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山下 泰昭さんインタビュー

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山下 泰昭さんインタビュー
長崎放送局
長崎
記者
原爆
2012年11月15日放送
100人の証言 44
山下
泰昭さんインタビュー
「原爆投下以前、どんな家族構成で生活はどのようなものでしたか?」
山下さん 「私の記憶に残っているところでは、兄3人は戦争に行っていましたし、家族構成は父
と母と姉3人と私、ですから6人家族ですね。父は三菱造船所の労働者でしたし、姉
3人はまだ小さかった、あの一番上の姉は女学校に行ってましたけど、戦争中は足の
具合が悪くて学校へ行くことを禁止されていましたので、家で生活していましたし、
長女がそういうふうな状態で、次女、三女っていうのは小学校には行ってたんですが
戦時中ですから、授業に行くっていうことはほとんどなくて、僕はまだ学校に入って
いませんでしたから、家で、近所の友達と遊ぶとかね、そういうふうな日常生活でし
たけどね。母は家にいて、家のことをやってましたから、毎日がだいたいそういうふ
うな生活ですね、僕なんか友達と一緒に山に遊びに行ったり、近くの川で水遊びをし
たりっていうふうな毎日でした」
記者
「戦争中で、すごく大変だったなとか記憶に残っていることは何かありますか」
山下さん 「そうですね、あの、本当になんていうか戦争という意識っていうのは、あんまりなか
ったんですよね。ただ空襲警報があって、そしてあのB29なんかが長崎の上を飛ん
でいったりなんかすると、「あ、本当に戦争をやっているんだ」っていうようなこと
はありましたけど、でも毎日私たちの生活の中では本当に山に遊びにいったり、川で
遊びにいったりして、要するに、おもちゃがありませんでしたからね、その時代は。
みんなほとんど貧乏でしたんでね、ほとんど下着だけでというふうな格好で毎日の生
活をやってましたから」
記者
「8月9日当日、朝起きてからどうやって11時2分を迎えたか、時系列を追って教え
て下さい」
山下さん 「その日は朝からね、長崎には2度ほど空襲警報があったんです。それであの地域の防
空ごうに行ったり来たりしていたんですね。それで、たぶん2度目の空襲警報が解除
されてから、母親と一緒に家へ降りてきて、母は食事の準備を始めたんですよ、お昼
のね。僕はね、その日なぜか友達と一緒に遊びにいってなかったんです。家のそばで
1人で母の近くで遊んでたんですけども、そのちょうどね、11時前くらいですよね、
近くのおじさんが通って「飛行機が飛んでるから注意しないといけないですよ」って
言って。母が「まあ、いつものことだから、何も起こらないでしょう」って言ってた
んですね。そのときに、あの長女の姉が家の中にいたんですけど、母ちゃんなんかラ
ジオでやっぱり飛行機が飛んでいるから注意したほうがいいよって言ってるから、私
は防空ごうに避難するからって言ったんです。それで床下の穴蔵の中へ彼女は入った
らしいですね、それでその時に母が私を呼んで、もしものことがあるといけないから
その穴蔵へ入ろうといって、私の手をとってね、その台所の中から家のほうへ入ろう
としたんです。で、その瞬間にね、ものすごい閃光が走ったんですよ、もうほんと目
がつぶれるんじゃないかというぐらいのものすごい光で、私は話をするときにいつも
ね、千個の稲妻が同時に走った、そのくらいものすごい強い光だったんですね。んで、
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長崎
原爆
2012年11月15日放送
100人の証言 44
山下
泰昭さんインタビュー
母が私を床に引きずりおろして、その彼女の体で私の体を覆ってくれたんです。そし
てその時にね、ものすごい音がして、ドーンというような感じの音がして、ものがい
ろいろ飛び交うような音を聞いてたんですよ。それでしばらくすると全く静かになっ
て、立ち上がったら家の窓ガラスや扉だとか屋根瓦だとかほとんど吹き飛んでいまし
て、家を支えた柱だけが残っているというような感じだったんですね。そして、はい
ながら、床をはいながら穴蔵のところへ行ったんですね。それで姉がそこへいて泣い
てたんです。母が「どうしたんだ?」って聞いたら、「母ちゃん、私あの油がかかっ
たみたい」って。油っていうのはね、その頃なんか、化学兵器をね、アメリカ軍が投
下するっていう噂があってたんです。それで一般的には、誰もね、どういうふうな化
学兵器が知らないから、油、油っていうことで言っていたわけです。それで真っ暗で
したから、何も見えないわけですけれども、なんか彼女はね、姉はその油みたいなも
のが頭から流れているのを感じてたみたいなんです。それでしばらくそこへいて、母
が地域の防空ごうへ避難しようということで外へ出てきたんですね。そしたら、姉の
頭は小さなガラスの破片で覆われていて血が流れていたんです。母がそれを1つ1つ
注意深くガラスの破片を抜き取って、血をきれいに拭き取って、それで防空ごうのほ
うへ走ったんですね。それでそのときね、姉は5歳の時に右足を切断して、膝下から
義足をはめていたんです。その当時の義足はものすごくなんていうか、いまのような
状態のいい義足じゃないですから、毎日歩くのだけでも大変だったんですね。その姉
がふつうの人のように走ったんですよ、僕らよりも早かったです。私はね彼女がね、
ふつうの人のように行動するっていうのは初めて見て、それが最後のことだったんで
すけどね。僕らも防空ごうに着いた時にはもう近所の人がたくさんいて、もうずっと
くっついて入ってたんで、そんなに広いところじゃないですから、もう40人か50
人ぐらいいたんじゃないかと思うんですよね。そこにしばらくしたら、その山に行っ
てた子どもたちが帰ってきて、それでその中の一人が背中に大やけどをしてたんです。
いわゆる裸で遊んでたんでその直接、山の上だし直接あのなんていうか、爆発のね、
光を受けたみたいなんですね。それで背中がものすごく焼けてて、やけどをしていて
もうずっと苦しんでいたんですよ。お母さんも誰もどうすることもできなくて、んで
