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第89号(中)

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第89号(中)
彼岸のかまきり
つい先頃、夜の戸を締めにいった娘
が、「わあ怖い」と戻ってきた。
「どう
したの」と聞くと「カーテンにかまき
内 野 潤 子
(歌人・エッセイスト)
捉えて庭の草むらに放してやった。
私は小学校の読本にあったかまきり
であった。
私は、このかまきりは亡くなって十
かまきり
年たつ夫ではないだろうかとふと思っ
た。
知らぬ間に厨に住める蟷螂は夫に似
ており
その怒る様
という歌をかつて詠んだことを思い
出したからである。夫は平成十七年二
月彼岸に渡ってから、次々にいろいろ
亡くなる迄、孫の結婚を心配してい
なことがあった。
たが、自分のお葬式のお通夜の日に、
誰か若い男性に留守番をたのみたいと
いうと、孫のボーイフレンドの一人が
選んだのかもしれない。死者の力をひ
一年後に結婚したのである。多分夫が
の歌を思い出した。
「かまきりじいさん 稲刈りに
鎌をかついであぜみちを
そかに感じたのは私だけではなかった。
かまきりは当時どこにでもいたし、
彼は写真のじいじが誰かと知る由も
ことだろう。
である。夫がいたら、どんなに喜んだ
そしてその後、彼と交流が深まり、
遠い田んぼへ急ぎます
来てくれることになった。
中生きてきたのに、平和で育った者は
すっきり晴れた秋の日に
りがいる」と言う。かまきりが怖いと
かまきりが怖いなんてと笑ってしまっ
数年後可愛い男の曾孫が誕生したの
は、と私は戦争で空から爆弾が落ちる
た。
遠い田んぼへ急ぎます」
そばにゆくと、褐色の中位のかまき
孫を呼んで外に放してやるという。孫
野原が方々にあって昆虫は親しい仲間
りが首を動かして止まっている。娘は
は大きな捕虫網をもってきて、上手に
16
こう
時に、かすかに鳴き声がすると、娘
庭隅の小さい瓶の水に育つらしい。
もう何代目の蛙なのだろう。
どこから入ったのか、網戸だらけの
りがひょっこり止まっていたのだ。
家ですき間など全くないのに、私が朝
今日は食卓のそばで、蠅が一匹仰向
ないが朝夕私が香をたき般若心経を唱
えるのを見ながら、大きくなった。仏
の光を浴びるため、戸を開けてしばら
けになって手足をふるわせていた。娘
りん
様のお鈴が大好きで鳴らしすぎて「じ
く経って庭を眺めていたときに、セー
はえ
いじがうるさいよって言ってる」と言
ターか何かについてきたとしか考えら
その間私は貧血がひどくて、一時は
は「まだ生きているからそっとしとい
と言う私に大きい団扇をもってきて
どと言って、「外に放した方がいいよ」
「昨日の夜とび廻っていたのよ」な
てね」と言う。
毎日庭に飛んで来た黄色い蝶の二匹
そっと掬い上げて、やっと草むらに放
在なのだろうか。
昆虫に宿る死者の魂はどこへでも自
れない。
は喜んでいる。
うと止めるようになった。
娘たちが必死で介護してくれた。大学
病院に見放された後インターネットで
も十日の間毎日遊びにきて、私が庭に
探した新しい先生は月二回家に来て下
立っても少しも逃げず腕などに触れて
さり、思いがけず貧血から立ち直るこ
ベッドの上の写真の夫は、じっと見
した。
とができた。
ひらひらととんでいることもあった。
止まったということを何かで読んだ。
者がいて舞台でより目を作る孫の鼻に
そういえば梨園の話に蠅になった役
守ってくれていたのだろう。様子を見
庭に夏みかんの木があるから、そこ
紋白蝶ではなく紋黄蝶の可愛い二匹
で育ったのかもしれない。
にカーテンにとんできたのだろうと私
は感じたのだ。
