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植民地在住者の政治参加をめぐる相剋
95 植民地在住者の政治参加をめぐる相剋 「台湾同化会」事件を中心として 岡 本 真希子 本稿では,日本の植民地統治下におかれた台湾在住者の政治参加要求をめぐる,植 民地社会および本国における相剋の過程を検討する。対象は,1914~1915年の間に台 湾人の権利獲得を目的とした「台湾同化会」成立から壊滅までで,台湾人・内地人双 方の動向を視野に入れ,とりわけ在台湾内地人(総督府および民間内地人)の動向を 明らかにしながら,政治参加と民族問題,植民地統治体制の相関関係について考察す る。 1.はじめに 1. 1 先行研究と本稿の視角 本稿は,日本の植民地統治下におかれた台湾在住者の政治参加要求をめぐる,植民地 社会および本国における相剋の過程を検討し,政治参加と民族問題,植民地統治体制の 相関関係について考察する1)。対象は,台湾人の権利獲得を目的とした「台湾同化会」 (以下,鍵カッコ省略。または同化会と略す)で,その成立から壊滅まで(1914~1915 年)の期間である。この時期は,台湾では武断統治期,本国では大正デモクラシーの気 運が高まり始める時期にあたり,そのなかで武装抗日運動とは異なり台湾人の権利要求 を試みる台湾同化会が結成された。その直接的な契機は,本国の自由民権運動の雄であ る板垣退助の渡台とされている。 従来の研究で台湾同化会は,台湾人の抗日運動史上で重要な位置を与えられてきた。 早くは許世楷が「統治確立後」における台湾人の「政治運動の台頭」と位置づけた2)。 若林正丈は「台湾議会設置請願運動の抗日運動史上の先駆となったのは,一九一四年か ら一五年にかけての台湾同化会の運動と,第一次大戦の終り頃東京留学生の間に萌芽し 3) かけた「六三法」撤廃運動であった」 とし,台湾領有以後に台湾内で展開された台湾 人の武装抗日運動と,1920年代以後に台湾と本国を架橋しながら展開された合法的な 96 社会科学 第 40巻 第 3号 政治・社会運動である台湾議会設置請願運動との画期をなす動きとしている。また,呉 叡人の研究では,台湾同化会の挫折を台湾人アイデンティティの形成,台湾ナショナリ ズムの勃興を促す契機として論じている4)。メディア史では李承機が,在台湾内地人の 5) メディアである『実業之台湾』 を用いながら,台湾同化会事件を在台内地人社会内部 の「官民対立」が解消され「官民一致」の重要性を見出した契機として位置づけており, 植民者社会内部の亀裂に目配りした興味深い論点を提出している6)。このほか五味渕典 嗣が,のちに『改造』社社長となる山本実彦に着目し,山本の『東京毎日新聞』 (以下, 『東毎』と略す)社長時代に台湾同化会事件にからんで検挙・収監された経緯を扱って おり,従来未検討の『東毎』を発掘し本国の内地人メディア関係者の動向を検討した点 で興味深いが,同時代の台湾内部の状況,特に台湾人や総督府・在台内地人の動向の検 討は不十分で,台湾史における文脈,政治史における考察を欠いている7)。 このように従来の研究で台湾同化会は,台湾史では台湾人の抗日運動史の画期として 論じられ,メディア史では台湾・本国在住の内地人の動向に着目して分析されてきたと いえる。しかしながら,台湾人・内地人双方を視野に入れながら,同化会成立から壊滅 に至る政治過程そのものを分析した研究はない。とりわけ,在台湾内地人(総督府およ び民間内地人)の動向についての検討は不十分といえる。 では,植民地在住者の政治参加運動に関する研究はどうか。台湾同化会事件は,台湾 史の文脈では,前述のように台湾人の政治的権利の側面に主眼がおかれてきた。しかし, ・・・・・ ・・・・・・ 台湾在住者の政治参加の問題,延いては植民地在住者の政治参加問題は,当該地域の被 支配民族の問題に限定されるものではない。植民地在住の本国出身者,他の植民地在住 者,本国在住者など,帝国内の各地域在住の各民族の政治的権利問題とかかわる,帝国 内の政治秩序の問題として捉え返されねばならないはずである。にもかかわらず,植民 地在住者の政治参加問題を論じる研究は,必ずしも多くはない。この要因としては,従 来の植民地研究が「支配対抵抗」という二項対立図式の枠組みのなかで論じられてきた ことがあげられよう。そこでは本国からの分離をめざす独立運動に高い評価が与えられ, かつ,独立運動の支柱となる民族運動が主な分析対象とされてきた。 “政治参加”を目 指す政治運動は,植民地支配の存在をさしあたりは前提とせざるを得ないため,分析の 対象外となりがちである。また,民族運動という視点からは, 「同化」志向を有する政 治的権利要求運動もまた対象外とならざるを得ない。近年は,こうした二項対立図式の 枠組の枠組みに収斂されない,植民地期の政治運動の多元的な様相,植民地社会の重層 的な構造が明らかにされつつあるが8),こうした作業はまだ端緒についたばかりといえ 植民地在住者の政治参加をめぐる相剋 97 よう。 以下,本稿では,台湾人・内地人のなかの複数のアクター,すなわち,台湾在住者の なかの台湾人・内地人,在台内地人のなかの総督府側・民間人といった官/民の異同, 本国における同化会主導者・メディア関係者や政府・軍部関係者などにも着目しながら, 重層的に絡み合う,植民地をめぐる/おける政治構造を明らかにしてゆく。こうした手 法をとることで,複数民族から構成され複数の法域から形成される植民地帝国日本と台 湾における,相関関係の政治過程が浮かびあがるであろう9)。 1. 2 資料について 従来の台湾同化会関連研究の上記のような問題は,資料的な制約にも起因する。とり わけ統治政策史のみならず抗日運動史でも利用されてきたのが,台湾総督府警務局編 『台湾総督府警察沿革誌』の第2編「領台以後の治安状況(中巻)台湾社会運動史」で ある(以下,『台湾社会運動史』と略す)。同書は,1939年に台湾総督府警務局が部外 秘で発行し,戦後に日本・台湾双方でたびたび復刻・翻訳されており10),1990年代後半 以降に台湾における資料公開が進む以前には,重要な基本的資料とされてきた。しかし 官憲作成資料で警察の「正史」でもある同書には,資料選択や記述にバイアスがかかっ ていることは否めない。また本稿作成にあたり,同書の台湾同化会関連部分につき,台 湾総督府の御用新聞『台湾日日新報』 (以下『台日』と略す)の記事と対照したところ, 同書は『台日』記事をほぼ同一の文言で全文転載もしくは一部省略して記載しており, 出典を明記せず『台日』記事に依拠している部分が大きいようである。したがって,同 書の台湾同化会事件に関しては,1939年時点で作成された二次文献という限界も併せ 持つと考えられる。 そこで本稿では,近年格段に進展した資料公開や利用環境の成果を反映させながら, 複数の立場から作成された資料を多面的に用いて検討する。具体的には,①前掲『台湾 日日新報』 ( 『台日』 )の日文欄および漢文欄,②台湾同化会の本国側メディア関係者の 動向つき『東京毎日新聞』 ( 『東毎』 。国立国会図書館新聞雑誌資料〔マイクロ資料〕室 11) 所蔵〔東京〕) ,③在台民間内地人の議論につき雑誌『新台湾』(国家図書館台湾分館 所蔵〔台北〕 ) ,④台湾総督府側の動向として台湾総督府作成の公文書である「台湾総督 府公文類纂」 (国史舘台湾文献館所蔵〔台中〕 ) ,⑤当該期の佐久間左馬太総督の秘書官・ 鈴木三郎の資料「鈴木三郎関係文書」 (国立国会図書館憲政資料室所蔵〔東京〕 ) ,その うち総督府首脳部の動向に関する電報類,佐久間総督の書簡草稿,⑥林献堂など台湾人 98 社会科学 第 40巻 第 3号 側の主要人物の動向については回顧録,各地方の台湾人の動向については『台湾日日新 報』の漢文欄の記事・投稿などを用いる。 以下,本稿の構成は,第二節で台湾同化会成立期の時代背景を概観し,第三節以下で は,板垣退助の初渡台の波紋(第三節) ,同化会成立と板垣の再渡台(第四節) ,同化会 の撲滅へ(第五節) ,というように時系列で検討してゆく。 2.台湾同化会成立期の時代背景 2. 1 民族構成と参政権の位相 台湾は,複数民族から構成される社会であった。日清戦争の結果,1895年に日本が 12) 領有した台湾には,本国からの移住者,すなわち「内地人」 が都市部を中心に生活し, 統治機構たる台湾総督府や各地方庁などの植民地官僚組織は,内地人がほぼ独占してい た。他方,内地人の移住以前からの居住者として,主に16世紀以来対岸の中国大陸か ら移住してきた漢族出身の台湾人がいた13)。さらにそれ以前からの居住者である先住民 14) 族である「原住民」 がいた(以下,呼称のカッコを省略する) 。 帝国日本は複数の法域から構成され,植民地台湾と本国とは異なる政治体制下にあり, ・・ ・・ 「異法域」を形成していた。そして法の適用方法は,属人的適用と属地的適用が交錯す る状況におかれていたため, 「帝国臣民」の権利・義務関係は,極めて複雑なものとなっ ていた15)。台湾同化会成立期にあたる1915年時の台湾と本国における民族別の権利・義 務の様態を示したものが, 【表1】である。参政権は,本国在住者の内地人には,納税 制限付きながらも付与されていた(男性のみ) 。しかし,本国在住の非内地人(朝鮮人 や台湾人)については,1918年時点における本国政府の解釈は,有権者に該当しない 表1 1915年時点の本国・台湾における権利・義務の様態(男性のみ) 台 居住地 民 族 本 内地人 政治体制 参政権 兵 役 国 湾 普通行政区域 台湾人 内地人 立憲政治 台湾人 特別 行政区域 備 考 原住民 総督政治 属地的適用 ○*1 × × × × 属地+属人的適用*2 ○ × ○ × × 属人的適用 *1 有権者は直接国税10円以上の納税者である納税制限選挙権。 *2 参政権は1920年に本国在住の台湾人や朝鮮人も有権者に含まれることとなり,属地的適用に変更。 植民地在住者の政治参加をめぐる相剋 99 としていた。また,台湾在住者は民族を問わず参政権は付与されていなかった。従って, 1915年の台湾同化会成立時点では,台湾人は本国・台湾在住者ともに参政権がなく, 参政権は本国在住の内地人のみに付与されるもので,基本的には属地的適用であるとと もに,属人的適用も未だ併用状態の時期にあった16)。他方で,兵役は属人的適用であり, 内地人であれば居住地を問わずに兵役が課せられ,台湾人は居住地を問わず兵役適用か ら除外されていた。 こうした構造下で在台民間内地人は,“台湾人並み”“悪平等”的な政治的無権利状 態に対して不満を抱き,1900年代初頭には,属地的な総督府専制体制を可能とした根 拠法たる六三法の撤廃運動を展開し,かつ,人種主義的な優越感に裏打ちされながら, 属人的に内地人のみに対して本国在住内地人と同様の権利を要求する言説を主張したこ ともあった17)。そして新たに1910年代半ば,台湾人のなかから,内地人との平等待遇を 志向する台湾同化会の機運が現れた。権利・義務の不均衡状態に新たな是正を迫るこの 機運が,新たな波紋を巻き起こすことは必至であった。 2. 2 複数民族構成の重層的社会 複数民族から構成される重層的な台湾社会は,同時代の台湾内部に複数の政策と抵抗 を同時に併存させていた。台湾人の武装抗日運動は台湾領有以来全島で展開され,総督 府は彼等を「土匪」・ 「匪徒」などと呼び過酷な弾圧を加えたが,1910年代に入っても 間歇的に勃発した。対岸中国の辛亥革命の影響も受けた苗栗事件に対しては,台湾総督 府はその粛清のため大規模な臨時法廷を1 913年末より開廷し,1915年8月には最後の 〔タバニー〕 武装抗日運動となる西来庵事件(事件)が起こった。武装抗日運動が新たな色彩 を帯びつつ最後の烽火を燃やし,台湾総督府は暴力でそれを圧殺していた時期といえる。 また,原住民に対しては,佐久間総督期以後(1906年就任) ,原住民を主要な制圧対 象とし,とりわけ1910年以後は「五年理蕃計画」に基づき,大規模な掃討を伴う「討 蕃」政策を展開した。1914年5~8月には佐久間総督自らが軍隊・警察を率いて,日 タ ロ コ 本統治期で最大規模の原住民制圧戦争となる「太魯閣番の役」を発動,同年9月佐久間 総督は本国に赴き「五年理蕃計画」の完成を天皇に上奏した。このように原住民制圧戦 争においても,最後の大規模な武力弾圧を行使していた時期にあった。 他方で,台湾人の土着エリートたちは,新たな動きを示し始めていた。若林正丈の分 析では, 「台湾漢社会の指導者層」である「旧指導者層=土着資産階級」は,1902年以 後は「反日蜂起ないしはその企図」を起こしておらず,また, 「植民地的近代化への適 100 社会科学 第 40巻 第 3号 用に余念がなかった」とする。