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本編 第七章_PDF - Akira Togawa

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本編 第七章_PDF - Akira Togawa
第七章
見世物小屋
プロメテウスの検索は亮二の想像力を遥かに超えていた。
「あなたの子よ、何故?」
「本当に俺の子なのか、それに・・・」
「それに、何よ、何なのよ、疑ってるの?」
「どう考えてもおかしいところがあるんだ、5カ月前といえば、俺はカタールにかかりっきりになって
たんだ、やつらとの交渉が長引いて2カ月近く留守にしていたんだ」
「私があなたの留守に?
そんなことを疑っているのね、本当に馬鹿馬鹿しい。あなたってやっぱりゲ
スな考えしかできない男なのね」
「何だと、お前こそ甘やかせばいい気になって、誰のお陰でこんな生活ができてると思ってるんだ」
「こんな生活?
あなたのものじゃないわ、すべてはお爺様とお父様の遺産じゃないの、あなたが築い
たものなんか何もないのよ。あなたがいくら威張り腐ったって皆あなたのことを軽蔑してるわよ、誰も
あなたのことなんか見向きもしないわ、あなたが気がつくことは無いでしょうけどね」
「このやろう、言わせておけばいい気になって。出て行け、この家から出て行け」
「私はいますぐ出て行ってもいいのよ、でもお父様が何と仰るかしらね」
208
「何だと、親父が何を言っても関係無い、お前は俺の女なんだ」
男は次に言うべき言葉を探していた。
「出て行け、婚約解消だ」
更に次の言葉も口をついて出て来た。
「他に男がいるっていうならその男と一緒になるがいい、なんなら子供もくれてやる」
そしてついに最後の言葉を発した。
「誰なんだ、その男は、俺の知ってるやつなのか」
「御想像にお任せします」
「ということは、やっぱり、誰かいるんだな」
「それは・・・言えません」
「俺の知っているやつなんだな」
男は確信を持った。
「何とでも思えばいいわ、いったい誰ならいいの」
男の感触があることを告げていた、しかし男はそれを信じたくはなかった。
209
「まさか、まさか・・・」
男は耳をふさいで座り込んでしまった、例え女が男の質問に答えたとしても何も聞こえない様に。
女は男の哀れな姿をこれ以上見たいとは思わなかった、男を残して静かに部屋を出て行った。
「馬鹿もん、夏子さんに出て行かれたらどうするつもりなんだ。北柳家の唯一の跡取りをどうするつも
りなんだ」
「裁判をしてでも太一は私が引き取ります」
「そううまくいくかな、太一の親権を争ってもお前じゃ勝てないかもしれないぞ」
「ではどうしろと?」
「私に任せておきなさい、何とかなるようにしよう」
父と息子の間に一瞬気まずい空気が流れた。
「気になっていることがあるんですけど」
「何だ、改まって」
息子は懸念をどうやって切り出したものだろうかと考えた。
210
「北柳家の跡取りとしては、太一一人しかいないのですね」
「当然だろう、私にはお前しか子供がいないのだし、お前にはいまのところ太一だけなんだから」
「いや、親父の過去の女性関係からして、私の義理の兄弟がいてもまったく不思議ではないでしょうか
ら」
「お前と違って私は何事も計画的に処理しているからな、知らない間に等ということは決してない。だ
いたいお前の母親が元気でいてくれさえしたら、こんなことを考える必要もなかったんだが」
「計画的に?
跡取りも計画的に作ってきたというんですね」
「ああ、すべてが計画的さ」
「太一はどういう計画だったのかな」
「太一?
それはお前と夏子の・・・」
「違うね、今やっと分かったよ。あれは親父の計画だったんだな、太一は親父の子供なんだろう」
父親は否定しようかとも考えたが、否定しなかった。隠れていた事実が明るみに出ただけのことだ、こ
んなところで嘘をついてもしょうがない。
「俺の子供じゃなかったんだ、疑ったこともあったが、まさか親父がとは思わなかった。夏子が俺を裏
211
切るなんて」
「息子よ、お前に聞く耳があるかどうかは分からないが、夏子さんが裏切った訳じゃないんだ。私がそ
のように仕向けたことだ、しかもお前は許してくれるだろうと嘘をついたんだ」
「俺が許すだって」
息子は溜めていた怒りを爆発させるように、
「どうして俺が不貞の女を簡単に許すことができるんだ、しかも親父と。できた子供を許せと言うの
か?」
「仕方がなかったんだ、北柳家の為にはこれしかなかったんだ」
「僕との約束はどうなったんだ」
「僕と約束していたのに、どうして他の男と食事になんかいくんだ」
「あんなに楽しみにしていると言ってたじゃないか」
「どうしてなんだ、何か言ったらどうなんだ」
「僕の前では何も言えないっていうのか」
212
「他の男とは楽しそうに話していたくせに」
「それとも、もう僕のことがいやになったのか」
「僕がこんなに君のことを思っているのに、昼も夜も寝られないほど君のことを思っているのに、君は
僕のことなんかもうどうでもいいんだな」
「何か言ってくれ、何も言わないと分からないじゃないか、何を考えてるんだ」
「何を考えてるのか、そんな顔をしないでくれ」
「そんな眼で僕を見るなよ」
「やめろ!!!」
「やめろって言ってるだろう」
「止めるんだ、そんな目で僕のことを見るのはもうやめるんだ」
