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歴史フォーラム・講演録 (PDF 2.4MB)

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歴史フォーラム・講演録 (PDF 2.4MB)
*本記録は,発言者の確認のもと,音声記録を整理・文章化したものです。 *図版の無断使用はご遠慮ください。
講演録
*会場で配布しました資料(PDF)とあわせてご利用ください。
①レジュメ
②パンフレット 国指定史跡武蔵国分寺跡 -近年の僧寺伽藍の発掘調査-
国分寺市制施行 50 周年記念事業
歴史文化フォーラム
平安時代における祈りの空間
武 蔵 国 分 寺
主 催
国分寺市・国分寺市教育委員会
後 援
東京都教育委員会
と き
平成 27 年2月 15 日(日)午後 1~5時
ところ
市立いずみホール
開会挨拶
井澤 邦夫
国分寺市長
みなさん こんにちは。
本日は寒い中,こちらいずみホールにお越し
いただきありがとうございました。
国分寺市制施行 50 周年を記念しまして歴史
文化フォーラムを開催させていただく運びとな
りました。
こちらにいらっしゃいます佐藤先生,藤井先
身の濃いものになるものと思っております。
今日は,4時間という長時間になりますが,
1300 年余り前に遡って,みなさんと一緒に,国
分寺の歴史や天平時代の歴史を楽しんでいきた
いと思っております。
50 周年にふさわしいこうした行事が出来ま
すのも,お忙しい中にもかかわらず,先生方に
生,副島先生には,日頃より史跡等文化財の保
こうしてお集まりいただいたおかげであります。
護において国分寺市に大変なご尽力を賜ってお
重ねて御礼申し上げます。
ります。
実は,控室におきまして,先生方の熱い討論
が始まっておりまして,今日のフォーラムは中
それでは,これから歴史文化フォーラムを開
催させていただきます。
本日は,ありがとうございました。
歴史文化フォーラム記録 1
問題提起(コーディネーターから)
平安時代の東国仏教と国分寺
佐藤
信
*
はじめに
本日は,
「平安時代における祈りの空間
9世紀代にかなり立派になっているというこ
武
蔵国分寺」というテーマで深めてまいりたい。
とが考古学的な成果としてみえてきた。
9世紀に立派になってくる国分寺をどのよ
最初に,私の方から「平安時代の東国仏教と
うに理解すれば良いかが問題になってくる。
国分寺」というテーマでお話して,問題提起
平安時代の東国仏教
とする。
今回,平安時代に焦点を当てたのは,最近
の史跡整備を目指した発掘調査によって,平
それと関連するのは,平安時代の仏教が日
本列島全体で大きく変化してくるということ
が言えると思う。
安時代前期において武蔵国分寺で大きな変化
大きく言えるのは,南都仏教といわれる奈
があったことが明らかになってきたというこ
良時代の仏教に加えて,平安時代の前期に,
とが一つの背景にある。
最澄,空海といった名僧が唐にわたり,新し
もともと知られていることでは,この時期,
い仏教,すなわち最澄が天台宗(比叡山延暦
七重塔が再建されたということがある。これ
寺)を,空海が真言宗(高野山金剛峰寺)を
に加えて,今回の発掘調査では,講堂の大幅
列島に伝え,密教化して,法会のあり方,仏
な拡張・大改築が行われたこと,同じ頃に,
教のあり方が大きく変化するといえる。
金堂から講堂への通路が瓦敷き・石敷きで整
そういった中央における仏教の変化が,地
備されたり,金堂や講堂を取り巻く区画施設
方においても,また東国仏教にも
が掘立柱塀から立派な築地塀に造り変えられ
化をもたらしていったということが考えられ
る,といった大きな変化があったことが明ら
る。
かとなってきた。
国分寺というと,一般的には,創建された
天平期が一番立派で,その後は衰退の一方と
みられているかと思うが,武蔵国分寺では,
大きな変
みどのてら
例えば,上野国緑野郡緑野寺と下野国都賀
だ い じ じ
郡大慈寺あたりを中心として,最澄が,東国
における天台宗の布教の拠点としている。
*さとう まこと
1952(昭和27)年 東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。奈良国立文化財研
究所研究員,文化庁文化財保護部記念物課文化財調査官,聖心女子大学文学部助教授等を経て現
職,東京大学大学院人文社会系研究科教授。専門は日本古代史。 文学博士
主な編著
『日本古代の宮都と木簡』(吉川弘文館),『古代の遺跡と文字資料』(名著刊行会)『出土史料の古代
史』(東京大学出版会),『律令国家と天平文化』(編著,吉川弘文館)ほか多数
歴史文化フォーラム記録 2
それ以前にも,仏教の世界では大きな変化
平安時代,護国経典の一つである仁王経を
があって,例えば,称徳天皇の時代の道鏡に
講説する仁王会が都や諸国の国分寺で開かれ
よる仏教政治などのように,奈良時代の後半
るようになってくるのは,空海が新訳の仁王
には,仏教が世俗的な力を発揮するようにな
ってくるが,一方で南都仏教の世俗化を嫌い,
え
徳一という僧が,東北の山岳寺院陸奥国 慧
に ち じ
日寺 (福島県)を拠点として,東国に広く布
教するようなこともあった。
下野薬師寺には,東国の僧侶が正式な受戒
をする時に行かなければならない戒壇(本朝
にん のう ご こ く は ん に ゃ は ら み っ たき ょう
経(『仁王 護国 般若波 羅 蜜 多経 』,
「新訳経」と
いう)を請来してから,その影響で広まると
考えられている。開会前に,副島先生から「奈
良時代から行われることはあった」と伺った
ので,中身がどのように変化していったのか
をこれから検討する必要があろう。
このように,新しい経典,新しい法会とセ
ットで,東国にも新しい仏教が広がった。
三戒壇の一つ)が設けられた。もともと7世
承和元年(834)には,東国の相模ほか6カ
紀後期の創建の頃から国家的な寺院であった
国の国分寺に,上野国緑野寺にある一切経を
と思うが,こうした寺院では,奈良時代には
お手本に一切経を書写せよとの命令が中央か
南都系寺院の僧侶が拠点としていたが,平安
ら発令されている。
時代になると,中央の東大寺の末寺化してく
る。
本来,一切経の一番良いものは,国分寺や
下野薬師寺にこそ在って然るべきなのに,最
最澄が東国布教を始めた9世紀初め頃,大
澄の東国布教の拠点の一つである緑野寺の一
慈寺の僧侶(後に,弟子が天台座主になる)
切経がお手本になったのは,かなり早い段階
が,下野国分寺の塔院で開かれた仏教法会で
に東国へ天台宗や真言宗の影響が及んで来て
下野国の講師(下野国を代表する立場の僧侶)
いると考えてよく,それを国家が公認したこ
の講義を聴いて,仏教に対する自分の理解と
とになる。
異なると,批判した文章が今日まで伝わって
9世紀の東国では,様々な写経や法会が行
いる。つまり国分寺とか下野薬師寺のような
われている。写経として有名なのは,貞観 13
伝統的権威のある国内寺院は,従来の南都系
の仏教であったのに対して,最澄が天台宗を
さきのこうずけのくにごんの だいさかん
年(871)に 前 上 野 国 権 大 目 という地元 系
新しく広めようとした。空海も東国布教を行
の国司の一員が大般若経 600 巻を書写してお
おうとして,先の大慈寺の僧侶に一切経書写
り,その実物の一部が残っている。
の手伝いを依頼する手紙を出している。
実は,武蔵国分寺でも,
「中院」の僧最安に
下野国出身の僧は,平安時代初期に天台座
よって,経生を動員して,承和 14 年(847)
主を3人ほど出していて,初期の天台宗を支
に一切経の書写が行われており(法隆寺所蔵
えたのは下野国の最澄の弟子たちだ,と言え
の大菩薩蔵経巻十三奥書より),これも,中央
るくらいに全国規模の新しい平安仏教の世界
からの命令とリンクしていよう。
に与えた東国仏教の力はあったといえる。
国分寺をめぐる仏教の動き
密教は,空海がまず伝えて,最澄の側でも
おいかけて,弟子の円仁・円珍が密教化を深
めるといった動きがあって,平安時代の新し
い密教が広がってくる。
この2年前の承和 12 年(845)に,武蔵国
分寺七重塔再建が認められている。焼失した
七重塔の再建は,本来は国司が担うべきとこ
さき のお ぶすまぐんのたいりょう(ぐんじ) み ぶ の き
ろを,前男 衾
郡
し ふ くま さ
大 領 壬生 吉 志 福 正 が私
財を投じて再建したものである。こうした伽
歴史文化フォーラム記録 3
藍復興の落成時には,必ずや式典が営まれた
す像があるなど,それまでの仏像とは違う形
と思われるが,こうした機会にあわせて,一
の新しい密教的な仏像群が構想される動きの
切経などの書写事業も完成させたのではない
なかで捉えられるのではないかと思う。
かと推測している。
五大菩薩像がどういう仏像であったか,あ
このように,国分寺をめぐる写経や新しい
るいは新しい密教的な仏像群との関連がどう
仏教に沿った法会が,東国においても盛んに
であるのかについては,後ほど,先生方より
行われるようになってくる。
お話があるかと思う。
五大菩薩像の造像
おわりに
特に,9世紀の東国周辺は,先の東日本大
平安時代の東国仏教は,日本列島の仏教史
震災が起きて注目された貞観 11 年(869)の
のなかでも,平安新仏教の広がりとか,天台
東北地方の陸奥国大地震・大津波をはじめ,
座主を何人も出す動きとか,日本仏教の大き
富士山や鳥海山が噴火するなど,天変地異の
なうねりのなかの真っただ中にあったという
え み し
時代であった。こうした災害や蝦夷 の抵抗,
しんら(しらぎ)
さらには 新 羅 との国際関係の緊張など,
ことが出来よう。
そうした中での,平安時代の武蔵国分寺の
あり方というのも,考古学的に一部明らかに
なってきたのであるが,それをどのように歴
内憂外患が押し寄せてきた9世紀,特に後半
史的に位置づけていくかがこれからの課題で
期では,護国仏教が重視され,護国経典の仁
あり,今日のフォーラムのテーマである。
王経を講説する仁王会や写経が行われた。
考古学的成果や古代史の成果だけではなく,
また,陸奥国では,先の大地震から4年後
仏堂がどのように使われるようになってきた
の貞観 15 年(873)に,武蔵国分寺の例にな
のか,五大菩薩を祀るのはどういう空間で行
らった五大菩薩像の造像が認められたことが
われるのか,あるいは,そこで行われる法会
国史に記録されている。陸奥国において,災
はどういう仏教史的な意味があるのか,そこ
害後の復興を願ったり,あるいは蝦夷との関
で祀られる仏像が紙に描かれたものか,立体
係を祈念するための事業である。これ以前に,
的な木造彫刻なのかなどについて,建築史や
東国の武蔵国分寺において五大菩薩像を祀っ
美術史や仏教史とからめた総合的な動きのな
ていたのも,対蝦夷政策を支えた東国世界と
かで,国分寺を理解する必要があるものと思
の関連でとらえられる可能性がある。
う。
この五大菩薩像については,空海が教王護
逆にいうと,武蔵国分寺を深めていくこと
国寺(東寺)の講堂で配置したように,中央
によって,平安時代史への大きな提言が出来
に五仏があり,東側に五大菩薩があり,西側
ると考えている。
に五大明王として不動明王など忿怒の形を示
歴史文化フォーラム記録 4
基調報告
近年の僧寺伽藍の発掘調査成果
中道
誠
*
平成 15 年から平成 24 年に実施された僧寺
地区の史跡整備に伴う事前遺構確認調査によ
って明らかとなってきた平安時代初め,9世
領壬生吉志福正が再建を願い出て許可された
ことが続日本後紀に記されている。
従来は,塔1に係る出来事として,昭和 39
紀代の伽藍整備状況について報告する。
年の発掘調査によって確認されていたが,新
武蔵国分寺の概要
たな塔2の発見と,その築造が9世紀代にな
武蔵国分寺の伽藍配置は,古代の官道であ
るということが版築内出土の土器から明らか
る東山道武蔵路を挟んで,東に僧寺,西に尼
になり,再検討を求められている状況である。
寺が配置され,僧寺は,塀と溝で区画される
塔1における調査成果としては,Ⅰ期に創
中枢部の主要建物が,南から,南門,中門,
建され,Ⅱ期(835 年)に火災を受けて,そ
金堂,講堂と南北一直線に建てられ,鐘楼と
の後,再建され,以降,補修瓦の出土や,礎
経蔵,僧坊が東西対称に建てられる。七重塔
石の現存からⅢ期まで存続することが分かっ
は中枢部の南東に位置する。七重塔を含む伽
ている。建物は一辺約 10m四方の礎石建物で,
藍地とその外側の寺院地という二重の区画は,
基壇は約 18m四方,外装は乱石積で,外周に
それぞれ溝で囲まれる。
は雨落ちの石敷きが巡る。基壇下は,深さ約
武蔵国分寺の変遷は,大きく3時期に区分
1.7mの掘り込み地業(地盤改良)を伴う。
される。Ⅰ期:創建期は,天平 13 年(741)
平成 19 年度の調査では,心礎を含む7個の
の国分寺建立の詔を受けて造営に着手して
礎石が現存するなか,基壇周囲の粘土で構成
760 年 頃 に 主 要 な 建 物 が 完 成 す る 時 期 。 Ⅱ
される石敷きの中に,焼けた創建期の瓦がつ
期:再建期は,七重塔再建にあわせた伽藍全
きこまれており,創建塔が火災を受け,その
体の整備拡充期。Ⅲ期:衰退期は,10~11 世
後に補修した状況が再確認されている。
代が相当する。
今日のテーマは,このうちⅡ期を扱う。
七重塔の再建
現在,礎石が残っている基壇を「塔1」と
呼び,平成 15 年に地下レーダー探査を契機と
して西方約 50mで新たに発見された基壇を
「塔2」と呼ぶ。
七重塔については,承和2年(835)に焼失
し,承和 12 年(845)に,武蔵国前男衾郡大
*なかみち まこと
国分寺市教育委員会ふるさと文化財課職員(学芸員・考古学)
歴史文化フォーラム記録 5
塔2における調査成果としては,掘り込み
地業の規模が,約 11m四方で,深さ 2.3m以
上あることから,塔1と同規模の基壇建物が
想定される。築造時期は,掘り込み地業の版
築内から出土した土師器から,9世紀中頃と
考えられる。塔1では出土しない種類の鐙瓦
や「造塔」の模骨文字瓦が出土する。
しかしながら,礎石や基壇外装の部材が出
