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4つの「わたし」/本当の「わたし」 : ラカ ニアン理論の自己論的展開

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4つの「わたし」/本当の「わたし」 : ラカ ニアン理論の自己論的展開
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
4つの「わたし」/本当の「わたし」 : ラカ
ニアン理論の自己論的展開
Four I's / Real I : Lacanian Theory Developed as the Theory
of Self
村上, 直樹
Murakami, Naoki
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要. 1996, 13, p. 21-63.
http://hdl.handle.net/10076/6386
人文論叢(三重大学)第13号19%
4つの「わたし」/本当の「わたし」:ラカ
ニアソ理論の自己論的展開
村
要旨
上
直
樹
本稿はラカニアソの理論をベースにして、様々な位相の自己を射程におさめた包括
的な自己論の素描を描こうとする試みであり、実質的には次のような作業を行なっている。
まず最初に、ラカニアン理論における主体と自我の概念を概観し、次に、それらを欲動と
欲望の展開過程の中に位置付ける。その上で、クリステヴァの言語理論による補足を行な
う。ついで、ラカニアソ理論では明示的に触れられていない内言についての議論を取り込
み、「考えるわたし」を内言として生成する「わたし」として論定する。また、この内言
として生成する「わたし」の位相において、フィヒテ的な自己意識が生起することを論じ
る。我々の言う4つの「わたし」とは、ラカニアン理論における3つの「わたし」一言表
の主体(主語)、言責行為の主体(欲望の主体)、自我一に、この内言として生成する「わ
たし」を加えたものである。ついで、この中の言表の主体を、演劇論的役割理論における
役割概念に重ね合わせる議論を行なう。そこでは、役割論的な観点に想像的な領域を導入
することの必要性も論じられる。そして、最後に、4つの「わたし」を射程におさめた我々
の自己論の輪郭をさらに明確にするために、本当の「わたし」という問題を取り上げ、そ
れについての我々の見解を呈示する。
はじめに
人間の「自己」については、これまで様々な議論が展開されてきた。それらの問には「自
己」概念の相違に基づく対立も当然存在する。代表的なものとしては作田啓一が指摘する自
我論対役割理論の対立を挙げることができるだろう(作田,1987,p・1)。自我論とは、疎
外論や精神分析などの様々な人間学が続けてきた「真の自己」(=実体としての自我)を求
める営為であり、役割理論はこれに対して、r▼真の自己」などというものは存在せず、自己
とはそれぞれの社会的状況の関数である役割としてだけ存在するという立場である。前者は
自己を単一のものとする立場、後者は自己を複数のものとする立場である(草津,1978,
p.109)。作田が提出しているこのような対立の図′式は、広く研究者の認めるところのもの
であろう(1)。
作田によれば、この対立は、現在、役割理論の方に分がある。そして、その背景には、こ
こ・2,30年間において確立されてきた実体論に対する機能論の優位、及びアイデソティティ
の拡散という現象があると言う(作田,1987,pp.2∼3)。また、精神分析について言えば、
「真の自己」としての自律的自我autonomous
egoなる概念は、精神分析の内部からのきび
しい批判にさらされている。とりわけ「フロイトへの回帰」を唱えるラカソ派精神分析は、
自我に内面的な根拠を一切認めず、自我心理学として展開した精神分析の自律的自我概念を
錯覚としてしりぞけている。ラカソ以降の精神分析においても、単一の「真の自己」がある
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人文論叢(三重大学)第13号1996
という考えは支持を失っているのである。
では、ラカニアソの精神分析における自我概念は、役割理論における自己、すなわう社会
的状況の関数としての役割と重なるものであろうか。ラカニアソの理論においては、自我の
生成の根底に他者のイマージュが想定されている。自我は「他」との関係において生成する
と見なされているのである。この「他」との関係への着目という点においてラカニアソ理論
と役割理論は共通する。しかし、後述するように、ラカニアソの自我と役割理論における
「役割としての自己」は互いに相容れない概念でもないが、重なりもしない。両者は無関係
ではないが(4参照)、そもそも異なる位相にあるのである。つまり、両者は異なる位相の
自己ないしは「わたし」(2)を問題にしているのである。ただし、ラカニアンの理論には「主
体の分裂」という考え方があり、ここを接点にして、役割理論と接続することは可能である。
なお、自己ないしは「わたし」には上記の2つとはさらに異なる位相のものがある0それ
は、いわゆる「考えるわたし_」である。「考えるわたし」については、言うまでもなくデカ
ルトの議論がある。アルキメデスの点のように確固不動な自己を立てるデカルトの議論は、
役割理論及びラカニアソ理論とは相容れない。しかし、「
考えるわたし」というトピックそ
のものは自己論において当然論じられるべきものであり、役割理論やラカニアソ理論と相互
に排他的な関係にあるものではない。
本稿の背景にある我々の一番大きな関心は、以上のような様々な位相の自己を射程におさ
めた包括的な自己に関する理論的枠組みを構築するということである。そして、本稿はその
ような作業を行なうにあたっての基本的な方向性を呈示しようとするものである。
本稿において我々が基本的な足場にするのはラカニアソの理論である。主体と自我に関す
るラカニアンの理論の中に役割理論及び内言論的に把握した「考えるわたし」の概念を織り
込んでいくことによって、包括的な自己論の素描を描くというのが、本稿の直接の課題であ
る。なお、我々が、ラカニアソの理論を基礎にするのは、この理論が他の理論にもまして多
くの「自己」概念を視野に入れている(あるいは入れうる)からであるが、そのことについ
ては、次章以下の議論において示すことになるだろう。
以下に本稿の構成を記しておく。まず、1においては、主体と自我に関するラカニアソの
理論を簡潔に呈示し、クリステヴァの言語理論による補足を行なう。2では、ラカニアソの
理論では明示的に触れられていない内言についての議論を取り込み、理論の射程を拡大した
上で、「考えるわたし」の再解釈を行なう。3では、役割理論との接合を試みる。そして、
4では、1、2、3において、素描してきた自己論-4つの†
ゎたし」を視野に入れた自己
論一の輪郭をさらにはっきりさせるために、本当の「わたし」という問題を取り上げ、それ
に対する我々の考え方を呈示する。
1.主体と自我に関するラカニアンの理論
ラカニアソの精神分析理論を自己論としてとらえる場合、もっとも基本的な概念となるの
は「主体」と「自我」であろう。本章ではこの2つの概念を中心に、ラカニアソの自己(あ
るいはr
ゎたし」)についての考えを整理してみたい(3)。
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村上直樹
4つの「わたし」/本当の「わたし」:ラカニアソ理論の自己論的展開
(1)ラカニアンにおける主体
「主体」という概念は様々な文脈において、様々な意味合いで使用されている。ただ、乱
暴に言えば、これまでの主体概念は大きく2つに区分できるように思われる。1つは、指示
対象としては生身の個人を指し、その行為のあり様によって規定される主体である。フーコー
の権力論で論じられた主体、あるいは、彼の晩年の仕事において取り上げられた美学的=倫
理的な実践によって形成される主体はこの主体である。また、アルチュセールの議論におけ
るイデオロギーに呼びかけられることによって形成される主体もこの主体であると言えよう。
このような意味での主体は具体的な個人として観察することができる。これに対してもう1
っの主体は、行為、思考、言表行為の起源点としての主体であり、直接観察することはでき
ない。フーコーが「外の思考」において論じた「その空虚の中において言語の無際限な溢出
が休みなく遂行される非存在」としての主体、あるいは、ウイトゲソシュタイソが『論考』
で否定した哲学における「思考し表象するところの主体」はこの主体である。
ラカニアソにおける主体は、イデオロギーないしはエトスを内面化した自律的な個人、あ
るいは、告解の実践によって自分で自分を監視するようになった臣民としての主体といった
意味合いは一切持たない。ラカニアソの主体は後者の主体である。では、後者の主体として
のラカニアソの主体はどのように規定されているのであろうか。
ラカニアソにおける主体の最大の特質は、それがシニフィアソにその存在の典拠を負って
いるということであろう。主体とシニフィアソの関係は次のように表現されている。「主体
はシニフィアソにその姿を与えられる」(藤田,1993a,p.156)、「主体の原因とはシニフィ
ァソであって、シニフィアソなしにはいかなる主体も存在しない」(Lacan,1964(1966),p・
835=1981,p.357)、「主体は象徴界の領野において、シニフィアンに化することによって
のみ主体として出現する」(若森,1988,p.294)、「言語活動が主体の原因である」(Lacan,
1964・・(1966),p.830=1981,p.350)、r.主体は言の結果である」(Lacan,1964(1966),p・
836=1981,p.358)、i-▼主体は、それが話す主体であるならば、そこにおいて話によっての
み自分を支えている」(Lacan,1959(1966),p.709=1981,p.180)、「主体はシニフィアソ
に印づけられ、シニフィアソに屈服し、シニフィアンに掬い取られた主体であって、それ以
外には主体はあり得ない」(小川,1987,p.113)。これらの表現において主張されているの
は、主体の「他」性である。主体とは通常もっぱら個体の内部に由来すると考えられている
が、そうではなく、シニフィアソという「他」によってもたらされるのである。ただし、す
べてr
他」なのではない。ラカニアンでは主体以前の「生の主体」1e
sujet
brutが想定さ
れている。これは、「言語世界に入ってシニフィアソの効果としての主体となる前の神話的
存在」(向井,1988,p.92)である。つまり、主体の原基ともいうべきものはあらかじめ存
在するが、それがいわゆる起源点としての主体となるには、シニフィ7ソという「他」が絶
対不可欠なのである。そして、欲望d6sirの流れとしての「生の主体」が初めてシニフィア
ソに掬い取られる過程、言いかえると、象徴界に参入する過程が象徴的去勢=原抑圧((3)に
おいて詳述)である。象徴的去勢によって、「せの主体」は主体となる。それは、主体の分
裂の過程でもある。ラカニアソの主体とは「分裂した主体」、すなわち、言表の主体(主語)
と言表行為の主体に†
分裂した主体」である。では、次にこの言表の主体と言素行為の主体
をこついて説明しよう。
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人文論叢(三重大学)第13号1996
すでに、述べたように、主体はシニフィアソによってその姿を与えられるわけであるが、
これは、主体が自らの思惟をシニフィアンという道具によって表現するということではない。
ラカソの言によれば「シニフィアソは思惟なしで疎外的侵入intruSion
ali6nanteによって
主体の中に顕現する」(Lacan,1956a(1966),p.467=1977,p.207)。シニフィアソは〈思
惟の着物〉ではなく、〈思惟の身体〉である(cf.港道,1983,p.37)。つまり、欲望の流れ
としての主体がシニフィアソに化身することによって初めて思惟が可能になるのである。よっ
て、主体は自らが語ることを知らない(Lacan,1970=1985,p.53)。主体は自身が知ってい
る以上のことを語るのである(鮎nvenuto&Kennedy,1986,p.118=1994,p.143/Freud,
1926b=1984,p.165)。そして、主体が語るとは、主体が自身をシニフィアソに委譲し(加
藤,1995,p.134)、自らを言表の連なりとして展開していくということである。言表の主体
とは、この言表における主語=〈私〉のことである。主体は言表の主語=〈私〉として社会
的相互行為の舞台に自らを記載し続けるが、同時に本来の欲望の動き(欲望の主体)として
は断続的に消失(アファニシス)する。〈私〉が発せられる度ごとに、言表の主体が生成し、
欲望する流れとしての主体は姿を消すのである。言表行為の主体とは、この欲望する流れと
しての主体のことである。象徴的去勢以降、主体はこの言表行為の主体と言表の主体に分裂
した主体一通常gと表記される-となる。
なお、欲望する主体としての言表行為の主体は「β/の存在のうちの生きている部分」
(Gallop,1985=1990,p.211/Lacan,1958b(1966),p.693=1981,p.157)であり、gの存
在の「芯trognon」(加藤,1995,p.141)である。他方、言表の主体は、gの死んだ部分、
あるいはシニフィアソによって殺害された部分である。シニフィアソにその姿を与えられた
gは半死半生の存在なのである(藤田,1993a,p.156)。
(2)ラカニアンにおける自■我
ラカニアソの理論においては主体と自我という概念は明確に区別されている。また、ラカ
ニアソの自我は社会学や哲学における自我とは異なる概念である。社会学一例えばクーリー
やミードの理論一において、自我は社会性を持った存在として規定されている。「自我は孤
立した存在でもなければ、真空の中に生み出されるものでもない。それは人間の誕生ととも
にあるのではなく、社会的経験と活動の過程の中で生じてくる」(船津,1986,p・5)もの
である。つまり、自我は「他」にその起源を持つのである。ラカニ7ソの自我も主体と同様
「他」性を帯びている。この「他」性という点において、ラカニアソの自我と社会学の自我
は共通性を持つ。しかし、両者は重なり合う概念ではない。例えば、ミードの言う自我の一
側面である客我meは、ラカニアンでは自我というよりむしろ言表の主体に近いものと言え
よう(4)(もちろんこの2つも完全に重なり合うわけではない)。また、哲学において、自我と
いう言葉が使用される場合、通常それはほぼラカニアソにおける主体に相当するものと思わ
れる。そのことを示す例を1つ掲げておく。「主体と考えられた思惟は思惟するものであり、
思惟するものとして現存する主体を言いあらわす簡単な言葉が自我である。」(Hegel,1839
=1951,p.103)
ラカニアンにおいて、自我はまず個体の自らの身体像として形成される。この身体像が形
成される過程が人口に聴衆した鏡像段階である。そして、この鏡像段階は象徴的去勢=原抑
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村上直樹
4つの「わたし」/本当の「わたし」‥ラカニアソ理論の自己論的展開
圧の前に措定されている。つまり、自我はgとしての主体の形成以前にその起源を持つので
ある。ここで先回りをして全体的な図式を示しておけば、まず、鏡像段階において想像的な
自我が形成され、ついで、象徴的去勢によって主体が象徴界に入ると、この想像的な自我が
象徴的に分節され、「私についての物語」ともいうべき象徴的自我が形成されるのである0
鏡像段階以前において、個体はいわゆる「寸断された身体」1ecorpsmorce16の段階にあ
る。この段階において、個体は、自らの身体に対してわずかな支配力しか持っておらず、身
体のまとまりの感覚も存在しない。(3)で述べるように、この段階の身体は、バラバラな部分
欲動の寄せ集めであり、それが、「寸断された身体」像として表象されるのである0鏡像段
階とは、ラカソの表現によれば、「寸断された身体像から、そのまとまりから我々が整形外
科的と呼んでいるような一つの形態へ」(Lacan,1949(1966),p・97=1972,p・129)移行し
ていくような段階である。それは「鏡像に関心を示す生後6ケ月から18ヶ月までの幼児」と
いうよく知られた場面を含むストーリーである。ただ、鏡像は必ずしもガラスでできた本当
の鏡である必要はない。そうでなければ、鏡のない世界には鏡像段階は存在しないことにな
る。実質的には(小)他者autreのイマージュが鏡像の機能を果たす。(小)他者とはこの場
合、個体にとっての最初の他者ともいうべき〈母〉である。鏡像としての(小)他者=〈母〉
のイマージュによって、個体は自らが身体であることを視覚的に知り(Lacan,1975,p・192
=1991b,p.16)、「寸断された身体」にかわるまとまりを持った身体像を得る0この身体像
が最初の自我=想像的自我moiimaginaireである(藤EfI,1993c,p・149)0
最初の自我は以上のように(小)他者との同一化=想像的同一化によって形成されるが、
