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ばち指 H25.12.25 ばち指(ばちゆび、撥指)とは、上肢・下肢の指の先端

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ばち指 H25.12.25 ばち指(ばちゆび、撥指)とは、上肢・下肢の指の先端
ばち指
H25.12.25
ばち指(ばちゆび、撥指)とは、上肢・下肢の指の先端が広くなり、爪の付け根が
隆起し、凹みがなくなった状態を指す。名称の由来は、肥厚した指が太鼓のバチ状で
あることから。この症状自体に痛みなどはないが、重大な疾患の症状として現れる事
が多い。症状の進行は、まず母指・示指から始まり、やがて他の指でも起こるように
なる。ばち指が起こる代表的疾患としては肺癌、間質性肺炎などの肺疾患、チアノー
ゼ 性 心 疾 患( う っ 血 性 心 不 全 )、肝 硬 変 、感 染 性 心 内 膜 炎 、ク ロ ー ン 病 、潰 瘍 性 大 腸 炎
などが上げられるが、先天的要因からばち指となる 事もあり、その場合病気の兆候で
は な い 。慢 性 気 管 支 炎 ,肺 気 腫 ,気 管 支 喘 息 と い っ た い わ ゆ る 慢 性 閉 塞 性 肺 疾 患 (COPD)
で は 肺 血 管 の 損 傷 や 動 静 脈 シ ャ ン ト が な く 、 "ば ち 指 "は み ら れ な い 。 喫 煙 歴 の あ る
COPD 患 者 の "ば ち 指 "で は 肺 癌 が 疑 わ れ る 。
ばち指が生じる機序
ばち指が起きるメカニズムは必ずしも明確ではないが、チアノーゼ性心疾患や慢性
肺 疾 患 、 肝 硬 変 な ど で は 、 動 静 脈 シ ャ ン ト に よ っ て 血 小 板 由 来 成 長 因 子 ( PDGF) な ど
の体液性増殖因子の不活性化が抑制され、結合組織の過形成を起こすためと想定され
ている。肺膿瘍や膿胸などでは、感染の近傍での血管拡張や血小板凝集能亢進などが
起こることが要因とされている。感染性心内膜炎や動脈炎などでは血栓が指趾末端で
栓塞し、血管拡張を起こすことが関与する。肺の悪性腫瘍では体液性因子を異所性に
産生し、主要随伴症候群が起こることによるとされてい る。
チアノーゼ性心疾患
フ ァ ロ ー 四 徴 症 ( 肺 動 脈 狭 窄 ・ 心 室 中 隔 欠 損 ・ 右 心 室 肥 大 ・ 大 動 脈 騎 乗 )、 完 全 大 血
管転位、総肺静脈還流異常、三尖弁閉鎖、右胸心など。
過形成
過形成とは、外来の刺激に対する正常細胞の応答として細胞増殖が起こることよっ
て、組織の体積が増加することである。外部からの刺激は生理的なものも異常なもの
も含む。増生、過生ともいう。
PDGF( 血 小 板 由 来 増 殖 因 子 )
PDGF( 血 小 板 由 来 増 殖 因 子 ) は 、 血 液 が 凝 固 す る 時 に 血 小 板 が 崩 壊 す る が 、 こ の と
き 放 出 さ れ る 。 PDGF は 血 小 板 だ け で な く 、 マ ク ロ フ ァ ー ジ 、 平 滑 筋 細 胞 、 内 皮 細 胞 、
繊維芽細胞からも分泌され、組織が傷つくと放出されて、細胞遊走と細胞増殖によっ
て 組 織 を 修 復 、創 傷 治 癒 に 関 わ る 。PDGF は 単 独 で は 遊 走 作 用 の み し か 示 さ ず 、増 殖 作
用 を 発 現 す る た め に は EGF、IGF の 共 存 が 必 須 で あ る 。つ ま り 、傷 が で き る と 血 小 板 か
ら PDGF が 放 出 さ れ て 、 繊 維 芽 細 胞 や マ ク ロ フ ァ ー ジ を 遊 走 さ せ て 、 血 漿 中 の EGF や
IGF と と も に 細 胞 増 殖 を 促 し ま す 。
EGF( 表 皮 増 殖 因 子 )
EGF( 表 皮 増 殖 因 子 ) は 血 小 板 か ら 分 泌 さ れ 、チ ロ シ ン キ ナ ー ゼ を 活 性 化 す る こ と
で DNA を 合 成 し 、 細 胞 を 増 殖 さ せ る 。
IGF(インスリン様成長因子)
インスリン様増殖因子ともいう。構造はプロインスリンに似たペプチドホルモンで、
I と II が あ り 、I は 成 長 ホ ル モ ン お よ び 栄 養 状 態 に よ っ て 血 中 濃 度 が 制 御 さ れ て い る 。
肝臓が血中のホルモンの主な生産器官であるが、多くの臓器で作られる。タンパク質
同 化 作 用 が あ る 。II は 出 生 前 の 成 長 に 関 係 す る と さ れ て い る 。血 中 で は 大 部 分 が 特 有
の 結 合 タ ン パ ク 質( イ ン ス リ ン 様 成 長 因 子 結 合 タ ン パ ク 質 )と 結 合 し て 存 在 し て い る 。
M C I( 軽 度 認 知 障 害 )
H25.12.6
高 齢 者 の 記 憶 障 害 に 関 し て は 、1980 年 代 頃 か ら 多 く の 名 称 が 提 唱 さ れ て き た 。そ の
な か で も 、 1995 年 に ピ ー タ ー セ ン ら が 提 唱 し た 軽 度 認 知 障 害 ( Mild Cognitive
Impairment:MCI)の 概 念 は 臨 床 診 断 分 類 に い く つ か の 変 遷 を 経 て 、今 日 に お い て も 認
知症診療の臨床場面で最も多く用いられている。
MCI は 正 常 加 齢 と 認 知 症 の 境 界 領 域 で あ り 、 近 年 は MCI を 対 象 と し た 多 く の 臨 床 研
究 が 行 わ れ て い る 。 そ れ ら の 報 告 に よ る と 、 MCI の 患 者 の 約 半 数 は 5 年 以 内 に ア ル ツ
ハ イ マ ー 病 ( Alzheimer’ s disease: AD) に 移 行 す る こ と が 判 明 し て い る 。 さ ら に 、
MCI の 4 分 類 ( Petersen,R.C.,2004) の う ち 、 臨 床 症 状 が 記 憶 障 害 の み に 限 定 さ れ る
「 Amnestic MCISingle domain」 お よ び 「 Amnestic MCI Multiple domain 」 の 2 つ が
AD に 移 行 し や す い こ と が 報 告 さ れ て い る 。
AD の 根 本 治 療 法 の な い 現 段 階 に お い て 、 MCI の 早 期 診 断 は AD の 発 症 予 備 軍 を 見 つ
け 出 す と い う 目 的 に お い て 重 要 で あ る 。近 年 、MCI お よ び AD の 早 期 診 断 マ ー カ ー と し
て、複数の生物学的診断マーカーや頭部の形態・機能画像診断などが注目されてきた
が、最近ではアミロイドイメージングによる分子病態的診断法の開発も進んでいる。
以 上 の こ と か ら 、 世 界 中 で MCI の 早 期 診 断 率 を 上 げ る た め の 様 々 な 臨 床 研 究 が 継 続
さ れ て お り 、 現 在 我 が 国 に お い て も SEAD-Japan や J-ADNI と い う 追 跡 研 究 が 行 わ れ て
お り 、 こ れ ら の 臨 床 研 究 に は 、 40 例 を 超 え る 症 例 に つ い て 2~ 5 年 間 に わ た る 臨 床 経
過を追跡中であり、多くの貴重な臨床データが蓄積されつつある。
軽 度 認 知 障 害( MCI)の 概 念 は 提 唱 者 に よ っ て 異 な る が 、 ピ ー タ ー セ ン ら に よ り 提 唱
さ れ た MCI の 定 義 は 以 下 の 5 項 目 を 満 た す も の で あ る 。
②
本人または家族(介護者)による物忘れの訴えがある。
②
加齢の影響だけでは説明できない記憶障害の存在。
③
日常生活能力は自立。
④
全般的な認知機能は正常。
⑤
認知症は認めない。