彼は苦しみながら3日後ぐらいあとに死んだんですけど、ウジ虫がわいてたんですね。
僕らも本当にそれを見ていて、苦しみましたけど、どうすることも、薬はない、消毒
することもできない、洗うこともできない、何もすることができなくて、それでその
子どもは僕の友達は死んでいったんですけど、それから食べるものがなくて毎日ひも
じい思いをしながらね、防空ごうの中で生活してたんですけど。んで、防空ごうが山
の中腹にあるもんですから、長崎市内が一望されるんですよ。んで、市内がね、燃え
てるのが見えるんですよ、昼も夜もね。毎日燃え続けて、もう要するにその当時は消
防団が行って火を消すとかそういう状態ではなかったと思いますから、ただ燃えつく
すのを待つような感じだったんでしょうけど、1週間ぐらいたって、もうとにかく食
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長崎
原爆
2012年11月15日放送
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山下
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事がないもんですから、もう本当にひもじい思いで毎日を過ごしていたんですけど、
母がね、じゃあ、田舎のほうへ疎開しようなって言って、田舎に親戚があったんです
ね、んで、そこのほうへ疎開しようかと言って、そこへ行けばたぶん何か食べ物があ
るだろうと、それで僕ら、姉三人と僕を連れて、父親はすぐに死体処理にかりだされ
て、こっちに、自宅に残らないといけなかったのでね、母と僕ら4人、5人で田舎の
ほうへ、その浜口町を通って歩いて行ったんですけど。その時には、
(原爆投下から)
1週間後だったんだけど、ものすごい状況だったんですよね、ほんと地獄絵というか
そういうふうな状態だったんだけど、僕はことばでは表せない、それ以上の悲惨さだ
ったと思います。で、田舎に行って、そこでもやっぱり食べ物は十分じゃないんで、
その親類の人たちの食べ物を私たちがとるっていうわけにもいきませんので、母親と
また長崎へ自宅へ戻って、なんとか生活を立て直そうと、それでまた自宅のほうへ戻
ってきて、それで生活を始めたんですけど、毎日遺体処理にかり出された父は、帰っ
てくるたびに「全部歯が抜け落ちる感じがする」って言うんですよ。歯が浮くってね。
それで、見てもね「大丈夫だよ」って言うんだけど、「なんか全部歯が抜ける気がす
る」って。その当時、放射能っていうことを誰も知らなかったわけですよね。毎日朝
から晩まで遺体処理、死体処理にあたっててね、父がその他の人もそうですけど、い
わゆる放射能を浴びてたわけですよ、毎日。ものすごい量のね。そして結局3か月ぐ
らい父は、お医者さんの話では父は脳溢血っていう診断だったんですけど、植物人間
みたいになってもうそのまま、それで長いこと10年ぐらい生き延びたんです。それ
で亡くなったんですけど。その当時、彼が亡くなった時にはね、誰も原爆症で亡くな
ったんだっていうことはね、まだ認定もされてなかったですしね、ですから、誰もま
あ、普通の脳溢血っていうので死んだんかなっていうぐらいにしか思ってなかったで
すね」
記者
「お友達はすごく仲良いお友達だったんですよね?」
山下さん
「はい。毎日ね、毎日のように遊んでいた友達ですから」
記者
「6歳ぐらいで人が死ぬのを見ることって普通の生活ではない。彼の死を目の当たりに
してどう思いましたか」
山下さん 「なんていうかね、またその死んだ状況ですよね。背中じゅうがウジ虫がわいて、それ
を見るというそのすさまじさというか、恐ろしさ。あれはいまだに頭の中に残ってい
ますけど、僕としてはどうしようも、助けてあげたいけどね、一緒にそばにいて慰め
てあげたいけどどうしようもないことだったし、もうなんか、そのどうしてあげるこ
ともできなかったっていう苦しみっていうのは本当にね、今でもね、何かしてあげれ
ばよかったのかなって思うけど、同時に何もすることはできなかったと思ってね。お
母さんもお父さんも、どうすることもできなかったしね、んで、僕らが何をしようと
しても何もなかったわけですから。でもとても辛かったですね」
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長崎
記者
原爆
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山下
泰昭さんインタビュー
「疎開する時に見た惨状、実際どんな光景でしたか」
山下さん 「もうそんなに死体はありませんでしたけど、動物の死体っていうのはいたるところに
まだまだ転がってましたし、もうほとんど家は全壊状態でしたから。もう焼け野原で
真っ黒焦げの状態で、建物なんか本当にここに何があったんだろうと思われるぐらい
の状況でしたよね」
記者
「頭に傷を負ったお姉さんはその後どうなりましたか」
山下さん 「あのね、姉が亡くなったのはもう15年ぐらい前ですからずっと生き延びたんですけ
ど、彼女は結婚にずいぶん苦労したんですよね、結婚することができなくて長いこと。
まず第一の条件は彼女が義足であったということですよね。そして被爆者だっていう
こと、その2つの条件で結婚してくれるという人がなかなか現れなくて、そうですね、
彼女が結婚したのはもう35歳ぐらいの時。その当時、女性の人はそういう年代でね、
結婚するっていうのはずいぶん遅かったわけですからね、下の2人の姉はもっと早く
結婚しましたし、その長女が一番最後まで残ったんですね」
記者
「お父さんが倒れた時はどう思いましたか」
山下さん 「僕らは要するに、原爆の放射能の影響っていうことはまず知りませんでしたから、た
だ単に父親が脳溢血で倒れて、そういうふうな状態になったんだとしか思ってなかっ
たんです。でもそれを介護している母を見ているのは辛かったですけどね」
記者
「あれが原爆だったんだということは当時は分からなかった?」
山下さん 「当時はわかりませんでしたね。誰も放射能っていうこと、原爆っていうことを話しま
せんでしたから。私らがね、原爆だとか放射能だとかというそのことばを耳にするよ
うになったのはあのビキニのね、あれがあった後。あの後に突然いろんなことが、放
