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メルロ= ポンティ 『眼と精神』 をコギト論によって読み

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メルロ= ポンティ 『眼と精神』 をコギト論によって読み
Kobe University Repository : Kernel
Title
メルロ=ポンティ『眼と精神』をコギト論によって読み
解く : 絵画の歴史性と超歴史性(Le cogito merleaupontien dans L'oeil et l'esprit : Historicite et
transhistoricite de la peinture)
Author(s)
平田, 思
Citation
美学芸術学論集,2:40-51
Issue date
2006-03
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81002314
Create Date: 2017-03-29
4
0
美学芸術学論集 神戸大学芸術学研究室
2
06年
メル ロ-ボンティ 『眼 と精神』をコギ ト論によって読み解 く
一 絵 画 の歴 史性 と超歴 史性一
平田
思
序
本稿 は、 メル ロエポ ンテ ィの後期 の絵画論 である 『眼 と精神』 を、彼 の コギ ト論 に
よって読み直す ことを 目的 とす る。その コギ ト論 は、観念 と感覚 の関係 につ いての彼
の見解 を示す重要な議論 であ り、特 に 1
995年 に編集 出版 され た 1961年 の コギ ト論講
義 に よって同時期 に書 かれ た 『眼 と精神』 を読み解 く作業は、絵画論 としての 『眼 と
精神』が メル ロエポ ンテ ィの思想体系の中で どの よ うに位置づ け られ るかを再考す る
ためのきっかけにな るであろ う
。
『眼 と精神』 の特 に第二章には、絵画の存在論的規定 に関す る議論がある。 この箇
所 を論拠 に、 メル ロエポ ンテ ィは絵画 を歴 史規 定か ら逃れ た超歴 史的な ものに しよ う
とした、 と解釈 され る ことがある。例 えば ミシェル ・アール は次の よ うに言 う
。
メル ロエポ ンテ ィが言 うには、彼 のプ ロジェク トとは 「
絵 画 を現在 に置 き直す」 こ とであ る。
剥 ぎ取 られ 、身体 と現象 との内密 で記憶 を欠いた共謀 に還 元 され 、歴 史か ら引 き離 され た現在
であ る。『眼 と精神』の極 めて野心的な一節 が こ うした超歴 史性 を声高に主張 してい る。 この超
歴 史性 は芸術 の公分母 、つ ま り芸術 の よ り小 さな分母 にお いて芸術 を捉 えるのだ 1。
アールの言 う 『眼 と精神』 の一節 とは次の箇所 である。
いかな る文明の中で生 まれ よ うと、いかな る信 念 、いかな る動機 、いかなる思想 、いかな る儀
式 に取 り巻かれ てい よ うと、また別 の ものに捧 げ られ てい るよ うに思 える時 で さえ も、 ラス コ
ー以来今 日まで、純粋 であろ うとなかろ うと、具象 的で あろ うとなか ろ うと、絵 画 は可視性 の
謎以外のいかな る謎 を も祭 りは しなか った2。
メル ロエポ ンテ ィにお いて、絵画の発生の契機 は画家 の知覚 であって、それ は歴史的
あるいは文化的規定 に とらわれず常に現在 的で ある、 とアール は解釈す る。確 かに、
絵画 の発生の仕組みが原理的に歴史や周囲の環境 の影響 を受 け入れ ないのであれ ば、
絵画 とい うものは超歴 史的な ものだ とい うこ とになるだろ う。 しか しなが ら、絵画 の
発生の仕組 み をメル ロエポンテ ィの コギ ト論 と共に理解 した時、画家 に とっての歴 史
的あるいは文化 的所与 こそが絵画の発生契機 であることがわかるだろ う。
上の 『眼 と精神』 の一節 は、その生 まれ る環境 の如何 な る個別性 に もかかわ らず、
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26.