総督府側もまた,円滑な支配のために「 資産あり名望 ある 人士が地方社会に対して持つ影響力を支配の円滑な維持に利用」しようとし, ・・・ 他方で「彼らをつねにいわゆる 政治問題 =台湾人の政治的把握の最優先の対象と みなしていかねばならない」状況にあった。1912年頃から林献堂などの台湾人土着エ ・・ リートたちは,台湾人子弟向きの私立中学校設立運動を展開し,教育要求運動を開始し ・・ ていた18)。これは1915年5月に台湾人の子弟が通う公立台中中学校の開校という形で収 斂したが,この間には,他方で「漢を以て蕃を制する」といわれたように,原住民制圧 の「討蕃」政策のために,漢社会側の財政・労力面での協力体制の構築が,台湾総督府 の政策課題となっていた時期でもあった19)。 以上のように,複数の民族から構成される重層的な台湾社会と,それと向き合う台湾 総督府の弾圧と協力のせめぎあいの時代において,台湾同化会事件は,本国からのイン パクトを伴って胎動し始めることとなる。 3.板垣退助の初渡台の波紋 歓迎と統治批判と 3. 1 渡台まで 台湾同化会成立の直接の機運は, “自由の神”とも称された板垣退助の渡台により醸 成された。1837年生まれの板垣は,1900年に63歳で政界を引退していたが,1914年に 78歳で初めて台湾へやって来た。板垣渡台の直接の経緯は,そもそも晩年の板垣に関 する研究が希薄であるため未解明の部分が多い20)。総督府側の説明では,台湾人土着エ リートの代表的存在である林献堂21) が,1913年5月に北京に行き辛亥革命の政客・梁 啓超を訪問した直後に東京に赴いた際,仲介者を経て板垣退助の知遇をえたことが契機 という。この時期,板垣は, 「日支民族の同盟」による「東洋の平和を維持」を主張し ており,台湾人をその結節点としてとらえていた22)。 板垣の初渡台は,1914年2月17日から3月6日の約2週間強に及んだ。この旅程は 『台日』紙上の日文欄・漢文欄で連日報道された一大イベントとなった。また,本国メ ディアでも板垣の言動・主張を随時掲載した新聞として『東毎』があった23)。これらを 一覧表にしたのが【表2】である。詳細な日程や面会した人物などは【表2】に譲り, 以下では,板垣と各地の様子で重要な部分を時系列で追う24)。 植民地在住者の政治参加をめぐる相剋 表2 日 年 月 付 日 1914 2 13 1914 2 14 1914 2 15 1914 2 16 1914 2 17 1914 2 17 1914 2 17 1914 2 17 1914 2 18 1914 2 18 1914 2 18 1914 2 18 1914 2 18 1914 2 19 1914 2 19 1914 2 19 1914 2 19 1914 2 19 1914 2 19 1914 2 19 1914 2 20 1914 2 20 1914 2 21 1914 2 21 1914 2 21 1914 2 21 1914 2 21 時間 事 101 板垣の第1回渡台日程表 象 掲 載 媒 体 『台日』 『台日』 『東京 日文 漢文 毎日』 1914. 2. 13 1914. 2. 14 板垣退助,門司より乗船,渡台。 板垣退助,備後丸で門司入港。記者への談話。台 1914. 2. 15 湾人の不満聴取の予定。 板垣退助,台湾へ向け出発。奥野市次郎(代議士) ・ 1914. 2. 16 中西牛郎・寺師平一の3氏と。 板垣伯歓迎のため,台北有志が台北庁内で協議。 1914. 2. 18 19日に官民合同歓迎会開催を決定。 板垣退助,基隆入港。賀来参事官・井村庁長・安 20: 00 1914. 2. 18 田公会副会長ら,官民歓迎。 板垣伯,基隆入港。台北庁各参事以下,官民数千, 20: 00 出迎え。各戸軒燈にイルミネーション。 板垣退助,基隆上陸。寺師東毎副社長・奥野・中 21: 20 1914. 2. 18 西,横関東毎記者らと同行。 板垣退助,基隆倶楽部に宿泊。 1914. 2. 19 板垣退助,基隆港内を巡航,川上工事部技師より 朝 1914. 2. 19 築港の説明を聞く。 板垣退助,基隆発の列車に乗車。基隆官民多数見 8: 00 1914. 2. 19 送り。 板垣退助,台北到着。水返脚・ 口両停車場に各 支庁長・台湾人紳士の送迎→台北停車場には平岡 司令官, 木下新三郎, 中川台銀副頭取, 黄玉階 9: 00 1914. 2. 19 〔ママ〕など多数出迎え→総督府差廻しの二頭曳馬車 で鉄道ホテル→ホテル階上で主な官民に接する→ 自動車2台に分乗して台湾神社参拝。 板垣退助,博物館および苗圃を視察。視察日程は 午後 1914. 2. 19 2月28日まで。 板垣視察日程,掲載。 1914. 2. 19 板垣,大稲公学校を参観。「土人」2000人の生徒 に対して「訓話」(=「今後益々勉励して内地人と 午前 共に大いに南方経綸の衝に当たるべき旨」。→農事 試験場・水源地を視察。 『台日』に「板伯渡台意見」掲載。 1914. 2. 19 『台日』漢文欄,苗栗臨時法院の情況,「臨時法院 沿革」・「滑稽革命真相」掲載。 『台日』漢文欄,「新評林」に漢詩「伯板垣」掲載。 板垣伯歓迎会には会費2円,台北庁庶務課で申し 込み。 板垣伯官民合同歓迎会,鉄道ホテルにて開催。約 18: 00 500名来会。木下氏,発起人代表で挨拶。板垣伯挨 1914. 2. 20 拶。 板垣伯官民合同歓迎会,鉄道ホテルにて開催。約 18: 00 300名来会,「土人」の来会するもの多数」。板垣伯 挨拶。 佐久間総督,台北到着後ただちに板垣を鉄道ホテ 2. 21 ルに訪問。総督退出後,板垣が総督官邸を訪問, 1914. 対談。 18: 00 板垣伯招待会,梅屋敷にて開催(高田局長,中川 1914. 2. ~21: 00 台銀副頭取などの発起)。20 余名来会。 20・21 『台日』に「板垣伯の意見」掲載。 1914. 2. 21 『台日』の「詞林」欄,王学潜の板垣渡台の漢詩 1914. 2. 21 掲載。 板垣伯一行,台北発南部行きの列車に乗車。賀来 9: 15 1914. 2. 22 参事官,同行。官民多数出迎え。 板垣伯一行,台中駅通過。枝庁長,荒巻警視ら出 14: 43 1914. 2. 22 迎え。官民多数出迎え。 夜 板垣,旧官邸に宿泊。 1914. 2. 24 1914. 2. 16 1916. 2. 17 1914. 2. 18 1914. 2. 19 1914. 2. 19 1914. 2. 19 1914. 2. 20 1914. 2. 19 1914. 2. 20 1914. 2. 20 1914. 2. 21 1914. 2. 19 1914. 2. 19 1914. 2. 19 1914. 2. 21 1914. 2. 21 1914. 2. 21 1914. 2. 23 1914. 2. 23 102 社会科学 表2 日 年 月 付 日 時間 1914 2 22 10: 00 1914 2 22 午後 1914 2 22 1914 2 23 1914 2 23 1914 2 23 1914 2 23 1914 1914 2 23 2 23 1914 2 24 1914 2 24 1914 2 25 1914 2 25 1914 3 1 1914 3 1 1914 3 3 1914 3 4 1914 3 5 1914 3 5 第 40巻 第 3号 板垣の第1回渡台日程表(続) 事 象 『台日』 日文 掲 載 媒 体 『台日』 『東京 漢文 毎日』 板垣,台南巡視。松木庁長,案内。御遺跡所参拝 1914. 2. 24 →博物館→孔子廟→開山神社→官邸。 板垣,官邸庭園で台湾人演舞(80名)を観覧。 板垣,公館で官民合同歓迎会。200 余名来会。花火・ 夜~ 熱帯植物園など。板垣,台北の歓迎会時と同様の 21: 00 演説。 板垣,台南発列車で阿 へ出発。松木庁長・高橋 7: 22 警務課長など九曲堂まで同行。見送り多数。 板垣,九曲堂着。佐藤庁長・石丸内地人協会会長, 9: 00 参事蘇雲英ら,車室で面会。 板垣,阿 着。官民多数出迎え。腕車で阿 庁へ 10: 15 →公室で休憩→佐藤庁長より地方情勢聴取→官民 に接見→阿製糖所視察→屏東会館で午餐会。 板垣,屏東会館で午餐会。30余名の阿官民有志。 12: 30 佐藤庁長挨拶。熱帯植物・果実の陳列。胡蝶蘭を 土産に贈られる。 14: 00 板垣,小学校に立ち寄り生徒に面接。 14: 40 板垣,上り列車で打狗へ。 板垣,台中着→旧知事官邸→台中公園にて歓迎会。 800余名来会。枝庁長・山下秀実内地人代表・林烈 16: 00 堂台湾人代表,挨拶。板垣演説→旧知事官邸。仕 掛け花火など。 「板伯大活動」。朝,打狗築港視察→16: 00台中庁長 官邸に投宿→18: 00台中公園にて歓迎会。800余名来 会(3分の1は「台湾人」)。板垣伯,1時間余の 演説。奥野氏謝辞。「列席の台湾人は其同情を感謝 する旨口々に唱へ伯の万歳を叫び」,21: 00解散。終 了後,「台湾名物の彰化煙火の壮観なるを賞し伯に 面会せん為態々来れる十五人の生蕃に面接同情あ る語を交へ且つ生蕃の心尽せる贈物を納め生蕃学 生の君が代の合唱及び踊りの巧妙なるに驚嘆し彼 等に贈物して之を犒ひたり」。 板垣,台中の官邸前で記念撮影→台中神社に参拝 →児玉総督・後藤男銅像辺を逍遥→南方池畔に榕 樹の紀年手植→庁農会(庁長・技師より説明)→ 10: 00 事務所前で記念撮影・榕樹手植→彰化銀行(阪本 重役・呉汝祥専務)・撮影→台湾人主催の新盛閣に おける午餐会→帰邸→15: 00片山製帽所→停車場→ 帰北。発車時に花火3発。 「土人の歓待」。板垣伯一行,午前,台中公園農事 試験場を遊歩,記念の桜樹の植樹→正午,新盛閣 における「土人」の招待会に臨席→16: 00数千の官 民学生の盛大な見送りで台北へ帰る。 板垣,出発予定延期を台日に掲載(2日→6日)。 板垣,基督教青年会主催の講演会。南新街第三小 13: 00 学校。「本島内地人の覚醒」につき約30分。高橋技 ~14: 00 師同席。1, 000名参加。講演要旨あり。 『台日』漢文欄,「板垣伯視察談」掲載。板垣伯の 寄稿。台北に戻った佐久間総督と会い3条の意見 一致。 横関生「南国遊記」(一) 「板垣伯の訣別」。佐久間総督,鉄道ホテルに板垣 9: 00 伯を訪問,懇談。板垣は視察調査の結果の感想を ~12: 00 述べる。 18: 00 鉄道ホテルにて官民代表者を招待して,板垣伯と ~21: 00 の訣別会。 1914. 2. 24 1914. 2. 24 1914. 2. 24 1914. 2. 24 1914. 2. 24 1914. 2. 24 1914. 2. 24 1914. 2. 24 1914. 2. 26 1914. 2. 27 1914. 2. 26 1914. 2. 26 1914. 2. 27 1914. 3. 1 1914. 3. 3 1914. 3. 1 1914. 3. 3 1914. 3. 6 1914. 3. 4 1914. 3. 7 1914. 3. 7 植民地在住者の政治参加をめぐる相剋 表2 日 年 月 付 日 1914 3 6 1914 3 6 1914 3 6 3 6 1914 3 6 194 1914 3 3 7 8 1914 3 9 1914 1914 3 9 3 10 1914 3 10 1914 3 11 3 11 1914 3 12 1914 1914 1914 3 13 3 14 3 15 時間 103 板垣の第1回渡台日程表(続) 事 象 9: 00 板垣伯,官邸に佐久間総督を訪問。「訣別を兼ねて ~10: 00 猶統治上の希望を述べて」辞去。 板垣,台北発電車で帰途につく。特別車に搭乗, 14: 00 佐久間総督以下,数百名の見送り。 板垣,基隆埠頭を出発。見送り多数。「台湾人は伯 20: 00 を送る事恰も慈母の如く皆別れを惜しみたり」。 板垣,備後丸船中より謝電。 横関生「南国遊記」(二)。2月17日基隆入り→18 日基隆築港視察の内容。 横関生「南国遊記」(三)。「サーベル」統治批判。 横関生「南国遊記」(四)。在台内地人批判。 横関生「南国遊記」(五)。総督府の威嚇暴圧主義 批判。 板垣,門司到着。 横関生「南国遊記」(六)。台北旅程紹介。 「板垣伯台湾談」。台湾人の不安と不平(結婚・教 育・人権)など,佐久間総督に糾したことなど。 板垣,帰京の謝電。 横関生「南国遊記」(七)。大稲公学校視察談。 横関生「南国遊記」(八)。2月19日の官民大歓迎 会談。 横関生「南国遊記」(続く)。阿視察談。 伯爵・板垣退助「台湾統治意見」。 横関生「南国遊記」(十)。台湾の製糖業。 『台日』 日文 掲 載 媒 体 『台日』 『東京 漢文 毎日』 1914. 3. 8 1914. 3. 7 1914. 3. 8 1914. 3. 