射能だとかいうことが騒ぎ出されて、それでやっと長崎、広島の原爆のことも同時に
話されるようになったので、それまでは全く知りませんでしたから。それに誰も話そ
うとはしませんでしたね。あの自分の経験を。だから原爆ということばは、まず誰の
口にも上らなかったんじゃないかなと思います」
記者
「原爆投下後、間もなく終戦。終戦後の生活は?」
山下さん 「要するに、父はもう働けなかったんですよね。姉もまだ小さかったし、働くこともで
きなかったから、毎日の生活というのはとてもみじめなもんでしたけど、それでも
1946年、次の年に私たちは小学校に入って、時々いろんな給食が出されていたん
ですけど、そのときにね、あのお昼に乾パンと粉ミルクとレーズンが出されたんです。
それを食べた時になんとすばらしいんだろうと思いました。すごくおいしいんで、そ
れで本当に先生に「これ誰がくれたの?」って。そしたら「アメリカの兵隊さんたち
がくれたんだよ」って言われた。そのときに僕らは「アメリカの兵隊さんありがと
う!」
って本当にもう泣くような状態でね、感謝をしたんですよね。本当に今考えると、そ
ういうふうな乾パンだとか粉ミルクだとかレーズンだとかって、なんかつまんないよ
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原爆
2012年11月15日放送
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山下
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うなものだと思いますけど、そのときにとにかくひもじい毎日を過ごした僕らにとっ
てはね、ものすごく本当に天から与えられたようなおいしい食べ物だと思いました。
ですからその当時はね、本当に毎日毎日食べ物がなくて、なんか同じようなもの、大
根の煮詰めだとかそういうものばっかり食べてました。主食は麦でしたからね、白米
を食べるっていうことはなかったし。食料が不足してましたので、鈴なりに、汽車に
鈴なりになってね、田舎に買い出しに行って、僕らなんかも小さなリュックを背負わ
されて。僕らはまだ小さかったんでね、窓からみんな大人の人から汽車の中に放り込
まれて、それでもうぎゅうぎゅう詰めになった汽車の中に乗って、田舎まで買い出し
に行って、そしてまた頼みに頼んで食料をね、じゃがいもなんかをわけてもらって、
また同じようにして戻ってきて、その少ないものをみんなでわけて食べ合うというか
ね。そういうふうに本当にもう食料事情が悪かったですからね。ひもじい思いをした
というのはもう何年も続いたと思います」
記者
「給食はアメリカからもらったと聞いたとき、そのときはまだアメリカが原爆を投下し
たと知らないから、憎しみや怒りはなかったということですか」
山下さん 「憎しみなんていうのは全く感じなかったです。僕らは要するに戦争自体をそんなにね、
感じてなかったし、ラジオでは毎日のように日本がね、勝利を収めているというニュ
ースは流れていましたけど、それを実際に僕らがね「日本は戦争をやっているんだ」
っていう感じはね、そんなにしなかったです。原爆が投下された後でも、まあこれで
何にも怖いことっていうか、そういうふうなあれがなくなるんだなっていうぐらいに
しか考えてなくて、それをアメリカ人が投下したとか何とかっていうのは全く考えな
かったですね、その当時。ただ、進駐軍が入ってきてからでも、特別に違和感は感じ
ませんでしたし」
記者
「高校を卒業してから、仕事はどうしたのですか」
山下さん 「それはね、高校を卒業してからある会社に就職したんですけど、そのころから健康状
態が悪くなり始めて、ものすごい出血をするんですよ。お医者さんはたぶん潰瘍があ
るんじゃないかっていうことで、胃カメラを入れられて検査をされたんですけど、全
くそういう何にもないし、原因がわからない。そういうものすごい貧血状態っていう
のが続いて、それでしばらくするとまた元のような状態に。それで5か月6か月する
とまた同じような状態になってバタッと倒れて、もういろんなところで倒れるんです
よ、トイレの中で倒れるし、事務をしているところで倒れ、道端で倒れ、映画館の中
で倒れ、というふうにそれが原因の何もわからないままね、長崎市民病院でも検査さ
れる、長崎大学病院でも検査される、それでも、なんの原因もわからなくて、それで
大学病院なんかでは医学生の人たちの見本ですよね、もう。これが典型的な貧血の症
状でって言ってね。まぶたをこうされて。すいませんけど、見せてもらえますか、と
いうことで。そういうふうに検査を受けるんですけど、原因がわからない。それで、
だから仕事ができないわけですよ、就職してもやめないといけない。んで、また新し
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泰昭さんインタビュー
く就職してもまた辞めないといけない。んで、そういうふうに仕事を転々とするんで、
みんなから「あいつは怠け者だ」って言われましたけど、どうしようもないんですよ
ね。とにかく仕事ができないわけですから、休まないといけない。入ったばっかりで
も。そういうふうにしているうちに健康状態が元のように戻ってきて、それでね、あ
る人の紹介で原爆病院に仕事へ行かないかって言われて、ありがたいと思って受けた
んですよ。そして、最初は給食課に配属されたんですね。給食課っていうのは栄養士
の人たちが出すいろんなものの注文をして、それを受け取ってそれを検査して、それ
を栄養士の人たち調理師の人たちに渡すって、そういうふうな毎日でしたから、患者
さんとの接触っていうのはまずなかったんですね。んで、4か月、5か月ぐらい経っ
てから、その原爆病院の事務長が私の書いた書類を見て、この人は字がものすごくき
れいだから庶務課へ引き抜こうって言って。その当時は全部手書きをやらないといけ
なかったですからね、今のようにパソコンだとかタイプライターだとかね、日本語に
タイプでもパチンパチンと打つようなものでしたから、全部公文書っていうのは手書
きをやらないといけない、ですからそのときは字がうまいということで庶務課へ引き
抜かれて、それでずっと辞めるまで庶務課にいたんですけど、庶務課へ移ったとたん