又末娘の家の三人の孫たち、長男の
庭に棲むものを、娘も孫もとても大
う
事にしていて、怖いかまきりも殺した
と
海外公演までついていって、部屋を
が恙ないのは何より有難いことで、特
りは絶対しない。又蛙が方々にかくれ
も し れ な い。 娘 も、
「たたいたり殺し
で時に翅を触れ合っていた。
に私は自分の力で一人で生きていると
たりはだめよ誰かの魂かもしれないか
家の二人の孫も順調に育ち、それぞれ
いう実感は全くなく、今は生かしても
ていて、雨が降るとのっそりと敷石の
ある。
ら」と私をさとすようにつぶやくので
芸人はそれぐらいのことをするのか
ま」と言ったという。
とび廻り、お嫁さんが「あらお義父さ
らっている生命と思って毎日をすごし
かない。
「危ないからどいて」と言っても動
上に出てくる。
カーテンのさわぎから数日たって、
ている。
今度はベッドの私の枕の上に、かまき
17
父の遺産
明治三十八年生まれの父が亡くなっ
たのが平成二年である。かれこれ四半
しての近衛歩兵旅団の一員として、途
続き、桜田少将を長とする、増援軍と
(詩 人)
宮 地 智 子
やれやれ生きられたと感じた時は二月
※一 父の名
父は当時、母のお腹のなかに
い た 子 の 名 を、 自 分 の 父 親 の 名
ほんの僅かであり、それはそれで私個
のある南寧作戦の部分は、回想録中の
勝利を治めている。父と直接に関わり
中から参加したのである。これを機に
下旬であった 苦しい戦であった〉
〈嶺巌〉から一字を取っていくつ
人としての感慨は大きいものである
ンダーか何かと思われる紙をちぎった
まず初めに手に取った本には、カレ
を拭い、和紙で繕い、第四巻から読み
の、第四巻『戦い終る』である。汚れ
和三十五年 自由アジア社刊 今村均
著『今村均大将回想録』全四巻のうち
そのメモが挟まれていた本とは、昭
この遺棄死体を外国の新聞記者などに
体を放置したまま退却するので、もし
目を見張るばかりである。
ソードが至るところに散見されるのは
が、それにも増してひとりの日本人と
のいくつかが埃をかぶって、長野県北
ような紙きれが挟まれてあった。そこ
始めた私は、その筆緻の確かさ、公明
見られるといかにも残忍に見え、悪宣
日本軍は勢いを盛り返し、この時点で
か言い残して出征したものと思わ
世紀が経った今日になって、私は父の
佐久郡に所在する古い山小屋に残って
れる。
※二
いる。それはかつて父が電気も水道も
残した蔵書を整理し始めた。そのうち
引かずにおいた粗末な堀立小屋である。
には、決して上手とは言えない父の筆
正大さ、人間に対する愛情の深さに、
父が参戦した何寧作戦は、前半苦戦が
伝に供されるだろうからはやく埋葬す
例えば、敵は自分の軍の戦死者の遺
して私が関心を抱かざるを得ないエピ
跡で短いメモが書かれてあった。
心を打たれ、たちまち引き込まれた。
子の生れるのを念じつつ前線に向った
二月一日苦戦の結果賓陽に入った
〈昭和十五年一月十五日 近衛混成
※二
※一
旅団の一兵卒であった照太は嶺のつく
18
目にも注目するべき内容が書かれてい
うか。もうひとつ〈慰安所〉という項
とつのよい資料となるのではないだろ
がまかり通るのも故なしとしない、ひ
なる程、南京大虐殺などというデマ
ている。
という計画は、安藤軍司令官が発言し
の故事にならい、南寧公園に建設する
下している。敵味方菩提の碑を清正公
将ではなく師団長であった)は命令を
るようにと今村師団長(当時はまだ大
の名でやっているとのこと。私もこの
く、 列 国 軍 と と も に「 特 殊 看 護 婦 隊 」
多い。これはわが軍だけのことではな
地のこの種施設をひんしゅくする人が
めのところであり、わが国内では、戦
