カイの迷宮 - タテ書き小説ネット

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カイの迷宮 - タテ書き小説ネット
カイの迷宮
ヒデヨシ
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
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このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
カイの迷宮
︻Nコード︼
N7625BY
︻作者名︼
ヒデヨシ
︻あらすじ︼
クリスマスイブ、新宿の雑踏でザウルスとあだ名される、暴走
族・希望ヶ丘ゴルゴンの番格が、奇妙な自殺を遂げる。自ら、全身
を鉄のチェーンでずたぼろに打ち、最後に脳天をかち割って死んだ
のだ。
警視庁の秋月登警部補は、頭を抱える。
ゴルゴンのリーダー、竹田広樹は、ザウルスの死が、ゴルゴンと
対立する暴走族、︿道化師﹀の仕業ではないかと疑う。︿道化師﹀
1
の伝説的なリーダー、ベビーフェイスと話を付けに行く。だが、ど
うやら︿道化師﹀は関係なさそうだ。
ザウルスが処刑される前の年七月、山形県T市から、神奈川県立
希望ヶ丘西高校に、転校生がやってくる、藤原甲斐である。甲斐は、
自閉症という話で、誰とも話さない。しかし、花壇で花を見ていた、
魯鈍の少年、原田勝とは仲良しになる。
原田勝は、小学校の時から、典型的ないじめられっ子だった。高
校でも、剣道の時間に、竹刀だけ持たされ、防具を着けずにゴルゴ
ンのメンバーを初めとするクラスメートたちに、滅多打ちにされる
という陰惨なイジメを受けていた。
この頃、勝をモデルにした甲斐の絵が、五華展で入選する。美術
部の、綺麗な彩香に親切にされて、勝は、人生初めての幸福を感じ
る。しかし、しばらくして、さっきのイジメが発覚し、希望ヶ丘西
高校は大騒ぎになる。
家庭謹慎を食らった、ゴルゴンの番格、星川は、勝にストーブの
上に置かれた金だらいのお湯を飲ませるという、新手のイジメを行
う。このイジメに耐えかねて、勝は、自分を苛めた者たちの名を書
き連ねたノートを残して。首を吊って自殺してしまう。
勝の祖母、原田カツヨは、霊能力を持つ口寄せ巫女のオナカマで
ある。そのオナカマとして持つ力を駆使して、勝をイジメ、自殺に
追いやった者たちを呪い殺すために、大黒呪い歌を歌って、死の神
大黒天に祈る。
希望ヶ丘西高校で世界史を教える、片桐智が、カウンセラーの犀
川郁美に、大黒の呪いについて、民俗学的な視点から解説する。
やはりゴルゴンの番格、水野俊が、高圧電線が張られた送電鉄塔
に登り、感電死する。 一連の、希望ヶ丘ゴルゴンの番格の奇妙な
自殺の背景はなにか? 甲斐は、この一連の事件に関与しているの
か?
片桐と郁美の必死の調査が始まる。
2
前奏曲
カイの迷宮
前奏曲
どぶ泥の底のように濁った夜空に、こればかりは涼しげに透きと
おった、蒼白い水のような月光がゆったりと流れていた。
その月光水の中を、
黒い影が墜落していく。
黒い影は、詰め襟の学生服を着ている。普段は人々に恐怖を与え
る、その細面の顔は、しかし今は逆に恐怖に歪み、口を大きく開け
ている。だが、その口から叫び声は漏れてこない。
真夜中の三時。
辺りは沈黙に沈んでいる。
少年は目を細め、薄っすらと微笑んだ。久遠の慈悲と、永劫の残
忍さを湛えて。それは、地獄の大魔王ルシフェルの心臓さえ凍て付
かせるような笑みだった。
悪意を持った、中宮寺の弥勒菩薩。
少年が堕ち続けている。
くぐもった音が響いた
そして、夜の底に赤黒い花が咲いた。
3
あで
艶やかに、華麗に。
むせ返るような、甘やかな芳香が立ち上った
*
﹁チェックメイト﹂
藤原甲斐は、薄い唇を少しだけつり上げて笑った。
日本人にしては色の薄い瞳は、北欧のフィヨルドのように透きと
おっている。その瞳の底は深い暗黒の虚無で、どこまでも果てしな
く続いているように思われる。しかし、その虚無の奥底では、とき
おり知性の強い光芒が燦めいた。そして、その瞳には、何の感情も
浮かんでいなかった。
細面で、透明な大理石のように白い肌をしている。二重の切れ長
の目に鼻筋も通っていて、一見ギリシャ彫刻のようだ。しかし、そ
の顔がギリシャ彫刻に似ているのは、見かけのためだけではない。
その顔に刻印された、永遠を感じさせる無表情さが、石の像たちと
の共通点を思わせるのだ。
頭髪以外には、体毛があるとは思えないような、すべすべした肌
も、大理石を思わせるのだろう。十七歳なのに、髭一本生えていな
い。
白いタートルネックのセーターに、濃いグレーのスラックスを穿
いている。
﹁まいった、まいった。負けたよ。完敗だ。これでも、私は、ヨー
you.と打ち
ロッパのチェス選手権で三位になったことがあるんだがねえ。いや
君は強い⋮⋮﹂
それ以上何か言われる前に、甲斐はThank
込んでパソコンの電源を落とした。英語が分からないわけではない
が、今は人とチャットするのは鬱陶しい。椅子の背もたれにもたれ
かかる。一仕事終わった充実感が、さすがの甲斐にも忍び寄る。
4
︱︱レモンスカッシュが飲みたいな。
椅子から降り、焦げ茶色のクッションを抱きながら部屋の壁に寄
りかかる。
︱︱勝、終わったよ。
甲斐は、少し目をつぶる。さすがに疲れた。しばらくうとうとす
る。
部屋の中央には、キャンバスの立てかけられたイーゼルが立って
いる。そのキャンバスには、少しチンパンジーじみた感じのする、
魯鈍そうな少年の、未完成の絵が描かれている。絵筆とパレット、
それに様々な色の絵の具が床に散らばっている。
十二畳のフローリングの部屋に、淡いグレーの絨毯が敷いてあっ
て、その上にセミダブルのベッドが置いてある。
一面の壁に、造り付けの書棚があって、ミステリからSF、ヒン
ドゥー教や北欧の神話の概説書まで、様々な本が並べられている。
英語のペーパーバックまである。豊かな内面性を窺わせるのだが、
少年の無表情な顔とは、どこか不調和だ。
その書棚には、世界美術全集が、三組入っていて、これは、イー
ゼルの絵と調和を感じさせる。世界文学全集と、日本文学全集も一
組ずつ入っている。他には、小遣いにゆとりがあるのだろう。ハー
ドカバーの本が多い。
床の上は、清潔に片付けられている。いや、むしろこの年頃の少
年の部屋としては、清潔すぎると言うべきか。イーゼルの絵以外は、
無機質とさえ言いたいくらいだ。
テーブルの上には、今電源を切ったばかりのデスクトップ型のパ
ソコンが置いてある。
かなり贅沢なオーディオ装置がある。千枚以上のCDがあって、
ほとんどがクラシックだ。谷山浩子のCDが一通り揃っているのが、
異彩を放つ。
それ以外の壁には、先ほどの魯鈍そうな、同じ少年をモチーフとし
た油絵が、所狭しと並べられている。
5
その絵が、
神聖だ。
苦行をするゴータマ・シッダールタか、十字架を背負ったイエス
のような厳かさ。
ゴータマ・シッダールタは、悟りを開く寸前だ。
イエスは、人類を救済する寸前だ。
その絵の神聖さと、
甲斐の静けさが、
共鳴し合っている。
﹁甲斐、入るわよ﹂
母親の、信子の声で目が醒めた。信子は、すーっと甲斐の部屋の
引き戸を開けると、少しおどおどとした様子で入ってきた。甲斐が、
母親を見ないで、無言で頷く。
﹁レモンスカッシュを作ったの。甲斐も飲みたいかと思って﹂
そう言って、お盆の上に乗せたレモンスカッシュをカイの側に置
いた。たっぷりと氷が入っていて、グラスは汗をかいていた。その
水滴が少し、お盆にたまっている。
その水滴の、儚い哀しさが、甲斐の瞳に似ている。
甲斐は、母親から目を逸らしたままだ。
信子は、そんな甲斐をしばらく見ていたが、やがて寂しそうに部
屋から出て行った。
真夜中の三時である。
甲斐は、そんな時間に母親がレモンスカッシュを作ってきたこと
を奇異にも思わずに、ストローに口を付けた。生のレモンを搾って
作った、本格的なレモンスカッシュである。冷たい酸味が、口いっ
ぱいに広がって、疲れ切った甲斐から、爽やかな気分を引き出す。
6
甲斐が、薄く笑った。
レモンスカッシュを飲み終わると、氷が、カラリと音をたてた。
そのまま、甲斐は静かに眠るように目を閉じた。
クッションを抱き、壁により掛かる。その姿は、そのまま久遠の
未来に人々を救済する弥勒菩薩のようだった。
7
第一幕 幕開け・最初の処刑
第一幕 幕開け・最初の処刑
1
二〇一一年十二月二十四日。クリスマスイブである。
原田勝が亡くなった次の日であった。
歩行者天国の、新宿、歌舞伎町は、大勢の群衆でごった返してい
た。ちょうど土曜日だったので、クリスマスデートのカップルだら
けである。女性たちは特に、聖夜を祝うためにめかし込んでいる。
赤やピンクやオレンジなど、色とりどりのコートが翻る。
それぞれに着飾った人々の間には、しかし、都会特有の饐えたよ
うな匂いがあった。
午後四時。徐々にネオンサインも灯り始める。赤い灯、青い灯、
紫の灯が妖しい空気を醸して揺れ出し、華やかな歓楽街の顔を現出
していく。夕暮れが忍び寄るにつれて、かえって艶やかさを増すソ
ドムの街。
その雑踏の中で、この華やかであるべき夕暮れには相応しくない、
腹の底に響く重低音が鳴り渡った。人々の目が、その音の源に集ま
る。
それは、一二〇〇ccのハーレーを改造したバイクだった。乗っ
ているのは、金髪に染めた頭をモヒカン刈りにし、厳つい金属の鋲
の打たれた黒の革ジャンを着た男だった。パンツも、黒い革製で、
手首にも、鋲の打たれた黒い革製のバンドを巻いている。サングラ
スで、目の表情が読めないのが不気味だ。今どき珍しい、古風なス
8
タイルの暴走族のようである。
男を見る人々の目に、怯えの色が走る。
今日の新宿のこの辺りは、歩行者天国なのである。車両は乗り入
れ禁止のはずだ。それなのに、ハーレーは人混みの中にぐんぐんと
分け入ってくる。ハーレーの進行方向の人々は、重い沈黙の中で左
右に割れる。
男が、バイクを降りた。
大きい。
身長は百九十センチ以上あるだろうか。体重も、百数十キロはあ
りそうである。こちらは染めていない、黒い髭を口の周りに生やし
ている。
サングラスを取ると、爬虫類のように感情を表わさない、獰猛な
目が現れた。その目で、辺りを睨め回す。時折、口を歪めるので、
猛獣のような犬歯がむき出しになる。
人々は、目を合わせないようにうつむきながら、そそくさと駅に、
あるいは最寄りの店に向かって急いだ。
と、大男が、奇妙な行動をとった。
黒の革ジャンを脱ぎ捨てる。真っ黒なTシャツの上からも、分厚
い筋肉によろわれた体が、はっきりと分かる。そのTシャツも、ゆ
っくりと脱ぐ。筋肉だらけの体が姿を現した。腰に巻いたベルトに
も、ごつい鉄の鋲が打ってある。こればかりはどこか少女趣味な、
細い金の鎖を首にかけている。赤い火を吐く、緑色のドラゴンのタ
トゥーが、背中に彫られていた。
なんだか、動作が妙にのろのろしている。
ドラゴンの焔の赤に、白い雪が降ってきた。
厳つい筋肉の隆起の上で、淡い雪が儚く融けた。
大男は、のろのろとバイクの荷台を開け、鉄製のチェーンを取り
出した。人々が、男の周りから蜘蛛の子を散らすように慌てて遠ざ
かった。一瞬、群衆の間にパニックが走りそうになる。あんなチェ
ーンで暴れられたら、たまったものではない。
9
しかし、どうしたことだろう。大男の目には、いつの間にか、何
か怯えの感情のようなものが浮かんでいる。
ついさっきまでは、あんなに無表情な目をしていたのに。
男が、ゆっくりとチェーンを振り上げた。
見詰める人々の表情が、凍り付いた。
と、次の動作が、人々の意表をついた。
大男は、そのチェーンで、自分の背中を叩き始めたのだ。
ゾブ、ゾブ。
湿った音が、響き渡る。
﹁い、嫌だ、嫌だ。助けてくれ﹂
首を振りながら、大男は、こう呟いている。その、爬虫類のよう
な目にも、鈍感ながら、恐怖の光が宿り始めている。
背中の肉が裂ける。血飛沫が、飛び散る。少し積もりかけた白い
雪に、赤い血が降り注ぐ。緑色のドラゴンのタトゥーが、鮮血で真
っ赤に染まっていく。
﹁あいつ、ザウルスじゃねえか﹂
囁いたのは、神奈川県立希望ヶ丘西高校三年四組の高瀬勇次であ
る。川崎市立鷹見高校二年生の、後藤沙保里とのクリスマスデート
の最中である。ついさっき、プレゼントにティファニーのリングを
買ってやったばかりだ。
高瀬は、精一杯めかし込んで、ネイビーブルーのウールのコート
を着ている。沙保里は、真っ赤なカシミアのコートである。どちら
も、似合っているとは言い難い。
こうしている間にも、ザウルスと呼ばれた男の背中は、チェーン
に打たれて、血塗れになっていく。力も相当あるのだろう。
うっすらと、白い背骨が見え始めた。
10
﹁ザウルスって⋮⋮?﹂
遠巻きになった人混みのさらに外から、ピョンピョンと跳び上が
りながら、沙保里は覗いている。
﹁うちの高校に、希望ヶ丘ゴルゴン、っていう暴走族があるんだ。
知ってるか﹂
﹁うん、すっごい乱暴だって、先輩が言ってた﹂
﹁その番格の一人だ。あの通りでっかくて、凶暴だけど、頭には血
が巡ってねえ。まるで恐竜見てえだ、ってんで、付いたあだ名がザ
ウルス。こんなところで、なにやってんだろう?﹂
高瀬は、本当に不思議そうに頭を捻った。
こうしている間にも、ザウルスの上半身は、鮮血で真っ赤に染ま
っていった。
﹁い、痛てえよお、誰か助けてくれよお﹂
自分でチェーンを振り回しながら、助けを求める。何かのコント
のようだ。
ザウルスは、今度はチェーンで足を叩き始めた。
グギ!
嫌な音がして、右足のすねが折れた。体が奇妙な角度に歪み、ザ
ウルスは倒れそうになった。それでも、ザウルスは、己の体を打つ
ことを止めない。肋骨が、左手の骨が折れる。
人体が、分解されていく。
その湿った音。
﹁い、嫌だ! 嫌だ! 痛てえよお。助けてくれよお﹂
ザウルスが囁く。
﹁行こう。気持ち悪い﹂
沙保里にこう言われて、勇次もはっとしたようにその場を立ち去
った。こんなことと関わり合いになるのは、ごめんだ。とにかく、
希望ヶ丘ゴルゴンとは距離を置いておくことだ。
まるでそれを待っていたかのように、ザウルスは、己の脳天をチ
ェーンで叩き割った。薄い豆腐のような色をした脳漿が飛び散る。
11
ザウルスは、そのまま少し雪の積もったアスファルトに倒れ込み、
動かなくなった。
人々は、呆然と立ち尽くしていた。その人々の肩に、頭に、しん
しんと純白の雪の結晶が降り積もった。
その沈黙を切り裂いて、救急車とパトカーのサイレンの音が聞こ
えてきた。呪縛を解かれたかのように、人々は何事にも無関心な都
会人の顔を取り戻し、その場を立ち去っていった。
12
第一章・2
2
警視庁捜査一課の警部補、秋月登は、パトカーから降り立った。
濃いチャコールグレーのスーツを着て、レジメンタルタイを締めて
いる。コートも、どぶ鼠色には見えない品のいいグレーだ。
秋月は、いわゆるキャリア組でこそないが、その有能さを買われ、
間もなく警部に昇進すると言われている。さらに、その上の警視の
座も狙えるとの評判である。
その秋月が、唖然として息を呑んだ。ザウルスの死体の前である。
さすがの秋月も、ここまで凄惨な死体は、見たことがなかったのだ。
東京中のテレビ局のクルーが中継に来ていた。白に黄色い線の入
った車体の中継車。同じ白に青い線の入った中継車。赤い線の入っ
た中継車。車体全部がピンクに塗られた中継車。しかし、さすがの
テレビマンたちも、あまりの惨状に、一様に青い顔をしている。一
人、薄いピンクのコートを着た、若い女子アナウンサーが、嘔吐し
ていた。警察が、ブルーのシートで覆う前に、ザウルスの遺体を見
てしまったのだ。
所轄の新宿署の警部補、進藤重郎が近寄ってきた。こちらは、洒
落ものの秋月とは対照的に、それこそ絵に描いたようなデカだ。く
たびれたコートに、もっとくたびれたスーツ。目だけが、異様に鋭
い。
二人は、軽く目礼を交わすと、挨拶もそこそこに用件に入った。
﹁なんとも奇妙な事件です。これだけのガタイをした男をやった男
なら、相当に目立つ特徴を持っていたはずです。普通に考えたら、
数人がかりだと思います。ところが、やった相手の目撃証言らしい
目撃証言が、どうも得られないのです﹂
13
﹁目撃証言を得られない? この歩行者天国の新宿でですか?﹂
﹁はい。もちろん、特等席で見ていた通行人は、関わりを恐れてみ
んな逃げています。残っている、周りの店や会社の目撃者たちは、
通行人たちの背後から盗み見るしかなかったわけです。ですから、
一番よく見える場所にいたものはいないことになるわけですが⋮⋮。
それにしても⋮⋮﹂
﹁それにしても、なんですか?﹂
﹁誰一人、この被害者を殺した男たちを見ていないと言うのです﹂
﹁え、それはどういうことですか。加害者たちが、煙みたいに消え
てしまったんですか?﹂
秋月は、どうにも状況が飲み込めない、という顔をした。
﹁ええ、それが、目撃者たちの一致した証言によりますと、被害者
は、自分自身の手で、この﹂
進藤は、足先で、ザウルスの右手のチェーンを指し示した。
﹁この鉄の鎖で、自分の体を滅多打ちにし、最後には、脳天をかち
割ったと。全員の証言が一致しているんです﹂
寒さの中で、なぜか進藤の額から汗がしたたり、進藤はそれをヨ
レヨレのハンカチで拭った。
﹁で、被害者の身元は?﹂
非合理的な話が嫌いな秋月は、すぐに話を逸らした。推理は、後
でゆっくりすればいい。きっちりと証拠をつかんで、合理的に考え
る。曖昧な直感に頼らない。それが、秋月の捜査スタイルだ。
﹁それは確認が取れました。生徒手帳を持っておりまして。それに
よりますと、神奈川県立希望ヶ丘西高校の工業科の三年生岡竜一と
いいます﹂
話題が変わって、進藤はあからさまにほっとしたような顔をして
言った。
﹁この体格で高校生ですか? てっきりプロレスラーの卵かなんか
だと思っていましたが﹂
﹁ええ、学校に連絡しましてね、丁度部活動の指導をしていた先生
14
がおったものですから、確認をとりました。なんでも、身長百九十
三センチ。体重百三十一キロだそうです。で、このバイクからもお
分かりの通り、希望ヶ丘ゴルゴンという暴走族のメンバーだそうで
す﹂
﹁暴走族とは、また時代遅れな。今どきの暴走族は、五十ccのバ
イクで大人しく暴走すると聞きましたが﹂
﹁そうなんですが、なんでも、この希望ヶ丘ゴルゴンというのは、
ずいぶん昔気質の暴走族なんだそうです。学校に行くときは、長ラ
ン、短ランにドカンズボン。外では、特攻服、という格好をしてい
ましてね。とにかく凶暴で、集団争乱は一度や二度ではないそうで
す。神奈川県警も、相当に手こずっているらしいです﹂
﹁ああ、そりゃそうでしょうね。こんな体格のやつに暴れられたら
ねえ﹂
秋月が、神奈川県警の苦労を思いやるような目をした。進藤もう
なずいて続ける。
﹁ええ、で、この岡竜一ですが、その希望ヶ丘ゴルゴンの有力な番
格だったそうです﹂
﹁番格? 番長じゃないんですか?﹂
﹁ええ、番長は別にいるらしいです。なんでも、希望ヶ丘ゴルゴン
には、岡と同格の番格が、番長も含めて七人いるとかいう話です﹂
﹁え! こんな凶悪そうなのが、七人もいるんですか。そりゃあ、
神奈川県警も大変だなあ。ちょっとした暴力団並みじゃないですか﹂
﹁それでですねえ、秋月さん。実は、奇妙な証言があるんですよ﹂
﹁なんですか﹂
秋月が、興味深そうに目を煌めかせた。
﹁それがねえ、この被害者、岡は、自分をチェーンで殴りながら、
﹃助けてくれ、嫌だ、助けてくれ﹄、と、こう囁いていたんだそう
です﹂
﹁それは、本当ですか?﹂
秋月が、いかにも訝しい、という表情をした。
15
イスラム教シーア派に、アーシュラーという祭りがある。ムハン
マドの孫、フサインが殉教したことを記念する祭りである。
このアーシュラーの祭りでは、フサインの苦しみを追体験するた
めに、男たちが上半身裸になって、﹁フサイン! フサイン!﹂と
叫びながら、その上半身を鎖で打つ。血塗れになって気絶するもの
もでる。
秋月自身、学生時代に、このアーシュラーの祭りを見学したこと
がある。
秋月は、岡竜一、ザウルスが、何か新興宗教にでもはまっていて、
このアーシュラーの祭りのようなことをしでかしたのかと思った。
一種の自殺ではなかろうかと考えてみたのだ。
そう考えれば、殺害犯人を誰も目撃していない、という矛盾も解
消される。
秋月は、大学ではイスラム史を専攻していたという変わり種であ
る。一度普通にサラリーマンになって、中東を担当していたのだが、
刑事だった兄の殉職を機に、自分も刑事になった。そんな変わった
経歴のため、優秀な割には、まだ警部補なのだ。
それで、アーシュラーの祭りなども知っているし、わざわざ見に
行ったりもした。
しかし、岡が、﹁助けてくれ﹂と言っていたとすると、話が違っ
てくる。自殺するものが、﹁助けてくれ﹂などと口にするはずがな
い。
もう一度、進藤に確かめてみた。
﹁ええ、本当です。証人は、十人以上います﹂
進藤が、慎重な口調で言った。
秋月は、考え込んでしまった。
鑑識の今野が近寄ってきた。
﹁まだはっきりしたことは言えないけど、直接の死因は脳挫傷だね。
あの有様だから、外傷なんかについては、当てにできないね。あと、
どうも覚醒剤の反応は出ないようだ﹂
16
秋月と進藤は、無言でうなずいた。
なんだか面倒な事件になりそうだ。
秋月は、嫌な予感がした。
岡竜一の死骸は、とっくに搬送されていたが、血の赤は生々しく
アスファルトを染めている。
その赤の上に、白い雪が、ただひたすら静かに降り積もっていっ
た。
17
第一章・3
3
﹁ザウルスが、殺られたって、本当か?﹂
﹁ああ、どうもよく分からねえが、なんでもチェーンでズタボロに
されたらしい﹂
水野俊の問いに、ブクブクと太った岩崎淳也が答えた。
水野俊は、リーゼントに剃り込みを入れ、短ラン、ドカンズボン。
岩崎淳也は、パンチパーマに長ランにやはりドカンズボン。なんだ
か二昔前、昭和の頃からタイムスリップしてきたような格好をして
いる。
﹁チェーンって言うと、︿道化師﹀の奴らか﹂
小柄な俊が聞く。俊は、百六十七センチと小さいが、動きがシャ
ープで、喧嘩となるとめっぽう強い。目に、険しい色がある。岩崎
は、百七十センチ、九十五キロと太っているが、見かけに反して身
は軽い。
﹁ああ、多分な。ゴルゴンに逆らえるやつなんて、新宿でもそうそ
うはいねえ。多分︿道化師﹀だろうって、広樹さんも言ってた﹂
岩崎が答える。岩崎は、本来は三年生のはずだが、いわゆるダブ
り組、留年生なのである。
十二月二十六日、月曜日。二人は希望ヶ丘西高校工業科二年二組
の教室にいる。
岩崎も、俊も、原田勝に対するイジメで食らっていた、無期家庭
謹慎が今朝解除されたばかりである。
今し方、授業開始のチャイムが鳴ったのだが、席に着くものは誰
もいない。明日から冬休みなので、みんな気分が浮ついているのだ。
﹁おい、一時間目は、片桐だぞ﹂
18
そう言われてから、煙草を吸っていた生徒たちも、慌てて揉み消
した。吸い殻は、一応携帯用の灰皿にしまう。片桐に見つかると、
結構うるさい。
凄まじい教室である。
まだ一時間目が始まったばかりだというのに、そこら中に、菓子
パンやおにぎりの包装紙が散乱している。スナック菓子の袋や、飲
み物のペットボトルも無雑作に投げ捨てられている。家で摂らなか
った朝食を、学校で食べた残骸らしい。
パンやおにぎりならともかく、スナック菓子とコーラで朝食を済
ませる者も大勢いる。
吐き散らかしたガムの噛みかすが、何度も踏みつけられて真っ黒
になり、床にへばり付いていて取れそうもない。
壁は、どの方向を見ても、生徒の足蹴りで穴があいている。生徒
が、壁に蹴りを入れるのに、特に理由はない。そこに壁があるから、
蹴るのである。
おまけに、カラーインクのスプレーで、希望ヶ丘夜露死苦、など
と古臭い落書きが画いてある。なぜか、希望ヶ丘ゴルゴンの落書き
はない。
窓際に、暖房パネルが取り付けてある。ところが、これが用をな
さない。生徒が、何かムカついたときに、何度も蹴りを入れたので
壊れてしまったのだ。
この高校を建てたときに、設計に関わったお役人たちも、この学
校に入ってくる生徒が、どういう生徒かを配慮はしなかったのだ。
仕方がないので、教室の前、窓際に旧式の石油ストーブが据えら
れている。急ごしらえの穴から、煙突が外に伸び出ている。さすが
に、赤熱したストーブを蹴るものはいない。
むん、とした男臭い汗の匂いが充満している。敏感な女の子なら、
吐き気を催しそうだ。
岡竜一の奇妙な殺害事件はマスコミの関心を呼び、新聞にも大き
く取りあげられ、テレビのニュースでもやっていた。
19
しかし、希望ヶ丘西高校の生徒に、新聞を読める学力のあるもの
は稀だ。テレビも、ニュースなどを見る家庭には育っていない。
岩崎の情報は、その新聞を読める稀な生徒、竹田広樹から得たも
のだ。広樹は、頭もいいが、喧嘩の強さは群を抜いている。希望ヶ
丘ゴルゴンのリーダーだ。恐竜のザウルス、というあだ名も広樹が
考えたものだ。
こわもて
世界史の片桐智が入ってきた。仕方なく、生徒たちが席に着く。
片桐は、決して強面ではないのだが、なんだか妙に迫力がある。岩
崎や俊をも逆らわせない何かがあるのだ。
ブルーグレーのセーターに、同系色のスラックス。大きな眼鏡を
かけていて、それを右手の中指で押し上げるのが癖だ。中肉中背。
別に喧嘩は強くなさそうである。
それなのに、そこらのちんぴらは気合い負けしてしまう胆力を持
っている。
新宿で、生徒がへまをしでかして、山田組に軟禁されるという事
件があった。そこに一人で乗り込んでいって、若頭と話し合い、生
徒をもらい下げてきた、という武勇伝を持つ。
しかし、ただ怖いだけなら、生徒はみんな寝てしまう。
片桐の強みは、なんと言っても、ジョークのうまさである。特に、
女子もかなりいる普通科と違って、男だけの工業科では下ネタが炸
裂する。十五分に一度は、ギャグを言ってくれるので、誰も寝るも
のはいない。ダブり組の岩崎が寝ないのは、片桐の授業のみだ。
一番受けたのは、片桐が女子校に出張したときに、校門で女生徒
たちが写生していたのを見た話で、肛門で、射精、と黒板に書いた
ときだった。岩崎も俊も、笑い転げた。こんな漢字だけは、読むこ
とができるのだ。
今日は、アラビアンナイトの話だった。シャハリヤール王の王妃
が、シャハリヤール王のいない間に奴隷たちと性の饗宴を繰り広げ
るところを、芝居っ気たっぷりに描写する。
その合間に、きっちりと、当時の世界の二大都市が、バグダッド
20
と長安であったことを教える。また、当時のヨーロッパ世界が、イ
スラム世界と唐に比べていかに遅れていたかを教える。さらに、平
城京や、平安京が、世界的に見ても規模の大きな都市であったこと
を教えるのだ。
それにしても、十二月も終わり、明日から冬休みに入ろうという
のに、バグダッドの都であるから、授業は大幅に遅れている。しか
し、それでいいのである。とにかく、希望ヶ丘西高校での授業は、
一時間一時間を乗り切り、少しでも知識を与えれば、それで上等な
のだ。
チャイムが鳴った。片桐は、いつもチャイムが鳴る数秒前に授業
を切り上げる。この辺りも人気の秘訣の一つだ。
チャイムが鳴る前に、あまりに早く授業を切り上げるのは禁物だ。
生徒が、まだ授業をやっている他の教室に乱入したりするからだ。
そういう生徒を、押さえられない教員もいるのだ。
その辺の呼吸も、片桐はうまい。
片桐が教室を出るのと入れ替わりに、三年二組の星川鉄郎が入っ
てきた。教室に緊張が走る。三年生が、それも希望ヶ丘ゴルゴンの
ナンバーツーが入ってくるとなると、二年生は身を縮こまらせなく
てはいけない。
希望ヶ丘西高校は、一学年八クラスである。各学年の一組、二組
が工業科。三組から八組までが普通科である。
建前上は、どの科も男女共学であるが、近隣すべての中学校の元
番長が集合する工業科に入ってくる女子はいない。もちろん、各中
学校の、いわゆる元スケ番も入ってくるのだが、さすがに男子の番
長と喧嘩をする者はいない。
星川鉄郎も、中学時代には、地元の五つの中学校を束ねる総番長
だった。だが、希望ヶ丘西高校では、竹田広樹には頭が上がらない。
髪はリーゼントにして、長ランにドカンズボンである。百八十五セ
ンチ、八十五キロ。しまった体つきである。
鉄郎という名前は、銀河鉄道999のファンだった両親が付けた。
21
しかし、そういう両親の希望とは無縁に育ってしまった。
星川の姿を見て、岩崎も俊も、頭を下げながら近寄った。
﹁広樹さんが、お呼びだ﹂
﹁ザウルスのことっすか?﹂
岩崎が聞いた。
﹁ああ﹂
星川が、ぶっきらぼうに答える。星川と岩崎は、本来は同学年だ
が、やはり星川の方が格が上なのだ。
すーっと、なんの気配も感じさせずに、藤原甲斐が星川たちの横
をすり抜けた。トイレの帰りらしい。この夏にやってきた転校生だ。
学生服は、長くも短くもない。普通の丈だ。髪も普通だ。自閉症だ
という話で、誰とも口を利かない。なんだか妙な雰囲気を持ったや
つで、岩崎も俊も手を出したことがない。
星川を先頭に、三年一組に向かって階段を下りる。希望ヶ丘西高
校では、三年の教室が一階、二年が二階、一年が三階と決まってい
る。
三人が三年一組の教室に行くと、もう他のメンバーは集まってい
た。三年二組の山崎啓次。二年一組の安西薫。そして、リーダーで
三年一組の竹田広樹。みんな、目に険がある。
﹁おう、イワシ、遅いじゃねえか﹂
広樹が無表情に言うと、岩崎は慌てた。イワシというのは、岩崎
のあだ名である。だが、細いイワシと、太った岩崎の洒落ではない。
そんな高級なあだ名ではないのだ。
﹁すいません。片桐の授業だったもんですから﹂
﹁ああ、片桐か。あいつはめいっぱい授業すっからなあ。ありゃあ、
しょうがねえ﹂
広樹が破顔した。岩崎も、俊もほっとする。
﹁あのよお、どうやらベビーフェイスが動いているらしい﹂
広樹は、ふんぞり返って、机に脚を乗せている。
﹁え、︿道化師﹀のですか﹂
22
安西薫が、驚いたように言った。
﹁でも、ベビーフェイスは、引退したんじゃあ﹂
﹁ああ、最近じゃあ、︿道化師﹀のシマも、うちにやられてっから
なあ。危ねえと思ったんだろうさ﹂
広樹が、皮肉そうに口を歪める。
﹁いくらベビーフェイスが出てきても、今は向こうの人数が減って
る。うちに対抗できるわけがねえ。ベビーフェイスはおれがやる。
場合によっちゃあ、半殺し、いや、全殺しにする﹂
広樹が、平然と物騒なことを言った。しかし、ここに集まった連
中は、広樹の言っていることがただの強がりではないことを知って
いる。
授業のチャイムが鳴った。だが、誰も動こうとはしない。それど
ころか、他の生徒などは廊下でだべっていて教室にはほとんど入っ
てこない。
﹁とにかくなあ、俺が、今度ベビーフェイスのやってる﹃蟻の足﹄
つう店に行ってみる。事と次第によっちゃあ、喧嘩になるかも知れ
ねえ。そん時は、後をよろしく頼まあ﹂
すーっと、広樹が酷薄そうに笑う。要するに、万が一殺人で広樹
が少年院に入った場合、ちゃんと希望ヶ丘ゴルゴンをまとめておけ
という意味合いである。
こういうことには、みんな気が回る。
﹁まあ、お前らも、︿道化師﹀には気を付けろ。ザウルスみてえに、
おつむの足りねえことにはなるな﹂
﹁うっす﹂
声が揃う。
ザウルスは、ガタイはいいが馬鹿だった。それは、彼らの共通認
識である。その点は、イワシの岩崎とどっこいなのだ。
国語の畑中宏が教室に入ってきた。広樹は、机の上に上げた脚を
降ろそうともしない。畑中が、硬直している。ゴルゴンの番格全員
が集まっているので、気を呑まれている。
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﹁よし、行け﹂
﹁うっす﹂
小柄な畑中を、傲然と無視して、五人が教室を出て行った。広樹
は、両腕を頭の後ろに組んで、平然と煙草を咥えながら目を瞑って
しまった。
大半の生徒は、まだ廊下に出ていて、教室に入って来る素振りも
見せなかった。
畑中が、力のない声で出席を取り始めた。
*
ザウルスが、︿道化師﹀に殺られた、という噂が希望ヶ丘西高校
を駆けめぐった。しかし、高瀬勇次は、それは違うことを知ってい
る。ザウルスは、自分で自分の体を壊したのだ。それを、自分はこ
の目で見ている。
だが、勇次は、それを希望ヶ丘ゴルゴンの連中に伝える気はない。
できるだけ、連中とは関係したくないのだ。
彼女の後藤沙保里にも、携帯で注意した。ぺらぺら喋ると、危な
いと。沙保里は、色の白い娘で、体型と顔は、トトロをもう少し縦
に潰して愛嬌を抜いたようなものだ。だが、彼女を逃したら、はっ
きり言ってやらせてくれる女は一生出来そうにない。そのことを勇
次は自覚している。
希望ヶ丘西高校も、沙保里が通っている鷹見高校も、いわゆる教
育困難校である。希望ヶ丘西高校の女子生徒も、性的には節操がな
い。とは言え、元来がスケ番の集まりである。やはり怖い。
その点、鷹見高校は、元女子校だけあって、暴力的な雰囲気は一
切ない。
とにかく、余計なことは喋るなと、勇次は沙保里に念を押した。
24
第一章・4
4
﹁やはりこれは、希望ヶ丘ゴルゴンと︿道化師﹀の勢力抗争ですか
のう﹂
簑島甚兵衛警部が、長い眉毛をひくひくさせながら言った。もう
退職間近ではあるとは言うものの、まだ五十九である。それなのに、
髪も眉毛も真っ白である。七十代といわれても、信じてしまいそう
だ。神奈川県警から、警視庁に出張してきたのである。
警視庁に、現場の新宿署と、希望ヶ丘ゴルゴンの地元である神奈
川県警との合同捜査本部が置かれたのだ。
警視庁で、正式な会議が行われた後に、東京側の実働隊である秋
月、進藤両警部補と、神奈川の方を統括する甚兵衛とで情報交換を
行っているのである。全体を統括する、江坂伸介警部は、警視と打
ち合わせをしている。
なんだか、刑事ドラマの刑事部屋とは、かくあるべきもの、とい
う感じそのままの、殺風景な部屋である。
甚兵衛というのは、実家が江戸時代から続く造り酒屋で、長男が
代々甚兵衛を名乗ってきたために付いた名前である。甚兵衛は第十
二代甚兵衛ということになっている。
しかし、何を思ったのか、甚兵衛は家業は弟に継がせ、自分は刑
事になってしまった。定年間近なのに、まだ警部であるから、かな
り遅い出世である。そう刑事に向いていたとは思えない。なんだか、
よく分からない御仁である。
﹁暴対に聞きましたら、ベビーフェイスという、︿道化師﹀の、元
リーダーが最近昔の仲間を集めているんだそうです﹂
秋月が、甚兵衛に答えた。
25
﹁暴対が扱うような連中なんですか?﹂
甚兵衛が、驚いたように言った。暴走族とは言っても、子供であ
る。暴力団専門の暴対が扱うような対象だとは思っていなかったの
だ。
﹁ベビーフェイスというのは、本名は、柏崎慎二といいまして、百
八十五センチ、百キロ、いい体をしています。その名の通り、可愛
い顔をしているんですが、性格は凶暴そのものなのです。新宿で、
地元のヤクザともめて、三人ばかり病院送りにしています。今は、
大人しくバーテンダーをやっていますが、やはり後輩の縄張りが、
希望ヶ丘ゴルゴンに荒らされているのが気にくわなかったと見えま
す﹂
﹁︿道化師﹀というのは、新宿を本拠にした暴走族と聞きましたが
のう﹂
﹁そうです﹂
﹁それで、新宿のヤクザともめるんですか?﹂
甚兵衛は、なんたる命知らずな連中だろう、と思ったのである。
﹁とにかく、少々のことなら、少年院送りですみますからねえ。相
手の体さえ壊してしまえば、こっちの勝ちだと思っている。やっぱ
り、暴力団とは言っても、命は惜しいですから﹂
秋月の答えに、甚兵衛は、ふむ、とうなずいた。
﹁それにしても、あの岡竜一という男を、あそこまでボロボロに出
来るとなると、やったのがベビーフェイス一人とはとても思えませ
ん。やはり、数人がかりだったと思うのですが、それにしては、目
撃証言が奇妙なものばかりでして﹂
新宿署の、進藤警部補が言った。少し額に汗をかいている。暖房
がきつい訳でもなく、単に状況の不思議さに困惑している様子であ
る。
甚兵衛が頷く。今まで聞いたことを総合すると、岡竜一は、自分
で自分をチェーンで叩き、血みどろの肉塊にしてしまったことにな
る。それは、あまりにも理不尽だ。しかし、地元の商店、会社の従
26
業員など、二十人を超える証言者がすべて同じことを言うのだから、
疑う訳にも行かない。
﹁ところで﹂
甚兵衛が話題を変えた。やはり、この謎は後回しにしようと思っ
たのだ。
﹁希望ヶ丘ゴルゴンという連中は、何をしに新宿まで行っているん
ですかのう﹂
希望ヶ丘ゴルゴンが、川崎周辺では別格に凶暴な暴走族であるこ
とは甚兵衛も承知している。しかし、暴れるだけなら、地元でも構
わないはずだ。わざわざ新宿までやってくるのはなぜだろう。
﹁どうも、リタリンという特殊な薬の密売のようです﹂
進藤が答えた。
﹁リタリン?﹂
甚兵衛は、長い眉毛を動かした。初めて聞いた名前である。甚兵
衛は、この年まで風邪一つひいたことがなく、薬の世話になったこ
とはないのである。
﹁言ってみれば、合法的な覚醒剤とでも言いますか﹂
合法的な覚醒剤? それはまた奇妙な代物だ。戦後、ヒロポンが
流行った頃ならともかく、今では覚醒剤は違法に決まっている。ベ
ンゼン環、あの亀の甲羅みたいなやつにくっついている塩基が一つ
違うだけなのだそうですが﹂
﹁ほう、塩基が一つ違うと、合法になるんですか﹂
﹁ええ、これが非常に集中力を高めて、気分もハイになるのだそう
です。鬱病患者なんかの気分を上げるのには、大変重宝する薬だっ
たのだそうです﹂
﹁だった?﹂
﹁ええ、これは、確かに一時的に気分を上げる分にはいいのですが、
四、五時間ほどすると薬の効果が切れ、逆にかえって酷い鬱に落ち
込むのだそうです﹂
﹁はっはあ、なるほど。そうすると、効果が切れるとすぐに次から
27
次へとリタリンを飲んで中毒になってしまうと﹂
﹁そうです。しかもこの薬、簡単に耐性がついて、同じ量を飲んだ
のでは効かなくなってくるのだそうです﹂
﹁なるほど、なるほど﹂
﹁おまけに、鬱病患者なんかだと、ハイテンションになった後に、
急激に酷い鬱状態になってしまって、衝動的に自殺してしまうもの
が増えたのだそうです﹂
﹁なるほど。それで、鬱病には処方されなくなったのですね﹂
秋月が、言った。甚兵衛は、黙ってうなずいている。
﹁そうです。ADHD、つまり注意欠陥・多動性障害という注意力
がなくて落ち着きのない子供や、ナルコレプシーという、いつでも
どこでも眠ってしまう睡眠障害の患者にしか処方されなくなったの
です﹂
﹁しかし、一度リタリンでハイになったものは、リタリンを手放せ
なくなると﹂
秋月が引き取った。
﹁そういうことです﹂
進藤が、また汗を拭いた。
﹁で、希望ヶ丘ゴルゴンの連中は、どっからそんなものを手に入れ
てくるんだろうかのう?﹂
甚兵衛が問いかけた。
﹁それが分からないのです。その辺を、神奈川の方で調べていただ
けると助かるんですが﹂
﹁そうじゃのう。頑張ってみますか﹂
﹁とにかく、︿道化師﹀にしろ、希望ヶ丘ゴルゴンにしろ、本物の
覚醒剤などのヤバイ薬には手を出していないのです。それだけに、
取り締まりが難しい。いい切っ掛けですから、暴走族を潰す口実に
なれば、と思っています﹂
進藤が言うと、甚兵衛が、
﹁なんとか、神奈川も頑張りますかのう﹂
28
と答えた。
29
第一章・5
5
﹁てめえ、ぶっ殺してやっぞ!﹂
怒気をはらんだ声が、武蔵小杉の東横線ホームで響いた。
身長、百八十五センチはあるだろうか。長ランにドカンズボン、
頭はリーゼントで固めた、古風な番長スタイルの高校生が、体の小
さな高校生を相手に、声を荒げていた。
小柄な高校生は、無表情に、ズボンのポケットに手を突っ込んだ
まま、その怒声を聞き流している。
大男の方は、その態度が気に入らないらしい。
周りを、大勢の大人たちが取り囲んでいる。
だが、群衆の中には、この喧嘩を止めようとする者はいない。関
わり合いになるのを、恐れているのだ。
こんなちび助、ちょっと怒鳴れば震え上がるだろう、と踏んで喧
嘩を売ったのに、一向に挑発に乗らないのである。
その小生意気な態度が、ますます怒りを増長させる。
もう一度、
﹁てめえ、ぶっ殺、﹂
叫ぼうとした。
と、
ふわ、
飛んだ。
怒鳴っていた大きな高校生の顔面に、ちび助の頭突きが炸裂した。
ぐぅっ、
呻いて、顔を押さえてかがみ込む。
そのストマックに、膝蹴りが入る。
30
二発、三発。高速で、膝蹴りが炸裂する。
大男は、たまらずしゃがみ込んでしまった。
その鎖骨を狙って、ちび助は無表情に蹴りを入れる。
何発か入った蹴りのせいで、大男の左の鎖骨が、
ぐしゃっ、
と折れた音がした。
大男は、声も出ないでのたうち回っている。
ちび助は、無表情なままで、くるりと回って、その場を後にした。
その短ランの襟に、梅の校章と、ドラゴンがGの形にとぐろを巻
いているところをデザインしたバッジが光っている。それを見取っ
ていれば、大男も喧嘩なぞ売らなかっただろう。
希望ヶ丘西高校二年二組、気希望ヶ丘ゴルゴンの番格の一人、水
野俊であった。
歩いているうちに、俊は、今やった喧嘩のことなど忘れてしまっ
た。
俊たちは、昔は一日に最低で一回、多いと三回ぐらい喧嘩をした
ものだ。一々、覚えているほど暇ではない。
もっとも、最近は、校章とGのバッジを見ると、逃げ出すやつが
増えて、喧嘩にはならなくなった。
通学の途中で喧嘩になったのは、結構久しぶりかも知れない。
それでも、こんな些細な喧嘩は、過去に百回近くあった似たよう
な喧嘩と紛れて、記憶から消えてしまった。
俊は口笛を吹く。
最近流行っている、ルナティック・ワールドというビジュアル系
バンドの﹁腐った林檎﹂である。
のりのいいリズムと、退廃的な歌詞が、俊は気に入っている。
南武線のホームに着いた。
ちょうど電車が出たところだった。
まあ、いい。
学校なんて、遅刻しても構わないのだ。
31
俊は、ホームにしゃがみ込んで、煙草を吹かし始めた。
32
第二章・笑う大黒・1
第二幕 笑う大黒
1
ザウルスの奇妙な死から半年ほど前。二〇一一年、初夏。七月四
日のことである。藤原甲斐は、山形県T市から、希望ヶ丘西高校に
転校してきた。慶應義塾大学のTタウンキャンパスの教授だった父
親が、川崎市のバイオベンチャー企業に引き抜かれたからである。
勝がはかなくなるまで、まだ半年ほどある。
工業科、二年二組の教室での、朝のショート・ホームルームにお
いて、担任の大清水守が同級生に紹介した。甲斐は、しかし頭を下
げるでもなく、なんの挨拶もしなかった。
普通なら、そんな生意気な態度をとる新人は、徹底的にやられる。
教員でさえ、新任の教員や転任してきた教員は、二年生、三年生に
とっては後輩なのだ。
なのに、この転校生に対しては、みんな何の注意も払わなかった。
ちらっと甲斐の顔を見ると、みんな目を逸らしてしまった。
大清水は、一ヶ月前に退学になった生徒の座席に座るように甲斐
に告げた。そうして、そそくさと教室を出て行った。
甲斐は、無表情な顔を崩さずに、黙ってその窓際、四列目の席に
腰を下ろした。
周囲の生徒たちが、甲斐に関心を示さないのと同様に、甲斐の方
も周囲になんの関心も持たないようである。
甲斐が転校前にいた、T市の工業高校とは、学力も、雰囲気もま
33
ったく違う。甲斐がいたT市のなど、地方の工業高校は、トップ進
学校には少し及ばないレベルの生徒が集まるのだから。
対して、希望ヶ丘西高校は、分数が危ない生徒がほとんどである。
中でも工業科は別格に成績が低い。一〇〇〇ー九九九=? という
問題で、一〇〇一、と答えた生徒がいるくらいである。
漢字が読めない生徒など、ざらにいる。それどころか、カタカナ
やひらがなも覚束なかったりする。九九の暗唱など、出来る生徒を
探す方が難しい。
もちろん、アルファベットなど、問題外である。abcd、四つ
ぐらいまで書ければ上等である。
しかも、暴力的という点では、神奈川最凶と言われる高校である。
それなのに、甲斐は、そんなことを一々気にしている風もない。
窓際の席なのを幸いに、一日中外の風景を見ているようである。
え
整った顔が、時空に彫り込まれたように凍り付いている。
休み時間は、もっぱら電子辞書を覗き込んで、なにかやっている。
さすがの希望ヶ丘西高校のイジメっ子たちも、なんだか妙な雰囲気
に呑まれて手出しできないでいるらしい。
二日目の昼休み、甲斐は天気がいいので学校周辺を散歩してみた。
そこで、この粗暴な高校には似つかわしくない光景を見た。
花壇があった。
業務員の小西次郎が丹精している花壇である。赤や黄のケイトウ、
紫のペチュニア、色とりどりの百日草、様々な花々が植えられてい
る。
その花々を見つめながら、
薄笑いをしている少年がいた。
少年は、花壇を荒らしたりはせずに、小さな如雨露で水をやって
いるのだった。
しかし、その少年の目に、知性の燦めきはなかった。白痴とまで
34
は言わぬが、明らかに魯鈍の目である。
だが、自然な優しさだけはあった。
甲斐の中に、温かい感情が流れ込んだ。
その少年は、二年一組の原田勝であった。
怯えている。小さな小屋の片隅で震えている兎のように。
微笑みながら。
甲斐は、そっと勝に忍び寄った。
びくん、と勝が飛び上がった。
﹁あ、ご、ごめんなさい、ごめんなさい﹂
勝が、謝った。誰に対して、何を謝っているのか分からない。し
かし、その必死さだけは、全身から伝わってくる。
にこっ。
甲斐が、微かに微笑んだ。
しかし、勝はまだ怯えた顔をしている。笑った後に、勝を殴った
り蹴ったりするものは、いくらでもいるのだ。
甲斐の微笑は、凍り付いたままだ。晩冬の寒い日に、微かに潜ん
でいる春風の予感のように。
勝は、どうやら甲斐が、自分を殴ったり蹴ったりする気はないと
気付いたらしい。どこか卑屈な薄ら笑いを浮かべながら、一歩甲斐
に近づいた。
甲斐も、勝に一歩近づいた。
﹁あ、ご、ごめんなさい﹂
勝が、慌てて一歩下がる。
甲斐は動かない。その頬には、やはり春風の予感のような微かな
笑みを浮かべている。
35
え
勝が、恐る恐る甲斐に近づいた。まるで、初めて人間を見た野生
のチンパンジーのようにも見える。
甲斐は、久遠の仏像のように時空に彫り込まれたままだ。
﹁ぼ、ぼく、にねんいちくみのはらだまさるです﹂
勝は、高校生になっても、自分の名前を漢字で書くことが出来な
い。
勝の内申書は、一〇段階評価で、オール一だった。普通は、中学
校の教員は、一が特定の生徒に集中しないように、ある程度融通を
利かせるものである。ましてや、五段階評定ではない。一〇段階評
定である。
ところが、勝の場合、その融通の利かせようがなかった。
入試も、オール〇点という、奇跡のような点数だった。まぐれ当
たりの期待できそうな選択問題も、綺麗に外したのである。それは
もう、見事と言うしかなかった。
さすがに、合否判定会議では大もめにもめた。
しかし、この少子化社会で、希望ヶ丘西高校も定員割れしている。
募集定数が三百二十名のところに、三百十一名しか受験者がいなか
ったのだ。素行に問題のない勝を落とすのは、まずいということに
なったのである。
そんな訳で、勝は、まさに奇跡のように合格できたのであった。
奇跡は、それだけではなかった。そんな勝が、いくら希望ヶ丘西
高校とはいえ、本来なら進級できるはずはなかったのだから。
それには、教員たちの同情を引くに充分な、次のようなかなり特
殊な事情があったのである。
勝は、今朝、七月五日の朝も、希望ヶ丘西高校のある川崎市から
は、西北遙かに離れたところにある旭丘団地から通ってきた。
団地を出るとき少し遅れたので、小走りに走る。バスに乗り遅れ
たら大変だ。バスは十五分おきだから、一本遅れると遅刻は確定的
になる。
ちょうど、向こうのバス停に、いつも乗る始発のバスが近付いて
36
くるのが見えた。勝は、乗り遅れては大変と、必死で駆け出した。
ぎりぎりのところでバスに間に合った。汗びっしょりである。ク
ーラーが、心地いい。
十五分ほど、このバスに揺られると、小さな私鉄の駅に着く。勝
は、小学生のように首から吊した定期入れから、定期券を出して改
札口を通り、シルバーメタルの電車に乗り込んだ。朝まだ早く、乗
客はまばらなので、いつも座ることが出来る。
私鉄で小一時間ほど揺られてから、別の私鉄に乗り換える。この
電車にも、小一時間乗ることになる。たいていは、この電車でも座
ることが出来る。
この電車が進んでいくに連れて、緑は少なくなり、灰色の工場の
姿が多くなってくる。空気も、何となく灰色にくすんでくる。川崎
の、スモッグ地帯が近付いてくるのだ。
こっちの電車になると、部活などで朝早い高校生たちが、次々に
乗り込んでくる。しかし、彼らは、二、三十分も乗っていると、皆
思い思いに、途中の駅で降りてしまう。最寄りの高校に行く生徒た
ちなのだ。
どれも、勝の学力では入れなかった高校ばかりである。
こうして、沿線にある、自分が入ることの出来なかった百校近い
高校を確認することは、けっこう辛いことだ。
しかし、もう一年以上もこうしていると、そんなことも忘れてし
まう。今は、ただ眠いだけだ。
電車に揺られながら、勝は、少しうとうとする。しかし、乗り過
ごすようなことは、絶対にない。気が小さいので、しょっちゅう目
を醒ますからだ。
今度は南武線の黄色いラインの入った電車に乗り換える。これに
は、三十分ばかり乗ることになる。この辺りになってくると、通勤
客と通学生で電車はごった返し、座ることは出来なくなる。
勝は、この電車に乗ると、緊張で胃の辺りがしこり、肩に重い荷
物でも背負っているような気分になる。自分と同じ希望ヶ丘西高校
37
の生徒が、大勢乗っているからだ。
希望ヶ丘西高校は、神奈川百校計画が終わった後に、例外的にも
う一校作られた新設高校である。最後の高校であり、工業科があっ
たため、学区が工業高校と同じように広く定められた。
それで、学区が神奈川県のほとんど東半分を占めている。そのお
陰で、勝のように、地元の高校に入る学力がない子供たちが、神奈
川県を横断して入学してくることになってしまった。
登戸を越えて、谷津という小さな駅で降りる。この辺りは、辺鄙
なところで、思いがけないところに、空き地があったり、広々とし
た田圃が広がっていたりする。すぐ川向こうが東京都とは、とても
思えない。
希望ヶ丘西高校の生徒たちが、ぞろぞろと黄色いラインの入った
電車から降りていく。その生徒の三分の一ぐらいは、カップルであ
る。毎朝、駅で待ち合わせているのだ。
彼らは、人目も憚らずに、まるでここがパリででもあるかのよう
に抱き合い、頬を擦り寄せながら歩いていく。時折、ディープキス
を交わしながら歩いているカップルもいる。中には、女の子のオッ
パイを揉んでいる男子生徒までいる。
向こうから来るサラリーマンや、パートの小母さんなどが、その
様子を見て顔をしかめ、まるで害虫でもよけるかのように、生徒た
ちを避けて通る。
唯一、もう店を開けているベーカリー谷津に、朝食を買う教員や
生徒が入っていく。
正門前の高崎商店を抜けると、希望ヶ丘西高校の校舎が見える。
当初は、少子化で生徒がいなくなったら、老人ホームに転用しよ
うという計画だった。それで、落ち着いた感じの瀟洒な造りになっ
ていた。
ところが、脆い外壁のあちこちに、生徒のキックによる穴が開き、
カラーインクで落書きをされ、とても老人ホームに転用どころの騒
ぎではなくなってしまった。
38
おまけに、神奈川県下でもダントツに成績の低い公立高校になっ
てしまったので、そういう生徒の受け皿として、逆に必要となって
しまった。
おいそれと、廃校というわけにもいかない。
そんな希望ヶ丘西高校の校舎を見ると、勝の胃は、こちんこちん
に硬くなってしまう。
生徒たちの歩みは、一様にのろい。みんな、校舎に着く時間を、
一秒でも遅くしたいのだ。
だが、勝の足は、その中でも特別にのろい。追い越していくイジ
メっ子たちが、そんな勝を小突いていく。 勝は、毎日こんな風にして、三時間近くかけて通学している。帰
りも、当然同じ道を帰ることになる。往復で、六時間近くになる。
なのに、勝は無遅刻、無欠席である。
単に気が小さいので、休んだり遅刻したりできないだけの話なの
だが、それでも怠け者の多い希望ヶ丘西高校の生徒としては大変な
ことである。
それに、勝は与えられた課題は、全部提出していた。たとえ、答
えが全部ひらがなで、全部間違っていたとしても、その姿勢は評価
に値した。
おまけに、勝は、どんなに分からない授業でも寝なかった。単に
寝るだけの度胸がないのであるが、それでも教員受けはよかった。
そんな訳で、進級判定会議の際に、多くの同情票を集めた。一を
つけざるを得なかった教員たちも、教務部の支持を取り付けて、喜
んで全員が二に変えた。
そのお陰で、勝が進級するという奇跡が起こったのである。
いや、毎年、百名近くの生徒が、成績不良や問題行動で退学して
いく希望ヶ丘西高校で、勝が進級できたのは、奇跡以上のことであ
ったと言えよう。
こうして、二年一組の在校生として、勝は甲斐と出会ったのであ
る。
39
勝は、有り体に言って、人類というよりは類人猿に近い風貌をし
ていた。狭い額。突き出した厚い下唇。ちょっと猫背の胴体も、チ
ンパンジーに似ている。
体毛は、さほど濃いというわけではない。しかし、およそ頭髪以