8 1914. 3. 8 1914. 3. 8 1914. 3. 9 1914. 3. 6 1914. 3. 7 1914. 3. 8 1914. 3. 9 1914. 3. 10 1914. 3. 11 1914. 3. 10 1914. 3. 10 1914. 3. 13 1914. 3. 14 1914. 3. 11 1914. 3. 12 1914. 3. 13 1914. 3. 14 1914. 3. 15 3. 2 歓迎の旅程 ① 台北(2月17~21日) 1914年2月13日,板垣は門司から台湾へ向かい,17日夜8時に台北への玄関口・基 隆港に入港すると数千名の歓迎を受けた。各戸軒燈にはイルミネーションが飾られてい た。台北に限らずこの全旅程では,駅や宿泊先などでは必ず官民多数の歓迎や接見を伴っ た。翌18日は朝から基隆港内を巡航し総督府の案内で築港の説明を受けたあと,列車 で午前9時に台湾の島都・台北に到着,総督府の差廻した二頭曳馬車で台湾随一のホテ ルである鉄道ホテルへ向かった。のち,自動車2台に分乗し台湾神社へと参拝へ向かい, 午後に博物館および苗圃を視察した。2月19日,板垣は台湾人の代表的な居住地であ る大稲で台湾人児童の通う初等学校である公学校を参観し,その後,農事試験場と水 源地を視察,午後6時からは鉄道ホテルで「板垣伯官民合同歓迎会」が開催された。来 会者は『台日』では約500名,『東毎』では約300名といい,『東毎』によれば台湾人の 来会者が多数あった。ここで板垣は,持論の「日支」提携論とともに, 「施政改善の余 地あらば其の意見を当路に具陳し広く島民の世論に傾聴し実情を視察し以て円満なる改 104 社会科学 第 40巻 第 3号 善方法を求め」ると述べている25)。 20日,板垣は佐久間台湾総督と面会した。台北を不在にしていた佐久間総督は,台 北到着後ただちに板垣と鉄道ホテルを訪問し,総督の退出後には今度は板垣が総督官邸 を訪問して対談した。両者の相互訪問からは,総督府の板垣に対する厚遇がうかがえる。 ② 台南(2月21~24日) 2月21日,板垣一行は,午前9時過ぎ台北発南部行き列車に乗車し,夜に台南に到 着し旧官邸に宿泊し,翌22日は,松木庁長の案内で台南を巡視した。台南は,台湾の 古都で古い歴史を誇る地域色の濃い都市だが,板垣はそうした名所旧跡とともに,日本 統治関連の地を一巡し,午後は官邸庭園で台湾人の演舞を観覧した。夜,公館で開催さ れた官民合同歓迎会に出席,来会者は200余名で,花火・熱帯植物園などを鑑賞し,台 北の歓迎会とほぼ同様の演説を行った。23日は早朝7時30分前に列車で阿へ向かい, 阿到着後に腕車で阿庁へ向かった。佐藤庁長より地方情勢を聴取し,阿製糖所を 視察,12時半から屏東会館で佐藤庁長ら30余名の阿官民有志の午餐会に臨席した。 午後2時,小学校に立ち寄り生徒に面接し,40 分後の上り列車で打狗(高尾)へ向かっ た。 ③ 台中(2月24~25日) 2月24日朝,板垣は打狗築港視察後に台中に向かい,午後4時台中に到着,台中庁 長官邸に投宿した。台中は,台湾人土着エリートや名望家を多く擁する地域である。午 後6時から台中公園で開催の歓迎会では,来会者は約800名,枝庁長・山下秀実内地人 代表などの挨拶のほか,台湾人名望家の林烈堂が挨拶を行った。 『東毎』記事に拠れば 来会者の3分の1は台湾人で,板垣の1時間余りの演説では「予は諸君の台湾施政に対 する不平を聴き当局との中間に居て之れを矯正せんが為めに老躯を顧みず渡台せり」と いい, 「列席の台湾人は其同情を感謝する旨口々に唱へ伯の万歳を叫」んだという26)。 翌25日は,台中神社参拝,庁農会・彰化銀行視察などののち,正午は台湾人主催の 午餐会の招待を受けた。 『東毎』に拠れば, 「台中の有力なる台湾人多数出席して歓待頗 る熱誠を極」め,席上では, 「サイレンホウ氏〔蔡蓮舫のことか〕は台湾人の同化し難 きは教育普及せざる為なれば願くば当局に対し此の方面に一層施設されんことを伯より 依頼されたしとの希望」を述べた。私立中学設立運動を展開する中での切実な希望とい えよう。対する板垣は「予は自由平等博愛を理想とし未開同化主義を叫ぶものなれば道 植民地在住者の政治参加をめぐる相剋 105 理ある諸君の希望は充分助力すべしと誓」ったため, 「一同感涙に咽びて感謝」したと いう27)。この後板垣は帰邸,さらに午後3時に片山製帽所視察,午後4時に数千の官民 学生の盛大な見送りを受けながら,台北への帰途へついた。 ④ 再び台北(3月1~6日) 板垣は,当初2日であった離台日を6日に延期した。しかし延期滞在期間の報道は少 ない。3月1日午後1時から板垣は,基督教青年会主催の講演会で約1, 000名の参加者 の前で「在台内地人は人種を尊重し本島人の生命財産を十分に保護するの必要あり」と いう内容をも盛り込んだ「本島内地人の覚醒」に関する約30分間の講演を行った28)。 3月5日には,再び佐久間総督と懇談した。まず佐久間総督が鉄道ホテルに板垣を訪 問し懇談は午前9時から12時に及んだ。 『東毎』によれば,板垣が佐久間総督に述べた 〔ママ〕 のは,砂糖税の税収は台湾の施設に使うべきこと,官吏および「内国人」が言語粗雑の ため「台湾人」が感情を害すので改善が必要であること,台湾人で統治上功績あるもの は相当な優遇方法を講ずるべきで「同化」上極めて有効であること,などであった。総 督は「凡て同感なる旨を言明し且つ之等に対する講究を怠らざるべしと答へ」たとい う29)。 台湾を去る3月6日,午前9時に今度は板垣が官邸に佐久間総督を訪問し, 「訣別を 兼ねて猶統治上の希望を述べ」 ,10時に辞去した。午後2時,板垣は台北発の特別車に 搭乗し,佐久間総督以下数百名の見送りを受けながら,帰京の途についた。午後8時, 基隆埠頭を出発する際にも多数の見送りを受け, 『東毎』によれば「台湾人は伯を送る 事恰も慈母の如く皆別れを惜しみたり」という。 3. 3 板垣の台湾統治批判 離台後の板垣関連報道は, 『台日』では僅かだが, 『東毎』は横関愛造記者の「南国遊 記」なる板垣同行視察談を10回に渡り連載し30),また板垣の台湾統治批判を掲載した。 板垣の主張に関しては, 「伯爵板垣退助」の名で「台湾統治意見」と題して, 『東毎』 第1面に2段半を割いて掲載された論説が着目に値する31)。この論説は冒頭で「東洋平 和の策は日支両国の親善より急なるはなし」とし,台湾人の位置づけとして, 「日支両国の親善を図るには先づ台湾全島三百余万新附の民即ち支那民族をして其 所を得せしめ之を同化して帝国忠良の臣民となし之を東道の主人とし以て日支両国 106 社会科学 第 40巻 第 3号 民共同事業の衝に当らしめざるべからず」 という。そして,台湾縦断視察を追えた今,知りえた台湾人の「内地人に対する感想」 は, 「三百余万新附の民は母国統治の根本方針につきて聊か疑を挟み怏々として楽まざ るものゝ如く如何にも同情すべきものあり」と指摘する。そして「帝国の台湾殖民政策 は英国の印度に対するが如きものにあらず」 ・ 「人種の区別を問はざる同化主義ならざる べからず」とし, 「況んや同種同文の便宜ある台湾土着の人民に於てをや」という。さ らに台湾人の置かれている状況について,領台「二十年を経過したる今日」でも, 「法律上未だ台湾人と内地人との雑婚を認められず教育に於ては専ら職業教育のみ を与へられ文明国民の資格に必要なる高等教育を与へられず願くば之を与へられた し権利をいへば未だ参政の権を与へられざる新附の民にして政治問題に容喙するを 許さヾるは当然なりとするも人権問題に関しては言論の自由を与へられたしとは正 しく是れ三百余万新附の民の要求なるが如し此の要求に相当の理由あるは予の認む る所なり」 とし,参政権付与には留保をつけつつも,内台共婚・教育・言論の自由の問題などに関 して台湾人が希求する不平等待遇の是正要求に対し, 「相当の理由ある」と喝破する。 論説はさらに,佐久間総督との懇談に及び, 「佐久間総督と懇談したるに総督の意見 は幸にして予の意見と大体に於て一致」したとして,共婚問題や中学校設立問題に言及 していた。このほか,台湾の下級行政官吏の台湾人に対する言葉遣いなどを例示して, 植民地で横暴にふるまう内地人に対する台湾人側の感情を代弁して批判した。 表面上は総督府の厚遇と官民の歓待に彩られた初渡台の旅程は,総督府の官吏が同行 する“お膳立て”された視察旅行の色彩が強い。だが統治批判を繰り返す板垣の言動は, 当初は歓迎ムードで迎えた総督府や在台内地人にとり,厄介なものと化しつつあった。 4.台湾同化会成立と板垣再渡台 台湾社会の亀裂 4. 1 東京における始動 同化会の成立準備は,1914年11月の板垣再渡台に先立ち,東京で進行した。再渡台 32) 前に作成された板垣退助「台湾同化会首唱に就て」 と,同年7月付の「同化会設立趣 植民地在住者の政治参加をめぐる相剋 107 33) 意書」 から,その主張を確認してみる。 まず「台湾同化会首唱に就て」で板垣は,人種論から説き起こす。すなわち, 「帝国 今後の問題」は外交関係,とりわけ「日支両国の親疎が我が国運の消長」にとって重要 である,なぜなら「欧米人」が「人種的感情を以て国際の上に臨み,之が為めに亜細亜 人の迫害せらるる」現実があるからである。その際に「帝国の新領土たる台湾島」は 「南門の鎖鑰」で「日支両民族の接触地」であるがゆえに, 「同島の統治如何は啻に我が 植民政策の成敗を世界に示すのみならず,日支両民族の離合を決する端緒」と位置づけ る。そして, 「元来天は人の上に人を造らず,人種の上に人種を造らず,頂天立地平等 の生存を保つは人類の原則」と主張し, 「愛国心」を醸成し「完全なる国民を養成する」 ためにも「精神教育を行ひ智識を開発」し「善政を施して民をして豪も不平の声なから しむるの外なし」と主張する。ただし板垣の国家観は,弱小民族には厳しい側面を持っ ていた。板垣は「属領」を大・中・小に3分類し, 「大なるものには友邦」を, 「中なる 者」には「武装の独立不可能なるが故に之を保護国とし,又属領とするを適当」とし, 「小なる者に至っては同化主義を以て臨み,渾然融合する方法を採るを当然」とする。 そして,地形が「島嶼若くは半島の地域は海軍力の強大なる島帝国に隷属すること自然 の通理」として「朝鮮台湾の我に新附」したこともこの「通理に基因」するという。 “人種の平等”を主張しながら,台湾・朝鮮の日本隷属を当然とする考えは,一見す るとわかりづらい。しかし,板垣の国家感は,人種差別的な欧米への対抗のためには東 洋における「日支提携」が必須という考えに裏打ちされており,翻って欧米の介入を許 す弱小民族の存在は,むしろ日本に隷属すべしとの考え方に結びついていた。 34) たとえば,板垣の「台湾土民に告ぐ」 では,その冒頭で,日本は「決して侵略主義 に非ず」という。朝鮮の保護国化・ 「韓国併合」は,伊藤博文が韓国の独立確保・永世 中立国化を企図したにもかかわらず,ロシアと韓国の動向の結果,日本はやむなく保護 国化・統監政治に至ったものとし,しかも「韓国は日本が取りしものに非ずして,韓国 自ら我が皇帝に献じたるもの」として,韓国の自発的行為とし日本の行為を正当化して いる。また,かつて清国が日本に台湾を割譲した意図については,清国は「大陸国」な ので「海上権」獲得ひいては台湾の維持は困難であり,膠州湾のドイツへの割譲という 状況に照らしても, 「台湾が若し日本に割譲せられざりしならば,必ずや既に列強の手 に落ちしこと疑ふべからず」とし, 「台湾が日本を領有せしは全く国防上の為めにして, 東洋平和保全の目的に外ならず」と結論づけていた。 再び「台湾同化会首唱に就て」に戻ると,板垣にとって「小なる」属領に該当する台 108 社会科学 第 40巻 第 3号 湾には,その「統治の根本は唯一に同化主義を採るの外あるべからず」とする。さらに 「同化の実現を図らんには先づ新聞の力に頼りて相互の意見感情を疎通し,而して内地 人と本島人との間に共同事業を起させしめて其の利害関係を密接ならしめ,以て相親和 するの基礎を造るを要す」という。従って板垣はこの理想達成のため「第一著の手段と して新聞を創刊し,又同化会なる交際機関を興し,自他の畛域を徹して博愛平等の趣旨 を実行せんと欲す」としていた。 また, 「台湾同化会設立趣意」では, 「同化」のためには「先づ交際の機関を要す。是 れ本会を設立する所以」であり, 「本会の事業」としては「精神の教育」 ・ 「慈善事業の 普及」などが挙げられ,そのために「講演会を催」したり, 「平常に在つては会員私事 の会合を自由にする為めに会堂を開放」するなどとしていた。 さて,板垣と台湾人土着エリートは,東京で面会し同化会組織化の布石を敷いていっ た。林献堂と林烈堂は10月17日に東京で板垣を訪問し,19日には板垣の紹介により本 国の著名な名士たちの知遇を得ている35)。