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Title 新しい英語: シングリッシュ - 慶應義塾大学学術情報リポジトリ

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Title 新しい英語: シングリッシュ - 慶應義塾大学学術情報リポジトリ
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新しい英語: シングリッシュ : その誕生と現在に至るまで
金井, 裕美子(Kanai, Yumiko)
古石, 篤子(Koishi, Atsuko)
慶應義塾大学湘南藤沢学会
研究会優秀論文
本書では、かつてシンガポールに持ち込まれたイギリス英語が、中国語やマレー語の影響を受け
、今では独特の言い回しや発音、文法を持つようになり、シングリッシュとよばれている。この
論文では、シングリッシュが生まれるに至ったシンガポールの歴史的・社会的背景、政府の展開
した言語政策、そして現在の状況をとりあげながら、新しい英語の今後について考察している。
Technical Report
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=0302-0000-0386
SFC−SWP
「
しい英語−シングリッシュー
∼その誰生と現在に至るまで∼
2000年
春学斯
SPRINくi
.」
金井 裕美子 環境情報学部3年
舌石篤子研究会
慶應義塾大学湘南藤沢学会
新しい英語
−シングリッシュー
∼その誕生と現在に至るまで∼
環境情報学部3年
古石篤子研究会
金井裕美子
79852643
∼目次∼
はじめに
第1章
シンガポールの歴史的・社会的背景
1.1.民族的多様性
1.2.言語的多様性
第2章
シンガポールの取った政策−「スピーク・マンダリン・キャンペーン(Speak
Ma皿darin
第3章
Campaign)」
教育政策
3.1.PAPの出現とマンダリン重視から英語重視への移行
3.2.マレーシア独立後一教育政策としての二言語教育
3.3.能力別言語教育
第4章シングリッシュの現在
4.1.シングリッシュとは
4・2・「スピーク・グッド・イングリッシュ・キャンペーン(Speak
CamI)aig皿)」
最後に
参考文献・甘瓦L
参考資料
1
Good
English
∼はじめに∼
かつてイギリスの植民地だったシンガポールに持ち込まれたイギリス英語が、今では独特
の言い回しや発音、文法を持つようになり、シングリッシュ(Singlisb)と呼ばれるほどに至っ
た。この事実は大変興味深いが、政府はこのままシングリッシュを使い続ければ、国際社会
において英語として通じなくなる、とこの現象を危惧し、今年度からシングリッシュを追放す
る対策に出たと本年1月22日の朝日新聞で報じられた。
シンガポールに限らず、英語を母語としない人々の中から、その地域に根付いた新しい
形の英語が出現しつつあるという。今後、このような「新しい英語(New
Englisbes)」をど
のように位置づけるかはその国のみならず、国際的にも大きな課題だといえる。
そこで、「新しい英語」の先駆けであるシングリッシュに注目し、どのようにしてシングリッシ
ュが生まれたのか、というその歴史的・社会的背景を辿り、現在の状況を把握しながら今後
の可能性について考えていきたい。
r
第1章
シンガポールの歴史的・社会的背景
シングリッシュというのは、当初から存在していた訳ではない。移民の歴史を経て政治形態
が整い、言語政策が施された中でのシンガポリアン(シンガポール人)自身が生み出した言
語なのである。そこで、シングリッシュが誕生することになったシンガポールの辿った歴史的・
社会的背景、そして現在の状況についてみていきたいと思う。
1.1.民族的多様性
シンガポールはマレー半島の南端、赤道の近くに位置する面積641k汀ぎの島国で、ほぼ
淡路島の面積に等しい。国土は合計54の島々からなり、主島シンガポール島は東西42
km、南北23kmの菱形をしている。また、2000年現在の人口は約370万人で人口密度は
東南アジアでもっとも高い。
1819年、イギリス東インド会社のスタンフォード・ラッフルズ(Stan払rd
Ra爪es)が当時150
人くらいしか住んでいなかったこの島に上陸し、イギリスの植民地とした。彼はシンガポール
を自由貿易港とし、その後シンガポールは国際貿易港として発展を遂げるのである。国際
貿易港だったシンガポールにはヨーロッパ、インド、マレーシア、インドネシア、中国などから
たくさんの人々が移住してきた。1819年から1980年の間に人口は、約1万6000倍という
増加を見たが、これは出生率が死亡率を越えたことによるものではなく、単純に移民が大
量に移住してきたことに主な原因がある。
移民の大半を占めた四大民族グループは、華人(中国系)、マレー人、インド人、ヨーロ
ッパ系の人々である。1990年の国勢調査によると、シンガポールの総人口のうち、77.7%
2
が華人で、マレー人が14.1%、インド人が7.1%,その他は1.1%である。「その他」には
ヨーロッパ系の人々が含まれるが、シンガポールは63年間イギリスの植民地であったにも関
わらず、ヨーロッパ系の人々は今では少数派である。
