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第1章 四無量心の教え:基礎編

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第1章 四無量心の教え:基礎編
第1章
四無量心の教え:基礎編
1.四無量心とは何か
「四無量心」とは、仏陀や菩薩の心の在り方及び実践である。その意味で、仏教の思想
と実践の最も重要なものの一つであり、仏道修行の基本であって、なおかつ究極の目的と
いうこともできる。
まず、
『岩波仏教辞典』
(第二版、岩波書店)が解説する四無量心の意味を見て、その概
略を理解しよう。
「四つのはかりしれない利他の心、慈、悲、喜、捨の四つをいい、これらの心を無量に
おこして、無量の人々を悟りに導くこと。
」
2.四無量心の「無量」とは何か
こうして、四無量心とは、四つの無量の(=はかりしれない)利他の心である。では、
「無量」とは、具体的にはどういう意味だろうか。
『分別論註』という仏教の経典解釈書によれば、
「無量とは、
『対象となる衆生が無数であること』あるいは『対象とする個々の有情
(著者注:生き物)について(慈悲の心で)余すことなく完全に満たす』という遍満
無量の観点から、このように称する。
」
とされている。
(ウィキペディア「四無量心」より)
こうして、無量とは、利他の心の広さと深さに関係する。広さに関しては、その利他の
心は、この世界・宇宙のすべての生き物=無数に広がっている。よく「すべての衆生(生
き物)」と表現されるが、すべての生き物に及ぶ、広大無辺な利他の心である。
次に、深さに関しては、その利他の心は、個々の生き物を完全に幸福にするという意味
を持つ。そして、大乗仏教の「菩薩道」という思想においては、これは、究極的には、す
べての生き物を最高の幸福の境地である「仏陀の境地」に導くことを意味する。すなわち、
すべての生き物を、ついには仏陀の状態にすることが、四無量心の利他の心の究極である。
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3.慈・悲・喜・捨とは何か
それでは、慈・悲・喜・捨とは何か。その原語を含め、いつくかの文献から引用する。
「「慈」とは生けるものに楽を与えること、
「悲」とは苦を抜くこと、
「喜」とは他者の楽をねたまないこと、
「捨」とは好き嫌いによって差別しないことである。
」
(
『岩波仏教辞典』
(第二版・岩波書店)より)
「慈無量心(サンスクリット語:マイトリー, パーリ語:メッター)
―「慈しみ」、相手の幸福を望む心。
悲無量心(サンスクリット,パーリ語: カルナー)
―「憐れみ」、苦しみを除いてあげたいと思う心。
喜無量心(サンスクリット,パーリ語: ムディター)
―「喜び」
、相手の幸福を共に喜ぶ心。
捨無量心(サンスクリット語: ウペクシャー
パーリ語: ウペッカー)
―「平静」
、相手に対する平静で落ち着いた心。動揺しない落ち着いた心を指す。」
(ウィキペディア「四無量心」より)
それでは、次に慈・悲・喜・捨のそれぞれに関して、より具体的に解説をする。
4.慈・悲・喜・捨のより具体的な解説
「慈(マイトリー)」とは、他の幸福を願う心であり、他に楽を与える行為である。こ
うして、四無量心とは、心の持ち方と、行為・実践の双方を含んでいる。
「悲(カルナー)」とは、他の苦しみを悲しむ心であり、他の苦しみを取り除く行為で
ある。「悲」といっても、自分の苦しみを悲しむのではなく、他の苦しみを悲しむ意味で
ある。
「喜(ムディター)」とは、他の幸福をねたまずに、共に喜ぶことである。そして、行
為としては、他の幸福の源である他の善行を称賛する、見習うことなどが含まれる。
「捨(ウペクシャー)
」の意味としては、いろいろな表現があるが、まとめれば、
「平静
で平等な心」ということができる。「平静」とは、苦楽に一喜一憂せず、心の沈みと心の
浮つきの双方を離れた、落ち着いた平らかな心の状態を意味する。また、「平等な心」と
は、他者に対して、好き嫌い・差別を超えて、皆を等しく利する心である。
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なお、「捨」には、無関心(無頓着)という意味もある。これは、自分の苦しみに対し
あくぎょう
て頓着せずに不動であるとか、他の悪行に対する怒りがないという意味であり、平静な心
の中核に関係する。よって、他の苦しみに対して無関心・無頓着という意味ではない。仮
にそうであれば、他の苦しみを悲しむ「悲」の心と矛盾する。他の苦しみに対する無関心