面会の際に通訳を務めた甘得中の回想によれ ば,板垣は彼等に「同化会の創立趣旨書」と「台湾に対する朝野名士の意見書」を提示 し, 「内地朝野の台湾を重視し,且つ深甚なる期待を寄せること」は「此の書より一斑 を知る」ことができ,また「諸君は彼らを歴訪せば,以って教えを受け,益するところ あり,同時に諸君の所懐及び希望の如何なるかを述べ尽くし能わん」述べた。板垣が示 36) したこの意見書は,活字印刷された小冊子「台湾同化会に対する名士の所感」 と考え られる。これは日文と漢文の二部構成で,大臣や貴衆両院・政党の領袖らが同化会の趣 旨に賛同し板垣に賛意を示した文章が満載されている。冊子を示した板垣は,すぐさま 従者を林献堂らに伴わせ名士らに紹介した。 名士たちとの面会の際に林献堂が説いた内容は, 「六三号法案の通過以後,台湾の全 ての法に対し総督が律令制定権を行使し,台湾は幾許もなく総督府の台湾となり,日本 帝国と関わりなきに似たり,現在の総督政治の如く,二十余年の久しきを経たりと雖も, 尚警察の為政を以って終始せば,以て人民の助け足らず,徒に民を畏懼せしめ,勿論台 湾の為にも計ることなく,ただ日本国家のために計り,結句良策にならぬ」という。こ こからは,林献堂が,立憲政治体制の外に作り出された「異法域」と総督政治,その基 本法たる六三法を批判していたことがわかる。約二十名の名士たちの反応はまちまちで, 六三法撤廃に明確な同意を与えるわけではなかったが,なかには台湾統治の錯誤には同 意する者(大木遠吉貴族院議員) ,本国での普選実現の暁に台湾との協力を展望する者 (犬養毅国民党党首) ,後藤新平時代からの廓清を同化会に期待し在台内地人を批判して 植民地在住者の政治参加をめぐる相剋 109 助力を約束する者(大隈重信首相)など,むしろ一定の手ごたえを感じさせるものとなっ ていた37)。 こうして東京で台湾同化会発会の準備と根回しを進めた板垣は,1914年10月中に台 湾総督府に「任意届書」を提出し,11月2日に「費用徴収之件認可」を申請した38)。し かし同化会幹部の陣容は,総裁の板垣退助を除けば,台湾総督府から見て「その役員の 殆ど全部が台湾及台湾人を知らざる人々」で,しかも「其の多くは所謂浪人にあらざれ ば罷職官吏,退役軍人の類」というものであった39)。 既に板垣渡台前の9月には, 『台日』は“同化会は不要”との批判を掲載し始めてい た。その反対理由は, 「本島人をして益々内地人を疑ひ且つ軽蔑せしむるの虞」があり, かつ, 「在台内地人の信用を保持する必要」があるためというものであった40)。 4. 2 亀裂と接近の旅程 板垣の再渡台は,台湾同化会設立という明確な目標を伴った。1914年11月22日から 12月26日の約1ケ月に及ぶ旅程は,在台内地人社会との亀裂と,台湾人社会との接近 が,交錯するものとなった。前回の渡台とは異なり,この旅程に関する『台日』日・漢 文欄の報道は比較的少なく,また, 『東毎』に記事はほぼみられない。以下では, 『台日』 をもとに判明する限りの旅程を復元しながら検討する。 ① 台北(11月22日~12月9日) 1914年11月19日,板垣は門司から亜米利加丸に乗船し,同化会理事の野津鎮武など と合計12名で台湾に向かった41)。22日,基隆入港後,総督府の井村地方部長らが船中に 板垣を出迎え,下船後は午前8時発の列車で台北に向かい,台北停車場に到着すると, 内田嘉吉民政長官や各部局長その他多数の官民と台湾人有志の出迎えを受け,馬車で鉄 道ホテルへ入り,そののち,井村部長の案内で台湾神社に参拝した42)。このあと9日の 台中出発までの台北滞在中の行動は, 『台日』紙上に記事は見られない。 しかし,この間の『台日』漢文欄における台湾人土着エリートたちの熱烈歓迎ぶりは 顕著であった。板垣を「維新元勲大政治家」と呼び,到着前夜から夜行列車で来た台湾 人の紳士たち20余名 得中など 台中の林献堂・林烈堂・蔡蓮舫・蔡恵如・王学潜43),通訳の甘 が基隆埠頭で待ち,合計約100名の台湾人有志が歓迎したことや44), 「同化 45) 会書感」 と題した歓迎の文章が掲載された。また,林献堂の講述「同化会述聞録」の 連載46) では,板垣を「憲政自由神者」・ 「慈母」と讃え,同化会を「保護神」と期待を 110 社会科学 第 40巻 第 3号 込めて歓迎していた。 他方で『台日』日文欄では,在台内地人の冷やかな態度が目立つ。コラム欄「日日小 筆」では, 「同化の上に幾干の効果ある可きかは疑問,更に此種の団体の必要如何も亦 47) 確かに疑問」 と水を差し,また,板垣の郷土である土佐出身の台北在住者から成る土 陽会では,同化会に対し中止あるいは組織方法改変の勧告を協議しており,台湾人の同 化については「害あるも益なし」として批判していた48)。 渡台後まもなく板垣は,同化会設立許可をめぐり総督府と衝突していた。甘得中の回 想に拠ると,板垣の台北到着後, 「総督府は先例に依り元勲の礼を以て待し,其丁重な るは言うまでもなく,台北駅へ至るや,当然数多の顕官紳商は出迎え,鉄道ホテルに旗 を掲げたり」と表面上は歓迎を装ったが,いざ板垣が「ホテルを同化会の大本営となし, 翌日即同化会総裁伯爵板垣退助の名義を以て,総督府に許可を申請するや,直ちに齟齬 を来た」したという。 「総督府は政治に関する一項を削除し,純粋なる社会教化団体に なさんことを請」い, 「同化会幹事が数次にわたり総督府へ往来」したが,板垣は「日 常生活皆これ政治なり,政治を棄つるや目的滅却,いずくんぞ社会に教化するところあ るや?」と激したため, 「終に総督府は伯の気迫に抗しきれず,隠忍の上,批准した」 という49)。他方で,台湾同化会が当初掲げていた新聞創刊事業は,板垣が妥協したよう である。ある在台内地人の指摘によれば, 「肝心の新聞創刊は督府に費用徴収の認可を 受くるに際し,敢なくも削除の運命に遭遇した」と聞き及んだという50)。 台湾同化会に会費徴収許可が下りるのは12月13日だが,これ以前から同化会は会員 51) 募集・評議員選定に着手していた。 「台湾同化会定款」 によると,会員は「通常会員」 (年会費1円) ・ 「特別会員」 (一時金50円以上の会費納入) ・ 「名誉会員」 (国家及社会ま たは同化会に功労ある人士を同化会で推選)の3種類としていたが(第8条) ,同化会 はこの会員募集のために,全島の区長に同化会の地方幹事を嘱託し,全島の保正に同化 会の事務を嘱託しようとしていた52)。すなわち,総督府が設定した末端地方行政機構に 相乗りする形で,組織化と会員募集に利用しようと企図したのである。また, 「台湾同 化会定款」では総裁・理事のほかに評議員を置くとしていたが(第12条) ,この評議員 とは「会務ノ評議ニ参与」可能で(第13条) ,会務の重要な構成員であった。評議員の 選定は,板垣の渡台直後に台北から始まったが,その選定方法は,板垣の推薦と本人の 承諾により成立するという,簡単かつ板垣の裁量権が大きなものであった53)。このほか 「台湾同化会定款」は会員の享受できる「特恵」として, 「一 内地留学ニ付テノ指導監 督其他諸種ノ紹介ヲ受クルコト」 ・ 「二 本会ニ於テ開催スル講演其他諸種ノ集会ニ臨場 植民地在住者の政治参加をめぐる相剋 111 スルコト」 ・ 「三 右ノ外本会二於テ為シ得ラルベキ事項ニ付テハ其種類ノ何タルヲ問ハ ズ調査紹介其他相当ノ便宜ヲ受クルコト」の3項を掲げていた(第11条) 。 これらに対する台湾人側の反応はどうか。その一端を再び甘得中の回想から見ると, 甘得中は,板垣の示す「同化会趣旨書」の内容が曖昧さを持ち実現可能性にも疑問の余 地はあるものの, 「只我等は現在度重なる枷にはめられ,きつく縛られ,息もままなら ないのを伯の同化会が中央に紹介すれば,次第に幾らかの解放を得,僅かに息をつくこ とができる。それこそ我等の願望の存する所であり,且つまた参加者の活動意図もここ にあり」といい,実際にその説明を受けた医学専門学校の学生の多くが入会したとい う54)。ここからは,同化会が差し出すものを独自に読み換えながら,板垣を媒介として 中央政府との交渉の回路が開かれ待遇改善に繋がることに期待していた姿がうかがえる。 ② 台中(12月9~12日) 9日午後2時,板垣は台中に到着し,11日に台中座で台湾同化会の趣旨綱領を講述 した。満場立錐の余地もないなか,まず林献堂が開会の辞と「同化会成立に至る趣旨」 の祖述を行い,次いで板垣が「老齢を持て本島新附三百万人の為めに否国家の為め蹇々 として奮励努力他顧なきを深謝」した。こののち板垣の講演が始まったが,その内容は, 前述の「台湾土民に告ぐ」に相似している55)。台湾人土着エリートの本拠地・台中で, 台湾屈指の名望家たる林献堂のいわば“お墨付き”を得ながらの講演は,台湾人社会に は大きなインパクトを与え,また,台湾人社会にとっては,板垣という“自由の神”に よる生演説は,言論による政治活動を体験する稀有な機会となったのではなかろうか。 ③ 台南(12月12~16日) 12日午後6時過ぎ,板垣一行は台南停車場に到着し,旧官邸に投宿した。13日午前 9時から11時にかけ,台南庁参事・区長・紳商有志者(台湾人名望家層に該当)が一 同で板垣に「拝謁」し,接見時に板垣は,推薦された数十名の評議員に対していちいち 文書を授与した。午後2時からは,台南最大の詩社である南社56) の詩人たちと臨時会 を開催している。聴衆200余人を擁し,南社社長の趙雲石が開会の辞を述べ,台中から 来た林献堂も演説をし,この間,満場の拍手が止まない状況であった。言語面では,同 化会会員で法院通訳の岩崎敬太郎57) が通訳を行っている。さらに,王学潜と甘得中が 演説を行い,最後に台南第二公学校に勤務していた蔡培火58)が, 「同化会之根本與吾人 之準備」(同化会の根本と吾人の準備)を演説し,盛況のうちに閉会した59)。同日午後 112 社会科学 第 40巻 第 3号 6時からは,台中庁の詩人の林俊堂,林献堂・王学潜・甘得中らとともに,竹仔街の酔 仙樓旗亭で賓主数十人で歓迎会を共にした60)。この間の交流を見ると,伝統文化を保持 する詩人たちや,台湾人土着エリートの名望家層が集結し,かつ,内地人の台湾語通訳 を介し,あるいは台湾人で「国語」 (日本語)を操る若年層(甘得中・蔡培火など)が 演説をするなど,伝統と近代,複数言語が交錯するなかで,新しい政治空間が生み出さ れようとしている極めて興味深い状況が垣間見られる。 13日には,ついに総督府から台湾同化会に対し,寄付金募集の認可が下りた(台湾 総督府令第86号) 。同化会は同化事業推進の経費として会費を徴収するとし,その総額 目標を1914年から1919年の間で150万円として,総督府に認可を申請していたが61),晴 れてこの費用徴収認可が下りたのである。 しかしこの日,順調に見えた板垣の行動に“待った”をかける動きがあった。台南の 内地人・台湾人の重立った者が集まり合意事項を定め,それは①同化主義に賛成し総裁 に板垣を置くが,②当分会費は徴収せず有志の寄付による,③会計事務担当者は評議員 で選任する,④本部・支部に顧問を置く,⑤理事・幹事は台湾在住者より選任すること, であった。これらは,会費・会計など経費面と幹部の人選や運営体制に関して,台湾在 住会員の意思が反映され得るよう体制改善を主張したといえる。翌14日朝,この合意 事項を携えた内地人2名・台湾人4名の合計6名の代表は,同化会幹事を通さずに,板 垣の滞在先の官邸で直接面会した。板垣の対応は「之れを認むる」と報道されたが62), 費用徴収認可が下りた矢先に,台湾在住者からの危惧に早くも直面したかたちとなった。 ④ 台北(12月20日) 台湾同化会本部発会式 台北へ戻った板垣は,12月20日午後2時,鉄道ホテルで遂に台湾同化会台北本部の 発会式を挙行した。しかし発会式を報じる『台日』日文欄の記事は,20行ほどで経過 の要点を記載しただけの淡白なものであった。それによれば,参会者500余名,安田評 議員の開会宣言と「君が代」吹奏後,総裁板垣が「同化の大方針並に趣意を述べ」た。 来賓は,高田殖産局長・石井覆審法院長・高橋土木局長・高木医学校長・亀山警視総長・ 角通信局長・加福台北庁長・井村地方課長などその他主な官民数十名があった。ただし, 佐久間総督の姿はなく,内田民政長官も姿はなくその祝詞を高田殖産局長が代読しただ けであった。その後,在台内地人の木村匡から祝詞と同会への希望,内地各方面の祝詞・ 祝電,台湾人会員の祝詞が披露され,午後4時終了後に模擬店などが開かれた63)。 他方,『台日』漢文欄では,紙面を約2段割き,より詳細に報道した64)。日文欄と異 植民地在住者の政治参加をめぐる相剋 113 なる点を記せば,参加者は600余名(日文欄より100名多い) ,また,本国からの祝電に 関しては,大隈首相・東郷大将など名士の祝電数十通が披露されるも,時間が限られて いたため甘得中がその名前のみを通訳した。