System:DDS) の研究も活発である.DDS では,必要最低限
の薬を,必要な時に必要な場所に供給することがもとめられる.本章では,DDS 機能が搭載
された MEMS の研究の現状を述べていく.
3.1
カプセル型内視鏡
近年,カプセル型内視鏡においても研究が進んでいる.従来のカプセル型内視鏡は,ぜん動
運動だけで移動していたので,検査したい部分への誘導が難しく,所要時間は 8 時間を要し
た.また,投薬機能も備わっていなかった.そのため,消化管内の検査には,所要時間の短縮
や消化管内からの直接の薬物投与がもとめられるようになり,カプセル内視鏡に MEMS が応
用されるに至った.
そこで,カプセル型のバッテリーレス内視鏡が開発された.内部側面に 3 つの姿勢制御ロー
ターコイルを囲むように配置し,レンズ部分は周囲にピント調整マグネットコイルと 4 つの
LED が備わっている.電力を蓄えるための蓄電コンデンサーとマイクロ波送信部を含めて超
小型カメラが完成している.さらに,タンクでのバルブ制御により任意の位置で薬液を投与
することができ,消化器系の DDS としての機能も持っている.カプセル型内視鏡の構造は,
Fig. 3 に示す.このような内視鏡は,無線で外部から制御するコントローラ,カプセルからの
画像データの受信と電力伝送を行うコイルが内蔵されたベストで,一つのシステムを形成し
ている.つまり,従来のカプセル内視鏡では,短時間の消化器検査が難しく,患者の負担も大
きかった.しかし,MEMS 技術によって,走行可能で,局所的な投薬機能と情報・通信機能
が備わった内視鏡が実現した.
3.2
眼球に装着可能な MEMS
眼球の組織に DDS 機能が備わった MEMS が開発された.眼球の後ろ側(露出していない
側)に取り付け,MEMS 自体には電源や駆動部を備えず,外部からの磁界で薬液の投与を制
御する.この装置は主に樹脂で形成されており,薬液を入れるタンクと磁性材料を含む薄膜で
構成した蓋から構成されている.人体の外から磁界をかけることで,薄膜が弓なりに曲がって
タンク内の薬液を押し出して投与する.磁界の強さを制御することにより,任意の量を任意の
時刻に与えられる.この装置の構造は,Fig. 4 に示す.また,磁界を脈拍状に与えて,薬液を
任意の時刻に投与できること,量についてもある程度の制御が可能となった.この MEMS 技
術の研究により,糖尿病が原因で網膜の血管が増えすぎ失明に至る病気の治療につながると考
えられる 3) .
4
今後の課題と展望
MEMS 技術は,製品の小型化を実現可能にし,様々な素子を集積させることで電気以外の
信号も物理的運動に変換する装置を製造可能にした.このように MEMS は複数の部品が集積
されている小型な装置として優れており,生産額も年々増大している.
しかし,MEMS 技術による小型化にも,消費電力に関する課題がある.アクチュエータには
駆動させるためのエネルギー源が必要であり,駆動電圧を印加すると消費電力が発生する.特
に,医療分野の MEMS にも生体情報を通信する機能が備わったものがあるが,その際の周波
数を切り替えるためのスイッチに用いられるアクチュエータは低消費電力がもとめられる.電
64
Fig. 4 眼球に装着可能な MEMS デバイス(自作)
力を大量に消費してしまうと,それとともに熱も発生し,MEMS の信頼性も得られにくい.そ
の課題を解決するために,MEMS と CMOS (Complementary Metal Oxide Semiconductor)
回路との融合が必要だ.CMOS 回路とは,IC の一種で,二種類の回路を直列に接続させるこ
とで,低消費電力を実現させている.この CMOS 回路と MEMS を集積させることで,MEMS
自体の消費電力を抑えることができると考えられる.
5
まとめ
近年,製品の小型化が実現されてきた.これは,IC のように半導体加工技術で製造される
ことによって,MEMS も様々な素子を集積することができたからだ.この MEMS 技術は,電
気以外の信号も物理的な運動に変換できるという特徴から,今では様々な分野で応用されてい
る.医療分野では,医者が外部から操作して,患者の生体内情報を取得して薬物投与するこ
とが実現可能となった.しかし,現在の MEMS には消費電力を抑えることがもとめられてい
る.そこで,CMOS 回路という低消費電力な IC と MEMS とを集積させることで,消費電力
の課題が解決されると思われる.
参考文献
1) 江刺正喜. はじめての MEMS. 株式会社 工業調査会, 2009.
2) 藤田博之. センサ・マイクロマシン工学. 株式会社 オーム社, 2013.
3) 三宅常之. MEMS 2013 続報.
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/EVENT/20130205/264203/.
