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詳細・1/5 - 愛知教育大学
本学に残る戦前建築物の耐震・材質の評価と 活用方策に関する研究 平成 18 年度 大学教育研究重点配分経費 No.7 研究成果報告書 平成 19 年3月 研究代表 小 川 正 光 (愛知教育大学・家政教育講座・教授) はじめに 本研究は、2006(平成 18)年度に、本学の学長裁量経費である大学研究重点配分経 費を受けて実施した「本学に残る戦前建築物の耐震・材料の評価と活用方策に関する 研究」の成果を、とりまとめたものである。2002(平成 14)年度には、同じ旧・「武 1) 道場」を対象に、その歴史的な経緯と価値について調査研究し 、この建築物が本学 の師範学校以降の歴史が刻まれたものであるばかりか、わが国の鉄筋コンクリート造 建築の初期の事例としても重要なものであることを明らかにした。この成果をふまえ、 本年度には、使用材料の時間的な変質と、耐震強度の側面からの検討を行い、今後の 保存と活用に向けた基礎資料を形成することを目的とした。 調査研究の結果、本建築物の躯体部分には大きなひび割れは少なく、コンクリート などの材質についても、柱の深い部分までは組成の変化は進行しておらず、柱の配筋 にも錆がほとんど見られず、健全な状態を保っているというように、当初からの材質 を、比較的よく維持しているという結果が得られた。また、構造的にも、柱の強度や 連結性に問題はあるものの、立地する地盤にも恵まれ、補強により必要とされる耐震 性の水準を確保できることが分かった。竣工が約 80 年前ということから考えると、強 固な建築物であると評価される。検討結果からは、簡単な耐震補強をすることで、活 用することは充分可能と判断された。類似した建築物において、小規模な補強改修を することにより、継続的に使用している事例もあることから、実際に活用する際には、 さらに安全性を高めるために慎重な判断をすることも求められるであろう。 今後は、このような検討をもとに、本学ばかりでなく、地域にとっても記念碑的な、 この建築物を、改修して活用する検討が必要とされる。保存を行っていく上での登録・ 補助金の制度を活用し、大切と考える人々の総意により改修され、有効に活用される ことを通じて、本学と地域の研究、教育、文化の貢献することを、この旧・「武道場」 も望んでいる。 2007 年3月 小川 1 正光 研究組織 研究代表者:小川正光(創造科学系家政教育講座) 研究分担者:藤江 充(附属学校部長) 同 上 :稲毛正彦(自然科学系理科教育講座) 同 上 :宇納一公(創造科学系美術教育講座) 同 上 :橘田紘洋(創造科学系技術教育講座) 同 上 :樋口一成(創造科学系美術教育講座) 同 上 :櫻井敏雅(財務部施設課企画係) 本学の研究組織は以上のようであるが、建築構造、歴史領域の専門的な学識、技術 を必要とする研究課題であるため、以下のような、学外からの協力を受けて実施した。 現地の調査は、日本診断設計株式会社 長谷川哲也、本多千絵美両氏に、構造計算 は、豊橋技術科学大学建設工学系大学院・加藤研究室 樋口直也、平野健太両氏に委 託して実施した。 また、豊橋技術科学大学加藤史郎教授、三重大学工学部畑中重光教授には、構造学 の側面から、本研究を実施する上での有益なご指導をいただいた。 なお、第2章で用いている実測図は、社)日本建築家協会東海支部愛知地域保存研 究会(代表:北野哲明)に依頼して作成したものである。 以上の、本研究を実施する上での協力をいただいた方々、調査実施を行う上でご協 力いただいた附属養護学校の方々をはじめ、資料を提供していただいた方々に、心か らの感謝を申し上げます。 研究経費 909,138 円(内 840,000 円を、大学教育研究重点配分経費により実施した。) 2 目次 はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1.研究の目的と方法 1.1 本研究の目的 1.2 研究の方法 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1 5 5 6 2.「武道場」(現・本学附属養護学校「作業実習棟」)の概要 2.1 本学と「武道場」の歴史的概要 2.2 「武道場」の建築的特徴 ・・・・・・・ 8 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 25 8 10 3.同時代に建設された学校建築物の現況 3.1 半田高校「武道場」(現・「卓球場」) 3.2 西尾高校「武道場」 29 3.3 碧南高校「武道場」 43 3.4 津島高校「講堂」 25 55 4.本学附属養護学校「武道場」の構造部材・材質の調査 4.1 コンクリート圧縮強度試験および中性化試験 4.2 はつり、配筋および中性化域試験 4.3 その他目視による劣化調査 当該建築物の概要 5.2 当該建築物の重量算定 60 61 94 129 5.本学附属養護学校「武道場」の耐震診断 5.1 ・・・・・・・・・ 141 142 3 ・・・・・・・・・・・・・・・ 141 5.3 現地調査結果をもとにした鉛直部材断面推定 5.4 鉛直部材の終局強度算定 5.5 耐震診断 5.6 基礎の転倒危険性についての考察 5.7 まとめと今後の検討 164 189 註 208 216 6.