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第二部アメリカの﹁特殊戦争﹂とベトナム
人民の闘争
ベトナムと東南アジアの平和と安全を脅か してい るかをあばきだ し
﹁特殊戦争戦略﹂はたんに南ベトナムに限定されたも のではなく 、
た貴重な文献である。
﹁北進﹂もふくまれていた コ 第 二章 では、﹁トンキン 湾事件﹂にい
挑発活動を主として、北ベトナム側の資料七編によ ってあきら かに
した 。
たるまでの北ベトナムにたいするアメリカとその手先の転覆・戦争
アメリカ帝国主義の悪らつな新植民地主義下で 、数年にわた って
づける南ベトナム人民 の闘争を主 として、公式文書によって描 きだ
そうとしたものである 。 このな かには一九六O年の改定憲法全文も
第三章は﹁特殊戦争﹂に抗し、社会主義革命 の深 化と 南ベトナム
て新しい戦略﹁柔軟反応戦略﹂の重要な構成部分としての﹁特殊戦
ザ ップ将軍の ﹃アメリカ帝国 主義者と そ の
なかでもボ !・グエ ン・
収録した 。
(英文小冊子より訳出)(第二節 1) は、マルクス主 義の軍事学の立場か
手先にたいするベトナム南部人民の解放戦争はかならず勝利する﹄
ら﹁特殊戦争﹂を科学的に分析し、南ベトナム人民の勝利を明示し
人民の闘争、﹁特殊戦争戦略﹂の破綻の過程をしめす資料を収め
(﹃ベトナム 研究﹄誌第一八 l 一九号より訳出)は 、﹁特殊戦争﹂ の展開と
第一章は﹁特殊戦争戦略﹂段階の二つの小段階をあつかったもの
機をあつかったもので、とくにファン・ハインの﹃政治闘争と武装
線の成長過程、新植民地 主義の 政治的支柱であ るカイライ政権の危
第三章は、とくに南ベトナム人民の人民戦争の発展と解放民族戦
た必読の論文である。
で、わが国ではあまり 注目されなかった ﹁ジョン ソン・ジェム共同
は、﹁巨象﹂にたち向かい、勝利する南ベトナム人民の独創的な闘争
形態(とくに政治闘争と武装闘争との有機的関連)を知るうえからも、
闘争の結合は南ベトナム革命の創造的な闘争形態である﹄(第三節 1)
きわめてユニークな論文である。
コミュニケ﹂(第一節 1)などアメ リカ政府、 議会などの公式文書六
るアメリカの﹁特殊戦争﹂について糾弾した覚書(第一節 8、本邦初
訳)は、﹁特殊戦争﹂がいかに一九五四年のジュネーブ協定を犯し、
共和国外務省がジュネーブ協定九周年にさいし、南ベトナムにおけ
編、北ベトナムの公式文書二編を訳出した 。とくに、ベトナム民主
る
。
失敗を要領よくまとめたもので、全体を理解するうえで便利であ
た。﹁総論﹂のグエン・フ l ・クオンの﹃アメリカの︿特殊戦争﹀﹄
この第二部には﹁特殊戦争戦略﹂の展開とそれに抗するベトナム
争戦略﹂をもちだ してきた 。
アメリカ帝国主義は南ベトナム人民の抵抗闘争をおしつぶそうとし
人民支援のためにたたかう北ベ トナム人民、英雄的な解放戦争をつ
言
見
うちひしがれていた革命的伝統に富む南ベトナム人民は、一九六O
年末、南ベトナム解放民族戦線の旗のもとについにたちあが った。
解
7
0
総論
ア メ リ カ の ﹁ 特 殊 戦 争 ﹂ ( 一 九 六 一i 六五年)
グ エ ン ・ フ l ・クオン
アメリカの南ベトナムにたいする侵略の全過程において、﹁特殊
戦争﹂は、その新植民地主義的性格をもっともよくあらわしている
一九六一年には、人民解放武装勢力 (PLAF)が樹立された。解
放地域と敵の支配のよわまった地域(これは、敵の行政機構がまだ打倒
た。サイゴン政府は混乱した。その一つの証拠が、一九六O年一一
されていないが 、実際には支配の機能をはたしていない 地域)がひろがっ
月に企てられたクーデターだった。かろうじてクーデターをまぬか
れたのち、ジェム一味は、その反対者の一掃とともに、新しいよそ
おいをこらすことにつとめた。こうして彼らは、一連の﹁民主的﹂
茶番劇を演出 した 。反対者や親米組織でさえもいっさい参加させな
い﹁大統領選挙﹂、﹁内閣改造﹂がそれである。彼らはさらに、アメ
アジ
アメリカではケネディが政権についた。﹁大量報復﹂戦略は 、
リカにたいして援助の増大を要請した。
引用すれば、﹁特殊戦争﹂は、﹁柔軟﹂戦略に適用した戦争であり、
﹁柔軟反応﹂戦略におきかえられた。。へンタゴンの戦略家の言葉を
ア、アフリカ、ラテン ・アメリカにおける発展に対応するために 、
最初のうち、アメリカは、その植民地主義的目的をかくすため
局面である。
に、﹁国民﹂政府にたよった。侵略戦争をはじめねばならなくなる
メリカあるいは世界の世論ーーとくに社会主義陣営の││の反発を
有利な条件においてさまざまな形態でおこなわれる。すなわち、ア
かに攻撃し、ひそかに敵の領土を占領せねばならない。強力な社会
さけるために、騒々 しい 宣言や人目につく軍隊の展開をさけでひそ
して﹁顧問﹂を提供 した 。アメリカは戦争の方向の決定権を自分の
手ににぎっていた、が、南ベトナムに送りこんだ自国の軍隊はごく少
主義陣営の存在と破竹の勢いの民族解放運動の誕生によって、帝国
と、今度も実質的には現地民の軍隊にたより、これに武器、金、そ
数であった。
彼らの世界戦略において、﹁特殊戦争﹂は、﹁限定(局地)戦争﹂お
主義者にとって侵略戦争をはじめることは危険である。
*
よび﹁全面戦争﹂より低いレベルにおかれ てい る。これは、政治闘
一九六O年には、南ベトナムの革命運動 、大衆の政治闘争、武装
闘争の成長によってジェムの地方行政機構は崩壊し、とくにメコン
、
の人民に対処する役割をも っ。それは、人民の武装勢力を粉砕 し
争が高い水準にたっし、ゲリラ勢力によって後援されているすべて
一一月の南ベトナム解放民族戦線 (NFL)の創設は、アメリカ
住民を恐怖させ、征服し、反乱によってうしなわれた地域を再占領
uジェ
ム政権にたいする闘争に愛国諸勢力を結集することによって、一つ
デルタと西部高原地帯においてそれがいちじるしかった。この年一
の転回点をなした。
71
アメリカの「特殊戦争Jとベトナム人民の闘争
第二部
﹁基地﹂の建設。
山南ベトナムの経済的復興、カイライ軍の強化、北ベトナムに
おけ る破壊活動の強化。
すること を目的 としてい る。この戦略の 政治的・軍事的手段をつく
川 南 ベ ト ナ ム 経 済 の開発と、南の政権確 立の 暁 にお け る北 ベト
成するためのさまざまな方策を提案した 。 これら の方策は 、 一九六
サイゴンにやってきた 。帰国後、テイラーは、ステ lリl計画を完
ふくめて、アメリカの戦争努力を強化する方法を研究するために、
者であるマクスウェル・テイラーが、アメリカ軍の直接介入をも
一九六一年一 O月一八日 、大統領顧問で﹁柔軟反応﹂戦略の創始
ナムへの進撃。
りあげたのは、ケネディとテイラーであった。
一九六一年五月一一日、当時アメリカ副大統領だったリンドン・
J
B ・ジョンソンは、ケネディからゴ・ディン・ジェムにあてた書簡
をたずさえて、サイゴンをおとずれたが、この書簡には次の諸点に
ついてのべられていた 。
ー l骨ふトムド必一時跡瞥骨除わわいいれか按ゆか掛介。日附阻附瞥保除
れい動口貸⋮除、壬卦Rrb静野わかわかわ、骨骨仏附わ法杯争かかめわい
ーート俗骨除ハ﹂農件時兵れい排除b扮ゆれるわかれいア亦トか筆者
亡、
f一
レ。
ーl現在一五万の正規軍に さらに 二O 万をくわえるための財政
幽問団の派遣。
に軍事司令部を上から下まで改造する。新型兵器を提供することに
ムへ派遣する。アメリカ人がジェム政権の頭ごしに制御できるよう
一年一一月一五日にアメリカ国家安全保障会議によって採択された
が、それは次のようなものであった。多数の軍事専門家を南ベ トナ
よってカイライ軍の機動性と力をつよめる。住民を﹁戦略村﹂にお
愛助。
対ゲリラ戦のための特殊訓練。
111
いこむための襲撃を開始する 。彼はまた、アメリカ、日本、台湾、
i輸送線および飛行場の建設 と修理 のためのアメリカ軍事技
ーl
ジェム共同声明は 、南ベト
H
そ の決定のなかで、米海空軍の投
アメリカの国家安全保障会議は 、
SEATOの軍隊を南 ベトナムに導入す るための方策をとるべ きこ
とを提案した。
一九六一年五月 二ニ 日のジョンソン
術者の派遣。
ナムにたいする直接侵略のプログラムであるところの、アメリカ日
一八カ月以内の南ベトナム﹁平定﹂と、北ベトナムにおけ る
b勤定してい b。アメ リカの特
山アメリカ人は、 実質的には、連隊ときには小隊レベルまで
この計画は多くの 面をもっていた。
殊部隊も戦闘に参加することが考えられていた。
wひかかかか﹁骨殊勝争﹂
わよって h
入をふくむ、も っと思い切 った 方策をとりうることを強調した 。ス
除
一わいトぃ u一戸小一わい卦一骨骨、下μトかん一勝跡地貯骨下のサ小ゴ hEr
ジェム軍事 同盟に正式 の形をあたえた。ジョンソンの南ベトナム訪
問につ守ついて、スタンフォード大学(カリフォルニア)の経済学者ユ l
ジン ・ステlリl のひきいる経済 ・軍事使節団が 、サイゴンにや っ
てきた 。
一カ月間の苦心ののち、ステ lリlは、次の三段階からなる行動
川
プログラムをつくりあげた。
7
2
アメリカの「特殊戦争J(
19
6
1
6
5
年
〉
部を投入してはおらず、さまざまな兵種の部隊、が投入されていた。
カ兵の二五倍も安くてすむと計算していた。アメリカはまだ軍団全
れた第八軍の前司令官ヴァン・フリlトは、カイライ兵士はアメリ
﹁顧問﹂を配置されたカイライ軍隊に依拠していた。朝鮮に派遣さ
資のみなもとから切りはなすこと 、 ﹁水をさらって魚をつかまえる﹂
所に集めて、これを厳重な監視下におくことは、ゲリラを人力と物
り、これがステ lリlHテイ ラー計画の眼目であった。住民を一カ
はなし、前者を潰滅させ、後者を服従させることが彼らの意図であ
強制収容所に釘づけにし、こうして人民の武装勢力を大衆からきり
アジア、アフリカ、ラテン・アメリカにおける民族解放運動抑圧の
同さらにまた、南ベトナムおけるアメリカの﹁特殊戦争﹂は、
ことを意味していた。
たえず増強されていたカイライ軍隊のほかに、アメリカは、空軍
や、 アメリカによって給与を支給され、アメリカ人の直接指揮下に
しかしながら、戦闘の実質的な役割を演じていたのはカイライ軍
ある現地民の特殊部隊のような自分自身の戦闘勢力をも っていた。
で、それ によってアメリカの侵略はうまく偽装されていた 。
後退さえしていた以前の時期には 、ア メリカ Hジェム一味は﹁ベン
ハ イ川は 一七度線にそ っている 。 この表現は北部
ハイ川を埋める﹂(ベ ン
南ベトナムの革命運動がまだ発展せず、あるところ、ある時には
一九六一年の軍事作戦
しい武器と戦術の試験場であることを-認めていた。
教訓をひきだすための実験であった。ハ lキンズ将軍もウエストモ
iランド将軍も、南ベトナムが、ゲリラ戦にたいするアメリカの新
間往々にしてアメリカ人は単なる﹁反乱鎮圧﹂と銘う ってはい