台湾人会員4名の祝詞のうち,樹林の黄純 青の祝詞は翌日の紙面約1段を割いて掲載されている。台北・桃園・新竹・宜蘭4庁下 の台湾人会員は「踴躍」して会に赴き,桃園庁下の保正の劉清奇などは,同化会発会式 に出席するために弁髪を切り落とし「同化の実を証明」したという。だが,この席上で も内地人側の反応は厳しかった。内地人代表の木村匡は,祝詞に替えて同化会への希望 を述べたが65),その3つの要点は,①同化事業は台湾だけではなく朝鮮・満洲にも必要 なので,台湾同化会は帝国同化会たるべき,本部を東京に置き台湾・朝鮮・満洲に三大 支部をおくこと,経費は義捐金以外に国庫補助が相当,②同化事業の範囲は広範なので, 同化会幹部には帝国有数の教育家を要する,宗教家・医学家・農業家などからも同化事 業に経験・興味ある者を選び組織を確実なものにすべし,③同化事業は,台湾総督府・ 朝鮮総督府・関東都督府にも既に相当の施設があり帝国同化会は官設機関に及ばないと いうものであった。総じて,台湾限定で板垣の個人的色彩が濃厚な台湾同化会を,帝国 日本全般におよぶ官営の国家事業へと回収し,かつ,幹部の交代を希望したものといえ る。 在台内地人側の不満は次第に先鋭化しつつあり,台北では弁護士らを中心に「同化会 66) 反対演説会」が企画されたように(未実施) ,一触即発の機運が醸成されつつあった。 ⑤ 中部・南部支部発会式から板垣離台へ(12月22~26日) 中部支部発会式は22日午後1時から台中公園で,南部支部発会式は24日に挙行され た67)。この2支部発会式の関連記事は断片的なもののみなので,これ以上記述しない。 12月25日,板垣は中部・南部支部発会式を終え台北へ帰る途上に新竹で演説を行っ たが,その際,同化会に必要な4つの「原動力」として,第1「名士之賛成」,第2 68) 「総督府之助力」 ,第3「本島人之自覚」 ,第4「在台内地人之助力」 と述べていた。 しかし台北に戻った板垣は,第4の「原動力」 ,すなわち台北の内地人有志の激しい 反発に直面した。彼等は同化会の根本的な組織改善を要求し, 「台湾同化会定款」改正 要綱を議決し,板垣の離台当日の26日に総代(松村鶴吉郎,秋山善一)が板垣を訪問, 議決済みの「定款改正案」と「台湾同化会に対する意見」を手交した69)。「台湾同会に 対する意見」では,同化会の経費・幹部人選の不明瞭な点を批判し,かつ,台湾人の状 況につき以下のようにいう。 114 社会科学 第 40巻 第 3号 「本島人間の状況を観るに其入会し又は入会せんとするもの多くは或は同化会に入 会せば直に参政権を得らるべしと云ひ或は高官に任用せらるべしと云ひ或は内地人 と結婚することを得べしと云ひ其他制度の改廃等自由にして従て諸種の営利事業を 獲得ことを得べしと称する等恰も同化会を以て利権拡張の機関と目し居るが如し」 すなわち,台湾人が参政権付与・高等官任用・内台結婚などを期待しているとし,同 化会がその「利権拡張の機関」となることを危惧していた。 また,全10条からなる「定款改正要領」では,板垣総裁や本国在住理事の独走を回 避し,経費・人事面で台湾在住者が主導権を確保し,かつ,在台内地人の地位の擁護を 主張するものとなっていた70)。 在台内地人の厳しい反発を,板垣がどのように受け止めたのかは不明である。この日, 板垣一行は再び亜米利加丸に乗船し基隆から本国へ帰っていった。台北駅には官民多数 見送りがあり,基隆では台湾人土着エリートたち,台中の林献堂・林仲衡・蔡恵如・王 学潜・何添丁・甘得中,新竹の鄭神寶,桃園の黄純青らその他十余名が,板垣を見送っ た71)。板垣滞在中に台湾同化会の会員は総計3, 198名,会費徴収額は4, 660余円に上っ た72)。しかし1914年の暮れに離台した板垣は,その後再び台湾に来ることはなかった。 残ったのは台湾社会における亀裂であり,次にやってきたのは弾圧であった。 5.台湾同化会の撲滅へ 参政権の否定 5. 1 板垣離台後のメディアの論調 ① ネガティブ・キャンペーン 板垣の離台後, 『台日』は,同化会のネガティブ・キャンペーンを猛然と展開した。 板垣を「全然台湾の事情を了解せざる者」としてその不見識ぶりを非難し73),1月17日 から連載「同化会の真相」を開始し,日・漢文欄ともに2月4日まで約半月を費やし合 計14回にわたり,板垣の不見識,費用徴収・会員勧誘方法の問題点を掲げて攻撃した。 74) このほか,在台民間内地人の雑誌『新台湾』 も,批判を展開した。「担き人のない 樽天王」・ 「自由の神の専制政治」などのポンチ絵を掲げ(【図1】・【図2】参照),板 75) 垣個人を視覚的にも攻撃した。また,論説「総督府及同化会に与ふる書」 では,同化 会を「正体の知れぬ鵺的団体」とし,強行措置に出ない総督府の弱腰をなじり,もし同 ・・・・・・・ 化会が平等待遇を目的とするならば「小生共内地人は全然其の成立を承知致し難く候」 植民地在住者の政治参加をめぐる相剋 115 〔傍点本稿筆者〕と主張する。在台内地人にとって,総督府は「内地人に対し甚驕傲の 態度」であるのに, 「本島人に対しては頗る意気地なき様」にあり, 「何づれの殖民地に 於ても本島人程優遇せられ居る民人之無」き状態と言う。さらに議論は参政権に及び, 同化会を批判する『新台湾』(1915年1月号,表紙) 「同化会」と書かれた樽の上に座る「樽天王」板垣退助。「サア担いだり 「担き人のない樽天王」として誰も担がない様子。 図2 」と言うも 図1 板垣退助を批判する『新台湾』(1915年1月号,6頁) 板垣退助を「自薦総裁」,「自由の神の専制政治」として皮肉っている。 116 社会科学 第 40巻 第 3号 「一体同化会の発起者は此至幸至福なる民人に対し,更に何物を与へんと欲する者 に候や,参政の権利か,政治思想の普及か,或は本島自治の教習か,それとも更に 進んで比律賓の範に倣ひ台島独立の旗幟でも与へんとする者に候哉」 として参政権問題の発生を牽制していた。 参政権は,前述のように属地的適用を採用しており,台湾在住者ならば民族を問わず 内地人・台湾人ともに参政権がないという状況にあった(本稿2. 1,参照) 。属地的に政 治的無権利状態に置かれた在台民間内地人は,総督府専制体制により圧迫を受けている という被害者意識と,優遇される台湾人という認識,そして台湾人への敵愾心を醸成し ていた。その意識の根底には,台湾人に対する人種主義的な優越感と,近代国家を建設 してきた内地人という自負があり,他方で,本国と異なる政治的無権利状況に置かれた ことで,本国在住者に対するルサンチマンをも蓄積させていた76)。こうした鬱屈した状 況のなかに,近代国家形成過程において自由民権運動を牽引した本家本元の“自由の神” 板垣退助が本国から来台し,台湾人を擁護し総督府と在台内地人を批判したことは,在 台内地人のルサンチマンを刺激し,また,台湾人の平等待遇要求と参政権問題に対する 危惧へと駆り立てたのであった。 ② 吉野作造「非同化主義論」 しかし,同じ号の『新台湾』には,異彩を放つ別方向からの同化主義批判の論説も掲 載されていた。大正デモクラシー期の論客である東京帝国大学教授・吉野作造の「非同 化主義論」である77)。吉野作造の台湾論は,1920年創刊の台湾人初の独自の政論雑誌 『台湾青年』創刊号に,吉野が寄稿し掲載された「祝辞」が唯一のものとされ,それ以 前に関する研究はない78)。また,吉野の同化主義批判は,1916年3月の「満韓」視察の 3ケ月後に吉野が初めて著した朝鮮論「満韓を視察して」がその嚆矢とされる79)。しか し,この「非同化主義論」は,台湾同化会成立に際し1915年1月の時点で早くも掲載 され,台湾・朝鮮をともに同化主義批判の視点から論じており,非常に貴重なものとい える。 吉野の「非同化主義論」は,まず,ドイツとイギリスの植民政策の比較から説き起こ し,ドイツは「何事にも汎日耳曼主義で,他国の領土を侵略しても全然独逸化せしめん と努力」するのに対し,イギリスは「殖民地の自由を重んじ成るべく殖民地の歴史を旧 慣風俗等を尊重し殖民地をして自治的に発展せしめんと努力し,之を強制して母国に同 植民地在住者の政治参加をめぐる相剋 117 化せしめんとするが如きことは勤めて避けて居る」という。イギリスは「各々其土地の 状況に適する様な政治をして居る」ために, 「各殖民は自由自在に発達」し「土着の民 は英領以前よりも,生命財産の安全を保障せられて一層其幸福を増加し,其結果母国の 繁栄を来す」のであり,これが「真の殖民地経営の成功」とする。楽観的過ぎるきらい はあるが,板垣がイギリス式の植民地統治政策を否定し同化主義を主張した点と,イギ リス式に範をとる吉野の「非同化主義論」との違いは明白である。 何より吉野がこうした主張を,植民地出身者の「幸福」という点から論じたことは注 目に値する。以下の主張は,1920年代の吉野の植民地政策論に通じる真骨頂であろう。 「若し殖民地を得たるが為めに母国は大に幸福を得たとしても其土着の民が少しも 幸福を得ないとすれば之は真の殖民地経営の成功ではありません真の殖民地経営の 成功は直接に人民の生命財産の保障が領有以前より層一層鞏固となりて多大の幸福 を享受し母国は間接に其影響を受けて繁栄するにあります」 〔傍点原文ママ〕 「要するに古来同化主義にて成功したる国は一つも無いのであるから,日本は殖民 地経営に付いては独逸の主義を捨て英国に倣ふの必要があります即ち朝鮮にても台 湾にても成るべく其土地の歴史旧慣人情風俗を尊重し朝鮮人は朝鮮人台湾人は台湾 人として発達させ,彼等の土地所有権は勿論其他の財産も紊りに之を奪ふことなく 充分に之を保護して彼等の幸福を増加し彼等の心より日本の殖民地たる事を喜ぶ様 に至らしめなければなりません切言すれば万一朝鮮や台湾が日本から分離しても決 して日本には叛かないと云ふ程度に至らしめなければなりません」 〔傍点原文ママ〕 そして,台湾や朝鮮に同化主義適用を不可とする根拠として, 「支那民族や朝鮮民族の如く,数千年の国家的歴史を有して固有の旧慣風俗を存す るのみならず,日本と文明の程度に於て大差なく,却て彼等は歴史的に観察すれば 日本に文明を宣伝したる関係上,自尊心も一層強き事と思はれるから,何しても之 を統治するに同化主義は不可なりと信ずるのであります」 とし,各民族の固有の歴史・文化の尊重を説き,かつ,その文明の高さを指摘していた。 吉野が『新台湾』に寄稿した経緯は不明である80)。だが,同誌の執筆者は在台湾内地 人が多くを占め,同誌は台湾に移入されていたことから,台湾人も目にすることができ 118 社会科学 第 40巻 第 3号 たはずである。この「非同化主義論」を見る限り,台湾人と吉野の邂逅は,従来考えら れてきたよりも早い時期かもしれない。 5. 2 総督府による弾圧 ① 総督府首脳部の冷遇 板垣離台後,総督府側は同化会に対して,冷遇そして弾圧へと舵を切った。佐久間総 督は, 「五年理蕃計画」が“一段落”したことや「討蕃」過程で深い負傷を受けたこと から,1914年8月頃から総督辞職を希望していたが,その後任選定過程で候補に浮上し た大谷喜久蔵陸軍中将に対し,1915年1月に「板垣伯発起ノ同化会ニ関スル件」につ いて忠告していた。すなわち, 「庶政ノ引継ニ先チ一応御聴ニ入レ度キ」こととして, 同化会の集金方法などについて疑念を述べるとともに, 「総督府ハ初メヨリ何等ノ関係 ナク暫ラク之ヲ観望セシニ其弊竇日日ニ甚シキモノ有之候」とし, 「未ダ断然タル処置 ヲ取ルノ時期ニ達セズト雖 台湾統治ノ将来ニ大関係アル」ものであり, 「仮令板垣伯 81) 等ヨリ同化会ニ関スル談話有之候トモ決シテ御採納不相成様切望致候」 として,もし 板垣から同化会に関して話があっても「採納」するなかれと告げていた。 また,総督府秘書官の鈴木三郎は,在京中の内田嘉吉民政長官宛の電報で,総督の意 を呈しながら以下のようにいう。同化会に対し台湾内の「内地人ハ全部反対」である, 「本島人モ中流以上ノモノ」は「漸次ニ金銭ヲ要求セラルルヲ以テ漸ク疑ヲ生ジ嫌気ヲ 出スニ至」っている,東京で開催予定の同化会「報告式」に内田長官が「仮令招待セラ ルモ右ノ報告式ニハ御出席アラザル様度シ度ク」と要請し,さらに「若シ御出席アルト キハ内地人台湾人ノ中流以上ノ者ヨリ反感ヲ受クルノ虞アリ御注意ヲ仰グ」とまで述べ て,接近を戒めていた82)。 各地方庁長の動きはどうか。1月中旬,加福台北庁長が同化会評議員を辞任すると, 全庁長はこぞって評議員を辞任し,全台湾の地方庁トップから官側の同調体制は崩れた。 その辞任理由には,一部の理事の行動が「悪辣」で「嫌悪」すべきもので,会員勧誘方 法も「強圧的」であることなどを挙げている83)。