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中世大和の葬送と墓制
奈良県立同和問題関係史料センター 『研究紀要』第16号(H23.3.22.) ︻特別寄稿︼ 中世大和の葬送と墓制 狭 川 真 一 質も明らか にならない ので、他の地 域の事例も必 要に応 狭 川でござい ます。私の勤 務しており ます元興寺文 化 です 。そのことを ふまえて本 日のお話をお 聞きいただ け 比 べて特異な状 況にある、 先進的な状況 がみられる わけ い たしますよ うに、中世の 大和の墓制 は全国的なそ れと 一、はじめ に 財 研究所は、考 古学や歴史 学・美術史学 など人文科 学的 れば幸 いです。 じて参照して いきたいと 思います。あ とで詳しく お話し なこ とを専門にす る元興寺境 内の本部と、 生駒市にあ る 今日 は 、﹁ 中世大 和の 葬送 と墓 制﹂という表題で、で 触 れておきたい と思います 。 普及という観 点から奈良 時代や平安時 代の墓制につ いて 中世の墓制 の話題に入る 前に、その 前提として火 葬の 二、火葬 の普及 保存科 学センター の二つの部門 があります 。私自身は、 元興寺 文化財研究所 に勤め始め た一二年ほど 前から本部 に在籍し 、考古学の立 場から墓地 の研究を続け てきまし きるだけ大和 の具体的な 事例を取りあ げてお話をし てい た。 こ うと思います が、全国の 状況と比較し ないと大和 の特 - 113 - 奈良県立同和問題関係史料センター 『研究紀要』第16号(H23.3.22.) されたという記録が﹃続日本紀﹄にあり、﹁天下火葬 ∼七 〇〇︶とい う僧で、現在 の桜井市の 粟原で荼毘に 付 日 本で一番最 初に火葬が実 施されたの は道昭︵六二 九 壺や豪 華な経筒が 発掘されてい ます。 が埋 められるよう になってい きます。中国 製の白磁の 骨 特に 高野山の弘 法大師廟の周 辺に遺骨や 遺髪、経典な ど あ らたかな地 に遺骨を納め るという信 仰が盛んにな り、 に現れだし 、遺構から は一二世紀の 後半に一挙 に拡大し 況と連動 しているわけ ですが、一 二世紀の中頃 から記録 高野山 へ納骨すると いう行為は、 火葬の普及 という状 従 此而始也 ﹂と記され ています。 レ 発掘調 査の結果でも その頃から火 葬が始まっ てくるこ とが確認 されます。 その直後の 大宝二年︵ 七〇二︶に持 統天皇が遺 言によ 平 泉町の本町Ⅱ 遺跡では、 一二世紀後半 に造成され たと こ うした霊場 への納骨は各 地に広がり 、例えば岩手 県 ていること がうかがわれ ます。 し た。持統天 皇の次の文武 天皇も火葬 されましたが 、高 って荼毘に 付されて、夫 の天武天皇 の古墳に合葬 されま 松 塚古墳の近く の中尾山古 墳が本来の文 武天皇の墓 では また、長 野県飯田市 の文永寺には 、地中に大 きな甕を 考え られる墓地 の中心に共同 の納骨場と 思われる大き な 埋めて、 その上に石室 を設けてその 中に五輪塔 があり、 ない かといわれ ています。中 尾山古墳の 石室は五〇㎝ 四 引き続く 元明天皇・ 元正天皇も火 葬されてい ます。天 五輪塔の前 の石床にある 穴から土中 の甕に納骨が 出来る 穴が確 認されてい ますが、この 地域の領主 クラスの一族 皇が火葬 をしたという ことで、奈良 時代の貴族 の多くは 方程で 、おそらく 火葬骨を骨壺 に入れて納 めたものだろ それに追随 するようにな っていった のですが、平 安時代 とい う遺構 があ りま す︵ 図1 ︶。 この甕は一二世紀後半 の共同 の納骨穴では ないかと考 えられます。 に入ると、火 葬が少し下 火になって、 火葬と土葬 がおそ の 常滑焼だと いうことです 。その上に 設けられた石 室に う考え られています 。 ら くは遺言に よって選択さ れるという 状況が続いて いき は弘 安六年︵一 二八三︶の銘 があります 。甕の中から は 多数 の骨片ととも に、一五世 紀の朝鮮通宝 という貨幣 や ます 。 平安 時代後期に浄 土信仰が盛 んになってく ると、霊験 - 114 - 奈良県立同和問題関係史料センター 『研究紀要』第16号(H23.3.22.) まで 納骨が続け られていたと 考えられま す。