65
第 33 回 月例発表会(2014 年 04 月 19 日)
医療情報システム研究室
グラフェン
伊藤 千幸
Chiyuki ITO
大谷 俊介
Shunsuke OHTANI
真島 希実
Nozomi MASHIMA
Abstract グラファイトの炭素原子一層からなるグラフェンは次世代の電子デバイス材料として注
目されている.それは,現在知られている物質の中で最も電気移動度が高く,軽くて,丈夫といった特性
をもっているためである.これらの特性を活かしてトランジスタや太陽電池やタッチパネルなどといっ
た研究開発がなされている.そしてこれらを製品化するためにはグラフェンを大量生産する方法が必要
であるが,まだその方法は確立されていないというのが現状である.
はじめに
1
近年,情報化社会を支える半導体は我々の身近にある電子機器のほとんど全てに使用されて
おり,現在の生活には必要不可欠なものとなっている.この電子機器の頭脳にあたる集積回路
を構成する部品であるトランジスタは,年々微細化が進められ,集積度を上げる事により性能
向上の実現がなされてきた.現在では,半導体のプロセスルール (配線幅) は 45nm にまで微
細化が進められているが,現在半導体材料としてよく用いられているシリコンでのこれ以上
の微細化は技術的・経済的問題により 2022 年に限界を向えることが予想されている 1) .しか
し,半導体デバイスを微細化し,性能を向上させることは,電子デバイスの高速・低消費電力
化と直結するため,材料レベルでのイノベーションが必要である.そこで,シリコンの代わり
となる新たな半導体材料として現在注目されているのがグラフェンである.グラフェンはナノ
スケールサイズで優位性を持つ可能性のある新素材であり,将来の電子デバイス材料の候補の
一つである.
本報告では,グラフェンに関する特性やその応用先などについて述べ,今後の課題について
記述する.
グラフェン
2
2.1
構造
グラフェン (graphene) は,Fig. 1(a) のような sp2 結合によって炭素原子が結ばれた蜂の巣
格子状に配列した二次元シート状の構造をしている.黒鉛としてよく知られているグラファイ
ト (graphite) はこのシート状のグラフェンを Fig. 1(b) のように積層したものであるが,層間
はπ電子によるファンデルワールス力という弱い力によって結合しているため,粘着テープな
どを用いて容易に機械的に剥離することが可能である 2) .
(a) グラフェン
(b) グラファイト
Fig. 1 グラフェンとグラファイト (参考文献 3) より自作)
66
特性
2.2
グラフェンには電気特性,光学特性,機械特性などがある.以下ではその詳しい特性と,そ
こから想定できる用途について述べる.
2.2.1
電気特性
グラフェンの特性のうち電子デバイスへの応用として最も重要であるのが,電気特性であ
る.現在知られている物質の中でグラフェンの電気伝導度は最大であり,室温での電子移動度
はシリコンの 100 倍以上である.電子の移動度が最も大きいため,電子移動に伴うエネルギー
の損失がごくわずかである.さらに,電気抵抗率は金属材料と比べても低く,集積回路の配線
材料に最適であると考えられている.
2.2.2
光学特性
グラフェンは紫外線,可視光,赤外線のすべての光スペクトルにおいて吸収することができ
るエネルギーバンド構造をもっている.そのため,グラフェンを太陽電池への応用が可能とな
れば,太陽からの入射光の量を減らすことなく効率よい発電ができることが期待される.
2.2.3
機械特性
現在知られている物質の中で最も軽く,最も丈夫な物質である.同じ厚さの鉄のシートに比
べて約 100 倍もの強度があり,1 平方メートルのグラフェンシートでハンモックを作れば,理
論的には約 4 キログラムの物体を支えることができると考えられている.また,プラスチック
などにグラフェンを混入させると,強度の大きな導電性プラスチックを作製することができる
と言われている.
2.3
グラフェンとシリコンとの比較
グラフェンにはさまざまな優れた特性があるが,将来シリコンの代替材料として期待されて
いる点について,電子移動度,原子間距離,熱伝導度の 3 つの観点から比較を行う.その比較
したものを Table. 1 に示す.グラフェンの電子移動度についてはシリコンの 100 倍以上であ
り,シリコンの代わりにグラフェンをトランジスタに応用させることができれば,デバイスの
高速動作を可能にすることができる.またグラフェンの原子間距離についてはシリコンの約半
分である.このことから今後さらなるデバイスの微細化をナノスケールで行うことが可能と
なると考えられている.さらに熱伝導度については物質に電流が流れることで発生した熱を
素早く外へ逃がすことができるかという意味で値が大きい方が放熱性に優れるという事にな
る.このようにグラフェンはシリコンに代わる次世代の半導体デバイスの材料として非常に有
望であることが分かる.