この想像的同一化は「生後6ヶ月から18ケ月までの期間」にのみ展開するわけではない。鏡
像段階は想像的関係のスタートであり、その構造は一生続くとされる(佐々木,1986,p・
152)。鏡像段階の想像的同一化は象徴的去勢以降も続けられるのである。では、それは誰を
対象にしているのか。ここでは、とりあえず、南淳三の用語を借りてその対象を「隣人」
Nebenmenschと呼ぶことにしたい。「隣人」とは、「原隣人」としての〈母〉の末裔であり、
それは、「自分に似た、自分とは別個の人間としての、そしてその相手と無関係ではいられ
ない、他者である」(南,1993,p.75)。この「隣人」との関係においては、彼(または彼女)
に愛されるか拒絶されるかが、クルーシヤルな要件となる(南,1993,p・75)。
象徴的去勢によってgが形成された後にも、上記のような「隣人」=(′J\)他者との想像
的同一化は進行する。自我もそれにつれて生成する。(小)他者との想像的同一化を幾重に
も重ねた堆積、(小)他者という薄皮が多層化した玉葱のようなものが自我である(Nasio,
1988=1990,p.74)。また、自我は異質な隣人との新たな同一化によって変容する可能性も
持っている(姉歯,1993,p.237)。自我は生成・変容する玉葱である。
さて、上記のように、想像的同一化は、鏡像段階を越えて進行するわけであるが、象徴的
去勢以降は、さらに異なる形の軒一化のプロセスが始まる。象徴的同一化がそれである○同
一化をめく中る議論において、想像的同一化の対象=(′J\)他者は、理想自我moiid6alと呼
ばれるが、象徴的同一化の対象は、自我理想id6aldu
moiである。理想自我はB:にとって
好ましいように見えるイマージュ、「こうなりたいと思う」ようなイマージュであるのに対
して、自我理想はそこから見ると自らが好ましく見え、(日常的な意味での)他者の愛を受
けるのに相応しく見えるような場所である(Zi2ek,1989=1992,p.206)。自我理想につい
てわかりやすく換言すれば、それは「社会の道徳的判断に一致する理想像」、「主体が他者
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人文論叢(三重大学)第13号1996
の中に読み取る欲望に一致する理想像」であり(Lemaire,1970=1983,p・264)、それに同
一化することで、「主体は、自我理想の点から自己を見るようになり、その理想に適った自
己の全体像をつくりあげ、これが自我となる」(向井,1988,p.105)。自我理想との同一化
によって、人間は、「社会的な成功の必要性を教えられ、かつ、自分をこれこれとして限定
するであろう社会的承認のなかで自分の仕事の収穫を期待しつつ、社会規範の道を選び」、
「自我は、身分や職業、種々の資格、そして社会的・政治的・文化的な集団への所属を身に
纏う」(Lemaire,1970=1983,p.264)のである。さらにつけ加えれば、理想自我は基本的
に想像的なもの(イマージュ)であるのに対して、自我理想はシニフィアソによって象徴的
に分節されている(藤田,1993b,p.128)。自我理想は理想自我を原器とし、理想自我が最
初のシニフィアソ=象徴的ファルス((3)において詳述)に照合されつつ、シニフィアソの鎧
をかぶることによって構築されていくのである(藤田,1993b,pp.127∼128)。また、象徴
的同一化の開始によって、自我も象徴的に分節されることになる(想像的自我から象徴的自
我へ)。象徴的去勢以降、自我は、想像的自我と象徴的自我という二重の存在様式の間を揺
れ動きながら、生きのびていくことになる(藤軋1993c,p.151)。
(3)欲動と欲望の展開過程
この節では、これまで説明してきたラカニアンにおける主体と自我、及びそれらの形成の
契機となる鏡像段階と象徴的去勢を、欲動と欲望の展開過程の中に位置づけ、より包括的な
枠組みを呈示したい。ただし、欲動と欲望という概念はきわめてわかりにくいものであり、
我々の知る限り、この2つ.の概念について(両者の関係も含めて)整合的かつ明解に説明し
た記述は存在しない。ここで、呈示する見解も、通説といったようなものでは決してなく、
我々によって暫定的に構成されたいまだ不十分なものである。
では、本題に入ろう。まず、欲動であるが、これは、生体の内部からの刺激にその源泉を
持つ。より正確に言うと、「身体内部から出現し、心的なものに到達する刺激の心理的代表」
(Freud,1915=1970,p.63)に欲動の源泉があるのである。欲動とはこの内的刺激あるいは
興奮状態を解消しようとする衝迫の力である。そして、この内的刺激として、もっともわか
りやすい例が、「飢え」や「渇き」であろう。ところで、人間はその出生時の未成熟性(例
えば、錐体外路系の未発達)に起因する「寄る辺なさ」Hilflosigkeitにより、生まれた時は
絶対的に無力な状態にある(Freud,1926a=1969,pp・264∼265)。つまり、乳児は自ら内的
刺激を解消することはできないのである。このような乳児の無力さを補完するのが順隣人」
としてのく母〉であり、この〈母〉が、乳児の内的刺激を解消してやり、最初の満足体験を
与える(南,1991,p.178)。この最初の段階において、〈母〉は、乳児にとって心的距離0
の存在であり、強い自己性を帯びている(小出,1991,pp・177∼178)。
さて、以上のように、く母〉によって、乳児の内的刺激=不快は解消され、その結果、乳
児の生体は保存されるわけであるが、反復されるく母〉の乳児への関わり(例えば、授乳や
排便の世話)は、新たな欲動を生み出す。〈母〉によって充足される最初の欲動=自己保存
欲動から、新たな欲動が派生してくるのである(Freud,1915=1970,p・66)。部分欲動とし
ての性欲動がそれである。性欲動は、〈母〉が乳児の内的刺激を解消する際に生じる快にそ
の起源を持つ。この快は、自己保存欲動の充足に伴ういわば、おまけの快である(佐々木,
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村上直樹
4つの「わたし」/本当の「わたし」‥ラカニアソ理論の自己論的展開
1987,p.45)。そして、このおまけの快を再び得ようとする傾向が性欲動である(石田,
1992,p.108)。言いかえると、この快へと向かう性向が生み出す内的刺激あるいは興奮を解
消しようとする衝迫の力が性欲動である0そして、この性欲動はいくつかの解剖学的器官と
結びついている。その器官とは、〈母〉が乳児の自己保存欲動を充足するにあたって実際に
世話をする器官である。乳房を与えられる口、排便の世話における肛門が、そうした器官の
代表であろう。〈母〉は、これらの器官において快を生み出す0つまり、これらを快の器官
としてマークするのである(向井,1994,p.206)。快の器官としてマークされた器官は性欲
動の場となる。さらに言うと、この器官ごとに性欲動が存在する。すなわち、性欲動とは、
複数の部分欲動の総体なのである0そして、この個々の部分欲動は、それぞれ独立に快の充
足を(自らの器官において)追求している。「身体のさまざまの個所や区域かち出てくる多
数の部分欲動があり、これらは大体独力で充足をえようと努め、この充足を器官快楽と呼ぶ
ことのできるものの中に見出す」(Freud,1933=1977,p.319)のである。ここで、(2)にお
ける議論とつなげて言えば、性欲動の形成過程は、「寸断された身体」の形成過程でもある0
性欲動の形成過程とは、乳児の身体が、様々な部分欲動と結びついた解剖学的器官の寄せ集
めになっていく過程でもあるのだ。互いに独立しで決を追求する器官が単に隣接しているだ
けの身体のもとでは、まとまりをもった身体意識は存在しない。乳児はただ「寸断された身
体」としてあるだけである。
ところで、ラカニアソの理論において、欲動は主体及び対象以前の無頭ac6phaleなものと
される(鈴木,1993,p.67)。欲動が主体以前のものであることについては、これまでの説
明で明らかであろう。欲動は、象徴的去勢及び鏡像段階以前において発動する。では、対象
についてはどうだろうか。フロイト/ラカソの欲動論においては、実際、性欲動の対象が措
定されている。それは、個々の性欲動の場=快の器官に結びついた対象(例えば、口唇に結
びついた乳房)であり、それらを通して、個々の性欲動は満足を得るとされる。ここに一見
矛盾があるように見える。しかし、性欲動の対象とされるものは、いまだ本当の意味での対
象ではないのである。性欲動の対象は、一人の人間(例えば〈母〉)の全体ではなく、その
身体の部分である。すなわち、性欲動の対象は、部分対象である。そして、この部分対象は
乳児といまだ不可分のもの、つまり自己性を帯びている。生まれたばかりの頃には心的距離
0の存在として自己そのものであった乳房の感触や母の腕や手の感触、そしてラカソが部分
対象として追加した眼差し(光)や声(音)は(小出,1991,pp・177∼178)、性欲動の部分
対象になった時点においても、自己性を持っているのである。つまり、性欲動はこのような
前対象abjetとしての部分対象によって自体愛的に満足されているのである○
次に、欲望であるが、まず欲動との関係を整理しておこう。欲望は、欲動によって生み出
される(藤田,1993c,p.250)。言い換えると、欲動は、きわめて柔軟かつ変形自在であり
(Freud,1933=1977,pp.318∼319)、欲望に姿を変えて、発動することが可能なのである0
ただ、あくまでもこの2つは別のものである。後に述べるように、欲動と欲望は概念上区別
される。ところが、ラカニアソの議論においては、欲動という言葉が欲望という言葉によっ
て置き換えられてしまうことがある。(こういうことが、ラカニアソの理論をわかりにくく
している1つの要因である。)例えば、ラカソ自身、一寸断された身体」に関して次のように
言っている。「主体は、もともとは欲望のバラバラの寄せ集めcollectionincoh6rente
de
d6sirsです。これこそ「寸醸された身体」という表現の本当の意味です。」(Lacan,1981,p・
-27-
人文論叢(三重大学)第13号1996
50=1987a,p.63)ここで言う欲望とは、部分欲動としての性欲動のことである。性欲動が
欲望に置き換えられているのは、多分、自己保存欲動との対比においてであろう。本能的な
欲求besoinと本能によらない錯乱した欲望d6sirという一般的な図式の中では、生体の保存
に結びついた自己保存欲動は欲求であり(cf.Chemama,1993=1995,p.213)、生体の保存
とは直接関係がない性欲動は欲望ということになる。しかし、鏡像段階以後の欲望と以前の
性欲動は明らかに異なるものであり、両者を共に欲望という言葉で括ってしまうのは適切で
はないだろう。
では、欲望はどういう点において、欲動とりわけ性欲動と異なるのだろうか。まず、指摘
できるのは、その対象の違いであろう。性欲動の対象はすでに触れたように、部分対象であ
り、いまだ自己性を帯びている。前対象の段階にある性欲動は自体愛的に満足されているの
である。この性欲動は、鏡像段階においては、〈母〉を対象とする欲望に姿を変える。そし
て、この〈母〉、個体にまとまりを持った身体像=想像的自我をもたらす〈母〉は、明らか
に部分対象ではない。それは個体と分極したいわゆる対象である。部分対象が個体と徐々に
分極して、〈母〉という全体的な対象が措定されるのである。なお、この分極の原因は、部
分対象の現前/不在の反復であろう。
様々な部分対象を追求する様々な部分欲動に炸裂していた性欲動は、〈母〉という対象の
措定と共に、「く母〉(へ)の欲望」1e
d6sirdelam占reに姿を変え、その流れが、「生の主
体」となる。〈母〉という対象の成立によって、前主体が生成するのである○そして、この
「生の主体」は〈母〉のイマージュによって、自らの身体像を獲得している。つまり、鏡像
段階における欲望は、性欲動とは違って、無頭ではないのである。
欲望と性欲動の差異はとりあえず以上のように整理される。それでは、次に、鏡像段階に
おいて対象愛として生起した欲望ないし「生の主体」が、その後どのような運命をたどるの
かを見ていこう。鏡像段階における「生の主体」は、「〈母〉(へ)の欲望」の貯蔵庫である0
そして、この欲望は、〈母〉の「想像的ファルス」でありたいという「存在形の欲望」とし
て発動する。想像的ファルスとは、乳児が空想する〈母〉の欲望の対象である0つまり、
〈母〉の欲望は想像的ファルスの欠如によるものと考えられ、乳児はその欠如する想像的ファ
ルスたろうとするわけである(藤田,1993c,p.250)。「生の主体」はこの「存在形の欲望」
のもとに、〈母〉への「全体的な想像的投射」を行なって、想像的同一化を行な■っているの
である(藤田,1993c,p.240)。ただ、この〈母〉=(小)他者と「生の主体」との関係=
想像的関係は安定的なものではない。なぜなら、「生の主体」と鏡像としての〈母〉との間
にどちらが本物でどちらが複製かという対抗関係(主と奴の弁証法)が生まれるとともに
(Gallop,1985,=1990,p.72)、想像的関係においては、満たされない欲望に起因する緊張
は相手の中に体験されるからである。この緊張は、鏡像の破壊以外に出口はない(Lacan,
1975,p.193=1991b,p.17)。しかし、鏡像を破壊すれば、「寸断された身体」の段階に逆戻
りしてしまう。よって、このデュエルdue11e(双数的=決闘的)な関係は持続することにな
る。このように、「生の主体」と〈母〉との想像的関係は、愛と攻撃性をともにはらんでい
るのである。そして、この愛と攻撃性の振り子運動は、次のようにも説明される。「生の主
体」が〈母〉=(小)他者に同一化すると、逆に、その分だけ〈母〉への愛により自己が失
われる危険が生じる。そのため、「生の主体」としての私は、自己を取り戻すため、く母〉を
消し去ろうと攻撃的になる。ところが、く母〉を否定してしまうと、自己もなくなってしま
ー28-
村上直樹
4つの「わたし」/本当の「わたし」:ラカニアソ理論の自己論的展開
い、時に身体の寸断の不安さえ生じる(加藤,1990,p.288)。結果的に、自己承認と他者廃
棄の支配する情念的閉鎖回路=想像界は回り続けることになるわけである(藤田,1990,p.
43)。
不安定かつリスキーな想像的関係からの出口を乳児にもたらす契機が象徴的去勢=原抑圧
である。象徴的去勢とは、「生の主体」が〈母〉の想像的ファルスであることをあきらめる
ことである(小出,1993a,p.160)。この象徴的去勢によって、「生の主体」の「く母〉(へ)
の欲望」は断ち切られ、その対象をシニフィアソにすり替えられてし享う。「生の主体」は
欲望の言い換えとしてのシニフィアンの連鎖の中に巻き込まれてしまうわけである(藤田,
1990,p.116)。象徴的去勢は、「生の主体」がく母〉の欲望を司っているものの存在を認め
ることによって始まる。あるいは、〈母〉を動かしているものを名付けることによって始ま
る(この命名が「父の名の隠喩」である)。これは言い換えると主体にとっての最初のシニ
フィアソ=「象徴的ファルス」が成立した、あるいは、主体が象徴的ファルスを所有したと
いうことである。象徴的ファルスは〈母〉の欲望を司る「父の名」Nom-du-P占reのシニフィ
アソである(藤田,1993b,p.38)。つまり、主体は、く母〉の想像的ファルスでありたいと
いう存在形のフェーズから、〈母〉の欲望を司る象徴的ファルスを(〈父〉のように)所有す
るというフェーズに移行するのである。「父の名」としての象徴的ファルスは「父のノソ」
Non-du,P昌reでもあり、この「ノン」=禁止によって、想像的な母子間の欲望の交流は去
勢される(藤田,1993b,p.38)。
ところで、「生の主体」に刻まれた最初のシニフィアンとしての象徴的ファルスは、2番
目以降のシニファソに連鎖し、意味を生成させると同時に自身は抑圧され(狭義の原抑圧)、
無意識という心的領域が形成される。また、この時、「生の主体」は、上記の連鎖によって
生じた意味にすり替えられる(アブァニシス=欲望する主体の消失)。しかし、意味にすり
替えられ、前主体=「生の主体」の段階を脱した後にも、主体は本来の欲望する主体として
とどまる。つまり、主体はシニフィアソの連鎖にとらわれた主体=言表の主体(主語)と欲
望の対象(5)をめざす主体=言表行為の主体に分裂するのである(分裂した主体gの形成)。
なお、分裂した主体と欲動の関係についても触れておけば、分裂した主体の欲望も欲動が
姿を変えたものである。象徴的去勢によって、想像的な母子関係は断ち切られ、欲動は
「〈母〉(へ)の欲望」として発動することが、とりあえず禁止される。しかし、象徴的去勢
によって、欲望が消滅するわけではない。主体は、シニフィアンの世界=象徴界に参入する
際にどうしようもない形で失われてしまう
〈母〉の「
代わりの対象」(Lacan,1981,p.98=
1987a,p.140)を次々と手繰り続ける。「代わりの対象」とは失われた対象のルアー(騙し
餌)としてのシニフィアソである。つまり、象徴的去勢以後、欲動はシニフィアソを手繰る
欲望に姿を変えるのである。言い換えると、象徴界の分裂した主体は、言表行為の主体とし
て「言葉を話すことによって、欲動を欲望の運動として永続させている」(藤田,1993a,p.