たが、 実際にはこの﹁特殊戦争﹂は、一九四六年から一九五四年ま
でのフランスの侵略戦争よりも蛾烈で血なまぐさいものだった 。 一
九六一年、一九六二年、一九六三年を通じて、アメリカ"ジェム一
から五O O機の航空機、二OO両から三O O両の M m、数百の軍艦
味は、 三O 万から四O万の兵員(民兵をふ くむ)を展開し、四OO機
の征服を意味し ている )野望をいだいていた。彼らは大兵力を大急ぎ
と河川用舟艇を使用し、往々にして一万から一万五000にもおよ
ぶ兵員を使った作戦を、毎日七O回から二OO 回おこない、何十万
つけていた 。 それは、一方では、人民を殺し、抑圧し、他方では、
メリカ"ジェム一味は 、主として民間警備隊、農村民兵、特別警察
ムの革命勢力に対処するために、一九五六年から一九六O 年までア
を任務とする九個師団(四個 軍団に編成されている)である。南ベトナ
でつくりあげた。すなわち、北ベトナムの正規軍をうちまかすこと
もの人びとを殺傷した。
﹁融和﹂ ・﹁平和﹂部隊、等々さまざまなやり方であざむき、腐敗さ
聞この戦争は、軍事活動を、経済、文化および社会活動と結び
せながら、戦費を現地 の人民に最大限に負担させることを目的とし
ジェム勢力から分捕った武器で装備され、着
H
実に力量を増大させていく人民武装勢力の誕生に直面して 、敵はそ
的高揚と、アメリカ
にたよってきた 。だが、一九六O年末1 一九六一年初め以来、革命
凶アメリカ"ジェム一味は、たえず襲撃をくりかえし ながら、
ていた 。
住民を﹁戦略村﹂においこむことに狂奔した 。 一
OOO万の農民を
73
の戦略目標を変更し、北への進撃計画を延期せねばならなくなっ
た。五万の民間警備隊、特別警察、数十万の農村民兵では、もはや
H
ジェム一味は、作戦舞台を三つの戦術地域にわけた 。
十分ではなくなった。敵は正規軍を動員しはじめた。
アメリカ
第一戦術地域は、一七度線からコントヮムおよびクアンガイ省まで。
、、、、、
第二戦術地域は、チュンポののこりの部分。第三戦術地域は、ナム
ポ(﹁サイ ゴン 日ザ lデイ ン特別地区﹂をのぞ く)。各戦術地域は、二つの
戦術地帯にわけられ、各戦術地帯は数地区にわけられていた。正規
レイ
yy ャー
軍は、これらのさまざまな戦場へおくられ、各戦術地域の武装勢力
は、統一司令部のもとにおかれた。特別攻撃隊員の多くのグループ
ジェム一味の戦略目標のこの変更は、北ベトナムにた
H
がつくられ た。すべての武装勢力は対ゲリラ戦術にしたがって訓練
された 。
アメリカ
いする彼らの陰謀の重大な挫折を示すものだった。だが、それは同
時に、南ベトナム人民にとってのきびしい試練の序曲だった。南ベ
*
トナム人民は今や、きわめて残忍で背信的な、新しい戦略と対決せ
ねばならなかった。
ホ
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rl﹄﹂
ン
コ
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k
n
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仰が
nHv lJ
ω、ン
L一
100村
5,
しかしながら、一九六一年
を通じて、南ベトナム人民の
政治勢力と、武装勢力は発展
e
をつ つ
けた 。ますます多くの
地域で、住民は敵の支配をた
敵の軍隊内では反乱がおこ
ちきることに成功した 。
一日のフランスの新聞﹃ラ・
りはじめた。一九六一年九月
は、一九六一年八月に六五人
トリピュン・デ・ナシオン﹄
の将校と兵士が抗命のために
一九六一年の敵の死傷者数
処刑されたことを暴露した。
は、二万三000人にたっし、
同年ステlリi計画 のもとで
予定されていた新兵の数(二
万人)を越えた。それでも、
ジェムは、彼の軍隊を補充
た。不断の危険にさらすことによって住民を恐怖させ、﹁戦略村﹂
**
ーは﹁共和青年団﹂、﹁キリスト教青年団﹂を動員し、比較的平穏な
いくつかの地域で徴兵をおこなうことに全力をつくした 。
には、出撃 のテンポと規模はさらに飛躍的に増大した。
000回にはねあがり、そのうちの八O回は、一個連隊から一個師
し、さらに増強さえする有力な可能性をもっていた。ジェムとニュ
(各郷 C
コンミューン〕
は数カキすから,各村は
数コの部落 からなる)
歩兵の襲撃のほかに、敵は砲兵と空軍で村々をたえまなく攻撃し
解放通信によれば、一九六O年にアメリカ Hジェム一味は約七O
O回の出撃をおこなったが、そのうちのこO回は、連隊から師団ま
196Hp
1960年
団の兵力による大規模な掃討、四OO回以上は、一個大隊の兵力に
よるものだった。ステlリ!計画が実施にうつされた一九六一年末
での兵力による大規模な作戦だった。一九六一年には出撃回数は一
4,
00D村
!
京
西 部 高
(
4,
400村)
1,
070郷〔コン ミ ユ
ーン〕
ナ ム ボ
(
1,
300郷〔コンミュー
ン
〕
チュンボ中部およびチ
ユンポ南部 (
9,
070村)
アメリカの「特殊戦争」とペトテム人民の闘争
第二部
7
4
アメリカの「特殊戦争 J (
19
6
1吋 5
年
〉
に移動させようとした。一九六一年以来、砲爆撃はたえず強化され
きには、大洪水がロンスエンの町を三メートル、チャウフ lの町を
おこなうことによって、敵を消耗させた。しかしながら、大きな会戦
民の武装勢力は、敵の哨所を奇襲し、夜襲をかけ、待伏せや急襲を
反撃だった。絶滅戦もなければ、長い交戦もなかった。概して、人
特殊戦争の最初の段階においては、戦闘の主要な形態は、襲撃と
の裏をかくのを大いにたすけた。
五メートルの水の下に沈め、二O万戸の家、が浸水あるいは流失し
た。もっとも野蛮な砲爆撃が一九六一年末におこなわれた。このと
た。敵は、水浸しにならなかった村々を無慈悲に爆撃し、住民を収
も二、三おこなわれた。一九六一年九月の、ダiチャ哨所(コントゥム)
の破壊。このときには、人民解放武装勢力は、八O 人を全滅させ、
容所に入れ青年を強制徴募しようとして難民の舟を機銃掃射した。
さらに一 O O人を捕虜にし、各種兵器一 O Oを捕獲し、増援の一個
O O回の爆撃。
ンの町にたいする襲撃。ここでは、人民解放武装勢力は、一七O人
中隊を潰滅させ、他の一個中隊に大損害をあたえた。フオックタイ
一九六二年にも、砲爆撃はたえず増大した。
ーl 一 九 六 二 年 一 月 一
000回の爆撃。
ー ー 一 九 六 二 年 一 二 月 六O O回の爆撃。
のレインジャー部隊を戦闘不能にさせ、一 O O人の兵士を捕虜に
ーー一九六三年一月一
砲兵の砲撃は、あまり回数が多くて、かぞえきれない。
し、増援のレインジャー部隊を潰走させ、各種兵器四O Oを捕獲し
一九六二年は﹁重要な事件﹂にみちみちていた年であった。この
一九六二年のアメリカ日ジェムの大反攻
た。さらに、拘禁されていた三O O人の人びとが解放された。
住民は同時に、歩兵の襲撃、砲兵の砲撃、航空機の爆撃とたたか
わねばならなかった。もっとも多くの場合、住民は大衆的政治闘争
にたよった。いくつもの郷の人民が町へ行進し、そこで、時には何
千人にも達する集会をひらいた。彼らは、カイライ当局が砲撃を中
年は﹁戦略村﹂の年、ステ lリl Hテイラー計画の決定的な年、草
止し、犠牲者に賠償を支払うことを要求し、町の人々の前で敵の犯
た。カイライの将兵は、群衆にとりまかれ、鎮圧をやめるように説
罪行為を非難した。一方、大勢の群衆は、砲兵陣地を包囲し、襲っ
命運動にたいする﹁大反攻﹂の年であった。
うで何百万もの人々を迅速に、そして持続的に動員することができ
ことのできない役割をはたした。長い髪をしたこの軍隊は、国じゅ
的政治部隊﹂が存在していた。女性は、これらの闘争のなかで欠く
をおくつた。一九六二年二月には、彼らは、太平洋方面米軍副司令
兵器の技術者、一五O機の航空機、一五O機のへリコプタ!?ェ
ムの手にまかされた航空機のほかに)、無数の M m、その他の戦争手段
リカ人は、南ベトナムに一万二000人以上の将校、専門家、各種
ル(一九六一年の二倍、一九六O年の四倍)にたつした。この年、アメ
一九六二年には、ジェムにたいするアメリカの軍事援助は六億ド
得された。この人民闘争は、きわめて大衆的な性格をおび、高い組
た。この大衆的政治闘争は、カイライ軍隊と行政機構を文字どおり
織的水準にたつした。永続的な基盤のうえに確立された真の﹁大衆
麻揮させた。それは、人民の武装勢力が敵をうちゃぶり、敵の策動
7
5
めに 、彼らは、い くつかの衛星諸国、すなわち、イギリ ス、オース
官ハ lキンズ大将のもとに、サイゴンに軍事援助司令部 (MAC)を
設けた。軍事援助司令部は 、軍事援助顧問団 (MAAG)ならびにジ
アメリカの「特殊戦争 Jとベトナム人民の闘争
O年および一九六一年の最初の月々)。
最高段階では、アメリカ軍部隊は、直接、戦闘に参加する。アメ
リカ人は 、さまざまなレベルで指揮をとる。
ω
この年の末までに南ベ トナ ムの米空軍が一月の四倍になることを明
一九六二年一二月一八日にサイゴンにやってきた米空軍長官は、
の戦争にまきこまれていることは明白である﹂とのベた(﹃ニューヨ
しているのだから、﹁宣戦布告はされていないにせよ、アメリカが真
を明らかに侵犯した﹂、アメリカ軍が現実に南ベ トナム の作戦に参加
ス・
ボ ーリングをふくむ一六人のアメリカの名士は 、﹁ア メリカ 政 府
は、その介入によって、ジュネーブ条約のすべての軍事的禁止条項
ケネディ大統領にあてた公開書簡のなかで 、高名な科学者ライナ
らかにした。こうして、一九六二年以来、アメリカ人は戦争 の方向
び台湾の参加││少なくとも象徴的なーーをとりつけた 。 アメリカ
をつ。つけた。若干のアメリカの将校や政治家たちは、サイゴンの軍隊
一九六一年には、カイライ軍隊は二O倍になり、人民解放武装勢
*牢
ーク ・タイム ズ
﹄ 、一九六二年四月一六日)。
人の公約と彼 4JJ月刀明入は、航空機、水陸両明司、それに彼らの
直接指揮下の特別挺身隊をつかって、一定の段階に維持されてい
とを-認めた。しかしながら、アメリカの司令部は問題をまったく軍
が勝てないのは、ジェムの政権に大衆の支持がないからだ とい う こ
省には 、 民間警備隊の 一ない し 二 個 機動大隊、 ザン ・ベ︹民衛︺兵
保安隊、正規軍の増強が第一の任務であると考えた。サイゴンの正
規軍は 二
一 万、農村民兵は八万 、保安隊は一 O万に増強された 。 各
そのために、アメリカ人は、カイライ勢力、すなわち、農村民兵、
に対応する効果的な諸手段を欠いていた。
││この軍隊は、機動力、迅速で信頼できる情報、ゲリラ戦術
持できず、また機動的戦闘力を欠いていた。
ーーージェムの軍隊は、あまりに分散されているので、領域を保
事的な見地からみて 、失敗は次の原因によるものだと考え ていた 。
