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旧制二高柔道部の歴史的実態:1893-1914 年を中心に

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旧制二高柔道部の歴史的実態:1893-1914 年を中心に
スポーツ科学研究, 12, 1-18, 2015 年
旧制二高柔道部の歴史的実態:1893-1914 年を中心に
The history of the Second higher school judo club: Focused on 1893-1914
中嶋哲也
鹿児島大学
Tetsuya Nakajima
Kagoshima University
キーワード: 嘉納治五郎、西郷四郎、競技化、勝負法、心法
Key words: Kanō Jigorō, Saigō Shirō, athleticism, combative training, mind training
抄 録
日本の柔道史において 1890-1910 年代は不明瞭な点の多い時期であるが、近年様々な観点から明
らかにされつつある。その一 つが学 生 柔 道 の実 態 から読 み解 くというものだ。中 嶋 (2013)は、当 該 時 代
の学 生 柔 道 の対 校 戦 の諸 相 を分 析 し、日 本 国 内 における柔 道 の普 及 や展 開 について、嘉 納 の柔 道 論
や講 道 館 という一 機 関 の通 時 的 検 討 を相 対 化 し、新 たな日 本 柔 道 史 の可 能 性 を示 唆 している。また三
船(2012)は二高柔道 部 の歴史的 実 態から大正 7(1918)年の二高対 一 高戦がその後の柔道 史 におけ
るスポーツ化に大きな意義を有することを明らかにしている。しかし三船は、明治 30 年代に「講道館とは
独 立 した、二 高 柔 道 部 の特 性 を主 張 していた」ことを指 摘 しているが、この二 高 柔 道 部 の特 性 の内 実 を
講 道 館 の諸 制 度 及 び講 道 館 に指 針 を与 える嘉 納 の柔 道 論 との比 較 から明 らかにしておらず、さらに大
正 7(1918)年以前の状況は詳細に明らかにされていない。本研究は、こうした研究状況を踏まえて明治
26(1893)から大正 3(1914)年までの二高柔道部の諸活動から嘉納の柔道論や講道館という一機関の
通時 的 検討 では分 からない柔 道 の国内 における普 及の歴 史的 実 態及 び普 及 に関 する諸課 題 を明らか
にするものである。
結果として、部が誕生した明治 26(1893)年から明治 30(1897)年までの二高柔道部では柔術家との
交 流 、心 法 及 び忠 君 愛 国 的 な武 道 論 の登 場 、勝 負 規 則 及 び修 業 規 則 の成 立 など、独 特 の柔 道 文 化
が形 成 された。特 に勝 負 規 則 は現 在 明 らかにされている柔 道 の審 判 規 定 の成 立 時 期 (明 治 32(1899)
年)から 6 年遡る最古のものであることを確認した。また、日本各地において講道館の審判規定や段 級
制 がどのように普 及 していくのかを検 討 する上 で勝 負 規 則 、修 業 規 則 のようなローカルな制 度 との関 係
は重要な論点になり得ることを指摘した。
次に明治 30(1897)年から明治 36(1903)年の間は競技化が進んだ時期である。その過程で二高柔
道 部 の独 特 の柔 道 文 化 は後 退 し、形 の「儀 式 」化 や勝 負 法 の衰 退 が進 んだ。また、この時 期 の競 技 化
によって試合における「及び腰」「頑張り腰」など極端に腰を引いた防御姿勢が発達した。
明治 44(1911)年以降、柔道部員の西原連三によって再び勝負法が重視されるようになり、「勝負之
形 」が重 視 され、勝 負 法 の観 点 から競 技 が再 評 価 されるようになった。一 方 で柔 道 の目 的 から外 れた心
法 論 的 な心 の在 り方 の重 視 や「体 育 」としての柔 道 を勝 負 法 に比 して軽 視 するといった側 面 も窺 える変
化であった。このことは嘉納の柔道論に縛られず、自身の柔道論を展開する余地があったことを示してい
るが、ここから嘉納の柔道論の影響力の範囲はどのくらいか、また嘉納の柔道論はどのように解釈され普
及していったのかなどが、国内における柔道の普 及の過程を検討する上 で重要な課 題となりうることを指
摘した。
1
スポーツ科学研究, 12, 1-18, 2015 年
スポーツ科 学 研 究 , 12, 1-18, 2015年 , 受 付 日 :2014年 1月 11日 , 受 理 日 :2015年 1月 1日
連 絡 先 :中 嶋 哲 也 〒890-0065 鹿 児 島 市 郡 元 1 丁 目 20 番 6 号 Tel:099-285-7754
[email protected]
本 研 究 は拙 稿 (2013)の研 究 意 義 を踏 まえて、
Ⅰ.問題の所在
嘉納の柔道論及び講道館という一機関の通時的
近 代 日 本 の講 道 館 柔 道 (以 下 、「柔 道 」と略 す)
の歴史において 1890 年代から 1910 年代半ばに
検 討 を相 対 化 し、講 道 館 の定 期 刊 行 物 では捉 え
かけては一 つのミッシングリンクである。それは明
きれない 1890-1914 年までの日本の柔道史を描
治 31-36 ( 1898-1903 ) の 間 、 講 道 館 の 機 関 誌
く一 端 として、旧 制 第 二 高 等 学 校 (以 下 、「二 高 」
『国士』が発 刊された後 、講道館の定 期刊行物は
と略 す)の柔 道 部 活 動 の実 態 を明 らかにすること
しばらくみられず、大正 3(1914)年から刊行される
を目的とする。
東 北 の都 、仙 台 に設 置 された二 高 の柔 道 部 は
『柔道』まで待たなくてはならないためである。また、
『 国 士 』 以 前 の ま と ま っ た 史 料 と し て は 明 治 22
本 研 究 の目 的 にとって重 要 な歴 史 的 意 義 をもっ
(1889)年 5 月に講演された嘉納治五郎(以下、
ている。平 成 24(2012)年 度 に東 北 大 学 教 育 学
「嘉 納 」と略 す) の「柔 道 一 般 並 ニ其 教 育 上 ノ価
研究 科 へ提 出された三 船朋 子 の修 士論 文『旧 制
値」の講演録まで遡らなければならず、1890 年代
高 等 学 校 下 位 文 化 とし ての「 高 専 柔 道 」 の特 徴
の柔道史も不明瞭な点が多い。
―明治・大正期における学生柔道から―』は数少
そうしたなか近年 、池 田(2007)、坂上(2013)ら
ない二 高 柔 道 部 研 究 の一 つである。三 船 は二 高
によって明治期の柔道の正科体操への編入過程
の校 友 会 雑 誌 『尚 志 会 雑 誌 』や二 高 校 友 会 の歴
を追 う実 証 的 な研 究 が始 められている。これらは
史 を綴 った『尚 志 会 全 史 』などから二 高 柔 道 部 の
主に 1900-1910 年代における柔道の政策化、体
歴史を検討している。
三 船 によれば明 治 30 年 代 には二 高 は「講 道
操 科 教 材 化 についての研 究 であり、体 育 史 的 に
館 とは独 立 した、二 高 柔 道 部 の特 性 を主 張 して
重要な成果であると考えられる。
いた」(三 船 、2012、p.22)という。二 高 柔 道 部 は
他 方 で、拙 稿 (2013)は、旧 制 高 等 学 校 (以 下 、
「旧 制 高 校 」と略 す)における柔 道 部 活 動 の対 校
旧 制 第 一 高等 学 校 (以下 、「一高 」と略 す)との間
戦 の実 施 状 況 から主 に 1900-1910 年 代 の柔 道
で5回 対 校 戦 を行 い、その他 、後 述 するように仙
史 の一 断 面 を解 明 している。拙 稿 では旧 制 高 校
台 市 内 において数 々の対 校 戦 を開 催 していた。
の 柔 道 部 員 が 試 合 結 果 に 拘 る 姿 勢 を 戒 めた 嘉
こうして二 高 柔 道 部 の活 動 は講 道 館 と異 なる特
納 の言 を受 け入 れず、チャンピオンシップを競 う
性 を形 成 しつつ、他 の旧 制 高 校 同 様 、試 合 が活
「高 専 柔 道 大 会 」(拙 稿 ,2013)の開 催 に向 かっ
発 化 し競 技 化 するところに生 起 したのであり、当
たことを指 摘 したが、このことは柔 道 史 における普
該 時 期 の柔 道 史 の展 開 を講 道 館 の外 部 から検
及 や展 開 という問 題 を考 える上 で重 要 である。つ
討 する上 で様 々な論 点 を提 供 してくれるものと考
まり、拙 稿 は海 外 への普 及 は当 然 のこととして国
えられる。三 船 は一 高 との間 で5回 行 われた対 校
内の柔道の普及や展開についても嘉納の柔道に
戦 及 び校 風 に着 目 し、それらが二 高 柔 道 部 の特
1)
対 する考 え方 (以 下 、「嘉 納 の柔 道 論 」 と称 す)
性 にどう関 わっているかを検 討 しているものの、二
及 び講 道 館 という一 機 関 の通 時 的 検 討 によって
高 柔 道 部 には 講 道 館 とど の よ うに 異 な る 特 性 が
描くことは困難であることを示しているためである。
形 成 されていたのか、講 道 館 と二 高 柔 道 部 の比
これまでの研 究 は講 道 館 の柔 道 が中 ・高 等 学 校
較がなされていない。また、明治 30 年代に形成さ
や海 軍 兵 学 校 、陸 軍 幼 年 学 校 に普 及 したことに
れた二 高 柔 道 部 の特 性 が競 技 化 とどのように影
言 及 しても(井 上 ,2004;池 田 ,2007)、普 及 先 で
響 しあっていくのかも検 討 されていない。したがっ
の実態が研究されず、1890 年代の柔道史に関し
て、本 研 究 の目 的 は二 高 柔 道 部 の歴 史 的 実 態
ては正面から取り扱っていない。
の解 明 に あ るが、 よ り具 体 的 には① 明 治 期 の二
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スポーツ科学研究, 12, 1-18, 2015 年
高 柔 道 部 に おける特 性 の形 成 を講 道 館 の諸 制
の発 会 式 が行 われ、武 芸 部 、文 芸 部 、科 学 部 、
度 及 び、嘉 納 の柔 道 論 との比 較 から明 らかにし、
雑 誌 部 の四 部 によってスタートした。尚 志 会 が設
さらに②競 技 化 に伴 う二 高 柔 道 部 の特 性 の通 時
立された際 に立 ち上げられた武 芸 部は、「尚 武 会」