155)のである。
また、すでに(2)で述べたように、象徴的去勢以後、鏡像段階において形成された想像的自
我は、シニフィアンによって分節され、象徴的自我moisymboliqueが生起する。シニフィ
アソに姿を与えられた主体は、自我理想に同一化し、象徴的に分節された「私についての物
語」を持つようになるのである。
-29-
人文論叢(三重大学)第13号1996
阜)クリステヴァ理論による補足
ここで、これまで整理してきた主体と自我についてのラカニアソの理論的枠組みを、クリ
ステヴァの言語理論によって補足し、その射程を拡大しておきたい。
クリステヴァがラカソの影響下にあったことは周知の事実である。クリステヴァが自身の
言語理論ないしは意味生成性の記号学を構築するに当たって、ラカソの理論が果たした役割
は大変大きなものであろう。しかし、彼女の理論はラカソの理論の単なる焼直しではない。
日本では、クリステヴァの言語理論について、「ラカソ理論を単純化した凡庸な二元論」と
いう評価が下されたことがあったが、正当な評価とは言い難い。枝川昌雄も指摘するように、
クリステヴァの理論は、ラカソをふまえた上で、ラカソが忌避した対象にその焦点をおいて
いるのであり(枝川,1994,p.302)、ラカソ理論に包摂されてしまうようなものでは決して
ない。クリステヴァの理論はラカソ理論の空隙を埋めるものなのである。では、ラカソが忌
避した対象とは何であろうか。枝川はそれを「鏡像段階以前の、前エディプス期の一次的ナ
ルシシズムの原初的領域」(枝川,1994,p.302)としているが、我々の目につくのは、象徴
的去勢以前(鏡像段階も含む)の原初的言語行動ないしは発声行動である。ラカソならびに
ラカニアソはこの対象を主題的には論じなかった(はずである)。それに対して、クリステ
ヴァはセミオティツクという概念によって、この対象を理論化しようとしたのである。象徴
的去勢以前の原初的言語行動は、我々の後の議論においても避けて通ることのできない対象
である。以下、クリステヴァの理論を必要な範囲で整理し、(1)、(2)、(3)で呈示した枠組みに
接続する。
ラカニアソの理論において、主体は、象徴的去勢によって、シニフィアソの世界たる象徴
界に参入し、自らを言表の連なりとして展開していく。つまり、象徴的去勢以降、個体の言
表行為が生起するわけである。しかし、発達心理学や言語心理学(ないしは心理言語学)の
観察データによると、象徴的去勢以前にも乳児は言語行動を行なっている。初めて有意味語
があらわれるのが、生後10∼18ヶ月であり、乳児はいわゆる完全肢文=一語文を作成するよ
うになる。この完全肢文の時期は数カ月間持続する。これは「一種の停滞」あるいは「言語
活動の解化期」であり(Merleau=Ponty,1988=1993,p・14)、その後、言語の「爆発的な
獲得期」が始まり、様相が一変する(岡本,1982,pp.2∼3)。乳児は生後18∼20ヶ月にお
いて、二語文を作成するようになり、音韻体系と統辞構造の獲得が始まるが(野田,1981,
p.131)、この時期が、上記の「爆発的な獲得期」の開始に当たる。そして、我々の考えに
ょると、主体が分裂した主体gとして象徴界に参入していく事態とは、まさにこの「爆発的
な獲得期」に入っていくことなのである。また、クリステヴ7も指摘するように、完全肢文
の時期は、象徴的去勢以前の鏡像段階の時期に相当する(Kristeva,1974,p・44=1991,
p.40)。
さて、言語の「爆発的な獲得期」への入り口としての象徴的去勢の前にも、完全肢文とい
う言語行動の時期が存在するわけであるが、さらにそれ以前にも原初的な言語行動が観察さ
れる。クリステヴァの言うセミオティツク1e
s6miotiqueがそれである。セミオティツクと
は、端的に言えば、意味作用の領分から弁別される諸々の欲動とその分節(1espulsionset
leurs
articulations)のことである(Kristeva,1974,p.41=1991,p・36)。少しく詳述しよ
う。鏡像段階以前の乳児の発声は、欲動によって支配されている。乳児を内側から突き動か
-30-
村上直樹
4つの「わたし」/本当の「わたし」‥ラカニアン理論の自己論的展開
す諸々の欲動が、身体を動かし、声として放出されているのである。「発声の前音韻的な時
期ではどのような発声の開始も不快によって引き起こされるか、あるいは不快を伴っている」
(Kristeva,1977=1986,p.307)。強すぎる興奮はその軽減がはかられねばならず、それはま
ず声の発信として現われるのである(原田,1993,p.187)。また、この最初の発声は、排泄
=棄却に依存するという特徴も持っている。「胃や括約筋の筋肉の収縮は、ときとして同時
に、空気、食物、排泄物を吐き出す。声は、空気、食物、排泄物などのこの吐き出しrejet
から送り出る」(Kristeva,1977=1986,p.306)のである。つまり、「最初の発声は、声にな
るためにその起源を声門にもつというだけではない。それは、筋肉や迷走交感神経の収縮と
いう複合的現象の聴取可能な標識なのであり、この現象が、身体全体を巻き込む吐き出しな
のである」(Kristeva,1977=1986,p.306)。このような発声には、いかなる表現的意味もな
い。しかし、この時期において、すでに乳児の発声の分節化あるいは構造化は始まっている0
不快の放出である声が、反復の作用によって、ある規則性、つまり構造なり形態なりに分節
化されるようになるのである(Kristeva,1977=1986,p.308/原田,1993,p・188)。この規
則性(非表現的な規則性)は、リズムやイソトネーショソを認知させる。つまり、「統辞的
制約が(時間的にも論理的にも)出現する以前に、未来の話者の有声音の流れはいくつかの
リズム、イソトネーショソのパターソによってすでに組織化されている」(Kristeva,1977
=1986,p.302)のである。このリズムとイソトネーショソは「外示的意味を構成する述語
的な総合からは相対的に自律した現象」(Kristeva,1977=1986,p・302)である。そして、
さらに言えば、有声音の流れの最初の構造はリズム的構造である。この「欲動が流れては止
まる、「疎通」と「鬱積」からなる二拍子リズム」(立川,1990,p・146)の構造は、口腔の
訓練に先立つ声門の訓練によって、声門括約筋に刻印される(Kristeva,1977=1986,p・322)。
また、このような構造や形態からなる規則性に乳児が捕捉されていく過程は、同時に、全身
運動としての発声が言語の声に移行していく過程でもある。この移行は、消化官や呼吸官に
ょる関与が排除あるいは抑圧され、声帯の振動だけが分離される身体的差異化の過程として
達成される(Kristeva,1977=1986,pp.306∼307)。セミオティツクとは上記のような規則
性にそった発声行動それ自体、ないしは、欲動の放出としての発声が、身体的差異化を伴い
っっ、リズムやイソトネーショソという形態で、規則的に組織化・分節化されていく過程の
ことである。よって、セミオティツクを抑制されざる状態とみなしたり(山口昌男)、秩序
を揺るがすカオス(錯乱せるセミオティツク!)としての側面ばかりを強調するのは(洩田
彰)、適切とは言えないだろう(6)。
クリステヴァは周知のように、以上に説明してきたセミオティツクに対して、サンボリッ
クという概念を対置させている。サソポリックとはいわゆる規範的な言語のことであり、音
素を構成する弁別的素性の最大の対立によって形成される音韻体系を持ち、指向対象(外的
現実)を外示し、統辞面では、意味の伝達・交換を可能にする主辞=述辞の二肢構造を備え
ている。クリステヴァの言う意味生成性signifianceとは、一面では、セミオティツクを抑圧
して、このサソポリックへと接続していく運動性のことである(西川,1987,pp.100∼104)。
では、セミオティツクからサソポリックヘの移行はどのようになされるのであろうか。それ
は、鏡像段階を通して準備され、(象徴的)去勢=原抑圧によって完成されると考えられて
いる(Kristeva,1974,p.43=1991,p.39/三浦,1981,p.一168)。(3)で述べたように、鏡像段
階においては、原隣人としての〈母〉は、すでに個体と分極し、対象として存在している。
-31-
人文論叢(三重大学)第13号1996
この想像的同一化の対象としての〈母〉=鏡像は、「対象の世界」の原型となる(Kristeva,
1974,p.44=1991,p.40)。想像的自我の措定は、切り離されまた意味し得る(signifiable)
対象の措定をも招来するのである(Kristeva,1974,p.44=1991,p.40)。そして、前述した
鏡像段階における完全肢文1'holophrastiqueは、この眼前の対象(同時性知覚物)を指示し
たり、個体の自己表出の機能を担っている。しかし、もっぱら名詞だけで作られる完全肢文
は、まだ言語学的文(NP+VP)ではない。また、そこではいかなる概念化も存在しない
(枝川,1977,p.39)。完全肢文を構成するいわゆる初語の出現は、「〈記号一意味されるも
の〉の関係の意識化を含意するとまでは言えない」(Merleau=Ponty,1988=1993,p.19)
のである。よって、完全肢文はまだサソポリックとは言えない。セミオティツクとサソポリッ
クの中間にある完全肢文は、「セミオティツクからサソポリックへの移行過程において統辞
論的に措定された最下層のレベルを構成する」(枝川,1977,p.40)ものとして位置づけら
れる。
なお、一言つけ加えれば、完全肢文の出現によって、セミオティツクは消滅するわけでは
ない。鏡像段階においても、セミオティツクは持続する。それは、「初語の出現は、バブリ
ソグ(晴語)を終わらせるものではない。バブリソグは、長期間幼児のバロールに同行する」
(Merleau=Ponty,1988=1993,p.19)という発達心理学の知見によっても確認される。
サンボリックの成立を決定的に画するのは、(象徴的)去勢=原抑圧である。クリステヴァ
は、この去勢によるサソポリックの成立を説明するにあたって、フロイトが「快感原則の彼
岸」(1920)で取り上げたあの糸巻き遊び1e
jeu
fort-daの例を持ち出す(Kristeva,1974,p.
44=1991,p.40)。糸巻き遊びとはよく知られているように、フロイトが直接観察した男児
が、自分で見つけた遊戯である。この男児は、生後18ケ月であり、「ようやく、ごくわずか
の明瞭なことばをしゃべり、そのほかは身近の老だけに理解される、いくつかの意味のある
音声をあやつっていた」(Freud,1920=1970,p.12)。ここから、この男児が鏡像段階=完
全肢文の段階にあったことが察せられる。さて、この「心から母親になついていた」男児は、
ひもを巻きつけた木製の糸巻きを自分のベッドの中にへりごしに投げ込み、その糸巻きが見
えなくなると、今度はひもを引っばってそれを取り出すという遊戯を飽きることなく繰り返
していた。この糸巻き遊びは、「不在と再現をあらわす遊戯」であり、糸巻きが見えなくな
ると、この男児は、オーオーオーオ(fort「いない」の意味)と声を出し、糸巻きが出てく
ると、da「あった」の言葉で迎えた。そして、その内、この男児は、糸巻きを投げ込む
「不在」の行為だけを繰り返すようになった(Freud,1920=1970,pp.13∼14)。フロイト
はこの遊戯を、「母親が立ち去るのを、さからわずにゆるすという欲動放棄を子どもがなし
とげたこと」の証左とみなす(Freud,1920=1970,p.14)。この男児は、母親の不在と再出
現を糸巻きのそれに置き換えている。つまり、彼は、自分の手もとにあるもので、母親との
別れと再会を上浜し、それで、いわば欲動放棄(我々の枠組みで言えば、【】く母〉(へ)の欲
望」の断ち切り=去勢)をつく阜なったのである(Freud,1920=1970,p.14)。さらに言うと、
この遊戯においては、く母〉の不在と現前が、fort-daという音の対に置き換えられている。
つまり、「この音素の対立遊びの中で、この子供は現前と不在という現象を象徴的平面にま
で引き上げ、それによって彼は言語の中に生まれたのである」(Benvenuto&Kennedy,
1986,p.89=1994,pp.106∼107)。ラカソの解釈に従えば、「主体は、その(=〈母〉の)
喪失を引き受けることによってそれを克服するのみならず、そこで、(〈母〉(へ)の)欲望
-32-
村上直樹
4つの「わたし」/本当の「わたし」:ラカニアソ理論の自己論的展開
を第二の力(象徴的レベル)へ引き上げる」(Lacan,1953(1966),p.319=1972,p・435)。
っまり、この遊戯は、鏡像段階の主体が「〈母〉(へ)の欲望」を去勢され、象徴界ないしは
シニフィアソの連鎖に入っていく現場なのである(Lacan,1957a(1966),p・46=1972,p・
55/Lacan,1958a(1966),p.575=1977,p.343)。そして、この遊戯はサソポリックが成立
する現場でもある。上記のような象徴楔能の獲得は、〈母〉の断念、すなわち、主体と双数
的関係にあった〈母〉を主体から完全に分離したものとして措定することであり、また、ま
さにこの分離の瞬間に、欲望の対象を不在として、すなわち記号として固定することである
(Kristeva,1977=1986,p.41/三浦,1981,p.169)。ここで、「〈記号一意味されるもの〉
の関係の意識化」が達成され、同時性知覚物の指示だけの段階が終わる。サソポリックに移
行した個体は、自分の状況に形容語を与えるより以上のことができるようにな-る。すなわち、
個体古ま、空間的に及び/または時間的に離れている事物と出来事について話す可能性を獲得
し、さらに、架空の、非現実的な事物と出来事についても話す可能性を獲得するのである
(Jakobson,1975=1975,p.135)。ここに、「世界の構成に対する言語の革命的寄与」
(Holenstein,1976=1987,p.72)がある。
なお、糸巻き遊びにおける「本源的象徴化」1a
symbolisation
primordiale(Lacan,
1958a(1966)p.575=1977,p.343)の過程は、死の欲動によって導かれている。語らぬ暑
から語る主体へ、そして、欲動から記号へという跳躍を可能にするのは、棄却(=否定性)
のメカニズムであるが(西川,1987,p.167)、この棄却とは死の欲動以外の何ものでもない
(Kristeva,1974,p.180=1991,p・228)。死?欲動の強迫的な反復によって、欲動(あるい
は「〈母〉(へ)の欲望」)の流れが静的な表象へと備給され、セミオティツクはサソポリッ
クへと接続していくのである(西川,1987,p.167)。そして、糸巻き遊びにおける死の欲動
とは、〈母〉の不在と現前を、fort-daという音の対に置き換えることにおいて顕現している。
糸巻き遊びでは、〈母〉という生きた対象が、音の対=記号という命のないものに置き換え
られる。生きた対象を死んだ記号で置き換えるという意味で、この糸巻き遊びは、死へと向
かう傾向、つまり死の欲動の現れである(小出,1993c,p.191)。生きた対象を死んだ記号
によって同一化するこの死の欲動によって、〈母〉及び「〈母〉(へ)の欲望」は棄却され
(ソマの殺害)、「本源的象徴化」が達成されるのである。そして、その結果、前述の言語
の「爆発的な獲得期」が始まり、個体は二語文ひいては主辞=述辞の二肢構造を備えた言語
学的文のフェーズに入っていく。
ところで、以上における「
死の欲動」という言葉の使用はいささか奇異な感じを与えるか
もしれない。なぜなら、フロイトが規定した通常の意味では、使用されていないからである。
ここでは死の欲動という言葉がラカニアン的に使用されている。ラカニアソにおいて、死の
欲動は写つの分節から構成されると考えられている(加藤,1995,p・248)。1つは、シニフィ
アソあるいは象徴的秩序による〈もの〉の殺害の機能であり、これは、フロイトの言う原初
的マゾヒズムに対応する(加藤,1995,pp.247∼248)。もう1つは、「原初的な無機物的状
態に復帰しよう」とする欲動(Freud,1930=1970,p.89)、いわゆるフロイトの言う死の欲
動である。クリステヴァの枠組みにおいて「本源的象徴化」を可能にするとされるのは、前
者の死の欲動である。
さて、「本源的象徴化」によって、ラカニアソの言う分裂した主体が形成されるわけであ
るが、クリステヴァは、それを一老的主体1e
sujet unaireと呼ぶ。一者的主体とは、「父の
-33-
人文論叢(三重大学)第13号1996
名」として示される「一老」(7)の法に従う主体であり(Kristeva,1977=1986,p.28)、この
主体のもとにおいてのみ理念的対象性を備えた言説つまり意味行為が可能になる(原田,
1993,p.183)。言い換えると、一者的主体=分裂した主体はサソポリックとして自らを展開
していくのである。しかし、この一者的主体は、いまだ動態的な意味生成性の過程にある主
体1e sujet
en
proc6sでもある。なぜなら、サソポリックが成立した後にも、セミオティツ
クが発動しうるからである。つまり、去勢の過程においてサソポリックへ止揚された(ある
いは構造化された)セミオティツクが、一者的主体のサソポリックの中に侵入しうるのであ
る。この運動性が意味生成性のもう1つの側面である(西川,1987,p.104)。そして、この
セミオティツクの「サソポリックのシステムの中への帰還は、リズム、イソトネーショソ、
語彙的・統辞的・修辞的な変形transformationsといった様相のもとでなされる」(Kristeva,
1975,p.17)。このようなセミオティツクの侵入によって、一老的主体は、いわば告発され
ている。過程にある主体は、訴訟proc6sの場にある係争中の主体1e
sujet
en
proc6sでもあ
るのだ(西川,1987,pp.100∼101)。