僕は無我夢中で彼女の首を絞めていた、彼女がそんな目で僕のことを見ることをやめさせようと。彼女
の眼に曇りがかかったのを感じた時、僕は彼女の首から手を離した。
彼女の眼はもう何も言わなくなっていた。
彼女が死んだのは分かっていた。
213
僕が彼女を殺したんだ。
彼女の眼はいまでも僕を見ている。
彼女の眼を僕は忘れることができない。
「あ~ら、来てくださったのね、嬉しいわ」
「ル・ジタン」の赤いトンネルを抜けて入ったところが踊り場風になっていて、さらに階段3段ぐらい
下がったところがフロアになっていた。そのフロアからママが階段を上がってきて、踊り場で店内を見
回していた亮二を抱きかかえるように奥の席へ案内していった。ママは一段と華やいでいるようだった。
「本当に来てくださったのね、信じられないぐらいだわ」
「よかったのかな?」
「もちろんよ、お電話さし上げてすぐ来ていただいたのがうれしくて」
と言いながら、氷と水、それに簡単なつまみものがてきぱきと用意された。
「お酒は何になさいます?」
「よく分からないんで、お任せしていいですか」
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彼女はにやっと笑って「あら、かわいいのね」と言って、隣に立っているボーイに「私の大切なお客様
ですからね」と言ってなにやら注文していた。
酒の用意ができたところで乾杯となった。
「でもお久しぶりですわ、いつ以来かしら」
斜め前のスツールに腰掛けているのだが、深いスリットからはみ出した太腿の一部が亮二の眼を捉えて
離さなかった。その彼女が腰を少し前にずらして、亮二の方へ顔を近づけてきた、と同時に太腿が更に
顕わになっていくのが眼にとらえられた。
「今日は大丈夫なんでしょう、ゆっくりしていってくださるんでしょう」
と言いながら立ち上がりかけて、
「ちょっと他のお客様のお相手をしてきますわ、その間若い子をつけますからね」
「ありさちゃん呼んで」とボーイに指示していった。
亮二はひと時一人でグラスを弄びながら、店の中を見回してみた、前はもっと暗かったような気がした、
隣のボックスはともかくその先は暗くて見えないぐらいだったような気がしたが、今日は見渡す限りに
宝石をちりばめたように女性の肌が、顕わになった肩が、背中がいたるところで輝いていた。
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何か違う、以前来たときとは何かが違う、そんな感じが亮二を捉えていた。
男とからむようにして嬌声をあげている女、生活のためと割り切って男の為すに任せている女、男との
知恵比べに全力を注いでいる女、いずれにしても皆それぞれの目的があってここに集まっているだけな
のだ。
ナオミの姿がそこへダブった、彼女の目的は何だったんだろう、その目的を果たせずに自殺してしまっ
たんだろうか。フィリピンから出稼ぎに来ていたんだとしたら、当然故郷には養わなくてはならない家
族でもいたんだろうか、年から言って夫とか子供がいたとは考えにくいから、フィリピンの貧しい農村
で娘の無事を祈る両親でもいたのだろうか。
「こんばんわ、ありさで~す」
元気の好い若い子がやってきた、普通の丈のスカートに普通のブラウス、いやちょっと短めのスカート
にちょっと胸元の開いたブラウスを身に纏ってはいるが、前のような雰囲気ではない、店の中全体が前
とは違っていた。
「今晩は」
「隣に座っていいかしら」
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「もちろん、どうぞ」
亮二は彼女の座るべき場所を眼で確認してから、自分の膝の上を指さして、
「ここがいいかな?」
「まだだめ、もっと遅くなってからよ。でもお客さん何か考え事してたでしょう、お邪魔かなって心配
しちゃった」
「全然、お邪魔だなんて、大歓迎だよ、君元気いいね」
「ええ、それだけが私の取り柄よ、あなた元気ないの?あげましょうか?」
どことなく茶目っ気のある喋り方は悪い気にはさせられなかった。
亮二がつい笑ってしまって、彼女も釣られて笑っていた。
「君の声を聞いただけで、元気出てきたよ、君って・・・」
「うれしいわ、そう言っていただけるなんて。初めてじゃないんでしょう、ママが大事なお客さんだっ
て」
「2回だけ。先輩に連れて来られたんだけど、そのときは時間が遅かったからだろうね」
「でも今は違う、だから不思議だったのね。じゃあ改めて、私ありさよ、あなたの名前を教えてほしい
217
わ」
「亮二、浅賀亮二っていうんだ」
「浅賀さん?」
「何か?」
彼女のびっくりしたような表情はむしろ彼を驚かせた。
「ええ大ありよ、だって浅賀さんでしょう」
「どこかで一緒だったかな」
「私、ナオミと友達だったの」
「ナオミ、ナオミを知ってるんだね」
「そうよ、親しかったのよ、いろいろ聞いてるわよあなたのことも」
「でも1回会っただけだよ」
「そうね、1回だけね、でも他の人と違うんでしょう」
「えっ、他の人と違うって」
「あなたがそう言ったんでしょう、聞いてるわよ」
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「いや、そう思いたいだけだな、実は違わないかも」
彼女に何か考えているような間があった。