では、華人がずっとシンガポールのマジョリティーであったかというと、そうではない。1860
年までは土着民族のマレー人が人口のマジョリティーであったが、1871年以降、華人がマ
レー人に取って代わった。1871年当時、人口の56.2%しか占めていなかった華人は
1947年には77.8%、1980年には76.9%となった。一方、マレー人は1871年には
26.8%であったが、1947年には12.1%、1980年には14.6%となった。また、インド人
は1871年から1980年の間には総人口の6∼12%の間を動き、「その他」は2∼5%の間
であった1)。
これらのデータからも、異なる文化圏から移住してきた大量の移民が民族的、文化的多様
性に富む現在のシンガポールを形成したといえるだろう。
1.2.言語的多様性
異なる国からの移民によって築かれたシンガポールは、言語においても多様性がみられる。
三大民族2)間の妥協案として政府の首脳たちは、1965年の独立時に英語、マンダリン
(北京語)、マレー語、タミル語を四公用語として制定した。マンダリン、マレー語、タミル語
は3つの民族文化的基盤を示すために選ばれ、英語は当初シンガポールがイギリスの植民
地であったという背景と、国際的地位を得るために選ばれた。
華人はシンガポール全体の人口の約78%を占める最大多数派だが、母語集団はいくつ
かに分かれ、公用語のマンダリンを話す人は実は少数派である。母語集団の最も大きなも
のは福建語、そして潮州語、広東語と続き、これらは三大方言とされている3)。「公用語の
北京語(マンダリン)はむしろ少数派だが、これらは母語集団の少なさゆえにかえって中性
的性格をおび、中国系のなかでの「共通語」の役割を果たしている面がある。4)」と小林氏
は指摘している。これは、インドネシアにおいて、一番大きな使用人口を持つジャワ語が国
語に採用されず、母語話者集団の少ないマレー語が公用語として選ばれた経緯と非常に
似ている。
また、公用語とは別にマレー語は「国語」として制定されており、国歌もマレー語である。
「国語」といえば一般的には、「国民が使用するその国の言語」として考えられることが多い
が、シンガポールの場合、これはあてはまらない。というのは、マレー語を用いているのは人
口の14.6%に属するマレー人だけだからだ。マレー語が「国語」として定められた理由に
1)大原始子、P.20。
2)三大民族とは、人口の割合から華人、インド人、マレー人を指す。
3)福建語、潮洲藷、広東語、客家語、北京語を五大方言としてとらえることもある。(大原始
子、P.25)。
4〉 小林素文、P.29。
3
は、シンガポールがマレーシアとインドネシアに挟まれている、という地理的な位置と、1960
∼65年までマレーシア連邦の一州であったという歴史的な背景が関係していると考えられ
ている。
1965年に政府が英語を公用語として決定した後、英語は広く普及した。家庭内での使
用言語を1980年と1990年とで比べると、タミル語、マレー語、中国方言の使用が減少し
ているのに対し、それぞれの年次を100としたパーセンテージで示せば、英語は11.6%か
ら20.3%、マンダリンは10.2%から26.0%にと、急増していることからも裏づけられる(資
料1参照)。「英国等の英語圏を祖国とする人口比率の少なさ(1%弱)ゆえの中立的な性
格から、英語は民族の枠を越えた『共通語』として、家庭内においてもっともよく用いられる
公用語となった。5)」と小林氏は述べているが、私はむしろ、政府が展開した二言語政策推
進の成果ではないかと考える。そこで、今度はその言語政策についてくわしく触れたい。
第2章
シンガポールの取った政策−「スピ山ク・マンダリン・キャンペーン(Speak
Ma皿dari皿
Ca皿Paig皿)」
1959年に独自の政府形態をとるまでは、各民族グループは母国との政治的、文化的絆
を保っていた。しかし、シンガポールが独立国家となった1965年以降、政府は母国との関
係を断つことを前提としながら、教育制度、言語政策、兵役制度、マスメディアを通して、国
民の統合をはかり、シンガポリアンとしての文化を育むために、一連の包括的な政策を実施
したのである。
その政策の一つであり、シンガポールにおける二言語政策(英語とマンダリン)と深い関わ
りを持つのが1979年11月に始まった「スピーク・マンダリン・キャンペーン」である。
シンガポール政府は、国家形成のためには、工業化、近代化に必要な技術を学生に教
えると同時に、国家への忠誠と献身を確かなものにしていく価値観を教えていくことが必要
であると考えた。そして、そのような価値観の育成のためには教育がもっとも効率の良い手
段であると判断し、シンガポールの地理的、民族的条件などを考慮に入れた結果
一書冤
ヽ
Fコ
−−・・一
Pロ
政策を実施することを決定したのである。「二言語主義はバランスのとれた広い視野を与え
てくれる」、「もし我々が近代化と工業化を達成しようとするならば、我々は二言語話者でな
ければならない」とリー・クワンユー元首相が述べていることからも、政府がいかに積極的に
一昔慈
−−−・−−一
口
Pロ
政策を推進していったかがうかがえる。
このキャンペーンの目的は、数多くの方言集団からなる華人の共通語として機能すること
を期待して教育言語に選択したマンダリンの使用を推進し、結果的にはマンダリンを華人
