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目と耳の両方が不自由な子どもと係わりあうために
ーコミュニケーション・遊び・生活をめぐってー
はじめに:まず赤ちゃんの育ちを考えましょう
乳幼児期は、成長の出発点として、その基礎が形成される重要な時期です。
生後間もない頃は、おとなに依存する割合が高く、その十分な養護がなければ、
生命の維持すら危ぶまれる一見頼りない存在です。でも外見上は無力のようで
も、自ら育とうとする能動性を認めないわけにはいきません。この時期の身体
的・精神的機能の発達には目を見張るものがありますが、それらの原動力は、
子ども自身の能動性であるといえるでしょう。
愛着
子どもの能動性が存分に発揮される状況とはどのようなものか、様々な知見
がありますが、まずいえることは、おとなとの安心感のある安定した人間関係
の中でこそ子どもはその能動性を十分に発揮するということでしょう。 この
ことは、0 歳児についてもいえることです。気持ちよく抱かれたり、親しみの
ある優しいことばかけや柔らかな接触などをうけながら、まずは特定のおとな
との愛情の絆が結ばれます。これを愛着(Attachiment)といいますが、この愛
着の成立が人格形成の上で非常に重要なものであるといわれています。この愛
着によって、情緒が安定し、能動性に支えられた外界に向けての探索的な行動
が起こりやすくなっていくからです。
興味・関心の共有
身の回りのいろいろなものに興味を持ち始めた子どもは、ある特定のものに
目をとめたり、物音に耳をすましたり、実際に手を伸ばしてものをつかんでみ
ようとしたりし始めます。この時、そばにいるおとなは何をしているでしょう?
黙って腕組みしながらことの成り行きを見守っているでしょうか?大抵の場合、
おとなも子どもと一緒になって、子どもが注意を向けているものに共に注意を
向け、そのモノや出来事にまつわる何かをことばで発したりするのではないで
しょうか?つまり、そこでは子どもとおとなが興味・関心を共有するという事
態が生じているのです。そこでは単にことばだけが介在するのではなく、その
時の気持ちなどをめぐっての交流が、身振りや態度でなされているといえるで
しょう。子どもがそこにある「何か」をほかのものとは違うものとして認める
という「概念」の成立にかかわる認識をし始めた時、「これは○○だよ。」とい
うおとなのことばを聞いて、子どもはそのことばを差し示す事物とつなげて覚
えていくです。このように子どもとおとなが注意を共有することは、認識や言
語の基礎をなすことでもあるといえます。
子どもとおとなが同じものに注意をむけ、おとながそのものの名をいうのを聞く
やりとり
乳児がおとなとまるで「対話」しているかのような場面を目にすることは珍
しいことではありません。でも乳児自身は決して「ことば」を話しているわけ
ではないのです。そこでおとながしていることは、一種の「読み取り」といっ
ていいものです。おとなは乳児が表情、視線、身振りや音声で意味ある対話を
していると思い込んで、それにことばで応じているのです。この思い込みに基
づく「やりとり」こそが、その後展開する親子のコミュニケーションの起点で
あるといえます。子どもの方もこのようなおとなの対応に対して応答的に行動
することが知られています。新生児ですら、成人の発話に対して同調的に反応
しているということがわかってきています。この「やりとり」の中で子どもは
経験的に多くのことがらを身につけ、外界、すなわち、モノやヒト、事象と交
渉する力を備えていくようになるのです。
相互の信頼関係
人は生まれてから数年にわたるこのような経験を通して、一つの態度を獲得
するようになります。それは自分自身と世界に対する信頼感です。これなしに
は、活発な能動的活動も見込めません。すべての成長は、この信頼感の上に築
かれていくといってもいいぐらいでしょう。人生の開始時期にこの信頼感にお
いて危機を経験した人が、その後の人生のある段階で、様々な退行や精神の乱
れを示すことがあることを、精神医学は明らかにしてきました。健康な人格の
基礎として、この信頼感はそれほど決定的な役割をもっているのです。まず特
定のおとなとの関係づくりにおいて、相互の信頼関係が築かれることが必要で
あり、そのことに成功すると、さらに係わる人の範囲を拡大していくというよ
うになります。ですから、乳幼児期の人間関係においては、特定のおとなと一
緒にいて、安心し落ち着いて過ごすことができるということが、何にもまして
重要なことだといえるでしょう。
目と耳が不自由なことで起こりうること
見えない、あるいは聞こえないということが意味することの第一は、外界か
らの情報入手において極めて制限があるということです。ですから、情報の収
集に関してできるだけ配慮することが必要なことになります。第二には、第一
のことが関係しているのですが、不安な状態に追い込まれやすいということで
す。ある場合には、かなり深刻な孤立状態となり強い孤独と欲求不満をもたら
すこともあります。
赤ちゃんを育てる過程で、お母さんが赤ちゃんをひときわいとおしく思う瞬
間として、赤ちゃんがそのつぶらな瞳でしっかりと見つめてくれる時、つまり
アイコンタクトが取れた時が上げられます。見えない子どもとの間ではこのよ
うな喜びが十分にはもてない、あるいはほとんどもてないということすらあり
ます。これに似たようなこととして、赤ちゃんとお母さんが一緒に共通の対象
を見るというようなことも困難です。音声言語での通じ合いということも困難
であれば、このような共感、共有の経験がますます不足しがちになり、養育者
との関係が滞ってしまいます。ですから、なお一層子どもとの関係をつくるこ
とに配慮と工夫が必要になるでしょう。
(菅井裕行・土谷良巳)
子どもとどうやってお話するか:コミュニケーション
盲ろうの子どもが担わなければならない、最大の課題の一つがコミュニケー
ションです。それはつまり、係わり手と子どもとがお互いに思い(考え、気持
ち)を通じ合わせるという問題です。
子どもたちはお話ししようとしています
私たちおとながまず最初に覚えておく必要のあることは、どんな子どもでも
お話ししようとしている、ということです。私たちだって小さい頃はそうだっ
たように、子どもたちは「ことば」をうまく使うことができないかもしれませ
ん。運動機能に障害があったり、情緒にまだ落ち着きが得られていない子ども
であれば、相手をしっかりと見たり、その場にふさわしい身振り手ぶりを使い
こなすことが困難な場合もあるでしょう。それでも、やはり、子どもを育てて
いくうえでは、子どもたちはお話ししようとしていると考えた方がよいと思い
ます。理由は二つあります。一つは本当にお話ししようと思っていても、それ
をどう表現したらいいのかわからない子どもに対して、おとなが「あなたの言
いたいことはこんなことかな?」と聞き耳をたててくれるだけで、随分と助け
になるからです。もう一つの理由は、たとえその時には話そうという意思がな
い子どもでも、相手が自分の言い分にちゃんと耳を傾けてくれる人であれば、
その人に対しては心を開こうと考えてくれるかもしれないからです。おとなは、
特に保育や教育において指導的立場にいる人は、まずこちらの言い分を子ども
に伝えることに熱心になりすぎる傾向があります。でも、それは逆なのです。
まず、子どもの言いたいことにこちらが真剣に耳を傾けねばなりません。そこ
から「気持ちの通い合うコミュニケーション」が始まるからです。
おとなの読みとり
子どもの言い分に耳を傾けるといっても、ことば(音声言語)でしゃべって
くれない場合はどうすればいいのでしょう?この冊子が対象としている多くの
子どもたちの場合がそうでしょう。この時、コミュニケーションの道具は音声
言語に限らないことを思い出す必要があります。子どものちょっとした視線や
身体の動きも、それがきちんと読み取られるならば、立派なコミュニケーショ
ンが可能になります。
光やあざやかな色のものに対しても、目を向けることのなかったマリちゃん
は、ある時、タンスの上をぼんやり見るかのように、首(頭)を向けることが
ありました。私たちは、タンスの上にたまたま置かれていた白く光る置物を見
ているのではないか、と仮定して、マリちゃんを抱き上げ、タンスの近くまで
移動してマリちゃんの目の前に置物がくる位置で立ち止まったり、時にマリち
ゃんの手をガイドして置物に触ってみたりするようにたすけてみました。この
ようなことを毎週続けるうちに、マリちゃんは誰がみても「あ、○○を見てい
る」と思えるようなはっきりとした視線を目標物に向けるようになりました。 子どもは時として「ことば」ではなく、身体の動きによって自分の意思を表
します。この身体の動きを、子どもが何かやろうとしている意思の表れとして、
おとなが「読みとる」ことからやりとりが始まることがあります。
一口に「読み取り」といっても、それは状況に応じて多様な在り方が考えら
れるでしょう。まず音声言語への置き換えです。子どもがどのような方式であ
れ、表わしていることを音声言語で言い直してみることです。次に、意味づけ
です。子どもの表現や行為に、ふさわしい妥当な意味づけを行うことです。そ
して、さらに拡大した意味づけを行うこともあります。これは子どもが当初も
っていた意図以上のことをおとなの方が積極的に意味づけていくことです。
ケイコちゃんは、部屋に入ってくると、まずすわりこんでジュウタンをさわ
ります。いつもと同じジュウタンか(いつもと同じ部屋か)ここが入り口かど
うかをさわることで確かめているように思われます。そこで、わたしはいつも
ケイコちゃんがジュウタンに手をのばすたびに、「ああ、ジュウタンだね。」、
「お部屋の入り口にきたね」と大きな声で話しかけるようにしています。
ダイちゃんは、目の前に出されたものをつかんで口に持っていくことをよく
しました。そこで、小さなおぼんにコップとおかしの缶を置き、ほんの少し手
をガイドしてその両方にさわってもらうようにしました。二つのうちどちらか
を選んでくれないだろうか、と思ったのです。まず最初は、二つのうちたまた
ま後にさわったほうとか、最初にさわってつかみあげた方を取り上げるので、
本当に選んでいるのかどうかはわかりませんでした。それでも、ダイちゃんが
どちらか一つを取り上げたなら、
「それを今ダイちゃんは選んだんだね。」とい
って(実際に選んだものとして意味づけて)、コップを取り上げたならそのコ
ップにお茶を注いで飲んでもらうようにしました。このような読み取りをくり
かえすうちに、しっかりと選んでいるなと見ていてわかる場面が次第に増えて
きたのです。
コウちゃんの横でお母さんと担任の先生が話をしていました。そのうちお母
さんが買い物に出かけていきました。そのころはまだ、お出かけについての合
図はとくに決めていなかったので、お母さんはコウちゃんには何の合図もしな
いで出かけていったのです。先生と二人きりになっても、しばらくの間は、コ
ウちゃんはいつもと変わりないようすです。いつもと同じように先生に「お茶」
や「おかし」のサインを出したりしていました。すると突然、フンフンと鼻を
ならし始めたかと思うと「うわーうわー」と大きな声をたてたのです。先生は、
何事がおきたかと驚きました。また、以前虫歯の治療をしたところが痛みだし
たのだろうか、どこか急にお腹でも痛くなったのだろうか。わかりません。で
もその声を聞いているうちに、コウちゃんが泣いているのはお母さんがいなく
なったからだ、ということに思いいたりました。それ以来、お出かけのために
お母さんがコウちゃんのそばを離れるときには必ず、合図をするようにしまし
た。この合図が定着してくるにしたがってコウちゃんはおだやかに過ごせる日
が多くなっていったのです。
このように「読み取り」とは子どもの気持ちをくむことにほかなりません。
そして子どもの意思を代弁することでもあるといえるでしょう。できれば、
「い
まあなたがいいたいことはこういうことなんだね。」ということを子どもにか
