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グローバリゼーションと福祉国家の後退

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グローバリゼーションと福祉国家の後退
特集/「持続可能な福祉社会の構想」
セッション3:国際比較と全体展望
グローバリゼーションと福祉国家の後退
――アメリカの場合
千葉大学法経学部教授
秋元 英一
1.グローバリゼーションの意味
グローバリゼーションの定義
グローバリゼーションの定義は、IMF の『世界経済概観』の 1997 年版から
すると、以下のようである。
「グローバリゼーションとは、国境を越えるさま
ざまな財貨サービスの取引、国際的な資本の流れを通じて、さらにはテクノロ
ジーのより急速にして広汎な普及を通じて、世界中の国々が相互依存をます
ます強めていく状態を言う」1。IMF 報告はさらに続けて、「国境を越える資
本のすさまじい増大と金融市場の統合に向かっての急速な進展にもかかわらず、
金融のグローバリゼーションは巨額に取引され、高度に流動的な金融資産に限
定されるように思われる。他方で、諸国の全体的な投資の動きは主として純資
本流入によってでなく、圧倒的に国内貯蓄率によって、決められ続けているの
である」と指摘し、さらに各国の政策に言い及んでいる。すなわち、「政策担
当者たちは、特定の構成員、たとえば特定セクターの生産者、あるいは不熟練
労働者、などの福祉を改善するために、彼らの国がグローバリゼーションから
何らかの利益を得ることをあきらめたい誘惑にかられるであろうが、かといっ
International Monetary Fund, World Economic Outlook (May 1997), pp. 45-47.
グローバリゼーションの意味、歴史的文脈について詳しくは、秋元「グローバリゼー
ションの歴史的文脈」(秋元編『グローバリゼーションと国民経済の選択』東京大学
出版会、2001 年)を参照のこと。
1
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グローバリゼーションと福祉国家の後退
て貿易の流れや資本の運動を制限するような政策は、グローバリゼーションに
よって利益を得られない構成員を直接に補償する方策に比較すると、セカンド
ベストの政策である。グローバリゼーションの諸影響を限定させ、あるいは遅
らせることをめざす政策は、国境を越える資本やテクノロジーの革新の潮流だ
けでなく、輸入品の価格低下という形でやってくる、その諸利益を薄める傾向
がある」2。
適切な政策対応とは、
「労働市場が技術変化や外国との競争に適応すること
を妨げる構造的硬直性の問題に取り組み」
、教育や訓練を重視することである。
さらに解職されてしまった人びとに対しては、
「目標を見定めた、コストの効
率の良い、社会的セイフティーネットを提供して」状況が悪化しないようにす
べきだが、そうしたセイフティーネットは、
「労働者たちや企業が経済環境の
変化に対応するインセンティブを弱めるようなものであってはならない」と付
け加えている3。ここにはすでに、われわれがグローバリゼーションに絡む諸
問題を議論しようとするときの、基本的問題のいくつかが提示されている。歴
史的に見た場合、今日のグローバリゼーションは、長くとれば、第二次大戦後
の IMF、GATT のシステムが世界的に認知されてゆくプロセスでゆっくりと
始まり、1970 年代の初めにニクソン大統領が結局固定相場制を断念せざるを
得なくなり、変動相場制が開始された頃から本格的に進みはじめ、89 年のベ
ルリンの壁崩壊、ソ連邦の崩壊、冷戦体制の終焉によって一挙に奔流のごとく
進展した、といえよう。グローバリゼーションを構成する主な変数、つまり、
世界的に国境を越えて急速に流れているものの中身は、①サービスを含む商品
(貿易)
、②資本(海外投資、国際資本市場)
、③労働力(移出民、移入民や出
稼ぎ)
、④マネー(外国為替市場)
、⑤情報(インターネット等)、に分けられる。
今日的グローバリゼーションの始点をいつと見るかは、したがって論者によっ
2
3
Ibid.,pp. 45-47.
IMF, op.cit., p.59.
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千葉大学 公共研究 第1巻第2号(2005 年 3 月)
て第二次大戦直後、1970 年代、89 年以降(つまりおおむね 1990 年代)、に分
かれてくるのだが、それ以上昔には遡らない。というのも、30 年代から第二
次大戦期にかけては、だれも否定しようのない、グローバリゼーションの逆転、
ブロック経済化の時代だったからである。
今日、グローバリゼーションを論ずる多くの論者が歴史的比較の対象とす
るのが、第一次大戦に至る帝国主義華やかなりし頃の「グローバリゼーショ
ン」の時代である。経済史家ピーター・テミンは今日の事態を 19・20 世紀転
換期にピークを迎えた世界経済のグローバル化と比較してこう述べている。ま
ず、商品のグローバル化の指標となるのは、地域価格差の縮小だが、これはあ
る種の基幹的貿易財については当時すでに見られたものの、圧倒的多数の財貨
については、一物一価は達成されていなかった。また、資本の移動は、金本位
制の枠内にあった国々が移動の自由からする金利の低下などの恩恵を受けてい
たが、そうでない国々は世界的不況のさいの悪影響だけを受ける傾向があった。
労働力の移動も、約半世紀間に 3000 万人の人びとがアメリカに移動したよう
に、巨大であり、世界的な賃金レベルを多少とも平準化する効果があった4。
テミンは、グローバリゼーションを厳密に定義せず、世界経済の統合に向か
う時代と孤立化に向かう時代が潮の満ち干のように交替するものとして歴史を
捉える。世紀転換期のグローバル化の時代は、第一次大戦によって中断され、
1920 年代、大恐慌、1930 年代、そして第二次大戦期は「グローバリゼーショ
ンに対して厳しい打撃」を与える時代となった。貿易も、資本移動も、あるい
は人の移動も一部復活はしたが、制限を受けた。外国に行くのにパスポートが
必要となったのも、第一次大戦後のことである5。
Peter Temin, “Globalization,” Andrea Boltho & Gianni Tonido eds., Oxford
Review of Economic Policy, Vol. 15, No. 4 (Winter 1999), [The Twentieth Century],
pp.77-80.