歴史的建築物の修復・活用事例と方策 ・・・・・・・・・・・・・・・ 6.1 亀城小学校(現・刈谷市郷土資料館) 6.2 奈良教育大学「教育資料館」 6.3 「登録有形文化財」制度の検討 7.まとめ 157 220 220 222 226 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 228 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 231 参考文献 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4 233 1.研究の目的と方法 1.1 本研究の目的 今日の大学において、研究・教育を行うのに望ましい環境を整備することは重要な 課題のひとつである。効率的で利便性の高い環境や、自然に恵まれ、リサイクルを考 慮した環境を整備することも重要であるが、歴史的な環境の中で生活することも、落 ち着いて深い思考を養う環境としては重要である。この点から、多くの大学では、創 立当初からの建築を残し、実社会からは距離を置いた環境の中で、歴史の長い過程の 中で生き残る論理を思考することを追求している。子どもが育つ環境としても、歴史 的な環境は、長期的に思考する能力を養うことが可能となるため、馴染みがある落ち 着いた環境は望ましいはずである。 本学の刈谷市に立地するキャンパスは、1970(昭和 45)年に統合によって形成され た新しいものであるが、岡崎市の師範学校を前身とする敷地内には、大正期に建てら れた旧・ 「武道場」が唯一残り、当時の様式により、落ち着いた、モダンな雰囲気を校 内に示している。これを見るだけで、本学の歴史性と伝統が感じられる建築である。 他に歴史的な建築を残していない本学にとって、貴重で、重要な歴史的建築である。 この旧・ 「武道場」について、①本学の歴史の中における位置付けと、②建物の実態 については、文献の検索・調査、当時学生だった卒業生に対する聞き取り調査と、建 2) 物の実測を行って図面を作成することにより、2002 年度に、すでに明らかにした 。 その結果、建築的な側面からは、高等教育を受けた、わが国最初の建築家たちが設計 した、最初期の鉄筋コンクリート造で、屋根は木材と鋼材を組み合わせた特徴ある建 築であることが明らかになった。また、本学の歴史的側面からも、戦時中の空襲に対 しても寮生の消火活動により残された建物であり、附属中学校、附属小学校、附属養 護学校が使用してきているため、各校の歴史の中に登場するかけがえのない建築であ ることが分かった。 5 このような重要な建築物を、改修・保存し、日常的に活用することは重要であるが、 竣工後約 80 年を経過していることと、当時必要とされた強度と今日のそれとが変化し ているため、耐震性などの構造の側面から検討する必要性が指摘された。したがって、 本年度は、建物の強度を確保し、改修・保存するという視点から、以下の4つの課題 を設定し、検討することを目的とした。 第1は、同様な時期に建築された、類似した建築物にはどのようなものがあり、現 在、どのような改修や保存がなされているのか、という実態の把握である。 第2は、構造的な側面からの検討である。コンクリートの中性化の進行、使われた 鉄筋の太さと配筋の状況、各部材を組み合わせている方法、等を、現地において調査 し、把握する課題である。 第3は、建物の荷重、部材の構成から耐力を計算し、地震に対する安全性を検討す る課題である。 第4は、耐震性が確保されていることが確認された建築物を、今後、改修・活用し ていく方策を検討する課題である。 1.2 研究の方法 第1の課題については、同一設計組織による建築物を対象に、現地において調査し、 図面などの資料と、実態を、写真撮影により採取した。改修過程や現在の活用状況に ついても、各学校に対する聞き取りを行った。また、耐震補強を行っている事例につ いては、補強・改修を実施した愛知県建設部建築担当局公共建築課から、計画図面、 耐震判定などの資料を収集し、補強・改善内容も把握した。 第2の課題に対しては、建物の壁面から一部の試料を採取し、組成の変化や強度を 測定して実施した。配筋の状況は、外部から高周波を当てることにより分析した。ま た、各部材の寸法・構成を、実際に、部材が取り付けられている位置にまで昇って計 測した。これらは専門的な分析、技術を必要とする内容であるため、この分野の経験 が豊富な日本診断設計株式会社に委託して実施した。 第3の課題については、各部材を構成する重量を計算し、各柱が、それらを支えら れるか否かを構造計算することにより判定した。計算と判定は、この領域の専門であ る豊橋技術科学大学建設工学系加藤史郎教授の指導により、同研究室の大学院生に依 頼した。 6 第4の課題については、古くからの建築物を改修・更新し、他の用途に転用して活 用している事例を調査し、改修工事や現在の使用実態を把握した。また、改修して、 活用しながら建物を保存する「登録有形文化財」の制度について調査し、この制度を 活用することの有効性と、可能性について検討した。 