を含めた、単なる無関心は「無智捨」と呼び、「捨無量心」とは似て非なるものとする経
典もある。
こうして見ると、
「喜」が、他の善行を称賛することである一方で、
「捨」は、他の悪行
を怒らないことである。よって、四無量心の一つの解釈として、四無量心とは、他に楽を
与え、他の苦を取り除き、他の善行を称賛し、他の悪行に怒らないことと解釈することも
できる。実際に、同じインドで発祥し、仏教の母胎となったヨーガの経典は、そのように
表現している。
5.仏教の伝統における四無量心の位置づけ
し ぼ ん じゅう
説明の言葉が多少難しくなるが、伝統の仏教の教義では、四無量心は、
「四梵 住 」とか、
し ぼ ん ぎょう
「四梵 行 」ともいわれる。これは、四無量心を修行する者は、大梵天界という高い天界に
生まれ変わるとされているからである。
また、四無量心は、上座部仏教が説く、
「サマタ瞑想(止)
」に入る際の 40 種類ある瞑
しじゅうぎょうしょ
想対象である「四十業処」の一部である。ここで上座部仏教とは、テーラワーダ仏教とも
いわれ、釈迦牟尼の直説である初期仏教の教えに忠実な仏教宗派であり、後にインドから
スリランカ・東南アジアに広がった。
し か ん
そして、この初期仏教の時代から、仏教瞑想の基本的な教義として、「止観」というも
のがある。そして、
「止(サンスクリット語でサマタ)
」は、心を静める(止める)瞑想で
ある。「観(ヴィパッサナー)」は、物事をありのままに見る瞑想である。心を静めると、
物事をありのままに見ることができ、物事をありのままに見ると、心が静まる。この「止
の瞑想」の一部として、四無量心があるのである。
これを簡略化したものが、現代において広く行われている「慈悲の瞑想」である。慈悲
の瞑想は、現代において「ヴィパッサナー瞑想」として広がっている瞑想においては、そ
の準備段階として、セットにして行われる。これは、仏教の精神を最もよく表現した瞑想
法として、きわめて重視されている。
慈悲に関して最も有名な経典の一つである『慈悲経』
(パーリ仏典小部小誦経 9 番)に
は、慈悲の瞑想の要点として、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と願うこ
とが説かれている。さらに、慈しみを修習する上で、毎日の生活で従うべき態度、精神的
姿勢、行動等などが説かれている。例えば、「自分の独り子を命がけで守るのと同じ態度
で、一切の生類への慈しみを増大させるように」など。この慈悲の瞑想は、パーリ仏典で
は非常に重要視されており、長部、中部、相応部、増支部等のたくさんの経典に出てくる。
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そして、慈悲の瞑想をすることで得られる成果については、釈迦牟尼は、息子のラーフ
ラに、以下のように説いている。
「ラーフラ、慈の瞑想を深めなさい。というのも、慈の瞑想を深めれば、ラーフラ、どん
し ん に
な瞋恚(怒りの心)も消えてしまうからです。ラーフラ、悲の瞑想を深めなさい。という
のも、悲の瞑想を深めれば、ラーフラ、どんな残虐性も消えてしまうからです。ラーフラ、
喜の瞑想を深めなさい。というのも、喜の瞑想を深めれば、ラーフラ、どんな不満も消え
てしまうからです。ラーフラ、捨の瞑想を深めなさい。というのも、捨の瞑想を深めれば、
ラーフラ、どんな怒りも消えてしまうからです。
」
(『大ラーフラ教誡経』パーリ仏典中部 62 番)
6.四無量心が静める様々な煩悩
上記の経典が説くように、四無量心は、利他の心ではあるが、同時に、それを実践する
者の煩悩を和らげ、心を静め、悟りに近づけるものである。すなわち、「利他」を目的と
しながら、それが「利己」の結果をももたらす。そこで、慈・悲・喜・捨のそれぞれにつ
いて、どのような煩悩を静める効果があるかを詳しく述べることにする。
7.「慈」が静める煩悩:貪りと怒り
釈迦牟尼は、ラーフラに対して、「慈」の瞑想と実践によって、瞋恚(怒りの心)が消
えると説いている。確かに、慈しみの心と怒りの心は対極であるから、慈の瞑想によって、
怒りの心が静まることは納得がいくだろう。しかし、これには、より深い意味合いがある
のである。それは何かというと、怒りの根底には、貪り・執着があるということである。
そして、慈の瞑想は、この貪り・執着を和らげ、怒りの心を和らげるのである。
人は、自分のものを際限なく求めて、とらわれる心=貪り・執着がある。その究極が独
占欲である。これがあると、それを妨げる者に対する怒りが生じる。貪り・執着が全くな
い状態であれば、怒りも生じない。そして、この貪り・執着を和らげるのが、他の幸福を