土しないことや瓦の出土が少ないことから,
建物が建ち上らなかったのではないかという
指摘がある。
に,桁行7間,梁行4間の四面庇建物に造り
直している。再建時に,東西に一間ずつ増築
し,基壇も増設して,外装も全周造り直して
いる。
金堂ほかの整備状況
再建の痕跡はないが,出土した塔再建所用
瓦に建物を塗る朱が付着していることから,
9世紀中頃から後半に建物を補修しているこ
とが分かる。
塔1再建と塔2の関係であるが,共に,9
世紀中頃から後半期と考えられることから,
火災を受けた後に,再建に着手したのがどち
らかは不明な状況である。
講堂の再建
9世紀中頃から後半に建物全体を建替える
大規模な改築を行っている。創建時の桁行5
間,梁行4間の二面庇建物から,諸国国分寺
の中で最大級の規模である金堂とほぼ同規模
中枢部区画施設の塀は,創建当初の掘立柱
塀から築地塀に造り直している。
中軸線上の金堂と講堂を南北に結ぶ堂間通
路遺構が発見されている。幅約 4.3mで,石
列で二重に区画された中央は石敷きで,両脇
は瓦敷きと設えを異にしている。
その築造時期は創建当初からあったか否か
は明らかではないが,講堂寄りでは,講堂再
建以後であることが判明している。
歴史文化フォーラム記録 6
佐藤
信
コーディネーターから
最新の武蔵国分寺跡の発掘成果を伺えた。講堂の再建,金堂と講堂の間の通路敷設,中
枢部区画施設の改築や七重塔の再建など,平安時代のはじめに大きな変化があった様子に
ついて,さまざまな新しい情報が得られた。
歴史文化フォーラム記録 7
基調講演
平安時代の仏堂空間
―金堂・講堂の性格の変質―
藤井
恵介
*
はじめに
ここ数年間の発掘調査の成果により,9世
紀段階での塔2の新たな発見と,講堂の全面
的な建替えと規模の拡大が明らかとなり,武
蔵国分寺史上,重要な発見があった。
建築史や美術史の立場から,このことをど
う理解するかが求められているが,難題であ
って,後ほど激論になるだろう。
課題となって来ている。
平安時代の仏教建築
大きな変革があるので,そのプロセスをみ
ておきたい。
まず,寺を考える際には,伽藍全体の問題
とその中の建築がどういう意味があるのかと
いうことが必要である。
有名な建物のうち今日は国分寺のことを取
というのも,奈良時代に出来上がった国分
り上げるので,塔・金堂・講堂を中心にみる。
寺は,平安時代に入ると衰退を迎え次第に廃
塔は仏舎利を安置する建物で,仏教の創始
絶してゆき,現在まで残る国分寺は全国的に
者であるブッダのシンボルとして,ほぼ安定
も少なく,また有力寺院もあまり多くない。
的な状態にある。金堂は,仏像(通常は本尊)
平安時代以降は次第に衰退するというのが一
を安置して仏法を示す。内部はおおむね浄土
般的理解でこれまでの主流の見方であった。
として荘厳されていて,そこでは本尊などを
ところが,武蔵国分寺だけでなく,他の国
供養し,法会を行う。講堂は,僧が仏法を講
分寺においても,近年の発掘調査成果で,9
じ(講経),布薩(月に2回,僧が集まり戒律
世紀の活発な建設活動と拡充の動きが明らか
の保持を確認する行事)を行う場で,僧侶集
になって来ているので,平安時代の国分寺を
団にとって重要な施設である。
どのように捉えなければならないかが新たな
「塔・金堂・講堂」と一口にいっても,建
*ふじい けいすけ
1953(昭和28)年 島根県生まれ。東京大学大学院工学系研究科卒業。
東京大学大学院工学系研究科教授。専門は日本建築史。 工学博士
国分寺市史跡武蔵国分寺跡整備計画策定委員会委員,国分寺市遺跡調査会武蔵国分寺跡査・研
究指導委員会委員,国分寺市文化財調査専門員などを務める
主な編著
「飛鳥・奈良時代の寺院建築」『カラー版日本建築様式史』(美術出版社),『法隆寺(Ⅱ)建築』(保育
社),『太田博太郎と語る日本建築の歴史と魅力』(編著),『新建築学大系〈2〉日本建築史』(以上,
彰国社)ほか多数
歴史文化フォーラム記録 8
物としての内実はかなり違う。
金堂がなければ,おそらく寺とは言えない。
大安寺が,後半に入ると,中ごろに国分寺が
企画され,東大寺の建設が始まる。多くの寺
塔は特殊な性格を持っている。講堂は僧侶集
院で,金堂の前庭を回廊で囲む興福寺式とい
団にとって必要なもので,寺に講堂がないと
う伽藍形式が普及した。
いうこともあり得ない。
三者がどのような兼ね合いで伽藍が出来て
くるのをみておく必要があるだろう。
もちろん,このほかの必須の施設としては,
最後に西大寺が建設されて,奈良時代の終
わりごろから新しい展開が生まれる。金堂が
二つ。手前の薬師金堂と後側の弥勒金堂で,
後ろ側の金堂は講堂と兼用される。
食堂・僧房・鐘楼・経蔵がある。僧房がなけ
少し詳しく検討してみよう。710 年に平城
れば僧が住めない。僧が食事をするのが食堂
京遷都が起きると,平城京に大きな寺院が出
で,しばしば講堂を兼用され,食堂講堂ある
現した。元興寺(法興寺が移転して改称),大
いは講堂食堂と呼ばれる。鐘楼は,僧が生活
安寺(大官大寺が移転して改称),薬師寺(薬
をし,行事を行うにあたり時間を共有するた
師寺が移転)と新しい興福寺である。興福寺
めに必要な時刻を知らせる重要な施設である。
は藤原氏の氏寺で,710 年代に平城京に移っ
僧が勉強するためには経蔵も必要である。
て来て,建設が開始された。興福寺は他と比
奈良時代の寺院の伽藍と性格
べると建設は非常に早くて,伽藍全体が 15
日本のなかで,寺院の伽藍がどのように出
来上がってくるかをみてゆく。
年~20 年ほどで完成した。他の寺は長い時間
がかかった。寺院の建設には随分と時間がか
8世紀を通じて全体にどうかというと,
かることがわかる。中ごろには国分寺や東大
日本の寺院は,6世紀の終わりごろに創立さ
寺の建設が企画された。しかし,7世紀初め
れた飛鳥寺が最も古い。7世紀に入り法隆寺
に建設が開始された大寺院のなかには,それ
や四天王寺などが出来上がる。それから 100
までに完成していない寺院もあった。
年後,710 年に平城京に遷都した。そこで,
巨大な寺院が建設された。
8世紀前半に,興福寺,薬師寺,元興寺,
最も古い寺院の一つである法隆寺の復元図
をみると,金堂と塔が並んでいて,回廊内の
聖なる場所にあり,後ろの講堂は僧房と連続
歴史文化フォーラム記録 9
したところにある。10 世紀の後半に講堂が再
れば良いだろう。
建された際に,閉鎖されていた回廊を講堂ま
奈良時代の後半になると,まず,国分寺建
で延ばしたために,現在みられるように,散
立の詔が出て,各国で国分寺の建設が始まり,
漫な,間延びした印象を受ける形になった。
奈良時代後半のある時期まで,30~40 年後く
平城京に興福寺が建設されたとき,金堂の
らいにはかなり出来上がっていたと推定され
両側に回廊が取り付いて,金堂前庭を囲むよ
ている。諸国国分寺における発掘調査の進展
うになった。塔は回廊の外側に出された。講
によるもので,前身建物があって国分寺に名
堂は,金堂の背後に,ほぼ同大もしくは大き
前を変えた例のあることや,出土瓦の調査や
目の建物となる。鐘楼など,この他の建物に
周辺の遺跡,瓦窯跡の調査などで様々なこと
ついては,ここでは立ち入らない。
が分かりつつある。
次に,毘盧遮那仏造顕の詔が出て,大寺院
が紫香楽宮で造り始められた。それは,平城
京への遷都を経て,東大寺として建設された。
全体の完成は,780 年頃に僧房の瓦を葺いた
というから,企画してから 40 年ほどかかって
最終段階に至ったと推定される。
この後,唐招提寺が出来る。鑑真が来日し
て,東大寺に関わった後に,唐招提寺を建て
て 760 年頃に唐招提寺に住んだ。現在唐招提
寺にある建物は,おおむね奈良時代の一番最
後の頃に出来上がった建築である。
このような経過を経て,西大寺が奈良時代
興福寺伽藍復元図
最後の大寺として建設された。東大寺が開眼
供養をした 10 年ほど後に発願された。この時,
次に大安寺が奈良時代の早い段階で建設が
興福寺伽藍復元図
開始された。中心伽藍は,興福寺と同じ形式
東大寺では光背の建設中だった。
で,後側に大きな講堂を配置する。塔は南の
良市役所に展示してある平城京全体模型の東
方にあり,塔の位置は,どこでも構わないよ
大寺を見るとよく判るが,最初の計画にない
うな印象を与える。
建築(大仏殿西側の戒壇院)があったり,僧
復元図にある興福寺と大安寺の建物は焼失
してしまって跡形もない状態で,発掘調査で
東大寺の復元図をみると,大変大きい。奈
房の瓦を葺いた時には,最初に建った大仏殿
は相当に傷んでいただろう。
少しずつ過去の形が分かりつつある。武蔵国
開眼 1250 年供養の写真を見ると,僧侶が参
分寺も同様で,基壇しか残っていないのが現
集し,相当な荘厳をしていたことが分かる。
状である。
唐招提寺は,伽藍構成は興福寺に倣い,金
奈良市役所に展示してある平城京模型をみ
堂の両側から回廊が出て前庭を取り囲む。後
ると,興福寺と大安寺における金堂,講堂,
方に講堂,食堂があって,塔は外側にあって,
塔などの様子が分かる。ただし,年表で分か
興福寺と同じ構成である。講堂も現存してい
るように,全て一時期に建っていた状況はあ
て,鎌倉時代の手が入っているが,規模は奈
りえない。当時の伽藍を実際に航空撮影をし
良時代と同じである。
たら,復元模型から 50%ぐらい割り引いてみ
歴史文化フォーラム記録 10
奈良時代の金堂を復元的に考える時には
唐招提寺の金堂が頼りになる。国分寺の規模
塔は,平城京の寺院と同様で,伽藍の内部
部のどこにあっても良いだろう。
もほぼこの程度なので,国分寺の金堂も類似
今,みてきた伽藍構成を模式図でみると,
の建築であったと推定できる。組物ももっと
東大寺では,金堂+講堂が中心であり,国分
も高級な三手先が使われている。金堂内部は,
寺ではまず七重塔が建設され,それに金堂+
8-12 世紀 伽藍の中心建築の変遷
仏像が中心に安置されていて,僧侶らが入る
講堂を設ける,という状態が確認できる。
場所はあまり広くない。
金堂・講堂の変質
講堂は,奈良時代の部材を使いながら,規
8世紀の終わりごろに西大寺が建設された
模をかえずに鎌倉時代に造り替えているが,
が,金堂が二つ設けられたのが特徴である。
空間的には奈良時代から大きく変わっていな
それは,従来の金堂と講堂の位置にあって,
い。仏像が安置されているが,その前方に僧
薬師仏が安置される薬師金堂と弥勒仏が安置
侶のための空間をかなり広く設定されていて,
される弥勒金堂である。薬師金堂と弥勒金堂
しかも高座(指導的な役割の僧の座席)が置
のどちらが前方にあったかは,議論があって
かれている。その両側は広い場所が確保され
結論が出ていない。ただし,後ろ側の金堂は,
ている。
9世紀に入ると,講堂として使われたことが
次に,諸国の国分寺をみる。全体的に,興
確認できる。
福寺型伽藍が多い。そうでない例もあって,
延暦 13 年(794)に平安京に遷都すると,
武蔵国分寺の場合は,回廊内に金堂,講堂,
国家の寺院として東寺と西寺の2か寺が置か
鐘楼,経蔵,僧房も入っていて異例である。
れた。平安京の内部では,寺院の建設は禁止
塔はいろいろな場所にある。武蔵国分寺で
されたので,東寺,西寺以外の寺院は設けら
も中心伽藍から離れている。位置は不安定で
れなかった。
確定していない状況である。
歴史文化フォーラム記録 11
伽藍復元図を見ると全く密教系の要素はな
い。平城京の時代に設けられた寺院と全く変
わらない。講堂に密教の仏像が入り,灌頂院
で密教の儀式を行う,程度で一部だけが密教
的な要素が入った。講堂の中には,密教彫像
群が置かれた。
唐招提寺の講堂では,堂内に仏像以外の広
い空間があり,全員の僧を集めて行事をする
ことが出来た。東寺では,大きな仏壇があっ
て仏像があるので,仏像に対する供養を行う
際には,仏壇を幕で仕切り,僧は前方に参集
にん のう きょうぼう
して,仁王 経 法 という儀式を行う。奈良時代
とは様変わりしつつあった。
このように,8世紀末から9世紀初め頃に
東寺伽藍復元図
なると少し様子が違って来るということがわ
かる。
次に9世紀末から 10 世紀初めの金堂・講堂
の変遷を見る。
東寺より後に,平安京周辺では,天皇に関
わる国家的な大きな寺としては,貞観寺,仁
和寺,醍醐寺が出来る。
いずれにおいても,この時期に大きな変化
が起きて,
「金堂+講堂」というセットがなく
らい どう
なるとともに,それぞれ,「大堂+礼堂 」(貞
観寺),
「本堂+礼堂」
(仁和寺,醍醐寺)とい
うセットに変わった。金堂の前方に礼堂が付
東寺講堂内部諸像配置図
東寺講堂内部諸像配置図
東寺は弘仁
10 年(819)に空海の管理下に
入って,講堂に密教仏が安置される。奈良時
代の金堂+講堂というセットから少し性格が
変わっていく。復元伽藍図をみると,興福寺
と同じで,背後に講堂,食堂があって奈良時
代風の伽藍である。塔は一つで,金堂東南に
置かれた。興味深いのは,西の塔の代わりに,
灌頂院という密教系の儀式を行う院が造られ
たことである。
くようになるのは,中小規模の寺でも同様で
ある。
これらの大寺院では,金堂や礼堂は土間で
あったが,小さな寺院では礼堂は板敷とされ
さん ろう
て,参籠 とか儀礼の場として機能していたよ
うである。
仁和寺の復元図を見ると,金堂と大きな礼
堂を含めた全体を「本堂」といい,醍醐寺で
は,釈迦堂とそれに対する礼堂があって全体
では「本堂」と呼んでいたようである。
背後に講堂が無いことから,もともと後ろ
歴史文化フォーラム記録 12
側にあった講堂が前に出て来て礼堂となった
と考えると理解しやすい。礼堂は,仏像が置
ほ っ しょ うじ
わり頃創建の法 勝寺 においても同様である。
かれない広い空間を持つ施設であるから,ど
金堂の前面に池を置くので,伽藍全体からみ
んな儀式でも設営することができた。
るとずいぶんな変化と言えようが,
「金堂+講
貞観寺,仁和寺,醍醐寺に次ぐランクの広
堂」というセットでみると,古典的な方法が
隆寺では,9世紀段階で,金堂の前に板敷の
復活していると言える。
礼堂が設けられた。唐招提寺金堂と同じ平面
武蔵国分寺で発見された新しい展開をどう考え
規模の金堂に,礼堂が付いていて,少し異様
るか?