7 2. 「武道場」 (現・本学附属養護学校「作業実 習棟」)の概要 2.1 本学と「武道場」の歴史的概要 3) 愛知県第二師範学校が設立されたのは、1899(明治 32)年4月であるが、現在の岡 崎市六供の敷地を使うようになったのは、寄宿舎の一部が完成した 1901(明治 34)年 からである。1903(明治 36)年には同師範学校の校舎が完成し、その後も、講堂、各 種特別教室を建設して充実させている。 1923(大正 12)年には、愛知県岡崎師範学校と改称されている。この「武道場」の 建築時期は 1926(大正 15)年2月で、剣道場として使用されていた。当時の師範学校 における校舎の配置をみると(図2−1)、敷地の東側に寄宿舎が4棟東西軸で南から 北に並行配置され、中央の南に師範学校の校舎が、南西の位置に附属小学校の校舎が 配置され、師範学校と附属小学校の北が運動場として利用され、 「武道場」は、運動場 の東端に、南北軸に配置された。 図2−1 愛知県岡崎師範学校の校舎の構成 8 4) 写真2−1 写真2−2 戦災前の全景(1930 年 3 月) 5) 附属岡崎中学校当時の「武道場」と卒業生の思い出 6) 1943(昭和 18)年に愛知県から国に移管され、愛知第二師範学校に改められる。本 土空襲は 44(昭和 19)年から始まっているが、45(昭和 20)年の岡崎市空襲により 師範学校のほとんどの校舎は焼失した。この「武道場」は、寮生の必死の消火活動に より残すことができた唯一の師範学校当時からの建物になった(写真2−1)。 1947(昭和 22)年、附属中学校は、この「武道場」内を教室に仕切って開校してい る(写真2−2)。附属中学校が愛宕山へ移転した後は(1951(昭和 26)年)、附属小 9 写真2−3 南よりみた西側内部 写真2−4 南よりみた東側内部 学校の集会場として使用され、附属養護学校が開校した1967(昭和42)年には「雨天体操場」として附 属養護学校に整理換えされ、現在に至っている。 附属養護学校では、記念式典、行事などに講堂として使われ、舞台、暗幕等も徐々に整備されていっ た。現在は、 「作業実習棟」として、作業訓練の実習を行う場に南半分を使用し、北半分は学芸会で使う 大道具を収納する場として活用されている(写真2−3,2−4) 。 以上で検討したように、次の3 つの点から、この建築物は、本学にとっては重要なものと考えられる。 第1 に、本学に残る最も古い、大正期に建てられたものという点である。 第2に、本学の前身である師範学校当時から残る唯一の建築で、学生の努力により空襲を生き延びた ものであり、その後、附属中学校、小学校、養護学校の校舎として使われたように、本学を構成する各 学校組織と深い関係にある点である。 第3に、卒業生にとっては、思い出深い校舎になっている点である。特に終戦直後に在学した卒業生 にとっては印象深い建物になっているようである。また、市民にも、特徴ある大屋根を懐かしく眺めて いるという人は多い。 2.2 「武道場」の建築的特徴 設計は、建築時の所管であった愛知県の営繕課と考えられる。同時期に建築された県内の旧制中学校 の校舎と類似した鉄筋コンクリート造建築である。公共建築に鉄筋コンクリート造を採用するようにな ったのは、関東大震災後であることから、わが国 でも最初期の鉄筋コンクリート造である。慣れない構造体であることから、慎重な設 計で、後の鉄筋コンクリート造と比べても、高い強度を確保しているのが当時のコンクリート造建築の 一般的特徴である。 10 写真2−5 写真2−7 写真2−9 南側立面 北東方向の外観 屋内トラスと壁面量の 少ない南側妻面 11 写真2−6 北西方向の外観 写真2−8 屋内トラス構造 写真2−10 屋内トラスと東側 壁面両端部の結合 写真2−11 屋内トラスと東側壁面 中央部の結合 写真2−13 柱頭にみられる装飾 写真2−15 壁面支柱の装飾 写真2−12 トラスを結合する金物 写真2−14 西側入口部分 写真2−16 12 通風口の装飾 写真2−17 南口入口にみられる屋根の形跡 写真2−18 腐食した木部 躯体は鉄筋コンクリート造で(写真2−5∼2−7) 、屋根の骨組みは、木造と鋼材を組み合わせ た、非常に珍しい構造になっている(写真2−8∼2−12) 。特に、屋根を混構造にするものは少な い。 壁は厚く、レンガ造の壁をコンクリートに置き換えたことを感じさせる。壁には柱を付け、柱頭 には直線で簡略化した装飾を配置している(写真2−13) 。木製の支柱や通風口の蓋にもみられる斜 線を多用した装飾は(写真2−14∼2−16) 、アール・デコ様式と判断され、全体の構成と調和して いる。 小屋組は、圧縮部分に木材を、引っ張り部分に鋼材をと組み合わせ、接合部には特別の金具とボ ルトを使って構成する方法は、見事で、他に例は少ない(写真2−8) 。鋼材の組み合わせは、軽や かな感じを屋根裏に与えている。木部の構成には、和風の木組みを感じさせる意匠も見られる(写 真2−9) 。 屋根は、現在は亜鉛鉄板葺きであるが、当初の写真から判断すると、庇部分も含めて、瓦葺きで あった(写真2−17) 。 壁の躯体は鉄筋コンクリート、外部はモルタル塗り、内部は漆喰塗りで仕上げ、木部には黄緑の ペンキ仕上げがなされている。