Table. 1 シリコンとの比較 2)
素材
電子移動度 [cm2 /Vs]
原子間距離 [nm]
熱伝導度 [µW/mK2 ]
グラフェン
200,000
1,500
0.142
0.3
5,500
168
シリコン
グラフェンの応用例
3
3.1
トランジスタ
電子機器の高機能化に伴いシリコントランジスタによる従来型の大規模集積回路 (LSI) は消
費電力の増大や微細化の限界などが問題になっている.しかし,優れた電気特性,構造をもつ
グラフェンをトランジスタに応用させることでそれらの問題点を解決することができる.ここ
で,グラフェンを用いたときのトランジスタの構造を Fig. 2 に示す.このグラフェントラン
ジスタはグラフェン上に二つのトップゲートを置き,トップゲート間のグラフェンにヘリウム
イオンを照射して結晶欠陥を導入することでグラフェンにバンドギャップを生じさせる.そし
て,二つのトップゲートに独立した電圧をかけて,効率的に電荷を制御できるというもので
ある.二つのトップゲートに与える電圧の極性によってグラフェンの電流を運ぶキャリアの極
性が n 型,p 型と変化し,チャネルの両側の極性が異なる場合,トランジスタはオフ状態とな
り,同じ極性の場合は,オン状態となる.オフ状態のとき,シリコンを用いた従来型のトラン
67
ジスタではチャネルのソース側あるいはドレイン側の端に形成される障壁で電荷の移動を阻止
するが,小さい障壁しか得られないためオフ状態におけるリーク電流が大きい.一方で,グラ
フェントランジスタでは従来型の場合よりも大きな障壁となって電荷の移動を阻止するため,
従来型と比較してより良好なオフ状態を得ることができるという利点がある 4) .
Fig. 2 グラフェントランジスタ (参考文献 4) より参照)
3.2
太陽電池
住宅の屋根やメガソーラー発電所などで使用されている従来の太陽電池の材料はほとんどが
シリコンである.しかし,シリコンの太陽電池は,日焼けの原因となる紫外線, 熱として感じ
る赤外線など, 太陽に含まれる可視光線以外の光はほとんど発電に使用されおらず, 光のエネ
ルギーのうち電気に変換して取り出せるのは最高で 25 %程度であり,残りの 75 %の光は利
用できていない.そのため,エネルギー変換効率が悪く,これからの社会を担う中心的なエネ
ルギーインフラとして,発展を続けることは難しい.そこで,シリコンの代替材料としてグラ
フェンを用いる開発が進められている.グラフェンは非常に光透過率が高く理論的には 97.5
%の光を通過させることができる.さらに,太陽電池では代替材料としてグラフェンを用いる
ことで,低コスト性に加えて,フレキシブル性,軽量性,機械強度といった点でもメリットが
ある.
3.3
タッチパネル
グラフェンは従来材料を大幅に上回る材料特性を持つが,際立っているのは導電性である.
絶縁性のプラスチックに少量添加で導電性とすることができれば,プラスチックの応用範囲を
大幅に広げることが可能となる.現在では,ITO(インジウムスズ酸化物) の透明電極フィルム
が一般的であるが,インジウムはレアメタルであること,透過波長範囲が狭いこと,フレキシ
ブルではないこと,といった種々の課題を抱えている.そのため,代替材料の開発や新機能の
開発がなされている.そこで,ITO に代わる透明導電フィルムとして,グラフェンが有力視さ
れている.現段階では Fig. 3 に示すような,グラフェン薄膜と銀ナノワイヤー薄膜を積層し
た透明導電フィルムの開発がなされている.グラフェンは地球上に豊富にあるカーボンが材料
であり,安定してフレキシブルで電導度の高い透明導電フィルムを作製することができる 5) .
Fig. 3 グラフェン複合透明電極フィルム (参考文献 5) より参照)
68
4
今後の課題
グラフェンは今後多岐に渡り応用できることが予想できる.そのため,グラフェンの産業応
用に欠かせない作製法を確立させることが必要である.グラファイトから粘着テープを用いて
機械的にグラフェンを剥離する手法は,簡単に高品質なグラフェンが得られるため,基礎物性
探究には最適であるが,サイズや生産性の観点で,産業応用には適していない.そこで最近で
は,グラフェンを基板上に成長させる手法が精力的に研究されている.その手法として代表的
なものが Fig. 4 に示すような CVD 法 (CVD:chemical vapor deposition) という熱分解を応用
した手法がある.これは,メタンガスなどの炭素を含む化合物を熱分解により炭素のみを取り
出し,それを銅などの触媒を用いることによって金属基板上で成長させるという手法である.
この手法は低コストで,且つ大面積のグラフェンを得ることができる事が想定されており,今
後グラフェンの量産化,大面積化を可能にする方法として非常に有力視されている 6) .
H2
CH4
グラフェンの形成
基板
基板
グラフェン成⻑
Fig. 4 CVD 法 (参考文献 6) より自作)
5
まとめ
我々の生活を支えるほとんどの電子機器に半導体が使われており,その半導体は年々微細化
が進められてきた.現在では半導体材料としてシリコンが主に使われているが,微細化の限
界,精錬にコストがかかるといった問題がある.それを解決できるシリコンの代替材料がグラ
フェンである.グラフェンはさまざまな優れた特性がありトランジスタや太陽電池,タッチパ
ネルなど多くの応用先が考えられ,研究がなされている.しかし,このグラフェンにも課題が
残っており,実用化にむけてグラフェンを量産する方法を確立させていかなければならないと
いう点である.現段階では,CVD 法という触媒によってグラフェンを成長させて,大面積の
グラフェンシートを作成できる手法の開発が進められている.今後,この手法を確立させるこ
とができればグラフェンを用いた多くの電子デバイスへの応用が期待できる.