えしていきたいものです。そのために言葉に置き換えたりします。音声言語で
のおはなしが難しい子どもであれば、その部分を身振り手ぶりや、なんらかの
サインを使ってもいいかもしれません。言葉で代弁すること、あるいは身体に
触れたり、合図を送ることを習慣にしていきたいものです。
対話・会話はやりとり
赤ちゃんが「ことば」を身につけていく過程について、これまでもさまざま
な研究が行われてきました。最近の研究で明らかになってきたことの一つは、
いわゆる「ことば」を使うようになるよりもずっと前から、赤ちゃんは親や周
囲のひとと「やりとり」をしているということです。視線によるやりとり(見
つめー見つめられ)、音のリズムに合わせること、身体の動きを親の語りかけ
のリズムに同調させること、などさまざまな手段で、赤ちゃんは周囲のひとと
なんらかの関係づくりをしているのです。そして、この「やりとり」の上に「こ
とば」(音声言語、身ぶり言語)がかぶさるようにして、入っていきます。で
すから、「やりとり」こそが対話や会話の基盤だといえるでしょう。お互いが
なにかやりとりして関係を創ろうとしているところに、「ことば」が入ってい
くのですから、そういったやりとりの乏しい状況で、ひたすら絵カードを見せ
たり、繰り返しことばを言わせてみてもなかな身につかないでしょう。 目
と耳が不自由な子どもにおいても、事情は同じです。子どもとおとなに共通す
る話題があって、その話題をめぐって「やりとり」することが最初にあります。
その話題は、とくに発達的に初期にある子どもの場合、「お腹がすいた」「のど
がかわいた」「あれはなんだろう」といった身体の要求や素朴な興味・関心と
いったレベルのものであることが多いのかもしれません。その場合は、子ども
が注意を向けていること(事象)やもの(事物・人)に、おとなもいっしょに
なって注意を向けてみることから、
「やりとり」がはじまります。 アイちゃ
んはときどき、やわらかな音色の声を発します。わたしはそれが最初、どうい
う意味をもった発声なのか、わかりませんでした。そこで、アイちゃんが「あ
∼ん」と声を出すたびにすかさず、その声を真似て「あ∼ん」とアイちゃんの
耳もとで声を発してみました。アイちゃんの真似をしてみたのです。しばらく
するとアイちゃんは再び声を出しました。また、それを真似ていくと、わたし
の声がとぎれるとアイちゃんが声を出すようになったのです。こうして二人で
声の掛け合いがはじまりました。それは数十分にわたって続きましたが、その
間アイちゃんは、しだいに声量を上げ、そして最後には静かに口を閉じて満足
そうな顔になりました。こんなことも「やりとり」の一例でしょう。 おと
なの側はともすると、
「ほら、これは」
「こっちは、どう」とさかんに子どもの
注意を引きつけようと働きかけがちです。そのようなおとなからの提案を無理
なく受けとめたり、おとなのリズムに合わせていける子どももいますが、なか
なかこちらの思うように注意を向けてくれない子どもの場合、まず、その子が
どんなものに注意を向けているかをよく見極めて、おとなの方が子どもの方に
合わせていくことが必要になります。
小さな動きを見つけてサインへ
子どもの意思の表れは、ときとして微弱でよほど注意深く読みとろうとしな
いかぎり、わからなかったりします。読みとりのきっかけになりうるものとし
ては、泣いたり、笑ったりなどの感情の表出、身ぶり手振りをはじめとするい
ろいろなしぐさ、姿勢の変化、顔色、表情、視線などさまざまです。子どもの
身体のようすだけではなく、なにか特定のものを握ったり、あるいはいつもす
ることをしないというようなこと、例えば、下着のままでいてそれ以上服を着
ようとしないということが、
「今は外出しません。
」という表現であったりしま
す。
こういった小さなことがらに目を止め、ていねいな「読み取り」を繰り返す
ことのなかで、子どもはしだいにはっきりとした意思表出をするようになるで
しょう。最初からはっきりとしたサインを表してくれる子どもばかりとは限り
ません。微弱でわかりにくいサインしか見いだせない場合も、その子がはっき
りとしたサインを表してくれるようになるには、子どもの方にだけ問題を押し
つけるのではなく、おとなの、つまり読みとり手の方もしっかりとした読みと
りをしていくことが重要なようです。
それと同時に、子どもが意思を表しやすいように工夫することも有効でしょ
う。そのためにはいろいろな「手がかり」の工夫が欠かせません。この「手が
かり」については、後でもうすこし詳しく述べます。子どもが自分の意思を表
すようになるには、次のような流れを想定しておいていいように思われます。
まず、発声や、しぐさ、表情、視線、手を伸ばすことなどの手段で気持ちを表
そうとしはじめます。これらをおとながていねいに読みとることを続けるなか
で、しだいに場所や実物を手がかりとしたり、おとなの手をとって何かの方向
へ差しだそうとしたり、見ることのできる子どもであれば、指差しのようなこ
とも表れてきます。これらの手段によるやりとりが首尾よく展開するようにな
ると、そこに身ぶりサインや簡単な指文字が入っていく可能性が開けてきます。
わたしたちおとなは、サインというとすぐ手話や指文字などのかなり体系だっ
たものを考えがちで、盲ろう児にはサインが必要だからというそれだけの理由
で、すぐにそれらの体系だったサインを使わせようとあせる傾向があります。
けれども、そういったサインが使えるようになる前に、いま述べたような手段
でのやりとりがしっかりと出来るようになっている段階があることを想定し、
目のまえの子どもがいまどんな手段での意思の表出をしているのかを、よく見
極めておくことが大切になります。
きかれたものを指さす
手がかりを工夫しましょう
子ども自身が起こす行動だけでなく、まわりのおとなが意図的に環境を工夫
することで、子どもにとってわかりやすい「手がかり」をつくることができま
す。これらも有効なサインです。
(場所)
アリサちゃんのお母さんは、毎回特定のソファーの上でおむつの交換を行う
ようにしました。こうすることで、アリサちゃんは、そのソファーにつれてい
かれれば、おむつの交換がはじまるということがわかり、今度はアリサちゃん
みずからが、ソファーへ行くことで、「おしっこ」をお母さんに教えることが
できるようになります。
ダイちゃんがすわる食卓の場所はいつも決められており、その場所では食べ
たり飲んだりといった活動を主にして、遊ぶのは別の場所です。ダイちゃんは
お腹がすくと、自分からその食卓の椅子のところへ行って、待っているのです。
お母さんが、そのようすを見てお菓子を出してあげたりお茶を出してあげたり
します。
このように何かいつも決まったことをする場合、特定の場所でそれをするよ
うにすると、その場所が活動を表す手がかりになっていきます。その場所へ子
どもをつれていくだけで、子どもは今から何が始まるのかを予測することがで
きます。また子どもが自分からその場所へ行くことで、いつも活動をしようと
することをおとなに伝えることにもなります。いつも使うものも、置く場所を
なるべく固定しておくことはとても意味のあることです。子どもが、自分の慣
れ親しんでいる生活スペースのなかで自分のおもちゃの置いてある場所が決ま
っていれば、その方向へ顔を向けたり、手を伸ばしたりするというようになっ
ていくからです。
(ひと)
人も重要な手がかりです。いつも一緒にいるお母さんはいうまでもなく、保
育所や学校の先生、ボランティアなど、おおくのひととかかわりあう時、子ど
もにとっていま自分の相手をしているひとがだれであるかを知ることは重要な
ことです。目と耳が不自由な子どもの場合、顔や声だけでそのひとが誰である
のか判断することが困難です。ですから、なにか別の手がかりを工夫する必要
があります。すぐに誰々だとわかるような特別な触り方による合図を考案して
みるのもいいでしょう。最初は、眼鏡や髪の毛や髪飾り、髭などを触って、そ
れを手がかりにしてひとを区別する子どももいます。
わたしはヤスくんと会うときには、いつもまずヤスくんの手をとって、その
手をすっとわたしの腰ベルトのバックルに導き、それに触れてもらいながら、
「○○○ですよ、こんにちわ」と声をかけるようにしています。ベルトのバッ
クルがわたしの手がかり(ネーム・サイン)なのです。わたしが会うときにい
つも一緒にいるもう一人の人は、腕時計が合図になっています。こうすること
で、ヤスくんはひとの見分けをつけやすくなっているわけです。このごろ、ヤ
スくんはわたしと出会うとすぐに腰や腕を自分から触りにくるようになりまし
た。
もし、好きな香水をいつもつけるという習慣のある人であれば、それもよい
手がかりになるでしょう。その場合、香水はなにか特定のものであるほうがい
いでしょう。このような独特の香りは、あなたが子どもから少し離れていると
きでも、近くにいることを子どもに知らせる働きをします。
子どもがある程度あなたを見たり、あなたの声をきいたりすることができる
場合でも、このようなネーム・サインは有効です。なぜなら、ぼんやりとした
視覚像や、あるいはわずかな耳からの情報だけでは、その人が誰であるかを判
断するのに十分ではないかもしれないからです。
ネーム・サインの時計を触って誰かを知る
(もの)
場所や人以外に、もの(実物)を手がかりにすることもできます。
アリサちゃんのお母さんは、毎朝、保育所へいくときは保育所の黄色いカバ
ンを差し出します。「さあ、これから保育所だね。
」と話しかけるのです。とこ
ろがたまに、朝からお出かけするのに保育所へ行かない日もあります。おばあ
ちゃんの家へいったり、お買いものへいったりすることがあるからです。以前
は、なにも告げないで車に乗り込み、出かけると途中からアリサちゃんがきゅ
うに機嫌をわるくし、暴れ出すということがありました。アリサちゃんとして
は保育所へいくつもりだったのでしょう。そこで、保育所とは別の場所へいく
ときは、別のカバンを用意することにしました。こういったカバンの手がかり
を用意することでアリサちゃんは混乱しなくてもすむようになりました。
ヤスくんは、いくつか並べられた箱のいちばん左端の箱の中に入れられた小
さな指人形を取り出します。これはいつも数の学習のときに使っている教材の
一つです。今日やる最初の活動は、数の学習であることがわかり、そのための
準備に入ります。この学習が終わると、ヤスくんはまた指人形をもとの箱にも
どし、次に右隣の箱から、小さな木のブロックを取り出します。こんどは組み
木遊び・・・という具合に、ある活動を表す実物が用意されていると、子ども
はそれによって「次に何をやるのか」という活動の予測がつきやすくなるので
す。ヤスくんは、こちらが箱
に入れておいた実物の順番を
自分から変えてしまうことも
あります。
このように、毎日の生活の
なかでいつもきまってする活
動を表す手がかりとして、それぞれの活動のなかで子どもが実際に使うモノや
子どもにとって特定の活動を象徴するものなどが利用できます。これらはよく
「オブジェクト・キュー」と呼ばれたりします。こういった特定の活動を意味
するオブジェクト・キューを示すことで、いまからなにをするのか(いまは何
をする時間なのか)を、子どもが理解しやすくなります。
たとえば、顔を洗うときには、いつも使っているタオルを示して、それに触
ってもらったり、よく見てもらったりしたあとに、顔を洗う活動にはいるので
す。そうすれば、子どもはいきなり顔に水をかけられてびっくりすることもな
くなるでしょう。このような合図なしに、びっくりするような経験ばかりを積
むことになると、不安と恐れのために活動そのものに拒否的になったりしかね
ません。食べる活動のまえに、エプロンを見せ、触ってもらうことは、よく行
われていることではないでしょうか。これも次の活動の手がかりとして重要な
ことのひとつでしょう。活動や行き先が異なる場合はそこで用いるものを違え
るということも、手がかりとして有効な工夫のひとつです。
手でお話しすること