外部でも、当初のペンキが残るように、保存状況はきわめて良く、 壁面の破損も少ない。ただ、屋根からは雨漏りが進行して小屋組に腐食がみられるようになってき ているので、早急な補修が必要である(写真2−18) 。 7) 図2−3∼2−11 に現状を示し、図2−12、2−13 に、屋根を瓦葺きに復元した図を示す 。 以上のように、本建築は、わが国における鉄筋コンクリート造の最初期の事例であり、屋根の小 屋組が木材と鉄骨材を混合させた特殊な構成で、アール・デコの洋風様式と和風の様式による装飾 を配置している点からも、貴重な建築事例と判断される。 13 図2−3 14 平面図 図2−4 西 立面図 15 図2−5 東 立面図 16 図2−6 南 立面図 17 図2−7 北 立面図 18 図2−8 西 内部展開図 19 図2−9 東 内部展開図 20 図2−10 南 内部展開図 21 図2−11 北 内部展開図 22 図2−12 西 立面図(復元図) 23 図2−13 南 立面図(復元図) 24 3.同時代に建設された類似した学校建築物 の現況 大正期から昭和にかけて建築された旧制中学の校舎の構成は定型化されていた。校 舎の構成は、大きく分けると、教員が使用する管理棟である「本館」、生徒が使用する 「教室棟」と「生徒控所」、 「武道場」、 「講堂」の5つの棟に、 「寄宿舎」が加わってい 8) た。また、それらの配置も定型化していた 。その後、教育内容の変化により建物の 用途が大きく変わった「教室棟」、「本館」は建て替えられていったが、これらから独 立して建てられていた「武道場」と「講堂」の中には取り壊しや建て替えを免れ、今 日、学校の伝統・歴史を物語る建物として現在も残っているものが、いくつか見られ る。 3.1 半田高校「武道場」(現・「卓球場」) 半田高校の前身である県立第七中学校は、1919(大正8)年に開校している。同年 1月に起工し、翌 1920(大正9)年に教室棟2棟が竣工し、引き続き、「本館」、「講 堂」(写真3−1)、「生徒控室兼体操場」、「寄宿舎」などが完成し、1924(大正 13) 年3月に新校舎落成式を行っている。設計は、愛知県営繕課の足立武郎技師とされて いる。図3−1には、 「武道場」は示されておらず、建築前の時期である。この後、 「特 別教室」の東側に建築されることになる。 現在の半田高校の敷地内では(図3−2)、校舎の東側、北側の奥に、東側の運動場 に面して南北軸に立地する。昭和の後期までは、 「武道場」として、柔剣道を行う場と して使用されていた(写真3−2,3−3)。 その後、運動場の南東の位置に新しい「武道場」が建築されたため、 「卓球場」とし て使われることになった。実際に卓球を行う場として使用していたが、現状では、同 校の歴史的な資料を展示した「資料室」として北半分を使用し(写真3−4)、南側半 25 図3−1 半田中学校後者の配置図 (1920∼24 年) 写真3−1 9) ※「武道場」は「卓球場」とされている。 図3−2 取り壊し前の「講堂」 写真3−2 「武道場」西立面 写真3−3 南立面 現在の半田高校校舎の 配置図 分を「会議室」として使用している(写真3−5)。資料は、陳列棚に入れられている が、配置の密度は高く、現在は未整備な状況にある。それは、正門と校舎の間の西側 にあった「同窓会館」を建て替えるため、現在取り壊した段階で、同館内の資料をこ こに一時的に運び込んでいるためである。会議用の机・椅子の間隔も狭く、現状では 使えないため、 「同窓会館」が完成するまでは鍵を掛けたままになっている。窓にはカ ーテンが掛かり、内部は薄暗い。 26 写真3−4 同窓会の未整理状況の資料 写真3−6 引き戸に変更された 写真3−5 屋内から西側入口をみる 写真3−7 東側入口 吊り下げ扉 西側正面入り口には「七中記念館」という表札が下がっている。この建物は、卒業 生にとっては懐かしいものであるため、歴史的物品とともに、建物も残していくこと を決めている。 建物の出入り口は、東西2箇所にあるが、正面は西側である(写真3−2)。西側 入り口には、風を避け、上下足を替える付属の場が付けられるため、屋内まで二重に 両開きの大きな扉が設けられている。運動場に面した東側の扉は一重である。屋内側 の東西の扉は、現在は敷居に載るものに改造されている。かつては、上から吊り下げ る構造で、開閉を容易にしていた(写真3−6)。東側の扉は使われることなく、板で 閉じられていた時期もあったという。東側入り口の階段はモルタルで、かつての花崗 岩の階段は消失している。庇も新しく修復されたものである(写真3−7)。 壁面までが鉄筋コンクリート造で、壁は厚く、基礎から一体的に建ち上がっている。 一部の柱には付け柱が付き、柱頭部には簡略した装飾が施されている(写真3−3)。 27 写真3−8 雨樋が柱を通っていた 写真3−9 天井を支える付け柱 ことを示す金具 写真3−10 天井隅の換気口 コンクリート部のひび割れは少なく、構造としては強固であることがうかがえる。基 礎には、床下の換気口が適宜配置されているが、その換気口の蓋は簡単な金網で、後 に取り替えられたものではないかと推測される。 屋根は木造である。屋根は寄せ棟で、瓦は、東側入り口上部の庇などが一部変更さ れているものの、竣工時からのものが残されている。