軽度認知障害は、正常老化過程で予想されるよりも認知機能が低下しているが、認
知症とはいえない状態である。認知症の前段階にあたるが、認知機能低下よりも記憶
機 能 低 下 が 主 兆 候 と な る 。主 観 的・客 観 的 に 記 憶 障 害 を 認 め る が 、一 般 的 な 認 知 機 能 ・
日常生活能力はほぼ保たれる。
「 認 知 症 」 の 診 断 が で き る 程 度 に 進 行 す る ま で 、 通 常 5〜 10 年 、 平 均 で 6〜 7 年 か
か る 。医 療 機 関 を 受 診 し た 軽 度 認 知 障 害 で は 、年 間 10%か ら 15%が 認 知 症 に 移 行 す る と
される。さらに、単に軽度の記憶障害のみの例より、他の認知障害を合わせて持つ例
の方が、認知症への進行リスクははるかに高い(4 年後の認知症への移行率は、記憶
障 害 の み の 場 合 は 24%、 言 語 ・ 注 意 ・ 視 空 間 認 知 の 障 害 の い ず れ か の 合 併 例 で は 77%
であった)。
と
把酒問月(酒を把つて月に問ふ)
H25.8.29
靑天有月來幾時
我今停盃一問之
人攀明月不可得
月行卻與人相隨
皎如飛鏡臨丹闕
綠煙滅盡淸輝發
但見宵從海上來
寧知曉向雲閒沒
白兔搗藥秋復春
姮娥孤栖與誰鄰
今人不見古時月
今月曾經照古人
古人今人若流水
共看明月皆如此
惟願當歌對酒時
月光長照金樽裏
せいてん
このかた い く と き
い ま さかずき
靑天月有りてより 來 幾時ぞ
よ
う
ごと
りょく え ん き
げつかうかへ
攀づること得べからず
如く
あかつき
せい き はつ
ぼ
ただ
こ じ ん
こ じ ん
今人 流水の若し
よひ
きた
つ
じ
めいげつ
み
ま
きんそん
のぞ
なん
こんげつ
寧ぞ知らん
こ う が こ せ い
だれ
姮娥孤栖して誰
かつ
今月 は 曾 ‐ 經 て 古 人 を 照 ら せ り
みなかく
ごと
ただ
共に明月を看る 皆此の如し
げっこう
たんけつ
皎として飛鏡の 丹闕に臨むが
白兔 藥を搗きて 秋復た春
今人 は 見 ず 古時 の 月
ごと
る時
こ
人は明月を
ひきやう
但見る 宵に海上より來るを
はく と
曉 に雲閒に向かひて沒するを
となり
これ
かう
月行卻つて人と相 隨 ふ
じん
とか 鄰 する
ひと
あ ひ したが
綠 煙滅え盡きて 淸輝發す
うんかん
とど
我 今 盃 を停めて 一たび之に問ふ
古人
あ
たい
惟願ふ 歌に當たり酒に對す
うら
月光の長く金樽の裏を照らさんことを
現代訳
澄み切った青空、あの広い空にお月様はどれほどの年月いたのですか。私は今、盃
の手を止めてちょっとお尋ねしたい。
めいげつ
よ
人間は明月に攀じ登ることはできないが、反対にお月様の歩みは人間が歩くとどこ
までもついてきてくれる。
お月様は白く光ってまるで空飛ぶ鏡が仙人の宮殿にさしかかったようで、夕暮れの
みどり
碧 のもやがすっかり消えると清らかな 光が現れる。
人はただ夜になってお月様が海の方から昇ってくるのを見るだけで、明け方になっ
て雲の間に沈んでいくのを知らない。
し ろ うさぎ
うす
つ
の
月 の 中 で は 白 兔 が 秋 も 春 も 不 老 不 死 の 仙 薬 を 臼 で 搗 い て い て 、そ れ を 呑 ん だ と い う
こ う が
仙女の姮娥は一人ぼっちで暮らし、誰が隣に いるだろうか、いや誰もいない。
今生きている人間は、昔のお月様を見ることができないが、今のお月様はずっと大
昔から人々を照らし続けてきた。
なが
昔の人も今の人もちょうど流れる水のようで、いつの時代の人々も明月を 眺めては
同じように去っていく。
お月さま、あなたにたった一つのお願いがある。私たちが歌を歌い酒を飲んでいる
間は、どうかあなたの光でいつまでも黄金の 酒樽の中を照らしてもらえまいか。
李
白
701- 762
と
ほ
しょく
き ん しゅうしょう め い け ん せ い れ ん きょう
せいれん こ
じ
盛唐の詩人。杜甫と並び称される。 蜀 の錦 州 彰 明県青蓮 郷 の人で青蓮居士と号
へんれき
した。幼にして俊才、剣術を習い任侠の徒と交わる。長じて中国各地を 遍歴し、42
げんそう
歳 よ り 4 4 歳 ま で 玄 宗 皇 帝 の 側 近 に あ り 、の ち 再 び 各 地 を 転 々 と し 多 く の 詩 を の こ す 。
あんろくざん
ゆる
安禄山の乱に遭遇して、罪を得たがのち赦される。 62歳病のため没す。
仏 教 の 教 え( 哲 学 者 : 中 村
H25.8.29
元)
仏教は、釈尊の時代から無理に暴力武力を用いて、それを強要すると言う事をしま
せんでした。他の宗教では、昔は宗教が違うだけで、必ず武力による闘争が行われて
いました。しかし、人類の歴史において多くの宗教が現れましたが、武力によらない
で説得だけによって広まったのは仏教だけです。この考え方「相手に対する寛容とい
う精神」が、我々の祖先の中でも生き、今でも続いていると思います。
人間の体は王様の飾り立てた車のように、やがては朽ちてしまいますが、人から人
まこと
のり
に 伝 え ら れ 真 の 法 は 、い つ ま で も 輝 き ま す 。そ の た め 人 か ら 人 に 真 理 が 伝 え ら れ る わ
けです。それは永遠の価値を持っているという意味なのです。
本当の自己というものはどのようなものか、誰でも人間はどこかの場所で、いつか
の時点で生まれてきたわけです。そして必ず両親があったわけです。それから育てく
れる人があった。助けてくれる人があった。その助 けてくれた人の数は無数です。ま
た、ただ人間だけではなく、山川草木などまわりのものが、何か関係をもっている。
それによく考えると、宇宙の彼方から、例えば太陽が光線を送ってくれる。これは太
陽の恩恵も受けているわけです。宇宙にあるいかなるものも、孤立したものではない
という思想、宇宙とつながっているという考えがあり、そのつながりがめいめい皆違
うわけです。だから個々の自己は非常に微々たるものと考えるかも知れません。しか
し、実はその内には偉大なものを秘めているわけです。この偉大なものを受けること
を自覚すれば、そこで自分の生きる道はどうかということが、おのずから明らかにな
って実現されるということになると思うのです。
じつげつ
仏教の教えというものは、この地上に輝く日月のようなものである。太陽や月が、
あらゆる人を照らすように、仏教の教える真理というものは、あらゆる人に明らかで
あり、あらゆる人を照らすというわけです。
続けて釈尊はこういわれました。もしも自分が人々を導くのであるとか、あるいは
この修行者の仲間が私を頼っているとか思うならば、私が死ぬということは大変なこ
とであろう。しかし私は自分がみんなを導くなんて思ったこともない。またみんなが
自分を頼りにしているなどとも思わなかった。自分はただ人々に真理、真の生き方と
いうものを明らかにした、それだけなのだ。だからなにも自分が消えて亡くなったか
らといって嘆き悲しむことはない。およそこの世のもので、いつまでも破れないで、
存続し続けるものは何もない。いつかは破れ消え失せるものである。その道理を私は
今 ま で お 前 達 に 説 い て き た で は な い か 、た だ 私 は そ こ に あ る 一 貫 し た 真 理 と い う も の 、
それを説きあかしてきた。だからそれに頼れ。
この変転、つれない世の中では、まず自分に頼るべきである。自分に頼るというこ
とはどうであるか。自分はこの場所でどうすべきか、ということをその場所、その場
所で考えることでしょう。その場所で何を判断決定の基準にするかそれは「人間とし
ての道」
「 法 」で す 。こ の 道・法 は イ ン ド の 言 葉 で い う と「 ダ ル マ 」と 呼 ば れ る も の で
す。これは人間の法理というものです。この「自分に頼ること、法理に頼ること」こ
れが釈尊の最後の教えであります。
H25.7.25
般若波羅蜜多
みん
般 若 波 羅 蜜 多 は 、『 般 若 心 経 』 の 前 文 に 出 て く る 言 葉 で す 。 こ の 経 典 は 明 代 の 小 説
げんじょう