な印象を与える。
武蔵国分寺の金堂は,全国的にみても最大
さらに小規模な寺院の状況として,当麻寺
をみてみる。平安時代の初めの頃に,金堂の
級である。奈良の唐招提寺や京都の東寺金堂
より大きい。
前に建物がくっ付いて,次第に整備され,平
講堂は,平安時代に,東西に1間ずつ足さ
安時代の終わりになると,外陣と内陣が一つ
れて,唐招提寺金堂より大きく,屋根は切妻
の建物の内部に構成されるようになった。大
造から入母屋造もしくは寄棟造へと改造され
きな寺院で起きたこととほぼ同じことが,小
た。
寺院でも起きていたと考えてよいだろう。
現存している,日本の中世寺院の本堂建築
は,すべてこうした空間をもっていて,平安
時代初めに始まった変化が,中世に引き継が
れていったのである。
講堂が大きくなった理由として,密教系の
五菩薩の造像が行われたこととの関連が可能
性として上げられる。
密教系の造像があったとすると,それらを
安置する場所がどこかということが課題とな
ただし,例外的なケースもある。10~12 世
紀に起きた変化である。
る。
密教系とすれば,ほぼ同じころの東寺の講
ほ う じょ うじ
11 世紀初めに藤原道長が造った法 成寺 で
は,奈良時代のやりかたである「金堂+講堂」
堂には大規模な彫像群があって,武蔵国分寺
の場合に当てはめることが出来るかもしれな
い。
と言う構成に,阿弥陀堂を加えた。11 世紀終
佐藤
信
コーディネーターから
平安時代における武蔵国分寺の造営の主体がどうであったのか,講堂の機能が具体的に
どのように変化していったのかについて,お話を伺え,それが五大菩薩像を作ったという
記録とどのように関係するか,というテーマまで与えていただいた。
歴史文化フォーラム記録 13
基調講演
武蔵国分寺と平安時代の仏像
副島
弘道
*
はじめに
ように,調和のとれた平明で穏やかな仏像が
講堂が再建された9世紀頃の武蔵国分寺を,
造られた。
仏像をとおして考えてみようというのが,こ
ところが,都が京都に遷った8世紀末から
こでのテーマである。はじめに奈良,平安時
10 世紀中頃までの時代,美術史でいう平安時
代の仏像の大まかな流れについてみておきた
代前期には,それまで多かった塑像や乾漆像,
い。
銅像にかわって,木彫像が仏像の中心となっ
奈良,平安時代の仏像
た。素材における大きな変換があったのと同
日本では飛鳥時代に仏像作りが始まったが,
それは奈良時代にはきわめて盛んになった。
興福寺の阿修羅像に代表されるように,奈
じように,仏像の見映えや作風も大きく変わ
じん ご
じ
や く し にょ らい りゅうぞう
った。京都府神 護寺 本尊の薬師 如来 立 像 は,
良時代の仏像は,整った姿を示し,一種の余
大変に体格の良い立派な仏像で,表情もいか
情をも感じさせるような,穏やかさと平明さ
めしく,その作風は奈良時代のものとは一線
を特色とし,いわば日本の仏像の古典である。
を画す。
ふ く う け ん ざ く かん のん ぼ さ つ ぞ う
東大寺法華堂本尊の不空羂索 観音 菩薩像 や同
し つ こん ごう しん ぞう
じ堂の日光・月光菩薩像,執 金剛 神像 などの
9世紀初めには空海というスーパースター
が登場し,留学先の唐から様々なものを持ち
帰った。とくに,真言宗という密教を新たに
日本に伝えたことは重要である。
*そえじま ひろみち
1952(昭和27)年 東京都生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修了。
文化庁,東京国立博物館,跡見学園女子大学勤務を経て現職,大正大学文学部歴史学科教授。専
門は日本彫刻史。
文化審議会専門委員,栃木県文化財保護審議会委員,神奈川県文化財護審議会委員,山口県文化
財保護審議会委員,東京都府中市文化財保護審議会委員,国分寺市文化財調査専門員などを務め
る。
主な編著
『関東の仏像』(大正大学出版会),『仏像に会いに行こう―美術の見かた 感じかた』(東京美術),
『運慶―その人と芸術(歴史文化ライブラリー)』(吉川弘文館),『日本彫刻史基礎資料集成―鎌
倉時代造像銘記篇』(共編)(中央公論美術出版),『十一面観音像・千手観音像 (日本の美術
311)』(至文堂) ほか多数
歴史文化フォーラム記録 14
京都府東寺の講堂(室町時代再建)に現在,
安置されている不動明王坐像(承和6年〈839〉)
豆半島と房総半島の南端部には,9世紀の仏
像が残っている。
は,我が国では最も早い時期の不動明王像で,
周りの4体の明王像とあわせて五大明王像と
呼ばれる。
ご う ざ ん ぜ みょうおう
た め ん た
こ の う ち の 降 三世 明 王 像 の よ う な 多面多
ひ
臂 像が密教の仏像の特色であり,この時代に
は複雑怪奇な姿の仏像が次々に作られるよう
になった。
平安時代後期になると,仏像の作風は平安
前期の個性的で,独特なあくの強いものから,
じょうちょう
天喜元年(1053)仏師 定 朝 作平等院鳳凰堂
阿弥陀如来像(壁の上には約 50 躯の雲中供養
木造伝蔵王権現立像
菩薩があらわされている)に代表される,平
東京都
明穏和なものへと大きく変わった。これを定
武蔵国分寺跡付近出土ゅつど
朝の名を冠して定朝様と呼ぶ。大陸からの影
響を大きく受けた唐様の文化から,和様彫刻
五社神社
数少ない武蔵国の9世紀の仏像のなかで,
への変化である。
とくにすぐれたものは,西多摩郡檜原村五社
武蔵国の仏像
神社に伝わる伝蔵王権現立像である。損傷部
武蔵国でも飛鳥時代
にすでに仏像があった。
7世紀末の調布市深
しゃかにょらいいぞう
大寺銅造釈迦如来倚像 ,
武蔵国分寺跡付近出土
の銅造観音菩薩立像な
どが知られ,8世紀奈
良時代の遺品としては,
りゅう げ
じ
横 浜 市 龍 華寺 脱 活 乾
漆造菩薩坐像などがあ
銅
造
観
音
菩
薩
立
像
武
蔵
国
分
寺
跡
付
近
出
土
る。
平安時代になると,東国で作られる仏像の
が多く両手も失われているが,太身の体躯で,
大変に堂々とした作風を示す。このような像
の存在をみれば,平安時代前期に武蔵国でも
仏像が作られていることがわかるが,遺品の
少なさからは,この地域で仏像の制作がとく
に盛んであったとはいえはなかったように思
う。
平安時代後期の 11,12 世紀になって,武蔵
国の仏像に新しい動きがあるかと思うと,そ
うでもない。
埼玉県越生町の如意輪堂木造如意輪観音像
は,その作風に 10 世紀末頃の仏像の特色が見
られるが,実は銘文があって,それより 200
年近くも後の 12 世紀半ばに作られているこ
数は増えてくるが,
とがわかる。このように,武蔵国ではこの時
武蔵国では平安時代前期9世紀の仏像は大変
代になっても平安時代前期の遺風をのこした
に少ない。武蔵国以外の,東国の相模,上野,
古風な仏像が依然として作られていた。
下野でもこの状況は同様である。もっとも伊
埼玉県越生町の如意輪堂木造如意輪観音像
歴史文化フォーラム記録 15
は,その作風に 10 世紀末頃の仏像の特色が見
武蔵国分寺薬師堂の本尊半丈六薬師如来像
られるが,実は銘文があって,それより 200
も,ほぼその頃,12 世紀後半に中央の影響を
年近くも後の 12 世紀半ばに作られているこ
受けて作られた像である。
とがわかる。このように,武蔵国ではこの時
都を離れた武蔵国の平安時代の仏像には,
代になっても平安時代前期の遺風をのこした
都の京都の仏像にくらべて,時代の流行に後
古風な仏像が依然として作られていた。
れた作風のものも少なくなかった。
この状況が変わり,都での流行が時をへだ
てずにこの武蔵国でも作られるようになるの
は,12 世紀末の平安時代末から鎌倉時代にか
けて,仏師運慶,快慶らが活躍する時代に
なってからである。
武蔵国分寺の9世紀の仏像
武蔵国分寺には,残念ながら,平安時代前
期の仏像は残っていない。しかし,発掘によ
って,大きな金堂,講堂などがあったことが
わかっている。
武蔵国分寺の奈良時代創建の金堂には,当
木造阿弥陀如来坐像
埼玉県
西光院
武蔵国分寺跡付近出土ゅつど
初は釈迦三尊像が置かれていたと思われる。
本尊釈迦如来坐像の左右に脇侍菩薩像が立ち,
本尊は,丈六の坐像であれば高さ約 240 ㎝,
このような状況のなかでも 12 世紀後半頃
台座と光背を含めた総高は約6mである。今
になると,当時の流行の先端である定朝様の
日,奈良県法隆寺大講堂の本尊丈六薬師如来
仏像も作られるようになった。埼玉県宮代町
坐像の総高は約7mであり,武蔵国分寺金堂
西光院阿弥陀三尊像(安元 2 年〈1176〉)など
の創建時のようすを想像するひとつの参考に
には,中央の定朝様の作風がこの地域の仏像
なろう。
にも影響を与えているようすが知られる。
その四隅には,持国天,増長天,広目天,
多聞天の四天王像がおそらく置かれていただ
ろう。このような仏像の配置は奈良時代以来
の伝統的な構成である。
もっとも,建立当初の仏像が災害などで失
われたとすれば,その後に作り直された仏像
は,その半分程度の大きさだったかもしれな
い。
丈六の三尊像が堂内に置かれているようす
を想像するもう一つの例として,京都府東寺
の金堂の仏像をあげておこう。創建時の仏像
こ うしょう
木造薬師如来坐像
東京都
国分寺
は失われたが,慶長8年(1603)仏師康 正 作
の薬師三尊像が今日伝わる。中尊の薬師如来
坐像は,台座と光背を含めると8mを超え,
歴史文化フォーラム記録 16
両側の脇侍,日光・月光菩薩立像は像高約2
たが,調べているうちにいくつか気づいたこ
mである。
とがあった。
奉造五大菩薩像
「五大菩薩」という言葉は,経典には例が
貞観 15 年(873)に,陸奥国が,武蔵国の
少なく,途中の語が省略されている可能性も
例に准じて五大菩薩像を造り国分寺に安置し
考えられる。そうすると「五」,「五大」と付
ようとした(『三代実録』)。
ご だいこくうぞう ぼ さ つ
この「五大菩薩像」について考えてみたい。
く名の仏像には,五 大虚空蔵 菩薩 ,五大明王,
東寺講堂の五菩薩(この五菩薩は特別な組み
許
之
安
置
国
分
寺
レ
二 ー
○
(
如 略
)
見 先
虎 是
狼
陸
望 奥
請 国
准 言
武 俘
蔵 夷
国 満
例 境
動
奉 事
造 叛
五 戻
大
菩 吏
薩 民
恐
像 懼
レ
二
レ
○
一
○
一
○
粛
蛮
夷
之
野
心
二
一
○
安
吏
民
之
怖
意
二
一
○
至
是
レ
○
二
レ
(
貞
観
十
五
年
十
二
月
七
日
条
)
合わせで,これを五菩薩と呼ぶ例は少ない),
三
代
実
録
巻
廿
四
ご だい りき ぼ さ つ
五智如来,五方菩薩,五 大力 菩薩 などの可能
性が考えられる。
このなかで,陸奥国が蝦夷の反乱をふせぐ
ために作ろうとした尊像としてもっともふさ
わしいものは,五大力菩薩である。
にん のう は ん に ゃ は ら み つ
この五大力菩薩は,旧訳 仁王 般若波 羅 蜜
きょう
○
一
経 (大正蔵 8-245)の中に説かれる尊像であ
○
レ
る。そこには,仁王(徳の高い国王)がこの
二
二
経を読み,仏法僧の三宝を敬えば,釈迦は五
一
大力菩薩を遣わしてその国を護ると記される。
○
こ んご う く
む
い じゅうり き く
一
○
○
ら いで ん く
む りょうり き く
雷 電 吼 菩薩・無 量 力 吼 菩薩の五体である。
その大意は,
ふ
りゅうお う く
金 剛 吼 菩薩・ 竜 王 吼 菩薩・無 畏 十 力 吼 菩薩・
い
え み し
多くの俘 夷 (律令政府に降伏した蝦夷 )
この経を国王が受持すれば,七つの災難を
救い,七つの幸福を与えるという。七つの災
が叛こうとしているために,人々は大