実物を手がかり(オブジェクト・キュー)にすることの他に、身ぶりや触り
かたを工夫することで手がかりを提供することも可能です。子どもの身体に、
とくべつな触りかたや身ぶりをして「誰がいま話しかけているのか」「つぎに
何がおきるか」等を伝えるのです。たとえば、子どもに近づくとき、そっと軽
く子どもの手の甲に触れて、あなたが来たことを伝えることができます。こう
いった何気ないことも、触られる子どもにとってみれば、重要なことです。合
図もなくとつぜんひとが近づけば、だれしも驚き、不安に思うものです。また、
子どもを抱いて動かそうとするとき、とつぜん持ち上げられ、どこかわからな
い場所にいきなり降ろされれば、誰もが萎縮してしまうでしょう。こういった
時も、子どもの脇の下に手を入れ、わずかに持ち上げるしぐさをしてみせるこ
とで、これから抱き上げることを知らせることができます。どこに降りるかも、
たとえば車椅子に座るのであれば、車椅子の座面におろすちょっと手前で、子
どもの身体の一部を車椅子に触らせて「さあ、これから車椅子にすわろうね。」
とひと声かければ、子どもは次に何がおきるかの手がかりを得ることができる
のではないでしょうか。予告や情報提供に限らず、あなたが子どもにしてほし
いことを伝える場合にもこの合図は利用できるでしょう。たとえば、子どもが
ギュッと握っているモノを離してほしいとき、その子どもが握った手の甲を軽
くトントンとたたいてみることが、「手を開いて。」という意味の合図にもなる
でしょう。このような、身ぶりや触り方での合図を「タッチ・キュー」と呼ぶ
ことがあります。
トランポリン遊びでオブジェクト・キューとタッチ・キューを使ってのやりとり
オブジェクト・キューにしろタッチ・キューにしろ、触覚を手がかりにする
合図を使う場合、いつもできるだけ同じような仕方ですることが必要です。時
と場合でいろいろ違いがありすぎると、子どもはその合図がいったいどういう
意味のものなのか、判断しづらくなってしまいます。ある特定の合図が、いつ
も決まった意味をもつということがわかるようになれば、活動への予測がつき
それゆえにまた、安心感も育っていくことでしょう。
必要性の高いものから
いろいろなものが合図として利用できるとしても、最初から何でもかんでも
合図にしようとあせる必要はないと思います。手がかりを豊富に用意すること
は大切なことですが、それを実際に利用するのは子どもです。ですから、子ど
もにとっての必要性ということも考えておく必要があります。生活の中で、ど
ういったところに合図をいれていけばいいか、それはその子どもの生活のよう
すをいちばんよく知っている人の考えをまず尊重するのがいいでしょう。実際
には、家庭であればその子どもの養育をしている母親や父親、あるいは兄弟(姉
妹)。保育所や学校であれば、担当している先生になります。どこかでこんな
サインが入ったという話しをきくと、すぐ目の前の子どもにも使えるのでない
か、と思ってしまいがちですが、実際には、子どもはみんな一人ひとり違うの
です。生活の仕方も、興味も。ですから、その子ども子どもで特有のサインか
らはじめていっこうにかまわないのです。だいじなことは、その子どもにとっ
て少しでも分かりやすい環境をどうやって用意するかなのですから。
指文字や手話の導入について
子どもが注意を向けるものに大人も一緒になって注意をむけるうちに、次第
に子どもの方が大人のすることや大人が指し示すものにも注意を向けてくるよ
うになっていきます。そういったことが頻繁に生じるようになると、ある話題
について大人がする説明に子どもが注意をむけてくるということも生じてくる
でしょう。
アリサちゃんは、それまで周囲の出来事にたいしてほとんど注意をむけるこ
とがありませんでした。ところが、お母さんやボランティアさんたちがアリサ
ちゃんが興味を持つものに、一緒に注意を傾けてそれらをめぐって遊ぶことを
続けるうちに、次第に周りの様子を気にするそぶりを見せるようになってきま
した。あるとき、いつもくるはずのボランティアさんがきません。アリサちゃ
んはなんとなく、そわそわし始めました。今日いつものボランティアさんは、
かぜでおやすみなのです。お母さんはいつアリサちゃんが怒り出すか気がきで
なりません。こういうとき、アリサちゃんは怒り出すとどんどんエスカレート
して自傷行為をし始めるのです。お母さんは、アリサちゃんの顔をまっすぐに
みつめながら、身ぶり手振りを駆使して、「○○さんは今日はかぜでおやすみ
だよ。」と話しかけました。以前のアリサちゃんだったら、すぐにその場をは
なれてうろうろし始めるところです。それが、この日、アリサちゃんはお母さ
んの身ぶり手振りを、おそらくはぼんやりとした見え方ながらもじっと見てい
ました。そして、何やら不思議そうな様子できょろきょろし、そして結局怒り
出すこともなかったのです。
このように、相手からの働きかけにじっと注意をむけるようなそぶりがみら
れるようになると、サインの導入が効を奏することが生じてくるようです。見
ること、聞くことが不自由な場合も同じように、大人の説明に「何だろう?」
という興味をもって向かってくるようなそぶりが見られないうちは、なかなか
サインが入っていきません。大人がやってみせた身ぶりやサイン(指文字)を
おもしろがったり、真似してみようとしたりすることがあれば、楽しいやりと
りの中でサインの導入が図れるかもしれません。
子どもがこちらの説明に注意を傾けてくれるようになると、指文字や種々の
サインの導入を図ることが出来るようになります。また、簡単な身ぶりや実物
を使った手がかりだけでは伝えきれないことがたくさん出てくるようになるこ
とも次へ進むひとつのきっかけとなります。何をどのように入れていくかは、
子どもによって違うので方法が一律に決まっているわけではありません。通常
は、その子どもにとって縁の深いもので、しかも必要性の高いものから導入さ
れていきます。その際、子どもとかかわりを持つ人の内、できるだけ多くの人
が、指文字なら指文字、サインならサインを使えるようになっていることが望
ましいとおもわれます。同じ内容を表すサインが使う人によって違っていては、
子どもが混乱してしまうからです。
アリサちゃんのボランティアは、アリサちゃんに自宅にきてもらう計画をた
てました。アリサちゃんの家から帰ってくるとき、いつもアリサちゃんが「こ
の人はどこへ行くんだろう?」という疑問を抱いているように思えたからです。
そこで前もって自宅の様子をビデオにとっておき、それをアリサちゃんに見て
もらいました。アリサちゃんはテレビの画面すれすれに顔をつけて見てくれま
した。それから数日後、お母さんが玄関先でアリサちゃんに「○○さんの・い
えへ・行こう」と指文字、手話を使いながら説明して聞かせ、同時に○○さん
を表すオブジェクト・キューの時計と、車のシートベルトのバックル(外出を
意味するオブジェクト・キュー)を示し、そして車でボランティアである○○
さんの家へと向かいました。ボランティアの家についてその玄関先で○○さん
が顔を出すと最初は、驚いたような顔をしていましたが、すぐに喜んで家の中
に入り楽しく遊んで帰ってくることができました。それからしばらくして、今
度はアリサちゃんが自分から指文字と身ぶりを使って、「○○さんの・いえへ・
行こう」と発信したのです。
このような演出をときどきしてみることも有効なことでしょう。子どもにと
ってわかりやすい状況を用意することの中で、サインの効果をきわだたせるこ
とを考えてみることも必要かもしれません。
コミュニケーション・システム
コミュニケーションの手段として考えうるものはさまざまなものがあります。
いまざっとあげてみると、臭い・身体の動き・味・しぐさ・身ぶり・視線・発
声・音声言語・絵画・写真・絵文字・記号・点字・各種の指文字・各種の手話・
指点字などなど、多種多様です。ただ、実際に手段を利用するのは子どもたち
一人ひとりなのですから、一つの方法や形を用いればそれでよいということで
はありません。子どもの障害の状態によっても違いますし、特にその子どもが
利用できる感覚はなにで、それはどの程度利用可能かによっても、違ってくる
はずです。すでに述べたことの繰り返しになるかもしれませんが、子どもたち
一人ひとりの暮らしぶりや、個性に着目して、それぞれの子どもに適したコミ
ュニケーションの手段や方法を見つけだすことが大切です。また目と耳が不自
由といっても、わずかでも視力が残っているなら、それらの視覚活用のための
工夫が必要になるでしょう。聴力がある程度残っていたり、わずかでも音が聞
こえているなら、いろいろな手がかりとしての合図を用いることに加えて、い
つも出来るだけ耳もとではっきりとしたことばと大きな声で話しかけていくこ
とが必要です。こういった感覚器官の活用については、専門の教師や研究者、
医師、訓練士からの情報が参考になります。
手書き文字 指文字 指点字
さまざまなエイドの利用
近年、電子工学の進歩のおかげで、種々の機器がコミュニケーションにおい
て利用できるようになってきています。子どもが現在もっているちからで、も
っと確実に表現できるようにと、さまざまな支援機器が開発されているのです。
たとえば、わずかな指の力でスイッチを入れることで「おはよう」等という音
声が出る装置(これら音声コミュニケーション・エイドをボカ:VOCA と呼ん
でいます)や、いくつかのボタンがあって、それらを押し分けることで、いろ
いろな機能が実現できる装置などです。これらの装置をつかうことで、他のひ
とに自分の表現を受け取ってもらえる喜びを感じる子どもや、より積極的に自
分から他のひとへ働きかけようとする子どもがいます。これまで、子どもが身
体ひとつで出来ることを重視しがちだったわが国では、こういった支援機器の
利用や、それらを利用して周囲の人に援助を求めることがまだ一般的なことに
なっていません。今後、こういったコミュニケーション・エイドの利用につい
ていっそうの検討がすすむことを願っています。
コミュニケーション・エイドをつかう
話しかけることを忘れずに
この子どもは、聞こえないし、かつ見えないんだ、という思いにとらわれは
じめると、おとなはしばしば音声言語で話しかけることを次第にしなくなって
しまいがちです。特に病院の検査などで「この子の耳はぜんぜん聞こえていな
いようだ。」と指摘されたりした場合、
「この子にはなにを言っても聞こえない
んだ。」と思って、子どもに向かって話しかけることをあきらめてしまうこと
があります。けれども、わたしたちはこれまでの経験から、たとえ耳から情報
をえることがむずかしい子どもの場合でも、音声言語で話しかけることは重要
なことだと考えています。
赤ちゃんを育てるとき、その子どもがわかろうがわかるまいが、母親はいろ
いろなことを語りかけます。赤ちゃんの世話をするときに、黙ってするのでは
なく、いろいろな話しかけをしながら世話をしています。こういった話しかけ
は、実は重要な意味をもっているのです。わたしたちが、ひとと何かやりとり
するとき、黙ってすることはよほど特別な場合以外にないでしょう。たいてい
は音声言語をともなわせ、語りかけつつやっています。
例えば、小さなブロックを子どもに渡そうとするとき、「ほら、**ちゃん。
これは、赤いブロックだよ。」と語りかけつつ渡すでしょう。このとき、実際
にブロックを手渡すという身体の動き(動作)は語りかけることばのリズムと
密接に関連しているのです。試しに、あえて黙ってやってみてください。何か
とても不自然で、しかも子どもとのやりとりにおいて、どこかタイミングがず
れてしまう感覚を感じるはずです。やりとりは、このようにお互いのリズムや
タイミングに支えられており、そこでは音声言語による語りかけのリズムが調
整の働きをしているのです。ですから、リズムにうまくのって身体を動かすた
めにも、ことばで語りかけることは重要なことなのです。
さらに、子どもが耳からじゅうぶんな情報は得られないとしても、イントネ
ーション、声の抑揚、調子、吹きかけられる息のようすなどが、やりとりをた