5
Ibid., 80-82.
4
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グローバリゼーションと福祉国家の後退
通貨金融面から見たグローバリゼーションの進展
20 世紀の国際通貨体制におけるアメリカのヘゲモニーの変遷を歴史的に辿
ると、おそらく4つの局面に分けられるだろう。第1局面は 1900 ― 19 年であ
り、イギリスが経済覇権を握っておりスターリングが基軸通貨だった。アメリ
カのドルも金と固定価格でつながっていたものの、それ以上の役割はなかった。
第2局面は 1919 ∼ 45 年間であり、イギリスのヘゲモニーはその経済的地位の
凋落によって動揺していたが、といってアメリカは経済力があったとしても、
国際金融面でヘゲモニーを担う用意がなかった。第3局面は 1945 ― 1971 年間
であり、ブレトンウッズ体制のもとでアメリカの経済力がピークに達し、ドル
が金と固定価格で結びつけられ、他通貨はドルとリンクしていた。ドルは基軸
通貨であり、名実ともにアメリカが通貨面で覇権を保っていた時期である。第
4局面は 71 年 8 月から現在までの、アメリカのヘゲモニーが揺らぎはじめた
時期である。この間 71 年 8 月にはドルの金との交換性が停止され、73 年 3 月
からはドルはフロートしはじめ、世界の主流は固定相場制でなく変動相場制と
なった6。
第3の時期の国際資本移動は限定的だった。一定程度の海外直接投資(FDI)
があったほかは、資本は国境の内側にとどまっていた。その背景には、各国が
海外資本取引に対してさまざまな規制を行っていたし、民間国際資本の移動を
可能にするインフラが未整備だったことがある。そうした事情を反映して、国
ごとの利子率には相当の開きがあった。規制によって外国為替市場は国内マ
ネーマーケットとは分離されていた。つまり、各国通貨当局は自国通貨の価
値を支持するために外国為替市場に介入したが、他方で、そうした介入の影響
から、国内の通貨供給を切り離すことが可能だった。通貨介入は、利子率やイ
Mark Holmes & Eric Pentecost, “The Rise and Decline of US International
Monetary Hegemony,” in David Slater & Peter J. Taylor, eds., The American
Century: Consensus and Coercion in the Projections of American Power (Blackwell,
1999), p. 84.
6
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ンフレーションのような国内経済指標にさして影響を与えなかった。ブレト
ンウッズ体制のもとでは、資本の規制と固定相場によって、国内の完全雇用や
経済成長、そしてさまざまな社会保障政策の目標を犠牲にしなくてもよかった。
逆に言えば、この時期、各国政府はそれぞれの経済運営に対してかなりの自立
性を保っていたのである7。
だが、1960 年代から 70 年代にかけて起きた国際金融上の変動は、80 年代か
ら急激に拡大する国際資本移動を準備することになった。それらは、ユーロ債
(ないしはユーロ・ダラー)市場の発展であり、ブレトンウッズ体制の崩壊で
あり、そしてオイル・ショックだった。ソ連が手持ちのドルをアメリカの銀行
でなく西ヨーロッパの銀行に預金したことから始まったと言われるユーロ・ダ
ラー市場は、ドルのみならず他の通貨をも巻き込んで、巨大な金融市場に発展
していった。たとえば、アメリカの多国籍企業は、ヨーロッパで獲得した外貨
をアメリカに持ち帰れば、規制の対象になるが、ヨーロッパの銀行に預金すれ
ば、それを免れることができた。借り手銀行はユーロ債を発行して企業や各国
公企業などの資金需要に応えた。
だが、第3の時期と第4の時期を分かつ分水嶺は、1971 年 8 月のニクソン
の新経済政策発表以後の金とドルの交換停止、変動相場制への移行(1973 年)
である。ニクソンは「金はアナクロニズム」だと考えていたし、たび重なる危
機を避けるにはまったく新しいシステムを構想すべきだという意見をことあ
るごとに表明していた。何よりも彼は国際金融問題を国内経済目標に従属す
べきものという考えの持ち主だった8。ニクソン自身は保守的な財務省をあま
り信用していなかったが、最初に改革の方向を示唆した報告書をまとめたの
は、財務省内のポール・ヴォルカー(Paul Volker)を中心とするグループだっ
David Held & Anthony McGrew, David Goldblatt & Jonathan Perraton, Global
Transformations: Politics, Economics and Culture (Stanford University Press,
1999), pp. 200-201.