難というのは,例えば,日蝕がおこって太陽
いにそれをおそれている。そのため,
が消えるとか,大水,大火,穀物の不作,兵
武蔵国の例に准じて,「五大菩薩像」
乱(戦争)などである。それら七難が起こっ
を造り,(陸奥)国分寺に安置し,蝦
た時に,その災難を即滅し,七福を生むとい
夷の野心をただし,人々を安心させた
う。
い。朝廷はこの陸奥国の願いを許す。
というものである。
ここにみられる「五大菩薩像」は,彫像,
この経典は,飛鳥時代の終わり頃からさか
にんのうえ
んに読誦され,この経を用いた法会を「仁王会 」
つまり立体の仏像と考えられることが多く,
と呼ぶ。仁王会は,すでに奈良時代にも行わ
そのために本日のフォーラムに,彫刻史を専
れ,平安時代前期には,畿内の十五大寺をは
攻する私が呼ばれることになったのだろう。
じめ諸国の国分寺における恒例の行事として,
そのつもりで,この報告の内容を考えはじめ
春秋二季仁王会,天皇の代替わりの一代一度
歴史文化フォーラム記録 17
仁王会,および臨時仁王会が定式化された。
これは,密教との直接の関係はあまりないよ
その本尊である五大力菩薩像は,すでに奈
うである。また,貞観8年(866)の応天門の
良時代には作られていたことが正倉院文書か
変に際して,東寺と西寺並びに五畿七道で仁
ら分かる。
王般若経を転読させているが,これも仁王経
この仁王般若波羅蜜経(「旧訳経」という)
は,空海よりずっと前の時代の4世紀頃の西
く ま ら じ ゅ う
域僧である鳩摩羅什 が漢訳したものであり,
ふ く う
これに対して唐時代の不空 (空海の師)が
の功徳で災いを消そうとするものである(『三
代実録』)。
貞観9年(867),災いを除くために,諸国
に金剛般若経などを読ませ,七大寺に仁王般
若経の講演を命じているなかで,
「 使五大菩薩
大願能彰」云々との記事がある(『三代実録』)。
訳したのが,仁王護国般若波羅蜜多経(新訳
この五大菩薩とは,仁王般若経のなかに説か
経)である。
れる五大力菩薩の略称とみて間違いないだろ
く ま ら じ ゅ う
鳩摩羅什 (クマラジーヴァ)は訳経の名手
うと。
このように,平安時代前期に諸国国分寺で
であり,その翻訳はわかりやすく,短く的確
は,仁王経を読む仁王会という法会が何度も
だといわれ,それに対して,不空の翻訳はド
行われていることがわかる。
ラマチックで,面白みがある。
五大力菩薩像の姿
この不空による新訳経では,旧訳経の五大
力菩薩像である金剛吼菩薩,無畏十力吼菩薩
こん ごうし ゅ
こん ごう ほ う
こん ごう や く
などの名が,金剛手 菩薩・金剛 宝 菩薩・金剛 夜
しゃ
こ ん ご う は ら みっ た
又 菩薩・金剛波 羅 蜜 多 菩薩という密教色のつ
よい名に変わっている。そしてさらに,不空
す ほ う
が訳した仁王経による修法 の決まりなどを説
ぎ
き
く儀軌 の中では,不動明王を中心とする五大
明王像と結びついてくる。
仁王会の歴史をたどってみよう。飛鳥時代
の仁王会のようすを伝えた史料に,僧が座る
高座を 100 作って仁王般若経を読む(『日本書
紀』),とあって,この時代から法会の規模が
大きかったことがわかる。
奈良時代の仁王会関連の史料は少ないが,
えき れい
平安時代前期の承和 10 年(843)には,疫癘(疫
木造五大力菩薩像
茨城県
五大力堂(吉祥院)
武蔵国分寺跡付近出土ゅつど
さて,貞観 15 年(873)に,陸奥国が,武
病)が流行したので,毎月8日に,十五大寺
蔵国の例に准じて造り,国分寺に安置しよう
と七道諸国の国分二寺と定額寺で,仁王般若
とした「五大菩薩像」すなわち五大力菩薩像
経を講じて法会を行うとある(『続日本後紀』)。
歴史文化フォーラム記録 18
とは,どのような姿のものだったのだろうか。
五大力菩薩像の古代,中世における彫刻の
遺品は2例ほど知られている。
東堂に胎蔵界曼荼羅をそれぞれ「安置」した,
と記す例がある(『三代実録』)。
このように,陸奥国分寺でつくられた五大
一つは,10 年ほど前に発見された茨城県桜
菩薩像は,史料のなかの言葉からだけでは,
川市五大力堂の木造五大力菩薩像である,銘
彫像かどうかほとんど判断できなくなってく
文から治承2年(1178)頃の造像とわかる(津
る。おそらく,貞観 15 年(873)に許されて,
田徹英氏「五大力堂藏
陸奥国が武蔵国の例によってつくった五大力
五大力菩薩像」〈『國
華』1326 号,2006 年〉)。
菩薩像は,この時代のさかんな仁王会のよう
もう一つは奈良県秋篠寺の木造五大力菩薩
すなどから考えても,仁王会の本尊として堂
像であり,そのうちの1体は平安時代後期作,
内に懸けられる絵画だろうとほぼ推定できる
のこり4体は室町時代の作である。
のではなかろうか。断定はできないが,80%
これらの五大力菩薩彫像を解説する論文な
どでは,今,問題としている貞観 15 年(873)
の史料にある陸奥国分寺の五大菩薩像も,彫
像だと考えられている。
~90%,絵画として間違いないだろうと考え
ている。
奈良時代の仁王会に使われた五大力菩薩の
画像は,正倉院文書にそれを包んだ布の大き
五大力菩薩を記す平安時代の史料は他にも
さが記されていて,大きな絵だったことがわ
いくつかある。たとえば『山槐記』には治承
かる。平安時代後期の永承7年(1052)にお
2年(1178)に五大力像新仏があったことが
こなわれた大極殿仁王会の本尊も丈六の画像
記されるが,それが彫像なのか絵画なのかは
だったとある(『左経記』)。丈六は 4.8mだか
不明である。
ら,この会場のスクリーン本体の高さほどと
実は五大力菩薩像の作例には,圧倒的に絵
画作品が多いことが知られている(泉武夫氏
「五大力畫像をめぐる基盤的考察―試論―」
〈『國華』1310 号,2004 年〉)。
『三代実録』の陸奥国分寺五大菩薩像の記
事には,
「奉造」および「安置」と書かれてい
なり,それが堂内に5枚吊り下げられること
になる。
おそらく,このような仁王会の本尊である
五大力菩薩像の画像を,陸奥国では武蔵国の
例に倣って,蝦夷の反乱を防ぎ,人々が安心
するために造ろうとしたのだろう。
た。そのことから,
「五大菩薩像」は彫像だろ
国家的な法会である仁王会の本尊として,
うと考えられているが,このことを検討して
国分寺に造る像であるからこそ,陸奥国はわ
みよう。
ざわざ朝廷に申請し,それが『三代実録』に
「奉造」という言葉は,立体である彫刻(彫
記されたのだろう。
像)にしか使われないのかというと,六国史
のなかに見られるこの言葉の用例 10 数例の
なかの,少なくとも2例は,絵画に対して使
われている。たとえば天平宝字4年(760),
五大力菩薩画像
それでは,この五大力菩薩画像とはどうい
う絵画だっただろうか。
諸国に阿弥陀浄土画像を造らせて国分寺で礼
最近,サントリー美術館で開催された高野
拝させたことが,
『続日本紀』には「奉造阿弥
山金剛峯寺の特別展にも出陳された,高野山
陀浄土画像」と記される。
有志八幡講蔵五大力菩薩の画像は,激しく忿
「安置」という言葉も,かならずしも彫像
にかぎらず使われている。貞観 16 年(874)
怒した明王のような姿で,高さが約 3.5m,
5幅のうちの2幅は失われている。
の記事には,貞観寺の西堂に金剛界曼荼羅を,
歴史文化フォーラム記録 19
すでに述べたように,仁王会を説く経には,
旧訳経と新訳経がある。その本尊五大力菩薩
五
大
力
菩
薩
像
の
う
ち
竜
王
吼
菩
薩
和
歌
山
県
有
志
八
幡
講
は新訳経では忿怒相と記されるが,旧訳経に
よる像が忿怒相であるかどうかは,よくわか
っていない。
武蔵国分寺の五大力菩薩画像が忿怒相か,
優しい菩薩相であったかはよくわからないが,
後に五大明王像と結びつく,忿怒相の五大力
菩薩が平安時代前期には造られていた可能性
があるから,武蔵国分寺像もあるいはそうだ
ったかもしれない。
仁王会と大幡
仁王般若波羅蜜経(旧訳経)をみると,仁
王会について,武蔵国分寺の考察にも関係す
る興味深い文章が書かれている。そこには,
「仁王経を読む時には,長さ九丈(約 27m)
の九色幡,高さ二丈(約6m)の九色華,高
さ5丈(約 15m)の千支燈を立てて,その前
に仁王経を置き,これによって五大力菩薩が
ここで,このような忿怒形(怒った姿)の
現れて,功徳が得られる(大意)」とある。
五大力菩薩画像が陸奥国,あるいは武蔵国分
また,平安時代後期,長承元年(1132)に
寺に造られていたのかどうかが問題となる。
行われた京都法勝寺の如法仁王会にでは,
「金
東寺観智院旧蔵(ニューヨーク公立図書館
堂中央間に丈六五大力絵像を掛け,堂中に高
蔵)の仁王経法曼荼羅にある五大力像は,忿
座を立てて,その前に百仏像を懸け,仁王経
怒形ではなく通常の菩薩相を示している。
各一部を置く。南庭に九丈(27m)の五色幡,
このような形の五大力菩薩もありうるから,
武蔵国分寺にあった五大力菩薩像が和歌山県
西に九色の花木,東に九重の輪燈を立てる」
(『中右記』)と書かれている。
高野山有志八幡講蔵の五大力画像のような,
この記事のとおりに,武蔵国分寺で仁王会
おどろおどろしい忿怒形像であったかどうか
が行われたかどうかはわからないが,武蔵国
は,確言できない。
分寺金堂の南方には巨大な一本柱穴跡が発掘
高野山北室院蔵の五大力菩薩像は,五尊を
によって発見され,そこには 10mを超える長
まとめてあらわしたもので縦約 2.6mである。
さの幡を掲げられたかと考えられている。お
また,白描図像の五大力菩薩像にも大きなも
そらく,幡を懸ける装置が武蔵国分寺金堂の
のがあり,高野山普賢院蔵のものは,5図と
前方にあって,仁王会の催行において立てら
もそれぞれ縦3m以上ある。
れたのだろう。
空海は天長2年(825)に仁王会のための呪
平安時代後期の法勝寺では,これをはるか
願文をつくったが,その文章からは,空海は,
に超える長さ 30m近い幡が懸けられ,昭和 55
五大力菩薩をおとなしい姿ではなく,怒った
年の東大寺大仏殿落慶法要においても長大な
忿怒相の姿として考えていたようにもみられ
幡が下げられていた。
るが,はっきりとはしない(『日本後紀』)。
歴史文化フォーラム記録 20
その出来栄えが違えば,堂内の雰囲気は大き
く変わる。
仏像は,わかりやすく言えば,人々の信仰
を集めるための,いわば人寄せのためのもの
である。仏教の深遠な教えを分かりやすく伝
えるための偶像として,仏師は,立派な仏像
をつくり,仏画を描く。
ここで「立派」というのは,量とともに,
質を含めたことばである。その仏像を拝して
荘厳さにうたれ,あるいは彼岸にうっとりと
心をはせる。そのような感情を人にもたらす
ことが,すぐれた仏像や仏画の本当の価値で
ある。
武蔵国分寺にあった五大力菩薩画像が,当
時の都である京都で作られた絵画に比べて,
どのように違った雰囲気を持つものであった
か,それを考えることも今後に残された課題
幡と幢竿(模式図)
おわりに
の一つである。残念なことに,武蔵国分寺の
9世紀の仏像,絵画は残っていないために,
これ以上のことは今の段階ではわからない。
ここでは,武蔵国分寺の五大力菩薩像が仁
しかし,古代寺院とその仏像と仏画,ひいて
王会の本尊であり,大型の画像だったらしい
は堂内のようすなどを考えようとするときに,
ことについて,ある程度の推測がえられた。
大きさだけではなく,その質についても考え
仏像の種類と大きさがわかれば,寺の堂内
てみよう,という視点があることも知ってい
のようすはあるていどわかる。しかし,造ら
ただければ幸いである。つくられた仏像,仏
れた仏像には,種類と大きさ以外にも,作風
画をとおして,各地各様の文化の本音がわか