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絵画は可視性 の謎 とい うものだけを祭 る とい う一つの一般性 を持 ってい る、 と言 って
い るのだが、
そ うした一般性 と個別性 は相容れ ない とは決 して言 っていないのである。
メル ロエポンテ ィにお ける個別 と一般 の関係 をまず は知 る必要があるだ ろ う。
1 <経験>とその<仕方>による世界把握
メル ロエポンテ ィは個別 と一般 を、それぞれ経験論的思考の産物 と合理論 的思考の
産物 と捉 えた上で、それ らを両立 させ る新 たな思考 を構想 していた。 1
94748年エ コ
ール ・ノルマル ・シュペ リウール での ピラン とコギ トに関す る講義録 にその宣言 が見
られ る。
哲学者 、特 にカ ン トの よ うな観念論者 な らば、原則 と して内容 ではな く形式 を重視す る.一方、
心理学者 な らば形式 を内容 に還 元す る傾 向にある。 ところで、 こ うした絶対的 な区別 を撤廃 し
て、内容 が現前す る仕 方 と して形式 を捉 える哲学 を構想す るこ とがで きる。 す る と形 式 は内容
にお いて透 か し模様 で描 かれ るだろ う。心理学 と哲学 は こ うして何 の弊害 もな く同一視 され る。
なぜ な ら今後哲学 はわれ われ の世界 の普遍的諸構 造 を把握す るか らだ3
。
メル ロエポンテ ィは従来二元論的な枠組みの中で使 われ て きたく形式 >とく内容 >
を、新 たな思 考 の枠組 み で関係 づ け よ うと試 み る。 それ は、 「
内容 が現 前す る仕 方
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eとして形式 を捉 える」 (
傍 点著者)、 とい うこと、つ ま り内容が どの よ うに現
前す るの か とい う問いに哲学的概念 として応答す るのが形式 だ とい うこ とであ る。 実
際 にメル ロエポ ンテ ィが<形式 >を内容が現前す る<仕方 > と規定 した議論 が ある。
それ は 『知覚の現象学』 での<身体図式 s
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>とい う概念 の哲学的規定
に関す る議論である。 <身体図式 > とは、心理学の分野で もともと身体 に関 して持つ
内的な心的イ メー ジ として- ン リー ・
- ツ ドに よってそ う名付 け られ た ものであるが、
それ は 自己の身体 に対す る諸 々の心的イ メー ジの連合 で しかなかった4。メル ロエポ ン
テ ィはそ うした内的イ メー ジの現れ方その ものに或 る統一性 を見出す。 <身体 図式 >
が内的イ メー ジが起 こるその<仕方 >と捉 え られ ることによって、 この心理学的な内
的イ メー ジである<内容 >は哲学的な合理性 を備 えた く形式 >と結びつ け られ たので
ある5。
と こ ろ で メル ロ エ ポ ン テ ィ は 、 あ らゆ る個 別 の 出 来 事 を示 す 場 合 に <経 験
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e>とい う概念 を用いてい る。『見 えるもの と見 えない もの』 では、 「
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5 「
<身体図式>とは、私の身体が世界にあることを表現するためのひとつの仕方なのである。」Mer
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17.
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存在論的な能力 は経験 にこそ備 わってい る」6と言 われ てい る。つ ま り、<経験 > とは、
事実 としてわれ われ に対 して存在者 が、現前す る、起 こる、発生す る とい う事態 を端
的に担 う概念 で ある しか し、<経験 >として何 らかの ものがわれわれ に現前す るに
は或 る<仕方 >によるのでなけれ ばな らず、従 って<経験 >だけをその <仕 方 >であ
る<形式 >か ら切 り離 して取 り出す こ とは本 来的に不可能 なので ある。
すでに見た身体の内省的な経験の仕 方は<身体図式 >と呼ばれ たが、他 の場面での
諸経験 のその現前や現象 の仕方 を、 メル ロエポ ンテ ィは全著作 を通 じて様 々な用語 で
。
記述 してい る。 <普遍 的構造 s
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6>な どである。 これ らは経験 の文脈や状況 に応 じ
てそれぞれ使 い分 け られ ていた と言 うこともで きるが、ジルベール ・オ トワの言 うよ
うに、それ らは関係論的な もの を示す概念 なので、様 々な経験 のそれ ぞれ の<仕方 >
その ものに唯一 の概念 を当てることはそ もそ も困難 だったのか も しれ ない7
。 しか し、
概 して メル ロエポ ンテ ィは これ らに普遍性 あるいは一般性 とい う性質 を与 えてい る8。
メル ロエポ ンテ ィにおいて、普遍や一般 は個別 を排除す るよ うな形而上学的な概念 で
はない 。それ らは<経験 >とい う個別 が現象す るその <仕方 >としてのみ認 め られ る
合理性 なのであ る。従 って、メル ロエポンテ ィにお ける一般 とは、<経験 >とい う個
別 と相容れ ないのではな く、そ うした個別 の現前や現象の<仕方 > として個別 と相 関
関係 を結ぶ ものなのである。
本稿 は 『眼 と精神』 とい う絵画論 をメル ロエポンテ ィの コギ ト論 に よって読み直す
ことを 目的 としてい る。 それが可能 なのは二つ の議論 か ら共通す るものを取 り出せ る
か らであって、それ こそが<経験 > とその<仕方 >なのである。 まず は 1
961年 の コ
レー ジュ ・ド・フランスでのデカル トの コギ ト論講義 での<経験 > とその<仕方 >を
明 らかにす るこ とにす る。
2 1
961 年のコレージュ・
ド1
7ランスでのデカルトのコギト論講義における<経験 >とその
<仕方>
デ カル トは 自身の哲学 を構築す るために懐疑 の対象 になる経験 を除外 してい く。 エ
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148.