的 変 化 の諸 相 を考 察 することで、嘉 納 の柔 道 論
という、「剣 道 柔 術 」の稽 古 を行 う会 の後 身 として
や講 道 館 という一 機 関 の通 時 的 検 討 からはみえ
成 立 した(尚志 会 ,1893d,p.52)。尚 志 会 設 立 時
てこなかった国 内 における柔 道 普 及 の諸 問 題 を
に運 動 部 はなく、武 芸 部 には「撃 剣 」、「柔 道 」の
浮き彫りにすることである。
ほか、「弓術 」「ベースボール」「ロンテニス」「フート
ボール」「スケーティング」なども含 まれていた 2)
史 料 としては二 高 の校 友 会 雑 誌 『尚 志 会 雑 誌 』
(尚志会,1893c,p.3)。
を基本史料とする。明治 27(1894)年 6 月の第一
次 高 等 学 校 令 によってそれまでに設 立 されてい
尚 志 会 の武 芸 部 規 約 には明 示 されていないも
た第 一 高 等 中 学 校 から第 五 高 等 中 学 校 は旧 制
のの、尚志会会員の認識としては撃剣・柔道に期
高 校 へと改 組 されることになるが、『尚 志 会 雑 誌 』
待 する役 割 は他 の運 動 種 目 に比 して大 きかった。
の第1号は改組以前の明治 26(1893)年 6 月に
尚志会は同年 5 月 25 日に第二回役員会議を開
発 行 され、以 後 、昭 和 17(1942)年に発 行 される
き、予 算 支 出 について審 議 したが、その際 、武 芸
最 終 号 の 177 号 まで、欠 号 はあるものの東 北 大
部 からは「本 武 芸 部 は武 育 体 育 は勿 論 殊 に志 気
学 史 料 館 に所 蔵 されている。したがって『尚 志 会
を鍛 錬 せんが為 めに設 けたるもの」だが、放 課 後
雑誌』を用いれば、二高柔道部の歴史を 1890 年
の運 動 場 で盛 んに行 われていた「ベースボール」
代から通史 的に検 討することができるのである。ま
や「ロンテニス」などの「遊 戯 」もまた「体 育 進 歩 の
た、本 研 究 では『尚 史 会 雑 誌 』のほかに昭 和 12
為」に行うべきだと報告していた(尚志会,1893b,
(1937)年 に発 行 された『尚 志 会 全 史 』を補 助 史
p.79)。撃 剣 ・柔 道 は「武 育 体 育 」を担 い、野 球 や
料 として用 いた。なお、史 料 引 用 に際 しては旧 字
テニスなどの「遊 戯 」は「体 育 」を担 うものと考 えら
体を新字体にカナは仮名に改めた。
れていた。では「遊 戯 」には課 せられない撃 剣 ・柔
道 による「武 育 」とはなんであったか。撃 剣 ・柔 道
の道 場 開 場 式 の記 事 では、体 育 以 外 に撃 剣 ・柔
Ⅱ.二高柔道部の特性
道 に求 められる内 容 が次 のように述 べられている。
本 章 ではまず二 高 柔 道 部 の成 り立 ちについて、
明 らかにし、次 いで理 念 、行 事 、規 則 を取 り上 げ
すなわち、「曰 くベースボール、曰 く弓 術 、曰 くス
て、講 道 館 とは異 なる二 高 柔 道 部 の特 性 がどの
ケート、曰 く器 械 体 操 、曰 くフートボール、曰 く剣
ように現 れるかを検 討 したい。『尚 志 会 全 史 』によ
術、曰くロンテニス、曰 く柔道 、曰 く遠 足、曰く何、
れば、明治 30(1897)年に「当時部員の独特性主
曰 く何 、と 此 等 皆 体 育 を 助 け身 神 を 壮 快 にせし
張 」として「吾 柔 道 部 は講 道 館 の流 趣 を学 ぶと雖
むるもの」であるが、「特に剣道柔術を掲げ之か奨
も、その道 場 たるや独 立 のものにして決 して講 道
励 を欲 するもの」であり、その理 由 として「一 は本
館 の支 部 を以 て自 ら任 ずるものに非 ざる」と述 べ
邦 固 有 の武 道 を保 存 し 、或 は胆 気 を練 り 、或 は
られていたことを記 している(山 本 ,1937,p.183)。
一 朝 事 あるに際 し、能 く其 危 難 を救う等 」の 3 点
つまり、明 治 30 (1897)年 には「講 道 館 の流 趣 」
にあるという(尚志会,1893d,p.52)。この 3 点が
を基 盤 にしつつも、それに止 まらない部 の特 徴 が
「剣 道 柔 術 」と「遊 戯 」を分 け隔 てるものであり、武
あると意 識 されていたものと考 えられる。したがっ
育の内容もこの 3 点に関わるものとしてとらえられ
て本章では、まず創部 から明治 30(1897)年まで
ていたと考 えられる。また「本 邦 固 有 の武 道 」から
の状 況 を検 討 し、講 道 館 ではみられない部 の特
は外 来 種 目 のみならず弓 術 も外 されていた。「剣
徴を述べたい。
道 柔 術 」は特 に日 本 的 な固 有 性 を持 つ種 目 とし
て理 解 されていたのである。「胆 気を練 り」、「一朝
事 あるに際 し、能 く其 危 難 を救 う」ところには忠 君
1.柔道部の成立とスポーツの位置
愛 国 の精 神 との関 係 が示 唆 されると考 えられるが、
二高では明治 26(1893)年 5 月 6 日に尚志会
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スポーツ科学研究, 12, 1-18, 2015 年
めしも、未 だ相 応 の人 なくして今 日 に至 りしが、今
これら 2 点については次節で検討したい。
や幸に湯 浅 君を獲 て諸 子が身体 の錬磨を托する
また明 治 28(1895)年 に水 上 運 動 部 が設 置 さ
れるに伴い武芸部は陸上運動部と改称されること
を得 たりしは、余 の深 く慶 賀 する所 なり」(尚 志 会 ,
になるが、この改 称 後 にも撃 剣 ・柔 道 に遊 戯 以 上
1893e,pp.63-64)と述 べている。元 々、二 高 柔 道
の期待がよせられていた。明治 30(1897)年 3 月
部 には嘉 納 が選 定 した講 道 館 の門 人 が派 遣 され
の『尚 志会雑 誌 』では陸 上 運 動 部の不 振 を嘆き、
ることとなっていたが、その選 定 に時 間がかかって
「運 動 の必 要 なるは云 ふ迄 もなく、吾 校 元 気 の中
しまい、半 年 近 く遅 れたのである。このように二 高
心 となり根 本 となるものなれば、元 気 を発 揚 し美
柔 道 部 は講 道 館 から招 聘 された柔 道 家 から指 導
風 を作 るには、是 非 運 動 により男 児 らしき精 神 を
を仰 ぐようになるが、後 に述 べるように柔 術 家 との
養成し心胆を練磨せよ」と説かれ、「ベースボール
関係は明治 36(1903)年頃まで続いた。
可 なり、テニス可 なり、撃 剣 柔 道 最 も可 なり、弓 術
ところで、吉 村 が柔 道 を尚 志 会 に取 り入 れよう
可 なり、心 あるの士 男 子 らしき気 概 あるの士 、各
としたのは嘉 納 に柔 道 の効 用 を聞 いていたためと
其 長 ずる所 或 は欲 する所 に来 れ(傍 点 、筆 者 )」
いうが、吉 村 はどのようにして嘉 納 と出 会 ったのだ
(尚 志 会 、1897,p.70)と陸 上 運 動 部 への勧 誘 を
ろうか。吉 村 は豊 岡 藩 (現 兵 庫 県 豊 岡 市 )の藩 士
行っている。
の出であり、明治 6(1873)年に文部省に入省した
後 、 明 治 11 ( 1878 ) 年 に権 少 書 記 官 、 明 治 17
さて、柔 道 部 は柔 術 と交 わりながら創 部 された。
尚 志 会 の発 会 式 では柔 道 部 の学 生 から演 武 が
(1884)年に教科内規調査委員、明治 18(1885)
披 露 された が、「 雨 宮 常 念 両 氏 の柔 道 の如 きは
年 には文 部 省 視 学 官 、次 いで参 事 官 を歴 任 し、
夙に眞楊流の柔道を汲まれたれば一奇一正互に
明治 20(1887)年 5 月 8 日に第二高等中学校校
其 秘 蘊 を闘 はし見 るものをして感 歎 措 く能 はざら
長として明治 30(1897)年まで赴任していた(高橋,
しむ(傍 点 、筆 者 )」(尚 志 会 ,1893a,p.78)という
1979,pp.27-29)。嘉 納 が講 道 館 を創 立 するのが
評 価 が帝 国 大 学 へ進 学 した二 高 卒業 生 から送 ら
明 治 15(1882)年 のことであるから、吉 村 が嘉 納
れている。「眞 楊 流 の柔 道 」とは柔 術 のことと考 え
から柔 道 の効 用 について初 めて聞 かされたのは
られるが、当該卒業生が柔道と柔術を混用してい
二高に赴任するまでの 5 年の間のことと考えられ
るところに講 道 館 の柔 道 とその他 の 柔 術 流 派 が
る。この 5 年の間、嘉納は宮内省が管轄する学習
明 治 27(1893)年 の段 階 では明 確 に区 別 されて
院 で教 鞭 をとっており、文 部 省 の仕 事 に携 わるよ
なかったことを示 している。また、柔 道 部の指 導者
うになったのは吉村が二高に赴任した直後の 5 月
には「嘗 て講 道 館 にて修 業 されたる加 藤 甚 右 衛
17 日 のことである(小 川 ,1997,pp.284-285)。し
門」(以下、「加藤」と略す)が就いたが、加藤は殉
たがって吉村 と嘉 納は職 場 が同 じであったわけで
国 館 という「道 場 を当 市 材 木 町 に設 け天 眞 々揚
はないが、どちらも教育行政に携わっていたことか
(ママ)流 派 を教 授 」していた人 物 でもあった(尚 志
ら交 流 する機 会 があったものと思 われる。また吉
会 ,1893b,p.79)。柔 道 部 創 部 当 初 は柔 道 のみ
村 は学生 に「諸 子の身体 の一 半は諸 子 の所 有に
指 導 されていたのではなかったと考 えられるので
して、他 の一 半 は国 家 の所 有 たるを忘 る可 からず」
ある。
(尚志会,1893e,p.64)と日本国家への忠誠を説
ただし、同年 10 月には新たに講道館から招聘
いていた。吉 村 はこうした忠 君 愛 国 的 な教 育 観 を
された湯 浅 松 之 助 (以 下 、「湯 浅 」と略 す)が指 導
持 っていた ために、 柔 道 を通 じて 忠 君 愛 国 を 育
にあたることとなり、加 藤 は退 いている。その理 由
成しようとする嘉納の試み(次節で後述)に関心を
を尚 志 会 会長 の吉 村 寅 太 郎 校 長 (以 下 、「吉 村」
持ったのではないだろうか。
と略 す)は「余 は先 きに文 部 省 に在 りて、既 に加
また吉 村 は「十 三 四 歳 の頃 は既 に徳 川 氏 の末
納 (ママ)氏 に会 して柔 道 の効 用 を聴 きたりしが、
葉 にして、禍 乱 は其 裏 面 に埋 伏 したりしも表 面 太
本 校 に来 つて諸 子 と接 するに及 んで益 其 切 要 を