力よりはるかにすぐれた装備をもっ て いた。それでも、彼らは 敗北
た。以前には 、彼ら は、軍団および師団レベルのカイライ軍隊を掌
1) アメリカの軍事用語では、軍事介入は三つの段階からなっている。
(
例最低段階では、アメリカは軍事援助、顧問を提供し、戦略を指揮
する(一九六O年より前)。
川問中間段階では、アメリカは戦闘に間接に参加し、参謀部あるいは
兵端部ではたらく一定数の米軍部隊を導入する。アメリカ人は、最
高レベルの司令部、戦略、戦術および作戦分野に参加する(一九六
直接介入のための条件をつくることをたすけた。
および佐官からなる、ハ lキンズ大将の司令部のサイゴン設置は、
隊
、 とき には中隊にまでも ﹁
顧問﹂をお いてい た。五O余名の将官
握する﹁顧問﹂ しか配置 してい なかったが、今や彼らは 、連隊、大
トラリア、ニュー ジーランド 、南朝鮮、フィリピン、マレ ー シアおよ
を手中ににぎり、その遂行の役割をひきうけた 。侵略を偽装するた
撃をおこなったことを示 して いた。
タゴンへの報告書は 、ア メリカ人だけで 一九六 二年中に五万波の出
ェムの国防省、参謀本部の上に立っていた 。 ハーキン ズ大将のベン
第二部
76
アメリカの「特殊戦争 J0961
"
'
'
65
年〉
一九六二年 三月中頃には、アメリカ日ジェム一味は、﹁主導権を
ついで彼は、軍隊の内外で仕事をする心理戦大隊三個大隊をつく
り、熱狂的な人殺しゃ死刑執行人に惜しみなく金をあたえた。
の一個大隊、一機動集団、省長代理としてこれらの部隊を指揮する
一人の将校がおかれた。各県には、一個中隊の、ザン・ベ兵がおか
とりもどし﹂、失われた地域をふたたび取り戻すために、﹁九O 日の
れた。村および戦略村には、襲撃に参加する民兵にたいする半分は
監視の役をする﹁戦闘青年﹂部隊がおかれた。将校と下士官の訓練
リコプターと水陸両用車という二つの切札に依拠して、二建の新戦
反攻に移行﹂しつつあると発表 した 。この戦略の枠内で、そ してヘ
にくらべて四倍にふえた大きな出撃のテンポをはやめることを期待
ることによって待伏せの危険をへらし、一九六二年には一九六一年
抵抗勢力を麻揮させ 、磯滅し 、革命基地を破壊 し、住 民を戦略村に
域を三カ月から六カ月かけて掃討する。これらの部隊は、すべての
山長期掃討。二個大隊から一個師団におよぶ勢力で、一つの地
術が作成された。
は短縮され、実質的には対ゲリラ戦術の訓練にあてられた。一九六
H
ジェム一味は、軍隊の兵力についての計画の
二年には、アメリカ
していた。カイライ軍隊は、二O O機以上の航空機とヘリコプター
つつ、一つの地域をいったりきたりして掃討する。マラヤにおける
おいこむために民間警備隊および地域の民兵と共同作戦をおこない
九O%を遂行することができた。彼らは、正規軍の機動性をたかめ
(これには、アメリカの直接指揮下にある三O O機 の 航 空 機 は ふ く ま れ て い
'ーー試験的な﹁サンライズ﹂作戦は 、ナムボ東部九省の革命基地
一九六二年には、二O回の大規模な出動がおこなわれた。
的だった。
てむけられていた 。鎮 圧、住居の焼却、農民の強制収容が、その目
イギリスの経験に由来するこの戦術は、主として民間住民にたいし
ない)、数百隻の河 川用舟艇、あらゆる地形における行動能力と不死
無数の送 ・受信機をそなえた情報網が、すべての郷、戦略村、哨
身をほこるこ00両の水陸両用車(三個中隊)によって装備された。
所をおおった。人民解放武装勢力の電撃的攻撃に対抗 し 、 そ の 動
き、貯蔵地点、司令部を探知して、空艇部隊あるいは大量爆撃によ
と人民の武装勢力を一掃するために、三月一一一二日にはじめられた。
ってこれを磯滅するために、最新式の装置が導入された。一九六二
年だけで、二O O人以上のアメリカのスパイ専門家、がサイゴンにや
に空軍と砲兵隊からなっ ていた 。九カ 月間のこの出動中に、マクナ
展開された勢力は、地域の部隊に支援された正規軍二個師団、それ
ってきた。
マラとレムニ ツツァ I大将、ハ lキンズ大将が現地の視察に数回や
一九 六二年までに 、 カンボジアの採用した確固たる中立政策と、
ってきた。
ラオスにかんする ジュネ ーブ会 議の成功が、カイライ軍隊の将兵な
lデルタ作戦。ハ lキンズ大将は、サイゴンの周囲一 O省を平
することに、ジェム政権が同意したと言明した。
定するためにアメリカ人によって考察された﹁デルタ﹂計画を遂行
ー
らびに都市中産階級に少なからぬ影響をおよぼした。全員によって
抗命や脱走が発生する一方、平和主義的、中立主 義的傾向がつよま
った。これにたいして、 ジ ェムは、﹁心理戦全国 会議﹂ 九六 二年三
一
(
月)をひらき、平和と中立主義の支持者を共産主義者と非難した。
77
アメリカの「特殊戦争Jとベ トナム人民の闘争
第二部
コ ! ロア﹂作戦 o
l lザiデ ィン省における四月の ﹁
llaカント省における四月の﹁ホア ・ミi﹂作戦
。
ー
iフi エン省(チュンボ)で 五 月 に は じ め ら れ た ﹁ ( 小 ・ 小
イ
、
、
た
)
。
エン﹂作戦(一八カ月間っ い
つ
.
ーーーピンディン省(
チュンボ)における﹁ドン・ティエン﹂作戦。
、、、、、、
ーーー ク アンガイ 省(チュンボ)にお け る﹁フォン ・ホアン﹂作戦。
││パンメト ヮオッ ト にお け る﹁アン ・ラ ック ﹂作戦。
││正規軍一 O個大隊 と 地 域 部 隊 一 O個大隊(玉000人)によ
ピ ン ・タイ﹂作戦
る、カi マウ (西部ナムボ)における ﹁
。
lli正 規 軍 一 五 個 大 隊 に よ る 、 旧 抗 戦D地帯における﹁オlタ
ム・ウインター﹂作戦。
lllトゥ、ザウモッ ト省 (旧抗戦 D地帯)における 一一月 の﹁ブ l ル
ドッジ﹂作戦。
1 1 六000人の兵士と一 O O人の将校による、ロンアンおよび
串T
て向けられていた。
心不
一九六二年には、大規模な出動とは別に、約二万四の出撃がおこ
なわれた。 これは一九六一 年の 二O倍だ った。そのうちの八O O回
以上は、一個大隊以上の兵力によるものだった。出動および出撃の
大部分は、ナムボ・デルタと、チュンボ沿海平野に隣接する山岳地
仰々しい名前をつけられた敵のすべての戦術(対ゲリラ・ゲリラ、
域でおこなわれた。
ヘリ空輸戦術、装甲車戦術、フライイ ング ・イlグル、 等々 )は、湾猛で
残忍な性格をもっていた。兵士らは犠牲者を拷問し 、 腹 を 切 り 裂
き、肝蔵をとり 出し、収穫や作物をナ パl ムや化 学薬剤で焼きはら
い、だいなしにし、村々を壊滅し 、住民を、戦略村にとじこめた。
南ベトナムに派遣された A P通信のマルコム ・W ・ブラウン記者
たら
疑者のこめかみ、あるいは肉体の他の部分に接続する。女囚のば
訳註︺ といわれている 尋問 の方法は、こ の発電機 から の電極 を 被
﹁﹃ディン グ ・ア・リング﹄︹鱈をがんがんいわせる、という意味l l
は、次のように書い ている 。
間電撃攻勢。この攻勢は、一、二個中隊から数個大隊におよ
。 そ の結果は 恐るべきも の で あ
あいには 、電極を乳首に つけ る
タイニン省における一 O月の﹁イブニング ・スタl﹂作、戦。
ぶ特 別 挺 身 隊 (主としてヘリコプター-によって運ばれ、二 、三時間 から 一
責めにする方法である﹂﹃戦争の新顔﹄、二四 t 一一五ページ。)
﹁
だ 、 もちいられている拷問の形態のうちには 、 も っとひど
が
、
いものがあり、こ れをやられると不具にされるか、体の外形をそ
もう一つの方法は、被疑者をもう少しで溺死するところまで水
て、そして 戦場で兵隊によっ て、しばしば用いられている 。
り、苦痛 なものであるが 、しかし被疑者に永続的な損傷をあ たえ
るわ けではない 。 この方法は、 省の尋 問セン ターで警察によっ
日間作戦する)によっ ておこなわれる場合 と、さ まざまな武器をもっ
た七ないし一二個大隊(ヘリコプ ターによって運ばれる特別挺身隊、降下
部隊、機動部隊、あるいは海兵隊 ::・)から なり 、多くの輸送手段をも
った 、よ り大きな勢力によっておこなわれる場合があった。後者の
作戦は、二、三日から数週間にわたってつ守ついた。
これら の攻撃は終始、空軍、砲 兵、装甲部隊に よって 支援されて
いた。アルジェリアにおけるフランスの経験の適用であるこれらの
攻撃は、人民解放武装勢力の正規部隊、抵抗の指導的組織にたいし
78
アメ リカの「特殊戦争 J (l 961~65年〉
﹁一度ならず見られたことだが、ベトコンの被疑者は、尋問の
陸両用車に手痛い損害をあたえた。そのうえ、カイライ部隊が、野
が、革命勢力はまもなく反撃に出て、とくにへリ コプタ !とM m水
平定するという計画が、予定どおり遂行されるだろうと考えた。だ
時的成功から、一八カ月(一九六一年七月 t 一九六二年一一一月)以内に
のち、装甲兵員輸送車で稲田をひきずりまわされた 。 これをやら
蛮な命令にしたがうことを拒否して、人民解放武装勢力側へ寝返っ
こなわれてしまう・・・・・・﹂。
れると、かならず死んだ。しかももっともむごたらしい形で﹂(前
た。一九六二年一月から一 O月末までに、集団的反乱が四O件あり、
掲書、一一六ページ)。
﹁あいにく、ベトコンは掩蔽壕をひじようにたくみにつくって
砲することを拒否した。多くのカイライ兵士が、同胞に難をさける
た。タンアン 、サ デックでは多くの作戦中に、兵士たちは住民に発
ように教えた 。時には 、一 個大隊全部が、住民を戦略村においこむ
兵士たちは襲撃をおこなうことや、 哨 所 を 建 設 す る こ と を 拒 否 し
民間人の死傷率は概して高い。あるばあいには、黒こげになった
ことを拒否した 。 しばしば兵士たちは戦闘にくわわらなかった 。脱
いるので、直撃のばあいをのぞいて、空からの爆弾やナパ lムに
子どもや幼児の死体が、市場のあった場所の真中に、いたましく
走が大衆的な動きになり、将校までがこれにくわわった。
よってめったに影響をうけることがない。ただ、小屋は倒され、
積みかさねられていた﹂(前掲書、二八ページ)。
走した。彼らのうちには、弾薬庫を爆破し、鉄砲、送受信機を破壊
ーlt一九六 一年には一万七000人、一九六二年には三万人が脱
襲撃と爆撃は、住民にたいして多くの死傷をあたえる。面積二一
五五平方キロ、人口六O万のベンチェ省は、
一九六二 年三月だけで
l l一九六二年には一 O O件の反乱がおこった。兵士たちは、血
していくものもあった。
に飢えた将校を殺し、人民解放武装勢力が哨所を奪取するのを助け
た。 二O件の場合には、兵士たちはアメリカ人﹁顧問﹂を叩きのめ
の省長ドゥオン・タイ・ドンの言葉を引用すれば、ハイ ・イエン出
さまざまの規模の作戦七四回にあい、死者一九五人 、負傷者五六
人、逮捕者二七八人を出した。フ lイエ ン省(人口三三万八六OO人)