の母語として推進することであった。その後実施された二言語教育制度では、英語とマンダ
5)小林素文、P.30。
4
リンを教育使用語としたため、華人の母語がマンダリンで統一されていることは非常に重要
であった。多数の方言を持つ華人がみなそれぞれの方言を持ち続けていれば、二言語政
策において、英語とマンダリンを同時に定着させることが困難であったかもしれないからであ
る。このキャンペーンなしでは、華人における二言語政策は成功しなかったかもしれないと
言われるほど、スピーク・マンダリン・キャンペーンはその後の英語の普及に大きな意味を持
ったのである。
1957年の国勢調査によると、1000人以上が使用している言語として20が列挙され、中
国語方言だけを取り上げても、福建、潮州、海南、客家、福州、興化、上海、福清とマンダ
リンが確認された。(ただし、ここで注目しておきたいのはマンダリンを母語方言として使用し
ているのは人口のたった0.1%ということである。)このような言語状況にあるイギリス統治時
代には、一部の特権階級のみが英語教育を受け、国民の大多数は母語教育(中華系シン
ガポリアンは母語方言教育)を受けていた。
英語を媒介語とする学校を設立する一方で、1960年頃から徐々にではあるが、マンダリ
ンを媒介語とする学校が設立され始めた。つまり、植民地教育政策により、植民地支配に
必要な人材を生み出すための英語教育が中国人移民に行われると同時に、特に植民地
統治とは関係ない形でマンダリン教育も進められていった。では、なぜマンダリン語が教育
書冤
Fコ
Pロ
として選ばれたのだろうか。
先ほども少し触れたが、マンダリンを母語方言としている人口が全体の0.1%しかいない
ことがその主な理由である。「方言グループ毎の共同体は根強かったために、民族内での
分裂、対立を避けるためにも華人を納得させうる言語が必要だった」と、大原始子は述べて
いる6〉。そのような状況があったからこそ、民族内の対立を防ぐために母語話者が少なく、
中立的であるマンダリンが採用されたと考えられる。
このキャンペーンはマンダリンを通して中華ナショナリズムの高揚をも狙ったものとして遂
行されたが、マンダリンは若年層を中心として普及し、それと共に方言は衰退していった。ま
た、二言語政策の準備段階ともいうべきこのキャンペーンのもう一つの成果としてあげられる
のが、家庭内における英語の使用率の著しい増加である。(資料2)
1980年と1990年の国勢調査の、「民族別家庭内使用言語」の結果を比較すると、まず
華人家庭では英語が10.2%から20.6%、マンダリンが13.1%から32.8%へと増加し
ているのに対し、中国方言を使用するものは1980年には76.2%と4分の3以上だったの
が、46.2%へと減少している。また、マレー人家庭でも英語使用家庭が2.3%から5.5%
に増加しているのに対し、マレー語使用家庭は96.7%から94.3%に減少、インド人家庭
でも、英語を使用する家庭は24.3%から34.8%に増加し、タミル語は52.2%から
43.7%に減少している。
しかし、このキャンペーンは華人でマンダリン以外の方言を母語とする人々にとっては、英
6)大原始子、PP.61、62。
5
語に加えて第3の言語であるマンダリンの学習をも意味したため、彼らの反発を買うこととな
った。それに加え、キャンペーンのターゲットグループではないマレー人、インド人、ヨーロッ
パ系にマイノリティーであるという自らの地位を認識させる結果となり、シンガポリアンとして
のアイデンティティの発達を妨げる代償を支払って成果を得たことは否定できない事実であ
る。
第3華
教育政策
3.1.PAPの出現とマンダリン重視から英語重視への移行
1954年の、mP(人民行動党)7)の出現と英語教育政策は大きく関係しているようだ。と
いうのも、PAPの中心メンバーは中国人であったが、党の参加基準は「民族」ではなく「英
語教育」に置かれていたからである。メンバー構成からみればどの民族グループに属すかと
いう点よりも、「英語教育」を受けたか否かという共通の社会性がメンバーの結集基準となっ
て優位に動いていた。しかし、1959年以降、党内部にも変化があり、英語教育を受け、英
語を中心とした二言語教育を推進しようとしたリーをはじめとする右派と、マンダリン教育を
受けたものが多いリムらの左派の対立がみられるようになった。ちなみに、リー元首相はケン
ブリッジ大学を主席で卒業している。英語を民族間のリンガフランカとして扱おうとする書冤
Fコ
Pロ
政策は、PAPを構成していたこの二大勢力の政治的対立の反映であったとの見方もできる。
英語教育を受けた者とマンダリン教育を受けた者の政治的対立に後押しされるように、リー
元首相を中心とする英語教育を受けた者が、英語を公用語にすることも目的とした
一昔まE
口
−一
教育の普及を積極的に展開したからである。
また、それだけではなく、マレーシアに加入して独立を図った時期(1963∼1965年)は近
隣のマレー語系国家との協調が必要な時期であった。そのような状況下で、中国への民族
的ナショナリズムを高揚させかねないマンダリン教育だけに走ることは、独立を目指す上で
も危険だったのである。マンダリン教育の普及によって、民族意識を高めていたシンガポー
ルの華人は、1949年の中国共産党による中華人民共和国の成立と中国国民党の台湾
への移動に刺激され、急速に親共産主義の路線を歩むようになっていたからである。このよ