参考文献
1) EE Times Japan. ムーアの法則はあと 7 年で終わる? 微細化の限界は 7nm か 5nm.
http://eetimes.jp/ee/articles/1308/30/news051.html.
2) 吉田隆. グラフェンが拓く材料の新領域. エヌ・ティー・エヌ, 初版第一刷発行.
3) 財団法人高輝度光科学研究センター. ナノチューブの中でナノ物質の合成に成功.
http://www.spring8.or.jp/ja/news_publications/press_release/2008/080731/.
4) 産総研. 新しい動作原理のグラフェントランジスタを開発.
http://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2012/pr20121211/pr20121211.
html.
5) TOSHIBA 研究開発センター. グラフェン複合透明電極フィルム. 2012.
6) 吾郷浩樹. 高品質・大面積のグラフェン薄膜の製造方法.
http://www.jstshingi.jp/abst/p/12/1239/kyushu04.pdf.
69
第 33 回 月例発表会(2014 年 04 月 19 日)
医療情報システム研究室
ロボットスーツ
森下 拓哉
Takuya MORISHITA
Abstract
佐藤 琢磨
Takuma SATO
大久保 祐希
Yuuki OHKUBO
近年,人の運動を支援するロボットスーツが開発されている.その中でも HAL(Hybrid
Assistive Limb)は表面筋電位を用いて運動推定を行いアシストする.HAL の表面筋電位と重心移動を
用いた歩行早期リハビリテーションは,四肢麻痺患者の新たな治療法となる可能性がある.しかし,HAL
は表面筋電位が計測できない患者は使用できない事や活動の為のバッテリー時間が短い事などの問題も
あるが,身体障害を持つ人が健常者と同様の日常動作を行えることが期待されている.
1
はじめに
近年,人が行っていた重労働は機械化により,大幅に軽労化されている.しかし,狭い場所,
整地されていない場所での運搬作業は機械化されておらず,少子高齢化によりこれらの仕事
を高齢者や力のない若者が担う機会が増加している 1) .また,介護者が要介護者の抱え込み
動作による二次的な障害で腰痛を発生してしまうようにように,人の能力には限界がある 2) .
その為,限界ある人の能力を支援・増幅・拡張することを目的とした人工頭脳学,ロボット工
学,情報科学を融合した技術が活発化している.その技術は主に介護と軍事に活かされており,
介護使用は「介護者支援による介護者・要介護者の QOL(Quality of Life)向上と身体障害を
持つ人が健常者と同様の日常動作を行えるようにすること」,軍事使用は「戦闘環境において
兵士の移動速度、力、耐久力を向上させる機械を開発すること」が目的とされている 2,
3, 4)
. この技術を活かし,限界ある人の能力を支援する未来を創るためロボットスーツが研究され
ている.本稿ではロボットスーツが開発された目的とその用途を述べた後,ロボットスーツ
の中でも研究が進んでいる世界初のサイボーグ型ロボット HAL(Hybrid Assistive Limb)を
取り上げ,そのシステムと HAL を用いた下肢麻痺患者の運動機能回復をはかるリハビリテー
ション,今後の展望を述べる.
2
ロボットスーツ
ロボットスーツは体に装着させ,筋力や運動能力を補助・強化・拡張させる装置として定義
されている 5) .体に装着することで人の動きに合わせた行動が可能になる.また,体に付け
られる大きさの為,狭い場所での作業が行えることが特徴である.ロボットスーツの支援が使
われている,介護支援・作業支援・軍事支援の三方面に分けてそれぞれの特徴を述べる.
• 介護支援
使用者は健常者と歩行を困難とする老人や四肢麻痺患者で,介護やリハビリに使用されて
いる.電気駆動で,表面筋電位を用いるため装着者の意図を推定して制御を行うことがで
きる.しかし生体センサーの位置や発汗で測定精度が変わることが難点である.例には筑
波大学の山海氏が開発している HAL である 1,
6, 7)
.
• 作業支援
使用者は健常者で,主に収穫物を運ぶ為の農作業に使われている.電気駆動やエア駆動で,
坂道や農道などの足場の環境に適応できるよう足首を固定しないロボットスーツもある.
表面筋電位を使わず,装着者の歩行や座り込みなどの行動パターンで操作する為,ロボッ
トスーツを着るだけでよい.しかしプログラムによる行動パターンの判定の為,複雑な行
動が困難である.例には和歌山大学が開発している農作業用アシストスーツがある 1,
70
8)
.
• 軍事支援
使用者は健常者で,狭い場所での軍事物資の運搬を目指している為,馬力のある油圧駆動
である.その為,電気駆動より大きな力を出すことができる.しかし多くの燃料を必要と
するためロボットスーツ全体が大きくなってしまう.例には米国の Breleley Robotics and
Human Engineering Laboratory が開発している BLEEX(Berkeley Lower Extremity
Exoskeleton)がある 9) .