『西遊記』で有名な 玄 奘 三蔵がインドから原典を持ち帰って漢訳したものです。
般若は、一般には智慧といい、仏教におけるいろいろの修行の結果として得られた
「さとり」の智慧を言います。ことに、大乗仏教が起こってからは、般若は大乗仏教
の特質を示す意味で用いられ、諸法の実相である空と相応する智慧として強調されて
へん ち
きました。同じ悟りの智慧をあらわす遍智とは区別されます。遍智とは文字通り「あ
し た い
む
ろ
まねく知る」ことで、四諦の道理を無漏の智によって知ることです。この遍智を小乗
のさとりを表すものとして、大乗の般若と区別するのも、般若を存在の当相をそのま
まに自覚する実践智と考えるからです。
しき
この般若の意味は、識とも区別されます。識とは、いわゆる知識であり、客 観的に
物の何であるかを分析して知る分析智です。このような知識を克服して、それを実践
智に深め、物の真相に体達すること、そのような智をことに般若というのです。たと
え ば 、「 生 活 の 智 慧 」 と い う が 生 活 の 知 識 と い わ ず 、「 科 学 の 知 識 」 と い っ て 科 学 の 智
慧といわないようなものです。
波 羅 蜜 多 は 、 仏 教 に お け る 菩 薩 の 基 本 的 な 実 践 徳 目 で す 。『 般 若 経 』 で は 般 若 波 羅
蜜 多 ほ か 全 6 種 ( 六 波 羅 蜜 ) を 、 あ る い は 『 華 厳 経 』 な ど で は こ れ に 4 種 を 加 え 10
種( 十 波 羅 蜜 )を 数 え ま す 。
『 摩 訶 般 若 波 羅 蜜 経 』は 九 十 一 波 羅 蜜 を 列 挙 し ま す が 、全
体としての徳目は六波羅蜜です。
波羅蜜とは、ブッダを目指す菩薩が修めなくてはならない、6 つの実践徳目のこと
で 、「 六 度 」 と も 呼 ば れ ま す 。
1
だ ん な
布 施 波 羅 蜜 - 檀 那 は 、 分 け 与 え る こ と 。 具 体 的 に は 、 財 施 ( 喜 捨 を 行 な う )・ 無
畏施・法施(仏法について教える)などの布施である
2
じ か い
し
ら
持戒波羅蜜 - 尸羅は、戒律を守ること。在家の場合は五戒(もしくは八戒)を、
出家の場合は律に規定された禁戒を守ることを指す。
にんにく
せんだい
3
忍辱波羅蜜 - 羼提は、耐え忍ぶこと。
4
精進波羅蜜 - 毘梨耶は、努力すること。
5
び
ぜんじょう
り
や
ぜ ん な
禅 定 波羅蜜 - 禅那は、特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させるこ
と。段階としては四禅・四無色定・九次第定・百八三昧などがある。
6
ち
え
だんわくしょうり
智 慧 波 羅 蜜 - 般 若 は 、諸 法 に 通 達 す る 智 と 断 惑 証 理 す る 慧 。前 五 波 羅 蜜 は 、こ の
般若波羅蜜を成就するための手段であるとともに、般若波羅蜜による調御によって
じょうじゅ
成 就される。
「 般 若 波 羅 蜜 多 」 は 、「 智 慧 の 完 成 」 と 訳 し ま す 。 こ れ は 、 六 度 の 最 後 、 智 慧 波 羅
蜜で述べているように、智慧=般若を修めるには五波羅蜜を修めなければ完成にはな
らないのです。
菩薩は仏教において、成仏を求める永遠の修行者です。そのため六度 を実践し、実
践を通して煩悩に苦しむ凡夫である人を導いて下さると考えるのです。また、凡夫も
この六度を実践することにより菩薩に近づくことが出来ると思うのです。
H25.7.25
宇宙論に対する仏教思想からの回答
宇宙原理において、なぜ宇宙は人類を創ったのかについて仏教思想からの考察をし
てみます。
釈迦の始めた原始仏教教団においては、初期には寺院僧院といったものはなく、小
高い丘に弟子達・修行僧達が集まり釈迦の話を聞くという形態でした。それでは、仏
陀の話を聞いてみましょう。
あるとき仏陀は、弟子たちに尋ねた。「悟りに至る究極の知恵とはどのようなもの
だろうか。」
更に問う「その大いなる知恵と、聖なる言葉の霊力によって悟りに導
いてくれる聖なる言葉、真言があるとすれば、それはどのようなものだろうか。」
丘に集まり仏陀の教えを聴いていた、多くの弟子たちは口々に言った。「仏様、こ
れをぜひ教えて下さい。」
すると、慈悲の心により、様々な苦労や災難から多くの人々を救ってきた観自在菩
薩が静かに立ち上がりこう言った。「もしよろしければ、仏様に代ってこの私が、教
え申そうか。」修行僧たちは口々に言った。「是非是非、お願いいたします。」
観自在菩薩はおもむろに話し始めた。「悟りに至る知恵とはいったいどのようなも
のかと、私は長年、深く考えてきました。そこでわかってきたのだが、この世は五つ
の要素から成り立っているのです。この五つの要素のことを五蘊と呼ぶのだが、それ
らはすべて“空”なのです。そして、すべてが空であると見極めるならば、一切の苦
悩や災難から万人は救われるのです。」
行深般若波羅密多時
照見五蘊皆空
度一切苦厄
観自在菩薩は弟子たちの中でも知恵第一と皆から見られている人物の舎利子に言
った。「舎利子よ、この世に存在する形あるものすべては、“空”にほかならないの
だよ。そして、空であるからこそ全てのものがこの世に生じてくるのだよ。」
あのう・・・舎利子は首を傾げながらいった。「空の意味が良くわからないのです
が。」
観自在菩薩「よろしい、では、もっとわかりやすく説いてあげよう。」
舎利子
色不異空
空不異色
観自在菩薩は、話を続けた。「この世に存在する形あるものとは、たとえば、見な
さい、あの大空に浮かんでいる雲のようなものなのだよ。雲は刻々とその姿を変えて
いる。そして、いつの間にか消えて無くなってしまう。雲がいつまでも同じ形のまま
浮かんでいるなどと言う事が、あり得ないように、この世に存在する形あるもの全て
に、永遠不変などということはあり得ないのだよ。全てが固定的ではなく、流動的な
の だ よ 。自 分 だ け で 存 在 す る も の で は な く 、相 互 に 依 存 し て 、存 在 す る も の な の だ よ 。
絶対的ではなく相対的存在なのだよ。今、そこにあったとしても、瞬くうちに滅び去
ってしまうものなのだよ。み仏はすべては移ろいゆくもとおっしゃっている。そうで
あるならば、そのようなつかの間の存在に対し、あれこれと、こだわったり悩んだり
するのは、ばかばかしい事だとは思わないかね。」色即是空
観自在菩薩は更に話を続けて言った。「面白いことに、こうも言えるのだよ。この
世に存在する形あるもの全が、つかのまの存在であるからこそ、ついさっきまで存在
し て い た も の が 滅 び 去 っ た 。次 の 瞬 間 、ま た 様 々 な も の が こ の 世 に 生 じ て く る の だ よ 。
あたかも何もなかったあの大空に、ふたたびさまざまな形をした雲が湧き出してくる
ようにね。」空即是色
「しかし、それらは意味もなくこの世に生じてくるわけではないのだよ。無数の原
因、因と条件、縁が結びついているのだよ。例えば、今貴方がたの前に一本の枝が落
ち て い る が 、も し 誰 か が そ の 小 枝 で 地 面 に 字 を 書 い た ら 、そ の 小 枝 は 筆 に な っ た の だ 、
或いは誰かがその小枝に火をつけたならば、小枝は灯りにもなり、人を暖める役割を
はたすのだよ。このように同じものであっても、因と縁とが異なれば全く別なものが
生じてくることが、解っただろう。」
観自在菩薩は舎利子に言った「舎利子よ」「はい、観自在菩薩様」「今度は貴方の
事だ、貴方もこの世に存在する形あるものの一つである。貴方も父の生を受け、母の
胎内で育まれ、この世に生まれてきた存在である。舎利子よ、考えて見よう。今、貴
方を取り巻いている花や鳥や馬や牛や虎や象や蝶や木や森や岩や月や星や太陽と同様
に 、こ の 世 に 生 ま れ て き た 貴 方 と は 一 体 ど ん な 存 在 な の だ ろ う か 、共 に 考 え て み よ う 。
貴方は今、私の前に存在しているが、しかし、あと何時間、何年生きられるか解らな