に患者さんとの接触が始まったんです。毎日ね、苦しんでいる患者さんとか、毎日死
んでいかれる、毎日のように死んでいかれるね、患者さんたちを見た時に、初めて私
は本当に被爆者だっていうことを自覚し始めたんです。事務関係でも夜間になると、
病院っていうのは人数がね、人数が少なくなりますので、もし急患があったりってい
う時には手伝いをしないといけない。事務的な者だけどもそばに、そこに付いていな
いといけない。んで、あの患者さんが夜中に亡くなった場合には特別なケースですか
ら、すぐに解剖しないといけない。それで解剖医師を呼んで、解剖医師が来るのを待
って遺体を解剖室へ移して、んで、そういうふうな手続きだとかお手伝いをしないと
いけない、だから解剖室の中には入っていないといけない。そういうふうなその状況
を見て、もう毎日毎日がものすごくつらい毎日だったんですけど。その中で、白血病
で苦しんでいる僕と同じぐらいの年齢の男性がいたんですよ。その人の血液タイプが
私と同じで、急に輸血が必要な場合にお医者さんから少し血液を分けてくれないかっ
て言われて。それでできるかぎりね、私も協力してたんですよ。んで、その人がある
日突然に体中に紫色の斑点が出てそれで亡くなったんですよ、んで、そのときに私は
もうこれで、これ以上は仕事できないと思ったんです。自分がこの人のようにいつか
はなると思ったんです。こういうふうにね、その患者さんの毎日の生活を見ていると
いうのはとてもできない、我慢できない。そのころからどこか誰も知らないような、
その日本を離れてね、自分1人で暮らせるような、私がいても、「この人は原爆患者
だ」というふうに思われないどこかへ行ってしまいたいと思ってたんです。
んで、その前の年、2、3年くらい前からメキシコっていうことをね、私は自分の中
で意識し始めてたんです。というのはその当時、メキシコを旅行したその旅行記がた
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泰昭さんインタビュー
くさん出たんですよ、それを詠んで、それにあの当時メキシコの音楽ブームだったん
ですよ。トリオの音楽、メキシコのトリオの音楽ね、そういうのがものすごく人気が
あって、そのトリオロスアセスだとかね、いろんなトリオが日本へ来て、それがね、
私に火をつけたんじゃないかと思うんですよ。ものすごくね、感動したんですね、そ
の音楽を聴いて。そしてメキシコの考古学にも興味がありましたし、どうせ私が行く
んだったら今誰も、日本人がほとんど知らないようなメキシコに行こうと思って。そ
して26聖人館でスペイン語の勉強を始めたんです。それでスペインのパチェコ神父
だとか、メキシコから来てたアギラール神父だとかにスペイン語を教えてもらって、
それで、あの67年に私は原爆病院を辞めて、それで68年にメキシコへ行ったんで
すけど。その間にいろいろ準備をやってそれで結局私が原爆病院の退職願いを出した
時に、事務長が、「何をするんだ」って言われたんですね。それで、私は「病院を辞
めてメキシコへ行きます」って言ったら「バカー」って怒鳴られたんですよ。なんで
メキシコなんかにね、誰も知らないようなメキシコ、ああいうふうなところへ行くん
だって。今おまえはもう庶務係長になってるんだよって、将来があるじゃないかって。
それを放棄してそういうとこに行くもんじゃないって、仕事を続けろって言われて。
それを家族にも話したんですけど、やはり全部が反対。僕の学校の友達も全部が反対。
それでも私は、私の生活が惨めになるばっかりだから私はどうしても行きたいと思っ
ていましたし、それで私の義理の兄に、次女のご主人、もう亡くなりましたけど、彼
だったらね、私のことをわかってくれるだろうって思ってたんです。それである日、
彼に電話をして「話を聞いてもらえますか」って。「どういう話だ」っていうから、
「いや、会った時に話しますから」って言って「じゃあ会おう」ってなって、会って
からそん時にこうこうして、どうしても原爆病院には勤められないからメキシコに行
きたいと。そしたら「わかった、自分のほうから家族は説得するから安心して行きな
さい」って言われたんですよ。そしてまあとにかくメキシコへ行ってからでも・・・」
記者
「遮りますが、そのときに自分のことをわかってくれる親族の方がいらっしゃって、そ
のあとは?」
山下さん
「それで、私も安心して一応東京へ出て、まあ辞職願いを出して、そしてはっきりね、
1月くらい、退職願いを出してから1月ぐらい仕事の整理を終わって、しばらく長崎
に残って東京に出たんですね。東京にいたその頃の友達のところにしばらくお世話に
なってて、そして68年、メキシコへ行ったんですよ。私がメキシコへ行くっていう
のを神父さんに、アギラール神父さんに話をしたら、もうキミのスペイン語だったら
むこうへ行ってももうそんなに問題はないだろうって言われたんです。うれしかった
んですけど、メキシコへ着いた日に全くスペイン語がわからなくて、聞かれたことが。
まあ興奮していたのかあれですけど。後になってわかったのは、スペイン語の話し方
は国によって違うんですよね、ですからメキシコもスペイン人のスペイン語とはずい
ぶん違いますし、発音の仕方も違うんで、あのまあわからなくて、その日、着く日に
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原爆
2012年11月15日放送
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お友達、知り合いのね、紹介された知り合いの人が迎えに来ることになっていたんで
すよ。ところが誰も出ていなくて、どうしようと思ってたときに、あるメキシコ人が
近づいてきて、こんばんはって日本語で話してくれた。それで「日本語話すんですか」
って聞いたら「いや、それだけしか言えない」って。それで、ホテルがね、今日ホテ
ルに泊まらないといけないから、ホテルを紹介してもらえませんかって言ったら、お
巡りさんを呼んでね、この人をタクシーに連れていってくれって言って、それでタク
シーのところへ連れていかれて、お巡りさんがね、この人をホテルどこか紹介してく
れって言ったら、タクシーの運転手さんがいいですよって言ってね、連れていってく