だ静 平 なりしかば、上 下 挙 って無 事 に謳 歌 し、文
感じ、数々加納(ママ)氏に介して適当の人物を求
教 の盛 武 を凌 ぐの秋 なりしが、卓 識 の士 は早 くも
4
スポーツ科学研究, 12, 1-18, 2015 年
大 に 心 を 武 育 に 用 いたり き 。 果 たせる 哉 十 七 八
するが、代わって明治 27(1894)年 9 月 11 日に
歳 の頃 天 下一 時 に瓦 解して、紛 乱相継 ぎ日々警
西 郷 四 郎 (以 下 、「西 郷 」と略 す)が嘱 託 される。
報 に接 することゝなりしが故 に、文 教 一 時 に衰 ひ
西 郷 が論 じた武 道 論 では忠 君 愛 国 の養 成 は説
武 育 驟 に勃 興 し、到 る処 竹 刀 木 剣 の声 を聞 かざ
かれず、江戸時代以来の武術の心法論
るなきに至 れり(傍 点 、筆 者 )」(尚 志 会 ,1893e,
とするものであった。同年 12 月 25 日に発行され
p.63)と述 べており、幕 末 の「武 育 」が盛 んになる
た『尚 志 会 雑 誌 』に西 郷 は「柔 道 に就 き浮 びし所
時代を生きた旧藩士にとって「竹刀木剣」を振るう
感」と題した武道論を載せている。ここで西郷はそ
撃 剣 の印 象 は強 かったものとみられる。このように
れまでの二 高柔 道部 の方針 に対 する違和 感を表
二 高 で撃 剣 ・柔 道 に「武 育 」の期 待 が寄 せられる
明している。
3)
を本質
一 因 には吉 村 校 長 の思 惑 も働 いていたと考 えら
れるのである。
柔 道 に就 て、善 かれ悪 かれ、通 常 会 員 諸 氏 より、幾
多 異 なる感 なき能 はざるは、是 れ当 然 の理 にして、敢
2.二高と武道論
て喋 々するを要 せざるものゝ如 かりしかも、熟 々熟 慮 深
制 度 上 、尚 志 会 は武 芸 部 という名 称 を用 いて
考 する時 は、其 所 感 たるや当 校 の校 風 上 にも、大 なる
いたが、その他 の面 では当 初 から「武 道 」という表
関 係 を有 するものゝ如 く思 意 せらるれば、敢 て不 遜 不
現 を盛 んに使 用 していた。吉 村 校 長 は尚 志 会 発
敬 の罪 も顧 みず、聊 か一 言 を吐 露 して以 て我 尚 志
会 式 の演 説 で「武 道 にありては心 胆 を鍛 錬 するを
会 々員 諸 氏 に告 く(西 郷 ,1894,pp.31-32)
主 眼 とすべけれども、其大 目 的 はとする所は学生
の気 風 を修 養 」(吉 村 ,1893,p.4)するものと述 べ
この「 通 常 会 員 諸 氏 よ り、幾 多 異 なる感 」を示
ている。また、尚 志 会 は武 道 に忠 君 愛 国 の精 神
すために、西 郷 は「武 道 と武 芸 の区 別 及 び武 芸
性 を見 出 していた。例 えば、二 高 柔 道 部 員 の YJ
の目 的 」という項 目 を設 けてその違 いについて論
は「奮 然 蹶 起 武 道 を錬 磨 し、翻 々の操 浩 々の気
じている。まず西 郷 の考 える武 道 とは次 のようなも
を養 成 すべきなり。異 日 国 家 急 あるに際 し、金 甲
のであった。
を抜 き、鉄 驪 に跨 り、風 雨 を叱 咤 し、義 勇 公 に奉
じ、皇 国 を盤 石 の安 に置 くべきものは本 部 員 たる
我 国 武 道 の真 相 は、恰 も是 れ釈 迦 の本 来 空 と云 へる
もの期 せざるべからず…今 や吾 校 撃 剣 部 柔 道 部
か如 く、或 は老 子 の玄 と云 へるが如 きものと同 一 にして、
を置き益武道を練習す…諸君奮往勇進、東北武
形 もなく、声 も無 く、臭 も無 く、実 に霊 妙 不 可 思 議 なもの
道 復 興 の率 先 者 たれ」(YJ,1894,p.52)と述 べて
なり…人 若 し此 武 道 の、堂 奥 に通 悟 徹 透 する時 は、心 気
いる。この YJ の発言から二高柔道部が忠君愛国
豁 然 、邪 念 邪 欲 は、飛 然 として煙 散 霧 消 し、千 惑 万 迷 は、
的な意義を武道に込めて用いていたことが分かる。
滾 々として氷 解 し去 り、生 死 の別 、有 無 の等 を明 にして、
同 時 期 の嘉 納 は柔 道 の稽 古 を通 して「愛 国 の心
必 ず安 心 を得 、故 に心 と体 と同 化 一 致 して、心 体 の為 に
を 固 う さ せ 」 る こ と を 説 い て お り ( 嘉 納 , 1889 ,
動 かず、体 心 の外 に惑 はず、心 胸 常 に洞 らかにして、全
p.471)、忠 君 愛 国 の育 成 という点 で二 高 柔 道 部
体 皇 皇 たるを覚 ゆ(西 郷 ,1894,p.33)
は講 道 館 と一 致 している。ただし、尚 志 会 では柔
道は武 道に含まれる種 目と理解 されていたが、嘉
西 郷 はこう述 べたあと、柳 生 流 、起 倒 流 、神 道
納 は武 道 という用 語 をほとんど使 用 せず、武 道 と
一心流の伝 書から、不動 心、本体 などのいわゆる
柔 道 は概 念 上 区 別 して、混 用 を避 けていたとい
心法論を引 用する。では西郷にとって武芸とは何
われる(永木,2009,p.13)。このように武道と柔道
であったか。西 郷 はいう。「武 芸(即ち剣 柔 等 の仕
の概 念 上 の関 係 については二 高 柔 道 部 と嘉 納 と
合 )は、則 ち人 をして、其 武 道 の堂 奥 に悟 入 せし
の間で異なっていたことが指摘できる。
め、以て変凡為聖たらしむるの、方法手段」であり、
さて、二 高 柔 道 部 の指 導 にあたっていた湯 浅
「決 して単 に、巧 妙 に剣 を振 り、巧 妙 に人 を投 倒
は明治 27(1894)年の半ばに病 気 を理由 に辞 任
する等 、区 々たる技 術 の上 達 を目 的 とするものに
5
スポーツ科学研究, 12, 1-18, 2015 年
非 ら」ざるものである(西 郷 ,1894,p.33)。このほ
ある。ただし、後 述 するように西 郷 が去 った後 にも
かに西 郷 は「徳 性 上 に及 ぼす武 芸 の効 果 」として
二高柔道部は心法論的な柔道の批評を記してい
「敏捷鋭潔」「遠慮覚悟」「活発決断」「自守自信」
るため、西 郷 の影 響 力 はある程 度 残 っていたもの
「沈 勇 忍 耐 」「剛 毅 義 侠 」などの勝 負 の心 得 を挙
と思われる。
げている(西郷,1894,pp.34-35)。
3.尚志会大会と柔術家の参加
嘉納は柔 道 を創始する際に不 動心 や本体 とい
った心 法 論 を柔 術 との質 的 差 を強 調 するために
昭和 10(1935)年に桜庭武が『柔道史攷』のな
捨 象 し、柔 道 における心 の教 育 は柔 道 修 心 法 と
かで「明 治 以 後 の柔 道 は、すべて講 道 館 柔 道 で
して「理 想 の人 間 関 係 秩 序 」と「心 の完 成 」を説 い
ある」(桜 庭 ,1935,p.196)と主 張 して以 降 、柔 道
たが主 として前 者 を重 視 したといわれる(寒 川 ,
史 において柔 術 は柔 道 との相 剋 のなかで徐 々に
2006,pp.255-256)。また、寒 川 は忠 君 愛 国 が理
駆逐されていくものとして描かれてきた。
想 の人 間 関 係 秩 序 を志 向 したものであるのに比
しかし社 会 学 者 の溝 口 紀 子 によればこうした
して、心 法 はあくまで個 人 の心 の完 成 を目 指 した
「これまでの柔 道 正 史 は、嘉 納 を中 心 とした講 道
点 で「政 治 的 ベクトルを有 さない」(寒 川 ,2006,
館 柔 道 の歴 史 である。そのため、大 日 本 武 徳 会
p.256)と指 摘 している。この点 を踏 まえて所 感 を
(武徳会)や警視庁・高専柔道の歴 史がそれぞれ
読めば、西 郷と嘉納 の間にある相 違点 が見 えてく
切 り取 られ、いわば秘 史 として散 在 しており、また
る。すなわち西 郷 の武 道 論 は、江 戸 時 代 以 来 の
これらの秘 史 については、講 道 館 (正 史 )とどのよ
武 術 の心 法 論 や心 得 を直 接 継 承 したもので、柔
うなかかわり合 いがあったのかという研 究 がなされ
道 と忠 君 愛 国 を結 びつけることはなかった点 にお
ていない」(溝 口 ,2013,p.19)という。溝 口 は「柔
いて、それまでの二高および嘉 納とは一線を画 す
道 正 史 」の要 点 の一 つとして「講 道 館 柔 道 は、柔
る。西 郷 の 武 道 論 は西 郷 自 身 が 講 道 館 入 門 以
術 各 流 派 に警 視 庁 武 術 大 会 等 で各 流 派 に勝 利
前 に天 神 真 楊 流 の道 場 で稽 古 を積 んでいたこと
することで柔 術 界 を統 一 し、それ以 降 、柔 道 (講
も 影 響 し て い る と 考 え ら れ る が ( 牧 野 , 1983 ,
道館柔道)となっている」(溝口,2013,pp.25-26)
pp.52-57)、他 方 で天 神 真 楊 流 以 外 の流 派 の伝
ことを挙 げ、「柔 道 正 史 では、講 道 館 以 外 の柔 道
書 を用 いてこれを示 しているところには、彼 なりに
や、柔 術 諸 流 派 は、明 示 的 に論 じられてこなかっ
武術の心法論を研究した跡が垣間見える(西郷,
た」と指 摘 している(溝 口 ,2013,p.26)。溝 口 のこ
1894,p.34.)。他方、このことは 19 世紀末の講道
うした主張は本研究の問 題意識と重なる。本節は
館内 部においては嘉 納 の柔 道論 のみならず近 世
溝 口 の主 張 を踏 襲 し、では柔 道 と柔 術 がどのよう
武 術 の心 法 論 が雑 居 していたことを示 している。
に関 係 していたのかを二 高 柔 道 部 と柔 術 家 との
講 道 館 内 部 で嘉 納 の柔 道 論 が門 人 にどのように
関係から描き出したいと思う。
尚志会は定期的に尚志会大会を開き、各部の
伝 わっていたのかは本 研 究 の目 的 ではないので
競 技 会 を 催 し て い た 。 第 一 回 大 会 は 明 治 26
ここでは論じないが、今後の課題となるであろう。
(1893)年 11 月 25 日であり、明治 30(1897)年
また西 郷 は、二 高 柔 道 部 や嘉 納 のような忠 君
4)
愛 国 を説 かなかった。西 郷 にとって重 要 なのは心
11 月 4 日までに 8 回大会が開かれている
法的 な境 地 としての武道 への悟入 であり、柔 道は
の大 会 では柔 道 部 も乱取 と講 道 館柔 道 の形 を披
その手段に過ぎなかった。そして西郷は尚志会の
露している。
ような撃 剣 ・柔 道 の総 称 には武 道 という用 語 を使
。こ
この形 の演 武 には柔 術 家 が参 加 する機 会 もあ
用せず、「武芸」を用いたのである。
った。第 3 回の大会では西郷と宮田孝二郎(以下、