7ジルベ ール
・オ トワに よれ ば、 メル ロ-ボ ンテ ィの哲学 は (
少 な くとも 『知覚 の現象学』 で は)、伝 統的 に哲学
にお いて対 立す る二項 の関係 その ものに注 目す る こ とに よって、その思弁 の対象 を、そ の関係 を成す構 造 とそれ
が発 す る意味 に定 め る。 この構 造や意味 は、実体 的 に も形 而 上学 的 に も指示 対象 と して存在 しない対象 なの で 、
それ らに唯 一の 固有 の言葉 を割 り当て るのは困難 だ とい う。 「
われ われ がそ う見 るで あろ うよ うに、 この特殊 性
とは、ま さに意 味 s
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うこ となの だ。 そ うい う訳 で問題 の 関係 は名付 けれ られ る こ とがで きないの であ る。」(
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例 えば、「
ス タイル とは、それ ぞれ の画家 にお け る、そ の表 明活 動のた めに 自分 に構成す る等価 の体 系で あ り、
<一 貫 した変形 >の 一般 的 で具体 的 な指標 で あ るD」 (
傍 点著者 ) (
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リザベ- ト宛書簡 に も、心身合一の経験 は 「日常の生 と交際 を行使す ること」 9でのみ
理解 され るのであ り、哲学的思案の場 ではそれ を差 し控 える とい うよ うな ことが書か
れ ている。デカル トの コギ トは、懐疑 にかか るよ うな諸感覚 な どの経験 を思考 に還元
して しま うことに よって可能 になったのである1
0
。 これ にたい して メル ロ-ボ ンテ ィ
はむ しろ、そ うした諸感覚の経験 こそが コギ トの契機 である と主張す るのである。
ところで、メル ロ-ボンテ ィはその初期哲学 よ りコギ トの身体的な基盤 を強調 して
いた。1
947年エ コール ・ノルマル ・シュペ リウール での 「
マール ブランシュにお ける
自己意識 」 とい う講義 では、 メル ロエポンテ ィは コギ ト解釈 に関 してス ピノザ よ りも
マール ブ ランシュに賛同 し、心 と身体 を同 じ次元で捉 える必要がある としてい る11。
1
961年 の講義のメル ロエポ ンテ ィに従 えば、デカル トの哲学 にはそ もそ もそ うした身
体の運動 を論 じる術 がなかった。デカル ト哲学 において、判 明によって性質づ け られ
る< 自然 の光 1
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<精神 の直観 >とい う明敏す ぎる洞察が、結局の ところ存在 の奥行 きを削ぎ落 とし、
十全な存在 か無かの<位 置 pos
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on>のみ を要求す るこ とになったか らである。 そ こ
でメル ロエポンテ ィはデカル トの<経験 >を拾い上げ、十全 な存在 と無 に続 く、第三
の存在論 的規定である<運動 > としての<懐疑 >を見出す。
わ れ わ れ は これ らの も の に つ い て 、 思 考 す る こ とな く疑 うこ とは で き な い。 しか しそ れ らが 真
で あ る と信 じて い な けれ ば 、 思 考 す る こ と も で き な い の だ 12。
デ カル トの このテ クス トか らメル ロエポ ンテ ィは 「
結局、疑 うことと信念 は同時的で
ある。ここでは疑 うことは信 じる仕方であ り、
信 じることは疑 う良き仕方なのである。」
1
3と結論づ ける。 メル ロエポ ンテ ィによれ ば、<懐疑 > とは否 定ではな く、「
何 もので
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考えるもの とは何 か。それ はす なわち、疑 うもの、思 うもの、肯定す る もの、否定す るもの、望む もの、想
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)
像す るものであ り、また感覚す るもので もある。」 (
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1
デ カル トの コギ トは一切 の延長 を排 除す るのであるか ら、反省す る主体の <身体 >も同様 に排除 され る。例 え
ばゲルーの よ うな哲学者 が、 コギ トをそれ 自身十全で 自身の外 にいかな る根拠 も持 たない<絶対的単純本性
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u>として捉 えることができるのは、<不明瞭 obs
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us>な身体が心 と切 り
離 され てい るか らであるO心 の十全 を際立たせてい るのはス ピノザの コギ トであるOメル ロ-ボンテ ィに よれ ば、
ス ピノザの コギ トは 「
後天的 な ものに常に先立つ内的知である。 これ は無限の反省的後退 を逃れ る。私は 自身 の
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うちに精神 の観念 を把握す るo私 は照 らし、照 らされ る、光 として 自身 を掴 むO」(
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235.
) メル ロ-ボンテ ィはス ピノザ
の コギ トとマール ブ ランシュの コギ トを対立 させ る。 「
私は構成的な道程や起源 にお いて私の思考を把握す るわ
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18.
)マール ブランシュにお いて、<私 >は ものの起源 であることはできず、 したがって 自身 を照 らす光であ
ることはで きないO光 としての観念 は く私 >に l
=つて外来的であるO<私 > とはむ しろ不明瞭な ものでなけれ ば
な らない。 「
観念 を定義す るもの、それ は私 の面前にある とい うこと、光景、つ ま り対象 であるとい うことであ
るo雑然 とした観念 な どないO つ ま りわれ われ の中にあるあいまいな ものは心に由来す るD」 (
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19.