れたホテルっていうのがね、マヤランドホテルっていうんですよ。まあ3つ星くらい
のホテルなんですけど、ちょうどメキシコの良い場所にあって、中心部なんですけど
良い場所にあって、それでね、その日一晩泊まって、次の日に迎えに来てくれるはず
だった人の家を訪ねて行ったんですけど。そのホテル、今でもメキシコ市へ行くと使
ってるんですよ。んで、僕はメキシコに、メキシコ市に住むようになってからでもす
ぐそばなんですね、そのホテルが偶然にも。それでそこへ訪ねて行って、それがご主
人は島原の人で、奥さんは長崎市内の人だったんですよ。でもね、奥さんは榎本移民
でメキシコに移住されてコーヒー栽培が失敗して、その榎本移民の人たちはみなメキ
シコ中にちりぢりばらばらになったんですね。彼らは、ご主人はメキシコ大学の植物
学の先生でメキシコ市に残られて、んでね、奥さんはね、コーヒー栽培の仕事に携わ
っている時に虫か何かが目に入って失明されてたんですよ、2度手術されたらしいん
だけど、まったく見えないような状態で。それでもね、ふつうのような生活をしてい
て、びっくりしましたけど。チョコレートも自分で作ったり、料理も自分で作ってい
た。子どもさんはいなかったんですけど。私が訪ねた時に女中さんが出てきて「こう
こうこういう人間ですから伝えてもらえますか」って言ったら、すぐ出てきて中へ入
って下さいって言われて。そのとき初めて奥さんに会ったんですけど、僕が長崎市か
ら来たっていうことで、もう是非ここに泊まっていいからって言われて、私たち子ど
ももいないし、ここで生活して構わないからって言われて。
それでそうしながら私はオリンピックの時に仕事をしたんですね。メキシコのオリン
ピック期間中、その前にちょうど10月10日がオリンピックの開会式だったんです。
10月2日に、世界中でもそうでしたけど、学生運動が激しかったんですよ。んで、
日本でも学生運動が激しい時期がありましたけども、メキシコでもね、やはり同じよ
うに激しい学生運動があった。んでね、10月2日に3文化の広場っていう場所で抗
議集会があってたんです。なぜ3文化かっていうと、そのメキシコ、スペインの征服
者以前のそのアステカ族の遺跡と、それからスペインが征服したあとの植民地時代の
建物、教会ですね、それから現在の外務省の近代的な建物が3つ同じ場所にあるんで
す。それで3文化の広場っていう名前が付いてたんですね。そこの広場で学生たちが
抗議集会をやっていた、その時にはね、子どもさんだとか学生の両親なんかも参加し
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てたんです。そこにね、メキシコの軍隊が取り囲んで無差別殺人っていうか、射撃を
始めた。合図も何にもなしに、んで、それをね、僕らはその当時オリンピックの準備
をやっていましたので、事務所で。通訳の中の1人が、メキシコ大学で勉強していた
女性の人が、学生運動のリーダーのお友達だったわけです。すぐにね、電話がかかっ
てきたんですよ。こうこうこれがいま起きてるっていうふうに。それで新聞記者と通
訳2人がそこに駆けつけたんですね。んで、あとで話を聞いたら、そこにいられるよ
うな状態じゃないって、それで全部の周りの住宅の中へ隠してもらったらしいんです
ね。んで、そういうあれが終わってから、その通訳の1人がいなくなったんです。そ
れでたぶん殺されたんじゃないかっていうことで、僕らが全部そこへ行って遺体を確
認したんです、1つ1つ。まだ遺体がずっところがっていましたから。それでそれは
もう本当ね、僕にとってはね、苦しいっていうかもうたまらない状況だったんですよ
ね。要するに、原爆のあれと重なっちゃいますからね、遺体が転がってそこら中に血
がいっぱい流れていますしね。幸いなことにそこにはいなくて、それで、いろんな陸
軍の刑務所をずっと調べて行ったらそこに、中に入ってたんですよ。彼もメキシコ大
学で勉強したんで、全部学生はとにかく刑務所に、軍隊の刑務所の中に入れられた。
それで僕が、彼は全然関係ないからと言っても絶対に釈放できないって言って。日本
の大使館へ行って大使に、軍隊のほうへ言ってもらって出してもらったんですけど。
そういうふうなことがあって、オリンピックが終わった後、僕はずっとメキシコに残
る気持ちでいましたから、最初の日に出会ったお友達に、
「メキシコに残りたい」っ
て言ったら「本当にメキシコに残る気だったらスペイン語を勉強しなさいって。もっ
とスペイン語を勉強しなさい」って。完璧にならないといけないと。それでそのため
にはキミの日本語を忘れなさいと、日本語を読んでもいけませんと。日本語を話して
もダメ、家族との連絡も全部断ち切って、スペイン語だけで毎日お勉強しなさいって。
「はい、そうします」って言って、僕が住んでた近くに大きな公園があるんですよ、
メキシコの町の真ん中にね、そこへ行ってベンチに座ってじっと待っていると、必ず
メキシコ人が近づいてきてスペイン語で話しかけてくれるんですね。それで、まだそ
んなによくわからないから、わからないことはこの辞書で教えてもらえますかってい
うとね、全部親切にね、教えてくれるんですよ。それで学校に行かないでスペイン語
を習ったんですけど、そのとにかく教育のある人から教育のない人までそれぞれ自分
の方法ですよね。私たちはこういうふうに、同じ言葉でもこういうふうに表現すると
か発音するとか、教えてくれるわけですよ。それはね、僕にとってはものすごい役に
立ちました。そのあと、通訳として仕事をする場合にね。それぞれのその教育程度に
よって表現の違いがあるということがわかりましたし、その人たちの感情がどういう
ふうに表現されるのかっていうのも習うことができたんでね。本当にメキシコ人全部
が僕のスペイン語の先生だっていうぐらいでしたけどね」
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長崎
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2012年11月15日放送
100人の証言 44
山下
泰昭さんインタビュー
「逃れてきたメキシコでも軍隊が学生に乱射。それでもメキシコにとどまろうと思った