「ナオミが亡くなったのは知ってるわね」
「ああ、聞いたよ、自殺したとか・・・」
「自殺っていうことになってるけど・・・」
「えっ、自殺じゃないの?」
「警察は自殺だろうって、でもあの子自殺するような子じゃないわ、私には分かるの」
彼女の言葉は強かった、
「絶対に自殺するような子じゃない、何かあるのよ。でもここで話せるようなことじゃないし」
ちょうどそこへママが身体より細いんじゃないかと思うぐらいのドレスをくねらせながらやってきた、
「浅賀さんお待たせ。ありさちゃんありがとう、後は私がお相手するからいいわよ」
ママはありさを追い払うように席を立たせた。
「ごちそう様でした、ごゆっくりしていってくださいね」
ママはまず亮二のグラスにボトルのウイスキーを注いで、自分用にはグラスワインを注文して、
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「さあ今夜の二人の新たなる出会いを祝してもう一度乾杯しましょう」
「今日は本当によくいらしてくださったわね、楽しんでいってね、ラストまでいてくださるんでしょう」
「僕は暇ですから、いつまででもいいですけど」
ありさの話だとラストは3時ぐらいか、今はまだ10時過ぎだしどうやって時間を潰すんだろうか。
「うれしいわ、ラストまでというのは冗談よ。それよりお話したいことがあるの、帰り送っていただい
てもいいわね」
亮二は何と答えようか考えていたが、
「どうしてもお話したいことがあるのよ、いいでしょう、それに・・・」
「お待ちしてますよ」
「約束よ、今晩はつきあってね」
彼女が更に身体をすりよせてきた、彼女の身体の熱気と柔らかさが香水の香りに乗って伝わってきた。
こんな場面を真紀が見たらどう思うだろう、一瞬亮二の頭の隅を真紀の視線がよぎった。
でも彼女とは真面目に付き合っているし、将来は結婚したいと思っている。その感情は今隣に座ってい
る女に対するものとは全く違うと言っていいだろう。彼女が俺みたいな男に愛想よく女の武器をちらつ
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かせてすり寄ってきているのは何か魂胆があるからだ、そんなことぐらい俺にだってわかる、俺にした
って彼女がすり寄ってきてだからといって本当に好きだの愛してるだのと信じるなんてことはない。あ
る意味男の本能としての欲望が目覚めかけているだけだ、そこに利害関係の一致があるだけだ。
「喜んで」
「悪い男ね、あんなかわいいお嬢さんを連れて歩いたりしてるのに・・・」
これには亮二も何と答えていいか分からなかった。
「浅賀さんて、小説書いていらっしゃるって噂聞きましたよ、どんなお話なのかしら」
「ママに話す様な内容じゃないですよ」
「あら、秘密なの?
でもそれって全くのフィクションなのかしら、それとも何かヒントにでもなるよ
うなことがあるのかしら」
「まあいろいろありますから」
「興味深いわね。私推理小説大好きなのよ、是非読ませて欲しいわ」
何と答えていいか迷っている亮二を洋子の次の言葉が救った。
「ごめんなさいね、またおじいちゃんだわ」
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彼女はまたそそくさと立ち上がっていった。
彼女が満面の笑みを浮かべて向かった方を見れば、かなりの年配と見受けられるダブルのジャケットの
紳士が連れと思われる若手の男を従えて入口近くでママの出迎えを待っていた。
亮二の席からは紳士の顔はよく見えても、ママの後姿しか見えなかった。
そこへボーイがやってきて「お客様、誰かご指名になりますか?」と聞いたので、
「う~ん、誰でもいいんだけど、さっき来てくれた子、え~と」
「ありさちゃんですか」
「そうそう、ありさちゃんいいかな」
「かしこまりました」と言って下がっていった。
「うれしいわ、またお会いできたのね」
ありさがやってくると席の周りが明るくなる。
「そう、誰がいいかって言うから」
「というよりほかに知ってる子いないんでしょう、ナオミ以外に。でもご指名してくださったんだから
文句は言わないわ、それでどこまで話したかしら」
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「それよりこの店のシステムというのを教えてくれよ、ほら12時を過ぎるとっていうやつ」
「ああそれはね、12時で一旦ラストということになるのね、だからそこで帰るお客様もいるし、女の
子も12時までの子はみんな帰るのね。そして大ママと小ママ2人だけがフロアーに残って他の女の子
たちは裏へ入って着替えするの。知ってるんでしょう、お店から与えられたものを着なくちゃならない
のよ。フロアーの明かりはほとんどなくなって、要するにそれまでとは全く違ったお店になるのよ」
「だから違うのか」
「12時以降が専門の子もいるし、お客様でも12時以降にそれ目当てでお見えになるお客様も当然い
るわね」
「それで君は12時までなんだね、でも何故12時以降のことも知ってるんだ」
「お勤めした最初の日に、もっと稼ぎたいのならって見学だけさせてもらっただけよ」
「そんなに?」
「あらっ、知ってるんでしょう、来たことあるって言ってなかったっけ、その時彼女と会ったんでしょ
う」
「ナオミがそれらしいこと言ってたから」
223