また、石 室 土 器片も見つ かっており、 一二世紀後 半から一五世 紀頃 う例 は東山中で 多く見られま すが、奈良 町では元興寺 極 大 和国の場合 は、文永寺と 同様に石塔 下に納めると い 元興寺 は奈良時代 に建立された 大寺院です が、平安時 楽坊 が全国でも有 数の納骨霊 場でした。 みわ (図1)長野県文永寺石室・五輪塔・地下埋納容器 地の御家人の神敦幸で、石工は南都の菅原行長という人 代以降 は衰退して、 境内が次第に 町場化して いき、そこ へ興福寺 に関係する富 裕な人々が 住んでいきま す。元興 寺はそうし た人々の墓 所や供養所、 念仏講を行 う場にな っていくわ けです。その 際の核にな ったのが智光 曼荼羅 智 光曼荼羅は、 もともと僧 侶が住まいす るところで あ と 呼ばれる浄 土変相図です 。 った 僧房の一室 に安置されて いましたが 、平安時代末 期 頃から 多くの人々 が参詣するよ うになりま す。それで寛 元二年 ︵一二四四︶ に曼荼羅の 安置された一 室を僧房か ら切り離して現在の本堂︵極楽堂︶が出来上がりました。 改造され た本堂は、奈 良町の住人に とっては極 楽の入 口と意識さ れるようにな り、多くの 人々が参詣す るだけ ではなく 、 先 祖の遺骨を納 骨するよう になっていき ます 。 多 様な納骨の 方法があるの ですが、一 番多いのは、 高さ 一〇 ∼一五㎝位 の木製の五輪 塔の一部に 小さな穴を開 け て遺 骨を納めたも ので、それ を本堂の柱や 長押に打ち 付 - 115 - 内部 の銘文からは 、この石室 と五輪塔を建 立したのは 在 物であったとこともわかります。 ここから 納骨 奈良県立同和問題関係史料センター 『研究紀要』第16号(H23.3.22.) が 、時代を経 るにしたがっ て次第に量 が増加してい きま す。 おそらく戦 国期頃には奈 良町に住む 庶民も納骨を し 、括りつけたりするわけです︵図2︶。あるいは 土釜 や竹筒に多 数の遺骨を納 めたものも ありますし、 本 てい たと推定され ます。 法隆寺 の舎利殿、当 麻寺の曼荼羅 堂︵本堂︶ などにも納 納骨が 行われる寺 院は元興寺だ けではなく 、松尾寺や 堂の 須弥壇の床下 に遺骨を直 接納めるとい うような例 も ありま す。 ただ早 い段階には比 較的量も少な く、社会的 地位や経 骨をした 痕跡が多数確 認されてい ます。 高野山から 広がってい った納骨霊場 には、文永 寺のよ うな地方武 士層の一族墓 所という形 態もあります が、奈 良 町のような 都市空間では そこに住む 多様な人々に よる 納 骨ということ が起きてい たわけです。 元興 寺への納骨 は、江戸時代 に将軍の位 牌を安置する ように なった際に 、屋根裏や床 下に片付け たり、本堂の 前に埋 めてしまった りして、そ こで断絶した ようです。 一方、大 和の山間部 では集落単位 での納骨が 行われる ようにな っていきます 。例えば、奈 良市中ノ川 や大慈仙 の墓地の場 合は、両墓制 の埋め墓の 中央に大きな 五輪塔 があり、その 回りに木製 の卒塔婆が立 ち並ぶとい う昔な が らの景観を 見ることがで きます。 また 奈良市忍辱 山町の場合は 、墓地の中 央にある元亨 元年 ︵一三二一︶ の銘のある 五輪塔の基壇 の部分に穴 が - 116 - 済力が一 定程度ある人 々が納骨し ていたと考え られます 、 (図2)元興寺極楽坊納骨五輪塔 奈良県立同和問題関係史料センター 『研究紀要』第16号(H23.3.22.) 開けられており納骨できるようになっています︵写真 寺の 場合と同じ ように甕が埋 められてい ます。山添村 の き るようにな っています︵ 写真2︶が 、その下には 文永 位でつ くられてい ます。 場合 は同じような 墓地がいく つも現在の大 字ぐらいの 単 1 ︶山 。添 村 大 西 の 極 楽 寺 の 正 中 二 年 ︵ 一 三 二 五 ︶ の 銘 の あ このよ うに一四世紀 の前半から中 頃にかけて 、奈良市 の東部や 山添村では集 落単位の墓 地や納骨施設 がつくら れていきま す。先に述 べた長野県の 文永寺では 御家人の 一族単位で 行われていた ことが、奈 良県では集落 単位で 行 われている わけです。