のはなぜですか」
山下さん 「それはね、メキシコ人の人間味の温かさだと思います。もうすばらしい人間だと思い
ます。メキシコ人っていうのはものすごく心が温かいし、人助けが好きっていうのか、
全く最初に会った時から長いこと付き合っているようなお友達みたいな。何かあると
すぐ手伝ってくれますし、本当に特に貧しい人に限って、優しいというか人を助けよ
うとする気持ちは大きいんですよね。そしてそのほかに、僕がメキシコへ残ろうと思
ったのはね、その1年ぐらいたった後に、急性肺炎で死にそうになったんです。それ
で40度くらいの熱にうなされたと、それで僕の友達が偶然に僕を訪ねてきたんです
よ、その日。そして僕が熱にうなされているのを見て、すぐにね、お医者さんを呼ん
でくれたんですよ。そのお医者さんが来て、注射を打ってくれて、それで一応熱は治
まったんですけど、状態はまだ悪いままだったんですね。僕はね、ちょうどあの屋上
のね、その友達が持っていた屋上の部屋に住んでいたんですよ。ちゃんとした、小さ
な部屋だけどシャワーもお手洗いもついている。んでね、ここではね大変だから、1
人で生活するのは大変だから下へ僕のアパートへ降りなさいって、僕は仕事へ行って
ふつうはいないけど僕のお手伝いさんがずっといるから、彼女があなたの世話をする
からその下へ降りてくださいって。それで一緒に下へ降りたんですよ。お手伝いさん
が毎日のように僕を世話してくれて、それでね、1月ぐらいたちましたけどね、それ
でその間にずっと外には出られないし、毎日その部屋の中で過ごしたんで、どうして
感謝の気持ちを表したらいいかと思って、折り鶴を始めたんですよ。それで友達にね、
折り鶴の、折り鶴をするような紙は持ってなかったし、とにかくなんでも使える、折
り鶴にできるような紙は何でも使って、新聞紙を含めてとにかく全部いろんなものを
使って三千羽折ったんですよ。三千羽折ってカーテンを作ってあげたんです。折り鶴
のカーテンを。彼はものすごくそれを感謝して、ずっと家の中に飾っててくれました
けどね、亡くなるまで」
記者
「メキシコに行ってから被爆の体験を人に話すことはありましたか」
山下さん 「いや、私はね、私は被爆者だっていうことは隠していたんです。ただ一人、その友達
にだけはね、被爆者であるということはね、話をしたんです。というのはメキシコに
行って、そうですね、もう4、5年は経っていたと思うんですが、やはり同じような
ものすごい貧血がでるようになったんですよ。ものすごい出血で。それでバタッと倒
れたり、仕事をやっている時も、通訳をやっている時にバタッと倒れたり、ものすご
い血を吐いたりということがあって、それで友達も心配しましたし、あるときに日赤
病院に救急車で運ばれたりっていうことがあったんですよね。それで友達には、私は
被爆者だということだけはね、話したんです。やはりね、いろんな検査をされるんで
すけど、何にも原因がわかんないんですよね。それでその、胃カメラの専門のお医者
長崎放送局
長崎
原爆
2012年11月15日放送
100人の証言 44
山下
泰昭さんインタビュー
さんが、出血が出た瞬間にね、もしできたら病院に来てくれないかって。検査をすぐ
したいからって、その瞬間にね。それである日出血をして、苦しんでたんですけど、
その友達に頼んで連れて行ってもらって。その時にすぐに胃カメラを入れて検査した
んですね。それでもね、そのそういうふうな原因になるようなものは全くないって。
ただね、不思議に思えるのは、キミの胃の中にまあね、なんか誰かにね、爪でかきむ
しられたような状態だって言われた。それがね、あとでわかったんですけど、鉄分が
不足すると、体はその鉄分をその保護しようとする、体内に取り入れようとするんじ
ゃなくて、それを外へ放出するんです。だから細胞がね、開いて、完全に開いてしま
ってバーッと血を出してしまうんだそうです。ですからそれをね、鉄分を補給するた
めには、吸収するためには大豆からとれるレシチンというのをね、飲めばそれが鉄分
を吸収するのを手伝ってくれるって。それをね、友達が偶然に医学書を読んで電話し
てくれて、こういうふうな症例が載ってるよって。それを飲み始めてからね、全くそ
の症状がでなくなったんですよね。
まあ元に戻りますけど、私の体験、私が被爆者であるということは隠していたんです
ね。友達にも彼にだけは言ってましたけど、彼にも他の人には何も言わないでくれと
言ってた。1995年に友達の友達ですよね、親友から電話がかかってきて、息子が
行っている大学で被爆体験を話してくれませんか?って言われたんですよ。どうして
知ったんだ?って言ったら、彼に聞きましたからって、まあ仕方がないけれど、僕は
ね、イヤですと言ったんですね。できないって。でもね、どうしてもね、本当に重要
なことだから是非やってくれと、それでそれを引き受けてその大学へ行ってやったん
ですが、その前にね、とてもね、本当にやる気がだんだんだんだんなくなってきて、
怖くなってどうしようと思った、でももう約束したことだしやらないといけないと覚
悟を決めて、話を始めて、最初は辛かったんですけど、話を終えた時に、何か気分が
スーッとなるような気がしたんですよ。これはやはり話すことによって自分の辛さが
少しね、少なくなるんじゃないかっていう気がし始めて、それじゃあ機会があれば話
をしようかなっていうふうになってきたんですね。それからいろんなところから話が
あれば行って、話をするんですけど。でもやはり最初はね、出だしは辛いんですよね、
まだ。それでも初めの頃よりは少ないですけど、でもやはり話すということは、私に
とってはいいことだと思いますし、私だけじゃなくて私の体験談をね、残しておくっ
ていうのも重要なことだと思うようになりましたし、もし被爆者がいなくなれば、誰
も話すような人がいなくなるし、直接に話せるっていうのは僕らの年代が最後じゃな
いかとも思いますしね。5歳か6歳、そのくらいの年代がもう本当の記憶は小さいけ
ど、実際に話せるのは僕らがもう最後じゃないかと思いますしね。だからできるかぎ
り、私も機会があればね、話をするようにしてるんですけどね」
記者
「どうして親友以外に被爆体験を話さなかったのですか?」
山下さん 「やはり苦しいからですね。忘れたいという気持ちが私にはずっとありましたから、私