3
Hybrid Assistive Limb
HAL は人の表面筋電図と機械内のセンサーにより測定される加速度,関節角度,床反力情
報を処理し必要なモータトルクで筋をアシストし,随意運動を増強する装着型ロボットとして
開発された 10) .HAL のフレームは床に設置する構造により,重量がフレームを伝わり地面
に逃げる仕組みとなっている.その為,装着者の重量負担が軽減出来る.また,システム稼動
には DC バッテリーにより電源を供給することで独立した移動を可能にした 11) . HAL は他
のロボットスーツと違い,表面筋電位の計測を行っている.表面筋電位とは,筋が神経系から
命令を受けると収縮を起こす直前に筋電位をその直上の皮膚表面で計測した信号のことであ
る.この信号を用いることにより,運動意図がロボットスーツの動きに反映されるのである.
使用者が運動を行ってからアシストする他のロボットスーツに比べ,運動を行う直前にアシス
トするため自分で運動をしている様に感じるのが特徴である.HAL を開発する上で,表面筋
電位の計測方法およびその信号処理,関節の回転に掛かる力である関節トルクの推定,HAL
を制御する為の基本的な運動パターンが必要である.これらの制御にはハイブリッドメカニズ
ムが用いられる.Fig. 1 にハイブリットシステムの概略を示す.点線は人間の内部での情報,
実線は HAL における情報の流れである 6) .ハイブリッドメカニズムとは人と機械との運動
制御のことで,サイバニック随意運動とサイバニック自律運動の 2 つで構成されている.サイ
バニック随意制御とは装着者の運動意図に基づいて制御するシステムである.サイバニック自
律制御とは装着した HAL 内部のセンサーの信号処理に基づいて HAL が自分自身を制御する
システムである 10) .
上位運動中枢系
表⾯
筋電位
筋⾁
サイバニック随意制御
トルク
使⽤者
仮想トルク
の
アクチュエータ
の⾃律系
サイバニック⾃律制御
Fig. 1 ハイブリットシステムの概略図 (6) を参考に自作)
3.1
サイバニック随意制御
サイバニック随意制御は,表面筋電位を計測することで関節の回転に掛かる力を推定し,
HAL の関節モータに伝えることで使用者の運動をアシストするものである.サイバニック随
意制御の概略図を Fig. 2 に示す.
71
Bioelectrical signal
Analog Filter
Amplifier
+
Pre-Amp
Gain 1000
+
-
High pass filter
Cutoff freq.33Hz
Amp
Gain 1-1000
Low pass filter
Cutoff freq.500Hz
Toruqe
Digital Filter
HAL's computer
Neural network
Low pass filter
Moving average
Fig. 2 サイバニック随意制御の概略図 (11) を参考に自作)
筋繊維(筋細胞)は上位運動中枢からの運動指令を受けると,活動電位を発生し張力を発揮す
る.筋の運動が生じた場合,活動電位が発生することから,活動電位を導出・解析することに
より筋活動自体の解析を行うことが可能となる.皮膚表面に貼りつけた電極により活動電位を
導出・記録する表面筋電位導出法は,非侵襲かつ導出が容易であるといった特徴をもつ.表面
筋電位は一般的に,振幅が 10µV ∼800µV ,周波数が 0∼500Hz のスパイク状信号である.表
面電極により計測される表面筋電位(絶対値)の例を Fig. 3 に示す.
Bioelectrical signal [ V]
800
600
400
200
0
1
1.5
2
2.5
3
Time [s]
Fig. 3 表面筋電位の例 (11) を参考に自作)
関節角度を一定に維持した状態で張力を発揮する等尺性筋収縮において,張力を大きくする
と表面筋電位も大きくなる線形な関係になり,表面筋電位を計測することにより関節トルクを
推定することが出来る.
電極導出方法は,表面筋電位が非常に微弱な信号であり,ノイズ対策に充分な配慮が必要で
あるため,ノイズの同相除去法特性の優れた双極導出法を用いる.双極導出法とは,測定電極
2 個を導出対象である筋の直上の皮膚表面に貼り付け,接地電極を遠位で適当な部位(ここで
72
は手首や足首) に貼り付ける.接地電極と 2 つの測定電極間に生じる電位において,表面筋電
位は逆相,周囲のノイズは同相となっていることから,2 つの測定電位の差を取ることにより
同相の周囲のノイズを除去することができるという特性を持つ.電極の取り付け位置の条件
を以下に記載する.