) ゆえ
に、明噺判 明ではない ことで、心は不明瞭 な身体 と同一の次元で語 られ るこ とになる。
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もないわけではない」であ り、つ ま りわれ われ の <経験 >を端的 に示す < ・・・が私
に現れ る i
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る とい う、メル ロエポ ンテ ィ哲学の出発点 と言 えるものである。従 って く懐疑 >もメ
ル ロエポンテ ィにおいては、まった く独 自な解釈 がな され ることにな るのである。
誤 りの可能性 として、悪霊 が取 り去 られ るこ とはないだ ろ うが、その様相 は変わ るだ ろ う。 わ
れ われ が思考 を巡 らす こ とな く何 らかの もの に没頭す るや否や誤 りがわれ われ を脅 かす とい う
観念 は、われ われ の 自分 自身 だ け との親密 さを示す だ けの重苦 しい仮定 なのではな く、対象の移行 のなかでの思考のそれ 自身- の親密 さを明 らかにす るものであ る。懐 疑 とは距離 を とっ
て 自身 と再結合す るこ と、つ ま り自己を予期す ることで ある14
0
懐疑が世界や もの との断絶 ではな く、それ らとの繋 が りを示す とい う考 えはすでに
初期思想 にも見 られていた。懐疑 とはわれ われ と世界 との間に起 こる経験 であって、
この ことが、メル ロエポ ンテ ィにおいて、世界の根拠 としての主体や即 日的世界 を否
定す る。「
実際、私 は考 える限 りにおいてのみ、存在 を確信す る し、私が考 えるのをや
めれ ばおそ らく私 は存在 しないだろ う。 これ は観念論 の始ま りなのではない。経験 の
哲学 の始 ま りなのだ」 15。
そ してメル ロエポ ンテ ィは経験 とい う運動 を時間性 の視点か ら考察す る。 ところで
デカル トの コギ トは時間について何 も語 っていない。原理的 に、それ は 「
瞬間におい
て把握 可能 な もので しかない 」 16。 コギ トを絶対的原理 とす るな ら、それ は非時間的
な もの、すなわ ち永遠 の もの となる。 あるいは、 これ は言葉上の問題 で もあるが、 コ
ギ トが昨 日において も存在 し、今 日において も存在す る とい うことを考 えれ ば、それ
は瞬間にお ける存在 の連続 とい うことになる。つ ま り幾つ もの瞬間の隙間ない積み重
な りにおいて コギ トは成立す る。 こ うした考 え方は、先に見た存在論 を根底 に した も
の だ。
ところが、実際の反省 にお ける時間の経験 は こ うした範境 にお さま らない。思 う私
と思われ る私が一致す ることがデカル トの コギ トであ るが、実際に思 う私が把握す る
のは常 に過去の私である。 こ うした タイ ムラグをデ カル トの コギ トでは説 明す るこ と
がで きない。
存在論 的に時間を規定 しなおす ことで この間題 は解決す る。非時間で も時間の連続
で もない 「
第三 の立場 がある。つま り開かれ として、時間の移行 としてではない時間
の裂 開 としての コギタチオである」 17。 時間の裂 開 とは、 <経験 >の発 生である。先
に見た コギ トの タイムラグはく経験 >の時間的超 出を示 してい るのである。
こ うした コギタチオはく垂直 の コギ トCo
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>と呼ばれ、また これ との対
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比でデカル ト哲学の コギ トは<水平の コギ トCogitohorizontal> と呼ばれ る18。 われ
われ が コギ トを理解す るのは コギ トが <水平の コギ ト>とい う観念 として実際にわれ
われ に現前す るか らである。 <垂直の コギ ト>はそ うした観念 の発生契機 としての<
経験 >なのである。
他 の あ らゆ る観 念 と同 様 に 、私 自身 とい う観 念 は まず 私 に とっ て <構 え di
sposi
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on> と して あ
る の だ 。 私 か ら出 発 して観 念 を 形 成 す る <生 来 的 力
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snatl'va> を私 が 持 つ 限 りに お い て 、 私
自身 とい う観 念 は 私 の 精 神 の 宝 庫 の 中 に存 在 す る 19。
絶対的な私 とい うものはない。 私 とは観念 で しかな く、またそれ は、観念 (
水平の コ
ギ ト) を形成す るに至 る<生来的力 > (
垂直の コギ ト) とい う経験が <構 え> とい う
仕 方で発生す る限 りで可能 な ものなのである。従 って 「
私 は考 えるく
く
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)
」 とい
う命題 にお ける<私 >に先立ってまず く経験 >が起 こるのであるが、な らば経験 をす
るものは く私 >ではないのであろ うか。
この問題 には言語 が関わってい る。『知覚 の現象学』では、言語化 され観念化 され た
私 を含 む コギ トは<語 られた コギ ト>とされ 、それ に先立つ感覚的で非言語的な私性
を含 む コギ トは<沈黙 の コギ ト> とされ た。しか しなが ら、『見 えるもの と見 えない も
の』 の研 究 ノー トで、 メル ロエポンテ ィはく沈黙の コギ ト>を素朴 に想 定 して しまっ
た もの として取下げ る20。言語以前の もの とす る もの を言語 によって語 って しまった
とい うわ けである。結局、言語以前に私 性はない とい うことにな るのだ ろ うか。
この間題 を主題 に した研究論文がイ ヴ ・テ ィエ リの 「