すける大切な手がかりになる場合もあります。あるいは、ある時期、聞こえな
いと思われていた耳が、成長の過程で、しだいに聞こえるようになってくるこ
ともあるのです。ですから、きめつけたり、あきらめたりせずに、「自然な」
調子で話しかけることをすすめたいのです。
抱かれて声であやされる
子どもと気持ちや思いを分かちあうこと
赤ちゃんは育っていく過程で、数え切れないほどたくさんのことばを聞いて
育ちます。おしゃべりをはじめる前に、たくさんのことを「聞く」時期がある、
ということは心にとめておいていいことだと思います。おとなが子どもに、そ
の子がわかることばや合図でたくさんお話することがまずあって、それからそ
の子が合図やことばを使いはじめます。しかしこういうと、なにより刺激を与
えることが大切だと考えて、やたらといろいろなものを触らせたり、見せたり、
聞かせたりしがちです。経験はたしかに大事なことですし、目と耳が不自由な
子どもをはじめ何らかの障害を持つ子どもは、経験が不足しがちであることは
否めません。けれども、だからといって、なんでも経験させればいいのかとい
うとそうではないのです。たくさんのことばを聞く時期も、いろいろな経験を
積む時期も、いつもそこで生じていることは、おとなと子どもが気持ちや思い
を分かち合っているということです。「やりとり」の項でも述べたように、た
だ一方的に働きかけることではなく、子どもとやりとりするなかで感情、考え、
興味などの思いや気持ちを分かち合うことがコミュニケーションのベースなの
です。おとなはもちろんのこと、子ども自身があなたとなんらかの交流をした
い、いっしょに思いや気持ちをあなたと分かちあいたいと思っているでしょう
か。このような関係のありかたこそが、コミュニケーションの成り立ちにおい
て決定的なことであるのです。
コミュニケーションについて考えるとき、ともすればコミュニケーションそ
のものがなにか特別のゴールのように思いがちです。以上に述べたような初期
からのコミュニケーションの拡がりのうえに、さらには、体系化された手話や
指文字、指点字などの世界がひらけていくことでしょう。しかし、そのような
手段の獲得やその高次化が目指されるべき本来のものなのでしょうか?子ども
と係わりあうというときにコミュニケーションのことをぬきにして考えること
は確かにできません。けれども、大切なことはコミュニケーションの手段や方
法を使うことそれ自体ではなく、コミュニケーションを通じて子どもが安心感
や見通しをもち、生活に向けて積極的になることであり、子どもが生活のなか
で出会うさまざまな困難に立ち向かうたくましさをもち、生活そのものがより
豊かで拡がりのあるものになっていくことであるのです。
(菅井裕行・土谷良巳)
子どもと楽しく遊ぶために
子どもは遊ぶために生まれてくるとも、また遊ぶことで子どもは育つともい
われます。それほど子どもにとって、また子どもが育つうえで遊びは大切なも
のです。わたしたちはだれでも、夢中になった子どものころの楽しい遊びをな
つかしく思い出すことができます。親や教師にとっても、子どもと楽しく遊べ
たときの喜びはたいへんなものです。逆にいくらがんばっても子どもと楽しく
遊べたと感じられないとき、子育てのなかに空しさといったものを味わうこと
になってしまいます。とくに幼い子どもを育てる道筋では、「子どもが楽しく
遊ぶ」ことは、「子どもと楽しく遊ぶ」ことと同じであるといえるのです。
目と耳が不自由な子どもの場合でも遊びの大切さは変わりません。いや、目
と耳が不自由だからこそ遊びを大切に考える必要があります。障害があると訓
練や治療に目が向きがちになりますが、障害があってもなくても、子どもの育
ちにおいて遊びの価値に違いはないのです。訓練や治療に時間をかけるぶんだ
け、遊びをいっそう充実させることが必要になります。
しかし、目と耳が不自由であったり遅れがあると、子どもと楽しく遊ぶこと
がむずかしいと感じられることが多いものです。例えば子どもの目が不自由だ
と、たとえ楽しく遊んでいてもお母さんの方を見てにっこり微笑むといったこ
とが起こりにくいので、親や教師は子どもの楽しさを実感しにくいということ
があります。また耳が不自由だと、「楽しいね。」といくら話しかけても子ど
もに通じていないように感じてしまうことがあります。ですから、おとなは子
どもの心のうごきを察して、嬉しい、楽しい、あるいは悲しい、つまらないと
いった子どもの感情がじょうずに表現されるように、ふだんから声かけしたり、
身ぶり手振りをそえたり、あるいは子どもの身体へ直接働きかけて、子どもの
気持ちや感情を分かち合い、その表現をたすける必要があります。
また、目と耳が不自由なことで、遊びを拡げようとしても、なにかと妨げに
なることがあるのも事実です。そこで、目と耳が不自由な子どもの遊びを拡げ、
子どもと楽しく遊ぶためにはいくつかの工夫が必要になってきます。
興味・関心を見つけよう
子どもと楽しく遊ぶための近道は子どもの興味・関心を見つけだし、そこか
ら一緒に遊びを作っていくことです。
ハルちゃんは全盲で耳もほとんど聞こえません。そのため絵本を読んだり、
歌を聴かせたりするだけでは遊びにはなりません。しかもハルちゃんは手に玩
具をもたせようとしてもすぐ手を胸もとに引っ込めてしまい、ものを持ってく
れませんでした。ハルちゃんがものに手を出さなくなったのにはそれなりの理
由があるのですが、それは後で考えることにします。ぬいぐるみやガラガラと
いった乳幼児の好む玩具さえ手にしないようでは、いったいどこから遊んでい
いものやら、わたしたちは困ってしまいました。
ハルちゃんは床にうつ伏せになると、腰のあたりを中心に身体を揺すりはじ
めます。このハルちゃんの身体揺すりに合わせてお尻のあたりを軽くさすって
みます。ハルちゃんはそれが嬉しそうで、かすかに声を出しながら身体揺すり
を続けます。そこでつぎに背中をトントンと合図してからなでてみます。ハル
ちゃんはますます身体揺すりを続けます。そのうちにハルちゃんは、わたしが
お尻のあたりをさするとお尻を強く揺するようになり、背中をなでるとそのあ
たりをゆっくりと動かすようになりました。ハルちゃんが持っていた身体を揺
するという動きが、わたしとハルちゃんとのやりとり遊びになっていったので
す。
このように、子どもの興味や関
心はまず子ども自身の持つ動きや
表情、しぐさのなかに見つけるこ
とができます。ハルちゃんのよう
に子ども自身の身体の動きの場合、
手や指の細かな動きであったり、
なにかを蹴るような足の大きな動
きであることもあるのです。また、
振動を感じ、ひとやものを触りに
くる手の動きに表れている場合も
あります。さらに風や光に顔を向けるその表情のなかに見つけることができる
場合さえあります。
いっしょに遊ぼう
興味や関心のありかをみつけたらいっしょに遊ぶことです。といってもいき
なりおとなが手を出したのでは、子どもの遊びをじゃましてしまったり、子ど
もをとまどわせてしまうことになりかねません。
まず、子どもがしたいことをもっと楽しめるように手をかすことです。
アリサちゃんは弱視です
が耳はほとんど聞こえませ
ん。そして抱っこしてもら
うことが大好きでした。と
くに立って抱っこしてもら
うと、おとなの腕のなかで
のけぞるような動きをはじ
めます。アリサちゃんが落
ちないようにと、おとなが
腕に力を入れて支えてくれ
るのが楽しいのです。繰り
返し繰り返しのけぞるアリ
サちゃんにおとながじょうずに応じることで、この動きはどんどん変化し楽し
い遊びになっていきました。ときには 2 時間 3 時間と続くことがあります。こ
んな動きをそんなに長時間繰り返して、どんな意味があるのかとおとなは心配
になってくるものです。アリサちゃんはのけぞる動きをおとなと一緒になって
長時間楽しんでいるのですが、それだけではありません。じつはおとなが一緒
に楽しんでいることが彼女に伝わることで、アリサちゃんは抱っこしてもらっ
ているおとなに受け入れられているという実感を深く味わっているのです。そ
ういう意味深い 2 時間であり 3 時間なのです。ですから時間が長いから、疲れ
てしまうからという場合でも、それだけでやめてしまわずに、いっしょにやる
ことでもっと楽しくなるように、また係わり手もともに楽しめ、喜びあえるよ
うに、遊びをすこしずつ変えていくことを工夫してみることが大切になります。
遊びのなかのやりとり
ハルちゃんの場合もアリサちゃんの場合も、遊びが係わるおとなとのやりと
りになっていくことで、より楽しいものになっていきました。ここでは遊びの
もつやりとりの側面について考えてみます。
ノゾミちゃんの目は明暗を感じる程度ですが、お父さんやお母さんの声を聞
き分けることができ、歌をうたってもらうことが大好きです。小さなタンバリ
ンをたたいたり振ったり、またお皿をテーブルの上でがちゃがちゃとはねらせ
て、音を作りだしその響きに耳を寄せて聞き入ります。ノゾミちゃんがテーブ
ルの上でお皿をいじってがちゃがちゃと音をたてているときに、それに応じて
真似するようにテーブルをコンコンとたたいてみました。ノゾミちゃんがお皿
をがちゃがちゃとさせる、わたしが真似てテーブルをコンコンとたたく。また
ノゾミちゃんがお皿をがちゃがちゃとさせる、わたしがテーブルをたたいてコ
ンコンと音をだす。この繰り返しです。ノゾミちゃんがお皿で作るがちゃがち
ゃという音をわたしが真似て、テーブルをコンコンとたたくことを繰り返して
いくと、二人の間に掛け合いのようなやりとりができてきます。ノゾミちゃん
が自分からやりだしたお皿遊び、その音をわたしがテーブルをたたいて真似を
する。このやりとりのイニシアチブ(主導権)はノゾミちゃんが持っていまし
た。わたしが真似ていくなかで、ノゾミちゃんはますます熱心に、積極的にお
皿をいじって音を出すようになっていったのです。真似っこが掛け合いになり、
二人のやりとりがお互いに響き合うものになっていったといえます。
そこでわたしは木でできた大きな箱太鼓を用意し、ノゾミちゃんの脇で両手
でたたいてバンバンと音を出してみました。誘ってみたわけです。ノゾミちゃ
んはすぐにその音に気づき、手で探しはじめます。手が箱太鼓にとどきました。
すかさずわたしがバンバンとたたきます。ノゾミちゃんは両手を箱太鼓の上に
おいて耳で音を聞き、手で振動を受けようとしています。わたしはリズムをつ
けてバンバンとたたきます。ノゾミちゃんの手が太鼓から離れます。わたしは
たたくのを止めます。不思議そうな顔をしてノゾミちゃんが再び箱太鼓に両手
をおきます。すかさずわたしはバンバンと。これで掛け合いのかたちができま
した。ノゾミちゃんの手が太鼓におかれたらわたしがバンバンとたたく。その
手が太鼓から離れたらたたくのをやめるというわけです。わたしが箱太鼓をた
たいたり、たたくのをやめるのはノゾミちゃんの手の動きによっています。そ
の意味でここでもノゾミちゃんのイニシアチブがあります。
でもそれだけではありませんでした。この掛け合いのなかでわたしは箱太鼓
のたたきかたに変化をつけることができました。高い音低い音をたたき分けた
り、たたくリズムを変えたりと・・・。ノゾミちゃんも手首を太鼓につけてお
いて手のひらだけを太鼓から離すようにしてみたり、逆に指先だけ太鼓につけ
たり、右耳をつけたり左耳をつけたり、おでこをつけたり、くるりと身体の向
きを変え頭の後ろをつけたりというように、音を聞き、振動を受ける楽しみか
たをつぎつぎと工夫し変化させていったのです。わたしが箱太鼓のたたきかた
に変化をつけたこと、バリエーションをつけたことでノゾミちゃんの受け方が
拡がっていったと考えられます。
わたしが箱太鼓をたたく手を休めていると、ノゾミちゃんは太鼓の上に手を
おき、その手をすべらせてわたしの手に触れてきました。そこでわたしは太鼓
をたたきはじめます。ノゾミちゃんの手が太鼓から離れる。わたしがたたくの
をやめる。ノゾミちゃんの手が箱太鼓の上のわたしの手を触りにくる。わたし
が太鼓をたたく。新しいやりとり遊びのはじまりです。ノゾミちゃんはこのや