8
Allen J. Matusow, Nixon’s Economy: Booms, Busts, Dollars, & Votes (University
Press of Kansas, 1998), p. 126.
7
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グローバリゼーションと福祉国家の後退
た。その骨子は、金・ドル交換性の停止(それは事実上不可能になっている交
換を文字通り認めるだけのことと考えられた)
、およびドルの他通貨に対する
切り下げであった。ジョン・コナリー(John Connaly)らニクソンの側近た
ちは、500 万人もの失業者を抱えている以上、アメリカの威信に傷をつけるこ
とがあっても切り下げによって輸入物価を引き上げ、輸出物価を引き下げるこ
とを通じて雇用を生み出す方が理にかなっていると考えた9。ミルトン・フリー
ドマンの影響もあり、労働長官のジョージ・シュルツが金を完全にリタイアさ
せ、ブレトンウッズ体制を終わらせて変動相場制を採用すべきだとの立場だっ
た。いずれにせよ、
「本当のところは、合衆国は金を防衛しながら経済を律す
ることは、すでに長いことやめてしまっていた。しかも、ドルは事実上何年も
前から金との交換が不可能だったのである」10。多くのアメリカ国民は、なお
大恐慌の影のもとに生活していた。何よりも失業が恐れられ、景気循環をコン
トロールするために政府の活発な役割が期待されていた。だが、ニクソンの政
策とその後のオイル・ショックによって、
経済問題の主題は失業からインフレー
ションに変わってしまった。むろん、失業も未解決であった。
多くの銀行はそれまで主として国内業務に専念していたが、固定相場制が崩
れると、利ざやを求めて国際取引に乗り出すインセンティブをより大きくもつ
ようになった。そのうえ、オイル・ショックによって石油輸出国が余剰ドルを
もつようになったため、それらが国際マネーマーケットに投資されたのである。
国際的銀行が急激に流動性を増大させた一方で、先進諸国の経済成長は鈍化し
つつあったから、それら資金の多くがこれまでにない規模でラテン・アメリカ
や東アジア地域の途上国に流入した。その過程で「グローバルな金融商品の流
れの集中度と規模がともに変形を蒙った」11。
Ibid., p. 171.
Ibid., p. 180.
11
David Held & Anthony McGrew, David Goldblatt & Jonathan Perraton, Global
Transformations: Politics, Economics and Culture (Stanford University Press,
1999), p. 202.
9
10
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1970 年代以降、両大戦間期以来はじめて多くの途上国と東ヨーロッパ諸国
が借り手として国際資本市場に組み込まれるようになった。ただし、途上国の
中でも優等生的な中進国が圧倒的なシェアを占めてしまっており、最貧国はな
かなか思うようにアクセスができていない。最貧国が頼りにするのは公的援助
やある種の直接投資のみである。途上国の資本規制の撤廃は OECD 諸国より
さらに遅かったから、民間資本が本格的に途上国に流入しはじめるのは、1990
年代に入ってからである。ラテン・アメリカ諸国は高い利子率で国際投資家を
引きつけた。東アジア諸国も 90 年代に入ってからの伸びが著しい。東ヨーロッ
パ諸国は遅れて参入したわりにはキャッチアップが速い。アフリカは例外的に
伸びが遅く、直接投資は世界全体の1%に満たない。1994 ∼ 95 年のメキシコ
のペソ危機のように、短期資本が急激に数年間流入してメキシコの株式ブーム
の一因を形成し、
その後資本の急激な流出によって経済成長が止まり、為替レー
トが支えきれなくなり、投機的な資本逃避を加速した。
グローバリゼーションの経済学
今日のようなグローバリゼーションはしかし、1989 年におけるソ連および
東ヨーロッパ諸国の社会主義の崩壊による、
「冷戦システム」(トマス・フリー
ドマン)12 の崩壊後に本格的な発展を見たと言えよう。これは、歴史的に見て
今日のグローバリゼーションが「最終局面」に入ったことを意味し、地球儀を
見れば、北朝鮮や中国の山岳部、ラテン・アメリカやアフリカの一部などを除
いて「市場経済」が地球的規模に浸透していることがわかる。
それでは、今日のグローバリゼーションはどのような特徴をもっているだろ
うか。まず、グローバリゼーションが情報技術(IT)革命の進展と同時的に
進行していることである。世界的に地理的、かつ経済的に市場の統合がより一
Thomas L. Friedman, 東江・服部訳、『レクサスとオリーブの木』
(上)(草思社、
2000 年)参照。
12
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グローバリゼーションと福祉国家の後退
層高密度で進展し、他方で、貧富の格差が国と国のあいだ、各階層のあいだで
広がっている。1970 年代以降資本主義世界を悩ませたインフレーションの絶
え間ない進行は逆転して、デフレーション傾向が定着した。商品サービス、原
材料ごとに新規参入がつづいた結果、市場統合が一層進展し、市場の規模が拡