外の体毛というものを、持たないかのように見える甲斐と比べると、
やはりどこか獣じみている。
﹁僕は、甲斐だよ﹂
甲斐が、希望ヶ丘西高校に来て初めて言葉を発した。
﹁カ、カイくん?﹂
甲斐が、微かに頷く。
勝が、本当に嬉しそうに、にっこりと笑った。邪気のない顔だっ
た。
二人は、並んでしゃがみ込み、花壇の花を眺めた。初夏の風は、
ここ川崎でも、やはり心地よかった。
足音がした。一瞬、また勝が、怯えて肩をびくんと震わせた。
﹁なんだ、勝ちゃん、今日は二人かい? 珍しいねえ。うちの生徒
が、二人も花を見るなんて﹂
見ると、業務員の小西次郎だった。手に、餡パンを一袋持ってい
る。その顔を見て、勝があからさまに安堵したのが分かる。
﹁じゃあ、今日は、半分こだな﹂
こう言って、勝に餡パンの袋を渡した。
﹁ありがとう、おいちゃん﹂
勝が礼を言うのに、小西が目を細めて笑った。
勝が袋を開け、中身を半分にして、大きな方を甲斐に渡した。甲
斐は、小さく、小西と勝に礼をした。
﹁こっちの子は、ずいぶん大人しいね。口はきけないのかい?﹂
甲斐が、小さく笑った。
小西も、訳が分かったのか分からないのか、あいまいな顔で笑っ
た。
今度は、三人でしゃがみ込んで花を眺めた。
40
色とりどりの花が、微かな風に揺れていた。
この世には、至福があった。
この︿世界﹀には。
41
第二章・2
2
新宿、歌舞伎町の雑踏の中を、黒い詰め襟姿が、肩で風を切って
歩いていた。通行人は、モーセが割った海のように、彼の前で割れ
る。それが当たり前のように、傲岸な様子で、歩いていく。
身長百八十センチ、八十キロ。身長の割には、痩せぎすである。
しかし、放つ負のオーラは、着ている短ランがはち切れそうなほど
である。寒いので、周囲はみなコートを着ている。しかし、その男
は短ランの下にはTシャツ一枚だ。
希望ヶ丘西高校の総番長、竹田広樹であった。暴力団山田組の若
い者が三人、前からやって来た。
広樹は、恐れる風もなく真っ直ぐに進んでいく。
三人組の方が、先に視線を外し、進路を譲った。それほど、広樹
の顔は新宿でも売れているのだ。
歌舞伎町では、ピンクや紫を基調とした色とりどりの華やかなネ
オンサインの光が乱舞している。昼のすすけた様子からは一変して、
雌のクジャクが、雄のクジャクに変身したかのようだ。
その中で、広樹の真っ黒な短ラン姿は、やはり浮いて見える。
広樹は、タイ式ボクシング・ムエタイをやっている。トレーナー
に言わせると、本場タイでも、ライト・ヘビー級のチャンピオンの
座を狙えるという話だ。希望ヶ丘西高校の生徒で、これほどストイ
ックな男も珍しいだろう。
さらに広樹は、剣道の鍛錬もしている。これも、インターハイで
上位入賞は確実、という実力の持ち主だ。
しかも、広樹の剣道はスポーツ剣道ではない。喧嘩剣道だ。打ち
合いをしながら、ムエタイの回し蹴りをするぐらいは平気だ。恐ら
42
く、今の日本の高校生で、広樹と互角に張り合える者はいないだろ
う。
その上、広樹は万一の場合に備えて、柔道の道場にまで通ってい
る。投げ技、絞め技、関節技。どれを取っても、一級品である。
鋭すぎる、猛禽類のような目。削ぎ取ったような頬。そこそこハ
ンサムでもあるのだが、この獰猛な印象では、カタギの女は掴まら
ないだろう。ただ、寝る女には不自由していない。
広樹は、川崎周辺数十の高校の総番長であるが、仲間とつるんで
歩くのが嫌いだ。単独行動を好む。己の強さに、絶対の自信を持っ
ているのだ。
裏通りに入った。雑居ビルの二階にあるのが、カフェバー﹁蟻の
足﹂だ。マスターの伊集院光太郎が、半分趣味でやっている店だ。
木製のドアを押し開けて中に入ると、今どき珍しい、モダンジャ
ズが、五月蠅くない程度に、ご機嫌に鳴っていた。客は、半分ぐら
いの入りだろうか。平日の夜九時にしては、まあまあの入りだ。
白い漆喰の壁に、木材の茶色がいいアクセントになっている。照
明は、仄暗いが、週刊誌を読むのには不自由しない程度だ。フロー
リングの床も、使っている木材がいいのだろうか、歩くといい音が
するし、モダンジャズもよく響く。
広樹は、真っ直ぐにカウンターに向かった。カウンターの中では、
柏崎慎二、通称ベビーフェイスが、シェイカーを振っていた。黒い
スラックスに、白いワイシャツ。蝶ネクタイを締めて、洒落たグレ
ーのベストを着ている。にこやかな顔をしている。
広樹が、背の高い、ワインレッドのストゥールに座った。
﹁いらっしゃいませ。なんになさいますか﹂
﹁オンザロック﹂
ベビーフェイスが苦笑いをした。
﹁高校生に、酒は出せませんよ。竹田さん。せめて、着替えてきて
くださいよ﹂
﹁んだよ、あんた、俺の顔を知ってるのか﹂
43
﹁竹田さんには、うちの後輩が何人も壊されていますからねえ﹂
広樹は、にやっと笑った。
﹁なら、話が早ええや。うちのザウルスを殺ったのは、あんたの下
のもんかい?﹂
ベビーフェイスが、僕のおごりです、と言いながら珈琲を差し出
した。ちゃんとフィルターで淹れたもので、他の客に出そうとした
ものを、広樹に回したのだ。
﹁なんだか、岡君が奇妙な死に方をした話は、聞きました。でも、
あれは︿道化師﹀の仕業じゃあないですよ。少なくとも、僕のとこ
ろには、そういう話は届いていません﹂
ずっと笑顔だが、ベビーフェイスの目にも、かなり剣呑な光があ
る。不穏な気配を察したのか、カウンターに座っていた二人のサラ
リーマン風の男が、カクテルの入ったグラスを手にして、ボックス
席の方に移った。
ベビーフェイスは、愛嬌があるくせにハンサムな顔で、相当の数
の女の子を泣かせているという話だ。しかも、広樹が相手にするよ
うな女の子とは違い、ちゃんとした女子大生まで泣かせているとい
うことを聞いたことがある。
︿道化師﹀というチーム名を考えたのも、ベビーフェイスだという。
︿ ﹀でくくると、ただの、道化師、より洒落ている、と考えるセ
ンスを持っているのだ。
﹁しかし、︿道化師﹀じゃなかったら、誰がゴルゴンに手を出すと
言うんだい﹂
広樹の問いは、本気だった。どうも、ベビーフェイスが嘘をつい
ているように見えないのだ。
そういう動物的な勘には自信があった。
奥から、小柄な男が出てきた。やはり、黒ズボンに白シャツ、蝶
ネクタイ、ベスト姿である。ちょっと見た感じ、猿のミイラのよう
な顔をしている。だが、よく見ると、愛嬌のある顔だ。﹁蟻の足﹂
のマスター、伊集院光太郎だ。こう見えても、ちょっとしたベンチ
44
ャー企業の社長で、道楽でこの店をやっている。
こういう情報をきっちりと掴んでくる頭があるのも、広樹と他の
希望ヶ丘西高校の生徒とを分ける壁だ。
﹁マスター、希望ヶ丘ゴルゴンの頭の竹田広樹さんです﹂
﹁ほう、あんたがあの有名な﹂
﹁え、俺、そんなに有名っすか﹂
﹁ああ、あんたが、山田組の若いもん三人を壊したって話は、新宿
中を飛び回ったからね﹂
﹁んなこと言ったら、ベビーフェイスさんも、若いもん三人袋にし
たって聞きましたよ﹂
﹁ああ、あん時は、俺も一緒だったんだ﹂
伊集院が言った。
﹁こいつとちょっと飲んで歩いていたら、前から山田組の若いもん
が三人やってきてねえ。代紋が見えたから、避けようとしたら、こ
いつが真っ正面からぶつかるのさ。それで因縁つけられて。そした
ら、こいつが、まあまあ、話はこっちで、とか何とか言いながら、
路地裏に連れ込んだんだ。それでさあ、いきなり頭突きだよ、相手
の顔に。そいつが顔押さえて呻いているうちに、一人の腹に前蹴り
だ。残る一人が殴りかかってくるのを、数発のパンチでぼこぼこに
してさあ。で、頭突き喰らったやつが、気を取り直して殴りかかっ
てくるのを、また腹に前蹴りだ。そして、倒れ込んだ奴らの鎖骨を
狙ってばんばん蹴りを入れるんだ。全員鎖骨が折れてねえ﹂
﹁へえ、それで、よく新宿で商売やってけますね﹂ 広樹が、にやにやしながら言う。
﹁ああ、もう駄目だと思ったよ。でもさあ、こいつが、山田組の事
務所に、菓子折持って挨拶に行くって言うからさ、毒食わば皿まで、
と思ってついていったんだよ。そしたら、若頭がでてきてねえ、ま
あ、取りあえず三人も病院送りにされたってのは、外聞も悪いから、
あんまり言いふらしてくれるな、ということで封筒渡されてさ。︿
道化師﹀もそれからは、あんまりヤクザのシマを荒らしたりしなく
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なったから。山田組の方も、かえって喜んでたみたいだよ﹂
そう言って、マスターは、珈琲を注ぎ足してくれた。
﹁ところが、最近は、︿道化師﹀が大人しくなった代わりに、あん
たんとこが、山田組のシマを荒らしているそうじゃないか。あんま
りヤクザとは、ことを構えない方がいいよ﹂
﹁うっす﹂
広樹が素直にうなずいた。
﹁しかし、うちのザウルスが、︿道化師﹀に殺られましたからね。
山田組ともめる気はないっすけど、一人殺されて黙っているわけに
はいかねえんですよ﹂
淡々と話している分、広樹の話し方は怖い。
﹁あ、あれは、︿道化師﹀の仕業じゃあないよ﹂
﹁え﹂
﹁俺、見てたんだ。あのザウルス君ての? えらくガタイのいい子。
彼が、勝手にチェーン振り回して、自分の体を叩いて、挙げ句の果
てには脳天かち割って死んじまったんだ。本当だよ﹂
﹁でも、新聞には、警察は他殺と見ているって、書いてありました
ぜ﹂
﹁ああ、警察の人間で、あの場面を見ていたものはいないからね。
でも、見ていた人間は大勢いるけど、みんなあれは自殺だったって
言ってるよ。それとも、何かに取り憑かれでもしたのかね﹂
伊集院は、ベビーフェイスが昔無茶なことをしていたことを知り
ながら雇っているだけに、広樹を前にしても臆した様子は見られな
い。
﹁誰かの祟りとか、呪いとかですかね﹂
ベビーフェイスが、冗談のように言った。
﹁ああ、それはあるかも知れねえなあ﹂
伊集院が、結構説得力のある声で言った。猿のミイラのような顔
から発せられると、妙にリアリティのある言葉だった。
広樹が苦笑した。
46
﹁うーん、場合によっちゃあ、ベビーフェイスさんとタイマンかな、
って思ってきたんすけどねえ。どうも、そんな感じじゃなさそうだ﹂
﹁あ、いらっしゃいませ﹂
ベビーフェイスとマスターが、声を揃えた。新しい客は、真っ直
ぐにカウンターに来た。
﹁マンデリン﹂
いかにも慣れた様子でベビーフェイスに声をかける。
﹁あれ、なんだ広樹、こんなところで、何をやってるんだ﹂
広樹が見ると、世界史の片桐智だった。広樹も、二年生の時に習
っている。
普通は、工業科の授業はたいていの教師が嫌がる。どうしても、
押し付け合いになって、なかなか担当の教員が決まらない。
それが、片桐は、自分から進んで工業科の世界史を教えている。
変わり種と言うしかない。広樹も、片桐の授業は寝ずに、評定も五
をもらっている。
﹁酒なんか飲んでないっすよ。珈琲っすよ﹂
﹁ほう、そうか。でも、ここは夜は酒も出すからな。高校生は、来
ない方がいいな﹂
﹁それよりも、先公よお、先公こそ、なんでこんなところに﹂
﹁ああ、柏崎さんの淹れる珈琲がうまいからなあ。時々来るんだ。
俺は、酒はあんまり飲まないからなあ﹂
﹁ふーん﹂
何はともあれ、気勢をそがれる格好になったので、広樹も退散す
ることにした。まだ疑いはあるものの、︿道化師﹀が希望ヶ丘ゴル
ゴンにたてついてきた、という雰囲気ではなさそうだ。
﹁じゃあ、俺帰るわ。勘定は?﹂
﹁あ、僕のおごりでいいですよ﹂
ベビーフェイスが言った。
﹁お、悪いな﹂
﹁なに、それよりも竹田さん、あんまりうちの後輩を可愛がらない
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でやってください。お願いしますよ﹂
下手に出られて、広樹も苦笑するしかなかった。
﹁じゃあな、先公﹂
﹁おう、気を付けて帰れよ﹂
広樹は、ドアを引いて、店を出て行った。
48
第二章・3
3
山形県のS市である。
その郊外、山奥の古い農家、原田の本家である。
周囲の山々の木々は、もうすっかり葉を落とし、荒涼とした雰囲
気になっている。所々に見える常緑樹の緑が、かえって寒々しい。
山々の頂には、すでに雪がずっしりと積もっている。やがて、この
雪はS盆地の平野部にも降りてくるのだ。
広い敷地に、宏壮な家が建っている。一階は、全部ガレージにな
っている。一階部分は、雪に埋もれることが当たり前だと考えられ
ているので、居室は全部二階と三階にある。
その家の広い仏間に、老婆がちょこんと座っていた。原田勝の祖
母、原田カツヨであった。仏間は、天井も柱も、合板ではない、ど
っしりとした、本物の木材で造られている。線香の匂いが、畳にも、
木材にも染み込んでいるようだ。
仏壇も大きい。特別誂えのもので、八畳間ぐらいだったら、入り
きらないだろう。漆黒の、黒檀製という贅沢なものである。太い、
山形県T市特産の絵蝋燭が立てられ、その上で焔がゆらゆらと揺れ
ていた。
仏壇に、遺影が立てられていた。
原田勝の遺影だった。
仏壇に向かって右側に、古ぼけた祭壇が置かれていた。カツヨが
師匠から受け継いだもので、制作は江戸時代だそうである。その上
には、本来は観音が本尊として祀られているはずである。しかし、
49
この壇には、高さ六十センチほどの大黒天の像が笑いながら立って
いた。二本の蝋燭立て、それに、二メートル近い長さの梓弓が、弦
を上に向けて置かれている。弦は、絹糸を撚り合わせて、蝋を引い
てある。鳴りを良くするためである。
一つ、人身を供御にして、
二で、にんまりと薄笑い、
三つ、木乃伊と語ろうて、
四つ、夜な夜な黄泉の国、
五つ、命がないように、
六つ、無明の世の中に、
七つ、何事もお計らい、
八つ、闇夜にひっそりと、
九で、苦しみのあるように、
十で、とうとう身の破滅。大黒の御代こそ、恐ろしや。
不気味な歌である。
このご詠歌を詠っている、カツヨの声は、陰々として山々に谺す
るようである。
カツヨは、この近郷近在ではカミサマ、と呼ばれている。
もっとも厳密に言うと、カツヨはカミサマではない。オナカマで
ある。
オナカマというのは、口寄せ巫女のことである。死者の魂を、あ
の世から呼び寄せ、いろいろな話などをさせ、予言めいたこともす
るとされている。
恐山には、有名な口寄せ巫女のイタコがいるが、あのイタコのよ
うな存在を山形県では、オナカマと呼ぶのである。
イタコは、全国的に有名になった。そのため、観光客も呼べるの
で、この二十一世紀に入っても、まだ相当の人数がいる。だが、オ
ナカマは、既に昭和の終わり頃には数人しかいなかった。今では、
50
もうカツヨ一人しか残っていない。
オナカマとカミサマは違う。
カミサマは、多くは成人してから、何かの事故など、ふとした切
っ掛けで神が取り憑いて、占いをしたり、神のお告げを託宣したり
する人である。
比叡山や熊野、出羽三山などにこもって、厳しい修行を積み、カ
ミサマとしての霊能力を身に付けるものもいる。こういうカミサマ
は、まだ各地にたくさん残っている。
このようなカミサマと呼ばれる霊能力者と、オナカマは一線を画
している。
オナカマは、盲目の少女が、幼いうちから精進潔斎し、断食や、
冬場の水垢離などの激しい修行を積んだ上で、カミをつけるのであ
る。オナカマにつくカミは、十八夜観音と呼ばれている。
オナカマになるには、師匠であるオナカマの下に弟子入りし、修
行を積み、口伝えでさまざまな経文を習う。
幼い身での、この修行は辛く、厳しく、あるオナカマの老婆が、
﹁親の敵にも、あの苦労はさせたくない﹂と語ったほどのものであ
った。
漢方薬の知識なども身に付け、民間医療の医師でもあり、また一
種の一流の心理カウンセラーでもあるオナカマたちは、昔は人々に
随分と頼りにされてきた。しかし、世の中が豊かになっていくにつ
れて、オナカマになる少女も、徐々に減っていった。
カツヨは、幼いときから、異常な霊能力に恵まれていた。しかも、
生まれて半年も経たなかったときに、原因不明の高熱を出して目が
見えなくなってしまった。それで、その霊能力を買われて、十一歳
のときに、まだたった一人残っていたオナカマに弟子入りしたので
ある。
今では、オナカマとして霊能力を揮っているのは、オナカマの本
場だったこの辺りでも、カツヨ一人になってしまっている。オナカ
マは、カツヨの代で絶えるだろう。
51
せっかく、厳しい修行を積んでオナカマになったものの、カツヨ
は、積極的に宣伝することを嫌っていた。それで、カツヨの存在を
知っているものは案外少ない。近郷近在の、評判を頼りに来る者だ
けを相手に仕事をしているのである。
それでも、噂を聞きつけて、遠くは庄内地方や、秋田県からわざ
わざ足を運ぶ者もいる。それだけ、カツヨの霊能力には、確かなも
のがあるのだ。
そんなカツヨにとって、勝は可愛い孫だった。勝は、知能は低か
ったが、純なところがあった。目がほとんど見えないカツヨに、優
しくしてくれるのも、勝だった。
カツヨは、目こそ不自由なものの、この辺りでは稀な美人だった。
それで、裕福な農家である、この原田家に嫁いだ。二十四歳のこと
であった。
その後、三男二女に恵まれた。勝の父親、賢吾は少し年の離れた
末っ子として生まれた。名前に込められた両親の祈りも虚しく、賢
吾は愚かしい少年として育っていった。年が離れていたので、両親
も兄弟も、あまり甘やかしすぎたのかも知れない。
賢吾は、田舎を嫌い、東京に飛び出した。そこで美津江と結婚し、
長男の勝、次男の礼治が生まれた。礼治は、知能指数が八〇ほど。
粗暴な面はあるが、兄に暴力を振るうほどではない。
しかし、勝は、知能指数が五十一。辛うじて、養護学校行きを免
れた。
そんな勝が死んでしまった。
カツヨは、勝が不憫でならない
一つ、人身を供御にして、
二で、にんまりと薄笑い、
三つ、木乃伊と語ろうて、
四つ、夜な夜な黄泉の国、
五つ、命がないように、
52
六つ、無明の世の中に、
七つ、何事もお計らい、
八つ、闇夜にひっそりと、
九で、苦しみのあるように、
十で、とうとう身の破滅。大黒の御代こそ、恐ろしや。
間違ってカミサマとも呼ばれるカツヨは、延々と奇妙な節回しの、
呪いのご詠歌を詠っている。
︱︱勝よう、勝よう。オレは、お前どご死なせだものが憎い。お前
を死なせだものに、大黒様の呪いがあるように、オレは、ずっとお
祈りしてるぞ。
手に下げた数珠を持ちなおす。イラタカの数珠と呼ばれるそれは、
ムクロジュの木の実に、狼の牙、熊の爪、南方の海で採れるタカラ
ガイなどが間にカザリとして入れられている。
カツヨは、気を鎮めるように、その数珠を、ちゃっと揉んだ。
﹁さ、大黒様、なにとぞ勝の仇をば、どうぞ、どうぞ﹂
こう言って、カツヨは祭壇の前に置かれた土瓶から、やはり祭壇
の上に置かれた湯呑みに水を注いだ。目はほとんど見えなくても、
大体の勘で置かれたものの位置は見当が付く。
祭壇の上の蝋燭に火を灯し、さらに梓弓の絹の弦を棒で叩いて鳴
らした。
ビィーン、
ビィーン、
と、腹の底に響くような、玄妙で神秘的な音が鳴り響く。
弓を鳴らしながら、カツヨは
﹁おーおーおー﹂
と節を付けて唸り出した。腹の底から振り絞られた、魂の奥から
揺さぶられるような、力強い声である。その声には、何か、原始的
な、本能的な恐怖感を生み出す力がある。
カツヨは、傍らに置かれた大きな箱から、オナカマの道具を取り
53
出した。
カツヨが箱から出したのは、桑の木の棒に、色とりどりの布を、
幾重にも重ねたトドサマと呼ばれる神聖な呪具である。
十四の時の神つけの儀式のときにも、カツヨはこのトドサマを使
った。神懸りになって、意識を失ったカツヨは、このトドサマを揺
り動かしながら、
﹁お十八夜様がついた﹂
と言ったのだそうである。オナカマには、十八夜観音がカミとし
てつく必要がある。それ以外のカミ様ではいけないのだ。
しかし、今、カツヨが祈っている相手は、観音ではなく大黒天で
ある。
カツヨは、そのトドサマを激しく上下に揺り動かしながら、腹の
底から唸り声のようなものを出す。それは、人間の原初の感情に訴
えるような、野太い声だった。
呪っている。
カツヨは、勝を死に追いやった者たちを呪っているのだ。
外では、原田の本家に、暗鬱な、鉛色の空が重苦しく覆い被さっ
ている。その空から、灰色の、重たそうな雪が、ゆっくりと沈んで
くる。
その雪のように、カツヨの呪いも、ずっしりと重く大地に降り積
もる。
54
第二章・4
4
二〇一二年、一月六日。金曜日。始業式の日。
勝がはかなくなってから、十三日目である。
希望ヶ丘西高校のカウンセラーをしている臨床心理士の犀川郁美
は、少し疲れてカウンセリング室を出た。毎週一回、近くにある高
松病院から生徒のカウンセリングのために来ているのだ。
このカウンセリングは盛況である。希望ヶ丘西高校では、それだ
け、心に傷を負っている生徒が多いことになる。
そのまま、隣の保健室に入る。
ドアを開けて、とくん、と心臓が跳ねた。
世界史の片桐がいたのである。
つい、訊ねてしまった。
﹁片桐先生、大黒様の呪い、って、ご存知ですか?﹂
﹁大黒様の呪い?﹂
片桐が、怪訝そうに聞いた。片桐の背後が、明るい。
保健室は、南向きに建てられている。採光をよくするために、外
に出られるガラス張りのドアがある。保健室の入り口を入って右手
に、カーテンで仕切られて、六つベッドが並んでいる。
うっかりすると、この六つのベッドが満員になることもある。心
にも、体にも病を持っている子が多いのだ。
保健室の壁は、さすがに壊されたりはしていない。尋常な、クリ
ーム色の壁だ。
﹁ええ、そうなんです。大黒様の呪い﹂
郁美は続けた。
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﹁去年の最後の週、病院の事情でカウンセリングをお休みしたので、
今日、三十分ずつにして五時間目までびっしりカウンセリングをし
たんです。そしたら、九人も来ちゃって。しかも、その内の六人が、
その大黒様の呪いが怖いと﹂
﹁はあ、確かに、大黒天には、死の神という側面がありますが﹂
﹁え、そうなんですか!﹂
郁美は、心底驚いた。
犀川郁美は、黒髪を肩胛骨当たりまで垂らしている。大きな二重
の目で、鼻がちょっと円いのがかえって可愛らしい。口は、小さい。
モスグリーンのセーターに、同系色の膝丈のスカート。職業柄な
のだろうか。今どき珍しい、シックな装いである。
﹁で、その話をする生徒の様子が尋常じゃないんです﹂
﹁都市伝説かなんかですかねえ。うちの生徒が、大黒天の民俗学な
んて知っているはずもないし﹂
片桐は、今年は保健部に所属している。新採で希望ヶ丘西高校に
来てから、五年間ずっと生活指導部を担当してきた。一応、山形県
T市出身の長男なので、毎年地元の採用試験を受けている。そのた
め、担任にはなれない。
若いくせに、担任が出来ないから、ということで自ら望んで生活
指導をしていたのだが、他の教員の同情を買い、今年は割と楽な保
健部に回させられたのだ。
T市の工業高校から転入生が来るというので、最初は心配してい
たそうだが、藤原甲斐が、特にイジメられもしていないようなので、
少しほっとしている。そう、郁美は聞いている。
﹁その死の神の側面って、どういうことですか?﹂
福の神である大黒様が、死の神というのは、なんだか納得がいか
ない。
﹁そうですねえ、話すとちょっと長くなりますが﹂
﹁私なら、大丈夫ですけど。今日は、この後、六時間目にはカウン
セリングの予定は入っていませんから﹂
56
郁美は、片桐の向かい側に座りながら言った。
﹁ああ、じゃあ、僕も授業ないですから、ちょうどいいですね﹂
今日は、養護教諭の江本恵子は、出張でいない。そのため、授業
の空いている、保健部の教員が詰めることになっている。片桐は、
今の時間授業が空いていたのだ。
そこにカウンセリングを終えて、郁美は保健室に帰ってきたので
ある。
ほぼ五時間近くぶっ通しのカウンセリングで、さすがにタフな郁
美も少々疲れている。
片桐は、唇を湿らせてから、話し始めた。
﹁大黒様、大黒様と、普段僕らは何気なく言っていますけどね、こ
れは実は、仏教の天部である大黒天と、日本の神様である大国様、
つまり大国主命が、習合したものなんです。どっちも、読みが﹃だ
いこく﹄と同じになるので、何時の間にやらごっちゃになっていっ
たんですね。言ってみれば、神仏習合の代表みたいなものです﹂
﹁大国主命って、あの、因幡の白兎を助けた大国様のことですね﹂
﹁そうです。そうです。で、この大国主命には、意外な側面がある
んです﹂
﹁意外な側面?﹂
やそがみ
﹁ええ。大国主命は、﹃死の神﹄という側面を持っているんですよ﹂
﹁はい?﹂
郁美は、ちょっと意外すぎる、と思った。
やがみひめ
﹁大国様にはですね、兄の神様たちがたくさんいたんです。八十神
といいます。そして、この八十神たちが、八上比売という女の神に
結婚を申し込みに行くことになるんです。で、大国様はあのお馴染
みの袋を持たせられて従って行くんです﹂
﹁はい﹂
大きな袋を担いだ大国様は、郁美にもおなじみだ。
﹁この時に、有名な因幡の白兎が、兄の八十神たちに騙されて、赤
剥けの身体を海水に浸けて苦しんでいたのを助けてやることになる
57
んです﹂
郁美は、にっこりしながら頷いた。その話は、やはり微笑ましい。
﹁こうして白兎を助けた大国主命は、兎の予言通り、兄たちが結婚
を申し込んだ八上比売と、自分が結婚してしまうんですよ﹂
﹁あ、それはお兄さんたち、怒りそうですね﹂
﹁そうなんですよ﹂
片桐が、右手の中指で眼鏡を押し上げる。
﹁犀川先生の言うとおり、そのことが、兄たちの怒りを買ってしま
うんです。それでね、兄たちに騙されて、手間山というところで、
焼けた石を抱かされて死んでしまうんです﹂
﹁え、殺されちゃうんですか?﹂
郁美は驚いた。
﹁そうです。つまり大国主命は、一度死んでしまうんです﹂
﹁はあ、なんだか酷い話ですね﹂
﹁そうですね。でも、神話なんてどこもこんなもんですよ。ゼウス
なんて、父であるクロノスを殺してしまいますし﹂
﹁ああ、ギリシャ神話も、残酷な話は多いですものね﹂
郁美は、納得して頷いた。つい微笑んでしまう。郁美は、笑うと
頬にえくぼができる。それが可愛いと、女友達には褒められる。
片桐も、つられたのか少し笑った。その笑みが、やはり可愛いと
郁美は思う。
片桐が続ける。
﹁さてと、こうして一度死んだ大国主命ですが、蛤の神と赤貝の神
の助力で生き返ってしまうんです。つまり、大国主命は、言ってみ
れば、ゾンビなんですね﹂
片桐が苦笑した。ストーブは赤々と燃えているが、郁美はなんだ
ねのかたすくに
か急に寒気がした。ゾンビ、という言葉に、何か禍々しいものを感
じたのだ。
スサノオノミコト
﹁こうして蘇った大国主命は、死の国である、根之堅州國を治めて
いる素戔鳴尊の所に逃れていきます。その後、素戔鳴尊によって、
58
め
すせりひ
色んな試験を受けて合格した大国主命は、素戔鳴尊の娘、須勢理毘
売と結婚するんです。この素戔鳴尊による試験の時に、大国様を助
けたので、鼠が大黒天の使いとなります﹂
﹁まあ、八上比売とも結婚してるんでしょう。もてるんですね﹂
郁美が、お茶目に言うと、片桐も笑った。
﹁そうなんですよ。彼女いない歴二十八年の僕にとっては、とても
羨ましい﹂
こう言って、また片桐は笑った。郁美も、つられてころころと笑
った。
片桐が、真面目な顔になった。
﹁さて、大国主命は、根之堅州國から出て、出雲の国に至ります。
そこで、海を渡ってやってきた少彦名命と協力して、国造りをしま
す。こうして、葦原の中つ国、日本が誕生します﹂
そう言われれば、小学生の頃に、そんな話を読んだような記憶が
ある。郁美は、頷きながら、そう思った。
﹁ところが、そうやってせっかく苦労して造った葦原の中つ国を、
天から降りてきた神々に、強引に取り上げられてしまうんですね﹂
﹁ああ、国譲りですね﹂
﹁そうです。天孫降臨と、国譲りです。こうして、国を取り上げら
れた大国主命は、壮大な出雲大社を建ててもらう代わりに、幽界に
引退させられることになるんですよ。でもね、良く考えてください﹂
片桐は、眼鏡を押し上げ、唇をちょっと湿らせた。
﹁幽界に引退するというのは、神様としては、死んだということに
なりますよね﹂
﹁そうかあ。なんか、大黒様って、のんびりしたイメージがありま
すけど、こうやって聞いていると、死んでばっかりですね﹂
七福神の大黒様からは、なかなか想像しにくい話だ、と郁美は思
った。
﹁そうなんですよ。しかも、大国主命には、異名があります。大物
主神と言うんです﹂
59
﹁え、そっちは聞き覚えがありませんけど﹂
そうだろうな、という感じで片桐がうなずいた。
﹁その大国主命の異名である、大物主神が祀られるようになった経
緯と言うのが、ちょっと怖いんです﹂
﹁どういうことですか?﹂
﹁大物主神は、大和では、みわさん、と呼ばれて、天皇家より古く
から尊崇されていたとも言われています。ご神体が、奈良にある三
輪山そのものなんですね﹂
片桐は、珈琲を飲む。
﹁で、古い神様の割には、三輪山の大物主神が天皇家によって祀ら
れるのは、第十代の崇神天皇からなんです。崇神天皇の五年、大和
地方に疫病が流行ります。それで、占ってみると、巫女に大物主神
が憑依して、この疫病は、自分の祟りであると托宣するんです﹂
﹁え、神様が、自分で祟ったって言うんですか!﹂
郁美は少し驚いた。
﹁ええ、でも、旧約聖書の神ヤハウェなんて、祟ってばっかりです
よね﹂
﹁ああ、そう言えば、そうですね﹂
郁美は、神様って、本当に仕方がないなあ、と思って苦笑した。
﹁それでですね、大物主神は、自分を子孫の大田田根子に祀らせれ
ば、疫病は止むと托宣したんです。で、その託宣通り、大田田根子
を探し出して、三輪山の大物主神を祀らせたら、疫病は止んだとい
うんですね﹂
話を聞いていて郁美は少し深刻になる。疫病が止んだということ
は、疫病をその神様が起こしていた、ということになる。
それは、少し怖い。
﹁大物主神、つまり、大国主命は、祟り神だったんですよ﹂
﹁祟り神ですか。あの福々しい大黒様が﹂
﹁まあ、受験の神様、天神様だって元をただせば祟り神ですからね﹂
片桐が、また苦笑した。郁美もつられて笑う。と言うより、笑っ
60
てでもいないと、落ち着かない話だ。
﹁さて、今度は、仏教の大黒天の方を見てみましょうか﹂
郁美は、こっちの方はまるで知識がないので、さらに真面目に聞
こうと思う。
﹁仏教の、天部の仏たちというのは、普通の仏様とは、ちょっと違
うんですよ。如来にしろ、菩薩にしろ、本来の仏様というのは、み
んな非暴力主義者なんですね﹂
﹁ああ、そうですね。暴力をふるう仏様なんて、考えられませんも
のね﹂
郁美が言うのに、片桐も頷く
﹁でも、魔物やなんかは、強大な戦闘力を持っているわけです。そ
れで、仏教では、仏たちの守護神として、仏教以前にインドにあっ
たバラモン教や、仏教以後に生まれたヒンドゥー教の神様たちを、
天部として祀ることにしたんです﹂
﹁ああ、セキュリティ会社ですね﹂
﹁そうですね﹂
郁美の突飛な比喩に、片桐は声を出して笑った。
﹁で、こういう天部は、仏教に仇なす敵に、自分の持っている武力
で対抗するわけです。つまり、悪魔や魔神などの怨敵を、強い力で
退散させることができる。ですから、天部の仏様というのは、みん
な仁王様のように、恐ろしい姿をしています。大黒天も、そういう
天部の一人だったわけです﹂
﹁え、でも、七福神の大黒様は、仁王様みたいな恐ろしい格好はし
ていませんよ﹂
郁美は、不思議な気がして言った。
﹁そうなんですよ。その辺が、変容していく神様たちの面白いとこ
ろですね﹂
片桐が、眼鏡を押し上げる。
﹁さて、じゃあ大黒天は、元々はどういう神様かというと、ヒンド
ゥー教のマハー・カーラ、という神様のことなんです。マハーとい
61
うのが、サンスクリット語で、大きい、という意味で、カーラとい
うのが、黒、なんです。この、マハー・カーラが曲者なんですよ。
マハー・カーラというのは、実はヒンドゥー教の三大主神の一柱、
シヴァの異称なんです﹂
﹁あ、それ習ったことあります。確か、ブラフマーが創造の神様で、
ヴィシュヌが維持の神様で、シヴァが破壊の神様なんですよね﹂
﹁あ、そうです。さすが、よく憶えていますね。その破壊の神、シ
ヴァが、大黒天の原型なんです﹂
片桐が、空になった珈琲カップに手をかけたので、郁美は﹁あ、
私が﹂と言って自分の分と二つの珈琲カップを手にして立った。珈
琲メーカーから二杯分の珈琲を注ぐ。
﹁しかもですね、サンスクリット語で、カーラというのは、時間を
も意味するんです。全てを死滅させる、〝大いなる時間〟ですね。
大黒天は、そういう意味で、﹃大いなる破壊と死の神﹄、という性
格を持つことになります﹂
片桐が、まだ熱いだろう珈琲を一口飲んだ。郁美もそれに倣う。
もっとも、片桐はブラック、郁美はミルクと砂糖入りである。
﹁日本に大黒天の信仰が入ってきたときには、こういう﹃破壊と死
の神﹄という側面は、忘れられていたんですね。ですから、日本に
入ってきたときには、大黒天も、相当穏やかな天部として入ってき
たんです﹂
﹁ああ、だから福々しいんですね﹂
郁美も、ようやく納得した。
﹁ええ、そうです。もっとも、破壊神シヴァの側面も完全に忘れ去
られてしまった訳ではありませんよ。初期の大黒天の像には、手に
武器を持った、恐ろしい戦闘神の姿をしたものが多いんです﹂
﹁へー﹂
郁美は、意外に思った。武器を手にした大黒様など、想像できな
い。
﹁この大黒天と、大国主命との習合は、遅くとも、室町期には、な
62
されたと言われています。それ以来、あの福々しい、大きな袋を背
負った尊像が造られ始めたという訳です﹂
﹁うーん﹂
郁美はうなってしまう。あの馴染み深い大黒様に、こんな一面が
あろうとは。
﹁ですから、破壊神マハー・カーラと、祟り神大国主命が習合した
大黒天は、その素性を辿れば、実は最も恐ろしい神様だと言うこと
も出来るわけです﹂
﹁へーへーへーへー﹂
郁美は、少し前に流行ったテレビ番組の真似をした。茶化してみ
ないと、落ち着かない気分だった。
﹁こうして考えてくると、﹃呪いの大黒﹄あるいは、﹃大黒の呪い﹄
が、都市伝説化するのも、あながち不思議なことではありませんね﹂
計ったように、チャイムが鳴った。すぐ掃除の時間である。希望
ヶ丘西高校では、掃除をさぼる生徒がでないように、掃除の後にシ
ョート・ホームルームが設けられている。それでも、校内にいなが
らさぼる生徒は多い。掃除を監督する教員には、胃の痛む時間であ
る。
外を見ると、少し雪が降っていて、風が吹いていた。片桐は、故
郷のT市の地吹雪を想っていた。
63
第二章・5
5
二〇一二年、一月六日。
﹁おい、危ない。降りろ、降りろ﹂
相模原市郊外の、高圧送電鉄塔の前に、人垣が出来ていた。郊外
とは言っても、この辺にも住宅地は進出している。元は小高い丘が
見えたのだが、今ではそこら中に高層マンションが建っている有様
だ。
それらの住宅から、老若男女、たくさんの人々が出てきて騒いで
る。
そうした人々の中には、まだ正月気分も醒めやらないものもいる。
その人々の正月気分を醒ますかのように、
高圧送電鉄塔を、一人の人間が登っていた。
小柄な少年である。短ランの学生服を着ている。リーゼントの髪
型にドカンズボン。こめかみには、しっかりと剃り込みが入ってい
る。
水野俊であった。
学校にも行かずに、こんなところで何をしているのだろう。
ちょうど、片桐が呪いの大黒について、郁美に説明している頃合
いであった。
俊が、登っていく。
西側遠くに山が見える。焼山などの連山だ。うっすらと冠雪して
いる丹沢も見える。
今時珍しく、凧も二つ三つ上がっている。
64
その俊の顔が恐怖に歪んでいた。
普段、他の高校生を恐怖させている、希望ヶ丘西高校の梅の校章
を付け、希望ヶ丘ゴルゴンのGの徽章を付けながら、今は自分の方
が怯えているのだ。
﹁た、助けてくれ。嫌だ。嫌だよお﹂
囁いているが、その声は、誰にも聞こえない。
俊は、小さな声で﹁嫌だ﹂と言いながらも、しかし傍目には黙々
と登っているかのように見える。
人が、どんどん集まってくる。
﹁誰か、一一九番に電話したか?﹂
﹁それよりも、東京電力の方が、よくないか?﹂
﹁もう、両方とも電話してある。今大急ぎでこっちに向かっている
そうだ﹂
大人たちが、蒼褪めた顔をしながら話し合っている。子供たちも、
口をあんぐりと開けながら鉄塔を見上げている。
そうしている間にも、俊は着々と登っている。
俊の顔も、蒼褪めている。
空は、あっけらかんとした青空である。雲が幾筋か見える。空が
あまりにも澄んでいるせいで、かえって寒い。冷たい風が吹き、た
だでさえかじかんでいる手をさらに冷たくさせる。
普段は、目の険を除けば、案外可愛い顔をしているのだが、恐怖
のあまりに、その可愛い顔が崩壊してしまっている。
鉄塔が冷え切っている。手袋もしていない、素手でその鉄を掴ん
でいるのだ。既に、その手はかじかんでいて、鉄骨を握るのもまま
ならない。鉄骨が凍っているので、革靴はしょっちゅう滑り、鉄塔
から落ちそうになる。
﹁うわ﹂
また、右足が滑った。辛うじて手で掴まっているが、もう既に手
は凍傷で真っ赤になっている。
65
﹁おーい、自殺なんて止めろ。まだ若いんだから﹂
﹁そうだ、自殺なんて駄目だぞ﹂
そういう声は、しかし俊の耳には届いていない。
俊は、なにものかに操られているかのようだ。
﹁嫌だ嫌だ﹂
そう呟きながら、しかし手も足も言うことを聞かない。
自分の意に反して、
なにものかに取り憑かれているかのように、
俊はただひたすら登っていく。
何度も、落ちそうになる。その度に、冷や汗がでる。その冷や汗
で、また手が滑る。
登っていく。
何かを目指して。
破滅だろうか?
死の悦楽だろうか?
一つ、人身を供御にして、
二で、にんまりと薄笑い、
三つ、木乃伊と語ろうて、
四つ、夜な夜な黄泉の国、
五つ、命がないように、
六つ、無明の世の中に、
七つ、何事もお計らい、
八つ、闇夜にひっそりと、
九で、苦しみのあるように、
十で、とうとう身の破滅。大黒の御代こそ、恐ろしや。
俊の耳に、なんだか不気味なご詠歌のようなものが聞こえた。
そのご詠歌に操られているのだろうか?
俊は、ただひたすら登っていく。
66
しかし、いくら登っても、頭上に流れる白い雲には手が届かない
だろうに。
何に憧れて登っていくのか。
狂おしいまでに、
何を求めているのか。
何度も、滑り落ちそうになりながら。
どんな天を希求して登っていくのか?
〝永遠〟に向かって。
はしご車が到着した。
中から、三人の男が転がるように降りてきた。グレーの作業服を
着た、東京電力の社員たちである。
俊は、もう既に鉄塔のてっぺん付近まで登り詰めている。そこか
ら落ちたら、絶対に助からない。
何しろ、この送電鉄塔は、高さが五十メートルあるのだ。
﹁おおい、馬鹿な真似は止めて、降りてこい﹂
﹁おおい、電線に触ると危ないぞ。感電するぞ﹂
東京電力の社員が、ハンドマイクで呼びかけた。
﹁え、ゴムかなんかで絶縁しているんじゃないの﹂
群衆の一人が聞いた。
﹁あの電線は、数十万ボルトの電圧がかかっていますからね。そん
な薄い絶縁体じゃ無理なんですよ。触れば、即死です。おーい、降
りてこーい﹂
そう叫びながらも、はしご車からはしごがゆっくりと伸びる。隊
員が、二人かごに乗っている。
二人の隊員も、気は焦るのだろうが、かごが動く速度は一定であ
る。
群衆も、息を詰めて見守る。
はしご車のかごが、俊から数十センチまで近づいた。
67
後一歩だ。
と、
俊が、頂上まで登り詰めた。
﹁嫌だ、嫌だよー﹂
俊が泣いている。
保育園の頃から、人を泣かせたことはあっても、自分が泣いたこ
とは一度もない。女の子が相手でも容赦したことはない。気にくわ
ないものは、みんな力でねじ伏せてきた。
その俊が、女の子みたいに泣いている。
東京電力の社員の手が、俊の肩に触れた。
俊の左手が、つつつ、と伸びて、電線に触れそうになった。
﹁あー!﹂
人々が、一斉に悲鳴をあげた。
電線と、俊の手の間に火花が散ったように見えた。
と、
俊が、ぐっとジャンプして両手で電線を掴んだ。
﹁ギャー!﹂
この悲鳴は、みんなに聞こえた。
﹁あーっ!﹂
群衆も、ほぼ同時に叫んだ。
一瞬にして、俊は黒こげになってしまった。そのまま落下する。
地面と衝突し、砕け散った。
人々は、息を呑んで立ち尽くす。
一つ、人身を供御にして、
二で、にんまりと薄笑い、
三つ、木乃伊と語ろうて、
四つ、夜な夜な黄泉の国、
五つ、命がないように、
六つ、無明の世の中に、
68
七つ、何事もお計らい、
八つ、闇夜にひっそりと、
九で、苦しみのあるように、
十で、とうとう身の破滅。大黒の御代こそ、恐ろしや。
奇妙な節回しのご詠歌が、山陰に谺した。
第二の処刑が終わった。
二〇一二年、一月六日。
原田勝の死から、十三日後のことであった。
69
第三幕・火焔舞踏会・1
第三幕 火焔舞踏会
1
華麗にスティックが踊る。
シンバルが、金属的で、シャープな音を奏でる。
安西薫がドラムを叩くバンド、クレイジー・メドゥーサのライブ
は、今佳境に入っていた。
﹁キャー、かおるーっ!﹂
薫の追っかけをしている女の子たちの絶叫が、まるで悲鳴のよう
に、ライブハウスに響き渡る。
ライブハウスは、真っ黒な箱だ。外側も黒いのだが、内部も、壁、
天井、床、全てが真っ黒である。
そこに、ほとんど死語となったはずの、サイケデリックな色調の
レーザービームが舞い狂う。
薫が、ドラムを叩きながら、恍惚とした表情で頭を振る。汗が飛
び散り、薫の金髪が揺れる。それと一緒に、女の子たちも熱狂的に
首を振る。
ステージは、照明でただでさえ暑い。その上、人いきれの熱気。
さらに加えて、薫自身が発する熱量が凄いのだ。
それは、オーラの発する熱量と言ってもいいくらいだ。
リードギターも、ベースギターも、決して下手なわけではない。
ヴォーカルだって、そこそこのものだ。
ただ、薫のドラムが凄い。凄すぎる。
そして、ルックスも、薫が飛び抜けていい。だから、クレイジー・
メドゥーサの追っかけは、ほとんどが薫のファンだ。
70
狭いライブハウスに、二百人ほどが詰め込まれている。当然、み
んな立って、熱狂的に首を振り、手を振っている。全員が、いわゆ
るゴスロリファッションである。
黒やピンクのワンピースに、同色のリボンを付け、髪の毛も色様
々に染めている。青い髪、ショッキングピンクの髪、緑の髪。それ
が、みんな薫のドラムのリズムに乗って揺れている。
クレイジー・メドゥーサは、下手ではないが、オリジナル曲を作
れるほどのメンバーはいない。第一、楽譜を読めるものが、いはし
ないのだ。
結局は、ビジュアル系バンドからの耳コピーである。
クレイジー・メドゥーサのメンバーは、全員希望ヶ丘ゴルゴンの
メンバーでもある。ただし、番格は薫一人だ。
希望ヶ丘ゴルゴンは、希望ヶ丘西高校の生徒を中心に、隣の駅に
ある川崎北工業高校の生徒を混ぜて作られている。総勢、八十名ほ
どである。希望ヶ丘ゴルゴンという名も、クレイジー・メドゥーサ
という名も、別格に頭のいい竹田広樹が付けた。
広樹は、ここまで粗暴でなければ、中堅クラスの公立高校に入れ
ただろう。そのまま、そこそこの大学にも行けたはずである。しか
し、そんな高校に入学できても、その粗暴さでまず確実に退学処分
になっている。
だが、ここ希望ヶ丘西高校は、他の生徒も、五十歩百歩の粗暴さ
である。だからこそ、三年生まで生き残れたのである。
このライブにも、広樹は来ている。楽器は出来ないが、ロックの
大音響は好きなのだ。
ライブも、フィナーレに入った。薫が興奮してくる。少し、ドラ
ムが走り気味になる。
正確にリズムを叩くべきドラムが走るので、一瞬、演奏は空中分
解しそうになる。それを、辛うじてベースが抑える。
ラスト。
強烈なリズムと、和音とはとても呼べないような大音響で、ステ
71
ージが閉じられた。
﹁みんな、ありがとう﹂
薫が、ステージ上で手を振る。女の子たちが、﹁キャーッ!﹂と
答える。
広樹が、にこにこしながら、ステージに歩み寄った。このライブ
に来ている女の子で、広樹を知らない者はいない。少女たちは、薫
に抱かれたいのと同じぐらいに、広樹に抱かれたいと思っている。
広樹も、今日はさすがに短ランは着ていない。鉄の鋲の打ってあ
る黒い革ジャケット、それにジーンズである。
広樹の家は、裕福である。希望ヶ丘西高校の生徒たちの家庭とし
ては、上流階級に属するだろう。
しかし、今日はいささかムシャクシャすることがあって、スッキ
リしに来た。
いまさっき、早稲田の四年生である姉の瞳が、文学部の大学院に
合格した。
当然、両親も喜んだはずだった。英米文学の翻訳者になりたい、
という瞳の希望は、かねて両親も知るところだったからである。
広樹の両親は、父親の均が一橋大学の、母親の英子が御茶の水女
子大の出身、というエリートだった。
姉の瞳も、小学生のときから優等生で通っていた。中学、高校も、
私立の名門、櫻音女学院に入った。両親自慢の娘だった。
この両親、姉から見ると、広樹はいささか期待はずれの息子だっ
た。特別、頭が悪かったわけではない。ただ、成績が、凡庸だった
のだ。学校で興味の持てない教科を勉強する根性がなかった。
それでも、広樹が幼い頃はまだ良かったのだ。知的な両親は、広
樹の成績がぱっとしなくても、姉と比較して叱ったりはしなかった。
まずまず、健康に育ってくれればそれでいい、という態度を取っ
ていた。姉の瞳も、よく出来た娘で、決して広樹を馬鹿になどせず、
いつも遊んでくれた。
一家は、典型的な中流の上の、幸せな家族だったのだ。
72
しかし、いつごろからだろう、家族の歯車が狂いだしたのは。や
はり、広樹が、小学校高学年になった前後からだろうか。
その年頃ともなれば、広樹にも、両親が一橋と御茶の水の出身で
あることの意味が分かるようになってきた。姉が通っている、中高
一貫教育の私立の名門校と、自分が通うことになる市立の中学校と
の差も分かるようになった。
広樹は、身を焼くような劣等感に苛まれはじめた。
両親が、広樹と姉とを、何とか平等に扱おうと努力すればするほ
ど、かえて屈辱感にまみれた。その精神的エネルギーは、勉強して
瞳を見返してやろう、といった積極的な方向には向かなかった。頭
は悪くないのだから、勉強さえすればいいのに、その根気がなかっ
たのだ。
そして、広樹は、家族に暴力を揮いはじめた。
勝手にムエタイのジムに通い始めたが、両親は何も言わなかった。
広樹は、その前に小学生の頃から剣道はやっていた。しかし、自
分の肉体で直接的に相手を壊す方が、より快感があった。
そうした広樹の荒れが決定的になったのは、広樹が中学二年にな
る直前に、姉の瞳が早稲田に合格してからだった。
自分の偏差値では、早稲田など到底無理だ。まして、父親と同じ
一橋など、望むべくもない。
俺は、本当にこの両親の子供なのだろうか? そんな疑問さえ湧
いてきた。現実は、広樹の頭脳が、勉強には向いていない、という
だけのことだったのだが。
こうして、中学二年に上がった頃から、広樹の本格的な家庭内暴
力の嵐が吹き荒れはじめた。柔道で鍛えられ、体力的には、まだ広
樹を圧倒しているはずの父親の均も、なぜか広樹に殴られるままに
なっていた。
まるで、広樹に負い目でもあるかのようだった。なんと言ったら
いいのだろう、頭の悪い子を産んでしまったことへの贖罪でもして
いるかのようだった。
73
もちろん、母親も姉も、無事ではすまなかった。
姉の瞳の顔に、何回か青痣が出来てから、両親は瞳を説得して東
京のアパートに住まわせることにした。
そのことも、また広樹には気に食わなかった。広樹は、一層荒れ
狂った。
中学三年になると、広樹はろくすっぽ学校にも行かず、ムエタイ
のジムに通い詰めた。気にくわないやつは、全部叩きのめし、ねじ
伏せた。
この頃になると、父親の均も、もう既に広樹には敵わなくなって
いた。
成績は、ガタガタと落ちていった。まあ、そんなに頑張らなくと
も、六大学は無理でも、その下の私立ぐらいは狙えたはずなのだが、
それも無理になっていった。
そんな訳で、とうとう希望ヶ丘西高校に入学するような羽目にな
ってしまったのだ。
その、妬ましい姉の瞳が、早稲田の大学院に合格した。
しかも、両親は、広樹の顔色を窺って、大っぴらには祝福の言葉
も言わない。それが、かえって広樹をむしゃくしゃさせた。
もちろん、両親が祝福の言葉を姉に言えば、さらに苛々しただろ
うが。
それで、スッキリするために、ライブ会場に足を運んだのだ。
もちろん、父親と母親には、思い切り暴力をふるってきた。瞳は、
電話の向こうなので、居場所が分からない。さすがに、追いかけて
いって暴力を振るうほど執念深くはない。
ステージ裏の、狭い楽屋に入る。五、六人のバンド用の楽屋だか
ら、本気で狭い。特別に、楽屋入りを許されている、広樹お気に入
りの女の子も、三人はいってくる。たとえクレイジー・メドゥーサ
のライブでも、広樹が圧倒的な権力を持っているのだ。
広樹が、ポケットから小さなビニールの袋に入った、一見ありふ
れた白い錠剤を取り出した。二十錠ぐらい入っているだろうか。
74
クレイジー・メドゥーサのメンバーと、女の子たちの目が輝く。
﹁それ、リタリンっすか?﹂
ベースギターの、新人が聞いてくる。
﹁ああ﹂
広樹が、にこにこしながら答える。手下を相手にしているときは、
機嫌がいいのだ。
﹁すげ、豪勢!﹂
ベースの子は、リタリンの噂は聞いたことがある。しかし、入手
が難しいので、実物にお目にかかったのは初めてなのだ。
﹁ほれ、マミ﹂
マミと呼ばれた、ショッキングピンクの髪をし、やはりピンクの
ワンピースを着た女の子が、広樹から袋を受け取る。そして、中か
ら四錠の錠剤を取り出した。
リードギターのメンバーが、慣れた手つきで、小さな擂り鉢と擂
り粉木を取り出す。
マミは、その擂り鉢の中に四錠のリタリンを入れ、丁寧に擂り潰
す。
リタリンというのは、簡単に言えば覚醒剤の兄弟分である。ただ
し、兄貴分である覚醒剤に比べると、問題にならないぐらい弱い弟
ではある。正式には、塩酸メチルフェニデートという。
弱いと言っても、合法的に処方できるアッパー系の薬物の中では、
別格に強力である。だてに覚醒剤の弟分をやっているわけではない
のだ。
医者に処方してもらえれば、そんなに高い薬ではない。しかし、
裏で闇取引をすると、一錠五百円∼千円ぐらいに跳ね上がる。
このリタリンには、覚醒作用があり、摂取すると、集中力がぐん、
と上がる。鬱病患者の鬱状態も、劇的に改善される。
ただし、その効果が持続するのは、せいぜい長くて五時間、耐性
がついてしまうと、一、二時間ぐらい。後は、むしろより酷い劇鬱
に落ち込んでしまう。
75
鬱病患者などは、かえってリタリン摂取前より、数倍酷い鬱状態
に落ち込む。こういう時に、衝動的に自殺しやすい。
そのため、二〇〇七年から、鬱病患者には処方できなくなった。
それでも、鬱病患者の間では人気が高い。鬱のまま通勤、通学し
なければならないものには、重宝する薬なのだ。
そこで、リタリンも、ネットなどで密売されることになる。とは
言え、やはり入手は難しい。だから、裏では値が高いのだ。
ところが、広樹はそのリタリンを、数千錠単位でいつも持ってい
る。
父親の均が、海外出張のたびに買ってくるのだ。何しろ、麻薬で
はないので、国によっては簡単に手に入る。大手商社の部長ともな
ると税関などはフリーパスに近い。風邪薬の瓶にでも入れておけば、
まったく問題ない。
鬱病患者でなくとも、リタリンを摂取すると、気分が昂揚する。
それで、覚醒剤などの麻薬には抵抗があるが、ちょっと危ない薬で、
気分を上げたい、などという連中も、リタリンに手を出したがる。
マミは、擂り潰したリタリンを、ガラス板の上で、器用に、ほぼ
八等分した。
それを、別のガラス板にこれも器用に移し替えた。
﹁広樹さん、どうぞ﹂
一番大きそうな山の乗ったガラス板を、広樹に向けて差し出しな
がら、甘えた声を出す。
﹁おう﹂
受け取ると、広樹は、その山をスニッフした。
スニッフというのは、鼻から吸い込む、薬物の摂取法である。錠
剤を飲んで胃で消化して、などというまだるっこしい手順を踏まず
に、直接粘膜で摂取し、毛細血管に取り込むのだ。
ガツン、
衝撃があったような感じがある。広樹の気分が、昂揚する。さっ
きまでの、ムシャクシャした気分が嘘のようだ。雪国の曇天がいき
76
なり晴れて、イタリアの青い空に変わったような感じだ。
広樹のスニッフを切っ掛けに、みんなでスニッフする。
初心者の、ベースギターの子は、多少おっかなびっくりである。
しかしスニッフしてみると、やはり効果抜群だったようだ。
﹁ヘッド、これ最高っすね﹂
﹁だろう、アンパン︵シンナー︶なんて、かったるくてやってらん
ねえだろう﹂
女の子たちも、スニッフする。なにか異様にテンションが盛り上
がる。
﹁こっちもあるからよう﹂
広樹が、手提げの紙袋を差し出した。
﹁あ、いつもすんません﹂
薫が受け取った。角瓶のウィスキーだった。女の子たちが、アイ
スボックスから出した氷で、水割りを作る。広樹は、オンザロック
だ。
そこに、携帯が鳴った。広樹の携帯だった。
﹁チッ、﹂
舌打ちをしながら、携帯を取り出す。岩崎からだった。
﹁ん、俺だ。なに! 俊が死んだ?﹂
﹁え!﹂
﹁︿道化師﹀か?﹂
おかしい、この間ベビーフェイスと話をつけにいった時は、向こ
うに敵意はなかったはずだ。騙されたのか?