• 電極間の距離は 10∼15mm
• 2 つの測定電極は筋繊維に平行
• 運動点と遠位腱部の中間点
また,信号増幅の為のアンプは,信号に混入するノイズによる S/N 比の低下を防ぐため電
極と一体型の構造としたプレアンプと,計測対象ごとの個体差に合わすために増幅率が調整
できる後段のアンプの 2 つから構成される.増幅した信号を表面筋電位のノイズとオフセット
の除去を行う 500Hz のハイパスフィルターと一般的な生体ノイズ(20∼30Hz)の除去とアン
チエイリアスを行う 33Hz のローパスフィルタ―を通す.更にスパイク状の信号では制御入力
としての応用に不向きであるため,カットオフ周波数 3Hz のローパスフィルタ―と移動平均
による平滑化を行う.次に関節トルクの推定を行うが,この推定をせずに HAL のモータに出
力すると,出力トルクが使用者の意図に反するアシストを行ってしまう.関節トルクを推定す
る方法として線形和を用いる方法とニューラルネットワークを用いる方法がある.計測される
表面筋電位と発生する関節トルクの関係は線形であると仮定する.しかし,計測される信号は
非線形な要素を含み,関節角度の変化によって筋長や筋モーメントアームが変化し,筋張力が
関節トルクに寄与する割合が変化する.その点を考慮して,ニューラルネットワークによる関
節トルクの推定を式 (1) より行う.ニューラルネットワークとは生物の神経系の構造を工学的
に再現しようとするシステムである.
τ = f (EM G1 , EM G2 , ..., EM GN , θ)
(1)
式 (1) において関数 f はニューラルネットワークにより構成される写像関数である.また,
EMG(Electromyogram)は表面筋電位のことである.ニューラルネットワークによるトルク
推定法の概念図を Fig. 4 に示す.
θ
EMG3
τ
Estimated toeque
EMG2
EMG1
linear function
Sibmoid function
Fig. 4 ニューラルネットワークによるトルク推定法 (11) を参考に自作)
また,パワーアシスト制御時に装着者の関節トルクの推定を行うには,入力である表面筋電位
及び関節角度と,出力である関節トルクの対応関係を意味する重み係数を事前に知る必要が
ある.しかし,この対応関係は,装着者の個人差や日による皮膚表面状態(皮膚抵抗)により
変化するため,HAL を利用する際には必ず使用目的動作によるキャリブレーション動作を行
い重み係数を生成する必要がある.キャリブレーション動作により 3 つの情報―表面筋電位,
関節角度,装着者の関節トルク―を得る.表面筋電位の計測は装着者に取りつけられた電極に
より行われる.また,関節角度の情報も HAL のモーターに付けられた角度センサーにより検
73
出される.装着者の関節トルクの計測は, 装着者が出すトルクに拮抗するトルクを HAL のア
クチュエータが出力するように HAL を制御し,アクチュエータのトルクを計測する事により
おこなわれる.このように HAL のアクチュエータを利用して装着者の関節トルクを計測する
ことで,簡易に関節トルクを計測することができ,HAL 利用中の再キャリブレーションを行
う際,装着者への負担が軽減される.キャリブレーション動作によって得られた 3 つの情報の
うち, 関節角度と表面筋電位は教師データの入力パターンとして,また装着者の関節トルクは
教師データの出力パターンとして学習が行われる.ニューラルネットワークにおける素子間の
結合度(重み)の学習は,計測した表面筋電位,関節角度,関節トルクを元に,学習途中の
ニューラルネットワークから得られた出力と教師信号との誤差情報を出力層から入力層に逆伝
播させることで,各層の教師信号を生成し学習を行うという方法であるバックプロパゲーショ
ン法により行う.学習によって得られた重み係数はパワーアシスト制御時に推定器の重み係数
として利用される.この様にして得られる関節周りの推定トルクを HAL によるパワーアシス
ト制御の入力信号として導入し,装着者の意志を反映する制御となっている.装着者のトルク
を τhuman ,HAL のトルクを τHAL ,推定トルクを τ̂human ,アシストゲインを Gassist と
すると,HAL のトルクは式 (2) と表せる.
τHAL = τ̂human × Gassist
(2)
また,最終的な関節周りのに働くトルクは,装着者が出力したトルクと HAL が出力したトル
クの合力は τhuman +τHAL となる.以上のことを踏まえ,膝関節の伸筋である大腿直筋,内
側広筋,屈筋である大腿二頭筋,半腱様筋の表面筋電位を計測し,歩行動作の計測を行う.計
測する筋肉を Fig. 5 に示す 12) . 比較のためアクチュエータの発生するアシストトルクと装
⼤腿直近
⼤腿⼆頭筋
内側広筋
半腱様筋
Fig. 5 計測する筋肉 (12) を参考に自作)
着者の出力している推定トルクを平滑化して表示した.また,歩行動作において,関節角度,
トルク共に屈曲方向を正とする.HAL を装着せずに歩いた時のトルクを Fig. 6 に示し,HAL
を装着した時のトルクを Fig. 7 に示す.Fig. 7 に示すように,HAL を装着していない時より
も小さいトルクで歩行を行うことができたことがわかる 11) .