りとり遊びのなかでわたし(の手)を求めています。この繰り返しのなかで、
ノゾミちゃんはわたしの手のひらのなかにその小さな手を入れ、わたしといっ
しょに箱太鼓をたたくようになっていきました。もちろんその次には自分で箱
太鼓をたたいて音と振動を作り出したのです。小さなノゾミちゃんの手が作り
出す音と振動はまだまだ弱いものなので、その音を振動を十分に楽しむことは
できません。そのようなときは、ノゾミちゃんはわたしの手をとってやってく
れといいます。
手でさぐる遊びの大切さ
ノゾミちゃんが箱太鼓をたたく遊びのなかで、手の動きでわたしを求めるよ
うになったように、見ることが不自由な子どもの場合、手でひとやものを触り、
探り、確かめることがひときわ大切になります。手の動きのなかにその子ども
の心のうごき、興味や関心、不安や恐れが表れているといってもよいのです。
まえにハルちゃんが、ぬいぐるみや玩具を手に持たせようとしても触らず、
手を胸もとに引いてしまうということを述べました。このようにものに触るこ
とさえも拒むような状態は、けっして好ましいものではありません。ハルちゃ
んがどうしてこのような状態になったのか詳しいことは分かりませんが、多く
の場合、手で触ることが大切ということで、むりやりにでもものに触らせよう
としがちです。ところが、いきなりであったり、子どもの気持ちに反していた
りすると、子どもは手を引っ込めてしまうようになるようです。目が不自由な
だけに、手をとられてものに触らせられることは、ある意味で恐怖をともなう
場合すらあります。
ハルちゃんと身体揺すりの遊びをしているとき、ハルちゃんの手がかたわら
にいるわたしの手首に触れました。ハルちゃんの手はわたしの手首をグリグリ
と握るように動きます。そこでハルちゃんがわたしの手首を触りやすいように
となりで並んで寝てみました。ハルちゃんの手は手首からシャツの袖口へと入
っていきます。真剣さが混じった笑顔がみられます。ハルちゃんがわたしをさ
ぐりはじめたのです。袖口からではなかなか奥に入っていけないためか、ハル
ちゃんの手がわたしの腕から離れてしまいました。その手はなにかを求めるよ
うに仰向けに寝たハルちゃんの顔の上に伸びてゆらゆらと動いています。そこ
でわたしはハルちゃんの手にちょうどわたしの顔が触れるようにしてみました。
一瞬ハルちゃんの手の動きが止まったように見えましたが、すぐにその手はわ
たしの顔をさぐりはじめました。
顎、鼻、口、目、耳、額と顔中
から頭へと手の動きは拡がって
いきます。つぎは喉です。そこ
でわたしは大きな声で「ハルち
ゃん」と繰り返し呼びかけまし
た。喉が作り出す音と振動がま
すますハルちゃんのさぐる動き
を活発にしていきます。喉から
首もとへと動いた手はそのまま
襟ぐりから奥へ入っていきました。ぬいぐるみや玩具といったものに触ること
を拒んでしまうハルちゃんの手が、わたしの手首や顔や喉をさぐっています。
目と耳が不自由な子どもにとって、ひとの身体、ひとの肌をさぐる動きは、も
のを触ることとは別の意味があるようです。それは係わりあうひととの絆に支
えられた動きであるだけに、大切にしたいものです。その動きから、先に述べ
たやりとり遊びを作っていくことができることは言うまでもありません。
わたしの身体をさぐりはじめたハルちゃんはその後、わたしの手の甲に自分
の手を重ねるようにおき、そのままわたしとともに(わたしの手の上から)オ
ルゴール人形をならし、その振動を手で感じる楽しさを知っていきました。や
がてわたし(の手)からハルちゃんに手渡すオルゴール人形を、ハルちゃんが
自分の手でつかみ、その振動を楽しむようになり、その後座ろうとする椅子の
背もたれや、スプーンをさわるようになり、お母さんや先生から手渡される玩
具を手で持つようになっていったのです。
ハルちゃんの場合は、ひとの手や肌に触り触られるというなかから、手で玩
具をあつかう遊びが拡がっていきました。子どもによっては、手にしたものは
何でも口にくわえてしまい、手にもって遊ばないことが長く続くことがありま
す。そのような場合でもわたしたちが目を向けなくてはいけないのは、子ども
が手で触り、口にくわえたものをさぐろうとしている動きであり、その動きが
拡がるように手だすけすることです。このさぐる動きこそが子どもがものやひ
とと係わりあう世界を拡げる原動力になるのです。目と耳が不自由な場合には、
手や口でさぐり、味わうことがことさらに大切になります。
身体の動きを楽しむ
手でひとの身体をさぐる動きが活発であれば、子どもとおとながお互いの身
体を使ったやりとりを作り出すことができます。床に並んで寝て、おとなが子
どもの身体の上をおおうようにして反対側に移り、子どもがおとなの身体をさ
がすのをまちます。つぎに同じようにしてもとの位置にもどります。すると子
どもはおとなが反対側に移ったことを知り、そちらに顔の向きを変えるように
なるでしょう。動きだすまえに手で軽く合図を送ったり、「こっちだよ。」と
声をかけることで子どもはおとなの動きを予測するようにもなります。もう少
し大きな動きとして、床に寝たまま子どもを抱いてゴロゴロと床を転がりまわ
るのも楽しい遊びになるでしょう。
目と耳が不自由な場合には大きく身体を動かす遊びが乏しくなりがちですが、
このように子どもとおとなが身体をつけあって床や壁といった枠がはっきりし
た場所でいっしょに動くことで、子どもが身体を動かす楽しさを見つけていく
きっかけを作ることができます。トランポリンにのる場合でも、ブランコやバ
ルーンにのる場合でも、あるいはスイングホースにまたがる場合でも、目と耳
が不自由なだけに、揺れや動きの繰り返しのなかに始まりと終わりの合図や揺
らしかたを子どもに伝える合図を入れることが大切になります。さらに身体の
どこかがフレームや鎖や床に触っていることで、繰り返される動きになんらか
の枠や基準が与えられ、子どもは自分の身体の動きをよく理解するようになっ
ていきます。
寝がえる、床をころがる、座る、立つ、歩くといった基本的な身体の動きは
できるだけ活発にしたいものです。ただ、目と耳が不自由であるので、まわり
の子どもやおとなの動きを見て真
似をするということがとても難し
いこともあり、運動の発達は遅れ
がちになります。ですから遊びの
なかで、またおとなと係わりあう
やりとりのなかで、これらの動き
をおもいっきり楽しむことが大切
になります。遊びが楽しいやりと
りになっていれば、子どもが起こ
す一つひとつの動きがおのずと目
的をもつようになり、動きを起こすこと自体が楽しい遊びとなっていくのです。
子どもが明るい窓の方やめだつ音のする方向に顔を向けて床を転がろうとし
たり、テーブルを手で伝って歩こうとするのは、自分のまわりをさぐろうとす
る活動のはじまりです。これは将来の自主的な移動につながる大切な動きです。
周囲をさぐる活動は移動によって支えられ、移動は周囲をさぐろうとする子ど
もの意思が生み出すのです。
遊びを拡げる:合図や手がかりで遊びにめりはりをつける
子どもがイニシアチブをもち、変化をつけつつ、楽しくいきいきと遊びを繰
りひろげるのはとてもすばらしいことなのですが、遊びをさらに発展させてい
くうえでは、もう一つの工夫が必要になります。
ダイちゃんはトランポリンにのることが大好きです。少し見える目でトラン
ポリンを見つけると手を前に差し出しながらゆっくりと歩いていって、トラン
ポリンに倒れかかるようにして、自分からのるようになりました。すぐに仰向
けになるのですが自分ではじょうずには跳ねることができません。腰を揺すっ
たりしてなんとか揺れを作り出そうとしています。わたしが揺すってやると嬉
しそうに声を出します。揺するのをやめるとまた腰を動かしはじめます。ダイ
ちゃんは腰を動かして揺すってほしいと催促しているように見えます。わたし
は揺するまえにダイちゃんの手をとり、その手でわたしの手を軽くたたくとい
う「ヤッテ」の合図を作ってみました。はじめのうちは合図にはなっていませ
んでしたが、徐々に、トランポリンをわたしが揺するのを止めるとわたしの手
をさわりにくるようになってきました。ダイちゃんがわたしに「ヤッテ」の合
図を送りだしたのです。わたしはトランポリンを揺すりながら「いち、に、さ
ん、・・・」と数をとなえていきます。そして「じゅー」とか「にじゅー」と
かで揺するのをやめます。そしてダイちゃんの手をとり、「オシマイ」の身ぶ
りの合図をその手に作ります。数をとなえるのは揺すっている間の合図を作り
たいからです。「そろそろ終わりだな」とダイちゃんに気づいてほしいのです。
もっともダイちゃんはほとんど聞こえないので、口を耳に近づけて大きな声で
数をとなえ、息を顔に吹きかけないと、この合図は伝わらないかもしれません。
わたしは、ダイちゃんの胸のあたりを軽くトントンと合図しつつ数をとなえる
ようにしています。トランポリンは大きく激しく揺らすことも、小さな揺れで
ゆっくりと揺することもできます。この違いを合図で伝えることも可能です。
大きく激しく揺らす場合にはダイちゃんの身体を大きく揺すってから「ヤッ
テ」の合図を作ります。小さな揺れの場合は、軽くダイちゃんの身体を揺すっ
てから「ヤッテ」の合図を作るわけです。このように、ヤッテ(ハジメ)やオ
シマイの合図を作り、数をとなえたり、決まった歌をうたいながら揺すったり、
揺すりかたに合わせてまた合図を作ったりと、遊びに変化をつけながら、その
変化に応じた合図を入れていくことで、遊びはやりとりとして徐々に拡がって
いくことになります。
ダイちゃんは篭のなかに手を入れ、篭いっぱいのおもちゃを次々と取り出し
ます。すぐに手放してしまうものもあれば、しばらく手にとり、両手でねじる
ように動かしてみることもよくします。ときにはそのまま口にくわえてしまう
こともあります。手の届く範囲であれば、おもちゃを見ようとすればダイちゃ
んには見えているのかもしれませんが、篭のなかに入ったたくさんのおもちゃ
となると、ダイちゃんにとってじっくりと見比べるということはとても難しい
状態でした。ですから、篭のなかから手探りでおもちゃを一つひとつ取り出す
のはとてもよい遊びなのです。
あるときダイちゃんが好きそうなおもちゃを箱のなかにふたつ入れて差し出
すと、両手でひとつずつ触ってから、気に入った方を手にとることができるこ
とが分かりました。この箱という手がかりが、その中からおもちゃを選ぶとい
うダイちゃんの活動を促したのです。
次にポイポイと捨ててしまうおもち
ゃを別の篭のなかに入れてもらうよ
うにしました。最初は、わたしが差
し出す篭などおかまいなしにポイポ
イと手放していましたが、だんだん
と、いらないおもちゃは篭のなかに
入れてくれるようになったのです。
するとほどなく、いったん捨てた(手
放した)おもちゃをもういちど篭の
なかから取り出すことがはじまりました。ここでも、いらないおもちゃを手放
すための篭があることで、ダイちゃんは必要なときそこから再びおもちゃを取
り出すことができることを理解したと考えられます。声かけや身ぶりのような
合図も、箱や篭のような道具も、子どもが遊びにめりはりをつけるうえで大切
な手がかりになります。
遊びを拡げる:ものをあつかうなかで
子どもが気に入る玩具とはどのようなものでしょうか。材質を考えた場合、
見た目、かたち、大きさや重さ、手触り、臭い、音や反響、口のなかに入れた
感じ、振動など、わたしたちの常識がおよばない部分がたくさんあります。そ
れは一人ひとり違っていてよいのだと思います。目が不自由なことに関しては、
縞模様などのコントラストがはっきりしたものや赤い光が子どもの見ることを
誘うことはよく知られた事実です。耳が不自由なことに関しては聞きやすい音
がそれぞれの子どもにあるようです。適度な振動が好きな子どもが多いのも事
実です。触覚や臭いとなると、子どもは一人ひとり独特な世界を持っていると
考えた方がよいようです。子どもが興味を持っているようであればなんであれ、
たとえわたしたちの常識を越えていても、それらのものを見たり、聞いたり、