感覚的経験 としての< コギ ト
>」である。 次章では この論文 と共に<経験 >と言語 の関係 について議論 したい。
3 メルロエポンティのコギト論における<経験>と言語
イ ヴ ・テ ィエ リによれ ば、デ カル トの コギ トでは感 覚 は思考 に還元 され たが、感覚
を思考か ら分離 させ た上で感覚 と思考 の連続性 を論 じるのが メル ロエポ ンテ ィの コギ
ト論 である。『知覚の現象学』の議論 にみ られ るよ うに、観念 としての コギ トは言語 に
よってのみ可能 とされ た。 テ ィエ リは言語 こそがメル ロエポ ンテ ィにお ける感 覚 と思
1
日 『知覚の現象学』では コギ トは<沈黙の コギ トCo
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e> とく語 られ た コギ トCogi
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6>に分 けて考
察 され たo<水平の コギ ト> とく語 られた コギ ト>は共に観念 と してわれわれ が認識 できるものであるが、<垂
直の コギ ト>とく沈黙の コギ ト>は共に観念 としての コギ トに先立っ ものであるもののそれ らが示す ものは異
な るO とい うの も、前者が<水 平の コギ ト>の発生契機 である とされ るのに対 して、後者 はわれ われ が く語 られ
た コギ ト>を認識す るために各 自がすでに備 えてい るもの とされ るか らである,また 「
垂直の」とい う形容詞 は
発生論的な動的 な様相 を示す ために、そ して 「
水 平の」 とい う形容詞 はすでに観念 と して定着 した、静的な様相
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を示すために用 い られ ていた と考え られ る。 「
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を参照せ よo) また 「
沈黙 」や 「
語 られ
た」 とい う語がつ くのは、それ らが言語 との関係 の問題の中で議論 され たか らである。
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「
わた しが無 言の コギ トと呼ぶ 幸
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のは不可能 である。」Me
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6
考 との関係 を決 定す る と見 る。
『知覚 の現象学』 での<沈黙 の コギ ト>の措定、 さらに 『見えるもの と見 えない も
の』でのそれ の撤 回 を受 け、テ ィエ リは次の よ うに問 う。 「
く
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)
とい う主張によ
って表現 された経験 はそれ 自体言語 に よってつ くられ た意味で しかない と言 うべ きな
のか。その感覚的なテ クスチ ャーはいわばそれ を言 い表わす言葉 の身体 的側面 のなか
に汲み尽 くされ て しま うとい うべ きなのか 」 21。 も しそ うであれ ば、ま さにデ カル ト
哲学 において感覚 が思考 に還元 された よ うに、
感覚が言語 に還元 され て しま うだろ う、
とテ ィエ リは言 う。『見 えるもの と見 えない もの』の 自己批判 を経 た後 も、メル ロエポ
ンテ ィは無言 の経験 とい うものの正 当性 をや は り認 めるのである。 しか し、 こ うした
言語 に先立つ無言 の経験 は 自己批判 に よって否定 され たのではないのか。テ ィエ リの
結論 では、感覚 と思考 の断絶 と連続 をめ ぐる議論 においてメル ロエポ ンテ ィは 自己撞
着 に陥 る。
しか しテ ィエ リは 『見 えるもの と見 えない もの』 の無言の経験 に或 る種 の正 当性 を
認 めてい る。以下、テ ィエ リの議論か ら、無言 の経験 は どの よ うな資格 で認 め られ る
のかを見て行 こ う
『知覚 の現象学』 と 『見えるもの と見 えない もの』 の両著作の違 いを、テ ィエ リは
経験 の<審級 i
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e>、つま り経験 を起 こす ものの捉 え られ 方に見 る。『知覚の現
。
象学』では経験 は<知覚 >であ り、その審級 は<現象的身体 c
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>と
呼ばれ るものである。 「<現象的身体 >は客観 的身体 と区別 され、その環境 を投射 し、
運動や 開かれの能力 で あ り、 したがって意識 を条件づ け、その<活動的超越性 >、つ
ま りものや世界- 向か うその運動 によってそれ 自体性 質づ け られ る審級 として考 え ら
れ た ものである」 22。 しか し、その<現象的身体 >は依然 として、 メル ロエポ ンテ ィ
の批判 の対象である主体 の世界構成的な属性 に依存 したままである とい う。テ ィエ リ
によれ ば、『見 える もの と見 えない もの』 にお いて初 めてそ うした依存 は解消 され る。
「
見つつ あ り、また感 じつつ ある身体は、見 られ 、感 じられ うる身体 で もある とい う
記入 され i
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」て
限 りでのみ理解 され る」 23。つま り、審級 は所与である世界 に 「
い る。す なわち、
経験 を起 こす ものは起 こ され る もので もある とされ るこ とに よって、
経験 を起 こす ものが世界の根拠 である とい うよ うな見方はな くなるのである
両著作 において言語 の発生契機 はパ ロール とされ るが、『知覚の現象学』では知覚が