ところで、いわゆる詩的言語において観察されるこのセミオティツクの侵入は、意味にとっ
て異質なもの、例えば、音楽性として顕現し、言説に特異な相貌を与える(原田,1993,p・
184)。もちろん、この侵入は相対的なものであり、音楽性も意味作用を失うことなく、その
中で自らを展開する(Kristeva,1974,p.62=1991,p.60)。しかし、いわゆるく芸術的〉実
践において、セミオティツクがサソポリックの破壊者であることは明らかであり(Kristeva,
1974,p.47=1991,p.44)、詩的言語においては、統辞構造及び意味作用が、音楽性や様々
な語嚢的・統辞的・修辞的操作によって浸食されている。3では、このような詩的言語の実
践が、言表の主体に対してどのような意義を持つのかが論じられるであろう。
それでは、以上に整理してきたクリステヴァの言語理論を、ラカニアソの枠組みの中に位
置付けよう。まず、セミオティツクは、鏡像段階以前(「〈母〉(へ)の欲望」以前)の欲動
の表出形態の1つである。セミオティツクという概念は内的刺激=不快が、原初的な声の放
出という形でも軽減されることを示している。「原隣人」としてのく母〉によって充足され
たり、部分対象によって自体愛的に充足されたりする欲動が、個体の「全身運動として発声」
によっても充足され得ることをクリステヴァの理論は明らかにしたのである。
次いで、鏡像段階における完全肢文であるが、これは、いわば「生の主体」の`「く母〉(へ)
の欲望」のもとで発せられる言葉である。この完全肢文は、眼前の対象を指示したり、個体
の自己表出の機能を持つ。しかし、乳児によって発せられる完全肢文は、「切断し去勢する
詰まった言葉parole
pleine」(南,1994,p.276)ではない。すなわち、この言葉はまだ象徴
的な水準にはなく、いわば、〈母〉との一体化の欲望を満たすべく想像的imaginaireに使用
されるのである。上述したように、鏡像段階の「
生の主体」は、く母〉に欠如している想像
的ファルスとして自らを存在させ、く母〉の欲望の対象となることによって、〈母〉と一体化
しようとする(=「
存在形の欲望」)。完全肢文(及び鏡像段階においても存続するセミオティツ
ク)は、.この想像的ファルスである。「生の主体」は完全肢文(あるいはセミオティツク)
に自らを委譲し、自らを想像的ファルスとしてく母〉の前に身を投げ出すのである。南淳三
の言葉を借用すれば、鏡像段階における原初的な言葉は、く母〉の愛を得るための性器官で
ある(南,1994,p.276)。(なお、南自身は完全肢文やセミオティツクについて性器官と言っ
ているわけではなく、日本語という言語についてこの言葉を用いている。南のもとの議論に
一34-
村上直樹
4つの「わたし」/本当の「わたし」:ラカニアソ理論の自己論的展開
っいては、3で論及する。)佐々木孝次は、母親と子供の話について、それは「何を、言っ
ても、意味が問題にならない言葉」、すなわち「矯声」であると指摘しているが(佐々木・
伊丹,1980,p.24)、この「病声」とは、性器官としての完全肢文やセミオティツクである
とみなすこともできるだろう。
個体におけるサソポリックの成立が象徴的去勢に重なることば、すでに見てきた通りであ
る。欲望の言い換えとしてのシニフィアソの連鎖を、クリステヴァは、サソポリックという
概念で押さえているわけである。ただし、「生の主体」に象徴的ファルスが刻まれ分裂した
主体が形成されるという理論展開に、前述の糸巻き遊びに見られるような死の欲動がどのよ
うに関わるのかは現在の我々にとって不明である。ここでは2つの議論を並置するにとどめ、
両者の関係については、あらためて別の機会に論じたい。
クリステヴァの理論で、我々の後の議論に直接関わってくるのは、サソポリックの中へセ
ミオティツクが侵入しうるという詩的言語論である。これは、ラカニアソの枠組みで言えば、
シニフィアソの連鎖に姿を与えられた主体が、象徴的去勢以前の段階に遡行するという議論
である。そして、この遡行は、〈芸術的〉実践以外においても、例えば、「原隣人」=〈母〉
の末裔である「隣人」=(小)他者との想像的関係においても見られる。「恋愛において主
体が幼児へと退行する」(西川,1987,p.307)ということは、〈恋人〉=「隣人」を前にし
た主体のサンボリックな言表にセミオティツクが侵入して、詩的言語が生成するということ
である。この時、主体は象徴的去勢以前へと遡行し、言表の主体としては揺らいでいる。ク
リステヴァは、詩的言語とはつまるところ近親相姦の問題に他ならないと述べている
(Kristeva,1980=1984,p.91)。これは、詩的言語において、「(かつての)母との融合状態
を、シソボル秩序をとおして回復しようとする営みがなされている」(原田,1993,p.205)
ことの指摘であるが、この詩的言語における「営み」は「隣人」との関係でなされる。そし
て、この「隣人」との関係における詩的言語は、鏡像段階における完全肢文やセミオティツ
クと同じように、性器官として機能していると言えよう。クリステヴァの詩的言語論は、象
徴界の主体が想像的関係へと遡行し、言表の主体としてのあり方を希薄化することがあると
いうことを、言語の問題を通して示したものだと我々は考える。
さて、以上で、我々の枠組みの中核を呈示したわけだが、この枠組みには、3つの「わた
し」が設定されている。言表の主体(主語)、欲望の主体=言表行為の主体、自我の3つが
それである。次章では、この3つとは異なるもう1つの「わたし」=「考えるわたし」を我々
の枠組みの中へ取り込むための基本的な作業を行いたい。
2.内言として生成する「わたし」
象徴的去勢=原抑圧によって、欲望の運動としての「せの主体」はシニフィアンの連鎖に
巻き込まれ分裂した主体(あるいはクリステヴァが言う・一者的主体)が生成する。分裂した
主体は断続的に自らをシニフィアンに委譲する。言い換えると、主体は欲望の主体としては
断続的に消失しつつ、言表の主体として、象徴界の中に、自らを記載し続ける。象徴的去勢
以降、主体は「【語る主体」として、象徴界の中で生き延びていくわけである。ただし、「語
る主体」といっても、正確には、それは自足的に思惟を行い、その思惟をシニフィアンによっ
て表現する主体という意味ではない。主体がシニフィアソに化身することによって初めて思
ー35-
人文論叢(三重大学)第13号1996
惟が可能になるのである。すでに述べたように、シニフィアソは〈思惟の着物〉ではなく
〈思惟の身体〉である。そして、この自らのシ■ニフィアソへの委譲はいわゆる発話において
のみなされるわけではない。長井真理は次のように言っている。
たとえひとりでいても、心に何ひとつ思い浮かべないでいるということは不可能であり、
何らかの内容を思い浮かべるということは、自己の記号化にほかならない。だからそこに
実在の他者がいようといまいと、あるいは実際に言葉を語り出そうと出すまいと、われわ
れは生きている限り、たえず自己自身をいわば記号にすりかえている。(長井,1981,p.
170)
ここで言う記号化される自己とは長井自身の用語系によれば意味志向鮎deutungsintention
の動き(根源的沈黙からある意味に向かう動き)であり、我々の言う欲望の運動に相当する。
この文にも指摘されているように意味志向の動き=欲望の運動は発話の場面以外においても
シニフィアンに化身し続ける。人は黙っていても内言という言葉に満ちているわけである。
そして、この内言の過程とは思考の過程そのものである。なぜなら、思考とは「自我の中で
進行する会話」(ミード,『十九世紀の思想の動き』)、あるいは「自分自身に語りかけると
いったこと」(ウイトゲソシュタイソ、『哲学探究』)だからである。思考の過程を内言の過
程そのものとしてとらえることは、思考がまずあってそれを言語というvehicleが表現・伝
達するのだという近世的な見解(8)への批判であり、ガイガー、ミュラー、シュライエルマッ
ハー、パフチソらもこの立場に立っている。また、これらの論者とは根本的に異なる理論的
前提を持つものの、行動主義心理学の創始者ジョソ・B・ワトソソも、思考とは「音声下で
しゃべることsubvocaltalking」、「自分自身に向かってしゃべること」、すなわち内言であ
るとしている(Watson,1930=1968,pp.293∼299)。また、さらに言えば、内言は意識全
体の中心的エレメソトでもある。例えば、パフチソによると、いかなる意識も(例えば、飢
えの感覚のような単純かつ漠とした意識でさえも)、内言や内的イソトネーショソを必要と
する(Bakhtin,1929=1980,p.191=1989,p.132)。意識は表象、感情、知覚等から成り立っ
ているが、どんなに非言語的に見える時でさえ、内言を伴っており(磯谷,1982,p.29)、
内言は意識の自覚的統一を実現するのである(磯谷,1982,p.14)。
管見に属する限り、ラカニアソの理論において、この内言が主題的に論じられたことはな
いように思われる(9)。しかし、上記のように内言の展開はいわば「
考えるわたし」の実現過
程であり、我々にとって看過できない現象である。
パフチソやヴィゴツキー(10)といった内言研究者によれば、内言は外言にもとづいて発達す
る。「言葉は、まず有機体相互の間の社会的交通の過程において生まれ、成熟し、しかる後
に、有機体の内部に移入され、そこで内言となる」(Bakhtin,1929=1980,p・83=1989,p・
63)のである。我々の枠組みで言えば、主体は最初発話という形で、断続的にシニフィアソ
に同一化し、次いで、内言という形で絶えず自らをシニフィアソに委譲することになる。そ
のようにして「考えるわたし」=内言として生成する「わたし」が生まれてくるのである。
なお、ヴィゴツキーは、内言の発生を考えるにあたって、外言から内言への移行に伴う過
渡的なフェーズの存在を論証している。ただし、この外言と内言の過程を結びつける中間の
環を措定したのは、ヴィゴツキーが最初ではない。この中間の連結環についてはワトソソが
-36-
村上直樹
4つの「わたし」/本当の「わたし」:ラカニアソ理論の自己論的展開
先駆的な議論を展開している。ワトソソにとって、この中間の連結環は「ささやき」である。
「やがて[子供の]外部にあらわれたことばは消え、ささやきになる。……やがてこの過程
は、唇のうしろで起るように強制される」(Watson,1930=1968,p.296)。ヴィゴツキーは、
この「声高の言語-ささやき一内言」という図式は批判するが(Vygotsky,1934(1956)
=1971a,pp.147∼149)、ワトソソの中間の環の発見の試み自体は高く評価し、それを継承
した。ヴィゴツキーにとっての、中間の連結環は、ピアジェの言うところのいわゆる自己中
心的言語である。ピアジェ自身は、自己中心的言語と内言との関連については、「まったく
盲目」(Vygotsky,1934(1956)=1971b,p.183)であったが、ヴィゴツキーは、自己中心
的言語を内言の発生に先行するフェーズとして論定したのである。より正確に言えば、多様
な機能を持った原初の外言が、ある一定の時期(年齢)において、自己中心的言語とコミュ
ニケーショソのための言語に機能分化し(Vygotsky,1934(1956)=1971a,p.76)、前者の
自己中心的言語を基礎として内言が発生してくるのである。つけ加えれば、ピアジェにとっ
て、自己中心的言語は、自己中心的動機に完全に従属した自分の満足のための非社会的言語
であるが、ヴィゴツキーによれば、自己中心的言語はコミュニケーショソのための言語と同
じように社会的なものである(Vygotsky,1934(1956)=1971a,p.76)。また、内言は、自
己中心的言語と深い煩似性を持っているが、この内言は単に、外言マイナス音ではなく、
「外言からの機能的、構造的自立によって発達していく」(Lotman,1973=1979,p.110)。
巧言のもっとも肝要な特質はその独自の統辞法にある(Vygotky,1934(1956)=1971b,p
p.201∼202)。その統辞法によって、内言は外言に比べて著しい断片性、不完全性、省略性
を持っている(自己中心的言語もこの構造的特質を共有する(Vygotsky′,1934(1956)=
1971a,p・70))0語のレヴェ′ソで言えば内言における語は簡略化され、「語の記号、語の指標
に変わっていく傾向を持つ」(Lotman,1973=1979,p.111)。
さて、以上において、外言から内言への移行、自己中心的言語の位置付け、内言の構造的
特質などに関するヴィゴツキーの議論を略述したわけだが、このような議論をラカニアソ理
論の枠内で検討し、その中に摂取していくことが我々の今後の課題の1つである(11)。なお、
内言の発生は、主体の歴史において、象徴的去勢=原抑圧と同様、決定的な転回点というこ
とになろう。この転回点の理論化が、まだ、ラカニアン理論ではなされていないのである。
ところで、「考えるわたし」については、デカルトの周知の議論がある。「すべては偽であ
る、と考えている間も、そう考えている私は、必然的に何ものかでなければならぬ」。Je
je suis.r私は考える、ゆえに私は存在する」(Descartes,1637=1974,p.43)。
「私は考える」とは、「考え」が生じているということであり、このことば疑いえない。デ
pense,donc
カルトはこの疑いえない「】考え」の溢出は、当然それを生み出す基体すなわち■「考える私」
の存在によって可能になると考えた。よって、考えが生じているのだから、必然的に「考え
る私」があることになる。「私は考える、ゆえに私は存在する」(12)。デカルトにとって、「考
える私」とは、基体ないしは項としての「私」である。それは、例えば石のような物体が有
する延長は持っていないが、石と同様に実体である(Descartes,1641=1949,p.67)。しか
し、デカルトはこの基体ないしは項としての「
私」の存在を論証していない。「考える」と
いうことから必然的に帰結するのは、「考え」、つまりそこで考えられている内容(意識内容)
であって、そこから「私」の存在を導くためには、「考え」には必ずそれの帰属すべき基体
ないしは項がなければならないこと、そしてその基体ないしは項がここでは「私」でなけれ
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人文論叢(三重大学)第13号1996
ばならないことを論証する必要があるのに、そのような手続きをデカルトはしていないので
ある(滝浦,1990,p.58)。ニーチェによれば、デカルトの論拠は、「思考作用があるときに
は、「思考作用をいとなむ」何ものかがなければならない」という「一つのきわめて強い信
仰」である(Nietzsche,1906=1980,p.25)。それは、「働きには働くものを置きくわえる
という私たちの文法上の習慣」(Nietzsche,1906=1980,p.25)、「すべての作用を作用者
によって、すなわち「主体」によって制約されたものと理解し、かつ誤解する言語の誘惑」
(Nietzsche,1887=1940,p.47)にすぎない。「作用・活動・生成の背後には何らの「存在」
もない。「作用者」とは、単に想像によって作用に附け加えられたものにすぎない(13)一作用
が一切なのだ」(Nietzsche,1887=1940,p.47)と考えるニーチェにとっては、基体ないし
項としての「考える私」は存在しない(14)。
なお、「「私」と思惟とは同じものであり、もっと厳密に言えば、「私」とは、思惟するも
のとしての思惟であると言うことができる」(Hegel,1839=1951,p.119)というヘーゲル
もこの「考える私」についてはニーチェと同じ立場に立っていると言えるだろう。彼らにとっ
ては、「考え」のみがある。我々の枠組みにひきつければ、内言のみがあるのである。我々
にとっての「考えるわたし」は内言として生成する「わたし」であり、我々も基体ないしは
項としての「考える私」を考えてはいない。しかし、「考え」という「作用が一切なのだ」
とも考えていない。すでに、あきらかなように、我々は、「考え」=内言の溢出(すなわち
コギト)に先行する欲望の運動を想定している。つまり、デカルトの「考える私」の位置に
欲望の運動(としての欲望の主体)を置いているのである(cf.若森,1988,p.260)。そし
て、この欲望の運動は、内言として溢出する度に、姿を消す(アファニシス)。「私は考える」
は、欲望の主体の消失点である。ラカソはデカルトの「私は考える、ゆえに私は存在する」
を、「私が考えるのは私が存在しないところにおいてである。ゆえに、私が考えないところ
に私は存在する」Je
pense
oaje
ne
suis
pas,donc
je suis
oもje
ne
pense
pas.(Lacan,
1957b(1966),p.517=1977,p.268)と書きかえているが(15)、その言わんとするところは次
の通りである。内言としての「わたし」が生成するのは欲望の主体が存在しないところにお
いてである。内言としての「わたし」が生成しないところに、欲望の主体は存在する。フロ
イトは『続精神分析入門』、第31講において、このような事態を次のように表現している。
「ェスのあったところ、そこから主体が生成しなければならない」Wo
es
wat,SOllIch
werden(16).ラカニアソ流に解釈すれば、この文におけるesとはシェーマLにおける(Es)
S、すなわち「 生の主体」=欲望の主体であり、Ichは、自我ではなく主体を意味する(17)。
主体とは、この場合シニフィアソに姿を与えられた主体であり、言表の主体のみならず、内
言として生成する「わたし」をもふくむものである。内言として生成する「
ゎたし」は、エ
ス(Es)Sqをユをところに、生成するが、その時にはエスは消失してしまっている(「ェ
スのあったところ」とは、ラカソの言う、「私が(もはや)存在しないところ」である)。エ
スは大文字の「他者」Autre(=シニフィアン)を通して話す(Lacan,1958b(1966),p.
