...

激闘喜界島の空 - Biglobe

by user

on
Category: Documents
9

views

Report

Comments

Transcript

激闘喜界島の空 - Biglobe
激闘喜界島の空
旧六〇一空 三一〇戦闘機隊
藤本速雄(丙 13 期)
目
第1部
次
終戦まで激闘の日々 ................................................................... 3

再建六〇一空の本土防衛戦 .............................................................. 3

落下傘降下中、「武士の情け」を感ず .................................................. 4

喜界島へ出撃命令 ............................................................................. 5

恩返しの「武士の情け」 ....................................................................... 7

特攻の日々 ........................................................................................ 9
第 2 部 戦後 4 5 年、日米パイロットが交流 ................................................. 11

絶大な歓迎 ...................................................................................... 12

藤本、喜界島での戦闘を語り全米に反響を呼ぶ................................ 12

ロバート・ウエストブルック中尉 ........................................................... 13

中尉の弟、ジャック・ウエストブルック文学博士 ................................... 13

甥、マックスロジャー・ウエストブルック氏来日 ..................................... 15
1

遺族、南の島へ ................................................................................ 16

空戦の地、喜界島へ......................................................................... 17

空中戦の目撃者 ............................................................................... 19

日米合同で、厳粛に慰霊祭を ........................................................... 19
2
第1部 終戦まで激闘の日々
再建六〇一空の本土防衛戦
元山海軍航空部隊の一員として、海南島三亜、ボルネオ島クチン、ニユーブリ
テン島ラバウル等を転戦し、祖国に帰還して、もう一年余、昭和 19 年 2 月第三
艦隊に六〇一空空母航空部隊編成されたが、空母大鳳、翔鶴 2 隻と 230 機の
飛行隊を失い、中部太平洋マリアナ沖海戦で壊滅した。
昭和 19 年 6 月 19 日、第 1 次攻撃隊員として、空母瑞鶴より出撃し、九死に一
生を得て生還した私達数少ない生存者は、第三航空艦隊六五三空に転じ、再