「でもあなたは「僕は違う」って言ったんでしょう、聞いてるわよ」
ありさは何でも知っているのよという気持ちを表して言った。
「何故そんなこと言ったのかよく覚えてないんだけど」
「でもね12時過ぎるとみんな同じ、男ってそういう意味ではみんな同じなんじゃない。それであなた
は自分だけいい子になりたかったのかしらね」
ありさの人差し指が亮二のおでこを突いた。
「別にそんなこと」
「ナオミの前で恰好いいとこ見せようとしたんじゃないの、紳士面しちゃって、それで一緒だったって
いうのは誰なの?」
「北柳って言う会社の上司と、黒川っていう会社の同僚だよ」
「北柳さんと黒川さん?」
彼女は考え込むような目つきをした、まだ12時前なので彼女の顔がよく見えるのが幸いだ。
「知ってるの?」
「知ってるわよ」
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投げつけるように、汚いものでも触るようなその言い方に亮二は驚いた。
「どうしたの、何かあったの?」
「あなた知らないの」
ありさが亮二の方へ向き直るように座りなおした。
「何を?」
「本当に知らないの?」
「何のことを言ってるのか」
「黒川ってやつのことよ」ありさの声が小さくなって、
「黒川って友達なの?」
「いや会社の同僚だよ、黒川のこと知ってるの?」
「個人的には知らないわ、会ったことないから、でもナオミからよく聞いてたもの」
「ナオミは黒川のこと知ってるって」
ありさは大きく顔を左右に振って否定を意味した、
「だってナオミをこの店に連れてきたのが黒川なのよ、ナオミから聞いたんだから確かだと思うわ、あ
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の子嘘言うような子じゃないもん」
亮二はありさが何を言っているのか一瞬理解できなかった。
「どうしたの?・・・ショックだった?・・・ご免なさい、でも・・・」
「いいんだよ、僕が知らなかっただけなんだ、まったく知らなかったよ、黒川が・・・そうなのか」
強い憤りが亮二の体の中を駆け抜けた。
「浅賀さん大丈夫、顔が怖い」
ありさが肩をすくめるようにして言った。
「別に何も」
「ならいいんだけど」
「もう一つ聞いていいかい」
今度は亮二の方がありさを真正面から見た。彼女は頷いた。
「ここのママと黒川については?」
「分からないわ、でもナオミを連れて来たぐらいだから前から知ってるんだと思うわ」
「そういうことだね」
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亮二は考えが纏まらなかった、事態の展開についていけなかった。
「あら、お話が弾んでること」
ママがいつの間にか二人の前に立っていた、
「女子大生を口説いていたんですけどね、なかなか・・・」
亮二は咄嗟の嘘をうまく思い付いたと思ったが、ママの表情からはその嘘を信じたかどうかは分からな
かった。
「そうでしょう、彼女はなかなか難しいのよ、ねえ」
とありさのほうを顎で示しながら、二人の前の席に腰をおろした。
「それで浅賀さんはどんな口説き方してるのかしら、私もこんないい男に口説かれてみたいもんだわ、
最近誰かに口説かれるということもめっきりなくなったし」
「ママのお噂はかねがね聞いてますけど」
ありさの目が笑っている。
「あらそうお、今度私の人生体験を浅賀さんに書いて頂こうかしら。これでもいろいろあったのよ、あ
りさちゃんには分からないでしょうけど」
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「さぞかし華やかなんでしょうね」
「ありささん、6番のテーブルお願いします」
またしてもフロア・マネージャーからの一言がかかった。
「ごちそうさまでした」
ありさがテーブルを離れて行き、亮二はまたママと二人になった。
「ねえ今晩マンションへ来てくださるわよね」
亮二の隣へ座りなおしたママが言った。
「何かお話があるということでしたが」
「そうよ、重要なことなの、二人にとってね」
「二人って・・・ママと俺?」
「もちろん、あなたと私よ、そうでしょうほかに誰がいるというの?それからお店をでたらママはやめ
てね、洋子っていうちゃんとした名前があるのよ、洋子って呼んでほしいわ」
(これは大変なことになってきたのかも)
「いいですよ、洋子さんでいいかな」
228
洋子ママはそれには答えずに、
「12時に出ましょうね、いいわよね」
「ええ僕はいいけど、お店は?」
大丈夫なのかと聞こうかとも思ったが、止めておいた、要らぬお節介というものだろう。
「いつものことだから問題ないわ、みんなよくやってくれるのよ」自信満々である。
店をでると車が待っていた、洋子ママに背中を押されて車に乗り込む。
「いつものところまでお願いよ」
「いつも御贔屓にありがとうございます」運転手はそれだけ言って車を発車させた。
いわゆるハイヤーでもタクシーでもない、夜の水商売相手に特定の店と契約している輸送業者だ、もち
ろん無許可のはず。
「どこまで?」
「あら、気になるかしら」
彼女が亮二の手をとって、自分の腰のところへ持っていった。むっちりとした腰の張りが手のひらを通
して伝わってくる。
229
「そんなに遠くじゃないわよ、代々木の辺りよ」
見ると車は外苑西通りを青山墓地の横を通って千駄ヶ谷の方向へ向かっているようだった。