安所というのは、将兵の性的慰安のた
処 な の で、 も う 少 し 引 用 し た い。
〈慰
確認できるという点で特筆すべき箇
る従軍慰安婦に関わる重要な事実が
現在、大問題となっている、いわゆ
団でやっていただきたいと存じます。」
ご決定を願い、その方の設備は桜田旅
て述べた一部を紹介したい。
後に、敗戦の夜、今村大将が別辞とし
いうこと。紙幅が尽きてしまった。最
されそのうち足が遠のいてしまったと
も利用するので兵隊たちが長時間待た
の切符を、将校や下士官が一日に何枚
は、一枚の切符で三十分利用できるそ
村 師 団 で は、 若 い 者 の 利 用 が な い の
一番多かったということ。あるいは今
のが、予想に反して近衛部隊のものが
るから慰安所は必要ないと言っていた
〈 私 は 思 う。 人 間 は 運 命、 す な わ ち
る。
雑談のなかで、軍の管理部長が次のよ
勢二十名くらいを夕食に招いた。その
団長を主賓として軍の幕僚各部長ら総
披露を兼ねて今村師団長と桜田近衛旅
在ではないことの、ひとつの証として
設は、日本にだけに見られる特殊な存
がわかるし、戦場に於けるこの種の施
などというものは存在しなかったこと
とつの文章から、もともと従軍慰安婦
以上引用した、ひとつの会話と、ひ
この戦争も、事成らずして敗れた終戦
いる。死中に活を得ようとして起った
が、私は、これを民族的宿命と信じて
を、 さ ま ざ ま に 批 判 す る で あ ろ う。
家は満州事変以来の、わが日本の歩み
用から自由であり得ない。後世の歴史
は出来ない。同様に国家もまた運命作
四囲の環境による影響から脱れること
う に 言 い だ す。
「きょう自動車で十五
貴重な資料であると思う。また、こん
名の方がよいと思う。
〉
名ほどの抱え主につれられ、百五十名
も、また運命であると考える。運命に
新任の久納中将軍司令官は、就任の
程の慰安婦が到着し、軍管理部で、家
なユーモラスなエピソードもある。
ら八粁も離れた部落におりますので、
留めておいてよいか近衛部隊は南寧か
ころ、当初、近衛旅団は他と違ってい
用状況を一表にして各隊に配布したと
ある日、憲兵隊が、南寧慰安所の利
……〉
であるのは昨日までの敵漢民族です
対 し、 も っ と も 平 静 で あ り か つ 勇 敢
た
屋の都合はつけました。全部を南寧に
そちらには何名程移らせたらよいか、
19
し
むら
くに
ひろ
志 村 有 弘
(文芸評論家)
整備で出かける。隣の家の方に庭木が
出ていれば、それを切る。南の公道に
庭木が出ているとそれも切る。草毟り
もする。成長した蕗や薊は根元から抜
北海道は湿気がないので、気温が高
いてしまう。
くてもさほど暑いとは感じない。ドア
を開け放って玄関に座り、東側の窓か
ら吹き抜ける爽やかな風に、五月から
十月くらいまでここに住もうか、など
と 思 っ た り す る。 旭 川 に は 年 に 一、
かぶ利尻富士が哀しく見える。姉から
海辺に出てみると、遥かに海上に浮
谷良一さんは北海道屈指の画家であ
う気を起こさせる。亀井さんの隣の菱
こうしたことも、旭川に住もうかとい
みんな心優しく、親切にしてくれる。
二度しか行かないのに、近所の青木さ
で葬儀に出席できなかった。寺の納骨
貰 っ た チ ケ ッ ト で 近 く の 温 泉( 民 宿 )
あるじは自分たちで、私は怪しげな潜
稚内・旭川、そして合掌
北海道の稚内に眠る長姉の墓参に出
堂には姉の夫と息子も眠っている。寺
に行ったことを思い出す。しかし、そ
る。もう何年か前のことだが、通り掛
ん、亀井さん、神沢さん、小谷さん、
庭は綺麗に整備され、藤の花が美しく
か っ た 菱 谷 さ ん が、 家 の 前 に ぼ ん や