689=1981,p.152)、あるいは、大文字の「他者」を通して考える。しかし、それは自らの
不在においてそうするのである。
デカルトが疑えぬとした基体ないしは項としての「考える私」は、我々の枠組みには存在
しない。我々にとって、「考えるわたし」はシニフィアソの溢出そのものである。ただし、
我々もデカルト同様、コギトに先行するもの(デカルトにとっての「考える私」)を立てて
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村上直樹
4つの「わたし」/本当の「わたし」:ラカニアン理論の自己論的展開
いる。それは、上記のように欲望の運動(としての欲望の主体)であるが、これについては、
4で、再び論じることになるであろう。
では、ここで、自己意識という問題を導入することによって、我々の言う内言として生成
する「わたし」の存在様態をさらに明らかにしておこう。まず我々の枠組みにおいて、内言
として生成する「わたし」による、欲望の主体(〈もの〉としての主体)の認識という意味
での自己意識は成立しない。しかし、内言として生成する「わたし」という水準における自
己意識は存在する。ただし、それは、主観的意識が先行的に関係項として存在し、その主観
的意識が自分自身へと振り向き、自己を対象として知ったり意識したりすることによって生
じるというような自己意識ではない。我々の枠組みにおける自己意識とはフィヒテ的な自己
意識である。以下、フィヒテの自己意識と自我に関する議論を略述する。(なお、ここで言
う「自我」とは哲学における自我であり、我々の言う意味での自我ではない。)
先に触れたニーチェやヘーゲルに先立って、カソトはデカルト的主体に対して疑義を呈し
た。デカルトはコギトからres
cogitans(思惟主体としての実体)の存在を論定したわけだ
が、カソトはイッヒ・デソケという意識事実から思惟する主体的実体を論証しようとするの
は誤謬推理であると批判した。意識作用が認められるということまでは明証的事実であると
しても、その背後に意識主体としての実体を想定することは、無条件に支持されるものでは
ないというわけである(廣松,1990,p.5)。カントにおいて、実体的自我は理論理性の領
界では認識不可能なのである(虞松,1990,p.5)。そして、カントを承けたフィヒテにお
いて、実体的自我概念は跡形もなく斥けられることになる。
フィヒテにとって自我とは、その本質において、無限の純粋な働きであり、それは、自分
以外の原因を持たずに、端的に自らを産出する。自我はまず純粋な働きあるいは活動性であ
る。この自我の最初の特徴づけが、自我を実体概念から解放する(Janke,1970=1992,p.
108)。フィヒテにおいては、自我であるとされてきた静態的実体に代わって、活動性そのも
のとしての自我が、自己産出を遂行する。自我は根源的に端的に自我の存在を定立する。そ
して、この自己産出の働きとその働きの所産は、一にして同一である。つまり、自我は活動
性であると同時に、その活動性の所産でもある。フィヒテの言う事行Tathandlungという
概念は、このような定立と存在(あるいは活動性とその所産)が根源的に等しいという事態
を指し示している(四日谷,1994,p.49)。では、以上のような自我概念において、自己意
識はどのように考えられているのだろうか。
まず、指摘すべきは、上記のような活動性が生じる時にはいつでも、すでにこの活動性に
ついての知も存在しているということである(Henrich,1967a=1986,pp.19∼20)。自我は
自分を定立すると同時に、自分についての自分独自の概念を定立する(Henrich,1967a=
1986,p.33)。つまり、自分が定立する際に知るものをこそ、自我は定立するのである
(Henrich,1967b=1986,p.85)。自我の定立と同時に、自我が自分にとって存在するよう
になる。「自我のうちでは、思惟作用とその自覚は、不二一体のもの」(有福,1994,p.127)
である。そこでは、思惟する主観としての自我と思惟される客観としての自我は一体である
(有福,1994,p.128)。フィヒテは、このような事態を記述するにあたって、「知的直観」
intellektuelle
Anschauungという言葉を使用している。知的直観とは、自我の自己定立
(あるいは自我の思惟作用)の直接的な自己意識である(四日谷,1994,p.54)。この自己
意識においては、もともとは自立的な関係項はない。つまり、項が或る項に関係するのでは
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人文論叢(三重大学)第13号1996
なく、自我という純粋な働きが、当の働きそのものに自己内還帰するのである(藤澤,1990,
p.234)。自我とは自己内還帰する能動性なのである。そして、この働きの自己内還帰によっ
て、主観=客観が析出され、いわゆる自己意識が生じるのである(藤澤,1995,pp.71∼72)。
ただし、この主観=客観はあくまでも一体であり、同時に生起する。また、通常考えられる
ように、主観が自己意識に先行するわけでもない(Henrich,1967b=1986,p.72)。自我の
自己定立において、自己意識と主観=客観という関係は「同時に、言わば、瞬く間に」
(Henrich,1967b=1986,p.72)生起するのである。
知的直観によって、自我は主観=客観として常にすでに自己を意識している。つまり、フィ
ヒテの理論において、自我と自己意識は同じなのである(藤澤,1990,p.231)。
さて、我々も以上のような自己意識を、内言として生成する「わたし」の位相において考
えている。我々の枠組みにおいて、「考えるわたし」は、発話なきシニフィアソの連なりの
展開=内言の生成として生起する。そして、その生成の瞬間において、その生成についての
知が生み出されるのである。内言として生成する「わたし」は、生成の瞬間において、主観
=客観としてすでに自己を意識している。この自己意識の発生と主観=客観の関係の形成は
同時である。つまり、フィヒテの自我がそうであったように、内言として生成する「わたし」
と自己意識は、同じものであり、内言の生成過程は、(実体的な)関係項なき自己意識の発
生過程とも言えるのである。
本章において、我々は、「考えるわたし」を内言として生成する「わたし」として論定し
た。我々の言う4つの「わたし」とは、ラカニアソ理論における3つの「わたし」一言表の
主体(主語)、欲望の運動としての欲望の主体、自我一に、この内言として生成する「わた
し」を加えたものである。次章では、役割理論における役割概念に、ラカニアソ理論の言表
の主体を重ね合わせる議論を行なう。
3..役割理論との接合
最初にここで言う役割理論がどのようなものであるかについて説明しておこう。役割理論
といっても、一実際には論者によって様々な理論的枠組みが展開されているからである。まず、
指摘しておかないといけないのは、本稿が取り上げる役割理論は演劇モデルに依る理論的枠
組み(18)の1つであり、構造楼能主義の社会体系論としての役割理論とははっきり区別される
ということである。ラルフ・リソトソの役割理論を継承した構造機能主義(山口,1975,
pp.137∼139)において、社会体系は「M役割及び役割の連なりconstellationsを主要な構成
単位とする個々人の行為の体系」(Parsons&Shils,1951,p.197)と定義されるが、この
場合の役割とは大村英昭も指摘するように、「身体のふりを捨象した(不可視の)機能」で
ある(大村,1994,p.101)。また、リソトソの役割理論において、役割とは地位に結びつい
たパタNソ化された期待を行動的に演ずることを意味し(Merton,1949(1968),p.422=
1961,p.334)、構造機能主義では、「行為者が自らが占める地位において行為をなす時、こ
の行為者は役割を演じていると言われる」(Sheldon,1951,p.40)。つまり、この両者にお
いて、地位は役割に先行するのである。演劇モデルに依拠する役割理論は以上のような理論
的前提には立たない。まず、そこでは、役割は不可視の機能としてではなく、目に見える言
表行為ならびに身体的な表現としてとらえられる。さらむこ、地位との関係について言えば、
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村上直樹
4つの「わたし」/本当の「わたし」:ラカニアソ理論の自己論的展開
地位を前梯として役割が規定されるのではなく、役割行為の編成態が物象化され、一種の制
度化をこうむることによって地位が派生してくると考えるのである(虞松,1983,p.291)。
演劇モデルに依る役割理論は社会をその本質において演劇的であるととらえる(cf.江原,
1985,p.274)。単に社会と演劇との問にアナロジーをみてとるだけでなく、社会を上浜の
過程そのものとして考えるわけである。「演劇そのものとしての社会」という視角において
は、諸個人は、「演劇」において演じるように演じるのではなく、彼らが通常なすことにお
いて、すでに演じているとされる(江原,1985,p.275)。「すべての人は日々演劇性に買物
を納め、舞台の支配する原理に従って生きている」(Evreinoff,1927=1983,p.62)のであ
るが、彼らはいわゆる「演劇」におけるような俳優ではないのである。
自己論としての演劇論的役割理論は、「裸のままの個人「それ自体」」(L6with,1928=
1967,b.154)を認めないという点においてもっとも著しい特質を持つ。「役割を演ずること
なしには、人は具体的に存在しえない」(中村,1972,p.32)、言いかえると「人間仲間は、
自分だけで存在している多様な「個人」として特定の他人に出会うのでなくして、彼らの共
同世界の内部で、また彼らの共同世界に対して、一つの「役割」を持つペルソナとしてこれ
に出会う」(L6with,1928=1967,p.100)と考えるのである。演劇論的役割理論において、
自己は実体的で第一次的な定在としては存在せず、「それぞれの社会状況において絶え間な
く創造・再創造を繰り返していく過程」(Berger,1963=1989,pp.155∼156)としてみなさ
れる。そして、そのそれぞれの自己はいずれも同等のリアリティーを持つとされるのである。
以上が本稿で問題にする演劇論的役割理論一以後、単に役割理論と表記する一の理論的前
提と基本的骨格である。これまで展開されてきた役割理論はその精度と背景において多様で
ある(汎演劇主義者として舞台と客席の分離を認めないエヴレイノフによるノソアカデミッ
クな『生の劇場』から、ハイデッガーの言う「世界内存在」としての「共同現存在」を「役
割」概念を導入することによって具象化しようとしたカール・レーヴィット、そして虞松渉
によるきわめて精緻な即興劇モデルの役割理論まで)。しかし、我々の見るところ、いずれ
も上記のような前提と骨格を共有しているのである。
では本題に入ろう。象徴的去勢=原抑圧によって分裂した主体gは、自らを言責の連なり
として展開していく。死という終わりにいたるまで、絶え間なく言表行為が生起するわけで
ある。この言表行為は他者なしにはない。言表行為はつねに他者に向けられている。そして、
それは、単に他者に対して何かを言うだけではない。それは、行為である。オーステイソが
指摘したように、何かを言うことは何かをなすことである(Austin,1962=1978,pp.170∼
171)。つまりgは対他的行為の連なりとして自らに姿を与えているとも言えるのである。よっ
て、言表の主体とは、個体の対他的行為の主体とみなすことができる。そして、'さらに言え
ば、この対他的行為としての言表行為の内実は、対象とする他者に応じて多様な相貌を持つ。
これは、まさに、役割理論の言う「個体は社会的状況に応じて適切な役割をテイクする」と
いう事態と考えることができるだろう。この観点からすれば、gは対象とする他者に応じて
様々な役割行為として自らを展開していくということになる。ということは、言表の主体と
はいわば役割行為の主体とみなされるものである。言表における「私」はまさにその言表に
おいて(によって)遂行された役割行為の主体とみなされるものである。アニカ・ルメール
は主体の分裂について、「主体が自分自身や世界について行なう言表において、主体に仮面
をつけることを意味する」(Lemaire,1970=1983,p.109)と述べているが、言表の主体と
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人文論叢(三重大学)第13号1996
してのgはシニフィアソという仮面をかぶっている上に、役割という仮面もつけているので
ある。もちろん、これらの仮面の下に本当の顔があるわけではない。あるのはいわば形のな
いアモルフな欲望の動きである。なお、言表の主体を役割行為の主体としてみなすというこ
とは、言表の主語=「一人称命題の無限集合の主語としての〈私〉」(大森,1986,p.78)を
複数のものとして考えるということである。
ラカニアンの理論において、gはシニフィアソの集合である象徴界の中で、自らを再認し、
また自らを他者に再認させる(Lacan,1981,p.189=1987b,p.16)。さらにこの象徴界にお
いて、「聞いているひとといっしょに話している私が構成される」(Lacan,1956b(1966),p.
431=1977,p.152)。ここで言う「私」とはもちろんシニフィアソに姿を与えられた言表の
主体であるが、役割理論につなげて考えれば、gはシニフィアソによって形を得ているだけ
でなく、社会的な「私」という類型の中にもある。シュッツによれば、「役割の担い手は自
己類型化を行なう。……どのような役割であっても、その担い手の側での自己類型化が含意
されている」(Schutz,1964=1980,p.224)。gは自らを言表の主体として展開していくが、
それは、対他的行為=役割行為を遂行していくことによって、自らを様々な社会的な「私」
として自己類型化していくことでもある。陪審員が法廷で「私は∼∼」と語りはじめるとき
彼もしくは彼女におけるgはシニフィアソの鎧をまとった言表の主体として生成するととも
に、「陪審員」として自己を頬型化するのである。このような自己類型化の観点はラカニア
ソ理論には欠けている。もちろん、ラカニアソ理論はもともと精神病の理解と治療を目的と
して構築されてきたものであるから、その目的に直接関わらない役割とか自己類型化といっ
た論点が落ちているのは別に問題ではない。ただし、ラカニアソ理論を自己論としてさらに
展開しようとする場合にはそのような論点を摂取しておくことが必要なのである。
さて、主体が、象徴的去勢を経て、シニフィアソの世界としての象徴界に参入するという
ことは、「原隣人」としての〈母〉との間に結ばれていた想像的関係とは異質な他者との関
係に入っていくということであるが、その象徴界における他者との関係とは、役割関係であ
る。gは象徴界において(もっと特定化すると言語的交通の場において)、言表の主休とし
て生成すると同時に役割の中に自己を棒型化し、役割の主体としての相貌を身にまとう。役
割は多かれ少なかれ固定的なものであり、ある特定の他者との役割関係にはそれを規制する
コード=役割コード(1g)を想定することができる。この役割コードはいわば具体的な言語的交
通の場におけるgのあり方を規定するコードであるが、この役割コードをラカニアソの理論
の中にどう位置付けるのかは今後の課題である(甜)。
ここまで、ラカニアン理論への役割理論の取り込みについて述べてきたが、役割理論には
ラカニアソ理論の立場からすると看過できない問題点がある。役割理論はラカニアン理論に
ない論点をもたらしてくれるわけだが、逆に、ラカニアソ理論の方から役割理論につけ加え
ることもあるのである。それは、役割理論に欠けている想像的関係という論点である。
役割理論によると、「ある人物の生活史は、人生という舞台で異なった観客に対して行な
われる演技の絶えざる連鎖」(Berger,1963=1989,p.155)であり、また、「われわれの日
常的対他行為は純粋に行為それ自体としてあるのではなく、いつもすでに何らかの〈役割〉
の中にある」(小林,1985,p.194)。そして、社会という人生劇場においては舞台外の生活
がなく、学校では教師として、クラブでは会長として、家庭では父親としてというように、
常に一定の役割を演じるのであるから、「自己としての自己」と「俳優としての自己」との
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村上直樹
4つの「わたし」/本当の「わたし」:ラカニアソ理論の自己論的展開
区別は論理上成り立たない(虞松,1983,p.191)。また、個体が絶えずテイクしている役割
は、すべて同じ水準にある対等なものである。役割理論は、どの役割にも、ひとしくリアリ
ティーをみようとするわけである(平川,1983,p.13)。ラカニアン理論も、「自己として自
己」と「俳優としての自己」の区別は認めないだろう。しかし、ラカニアン理論は、役割理
論とまったく同じ立場に立つわけではない。例えば、フーコーによる次の言葉に対して両者
は異なる回答を出すだろう。「あなたが、ある会議に出かけ、投票したり、発言したりする
一人の政治主体として自分自身を構成するときと、性的な関係において自分のさまざまな欲
望を満たそうとするときとを較べてごらんなさい」(Foucault,1988=1990,p.36)。役割論
者の回答は以下のようなものであろう。前者においては、会議の出席者という役割がテイク
され、後者においては、恋人ないしは愛人という役割がテイクされる。その意味においては、
異なる自己が他者に呈示される。しかし、いずれも役割であるという点で同じ水準にあるも
のである。これに対してラカニアソは両者の間に水準の違いを認めるだろう。前者をいわば
象徴的な関係とすると、後者は想像的な関係である。想像的な関係とは(小)他者との関係
であり、その代表は象徴的去勢以前における〈母〉との関係である。ただし、この想像的関
係は鏡像段階にとどまらず、大人の対人関係にも及ぶ(Benvenuto&Kennedy,1986,
p.81=1994,pp.96∼97)。その一番わかりやすい例が〈恋人〉という「隣人」との関係であ