﹁なんだあ、自殺だあ? 馬鹿野郎。あいつが人を殺しても、自殺
するような玉か!﹂
楽屋の中の空気は、ギターの弦のように張り詰めている。
﹁なんだあ? 高圧線の鉄塔に登って、感電死したあ? なんじゃ、
そりゃあ?﹂
広樹でなくとも、あの状況は、見ていた者にしか分からないだろ
う。
77
﹁とにかく、︿道化師﹀の仕業じゃねえんだな﹂
広樹が、狐につままれたような顔をした。
座は、一気にしらけてしまった。
﹁よし、とにかく幹部会だ。イワシ、全員に伝えろ。場所は﹃バッ
カス﹄だ。分かったな。ああ、俺と薫が今一緒だから、星川と啓次
に電話しておけ﹂
携帯を切ると、薫に向かって顎をしゃくった。
二人は、広樹のバイクに二人乗りした。薫は、今晩は酔っぱらう
まで飲んで、女の部屋に泊めてもらう予定だったので、バイクには
乗ってきていなかったのだ。
猛スピードで走るバイクに向かって、冬、一月の身を切るように
冷たい風が吹き付けていた。
78
第三幕・2
2
﹁しかし、これは自殺にしか見えませんのう。どう考えても、暴走
族同士の抗争とは思えん﹂
甚兵衛がこう言うのに、警視庁から出張してきた江坂伸介警部も、
秋月も進藤も頷いた。所轄の石沢富雄警部補も、同様に頷く。石沢
は、少し頼りなさそうで無口な大男である。
神奈川県警の捜査一課の刑事部屋である。これまた、殺風景な部
屋である。万が一、ザウルス、岡竜一が死んだ事件と、この事件に
関連があったら、ということで、甚兵衛が指揮に当たることになっ
たのである。
俊の感電死のせいで、近隣約一万戸が一時停電した。
目撃証言は、俊が一人で、勝手に鉄塔を登っていったこと。何度
呼びかけても聞く耳を持たなかったことで一致した。
警察も、一時は自殺説に傾いた。
しかし、俊が、希望ヶ丘ゴルゴンの一員、しかもその番格である
ことが分かると、捜査陣の態度も一変した。
ザウルスの奇怪な死から、まだ二週間も経っていない。
すわ、︿道化師﹀との抗争か、と色めき立ったのだ。
しかし、鑑識の結果、皮膚は感電で焼け焦げてはいるものの、ど
うやら暴行を受けた様子などは見られなかった。
覚醒剤を決めて、何かハイになっていたのではないか、という線
も考えられた。
覚醒剤を摂取すると、その効果で空をも飛べる、などという妄想
をするものが多いからである。
だが、検査しても、俊からは覚醒剤の反応は出てこなかった。
79
幸い、ベビーフェイスが、自由が丘に住んでいたので、横浜まで
出てきてもらい、︿道化師﹀に関しての、事情聴取を行った。
しかし、ベビーフェイスも、この件に関しては困惑した様子で﹁
知りません﹂を繰り返すばかりだった。
取りあえず、今の︿道化師﹀を指導している、三人の番格の名前
と連絡先を聞き出すことが出来た。
ベビーフェイスは、今年二十五歳。二十歳で︿道化師﹀を卒業し、
それ以来﹁蟻の足﹂でバーテンダーをしているが、今も︿道化師﹀
には隠然たる影響力を持つ。
︿道化師﹀そのものは、ベビーフェイスの時代には百人を超えて
いた。しかしベビーフェイスの引退以来メンバーは減り続け、今で
は三十人ほどになってしまった。
それでも、やはり五〇ccバイクにしか乗らない、原チャリ暴走
族とは一線を画している。古風な暴走族である。
それに対して、希望ヶ丘ゴルゴンは、約十年前に成立した。︿道
化師﹀よりは、かなり新しい暴走族である。
創設者は、岸竜太郎という男で、名前も希望ヶ丘夜露死苦、とい
う捻りも何もないものだった。原チャリ暴走族でこそないものの、
︿道化師﹀にたてつくことなど、考えられもしなかった。
それが、広樹が入ってから、様相は一変した。
乱暴なことでは、一時は希望ヶ丘西高校を上回っていた、川崎北
工業高校の生徒もメンバーに入れた。バイクも、七五〇ccを中心
に、でかいのになるとザウルスや広樹のように一二〇〇ccのハー
レーを乗り回すようなものまで現れた。
名前も、希望ヶ丘ゴルゴンと変え、めきめきと勢力を拡大した。
広樹は、恐ろしい存在だったが、それだけに凶暴な連中を吸い寄
せる、磁石のような求心力を持っていた。
女は抱くが、甘やかさない。溺れることもしない。
ストイックに、ムエタイで自分を鍛える。柔道部の連中を相手に、
投げ技も鍛え、絞め技も関節技も会得した。おまけが剣道である。
80
特別自分でカツアゲなんぞしなくとも、他校生からカツアゲした
連中が、自発的に上納してくれる。親からの小遣いも潤沢だ。
そんなわけで、広樹自身は、今は滅多に喧嘩などしない。しかし、
したら必ず相手を半殺しにする。
どうも、現在の希望ヶ丘ゴルゴンと、︿道化師﹀の勢いを見ると、
抗争にはなりそうにない。なったとしたら、希望ヶ丘ゴルゴン側が
一方的に︿道化師﹀を殺戮して終わりだろう。
﹁しかし、誰かに脅かされたんじゃない限り、どうしてあんなとこ
ろに登ったんでしょう﹂
進藤が、もう何回繰り返されたか分からない疑問を、また口にす
る。
﹁とは言っても、亡くなった水野俊という男は、体こそ小さいが、
喧嘩はめっぽう強いそうです。なかなか人に脅かされるような人間
ではないようですし﹂
江坂が、ほとほと困り果てた、という顔で言った。
﹁例の、新宿の一件と似通っていますよね﹂
秋月が、ふと呟いた。
﹁ん、どういうことですかのう﹂
﹁あの岡竜一という男も、目撃証言では﹃嫌だ、嫌だ﹄と言いなが
ら、自分で自分をチェーンで打っていたという話でした。案外、催
眠術か何かで、暗示をかけられたのかも知れません﹂
﹁ううむ﹂
甚兵衛が、難しい顔をした。
﹁しかし、自分で自分を殺すほどの暗示を、催眠術でかけられます
かのう﹂
﹁洗脳、ということも考えられますね﹂
秋月が、また言った。
﹁新興宗教が、関係しているのかも知れませんねえ﹂
﹁と言うと?﹂
秋月の経歴を知らない甚兵衛が訊ねた。
81
﹁ええ、岡竜一の時も、ちらっと思ったのですが、アーシュラーの
祭りというのがあります。ムハンマドの孫、フサインが、政敵であ
るムアーウィアの息子ヤズィードに殺されて殉教したことを記念す
る祭りなんです。で、この祭りでは、実際に男たちが、裸の背中を
自分で鉄の鎖を使って打つんです。フサイン! フサイン! と叫
びながら﹂
﹁ほう、そんな祭りがあるんですか。それは今でもやっておるんで
すか?﹂
﹁はい、今でもイランなどで行われています。背中が血塗れになっ
て、場合によっては気絶するまでやるんです。ああいう、宗教的熱
狂に駆られると、人間は何をするか分からないと思います﹂
﹁なるほど、新興宗教絡みも、洗ってみますかのう﹂
秋月の説明に、甚兵衛も江坂警部も頷いた。
﹁川崎で、最近流行っている宗教といえば、大黒天神教ですかのう﹂
﹁そうですねえ。あれは、本当につい最近起こった新興宗教ですか
ら、信者数はそんなにいませんが、相当狂信的らしいですからねえ﹂
甚兵衛の部下、剣持一彦警部補が言った。
﹁すみませんが、その辺りを、神奈川の方で洗っていただけますか。
東京の方では、もう少し︿道化師﹀のメンバーを洗ってみます﹂
江坂の提案に、一同は頷いた。
﹁では、そういう線で、合同会議に臨みましょう﹂
江坂警部が言うと、みんな一斉に立ち上がった。これから、会議
室で、合同の捜査会議である。この、希望ヶ丘ゴルゴンに関する二
つの事件に、連関があるとすれば、かなり面倒な事件になることが
予想できた。
会議室に向かう、みんなの顔が緊張していた。
82
第三幕・3
3
︱︱カイくんは、くちがきけないのかなあ? かわいそうだなあ。
ぼくは、バカだけど、くちはきけるもんなあ。
ささやかな優越感に浸る。甲斐が、ちゃんと自分の口で自己紹介
したことなど、勝は完全に忘れ去っている。
勝の着ている学生服は、心持ち大きい。成長を見越して大きめの
物を買ったのだが、勝がちっとも成長しないのだ。
逆に、甲斐の学生服は、ぴったり体に合っている。甲斐しか子供
のいない両親が、わざわざ毎年誂えてくれるのだ。
︱︱ああ、きょうは、コスモスのはながきれいだなあ。ぼくは、コ
スモスがすきだなあ。
勝は、なぜか花の名前だけは憶えることが出来る。
勝と甲斐は、また並んでしゃがみ込み、花壇の花を見ている。夏
休みが終わった、最初の日、九月一日の昼休みである。
ピンク、白、赤、黄色、紫色、まだ秋桜が花盛りになるには早い
季節だが、気の早い花が少しずつほころび始めているのだ。
勝にとって、こんなに憂鬱でない夏休み明けは今までなかった。
小学校、いや、保育園時代から、勝はイジメの対象だった。
そんな勝にとっても、五年前のあの日のことは、特に印象的だっ
た。
思い出したくない。
そう思っても、思いはついその日のことを想起してしまう。
⋮⋮その日は、つつじ台第二中学校の入学式だった。つつじ台第一
小学校から入学する勝は、期待に胸を膨らませていた。新しく中学
83
校に入れば、今までのイジメ地獄から逃れられるかも知れない。そ
う思っていたのだ。
頭が鈍く、動作ものろく、いつも洗濯されていない汚れた服を着
ている。その上、身体も小さくて気も弱い、と三拍子も四拍子もそ
ろった勝は、保育園の頃からのけ者にされ、イジメられてきた。
特に、小学校三年の時に、今野と岸という二人の乱暴者とクラス
が同じになってからは、毎日が本当に地獄のようだった。
殴られ、蹴られるなどは、日常茶飯事だった。机に生ゴミを入れ
られ、寒い冬に上着を隠されたりもした。その時は、寒さに震えな
がら、ボロボロのポロシャツ姿で家に帰ったものだった。顔に痣が
できるほど殴られても、勝は教師にイジメっ子の名前を言わなかっ
た。
教師たちの方にも、是非とも勝をイジメるものを追及して、イジ
メを根絶しよう、という意気込みはなかった。
土台、これだけ乱暴なことをするやつは、教員側にも察しがつい
ている。
しかし、今野と岸は、勝をイジメることを除けば、リーダーシッ
プを持った、いわゆる頼りがいのある子であった。教員たちは、た
かが勝のためにことを荒立てて、このリーダーたちとの関係を悪く
することを嫌ったのだ。
勝自身が、教員たちに、助けてやりたいという気分を催させない
タイプであったことも、また事実である。
勝は生来卑屈で、まるでそうした、イジメられる星の下に生まれ
てきたもののようだった。優しい気持ちは持っているのだが、それ
を表現する方法を知らなかった。だから、のろまな勝は、教師たち
にも疎まれていた。
勝は、よく前の日のテレビでお笑い芸人たちがやっていた、瞬間
芸の真似をするように言われた。そうした時には、勝は、卑屈に、
唯々諾々として瞬間芸をやった。そのために、新しいギャグは、一
生懸命に見て覚えた。
84
そして、その芸が下手だと、便所に土下座させられた。その上、
水洗の水を飲まされ、便器を嘗めさせられた。自分のクラスだけで
なく、学年中の女の子から、バイキンと呼ばれ、嫌われた。だが、
全てを先導するのは、今野と岸だった。
しかし、その今野と岸は、もう一つの、つつじ台第一中学校に進
学した。今野と岸がいなければ、もうイジメられることはないかも
知れない。
勝は、真新しい学生服に身を包み、希望に胸を膨らませて入学式
に臨んだのである。
小学校で、卒業の前に﹁新しい天地﹂という習字を書かされた。
漢字は書けない勝だったが、この字の意味を聞いて、これだけは何
度も手本を見ながら書いた。そのときだけは、不思議と胸が高鳴っ
た。
新しい教室に入ると、教室には先輩たちが作った、赤や青や黄色
の、色取り取りの造花が飾られていた。黒板にも、何色ものチョー
クで﹁入学おめでとう﹂と書かれていた。そうした全てを見る度に、
勝の胸は踊った。もっとも、入学という漢字は読めなかったのだが。
入学式のときには、二十人弱と貧弱ではあったが、ブラスバンド
がスーザの行進曲を演奏してくれた。その華やいだ雰囲気に、勝は
舞い上がった。もう、イジメられることのない、安全な学校生活が
約束されたような気がした。
いつもは学校に顔を出さない母親の美津江も、さすがに今日は顔
を見せた。しかし、晴れ着姿の他の母親たちに対して、美津江は、
着古した紺のスカートに、毛玉だらけのオレンジ色のカーディガン
姿であった。
普段は穿かないストッキングに、伝染があることも、勝は知って
いた。美津江自身、身の回りを小奇麗にしておく能力が、全くない
のである。
しかし、その恥ずかしささえ、今日の勝には気にならなかった。
自分の、輝かしい中学生活を期待して、胸が弾み、頬が紅潮してい
85
た。
しかし、その思いは、無残に裏切られた。
入学式も終わり、教室で担任から諸連絡があった後、勝は昇降口
を出た。すると、小学校で同じクラスだった大山と佐藤に呼び止め
られた。
小学生離れした体格だった今野と岸と違い、大山も佐藤もそんな
に大柄な方ではない。小学校でも、今野と岸の周りで騒いではいて
も、勝に直接手を出すことはなかった。
その二人が、他の小学校から来た三人と共に、勝を学校の裏庭に
連れ込んだ。
日当たりの悪い裏庭はじめじめとしていて、半分泥のような土に
も、学校の壁の下側にも、薄汚い緑色の苔が生えていた。
そこで、勝は殴られ、蹴られ、転ばされた。
﹁おい、チュウ公、これからは、今野君たちの変わりに、俺たちが
おめえをイジメてやっからな。覚悟しろ。地獄の中学生活にしてや
っからな﹂
大山の捨てぜりふが、いつまでも耳の中で谺した。チュウ公、と
いうのが勝のあだ名だった。何となく鼠を想わせる風貌から、そう
呼ばれるようになったのだ。
﹁な、あいつイジメると、面白れえだろう。スカッとするだろう﹂
佐藤が、他の小学校から来た三人に言っているのが聞こえる。三
人が﹁ああ、面白かった﹂﹁毎日やろうぜ﹂と言っているのも聞こ
えてくる。
勝の、ささやかな希望は、呆気なく打ち砕かれたのだった。
帰り道、とぼとぼと歩く勝は、裏道を通って大回りして歩いた。
家に帰りたくなかった。
入学式に出た母親の美津江も、もう団地の家に帰っているだろう。
しかし、勝は、どんな顔をして家に帰ればいいのか分からなかった。
買ってもらったばかりの真新しい学生服は、右の袖が肩からちぎ
れ、泥だらけになってしまった。顔は、青痣だらけである。
86
何と言っても、学生服を破られたことがショックだった。身体が
あまり成長しない勝は、新しい服を買ってもらうことは滅多になか
った。中には、小学校の三年生のときから着ているシャツまであっ
た。
弟の礼治は違った。勝とは違って、むしろ大柄の礼治は、どんど
ん成長するので、毎年のように新しい服を買ってもらっていた。勝
は、それが羨ましかった。
うっかりすると、勝は礼治のお下がりを着せられることさえあっ
たのだ。
それだけに、真新しいYシャツと学生服を買ってもらったときは
嬉しかった。それを着たときは、何だか誇らしいような気分になっ
た。
まず、親戚の誰かからもらったお下がりの学生服ではない、とい
うことが嬉しかった。
しかも、礼治が良く新しい服を買ってもらう、といっても、それ
は全部バーゲン品である。しかし、まさか学生服は、バーゲン品と
いうわけにもいかないとでも思ったのだろうか。貧しい両親が、気
張って上下で三万円のものを買ってくれた。一番安いものではなか
ったのだ。
そのことが、勝には、心が震えるほど嬉しかった。胸を張って、
学校に行けるような気がした。成長を見越して、少しブカブカなの
だが、そんなことはどうでも良かった。
その真新しい学生服が、たった一日でぼろぼろにされてしまった
のだ。こんな姿を見せたら、両親になんと言われるか分からない。
それで、こうしてあちこち歩き回り、団地のすぐ近くにある旭丘
公園に来たのである。
勝は、しょんぼりと、入口からすぐのところにある、木製のベン
チに腰を下ろした。目の前に、小さい頃良く遊んだ、ヒョウタン型
の砂場がある。その向こうには、象の形をした、赤と緑のペンキで
塗られている幼児用の滑り台がある。
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小さい頃に、母親に連れられてこの公園に来て、滑り台で遊んだ
ことが思い出された。
その頃から、すでに勝はイジメの対象ではあった。勝同様、気の
弱い母親の美津江は、勝が悪戯な餓鬼共に泥饅頭を食わせられても、
何も言えずに薄笑いを浮べていた。他の子供の母親たちも、勝に対
する意地悪には無頓着だった。
それでも、その頃には、まだ幸福のかけらぐらいはあったような
気がする。そうやって、母親に、公園に連れてきてもらったりした
のだから。
こんな風に、晴れの入学式の日まで、惨めにイジメられるなどと
いう酷いことはなかったような気がする。
幼い頃それで遊んだ象の滑り台を見ている勝の目に、涙がじんわ
りと滲んできた。勝はひくひくとしゃくり上げ始めた。両手で、顔
を覆い、俯いてしまった。
こうして、一人で暗い公園にいると、怖かった。それでも、勝は
家に帰りたくなかった。
だが、いつまでもこうしてはいられない。
それで、なおあちこちを歩き回り、日も完全に沈んでから団地に
帰ったのである。
テレビでは、スペシャル番組なのだろうか、いつもはこの時間に
はやっていない﹁ドラえもん﹂をやっていた。それを見て、両親も、
弟の礼治も、声を上げて笑っている。一見、微笑ましい一家団欒の
図である。
勝の両親の賢吾と美津江は、いかにも勝の両親らしく、どちらも
鈍重そうな様子をしている。目は白く濁り、全く生気がない。なん
となく、魚の腐った死体を連想させるようなところがある。
第一、美津江は入学式の時から着替えていない。賢吾はグレーの
スゥエットスーツを、だらしなく着ている。
それに対して、弟の礼治は、溌剌とした様子をしている。とても、
勝の兄弟とは思えない。紺のトレーナーにジーンズ姿も、活発そう
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である。
﹁ご飯、残ってるよ﹂
美津江が、勝の方は見ずに、のろのろとした感じで声をかける。
目はテレビに釘付けで、勝の方を見ようともしない。大の大人が、
﹁ドラえもん﹂に、夢中になっているのだ。
食卓には、ご馳走のつもりなのか、冷めたハンバーグと、エビフ
ライ、乾いた刺身が乗っている。
﹁うん、きょうは、いらない。ちょっと、とちゅうでたべてきたか
ら﹂
そう言って、勝は急いで次の部屋に入っていく。その部屋が、勝
と礼治の勉強部屋であり、寝室である。六畳を、二人で使っている
から、かなり手狭である。
窓の前に、勝と礼治が、それぞれ小学校に上がったときに買って
もらった学習机が、二つ並んでいる。勝は、右側にある自分の机に
腰掛けた。
両親は、ほとんど小遣いなど持っていない勝が、どこで何を食べ
てきたのかも、全く気にしていない。
鈍感なので、異常な勝の様子にも、全く気が付かないでいる。た
だテレビを見て、大声で笑っている。
こうして、座っていると、身体中が疼く。思わず、うめき声が洩
れる。
隣の部屋からは、今度は礼治の高笑いする声が聞こえてくる。小
学校三年の弟の礼治は、勝とは対照的にガッチリとした身体をして
いる。小学校では、むしろイジメっ子らしいが、さすがに兄の勝を
イジメることはない。
テレビから、﹁ドラえもん﹂の陽気な声が聞こえてくる。勝は、
苛々しながら舌打ちをした。
︱︱チェッ! ぼくは、﹁ドラえもん﹂なんてだいきらいだ。のび
たは、いつだって、ドラえもんにたすけてもらえる。ジャイアンに
いくらイジメられたって、きっといつかはたすけてもらえるんだ。
89
おまけに、しずかちゃんだって、のびたにやさしくしてくれる。の
びたが、ジャイアンにイジメられれば、たすけてもくれる。でも、
ほんとうは、そんなことって、ないことなんだ。イジメられてるも
のを、だれかがたすけてくれるなんて、ほんとうは、ありっこない
ことなんだ。⋮⋮
ふと、勝は、回想から帰った。
隣には、甲斐がいた。
自分をイジメない、優しい友達、甲斐がいる。
勝は幸福だった。
小西が来た。手には、餡パンが二つ握られていた。無言で、餡パ
ンを二人に手渡す。
勝は、袋を破って、餡パンを食べる。甘みが、じんわりと口中に
広がる。
勝は、心底幸福だった。
二〇一一年、九月一日。
原田勝がはかなくなるまで、あと四ヶ月を切っている。
90
第三幕・4
4
薫が、メンチを切っていた。
相手は、︿道化師﹀の番格、秋本翔である。
武蔵小杉駅の、南武線から東横線に乗り換えるコンコースである。
二〇一二年一月十三日のことである。
勝がはかなくなってから、二十日が経っている。
秋本は、大きかった。百八十五センチ。九十五キロは、優にある
だろう。
対する薫は、百七十五センチほど。七十キロぐらいだろうか。中
肉中背である。
広樹と、ベビーフェイスの間で、一応話は付いたとは言うものの、
希望ヶ丘ゴルゴンと︿道化師﹀の対立が、まったく解消されたわけ
ではない。
しかも、ザウルスと俊の奇怪な死亡事件の捜査はまったく進まな
かった。
希望ヶ丘ゴルゴンの番格の中には、どうしても︿道化師﹀が怪し
いと思うものが多かった。
薫もその一人だった。
それで、見知っている︿道化師﹀の番格、秋本をホームで見かけ
たとき、わざと肩でぶつかったのである。
﹁んだ、てめえよお、ぶっころ﹂
ぶっ殺すまで言えなかった。
薫が、いきなりドロップキックを放ったのである。
91
秋本の顎の辺りを狙ったドロップキックは、見事にヒットした。
秋本は、無様にすっ飛んだ。
受け身を取った薫は、すぐさま立ち上がると、マウントポジショ
ンになり、秋本の顔面を左右のパンチでぼこぼこにした。
普通、これだけ同格の相手に、ドロップキックのような大技を仕
掛けるものはいない。外れたら、そこで一巻の終わりだからだ。
ところが、薫は無謀である。とにかく前後というものを考えない。
その場のフィーリングで物事を進める。
秋本翔も、喧嘩は強い。
本来なら、ここまで一方的な勝負になるはずはない。
だが、薫は、ドラムを叩いている時と同じで、本能的な勘だけに
頼っていた。そういう薫の野生が勝ったのだ。
この世で、薫が恐れているのは、ただ一人、広樹だけだ。
まったく互角な条件で、素手のタイマンを張れば、当然薫よりも
星川の方が強い。だが、それでも薫は星川を怖いとは思わない。
しかし、広樹は別だ。
広樹とだけは喧嘩をしてはいけない。
そう薫は思っている。
秋本が、完全に失神した。右手に、まだ薄い鞄を掴んだまま。
薫は、もちろん通学用の鞄など持っていない。そのまま、改札口
に向かう。薫の家族が住むアパートは、ここ武蔵小杉にあるのだ。
それにしても、新宿に本拠地を持つ、︿道化師﹀の番格が、どう
してこんなところにいるのか? しかし、薫には、そんなことに気を回すような知能はない。
右手と左手でリズムを刻みながら、改札口を通った。
一つ、人身を供御にして、
二で、にんまりと薄笑い、
三つ、木乃伊と語ろうて、
四つ、夜な夜な黄泉の国、
92
五つ、命がないように、
六つ、無明の世の中に、
七つ、何事もお計らい、
八つ、闇夜にひっそりと、
九で、苦しみのあるように、
十で、とうとう身の破滅。大黒の御代こそ、恐ろしや。
右手で三連符を叩きながら、左手で八分音符を刻んでいく。結構、
複雑なテクニックだ。それを、無意識のうちに、平気でやってのけ
る。
︱︱⋮⋮裸のお前が纏っているのは、細い金のネックレス⋮⋮。革
ジャンの俺の手に、シルバーのナイフが月の光に輝く⋮⋮。
薫の好きなビジュアルバンド、ルナティック・ワールドの﹁腐っ
た林檎﹂を口ずさんでいる。
薫は、できればミュージシャンとして、プロデビューしたいと思
っている。
しかし、プロのドラマーなら、いくら興奮してもテンポは正確に
刻まなければならない。先日のライブのように、ドラムが走っては
いけないのだ。
それで、薫のライブを聴きに来たスカウトたちも、薫を誘うのは
断念したのだ。
薫なら、ルックスだけでも、相当いける。その上、テクニックも
ある。
しかし、プロとしては、興奮しすぎるのである。
クール。
薫に決定的に欠けている要素であった。
薫は、燃える男なのであった。
車が途切れたので、道を横断した。信号も、横断歩道も関係ない。
渡りたいときに、車が来なければ渡る。それだけである。
93
ガソリンスタンドがあった。
薫は、そのガソリンスタンドの機能美が、とても美しいと思った。
薫は、ガソリンスタンドに入っていった。
スタンドのサービスマンが、雑巾と水を入れておいたバケツを取
りあげ、中身をぶちまける。
そのまま、ガソリンを給油する計量器に近寄る。
そして、給油ノズルを取って、その先端からガソリンを出し、両
足の先にかけた。
それから、両手首に、ガソリンをかける。
ふと、薫は、自分が何をしているかに気が付いた。
﹁な、なんだよ。やめろよ⋮⋮﹂
呟くように言う。
しかし、両手は、薫の意志など関係なく動く。
ノズルから、オレンジ色の液体がバケツに注がれる。
ガソリンだ。
バケツ一杯にガソリンが溜まると、薫は左のポケットから煙草を
取りだした。
﹁な、なんだよ。誰か、止めてくれよ﹂
薫は、右のポケットからライターを取り出す。
広樹しか怖がったことのない薫の顔に、僅かな怯えの色が走る。
﹁だ、誰か﹂
右手が、ライターを着火させた。
どういう奇跡だろう。
ガソリンには、引火しなかった。
ぶるぶる震える手で、煙草に火を点ける。
深々と、煙草を吸う。
不意に、死刑囚が死刑を執行されるときに、最後の煙草を許され
る、と聞いたことがあったことを思い出す。
吸った煙草を、左手の手首につけた。
94
左手が燃えた。
﹁ああああ、だ、誰か!﹂
ガソリンスタンドのサービスマンたちが、驚いたように薫を見て
いる。だが、誰も止めには来ない。
燃える左手を、右手につけた。
右手が燃え上がった。
広樹しか怖くはなかった。
それなのに、今は怖い。
一つ、人身を供御にして、
二で、にんまりと薄笑い、
三つ、木乃伊と語ろうて、
四つ、夜な夜な黄泉の国、
五つ、命がないように、
六つ、無明の世の中に、
七つ、何事もお計らい、
八つ、闇夜にひっそりと、
九で、苦しみのあるように、
十で、とうとう身の破滅。大黒の御代こそ、恐ろしや。
﹁助けてくれ、誰か、助けてくれよ﹂
前屈の姿勢で、右手を右足につけた。
発火する。
左足につけた。
発火する。
﹁ああああ、助けてくれ、助けてくれよ﹂
しかし、その声は叫びにはならない。
ただの、囁き声だ。
両手両足が燃えている。そのまま、足の火はドカンズボンに移り、
短ランに移る。
95
薫が燃える。
すーっと両手が動いた。
﹁嫌だ、嫌だよ﹂
ついに薫は、小便を洩らしてしまった。
それでも、傀儡子師が操る人形の手のように、薫の手は動くのを
止めない。
バケツを手に取った。
なぜか、バケツのガソリンには引火しない。
徐々に、ゆっくりと薫はバケツを持ち上げる。
じわりじわりと、バケツは上がっていく。重力に逆らう、反物質
で形成されてでもいるかのように。
頭の上まで持ち上げられた。
止まった。
数瞬、ふるふると震えた。
雪国の軒先に下がる氷柱の先端で震える、水の滴のように。
その滴が落ちた。
ガソリンをかぶった。
ゴッ!
凄い音がしたような錯覚があった。
﹁ギャアーッ!﹂
悲鳴が上がり、ガソリンスタンドのサービスマンたちが、慌てて
走り寄った。
第三の処刑が終わった。
二〇一二年一月十三日。
勝がはかなくなってから、二十日後のことだった。
96
第三幕・5
5
稚拙な、木彫りの大黒天の像である。
その大黒天の像が、
笑っている。
にんまりとした、薄笑いである。
コツコツと、不器用な、分厚い手が、のみと木槌を持って、その
大黒天を彫っている。
彫っているのは、勝の父親、賢吾であった。
武蔵小杉にある、アパートの一室である。ごく普通の、中流の二
階建てアパートであるが、それでも前に暮らしていた市営団地に比
べればこっちの方が、よほど高級感がある。
そこが、大黒天神教の本部なのである。
賢吾一家は、勝の死後すぐに、旭丘団地からこのアパートに越し
てきた。そして、大黒天神教団を開いたのである。
勝が死んだのが、去年の十二月二十三日である。今日は、一月十
四日。まだ三週間ほどしか経っていない。
最初は、旭丘団地の五人、そしてこの引っ越し先のアパート、フ
ラワーガーデン小杉の、隣人六人が大黒天神教の信者となった。
この計十一人を、十一使徒という。
妻の美津江に、神が憑いたのである。その神は、十八夜観音と名
乗った。普段は愚鈍そうな美津江が、威厳を持って託宣した。
呪いの大黒を畏れよ。
97
さすれば、お前たちの人生を邪魔する者は消え去り、お前たちの
人生は有り難い福に満ちたものとなるであろうと。
最初に聞いたのは、旭が丘団地の、勝の死にお悔やみを言い、引
っ越しのお別れ会をしていた五人だった。
その後には、引っ越し先のフラワーガーデン小杉で、ちょうど、
引っ越しの挨拶から、井戸端会議に移行していた、六人である。や
はり、同じように美津江に神が憑いたのだ。この十一人は、その御
稜威に打たれ、すぐに信者になった。
それから、口コミ、チェーンメール、ミクシィなどで噂は広まり、
信者数は爆発的に増え、今では千人以上に上ると言われている。
狭い、六畳の一室で、賢吾が木彫りの大黒を作るのを、七人の信
者が見つめている。
六人が、新人の信者である。
一人、先導しているのが、秋本翔の母親、千寿子である。
千寿子の息子の翔は、昨日薫にぼこぼこにされ、打撲と鎖骨など
の骨折で病院送りにされた。千寿子が、信仰を失ったとしてもおか
しくはない。それなのに、逆にますます信心を深めているようであ
る。
なぜ新しい信者が増えるのか。
カツン
一個の大黒天が彫り上がった。
﹁さて、新しいお守りが、六個出来上がった。では、みなさんも、
このお守りを肌身離さず持っておれば、素晴らしい福を授かること
が出来ましょう﹂
こう言って、賢吾は、今日彫った大黒天のお守り六個を、新しい
信者たちの方に押しやった。
愚鈍そうな目の奥に、今は、どうやら知性の光のようなものが宿
98
っている。しかし、その知性の光が、
邪悪だ。
入信した者たちは、何も特別な儀式を行うわけではない。
ただ、みんなが、この大黒天のお守りを、肌身離さず持っている。
それだけである。そして、大黒呪い歌を一緒に歌う。
信者たちは、お布施として十万円ずつを包んだ。
賢吾が、当たり前のようにそれを受け取る。
﹁では、教祖様とともに、ご唱和を﹂
新人たちが、さっき配られた、﹁大黒呪い歌﹂の教本に目を落と
す。これも一冊一万円のお布施を包んだものである。
教祖の美津江が、奥から出てきた。
ゴテゴテとした、巫女の衣装のようなものを着て、その手には、
奇妙なものを持っている。あの勝の祖母であるカツヨが、オナカマ
として使っていた桑の木の棒に、色とりどりの布を、幾重にも重ね
たトドサマと呼ばれる呪倶である。
そのトドサマを振りながら、美津江が神懸かりになる。
﹁皆の衆、この世は、妬みと呪いに満ちておる﹂
普段の美津江の、愚鈍そうな声とは違う、圧倒的な迫力のある厳
かな声である。
信者一人一人が、大きく頷いた。みな、なんらかの妬みを持ち、
誰か呪いたい相手がいるのだ。
﹁より強い呪いの呪具を持つものが、この世での福を授かるものと
なるのじゃ﹂
聞いている新しい信者たちの目に、強い光が宿る。
﹁今日、各々方は、有り難い大黒天神様のご本尊を授かった。大事
にお守りし、肌身離さず持っておることじゃ。よいか﹂
ここで、一旦美津江は声を切った。
﹁心することじゃ、離してはいかん。必ず、肌身離さず。これが肝
要じゃ。さすれば、お主たちに仇なすものには、大黒天神様の呪い
が降りかかることじゃろう。では、﹃大黒呪い歌﹄のご唱和を﹂
99
そう言って、美津江は、トドサマを振り回しながら﹁大黒呪い歌﹂
を陰々とした声で歌い始めた。
それに、みんなが唱和する。
一つ、人身を供御にして、
二で、にんまりと薄笑い、
三つ、木乃伊と語ろうて、
四つ、夜な夜な黄泉の国、
五つ、命がないように、
六つ、無明の世の中に、
七つ、何事もお計らい、
八つ、闇夜にひっそりと、
九で、苦しみのあるように、
十で、とうとう身の破滅。大黒の御代こそ、恐ろしや。
信者それぞれが頂いた大黒天の小さなお守りが、薄闇の中で、に
んまりと笑ったような気がした。
*
秋本が、入院している、三本松会武蔵小杉病院の一室である。
四人部屋だが、他の三人は、秋本のような安静が必要な状態は脱
したので、外に出ている。
冬とはいうものの、ここ武蔵小杉のある川崎は、晴れている。だ
が、外は乾いた風が吹いていて寒そうだ。おまけに、昔に比べれば
改善されてきたとはいえ、青空はスモッグで薄汚れた色をしている。
小さな木彫りの大黒天の像を見つめている。
︱︱じゃあ、大黒の呪いって、本当だったんだ。
昨日、秋本は、生まれて初めて喧嘩で負けた。
︿道化師﹀の番長、倉木剛とは、タイマンを張ったことはない。
100
しかし、もしタイマンを張れば、喧嘩だけなら負けはしないという
自信がある。
だが、倉木は強いだけではなく、頭もよかった。それに、なんと
言ってもベビーフェイスのお気に入りだった。
ベビーフェイスはやばい。直感的にそう悟っている。ベビーフェ
イスには、絶対服従した方がいい。
それから広樹だ。
広樹は、気に入らない先公の家に、夜放火して家族全員を焼き殺
した、という根強い噂がある。そして、広樹の目の奥に潜む凶悪な
光を見ると、その噂は多分本当なのだろう。それほど、広樹の眼光
には、〝ヤバイ〟感じがあるのだ。
しかも、広樹は、警察に掴まらないだけの狡猾さも持っている。
あれは、ただのちんぴらではない。
別格だ。
そんなこんなで、倉木がヘッドであることになんの不満もない。
それにしても、昨日薫に袋にされたのは、秋本のプライドを一瞬
にして粉々にした。
鼻の骨が折れ、鎖骨も折れているそうだ。
こんな惨めな負け方をしたのは、人生で初めてだ。
しかし、その直後に、薫が謎の焼身自殺を遂げた。
大黒の呪いだ。
この大黒天のお守りを持つものに、仇なしたものは、必ず大黒天
の報いを受けるのだ。
そもそも、大黒天神教が、爆発的に布教したのは、あのザウルス
の処刑からだ。
美津江が、予言したのだ。
十二月二十四日、クリスマスイブの日の午後四時に、新宿で、大
男がチェーンで殴り殺されるだろう、と。
101
この予言は、十二月二十四日、午後四時半に行われた。それまで、
無口で鈍重だった美津江が、急に神がかったように重々しい口調で
言ったのだ。
聞いていたのは、勝の死を聞いて、一応近所のよしみとして美津
江にお悔やみを言い、慰めに来た主婦たち五人だった。それが、急
に今日引っ越すというので驚いていたところに、いきなり美津江に
神が憑き、恐ろしい予言を行ったのだ。
その直後に、夕方のニュースで、ザウルスが何ものかにチェーン
で惨殺されたと報道された。
この、不気味なほどに当たった予言のせいで、携帯メールや電話
で噂がさーっと広まった。みんな噂話が大好きな小母さんたちだっ
たのだ。
それからすぐ原田一家は武蔵小杉に引っ越した。そこで、新しく
六人の信者を得た。先の五人と合わせて十一使徒と呼ばれるように
なった。
旭丘団地の五人も、相次いで原田一家の近くに引っ越してきた。
それでも、わざわざ本部まで来て、お守りを買ったのは数十人だ
った。しかし、人数は少ないものの、その異常なまでの狂信ぶりは、
近隣のパトロールをしている数人の警察官に見とがめられるほどの
ものだった。
その上、俊の自殺の予言まで当たった。
二〇一二年、一月六日。相模原市の郊外、送電鉄塔で、小柄な男
が感電死するだろう。
この予言は、最初、あまりにも馬鹿馬鹿しいものとして、受け取
られた。送電鉄塔のてっぺんまで登るなど、考えられなかったから
である。
この、馬鹿げた予言が当たってから、教団の勢いは爆発的に拡大
した。
携帯のチェーンメール、フェイスブック、ツイッター、ミクシィ、
揚げ句の果てには、2ちゃんねるまで、ありとあらゆる口コミに代
102
わる電子媒体で広まっていったのだ。
秋本の携帯にも、チェーンメールが来た。秋本は、ふん、馬鹿げ
たことを、と完全に無視していた。
だから、当初、お袋がこの大黒天のお守りを買ってきたときは、
一笑に付したものだ。俺は強い。そんな呪いになど頼らなくていい、
と。
それが、俊の感電死の話を聞いたときから、何となく持ってみよ
うと思ったのだ。もちろん、自分の喧嘩の強さには、絶対的な自信
を持っていた。だが、何か超越的なものを恐れる。原初的な本能の
ようなものも合わせて持っていたのである。
そこで、一応﹁大黒呪い歌﹂の教本を買おうと思って、昨日武蔵
小杉まで来たのであった。
やっぱり大黒は祟る。
祟るのだ。
*
甚兵衛は、苦渋に満ちた顔をして椅子に腰掛けていた。その隣で、
剣持警部補も、秋月警部補も、苦虫を噛み潰したような顔をしてい
る。大柄な石沢警部補は、なんだかぬぼーっとした風で、ただ突っ
立っている。
神奈川県警の、捜査一課第一班の部屋である。
甚兵衛は、ふと立ち上がって、窓の外を見た。今日は肌寒く、外
では乾いた風が吹いている。これも乾いた落ち葉が幾片か、眼下の
道路を転がっていく。カラカラという音が聞こえてきそうだ。
﹁やっぱり、自殺なんでしょうのう﹂
甚兵衛が呟く。しかし、自身納得していない様子がありありと窺
える。
﹁またしても、自殺したのが、希望ヶ丘ゴルゴンのメンバーだとい
う点が、気になりますけどねえ﹂
103
剣持警部補が、何となく腑に落ちない、という顔をしている。
﹁︿道化師﹀の復讐という線は、まったくなしですか﹂
警視庁から出向している、秋月が聞いた。
︿道化師﹀の番格、秋本が薫に壊された直後に、薫が、謎の焼身
自殺を遂げたことが、みんなどうしても気になっているのだ。
﹁あり得ませんね﹂
剣持が答える。
﹁目撃者は、大勢いるんです。安西薫が、勝手にガソリンを自らに
かけ、自分で着火したことは、全員が証言しています﹂
﹁それにしても、その見ていた人たちは、誰も止めなかったんです
か﹂
秋月が、不思議そうに聞く。何回も同じことを聞いた。しかし、
納得できない。
﹁ええ、ガソリンスタンドの従業員も、道路で見ていた歩行者たち
も、なぜか足が動かなかった、と、この点でも一致しています﹂
剣持も、同じことを、根気強く言う。自分でも、納得していない
のだ。
強い風が吹いた。アルミサッシの窓が、ガタッと鳴るほどだった。
その強い風の中で、大黒の笑い声が聞こえるようだった。
*
山形県S市の、山奥の村、原田の本家である。屋根には、もう相
当の雪が積もっている。それでもなお飽きたらぬ、というかのよう
に雪は静かに静かに、しんしんと沈殿してくる。
その雪をついて、カツヨは玄関に出た。S市の隣、中山町にある
岩屋十八夜観音堂を訪ねるためにである。
四輪駆動の、ランドクルーザーの後部座席に乗って、雪の中を行
く。観音堂に着くと、長男の嫁の早苗が、手を取ってカツヨを導く。
慈覚大師円仁の開基になる、という言い伝えのある古いお堂である。
104
その観音堂も、分厚い雪に覆われている。古ぼけた、小さなお堂
である。しかし、こここそが、辺り一帯の信仰を集めたオナカマの
総本山だったのだ。
とは言え、実はこの観音堂は、入り口に過ぎない。ここから山奥
に向かって一キロほど登ると、奥の院、と呼ばれる洞窟がある。
この奥の院までの道は、厚さ三メートルほどもあろうか、という
ほどの雪に覆われていた。その雪を、原田の分家の男たちがせっせ
と掘っている。何台もの家庭用除雪機も、フル稼働している。
カツヨの命令である。原田の本家の威光は、それだけ大きいのだ。
しかも、カツヨは日当も弾んだ。年金をはじめとする蓄えならいく
らでもある。男たちは、喜んで排雪の作業をやった。
こうして、奥の院までの道が通じると、カツヨは、早苗に手を引
かれて奥の院に向かった。
﹁婆ちゃん、滑るから、気ぃつけてな﹂
早苗が言う。カツヨが、黙って頷く。
足の萎えた年寄りに、一キロ余りの雪道は辛い。それでも、カツ
ヨは、勝の恨みを晴らしたい一念で足を引きずり引きずり進んでい
く。
こうして、一時間弱で奥の院の洞窟に着いた。
ほうきょういんとう
洞窟に入ると、外よりほっこりと暖かい。
そこには、石造の宝篋印塔と呼ばれる塔が建てられている。
宝篋印塔に向かって、カツヨがちょこんと座る。一応、座布団を
持ってはきているが、底の方からしんしんと冷えがくる。
祭壇や梓弓を初め、オナカマの祈祷に必要なものは、男たちが運
んできた。
それを、早苗が、儀軌に従って並べる。
準備が終わると、カツヨは人払いをした。
岩屋の天井から、ぽつりぽつりと水滴が垂れる。その微かな音を
破って、
ビィーン
105
ビィーン
梓弓の弦が鳴った。
カツヨが、祈っているのだ。
いや、正確には、
呪っているのだ。
トドサマは、美津江に譲った。
本当なら、そんなことをしてはいけない。オナカマのもっとも大
切なトドサマを、修行を積んでいないものに譲り渡すのは、禁忌な
のだ。
しかし、カツヨは、あえてそれをした。
可愛い勝の仇を討つためである。
︱︱大黒様、お陰様で、勝の仇、三人まで屠ることが出来ましただ。
なにとぞ、残りの仇も、恙なく討てますように。南無通力大黒天、
南無通力大黒天。
梓弓を打ちながら、カツヨは、腹の底から唸るような声を出す。
その、腹の底が、黄泉の国にでも通じているかのように、人間の原
初的な恐怖を誘う声が、陰々滅々として暗い。
みちがえしのおおかみ
その声が、洞窟内で反響する。黄泉の国とこの世とを隔てる、黄
泉比良坂に立てられた大石、道反の大神が開かれて、黄泉の国から
亡者たちの声が聞こえてくるかのようだ。
南無通力大黒天、南無通力大黒天。
この声に反応したかのように、外では、ごうごうと唸りを上げて、
吹雪き始めた。
天が、怒っているかのようだった。
観音堂のところで、車で待機している男たちが、不安そうに奥の
院の方を見つめる。
早苗は、黙ってカツヨに指示された時間まで待つ。
耐えるのだ。
106
呪いが成就するためには。
耐えなければならない。
雪の厚さ、雪の重さと同じ、厚さ、重さに、
呪いが積もるまで。
勝がはかなくなってから、二十日経った。
107
第四幕 荒れ狂う吹雪の歌う歌・1
第四幕 荒れ狂う吹雪の歌う歌
1
﹁本当だよ、俺、先週さあ、チュウ公、いや、勝さんの幽霊を見た
んだよ。ありゃあ、祟りだぜ。祟り。あんな死に方をすりゃあなあ﹂
希望ヶ丘西高校の普通科、三年四組の、高瀬勇次は、おどおどと
辺りの様子を窺いながら、こう囁くような声で言っていた。級友た
ちも、じっとその話に耳を傾ける。みんな結構真剣なのだ。
一月二十三日。月曜日。
勝がはかなくなってから、ちょうど一ヶ月経つ。
その勝の幽霊が出る。
その噂は、少し前から出ていた。発信源は、誰だかは分からない。
しかし、冷静なものが打ち消しても、打ち消しても、ひそひそと
噂は囁かれていた。
とうとう、こうして実際に勝の幽霊をその目で見たと言い出すも
のまで現れたのである。噂の信憑性は、ぐっと高まった。
土台迷信じみた話に弱い、希望ヶ丘西高校の生徒たちである。少
しずつこの噂を真に受け、信じるものが出てきたのである。
﹁第一よお﹂
高瀬が、ぐっと声をひそめた。
﹁あの、ザウルスの奇妙な死に方、みんな知ってるだろう﹂
こう、囁くように言うと、話を聞いている十数人の顔を見廻した。
﹁俺、あの時、見たんだよ。ザウルスが、何かに操られるように、
108
自分で自分をチェーンでぼこぼこにしているのをよお﹂
聞いているみんなの顔が、蒼くなった。
﹁本当だぜ、シュンも、なんだか自分で鉄塔に登ったって言うじゃ
ねえか。祟りじゃなきゃあ、そんなこと、誰がやるもんか﹂
俊の話はともかく、ザウルスの方は自分で見たと言っているのだ
から、確かだろう。
﹁そんでさあ、金曜日に美術室の前を通ったとき、俺見たんだよ。
美術室の前で、首吊りながら、にんまりと薄笑いを浮かべている勝
さんをさあ﹂
﹁キャッ!﹂
十人近い女子が、小さく悲鳴をあげた。
﹁とにかくさあ、笑ってるんだよ。俺、もう怖くてさあ、悲鳴上げ
て走って逃げたよ。もう、二度と俺は夜中の学校には残らねえよ﹂
高瀬は、自分自身が真っ青になっているのを自覚している。
チチチ
ギクッとした。
女の子たちも、小さく悲鳴をあげる。
こんなまだ新しい校舎には珍しい、小さな白鼠が一匹、足下を走
っていった。
鼠は、大黒天の使いなのだ。
*
犀川郁美は、鷹見高校に来ていた。最近の子供たち、特にこうし
た教育困難校の生徒たちは、心に傷を負っているものが多い。
今、郁美の前に座っているのは、二年五組の後藤沙保里。高瀬の
彼女である。
トトロから、愛嬌を抜いて、さらに縦に押し潰したような顔、体
型。肌が、変に生白いのが、かえって気色が悪い感じを相手に催さ
せる。
109
﹁あのね、先生、だからそのザウルスってのがさあ﹂
沙保里は、高瀬から口止めされている、ザウルスの処刑について、
ぺらぺらと郁美相手に話している。
聞いている郁美が、いつもより真剣に見えるのか、沙保里は調子
に乗っているようだ。
﹁それでねえ、先生、これ﹂
そう言って、沙保里はあの小さな大黒天の像を取り出した。
﹁これが、大黒様のお守りなんだって﹂
﹁へえ﹂
沙保里から手渡された大黒天の、稚拙な像をよく見廻す。
不気味な像である。
薄笑いを浮かべているのだが、その笑いがちっとも幸福そうに見
えない。福を呼びそうにないのだ。
その像を見て、郁美はなんだか寒気を覚えた。
なんなのだろう、この悍ましさは。なんだか、人間の、温かい情
感そのものを否定しているかのようだ。
﹁へへ、ちょっと気持ち悪いでしょう。それで、十万円もするんだ
って﹂
﹁え! 十万円! この像が?﹂
郁美は、もう一度しげしげと大黒天の像を見た。相当不器用な人
間が彫ったと見えて、バランスも悪いし、仕上げも粗い。
こんなものに十万円? さすがに、暴利が過ぎるのではないか?