雨樋は、付け柱の中を通るもの になっていた(写真3−8) 屋内には天井が張られて屋根構造は見えないが、トラスを形成すると思われる斜め の材が天井から出てきている(写真3−9)。隅の部分には、空気孔が設けられている (写真3−10)。雨漏りの後は見られず、瓦屋根の施工は有効だったと考えられる。窓 28 枠も、竣工当時のまま、木製のものが残っている。床板は、新しい木製フローリング に張り替えられている。 建物としての基本的な構造・部材は、多くが残っていることから、強固なものであ ることがわかる。修復している部分には、竣工当時の形態を忠実に踏襲しているとは いえない部分もあるが、屋根瓦や窓枠も、当時のまま残している貴重な建築物で、同 校関係者と同窓会では、改修と活用を強く望んでいる。 3.2 西尾高校「武道場」 本学附属養護学校の「武道場」より後で建築されている。ほぼ同じ規模で、壁は鉄 筋コンクリート造、屋根は木材と鉄のトラス構造という構成も同一で、本学の「武道 場」を位置付ける上で、最も着目される建物である。しかも、西尾高校の「武道場」 は、昭和後期に改造され、今回、耐震補強を中心とした改修も行っているので、その 整備内容から学ぶことは大きい。 旧制西尾高校は、1926(大正 15)年4月に設置されている。1927(昭和2)年に、 東西軸で並行して配置された「教室棟」と、それらに繋がる「生徒控室」が完成し、 1929(昭和4)年に、北側の「教室棟」、「武道場」が、南側の「本館」が 1930(昭和 5)年に、その西側に繋がった「講堂」が 1933(昭和8)年に竣工している(図3− 3)。敷地の東側に運動場を、西半分に校舎を配置する方法や、校舎の構成と配置は、 半田高校とほぼ同様である。現在、当時の建築物は、 「正門」、 「本館」の一部になる「車 寄せ」部分、「武道場」が残されている(図3−4)。 残されている「車寄せ」部分をみると(写真3−11)、入口はアーチ状になり、上部 中央には装飾が取り付けられている。コーナーの柱状の部分も、上部に装飾が付き、 図3−3 西尾中学校校舎の配置図 10) 図3−4 29 現在の西尾高校校舎の配置図 全体としてまとまった印象を与えている。 現在も「武道場」は、西側半分を柔道場、東側半分を剣道場として使用している。 特に剣道は盛んな地域で、強いということである。また、体育館を使う全学的集会に ならない規模の、学年集会に、年 3 回ほど使用されている。 写真3−11 「本館」の「車寄せ」部分 写真3−13 北側の立面 写真3−15 改修中の屋内西面 写真3−12 「武道館」南側 写真3−14 写真3−16 30 改修中の東面 トラスを結合する金具 写真3−17 トラスを引っ張るディテール 写真3−18 下部断面を増やした 北側中央の柱 竣工当時、この「武道場」は、南側中央に正面の入口部分が張り出し、その入口部 分の東西両方から出入りできるようになっていた(写真3−12)。北側にも出入り口は あったが、外部に庇が付いているだけである(写真3−13)。 壁の躯体は鉄筋コンクリート造で、基礎と一体になっている。その上に、木材と鉄 を組み合わせたトラス構造の小屋組が載り、屋根は瓦で葺かれている。圧縮力がかか る上部に木材を使い、引っ張り力がかかるトラス下側に鉄のパイプやブレースを用い る小屋組は独自で、天井が張られていない上部は、軽やかな印象を与える(写真3− 14、3−15)。このような小屋組は、附属養護学校の「武道場」と同様である。木質部 分と鋼材とを繋ぐ金具やボルトの数も同様である(写真3−16、3−17)。ただ、桁行 き方向において、外側の列の水平面に入っているブレースは、附属養護学校の場合に はクロスしているのに対し、西尾高校の場合には一方だけという差がみられる(写真 3−18)。屋根の小屋組を壁体に取り付ける構造も、同様である(写真3−19)。 写真3−19 トラスを支える付け柱と 写真3−20 妻面に付設した水平ビーム 31 東立面 写真3−21 西立面 写真3−22 換気口の装飾 壁体の外部をみると、壁に柱が付けられている。柱の頭部には様式的な装飾が付い ている。また、壁面にも水平方向に走る装飾が施されている。附属養護学校の場合に は壁面の装飾はないため、西尾高校の方が華麗に感じる(写真3−20)。雨樋も、附属 養護学校の場合と同様に、柱の中に隠すように工夫され、すっきりした印象を与える (写真3−13)。庇部分も、鉄筋コンクリート造で、躯体と一体的に造られている。注 目されるのは、東側の妻面には窓、柱が付けられているが(写真3−20)、西側にはな く(写真3−21)、壁だけということである。これは、西側妻面には渡り廊下が付いて いたことと関連すると考えられるが、壁だけであるため、構造的には脆弱になってい る。床下の換気口にも、上部にカバーのような装飾がみられるが、金網には、装飾は みられない(写真3−22)。 写真3−23 ベタ基礎と柱の 打ち増し部分 写真3−24 32 南側更衣室の柱の 打ち増し部分 校舎が徐々に鉄筋コンクリート化したり、規模を増すために建て替えられるという 変化が現れたのは、1973(昭和 48)年以降である。西尾高校の「本館」も、1978(昭 和 53)年9月に取り壊されている。 