入者なのであろう。
咲いていた。線香を立てて合掌し、葬
れ も 何 故 か 哀 し い。 稚 内 の 町 を 歩 く
かけた。姉が他界したとき、私は他用
儀に参列できなかったことを心から詫
り と 座 っ て い る 私 に、「 個 展 が 今 日 終
わ っ た 」 と 言 い な が ら、
「物書きが同
と、駅の近くにあった本屋が姿を消し
じ町内にいると思うと心強い」と話し
て い た。 稚 内 に 来 る と、 必 ず 立 ち 寄
姉が住んでいた家のあたりを散策し
り、雑誌などを買い求めていたことを
びた。
た。家は昔のままに残っているが、近
に、私は心底嬉しさを感じた。
掛 け て き た。
「同じ町内」という言葉
思い出す。
ここに住んでいた末姉が他界し、家の
私 は 年 に 一、二 度、 旭 川 へ 出 向 く。
くの市営住宅は人が住んでおらず、ま
るで廃墟と化し、鹿が三頭、こちらを
睨んでいた。鹿からすると、この地の
20
旭川では自転車に乗って大型スー
ことも、旭川に心惹かれる大きな理由
詩人吉田廸男の菩提寺高徳寺(秩父
ら、私は〈作家が歴史小説を書き出す
館で細川ガラシアのコーナーを見なが
妻の優しい人柄を偲ばせる。三浦記念
邸の庭の美しい花が目に映り、三浦夫
さんと出会ったことを思い出す。三浦
前、三浦綾子記念文学館で夫君の光世
に 作 家 の 三 浦 綾 子 が 住 ん で い た。 以
に「ふるさとは/泪のうえに/泪なが
詩壇史』は労作だ。武田の晩年の作品
した三浦綾子の『随筆細目』や『旭川
は思ってもいなかった。東さんが作成
知 っ て い た。 ま さ か、 こ こ で 会 う と
んごの木」で〈詩人東延江〉の名前は
田 隆 子 主 宰 の 詩 誌「 幻 視 者 」 や「 り
さ ん と 出 会 っ た。 旭 川 出 身 の 詩 人 武
旭川文学資料館で、副館長の東延江
みじみと思う。
夫と親しかった。人の不思議な縁をし
『 北 の 詩 人 小 熊 秀 雄 と 今 野 大 力 』 は
文句なしの名著だ。私は晩年の加藤愛
人 小 熊 秀 雄 の 研 究 者 と し て 知 ら れ、
倉義慧先生ゆかりの寺。義慧先生は詩
高徳寺は、私の高校二年時の副担任金
吉田廸男の墓所を拝むことができた。
た。高徳寺住職金倉泰賢さんの案内で
藤愛夫や更科源蔵と親交を持ってい
別町)を訪れてみた。吉田は詩人の加
のは、現代小説に行き詰まった場合が
して/悲しく/想う処」という詩があ
だ。
多い。三浦綾子もそうなのか〉と思っ
高徳寺からの帰途、私の生地である
パ ー に 出 か け る。 そ の ス ー パ ー 近 く
た。これは私の謬りで、三浦綾子の場
深川に立ち寄り、少年時代を過ごした
哀しい思いがする。久しぶりに深川駅
る。私はこの詩が好きで何度心の中で
前の手打蕎麦処椿に入ってみた。椿食
合、すでに『氷点』でガラシアのこと
最近、北海道上川町にある柳原白蓮
堂は幌加内の蕎麦を手打で食べさせ、
太子町を散策した。過疎化が進んでい
の碑のことで北海道新聞旭川支局の楢
味は絶品だ。私が行くと、蕎麦を運び
反芻したか分からない。武田は故郷に
木野寛記者から取材の電話があった。
ながら、話相手になってくれたお婆さ
悲しく思いを馳せながら、望郷の念に
親友内田征司さんが住んでおり、征司
まもなく、今度は根室支局の丸山格史
んの姿が見えない。訊くと、三回忌が
に触れているから、キリスト教徒であ
さんのお嬢さんの智子さんは朱彩陶房
記者から、やはり白蓮関係の色紙のこ
終わったという。私はここでも心の中
る彼女は、古くからガラシアに関心を
( 陶 芸 ) を 開 い て い る。 智 子 さ ん の 造
とで取材の連絡がきた。テレビの「花