つ まり荘園を 現地で管理す る荘 官 クラスの在地 領主一族の 墓であったり 、あるいは 村落 の共 同墓地に近 いようなもの であった可 能性もあると 考 えてい ます。 納骨と いう同じよう な宗教的行 為が鎌倉時代 の終わり から南北 朝期にかけ て相当広範囲 に広がって いるわけで すが、そ のなかで大和 の場合は特に 村単位とい う小さい 範囲でそれ が行われてい くという傾 向があるわけ です。 山添村大西の 場合、この 五輪塔を中心 とした墓地 は現 在 も墓地とし て使われ続け ています。 大和国の場合 、こ のよ うなモニュ メントが中世 にできると 、そこがずっ と 現在 まで墓地とし て継続して いる。地域に よっては複 数 - 117 - る五輪 塔の場合も 、基壇に穴が 開けられて いて納骨がで (写真1)奈良市忍辱山墓地の五輪塔 奈良県立同和問題関係史料センター 『研究紀要』第16号(H23.3.22.) (写真2)山添村大西極楽寺の五輪塔 の村 が集まって惣 墓を形成し 、その中心に 同じような 大 納 骨 穴 き な五輪塔が 存在する場合 もあります が、山添村や 奈良 市の 山間部では 、惣墓になら ず個別の村 単位の墓地が 継 続し ていくわけで す。 三、石 塔の造立 このような 石塔の文化 の淵源は奈良 時代にまで 遡りま す。奈良時 代の山岳寺院 などでは大 きな木造の塔 が建て 、それらは寺院の建築物の一部としての石塔です ら れないので 、石塔を建て るというの が石塔のはじ まり これ が人間の墳 墓にかかわっ て登場して くるのは、平 安 時代の 終わり頃の ことで、石塔 の墓として 整備されてく るのは 鎌倉時代の終 わり頃のこ とになります 。 そのひと つの大きな 契機となった のが、西大 寺の奥之 真3︶で、 叡尊が没した 正応三年︵ 一二九〇︶に 造立さ 院にある叡尊 一二〇一∼一二九〇︶の墓所の五輪塔︵ れたものです 。この叡尊 の五輪塔の周 囲に弟子た ちの五 輪 塔がいくつ も建てられて います。大 きさは違いま すが 形状 はそっくり です。歴代の 僧侶の墓を 師匠である叡 尊 の墓 の周囲に叡尊 のそれに似 せてつくって いく、歴代 墓 - 118 - 奈良県立同和問題関係史料センター 『研究紀要』第16号(H23.3.22.) ) 奈 良 市 都 祁 来 迎 寺 五 用 のものもあ れば個人の墓 標もあると いうことにな りま 4 と いう風潮が 鎌倉時代後期 にあらわれ てくるわけで す。 真 すが 、このよう な武士の一族 墓のベース にあるのが、 叡 写 これ は武士たち が一族墓をつ くっていく というのと同 じで 、奈良市都祁 の来迎寺に は一族の墓所 だと考えら れ - 119 - る石塔が五〇基ほど並んで建てられています︵写真4︶。 (写真4)奈良市都祁来迎寺五輪塔 なかに は共同の納骨 穴がある五輪 塔もあり、 共同の納骨 (写真3)西大寺奥之院叡尊廟五輪塔 奈良県立同和問題関係史料センター 『研究紀要』第16号(H23.3.22.) 叡尊 の弟子の忍 性︵一二一七 ∼一三〇三 ︶の場合は鎌 の弟 子たちの石塔 が、叡尊の 場合と同じよ うにすぐ横 に 刻ん だ銘文のあ る舎利瓶がみ つかってい ます。その忍 性 て います。三 ケ所とも発掘 され忍性の 墓所であるこ とを 倉の 極楽寺に本来 の墓所があ りますが、そ こから忍性 ゆ 尊 にはじまる 歴代の墓所だ と考えてい ます。 かりの 大和郡山市 の額安寺と生 駒市の竹林 寺に分骨され 四、共同 墓地の形成 このように 一三世紀の後 半から墓地 に石塔を建て ると い う行為が出 現してくるわ けです。当 初は高僧や権 力者 の 墓所に限られ ていたもの が、次第にも う少し下位 の階 層の 人々にまで 広がっていき ます。 例えば 福岡県北九 州市の白岩西 遺跡では丘 陵全体が墓 地にな っています。 一三世紀の 初め頃からつ くられ出し たもので すが、四角 形の石組みを した墓が多 数つくられ ており、 おそらく在地 領主の墓地だ ろうと考え られてい ます。その 墓地のなかで 一四世紀に なってくると 墓地の 標識として小 さな石塔を 建てるように なってくる わけで す 。また、元 興寺の境内の 五輪塔群は 一メートル前 後の もの で、多様な 人々が造立し たのだと思 われますが、 室 町時 代にはこのよ うに大量の 五輪塔がつく られるよう に - 120 - 並んで います︵写 真5 ︶。 (写真5)額安寺墓地歴代五輪塔(左が忍性分骨塔)) 奈良県立同和問題関係史料センター 『研究紀要』第16号(H23.3.22.) な り、墓地の 様子が一変し 、現在の墓 地の景観の原 型と れ てくるわけ です。 けです 。先ほどの 山添村や奈良 市忍辱山も そうした事例 墓地 がそのまま現 在まで連続 している例が 非常に多い わ とこ ろが、大和 の場合は全く 状況が異な ります。中世 もち ろんすべてが 石塔墓にな っていったわ けではあり もい えるような 景観が形成さ れるわけで す。 ません 。例えば奈 良市古市の中 世墓地跡は 、一四世紀後 古市墓地 の場合は、一 六世紀に古 市城が建設さ れた際 のひと つです。 を納めて 埋葬し、その 上に石敷き を並べていま す。元興 に廃絶しま すが、現在 の古市墓地に は一六世紀 後半の年 半につ くられはじめ たものですが 、ここでは 土釜に遺骨 寺でもみら れた埋納方 法ですので、 同じような 階層の人 ま す。 市 墓地が建設 された、つま り墓地が移 転したと考え られ 号を持つ石 造物が確認さ れることか ら、すぐに現 在の古 中世墓の 終焉と近世へ の胎動 々の墓地な のだろうと考 えられます 。 ︱ 五 、おわりに 大和 では強大な 領主が成長し なかった一 方で、農民や つくられて います。また 、舟形五輪 塔︵図3︶は 高さ五 例えば箱 仏と呼ばれる 小さな墓石が 一六世紀に 大量に 商人と いった人々 の自立性が高 かったため 、在地領主が これは戦 国の動乱のな かで、各地の 在地領主が 次々に 中世の 墓地の多く は一六世紀に 廃絶してし まいます。 再編されて いった結果、 古い領主一 族が滅亡した り移動 〇∼七〇㎝く らいの小さ なものですが 、元興寺や 天理市 亡んだ 後も、その墓 地を庶民が 引き継いでい ったのでは していったこ とによると 考えられます 。こうした 傾向は の 中山念仏寺 墓地のデータ では、一六 世紀中頃から 登場 例えば 長野県の文永 寺の納骨も 一五世紀の終 わりから一 全 国的にみら れ、一六世紀 が中世墓地 の終焉期であ ると しは じめて、一 七世紀中頃に ピークを迎 え、一八世紀 に ないかと 考えられる わけです。 いえ るわけです 。そして一七 世紀の終わ り頃から一八 世 は舟 形光背の墓石 や角柱型の 墓石に移行し ていきます 。 六世紀の はじめ頃に 終わってしま います。 紀に かけて現在の 墓地につな がる墓地が全 国各地で生 ま - 121 - 奈良県立同和問題関係史料センター 『研究紀要』第16号(H23.3.22.) 鎌 倉時代にあ らわれる中世 墓地は貴族 や武士、高僧 の 墓所 でしたが、 戦国期の動乱 のなかで廃 絶し、江戸時 代 には いると庶民の 墓が大量に 造立されるよ うになって い きます 。全国的に は一七世紀に 断絶が見い だされるのに 対して 、大和やその 周辺の南山城 や河内の場 合、中世墓 地が廃絶 せずに近世に 引き継がれ 、現在にいた っている のは、商人 や農民が早 い時期から高 い自立性を 持って活 動していた ためではない かと考えて います。 - 122 - こ のように、 墓制の研究は 石塔などの 墓標や出土遺 物 な どについてだ けではなく 、その造営に かかわった 人の 階層 性や宗教性 について論じ ていくこと も可能になる と ともに 、全国のデ ータを収集す ることで、 それぞれの地 南山 城の木津惣 墓でも同じ傾 向がみられ ます。 こうし た墓石の変 遷は、大和国 やその周辺 の南山城・ えていま す。 域の歴 史的な特質も 明らかにし ていくことが できると考 がわ かります。 全国 化している わけで、墓制 の変容と並 行しているこ と の 人々が多く 確認されます 。高野山へ の納骨も庶民 化・ なりますし、 造立者も越 中や奥州、三 河や伊予な ど遠方 五輪塔と呼 ばれる小さな 五輪塔が大 量にみられる ように 一方高野 山では、一五 世紀から一六 世紀にかけ て一石 いったこ とをあらわ しているわけ です。 河内な どで、戦国時 代から庶民 が次々に墓石 を造立して (図3)元興寺舟形五輪塔