また,枝台中庁長は自身の評議員辞任 に際し,旧知事官邸に内地人・台湾人の評議員を招集し自己の辞任を披瀝した上で,評 議員「各自の意見を糺し」ていた。それは『台日』紙上において「多分中部の評議員全 部は総辞任を為すことゝなるべし」との予測を伴う性質のものであった84)。 植民地在住者の政治参加をめぐる相剋 119 ② 同化会解散命令・理由 板垣離台後も台湾に残っていた同化会幹部たちは会の維持と説明に奔走したが85),1 月23日,台湾総督府はついに同化会の会費徴収認可を取り消し,1ケ月後の2月23日 には解散命令を下した。公にされた解散命令理由は, 「台湾同化会は公安を害するもの と認め解散を命ず」という簡単なものであった86)。 しかし,台湾総督府作成の公文書からは,より具体的で詳細な理由が明らかとなる。 87) 『台湾総督府公文類纂』所収の「台湾同化会ニ対スル行政処分理由書」 は,「同会ノ幹 部員及会員ノ行動ハ当府ノ認可シタル趣旨ト相反スル現象ヲ呈シ本島ノ治安ヲ妨害スル コト尠カラス」とし,その「重ナル点」5点を列挙する。 第一の理由として, 「一,濫リニ自由民権主義,博愛平等主義ヲ鼓吹シ徒ラニ本島人 ノ反感,不平心ヲ喚起スルコト」が挙げられ, 「伯爵板垣退助ハ本島人ノ同化ヲ鼓吹スルニ方リ自由民権主義,博愛平等主義ヲ唱 道シ又同人ニ使役セラルル内地人本島人ノ役員等カ濫リニ政治問題ヲ口ニシ為ニ本 島人ヲシテ誤解ニ陥ラシメ統治上ニ悪影響ヲ及ホサントス」 といい,そもそも台湾人は「母国人ト風俗,習慣ヲ異ニ」し, 「一般ニ教育及智識ノ程 度母国人ト異ル」がゆえに,台湾の「統治ニ特別ノ制度」を設け台湾人に「特別ノ規定 ヲ要スル」状況にある,従って「権利,義務ノ異ルモノアルハ勢ヒ数ノ免レサル所」と する。そして現在の「本島人文化ノ程度其ノ他諸多ノ事情」に照らすと, 「濫リニ自由 平等主義ヲ鼓吹シ以テ之ヲ激励スルコトヲ許サス」とし, 「同化ノ本末ヲ顛倒」し「却 テ本島人ヲ危殆ニ陥ラシムル」にもかかわらず,同化会は以下の点が問題だとする。 「台湾同化会ハ当初ノ主旨ニ反シ会員募集ノ手段トシテ本島人ヲ激励スルニ彼等カ 特別ナル政治組織ノ下ニ支配セラレ権利義務ニ径庭アルコトヲ以テシ本島統治ノ根 本観念ト相背馳セントスルカ如キ観アルハ徒ラニ政府及母国人ニ対スル本島人ノ不 平反感ヲ招キ民心ヲ攪乱シ率ヰテ本島ノ施政ニ悪影響ヲ及ホシ治安ヲ妨害スルモノ ト認ム」 次に第二の理由としては, 「二,徒ラニ本島人ヲ軽佻浮薄ニ導キ穏健ナル思想ノ発達 ヲ阻害スルコト」とする。 「台湾同化会ニ対スル本島人ノ心理状態」は, 120 社会科学 第 40巻 第 3号 「自由民権主義ヲ持論トスル伯爵板垣退助ニ心碎盲動シ徒ラニ物資的ノ利益ヲ獲得 セントスルノ傾向アルモノ尠カラス例之ハ (一)台湾同化会ニ入会スルトキハ直ニ内地人ト同一ノ権利ヲ獲得シ本島人ノ参政 権ヲ認メラルルモノト信シ台湾同化会ニ依リテ参政権獲得ノ運動ヲ為サンコ トヲ夢想スル者アリ (二)台湾同化会ハ本島人ノ擁護者トナリ行政,司法ノ処分ニ対スル不服ヲ救済シ 又ハ会員ハ官憲ノ命令ヲ拒否スルノ特権アルモノト誤解スルアリ (三)台湾同化会ノ援助ニ依リ官有地ノ払下,鉱物採掘ノ許可ヲ得又ハ官業,専売 制度ノ更改ヲ企テ以テ利益ヲ獲得セントスルモノ等是ナリ,而シテ台湾同化 会役員ハ台湾同化会ニ依リテ是等ノ特権獲得ノ希望ヲ満シ得ルモノナルコト ヲ慫慂セリ」 というように,参政権獲得運動の契機となることや,総督府の処分への拒否権の行使, 経済的特権の分配を期待していると見なしていた。 このほかの理由としては, 「三,猥リニ皇室ニ関スル事項ヲ云為シ,尊厳ヲ冒涜セン トスルコト」 (次項③参照) ・ 「四,名士ノ名ヲ利用シ世人ヲ誤解セシムルコト」 ・ 「五, 敢テ法令ヲ無視シ治安ヲ紊リ本島人ニ悪感化ヲ及ホスコト」があげられている。 このように,台湾総督府の“治安の妨害”の意味するところは,板垣が自由民権主義 や博愛平等主義を唱えることで,台湾人の反感や不平心を喚起し政治運動を引き起こす ことであり,具体的には,参政権の獲得運動への危惧にもつながっていた。 台湾同化会は,会費徴収認可取消後の1月28日に台中支部を撤退,31日には台南支 部が事務所を閉鎖した。さらに2月23日に解散命令が下ると,残務処理中だった幹部 らは27日に台湾から出帆して本国へ去り,台湾同化会は,その姿を消した88)。 ③ 同化会・『東毎』関係者の拘引 さらに総督府は,同化会と『東毎』関係者の拘引に着手した。拘引は,1915年1月 21日から8月にかけて,不敬罪と詐欺罪の容疑で行われた。この間の法院・総督府首 脳部の対応を示す一連の文書が『台湾総督府公文類纂』に残されている(以下, ( ) 89) 内に同文書仮番号〔注89参照〕で出典を示す) 。 まず不敬罪容疑だが,台北地方法院が1月21日に捜査に着手し,同化会創立関係者 の佐藤源平を文書偽造罪で拘留(A文書) ,不敬罪での訴追を視野に入れて総督府首脳 植民地在住者の政治参加をめぐる相剋 121 が検討している(B文書) 。この容疑は,同化会副総裁の陸軍大将鮫島重雄90)が大正天 皇に台湾同化会につき言上した内容を記した「言上状況書」を,佐藤が「本島人ニ同会 ノ信用ヲ流布シ会員ノ募集ニ便センガタメ」に,1914年11月中に王学潜らに内示した というものであった。台北地方法院としては, 「言上状況書」の真偽にかかわらず,不 敬罪を構成するとして,佐藤を訴追しようとしていた(A文書) 。 台湾同化会問題が,大正天皇の耳にまで届いていたとするこの「言上状況書」は,鮫 島大将が大正天皇に言上した状況を記して鮫島自らが板垣同化会総裁に報告するという 内容であり,同化会関係者で文筆家の中西牛郎から佐藤源平が入手した謄本という。鮫 島が天皇に述べた内容とは, 「板垣伯爵ヲ始メ有志ノ者」が図って「台湾島民ノ為メ同 化会ト云フ公共ノ目的ノ会団ヲ組織」すること, 「総裁カ板垣伯デ其又副総裁ガ私」で あり, 「其成立ヲ完成スル為メ」に渡台すること,また,同化会の目的についても詳細 ア,ソウデアルカ,ソシテ台湾ニハ幾日間程滞在スル積リカ フシ殊ニ龍顔麗シク に告げたとする91)。これに対して大正天皇は,「逐一応対ノ御言葉ヲ以テ御聴取リシ辱 トノ難有御言葉」があり,鮫島は,2週間ほど滞在すること, 「帰リマシタナラバ更ニ 台湾ノ状況ヲ言上致シマス」と言ったことなどが記載されていた(文書B) 。この「言 上状況書」の真偽については,総督府首脳部でも扱いに悩み,宮内省に問い合わせたと ころ鮫島が「屡々陛下ニ進侍シタルコト」から「斯ル事実アリヤモ知レズ」というため, 鮫島への問い合わせの可否も検討された(A文書) 。台北地方法院はこの「言上状況書」 を佐藤の捏造とみなし不敬罪に問おうとしたが,結果は,5月4日に証拠不十分で免訴 とした。免訴の理由は,台北地方法院の予審終結決定謄本(1915年5月4日付)によ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ れば, 「鮫島男爵ハ右報告書ハ事実ノ記載ニ外ナラストイヒ」 ,また,佐藤の行為が天皇 への「敬意ヲ失シ又他人ヲシテ之ヲ失シムルニ至ラシムヘキ方法ニ於テ行ハレタルモノ トハ認ムヘカラサル」ためであった(B文書。傍点本稿筆者) 。 ただし,免訴にも関わらず,この間の取調や風評は在台内地人たちにより本国に飛び 火し,かつて板垣や同化会に好意的だった本国の名士たちは態度を変え,かつ,台湾人 土着エリートたちは,元勲たる板垣であっても不敬罪関連でおとしめようとする総督府 の態度に恐怖を覚えた92)。 次いで詐欺容疑事件に関しては, 『東毎』社長の山本実彦,同副社長の寺師平一,そ して前述の佐藤源平の3名が被告とされた。 「授爵運動,新聞経営ト称シ金員騙取」の 「重要詐欺事件」容疑として,2月に台北地方法院で予審が始まったこの事件の顛末は (D文書),予審終結謄本によれば以下のようである。3名は1913年2・3月頃に板垣 122 社会科学 第 40巻 第 3号 邸で知り合い,佐藤は台湾人土着エリートの林熊徴に授爵運動を働きかけ運動資金提供 をもちかけ,山本・寺師は“政府に一大新聞経営の計画あり”として林熊徴に新聞経営 への資金投入をもちかけつつ実際は自ら『東毎』を買収しその経営資金にあてたという もので,再三の送金請求とともに林熊徴に対する詐欺行為にあたるというものであった (C文書) 。6月,台北地方法院において詐欺罪で寺師は懲役2年,山本・佐藤は懲役1 年の有罪判決を受けたが,8月の覆審法院における控訴審では逆転無罪となった(F文 書) 。この間,証人として板垣の予審調書も証拠として採用されており(D文書) ,同化 会や板垣渡台の関係者の取調べそのものが目的であったとも考えられる。 この間の『台日』は, 『東毎』および同化会関係者による詐欺事件として記事を掲載 していった。3月には『東毎』社長山本と副社長・同化会幹事の寺師が東京から台湾へ 護送され台北監獄へ収監される記事,5月には山本・寺師・佐藤は「同化会瓦解と共に 大検挙」と大文字書きされた記事で,林熊徴に対する五万円の「大詐欺事件」被告とし て紙面にさらされた。 「詐欺事件」公判過程の『台日』は, 「同化会との関係」 「板垣と の関係」などの文字と共に, 『東毎』関係者が板垣や同化会関係者と知り合い関わる経 緯を,裁判報道として詳細に掲載した。結果は無罪ではあったが,この間の『台日』記 事は,板垣や同化会関係者に金銭面の問題があり,いかがわしい関係にあるかのような 報道となっていた93)。総督府が『東毎』関係者の裁判にかこつけつつ,すでに代弁者な き同化会に対して与えたダメージは小さくなかったと考えられる。 ④ 弾圧への恐怖 台湾人土着エリートにとっても,板垣離台後の総督府側の態度の豹変は明白で,かつ, 警察が厳密な監視を続けたため,彼等は活路を東京の板垣に求めようとしていた。しか し甘得中によれば,板垣離台間もない12 月末に東京へ向かおうとした甘得中・蔡恵如・ 林祖寿らは,台北停車場で待ち構えていた内地人警官に促がされて警視総長・亀山理平 太の官邸に行くことを余儀なくされ,亀山に威嚇されたため東京行きは頓挫した。 さらに彼等は,密かに画策して1915年3月に東京で板垣に会ったが,このときすで に,同化会関係者の不敬罪関連での拘束などを耳にした。また,在台内地人たちは,板 垣が明治初年に広めた自由民権・平等主義で台湾人を幻惑し総督政治に動揺を与えてい るとか,同化会幹部は詐欺的人物たちであるなどとして,中央政界方面に働きかけたた め,同化会設立に際して肯定的だった名士たちは態度を翻していた94)。 板垣は衝撃を受け意気消沈しつつも,今後は世論の力を用いて日本と植民地の政治改 植民地在住者の政治参加をめぐる相剋 123 革をすると述べ,また,ちょうど新聞社を宣伝機関とした世論喚起を計画していると語っ たため,林烈堂は自ら5万円の寄付を申し出,帰台後に東京滞在中の甘得中への送金を 約束したという。しかし,手紙の検閲や関係者の連絡齟齬により順調には運ばないまま 時間が経過した。こうしたなか,台湾では1915年8月,最後の武装抗日運動となる西 来庵事件が起こった。11月,東京で待機中の甘得中に届いた林烈堂・林松寿ら関係者 の書簡では,約束した送金の件はいまや実現不能となったこと,同化会関連文書はすぐ に焼き捨てよと述べていた。西来庵事件では,匪徒刑罰令により1, 957名が告発され, 臨時法廷で1, 430名が起訴,うち死刑判決866名,有期懲役453名にのぼり,その苛酷な 判決は本国でも非難の声があがった(のち,処刑95名の後に恩赦などで死刑は無期懲 役へと改められた) 。この苛烈な弾圧が同化会継続を企図する台湾人土着エリートに与 えた衝撃は,のちの台湾人社会運動家の言葉を借りれば,この同化会継続断念の経緯か ら「西来庵事件が台湾人とりわけ知識分子に与えた精神的打撃がいかに深刻か知ること ができる」という95)。武装抗日運動が並存し台湾総督府が苛烈な弾圧を行っていたこの 時期,台湾内で台湾人土着エリートが行使できる政治的選択肢は,非常に限られたもの であったといえよう。 5. 3 参政権の否定/特別統治体制の継続 他方で,台湾総督府にとって,同化会撲滅を終えた時期は,特別統治体制を支える基 96) 本法である三一法(1905年に六三法から改変) の見直し期にあたる。5年期限の時限 立法である三一法は,1916年で延長期限を迎えるため延長可否が政治課題となってい た。台湾総督府の主張は,三一法および特別統治体制の継続であったが,このときの台 湾総督府はその継続必要理由を,台湾人の参政権問題と関連づけて主張していた。 97) 1915年9月,台湾総督府が作成した「法律第三十一号継続ノ必要ヲ論ス」 では,特 別統治体制の継続理由として,台湾と本国の風俗・慣習との違いや,武装抗日運動が継 続する「民情」などといった従来同様の理由に加えて,新たに醸成されつつある“台湾 人の政治参加”への危惧を挙げていた。