...

戸倉信昭 会員 - 公教育計画学会

by user

on
Category: Documents
29

views

Report

Comments

Transcript

戸倉信昭 会員 - 公教育計画学会
公教育計画学会 熊本研究集会 スタディツアー
水俣学習フィールドワーク
2013.3.10(日)
報告:戸倉信昭
公教育計画学会の研究集会が 2013 年 3 月 9 日(土)に熊本で開催され、花田昌宣先生による水俣学に
ついての記念講演がありました。翌 10 日(日)にはオプショナルツアーとして、水俣を訪問するスタデ
ィツアーを催行しました。ガイドは田中睦さん(熊本学園大学水俣学現地研究センター嘱託、元・水俣
市立第一小学校教諭)にお願いしました。参加者は 23 名でした。
09:30 百間排水口(水俣病「爆心地」
)
チッソは 1932 年からアセトアルデヒドの生産を始め、1968 年 5 月の生産停止まで、メチル水銀を無処理で水俣湾
に流しつづけた。水銀量は、実に 70t~150t といわれている。ここはチッソから見れば出口だが、水俣病の「入口」
でもある。
生活排水により今でも決してきれいとはいえないが、排水口の上部には緑地が整備され、遊歩道もあ
り、解説板や慰霊碑の存在で初めてそこが「震源地」であることを知る。
田中さんはここで「受難者」という言葉を使われた。実感のこもった言葉である。長崎では被爆者を
「殉難者」と言っていたのを思い出した。
10:00 水俣病資料館
坂本直充館長の案内で展示物を見る。
被害者の肖像写真のような展示だけではなく、ごく身近にあるプラスチック製品が多数陳列されてい
て、チッソの製造した材料がいかに日常生活とつながっているかが実感できる。当日は今ひとつの天候
だったが、資料館のある小高い丘からは、島々が連なる碧玉の海を想像するのに十分な眺望がある。
11:00 坪谷:公式確認の地であり震源地である
1956 年春、坪谷で船大工を営む田中家の 5 歳と 2 歳の姉妹が相次いで発症し、チッソ付属病院にに入院。母親の話
から近所にも同様の子どもがいることが分かり、付属病院の野田医師と細川院長が水俣保健所に「原因不明の中枢
神経疾患が多発」と届け出た。この 5 月 1 日が水俣病の公式確認の日とされる。
前日の花田先生の話でも、ここは自動車が入れる道もないような半ば孤立した集落だったと聞いてい
た。窓から釣り竿を垂らせるぐらい海が近い。自給自足のたんぱく源は当然魚であり、人々の暮らしと
水俣病発生の構造が結びつく。現場で何を見、何を感じるかが重要、という花田先生の言葉を実感する。
11:30 茂道:むら社会が破壊された患者多発地区
200 人を超える認定患者が出た地区。茂道湾は、ボラ、イワシ、チヌ、タコなどがよく獲れる「魚の宝庫」であっ
たが、1953 年頃にはほとんどの家でネコが狂い死にした。患者・杉本栄子さん(故人)は 4 件ある網元の一つの家
に生まれ、母トシさんの発病が報道され(1959 年)
、一家は多くの差別を受けた。
田中さんが水俣に最初に来られたときの話を聞いた。初任校の校長が、補償金で家を新築する人を揶
揄するかのような発言をし、抵抗を感じた。その後、その校長の娘が結婚差別を受けたということを知
って、ああ、この人も被害者なんだな、と思った、とのこと。被害、加害の問題を考えるとき、ここま
で広く受け止めきれるだろうか。悪い方を悪く言うだけというのは簡単なのである。
1 / 3
12:00 道の駅みなまた・ご飯処「たけんこ」で昼食
地元名物の「だご汁」をいただく。薄味で具だくさんのすいとん。隣接の物産館にはくまモングッズ
や特産品が並んでいるが、他ではよく見かけるような、地名を冠した銘菓がないのは気のせいか。
13:05 親水護岸:有機水銀が眠る埋立地の先端
水俣病の思いや痛みを魂石(石像)に託し、祈りをささげ、多くの人に伝えていくことを目的にして作られた石像
が、海に向かって 50 体ほど設置されている。
汚染されたヘドロや魚たちを埋設した埋立地は整備され、運動公園やボードウォークとなっているが、
田中さんは「埋立地という言葉にこだわりたい」と。しかし、護岸の腐食により有害物質の流出が懸念
されているそうだ。この先まだ緊張状態を強いるという理不尽さ。
13:40 湯堂:胎児性水俣病患者の多発地区
1953 年頃から魚や水鳥などに異変が見られ始め、やがてネコが次々に狂い死にし、とうとう人間にも異変が見られ
るようになった。
坂本しのぶさんを迎えに行く。途中、自民党の事務所に「チッソと水俣は運命共同体」というスロー
ガンが書かれた大きな看板を見た。これも真実だろう。伊丹空港の騒音被害のことを思い出す。
仲良しのご近所さんがチッソの社員の家だった。自分はチッソのせいで水俣病になった。そのとき、
「罪を憎んで人を憎まず」を実践できるだろうか。
14:00 汐見の家 坂本しのぶさんの話を聞く