「ありさと何話してたの?彼女を誘ったの?」
ちょっと間をおいて洋子がしゃべりだした。
「別に大したことじゃない、ちょっと食事でもって誘ってみただけで」
なるべく何気ない様子を心がけてみた。
「誘ってあげればいいんじゃない、でも結構固いようね」
固くて結構だと思いながら、腰にあてがわれていた手を、思い切って彼女の背中側へ回して、反対側の
腰を引き寄せるように手に力を入れた。
「あら、見かけによらず手が早いのね、でもまだだめよ」
今度は彼女が亮二の手を押さえてそれ以上の進展を阻んでいた。
亮二は盗み見るように洋子の顔色を窺って見たが、通り過ぎてゆく街の灯が彼女の顔を時々浮かび上が
らせているだけで彼女の意図は推し量れなかった。
車は代々木公園の近くの高層ビルの前で停まった、途中運転手にはまったく道案内をしなかったのだか
230
ら、運転手はこの場所をよく知っているということだろう。何回も彼女とその客を乗せてこの道を走っ
ているのかもしれなかった。
(俺もそのうちの一人というところか)
「着いたわ」
彼女について車を下りると、目の前のコンクリートの建物とは裏腹に、森の香り、木の香りが夜の中に
漂っていた。
「この辺は静かな住宅地なんですね、空気も六本木あたりよりきれいなような気がするな」
「六本木とは大違いよ、朝公園でジョギングすると気持ちいいのよ、明日の朝一緒にジョギングしまし
ょうか」
亮二は何も答えなかったが、洋子は亮二の腕を取ってエレベータの方へ向かった。
「深夜のエレベータって時々怖くなるの、ドアが開いて、一人ならいいわよ、でもたまにドアが閉まる
寸前に誰か飛び乗ってくる人っているでしょう、そういうのに限って人のことジロジロ見たりするのよ、
水商売かって馬鹿にしたような眼付でね」
「別に馬鹿にしてるわけじゃないだろうけど派手な格好してることが多いだろうし、僕だってママと、
231
いや洋子さんと二人でエレベータに乗り合わせたらじろじろ見ちゃうかもしれない、でもだからと言っ
て何もないよ、意識過剰になり過ぎないほうがいいんじゃないのかな」
「私はまだないけど、お店の女の子の中にはエレベータでいやな思いさせられたっていう子が結構いる
のよ、だから天井にカメラがついてるでしょう」
洋子は天井を指さして、ニコッと笑って見せた。
「誰か見てるかもしれないから愛想よくしてるのよ、おかしい?」
17階でエレベータが停まって、二人は腕を組んだままエレベータを下りた、彼女が寄り添ってエレベ
ータから出てくる姿は他人からは恋人同士のように見えたかもしれない。
「ここよ」
いつの間にかバッグから取り出したキーでドアを開けると、一瞬躊躇した亮二の腕を軽く引っ張って、
「ここまで来て帰るってことはないでしょ」
彼女の言葉に釣られて女の園への入口を跨いだ、しかも中は外からでは分からない豪華さが亮二を圧倒
しようとしていたのだ。
毛の長い絨毯が敷き詰められた玄関ホールから室内へと連なるドアを開けると更にその想いを強くさせ
232
られた、正面には大きな曲面の壁一面が重厚な雰囲気のカーテンに覆われている、
「ちょっと面白いもの見せるわよ」
彼女が言って部屋の入口のスイッチを操作すると、部屋の電気がすべて消えて一瞬真っ暗闇になったか
と思う間もなく、正面の壁一面を覆っていたカーテンがスルスルと左右に開いていき、部屋全体が東京
の夜景を一望する特別展望台へと変身したのだ。それはガラス窓というような中途半端なものじゃない、
足元から天井までの壁一面のガラス張りだった、部屋の中はすべての明かりを落として真っ暗だが、外
は左に新宿の高層ビル街、右に六本木ヒルズと東京タワーが手を伸ばせば届きそうなぐらいに見えるの
だ。
「すごいな、こんな景色みたことないよ」
「ちょっといいでしょう」
「ちょっとどころじゃないな、これはすごく豪勢だな、でも高そう」
と言ってから余計なことをいったものだと後悔したが、
「高いわよ、でもこの景色には代えられないわ、ちょっと無理しちゃったの、どう気に入った?」
「気に入ったなんてもんじゃないかな」
233
「そう気に入ってくれたんならいつでも来ていいわよ、この景色見ながらワインでも飲んで・・・うふ
ふふ」
洋子ママが何か嬉しそうだ。
「何飲む?」
「何でも」
「ワインでいい、この間どっかのおじいちゃんに貰ったやつよ、多分すごく高いワインじゃないかしら、
男ってかわいいのね」
「僕もかわいい口かな」
「あなたも十分かわいいわよ」
何をもってかわいいといわれているのかは分からないが、とにかくワインで乾杯。
「よくわからないけど美味しいよ」
「この景色のせいよ、まあ立ってないでそこに座って。ゆっくりしたものに着替えてくるけどいいかし
ら」
というなり亮二の返事も聞かずに隣の部屋へ入っていってしまった。
234
取り残された亮二はワイン片手にソファーの真ん中に座って、ゴージャスな夜景を堪能することにした、
まだ働いている人間がいるのだろうか新宿の高層ビルのあちらこちらの窓に明りが映っていた、なんと
いう贅沢な景色なんだろう、この部屋はいったいいくらするんだろう、それも全部彼女が自分でだして
いるんだろうか、もしくは北柳が言っていたような金持ちのおじいちゃんがだしているんだろうか。そ
れから亮二の想念は彼女の着替えに移っていった、彼女のゆったりしたものってどういうものなんだろ
うか。