大したこと、境界を越える取引の一般化によって世界的に競争が激化したため
である。
それでは、市場の統合とはどういうことを意味するのか、考えてみよう。
ひとことで言えば、市場が統合されればされるほど、価格は収束する。価格
とはこの場合、まず、①商品サービスの価格、②資本の価格、すなわち利子率、
③労働力の価格、すなわち賃金、俸給である。新規投資をたえず行わなくては
ならない企業家の立場よりすれば、②、③は資金調達面での低金利、安価な労
働力の活用という点で歓迎すべきだが、①最終生産物の価格が上がりにくいこ
とは、投資のインセンティブを減殺する可能性を意味する。他方で、労働者の
立場よりすれば、もしも情報がすべての労働者に共有されていて、労働力の持
ち主である労働者が世界中を思うままに動けるのであれば、労働の機会と賃金
に応じて最適な選択をすることができるから、労働力の資質さえあれば、必ず
しも賃金俸給は下がらないかもしれない。ところが、商品や資金に比べて、労
働者は簡単には動けないし、労働市場にかんする情報は、インターネットが普
及したからといってほかの商品のように多くの労働者に共有されることは少な
い。他方で、企業家は、今日の企業の海外展開が示すように、支社や工場をほ
かの国や地域に移転することは比較的容易にできる。しかも、かつてのように、
企業は立地にさいして原料調達に地理的に便利かとか、消費市場に近いか、と
いったことをあまり考慮しないですむ。こうして、グローバリゼーション下で
は、企業家や投資家と労働者のあいだには、モビリティの面で決定的な非対称
性が生まれているのである。
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2.グローバリゼーションとニュー・エコノミー
ニュー・エコノミーの特徴
「ニュー・エコノミー」という用語は、1990 年代アメリカの情報テクノロジー
(IT)革命とコンピューター化、ネットワーク化による新しい経済のあり方と
いう意味で用いられる場合が多い。ただし、それ以外にも、アメリカ経済の
新しい成長分野を従来型の重化学、製造業などの「オールド・エコノミー」と
対比させて、セクターの集合概念のように「ニュー・エコノミー」と呼ぶ場合
もある。前者は研究者間で議論する場合に前提される場合が多く、後者は『ビ
ジネスウィーク』をはじめとする経済マスコミの論壇で前提される場合が多い。
ヨーロッパや日本はアメリカよりも「ニュー・エコノミー」への発展が遅いと
言われており、アジア諸国でも、その進展の度合いにはばらつきがある。今後
は進展を示す共通の指標を見つける必要があるかもしれない。
これまでの経済発展は工業化が都市化を伴い、都市に住む人びとの生活感
覚、生活様式がそれ以外の地域の人びとの将来像をリードしたのだが、今日
の「ニュー・エコノミー」化は、たとえばインターネットの店舗が場所を選ば
ないように、大都市圏が必ず発展の中心になるとは限らない。同じことは多国
籍企業の立地についても言える。極限的なグローバル経済では、世界に1つの、
オープンな市場があるだけだから、
「本社」はどこにあってもいい。
ニュー・エコノミーの特徴点をあげると、①企業にとって労働者雇用の地理
的範囲、雇用形態がフレキシブルになるので、労働コストの大幅削減が可能に
なる。②コンピューターによる管理が商品在庫を最小限化できるので、無駄な
コストを削減できる。③国民経済的に見て、コンピューター化、ネットワーク
化が一定程度進展すると、生産性の上昇が本格化する。④商品サービスの需給
がグローバルになるにつれて、ある一国の経済政策が景気循環に影響する割合
は弱まる。⑤資金調達がグローバル化すると、低利資金が得やすくなる。
ただし、良いことずくめではない。ネット企業も大量注文を迅速に処理する
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グローバリゼーションと福祉国家の後退
には、ある程度大きな在庫をかかえていなければならない。そうするとかつて
の伝統的大量生産工業と同じ悩みをかかえる可能性もある。労働コストの削減
はそのまま労働者の生活の不安定化につながる。資金調達領域の拡大は、リス
クの増大にもつながる。一般に、コンピューター関連産業は、製造業などと比
べて、雇用吸収力が小さい。生産性が高まれば、高まるほど雇用は小さくてす
むという昔からのジレンマは同じである。競争条件が均等化し、企業どうしの
競争が激化するから、利潤率は圧縮されるだろう。要するに、ニュー・エコノ
ミーは競争のあり方を変えるが、競争社会がなくなるわけではない。
製造業が優勢だったオールド・エコノミーの時代には、大量生産が主流で、
(と
くに組織された)ブルーカラー労働者は安定した賃金とフリンジベネフィット、
雇用の安定をも享受することができた。それを可能にしたのは、たんに経済が
一国を単位に動いていたためではない。多くの場合、各国政府は、巨大企業に
よる産業ごとの事実上の寡占状態をさまざまな規制や保護によってまもってい
た。貿易は国民経済の一部のシェアを占めるにすぎなかった。組織労働でさえ、
企業側との協約にまもられ、政府による保護を受けていたと言える。
市場競争の激化と労働時間の増加
ニュー・エコノミーと呼ばれる時代、労働者や中産階級はどのような状況に
おかれているだろうか。ロバート・ライシュの言うように、消費者の財サービ
ス選択の範囲(=市場)がとてつもなく広がり、競争が激化しているニュー・