こうした西 郷 の武 道 論 が二 高 内 でいつまで影
「宮田」と略す)が、第 5 回では辻暎(以下、「辻」
響 力 を有 したのかは判 断 し難 いところがある。西
と略す)と宮 田が起倒 流 裏ノ形を行 っているが、こ
郷 も ま た 12 月 の 稽 古 中 に 肩 を 痛 め 、 翌 明 治
れはのちに講道館古式の形と称される形であるた
28(1895)年 2 月には二高柔道部を去ったためで
め、これを除くと、明治 29(1896)年 11 月 29 日の
6
スポーツ科学研究, 12, 1-18, 2015 年
第 7 回大会には二高柔道部最初期の指導者で
部員の三上は模範稽古を評して「見る者をして恍
あった殉 国 館 の館 長 加 藤 とその門 人 の渡 邊 武 夫
惚 たらしむ」(三 上 ,1896,p.10)と述 べている。鈴
(以 下 、「渡 邊 」 と略 す)が天 神 真 楊 流 の初 段 立
木 、大 和はこの後 時々道 場 に来ては辻 とともに指
合 の形 を披 露 し、剣 徳 流 及 び眞 極 流 の形 を「渋
導 にあたるようになり、「以 来 柔 道 部 其 の面 目 新
谷 氏 」 「 湯 目 氏 」 が 披 露 し て い る ( 三 上 , 1896 ,
たに」(三上,1896,p.10)襟を正すのであった。
二 高 柔 道 部 員 は指 導 者 や門 人 を通 じて講 道
pp.5-6)。剣 徳 流 は仙 台 藩 に伝 承 された武 術 流
派 であり、剣 術 が主 体 であるが柔 術 を含 んでおり、
館 とつながっていた。三 上 、宮 田 をはじめ常 念 保
乱取はなく、形の稽古のみを専らとしていた。
平、溝口歓十郎、伊藤理三郎、安藤政得、といっ
また、講 道 館 の形 が披 露 される場 合 にも心 法
た人物もまた二高入学以前に講道館での稽古経
的な評価がなされる事があった。第 7 回大会から
験 をもっていた(常 念 ,1893,pp.8-9)。また第 7
は各 形 の演 武 に概 評 が 加 えられはじめるが、二
回大会には嘉納の下で柔道を修行したことのある
高 柔 道 部 員 の三 上 景 忠 (以 下 、「三 上 」と略 す)
早 川 という柔 道 部 員 が、「師 友 に対 して傲 慢 の挙
は石 幡 伊 三 郎 とともに披 露 した講 道 館 投 の形 に
動 、不 遜 の言 語 」(三 上 ,1896,p.11)を発 し、三
ついて「虚 心 平 気 即 心 無 我 を以 て、柔 道 の真 々
上に批判されている。三上は「柔道の要旨は智育
如 々たる所 以 とせば、其 の形 に於 て顯 はるゝ所 も、
徳育体育の三者を養ふに有りと、而して君は曾て
亦 円 満 にして、空 寂 ならざる可 からず」(三 上 ,
東京に在る頃、嘉納先生に従ひて、教を受けたる
1896,p.5)と自 賛 している。西 郷 が二 高 を去 って
の人 なり、今 にして其 の徳 を潰 し、其 の武 を潰 す、
2 年近く経とうとしていたが、このような虚心平気や
慨 するに堪 ゆべけむや」(三 上 ,1896,p.11)と批
即 心 無 我 など心 の在 り様 に着 目 する視 点 には西
判 したが、嘉 納 の柔 道 論 が三 育 主 義 に基 づいて
郷の武道論が影響していると考えられる。
いるという指 摘 は現 在 の研 究 水 準 (寒 川 ,1994)
からみても的を射ている。
柔 術 家 は 乱 取 に も 参 加 し て い た 。 明 治 28
(1895)年 11 月 24 日の第 5 回大会では柔道部
このように大 会 の様 子 をみても明 治 30(1897)
員の「部員同士の戦は気自ら振はざる者あり」(宮
年 まで二 高 柔 道 部 では嘉 納 の柔 道 論 以 外 に嘉
田 ,1895,p.3) という 理 由 で天 神 真 楊 流 柔 術 の
納 が好 まなかった武 道 という表 現 や嘉 納 が柔 術
殉 国 館 の門人 と乱 取をしている。試 合ではないの
から柔 道を創り上げる際に捨 象した心法論などが
で勝 敗 はつけなかったが、殉 国 館 の巧 みな技 に
併 存 していたのである。また、二 高 柔 道 部 にとっ
圧 倒 され「遺 憾 にも敗 れたりと云 はざるを得 ず」
て柔術家は駆逐すべき相手だったのではなく、交
(宮田,1895,p.3)と反省している。また第 7 回大
流することで互いに技量を高め合う身近な存在だ
会では模範稽古として二高柔道部員の伍堂卓雄
ったのではないかと考 えられる。この点 は柔 道 正
と殉 国 館 の渡 邊 が乱 取 を行 い「互 ひにその勇 を
史において柔道に駆逐される対象として描かれて
恃 み、稍 や剛 術 を試 みたるの嫌 なき能 はず、之を
きた柔術とは異なる柔術 と柔道との関 係性が窺 え
勝負として見 れば、間然 する所なきが如しと雖も、
るだろう。
模 範 稽 古 としては如 何 の者 にや」(三 上 ,1896,
4.二高柔道部の規則
p.11)と評 価 されている。二 高 柔 道 部 では力 ずく
で相 手を制 することを「剛術」と呼ぶが、普 段 稽 古
二高柔道部では明治 26(1893)年 10 月に湯
している合 理 的 な技 の動 きをも忘 れさせる熾 烈 な
浅 が指 導 者 に就 任 してから部 内 の規 則 が整 えら
意地の張り合いだったことが窺われる。
れていった。明治 26 年 12 月の『尚志会雑誌』第
このように二高柔道部にとって柔術は身近な存
3 号には、「勝負規則修業規則修業者心得」(尚
在 であったが、講 道 館は憧 れの対象 であった。二
志 会 ,1893f,p.75)が柔 道 場 に掲 示 されたと記 さ
高 柔 道 部 はたまたま仙 台 に来 て尚 志 会 大 会 を参
れているが、ここでは「勝負規則」と「修業者規則」
観していた講道館初段の「鈴木」「大和」らに急遽
に注目したい。
第 7 回大会での模範稽古を依頼している。柔道
7
スポーツ科学研究, 12, 1-18, 2015 年
勝負規則
審判規定に先立つこと 6 年も前に審判規定を制
第 一 条 勝 負 は一 学 期 中 一 回 執 行 するものとす但 し勝
定 していたのである。また勝 負 規 則 の内 容 につい
負 を始 むるの時 日 は其 都 度 之 を道 場 に掲 示 すべし
ては、試 合 は二 本 先 取 で勝 負 が争 われる「三 本
第 二 条 勝 負 は最 下 席 の者 より漸 次 上 席 の者 に及 ぼす
勝 負 」 5 ) (老 松 ,1976,p.75)で行 われ、勝 ち抜 き
を以 て成 規 とす
試 合 が前 提 とされていたことが窺 われる。三 本 勝
第 三 条 下 席 の者 上 席 の者 に勝 つときは其 順 序 を改 め
負は武徳会や講道館の審判規定にも採用されて
勝 ちたる者 を以 て上 席 とす
いることから、当 時 柔 道 の試 合 は三 本 勝 負 が常
第 四 条 欠 席 者 及 び自 己 の勝 負 時 間 に後 れて出 席 する
識であったと考えられる。さらに試合時間の取り決
者 は其 下 席 に位 す る一 人 に負 けたる 者 と見 做 し 一 席 を
めはなく、判 定 者 (教 師 )の「見 込 」によって引 分
下す
けにするかどうかが判 断 された点 もまた武 徳 会 や
第 五 条 勝 負 は二 本 を以 て之 を定 む
講 道 館 と共 通 している。一 方 で、武 徳 会 や講 道
第 六 条 久 しく組 合 たるも勝 負 なきときは判 定 者 は一 本
館 の審 判 規 定 にみられた禁 止 技 に関 する条 項 が
勝 負 との掛 声 をなし其 後 一 本 にて勝 負 を決 せしむ
無い点には発展途上の様子が窺える。
第 七 条 一 本 勝 負 を掛 声 の後 尚 お久 しく勝 負 なきか若 し
では、どのような時 に「勝 負 規 則 」は用 いられた
くは互 に一 本 の勝 を得 たる後 勝 負 なきときは判 定 者 の見
のだろうか。それについては「修 業 者 規 則 」の第
込 を以 て之 を引 分 することある可 し但 し其 場 合 に於 ては
一条及び第二条に示されている。
先 に上 席 に在 りたる者 は依 然 其 席 に存 じ 其 上 に位 する
者 と勝 負 するを得 而 して若 し又 之 に勝 ちたるときは先 に
修業者規則
下 席 に在 りたる者 其 負 けたる者 と勝 負 することを得
第 一 条 修 業 者 を六 級 に分 ち初 めて修 業 する者 を六 級
第 八 条 一 人 の者 一 本 勝 負 を得 たる後 久 しく勝 負 なきと
とし修 業 成 績 の顯 はるゝに及 んで五 級 に上 せ順 次 に進 め
きは判 定 者 の見 込 を以 て之 を勝 利 者 と見 做 すことある可
て一 級 に至 らしむ
し
第 二 条 修 業 者 の階 級 は臨 時 勝 負 の 上 教 師 之 を 定 む
第 九 条 一 回 の勝 負 を為 したる後 五 分 間 以 上 の休 息 を
(尚 志 会 ,1893f,p.76)
請 うときは次 回 の勝 負 に負 けたる者 と見 做 す但 し事 情 に
このように校内では独自に階級が制定されてい
より判 定 者 特 別 に休 息 時 間 を伸 したるときは此 限 にあら
ず
たが、昇 級 試 験 のための校 内 試 合 において「勝
第 十 条 隣 席 の者 と勝 負 を辞 するときは其 勝 負 に負 けた
負 規 則 」は用 いられたのであった。例 えば、各 規
る者 と見 做 す但 し当 日 既 に二 本 の勝 負 を為 したる者 は此
則制定直後の 12 月 3 日には「第一回定期勝負」
限 にあらず
が行 われ、「勝 負 施 行 の翌 日 清 田 氏 は四 級 に、
第 十 一 条 判 定 者 は必 ず教 師 之 を為 すものとす
鳥 越 石 幡 中 村 杉 本 小 野 木 熊 谷 儀 島 田 の七 氏 は
第 十 二 条 未 だ勝 負 に堪 えずと認 むる者 には此 規 則 を
五 級 に昇 られたり」(YJ,1893,p.52)とある。この
應 用 せず(尚 志 会 ,1893f,pp.75-76)
ような階 級 や昇 級 制 度 もまた二 高 柔 道 部 が独 自
に制 定 したものであり、柔 道 部 員 の稽 古 に対 する
意欲を駆り立てる意図があったと考えられる 6) 。
勝 負 規 則 は校 内 で試 合 を行 う際 に使 用 された
独 自 の審 判 規 定 であったが、成 文 化 された柔 道
しかし、明治 36 年以降にはこうした独自の階級
の審 判 規 定 としては管 見 の限 り最 古 のものである。
制 を講 道 館 の段 級 制 に擦 り合 わせていく試 みが
これまでの柔 道 史 における試 合 審 判 規 定 の研 究
なされていく。明治 36(1903) 年 9 月に二高柔道
では明 治 32(1899)年 に制 定 された武 徳 会 の乱