建と血の滲む訓練に励み、10 月 25 日比島作戦で空母 4 隻(瑞鶴、瑞鳳、千代
田及び千歳)を失ったが、飛行機隊は比島航空戦、レイテ湾攻撃を続行し壊滅
した。
私達生存者 6 名は、一式陸攻で救出され、昭和 20 年 1 月松山基地で再建中
の六〇一空戦闘三一〇飛行隊香取頴男大尉隊長の元へ転じ、久しぶりに我が
故郷に帰ったが、新造空母信濃、天城に乗艦を命じられ、日本海軍最後の空母
特攻出撃として岩国基地で待機中、米潜水艦に撃沈された。
急遽関東上空遊撃戦に命令が発せられ、2 月 16 日、関東方面に来襲の米艦載
機遊撃の為、千葉県香取基地に進出した。当日霞ケ浦上空の戦闘で、坂井八
郎兵曹(乙 16)、太田穣兵曹(丙 12)が未帰還となった。
2 月 21 日、六〇一空最初の特別攻撃隊第二御楯隊村川弘大尉以下 21 機(彗
星 10 機、天山 6 機、零戦 5 機、計 43 機)が、硫黄島周辺の米機動部隊に突入、
空母 2 隻撃沈、全員桜花の如く散って征った。連日関東に来襲する敵機遊撃
3
が続いた。
落下傘降下中、
「武士の情け」を感ず
2 月 25 日朝、私は千葉県多古町上空で空戦中被弾、燃ゆる愛機より脱出、落
下傘降下着地するまで、F6Fが上空を旋回し、他機よりの射撃から守る如くの行
動に思い出の深い日となった。
昭和 20 年 3 月 18 日頃より沖縄方面に米機動部隊が出現し「沖縄戦近し」と鹿
屋基地を始め、九州各基地の航空部隊が連日特攻攻撃に出動して行った。
百里原基地の六〇一空も、零戦、彗星、天山等 150 機に出動命令が下った。
第一国分基地、第二国分基地に進出の為急遽 3 月 28 日午後一斉に飛び立っ
たが、悪天候に遮られ、途中から引き返す機も続出した。私達先発隊は雨の中、
明治基地まで辿り着き、翌 29 日出発した。
途中松山基地の滑走路上に 「×印があれば九州方面敵機来襲中へ注意せよ。
○印であれば安全行け」滑走路上には○印であった。四国、九州の山々に桜が
満開だった。高度千メートルで故郷の我が家の上空を通過した。近くの神社の
桜も満開だった。「これが見納と心に誓った。
和 20 年 4 月 1 日、米軍上陸部隊は沖縄西海岸に揚陸作戦を開始した。これを
援護する米機動部隊は、沖縄海域及び奄美大島、喜界島南東海上に十数隻
の空母群を擁し、日本軍機の航空攻撃を待ち受けていた。米連合軍沖縄侵攻
計画氷山作戦 (アイバーク) が始まった。
連日、本土、沖縄及び台湾方面に米艦載機が猛攻を加えて来た。正に死闘の
4
激しい航空戦展開の真唯中の 4 月 3 日 09:45、我が偵察機より、沖縄南 40 浬
に米正規空母 3 隻時 12:34 奄美大島南東 60 浬に空母 3 隻を発見、喜界島方
向に向っている、と無電が次々と送られて来た。「我れ敵機の追撃を受く」と、偵
察機の悲壮な打電を最後に未帰還機が続出した。
六〇一空は国分基地に進出して 4 日を過ぎ、万全の戦闘態勢が整っていた。
我が三一〇戦闘機隊と三〇八戦闘機隊は、第二国分基地だった。兵舎は無く、
学校や公民館の様な所を宿舎とし、搭乗員は飛行場よりやや離れた民家に宿
泊し、飛行場との往復はトラック輸送であった。
喜界島へ出撃命令
4 月 3 日 13:10、作戦本部より菊水作戦電 38 号命令が発令された。我が六〇
一空に 14:30 司令杉山利一大佐より、「我が隊は喜界島南東 60 浬の米空母 3
隻を擁する敵機動部隊を総攻撃せよ」の命令が発せられた。15:0O 満を持して
待機していた我が三一〇飛行隊は、攻撃隊の前路掃討隊としての任務を帯び、
香取頴男隊長以下零戦 32 機、紫電改 8 機、続いて第一国分基地より隊長国安
昇大尉の率いる彗星艦爆 19 機、七三一飛行隊戦爆 30 機が鹿屋基地より出撃、
又六〇一空沖縄戦最初の特別攻撃隊第三御楯隊寺岡達二大尉以下 4 機が
500kg 爆装して第一国分基地より発進する。又知覧基地と宮崎基地より陸軍特
攻機が出撃した。