エコノミーのもとでは、より良い商品をより安く、より速く提供することを強
いられる 13。オールド・エコノミーの時代のように、ある製品が相当の年月消
費者の信頼を得ていた、ということはなくなった。すぐれた製品が市場に登場
して、ある生産者、売り手がもうけることができるようになると、その情報自
Robert B. Reich, The Future of Success (Alfred A Knopf, 2000); 清家篤訳『勝者
の代償』(東洋経済新報社、2002 年)参照。
13
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体がすぐに他の生産者や売り手に伝わり、別の、しかし似たような製品がすぐ
に市場に登場すると、最初に製品を市場に登場させた売り手の独占的な利益は
すぐに消えてしまうからだ。そうすると、最初の売り手は、さらにコストを削
減して同じ製品をより安く売るか、同じ価格でより良い製品を作るか、あるい
は、まったく新たな製品を作るか、のどれか(あるいはすべて)を選択しなけ
ればならなくなろう。こうしたことに示されるのは、売り手にとっての不安定
性と弱さ、そして、競争の激化という現実である。
競争は労働現場でも激化しているから、これまでの熟練職ブルーカラーの
ように、長期にわたって比較的安定的な賃金引き上げや職の安定を確保するこ
とは難しくなっている。労働者もますますその「市場価値」で支払われてい
る。そこで多くの労働者はレイオフされないように、あるいはされても当面の
家計が維持できるように、より長時間働くようになった。労働時間がたえず減
少するという歴史的傾向はアメリカの場合 1980 年代初頭で終わりになり、そ
れ以降労働時間は増加しつづけている。いまや平均的な労働者の労働時間は年
2000 時間に近くなり、とくに女性は労働時間をふやしている。
労働時間が増加するもう一つの原因は、世帯としての所得の維持である。女
性の労働力化がもっとも急激に進んだのは、不況の 1970 年代においてだった。
大恐慌のときと同様、妻や娘たちが夫や父の収入ダウンを補うために働きは
じめたと考えられる。これらの全体的な結果は、収入が増加するということ以
外に、人びとの家族生活をより仕事中心的なものに変えつつある。単体のコン
ピューターが登場したはじめの頃、企業によっては、会社で行った仕事を帰宅
後も多少点検できるように、社員はフロッピーディスクにファイルを保存して
自宅のコンピューターにコピーして仕事を続けることがあった。これは、いわ
ば、帰宅後の生活時間に会社の仕事が若干侵入した形である。ところがいまや、
多くのホワイトカラー労働者、とくに幹部社員になればなるほど、勤務時間は
もとより、帰宅後、睡眠中でさえ、自分の進行中のプロジェクトに頭を悩まさ
れる事態になった。仕事の情報から自らを解放することがいかに困難になった
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グローバリゼーションと福祉国家の後退
かを、多くの人びとが実感せざるをえない。
3.グローバリゼーションと福祉国家の後退
それでは、グローバリゼーションと福祉国家とは、どのような関係にあるの
だろうか。
この問題を考える場合には、一般的な企業家を含め、世界的な市場を求めて
動き回る、やや根無し草的な投資家を想定するほうがわかりやすい。そういう
投資家の立場よりすれば、まずもって彼らの経済活動に対する各国政府の規制
は少なければ、少ないほど望ましい環境だということになる。また、本社を別
の国に移転した途端に法人税がはね上がるというのでは、投資意欲が衰える。
より一般的に、課税は少ない方がいい。また、投資家たちはこれまでのオール
ド・エコノミーのような、フルタイム雇用を前提とした雇用形態にとらわれた
くないから、労働市場がフレキシブルで、雇用しやすく、解雇しやすい形の労
働者の存在が望ましい、ということになる。むろん、コストの削減は世界大の
競争に勝ち抜くための必要条件だから、労働コスト、すなわち賃金俸給は低い
状態で安定していることが望ましい。
近代における福祉国家の有力な淵源とされるビスマルク体制においては、一
方で社会主義者鎮圧法を制定して社会主義運動を非合法化すると同時に、災害
保険・健康保険・老齢年金などの社会保障制度を創設して、労働者階級の社会
主義化をおさえこもうとした。企業家どうしの自由競争の環境を最大限整える
ことが使命であった資本主義体制においては、経済政策や社会政策を<分配
の平等>の方向に舵を切らせることは、社会主義という宿命的な敵の体制の出
現、あるいは出現の現実的可能性がなくては、ありえなかった。他方で、福祉
政策の実現には、政府の歳入増加を図らなくてはならないから、課税強化が必
要となる。かくて、今日福祉国家と呼ばれるシステムにおいては、国民負担率
が 50%に近づくような高率課税(多くの場合、累進的な所得税を中心とする)、
したがって、高額の移転支出を軸として、ふつうの労働者のいざというときの
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ためのセイフティーネット(病気、けが、事故、失業などに対応するシステ
ム)を確保し、また自ら労働した所得によって生活費を稼ぐことが困難な乳幼
児、子供、高齢者などに対して日常的なケアを準備しなくてはならない。かか