い。つかの間の存在なのだよ。今生きているがあっという間に滅び去ってしまう陽炎
の様なはかない存在なのだよ。だがね、舎利子よつかの間の存在であるけれど、貴方
は意味もなく、この世に生まれてきたわけではありません。無数の様々な原因と条件
とが寄り集まって、この世に生まれてきたのです。つまり貴方は生まれる意味があっ
たからこそ、貴方は生まれてきたのです。そのように思うと、不思議な気持ちになる
ね。
舎利子よ、生きている貴方は、奇跡の様な存在であると言っても過言ではないのだ
よ。真に真に有難い存在であるのだよ。舎利子よ、共に考えてみよう。貴方の中には
無数の生が存在しているのだよ。貴方を生んでくれた父と母がいる。その父にも父と
母がいて、その母にも父と母がいる。貴方から十代前まで遡るならば、貴方に繋がる
父と母は千人以上になる。更に二十代前まで遡るならば父と母の数は百万人を超える
のだ。このように無数の命が寄り集まって、貴方という命を成し ているのだよ。その
中のどれか一つの命が欠けたとしても、貴方という命は成り立たなかったのだよ。
さて、舎利子よ、そのような無数の命が寄り集まって、この世に生を受けた貴方が
どのような場所にいるかわかるかね。」
舎利子
「わかりません。教えて下さい。」
観自在菩薩
「では、教えてあげよう。心の中で思い描いてみなさい。宇宙全体を
くまなくとうとうと流れ続ける、命の巨大な運動体である宇宙の大河。宇宙の大河は
無数の要素が寄り集まって成り立っているのだ。それ故にその中の一つの要素が欠け
た と し て も 宇 宙 は 成 り 立 な い の だ よ 。」
宇宙論の研究において、現在の宇宙の成り立ちはその一要素としての太陽系の成因、
その第 3 惑 星で ある地 球の誕 生、そ の地 球に おける 生命 の誕 生、そ の生命 体系 にお け
る高度の知的生命体である人類の誕生、その人類の一人としての自分の存在を考えて
みると、実に実に無数の要素が寄り集まって、現在の自分がいることになります。そ
れゆえに、その中の一つの要素が欠けたとしても、宇宙は成り立ないのだ。一つの要
素は宇宙を構成し、宇宙は一滴の要素に依存しているのだ。
観自在菩薩
「舎利子よ、貴方の命とは、 宇宙の大河の一滴のことなのだよ。僅か
一滴であるが、その一滴がなければ、宇宙の大河は成り立たないのだ。 舎利子よ、貴
方の一滴は、宇宙の大河を成し、宇宙の大河は、貴方の命の一滴に依存しているのだ
よ。どうかね、素晴らしいことだとは思わないかね。驚くべきことだとは思わないか
ね。宇宙の大河の中をとうとうと流れていく貴方の命。貴方の命の中をとうとうと流
れ て い く 宇 宙 の 大 河 。 こ う し て 見 て く る と 貴 方 と は 宇 宙 そ の も の な の だ よ 。」
舎利子のまぶたから涙が後から後から溢れ出て、止めることが出来なかった。
観自在菩薩
「舎利子よ、陽炎の様なつかのまの命を生きている私達生き物とは、
なんとはかなく切ない存在だろうね。しかし、たとえつかの間であったとしても、そ
のような命を頂いて生きている私達生き物とは、何とありがたく素晴らしい存在なの
だろう。しかし、貴方は一人でこの世を生きているわけではないのです。貴方の周り
にいる人達はもとより、あなたを取り巻いている花や鳥や馬や牛や虎や象や蝶や木や
森や岩や月や星や太陽とともに生きているのです。彼らと共に、貴方はこの世を成し
ているのです。その中のたった一つの命が欠けたとしてもこの世は成り立たないので
す。あなたの周りにいる全ての命はあなたの父であり、母であり、兄弟であり、姉妹
であるのです。あなたの命は、あなたの周りの全ての命と深い絆で結ばれ、助けたり
助けられたりしながら、生きているのです。舎利子、貴方は貴方の絆を大切にしなさ
い。貴方の命と貴方の周りにいる全ての命に感謝し敬いなさい。そして貴方がこの世
に生まれてきた意味を考えなさい。何故自分は生まれてきたのかを。舎利子よ何故貴
方はこの世に生まれてきたのか」舎利子は無言のまま答えられませんでした。
観自在菩薩
「では、教えてあげよう。貴方が生まれてきた意味と理由とは何なの
か、それは役割を果たすためなのだよ。」
舎利子「役割・・・」
観自在菩薩「そう自分以外の人と人間以外の無数の命のために何が出来るか。貴方
でなければ果たせない、貴方だけの役割を果たすために貴方はこの世に生まれてきた
のだ。そのことを決して忘れてはいけないのです。舎利子よ、もう一度言おう、こだ
わりを捨てなさい。そして頂いた命に感謝しながら自分の役割を果たしなさい。」
舎利子は手で涙を拭くと大きくうなずいた。
宇宙原理からの問いかけに対する仏教思想からの回答は、宇宙の生命の大河の中に
自分の生命があり、自分の生命の中に宇宙の大河がとうとうと流れてい る。そして貴
方が生まれてきた意味と理由は何か。それは役割を果たす為であり、自分以外の人と
人間以外の無数の命のために何が出来るか。貴方でなければ果たせない、貴方だけの
役割を果たすために貴方はこの世に生まれてきたのだと自覚し、宇宙に生かされてい
る自分の命に感謝しながら自分の役割を果たすことだと思います。
五 蘊 盛 苦( ご う ん じ ょ う く )
H25.7.25
五蘊盛苦とは、仏教の説く四苦八苦の一つで、般若心経の最初にある「観自在菩薩
が 深 般 若 波 羅 蜜 多 を 行 ず る 時 、五 蘊 は 皆 空 な り と 照 見 し て 、一 切 の 苦 厄 を 度 し た も う 」
で す 。こ れ は 、
「観音さまが深い修行に入られ五蘊は皆空だと悟られたときに一切の苦
厄から解放された」という意味です。般若心経の主旨が初めに示されている言葉です
が、同時にこれは仏教の基本理念でもあるのです。
「五蘊は皆空なり」と悟ってこそ一切の苦しみから解放されるというのです。では
五蘊とは何でしょう。
「蘊」
( う ん )と は「 た く わ え 」と か「 集 ま り 」と か の 意 味 で す 。
仏 教 で は 世 界 は 五 つ の 集 ま り で 成 り 立 っ て い る と 考 え る の で す 。そ の 五 つ の 集 ま り が 、
色・受・想・行・識なのです。
「色」とは物質的存在という意味です。形あるものの全てです。あとの「受・想・
行・識 」は「 心 」の 世 界 を 意 味 し ま す 。
「 受 」は 、感 覚 と か 知 覚 な ど の 感 受 作 用 を 意 味
し ま す 。暑 い と か 寒 い と か 、旨 い と か ま ず い と か の 五 感 に よ る 感 覚 で す 。
「 想 」は 、
「受」
で受けたものを心の中でイメージすることです。
「 行 」は 、イ メ ー ジ を 意 志 に 移 行 さ せ
ることです。
「 識 」は 、判 断 す る こ と で す 。般 若 心 経 は こ の 五 蘊 が す べ て「 空 」で あ る
と説いています。
こ の 世 の 一 切 は 物 体 と い う「 色 」と 心 で あ る「 受・想・行・識 」で 成 り 立 っ て お り 、
そ の 全 て の 実 体 は「 空 」で あ る と い う の で す 。そ れ を 悟 っ て こ そ「 一 切 苦 厄 」を「 度 」
せるのであり、本当の安楽が得られるというのです。
で は な ぜ 、「 空 」 を 悟 る こ と が 救 い に な る の で し ょ う か 。 人 の 苦 し み 悩 み の も と に
なるのは、まず「肉体」にあると考えられます。肉体は物質ですから諸行無常の道理
に従って常に変化しています。病気や老化が無縁な人などいません。肉体の変化によ
る悩みや苦しみは必ずやってきます。これは人としての宿命です。人にとって病気や
老化による悩みや苦しみはほんとうに辛いものです。それと同じようにあるのが心か
らくる悩みや苦しみです。そのすべては渇愛によるものです。それが、嫉妬、憎悪、
貪欲を引き起こすのです。その苦しみ悩みのすべては「受・想・行・識」の中で生ま
れるのです。
だとすると、人間生きている以上様々な苦しみから逃れることなどできないわけで
す。その通りなのです。これこそ人間の人間たる宿命なのです。ただし、その現実の