との関係について、例えば立川健二は次のように言っている。
る。このく恋人〉
ふたりのあいだで交わされる言葉は、幼児語のようなさえずり、あるいはほかの場であ
ればとても口にできないような殺し文句、ほのめかし、あてこすり、メタファーの氾濫で
ある。恋人たちは、けっして幸福な愛情の平和状態を生きているのではなく、歓びと怒り
と悲しみが錯綜した狂気じみた力と差異の運動を生きているというべきである。(立川,
1990,p.144)
ここで言及されているく恋人〉同士による言語的交通=シニフィアソの交換は、いわば想
像的関係における「空のバロール」parole
videの交換である。これは、何も言わないため
の言葉、意味のつまっていない言葉である(向井,1988,p.16)。クリステヴァの枠組みで
言えば、詩的言語ということになるだろう。1で指摘したように、詩的言語と化した言葉は、
こうした関係においては、性器官として機能する。そして、このような言語的交通に満たさ
れた想像的関係は、「目の前の他者に愛されるか拒絶されるかが要件となるような」(南,
1993,p.75)関係であり、その他者とは、「魅惑的で突然首にとびつくというような想像的
な次元の無思慮な行為をひきおこすことのできる」(Lacan,1981,pp.67∼68=1967a,p.92)
他者である。役割論的観点によればこのような(小)他者との関係においても、会議に出席
するときと同じ水準の役割がテイクされることになる。我々は想像的な関係において、いわ
ゆる本当の「わたし」あるいはi
自己としての自己」が現前するとは考えない。しかし、象
徴的な関係においてテイクされる役割と想像的な関係においてテイクされる役割のあいだに
は、質的な差異を認めざるを得ない。想像的な関係において、言表の主体は揺らぎ、いわば
詩的言語の主体として生成しているのである。ラカニアン理論に役割理論を取り込むにあたっ
ては、その中に想像的な領域を導入しなければならないだろう。
ところで、象徴的去勢以後における想像的関係は、〈恋人〉のような「隣人」との関係に
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人文論叢(三重大学)第13号1996
おいてのみ観察されるわけではない。佐々木孝次や藤田博史といった日本のラカニアソによ
れば、日本人の間主体的関係全般に想像的な関係が内在している。彼らはこのような日本人
の問主体的関係を、想像的二項関係(あるいは単に二項関係)と呼ぶ。想像的二項関係とは、
鏡像段階の双数的な母子関係と連続性を持つ関係で、交わされる「意味」の不在という特性
を持っている。それは、意味の空っぽな言葉による関係の1つの様態である。このやりとり
において、目指されるのは、意味の交換ではなく、お互いが言葉を交わすことによって、
「恋着」と「慰安」を実現しようとすることである(佐々木,1987,p.89)。あるいはお互
いの「ふり」によって、お互いに「魅惑」し合うことである(佐々木,1989alp.38)。この
ような関係において、交わされるのはシニフィアソではなくサソブラソsemblantsである。
サソプランはシニフィアソと違って、意味生成に関与しない(この点については後に説明す
る)。それは、他のシニフィアソとの連鎖を拒み(藤田・中村,1995,p.244)、それ自体に
よって「魅惑」を生み出す差異である(佐々木,1989a,pp.153∼154)。サソプラソは意味
が抜け落ちたシニフィアソであるが、シニフィアソから意味を抜き取ると、残るのは、声と
文字というマテリアルな素材である(佐々木,1989b,p.90)。この素材の内、ここで問題に
なるのは文字である。想像的二項関係において、言葉は文字という「みかけ」として、つま
り、サソブラソとして楼能する。日本人は、「文字を話し」、「文字を聞く」(石川(九),
1995,p.29)、あるいは、日本人が語ると言う事態は、「音を発するというよりは、文字を象
るということ」(南11994,p.275)だという指摘は、このことを指している。想像的二項関
係を結ぶ日本人は、「文字フェティシスト」(藤田,1993a,p.123)である。そして、この想
像的二項関係において、主体は、サソブラソとしての文字に、感覚的、欲望的に反応し(佐々
木,1989b,p.48)、そ.こに「魅惑」が生まれ、「慰安」が引き出される。南淳三によれば、
このような関係において、日本語は眼前の他者の愛を得るための「性器官」として機能して
いるのである(南,1994,p.276)。
日本人の間主体的関係はサンブラソに満ち溢れている。日本は「サンプラソの帝国」
(Lacan,1971=1986,p.99)である。では、何故そうなのか。その原因は、日本人の象徴的
去勢のあり方にある。藤田博史によると、日本人は象徴的にうまく去勢されておらず、欲望
の様式がいま.だ「想像的ファルスでありたい」という存在形から抜け出ていない(藤田,
1993a,p.204)。これは言い換えると、1で言及した象徴的ファルスが十分に成立していな
いということである。(藤田は、日本語には、象徴的ファルスが欠けているとまで言ってい
る(藤田,1993a,p.205)。)そして、その結果、日本語は大量のサンブラソを抱え込んで
いるのである。少しく説明しよう。すでに説明したように、最初のシニフィアソとしての象
徴的ファルスは、2番目以降のシニフィアソに連鎖し、意味を生成させると同時に自身は抑
圧され(原抑圧)、それ以降シニフィアソの世界からは姿を消す。しかし、原抑圧以後、象
徴的ファルスは他のあらゆるシニフィアソのシニフィエの位置にとどまり、他のシニフィア
ソをすべて自らの隠喰として機能させる(藤田,1993b,pp.37∼38)。そして、すべてのシ
ニフィアンは、象徴的ファルスの隠喩という資格のもとに連鎖関係に入り、意味を生成する。
つまり、象徴的ファルスはシニフィアソの連鎖とそれによる意味生成の基底なのである。さ
て、日本語においては、このような象徴的ファルスが十分に作用していない。すなわち、象
徴的ファルスはすべてのシニフィアソを自らの隠喩として機能させているわけではない。そ
の結果、日本語は、連鎖関係に入らないシニフィアソ=サソブランを大量に抱え込むことに
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村上直樹
4つの「わたし」/本当の「わたし」:ラカニアソ理論の自己論的展開
なるのである(藤田,1993c,pp.177∼180)。そして、このサソプラソによって、日本語を
語る主体は、不十分な象徴的去勢によって維持されている「存在形の欲望」を満たそうとす
る。それ自体によって「魅惑」を生むサソブラソに同一化し、自らを想像的ファルスに化す
ることによって、あたかも幼児が〈母〉の愛を得ようとするように、眼前の他者の愛を得よ
うとするのが、想像的二項関係における日本人である。このような日本人のあり方をめぐっ
て、佐々木孝次は次のように言っている。「何をいっても日本人にとっての「意味されるも
の」は変らない。「意味されるもの」は、いつも「母親の欲望」のずっと近くにいる。無限
に近くにいる。」(佐々木・伊丹,1980,p.121)
なお、以上に説明してきたような想像的二項関係は、日本人においてのみ観察されるので
はない。藤田博史によると、象徴的去勢が介入してくる力が弱く、想像的な関係に象徴的な
構造が入り込んでいないケース、あるいは言語の構造によって二項関係がドミナントなまま
人間関係を形成していくケースは、日本の他に、例えばイスラム文化圏に観察される(藤田・
小田,1994,pp.43∼44)。想像的二項関係をめく小る議論はいわゆる日本論の枠内にとどまら
ず一般的な水準で展開されるべきものなのである。
さて、ここまでの議論を整理しよう。1で皇示した枠組みの基本的命題は、象徴的去勢に
ょって「母への依存状態が、断ち切られて、他者との象徴的関係relation
symboliqueに変
容する」(Kristeva,1974,p.46=1991,p.42)というものである。象徴的関係の中に入った
主体は言表の主体として、他者と関係を結ぶ。我々の考えによれば、この言表の主体は、役
割の主体である。象徴的関係=役割関係における「わたし」は、象徴的に構成されている。
しかし、上記の議論で明らかなように、この象徴的な「わたし」(=言表の主体=役割の主
体)は、場合によって想像的な領野に遡行することがある。つまり、象徴的去勢以降の段階
においても、主体は想像的関係を結ぶのである。ただ、役割論的観点からすれば、その場合
にも主体は役割の中にある。そこで、我々は、役割を2つに区分したい。象徴的役割r61e
symboliqueと想像的役割r61eimaginaireの2つである。ラカニアソの理論に役割概念を摂
取するにあたっては、それをこの2つの類型に区分しておくことが必要なのである。この区
分に従えば、〈恋人〉を前にして詩的言語の主体として生成している「わたし」、及びサソブ
ランによって、お互いに「慰安」を引き出し合っている日本人は、ともに想像的役割の中に
あるということになるだろう。そして、さらに指摘しておけば、この想像的役割も2つに区
分される。〈恋愛〉における「わたし」とサソブラソ的な交通にある「わたし」(例えば、敬
語行動の中にある「わたし」)が著しいコントラストを持つことは明らかであろう。前者は
脱形式的なあり方をするのに対して、後者は強く形式化されている。すなわち、想像的役割
は、形式化されていないものと形式化されたものに区分されるのである。詩的言語の主体は
前者をテイクしており、想像的二項関係における主体は後者をテイクしているということに
なるだろう。前者はいわば役割らしくない役割であり、後者は堅い役割コードを持つ役割ら
しい役割である。なお、形式以外の点においても両者は区別される。それは、欲望の強度に
よる区分である。形式化されていない想像的役割において、主体は激しい「愛と攻撃性の振
り子運動」を経験する。例えば、く恋愛〉の主体は、立川健二が言うように「歓びと怒りと
悲しみが錯綜した狂気じみた力と差異の運動を生きている」。それに対して、形式化された
想像的二項関係で目指されるのは、融合的な(粘着的な)■一体感である。言い換えると、お
互いに「慰安」confortを引き出し合うことである。前者は後者に比べてより強度の欲望の
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人文論叢(三重大学)第13号1996
中にあると言えよう。
ところで、ここで言う「形式化された想像的役割」という言葉は、ある意味では奇妙なも
ののように見えるかもしれない。なぜなら、関係を形式化するということは、個体間の距離
をとることだと理解するのが普通だからである。つまり、形式と想像的関係は、通常の理解
においては、結びつかないのである。しかし、想像的二項関係においては、互いに想像的に
融合しようとするのと、例えば敬語のコードにそって自らの言表を形式化する(=形式的な
役割をテイクする)のとは矛盾しない。想像的二項関係がドミナントな社会において、「自
分を形式化した人は、あるいは無意識に自分を形式化しようと努力している人は、想像的な
世界に閉じようという宣言をしている」(佐々木,1989a,p.170)のである。
かつて、クリステヴ7が来日した時、彼女はある講演で、いわゆる日本人の「甘え」は詩
的言語のコードによって養われていると発言した(Kristeva,1982,p.80)。この発言に対し
ては、会場から次のような反論が寄せられた。「確かに「甘え」の構造は、母一子の未分化
な二項関係に根ざしますが、それは(セミオティツクな)コーラのごとき秩序破壊的なもの
でも革命的なものでもありません。日本社会にあって、「甘え」は人間関係の総体に投影さ
れ、微妙な形でコード化されている、いわば制度なのであり、文化的コソテクストが異なる
とき、これをコーラと結びつけるのはやや安易ではないか」(Kristeva,1982,pp.85∼86:
講演後の討論の記録、発言者の名前は不明)。この興味深いやりとりは、ここでの我々の議
論に直接関わる。クリステヴァはこの講演の時点で、我々の言う想像的役割ないしは想像的
関係の区分に留意していないのである。つまり、彼女は形式化された(秩序破壊的でも革命
的でもない)想像的関係の存在をはっきり自覚していなかったのである。「甘え」は形式化
された想像的二項関係における事象である。そして、上記の反論はそれを認める立場からな
されているのである。さらにつけ加えておけば、クリステヴァは、その後、日本における想
像的領野が形式化されていることを認めたようである。「日本的≪バロック≫」と題されたイ
ソタビューにおいて、彼女は、それを「≪原初的なもの≫のコード化、秩序づけ、制御」
(Kristeva,1984=1991,p.220)という言葉によって表現している(21)。
4.本当の「わたし」という問題について
(1)対他的行為の場面における本当の「わたし」
本当の「わたし」について、役割理論は言うまでもなくその存在を認めていない。対他的
行為の場面において、欲望の主体としてのgは、役割の主体(つまり言表の主語)として特
定の「呈示された自己」を織りだしていく。カール・レーヴィットの表現を借りれば、「人
間はその生活関係においては純粋の、裸のままの個人「それ自体」ではなくて、間柄的な有
意義性の形で-ペルソナとして一現われる」(L6with,1928=1967,pp.154∼155)。そして、
レーヴィットの言う裸のままの個人「それ自体」は、どのような場面においても決して現わ
れてくることはない。なぜなら、すでに記したように、社会では舞台外の生活がなく、「
自
己としての自己」と「俳優としての自己」の区別が論理上成立しないからである。役割理論
は、様々な「呈示された自己」にひとしくリアリティーをみようとするわけである(平川,
1983,p.13)。どの「呈示された自己」も(象徴的役割にある「わたし」であれ、想像的役
ー46-
村上直樹
4つの「わたし」/本当の「わたし」:ラカニアソ理論の自己論的展開
割にある「わたし」であれ)、本当の「わたし」ではない。
しかし、我々の日常的な対他的行為においては時によって、「本当の「わたし」が出てい
ない」という思いが生じることがある(中島,1994,p.48)。役割論的に言うと「役割行動
に際して、本来の自己と、役割的な自己ということの二重性を、少なくとも反省的には、当
事主体本人が意識する」(廣松・木村・中川,1983,p.32における廣松発言)ということで
ある。では、この「本来の自己」とは何であろうか。虞松渉の役割論的な解釈によると次の
ようになる。「本来的な自己といっているものも、現場面での対他的役割存在でこそなけれ、
別のコソテクストでの、やはり対他的な関係によって規定されているものにすぎない」(廣
松・木村・中川,1983,p.32)。つまり、ここでいう「本来の自己」を、現場面以外でのコ
ソテクスト=状況の関数に帰しているわけである。ただし、このような解釈だけではまだ不
十分である。この解釈によると、「本来の自己」とは、別の場面におけるある特定の「呈示
された自己」ということFこなるが、それは、どういう「自己」なのであろうか。また、その
ような「自己」というのは、役割理論の考えに反して、他の「呈示された自己」に比べてよ
り多くのリアリティーを持っているということにならないであろうか。
我々の考えを示そう。我々の枠組みによれば、上記の問題における「本来の自己」とは自
我のことである。つまり、我々は「本当の「わたし」が出ていない」という事態を、「呈示
された自己」と自我が一致していない事態と考えるわけである。
まず、「呈示された自己」と自我が一致した事態から説明しよう。シュッツによると、「わ
れわれは、友人たちと交流し合う私的世界では役割から自由である」(Pettit,1975=1978,
p.127)。役割理論によれはもちろんこのような場面においても主体は役割を演じている(22)。
しかし、このような感覚が生じることについては役割論者も否めないであろう。我々の考え
においては、この「役割から自由である」という感覚は「
呈示された自己」が自我に一致す
ることによって生じる(23)。つまり、個体の対他的行為が自らの象徴的あるいは想像的な自我
に適う時、あたかも本当の「わたし」が表出しているような感覚が生じるのである。本当の
く友人〉 との相互行為はそのような感覚をもたらしてくれる。いや、むしろ相互行為におい
て「呈示された自己」と自我の一致をもたらしてくれる他者が一般に〈友人〉と呼ばれる存
在であると言った方がよいかもしれない。
ところで、我々の社会生活は自我の確認検査をもたらしてくれる
〈友人〉 との相互行為だ
けで成り立っているわけではない。対他的行為の場面の総体を考えれは、我々の「呈示され
た自己」と自我は一致しないことが多いであろう。ただし、この不一致のあらゆる場面にお
いて、我々は「本当の「わたし」が出ていない」と感じるわけではない。ゴフマソの言う表
局域front
region-ゴフマン自身が挙げている例で言えば、例えば服装店の店員にとっての
店頭(Goffman,1959,p.109)-においては、この不一致は当然とみなされており、「これ
は本当の「わたし」ではない」という意識が(内言として)生じることはないと思われる。
この不一致が、「本当の「わたし」ではない」という形で意識化されるのは、表の役柄から
おりていることのできる衰局域back
region(Goffman,1959,pp.112∼113)においてであ
ろう。
「呈示された自己」と自我が一致せず、「本当の「わたし_」が出ていない」という意識が
生起する事態は、いわば「意識的な実存と実践的な実存との断絶」(柄谷,1972,p.285)の
事態として考えることができるだろう。そして、我々はこの断絶による不幸な意識に苛まれ
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人文論叢(三重大学)第13号1996
続けている人物の代表として、モリエールの『人間ぎらい』に出てくる主人公アルセストを
挙げることができる(24)。芝居の冒頭、アルセストは次のように言う。「人間は人間でありた
いのだ。どんな場合にも、僕等の心の奥底を僕等の言葉にあらわしたいのだ。僕等の心がそ
のまま、僕等の言葉でありたいのだ。」(Moli昌re,1666=1952,p.8)我々はこの願いを「僕