﹁この大黒様、﹃呪いの大黒様﹄なの。憎い相手を、呪うんだって。
凄く御利益があるからって、お母さんに連れて行かれて、買ってき
たのよ。なんだか薄気味悪いおじさんが彫っててさあ。でもって、
お母さんが十万円出してさあ﹂
﹁へえ。でも、大黒様って、福の神様なんじゃないの﹂
﹁うん、そうだよね。だから、これ先生にあげるよ﹂
110
﹁え、でも、そんなに高いもの貰えないわよ﹂
郁美は困惑した。
﹁でもさあ、気味が悪いじゃん、その大黒様。持ってると、気分が
悪いんだよね。でも、捨てるのも、嫌じゃん。だからさあ、先生に
あげるよ。捨てるなりなんなり、好きにしていいからさあ﹂
自分が、どんなに身勝手なことを言っているのか、まったく自覚
していない。この辺は、希望ヶ丘西高校の生徒と、あまり変わらな
い。
﹁ううん、じゃあ、貰っておくわ、ありがとう﹂
気は進まないが、ここは貰っておくしかない。すっと、沙保里の
心を探ってみる。大丈夫、邪気はないようだ。
︱︱心することじゃ、離してはいかん。必ず、肌身離さず。これが
肝要じゃ。
チャイムが鳴った。
﹁じゃあね、ありがとう、先生。ちょっと気が楽になった﹂
﹁うん、よかった、また気になることがあったら、いつでもおいで﹂
﹁OK。また来るよ。先生好きだもん。じゃあ﹂
沙保里は、カウンセリング室から出ていった。
郁美は、ふっとため息をついて、椅子の背にもたれかかった。
今日は、ワインレッドを基調にしたワンピースを着ている。お気
に入りの、音符の形をしたイヤリングをもてあそぶ。
なんだか、生徒たちは、呪いの大黒の話で持ちきりのようだ。希
望ヶ丘西高校の生徒も、鷹見高校の生徒も同じだった。その話が持
つ、負のオーラに当てられたのか、なんだか気分が悪い。両肩が、
ずしりと重いのだ。
さらに、希望ヶ丘西高校では、勝の幽霊の話がおまけについてく
る。
ふと、他の高校ではどうなのだろう、と思った。
111
同僚の、東輝明に携帯で電話してみた。東は、川崎北工業高校と、
県立玉田高校のカウンセラーをしている。
電話をかけると、東はすぐに出た。大黒の話を持ち出してみると、
﹁ああ、呪いの大黒ね。川崎北工業の生徒は、結構気にしているみ
たい。ピリピリしてるよ。でも、玉田高校では、そんな話は一切出
ないね。もっとも、玉田高校では、カウンセリングを受ける生徒自
体が、そんなにいないからねえ。やっぱり、低学力校での、口裂け
女みたいな都市伝説なんじゃないかなあ。え、ああ、大黒像は、僕
も見せてもらったよ。ちょっと不気味かな。まあ下手くそな彫刻だ
ったねえ﹂
礼を言って、郁美は携帯を切った。
この大黒天の像をどうしたものか? 持っているのも気味が悪い
し、捨てるのも気味が悪い。沙保里の葛藤が、よく理解できた。
*
後藤沙保里は、ご機嫌で鼻歌を歌いながら鷹見高校の校門を出た。
今流行っている、ビジュアル系バンド、ルナティック・ワールドの
﹁腐った林檎﹂である。
︱︱⋮⋮裸のお前が纏っているのは、細い金のネックレス⋮⋮。革
ジャンの俺の手に、シルバーのナイフが月の光に輝く⋮⋮。
学校で制服の上に着用を認められている、紺のださいコートを着
ている。早く家に帰って、お気に入りの赤いカシミアのコートに着
替えて出かけよう。そう思っている。
既にメールで高瀬勇次とは連絡がついている。武蔵小杉の駅で落
ち合う予定だ。
校門を出てしばらく行くと、国道十四号線が通っている。横断歩
道の前で、信号を待つ。
信号が青になった。
沙保里は、横断歩道を渡ろうと一歩、二歩と踏み出した。
112
と、
キキキキッ、
ブレーキの音がした。
振り向くと、大型ダンプが、スリップしながら迫ってきていた。
道路が、一部凍結しているようだ。
沙保里は、立ち竦んでしまった。
大型ダンプが突っ込んでくる。
運転手の、引き攣った顔が見える。
電飾だらけのダンプは、午後の光の中では、かえって間抜けに見
える。
その間抜けさが、
怖い。
足が、固まってしまって動けない。
ダンプが目の前に迫ってくる。
逃げ出せない。
ゴンッ、
沙保里は、ダンプに引っ掛かってしまった。
あーっ!
悲鳴をあげながら、引きずられていく。
ブレーキを踏んでいる。
凍結した場所は、通り過ぎている。
なのに、
ダンプは走っている。
いや、スリップしている。
数百メートル走って、ダンプはようやく止まった。
数百メートル引きずられた沙保里は、ボロボロの雑巾のようにな
っていた。
慌てた運転手が降りて見ると、それは既に、人体の面影をとどめ
113
ていなかった。
明らかに、もう死んでいた。
祟るのだ、大黒は。
己を裏切った者に。
*
同じ日、十一使徒が集まっていた。大黒天神教の本部である。六
畳二間のアパートにしては、立派な祭壇が置かれている。祭壇には、
高さ五十センチばかりの大黒天の像が祀られている。
大黒天の像の両脇に、蝋燭立てがあって、山形県T市特産の絵蝋
燭が立ててある。今は、火は点いていない。
遠藤静代
山川久美子
佐々木明美
福田博子
金子鈴
森田里美
小宮山礼子
渡辺和子
杉本愛
福島順子
辻花江
岡崎富士子
この十一人が、十一使徒である。
最初の五人が、旭が丘団地以来の信者で、最初のお告げを聞いて
いたメンバーである。そのため、後の六人より、格上ということに
114
なっている。
中でも、遠藤静代は、原田一家の隣に住み、美津江と仲が良かっ
たので、筆頭の位置にいる。
全員、元は普通の小母さんである。
しかし、今は、みんな目には狂熱的な光をたたえ、その目と目の
間隔が、異様に広い感じを与える。
﹁とにかく、この竹田広樹というのが、曲者なのよ﹂
その遠藤静代が、言った。厳か、と言うよりは、やや不気味に嗄
れた低音の声である。
﹁この一ヶ月、調べてみたら、自宅に帰ったのは、たった三日しか
ないのよ﹂
辻花江が言った。ちんちくりんで、丸っこい体をしている。度の
きつい眼鏡をかけている。花江は、この十一使徒の中では、頭が切
れる方なので、自然みんなその発言には重きを置く。何せ、十一使
徒の中では、唯一の大学出なのだ。
﹁三日って、他の日はどうしてるの?﹂
一応、序列的にはナンバーツーということになっている、山川久
美子が聞いた。やはり、中年太りで鈍重そうだが、無駄話になると
途端に生き生きする小母さんである。
﹁それがねえ、久美子さん。女のところを泊まり歩いているの。し
かも、この一ヶ月だけで、九人の女の子のところに泊まったのよ﹂
﹁え! 九人!﹂
みんな一斉に声を上げた。
﹁それじゃあ、寝ているところに火を点けようにも、計画が立てら
れないわねえ﹂
いきなり物騒なことを言ったのが、小宮山礼子である。
﹁まあまあ、大黒様の呪いが降りかかる前に、私たちごときがあれ
これ手出しするのは、畏れ多いことですし﹂
遠藤静代が、重々しい口調で言った。
﹁とは言え、大黒様のお力は、絶大だけど、少しでもお手伝いする
115
のが、信者の勤め。幸い、岩崎、星川、山崎の居所は分かりました。
それは教祖様にお伝えしましょう。竹田については、出来れば毎日
どこをねぐらにするかを探って、私に報告してください﹂
一同が、
﹁はい﹂
と声を揃えた。
﹁幸い、教団の信者も、もうすぐ一万人を超えます。教祖様も、賢
吾様も、ゆくゆくは神奈川の県政を取り仕切ろう、とのお考えもあ
るご様子です。みなさん、励みましょう﹂
一同が、大きく頷く。
﹁では﹂
遠藤静代の先導で、あの大黒呪い歌が、陰々とした表情で歌われ
た。
夜の闇が、ずしり、と濃くなった。
116
第四幕・2
2
﹁いいか、ベビーフェイスは俺がやる。星川﹂
﹁うっす﹂
﹁お前が、倉木をやれ﹂
﹁うっす﹂
倉木剛。今の︿道化師﹀を束ねるリーダーである。
﹁啓次﹂
﹁うっす﹂
﹁お前が、番格の石部をやれ﹂
﹁うっす﹂
石部俊太郎は、はっきり言って、喧嘩はさほど強くない。ただ、
頭がいいので、参謀役をやっている。
対して、啓次も、素手では大したことはない。百七十五センチ、
七十キロ。体格もあまり大きくはない。
だが、啓次は本物のヌンチャク使いなのだ。ヌンチャクを持たせ
たら、広樹でさえ素手では嫌がるだろう。
﹁イワシ﹂
﹁うっす﹂
﹁お前が、兵隊統率して、︿道化師﹀の兵隊を潰すんだ。なに、人
数じゃ、こっちが圧倒している。この出入りで、︿道化師﹀を完全
に壊すぞ。ザウルス、シュン、薫の敵討ちだ。みんな、敵を殺すつ
もりでかかれ﹂
﹁うっす!﹂
希望ヶ丘ゴルゴンのメンバー全員が、声を揃えた。
希望ヶ丘西高校のグラウンドである。野球部、サッカー部などが
117
使用するはずの照明が、皓々と灯っている。照明は、勝手には灯せ
ないのだが、いつの間にかスイッチの鍵を盗んでしまったのだ。さ
っき、警備会社の社員が来たが、希望ヶ丘ゴルゴンが勢揃いしてい
るのを見て、そそくさと逃げ帰ってしまった。
その照明が放つ青白い光の中で、広樹の顔が不気味に浮かび上が
っている。
酷薄そうな、薄い唇が、皮肉そうに吊り上がっている。
︿道化師﹀が、今日多摩川で集会をやることは情報が入っていた。
ベビーフェイスの声がけで、OBも二十人ばかり来るらしい。
しかし、それでも、︿道化師﹀は五十人もいない。対して、希望
ヶ丘ゴルゴンは八十人近くいる。
おまけに奇襲である。
希望ヶ丘ゴルゴンのメンバーの士気は、いやが上にも高まってい
る。
広樹は、根は頭がいい。合理的な思考の持ち主である。薫が殺さ
れるまでは、今の勢力の︿道化師﹀が、ゴルゴンに逆らってくるこ
とはないと踏んでいた。
しかし、こうして番格が三人殺され、トップが手薄になってくる
と、話は違ってくる。
おまけに、今晩︿道化師﹀が、OBも含めた集会をやるという。
こうなってくると、合理的な結論は一つである。やはり、︿道化
師﹀が、三人を殺ったのだ。
確かに、俊の死に方は、今一つ腑に落ちない。
しかし、ザウルスは、︿道化師﹀が数人がかりでやったに決まっ
ている。大黒の呪いだの、勝の幽霊の祟りだのというやつはいっぱ
いいる。だが、広樹はそんなもの一笑に付した。
薫の場合は、もっと露骨だ。
直前に、薫が秋本翔を壊している。恐らく、︿道化師﹀の一緒に
いたメンバーが、総出で薫を倒し、ガソリンをかけて焼き殺したに
決まっている。
118
広樹は、自分が︿道化師﹀の立場だったら、それぐらいのことは
すると思っている。
自分がすることは相手もするのだ。
やられたらやり返す。それが広樹の流儀だ。
﹁いくぜ、野郎ども!﹂
﹁おー!﹂
全員が、それぞれのバイクに乗り、エンジンをかけた。重爆撃機
が何機も飛び立つような爆音が辺り中に響き渡る。
広樹と星川の、一二〇〇ccのハーレーが発進した。他のメンバ
ーの、七五〇ccを主流にしたバイクも、一斉に発進する。
ベビーフェイスは、希望ヶ丘ゴルゴンの番格が三人死んでしまっ
たことから、その勢力が弱まると踏んでいるらしい。
仲間が死んで、意気消沈している相手ほど楽な喧嘩相手はいない。
ここで、一気に勢力を盛り返す。
多分、そのつもりで、いわば国境近くである多摩川の岸で集会を
開いたのだ。
広樹には、そのベビーフェイスの企みが、手に取るように分かっ
た。
*
︿道化師﹀は、酒が入ってご機嫌になっていた。
なんと言っても、伝説のリーダー、ベビーフェイスが、再度総番
長になってくれるという。
希望ヶ丘ゴルゴンで、ヤバイのは、やはり広樹だ。その広樹さえ、
ベビーフェイスに絞めてもらえば、あとはなんとかなる。
そこに、爆音が聞こえてきた。明らかに、改造バイクの音だった。
﹁落ち着け。みんなちゃんと得物を持て。希望ヶ丘ゴルゴンなんて、
怖くはねえぞ﹂
ベビーフェイスが叫んだ。
119
人数が少なくなったとは言え、︿道化師﹀も一時代を築いた暴走
族である。残ったメンバーは、筋金入りだし、OBもいる。新興の
希望ヶ丘ゴルゴンに、おめおめと負けるわけにはいかなかった。
寝込みを襲われたわけではない。こっちもちゃんと武器は用意し
てある。
完全に酔っぱらっているやつは、一人もいない。
今日は、本気の決戦だ。ヘッドの倉木が、木刀を持つ。参謀格の
石部は、釘バットを手にしている。
改造拳銃こそないものの、充分人を殺せる武器を、みんなが持っ
ているのだ。
国道一号線の街灯に、︿道化師﹀のメンバーの殺気立った顔が浮
かび上がっていた。
*
広樹が、ベビーフェイスの姿を捉えた。ハーレーから降り、石畳
の河川敷をゆっくりゆっくりと歩いていく。手には木刀を提げてい
る。
月が、綺麗に光っている。月光が、まるで水のようだ。広樹は、
その青く透明な月光水の中を颯爽と泳いでいく。
低い声で言葉をかける。
﹁ザウルス、シュン、薫、三人も殺られちゃあ、かなわねえなあ。
あんたのタマ、取らしてもらうわ﹂
ベビーフェイスが答えた。
﹁竹田さん、言いがかりはよしてくださいよ。三人も殺したら、死
刑ですよ。それよりも、希望ヶ丘ゴルゴンさんは、うちのシマ荒ら
してばっかりじゃないですか。そっちこそ、責任取ってくださいよ。
しかしねえ、竹田さん、素手の人間相手に木刀ですか?﹂
﹁けっ﹂
広樹が、足下に唾を吐く。
120
そして、そのままゆっくりと木刀を置く。
﹁素手のタイマンか。面白えや﹂
すーっと間合いが詰まる。
しかし、微妙な位置で、二人が止まった。
互いに、尋常ではない気配を感じたのだ。
こいつ、できる。
二人の思いは、同じだった。
互いに、これほどの相手は、初めてだったのだ。
間合いを計って、広樹が先に仕掛けた。
右の前蹴りを一発。
待っていた。
ベビーフェイスの得意技は、空手だった。寸止めなしの極真会だ。
大会には、出たことがない。師匠に止められている。対戦者を、殺
しかねないからだ。
左手で足首を掴んだと見るや、ベビーフェイスが、右の正拳突き
を繰り出した。
やはり待っていた。
広樹は、掴まれている右足を軸に、
飛んだ。
広樹の左足が、ベビーフェイスの腹に叩き込まれた。
しかし、ベビーフェイスは、咄嗟に、広樹の足首を放し、一歩退
った。
だが、広樹は、確かな手応えを感じた。
受け身を取りながら落ちると、すぐに立ち上がる。
ベビーフェイスが、踏み込んできた。
立ち上がった広樹の右足に、ローキックを叩き込む。持久戦に切
り替えたのだ。
ベビーフェイスは、体力勝負なら、ガタイのでかい自分の方が有
利だと踏んだのだ。
もう一回ローキックを放つ。
121
構わずに、それを受けて広樹は踏み込みざま、右の肘打ちを繰り
出した。
ベビーフェイスは、ローキックを避けないで、広樹が攻撃してく
るとは読めなかった。
一歩下がったが、顎に肘打ちを喰らってしまった。
腹への蹴り、顎への肘打ち。二発入っている。広樹が喰らったの
は、右足へのローキック二発だけだ。
ぐっと広樹が踏み込むと、ベビーフェイスは、避けずに自分も踏
み込んできた。
組み討ちに持っていこうというのだ。体格勝負である。
下は、河川敷だ。
投げられたら、終わりである。
柔らかい畳の上ではない、砂利やアスファルトの上では、投げ技
の破壊力は強いのだ。
ベビーフェイスの誤算は、広樹が柔道をやっていることを知らな
かったことにあった。
広樹は、組み付かれそうになったときに、自分から体を後ろに投
げ、巴投げを放ったのだ。
決まった。
ベビーフェイスは、投げ技や、関節技は、あまりやったことがな
い。突きと蹴りで、圧倒してきたからだ。
体重がある分、巴投げのダメージは大きかった。息が出来ない。
広樹は、巴投げの時に掴んだ右手を放さずに、そのまま関節を決
めにいった。
ベビーフェイスが、強引に決まった関節を引っこ抜いた。
ゴギッ。
嫌な音がした。
ベビーフェイスの右手の肘が折れた。
が、
それに構わず、ベビーフェイスは、左手の正拳突きを、広樹の顔
122
に叩き込んだ。
折って、一瞬油断があった。
広樹も、その突きを避けきれなかった。
顎の骨が砕けた感触があった。
二人は間合いを詰めた。
右の回し蹴りが、
右の前蹴りが、
放たれた。
一瞬、
広樹の回し蹴りが早く入った。
その分、ベビーフェイスの前蹴りの威力が弱まった。
ベビーフェイスが、完全に昏倒していた。
広樹も、一度がっくりと膝を折った。
しかし、ゆっくりと立ち上がると、倒れているベビーフェイスの
元に行き、
肋骨をめがけて、何発も蹴りを入れた。
肋骨が、四本折れる嫌な音がした。
広樹が、また膝を折った。さすがに、しばらくは立てなかった。
*
星川は、金属バットを右手に、倉木の前に立った。バットに、月
明かりが反射する。
﹁おめえを壊せって、広樹さんのご命令だからなあ。恨むなら広樹
さんを恨め﹂
木刀を構える倉木に向かって、星川の金属バットが唸った。防御
のことなど、何も考えていない攻撃である。
つい、倉木は木刀でその金属バットを受けてしまった。
123
倉木の手が痺れるほどの衝撃があった。
しかし、倉木は木刀を放さなかった。
互いに、互いの得物を水平にスウィングした。
星川の金属バットが、一瞬早く倉木の手首を捉えた。
倉木の木刀が、飛んでいった。
倉木の顔に、怯えの色が走った。
容赦のない打撃が、倉木の顔面を捉えた。
倉木がすっ飛んだ。
星川は、倒れた倉木に、数回蹴りを入れた。
さすがに、本当に殺してはヤバイだろう。
そう思って、辺りを見ると、広樹がベビーフェイスを倒したとこ
ろだった。
さすがに、ゾクッと来た。
ベビーフェイスの伝説的な強さは、何度も聞かされている。その、
伝説の巨人を倒した広樹の怖さ。
今、手傷を負っているようだが、だからと言って、下克上は考え
られない。今を機会に、広樹を倒して、代わりに自分がゴルゴンの
ヘッドになることなど、馬鹿げた与太話だ。広樹の報復が、それほ
ど怖いのだ。
すっと、岩崎の率いる連中を見た。
やはり、希望ヶ丘ゴルゴンの方が優勢だった。
︿道化師﹀の連中は、なんと言っても酔っている。
それに対して、希望ヶ丘ゴルゴンのメンバーは、みんなリタリン
を三錠ずつ飲んで、ハイになっている。
なにしろ、一度リタリンを飲んでしまうと、ユンケルがジュース
に感じられるほどに昂揚する薬なのだ。
こうして、弱いやつを相手にかさにかかったときの岩崎ほど手を
付けられない存在は、そうそういない。
大勢は、ほぼ決まったも同然だった。
124
*
山崎啓次は、ヌンチャクを構えてバイクから降りた。
そのまま真っ直ぐ、石部俊太郎の元に進む。
ぼんやりとした街灯の光だけでも、石部が緊張している様子があ
りありと見て取れる。
啓次は、皮肉そうに口を歪めた。
楽勝だ。
啓次の右手の持つヌンチャクが、風を切る。
石部も、釘バットを持っているが、腰が引けている。参謀役なの
で、喧嘩は、倉木や秋本に比べると、一段も二段も弱いのだ。
ブンッ、
啓次のヌンチャクが、唸った。
木刀やバットと違って、軌跡が読めない。
石部は、左のこめかみに、まともにヌンチャクを食らってしまっ
た。
倒れる間もなく、右の側頭部にも、第二檄を喰らう。
啓次は、それが癖で、右の頬を吊り上げて、皮肉そうに笑った。
*
通報を受けて警察が来たときには、希望ヶ丘ゴルゴンのメンバー
は影も形もなかった。ただ十数台のナナハン、七五〇ccのバイク
が残されているだけだった。
︿道化師﹀のメンバーは、みんな壊されていた。
全員が、全治一カ月以上の重傷を負っていた。
中でも、古参の白バイ隊員を嘆息させたのは、ベビーフェイスが、
全治三ヶ月以上、多分一生半身不随になるほどの重傷を負って倒れ
ていたことである。
確実に、時代は変わった。
125
王者は、交代したのだ。
一月二十三日。深夜三時。
勝がはかなくなってから、ちょうど一ヶ月が経つ。
126
第四幕・3
3
星川鉄郎は、なぜ自分がこんなところにいるのか分からない。
ただ、なんとなく山形新幹線に乗り、ただなんとなく山形駅前か
ら、T市行きの高速バスに乗ってしまったのだ。
本来なら、自分は︿道化師﹀相手の祝勝パーティーで酔い潰れて
いるはずである。
広樹でさえ、顎の骨を砕かれたのに、自分と啓次と岩崎は、無傷
だったのだ。兵隊も、三十人ほどが無傷か軽傷だった。
酔っぱらっていていいはずである。
なのに、こうして高速バスに乗っている。
山形自動車道を走る。見渡す限り、雪、雪、雪だ。星川は、こん
なに辺り一面の雪景色は見たことがない。
バスが山形市を出た時は、まあまあの空模様だったのだが、S市
を越えた辺りから雲行きが怪しくなってきた。月山道に入った頃に
は、雪がちらつき始め、風も出てきた。
さすがに、雪道に慣れたドライバーたちも慎重になっている。五
十キロも出ていない。
月山第一トンネルを抜けた。
本当に、雪国というのは、雪だらけなんだなあ、と間抜けな感想
を持つ。
星川の周囲の乗客たちは、緊張している。こんな田舎でも、と言
うか田舎だからこそ粋がって長ランにリーゼント、などという高校
生はいくらでもいる。
しかし、ここまで危ない目つきをした本物の不良、などというも
のは誰も見たことがなかったのだ。
127
湯殿山の辺りで、渋滞になってしまった。
運転手が振り向いた。
﹁どうやら、雪崩があって、通行止めになったもようです。もう少
し先に、第二トンネルの待避所がありますから、そこでUターンを
して、山形に帰ります。お忙しいところ、申し訳ありません﹂
深々と礼をする。
自然の脅威である。雪崩ではしょうがない。乗客の間に諦めムー
ドが広がる。
吹雪いてきた。
視界が悪い。
一つ、人身を供御にして、
二で、にんまりと薄笑い、
三つ、木乃伊と語ろうて、
四つ、夜な夜な黄泉の国、
五つ、命がないように、
六つ、無明の世の中に、
七つ、何事もお計らい、
八つ、闇夜にひっそりと、
九で、苦しみのあるように、
十で、とうとう身の破滅。大黒の御代こそ、恐ろしや。
星川が、すーっと立ち上がった。
見るからに柄の悪そうな大男が立ったので、一瞬乗客の間に怯え
の色が走った。
のろのろと、星川が前方の乗降口に進む。
よく聞けば、
﹁嫌だ、嫌だ﹂
と囁いているのが聞こえたかも知れない。しかし、最初から星川
の怖い目に注目していた人々は、そんな囁きに耳を澄ます気はなか
128
った。できるだけ関わり合いを持たないように、そっぽを向いてい
る。
﹁開けてくれ。降りるから﹂
言われた運転手は、
﹁え﹂
という顔をした。
しかし、田舎には滅多にいないような、凶悪な雰囲気を身に纏っ
た星川を相手に逆らう気はなかった。
運転手がボタンを押し、小さな音をたてて扉が開いた。星川は、
ステップを降りた。
進行方向右手、湯殿山の方に歩いていく。
何をする気だろう?
バスの右側の乗客たちは、固唾を呑んで見守っている。
と、
脱いだ。
星川が、漆黒の長ランを。
次に、ゆっくりとワイシャツを脱ぐ。
隣に行けば、星川が、
﹁嫌だ、誰か、止めてくれよ﹂
と囁いているのが聞こえただろう。
しかし、この吹雪模様の山の中で、バスから降りる酔狂者は誰も
いなかった。
星川は、ついにアンダーシャツまで脱いだ。
筋肉だらけの上半身が剥き出しになった。そのままの姿勢で、今
度はドカンズボンを下ろした。
パンツ一丁に、靴下、短靴の姿になった。
今度は、靴を蹴るようにして脱いだ。そして、屈んで靴下も脱い
だ。
ついに、身に着けているものは、パンツ一つとなってしまった。
さすがに、運転手が、
129
﹁馬鹿な﹂と言った。会社に電話するために、受話器を取る。
しかし、乗客の誰一人として、止めようとバスを降りる者はいな
い。
バスの前後には、渋滞した車が何十台も連なっている。それらの
車からも、出てくる人はいない。
星川が、ついにパンツまで脱いでしまった。
そして、湯殿山の傾斜を登り始めた。
星川の胸まで、雪は積もっている。
足が踏んでいるのも、圧雪だ。
その胸までの雪の中を、星川は雪をこいでラッセルしていく。
﹁嫌だ、嫌だ。寒い、寒い﹂
と呟きながら。
しかし、その呟きを聞くものは誰もいない。
吹雪が、酷くなってきた。
視界が悪い。
グゥオーッ!
吹雪が唸る。バスの窓ガラスが、一瞬たわむ。
一つ、人身を供御にして、
二で、にんまりと薄笑い、
三つ、木乃伊と語ろうて、
四つ、夜な夜な黄泉の国、
五つ、命がないように、
六つ、無明の世の中に、
七つ、何事もお計らい、
八つ、闇夜にひっそりと、
九で、苦しみのあるように、
十で、とうとう身の破滅。大黒の御代こそ、恐ろしや。
星川の姿は、吹雪の中に、まったく見えなくなった。
130
*
﹁嫌だ、嫌だ、寒い、寒いよお﹂
星川は、行軍していく。
吹雪の湯殿山中を。
眉毛が凍り、睫にも氷がついている。
足のつま先は、既に凍傷になりかけている。
それでも、寒い、寒いと言いながら、星川は山を登っていく。
大黒呪い歌に導かれているのだろうか。
もう、大きな体も芯まで冷え切っている。
﹁寒い、寒い。誰か、助けてくれよ﹂
星川は囁く。その声は、吹雪の圧倒的な轟音にかき消される。
吹雪が顔に叩きつけられる。
その寒さは、いっそ痛いくらいだ。
鼻毛がみんな、ゴワッと凍ってしまって息ができない。
喉を通る冷気は、肺の細胞も全て凍らせてしまいそうだ。
手足の先は、冷え、痺れて感覚がなくなっている。
向こうにぽつんと明かりが見えるような気がする。
その明かりに向かって、星川は必死でラッセルしていく。
胸までの雪の中を。
*
次の朝、湯殿山の大日坊から、T警察署に連絡が入った。
大男が一人、大日坊の境内で凍死しているのを見つけたと言うの
だ。
T警察署の菅原武警部補は、星川の死体を見下ろしていた。昨日
の吹雪が嘘のように、今日は小春日和だった。
﹁素っ裸で、湯殿山を登ろうとは、なんて無謀な﹂
131
シャブでもやっていたのかな。と思った。覚醒剤でハイになって
しまうと、そういう奇行もするからである。
身元は、簡単に分かった。月山道を巡回していた、道路パトロー
ルカーが見つけた学生服から生徒手帳が出てきたのである。
﹁しかし、その学生服が見つかったところから、ここまでは四キロ
ぐらいありますよ。第一、あの急斜面、雪山じゃなくても登れっこ
ないし。どっからそんな馬鹿力を出したんだろう﹂
菅原の問いかけに、道路パトロールの隊員も答えられなかった。
菅原も、答えが返ってこないことは承知していた。
身柄を、大日坊から引き取り、鑑識で検査したところ、覚醒剤の
反応は出てこなかった。それどころか、アルコールの類も検出され
なかった。
解剖をしてみても、何の異常も認められなかった。
どうやら、星川は、完全に素面で吹雪の湯殿山を、裸で登ろうと
したらしい。
確かに、凍死直前に、体温が冷えすぎて、かえって暑いと錯覚し
裸になってしまう、矛盾脱衣という現象はある。
だが、この場合は違うだろう。
バスから降りた直後に、衣類を脱いでいるからである。
結局、わざわざ裸で湯殿山の斜面を登った理由は、まったく判然
としない。
神奈川県警と連絡を取り、この男が、希望ヶ丘ゴルゴンと呼ばれ
る、凶暴な暴走族のメンバーであることが分かった。
どうやら、粗暴ではあるが、精神異常者ではなかったようだ。
菅原は、ますます首をひねらざるを得なかった。
遺体は、今日、星川の母親が引き取りに来ることになった。
第四の処刑が、終わった。
勝がはかなくなってから、一ヶ月が経つ
132
第四幕・4
4
﹁おい、藤原、大変だぞ! お前の絵が、五華展で特選になった!﹂
片桐が、二年二組の教室に、飛び込んできた。
昼休みの教室である。
煙草を吸っていた生徒たちが、慌てて揉み消した。しかし、いつ
もは厳しい片桐が、今日はそんなことに頓着していないようである。
﹁おい、藤原、聞いているか。お前の絵が、五華展で、特選になっ
たんだぞ。五華展だぞ、あの﹂
片桐が、甲斐の両肩に両手を当てて揺さぶる。しかし、甲斐はな
んの反応も示さない。
五華展というのは、日展と並んでもっとも歴史と権威のある美術
の公募展である。高校生が、その特選に選ばれるというのは、奇跡
に近い。
五華展は、毎年芸術の秋に公募が行われる。
今日は、二〇一一年、十一月十四日。
勝がはかなくなる三十九日前である。
片桐は、ほっと深いため息をついた。
﹁いやはや、お前には参るなあ。五華展特選なんて世俗じみた話は、
お前にとってはどうでもいいことなんだなあ﹂
そう言って、片桐が目を落とすと、甲斐は既に母親、信子手作り
の弁当を食べ終わっていた。
昼食は、学生食堂で食べる者、コンビニでおにぎりやパンを買っ
133
てきて食べる者、様々であるが、母親手作りの弁当を持ってきてい
る者は、意外に少ない。
甲斐は、その一人である。
片桐が、立ち去ろうとすると、甲斐がすっと立った。
片桐が、
おやっ、
という顔をした。
甲斐が、すーっと、何の気配も感じさせないまま、教室の出入り
口に向かう。甲斐の進路にいるものは、皆自然に甲斐をよける。な
んとなく、クラスの生徒たちも、甲斐には近寄りがたい雰囲気を感
じているらしい。
片桐は、黙ってその後をついて行った。
甲斐は、二年生の教室のある二階から、一年生の教室のある三階
に上り、さらに四階に昇った。
教室棟の四階は、音楽室、美術室、書道室のある階である。それ
ぞれの部活動の部室もある。音楽関係の部室は、一応合唱部と吹奏
楽部が使うことが想定されていたのだが、今は使われてはいない。
書道部室は、一時シンナーを吸う連中のたまり場になっていたので、
閉鎖されている。
片桐は、合唱狂いである。中学校から始まり、大学までずっと合
唱部で通した。教員になるときも、出来れば合唱部の顧問になりた
かった。
ところが、希望ヶ丘西高校に合唱部などなかった。それどころか、
吹奏楽部さえなかったのである。バンドなどは、クレイジー・メド
ゥーサを始め、みんな校外で活動をしている。
結局、芸術関係ということで、美術部の顧問をやっている。
美術の教員は、繊細な人で、鬱病になってしまい休職中である。
代わりに来ている講師も、もう三人目で、長続きするものはいない。
今の講師も、もう辞めたいと愚痴をこぼしている。
音楽の教員は、なかなか図太いところがあり、生徒をうまくあし
134
らっているようだ。毎年、吹奏楽部の募集をしているが、今までの
ところ一人も応募した者はいない。
美術部の部員は、一応十三名いることになっている。だが、実際
に活動を行っているのは、転校生である甲斐と、女子の大沢彩香の
二人だけである。
彩香は、三年生で、もう既にデザインの専門学校に入学が決まっ
ている。そこそこセンスがある子なので、片桐と楽しく部活をやっ
ていた。だが、甲斐が入ってきて、片桐はぶっ飛んだ。
センスがあるどころの話ではなかったからである。一種の天才と
言えた。
いわゆる、高機能自閉症なのだろう。画家の山下清などが有名で、
一説では、あのアインシュタインも高機能自閉症だったのではない
かと言われている。
彩香などは、その才能にただただ感心するばかりで、妬ましいと
も思わないらしい。
まあ、片桐の見るところ、彩香は甲斐に一目惚れしている。もう、
姉さん女房気取りで、何くれとなく世話を焼く。
希望ヶ丘西高校に来てからの甲斐のモチーフは、基本的にただ一
つである。
人物像である。
原田勝の。
彩香は、その点は妬けるらしい。
自分も描いてもらいたいのである。
だが、甲斐は、勝以外の人物像は描かない。
花瓶や、果物の静物画を描くことも希にはある。
特に、林檎をよく描く。
美術部室の白いテーブルに、元は赤かった林檎が一個萎びている。
甲斐が持ってきたものである。
135
萎びかけたときに、彩香がそれの代わりにと、新しい林檎を持っ
てきたとき、珍しく甲斐はその交換を拒否した。
そして、瑞々しかった林檎が生気を失い、だんだん水分が抜けて
いく様子を、執拗に描き続けている。その絵も、十枚ぐらいあるだ
ろうか。
だが、基本的には、ひたすら甲斐は様々な姿勢の勝を描いている。
特に椅子に腰掛けて横を向いている構図を好む。
しかし、そこに勝が実際に座っているわけではない。甲斐は、記
憶で、椅子に座っている勝の像を描く。美術部室には、そうした勝
の像が、数十枚も置いてある。
その中で、特に片桐が素晴らしいできだと思ったものを、五華展
に出展しようと、甲斐に持ちかけたのだ。
珍しく甲斐は拒否はしなかった。
そこで、甲斐の両親、父親の学と、母親の信子に相談し、快諾を
得た。
その絵が、五華展で特選になったのである。自閉症でない子供な
ら、晴れがましい気分になるところだろうが、甲斐にはあまり関係
がないらしい。
甲斐の描く勝の絵は、
美しい。
愚鈍で、どこまで行っても無明の業を背負った人類が普遍に持つ、
ある種の、
神聖さ、
を、甲斐は描き出している。
その絵には、本当に神々しいとまで言えるほどの気品が満ちてい
るのだ。
片桐は、その絵に、甲斐自身の魂の本質を見る。
片桐も今、二年一組で世界史を教えている。勝の答案は、見事な
136
までの誤答ばかりで、いつもほぼ〇点に近い。それでも、いくつか
は当たっているところがあって、片桐の授業を一生懸命に聞いてい
る様子は窺える。
一方、二年二組の甲斐は、見事なまでに、満点である。これは他
の教科も同様らしい。第一、転入試験が、全科目満点だったのであ
る。
なんでこんな生徒が、希望ヶ丘西高校へ来たのか、と職員室がそ
の話題で持ちきりになったものだ。それが、どうも自閉症らしいの
で、みんな納得したのだった。
囲碁、将棋、チェスなどのゲームも強く、囲碁などは、五段の先
生と互角に戦っている。
しかし、そういうゲームをやっているときも、一切口は聞かない。
また対戦相手とは、目を合わさない。
他人と視線を合わせないというのは、自閉症の特徴の一つだ。そ
して、高機能自閉症の場合には、自分の集中できる分野においては、
飛び抜けた才能を発揮することがある。甲斐はその典型なのだろう。
姉さん女房気取りの彩香は、希望ヶ丘西高校の生徒としては、ま
ずまずいい子の部類に入る。髪は茶髪だし、ピアスの穴は開けてい
るが、学校ではピアスをつけない良識がある。
スカートは、短い派である。希望ヶ丘西高校の女子のスカートは
極端である。足首まである、スケ番風か、彩香のようにパンティが
見えるギリギリの短いスカートかである。
男子が、勝や甲斐のような一部の例外を除いて、みんな短ランか
長ランを着ているのと同じことである。
女子の上着は、これまた何の工夫もないセーラー服である。しか
し、なまじっかなブレザーより、最近はセーラー服の方がいいらし
い。女生徒も、文句は言わない。
甲斐は、自分が描いた勝の絵を、一枚一枚見ている。片桐には、
どの絵も凄いと思えるのだが、甲斐は満足していないらしい。
そこに、彩香がやってきた。
137
﹁大沢、藤原が、五華展で特選になったぞ﹂
﹁え、先生、五華展って、あの五華展?﹂
﹁そうだ、あの五華展だ﹂
﹁すっごーい!﹂
こう言うなり、彩香は甲斐に抱きつき、凄いじゃんを連発した。
甲斐は、少々迷惑そうだが、突き放したりはしない。
甲斐が、この学校で接触する他人は、勝、片桐、彩香、そして業
務員の小西の四人だけだ。担任の大清水なぞは、完全に無視されて
いる。
﹁ね、ね、先生、美術部で、パーティーやろうよ。そこのガストで
さ。モデルの勝も呼んでさ﹂
ガストでパーティーというあたりが、いかにも希望ヶ丘西高校の
生徒らしくて、片桐の苦笑を誘う。
﹁ああ、それはいい考えだな。藤原、どうだ﹂
甲斐は、答えないが、微かに微笑んだ。
﹁あ、いいって言ってるよ﹂
彩香は、甲斐の微妙な表情を読み取るのがうまい。
﹁よし、原田に話してこよう﹂
こう言うと、すぐに片桐は、美術部の部室を出、二年一組の教室
に向かった。
勝は、教室の外で、廊下に置いてある清掃用具入れの陰から、教
室の様子を窺っていた。できるだけ教室の連中に捕まらないように
して、イジメられるのを防いでいるのだ。
﹁原田﹂
片桐が声をかけると、勝はビクンと飛び上がった。振り返って、
相手が片桐だと分かると、あからさまにほっとした様子だった。
﹁甲斐がなあ、お前をモデルにした絵で、展覧会で入賞したんだ﹂
勝に、甲斐のことを藤原と言っても、ピンと来ないことを、片桐
は知っている。勝にとって、甲斐は、カイなのだ。
﹁え、にゅうしょう。きんしょうってこと?﹂
138
﹁ああ、そんなもんだ﹂
﹁カイくん、すごいなあ﹂
本当に心の底から感動した様子だ。
﹁美術部で、今日お祝いのパーティーをするから、お前も来いよ﹂
﹁え、ほんとう、ほんとうにいいの?﹂
﹁ああ、来るのは、俺と甲斐と彩香だけだから、安心していいぞ﹂
﹁あやかさんて、あのきれいなあやかさんですか?﹂
﹁ああ、そうだ﹂
甲斐が来てから、勝も美術部室に時折顔を出すようになった。彩
香は、勝をイジメなかった。勝が、彩香に淡い恋心を抱いているの
は、片桐にも一目瞭然だった。
もちろん、淡い恋心などと言われたら、勝は慌てて否定しただろ
う。そんな大それたこと、考えてはいけないのだ。自分は、チュウ
公なのだから。
﹁じゃあ、放課後、俺が呼びに来るから、待ってろよ﹂
﹁はい﹂
勝がにこっとした。
片桐は職員室に戻った。
二〇一一年、十一月十四日。
原田勝がはかなくなる、三十九日前であった。
139
第四幕・5
5
星川鉄郎が処刑され、後藤沙保里が亡くなった日から三日目の五
時間目である。
勝が、はかなくなってから、一ヶ月と三日経った。
五時間目に、カウンセラーの郁美が、一人でお茶を飲んでいると、
また片桐がきた。
この時間は、カウンセリングを希望する生徒がいなかった。珍し
く、ベッドで寝ている生徒も、いなかった。それでも、急にカウン
セリングを希望する生徒も多いので、郁美は待機しているのだ。
片桐の方は、五、六時間目の授業が空いていたので、保健室に来
たのだ。養護の江本教諭は、出張で出かけていた。
片桐の姿を見ると、郁美は立って珈琲メーカーに行って、珈琲を
注いだ。
﹁片桐先生、これを見てください﹂
片桐が、珈琲に口を付けると、郁美が取り出したのは、例の後藤
沙保里にもらった大黒天の像だった。
禍々しい。
これが本当に福の神だろうか。
﹁これが、例の呪いの大黒天というやつですか﹂
﹁ええ、そうなんです。鷹見高校の女生徒からもらったんです﹂
﹁へえ、あっちでも、こんなものが流行っているんですか﹂
140
﹁はい、あと、川崎北工業高校でも流行っているみたいです﹂
﹁へえ、近隣の高校みんなですか?﹂
﹁いえ、玉田高校とか、ひばりヶ丘高校とか、いわゆる進学校では
流行っていないみたいなんです﹂
言外に、教育困難校でだけ流行っている、というニュアンスを匂
わせている。
﹁じゃあ、やっぱり口裂け女や、トイレの花子さんみたいな都市伝
説でしょう﹂
片桐は笑って片付けようとしたが、郁美は真剣な目をしている。
﹁どうしたんですか? 犀川先生﹂
﹁ええ、ただの偶然かも知れませんけど⋮⋮﹂
片桐が、郁美の話を聞く態勢に入った。郁美は、少し躊躇いなが
ら、思い切って話し始めた。
﹁これをくれた女の子が言っていたんですけど、この大黒天は呪う
んだそうです。この大黒天の持ち主に、危害を加えた相手に対して﹂
﹁ほう、自動的にですか?﹂
﹁ええ﹂
﹁じゃあ、丑の刻参りより便利だ﹂
片桐は茶化そうとしている。しかし、郁美は真剣だ。
﹁で、その子が、持っているのも気味が悪いし、捨てるのも嫌だ、
ということで、わたしにくれたんですが⋮⋮﹂
郁美は言いよどんだ。
片桐は、聞く態勢を崩していない。
﹁実は、その子が、帰り道で交通事故に遭っちゃって﹂
﹁え!﹂
﹁しかも、その事故が変なんです。確かにちょっと寒い日でしたけ
ど、その事故を起こしたダンプがブレーキをかけた部分だけが、な
ぜか凍っていたんです﹂
﹁日陰だったんですか?﹂
﹁いいえ、そういうことはなかったみたいです﹂
141
片桐が、珈琲を飲む。片桐は、考え事をし始めると、無際限に珈
琲を飲む。
﹁しかも、その子は、ダンプの右側にぶつかって、その時だけでも、
相当な衝撃があったはずなんです。ですから、たとえ居眠り運転を
していても、目を醒ましたはずです。なのに、なぜかその後も、ダ
ンプは止まらなかったんです﹂
﹁え、じゃあブレーキは?﹂
﹁踏んでいたみたいです。ですから、居眠り運転というのも、おか
しいんです。なんだかそのダンプは、元々油圧系に故障があって、
ぶつかった衝撃でオイルが漏れてしまったんだそうです。踏んでも
ブレーキの効きが悪かったみたいなんです﹂
﹁で、その子は﹂
﹁ええ、運悪く、着ていたコートの袖がダンプに引っ掛かってしま
い、タイヤに巻き込まれて数百メートル引きずられました。ダンプ
が止まったときは、もう、ボロボロになっちゃって、亡くなってい
たそうです﹂
﹁うーむ﹂
片桐が考え込んだ、珈琲を飲み干す。郁美は、すかさず立ってお
代わりを注いだ。それにも気が付かないように、片桐は考え込んで
いる。
﹁もう、その話はぱーっと広まっちゃって、この大黒天は、憎い相
手に祟るだけじゃなく、自分を粗末にした者にも祟ると⋮⋮﹂
﹁はあ、すると、扱いきれないからと大黒天を手放したその女生徒
にも、大黒の祟りが襲ったと﹂
﹁ええ、今カウンセリングに来る子は、みんなそう信じ込んでいる
ようです﹂
﹁すると、犀川先生も、これを捨てたり、手放したりすると⋮⋮﹂
﹁ええ、祟られちゃうのかも知れませんね﹂
郁美は、苦笑しながら、ちょっと茶化すように言ってみた。しか
し、やはり郁美は真剣だ。その様子が、片桐にも伝わっているよう
142
だ。
郁美には、こういう超常現象を、安易に否定できない理由がある
のだ。
片桐に告白しようか?
ちょっと、探りを入れてみる。そして、慌てて回路を閉じる。
まだ、時期尚早だ。慌てるな、郁美。そう自分に言い聞かせる。
﹁そう言えば、うちの高校の星川も、変な死に方をしたんですよね﹂
﹁ああ、知ってます。なんでも、湯殿山で凍死したとか﹂
﹁ええ、しかも、その日は、希望ヶ丘ゴルゴンと︿道化師﹀が、大
乱闘をやったらしいんです。残してきたバイクで足がついて、十七
人警察に捕まったんですが、幹部級は、全員逃れてるんです。誰も、
口を割らない。でも、星川だけが、死んでしまった﹂
﹁︿道化師﹀の方は、ほとんど壊滅だって聞きました﹂
﹁そうらしいですね。︿道化師﹀の、ベビーフェイスは、僕がよく
行くカフェバーのバーテンダーだったんで、なんか気の毒で﹂
そう言いながら、片桐は、大黒天の像をいじっていた。
高さ十センチほど。にんまりと、薄気味悪く笑っている。
ふと、
カチッ、
音がした。
大黒天の台座に、刻み目があった。
そこが、外れるようだった。
﹁これ、多分外れますね。外してみて、いいですか?﹂
﹁はい、構いません﹂
﹁うっかり、呪われたりして﹂
片桐が、笑った。
﹁呪われるときは、二人一緒ということになりますね﹂
郁美も笑った。言ってみて、しまった、と思った。自分の心が揺
れたのだ。
片桐がひねると、台座が外れた。
143
中から、入れ子になった、もう一つの人形が出てきた。いや、そ
れは人形ではなく、神像だった。
﹁こ、これは﹂
片桐が呻った。
高さ五センチばかり。やはり木造だが、こちらは丁寧に彫られ、
仕上げも綿密である。
それは、奇怪な像だった。
正面に、象の顔が彫られている。しかし、その牙は、左側一本し
かない。右の牙は、折れているのだ。
その左に、女神らしい、真っ黒な顔が彫られている。像の右にあ
る顔は、奇怪なものだった。三匹の蛇の頭が、鎌首をもたげている
のだ。
その像が発する邪悪な気配は、ほとんど物質的な密度を持ってい
た。
その像から、異様に生臭い風が、郁美の顔に吹き付けてくるよう
に思われた。
﹁こ、これは⋮⋮、これは、一体何ですか?﹂
そう言いながら、郁美は正視に耐えない、と感じて目を逸らして
しまった。背筋を、ツーッと、冷や汗が流れ落ちる。
どう我慢しても、膝がガクガクと震えるのを抑えることが出来な
い。
怖くて怖くてたまらなかった。
いっそのこと発狂した方が楽だ。
そう思うほどに、郁美は恐怖に脅かされていた。
何がそんなに怖いのか分からない。その分からないこと自体が、
一層恐怖を煽った。
﹁これは⋮⋮、これは、とんでもないものです﹂
そう掠れた声で言って、片桐は、一時口をつぐんだ。次の言葉を、
144
どう続けようかと迷っているようだ。
やがて、片桐は重い口を開いた。
﹁これは、邪悪なものです。こんなものを胎内に秘めていれば、大
黒天が人を呪うということも、合点がいきます﹂
それでも、片桐は、出来ればこれから言うことを口にしたくない
しょうてん
ようだった。
﹁これは、多分三面聖天の像です。でも、普通の三面聖天の像とは
違いますね。この三匹の蛇を持つ三面聖天というのは、聞いたこと
がありません。聖天と言う仏様は、御存知ですか?﹂
問われて、郁美は首を横に振った。
それを見て、片桐は頷いて、言葉を継いだ。
﹁聖天というのは、ヒンドゥー教のガネーシャが、仏教に取り入れ
られたものです﹂
﹁ガネーシャ?﹂
片桐が頷いた。片桐は、インドの思想史をやっているので、こう
いう方面にも強いのだろう。
﹁ガネーシャは、あの破壊神シヴァの息子なんです。しかも、ガネ
ーシャは、シヴァの凶暴な破壊神としての側面を増強して受け継い
でいるので、父親であるシヴァよりも恐ろしい神なんです﹂
シヴァより恐ろしい破壊神! それは、郁美の理解を超えていた。
﹁ガネーシャは、またの名をヴィナーヤカと言い、この名のときは、
魔類の王という意味にもなります。凶暴好色の、恐るべき障礙神で
す﹂
片桐は、眼鏡の中央を、右手の中指で押し上げた。
﹁でもね、恐ろしい破壊力は、また御利益を与えてくれる超絶的な
力にもなり得ます。ですから、仏教に取り入れられた聖天は、他の
仏が叶えてくれないような、どんな願いも叶えてくれる福の神とし
て尊崇されました。シヴァだって、恐らく暴風雨が神格化されたも
ので、破壊もするけど恵みの雨をもたらすものとして崇拝されます﹂
郁美は、真剣な顔をして頷く。
145
こう言う片桐の顔は、心なしか蒼褪めて見える。
その顔を見て、郁美は自分の顔からも血の気が引いていくのを感
じる。
片桐は、右手の甲で、額の汗を拭いた。
﹁聖天は、先ほども言いましたが、他の神仏が叶えてくれない、ど
んな願いも叶えてくれます。ですから、多くの場合、人は己の欲望
を満たすためだけに、聖天に帰依します。どんな悪事乱行を願おう
が、どんな低次元の欲望を抱こうが、聖天は全て聞き届けてくれる
のです。例えば、自分の敵を呪い、殺すことを願っても、叶えてく
れると言うわけですよ﹂
仏が、人を殺す願いも聞き届ける!