な か で お 釈 迦 さ ま は そ れ で も 救 わ れ る 道 を 発 見 さ れ た の で す 。そ れ が 、
「行深般若波羅
蜜多」での「悟り」なのです。その内容が明示されているのが般若心経であり、その
主旨は「五蘊は皆空なり」と悟ることであるのです。五蘊が空であることをしっかり
理解できれば、苦そのものの実体などどこにも無いということがわかるのです。
一切が空である以上そこには「苦」など存在しないということです。お釈迦さまは
人生は全て苦であるが、その四苦八苦つまり「五蘊盛苦」から救われるには「五蘊皆
空 」と 悟 る こ と に こ そ あ る と 説 か れ た の で す 。そ の た め に は た だ た だ「 般 若 波 羅 蜜 多 」
を「修行」することです。これが唯一救われる「法」なのです。
認知バイアス(バイアス:偏り、偏見)
H25.7.19
認知バイアスとは、認知心理学や社会心理学の理論であり、ある対象を評価する際
に、自分の利害や希望に沿った方向に考えが歪められ、対象の目立ちやすい特徴に引
きずられて、ほかの特徴についての評価が歪められる現象を指します。要するに、直
感 や 先 入 観 ( 思 い 込 み )、 恐 怖 心 や 願 望 が 論 理 的 な 思 考 を 妨 げ る の で す
(1)確証バイアス
個人の先入観に基づいて他者を観察し、自分に都合のいい情報だけを集めて、
それにより自己の先入観を補強するという現象である。
(2)外集団同質性バイアス
自 分 が 所 属 し て い る 集 団( 内 集 団 )の 多 様 性 が 、自 分 が 所 属 し て い な い 集 団( 外
集団)よりも高いとみなすバイアスのこと。
(3)コンコルド効果
ある対象への金銭的・精神的・時間的投資をしつづけることが損失につながる
とわかっているにもかかわらず、それまでの投資を惜しみ、投資をやめられない
状態を指す。埋没費用の別名。
(4)アポフェニア
無作為あるいは無意味な情報の中から、規則性や関連性を見出す知覚作用のこ
とである。
(5)アンカー効果
初 期 値( ア ン カ ー )が 判 断 に 影 響 し て し ま う と い う 心 理 的 効 果 の こ と 。最 初 に
提示されたひとつの意見が強い影響力を持ち、他の意見を繋ぎ止める作用をもつ
ことから係留効果ともいう。
(6)アンカリング
認知バイアスの一種であり、判断する際に特定の特徴や情報の断片をあまりに
も重視する傾向を意味する。係留。
(7)観察者バイアス
観察者が見出すことを期待している行動を強調しすぎて、それ以外の行動に気
づかないという測定における誤差である。
(8)偽の合意効果
人が自分の考え方を他の人に投影する傾向である。つまり、人は他の人々も自
分と同じように考えていると見なしたがる。
(9)自己奉仕バイアス
成功を当人の内面的または個人的要因に帰属させ、失敗を制御不能な状況的要
因に帰属させること。自己奉仕バイアスは、成功は自分の手柄とするのに失敗の
責 任 を 取 ら な い 人 間 の 一 般 的 傾 向 を 表 し て い る 。セ ル フ・ハ ン デ ィ キ ャ ッ ピ ン グ 。
(10)
ジャネーの法則
主観的に記憶される年月の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く評
価されるという現象を心理学的に解明した。
(11)
双曲割引
行動経済学の用語で、遠い将来なら待てるが近い将来ならば待てないという人
の現象。
(12)
ツァイガルニク効果
人は達成できなかった事柄や中断している事柄のほうを、達成できた事柄より
もよく覚えているという現象。
(13)
ハロー効果
ある対象を評価をするときに顕著な特徴に引きずられて他の特徴についての評
価が歪められる現象のこと。
例として、ある人が難関大学卒であった場合、その人が学力においてだけでな
く、人格的にも優れていると思い込んでしまうケースが挙げられる。
(14)
バンドワゴン効果
ある選択が多数に受け入れられている、流行しているという情報が流れること
で、その選択への支持が一層強くなることを指す。
(15)
プロスペクト理論
人間は目の前に利益があると、利益が手に入らないというリスクの回避を優先
し 、損 失 を 目 の 前 に す る と 、損 失 そ の も の を 回 避 し よ う と す る 傾 向 が あ る と い う こ
とである。
(16)
あと知恵バイアス
物事が起きてからそれが予測可能だったと考える傾向。
(17)
根本的な帰属の誤り
個人の行動を説明するにあたって、気質的または個性的な面を重視しすぎて、
状況的な面を軽視しすぎる傾向を言う。
(18)
感情バイアス
感情的要因による認知と意思決定の歪みである。
(19)
単純接触効果
繰り返し接すると好意度や印象が高まるという効果。何度も見たり、聞いたり
す る と 、次 第 に よ い 感 情 が 起 こ る よ う に な っ て く る 。こ れ は 、見 た り 聞 い た り す る
ことで作られる潜在記憶が、印象評価に誤って帰属されることによる。
(20)
バーナム効果(占いなどに用いられることが多い。フォアラー効果とも呼ぶ)
誰にでも該当するような曖昧で一般的な性格をあらわす記述を、自分だけに当
てはまる正確なものだと捉えてしまう心理学の現象。
(21)
希望的観測
信 念 の 一 形 態 で あ り 、 証 拠 や 合 理 性 で は な く 、「 そ う あ っ て 欲 し い 」 と か 「 そ う
だったらいいな」という希望に基づいて判断を行うことをいう。
(22)
過誤記憶
過 去 の エ ピ ソ ー ド 記 憶 を 叙 述 す る と き に 「 嘘 を つ く 」 と い っ た 悪 意 が な く 、「 誤
っ た 記 憶 」 を 述 べ て し ま う も の 。「 昔 は 良 か っ た 」 と い う の も 、 良 か っ た こ と し か
覚えてないことからくる過誤記憶ともとれる。
セ リ グ マ ン の 犬( 学 習 性 無 力 感 )
H25.7.13
学習性無力感は、長期にわたって、ストレス回避の困難な環境に置かれた人は、そ
の状況から逃れようとする努力すら行わなくなるという見解。学習性絶望感・学習性
無 気 力 と も い う 。日 本 に 紹 介 さ れ た ば か り の 頃 に は 、直 訳 に 近 い「 獲 得 さ れ た 無 力 感 」
と呼ばれていた。
心 理 学 者 の マ ー テ ィ ン・セ リ グ マ ン が 、1960 年 代 に リ チ ャ ー ド・ソ ロ モ ン の 元 で 学
生 生 活 を し て い た 時 期 に 思 い つ き 、 そ れ 以 来 10 年 間 近 く の 研 究 を も と に 発 表 し た 。
それによると、長期にわたり、抵抗や回避の困難なストレスと抑圧の下に置かれた犬
は、その状況から「何をしても意味がない」ということを学習し、逃れようとする努
力すら行わなくなるというものである。
実 験 は 1967 年 に セ リ グ マ ン と マ イ ヤ ー が 犬 を 用 い て 行 っ た 。 予 告 信 号 の あ と に 床
から電気ショックを犬に与えるというものである。犬のいる部屋は壁で仕切られてお
り、予告信号の後、壁を飛び越せば電気ショックを回避できるようにした。また、前
段 階 に お い て 次 の 二 つ の 集 団 を 用 意 し た 。電 気 シ ョ ッ ク を 回 避 で き な い 状 況 を 用 意 し 、
その状況を経験した犬と足でパネルを押すことで電気ショックを終了させられる状況
を経験した犬である。実験ではその二つの集団に加え、なにもしていない犬の集団で
行った。
実験の結果、犬の回避行動に差異が見られた。前段階において電気ショックを回避
できない犬はその他の集団に比べ回避に失敗したのである。具体的にはその他の集団
が 平 均 回 避 失 敗 数 が 実 験 10 回 中 約 2 回 で あ る の に 対 し 、前 段 階 に お い て 電 気 シ ョ ッ ク