動は、死者三二六人、負傷者二四人、逮捕者三四O人、焼失家屋三一
八戸(じ っさいには一 000戸以上)を出して終わり、一万一二八九人
H
ジェム一味がたてた一九六二年の軍事活動の目標は達
し、あるいは殺した 。
山ゲリラの一掃。一九六一年には、アメリカ側の推定によれ
成されなかった。
アメリカ
の農民、が戦略村にあつめられた(﹃
トイ・パオ︹時報︺﹄、サイゴン、一九
六二年一一一月七日)。
新しい戦争手段で遂行されたステlリluテイラー計画は、いた
るところに死と廃嘘をもたらした。ハ lキンズ大将は、一九六二年
て殺された人民の数を三万人と見
ば、ゲリラは約二万をかぞえた 。一年のたたかいののち 、敵は三万
人以上を殺したと自慢した 。ところが彼らは、一九六二年の末に
uジェムの軍隊によっ
積っている。この数字はわざと少なくされてはいたが、住民にたいし
は、人民解放武装勢力の兵力は二万 五000から三万と見積ってい
にアメリカ
て発揮された野蛮性をうかがわせるものだった。敵は、二、三の一
79
アメリカの「特殊戦争」とベトナム人民の闘争
るのである。
ならなかった。
﹁出口 の見え ない トン ネル ﹂ のなかにお かれていることを認めねば
イの正規軍および支援部隊を 三六万 か ら 四O 万(民間警備隊およ び戦
ベトナムの米実戦兵員を一万二000から一万五000に、カイラ
隻の河川用舟艇 、M山装甲兵員輸送車 (Mmの改良型)をあたえ、南
式の HU--Bヘリコプ ターのかなりの機数、八隻の艦艇、一 O O
権をとりもどすのをたすけるために、アメリカは、これに、超最新
さなかった。サイゴンの軍隊がど のような代価を支払ってでも主導
すぎたが、戦争は、ホワイト・ハウスが期待していた結果をもたら
一九六二年には、南 ベトナム平定のた めに予定された一八カ月が
形勢は一転した
凶 戦 略 村 の建設。一 九六二 年末 まで に、南ベ トナム の 一万七0
0 0の村のうち 、四四O Oの村が解放され、八九八O の村が敵の支
配を無力にした 。 こうして、敵の制圧下から脱した人民の数は、七
000人
00 0人
一九六一年一九六二年
000人 八 万 五
000人 五 万 人
000人 五
000人 三 万 人
O六機に損害をあたえた ことだ った。捕獲された武器(約一万)は、
楽観論が、指導層のあいだにみなぎった。ハ!キンズ大将が﹁政
略村の﹁戦闘青年﹂はこれに入ってい ない )に増やした。
官は、一九六三年の 二月からは﹁ベトコン﹂ののど首をおさえてし
まう、と吹聴した 。 アプパックであることが起こったのは、このと
府軍﹂は予想よりも早く勝利するだろうと語る一方、米海兵隊司令
きだった。
﹁一八カ月間というも の﹂││解放放送は言明した││﹁わが人
民の武装勢力は、アメリカ uジェム一味の気ちがいじみた攻撃に
アプパックの転換点
0 0の小さな部落、だった。
前よりもつよくなっている﹂。
O人以上ーーーがいて、毎年五億ドルをついやしていたにもかかわら
二000人のジェムの兵士を送ってこれを破壊することにきめた。
たことを知ったハ iキンズ大将は、ロパ lト・ヨ lク将軍指揮下の
﹁ベトコン﹂ 第五一 四大隊がここに陣どっ
ず、ケネディは一九六二年一二月一日の記者会見で、アメリカ人は
アプパック(ミlト省)は、サイゴンの南西六0 キロにある住民六
南ベトナムのゲリラに直面して大きな困難にであっていること、
南ベトナムに二万のアメリカ人ーーそのうち将官一四人、佐官五
か、人民の武装勢力はたたかいによってきたえられ、いまでは以
直面した。侵略者どもの期待したように戦闘不能となるどころ
けでなく、まったく実現不可能なことが証明された。
ステ lリ i Hテイラー計画は、予定表どおり実行でき なかっただ
ほとんど 一
O O個中隊を装備させるに十分だった。
新たな事実は、人民勢力が、六二機のへリコプ タlを撃墜 し、一
lll脱 走 一 万 七
fil
捕虜三
│ │死 傷 一 万 三
戦闘不能三万三
敵の損害は、いちじるしく増大した。
O O万、すなわち住民の半分に達した。
第二部
80
アメリカの 「
特殊戦争 JC1 961~65年〉
はじめて敵の機動勢力が、へリコプタ l 一五機、河川用舟艇二ニ
隻、M m水陸両用車一三両 、一 O五ミ リ砲 一個中隊とともに、戦闘
に投入された。一 000発以上の弾丸が発射され、何十 トンもの爆
弾が何時間もたてつづけに投下された。
一五時間の戦闘ののち、人民解放武装勢力は、四五 O人(うちア
メリカ人一一二人)を戦闘不能にし 、ヘリコ プタ ー六 機を撃墜し、一
五機に損害をあたえ、河川用舟艇二隻を沈め、三両の Mm(そのな
村のなかの戦闘陣地、地下の隠れ場、連絡壕が、砲撃を無効にし
かで敵の兵士三六人が焼け死んだ)を破壊 した 。
ていた。﹁戦闘村﹂は、いちじるしく有効であることを証明した。
H
パイロットは救援をえられず、カイライの一大隊はアメリカ人の命
令を遂行することを拒否した。これらすべてのことは、アメリカ
ジェムの﹁戦友精神﹂を雄弁にものがたつていた。
戦術的経験に富む この勝利に 刺激されて 、全住民は﹁アプパック
に見ならって敵を一掃せよ﹂という合言葉をもった大々的な運動を
はじめた。アプパックは転回点となり、解放勢力が大きな軍事的成
果をおさめる局面の先ぶれとなった。
襲 撃 と 反 撃(一九六三年一月 l六月)
一九六三年の前半に敵は 一万四七 O回 の作戦をおこない、そのう
とが証明された 。 アプパ ックの会戦は、断固たる戦士と防備をかた
れ、その回数も猛烈さも前年の程度をこ与えていた。敵の損害も、一
九六二年前半の三倍にふえた 。 すなわち、死傷三万三三七O人(う
どの地域にたいしてもたえず長期かつ大規模な作戦がおこなわ
を別にしても、一カ月に一五 OO回から二000回の歩兵の襲撃が
おこなわれた 。
ち の八O O回は一個大隊以上 の兵力によるものだった 。砲撃と空爆
めた村、がアメリカの切札(ヘリコプ ターと水陸両用車)を 阻止でき るこ
ちアメリカ人三九二人)、捕虜一七四 O人、人民解放武装勢力に捕獲さ
陣地にかくれたゲリラは、敵を至近距離までひきつけて、ゼロ地点
で彼らを射撃した 。徹甲弾をもたないアプパ ックの防衛者たちは、
とを示した。これは偉大な発見であった。
アプパ ックは、士気の重要性をあきらかにした 。人民の戦士は、
M mの車内に手摺弾を投げ込んだ 。 ヘリコプ ターも非常にもろいこ
毅然たる態度でたたかい 、至近距離に敵をひきつけて引金をひくの
れた武器五000。
損害をわざと少なくしたハ lキンズ大将の報告でさえ 、一九 六三
に、サイゴンの兵士たちは水陸両用車とヘリコ プタ ーばかりたより
らべて三三%ふえたこと、一方﹁ベトコン﹂の損失は三O%へった
年の前半を通じて﹁政府﹂軍の死傷は、一 九六二 年の同じ時期にく
にし、ヤ ンキ ー の将校の命令に厭々ながら従うのだった 。
アプパックはまた、アメリカ人とカイライ軍隊の矛盾を暴露した。
ことを認めていた 。武器の損失については﹁政府﹂側は三O%ふえ
アメリカ人は、カイライの軍隊には戦闘性が欠け、カイライの将校
、がアメリカ人の勧告をきかないといって非難した。彼らは、ディン
﹁ベトコン﹂は二五%へったとしであった 。
一九六三年の前半には、次のような作戦がおこなわれた。
ト ゥオン省省長とM m中隊指揮者の罷免を要求した。会戦中に、ア
メリカの少佐は沼のなかにおきざりにされ、包囲されたアメリカの
8
1
四
アメリカの「特殊戦争」とベトナム人民の闘争
第二部
ブ(愛の波)﹂作、戦は、﹁ベトコンのもっとも強くもっとも古い基地
一四機と大きな損害をこうむった。敵の防衛陣地は動揺し、二ハの
び戦闘艇)にもかかわらず、戦闘不能五七四人、撃墜あるいは撃破
兵力の誇示(兵員二 OOO人、 Mm水陸両用車一 O O両、五O隻の砲艦およ
一
一
日
)
。
││旧抗戦D地帯のふいのかれいにたいする襲撃(一月六 t 一
の一つ﹂、カ l マウにたいしてむけられた。三カ月の予定だったこの
ー
l 一九六三年一月三日にはじめられた﹁ウェイブ・オブ・ラ
作戦(参加兵力は、河川用舟艇三 O隻、第七師団の歩兵二個連隊、海兵およ
大いそぎで中止された。敵は、六O O人(うちアメリカ人大尉一人)が
ン作戦(第一・四半期の末)。﹁共和国軍﹂放送は、一九六三年四月二
哨所と一九の望楼から撤収しなければならなかった。
││クアンガイ省西部および北部における小﹀九千﹀およびラ必戸
び特別挺身隊三個大隊)は 、損害が大きかったため、わずか二カ月で
戦闘不能になり、一隻の砲艦が沈められ、一八桂文が損害をうけ、航
O 日に、一週間のうちに
か小・小
おこなった﹂ことをみとめた。
村の望楼、警察哨所、歩兵師団の司令部にたいして一二回の攻撃を
﹁ベトコ ンが 、クアンガイ市内外で、戦略
空機一機が撃墜され、一機が損害をうけた。
ーーードゥック・タン I作戦(一九六三年三月一三 t 一五日)。ヘリコプ
I Aジェット・ヘリコプター、 B初戦闘
ター二O機、数十機の H V、
一九六 三年七月から一 O月まで、人民解放武装勢力は 、連続的に
-J
小爪れ小
ト││第一、 =P1UJ
に投入された。敵は、この人民の基地のまわりに﹁鋼鉄の輸なわ﹂
された九000人が、アプパックのちかくの葦平原に接する数カ村
っとも重要なのは、うたがいもなくロックニンの勝利だった。ここ
大きな成功をおさめた。一 O月は出来事が多かった、が、そのなかでも
爆撃機、 L mおよびT m偵察機、 M m水陸両用車、砲艦によって支援
を投げ、人民の部隊をいけどりにすることを狙っていた。だ、が、ア
H
カイライ勢力は、行くさきざきで悩まされ、狙撃兵、とげ
メリカ
では、一 O月一七日と一八日に二つの哨所を全滅させることによっ
ム司令部は、反撃のためいそいでソックチャンから陸路と水路で二
H
ジェ
をうえた落し穴、地雷によって大打撃をうけ、三O O人の戦闘不能
て攻勢を開始したのは、人民解放武装勢力だった。アメリカ
000人を派遣した。戦闘機が、部隊をおろすヘリコプター一七機
││空輸作戦ミlティア(流星)I号(一九六三年一月一了六日)とミ
者、二台のM m撃破の損害をうけたのち撤退した。
lティアE号(一九六三年三月二四 t二七日)は、タイニン省のドゥオン
・ミン・チャウ旧抗戦地帯 の奇襲占領と 、ここ の解放武装勢力の撃滅
八O %にたつする損害﹂ (AP) をこうむった。
まった同
た││﹁臼砲の砲火によって二、三分のうちにこなごなにされてし
O O人の兵 士、が、戦場の中心に突入するた め、ロ ックニンの北
一
を援護したが、着地にあたって部隊は、﹁この会戦の全死傷者数の
を目的としていた。ハ lキンズ大将とトン・タット・ディン将軍の直
に降下した。﹁しかし降下した二つの分遣隊は﹂ 1lAPは報道し
uジェム一味に一三O人の損害を
接指揮のもとにおこなわれたこの作戦は、完全な失敗に終わった。