郁美は絶句した。
郁美は、腹の底に冷たい氷でも呑み込んだような気分になった。
﹁しかもですねえ、聖天は、確かに信者の欲望を叶えてはくれます
が、それは、自分一代限りなのです。その後、七代までの子孫は、
聖天の祟りを受け、零落します。しかも、その祀り方に、少しでも
遺漏があれば、すぐに恐ろしい罰を与えます﹂
それで、後藤沙保里は、罰を受けたのだろうか。
﹁とにかく、聖天は大黒天と違い、明らかな障礙神なのです。それ
は、どんな恐ろしい呪いでも叶えてくれますが、災いは、祈ってい
る本人にも降り掛かってくる可能性があるのです﹂
﹁では、大黒の呪いというのは⋮⋮﹂
﹁そうです。大黒天を祀っているつもりで、聖天を祀っているのか
も知れません。だとしたら、いわゆる﹃大黒の呪い﹄が発するのも、
分かります﹂
﹁そうすると、大黒天神教というのは⋮⋮﹂
﹁ええ、あの大黒の像を持っている人たちは、大黒に祈っているつ
もりで、聖天に祈っていることになるのかもしれません﹂
﹁そ、そんな﹂
郁美は怯えた。では、これが﹁呪いの大黒﹂の正体だったのだ。
146
やはり、沙保里は、恐ろしい仏に罰せられたのだ。
147
第五幕・剣舞・五華展の凶宴・1
第五幕 剣舞・五華展の凶宴
1
﹁さあ、今日は俺のおごりだ。みんな遠慮なく食ってくれ﹂
片桐が、にこにこして言う。勝も、彩香もにこにこしている。
彩香はともかく、勝がこんなに幸福そうに笑うのは、人生で初め
てかも知れない。
﹁先生、デザートにケーキも食べていい?﹂
ちゃっかりした彩香が聞いた。
﹁ああ、いいぞ。なんでも、どんどん食え﹂
片桐は太っ腹である。
谷津駅前のガストである。
甲斐の、五華展特選のお祝いに来ているのである。
今日は、二〇一一年十一月十四日。
勝がはかなくなるまで、あと三十九日である。
主人公の甲斐が無表情なのは、少し寂しいが、まあそれはしょう
がない。
彩香は、空気を察したのだろう。勝の隣に座り、何くれとなく世
話をやいている。
将を射んと欲すればまず馬を射よ。
こんな難しい言葉は知らなくとも、甲斐のご機嫌を取るためには、
勝の世話をした方がいいということは、直感的に分かっている。
この辺が、普通の希望ヶ丘西高校の生徒と、彩香を分けている点
148
だ。
彩香自身は、人をイジメたことはない。また、一種の人徳なのだ
ろう。イジメられたこともない。
イジメ。
この言葉は、希望ヶ丘西高校の生徒を理解する上でのキーワード
の一つである。
加害者側、被害者側。どちらに立つにせよ、イジメと無関係だっ
た希望ヶ丘西高校の生徒を捜すのは難しい。
彩香は、その希有な例である。
美人というだけなら、もしかすると犀川郁美よりも綺麗かも知れ
ない。まあ、もちろん瞳に宿る知性の燦めきで、圧倒的な差を付け
られてしまうのだが。
そんな彩香に、ドリンクバーのココアを持ってきてもらい、水も
持ってきてもらった。
勝は有頂天である。
こんなところに来たことのなかった勝は、何を注文しようか迷っ
た。すかさず、彩香が、
﹁このハンバーグとチキン南蛮にしなよ﹂
と決めてくれた。彩香は、ちゃっかり、自分と甲斐の分は、一番
高いハンバーグとエビフライにした。
片桐は、勝が孤立しないように、勝と同じくハンバーグとチキン
南蛮にした。
﹁でも、すっごいよねえ。五華展だよ、五華展。あたしも、一度で
いいからデザイン部門で、入選でいいからしてみたいなあ。甲斐君
みたいに、特選なんてならなくてもいいからさあ﹂
﹁五華展の写真部門と、デザイン部門は、絵画部門より競争率が高
いからなあ﹂
片桐がフォローする。
﹁甲斐の絵は、うっかりすると総理大臣賞級だったって、新聞の文
化部に勤めている友人が言っていた。さすがに、まだ若すぎるから
149
と、見送られたそうだけどね。明日から、取材ラッシュで大変にな
るかも知れない﹂
﹁ああ、そう言うのって、うざいよねえ、甲斐君﹂
彩香が言うと、甲斐が微笑んだような気がした。
﹁でも、やっぱりカイくんは、すごいなあ﹂
勝が、感嘆したように言う。
料理が出てきて、みんな少し口数が少なくなる。
片桐は、さっき甲斐の母親、信子に美術部でお祝いの会をします
から、と電話した。
信子が絶句していた。
甲斐はそれまで、学校の先生や友人に、心を開いたことが一切な
かったからである。
﹁先生、ありがとうございます。ありがとうございます﹂
電話の向こうで、信子が泣きながら礼を言っているのが分かった。
片桐も、思わずほろっとしたものである。
全員が、ハンバーグを食べ終えると、デザートが来た。これも、
甲斐と勝の分は、彩香が決めてやった。もちろん、彩香のものと甲
斐のものは同じである。
片桐も、意外に甘党なので、ケーキを注文した。
勝が、ココアを飲み干すと、さっと彩香が立ってお代わりを注い
できてくれた。
勝は、母親に、いないいないばあ、をしてもらった幼児のように
笑った。
勝は、こんなに幸福なんだから、明日も学校に来ようと思った。
イワシとシュンとカオルはこわいけど、すこしぐらいイジメられ
ても、びじゅつぶのへやにさえいけば、カイくんとアヤカさんにあ
える。アヤカさんはきれいだし、やさしいからだいすきだ。
二〇一一年十一月十四日日。月曜日。
150
後、三十九日。三十九日しかないのだ。
151
第五幕・2
2
二〇一一年、十一月四日。
甲斐が特選になったお祝いの十日前。
勝がはかなくなる、四十九日前である。
﹁おう、チュウ公、おせえと体育の西原に怒られっぞ。さ、一緒に
行こうぜ﹂
イワシの岩崎が、なんだか嫌な笑みを浮かべて近寄ってきた。
これから体育、剣道の時間である。剣道は、特別時間割が組まれ、
工業科の二年一組、二組が合同の授業となっている。それで、二組
の岩崎が、一組にきたのだ。
まるで親しい友人のように、勝の肩を抱いて歩き始める。
﹁おい、シュン、薫、おめえらも来いよ。面白えことやっからよ﹂
﹁んだよ、今更チュウ公イジメて面白えことなんて、あんのかよお﹂
岩崎についてきた俊は、言いながら、吸っていた煙草を投げ捨て
る。
薫も、怪訝そうな顔をして席を立つ。
昨日、岩崎の姉の幸代が家出をした。
まったく行方が分からないのだ。
母親の節子も知らない間に、自分の最低限の荷物をまとめておい
たらしい。
幸代が、バイトで稼いでいた金も、全部持って出ていた。
岩崎の家庭内暴力に耐えかねたのである。
152
とうとう、安キャバクラで働いている、母親と、狭い二間のアパ
ートで二人暮らしになってしまった。
あんまり母親をぶん殴ると、母親も自分を見捨ててどこかに行っ
てしまうかも知れない。
それはそれで困る。
ムシャクシャの解消ができない。
岩崎は、凶暴で残酷な割には、頭の方がお留守である。
まあ、ザウルスほどではなかったが。
岩崎は、一年の遠足のときに、多摩動物園に行った。
その時に、岩崎は猿山の猿に、石を投げて遊んでいた。
小猿が怯えて逃げるのが面白かった。
飽きて、他の檻でも見ようと思った。
檻の中にいるなら、ライオンだってからかえる。
そして、後ろを向いて、ふと油断したときに、逆にボス猿に石を
投げられた。
その石が、見事岩崎に命中してしまったのである。
その時に、岩崎は顔を真っ赤にして怒り、ボス猿に向かって、
﹁てめえ、そっから降りてこい! タイマン張ってやっから! ち
っくしょう、ギッタギッタにしてやっぞ!﹂
と叫んだものである。
生徒の奇矯な行動には慣れている希望ヶ丘西高校の教員たちも、
この時ばかりは、開いた口がふさがらなかったそうだ。
引率していた、フルートを吹く音楽の庄司知春など、同じ音楽を
愛する片桐に向かって、
﹁片桐さん、僕、猿を相手に音楽を教えているのかと思うと、情け
なくなりましたよ﹂
と、愚痴をこぼしたものである。
庄司は、次の年、希望ヶ丘西高校の教員を辞め、ドイツに留学し
てしまった。
岩崎は、猪八戒のように太っている。
153
笑うと、一見愛嬌がある顔に見えるのだが、実は希望ヶ丘ゴルゴ
ンの幹部の中でも、残忍なことでは一番、と言われている。
一方、水野俊、通称シュンは、小柄だが、俊敏で喧嘩は強い。
凶暴なだけで、どんくさいところのあるイワシなんぞの、数倍恐
れられている。
ちょっと見ると、可愛い顔立ちをしているが、頬が削いだように
細い。それが、表情に険を与えている。その危なそうな表情で、か
えって女子の間では人気が高い。
また、安西薫は、ハンサムで喧嘩は強い。うっかりすると、ナン
バーツーの星川と五分を張るかも知れない。
今朝、岩崎は、ムシャクシャしながら、南武線の駅に向かってい
た。携帯が鳴った。
広樹だった。
緊張して携帯に出た。だが、広樹の話を聞いて、岩崎はにやりと
笑った。
そして、躍るような心で、学校への道を急いだのだった。
岩崎、俊、薫の三人は、体育館を通り、武道場に着いた。おずお
ずと勝もついていく。
武道場は広いのに、暖房が弱い。それで、二クラス合同の授業を
やり、人いきれで暖めようという目算なのだ。
その、武道場には、甲斐はいない。自閉症の甲斐が、どんな運動
能力を持っているか見当が付かなかったので、図書室で自習させる
ことになっているのだ。
イワシは、武道場の中央に勝を立たせた。
勝は、何が起こるのか分からずに、怯えた表情をしている。
﹁なあ、チュウ公よお。授業が始まるまでよお、まだ間があるじゃ
ん。だからよ、俺たちと、ちょっと稽古といこうぜ。な、いいだろ
う、チュウ公よお。稽古だぜ﹂
こう言いながら、イワシは、勝の手に一本の竹刀を持たせた。
勝は、何が始まるのか、皆目見当がつかない、という顔をしてい
154
る。キョトンとした顔をし、おどおどしながら立っている。
イワシも、竹刀を持ち、シュンと二年一組の薫にも、竹刀を持つ
ように言った。
﹁さ、稽古だからな、こう構えてな﹂
イワシが、勝に手を添えて、竹刀を青眼に構えさせた。
勝が、たどたどしく竹刀を構えると、イワシが、サッと竹刀を振
りかぶった。
﹁トオーリャー!﹂
鋭い気合を入れて、勝の肩に一撃を浴びせる。
﹁あ!﹂
勝が、悲鳴を上げる。
しかし、痛い、とは言わない。
そんなことを言うと、相手の嗜虐性を、ますます煽るだけだと知
っているのだ。
もちろん、勝には、反撃するような度胸はない。震えながらも、
ボーッと突っ立っている。
イワシの一撃の後、
﹁なるほど、そういうことか﹂
と言って、シュンが、気合と共に勝の胴を払った。
さらに、薫が太股に一撃を加える。
三人とも心得たもので、手や顔のように、衣服の外に出ている部
分は決して打たない。
目に付かないところを打てば、報復を恐れて、勝は決して誰にも
打撲の痕を見せないだろう。
イワシ、シュン、薫の三人は、勝を滅多撃ちにし始めた。
勝は、何も出来ずに、ただ両手で頭を抱えて突っ立っているだけ
だ。竹刀だけは、放さずに持っている。
﹁ほら、どうした、稽古なんだぞ。お前も、打ってこいよ﹂
イワシが、面白そうに言う。
これは、イワシが今朝広樹に教えられた、新手のイジメである。
155
姉の家出でムシャクシャしていた気分が晴れる、面白いことだっ
たのだ。
着替えが終わった他の生徒たちも、ニヤニヤしながら、この光景
を見ている。
勝は、ガタガタと震えている。恐ろしいのだろう。
打たれた痕が痛むのか、顔をしかめている。
しかし、逃げ出すことは出来ない。
まして反抗することなど、考えることも出来ない。
﹁ヒューヒュー、どうしたチュウ公。お前も、一本ぐらいは打ち込
んでみろや﹂
誰かが、指笛を吹きながら、声をかけた。
体育館の方でバレーボールの準備をしていた普通科の女子も、何
事が起こったのかと覗きに来た。
そして、勝が滅多打ちにされているのを見ると、ゲラゲラ笑いな
がら手を叩いた。
﹁ほら、イワシ、しっかり打ち込んで﹂
太った岩崎が、息が上がってちょっとふらついたので、女子がす
かさずからかう。
﹁キャー! シュン、かっこいい﹂
女子の黄色い嬌声が聞こえる。峻は、ちょっと格好を付けて、ま
た一撃を浴びせる。
﹁カオルー、負けないでー﹂
声援に応えて、薫が一撃を加える。
勝は、ますます小さく縮こまり、頭を両手で抱えてうずくまって
しまった。
﹁こら、チュウ公、立てよ。立てって言ってんだろ、こら!﹂
岩崎が、顔を真っ赤にして怒鳴った。その岩崎の肩に、シュンが
手をかけた。
﹁おい、そろそろ、俺たちも着替えねえと、西原が来るぞ。ヤベエ
から、今日はこれぐらいにしとこうぜ。それにしてもよお﹂
156
シュンが、険のある顔に、珍しい笑みを浮べた。
﹁おめえ、こういうことになると、本当、天才な。これ、おもしれ
えから、ずっとやろうぜ﹂
シュンと薫が、イワシの肩を叩く。
﹁ただ殴ったり、蹴ったりするだけなら、誰でも出来っけどよ、チ
ュウ公に竹刀持たせて、一丁前に構えているのをやるから、何十倍
も面白いぜ﹂
こう言いながら、シュンが高笑いをした。
薫も、それにつられたように、愉快そうな笑い声を上げる。
もちろん、岩崎は、このイジメを思いついたのが広樹であること
は、シュンにも薫にも言わなかった。
広樹は、自分では手は出さないが、こうしたことを考えさせると、
まさに天才なのだった。
勝は、打たれたところが痛むのか、それとも心が痛むのか、じっ
とその場にうずくまっている。
ようやく、ノロノロと立ち上がったところに、体育の教官の西原
が来た。
﹁こら、原田、何を愚図愚図している。さっさと着替えんか﹂
こう言って、出席簿の角で勝を殴った。
もちろん、勝にはイジメられたと訴え出る度胸はなかった。
157
第五幕・3
3
きれいなえだなあ。これぼくをかいてくれたんだなあ。
勝は、感動している。
神々しいとか、神聖とかいう語彙は、勝にはない。
ただ、こんなに綺麗な絵のモデルが、自分であることに、素直に
感動しているのだ。
やっぱりカイくんはすごいなあ。ぼくの、じまんのともだちだよ。
友達、と考えたところで、勝は恍惚となってしまった。
二〇一一年、十一月十九日、土曜日。
甲斐の絵が飾られている、東京の美術館である。
勝がはかなくなるまで、あと三十四日である。
片桐と甲斐、それに勝と彩香、さらに片桐は犀川郁美も誘った。
郁美と片桐は、同じ小さな合唱団﹁ポランの広場の合唱隊﹂に属し
ている。
片桐が男声の高声であるテノール、郁美が女声の低声であるアル
トを歌っている。
それで、隣で練習することも多い。必然的に親しくなる。
片桐が、二十八歳、郁美が二十四歳。それなりに、お互い意識し
ているのだが、どちらも積極的には出られないでいる。
勝が住んでいる、旭丘団地から、この美術館まで出るのは大変で
158
ある。それで勝は、昨夜甲斐の家に泊めてもらうことになった。
勝の家には、片桐が電話し、快諾を得た。
勝は、甲斐の部屋に、たくさんの自分の絵が並んでいるのを発見
した。
それだけでも、心が震えた。
甲斐の母親の信子は、夕食に腕をふるいステーキを焼いてくれた。
その他にポタージュスープ、エビフライなどもある。
そして、食後に信子が出してくれたココアは、ガストのココアと
同じ名前を持つことが不思議に思われるような飲み物だった。ふっ
くらとして、ふんわりとして、甘かったのである。
おいちゃん、小西次郎がくれる餡パンよりも美味しいものがある
ことを、勝はこの日初めて知った。
盆と正月に、原田の本家に行けば、ご馳走はいくらでも食べられ
るはずである。
ところが、勝は従兄弟たちからも疎まれ、イジメられていた。
それで、カツヨの目が見えないのをいいことに、従兄弟たちは勝
の食事から美味しいものだけを取り上げてしまうのだった。
今、勝は、生涯で幸福の絶頂にいた。
信子も、信子からの連絡で、予定されていた残業を大急ぎで切り
上げて帰宅した甲斐の父親、学も嬉しそうだった。
たとえ知恵遅れに見えても、甲斐が作った最初の友人だったから
である。
おまけに、明日は、学校の先生が、わざわざ美術館に連れて行っ
てくれるという。そこには、女生徒まで来るという。
甲斐が、こんな風に心を開く相手ができるとは、信子も学も思っ
ていなかったのである。
翌朝になった。
朝食も、いつも味噌汁に納豆ですます勝には想像もできないよう
なものだった。
ベーコンエッグ、野菜の嫌いな勝にも美味しいドレッシングのか
159
かったサラダ。ココアに、さっくりしたデニッシュのトースト。そ
れに、昨日ステーキの評判がよかったので、信子はサイコロステー
キを焼いてくれた。
勝は、おなかがはち切れそうになるまで食べた。
片桐が、車で迎えに来てくれた。
その車には、既に彩香が乗っていた。
その彩香を見て、信子も学も驚き、パッと顔が輝いた。
綺麗な子だったのである。スカートの長さに目を瞑れば、素直そ
うな娘でもあった。
すーっと甲斐が助手席に乗ったので、勝は後部座席に彩香と並ぶ
形になった。
嬉しかった。
美術館の入り口に行くと、すでに犀川郁美が待っていた。少しピ
ンクがかった、淡いグレーで、腰のところがキュッと締まっている
コートを着ていた。
片桐も、ダークグリーンの表に、切り返しに鮮やかな赤の入った、
洒落たダウンジャケットを着ていた。
郁美が手を振ると、片桐もそれに応えた。みんなで、階段を昇っ
た。
*
犀川郁美は、少し怪訝に思った。
甲斐の心が、まったく読めないのだ。
普通自閉症児が、感情を表に出さないと言っても、これほど無表
情なことはない。
ましてや、喜怒哀楽の感情が、全くないなどということはあり得
ない。
自閉症の子供だって、表現の仕方が下手なだけで、豊かな内面生
活を持っているのだ。
160
それなのに、甲斐の感情は読めない。本当に、怒りとか楽しいと
かの簡単な感情さえ、見事に読めないのだ。
この子、どっかおかしい、普通じゃない。
そう思った。
ちょっと探りを入れた。
跳ね返された。
びっくりした。
二年間のカウンセリング経験で、いや、物心ついてから今まで生
きてきて、初めての経験だった。
この子の前では、用心しよう。
犀川郁美はそう思った。
*
他の絵と比べると、さほど大きな号数ではなかった。
だが、その一角では、その勝の肖像画が群を抜いていた。
絵を見る人々も、みんなその肖像画の前では立ち止まる。
自然、人だかりのようなものが出来ていた。
しかし、さすがに、その神秘的とも言えるほどの神々しさを持つ
絵のモデルが、今自分たちの横に立っているとは思わないようだっ
た。
﹁凄いですねえ。これ、藤原君が描いたの﹂
﹁そうですよ。美術部の部室には、このレベルの絵が、まだ十枚近
くあります﹂
﹁へえ﹂
﹁だから、甲斐は食っていくのには不自由しないと思いますよ﹂
ふと、その話を聞きとがめたものがいた。
﹁失礼ですが﹂
その女性は、片桐に話しかけた。
﹁こちらの少年が、この絵を描かれた藤原甲斐君ですの﹂
161
﹁はあ、まあ﹂
絵を見ていた人々が、振り向いた。
まずいな、あまり注目されるのは困る。
片桐はそう思った。
﹁で、こちらの少年が、この絵のモデルなのね﹂
﹁ええ、そうですが﹂
﹁私、こういうものです﹂
差し出された名刺には、渋谷の有名な画廊の名前が入っていた。
岸和田道江。その画廊の女主人だそうだ。全身黒ずくめのロング
スカート姿で、ちょっとフラメンコ風味の入った、神秘的な美人で
ある。
﹁鑑査員の目も節穴ね。私なら、この絵に一千万出します﹂
﹁え!﹂
﹁失礼ですけど、お父様ではいらっしゃらない﹂
﹁はい、美術部の顧問です﹂
﹁他にもあるのでしたら、どんどん買わせていただきたいですわ。
先生の方からも、ご両親によろしくお伝え下さい﹂
岸和田と名乗った婦人は、すっと甲斐の頬に口付けをした。
そして、颯爽と会場を後にした。
﹁どれ、僕たちも、甲斐の絵は見たし、帰りましょう﹂
﹁そうですね。でも、後で他の絵もゆっくり見たいです。彫刻も﹂
﹁あ、じゃあ、今度一緒に来ませんか﹂
﹁誘っていただけます﹂
﹁先生たち、お安くないね﹂
彩香が、からかった。
彩香自身は、さっき岸和田女史が、甲斐に口付けしたので、やっ
かんでいるようだった。
勝は、幸福の絶頂にいた。
162
あと三十四日しかない。三十四日しかないのだ。
163
第五幕・4
4
簑島甚兵衛と、江坂伸介は、当惑していた。
現場で動いている、秋月登、進藤重郎、剣持一彦、石沢富雄の四
警部補も、同様である。
簑島、江坂、二人とも、長い間刑事として奉職してきた。特に甚
兵衛は、もう定年まで僅か一年である。
なのに、今度の一連の︵もし関連があったとしたら︶自殺事件は、
まったく理解不能だったのである。
不自然すぎた。
希望ヶ丘ゴルゴンのメンバー、しかも番格ばかりが、四人も自殺
したのである。
それも、恐ろしく奇妙で、苦痛を伴った仕方で。
最初は、希望ヶ丘ゴルゴンと︿道化師﹀、二つの対立する暴走族
の抗争かと思われた。
しかし、俊の送電鉄塔自殺と、星川の雪山での自殺には、まった
く説明がつかない。
おまけに、︿道化師﹀の方は、伝説的なリーダー、ベビーフェイ
スが半殺しにされて壊滅してしまった。
ベビーフェイスがやられたというニュースは、警視庁の暴対にま
で大きなショックを与えた。
ベビーフェイスは、凶暴だが、頭がよく、警察との裏取引も出来
る男だった。彼は、将来の裏社会のリーダーになるだろうし、その
方が暴対にとっても都合がよかったからである。
秋月が、何か宗教的な、狂信的な行動ではないかという説を唱え
た。
164
そこで、大黒天神教団が浮かび上がってきた。
しかし、これでも、一連の事件はまったく説明がつかなかった。
ボロボロに壊されてしまった、︿道化師﹀の方に、この大黒天神
教の信者が多かったのである。
それなのに、圧倒的な勝利を収めた希望ヶ丘ゴルゴンには、どう
も信者はいない模様である。
大黒天神教が絡むのなら、どうして信者の多い︿道化師﹀が壊滅
し、信者のいない希望ヶ丘ゴルゴンの方が勝ったのか。皆目見当が
付かない。
︿道化師﹀と希望ヶ丘ゴルゴンの大乱闘も、なかなか全容の解明が
難しい事件だった。
希望ヶ丘ゴルゴンのメンバーが残していったバイクから、身元が
割れた連中はしょっ引いた。
しかし、彼らは、小物ばかりで、しかも頑として口を割らなかっ
た。
警察よりも、広樹の方が数倍怖いのだ。
ベビーフェイスを、半身不随にしたのは、多分、広樹だろうと思
われた。
しかし、これはどうも決め手に欠けた。
︿道化師﹀のメンバーは、自分のことで手一杯で、辺りを見ている
余裕などなかったのである。
肝心のベビーフェイスは、乱闘から五日過ぎた、今日一月二十八
日になっても、意識を取り戻していないのである。
﹁なんだか、大黒天神教というのは、呪いの教団だそうですね﹂
剣持が言った。武蔵小杉の、本部周辺を、精力的に聞き込みして
回ったのである。
﹁しかし、今どき、呪い殺す、っていうのはないでしょう。第一そ
れだったら刑法で罪には問えませんよ﹂
進藤が言った。
﹁それがねえ、奇妙な事実が浮かび上がってきたんですよ﹂
165
秋月が言った。残り五人が、﹁ん﹂という顔で関心を示した。
﹁大黒天神教団の教祖と、その団長というのが、原田美津江、賢吾
夫妻なんです。それで、その長男の原田勝という子が、希望ヶ丘ゴ
ルゴンのメンバーのイジメで、自殺しているんです﹂
﹁ほう﹂
甚兵衛が、何とも間の抜けた相づちを打った。
﹁狂信的な教団員による、その報復、という線も考えてみたんです﹂
﹁なるほどなあ。何か仕掛けがあるかも知れないなあ﹂
江坂が、ぐっと身を乗り出した。
﹁ただ、そう考えた場合、岡竜一の自殺が、不可解になります。原
田勝の自殺が、去年の十二月二十三日。岡の自殺が二十四日、クリ
スマスイブです。しかも、原田美津江にお告げが下って、大黒天神
教団が創設されたのが、同じ二十四日なんです。その上、美津江に
お告げがあった時間というのが、岡の自殺より後なんですね。岡の
自殺が、午後四時で、お告げが四時半です。大黒天神教団が成立す
る前から、この一連の自殺に見える事件が始まっています。この点
は非常に不可解です﹂
秋月が、首を傾げる。
﹁うむ、しかし、今のところ合理的な線はそれしかないようだな。
その線で、大黒天神教団を洗ってみよう﹂
江坂が、決断を下した。各警部補が、散った。
*
十一使徒が、集まっていた。
筆頭の遠藤静代が、重々しい声で言った。
﹁竹田広樹の行動パターンが、つかめたそうですね﹂
﹁はい﹂
十一使徒では、唯一の大学出で、頭も切れる辻花江が答えた。
﹁広樹は、現在九人の女を持っております。その他にも、不定期に、
166
一夜だけ寝る女が、数人いるようです﹂
こう言って、辻は周りを見回した。
﹁けれども、月初めは、一番お気に入りの長谷川星羅のところで過
ごすことが、多いようです﹂
﹁なるほど、今日は、一月二十九日。では、二月初めでは、あまり
にも急なので、三月初めに、竹田広樹を始末出来るように、みなさ
まご準備のほどを﹂
と、遠藤静代が頭を下げた。
一同も、頭を下げる。
それから、みんな、それぞれに大黒天の像を取り出し、恭しく押
し頂いた。
﹁では、ご唱和を﹂
遠藤静代が言う。
一つ、人身を供御にして、
二で⋮⋮
不気味なご詠歌が、唱和される。
外では、ここ川崎では珍しいみぞれが降っている。
その含水率の高いみぞれのように、湿った、陰気なご詠歌が、都
市の闇に響き渡っていく。
*
山形県、S市の山奥、原田の本家である。
灰色の空から、既に、雪は厚く降り積もり、この一月だけで三回
屋根の雪下ろしをした。
この辺り一帯、三十七戸の集落は、全て原田姓を持つ、原田の分
家である。嫁ではあるものの、九十一歳、本家の最長老として、カ
ツヨの発言権は強い。カツヨの意向は、そのまま原田集落全体の意
167
向となる。
家は、高床式住宅のように、一階部分は雪に埋まってもいいよう
な造りになっている。そこには、耕耘機や稲刈り機など、春、夏、
秋の農作業用の機械が格納されている。
屋根は、少し勾配のある、重厚な瓦葺きの屋根になっている。勾
配がないと、降った雪がそのまま積もってしまう。かと言って、勾
配が急すぎると、屋根に登っての雪下ろしの時に危ない。かなりの
ベテランでも、立っていられないのだ。まして、積もって凍った雪
が滑って落ちでもしたら、大変なのである。
その、仏壇の間で、原田カツヨが、祭壇に向かって祈りを捧げて
いる。
ビィーン、
ビィーン、
梓弓を、打ち鳴らす。
トドサマは、嫁の美津江に譲った。
美津江が、愚鈍なら愚鈍なりに、それなりの霊能力を持っていて
よかった。
やはり、そういう点で賢吾と引き合うものがあったのだろう。
賢吾は、毎年正月やお盆に、嫁と孫を連れて帰省していた。
そうした帰省の折々に、美津江の微かな霊能力を見込んで目をつ
けておいた自分の勘は確かだった。
トドサマと大黒天の像を、宅配便に託したときは、冷や汗が出た。
トドサマは、オナカマにとって命よりも大事なものなのだから。そ
して、むろん大黒天の像も、それより大事なものだった。
それにしても、なんの修行も積んでいない美津江が、ここまでト
ドサマを操れるとは思わなかった。
カツヨの側では、嫁の早苗が、黙々と木を彫っている。
聖天の像である。
168
早苗は、根が器用なので、カツヨから教えられた儀軌の通りに念
を込めて聖天の像を彫っている。
早苗は、中学校の時に、自分がイジメられた経験がある。だから、
勝の気持ちが良く分かるのだ
早苗がイジメられるようになった切っ掛けは、些細なことだった。
それに、一年間で何となく消滅した。
高校に上がってからは、イジメなど体験したことはない。それな
りの進学校だったので、みんなそんなことすることのリスクを心得
ていた。
だから、勝ほど悲惨だったわけではない。
しかし、それでも、あのイジメられた日々が、延々と続いたら、
と思うと今でも暗澹たる気分になる。夜中に、悪夢にうなされて目
覚めると、必ずあの時のイジメの夢なのだ。
それだけに、勝が不憫でならない。
早苗は、勝が好きだった。可愛いと思っていた。
カツヨの無念が分かる。
だから、聖天の像を彫る。
念を込めて。
カツヨが、奇妙な節回しで歌う。
一つ、人身を供御にして、
二で、にんまりと薄笑い、
三つ、木乃伊と語ろうて、
四つ、夜な夜な黄泉の国、
五つ、命がないように、
六つ、無明の世の中に、
七つ、何事もお計らい、
八つ、闇夜にひっそりと、
九で、苦しみのあるように、
十で、とうとう身の破滅。大黒の御代こそ、恐ろしや。
169
雪の、純白の結晶が、静かに降り積もっている。
しかし、その純白の結晶は、夜の底に積もると青白く光るのだ。
雪国の春は遅い。
カツヨの魂は、無明の闇の中を彷徨っている。
可愛い孫の魂の行方を求めて。
カツヨは自分が秘儀を授けられた時のことをまざまざと思い出し
ている。
⋮⋮﹁ええが、カツヨ﹂
師匠のミヨシが、いつになく威厳のある、重々しい声で言った。
カツヨは、膝の上に手を揃えて、背筋をぴんと伸ばし、話を聞く
姿勢になった。
﹁お十八夜様は、恐ろしい聖天様を御仏の教えに導かれた、有り難
い観音様だ。他の観音様とは違う。聖天様を鎮められるほどの、霊
力をお持ちの観音様なのだ﹂
ミヨシは、ここで言葉を切り、カツヨがちゃんと聞いているか、
どうか、心を澄まして観察した。
目が見えない分、かえって魂の形はよく分かるのだ。
大丈夫、カツヨは、自分の話に集中している。
﹁そのお十八夜様をば大事にお守りして、聖天さまの力を、徒やお
ろそかに使うでねえぞ。ええが、カツヨ。だがなあ、カツヨ、聖天
様は、恐ろしいが、お十八夜様のお導きで、信者には大変な通力を
授けてくださるのだ﹂
そして、最後を重々しく締めくくった。
﹁これが、オナカマの、奥義中の奥義なのだ﹂
カツヨは真剣な顔で頷いた。
聖天様が恐ろしいことは、よく分かっていた。
その聖天様を鎮めるのなら、お十八夜様は、どんな仏様よりも強
い仏様なのだ。⋮⋮
170
その聖天様と、十八夜観音の通力をもって、今自分は呪っている。
勝を死に追いやったものたちを。
自分の魂が地獄に行くことと引き替えに。
一月二十八日。
勝がはかなくなってから、三十八日目。
秋月たちが、呪いの大黒天の謎を追っているとき、それを嘲笑う
かのように、呪いのご詠歌は夜の底を這っている。
遠く川崎を目指して。
171
第五幕・5
5
二〇一一年。
十二月に入った。
勝に対するイジメは、止まなかった。
それどころか、ますますエスカレートしていた。
週三回ある体育の授業の度に、勝は、岩崎、俊、薫たち三人にい
いように滅多打ちにされた。
しかも、噂を聞きつけた、ザウルス、星川、啓次、といったゴル
ゴンの他の番格たちまでわざわざやってきて竹刀を持つようになっ
たのだ。
広樹は、自分では、こんな弱いものイジメの表に立つことはなか
った。
ただ、もっと陰険なだけだ。
今では、動作が俊敏で、着替えも早い峻が、教室から出ようとし
ない勝を教室から連れてくるようになった。
その間に、岩崎たちは、防具に着替えて待っているのだ。
これで、チャイムを気にせずに、ゆっくりと勝を竹刀で打つこと
が出来る。
最初は、ただ笑いながら見ているだけだったクラスの他の男子た
ちも、面白がって参加するようになった。
わざわざ、体育館からやってきて、勝を打つ元スケ番女子まで出
てくる始末だった。
打たれている間、勝は、もちろん反抗など出来なかった。力弱い、
172
おもねるような、曖昧な笑みを浮べたまま、黙って打たれ続けるだ
けだった。
それでも、両親は気にする様子もなかった。
鈍感な賢吾と美津江は、本当に何も異常に気が付かなかったのだ。
勝の体は、学生服から出ていないところは、全面青痣だらけにな
り、腫れ上がってしまった。
岩崎は、その勝の青痣だらけになった体を携帯で撮って、その画
像をゴルゴンのメンバーと、二年生の工業科の生徒たちにメールで
送った。
それを見て、みんなで笑ったのだ。
その青痣を、家のものに見られないように、勝は苦心した。
うっかり見つかって、学校に通報されでもしたら、かえって後が
恐い。
風呂に入るのも一苦労だった。
粗末ながら、団地に内風呂があってよかった。銭湯だったら、大
変なことになるところだった。
それでも、家人たちは、誰も勝の様子を奇異だとも思わないよう
だった。
イジメられ続けてきた勝の人生の中でも、これは正に最悪の地獄
と言っていい日々だった。
こうして、十二月も二日が過ぎた。
少し肌寒い日だった。予報によると、明日は今日よりも冷えると
のことだった。
今日は、体育はない。
だから、竹刀地獄に陥ることもない。
それでも、勝は憂鬱だった。甲斐が、学校に来ていないのだ。
携帯も持っていない勝には、甲斐がどうしたのかを知る術がなか
った。
勝としては、信じられないような勇気を発揮して、三年八組に行
った。彩香のいる教室だ。
173
勝は、後ろの戸口から、そっと中を盗み見た。
﹁なんだおめえ、チンパン、ここは二年生の来るところじゃねえぞ﹂
いきなり、怒声を浴びせられて、勝は、
﹁あ、ごめんなさい、ごめんなさい﹂
と言って、慌てて逃げようとした。
チンパンというのは、チンパンジーにも見えるというので、三年
生が勝を呼ぶあだ名である。
勝は、さっさと諦めて、二階の二年生の教室に戻ろうとした。
そこに彩香が、トイレから帰ってきた。
﹁ああ、勝、なにしてんの、こんなところで?﹂
﹁あ、あの、カイ、カイくんが⋮⋮﹂
﹁ああ、甲斐君はねえ、今日は熱出しちゃったみたい。あたし、帰
りにお見舞いに行くから、一緒に行く?﹂
﹁はい﹂
勝の顔が、パッと輝いた。
教室に帰ると、クラスのみんながストーブの周りに集まっていた。
勝は、寒い廊下でじっと授業が始まるのを待った。清掃用具を保
管している小さな物置の陰に隠れて。
昨日、十二月一日から暖房の使用が許可されていた。それで、も
う石油ストーブに火が入れられているのだ。
放課後、なんと、彩香が二年一組まで勝を迎えに来てくれた。
美術部室とは縁のない生徒には、あまりにも異色の取り合わせだ
ったので、冷やかすものもいなかった。
甲斐の家は、学校のすぐ近くにある。
そもそも、甲斐の両親が、希望ヶ丘西高校に甲斐を通わせようと
決めたのも、そのためだ。
甲斐の両親は、田舎の高校しか知らなかった。まさか、こんな漫
画でしか見ないような番長校など、想像もしていなかったのだ。
それでも、こうして、甲斐の方から心を開く友人が、二人も出来
たのは望外のことだったろう。
174
ましてや、一人は、スカートの丈さえ気にしなければ、すこぶる
付きの美少女と言ってもいいくらいだ。
彩香と勝が訪ねていくと、信子は大袈裟に喜んで、家に上げてく
れた。
甲斐も起き出して、二階の自室から降りてきた。
また信子からココアを作ってもらって、勝は幸福だった。
心の底から、幸福だったのだ。
*
そして、十二月三日がやってきた
勝がはかなくなるまで、あと二十日に迫っていた。
朝から底冷えのする日だった。
勝が教室にはいると、もう既にストーブは、真っ赤になるまで燃
えていた。
この日は、朝一時間目から体育だった。
なぶ
もちろん剣道だ。
散々嬲られた。
休み時間が、永遠に続くかと思われた。
二時間目は、勝にはさっぱり分からない数学だった。危うく寝そ
うになるのをこらえて、うらなり瓢箪というあだ名の数学教師の声
を聞いていた。
勝以外に、起きているのは数名だけだった。
三時間目が、片桐の世界史だった。
勝はほっとした。ジョークの多い片桐の授業なら、何とか寝ない
ですみそうだ。
175
*
片桐は、ちょっと重い足取りで、二年一組へと通ずる廊下を歩い
ていた。
自分で志願したとはいうものの、やはり工業科での授業は気が重
い。
寒いなあ。
故郷の、山形県T市でも、滅多に経験したことのない寒さだった。
二年一組の教室に入る。生徒たちが、いかにもかったるそうにノ
ロノロと立ち上がる。
﹁礼﹂
まあ、なんとかこのクラスでは真面目な方と言われているクラス
委員の貝谷が号令をかけた。
出席を取る。
少し手間をかけて出席を取らないと、授業すべき時間が延びてし
まう。その、二分、三分が、うっかりすると命取りになる。
タイミングを計って、生徒が機嫌を損じないうちに授業を切り上
げなければならない。
全員寝るならまだいい方で、場合によっては暴動になる。
片桐も、この高校に赴任して一年目の頃には、何回もあわや暴動、
という危機を経験したものだ。
出席を取り終わり、授業に入る。
今日は、残虐な十字軍の話だ。
十字軍が、なんの警戒もしていなかった小アジアに侵入して、ア
ンティオキアの城を包囲する。そして、投石機で、切り落としたイ
スラム教徒の首を打ち込む。
生首が飛んでいく場面を、描写しながら、ふと片桐は違和感を感
じた。
勝の様子がおかしい。
勝の席は、席替えをした模様もないのに、ストーブの真ん前であ
176
る。そこは、暑すぎるので、みんなに敬遠されたのだ。
ストーブは、真っ赤に燃えている。
その上に置かれた、乾燥を防ぐために水を張られた金だらいから、
盛んに湯気が立つほどだ。
それなのに、
勝は、学生服を、
着たままだ。
勝の後ろや、横の席の生徒も学生服を脱いでいる。
それなのに、
勝は、
汗をかきながら、学生服を、
脱ごうとしない。
﹁原田、お前、ちょっと学生服を脱いでみろ﹂
片桐が言った。
勝は、
﹁へへへへ﹂
と、卑屈な笑いを浮かべながら、きょときょとと周りを見回して
いる。
﹁ちょっと、お前脱いでみろ﹂
片桐が、教壇から降りて、勝の横にきた。
﹁い、いえ、せんせい、な、なんでもないです﹂
﹁脱げ!﹂
勝は、汗だらだらである。
なのに、頑なに学生服を脱ごうとしない。
ついに、片桐は実力行使に出た。
勝を引き抜くように立たせ、学生服のボタンを一個一個外す。
﹁せ、せんせい、だめだよ。ぼく、ふくをきていたいよ﹂
寒いから、などと言い訳をする知恵は回らない。
異常だ。
片桐は、学生服を脱がせると、紺色のセーターも脱がせる。
177
ワイシャツに手をかけた。
﹁へへ、だ、だめだよ、せんせい﹂
勝が抵抗する。
片桐は、その抵抗の仕方から、確信を得た。
ワイシャツを、
ひき裂いた。
﹁むうう!﹂
片桐が呻った。
半袖のアンダーシャツから出ている両腕の、ワイシャツで隠れて
いた部分には、一面ずっと青痣が出来ているのだった。
いや、それは青痣などというものではなかった。
青痣の上に、どす黒い紫のかさぶたのようなものが出来、その上
に、ほとんど真っ黒と言いたいような、腫れ上がった、異星の怪物
の鱗のようなものが重なっている。
片桐は、そのアンダーシャツをめくってみた。
呻る余裕もなかった。
背中一面、腹や胸一面、奇怪な異星の怪物の鱗が勝の体を覆って
いたのだ。
﹁貝谷、ちょっと手伝え﹂
嫌そうに、貝谷が前に出てきた。
﹁へへ、せんせい、いいんだよ。ぼく、なんともないよ﹂
保健室まで、引きずるようにして勝を連れて行った。
*
希望ヶ丘西高校は、上を下への大騒ぎになった。
一旦、保健室に寝かされた勝は、養護教諭の江本恵子の判断で、
すぐに近所の御幸病院に運ばれていった。
178
あまりに異様な状態に医師も驚いて、すぐに診察してくれた。
診断では、強度の打撲で骨には別状ないが、衰弱が激しいので緊
急に入院する必要がある、とのことだった。
すぐに勝の両親に連絡が取られた。
だが、事の重大さを理解出来ないのか、賢吾も美津江も、愚図愚
図言って、なかなか病院に来ようとしなかった。
仕事を休むと、日割りで給料が引かれるというのだ。
いくら、勝の命に関わる大事件だ、と言っても、ピンとこないら
しかった。それを、担任の畑中が、大汗をかいて説得した。
勝を診断した医師によれば、もう十日ぐらい発見が遅れれば、本
当に命にも関わったかも知れないとのことだった。それで、騒ぎは
ますます大きくなった。
緊急に、生活指導部の教員全員を動員して、二年一組・二組の全
生徒から事情聴取が行われることになった。
生活指導の経験が長いということで、片桐も手伝った。
最初は、生徒たちの口は重かった。
しかし、尋問が得意な、強面の生活指導部長、竹脇建造に取り調
べられた生徒が口を割ったところから突破口が開けた。
結局、主犯として、岩崎淳也、水野峻、安西薫の三人の名前が上
がった。
そして、それに追随して、常習的に竹刀で打ったものが、男子で
五人上がった。その中に、生徒会役員の相沢武や、バレーボール部
の部長、梅津伸一などの名前が出てきたのが、教員たちにショック
を与えた。
彼らは、リーダーシップのある、工業科としてはいい生徒として、
教員たちから信頼を集めていたのだ。
さらに、希望ヶ丘ゴルゴンの番格クラスにも、勝を数回打ったも
のがいることが判明した。
このイジメの、残虐性と、執拗なことも教員たちには衝撃的だっ
た。
179
突発的に、もっと酷い怪我をさせた、という事件はいくらでもあ
った。
しかし、それは一時の逆上のせいだった。
こんな風に長期に亙って、執念深く反復されたイジメ、というの
は、新設校である希望ヶ丘西高校では今まで発覚したことがなかっ
た。
まさに、前代未聞だったのだ。
すぐに、緊急の職員会議が開かれた。その席上で、勝の無残な背
中の写真が回覧された。それを見た教員たちは絶句した。
職員会議は、紛糾した。若手の教員たちは、首謀者三人は断乎退
学にすべし、という意見で一致していた。
片桐も、その立場に立った。
しかし、年配の教員たちには、少し考え方が違うものもいた。
退学、ということになれば、ことが公になる可能性がある。
今回のような事件では、こんな酷いことになるまで、なぜ学校が
気が付かなかったのか、という問題が残る。
退学させる生徒の親にその点を突かれれば、返答に窮するだろう。
殊に、担任の畑中の責任は重いだろう。剣道の指導をしていた、
西原の責任もある。もちろん、学校全体としても、責任は問われる
だろう。
職員会議は長引いた。途中でざる蕎麦が出された。そのまま、終
電の時間になっても決着しなかった。
会議は翌日に持ち越された。
次の日も、十時近くまで会議が続いたが、新しい意見は出なかっ
た。それで、結局校長のお願いという形で、穏便な処置でいく、と
いうことに決まった。
それには、勝の両親が、ことを荒立てないことを望んでいること
も、預かって力があった。
そんな次第で、岩崎と峻、薫の三人は、三週間を目途にした無期
の家庭謹慎となった。それ以外の五人は、三週間の家庭謹慎という
180
ことに決まった。その他の勝を竹刀で打ったものは、一週間から二
週間の家庭謹慎となった。
会議室を出る教員たちの足取りは、一様に重かった。
温情派、厳罰派、どちらにしても、スッキリとしないものが残っ
た。
181
第五幕・6
6
二〇一二年、一月三十日。月曜日。
勝が、はかなくなってから三十八日が経つ。
岩崎淳也は、南武線から降りた。自分の住む団地に帰る途中だっ
た。
見ると、冬空が、綺麗な青に晴れていた。
岩崎は、大声で笑い出したくなった。
希望ヶ丘ゴルゴンでは、目の上のたんこぶだった星川が死んだ。
そして、今日、正式に自分と啓次が広樹の下のツートップに指名さ
れた。
啓次も、広樹も、もうすぐ卒業だ。そうなれば、自分が事実上の
希望ヶ丘ゴルゴンのナンバーワンになれる。
当然、卒業しても、広樹は総番長のままだろう。だが、広樹の言
うことを聞くのは当たり前だ。不承不承星川の言うことを聞いてい
るのとは、大違いだ。
ゴルゴンのナンバーワン。
この言葉は、岩崎を陶然とさせた。
だが、嫌なこともあった。
大黒の呪いの噂と、勝の幽霊が出るという噂を聞かされたことで
ある。
担任の畑中のお説教も、鬱陶しかった。
今日、通学の途中で、ちょっと他校の新人ともめた。それで、呼
び出しを食らったのだ。
182
畑中は小柄な国語の教師で、空き時間には、いつも図書室で純文
学を書いていると言われていた。
もちろん、岩崎たちには、純文学などというものは分からない。
とにかく、なんだか滑稽だというニュアンスが伝わるだけだ。
当然のことだが、畑中は、望んで工業科の担任になったわけでは
ない。
ただ、回り番で国語科から担任を出さなければならなくなったと
きに、気が弱いので無理強いされたのである。
まさか、工業科の担任になるとは、予想もしていなかったのだろ
う。それが、新担任団八人で、工業科の担任を決める際に、みんな
で押し付け合った。その中で、いつの間にやら強気に出られない畑
中が担任させられる羽目になったのである。
それに、工業科の担任をすると、優先的に他校に転任できるとい
う噂があった。畑中にも、そうした打算もあった。
だから、畑中には、担任としての責任感などは、あまりなかった
と言ってもいい。
だが、さすがに今回の勝の事件ばかりは、畑中にも相当応えたら
しい。
まかり間違えば、自分の首が飛ぶところだったのだ。
そんなわけで、畑中には珍しく勇気を奮ってゴルゴンの番格であ
る岩崎に説教をした。
普通なら、畑中なんぞ脅かしてやるところなのだが、今日は、生
活指導部長の竹脇建造も一緒だった。竹脇を怒らせるのはまずい。
そんなわけで、ムシャクシャしながらも、畑中の説教を我慢して聞
いた。
もうイジメや喧嘩はするな。
これは、耳にタコができるくらい聞かされた。
しかし、まあ、チュウ公ぐらいイジメ甲斐のあるやつもいなかっ
た。しばらくは大人しくしていよう。
そう思った。
183
ふと、足が通学路から逸れた。
ん、どこに行くんだっけ?
そう思ったとき、
一つ、人身を供御にして、
二で、にんまりと薄笑い、
三つ、木乃伊と語ろうて、
四つ、夜な夜な黄泉の国、
五つ、命がないように、
六つ、無明の世の中に、
七つ、何事もお計らい、
八つ、闇夜にひっそりと、
九で、苦しみのあるように、
十で、とうとう身の破滅。大黒の御代こそ、恐ろしや。
なにか、歌のようなものが聞こえた気がした。
少し暗い路地に入る。
いきなり、あれほど晴れていた空が曇り、世界から光が失われた。
前方に、ぼっと、青白いものが現れた。
勝の幽霊だった。
にんまりとした薄笑いを浮かべている。首に、ロープが巻き付い
ている。
﹁うわ!﹂
凶暴だが、根が臆病な岩崎は、肝を潰した。
慌てて、傍らにあった工場の裏口から工場に入る。
隠れなくちゃ。
勝の幽霊の目が届かないところに隠れなくちゃ。
工場の従業員たちは、この突然の闖入者に気付いていない模様だ。
184
これ幸いと、岩崎は工場の奥にずんずんと入り込む。
そちこちに、人の気配がする。
これなら安心だ。
勝の幽霊も、人がいるところまでは追ってこないだろう。
それにしても、まだ午後四時だ。
幽霊が出るには早すぎる時間だ。
傍らに、金属があった。手を触れてみると、冷たい。
なんだか、頼もしい冷たさだ。
はしごがあった。
岩崎は、そのはしごを登り始めた。
ステンレス製のタンクに取り付けられた、保守点検用のはしごだ。
タンクは、高さ五メートル、直径が約三メートルある。
整備がいいらしく、ピカピカに磨き上げられている。
三メートルばかり上がったところだろうか。岩崎は、ふと怖くな
った。
﹁お、おい、嫌だよ、嫌だ﹂
こう言いながらも、腕と足は、登る動作を止めない。
﹁な、なんだよ、これ、嫌だ、嫌だよ﹂
こう言いながら、岩崎はゆっくりと登っていく。
てっぺんに着いた。
点検用の蓋があった。丸い蓋である。その蓋が、
開いていた。
中には、液体が、溢れんばかりに、たっぷりと入っていた。
岩崎は、ゆっくりと長ランを脱ぎ始めた。
その時に、やっと従業員が岩崎に気付いた。
185
﹁お、おい、馬鹿、止めろ。そのタンク、中身は苛性ソーダだぞ﹂
﹁うっかり落ちると、溶けて死体も残らなくなるぞ﹂
こう、口では言うが、誰も止めに行こうとはしない。
岩崎は、
﹁嫌だ、嫌だ﹂
と言いながら、一つ一つ長ランのボタンを外していく。
ゆっくりと、ゆっくりと、
何かを愛おしむように、
緩慢な動作でボタンを外していく。
長ランを脱ぎ捨てた。
同じようにゆっくりと、
唱歌でも歌うように、
ワイシャツのボタンを外していく。
ワイシャツを脱ぎ、アンダーシャツも脱いだ。少し弛んだ上半身
が現れた。
ドカンズボン、靴も靴下も、さらにはパンツも、みんな脱ぎ捨て
た。相撲取りのような感じの、裸姿が現れた。
﹁おい、馬鹿な真似は止めろ﹂ 従業員達は、口々にこう言うのだが、誰も止めに走り出す者はい
ない。
なんだか、足が固まって動かない様子だ。
岩崎が、ゆっくりと、少し熱めの風呂にでも入るように、足を苛
性ソーダの溶液につけた。
その目が、死んだ魚のようにどろりとしている。
一つ、人身を供御にして、
二で、にんまりと薄笑い、
三つ、木乃伊と語ろうて、
四つ、夜な夜な黄泉の国、
五つ、命がないように、
186
六つ、無明の世の中に、
七つ、何事もお計らい、
八つ、闇夜にひっそりと、
九で、苦しみのあるように、
十で、とうとう身の破滅。大黒の御代こそ、恐ろしや。
大黒呪い歌が、岩崎の耳に微かに聞こえた。
﹁嫌だ、嫌だよおー。母ちゃん、助けてくれよー﹂
強アルカリの溶液は、人間の皮膚を、肉を、骨を溶かす。
苛性ソーダは、強アルカリ溶液である。
岩崎の、苛性ソーダに付けている足の皮膚は、肉は徐々に蕩けて
いった。
両足の小指が、溶けて落ちた。
そうこうしているうちに、両足の指全部が溶け落ちてしまった。
膝までの足が、ぬるぬるして気持ちが悪い。
溶けているのだ。
岩崎は、両手を十字架のような形にして、体を支え、胸まで溶液
の中に漬かった。
﹁ひぃっ、痛えよお。痛えよお。誰か、助けてくれよお﹂
岩崎は、糞小便、みんな垂れ流している。
延々と泣き言を囁くが、それは誰の耳にも聞こえない。
溶けていく。
腹の、背中の、胸の皮膚が、溶けていく。
そして、皮下脂肪も、肉も、みんな溶けていく。
肋骨が溶けていく。
なのに、岩崎はショック死はしない。
延々と苦痛を訴え、泣き言を囁くのみだ。
ついに、肺が、
187
心臓が、
溶け始めた。
激痛がある。
それでも、岩崎は囁き声を発するだけだ。
そして、とうとう岩崎の両手は、自分の体を支えきれなくなった。
ズボッ、
岩崎の頭が、苛性ソーダ溶液の中に沈んだ。
ふと呪縛が解かれたかのように、人々がタンクの元に駆け寄った。
工場長が、携帯で一一九番にかけた。
それにしても、不思議なのは、裏口が開いていたことだ。
この工場のセキュリティは高い。最先端の技術を扱っているから
だ。だから、工場長しか携帯を持っていないのだ。
この闖入者が、どうやって入ってきたのか、不明だった。
二〇一二年、一月三十日。
第五の処刑が終わった。
勝が、はかなくなってから、三十八日目のことである。
188
第六幕 おどけピエロの空中ブランコ・1
第六幕 おどけピエロの空中ブランコ
1
郁美は片桐と、合唱団﹁ポランの広場の合唱隊﹂で、席を並べて
歌っている。二十人ちょっとの小さな混声合唱団である。
曲は、パレストリーナという、ルネッサンス期の大作曲家の曲で
ある。
指揮者の木村譲が、柔らかな曲線を描くように指揮をしている。
コンクールで金賞を取るようなレベルの合唱団ではないが、歌が
好きなものが多く、和やかな雰囲気が、郁美は気に入っている。
九時半になって練習が終わり、それぞれ帰り支度を始めた。
片桐が、ふと横を向いて、お茶でもしませんか、と言ってきた。
﹁ええ、喜んで﹂
郁美は答える。
新宿まで出て﹁蟻の足﹂に向かう。
ベビーフェイスが、半身不随になってから、新しく瑞堂達也とい
うバーテンが入った。
伊集院には、こういう人脈でもあるのだろうか。瑞堂も珈琲を淹
れるのがうまかった。
今日は、金曜日なので、ボックス席はアルコールを飲む人々で埋
まっていた。
郁美もマスターとは顔なじみなので、カウンターに座る。
片桐が、カウンターに着くや否や、マスターの伊集院が話しかけ
てきた。
﹁あんたの学校、大変みたいだねえ。もう、これで五人目かい、自
189
殺者﹂
﹁ええ、そうなんですよ。昨日の岩崎なんて、消防が来て引き上げ
たら、長く浸けていた下半身なんてどろどろに溶けていて、顔も、
誰だか判別できないぐらい溶けていたそうです﹂
﹁なんだか、おっかねえなあ。揃いも揃って、希望ヶ丘ゴルゴンの
幹部ばっかりじゃねえか。それが、みんなそんな風に変な自殺だな
んて、なんかの祟りかねえ、まじで﹂
﹁ええ、それが、あんまり大きな声じゃ言えないんですけど﹂
郁美は、少し躊躇った。そして思い切って声に出してみた。
﹁学校に、希望ヶ丘西高校に原田勝君の幽霊が出るって。その祟り
だって。もう生徒はその噂で持ちきりなんです﹂
そう言う郁美の顔は、多分血の気が引いているだろうと思う。
﹁ああ、やっぱり、犀川先生に対してもそうですか﹂
﹁と、言いますと、片桐先生にも﹂
﹁ええ、工業科の連中なんて、相当怯えています。特に酷いのが、
三年二組の啓次です。犀川先生のところに行くのは、やっぱり恥ず
かしいらしくて、僕のところに来たんですけどね。もう目が据わっ
てて、あれは相当怖がってますね﹂
﹁へえ、怖いもの知らずの希望ヶ丘ゴルゴンでさえ、幽霊は別なん
ですね﹂
瑞堂が、にこにこしながらグラスを拭いている。
﹁さてと、ここに来たら珈琲といきたいところですけれど、この瑞
堂さんが出すミルクティーが絶品なんですよ。飲んでみませんか?﹂
﹁あら、じゃあそれ下さい。わたし、ミルクティー大好きなんです﹂
陽気そうに言ってみるが、なかなか顔色は冴えそうにない。
瑞堂が、にこにこしながらお湯を沸かし、紅茶の葉をポットに入
れている。
﹁しかもですねえ﹂
片桐が言った。
﹁相談に来る、と言うわけではないんですけど、あの広樹までもが、
190
勝の幽霊という話にはちょっと怯えているという話なんですよ﹂
﹁へえ、山田組相手でも、怖い者知らずだった広樹君がねえ﹂
伊集院が、感に堪えた、という表情をした。
﹁あいつも、顎を砕かれて、三日入院しましたが、医者が止めるの
を振り切って退院してきたんですよ﹂
﹁あら、先生たちも、この店にいらっしゃるんですの?﹂
郁美の背後から、華やいだ声が聞こえた。
振り向くと、美術館で出会った、渋谷の画廊の女主人、岸和田道
江だった。
﹁どうも、今晩は﹂
郁美が言うと、道江も会釈を返す。片桐も、会釈した。
﹁瑞堂君、私にもミルクティーね﹂
﹁岸和田さんは、瑞堂君のファンなんですよ。瑞堂君が前にいた店
から、こっちに店を変えたんです﹂
伊集院が、道江に郁美たちを紹介した。
﹁なんでも、あの絵のモデルになった子が、自殺したんですって?﹂
﹁ええ、そうなんです。しかも、その他に五人自殺していますから。
校長、教頭は頭を抱えていますよ。マスコミには、学校の教育方針
に問題があるんじゃないか? なんて報道されてますしね﹂
片桐が、少し深刻そうな表情を浮かべて言った。
﹁でも、あの五人はしょうがないわよ。霊的な力が働いていますか
らね﹂
﹁え、霊的な力って、岸和田さん、何かご存知なんですか?﹂
郁美が聞いた。片桐も、興味深そうに身を乗り出す。
﹁あら、あなたなら、私よりよく分かるでしょう。あなたの方が、
私より霊能力が強いもの﹂
郁美は、絶句した。
郁美の霊能力。
それは、誰にも知られてはいけない秘密だった。
それを、なぜ、この岸和田道江と名乗る女性は知っているのか。
191
探ってみたい。
誘惑に駆られる。
しかし、今はその時ではない。とにかく、ガードを固める。
﹁この、岸和田さんは、新宿で一番当たる占い師としても有名なん
ですよ﹂
伊集院が、口を挟む。
﹁でも、世の中は広いのよお。あたしなんか、裸足で逃げ出すよう
な、霊能力者が少なくとも片手はいるもの。日本に﹂
﹁でも、渋谷の画廊のご主人が、どうして新宿へ?﹂
片桐が聞いた。
﹁あ、霊的なスポットを求めてね。あたしに一番合うのが、新宿は
歌舞伎町の二丁目なの。だから、ゲイのみなさんにも、よく相談さ
れるの。身の上をね﹂
こう言いながら、道江は細い外国煙草に火を点けた。
﹁で、そのゴルゴンの連中の自殺に、霊的な力が働いているという
お話は?﹂
やはり気になるのだろう。片桐が聞いた。
﹁原田君って言ったかしら、あの絵のモデル。彼の親族が、凄い霊
能力者なのね。その霊能力が、あの一連の奇妙な自殺には働いてい
るようなの。でも、相手があんまり強力過ぎて、あたしなんかには、
どこの誰があんな力を振るっているのかよく分からないわ。あなた
は、隠すように言われたの﹂
いきなり郁美に話を振ってきた。郁美は返答に窮した。
﹁そうねえ、あなたぐらいの潜在能力があって、それをコントロー
ルする術を修行すれば、大変なことになるのにねえ。お祖母さまは、
それを嫌ったのね﹂
祖母!