その「結論」部分で,まず「法理上台湾人民ヲ 以テ均シク是レ憲法治下ノ国民ナリト論決シ得ラルルノ故ヲ以テ直ニ同一国民トシテ統 御シ得ヘシ」とする論は, 「殖民政策ノ何物ナルカヲ了解サルモノ」として退け,もし 三一法を撤廃した場合には, 「台湾ニ要スル法律事項ハ盡ク帝国議会ノ協賛ヲ求ムルモ ノ」となるが,その場合「台湾ノ統治上幾多ノ困難ト諸種ノ弊害トヲ見ル」とする。そ の具体例として,第一に「議員立法ハ代表者ヲ要ス」ことであり, 124 社会科学 第 40巻 第 3号 「委任立法ノ制度ヲ廃止シ今後台湾ニ施行スヘキ特別法制モ亦悉ク帝国議会ノ議ニ ・・・・・ 附セサルヘカラストセハ議院法モ亦同一ノ理由ノ下ニ之ヲ台湾ニ施行シ台湾ノ籍民 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ヲシテ進ンテ議席ヲ占セシムルノ止ムヲ得サルニ至ルベシ」 〔傍点本稿筆者〕 という。しかし台湾人が帝国議会に議席を占めることは, 「台湾既ニ多少ノ文化ヲ見ル ト雖モ今日ノ現情ヲ以テ直ニ自治制ヲ布キ議院法ヲ施行スヘシトハ蓋シ何人ト雖モ其ノ 大早計ナルヲ知ルヤ疑ナケン」とする。 また,具体例の第二は, 「島民ノ政治熱ヲ醸成ス」ることで, 「割譲地ノ人民ハ容易ニ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 新政府ニ信服シ難キヲ常トス」るので, 「統治ノ初期少クトモ二三代ノ間ニ在リテハ之 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ニ教フルニ政論党議ヲ以テスルカ如キハ宜シク忌避スヘキ」とし, ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「今若シ委任立法ヲ廃シ何事モ皆ナ議会ノ公論ニ待ツモノトセハ島民ハ智識程度ノ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 如何ヲ顧ミス一日モ速ニ政権ニ参与センコトヲ熱望シ到ル処ニ法案ノ是非ヲ論議シ 幸ニ意ニ満ツレハ可ナリ然ラサレハ徒ラニ不満ノ声ヲ放テ処士横議ノ悪弊ヲ生セン ・・・・・・・・・・・・・・・・・ コトハ燎全火ヲ睹ルヨリモ明ナリ台湾統治ノ危機恐ラクハ茲ニ胚胎セン」〔傍点本 稿筆者〕 とする。そして, 「代議政治ノ妙味」は「其ノ人民ニ国民性ノ自覚アリテ而シテ後ニ初 メテ之レヲ知ルヲ得」るものなので, 「今日ノ島民ハ未タ以テ其域ニ達セサル」として, 台湾人の政治参加は時期尚早であり,百害あって一理なしとして拒絶していた。 なお,台湾人の政治的権利の抑制という点では,本国政府も同調していた。同化会解 散の翌年,1916年の片岡秀太郎台湾総督府参事官の書簡は以下のようにいう。すなわ ち,いまや内務「大臣を擔がねば事務進捗せぬ台湾」は, 「餘程威力薄く」なったが, その本国政府から「法制局参事官広瀬氏」 (広瀬温)が台湾共進会に視察にやって来た 際に「視察の結果を談じ」た結果,両者で「大体ニ於て同意」したのは以下2点であっ た。 〔ママ〕 「 (一)土人ニハ生存ニ必要なる衣食住ニ関し充分の保護を與ふる事 98) (二)政治的社会的ニハ其地位を與へず」 植民地在住者の政治参加をめぐる相剋 お わ り 125 に 本稿では,植民地在住者の政治参加問題について焦点をあてながら,台湾同化会の成 立から壊滅までを対象に検討してきた。この過程で台湾人は, 「同化」を掲げながらも, 「民権」や「立憲制」を渇望し,台湾内における在台内地人との格差を是正する属人的 な平等待遇を希求した。他方で,総督府の専制政治体制を支える六三法(のちに三一法) の撤廃を主張したように,本国と台湾の政治体制の格差を撤廃する属地的な平等待遇を 希求した。ここからは, 「同化」をさしあたりは引き受けながら,帝国内における属人 的かつ属地的な平等待遇を希求するという,この時期の台湾人の主張が看取できる。そ のため,板垣の主張する「同化」とセットになった内台人の平等待遇,特別統治体制と 立憲政治体制との地域間格差是正との共鳴が可能となったといえよう。 これに対する在台民間内地人の動向はどうか。彼等のなかには1900年代前半に「民 権論」を掲げて,内地人に限定した本国との平等待遇と六三法撤廃,すなわち属人的内 地延長主義を掲げたことがあった。しかしその際は,台湾人との格差を前提とし民族間 の“横並び”を忌避していた。したがって,台湾同化会に連なる台湾人側が六三法撤廃 を希求しても,彼等が同時に民族間の平等待遇を主張する限り,在台民間内地人は台湾 人と六三法撤廃運動で共闘することはなかった。結局,在台民間内地人は,台湾人への 人種的優越感と本国在住者へのルサンチマンの狭間で,台湾人の参政権運動への危惧を 募らせ,その抑圧のためには台湾総督府へ依存へと傾斜する状態に陥った。その「民権 論」は,政治参加問題が民族問題に直面することで却って委縮したといえる。 他方,台湾総督府は,同化会を弾圧するなかで,在台民間内地人と共通の利害関係を 構築した99)。また,本国政府に対しては,多民族化しつつある参政権問題が,帝国議会 の議席付与といった問題を生み出す可能性を示唆し,無影響ではないことをちらつかせ ながら,特別統治体制維持の必要を主張することで,属地的専制政治体制の維持にも成 功した。 このように,台湾同化会事件の政治過程は,結果としては台湾総督府の専制政治体制 の維持で終結した。しかしこの間には,本国と台湾を越境する政治運動,台湾内におけ る平等待遇の希求,それへの在台内地人の反発,そして吉野作造にみられるような「非 同化主義」の萌芽というような経験が蓄積されていったことは看過すべきではない。一 端は挫折したこれらの経験が,1920年代以降の新たな時代にいかなる様相を見せるの か,さらなる検討課題としたい。 126 社会科学 第 40巻 第 3号 注 1)本稿は,同志社大学を中心とした研究グループ DOSC(Dos hi s haSt udi e si nCol oni al i s m [同志社植民地主義研究会])の成果の一環である。同研究会は,2007年4月からの3年間, 「ヨーロッパと日本における植民地主義と近代性」をテーマに,同志社大学人文社会科学 研究所・第16期研究会の第9研究班として活動し,日本学術振興会から研究助成[科学研 究費基盤・研究番号:19520548]を受けた。2010年4月以降は,研究課題「 〈ポスト比 較〉の植民地主義研究:国際研究の基盤構築に向けて」をテーマに,同研究所・第17期研 究会の第9研究班として活動している。 2)許世楷『日本統治下の台湾 抵抗と弾圧』(東京大学出版会,1972年〔2008年版,168~ 178頁〕)。 3)若林正丈『台湾抗日運動史研究』増補版(研文出版,2001年)46頁。 4)Rwe i Re nWu〔呉叡人〕,TheFor mos anI de ol ogy:Or i e nt alCol oni al i s m andt heRi s e ofTai wane s eNat i onal i s m,18951945 (PH.D.di s s . ,t heUni ve r s i t yofChi c ago,2003) c h.3,参照。 5) 1909年創刊。月刊誌。台北で発行(李承機「台湾近代メディア史研究序説 植民地とメ ディア」東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士論文,2004年5月,未公刊, 81頁)。 6)前掲李承機論文112~115頁。 7)五味渕典嗣「山本実彦年譜考 『東京毎日新聞』時代を中心に」(『大妻国文』第40号, 2009年3月)。 について」(松 国民協会 8)朝鮮史では,松田利彦「植民地朝鮮における参政権要求団体 田利彦・浅野豊美編『植民地帝国日本の法的構造』信山社,2004年),李昇燁「全鮮公職 者大会:1924~1930」(『二十世紀研究』第4号,〔京都大学文学部〕二十世紀研究編集委 論 人の 『民権』 内地 員会, 2003年12月), 参照。 台湾史では, 岡本真希子 「在台湾 植民地在住者の政治参加の一側面」 ( 『日本史攷究』第25 号,日本史攷究会,1999 年) , 同「1930年代における台湾地方選挙制度問題」(『日本史研究』第452号,日本史研究会, 2000年4月〔中文訳として「台湾地方選挙制度問題之諸相」(李承機訳),若林正丈・呉密 察主編『台湾重層近代化論文集』播種者出版,台北,2000年8月〕),同「植民地初期台湾 における内地人の政治・言論活動 六三法をめぐる相剋」(『社会科学』第86号,同志社 大学人文科学研究所,2010年2月),参照。このほか,台湾人の「自治主義路線」の政治 運動については,陳翠「抵抗與屈從之外:以日治時期自治主義路線爲主的探討」(『政治 科學論叢』第18期,薹灣大學政治學系,台北,2003年6月(のち,陳翠『台灣人的抵抗 與認同:1920~1950』〔遠流出版,台北,2008年〕第2章に大幅修正して収録),参照。 9)こうした視角については,岡本真希子『植民地官僚の政治史 朝鮮・台湾総督府と帝国 日本』(三元社,2008年)第9・10章,参照。 10)復刻は,日本では1969年(台湾史料保存会編『日本統治下の民族運動』風林書房),1973 年(『台湾社会運動史』龍渓書舎),1986年(『台湾総督府警察沿革史Ⅲ 台湾社会運動史』 植民地在住者の政治参加をめぐる相剋 127 緑蔭書房),台湾では1995年(『台湾総督府警察沿革史』(三),南天書局)。中文訳は, 1988年(王詩琅訳『台湾社会運動史』稲郷出版),1989年(王乃信ほか訳『台灣社會運動 史(19131936)』創造出版),2006年(王乃信ほか訳『台灣社會運動史(19131936)』海 峡学術出版)。 11)『東毎』関係者の動向と台湾同化会の関係については,前掲五味渕論文,参照。 12)本稿では,戦前期日本で用いられた呼称である「内地人」を用いる。 13)台湾在住者のうち,漢族系の人々で,日本統治時代に日本側は「本島人」と呼称。 14)日本統治時代に日本側は「蕃人」・「蕃族」などと呼称。台湾では1990年代後の少数民族の 権利回復運動の結果,「原住民」という自称運動が展開され,現在は正式な呼称として原 住民という用語が用いられているため,本稿でもその用法に従った。呼称の変遷について は,北村嘉恵『日本植民地下の台湾先住民族教育史』(北海道大学出版会,2008年)19~ 21頁,参照。 15)前掲岡本論文2010年2月,参照。 16)本国政府は1920年に解釈を変更し,本国在住者であれば朝鮮人・台湾人なども有権者に該 当するとした(岡本真希子「植民地時期における在日朝鮮人の選挙運動」『在日朝鮮人史 研究』第24号,1994年,3~4頁。松田利彦『戦前期の在日朝鮮人と参政権』明石書店, 1995年,20~23頁)。これ以降は,属地的適用へと解釈が変更されたこととなる。 17)前掲岡本論文2010年2月,参照。 18)前掲若林著書337~377頁。駒込武『植民地帝国日本の文化統合』(岩波書店,1996年) 128~152頁。 19)前掲若林著書337~377頁。 20)安在邦夫「〔付録1〕板垣退助研究覚え書き 研究の現状と『板垣退助君伝記』刊行の 意義」(宇田友猪著・公文豪校訂『板垣退助君伝記』第4巻,2010年2月),参照。 21)台中在住の台湾屈指の名望家。1920年代以降の台湾議会設置運動の領袖。 22)前掲『台湾社会運動史』13頁。 23)板垣渡台に関しては,台湾内で販路拡張と新規メディアの創設を企図した『東毎』社長の 山本実彦らの思惑が入っていたとする見方もある(前掲五味渕論文103~109頁)。 24)本文中の旅程内容は新聞記事から作成。当該事項の記事の記載日は【表2】参照。記事内 容の直接引用がある場合のみ,出典を注に示す。 25)「板垣伯の演説」(『東毎』1914年2月21日,第2面〔以下,掲載年月日・面は,1914/ 2/21・②,と略す〕)。 26)「板伯大活動(廿四日台中) 」(『東毎』1914/2/23・②)。 27)「土人の歓待(廿五日台中)」(『東毎』1914/2/27・②)。本文の〔 〕内は岡本補足。 28)「板垣伯講演会」(『台日』1914/3/2・②・日文欄〔以下,『台日』資料の出典末尾には, 日文欄の場合は「日」,漢文欄の場合は「漢」と記す)。 29)「板垣伯の訣別」( 『東毎』1914/3/7・②)。 30)横関生「南国遊記」(一)~(十)(『東毎』1914/3/4・6~13・15)。 128 社会科学 第 40巻 第 3号 31)「台湾統治意見」(『東毎』1914/3/14)は,板垣守正編纂『板垣退助全集』全1巻(原書 房,1969年)掲載の「台湾の急務(大正四年)」(同書403~40 8頁)と全文同文。