願い、他に楽を与えることである。自分のものを際限なく求めるのではなく、足るを知る
ことがなければ、他に与えることはできないからである。
この意味で、慈は、貪り・執着を和らげ、その結果、怒りを和らげることになる。
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8.「悲」が静める煩悩:冷たさ・残虐性
釈迦牟尼が説いているように、他の苦しみを悲しみ取り除く「悲」の瞑想と実践によっ
て、残虐性を和らげることができる。これをもう少し広く表現すれば、冷たさ・冷たい心
を和らげるということができるだろう。残虐さといえば、他の苦しみを喜ぶ、他を苦しめ
ようとする心というニュアンスがあるが、冷たい心は、そこまではいかないが、他の苦し
みに無関心という状態である。
そして、
「慈」が和らげる貪りの煩悩と、
「悲」が和らげる冷酷な心は、不離一体である。
というのは、貪りが強ければ、他から幸福を奪い、他を苦しめることになるが、他の苦し
みに無関心だからこそ、貪りを続けるからである。その意味で、慈悲の実践は一体である。
「慈」を実践すれば、必ず「悲」の実践に行き当たり、
「悲」の実践をすれば、必ず「慈」
の実践に行き当たる。
そして、これは、自分が煩悩的な喜びを得ている時に、その裏側では、他者が苦しんで
いるという重要な事実を示している。すなわち、自分の煩悩の喜びの裏側には、他の苦し
みがあり、他の煩悩の喜びの裏側に、自分の苦しみがあるということである。
9.煩悩的な喜びは、自と他の間で奪い合うもの
煩悩的な喜びをよく観察してみると、財物・異性・食べ物・名誉・地位・権力といった
ものは、いずれも際限なく求めれば、他との奪い合いになる。
例えば、お金持ちであるという喜びも、貧乏であるという苦しみも、他との比較・競争
で決まっている。日本人は途上国からは、皆が王侯貴族に見えるほど金持ちだと見えるそ
うだが、日本人の中では、経済苦を原因として年間数千人が自殺するし、自分が貧しいと
いうコンプレックスで悩んでいる人がいる。
異性も、三角関係を含めて同性への妬みなど、他との奪い合いの側面は否めない。食べ
物の喜びの裏には、食べ物になる死んだ生き物の苦しみがある。名誉・地位・権力は、少
数の人しか得られないからこそ成り立つものであり、得る人の喜びに裏には、得られない
人の苦しみがあることは明白である。
10.慈悲は、奪い合いを超えて、分かち合いを深める
こうしてみると、煩悩的な喜びは、自他の間で奪い合うものである。その結果、わかり
やすくいえば、人は、他と楽を奪い合い、互いに苦しみを押し付けあう傾向がある。
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そして、その反対が慈悲の実践であり、他に楽を与え、他の苦しみを取り除く。これを
言い換えれば、他と苦楽を分かちあう実践である。こうして、「奪い合い」を控えて、苦
楽の「分かち合い」を深めることが、慈悲の実践の要点である。
11.「喜」が静める煩悩:妬み
他の幸福を喜ぶ心は、妬みを和らげる。妬みは、「喜」とはまさに逆の心の働きで、他
の幸福を憎む心である。この妬みの心の背景には、「自分が他に優位になることで幸福に
なる」と考える錯覚がある。これに対して、喜の心は、「他の幸福を喜ぶ広い心が、真の
幸福の道である」という気づきに基づいている。
さらに深く考察すれば、人は、自と他の幸福を区別し、「幸福は自他の間で奪い合うも
の」と錯覚しがちである。そうして、自分のものを「今よりもっと、他人よりももっと」
と際限なく求める。しかし、この際限のない欲求がある限り、満たされることはなく、求
めても得られなかったり、得たものさえ失ったり、自分より得ている他人への妬みや不満
がある。
一方、自と他の幸福を一つと見て、他の幸福を自分の幸福とする広い心を培い、それが
本当の幸福であることに気づくならば、不満が根本的に解消する。そして、「喜無量心」
ともいわれるが、世界のすべての人々・生き物の幸福を自分の幸福とも見て、共に喜ぶ心
には、無量の喜びが宿り、完全に満たされる。よって、釈迦牟尼は、
「喜の瞑想によって、
不満がなくなる」と説いているのである。
12.「捨」が静める煩悩:怒り
釈迦牟尼は、「捨」は、慈と同様に、怒りの心を静めると説いている。捨は、前に述べ
たように、無関心・無頓着という意味があり、具体的には、自己の苦しみに頓着しない、
他の悪行に怒らない、という意味がある。もう少しわかりやすくいえば、他が自分を苦し
める悪行をなしても、それに対して怒り・憎しみを持たない、という意味である。
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