触ったり、味わったりする活動を子どもの能動的な遊びとして大切にしてあげ
たいものです。わたしたちが子どもをよりよく理解できるようになるためにも、
いっしょに子どもの感覚の世界を味わうことが求められているともいえるでし
ょう。
遊びの内容はどうでしょうか。これはおもちゃをあつかう楽しさと言いかえ
ることもできます。おもちゃは子どもがあつかうものです。いじってみて何の
変化もないようでは、材質を味わう以外の拡がりは出てきません。子どもがな
にかをすると光の点滅や回転などの視覚的な変化が生じたり、音や振動が伝わ
ったりすること、つまりその子どもに合ったかたちのフィードバックが得られ
ることが大切になります。応答性があることともいえます。
子どもがスイッチを入れると人形が動き出す、扇風機がまわって風が吹いて
くる。あるいは木片を溝にそってスライドさせるとチャイムの音と振動が伝わ
ってくるというように、因果関係がはっきりと子どもに伝わることも大切です。
応答性や因果関係がはっきりしているなかで、子どもが自分でなしとげ、その
結果達成感・成就感を味わうことができるからです。
ボルト状にネジが切ってある丸い木製の棒とそれにあわせた木製のナットを
例にして、ナットを回したりはずしたりすることを考えてみましょう。この棒
の両端にナットがついている場合、右に回していくとナットはどんどん棒の中
心部へに進んでいきますが、左に回していけばいずれ棒の端からはずれてしま
います。ここにはナットを回転させる方向、つまり手や手首の動きの方向と、
ナットの進む方向、つまりナットを棒の中心部へ送るかそれとも棒からはずし
て手にとることができるかという、比較的分かりやすい関係があります。ブロ
ックを組み立てたり、ばらしたりする活動も似ています。最初から複雑なもの
を組み立てるのは難しいでしょうが、組み立ててあるものをバラバラにするこ
とは比較的取り組みやすいようです。一本の棒状のブロックにいくつかの穴の
あいたブロックを差し込み串差し状につなげたような場合には、一つひとつの
ブロックをはずすことはそれほど難しいことではないかもしれません。繰り返
すことで、またもとの状態にはめ込むことをはじめることもあるでしょう。ボ
ルトとナットの例にしても、このブロックにしても、かたちを部分に分解し、
それをまた構成するという遊びは、さまざまな事物やことがらの仕組みを理解
するうえでの基本的な認識の力を、まず触覚の世界で育てていることになるの
です。
ごちゃごちゃとたくさん集まっているおもちゃやその部品を手にして、子ど
もがそれらを一列に並べようとしたり、嫌いなものをすてて好きなものだけ集
めたり、あるいは材質や遊びの内容でグループに分けるようなことをはじめる
ことがあります。その並べ方や分け方は子どもなりのなんらかの基準によって
います。目や耳の障害の状態によっても、あるいは子どもの好みによってもそ
の基準は一人ひとり違っているでしょうが、この区別する、並べる、分けると
いう遊びのなかで子どもはさまざまな概念を育てているのです。そのなかに子
どものじゃまにならない程度におとなもいっしょに参加して、子どもが区別し、
並べ、分ける際に、取り分ける皿を用意したり、子どもの行為に身ぶりや声を
そえたりして、子どもが意図的に取り組むようにしてみてはどうでしょうか。
皿にあわせておもちゃを分けたり、分けるおもちゃの内容に応じて声や身ぶり
も区別されるようであれば、そこにひとつの記号が生まれたことになります。
ものや行為には名前があるということを知っていく第一歩なのです。
これまで目と耳が不自由な子どもと楽しく遊ぶことを考えてきました。楽し
く遊べることはとても大切なことですが、笑顔があればそれでよいというわけ
ではありません。ひとりで閉じこもってしまわずに、ひとと係わりながら、い
ろいろなものをあつかって遊んでいるかなと、ときには振り返ってみましょう。
また笑顔が見られなくても、真剣な表情で集中して取り組んでいるならば、そ
の遊びの中に子どもにとって、いまとても大切ななにかがあるのです。はじめ
に子どもは遊びのなかで育つと言いましたが、遊びのなかで子どもは考えるこ
とをはじめるともいえるのです。
(土谷良巳・菅井裕行)
日常の生活のなかで
分かりやすい環境を工夫する
わたしたちは目と耳から周囲の情報の大部分を得ていますので、目と耳がと
もに不自由な場合、身のまわりについてきわめてわずかな情報しか得ることが
できません。その結果子どもたちはたいへん分かりにくい状況のなかで生活す
ることになります。とつぜん暗闇のなかに入ればだれでも動こうとはしないも
のです。目と耳が不自由な子ども達の動きが乏しかったり、弱かったりする理
由のひとつにこの分かりにくさ、分かりにくい状況での生活ということがあり
ます。
目と耳が不自由な場合、眼鏡や白杖あるいは補聴器に代表されるようなさま
ざまな補助具をじょうずに活用することによって、子どもの動きがよくなり、
自信をもって活発に活動するようになることがあります。それは眼鏡をかけた
り、白杖をつかったり、補聴器をつけることによって、周囲のものの配置や動
き、あるいはひとの姿や動きがよく分かるようになるからです。ですから子ど
もの動きを活発にまた、よい動きにしようと思ったら、まず子どもたちが動き
やすい環境、つまり子どもたちの生活空間が分かりやすくなるような手立てを
工夫する必要があるのです。子どもに動きそのものを教えるのはその後と考え
てよいのです。
それでは分かりやすい生活や環境を作るとはどういうことでしょうか。目と
耳が不自由なのですから、視覚の分かりにくさ、聴覚の分かりにくさを補うの
は当然のことです。眼鏡をかける。拡大鏡をつかう。補聴器をつけるというの
は子どもの状態を少しでもよくしようという試みです。周囲の事物の明るさ、
色、コントラスト、模様を工夫していくらかでも視覚的に捉えやすくしたり、
子どもが取り入れやすい音を手がかりにつかうことなど、環境をより適切なも
のに変えていく工夫はとうぜん配慮しなければなりません。
しかしそれだけでよいのでしょうか。子どもたちは見ることと、聞くことと
の両方が不自由なぶん、触ること、振動を手がかりにすること、臭いをかぐこ
となどで補おうとします。つまり、視覚と聴覚の面でより分かりやすくするた
めの工夫に加えて、他の感覚とくに触覚、臭覚、味覚といった感覚の世界を中
心に生活を分かりやすくすることがきわめて大切なことになります。ささいな
ことですが衣服の前後を触覚的に区別しやすくするために、どちらかにボタン
を縫いつけることはその具体例です
さらに、ものがどこにあるのか、このひとはだれなのか、どこへいくのか、
次になにをするのかといった認識の基本にかかわる分かりやすさという面も考
えなくてはなりません。だれでも初めての場所では緊張していつものようなふ
るまいができないものです。慣れということがありますが、これもいろいろな
ことが分かっていくからこそのことで、なにひとつ分かることがなかったら、
いくら同じ状況を繰り返しても、事態はちっとも変わらないのです。
どのような情報を子どもに伝えなくてはならないか
ここでは、必要な情報を子どもにきちんと伝えるということから、分かりや
すくすることを考えてみます。
1)まず場所について知ってもらう必要があります。
自分のいる場所が分からないということほど不安になることはないのではな
いでしょうか。なにをするか、なにが起きるかは場所と深く結びついているか
らです。家のなかであればある程度は分かるでしょうが、学校や施設あるいは
よその家ではそうはいきません。はじめての場所では子どもが納得するまでじ
ゅうぶんに周囲をしらべてもらう必要があります。学校の教室など毎日のよう
に通う場所でも、毎朝教室のなかをしらべる子どもがいます。おとなは毎日同
じことを繰り返してむだな時間を過ごしているとか、まわりの子どもが迷惑す
るとか、はては常同行動だなどといいがちですが、子どもは毎朝教室に来て、
教室にあるさまざまなものが、今日もあるのかないのか、あるいは昨日と同じ
場所に同じようにおいてあるかということを確かめているのです。じつはその
ことは、わたしたちも見ることで一瞬にしてすませているのですが、触覚の世
界では組織的で緻密な探索が必要になるのです。
子どもが出入りする部屋や場所には、それぞれ手がかりになる目印を付ける
必要があります。例えばその場所や部屋を使う目的を表すものをドアにぶら下
げたり、絵カードを貼り付けたり、コントラストのある色や縞模様を描いたり、
曲がり角に点字のシールを貼るというように、子どもに適したものを考えてみ
るのです。
場合によっては、子どもの方で場所の手がかりをじょうずにつかんでいるこ
とがあります。学校の長く曲がりくねった廊下や階段を、日の射す方向や、音
の響きや、足もとの材質の変化から捉えています。ときには臭いや流れる風さ
えも重要な意味をもつことがあり、おとなにはなかなか気がつかない場合もあ
るので、歩いていた子どもが立ち止まり、なにかを待つような、確かめるよう
なしぐさを見せているときは、場所の手がかりを探っていると見てよい場合が
少なくありません。
場所や位置を知るさまざまな手がかり
2)係わり合いがはじまるのだということを伝えます。
子どもと散歩に出かけるとしても、いきなり子どもに靴をはかせようとする
ことはだれもしないと思います。「おーい」とか「∼ちゃん」とかまず呼びか
けてから散歩に行くことを子どもに伝えるものです。この呼びかけや名前を呼
ばれることで、子どもはひとからの働きかけがはじまるのだということを知る
ことができるのです。
目と耳が不自由な場合、声かけや子どもと視線を合わせようとするだけでな
く、子どもの身体へ直接合図を送ることで、子どもは呼びかけられたり名前を
呼ばれたりしたことが
分かります。この子どもの身体に直接触って送る合図をタッチ・キューといい
ます。タッチ・キューについては、「子どもとどうやってお話するか:コミュ
ニケーションについて」の項でも述べました。呼びかけの合図としては、子ど
もの手や腕を軽くなでることがよくある例です。また子どもの名前を呼びなが
ら、頬やあるいは胸を軽くなでることもよい方法です。いずれにしてもタッチ・
キューは子どもの身体に直接触れる合図ですので、子どもにとって理解しやす
くまた子どもが驚かないように工夫することが必要になります。
3)係わりをもつのはだれかということが分かるようにします。
子どもに声をかけながら挨拶すれば、あなたの姿や声であなたがだれである
のか分かる子どももいるでしょうが、それだけでは不十分な子どももたくさん
います。子どもから見れば、自分に働きかけてくるのがだれであるのかは、き
わめて重要な情報なのです。
ここではあなたの身体的な特徴やふだん身に付けているものがその手がかり
になります。例えば、髭はもちろん、つるつるの頭やあざのようなものでも、
子どもにとってはとても分かりやすい手がかりになります。あるいは眼鏡、時
計、ベルト、ブレスレット、ヘアピン、ときには香水の香りなどもよい手がか
りです。これらの手がかりをネーム・サインといいます。ネーム・サインにつ
いても、「子どもとどうやってお話
するか:コミュニケーションについ
て」の項で述べてあります。もちろ
んお父さんやお母さんのように身近
で大切なひとであれば、その手に触
れただけで、子どもはすぐ分かるよ
うになるでしょう。まずは、わたし
たちは自分のネーム・サインをなに
にするか楽しみながら考えてみまし
ょう。ネーム・サインにするために
ネーム・サインとしての腕時計
は、他のひとと区別でき・いつも・
同じという条件を満たさなければなりません。したがってあまり貴重なものや、
この世に一つしかないものは適切とはいえないことがあります。またものの場
合、それをもって歩くことで、だれに会いに行くのかを事前に子どもに伝える
ことができますし、それをしまうことでいまは会えないということを伝えるこ
ともできるでしょう。
4)なにをするのか、次になにをするのかということを伝えます。