ーーー三月九日から一一一日までゾンチォム(ベンチェ省)にたいし
ておこなわれた掃討は、アメリカ
出させた。
8
2
アメリカの「
特殊戦争 J(l 961~65年〉
レイ
ンジャ
ー
ナ﹂ではこばれた三O O人の特別攻撃隊員は 、もうれ つな抵抗にぶ
﹁彼らは泥のなかを腰までっかつて歩き、大損害をうけた﹂ (UP
。空輸されたほか の増援隊 は撃退さ れた 。 二一機 の﹁空飛ぶパ ナ
I)
の供給をた ち切ったり、住民を服従させ るためにクアン ナムでやら
れたような﹁飢餓作戦﹂をおこなったりして 、自分たちが支配でき
ない 地域の経済の破壊につと めた 。
の
一 O省の平定をめざしたハ lキンズ大将の計画が、それだった。
敵は、豊かで人口の多い省に攻め入ろうとした。ナムボ ・デルタ
夜になると、サイゴンの軍隊は、死傷者をおきざりにして、いそ
つかった 。
おこなわれた﹁作物保護﹂出動の主要な目標であった。﹁デルタ﹂
省の肥沃な水 田地域であ るラックティ エン県を孤立させることを目
動(一九六二年四月)は、住民の米を強奪し、貯蔵することを目的と
していた。﹁下 h-ヂト﹂出動 (一九六二年一 O月)は 、ダツクラック
出動は、 メ コン流域の 制 圧 を 狙 っていた 。クアンナム 、クアンガ
イ、ピ ンディン 、 フiイヱンの諸省でおこなわれた﹁米穀保存﹂出
キヤンベイン
それはまた、一九六一年末と一九六二年初めにナムボ西部の諸省で
いで撤退した 。ロック ニンへの侵入をくわだてたア メリカ 日カイラ
イ司令部は、こうして大打撃をうけた 。すなわち、六O O人が戦闘
不能になり(そのうちアメリカ人将校の死者二二人)、ヘリコプター四機
人民解放武装勢力は 今や、ヘリコ プタ ーで 空輸される部隊を、彼ら
的としていた。
が撃墜され 、 O機が損害をうけ、三つの哨所が撤収された。
一
ロックニン二
は、人民解放武装勢力の新たな戦術的進歩を示した。
の基 地から遠くは なれた平坦な土地で うちゃぶる ことができた 。
止した。ある地域では 、彼らは 、農民に 籾を 軍事哨所にあずけてお
民にたいして 、米を田(一時的にでも)や家に貯蔵しておくことを禁
カイライ当局は、徹底的 な米穀統制制度をもうけた 。彼らは、住
ロックニンは ゴ・ディン・ ジェ ムを他の人間ととりかえるという
アメリカの決定を早めるのに役立った 。彼 はまったく無能なこと が
証明された。
き、必要なときに少しずっとっていかせるようにした 。 ピントゥア
経済戦争
して籾をただ同然で売りわたさせた 。クアン ガイ省では、 高地の住
らにきびしかった。ロンアン省では、カイライ当局は、農民に強制
かとっておくことを許されなかった。西部高原では 、米の統制はさ
ン省の﹁危険な﹂地域では 、各家族は、三日あるいは五日分の米し
﹁特殊﹂戦争の重要な一面は、住民の経済生活に打撃をあた与える
経 済 戦 争 ・化 学 戦 争
こと にある。アメ リカ統合参謀本部議長 ホイ lラ !大将は、サイゴ
ン訪問中に、軍事活動は南ベトナムの﹁共産主義者一をいかにして
ろに脱穀場をつくることが禁止された。商人と農園の米の貯蔵も制
民に米 ・塩 ・農具を売ることと、哨所や市場から遠くはなれたとこ
一
O O人の労働者のための米の貯蔵が三分の一にへらされた。これ
限された。トゥアティエンのゴム園では、一九六二年七月から、玉
打ち破るかという問題の解決の三分の一をし めるに すぎ な い。他の
三分の二は政治的および経済的なものであるとのベた。経済戦争
は、特殊戦争の重要な部分である。敵は、物資(米、塩、衣類、農具)
8
3
五
アメリカの「特殊戦争Jとベトナム人畏の闘争
第二部
高原へもっていくことを許されなくなった。
間人は、米をサイゴンからナムボ東部へ、あるいはナムボから西部
ようにするためであった。一九六二年の末には、商人やその他の民
は、労働者たちが、自分たちの米の配給分をゲリラとわけあわない
五号沿い、ピエンホアおよびダナンの周囲にたいし て、五O回の毒
クチャン、、ザック、ザ!、パクリエウの一一省、国道二ニ 、一四、一
ザlライ、ピ エンホア、パ lズィア、タンアン、チャ lピン 、ソ ッ
この一七カ月の期間に、クアンガイ、コントゥム、ピンディン、
た二九六二年一月一 O 目、ファンティエツト省北部を襲撃したサイ
も一九六一年にアメリカ人は次のような計画を作成していた。すな
て、これに大きな期待をかけていた。ロイター通信によれば、早く
物散布出撃がおこなわれた。
。
へンタゴンは、化学戦をゲリラに対抗する主要な切札とみなし
敵の残虐さは、しばしばすべてを焼きつくし、すべてを破壊し
二六日から四月二五日までに、サイゴンの軍隊は、第二戦術地域で
ゴンの軍隊は籾八五0 トンと米一 0 トンを焼いた。一九六二年三月
で数千平方キロの面積にナパ l ムを投下し、そのあとこの地帯を包
わち﹁枯葉剤﹂の強力な使用によって旧抗戦D地帯を丸裸にし、つい
囲し、脱出をはかるものをすべてみな殺しにするというのである。
一
O 七トンの米と六五0トンの籾を焼いた。一九六二年五月に、彼
焼き、一五O Oへクタ l ルの果樹園をあらし 、三000戸の家に放
ザ lは二三キロ
火した 。 一九六三年のはじめ、彼らは、二万ザl ︹一
た
。
らは、タイニン、ピエンホア、パ lズイアの三省で、六00トンの籾を
グラム││訳注︺の籾を強奪し 、そ の他の一万トンをその場で台なし
大衆のあいだに基地をもっていることを知った敵は、これらの毒物
燃やされた。
タl ルの乾燥した作物、四O のミカン園、二五九へクタ l ルの稲田
ム、一五へクタールのコーヒー、七七へクタi ルの果樹園、玉へク
両側おのおの一キロメートルの幅で、二0 キ ロ メ ー ト ル に わ た っ
は、化学戦が促進された。国道一三号線(ピエンホア省)は、道路の
一九六二年には、ゲリラが森林のなかだけでなく、主として人民
一九六一年には毒物散布は、実質的には試験的におこなわれてい
(ビンディン省)で、収穫期の作物三O ヘクタールが、ホング!(チ
にした。フ iイエン省におけるハイ・イエン出動中、彼らは一三O
O頭の牡牛と水牛を屠殺した二九六二年四月には、アントウツク県
をデルタや、彼らが支配できない地域に投下した。一九六三年に
化学戦
が台なしにされた。多くの人々が、吐き気、出血、意識喪失などの
ヤウド ック省)で成熟期の稲四O ヘクタ ールが、爆弾とナ パ l ムで
化学戦を担当しているデルモア将軍は、サイゴンに司令部をも
重大な中毒症状を呈した。散布の二日後に、アメリカ
ハイウェイ沿い、自分たち の基地の周囲、ときにはデル タの果樹園
めに住民を戦略村においこんだ。
隊がこの地域をおそい 、 封 じ 込 めから﹁保護する﹂(原文のまま)た
H
カイライ軍
て、毒物を散布させた。損害は甚大だった。八二へクタl ルのゴ
二年末まで、アメリカ目カイライ一味は、山岳地域、森林、重要な
ち、ハ lキンズ大将の指揮下にあった。一九六一年八月から一九六
地域に毒物を散布した。
8
4
アメリカの「特 殊戦 争J Cl 961~65年〉
化学戦は、一九六二年一一月以後さらに強化された。メコン・デ
公にされたプログラムによれば、ア メリカ
あわせて約一万七000の村および部落がある。
年半以内に、すなわち、一九六二年末以前に一万六三三二の戦略
H
カイライ一味は、一
ル夕、とくにベンチェ、ミiト、ゴ l コン、パックリエウの諸省に
たいして散布、がおこなわれた。
ちがとじこめられることになるこれらの強制収容所をつくるための
村(町をのぞ く)を建設することを意図していた。人民は、自分た
人力、金銭、資材を出すことを強制された。ふつう用いられた方法
一九六三年一二月一日から一九六四年一月一五日までに八回の散
毒させられ、数千ヘクタールの作物が台なしにされた。一九六三年
は、人民をかりたて戦略村においこむために、やつぎばゃに襲撃を
布出撃、がおこなわれた。五七O O人 (うち 約三OOO人は子ども)が中
一二月二三日には、カンピンドン(カ lマウ省)だけで、一 000人の
おこなうことだった。
した 。 アメリカのいくつかの衛星国は、サイゴン政府を有刺鉄線で
一九六二年には、アメリカ人は戦略村に四000万ドルをついや
人々(うち玉OO人は子ども)が中毒した。一九六四年一月八日のプ
した。二、三カ月のうちに数千トンの毒物、が、南ベトナムにもちこま
ほかにも、鉄筋コンクリートの柱、大釘、有刺鉄線、竹棒などあら
レイホル(ダックラ ック省)の 作戦では、犠牲者の数は五O O人にたつ
れた 。そのなかには、枇 素、2・
415T(高度に濃縮され
4 1 D、2・
ている)、D N P、D N C等々がふくまれていた 。 一九六四年の末ご
ゆるものの代金を払わねばならなかった。
こでは、十何種もの税金をはらわねばならず、小暴君の意のままに
をすてて戦略村のなかに自分をとじこめるものは、誰もいない。そ
もちろん、みずから進んで自分の家、自分 の庭、自分の父祖の墓
﹁援助﹂した 。住民は人力を提供しなければならなかった、が、その
ろ、ダナンの多くの波止場人足が、これらの毒物をとりあつかった
ために中毒をおこした。
人々は、可能なあらゆる方法で化学戦に反対した 。 カイライ軍隊
った。
されるのである。敵は、もっとも野蛮な方法にたよらねばならなか
の多くの兵士や将校もこれにくわわった。彼らは、親たちが中毒し、
財産に損害をあたえられたのだった。フンミi、フォンディエム、
││襲撃と虐殺。一九六二年と一九六三年の襲撃の大半は、住民
i放火と逮捕でおどかして、人々に家を取りこわさせる 。
ーl
ピンチャイン、フ l ヌアン、クラオオク、クオイタイン(ベ ンチ ェ省)
では、すべての民間警備隊員と民兵が、大衆といっしょになって犠
│ │ l﹁危険な﹂地域に毒物を散布する。
くちゃにし、米を強奪し、家畜を屠殺する。
11 経済を破壊する 。すなわち、作物を燃やし、果樹園をめちゃ
つた。
を強制収容することを目的としていた。砲兵の砲撃の目的もそうだ
牲者にたいする医療と損害賠償を要求した。
﹁戦略村﹂
サイゴン政権によって、﹁国家政策﹂と考えられた戦略村の設置
_Jーー
は、特殊戦争の戦略の中軸を構成していた。南ベトナムには、大小
85
ノ¥
アメリカの『特殊戦争」とベトナム人民の闘争
第二部
えた堀、地雷原、コンクリートの防舎のある防御囲いの内側で、民
とのできる﹁とりで﹂にかえることである。ゴ・ディン・ニューは、
﹁ゲリラに決戦をうけいれさせる﹂こ
ること、ができるだけでなく 1 1 1
いた。
畳辛骨ちゅ、南ベトナムの村々を││愛国者の武装勢力を撃退す
ひとたび閉じこめられた農民は、棚、有刺鉄線、大釘を一面にう
ぶかい環境からきりはなされた。家々は、﹁家族グループ﹂を形成
一九六二年八月一三日)。﹁軍事面では、戦略村は敵を孤立させ、人民
戦略村を自慢して次のようにいった(クチ戦略村開設のさいの演説││