40
Torque[Nm]
Estimate human torque
20
0
0
1
2
3
4
5
6
7
Time[sec]
Fig. 6 歩行動作:HAL 無し (11) を参考に自作)
74
8
40
Torque[Nm]
Human and HAL torque
Estimate human torque
HAL output torque
20
0
0
1
3
2
4
6
5
7
8
Time[sec]
Fig. 7 歩行動作:HAL 有り (11) を参考に自作)
3.2
サイバニック自律制御
サイバニック自律制御とは HAL 内部のセンサーにより使用者の状況を判断し,HAL が自
分自身のトルクの制御を行うことである.センサーの一つに HAL の足底のつま先と踵部分に
付いた圧力センサーがある(Fig. 8).
From
Power
Supply
To
A/D
Metalic Plate
Strain Gauge
Circuit Box for
Converting
Force to Voltage
Fig. 8 靴底圧力センサー (11) を参考に自作)
HAL 自身に人間と同様の動作をさせる為には,動作をプログラムする必要がある.そこで
実世界から人の歩行,座り込み動作時における表面筋電位や関節角度を取り出し,これらのパ
ラメータからプログラミングを行う.そして,動作プログラムを入れた HAL が,使用者の動
作に合わせて必要な関節角度やトルクを計算し,動作の再現しアシストを行う 13) .また,急
な外力による姿勢の大きな乱れが生じた場合,HAL の足底の圧力センサーでの重心位置の観
測により,その微分値が閾値を越えるとフィードバック制御が行われ,人が危険回避を行う際
の関節の動きに基づき,関節部のトルク発生パターンを生成し,出力することで危険回避運
動を行う 6) .靴底の圧力センサーによる重心判断の概念図を Fig. 9 に示す.Fig. 9 に示した
WLR は重心を表しており,閾値 S を定義して,重心が S よりも右に行けば右脚で体を支持し
ているとみなし,HAL は左脚を出す運動をする.逆に受信が −S よりも左に行けば右脚を出
す運動をする.Fig. 9 で示したのは重心の横移動のみだが,圧力センサーはつま先と踵に存在
するので前後の移動も観測できる 14) .
Left-stance
area
Right-stance
area
Double-stance area
WLR
-1
-S
0
S
1
Fig. 9 重心位置の観測 (14) を参考に自作)
75
HAL による応用例
4
現在,HAL は健常者の歩行支援のほかに,四肢麻痺患者の歩行リハビリテーションに用い
られている.脊椎損傷患者や脳血管障害患者に対しては,寝たきりによる筋委縮の廃用症候群
を防いで予後の向上を図る必要がある.その為,自力運動が困難であっても可能な限り早期か
ら離床して動かない手足を動かし,脳が脚に運動指令を与える流れとは逆に,脳に脚の動かし
方を教える早期リハビリテーションが有効とされている.運動機能をはかる上で麻痺部の随意
的運動が重要である.両手にポールをついて,随意運動を促すことを想定したポールウォーキ
ングの様な歩行訓練システムは開発されていた 15) .しかし,いずれの下肢にある程度の筋力
があることが条件とされている.そして,自力運動ができない重度対麻痺患者にはそれらの訓
練は利用できない 14) .これに対して HAL による歩行支援は歩行における筋力は無いが,脚
上げに必要な表面筋電位が計測できれば歩行ができるということである.そして,大腿直筋な
どの主要な筋肉の表面筋電位が検出出来ない場合においても,脚上げ意思がわかる腹斜筋下
部のように歩行時に表面筋電位が検出される場所も電極を貼る選択肢の一つとなる.
リハビリテーションの具体例として脊髄損傷患者の例を上げる.この患者は大腿直筋など
の主要な筋肉の表面筋電位が検出されず,腹斜筋下部に電極を貼り,表面筋電位の想定を行っ
た.重度対麻痺患者による装着に対応するために,足関節の内反を防ぐスタビライザを搭載し
た(Fig. 10).また,スタビライザ底部にも足底荷重センサを搭載することで HAL のフレー
ムを介して地面にかかる荷重を計測し,足底荷重比率の計算を行う.この足底荷重比率により
振り上げる脚の判定を行う.
HAL
Wearer's leg
Fframe
Fframe
Stabilizer
Shoe
Force sensor
With the stabilizer
Without the stabilizer
Fig. 10 スタビライザ付 HAL(14) を参考に自作)
Fig. 11 に示す表面筋電位は患者に HAL を装着し,ウォーキングマシン上で歩行を行ったも
のである.体重移動を行いやすいよう装着者の主観的評価に基づいて環境を微調整し,HAL
の自律的制御に用いる運動パターンは,体格が類似した健常者による歩行時のデータから作
成したものである.この歩行時は転倒などの危険事象やウォーキングマシンおよび HAL の緊
急停止などはなく,5 分以上の連続した歩行が可能であった.歩行の意思を反映した表面筋電
位を検出するため,体重移動のみの脚上げを意識しない歩行と,脚上げを意識した歩行を行っ
た.