パ ロール の根拠 とされ ていた24。 つま り、常 に沈黙 は言語 に先立っ とされ ていたので
。
ある。 ところが 『見 えるもの と見 えない もの』 では無言 の経験 とい うものは、言語的
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例 えば以 下の よ うに言われ る。 「
私は三角形について <考 える>。 それ は私 に とって方向づ け られ た線 の体系
である。そ して<角 >や <方 向 >とい う語が私 に とって意味 を持つのは、私が或 る点 に位置 して、そ こか ら他 の
点 に向か う限 りにおい てで あ る し、空間的な配置の体系が私 に とって可能 な或 る領野 であ る限 りにおいてであ
る」
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世界 に先立っ ものではな く、言語的世界 に よって触発 され る経験 とされ る。つ ま り、
無言の経験 は言語 の根拠 ではないのである。『見 えるもの と見 えない もの』にお ける言
語発生の契機 に関す る記述 として、テ ィエ リは次の箇所 を挙 げてい る。「
触覚 と視覚 と
触-視 の体系 との間に反射性 があるよ うに、
発声の運動 と聴覚 との間に も反射性 がある
わけであって、発声の運動 はその音響的記入 を もち、怒号は私の うちにその運動的反
響 を もた らす 」 25。 ところで、『知覚の現象学』の頃か らす でに、 「コギ トを世界- の
参加 と同一視す る」 26と言 われ ている。つ ま り、 自己反省 とは 自己の把握 と同時 に世
界の把握 であって、言 い換 えるな ら世界の解釈 を通 じた 自己の解釈である。従 って、
所与である世界-の参与で もある身体 の発声 と聴覚 に よるコギ トの運動 によって言語
が可能 になる とされ るのである。感覚的 コギ トは無言 の経験 が言語的世界 とい う所与
に 「
記入 されて」い るなかで起 こる。つま り、感覚的 コギ トには言語的世界 とい う所
与が介在す るのである27。
ところで、テ ィエ リによれ ば、『見 えるもの と見 えない もの』において感覚的な コギ
トの発生 を端的 に示す のが 「- ・が私 に現れ る i
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appar
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tque… 」である28。 こ
れ は身体 の運動や知覚 の発生 を示す と同時 に、私 に とっての所与 とい う世界か らの触
発 を示す。 問題 は この<私 に me>である。 これ までの議論 で示 した よ うに、それ は
主体 としての、あるいは観念 としての <私 >ではない。それ は、感覚的な コギ トにお
ける一種 の私性 である。 しか しそれは どうい う限 りで <私 >た りえるのか。テ ィエ リ
はその指標 をメル ロエポンテ ィのテ クス トか ら二つ挙 げてい るが、その うちの一つが
感覚的 コギ トの経験 にお ける 「
常に切迫 し、実際 には決 して実現 しない可逆性 29」で
ある30。
.次章で詳 しく論 じるが、或 る個人 の身体の経験 と世界 に よって触発 され る経
験 は、同 じ事態 を異な る視点か ら捉 えた ものの よ うに思 えるが、実は これ らの経験 は
厳密 には一致 しないのであるo逆説的であるが、個 としての身体 は所与の世界 に内在
しつつ も、経験 を起 こす ためにはそ こか ら区別 され てい るのでなけれ ばな らないので
ある。つ ま り、 メル ロエポンテ ィにお ける可逆性 の切迫性 は、原初の経験 の契機 とし
ての審級 である身体の私性 を避 け難 く示す のである。
テ ィエ リがい うよ うに 、"
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は、言語 的 な もので 、 「
常 に、感 覚す る
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e との間の可逆的な関係 の劇場 である」 31。つ ま り、感
覚す るもの と感覚 され るもの との間の経験 の場 を示す もので、そ こに私性 はない。私
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テ ィエ リは挙 げてい ないが 、『見 える もの と見 えない もの』に次の よ うな一
山節 があ る。 「
ある意 味で、も し人 間
の身体の建 築術 、その存在論 的骨組 み を完全 に解 明す るな ら、また如何 に して人 間の身体 が 自分 を見 た り自分 を
問いた りす るか を解 明す るな ら、そ の無言の世界 の構造 は、そ こにす でに言語 の あ らゆる可能性 が与 え られ てい
る とい うこ とがわか るだ ろ う」
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1も う一つ は次 のテ クス トで あ る。 「
われ われ の ものではない視覚 を受 け入れ るためには、常にわれ われ の視 覚
とい う唯一 の宝庫か ら汲み とらな けれ ばな らず 、 したが って、経験 はその 中に素描 され ていない もの をわれ われ
に教 えるこ とはで きないの であ る」。 (
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にある。 メル ロエポンテ ィが思考 と感覚の連続性 を主張す る とき、
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には感覚 も懐疑 も含 まれ る。それ は世界-の開かれ とい う身体 の原初 の経験 を
示す。 ただ しそれ は無言の経験 である とい う限 りにおいてである。 なぜ な らそれ は言