兵﹁共和青年団﹂、﹁人民自衛隊﹂の監視のもとに生活し、なじみ
するために壁をくっつけてたてられ、各家族は他のすべての家族に
きたときにはいつでも、その席についていなければならなかった。
敵の占拠する都市中心地と基地の安全を保障する﹁帯﹂を構成する
戦略村は、公道にそった哨所の体系とともに、農村地域を分断し
からきりはなし、わが方に有利で彼らに不利な条件のもとでたたか
たいして責任をもたされていた。子どもも大人も、家族簿と入口の
住民は、写真と指紋がはられ、プラスチックでつつまれた身分証明
ことになっていた。
勝恥骨判、除、戦略は、人民の闘争を粉砕し、革命基地を破壊し、
わせる同
めい二枚の身分証明書をあたえられた。一枚は黄色で、村のなかで
書をあたえられた。ザiディン省では、一 O歳以上の民間人はめい
ため、住民にたいするカイライ政府の支配を回復するのを助けるこ
村におけるカイライ行政機構、情報網、反動組織をつくりあげ、か
かに自分の名前をしるしためいめいの席があり、看視人がまわって
いったりきたりするためのもの、もう一枚は緑色で、村の外へ出る
戸にさがった板に、写真をはられていた。多くの戦略村では家のな
ときのものだった。農民は、朝はやく田畑へでかけて夕方おそく戻
問所をとおっていかねばならなかった。こうして、戦略村に収容さ
リラにたいする供給をたち切り、人民を意のままにすることを期待
的物的資源をつかみ、同時に、食糧の貯蔵をつかむことによって、ゲ
とになっていた。
経済骨で除、敵は増大する戦争努力に役立たせるために農村の人
ってくることができなかった 。村の出入りは、きまった時刻に、検
った。そのうえ、農民たちは、あらゆる種類の強制労役を課せられ
れた農民たちは、自分たちの田畑を荒廃にまかせなければならなか
会や﹁学習﹂への出席、﹁政治活動﹂、﹁共産主義者糾弾﹂への参加、
ち、役人・秘密探偵・民間警備隊員・民兵の地位と特権をつよめる
こない、反動地主の権利を回復し、村のなかの従僕ども、すなわ
していた。
社会面でゆ敵は、住民をあざむくために若干のいかさま改革をお
ていた。役所や軍事哨所の建設、軍事訓練、警戒演習、警備番、集
等々。籾やその他の食糧は、住民がゲリラに渡すのを防ぐために、
﹁ゲリラ﹂あるいは﹁ベトコン﹂の容疑者は、拷聞にかけられた。
になっており、三段階からなっていた。第一段階では﹁平定﹂地帯
ことを計画していた。
計画の実施は﹁油のしみ﹂の方法にしたがっておこなわれること
まとめて貯えておき、一日分ずつ配給された。
アメリカ人にとって、戦略村の建設は、革命運動を粉砕する特殊
戦争の基本的戦略の一つだっ b。それは、次のような目的をもって
8
6
アメリカの「特殊戦争 JC1 961~65年〉
に、第二段階では抗争地帯に、最後の段階では、敵が再征服を狙っ
そのほかに、身体の強健なすべての若者と男たちは﹁人民自
。
│ │情報および﹁対敵政治団体﹂のグル ープ
のメンバーのなかに国防相、内相、民間問題相、農村改革相、教育
﹁戦略村特別中央委員会﹂は、ゴ・ディン・ニューを議長とし、そ
これらすべての勢力は、村行政委員会の指揮下におかれてい
た。
衛、あるいは戦闘のさい正規兵を助ける任にあたる。
衛﹂勢力の小隊あるいは分隊に登録されており、戦略村の防
相、公安相および警察相をふくんでいた。この委員会は、アメリカ
ための事務所、集会所の建設、ごまかしの﹁援助﹂の組織。
凶警戒および対ゲリラ作戦の訓練、行政機関および反動組織の
統一的な指揮系統が、上から下まで組織された。最高レベルの
ている解放区に、﹁、戦略村﹂が建設される。
作戦使節団 (USOM) の下にある﹁農村問題小委員会﹂とアメリカ
で、住民の強制収容に反対し、戦略村の破壊をめざすたたかいは、
容疑者の告発と絶滅がはじまる 。 一九六一年末から一九六三年末ま
これらの段階のあとで﹁内部戦線﹂すなわち、愛国者またはその
﹁戦略村指揮委員会﹂の指揮と直接統御のもとにおかれていた。各
軍区には﹁戦略村監査部﹂があり、各省、各県、各村には﹁戦略村
南 ベトナ ム人民にとってもっとも重要な課題であった。解放民族戦
建設特別委員会﹂があった。
戦略村の建設は、通常、四段階におこなわれた 。
第一段階(一九六一年末 t 一九六二 年五月)。
住民は、戦略村計画の実
ちあがった。
線のアピールにこたえて、 大衆は、広範 か つ継続的な反乱運動に立
川猛烈な襲撃をかけ、つ号ついて住 民をかりあつ め、洗脳し、 建
設資材をあつめる 。
施をおくらせ、それによる損害をへらすことにつとめ、一連の戦略
。
村の防御囲いと防御施設をつく る
同行政機関、反動組織、スパイ網をかため、武装勢力および準
村を破壊した。敵は、行動計画を幾分切り下げなければならなかっ
ω
軍事勢力をつくる(一つの戦略村の武装勢力およ び準軍事勢力は、通
ば、一九六一年一一月、サ lデック省の住民は﹁副大統領﹂グエン・ゴク・
時には、数千の人々があつまって﹁大物﹂の道をさえぎり(たとえ
村、県の中心地、省都でおこなわれ、一日あるいは数日間つづいた。
闘争の形態は、集会、デモ、請願などさまざまだった。デモは、
ことに力をあつめた。
村の建設に力を集中したが、人民はほかのところで戦略村をこわす
第二段階(一九六二年六月以後)。敵はいくつかの地域における戦略
た。しかしながら、敵は、大衆が破壊したものを修復した。
常、次のものからなっている)。
││自衛挺身隊のグループ。自動小銃、小銃、手棺弾で武装
している。このグループのメンバーは共和青年団のうちからえ
ー
l ﹁農村防衛青年団﹂の小隊。若干の戦闘グループ、杭を
らばれる。
o
植え地雷をうめることを担当する一グループ、情報・連絡の一
グループからなる。
lla
補給グループ。
ーーー応急手当グループ
87
たない老人たちが、ジェムの手先を逃走させ、また、ブルドーザー
方をするよろ兵士たちを説得しようとした。ゲリラと人民解放武装
ときには、もみあいがおこった。人々には時間をかせぎ、人民の味
が家を倒し、庭や財産を破壊し、住民を戦略村においこもうとした
イ当局のでたらめな約束にたいして、当局とはげしく議論した。敵
トをとめた)、戦略村のとりけしを要求した。時には、大衆はカイラ
。
を明らかに してい る
略と分断の政策にくわえられたもっとも手いたい打撃であったこと
一九六三年に住民は戦略村の大半を粉砕したことを、これは敵の侵
一九六四年の解放民族戦線第二回大会での報告は、一九六二年と
みついていることが発見され、戦略村が敵の空軍によって爆撃され
ることもしばしばだった。
た。﹁ベトコン﹂が﹁政府当局﹂の黙認のもとに住民のあいだに住
。
だ った
J
人民の英雄的闘争は、敵の軍事作戦を失敗させることによって、
骨
RT
敵の陣営内の矛盾を激化させた。解放民族戦線の勝利は、抑圧機構
Hジ ェ ム 政 権 の 危 機
けで、数百万の人 民を戦略村反対に動員した。やっとできあがった
をうちくだくことによって 、都市 の住民をはげま し 立 ち 上 が ら せ
ア メリ カ
が戦略村のあとに入った。
hいk
r除除、 戸山、必勝階九い山貯按JPLvbhMJいわ介争か
動静A
r勝也r
られたものをふくめて、戦略村の八O %は完全に破壊された。三九
0 0の戦略村は、人民勢力のための戦闘村にかえられた 。愛国勢力
一九六三年の末までに、町のまわりおよび主要街道にそってつく
勢力は、多くの反撃をおこない、敵の計画を粉砕した。小万しかも
のまえに身をなげてこれを止めた。
丈夫な身体をもった若者たちは、ゲリラや人民解放武装勢力に加
わり、あとには老人や婦人や子どもたちだけがのこった。時には人
々は、敵の支配下にない村や解放地帯に移動した。山地の住民は、
たたかいな、がら、もっと山深い森林のなかへ引き込んだ。
uジェム一味は、一九六二年中に
一九六一年末までに、強制収容に 反対する住民の闘争がひじよう
にはげしくなったので、アメリカ
一万六三三二カ村と予定していた 戦略村の目標を六000村に引き
戦略村は六000どころか、わずか三000にすぎなかった。この
下げねばならなかった。軍事作戦を別にして、一九六二年のデモだ
うちの一五O Oはのちに破壊された。一九六二年の玉月頃には、敵
た。アメリカ
になった。一九六三年五月八日 、フエで仏陀 の祝日を祝う信者たち
仏教徒と学生のたたかいは、矛盾をいっそうするどくさせること
uジェムの二重唱はますます調子、があわなくなり、終
は破壊された村を再建することができた。しかし、一九六二年の六
局をむかえた。
人民によって彼ら自身の﹁戦闘村﹂にかえられた。再建後、住民に
に警察が発砲した。一四人が負傷し、三人が殺された。そのうちの
一人は子どもで、アメリカの戦車のキャタピラでふみつぶされたの
よって何回となく破壊された村もある。
一九六二年 の 末 頃 に は 、 戦略村のなかでしばしば戦闘が起こっ
は、三O Oカ村が修復できないほどに破壊され、別の一 OOカ村は
月以後にはもはや一カ村も再建できなかった。一九六二年の後半に
七
アメリカの「特殊戦争」とペトナム人民の闘争
第二部
8
8
だった。怒りの波、
が国中をおおい、サイゴン、フエ、そ の他 の大都
て
、 メコン ・デル タと西部高原 から人民勢力をおいだし、作戦の主
百の哨所の撤収後利用できる勢力の集中、機動部隊の創設を利用し
一九 六四年 のは じめに 、ア メリカ軍 司令部は、乾季と孤立した数
導権を奪 回す ることを狙った 。
市をまきこんだ。テ ィック ・クアン・ドゥック師は、抗議の焼身自
アメリカ人は 、す べての犯罪にたいする責任を 、実際には命令に
殺をした。
マクナマラ計画は、情勢の悪 化に
一九 六四年三月にマクナマラがふたたび サイゴンにや ってきた 。
一七日 に採択さ れた ジョンソン
したが っていただけ のジェムにお し つけようとし た。ジェムは 、役
に立たなくなり、無用になり、荷物になっ た。彼を処分 してし まわ
た。ワシン ト ンは 、前よ りも多くの力を つ ぎ こ ん だ に も か か わ ら
対応するための 、 ステlリlHテイラー計画 の改訂版にすぎなかっ
は、サイゴン最高司令部の下の﹁特別区﹂ であるロンアンに集中し
た。
ト、ロンアン、ザiディン、ハウギアの七省である。最後に、それ
を平定すること しか 考えなかった。すなわち 、 ま ず第一に 、 メ コ
ン ・デルタであり 、 つぎにピンズオン 、タイニン 、ベ ンチェ 、ミ l
ず、もはや国の全域を平定する ことを考えず、少数のかなめの 地域
H
ねばならなかった 。アメリカの秘密機関は 、前から代り の札を用意
アメリカのケネディ大統領は、一九六三年七月一七日の記者会見
していた。
で、仏 教徒 と南 ベトナム政府 のあいだのあらそいが﹁反共戦争﹂に
ニューヨー ク ・タイムズ﹄)。
たいするアメリカの援助の有効性を危険にさらしてい ると言 明した
アメリカ人が一九六三年八月に予定していたクーデターをかぎつ