る の か、
「 売 地 」 の 看 板 が 目 に 付 き、
る陶器は色彩といい、形といい、まこ
子とアン」で白蓮は再び大スターと
耐えられず泪していたのであろう。
とに見事な出来栄えを示す。奥さんの
で合掌するだけであった。
三浦家近くに私の小学校時代からの
トミ子さんも温和で優しい心遣いをし
なった感じ。
抱いていたらしい。
てくれる。近くに征司さん一家がいる
21
中学時代
佐 川 毅 彦
ワタル
私の墓の後方に彼の家の墓があっ
友だち亘と会った。
た。四十年ぶりの再会である。
その後よく酒を飲んだりするように
ところがある日突然、徳子から葉
書がきた。そこには人は変わるもの
です。これで終わりにしましょうと
書いてあった。どういうワケかわか
らんまま二人の仲は終ってしまった。
同窓会の時、徳子を見つけた亘は
葉書の事を聞いてみたが、ただ泣き
だすだけで真相はわからなかった。
ある時普天間の町を歩いていて偶然
なった。
出会ったら徳子はびっくりして、あ
き合わず、いい人もできず、結婚も
私の家の近くの居酒屋で飲んでいた
事があったなんて、私はどうなるの。
せず、独身でいるという。
とずさりしながら逃げていった。そ
しかし彼の成績では首里高はむつかし
やはりオレの事が忘れられずに待っ
時、中学の話題になった。なんと亘は
中学生の時、徳子という好きな子
いのではというので、二人は違う高校
ているのか、今からでも遅くない会
あの徳子とつき合っていたと言いだし
が い た。 進 路 指 導 の 先 生 か ら、 徳
へゆくことになった。しかしその後も
いにゆくべきだ。泡盛をグイグイ飲
その後風のうわさでは、誰ともつ
子は首里高校を受験すると聞いた
二人の仲は続いていたのである。徳子
みながら、私に一緒に会いにゆこう
れから一度も会った事がないという。
ので、私は首里高を受けることにし
が東京の大学にいっている時は文通な
とかなりしつこく誘う。私は生ビー
たのである。そして二人で首里高へ通
た。ところが徳子は那覇高へ私はひ
どをしたり、夏休みで帰った時はよく
ルを飲みながら聞かなかった事にする。
うはずだったと言う。まさか、そんな
とり淋しく首里高へ…遠い昔の忘れ
カルピスをもって亘の家に訪ねて来た
亘は泡盛のロックを飲みながら、
てしまった事である。
という。
月日は流れて二年前の夏、お盆前
で墓掃除にいった時、小学校からの
22
ふく
せん
伏 線
し
むら
よし
もり
志 村 栄 守
(評論家)
今や近隣の外国でも、近代的な高層
ビル群が、実は仲は空っぽで無人であ
るとか、時の流れを感じさせるニュー
スが目を奪う。
これが私達、人間の人生の変転を見
るようでもあり、妙な気持ちになる。
それはまた、最近の子供達をテレビ
で 見 て い て も、 つ く づ く 感 じ て し ま
う。マイクを向けられて、上手に応答
できて頼もしいが、成人した彼等の中
には、簡単に人の道を踏みはずす者が
いるようで、人生と真摯に向き合うと
いう分野では、成熟する為の機会とか
書物には恵まれない時代でもあるらし
い。
そもそも人間各人には、若年期、中
年期、晩年期とあり、各期毎に秘める
運気に差異があること、これをわきま
えるべきなのかも知れない。目の前の
状況に右往左往したり、運命を呪って
みたりと、あまりに短絡的に判断し、
行動化するパターンを多く見る気がす
る。
この人生には、実は無意味に終始す
23
とを小林秀雄の著作に見た気がする
ることなど何もない、という意味のこ
〝君がヴェルティカリ
彼 は 笑 ひ 乍 ら、
が何やらムニャムニャ答へてゐると、
答に窮した事を思ひ出したからだ。僕
味だ〟と突然、尋ねられて、ハタと返
の『