を 回 避 で き な い 犬 は 平 均 回 避 失 敗 数 が 実 験 10 回 中 約 7 回 で あ る 。こ れ は 犬 が 前 段 階 に
おいて、電気ショックと自分の行動が無関係であると学習しそれを認知した為、実験
で 回 避 で き る 状 況 と な っ た 場 合 で も 何 も し な く な っ て し ま っ た と 考 え ら れ る 。:こ れ を
セリグマンらは学習性無力感と呼んだ。
長期に渡り、人が監禁されたり、暴力を振るわれたり、自分の尊厳や価値がふみに
じられるような場面に置かれた場合、次のような徴候が現れるという。
被験者は、その圧倒的に不愉快なストレスが加えられる状況から、自ら積極的に抜
け出そうとする努力をしなくなる。
実際のところ、すこしばかりの努力をすれば、その状況から抜け出すのに成功する
可能性があったとしても、努力すれば成功するかもしれないという事すら考えられな
くなる。
ストレスが加えられる状況、又ストレッサーに対して何も出来ない、何も功を奏し
ない、苦痛、ストレス、ストレッサーから逃れられないという状況の中で、情緒的に
混乱をきたす。
人の行動は、良かれ悪しかれ何らかの学習の成果として現れてくるものである、と
いう学習理論を土台とした理論である。拉致監禁の被害者や、長期の家庭内虐待の被
害者などの、行動の心理的根拠を説明する理論として、注目されている。
尊厳死宣言公正証書
H25.5.26
尊 厳 死 宣 言 公 正 証 書 と は 、本 人 が 自 ら の 考 え で 尊 厳 死 を 望 み 、延 命 措 置 を 差 し 控 え 、
中止してもらいたいという考えであることを公証人の面前で宣言し、公証人がこの事
実 を 公 正 証 書 と し て 記 録 す る も の で 、い わ ゆ る 事 実 実 験 公 正 証 書 の 一 種 で す 。し か し 、
治療にあたる医師の立場としては、回復の可能性がゼロかどうか分からない患者の治
療をやめてしまうのは医師としての倫理に反すること、どのような形であれ、現に生
命を保っている患者に対し、死に直結する措置をとる行為は、殺人罪に問われるおそ
れがあることなどから、尊厳死宣言公正証書を作成したからといって、必ず尊厳死が
実現できるとは限りません。ただ、尊厳死の普及を目的とする日本尊厳死協会の機関
誌「 リ ビ ン グ・ウ ィ ル 」の ア ン ケ ー ト 結 果 に よ れ ば 、
「 尊 厳 死 の 宣 言 書 」を 示 し た 場 合
に お け る 医 師 の 尊 厳 死 許 容 率 は 、平 成 15 年 に は 95.9 パ ー セ ン ト 、平 成 16 年 で は 95.8
パーセントに達するということです。
公正証書の条項
家族の了解書とそれぞれの印鑑証明書を添付するようにしてい ます。それは、あら
かじめ家族とよく話し合って、自分が尊厳死を望む意思であることを明確にし 、いざ
そのときになって反対しないよう家族を説得しておく必要があること 、家族が了解し
ていることを客観的に明らかにし、医師に安心して延命治療を中止してもらえるよう
にしておくこと、もしも家族の中に一人でも納得しない者がいるときは、尊厳死宣言
公正証書の作成をいったん断念し、説得できるまで待つべきであることを考慮したも
のです。
公正証書作成に必要な書類など
本人の印鑑証明書・実印(出頭者,宣言者が本人であることの確認のためです。ま
た 、 印 鑑 証 明 書 は 公 正 証 書 原 本 に 添 付 し て 保 存 し ま す 。)
家族の了解書(標準条項の第2項に記載した書面です。署名などの記載は 、できる
だけ各人の自筆にしてください。印鑑は市町村に登録された実印を使用し 、印鑑証明
書 を 添 付 し て く だ さ い 。 こ の 印 鑑 証 明 書 も 公 正 証 書 原 本 に 添 付 し て 保 存 し ま す 。)
戸籍謄本は、家族の確認に使用します。作成後,お返しします。
公正証書作成手数料
基本手数料は、執務に要した時間が1時間以内であれば1万1000円です。1時
間 を 超 え て 2 時 間 以 内 の ば あ い は 2 万 2 0 0 0 円 と な り ま す 。公 正 証 書 原 本 の 枚 数( ペ
ージ数)が4枚を超えるときは、1枚当たり250円が加算されます。病気などで公
証役場に出頭できないときは、入院先の病院や療養中のご自宅に公証人が出張して作
成 し ま す 。こ の と き は 、出 張 の 日 当 1 万 円( 所 要 時 間 が 2 時 間 を 超 え る と き は 2 万 円 )、
交通費の実費がかかります。作成された公正証書の原本は公証役場に保管されます。
手元には正本または謄本の交付を受けて保管しておくとよいでしょう。謄本の作成手
数 料 は , 謄 本 の 枚 数 ( ペ ー ジ 数 ) ×2 5 0 円 で す 。
原本、正本、謄本、抄本、写し
原本とは、一定の事項を内容とする文書として作成された書類そのものをいう。
とうほん
謄本とは、原本の内容全部を写した文書であって、公証権限を持つ公務員が原本と
相 違 な い 旨 (「 こ れ は 謄 本 で あ る 。」) の 認 証 文 言 を 付 記 し た も の を い う 。
しょうほん
抄 本 は 、謄 本 と 同 様 、 公 務 員 が 認 証 し た 写 し で あ る が 、 原 本 の 内 容 の 一 部 を 写 し た
文書である点が謄本と異なる。
しょうほん
正 本 と は 、公 証 権 限 を 持 つ 公 務 員 が 特 に 正 本 と し て 作 成 し た 原 本 の 写 し で 、法 律 上
特に原本の持つ効力を発揮するものをいう。
公正証書
公務所又は公務員がその職務上作成した文書を公文書といい、そのうち、公務員が
その権限に基づき作成した証書が広義の公正証書である。
公証人
公証人とは、ある事実の存在、もしくは契約等の法律行為の適法性等について、公
権力を根拠に証明・認証する者のことである。
日本においては公証人法に基づき、法務大臣が任命する 公務員で、全国各地の公証
ていかん
役場で公正証書の作成、定款や私署証書(私文書)の認証、事実実験、確定日付の付
与などを行う。
定款
定 款 と は 、社 団 法 人( 会 社・公 益 法 人・協 同 組 合 等 )お よ び 財 団 法 人 の 目 的・組 織 ・
活 動・構 成 員・業 務 執 行 な ど に つ い て の 基 本 規 則 そ の も の( 実 質 的 意 義 の 定 款 )、お よ
びその内容を紙や電子媒体に記録したもの(形式的意義の定款)である。また、社団
法人とはいえないような特殊法人(日本銀行・日本放送協会等)の根本規則も定款と
呼ばれる。
私署証書
公文書以外の文書を私文書といい、そのうち、作成者が署名又は記名押印をしたも
のが私署証書である。
しんせい
民事訴訟において、文書は、原則としてその成立が 真正であることを証明しなけれ
ばならないが、私文書は、作成者本人又はその代理人の署名又は押印があるときは、
そしょう
真 正 に 成 立 し た も の と 推 定 す る と 規 定 さ れ て い る( 民 事 訴 訟 法 228 条 4 項 )。ま た 、判
例上文書に押された印影が本人(又は代理人)の印章によるものであるときは、反証
けんしゅ
の な い 限 り 、本 人 の 意 思 に 基 づ い て 顕 出 さ れ た も の と 事 実 上 推 定 さ れ る 。し た が っ て 、
例えば、契約書に契約当事者とされている人物の実印が押してあり、その印鑑登録証
明書が添付されている場合、その押印は本人の意思によるものと推定され、次に本人
の押印があることによって文書が真正に成立した(偽造ではない)ものと推定される
こ と に な る ( 二 段 の 推 定 )。
惻隠之情
H25.5.17
こ う そ ん ちゅう
惻 隠 之 情 は 、惻 隠 の 心 と も い い 、孟 子 、公 孫 丑 ・上 に あ る 孟 子 の 有 名 な 性 善 説 の 四
端の一つから来ています。
これによると、孟子は、人の性が善であることを説き、続けて仁・義・礼・智の徳