うな背景も、民主社会主義を標棒し、イギリス植民地からの独立運動を推進したPAPの英
語教育への移行を促した要因の一つとして考えられる。
つまり、この時期から政府はシンガポール国内での政治的対立と近隣諸国との関係を考一
慮し、マンダリンに比べ、国内政治的には中立の位置にあり、国際政治的には優位の位置
にある英語の社会的機能を認め始めたといえる。
7)pAPとは、People,sActio皿Partyの略で、リー・クワンユーを指導者とする政党である。
6
Pロ
3.2.マレーシア独立後一教育政策としての二言語教育
シンガポールは1963年9月16日に発足したマレーシアに参加するが、華人中心国家で
あるシンガポールは、マレー人優位のマレーシア連邦政府と次第に対立し、1965年8月
9日に連邦を離脱し、独立を果たした。この分離独立後、二言語教育が正式に教育政策と
なった。第二言語の学習は、既に1960年に小学校で必修となっていたが、1966年の第2
次教育5カ年計画では、中学校で英語が必修科目になり、二言語教育(英語と母語)を強
調するかたわら英語を媒介語としない華校(マンダリンを教育媒介語にする中華系の学
校)、マレー校、タミル校でも数学や理科などの一般科目の教育使用言語を英語とした。
しかし、華人に関しては母語の定義が非常に曖昧であり、方言を母語としている人が多
かった。政府は便宜上、中華系シンガポリアンの母語はマンダリンとしているが、マンダリン
を母語とする人は前にも指摘したように全人口のたった0.1%であったため、ほとんどの中
華系シンガポリアンにとってマンダリンは第3言語、あるいは英語と同様に外国語というべき
貴書丘
Fコ
ロロ
であった。そのため、英語もマンダリンも学習したが、両方とも中途半端になった「半桶
水8)」と呼ばれる中華系シンガポリアンが出現した。リー元首相も、英語教育だけを受けた
人々はバックボーンを欠いていると指摘し、人々は英語に熟達すると同時に、各民族の母
語とその文化を学ぶ必要があると主張している。「半桶水」の出現とリー元首相の主張から、
外国語と母語が密接に関わり合い、外国語を習得する上でも母語がその基盤となり、どれ
l
ほど重要な役割を果たしているか認識することができる。
1970代に入ると、初等、中等教育の教育使用言語の英語化が進められ、初等教育に
進む段階で華校への進学が不利であることが明白になったため、英校(英語を教育媒介
語とする学校)を選択する傾向がみられるようになった。1959年には小学校生徒数の全体
に対する割合が英校で47%、華校で46%と同じくらいだったのが、1979年には英校91%、
華校はたったの9%となった。(資料39))
そして、1980年代に入ると二言語政策は当初とは大きく異なり、実質上は英語の国家
語化を目指すものへと変化した。
このように、「半桶水」の出現など深刻な問題も発生した状況下にも関わらず、政府が英
語とマンダリンをすすめる二言語政策(英語公用語政策)を推進した理由について考えて
みたい。シンガポールの文部省は「二言語政策とはそれぞれの子供が商業、工学、行政の
分野で必要な英語能力と、文化的遺産としての母語の能力を習得することを提供すべきも
のである。」という見解を示している10〉。シンガポールがこのような政策を推進していったの
には、経済的な要因と、民族的な要因があると考える。
8)大原始子、P.71。「半桶水」は、教育制度の中で、外国語である英語と、多くの華人にと
つて外国語ともいうべきマンダリンを学習したが、どちらも十分に習得できなかった華人を指す
中国語である。
9)大原始子、P.67。
10)リン・バーメンター、富田祐一、P.41。
7
・経済的要因
数学や理科での教育使用言語が英語であることからも、英語は西欧の先進技術や知識
を得るために有利な言語であり、シンガポールが経済的に発展するために重要な役割を担
うことを国家が認識していたために、英語を公用語にしたといえるのではないだろうか。
・民族的要因
民族間の融合を図り、安定した社会の形成を目指すため、英語を民族間の共通語とし
つつ、二言語政策を展開することにより、多民族、多言語社会の統一を目指したと考えら
れる。つまり、国家としての統合に向けての基盤を築くために中立的な立場にある英語が
公用語となった。
3.3.能力別言語教育
「半桶水」の出現と、小学校卒業試験と中学校のGCE・0レベルの試験11)の受験生の
60%以上が英語の試験に失敗(1975∼1977)している現状がわかり、社会問題化した。
こうして政府はそれまでの教育制度を見直し、子供たちの言語教育を取り巻く環境を考慮
して講じたのが能力別教育制度である。この制度は非常にユニークだが、選別主義的傾
向が非常に強い。この制度を簡単に説明したいと思う。(資料4)
小学校では第3学年修了後の成績によって、生徒を①単一言語コース(第8学年で修
了)、②長期2言語コース(第8学年まで)、③通常2言語コース(第6学年まで)に振り分け
る。②、③の修了者は小学校修了試験を経て中等教育に進むが、その不合格者と①の修
了者は職業訓練校を経て就職することになる。中等教育段階でも、成績のよい順によって
a.特別コース(4年間)(4∼5年、成績のよい者は5年に進むが、不振な者は職業訓練校な
どに入る)、b.至急コ山ス(4年間)、C.通常コース(4年間)の3コースに分けられる。a.とb.