1982(昭和 57)年 10 月に、 「武道場」西側の渡り廊下と昇降口が撤去され、翌 1983 (昭和 58)年1月までの間、「武道場」の改修が行われた。南の正面入口部分を壁で 閉じて東西を半分の規模の2室に分け(写真3−12)、道場から出入りする更衣室とし、 北側入口も含め、扉を鉄製のものに変更している(写真3−18)。床を張り替え、基礎 をベタ基礎に補強している(写真3−23)。瓦も葺き替え、木製の枠を付け加えてアル ミサッシに変更している。この時に、西側の南の部分に出入口が設けられているが、 これも付設されたのではないかと考えられる。 この改修時に作成された図面には、建物の亀裂などの破損状況が記録されているが、 西壁面での亀裂、モルタルの浮きが多い結果となっている(図3−5)。しかし、全体 に破損箇所は少なく、矢作川の南側に立地するにもかかわらず、東南海地震(1944(昭 和 19)年)、三河地震(1945(昭和 20)年)でも大きな損壊はなかったということか ら、強度の高い建築物であることが推測される。 西尾高校のすべての校舎を対象に、1985(平成7)年から 2001(平成 13)年にか けて、県による強度調査が実施され、耐震補強、改修工事の計画が策定されるように なる。「武道場」の耐震診断は 2006(平成8)年に実施され、その結果は以下のよう であった。 南と北の立面についてみると、断面が小さい壁柱において構造耐震指標値(Is値) が 0.6 前後になっているものの、力は余裕のある他の柱に流れるため、全体で構造耐 震指標値を満たすと判断された。しかし、現状では、天井面の水平ブレース断面不足 とアンカーボルトの断面が不足するため力が流れないこともあり、危険性も指摘され ている。桁行き方向についてみると、西側の壁における構造耐震指標値は低くなって いた。しかし、どちらの妻面でも、水平方向に力を伝えられるようにすれば、両方向 とも必要とされる構造耐震指標値を満たすことが可能、と判断されている 11) 。 この耐震診断結果を受け、2005(平成 17)年に、愛知県は耐震改修計画を作成し、 評定を受けている。改修計画内容は、竣工当時からの外観を変えないことを条件とし、 診断で指摘された点を改善するため、南北面中央の柱1本ずつを打増補強して断面積 を増やし(図3−6∼3−8)、妻面の水平力を端部の柱に伝えるため、東西両方の妻 33 ※)点線の部分は、破損が発生していることを示す。 図3−5 壁面の破損状況 12) 面内側に鉄骨の梁を付設するというものである(図3−9∼3−13) 。 以上のような評定と改修の計画を各建物ごとに作成し、2003(平成 15)年の「体育 館」から、順次、耐震補強・改修工事を実施した。2004(平成 16)年から翌 05(平成 17)年にかけて「教室棟」を実施し、2006(昭和 18)年に「本館」と「武道場」の改 修を行っている。 「武道場」の耐震・改修工事は、9月から翌年の2月にかけて行われた。評定を受 けて妥当なものと認定された方針に基づき、北と南の壁面について、それぞれの中央 の柱を、外観や使い勝手を損なわないように太くし(写真3−18、3−24)、東西の壁 面については、内側に鉄骨の梁を付設し剛性を高め、南北面に力が伝達されるように している(写真3−18、3−24)。内装については、木部や鉄製のブレース、金具など を塗り直したくらいで、大きな改修は行っていない。外壁についても、モルタルを補 修し、塗装を塗り直しているだけで、瓦は替えていない。以上に要した工事費の総額 は、1,510 万円であった。 耐震工事内容についてみると、柱は太くなっているものの、北側は屋内側に、南は 34 更衣室側に打増しているため目立たない。また、妻面に付けられた鉄骨は灰色に塗ら れている。もともと小屋組の中に鉄鋼が使用されていたために、小屋組の一部として とけ込んでいると感じられる。無骨な感は否めないため、このような後で付加する部 材は、可能な限り小さくすることが望まれる。 図3−6 改修前の平面図 35 図3−7 改修後の平面図 36 図3−8 改修前の断面図 37 図3−9 改修前のトラス面 38 ※)東西の妻面に水平ブレースが付設されている。 図3−10 改修後のトラス面 39 図3−11 改修前の展開図 40 ※)妻面の水平ブレース付設と、南北面の中央の柱の断面増加を示す。 図3−12 改修後の展開図 41 図3−13 付設した妻面水平ブレースと柱の打ち増しのディテール 42 3.3 碧南高校「武道場」 碧南高校の「武道場」は 1928(昭和3)年に建築されているが、木造・土壁の構造 で、2006(平成 18)年2月に耐震補強等の工事が終わっている。他の県立高校の「武 道場」が鉄筋コンクリート造であるのと異なる理由は、学校の沿革にある。県立旧制 中学の建築は、設置主体である愛知県営繕課で設計し、定型化したコンクリート造で 建設したが、現・碧南高校の母体である 1926(大正 15)年開校の碧南国民学校は、地 域の4町村の組合立で、県の営繕課は関与していなかったことによる。建築時には、 4町村が共同して、地域の業者に依頼して設計・施工したので、彼らにとって技術的 蓄積があった木造にしたと考えられる。その後、県に移管されたのは、1937(昭和 12) 13) 年県立碧南商業学校としてであった(写真3−25 )。 