192
郁美は、ますます警戒心を強めた。
郁美の祖母、ミヨシは、とっくに他界している。
その祖母、ミヨシから、郁美はよく分からない︿力﹀を受け継い
でいる。
隔世遺伝なのだろうか。母親には、そんな面倒な︿力﹀はない。
ミヨシは、よく言っていたものである。
秘せ。
と。
過剰な︿力﹀は危険だ。と。
ごく普通に、ちょっとした占いや、ちょっとしたお祈りに使える
程度の力なら構わない。
しかし、郁美の︿力﹀は、オナカマのミヨシから見ても、危険な
ほどのパワーを持っていた。
だから、隠せ。時が至るまで。
それが、祖母の遺言だったのだ。
今がその︿時﹀なのだろうか?
分からない。
まだ迷っている。
郁美は、潜在能力こそ高いものの、なんの修行も積んでいない。
そのため、自分で、自覚的に操れる能力は、微弱なテレパシーだけ
だ。
そのテレパシー能力を、カウンセリングの時に少しだけ使う。た
だし、少しだけだ。
後藤沙保里の時みたいに、あまり相手の心を読みすぎると、心が
共振してしまって、疲れてしまう。あの時みたいに、相手に負の感
情があればなおさらだ。
片桐の感情なんて、読んだことはない。
怖いのだ。
真実を知ることが。
193
世の中には、知らなくていいことが多い。
多すぎる。
﹁原田の親族というと、大黒天神教団の教祖のことですか?﹂
片桐が聞いた。片桐と、刑事の秋月は、同じ東都大学の史学科、
東洋史ゼミの先輩後輩だった。秋月が四年生の時に、片桐が二年生
としてゼミ入りした。
そんな関係で、秋月が希望ヶ丘ゴルゴンについて詳しい情報を片
桐から聞き出した。その時、見返りとして、片桐も少し情報を教え
てもらったのだ。
何しろ、呪いの大黒の噂は、今では希望ヶ丘西高校の生徒で知ら
ない者はなくなっている。だが、なぜか希望ヶ丘ゴルゴンではタブ
ーになっていた。
片桐と秋月は、情報を補完し合ったのだ。
﹁いえ、あの美津江さんという方は、大した霊能者ではないわね﹂
﹁すると、他に?﹂
﹁ええ、誰かいるわ。黒幕が。その誰かが、分からないのよ﹂
郁美には、この話は真実味があった。呪いとか幽霊というよりは、
霊能力者の呪詛の方が、自分にとってはリアリティがある。
﹁しかし、人を自殺させるほどの霊能力って、あるものなんでしょ
うか?﹂
郁美は、疑問に思った。自分にはとてもそんな︿力﹀があるとは
思えないし、祖母のミヨシにもそんな力はなかった。
﹁そうねえ﹂
岸和田道江は、煙草を吸いながら、天井を見た。
﹁少なくとも、あたしには無理ね。恐らく、あなたが持っている︿
力﹀をフルパワーで使っても、無理なんじゃないかしら。多分、よ
ほどの修行者よ﹂
郁美は、唇を噛みながら、考えに耽った。
無意識のうちに、片桐の心を探った。
よかった。
194
恐れられてはいない。
二〇一二年、一月三十一日。午後十一時。
〝うらみねんぽう〟、のノートに書かれた者は、後一人残っている。
195
第六幕・2
2
甲斐と彩香が、毎日お見舞いに来てくれた。片桐も、忙しい合間
を縫って、三、四日に一遍は見舞いに来てくれた。
甲斐と彩香は、毎回、真っ赤な林檎を持ってきてくれた。
その真っ赤な林檎は、枕元の白いテーブルに置くと、とても綺麗
だった。
毎日お見舞いに来る友人に感心したのか、美佐子さんという、ふ
っくらした看護婦さんが、その林檎を剥いてくれた。そして切り分
けて食べさせてくれるのだ。
勝は、幸福に打ち震えた。
勝には、個室が与えられていた。
もちろん、賢吾と美津江にそんな財力はない。
県からの裏金による見舞金が、その資源であった。
マスコミを介在させないようにした、賢吾と美津江へのお礼であ
る。
その病室の窓には、毎日、綺麗な瑠璃色の鳩がやってきた。
その鳩は、長い間じっと止まっていて、勝の心を慰めた。なんだ
か不思議な煌めきを丸い目に秘めた鳩だったが、もちろん、そんな
神秘には勝は気が付かなかった。
八階なので、窓は開けられず、餌もやれなかったのに、鳩は本当
に毎日来た。
もっとも、窓が開いたところで、勝は餌はやれなかっただろう。
勝は、自分で思っている以上に衰弱していた。
それまでは、気を張っていたのが、入院して一気にその張り詰め
た気がゆるんだ。それで、ほとんど身動きも出来なくなっていた。
196
だから、食事などは、看護婦たちが介助しながら食べさせてくれ
るのである。
甲斐は、微笑んでいる。
しかし、その微笑みの陰に、何か冷たい炎が燃えている。
勝は、その気配には気付かない。
甲斐は怒っているのだ。
己自身に対して。
勝が、こんな目に遭っていたことを知らずにいた自分に対して。
甲斐が持つ、生まれて初めての怒り。
しかし、甲斐は、それを表現する術を知らない。
その冷たい怒りを、どう制御したらいいかを知らないのだ。
勝は知らない。
甲斐の握りしめた拳が、ふるふると震えていることを。
彩香は、喜んでいる。
ほぼ毎日の放課後が、甲斐とデートを行っているようなものなの
だ。
病院の地下に、マクドナルドが入っている。帰りには、そこに甲
斐を誘う。
さすがに、甲斐も断らない。
美術部室でも、甲斐には会えるが、絵を描いているときの甲斐は、
この宇宙からいなくなったかのように目の前の絵に集中している。
彩香の存在など、眼中にない。
それが、こうしてマクドナルドにいるときは、とにかく彩香を見
ていてくれる。
その、甲斐の薄い瞳に、自分の姿が映っていることを確認するだ
けで、彩香は幸せになる。
甲斐は、喋らない。
普段はお喋りな彩香も、甲斐を前にすると無口になる。
こうして、二人だけで見つめ合うと、まるで恋人同士だ。
そう思うと、彩香は本当に幸せになる。
197
時間よ止まれ。お前は美しい。
彩香は、本気でそう思う。
いつまでも、いつまでもこうしていたい。
しかし、どんな幸せにも、終わりはやってくる。
二〇一一年、十二月二十二日、勝は退院した。
お金がなくなったからである。
賢吾も美津江も、県からの補助金が尽きると、それ以上勝を入院
させておく必要性を認めなかった。
勝は、翌日には、無理をして学校に出た。
甲斐と彩香に会いたかったからである。
甲斐と彩香に会って幸福になれるなら、すこしぐらいイジメられ
ても平気だ。
勝は、退院したばかりの衰弱した体で、また三時間近くかけて希
望ヶ丘西高校まで出かけた。
十二月二十三日のことである。
*
星川鉄郎は、イライラしながら、布団から起き出した。
とにかく、面白くなかった。
星川の家庭謹慎は、二週間だった。
しかし、その家庭謹慎が開けても、この一週間以上の間、気は晴
れなかった。
先公たちが、ピリピリしているのだった。
少しでも、イジメの徴候を見せると、竹脇や、片桐のような、脅
198
かしにくい教員が飛んできた。
特に、生活指導部長の竹脇建吾には、何度も御説教を食らった。
一番こたえたのは、今度何か事件を起こしたら即退学だ、と宣告
されたことだった。
星川の父、道夫は、星川が物心ついた頃から、ずーっと定職を持
たない、いわゆるプータロウだった。
朝からパチンコに行き、酒を飲んでは寝てばかりいた。
そんな訳で、生活費は、みんな母親の富士子が一人で、キャバレ
ーで稼いできた。
もっとも、星川そっくりのごっつい顔をした富士子は、指名もか
からず、キャバレーでもあまり稼げなかった。
富士子が、道夫に貢ぐのは、一にかかって道夫がいい男だったか
らである。
実際、厳つい顔の星川が、どうしてこの父親の胤なのだろう、と
訝しくなるほど、道夫は優男だった。生まれてこの方、女に不自由
したことはなかったらしい。
だから、富士子のような冴えない女が、自分に尽くすのは当たり
前だと思っているようだった。
そして、星川が、小学校五年になったときに、若い女と失踪して
しまった。富士子に迷惑ばかりかける道夫に、星川が家庭内暴力を
揮いはじめたこともあったのだろう。
銀河鉄道999の鉄郞のような人間とは、星川鉄郞は違ったので
ある。
こうして、母一人、子一人になった。
だらしなく肉の緩んだ富士子は、それでも、ブツブツと不平を言
いながらキャバレー勤めを続け、星川を養った。
そんな父親を見て育ったので、星川は、高校を卒業して、ちゃん
と定職を持つつもりだった。
親父のような、だらしのないプータロウになるのだけは、真っ平
御免だった。
199
母親の富士子も、特に星川に愛情を注ぐ、というわけではなかっ
た。むしろ、半ば惰性でキャバレー勤めを続け、星川を育てていた。
夜遅く帰ってきて、夕方まで寝ている富士子は、学校行事などに
顔を出したことはなかった。それどころか、母子が一緒の時間に起
きていて、会話を交わすことさえ稀だった。
それでも、別に星川には不満はなかった。年もとっていて、器量
も良くない富士子には、キャバレー勤めが大変なことも分かってい
た。
母ちゃんに学校にきて欲しい、などと甘ったれたことは、言うつ
もりがなかった。
希望ヶ丘西高校なら、成績などは気にしなくとも、出席だけして
いれば卒業できると聞いていた。多少の暴力沙汰なども、平気だと
いう噂だった。
昔なら、川崎北工業高校の方が、乱暴者揃いで星川の気分には合
っただろう。
だが、校則が厳しいという話だったので、希望ヶ丘西高校を選ん
だのだ。
そして、希望ヶ丘西高校は、噂通りの高校だった。星川は、思う
存分羽を伸ばして、高校生活を送っていた。何をしても、許される
ような気がしていた。
ただ、広樹の存在は、頭になかった。中学校の学区が、まったく
かけ離れていたから、そもそも広樹を知らなかったのだ。
最初に、広樹と目を合わせたとき、こいつはヤバイ、と思った。
その後に、広樹の喧嘩の仕方を見て、やはり自分の第一勘は、正
しかったと思い知らされた。
とにかく、星川は、希望ヶ丘ゴルゴンのナンバーツーとして、高
校生活を謳歌してきたのだ。
しかし、勝が、もう少しで死ぬところだった、と聞かされて、今
度ばかりはしくじったな、と思った。別に勝が死んだからと言って、
自分が困る訳ではない。
200
しかし、さすがにそんな事件では学校が見逃すはずがないことぐ
らいは分かる。
これから、卒業まで何ヶ月もの間、勝をイジメることはおろか、
派手な喧嘩も出来そうにない。
そんな、退屈な学校生活のことを思うと、気が滅入った。
﹁くそ! チュウ公の野郎﹂
星川は、差し当って、怒りを勝に向けたが、そんな感情が危険な
ことも分かっていた。
︱︱チュウ公は、ヤベエ。チュウ公は駄目だ。今度チュウ公に、下
手に手え出したら、クビは間違いなしだ。我慢しなくっちゃいけね
え。ちっくしょう、糞面白くもねえ。
星川は、分厚いトーストを四枚食べ終わると、のろのろと立ち上
がり、自慢の、裏地に龍の刺繍の入った長ランに着替えた。
他校生からのカツアゲで得た金で誂えた長ランだった。
携帯が鳴った。
広樹からだった。一瞬緊張した。
しかし、広樹の話を聞いて、最初は緊張していた星川も、にやっ
と笑った。
少し浮き浮きした気分で、登戸駅への道を急いだ。
201
第六幕・3
3
二〇一一年、十二月二十三日。
甲斐と彩香に会える。
勝は、浮き浮きしながら、旭丘団地を出た。おまけに、畑中の話
では、岩崎と俊と薫はまだ学校に来ないのだという。
しかし、私鉄を乗り継ぎ、南武線に乗った辺りから、不安の方が
大きくなってきた。
希望ヶ丘西高校工業科、二年一組は、岩崎と俊を除いても、乱暴
者が多かったのである。
谷津の駅で降りて、学校に進む。その道のりの間、胃が痛んでく
る。
学校に着き、二階の二年生の教室まで昇る。
教室に入ると、みんなが勝を厭な目で見る。
だが、いつものようなからかいや、手出しはしない。
みんな、今のチュウ公に手を出すのは、ヤバイと知っているのだ。
勝が、おどおどした様子で席に着いた。ストーブのすぐ前の席で
ある。
緊張して震えながら席の上で、じっと固まっている。
しかし、どういう訳か、二年一組の生徒たちは誰も、イジメを仕
掛けてくる気配がない。勝には、それが不思議でならない。
そのまま、一時間目は、片桐の世界史、二時間目は、担任の畑中
の現代国語、三時間目は、勝の大嫌いな数学、四時間目は、やはり
大嫌いな英語、と、無事に過ぎていった。
202
勝も、少し安心して、英語の時間など、かなりリラックスした。
うっかり寝そうになって、慌てたくらいだ。
そうして、四時間目が終わり、昼食の時間になった。
勝は、弁当を作ってもらえないので、食堂に行き、いつものかけ
蕎麦を食べようとした。
食べたら、すぐに美術部室に行こう。
そうしたら、甲斐と彩香に会える。
勝の顔が、幸福に輝いた。
その時、星川の厳つい顔が、いきなり二年一組に入ってきた。
教室に緊張が走る。
リラックスして煙草を吸っていた連中も、慌ててもみ消す。
二年生の教室に、三年生が来ることなど、滅多にないからだ。
しかも、その三年生が、希望ヶ丘ゴルゴンのナンバーツーと来て
は、緊張するなという方が無理というものだ。
その星川が、自分の方を見てにやつくのが、勝には見えた。
勝は、何だか嫌な感じがしたが、なるべくそっちを見ないように
した。
星川が、ゆっくりと勝の方に歩いてくる。教室の二年生たちは、
不審げに星川を見る。
この間の事件以来、他の生徒たちも、勝にちょっかいを出すのは、
ヤバイ、と感じている。
それで、午前一杯は、誰も勝に手を出さなかったのだ。
勝は、美術部室に行こうと思って、立ち上がろうとした。しかし、
星川の威圧的な目に射竦められて、身動きが出来なかった。
ストーブの真ん前の席にいる勝に、星川がにやにやしながら近寄
ってきた。
なんだか嫌な予感がして、勝の身体が小刻みに震え出した。
他の生徒たちは、訝しそうな顔をして星川を見ている。今、チュ
203
ウ公に手を出したらヤバイ。
いくら希望ヶ丘ゴルゴンの番格でも、それはヤバイのだ。
ゴリラのように厳つい、星川の体が、勝の側まで来た。そして、
話しかけた。
﹁なあ、チュウ公、おめえよお、今ちょうど喉が渇いているよな。
な、そうだろう? こんな、熱いストーブの側にいちゃあ、喉も渇
くよなあ﹂
何だか不気味な猫撫で声である。
勝は、別に喉など渇いていなかった。
だが、また正門前の高崎商店に、ジュースでも買いに行かされる
のか、と思って嫌な気分になった。
パシリをさせられるのには慣れている。
だが、昼休みだと、けっこう立ち番の先生がいるのだ。見つかれ
ば買ったものを没収される。そうすると、﹁お前がドジだからだ﹂
と言われて、殴られることになる。それが、嫌なのだ。
それに、今は一刻も早く甲斐と彩香に会いたいのだ。
しかし、星川の口から出たのは、意外な言葉だった。
﹁おめえが、きっと喉が渇いてると思ってよお、いいことを考えて
やったんだ。な、今教えてやるよ。なあ、このストーブの上に、金
ダライがあるじゃんかよお﹂
確かに、ストーブの上には、金色にメッキされた、大きな金ダラ
イが乗っていた。その中には、三分の一ほどの分量のお湯が沸いて
いる。室内の空気を乾燥させないためだ。
その底にはいつもごみがこびりつき、表面にも綿ぼこりが浮いて
いる。何だか、煮詰まった汚れの溶液といった感じである。
そのことを、勝も厭と言うほどよく知っている。
しかし、その金ダライを見ても、勝には、星川が一体何を言おう
としているのか、さっぱり見当が付かなかった。ただ、ぽかんとし
た表情で、半分口を開いて席に座っている。
﹁な、チュウ公よお、ここに、ちゃんとお湯があるじゃんか。これ
204
を飲みゃあよお、喉の渇きなんざあ、一発でおさまるぜ。な、いい
考えだろう﹂
星川が、にやにやと、しかし獰猛な感じの笑みを浮かべて言った。
すっと勝の退路を断つ。
もちろん、勝には、最初から逃げ出すような勇気は無かった。勝
は、星川の顔を見上げた。
﹁ほら、チュウ公、人が親切で言ってやってんだろ。早く、お湯を
飲めよな﹂
星川の声が、恫喝の響きを孕んできた。
勝は、もう一度星川の顔を見上げると、すぐに諦めたようにうな
だれた。
そして、立ち上がり、金ダライに手をかけた。
星川が叫んだ。
﹁おおい、みんな、チュウ公が、ストーブのタライのお湯を飲むぞ。
面白えから、ちょっと来てみろや﹂
たちまち、教室にざわめきが走り、教室にいたものの半分以上、
二十数人がその場面を見に来た。
そして、勝をぐるりと取り囲んで、みんなではやしたてる。
﹁へっへ、面白えな。やっぱり、チュウ公は、こうでなくっちゃな﹂
﹁ほら、チュウ公、さっさとやれよな﹂
こんな声が、そちこちから聞こえてくる。
勝は、恐くて足がすくんでしまった。
少し躊躇ってから、目をつむって、熱くて重たいタライを持ち上
げる。
口を付けて少しお湯を飲んでみた。
熱い。
口の中を、少し火傷してしまった。
すぐにお湯を飲み込もうと焦る。喉に綿ぼこりがひっかかり、な
んだか金臭い、嫌な味がする。
やっとのことで、どうにか飲み下せた。
205
そこで、タライを置いて、みんなの顔を見回した。
星川が、低い声で言った。
﹁ほらほらチュウ公、なんで止めんだよ。人がせっかく親切で言っ
てやってんのによお。ほら、タライにはまだいっぱい残ってんだろ。
ちゃんと全部飲めよな﹂
ちょっと聞くと、優しそうな声を星川は出している。
しかし、かえってその方が怖い。勝は首を竦めた。そして、恐る
恐る星川の顔を窺った。星川は、ニヤニヤしながら、しかし嫌な眼
付きで勝を見詰めている。
勝の目の片隅に、教室の後ろにあるスチール製のロッカーが映っ
た。
それは、あまり何度も殴られたり、蹴られたりしたために、ボコ
ボコに形が歪んでしまっていた。
勝を囲んでいる者たちは、口々に、はやしたてる。
﹁ほら、チュウ公、どうした、早く飲めよ﹂
﹁チュウ公、何のたのたしてんだよ、一発くらわすぞ﹂
﹁ほら、チュウ公、ぐずぐずしてんなよな、こら﹂
﹁チュウ公、もったいつけてないで、さっさと飲めよ﹂
教室中の生徒たちが、口汚く罵る。
﹁こらこら、おめえら、チュウ公さんを脅しちゃ、駄目だぜ。俺は、
反省して、チュウ公さんには優しくしてやることに決めたんだから
なあ﹂
星川は、しかし、やっぱり厭な顔で勝を見ている。
その顔が、かえって勝には怖い。
勝は、思い切って、もう一度タライを持ち上げその汚いお湯を飲
み始めた。
熱いからとても一気には飲めない。
少しづつ啜ると、浮いていた様々なほこりや、底にへばりついて
いたごみが浮いてきて、一緒に流れ込んでくる。
血の味に似た嫌な味が口中いっぱいに広がり、目から涙が滲み出
206
てくる。
しかも、金ダライの重さは、両腕にずっしりと響いてくる。勝の
筋力では、とても支えていられず、ブルブルと小刻みに震えてくる。
勝が飲み進むに連れて、周りの連中が手拍子や、口笛、指笛で騒
がしくはやしたてる。その音が、どんどん大きくなっていく。
勝は、その騒音の大きさに、原始的な恐怖の感情を覚える。
しばらく飲むと、腹がいっぱいになってきた。
もうこれいじょうはとても飲めない。
勝は金ダライを置いた。
﹁こらこら、チュウ公、誰が止めていいって言ったよ? ん?﹂
星川が、低い囁くような声で言う。口だけは、ニヤニヤと笑って
はいる。しかし、嫌な目付きで勝を睨んでいる。
﹁も、もう、おなかがいっぱいなんだよ。ぜ、ぜんぶなんて、のめ
ないよ。ほしかわさん⋮⋮﹂
勝は、弱々しい声で、おどおどと星川に訴えかけた。目には、哀
願するような光がある。
﹁馬鹿野郎!﹂
それまでにやにやしていた星川が、急に顔色を変えて怒鳴った。
それまでの優しげな作り声とは違う、胴間声である。
勝が、ビクンとして、亀のように首を縮める。
﹁ぐずぐず言ってねえで、大人しく飲むんだよ。こら! 生意気に
一丁前の口きくんじゃねえよ。おう、分かってんのかよ、こら、チ
ュウ公。さあ、愚図愚図言ってねえで、さっさと飲め! こら!﹂
星川の恫喝に、勝は震え上がった。
﹁ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ほしかわさん﹂
勝は、泣き声を上げながら、タライを口に付けて、必死に飲み始
めた。
腹がいっぱいになり、お湯が胃袋から喉元まで上がってきて吐き
そうになる。苦しくてたまらない。
目に零れそうなほどの涙を溜めながら、もう無理だというところ
207
で、一度タライを置いてみた。
まだようやく半分ほどだった。
勝は、泣きじゃくりながら、もう一度タライを持ち上げた。
そして、必死で、汚いお湯を飲む。
胃袋が、パンパンに張って、破裂しそうになる。もう限界だ、と
思っても、星川に対する恐怖は、その苦しさより大きい。 無理に熱いお湯を飲んでいるので、口の中が、火傷だらけになっ
て、痛くてヒリヒリする。
勝が、飲み進むに連れて、周りの連中がはやし立てる騒音が大き
くなっていく。その騒々しい音が、勝の頭蓋骨の中でわんわんと反
響する。
ようやくのことで全部飲み終ったとき、歓声と、拍手と、口笛、
指笛が鳴り響き、教室の喧騒は絶頂に達した。
﹁へっへ、さすが、星川さんだ。やっぱり、こうこなくっちゃあな
あ。チュウ公は、のさばってちゃいけねえんだよ﹂
﹁ああ、そうだな、これ、面白いよなあ﹂
みんなが、口々に言う。
今まで、気安いイジメの対象だった勝に、午前中一杯ずっと気を
使い通しだった。そのストレスを、一気に発散することが出来て、
教室は祝祭のような気分で盛り上がった。
このイジメも、広樹が考え付いた。そして、朝、星川の携帯にこ
のイジメの方法を伝えたのだ。
ちょうど、そのとき、昼休み終了のチャイムが鳴った。だが、そ
の響きは、勝には虚しく聞こえるだけだった。
208
第六幕・4
4
勝は、泣きたいのを必死でこらえながら、南武線に乗り込んだ。
そして、また電車とバスに揺られて、三時間近くかけてつつじ台
に帰ってきた。
惨めだった。
放課後に、美術部室へ顔を出す気もしなかった。
腹が苦しい。
口の中は、火傷だらけでヒリヒリする。
家に帰ると、夕食の献立はキムチ鍋だった。
とても食べる気がしなかった。
キムチ鍋の素は、よく安売りをしていて、簡単にできるので美津
江はこの料理を好むのだ。
勝は、子供部屋に閉じこもった。
テレビが、またドラえもんをやっていた。
テレビの陽気な声と、茶の間の無邪気な笑い声が鬱陶しい。
勝は、唯一の愛読書、﹁魔太郎がくる﹂を一冊取り出した。
︱︱ああ、ぼくにも、またろう、みたいな、まほうをつかえる、ち
ょうのうりょくがあればいいのに。そうすれば、うらみねんぽうで
⋮⋮。
そこまで考えて、勝は、急に恐ろしくなって考えるのを止めた。
魔太郎というのは、藤子不二雄のマンガ﹁魔太郎がくる﹂の主人
公である。
随分昔に流行ったマンガだが、勝は、伯父の浩三から、コミック
209
本を一揃いもらって読んでいた。
勝のようなイジメられっ子が主人公だが、その主人公、魔太郎は、
恨み念法、
という魔力を持っている。それで、自分を苛めた人間に仕返しを
するのだ。
正直言って、例えマンガでも、本と名の付くものは、勝は苦手だ
った。
漢字には、一々ひらがなでルビがふってあるが、たとえひらがな
でも、そもそも字を読むのに相当時間がかかる。
しかし、このマンガだけは、主人公の魔太郎が、眼鏡をかけてい
ることを除けば、自分に似ているので、何ヶ月もかけて、何とか全
巻読み通した。
以来、勝の唯一の愛読書になっている。
しかし、勝にとっては、星川たちに仕返しをする、などというこ
とを考えるだけでも恐ろしいことだった。
いや、そもそも根が優しい勝には、復讐、という考え方そのもの
が、馴染めない、怖いことだった。
勝は、たとえ踏みつけられても、道端でひっそりと咲くタンポポ
のように、大人しく暮らしている方が良かった。
そうだったはずだった。
勝は、涙の滲んだ目で、窓の外を眺めた。
見ながら、無意識に自分の右手の指の関節を噛む。
血が出てきても、気にもせずに噛み続ける。
勝の両手は、この無意識に噛む癖のために傷だらけになっている。
目の前の窓から、すぐそこに迫っている小さな山が見える。
荒っぽく削られた山肌が、醜い。
その山に、冗談のように、綺麗な月がかかっていた。
白銀の光が、皓皓と冴え渡っている。
210
勝は、なんだか馬鹿にされているような、嫌な気分になった。
その光の中で、勝の目に、また涙が滲んだ。
何分そうしていただろう。
ふと、勝の目に、普段とは違う光が浮かんだ。
勝がノートを出した。
その最後のページを開く。
鉛筆を取り出す。
そして、そのページに、
うらみねんぽう。
と書いた。
それから、順番に、
ほしかわてつろう。
いわさきじゅんや。
みずのしゅん。
あんざいかおる。
やまざきけいじ。
おかりゅういち。
と書いた。
それを書くだけで、一時間近くかかった。
既に、ドラえもんは終わり、みんな風呂に入り始めていた。
今日も勝は、風呂に入らなかった。
そして、みんな寝床に入った。
真夜中の三時。
勝は、こっそりと寝床を抜け出した。
211
弟の礼治を起こさないように気を付けて。
そして、子供部屋を抜け出す。
茶の間には、両親が寝ている。これも起こさないように気を付け
る。
賢吾は、今運送会社で働いている。繊細な注意の必要な梱包など
は任せてもらえない。
少し荒っぽく扱ってもいいような荷物を、ロープで縛って運ぶ部
門にいる。
それで、縛り方の練習のために、ロープを一巻きもらってきてい
た。
勝は、そのロープが、台所の片隅にしまってあるのを知っている。
ロープを取り出す。
台所に椅子が一つある。その椅子を、ロープと一緒に持ち出す。
そのまま、ドアを開けて家を出る。勝の家は、団地の二階になっ
ている。
階段を下りて、団地から外に出る。
団地の一階の門を出ると、すぐに、こればかりは切るのが勿体な
かったのだろう、枝振りのいい、大きな桜の木がある。
桜は、今はまるで枯れ木のように何も纏ってはいない。ゴツゴツ
とした木肌を持つ、雄渾な樹木だ。
その下に、椅子を置き、勝はそれに乗った。
桜の一番太い枝に、ロープをかけ、その先に輪を作った。輪の作
り方だけは、賢吾の手伝いをさせられて、何とか覚えていた。
醜く削られた山肌は、団地の影になって見えない。冬とは言え、
辺りの山々にはまだ緑が残っている針葉樹もある。針葉樹の緑は、
濃い。いくつかの山の頂は、雪をかぶっている。その雪が、白い。
そうした景色の上で、綺麗な月が、皓々と照っている。その光が、
蒼白い水のようだ。
静かだ。
212
静けさが、涼しい。月の光が、涼しい。
しかし、その涼しげな水の中で、勝は溺れてでもいるかのように
苦しい。
その苦しさから逃れようと、勝はロープの輪の中に首を突っ込ん
だ。
怖くなった。
勝は、慌てて輪っかから首を抜いた。
死にたくない。
そう思った。
甲斐がいる、
彩香がいる、
そしてカツヨお祖母ちゃんがいる、
この世にまだ残っていたい。
一瞬、そう思った。
口の中がヒリヒリと痛かった。
ふっと、勝の肩から力が抜けた。
もういい。楽になろう。
そう思った。
少し涙が出た。
涙とともに、不思議な笑みが、勝の頬に浮かんだ。何か、久遠の
静寂さをたたえる仏像を思わせるような笑みだった。
ノロノロと、輪っかに首を突っ込んだ。
椅子を蹴った。
カイくん、
あやかさん、
カツヨおばあちゃん、
213
ありがとう。
さようなら⋮⋮。
最後の意識の中で、それだけを思った。
*
ガバッと、カツヨが起き上がった。
ま、勝!
山形県S市の山奥、原田の本家である。
カツヨおばあちゃん、さようなら⋮⋮。
その声が、雪に埋もれた山間に、殷々として谺していた。
ケーンッ、
孤猿が鳴いた。
ま、勝!
カツヨは、歯をギリギリと噛みしめていた。
*
闇夜で、カッと、甲斐が目を見開いた。
勝⋮⋮。
カイくん、ありがとう。さようなら⋮⋮。
甲斐は、悔いていた。
己の呪われた運命を、呪った。
復讐の女神、エリニュエスが羽ばたいた。
*
彩香は、すやすやと眠っていた。
勝が大好きだった、綺麗な顔をして。
214
二〇一一年、十二月二十三日。真夜中の三時。
原田勝は、はかなくなった。
甲斐と、彩香と、カツヨの面影を胸に抱いて。
*
次の日の朝。
勝が、雄渾な桜の木の下で、道化たピエロが空中ブランコをする
かのように揺れているのが発見された。
遺書などはなかった。
うらみねんぽう、と記されたノートは見つかったが、それは、こ
の自殺を事件化するほどのものではなかった。
ありふれた、イジメを苦にした自殺として、ことは淡々と処理さ
れた。
希望ヶ丘西高校でも、この事件は問題視されなかった。
なんと言っても、以前のイジメの主導者である岩崎淳也と水野俊
と安西薫が家庭謹慎中だった。
以前のイジメで、勝は生きる希望を失っていたものとされた。
片桐一人は、違和感を覚えていた。
勝に、甲斐という友人と、彩香という片思いの恋人がいるのを、
知っていたからである。
しかし、その違和感を口にするには、勝の人生は暗すぎた。
暗すぎたのだ。
215
第六幕・5
5
山崎啓次は、皮肉そうに口を歪めながら、新宿の街を歩いていた。
昼の新宿、歌舞伎町は、なんだかくすんでいた。夜の華やかなネ
オンサインの洪水とは、まったく違った側面を見せている。とにか
く、人が多いのは、夜も昼も変わらない。
短ランにドカンズボンは、希望ヶ丘ゴルゴンのメンバーとして当
たり前だが、髪を角刈りにしているのが目立つ。
そのせいで、一昔前の演歌歌手のような、古すぎる顔になってい
る。ハンサムと言うよりは、男前と言った方がいいだろう。安い女
には、もてそうだ。
広樹から、リタリンを五百錠預かっている。一錠を二百円で卸し
て十万円。広樹と等分で五万円。
カツアゲなんかより、遙かに楽に稼げる。
まあ、売人はこれを一錠五百円ぐらいで売るらしいが、それはそ
れ、こっちとは関係ない。一々、小売りの相手を探している暇はな
いのだ。
もちろん、山田組なんかともめる気はない。
覚醒剤だの、MDMAだのに手を出すのは真っ平ごめんだ。
だから、︿道化師﹀が壊滅したのは、啓次にとってはありがたい
ことだった。
ヌンチャクを持たせれば、広樹でさえ嫌がる啓次だが、あまり心
臓は強くない。むしろ、臆病と言っていい。
山田組のお兄さんなんかが前から歩いてきたら、さっさと道を譲
る。これで、今まで生きてきた。
広樹は自分とは別だ。
216
広樹は頭もいいし、度胸もある。これからも、裏社会で生きてい
く気だろう。
一方、自分はどうだろう?
裏社会で生きていくだけの度胸があるか。
真っ当に、表の社会で生きていけるだけの、能力、根気はあるか。
まあ、分からないものはしょうがない。くよくよ悩んでも、しょ
うがないものはしょうがないのだ。
取りあえず、今日は五万の収入がある。
女は、買う必要はない。
希望ヶ丘西高校には、啓次と寝る女はいくらでもいるのだ。
この五万で酒を買い、ついでに広樹に融通してもらったリタリン
でパーティーを開く。
既に、三人の女の子に声をかけてある。今日は、三人の女の子相
手に、どんな痴態を繰り広げようか。
そんなことを考えながら、待ち合わせの路地に入った。
と、いつもの売人が、倒されていた。そして、三人の男が、立っ
ていた。
その内の二人は、啓次も顔を知っている、︿道化師﹀の残党だっ
た。
逃げようとも思ったが、退路に二人の新手が現れた。
選択肢がなくなった。
啓次の顔が、緊張する。今は、皮肉な笑みを浮かべている余裕は
ない。
腰から、常備しているヌンチャクを取り出す。それを手にすると、
安心感が生まれる。
間合いが詰まってきた。五人は、ほぼ円状の隊形を取って啓次に
迫ってくる。
啓次が動いた。
意表をついて、振り返りざま、啓次の背後から忍び寄っていた男
に、ヌンチャクの一撃を加えたのだ。
217
男は、もろに顔面にヌンチャクを受けて、大の字になって伸びて
しまった。
ヌンチャクを返して、右の男の胴に叩き込む。これは、気絶こそ
していないが、かなり悶絶している。
また意表をついた。
また振り返り、背後の男を襲ったのだ。男の脳天めがけて、ヌン
チャクを振り下ろした。嫌な音がして、頭蓋骨が割れた感触があっ
た。
残り二人が、逃げ出した。
啓次は、ゆとりが出たので、例の口の右端を吊り上げる、皮肉そ
うな笑いを浮かべた。
それにしても、長居は無用だ。
︿道化師﹀の残党は、まだ何人残っているのか、見当がつかない。
売人がやられているので、誰と取り引きしたらいいのかも分から
ない。
さっさと退散することにした。
学校をさぼってきたので、まだ昼の二時である。さすがの山手線
も、この時間帯はすいている。
しかし、リタリンを売れなかったのは痛かった。
ピザを取って、酒をしこたま飲んで、さらにはリタリンを決めて、
大どんちゃん騒ぎをやろうと思っていたのである。
手持ちに三万ほどあるが、やはりこれでは心許ない。
そんなことを考えながら、渋谷で乗り換えて、東横線に乗った。
啓次のアパートは、横浜にあるのだ。
途中、武蔵小杉で南武線に乗り換える。
なぜか、空いている席がなかった。仕方なく、啓次は入り口のと
ころに立った。
啓次が、入り口脇のポールに背をもたせかけていると、向こうか
ら三人の高校生がやってきた。いかにも柄が悪そうで、三人とも長
ランにドカンズボン、リーゼントである。恐ろしく古風な不良のス
218
タイルをしている。いずれも百八十センチぐらいあるだろうか。結
構でかい。回り中にガンを飛ばしながら、やってくる。
啓次は、無関心に外の景色を見詰めている。いつも通学の時に通
い慣れた道だが、今日はやけに輝いて見える。
三人が、近くまで寄ってきた。
自分たちに無関心な啓次を見て、頭にきたのだろう。
三人とも、啓次に盛んにガンを飛ばしながら近寄ってくる。
しかし、啓次は、とことんそんなものは無視する。
こんな奴ら、一々構っていたら、体が幾つあっても足りない。
無視されて、頭に血が上ったらしい。
三人とも、殺気立ち、顔を真っ赤にして詰め寄ってきた。
と、一人が、啓次の短ランの襟に注目した。
そこには、希望ヶ丘西高校の梅の形をしたバッジとともに、希望
ヶ丘ゴルゴンのドラゴンを象ったバッジも付けられていた。ドラゴ
ンはGの形に、とぐろを巻いている。
﹁おい⋮⋮﹂
他の二人にも、注意をうながす。
三人の顔が蒼くなった。
そのまま、一歩一歩、後ずさりしていく。次の車両の入り口まで、
何とか辿り着いた。
いきなり後ろを振り向いて、一目散に駆けだした。希望ヶ丘西高
校のバッジは、南武線沿線では、そこそこ効力があるのだ。
希望ヶ丘ゴルゴンのバッジともなればなおさらだ。
啓次は、皮肉そうに口を歪める。
谷津の駅に着いた。
希望ヶ丘西高校の生徒が、ゾロゾロと乗りこんでくる。啓次に気
が付いて挨拶するものもいる。
ふと啓次は思う。
俺は、なんで南武線に乗っているんだろう?
219
今日、学校はさぼった。
広樹は、顎の骨がまだ固まっていないから、新宿に行くことは出
来ない。
万が一、誰かともめたら面倒だからだ。顎の怪我が、命取りにな
ることだってある。
それで、今日は啓次が新宿まで行ったのだ。
後は、横浜まで帰ればいい。
第一、広樹の家だって、川崎だ。何も、南武線に乗ることはなか
ったのだ。
それでも、啓次は南武線に乗り続け、窓の外の景色を見ている。
風景が、何か鮮やかな色に照り映えている。
綺麗だ。
啓次は、そんな感慨を持ったことは、生まれてこの方一度もない。
もっと殺伐とした世界に生きてきたのだ。
何が、こんなに世界を愛おしくさせるのだろう。
一つ、人身を供御にして、
二で、にんまりと薄笑い、
三つ、木乃伊と語ろうて、
四つ、夜な夜な黄泉の国、
五つ、命がないように、
六つ、無明の世の中に、
七つ、何事もお計らい、
八つ、闇夜にひっそりと、
九で、苦しみのあるように、
十で、とうとう身の破滅。大黒の御代こそ、恐ろしや。
南武線を降り、私鉄に乗り換える。少しずつ郊外に出るので、緑
が多くなる。その風景も、
220
愛おしい。
小一時間私鉄に揺られて、また乗り換えて別の私鉄に乗る。この
辺になると、希望ヶ丘西高校のバッジも通用しないようだ。ガンを
つけてくる高校生もいるが、無視をする。
また小一時間私鉄に揺られて、ようやく小さな駅に着いた。そこ
で降りて、バス停に向かう。
不思議だ。
啓次は、こんなところまで来たことはない。
なのに、なんの迷いもなく、バス停で待つ。
いきなり、因縁をつけてくる高校生がいた。揃って、長ランにド
カンズボン。頭は茶髪で伸ばし放題に伸ばしている。しかし、格好
をつけている割には、栄養失調なのだろう。ヒョロヒョロだ。
三人組だ。地元の番長グループなのだろう。さすがに、希望ヶ丘
西高校のバッジは知らないようだ。
啓次は、進んでその辺の路地に入り込んだ。冬の日は、落ちるの
が早い。既に、夕暮れになって、辺りは薄暮に沈んでいる。
手順を考える必要もなかった。
三人は、あっという間もなくヌンチャクの餌食になり、路地に転
がってうんうん呻いている。
金は、みんな巻き上げたが、一万にもならなかった。しけた奴ら
だ。
啓次が、路地から出てくると、ちょうど旭丘団地を通るバスが来
た。
それに揺られて、十五分ほど過ぎると、旭丘団地に着く。そこで
降りる。
十分ほど歩くと、勝がはかなくなった桜の木に至る。
なんの感慨もなく、その側を通り過ぎる。
今日は、天気がよかったので、近くの農家の座敷で酒盛りをやっ
ていた。ただでさえ早くに花をつける寒梅が、今年は例年になく早
い花を咲かせたのである。その寒梅を肴に酒盛りをしていたのだ。
221
さすがに、寒いので石油ストーブをガンガン焚いている。
十数名ばかりの男達が、そろそろお開き、という感じで場を片付
け始めていた。
その傍らをも、啓次は無表情に通り過ぎる。
よく聞けば、
﹁嫌だ、嫌だ﹂
と啓次が囁いているのが聞こえたかも知れない。
人々は、啓次の存在には気付いた。
そしてその行動には注目した。
啓次が納屋に入っていくのを見て、奇異には思った。
啓次が、一・八リットル入りの缶を持って出てきた。
パラコート・ジメチル・サルフェイト三十八パーセント、という
高濃度の液剤が入った缶である。
パラコートは、一時よく用いられた除草剤であるが、あまりにも
毒性が強いため、現在は生産中止になっている。
それでも、この農家のように、ろくな管理もせずに納屋などに放
置している例は多い。
盃二杯程度飲めば確実に死に至ると言われている。
強い毒性を持つのだが、飲んだからといって即死するわけではな
い。
神経系統は正常に保たれるのだ。
だから、飲んだ後、一週間前後、はっきりとした意識を保ったま
まで、悶え、苦しみぬいて死んでしまうことになる。
そのパラコートを、
啓次は、徐々に持ち上げる。
一・八リットル入りの缶である。
その内の一口でも飲めば、啓次は苦しみ、のたうち回って死ぬこ
とになる。
222
周りにいる農家の面々は、なんだか呆れたような顔をしてその啓
次の行動を見守っている。
﹁お、おい。それは飲むと危ねえぞ﹂
と一人が声をかけた。
啓次には、聞こえていないようだ。
﹁嫌だ、嫌だ﹂
小さな声で、そう囁いているのが、しかし、周囲の人々には聞こ
えない。
一・八リットル。結構重い。
啓次は、希望ヶ丘ゴルゴンの番格の中では、水野俊に次いで非力
である。
なのに、その缶を、平気な顔をして右手一本で持ち上げる。
腹の高さを超え、胸の高さまで来た。
とうとう、
口の高さまでくる。
﹁おい、馬鹿、止めろ。それ飲むと、死ぬぞ。それ、パラコートだ
ぞ﹂
この農家の主人らしい、壮年の男が言った。
パラコートと聞いて、他の男達も焦りだした。
﹁おい、止めろ﹂
﹁飲むな、危ねえ﹂
聞こえているのだろうか。
ついに啓次は、その缶に、口を、
つけた。
グビッ、
一口飲む。
グフッ、
むせる。
口が、食道が、胃が、
痛い!
223
グビッ、もう一口飲む。
またむせる。
周囲の男達は、その鬼気迫る様子に、言葉も出ずに立ち竦んでい
る。
また飲んだ。
そして、また一口。
辺りは、濃い夕闇に沈んでいく。
その夕闇の底で、啓次は、ひたすらパラコートを飲み続けている。
この辺りは、空気も綺麗なのだろう。星も幾つか瞬き始めている。
人々は、呆然として、ただ立ち尽くしている。
手も、口も出せないまま。
ギャーッ、
鴉が鳴いた。
バサバサッ、
不吉な羽ばたきの音を残して、鴉が二羽飛び去った。
人々は、ハッと我に返った。
啓次の下に駆け寄る。
啓次が、缶を飲み干した。
啓次が、土気色の顔をして、倒れ込んだ。
パラコートが入っていた缶が、ガラン、と音を立てて落ちた。
﹁痛え、痛え﹂
啓次が囁くように呻きながら、腹を押さえる。
﹁おい、しっかりしろ﹂
農家の主人が、抱きかかえて揺する。
﹁おい、一一九番﹂
そう言われて、比較的若い男が、携帯を取り出して一一九番にか
けた。
人々が、じりじりとしながら待つ。
224
﹁ああ、痛え、痛え、苦しい、苦しい﹂
啓次が呻く。
﹁まだ若いのに、自殺だなんて、馬鹿なことを﹂
一人が吐き捨てるように言う。
﹁しかし、こいつなんであそこにパラコートがあることを知ってい
たんだ?﹂
﹁さあ、俺も、あそこにパラコートしまっていたこと、忘れていた
もんなあ﹂
農家の主人が答える。
遠くから、救急車のサイレンの音が聞こえてきた。しかし、その
近づく速度が、異様なまでに遅く感じられる。
﹁しかし、このバッジ、どこの高校だろう?﹂
この辺りから、希望ヶ丘西高校に通っているのは、勝一人だった
のだ。
その勝も、もういない。
啓次は呻く。もはや、意味をなす言葉は話せない。ただ呻き、胸
を腹を掻きむしる。悶え苦しみ、のたうち回る。
ようやく救急車が来た。
﹁パラコートを飲んだんですって﹂
救急隊員の問いに、
﹁この一・八リットル缶一杯﹂
と、農家の主人が答える。
﹁ええ!﹂
パラコートは、飲むことそのものが苦痛だ。自殺したいのなら、
そんなにたくさん飲む必要はない。
﹁なんのつもりで、そんなにたくさん飲んだんだろう?﹂
と自問しながら、
﹁まあ、とにかく、今は搬送が先だ﹂
そう言って、救急車に乗りこんだ。
啓次は、既に若い隊員が救急車に乗せている。
225
救急車は、サイレンを鳴らしながら走り、最寄りの救急病院へと
入った。
運び込まれた病院で、医師は首を横に振った。
胃洗浄も何もかも、無駄だ。
一週間前後、苦しんだ後に、この患者は亡くなるだろう、と医師
は話した。
二〇一二年、二月三日。勝がはかなくなってから四十一日目。
第六の処刑が終わった。
*
ビィーン、
ビィーン、
梓弓が鳴る。
カツヨの振るう棒に打たれて。
その音は、山深い集落に響き渡る。
夕闇の中を、鴉が数十、いや数百羽飛び交っている。
一つ、人身を供御にして、
二で、にんまりと薄笑い、
三つ、木乃伊と語ろうて、
四つ、夜な夜な黄泉の国、
五つ、命がないように、
六つ、無明の世の中に、
七つ、何事もお計らい、
八つ、闇夜にひっそりと、
九で、苦しみのあるように、
十で、とうとう身の破滅。大黒の御代こそ、恐ろしや。
226
カツヨは祈っている。
大黒天に向かって。
いや、
聖天に向かって。
六人目の処刑が、成就した。
カツヨの肩に、ずっしりと疲労が被さっている。
人を呪うことは、己を呪うことでもあるのだ。
オナカマが、その︿力﹀を人を呪うために使うこと。
それは禁忌だ。
しかし、今カツヨはその禁忌を破っている。
可愛い孫の仇を討つために。
そのために、カツヨは己の命を削っているのだ。
ああ、勝、勝よお。
カツヨは、目が見えない。その分、人の魂の形は分かる。
勝は、可愛い、本当に可愛い孫だった。
その勝を死に追いやった者が憎い。
自分は、この憎しみを、地獄の底まで持っていくつもりだ。
自分の命を、ゴリゴリと削りながら、カツヨは祈っている。
南無聖天通力、南無聖天通力。
なにとぞ、後一人、
後一人を討つまでは、
このババの命を永らえさせてくだされませ。
カツヨは、己の死が近いことを知っている。命が長くないことを。
227
しかし、一人呪い殺すたびに、消耗は激しく、疲れが体にも、魂
にも、カツヨを押し潰すようにずっしりと積み上がっていく。
最初の一人を呪い殺すには、一日あれば足りた。
だが、それ以降は、やはり一週間から十日は休まないといけなか
った。
後一人、後一人。
カツヨは知っている。
勝が、うらみねんぽう、のノートに書かなかった男が、後一人残
っているのだ。
と、
グ、グウッ、
カツヨが、呻った。
﹁婆さま、なにした!﹂
カツヨの隣で、黙々と聖天の像を彫っていた早苗が、這い寄った。
﹁あ、ああ﹂
カツヨが呻く。
ああ、まだ一人いる。まだ一人。ああ、聖天様、まだ一人⋮⋮。
しかし、カツヨの意識は薄れていく。
﹁大動脈瘤破裂ですな。ほぼ即死です。ご本人も苦痛は感じられな
かったと思いますよ﹂
運び込まれた救急病院の医者がそう告げた。
早苗以外の家族は、それで納得した。
早苗は、納得できなかった。
二〇一二年、二月三日。
早苗も、もう一人いることを知っているのだ。
228
*
カツヨの葬儀が、大々的に行われた。
何しろ、原田の本家の葬儀である。
そちこちの分家はもちろんのこと、近郷近在からも参列者は集ま
った。
オナカマとしての、絶大な霊能力で救われたたくさんの人たちも
馳せ参じた。遠くは、庄内地方や、秋田県からも駆け付ける人が大
勢いた。
東京から、賢吾、美津江、礼治たちも葬儀にやって来た。
礼治は、忌引きで学校を休むことが出来て、むしろ嬉しそうだっ
た。仲のいい従兄弟たちと、携帯ゲームで遊んでいた。
美津江を、陰に呼んで、早苗は彫った限りの聖天の像を渡した。
聖天の像は、カツヨの霊力を精入れしなければ、ただの木像に過
ぎない。
カツヨが亡くなった今、新たな聖天の像は、彫ることは出来ない
のだ。
﹁なあ、美津江さん、大黒天神教団を、もっともっと広めて、頑張
ってな。お婆さんが亡くなったから、聖天様の像は彫れなくなった
けど、ちゃんと賢吾さんが、有り難い大黒様の像を彫るんだよ﹂
愚鈍な美津江には、聖天の像と、大黒天の像の関係は分かってい
ない。その点は賢吾も同様だ。
早苗は、祈った。
なあ、婆ちゃん。なんとか、魂だけでも残って、勝の仇を討って
けろ。
229
間奏曲
間奏曲。
藤原甲斐は死んだ。 闇の底に咲いた赤黒い花は、既に人間の形態をとどめていなかっ
た。単に無雑作に投げ出された、奇怪な有機物のオブジェに過ぎな
かった。
それは、ほとんど軟体動物のようだった。
人体を形成していたはずの骨は、ことごとく砕け散っていた。
元は真紅だったはずの血が、どす黒くそちこちに飛び散っていて、
死体の下にも溜まっていた。
そのオブジェは、どこかから墜落してきたとしか思えなかった。
しかし、どこから?