「お待たせ」の声に亮二は振り向いた、そこには白いバスローブ姿の洋子がいた、アップにしていた髪
を下げただけで、着ている色を黒から白に変えただけでこんなにも女が変わってしまうものなのかと思
うほど、清楚な処女のような女が立っていたのだ。
「お隣に座らせてもらっていいかしら」
「もちろん、だってここは・・・」
「でもこんな格好ですもの」
洋子が亮二の隣に座ろうとした、香水の甘く誘うような香りが亮二の感覚を刺激する、ソファーに腰を
落とした瞬間バスローブの前が乱れて、太腿の内側の生肌が亮二の眼に飛び込んできた。
235
「失礼」洋子が背けるような笑顔で前を合わせる。
「ねえ、もう一度乾杯しましょう、私たち二人のために、私たち二人の将来のために・・・」
グラスのワインを一口飲んで、
「きれいでしょうこの景色、最高に好きなのよ、あなたは?」
洋子の質問は亮二には届かなかったようだ、彼は別のことを考えていた。
(バスローブに着替えたということの意味は、だとしたら俺はどうするんだ、明日の朝代々木公園を一
緒にジョギングするんだろうか)
「ねえ、こっち向いて」
「えっ」
亮二の想念が打ち破られた時、洋子の唇が亮二の上に重なっていた。
亮二も腕を彼女の背中にまわしてバスローブに包まれた彼女の身体の感触を抱きしめた。
彼女が唇を反らせて「いつまでこんなもの着てるの、脱がせてほしいの?」
いつの間にか彼女のバスローブも足元へずり落ちていた。
部屋の中は真っ暗、しかし壁一面のガラス張りをとおして新宿高層ビル街の明かりが裸の二人を捉えて
236
浮き出していた。
「これ好きなのよ、夜景に照らし出されながら抱かれたいの・・・」
夜の明かりに照らしだされた全裸の二人が敷き詰めの絨毯に寝転がっていた、毛足の長い絨毯が少し汗
ばんだ肌に与える心地よい余韻を楽しんでいた。
「ネオンに照らされてって初めてでしょう」
持ってきたワインを片手に女が聞く、二人は白い敷き詰めの絨毯に腹ばいになって寝ころんでいる。
「もちろん初めてだな、月明かりの下でっていうのはあったような気がするけど、昔」
「へえ、月明かりとネオンどっちが良かったのかしら?」
「月明かりの方は相手が誰だったかも覚えてないよ、10年以上も前のことだから」
「10年前ってあなたいくつなの、ませてるわね・・・でもまあいいわ、私はネオンの明るさが好きな
のよ」
男はこの女が何人の男とこの夜景に照らし出された下でのセックスを楽しんだのか等とは考えないこと
にした。
237
「明々と照らし出されてる、みんなに見られてるっていうスリリングな感触が何ともいえないじゃない」
「しかし誰もがそんなスリルを味わいたいと思ってるわけじゃないんじゃないかな」
「そう、それが問題なのよ、特に・・・」言いかけた言葉を切ってから、
「その点あなたは平気でしょう」
「別にどっちでもいいよ、ママとなら」
「ママは止めてって言ったでしょう、プライベートなところでは」
「なんて呼べばいいんだっけ、洋子さん、もしくは・・・」
「洋子でいいわ」
「俺にとっちゃあどっちでも同じだな」
「こだわりないのね」
「こだわるのはいい女だけかな」
「それってお世辞のつもり?だったら下手なお世辞ね」
「お世辞なんかじゃないよ、本当の気持ちさ、だいたいどうして俺なんかとっていう疑問はまだあるけ
どね」
238
「あら、きらい?」
女のきめ細かな肌が男に吸いつくようにすり寄った、
「きらいじゃないでしょう」
「もちろんきらいだなんて、もったいないぐらいだよ」
男の呼吸がまた荒くなってきていた。
そして女が男に手を伸ばしていった。
男は何も言わなかった、何故か恋人だと思っている女性を汚すような気がしたからだ、しかし女は見透
かすようにそこを巧みに衝いてきた。
「この間会った女の子、彼女なんでしょう」
「まあ友達に毛が生えたっていうところかな」
「そんなこと言って、はっきり言いなさいよ、恥ずかしいことじゃないんだから」
「はっきり言うも何も、特にどうこうという仲じゃないから」
「そうなの、彼女とは肉体関係はないのね、私とどうなっても全然問題ないのね」
女には男の気持ちが手に取る様に分かっていた。
239
「あなたの小説って彼女のことを書いてるの」
「いや」
「それともナオミのことかしら」
「ナオミってクラブの?」
「知ってるわよ、でも彼女・・・あなただったら彼女を幸せにできたかもしれないのに・・・まさか北
柳親子のことを書いているんじゃ?」
男は女の質問には答える必要性を感じなかった、そして話の方向を切り替えようとした。
「いいんじゃないかな、洋子だってここで・・・だろ、何人もかな?」
「さあ覚えてないわ、数えて欲しい?」
「北柳も?」
男の口から出た言葉が女を現実の世界に引き戻した
「北柳さんは・・・」
と言いかけたところで女の口が止まった。
「うちの常務だった北柳康雄、よく来てたんじゃないの?」
240
「誰が殺したのかしら、あの人を潰す人がいるとは思わなかったわ、あの人に潰される人はいくらでも
いるでしょうけど、あの人を潰すなんて考えられない」
「僕は本当はよく知らないんだ、あの時は一緒だったけど」
「あなたはあの時が始めてだったわね」
「一緒に行ったもう一人の黒川っていうのも始めてじゃなかったかな」
「黒川さん?彼は何回も来てるわよ、北柳さんと一緒に、いつも一緒よ」
亮二は何かが違うことを感じていた。