「 罪 と 罰 」 に つ い て 』 と か『 私 の
やって来た。こんなところにも、大作
る べ き だ っ た の だ、 と 回 顧 す る 時 は
林の内面に、とりわけ深い関心を寄せ
なか鎮まらないよ〟といふ意味の事を
スムで仏文にあげた泥っ埃りは、なか
敵する、生きるうえできわめて重要な
人生観』での微細にわたる論及にも匹
しつねん
しまったが、確かこうあった。
が、不覚にも何処にあったか失念して
「 人 間、 誠 意 を 尽 し た こ と で は 当
ことが、実はあったのだ、と。
れを確認するなんて、と妙な感心の仕
ないが、小林の著作で、あらためてそ
しず
然、 道 楽( = 趣 味 と か 娯 楽 ) の 類 で
言った。」
(小林『アラン「対戦の思ひ
長々と引用してしまったのは、その
方をしてしまった。と同時に、長い年
人生は、意外性だらけと言えなくも
も、いったんのめり込んだことでは、
出」
』
)
先 の 文 言 に、 若 き 日 の 小 林 の 精 神 が
月、これに気付けなかったことが損を
私事に走ると、若いころから小林の
作品に親しんで来て、その間に諸々を
て、その思想のそもそもの原点、源流
辿った証跡をあまりに生々しく感得し
もと
いつかは元を取るものだ。
」
学ばせてもらったとのささやかとは言
したようにも思えた。
は来た。
のか、とばかり己れの未熟を攻める時
の念などまるでなかった。ただ苛立た
得なかった。僕の心には、無論、侮蔑
ルティカリテが一杯だ〟と思はざるを
と笑ったが、大学生達を眺めて〝ヴェ
「僕は〝なあに、功罪相半ばするさ〟
て、とどまることを知らない。
のだと言わんばかりに、何かを探索し
しく思い、自分はもっと先き行きたい
脳の持ち主ほど、周囲の雑事をもどか
ると思う。上昇志向の強い、明晰な頭
しょうせき
え自負の心が、何処かにあった。とこ
をここに見る、そんな強い思いに押さ
「 こ ん な 事 を こ こ に 書 く の は、 先
にも似て峻別、その世代でただ一人、
さて、ごく普通に、このように言え
ろが、何度も通過した覚えがある箇所
れたからだ。
日、 W 君 と 本 郷( = 地 名 ) の 白 十 字
しさがあった。誰に向けたらいいか判
その後の人生を決定づけるその言葉を
あいなか
が、突然、脚光を浴びるが如く眼前に
( = 喫 茶 店 名 ) の 二 階 で、 取 留 め の な
「返答に窮した」
「ムニャムニャ答へ
然としない苛立たしさが。
」
迫って来て、それまで何を読んでいた
い話をしてゐると、何かの事で大学時
我が物としていた、と想像されるから
いら だ
代の話になり〝君はあの時分、ヴェル
る」さらに「苛立たしさ」といふ言葉
畏 し い。 古 い 友 人 ま で も が、「 あ れ は
おそろ
しゅんべつ
しかし、小林は、真理と過誤を光速
ティカリテ(垂直性)といふ事をしき
を二度、繰り返しているこの辺りの小
きみ
りに言ってゐたが、あれはどういふ意
24
どういふ意味だ?」と、後年に至って
ぬ。
」
に浮かぶくらゐ鋭敏でなくてはなら
ぞう
質(ただ)したくらい、それは小林だ
実は、ここの数行は、いづれのヒに
いざな
けに深い意味を蔵する言葉であったこ
イの時代感覚』を、このように閉じて
ち な み に 小 林 は、
『ドフトエフスキ
と言える。小林の内奥をこんな風に読
を切り拓いて前進するためには不可欠
る)であると察知する感性こそ、人生
め の 伏 線( こ こ に 逆 転 現 象 が 見 ら れ
間に、目の前の状況がそこへ達するた
換言すると、物事の成就には、その
こんな人生訓があると。
よ ちょう
か、こんな想像へと誘う。すなわち、
あ りゅう
とは、間違いないと思われる。それが