着替えにしても、食事にしても、遊びにしても次になにをするかを子どもが
分かるようにすることはとても大切なことです。なにをするのか分からないま
ま、周囲でがたがたと音や振動がしたり、手足を動かされたのでは、子どもは
不安で縮こまってしまいます。おむつを替えようとするなら、替えおむつを子
どもに触ってもらい、同時にお尻のあたりへ合図を送ることで、子どもはおむ
つを替えることが分かっていきます。よだれを拭くならば、タオルを手に当て
て拭くことを伝え、次に拭くのは顔なのだということも伝えるとより分かりや
すくなります。椅子に腰かけさせる際には、椅子に触ってもらい、その椅子を
お尻のあたりに添え、お尻にかるくトントンと合図を送るというようにです。
このようなものの手がかりを、オブジェクト・キューといいます。オブジェ
クト・キューについても、「子どもとどうやってお話するか:コミュニケーシ
ョンについて」の項でも述べてあります。子どもが行う活動に深く関連してい
るものがオブジェクト・キューになるのです。食事の時間がきたことを知らせ
るには、スプーンやエプロン、あるいは子どもによっては食事用の椅子(に座
ること)でしょう。このようにオブジェクト・キューは子どもの生活と密着し
ていますので、一人ひとり違っていてよいのです。どのようなものを子どもの
オブジェクト・キューとするかを考える際には、わたしたちの常識にたよるま
えに、子どもの様子をじっくりとみることが必要になります。例えば、車で出
かけるということのオブジェクト・キューとして、おとなはすぐ車のキーを思
いつきます。ハンドルはどうかなどと考える場合もあります。精功なミニュチ
ュアを探してくるかもしれません。しかしこれらは必ずしも適切ではありませ
ん。なぜなら子どもがキーで車のドアを開け閉めすることはまずないでしょう
し、子どもがハンドルに触ることは普通は禁止されるようなことだからです。
またミニチュアで触覚的に車のかたちを理解するのは、大変難しいことといえ
ます。キーやハンドルやミニチュアは子どもが車に乗るということとあまり関
係のないものといえます。それではなにがよいのでしょうか。答えの一つはシ
ートベルトのバックルです。普段から子どもをチャイルド・シートに座らせた
り、シートベルトで安全を確保する習慣があれば、このバックルはとてもよい
オブジェクト・キューになるのです。
トランポリンの場合はどうでしょうか。トランポリンのシートやバネあるい
はフレームがオブジェクト・キューとして考えられます。どれも持ち運ぶこと
ができそうではありません。ではどうしたらよいのでしょうか。一つの方法は
シートを切り取ってきて、板にでも貼りつけることです。バネやフレームの場
合にはそのものを直接につかうのではなくても、触覚的な手触りがほとんど同
じ素材を見つけてきて、それを適当な大きさに切り取り、板に貼ってつかうの
です。コップを板に貼ることは無理でも取っ手の部分を切り取ることで可能に
なります。なぜ板に貼るかというと、同じ大きさの板にいろいろなオブジェク
ト・キューが貼りつけてあれば、それを鞄やバッグに入れて持ち歩くことがで
き、必要なところで、必要なときにつかうことができるからです。いってみれ
ばポータブルな会話セットとでもいうものを作るということです。さまざまな
素材をいろいろと工夫することで、実物をそのままつかわずに、触覚的な代用
品でオブジェクト・キューを作り出す工夫を重ねていく必要があります。
トイレに行くためのトイレグッズ、あるいはお食事グッズ、お出かけグッズ
というようにおとなもいっしょに楽しみながらオブジェクト・キューを考え出
していきたいものです。
このオブジェクト・キューとタッチ・キューを子どもに合わせて上手に組み
合わせてつかうことで、次になにをするのかということを子どもに伝えること
ができます。そのことで、子どもは予測することができるようになり、不安に
ならず、安心してものごとに取り組むようになるのです。
5)遊びや活動が終わったということを伝えます。
子どもが遊んでいたおもちゃを突然とりあげ、片づけはじめたら子どもはお
どろき混乱するにきまっています。なにかまずいことをしてそれで遊びを終え
なければならないのか、終わりにしてその後どうするのか、分からないことだ
らけで不安にもなるでしょう。食事や着替えあるいは遊びと少しずつ違ってく
るでしょうが、これで終わりになった(する)、あとどのくらいで終わりにす
る、終わりにして次になにをする、といったことがらが子どもに伝わることが
必要です。食事であれば食べものがなくなったことを確かめたり、食器を子ど
もといっしょに下げたり、テーブルの片づけをはじめたり、ごちそうさまの身
ぶりをしたり、食後に決まってすることがあればそれをはじめたりと、合図や
ものの手がかり、状況の手がかりをもとに、子どもは食事が終わったことを理
解します。
ものをつかっている活動では、それを子どもといっしょにしまうようにする
と、終わることを比較的理解しやすいようですので、いろいろな遊びや活動と
関連させて、普段からお食事セット、おふろセット、おでかけセットというよ
うに、使うものをセットにして用意していおくようにするとよいかもしれませ
ん。「おしまい」と遊びや活動を切り上げたり、切り替えたりすることは、け
っして容易なことではありませんが、子どもが自分で自分自身の気持ちや行動
を調整しようとするたいせつな場面ですので、じっくりと向き合いたいもので
す。
6)係わり合いが終わった(子どもから離れます)ということを伝えます。
子どもから離れるときには、「まっててね」とことわるなり、「さようなら」
とあいさつをするようにしましょう。そうでないと、子どもはなぜあなたがそ
の場を離れたのか、戻ってくるのかこないのか、代わりのひとが来るのか、さ
っぱり分からずとまどうことになります。子どもから離れたもののまだ同じ部
屋のなかにいる場合など、目と耳が不自由な子どもの場合、たとえあなたがい
るのは分かっていても、なにをしているのか、なぜ離れていったのか、戻って
くるのかこないのかが十分には分からず、不安で落ちつかない状態になってし
まいます。
生活や空間の秩序や構造が生み出す手がかり
台所や洗面所、あるいはタンスや冷蔵庫には、だいたい決まった場所に決ま
ったものがしまってあります。また家具の配置もそうしょっちゅう変わるもの
ではありません。このような規則性、あるいは秩序や構造というものがあるこ
とでわたしたちは効率よく生活することができるのです。子どもの一日の生活
もほぼ毎日似たような流れになっています。これもひとつの秩序といえます。
一日の流れ、一週間の流れ、そして季節の移り変わりというものにはある種の
規則性が生み出す秩序あるのです。突然の外出や来客で子どもはとまどうこと
があるでしょうが、普段の生活ではある程度その流れを理解するようになって
いきます。
(空間の構造とその手がかりについて)
目と耳が不自由な子どもにとって、さまざまな手がかりで生活する空間を理
解することがとても重要であることについてはすでに述べました。ここではも
うひとつ別な面から空間について考えてみます。わたしたちはプレイルームで
子どもと遊ぶとき、床に2、3畳程のマットを敷くようにしています。まずこ
のマットのうえでは安心して寝たり、転がったり、歩いたりしてほしいからで
す。そして徐々にこどもの活動する空間を拡げていってほしいと考えています。
ダイちゃんやハルちゃんはマットのうえを転がっていって、足がマットの外に
出るとすぐにそのことが分かるようになりました。「あれっ」というように表
情をかえたり、動きが止まったりするからです。ダイちゃんが歩きはじめたと
きも、マットから出るといったん動きが止まりました。マットの外に長くいて
不安そうになったときマットまで戻ると安心したような顔つきになります。も
ちろんお母さんの膝に抱かれるのがいちばんいいのですが・・・。 子どもの
遊びや活動とその特定の場所や空間を分かりやすい手がかりをつかって結びつ
けることは大切なことですが、同時に子どもが自らの活動空間を徐々に拡げて
いくことができるような手がかりを用意することも大切なことになります。
ここでいう空間とはプレイルームや子ども部屋というような広い場所だけで
はありません。子どもが寝るベッドの向きが天井のライトや窓とどのような関
係になっているか、食事のときにさまざまな食器がテーブルのうえでどう並ん
でいるかもそうですし、おもちゃを入れた箱や篭の配置もそれぞれ子どもにと
っての活動空間といえます。これらの空間がある秩序と構造をもつことで、子
どもの行動はその場に適合したものとなっていきます。
(生活における秩序と生活を組み立てる手がかり)
生活における秩序とはどういうことでしょうか。ひとつは生活におけるさま
ざまな活動の時間的な流れということです。目と耳が不自由な場合には何らか
の手がかりが必要なようです。一日の生活の流れはおのずと一定の順序性をも
つようになりますが、そのことは子どもが生活に見通しをもつことをたすける
ことになります。場合によっては一日の活動の流れを、オブジェクト・キュー
や絵カードをつかって一列に並べ、活動を一つひとつそれによって確認してい
くことが必要になるかもしれません。オブジェクト・キューを箱に入れて並べ、
ひとつ終わるごとに箱に蓋をしていくと、触覚の世界でも分かりやすくなりま
す。このような工夫をカレンダー・ボックスとかデイ・ボードといいます。午
前の活動と午後の活動の違いや、室内の活動と外での活動の違いにあわせて箱
の種類や、カードの色や材質を変えることもあります。その日に関係した特定
の活動をもつことでその日を特徴づけることができます。曜日によって特色を
持たせることもできます。このような工夫によって、子どもは一週間というリ
ズムを理解していくのです。
空間にせよ生活の流れにせよ、そこに秩序や構造があることの大切さについ
カレンダーボックス:左から右への順序が活動の流れを示す
例(本読み・ボール遊び・昼食・掃除・外出)
てみてきました。この秩序や構造は子どもと係わるおとなが用意するものと考
えられがちですが、子ども自身も自らが生活する空間や生活の流れを秩序づけ
ようとしています。生活のさまざまな場や、活動の順序について子どもなりに
意味付け、見通しをもとうとするのです。例えばカレンダーボックスである程
度の一日の流れが分かってくるようになると、子どもはおとなが考えた予定と
違った順に活動にとりかかろうとすることがあります。ときにはおとなが予定
したものとは別の活動をやりたいと、その活動のオブジェクト・キューを箱の
なかにむりやり入れようとすることもあります。これは困ったことのようにみ
えますが、実はとても重要な意味をもつことがらなのです。まず子どもが自ら
その意思を表しはじめているということ、そしておとなとの食い違いのなかで
なんらかの折り合いをつける体験をもてる機会であるということです。目と耳
が不自由な子どもは、周囲の状況が分かりにくいだけに、また見通しをもちに
くいだけに、ひとまかせになりがちなことが少なくありません。たとえばレス
トランにいっても、紙のメニューでは食べ物を選ぶことができない場合があり
ます。ましてそれまで食べたことのないものに挑戦するようなことはたいへん
むずかしいことなのです。子どもはカレンダーボックスによって分かることが
あるからこそ、自分の意思を出してきたのです。そこから、子どもが自らの生
活を見通しをもって作り上げていくことがはじまるとさえいえるのです。わた
したちは子ども自身が自らが生活する空間や生活の流れを秩序づけ、子どもな
りに意味づけ、見通しをもとうとすることを尊重する必要があります。
動きをガイドして援助する
子どもの動きを援助することを考えてみましょう。子どもの姿勢をかえたり、
移動する方向を子どもに分かってもらうためには、直接子どもの身体に合図を
送るタッチ・キューがよくつかわれます。
また、目と耳が不自由なだけに、触覚的にものごとを理解することが大切に