「黒川が、北柳といつも一緒だって、まさか?」
亮二は白ばっくれて驚いて見せた。
「あら、本当よ、嘘言ってもしょうがないでしょう、特に片方は死んじゃったんだから、でも北柳さん
って死んだ方がよかったんだわ、彼が死んで悲しむ人なんてほとんどいないでしょうけど、喜ぶ人はい
っぱいいるわよ」
「洋子も喜んでるの?」
何故洋子は喜んでいるのだろうか、その疑問はすぐには解けそうになかった。
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「はっきり言ってね、いやな男だった」
言葉の裏に何かが隠れていそうな雰囲気が十分に漂っていた。
「でもここでやったんだね?」
亮二は洋子の顔を見ないで言った。
「そうよ、やらしてやったの、いやだったけど」
亮二が何も言わなかったからか、
「1回だけ」
亮二は洋子の身体を抱きよせて、裸の肌を小刻みに震わせている洋子をやさしく抱いていた。
「もう終わったことだよ」
亮二は夜の女でしかない洋子に愛しさを感じ始めていたのかもしれない。
「ありがとう、優しいのね、優しい人って・・・本当の男よ」
抱き合った二人の身体にくすぶっていた熱気が徐々に蘇ってきたようだった。
男は忘れることにした、今はすべてを忘れてこの熟れきった女を楽しむことにした。女は余韻が残って
いたのだろう、火がつくのも早く、急激に登っていく様が男にも手に取るように分かった。
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女はわけの分からないことを叫び続けていた。
二人が続けざまに果てて、毛足の長い絨毯に重なり合うように倒れ込んでいるうちに、外は雨模様にな
ってきたようだった。新宿高層ビルの夜景の明かりも雨に気ぶってぼんやりと霞む様になってきた。
「また来てくれるわよね・・・」
「ああ、見世物小屋も癖になるかも」
下園真紀はまだベッドを出たくなかった。ベッドの中は暖かくて気持良かったし、今日は土曜日だから
ゆっくりしていいはずだった。
ベッドの中で眼をつぶっていると、頭の中を何かが回転している、いろいろな過去の出来事がコマ送り
のデジタル画像のように現れては消えて行った。中には見たくない思い出したくない場面もあったが、
その殆どは無視できた。
彼女にとって無視できない出来事は母の死だった。8歳のときだったから覚えていることはそう多くは
無いのかもしれない、むしろ母の面影は偶像化されているのかもしれなかったが、それでも母が今ここ
にいないということの寂しさは彼女にとって耐えきれないことだった。
243
母は何故早く逝ってしまったのか、何故もっと私に話しかけてくれなかったのか。母の愛情を知らずに
育った娘の求めるものは決して小さくなかったかもしれない。
母亡きあと身体の不自由な父は一生懸命、娘とその兄を男手一つで育てたに違いなかった。しかし母が
亡くなった時を境として父が変わってしまったのは8歳の娘にも明らかだった。
ましてや10歳になる兄にとっては、この家は家庭とは呼べない存在になってしまったのだろう。
何が母を死に追いやってしまったのだろうか、何がこの家族を引き裂いてしまったのだろうか。
父から聞かされた事故の光景は、真紀の眼に焼き付いていた、あたかもその場面に彼女自身が居合わせ
たかの如く。
しかし真紀には父の言葉自体が信じられないことだったのだ。
一緒に車に乗っていた父は重傷を負いながらも一命を取り留めたのに、何故運転していた母だけが。
真紀が偶然母の持ち物の中から見つけた手紙の束は重大なことを彼女に語ってくれたのかもしれない。
母の過去、母が父と結婚する前の事実、母が父と結婚してからも引きずった事実、それらは彼女の感情
に訴え、彼女の意識を変え、彼女の人生を操った。
彼女は真実を知りたかった、真実を探る為にはどんなことでもできるような気がしていた。
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彼女がその美しい外見と似つかわしくないものを内に秘めていたとしても、その秘めたるものがどこか
で爆発したとしても、彼女だけに責任を押し付けるわけにはいかないだろう。
「人間の本性は結局変わらない、例え隠していてもいつか出てくるものだ。一生隠し通すなんてことは
できない、あの北柳一郎がいい例だ。彼の中に住みついている闇は彼の行く先々でふりまかれている。
彼に近寄るあらゆる人間に影響を与えている。そして最大の影響は息子である北柳康雄に与えられたん
だ」
亮二は父の手記の一節を思い出していた。
何が父をしてそこまで北柳一郎のことを憎ませたのか。分からないことだらけだった。
そもそも浅賀宗平と北柳一郎の関係については何も触れてはいなかったのだから。
「私が知っている北柳一郎は既に40代の半ばをはるかに過ぎていたが、若い女に対する好奇心は異常
に強く、関係を持っていた女性の数は1人や2人ではないはずだ。中には10代で子供を作り、自分で
育てられずに子供を施設へと送り届けた女達もいる。中には産めずに葬りさせられた命もあるのかもし
れない」
245
宗平の手記の一節と共に亮二に思い出させたことがあった。
「どのようなご用件でしょうか」
「私、浅賀亮二といいます。実は最近父が亡くなり、父の資料から私自身が以前こちらでお世話になっ
ていたらしいのですが・・・」
「浅賀亮二さん?