は、僕の「呈示された(されてしまう)自己」を僕の自我と一致させたいのだ」と読みかえ
る。しかし、彼は誰と対した場合でもこの一致を達成することができない。「自分に始まり、
自分に終ることのできない」(柄谷,1972,pp.49∼51)社会的相互行為ののっぴきならない
現場において、彼は、あたかも自然史的過程のように自らを「俗物」というテクストとして
織りだしてしまうのである。あるいは、彼は自我の確認検査を可能にしてくれるような他者
との社会的相互行為の機会を持たないのである。このように追いつめられたアルセストには
2つの道があるように思われる。1つは、実際に彼がそうしたように「人間ぎらい」になる
こと。もう1つは、「イタリア人」になることである。
「人間ぎらい」になること。アルセストは終幕近く、次のような科白を口にする。「僕は
人間と交際を断ってしまうのだ。……この際人間社会から引きさがるのが、僕の身のためだ
と思うよ。」(Moli占re,1666=1952,p.86,p.89)つまり、彼は自分の自我理想あるいは理想
自我とはそぐわない「わたし」=役割を演じることを徹底的に拒否し、自らの自我を内的に
保持しようとするのである(その際、自らの自我が外部からもたらされたものであるという
ことは忘れられている(お))。柄谷行人の表現を借りれば、彼は「"他者"なしに自分自身であ
ろう」としているのである(柄谷,1989,p.82)。他者を避け、「自分の内的な過程を絶対化
すること」(柄谷,1989,p.82)によって、アルセストは確かに、他者に「呈示された(さ
れてしまう)自己」と自我が轟離するという不幸を回避できるかもしれない。ただ、彼には
「人間ぎらい」とは異なるもう1つの通が考えられる。
「イタリア人」になること。イタリアをフィールドとする人類学者宇田川妙子は、「なぜ、
彼らは喋るのか?:イタリアの一町における言葉・主体・現実」というユニークな論文の中
で次のように言っている。
彼等は、一間き手を無視した極めて自分勝手なお喋りをしていることが分かる。オノーリ
オにしろマリオにしろ、聞き手に対する配慮はみられない。彼等にとって一義的なことは、
とにかく喋ることであるとすら言うことができる。……彼等は、自分について、あるいは
自分の可能性についてとにかく喋る。その言表は、現状を把握した上での「自分は何某で
ある」という記述的な言明ではなく、「
自分は何某である」という現状を作り出すための
操作的な言表である……彼等は、それが何の根拠もなく、自分の言表の消滅と共に消えて
しまう虚構であるがゆえに、常にそれを再生産するために言表を繰り返さなければならな
いのだ。そのもろい「現実」を守るために喋り続ける彼等の態度は、外部から見ると強迫
観念のようにさえ見える。彼等が、しばしばすぐに「神経質」になるのもこのためかもし
れない。(宇田川,1993,p.50,p.59)
非常に興味深い指摘であるが、強引に解釈すれば、これは、「イタリア人」が相互行為
(「お喋りJchiacchiera)の場面において、相手の対応を無視し、一方的に自らの自我を
「自己」(ないしは「わたし」)として呈示してしまうことを指摘した文章とみなすことも
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村上直樹
4つの「わたし」/本当の「わたし」:ラカニアソ理論の自己論的展開
できよう。つまり、「イタリア人」は相手をものともせず自我の確認検査を行なうわけであ
る(茄)。アルセストも「イタリア人」になれば「人間ぎらい」にならなくてすんだかもしれな
い。
さて、以上に述べてきたように、対他的行為の場面における本当の「わたし」とは、gの
自我に一致した(役割の主体としての)「わたし」である。他者に「呈示された(されてし
まう)自己」が自我に一致する時、あたかも「役割から自由である」という意識が生じ、そ
の一致がみられないいくつかの場面において、「本当の「わたし」が出ていない」という思
いが生じるのである。よって、この観点からすれば、本当の「わたし」とは、つまるところ
自我であるということになるだろう(27)。しかし、この場合の本当の「わたし」とは当事主体
にとって(f危res)のそれである。すでに記したように、自我とは主体の外部に由来するも
のであり、また、それまでとは異なる対象(理想自我ないし自我理想)に新たに同一化する
ことによって変容する可能性も持っている。自我は、内部に起源を有するものでもなければ、
不動のものでもない。さらに言えば、想像的自我は(小)他者のイマージュが多層化した芯
のない玉葱であり、象徴的自我はシニフィアソで形づくられた一種の「張り子」である(藤
田,1993b,p.123)。自我は同一化の対象を「信じる」ことによってしか生き延びていけな
い「虚構」である。f辻r
unsには、自我(あるいは自我に一致した「呈示された自己」)を
本当の「わたし」とは呼べないであろう。
(2)内言として生成する「わたし」/くもの〉としての「わたし」
社交的、人工的な虚偽の〈外面〉と個的で真実の〈内面〉とからなりたっている二重の存
在としてのく人間〉。これは、バルトが指摘する西欧における
〈人間〉についての神話であ
るが(Barthes,1970,p.85=1974,p.83)、この神話は我々にとってもなじみ深いものであ
る。虚偽の〈外面〉と真実のく内面〉という観点からすれば、本当の「わたし」として、もっ
とも賛意を得られそうな「わたし」は、内言として生成する「わたし」であろう。これは、
人々にとってまさに「わたし」そのもの、今まさに考えつつある「わたし」である。しかし、
これはある意味では驚くべきことだが、この「わたし」は、「他」=外部そのものである。
なぜなら、この「わたし」は内言というシニフィアンであり、シ.こフィアソは、外部から与
えられるほかないものだからである。
それが存在するためには、そのもの以外を必要としない「わたし」を、本当の「わたし」
とするならば(cf.中島,1994,p.12)、我々にとってのそれは、欲望の運動あるいは欲望の
主体である。内言として生成する「わたし」は、この欲望の運動がシニフィアンに掬いとら
れることによって現実化する、欲望の運動の疎外態である。そして、この内言として生成す
る「わたし」は、本当の「わたし」としての欲望の運動に遭遇することは出来ない。ジジュ
クの次の文章(詣)はそのことについて述べたものである。
「わたしは考える」が、わたしは、考える〈もの〉としてのわたし自身には近づけない。
……わたしがわたし自身を意識するのは、わたしという存在の現実の核としてのわたし自
身に、わたしの手が届かない限りでしかない。わたしは、「考えるもの」としての能力をもっ
たわたし自身を意識することはできない。(2i羞ek,1993=1994,pp.23∼24)
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人文論叢(三重大学)第13号1996
「わたしは考える」の「わたし」は内言として生成する「わたし」であり、「考える〈も
の〉としてのわたし自身」とはいうまでもなく欲望の運動のことである。くもの〉という表
現は、欲望の運動が身体という現実界の領域に属していることを示している。〈もの〉とは、
シニフィアソの外にあるものであり、いわば「無媒介なるもの」である。この表現できない、
象徴化され得ない〈もの〉の領域が現実界であり、人間はまずこの現実界に誕生する(藤田,
1990,p.315)。象徴的去勢以前の「生の主体」=欲望の運動は現実界に属すくもの〉であ
り、「gの存在のうちの生きている部分」たる欲望の主体も〈もの〉である。
としての
さて、ジジュクが指摘するように、内言として生成する「わたし」は、くもの〉
主体には手が届かない。ラカニアソの理論では、この関係を説明するために疎内extimit6と
いう用語が使用されている。疎内とは、いわば「内に含まれた外部」ext6riorit昌intime
(Lacan,1986,p.167/小笠原,1989,p.45)、あるいは、「自己にとってもはや外部である
内部」(福本,1993,p.115)であり、〈もの〉としての主体=欲望の主体はgに対してこの
疎内という位置を占める。〈もの〉
表現を使えば、「我々の存在の核心」Kern
としての主体は、gの存在の「芯」であり、フロイトの
unseres
Wesen(Freud,1900=1969,p.375)
であるが、それは、gの中心にありながら、いつもそこから逃げ去り、gの外部に位置する
というあり方をするのである(Lacan,1960(1966),p.656=1981,p.103/加藤,1995,p.
175)。言表の主語ないしは内言として生成する「わたし」は、このくもの〉としての主体の
いちはん近くにいながらも、それとは、永遠に遭遇できぬ関係に置かれていると言えよう。
すでに2で引用したように、「私が考えるのは私が存在しないところにおいてである。ゆえ
に、私が考えないところに私は存在する」(Lacan,1957b(1966),p.517=1977,p.268)の
である。
なお、若森栄樹は、この両者の関係について、さらに次のような説明をしている。「主体
は常に自己自身に対して偏差(クリナメソClinamen)としてあらわれ、そしてそのような
偏差のうちでこそ主体は自己を(他者として)発見し、把握する」(若森,1988,p.210)。
ここで言う主体とはシニフィアソによって姿を与えられた主体(gにおけるシニフィアソに
打たれて死んだ部分)であり、自己自身とは〈もの〉としての主体である。ルクレティウス
は、『物の本質について』の中で、物を構成する基本単位(エレメント)たる原子は「クリ
ナメソ」という性質を内在させていると説く(Lucretius,55?B.C.=1961,pp・71∼72)。こ
の考え方に従えば、原子の運動は常に自分自身からズレを作り出そうという差異化のプロセ
スに貫かれていることになる。原子の運動は、どんな微小な領域においても絶えずズレを生
み出すという斜傾運動を続けているのである(中沢,1988,pp.46∼51)。欲望の運動たる
〈もの〉としての主体もルクレティウスの原子同様、いつもすでに、シニフィアソの領域=
象徴界にズレている。そして、このズレによるクリナメソにおいて、〈もの〉としての主体
は自己を(大文字の「他者」Autre=シニフィアソとして)認識するが、それは、あくまで
もクリナメソにおいてであり、クリナメソとしての主体はズレ以前の自己自身を知ることは
ないのである(か)。
ところで、「私は考える」は、欲望の主体の消失点であるが、この消失=アブァニシスは、
原初の消去(「生の主体」の象徴的去勢)の反復である。そして、この原初の消去において、
〈もの〉としての「生の主体」は、分裂した主体gとして象徴界=シニフィアンの世界に参
入する。シニフィアソによって姿を与えられたgが、欲望の主体に遭遇できないことはすで
-50-
村上直樹
4つの「わたし」/本当の「わたし」:ラカニアソ理論の自己論的展開
に述べた。ただ、このgは、欲望の主体の起源とも言うべき「生の主体」が「雑種=不純な
存在1ebatarde」として生みなおされる(佐々木,1984,p・279)場面、すなわち原初の消去
の場面に到達したいという欲望を持つ。「私は、私の生命が消え去った現場を目撃すること
によって、私のかつての生命の証人になることを欲するのである」(新宮,1993,p・66)。そ
して、この「消滅の場に到達したいという欲望」に対応するのが精神分析である(新宮,19
93,p.89)。分析の実践において、gは原初の消去に向かって象徴界の道を辿っていく(新
宮,1993,p.82)。では、分析によって、gは首尾よく消去の場面に辿りつき、「私のかつて
の生命」を目撃するであろうか。
新宮一成が挙げる具体例を見てみよう。以下は、分析の過程におけるある離人症患者の夢
の断片である。
子供の誘拐事件が起こり、その後の行方不明の期間が長く続く。その行方を、いわゆる
霊能者のおばさんが透視して、海岸の岩のどこそこに、死体がひっかかっている、という○
両親と警察が行ってみると、その岩場には、ロープと、その子の崩れ落ちた骨と、それだ
け新真しいような、B6くらいの手帳がある……(新宮,1993,pp・86∼87)
新宮によれば、この夢の中の「誘拐」や「行方不明」は主体の消去を意味し、「崩れ落ち
た骨」はこの消去によって残された開口部に現われる主体の寸断された実像を表わす○シニ
フィアソの世界に主体が入ってきた過程は、シニフィアソの世界にあいた「穴」=「開口部」
b6ance(30)として残っている。そして、この開口部がもうないものとしてのかつての自分=
「生の主体」とのつながりを保つ(新宮,1990,p.7)。上記の夢やフロイトによる精神分析
の経験的事実によれば、原初の消去に向かうgが遭遇するのは、この開口部に現われる、あ
るいはこの開口部を暗示する「生の主体」の寸断された姿の諸要素にすぎない(新宮,1993,
pp.85∼86)。失われた自己の本当の存在を自ら証言しようとするgの欲望は十全な形で満
たされることはないのである。
それが存在するためには、そのもの以外を必要としない「わたし」を、本当の「わたし」
とするならば、我々の枠組みでは、それは欲望の主体、あるいはその原初の形態とも言うべ
き象徴的去勢以前の「生の主体」である。しかし、以上に述べてきたように、人はそれによ
るものでありながらも、それを知ることはできないのである。
結
語
自分と他者に対する可視性をもとに「わたし」の頸型を呈示した「ジョハリの窓」(青井,
1974,p.251/石川(准),1992,pp.24∼25)と呼ばれる図式(図1)がある。ここで、こ
の「ジョハリの窓」と対応させることによって、これまでの議論を整理することにしたい。
まず、図式を説明しよう。左上0(open)は、自分にも他者にも意識されているオープ
ソな「わたし」、左下B(blind)は、他者には意識されるが、自分には見えない気づいてい
ない「わたし」、右上H(hidden)は、自分には意識されるが、他者には見えない隠された
「わたし」、そして、右下D(dark)は、自分にも他者にも意識されない暗闇の中の「わた
し」である。
-51-
人文論叢(三重大学)第13号1996
我々の図式において、0に相当する
自分に可視的
のは、対他的な役割行為の主体と見な
される言表の主体である。言表の主体
は他者に応じて多様な相貌を持つが、
明らかに自分にも他者にも見えるオー
プソな「わたし」である。次にBの
成する「わたし」像である。我々は他
他者に不可視
対する役割行為を素材として他者が構
他者に可視的
「わたし」であるが、これは、他者に
者が自分についてどのような像を構成
しているのか決して知ることはできな
い。その意味でこれは、まさしく自分
には見えない「わたし」である。我々
自分に不可視
は他者との相互行為を通して当該の他
者についての一定の像(「彼は裏表の
図1
ジョハリの窓
ある人だ」、「彼女はしっかりしてい
る」等々)を構成している。Bの「わたし」はこの他者像に相当するものである。この「わ
たし」は我々の自己論の対象にはなっていないが、これは、そもそも自己論の対象というよ
りは、他者(構成)論(cf.村上,1989,p.198)の対象であろう。次に、Hであるが、我々
の枠組みでこれに相当するのは、内言として生成する「わたし」及び自我である。いずれも、
他者に不可視の隠さゎた「わたし」である。そして、自分にも他者にも意識されないDに当
たるのが、欲望の主体である。この欲望の主体を知ることの不可能性については前章で述べ
た通りである。
ところで、石川准は「ジョハリの窓」における4つの「わたし」の内、どれが、本当の
「わたし」であるのかという問題を提起している。彼自身のアソケート調査によれば、対象
者の6割が、Hの「わたし」を本当の「わたし」と答えたという(石川(准),1992,p.25)。
これは、先にふれた「虚偽の〈外面〉
fdr
と真実の〈内面〉」という神話にも見合うものである。
esには、内言として生成する「わたし」、ないしは自我が本当の「わたし」ということ
になるであろう。しかし、前章で論じたように、それが存在するためには、そのもの以外を
必要としない「わたし」を本当の「わたし」とするという学理的省察老の見地から(fur
uns)すれば、Dに位置する「晴間の中の」欲望の主体が本当の「わたし」ということにな
るのである。
本稿は、我々が企図している自己論のための第一草稿である。残された課題は数多い。さ
しあたっては、本稿の3で着手した、役割理論をラカニアソ理論に接続する作業を、「役割・
自我・想像的二項関係」と題する別稿において、さらに進める予定である。
ー52一
村上直樹
4つの「わたし」/本当の「わたし」:ラカニアソ理論の自己論的展開
註
(1)ベーター・コスロフスキーによると、このような対立の図式は、すでに、フィヒテによっ
て呈示されている。フィヒテは人間を2種頬に分摂した。1つは、最深奥の自我を受け入れ
る人間であり、もう1つは、それを認めない人間である。前者は、自我の最も内なる核は常
にすでに現在しており、外界の介入から免れていて、この人格の中心に人間の特別な尊厳が
あると確信している人々である。これに対して後者は、自我とは作られたものであり、社会
化と共同体によってかたどられたものであると考える人々である(Koslowski,1987=1992,
p.77)。フィヒテの言う対立は、自我諭対役割理論の対立に完全に重なり合うわけではない
が、「真の自己」の存在をめぐって対立している点においては同じである。
(2)本稿において、我々は「自己」ないしは「わたし」という言葉を非常に広義に使用する。
「自己」ないしは「わたし」という言葉は、ここでは、自我、役割としての自己、及び後に
持ち出す主体のすべてを包合すると理解していただいてさしつかえない。
(3)本章の内容は、旧稿(村上,1995)の内容と一部重複する。旧稿の整理で不備だった点は
本章では修正してある。なお、欲動と欲望の展開過程の整理及びクリステヴァ理論による補
足は旧稿にはないものである。また、旧稿でくわしく説明したファソタスム、享楽について
は、本稿の内容に直接関わらないので割愛した。
(4)例えば、小林敏明は、「他者の態度の組織化されたセット」である客我meを役割に重なる
ものとして解釈し、テレソバッハの言うメラソコリー親和型における役割への過剰な自己同