されることがある。言葉の先の先に、
「 神 」 か ら の 予 兆 は、 逆 転 し た 姿 で 示
てん じょう
天 上( = 天 井 で は な い ) と 足 下 の 現
「 垂 直 性 」 だ。 亜 流 が 推 測 に 走 る と、
実、この双方への目配りが不可欠であ
ると、小林に言われている気がして来
いる。
んだとしたら。
る。
「僕は人間の眼が複雑である事を信
ひら
じてゐる。謎を見る眼と限界を見る眼
と。」
「 限 界 」 が 人 間 の 異 名、 別 言 で あ る
こ と は ほ ぼ 常 識 と す る と、
「謎」がど
んなことを連想させるか、おのずと決
まってくる。なお、片言集『手帳』に
こ みち
はこうあるが、私達が想像力に目覚め
ると、人間知への小径がここには隠れ
ていたのだ、と天を仰ぐ時はやって来
る。「 批 評 文 の 作 者 は、 あ る 命 題 が 心
に浮かぶと同時に、その反対命題が心
25
たく意識せずにおこなっているはずの
平凡な日常の小さな動作の隅々にま
りは三十代、もうひとりは四十代で、
かに、外国の男性がふたりいた。ひと
る。つい先日は四十人ほどの行列のな
店の前を歩く。いつも行列が出来てい
三日に一度はベルギー・ワッフルの
ちぎりかたや、スティックのなかの砂
すわった。砂糖の紙スティックの端の
を持って、僕からひとつ向こうの席に
女性がひとり、コーヒーのマグひとつ
丸めた髪の、三十代前半のヨーロッパ
いたら、くすんだ長めの金髪を細かく
のカフェで夕方のひとときを過ごして
味な仕事と日常の人ばかりだった。
もっとも広い意味でヨーロッパの、地
往きだけで十二人もいた。どの人も、
とき、すれ違う外国の人を数えたら、
人は増えている。下北沢まで外出した
も、少しだけだが、明らかに、外国の
年 前、 新 聞 に 書 い た。 そ の と き よ り
の人たちを、という内容のコラムを二
働 い て い る 様 子 の、 ヨ ー ロ ッ パ か ら
鼻の出来ばえと交際交流
で、めりはりが利いている様子は、観
察に値した。
いつもいく別のチェーン店のカフェ
ふたりともヨーロッパのどこかの人
糖すべてをマグに入れるときの手つ
片 岡 義 男
には、平日の夕方、三人の外国人男性
だった。
き、さらにはマグのコーヒーをかきま
(作 家)
がいた。まだ若いひとりは日本の会社
でサラリーマンをしていく風情で、中
年のふたりは僕とおなじく無職の人に
見えたが、東京の片隅に少なくともい
まは、定住して日常を送っている雰囲
気だった。
東京で外国の人をたくさん見かけ
マルイのエスカレーターで上がって
る、しかも観光ではなく東京に住んで
いく、おなじくヨーロッパの女性を見
ぜるときの、かきまぜかたなど、まっ
夏の終わり近いある日の午後、別の
かけた。駅のすぐ隣にあるチェーン店
26
テ ー ブ ル を へ て 正 面 に、 ど こ か ヨ ー
場所でカフェにいたら、僕から通路と
り合っていた。
ネルギーの少なさにおいて、静かに釣
な彼に、その緑色の食べ物は、摂取エ
のものとして、確実に存在していた。
ことはけっしてなかったけれど、彼そ
ない短さにまとめ、半袖のポロ・シャ
こではなく、ごく普通に自信を持って
えた。彼女の鼻はことさらにぺちゃん
性がいて、彼女の横顔も僕の正面に見
彼のすぐ手前の席には日本の若い女
てないものがあるのではないか、と僕
も国際の遠い彼方の、日本にはけっし
形に尖った鼻だから、鼻のかみかたに
り、鼻をかんだ。これだけ大きな三角
ニ ー ル 袋 を 取 り 出 し、 一 枚 を 抜 き 取
バ ッ ク・ パ ッ ク か ら テ ィ シ ュ ー の ビ
食べ終わった彼は、足もとに置いた