なるので、子どもの手の動きをどのようにガイドするかということを考えなく
てはなりません。子どもの手を取って「こうやるのだ」と動かせばよいという
ような単純なことではありません。それでは子どもはわけが分からないまま手
を動かされていることになります。手をつかまれることさえ不安であるのに、
痛い目にでもあったら、すぐに手を引っ込めてしまい二度と手をださなくなっ
てしまうでしょう。触覚の世界にいる子どもにとって手の動きが大切なだけに、
手に働きかけてくるおとなの動きに対しては、わたしたちの想像をこえて敏感
であると考えられ、慎重な対処が求められています。
たとえば、ものに触ってほしい場合には、こどもの手首をつかんでものに触
らせようとするのではなく、合図しつつ、ものの方を子どもの手に近づけて子
どもの手が触れるようにしてみます。そうすれば嫌なとき、子どもはすぐに手
を引くことできるわけです。
ハルちゃんはものに触らせようとするとすぐに手を引いてしまっていました。
やがてわたしの手をつかんでくれるようになったので、ハルちゃんの手をわた
しの手の甲に重ねるようにしてもらい、わたしが手すりやオルゴールの人形に
触るようにしてみたところ、それは嫌がりませんでした。たとえひとの手のう
えに自分の手をのせているだけでも、そのひとの手がものに触っていることは
わかっているようでした。ハルちゃんはこの後で、わたしの手といっしょにも
のに触るようになっていったのです。
ダイちゃんは靴を脱ぐことが苦手でした。そこで子ども用の椅子にすわって
もらい、靴箱を手に近づけながら、靴をはいている足にトントンと合図して靴
を脱いでもらいたいことを伝えます。靴ひもやベルトをゆるめてからダイちゃ
んの手を取り、いっしょにかかとをおさえるようにしてみます。するとダイち
ゃんは自分でかかとをあげ、靴から足をぬくような動きをおこしました。子ど
もの手を取り子どもの動きとおとなの動きを重ね合わせるガイドは、子どもが
動きを理解するうえでは分かりやすいようです。そこから徐々にガイドの手を
ゆるめたり、ガイドする部分を間接的にしていくことで、ガイドを弱め、減ら
していくことができます。そうすることで、子どもの動きが確実になり、また
子どもが自分でやる部分が増えていくようにもなります。
このような子どもの手を取るガイドは、子どもが手を引っ込めてしまうよう
な結果に陥らないように、その手の動きや力のはいり具合のなかに、子どもの
心のうごきを注意深く読みとりながら、すすめていく必要があります。、
町に出よう
目と耳が不自由な子どもたちは、遊びや活動を拡げるに際して、たいへん困
難な状況にいます。それは、ひとつは視覚と聴覚の両方の障害によって、子ど
もたちは周囲の情報を得るうえで大きな制約があり、そのことで動きじたいが
乏しくなりがちだからです。もうひとつ、子どもと係わるおとなも「どうせ見
ることも聞くことも困難だから・・・」と、子どもがいろいろな経験をする機
会を積極的に作ろうとする意欲がおとろえがちになるからです。その結果子ど
もがさまざまな経験をつむことがむずかしい状況ができあがってしまいます。
町に出るといってもなにも特別なことをするということではありません。子ど
もが怖がったり、嫌がったりしないように、細心の注意をはらいながら公園や
プールに出かけてたくさん遊んだり、お母さんや家族の買い物にいっしょに連
れていってもらったり、バスや電車に乗って外出したりと、日常のさまざまな
体験を豊かにもってほしいということでしかありません。目と耳の両方に障害
があるからこそ、なかなか分かりにくい条件をたくさんもっているからこそ、
この子どもたちは、より多くの、よりゆたかな経験を重ねる必要があるのです。
いけないこと、してあげられないことをどう伝えるか
子どもがしようとすることには、すべてそれなりの意味があり、一つひとつ
やってみることで子どもは多くのことを経験し、学んでいくと考えてよいので
すが、子どもがやろうとすることのなかには、危険であったり、ひとに迷惑を
かけてしまっていて、その場ではやめてもらわざるをえない場合もあることで
しょう。また、子どもに求められても、その場では応じてあげられないという
こともあるでしょう。場所が違えば、別の相手ならば許されることでも、時と
場合によっては禁止したり、断ったりする必要があるわけです。目と耳が不自
由な場合、周囲の状況が分かりにくいのですから、とくにていねいにこのこと
を子どもに分かってもらう必要があります。
そのようなときには、できる限り、「いけません」あるいは「できません」
といったメッセージをサインで伝えるようにしたいものです。同時に代わりに
なにができるのか、なにをしてよいのかを、子どもの分かるように伝えるよう
にもしたいものです。あるいは「まつ」ということを伝えるほうが適切な場合
もあるでしょう。その際に、すでに述べたタッチ・キューやオブジェクト・キ
ューをじょうずに活用したいものです。そのためにも日ごろこのような手がか
りをもとに、子どもとのコミュニケーションを、とくに折り合いをつけるコミ
ュニケーションをじゅうぶんに図っておくことが大切になります。
日々の生活をゆたかに
日々の生活がたんなるしつけの山にならないように、子どもと係わり合うお
となは、子どもといっしょに楽しい出来事をたくさん積み重ねていきたいもの
です。いそがしい毎日ですが、ゆっくりと時間をかけてものごとの取り組むこ
とが大切なことを、この子どもたちのゆったりとした動きがわたしたちに教え
てくれているのだと考えましょう。触覚の世界にいる目と耳の両方が不自由な
子どもたちがものごとを理解するためには、一つひとつ確かめ、またもとに戻
るということが欠かせません。毎日すこしずつ一歩一歩、子どもへ働きかける
ことを私たちも身につけることが求められているのです。そして、目と耳が不
自由な子どもたちがひとの援助を必要としているゆえに、こある意味でゆたか
なひとの環のなかにいるともいえるのです。子ども向き合っているわたしたち
も、おおぜいのひとに支えられるなかで、そのひとたちとの出会いを楽しみな
がら子どもとともに先へ進んでいきたいものです。
(土谷良巳・菅井裕行)
おわりに:子どもをよく知るということ
子どもには一人ひとり独自の育ちがあります
目と耳の障害がある子どもは「盲ろう」とか「弱視難聴」あるいは「視覚聴
覚二重障害」の子どもといわれます。子どものことをそのようにいうのは、見
ることと聞くことの両方に障害があることについて、とくべつな配慮を必要と
することをいいたいからです。
しかし、「視覚聴覚二重障害」といっても、視覚障害や聴覚障害の原因やそ
の程度、そしてその重なり方は子どもによってたいへん異なっています。つま
り見えにくさや聞こえにくさ、そして生活のなかでのそのことをどう補うかに
ついてはずいぶんと違いがあるのです。また、生まれたときからなのか、二、
三歳になって、ことばをしゃべりだしたり、歩きはじめてからの病気や事故で
そうなったのか、てんかんやまひがあるのか、病気がちであるのか、眼鏡や補
聴器をつけることをいやがるかどうかなど、子どもの障害の状態やその背景は
一人ひとりさまざまです。
さらに、兄弟(姉妹)のこと、家族のことも違っていますし、盲学校へいっ
ているのか、ろう学校へいっているかなど、子どもの家庭や生活環境もいろい
ろです。そして子どもの性格や気持ちのもちかたがそもそも一人ひとり独自な
のはいうまでもありません。
このような一人ひとりの違い、つまり個性といわれるものは、子どもの育っ
ていく姿にも、はっきりとみることができます。たとえばだれでもおなじ順序
ですすむと考えられている、身体の成熟や運動発達でも、そこに一人ひとりの
違いが表れることがあります。
タカちゃんははいはいをするようになってから、そのつぎにお座りをおぼえ
ました。この順番は育児書に書いてある順番とちがっていました。一生懸命が
んばって、おすわりができるようになったと思ったら、いつのまにかおすわり
を忘れてしまったかのようにしなくなり、それまでのように床に寝てすごすよ
うになりました。おとなとのやりとりのなかで、お座りの姿勢をとることが楽
しみになってはいましたが、ひとたびできるようになってしまえば、タカちゃ
んにとってお座りはそれほど魅力的なものではなくなってしまったようです。
というのは、座って生活するということが、まずは目で見て生活するうえでた
いへん都合のよい姿勢だからです。目が見えないタカちゃんは触覚の世界にい
ますので、その点ではむしろ床の拡がりを背中や胸でとらえたほうが、安全の
うえでも、分かりやすさにおいても合理的だともいえるのです。もちろん、タ
カちゃんはやがて椅子や床に座り、テーブルにむかって活動をするようになる
でしょう。しかしそれは、タカちゃんが目の前に拡がる空間(たとえばテーブ
ルの面)を触覚的にも必要とするようになってからのことです。
このように、障害の状態や家庭環境などの違いをこえて、子ども一人ひとり
の育ちの違いや、子どもそれぞれの独自のやりかたがあることを理解すること
が必要になります。ほかの子どもとの違いをいたずらに気にするよりは、まず
その背景にはそれぞれきちんとした理由があることを考え、子どもをより理解
するように努めたいものです。
一つひとつの行動を心配するまえに・・・
目や耳が不自由であると、ほかの子どもとはちがった行動をみせることがあ
ります。たとえば、目を指先でおすことや目の前で指をふることをつづけたり、
テーブルのうえでおさらをクルクルとまわしては音をたてることを繰り返した
り、声をはりあげたかとおもうとだまってしまうというように気持ちの揺れが
はげしく感じられたり、立ったまま両手と頭を床につけぐるぐるとまわりだす
など、いろいろなことがあります。このような状態をどのように受けとめたら
よいのでしょうか。
指で目をおすのは眼圧などの目の状態が関係していることがあります。目の
前で指をふるのは、その子が指の動きを目で感じられ、自分でその動きをつく
りだし、うけることが刺激的であるからです。テーブルで皿をまわして音を出
すのも、耳や目でその音や動きを感じるのが楽しいからでしょう。両手と頭を
床につき、たったままクルクルとまわるのは、その方が安定する場合があるこ
とと、その刺激を楽しんでいることの両方が考えられるかもしれません。いず
れにしても、その行動が奇妙だということで、すぐやめさせよう否定的にのみ
考えるのは賛成できません。すでにみてきたように、それぞれの行動にはそれ
ぞれの理由があります。目と耳が不自由なことを考えるとその意味はさらによ
く理解できるのです。
春さきの花粉症のシーズンともなれば、目がむずがゆくなった子どもはだれ
でも、親の心配をよそに目をこすったり、指でおしたりするものです。赤ちゃ
んは繰り返しくりかえしおもちゃをテーブルから落として、楽しそうに笑いま
す。子どもは新しい姿勢や運動ができるようになると、手すりのうえを歩くこ
とのように、たとえ危険で必要性のないことでも繰り返しやってみたがるもの
です。くるくると身体をまわしてめまいを感じる遊びはだれにでも経験がある
ことでしょう。このようなことも、それが危険であったり、ひとに迷惑をかけ
るのでなければ、ふだんおとなはそれほど気にしたりはしない、つまりだれで
もそういうことをするものだ、いずれしなくなるものだと肯定的にみているの
です。
このように誰もがする行動と基本的には同じことを、目と耳が不自由な子ど
もがみせているのだということを分かっていただきたいと思います。その現れ
かたが奇妙にみえたり程度がはげしく感じられるのは、目と耳が不自由なこと
が影響しているのですが、本質的には違うものではありません。その子どもの
動きを肯定的に受けとめ、その意味を理解して子どもと係わろうとすることで、
子どもをよりよく知ることができます。子どもを知ることで、子どもとの係わ
り合いを深めたり、拡げたりすることにつながっていくのです。
(土谷良巳・菅井裕行)
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