第一国分基地の艦爆隊と鹿屋基地の七六二空銀河部隊は、既に沖縄南方の
米機動部隊へ突入中であった。 我れ愈々奮闘する時がやって来た。南海の大
空で鍛え抜いたのも今日がある為だった。特に空母撃滅して沖縄空中総攻撃
の血路を開く重大な任務を有する。
5
力強い司令の訓示があった。「我が三一〇飛行隊は薩南諸島を南下しつつ群
がる敵機を掃討し、喜界島南東 50 浬に敵戦闘機を引きつけ囮りとなって空戦中
に総べての攻撃隊は突入する」 指揮所前に整列している私達の前へ司令は
別れの挨拶、一人一人挙手の礼をしつつ互いに合わす眼と眼、逞しく挙手へ、
澄んだ両眼がまだ童顔の日浅い初陣の搭乗員も迫り来る大敵に向う覚悟は皆
同じである。
15:00 第二国分基地を激しい砂塵を蹴って次々と離陸した。上空で編隊を整え
乍ら桜島の噴煙に別れを告げる。何度か飛び馴れた薩南諸島、屋久島が見え
る頃より飛石伝いに高度を 4 千メートルから 5 千メートルと上昇を続け乍ら飛行
する。何機かエンジン不良で引き返した。パノラマの様なのどかな島々を眺めて
いると、やがて迫り来る激しい死闘が嘘の様である。上空には紫電改 8 機が
悠々と我々を援護している。喜界島が見え始めた時、喜界島の西方に一筋の煙、
敵機来襲と直感した。香取隊長が大きくバンクした。一斉に増槽タンクを落し戦
闘態勢をとりつつ南下する。
喜界島北東上空高度 3 千メートルに約 30 機の戦爆連合の敵機を発見、続いて
喜界島を銃撃の十数機へ 更に奄美大島上空 3 千メートルに喜界島に向う敵
機 15~16 機を発見した。喜界島北東上空のTBFは迫り来る我々に気付いたの
か一斉に爆弾を海中に投下し、南東海上へと急降下し、スピードをつけ避退を
始めた。私の 1 番機茂木允大尉エンジン故障で出遅れていたので、3、4 番機を
率いて、先任の白浜芳次郎兵曹と編隊を組み直して進撃していった。急に白浜
兵曹が機銃を乱射しながら急降下を始めたので、とっさに私もこれに続き喜界
島に向うF6Fに突入した。隊長機は既に攻撃中だった。今日は絶対優位の態
6
勢で敵も油断していたのか、平気で近づいて来た。「負けてなるものか」闘争心
が何処からともなく湧いて来る。操縦棹を折れんばかりに切り返し、敵機に襲い
かかった。
喜界島の西方奄美との中間上空も北東上空も南の空も広い範囲で入り乱れて
壮絶な死闘を展開、一撃又一撃、右に左に激しい曳光弾が飛び交う中を、燃ゆ
る零戦、黒煙のグラマン、私も必死で機銃レバーを握り、修羅場と化した。嘗て
戦った南海の大空を思い浮かべ、何故か心に余裕すら感じた。
恩返しの「武士の情け」
3 撃目の上昇中、1 機のF6Fが零戦を追撃中を発見し、直ちに切り返し、右後
方上空よりF6Fに 20 粍を乱射し乍ら追撃に入った。前方の零戦は既に炎を吹
きながら大きく右下方に旋回中であった。「誰かやられたか!」背筋に緊張が走る。
続いて其のF6Fは急に針路を喜界島より北東に向け、単独行動に出た。私は
尚追撃をゆるめなかった。避退するには針路が変だと思った。
“方向感覚でも狂ったか”の思いを感じた。その数秒後黒煙が一条又一条流れ
た。その瞬間一ツ薄茶色の落下傘が開いた。高度 2 千 800 メートル~3 千メート
ルだった。喜界島トビヨ岬北方 20km、奄美大島笠利崎東方 30km 付近の上空
だった。
ふわりと浮いた落下傘、私は射撃を止めて上空を大きく旋回しながら、僅か 3 ケ
月前の茨城県多古町上空の空中戦を思い出していた。
一面雪景色の日の去る 2 月 25 日、早朝より米艦載機 200 機、関東地方に来襲
F6F約 40 機と空中戦を展開中被弾、燃ゆる愛機より脱出、落下傘降下した。高
7
度千メートルだった。焔に包まれ一瞬意識を失ったが、落下傘が開いたショック
で気が付いた。その時曳光弾が数発、足元を掠めたが、F6Fは直ちに発射を止
め、上空を旋回 “次は地上に降りた所を射って来るナ!” と思っていたが、着地
を確認後 彼は飛び去った。米軍パイロットにも武士の情はあるのか、騎士道精