と出来栄えという大切な要素がある。同じ大
ることもあるのである。
きさの堂に同じ名前の仏像が置かれていても
佐藤
信
コーディネーターから
大変に興味深い話を伺えた。
古代において,画像や刺繍の仏像も本尊になりうるものであるが,武蔵国分寺の堂内に
置かれた五大菩薩像が彫刻の仏像であったのか,絵画のものであったのか,それにより,
堂のあり方が変わって来る。
この後の話題になると思う。
以上,前半において,平安時代における武蔵国分寺の,考古学上でのあり方,建築史上
でのあり方,美術史上でのあり方と,興味深い話しが続けて伺えた。
歴史文化フォーラム記録 21
討論
(司会) 佐藤
藤井
副島
中道
信
恵介
弘道
誠
東京大学大学院教授(古代史)
東京大学大学院教授(建築史)
大正大学教授(彫刻史)
ふるさと文化財課学芸員(考古学)
佐藤 最初に,平安時代になって講堂が間
口五間の切妻造から立派な間口七間の寄棟造
もしくは入母屋造建物へと拡充して再建され
たこと,七重塔が再建されたこと,講堂の間
の通路が敷設されたこと,中枢部区画施設が
掘立柱塀から築地塀へと改造されたことが確
認された。
9世紀半ばから後半にかけてのこうした大
佐藤
それでは,これから約 1 時間 20 分
ほど討議をさせていただく。
きな変化がどういう主体で行われたか,とい
うことを考えてみたい。
前半で,大変に興味深い話があり,あらた
七重塔については,焼失後の再建を地方豪
めて,武蔵国分寺はいろいろなテーマを持っ
族である前男衾郡大領壬生吉志福正が願い出
ていると思った。
て,中央政府より認められたという記録が正
そこで,後半の討議は,四つほどのコーナ
ーに分けて進めたい。
史に残っている。
新たに発見された塔2の版築による基礎地
一つ目は,9世紀における武蔵国分寺の講
業は,深く緻密で立派な構造をしており,創
堂の変化などに関わる造営や仁王会など仏教
建時期には普通の仕事であったが,9世紀の
法会の主体がどういうものか,ということを
地方国分寺を衰退した時代だとみると,とて
取り上げたい。
も考えられない仕事である。
二つ目は,記録にある「五大菩薩像」は彫
しかも,前郡司が負担する仕事として行わ
刻ではなくて画像であるとの有力な意見が副
れた可能性が極めて高いとすると,9世紀に
島先生から出たが,このことと講堂の改築と
武蔵の地方豪族は,それだけ立派な技術を持
の関係がどういうものか,ということを取り
っていて,天平年間の創建時期に比べて,勝
上げたい。
るとも劣らない立派な事業をしていることを
三つ目は,その五大菩薩像が仁王会と関わ
意味する。
るということで,仁王会など仏教法会の仏教
ただし,ほぼ同じ時期に行われた講堂や区
史上の変化がどういうものか,ということを
画施設などが立派になったことなどが明らか
取り上げたい。
になったので,私は,これらの整備の方は,
四つ目は,最後に,全体を通しての課題を
先生方に指摘していただきたい。
武蔵国司が主導して行い,塔についても,前
郡司が負担するが,全体としては,国司の主
歴史文化フォーラム記録 22
導であった可能性も視野に入れて良いのでは
いる。従い,国司の管理のもとに瓦生産が行
ないかと思い直したところである。
われたものと考えられる。
中道さんに伺いたい。この点を含めて,造
佐藤 実際には使われなかったかもしれな
営の主体について,考古学的にはどう考えら
い塔2と,実際 に 再建された塔1のあり方に
れるか?
関わってくる問題で,課題として残っている
例えば,瓦作りの体制が,9世紀にあって
ということになる。
も国司主体なのかどうか?あるいは,塔の再
藤井先生は,塔2の基礎地業(版築)をご
建が地方豪族が主体であったことをどう考え
覧になっていると思うが,技術的な問題につ
たら良いか?
いて,どのようにお考えか?
中道 武蔵国分寺跡から出土する郡名の文
藤井 塔2の発掘で出た版築は,ものすご
字瓦は,行政単位ごとの負担を示すものと考
く出来が良い。大体,版築の出来は,奈良時
えられている。9世紀中頃の塔再建に関わる
代の発掘例を基準として考えるが,710 年以
ところでは,全郡ではないが,複数の郡名瓦
降になると,出来の悪い版築での造営が行わ
が出土から瓦作りの体制がみえており,ある
れるようになる。7世紀段階には非常に良い
程度,国司主導による体制であったと考えて
版築があり,これを知っていると,9世紀段
いる。
階で,どうして,これほどの版築がなされた
佐藤
先ほど,塔2において「造塔」の模
骨文字瓦が出土すると紹介されたが,この時
期の瓦作りの体制は,これを含めて国司主導
とみて良いのか?
中道 難しい問題であるが,そこにおいて
も国司の関与があったと考えている。
かが不思議なくらいに,とても出来の良い版
築で驚いた。
考え方を変えなければいけないのかもしれ
ないが,奈良というのはすごく良く出来て,
とてもピカピカで,素晴らしい都市があった,
素晴らしい建築があったと考えるのが普通だ
佐藤 前男衾郡司と国司の関与がどの程度
と思う。それから以降は,だんだん壊れてい
であったかということだが,講堂の再建につ
くという一種の下降史観のようなイメージが
いては,どのように考えられるか。やはり,
ある。特に,平城京から平安京に移り,奈良
国司の主導とみてよいか?
はぼろぼろになっていくというイメージがあ
中道 塔2については,
「造塔」の模骨文字
る。このように,8世紀というのは素晴らし
瓦や他では出土しない鐙瓦などの一群が一定
いい時代であったというイメージを割と持ち,
量みられるが,塔1の再建には,複数の郡名
古代史家は,以降,古代国家が没落していく
瓦が伴う。この塔1の再建に伴う瓦群と講堂
と考えるらしい。が,中世史の専門家が必ず
の再建や金堂の補修に伴う瓦群は,共通して
いうが,古代から中世に向かって,経済力は
歴史文化フォーラム記録 23
当然に上昇し,いろいろな意味で世の中は進
言いにくいことではある。にもかかわらず,
歩していくとされる。その考えで9世紀の国
それを取り次いでいることは,講堂とか中枢
分寺を捉えると,より経済力は上がって,手
部区画施設など中心部の整備等の全体は国司
間をかければ,8世紀よりも充実した良い仕
がきちんと対応するなかで,一部分,七重塔
事が出来る,ということがあり得ると思う。
だけお願いしたいということかと,考えられ
武蔵国分寺の講堂にしても,100 年経てば
るかもしれない。
建物は部分的に傷んでくるわけで,在地の経
ただ,やはり 60 メートルの高さの七重塔の
済力が上がっていると想定すれば,改築が行
再建は目立つので,それを前郡司に任せるの
われる時に,以前より良くなる直し方を想定
は,9世紀における武蔵の地方豪族の力の大
して良いのかもしれない。ただし,全国的な
きさを示しているものと思う。
ことと並べて検討する必要がある。
それを含めて,単に塔が焼けただけでなく,
佐藤 古代史の世界でも,以前は,律令国
講堂も修理が必要な時期を迎えて,大きな造
家が形成された時が最盛期で,その後,例え
営をしなければならないことになり,これが
ば,三世一身法とか,墾田永年私財法で,律
武蔵国分寺全体に関わることで,仏像をどの
令国家がすぐ崩れていくというイメージがあ
ように変え,あるいは法会をなんのためにど
ったが,現在は,高校の教科書においても,
のように行うかということとリンクして,大
墾田永年私財法により律令国家がさらに充実
きな課題になったのではないかと思う。
していくという記述になっており,奈良時代
の貴族よりは平安時代の貴族の方が良い生活
をしているというようにえがかれるようにな
って来ている。
佐藤 そこで,早速,二つ目のコーナーに
入る。
地方においても,国府や郡家に置かれた正
国史によれば,貞観 15 年(873)に,陸奥
倉院,すなわち国家的な倉庫群の建物なども
国が「武蔵国分寺の例のように五大菩薩像を
8世紀の後半から9世紀になると,もとの掘
作り国分寺に安置したい」と願い出て許され
立柱建物が立派な礎石建になってくることが
たとある。
発掘調査成果として指摘されている。
武蔵国分寺の9世紀における整備という問
これにより,この以前に,武蔵国分寺にお
いて,五大菩薩像を作って安置していた筈で,
題についても,そうした動きのなかで理解す
この変化が,講堂の改築とリンクするかもし
べきではないかと考える。
れないということである。
国分寺は国有財産であるので,建物の修理
史料に「五大菩薩像」と出てくるが,副島
が必要になった場合は,その時の国司がすぐ
先生の説では「五大力菩薩」だと,そしてそ
に対応するのが律令制の基本である。にもか
れは,立体的な彫刻の例は限られたものしか
かわらず,七重塔の焼失後 10 年ほど放置され
なく,画像としての仏像である可能性が極め
た後に,前の郡司の力で再建するのがよろし
て高いということであった。これが金堂に置
いかという申請を,国司が都に上申したこと
かれたのか,講堂に置かれたのかが問題とな
は,ある意味では,国司としてはとても恥ず
ってくる。
かしいことの筈である。自分が行うべきこと
まずは,副島先生より,今一度,
『日本三代
を,前郡司が言ってくれているから,民間活
実録』の貞観 15 年(873)条に出てくる,五
用で良いかということは,今まで,前任国司
大菩薩像が五大力菩薩であって,描かれた画
や当任国司が手を抜いてきたことになるので,
像であろうということについてお話を伺いた
歴史文化フォーラム記録 24
い。
同じように「五大力菩薩像」であろうという
のが私の考えである。
五仏,五菩薩,五大明王,という京都東寺
講堂諸尊像の存在が初めは頭にあって,
「 五大
菩薩」は金剛界の菩薩かと思ったが,それを
証明する史料はなかなか出てこなくて,逆に,
「五大力菩薩」らしいという史料が次々と出
てきた次第である。
佐藤 今,話があった空海が始めた京都の
東寺講堂の仏像群というのが,空海のえがい
副島 何度話しても賛成が得られないかも
しれないが,まず,五大菩薩像という名前は,
お経にはなかなか出てこない。後の時代のお
経に,普賢菩薩に関係する像として,五大菩
薩の語があるが,実際の遺品はほとんど知ら
れない。
先ほどは,自分が勉強した順に話したが,
もう少しわかりやすく言うと,
『三代実録』の
なかに,五大菩薩という言葉は,他に2箇あ
る。
一つは,元慶寺(元慶年間に京都に建てら
れた寺院)のことになる。この寺で受戒した
僧は比叡山に行って修行し,本寺に帰ってき
た後に,五大菩薩の前で仁王般若経を転読す
るとの記事がある(元慶元年十二月九日条)。
ここでは,五大菩薩が仁王経の転読という
こととセットになって出てくる。
もう一つは,貞観九年十一月二十九日条で
ある。
「最近,天災がおこったり,悪いことが
おこる。加えて来年の子年には,水旱疾疫の
仁
王
般
若
経
一
○
真
言
業
者
三
時
念
持
不
断
誓
護
○
○
上
○
従
之
○
髪
之
度
於
延
暦
寺
登
壇
受
菩
薩
大
乗
戒
准
天
台
宗
一
一
○
二
一
○
二
○
受
戒
之
後
更
帰
本
寺
○
二
一
○
於
五
大
菩
薩
前
二
おそれがあり,これを防ぐには,般若の力を
借りるのが一番良い。金剛般若経と摩訶般若
経を読み,また七大寺に命じて仁王般若経を
読むと,五大菩薩が力を発揮して国を平和に
してくれる」とあって,ここでも,仁王経と
五大菩薩がセットになっていて,そこでの五
大菩薩とは,五大力菩薩のことである可能性
が強い。
おそらく,貞観 15 年に陸奥国が述べた「五
大菩薩像」も,『三代実録』の用例からみて,
二
一
○
毎
年
十
二
月
上
旬
被
遣
勅
使