坂本しのぶさんは胎児性水俣病患者で、1956 年、水俣市湯堂生まれ。最初は地元の小学校に入れてもらえず、特殊
学級のある小学校へ通学。しかも 3 年生までは市中心部の病院に入院してそこから通っていた。15 歳の時、ストッ
クホルムでの国連人間環境会議に参加して以降、胎児性水俣病患者として自ら意識して水俣病問題をアピールし始
める。現在でも、学校や集会に招かれて自らの経験を語り続けている。
坂本さんの言葉が活字になったものを読んだことがあったが、実際にご本人から直接話を伺うことと
の、自分の受け止め方の違いに愕然とする。一言一言を絞り出すように、そして時折理解しがたいこと
もあるその声は、それ自体が水俣病の証言の一断面である。
(全体を通しての感想)
せっかく熊本で集会をやるのだから、水俣のことをぜひ考えてほしい、と堀先生が理事会で提案され
た。なるほどと思いつつも、ピンとこないでいた。いま、研究集会とスタディツアーを終え、その意味
が腑に落ちた。貴重な機会を与えてくださった堀先生をはじめ、関係者の皆様にまずは心からお礼を申
し上げたい。
私の水俣との最初の接点は、1994 年、大阪の合唱団で、柴田南雄作曲・合唱曲「みなまた」を演奏
したことにある。水俣出身の徳冨蘆花『自然と人生』、地元の民謡、同じく水俣出身の淵上毛銭の詩に
より構成されるこの曲は、地元水俣の人々が委嘱初演したもので、企画段階から水俣病を直接登場させ
ない、ということで作られたのである。しかし、美しい海の情景、仕事歌や田植え歌を織りこむことで、
たしかに水俣にあった暮らしを歌い上げつつ、脊椎カリエスという病を得て夭折した詩人の言葉の重み
の間から、水俣の地にとって水俣病が避けて通れないものであること、そして、明日に向かって我々は
2 / 3
何をなすべきかということが暗喩される。
蘆花の『自然と人生』には、故郷の風景を懐かしむ一節がところどころに見られる。「夏の興」から
引用する。
故郷の姉の家に清冷氷の如き井水あり。井戸の側に緑葉翠蔓一面に這ひ広がりて黄花所々に咲
ける南瓜の畑あり。午下二点、蝉声耳を煎りて、睫に千鈞の重量ある時、跣足になりて井戸側
に走り行き、一桶の水を汲みて高架の上に置き、南瓜の蔓の湾曲せるものを伐りとり、桶にさ
して導水管とし、赤条々になりて頭を冷やす心地今に忘れ得ず。
(中略)前に云へる姉の家は、
不知火燃ふる海辺にありて、天草に近く、大小の島勝手次第に横たわり、水は深けれど碧玉の
如くに澄みて、島々の間を洄り、川となり、湖をなし、悠々として水も宛ながら游べる様なり。
地方と島、島と島の間の狭き所は、小声にも話す可く、馴れたる小供は盥を浮べて渡る。
曲に取り組みながら、水俣病が出てこない水俣の歌をという地元の要望、というところに、水俣病の
暗い影、水俣病は終わっていない、ということを垣間見た。だが、このときの私の経験は、水俣はほん
とうはとても風光明媚なところで、生き生きとした人々の暮らしがあり、それがメチル水銀によって不
幸を背負うことになった、というところにとどまった。勧められて原田正純先生の著書を数冊手にはし
たものの、それと自分との距離を埋めることができないままでいた。それ以来、水俣のことが頭をかす
めることはなかった。ただ、水俣という地が、水俣病だけで語り尽くせるところではない、という印象
は私の中に大きく残った。
そして今回、水俣の地を歩き、花田先生や田中さん、坂本さんから話を伺って、水俣で起きているこ
とと同じ構造が、過去現在の日本に繰り返し起きているということを実感し、水俣の問題は決して水俣
だけの問題ではないということを思い知った。福島のこと、いじめのこと、体罰のこと、全部同じじゃ
ないか、と。高校時代の反戦平和の活動で出会った多くの語り部の戦争体験。国際協力活動で訪問した
カンボジアでの貧困と戦争の爪痕。そこで私は、現場に立つということの重みを感じていたはずだ。き
れい事だけではない、複雑に入り組んだ問題の重層性を。
企業が発展することで町が得た恩恵と、企業が破壊した町の財産(それは人であり、人のつながりで
あり、そして自然の恵み)
。患者認定や補償が生み出した地域社会の分断、信頼関係の喪失。美しい風
景やそれまでの生活を取り戻す営み。そして、絆の再生という新たな問題。被害者の方の考え方もさま
ざま、チッソへの思いもさまざま。相反する立場のそれぞれに理由があり、意味があるということを踏
まえつつ問題と向き合うことの難しさがそこにはある。言い方は不適切かもしれないが、水俣の教訓は、
社会のさまざまな課題にヒントを与えてくれるはずである。
実は、水俣で感じたことで、私の中で解決できていないことがたくさんある。水俣での経験をどう生
かすか、その答えはすぐに出ないとも思う。いずれにせよ、いろいろなことを考えるとき、しばらくは
水俣のことがオーバーラップすると思う。
枠囲み内の記述は、当日配付資料から再構成しました
『自然と人生』の引用元は、国立国会図書館近代デジタルライブラリー
3 / 3
Fly UP