語的所与である世界 と、可逆性 の切迫性 を示す限 りにおいて区別 され る私性 だか らで
ある。
さて、 この可逆性 の切迫性 と身体の私性 が 『眼 と精神』 において、画家 と世界 との
間にある可逆性 の切迫性 、そ して画家 の私性 としてそのまま見 られ る。 メル ロエポ ン
テ ィにおいて、言語生成 のメカニズム解 明のモチー フが視覚文化 (
ただ し議論 は絵画
に限定 され る)生成 のメカニズム解 明にも使 われ てい る と言 っていいだ ろ う。 次章で
は、画家 と世界 との関係 をコギ ト論 での議論 の成果 に よって明 らかに して行 きたい。
4 『
眼と精神』、絵画の<経験>と<仕方>
画家が タブ ロー に描 くもの とは何 か。『眼 と精神』に よれ ば、それ は画家 に見 えてい
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6>である。<可視性 >とは、画家の身体 と世界 と
るものではな く、<可視性 v
の間に生 じる視覚 の <枠組み >、す なわ ち視覚 の<仕方 >であ る32。 それ は視覚 が可
能 になる超越論 的な条件 の よ うな ものなので、それ 自体 は眼に見 えるものではない。
絵画イ メー ジの存在論的な規定が簡単 にできないのは このためだ とメル ロエポ ンテ ィ
は言 う33。絵画イ メー ジは支持体 と同次元の物質的存在 で もな けれ ば、画家 の心的イ
メー ジの よ うな もの と同次元の心的存在 で もない。つ ま り客観 の側 にあるので も主観
の側 にあるので もない。それ は画家 の身体 と世界 との間に構成 され る ものなのである。
絵 画イ メー ジが 「
<外 な るものの内在 >であ り、 <内な るものの外在 >」 34で もある
と言われ るのは、それ が どち らかの側 に固定 され るこ とな く、それ らの間で絶 えず動
いてい るか らである。
われわれ は これ まで <経験 >の<仕 方 >とい うもの をメル ロ-ボ ンテ ィと共 に記述
して きたが、絵画 とは或 る<経験 >の或 る特定の時期 の <仕方 >を固定 した ものだ と
言 うことができる。 <経験 >は原則 としてその都度一 回限 りの出来事なので、その<
仕方 >もまた、何 らかの恒常性 があるに して も、その都度異なるものなので あ る。従
って、絵画作品は各 自、独 自で唯一の構造 を持つ のである。
では、この場合 の<経験 >とは どの よ うな ものであろ うか。「
画家 はその身体 を世界
<可視性 >は同テ クス ト内で次 の よ うに言 い換 え られ てい るD「
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私 の うちに引 き起 こす そ の現 前 の身 体的 方式 払r
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。 ところで 中期 のテ クス ト 「
間接 的言語 と沈黙 の声」では、画家 が タブ ロー に描 くものは < スタイル s
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>で あ る と言 われ ていた。 「
画家 が絵 に描 き こむ のは、直接 的 な 自我 ではな く、そ の感 じ方の ニ ュア ン スその も
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)メル ロ-ボ ンテ ィにお いて、
ので もな く、自分 の スタイル なので ある」
スタイル とい う概念 は、絵 画論 の文脈 に限 らず 、あ らゆ る存在 の現 前の仕 方 を示す概念 と して 『知覚 の現象 学』
か ら 『見 え る もの と見 えない もの』 まで用 い られ た。
33 「
私 の見て い るタブ ロー が < どこに >あ るか を言 うのは、確 か に骨 が折れ る。 (
中略)私 は絵 を見 る とい うよ
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りはむ しろ、絵 に従 って、絵 とともに見てい るか らであ る」(
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に貸す こ とによって、世界 を絵 に変 える」35。身体の具体的な箇所 は眼 と手である。「
そ
れ 自体動 く道具であ り、 自らに諸 目的 を創 出す る眼は、世界の或 る衝動 によって突 き
動か され た ものであ り、そ してその世界 を手の痕跡 に よって見 えるものの中に復元す
世界 の或 る衝動 」
るのである」 36 <経験 >は、画家の眼 と手 の運動で ある。 では 「
とは何か。 これ を明 らか にす ることによって、われ われ は この<経験 >の発生の謎 、
なぜ この <経験 >が発生す るのか とい う問いに迫 るだ ろ う。
0
もちろん、 こ うした才能 は訓練 に よって身 につ くのであって、画家 が 自分 の視覚 を手 に入れ る
には、数 カ月 で可能 なわ けではない し、孤独 の中で可能 なわ けで もない。 問題 はそ こにあ るわ
けではない。 早熟 だ ろ うと晩熟 だろ うと、 自発的 な ものだ ろ うと美術館 で養 われ た ものだ ろ う
と、いずれ にせ よ画家の視覚 は見 るこ とに よって しか、つ ま り視覚その ものか らしか学べない。
眼は世界 を見 る。 そ して タブ ロー にな るために世界に欠 けてい るもの を見て、 タブ ローが タブ
ロー にな るために タブ ロー に欠 けてい るもの を見 る。 また タブ ローが期待 してい る色 をパ レッ
トの上 に見 る。 そ してそれ が仕 上が るや 、眼は これ らすべての欠如 に応 えるタブ ロー を見 て、
さらに他 の画家た ちの タブ ロー を見て、他 の欠如-の他 の画家た ちの応答 を見 るのである37。
画家の見 る とい う経験 は画家 の 自由意志 に よるものではない。む しろその契機 は世