現在の配置図を、図3−14 に示す。 図3−14 写真3−25 碧南高校校舎の配置図 碧南国民学校当時の「武道場」 43 「武道場」は木造・土壁造で、竣工当時には、南側妻面に入口となる小屋が、北側に収納と神棚が 付属していた(図3−15∼3−19) 。南側が正面という位置付けで、南と東にも出入口が設けられてい た。また、桁面の、東側には吹きさらしの廊下が付き、西側の袖壁とともに柱が外側に倒れるのを支 えていた。大屋根は寄せ棟、南北の付属屋部分は切り妻屋根で、すべて瓦で葺かれていた。全体は、 和風の雰囲気であるが(写真3−26、3−27) 、南正面の付属や部分には、軒下部分などに洋風の装飾 がみられる(写真3−28) 。屋内の天井は、立派な格天井であり(写真3−29、3−30) 、隅には文様 状に空けられた通風口が設けられている(写真3−31) 。 写真3−26 写真3−28 東側立面 南側付属部分の軒 写真3−30 屋内南側 写真3−27 南西上方より 写真3−29 屋内北側 写真3−31 44 天井隅の装飾 図3−15 改修前の平面図 45 図3−16 改修前の立面図 46 東(上),西(下) 図3―17 改修前の立面図 47 南(上),北(下) 図3−18 改修前の屋内の展開図 北(上左),南(上右),東(中),西(下) 48 図3−19 改修前の天井伏図 49 その後、南の入口部分は屋内から入る部室とされ、他にも同様な部室が、南西部と 北西部分に増築されていた(図3―15)。建物の老朽もみられ、基礎の土台が腐り、シ ロアリが発生する状態になっていた。内壁東側の漆喰にも破損が多く(図3―18)、南 側の天井も破損が大きかった(図3―19)。増築した部室も傷んでおり、雨漏りもみら れていた。伊勢湾台風の時には、南西角の屋根が破損したというが、他の瓦は無事で、 竣工時からの瓦は替えられていない。 現在、この建物は、体育の授業や部活動で、南半分を柔道に、北半分を卓球に使用 している(写真3―29、3−30)。剣道は取り上げていない。かつては式典にも使用し ていたと思えるが、1965(昭和 40)年に「体育館」が完成してからは、ここは使用さ れていない。 数年前、県から取り壊すという通知があったが、同窓会などで話すと反対が多かっ たため、県に働きかけ、耐震等の改善を行って活用することを認めてもらったという 経緯がある。改善に要した費用は県費でまかない、同窓会からは出していない。工事 費は、数千万円かかっているが、新築するより安くすむという結果が得られたことか ら、改修で実施された。 耐震改修工事では、荷重を支える柱の断面積を増やすため、①外部に鉄骨のブレー スを立てる(図3―20)、②内部に鉄骨の柱を立てる(図3−21)、③外部に木造の袖 壁を付け、内部に添柱を付ける(図3−22)、の3案を検討し 14) 、学校側として屋内 外の変化が少ない③の木造による方法を選択した。工事は、2005(平成 15)年9月か ら翌2月までかかっている。 荷重を軽くするために、瓦を軽量なものに替え、屋根の土を落としている。そして、 柱の断面積を増やすため、すべての柱の内側に同程度の太さの柱を添え(図3−23)、 東西の桁面には袖壁を設置して、柱の外側への張り出しを防いでいる(写真3−32)。 渡り廊下にも補強の支えを設置している。土壁も、断熱材を入れたサイディングに変 えられている。屋内は若干狭くなり、壁厚が増えているが(写真3−33)、大きな変化 は感じられない。また、窓サッシをアルミ製に変え、部活動の部屋を除去する等の改 修も実施され、環境が向上している。 県が決めていた、取り壊しの方針を変更させた学校側の熱意は大きい。2006(平成 18)年の 80 周年記念誌の中でも、竣工時の「武道場」が掲載されていることからも、 重要な建築であることがわかる。和風に様式を混在させた昭和初期の、木造の大規模 50 図3−20 改修案① 外側に鉄骨ブレースを付設 51 図3−21 改修案② 屋内に鉄骨ブレースを付設 52 図3−22 改修案③ 木造で外側に袖壁,屋内に添柱を付設 18)年の 80 周年記念誌の中でも、竣工時の「武道場」が掲載されていることからも、 重要な建築であることがわかる。和風に様式を混在させた昭和初期の、木造の大規模 な建築物が残され、活用されるようになった意義は大きい。 53 図3−23 袖壁と添柱の ディテール 写真3−32 添柱により増加した壁厚 写真3−33 54 外側の袖壁 3.4 津島高校「講堂」 半田高校、西尾高校、碧南高校では、「武道場」が現存しているが、津島高校では 「講堂」の方が残されている。また、校門も竣工当時のまま残されているが、これは、 西尾高校の正門と類似したものである。 津島高校の前身である県立第三中学校は、1900(明治 33)年に開設されている。開 設当時の校舎は、木造で、中庭を囲む配置になっていたが、火災により、大部分を消 失されている。 1923(大正 12)年、津島中学としての鉄筋コンクリート造校舎が建築されている。 設計担当は、現在の津島高校に残されている図面から、大中肇と判断される。敷地の 東側に運動場を、西側に校舎を配置していること、校舎を構成する建物の種類や配置 は、他の旧制中学の場合と同様である(図3―24)。