○
二
○
対
読
課
試
通
五
已
上
以
為
及
第
即
当
○
○
二
一
○
一
下
○
二 ー
一
○
望
請
准
彼
寺
例
○
二
一
○
被
度
年
分
レ
二
一
○
遠
伝
二
宗
之
真
教
二
一
○
方
今
皇
基
肈
開
品
物
荷
慶
道
之
将
隆
幸
遇
此
時
○
レ
○
レ
○
二
一
○
謹
検
天
安
三
年
貞
観
元
年
格
二
永
為
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国
之
鎮
護 嘉
其 祥
試 安
業 祥
経 両
典 寺
等 各
一 賜
○
二
一
○
○
令
止
観
業
者
転
読
年
分
度
三
人
今
上
降
誕
之
日
一
○
一
○
○
○
落
二
新
成
夫
増
宝
祚
於
永
代
者
真
言
之
力
消
禍
胎
於
未
萠
者
止
観
之
道
也
是
以
奉
祈
○
二
一
○
和
尚
位
遍
照
上
表
言
中
宮
有
身
之
日
○
レ
○
○
二
一
○
○
レ
二
仙
齢
一
○
頼
此
冥
助
二
一
○
今
上
降
誕
之
時
遍
照
発
心
誓
願
草
創
此
寺
○
○
二 ー
一
○
自
後
堂
宇
漸
構
仏
像
○
詔
以
元
慶
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為
定
額
寺
二
一
一
○
度
年
分
三
人
(
元
慶
元
年
十
二
月
九
日
条
)
三
代
実
録
巻
三
十
二
二
一
○
大
悲
胎
蔵
業
一
人
金
剛
頂
業
一
人
摩
訶
止
観
業
一
人
先
是
法
眼
○
○
○
レ
○
歴史文化フォーラム記録 25
迩 大
願
俾 能
知 彰
朕 八
意 部
鬼
神
新
妖
自
断
致
真
福
於
冥
助
一
○
レ
○
二
一
○
○
二
内
外
文
武
百
官
人
等
乃
至
庶
人
百
姓
読
経
之
頃
至
心
帰
命
不
食
薫
血
○
○
綱
及
別
当
三
綱
五
師
等
一
○
相
共
勤
加
検
察
二
一
○
但
若
来
鎮
若
去
禍
胎
応
於
物
未
隨
萠
機
。
歳
苟
稔 慎 尤
時 忌
至
和 殺
誠
人 生
何
平
国 庶 通
富 使 霊
五
普 大 感
告 菩 然
遐 薩 則
一
○
二
○
○
金
剛
般
若
及
摩
訶
般
若
○
一
○
又
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七
大
寺
二
一
○
講
演
仁
王
般
若
二 ー
一
○
レ
レ
二
一
レ
○
一
○
二
二
○
一
○
一
○
二
下
上
○
一
○
二
○
以
内
舎
人
為
使
勾
当
其
事
二
一
レ
○
二 ー
一
○
与
専
寺
僧
二
于
護
持
国
界
則
般
若
妙
典
為
其
先
鳴
者
也
冝
思
切
納
隍
日
夜
用
心
罔
攸
勅
曰
向
者
天
文
告
変
地
理
呈
妖
謀
亀
謀
筮
誠
匪
国
慶
レ
一
下
レ
二 ー
一
○
消
却
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難
中 ー
上
○
○
二
一
○
告
天
下
諸
国
二
一
○
三
日
齋
潔
令
○
上
レ
奉
読
二
疾
疫
之
灾
一
○
朕
毎
レ
聞
二
此
事
一
○
二
○
レ
○
レ
○
レ
○
レ
(
貞
観
九
年
十
一
月
二
十
九
日
条
)
三
代
実
録
巻
十
四
○
レ
レ
に密教的な構成である。
しかし,両側には梵天・帝釈天像が,四隅
には四天王像が置かれ,その部分では奈良時
代以来の定式に則っている。東寺講堂の密教
諸尊の尊像構成は,仁王経と金剛頂経の二つ
をミックスして,空海が独自に考えたもので
ある。空海は新訳経を唐から持ち帰ったが,
仁王経は決して密教独自の経典ではない。仁
王経というのは,先に紹介したように,徳の
高い国王が奉じると国が平和になるという経
であって,旧訳仁王経の大意はそのままに,
それを密教的にアレンジしたのが新訳経であ
り,仁王経=密教というのは,少し違うのか
と思っている。
○
二
○
不 加
至 之
如 陰
聞 陽
書
如
説
来
救 來
年
世 戊
正 子
教 当
過
有
恒
水
至 旱
佐藤 確かに,仁王経は護国経典といわれ
て,奈良時代から仁王会も行われていて,空
海のもたらした新訳経が使われるようになっ
て,それが密教の広まりとオーバーラップす
るというイメージが私どもには,今まで強か
○
○
○
った。
しかし,副島先生の話では,仁王経も旧訳・
新訳の別なく,継続の面があるのではないか
○
ということで,このことは,次のコーナーで
レ
話したいと思っていたが,最澄や空海がもた
○
○
らした平安仏教の大きな動きのなかで,仏像,
レ
経典,法会をどのように理解するかという問
二
題である。寺で行われる法会自体にいろいろ
レ
○
下
た密教的な仏像群の世界であり,レジュメ4
頁に記したように,中央に五仏があり,西側
に五大明王像,東側に五大菩薩像がある。一
般的には,これまで,こうした仏像の影響が
東国にも及んだという意識があったと思うが,
今の話では,そうでない形のものがあるとい
うこと。
副島 空海の教えはなかなかわかりにくい。
東寺において,真言宗僧以外の雑住を許さず,
密教化が進んだ。そして,講堂に作られた仏
像群は,五大明王に象徴されるように,大変
な意味があって,社会的に構成されていると
いうことと考える。
藤井 副島先生に伺いたい。
陸奥国が,五大菩薩像を作る時に,なぜ武
蔵国の五大菩薩像を真似するのか。武蔵国の
五大菩薩像には特別の意味を与えていたの
か?
副島 陸奥国が言っているのは,蝦夷への
対策のこと。9世紀半ばには武蔵国にも検非
違使が置かれるなど,蝦夷などの賊の叛乱を
抑える動きがあった。おそらくそのような状
況のなかで武蔵国に五大力菩薩が造られ,同
じような状況にあった陸奥国が五大力菩薩を
歴史文化フォーラム記録 26
造ることを願いでたのだろう。
なものがあったのかもしれない。刺繍による
佐藤 藤井先生に伺いたい。
繍帳のようなものならば,ヨーロッパでタピ
描かれた画像としての五大菩薩像と,これ
ストリーを懸けるように,壁に懸けるのだろ
まで考えられてきた彫刻としての五大菩薩像
とで,講堂の空間のあり方はどのように変わ
るか。大きな画像や立体的な彫刻像の場合の
具体的な配置についてはいかがか?
藤井 彫刻の場合は,東寺講堂のように,
う。
藤井
懸けるのは比較的に簡単で,上の方
に横材をわたせば良い。東寺の灌頂院は普段
ご しち にち み す ほ う
空っぽで仏様はないが,後 七日 御修法 という
堂内の内部いっぱいに仏壇を作り,あまり大
修法をする時に,全ての道具を外から持ち込
きくない本尊仏と五体の菩薩像を並べること
で行う。両界曼荼羅も懸けるし,五大明王も
となり,かなり大きな仏壇が必要になってく
懸ける。絵を懸けることで,室内の法会空間
るといえる。
を作るのは普通である。
画像の場合はどうなるかということだが,
奈良時代の段階でも大きいのか?丈六か?
先ほど,副島先生のお話の東寺講堂が密教
的空間でないということについてであるが,
副島 奈良時代の場合は,正倉院文書に五
私も若い頃から,東寺講堂が密教空間である
大力画像の包布が長さ各 2.4mとあることし
という言い方に大変否定的で,それを言うた
か知られないが,おそらく丈六(約 4.8m,
びに,シンポジウムなどで,仏教学の先生か
坐像ならば 2.4m)の画像が5枚セットで,
ら叱責,批判を受けてきた。
上から懸けられていたように思う。
ところで,東寺講堂は密教的なものである,
東寺講堂の建物そのものは,東大寺とか興
福寺とかと変わらない講堂で,置いてある仏
というように,習ってきたので,東寺講堂は
像だけが変わっている。建物や内部の設えは,
密教的な空間だと思いたいところもある。
普通の講堂と変わらない。というのは確かで
しかし,そもそも密教の曼荼羅とは,諸尊
ある。
を具体的に布置するのとは違って,幾何学的
佐藤 藤井先生,武蔵国分寺の再建講堂の
に,中央に大日如来を置いて,そのまわりに
建物平面図でいうと,どのように並ぶのか。
諸仏を配置するという,かなり理念的なもの
藤井 仏像であれば,身舎の北半中央三間
である。それを東寺講堂のように,壇上に仏
像を並べようとすると,曼荼羅とはずいぶん
違ったものになる立体である彫像を堂内に実
分に仏壇を作れば,仏様はのる。
佐藤 恒常的には,講堂には,彫刻の本尊
があるとして良いか?
際に安置するときには,密教像であっても奈
藤井 はい,ある。創建講堂側だと,身舎
良時代の伝統的な配置を考えないと,なかな
の北半中央三間分にあれば良くて,仏様が維
か置ききれないということもあるのではない
持される。再建講堂に,五大菩薩を彫像で入
か。
れるとすると,中央三間の両脇間分(合わせ
佐藤 絵の場合は,巨大な掛軸を,柱と柱
の間に,天井辺りから懸けてくるということ
になるのか?
副島 おそらく,それは軸装されたものだ
と思うが,もしかしたら,現在の当麻曼荼羅
のように,そのまわりに作り付けの額のよう
て,身舎北半五間分となる)仏壇を二つ伸ば
せば入る。
画像で入れようとすると,身舎側の両妻二
間分と身舎側の北面入側柱脇間二間分に懸け
るというのは,十分あり得る。
副島 画像であれば,場合によると,南面
歴史文化フォーラム記録 27
積が足りなくなったから増やすということで
ある。彫像であれば,場所がいっぱいになっ
て両側に場所が欲しいので大きくしたという
合理的な説明が出来る。が,画像であると,
別の所に想定するから,大きくしたことの根
拠にしにくい。違う理由で変わらなければな
らないということになり,動機としては,少
し難しい。
副島
の入側柱に,柱間が5つあるので,それぞれ
に一幅ずつ懸けたい。
佐藤 身舎の入側柱のところか。それとも,
須弥壇の前に特別な設えをするのか?。
副島 5間ある,南面の入側柱五間に,庇
側向きに懸けてしまえば,一番,格好は良い。
しかも,法勝寺の場合でも,仁王般若経にし
ても,他に百仏像と百羅漢像を堂内にいっぱ
い懸ける,というのだから,小さいのを,あ
らゆる所に懸けたのだと思う。そうすると,
普段置かれている本尊は,見えなくなってし
まうかも知れないが,それはそれで良いのか
もしれない。
藤井 密教系の法要を行う時には,専用の
閉鎖的な場所を作ったりするので,本尊があ
ると困る。だから,南面の入側柱の庇側に向
けて絵を懸けて,庇側に壇を作り置いて,供
養するというのは,実はとても合理的である。
副島 五大力画像を前に懸けた時に,そこ
で密教修法が行われていたかどうかは,また
難しい問題がある。
佐藤 それは,仁王会が密教によるものか,
あるいは,旧訳経か新訳経かという問題とも
つながるかと思うが,次のコーナーに譲りた
い。
藤井先生に伺いたい。講堂が切妻造から寄
棟造か入母屋造の屋根に変わって拡張される
ことと,講堂内の空間の使われ方とを,どの
ように考えれば良いのか?
藤井 大きくするということは,室内の面
教えていただきたい。9世紀に,講
堂がもう一度建て直されて大きくなったこと
はよくわかるが,金堂は,創建以来,平安時
代を通じて,ずっと機能して存続しているの
か?
中道 金堂出土瓦の新旧の様相から,創建
から9世紀中頃の塔再建期を経て,10 世紀以
降まで継続して建っていたものとみて良いと
考えている。
佐藤 それは,武蔵国分寺で五大菩薩像を
安置したのが,講堂か,金堂かという問題に
なるか。金堂である可能性もゼロでは無いと
いうことか?