神か! 感動と共に軽傷ですんだ。
比島戦線では人間の常識も限界も越えた激しい戦闘の連続であった。日米両
軍共「武士の情」等微塵も感じられなかった。
今降下する米パイロットは、手足を動かしていた。私はそれを射つ気はしなかっ
た。生きている事を確認後、落下傘に訣別し、全速で上昇再び敵を求めて南へ
向かった。敵機か友軍機か紅黒い焔に包まれ落ちて行くのが、西方にも南の空
にも見え、尚も死闘が続いていた。
隊長の 2、4 番機が見当たらなかった。先程撃墜された零戦は藤島博之兵曹か、
それとも 4 番機の磯部易備兵曹なのか? 藤島兵曹はマリアナ沖戦、比島沖戦
と共に戦って生き抜いて来た仲だったが、 悲しむ間はゆるされない、尚喜界島
南東へ追撃を続けた。やっと古参の白浜兵曹に出合い一安心した。 然し 3 番
機伊藤清次兵曹が見当たらなかったが、帰途中後方に着いていた。
だんだん喜界島が北方に遠ざかって行く、今頃攻撃部隊は米機動部隊に突入
成功したであろうか、成功を祈るのみである。隊長機がバンクをし、北方に針路
を取り始め帰路に就いた。梅林義輝兵曹と加藤正美兵曹は被弾の為喜界島に
不時着したが、後日帰投し、「3 日の落下傘降下した米軍機の捕虜の事実はな
い」との報告であった。夕方国分基地へ帰投したが、我が戦闘機 8 機、紫電改 2
機の末帰還機を出してしまった。藤島兵曹も遂に還らなかった。
8
特攻の日々
其の後、六〇一空も毎日の様に沖縄方面の米機動部隊攻撃及び輸送船団又
米軍地上部隊攻撃と激しい戦闘が続き、未帰機もまた続出した。
4 月 6 日、第三御楯隊特別攻撃第二次隊撃星 21 機、500kg 爆装し、沖縄東海
上に米機部隊に突入した。
4 月 7 日、彗星隊隊長国安昇大尉以下 11 機が沖縄北方海域の米機動部隊に
突入した。
4 月日 11 日、第三御楯隊特別攻撃隊零戦の爆装隊 2 機 (平賀左門兵曹、安
田準朗兵曹)は、12:35 第二国分基地発進、喜界島南東海上の米機動部隊に
突入した。(この内の一機が、時間的に戦艦ミゾリーに体当たりの説がある。)
4 月 15 日、同じく第三御楯隊岸忍中尉と田中克次郎兵曹は、沖縄中飛行場銃
撃で散華する。又梅林義輝兵曹は被弾し、徳之島陸軍飛行場に不時着した。
4 月 16 日、第三御楯特別攻撃隊として、零戦爆装 2 機は、青木牧夫中尉と中
村日出夫兵曹が、喜界島南海上の米空母に突入した。青木中尉は離陸時、別
れの合図に機銃を発射しつつ上昇していった。
4 月 17 日、第三御楯隊零戦爆装隊 3 機は、唐渡賀雄兵曹、木内義秀兵曹と佐
藤一志兵曹と共に喜界島南海上の米空母に突入した。
六〇一空は連日の総攻撃で、喜界島南東海上を血で染めた。米空母群 16 隻
の内何隻かは撃沈したものと推定できる。しかし六〇一空は百数十機の主力は
既に消耗し、沖縄の陸軍の戦闘を助ける程の機数は無くなっていた。全国各基
9
地の航空部隊から特攻機が数十機づつ次々と国分基地に進出して、六〇一空
司令杉山大佐の指揮下に入り、沖縄へ出撃して征ったが殆ど帰還する機はな
かった。
沖縄近海にはなお千隻に及ぶ米連合軍の艦船が寄せていた。桜吹雪に見送ら
れ出撃する度に、頼れる戦友が次々と散って征った。同期の国松陸次兵曹も未
帰還となった。4 月 11 日、特攻隊を護衛し出撃した今井義信兵曹も、とうとう還ら
なかった。共に比島で戦い最後まで生き残った一人だった。
彗星に爆弾を抱いて指揮所に整列した特別攻撃隊員に飛行長は、「作戦の成
功を祈る」旨の訓示を行い、更に「何にか質問があるか」との問いに、古参の 1
番機の隊員が、「百パーセント当てる自信があります。当てれば帰還しても宜し
いですか!」 飛行長は透かさず声を荒らげて 「罷り成らん!」と一喝した。隊員は
無念の涙を呑んだ。飛行長も又命令とは言え、心中察するに余りある頬に一筋
の涙が光っていた。これが戦争と言うものか、心の葛藤を打ち払い、無言で出撃
して征った。勿論隊員は全員未帰還であった。沖縄方面に突入した神風特別