部の階級は以下のように改正された。
捕 試 合 審 判 規 定 が最 も古 いものとされてきた。ま
た、武 徳 会 の審 判 規 定 を基 にして講 道 館 でも明
一 、一 級 より六 級 に分 つ事
治 33(1900)年に講道館乱捕試合審判規定が制
二 、一 級 は講 道 館 初 段 以 上 及 び之 れに相 当 する者
定 されている。しかし、二 高 柔 道 部 では武 徳 会 の
三 、二 級 は講 道 館 甲 組 或 は乙 組 及 び之 れに相 当 する者
8
スポーツ科学研究, 12, 1-18, 2015 年
四 、三 級 は講 道 館 乙 組 及 び之 れに相 当 する者
したがって明治 31-36(1898-1903)年のおよそ 6
五 、以 下 六 級 に至 り本 部 に於 て修 行 する会 員 をば六 級
年 間 は二 高 柔 道 部 に残 存 した柔 術 的 な伝 統 の
に編 入 す、
側 面 が衰 退 する過 渡 期 だと考 えられる。では、そ
但 し一 級 は黒 帯 を用 うべく二 級 三 級 は赤 帯 を用 うべきも
の時 期 どのような事 が起 きていたのか。本 章 では
のとす(尚 志 会 ,1904,pp.138-139)
二高柔道部が主催した市内連合柔道大会(以下、
「市 内 大 会 」と略 す)と対 一 高 戦 を中 心 に考 察 し
ていきたい。
甲 組 、乙 組 とは講 道 館 が制 定 した段 級 制 の一
種であり、当時、講道館の機関誌であった『国士』
1.市内連合大会の成立と参加団体
第 4 巻 28 号によれば、「無段者に幼年組成年組
明治 31(1898)年 6 月 15 日に二高柔道部は
の区 別 を立 て、成 年 組 には甲 乙 丙 、幼 年 組 には
一 級 より六級 に至 るまで階 級 あり」(造 士会 ,1901,
第一回の市内大会を開催している。同年 4 月 15
p.91)とある。二 高 の階 級 は講 道 館 の幼 年 組 とは
日 の一 度 目 の対 一 高 戦 で勝 利 した後 、「締 めん
異 なる階 級 であり、講 道 館 の無 段 者 成 年 組 と有
兜 の緒 も忘 れて」気 の抜 けた柔 道 部 に「武 者 振 」
段 者 に跨 るかたちで改 正 されていることが分 かる。
を取 り戻 すために「市 内 の名 士 を駆 りて、一 大 連
また、講道館の甲乙丙は白帯をつけるが、二高で
合 試 合 」 を 行 う も の で あ っ た ( 出 古 鋒 , 1898 ,
は赤 帯をつけるなども独自 の試 みであろう。このよ
p.49)。
うに階級制は、明治 36(1903)年以降、講道館の
前 章 で 考 察 し た 尚 志 会 大 会 同 様 、第 一 回 市
段級制との調整も図られることとなり、結果的 に講
内 大 会 においても、「手 取 りの弘 武 館 、揚 震 流 の
道館の柔道 が普及する上での接ぎ木の役割を果
制剛 館」(出 古鋒 ,1898,p.49)といった柔 術道場
たしたといえるだろう。
からの参加があった。以後、柔術家と二高柔道部
の交 流 は尚 志 会 大 会 ではみられなくなり、専 ら市
内大会でみられるようになった。
Ⅲ.二高柔道部の競技化とその諸相
本 大 会 の参 加 団 体 について詳 細 にみてみよう。
先 にみたように明 治 30(1897)年 までに、二 高
柔 道 部 は思 想 、尚 志 会 大 会 などにおいて、伝 統
本 大 会 には先 に挙 げた柔 術 道 場 以 外 には仙 台
的 な柔 術 との連 続 性 を、他 方 で審 判 規 定 におい
市 内 の尋 常 中 学 校 及 び尋 常 中 学 分 校 、師 範 学
て講 道 館 に先 行 していたことを示 していた。規 則
校などの各種学校のほか、警察 からの参加もみら
については明治 36 年(1903)年 9 月に改正され、
れた。大 会 記 事 をみてみると、まず校 内 の紅 白 試
講 道 館 の階 級 制 と調 整 が図 られるようになるが、
合が行われたあと、形の演武があり、「他流と他流、
この年 は、柔 術 との交 流 が途 切 れる年 でもあった。
他 校 と他 校 の試 合 」が「三 本 勝 負 」で行 われた
また、明治 30(1897)10 月-から二高柔道部で
(出 古 鋒 ,1898,p.51)。各 種 学 校 ではおそらく二
は飯 塚国 三郎 (以下 、「飯 塚 」と略 す)が講道 館 よ
高 同 様 、主 として柔 道 が行 われていたと思 われる
り派遣されるが、翌明治 31(1898)年 11 月 1 日
が、「警 察 にては揚 震 流を学 び、専 ら逆 、絞 、固 、
付で辞めており(尚志会,1898a,p.63)、同月 26
に 長 す る」 ( 出 古 鋒 , 1898 , p.53 ) と あり 、 仙 台 市
日 よ り 明 治 36 ( 1903 ) 年 ま で 「 大 木 」 ( 尚 志 会 ,
内の警察署では「揚震流」の稽古が課せられてい
1898b,p.46)という人物が指導者となっている。ま
たことが分かる。
このように警 察 と柔 術 道 場 が市 内 大 会 へ参 加
た、明治 36(1903)年半ばより大木に代わって「鹽
谷 」という人 物 が指 導 にあたっている(○△,1903,
していたが、明治 32(1899)年 5 月の第 2 回市内
p.73)。しかし、明治 30(1897)年までの指導者に
大会 以 降 、警察 署 からの参 加 者がみられなくなる。
比べて、その影響力がどのようなものであったかに
警 察 署 の 参 加 が な く な る の は お そ ら く 明 治 32
ついては『尚志会雑誌』からは窺えなかった。むし
(1899)年 3 月 22 日に宮城県下に武徳会支部が
ろ明治 30(1897)年以後は学生の主体的な活動
発 足 し(坂 上 ,1989,p.84)、武 徳 会 の一 大 行 事
が活 発 化 した時 代 なのではないかと考 えられる。
である武徳祭後の演武大会が同年より 5 月 5 日
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スポーツ科学研究, 12, 1-18, 2015 年
に開 催 されるようになったためと思 われる(中 村 ,
気 を失 わず」と心 理 的 な内 面 への積 極 的 な評 価
1985,p.18)。つまり武徳会支部と気脈を通じる県
がなされている(出 古 鋒 ,1898,pp52-53)。寒 川
下の警察署は同じく 5 月に開催される市内大会
( 1994 ; 2006 ) に よ れば 、嘉 納 は柔 道 か ら 心 法 を
ではなく武 徳 祭 への参 加 を優 先 するようになった
捨 象 するのみならず、心 身 二 元 論 の立 場 から柔
のではないかと考えられる。
道 を構 築 し ており、柔 道 における 身 体 運 動 は 諸
続 いて柔 術 道 場 からの参 加 もみられなくなる。
種 の実 験 器 具 で測 定 可 能 な面 のみを評 価 する
明治 34(1901)年の第 4 回市内大会までは制剛
自 然 科 学 の問 題 として考 えられていた。しかし、
館 が対 外 三 本 勝 負 に参 加 していた。ところが、明
出古鋒の評にみられるようにこの頃の二高柔道部
治 36 年(1903)年 4 月の第 5 回市内大会では
には演 武 者 の身 体 運 動 から心 理 的 な内 面 を評
「各 学 校 選 手 対 本 校 選 手 」(○△,1903,p.72)と
価する身心不可分な観点が残っていたのである。
しかし、こうした講道館の形も第 2 回市内大会
いう試合 が組 まれたものの柔 術 家 が登場 するプロ
以 降 、「儀 式 」化 の傾 向 がみられるようになる。第
. ..
2 回 大 会 における投 の形 の評 価 は「徒 に外 観 の
..
修飾 に捕 捉 せられて比 較的 真正 充 実の気を見 る
グラムは組 まれず、以 後 市 内 大 会 は仙 台 市 内 の
各 種 学 校 と二 高 との対 校 戦 の形 式 がとられるよう
になった。こうして、市 内 大 会 は各 種 学 校 間 の対
校 戦 という色 合 いが濃 くなり、柔 術 家 との交 流 は
こと能はざりしの感ありしは頗る遺憾(傍点、筆者)」
希 薄 になるのであった。各 種 学 校 との市 内 大 会
(尚 志 会 ,1899b,p.115)と批 判 されている。この
は明 治 37(1904)年 まで実 施 されたことが確 認 さ
ような「外 観 の修 飾 」は個 々の演 武 者 の問 題 でも
れるが、柔 道 部 は、結 果 的 には「 東 北 武 道 復 興
あったが、第 2 回市内大会以降の形ついての批
の率 先 者 」として仙 台 市 内 における各 種 学 校 の
評をみれば演武者 の心 法を評する記事は見 当 た
柔道部活動を盛りあげることになったのである。
らず、外 観 に関 する批 評 が目 立 つようになる。例
えば第 4回 市 内 大 会 における投 の形 の演 武 は
.
「余 裕 綽 々軽 妙 自 在 、或 は双 蝶 花 間 の舞 となり、
2.形の「儀式」化と低迷
市内大会では形の演武も行われ、第 1 回市内
或は百 雷 轟爆 の響〔傍点 、筆 者 〕」(尚 志会 ,
大 会 には前章 でみた第七 回 尚 志 会大 会 と同 様、
1901,p.96)と評 された。また「勝負 之 形」は「整々
殉 国 館 の加 藤 による天 神 真 楊 流 、及 び仙 台 藩 に
と攻 め、堂 々と守 り、規 矩 整 然 、一 糸 乱 れず、そ
伝 わる剣 徳 流 が形 の演 武 を披 露 している。しかし
の鉄 脚 乱 下 の間 を自 若 として体 をかはせば、雷
形の演武も明治 32(1899)年の第 2 回市内大会
光一閃畳上の声となるに至ては、思はず襟を正し
以 降 は柔 術 諸 流 が形 の演 武 を披 露 することはな
うせしむものあり」(尚 志 会 ,1901,pp.98-99)と演
くなり、専ら二高 柔道 部 員及 び指 導 者による講 道
武 者 の心 の内 面 を批 評 する言 葉 は見 当 たらず、
館の形が披露されるようになる。
「五 之 形 」においても「合 しては分 れ、分 れては合
第 1 回市内大会では講道館の形に対して、聊
し、虚 を外 して実 を突 き、右 に遁 れて左 を襲 ふ、
か厳 しい評 価 が下 されている。例 えば、投 の形 で
一 挙 手 一 投 足 悉 く皆 活 殺 の道 、一 進 一 退 円 転
は「此 至 難 の形 を演 じて綽 々余 裕 を示 し、柔 能 く
の妙 を極 む、其 の條 忽 として空 に躍 り、轟 然 とし
剛 を制 する、柔 道 の消 息 を伝 ふる処 、敬 服 に堪
するの嫌 なきを得 ず、殊 に末 段 捨 身 業 に於 て之
畳 上 に横 はるや、達 谷 窟 氏 の長 大 、自 ら一 段 の
..