失礼ですがいつ頃のことで・・・」
相手は亮二を不審な眼で見ているようだった。
「よく分からないのですが、25~26年前のことだと思います」
「それで、何をお知りになりたいんですか」
「可能ならば、その時のことを」
「その時の何をですか、25~26年前の・・・雲を掴むような話ですね」
その時事務室に入って来た者がいた。
「中里さん、こちらの方が以前こちらに在籍していたと仰って、その時のことを教えて欲しいと」
「遠藤さん、私の方で対応しますので、応接の方へお通しして」
「失礼しました、浅賀亮二さんと仰るのですね。残念ながら私共の記録には浅賀さんのお名前が無いん
246
ですよ」
「ということは私の出生のことについては何も分からないと仰るんですね」
「ええ、誠に残念ながら、何とも致し方ないもので」
父が亮二に残したものは「聖母園」という3文字でしかなかった。
しかし亮二はどうしても真実を知りたかった。
亮二の想像力は宗平の手記と北柳一郎、北柳康雄とを強く結び付けていた。
亮二の空想力はプロメテウスを頼りに二人を罰しようとしていた。
亮二の創造力は北柳親子殺害の物語を書き上げようとしていた。
その小説を覆い尽くすものは「復讐」の2文字だった。
児童養護施設に引き取られて育てられた男がひょんなことから分かった実の父親に対し、自分を捨てた
ことに対する怒りから殺人を犯すとともに、自分とは異母兄弟になるはずの男をも殺してしまう。しか
し彼に残されたものは単なる空虚以外の何物でもなかった、彼が思い返し、懐かしんだ過去の想い出は
彼に微笑んではくれなかった。
247
亮二は作品を殆ど完成させていた、しかしもうそれは公に発表できるものではなくなっていた。
何故なら、作品内の人物は実名で描かれており、その北柳一郎と北柳康雄が現実に殺害されてしまった
のだから。
状況は似ていた、現実が亮二の作品を追っかけているのかと思えるぐらいだった。
今更発表などできない代物だった、もし発表したら、自ら犯行を認めるようなものだった。
だからこそ印刷した原稿は残さなかった。それはパソコンの秘密の場所に置かれていた。
亮二が精魂を込めて書いた小説が日の目を見る可能性は無くなってしまった。
しかし、亮二は小説の完成に全力を費やそうとしていた。
亮二にとってこの小説を完成させることが必要だったのだ。
この小説を完成させることこそ、父に報い、父の怒りを納め、父と父の同僚の復讐の念を晴らすことだ
と信じていたからだ、そして彼自身の将来も。
小説を完成させた後のことは考えていなかった。
道は自然と開かれるはずだと確信していたからだ。
248
「警部補、相模湖近くのホテルのロビーで北柳と若い女の目撃証言がでたようです」
「ホテルのロビー?
で、女の様子は、水商売風とか何か無いのか」
「ホテルは相模湖の南岸側で国道20号の反対側で、人気の多いところではありません。ホテルの泊り
客でもないとのことで、ただ待ち合わせ場所として使ったのか、一緒に車に乗って行ったとしか。服装
は派手では無かったし、特に目立ったところは無かったということです」
「時間は?」
「夕方の5時半頃です」
「ゴルフの後だって言うならちょうどいい時間帯だがな、プレイしていないということだしな。携帯は
調べたか」
「調べさせてます、通話記録でもあればいいんですが」
「ともかく黒崎洋子の写真と面通ししておいてくれ。」
「それも手配してます」
「ちょっと待てよ、ホテルなら防犯カメラがあるだろう、その女が映って無いかどうか調べさせてくれ」
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「分かりました、ロビーで待ち合わせたのなら可能性ありですね」
「女と言えば、もう一人下園の娘の写真もな」
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