攻撃隊、海軍関係 910 数機、千 6000 数十名を越えた。
六〇一空再建の為、生存隊員は百里原基地に引き揚げたが、関東上空防衛と
東京湾沖の機動部隊攻撃を繰り返しつつ再建を計った。5 月 29 日、続々とB
-29 の梯団が東京上空に迫り来る大編隊に突入したが、我れエンジンに数発被
弾停止した。もうこれまでと思ったが、吹き出すオイルを拭いては滑空しながら漸
く百里原基地まで辿り着くことが出来た。オイルで顔は真黒となり、片目の操縦
であった。ラバウル帰えりの整備員が居て、「カナカ族かと思った」と言い乍らタ
オルで顔を拭ってくれた。
10
舞い上がる度に東京の街も空も焼けていた 六〇一空は約 200 機を保有し本
土決戦に備えたが、終戦となった。
第2部
戦後 4 5 年、日米パイロットが交流
貧しさのどん底から、漸く平和で豊かな日本を築くことが出来た。戦争は勝って
も負けても、お互い国同志は、悲惨な深い心の傷跡と荒廃と悲しみが残るもの
である。お互いにこれを少しでも癒し、平和と友好を願い、平成 3 年 12 月、日米
開戦 50 周年を期に、真珠湾シンポジュームの記念行事が全米国内で開催され
た。
記念式典、航空ショーや米国パイロットとの交歓会等の催しで、友情を通じて両
国の親善の為に、波多野龍氏(海兵 78 期)が所属する米国テキサス州ミッドラン
ド南部連邦空軍基地に於いても、12 月 3 日より 8 日間、盛大な記念行事が行わ
れる事になり、これは「真珠湾攻撃への序曲」と題して、第一次大戦から真珠湾
攻撃の第二次大戦までの米国の様々な断面と、その意義を検証し、国の歴史
の側面を補強する一大行事である。
零戦搭乗員会東京本部に、米国南部連邦空軍より招待状が届いた。本招待に
ついて、本部よりの連絡を受け、原田要氏 (操 35 期)、小町定氏(操 49 期)、小
村熊一氏(乙 3 期)、栗栖幸雄氏(特乙 1 期)と私藤本の 5 名は、テキサス州ミッド
ランドへ行く事になった。
更にハワイ、ロスアンゼルスの海軍基地の行事にも参加した。代表原田氏は、日
華事変から数々の空中戦を戦い抜いた日本海軍の超ベテランの一人である。
小町氏は真珠湾攻撃の生き残りであり、又零戦搭乗員会の副会長である。小林
11
氏(乙 3 期)は水上機操縦員として太平洋戦勃発当初より、修羅場を潜りぬけて
来たベテランである。栗栖氏は若いが、雷電操縦員として、B29 攻撃を専門に
終戦まで戦った。私は日本海軍随一栄光の航空母艦瑞鶴の生き残りと云う事で
ある。
後日、米国南部連邦空軍アレン司令官、ミッドランド市長キャロル、ト-マ氏より招
待状が届いた。平成 3 年 12 月 3 日、右 5 名は、通訳波多野氏が案内役で、日
本を出発した。
絶大な歓迎
米国では、先ずミッドランド空軍基地では一生忘れる事の出来ない絶大な歓迎
を受け、驚きの連続であった。太平洋戦争で日本軍と戦った元空軍兵士が全米
各地から参加し、更に現役のパイロット及び女性パイロットも大勢参加し、数千
名の一般市民も参加して盛大な行事が、5 日間続いた。
零戦パイロットの訪米中毎日テレビカメラの放列で追いかけられた。米国人は強
いものが好きとか、市の観光政策と云う側面もあるだろうが、ゼロファイターパイロ
ットと云う事で、何処の会場も超満員で馴れないサイン責めにも会った。ノースダ
コタ州知事で、太平洋戦争で、日本軍機を 50 機以上撃墜した米国の英雄F6F
パイロットのジョイフオス氏と大学教授のアイゼンハワー元大統領の子息も、日
米パイロット交歓晩餐会に出席され、歓迎の挨拶を受けた。
藤本、喜界島での戦闘を語り全米に反響を呼ぶ
日米パイロットの体験を語る、日本搭乗員は開会の席上、私が「1945 年 4 月 3
日、喜界島上空の戦闘で、F6Fから薄茶色の落下傘で降下した状況を語り、当
12
時制海権、制空権共、米軍にあったので、多分救助され、現在も米国の何処か
で健在であれば会って帰りたい」旨の話をした。
始めはどやされるかと思ったが、会場はやがて感動に変り、真実を語るのに勇