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原爆
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山下
泰昭さんインタビュー
が被爆者ではありたくないと思っていたし、それを隠そうと思っていましたから、忘
れるためにメキシコへ行ったわけですからね。話すことによってまた、自分が被爆者
だという、ああいうみじめなね、苦しい体験をしたという日のことを思い出すのはイ
ヤだと思ってましたからね。それで、絶対に人には話さないと思ってたんです」
記者
「では、長い間メキシコへ住んでも原爆の記憶が消えることはなかったということです
か」
山下さん 「なかった。それはね、原爆の悲惨さよりも戦争体験ですね。というのは、メキシコは
9月の16日が独立記念日なんですよ。スペインから独立した記念を祝うために軍隊
のパレードがあるんです。そして、そのメキシコ市の上空を飛行機が飛ぶんですよ。
それを見るとまた戦争の思い出がよみがえってくるんですよ、そのたびに。んで、結
局それはまた、原爆の悲惨さにつながっていくわけです。だから、せっかく忘れよう
として来たけども、絶対に忘れないものだというのはその時に思いました。でも、同
時に逃れられない現実だとも思ったわけですよね」
記者
「山下さんの被爆体験を聞いたメキシコの人たちの反応は?」
山下さん 「話をしたあとはね、みんなうわー、すごかったんだな、すごい体験をしたんだなって
言うんだけど、もう次の日からはなんかけろっとしたみたいに、もうすべてを忘れた
ような感じなんですよね。8月6日、8月9日が訪れるたびに、あのなんかテレビで
長崎や広島の原爆のことを話してたよっていうぐらいのことで。その、原爆の悲惨さ
だとかそういうものすごいことっていうのはね、あんまり記憶の中には残らないんじ
ゃないかと思う。ただ話を簡単に聞いただけで、それで終わりじゃないかというふう
に思いますけどね、大部分が。ただ学生の中にはね、ほとんど僕は学生が相手なんで
すけど、その学生の中にはそのなんて言いますか、少しぐらいはね、興味を持って質
問して、いろんな質問をしてくる人がいるわけですね。ですから私はいつも思うんだ
けど、誰か1人でもいいからね、その僕の体験談をわかって、それをまたほかの人に
話してくれればね、それで僕が話す意義がね、あると思っています。だから他の人は
聞いて忘れてしまっていても構わないけど、誰か1人がいればそれでいいんだと思っ
ていますから。それでも意義が、話す意義があると思っています」
記者
「これまで被爆体験に関するメキシコ人との印象的なエピソードはありますか」
山下さん 「だいたい、一般的に質問されることは、まず最初に日本がね、パールハーバーを攻撃
したので原爆を落とされるのは当然だっていうコメントですね。それから、これから
ね、私たち若い人が原爆をなくすためにはね、どういうことをやったらいいですかっ
ていうそういうふうな質問ですね。私はね、そういうなんていうんですか、パールハ
ーバーのね、そのことに関してもね、僕自体はそれをどうこうって話すことはできな
いですけど、歴史、そういうことが歴史に残ったっていうことは隠す必要はないって
いつも言います。隠すことによって、歴史の事実を隠すことによってまた同じ歴史が
繰り返されるんだから、絶対にね、そういうことは話すべきだっていつも言うんです
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原爆
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泰昭さんインタビュー
けどね。これからその原爆、こういう悲劇をなくすためにはね、自分が、自分自身で
平和を作り上げるというか、そしてその平和をだれかほかの人にも伝えていくってい
う、その小さいところから取り組んでいけば、それが大きなものになると思っている
し、まずその大きいところから始めないで、小さいところから始めればそれがだんだ
んだんだん大きくなって、そういうふうな核兵器がない時代がね、必ず来るんじゃな
いかって、そういうところからね、始めたらどうですかって、そういうまず最初に、
大きいことをやろうと思うんじゃなくて小さいことからやればいいじゃないですか
って言うんですけどね」
記者
「小さいことっていうのは、友達をいじめないとか、そういう・・・」
山下さん 「そうです、もちろんそうですよね、それが結局平和に通じることですから。要するに
自分自身が平和な気持ちを持てるということはそれを友達にも分け与えることがで
きるわけですよね。自分が平和であれば、友達をいじめたりは絶対にできないわけで
す。平和の気持ちを人に伝えようと思えば、お互いが平和な気持ちでいられれば、そ
ういうふうな人に害を与えたり、人を傷つけたりっていうようなことはね、ないと思
うんですよ。それは小さいけれど、それが大きくなれば戦争にもつながるわけですよ
ね。だから、平和を願う人が戦争をすることはないはずですよね。ですから、お互い
に、小さいけども平和を感じる自分を作り出せば、それを分かち合える、それが大き
くなっていくと考えています」
記者
「少し戻ってしまいますが、パールハーバーの話になった時には具体的に学生さんに何
と話をするのですか?」
山下さん 「このことでね、特に私が話をしたいのは、去年の12月にニューヨークにあるいろん
な高校を訪問して、私たちの体験談を話したんですね。そのときにこの学校はね、い
わゆる全部の児童が問題児なんですよ。麻薬だとか傷害を起こした人だとか、すべて
がそういうふうな生徒さんたちなんですね。それで学校に入る時には、飛行場で行わ
れるようなセキュリティーチェックがあるわけですよ。厳密なセキュリティーチェッ
クがあって、それで学校に入るんですね。僕らは講演の前に図書室でちょっと待って
たんですよ。そのときにある男の子が入ってきて、僕に手紙を渡したんですよ。いろ
んなことが書いてあって、一番最後に日本が行ったパールハーバーの攻撃のことを質
問しますって書いてあった。だから、いいですよって言って、んで、その場はそこで