る観点よりすれば、福祉国家とは、高所得国民、あるいはふつうの労働者から
課税を通じて調達した資金を財政支出によって貧困者ないしは経済的弱者に付
与して彼らをサポートするしくみにほかならない。
福祉国家の淵源に社会主義がかかわっていたことは、今日の福祉国家の後退
について考察するさいの糸口を与える。一般にヨーロッパが福祉政策で先行し
たのは、彼の地におけるマルクス主義の強さ、したがってブルーカラー労働者
の社会主義指向と関連がある。そうした条件を欠いたアメリカが遅れた福祉政
策に乗り出すには、1929 年大恐慌による大量失業の発生とソ連の存在が必要
であった。また、60 年代にアメリカがその福祉国家的施策を強めた(ジョン
ソンの「偉大な社会」
)のは、ヴェトナム戦争に勝利する必要から、福祉政策
の面でも資本主義の優位を示そうとした動機と無関係ではなかったろう。その
社会主義体制が崩壊した今日、国民負担率を下げてでも、福祉国家から遠ざか
りたいとする資本の側の指向に対する歯止めはもはや存在しないのである。
話を投資家の立場から見た福祉国家にもどすと、
①高額課税とより多くの移転支出は、投資家の利潤の取り分を少なくするか
ら、望ましくない。
②また、累進課税的な税負担の構造は、高額所得が政府からあたかも「罰せ
られる」かのように見えてしまうので、投資に必要な企業家精神をそこなう
であろう。税負担の構造は、所得にかかるものはなるべくフラットな形が望
ましいこととなる。
③企業や政府が相当部分を負担する失業や病気のためのセイフティーネット
の確保は、雇用主に対してより大きなコストとなって跳ね返るので、やはり
望ましくない。
④乳幼児、子供、高齢者、場合によっては配偶者に対する支出は、最小限に
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グローバリゼーションと福祉国家の後退
すべきで、政府が手を出さない分、家族が相応の負担をすべきだということ
となろう。
だが、投資家がこう考えたからといって、直ちにすべての国で福祉国家後退
の方向に動き出す、というわけではない。グローバリゼーションが進展しても、
グローバルな政体(polity)というものは実現には遠いし、個別国家にはそれ
ぞれの国で培ってきた国民負担のあり方についてのコンセンサスがあり、また、
望ましい生活レベルについても判断が異なってくるからである。
アメリカの場合、1960 年代の福祉財政の強化はヴェトナム戦争支出と重なっ
て、その後の長くつづくインフレーションと高失業率の併存というスタグフ
レーションを生み出し、多くの国民の不満を醸成し、今日に至る保守主義化の
流れをつくりだす一助となった。この保守主義化の流れの中で、クリントン政
権(1993 ∼ 2000 年)
の時期は例外的な時代とも見ることができようが、彼が行っ
た福祉の見直しはやはりこの大きな流れの中で起きた現象と考えざるをえない。
4.クリントン政権と「自己責任・労働機会調和法」
(PRWORA、1996 年)
福祉から労働へ
クリントン政権は、これまでの民主党政権と異なり、低所得者が慢性的に
福祉金の受給に依存している状態をあらため、福祉受給者から労働者への転換
を進め、それによって労働が報われる社会をめざそうとした。クリントンは
1993 年の最初の予算教書で、給与所得税控除(EITC)の大幅な増加を提案し
た。賃金と EITC と食料スタンプの併用によって4人家族が貧困から抜け出せ
るようにとの意図からだ。たとえば、2人以上の子供のいる家庭で EITC は収
入の 40%で、最大 3800 ドルを受け取れるというもので、1992 年までの制度の
ほぼ3倍の金額となった。最低賃金を受け取っている労働者にとっては、これ
は 40%の収入増加と同じことだった。ただし、家族所得が 1 万 3000 ドルを超
えると控除額はしだいに減額し、3万ドルを超える所得を受けると控除はゼロ
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千葉大学 公共研究 第1巻第2号(2005 年 3 月)
となる 14。
1997 年には最低賃金も1時間あたり 4.25 ドルから 5.15 ドルまで引き上げら
れた。クリントン大統領は就任早々妻のヒラリーを先頭に一般健康保険制度を
創設しようと努力したが、失敗に終わった。そこで、クリントン以前から充実
されつつあった子供の医療保障が拡充され、99 年では 17 歳未満の貧困な児童
はすべてカバーされた。
1992 年の大統領選挙にさいしてクリントン陣営は「われわれが知っている
ような福祉は終わりにする」
(end welfare as we know it)ことを公約のひと
つとして掲げた。今日に至るまで、悪名高くなった依存型「福祉」の代表、
「被
扶養児童世帯扶助」
(AFDC)とは、若干違った名称で 35 年の大恐慌下でロー
ズヴェルト政権によって創設されたものである。男性が失業者の群を離脱し
て、しっかりと家族のサポートができるくらいに稼げるようになるまで、子供
持ちの母親を助ける、一種の「母親年金」のようなもので、一時的な弥縫策と
も考えられていた。母親が子育てに専念できるように、母親を賃金労働の役割
から解放する、というのがその趣旨だった。当初の受給者は 96%が白人女性で、
とくに南部では黒人は受給候補者から排除されていた。40 年にはアメリカの