気はいらなかった。 翌日全米のテレビ、新聞に報道され、連日掲載され、大反
響を呼び米国民の感動と興味津津、私のとった行動に問い合わせが殺到し、戦
争の傷跡の深さを痛感した。しかし、私の訪米中には消息を知る事は出来なか
った。
ロバート・ウエストブルック中尉
帰国後、連邦空軍より一通の文書が届いた。捜索のプロである日系二世ヘンリ
ー境田氏又米国の国防省の調査等によると、1945 年 4 月 3 日、米空母バター
ンから出撃し、奄美群島及び喜界島軍事施設を攻撃に向った、VF-47 飛行隊
のF6Fパイロットのロバート・ウエストブルック中尉(当時少尉)と判明した。当時米
軍は、落下傘降下した海上を 3~4 日捜索を続けたが見当らず、浮袋のみ発見
された事が記録されていた。
この空戦で空母バターン戦闘機隊は 3 機を失った。又スウイシヤー少尉は被弾
の為帰路着水し、駆逐艦に救助された。米海軍各空母の戦闘詳報のコピーを
見て、私はその調査結果に納得した。
中尉の弟、ジャック・ウエストブルック文学博士
その後ウエストブルック中尉の兄弟で二男ジャック文学博士より手紙が届いた。
「兄を撃墜した日本人パイロットが、半世紀後の出現に驚きを表わし、そして彼
の兄と同様に、藤本が祖国の為に戦った事に理解を示し、憎悪の気持は無い」
13
とはっきり述べている。
博士の手紙は更に敬愛する兄ロバート中尉の思い出が説々と記されていた。
「兄ロバートは 24 才、その短い人生より遥かに大きな個性を持った特に目立っ
た人物であった。凝り性でユーモアに溢れ、多くの異なる事に非凡さを示し、小
川に釘を使わない橋を架け、ネガの無い写真を撮り、バスケットボールの選手で
あり、又油絵を描き、バイオリンを演奏し、タップダンスを踊り作家でもあった。私
達は今その兄が人生と縁を切ったのは何だったかを知りたい云々。」との思いが
綴られていた。
其の数日後、米海軍空母バターン公式戦闘記録と当時の生存パイロットの証言
が送られて来た。
(以下中略)
4 月 3 日の戦闘で、空母バターン未帰還の 3 機中、落下傘降下したのはロバー
ト中尉のみであった。 次の朝PBM救難飛行艇が捜索救助に向ったが、ロバー
ト中尉の装具の浮袋のみを発見した、と記入されている。
私は後日、ジャック・ウエストブルック博士に返書を送った。カリフォルニア州テン
プル市のヘンリー境田氏及びテキサス州南部連邦空軍より貴方が永年探してい
た人物の兄弟である事を知りました。万感の思いを込めて戦場の真実をお伝え
します。云々を!
喜界島上空の戦闘状況、ロバート中尉が薄茶色の落下傘降下した時間、場所
等・・・ 、又私が茨城県多古町上空で、F6Fとの空戦で被弾落下傘降下中、F6
Fのパイロットの取った行動は、全く私のとった同じ心情であった。云々・・・を平
14
成 4 年 9 月 22 日、波多野龍氏が、英文に翻訳してジャック・ウエストブルック博
士に送った。
平成 4 年 11 月 9 日、私は弟のジャック・ウエストブルック博士から返事を受け取
った。当時、ジャック博士もB-24 爆撃機搭乗員として訓練中で、B-17 爆撃機
で、ヨーロッパ戦線に派遣される寸前であった。と述べている。更に兄の最後を
伝えてくれた事に深く感謝している。貴方はこの世で兄に会えた最後の方であり、
薄茶のパラシュートで太平洋上に降下して行く映像は、私の心の中にも定着し
ました。」云々
私は博士から長い長い手紙を受け取った。太平洋戦争はお互い心の中に未だ
なお癒されない傷の深さを痛感した。ジャック博士は、1997 年、太平洋の兄の
元へ静かに旅立ちこの世を去った。
その後、三男のマックス博士の便りに貴方に一目会って兄ロバートの最後を詳
細に聞きたい。何時か会える事を楽しみにしている。と、然しこの便りを最後に兄
ロバートの元へ一昨年他界された。もっと何かを聞きたかったのかも知れない。
甥、マックスロジャー・ウエストブルック氏来日