の修了者は普通教育GCE・0レベルの試験を経て(c.の5年修了者にも受験資格がある)、
成績のよい者は、A.2年制のジュニア・カレッジ、またはB.3年制の大学予科センターに進
むが、その他の者は技術専門学校などに入るか就職する。大学へ進学するものは、A.、B.
を修了後にGCEのAレベル試験12)に合格しなければならない。大学レベルでもまた成績
のよい順に、国立シンガポール大学、ナンヤン工科大学、師範大学(理科教師養成を目
的としている)、技能専門学校(2校)に進学する13)。
これほど徹底した能力別コースが組まれ、成績によって子供の進路を決定する制度が、
現在のシンガポールの教育制度であることは意外だった。しかし、二言語政策に基づいて
11)Ge皿eralCerti缶cateofEducation,Ordi皿aryLevelの略。
12〉GeneralCerti凸cateofEducatio払,AdvancedLevelの略であり、高等教育試験に相
当する。
13)大原始子、P.68∼71、石井米雄、高谷好一他。
8
いるはずの教育制度が初等教育で「単一言語コース」を設けている点は矛盾しているので
はないかと考える。単一言語コースではマンダリン、マレー語、タミル語のいずれかを選択し
て学習することになっているが、このコースの生徒の多くは母語を選択するようである。する
と、このコースに進んだ生徒は母語のみを学習することになり、共通語としての地位を持つ
英語を学習する機会が与えられないことになるのだ。
リー元首相は、「我々は二言語話者でなければならない。」と主張し、国をあげて二言語
教育と英語を公用語とすることの正当性を主張している。しかしながら、その一方では単一
貴書正
Fコ
Pロ
のみ習得するというコースが存在するのである。これは明らかに矛盾しているのではな
いかと思う。能力別教育制度は、政策の施行対象から一部の者を排除しようとしているので
はないかという批判もあるようだが、「英語のできる」エリートと「できない」ノンエリートを初等
教育の3年目という早い時期で、作為的に選別するこの制度は、本来の政策の趣旨から外
れているのではないだろうか。また、一旦「エリートコース」からドロップアウトすれば復帰する
ことは難しいという。幼い頃から生徒の可能性を狭め、一部の者に関しては英語を習得す
る機会さえ奪うこの制度は非常に危険だと思う。
第4章
シングリッシュの現在
4.1.シングクッシュとは
このような政策を経て、英語は現在、シンガポールの中でどのような地位を占めているのか
を次に見てみよう。
英語は、国内で他の公用語より高い威信(プレステージ)を得つつあることは、その話者
数の増加など数々のデータや、人々が教育媒介語として好んで選択することから判断する
ことができる。また、経済的要因にも後押しされ、共通語としても社会に浸透しているといえ
そうである。だが、シンガポールで使用されている英語は他の民族語に多大な影響を受け、
多民族国家という社会を反映して独自の発音や言い回し、文法があり、しばしばシングリッ
シュとよばれる。ただし、シンガポールで話されている英語のすべてがシングリッシュである、
ということはできないことに留意しておく必要があるように思う。シンガポールで使用されてい
る英語は、「シンガポール英語(Singapore
E皿glisb)」と、これから取り上げるいわゆる「シ
ングリッシュ」の二つのレベルに分類できるからだ。シンガポリアンの間に広く普及しているシ
ングリッシュは、シンガポール英語より地位の低い、不備な形式として一般的にはみなされ
ている。そして、シンガポール政府が排除する方向にあるのは、国内で使用されている英語
すべてではなく、このシングリッシュなのである。
私はシンガポールに行ったこともなく、シンガポリアンとも話をしたことがないので、シングリ
ツシュがどのようなことばで、自分の知っているいわゆる「標準英語」とどう違うのか知らない。
9
そこで、シングリッシュとは一体どのような英語なのか知りたいと思い、本、雑誌、新聞、ホー
ムページなどを利用してシングリッシュの用法を調べてみた。
・“Sbe
“She
sI)eaks
Englisb
nice
nice”
speaks
Englisb
very
well”
「彼女は英語をとてもうまく話す」の意味だが、,,Tbisshirtis
ツはとても大きい」)、”Tbisis
cheap
big
big.”(「このシャ
cbeap,,(「これはとても安い」)のように、シングリッ
シュでは物事を強調したい時、単語を繰り返して言う傾向がある。
・“Tido
alreadylab”
αIam
going
to
sleep,,14〉
「Tido」はマレー語で「寝る」の意味である。また、「1ab」はマレー語において特に意味は
ないが、強調語としての役割を果たす。このように、シングリッシュでは英語の中にマレー語