子供全体の2%をカバーするのみで、いずれ廃止されるものと考えられていた。
ところが、1945 ∼ 60 年間に受給者数は3倍になり、当初の受給対象だった未
亡人は一般社会保障のほうに移り、
残ったのが、
婚外出産で生まれた子供を持っ
た離婚したか、捨てられたか、一度も結婚したことのない母親たちだった。60
年には、受給者の 40%が黒人だった。
そして、1960 年代の貧困の発見、貧困者に AFDC を受給させる運動があ
14
以下の内容については、秋元・菅『アメリカ 20 世紀史』
(東京大学出版会、2003 年)、
; Rebecca M. Blank &
「第8章 グローバリゼーション下のアメリカ、1990 年代」
David T. Ellwood, “Poverty and Welfare,” in Jeffrey A. Frankel & Peter R. Orszag,
eds., American Economic Policy in the 1990s (MIT Press, 2002); Jason DeParle,
American Dream: Three Women, the Kids, and a Nation’s Drive to End Welfare
(Viking, 2004). 参照。
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グローバリゼーションと福祉国家の後退
り、また、66 年に創設された貧困者のための医療保険、メディケア受給には
AFDC を受給していることが早道であることがわかってくるにつれ、受給者
は増加した。73 年には、1100 万人が受給していた。当時の子供の9人に1人
である。その後はしかし、1人あたりの受給額は著しく減少し、92 年で見ると、
平均的な扶助額に食料スタンプを加えた金額は、年間 7600 ドルで、貧困基準
より 4000 ドル少なかった。婚外婚によって生まれる子供の比率は、黒人の子
供全体の3分の2までに増加していた。レーガン政権の末期、88 年に成立し
た家族支援法は、JOBS(職業機会と基本熟練)プログラムを創設し、福祉受
給者に教育と訓練の機会を与えて、仕事に就かせることを意図したが、一定期
間の授業を受けさせる以上の成果は乏しかった。
クリントンは福祉を終わらせることとリベラリズムの復活とはリンクしてい
ると考えていた。改革は AFDC にかかわる人種差別のステレオタイプ化を終
わらせ、与えるだけという民主党のイメージを変えるという2つの修正を意味
した。だが、当時の議会は共和党が優勢で、わずか1年前には予算案審議の滞
りによって連邦政府の機能が一部麻痺する事態まで招いていた。だから、クリ
ントンが原案で計画していたような貧困者に仕事をしてもらうためなら、予算
はむしろ増やしてもいいといった寛容な考え方は、法案修正の過程で失われて
いった。だが、古いやり方が限界に来ていることも事実だった。クリントンは
結局修正された法案に署名した。
自己責任・労働機会調和法後の公的扶助
1996 年の「自己責任・労働機会調和法」
(PRWORA)の制定によって、母
子家庭に与えられていた「被扶養児童世帯扶助」
(AFDC)は、「貧困家庭に対
する一時支援」
(TANF)に切り替えられた。1997 年には均衡予算法の規程に
より、
「州児童保険プログラム」
(S-CHIP)が、福祉見直しによって低所得家
庭の児童が健康保険を失わないように、州と連邦の協力による支出を規定した。
州政府は 1992 ∼ 94 年間平均の金額に匹敵するか、それ以上の交付金を連邦か
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千葉大学 公共研究 第1巻第2号(2005 年 3 月)
ら受けられるが、基本的に、公的扶助の需要が増加したときのリスクは州政府
が負担することになった。州政府は、AFDC で支出した金額の 75%を支出す
ることを求められた。だが、州は受給条件を満たした家族のすべてに対して扶
助額を支給する義務はなくなった。TANF は生涯全体で5年間しか給付され
ないことになり(州が独自に5年以下の期限を設定することもできた)、また、
非婚女性家族以外でも支給は可能だった。アーカンソー州を除いて、家族所得
が貧困線の 133%以下の場合には児童健康保険(メディケイド)の受給を認め
た。また、97 年の納税者救済法は、夫婦子供2人、年収 2 万 5000 ドルの働く
低所得世帯の場合、子供1人当り 500 ドルを税控除した。これらの結果、1988
年法の下で福祉受給をやめて就労することを選択した2人の子持ちのシングル
マザー(年収1万ドル前後)にとって、収入増加はわずか 2325 ドルだったの
に対して、99 年ではそれが 7051 ドルに達し、貧困世帯に対して福祉でなく労
働選択へのインセンティブを形成した。 こうした改革の結果、働く意欲を持って福祉を離脱してある程度の収入の道
を獲得した世帯は、いわば改革の受益者となり、その場合には、改革前に比べ
て可処分所得は増加したであろうが、福祉を離脱しても何らかの理由で仕事が
見つけられない少数者の場合には、失業したままで、もしもシングルマザーで
あれば、ボーイフレンドや他の親戚の家庭により多く頼るしかないと想像され
る。また、就職した場合には、子供のケアや通勤費という、これまでの福祉受
給の場合には発生しないコストがかかってくるので、先の可処分所得増加の数