見 栄 を添 ふるものゝ如し〔傍 点、筆 者〕」(尚 志会 ,
を見 る、尚 一 段 の修 養 を要 すと云 はん乎 」(出 古
1901,p.99)と外 観 への批 評 であることがみてとれ
鋒 ,1898,p.52)と、評 されている。ただし、これは
る。
マ
マ
へず、然 れども尚 英 気 迸 発 の余 、聊 か規條 を脱
演 武 者 を信 頼 し一 層 精 進 することを願 ってのこと
また、第 4回 市 内 大 会 では形 の軽 視 が決 定 的
であったと考 えられる。第 1回 市 内 大 会 ではその
なものとなる。大 会 記 事 によれば、学 校 間 の試 合
ほか「勝 負 之 形 」は「両 々気 満 ちて頗 る壮 」と評 さ
が行 われ、「勝 負 の形 」と「五 之 形 」が演 武 された
れ「五 之 形 」では、「両 氏 虚 心 平 気 、沈 着 の裡 活
のち「漸 く幕 内 錚 々の顔 ぶれとなり」対 外 三 本 勝
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スポーツ科学研究, 12, 1-18, 2015 年
負 が行 われ たが、「 勝 負 之 形 五 之 形 は畢 竟 「 土
1898,p.52)と揚 震 流 を評 し、柔 術 が柔 道 に比 し
俵 入 り」的 儀 式 に過 ぎず」(尚 志 会 ,1901,p.99)、
て実 戦 的 とは考 えていなかった。二 高 柔 道 部 は
と述べられた。形の演武は試合と試合の合間をつ
揚 震 流 を採 用 し てい た警 察 に ついて 次 の よ う に
なぐ「儀式」と考えられたのである。
評している。
明治 36(1903)年 4 月 15 日の第 5 回市内大
会 では投 の形 と五 の形 が演 武 された。そこで投の
実 際 の格 闘 に於 て、要 する所 は、技 術 の上 よりも、寧
形は「一瞬の呼吸にても外せば此上もなき醜態を
ろ一 片 侵 すべからざるの意 気 にありて存 す、況 や半 夜 街
露 はすに至 りぬべしとぞ、かゝる至 難 の業 にも拘
頭 陰 暗 きの処 、良 心 に背 て兢 々事 を為 すの輩 を制 する、
はらず、通 して綺 麗 立 派 にやってのけたるは、お
大 喝 一 声 、先 つ彼 れ己 に気 に於 て劣 る、技 に於 て聊 か
ぞや、日 頃 の鍛 へる業の効 目 と知 られたり」(○△,
達 する処 あるも、此 際 何 の効 あらんや、之 れ警 察 柔 道 が
1903,pp.71-72) と評 さ れ 、五 の形 は「 慎 重 に 行
活 気 飄 々、然 かも剛 術 に傾 くの所 以 ならん乎 、然 れども
マ
マ
はざればドンナ所 からしてブマ となり、威 様 ある筈
堂 々演 武 場 に立 て相 挑 む、此 種 の剛 術 其 効 を奏 するの
の形 も見 るに堪 へざるザマとなりなん」(○△,
少 きは元 より其 所 なり(YJ,1898,p.53)
1903,p.73)とやはり外 観 への批 評 が目 立 つので
このように実 戦 では相 手 を心 理 的 にひるませる
ある。
明治 37(1904)年 5 月 13 日の第 6 回市内大
工 夫 が重 要 で格 闘 の重 要 度 はその次 であった。
会 でも「五 ノ形 」、「投 の形 」、「古 式 形 」が演 武 さ
そのため、柔 術 は技 術 的 な練 磨 が足 りず体 力 に
れている。だが、「模 範 的 の形 は茲 に終 はり十 数
頼 った「剛 術 」に傾 きやすい。結 果 的 に柔 道 との
番 の活 発 々地 の仕 合 は終 り余 すところ六 番 の三
試 合 において柔 術 の技 術 は洗 練 されていないこ
本 勝 負 これぞ当 日 の幕 の内 所 謂 大 詰 の活 劇 か」
とが露呈されると二高では考えられていた。
(豚 尾 冠 者 ,1904 ,p.101 ) と、またも形 の演 武 は
嘉 納 は講 道 館 の創 立 以 来 、「実 際 の格 闘 」方
第 4 回市内大会同様の軽視されたのである。
法 を学 ぶことを勝 負 法 と称 し、柔 術 から継 承 した
『尚志会全史』によれば「この頃〔明治 39(1906)
柔 道 稽 古 の一 目 的 として数 えていた。二 高 柔 道
年 頃 :― ― 引 用 者 注 〕 は校 内 紅 白 勝 負 多 くし て
部 でも勝 負 法 のために創 られた「勝 負 の形 (現 在
対 校 試 合 少 なし」 ( 山 本 ,1937 ,p.190 ) と記 録 さ
の「極の形」:――引用者注)」を市内連合柔道大
れており、明治 38(1905)年、明治 40(1907)年と
会や尚志会大会で演武している。明治 31(1898)
対 外 的 な大 会 の記 録 は記 されていない。ただし、
年 11 月 19-20 日に行われた第 9 回尚志会大会
明治 40(1907)年 12 月 1 日には「第二回市内連
で柔 道 大 会 記 事 を執 筆 した針 の山 守 は次 のよう
7)
合 大 会 」 があり、市 内 の中 学 校 と専 門 学 校 の柔
に述べている。
道 部 を相 手 に対 校 戦 を行 っていたが、形 の演 武
は行われていない(尚志会,1908,p.106)。
このように概ね明治 32(1899)年を境に形は心
柔 道 に至 っては我 が国 古 来 よりの武 術 運 動 として之 を
. ... . ....
修 得 せば、又 た自 身 を防 衛 するの道 に於 て得 る所 少 なし
法 よりも外 観 が注 目 され、明 治 34(1901)年 以 降
とせず、啻 に腕 力 を頼 み剛 術 以 て敵 を圧 倒 して得 々、単
には試 合 に従 属 する「儀 式 」という位 置 づけを与
に勝 敗 をのみ之 争 ふに至 りては、大 ひに吾 人 の快 とせざ
えられるのであった。では、試 合 はどのようにして
る所 (傍 点 ,筆 者 )(針 の山 守 ,1898,p.14)
重 視 されるようになったのだろうか。市 内 大 会 、尚
志会大会及び対一高戦の様子から考察したい。
こ の よ う に 、二 高 柔 道 部 は 尚 志 会 の掲 げ る 武
道のみならず、柔道の勝負法にも注力していたの
3.試合特有の技術の発生
である。二 高 柔 道 部 は「剛 術 」を忌 み嫌 ったが、
二 高 柔 道 部 では元 来 、試 合 を実 戦 に連 なるも
勝負法の観 点から揚震 流を剛術と批判したところ
のと考えていた。明治 31(1898)年の第 1 回市内
には、在 来 の柔 術 よりも柔 道 の方 が技 術 的 に優
大 会 で 二 高 柔 道 部 で は 「 揚 震 的 の 剛 術 」 ( YJ ,
れていることを主張したかったものとみえる。そして
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スポーツ科学研究, 12, 1-18, 2015 年
柔 道 は試 合 で培 った剛 術 ではない勝 負 法 で「自
てその選 手 は選 手 外 の部 員 を「剛 術 」的 に力 ずく
身を防衛する」道だと考えられていた。
でなぎ倒 し、「未 熟 者 」の活 動 を妨 げたのである。
ただし、二 高 柔 道 部 は試 合 の勝 敗 を軽 視 して
「剛術」は二高柔道部が嫌った勝負法の在り方で
いなかった。同じく、第 9 回尚志会大会では大会
あったが、試 合 を優 先 するあまり柔 道 が勝 負 法 の
記 事 を執 筆 した針 の山 守 は明 治 31(1898)年 4
稽古であることにも意識が向かなくなっていたので
月 15 日に行われた一度目の対一高戦をうけて次
ある。
そしてこの明 治 32(1899)年 4月 に行 われた 2
のように述べている。
度 目 の対 一 高 戦 で二 高 柔 道 部 は試 合 で負 けな
勝 負 を以 て運 動 の盛 衰 に影 響 を与 ふるの刺 激 剤 なり
いための技術を一高にみせつけられることとなる。
せば、勝 負 を争 ふの事 、必 ずしも度 外 視 すべきにあらず、
これを検討する前にここで、対一高戦の審判規定
而 して、我 が会 員 の勝 負 を見 る事 、斯 の如 く夫 れ冷 、運
を検討 しておこう。2 度 目の対一 高 戦までは講 道
動 を見 る事 、斯 の如 く夫 れ淡 なりせば、何 を以 てか永 遠
館でも審判規定を成文化するには至っておらず、
五 城 の 下 に 屯 在 し て、 雄 を 一 方 に 称 し 、 天 下 の 運 動 場
武徳会でも 2 度目の対一高戦と同年に制定され
裡 に馳 駢 〔並 び立 つこと――引 用 者 注 〕するを得 んや(針
ている。こ の 武 徳 会 に よ る審 判 規 定 の制 定 の具
の山 守 ,1898,p.14)
体 的 な月 日 は定 かではなく、2 度 目 の対 一 高 戦
の前 に制 定 された可 能 性 もある。しかし、仮 にそう
針 の山 守 は尚 志 会 会 員 が試 合 の勝 敗 に関 心
だとしても対 一 高 戦 の審 判 規 定 が武 徳 会 の審 判
を持 たないことに不 満 を抱 き、試 合 の勝 敗 が陸 上
規定に制約された可能性はほとんど無かったと考
運 動 部 活 動 の「盛 衰 に影 響 を与 ふる」と主 張 した
えてよい。なぜか。
のであるが、そこに勝 敗 に対 する尚 志 会 としての
明治 31(1898)年4月の対一高戦は「投固絞を
意 義 が見 出 され始 めたのではないか。また、二 高
限 り挫 、当 を除 く」(中 里・馬 島 ・舘 田 ,1912,p.64)
柔 道 部 が背 負 っていた「東 北 武 道 復 興 の率 先 者 」
かたちで行われた。翌年 2 度目の対一高戦も「投、
という使 命 は市 内 大 会 や対 一 高 戦 といった対 外
絞 、抑 へ込の三 種 、逆なし」(西 川 ,1937,p.371)
試 合 においてプレッシャーになっていたのではな
を以て競技 することとなり、当 身技と関節技を禁 じ
いだろうか。このプレッシャーが影 響 したのであろ
た。当 身 技 の禁 止 は講 道 館 及 び武 徳 会 の審 判
うか、明治 32(1899)年4月 11 日に行われた二度
規 定 でもみられ、安 全 に配 慮 した結 果 と考 えられ
目 の対 一 高 戦 の後 、二 高 柔 道 部 は同 校 の学 生
るが、「挫 」「逆 」すなわち関 節 技 は相 手 を制 する
から次のように批判されている。
上 で有 効 な技 法 であり、講 道 館 及 び武 徳 会 の審
判 規 定 において使 用 が認 められていた。このこと
を考慮すれば、2 度目の対一高戦時点で一高や
柔 道 部 に於 ては、或 る熟 練 者 の為 に専 有 せられ、而 か
マ
マ
も彼 等 は薩 閥 的 なり、無 闇 に人 を抑 圧 せむとす。彼 等 は
二 高 が武 徳 会 の審 判 規 定 に制 約 されていなかっ
超 然 的 なり、部 中 一 団 を形 りて、悉 く該 部 を支 配 せむとす。
たことが分 かる。また、いずれの対 一 高 戦 も一 試
彼 等 は排 他 的 なり、傲 慢 気 に大 柔 術 師 を気 取 りて、未 熟
合 15 分で三本勝負ではなく一本勝負であったこ
者 と視 れば惨 酷 に、はた剛 術 無 的 法 に殪 倒 して、得 々至
とから二 高 の勝 負 規 則 は適 用 されなかったとみら
れりと為 す(尚 志 会 ,1899c,p.117)
れる。なお、明治 43(1910)年に行われた 3 度目
の対 一 高 戦 以 降 は脚 への関 節 技 の使 用 がみら
「柔 道 部 選 手 に激 す」と題 されたこの記 事 は、
れるため(西 川 ,1937,p.407;中 里 ・馬 島 ・舘 田 ,
対 一 高 戦 に出 場 した選 手 を批 判 するものであっ
1912,p.88)、武 徳 会 の審 判 規 定 がベースになっ
た。これをみれば、対 一 高 戦 に出 場 する「彼 等 」
たと考えられる。
「熟練者」の稽古が部の中心的な活動になってい