(四徳)を誰もが持っている 4 つの心に根拠付けました。
し た ん
そ の 説 く と こ ろ に よ れ ば 、 人 間 に は 誰 で も 「 四 端 」 の 心 が 存 在 す る と あ り 、「 四 端 」
たんしょ
とは「四つの端緒、きざし」という意味で、それは、
そくいん
「 惻 隠 」( 他 者 を 見 て い た た ま れ な く 思 う 心 )
しゅう お
れ ん ち
「 羞 悪 」( 不 正 や 悪 を 憎 む 心 ) ま た は 「 廉 恥 」( 恥 を 知 る 心 )
じ じょう
ゆず
「 辞 譲 」( 譲 っ て へ り く だ る 心 )
「 是 非 」( 正 し い こ と と ま ち が っ て い る こ と を 判 断 す る 能 力 )
の 4 つの道徳感情であると説きます。この四端を努力して拡充することによって、
それぞれが仁・義・礼・智という人間の 4 つの徳に到達するというものです。
言い換えれば、
「惻隠」は仁の端
「 羞 悪 」(「 廉 恥 」) は 義 の 端
「辞譲」は礼の端
「是非」は智の端
となります。
たとえば、幼児が井戸に落ちそうなのをみれば、ど のような人であっても哀れみの
心(惻隠の情)がおこって来ます。これは利害損得を越えた自然の感情であり、この
他人のことをいたましく思って同情する心は、やがては人の最高の徳である仁に通ず
るというもので、人間の心のなかには、もともと人に同情するような気持ちが自然に
備わっているから、自然に従うことによって徳に近づくことができると言うのです。
ま た 、「 惻 」 は 、 同 情 し 心 を 痛 め る と 言 う 意 味 が あ り 、「 隠 」 も 、 深 く 心 を 痛 め る と
言う意味があります。したがって、人が困っているのを見て、自分のことのように心
じ
た いちにょ
を痛めるような、自他一如(平等・無差別)の心もちを言うのです。もっと平たく言
えば「思いやりの心」と言うことになるのかも知れませんが、それだけでは十分に表
せないもっと深い情愛を満たす言葉と思うのです。
だからこそ、孟子はこの事情を充分知りぬいたうえで「同情心やあわれみの心」が
すべての徳目の出発点であると断定したものと考えます。
「惻隠の情」は、いたましく同情する心ですが、相手の立場に立って、ものごとを
感じとるという感覚上の自然の性格の発露でもあります。夏目漱石の言葉ではありま
せんが、
「 可 哀 相 と は 、惚 れ た と い う こ と よ 」と い う よ う に 、愛 と い う 心 情 に 結 び つ き
「他人を愛する」という博愛の精神と同類型の心の動きと思われるからです。
社 会 生 活 を 送 る 際 に も 、家 庭 生 活 を 過 ご す の に も 、
「 愛 の 精 神 」が 根 幹 に あ っ て 、大
きくすべてを包んでいると思うのです。
神 の 国 は 汝 ら の 中 に 在 る な り 《 ル カ 伝 17 章 21 節 》
み
こ
こ
H25.4.5
か し こ
ま た 「 視 よ 、 此 處 に 在 り 」「 彼 處 に 在 り 」 と 人 々 言 は ざ る べ し 。 視 よ 、 神 の 国 は 汝
らの中に在るなり
注解
「 見 ゆ べ き 状( さ ま )に て 」は「 観 察 に 由 て 」の 意 、神 の 国 の 到 来 の 場 所 を 指 摘 す る
こ と は で き な い 。従 っ て そ の 時 日 も 不 明 で あ る 。そ れ は 神 の 国 は 人 間 の 心 の 中 に あ り 、
たま
神が人の心を支配し給う処に神の国があるからである。そして「汝らの中に」は一般
に「汝ら人間の中に」の意味に取ることができ、そしてそれは不信な人間の中にも神
の国があるという意味ではなく、神の国が来る時はそれは人間の心の中に来るのだか
ら「 此 處( こ こ )」
「 彼 處( か し こ )」と 見 ゆ べ き 状 態 で は 来 な い と い う 意 味 に 取 る 方 が
適当であろう。現在動詞「在り」も一般的事実を表示すると見て差支えがない。そし
て「何時来るべきか」の問いに対しては何も答えられていないようであるが、それは
がいかつ
以上のごとくに解すれば自然「何時」として概括的に答え得ないこともわかるからで
あろう。なお「国」は「支配」を意味するのであるから、これを「神の支配」と見て
お む ね
神の御旨に従う心の中に神の国がある訳であるから自然人間の群の中の此処彼処(こ
こかしこ)にある訳である。
禅語に明珠在掌がありますが、この言葉と神の国は汝らの中に在るなりという言葉
が何か同じものを指すような気がします。
「明珠在掌(明珠掌{たなごころ}に在り)という禅語は、その大切な象徴が手の
ひ かぎ
ひら、至近の距離の中にあることを説いています。弘法大師空海は「般若心経 秘鍵」
の冒頭で次のように記しています。
「 そ れ 仏 法 遥 か に あ ら ず 。心 中 に し て 即 ち 近 し 、真
如外(ほか)にあらず。身を捨てて何かに求めん」真理は自分の外にあるものではな
い。自分の一番身近なところ、内にあるものであり、それを外に求める必要はない。
ところが、近くにあるためかえって人は迷います。
「青い鳥」という童話をご存じでしょう。幸せの 青い鳥を求めて旅に出たチルチル
とミチルが、旅の末に幸せは身近なところにあることに気づく物語です。一休禅師の
狂歌も同じことを説いています。
「 極 楽 は 西 方( さ い ほ う )の み か は 東 に も 北 道( 来 た
路)さがせ南(皆身)にあり」浄土宗では西方浄土というが極楽は西のほうにだけあ
るものではなく、東にもあるし、北にも南にもどこにでもある。北道を「来た路」と
掛け、自分がこれまで歩んできた路を振り返ればこれから行き着く先ははっきりして
くること。また南を「皆身」に掛け、極楽はつまるところここにもある、各々の心の
内にあることを説いています。
ま ゆ げ
道 元 禅 師 も 次 の よ う に 詠 ん で い ま す 。「 極 楽 は 眉 毛 の 上 の つ る し も の あ ま り 近 さ に
見つけざりけり」幸福を求めて遠くまで出かけていくことの愚かさを、優美な詩歌の
なかで象徴的に詠んでいます。私たちは、肝心の「いま、ここ」を捨て、どこかよそ
に幸せを求めて行きがちですが、それは決して幸福を得る道ではないのです。
が さ ん いっそく
武者小路実篤画讃一束
H25,3,10
( 1885-1976)東 京・麹 町 生 れ 。子 爵 家 の 末 子 。1910( 明 治 43)年 、志 賀 直 哉 ら と「 白
樺 」を 創 刊 、宮 崎 県 で「 新 し き 村 」の ユ ー ト ピ ア 運 動 を 実 践 、
『幸福者』
『友情』
『人間
万 歳 』等 を 著 す 。戦 後 、一 時 公 職 追 放 と な る が 、
『 真 理 先 生 』で 復 帰 後 は 、悠 々 た る 脱
俗 の 境 地 を 貫 い た 。 1951( 昭 和 26) 年 、 文 化 勲 章 受 章 。
が さ ん いっそく
画讃一束は、実篤が野菜や花などを描いた絵に書き添えた「讃」とよばれる短い言
葉です。
かな
「仲良き事は美しき哉」
仲が良い関係は、外から見ても、心の中も 美しく見え、仲が悪い関係は、互いに醜
く見えます。また、まわりの人との関係が良好なら、お互いに幸せに過ごしやすいの
ではないでしょうか。これが、まわりの人を大切にすることが、自分の幸せにつなが
ることだと思うのです。
「天与の花を咲かす喜び
共 に 咲 く 喜 び 、見 る も よ し 、見 ざ る も よ し 、さ れ ど 我 は さ
くなり」
植物が人の目を気にせず、季節が廻ればその花を美しく咲かせるように、私たちも
自然のままに、自らの尊い命を咲かせればいいという意味だと思います。社会生活を
送る上で、時に私たちは他人の評価や世間の価値観に振り回されて しまいます。しか
し、一人ひとりそれぞれが、かけがえのない命を、自分らしく生きていけば、それで
いいのではないでしょうか。
「君は君
我は我也
されど仲良き」
互いに相手を尊重した上で、各自も尊重できれば、いい関係を築けるのではないで