がよく混在している15〉。
kena
・“He
αHe
got
by
scolded
scolded
by
bis
bis
boss”
bossガ16)
「kena」は、マレー語で受け身を表し、否定的感情を伴う。「ah」や「1ab」と同じように、マ
レー語がそのまま英語の文章の中で使われている。
・αI catcb
“I
ca皿
no
皿Ot
ball”
u皿dersta皿d”17)
「分からない」という意味だが、これは福建語の慣用句「まりをつかめない(理解できないの
意)」を英語化したものである。シングリッシュはマレー語だけでなく、中国語、その中でも母
語集団が最大の福建語の影響を受けており、慣用句までもが英語に訳されて話されてい
る。
・†stop
sbaki皿glegs’’
この例のように、マレー語が直訳されて使用されることがある。「脚を揺らす」は、マレー語
で「怠ける」の意味であり、この文は、「怠けてはいけない」の意味になる。
14)btt:〃www.asabi−払et.Or.●/●d7k−皿k w/5.btm参照。
15)ただし、「lab」はマレー語に起源を持つとする説をここでは適用したが、中国語方言に起源
を持つとする説(G叩ta,1991)も存在する。(大原始子、P.166)。
16)朝日新聞朝刊、1月22日参照。
17)btt:〃www.asahi−net.dr.●/‘d7k・皿k
w/5.btm参照。
10
drop
can
・ヾYbu
寸Ybu
can
get
bere”
bere”
out
「drop」は車などから「降りる」という意味として使われることがある。
・“This
year
sure
“This
year
we
ca皿
Wi皿
can
surely
to
need
0皿e”と“No
win’’“There’s
no
one
rest
need
to
ah”
代St”
これらが標準英語の「0皿e」と違っているのは、標準英語の「one」は文の中にすでに出て
いる名詞と同じ種類のものを指す場合にだけ使われるのに対して、シングリッシュにおける
「one」は、文の中にすでに出てきた名詞を指していない場合もあるという点である。
中国語では、「これは…です。」と言う時、「これ」が指すものが抽象的なものであれば「這
是…」と言うが、「これ」が具体的なものを指す場合は「這箇是…」というように、「箇」を入れ
るのが普通である。また、目の前にあるものを指して単独で「これ」という場合には、「這」で
はなく「這箇」という。そのため、抽象的に「これ」と指す時は「this」、具体的に「これ」を指す
時は「tbis
o皿e」と言って使い分けているのである。
これと同様に、「私の(もの)」「彼の(もの)」という場合、英語では「I」を「my」に変化させる
が、中国語では「私」は変化しないでそれに「の」をくっつける日本語と同じように、「我」や
「他」に「的」をつけて「我的(東西)」、「他的(東西)」という。そのため、シングリッシュでは
「my
o皿e」、「bis
o皿e」という表現を使う。つまり、「Tbis
is
mine」は、「Tbisis
my
one」(中国語では「這箇是我的」)となる。
ここで、「One」は中国語の「的」の代用となっているのがわかるが、このようにして「的」は英
語で「one」として使用されることになったのだろうと考えられている18)。
この他にも、主語が省略されたり、動詞の時制が無視されることも多いようである。また、
「gold」が「ゴー」と発音されたり語尾が消えてしまったり、「tbousand」が「タウザン」と中国
靴りの発音になったり、文法面だけでなく、発音・アクセントなど音声面でも標準英語とは異
なる用いられ方がされている。以上の例からも、シングリッシュはマレー語や中国語など、他
言語の影響を受けて形成されたそれなりの文法をもった言語であると解釈することができる
と考える。造語や、中国語、マレー語などの借用語を英語に加えたシングリッシュは一種の
●
クレオールだととらえることができる。しかし、政府はこの種の英語を程度の低いものとみなし、
排除する動きにのりだしている。そして、教養があり地位の高い人の間や、メディアで使用さ
れているいわゆるシンガポール英語を、シンガポリアンが話すべき正しい英語としてとらえ、
推進しようとしているのである。
18)地軸:′∠竪竪琴,_監阜些並皇旦鎚全土j/HeartIJa払d・Namiki/4040/●ik
one.btml参照。
11
Good
4.2.スピーク・グッド・イングリッシュ・キャンペーン(Speak
E皿gli鳥丸
Campaig皿)
しかし、「間違った」英語が国民の間で広く使用され、その英語がもはや独立した地位を
得つつある状況に憂慮したシンガポール政府は、今年初めから「Speak
Good
Englisb