さて、2 度目の対一高戦で一高柔道部員は頻
たことが分 かる。それは、対 一 高 戦 に向 けた二 高
繁 に腰 を引 いた姿 勢 で相 手 に攻 撃 させないよう
柔 道 部 選 手 の試 合 のための稽 古 であった。そし
に努 めていた。これを二 高 柔 道 部 は「頑 張 り腰 」
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スポーツ科学研究, 12, 1-18, 2015 年
や「及 び腰 」と称 して、『尚 志 会 雑 誌 』上 で批 判 し
するものゝ快 しとせざる所 審 判 者 は遂 に膝 を地 に折 ること
た。例 えば、一 高 の原 田 森 吉 (以 下 、原 田 と略 す)
を禁 じぬ(尚 志 会 ,1899a,pp.103-104)
は「「及 び腰 」を以 て敵 吾 の間 合 いを常 に数 尺 の
遠きに及はしめ、自護一方に身を固め、時々巴を
このように 2 度 目 の対 一 高 戦 における防 御 姿
以 て勝 を制 するの策 のみに出 つ」選 手 であり、こ
勢 の多 用 は学 生 柔 道 の試 合 が講 道 館 の「快 しと
の戦 法 によって二 高 の石 塚 受 禄 と岩 村 環 の二 人
せざる」方 向 へと向 かいつつあったことを示 してい
に勝 利 していたが、続 く古 川 與 四 吉 (以 下 、「 古
るのである。
川 」と略 す)の小 内 刈 に対 しては及 び腰 も分 が悪
結 果 的 に二 高 柔 道 部 は一 高 柔 道 部 に敗 北 を
く、「頑張り続けし勇猛の力も此に却て利せられて、
喫 してしまうが、この経 験 は二 高 柔 道 部 の稽 古 の
小 内 刈 に 倒 れ た 」 の で あ る ( 尚 志 会 , 1899a ,
在 り方 に大 きな影 響 を与 えたと考 えられる。二 高
pp.94-95)。
柔 道 部 は建 前 としては「及 び腰 」での戦 い方 を好
これに比 して、一 高 柔 道 部 部 史 が載 せられて
まなかったが、明 治 34(1901)年 の第 4回 市 内 大
いる『向 陵 誌 』では、原 田 の姿 勢 を「及 び腰 」とは
会 の大 江 真 吾 と右 田 百 太 郎 という二 高 同 士 の試
述 べず、古 川 との一 戦 も巴 投 を狙 う姿 勢 に小 内
合 では遂 に「整 々堂 々の陣 を張 りて生 々溌 々の
刈 を 合 わ せ ら れ た と 記 し て い る ( 西 川 , 1937 ,
技 を競 ひ」あうという「壮 にして美 なる所 以 」に反 し
pp.371-372)。また、二 高 の石 井 波 平 (以 下 、「石
て「控え腰」、「頑張り腰」など腰を引いて負けない
井 」と略 す)は『向 陵 誌 』上 では相 手 を倒 そうと技
戦 い方 を選 ぶ選 手 が現 れ始 めるようになる(尚 志
をしかけてこない「防 御 練 習 術 の王 」(西 川 ,1937,
会 ,1901,p.97)。これ以 降 、同 校 の学 生 に批 判
p.376)と揶 揄 されているが、二 高 の『尚 志 会 雑 誌 』
されながらも、二 高 では防 御 姿 勢 を主 体 とする戦
では「練 体の妙に達し、未だ嘗て敵 に背を向 けず」
い方が増加するようになる。
(尚 志 会 ,1899a,p.102)とされ、消 極 的 な表 現 は
明治 35(1902)年 5 月 17 日には「第六回市内
避けているのである。
連 合 大 会 及 第 十 二 回 柔 道 部 大 会 」という市 内 大
このように及び腰など消極的な言い回しは虚偽
会とはまた別の市内の大 会があり、講 道館の投の
ではなく、相 手 の姿 勢 や戦 法 の一 面 の真 理 を突
形 、五 の形 が演 武 され 、各 種 学 校 、制 剛 館 と 二
いていたのである。また、こうした表 現 を前 提 に二
高との間で紅白試合も行われていた。この大会 の
高 柔 道 部 の一 高 選 手 の評 価 をみれば、「白 軍 の
記 事 を執 筆 した城 陽 は、「成 功 は栄 誉 なり、敗 衂
白眉村地氏は出でぬ(中略)進退の軽捷なると其
は恥 辱 なり、然 りと雖 も(中 略 )今 回 の仕 合 に見 る
体 勢 が整 然 として「及 び腰 」にて無 暗 に頑 張 るが
に吾 軍 余 りに慎 重 の態 度 を取 り、縦 横 奮 撃 以 て
如 きの状 なきとは、白 軍 中 独 り君 を数 ふるのみ」
其 技 を戦 はすなく唯 々防 御 の地 位 に立 てるは実
(尚 志 会 ,1899a,pp.100-101)であり、二 高 柔 道
に遺憾」(城陽,1902,p.41)であると批判した。
部 の立 場 からみれば一 高 柔 道 部 選 手 の多 くが
また、二 高 柔 道 部 では対 外 試 合 のみならず校
「及 び腰 」で「頑 張 る」ことで二 高 柔 道 部 の攻 撃 を
内 試 合 でも「及 び腰 」 、「控 え腰 」 、「 頑 張 り腰 」と
凌 いでいたのである。その結 果 、試 合 の終 盤 にさ
呼 ばれる腰 を引 いた防 御 姿 勢 が用 いられるように
しかかり、審判を務めた講道館の富田常次郎から
なった。明治 32(1899)年の 2 度目の対一高戦以
防御姿勢の禁止が言い渡されたのである。
前 にはみられなかった校 内 試 合 におけるこうした
傾 向 の具 体 的 な要 因 は定 かではない。考 えられ
〔一 高 の外 山 岑 作 は――引 用 者 注 〕組 め ば則 ち膝 を
るのは二 高 柔 道 部 員 には「校 風 興 振 の中 堅 」(城
折 りて防 勢 を取 り俄 に勝 敗 を決 する能 はず、離 るれば則
陽,1902,p.41)とみなされ、校風の振起のために
ち又 近 くことなく場 の周 囲 を周 走 し、染 谷 氏 〔二 高 の大 将
忠 君 愛 国 的 な武 道 の修 養 に励 むことが期 待 され
――引 用 者 注 〕」従 容 迫 らず大 手 を拡 げて之 を捕 へんと
る一 方 で、城 陽 が敗 北 を「恥 辱 」と述 べたように、
す(中 略 )外 山 氏 は斯 の如 くにして防 御 を講 じ唯 に時 間
敗 北 を受 け入 れ難 い雰 囲 気 が台 頭 し、自 然 と腰
の経 過 と大 将 の疲 れんことを望 みき然 れども真 に武 を角
を引いて投 げられない姿勢 がとられるようになって
13
スポーツ科学研究, 12, 1-18, 2015 年
いったのではないかと考 えられる。理 念としては勝
この間 、二 高 柔 道 部 は市 内 の各 種 学 校 相 手 に
敗 に囚 われず、修 養 に励 むことが唱 えられ続 けた
「東 北 武 道 復 興 の率 先 者 」として負 けられない戦
が、選 手 が腰 を引 いた防 御 姿 勢 をとるようになっ
いが強 いられたものの、『尚 志 会 全 史 』によれば、
て実 態 としては修 養 から遠 ざかり勝 敗 にこだわる
「年 々の成 績 は常 にわが良 好 を誇 る」(山 本 ,
ようになったのである。
1937,p.188)ものであり、指 導 的 立 場 は守 られて
いた。頻 繁 に対 校 戦 が実 施 され、競 技 化 と高 専
このように対 校 戦 が活 発 になれば、自 校 の勝
利 を優 先 するために個 々の選 手 は負 けない戦 い
柔道大会成立に活動を割かれ続けた三高、四高、
方 を選 択 していくのである(拙 稿 ,2013)。各 校 で
五 高 、六 高 とは異 なり、二 高 は競 技 化 という面 で
は正 々堂 々と戦 うことを標 榜 しつつも、負 けない
は緩やかに展開していたものと考えられる。
戦い方を選ぶ選手が増え続け、大正 3(1914)年
そうしたなか、二 高 柔 道 部 の在 り方 について徹
の高 専 柔 道 大 会 の成 立 までには一 高 や二 高 の
底 して反 省 する人 物 が現 れた。西 原 連 三 (以 下 、
みならず、西日本の三高から六高の間でも負けな
「西 原 」と略 す)である。西 原 は明 治 42(1909)年
い戦 い方 を選 ぶ選 手 はみられるようになる。また、
に 二 高 へ 入 学 し 、 柔 道 部 へ 入 部 し た 。 明 治 43
明治 40(1907)年に第六高等学校は第四高等学
(1910)年 の対 一 高 戦 時 には初 段 であり、副 将 を
校 (以 下 、「四 高 」と略 す)との対 校 戦 にて防 御 姿
務め、翌明治 44(1911)年 1 月 8 日には講道館
勢 で引 き分 けを狙 う四 高 の戦 い方 を「ガンバリ」と
より二段を授与され、同年 5 月の尚志会大会では
称したが(拙稿,2013)、この表現は二高から寄贈
1・2 年生を相手に 8 人抜きをみせるなど、二高柔
された『尚 志 会 雑 誌 』から援 用 した可 能 性 も考 え
道部内でも影響力のある人物であった。
明治 45(1912)年 3 月の『尚志会雑誌』に西原
られる。
二 高 柔 道 部 は市 内 大 会 や対 一 高 戦 といった
は「柔道に就て」と題した論考を載せる。まず西原
対 外 的 に負 けられない戦 いを幾 度 も経 ることで、
は執筆の動 機として「世 間多くの人 は此柔道を誤
腰 を引 いた防 御 姿 勢 が用 いられるようになってい
解 し、現 に修 行 中 の者 でも其 真 髄 を捕 へようと試
くのであった。しかし、これは試 合 のための防 御 の
みる志 を懐 く者 も無 く、真 実 に是 れを考 察 しようと
技術であり、実際の格闘場面を想定して開発され
する人 がない」(西 原 ,1912,p.113)ことを挙 げる。
た技 術 ではなかった。このように対 外 試 合 が重 要
こうした現 状 のために「次 第 に柔 道 の精 神 や形 式
になるにつれ、試 合 に特 化 された防 御 の技 術 が
の消 失 し、其 価 値 の堕 落 せんとするのは我 国 家
発 展 したのであり、そこに柔 道 の勝 負 法 が後 退 し
の為 めに嘆 ず可 き事 」(西 原 ,1912,p.113)では
ていく契機があったと考えられる。
ないかと問 題 提 起 するのである。では、西 原 にと
って柔 道 の真 髄 とは何 であったか。西 原 はいう。
「柔 道 は此 生 死 の間 を超 脱 せる境 涯 に到 達 する
4.勝負法への回帰と競技化
ここまでみてきたように二 高柔 道部では少なくと
を其 重 なる目 的 とする」のであり、「換 言 すれば、
も明 治 40(1907)年 までには勝 負 法 の稽 古 は低
自己に就いても、他人に就いても、活殺自在の境
迷 していた。またその過 程 では西 郷 以 来 の武 道
に体 達 するに有 る」と(西 原 ,1912,pp.115-116)。
論 (心 法 論 )の後 退 や柔 術 家 との交 流 の希 薄 化
どういうことか。
人 間 の精 神 活 動 の根 本 には「生 存 の意 志 」が
もみられたのである。
こうした二 高 柔 道 部 の状 況 は経 緯 こそ違 うが、
あるが、その意 志 に気 づくには実 際 に死 ぬかもし
西 日 本 の高専 柔 道 大 会を形 成 していく旧 制高校
れない状 況 に出 会 うことが必 要 であり、そのとき人
同 様 、稽 古 の目 的 が個 々人 の修 養から試 合 で負
は「死力」を尽し、「真面目」となるのである(西原,
けないことへと変 化 していったものと考 えられる。
1912,p.115)。この「「真 面 目 に成 る」と云 ふ事 は
ただし、二 高 柔 道 部 が三 度 目 の対 一 高 戦 を実 施
実 に自 信 力 を此 上 なく強 大 にすると云 ふわけで、
するのは明治 43(1910)4 月 6 日のことであり、二
腰 の据 って居 ると云 ふのは斯 の如 き時 の状 態 を
度目の対一高戦から 11 年もの歳月が過ぎていた。
指 す」(西 原 ,1912,p.119)のである。また人 は柔
14
スポーツ科学研究, 12, 1-18, 2015 年