その直後、三男マックス博士の長男でロバート中尉の甥に当たるテキサス州オ
ースチン市の州警察署警部マックスロジャー・ウエストブルック氏が、父の思いを
何とか実らせたい、親族一同を代表して訪日致したいので、協力して頂きたい、
出来得れば、現地に行きたい」と云う便りを受け取り、驚くと共に遺族の心情は、
日本人も米国人も同じと思い快く引き受けた。
平成 15 年 10 月 2 日、米国MIA(行方不明兵捜索団)ボランティアグループの
15
グライアン氏とクリストファームーン氏親子と共にマックスロジャー氏が来日され、
東京で初めて出会った。
ムーン氏は、アメリカNW航空の元副社長であり、英空軍パイロットであった。戦
後ロンドン美術大学を卒業後米国に渡り、米国人として有名な画家でもある。
クリストファー氏は映画監督であり作曲家及びカメラマンでもある。ムーン氏らの
捜索団はすべてボランティアであった。
第二次大戦の行方不明飛行士 43 名の遺骨を発見した実績をもっているが、今
回の様な立場の人が共に現地調査は、世界でも珍しい事であり、米国の新にも
大きく取り上げられた。
通訳には元NW航空等々海外支店長を歴任した益井浩氏(現東京在住)と又日
米間連絡通訳にNW航空元副社長秘書の天城淳子氏と陣容は整った。
増井氏は総ての計画を立案、現地市長、町長へ日程の連絡、名瀬ロータリーク
ラブ、東京奄美会、現地遺族会、喜界島町笠利町役場、洋上慰霊祭、チャータ
船の手配、関係地区区長及びホテルの用意まで見事な準備が整えられた。私
人生 80 年、こんな素晴らしい方々に出会えて幸せをかみしめ感動致した次第
である。報道関係のテレビ、カメラマン及び新聞記者が名瀬市役所で待機して
いると云う。
遺族、南の島へ
10 月 3 日、一行は奄美大島へ飛んだ。昔も今も変らぬ南の空、青い澄み切った
海、緑の島々に平和な秋の風が吹いていた。先ずロバート中尉が落下傘で喜
界島の海上に降下着水後、何が起きたかを知りたい、と云う一行の気持は、私も
16
同感である。
遺体が奄美大島周辺の浜に打ち上げられ、地域住民によって埋葬されている
可能性もある。マックスロジャー氏は、家族として何らかの区切りを付けたい、そ
の第一歩となればと、遥々現地を訪れた。
私も幾多の戦友をこの空で、この海で失っている戦友の慰霊祭が出来れば思い
残すことはない。 幸い東京奄美会の方々や名瀬ロータリークラブの方々、喜界
島加藤啓雄町長、奄美大島北端の笠利町長朝山毅氏始め、各役場職員方々、
笠利町遺族会藤田清義会長等大勢の奄美の皆様の協力を頂き、人情豊かな
人々に接し感激の連続だった。
空戦の地、喜界島へ
笠利崎海岸の飛行機のエンジンの残骸調査を始めた。又喜界島にも飛んだ。
地元の人々も 10 月 4 日の新聞を見て、大変な協力をして頂き、特に加藤町長
自ら戦場跡や、日米兵士の戦死者埋葬跡を案内して頂いた。
喜界島は人口九千人周囲 50km、面積 57 平方 km、太平洋と東支那海の境に
位置し、豊富な珊瑚石を使った民家を囲み、芸術的な風情を醸し、全島緑豊か
で、島唄や芸能も盛んで、平和な豊かさが心ゆくまで感じられた。島の宝砂糖黍、
豊潤な白胡麻の香り、太陽と海の恵みが育んだ伝統の残る島、南北に走る標高
200 メートルの小高い山には、彰蒼と亜熱帯の樹木が茂ったジャングルに覆わ
れ、空から見えない道路が縦横に走り、豊富な水資源が有り、至る所に洞窟もあ
る。激しい空襲の時、住民は此処で暮らしたと云う。
山の展望台より島全体が一望出来て、遥か太平洋又奄美大島を望見出来る。こ
17
れ等の地形を利用し、当時の軍隊及び住民一体となって奮戦したであろうと旧
懐を忍ぶ得る事が出来た。喜界島の小高い展望台から、トビヨ岬は眼前に見え
ていた。マックスロジャー氏に、指さして、遥か北方が、ブルックス中尉の落下傘
降下場所である事を告げた。
一連の山以外は平坦な砂糖黍畑である。舗装された 1km~2km の直線道路
が東西南北の至る所にあり、珊瑚礁で出来ている為水捌けは良く、地盤は硬く、