この辺りには、高い建物などないのだ。
死亡推定時刻は、真夜中の三時だった。
この時間に、この辺りをフライトしていた飛行機はなかった。
また、ヘリコプターも、発着した記録はなかった。
第一、夜中の三時と言っても、受験生を始め、起きているものは
いっぱいいる。
なのに、誰一人として、飛行機やヘリコプターの爆音を聞いたも
のはいないのだ。
そちこちの飛行場から、ここまで一帯の地域の住民、誰もが飛行
機の音も、ヘリコプターの音も聞いていないのだ。
230
希望ヶ丘西高校。
その屋上で、奇怪な死体を目の前にして、簑島甚兵衛は、絶句し
て立ち竦むしかなかった。
すべての処刑の成就。
二〇一二年、二月二十三日。
勝がはかなくなってから、ちょうど二ヶ月目だった。
231
第七幕 最後に残る者・1
第七幕 最後に残る者
1
﹁昨日、もの凄く強力な霊能力者が亡くなったわよ﹂
岸和田道江が、いきなり言った。カフェバー、﹁蟻の足﹂である。
カウンターの中では、瑞堂が、ニコニコしている。
二〇一二年、二月二十四日、土曜日のことである。
カウンターには、片桐と郁美が来ている。合唱団﹁ポランの広場
の合唱隊﹂の練習の帰りである。
﹁なんだか、超新星の爆発みたいで、あたしの意識もブラックアウ
トしそうだったわ﹂
嬉々として、道江が言う。
郁美は、その話を聞きながら、胸の底が、ザワッと騒ぐのを感じ
る。
自分も、昨日それを感じたから。
何か、巨大で、偉大で、恐ろしい者が、爆発して消滅した。ただ、
道江のように修行を積んでいない郁美には、それがどういう現象な
のか特定できなかった。
それなのに、郁美のティーカップが空になる頃に﹁蟻の足﹂に入
ってきた道江が、急に言いだしたのである。
﹁霊能力者が死んだ﹂
と。
﹁あの時、はっきり分かったわ。あの霊能力者が、大黒の呪いを発
動させていたのね﹂
道江は、目をキラキラさせながら断言した。
232
﹁え、大黒の呪いって、大黒天神教団が発動していたものなんじゃ
ないんですか?﹂
郁美が聞くと、道江は細い煙草に火を点けながら言った。
﹁ううん、どうなんだろう。あの大黒天神教団っていうのは、その
霊能力者の分身みたいなものなんじゃないかしら﹂
﹁分身⋮⋮、ですか﹂
片桐が聞いた。
﹁ええ、本体は、多分、そっちの霊能力者の方ね﹂
﹁それって、原田勝の幽霊とも、関係があるんでしょうか?﹂
片桐が、また聞いた。
﹁ううん、それは難しいな。そこまでは分からない﹂
﹁山形県に、僕の高校の同級生で、民俗学の研究をやっているやつ
がいるんです﹂
片桐が、右手の中指で眼鏡を押し上げながら言った。
﹁そいつに調べてもらったら、原田勝の本家のお婆さんが、オナカ
マという口寄せ巫女として、その道ではとても有名な人なんだそう
ですよ﹂
﹁あら、そう、オナカマなの、へえ!﹂
道江が、いかにも興味津々という感じで身を乗り出した。
﹁でも、オナカマは、十八夜観音をお祀りするはずよ。大黒天や、
まして聖天をお祀りするオナカマなんているのかしら?﹂
﹁え! 道江さん、どうして聖天様のことを?﹂
郁美が聞いた。あまりにも意外だったのである。
﹁あら、言ってなかったかしら。あたし、今回の事件を担当してい
る江坂警部と知り合いなの。というか、まあ、彼があたしのお客様
なのよね。それで、相談されたの。呪いの大黒像について。で、い
じっているうちに台座が外れて﹂
﹁聖天の像が出てきたんですね﹂
郁美は、納得して頷いた。
﹁そう、これは内緒よ。警察が、占い師に相談なんて、格好が悪い
233
から﹂
道江は、悪戯っぽく目を輝かせる。
﹁片桐先生には、釈迦に説法かも知れませんけどね﹂
言いながら、煙草を灰皿で揉み消す。
﹁聖天様は、別名、歓喜天とも言って、男女が向き合ってセックス
している形で表されることが多いの。だから、子授けの神としても
信仰されているのよね。まあ、エロティックな仏像だから、ほとん
どが厨子に収められて、秘仏扱いになっているのね。だから、一般
には、公開されないの。でね﹂
道江が、神秘的にキラキラと輝く瞳を郁美に向けた。
﹁歓喜天は利益も与えるけど、反面恐ろしい仏として畏怖もされて
きたの。聖天様は人を選ぶって言うのね。選ばれていないものが供
養するといけないのよ。そして、いい加減な供養をすると、かえっ
て祟るのね。子孫七代の福をも吸い上げる、なんて話もあるわ。大
黒の呪いの主役としては、分かるけど、どうしてオナカマと関係が
あるのかしら?﹂
片桐が、眼鏡を押し上げながら、言った。
﹁僕も、それについて、考えてみたんです。聖天様、別名歓喜天様
は、シヴァの息子で、あまりに乱暴なために、観音様が、美女に化
身して抱擁し合い、仏法を説いた。それで、障礙神から、仏法の守
護神である天部になったと言われていますよね﹂
片桐が、最後の珈琲を飲み干した。瑞堂が、黙って珈琲を注ぎ足
す。
道江が頷く。それで? と言う表情をして、片桐を見る。
﹁この、観音様と、オナカマが祀る十八夜観音が、関係あるんじゃ
ないでしょうか﹂
﹁あ﹂
道江が、小さく叫んだ。
﹁それね、それ。十八夜観音と、聖天と抱擁している観音様が、多
分習合しているのね﹂
234
﹁ええ、友人に聞いたら、そう言う習俗はないんだそうですよ。で
すから、聖天から選ばれた、そのオナカマ、原田勝のお祖母さんが、
個人的にそういう信仰を持っていたんだと思います﹂
﹁なるほどねえ、片桐さん、今日は冴えていますね﹂
瑞堂がニコニコしながら言う。
郁美は、考え込んでしまった。
オナカマだった霊能力者。それに聖天の力。確かに、大黒の呪い
を説明できる。
原田勝の祖母なら、希望ヶ丘ゴルゴンの番格たちに殺意を抱くの
も分かる。
でも、納得いかないことがある。
なぜ広樹なのか。
どうして、広樹が残ってしまったのか。
確かに、〝うらみねんぽう〟のノートには、広樹は記されていな
かったそうだ。
しかし、これだけの力を持つ霊能力者なら、希望ヶ丘ゴルゴンの
ヘッドである広樹を見逃すはずはないのではないか?
もう一つある。
オナカマの力だけで、本当に六人もの人間を、あんなに不可解な
形で自殺させることができるものなのだろうか?
自分のことを考えてみる。
自分には、確かに微弱なテレパシー能力がある。それだけで、カ
ウンセリングをするのには、ずいぶん有利になる。
しかし、未来を予見したりは出来ない。
道江の能力を探ってみる。
多分、郁美より本来の能力は低い。
熟練はしているが、基本的なパワーが、低いのだ。
昨日、超新星のように爆発した︿力﹀は、桁外れなものだった。
多分、以前道江が言っていた、﹁あたしなんか裸足で逃げ出すよう
な﹂五人の中でも、飛び抜けているだろう。
235
それでも、あんなに奇怪な形で、人を、それも六人も呪い殺すな
ど、郁美には信じられない。
今回の、オナカマ、カツヨの死で、一連の事件は終わるのだろう
か。
なんだか、そうは思えない。何か体の奥底から、魂の奥底から震
え上がるようなざわざわとした悪寒を感じた。
気が付かないうちに、郁美は自分の両肩を両腕で抱いていた。
*
警視庁の刑事部屋で、江坂、甚兵衛の両警部と、秋月、進藤、剣
持、石沢の四警部補が、頭を抱えていた。
六人。
六人なのだ。
希望ヶ丘ゴルゴンの幹部の自殺者が。
しかも、全部、奇怪としか言いようのない状況下でだった。
最初に、岡竜一が、自分で自分の体を鉄のチェーンで滅多打ちに
し、挙げ句の果てに脳天をかち割って死亡した。
二人目は、水野俊が、高電圧の電流が流れる送電鉄塔に登り、感
電して落下し、死亡した。
三人目は、安西薫が、自分で自分の体にガソリンをかけ、それに
自分で火を点けて焼死した。
四人目は、星川鉄郎が、吹雪の湯殿山に素っ裸で登り、凍死した。
五人目は、岩崎淳也が、高濃度の苛性ソーダのタンクにわざわざ
登り、点検用の開口部から全身を入れ、溶解して死亡した。
六人目は、山崎啓次が、猛毒の農薬、パラコートを一・八リット
ル飲んで、今現在苦しみつつあるが、死亡することは確実である。
共通しているのは、どれも異様に苦しい死に方だという点である。
人は、どうしても死にたいときには、やはり出来るだけ安楽な死
に方を選択するのではなかろうか。
236
自殺する人間が、わざわざこんな苦しい死に方を選ぶとは思えな
い。
﹁大黒の呪い。ですか﹂
秋月が、苦々しげに言った。
﹁ああ、むしろ、聖天の呪いかもしれんとはいうがね﹂
江坂が、大黒像の台座を外し、聖天の像を取り出した。
﹁いずれにしろ、刑法では罪に問えませんのう﹂
甚兵衛が言う。
一同頷くしかない。
刑事部屋には、重苦しい沈黙が立ちこめた。
237
第七幕・2
2
希望ヶ丘ゴルゴンのメンバー、尾形昭雄と松浦宏昭が、肩で風を
切って新宿の街を歩いていた。
二人とも、希望ヶ丘ゴルゴンの次期番格と目されている一年生で
ある。
元々、二人の残忍さは、希望ヶ丘西高校の一年生の中でも飛び抜
けていた。
喧嘩も、七人の番格の中で最弱だった岩崎に比べれば、まずまず
の強さである。
正直、頭は悪い。
その点では、広樹の操り人形になるしかない。
しかし、この二人には、そのことを自覚するほどの知能もない。
それで、二人は、広樹に言われるままに、のこのこと新宿に覚醒
剤を売りに来たのである。
広樹の父親、均は、ついに広樹の家庭内暴力に堪りかねて、覚醒
剤の運び人にまで落ちぶれたのである。
六人の番格が死んだ。
いくら広樹が強くても、手足となる番格がいなければ、求心力は
発揮できない。
しかし、尾形と松浦は、一年生だ。
新学期になっても二年生。
新三年生のメンバーを納得させるには、まだまだ貫禄が足りない。
かと言って、今の二年生には、番格を張れるほどの弾はいない。
それで、箔を付けるために、尾形と松浦に、覚醒剤の販売をさせ
よう。そう、広樹は思ったのだ。
238
二人は、教えられた路地裏に入った。
一応、︿道化師﹀が出てきたときのために、携帯で連絡が付くと
ころに、兵隊を十人待機させている。
二人は、気楽に路地裏を進んだ。
突き当たりを、右に曲がればイラン人と韓国人の売人がいるはず
だ。
曲がった。
﹁おい、兄ちゃんたち。舐めた真似してくれるじゃねえか﹂
メタリックシルバーのスリーピーススーツを、びしっと決めた男
が、立っていた。
もう二人、背の高い男たちが、左右に控えている。
その三人の足下に、顔写真で教えられた売人たちが転がっていた。
尾形と松浦は、この三人を殺るか、逃げるか、一瞬判断に迷った。
その迷いが、命取りになった。
スリーピースの男の両脇に立っていた二人が、いきなりダッシュ
してきた。
手に木刀を持っている。
暴力団、山田組の若頭補佐である、横川弘明、菰田哲である。
あ、っと言う間もなかった。
尾形と松浦は、左肩に木刀を受け、怯んだところを、木刀で滅多
打ちにされてしまった。
携帯で、兵隊を呼ぶ暇もなかった。
スリーピースの男が、唇を歪めながら、葉巻をくゆらした。
*
新宿一丁目の大通りにたむろしていた、希望ヶ丘ゴルゴンの兵隊
たちは、ぼこぼこにされて転がっていた。
山田組の若い者、三十人に襲われたのである。
全国最大の暴力団が、たかが暴走族相手に三倍の規模の兵隊を動
239
員するなどとは、さすがに誰も思っていなかった。
広樹でさえも。
*
次の日。
広樹は、逃げていた。
追いかけているのは、山田組の若頭、石渡延男と、若頭補佐の菰
田哲、横川弘明の三人である。
ただの三人なら広樹は逃げない。
若頭の、石渡がヤバイのだ。
石渡は、そのメタリックシルバーのスリーピーススーツに、多分
ドスを呑んでいる。
石渡は、広樹を壊そうとは思っていない。
ただ、殺そうと思っているだけだ。
︿道化師﹀を壊して、調子に乗りすぎた。
軽い気分で覚醒剤に手を出したのが、石渡の激怒を買ったのだ。
希望ヶ丘ゴルゴンの、次期番格と目されていた、尾形と松浦、そ
して十人の兵隊が、昨日石渡に半殺しにされた。
怒った広樹たちが、新宿に出てきたところを、山田組に総攻撃さ
れたのだ。
まさか、日本最大の広域暴力団山田組が、たかが高校生の暴走族
相手にここまで本気になるとは、広樹にも予想外だった。
広樹は、思い知った。
本気になったヤクザの、
怖さ、を。
リタリンで小遣い稼ぎをする程度なら、見逃してもらえた。
牛が、自分にたかる蠅を尻尾で追い払うように、山田組も少し手
加減を加えながら相手をしていた。
ちんぴらを三人や四人潰されても、まあ、許容範囲だった。
240
むしろ、ベビーフェイスや広樹のような、将来の大物と渡りをつ
けておくのは、山田組にとっても悪い話ではなかった。
しかし、餓鬼どもが、我が物顔をして新宿で覚醒剤を売りさばく
のを黙って見ているわけにはいかない。
沽券にも、実益にも関わる。
若い者を三人壊した後に、仁義を切ってきたベビーフェイスと違
って、広樹は仁義を切ろうとしなかった。
そのことも、石渡の不興を買っていた。
広樹は走った。
通行人が、何ごとかと道を開けた。
間一髪で、新宿駅に駐めてあった自分のハーレーに飛び乗った。
不法駐車だったので、見張りにつけておいた希望ヶ丘ゴルゴンの
メンバーが、びっくりしたように退いた。
爆音を立てて、ハーレーは走った。
石渡が、ちょうど客を降ろしたばかりのタクシーから、運転手を
引きずり下ろすのが、バックミラーに映った。
ヤベエ、本気だ。
タクシーが、急発進してきた。
大丈夫だ。道は渋滞している。身軽なバイクの勝ちだ。
二〇一二年、二月八日。午後六時過ぎである。帰宅ラッシュで、
道は混雑している。
広樹以外のメンバーは、七割方逃げおおせたようだ。確認する余
裕はなかった。
ただ、石渡は、基本、広樹一人を狙っているようだった。雑魚は
放っておかれた。
ふと、バックミラーを見ると、若頭補佐の菰田哲が、ナナハンで
追ってきていた。
どうやら、車では追いきれないと見て、近くを走っていたナナハ
ンを奪ったものらしい。
馬鹿野郎が。
241
広樹は、にやりとした。
一人で来て、俺を倒せるとでも思っているのか。
さすがの広樹も、いささか現実逃避をしている。
今更、補佐の一人や二人を殺ったところで、山田組に追い込みを
かけられたら、日本中逃げるところはない。
それでも、若頭の石渡さえ何とかすれば、山田組の追い込みから
も逃げ切れるかも知れない。
そんなことを考えている。
広樹は、基本的には楽天家なのだ。
明治通りを、ずっと走る。
広樹は、菰田が、昔の︿道化師﹀のヘッドだったことを知ってい
る。
菰田は、身長百八十センチ、八十五キロ。そんなデータも頭に入
っている。
菰田も、さすがにバイクのテクニックはうまい。
振り切れそうにない。
広樹は、目についた路地に入り込んだ。
目の前に、
ゴミ収集車が駐まっていた。
青い色のゴミ収集車だった。
広樹が、ハーレーのスタンドを立てたところに、菰田が路地に入
ってきた。
菰田の顔に、一瞬怯えの色が走った。瓢箪のように長い菰田の顔
は、コモドオオトカゲのように、何だか人間的な表情を欠いていた。
広樹は、口を歪めて笑っている。
﹁おっさんよお。よく一人で、俺を追ってきたなあ。その度胸にだ
けは、感心するぜ﹂
242
﹁うるせえ。お前には、可愛い後輩を何人も壊されているんだ。た
だじゃあ、おかねえ﹂
そう威勢のいいことを言いながらも、菰田はナナハンから降りよ
うとはしない。近寄って来る気配もない。
怖いのだ。
広樹が。
とにかく、時間さえ稼いでおけば、若頭が来る。そうなれば、い
くら広樹でも終わりだ。そう思っているようだ。
菰田の顔に、痙攣が走った。チックの症状だ。よほど緊張してい
ると見える。
広樹が、地面を蹴った。
ベビーフェイスに砕かれた顎の骨は、まだ完治していない。なの
に、広樹は平気な顔をして、ダッシュしている。
菰田が、慌ててバイクを発進しようとした。
広樹が、一歩早く菰田の左手を捉えた。
そのまま、右のパンチを放つ。
綺麗に決まった。
ナナハンから、菰田を引きずり下ろす。
菰田が、右のキックを放つ。だが、掠りもしない。
広樹の膝蹴りが、菰田のみぞおちに食い込む。
﹁グウッ﹂
菰田が呻る。
広樹は、その左手を押さえ、関節を決めた。
グギッ、
嫌な音がして、菰田の左肘が折れた。
菰田の顔が、痛みと恐怖に歪む。
広樹は、菰田の背後に回り、右の腕を取った。そのまま関節を決
める。
また嫌な音がして、菰田の右肘が折れた。
広樹は、凄い力で、菰田を引きずっていく。
243
一部始終を見ていた、ゴミ収集車の作業員が二人、転がるように
逃げていく。
ゴミ収集車まで来た。
ゴミ収集車は、青い色をしているのだった。その薄汚れた青が、
なぜか輝いて見える。
その青の、所々に、赤茶色の錆が浮いている。
ぷん、とゴミの匂いが鼻を打った。
一つ、人身を供御にして、
二で、にんまりと薄笑い、
三つ、木乃伊と語ろうて、
四つ、夜な夜な黄泉の国、
五つ、命がないように、
六つ、無明の世の中に、
七つ、何事もお計らい、
八つ、闇夜にひっそりと、
九で、苦しみのあるように、
十で、とうとう身の破滅。大黒の御代こそ、恐ろしや。
広樹は、後部にあるパネルで、プレッサーを動かした。
プレッサーが、グィングィンと音を立てて回り始めた。
﹁よいせとお﹂
広樹が、八十五キロある菰田を、軽々と持ち上げた。
両肘を折られた痛みで、一瞬戦意を喪失していた菰田も、暴れ回
る。
菰田の、コモドオオトカゲに似た顔に、何度も盛大なチックが走
る。
両足をバタバタさせて暴れる。
菰田の暴れぶりなど意に介さず、広樹は菰田の両足を、プレッサ
ーに突っ込んだ。
244
﹁う、うわ、うわ、ギャアーッ!﹂
菰田の喉から、悲鳴が上がる。
﹁うわ、うわ、助けてくれ。広樹さん、勘弁し⋮⋮﹂
最後の方は言葉にならない。
菰田の両膝までが、プレッサーに呑み込まれた。ゴリゴリと、骨
が砕ける音がする。
菰田は、苦痛のあまり、声が出なくなっている。両目から、涙が
ボロボロとこぼれる。
また、顔にチックが走る。
ゴリゴリ、ゴリゴリ、音をたてて、菰田はゴミ収集車に呑み込ま
れていく。
しかし、人間というものは、意外に頑丈なものだ。
菰田は、苦痛に顔が歪み、声も上げられずにいるものの、まだ死
んではいない。
菰田が呑み込まれていく。
ボロ切れのように。
ゴミのように。
今度は、肋骨が折れる音がし始めた。
普通なら、ショック死しているはずである。
しかし、ゴキブリ並みの生命力があるのか、菰田はまだ死なない。
その分、苦痛は長引く。
﹁ヒィッ、ヒィッ﹂
掠れ声で、悲鳴をあげる。
ついに顔まで、ゴミと一緒に呑み込まれてしまった。
一部始終を見届けた広樹は、ゆっくりとハーレーに跨り、路地を
出て明治通りを走った。
後は、第一京浜に乗るだけだ。
楽勝だ。
広樹は、にやりと笑った。
当分、女のところでも渡り歩こう。
245
どうせ、おれのヤサは、いつも一定していねえんだ。
山田組にも、俺の行方は、そうそう簡単には分かりっこない。
そして、機会を掴まえて、若頭の石渡を潰せばいい。
そう気楽に考えた。
俺には、運がついている。
俺は、運がいいのだ。
246
第七幕・3
3
横川弘明が、追いかけてきていた。やはり、ナナハンに乗ってい
る。
どうもルートを読まれたらしい。
もう少しで、大田区から川崎に入ろうというところだ。
それにしても、飛ばしたものだ。広樹も、百二十キロは出してい
る。それに追いついてくるのだから、無茶な運転をする。
横川は、菰田の︿道化師﹀の先輩だ。喧嘩が強いという話は聞い
たことがないが、バイクのテクニックは、なかなかのものだと聞い
ている。
ルートを読んだりする小狡さはあるものの、一人で広樹を追いか
けてくる辺り、やはり知能は低い。
横川も、菰田の運命を知っていれば、追いかけては来なかっただ
ろうに。
広樹は、犬の狆にそっくりで、若いくせに禿げ上がって後頭部に
しか髪のない横川の顔を思い浮かべて、薄ら笑いをする。
既に、川崎に入っている。この辺りに来れば、広樹のシマだ。
第一京浜を降りて、首都高湾岸線に乗り、扇島に向かう。
狆の横川も、追いかけてくる。
扇島の、製鉄所に向かう。
狆の横川もついてくる。
製鉄所の門に着く。
頭に、JFEの看板を乗せた、大きな門が威圧的に聳え立ってい
る。
その門を、悠然と潜る。
247
製鉄所は、関係者以外は、
立ち入り禁止、
のはずだ。
なのに、広樹は平気な顔をして、門の中に入っていく。
守衛も、そんな広樹を無視している。
その後を追って、横川も入ってくる。
関係者以外、立ち入り禁止の門を潜って。
製鉄所は、二十四時間体制、不眠不休で動いている。何しろ、溶
鉱炉の火は、一度落としたら、もう一度火入れをするのが大変なの
だ。
その溶鉱炉に、広樹は近づいていく。
製鉄所の中は、広大だ。バイクを乗り回せるスペースは、充分に
ある。
大きな建屋が、そちこちに建っている。その中を、縦横無尽に走
って、広樹は溶鉱炉に近づいていく。
駐まった。
溶鉱炉に続く、ベルトコンベアの入り口である。
鉄鉱石を、ここからベルトコンベアに乗せるのだ。
横川が、追いついてきた。
広樹はハーレー、横川は川崎のナナハンに跨ったまま、対峙する。
﹁あんた、しかし無茶な運転するなあ﹂
広樹が、薄ら笑いを浮かべながら言う。
楽しんでいるようだ。
横川は、追いついたのはいいものの、これからどうするか迷って
いるようだ。
若頭の石渡は、バイクの運転は得手ではないはずだ。
それでも、横川は、GPS機能の付いたスマートフォンぐらい持
っているだろう。
248
それで、石渡にも、横川の居場所は分かっているはずだ。
だが、この帰宅ラッシュの時間に、追いついて来れる山田組の組
員は、稀だろう。
はっきり言って、広樹とタイマンを張る度胸は、横川にはないは
ずだ。
かと言って、逃げ出すわけにもいかないらしい。
広樹は、そんな横川の様子を楽しんでいる。
躊躇いが、隙を生んだ。
いきなり、広樹のハーレーが発進した。
横川のナナハンに、ぶつかっていく。
衝撃で、横川が投げ出された。
広樹が、ハーレーから降り、スタンドを立てた。
それからゆっくりと、横川の方に歩いていく。
横川も、急いで立ち上がり、身構えた。
広樹が、近寄りざま、いきなり右の回し蹴りを放った。
横川は左腕でブロックしようとした。
ブロックごと、叩き壊された。
側頭部に、もろに回し蹴りが入った。
横川が吹っ飛ぶ。
したたかに、アスファルトに打ち付けられた横川に、広樹がゆっ
くりと歩み寄る。
横川が、慌てて立ち上がる。狆のような情けない顔に、怯えが走
る。
広樹の、右前蹴りが、横川の腹にめり込む。
横川が、仰向けに倒れる。
広樹は、その側で、短ランのポケットに両手を突っ込みながら、
横川が立ち上がるのを待つ。
横川が、後退りながら立つ。
待っていた広樹が、踏み込んで右の肘打ちを放つ。
横川が、昏倒する。
249
その横川を、広樹は抱え上げて、ベルトコンベアの前まで運ぶ。
横川が意識を取り戻した。
横川がもがく。
広樹は、一度横川を下ろした。
いきなり、右手を決める。
折る。
次いで左手を折る。
横川が、悲鳴をあげる。
右の足首を決める。
広樹のこめかみに血管が浮く。
足首が折れる。
そのまま、左の足首も折る。
横川は、ヒーヒー泣き喚いている。
そのまま、広樹は横川を、ベルトコンベアに乗せた。
鉄鉱石と一緒に、横川は登っていく。
溶鉱炉に向かって。
広樹は、溶鉱炉の制御室のある建て屋に向かって歩いていく。
一つ、人身を供御にして、
二で、にんまりと薄笑い、
三つ、木乃伊と語ろうて、
四つ、夜な夜な黄泉の国、
五つ、命がないように、
六つ、無明の世の中に、
七つ、何事もお計らい、
八つ、闇夜にひっそりと、
九で、苦しみのあるように、
十で、とうとう身の破滅。大黒の御代こそ、恐ろしや。
250
広樹は、エレベーターで制御室に昇った。
制御室のテレビ画面を見ると、横川が、ベルトコンベアで着々と
溶鉱炉に向かって運ばれている姿が映っていた。
しかし、
制御室の中の人々は、誰もその異常に気付いていないようだ。
横川が、糞小便を洩らしている姿が、はっきりと映っている。
ゆっくり、ゆっくりと、
じわり、じわりと、
横川弘明は、溶鉱炉に向かっていく。
悲鳴の形に口を開けて。
しかし、そのテレビに音声は入っていない。
悲鳴が聞こえないだけに、その苦しさは、かえって伝わってくる。
落ちた。
横川弘明が、溶鉱炉に落ちていった。
ジュワッ、
音が聞こえたような気がした。
広樹は、ゆっくりと制御室を後にした。
251
第七幕・4
4
広樹は、女の部屋で寝ている。
長谷川星羅。希望ヶ丘西高校の、三年四組の子だ。
希望ヶ丘西高校に入るまでは、近隣五つの中学校のスケ番を束ね
る、総番長だったそうだ。
二枚のカミソリを持って、相手の頬を切るのを趣味にしていた。
さすがに、広樹の前では大人しい。
第一、希望ヶ丘西高校では、同格のスケ番が五人以上いる。
あまり綺麗な部屋ではない。
ゴミ屋敷と言うほどではないが、そちこちに薬のシートが散乱し
ている。一番多いのは、睡眠薬のハルシオンと、精神安定剤のデパ
スだ。デパスは、ほんのり甘いので、ちょっと精神を病んだ女の子
には、人気の安定剤だ。ハルシオンは、綺麗な紫色なので、これも
女の子に人気がある。
星羅の父親は、心療内科を営んでいる。
娘が、勝手に薬をくすねるのを黙認している。
薬のシートの他には、チーズの箱と、ポテトチップスの袋、コー
ラのペットボトルと、氷を入れておくアイスボックスなどが散在し
ている。あまり掃除などはしないようだ。
だが、そんなこと広樹には関係ない。女は、ちゃんと料理ができ
て、抱くことさえできれば、それでいいのだ。
それにしても、希望ヶ丘ゴルゴンの番格は、広樹一人を残してみ
んな死んでしまった。
なんなのだろう、これは?
︿道化師﹀の仕業ではない。
252
それは確かだ。
今の︿道化師﹀に、こんな綺麗な仕事が出来るほどの能力を持っ
たやつはいない。
山田組の仕業でもない。
山田組なら、ザウルスを殺る前に、まず広樹を標的にしただろう。
それは、今回のことでよく分かった。
大黒の呪い?
馬鹿馬鹿しい、と広樹は笑った。
そんな迷信とは無縁に、広樹は生きてきた。
原田勝の幽霊?
これも、広樹は笑い飛ばした。
チンパンで、チュウ公の勝に、何が出来るものか。
第一、広樹は勝に対するイジメには、直接は関わり合っていない
のだ。
と、
見上げていた天井に、
ボッと、
鬼火が出た。
﹁ヒィッ﹂
星羅が、悲鳴をあげた。
裸のまま、広樹にしがみつく。
広樹は、その鬼火をにらみ返す。
と、
勝が出た。
にんまりと笑っている。
クソッ、幽霊だと? 脅かされて、たまるもんか。
広樹は、あくまでも強気に、その幽霊をにらみ返す。
253
うらみねんぽう。
勝の幽霊が、ゆっくりと言った。
そのまま、幽霊は、すーっと消えていった。
なんだ、あれは? ホログラムかなんかか?
しかし、星羅がそんなものを仕掛ける理由が、思い浮かばない。
第一、今広樹にしがみついている星羅の怯えっぷりは本物だ。それ
は、広樹には確信が持てる。
﹁ひ、広樹さん、あれ、あれってなんなの?﹂
﹁さあ、わっかんねえなあ﹂
広樹の平然とした声に、安心したのか、星羅が布団から出た。広
樹が気に入っている、大きな白い尻が白桃のように揺れる。
乳房も、なかなか形がよくて、広樹は気に入っている。
顔は、十人並みだが、まあ悪くはない。茶髪のロングは、それな
りに広樹の好みだ。
と言うより、広樹の好みに星羅はカットしているのだ。
星羅が、なんだか黒いものを片手に持ってまた布団に入ってきた。
黒い、大黒天の像だった。
﹁んだよ、お前。そんなもの持っているのかよ?﹂
﹁あ、このお守り、すんごく御利益があるんだよ。自分が呪いたい
相手に、本当に酷いことが起こるんだから﹂
﹁ふん﹂
広樹は、鼻で笑った。
﹁呪ったりしているより、自分で、嫌な相手壊した方が、早えよ﹂
﹁そりゃあ、広樹さんは、強いからいいけど﹂
星羅が、鼻にかかった甘え声を出す。
﹁ふん﹂
254
広樹が、またせせら笑う。
﹁ねえ﹂
星羅が、また甘え声を出す。その裸の首に、細い金の鎖が光って
いる。それは、白い裸身によく映えた。この金の鎖は、珍しく広樹
が買って与えたものだ。
広樹は、女には貢がせるだけで、滅多に物を買ってやったりしな
い。星羅も、それは知っているから、この鎖を広樹が買ってやった
ときは、大喜びしたものだ。他のもっと高いアクセサリーよりも、
この鎖を大事にしている。
﹁ねえったら﹂
﹁ああ﹂
広樹が、星羅にディープキスをする。星羅は、それに熱烈に応え
る。
広樹の愛撫はうまい。女を鳴かせるためには、ちゃんと気も使う
のだ。
星羅が鳴き始めると、広樹は、星羅に重なった。
*
次の日、二月九日の昼過ぎ、星羅は起き出した。
隣を見ると、広樹も起き出したばかりのような顔をしていた。
星羅は、医者の娘であるから、まあ、いいとこのお嬢様なのだが、
これという理由もなく中学二年の時から崩れてしまった。
実家は、希望ヶ丘西高校とは、電車で一時間半ほどのところなの
でアパートを借りている。勝のように、三時間近くもバスと電車に
揺られたりするような根性はない。
星羅は、布団から出ると、下着を着け、足首まである長いスカー
トに、思い切り丈を詰めたセーラー服を着た。そのまま、コートも
着ず、マフラーも巻かないのが、心意気である。
﹁一応、学校行ってくる。出席日数、ちょっとヤバイから。なんか、
255
美味しいもん、買ってくるから﹂
﹁ああ﹂
星羅が、跪いて広樹にキスをする。
広樹が舌を入れる。
﹁駄目だよ。また変な気分になっちゃう﹂
星羅が、甘え声を出す。
広樹が笑う。
星羅が、アパートの自分の部屋を出て行った。
広樹は、しばらく天井を見つめる。
よし。
決めた。
広樹は、ゆっくりと起き上がると、下着を着け、Tシャツを着た。
そして、ドカンズボンを穿き、短ランを身に着ける。
星羅のアパートを出る。
一応、ちゃんと鍵はかけてやる。
ハーレーに跨る。
ハーレーが、単車のものとは思えないような轟音を発した。広樹
は、そのままハーレーを発進させた。
*
新宿、歌舞伎町の山田組の本部に、広樹のハーレーが乗り付けた。
組の若い者は、ほとんどが広樹を捜しに出払っている。本部にい
るのは、若頭の石渡延男と、留守番の若い者三人だけだった。
広樹は、木刀を担いで本部の正面から堂々と乗りこんだ。
﹁て、てめえ﹂
留守番をしていた、若い者が三人立ち上がった。
その一番手前の脳天を、広樹の木刀がかち割った。
﹁てめえ!﹂
若い者の一人が、ドスを抜いた。
256
すぐに、広樹の木刀が、そのドスを叩き落とす。そのまま、振り
上げた木刀が、また頭をかち割る。
﹁ヒィッ﹂
一番奥にいた若い者が、情けない声を出して、さらに奥の部屋に
逃げた。
その奥の部屋から、角刈りの、きっちりと三つ揃いのスーツを着
込んだ男が出てきた。スーツの色は、今日は濃いブラウン。
一見、優男の紳士である。
ただ、一点を除いては。
その右手に、抜き身の、
日本刀が握られているのだ。
﹁広樹、まさかお前の方からここまで来るとはなあ。山田組に、一
人で殴り込みをかけるとは、いい度胸だ﹂
石渡が、酷薄に笑った。
﹁あんたの組の親父は、アル中のヨイヨイだって言うじゃねえか。
おまけに、あんたの下にいる補佐五人のうち二人は俺が壊した。っ
てより﹂
広樹の口が、酷薄に歪んだ。
﹁俺が殺した﹂
﹁なに?﹂
石渡が、怪訝そうな顔をした。そして言った。
﹁横川も菰田も、連絡が取れねえが、お前、本当に殺したのか﹂
﹁ああ、殺した。骨も残さずにな﹂
広樹が、可笑しそうに笑った。
石渡が、よく飲みこめない、という顔をした。
﹁まあ、横川と菰田は、もう死体を捜しても出てこねえよ。で残る
三人の補佐は、仲が悪くてまとまらねえそうだ。あんたさえ潰しゃ
あ、俺を追ってくる元気のいいものはいねえ。悪いが、死んでくれ﹂
257
これだけ言うと、広樹は、表に出た。
広い通りである。
通行人たちが、驚いた顔をして広樹たちを見ている。なかには立
ち止まる者もいる。自然、人の囲いができるが、とばっちりを恐れ
て、近寄る者はいない。
広樹は木刀を担いで、立っている。
ゆっくりと、若頭の石渡が出てきた。
互いに、間合いを探る。
つ。
広樹が間合いを詰めて、いきなり木刀を振り下ろした。
石渡が、刃を上に向けて、その木刀を受けた。
ガッ、
石渡の顔に、狼狽の色が見えた。
石渡の日本刀が、広樹の木刀に三ミリほど食い込んでいる。
しかし、切れてはいない。
広樹の木刀には、中心に鉄棒が仕込んであるのだ。
石渡が、後退って、間合いを広く取った。
木刀なぞ、日本刀で簡単に真っ二つになる。
その予定が狂った。
鉄棒の仕込んである木刀の破壊力は、日本刀にそうは劣らない。
今度は、慎重に間合いを詰める。
広樹が、先に仕掛けた。
脳天を唐竹割にする気合いで、木刀を振り下ろす。
掻い潜って、石渡が突きを繰り出す。
広樹が、すっと右に避ける。そのまま、広樹の左足が、石渡の左
足にローキックを入れる。
石渡が、すっとその左足を浮かせ、ローキックの破壊力を受け流
す。石渡も、空手と剣道の有段者なのだ。
しかし、石渡は、確実に左足にダメージをもらってしまった。
﹁小僧!﹂
258
石渡が、歯噛みをする。
石渡の目が、冷たく冴える。
三日月のように細くなって、
すーっと、日本刀を肩に担ぐ。
薩摩示現流だ。
二の太刀は考えない。
一撃必殺。
石渡は、ぐっと間合いを詰め、袈裟懸けに切り落とした。
ガッ、
ギッ、
受けた広樹の木刀が、
切れた。
仕込まれた鉄棒ごと。
折れた。
石渡の日本刀が。
﹁くうっ﹂
切れた木刀を、
折れた日本刀を、
捨てた。
ぐっと間合いを詰め、互いに右のローキックを放った。
互いに、軸足の左足を払われる。
だが、二発目を喰らった石渡の方が、ダメージが大きい。
石渡の体が、ぐらりと泳いだ。
広樹の、右回し蹴りが石渡の頭を捉えた。
石渡が、倒れる。
259
すかさず、広樹が飛びかかり、腕ひしぎ十字固めをかける。
石渡の顔が、苦痛に歪む。
と、
石渡が立ち上がった。
左腕に、広樹を提げたまま。
そのまま、広樹の体をアスファルトに叩きつける。
広樹の足が緩んだところへ、右の正拳突きが顎に入る。
ベビーフェイスに割られた顎が、また割れる。
互いに離れる。
共に、息が荒い。
どちらも、こんなに手強い相手は、初めてだ。
間合いを詰めた石渡が、右の正拳突きを繰り出した。
その手をたぐって、広樹の一本背負いが決まった。
﹁ぐうっ﹂
呻った石渡は、また寝技に来る広樹に、
オーバーヘッドキックの要領で、
蹴りを入れた。
不意をつかれた広樹は、後頭部にその蹴りをまともに喰った。
殺気を感じた広樹が、飛び退った。
石渡の手に、ドスが握られていた。
気が付くと、広樹の短ランが切れ、左胸にドスで突かれた痕があ
った。
そこから、血が吹き出ている。
もう少しで、心臓を一突きにされるところだった。
広樹の目が、すーっと冷たくなった。
石渡が立ち上がり、ドスを構えた。
瞬間。
飛んだ。
260
広樹が飛び上がり、右足を高々と上げ、
石渡の脳天に、
踵落としを、
落とした。
当たった。
石渡が、どうと倒れた。
ドスを構えている人間の前で、誰が踵落としなどという大技を出
すだろうか。
ましてや飛び上がって。
その常識が、石渡を殺した。
広樹は、近寄って脈を取った。
死んでいた。
広樹が、山田組の本部を見ると、残った若い者が一人、腰を抜か
していた。
広樹は、ハーレーに跨り、スターターを蹴った。
*
星羅は、必死になって広樹の胸に晒を巻いている。
さすがに、こんなところを、山田組の若い者に襲われたらたまら
ない。
医者に行くなどという選択肢はない。
しかし、広樹は、大声で笑い出したい気分だった。
自分の快復力には、絶対の自信があった。
晒に、血が滲んでくる。
﹁ねえ、広樹さん、本当に医者に行かなくていいの﹂
星羅が心配そうに聞く。
まさか、山田組の若頭を殺してきたとは、さすがの広樹も言えな
261
い。
言えば、いくら星羅でも匿ってはくれないだろう。
くっくっく。
広樹は笑う。
ベビーフェイスは壊した。
石渡は殺した。
もう、この世に怖いものはいない。
傷さえ塞がれば、怪我さえ治れば、もう本当に怖いものはないの
だ。
と、
にんまりと薄笑いしているものがいた。
勝の幽霊が、
笑っていた。
ひろきくん、
幽霊が囁いた。
きみはしぬよ。
うらみねんぽうで。
予言すると、勝の幽霊は、ふっと消えた。
﹁星羅、シャブはあるか﹂
不意に、広樹が言った。
どうやら、今の幽霊を、星羅は見ていないらしい。
﹁え、でも広樹さんはシャブはやらないんじゃ?﹂
262
﹁ああ、たまには、気分も変わるさ﹂
﹁そう﹂
星羅は、いそいそと覚醒剤の準備をし始めた。
星羅は覚醒剤の常習者だ。
星羅は嬉しかった。
広樹が、一緒に覚醒剤をスニッフしてくれるので。
広樹は、認める気はなかった。
自分が、怖がっていることを。
263
第七幕5
5
ズゥウンッ!
凄い音をたてて、クレーン車が落ちてきた。
十八階建てのビルの、屋上で作業していたクレーン車だ。
足場が崩れて、落ちてくる様子が、スローモーションビデオのよ
うに、広樹の目に映った。
間一髪だった。
さすがの広樹も、肝が冷えるのを感じた。
二〇一二年、二月十三日。
胸の傷も、顎の怪我も大分よくなってきたので、気晴らしにハー
レーを走らせていたのだ。
クレーン車を操縦していた作業員は、直前で飛び降りていた。さ
もなくば、即死していただろう。
とにかく、こういう事故現場からは、さっさとずらかろう。
こんなところを、山田組のものに見つかると、まだヤバイ。
広樹は、ハーレーを走らせた。
と、
交差点で、左手から大型ダンプが高速で突っ込んできた。
うっかりブレーキをかけたり、ハンドルを切ったりすれば、衝突
していただろう。
広樹は、逆にスピードを上げて突っ込んでいった。
またもや間一髪で、赤信号を突っ切ってきたダンプを避けること
が出来た。
さすがに、なんだかヤバイものを感じた。
264
星羅のアパートに帰ろうとした。
多摩川を渡ろうとしたら、目の前百メートルほどのところに山田
組の見知った顔を見出した。兵隊五人ほどとつるんでいる。
慌てて、手近の路地に入った。
さすがに、肝が冷え、脂汗が滲むのを感じた。今のところ、まだ
まだ集団との乱闘は避けたいところだ。
それにしても、危ないことが続きすぎる。
なんかおかしい。
何かがヤバイ。
広樹は、多摩川を渡るのを止め、別の女のところに行くことにし
た。
庄野あかり。
星羅同様、アパートで一人暮らしをしている女生徒である。
希望ヶ丘西高校の、二年生で、スケ番としての格は、星羅よりは
大分落ちる。
アパートに着くと、三階への階段を昇った。このアパートには、
エレベーターがある。それをわざわざ階段を使う。
こういう、ストイックなところが、広樹と、他の希望ヶ丘西高校
の生徒を分けている。
三〇二号室。
あかりの部屋を開けた途端、あかりが、包丁を握って襲ってきた。
手首を取り、腹に膝蹴りを入れる。
呆気なく、あかりは崩れ落ちた。
用心しながら部屋にはいると、勝手知ったキッチンからガムテー
プを取り出し、気絶しているあかりの両手、両足を固定し、口も塞
いだ。
何かおかしい。
嫌にきな臭い匂いがする。
まだ気絶しているあかりの側で、煙草を吹かしながら、広樹は考
え込んだ。
265
何かおかしい。
*
真夜中の三時である。
広樹は、小型のバンに乗って、二階建てのアパートの前に来た。
バンは、駅前から盗んできた。
大黒天神教団の本部があるアパート、フラワーガーデン小杉であ
る。今では、住民の全部が、教団の信者である。特に二階は、全部
の部屋が幹部信者の住居となっている。
広樹は、バンのバックドアを跳ね上げた。
バンの荷台には、ぎっしりと灯油の詰まったポリタンクと、分厚
い鉄板が積まれていた。
ポリタンクは、真っ当に買った。
ホームセンターを五つ回った。
灯油は十近いガソリンスタンドで、二、三個ずつ詰めてきた。
ポケットから、新しい指紋の付いていない手袋を取り出して嵌め
る。
それから、広樹は頑丈な鉄板を持ち上げた。これも、ポリタンク
を買ったものとは違う数軒のホームセンターを回って、少しずつ買
い求めてきた。
二階のすべての出入り口に、瞬間接着剤で、鉄の板を貼り付ける。
二階に八部屋ある教団の幹部の住む家は、こうして出入り不可能
になってしまった。
そうして広樹は、手袋を嵌めた手で、ポリタンクを二つ、軽々と
提げて、アパートの階段を昇った。
寒くて、星の綺麗な夜だった。
もうすぐ満月になるはずの月が、涼しげに光っていた。
266
大黒天神教団の本部は、二階の二〇二号室と二〇三号室だ。いつ
の間にか教勢も上がり、原田夫妻と礼治が二〇三号室で暮らし、元
からの二〇二号室が、教団の集会所になっている。
広樹は、その二〇三号室の前に、たっぷりと灯油をまいた。次い
で、二〇二号室にも灯油をまく。それから、他の部屋にも。
十往復して、計二十個分のポリタンクの灯油をまいた。
こうして、大黒天神教団の幹部のみが住んでいる、二階の部屋の
前は、灯油浸しになってしまった。
チャッカマンを取り出し、奥から順番に火を点ける。
たちまち二階は、業火に包まれた。
一つ、人身を供御にして、
二で、にんまりと薄笑い、
三つ、木乃伊と語ろうて、
四つ、夜な夜な黄泉の国、
五つ、命がないように、
六つ、無明の世の中に、
七つ、何事もお計らい、
八つ、闇夜にひっそりと、
九で、苦しみのあるように、
十で、とうとう身の破滅。大黒の御代こそ、恐ろしや。
焔は赫奕として暗い天に突き上げる。
その噴き上げる激しさは、天が下した怒りの焔が、空を希求し、
空に帰らんとしているかのようだった。
星を鏤めているはずの夜空には、しかし今は、燃え盛る焔が吐き
出す火の粉が燦めいている。
火の粉は、落ちてきては気流に巻き上げられ、風に舞い踊る雪の
細粒のように渦巻いている。
銀河のように渦巻く火の粉。
267
それは、ひどく美しく、そしてひどく恐ろしい光景だった。
満月の光でさえ、この巨大なキャンドルの前には、みすぼらしい
豆電球でしかなかった。
口を歪めて、広樹は笑う。
広樹は、さっさとバンを走らせた。
小一時間バンを走らせ、駅前に着く。
木は森に、手紙は状差しにという。
広樹のハーレーも、駅前の駐輪場に置いておけば、さほど目立た
なかった。
盗難車は放置し、ハーレーに跨り、広樹は発進した。
勝の幽霊と、笑う大黒天の呪い。この二つの点を結ぶ線は、大黒
天神教団しかない。
熟考した結果がこれであった。
これで、もう俺に刃向かうやつはいねえ。
広樹は、満足げに、真夜中の国道一号線を走っている。
左胸の傷も、顎の怪我も、痛むことは痛むが、なに、放っておけ
ば自然に治る。
広樹は、満足げに頷いた。
広樹は、近いところまで来ていたのだ。
本当に、近いところまで。
268
第七幕・6
6
広樹は、久しぶりに、星羅のところに来ていた。
広樹が出かけた後に、星羅は、ピザを買って帰ってきたのだそう
だ。
そのまま三日も帰っていなかったので、星羅は心配していた様子
だった。
星羅の部屋は、三階建てのアパートの二階のフロアにある。
胸の晒を取り替えてもらい、顎に固定用の絆創膏を貼る。
昨夜は、星羅は情熱的に燃えた。
広樹も、シャブを決めながらのセックスが、こんなに楽しいもの
だとは知らなかった。
しかし、広樹は認めたくなかった。
自分が未だに、
怯えていることを。
ニュースの時間になったので、テレビをつけた。
大々的にやっていた。
大黒天神教団、謎の放火で壊滅。
深夜三時の犯行だったので、今朝の新聞には間に合わなかったの
だ。
教祖原田美津江、団長原田賢吾、その息子原田礼治、と見られる
焼死体が発見された。
十一使徒も、六人が焼け死んだと見られる。
一階に住んでいた十一使徒のうち、五人は、辛うじて焼死だけは
269
免れた。それでも、大火傷を負ってしまった。
その、残された五人には、教団を再建するほどの能力はないもの
と思われた。
土台十一使徒は、名前こそ大袈裟なものの、特別な霊能力も持ち
あわせない、普通の小母さんたちだったのだから。
﹁ねえ、広樹さん、広樹さんが、山田組の若頭、殺ったってほんと
う?﹂
広樹の胸に、晒を巻いてやりながら、星羅が聞いた。
﹁ああ、本当だ﹂
広樹が、慎重に頷いた。大丈夫だ。こいつは、俺を売ったりしね
え。
そう確信している。
﹁追い込みをかけられたら、どうすんの?﹂
﹁ああ、そんときゃあ、こっから出て行ってやるよ、心配すんな﹂
﹁え、やだよ。広樹さん、あたしが護ってあげるよ。ずっとここに
いなよ﹂
﹁何言ってんだよ。おめえ。相手は天下の山田組だぞ。元スケ番風
情に、何が出来るもんか﹂
﹁でも。希望ヶ丘ゴルゴンも、番格は全部やられて、広樹さん、丸
裸でしょう﹂
﹁まあな。だけど、この竹田広樹、腐っても女に助けてもらうまで
は落ちぶれちゃいねえよ﹂
﹁じゃあ、どうするの﹂
﹁当分、新宿に潜り込む﹂
﹁え、無茶だよ!﹂
﹁何、灯台下暗しつってな、案外自分たちの本拠地は捜さねえもん
さ。多分、川崎を重点的に捜してるだろうから、逆に相手の懐に飛
び込んでやる﹂
﹁広樹さん、無茶するねえ﹂
星羅が、広樹の首に抱きついた。
270
﹁でも、そんなだから星羅は広樹さんに惚れたんだよ。他の女と遊
んでもいいけど、ちゃんと星羅のところに戻ってきてね﹂
﹁ああ、いいぜ。おめえは、いい女だからなあ﹂
﹁嬉しい!﹂
星羅が、また抱きついた。
ふっ、
勝の幽霊が出た。
星羅には見えないらしい。
ひろきくん、きみはしぬよ。うらみねんぽうで。
こう言うと、勝の幽霊は、消えていった。
なんだありゃあ? 昨日、大黒天神教団は潰したぞ。あそこでな
けりゃあ、誰が勝の幽霊や、呪いを操っているんだ? 第一⋮⋮第
一、俺はチュウ公をイジメたりしてねえぞ?