けた ジ ェムは、機先を制して 戒厳令を布いた。それによって陰謀を
マクナマラは、一九六三年一二月にはじめられたロンアンの平定
ト
を一二カ月以内に完了することを計画した 。だが一年後に﹃ラ ・
瓦解させ、都市に おけ る扇動をやめさせる ことを狙っ たのである。
だがそれでも、彼の反対者がアメリカの援助をうけてクーデ ターを
力はサイゴンの郊外さえも制圧していた。 このことは、ア メリ カ人
自身がみとめていた。﹁実際のところ 、政府はもはや 農村を支配 し
ていない 。ロンアンお よびディントゥオン両省の住民一一 O 万人の
リピュン ・デ ・ナシオン﹄(一九六四年二月六日)によれば、人 民勢
おこすのを阻止できなかった 。一 九六三年一一月一日に ジェムは軍
事政権によ って打倒され、弟の ニュ!とと もに殺された。
ズオン ・パン・ ミンのひきいる軍事政権にかわっても事態は好転
し な か っ た 二 九 六三年一二月一四日の U PI電報は 、一一月に ﹁ベ
トコ ンは 、これ までにないはげしさで南ベトナム全域にわたって攻
P I、一九六四年二月二日)。﹁五九OO人いた、ザン・ベ(民間警備
うち八O %、す なわち一四の県中心地と二つ の省都以外の ところに
住むほとんど全員が 、ベトコ ンの支配 下に ある と推定される﹂ (U
隊員)のうち大部分は脱走するか、ベトコンのために戦闘不能にさ
撃を 強化し、政府軍に今年のはじめ以来もっとも重大な敗北をあた
た。カイライ政権の政治的危機は、回復できないほど深まり、アメ
せられた﹂(同通信)。
e
えた﹂ことをみとめた 。それ以来、クーデターがつ つ
いて起こっ
リカ軍司令部のあらゆる軍事計画の失敗をもたらした 。
8
9
﹃
(
アメリカの「特殊戦争 JC1 961 ~65年〉
アメリカの「特殊戦争」とベトナム人民の闘争
第二部
一九六四年を通じて人民勢力は、四万四の戦闘をまじえ、一三万
では、それは、チュンボにおける最初の成果であり、アプパ ッ ク ご
九六三年一月二日)以来ナムポでおさめられた成果とおなじように輝
アンラオでは 、人民勢力は六八O人を戦闘不能にし、三一 O の武
器を捕獲し流域を解放した。この勝利はきわめて重要だった。一方
の艦艇および河川用舟艇を撃沈あるいは撃破し、一三九の哨所、地
五000人を戦闘不能にし(うちアメ リカ人一二 O O人)、五四二機の
区、軍事訓練所を掃討し、一万七五OOの武器を捕獲した。
一九五0年代のインドシナ戦争のときに用いたとおなじような戦術
かしいものだった。他方では 、人民解放武装勢力の間断のない、長
期にわたる攻撃は、アメリカの専門家を 仰天させ、﹁ベトコン﹂は、
航空機およびへリコプタ lを撃墜ある いは地上で撃破し、二九二隻
人民解放武装勢力は、みごとな反撃をおこない、アメリカ軍の宿
をアンラオで用いた、といわせた (UPI)。
舎を攻撃し 、 一九六四年一二月のピンジアの輝かしい勝利を頂点と
する重要な攻勢をおこなうことによって、たえず主導権をとってい
省連絡道上のピンザl (パlズィア )の勝利だった。ピン、ザlは﹁特
は、明らかにサイゴンから二六0 キロ、ピエンホアから六五キロの
一九六四年における人民解放武装勢力のもっとも輝かしい勝利
b山
い
いかでか 一骨動岳動の﹁三又戦術
﹂
EFA
殊戦争﹂の複雑な、戦線でおこなわれたもっとも持続的な会戦こ九
た
。
時決勝争、除浴勝争、除
が、つねに適用された 。その結果、ベンチェにおける敵の戦略作戦
一八日)のあいだは、何の手ごたえもなかった。だが、第二波(一一
を攻撃し 、そのさい 、きわめて簡単なやり方で、さまざまな戦術
た敵の増援隊がたえずおくられてくるにもかかわらず、休みなく敵
人民解放武装勢力は、高度な機動力をもち最新式の兵器を装備し
六四年一二月四日から一九六五年一月三日まで)だった。
ディエンホン(一九六四 年三月)は失敗 に終わった。
サイゴン北西の有名な﹁鉄の三角地帯﹂のペンスック(トゥザウモツ
月一八 i一二日)のときには、焼夷弾と燐爆弾の雨の下で潰滅したと
た。敵占領地域のせまい舞台で作戦したのだから、住民と地域ゲリ
││奇襲攻撃、移動、戦、待伏せ 、撹乱、背面攻撃、等々
ト省)にたいする米軍の出撃は、第一波の攻撃(一九六四年八月一一一 i
思われていた解放民族戦線の戦士が、地下の隠れ場から出てきて、
ラの支持と積極的参加がなかったならば、部隊を偽装し 、補給をお
Ips--
を適用し
ボイロイに入った降下部隊に猛烈な砲火をあびせた。迷路のような
聖壕のあいだで道に迷い、反 撃 によって大損害をうけた攻撃者は 、
こない負傷者を撤退させる、等々のことはできなかったであろう。
その結果、敵兵二000人が死傷、あるいは捕虜になり、 二個大隊
四日後に撤退しなければならなかった。
され、一三機が撃破され、三七両の装甲車からなる三集団が破壊さ
れた。ピンジアは、人民解放武装勢力が、作戦の規模のいかんを関
が消滅し、数個中隊が全滅し、航空機とヘリ コプタ ー二四機が撃墜
わず、カイライ軍隊をうちゃぶる力をもっていることを証明した。
一九六四年にはまた、人民解放武装勢力が、四月一一日にピント
、
ザックザ i)、一二月七日にアンラオ(ピンディン)、同じ月に
ゥアン(
人民解放武装勢力の大攻勢
ピン、ザl (パlズィア)で攻撃を開始した。
90
アメリカの『特殊戦争 J (1 961~65年〉
﹁特殊戦争﹂ の失敗
一九六四年末の情勢は一九六四年一二月二三日のフランスの新聞
﹃ラ・クロア﹄紙によって、次のように要約された。﹁﹃平定計画﹄の
ン(ザ lライ省)の九つの重要陣地がふくまれていた。人民解放武装
勢力は、各種兵器七三六Oを捕獲、航空機一一一機を撃墜、砲艦二
六隻を撃沈、九三両のMmをふくむこ七五両の軍用車両を破壊、四
ムボのどの道路も安全ではない。そのなかには、サイゴンとヴンタ
ユンボの諸省は、今では八O%が﹃ベ トコン ﹄の支配下にある。 ナ
接近している。政府がかつては七O%以上の土地を統治していたチ
﹁顧問﹂が住むホロウェイ・キャンプを設けていた。三キロメートル
の司令部のある とこ ろだった。 ここにアメリカ人は、一 000人の
1 1 プレイク(二月七日)。ブレイクは、第二軍団と第二戦術地域
一九六五年の第一・四半期には、二月に次のような勝利がえられ
た
。
村、八つの町と県中心地を解放した。
O Oの戦略村を消滅させ、六五万八七O O人の住民をも っ
一 OO カ
ウ︹セント・ジヤツク岬││訳注︺をむすぶ道路もふくまれている﹂。
った。防衛体系は、無数の聖壕、堀、鉄条網、地雷原、一三の哨所からな
はなれたところには、二000メートルの滑走路をもっ飛行場があ
実施以来、何ひとつ平定され なかった。﹃ベト コン ﹄はサイゴンに
オールソップは、一九六五年一月一日の﹃ワシントン・ポスト﹄
無人地帯でとりかこまれたこの地域に入ることができなかった。
っていた。住民は戦略村におい込まれていたので、外部の人間は、
紙に、アメリカは軍事的にも政治的にも敗北に直面しており、時聞
がたつにつれてアメリカは不利になると書いた。
この危機的な情勢をすくうために、ワシントンは、アメリカおよ
び衛星国の軍隊を直接参加させ、北ベトナムを爆撃することによっ
兵舎と飛行場が災上した。 U P Iの報道によれば、最初のいっせい
榔弾筒のいっせい射撃、がつづいた。ホロウェイ・キャンプの五二の
攻撃は、二月七日の午前二時、臼砲の弾幕砲火ではじまり、三0
01五00メートルはなれたところに布陣した五七ミリ無反動砲と
射撃で一七機のヘリコプターと三機の輸送機が破壊された。爆発の
て、侵略を一段とすす める準備をしていた。
一九六五年 の第一 ・四半期に、人民解放武装勢力は四三OO回の
三O分もたたぬうちに、攻撃者は、多くのアメリカ人将校や技術
特殊戦争はその頂点にたつした
者をふくむ三五七人の敵を戦闘不能(死傷)にし、航空機四二機を
たちに案内されて、敵の寝所をおそった。
隊、九七個小磁を全滅させ、一八一の哨所を破壊あるいはそこから
破壊し、一つの防舎を倒壊させ、飛行場を守っていた一個小隊を全
さなかを人民解放武装勢力の攻撃班は、寝返ったサイゴン軍の兵士
敵を遁走させた。そのうちには、ピエットアン(クアンナム省﹀、ズオ
滅させた。
(うちアメリカ人二二七人)を戦闘不能にし、八個大隊、五七個中
ンリエウ、ザl フ!、ニャ lダ、フ lリ、チョゴム(ピンディン省)、タ
たたかいをまじえた。人民解放武装勢力は、四万五二六O人の敵兵
インタン(トゥアティエン省)、ラオオl (ピンディン省)、カウソl フオ
9
1
八
アメリカの「特殊戦争」とベトナム人民の闘争
第二部
0 メートル、幅
ののち壊滅させられた。一方、人民解放武装勢力は、ポンソンの北八
キロメートルのホアイタインで軍用列車を攻撃した。住民は一連の
lJbDにご(一九六五年二月五日)。長さ一五
に位置していた。一五五ミリ砲一個小隊で補強されたピエツトアン
九0メートルのこの拠点は、コアン川(クアンナム省)北部の丘の上
な地域を解放した。敵はいそいでタムクアンから撤退した。八日に
戦略村をことごとく破壊し、ホアイニャンおよびフ lミi県の広大
ー
は、コアン川北部防衛体系の﹁鉄壁﹂と称されていた。
をあわてて集め、二つの縦隊をつくってズオンリエウl へむかつて
身隊一個大隊、
Mm水陸両用車一グループ、一 O 五ミリ砲二個中隊
敵は、第四O連隊ののこりの部隊、第四一連隊の一個大隊、特別挺
攻撃をうけた。人民解放武装勢力は、有刺鉄線に突破口をあけ、中
前進させた。最初の縦隊は、フ lミーとズオン リ エウーのあいだの
この前哨地点は、二月七日午前二時二O分に人民解放武装勢力の
一五五ミリ砲二門、一八ミリ臼砲二円、無反動砲一門等々を分捕っ
ニョン陸路で待伏せにあって全滅した。敵はこのとき、死傷あるい
は捕虜六六三人、水陸両用車一 O、兵器二二二の損害を出した。
心部に突入した。彼らは、一二分の戦闘ののち敵を戦闘不能にさせ、
た。﹁団結・勇気・勝利﹂の旗、がひるがえった。ピエツトアンの奪
ト
二月の勝利は、人民解放武装勢力の到達した戦術の水準を物語っ
ι ヤ壬札所臥WA
い
かbh﹂、小ト一小川勝れいか治
ていた。人民解放武装勢力は、ム γ
取は、コアン川北部の防衛体系を震骸させた。敵は水陸両用車二個
て、二O O人の兵士と一つの装甲グループを失った。残りの敵は、
きた。
大隊をあつめ、この拠点の奪回を企てた。だが待伏せ攻撃にあ っ
算をみだしてタムクアンにむかつて撤退した。
人民の戦略村破壊闘争がピンディン省でわきかえっていたとき、サ
リラ運動を鎮圧することはできなかったからである同
ムズ﹄は論評した。﹁なぜなら、幽霊の軍隊に爆弾をおとしてもゲ
むなしい期待だったと一九六五年三月八日の﹃ニューヨーク・タイ
ット、タイニン、ザlライ等の民間住民に野蛮な爆撃をおこなった。
打撃をあたえることを狙って、パズイア、ピエンホア、トゥダウモ
カイライ司令部は、出撃の回数をふやすとともに、人民の基地に