Fig. 11 脊髄損傷患者の歩行時表面筋電位 (14) を参考に自作)
76
Fig. 11 における上図は体重移動のみの脚上げを意識しない歩行の場合には HAL による振り
出しのアシスト開始後に表面筋電位が上昇していた.脚上げを意識しなかった為,随意的な歩
行はなかったと考えられるので,HAL が患者の脚を動かしたことによる不随意的な信号が現
れたものだと考えられる.次に,Fig. 11 における下図は脚上げを意識した場合,HAL による
振り出しアシストの開始前から表面筋電位の大きな上昇が確認できる.Fig. 11 における上図
の意識していない場合と比べ,脚上げを意識することで現れた,随意的な表面筋電位だと考え
られる.しかし,脚上げを意識した試行では,反対側の生体電位信号も連動して上昇してしま
う傾向(下段右,Time[s]:2,6,10)が見られ,この患者はは左右を神経・筋活動を十分に分離
しきれていなかったことを示している.歩行中の患者から計測した右脚の表面筋電位を Fig.
Bioelectrical signal [ V]
12 に示す.
3
Envelope of the bioelectrical signal
Base line
2
1
0
Bioelectrical
signal [ V]
Bioelectrical signal [ V]
240
280
260
3
300
Envelope of the bioelectrical signal
Base line
2
1
0
3
Envelope of the bioelectrical signal
2
1
0
266
268
270
272
274
Time [s]
Fig. 12 歩行時の右脚の表面筋電位 (14) を参考に自作)
Fig. 12 の最上段から,歩行の脚上げに連動して 1.5∼2 秒程度の周期で上下している信号に,
一定の周期で 0.5µV 程度の幅を持つ揺らぎが重畳していることが分かる.これに対して,生
体電位信号のベースラインのオンライン推定を行うことにより,揺らぎの影響を取り除いて脚
上げのトリガ生体電位を得られたことが分かる.以上の結果から,神経・筋活動を十分に意思
通りに制御できていない患者であっても,表面筋電位から脚上げ意思を抽出可能な場合がある
ことが確認された.また,右脚のトリガ生体電位は右脚の振り上げ時だけでなく左脚の振り上
げ時にも上昇していたが,表面筋電位と足底荷重比率を併用して意思を判定したことにより,
脚上げの誤認識を防ぐことができた(Fig. 13).以上の結果から,装着者が脚上げを意識する
ことで,HAL による振り出しアシストの開始前から生体電位信号レベルが上昇することが確
認された.また,表面筋電位と足底荷重比率を併用して意思推定を行ったことで,HAL が荷
重がかかっている脚を振り出してしまうフェイズの誤認識を防ぐことができ,下肢を全く動か
せない患者の歩行動作を実現可能であることが確認された.これにより,ロボットスーツが自
力で脚を動かせない重度対麻痺患者の表面筋電位から随意的な神経・筋活動を抽出して歩行動
作を実現可能なことが確認され,重度対麻痺患者にも随意的な神経・筋活動を反映した運動訓
練が実現可能となったと考えられる 14) .また,他の症例では HAL を脱いだ後,膝関節の屈
伸運動が以前より改善したという報告も挙げられている 10) .
77
Left
Bioelectrical
signal [ V]
2
Right
Bioelectrical
signal [ V]
4
2
threshold
0
4
involuntary
Left/Right
Load Ratio
0
1
right
S
0
left
-S
-1
Assist
Phase
Double-stance
Left
Swing
Single-stance
Right
Single-stance
Swing
Fig. 13 表面筋電位と足底荷重比率 (14) を参考に自作)
5
今後の展望
HAL は既に福祉機器としての認証を取得しているが,前章で述べた四肢麻痺患者の歩行早
期リハビリテーションは治療法として確立されていない為,日本での薬事法による医療機器承
認を得ていない.その為,今後は疾患の症状改善効果と進行抑制効果などに基づく治験を行
い,治療法が確立された医療機器になることを目指いている.また,介護支援の最終目標であ
る「身体障害を持つ人が健常者と同様の日常動作を行えるようにすること」を実現するには,
現在ある HAL の稼動時間が 60∼90 分と日常生活を行うには短いことが問題となる 16) .バッ
テリーの容量を増やせば稼動時間は長くなる.しかし,その為には全体の大きさや重さが増え
てしまい,実用性が低くなってしまう.更に,脊椎の損傷状態がひどい場合,その箇所から先
の神経に信号を送ることが出来ないと表面筋電位を計測出来ない.この様に表面筋電位を計
測できない症状の患者に使用するためには,表面筋電位から運動意思を取得するだけでなく,
運動の指示を出す脳からの情報を使い,運動意思推定が出来ることが望ましい.低重量・高稼
働のバッテリー且つ,脳からの運動推定が行えることが期待される.
6
まとめ
介護・作業・軍事と多方面で活躍するロボットスーツが注目されており,その中でも HAL
は健常者に限らず,表面筋電位を用いることで筋力が無い四肢麻痺患者にもアプローチをかけ
ている.歩行に必要な表面筋電位が観測される四肢麻痺患者であれば HAL を装着する事で,
歩行を可能とする.身体障害を持つ人が健常者と同様の日常動作を行うにはいくつかの問題
はあるが医療,福祉に限らず活躍することが望まれる.
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79
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