しょうか。人と意見が違っていても、心がとらわれなければ、不要な対立を引き起こ
さずにすむのではないでしょうか。それぞれに違いがあるから、人づきあいはおもし
ろいのではないでしょうか。
「我この道を行く
こ の 道 の 他 に 我 を 生 か す 道 無 し 」「 こ の 道 よ り 、わ れ を 生 か す 道
なし。この道を歩く」
自分が目指したい道は 、なかなか先が見えないものです。しかし、強い意志をもっ
て前進すれば、道はきっと開けるのではないでしょうか。相田みつを も『どのような
道を歩くともいのちいっぱいに生きればいいぞ』と言っています。自分が信じた道を
精一杯生きることが出来ればいいのではないでしょうか。
その他
「天に星
地に花
人 に 愛 」「 勉 強 勉 強
勉強のみ
よ く 奇 蹟 を 生 む 」「 自 分 に と っ
て人生が無意味に思えるのは、自分が人生にとって無意味であるときである」
アガペー
H25,3,10
アガペー は、キリスト教における神学概念で、神の人間に対する「愛」を表しま
す。神は無限の愛(アガペー)において人間を愛しているのであり、神が人間を愛す
る こ と で 、神 は 何 か の 利 益 を 得 る 訳 で は な い の で 、
「 無 償 の 愛 」と さ れ ま す 。ま た 、そ
ふきゅう
れは不変の愛なので、旧約聖書には、神の「不朽の愛」としてでてくる。新約聖書で
あらわ
は、キリストの十字架での死において 顕 された愛として知られています。
またキリスト教においては、神が人間をアガペーの愛において愛するように、人間
同士は、互いに愛し合うことが望ましいとされており、キリスト教徒のあいだでの相
互の愛もまた、広い意味でアガペーの愛と解釈されます。
アガペーは、古代ギリシア語の愛を意味する言葉で、この言葉以外に ギリシア語に
は「 愛 」を 表 現 す る 言 葉 が 基 本 的 に は 3 つ あ り 、エ ロ ー ス (性 愛 ) 、ピ リ ア ー (友 愛 ) 、
ア ガ ペ ー (真 の 愛 )で 、 お お む ね 似 た よ う な 言 葉 で 、 確 か に 違 い は あ り ま す が 、 大 体 、
「愛」という意味です。単純化すると、エロースの愛は、恋人への情熱的な愛。ピリ
アーの愛は、友人・同胞への精神的な愛。アガペーの愛は、家族・兄弟などへの自然
な愛、と言えるでしょう。
し か し 、 キ リ ス ト 教 文 化 で は 、「 ア ガ ペ ー 」 を 、 最 上 の 愛 、「 神 が 人 を 愛 す る 愛 」 で
あ る と し た こ と で す 。キ リ ス ト 教 の 説 い た「 愛 」を 、
「 ア ガ ペ ー 」の 言 葉 で 表 現 し よ う
としたのです。そのためには、ギリシア語で、愛を意味する、三つの言葉のなかで、
も っ と も 物 欲 的 で な い「 ア ガ ペ ー 」を 使 っ た の で は な い で し ょ う か 。ま た 、
「アガペー」
が家族・兄弟への愛という側面があるので、神は、人間を、我が子のように愛してく
だ さ る し 、人 間 も 神 を 、父 の よ う に 愛 す る の が 自 然 で あ る と い う 教 え か ら 、
「アガペー」
がキリスト教での「愛」になったのだと思います。また、キリスト教は、神の愛を通
じて、人間と他者である人間のあいだで、神を媒介にして、それぞれは兄弟であり、
互いに、人が神を愛するように、また神が人を愛してくださるように、愛し合うべき
だとの考えがあります。つまり、人間は、父である神を媒介に、兄弟姉妹の関係にな
るというものです。
キリスト教の信徒は、互いを、兄弟姉妹と古く呼んでいましたが、それは、こうい
う「愛」の概念から派生してきています(修道会のメンバー、つまり修道士は、ブラ
ザー、シスターと互いに呼ぶのは、この信徒は兄弟姉妹であるということを反映して
い ま す )。ま た 、こ の よ う な 神 と 人 の あ い だ の 愛 、人 の あ い だ の 兄 弟 姉 妹 と し て の 愛 は 、
古 典 ギ リ シ ア 語 だ と 、「 ア ガ ペ ー 」 が そ れ に 近 か っ た の で す 。
エロースは代償を求める愛、すなわちあなたを愛するからあなたからも愛して欲し
いというものを含むと思うのです。こんなことをしてあげるから、きっと代わりに何
かしてくれると望む行為というものでしょう。しかし、アガペーの愛は無償の愛と言
わ れ 、相 手 が ど う い う 態 度 で あ ろ う と 代 償 を 望 ま ず に 愛 す る こ と で あ る と 思 う の で す 。
ですからイエス・キリストは罪深い人間が彼を愛するかどうかに関わらず身代わり
の死を選んだと思うのです。
持続発展教育(持続可能な開発のための教育)
H25.1.24
持 続 可 能 な 開 発 の た め の 教 育 ( 通 称 ESD) と は 、 持 続 可 能 な 開 発 を 実 現 す る た め に
発想し、行動できる人材を育成する教育を意味します。
こ れ は 、「 環 境 と 開 発 に 関 す る 世 界 委 員 会 」( 委 員 長 : ブ ル ン ト ラ ン ト ・ ノ ル ウ ェ ー
首 相( 当 時 ))が 1987 年 に 公 表 し た 報 告 書 の 中 心 的 な 考 え 方 と し て 取 り 上 げ た 概 念「 持
続可能な開発(将来の世代の欲求を満たしつつ、現在の世代の欲求も満足させるよう
な 開 発 )」の こ と で 。こ の 概 念 は 、環 境 と 開 発 を 互 い に 反 す る も の で は な く 共 存 し 得 る
ものとしてとらえ、環境保全を考慮した節度ある開発が重要であるという考えに立つ
も の で す 。こ の 考 え を 基 に 2002 年 に 開 催 さ れ た“ 持 続 可 能 な 開 発 に 関 す る 世 界 首 脳 会
議 ( ヨ ハ ネ ス ブ ル グ サ ミ ッ ト )” の 実 施 計 画 の 議 論 の 中 で 、 わ が 国 が 、「 持 続 発 展 教 育
( ESD) の 10 年 」 を 提 案 し 、 各 国 の 政 府 や 国 際 機 関 の 賛 同 を 得 て 、 実 施 計 画 に 盛 り 込
まれることとなったものです。
【目標】
持続可能な発展のために求められる原則、価値観及び行動が、あらゆる教育や学び
の場に取り込まれること。すべての人が質の高い教育の恩恵を享受すること。環境 、
経済、社会の面において持続可能な将来が実現できるような価値観と行動の変革をも
たらすことを目標とします。
【基本的な考え方】
ESD は 、 持 続 可 能 な 社 会 づ く り の た め の 担 い 手 づ く り で す 。 そ の た め ESD の 実 施 に
は、特に次の 2 つの観点が必要です。
1
人格の発達や、自律心、判断力、責任感などの人間性を育むこと
2
他人との関係性、社会との関係性、自然環境との関係性を認識し、「関わり」、
「つながり」を尊重できる個人を育むこと
また、環境教育、国際理解教育、基礎教育、人権教育等の持続可能な発展に関わる
諸問題に対応する個別分野の取組のみではなく、様々な分野を多様な方法を用いてつ
なげ、総合的に取り組むことが重要です。
【育みたい力】
体系的な思考力(問題や現象の背景の理解、多面的・総合的なものの見方)。持続
可能な発展に関する価値観(人間の尊重、多様性の尊重、非排他性、機会均等、環境
の尊重等)を見出す力。代替案の思考力(批判力)。情報収集・分析能力。コミュニ
ケーション能力
【学び方・教え方】
「関心の喚起→理解の深化→参加する態度や問題解決能力の育成」を通じて「具体
的な行動」を促すという一連の流れの中に位置付けること。
単に知識・技能の習得や活用にとどまらず、体験、体感を重視して、探求や実践を
重視する参加型アプローチとすること。
活動の場で学習者の自発的な行動を上手に引き出すこと。
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