終わって講演が始まって。それでね、講演が終わって質疑応答が始まった時に、いろ
んな人が質問をして、そして最後に彼が手を挙げて質問をしようとしたら、そしたら
もうみんなね、質問する事項は決まっているわけでね、前もって先生たちが書かせて
いたわけで。それでね、質問しようとしたら、みんながそういう質問をしてはだめだ
と言ったわけですよ。この人は6歳でまだ何もそういうことを知らなかった、わから
なかった時代だから、そういうことを私に質問してね、苦しめるんじゃないって。で
も彼は質問しようと思っていたんですね。そしたらみんなワイワイ騒ぎ始めたんです
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長崎
原爆
2012年11月15日放送
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泰昭さんインタビュー
よ。みんな問題児ですから、ものすごい雰囲気になっちゃった。校長先生が来て彼を
連れ出しちゃったんですよ。そのときにはできなかったんですけど、僕には心残りだ
ったんですね。何かしっくりしないことがあって、校長先生に頼んで、もう一度彼を
校長室に呼んでくれませんかって。そして彼が来て、本当に申し訳ないと思った、お
互いに話せばよかったんだけど、ああいうふうな雰囲気になってね、申し訳ないって。
ただあなたがやろうとしたことはね、絶対に間違いではなかったんだ。当然、あなた
がね、パールハーバーのことを質問しても、私はそれを拒絶するとかそういうことは
絶対にやらなかったはずだって。私は、実際にパールハーバーの攻撃はね、まあ写真
でしか見たことがないから詳しいことは言えないけど、日本が確かに攻撃したのは間
違いないし、その事実をね、間違いであるとかね、小さくして話すんじゃなくて、そ
れが実際に、その歴史の中で起こったんだということは自分も隠したくないし、あな
たもよく知っていることだから、お互いに本当のことを話し合えば、原爆を落とされ
たというのも事実だしね、そういうことをさ、今だれが悪いとかだれが罪人だとかそ
ういうことじゃなくて、それは実際に歴史の中で起こったんだから、それを繰り返さ
ないためにどうすればいいかっていうのをお互いに話し合えば、これから先はこうい
う問題はね、こういう悲惨なことは起こらないはずだからって。そしたら彼は、私は
ね、自分は先生にどういうことを質問してもいいからという許可をもらってたんでね、
あなたを苦しめるためにそうしようとは思わなかったんだ。だからそういうことにつ
いて、ただどう思いますか、ということを聞きたかったんだって。お互いに本当に話
し合いをして最後はお互いに抱き合って、慰め合って、彼もね、納得して分かれて。
校長先生にね、本当にありがとうございましたって言ってくれてね。僕もね、本当に
気持ちがすっきりしましたけどね、そのあとね。話し合ってよかったって」
記者
「人に語りたくない辛い体験を話し続ける理由と、今後どう活動していきたいか、聞か
せてください」
山下さん 「たしかに最初は辛かったしね、本当にやりたくない気持ちのほうが大きかったんです
けど、今はやらなきゃいけないというふうな思いもありますし、これから先、だんだ
んだんだん被爆者が少なくなっていくなか、僕らがやるっていう、やることっていう
のはね、まだまだたくさん残されていると思うんです。というのは、メキシコには3
人被爆者がいるんですけど、2人は広島の人、んで、要するにそういう、語りべみた
いなことをやっているのは私だけなんですね。1人の人は、私は絶対に話さないって、
一度招待して一緒に話しませんかって言ったんだけど、私は私の体験談を絶対に話さ
ないって、それともう1人の人もやりたくないと、自分はそういう気持ちはないって
言うんだから、結局、今生きている被爆者の中でも語りたくない人っていうのはかな
りいると思うんですよ。その気持ちは分かるんですよね、苦しいですから本当に。要
するに、被爆を受けたあと、あの人は感染するだとかさ、あの人に近づけば感染をす
るとか、そういういろんなことを言われましたし、あの人と結婚すれば奇形児が生ま
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泰昭さんインタビュー
れるんだとか、そういうふうなことで苦しめられましたから、本当に自分が被爆者だ
ということを隠したい人っていっぱいいるんですよ、今でも。だけどそれを全部がね、
してしまったら本当に原爆をね、話す人がいなくなって、本当に原爆は起こったんだ
ろうかって言う人まで出てくるんじゃないかと思うんですよ。メキシコの中でも、今
の世界になると、原爆が落とされたっていうことを知らない人、いっぱいいますから
ね、そういうふうな世の中になってきた時に、また同じような悲劇が起こると思うん
ですよ。ただ、話すことによって、それがなんらかの形で残されていれば、それを見
る機会っていうのもどんどん出てくると思うんですね。だから私たちにとってはね、
もう今が一番重要な時だと思います。残された時間っていうのはもう限られています
し、私たちが話す機会っていうのも1年に1回か2回あればいいほうですから、例え
ばメキシコでもですね。だからそういう少ない機会を利用して、できるだけ多くの人
にね、体験談を知ってもらって、僕の体験談っていうのは本当にちっちゃなものだと
思うんですよ、本当に実際に起きた大きさの中で比べれば、本当にもうほんの一部分
でしかないと思うんだけど、そういう被爆の恐ろしさっていうか、放射能の恐ろしさ
っていうのを分かるようになってくれるためには、その私たちのあれ(証言)を残し
ていかないといけないと思う。ですから、機会があればね、僕は義務だと思っていま
すし、今ではね。そのだからそういうふうな僕らの体験をずっと残していくことが、
当然のことだと思うんですね。ですから、機会があればどんな時にでもね、僕はだい
たい自分ができることだったらどこへでも出て行ってそのお話をね、続けていこうっ
ていうふうに思っています」
2012年11月10日
NHK長崎放送局にて
インタビュー担当
NHK長崎放送局
記者
山田奈々
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