なお, 「台湾の急務」および後掲「台湾土民に告ぐ」(注34参照)は,安在邦夫氏の御教示による。 記して感謝する。 32)「台湾同化会首唱に就て」(「台湾同化会に対する名士の所感」国立台湾大学図書館特蔵組 所蔵〔作成年月日未記載。ただし本資料中掲載の人名・肩書きから,1914年同化会設立時 期のものと考えられる〕1~5頁〔日文版〕・43~45頁〔漢文版〕。および,前掲『台湾社 会運動史』15~16頁)。 33)「台湾同化会設立趣意」(前掲『台湾社会運動史』16~17頁)。 34)板垣退助「台湾土民に告ぐ(大正四年一月)」(前掲『板垣退助全集』)395~401頁。 35)「板垣老伯来台 附記同化会内容」(『台日』1914/11/23・②・漢)。 36)前掲「台湾同化会に対する名士の所感」(前注32参照)。 37)甘得中「献堂先生與同化会」〔原文漢文〕(林献堂先生紀年集編纂委員会編『林献堂先生記 念集』巻3・「追思録」,1960年)31~32丁。 38)「台湾同化会ニ対スル行政処分理由書」(「台湾同化会費用徴収認可取消(台湾同化会)」 〔国史館台湾文献館所蔵『台湾総督府公文類纂』大正4年・永久特殊保存・第1卷〔冊号 2475〕・文書番号4〕,所収)。 39)前掲『台湾社会運動史』18頁。3名の理事とは,陸軍歩兵大佐の野津鎮武,『東毎』副社 長の寺師平一,および樋脇盛苗。幹事4名は河合光雄・武藤親廣・石原秀雄・勝卓郎。 40)「日日小筆」(『台日』1914/9/23・①・日)。 41)「同化会発会式」(『台日』1914/11/25・②・日)。 42)「板垣伯来台」(『台日』1914/11/23・②・日)。 43)王学潜は,1913年の東京での林献堂・板垣の面会に同行(前掲『台湾社会運動史』13頁)。 44)「板垣老伯来台」(『台日』1914/11/22・②・漢),「板垣老伯来台」(同23日・②・漢)。 45)辜顕栄「同化会書感」(『台日』1914/11/22・③・漢),王学潜「同化会書感」(同12/2・ ③・漢) 。 46)林献堂講述「同化会述聞録」(『台日』19 14/12/3~6・③,同7日・④,同8日・③。漢)。 47)「日日小筆」(『台日』1914/11/22・①・日)。 4 8)「同化会と土陽会」(『台日』1914/11/21・②・日)。 49)前掲甘得中「献堂先生與同化会」35~36丁。 50)今井梅軒「奇怪なる同化会」(『新台湾』1 915年1月号)6頁。 51)「台湾同化会定款」(前掲『台湾社会運動史』17~18頁)。 52)「同化会続報」(『台日』1914/12/12・③・漢)。 53)「同化会評議員推薦」(『台日』1914/12/7・②・日),「同化会続報」(同12日・③・漢)。 54)前掲甘得中「献堂先生與同化会」35~36丁。 55)「板伯の同化論 台中に於ける講演」(『台日』1914/12/14・①・日)。なお,前掲『台湾 社会運動史』19頁には,この記事とほぼ同様の文言で,講演内容を記載(一部省略あり)。 植民地在住者の政治参加をめぐる相剋 129 ただし『台湾社会運動史』の同化会関連記述は,『台日』と文言まで酷似しているうえに, 日付・事実発生順序に誤りが見られる。 56)1906年に台南の古典詩人たちで創設した詩社。台北の瀛社・台中の檪社と並ぶ台湾の三大 詩社の一つ。連雅堂・趙雲石・蔡國琳・陳逢源などが参加(許雪姫総策畫『臺灣歴史辭典』 遠流出版,台北,2004年,549~550頁)。 57)法院通訳。台湾語学習雑誌『語苑』の委員。すでに台湾で『用語』(臺灣語通信研究 会,1911年)・『新撰日臺言語集』(日臺言語集発行所,1912年)を出版。 58)同化会解散後に公学校教員を免職された。林献堂の支援で本国へ留学し,1920年代以降の 台湾議会設置請願運動の中心的リーダーの一人となる。 59)「台南之同化会」(『台日』1914/12 /15・②・漢)。 60)「籍敦聲気」(『台日』1914/12/15・③・漢)。 61)「同化会寄附」(『台日』1914/12/15・②・漢)。前掲『台湾社会運動史』18頁。 62)「同化会と台南」 (『台日』1914/12/16・③・日)。 63)「同化会発会式」(『台日』1914/12/21・⑤・日)。前掲『台湾社会運動史』19頁。 64)「同化会発会式」(『台日』1914/12/22・③・漢)。 65)前注64記事中に掲出の「木村匡氏之祝辞」。なお,『実業之台湾』第63号(実業之台湾社, 1915年1月号)も,同内容の木村匡「台湾同化会は帝国同化会たるべし」を日文で掲載 (20頁)。 66)「同化会反対演説会延期」(『台日』1914/12/20・②・日)。 6 7)前掲『台湾社会運動史』20頁。 68)「新竹及同化会」(『台日』1914/12/31・③・漢)。 69)「板伯と台北有志 同化会組織改善の要求」(『台日』1914/12/27・③・日)。両資料はと もに前掲『台湾社会運動史』(20~21頁)にほぼ同一文言で記載されているが省略部分が あるため,本稿では『台日』記事に拠った。 70)要点として,「二,評議員は在台会員中より総裁之を推薦する事」・「三,理事は評議員の 互選により総裁之を任命する事」・「四,理事及評議員の数は内地人と本島人と同数たる可 き事」・「六,予算は評議会に於て之を決定する事」・「十,本会の会費は之を在本島の銀行 に預金する事」など。 71)「板垣伯帰内地」(『台日』1914/12/28・④・漢)。 72)前掲『台湾社会運動史』22頁。 73)「日日小筆」(『台日』1915/1/12・①・日)。 74)1914年12月創刊。東京の東京通信社で発行し台湾へ移入。1915年7月,神戸に新発行所設 立。東京発行の経緯は,主筆の三澤素竹によれば「吾人は百尺竿頭一歩を進め台湾島地に 発行所を移さんと欲するも,督府は容易に認可すべき模様なし」ため(「新台湾独立宣言」 『新台湾』1915年7月号,3頁)。 75)『新台湾』1915年1月号,8~9頁。 76)前掲岡本論文2010年2月,参照。 130 社会科学 第 40巻 第 3号 77)吉野作造「非同化主義論」(『新台湾』1915年1月号,4~5頁)。この「非同化主義論」 への道 に言及したものとして比屋根照夫の論考がある(比屋根照夫「 混成的国家 近代沖縄からの視点」(C.グラック・姜尚中ほか編著『日本の歴史』第25巻,講談社, 尊重論」との類似から言及があるのみで, 2003年)155~157頁。しかし伊波の「 個性 台湾史の文脈からの考察はない。 78)吉野作造と台湾人との関わりについては,前掲若林著書83~87頁,戴國煇「吉野作造と蔡 培火」(『吉野作造選集』第9巻,岩波書店,1995年,月報),参照。 79)松尾尊兊「 〈解説〉吉野作造の朝鮮論」(前傾『吉野作造選集』第9巻)379~404頁。なお, 比屋根も指摘するように,同選集には「非同化主義論」は未収録。 80)『吉野作造選集』所収の吉野作造「日記」は1914年分を欠き,現存する1915年1月以降の 「日記」には「非同化主義論」・『新台湾』関係の記述はない(『吉野作造選集』第14巻, 1996年)。 81)「佐久間台湾総督発大谷陸軍中将宛書簡草稿」(「佐久間総督辞任関係電報」〔国立国会図 書館憲政資料室所蔵「鈴木三郎文書」188〕所収)。日付不明だが,1915年1月4日~25日 の電報の間に綴込れているため,この間のものと推定される。 82)「鈴木三郎秘書官発内田嘉吉民政長官宛電報按」(「南洋協会,同化会関係」大正四年二月 〔前掲「鈴木三郎文書」1451〕所収)。 83)「同化会瓦解せん 全庁長評議員を辞す」(『台日』1915/1/21・②・日)。 84)「評議院総辞職か 中部同化会の近状」(『台日』1915/1/21・②・日)。 85)「同化会と中部」(『台日』1915/1/22・①・日),「台南同化会況」(同日・②・漢)。 86)「同化会認可取消」(『台日』1915/1/24・②・日)。「同化会解散 解散命令下る」(同2/ 27・⑦・日)。前掲『台湾社会運動史』23頁。 87)前掲「台湾同化会ニ対スル行政処分理由書」(前注38参照)。 88)「同化会撤退支部」(『台日』1915/1/3 0・③・漢),「台南と同化会 (同31日・③・日),「同化会解散 事務所を閉鎖す」 解散命令下る」(同1915/2/27・⑦・日)。 89)この文書は,『台湾総督府公文類纂』大正4年・15年保存・第26卷〔冊号5921〕・文書番 号17の中に編綴された7つの文書で構成。以下,編綴順に各文書にAからGの仮番号を付 し出典を記す。A「同化会創立者中犯罪報告(覆審法院検察官長)」民法三三。B「佐藤 源平不敬罪ノ件内務大臣へ報告」民法三一。C「重要詐欺事件報告(覆審法院検察官長)」 民法一六七。D「重要詐欺事件報告(覆審法院検察官長)」民法六九。E「重要犯罪報告 (覆審法院検察官長)」民法二二九。F「重要詐欺事件報告(覆審法院検察官長)」民法 三六八。G「重要詐欺事件判決謄本進達(覆審法院検察官長)」民法三九三。A・Bが佐 藤源平を対象とする不敬罪容疑事件,C~Fが『東毎』社長山本実彦・同副社長寺師平一, および佐藤源平を対象とする詐欺容疑事件に関するもの(被告肩書きはC・D文書所収の 台北地方法院の予審終結決定謄本・判決謄本による)。佐藤はもと台湾総督府鉄道部書記 奉職中に林本源家の知遇を得て林熊徴の通訳郭邦彦と交際し林熊徴家に接近,寺師は妻が 板垣邸で召使であることから板垣に接近したという(D文書)。 植民地在住者の政治参加をめぐる相剋 131 90)ただし鮫島と板垣は同化会の組織・人事関係をめぐって齟齬を来たしたため,鮫島は副総 裁を辞退,板垣再渡台時には副総裁は不在(前掲甘得中「献堂先生與同化会」38丁)。 91)鮫島大将が大正天皇に告げた「同化会ノ目的」は「第一ニ総督府ト島民トノ意思ノ疎通ヲ 図リマス事,第二ニヲ内地人ト島民トノ融和交歓ヲ図リマス事,第三ニ島民ノ教育程度ヲ 進マス事,第四ニ島民ノ人権ヲ内地人同様ニ平等ニシマス事,其他一般島民ニ帝国々民ト シテノ精神ヲ発揚セシムル如ク之ガ指導督励ニ努メマスノガ主要ノ目的」で,「畢竟島民 ガ此ノ如ク我国家ニ同化スル様ニナリマスレバ自然島民ガ我国家ニ対スル誠意モ発揚サレ 従テ島民各自ガ国家ニ貢献スル処ノ力モ増大ニナル訳デゴザイマス加之結果ハ延テ我国ト 支那民族トノ密接交歓上大ニ益スル処ガアラウ」というもの(前掲『台湾総督府公文類纂』 592117・B文書)。 92)前掲甘得中「献堂先生與同化会」39丁。 93)「東毎社長護送」(『台日』1915/3/3・⑦・日),「東毎社長収監」(同5日・⑦・日),「寺 師平一収監さる」(同16日・⑦・日),「大々的詐欺事件」(同5/14・⑦・日),「内地紳士 大詐欺」(同15日・⑥・漢),「大詐欺事件詳報」(上)・(下)(同17日・④・漢,同18日・ ⑦・漢) , 「詐欺事件公判」 (同6/16 ・⑦・日) , 「詐欺事件公判」 (上) ・ (下) (同19 ・20 日・ ③・日),「五万円事件公判」 (同25日・⑦・日),「五万円事件判決 三被告全員無罪」(同 8/17・⑦・日),「五万円事件判決」(上)・(中)・(下)(同17・24・25日・③・日)。 94)前掲甘得中「献堂先生與同化会」36~39丁。 95)呉三連・蔡培火等著『台湾民族運動史』 (自立晩報出版,台北,1971年,中文)32~35頁。 96)呉密察「明治國家體制與臺灣 六三法之政治的展開」(『臺大歴史學報』第37期,台湾大 学歴史系,台北,2006 年6月)121 ~133 頁,春山明哲『近代日本と台湾』 (藤原書房,2008 年)185~187頁,参照。 97)「明治三十九年法律第三十一号中改正ノ件」 ( 『台湾総督府公文類纂』永久保存・大正4年・ 第60巻〔冊号2400〕・文書番号13)。8月の内務次官からの三一法継続可否の問合せに対し て作成された。 98)「(書簡)/台湾土人の処遇方針の件」(「岡松参太郎文書」B79,片岡秀太郎発・岡松(参 太郎)宛,1916(大正5)年4月23日〔封筒消印による〕)。 99)ただし,同化会撲滅では利害が一致しても,以後も必ずしも在台内地人社会が一枚岩とし て結束していたわけではない。例えば『新台湾』が統治批判を行った際,台湾総督府は 「此ノ点ト云フ程ノ程度ニハ至ラサルモ全編ヲ通ジテ不適当ナル記事ト認メラルル故禁止 ノ処分ヲ為ス方宜敷」との曖昧な基準で,1915年4・5月号を台湾での発売頒布禁止処分 五月号について」1915年5月13日 とした(中山警視発民政長官宛電報訳文「 新台湾 〔前掲「鈴木三郎文書」612,所収〕。また,十字樓主人「新聞雑誌の発売禁止に就て」 『新台湾』1915年7月号,9~10頁,参照) 。 132 社会科学 第 40巻 第 3号