さすがの広樹の背筋にも、ぞくり、と悪寒が走る。
不意に、広樹は立ち上がる。
﹁星羅、ほとぼりが冷めたら、また来るさ。じゃあな、世話になっ
たな﹂
﹁あい﹂
星羅は、迫ってきてキスをねだる。
広樹は、ちゃんと丁寧に舌をねぶってやる。
星羅が、蕩けそうになってしなだれかかってくる。
広樹が、
﹁じゃあな﹂
と言って星羅の部屋を出た。
271
*
広樹は、歌舞伎町二丁目に来ていた。
広樹には、ゲイの趣味もある。もちろん、立ち役専門だ。
クロノス、というオンナのマンションが、当座の巣だ。
ゲイは、一般的に一途だ。
ましてや、クロノスは、広樹にぞっこんだ。
歌舞伎町は、女遊びのメッカで、山田組を始め、暴力団が我が物
顔で歩いている。
しかし、同じ歌舞伎町と言っても、二丁目は女の街ではない。ゲ
イとは言っても、やはり男の集団が中心であるだけに、暴力団につ
け込まれる隙きを見せない。
広樹は、クロノスには、山田組に追われていることを正直に告げ
た。
﹁何水臭いこと言ってんのよ﹂
クロノスが、鼻で笑った。
﹁山田組だろうがなんだろうが、二丁目には二丁目のしきたりがあ
るのよ。二丁目で、クロノス姉さんに手出ししたら、それこそ山田
組壊滅よ﹂
そして、可笑しそうに言った。
﹁第一さあ、山田組が、広樹ちゃんに壊されたことは、新宿じゃあ、
みんな知ってるわ。向こうとしても、メンツがかかってるんだろう
けどね。そんなこと、オカマには通用しないわよ﹂
そして、部屋着から外出着に着替え始めた。
部屋着といっても、アルマーニの綿パンに、洒落たアスコットタ
イ、綿パンに合わせたベージュ系のカーディガンである。
それが、今度は外出着なのだから、お洒落にも気合いが入ってい
る。きちんとした、今どきの日本では見かけないモスグリーンの三
つ揃いである。
﹁さ、飲みに行こう﹂
272
﹁え、でも、山田組に見つかったら?﹂
﹁気にしない。気にしない。オカマは強いのよ。滅多なことじゃ、
手出ししてこないわよ﹂
広樹も、苦笑いして出ることにした。制服姿のままである。
クロノスの、警戒厳重なマンションを出て、ミルキィーウェイと
いうバーに向かう。この店は、広樹も初めてだ。
﹁あら、クロノスちゃん、お見限りねえ﹂
髭の剃り跡が濃い、ママがこうクロノスを冷やかした。
二人でカウンターに座る。
﹁こちら、凄くいい男ですねえ。なんだか、硝煙の匂いがしそう﹂
言いながら、バーテンがおつまみを出した。
﹁オンザロック﹂
広樹が言う。
﹁あら、渋いわね。高校生で、オンザロックだなんて﹂
ママがこうからかう。
﹁この子が、例の石渡を壊したのよ﹂
クロノスが、得意そうに言う。
﹁あら!﹂
髭の濃いママが、驚いたような声を出す。
﹁あなたが、広樹ちゃんって子なの。もーう、にくいわね﹂
こう言って、ママが広樹の右腕をつねる真似をした。
﹁いいのよ、あいつは、何とか二丁目にも口出ししたくて、五月蠅
くてしょうがなかったんだから﹂
﹁はいどうぞ﹂
バーテンが広樹にオンザロック、クロノスに水割りを出した。広
樹は銘柄などは気にしない。だが、いつもとは違ううまさを感じた。
﹁これ、うまいっすね﹂
ぐっと、舌というよりも喉でウィスキーを味わっている感じだ。
ワインなんかでは、こうはいかない。やっぱり、ウィスキーは男の
酒だ。
273
﹁いい銘柄だもの。このバーテンが、今度入ったペコちゃん。可愛
いでしょう﹂
ママが、クロノスに話しかける。
﹁まあ、今はあたしは広樹一筋だけど﹂
﹁へえ、お安くないですねえ﹂
ペコちゃんが、ニコニコしながらチーズを切る。
﹁もっともね、広樹ったら、両刀遣いなのよ。まあ、純正品の女の
子にももてまくっちゃって。悔しいったら、ありゃしない。でもね、
こうして危ないときに頼ってきてくれたりすると、胸がキュン、と
なっちゃうわよね﹂
広樹がトイレに立った。
ドアを開けて驚いた。白人の男性のヌード写真が貼られていたの
だ。その巨根ぶりには度肝を抜かれた。へそに達し、その上にさら
に十センチほどそそり立っているのだ。
いや、広樹も、自分のものには自信があるが、これは桁外れだ。
これを入れられる女がいるのだろうか。そんなことが心配になった。
すーっ、
勝の幽霊が出た。
にんまりと薄笑いをして。
広樹は、ムッとした顔をして、トイレを出た。
﹁どうしたの、広樹。ちょっと顔が蒼いわよ﹂
クロノスが尋ねた。
﹁はあ、あなた、幽霊を見たわね﹂
﹁え! どうして分かるんだ?﹂
さすがの広樹も、度肝を抜かれたようだ。
クロノスは、FXのデイトレーダーをしている。一種︿見える﹀
274
人らしく、うまく儲けている。今、広樹が見てきたものも、クロノ
スには︿見えた﹀のだろう。
﹁はあ、クロちゃんに見えるようなものなら、いけないかもね。二
丁目の母に、占ってもらったら?﹂
ママが言うと、
﹁あら、それはいいわね﹂
とクロノスが応じた。
﹁占いっすか。俺、そういうの苦手なんだけど﹂
広樹は、気乗りしないみたいだ。
﹁いいからいいから。悪いようにはしないからさあ﹂
クロノスに腕を取られて、広樹は苦笑しながら立ち上がった。
﹁お勘定は、あたしの奢りにしといてあげる。石渡の糞を潰してく
れたお礼﹂
笑顔のママとペコちゃんに見送られて、クロノスと広樹は、ミル
キィーウェイを出た。
外に出ると、カップルだらけだった。みんな幸福そうに寄り添い、
手を繋ぎ、腕を組んで歩いている。
普通の歌舞伎町の様子と変わらない。
ただ、カップルなのが男同士であることを除けば。
華やかなネオン。
寄り添うカップル。
なんだか、雰囲気だけで悪酔いしそうだ。
﹁あ、あそこよ﹂
見ると、色とりどりのネオンが氾濫している中に、そこだけ地味
に、モノトーンで﹁占い﹂の看板が出ている。何人か客が並んでい
る。流行っているらしい。
行列の後ろに並ぶと、﹁二丁目の母﹂が、
﹁ごめんなさい、今来た人たち、前に来て。貴方たちは、緊急だか
ら﹂
二丁目の母には、時折こういうことがあるらしい。前に並んでい
275
た人たちも、文句を言うでもなく、順番を譲ってくれた。
二人が前に出ると﹁二丁目の母﹂がいた。
岸和田道江だった。
﹁お母さん。今日はこっちの⋮⋮﹂
﹁うん、分かる。ちょっと手を見せて﹂
広樹が大人しく、右手の掌を見せる。
﹁生年月日は﹂
広樹が、素直に自分の生年月日を言う。
﹁あのねえ、貴方は、なんだか途轍もなく大きな力と接触している
わ。私なんかには、その力の出方は読めない﹂
﹁大きな力って、幽霊とかですか?﹂
クロノスが、心配そうに訊ねる。
﹁ううん、そんなちゃちいもんじゃないわ。もっとスケールの大き
な︿力﹀よ。クロちゃんには、残念ながら見えないでしょう﹂
﹁ええ、あたしには、さっぱり﹂
クロノスが、不安そうな顔をした。
﹁でも、俺、幽霊を見てますよ﹂
﹁その幽霊は紛い物ね。その大きな︿力﹀と関係があるとしか言え
ないわね。ごめんね、貴方の運勢は、見通せないわ﹂
﹁お母さんに駄目なら、あたしになんか、とても無理ね。でもさあ、
お母さん﹂
クロノスが、囁いた。
﹁山田組の関係なんかは、どうなの?﹂
やはり、クロノスは心配そうだ。
﹁ああ、山田組、それは関係ないわね。あの連中は、今まったく見
当違いなところを探しているわ。それに、そろそろ内部抗争の方が
忙しくなるんじゃないかしら﹂
山田組が、当座関係ないのなら、自分は安全だと広樹は思った。
276
なにしろ、自分は運がいい。
運がいいのだ。
277
第七幕・7
7
﹁今、広樹君って子と会ってきたわ。彼、霊能力者ね。それも、か
なり強力な。自覚はしてないようだけど﹂
道江が震えている。こんなに真っ青な道江は、初めて見た。
﹁周りにいる者を、みんな引きずり込む、とんでもない凶運の持ち
主だわ﹂
﹁凶運ですか﹂
道江がコースターに書いた字を見て、片桐が嘆息した。
郁美も、ちょっと道江のイメージを探ってみる。なるほど、禍々
しい運勢の持ち主だ。
﹁それにしても、その広樹君って子、失礼だけど希望ヶ丘西高校の
生徒としては頭が良さそうだったけど。どうして、希望ヶ丘西高校
なの?﹂
﹁ああ、それはですねえ、色々あるんですよ﹂
片桐が、眼鏡を押し上げながら言った。
﹁広樹は、多分頑張れば、MARCHぐらいの大学には、入れるん
ですよ﹂
道江が、うんうんと頷く。
﹁ところが、家庭環境に問題があったらしく、中学の頃から荒れ出
して、特に二年後半から、三年生の間は、一度も学校に出ていない
んです﹂
﹁引き籠もりってわけ?﹂
﹁いえ、引き籠もりじゃ、ありませんね。ひたすらムエタイのジム
と、剣道場に通っていたらしいです。それで、いわゆる中間試験や
期末試験を一つも受けていません。課題も一つも提出していなし。
278
評定の出しようがないんです﹂
﹁ああ、そうなの﹂
﹁ですから、入試では、相当な点数を取ったんですよ。普通科、工
業科合わせて、全科目で圧倒的な一番でした﹂
﹁へえ!﹂
﹁でも、内申書は十段階でオール一なわけですよ。そりゃあ、試験
を受けていないんですから、必然的にそうなりますよね﹂
﹁なるほどねえ。それで、あの頭で希望ヶ丘西高校なのか﹂
﹁本来ね、地頭はいいんですよ。ただ、体を鍛えることには、いく
らでもストイックになれるのに、頭を鍛えるのは嫌いなんですね。
あれで、勉強が好きなら、MARCHどころじゃない大学に行ける
でしょうね﹂
﹁でも、これで、一つの謎が解けたわね﹂
﹁え? なんの謎ですか?﹂
カウンターの中から、瑞堂が聞いてきた。
しかし、郁美にはその謎が分かっていた。どうして、希望ヶ丘ゴ
ルゴンの番格の中で、広樹だけが生き残ったのか? という謎だ。
確かに、うらみねんぽう、のノートには、広樹の名前はなかった。
しかし、これだけ超自然的な霊力が働いているのなら、うらみねん
ぽう、のノートに書いていなくとも、広樹はターゲットにされるは
ずだ。
それが、広樹だけが生き残っている。
広樹が、それなりの霊能力者なら、大黒天の呪いが発動しなかっ
たのも、理解できる。
道江が、郁美が思ったとおりのことを瑞堂に説明した。
﹁ああ、なるほど﹂
瑞堂がニコニコした。
マスターの伊集院が、口を挟んだ。
﹁あまり、広樹君のことは口外しない方がいいですよ。今、山田組
が血眼になって捜してますからね。うっかり巻き込まれたら、たま
279
りませんよ﹂
﹁そうね。ここだけの話にしましょう。でもね、一つ気になること
があるの﹂
﹁え、なんですか?﹂
瑞堂が、興味津々という顔で身を乗り出した。
﹁広樹君がね、あのなんて言ったっけ、イジメで自殺しちゃった子﹂
﹁原田勝ですか?﹂
片桐が、質問する。
﹁そうそう、その子。その子の幽霊を見るって言ってるのよね。で
もね、いくら探ってみても、勝君には、そんな霊能力はなかったは
ずなのよね。お祖母さんも亡くなっちゃったし。大黒天神教団もあ
の通りでしょう。勝君の幽霊が出る理由が思い付かないの﹂
それは、郁美にも、意外な話だった。
道江のそばでは怖かったが、郁美も勝の残留思念を追跡してみる。
そんなものはなかった。
ついでに、カツヨの残留思念も追跡してみる。
やはり、中有の中を通り、既に別の輪廻の道を通っている魂は、
現実世界に影響を及ぼすような怨霊にはなっていなかった。
超絶的な霊能力を持つオナカマも、生き身であればこそ能力を発
揮できる。
亡くなってしまったカツヨには、もう人を呪う力はなかった。
もっとも、人によっては残留思念をこの世に残すことが出来るほ
どの能力者もいる。現に、郁美の祖母ミヨシの残留思念は、今も陰
になり日向になり、郁美を守っていてくれる。
そのことを、郁美は、いつもひしひしと感じている。
もちろん、美津江の霊能力などは、問題にもならなかった。
大黒の呪いの正体は、カツヨの呪いだろう。そのカツヨがいない
今、美津江の残留思念など、なにほどのものでもない。
﹁おまけにねえ、広樹君の将来が、まったく分からないの。何か、
大きな力が働くの。その力が、まったく読めないの。あのね、郁美
280
さん﹂
いきなり道江が、郁美の方を振り向いた。
﹁まさか、その大きな力って、貴方じゃあないわよね?﹂
﹁え! そ、そんなことありません。私には、そんな力なんて⋮⋮﹂
﹁でも、貴方は、確かに潜在的には、私より強い︿力﹀を持ってい
るのよ。そうねえ、確かに、使ったことはないみたいだから、未熟
なのよねえ⋮⋮﹂
大きな︿力﹀。
郁美は、思い切って広樹の上に思念を飛ばしてみた。
はじかれた。
何か、途轍もなく大きな力に。
郁美の背筋に、悪寒が走った。
その力の大きさは、人間のものとは思えなかった。
しかも、それは広樹の力では〝なかった〟のだ。
二〇一二年、二月十四日。
勝がはかなくなってから、五十一日が経った。
郁美は、結局、持ってきたチョコレートを片桐に渡す機会を持て
なかった。
281
第七幕・8
8
二〇一二年、二月二十四日、朝七時。
簑島甚兵衛警部は、呆然として立ち尽くしていた。
四階建ての、希望ヶ丘西高校の屋上である。
甚兵衛の目の前にある〝もの〟は、既に人間の形態をとどめてい
なかった。
それは、奇怪なオブジェだった。
むしろ、そう、軟体動物のようなものとさえいえた。
それは明らかに、〝墜落〟してきたものだった。
竹田広樹。
十八歳、希望ヶ丘西高校工業科三年一組。
暴走族希望ヶ丘ゴルゴンのヘッド。
その〝もの〟、が纏っている短ランに入っていた生徒手帳からは、
そういう情報が収集できた。
真紅だったはずの血は、すっかり乾いて赤黒くなっている。
既に、その〝もの〟は、生き物というよりは、無機物に近い。
甚兵衛は、もう一度辺りを見回す。
西には、割と広い校庭が広がっている。
南には、プールがある。
この位置から、北のほうには、他の校舎が建っている。
東には、テニスコートがある。
282
どこにも、この屋上より高い場所は存在しない。
広樹は、一体どこから墜落してきたのか?
剣持警部補がやってきた。
やはり甚兵衛同様、途方にくれたような表情をしている。
﹁分かりません。今、ローラー作戦で聞き込みを行っていますが、
近隣約百世帯の住民が、夜中には飛行機の音も、ヘリコプターの音
も聞いていないと証言しています。五人ばかり、追い込みの受験生
が、夜中の三時頃まで起きていたと言っていますが、彼らも、何も
聞いていないそうです﹂
﹁警部﹂
のっぽの石沢富雄警部補がやってきた。
﹁近所の空港の記録では、やはりこの時間、この地点を通過した飛
行機も、ヘリコプターもないそうです。おまけに⋮⋮﹂
﹁おまけに?﹂
甚兵衛が、続きをうながした。
﹁おまけに、米軍も自衛隊も、この時間帯にこの辺りを飛行した飛
行機、ヘリコプターはレーダーで捕捉できなかったと言うのです。
少なくとも、確認できた限りでは、ここにガイシャが墜落できたは
ずがありません﹂
﹁この血と肉片の飛び散りようからいって、他で殺した遺体をここ
に運んだわけでもありませんしのう﹂
甚兵衛が、不思議そうに呟く。
﹁それにしても﹂
剣持が呟く。
﹁これは、自殺なんでしょうか? 他殺なんでしょうか?﹂
﹁これで、希望ヶ丘ゴルゴンの番格は、全員が、まるで自殺に見え
る仕方で死んだことになりますね﹂
石沢が、答える。
283
広樹の死体は、業務員の小西次郎が発見した。
屋上の隅に置いたフラワーポットで丹精している、福寿草、プリ
ムラなどの様子を見に来て、発見したのである。
取りあえずの、死亡推定時刻は、真夜中の三時前後とのことだっ
た。
もちろん、遺体がこの惨状では、司法解剖しても、あまり成果は
期待できないが。
﹁とにかく、絶対に当該の時間帯に、何らかの航空機がこの上空を
通過しているはずなのでなあ。それを、聞き込みせにゃあならん。
この事件を解明できれば、一連の不可解な自殺事件も、解明できる
やも知れんでのう。剣持君、石沢君、石にかじりついてでも、聞き
込みじゃ﹂
剣持と、石沢が、気が重そうな素振りで頷いた。
*
甚兵衛が途方にくれて立ち尽くす、八時間ほど前。
二〇一二年、二月二十三日、午後十一時頃のことである。
勝がはかなくなってから、ちょうど二ヶ月が経った。
広樹は、愛車のハーレーを駆って、川崎から東名高速道路を、西
の方に走っていた。
広樹は、こうして真夜中に高速道路を一人で飛ばすのが好きだ。
ご機嫌で口笛を吹いている。
ビジュアル系バンド、ルナティックワールドのヒット曲﹁腐った
林檎﹂である。
︱︱⋮⋮裸のお前が纏っているのは、細い金のネックレス⋮⋮。革
ジャンの俺の手に、シルバーのナイフが月の光に輝く⋮⋮。
284
この歌が好きだから、星羅に金の鎖を買ってやったのだ。もっと
も、自分は銀のナイフなど使わずに、鉄棒仕込みの木刀を使うのだ
が。
先行する車を、ぐんぐんと追い抜いていく。
時速百五十キロはでているだろう。
冬の、冷たい風が心地いい。
広樹の中にいつも眠っている、原初的な火照りを冷ましてくれる。
厚木で、インターチェンジを降りる。
さすがに、一般道路では無茶なスピードは出せないが、やはり百
キロはでている。
今は、覚醒剤を決めているので、かなりハイになっている。
この幸福な万能感。
この時間はいつまでも続く。
そう決めている。
すべてを決めるのは、
俺、
なのだ。
国道四十二号線を北上し、公園を過ぎて右折する。
しばらく行くと、厚木海軍飛行場に着く。
大きな臙脂色の屋根があり、英語で厚木の米軍と自衛隊の基地で
あることが書かれている。日の丸と星条旗が交差している。
鉄柵の、厳重なゲートが閉まっている。
広樹のハーレーが近づくにつれて、その厳重に閉じられていたゲ
ートが、左右に開く。
守衛が、敬礼をする。
ふと、敬礼を返しながら、広樹は首を捻る。
なんで、俺はこんなところにいるんだろう?
上空を見上げる。スモッグだろうか。どぶ泥の底のように、空が
285
濁っている。
だが、月の放つ光が、薄蒼い水のように流れている。
この静寂。
涼しげな月光水は、この世界を至福の色に染め上げている。
ああ、この悦楽。
広樹は、なぜ自分がこんなところにいるのか? という疑問を忘
れ、月光水の至福に酔っている。
広い、だだっ広い敷地に、大きな建物の影が散在している。飛行
場の方には、幾つもの航空機の影が、闇の底に蟠っている。
ふと気が付くと、ハーレーのエンジンは切られ、広樹は両足をつ
いて立っていた。
何気なく、ハーレーの右側に降りる。
右手に、大きな建物が見えた。
その建物から、
二人の人影が、
歩み寄ってきた。
その人影は、ゆっくりと、だが着実に大きくなる。
大きかった。
マイケル・スミス軍曹。黒人。二メートル〇三センチ、百四十八
キロ。二十六歳。
サミュエル・デービッド軍曹。白人。二メートル〇一センチ。百
四十九キロ。二十五歳。
共に、海兵隊の所属で、イラク帰りである。
広樹は、ザウルスより大きな生身の人間を、初めて見た。
早口の英語で、マイケルが何か言った。
聞き取れなかったが、両脇を固めるようにして、二人が広樹を挟
んだ。
そのまま、歩き始める。
286
大きな建物に入る。
時計が、十二月二十三日、二十三時五十六分を差していた。
建物は、食堂のようだった。大きなテーブルが、幾つも並び、そ
の周りには椅子が置かれている。その一角に、綺麗な純白のテーブ
ルクロスが敷かれている。
そこに、促されて座る。
と、コックが、漫画のように大きな白い帽子を被って、前菜を運
んできた。
マイケルが、食べろと仕草で促す。
甘酸っぱい青りんごをパンチェッタで焼き上げたものだった。
食べると、少し効いた酸味が心地よい。
前菜を食べ終わると、サラダが来た。
これも、よく冷えていてうまい。
なんのドレッシングだろう。和風でも洋風でもない、爽やかなド
レッシングがかかっている。
ちょうど、夜食の時間なので、食欲が刺激される。
コックが、湯気の立つスープを運んできた。
広樹の好きな、コーンポタージュスープだった。
広樹は、小学校まではいいところのお坊ちゃまだったので、それ
なりに作法は心得ている。
音を立てずにスープを飲む。とろりとした食感に、しつこくない
コーンの甘みがうまい。
こうして次々に料理が運ばれた。
本格的な、フランス料理のフルコースだった。
多分、将官クラスが食べる、特別料理なのだろう。
デザートのシャーベットは、暖房の効いた食堂で食べると美味か
った。
さらに珈琲がでて、小さなケーキ、プチフールまででた。
もう、真夜中の一時を回っていた。
葉巻がでた。
287
広樹は銘柄を知らないが、こんなにうまい煙草は、初めて吸った。
ウィスキーの、オンザロックもでた。このウィスキーも、喉に染
み渡るうまさだった。
まるで、広樹の好みを調査でもしたかのようなコースだった。
ふと、最後の晩餐、という単語が頭をかすめた。
と、
テレビが点いた。
広樹の好きな漫才コンビが、冠になった深夜番組だった。
笑った。
大いに、笑った。
最後の晩餐という単語など忘れてしまった。
酔いも回り、少し眠くなった。
うとうとしたかも知れない。
冷たい風が、頬を打った。
少し寒かった。
眠気が取れた。
ふと振り返ると、時計が真夜中の二時三十分を差していた。
右にマイケル、左にサミュエル。
二人の海兵隊軍曹が、広樹の両腕をがっちりと固めていた。
そのまま、ジープに乗る。
ジープが少し走ると、目の前に大きなヘリコプターがあった。
SHー60B。
通称、シーホーク。
全長、約二十メートル。
重量、約七トン。
航続距離、約八百四十キロ。
高度限度、約三千六百メートル。
その巨体が、十七メートルあるローターを回していた。
爆音で、耳が痛いほどだ。
既に、四名の搭乗員が待機していた。
288
広樹は、はっと我に返った。
なんで、俺はこんなところにいるんだ?
両腕を、でかい奴らに固められていた。
﹁んだよ、離せよてめえ!﹂
マイケル、サミュエル、二人の手をふりほどく。
ダッシュで、ハーレー目がけて走り出す。
マイケルとサミュエルは大きいので、スピードはない。
しかし、搭乗員に俊足の黒人がいた。
広樹がハーレーに着いて、飛び乗ろうとしたときに、その搭乗員
が追いついて取りすがった。
木刀を取り、その黒人を叩き伏せる。
その間に、マイケルとサミュエルが追いついてきた。
マイケルが、すーっと広樹とハーレーの間に割って入った。
サミュエルが、間合いを計りながら、広樹と対峙する。
広樹は、ごくりと唾を飲み込んだ。
世界は広い。
こいつら、強い。
広樹は、そう思った。
米軍の格闘術はレスリングとブラジリアン柔術、柔道。さらに、
打撃はボクシングとムエタイ。棒術は、フィリピンのカリを基本と
している。
マイケルとサミュエルは、両手にカリで使う、中ぐらいの長さの
棒を持っていた。
この二人は、アメリカ海兵隊きっての猛者なのだ。
二人とも、棒を上下に振りながら、タイミングを計る。
ブンッ、
サミュエルが、右手の棒で、打ち込んできた。
広樹が木刀で払う。
289
そのまま、サミュエルの左手の棒が、広樹を襲う。
それを受けながら、広樹は右のローキックを放った。
サミュエルが、足を上げて受け流す。
広樹は、振り向きざまマイケルに回し蹴りを放った。
大きな体からは想像もつかないような俊敏さで、マイケルがその
回し蹴りをかいくぐり、広樹の足にタックルをかけた。
辛うじて、跳び退る。
サミュエルの棒が、広樹の脳天目がけて打ち下ろされる。
木刀で受ける。
広樹の背筋を、悪寒が走る。
冷たい汗が、一筋流れる。
マイケルが、またタックルにくる。既に、マイケルは棒を捨て、
タックル専門になっている。
避けたところに、サミュエルの棒がくる。
広樹が避けようとした空間には、既に他の搭乗員三人が待ち構え
ていた。
全員が、カリの棒を持っている。
マイケルのタックルが入った。
広樹が、ダウンする。
マイケルが、足を取っている間に、サミュエルが広樹の首を絞め
てきた。
藻掻いて、一度はサミュエルをふりほどく。
しかし、足を取ったマイケルがしつこい。
サミュエルが、またのしかかってきた。
藻掻いた瞬間、三角絞めが決まってしまった。
逃れようとあがくが、そこにマイケルまでもがのしかかってきた。
広樹は、すーっと気が遠くなるのを感じた。⋮⋮
⋮⋮気がついたときは、既にシーホークの入り口だった。
マイケルとサミュエルに導かれて、広樹は広々としたシーホーク
290
の中に入った。
ローターの回転速度が上がり、シーホークは離陸した。
マイケルも、サミュエルも、まったく無表情だ。
ふと、
広樹は、暴れようとしたが、何だか体が動かなかい自分に気が付
いた。
シーホークは、巡航速度で川崎を目指している。
眼下に広がる、街の灯りが綺麗だった。
空を見上げると、端麗な二十三夜の半月、宵待月が、涼しげに鱗
粉のような光をまき散らしていた。その鱗粉が、広樹の腕を、肩を
さらさらと滑って落ちていった。
月の光に押されてはいるが、鏤められた星々も、美しく燦めいて
いる。
死の直前の世界は、美しい。
ふと、そんなことを思う。
シーホークは、川崎の街に入った。
不夜城の明かりが、綺麗に灯っている。
その可憐さ。
﹁希望ヶ丘西高校の真上だよ﹂
不意に、それまで黙っていたサミュエルが、言った。
どうやら、片言の日本語なら話せるらしい。
シーホークが、上昇を始めた。
一、二分で、上昇は終わった。
﹁今、高度、約三千メートルだ。空気が薄いよ﹂
やはりサミュエルが、淡々と言った。
マイケルとサミュエルの二人は、無言でシーホークの扉を開けた。
291
﹁ほら、外気を吸ってごらん、空気が薄いだろう﹂
こう言って、サミュエルは、子供のように笑った。
それから、マイケルと二人で、広樹の片足ずつを掴んだ。
マイケルが右足、サミュエルが左足だ。
﹁な、なんだよ、てめえら、なにをしようっていうんだよ﹂
広樹が、驚いたように抗議する。
広樹は、得意のムエタイで、二人を叩きのめそうとする。
な、なんだよ。やっぱり体が動かねえじゃねえか。
怖い。
広樹は、生まれて初めて、心底怖いと思う。
真夜中の二時五十八分ちょうど。
マイケルと、サミュエルの二人は、広樹を開けられた扉から外に
吊した。
う、うわっ、おい、止めろよ。
しかし、広樹は声が出ない。
﹁ワンハンドレッド、ナインティナイン、ナインティエイト⋮⋮﹂
カウントダウンが始まった。
う、うわっ、嫌だ、嫌だよ、助けてくれ。
しかし、広樹の声は、囁きにもならない。
第一、声なんぞでても、ローターが回転する爆音で、消されてし
まう。
﹁サーティーン﹂
十三だけが、嫌に明瞭に聞こえる。
心臓が、ばくばくいう。
292
﹁ナイン、エイト、セブン、シックス、ファイブ、フォー﹂
た、助けてくれ!
無慈悲なカントダウンは続く。
﹁スリー、ツー、ワン、ゼロ﹂
﹁ウワッ! 助けてくれ!﹂
今度は声が出た。
両足が離された。
落下していく。
三千メートルの高度から。
希望ヶ丘西高校の屋上をめがけて。
広樹は、今まで、怖いと思ったことはない。
だが、今は怖い。怖すぎて、縮み上がっている。
バタバタと、クロールのように手足を動かす。
スーパーマンのように空を飛べないだろうか?
高度二千メートルまで落ちた。
すーっと、目の前に現れた。
勝の幽霊だった。
にんまりと薄笑いをしている。
何も言わない。
広樹は落ち続ける。
高度一千メートル。
もう、何も考えられない。
死にたくねえ。
死にたくねえよ。
293
今まで、人に恐怖を与え続けていた顔が、今は恐怖に歪んでいる。
しかし、月は、無慈悲に美しい月光水を流すだけだ。
ああ、ああ。
広樹は、犬のように舌を出して喘ぐ。
高度五百メートル。
眩暈がする。
これは、悪夢だと自分に言い聞かせる。
もの凄い加速度がついている。
まさに、風を切っている。
空気を切り裂いて、広樹が、
堕ちていく。
地獄を目指して。
堕天使、ルシフェルのように。
希望ヶ丘西高校が、見えてくる。
マッチ箱のようだ。
それが、ぐんぐんと大きくなってくる。
校庭、プール、テニスコートなどが、はっきりと識別できる。
そして、もちろん目指している教室棟の屋上も。
近づいてくる、
迫ってくる。
希望ヶ丘西高校の、屋上が大きくなる。
広樹の視界全部を占領して、屋上が迫ってくる。
馬鹿にしているかのように、屋上のフラワーポットに植わってい
る、
294
福寿草、
プリムラの花が、
色彩豊かに月の光に照らされているのが見える。
迫ってくる!
スプラッシュ!
クラッシュ!
花壇の花々よりも、一層鮮やかな、赤黒い花が咲いた。
チェックメイト。
暗闇の奥底で、弥勒菩薩が、無慈悲に、口を歪めた。
真夜中の三時だった。
勝が、はかなくなってから、ちょうど二ヶ月が経ったときのこと
であった。
295
第七幕・9
9
カラリッ、
飲み干したレモンスカッシュのグラスの氷が、鳴った。
ああ、何もかも終わった。
終わったよ。勝。
甲斐は目を閉じる。
すーっと意識が遠くなっていく。シールドが解除されていく。
それまでブロックされていた、様々な思考が、甲斐の意識の中に
なだれ込んでくる。
悪意のざわめき。
好意の囁き。
それらの雑音のような思念も、しかし今の甲斐は、不快には思わ
ない。
そして、甲斐自身の思念も、奔流のように溢れ出す。それは、ま
るで洪水のような質量を伴った思念だ。
様々な思い。
揺るぎない想い出。
宇宙に向かって、その思念は解き放たれた。
月光水が、エーテルが揺れた。
宇宙が、一瞬オーロラ色に染まった。
*
296
郁美は、ガバッと飛び起きた。
甲斐の思念が、押し寄せる津波のように、郁美の脳に流れ込んで
くる。
郁美は、両手を握りしめ、その圧倒的な力に耐える。
押し潰されそうだ。
それを、跳ね返そうとはせずに、ひたすら我慢して受け入れる。
すべての謎が解けた。
郁美は、枕元に置いてある携帯を取りあげ、片桐の番号を探し出
し、かける。
二回のコールで、片桐がでた。
﹁片桐先生、大変です。甲斐君が、藤原君が死にそうです。今すぐ、
迎えに来てください﹂
片桐は、なぜ、とも、どうして、とも言わなかった。
﹁すぐ行きます﹂
とだけ言って、携帯を切った。
時計を見ると、真夜中、三時四分だった。
郁美も、慌ててパジャマを脱ぎ捨て、目についたスカートにシャ
ツ、セーターを着込む。
お洒落なんて言っている場合ではない。
コートを羽織って、マンションの四階からエレベーターで降りる。
そして、暗証番号を入れないと、外からは開かないようになって
いるドアを通り、外に出る。
寒い、なんて言っていられない。
東横線沿線に住んでいる片桐が来るのには、どう急いでも小一時
間はかかるだろう。
免許も、車もないというのは、こんな時なんて不便なんだろう。
不思議と、タクシーを呼ぼうとは思わなかった。
甲斐の家は知らないが、片桐に住所を聞けばすむことだ。
297
そこまで頭が回らなかった。
心細かった。
早く、片桐と一緒に、甲斐の家に行きたかった。
甲斐の思念を探ってみる。
微弱だ。
だが、まだ生きてはいる。
ああ、神様、仏様、どうか間に合いますように。
寒い。
コートのポケットに両手を突っ込み、足踏みしながら、ジリジリ
と待ち続ける。
午前四時一分、片桐のカローラが姿を現した。 後部座席に、彩香が乗っていた。
郁美が、助手席に座るなり、彩香が言った。
﹁甲斐君が、夢枕に立ったんです。﹃彩香さん、さようなら﹄って。
怖くなって、片桐先生に電話したら、これから甲斐君のところに行
くところだって﹂
﹁ちょうど、通り道だったので、拾ってきたんですよ﹂
片桐も言った。
﹁甲斐は、僕のところにも、夢枕に立ったんです。そしたら、郁美
先生からの電話でしょう。ちょっと、怖くなって﹂
片桐は、うっかり、犀川先生ではなく、郁美先生と言ってしまっ
た。
しかし、誰もそのことに注意を払わなかった。
ほんの数分で、甲斐の家に着いた。
こんなに近いのなら、いっそ走ってきた方が早かった。そんなこ
とを、郁美は頭の片隅でちらっと思った。
片桐が、インターフォンを鳴らした。家人が起きてくるまで、何
度でも鳴らす。やっと、
﹁どなたですか?﹂
という、不審気な信子の声が聞こえてきた。
298
﹁希望ヶ丘西高校の片桐です。大変なんです。甲斐君が、死にそう
なんです。開けてください﹂
カチャリと鍵の開く音がした。引き戸が、がらりと開く。
﹁夜分遅くすみません。でも、甲斐が、藤原が大変なんです﹂
信子は、半信半疑の様子だが、とにかく家に上げてくれた。
玄関で靴を脱ぎ、甲斐の部屋に通じる階段を駆け上がる。信子も
その後を追う。
﹁甲斐!﹂
﹁甲斐君!﹂
片桐も彩香も、そして郁美も甲斐の側に駆け寄る。
明らかに甲斐は衰弱している。
あれほど黒かった髪が、真っ白になっている。全ての思念を解き
放ったときに、髪の毛の色も抜けたのだ。
﹁ああ、片桐先生、彩香さん、犀川先生、来てくれたんだ﹂
話すのも苦しそうである。
﹁お母さん、一一九番へ﹂
慌てて、信子が階下に降りた。入れ替わりに、父親の学が入って
くる。
﹁最後に、会いたかったんだ﹂
﹁甲斐、喋るな。体力を温存しておくんだ。大丈夫だ、点滴をすれ
ば、すぐに回復する﹂
片桐が言うのに、甲斐は、力なく首を横に振って答える。
﹁もういい、もう充分過ぎるほど生きたよ。先生﹂
甲斐が、笑う。
晴れやかな笑いだ。
﹁甲斐君、これ﹂
彩香が、真っ赤な林檎を差し出した。
﹁ありがとう。食べさせて﹂
甲斐がねだるように言う。
﹁救急車が、すぐ来ますよ。甲斐、しっかりして﹂
299
また二階に昇ってきた信子が言う。
彩香が、甲斐の口元に、真っ赤な林檎を差し出す。
甲斐は、それを囓る。
﹁ああ、おいしい﹂
言うなり、甲斐の首がかくんと落ちた。
二〇一二年、二月二十四日。午前四時二十九分。
甲斐の魂は、勝の魂の後を追った。
300
第七幕・10
10
﹁いえね、あの思念の爆発が、あんまり凄かったんで、あたしなん
か怖くて、布団を被ってブルブル震えていたのよ﹂
翌日の﹁蟻の足﹂である。瑞堂がニコニコしている。
﹁いやあ、二丁目の母が、怖くなるような思念ねえ﹂
伊集院が、感に堪えたように言う。
﹁それが、甲斐の思念だったんですね﹂
片桐が言う。
﹁そう、圧倒的で、膨大すぎて、あたしなんかには、内容も何も分
からなかったけど、とにかく純粋で、神々しいような思念だったこ
とは確かね。それこそ、人間じゃなくて、地上に落ちた天使の思念
だったみたいな﹂
郁美が、黙って頷く。
﹁郁美さん、貴方は、あの思念の内容が分かったんでしょう﹂
郁美は、決心した。
﹁はい﹂
﹁あ、やっぱり、郁美さんも霊能力者だったんだ﹂
何が嬉しいのか分からないが、瑞堂がニコニコしながら言った。
まだ夜の九時だというのに、伊集院が、さっさと店を閉めてしま
ったので、客は片桐、道江、郁美、そして親に断って連れ出した彩
香しかいない。
﹁私、微弱なテレパシーがあります﹂
郁美が、切り出した。
﹁鍛えてないからよ。微弱だなんて。鍛えれば、あたしなんか裸足
で逃げ出すような︿力﹀を持てるわよ﹂
301
道江が、口を挟む。そして、続けて、という身振りをする。
﹁私の父方の祖母のミヨシは、S市の出身なんです。父親が、東京
に出てきて、母と結婚したんです﹂
﹁あら、オナカマの本場ねえ﹂
﹁はい、祖母のミヨシもオナカマでした。調べてみたら、勝君のお
祖母様、カツヨさんは、祖母のミヨシのお弟子さんなんだそうです﹂
﹁へえ、縁は異なもの、ですねえ﹂
瑞堂が、グラスを拭きながら、ニコニコしている。
﹁私は、そのテレパシー能力を、カウンセリングに生かしていまし
た﹂
﹁あら、それは有効な活用法ね﹂
﹁でも、祖母からは、よく言われていました﹂
郁美は、ちょっと唇を嘗めた。
﹁秘せ、と。過剰な︿力﹀は、危険だ、と﹂
道江が、真剣な顔をして頷く。
﹁そうね、貴方ぐらいの力だと、受け入れて、コントロールするの
を助けてくれる人間、さにわ・審神者、が必要ね﹂
﹁はい、私もそう思います﹂
郁美は、水を一口飲んだ。
﹁でも、そのテレパシー能力が、甲斐君にはまったく通じませんで
した。何か強力なシールド、バリアーのようなものが張ってあって、
彼の心はまったく読めなかったんです﹂
﹁甲斐君自身が、強力なテレパシーの力を持っていたのね。あたし
なんかには、そのシールドが張ってあることさえ、はっきりとは分
からなかったわ。なんだか変な子だなあ、と思っただけ。凄い力な
のね﹂
﹁そうです。本当に、桁外れの﹂
郁美は、瑞堂ご自慢のミルクティーを飲み干した。
﹁甲斐君は、自閉症なんかではありませんでした。甲斐君が解き放
った思念が、全てを明かしてくれたんです﹂
302
瑞堂が、無造作に、しかし優しい態度でミルクティーを注いでく
れる。
﹁甲斐君は、あまりにも強力なテレパスなので、なんの防御壁も張
らないでいると、他の人たちの雑多な思考や感情が、全部彼の脳に
直接送り込まれてくるんです。思考の内容は分からなくても、ああ、
この人は自分に好意を持っているとか、悪意を持っているとかは分
かります。だから、多分幼児の頃から、他人の思考や感情をシャッ
トアウトしてしまったんだと思います。特に目が合うと、相手の心
が丸見えになります。ですから、本物の自閉症児みたいに、目を合
わせることを避けたんですね﹂
喉が渇くのか、郁美はまたミルクティーを一口飲んだ。
﹁しかも、甲斐君は、物心ついてからは、自分と同じようなテレパ
スが他にもいるのではないかと考えたんです。そんな風に同じ程度
の力を持った存在から身を守るために、自分のシールドを、自閉症
児特有の思考パターンに迷彩することまで覚えたんです﹂
﹁そうかあ。それで、そんなに強力な壁を造っていたのに、それが
私にはまったく分からなかったのね。とにかく、彼の心の形が全然
見えないのでびっくりしたのよ。あたしには、他人の思考内容を読
めるほどの︿力﹀はないけど、心の形ぐらいはおぼろげに分かるの
よね﹂
道江が、細い煙草に火を点けながら言った。
郁美が、黙って頷いた。
﹁もちろん、実際にはそんな必要はありませんでした。恐らく、甲
斐君は、人類史上最強のテレパスだったと思います。ゴータマ・シ
ッダールタ、イエスをも凌ぐほどの﹂
そう言う郁美は、自分の顔が蒼白になっているだろうと思う。
﹁もちろん、甲斐君は、囲碁などのゲームをやるときも、シールド
を張りっぱなしでした。ですから、囲碁やチェスが強いのは、本当
の実力なんです﹂
郁美は、ここで言葉を切って、みんなを見回した。
303
﹁甲斐君は、勝君相手の時だけ、シールドの一部を解除しました。
でも、全面的に解除したわけではありません。温かい感情が流れ込
んでくるのに任せたのです。ですから﹂
ここで、もう一度みんなを見回す。
﹁苛められている勝君の思考内容はブロックされていました。甲斐
君は、勝君のそういう思考領域には立ち入らなかったんです。その
ことを、甲斐君は﹂
郁美は下唇を噛む。
﹁ものすごく悔やんでいました﹂
あたりを、静寂が支配する。みんな、甲斐の心情に思いをいたし
ているのだろう。
﹁甲斐君は、体育の授業を免除されていたそうですね﹂
郁美の問いかけに、片桐が答える。
﹁ええ、そうです。球技のチームプレーもできませんし、剣道なん
かでも危ないですから﹂
﹁そのことも、甲斐君は悔やんでいました。自分が、その剣道によ
るイジメの場面に立ち会っていれば、そのイジメは防げたでしょう
から﹂
﹁うーむ﹂
片桐が唸った。
﹁甲斐君は、勝君を慰めるために、毎日瑠璃色の鳩が窓辺に来るよ
うにしていました﹂
﹁え、動物を自由自在に動かせるんですか?﹂
片桐は、不審そうに言った。
﹁はい、それどころか、彼のテレパシーは、なんと、他人に自分の
意志を強制できるほど、強力でした﹂
﹁え!﹂
道江が、さすがに驚いた、という顔をした。
﹁岸和田さんも、そんなことができるんですか﹂
瑞堂が、興味深そうに訊いた。
304
道江が、ブンブンと首を横に振った。
﹁冗談じゃないわよ。そんなことが出来るなら、好きな絵は全部買
い付けることが出来るし、好きな値段で売ることが出来るわ﹂
﹁そうですよねえ。まったくその通りだ﹂
猿のミイラのような顔をしながら、伊集院が深々と頷いた。
﹁ですから、甲斐君は、口では話さなくても、お母さんに自分が今
日は何が食べたいとか、何が飲みたいとかの意志を告げることが出
来ました。ですから、彼は、自閉症児に偽装していても、日常生活
では不自由はしなかったんです﹂
郁美が、またミルクティーに口を付ける。片桐が、珈琲を飲み干
す。彩香は、甲斐が最後に飲んだレモンスカッシュにちなんで、自
分もレモンスカッシュを飲んでいる。
﹁甲斐君は、誰にも自分の心を開こうとしませんでした。関わりを
持つことで、自分に対する過剰な好意や、悪意が発生するのを恐れ
たのです。何しろ、どんな悪意でも、半ば自動的に読み取れるんで
すから。友人なんて、うっかり作れなかったんです﹂
﹁なるほどねえ。偉大な能力者の悲劇だね﹂
伊集院が、片桐に珈琲を注ぎ足した。
﹁ところが、勝君は違いました。勝君には、邪気というものが、ま
ったくありませんでした。その無垢さに惹かれて、甲斐君も心を開
いたのです﹂
﹁それで、甲斐は、原田の絵ばっかり描いていたのか﹂
片桐が、ようやく腑に落ちたという声で言った。
﹁そうです。あの絵に秘められた神々しさって、甲斐君の魂の高貴
さでもあるんでしょうけど、同じぐらい、勝君の無垢さもあるんだ
ろうと思います﹂
郁美の言葉に、片桐が黙って頷く。
一瞬、静寂が訪れた。みんな、勝を、甲斐を思い出している。
﹁そんな勝君が、イジメを苦にして自殺してしまいました﹂
また、重い沈黙が降りる。
305
﹁勝君は、甲斐君の前では、好意の感情だけを発していたようです。
甲斐君は、シールドを完全に解放したわけではないので、勝君が、
どんなに酷いイジメで苦悩しているのかに気付かなかったんです﹂
﹁そんなことって、あるんだねえ﹂
片桐が、あの、勝のワイシャツを引き裂いたときのショックを思
い出しながら、言った。
﹁甲斐君は、復讐を誓いました﹂
﹁しかし、あいつの力は、テレパシーだけなんでしょう? テレキ
ネシスでも使えないと、今度の事件の説明は⋮⋮﹂
片桐が、抗議した。
﹁いいえ、さっき言ったはずです。甲斐君は、相手に自分の意志を
押しつけることが出来るほど強力なテレパスだった、と﹂
﹁え! でも、ザウルスのように、痛くてたまらない死に方を強制
するのは、なんぼなんでも無理じゃあないですか?﹂
片桐が、信じられない、という声を出す。
﹁そうね、あたしなんかも、俄には信じられないけど、あの爆発し
たときの︿力﹀のハレーションからすると、そのぐらいのパワーは
あるかもね﹂
道江が、郁美の肩を持つ。
﹁ううむ﹂
片桐は、考え込んでしまった。
﹁もちろん、甲斐君は、オナカマであるカツヨさんの力も利用しま
した。言ってみれば、カツヨさんの呪力に便乗したんですね﹂
﹁ああ、なるほど、あのオナカマのお婆さんも、とんでもない力を
持っていたもんねえ﹂
道江が、頷く。
﹁でも、それは目くらましだったんです﹂
﹁え!﹂
さすがに、道江も驚く。
﹁甲斐君は、自分の力を、それほど特殊なものとは考えていません
306
でした。警察に協力する、自分と同じような力を持ったものがいる
かも知れないと警戒していたんですね、それで、大黒の呪いとか、
聖天の秘儀とか、勝君の幽霊とか、ダミーを一杯ばらまいたんです。
もちろん、最初の岡君の時には、怒りにまかせていました。そして、
岡君を処刑した直後に、ダミーをばらまこうと思いついたようです﹂
﹁じゃあ、あのオナカマのお婆さんも、ダミーだと?﹂
道江が、信じられないという声を出す。それほど、カツヨが亡く
なったときに感じたパワーは凄かったのだ。
﹁うちのお祖母ちゃん、ミヨシも強力なオナカマでした。はっきり
言って、カツヨさんよりも、力は強かったようです。それでも、人
を呪い殺せるほどの力は、なかったようです﹂
﹁そっかあ、あたしなんか、ちょっと人より勘がいいだけで、それ
でも霊能力者としては結構格が上だもんねえ。人を呪い殺すなんて、
人間には無理か﹂
﹁人間には無理かも知れません。でも超人なら、出来るかも知れま
せん﹂
﹁え?﹂
﹁甲斐君は、本当に人間を超えた力を持っていたんです。甲斐君が
心配したような、警察に協力できる同等の能力者なんて、存在しな
かったんです﹂
郁美は、ミルクティーをもう一口飲んだ。やはり、喉が渇く。
﹁甲斐君は、ネットで﹃笑う大黒﹄というホラー小説を見つけたん
だそうです。それに、祟り神としての大黒天や、障礙神としての聖
天なんかに関する情報が満載されていたんだそうです。そこから、
ダミーとしての、大黒天神教団を創設することを思い付いたんだそ
うです﹂
﹁あの教団、丸ごとダミーなんですか?﹂
﹁ええ、そうです。必要な資金などを、カツヨさんに出させること
も、カツヨさんが自発的に思いついたと信じ込ませたんです。カツ
ヨさんの意識に乗って、甲斐君は大黒天の〝お告げ〟を美津江さん
307
に降ろします。そして、引っ越しを思い付かせます。旭が丘団地で
は、希望ヶ丘ゴルゴンの本拠地と離れすぎていて不便ですから。そ
うして、当日の急な引っ越しで割り高になった引っ越し費用も、カ
ツヨさんが出すように思い付かせたんです﹂
﹁ううむ﹂
片桐が呻る。他の四人も、声も出ない。
﹁原田君が、亡くなるときに、カイくん、ありがとう。というメッ
セージを発したんだそうです。そのメッセージを受信したときに、
決心したんだそうです。原田君に対するイジメを主導した、希望ヶ
丘ゴルゴンのメンバーを、出来るだけ苦しい死に方で殺してやろう
と。そのためなら、自分が﹂
ここで郁美は言葉を切った。そしてアルトの低い声で言った。
﹁地獄に堕ちても構わないと﹂
しばらく、沈黙が﹁蟻の足﹂を支配した。
﹁それで、岡君、ザウルス君を、処刑します。甲斐君は、一連の行
為を、〝処刑〟と呼んでいたのです﹂
﹁あんな、鉄のチェーンで自分を叩き壊すなんて、苦しい死に方を
強制できたと?﹂
片桐が、信じられない、という声を出す。しかし、それしか合理
的な説明はつかないのも事実だ。
﹁岡君、ザウルス君の場合は、岡君一人を操ればよかったので、甲
斐君もそんなに消耗しなかったようです。送電線に登った、水野俊
君の場合も同じです。ただ、カツヨさんに、大黒天神教団の発想を
思い付かせ、美津江さんにお告げを降ろすのに、それなりの時間が
かかったようです﹂
道江が、もう一本煙草を取り出す。
﹁でも、大黒の呪いが、暴走してしまったんですね﹂
﹁え、どういうことですか?﹂
308
片桐が聞いた。
﹁後藤沙保里さんの場合です。甲斐君は、自分で創り出した、大黒
の呪いのコントロールを失い、無意識のうちに後藤沙保里さんの時
まで呪いを発動させてしまったんですね。しかも、カツヨさんにあ
った微弱なテレキネシス能力を利用して、道を凍らせることまでし
てしまいます。甲斐君も︿力﹀を使うのは初めてなので、上手くコ
ントロールできなかったんですね。それで、以後は、どちらかとい
うと、勝君の幽霊の方に力点を置き直します﹂
﹁なるほどなあ。うっかりすると、コントロールできないほどの︿
力﹀かあ﹂
片桐が、頷く。
﹁でも、薫君の時から、話は簡単ではなくなります。薫君だけでは
なく、周りで見守っている人々をも、甲斐君のテレパシーでコント
ロールしなければなりませんから﹂
﹁そうよねえ。証言者だけで、数十人いるっていうもんねえ。それ
が誰も止めに行かなかったんだから、とんでもない︿力﹀よねえ﹂
道江が、いかにも自分には無理、という雰囲気を漂わせて言った。
﹁しかし、広樹は、一連の勝に対するイジメには加わっていなかっ
たですよ。それは、全員が証言している。第一、勝の書いた、うら
みねんぽう、のノートにも、広樹の名前は出てこない﹂
片桐が、疑問を呈した。
﹁いいえ﹂
郁美が、真剣な顔で片桐を見詰めた。
﹁甲斐君が、広樹君たちの心を読み取ったところ、広樹君は実際の
イジメにこそ参加しませんでしたが、イジメのアイディアを出して
いたのは、広樹君だったんです。要するに、広樹君はイジメの黒幕
だったんです。そのことは、原田君は知りませんでしたけど、甲斐
君は知っていたんです﹂
﹁へええ、そうだったのか。広樹らしいなあ﹂
片桐が、嘆息した。
309
﹁こんな風に、たくさんの人の心を操る必要があったので、後半に
なると、甲斐君が体力を回復するために、一週間から十日ほど間が
あくことになったんです。でも、一番困難だったのは、竹田君、広
樹君の場合でした﹂
﹁そう、あれは不思議でしょうがないの。だって、甲斐君のテレパ
シーがいくら強力でも、あんな、周りに高いところがないのに、飛
び降りさせるわけにはいかないでしょう﹂
﹁ええ、それもありますけど、岸和田さんも前におっしゃっていま
したよね。広樹君自身が、能力者、だと﹂
﹁そう、それも、かなり強力なね﹂
﹁広樹君は、自覚していない能力者だったようです。ちょっと未来
が︿見える﹀のですね。だから喧嘩に異常に強い。もちろん、本人
自身が喧嘩には異常に強いのですけど、その上相手の打つ手が一歩
先に︿読める﹀。だから、同格の相手でも、先手先手で喧嘩に勝て
る﹂
﹁なるほどなあ。希望ヶ丘ゴルゴンの連中が、半ば本能的に広樹を
恐れた理由は、それかあ﹂
納得した様子で、片桐が言った。
﹁だから、甲斐君は、広樹君を最後に回したんです﹂
郁美は、言葉を切り、みんなを見廻した。
﹁差し違える覚悟で﹂
﹁しかし、どうやったんだい。テレキネシス、念動力で高いところ
まで上げて落としたわけですか?﹂
片桐が訊いた。
﹁いいえ、違います。甲斐君には、あくまでも、テレパシー能力し
かありません﹂
﹁じゃあ、どうやったの? テレキネシスの能力なしに﹂
道江が、いかにも不思議そうに言った。
310
﹁途方もないことなんです。最初、甲斐君からそのイメージが送ら
れてきたときには、私にも信じられませんでした﹂
﹁蟻の足﹂にいる全員が、郁美の口元に注目した。
﹁広樹君は、ヘリコプターから、落とされたのです。三千メートル
の高度から﹂
﹁いや、しかし、あの時間帯には、誰もヘリの音を聞いていないし、
発着の記録も残っていないんですよ? まあ、確かに高度三千メー
トルなら爆音は聞こえないでしょうけど、ずっとそんな高度で飛び
続けるのは無理だ。爆音の聞こえる低空飛行だった時間が必ずある
はずだ﹂
片桐は、いかにも腑に落ちないという顔をしている。構わず、郁
美は続ける。
﹁ヘリコプターの種類は、SHー60、通称シーホーク。厚木の米
軍基地から飛んできたんです﹂
﹁ああシーホークなら大きなヘリだから、色んなことが出来るだろ
うけど。厚木から川崎へのルートでも聞き込みがされて、あの時間
帯にはヘリの爆音がしなかったという証言を得られているんですよ。
おまけに、厚木の米軍基地でも、当該時間帯に発着したヘリはない
と⋮⋮﹂
﹁そこが、信じられないことなんです。でも、本当のことなんです﹂
郁美は、唇を嘗め、緊張のあまり少し震える声で言った。
﹁甲斐君は、あの時間帯、シーホークが通過する行路一帯と、希望
ヶ丘西高校の周辺数キロメートルに渡る、一帯にいる住民全員の爆
音に関する記憶を、消してしまったのです﹂
﹁ええ!﹂
全員の驚きの声が揃った。
﹁もちろん、米軍基地の要員も、全員甲斐君にコントロールされて
いました。発着記録も、そもそも記録を付ける人が、甲斐君にコン
トロールされているんですから﹂
﹁そ、そんな﹂
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馬鹿な話があるはずがない、と言いたげに、しかし片桐は、その
言葉を呑み込んでしまったようだ。
﹁おまけがあります﹂
郁美の言葉に、全員が息を呑んだ。まだこれ以上驚くべきことが
あるのだろうか?
﹁全員のヘリコプターに関する記憶を消しても、レーダーサイトに、
レーダーが感知した記録は残ります﹂
﹁ああ、そうですね。甲斐のテレパシーがいくら強力でも、機械は
操作できない﹂
片桐が言った。
﹁これは、本当に途方もないことなんです﹂
郁美が、真っ青になって震えながら、言葉を継いだ。
﹁甲斐君は、残留思念で、今もレーダーの記録を読む人間の意識に
介入し、レーダーに残ったシーホークの記録を、認識させないよう
にしているんです﹂
もう、みんな声も出ないようだ。あまりにも、話のスケールが違
いすぎる。
﹁しかし、なんのために⋮⋮。なんのために記憶を消すんですか?﹂
片桐が、訝しそうに聞いた。
﹁これは、悲しい勘違いなんです﹂
郁美が、悲痛な声を出した。
﹁さっきも言ったように、甲斐君は、自分の力を特殊なものだとは
考えていませんでした。警察などに、同レベルの︿能力者﹀がいる
かも知れないと思ったのです。それで、一連の事件が自分の仕業だ
と分かったら、ご両親に迷惑がかかるかも知れない。そう思ったん
です。それで、無理をしてでも、自分の痕跡を消したかったんです。
そこまで無理をしなかったら、甲斐君も命を落とすことはなかった
はずなのに﹂
静寂が、時空にくっきりと刻み込まれた。
﹁しかし、そんな︿力﹀が、もし万が一テロにでも使われたら⋮⋮﹂
312
伊集院が、怖いことを言った。
﹁そうですねえ。万能です。だからこそ、甲斐君は、生き急いだの
かも知れません﹂
﹁怖いねえ﹂
伊集院が、しみじみと言った。
﹁そうですねえ。こんなことが分かってしまう、私も怖い女です。
ですから、お嫁のもらい手なんて、ありませんよね﹂
郁美が、少し寂しげに言った。
﹁ああ、そんなことありませんよ﹂
片桐が、にっこり笑いながら言った。
郁美は、
﹁え?﹂
と聞き返した。
﹁僕の母方の実家がねえ、椙尾神社という、割と大きな神社の神主
さんなんですよ。でね、その家系のせいか、祖母さんも、お袋も、
妹も、まあ︿見える﹀︿見える﹀。周り中、霊能者だらけです。合
理主義者の親父はともかく僕なら平気ですよ。女の人は、みんなそ
んなもんだと思ってますから。どうです、僕のところにお嫁に来ま
せんか﹂
﹁あら、あたしで良ければ、喜んで﹂
意外な展開に、郁美は花が咲くような笑顔を見せた。
﹁先生たち、いいなあ﹂
彩香が、いかにも羨ましそうに言った。
313
終幕・赤い林檎
終幕 赤い林檎
大沢彩香は、甲斐の家に来ている。
彩香のスカートは、甲斐の死以来、膝丈になっている。
はっきり言って、希望ヶ丘西高校では浮いているのだが、彩香は
気にしていない。
彩香は、仏壇の上に立てられた、甲斐の写真に向かって線香を手
向ける。
原田の本家で使っている線香と同じ銘柄で、同じ匂いがする。
甲斐の写真のそばには、勝の写真も、立てられている。
甲斐の両親が、是非そうしたいと原田の本家に了承をもらったの
だ。
甲斐の写真は、何枚も残っていたが、勝の写真はほとんどなかっ
た。
それで、クラスの集合写真から、引き伸ばしたものを使っている。
甲斐は、いまわの際に、彩香の差し出した、赤い林檎を一口囓っ
てくれた。
彩香は、今は、その想い出だけで生きている。
彩香も、今は、ポスター用のデザインだけではなく、油絵も描き
始めている。
ただひたすら、瑞々しい、真っ赤な林檎の静物だけを描いている。
ところが、その林檎の絵を、岸和田道江が誉めてくれるのだ。
あなた、才能あるわよ。もう少し頑張れば、うちの画廊で絵を売
ってあげる。と。
もちろん、甲斐が描いた、勝の肖像画のシリーズと、腐りかけて
いく林檎の静物画のシリーズは、爆発的に売れている。
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道江の画廊で取り扱っているその商品は、今では億に近い値段で
取り引きされている。
その収益は、甲斐の両親の希望で、自閉症の児童を支援する資金
としてプールされている。
彩香は、線香を手向けた後、鉦を鳴らした。
手を合わせ、静かに祈る。甲斐の冥福と、勝の冥福とを。
そして、二人の写真の前に、真っ赤な、瑞々しい林檎を置いた。
甲斐は、無表情だけど、目に優しい光をたたえて彩香を見ている。
林檎を置かれて、勝の写真が、にっこりと笑った。
至福の笑みだった。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n7625by/
カイの迷宮
2016年7月8日03時23分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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