h
b
A
rムドるひb b、忘れ、、紛れいいがかか隆掛J
m
L骨恥わかじb仏か
この敗北のあとでカイライの第一師団長は、溜息をついて、次の
ように述懐している。﹁ひかb岳山いか、心ふJb除わか?bo 払ハ和骨か
兵士の士気がこんなに低下していたとは信じられない同
イゴン政権はこの省にたいする掌握をつよめ、ここを通っている国
D h hれい陸路(一九六五年二月八日)。
道一号線をまもる哨所を増強しようとした。三個小隊の民兵によっ
毒ガスは、人民の士気をくじくどころか、彼らの抵抗をはげしく
させただけだった。﹁アメリカ帝国主義者が毒ガデ少勝争手段bい
b小
、、小い戸ぃ、
て占領されていた、ザl フlは、正規兵一個中隊、一 O 五ミリ砲一個
でっかうことによって、南ベトナムの人民を威嚇することができる
│ │ 外 わ hト
分隊の増援をうけた。三個小隊の民兵でまもられていたズオンリエ
放民族戦線の宣言)。
と考えるならば、大変なまちがいである﹂(一九六五年三月二四日の解
ウは、一個中隊の正規兵で増強された。
一一月七日午前二時、住民と人民解放武装勢力はズオンリエウを強
襲し、兵器二ハ九を捕獲した。同じ夜、ザl フlは、一五分のホ︿戦
92
アメリカの「特殊戦争 J(
19
6
1
"
"
6
5年
〉
小川卜?ド(一九六五年五月)ll特殊戦争 の静宋
まもるためにビエットアンに進出した数個大隊を全滅させた。四月
し、六機を撃墜した。クアンナムでは、ダナンの米軍基地の南部を
をおこなって成功し、玉OO人を戦闘不能にし、四両のM mを破壊
を戦闘不能にした。チュンボについては 、ピンディンで数回の反 撃
こうした後退をとりもどすために、ワシントンとサイゴンは、そ
一七三降下旅団をおくり、ア メリカ軍の兵力を五万四0 0 0にし
は、増援として二万人、すなわち第三海兵師団のほとんど全部と第
ソンベ(ピエンホア)では、長さ 四0 キロの防衛線を破壊し、一三八
ンでは 、三八九人 の敵兵を戦闘不能に した(う ちアメリカ人二人)。
五月は、人民解放武装勢力の一連の勝利でかざられた。ハイイエ
ンを砲撃 し、三OO人の南朝鮮傭兵を戦闘不能にした。
一一日の夜、ジアディンの人民勢力は、サイゴンから一五キロのジア
た。七月にはさらに七万五000に増員されるはずだった 。 サイゴ
1 lジョンソンは、 軍事支出 を 七 億 ド ル に ふ や し た 。 五 月 に 彼
の努力を強化することをいそいだ。それは次の三つのやり方でおこ
なわれた。
ンの方では、さらに一六万の兵士を徴集することを誓った。
る地域の全戦略村を破壊した。 一一日 の朝、敵の空輸部隊は 、もう
民の援助をうけて作戦していたゲリラは、四0 キロメートルにわた
あわてて逃走した。二時間の戦闘ののち、人民勢力は、パラを占領
し、軍事地区、行政地区、情報センター、大砲置場を破壊した。住
解放武装勢力はM mを捕獲し、これを敵にたいして使用した。敵は
よびフオックピン小地区を攻撃し、いくつかの防舎を爆破した。人民
0 キロメートルの防共施設体系によってまもられた軍事地区であ
一
った。一九六五年五月六日夜、人民解放武装勢力はやって飛行場お
ソンベ(またはパラ、フオ ックロ ンのもっとも大きな町)は、拠点をもっ
闘不能にした。ソンベとパーザーの会戦は、とくに記す価値がある。
メリカ海兵一 個中隊(一三九人)を全滅させ、一七一九人の敵兵を戦
隊全部で四七七人を戦闘不能にした。ヌイ タイン(クアンナム)ではア
(トゥアティエン)では、正規兵一個大隊とパオ・アン︹保安︺兵一個中
BU)を破壊し、三五O人のアメリカ人を戦闘不能にした。ケチェ
九人 の敵兵を戦闘不能にし(うちアメリカ人二八人)、一 四機を撃墜し
た。ピ エンホ久では、飛行 場 を 攻 撃 して、一四九機(うち四四機は
ーl
i。へンタゴンは、北ベトナムにたいする航空戦を強化した 。 一
か六四年八月五日にはじめられたこか砂壊戦争降、一九六五年ニル
七日以後全骨峠に強化されわ。
ー
l アメリカの侵略の拡大を偽装するために 、ジョンソンは、パ
ルチモア演説ご九六五年四月七日)によって外交攻勢をはじめた。
この演説のなかで、彼は﹁交渉によ る解決﹂と﹁前提条件のない 交
沙﹂を提案した。実際にはジョンソンは、爆撃強化のおどしによっ
てベトナム人民を屈伏させることを期待していたのである 。結果的
H
カイライは四月に新た
には、アメリカ人の平和の策動も戦争努力も成功しなかった。
一九六五年の 第二 ・四半期には、アメリカ
な敗北をかさねた。ロンアン省では、三回の大規模な出撃をうちゃぶ
り、四OO人を戦闘不能にさせ、一一機を撃墜した。ザックザーで
は、五個大隊、四O機、河川用舟艇二七隻、一個集団のM mによる
出撃を失敗さ せ、五O O人を全滅させ、八機を 撃墜 し、玉両のM m
を破壊し、四桂文の河川用舟艇を沈めた。 h hい hぃ山では、三O O人
93
アメリカの「特殊戦争 Jとベトナム人民の闘争
第二 部
部で二ニ九O 人をう しなった。
││パーザーは 、 クアンガイ省 の道路 の接合点に位置し、平野と
その日は七キロ前 進 できただけで 、 ついで待伏せに陥った。敵は全
、 敵の士気を最初か らゆさぶり、攻勢に 出
、 覇権
弱点を克服 し
適用 した 。われわれは、装備におい ても、 兵 隊 の 数 に お い て
も、火力においても勝つ てはいなかったが 、これら の 一時的 な
川 わ れ われは、一定の作戦舞台における覇権の概念をたくみに
った。
山野のあいだの市場の場所として重要であり、第五一歩兵連隊の駐
をかちとり、会戦に勝利した﹂ 。
れつな砲火 のためパラに 着陸できず、一 0 キロ南におりた 。だが、
留する、省道五号線沿いの強力な防備系統を構成していた。五月二
送、一九六五年六月六日)。
ゴ・ディン・ジェム一味、が葬りさられた(一九六三年二月一日)の
﹁
パーザ ーは、 新たな軍事的局面のはじまりとなった ﹂(解放放
八日夜、人民解放武装勢力は、パーザーから三キロのロクトに最初
の攻撃 をお こない 、 一個 小隊を全滅させた 。 二九日の朝、パ ーザ ー
にいた第一大隊の二個中隊が 、民兵によ って増強され、砲兵の支援
ち、一九六四年と一九六五年のはじめにサイゴンでは六回のク ーデ
*
のもとに 、報復作戦をは じめた。この分遣隊は待伏せにあい 、死者
敵はいそいでクアンガイの町から二個大隊をおくつてよこ した。二
握をつよ めた。 三O 日の朝、彼らはパジアとハタインを強襲 した 。
0、衛星国軍隊三OO)、一
能になり(うち正規兵二万、アメリカ人三0 0
みじめなバランス ・シlトで 終わった。すなわち 、九万人が 戦闘不
大隊単位の損害をう けた 。一 九六五 年の前半は 、サイゴン にとって
哨所が磯滅され、あるいは撤退のやむなきにいたり、カイライ軍は
二九日 の夕方、勝利に意気さかんな人民解放武装勢力は、二門の
個大隊は大損害をうけた 。もう一つの大隊は 、救援にか け つける勇
、 二万の兵器が捕獲さ
撃墜され 、 三五隻の河 川用舟艇 が 沈 め ら れ
ておこなわれた大規模な出撃がしばしば惨敗に終わる一方、多くの
気もなく、パ ーザーの近くの高地を占領し 、そこ に 大 砲 を す え た
れ、一 O両の軍用列車が転覆され 、 三九六両の軍用車両(うちMm
ターと反ク ーデ ターがあった。軍事面では、サイ ゴン の軍隊によっ
が、まも なく包囲され、粉砕されてしまった 。
解放民族戦線の 軍事評論員チュオン ・ソンは 、次のように書い て
イ行政機構と民間警備隊が完全に崩壊した。一九六五年六月まで
000の戦略村は壊滅寸前で
に、七000の戦略村が こわされ 、 一
ゲリラと農村住民の 打撃をうけて壊滅 し、そ れとともに農村カイラ
アメリカの戦略家が苦心惨惜してつくりだした戦略村の体系は、
八O個小隊、一二O個中隊、二O個大 隊 が 全 滅 し た 。二九六機が
いる 。 ﹁
パ!ザの勝利は 重要な意義をもっている。それは、典型的な
が八九 両)が 破壊された。
間士気の点からみた力関係が新しい段階に入った。敵は攻撃精
神をうしなっただけでなく、自分をまもろうとする意志さえ失
現実的なものになった。
磯減戦である。新しい情勢をつくりだす新しい諸要因があらわれ た。
川 多くの大隊からなる戦闘集団を撤滅 す るわれわれの能力が 、
一
O 五ミリ砲をもったゴカオを全滅させて 、パーザ ーにたいする掌
一
O O人、捕虜一二九人を出した 。
*
94
アメリカの「特殊戦争 J C1 961~65年〉
あり、一三の軍事地区と小地区が破壊された。まだサイゴンの支配
略性と残虐性が暴露されつつあった。
││解放民族戦線の国際的威信が増大する一方、 アメリカの侵
五分の四 、全人口の三分のこに及んでいた。
形勢を挽回しようとして、ワシントンは、ベトナム民主共和国に
下にある地域においてさえ、住民は戦闘村を建設した。ある地域で
は、敵は自分たちが守ることのできない村を破壊しなければならな
それ以来、解放地帯は、田園地域と山岳地域の両方をふくむよう
タゴンが 何とかして避けようとしてきたことであ った。 こうして 、
アメリカ軍を大量に派遣した。このアメリカ軍の大量派遣は 、。
へ
ン
たいする海空軍の攻撃を開始し 、ベトナムにおける地上戦のために
かった。サイゴン政権の支配下にある面積は、全領土の五分の一に
になった。解放地帯は、サイゴンやダナンのような大都市に隣接し
ラー、マクナマラーーによって考案された﹁特殊戦争﹂の戦略は、
減り、その住民はわずか四OO万(全人口の三分の一以下)だった。
た。これらの地域のうちには一 0 0キロメ ート ルにわたるものや、
四O Oないし五OO平方キロの面積をもつものもあった。社会的、
人民戦争に直面して、失敗に終わった。
アメリカのもっとも輝かしい政治家と将軍たちーーーケネディ、テイ
行政的改革、経済的 、文化的、医療的事業がすすめられて、新しい
社会が建設されつつあった。こうして、解放地帯は、解放戦争のた
めのたのもしい後方にかえられた。孤立し 、 四方をとりまかれ、都
市市民の政治、軍事闘争によってゆさぶられている都市には 、今や
たえまのない脅威がのしかかっていた。カイライ政権は、救うこと
**
のできない危機のなかに投げ こまれた。
南ベトナムにおける﹁特殊戦争﹂は、アメリカ人によって装備さ
この戦争の勝敗は 、一九六五年 の中頃には疑うべくもなかった。失
れ命令される五O 万のカイライ軍隊によっておこなわれていたが、
ーli苦心 してつくりあげられたカイライ 軍隊は 、解体しつつあ
敗は完全だった。
ーーーカイライ 政権は根底までがたがたになっていた。
った。
││戦略村計画は破産し てしまっていた 。
ー!人民勢力はか つて なく強まり、解放地帯は 全土のほとんど
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