界や他 の画家の タブ ローの側 に こそある。 世界や他 の画家の タブ ローが 「
欠如」 に応
えるよ う、画家 に働 きかけて くるのである。 その応答 が、画家が見 るこ とであ り、手
で描 くこ となのである。 世界が画家 に描 く行為 を要請 し、画家がそれ に応 えて見て描
欠如」は解 消 され ることな く、また世界が画家 に要請す ることになる。ここには
く。「
尽 きるこ とのない循環 関係 がある。 この循環 関係 を説 明す る ものがメル ロエポ ンテ ィ
が解釈す る<コギ ト>である。
コギ トの反省性 のプ ロ トタイプ としてメル ロエポ ンテ ィが しば しば挙 げるのが、感
覚 の<可逆性 >である。何 かを触 る手 は も う一つの手 によって触 られ る手で もある と
い うよ うな経験 の ことである。 メル ロエポンテ ィは これ を感覚一般 に敷宿 して、視覚
に も同 じ反省性 があって見 るものは見 えるもので もある とす る。 ものを見 る画家 は見
られ る存在で もある とい うことである。「
見 る者 は、自分の行使す る視覚 を物 の側 か ら
も受取 るのであ り、多 くの画家たちが言 った よ うに、私は 自分が物 によって見つ め ら
れ てい る と感 じ、私 の能動性 は受動性 と同 じことなのである」 38。 この とき画家が見
ることが能動性 であ り、画家が世界か ら見 られ ることが受動性 である。 ところで世界
が画家 に欠如 に応 えよ と要請す る画家 に とっての受動性 は、画家が見 る とい う能動性
と同 じ事態 を示 していた。従 って、世界 の要請 は画家 には見 られ る と感 じることによ
ってな されてい る とい うことなのだ。
ところで、反省 には或 る切迫性 がある。例 えば触覚 の可逆的経験 において、何 かを
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触 る手が同時に触 られ る手で もある と感 じられ ることは決 してない。 あ るいは、思 う
私 と思われ る私 との間にはタイ ムラグがあるこ とも、すでに示 した通 りである。感覚
である。 なぜ な ら、 も し両者 が同時に可能で あるな らば、経験その ものが起 こ らない
か らである39。仮 に、何 か を触 る手が も う一つの手 に よって触 られ る とい う経験 にお
いて、一方の手が触 るこ とを Ⅹ とし、その手が触 られ ることを Ⅹ' としよ う。Ⅹの経
験 を してい る ときは Ⅹ'の経験 はで きない。今度 は Ⅹ'の経験 をす る とき、Ⅹ'の経
験 は発生す るが Ⅹの経験 は消滅 して しま う。つ ま りⅩ と Ⅹ'の経験 をそれぞれ獲得 し
よ うす る とき、無限にそれぞれ の発生 と消滅 が繰 り返 され ることにな る。能動 と受動
が入れかわ るダイナ ミズムが ここにはある。 世界の要請 によって描 かれ た絵画は、ず
れ を必然的に伴 うその コギ トの構造のため、その要請 に対す る完全 な応答であること
はできず、 自律 的であ ることは決 してない。従 って今度 は この絵画が他 の画家 にその
欠如 に答 えるよ うに要請す る。 そ うして描 かれ た絵画 も完全 な応答 であることはでき
ず、他の画家 に要請す る - ・。
この ことは、なぜ画家がその始ま りにおいて他 の画家の模倣か ら始 めるか とい う問
題や、なぜ人は他人の タブ ロー を見て 自分 も絵 が描 きた くなるか とい う問題 に一つの
解答 を与 えるだ ろ う。 なぜ な らタブ ロー には世界 と画家 の身体 との間の決 して一致 し
ない反省 の運動 があ り、 タブ ロー は 自己充足的であることができず 、その欠如 に答 え
るよ うに見 る人 に要請す るか らである。
結論
メル ロエポンテ ィにお ける一般 は、個別 と対立関係 にあるのではな く、個別 の現前
や現象の <仕 方 >として個別 と相関関係 を結んでい る。従 って、絵画の或 る一般性 を
主張す るメル ロエポ ンテ ィの文章は、決 して絵 画の個別性 を排除す ることを 目論 んだ
ものではな く、む しろその個別性 を記述す る方法 を提示す るものなのである。
メル ロエポ ンテ ィにお ける感覚的 コギ トに見 られ るのは、その契機 である身体の運
動が個 々の私性 として或 る切迫性 を持 ち、言語 的あるいは文化的な世界 とのダイナ ミ
ックな交換関係 を形成 している とい うことである。
絵画の契機 は画家 の身体の行為、つ ま り見 る ことと描 くことだが、それ は世界や他
の画家か らの画家-の見て描 け とい うよ うな要請 に対す る応答である。或 る特定の、
すでに文化的 あるいは言語的に分節 され た世界 とい う所与が絵画発生のそ もそ もの条
件 なのである。 してみれ ば、メル ロ-ボンテ ィが 『眼 と精神』で宣言 した超歴 史性 と
は、決 して個別 的な歴 史性 を排 除す る ものではな く、む しろ歴史性 とは切 り離せ ない
本論 は コギ トの反 省 と画家 の応 答 を重ね合 わせ る こ とに よって成 り立 ってい るの だが、反省 と応答 はそ もそ も
異 な るので はないか とい う反 論 が あ るだ ろ う。反 省 は本 来的 に同時的 であ るの に対 して、応 答 は継起 的 だか らで
あ る。 しか し、メル ロ-ボ ンテ ィにお け るコギ トの メカニズムは、反省 に よって必然 的 に非反 省的 な もの が生み
出 され 、そ してその非反省 的 な ものが次 な る反省 の運 動 を引 き起 こす 契機 にな る、とい うもので あるの で、む し
ろメル ロ-ボ ンテ ィにお け る反 省 は限 りな く継 起 的 な ものだ と言 える と私 は考 えてい るO
39
51
限 りでの一般性 だ とい うことになるだ ろ う
(
ひ らたのぞむ :神戸大学 文化学研 究科博 士課程)
。
参考文献
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