一化を客我にのみ支配された自己欺瞞であるとしているが(小林,1987,p.45)、言表の主
体とは、3で述べるように、役割の主体とみなされうるものである。なお、ミード自身が自
我の発達を説明するときに使用する「役割」は、ここで言う役割とは異なるものである。ミー
ドが「他の個人たちの役割をテイクする」という場合、それは、「他人たちり重墾に自分自
身を置く」ということである(Mead,1934,p.141=1973,p.155)。
(5)シニフィアソの世界に入った主体の欲望の対象は、対象a(l'objet
a)である。あまり指
摘されないことであるが、この対象aは2つの分節を持っている。1つは、象徴的去勢の際
に失われる
〈母〉であり(藤軋1993c,p.95)、もう1つは、鏡像段階において〈母〉
う全体的な対象に収赦し、象徴的去勢の際に決定的に失われる部分対象である(小川,
1994,p.29)。この対象aについて、向井雅明は、前期ラカソにおいては想像的対象であり、
後期ラカソにおいては現実的なもの(le
r6el)であるとしている(向井,1988,p.211)。想
像的対象としての対象aとは、失われたく母〉であり、現実的なものとしての対象aとは、
失われた部分対象であろう。主体は、この対象aに到達することは決してない。象徴界にお
いて、対象aを求める主体の欲望は、対象aのルアー(騙し餌)を求める欲望にすり替わっ
てしまう。「主体は代わりの対象以外は決して見いだすことはできない」(Lacan,1981,
p.98=1987a,P.140)のである。そして、「主体が欲望するどんな対象も対象aの代替物以
外のものであることは決してない」(Schneiderman,1980,P.4)。すなわち、対象aは欲望
の(到達されざる)対象であるとともに、主体のあらゆる欲望の基本的な動因なのである。
(6)もちろん、立川健二も指摘するように、サンボリソクの住人である「語る主体」=「シニ
フィアンに姿を与えられた主体」から見た場合は、セミオティツクという様態は、いかに分
節化されていようと、不定形な「カオス」としてしか映らないであろう(立川,1984,p.33)。
(7)アリストテレスやプロティノスによって論じられてきた「一者」1'unについて、例えば、
若森栄樹は次のように説明している。「それは、それ自体は現前しないまま、一切の現前を
自らの方へ吸引するある力であり、その非一現前性のゆえにそれについての一切の言責を不
可能にするが、同時に一切の言表を自らの方へ引き寄せ、一一切の言表を自らの表現としてし
ー53-
とい
人文論叢(三重大学)第13号1996
まうような力である。」(若森,1985,p.226)ラカニアソの用語系では、クリステヴァも指
摘するように、これは「父の名」=象徴的ラアルスに相当するであろう。
(8)このような見解は、例えばロックによって表明されている。ロックによれば、「言葉は直
接には人々の観念の記号であり、これによって人々が自分の想うところを伝達して、相互に
自分自身の胸中にある思想・想像を表現する道具である」(Locke,1689=1980,p.136)。
(9)
ラカソは、内言については、とりたてて論じてはいないが、「いわゆる内的な独り言が外
的な対話と完全に連続している」(Lacan,1981,p.128=1987a,p.186)ことば指摘してい
る。
(10)「外言から内言へ」といった図式のみならず、その理論構成全体において、パフチソとヴィ
ゴツキーとの間の親近性、影響関係が指摘されている(Holquist,1990=1994,pp.113∼
116/桑野,1979,p.203/磯谷,1979,p.362)。しかし、両者の間には決定的な立場の相違
が存在する。ホルクウィストは、パフチソもヴィゴツキーも共に、「思考は内的発話である
と仮定している」(Holquist,1990=1994,p.115)と述べているが、これは間違いであろう。
「意識は記号という物理的な現象へと具体化されて初めて実現され現実のものとなる」
(Bakhtin,1929=1980,pp.16∼17=1989,p.18)とするパフチソは確かに思考は内言であ
るという仮定を立てていたであろう。しかし、ヴィゴツキーはそうではない。彼は、思考と
言語という問題を考えるに当たって、思考と言語を同一視する学派よりも、言葉を思考の衣
裳=外的表現として見るビュルツプルグ学派のような人々の方がより好ましい立場に立って
いるとする(Vygotsky,1934(1956)=1971a,pp.14∼17)。彼は、思考にとっての内言の意
義をきわめて大きなものとしているが、思考の過程を内言の過程そのものとは考えないので
ある。しかし、後に略述する彼の内言に関する議論は、我々にとって看過できないものであ
る。
(11)このような作業を進めるにあたっては、まず、内言論と藤田博史による心的回路論(藤臥
1993b,pp.13∼75)のつき合わせを考えている。
(12)「考える私」の存在について、『省察』では、さらに次のような時間的条件がつけられて
いる。「私は有る、私は存在する、これは確実だ。しかし、いかなる聞か。もちろん、私が
思惟する間である。なぜというに、もし私が一切の思惟をやめるならば、私は直ちに有るこ
とを全くやめるということが恐らくまた生じ得るであろうから。」(Descartes,1641=1949,
p.41)この場合、文脈から考えれば、「私が思惟する間」というのは、『方法序説』におけ
るのと向様、「すべては偽である、と考えている間」である。ところで、我々は常に方法的
懐疑を行っているわけではない。とすれば、「私」は持続性をもたないということになるの
ではないか。この点に関して、伊藤勝彦は次のように論じている。まず、デカルトは、現実
的意識の内から、方法的懐疑によって感覚・想像力などの作用を切り離し、純粋な精神へ高
まりゆく上昇の過程の頂点において、「私」の存在の確実性に到達した。ところが、彼は、
純粋知性としての「私」から実体としての「私」を導きだすために、再び方法的懐疑以前の
現実的意識の内に何の矛盾もなく回帰してしまう(伊藤,1967,pp.179∼180)。「私」の存
在の確実性に到達した後、彼は、「私」を「思惟するものres
cogitans」と規定し、その内
実をさらに「疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なおまた想像し、感覚するも
のである」(Descartes,1641=1949,p.43)と説明するのである。このように、現実的意識
の立場に回帰してしまえば、現在の瞬間に、疑いという思惟の様態が欠如していても、常に
別の様態の思惟(例えば、感覚する思惟、想像する思惟)が現前していることになる。つま
り、「私」の存在は常に持続するということになるのである(伊藤,1967,p.181)。なお、
デカルトは、『省察』に続く『哲学原理』において、思惟を認識と意欲という2つの一般的
様態からなるものと規定している。認識とは知性の作用であり、それには、感覚する、表象
ー54-
村上直樹
4つの「わたし」/本当の「わたし」:ラカニアソ理論の自己論的展開
する、及び純知的に捉えるといった異なる認識様態が含まれる。また、意欲とは意志の働き
であり、それには、欲する、拒む、肯定する、否定する、疑うといった異なる意欲様態が含
まれる(Descartes,1644=1964,p.57)。デカルトによると、知性の認識が及ぶ範囲は限定
されているのに対して、意志の範囲は無限である。判断における誤りは、意志の働きが、明
噺に認識されるものの外にまで及ぶことに原田を持つ(Descartes,1644=1964,pp・58∼59)。
(13)このことについて、カソトは次のように言っている。「思惟する老としてのかかる「私」
或いは「彼」或いは「それ(物)」によって表象されるのは、思考[作用]の先験的主観即
ちⅩでしかない。この主観は、その述語であるところの思考[作用]によってのみ認識せら
れる。かかる述語をもたなければ、我々はこの主観についてまったく知るところがないので
ある、従って我々は、徒にこの主観のまわりをいつまでも堂々めぐりしてい寧ければならな
い。」(Kant,1781(1990),p.374=1961,p.62)
(14)なお、ニーチェが指摘する「信仰」、「習慣」によって、「考える私」を措定したのはデカ
ルトだけではない。例えば、W.ジェームズは、「考える主体」としての主我Ⅰをめぐる議
論の中で、次のように言っている。「われわれが「I」と言うときにごく自然に考えるもの
は、何か常に同一のものである。このために多くの哲学者は経過的意識状態の背後に不変の
実体、あるいは行為者を仮定するようになった。この行為者が考える主体であり、「意識状
態」は単にその道具あるいは手段である。「霊魂」、「先験的自我」、「精神」などは皆、こ
の不変の考える主体の呼び名である。」(James,1892=1992,p.273)
(15)デカルトとラカソの関係について、例えば、フーコーは次のように言っている。まず、デ
カルトからサルトルにいたるまで「そこからすべてが生まれてくるような根源的な点として
の主体」(=デカルトの言う「考える私」)・は、人が手を触れないものであり、問題にされる
ことのない事柄だった。このはじめにあるとされたデカルト的主体が、実はいくつかの作用
から形成されていて、根源的なものではないこと、つまり、それ自身、生成と形成の過程を
持つことをあきらかにすることにおいて、ラカソは決定的に重要であった。ラカソは、バタ
イユ、ブラソショ、クロソウスキーらと共に、デカルト的主体というはじめにあって自明の
理とされたものを解体したのである(Foucault・渡辺,1978,pp.50∼54)。ラカソによるデ
カルト的主体の解体という大筋はその通りであろう。しかし、フーコーのこのような見解に
はいくらかの修正が必要である。まず、デカルト的主体とは人が手を触れなかった事柄では
なく、ラカソ以前にも、様々な疑義を呼び寄せてきた概念である。哲学と精神分析の関係を
論じるイヴォソ・ブレスによれば、「認識の絶対の基礎としてのコギトという観念は、過去
においても殆んど保持されたことはなかった。ヒュームのような哲学者は、主体の非独立性
とでも呼ぶべきものについて、精神分析の影響を受けた近代の思想家なら否認しないであろ
うことを随分と沢山述べ立てている」のである(Br占s,1983=1984,pp.93∼94)。また、デ
カルト的主体に対するラカソの意義は、フーコーが言うように、それがいくつかの作用から
形成されていることを指摘したことではなく、それがそもそも基体ではなく欲望の流れその
ものであることを示唆したことであろう。
(16)′自我心理学はこれを自我による無意識の統御の必要性を述べた文と解釈する(若森,1988,
p.217)。現行の「かつてエスであったものを自我にしなければならないのです。」(Freud,
1933=1977,p.298)という訳文はこのような立場に立つものだろう。
(17)自我の意味ではフロイトは常に定冠詞をつけてdasIchと表記している(若森,1988,
p.218)。
(18)『社会学のための詩学』(1977)の中で、リチャード・ブラウソは、社会理論とは基本的
にメタフォリックなものだとしている。そして、この・「メタファーとしての社会理論」は、
「世界についての基本的なイメージ」であるルート・メタファーrOOt
metaphorから生成し
-55-
人文論叢(三重大学)第13号1996
てくる。社会学には5つの主要なルート・メタファーがあり、それは有機体、機械、言語、
演劇、ゲームである(Brown,1977,pp.77∼171)。ここで言う「演劇モデルに依る理論的
枠組み」とは、演劇というルート・メタファーから引き出されてきた理論モデルのことであ
る。なお、後述するように、演劇モデルに依る役割理論は、社会を演劇に喩えるだけではな
く、社会を上演の過程そのものとみなそうとするものである。
(19)正確に言えば、このコードは個々の役割行為の遂行以前には存在しない。よって、主体は
意識的にコードに従うことはできない。コードは事後的にしか見出せない。遂行してしまっ
た対他的行為を振り返る時、それが一定のコードにそったかたちになっていることが気づか
れるだけである。コードは、行為のその都度に再生産されるのである(村上,1988,p.110)。
そして、このコードは、歴史的に形成された間主体的な「沈殿」であるのにもかかわらず、
あたかも天与のもめとして、主体の対他的行為を規制する。しかし、このコードは、対他的
行為の場面において、再生産されると同時に破壊されもする(小林,1986,p.234)。つまり、
役割コードは、不断に生成変化するという特質も持つのである。rOle-takingの過程は、そ
のままrole-makingの過程でもあるのだ。よって、主体が、特定の他者との関係において
身にまとう役割はまったく不動のものではない。
(20)このような課題に取り組む中で、かつて熊野純彦が提唱した「言語的相互交通を、「役割
行動」の一班として定位していく」(熊野,1986,p.184)という作業も推し進められるであ
ろう。
(21)クリステヴ7の言う「≪原初的なもの≫のコード化」を、棚沢直子は、日本語の構造自体
にセミオティツクが入り込んでいることだと解釈する(棚沢,1991,p.265)。サソプランに
関する議論を取り込んだ我々の枠組みからすれば、このような解釈は支持しがたい。
(22)
〈友人〉との関係においても役割が演じられることについて、例えば、小林敏明は次のよ
うに言っている。「「友人」として相手を意識した瞬間から、それに応じて私の行為あるいは
態度、振舞いの仕方は変わってくる。つまり、友人に対しては友人らしく振舞うのである。
……過去から現在に至るまで、私と彼とが互いに行なってきた対他行為の総体が、すでにひ
とつの友人どうしという漠然とした〈コード〉のようなものを作り上げて、今や私の方も彼
の方も、初めからその友人どうしというコード的世界の中に入らざるをえないような構造が
できており、その漠然としたコードのようなものに即して対他行為が行われたとき、それが
〈らしく〉という意味をもつ」(小林,1985,p.191)。
(23)この一致とは、裸のままの個人「それ自体」が表出するということではない。
(24)ラカソも「心的因果性について」(1946)の中で、『人間ぎらい』のアルセストを論じてい
るが、それは、我々とは異なる観点からである。
(25)自我が他者を介して構成されるにもかかわらずこの他者性の契機が無視される機制を、加
藤敏は「パラノイア性無視」の機制と呼んでいる(加藤,1995,p.251)。
(26)ただし、他者の是認がなければ本当の意味での自我の確認検査とは言えないかもしれない。
(27)小出浩之も、我々が日常的に使う「本当の自分」とは、自我理想であると述べている(小
出,1993b,p.173)。
(28)これは彼のカント論の中の文章である。しかし、ここで言う
〈もの〉としての主体は、カ
ソトの言う「物自体としての自我」=「可想界に属する自我」(『実践理性批判』)とは異な
るものである。参考までに、ミードに従ってカソトの議論を要約すれば次のようになる。現
象界では、あらゆる出来事は、先行する出来事を原因とし、因果律のもとにある。自我はこ
の現象界に属さない。なぜなら、私たちは、自由に行為することができ、こうした因果律を
こえることができるからである。自由に行為する私たちは、自分の行為に対して責任がある
ことを認める。このような因果律にしばられない、責任をおう自我は、現象界ではなく、可
ー56-
村上直樹
4つの「わたし」/本当の「わたし」:ラカニアソ理論の自己論的展開
想界にある。つまり、自我は「物自体」である(Mead,1936=1994,pp・130∼131)0
(29)このような関係はこれまで、反省の循環構造における無限遡行として記述されてきた0次
の文章はその一例である。「われわれが通常「自我」と呼んでいるものは、いわゆる反省の
作用によっては決して到達できない。反省によって表象された自我は、表象する自我の産み
出したイメージにすぎない。この「表象する自我」を反省してみても、これまたこれを反省
している自我の産み出したイメージである。」(木村,1975,p.6)ここに出てくる「自我」
とは、もちろん、我々のいう「自我」ではない。最初に出てくる「自我」ないし「表象する
自我」が、欲望の運動であり、「反省している自我」が我々のいう内言として生成する「わ
たし」に相当する。なお、上記のような無限遡行の構造は、イソドのウパニシャッド(前八
世紀以降成立)においてすでに指摘されている。例えば、「一切を認識するところのもの」
を不可捉であるとするヤージュニヤヴ7ルキヤの議論の中に、「奥へ奥へとひっこむ」真の
自分についての洞察が見られる(定方,1990,pp・16∼21)。
(30)この開口部とは、ほぼ象徴的ファルスに相当する。ラカソは最初、主体の象徴化の起源の
トポスとして原初的なシニフィアソ=象徴的ファルスを措定したが、やがて中期にいたって、
これをシニフィアソというより一種の裂け目、空隙のようなものとして考えるようになり、
それを開口部という言葉によって表現したのである(金・新宮,1989,p・106)。
文
献
姉歯一彦1993「同一化・同一性」,′J、出浩之編『ラカソと精神分析の基本問題』,弘文堂
青井和夫1974「社会体系の深層理論」,青井和夫編『社会学講座1理論社会学』,東京大学出
版会
有福孝岳1994「フィヒテと西田」,『フィヒテ研究』,第2号
坂本百
UniversityPress・=1978
Austin,J.L.1962Lbtodb77dngsudihl析〝め,0Ⅹford
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Thing)which
thinks",Graduaie
Fbcully
Philoso錘y
村山敏勝訳「考えるわたし、考える彼、考えるそれ(〈も
の))」,『現代思想』,3月臨時増刊号
*括弧内の年号は、実際に参照した版の出版年である。本文中には、この版のページが示してあ
る。例えば、(Lacan,1964(1966),P.835)とある場合、p.835は、初出1964のページではな
く、参照した版1966(この場合は、かょ′s)のページを指す。
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