道 に「形 而 上 の意 義 を付 与 したい」と心 がけ、「柔
だと主 張 したのである。それは生 死 の間 に身 を置
道 は武 士 の残 してくれた道 礼 儀 其 他 の重 んず可
きつつ身 心 の自 由 自 在 を目 指 す稽 古 であり、西
き事 は誰 しも口 にする所 であるが、扨 投 げたり飛
郷の武道論(心法論)に極めて近い内容であった。
ばしたりして、如 何 にして「武 士 の魂 」と云 ふ如 き
では、どうすれば危 険 な境 遇 に近 づけた稽 古
ものが養 成 せらるゝかに就 いて、一 人 の之 れに答
はできるのか。西 原 は次 のように提 案 する。まず、
へし者を聞く事を得ないのは甚だ遺憾である」(西
「勝 負 之 形 と称 する比 較 的 柔 道 の真 の修 行 に近
原 ,1912,p.118)が、「現 今 の柔 道 に於 ても人 を
い稽古を為す事」(西原,1912,p.118)である。実
倒 し、或 は殺 すには先 づ己 れ自 ら の体 を崩 し て
際、西原は明治 44(1911)年の秋頃に部員 50 名
敵 に対 せねばならぬので、則 己 れを捨 てゝ掛 らね
を集 めて、二 週 間 の稽 古 に励 んだが、その際 「勝
ば到 底 人 に勝 ちを占 む事 は出 来 ぬ。柔 道 の業 の
負 之 形 」を用 いて「柔 道の目 的 に最も叶 へる真剣
中 に真 捨 身 業 、横 捨 身 業 と云 ふ如 き名 称 の存 在
勝 負 の修 行 」をしていた(西 原 ,1911,p.123)。ま
するは上 の事 を説 明 して居 る、是 れ己 れを空 しう
た、「善 く行 う勝 負 と云 ふのは、個 人 と個 人 との戦
し、只 一 つの生 命 や名 誉 財 産 をも捨 てゝ、他 人 の
争 で、実 際 に死 の来 る如 き事 は勿 論 無 いが、度
為 に力 を尽 す献 身 犠 牲 の精 神 の萌 芽 をなし、根
胸 を据 える事 の為 に善 い機 会 である。世 間 の事
本 をなす」(西 原 ,1912,p.117)のである。またこう
皆 試 合 の時 の気 力 を以 ってすれば成 らぬ事 はあ
したことを「単 に「知 る」と云 ふだけでは駄 目 で」、
るまいと思 ふ。柔 道 の投 業 、関 節 業 、絞 業 等 をか
「鍛錬を重ね、次 第に自 得する」ことが必 要である
けられた時 は、皆 此 れ度 合 いの違 った死 であると
(西原,1912,p.116)。
も思はれる」(西原,1912,p.119)のであり、「要之、
このように西 原 の考 える柔 道 は死 ぬかもしれな
今の柔道 の今少し一般 に真剣勝 負 らしく行はるゝ
い危 機 的 状 況 に絶 えず身 を置 くことで生 存 の意
事 を切 望 する」(西 原 ,1912,p.118)のである。こ
志 を最 大 限 発 揮 し 、真 面 目 に 成 る ことを目 指 す
のように西 原 は試 合 に「真 剣 勝 負 」としての意 義
方 便 であった。西 原 はそうした柔 道 の実 践 から内
を見出し、再評価したのである。
明治 45(1912)年 6 月には一高から対校戦の
発 的 に献 身 犠 牲 などの倫 理 が生 成 されるものと
挑 戦 状 が届 き、西 原 ら二 高 柔 道 部 員 はこの対 校
考えたのである。
しかし、「今 は、別 に危 険 に臨 む事 は少 く、其
戦のために 7 月に上京し、講道館へ出稽古して
際の準備の為めに柔道の修練の必要を認めない
いる。その際 、「午 前 は五 段 三 船 久 蔵 氏 を招 き、
様 になった為 めに自 然 に柔 道 の目 的 を達 する鍛
専 ら勝 負 法 に心 を練 り、午 後 は又 雑 多 の勇 者 と
錬 の機 会 を得 るに困 難 を感 ずるに至 った」のであ
獰 猛 なる稽 古 をなし、以 て体 力 を養 」っていたの
る(西 原 ,1912,p.116)。また、「人 身 の危 険 の場
である(中 里 ・馬 島 ・舘 田 ,1912,p.89)。結 局 、こ
合 が至 って少 い為 めに、柔 道 本 来 の面 目 を失 し
の時 の対 校 戦 は明 治 天 皇 の大 喪 により中 止 され
て一 種 の体 育 の為 めのものとのみ人 の注 意 する
たが、二高は勝負法の稽古も重視したのであった。
に至って、悪評を下せば、余程体操に近づいたと
講道館への合宿は大正 3(1914)年 8 月上旬にも
も思 はれる」のである(西 原 ,1912,pp.117-118)。
行 われ、 そ の際 にも「 朝 の稽 古 では三 船 先 生 は
このように西 原 が二 高 柔 道 部 で稽 古 していた時
勝 負 法 とか業 の説 明 といふものに力 を入 れて教
期 、彼 の周 辺 では柔 道 は「体 育 」や「体 操 」のよう
へられた」(夏 堀 ,1914,p.85)という。こうして、二
に行われ、勝負法を心がける稽古は行われず、ま
高 柔 道 部 は西 原 の提 案 をうけて、嘉 納 の柔 道 論
た「危 険 に臨 む」機 会 もあまりなかったようである。
において柔 道 の一 目 的 として挙 げられる勝 負 法
したがって、西 原 は「出 来 得 る丈 け此 危 険 なる境
を重視し、講道館へ出稽古に赴いたのであった。
遇に近づき、其の際に身 心共 に自 由 自在 に活躍
Ⅳ.結論
の出 来 得 る機 会 を見 出 す可 きである」(西 原 ,
1912,p.116)と考 えた。西 原 は勝 負 法 を基 盤 とし
最 後 に、本 研 究 で得 られた知 見 をまとめるとと
た柔 道 の稽 古 こそが「柔 道 本 来 の面 目 」に適 うの
もに、今 後 の研 究 上 の諸 課 題 について述 べたい。
15
スポーツ科学研究, 12, 1-18, 2015 年
本 研 究 では、まず明 治 期 を中 心 に二 高 柔 道 部 の
論 がどのように解 釈 されて普 及 していったのかを
特 性 を講 道 館 の諸 制 度 及 び嘉 納 の柔 道 論 との
検討することが柔道の普及の過程を明らかにする
比 較 から明 らかにした。明 治 30(1897)年 までに
上で課題になるだろう。
二 高 柔 道 部 の特 性 である柔 術 家 との交 流 、心 法
本 研 究 では当 該 時 期 を検 討 する上 で当 然 考
及 び忠 君 愛 国 的 な武 道 論 の登 場 、勝 負 規 則 及
慮 すべき日 清 ・日 露 戦 争 の影 響 について議 論 で
び修業規則が成立した。
きなかった。また、他 の旧 制 高 校 の検 討 も残 され
ている。今後、稿を改めて論じたい。
勝 負 規 則 は現 在 明 らかにされている柔 道 の審
判規定の成立時期(明治 32(1899)年)から 6 年
遡る最古のものであった。それは講道館の制定す
【付記】
る審 判 規 定 とは異 なる審 判 規 定 に基 づいて柔 道
本研究は、科学研究費補助金(若手研究(B),
試 合 が行 われていたことを示 しており、講 道 館 の
研 究 課 題 番 号 :24700669)の助 成 を得 て行 われ
審 判 規 定 が日 本 各 地 に普 及 する際 にこうしたロ
た研究の成果の一部である。
ーカルな審 判 規 定 とどう折 り合 いをつけていった
のかを解 明 することは今 後 の課 題 となるだろう。ま
【本文注】
た修業規 則 にみられる独自の階級 制の存 在は講
1)本 研 究 において嘉 納 の柔 道 論 として想 定 して
道 館 とは異 なる昇 級 制 度 が実 施 されていたことを
いるのは嘉 納 が明 治 22(1889)年 に行 った講 演
示 しており、講 道 館 の段 級 制 はこうした地 域 にお
「柔 道 一 班 並 其 の教 育 上 の価 値 」で提 唱 した体
けるローカルな制度とどう関係し合って適用される
育法、勝負法、修心法の 3 つの目的である。この
ようになったのかも今後、課題となるだろう。
3 つの目 的 の内 実 について詳 しくは寒 川 (1994)
二高柔道部 の特性は明治 30(1897)年から明
を参照のこと。精力善 用・自他共栄も嘉納の柔道
治 36(1903)年 の間 、徐 々に競 技 化 が進 むなか
論 であるが、これらが嘉 納 の柔 道 論 として確 立 す
で、柔 術 家 との交 流 も希 薄 になり、伝 統 的 な柔 術
るのは大正 3(1914)年以 後 のことであるため、本
との連 続 性 を示 す勝 負 法 や心 法 は後 退 し、形 の
研究では取り上げなかった。
「儀式」化が進んだ。また、競技化のなかで重視さ
れたのは「及 び腰 」「頑 張 り腰 」など試 合 に特 化 さ
2)史 料 上 の表 記 は撃 剣 、剣 術 、剣 道 や柔 道 、柔
れた防御姿勢であった。
術 など定 まらないが、本 研 究 が用 いる用 語 として
しかし、明 治 44(1911)年 以 降 、西 原 の努 力 で
は武芸 部規 約に従い、「撃剣」、「柔 道」で統 一 す
再 び勝 負 法 の稽 古 が行 われるようになり、二 高 柔
る。また、柔 道 部 という「部 」の成 立 については明
道 部 は勝 負 法 を学 ぶために講 道 館 へ出 稽 古 に
記 されず不 明 な点 が多 い。表 記 としては明 治 27
行 くようにな った。また西 原 によって試 合 は勝 負
(1894)年 2 月の『尚志会雑誌』第四号で「吾が尚
法 の観 点 から存 在 意 義 を肯 定 された。それは勝
志 会 柔 道 部 の起 る蓋 し偶 然 にあらざるなり。柔 道
負 法 の観 点 からは嘉 納 の柔 道 論 に適 う稽 古 への
部 は尚 武 会 の後 を受 け設 立 以 来 日 尚 ほ浅 し」
回 帰 であった。一 方 で西 原 は嘉 納 が柔 術 から柔
(YJ,1894,pp.47-48)と記 されているのが管 見 の
道 を創 出 するにあたって捨 象 した心 法 論 に極 め
て近 い心 の在 り様 を重 視 し、さらに「体 育 」として
限り初めてである。また、明治 26(1893)年 10 月
..
の『尚 志 会 雑 誌 』第 二 号 には「武 芸 部 各 部 委 員 」
行う柔道を勝負法に比して軽視するといった側面
(尚 志 会 ,1893d,p.53)という表 記 が登 場 するた
も窺 えた。西 原 は嘉 納 の柔 道 論 に拘 束 されること
め、これらを総 合 すれば 、武 芸 部 の 下 部 に柔 道
なく、自身の柔道論を形成していたのである。この
部が成立していたと考えるのが妥当であろう。
西原の柔道論や西郷の武道論の出現から、嘉納
の柔道論が実際どれほど門人を感化したのか、ま
3)源(1989)によれば、心法とは攻防の際の「われ
たその影響力の範囲はどれほどのものだったのか
われの現にある心 の状 態をあるべき状態へと高 め
が課 題 として浮 上 するだろう。さらに嘉 納 の柔 道
16
スポーツ科学研究, 12, 1-18, 2015 年
深 めてゆくことをめざして心 の修 練 をすること」(源 ,
7)但 し、大 会 回 数 を考 慮 すれば、当 大 会 もまた
1989,165)である。本研究 ではあるべき心 の状態
市内大会とは異なる大会と考えられる。
について心法と呼ぶ。
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誌 』には「盛 なのか盛 でないのか一 向 分 からない
のが柔 道 部 と撃 剣 部 だ…けれども若 し僕 は両 部
. ................ ....
に級 制を作 ったならば、も少し熱心 に真 面目 にや
..... ... ... . ........
るものが出 来 て 剛 者 も輩 出 するだろうと思 う [傍 点 、
筆 者 ]」(野 次 馬 の一 人 ,1905,p.114)という提 案
が掲 載 された。この提 案 をうけて六 高 柔 道 部 は同
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