副島 今,我々は,従来の金堂はそのまま
機能していて,全くきれいに残っていて,そ
れに加えて,講堂を大きく造り変えたと考え
ているが,金堂が有名無実になっているとい
うことはないのか?
金堂では先ほどの説明のとおり,発掘の結
果,瓦が続けて出てくるから,9世紀の終わ
りごろまでは機能していただろう,というこ
とは間違いのないところか?
中道 実際に,どのように機能していたの
かは,わからない。建物が継続していること
はいえるが,機能となると,考古学的には難
しい。
佐藤 ただ,補修用の瓦は,10 世紀以降の
ものも,多少はあるということだったが?
中道 はい,ある。
佐藤 だから,建物としては建っていて,
ほぼ同じ規模の金堂が手前にある場合には,
全く機能していなかったとはいえないと私は
歴史文化フォーラム記録 28
思う。
使われかたで,偉い僧侶が真ん中を通り,そ
副島 金堂と講堂の間に,石を敷いた南北
の通路があって,先ほどの説明では,金堂の
うでない僧侶は左右を通るということで良い
か?
後ろ戸まで続くように思うが,その通路は何
藤井 そう思う。
のためにあるのだろうか?
佐藤 あと,講堂の改築が,
『日本三代実録』
に出て来る五大菩薩像を武蔵国に倣って陸奥
国で作って国分寺に安置する記事とリンクさ
せて考えるとすれば,金堂ではなく,講堂に
五大菩薩像を懸けるか,置くかして安置する
ということになると思うが,貞観 15 年(873)
の記事なので,873 年以前としかいえない。
考古学的には,講堂の改築は9世紀半ばか
ら後半ということだったが,もう少し限定で
きないと,考古学的事実と文献史料の記事と
を一本の線では結べないところがある。
中道 私どももわからないので,先生方よ
り,ご教示いただきたいところである。
副島 それが絵画だったとすると,丈六と
いうのは立像で約 4.8m,坐像ならばその半
佐藤 金堂と講堂の仏堂の空間をつなげる
分となる。腕を振り上げて飛び跳ねている姿
ということかと思うが,藤井先生,いかがか?
であれば,もしかすると,表装まで含めると,
藤井 別に,特殊な意味はなく,行道の経
路ではないか。法会を金堂で行う時に,僧は
しゅう え じ ょ
講堂のような所(そこに 集 会所 を作る)で集
上下が5~6mになるかもしれない。
この場合,金堂では入らないか?
藤井 先に,それが与えられていれば,入
る大きさで造るというのが当然にある。唐招
まり,そこから,出て来て,金堂の後ろ戸(背
提寺の金堂であれば,入るのではないか。一
面の扉)から入って,堂内に配置されるとい
つ内側の柱列に懸けるのであれば入る。
うことで,比較的にポピュラーな方法である。
副島 6mぐらいあっても金堂の中に入る
ここに,道があるのは,不思議なことでない。
とすれば,講堂を大きく再建したということ
佐藤 金堂も講堂も並び建っていて,双方
と,五大菩薩像との直接的な関係は,やや薄
をつなぐ移動空間ということで良いか?
藤井 両方あるのが前提である。
いのかもしれない。
陸奥国が朝廷に申請して,武蔵国に倣って,
ただ,もっと,古い時期に,もっとお金を
ということは,おそらくその画像五大力菩薩
かけていれば,あらゆる所が石敷きだったり,
像は,奈良時代からあったというよりも,9
瓦敷きだったりするので,特にこのような堂
世紀のある時に,武蔵国が朝廷に申し出て,
間部分だけを綺麗にする必要はない。
五大菩薩像を作らせた例に従って,陸奥国も
それが,周りが土が露出していたり,砂が
朝廷に申請したのかもしれない。
撒かれていたりすると,このように,限定的
もしそうだとすれば,三代実録にある五大
な通り道のみに瓦や石を敷くということがお
菩薩像を造ったという記事と,講堂を大きく
きるのではないか。
したこととを,直接的に関係させなくてもよ
佐藤 藤井先生,中央だけが小石敷きにな
っていて,両脇が瓦敷きになっているのは,
いのかもしれない。
佐藤 そのへんは,用心深く,検討する必
歴史文化フォーラム記録 29
要があることだと思う。
それでは,藤井先生は,画像でも良いとい
う考えか?
紀の初めにかけて,長期(38 年戦争と呼ぶ研
究者もいる)に亘る蝦夷との戦いに動員され
た兵士は,東国の諸国出身が多かった。かつ,
藤井 何通りか,考えられると思う。
食糧や武器補給などの兵站も,東国の負担す
講堂に五大力菩薩画像を懸けるとしたら,
るところが大きかった。
絵をそれ以前から懸けているのであれば,規
模を拡大して改築する理由にはならない。
こうしたなかで,武蔵国だけでなく,関東
地方の東国諸国は,東北での戦いを支えて来
金堂に五大力菩薩画像を懸ける場合,金堂
て,かつメンタルな,思想的・信仰的な面で
の内側は仏の空間だから,南面の入側柱の庇
も,東国の仏教が支えた面はあり得る。それ
側に向けて絵が懸っていたら,むしろ講堂の
が仁王会と結びつく可能性が高い。
拡張はやめて,金堂南面に礼堂を付ける気が
ここで,問題の一つは,仁王会のあり方で,
する。だから,絵を懸けるのであれば,金堂
旧訳経による仁王会なのか,空海のもたらし
でなく,講堂のような気がする。
た新訳経による仁王会なのかということで,
佐藤 その場合,講堂の改築とリンクする
可能性はまだ十分あるということになる。
なかなかに難しいところがある。
私などは,これまでの研究の上に考えると,
新訳経による仁王会は空海がもたらしたもの
で,その広がりは,東国における密教の広が
りと重なると思ってきたが,その考えを外し
た方が良いのではないかと副島先生からあっ
佐藤 次に,三つ目のコーナーに入る。
五大菩薩像は,護国経典といわれる仁王経
た。
旧訳経による仁王会なのか,新訳経による
による仁王会と関わるということであった。
仁王会なのかということについて,副島先生,
仁王会は,奈良時代より国家的行事として,
もう一度,お願いしたい。
天下が乱れた時に行われて,五大菩薩なり五
副島 少し後の 12 世紀になるが,長承元年
大力菩薩がやって来て国王を護持してくれる
(1132)京都法勝寺での如法仁王会では,金
というものである。仁王会は,多くは中央朝
堂中央間に丈六の五大力像を,堂中に百仏像
廷の命令で地方でも行われることになる。
を懸け,南庭に九丈の五色幡を懸けて,西に
仁王会と五大菩薩の関係を踏まえると,先
九色の花木,東に九重輪燈を立てたことが,
ほどの副島先生のお話のように,9世紀に武
『中右記』に記される。これは,同時代の史
蔵国分寺で作り,それに倣って陸奥国でも作
料であるから,事実ちがいない。
るということで,9世紀代の武蔵国分寺にお
この九丈の幡,九色の花などの飾りは,不
ける仁王会のあり方とその歴史的意義という
空による新訳経ではなく,旧訳経の記述にし
問題に重なって来る。
たがっている(巻七)。そして,この旧訳経に
9世紀代の半ば以降は,このたびの東日本
は,国を破るような賊が現れたときには,百
大震災の先例となる貞観 11 年(869)陸奥国
仏像と百菩薩像と百羅漢像を作り,百比丘衆
大地震・大津波が起きた頃で,天変地異や蝦
と百法師らが仁王般若波羅蜜経を講じ,百獅
夷対策で国土を護るために,五大菩薩を恃ん
子吼の高座の前に百燈を燃すことなどが記さ
で仁王会が求められた可能性が高い。
れている(巻五)。
陸奥における蝦夷との戦いを支えたのは,
このように,12 世紀の法勝寺では,旧訳経
東国であった。東国の兵士が鎮兵として陸奥
に書かれたとおりに仁王会を行っている。仏
へ行ったのであって,8世紀の後半から9世
画研究者によっても,平安時代 10~12 世紀の
歴史文化フォーラム記録 30
五大力菩薩を本尊とした仁王会は,旧訳経に
基づいたのではなかろうかとの意見がある。
のは少し違うのではないかという気がする。
佐藤 副島先生のお話で,平安時代後期に,
佐藤 旧訳経による場合は奈良時代以来の
貴族の邸宅などで行う密教的修法と国家的に
伝統的な仁王会ということになると思うが,
行う仁王会とは少し違うということと理解さ
天台密教の影響で旧訳経による場合はないの
れる。
か?
副島 天台宗の場合は旧訳経によるだろう
平安時代後期の仏教を理解する上では,大
変に面白いテーマになる。
と思う。天台宗は,密教化するといわれるが,
藤井先生,仁王会という法会と関連してみ
遺品を見る限りでは,五大明王像を本尊とす
た場合の仏堂空間について,お願いしたい。
るような密教化した仁王経法は行っていない。
密教化した仁王経法は,平安時代 11 世紀,
12 世紀,あるいは鎌倉時代において,真言宗
化した寺院で行われるようである。
藤井 伝統的には,奈良時代から始まって
さ ん ね じょういつ
いるが,三会 定 一 ,要するに僧が偉くなって
いく時に,最勝講とか御斎会とかの法会があ
佐藤 そうすると,最澄も東国に布教に来
る。その伝統が引き継がれ,顕教なので,な
ているなかで,9世紀の東国仏教における天
るべく人が集まれるような講堂のような場所
台の広がりと真言の広がりをどう理解するか
で法会を行う。宮中でも大極殿のような広い
にかかわって来る。
場所で行う。こうした広い場所で行う法会は,
山形の山寺,立石寺や平泉の中尊寺などは
天台宗で,律令国家の東北進出と共に,円仁
(最澄の弟子)の創建とされる寺院が東北地
方には多い。
奈良時代から行われ,密教が入って来ても,
引き継がれる。
というのは,密教は,大きな仏教の上に少
し載って来るという形であって,密教の修法
東北における天台系の広がりとリンクさせ
という新しいやり方が入って来て,それが載
て,東国における天台系の広がりを考えると,
るというだけで,基本的なやり方は変わらな
天台系の方が国分寺においては強かったとい
い。
えれば,旧訳経による仁王会が行われたとい
うこともできる。
平安時代の終わりの頃にも,オープンな儀
式は当然ある。原則として,全く同じような
奈良時代の伝統的な南都仏教における仁王
次第,設営でやっていく。おそらく,国分寺
会のあり方が,天台宗における場合は少し変
でも,奈良時代以来,平安期に入っても,そ
わるのではないかと思うが,いかがか?
のように行っていただろうと思われる。
副島 11 世紀,12 世紀でも,先ほどの法勝
密教のやり方は,先ほどの東寺の灌頂院は
寺の場合にみられるように,大きな五大力菩
全く何もない空間で,そこで御修法を行う時
薩の画像を懸けて,旧訳経に書かれているよ
には,幕で閉鎖した場所を作って,その中に
うな設えをして,天台宗の僧侶が参加してい
曼荼羅と大壇を置き,特別な人しかそこに入
る。
れないという非常に閉鎖的なものである。
これに対して,密教化した仁王経法という
これは,天台でも真言でも,12 世紀でも,
ものは,小型の四角の中を何重かに区画して,
大きな寺院でも同様で,特殊な閉鎖的な場所
その中央に金剛波羅蜜像を描き,その周りに
を作って行う。
諸像を配置した曼荼羅様の画像を懸け,大壇
を前に置いて,密教僧が修法を行う。
これと,国分寺で行われた仁王会というも
この場合,閉鎖的な場所を幕で作れば良い
ので,公家の住宅でも,問題ない。どこでも
出来てしまう。
歴史文化フォーラム記録 31
ただし,伝統的な法会というのは,中央に
本尊がいて,それに対して,シンメトリーに
なるような場所を設営していくので,建築的
には,仏像の置き方や建築全体の大きさに,
非常に関わる。
平安時代に入ると,このように,二種類の
法会の両方をやりだす。法会と建築との関わ
りでは,このように,二種類,二重になって
いくということではないか。
佐藤 あと,9世紀にそういった法会が武
佐藤 塔1が最終的に焼失するのはいつご
ろか?
中道 最終的なところは明確ではないが,
最終の瓦は 10 世紀代になる。
佐藤 10 世紀代の瓦を最後にして,補修が
行われなくなり,失われていくということ
か?金堂も同じか?
中道 はい,金堂においても,現時点では
明確ではないが,今の所,10 世紀代の瓦が最
も新しい状況である。
蔵国分寺でも行われ,講堂を拡充することが
佐藤 その段階になると,大規模な国分寺
あったが,この後,どうなっていくかという
を国家的に維持していく形では,なくなって
問題がある。
いくということと理解される。
例えば,古代史では有名な長元3年(1030)
こ うずけのくに こうた いじつろくちょう
の「上 野 国交代 実 録 帳 」という史料がある。
交替実録帳は,国司が交替する際の文書で,
佐藤 最後のコーナーとなったが,ここま
で,造営の主体の問題とか,五大菩薩像の問
新任国司は前任国司から国有財産を引き継ぐ
題や仁王会,講堂の仏堂の問題などを議論し
際に,完全に存在しているかチェックして,
てきた。
それぞれやりとりしてから,受領したものを
明らかに記録しておく文書である。
その中では,武蔵国分寺を理解する上に,
やはり遺跡だけではなく,仏堂の建築とか,
この時の上野国(今の群馬県)の国司交替
写経とか,画像を含めた仏像とか,歴史的背
の際の国有財産の引き継ぎチェックリストを
景としての東国や列島の古代史とかがリンク
みると,国分寺は当然に国司が維持しなけれ
するなかで,動いてきたということが,今回,
ばならない施設ということで,記載されてい
みえてきた気がする。
る。ところが,国分寺の殆どの建物や国分寺
そこで,それぞれ,三人の先生より,今日
が所持しているべき様々な資財は「無実」
(存
の議論を踏まえた上で,武蔵国分寺から日本
在しない)となっている。
古代史を見通そうとした時の課題,明らかに
東国の国分寺を考える時に,11 世紀の前半
ぐらいに,国分寺の実態がかなり失われてい
るのではないか,ということを,文献の上で
は,指摘することが多い。
中道さん,武蔵国分寺の最終段階について
は,考古学的にはどうか?