一夜にして飛行場滑走路が数本出来ると、米軍が本土上陸時、どうしても必要
な拠点の一つであり、占領して浮沈空母と同様使用出来る準備を整えていたと
云う。
奄美群島の山中及び海岸に埋葬された日米軍人の遺骨は、米軍が占額統治
中、住民総出て掘り起こし、その後は綺麗に整理された。米軍の遺骨は総べて
米国防省が本国に持ち帰り、日本軍兵士の遺骨は空港近くの慰霊塔に集め、
丁重に埋葬されている。又米軍は海岸近くの海中に潜り、遺骨を捜索した。喜
界島図書館には戦史が保存され、戦前、戦中、戦後の模様が詳しく記録されて
いた。
昭和 20 年 4 月 3 日の喜界島上空の空戦を地上から見ていた方がおり、今も語
り継がれ、喜界島北端の小集落小野津にお住まいの吉塚広次さんに会う事が
出来た。当時の模様を町誌に詳しく記録として残されている。当時警防団長で
あった吉塚さんは希しくも、私が乗艦していた空母瑞鶴を'昭和 15 年 16 年頃、
神戸川崎造船所で建造に従事していたが、病に倒れ、故郷の喜界島に引揚げ
た。私も懐かしく、持参していた空母瑞鶴のカラー写真を差し上げた。吉塚さん
は 60 数年振りの空母との再会に大変喜んでいた。
18
空中戦の目撃者
吉塚さんは、4 月 3 日の空中戦を胸を轟かせながら見ていた。数十機の入り乱
れての空中戦はどれが敵か味方か分からなかった。バリバリと機銃を討つ音が
暫く続いたと云う。夕方も小野津上空で空中戦があり、真白い落下傘が開いた。
アメリカ兵だと思っていると、着水して間もなくグラマン 2 機が南の方向より低空
で飛来し北に向ったが、引き返し機銃掃射したので、日本兵と分った。小野津
上空で反転し銃撃し飛び去った。
翌朝近くの海岸に死骸が漂着しているのを住民が見つけた。飛行服には日の
丸が付いていた。体中が蜂の巣の如くの弾痕であった。その搭乗員は、陸海軍
何方か分からなかったが、飛行服のポケットに吉田孝悌中尉のメモがあったの
で、住民が担架で運び、神社の墓地に鄭重に埋葬した。その前後にアメリカ兵
の漂着した記憶は無い、との事であるが、貴重な証言を頂いた。又同時にたくさ
んの魚が漂着し、打ち揚げられた。当時毎日の空襲で出漁出来ず、食糧不足
の時だったので、天の恵と有難く戴いたと云う。銃撃では多量の魚は浮く事はな
いので、前日の夕方、私達と空戦したTBF約 20 機が投下した爆弾で魚が浮き、
風と潮の流れに乗り接岸したものと私は思った。
老人ホームにも立寄り、老人から当時の模様を聴く事が出来たが、ウエストブル
ック中尉の痕跡を聞き出すことが出来なかった。
日米合同で、厳粛に慰霊祭を
10 月 7 日、ジツクスロジャー氏が牧師と同行、私は神官と同行し、大島の宇宿漁
港より、大型漁船をチャーターして、笠利町職員、遺族会、ロータリークラブの
19
方々一同が共に乗船し、先ず港内船上で日本式神主による日米合同慰霊祭を
厳粛に執り行った。海上に日本酒を注ぎ、”霊よ安らかに”とお祈りした後、洋上
に繰り出し、海上に浮かべた日米二つの十字架を、牧師が見守る中、ジャックス
ロジャー氏と私が花束を手向け、ジャックスロジャー氏は、家族から託されたコイ
ンや詩も投下した。58 年の歳月を経て戦地に赴き、やっと心の安らぎと、久し振
りに無き戦友に会い、又私を呼んでいる様な気持ちになった。
ジャックスロジャー氏も「藤本さんと一緒に伯父や日米の戦死したパイロット達の
慰霊祭が出来て感銘した。又調査でも島の人々からの好意を受け感謝で胸が
一杯です。日本はいい所です。奄美はもっと良い所です。伯父もこんな良い所
に眠れるのは幸かも知れません。」と、私が喜界島北端トビヨ岬で拾った珊瑚の
破片をウエストブルック中尉の遺骨代わりに、と渡した。小石と、思い出にと奄美
人形を固く抱きしめてジャックスロジャー氏一行は帰国した。
奄美には心打つ風情と人情がある。大きな夕陽が喜界島の空を真赤に染めた
彼方には、嘗て零戦を駆けて戦った壮絶な私の青春であった。
おわり
出典「へい飛」会報第 43 号
20
Fly UP