Campaign」を実施し、シングリッシュ追放の動きに乗り出した。シングリッシュ批判の口火
をきったのは、リー・クアンユー元首相で、1999年の夏に「教養のある層は(標準英語とシ
ングリッシュを)使い分けられるが、国民の半分がシングリッシュ以外話さなくなると、経済で
も不利になる。」と発言したことによる。政府は、インターネットの普及などに伴い、グローバラ
イゼーションが進む世界において、ますます英語が必要になってくるのに、シングリッシュで
は不利になるとして、シングリッシュから標準英語に改めるよう国民に呼びかけている。そし
て具体的には、教育省は主語の省略や動詞の時制の無視など、文法に重点を置き、イギ
リスの教育団体から講師を招き、小・中の教師8000人に文法の授業をする計画を1月から
始めた。
昨年のNatio皿alDay瓦allyにおける演説で、ゴー・チョクトン首相はかなりの時間をシ
ンガポールで大人気のホームドラマ「プチ・チュカン(Pbua
Cbu
Xa皿g
Pte
Ltd)の主
人公が話す英語について割いた。このホームドラマは、華人の建築業であるプアが巻き起
こす家庭喜劇で、‘‘Do皿’tI)ray,Pray.”(願い事ばかりしてはだめ)という言葉を連発する
典型的なシングリッシュの話し手である。ゴー・チョクトン首相は、「子供に悪影響を及ぼす」
とシングリッシュを使う人気の喜劇役者を批判し、「標準英語」に改めるように指示した。また、
プアが成人教室で標準英語を学ぶストーリーを加えるよう、勧告した。
首相は、「プアのような英語を話していれば、そのうち世界の人と意思が通じなくなる。す
でにシンガポールは道半ばまで来ている。」と警告し、「私達はイギリス英語、アメリカ英語や
オーストラリア英語なまりで話す必要はない。だが、イギリス人、アメリカ人、オーストラリア人
と世界中の人々に理解される英語で話すべきである。19)」とした。
しかし、政府の言う「標準英語」とは一体どのような英語を指すのだろうか。イギリスでも、ア
メリカでも、オーストラリアでも地方や階級で言葉は異なるし、何を基準とするかは非常に難
しい問題であり、それを定義することも困難である。だが、あえて一般的な定義をあげるとす
れば、①教養ある人々により使われる話し言葉、書き言葉、②学校教育で用いられる、③テ
レビ、ラジオなどのマスメディアで用いられる、④地域、社会階層の区別なく、広く理解され
る、である20)。しかし、近年の社会変革を背景に、英語は地域差や社会階層差を中心にそ
の姿を多様に変化させつつあるし、何が「標準英語」なのか判断することは不可能だと私は
考える。
19)朝尾幸次郎p.28。
20)朝尾幸次郎p.26。
12
∼最後に∼
現在、英語を母語としている人口は約3億7000万、第2言語としているのがほぼ3億
5000万、外国語として学び、使っている人口が約6億5000万であるといわれる21)。従って、
これだけ非母語話者が増えれば、シングリッシュのように、英語を母語としていない人々の
中から新しい英語が生まれる可能性は十分ある。シングリッシュ以外にも、南アメリカ、アフリ
カの一部では新しい形の英語が生まれつつある。
英語は経済や政治とも深く結びついている。また、文化的な面でも、コミュニケーションの
ツールとして国際的に普及している。科学技術の領域では、英語がリンガ・フランカになっ
ていて、化学や医学などの国際会議は英語で開かれている。それに加え、学会の用語や
論文も圧倒的に英語で書かれている。論文を英語で書かないと国際的に読んでもらえない
ので多くの人が論文を英語で書いているこの傾向は、もはや変えることはできないのではな
いかと思う。しかし、英語の使用は不平等な形での権力と特権を生むところに問題がある。
インターネット上でも、ホームページ使用言語の84.3%が英語である22)ことからも明確なよ
うに英語が支配的だが、それを批判する声も聞こえる。
「新しい英語」は、この英語帝国主義(E皿glisbImperialism)を緩和する意味でも、
重要な可能性を担っているのではないかと考える。シングリッシュをはじめ、「新しい英語」は、
植民地主義の産物としての英語ではなく、その国独自の民族性や歴史、文化を反映して
いる点で意味のあるものだと思う。このような新しい形で生まれた英語は、ナショナル・アイデ
ンティティを国民に持たせる意味でも有効なのではないだろうか。
シンガポール政府は、シングリッシュを「間違った英語」としてその追放に乗り出したが、そ
れは見方を変えれば、シングリッシュがそれだけシンガポールの人々の生活に溶け込んで
いるということを示している。その自然な流れを抑圧しようとする動きは果たして正しいのだろ
うか。「標準英語」からさらにかけ離れ、その度合いが進行すれば世界とコミュニケーション
が図れなくなる、という政府の見解も一利あるかもしれない。しかし、世界と全く意思疎通が