中道 一つは,10 世紀段階で伽藍地の区画
していくべき課題を伺いたい。
初めに,座席順に,手前の藤井先生からお
願いしたい。
藤井 最初に話して,なかなか解決できて
いないと思うが,9世紀の地方でどのような
ことが起きていたかを国分寺を通して,眺め
ることが出きるのだろうと思う。
溝が埋まってゆき,11 世紀段階で外回りの寺
佐藤信先生や須田勉先生方がされている仕
院地の区画溝が埋まって来る。同時に竪穴住
事(須田勉・佐藤信編『国分寺の創建―思想・
居が侵出して来る。区画が失われてゆき,内
制度編,―組織・技術編』吉川弘文館,2011
外の区分が不明瞭になって来る状況は見てと
年,2013 年)によると,他の国分寺でも建替
れる。
え,改修などいろいろなことが9世紀段階で
歴史文化フォーラム記録 32
起きているので,従来の,国分寺は次第に衰
大きくなるとか,あるいは建物が存続しない
退していくという画一的な見方ではなくて,
とかがある。
少し踏み込んだことがわかるようになってき
ている。
今回の武蔵国分寺の塔の再建や講堂の再建,
例えば,建物がなくなっていれば,寺の機
能は縮小していると,ふつうは考えると思う。
私は,京都の醍醐寺で 30 年間ほど研究を続
拡大は大変に大きな事実だから,似たような
けているが,寺の中に入って,寺が行ってい
ことが他でも起きていれば,国全体の中で,
ることを見ると,建物は建物として,僧は僧
国分寺の維持・メンテナンスがきちんと行わ
として,別々に活動している,という印象を
れれているか,そういう視点で,国分寺が位
もつことがある。醍醐寺には上醍醐と下醍醐
置づくといいと思う。
とがあって,山の高いところにある上醍醐は
それから,今日,話があった,五大菩薩像
は絵画ではないかということだが,きちんと
醍醐寺創建の地であるが,平安時代後期にな
るとあまり顧みられなくなる。
踏み込んだ詳細な研究をすると,国分寺像に
そこには,仏像も存在し建物もあるが,重
も大変に面白いアイデアが提供できそうなの
要な法会は次第に山下の下醍醐で行われるよ
で,長期的に考えてみたいと思う。
うになる。
佐藤 絵画になると,どのように変わるの
かという点はいかがか?
今までは,建築史も彫刻だけで考えてきた
ということになるのか?
藤井 密教系の絵画をどのように使うかに
現代では,それがどういうことになってい
るかというと,下醍醐に桃山時代に移建され
た立派な金堂があるが,毎朝の朝の法要は,
僧侶たちの住まいと,仕事場である寺務所に
近い場所にある,三宝院弥勒堂で行っている。
ついての研究は,石田尚豊先生とか私とかが
先ほど,武蔵国分寺金堂が有名無実化して
してきたが,顕教系の,より広い開かれた場
いることはないかという疑問を述べたのは,
所でどのように絵を設営していくかの研究に
建物が退転するとか,大きくなるとか,小さ
ついては,実はほとんど進んでいない。
くなるとかとは別に,寺を支えているのは,
絵画史の先生と建築史の者が協力すれば出
やはり僧侶の活動であって,仮に金堂での法
来ると思うが,これからの大きな課題かと思
会の機会が減ったとしても,周りにある小さ
う。
な堂舎で僧侶が活発な活動をしているところ
佐藤 それは,副島先生が指摘されたよう
はいくらでもあっただろう。
な仁王会の具体的な実態,どういう設えで行
仏像の歴史からみれば,大きな仏像に代わ
うかということともリンクする問題となる。
って,小さな仏像が多く作られるようになり,
ただし,『中右記』のは 12 世紀頃の例で,
どこまで遡るかということとなる。
藤井 それは,やってみないとわからない。
貴族の住居の中に置かれる場合も増してくる
という状況もある。
武蔵国分寺の平安時代の状況は,考古学の
密教系でも貴族の日記でも,11 世紀,12 世紀
成果によって建物の消長のようすがかなりわ
ぐらいにものすごく集中して出て来るので,
かってきたが,建物が存続しなくなったから
それを頼りにしながら復元的に少しずつやっ
といって,寺の機能がそこでなくなってしま
ていくということになる。
うわけではないだろう,ということも考えて
佐藤 続いて,副島先生にお願いしたい。
副島 なかなか問題が難しいところがある。
寺というものを考える時に,勿論,建物が
みたいと思っている。
佐藤 最後に,私の個人的な質問になるが,
上野国分寺の例でいうと,古代史の方では,
歴史文化フォーラム記録 33
11 世紀初めくらいで国分寺の実態が無くな
備が行われたのか,実は,もっと細かく,い
るのではないかと言った。
ろいろな事象が絡み合っているかについては,
一方で,武蔵国分寺の場合は,今の薬師堂
今までもそうであったが,今後も,地道に,
に残っている薬師仏は平安時代後期のもので
調査研究を進めて積み上げていかなければな
たち ばな ぐ ん が
よう
あ る 。 武 蔵 国 橘樹 郡衙 の 隣 に あ る 川 崎 市 影
ご う じ
向寺 という寺は,南武蔵を代表する寺と思っ
らないと思っている。
佐藤 今後,武蔵国分寺跡の発掘調査はどう
なっていくのか?
それと史跡整備のことに触れていただきた
ているが,そこも,藤原期の薬師仏が今も残
い。
っている。これ以外にも,東国や東北の寺に
中道 史跡整備については,今日報告した講
は平安時代中後期の薬師仏が残っているとこ
堂跡について今年度に基壇の整備が終了して
ろがある。
皆様に見ていただける状況となり,来年度以
薬師仏の評価について,何かあるか?ある
いは,武蔵国分寺が平安時代後期くらいに,
薬師仏を中心とした形で展開するということ
降は,金堂と周辺の中枢部施設の整備に入る。
発掘調査については,ひとまず整備を終え
てから,進めていくことになる。
はあり得ないのか?
副島 はっきりしたことはわからないが,
仏像の中で,意外に人気がないのは釈迦如来
である。密教系の諸尊像もそれが難解なため
かあまり多くはないが,そのなかで不動明王
を中心とした五大明王はやはり人気がある。
そして,どのような時代でも薬師如来と観
音菩薩といったところが,西国の札所もそう
であるが一番人気があり,信仰される。
一つの地域の中心としての国分寺という存
佐藤 史跡整備では,講堂跡の基壇が瓦積み
在感は,もしかしたら薄まってくるのかもし
ということで,整備においても,古代におい
れないが,仏像の歴史をみていると,多くの
て実際に瓦造りを行った,埼玉県の鳩山町で
人に信仰される尊像が作られやすいというこ
焼いてもらったと聞いたが,その話をしてい
とは事実である。
ただきたい。
そういう意味で,国分寺のような場所にも
中道 武蔵国分寺の創建段階に主に瓦を供給
たくさんの薬師如来や観音菩薩像が作られて,
した南比企窯跡群というのがあり,そこが現
寺はいっそう人々の身近な存在になってくる
在の埼玉県鳩山町にあたる。鳩山町の方と,
ような印象を持っている。
町民の方と,国分寺市民の参加で,古代の瓦
佐藤 因みに,五大菩薩を武蔵国分寺に倣
作り体験として瓦を作り,その瓦を講堂基壇
って祀ることを許された陸奥国分寺にも,現
外装の整備に使用して,平成の造営として,
在,薬師堂がある。
協働の事業を行っている。
最後に,中道さんより,今日の議論を踏ま
えて,これからの検討課題をお願いしたい。
中道 主に武蔵国分寺の9世紀代の整備状
佐藤 素晴らしいことと思う。本物は中に
保存した上で,その上にということか?
中道 遺構は,整備した基壇の中に保存し
況について話したが,ほぼ同時期に一気に整
歴史文化フォーラム記録 34
ている。また,講堂のまわりから出土した奈
良・平安時代の瓦を実際に基壇外装の一部に
使用して展示している。
佐藤 その成果を楽しみにしている。
総括(コーディネーターから)
佐藤
信
東京大学大学院教授(古代史)
ここまで,具体的には,武蔵国分寺に安置
こうしたことを明らかにしていく上では,
された五大菩薩像というのが,いったい彫刻
さらに,考古学,古代史,建築史,美術史の
であるのか,画像であったのか,そして,そ
課題を究明していく必要がある。
れが 9 世紀における講堂の改築拡充とリンク
史跡の整備が終了しても,武蔵国分寺の探
するのかどうか,などについて,長時間にわ
求は終わりではなく,これから,調査も含め
たって議論をしてきた。
て,研究を深めていだだき,武蔵国分寺の歴
そこで,武蔵国分寺を理解する上では,様々
なことを勉強しなければならないことがみえ
てきたように思う。
それは,考古学や古代史だけではなくて,
建築史,彫刻史・美術史や仏教史に関わって
くる問題である。
仏教史では,写経のほか,法会の実態の問
題に深く関わってくる。どういう経典・教義
史的意義を明らかにすることは,これまで以
上にやっていかなければならない。
その上では,様々な課題があることが,今
日,わかったように思う。
武蔵国分寺跡について,ハードの史跡整備
の一部はここで終わるが,これから,様々な
課題を,一つずつ,詰めていくことが大切で
ある。
に基づくという問題となり,それが時代とと
今日,事前に市民の方から,質問をいただ
もに変化しているので,日本列島全体の仏教
いていた。これについては,フォーラムの中
史の中に位置づけなければいけないし,美術
での説明をもって,回答に代えさせていただ
史や建築史ともリンクする。
きたい。
東北の蝦夷の問題に加えて,9世紀後半は,
また,今年は,市制施行 50 周年というめ
災害が打ち続いた時代であり,それに対する
でたい年に,本日のフォーラムを開いていた
国家・社会の安泰を願う気持ちともつながる。
だいたが,調査研究の拠点として,地元に武
さらに,9世紀には,新羅との国際関係が極
蔵国分寺跡資料館も出来たことでもあるので,
めて緊張した時代でもあることを背景として,
是非,今後も,国分寺を明らかにしていくた
護国仏教のために,東国仏教も位置づけられ
めに,かかるフォーラムの開催を続けていた
ていた。
だきたい。
こういった日本列島全体,あるいは東アジ
アの歴史の中で,武蔵国分寺の歴史を位置づ
けて考えなければいけないということも,こ
以上をもって,本日の歴史文化フォーラム
を終えたい。
長時間の熱心な参加に感謝する。
れからの課題である。
歴史文化フォーラム記録 35
閉会挨拶
松井 敏夫
国分寺教育委員会教育長
みなさん 今日は,最後までありがとうござ
いました。
いただいておりますが,長時間にわたって,手
話通訳をしていただきました。また,右手の方
佐藤先生,藤井先生,副島先生には,大変に
興味深い話をいただき,歴史をまた勉強したく
では,要約筆記を長時間にわたってお願いしま
した。御礼を申し上げます。
なったり,もっと調べてみたくなったり,好き
9世紀の再建された講堂内部のイメージが膨
になったりするような楽しい時間を持つことが
らんでいくような時間を持つことができました
出来ました。
が,教育委員会としても,今日のフォーラムの
あらためて,今一度大きな拍手をいただきた
いと思います。
いと思います。
以上をもちまして,国分寺市制施行 50 周年
(拍手)
教育委員会職員の中道さんは,良く,がんば
ってくれました。
記念の歴史文化フォーラムを終了させいただき
ます。
本日の運営にあたりましては,今,横でして
謝辞
成果をこれからの文化財行政に活かしていきた
本日は,ありがとうございました。
記録の公表につきましては,講師の先生方より快諾いただいた上,文章校閲のほか,掲載図版について
ご高配を賜りました。
また,次の社寺より,写真掲載承認をいただきました(順不同)。
東京都 五社神社,埼玉県 西光院,東京都 国分寺,茨城県 吉祥院,和歌山県 高野山霊宝館
以上,記して深謝いたします。
講演録
国分寺市制施行 50 周年記念事業
平安時代における祈りの空間
歴史文化フォーラム
武蔵国分寺
公表期限 平成 29 年6月 30 日
※写真の掲載許可条件により,国分寺市公式ホームページでの情報提供(PDF
形式ファイルの添付)及び市による印刷物の配布は,上記の期日迄とします。
国分寺市教育委員会教育部ふるさと文化財課
〒185-0023 東京都国分寺市西元町 1 丁目 13 番 10 号
武蔵国分寺跡資料館内 電話:042-300-0073
歴史文化フォーラム記録 36
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