現在の配置を、図3−25 に示す。 図3−24 津島中学校校舎配置図 15) 55 図3−25 津島高校校舎配置図 「講堂」は、敷地の南西の隅に、松林の中に建っている。かつては東側の「本館」 と廊下で結合されていたが、現在の「本館」は北側に移動して建て替えられているた め、独立した記念館的な位置付けになっている。現在、正門から「講堂」に至る部分 には庭園が整備され、記念碑も配置されている。卒業生にとって、この「講堂」と周 囲に生い茂る松林が大切なものになっているという。 「講堂」は 16) 、もともとは平屋であるが、天井は高く、2階分の広い空間になってい る。躯体部分は鉄筋コンクリート造で、屋根は木造、瓦葺きになり、天井が張られてい る(図3−26∼3−28)。窓は大きいが、窓を除く壁面全体を、2階まで続く柱としてデ 図3−26 「講堂」平面図 図3−28 「講堂」北立面図 図3−27 「講堂」西立面図(上) , 東立面図(下) 56 ザインし、2階の窓の上端の位置で柱飾りの装飾を設けている。柱、梁、窓といった 識別が容易になされるため、すっきりした外観になっている。軒の部分は、4方とも 中央部分に破風を設け、変化をもたらしている。破風の面には小さな通風口が設けら れているが、破風部分の平面が広く、単調な印象を与える。しかし、三角形の破風を 支える位置に設けた和風と洋風を合わせた装飾は、全体を引き締め、適切なものにな っている(写真3−34、3−35)。雨樋の断面は四角形で、柱の外側に付けられている。 東側の北に寄った入り口が最も大きく、正面を示すと思われる(写真3−34)。 屋根は、新しく瓦で葺き直している。他の南北の入り口は、屋根を支える柱はなく、 銅板で葺かれている(写真3−36)。いずれの入り口の踏み段とも立派な花崗岩で造ら れている。西面には入り口はなく、裏側であることを示している。西面の内壁に設置 された2カ所の柱をみると(写真3−37)、内側に別の柱が設置され、この柱は装飾を 持っていることから、この部分に演壇が配置されていたと判断される。 写真3−34 写真3−36 東立面の入口 写真3−35 入口の庇 写真3−37 57 北立面 西側壁面の柱 窓枠は竣工時からのままで、細かい割付けで、木製である。「三中」という文字が 入ったガラス窓や、迷彩を施したままのガラスが、現在も残っている。 現在、「講堂」は、1993(平成5)年に、西側 1/4 くらいの部分に鉄骨造で2階の 床を張り(写真3−38)、1階を「卓球場」として、2階部分を「同窓会資料展示室」、 その下階を体育道具などを入れる「倉庫」として利用している。 「卓球場」にする前は 「柔道場」として使っていたが、1982(昭和 57)年に、運動場の北側に「武道場」が 建設されたため、卓球を行う専用の場を確保することが可能になった。「卓球場」は、 日中ばかりでなく、定時制の授業でも良く活用されている。この際の改造費は、1,500 ∼2,000 万円かかっているが、同窓会が負担した。 卓球台は、相互に広い間隔をとり、ゆったりと配置されている(写真3−39)。建 物は重厚で、照明がないと暗く感じるが、天井も高いことから、落ち着いて試合・練 習に集中できる環境を形成している。1階奥の「倉庫」には、たくさんの物品が収納 されている。周囲に窓があるため、明るい。西側の壁の2本の柱が太く強調されてい るのが確認される。鉄骨の階段を昇った2階の「同窓会資料展示室」には、家具も配 写真3−38 西側に設けられた「同窓会 写真3−39 資料展示室」へ昇る階段 写真3−40 「同窓会資料展示室」内 58 整然と並べられた卓球台 置され会議室の設えを行っている(写真3−40)。歴史的な写真や出版物などを展示し、 建物の雰囲気とも合致して、同窓会が使用するのには適した場になっている。2階全 体に床を張り、同窓会が使うという話しもあるが、現在の規模で充分と考えられる。 2003(平成 15)年に、1階の床の張り替えを、同窓会が負担して行った。2年前に 雨漏りし、台風の時に瓦が飛ばされるということもあったが、修理・維持費は、大き くかかっていない。 卒業生にとっても懐かしい建築であるため、今後も大切に残していくことにしてい る。2005(平成 17)年に耐震の調査を県が行ったが、その結果は聞いていない、とい うことである。躯体には小規模なひびはみられるものの、大きなものはなく、屋根や 瓦も竣工時のままである。強固な建築で、建築当時の時代的な特徴を保っていること から、改修し、保存・活用していくことが必要と考えられる。 59 4.本学附属養護学校「武道場」の構造部材・ 材質の調査 ここでは、建物の強度を確保する上で重要な躯体のコンクリートの強度、中性化の 進行と使われている鉄筋の寸法、配筋している間隔・状況などについて、現場におけ るサンプルの採取と、はつり作業を行うことにより調査した。また、コンクリート壁 面のひび割れの発生状況やトラスを構成する木材や鋼材の寸法についても、目視と実 測の観察により実態調査を行った。 これらの基礎資料の収集成果により、第5章の耐震診断が可能になるのである。 なお、本章については、執筆したソフトの統一ができなかったため、他の章と同様 なシステムによる図表と写真の番号を付すことができなかった。 60