図れなくなるくらいに進行するかどうかは疑問である。政府はシングリッシュを抑圧するので
はなく、むしろ「標準英語」とは違う英語として認めてもいいのではないだろうか。イギリス英
語でもない、アメリカ英語でもない、オーストラリア英語でもない、権威や抑圧から自由な英
語として尊重し、位置づけてもいいのではないだろうか。
シングリッシュのように、英語を母語としない人々の中から新しい英語が生まれる可能性は
まだまだ多くある。それらの「新しい英語」が国際社会においてどのように見られ、位置づけ
られるのかに今後注目していきたいと考える。
21)朝尾幸次郎p.28。
22)グラッドル、D.、P.141。
13
∼参考文献・URL∼
朝尾幸次郎、「『標準英語』はどう定義されるか」、『英語教育』、第49巻第4号、2000年
7月,P.26∼28。
綾部恒雄、『国家のなかの民族』、明石書店、1996年。
石井米雄、高谷好一他著、『東南アジアを知る事典』、平凡社、1991年。
大原始子、『シンガポールの言葉と社会』、三元社、1997年。
大原始子、「『シングリッシュ』排除方針の舞台裏」、『言語』8月号、P.28∼29。
クリスタル、D.、『地球語としての英語』、みすず書房、1999年。
グラッドル、D.『英語の未来』、研究所印刷株式会社、1999年。
小林素文、『複合民族社会と言語問題』、大修館書店、1989年。
リン・パーメンター、富田祐一、「なぜ英語教育を行うのか?」、『英語教育』、第49巻第4号、
2000年7月,PP.40∼41。
『朝日新聞』朝刊、1月22日。
btt:〃www.eocities.co.●/HeartLand−Namiki/4040/●ik
btt℃:〃www.asabi・皿et.0で.jp/jd7k−nkどW/q6.btm
14
one.btml
資料1
資料2
表2一家庭内使用
章萱E
∈:コロ【コ
表3一民族別家庭内使用
(単位:%)
年
1980
.体
年
1990
」語
マンダリン
中
マ
タ
国
レ
方
ー
言
語
ミ ール語
そ
の
10・0.0
20.3
10.2
26.0
59.5
36.7
13.9
i3.4
3.1
2.9
1.7
0.7
語
マンダリン
中_国 方言
の
そ
他
マレー人家庭
英
マ
語
レ
萱E
ー
Plコ
そ
他
インド人家庭.
英
語
マ
他
家 庭
英
100.0
11..6・
Eコロ⊂I
(単位:%)
華 人
・全
英
章萱E
C丘〃SはOFPOタmWJβ90
の
レ
萱E
ー
Plコ
1980
100.0
10.2
13.1
76.2
0.5
100.0
2,3−
96.7
1.0
100.0
24.3
8,6
タミール語
52.2
そ
14.9
の
一他
199q
100.0
20.6
32.8
46.2
0.4
100.0
5.5
94.3
0.2
100.0
34.8
13.5
43.7
8.q_
CEⅣSはOF和タび乙AWヱ990
17ページ、Tabie16よl)作成。
18ページ、Table17より作成.
綾部恒雄「国家のなかの民族」p・153より抜粋
綾部恒雄「国家のなかの民族」p.153より抜粋
資料3
表8
1959牢
教育媒介語別小学校新入生生徒数の全体に対する割合
.英校生徒数
や7%
L_】▲____1竺65年
61%
1971年
69%
■1977年
86%■
羊_■!_7空
91%
華校生徒数
マレー、タミル密生徒数
4与%
7%
30%
9%
・ヱ9%
14%
9%
土%
■■■■−■■
−■■■■■■■
〈Trend5ineducadon,Mini5吋ofEducation,1980〉
大原始子「シンガポールの言葉と社会」p.67より抜粋
資料4
固2
シンガポールの教育制度(1990年)
就
大
学
業
教師養成所
ポリ●テクニク専門学校
GCE・Aレベル試簾
ジュニアカレッジ(2年)
大学予科センター(3年)
1年
GCE・0レベル試験
特別/至急コース(4年間)
GCE・Nレベル試験
通常コース(4年間)
初期教育終了試験(PSLE)
通常コース(3年間)
長期コース(5年間)
聴業訓練枚
初等教育能力試験
単一言語コース(5年間)
〔/
進級(コース分け)試験
普通学習(3年生まで)
大原始子「シンガポールの言葉と社会」p・69より抜粋
新しい英語
−シングリッシュー
∼その誰生と現在に至るまで∼
2000年11月15日
初版発行
著者
金井裕美子
監修
古石篤子
発行
湘南藤沢学会
〒252−0816
神奈川県藤沢市遠藤5322
TEL:0466−49−3437
PrintedinJapan
印刷・製本
SFC・SWP2000.S.007
ワキプリントピア
一本論文は研究会において優秀と認められ、出版されたものです。
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