字も割り引いて考える必要があるかもしれない。
じっさい、多くの AFDC 受給者は届けないだけで、すでにパートタイムで
就労していることも多かったので、彼らをフルタイムで雇用する場がないかぎ
りは、所得のダウンを免れない。また、健康保険を付帯してくれるような優良
な職業でないかぎり、福祉からの離脱はほぼ自動的にメディケアからの排除を
意味するので、このこと(全米で福祉を離脱した家族の3分の2がメディケ
アを止められた)が近年における健康保険のない世帯の急増に寄与している可
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グローバリゼーションと福祉国家の後退
能性がある。フルタイムに近い就労によって母親が子供の面倒を見る時間がな
くなり、子供の教育やしつけに悪影響があることも報道されている。何よりも、
福祉から見放された家族のほぼ3分の1が福祉も仕事もなしで少なくとも数ヶ
月暮らしていると見られるが、彼らがどのように生活の資を得ているかは「ナ
ショナル・ミステリー」であった 15。また、じっさいに働きに出てみて、アメ
リカの最下層労働者の賃金の低さにあらためて驚かざるをえない場面も多いよ
うだ。
5.おわりに
2001 年、クリントンのあとをおそったブッシュ政権は、9・11テロの後、
対テロ戦争を理由に、クリントン政権が蓄積した予算黒字を使い果たし、巨額
の減税やより大きな政府によって財政赤字をより一層深刻化させている。新た
な減税は最富裕層を桁違いに優遇するもので、そのあおりを食ってさまざまな
扶助型の福祉支出がカットされている。ところで、ブッシュはクリントン以上
に福祉「改革」には積極的で、しかもその手法はこれまで見たことのないよう
な「革新」的なやり方を含む。公立、私立を問わず学校の選択をより自由にす
るバウチャー制度、医療ケアの民間化、そして何よりも、ニューディール以来
営々と築き上げられてきたアメリカの社会福祉システムが根本的な変容を迫ら
れている。たとえば、老齢年金について言えば、今日退職後の高齢者は平均し
て現役労働者賃金の 42%を受け取っており、受給額はインフレ連動型である。
このように社会保障が拡充される前の 1960 年、公的年金は高齢者所得のわず
か 10%にすぎず、高齢者の 60%は、年収 1000 ドル未満であった。ブッシュ政
権はインフレ連動廃止を計画しているので、2052 年には現役労働者の 32.5%
にまで給付が圧縮される。そのうえに、退職者には年金の株式運用を勧め、企
業には従業員の401kなど確定拠出型年金への加入を奨励するので、いずれの
15
DeParle, op.cit., p. 185.
116
千葉大学 公共研究 第1巻第2号(2005 年 3 月)
側面においても不安定度が増し、優勝劣敗の原理が作用し、高齢者の暮らしと
収入は 1960 年当時の悲惨な状況に逆戻りする可能性がある 16。
以上のような新しい傾向をどう総括したらよいのか。言うまでもなく、社
会主義の崩壊は福祉システムのモデルの消滅を意味し、経済のグローバル化
は多国籍企業など「世界的投資家」の立場を強めた。かつてレッセフェールの
環境を与えたのは自由主義的国民国家であったが、今日、投資家たちは地球
的規模での投資の自由という環境を求めている。ロバート・ライシュは、ブッ
シュ政権をイデオロギー面で支えているインテリたちをラドコン(radical
conservatives)と呼んでいるが、彼らの行動テーゼのうちの経済にかんする
内容は、投資家の立場とおおかた一致する 17。それは、企業活動の面からのみ
個人を評価し、彼らが規制や税制や環境を無視して生産や販売、サービス活動
を展開すること(あるいは廃業する自由の権利を行使すること)を、いわばカ
ウボーイ的勇敢さになぞらえて、讃えて支援するブッシュ大統領本人の価値観
とも符合するのである。すなわちラドコンは、なかでも、
①主として富裕層に対して減税する。
②主として貧困層に対して社会的サービスをカットする。
③社会保険を「民間化」する。
④事業に対する規制を除去する。
⑤環境汚染を許容する。
という点で投資家の立場を代弁する。彼らはアメリカを投資家の天国にする目
標に向かって突き進んでいるのかもしれない。福祉国家的原理を広める立場か
Harold Myerson, “Another Other America? Social Security privatization could
set our seniors’ quality of living back 40 years,” American Prospect Online,
January 6, 2005.
http://www.prospect.org/web/page.ww?section=root&name=ViewWeb&articleId=8
990
17
Robert Reich, Reason: Why Liberals will win the Battle for America (Alfred A
Knopf, 2004), p. 16.
16
117
グローバリゼーションと福祉国家の後退
らすれば、グローバリゼーションの今日必要なのは、人間の顔をしたグローバ
リゼーションにその流れを修正していくべきことなのだろうが。
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