ロッパの、三十代の男性がひとり、席
ツにダーク・ブルーのパンツ、そして
いい鼻だったが、その向こうにいる彼
についた。くすんだ金髪を面倒くさく
足音のしてい平凡な靴に、例によって
の鼻にくらべると、なきに等しいもの
とりたたてハンサムではない彼の横
大きくふくらんだバック・パック。
彼の横顔のなかに、鼻は大きく尖った
見ることとなった。真横から観察する
た三角形の鼻と、それにくらべるなら
しいまでに大きな、長くて鋭角に尖っ
の頭のなかに浮かんで消えた。おそろ
国際交流、という四文字言葉が、僕
ところまで、僕とおなじだった。
た。かみ終わったティシューをたたむ
べて、なんら特別の差異はないのだっ
かたであり、たとえば僕のそれとくら
けに終わった。ごく一般的な鼻のかみ
は期待した。しかしその期待は期待だ
三角形として、突き出ていた。顔ぜん
ないに等しい鼻とが、国際という状況
だった。
たいをいろんな角度から見ていると、
顔を、僕はなんの無理もなく真正面に
鼻はさほど目立たないのだが、真横か
席を立った彼が、トレーと食器をリ
と き、 ウ ェ イ ト レ ス の ひ と り と す れ
ターンに戻し、バック・パックを肩に
違った。そのときの彼の微笑のしかた
において、交流とやらを実行しなくて
自分ひとり、異国のカフェで、おそ
とごく軽いうなずきかたのなかに、彼
はいけない。そこに前途があるなら、
らくは好物なのだろう、緑色をした柔
にとっては自分そのものである、遠い
ら観察すると、その鼻はたいそう大き
らかそうな食べ物を、ヨーロッパから
彼方の彼の国、つまり異国を、僕は見
く、なおかつくっきりと尖って長い三
ガラスの容器からスプーンでなにか
のその男性は、おだやかに慈しんでひ
かけ、ゆったりと歩いて店を出ていく
すくい取っては口に入れ、おだやかに
とときを過ごした。自分のペース、と
僕はそれを祝福したい。
噛んでは、飲み下していた。緑色のも
た。
角形で、その突端は彼の顔の前にある
の だ っ た か ら、 抹 茶 な ん と か で は な
いうものがそこには、存在を主張する
空気に、常に突き刺さっていた。
かったか。消費エネルギーの少なそう
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乙未元旦
征途譲不知
羊角觸藩羸
二退三伸豫
須慮慢訑危
せい と
ゆずる
山 西 靖 彦
征途 譲ことを知らざれば
おもんぱか
くるし
あやう
たのし
べんたん
まがき
羊角
ようかく
二退三伸を豫み
すべか
に触れて羸まん
須らく慢訑の危きを 慮 るべし
藩
今 年 の 干 支 は 乙 未( き の と ひ つ じ )
いつ び
なので、年頭に当たり今年も「羊」に
作ってみた。
ちなんで「乙未元旦」と題して漢詩を
羊は古代の中国人には家畜として身
近な動物であったようで、羊を部首と
す る 漢 字 に は、
「 美・ 義・ 群 」 な ど が
また、羊にちなむ故事等も多く、次
ある。
「羊頭狗肉」(羊の頭を看板にかかげ
のようなものがある。
て お き な が ら、 実 は 犬 の 肉 を 売 る こ
「羊質虎皮」(外見が立派でも、実質
と)
が伴っていない見かけ倒しの喩え)
「多岐亡羊」(羊が逃げたので楊子の
家の者たちが探しに行ったが、枝道が
多くて見失って帰ってきた。それを聞
いた楊子が、学問の道も同様で真理を
つかむのに苦しむと嘆いた故事)
「亡羊補牢」(羊に逃げられてから囲
だい
いを補修すること、過ちを改めること
にまだ遅くないこと)
今 回 用 い た の は、「 易 」 に あ る「 大
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